堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
菜穂子(五) 堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
菜穂子(五)

オリジナル版
菜穂子(五)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4805.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





菜穂子(五)

堀 辰雄

  菜穂子

   十九


 それまで菜穂子は、圭介の母からいつも分厚ぶあつい手紙をもらっても、枕もとにてておいたまま、すぐそれを開こうとはせず、また、それを一度も嫌悪の情なしには開いたことはなかった。そして彼女はそのつぎには、それ以上の嫌悪に打ち勝って、心にもない言葉を一つ一つ工夫しながら、それに対する返事をしたためなければならなかった。
 菜穂子はしかし冬に近づく時分から、そのしゅうとめの手紙の中に、なにか今までのむなしさとは違ったものを徐々に感じ出してはいた。彼女はその手紙の文句に、いちいちこれまでのようにまゆをひそめたりしないでもそれを読みすごせるようになった。彼女はあいかわらずしゅうとめの手紙がくるごとに面倒めんどうそうにそれをすぐ開きもせず、長いこと枕もとに置いたきりにはしていたが、一度それを手に取ると、いつまでもそれを手放さないでいた。なぜそれが今までのような不愉快なものでなくなってきたか、彼女は別にそれを気にとめて考えてみようともしなかったが、一手紙ごとに、しゅうとめのたどたどしい筆つきを通して、ますますそこに描かれている圭介のこのごろのいかにも打ち沈んだような様子が彼女にもいきいきと感ぜられるようになってきたことを、菜穂子は自分にいなもうとはしなかった。
 あきらが訪れてから数日後の、ある雪ぐもった夕方、菜穂子はいつも同じ灰色の封筒に入ったしゅうとめの手紙を受け取ると、やっぱりいつものように面倒めんどうそうに手にとらずにいたが、しばらくしてから、ひょっとしたら何か変わったことでも起きたのではないかしらと思い出し、そう思うとこんどは急いで封を切った。が、それにはこの前の手紙とほとんど変わらないことしか書いてはなくて、彼女の一瞬前に空想したように圭介も突然危篤きとくにはなっていなかったので、彼女はなんだか失望したように見えた。それでもその手紙の走り書きのところが読みにくかったし、そんなところは急いで飛ばし飛ばし読んでいたので、もういっぺん最初からていねいに読み返してみた。それから彼女はしばらく考え深そうに目をつぶっていたが、気がついて夕方の検温をし、あいかわらず七度二分なのを確かめると、寝台に横になったまま、紙と鉛筆を取って、いかにも書くことがなくて困ったような手つきでしゅうとめへの返事を書き出した。――「きのうきょうのこちらのお寒いことといったら、とても話になりません。しかし、療養所のお医者さまたちはこちらで冬を辛抱しんぼうすればすっかり元どおりの身体にしてやるからといって、お母さまのおっしゃるようになかなか家へは帰してくれそうにもないのです。ほんとうにお母さまのみならず、圭介様にもさぞ……」彼女はこう書き出して、それからしばらく鉛筆のはしで自分のやつれたほおをなでながら、彼女の夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。いつもそんな眼つきで彼女が見つめると、すぐ彼がそれから顔をそらせてしまう、あの見すえるような眼ざしを、つい今も知らずらずにそれらの夫の姿へそそぎながら……
「そんな眼つきでオレを見ないでくれないか。」そう彼がとうとうたまらなくなったように彼女に向かって言った、あの豪雨にとじこめられた日の不安そうだった彼の様子が、急に彼の他のさまざまな姿に立ち変わって、彼女の心の全部をめ出した。彼女はそのうちにひとりでに目をつぶり、その嵐の中でのように、少し無気味な思い出し笑いのようなものをなんとはなしに浮かべていた。

 る日も来る日も、雪曇ゆきぐもりのくもった日が続いていた。ときどき、どこかの山からチラチラとそれらしい白いものが風に吹き飛ばされてきたりすると、いよいよ雪だなと患者たちの言いあっているのが聞こえたが、それはそれきりになって、依然として空はくもったままでいた。吸いつくような寒さだった。こんな陰気な冬空の下を、いまごろ明はあの旅びとらしくもない憔悴しょうすいした姿で、見知らない村から村へと、おそらく彼の求めてきたものはいまだ得られもせずに(それが何か彼女にはわからなかったが)、どんな絶望の思いをして歩いているだろうと、菜穂子はそんなかれたような姿を考えれば考えるほど自分も何か人生に対するある決意をうながされながら、そのおさななじみの上を心から思いやっているようなこともあった。
「わたしには、明さんのように自分でどうしてもしたいと思うことなんぞないんだわ。」そんなとき、菜穂子はしみじみと考えるのだった。「それは、わたしがもう結婚した女だからなのだろうか? そして、もうわたしにも、他の結婚した女のように自分でないものの中に生きるよりほかはないのだろうか? ……」

   二十


 ある夕方、信州の奥から半病人の都築つづきあきらを乗せたのぼり列車は、だんだん上州との国境に近いO村に近づいてきた。
 一週間ばかりの陰鬱いんうつな冬の旅に、明はすっかり疲れきっていた。ひどいせきをしつづけ、熱もかなりありそうだった。明は目をつぶったまま、窓枠にぐったりと体をもたらせながら、ときどき顔を上げ、窓の外に彼にとっては懐かしいカラマツやナラなどの枯木林の多くなりだしたのをぼんやりと感じていた。
 明はせっかく一か月の休暇をもらって今後の身のふりかたを考えるために出てきた冬の旅を、このままむなしく終える気にはどうしてもなれなかった。それではあまり予期に反しすぎた。彼はさしずめO村まで引き返し、そこでしばらく休んで、それからまた元気を回復ししだい、自分の一生を決定的なものにしようとしているこの旅を続けたいという心組みになった。早苗は結婚後、夫が松本に転任して、もうその村にはいないはずだった。それが明には、さびしくとも、なにか心やすらかにその村へ自分の病める身をたくして行ける気持ちにさせた。それに、いま自分をいちばん親身しんみに看病してくれそうなのは、牡丹ぼたん屋の人たちのほかにはあるまい……
 深い林から林へと汽車は通りぬけて行った。すっかり葉の落ちつくした無数のカラマツの間から、灰色にくもった空の中に象嵌ぞうがんしたような雪の浅間山が見えてきた。少しずつき出している煙は風のためにちぎれちぎれになっていた。
 先ほどから汽缶車が急にあえぎ出しているので、明はやっとO駅に近づいたことに気がついた。O村はこの山麓さんろくに家も畑も林もすべてが傾きながら立っているのだ。そしていま、明の身体を急に熱でも出てきたようにガタガタふるわせだしているこの汽缶車のあえぎは、この春から夏にかけて日の暮れ近くに林の中などで彼がそれを耳にしては、ああ夕方ののぼりが村の停車場に近づいてきたなとなんとも言えず人なつかしく思った、あの印象ぶかい汽缶きかんの音と同じものなのだ。
 谷陰の、小さな停車場に汽車が着くと、明はきこみそうなのをやっとたえているような恰好かっこうで、外套がいとうえりを立てながら降りた。彼のほかには五、六人の土地の者が下りただけだった。彼は下りた途端とたんに身体がフラフラとした。彼はそれを昇降口の戸を開けるためにしばらく左手でさげていた小さなかばんのせいにするように、わざと邪険じゃけんそうにそれを右手に持ち変えた。改札口を出ると、彼の頭の上でポツンとうす暗い電灯がともった。彼は待合室の汚れたガラスに自分の生気のない顔がチラッと映っただけで、すぐどこかへ吸い込まれるように消えたのを認めた。
 日の短いおりなので、五時だというのにもうどこも暗くなりだしていた。バスもなんにもない山の停車場なので、明は自分で小さなかばんをさげながら、村の途中の森までずっとのぼりになる坂道を難儀なんぎしいしい歩き出した。そして何度も足を休めては、ずんずん冷えこんでくる夕方の空気の中で、彼は自分の全身が急に悪寒かんがしてきたり、すぐそのあとでまた急に火のように熱くなってきたりするのを、ただもう、うつろな気持ちで感じていた。
 森が近づき出した。その森をひかえて、一軒の廃屋に近い農家が相変わらず立ち、その前に一匹のきたない犬がうずくまっていた。ここの家には、昔、菜穂子さんと遠乗りから帰ってくると、いつも自転車の輪に飛びついて菜穂子さんに悲鳴を立てさせた黒い犬がいたっけなあ、と明はなんということもなしに思い出した。犬は毛並みが茶色で違っていた。
 森の中はまだわりあいに明るかった。ほとんどすべての木々が葉を落ちつくしていたからだった。それは彼にはなんといっても思い出の多い森だった。少年のころ、暑い野原をよこぎったあと、この森の中まで自転車で帰ってくると、快い冷気がサッと彼の火のようなほおをかすめたものだった。明は今も不意と反射的にあいた手を自分のほおにあてがった。この底知れない夕冷えと、自分のひどい息切いきぎれと、このほおのほてりと、―こういう異様な気分につつまれながら、背中を曲げて元気なく歩いている現在の自分が、そんな自転車なんぞに乗ってほおをほてらせ息を切らしている少年の自分と、妙なぐあいに交錯しはじめた。
 森のなかほどで、道が二叉ふたまたになる。一方はまっすぐに村へ、もう一方は、昔、明や菜穂子たちが夏をすごしにきた別荘地へとわかれるのだった。後者の草ぶかい道は、ここからずっとその別荘の裏側までゆるく屈折しながら心持ちくだりになっていた。その道へ折れると、麦稈むぎわら帽子ぼうしの下から、白い歯を光らせながら、自転車に乗った菜穂子がよく「見てて。ほら、両手をはなしている……」と背後から自転車でついてくる明に向かってさけんだ。……
 そんな思いがけない少年の日の思い出が急によみがえってきて、道ばたに手にしていた小さなかばんを投げ出して、ただもう苦しそうに肩で息をしていた明の疲弊しきった心を、ちょっとのあいだ生き生きとさせた。「オレはまたどうしてこんどはこの村へやってくるなり、そんなとうの昔に忘れていたようなことばかりをこんなに鮮明に思い出すのだろうなあ。なんだか、まだつぎからつぎへと思い出せそうなことが胸いっぱい込み上げてくるようだ。熱なんぞがあると、こんな変なぐあいになってしまうのかしら。
 森の中はすっかり暗くなりだした。明はふたたび背中を曲げて小さなかばんを手にしながら、しばらくは、なにもかもがこぐらかったようなせつない気分でなかば夢中に足を運んでいるきりだった。が、そのうちに彼はヒョイと森のこずえあおいだ。こずえはまだれずにいた。そして大きなかばの木の、れ枝と枯れ枝とがさしわしながら薄明るい空に生じさせている細かい網目が、不意とまた何か忘れていた昔の日のことを思い出させそうにした。なぜか彼にはわからなかったが、それはこの世ならぬやさしい歌の一節ひとふしのように彼を一瞬なぐさめた。彼はしばらくうっとりとした眼つきでその枝の網目を見上げていたが、ふたたび背中を曲げて歩き出したときにはもう、それを忘れるともなく忘れていた。しかし彼のほうでもうそれを考えなくなってしまってからも、その記憶はあいかわらず、ほとんど肩でいきをしながら、あえぎあえぎ歩いている彼を何かしらなぐさめとおしていた。「このまんま死んで行ったら、さぞいい気持ちだろうな。」彼はふとそんなことを考えた。「しかし、おまえはもっと生きなければならんぞ」と彼はなかば自分をいたわるようにひとちた。「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で? こんなにむなしくって?」何者かの声が彼に問うた。「それがオレの運命だとしたらしようがない」と彼はほとんど無心に答えた。「オレはとうとう自分の求めているものがいったい何であるのかすらわからないうちに、何もかも失ってしまったみたいだ。そうしてあたかもからっぽになった自分を見ることを怖れるかのように、暗黒に向かって飛び立つ夕方のコウモリのように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中になって飛び出してきてしまったオレは、いったい何をこの旅であてにしていたのか? 今までのところでは、オレはこの旅ではただオレの永久に失ったものを確かめただけではないか。この喪失にえるのがオレの使命だということでもはっきりわかってさえいれば、オレは一生懸命にそれにえて見せるのだが。――ああ、それにしても、今、このオレの身体を気ちがいのようにさせている熱と悪感おかんとのくりかえしだけは、ほんとうにやりきれないなあ。……」
 そのときようやく森が切れて、れな桑畑の向こうに、火の山すそになかば傾いた村の全体が見えだした。家々からは夕炊の煙が何ごともなさそうに上がっていた。おようたちの家からもそれがひとすじ立ち昇っているのが見られた。明はなにかホッとした気持ちになって、自分の身体からだじゅうが異様に熱くなったり寒気がしたりし続けているのもしばらく忘れながら、そのしずかな夕景色げしきをながめた。彼が急に思いがけず自分のおさないころ死んだ母のなんとなくけた顔をぼんやりと思い浮かべた。さっき森の中で一本のかばの枝の網目が彼にこっそりとその粗描をほのめかしただけで、それきり立ち消えてしまっていた何かの影が、そんなほとんど記憶にも残っていないくらいのとうの昔に死んだ母の顔らしかったことに明はそのときはじめて気がついた。

   二十一


 連日の旅の疲れに痛めつけられた身体を牡丹屋にたくした日から、明は心のゆるみが出たのか、ドッととこにつききりになった。村には医者がいなかったので、小諸もろの町からでもぼうかというのを固辞して、明はただ自分に残された力だけで病苦と闘っていた。苦しそうな熱にもよくえた。明はしかし自分ではたいしたことはないと思い込んでいるらしかった。おようたちもそういう彼の気力を落させまいとして、まめまめしく看病してやっていた。
 明はそういう熱の中で、目をつぶってうつらうつらとしながら、旅中のさまざまな自分の姿を懐かしそうによみがえらせていた。ある村では、彼は数匹の犬に追われて逃げまどうた。ある村では炭を焼いている人々を見た。また、ある村では日暮れどき煙にむせびながら宿屋を探して歩いていた。あるときの彼は、ある農家の前に、泣いている子どもを背負ったけた顔の女がぼんやりと立っているのを何度もふり返っては見た。また、あるときの彼は薄日のあたった村の白壁の上をたよりなげによぎった自分の影をなにか残りしげに見た。――そんなわびしい冬の旅を続けている自分の、その折りその折りのいかにも空虚うつろな姿がつぎからつぎへとフイと目の前に立ち現われて、しばらくそのままためらっていた……。
 暮れがたになると、数日前そんな旅先から自分を運んできたのぼり列車がこの村の傾斜をあえぎあえぎ上りながら、停車場に近づいてくる音がせつないほどはっきりと聞こえてきた。その汽缶の音がそれまで彼の前にためらっていた旅中のさまざまな自分の姿をあとかたもなく追い散らした。そしてそのあとには、その夕方の汽車から下りてこの村へたどりこうとしているときの彼の疲れきった姿、それからようやく森のなかほどまで来たとき、ふとどこかからやさしい歌の一節でも聞こえてきたかのように、しばらくうっとりとして自分の頭上のかばの枝の網目を見上げていた彼の姿だけが残った。それがその森を出た途端とたんに突然、幼いころ死に別れた母の顔らしいものを形づくったときの何ともいえない心のときめきまでともなって。……
 明はこの数日、彼の世話をいっさい引き受けている若い主婦おかみさんの手のふさがっているときなど、娘の看病の合間あいまに彼にも薬など進めにきてくれるおようのすこしけた顔などを見ながら、この四十すぎの女にいままでとはまったく違った親しさのわくのを覚えた。おようがこうしてそばに座っていてくれたりすると、彼のほとんど記憶にない母のやさしいおもざしが、どうかした拍子にふいとあの枝の網目の向こうにありありと浮いてきそうな気持ちになったりした。
「初枝さんはこのごろどうですか?」明は口数少なくいた。
「あいかわらず手ばかり焼けて困ります。」おようはさびしそうに笑いながら答えた。
「なにしろ、もう足かけ八年にもなりますんでね。このまえ東京へ連れてまいりましたときなんぞでも、ほんとうにこんな身体からだでよくこれまで保ってきたとみなさんに不思議がられましたけれど、やっぱり、この土地の気候がいいのですわ。――明さんも、今度こそはこちらですっかり身体をおこしらえになって行くといいと、みんなで毎日申しておりますのよ。
「ええ、もし僕にも生きられたら……」明はそう口の中で自分にだけ言って、おようには、ただ同意するような人なつこい笑い方をして見せた。

 あれほど旅のあいだじゅうあきらの切望していた雪が、十二月なかばすぎのある夕方から突然降り出し、翌朝までに森から、畑から、農家から、すっかりおおいつくしてしまったあとも、まだ猛烈に降り続いていた。明はもう今となっては、どうでもいいことのように、ただときどき寝床の上に起きあがったおりなど、ガラス窓ごしに家の裏畑や向こうの雑木林がどこもかしこも真白まっしろになったのを、なんだか浮かない顔をしてながめていた。
 暮れがた近くになっていったん雪がやむと、空はまだ雪ぐもりにくもったまま、しずかに風が吹き出した。木々のこずえに積もっていた雪がサアッとあたり一面に飛沫まつを散らしながら落ち出していた。明はそんな風の音を聞くとやっぱりじっとしていられないように、また寝床に起きあがって、窓の外へ目をやりだした。彼は裏一帯の畑を真白まっしろにおおうた雪が、その間たえず一種の動揺を示すのを熱心に見守っていた。最初、雪煙ゆきけむりがサアッと上がって、それが風とともにひとしきり冷たい炎のように走りまわった。そして風の去るとともに、それもどこへともなく消え、その跡の毳立けばだちだけがいちめんに残された。そのうちまたつぎの風が吹いてくると、新しい雪煙が上がってふたたび冷たい炎のように走り、前の毳立けばだちをすっかり消しながら、そのあとにまた今のとほとんど同じような毳立けばだちをいちめんに残していた……。
「オレの一生はあの冷たい炎のようなものだ。――オレのすぎてきた跡には、ひとすじ何かが残っているだろう。それも他の風がくるとあとかたもなく消されてしまうようなものかもしれない。だが、その跡にはまたきっとオレに似たものがオレのに似た跡を残していくにちがいない。ある運命がそうやって一つのものから他のものへとたえず受けがれるのだ。……」
 明はそんな考えを一人でいながら、外の雪明かりに目をとられて、部屋の中がもう薄暗くなっているのにもほとんど気づかずにいるように見えた。

   二十二


 雪ははげしく降り続いていた。
 菜穂子は、とうとうたてもたまらなくなって、オーバー・シューズをはいたまま、何度もほかの患者や看護婦に見つかりそうになっては自分の病室に引き返したりしていたが、やっと誰にも見られずにバルコニーづたいに療養所の裏口から抜け出した。
 雑木林をぬけて、裏街道を停車場のほうへ足を向けた菜穂子は、前方から吹きつける雪のために、ときどき身をよじ曲げて立ち止まらなければならなかった。最初は、ただそうやって頭から雪をびながら歩いてきてみたくて、裏道を抜ければ五丁〔一丁はおよそ一〇九メートル〕ほどしかない停車場の前あたりまで行ってすぐ戻って来るつもりだった。そのつもりで、けさ圭介の母から風邪かぜ気味で一週間ほども寝ているといってよこしたので、それへ書いた返事を駅の郵便箱ゆうびんばこにでも投げてこようと思って、外套がいとう衣嚢かくしに入れてきた。
 一丁ほど裏街道を行ったところで、傘をかたむけながらこちらへやってくる一人の雪袴たっつけの女とすれちがった。
「まあ、黒川さんじゃありませんか。」急にその若い女が言葉をかけた。「どこへいらっしゃるの?」
 菜穂子はおどろいてふり返った。襟巻えりまきですっかり顔を包み、いかにも土地っ子らしい雪袴たっつけ姿をした相手は、彼女の病棟付きの看護婦だった。
「ちょっとそこまで……」彼女はが悪そうに笑顔を上げたが、吹きつける雪のために思わず顔をふせた。
「早くお帰りになってね。」相手は念を押すように言った。
 菜穂子は顔をふせたまま、黙ってうなずいて見せた。
 それからまた一丁ほど雪を頭から浴びながら歩いて、やっと踏み切りのところまできたとき、菜穂子はよっぽどこのまま療養所へ引き返そうかと思った。彼女はしばらく立ち止まって、目のあらい毛糸の手袋をした手で髪の毛から雪を払い落していたが、ふとさっき、こんな向こう見ずの自分をつかまえてもなんともうるさく言わなかったあの気さくな看護婦が、ロシアの女のように襟巻えりまきでクルクルと顔を包んでいたのを思い出すと、自分もそれを真似まね襟巻えりまきを頭からすっぽりとかぶった。それから彼女は、出逢であったのがほんとうにあの看護婦でよかったと思いながら、ふたたび雪を全身にあびて停車場のほうへ歩き出した。
 北向きの吹きさらしな停車場は、一方から猛烈に雪をふきつけられるので片側だけ真白まっしろになっていた。その建物の陰にまっている一台の古自動車も、やはり片側だけ雪にうまっていた。
 その停車場で一休みして行こうと思った菜穂子は、自分もいつのまにか片側だけ雪で真白まっしろになっているのを認め、建物の外でその雪をていねいに払い落した。それから彼女が顔をくるんでいた襟巻えりまきをはずしながら、なにげなしに中へ入って行くと、小さなストーブをかこんでいた乗客たちがそろって彼女のほうをふり向き、それからまるで彼女をけるかのように、みんなしてそこを離れ出した。彼女はおもわずまゆをひそめながら、顔をそむけた。ちょうどそのときくだりの列車が構内に入ってかかっているということが、とっさに彼女にはわからなかったのだ。
 その列車は、どの車もやはり同じように片側だけ雪を吹きつけられていた。十五、六人ばかりの人が下車し、戸口の近くに外套がいとうを着て立っている菜穂子のほうをジロジロ見ながら、雪の中へ一人一人なにやら互いに言いかわして出て行った。
「東京のほうもひどい降りだってな。」誰かがそんなことを言っていた。
 菜穂子にはそれだけがはっきりと聞こえた。彼女は、東京もこんな雪なのだろうかと思いながら、駅の外で雪にうまって身動きがとれなくなってしまっているような例の古自動車をぼんやりながめていた。それからしばらくたって、彼女は息切いきぎれもだいぶしずまってきたので、そろそろもう帰らなくてはと思って、駅の内を見まわすと、またいつのまにかストーブのまわりには人だかりがしていた。その大部分、土地の者らしい人たちは口数少なく話し合いながら、ときどき何か気になるように戸口近くに立っている彼女のほうへ目をやっていた。
 二つか三つ先の駅で今のくだりと入れちがいになってくるのぼり列車が、やがてこの駅に入ってくるらしかった。
 彼女はふと、その上り列車も片側だけ雪で真白まっしろになっているだろうかしらと想像した。それから突然、どこかの村であきらもそうやって片側だけ雪をあびながら有頂天になって歩いている姿が彷彿ほうふつしてきた。さっきから彼女が外套がいとう衣嚢かくしにつっこんで温めていた自分のこごえそうな手が、手袋ごしに、まだ出さずにいたしゅうとめあての手紙と革の紙入れとをかわるがわるに押さえ出しているのを彼女自身も感じていた。
 それまでストーブをかこんでいた十数人の人たちが、ふたたびそこを離れ出した。菜穂子はそれに気がつくと、急に出札口しゅっさつぐちに近寄って、紙入れを出しながら窓口のほうへ身をかがめた。
「どこまで?」中からつっけんどんな声がした。
「新宿。……」菜穂子はせきこむように答えた。

 彼女の想像したとおりの、片側だけ真白まっしろに雪のふきつけた列車が彼女の前に横づけになったとき、菜穂子は眼に見ることのできない大きな力にでも押し上げられるようにして、その階段へ足をかけた。
 彼女の入って行った三等車の乗客たちは、雪まみれの外套がいとうに身をつつんだ彼女のただならぬ様子を見ると、そろって彼女のほうをジロジロ、無遠慮に見だした。彼女はまゆをひそめながら「わたしはきっとけわしい顔つきでもしているのだろう」と考えた。が、いちばん端近はしぢかの、居睡りしつづけている鉄道局の制服を着た老人のそばにすわり、近い山や森さえなんにもわからないほど雪の深い高原の真ん中へ汽車が入り出した時分には、皆はもう、彼女の存在など忘れたように見向きもしなかった。
 菜穂子はようやく自分自身に立ち返りながら、自分の今しようとしていることを考えかけようとした。彼女はそのとき急に、いつも自分のまわりにぎつけていた昇汞水しょうこうすいやクレゾールのにおいのかわりに、車内にただよっている人いきれやタバコのにおいを胸苦しいぐらいに感じだした。彼女にはそれが、自分にこれから返されようとしかけている生の懐かしいにおいの前触まえぶれでもあるかのような気がされた。彼女はそう思うと、その胸苦しさも忘れ、なにか不思議な身慄みぶるいを感じた。
 窓の外には、いよいよ吹きつのっている雪のあいだから、ごく近くの木立ちだとか、農家だとかが仄見ほのみえるきりだった。しかし、まだ彼女には汽車がいま、だいたいどのあたりを走っているのか見当がついた。そこから数丁離れた人気ないさびしい牧場には、あの自分によく似ているような気のしたことのある例の立ち枯れた木が、やっぱりそれも片側だけ真白まっしろになったまま、雪の中にポツンと一本きり立っている悲劇的な姿を、彼女はふと胸に浮かべた。彼女は急に胸さわぎを感じだした。
「わたしはどうして、雪をついてあの木を見に行こうとしなかったのかしら? もしあっちへ向かっていたら、わたしは今、こんな汽車になんぞ乗っていなかったろうに。……」車内にただよった物のにおいは、まだ菜穂子の胸をしめつけていた。「療養所ではいまごろ、どんなに騒いでいるだろう。東京でも、どんなにみんながおどろくだろう。そうしてわたしは、どうされるかしら? 今のうちならまだ引き返そうと思えば引き返せるのだ。なんだかわたしは、すこしこわくなってきた。……」
 そんなことを考え考え、一方ではまだ汽車がすこしでも早く国境の外へ出てしまえばいいと思いながら、ようやくそれがぎり終えたらしい雪の高原の果ての、もう自分にはほとんど見覚えのない最後の林らしいものが見る見る遠ざかって行くのを、菜穂子はなかばおそろしいような、なかばもどかしいような気持ちでながめていた。

   二十三


 雪は東京にもはげしく降っていた。
 菜穂子は、銀座の裏のジャーマン・ベーカリーのひとすみで、もう一時間ばかり圭介の来るのを待ち続けていた。しかし、すこしも待ちあぐねているような様子でなく、なにか物がにおったりすると、急に目を細くして、それをあたかも自分にようやく返されようとしている生のにおいででもあるかのように胸深く吸いこんだりしながら、なかばくもったガラス戸ごしに、雪の中の人々の忙しそうな往来ゆききを、圭介でもそばにいたらすぐそんな目つきはよせといわれそうな、何か見すえるような眼つきで見続けていた。
 店の中は、夕方だったけれど、大雪のせいか、彼女のほかには三、四組の客がまばらにいるきりだった。入口に近いストーブに片足をかけた、一人の画家かなんぞらしい青年が、ときどき彼女のほうを何か気になるように振り返っていた。
 菜穂子はそれに気がつくと、ふいと自分の姿を吟味ぎんみした。長いこと洗わないバサバサした髪、出ばった頬骨ほおぼね、心持ち大きい鼻、血の気のないくちびる―それらのものは今もまだ、彼女が若い時分によく年上の人たちからもうすこし険がなければとしまれていた一種の美貌をすこしもくずさずに、それにただ、もうすこし沈鬱ちんうつな味を加えていた。山の中の小さな駅では人々の目をひいた彼女の都会風な身なりは、今、この町なかでは他の人々とほとんど変わらないものだった。ただ、山の療養所からそっくりそのまま持ち帰ってきたような顔色の蒼さだけは、妙に他の人々とちがっているように思え、それだけはどうにもならないように、彼女はときどき自分の顔へ手をやっては何かごまかしでもするようになでていた。……
 突然、自分の前に誰かが立ちはだかったような気がして、菜穂子はおどろいて顔をあげた。
 外ではらってきたらしい雪がまだ一面に残っている外套がいとうを着たまま、圭介が彼女を見下ろしながら、そこに立っていた。
 菜穂子はかすかなほほ笑みを浮かべながら、会釈えしゃくするともなく、圭介のために身じろいだ。
 圭介は不機嫌ふきげんそうに彼女の前に腰をかけたきり、しばらくは何も言い出さずにいた。
「いきなり新宿駅から電話をかけてよこすなんて、驚くじゃないか。いったい、どうしたんだ?」とうとう彼は口をきいた。
 菜穂子はしかし、前と同じようなかすかなほほ笑みを浮かべたきり、すぐにはなんとも返事をしなかった。彼女の心のうちには、一瞬、けさ吹雪ふぶきの中を療養所から抜け出してきた小さな冒険、雪にうずもれた山の停車場での突然の決心、三等車の中に立ちこめていた生のにおいの彼女にあたえた不思議な身慄みぶるい、―それらのものがいちどきによみがえった。彼女はそのあいだの何かにかれたような自分の行動を、第三者にもよくわかるようにいちいち筋を立てて説明することは、とうていできないように感じた。
 彼女はそれが返事のかわりであるように、ただ大きい眼をして夫のほうをジイッと見守った。なにも言わなくとも、その眼の中をのぞいてなにもかもわかってもらいたそうだった。
 圭介にとっては、そういう妻のくせのある眼つきこそ、あれほど孤独の日々にむなしく求めていたものだったのだ。が、今、それをこうしてまともに受け取ると、彼は持ち前の弱気から思わずそれから眼をそらせずにはいられなかった。
「母さんは病気なんだ。」圭介は彼女から眼をそらせたまま、はきだすように言った。面倒めんどうなことはごめんだよ。
「そうね。わたしが悪かったわ。」菜穂子は自分がなにか思い違いをしていたことに気がつきでもしたように、深いため息をついた。そして思いのほか素直すなおに言った。
「わたし、これからすぐ帰るわ。……」
「すぐ帰るったって、こんな雪で帰れるものか。どこかへ一晩泊まることにして、あした帰るようにしたらどうだ?――しかし、大森の家じゃこまるな。母さんの手前。……」
 圭介は一人でやきもきしながら、何かしきりに考えていた。彼は急に顔を上げて、声を低くして言い出した。
「ホテルなんぞへ一人で泊まるのは嫌か? 麻布に小さな気持ちのいいホテルがあるが……」
 菜穂子は熱心に夫の顔へ自分の顔を近づけていたが、それを聞き終わると急に顔を遠退とおざけて、
「わたしはどうでもいいわ……」と、いかにも気がなさそうな返事をした。
 彼女は今まで自分がなにか非常な決心をしているつもりになっていたが、いま、夫とこうして差し向かいになって話し出していると、なんだって山の療養所からこんなに雪まみれになって抜け出してきたのかわからなくなりだしていた。そんなにまでして夫のところに向こう見ずに帰ってきた彼女を見て、いちばん最初に夫がどんな顔をするか、それに自分の一生をけるようなつもりでさえいたのに、気がついたときにはもう、いつのまにか二人は以前の習慣どおりの夫婦になっていて、なにもかもが有耶無耶になりそうになっている。ほんとうに人間の習慣には何か瞞着まんちゃくさせるものがある。……
 菜穂子はそう思いながら、しかしもうどうでもいいように、夫のほうへ、何か見すえているようなくせに何も見てはいないらしい、例の空虚な眼ざしを向け出した。
 圭介はこんどはなにか抜きさしならない気持ちで、それをじっと自分の小さな眼で受けとめていた。それから彼は突然、顔をあからめた。彼はいましがた自分の口にした麻布の小さなホテルというのが、じつはこのあいだ、同僚といっしょに偶然その前を通りかかったとき、相手がここを覚えておけよ、いつも人気ひとけがなくてランデ・ヴーには持ってこいだぞと冗談半分に教えてくれたばかりのことを、そのとき何ということもなしに思い出したからだった。
 彼女にはなぜ彼が顔をあからめたのだか、わからなかった。が、彼女はこれを認めると、ふと自分が向こう見ずに夫にいにきた突飛とっぴな行為の動機が、もうちょっとでわかりかけてきそうな気がしだした。
 が、菜穂子はそのとき夫にうながされたので、その考えを中断させながら、テーブルから立ち上がった。そしてときどき、何かいいにおいを立たせている店の中をもう一度なごりしそうに見まわして、それから夫について店を出た。

 雪はあいかわらず小止おやみなく降っていた。
 人々はみな、思い思いの雪支度じたくをして、雪をびながら忙しそうに往来していた。山でしたように、襟巻えりまきですっかり顔をつつんだ菜穂子は、蝙蝠傘こうもりがさをさしかけてくれる圭介にはかまわずに、ずんずん先に立って人込みの中へまぎれこんで行った。
 彼らは数寄屋橋の上でその人込みから抜けると、やっとタクシーを見つけ、麻布の奥にあるそのホテルへ向かった。
 虎の門からグイと折れて、ある急な坂をのぼりだすと、その中腹に一台の自動車が道ばたの溝へはまりこんで、雪をかぶったまま、立ち往生おうじょうしていた。菜穂子は曇ったガラスの向こうにそれを認めると、山の停車場の外で片側だけにはげしく雪を吹きつけられていた古自動車を思い出した。それから急に、自分がその停車場で突然、上京の決意をするまでの心の状態を、今までよりかずっと鮮明によみがえらせた。彼女はあのとき心の底では、思いきって自分自身を何物なにものかにすっかり投げ出す決心をしたのだ。それが何物であるかはいっさいわからなかったけれど、そうやってそれに自分をなにもかも投げ出してみたうえでなければ、それは永久にわからずにしまうような気がしたのだった。――彼女は今ふいと、それが自分と肩をならべている圭介であり、しかも同時にその圭介そのままでないもっと別な人のような気がしてきた。……
 どこかの領事館らしいやしきの前で、外人の子どももまじって、数人の少年少女が二組にわかれて雪を投げ合っていた。二人の乗った自動車がそのそばを徐行しながら通りすぎようとしたとき、誰かの投げた雪球がちょうど圭介の顔先のガラスにはげしくぶつかって飛沫ひまつを散らした。圭介は思わず自分の顔へ片手をかざしながら、こわい顔つきをして子どもたちのほうを見た。が、夢中になってそんなことにはなんにも気がつかずに雪投げを続けている子どもたちを見ると、急に一人で微笑をしだしながら、そちらをいつまでもおもしろそうにふり返っていた。「この人は、こんなに子どもが好きなのかしら?」菜穂子はそのそばで、今の圭介の態度にちょっと好意のようなものを感じながら、はじめて自分の夫のそんな性質の一面に心をめなどした。……
 やがて車が道を曲がり、急に人気ひとけの絶えた木立ちの多い裏通りに出た。
「そこだ。」圭介は性急そうに腰を浮かしながら、運転手に声をかけた。
 彼女はその裏通りに面して、すぐそれらしい、雪をかぶった数本の棕梠しゅろが道からそれをへだてているきりの、小さな洋館を認めた。

   二十四


「菜穂子、いったいおまえは、どうしてまたこんな日に急に帰ってきたのだ?」
 圭介はそう菜穂子にいてから、同じことを二度も問うたことに気がついた。それから最初のときは、それに対して菜穂子がただかすかなほほみを浮かべながら、だまって自分を見守っただけだったことを思い出した。圭介はその同じ無言の答えを怖れるかのように、急いで言いたした。
「何か療養所でおもしろくないことでもあったのかい?」
 彼は、菜穂子がなにか返事をためらっているのを認めた。彼は彼女がふたたび自分の行為を説明できなくなって困っているのだなぞとは思いもしなかった。彼はそこに、何かもっと自分を不安にさせる原因があるのではないかと怖れた。しかし同時に、彼は、たといそれがどんな不安に自分を突き落とす結果になろうとも、今こそどうしても、それをかずにはいられないような、突きつめた気持ちになっている自分をも他方に見い出さずにはいなかった。
「おまえのことだから、よくよく考え抜いてしたことだろうが……」圭介はふたたび追究した。
 菜穂子はしばらく答えに窮して、ホテルの北向きらしい窓から、小さな家の立て込んだ、一帯の浅い谷を見下ろしていた。雪はその谷間の町を真白まっしろめつくしていた。そしてその真白まっしろな谷の向こうに、どこかの教会のとがった屋根らしいものが、雪の間から幻かなんぞのように見え隠れしていた。
 菜穂子はそのとき、自分がもし相手の立場にあったらなによりもまず自分の心をめたにちがいない疑問を、圭介はともかくもそのことの解決を先につけておいてから、今やっとそれを本気になって考えはじめているらしいことを感じた。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思いながら、それでも、とうとう自分の心に近づいて来かかっている夫をもっと自分へ引きつけようとした。彼女は目をつぶって、夫にもよくわからすことのできそうな自分の行為の説明をふたたび考えてみていたが、その沈黙が、性急な相手には彼女のあいかわらず無言の答えとしか思えないらしかった。
「それにしても、あんまりだしぬけじゃないか。そんなことをしちゃ、人になんと思われてもしようがない。
 圭介がもうその追究をあきらめたようにいうと、彼女には、急に夫が自分の心から離れてしまいそうに感ぜられた。
「人になんか何と思われたって、そんなことはどうでもいいじゃないの。」彼女はとっさに夫の言葉じりをとらえた。と同時に、彼女は夫に対する日頃の憤懣ふんまんが思いがけずよみがえってくるのを覚えた。それは、そのときの彼女にはまったく思いがけなかっただけ、自分でもそれをおさえるひまがなかった。彼女はなかば怒気をおびて、口から出まかせに言い出した。「雪があんまりおもしろいように降っているので、わたしはじっとしていられなくなったのよ。聞きわけのない子どものようになってしまって、自分のしたいことがどうしてもしたくなったの。それだけだわ。……」菜穂子はそう言い続けながら、ふと、このごろ何かと気になってならない孤独そうな都築つづきあきらの姿を思い浮かべた。そして、なんということもなしにすこし涙ぐんだ。「だから、わたしはあした帰るわ。療養所の人たちにもそう言っておわびをしておくわ。それならいいでしょう。
 菜穂子はなかば涙ぐみながら、そのときまで全然考えもしなかった説明を最初はただ夫を困らせるためのように言い出しているうちに、不意といままで彼女自身にもよくわからずにいた自分の行為の動機も、案外そんなところにあったのではないかというような気もされた。
 そう言い終えたとき、菜穂子はそのせいか急に気持ちまでがなんとなく明るくなったように感ぜられ出した。

 それから、しばらくの間、二人はどちらからも何とも言い出さずに、無言のまま窓の外の雪景色げしきを見おろしていた。
「オレは、こんどのことは母さんにだまっているよ。」やがて圭介が言った。「おまえもそのつもりでいてくれ。
 そういいながら、彼はふと、このごろめっきりけた母の顔を眼に浮かべ、まあこれで今度のことはあたりさわりのないようにひとまずちつきそうなことに思わずホッとしていたものの、一方このままでは何か、自分で自分が物たらないような気がした。一瞬、菜穂子が急に気の毒に思えた。「もし、おまえがそれほどオレのそばに帰ってきたいなら、また話が別だ。」彼はよっぽど妻に向かってそう言ってやろうかと躊躇ちゅうちょしていた。が、彼はふと、こんなぐあいにこのままそんな問題に立ち返って話しこんでしまっていたりすると、もう病人とは思えないぐらいに見える菜穂子を、ふたたび山の療養所へ帰らせることが不自然になりそうなことに気がついた。明日、菜穂子が無条件で山へ帰るという二人の約束が、そんな質問を発して相手の心にさぐりを入れようとしかけているほど自分の気持ちに余裕をあたえているだけだということを認めると、圭介はもうそれ以上、その問題に立ち入ることをひかえるように決心した。彼はしかし心の底では、どんなにか今のこういう心の生き生きした瞬間、二人のまさに触れ合おうとしている心の戦慄おののきのようなものの感ぜられるこの瞬間を、いつまでも自分と妻との間に引き止めておきたかったろう。――が、彼は今、心の前面に、病床の中からも彼のすることを一つ一つ見守っているような彼の母のけた顔をはっきりとよみがえらせた。そのめっきり老けたような母の顔も、それからまた、その病気さえも、なにか今こんなところでこんなことをしている自分たちのせいのような気もされて、この気の小さな男は、妙に今の自分が後ろめたいように感ぜられた。彼はその母がじつは、このごろひそかに菜穂子に手をさしのべていようなぞとは夢にも知らなかったのだ。そして彼自身はといえば、最近、やっとひところのように菜穂子のことで何かはげしくいるようなこともなくなり、ふたたびまた以前の母子さしむかいの面倒めんどうのない生活に、一種の不精ぶしょうからくる安らかさを感じている矢先でもあったのだ。――そういった検討を心の中でしおえた圭介は、もうすこしすべてがなんとかなるまで、このまま、菜穂子にも我慢がまんしていてもらわねばならぬという結論に達した。

 菜穂子はもう何も考えずに、雪のふる窓外へ目をやって、暮れがたの谷間の向こうにさっきから見えたり消えたりしている、なんだかそれとすっかり同じものを子どものころに見たような気のする、教会のとがった屋根をぼんやりながめ続けていた。
 圭介は時計を出して見た。菜穂子は彼のほうをチラッと見て、
「どうぞ、もうお帰りになってちょうだい。あしたも、もういらっしゃらなくともいいわ。一人で帰れるから」といった。
 圭介は時計を手にしたまま、ふと彼女が明朝こんな雪の中を帰って行って、もっと雪の深い山の中でまた一人でもって暮らし出す様子を思い描いた。彼はこのごろ、忘れるともなく忘れていた強烈な消毒薬や病気や死の不安のにおいを心によみがえらせた。なにか魂をゆすぶるもののように。……
 菜穂子はその間、うつけたようになりきった夫の顔を見守っていた。彼女はなんとはなしに無心なほほえみらしいものを浮かべた。ひょっとしたら夫がいまにもその瞬間の彼女の心の内がわかって、「もう二、三日このホテルにこのままいないか。そうして誰にもわからないように二人でこっそり暮らそう。……」そんなことを言い出しそうな気がしたからであった。
 が、夫はなにかある考えをはらいのけでもするように頭を振りながら、何もいわずに、それまで手にしていた時計をしずかに衣嚢かくしにしまっただけだった。もう自分は帰らなければならないということをそれで知らせるように。……

 菜穂子は、圭介が雪をかきわけながら帰えるのを薄暗い玄関に見送ったあと、そのままガラス戸に顔を押しあてるようにして、なにか化け物じみて見える数本の真白まっしろ棕梠しゅろごしに、ぼんやりとがたの雪景色げしきをながめていた。雪はまだなかなかみそうもなかった。彼女はしばらくの間、今の自分の心の内と関係があるのだかないのだかもわからないようなことをそれからそれへと思い出しては、また、それを傍からすぐ忘れてしまっているような、空虚な心持ちを守っていた。それは何もかもが片側だけに雪を吹きつけられている山の駅の光景だったり、今しがたまで見ていたのに、もうどうしてもそれをいつ見たのだか思い出せないどこかの教会の尖塔せんとうだったり、あきらの何かをじっとえているような様子だったり、わめきながら雪投げをしているたくさんの子どもたちだったりした。……
 そのときやっと、彼女が背を向けていた広間の電灯がともったらしかった。そのために彼女が顔を押しつけていたガラスが光を反射し、外の景色けしきが急に見にくくなった。彼女はそれを機会に、今夜この小さなホテル――さっきから外人が二、三人チラッと姿を見せたきりだった――に一人きりですごさなければならないのだということをはじめて考え出した。しかしこのことは、彼女にびしいとか、くやしいとか、そういうような感情を生じさせるいとまはほとんどなかった。一つの想念が急に彼女の心に拡がりだしていたからだった。それは自分が今日のように、何物かにせられたように夢中になってなにか手あたりばったりのことをしつづけているうちに、一つ所にジッとしたきりではとうてい考えおよばないようないくつかの人生の断面が自分の前に突然現われたり消えたりしながら、なにか自分に新しい人生の道をそれとなくし示していてくれるように思われてきたことだった。
 彼女はそんな考えにふけりながら、もうボオッと白いもののほかはなにも見えなくなりだした戸外の景色けしきを、まだなんということもなしに、ながめ続けていた。そうやって冷たいガラスに自分の顔を押しつけるようにしているのが、彼女にはだんだん気持ちよく感ぜられてきていた。広間の中は彼女の顔がほてりだすほど、暖かだったのだ。彼女はこういう気持ちよさにも、自分が明日帰って行かなければならない山の療養所の吸いつくような寒さを思わずにはいられなかった。……
 給仕が食事の用意のできたことを知らせにきた。彼女は黙ってうなずき、急に空腹を感じ出しながら、そのまま自分の部屋へは帰らずに、さっきからしずかに皿の音のしだしている奥の食堂のほうへ向かって歩き出した。



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」「目覚め」の表題で。
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



菜穂子(五)

堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)その儘《まま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午餐《ごさん》後

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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[#2字下げ]菜穂子[#「菜穂子」は大見出し]

[#3字下げ]十九[#「十九」は中見出し]

 それまで菜穂子は、圭介の母からいつも分厚い手紙を貰っても、枕もとに打《う》ち棄《す》てて置いた儘すぐそれを開こうとはせず、又、それを一度も嫌悪の情なしには開いた事はなかった。そして彼女はその次ぎには、それ以上の嫌悪に打ち勝って、心にもない言葉を一つ一つ工夫しながら、それに対する返事を認《したた》めなければならなかった。
 菜穂子はしかし冬に近づく時分から、その姑の手紙の中に何かいままでの空しさとは違ったものを徐々に感じ出してはいた。彼女はその手紙の文句に一々これまでのように眉をひそめたりしないでもそれを読み過せるようになった。彼女は相変らず姑の手紙が来る毎に面倒そうにそれをすぐ開きもせず、長いこと枕もとに置いたきりにはしていたが、一度それを手にとるといつまでもそれを手放さないでいた。何故それが今までのような不愉快なものでなくなって来たか、彼女は別にそれを気にとめて考えて見ようともしなかったが、一手紙毎に、姑のたどたどしい筆つきを通して、ますます其処に描かれている圭介の此の頃のいかにも打ち沈んだような様子が彼女にも生き生きと感ぜられるようになって来た事を、菜穂子は自分に否もうとはしなかった。
 明が訪れてから数日後の、或雪曇った夕方、菜穂子はいつも同じ灰色の封筒にはいった姑の手紙を受け取ると、矢っ張いつものように面倒そうに手にとらずにいたが、暫くしてからひょっとしたら何か変った事でも起きたのではないかしらと思い出し、そう思うとこんどは急いで封を切った。が、それには此の前の手紙と殆ど変らない事しか書いてはなくて、彼女の一瞬前に空想したように圭介も突然危篤にはなっていなかったので、彼女は何んだか失望したように見えた。それでもその手紙の走り書きのところが読みにくかったし、そんなところは急いで飛ばし飛ばし読んでいたので、もう一遍最初から丁寧に読み返して見た。それから彼女は暫く考え深そうに目をつぶっていたが、気がついて夕方の検温をし、相変らず七度二分なのを確かめると、寝台に横になった儘《まま》、紙と鉛筆をとって、いかにも書く事がなくて困ったような手つきで姑への返事を書き出した。――「きのうきょうのこちらのお寒いことと云ったらとても話になりません。しかし、療養所のお医者様たちはこちらで冬を辛抱すればすっかり元通りの身体にしてやるからと云って、お母様のおっしゃるようになかなか家へは帰してくれそうにもないのです。ほんとうにお母様のみならず、圭介様にもさぞ……」彼女はこう書き出して、それから暫く鉛筆の端で自分の窶《やつ》れた頬を撫でながら、彼女の夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。いつもそんな眼つきで彼女が見つめるとすぐ彼がそれから顔を外《そ》らせてしまう、あの見据えるような眼ざしを、つい今も知《し》らず識《し》らずにそれ等の夫の姿へ注ぎながら……
「そんな眼つきでおれを見ないでくれないか。」そう彼がとうとう堪《たま》らなくなったように彼女に向って云った、あの豪雨にとじこめられた日の不安そうだった彼の様子が、急に彼の他のさまざまな姿に立ち代って、彼女の心の全部を占め出した。彼女はそのうちにひとりでに目をつぶり、その嵐の中でのように、少し無気味な思い出し笑いのようなものを何んとはなしに浮べていた。

 来る日も来る日も、雪曇りの曇った日が続いていた。ときどき何処かの山からちらちらとそれらしい白いものが風に吹き飛ばされて来たりすると、いよいよ雪だなと患者達の云い合っているのが聞えたが、それはそれきりになって、依然として空は曇ったままでいた。吸いつくような寒さだった。こんな陰気な冬空の下を、いま頃明はあの旅びとらしくもない憔悴《しょうすい》した姿で、見知らない村から村へと、恐らく彼の求めて来たものは未だ得られもせずに(それが何か彼女にはわからなかったが)、どんな絶望の思いをして歩いているだろうと、菜穂子はそんな憑《つ》かれたような姿を考えれば考えるほど自分も何か人生に対する或決意をうながされながら、その幼馴染の上を心から思いやっているような事もあった。
「わたしには明さんのように自分でどうしてもしたいと思う事なんぞないんだわ。」そんなとき菜穂子はしみじみと考えるのだった。「それはわたしがもう結婚した女だからなのだろうか? そしてもうわたしにも、他の結婚した女のように自分でないものの中に生きるより外はないのだろうか? ……」

[#3字下げ]二十[#「二十」は中見出し]

 或夕方、信州の奥から半病人の都築明を乗せた上り列車はだんだん上州との国境に近いO村に近づいて来た。
 一週間ばかりの陰鬱《いんうつ》な冬の旅に明はすっかり疲れ切っていた。ひどい咳をしつづけ、熱もかなりありそうだった。明は目をつぶった儘、窓枠にぐったりと体を靠《もた》らせながら、ときどき顔を上げ、窓の外に彼にとっては懐しい唐松や楢《なら》などの枯木林の多くなり出したのをぼんやりと感じていた。
 明はせっかく一箇月の休暇を貰って今後の身の振り方を考えるために出て来た冬の旅をこの儘|空《むな》しく終える気にはどうしてもなれなかった。それではあまり予期に反し過ぎた。彼はさしずめO村まで引き返し、其処で暫く休んで、それからまた元気を恢復《かいふく》し次第、自分の一生を決定的なものにしようとしている此の旅を続けたいという心組になった。早苗は結婚後、夫が松本に転任して、もうその村にはいない筈だった。それが明には、寂しくとも、何か心安らかにその村へ自分の病める身を托《たく》して行ける気持ちにさせた。それに、今自分を一番親身に看病してくれそうなのは、牡丹屋の人達の外にはあるまい……
 深い林から林へと汽車は通り抜けて行った。すっかり葉の落ち尽した無数の唐松の間から、灰色に曇った空のなかに象嵌《ぞうがん》したような雪の浅間山が見えて来た。少しずつ噴き出している煙は風のためにちぎれちぎれになっていた。
 先ほどから汽缶車が急に喘《あえ》ぎ出しているので、明は漸《や》っとO駅に近づいた事に気がついた。O村はこの山麓《さんろく》に家も畑も林もすべてが傾きながら立っているのだ。そしていま明の身体を急に熱でも出て来たようにがたがた震わせ出している此の汽缶車の喘ぎは、此の春から夏にかけて日の暮近くに林の中などで彼がそれを耳にしては、ああ夕方の上りが村の停車場に近づいて来たなと何とも云えず人懐しく思った、あの印象深い汽缶の音と同じものなのだ。
 谷陰の、小さな停車場に汽車が著《つ》くと、明は咳き込みそうなのを漸っと耐えているような恰好《かっこう》で、外套《がいとう》の襟を立てながら降りた。彼の外には五六人の土地の者が下りただけだった。彼は下りた途端に身体がふらふらとした。彼はそれを昇降口の戸をあけるために暫く左手で提げていた小さな鞄《かばん》のせいにするように、わざと邪慳《じゃけん》そうにそれを右手に持ち変えた。改札口を出ると、彼の頭の上でぽつんとうす暗い電灯が点《とも》った。彼は待合室の汚れた硝子戸《ガラスど》に自分の生気のない顔がちらっと映っただけで、すぐ何処かへ吸い込まれるように消えたのを認めた。
 日の短い折なので、五時だというのにもう何処も暗くなり出していた。バスも何んにもない山の停車場なので、明は自分で小さな鞄を提げながら、村の途中の森までずっと上りになる坂道を難儀しいしい歩き出した。そして何度も足を休めては、ずんずん冷え込んで来る夕方の空気の中で、彼は自分の全身が急に悪寒がして来たり、すぐそのあとで又急に火のように熱くなって来たりするのを、ただもう空《うつ》ろな気持ちで感じていた。
 森が近づき出した。その森を控えて、一軒の廃屋に近い農家が相変らず立ち、その前に一匹の穢《きたな》い犬がうずくまっていた。ここの家には、昔、菜穂子さんと遠乗りから帰って来ると、いつも自転車の輪に飛びついて菜穂子さんに悲鳴を立てさせた黒い犬がいたっけなあ、と明はなんということもなしに思い出した。犬は毛並が茶色で違っていた。
 森の中はまだ割合にあかるかった。殆どすべての木々が葉を落ち尽していたからだった。それは彼には何んと云っても思い出の多い森だった。少年の頃、暑い野原を横切った後、此の森の中まで自転車で帰って来ると、快い冷気がさっと彼の火のような頬を掠《かす》めたものだった。明は今も不意と反射的に空いた手を自分の頬にあてがった。この底知れない夕冷えと、自分のひどい息切れと、この頬のほてりと、――こう云う異様な気分に包まれながら、背中を曲げて元気なく歩いている現在の自分が、そんな自転車なんぞに乗って頬をほてらせ息を切らしている少年の自分と、妙な具合に交錯しはじめた。
 森の中程で、道が二叉《ふたまた》になる。一方は真直に村へ、もう一方は、昔、明や菜穂子たちが夏を過しに来た別荘地へと分かれるのだった。後者の草深い道は、此処からずっとその別荘の裏側まで緩く屈折しながら心もち下りになっていた。その道へ折れると、麦桿帽子《むぎわらぼうし》の下から、白い歯を光らせながら、自転車に乗った菜穂子がよく「見てて。ほら、両手を放している……」と背後から自転車で附いて来る明に向って叫んだ。……
 そんな思いがけない少年の日の思い出が急によみ返って来て、道端に手にしていた小さな鞄《かばん》を投げ出して、ただもう苦しそうに肩で息をしていた明の疲弊し切った心をちょっとの間生き生きとさせた。「おれは又どうしてこんどはこの村へやって来るなり、そんなとうの昔に忘れていたような事ばかりをこんなに鮮明に思い出すのだろうなあ。なんだかまだ次から次へと思い出せそうな事が胸一ぱい込み上げて来るようだ。熱なんぞがあると、こんな変な具合になってしまうのかしら。」
 森の中はすっかり暗くなり出した。明は再び背中を曲げて小さな鞄を手にしながら、暫くは何もかもがこぐらかったような切ない気分で半ば夢中に足を運んでいるきりだった。が、そのうちに彼はひょいと森の梢を仰いだ。梢はまだ昏《く》れずにいた。そして大きな樺《かば》の木の、枯れ枝と枯れ枝とがさし交しながら薄明るい空に生じさせている細かい網目が、不意とまた何か忘れていた昔の日の事を思い出させそうにした。なぜか彼にはわからなかったが、それはこの世ならぬ優しい歌の一節《ひとふし》のように彼を一瞬慰めた。彼は暫くうっとりとした眼つきでその枝の網目を見上げていたが、再び背中を曲げて歩き出した時にはもうそれを忘れるともなく忘れていた。しかし彼の方でもうそれを考えなくなってしまってからも、その記憶は相変らず、殆ど肩でいきをしながら、喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ歩いている彼を何かしら慰め通していた。「このまんま死んで行ったら、さぞ好い気持ちだろうな。」彼はふとそんな事を考えた。「しかし、お前はもっと生きなければならんぞ」と彼は半ば自分をいたわるように独《ひと》り言《ご》ちた。「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で? こんなに空《むな》しくって?」何者かの声が彼に問うた。「それがおれの運命だとしたらしようがない」と彼は殆ど無心に答えた。「おれはとうとう自分の求めているものが一体何であるのかすら分らない内に、何もかも失ってしまった見たいだ。そうして恰《あたか》も空っぽになった自分を見る事を怖れるかのように、暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠《こうもり》のように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中になって飛び出して来てしまったおれは、一体何を此の旅であてにしていたのか? 今までの所では、おれは此の旅では只おれの永久に失ったものを確かめただけではないか。此の喪失に堪えるのがおれの使命だと云う事でもはっきり分かってさえ居れば、おれは一生懸命にそれに堪えて見せるのだが。――ああ、それにしても今此のおれの身体を気ちがいのようにさせている熱と悪感との繰り返しだけは、本当にやり切れないなあ。……」
 そのとき漸《ようや》く森が切れて、枯れ枯れな桑畑の向うに、火の山裾に半ば傾いた村の全体が見え出した。家々からは夕炊の煙が何事もなさそうに上がっていた。およう達の家からもそれが一すじ立ち昇っているのが見られた。明は何かほっとした気持ちになって、自分の身体中が異様に熱くなったり寒気がしたりし続けているのも暫く忘れながら、その静かな夕景色を眺めた。彼が急に思いがけず自分の穉《おさな》い頃死んだ母のなんとなく老《ふ》けた顔をぼんやりと思い浮べた。さっき森の中で一本の樺の枝の網目が彼にこっそりとその粗描をほのめかしただけで、それきり立ち消えてしまっていた何かの影が、そんな殆ど記憶にも残っていない位のとうの昔に死んだ母の顔らしかった事に明はそのときはじめて気がついた。

[#3字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し]

 連日の旅の疲れに痛めつけられた身体を牡丹屋に托《たく》した日から、明は心の弛《ゆる》みが出たのか、どっと床に就ききりになった。村には医者がいなかったので、小諸《こもろ》の町からでも招《よ》ぼうかと云うのを固辞して、明はただ自分に残された力だけで病苦と闘っていた。苦しそうな熱にもよく耐えた。明はしかし自分では大したことはないと思い込んでいるらしかった。およう達もそういう彼の気力を落させまいとして、まめまめしく看病してやっていた。
 明はそういう熱の中で、目をつぶってうつらうつらとしながら、旅中のさまざまな自分の姿を懐しそうによみ返らせていた。或村では彼は数匹の犬に追われて逃げ惑うた。或村では炭を焼いている人々を見た。又、或村では日ぐれどき煙にむせびながら宿屋を探して歩いていた。或時の彼は、或農家の前に、泣いている子供を背負った老けた顔の女がぼんやりと立っているのを何度もふり返っては見た。又、或時の彼は薄日のあたった村の白壁の上をたよりなげに過《よぎ》った自分の影を何か残り惜しげに見た。――そんな佗《わび》しい冬の旅を続けている自分のその折その折のいかにも空虚《うつろ》な姿が次から次へとふいと目の前に立ち現われて、しばらくその儘《まま》ためらっていた……。
 暮がたになると、数日前そんな旅先きから自分を運んで来た上り列車が此の村の傾斜を喘ぎ喘ぎ上りながら、停車場に近づいて来る音が切ないほどはっきりと聞えて来た。その汽缶の音がそれまで彼の前にためらっていた旅中のさまざまな自分の姿を跡方もなく追い散らした。そしてその跡には、その夕方の汽車から下りて此の村へ辿《たど》り著《つ》こうとしているときの彼の疲れ切った姿、それから漸く森の中程まで来たとき、ふと何処かから優しい歌の一節でも聞えて来たかのように暫くうっとりとして自分の頭上の樺の枝の網目を見上げていた彼の姿だけが残った。それがその森を出た途端に突然穉い頃死に別れた母の顔らしいものを形づくったときの何とも云えない心のときめきまで伴って。……
 明は此の数日、彼の世話を一切引き受けている若い主婦《おかみ》さんの手のふさがっている時など、娘の看病の合間に彼にも薬など進めに来てくれるおようの少し老けた顔などを見ながら、この四十過ぎの女にいままでとは全く違った親しさの湧くのを覚えた。おようがこうして傍に坐っていて呉れたりすると、彼の殆ど記憶にない母の優しい面ざしが、どうかした拍子にふいとあの枝の網目の向うにありありと浮いて来そうな気持ちになったりした。
「初枝さんはこの頃どうですか?」明は口数少く訊《き》いた。
「相変らず手ばかり焼けて困ります。」おようは寂しそうに笑いながら答えた。
「なにしろ、もう足掛け八年にもなりますんでね。此の前東京へ連れて参りましたときなんぞでも、本当にこんな身体でよくこれまで保って来たと皆さんに不思議がられましたけれど、失っ張、此の土地の気候が好いのですわ。――明さんもこんどこそはこちらですっかり身体をおこしらえになって行くと好いと、皆で毎日申して居りますのよ。」
「ええ、若《も》し僕にも生きられたら……」明はそう口の中で自分にだけ云って、おようにはただ同意するような人なつこい笑い方をして見せた。

 あれほど旅の間じゅう明の切望していた雪が、十二月半過ぎの或夕方から突然降り出し、翌朝までに森から、畑から、農家から、すっかり蔽《おお》い尽《つく》してしまった後も、まだ猛烈に降り続いていた。明はもう今となっては、どうでも好い事のように、只ときどき寝床の上に起き上がった折など、硝子窓《ガラスまど》ごしに家の裏畑や向うの雑木林が何処もかしこも真白になったのを何んだか浮かない顔をして眺めていた。
 暮がた近くになって一たん雪が歇《や》むと、空はまだ雪曇りに曇った儘、徐《しず》かに風が吹き出した。木々の梢に積っていた雪がさあっとあたり一面に飛沫《ひまつ》を散らしながら落ち出していた。明はそんな風の音を聞くと矢っ張じっとして居られないように、又寝床に起き上がって、窓の外へ目をやり出した。彼は裏一帯の畑を真白に蔽うた雪がその間絶えず一種の動揺を示すのを熱心に見守っていた。最初、雪煙がさあっと上がって、それが風と共にひとしきり冷い炎のように走りまわった。そして風の去ると共に、それも何処へともなく消え、その跡の毳立《けばだ》ちだけが一めんに残された。そのうちまた次ぎの風が吹いて来ると、新しい雪煙が上がって再び冷い炎のように走り、前の毳立ちをすっかり消しながら、その跡に又今のと殆ど同じような毳立ちを一めんに残していた……。
「おれの一生はあの冷い炎のようなものだ。――おれの過ぎて来た跡には、一すじ何かが残っているだろう。それも他の風が来ると跡方もなく消されてしまうようなものかも知れない。だが、その跡には又きっとおれに似たものがおれのに似た跡を残して行くにちがいない。或運命がそうやって一つのものから他のものへと絶えず受け継がれるのだ。……」
 明はそんな考えを一人で逐《お》いながら、外の雪明りに目をとられて部屋の中がもう薄暗くなっているのにも殆ど気づかずにいるように見えた。

[#3字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し]

 雪は烈《はげ》しく降り続いていた。
 菜穂子は、とうとう矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、オウヴア・シュウズを穿《は》いた儘《まま》、何度も他の患者や看護婦に見つかりそうになっては自分の病室に引き返したりしていたが、漸《や》っと誰にも見られずに露台づたいに療養所の裏口から抜け出した。
 雑木林を抜けて、裏街道を停車場の方へ足を向けた菜穂子は、前方から吹きつける雪のために、ときどき身を捩《よ》じ曲《ま》げて立ち止まらなければならなかった。最初は、只そうやって頭から雪を浴びながら歩いて来て見たくて、裏道を抜ければ五丁ほどしかない停車場の前あたりまで行ってすぐ戻って来るつもりだった。そのつもりで、けさ圭介の母から風邪気味で一週間ほども寝ていると云って寄こしたので、それへ書いた返事を駅の郵便函《ゆうびんばこ》にでも投げて来ようと思って、外套《がいとう》の衣嚢《かくし》に入れて来た。
 一丁ほど裏街道を行ったところで、傘を傾けながらこちらへやって来る一人の雪袴《たっつけ》の女とすれちがった。
「まあ黒川さんじゃありませんか。」急にその若い女が言葉を掛けた。「何処へいらっしゃるの?」
 菜穂子は驚いてふり返った。襟巻ですっかり顔を包み、いかにも土地っ子らしい雪袴姿をした相手は、彼女の病棟附きの看護婦だった。
「ちょっと其処まで……」彼女は間《ま》が悪そうに笑顔を上げたが、吹きつける雪のために思わず顔を伏せた。
「早くお帰りになってね。」相手は念を押すように云った。
 菜穂子は顔を伏せたまま、黙って頷いて見せた。
 それから又一丁ほど雪を頭から浴びながら歩いて、漸っと踏切のところまで来た時、菜穂子は余っ程この儘療養所へ引き返そうかと思った。彼女は暫く立ち止まって目の粗い毛糸の手袋をした手で髪の毛から雪を払い落していたが、ふとさっきこんな向う見ずの自分を掴《つか》まえても何んともうるさく云わなかったあの気さくな看護婦が露西亜《ロシア》の女のように襟巻でくるくると顔を包んでいたのを思い出すと、自分もそれを真似て襟巻を頭からすっぽりと被《かぶ》った。それから彼女は、出逢ったのが本当にあの看護婦でよかったと思いながら、再び雪を全身に浴びて停車場の方へ歩き出した。
 北向きの吹きさらしな停車場は一方から猛烈に雪をふきつけられるので片側だけ真白になっていた。その建物の陰に駐《と》まっている一台の古自動車も、やはり片側だけ雪に埋っていた。
 その停車場で一休みして行こうと思った菜穂子は、自分もいつの間にか片側だけ雪で真白になっているのを認め、建物の外でその雪を丁寧に払い落した。それから彼女が顔をくるんでいた襟巻を外しながら、何気なしに中へはいって行くと、小さなストーヴを囲んでいた乗客達が揃って彼女の方をふり向き、それからまるで彼女を避けるかのように、皆して其処を離れ出した。彼女は思わず眉をひそめながら、顔をそむけた。丁度そのとき下りの列車が構内にはいって来かかっていると云う事が咄嗟《とっさ》に彼女には分からなかったのだ。
 その列車はどの車もやはり同じように片側だけ雪を吹きつけられていた。十五六人ばかりの人が下車し、戸口の近くに外套をきて立っている菜穂子の方をじろじろ見ながら、雪の中へ一人一人何やら互いに云い交して出て行った。
「東京の方もひどい降りだってな。」誰かがそんな事を云っていた。
 菜穂子にはそれだけがはっきりと聞えた。彼女は東京もこんな雪なのだろうかと思いながら、駅の外で雪に埋って身動きがとれなくなってしまっているような例の古自動車をぼんやり眺めていた。それから暫くたって、彼女は息切れも大ぶ鎮まって来たので、そろそろもう帰らなくてはと思って、駅の内を見廻わすと又いつの間にかストーヴのまわりには人だかりがしていた。その大部分土地の者らしい人達は口数少く話し合いながら、ときどき何か気になるように戸口近くに立っている彼女の方へ目をやっていた。
 二つか三つ先きの駅で今の下りと入れちがいになって来る上り列車がやがて此の駅にはいって来るらしかった。
 彼女はふとその上り列車も片側だけ雪で真白になっているだろうかしらと想像した。それから突然、何処かの村で明もそうやって片側だけ雪をあびながら有頂天になって歩いている姿が彷彿《ほうふつ》して来た。さっきから彼女が外套の衣嚢《かくし》に突込んで温めていた自分の凍えそうな手が、手袋ごしに、まだ出さずにいた姑宛の手紙と革の紙入れとを代る代るに押さえ出しているのを彼女自身も感じていた。
 それまでストーヴを囲んでいた十数人の人達が再び其処を離れ出した。菜穂子はそれに気がつくと、急に出札口に近寄って、紙入れを出しながら窓口の方へ身をかがめた。
「何処まで?」中から突慳貪《つっけんどん》な声がした。
「新宿。……」菜穂子はせき込むように答えた。

 彼女の想像したとおりの、片側だけ真白に雪のふきつけた列車が彼女の前に横づけになったとき、菜穂子は眼に見ることの出来ない大きな力にでも押し上げられるようにして、その階段へ足をかけた。
 彼女のはいって行った三等車の乗客達は、雪まみれの外套に身を包んだ彼女の只ならぬ様子を見ると、揃って彼女の方をじろじろ無遠慮に見出した。彼女は眉をひそめながら「私はきっと険《けわ》しい顔つきでもしているのだろう」と考えた。が、一番端近かの、居睡りしつづけている鉄道局の制服をきた老人の傍に坐り、近い山や森さえなんにも分からないほど雪の深い高原の真ん中へ汽車がはいり出した時分には、皆はもう彼女の存在など忘れたように見向きもしなかった。
 菜穂子は漸《ようや》く自分自身に立ち返りながら、自分の今しようとしている事を考えかけようとした。彼女はそのとき急に、いつも自分のまわりに嗅《か》ぎつけていた昇汞水《しょうこうすい》やクレゾオルの匂の代りに、車内に漂っている人いきれや煙草のにおいを胸苦しい位に感じ出した。彼女にはそれが自分にこれから返されようとしかけている生の懐しい匂の前触れでもあるかのような気がされた。彼女はそう思うと、その胸苦しさも忘れ、何か不思議な身慄《みぶる》いを感じた。
 窓の外には、いよいよ吹き募っている雪のあいだから、ごく近くの木立だとか、農家だとかが仄見《ほのみ》えるきりだった。しかし、まだ彼女には汽車がいま大体どの辺を走っているのか見当がついた。其処から数丁離れた人気ない淋しい牧場には、あの自分によく似ているような気のした事のある例の立枯れた木が、矢っ張それも片側だけ真白になった儘《まま》、雪の中にぽつんと一本きり立っている悲劇的な姿を、彼女はふと胸に浮べた。彼女は急に胸さわぎを感じ出した。
「私はどうして雪を衝《つ》いてあの木を見に行こうとしなかったのかしら? 若《も》しあっちへ向かっていたら、私はいまこんな汽車になんぞ乗っていなかったろうに。……」車内に漂った物のにおいはまだ菜穂子の胸をしめつけていた。「療養所ではいま頃どんなに騒いでいるだろう。東京でも、どんなにみんなが驚くだろう。そうして私はどうされるかしら? 今のうちならまだ引き返そうと思えば引き返せるのだ。なんだか私は少しこわくなって来た。……」
 そんな事を考え考え、一方ではまだ汽車が少しでも早く国境の外へ出てしまえばいいと思いながら、漸《ようや》くそれが過《よ》ぎり終えたらしい雪の高原の果ての、もう自分には殆ど見覚えのない最後の林らしいものが見る見る遠ざかって行くのを、菜穂子は半ば怖ろしいような、半ばもどかしいような気持ちで眺めていた。

[#3字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し]

 雪は東京にも烈《はげ》しく降っていた。
 菜穂子は、銀座の裏のジャアマン・ベエカリの一隅で、もう一時間ばかり圭介の来るのを待ち続けていた。しかし少しも待ちあぐねているような様子でなく、何か物が匂ったりすると、急に目を細くしてそれを恰《あたか》も自分に漸く返されようとしている生の匂ででもあるかのように胸深く吸い込んだりしながら、半ば曇った硝子戸《ガラスど》ごしに、雪の中の人々の忙しそうな往来《ゆきき》を、圭介でも傍にいたらすぐそんな目つきは止せと云われそうな、何か見据えるような眼つきで見続けていた。
 店の中は、夕方だったけれど、大雪のせいか、彼女の外には三四組の客が疎《まば》らに居るきりだった。入口に近いストーヴに片足をかけた、一人の画家かなんぞらしい青年が、ときどき彼女の方を何か気になるように振り返っていた。
 菜穂子はそれに気がつくと、ふいと自分の姿を吟味した。長いこと洗わないばさばさした髪、出張った頬骨、心もち大きい鼻、血の気のない脣《くちびる》――それらのものは今もまだ、彼女が若い時分によく年上の人達からもうすこし険がなければと惜しまれていた一種の美貌をすこしも崩さずに、それに只もう少し沈鬱《ちんうつ》な味を加えていた。山の中の小さな駅では人々の目を惹《ひ》いた彼女の都会風な身なりは、今、此の町なかでは他の人々と殆ど変らないものだった。只、山の療養所からそっくりその儘持ち帰って来たような顔色の蒼さだけは、妙に他の人々と違っているように思え、それだけはどうにもならないように彼女はときどき自分の顔へ手をやっては何かごまかしでもするように撫でていた。……
 突然自分の前に誰かが立ちはだかったような気がして、菜穂子は驚いて顔を上げた。
 外で払って来たらしい雪がまだ一面に残っている外套《がいとう》を着た儘、圭介が彼女を見下ろしながら、其処に立っていた。
 菜穂子はかすかなほほ笑みを浮べながら、会釈するともなく、圭介のために身じろいだ。
 圭介は不機嫌そうに彼女の前に腰をかけたきり、暫くは何も云い出さずにいた。
「いきなり新宿駅から電話をかけて寄こすなんて驚くじゃないか。一体、どうしたんだ?」とうとう彼は口をきいた。
 菜穂子はしかし、前と同じようなかすかなほほ笑みを浮べたきり、すぐには何んとも返事をしなかった。彼女の心の内には、一瞬、けさ吹雪の中を療養所から抜け出して来た小さな冒険、雪にうずもれた山の停車場での突然の決心、三等車の中に立ちこめていた生のにおいの彼女に与えた不思議な身慄《みぶる》い、――それらのものが一どきによみ返った。彼女はその間の何かに憑《つ》かれたような自分の行動を、第三者にもよく分かるように一々筋を立てて説明する事は、到底出来ないように感じた。
 彼女はそれが返事の代りであるように、只大きい眼をして夫の方をじいっと見守った。何も云わなくとも、その眼の中を覗いて何もかも分かって貰いたそうだった。
 圭介にとっては、そういう妻の癖のある眼つきこそあれほど孤独の日々に空しく求めていたものだったのだ。が、今、それをこうしてまともに受け取ると、彼は持前の弱気から思わずそれから眼を外《そ》らせずにはいられなかった。
「母さんは病気なんだ。」圭介は彼女から眼を外らせた儘、はき出すように云った。「面倒な事は御免だよ。」
「そうね。私が悪かったわ。」菜穂子は自分が何か思い違いをしていた事に気がつきでもしたように、深い溜息《ためいき》をついた。そして思いのほか素直に云った。
「私、これからすぐ帰るわ。……」
「すぐ帰るったって、こんな雪で帰れるものか。何処かへ一晩泊ることにして、あした帰るようにしたらどうだ?――しかし、大森の家じゃ困るな。母さんの手前。……」
 圭介は一人でやきもきしながら、何かしきりに考えていた。彼は急に顔を上げて、声を低くして云い出した。
「ホテルなんぞへ一人で泊るのは嫌か。麻布に小さな気持ちの好いホテルがあるが……」
 菜穂子は熱心に夫の顔へ自分の顔を近づけていたが、それを聞き終わると急に顔を遠退《とおざ》けて、
「私はどうでもいいわ……」といかにも気がなさそうな返事をした。
 彼女は今まで自分が何か非常な決心をしているつもりになっていたが、いま夫とこうして差向いになって話し出していると、何だって山の療養所からこんなに雪まみれになって抜け出して来たのか分からなくなり出していた。そんなにまでして夫の所に向う見ずに帰って来た彼女を見て、一番最初に夫がどんな顔をするか、それに自分の一生を賭《か》けるようなつもりでさえいたのに、気がついた時にはもういつの間にか二人は以前の習慣どおりの夫婦になっていて、何もかもが有耶無耶《うやむや》になりそうになっている。ほんとうに人間の習慣には何か瞞著《まんちゃく》させるものがある。……
 菜穂子はそう思いながら、しかしもうどうでも好いように、夫の方へ、何か見据えているような癖に何も見てはいないらしい、例の空虚な眼ざしを向け出した。
 圭介はこんどは何か抜きさしならない気持ちで、それをじっと自分の小さな眼で受けとめていた。それから彼は突然顔を赧《あか》らめた。彼は今しがた自分の口にした麻布の小さなホテルと云うのが、実は此の間同僚と一しょに偶然その前を通りかかった時、相手が此処を覚えておけよ、いつも人けがなくてランデ・ヴウには持って来いだぞと冗談半分に教えてくれたばかりの事を、そのとき何という事もなしに思い出したからだった。
 彼女にはなぜ彼が顔を赧らめたのだか分からなかった。が、彼女はこれを認めると、ふと自分が向う見ずに夫に逢いに来た突飛な行為の動機がもうちょっとで分かりかけて来そうな気がしだした。
 が、菜穂子はその時夫に促されたので、その考えを中断させながら、卓から立ち上がった。そしてときどき何か好い匂を立たせている店の中をもう一度名残惜しそうに見廻して、それから夫に附いて店を出た。

 雪は相変らず小止《おや》みなく降っていた。
 人々は皆思い思いの雪支度をして、雪を浴びながら忙しそうに往来していた。山でしたように、襟巻ですっかり顔を包んだ菜穂子は、蝙蝠傘《こうもりがさ》をさしかけて呉れる圭介には構わずに、ずんずん先に立って人込みの中へ紛《まぎ》れ込んで行った。
 彼等は数寄屋橋の上でその人込みから抜けると、漸《や》っとタクシイを見付け、麻布の奥にあるそのホテルへ向った。
 虎の門からぐいと折れて、或急な坂をのぼり出すと、その中腹に一台の自動車が道端の溝へはまり込んで、雪をかぶった儘《まま》、立往生していた。菜穂子は曇った硝子《ガラス》の向うにそれを認めると、山の停車場のそとで片側だけにはげしく雪を吹きつけられていた古自動車を思い出した。それから急に、自分がその停車場で突然上京の決意をするまでの心の状態を今までよりかずっと鮮明によみ返らせた。彼女はあのとき心の底では、思い切って自分自身を何物かにすっかり投げ出す決心をしたのだ。それが何物であるかは一切分からなかったけれど、そうやってそれに自分を何もかも投げ出して見た上でなければ、それは永久に分からずにしまうような気がしたのだった。――彼女は今ふいと、それが自分と肩を並べている圭介であり、しかも同時にその圭介その儘でないもっと別な人のような気がして来た。……
 何処かの領事館らしい邸《やしき》の前で、外人の子供も雑《ま》じって、数人の少年少女が二組に分かれて雪を投げ合っていた。二人の乗った自動車がその側を徐行しながら通り過ぎようとした時、誰かの投げた雪球が丁度圭介の顔先の硝子に烈《はげ》しくぶつかって飛沫《ひまつ》を散らした。圭介は思わず自分の顔へ片手をかざしながら、こわい顔つきをして子供達の方を見た。が、夢中になってそんな事には何んにも気がつかずに雪投げを続けている予供達を見ると、急に一人で微笑をし出しながら、そちらをいつまでも面白そうにふり返っていた。「此の人はこんなに子供が好きなのかしら?」菜穂子はその傍で、今の圭介の態度にちょっと好意のようなものを感じながら、初めて自分の夫のそんな性質の一面に心を留めなどした。……
 やがて車が道を曲がり、急に人けの絶えた木立の多い裏通りに出た。
「其処だ。」圭介は性急そうに腰を浮かしながら、運転手に声をかけた。
 彼女はその裏通りに面して、すぐそれらしい、雪をかぶった数本の棕梠《しゅろ》が道からそれを隔てているきりの、小さな洋館を認めた。

[#3字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し]

「菜穂子、一体お前はどうして又こんな日に急に帰って来たのだ?」
 圭介はそう菜穂子に訊《き》いてから、同じ事を二度も問うた事に気がついた。それから最初のときは、それに対して菜穂子が只かすかなほほ笑《え》みを浮べながら、黙って自分を見守っただけだった事を思い出した。圭介はその同じ無言の答を怖れるかのように、急いで云い足した。
「何か療養所で面白くない事でもあったのかい?」
 彼は菜穂子が何か返事をためらっているのを認めた。彼は彼女が再び自分の行為を説明できなくなって困っているのだなぞとは思いもしなかった。彼は其処に何かもっと自分を不安にさせる原因があるのではないかと怖れた。しかし同時に、彼は、たといそれがどんな不安に自分を突き落す結果になろうとも、今こそどうしても、それを訊かずにはいられないような、突きつめた気持ちになっている自分をも他方に見出さずにはいなかった。
「お前の事だから、よくよく考え抜いてした事だろうが……」圭介は再び追究した。
 菜穂子はしばらく答に窮して、ホテルの北向きらしい窓から、小さな家の立て込んだ、一帯の浅い谷を見下ろしていた。雪はその谷間の町を真白に埋め尽していた。そしてその真白な谷の向うに、何処かの教会の尖《とが》った屋根らしいものが雪の間から幻かなんぞのように見え隠れしていた。
 菜穂子はそのとき、自分が若《も》し相手の立場にあったら何よりも先ず自分の心を占めたにちがいない疑問を、圭介はともかくもその事の解決を先につけておいてから今漸っとそれを本気になって考えはじめているらしい事を感じた。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思いながら、それでもとうとう自分の心に近づいて来かかっている夫をもっと自分へ引きつけようとした。彼女は目をつぶって、夫にもよく分からすことの出来そうな自分の行為の説明を再び考えて見ていたが、その沈黙が性急な相手には彼女の相変らず無言の答としか思えないらしかった。
「それにしてもあんまり出し抜けじゃないか。そんな事をしちゃ、人に何んと思われてもしようがない。」
 圭介がもうその追究を詮《あきら》めたように云うと、彼女には急に夫が自分の心から離れてしまいそうに感ぜられた。
「人になんか何んと思われたって、そんな事はどうでもいいじゃないの。」彼女は咄嗟《とっさ》に夫の言葉尻を捉えた。と同時に、彼女は夫に対する日頃の憤懣《ふんまん》が思いがけずよみ返って来るのを覚えた。それはそのときの彼女には全く思いがけなかっただけ、自分でもそれを抑える暇がなかった。彼女は半ば怒気を帯びて、口から出まかせに云い出した。「雪があんまり面白いように降っているので、私はじっとしていられなくなったのよ。聞きわけのない子供のようになってしまって、自分のしたい事がどうしてもしたくなったの。それだけだわ。……」菜穂子はそう云い続けながら、ふと此の頃何かと気になってならない孤独そうな都築明の姿を思い浮べた。そして何んという事もなしに少し涙ぐんだ。「だから、私はあした帰るわ。療養所の人達にもそう云ってお詫《わ》びをして置くわ。それなら好いでしょう。」
 菜穂子は半ば涙ぐみながら、そのときまで全然考えもしなかった説明を最初は只夫を困らせるためのように云い出しているうちに、不意といままで彼女自身にもよく分らずにいた自分の行為の動機も案外そんなところにあったのではないかと云うような気もされた。
 そう云い終えたとき、菜穂子はそのせいか急に気持ちまでが何んとなく明るくなったように感ぜられ出した。

 それから、しばらくの間、二人はどちらからも何んとも云い出さずに、無言の儘窓の外の雪景色を見下ろしていた。
「おれはこんどの事は母さんに黙っているよ。」やがて圭介が云った。「お前もそのつもりでいてくれ。」
 そう云いながら、彼はふと此の頃めっきり老《ふ》けた母の顔を眼に浮べ、まあこれでこんどの事はあたりさわりのないように一先ず落《お》ち著《つ》きそうな事に思わずほっとしていたものの、一方此の儘では何か自分で自分が物足らないような気がした。一瞬、菜穂子が急に気の毒に思えた。「若しお前がそれほどおれの傍に帰って来たいなら、又話が別だ。」彼は余っ程妻に向かってそう云ってやろうかと躊躇《ちゅうちょ》していた。が、彼はふとこんな具合に此の儘そんな問題に立ち返って話し込んでしまっていたりすると、もう病人とは思えない位に見える菜穂子を再び山の療養所へ帰らせる事が不自然になりそうな事に気がついた。明日菜穂子が無条件で山へ帰ると云う二人の約束が、そんな質問を発して相手の心に探りを入れようとしかけているほど自分の気持ちに余裕を与えているだけだと云う事を認めると、圭介はもうそれ以上その問題に立ち入る事を控えるように決心した。彼はしかし心の底では、どんなにか今のこういう心の生き生きした瞬間、二人のまさに触れ合おうとしている心の戦慄《おののき》のようなものの感ぜられる此の瞬間を、いつまでも自分と妻との間に引き止めて置きたかったろう。――が、彼は今、心の前面に、病床の中からも彼のする事を一つ一つ見守っているような彼の母の老《ふ》けた顔をはっきりとよみ返らせた。そのめっきり老けたような母の顔も、それから又、その病気さえも、何か今こんな所でこんな事をしている自分達のせいのような気もされて、この気の小さな男は妙に今の自分が後めたいように感ぜられた。彼はその母が実はこの頃ひそかに菜穂子に手をさしのべていようなぞとは夢にも知らなかったのだ。そして彼自身はと云えば、最近|漸《や》っと一と頃のように菜穂子のことで何かはげしく悔いるような事も無くなり、再びまた以前の母子差し向いの面倒のない生活に一種の不精から来る安らかさを感じている矢先きでもあったのだ。――そう云った検討を心の中でしおえた圭介はもう少し全べてが何んとかなるまで、此の儘《まま》、菜穂子にも我慢していて貰わねばならぬと云う結論に達した。

 菜穂子はもう何も考えずに、雪のふる窓外へ目をやって、暮がたの谷間の向うにさっきから見えたり消えたりしている、何んだかそれとすっかり同じものを子供の頃に見たような気のする、教会の尖《とが》った屋根をぼんやり眺め続けていた。
 圭介は時計を出して見た。菜穂子は彼の方をちらっと見て、
「どうぞもうお帰りになって頂戴。あしたも、もう入らっしゃらなくともいいわ。一人で帰れるから」と云った。
 圭介は時計を手にした儘、ふと彼女が明朝こんな雪の中を帰って行って、もっと雪の深い山の中でまた一人でもって暮らし出す様子を思い描いた。彼はこの頃忘れるともなく忘れていた強烈な消毒薬や病気や死の不安のにおいを心によみ返らせた。なにか魂をゆすぶるもののように。……
 菜穂子はその間、うつけたようになり切った夫の顔を見守っていた。彼女は何んとはなしに無心なほほえみらしいものを浮べた。ひょっとしたら夫がいまにもその瞬間の彼女の心の内が分かって、「もう二三日此のホテルにこの儘居ないか。そうして誰にも分からないように二人でこっそり暮らそう。……」そんな事を云い出しそうな気がしたからであった。
 が、夫は何か或考えを払いのけでもするように頭を振りながら、何も云わずに、それまで手にしていた時計を徐《しず》かに衣嚢《かくし》にしまっただけだった。もう自分は帰らなければならないと云う事をそれで知らせるように。……

 菜穂子は、圭介が雪を掻き分けながら帰えるのをうす暗い玄関に見送った後、その儘|硝子戸《ガラスど》に顔を押しあてるようにして、何か化け物じみて見える数本の真白な棕梠《しゅろ》ごしに、ぼんやりと暮方の雪景色を眺めていた。雪はまだなかなか止みそうもなかった。彼女は暫くの間、今の自分の心の内と関係があるのだかないのだかも分からないような事をそれからそれへと思い出しては、又、それを傍からすぐ忘れてしまっているような、空虚な心もちを守っていた。それは何もかもが片側だけに雪を吹きつけられている山の駅の光景だったり、今しがたまで見ていたのにもうどうしてもそれを何時見たのだか思い出せない何処かの教会の尖塔《せんとう》だったり、明の何かをじっと堪えているような様子だったり、喚きながら雪投げをしている沢山の子供達だったりした。……
 そのとき漸っと彼女が背を向けていた広間の電灯が点《とも》ったらしかった。そのために彼女が顔を押しつけていた硝子が光を反射し、外の景色が急に見にくくなった。彼女はそれを機会に、今夜この小さなホテル――さっきから外人が二三人ちらっと姿を見せたきりだった――に一人きりで過さなければならないのだと云う事をはじめて考え出した。しかしこの事は彼女に佗《わ》びしいとか、悔《くや》しいとか、そう云うような感情を生じさせる暇《いとま》は殆どなかった。一つの想念が急に彼女の心に拡がり出していたからだった。それは自分がきょうのように何物かに魅せられたように夢中になって何か手あたりばったりの事をしつづけているうちに、一つ所にじっとしたきりでは到底考え及ばないような幾つかの人生の断面が自分の前に突然現われたり消えたりしながら、何か自分に新しい人生の道をそれとなく指し示していて呉れるように思われて来た事だった。
 彼女はそんな考えに耽《ふけ》りながら、もうぼおっと白いもののほかは何も見えなくなり出した戸外の景色を、まだ何んという事もなしに、眺め続けていた。そうやって冷い硝子に自分の顔を押しつけるようにしているのが、彼女にはだんだん気持ちよく感ぜられて来ていた。広間のなかは彼女の顔がほてり出す程、暖かだったのだ。彼女はこう云う気持ちよさにも、自分が明日帰って行かなければならない山の療養所の吸いつくような寒さを思わずにはいられなかった。……
 給仕が食事の用意の出来たことを知らせに来た。彼女は黙って頷《うなず》き、急に空腹を感じ出しながら、その儘自分の部屋へは帰らずに、さっきから静かに皿の音のし出している奥の食堂の方へ向って歩き出した。



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」(「目覚め」の表題で。)
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [信州] しんしゅう 信濃国の別称。いまの長野県。科野。
  • O村
  • 小諸 こもろ 長野県東部、浅間山南西麓の市。もと牧野氏1万5000石の城下町、北国街道の宿駅。城址は懐古園という。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で名高い。人口4万5千。
  • 松本 まつもと 長野県の中西部、松本盆地から岐阜県境にある市。もと戸田氏6万石の城下町。松本城(深志城)天守閣は国宝。もと信濃国府の地で、信府と称した。上高地・乗鞍高原・美ヶ原などの観光地への基地。人口22万8千。
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568m。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)
  • [上州] じょうしゅう 上野国の別称。今の群馬県。
  • [東京]
  • 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • ジャーマン・ベーカリー
  • 麻布 あざぶ 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称。高級住宅地で外国大公使館などが多い。
  • 数寄屋橋 すきやばし 江戸城外濠の京橋数寄屋町への通路(東京都千代田区有楽町と中央区西銀座との間)に架した橋。今は名称だけ存続。
  • 虎の門 とらのもん 虎ノ門。江戸城外郭門の一つ。芝琴平町に出る口。東京都港区の地名として残る。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 黒川菜穂子 なおこ 旧姓三村。
  • 黒川圭介 菜穂子の夫。
  • 圭介の母
  • 都築明 つづき あきら 菜穂子の幼なじみ。
  • 早苗 綿屋の娘。
  • 早苗の夫 巡査。
  • 牡丹屋 ぼたんや
  • およう 牡丹屋の主人の姉。
  • 主婦《おかみ》さん
  • 初枝 おようの娘。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 雪曇り ゆきぐもり 雪雲のために空が曇ること。空が曇って雪模様になること。
  • 憔悴 しょうすい やせおとろえること。やつれること。
  • 象眼・象嵌 ぞうがん (1) 布または紙などに、模様を金泥・色紙などで細くふちどったもの。ぞうが。(2) 金属・木材・陶磁器などの素地に模様を刻んで、他の材料、特に金・銀・赤銅・四分一などをはめ込む技法。また、その作品。(3) (印刷用語) 鉛版・銅版などで、修正箇所を切り抜き、そのあとに修正した活字などを挿入すること。
  • 汽缶車 きかんしゃ 気鑵車。汽罐車。機関車。
  • 汽缶 きかん (→)ボイラーに同じ。
  • ボイラー boiler 密閉した鋼製容器内で水を加熱し高温・高圧の蒸気を発生させる装置。汽缶。蒸気缶。缶。
  • 夕冷え ゆうびえ/ゆうひえ 夕方に感じる冷ややかさ。
  • こぐらかる 乱れからまる。こんぐらかる。こんがらかる。
  • 悪感 おかん 悪寒。
  • 面差し おもざし かおだち。かおつき。顔のようす。面相。
  • オーバー‐シューズ overshoes 防水や保温のため靴の上にはくビニールやゴム製の靴。
  • 雪袴 たっつけ 裁着・裁衣。
  • 裁着・裁衣 たっつけ (→)カルサンのこと。
  • カルサン 軽衫 袴の一種。形は指貫に似て、筒太く、裾口は狭い。原形ははっきりしないが、洋式にならい袴のように仕立てた。中世末期には上層武士から庶人まで着用したが、江戸時代には専ら旅装として使われた。狂言装束として唐人用のものがある。近代のは、木綿または縞織物で、上部をゆるやかに、下部を股引のように仕立てたものをいう。多く寒国に用い、男女共にはく。カルサンばかま。伊賀袴。地方によっては裁衣・裾細などという。
  • 出札口 しゅっさつぐち 切符を売る窓口。切符売り場。
  • 端近か はしぢか (1) 家の内で端に近い所。あがりはな。(2) 奥ゆかしくないこと。あさはかなこと。上品でないこと。
  • 鉄道局 てつどうきょく (1) 旧鉄道省・運輸通信省の地方機関。東京・名古屋・大阪・門司・仙台・札幌・新潟・広島・高松に置いた。(2) 国土交通省本省の内局の一つ。
  • 昇汞水 しょうこうすい 昇汞の水溶液。極めて有毒。消毒に用いる。
  • 昇汞 しょうこう (corrosive sublimate)(→)塩化水銀(2) の俗称。
  • 塩化水銀 えんか すいぎん (2) 塩化水銀(II)(塩化第二水銀)。化学式HgCl(2) 無色柱状の結晶。水にはやや溶ける。猛毒。硫酸水銀(II)と食塩との混合物を熱してつくる。昇汞。猛汞。
  • クレゾール Kresol 分子式C(6)H(4)(CH(3))OH フェノール類の一つ。オルト・メタ・パラの三つの異性体がある。コールタールおよび木タール中に含まれる。消毒薬・防腐剤に使用。
  • 人いきれ ひといきれ 人が多く集まっていて、体の熱気やにおいが立ちこめること。
  • 仄見える ほのみえる ほのかに見える。
  • 険 けん (2) 顔つきにけわしさのあること。
  • 身じろぐ みじろぐ (古くはミジロク) 身を動かす。身動きする。
  • 瞞着 まんちゃく あざむくこと。ごまかすこと。人の目をくらますこと。
  • ランデ・ヴー → ランデ‐ブー
  • ランデ‐ブー rendez-vous (1) 恋人同士が時・場所をきめて会うこと。あいびき。デート。(2) 宇宙船同士が宇宙空間で近づくこと。
  • 小止み おやみ (雨や雪などが)しばらくやむこと。こやみ。
  • 棕梠 しゅろ 棕櫚・棕梠・椶櫚。ヤシ科シュロ属の常緑高木の総称。特に、日本原産のワジュロをいう。幹は高さ6m余、円柱状で直立。幹頂に葉を束生、葉柄は長く、葉身はほぼ円形、掌状に深裂。雌雄異株。5月頃、葉腋に分岐した花序を生じ、黄色の小花をつけ、小球状の核果を結ぶ。材は柱・器皿・鉢・盆または撞木とする。毛苞は縄・刷毛・箒とし、葉は晒して毛払い・夏帽子・敷物などとする。同属で中国原産のトウジュロと共に、庭園などに植栽。
  • 怒気 どき 怒りの気持。また、怒りを含んだ顔つき。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 山折哲雄「皇太子殿下、ご退位なさいませ」『新潮45』。
 野坂昭如「日本民族へ、お悔やみを申し上げる」『終末の思想』(NHK新書)帯より。
 カッケー。

 八重の桜。
 第十一回まで、会津藩に所属したはずの京都見廻組が登場してないような気がする。このまま佐々木只三郎を出さないつもりなんだろうか。
 佐々木只三郎。天保四年(1833)の生まれ。慶応四年一月没。陸奥国の会津藩領内(福島県)に会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本佐々木矢太夫の養子となる。神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝えられる。(Wikipedia「佐々木只三郎」より)

 山本覚馬が文政11年(1828)生まれ。
 八重が弘化2年(1845)生まれ。
 大河『龍馬伝』のさいに、磯田道史も教育テレビで佐々木只三郎について触れていた。会津出身でしかも肉親(たしか兄)は藩の重役にあった。だから、佐々木只三郎の行動の背後には会津藩の意向が働いていたと見ていい、というもの。
 三谷幸喜脚本『新選組!』では、伊原剛志が佐々木只三郎を演じていた。これがよかった。史実の新選組が持っていたはずのダークサイドを、佐藤浩市の芹沢鴨とともに担って、完全に新選組コアメンバーを食っていた。

 佐々木只三郎。京都見廻組の相模組与頭(くみがしら)。
 清河八郎の暗殺はほぼ確定といっていいだろう(参照:大川周明『清河八郎(四)(五)』『週刊ミルクティー*』第二巻第四一号・四二号)。
 同じく、坂本龍馬の暗殺も佐々木只三郎ひきいる見廻組説が濃厚。
 となると問題は、清河八郎や坂本龍馬暗殺の指令が、会津藩首脳部のどのレベルから出たのか、ということになるんじゃまいか。

 追記。『新選組!』『龍馬伝』ともに龍馬暗殺は、佐々木只三郎ひきいる見廻組説を採用。司馬遼太郎『街道をゆく』と大佛次郎『天皇の世紀』の総索引に佐々木只三郎の項目を探すこと。




*次週予告


第五巻 第三五号 
湖と沼(一)田中阿歌麿


第五巻 第三五号は、
二〇一三年三月二三日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第三四号
菜穂子(五)堀 辰雄
発行:二〇一三年三月一六日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。