菜穂子 (五)
堀 辰雄菜穂子
十九
それまで菜穂子は、圭介の母からいつも
菜穂子はしかし冬に近づく時分から、その
「そんな眼つきでオレを見ないでくれないか。
「わたしには、明さんのように自分でどうしてもしたいと思うことなんぞないんだわ。
二十
ある夕方、信州の奥から半病人の
一週間ばかりの
明はせっかく一か月の休暇をもらって今後の身のふりかたを考えるために出てきた冬の旅を、このまま
深い林から林へと汽車は通りぬけて行った。すっかり葉の落ちつくした無数のカラマツの間から、灰色にくもった空の中に
先ほどから汽缶車が急にあえぎ出しているので、明はやっとO駅に近づいたことに気がついた。O村はこの
谷陰の、小さな停車場に汽車が着くと、明は
日の短いおりなので、五時だというのにもうどこも暗くなりだしていた。バスもなんにもない山の停車場なので、明は自分で小さな
森が近づき出した。その森をひかえて、一軒の廃屋に近い農家が相変わらず立ち、その前に一匹の
森の中はまだわりあいに明るかった。ほとんどすべての木々が葉を落ちつくしていたからだった。それは彼にはなんといっても思い出の多い森だった。少年のころ、暑い野原をよこぎったあと、この森の中まで自転車で帰ってくると、快い冷気がサッと彼の火のようなほおを
森のなかほどで、道が
そんな思いがけない少年の日の思い出が急によみがえってきて、道ばたに手にしていた小さな
森の中はすっかり暗くなりだした。明はふたたび背中を曲げて小さな
そのときようやく森が切れて、
二十一
連日の旅の疲れに痛めつけられた身体を牡丹屋に
明はそういう熱の中で、目をつぶってうつらうつらとしながら、旅中のさまざまな自分の姿を懐かしそうによみがえらせていた。ある村では、彼は数匹の犬に追われて逃げ
暮れがたになると、数日前そんな旅先から自分を運んできた
明はこの数日、彼の世話をいっさい引き受けている若い
「初枝さんはこのごろどうですか?」明は口数少なく
「あいかわらず手ばかり焼けて困ります。
「なにしろ、もう足かけ八年にもなりますんでね。このまえ東京へ連れてまいりましたときなんぞでも、ほんとうにこんな
「ええ、もし僕にも生きられたら……」明はそう口の中で自分にだけ言って、おようには、ただ同意するような人なつこい笑い方をして見せた。
あれほど旅のあいだじゅう
暮れがた近くになっていったん雪がやむと、空はまだ雪ぐもりに
「オレの一生はあの冷たい炎のようなものだ。―
明はそんな考えを一人で
二十二
雪ははげしく降り続いていた。
菜穂子は、とうとう
雑木林をぬけて、裏街道を停車場のほうへ足を向けた菜穂子は、前方から吹きつける雪のために、ときどき身をよじ曲げて立ち止まらなければならなかった。最初は、ただそうやって頭から雪を
一丁ほど裏街道を行ったところで、傘をかたむけながらこちらへやってくる一人の
「まあ、黒川さんじゃありませんか。
菜穂子はおどろいてふり返った。
「ちょっとそこまで……」彼女は
「早くお帰りになってね。
菜穂子は顔をふせたまま、黙ってうなずいて見せた。
それからまた一丁ほど雪を頭から浴びながら歩いて、やっと踏み切りのところまできたとき、菜穂子はよっぽどこのまま療養所へ引き返そうかと思った。彼女はしばらく立ち止まって、目の
北向きの吹きさらしな停車場は、一方から猛烈に雪をふきつけられるので片側だけ
その停車場で一休みして行こうと思った菜穂子は、自分もいつのまにか片側だけ雪で
その列車は、どの車もやはり同じように片側だけ雪を吹きつけられていた。十五、六人ばかりの人が下車し、戸口の近くに
「東京のほうもひどい降りだってな。
菜穂子にはそれだけがはっきりと聞こえた。彼女は、東京もこんな雪なのだろうかと思いながら、駅の外で雪にうまって身動きがとれなくなってしまっているような例の古自動車をぼんやりながめていた。それからしばらくたって、彼女は
二つか三つ先の駅で今の
彼女はふと、その上り列車も片側だけ雪で
それまでストーブをかこんでいた十数人の人たちが、ふたたびそこを離れ出した。菜穂子はそれに気がつくと、急に
「どこまで?」中からつっけんどんな声がした。
「新宿。
彼女の想像したとおりの、片側だけ
彼女の入って行った三等車の乗客たちは、雪まみれの
菜穂子はようやく自分自身に立ち返りながら、自分の今しようとしていることを考えかけようとした。彼女はそのとき急に、いつも自分のまわりに
窓の外には、いよいよ吹きつのっている雪のあいだから、ごく近くの木立ちだとか、農家だとかが
「わたしはどうして、雪をついてあの木を見に行こうとしなかったのかしら? もしあっちへ向かっていたら、わたしは今、こんな汽車になんぞ乗っていなかったろうに。
そんなことを考え考え、一方ではまだ汽車がすこしでも早く国境の外へ出てしまえばいいと思いながら、ようやくそれが
二十三
雪は東京にも
菜穂子は、銀座の裏のジャーマン・ベーカリーのひとすみで、もう一時間ばかり圭介の来るのを待ち続けていた。しかし、すこしも待ちあぐねているような様子でなく、なにか物が
店の中は、夕方だったけれど、大雪のせいか、彼女のほかには三、四組の客がまばらにいるきりだった。入口に近いストーブに片足をかけた、一人の画家かなんぞらしい青年が、ときどき彼女のほうを何か気になるように振り返っていた。
菜穂子はそれに気がつくと、ふいと自分の姿を
突然、自分の前に誰かが立ちはだかったような気がして、菜穂子はおどろいて顔をあげた。
外で
菜穂子はかすかなほほ笑みを浮かべながら、
圭介は
「いきなり新宿駅から電話をかけてよこすなんて、驚くじゃないか。いったい、どうしたんだ?」とうとう彼は口をきいた。
菜穂子はしかし、前と同じようなかすかなほほ笑みを浮かべたきり、すぐにはなんとも返事をしなかった。彼女の心のうちには、一瞬、けさ
彼女はそれが返事のかわりであるように、ただ大きい眼をして夫のほうをジイッと見守った。なにも言わなくとも、その眼の中をのぞいてなにもかもわかってもらいたそうだった。
圭介にとっては、そういう妻の
「母さんは病気なんだ。
「そうね。わたしが悪かったわ。
「わたし、これからすぐ帰るわ。
「すぐ帰るったって、こんな雪で帰れるものか。どこかへ一晩泊まることにして、あした帰るようにしたらどうだ?―
圭介は一人でやきもきしながら、何かしきりに考えていた。彼は急に顔を上げて、声を低くして言い出した。
「ホテルなんぞへ一人で泊まるのは嫌か? 麻布に小さな気持ちのいいホテルがあるが……」
菜穂子は熱心に夫の顔へ自分の顔を近づけていたが、それを聞き終わると急に顔を
「わたしはどうでもいいわ……」と、いかにも気がなさそうな返事をした。
彼女は今まで自分がなにか非常な決心をしているつもりになっていたが、いま、夫とこうして差し向かいになって話し出していると、なんだって山の療養所からこんなに雪まみれになって抜け出してきたのかわからなくなりだしていた。そんなにまでして夫のところに向こう見ずに帰ってきた彼女を見て、いちばん最初に夫がどんな顔をするか、それに自分の一生を
菜穂子はそう思いながら、しかしもうどうでもいいように、夫のほうへ、何か見すえているようなくせに何も見てはいないらしい、例の空虚な眼ざしを向け出した。
圭介はこんどはなにか抜きさしならない気持ちで、それをじっと自分の小さな眼で受けとめていた。それから彼は突然、顔を
彼女にはなぜ彼が顔を
が、菜穂子はそのとき夫にうながされたので、その考えを中断させながら、テーブルから立ち上がった。そしてときどき、何かいい
雪はあいかわらず
人々はみな、思い思いの雪
彼らは数寄屋橋の上でその人込みから抜けると、やっとタクシーを見つけ、麻布の奥にあるそのホテルへ向かった。
虎の門からグイと折れて、ある急な坂をのぼりだすと、その中腹に一台の自動車が道ばたの溝へはまりこんで、雪をかぶったまま、立ち
どこかの領事館らしい
やがて車が道を曲がり、急に
「そこだ。
彼女はその裏通りに面して、すぐそれらしい、雪をかぶった数本の
二十四
「菜穂子、いったいおまえは、どうしてまたこんな日に急に帰ってきたのだ?」
圭介はそう菜穂子に
「何か療養所でおもしろくないことでもあったのかい?」
彼は、菜穂子がなにか返事をためらっているのを認めた。彼は彼女がふたたび自分の行為を説明できなくなって困っているのだなぞとは思いもしなかった。彼はそこに、何かもっと自分を不安にさせる原因があるのではないかと怖れた。しかし同時に、彼は、たといそれがどんな不安に自分を突き落とす結果になろうとも、今こそどうしても、それを
「おまえのことだから、よくよく考え抜いてしたことだろうが……」圭介はふたたび追究した。
菜穂子はしばらく答えに窮して、ホテルの北向きらしい窓から、小さな家の立て込んだ、一帯の浅い谷を見下ろしていた。雪はその谷間の町を
菜穂子はそのとき、自分がもし相手の立場にあったらなによりもまず自分の心を
「それにしても、あんまりだしぬけじゃないか。そんなことをしちゃ、人になんと思われてもしようがない。
圭介がもうその追究をあきらめたようにいうと、彼女には、急に夫が自分の心から離れてしまいそうに感ぜられた。
「人になんか何と思われたって、そんなことはどうでもいいじゃないの。
菜穂子はなかば涙ぐみながら、そのときまで全然考えもしなかった説明を最初はただ夫を困らせるためのように言い出しているうちに、不意といままで彼女自身にもよくわからずにいた自分の行為の動機も、案外そんなところにあったのではないかというような気もされた。
そう言い終えたとき、菜穂子はそのせいか急に気持ちまでがなんとなく明るくなったように感ぜられ出した。
それから、しばらくの間、二人はどちらからも何とも言い出さずに、無言のまま窓の外の雪
「オレは、こんどのことは母さんにだまっているよ。
そういいながら、彼はふと、このごろめっきり
菜穂子はもう何も考えずに、雪のふる窓外へ目をやって、暮れがたの谷間の向こうにさっきから見えたり消えたりしている、なんだかそれとすっかり同じものを子どものころに見たような気のする、教会の
圭介は時計を出して見た。菜穂子は彼のほうをチラッと見て、
「どうぞ、もうお帰りになってちょうだい。あしたも、もういらっしゃらなくともいいわ。一人で帰れるから」といった。
圭介は時計を手にしたまま、ふと彼女が明朝こんな雪の中を帰って行って、もっと雪の深い山の中でまた一人でもって暮らし出す様子を思い描いた。彼はこのごろ、忘れるともなく忘れていた強烈な消毒薬や病気や死の不安のにおいを心によみがえらせた。なにか魂をゆすぶるもののように。
菜穂子はその間、うつけたようになりきった夫の顔を見守っていた。彼女はなんとはなしに無心なほほえみらしいものを浮かべた。ひょっとしたら夫がいまにもその瞬間の彼女の心の内がわかって、
が、夫はなにかある考えをはらいのけでもするように頭を振りながら、何もいわずに、それまで手にしていた時計をしずかに
菜穂子は、圭介が雪をかきわけながら帰えるのを薄暗い玄関に見送ったあと、そのままガラス戸に顔を押しあてるようにして、なにか化け物じみて見える数本の
そのときやっと、彼女が背を向けていた広間の電灯が
彼女はそんな考えにふけりながら、もうボオッと白いもののほかはなにも見えなくなりだした戸外の
給仕が食事の用意のできたことを知らせにきた。彼女は黙ってうなずき、急に空腹を感じ出しながら、そのまま自分の部屋へは帰らずに、さっきからしずかに皿の音のしだしている奥の食堂のほうへ向かって歩き出した。
底本:
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:
1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(
1934(昭和9)年11月
楡の家 第二部「文学界」
1941(昭和16)年9月号
菜穂子「中央公論」
1941(昭和16)年3月号
初収単行本:
1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
菜穂子(五)
堀辰雄-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)その儘《まま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午餐《ごさん》後
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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[#2字下げ]菜穂子[#「菜穂子」は大見出し]
[#3字下げ]十九[#「十九」は中見出し]
それまで菜穂子は、圭介の母からいつも分厚い手紙を貰っても、枕もとに打《う》ち棄《す》てて置いた儘すぐそれを開こうとはせず、又、それを一度も嫌悪の情なしには開いた事はなかった。そして彼女はその次ぎには、それ以上の嫌悪に打ち勝って、心にもない言葉を一つ一つ工夫しながら、それに対する返事を認《したた》めなければならなかった。
菜穂子はしかし冬に近づく時分から、その姑の手紙の中に何かいままでの空しさとは違ったものを徐々に感じ出してはいた。彼女はその手紙の文句に一々これまでのように眉をひそめたりしないでもそれを読み過せるようになった。彼女は相変らず姑の手紙が来る毎に面倒そうにそれをすぐ開きもせず、長いこと枕もとに置いたきりにはしていたが、一度それを手にとるといつまでもそれを手放さないでいた。何故それが今までのような不愉快なものでなくなって来たか、彼女は別にそれを気にとめて考えて見ようともしなかったが、一手紙毎に、姑のたどたどしい筆つきを通して、ますます其処に描かれている圭介の此の頃のいかにも打ち沈んだような様子が彼女にも生き生きと感ぜられるようになって来た事を、菜穂子は自分に否もうとはしなかった。
明が訪れてから数日後の、或雪曇った夕方、菜穂子はいつも同じ灰色の封筒にはいった姑の手紙を受け取ると、矢っ張いつものように面倒そうに手にとらずにいたが、暫くしてからひょっとしたら何か変った事でも起きたのではないかしらと思い出し、そう思うとこんどは急いで封を切った。が、それには此の前の手紙と殆ど変らない事しか書いてはなくて、彼女の一瞬前に空想したように圭介も突然危篤にはなっていなかったので、彼女は何んだか失望したように見えた。それでもその手紙の走り書きのところが読みにくかったし、そんなところは急いで飛ばし飛ばし読んでいたので、もう一遍最初から丁寧に読み返して見た。それから彼女は暫く考え深そうに目をつぶっていたが、気がついて夕方の検温をし、相変らず七度二分なのを確かめると、寝台に横になった儘《まま》、紙と鉛筆をとって、いかにも書く事がなくて困ったような手つきで姑への返事を書き出した。――「きのうきょうのこちらのお寒いことと云ったらとても話になりません。しかし、療養所のお医者様たちはこちらで冬を辛抱すればすっかり元通りの身体にしてやるからと云って、お母様のおっしゃるようになかなか家へは帰してくれそうにもないのです。ほんとうにお母様のみならず、圭介様にもさぞ……」彼女はこう書き出して、それから暫く鉛筆の端で自分の窶《やつ》れた頬を撫でながら、彼女の夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。いつもそんな眼つきで彼女が見つめるとすぐ彼がそれから顔を外《そ》らせてしまう、あの見据えるような眼ざしを、つい今も知《し》らず識《し》らずにそれ等の夫の姿へ注ぎながら……
「そんな眼つきでおれを見ないでくれないか。」そう彼がとうとう堪《たま》らなくなったように彼女に向って云った、あの豪雨にとじこめられた日の不安そうだった彼の様子が、急に彼の他のさまざまな姿に立ち代って、彼女の心の全部を占め出した。彼女はそのうちにひとりでに目をつぶり、その嵐の中でのように、少し無気味な思い出し笑いのようなものを何んとはなしに浮べていた。
来る日も来る日も、雪曇りの曇った日が続いていた。ときどき何処かの山からちらちらとそれらしい白いものが風に吹き飛ばされて来たりすると、いよいよ雪だなと患者達の云い合っているのが聞えたが、それはそれきりになって、依然として空は曇ったままでいた。吸いつくような寒さだった。こんな陰気な冬空の下を、いま頃明はあの旅びとらしくもない憔悴《しょうすい》した姿で、見知らない村から村へと、恐らく彼の求めて来たものは未だ得られもせずに(それが何か彼女にはわからなかったが)、どんな絶望の思いをして歩いているだろうと、菜穂子はそんな憑《つ》かれたような姿を考えれば考えるほど自分も何か人生に対する或決意をうながされながら、その幼馴染の上を心から思いやっているような事もあった。
「わたしには明さんのように自分でどうしてもしたいと思う事なんぞないんだわ。」そんなとき菜穂子はしみじみと考えるのだった。「それはわたしがもう結婚した女だからなのだろうか? そしてもうわたしにも、他の結婚した女のように自分でないものの中に生きるより外はないのだろうか? ……」
[#3字下げ]二十[#「二十」は中見出し]
或夕方、信州の奥から半病人の都築明を乗せた上り列車はだんだん上州との国境に近いO村に近づいて来た。
一週間ばかりの陰鬱《いんうつ》な冬の旅に明はすっかり疲れ切っていた。ひどい咳をしつづけ、熱もかなりありそうだった。明は目をつぶった儘、窓枠にぐったりと体を靠《もた》らせながら、ときどき顔を上げ、窓の外に彼にとっては懐しい唐松や楢《なら》などの枯木林の多くなり出したのをぼんやりと感じていた。
明はせっかく一箇月の休暇を貰って今後の身の振り方を考えるために出て来た冬の旅をこの儘|空《むな》しく終える気にはどうしてもなれなかった。それではあまり予期に反し過ぎた。彼はさしずめO村まで引き返し、其処で暫く休んで、それからまた元気を恢復《かいふく》し次第、自分の一生を決定的なものにしようとしている此の旅を続けたいという心組になった。早苗は結婚後、夫が松本に転任して、もうその村にはいない筈だった。それが明には、寂しくとも、何か心安らかにその村へ自分の病める身を托《たく》して行ける気持ちにさせた。それに、今自分を一番親身に看病してくれそうなのは、牡丹屋の人達の外にはあるまい……
深い林から林へと汽車は通り抜けて行った。すっかり葉の落ち尽した無数の唐松の間から、灰色に曇った空のなかに象嵌《ぞうがん》したような雪の浅間山が見えて来た。少しずつ噴き出している煙は風のためにちぎれちぎれになっていた。
先ほどから汽缶車が急に喘《あえ》ぎ出しているので、明は漸《や》っとO駅に近づいた事に気がついた。O村はこの山麓《さんろく》に家も畑も林もすべてが傾きながら立っているのだ。そしていま明の身体を急に熱でも出て来たようにがたがた震わせ出している此の汽缶車の喘ぎは、此の春から夏にかけて日の暮近くに林の中などで彼がそれを耳にしては、ああ夕方の上りが村の停車場に近づいて来たなと何とも云えず人懐しく思った、あの印象深い汽缶の音と同じものなのだ。
谷陰の、小さな停車場に汽車が著《つ》くと、明は咳き込みそうなのを漸っと耐えているような恰好《かっこう》で、外套《がいとう》の襟を立てながら降りた。彼の外には五六人の土地の者が下りただけだった。彼は下りた途端に身体がふらふらとした。彼はそれを昇降口の戸をあけるために暫く左手で提げていた小さな鞄《かばん》のせいにするように、わざと邪慳《じゃけん》そうにそれを右手に持ち変えた。改札口を出ると、彼の頭の上でぽつんとうす暗い電灯が点《とも》った。彼は待合室の汚れた硝子戸《ガラスど》に自分の生気のない顔がちらっと映っただけで、すぐ何処かへ吸い込まれるように消えたのを認めた。
日の短い折なので、五時だというのにもう何処も暗くなり出していた。バスも何んにもない山の停車場なので、明は自分で小さな鞄を提げながら、村の途中の森までずっと上りになる坂道を難儀しいしい歩き出した。そして何度も足を休めては、ずんずん冷え込んで来る夕方の空気の中で、彼は自分の全身が急に悪寒がして来たり、すぐそのあとで又急に火のように熱くなって来たりするのを、ただもう空《うつ》ろな気持ちで感じていた。
森が近づき出した。その森を控えて、一軒の廃屋に近い農家が相変らず立ち、その前に一匹の穢《きたな》い犬がうずくまっていた。ここの家には、昔、菜穂子さんと遠乗りから帰って来ると、いつも自転車の輪に飛びついて菜穂子さんに悲鳴を立てさせた黒い犬がいたっけなあ、と明はなんということもなしに思い出した。犬は毛並が茶色で違っていた。
森の中はまだ割合にあかるかった。殆どすべての木々が葉を落ち尽していたからだった。それは彼には何んと云っても思い出の多い森だった。少年の頃、暑い野原を横切った後、此の森の中まで自転車で帰って来ると、快い冷気がさっと彼の火のような頬を掠《かす》めたものだった。明は今も不意と反射的に空いた手を自分の頬にあてがった。この底知れない夕冷えと、自分のひどい息切れと、この頬のほてりと、――こう云う異様な気分に包まれながら、背中を曲げて元気なく歩いている現在の自分が、そんな自転車なんぞに乗って頬をほてらせ息を切らしている少年の自分と、妙な具合に交錯しはじめた。
森の中程で、道が二叉《ふたまた》になる。一方は真直に村へ、もう一方は、昔、明や菜穂子たちが夏を過しに来た別荘地へと分かれるのだった。後者の草深い道は、此処からずっとその別荘の裏側まで緩く屈折しながら心もち下りになっていた。その道へ折れると、麦桿帽子《むぎわらぼうし》の下から、白い歯を光らせながら、自転車に乗った菜穂子がよく「見てて。ほら、両手を放している……」と背後から自転車で附いて来る明に向って叫んだ。……
そんな思いがけない少年の日の思い出が急によみ返って来て、道端に手にしていた小さな鞄《かばん》を投げ出して、ただもう苦しそうに肩で息をしていた明の疲弊し切った心をちょっとの間生き生きとさせた。「おれは又どうしてこんどはこの村へやって来るなり、そんなとうの昔に忘れていたような事ばかりをこんなに鮮明に思い出すのだろうなあ。なんだかまだ次から次へと思い出せそうな事が胸一ぱい込み上げて来るようだ。熱なんぞがあると、こんな変な具合になってしまうのかしら。」
森の中はすっかり暗くなり出した。明は再び背中を曲げて小さな鞄を手にしながら、暫くは何もかもがこぐらかったような切ない気分で半ば夢中に足を運んでいるきりだった。が、そのうちに彼はひょいと森の梢を仰いだ。梢はまだ昏《く》れずにいた。そして大きな樺《かば》の木の、枯れ枝と枯れ枝とがさし交しながら薄明るい空に生じさせている細かい網目が、不意とまた何か忘れていた昔の日の事を思い出させそうにした。なぜか彼にはわからなかったが、それはこの世ならぬ優しい歌の一節《ひとふし》のように彼を一瞬慰めた。彼は暫くうっとりとした眼つきでその枝の網目を見上げていたが、再び背中を曲げて歩き出した時にはもうそれを忘れるともなく忘れていた。しかし彼の方でもうそれを考えなくなってしまってからも、その記憶は相変らず、殆ど肩でいきをしながら、喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ歩いている彼を何かしら慰め通していた。「このまんま死んで行ったら、さぞ好い気持ちだろうな。」彼はふとそんな事を考えた。「しかし、お前はもっと生きなければならんぞ」と彼は半ば自分をいたわるように独《ひと》り言《ご》ちた。「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で? こんなに空《むな》しくって?」何者かの声が彼に問うた。「それがおれの運命だとしたらしようがない」と彼は殆ど無心に答えた。「おれはとうとう自分の求めているものが一体何であるのかすら分らない内に、何もかも失ってしまった見たいだ。そうして恰《あたか》も空っぽになった自分を見る事を怖れるかのように、暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠《こうもり》のように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中になって飛び出して来てしまったおれは、一体何を此の旅であてにしていたのか? 今までの所では、おれは此の旅では只おれの永久に失ったものを確かめただけではないか。此の喪失に堪えるのがおれの使命だと云う事でもはっきり分かってさえ居れば、おれは一生懸命にそれに堪えて見せるのだが。――ああ、それにしても今此のおれの身体を気ちがいのようにさせている熱と悪感との繰り返しだけは、本当にやり切れないなあ。……」
そのとき漸《ようや》く森が切れて、枯れ枯れな桑畑の向うに、火の山裾に半ば傾いた村の全体が見え出した。家々からは夕炊の煙が何事もなさそうに上がっていた。およう達の家からもそれが一すじ立ち昇っているのが見られた。明は何かほっとした気持ちになって、自分の身体中が異様に熱くなったり寒気がしたりし続けているのも暫く忘れながら、その静かな夕景色を眺めた。彼が急に思いがけず自分の穉《おさな》い頃死んだ母のなんとなく老《ふ》けた顔をぼんやりと思い浮べた。さっき森の中で一本の樺の枝の網目が彼にこっそりとその粗描をほのめかしただけで、それきり立ち消えてしまっていた何かの影が、そんな殆ど記憶にも残っていない位のとうの昔に死んだ母の顔らしかった事に明はそのときはじめて気がついた。
[#3字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し]
連日の旅の疲れに痛めつけられた身体を牡丹屋に托《たく》した日から、明は心の弛《ゆる》みが出たのか、どっと床に就ききりになった。村には医者がいなかったので、小諸《こもろ》の町からでも招《よ》ぼうかと云うのを固辞して、明はただ自分に残された力だけで病苦と闘っていた。苦しそうな熱にもよく耐えた。明はしかし自分では大したことはないと思い込んでいるらしかった。およう達もそういう彼の気力を落させまいとして、まめまめしく看病してやっていた。
明はそういう熱の中で、目をつぶってうつらうつらとしながら、旅中のさまざまな自分の姿を懐しそうによみ返らせていた。或村では彼は数匹の犬に追われて逃げ惑うた。或村では炭を焼いている人々を見た。又、或村では日ぐれどき煙にむせびながら宿屋を探して歩いていた。或時の彼は、或農家の前に、泣いている子供を背負った老けた顔の女がぼんやりと立っているのを何度もふり返っては見た。又、或時の彼は薄日のあたった村の白壁の上をたよりなげに過《よぎ》った自分の影を何か残り惜しげに見た。――そんな佗《わび》しい冬の旅を続けている自分のその折その折のいかにも空虚《うつろ》な姿が次から次へとふいと目の前に立ち現われて、しばらくその儘《まま》ためらっていた……。
暮がたになると、数日前そんな旅先きから自分を運んで来た上り列車が此の村の傾斜を喘ぎ喘ぎ上りながら、停車場に近づいて来る音が切ないほどはっきりと聞えて来た。その汽缶の音がそれまで彼の前にためらっていた旅中のさまざまな自分の姿を跡方もなく追い散らした。そしてその跡には、その夕方の汽車から下りて此の村へ辿《たど》り著《つ》こうとしているときの彼の疲れ切った姿、それから漸く森の中程まで来たとき、ふと何処かから優しい歌の一節でも聞えて来たかのように暫くうっとりとして自分の頭上の樺の枝の網目を見上げていた彼の姿だけが残った。それがその森を出た途端に突然穉い頃死に別れた母の顔らしいものを形づくったときの何とも云えない心のときめきまで伴って。……
明は此の数日、彼の世話を一切引き受けている若い主婦《おかみ》さんの手のふさがっている時など、娘の看病の合間に彼にも薬など進めに来てくれるおようの少し老けた顔などを見ながら、この四十過ぎの女にいままでとは全く違った親しさの湧くのを覚えた。おようがこうして傍に坐っていて呉れたりすると、彼の殆ど記憶にない母の優しい面ざしが、どうかした拍子にふいとあの枝の網目の向うにありありと浮いて来そうな気持ちになったりした。
「初枝さんはこの頃どうですか?」明は口数少く訊《き》いた。
「相変らず手ばかり焼けて困ります。」おようは寂しそうに笑いながら答えた。
「なにしろ、もう足掛け八年にもなりますんでね。此の前東京へ連れて参りましたときなんぞでも、本当にこんな身体でよくこれまで保って来たと皆さんに不思議がられましたけれど、失っ張、此の土地の気候が好いのですわ。――明さんもこんどこそはこちらですっかり身体をおこしらえになって行くと好いと、皆で毎日申して居りますのよ。」
「ええ、若《も》し僕にも生きられたら……」明はそう口の中で自分にだけ云って、おようにはただ同意するような人なつこい笑い方をして見せた。
あれほど旅の間じゅう明の切望していた雪が、十二月半過ぎの或夕方から突然降り出し、翌朝までに森から、畑から、農家から、すっかり蔽《おお》い尽《つく》してしまった後も、まだ猛烈に降り続いていた。明はもう今となっては、どうでも好い事のように、只ときどき寝床の上に起き上がった折など、硝子窓《ガラスまど》ごしに家の裏畑や向うの雑木林が何処もかしこも真白になったのを何んだか浮かない顔をして眺めていた。
暮がた近くになって一たん雪が歇《や》むと、空はまだ雪曇りに曇った儘、徐《しず》かに風が吹き出した。木々の梢に積っていた雪がさあっとあたり一面に飛沫《ひまつ》を散らしながら落ち出していた。明はそんな風の音を聞くと矢っ張じっとして居られないように、又寝床に起き上がって、窓の外へ目をやり出した。彼は裏一帯の畑を真白に蔽うた雪がその間絶えず一種の動揺を示すのを熱心に見守っていた。最初、雪煙がさあっと上がって、それが風と共にひとしきり冷い炎のように走りまわった。そして風の去ると共に、それも何処へともなく消え、その跡の毳立《けばだ》ちだけが一めんに残された。そのうちまた次ぎの風が吹いて来ると、新しい雪煙が上がって再び冷い炎のように走り、前の毳立ちをすっかり消しながら、その跡に又今のと殆ど同じような毳立ちを一めんに残していた……。
「おれの一生はあの冷い炎のようなものだ。――おれの過ぎて来た跡には、一すじ何かが残っているだろう。それも他の風が来ると跡方もなく消されてしまうようなものかも知れない。だが、その跡には又きっとおれに似たものがおれのに似た跡を残して行くにちがいない。或運命がそうやって一つのものから他のものへと絶えず受け継がれるのだ。……」
明はそんな考えを一人で逐《お》いながら、外の雪明りに目をとられて部屋の中がもう薄暗くなっているのにも殆ど気づかずにいるように見えた。
[#3字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し]
雪は烈《はげ》しく降り続いていた。
菜穂子は、とうとう矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、オウヴア・シュウズを穿《は》いた儘《まま》、何度も他の患者や看護婦に見つかりそうになっては自分の病室に引き返したりしていたが、漸《や》っと誰にも見られずに露台づたいに療養所の裏口から抜け出した。
雑木林を抜けて、裏街道を停車場の方へ足を向けた菜穂子は、前方から吹きつける雪のために、ときどき身を捩《よ》じ曲《ま》げて立ち止まらなければならなかった。最初は、只そうやって頭から雪を浴びながら歩いて来て見たくて、裏道を抜ければ五丁ほどしかない停車場の前あたりまで行ってすぐ戻って来るつもりだった。そのつもりで、けさ圭介の母から風邪気味で一週間ほども寝ていると云って寄こしたので、それへ書いた返事を駅の郵便函《ゆうびんばこ》にでも投げて来ようと思って、外套《がいとう》の衣嚢《かくし》に入れて来た。
一丁ほど裏街道を行ったところで、傘を傾けながらこちらへやって来る一人の雪袴《たっつけ》の女とすれちがった。
「まあ黒川さんじゃありませんか。」急にその若い女が言葉を掛けた。「何処へいらっしゃるの?」
菜穂子は驚いてふり返った。襟巻ですっかり顔を包み、いかにも土地っ子らしい雪袴姿をした相手は、彼女の病棟附きの看護婦だった。
「ちょっと其処まで……」彼女は間《ま》が悪そうに笑顔を上げたが、吹きつける雪のために思わず顔を伏せた。
「早くお帰りになってね。」相手は念を押すように云った。
菜穂子は顔を伏せたまま、黙って頷いて見せた。
それから又一丁ほど雪を頭から浴びながら歩いて、漸っと踏切のところまで来た時、菜穂子は余っ程この儘療養所へ引き返そうかと思った。彼女は暫く立ち止まって目の粗い毛糸の手袋をした手で髪の毛から雪を払い落していたが、ふとさっきこんな向う見ずの自分を掴《つか》まえても何んともうるさく云わなかったあの気さくな看護婦が露西亜《ロシア》の女のように襟巻でくるくると顔を包んでいたのを思い出すと、自分もそれを真似て襟巻を頭からすっぽりと被《かぶ》った。それから彼女は、出逢ったのが本当にあの看護婦でよかったと思いながら、再び雪を全身に浴びて停車場の方へ歩き出した。
北向きの吹きさらしな停車場は一方から猛烈に雪をふきつけられるので片側だけ真白になっていた。その建物の陰に駐《と》まっている一台の古自動車も、やはり片側だけ雪に埋っていた。
その停車場で一休みして行こうと思った菜穂子は、自分もいつの間にか片側だけ雪で真白になっているのを認め、建物の外でその雪を丁寧に払い落した。それから彼女が顔をくるんでいた襟巻を外しながら、何気なしに中へはいって行くと、小さなストーヴを囲んでいた乗客達が揃って彼女の方をふり向き、それからまるで彼女を避けるかのように、皆して其処を離れ出した。彼女は思わず眉をひそめながら、顔をそむけた。丁度そのとき下りの列車が構内にはいって来かかっていると云う事が咄嗟《とっさ》に彼女には分からなかったのだ。
その列車はどの車もやはり同じように片側だけ雪を吹きつけられていた。十五六人ばかりの人が下車し、戸口の近くに外套をきて立っている菜穂子の方をじろじろ見ながら、雪の中へ一人一人何やら互いに云い交して出て行った。
「東京の方もひどい降りだってな。」誰かがそんな事を云っていた。
菜穂子にはそれだけがはっきりと聞えた。彼女は東京もこんな雪なのだろうかと思いながら、駅の外で雪に埋って身動きがとれなくなってしまっているような例の古自動車をぼんやり眺めていた。それから暫くたって、彼女は息切れも大ぶ鎮まって来たので、そろそろもう帰らなくてはと思って、駅の内を見廻わすと又いつの間にかストーヴのまわりには人だかりがしていた。その大部分土地の者らしい人達は口数少く話し合いながら、ときどき何か気になるように戸口近くに立っている彼女の方へ目をやっていた。
二つか三つ先きの駅で今の下りと入れちがいになって来る上り列車がやがて此の駅にはいって来るらしかった。
彼女はふとその上り列車も片側だけ雪で真白になっているだろうかしらと想像した。それから突然、何処かの村で明もそうやって片側だけ雪をあびながら有頂天になって歩いている姿が彷彿《ほうふつ》して来た。さっきから彼女が外套の衣嚢《かくし》に突込んで温めていた自分の凍えそうな手が、手袋ごしに、まだ出さずにいた姑宛の手紙と革の紙入れとを代る代るに押さえ出しているのを彼女自身も感じていた。
それまでストーヴを囲んでいた十数人の人達が再び其処を離れ出した。菜穂子はそれに気がつくと、急に出札口に近寄って、紙入れを出しながら窓口の方へ身をかがめた。
「何処まで?」中から突慳貪《つっけんどん》な声がした。
「新宿。……」菜穂子はせき込むように答えた。
彼女の想像したとおりの、片側だけ真白に雪のふきつけた列車が彼女の前に横づけになったとき、菜穂子は眼に見ることの出来ない大きな力にでも押し上げられるようにして、その階段へ足をかけた。
彼女のはいって行った三等車の乗客達は、雪まみれの外套に身を包んだ彼女の只ならぬ様子を見ると、揃って彼女の方をじろじろ無遠慮に見出した。彼女は眉をひそめながら「私はきっと険《けわ》しい顔つきでもしているのだろう」と考えた。が、一番端近かの、居睡りしつづけている鉄道局の制服をきた老人の傍に坐り、近い山や森さえなんにも分からないほど雪の深い高原の真ん中へ汽車がはいり出した時分には、皆はもう彼女の存在など忘れたように見向きもしなかった。
菜穂子は漸《ようや》く自分自身に立ち返りながら、自分の今しようとしている事を考えかけようとした。彼女はそのとき急に、いつも自分のまわりに嗅《か》ぎつけていた昇汞水《しょうこうすい》やクレゾオルの匂の代りに、車内に漂っている人いきれや煙草のにおいを胸苦しい位に感じ出した。彼女にはそれが自分にこれから返されようとしかけている生の懐しい匂の前触れでもあるかのような気がされた。彼女はそう思うと、その胸苦しさも忘れ、何か不思議な身慄《みぶる》いを感じた。
窓の外には、いよいよ吹き募っている雪のあいだから、ごく近くの木立だとか、農家だとかが仄見《ほのみ》えるきりだった。しかし、まだ彼女には汽車がいま大体どの辺を走っているのか見当がついた。其処から数丁離れた人気ない淋しい牧場には、あの自分によく似ているような気のした事のある例の立枯れた木が、矢っ張それも片側だけ真白になった儘《まま》、雪の中にぽつんと一本きり立っている悲劇的な姿を、彼女はふと胸に浮べた。彼女は急に胸さわぎを感じ出した。
「私はどうして雪を衝《つ》いてあの木を見に行こうとしなかったのかしら? 若《も》しあっちへ向かっていたら、私はいまこんな汽車になんぞ乗っていなかったろうに。……」車内に漂った物のにおいはまだ菜穂子の胸をしめつけていた。「療養所ではいま頃どんなに騒いでいるだろう。東京でも、どんなにみんなが驚くだろう。そうして私はどうされるかしら? 今のうちならまだ引き返そうと思えば引き返せるのだ。なんだか私は少しこわくなって来た。……」
そんな事を考え考え、一方ではまだ汽車が少しでも早く国境の外へ出てしまえばいいと思いながら、漸《ようや》くそれが過《よ》ぎり終えたらしい雪の高原の果ての、もう自分には殆ど見覚えのない最後の林らしいものが見る見る遠ざかって行くのを、菜穂子は半ば怖ろしいような、半ばもどかしいような気持ちで眺めていた。
[#3字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し]
雪は東京にも烈《はげ》しく降っていた。
菜穂子は、銀座の裏のジャアマン・ベエカリの一隅で、もう一時間ばかり圭介の来るのを待ち続けていた。しかし少しも待ちあぐねているような様子でなく、何か物が匂ったりすると、急に目を細くしてそれを恰《あたか》も自分に漸く返されようとしている生の匂ででもあるかのように胸深く吸い込んだりしながら、半ば曇った硝子戸《ガラスど》ごしに、雪の中の人々の忙しそうな往来《ゆきき》を、圭介でも傍にいたらすぐそんな目つきは止せと云われそうな、何か見据えるような眼つきで見続けていた。
店の中は、夕方だったけれど、大雪のせいか、彼女の外には三四組の客が疎《まば》らに居るきりだった。入口に近いストーヴに片足をかけた、一人の画家かなんぞらしい青年が、ときどき彼女の方を何か気になるように振り返っていた。
菜穂子はそれに気がつくと、ふいと自分の姿を吟味した。長いこと洗わないばさばさした髪、出張った頬骨、心もち大きい鼻、血の気のない脣《くちびる》――それらのものは今もまだ、彼女が若い時分によく年上の人達からもうすこし険がなければと惜しまれていた一種の美貌をすこしも崩さずに、それに只もう少し沈鬱《ちんうつ》な味を加えていた。山の中の小さな駅では人々の目を惹《ひ》いた彼女の都会風な身なりは、今、此の町なかでは他の人々と殆ど変らないものだった。只、山の療養所からそっくりその儘持ち帰って来たような顔色の蒼さだけは、妙に他の人々と違っているように思え、それだけはどうにもならないように彼女はときどき自分の顔へ手をやっては何かごまかしでもするように撫でていた。……
突然自分の前に誰かが立ちはだかったような気がして、菜穂子は驚いて顔を上げた。
外で払って来たらしい雪がまだ一面に残っている外套《がいとう》を着た儘、圭介が彼女を見下ろしながら、其処に立っていた。
菜穂子はかすかなほほ笑みを浮べながら、会釈するともなく、圭介のために身じろいだ。
圭介は不機嫌そうに彼女の前に腰をかけたきり、暫くは何も云い出さずにいた。
「いきなり新宿駅から電話をかけて寄こすなんて驚くじゃないか。一体、どうしたんだ?」とうとう彼は口をきいた。
菜穂子はしかし、前と同じようなかすかなほほ笑みを浮べたきり、すぐには何んとも返事をしなかった。彼女の心の内には、一瞬、けさ吹雪の中を療養所から抜け出して来た小さな冒険、雪にうずもれた山の停車場での突然の決心、三等車の中に立ちこめていた生のにおいの彼女に与えた不思議な身慄《みぶる》い、――それらのものが一どきによみ返った。彼女はその間の何かに憑《つ》かれたような自分の行動を、第三者にもよく分かるように一々筋を立てて説明する事は、到底出来ないように感じた。
彼女はそれが返事の代りであるように、只大きい眼をして夫の方をじいっと見守った。何も云わなくとも、その眼の中を覗いて何もかも分かって貰いたそうだった。
圭介にとっては、そういう妻の癖のある眼つきこそあれほど孤独の日々に空しく求めていたものだったのだ。が、今、それをこうしてまともに受け取ると、彼は持前の弱気から思わずそれから眼を外《そ》らせずにはいられなかった。
「母さんは病気なんだ。」圭介は彼女から眼を外らせた儘、はき出すように云った。「面倒な事は御免だよ。」
「そうね。私が悪かったわ。」菜穂子は自分が何か思い違いをしていた事に気がつきでもしたように、深い溜息《ためいき》をついた。そして思いのほか素直に云った。
「私、これからすぐ帰るわ。……」
「すぐ帰るったって、こんな雪で帰れるものか。何処かへ一晩泊ることにして、あした帰るようにしたらどうだ?――しかし、大森の家じゃ困るな。母さんの手前。……」
圭介は一人でやきもきしながら、何かしきりに考えていた。彼は急に顔を上げて、声を低くして云い出した。
「ホテルなんぞへ一人で泊るのは嫌か。麻布に小さな気持ちの好いホテルがあるが……」
菜穂子は熱心に夫の顔へ自分の顔を近づけていたが、それを聞き終わると急に顔を遠退《とおざ》けて、
「私はどうでもいいわ……」といかにも気がなさそうな返事をした。
彼女は今まで自分が何か非常な決心をしているつもりになっていたが、いま夫とこうして差向いになって話し出していると、何だって山の療養所からこんなに雪まみれになって抜け出して来たのか分からなくなり出していた。そんなにまでして夫の所に向う見ずに帰って来た彼女を見て、一番最初に夫がどんな顔をするか、それに自分の一生を賭《か》けるようなつもりでさえいたのに、気がついた時にはもういつの間にか二人は以前の習慣どおりの夫婦になっていて、何もかもが有耶無耶《うやむや》になりそうになっている。ほんとうに人間の習慣には何か瞞著《まんちゃく》させるものがある。……
菜穂子はそう思いながら、しかしもうどうでも好いように、夫の方へ、何か見据えているような癖に何も見てはいないらしい、例の空虚な眼ざしを向け出した。
圭介はこんどは何か抜きさしならない気持ちで、それをじっと自分の小さな眼で受けとめていた。それから彼は突然顔を赧《あか》らめた。彼は今しがた自分の口にした麻布の小さなホテルと云うのが、実は此の間同僚と一しょに偶然その前を通りかかった時、相手が此処を覚えておけよ、いつも人けがなくてランデ・ヴウには持って来いだぞと冗談半分に教えてくれたばかりの事を、そのとき何という事もなしに思い出したからだった。
彼女にはなぜ彼が顔を赧らめたのだか分からなかった。が、彼女はこれを認めると、ふと自分が向う見ずに夫に逢いに来た突飛な行為の動機がもうちょっとで分かりかけて来そうな気がしだした。
が、菜穂子はその時夫に促されたので、その考えを中断させながら、卓から立ち上がった。そしてときどき何か好い匂を立たせている店の中をもう一度名残惜しそうに見廻して、それから夫に附いて店を出た。
雪は相変らず小止《おや》みなく降っていた。
人々は皆思い思いの雪支度をして、雪を浴びながら忙しそうに往来していた。山でしたように、襟巻ですっかり顔を包んだ菜穂子は、蝙蝠傘《こうもりがさ》をさしかけて呉れる圭介には構わずに、ずんずん先に立って人込みの中へ紛《まぎ》れ込んで行った。
彼等は数寄屋橋の上でその人込みから抜けると、漸《や》っとタクシイを見付け、麻布の奥にあるそのホテルへ向った。
虎の門からぐいと折れて、或急な坂をのぼり出すと、その中腹に一台の自動車が道端の溝へはまり込んで、雪をかぶった儘《まま》、立往生していた。菜穂子は曇った硝子《ガラス》の向うにそれを認めると、山の停車場のそとで片側だけにはげしく雪を吹きつけられていた古自動車を思い出した。それから急に、自分がその停車場で突然上京の決意をするまでの心の状態を今までよりかずっと鮮明によみ返らせた。彼女はあのとき心の底では、思い切って自分自身を何物かにすっかり投げ出す決心をしたのだ。それが何物であるかは一切分からなかったけれど、そうやってそれに自分を何もかも投げ出して見た上でなければ、それは永久に分からずにしまうような気がしたのだった。――彼女は今ふいと、それが自分と肩を並べている圭介であり、しかも同時にその圭介その儘でないもっと別な人のような気がして来た。……
何処かの領事館らしい邸《やしき》の前で、外人の子供も雑《ま》じって、数人の少年少女が二組に分かれて雪を投げ合っていた。二人の乗った自動車がその側を徐行しながら通り過ぎようとした時、誰かの投げた雪球が丁度圭介の顔先の硝子に烈《はげ》しくぶつかって飛沫《ひまつ》を散らした。圭介は思わず自分の顔へ片手をかざしながら、こわい顔つきをして子供達の方を見た。が、夢中になってそんな事には何んにも気がつかずに雪投げを続けている予供達を見ると、急に一人で微笑をし出しながら、そちらをいつまでも面白そうにふり返っていた。「此の人はこんなに子供が好きなのかしら?」菜穂子はその傍で、今の圭介の態度にちょっと好意のようなものを感じながら、初めて自分の夫のそんな性質の一面に心を留めなどした。……
やがて車が道を曲がり、急に人けの絶えた木立の多い裏通りに出た。
「其処だ。」圭介は性急そうに腰を浮かしながら、運転手に声をかけた。
彼女はその裏通りに面して、すぐそれらしい、雪をかぶった数本の棕梠《しゅろ》が道からそれを隔てているきりの、小さな洋館を認めた。
[#3字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し]
「菜穂子、一体お前はどうして又こんな日に急に帰って来たのだ?」
圭介はそう菜穂子に訊《き》いてから、同じ事を二度も問うた事に気がついた。それから最初のときは、それに対して菜穂子が只かすかなほほ笑《え》みを浮べながら、黙って自分を見守っただけだった事を思い出した。圭介はその同じ無言の答を怖れるかのように、急いで云い足した。
「何か療養所で面白くない事でもあったのかい?」
彼は菜穂子が何か返事をためらっているのを認めた。彼は彼女が再び自分の行為を説明できなくなって困っているのだなぞとは思いもしなかった。彼は其処に何かもっと自分を不安にさせる原因があるのではないかと怖れた。しかし同時に、彼は、たといそれがどんな不安に自分を突き落す結果になろうとも、今こそどうしても、それを訊かずにはいられないような、突きつめた気持ちになっている自分をも他方に見出さずにはいなかった。
「お前の事だから、よくよく考え抜いてした事だろうが……」圭介は再び追究した。
菜穂子はしばらく答に窮して、ホテルの北向きらしい窓から、小さな家の立て込んだ、一帯の浅い谷を見下ろしていた。雪はその谷間の町を真白に埋め尽していた。そしてその真白な谷の向うに、何処かの教会の尖《とが》った屋根らしいものが雪の間から幻かなんぞのように見え隠れしていた。
菜穂子はそのとき、自分が若《も》し相手の立場にあったら何よりも先ず自分の心を占めたにちがいない疑問を、圭介はともかくもその事の解決を先につけておいてから今漸っとそれを本気になって考えはじめているらしい事を感じた。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思いながら、それでもとうとう自分の心に近づいて来かかっている夫をもっと自分へ引きつけようとした。彼女は目をつぶって、夫にもよく分からすことの出来そうな自分の行為の説明を再び考えて見ていたが、その沈黙が性急な相手には彼女の相変らず無言の答としか思えないらしかった。
「それにしてもあんまり出し抜けじゃないか。そんな事をしちゃ、人に何んと思われてもしようがない。」
圭介がもうその追究を詮《あきら》めたように云うと、彼女には急に夫が自分の心から離れてしまいそうに感ぜられた。
「人になんか何んと思われたって、そんな事はどうでもいいじゃないの。」彼女は咄嗟《とっさ》に夫の言葉尻を捉えた。と同時に、彼女は夫に対する日頃の憤懣《ふんまん》が思いがけずよみ返って来るのを覚えた。それはそのときの彼女には全く思いがけなかっただけ、自分でもそれを抑える暇がなかった。彼女は半ば怒気を帯びて、口から出まかせに云い出した。「雪があんまり面白いように降っているので、私はじっとしていられなくなったのよ。聞きわけのない子供のようになってしまって、自分のしたい事がどうしてもしたくなったの。それだけだわ。……」菜穂子はそう云い続けながら、ふと此の頃何かと気になってならない孤独そうな都築明の姿を思い浮べた。そして何んという事もなしに少し涙ぐんだ。「だから、私はあした帰るわ。療養所の人達にもそう云ってお詫《わ》びをして置くわ。それなら好いでしょう。」
菜穂子は半ば涙ぐみながら、そのときまで全然考えもしなかった説明を最初は只夫を困らせるためのように云い出しているうちに、不意といままで彼女自身にもよく分らずにいた自分の行為の動機も案外そんなところにあったのではないかと云うような気もされた。
そう云い終えたとき、菜穂子はそのせいか急に気持ちまでが何んとなく明るくなったように感ぜられ出した。
それから、しばらくの間、二人はどちらからも何んとも云い出さずに、無言の儘窓の外の雪景色を見下ろしていた。
「おれはこんどの事は母さんに黙っているよ。」やがて圭介が云った。「お前もそのつもりでいてくれ。」
そう云いながら、彼はふと此の頃めっきり老《ふ》けた母の顔を眼に浮べ、まあこれでこんどの事はあたりさわりのないように一先ず落《お》ち著《つ》きそうな事に思わずほっとしていたものの、一方此の儘では何か自分で自分が物足らないような気がした。一瞬、菜穂子が急に気の毒に思えた。「若しお前がそれほどおれの傍に帰って来たいなら、又話が別だ。」彼は余っ程妻に向かってそう云ってやろうかと躊躇《ちゅうちょ》していた。が、彼はふとこんな具合に此の儘そんな問題に立ち返って話し込んでしまっていたりすると、もう病人とは思えない位に見える菜穂子を再び山の療養所へ帰らせる事が不自然になりそうな事に気がついた。明日菜穂子が無条件で山へ帰ると云う二人の約束が、そんな質問を発して相手の心に探りを入れようとしかけているほど自分の気持ちに余裕を与えているだけだと云う事を認めると、圭介はもうそれ以上その問題に立ち入る事を控えるように決心した。彼はしかし心の底では、どんなにか今のこういう心の生き生きした瞬間、二人のまさに触れ合おうとしている心の戦慄《おののき》のようなものの感ぜられる此の瞬間を、いつまでも自分と妻との間に引き止めて置きたかったろう。――が、彼は今、心の前面に、病床の中からも彼のする事を一つ一つ見守っているような彼の母の老《ふ》けた顔をはっきりとよみ返らせた。そのめっきり老けたような母の顔も、それから又、その病気さえも、何か今こんな所でこんな事をしている自分達のせいのような気もされて、この気の小さな男は妙に今の自分が後めたいように感ぜられた。彼はその母が実はこの頃ひそかに菜穂子に手をさしのべていようなぞとは夢にも知らなかったのだ。そして彼自身はと云えば、最近|漸《や》っと一と頃のように菜穂子のことで何かはげしく悔いるような事も無くなり、再びまた以前の母子差し向いの面倒のない生活に一種の不精から来る安らかさを感じている矢先きでもあったのだ。――そう云った検討を心の中でしおえた圭介はもう少し全べてが何んとかなるまで、此の儘《まま》、菜穂子にも我慢していて貰わねばならぬと云う結論に達した。
菜穂子はもう何も考えずに、雪のふる窓外へ目をやって、暮がたの谷間の向うにさっきから見えたり消えたりしている、何んだかそれとすっかり同じものを子供の頃に見たような気のする、教会の尖《とが》った屋根をぼんやり眺め続けていた。
圭介は時計を出して見た。菜穂子は彼の方をちらっと見て、
「どうぞもうお帰りになって頂戴。あしたも、もう入らっしゃらなくともいいわ。一人で帰れるから」と云った。
圭介は時計を手にした儘、ふと彼女が明朝こんな雪の中を帰って行って、もっと雪の深い山の中でまた一人でもって暮らし出す様子を思い描いた。彼はこの頃忘れるともなく忘れていた強烈な消毒薬や病気や死の不安のにおいを心によみ返らせた。なにか魂をゆすぶるもののように。……
菜穂子はその間、うつけたようになり切った夫の顔を見守っていた。彼女は何んとはなしに無心なほほえみらしいものを浮べた。ひょっとしたら夫がいまにもその瞬間の彼女の心の内が分かって、「もう二三日此のホテルにこの儘居ないか。そうして誰にも分からないように二人でこっそり暮らそう。……」そんな事を云い出しそうな気がしたからであった。
が、夫は何か或考えを払いのけでもするように頭を振りながら、何も云わずに、それまで手にしていた時計を徐《しず》かに衣嚢《かくし》にしまっただけだった。もう自分は帰らなければならないと云う事をそれで知らせるように。……
菜穂子は、圭介が雪を掻き分けながら帰えるのをうす暗い玄関に見送った後、その儘|硝子戸《ガラスど》に顔を押しあてるようにして、何か化け物じみて見える数本の真白な棕梠《しゅろ》ごしに、ぼんやりと暮方の雪景色を眺めていた。雪はまだなかなか止みそうもなかった。彼女は暫くの間、今の自分の心の内と関係があるのだかないのだかも分からないような事をそれからそれへと思い出しては、又、それを傍からすぐ忘れてしまっているような、空虚な心もちを守っていた。それは何もかもが片側だけに雪を吹きつけられている山の駅の光景だったり、今しがたまで見ていたのにもうどうしてもそれを何時見たのだか思い出せない何処かの教会の尖塔《せんとう》だったり、明の何かをじっと堪えているような様子だったり、喚きながら雪投げをしている沢山の子供達だったりした。……
そのとき漸っと彼女が背を向けていた広間の電灯が点《とも》ったらしかった。そのために彼女が顔を押しつけていた硝子が光を反射し、外の景色が急に見にくくなった。彼女はそれを機会に、今夜この小さなホテル――さっきから外人が二三人ちらっと姿を見せたきりだった――に一人きりで過さなければならないのだと云う事をはじめて考え出した。しかしこの事は彼女に佗《わ》びしいとか、悔《くや》しいとか、そう云うような感情を生じさせる暇《いとま》は殆どなかった。一つの想念が急に彼女の心に拡がり出していたからだった。それは自分がきょうのように何物かに魅せられたように夢中になって何か手あたりばったりの事をしつづけているうちに、一つ所にじっとしたきりでは到底考え及ばないような幾つかの人生の断面が自分の前に突然現われたり消えたりしながら、何か自分に新しい人生の道をそれとなく指し示していて呉れるように思われて来た事だった。
彼女はそんな考えに耽《ふけ》りながら、もうぼおっと白いもののほかは何も見えなくなり出した戸外の景色を、まだ何んという事もなしに、眺め続けていた。そうやって冷い硝子に自分の顔を押しつけるようにしているのが、彼女にはだんだん気持ちよく感ぜられて来ていた。広間のなかは彼女の顔がほてり出す程、暖かだったのだ。彼女はこう云う気持ちよさにも、自分が明日帰って行かなければならない山の療養所の吸いつくような寒さを思わずにはいられなかった。……
給仕が食事の用意の出来たことを知らせに来た。彼女は黙って頷《うなず》き、急に空腹を感じ出しながら、その儘自分の部屋へは帰らずに、さっきから静かに皿の音のし出している奥の食堂の方へ向って歩き出した。
底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
1934(昭和9)年11月
楡の家 第二部「文学界」(「目覚め」の表題で。)
1941(昭和16)年9月号
菜穂子「中央公論」
1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [信州] しんしゅう 信濃国の別称。いまの長野県。科野。
- O村
- 小諸 こもろ 長野県東部、浅間山南西麓の市。もと牧野氏1万5000石の城下町、北国街道の宿駅。城址は懐古園という。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で名高い。人口4万5千。
- 松本 まつもと 長野県の中西部、松本盆地から岐阜県境にある市。もと戸田氏6万石の城下町。松本城(深志城)天守閣は国宝。もと信濃国府の地で、信府と称した。上高地・乗鞍高原・美ヶ原などの観光地への基地。人口22万8千。
- 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568m。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。
(歌枕) - [上州] じょうしゅう 上野国の別称。今の群馬県。
- [東京]
- 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
- 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
- ジャーマン・ベーカリー
- 麻布 あざぶ 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称。高級住宅地で外国大公使館などが多い。
- 数寄屋橋 すきやばし 江戸城外濠の京橋数寄屋町への通路(東京都千代田区有楽町と中央区西銀座との間)に架した橋。今は名称だけ存続。
- 虎の門 とらのもん 虎ノ門。江戸城外郭門の一つ。芝琴平町に出る口。東京都港区の地名として残る。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 黒川菜穂子 なおこ 旧姓三村。
- 黒川圭介 菜穂子の夫。
- 圭介の母
- 都築明 つづき あきら 菜穂子の幼なじみ。
- 早苗 綿屋の娘。
- 早苗の夫 巡査。
- 牡丹屋 ぼたんや
- およう 牡丹屋の主人の姉。
- 主婦《おかみ》さん
- 初枝 おようの娘。
◇参照:
*難字、求めよ
- 雪曇り ゆきぐもり 雪雲のために空が曇ること。空が曇って雪模様になること。
- 憔悴 しょうすい やせおとろえること。やつれること。
- 象眼・象嵌 ぞうがん (1) 布または紙などに、模様を金泥・色紙などで細くふちどったもの。ぞうが。(2) 金属・木材・陶磁器などの素地に模様を刻んで、他の材料、特に金・銀・赤銅・四分一などをはめ込む技法。また、その作品。(3) (印刷用語) 鉛版・銅版などで、修正箇所を切り抜き、そのあとに修正した活字などを挿入すること。
- 汽缶車 きかんしゃ 気鑵車。汽罐車。機関車。
- 汽缶 きかん (→)ボイラーに同じ。
- ボイラー boiler 密閉した鋼製容器内で水を加熱し高温・高圧の蒸気を発生させる装置。汽缶。蒸気缶。缶。
- 夕冷え ゆうびえ/ゆうひえ 夕方に感じる冷ややかさ。
- こぐらかる 乱れからまる。こんぐらかる。こんがらかる。
- 悪感 おかん 悪寒。
- 面差し おもざし かおだち。かおつき。顔のようす。面相。
- オーバー‐シューズ overshoes 防水や保温のため靴の上にはくビニールやゴム製の靴。
- 雪袴 たっつけ 裁着・裁衣。
- 裁着・裁衣 たっつけ (→)カルサンのこと。
- カルサン 軽衫 袴の一種。形は指貫に似て、筒太く、裾口は狭い。原形ははっきりしないが、洋式にならい袴のように仕立てた。中世末期には上層武士から庶人まで着用したが、江戸時代には専ら旅装として使われた。狂言装束として唐人用のものがある。近代のは、木綿または縞織物で、上部をゆるやかに、下部を股引のように仕立てたものをいう。多く寒国に用い、男女共にはく。カルサンばかま。伊賀袴。地方によっては裁衣・裾細などという。
- 出札口 しゅっさつぐち 切符を売る窓口。切符売り場。
- 端近か はしぢか (1) 家の内で端に近い所。あがりはな。(2) 奥ゆかしくないこと。あさはかなこと。上品でないこと。
- 鉄道局 てつどうきょく (1) 旧鉄道省・運輸通信省の地方機関。東京・名古屋・大阪・門司・仙台・札幌・新潟・広島・高松に置いた。(2) 国土交通省本省の内局の一つ。
- 昇汞水 しょうこうすい 昇汞の水溶液。極めて有毒。消毒に用いる。
- 昇汞 しょうこう (corrosive sublimate)(→)塩化水銀(2) の俗称。
- 塩化水銀 えんか すいぎん (2) 塩化水銀(II)
(塩化第二水銀)。化学式HgCl(2) 無色柱状の結晶。水にはやや溶ける。猛毒。硫酸水銀(II)と食塩との混合物を熱してつくる。昇汞。猛汞。 - クレゾール Kresol 分子式C(6)H(4)
(CH(3) )OH フェノール類の一つ。オルト・メタ・パラの三つの異性体がある。コールタールおよび木タール中に含まれる。消毒薬・防腐剤に使用。 - 人いきれ ひといきれ 人が多く集まっていて、体の熱気やにおいが立ちこめること。
- 仄見える ほのみえる ほのかに見える。
- 険 けん (2) 顔つきにけわしさのあること。
- 身じろぐ みじろぐ (古くはミジロク) 身を動かす。身動きする。
- 瞞着 まんちゃく あざむくこと。ごまかすこと。人の目をくらますこと。
- ランデ・ヴー → ランデ‐ブー
- ランデ‐ブー rendez-vous (1) 恋人同士が時・場所をきめて会うこと。あいびき。デート。(2) 宇宙船同士が宇宙空間で近づくこと。
- 小止み おやみ (雨や雪などが)しばらくやむこと。こやみ。
- 棕梠 しゅろ 棕櫚・棕梠・椶櫚。ヤシ科シュロ属の常緑高木の総称。特に、日本原産のワジュロをいう。幹は高さ6m余、円柱状で直立。幹頂に葉を束生、葉柄は長く、葉身はほぼ円形、掌状に深裂。雌雄異株。5月頃、葉腋に分岐した花序を生じ、黄色の小花をつけ、小球状の核果を結ぶ。材は柱・器皿・鉢・盆または撞木とする。毛苞は縄・刷毛・箒とし、葉は晒して毛払い・夏帽子・敷物などとする。同属で中国原産のトウジュロと共に、庭園などに植栽。
- 怒気 どき 怒りの気持。また、怒りを含んだ顔つき。
- クレゾール Kresol 分子式C(6)H(4)
◇参照:
*後記(工作員 日記)
山折哲雄「皇太子殿下、ご退位なさいませ」
野坂昭如「日本民族へ、お悔やみを申し上げる」
カッケー。
八重の桜。
第十一回まで、会津藩に所属したはずの京都見廻組が登場してないような気がする。このまま佐々木只三郎を出さないつもりなんだろうか。
佐々木只三郎。天保四年(1833)の生まれ。慶応四年一月没。陸奥国の会津藩領内(福島県)に会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本佐々木矢太夫の養子となる。神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝えられる。
山本覚馬が文政11年(1828)生まれ。
八重が弘化2年(1845)生まれ。
大河『龍馬伝』のさいに、磯田道史も教育テレビで佐々木只三郎について触れていた。会津出身でしかも肉親(たしか兄)は藩の重役にあった。だから、佐々木只三郎の行動の背後には会津藩の意向が働いていたと見ていい、というもの。
三谷幸喜脚本『新選組!』では、伊原剛志が佐々木只三郎を演じていた。これがよかった。史実の新選組が持っていたはずのダークサイドを、佐藤浩市の芹沢鴨とともに担って、完全に新選組コアメンバーを食っていた。
佐々木只三郎。京都見廻組の相模組与頭(くみがしら)。
清河八郎の暗殺はほぼ確定といっていいだろう(参照:大川周明『清河八郎(四)
同じく、坂本龍馬の暗殺も佐々木只三郎ひきいる見廻組説が濃厚。
となると問題は、清河八郎や坂本龍馬暗殺の指令が、会津藩首脳部のどのレベルから出たのか、ということになるんじゃまいか。
追記。
*次週予告
第五巻 第三五号
湖と沼(一)田中阿歌麿
第五巻 第三五号は、
二〇一三年三月二三日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第三四号
菜穂子(五)堀 辰雄
発行:二〇一三年三月一六日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)上巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)上巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 第五巻
- 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉- 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
- 第六号 大震火災記 鈴木三重吉
- 第七号 校註『古事記』
(四) 武田祐吉- 第八号 校註『古事記』
(五) 武田祐吉- 第九号 校註『古事記』
(六) 武田祐吉- 第一〇号 校註『古事記』
(七) 武田祐吉- 第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介
- オウム―
―大震覚え書きの一つ― ― - 第一二号 日本歴史物語〈上〉
(一) 喜田貞吉- 第一三号 日本歴史物語〈上〉
(二) 喜田貞吉- 第一四号 日本歴史物語〈上〉
(三) 喜田貞吉- 第一五号 日本歴史物語〈上〉
(四) 喜田貞吉- 第一六号 校註『古事記』
(八) 武田祐吉- 第一七号 校註『古事記』
(九) 武田祐吉- 第一八号 校註『古事記』
(一〇) 武田祐吉- 第一九号 校註『古事記』
(一一) 武田祐吉- 語句索引 / 歌謡各句索引
- 第二〇号 日本歴史物語〈上〉
(五) 喜田貞吉- 第二一号 日本歴史物語〈上〉
(六) 喜田貞吉- 第二二号 日本歴史物語〈上〉索引 喜田貞吉
- 語句索引 / 人名索引 / 地名一覧
- 第二三号 クリスマスの贈り物/街の子/少年・春 竹久夢二
- 第二四号 風立ちぬ(一)堀 辰雄
- 第二五号 風立ちぬ(二)堀 辰雄
- 第二六号 風立ちぬ(三)堀 辰雄
- 第五巻 第二七号 山の科学・山と川(一)今井半次郎
- 一、山の生まれるまで
- 山の力と人の力
- 地球の誕生
- 山のできたわけ
- (一)地殻のしわ
- (二)しわの山
- 地球の表面
- (一)水の世界と陸の世界
- (二)桑滄(そうそう)の変
- (三)陸地の表面の形
- (四)平原
- (五)高原
- (六)盆地
- (七)段丘
- (八)斜面と崖
- 二、山のいろいろとその形
- 山のいろいろ
- (一)生まれ出た山
- (二)こわれ残った山
- (三)山の高さ
- (四)山の形をあらわす図面
- (ニ)しわの山。 これはすでに前にお話しした、横圧力でできた褶曲山のことです。世界の大きな山脈はたいてい、この褶曲山であることも、ちゃんとおぼえておいでのことと思います。
- (ホ)断層の山。 ところが、地殻のしわも、だんだん強くなると、ついにはそこに割れ目や裂け目のひびができます。青竹を力いっぱい曲げてみると、はじめのうちはだんだん曲がって山ができますが、後にはそのいちばんはりつめた山の頂上のところにひびができ、しまいには竹が折れます。これと同じ理屈で土地もしまいにはその裂け目に沿うて折れて、一方がすべり落ちて食いちがいの形になることがあります。これを「断層」ができたといいます。そして裂け目のところを「断層線」といいます。
- 断層で一方の土地がすべり落ちると、そこは谷となり、残った一方の土地は山となります。これが断層の山です。断層は、ときにいくつもいくつも互いに平行しておこることがあります。このばあいは、階段を平らにしてみたときのように、あるいはレンガ畳の道路がこわれてデコボコになったときのように、いくつもの平行した断層の谷と山とができあがります。
- 断層でできた山は、日本にも外国にも例が多いようです。外国の例でよくひきあいに出されるのは、北アメリカ合衆国にあるシエラネバダ大山脈です。これは比較的たいらな土地におこった断層で、いっぽうが持ちあがり、いっぽうがすべり落ちてできたもので、断層のできたほうはけわしい崖となり、その反対の側はしだいにサクラメント平原にむかって、ゆるやかな傾斜を作っています。
( 「二、山のいろいろとその形(一)生まれ出た山」より)
- 第五巻 第二八号 山の科学・山と川(二)今井半次郎
- 二、山のいろいろとその形
- 山の美しい形
- (一)孤立の山
- (二)連山
- 山をつくる岩
- (一)岩とは何か
- (二)岩の区別
- 水成岩の山
- (一)地層とは何か
- (二)地層のしわ
- (三)化石
- 火成岩の山
- (一)二とおりの火成岩
- (二)火成岩のひび
- (三)岩脈
- 変成岩の山
- (一)岩の変質
- (二)秩父の長瀞
- 山の寿命
- (一)地貌の輪廻
- (二)地球の年齢
- 山の彫刻と破壊
- (一)空気の働き
- (二)水の働き
- (三)生物の働き
- 空気中の水分は雨となって降ってきます。それが岩の目にしみこんで、おそろしい働きをします。その降った雨がこおって氷となると、なおのことです。氷は山の斜面を流れると、いよいよひどく岩をこわします。このように雨や風によって岩が直接けずり取られる働きを、とくに「浸食作用」と名づけます。また、雨や風によって岩がボロボロにこわされることを「風化作用」といいます。
(略) - (ハ)氷の力。 山をこわすもととなるもので、いちばん見のがすことのできないものは氷の力です。水は液体として岩の割れ目にしみこみますが、それが寒さのひどい時季になると氷となります。氷は水のときよりもかさが大きくなりますから、岩の内部をおしつけます。そのために、岩はボロボロに壊れるのです。冬の寒い朝、水道の鉄管の中の水がこおって、あの固い鉄管が破裂するのを見ても想像がつくでしょう。
- 春先、暖かくなってから、山の急な斜面のふもとや崖下などに行って見ると、大小の角ばったゴロ石が新しく積みかさなっているのを見ることがあります。これは、みんな冬のあいだに氷で壊されたのが、おちてできたのです。
- 高山の頂上にあらわれている岩は、とくによく氷で破壊されるもので、その峰はたいていするどくつき立った尖塔状をしています。アルプス山脈のモン・ブラン(白山)の西北にあるシャモニの尖峰などは、そのいい例です。日本アルプスの頂上にも、ところどころイヌの牙のようにとがったところがあります。
( 「山の彫刻と破壊(二)水の働き」より)
- 第五巻 第二九号 山の科学・山と川(三)今井半次郎
- 三、川と谷
- (一)川の形
- (二)河流の浸食
- (三)河水の運搬する働き
- (四)河水の沈殿する働き
- つぎに、川底の岩と河水の浸食するわりあいとを考えてみますと、岩が固ければ固いほど、浸食に手間どることはいうまでもありませんが、川底の岩はどこでも同じ固さを持っているとはかぎりません。また、前にお話ししたように、岩にはたいてい割れ目(節理)が発達していますから、やわらかいところや、割れ目のあるところは多くけずられたり、壊されたりします。そこで川の床には高低さまざまのデコボコができ、水はそのために激して白いしぶきを飛ばします。深くえぐられたところは、よどんで碧い淵となり、木曽の寝覚の床や、秩父の長瀞のような美しい景色をつくります。
- それからまた、ところどころにおもしろい「巨人の釜」
(甌穴)という、丸い深い穴を作ることもあります。この釜穴は川底の岩のくぼんだところや、割れ目に小石がひっかかり、急な流れのために同じ場所でグルグル回転して、錐もみのようにもみこんでできたのです。寝覚の床の釜穴は、その形の完全なので名高く、但馬揖保川の支流の鹿が坪〔鹿ヶ壺〕では、十個ばかりの釜穴が連なってならんでおり、越後田代の七つ釜は材木岩にできた七つの釜穴が続いているので、そういう名がついたのです。このほか、秩父長瀞、日向の都城付近の関尾〔関之尾か〕、日光の含満が淵、三河長篠の滝川などは同じく釜穴で名高いところですが、岩からできた川底で流れが急なところなら、どこにでも一つや二つの釜穴のないところはありません。 ( 「(二)河流の浸食」より)
- 第五巻 第三〇号 菜穂子(一)堀 辰雄
- 楡(にれ)の家
- 第一部
- それから一週間ばかりたった、ある日の午後だった。わたしの別荘の裏の、雑木林の中で自動車の爆音らしいものがおこった。車などの入ってこられそうもないところだのに、誰がそんなところに自動車を乗り入れたのだろう、道でも間違えたのかしらと思いながら、ちょうどわたしは二階の部屋にいたので窓から見おろすと、雑木林の中にはさまってとうとう身動きがとれなくなってしまっている自動車の中から、森さんが一人で降りてこられた。そしてわたしのいる窓のほうをお見上げになったが、ちょうど一本の楡の木の陰になって、むこうではわたしにお気づきにならないらしかった。それに、うちの庭と、いまあの方の立っていらっしゃる場所との間には、薄(すすき)だの、細かい花を咲かせた灌木だのが一面においしげっていた。―
―そのため、間違った道へ自動車を乗り入られたあの方は、わたしの家のすぐ裏の、ついそこまで来ていながら、それらに遮られて、いつまでもこちらへいらっしゃれずにいた。それがわたしには心なしか、なんだかお一人でわたしのところへいらっしゃるのを躊躇なさっていられるようにも思えた。
- 第五巻 第三一号 菜穂子(二)堀 辰雄
- 楡(にれ)の家
- 第二部
- 菜穂子の追記
- (略)……そのときふと、こういう気がわたしにされてきた。じつはそういう人たち―
―いわば純粋な第三者の目に、もっとも生き生きと映(うつ)っているだろうおそらくはしあわせな奥様としてのわたしだけがこの世に実在しているので、なにかと絶えず生の不安におびやかされているわたしのもう一つの姿は、わたしが自分勝手に作り上げている架空の姿にすぎないのではないか。 ……今日、おようさんを見たときから、わたしにそんな考えが萌(きざ)してきだしていたのだと見える。おようさんにはおようさん自身が、どんな姿で感ぜられているか知らない。しかし、わたしにはおようさんは勝ち気な性分で、自分の背負っている運命なんぞはなんでもないと思っているような人に見える。おそらくは誰の目にもそうと見えるにちがいない。そんなふうに、誰の目にもはっきりそうと見えるその人の姿だけがこの世に実在しているのではないか。そうすると、わたしだってもそれは人生なかばにして夫に死別し、その後は多少さびしい生涯だったが、ともかくも二人の子どもを立派に育てあげた堅実な寡婦(かふ) 、 ― ―それだけがわたしの本来の姿で、そのほかの姿、殊にこの手帳に描かれてあるようなわたしの悲劇的な姿なんぞは、ほんの気まぐれな仮象(かしょう)にしかすぎないのだ。この手帳さえなければ、そんなわたしはこの地上から永久に姿を消してしまう。そうだ、こんなものはひと思いに焼いてしまうほかはない。ほんとうに、いますぐにも焼いてしまおう。 …… - それが夕方の散歩から帰ってきたときからの、わたしの決心だったのだ。
- 第五巻 第三二号 菜穂子(三)堀 辰雄
- 菜穂子 一〜十一
- その輝かしい少年の日々は、七つのとき両親を失くした明をひきとって育ててくれた独身者の叔母の小さな別荘のあった信州のO村と、そこですごした数回の夏休みと、その村の隣人であった三村家の人々、
― ―ことに彼と同じ年の菜穂子とがその中心になっていた。明と菜穂子とはよくテニスをしに行ったり、自転車に乗って遠乗りをしてきたりした。が、そのころからすでに、本能的に夢を見ようとする少年と、反対にそれから目醒めようとする少女とが、その村を舞台にして、たがいに見えつ隠れつしながら真剣に鬼ごっこをしていたのだった。そしていつもその鬼ごっこから置きざりにされるのは少年のほうであった。 …… - 「かわいそうな菜穂子。
」それでもときどき彼女は、そんな一人でいい気になっているような自分をあわれむように独り言をいうこともあった。 「おまえがそんなに、おまえのまわりから人々を突き退けて大事そうにかかえこんでいるおまえ自身が、そんなにおまえにはいいのか。これこそ自分自身だと信んじこんで、そんなにしてまで守っていたものが、他日気がついてみたら、いつのまにか空虚だったというような目になんぞ逢ったりするのではないか……」 - 彼女はそういうとき、そんな不本意な考えから自分をそらせるためには、窓の外へ目を持って行きさえすればいいことを知っていた。
- そこでは風がたえず木々の葉をいい匂いをさせたり、濃く淡く葉裏を返したりしながら、ざわめかせていた。
「ああ、あのたくさんの木々。 ……ああ、なんていい香りなんだろう……」
- 第五巻 第三三号 菜穂子(四)堀 辰雄
- 菜穂子 十二〜十八
- 菜穂子はそのお辞儀のしかたを見ると、突然、明が彼女の前に立ち現われたときから、何かしら自分自身に佯(いつわ)っていた感情のあることを鋭く自覚した。そしてなにかそれを悔いるかのように、いままでにないやわらかな調子で最後の言葉をかけた。
- 「ほんとうにあなたも、ご無理なさらないでね……」
- 「ええ……」明も元気そうに答えながら、最後にもう一度、彼女のほうへ大きい眼をそそいで、扉の外へ出て行った。
- やがて扉の向こうに、明がふたたびはげしく咳こみながら立ち去って行くらしい気配がした。菜穂子は一人になると、さっきから心に滲み出していた後悔らしいものを急にはっきりと感じ出した。
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