堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
菜穂子(四) 堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
菜穂子(四)

オリジナル版
菜穂子(四)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
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*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4805.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





菜穂子(四)

堀 辰雄

  菜穂子

   十二


 翌日、菜穂子は、風のためにそこへたたきつけられた木の葉が一枚、窓ガラスの真ん中にピッタリとくっついたままになっているのを不思議そうに見守っていた。そのうちになにか思い出し笑いのようなものをひとりでに浮かべている自分自身に気がついて、彼女は思わずハッとした。
「後生だから、おまえ、そんな眼つきでオレを見ることだけはやめてもらえないかな。」帰りぎわに圭介は、あいかわらず彼女から眼をそらせながら軽く抗議した。――彼女は、いま、嵐の中でそれだけが麻痺まひしたようになっている一枚の木の葉を不思議そうに見守っている自分の眼つきから、不意とその夫の意外な抗議を思い出したのだった。
「なにもこんなわたしの眼つきは、いま始まったことではない。娘の時分から、死んだ母などにも何かと嫌がられたものだけれど、あの人はやっといまこれに気がついたのかしら。それとも今までそれが気になっていてもわたしに言い得ず、やっと今日、うちとけて言えるようになったのかしら。なんだかゆうべなどは、まるであの人でないみたいだった。……だが、あいかわらず気の小さなあの人は、汽車の中でこんな嵐にあって、どんなに一人でこわがっているだろう。……」
 一晩じゅう、なにかにおびえたように眠れない夜を明かしたすえ、翌日のひる近くようやく雲が切れ、一面に濃い霧がひろがりだすのを見ると、ホッとしたような顔をして停車場へ急いで行ったが、また天候が一変して、汽車に乗り込んだか乗り込まないかのうちにこんな嵐に遭遇している夫のことを、菜穂子はべつにそう気をみもしないで思いやりながら、いつかまた窓ガラスに描かれたようにこびりついている一枚の木の葉を、なにか気になるように見つめ出していた。そのうちに、彼女はまた自分でも気づかないほどかすかに笑いをもらしはじめていた。……

 その同じころ、黒川圭介を乗せたのぼり列車は、嵐にもまれながら、森林の多い国境をよこぎっていた。
 圭介にとっては、しかしその嵐以上に、山の療養所で経験したすべてのことが異常で、いまだに気がかりでならなかった。それは彼にとっては、いわばある未知の世界との最初の接触だった。きのときよりももっとひどい嵐のため、窓とすれすれのところで苦しげに葉をゆすりながら身悶みもだえしているような樹々のほかにはほとんど何も見えない客車の中で、圭介は生まれてはじめての不眠のためにとりとめもなくなった思考力で、いよいよ孤独の相をおびだした妻のことだの、そのそばでまるで自分以外のものになったような気持ちで一夜を明かしたゆうべの自分自身のことだの、大森の家で一人でまんじりともしないで自分を待ち続けていたであろう母のことだのを考えとおしていた。この世に自分と息子とだけいればいいと思っているような排他的な母のもとで、妻までよそへいやって、二人して大切そうに守ってきた一家の平和なんぞというものは、いまだに彼の目先にちらついている、菜穂子がその絵姿の中心となった、不思議に重厚な感じのする生と死との絨毯じゅうたんの前にあっては、いかに薄手うすでなものであるかを考えたりしていた。彼のいまんでいる異様な心的興奮が、なにかそんな考えを今までの彼の安逸あんいつさを根こそぎにするほどにまで強力なものにさせたのだった。――森林の多い国境あたりを汽車が嵐をいて疾走しているあいだ、圭介はそういう考えにひたりきりになって、ほとんど目もつぶったままにしていた。ときおり外の嵐に気がつくようにハッとなって目をひらいたが、しかししんが疲れているので、おのずから目がふさがり、すぐまた夢うつつの境に入って行くのだった。そこではまた、現在の感覚と、現在思い出しつつある感覚とがからまりあって、自分が二重に感ぜられていた。いま一心に窓外を見ようとしながら何も見えないので、くうを見つめているだけの自分自身の眼つきが、きのう、山へくなりある半開の扉のかげからふと目をあわせてしまった瀕死ひんしの患者の無気味な眼つきに感ぜられたり、あるいは、いつも自分がそれから顔をそらせずにはいられない菜穂子のうつけたような眼ざしに似てゆくような気がしたり、あるいは、その三つの眼ざしが変に交錯しあったりした。……
 急に窓の外が明るくなりだしたことが、そういう彼をもいくぶんホッとさせた。くもったガラスを指でふいて外を見ると、汽車がやっと国境あたりの山地を通りすぎて、大きな盆地の真ん中へ出てきたためらしかった。風雨はいまだに弱まらないでいた。圭介のうつけきった眼には、そこら一帯のブドウ畑の間に五、六人ずつ、みのをつけた人たちが立って何やらわめきあっているような光景が、いかにも異様に映った。そういうブドウ畑の人たちのただならぬ姿が何人も何人も見かけられるようになったころには、車内もおのずから騒然そうぜんとしだしていた。ゆうべの豪雨がこの地方では多量のひょうをともなっていたため、ようやくれだしたブドウの畑という畑がこっぴどくやられ、農夫たちは今のところは手をこまねいて嵐のやむのをただ見守っているのだということが、周囲の人々の話から圭介にも自然わかってきた。
 駅につくごとに、人々の騒ぎがいっそう物々ものものしくなり、雨の中をびしょぬれになった駅員がなにかののしりながら走り去るような姿も窓外に見られた。

 汽車がそんな惨状を示したブドウ畑の多い平地をすぎたあと、ふたたび山地に入り出したころは、ついに雲が切れ目を見せ、ときどきそこから日の光がもれて窓ガラスをまぶしく光らせた。圭介はようやく覚醒かくせいした人になりはじめた。同時に彼には、今までの彼自身が急に無気味に思え出した。もうあの瀕死の鳥のような病人の異様な眼つきも、それを知らずしらずに真似まねしていたような自分自身のいましがたの眼つきもケロリと忘れ去り、ただ、菜穂子の痛々いたいたしい眼ざしだけが、彼の前に依然としてあざやかに残っているきりだった。……
 汽車が雨あがりの新宿駅についたころには、構内いっぱい西日が赤あかとみなぎっていた。圭介は下車した途端とたんに、構内の空気のし蒸ししているのにおどろいた。ふいと山の療養所の肌をしめつけるような冷たさが快くよみがえってきた。彼はプラットフォームの人込みを抜けながら、なにやらその前に人だかりがしているのを見ると、何の気なしに足をめて掲示板をのぞいた。それは今、彼の乗ってきた中央線の列車が一部不通になった知らせだった。それで見ると、彼の乗り合わせていた列車が通過したあとで、山峡のある鉄橋が崩壊し、つぎの列車から嵐の中に立ち往生おうじょうになったらしかった。
 圭介はそれを知ると、なんだ、そんなことだったのかといった顔つきで、ふたたびプラットフォームの人込みの中を一種異様な感情を味わいながら抜けて行った。こんなにたくさんの人たちの中で、自分だけが山から自分といっしょについてきた何か異常なもので心をたされているのだといった考えから、真直ますぐを向いて歩きながら何か一人で悲痛な気持ちにさえなっていた。しかし、彼はいま自分の心をたしているものが、じつは死の一歩手前の存在としての生の不安であるというような深い事情には、思いいたらなかった。

 その日は、黒川圭介はどうしてもそのまま大森の家へ帰って行く気がしなかった。彼は新宿のある店で一人で食事をし、それからほかの同じような店で茶をゆっくりみ、それからこんどは銀座へ出て、いつまでも夜の人込みの中をぶらついていた。そんなことは四十近くになって彼の知ったはじめての経験といってよかった。彼は自分の留守のあいだ、母がどんなに不安になって自分の帰るのを待っているだろうかと、ときどき気になった。そのたびごとに、そういう母の苦しんでいる姿を自分の内にもうすこし保っていたいためかのように、わざと帰るのを引き延ばした。よくもあんな人気ひとけのない家で二人きりの暮らしに我慢がまんしていられたものだと思いさえした。彼はその間も、たえず自分につきまとうてくる菜穂子の眼ざしをすこしもうるさがらずにいた。しかし、ときどき彼の脳裏のうりをかすめる、生と死との絨毯じゅうたんはそのたびごとに少しずつぼやけてきはじめた。彼はだんだん自分の存在が、自分と後になり先になりして歩いているほかの人たちのとあまり変わらなくなってきたような気がしだした。彼はそれが前日来の疲労からきていることにやっと気がついた。彼は何物なにものかに自分がひきずられて行くのをもうどうにもしようがないような心持ちで、ついに大森の家に向かって、はじめて自分の帰ろうとしているのが母のもとだということを妙に意識しながら、十二時近く帰って行った。

   十三


 おようがO村から、娘の初枝の病気を東京の医者に治療してもらうために上京してきている。――そんなことを聞いて、七月からまた前とはすこしも変わらない沈鬱ちんうつそうな様子で建築事務所に通っていた都築つづきあきらが、築地のその病院へ見舞いに行ったのは、九月も末近いある日だった。
「どんなぐあいです?」明は寝台の上の初枝のほうをなるべく見ないように気をくばりながら、おようのほうへばかり顔を向けていた。
「ありがとうございます――」おようは山国の女らしく、こんな場合に明をどう取り扱っていいのかわからなさそうに、ただ、相手をいかにも懐かしげにながめながら、そのままくちごもっていた。「なんですか、どうも思うようにまいりませんで……。どなたにていただいても、はっきりしたことを言ってくださらないので困ってしまいます。いっそ手術でもしたらと、思いきってこうして出てまいりましたが、それも見込みないだろうとみなさんに言われますし……」
 明は、チラリと寝ている初枝のほうを見た。こんな近くで初枝を見たのははじめてだった。初枝は、母親似の、細面ほそおもての美しい顔だちをし、思ったほどやつれてもいなかった。そして自分の病気の話をそんな目の前でされているのに、いやな顔ひとつしないで、ただはずかしそうな様子をしていた。
 おようがお茶をいれに立ったので、明はちょっとの間、初枝と差し向かいになっていた。明はつとめて相手から目をそらせていた。それほど初枝は、彼の前でどうしていいかわからないような不安な眼つきをし、顔を薄赤らめていた。いつも十二、三の小娘のような甘えた口のききかたでおように話しかけているのを物陰で聞いていたきりだったので、この娘の眼がこんなに娘らしいかがやきを示そうとは思ってもみなかった。――明は突然、この初枝が彼の恋人の早苗とおさななじみであったという話を思い浮かべた。早苗はこの秋のはじめに、彼とも顔なじみの、村で人気者の若い巡査のところへとついだはずだった。
 それから明はほとんど二、三日おきぐらいに、事務所の帰りなどに彼女たちを見舞って行くようになった。いつも秋らしい夕方の光が彼女たちの病室へいっぱい差し込んでいるような日が多かった。そんなおだやかな日差ひざしの中で、おようと初枝とがいかにもなにげない会話や動作をとりかわしているのを、明はそばで見たり聞いたりしているうちに、そこから突然、O村の特有なにおいのようなものがただよってくるような気がしたりした。彼はそれをむさぼるようにいだ。そんなとき、彼には自分が一人の村の娘にむなしく求めていたものを、はからずもこの母と娘の中に見い出しかけているような気さえされるのだった。おようは明と早苗のことはうすうす気づいているらしかったが、ちっともそれをにおわせようとしないことも明には好ましかった。が、それだけ、ときどきこの年上の女のあたたかい胸に顔をうずめて、思うぞんぶん村のにおいをかぎながら、なにも言わず、言われずになぐさめられたいような気持ちのすることもないではなかった。
「なんだか夜中などに目をさますと、空気が湿々じめじめしていて、心持ちが悪くなります。」山の乾燥した空気にれきったおようは、この滞京中、そんな愚痴ぐちを言ってもわかってもらえるのは明にだけらしかった。おようはどこまでも生粋きっすいの山国の女だった。O村で見ると、こんな山の中には珍しい、容貌ようぼうの整った、気性のきびしい女に見えるおようも、こういう東京では、病院から一歩も出ないでいてさえ、なにか周囲の事物としっくりしない、いかにもひなびた女に見えた。
 過去の多い、そのくせまだ娘のようなおもかげをどこかに残しているおようと、長患ながわずらいのために年ごろになってもまだ子どもから抜けきれない一人娘の初枝と、―その二人は明にはいつのまにか、どっちをどっち切り離しても考えることのできない存在となっていた。病院から帰るとき、いつも玄関まで見送られる途中、彼ははっきりと自分の背中におようのくるのを感じながら、ふと自分がこの母子と運命をともにでもするようになったら、と、そんな全然ありえなくもなさそうな人生の場面を胸のうちに描いたりした。

   十四


 ある夕方、都築明はすこし熱があるようなので、事務所を早めに切りあげ、まっすぐに荻窪おぎくぼに帰ってきた。たいてい事務所の帰りの早いときにはおようたちを見舞ってきたりするので、こんなに明るいうちに荻窪の駅におりたのは珍しいことだった。電車からおりて、茜色あかねいろをした細長い雲が色づいた雑木林の上に一面にひろがっている西空へしばらくうっとりと目を上げていたが、彼は急にはげしくき込みだした。するとプラットフォームのはしに向こうむきにたたずんで何か考えごとでもしていたような、背の低い、勤め人らしい男がひどくビックリしたように彼のほうをふり向いた。明はそれに気がついたとき、どこか見覚えのある人だと思った。が、彼は苦しいせきの発作をおさえるために、その人に見られるがままになりながら、背をこごめたきりでいた。ようやくその発作がしずまると、そのときはもうその人のことを忘れたように階段のほうへ歩いて行ったが、それへ足をかけようとした途端とたん、不意と今の人が菜穂子の夫のようだったことを思い出して、急いでふり返って見た。すると、その人はまた、夕焼けした空と黄ばんだ雑木林とを背景にして、さっきと同じような、すこし気のふさいだ様子で、向こうむきにたたずんでいた。
「なにかさびしそうだったな、あの人は……。」明はそう考えながら駅を出た。
「菜穂子さんでも、どうかしたのではないかな? ひょっとすると病気かもしれない。このまえ見たときそんな気がした。それにしても、あのときはもっと取っつき悪い人のように見えたが、案外いい人らしいな。なにしろ、オレときたら、どこかさびしそうなところのない人間はぜんぜん取りつけないからなあ。……」
 明は自分の下宿に帰ると、せきの発作を怖れてすぐには服を脱ぎえようともしないで、西を向いた窓に腰かけたまま、ことによると菜穂子さんはどこかずっと、この西のほうにある、遠い場所で、自分なんぞの思いもうけないような不為合ふしあわせな暮らし方でもしているのではないかと考えながら、生まれてはじめてそちらへ目をやるように、夕焼けした空や黄ばんだ木々のこずえなどをながめていた。空の色はそのうちに変わりはじめた。明はその色の変化を見ているうちに、急にたまらないほど悪寒を感じ出した。

 黒川圭介は、そのときもまださっきと同じ考えごとをしているような様子で、夕焼けした西空に向かいながら、プラットフォームのはしにぼんやりと突っ立っていた。彼は、さっきからもう何台となく電車をやりすごしていた。しかし、人を待っているような様子でもなかった。その間、圭介がその不動に近い姿勢をくずしたのは、さっき誰かが自分の背後でひどくき入っているのに思わずビックリして、その方をふり向いたときだけだった。それは背の高い、せぎすな未知の青年だったが、そんなひどいせきを聞いたのははじめてだった。圭介はそれから、自分の妻がよく明け方になるとそれにやや近いせきき方でいていたのを思い出した。それから電車が何台か通りすぎたあと、突然、中央線の長い列車が地響きをさせながら素通すどおりして行った。圭介はハッとしたような顔をあげ、まるでい入るような眼つきで自分の前を通りすぎる客車を一台一台見つめた。彼はもし見られたら、その客車内の人たちの顔を一人一人見たそうだった。彼らは数時間の後には八ヶ岳の南麓なんろくを通過し、彼の妻のいる療養所の赤い屋根を車窓から見ようとおもえば見ることもできるのだ。……
 黒川圭介は根が単純な男だったので、一度自分の妻がいかにも不為合ふしあわせそうだと思いこんでからは、そうと彼に思いこませた現在のままの別居生活が続いているかぎりは、その考えが容易に彼を立ち去りそうもなかった。
 彼が山の療養所を訪れてから、一月ひとつきのあまりになって、社の用事などでいろいろと忙しい思いをし、それから何もかも忘れ去るような秋らしい気持ちのいい日が続き出してからも、まるで菜穂子を見舞ったのは、ついこの間のことのように、なにもかもが記憶にはっきりとしていた。社での一日の仕事が終わり、夕方の混雑の中を疲れきっておもわず帰宅を急いでいるときなど、ふとそこには妻がいないことを考えると、たちまちあの雨にとざされた山の療養所であったことから、帰りの汽車の中で襲われた嵐のことから、なにからなにまでが残らず記憶によみがえってくるのだった。菜穂子はいつも、どこかから彼をじっと見守っていた。急にその眼ざしがついそこにチラつきだすような気のすることもあった。彼はときどきハッと思って、電車の中に菜穂子に似た眼つきをした女がいたのかどうかと、さがし出したりした。……
 彼は、妻には手紙を書いたことがいっぺんもなかった。そんなことで自分の心がたされようなどとは、彼のような男は思いもしなかったろう。また、たといそう思ったにしろ、すぐそれが実行できるような性質の男ではなかった。彼は、母が菜穂子とときおり文通しているらしいのを知ってはいたが、それにもなんにも口出しをしなかった。そして菜穂子のいつも鉛筆でぞんざいに書いた手紙らしいのが来ていても、それをひらいて妻の文句を見ようともしなかった。ただ、どうかするとチョイと気になるように、その上へいつまでも目をそそいでいることがあった。そんなときには、彼は自分の妻が寝台の上に仰向あおむいたまま、鉛筆でそのせたほおをなでながら、心にもない文句を考え考えその手紙を書いている、いかにもものうそうな様子をぼんやりと思い浮かべているのだった。
 圭介はそういう自分の煩悶はんもんを誰にも打ち明けずにいたが、ある日、彼はある先輩の送別会のあった会場を、一人の気のおけない同僚といっしょに出ながら、不意とこの男なら何かとたのもしそうな気がして妻のことを打ち明けた。
「それは気の毒だな。」一杯機嫌の相手はいかにも彼に同情するように耳を傾けていたが、それから急に何を思ったのか、はきだすように言った。「だが、そういう女房はかえって安心でいいだろう」
 圭介には最初、相手の言った言葉の意味がわからなかった。が、彼はその同僚の細君が身持ちの悪いという以前からのうわさを突然、思い出した。圭介はもうその同僚に、妻のことをそれ以上言い出さなかった。
 そのときそう言われたことが、圭介にはその夜じゅうなにか胸につかえているような気持ちだった。彼は、その夜はほとんどまんじりともしないで妻のことを考え通していた。彼には、菜穂子の今いる山の療養所が、なんだか世のてのようなところのように思えていた。自然の慰藉いしゃというものをぜんぜん理解すべくもなかった彼には、その療養所を四方から取り囲んでいるすべての山も森も高原も、単に菜穂子の孤独を深め、それを世間から遮蔽しゃへいしている障害しょうがいのような気がしたばかりだった。そんな自然のひとやにも近いものの中に、菜穂子は何かあきらめきったように、ただ一人でくうを見つめたまま、死のしずかに近づいてくるのを待っている。―
「なにが安心でいい。」圭介は一人で寝たまま、暗がりの中で急に、誰に対してともつかない怒りのようなものをきあがらせていた。
 圭介はよっぽど母に言って、菜穂子を東京へ連れ戻そうかとなんべん決心しかけたかわからなかった。が、菜穂子がいなくなってから、なにかホッとして機嫌よさそうにしている母が、菜穂子の病状をたてにして、例の剛情さでなにかと反対をとなえるだろう事を思うと、もううんざりしてなんにも言い出す気がなくなるのだった。――それに菜穂子を連れ戻してきたって、母と妻とのこれまでの折合おりあい考えると、彼女のしあわせなのために自分が何をしてやれるか、圭介自身にも疑問だった。
 そして結局は、すべてのことが今までのままにされていたのだった。

 ある野分立のわきだった日、圭介は荻窪おぎくぼの知人の葬式に出向いた帰りみち、駅で電車を待ちながら、夕日のあたったプラットフォームを一人で行ったりきたりしていた。そのとき突然、中央線の長い列車が一陣の風とともにプラットフォームに散らばっていた無数の落ち葉を舞い立たせながら、圭介の前を疾走して行った。圭介はそれが松本行きの列車であることにやっと気がついた。彼はその長い列車が通りすぎてしまったあとも、いつまでも舞い立っている落ち葉の中に、なにか痛いような眼つきをしてその列車の去った方向を見送っていた。それが数時間の後には信州へ入り、菜穂子のいる療養所の近くを今と同じような速力で通過することを思い描きながら。……
 生まれつき、意中の人の幻影をあてもなく追いながら町の中を一人でぶらついたりすることのできなかった圭介は、思いがけず、そのとき妻の存在が一瞬まざまざと全身で感ぜられたものだから、それからはしばしば、会社の帰りの早いときなどには東京駅からわざわざ荻窪の駅まで省線しょうせん電車で行き、信州に向かう夕方の列車の通過するまでじっとプラットフォームに待っていた。いつもその夕方の列車は、彼の足もとから無数の落ち葉を舞い立たせながら、一瞬にして通過し去った。その間、彼が食い入るような眼つきで一台一台見送っていたそれらの客車とともに、彼の内から一日じゅう、何か彼を息づまらせていたものがにわかに引き離され、どこへともなく運び去られるのを、彼はせつないほどはっきりと感ずるのだった。

   十五


 山では秋らしくんだ日が続いていた。療養所のまわりには、どっちへ行っても日あたりのいい斜面がある。菜穂子は毎日日課の一つとして、いつも一人で気持ちよくそこここを歩きながら、野茨のいばらのまっな実なぞに目をたのしませていた。暖かな午後には、牧場の方までその散歩をのばして、さくをくぐりぬけ、芝草の上をゆっくりと踏みながら、真ん中に一本ポツンと立った例の半分だけ朽ちた古い木に、まだ黄ばんだ葉がいくらか残って日にチラチラしているのが見えるところまで歩いて行った。日の短くなるころで、地上にしるせられたその高い木の影も、彼女自身の影も、見る見るうちに異様に長くなった。それに気がつくと、彼女はやっとその牧場から療養所のほうへ帰ってきた。彼女は自分の病気のことも、孤独のことも忘れていることが多かった。それほど、すべてのことを忘れさせるような、人が一生のうちでそう何度も経験できないような、美しい、気散きさんじな日々だった。
 しかし夜は寒く、さみしかった。下の村々から吹き上げてきた風が、この地の果てのような場所までくると、もうどこへ行ったらいいかわからなくなってしまったとでもいうように、療養所のまわりをいつまでもうろついていた。誰かがめるのを忘れたガラス窓が、一晩中、バタバタ鳴っているようなこともあった。……
 ある日、菜穂子は一人の看護婦から、その春独断で療養所を出ていったあの若い農林技師が、とうとう自分の病気を不治のものにさせてふたたび療養所に帰ってきたということを聞いた。彼女はその青年が療養所を立って行くときの、元気のいい、しかし青ざめきった顔を思い浮かべた。そして、そのときの何か決意したところのあるようなその青年の生き生きした眼ざしが、彼を見送っていた他の患者たちの姿のどれにも立ちまさって、強く彼女の心を動かしたことまで思い出すと、彼女はなにか他人事ひとごとでないような気がした。
 冬はすぐそこまで来ているのだけれど、まだそれを気づかせないような暖かな小春こはる日和びよりが何日か続いていた。

   十六


 おようは、二月ふたつきのあまりも病院で初枝を徹底的に診てもらっていたが、その効はなく、結局、医者にも見放はなされた恰好かっこうで、ふたたび郷里に帰って行った。O村からは、牡丹ぼたん屋の若い主婦おかみさんがわざわざむかえにきた。
 二週間ばかり建築事務所を休んでいた明は、それを知ると、のどに湿布をしながら、上野駅まで見送りに行った。初枝は、おようたちにつきそわれて、車夫に背負われたまま、プラットフォームに入ってきた。明の姿を見かけると、今日はことさらに血の気をほおにかせていた。
「ごきげんよう。どうぞあなたさまもお大事に――」おようは、明の病人らしい様子をかえって気づかわしそうに眺めながら、別れをげた。
「ぼくは大丈夫です。ことによったら冬休みに遊びに行きますから、待っていてください」明は、おようや初枝にさびしいほほえみを浮かべて見せながら、そんなことを約束した。「では、ごきげんよう」
 汽車はみるみる出て行った。汽車の去ったあと、プラットフォームには急に冬らしくなった日差しがたよりなげにただよった。そこにぽつねんと一人残された明には、なにかさわやかな気分になりきれないものがあった。さて、これからどうしようかと言ったように、彼は何をするのも気だるそうに歩きだした。そして心の中でこんなことを考えていた。――結局は医者に見放はなされて郷里へ帰って行ったおようにも病人の初枝にも、さすがに何かさみしそうなところはあったけれども、それにしても世の中に絶望したような素振そぶりはどこにも見られなかったではないか。むしろ、二人ともO村へ早く帰れるようになったので、なにかホッとして、いそいそとしているような安心な様子さえしていたではないか。この人たちには、それほど自分の村だとか家だとかがいいのだろうか?
「だが、そんなものの何もないこのオレは、いったいどうすればいいのか? このごろのオレの心のむなしさはどこからきているのだ? ……」そういう彼の心のむなしさなど何ごとも知らないでいるようなおようたちにっていると、自分だけが誰にもついてこられない自分勝手な道を一人きりで歩き出しているような不安を確かめずにはいられなくなる一方、その間だけはなにかと心の休まるのを覚えたのも事実だった。そのおようたちもついに彼から去った今、彼の周囲で彼の心をまぎらわせてくれるものとてはもう、誰一人いなくなった。そのとき彼は急に思い出したようにはげしいせきをしはじめ、それをおさえるためにしばらく背をこごめながら立ち止まっていた。彼がやっとそれから背をもたげたときは、構内にはもう人影ひとかげがまばらだった。「――いま事務所でオレにあてがわれている仕事なんぞは、このオレでなくったってできる。そんな誰にだってできそうな仕事をのぞいたら、オレの生活にいったい何が残る? オレは自分が心からしたいと思ったことをこれまでに何ひとつしたか? オレは何度今までにだって、いまの勤めをやめ、なにか独立の仕事をしたいと思ってそれを言い出しかけては、所長のいかにも自分を信頼しているような人のよさそうな笑顔を見ると、それもつい言いそびれて有耶無耶にしてしまったかわからない。そんな遠慮ばかりしていていったいオレはどうなる? オレはこんどの病気を口実に、しばらくまた休暇をもらって、どこか旅にでも出て一人きりになって、自分が本気で求めているものは何か、オレはいま何にこんなに絶望しているのか、それをつきとめてくることはできないものか? オレがこれまでに失ったと思っているものだって、オレははたしてそれを本気で求めていたといえるか? 菜穂子にしろ、早苗にしろ、それからいま去って行ったおようたちにしろ、……」
 そう、明は沈鬱ちんうつな顔つきで考え続けながら、冬らしい日差しのチラチラしている構内を少し背をこごめ気味にして歩いて行った。

   十七


 八ヶ岳にはもう雪が見られるようになった。それでも菜穂子は、晴れた日などには、秋からの日課の散歩をさなかった。しかし太陽がかがやいて地上をいくら温めても、前日のこごえからすっかりそれをよみがえらせられないような、高原の冬の日々だった。白い毛の外套がいとうに身をつつんだ彼女は、自分の足の下で、こごえた草のひび割れる音を聞くようなこともあった。それでもときおりは、もう牛や馬の影の見えない牧場の中へ入って、あのなかば立ちれた古い木の見えるところまで、冷たい風に髪をなぶられながら行った。その一方のこずえにはまだ枯れ葉が数枚残り、透明な冬空の唯一の汚点となったまま、自らの衰弱のためにもうふるえが止まらなくなったように、たえずふるえているのをしばらく見上げていた。それから彼女はおもわず深いため息をつき、療養所へもどってきた。
 十二月になってからは、くもった、底冷えのする日ばかり続いた。この冬になってから、山々が何日も続いて雪雲ゆきぐもにおおわれていることはあっても、山麓さんろくにはまだ一度も雪は訪れずにいた。それが気圧を重苦しくし、療養所の患者たちの気をめいらせていた。菜穂子も、もう散歩に出る元気はなかった。終日、開け放した寒い病室の真ん中の寝台にもぐりこんだまま、毛布から目だけ出して、顔じゅうに痛いような外気を感じながら、暖炉だんろがたのしそうに音を立てているどこかの小さな気持ちのいい料理店のにおいだとか、そこを出てから町裏のほどよく落ち葉の散らばった並木道をそぞろ歩きする一時ひとときの快さなどを心に浮かべて、そんななんでもないけれども、いかにも張り合いのある生活がまだ自分にも残されているように考えられたり、また時とすると、自分の前途にはもう何もないような気がしたりした。何一つ期待することもないように思われるのだった。
「いったい、わたしはもう一生を終えてしまったのかしら?」と彼女はギョッとして考えた。「誰か、わたしにこれから何をしたらいいか、それとも、このまま何もかもあきらめてしまうほかはないのか、教えてくれる者はいないのかしら? ……」

 ある日、菜穂子はそんなとりとめのない考えから看護婦にまされた。
「ご面会の方がいらしっていますけれど……」看護婦は彼女に笑みをふくんだ目で同意を求め、それから扉の外へ「どうぞ」と声をかけた。
 扉の外から、急に聞きなれない、はげしいせきの声が聞こえだした。菜穂子は誰だろうと不安そうに待っていた。やがて彼女は戸口に立った、背の高い、やせほそった青年の姿を認めた。
「まあ、明さん。」菜穂子は、なにかとがめるようなきびしい目つきで、思いがけない都築つづきあきらの入ってくるのをむかえた。
 明は戸口に立ったまま、そんな彼女の目つきにうろたえたような様子で、しゃちほこばったお辞儀じぎをした。それから相手の視線をさけるように病室の中を大きな眼をして見まわわしながら、外套がいとうを脱ごうとして、ふたたびはげしくき入っていた。
 寝台に寝たまま、菜穂子は見かねたように言った。「寒いから、着たままでいらっしゃい。
 明はそういわれると、すなおに半分ぬぎかけた外套がいとうをふたたび着なおして、寝台の上の菜穂子のほうへ笑いかけもせず見つめたまま、ついで彼女から言われる何かの指図を待つかのように突っ立っていた。
 彼女はあらためてそういう相手の昔とそっくりな、おとなしい、悪気のない様子を見ていると、なぜか痙攣けいれんが自分の喉元のどもとをしめつけるような気がした。しかしまた、この数年の間、―ことに彼女が結婚してからはほとんど音沙汰おとさたのなかった明が、何のためにこんな冬の日に突然、山の療養所まで訪ねてくるような気になったのか、それがわからないうちは彼女はそういう相手の悪気のなさそうな様子にも、なにか絶えずイライラしつづけていなければならなかった。
「そこいらにおかけになるといいわ」菜穂子は寝たまま、いかにも冷ややかな目つきで椅子いすを示しながら、そう言うのがやっとだった。
「ええ」と、明はチラリと彼女の横顔へ目を投げ、それからまた急いで目をそらせるようにしながら、端近い革張りの椅子いすに腰をおろした。「ここへきていらっしゃるということを旅の出がけに聞いたので、汽車の中で急に思いたってお立ち寄りしたのです」と彼は自分のてのひらでせたほおをなでながら言った。
「どこへいらっしゃるの?」彼女はあいかわらずイライラした様子でいた。
「べつにどこって……」と明は、自問自答するようにくちごもっていた。それから突然目をおもいきり大きく見ひらいて、自分の言いたいことを言おうと思う前には、相手も何もないかのような語気で言った。「急に、どこというあてもない冬の旅がしたくなったのです。
 菜穂子はそれを聞くと、急に一種のにが笑いに近いものを浮かべた。それは少女のころからの彼女のくせで、いつも相手の明なんぞのうちに少年特有な夢みるような態度や言葉が現われると、彼女はそういう相手を好んでそれで揶揄やゆしたものだった。
 菜穂子は、いまも自分がそんな少女のころにくせになっていたような表情をひとりでに浮かべていることに気がつくと、いつのまにか自分のうちにも昔の自分がよみがえってきたような、妙にはずんだ気持ちを覚えた。が、それもほんの一瞬で、明がまたさっきのようにはげしくきこみだしたので、彼女はおもわずまゆをひそめた。
「こんなにせきばかりしていて、この人はまあなんでムチャなんだろう、そんなしなくともいい旅に出てくるなんて……」菜穂子は他人事ひとごとながらそんなことも思った。
 それから彼女はふたたび、元の冷ややかな目つきになりながら言った。「お風邪かぜでもひいていらっしゃるんじゃない? それなのに、こんな寒い日に旅行なんぞなすってよろしいの?」
「大丈夫です。」明はなにか、うわのそらで返事をするような調子で返事をした。「ちょっと、のどをやられているだけですから。雪のなかへ行けば、かえってよくなりそうな気がするんです。
 そのとき彼は、心の一方でこんなことを考えていた。――「オレは菜穂子さんにってみたいなんぞとはこれまでついぞ考えもしなかったのに、なぜさっき汽車のなかで思い立つと、すぐその気になって、何年も逢わない菜穂子さんをこんなところに訪れるような真似まねができたんだろう。オレは菜穂子さんがいまどんなふうにしているか、すっかり昔と変わってしまったか、それともまだ変わらないでいるか、そんなことなぞちっとも知りたかあなかった。ただ、ほんの一瞬間、昔のようにお互いに怒ったような眼つきで眼を見あわせて、それだけで帰るつもりだった。それだのに、この人にっているとまた昔のように、向こうですげなくすればするほど、自分のきずを相手にギュウギュウしつけなくては気がすまなくなってきそうだ。そう、オレはもう最初の目的を達したのだから、早く帰ったほうがいい。……」
 明はそう考えると急に立ち上がって、菜穂子の寝ている横顔を見ながら、モジモジしだした。しかし、どうしてもすぐ帰るとは言い出せずに、すこし咳払せきばらいをした。こんどは空咳からせきだった。
「雪はまだなんですね?」明は、菜穂子のほうを同意を求めるような眼つきで見ながら、バルコニーのほうへ出て行った。そして半開きになった扉のそばに立ち止まって、寒そうなかっこうをして山や森をながめていたが、しばらくしてから彼女のほうへ向かって言った。「雪があると、このあたりはいいんでしょうね。ぼくはもうこっちは雪かと思っていました。……」
 それから彼は、やっと思いきったようにバルコニーに出て行った。そしてその手すりに手をかけて、背中を丸くしたまま、そこからよく見える山や森へなにか熱心に目をやっていた。
「あの人は昔のままだ。」菜穂子はそう思いながら、いつまでもバルコニーで同じような恰好かっこうをして同じところへ目をやっているような明の後ろ姿をじっと見守っていた。昔からその明には、人一倍内気で弱々しげに見えるくせに、いざとなるとなかなか剛情になり、自分のしたいと思うことは何でもしてしまおうとするようなはげしい一面もあって、どうかすると、そんな相手に彼女もときどき手こずらされたことのあったのを、彼女はその間、なんということもなしに思い出していた。……
 そのときバルコニーから明が不意に彼女のほうへふり向いた。そして彼女が自分に向かってなにか笑いかけたそうにしているのに気がつくと、まぶしそうな顔をしながら、手すりから手を離して部屋のほうへ入ってきた。彼女は彼に向かって、つい口から出るがままに言った。「明さんはうらやましいほど、昔と変わらないようね。……でも、女はつまらない、結婚するとすぐ変わってしまうから。……」
「あなたでもお変わりになりましたか?」明はなんだか意外なように、急に立ち止まって、そう問い返した。
 菜穂子はそう率直に反問されると、急になかばごまかすような、なかば自嘲するような笑いを浮かべた。「明さんにはどう見えて?」
「さあ……」明はほんとうに困惑したような目つきで彼女を見返しながら、くちごもっていた。「……なんて言っていいんだか難しいなあ。
 そう口ではいいながら、彼は胸のうちで、この人はやっぱり誰にも理解してもらえずにきっと不為合ふしあわせなのかもしれないと思った。彼は、なにも結婚後の菜穂子のことをたずねる気もしなかったし、また、そんなことはとても自分などには打ちあけてくれないだろうと思ったけれど、菜穂子のことなら今の自分にはどんなことでもわかってやれるような気がした。昔は彼女のすることが何もかもわからないように思われた一時期もないではなかったが、今ならば、菜穂子がどんな心の中のたどりにくい道程どうていを彼に聞かせても、どこまでも自分だけはそれについて行けそうな気がした。……
「この人は、それが誰にもわかってもらえないと思い込んで、苦しんでいるのではなかろうか?」と、明は考え続けた。「菜穂子さんだって、昔はいつもぼくの夢みがちなのを嫌ってばかりいたが、やっぱり自分だって夢を持っていたんだ、あのぼくの大好きだった菜穂子さんのお母さんのように……。それがこんな勝ち気な人だものだから、心の底の底にその夢がとじこめられたまま、誰にも気づかれずにいたのだ、当の菜穂子さんにだって。……しかし、その夢はまあどんなに思いがけない夢だろうか? ……」
 明はそんなふうな想念を眼ざしにこめながら、菜穂子の上へじっとその眼をすえていた。
 彼女はしかしそのあいだ、目をつぶったまま、何か自身の考えにしずんでいた。ときどき痙攣けいれんのようなものが彼女のやせた首の上を走っていた。
 明はそのとき、不意といつか荻窪の駅で彼女の夫らしい姿を見かけたことを思い出し、それを菜穂子に帰りがけにちょっと言って行こうとしかけたが、急にそれは言わないほうがいいような気がして途中でやめてしまった。そして、さあもう帰らなければと決心して、彼は二、三歩寝台のほうへ近づき、ちょっとモジモジした様子でそのそばに立ったまま、
「ぼく、もう……」とだけ言葉をかけた。
 菜穂子はさっきと同じように目をつぶったまま、相手が何を言い出そうとしているのか待っていたが、それきり何も言わないので、目をあけて彼のほうを見てやっと彼が帰り支度じたくをしているのに気がついた。
「もう、お帰りになるの?」菜穂子はおどろいたようにそれを見て、あまりあっけない別れ方だと思ったが、べつに引きめもしないで、むしろ何物なにものかからはなされるような感情を味わいながら、相手に向かって言った。「汽車はいつなの?」
「さあ、それは見てこなかったなあ。だけど、こんな旅だから、いつになったって構いません。」明はそう言いながら、入ってきたときと同様に、しゃちほこばってお辞儀じぎをした。「どうぞ、お大事に……」
 菜穂子はそのお辞儀のしかたを見ると、突然、明が彼女の前に立ち現われたときから、何かしら自分自身にいつわっていた感情のあることを鋭く自覚した。そしてなにかそれをいるかのように、いままでにないやわらかな調子で最後の言葉をかけた。
「ほんとうにあなたも、ご無理なさらないでね……」
「ええ……」明も元気そうに答えながら、最後にもう一度、彼女のほうへ大きい眼をそそいで、扉の外へ出て行った。
 やがて扉の向こうに、明がふたたびはげしくせきこみながら立ち去って行くらしい気配がした。菜穂子は一人になると、さっきから心ににじみ出していた後悔らしいものを急にはっきりと感じ出した。

   十八


 冬空をよぎった一つの鳥かげのように、自分の前をチラリと通りすぎただけでそのまま消え去るかと見えた一人の旅びと、……その不安そうな姿が、時の立つにつれていよいよ深くなる痕跡きずあとを菜穂子の上にしるしたのだった。その日、明が帰って行ったあと、彼女はいつまでも何かわけのわからない一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。最初、それはなにか明に対してある感情をいつわっているかのような漠然とした感じにすぎなかった。彼が自分の前にいる間じゅう、彼女は相手に対してとも自分自身に対してともつかず、始終いらだっていた。彼女は、昔、少年のころの相手が彼女によくそうしたように、今も自分の痕を彼女の心にぎゅうぎゅうしつけようとしているような気がされて、そのためにイライラしていたばかりではなかった。――それ以上に、それが彼女を困惑させていた。いってみれば、それが現在の彼女の、不為合ふしあわせなりに、ひとまず落ちつくところに落ちついているような日々をおびやかそうとしているのが漠然と感ぜられ出していたのだ。彼女よりももっと痛めつけられている身体でもって、きずついた翼でもっともっとけようとしている鳥のように、自分の生を最後まで試みようとしている、以前の彼女だったらまゆをひそめただけであったかもしれないような相手の明が、その再会のあいだ、しばしば彼女の現在の絶望に近い生き方以上に真摯しんしであるように感ぜられながら、その感じをどうしても、相手の目の前では相手にどころか自分自身にさえはっきり肯定しようとはしなかったのだった。
 菜穂子は自分のそういう一種の瞞着まんちゃくを、それから二、三日してから、はじめて自分に白状した。なぜあんなに相手にすげなくして、旅の途中にわざわざ立ち寄ってくれたものを心からの言葉ひとつかけてやれずに帰らせてしまったのか、とその日の自分がいかにも大人気おとないように思われたりした。――しかし、そう思う今でさえ、彼女のうちには、もし自分がそのとき素直に明に頭をさげてしまっていたら、ひょっとしてもう一度彼と出逢うようなことのあったばあい、そのとき自分はどんなにみじめな思いをしなければならないだろうと考えて、一方では思わずなにか、ホッとしているような気持ちもないわけではなかった。……
 菜穂子が、今の孤独な自分がいかにみじめであるかを切実な問題として考えるようになったのは、ほんとうにこの時からだと言ってよかった。彼女は、ちょうど病人が自分の衰弱を調べるために、そのせさらばえたほおへ最初はおずおずと手をやってそれをやさしくでだすように、自分のみじめさを徐々に自分の考えに浮かべはじめた。彼女には、まだしもたのしかった少女時代を除いては、その後彼女の母なんぞのように、一つの思い出だけで後半生をたすにたりるような精神上の出来事にも出逢わず、また、将来だっていまのままではなんら期待するほどのことは起こりそうもないように思われる。現在をいえば、しあわせなんぞというものからははるかに遠く、とはいえ、この世の誰よりもふしあわせだというほどのことでもない。ただ、こんな孤独の奥で、一種の心の落ちつきに近いものは得ているものの、それとてこうして陰惨な冬の日々にもえていなければならない山の生活の無聊ぶりょうにくらべれば、どんなにむくいの少ないものか。ことに明があんなに前途に不安そうな様子をしながら、しかもなお自分の生のギリギリのところまで行って自分の夢の限界をつきとめてこようとしているような真摯さの前では、どんなに自分のいまの生活はごまかしの多いものであるか。それでも自分はまだ、この先の日々になにかたのむものがあるように自分を説き伏せて、このままこうした無為の日々をすごしていなければならないのか。それともほんとうに、そこに何か自分をよみがえらしてくれるようなものがあるのであろうか。……
 菜穂子の考えは、いつもそうやって自分のみじめさにつきあたったまま、そこでむなしい逡巡しゅんじゅんをかさねていることが多かった。
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」「目覚め」の表題で。
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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菜穂子(四)

堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)その儘《まま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午餐《ごさん》後

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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[#2字下げ]菜穂子[#「菜穂子」は大見出し]

[#3字下げ]十二[#「十二」は中見出し]

 翌日、菜穂子は、風のために其処へたたきつけられた木の葉が一枚、窓硝子《まどガラス》の真ん中にぴったりとくっついた儘《まま》になっているのを不思議そうに見守っていた。そのうちに何か思い出し笑いのようなものをひとりでに浮べている自分自身に気がついて、彼女は思わずはっとした。
「後生だから、お前、そんな眼つきでおれを見る事だけはやめて貰えないかな。」帰りぎわに圭介は相変らず彼女から眼を外らせながら軽く抗議した。――彼女は、いま、嵐の中でそれだけが麻痺《まひ》したようになっている一枚の木の葉を不思議そうに見守っている自分の眼つきから不意とその夫の意外な抗議を思い出したのだった。
「何もこんな私の眼つきはいま始まった事ではない。娘の時分から、死んだ母などにも何かと嫌がられたものだけれど、あの人は漸《や》っといまこれに気がついたのかしら。それとも今までそれが気になっていても私に云い得ず、漸っときょう打解けて云えるようになったのかしら。何だかゆうべなどはまるであの人でない見たいだった。……だが、相変らず気の小さなあの人は、汽車の中でこんな嵐に逢ってどんなに一人で怖がっているだろう。……」
 一晩じゅう何かに怯《おび》えたように眠れない夜を明かした末、翌日の午《ひる》近く漸《ようや》く雲が切れ、一面に濃い霧が拡がり出すのを見ると、ほっとしたような顔をして停車場へ急いで行ったが、又天候が一変して、汽車に乗り込んだか乗り込まないかの内にこんな嵐に遭遇している夫の事を、菜穂子は別にそう気を揉《も》みもしないで思いやりながら、何時かまた窓硝子に描かれたようにこびりついている一枚の木の葉を何か気になるように見つめ出していた。そのうちに、彼女はまた自分でも気づかない程かすかに笑いを洩らしはじめていた。……

 その同じ頃、黒川圭介を乗せた上り列車は、嵐に揉まれながら、森林の多い国境を横切っていた。
 圭介にとっては、しかしその嵐以上に、山の療養所で経験したすべての事が異常で、いまだに気がかりでならなかった。それは彼にとっては、云わば或未知の世界との最初の接触だった。往きのときよりももっとひどい嵐のため、窓とすれすれのところで苦しげに葉を揺すりながら身悶《みもだ》えしているような樹々の外には殆ど何も見えない客車の中で、圭介は生れてはじめての不眠のためにとりとめもなくなった思考力で、いよいよ孤独の相を帯び出した妻の事だの、その傍でまるで自分以外のものになったような気持で一夜を明かしたゆうべの自分自身の事だの、大森の家で一人でまんじりともしないで自分を待ち続けていたであろう母の事だのを考え通していた。此の世に自分と息子とだけいればいいと思っているような排他的な母の許《もと》で、妻まで他処《よそ》へ逐《お》いやって、二人して大切そうに守って来た一家の平和なんぞというものは、いまだに彼の目先にちらついている、菜穂子がその絵姿の中心となった、不思議に重厚な感じのする生と死との絨毯《じゅうたん》の前にあっては、いかに薄手《うすで》なものであるかを考えたりしていた。彼のいま陥《お》ち込《こ》んでいる異様な心的興奮が何かそんな考えを今までの彼の安逸さを根こそぎにする程にまで強力なものにさせたのだった。――森林の多い国境辺を汽車が嵐を衝《つ》いて疾走している間、圭介はそう云う考えに浸り切りになって殆ど目もつぶった儘にしていた。ときおり外の嵐に気がつくようにはっとなって目をひらいたが、しかし心《しん》が疲れているので、おのずから目がふさがり、すぐまた夢うつつの境に入って行くのだった。そこでは又、現在の感覚と、現在思い出しつつある感覚とが絡《から》まり合《あ》って、自分が二重に感ぜられていた。いま一心に窓外を見ようとしながら何も見えないので空《くう》を見つめているだけの自分自身の眼つきが、きのう山へ著《つ》くなり或半開の扉のかげからふと目を合わせてしまった瀕死《ひんし》の患者の無気味な眼つきに感ぜられたり、或はいつも自分がそれから顔をそらせずにはいられない菜穂子の空《うつ》けたような眼ざしに似て行くような気がしたり、或はその三つの眼ざしが変に交錯し合ったりした。……
 急に窓のそとが明るくなり出した事が、そう云う彼をも幾分ほっとさせた。曇った硝子を指で拭いて外を見ると、汽車が漸っと国境辺の山地を通り過ぎて、大きな盆地の真ん中へ出て来たためらしかった。風雨はいまだに弱まらないでいた。圭介の空け切った眼には、そこら一帯の葡萄畑《ぶどうばたけ》の間に五六人ずつ蓑《みの》をつけた人達が立って何やら喚き合っているような光景がいかにも異様に映った。そういう葡萄畑の人達の只ならぬ姿が何人も何人も見かけられるようになった頃には、車内もおのずから騒然とし出していた。ゆうべの豪雨が此の地方では多量の雹《ひょう》を伴っていたため、漸く熟れ出した葡萄の畑という畑がこっぴどくやられ、農夫達は今のところは手を拱《こま》ねいて嵐のやむのをただ見守っているのだと云う事が、周囲の人々の話から圭介にも自然分かって来た。
 駅に著く毎に、人々の騒ぎが一層物々しくなり、雨の中をびしょ濡れになった駅員が何か罵《ののし》りながら走り去るような姿も窓外に見られた。

 汽車がそんな惨状を示した葡萄畑の多い平地を過ぎた後、再び山地にはいり出した頃は、遂に雲が切れ目を見せ、ときどきそこから日の光が洩れて窓硝子をまぶしく光らせた。圭介は漸く覚醒《かくせい》した人になり始めた。同時に彼には、今までの彼自身が急に無気味に思え出した。もうあの瀕死の鳥のような病人の異様な眼つきも、それを知《し》らず識《し》らずに真似していたような自分自身のいましがたの眼つきもけろりと忘れ去り、唯、菜穂子の痛々しい眼ざしだけが彼の前に依然として鮮かに残っているきりだった。……
 汽車が雨あがりの新宿駅に著いた頃には、構内いっぱい西日が赤あかと漲《みなぎ》っていた。圭介は下車した途端に、構内の空気の蒸し蒸ししているのに驚いた。ふいと山の療養所の肌をしめつけるような冷たさが快くよみ返って来た。彼はプラットフォームの人込みを抜けながら、何やらその前に人だかりがしているのを見ると、何んの気なしに足を駐《と》めて掲示板を覗いた。それは今彼の乗って来た中央線の列車が一部不通になった知らせだった。それで見ると、彼の乗り合わせていた列車が通過した跡で、山峡の或鉄橋が崩壊し、次ぎの列車から嵐の中に立往生になったらしかった。
 圭介はそれを知ると、何んだ、そんな事だったのかと云った顔つきで、再びプラットフォームの人込みの中を一種異様な感情を味いながら抜けて行った。こんなに沢山の人達の中で、自分だけが山から自分と一しょに附いて来た何か異常なもので心を充たされているのだと云った考えから、真直を向いて歩きながら何か一人で悲痛な気持ちにさえなっていた。しかし、彼はいま自分の心を充たしているものが、実は死の一歩手前の存在としての生の不安であるというような深い事情には思い到らなかった。

 その日は、黒川圭介はどうしてもその儘大森の家へ帰って行く気がしなかった。彼は新宿の或店で一人で食事をし、それから外の同じような店で茶をゆっくり喫《の》み、それからこんどは銀座へ出て、いつまでも夜の人込みの中をぶらついていた。そんな事は四十近くになって彼の知った初めての経験といってよかった。彼は自分の留守の間、母がどんなに不安になって自分の帰るのを待っているだろうかとときどき気になった。その度毎に、そう云う母の苦しんでいる姿を自分の内にもう少し保っていたいためかのように、わざと帰るのを引き延ばした。よくもあんな人気のない家で二人きりの暮しに我慢して居られたものだと思いさえした。彼はその間も絶えず自分につきまとうて来る菜穂子の眼ざしを少しもうるさがらずにいた。しかし、ときどき彼の脳裡《のうり》を掠《かす》める、生と死との絨毯《じゅうたん》はその度毎に少しずつぼやけて来はじめた。彼はだんだん自分の存在が自分と後になり先になりして歩いている外の人達のと余り変らなくなって来たような気がしだした。彼はそれが前日来の疲労から来ている事に漸《や》っと気がついた。彼は何物かに自分が引《ひ》き摺《ず》られて行くのをもうどうにもしようがないような心もちで、遂に大森の家に向って、はじめて自分の帰ろうとしているのが母の許《もと》だと云う事を妙に意識しながら、十二時近く帰って行った。

[#3字下げ]十三[#「十三」は中見出し]

 おようがO村から娘の初枝の病気を東京の医者に治療して貰うために上京して来ている。――そんな事を聞いて、七月から又前とは少しも変らない沈鬱《ちんうつ》そうな様子で建築事務所に通っていた都築明が、築地のその病院へ見舞に行ったのは、九月も末近い或日だった。
「どんな具合です?」明は寝台の上の初枝の方をなるべく見ないように気を配りながら、おようの方へばかり顔を向けていた。
「有難うございます――」おようは山国の女らしく、こんな場合に明をどう取り扱って好いのか分からなさそうに、唯、相手をいかにも懐しげに眺めながら、その儘《まま》口籠《くちごも》っていた。「なんですか、どうも思うように参りませんで……。誰方に診て頂いても、はっきりした事を云って下さらないので困ってしまいます。いっそ手術でもしたらと、思い切ってこうして出て参りましたが、それも見込み無いだろうと皆さんに云われますし……」
 明はちらりと寝ている初枝の方を見た。こんな近くで初枝を見たのははじめてだった。初枝は、母親似の、細面《ほそおもて》の美しい顔立をし、思ったほど窶《やつ》れてもいなかった。そして自分の病気の話をそんな目の前でされているのに、嫌な顔ひとつしないで、ただ羞《はずか》しそうな様子をしていた。
 おようがお茶を淹《い》れに立ったので明はちょっとの間、初枝と差し向いになっていた。明はつとめて相手から目をそらせていた。それほど初枝は彼の前でどうして好いか分からないような不安な眼つきをし、顔を薄赤らめていた。いつも十二三の小娘のような甘えた口のきき方でおように話しかけているのを物陰で聞いていたきりだったので、この娘の眼がこんなに娘らしい赫《かがや》きを示そうとは思っても見なかった。――明は突然、この初枝が彼の恋人の早苗と幼馴染であったと云う話を思い浮べた。早苗はこの秋の初めに、彼とも顔馴染の、村で人気者の若い巡査のところへ嫁いだ筈だった。
 それから明は殆ど二三日|隔《お》き位に、事務所の帰りなどに彼女達を見舞って行くようになった。いつも秋らしい夕方の光が彼女達の病室へ一ぱい差し込んでいるような日が多かった。そんな穏かな日差しの中で、おようと初枝とがいかにも何気ない会話や動作をとりかわしているのを、明は傍で見たり聞いたりしているうちに、其処から突然O村の特有な匂のようなものが漂って来るような気がしたりした。彼はそれを貪《むさぼ》るように嗅《か》いだ。そんなとき、彼には自分が一人の村の娘に空しく求めていたものを図らずも此の母と娘の中に見出しかけているような気さえされるのだった。おようは明と早苗の事はうすうす気づいているらしかったが、ちっともそれを匂わせようとしない事も明には好ましかった。が、それだけ、ときどき此の年上の女の温かい胸に顔を埋めて、思う存分村の匂をかぎながら、何も云わず云われずに慰められたいような気持ちのする事もないではなかった。
「なんだか夜中などに目をさますと、空気が湿々《じめじめ》していて、心もちが悪くなります。」山の乾燥した空気に馴れ切ったおようは、この滞京中、そんな愚痴を云っても分かって貰えるのは明にだけらしかった。おようは何処までも生粋の山国の女だった。O村で見ると、こんな山の中には珍らしい、容貌の整った、気性のきびしい女に見えるおようも、こう云う東京では、病院から一歩も出ないでいてさえ、何か周囲の事物としっくりしない、いかにも鄙《ひな》びた女に見えた。
 過去のおおい、その癖まだ娘のようなおもかげを何処かに残しているおようと、長患いのために年頃になってもまだ子供から抜け切れない一人娘の初枝と、――その二人は明にはいつの間にかどっちをどっち切り離しても考える事の出来ない存在となっていた。病院から帰る時、いつも玄関まで見送られる途中、彼ははっきりと自分の背中におようの来るのを感じながら、ふと自分が此の母子と運命を共にでもするようになったら、とそんな全然有り得なくもなさそうな人生の場面を胸のうちに描いたりした。

[#3字下げ]十四[#「十四」は中見出し]

 或る夕方、都築明は少し熱があるようなので、事務所を早目に切り上げ、真直に荻窪に帰って来た。大抵事務所の帰りの早い時にはおよう達を見舞って来たりするので、こんなにあかるいうちに荻窪の駅に下りたのは珍らしい事だった。電車から下りて、茜色《あかねいろ》をした細長い雲が色づいた雑木林の上に一面に拡がっている西空へしばらくうっとりと目を上げていたが、彼は急にはげしく咳き込み出した。するとプラットフォームの端に向うむきに佇《たたず》んで何か考え事でもしていたような、背の低い、勤人らしい男がひどくびっくりしたように彼の方をふり向いた。明はそれに気がついたとき何処か見覚えのある人だと思った。が、彼は苦しい咳の発作を抑えるために、その人に見られるが儘になりながら、背をこごめたきりでいた。漸《ようや》くその発作が鎮まると、そのときはもうその人の事を忘れたように階段の方へ歩いて行ったが、それへ足をかけようとした途端、不意といまの人が菜穂子の夫のようだった事を思い出して、急いでふり返って見た。すると、その人は又、夕焼した空と黄ばんだ雑木林とを背景にして、さっきと同じような少し気の鬱《ふさ》いだ様子で、向うむきに佇んでいた。
「何か寂しそうだったな、あの人は……。」明はそう考えながら駅を出た。
「菜穂子さんでもどうかしたのではないかな? ひょっとすると病気かも知れない。この前見たときそんな気がした。それにしても、あの時はもっと取つき悪い人のように見えたが、案外好い人らしいな。何しろ、おれと来たら、何処か寂しそうなところのない人間は全然取つけないからなあ。……」
 明は自分の下宿に帰ると、咳の発作を怖れてすぐには服を脱ぎ換えようともしないで、西を向いた窓に腰かけた儘、事によると菜穂子さんは何処かずっと此の西の方にある、遠い場所で、自分なんぞの思い設けないような不為合《ふしあわ》せな暮らし方でもしているのではないかと考えながら、生れて初めてそちらへ目をやるように、夕焼けした空や黄ばんだ木々の梢などを眺めていた。空の色はそのうちに変り始めた。明はその色の変化を見ているうちに、急にたまらないほど悪寒を感じ出した。

 黒川圭介は、その時もまださっきと同じ考え事をしているような様子で、夕焼けした西空に向いながら、プラットフォームの端にぼんやりと突立っていた。彼はさっきからもう何台となく電車をやり過していた。しかし人を待っているような様子でもなかった。その間、圭介がその不動に近い姿勢を崩したのは、さっき誰かが自分の背後でひどく咳き入っているのに思わずびっくりしてその方をふり向いた時だけだった。それは背の高い、痩《や》せぎすな未知の青年だったが、そんなひどい咳を聞いたのははじめてだった。圭介はそれから自分の妻がよく明け方になるとそれに稍《やや》近い咳き方で咳いていたのを思い出した。それから電車が何台か通り過ぎた後、突然、中央線の長い列車が地響きをさせながら素通りして行った。圭介ははっとしたような顔を上げ、まるで食い入るような眼つきで自分の前を通り過ぎる客車を一台一台見つめた。彼はもし見られたら、その客車内の人達の顔を一人一人見たそうだった。彼等は数時間の後には八ヶ岳の南麓《なんろく》を通過し、彼の妻のいる療養所の赤い屋根を車窓から見ようとおもえば見ることも出来るのだ。……
 黒川圭介は根が単純な男だったので、一度自分の妻がいかにも不為合《ふしあわ》せそうだと思い込んでからは、そうと彼に思い込ませた現在の儘《まま》の別居生活が続いているかぎりは、その考えが容易に彼を立ち去りそうもなかった。
 彼が山の療養所を訪れてから、一月《ひとつき》の余になって、社の用事などでいろいろと忙しい思いをし、それから何もかも忘れ去るような秋らしい気持ちのいい日が続き出してからも、まるで菜穂子を見舞ったのは、つい此の間の事のように、何もかもが記憶にはっきりとしていた。社での一日の仕事が終り、夕方の混雑の中を疲れ切っておもわず帰宅を急いでいる時など、ふと其処には妻がいない事を考えると、忽《たちま》ちあの雨にとざされた山の療養所であった事から、帰りの汽車の中で襲われた嵐の事から、何から何までが残らず記憶によみ返って来るのだった。菜穂子はいつも、何処かから彼をじっと見守っていた。急にその眼ざしがついそこにちらつき出すような気のする事もあった。彼はときどきはっと思って、電車の中に菜穂子に似た眼つきをした女がいたのかどうかと捜し出したりした。……
 彼は妻には手紙を書いた事が一遍もなかった。そんな事で自分の心が充たされようなどとは、彼のような男は思いもしなかったろう。又、たといそう思ったにしろ、すぐそれが実行できるような性質の男ではなかった。彼は母が菜穂子とときおり文通しているらしいのを知ってはいたが、それにも何んにも口出しをしなかった。そして菜穂子のいつも鉛筆でぞんざいに書いた手紙らしいのが来ていても、それを披《ひら》いて妻の文句を見ようともしなかった。唯、どうかするとちょいと気になるように、その上へいつまでも目を注いでいる事があった。そんな時には、彼は自分の妻が寝台の上に仰向いた儘、鉛筆でその痩せた頬を撫でながら、心にもない文句を考え考えその手紙を書いている、いかにも懶《ものう》そうな様子をぼんやりと思い浮べているのだった。
 圭介はそう云う自分の煩悶《はんもん》を誰にも打ち明けずにいたが、或日、彼は或先輩の送別会のあった会場を一人の気のおけない同僚と一しょに出ながら、不意と此の男なら何かと頼もしそうな気がして妻のことを打ち明けた。
「それは気の毒だな。」一杯機嫌の相手はいかにも彼に同情するように耳を傾けていたが、それから急に何を思ったのか、吐き出すように云った。「だが、そう云う女房は反って安心でいいだろう」
 圭介には最初相手の云った言葉の意味が分からなかった。が、彼はその同僚の細君が身持ちの悪いという以前からの噂を突然思い出した。圭介はもうその同僚に妻のことをそれ以上云い出さなかった。
 そのときそう云われた事が、圭介にはその夜じゅう何か胸に閊《つか》えているような気もちだった。彼はその夜は殆どまんじりともしないで妻のことを考え通していた。彼には、菜穂子のいまいる山の療養所がなんだか世の果てのようなところのように思えていた。自然の慰藉《いしゃ》と云うものを全然理解すべくもなかった彼には、その療養所を四方から取囲んでいるすべての山も森も高原も単に菜穂子の孤独を深め、それを世間から遮蔽《しゃへい》している障礙《しょうがい》のような気がしたばかりだった。そんな自然の牢《ひとや》にも近いものの中に、菜穂子は何か詮《あきら》め切ったように、ただ一人で空《くう》を見つめた儘、死の徐《しず》かに近づいて来るのを待っている。――
「何が安心でいい。」圭介は一人で寝た儘、暗がりの中で急に誰に対してともつかない怒りのようなものを湧き上がらせていた。
 圭介は余っ程母に云って菜穂子を東京へ連れ戻そうかと何遍決心しかけたか分からなかった。が、菜穂子がいなくなってから何かほっとして機嫌好さそうにしている母が、菜穂子の病状を楯《たて》にして、例の剛情さで何かと反対をとなえるだろう事を思うと、もううんざりして何んにも云い出す気がなくなるのだった。――それに菜穂子を連れ戻して来たって、母と妻とのこれまでの折合《おりあい》考えると、彼女の為合せのために自分が何をしてやれるか、圭介自身にも疑問だった。
 そして結局は、すべての事が今までの儘にされていたのだった。

 或|野分立《のわきだ》った日、圭介は荻窪の知人の葬式に出向いた帰《かえ》り途《みち》、駅で電車を待ちながら、夕日のあたったプラットフォームを一人で行ったり来たりしていた。そのとき突然、中央線の長い列車が一陣の風と共にプラットフォームに散らばっていた無数の落葉を舞い立たせながら、圭介の前を疾走して行った。圭介はそれが松本行の列車であることに漸《や》っと気がついた。彼はその長い列車が通り過ぎてしまった跡も、いつまでも舞い立っている落葉の中に、何か痛いような眼つきをしてその列車の去った方向を見送っていた。それが数時間の後には、信州へはいり、菜穂子のいる療養所の近くを今と同じような速力で通過することを思い描きながら。……
 生れつき意中の人の幻影をあてもなく追いながら町の中を一人でぶらついたりする事の出来なかった圭介は、思いがけずそのとき妻の存在が一瞬まざまざと全身で感ぜられたものだから、それからは屡々《しばしば》会社の帰りの早いときなどには東京駅からわざわざ荻窪の駅まで省線電車で行き、信州に向う夕方の列車の通過するまでじっとプラットフォームに待っていた。いつもその夕方の列車は、彼の足もとから無数の落葉を舞い立たせながら、一瞬にして通過し去った。その間、彼が食い入るような眼つきで一台一台見送っていたそれらの客車と共に、彼の内から一日じゅう何か彼を息づまらせていたものが俄《にわ》かに引き離され、何処へともなく運び去られるのを、彼は切ないほどはっきりと感ずるのだった。

[#3字下げ]十五[#「十五」は中見出し]

 山では秋らしく澄んだ日が続いていた。療養所のまわりには、どっちへ行っても日あたりの好い斜面がある。菜穂子は毎日日課の一つとして、いつも一人で気持ちよく其処此処を歩きながら、野茨《のいばら》の真赤な実なぞに目を愉《たの》しませていた。温かな午後には、牧場の方までその散歩を延ばして、柵《さく》を潜り抜け、芝草の上をゆっくりと踏みながら、真ん中に一本ぽつんと立った例の半分だけ朽ちた古い木にまだ黄ばんだ葉がいくらか残って日にちらちらしているのが見えるところまで歩いて行った。日の短くなる頃で、地上に印せられたその高い木の影も、彼女自身の影も、見る見るうちに異様に長くなった。それに気がつくと、彼女は漸っとその牧場から療養所の方へ帰って来た。彼女は自分の病気の事も、孤独の事も忘れていることが多かった。それほど、すべての事を忘れさせるような、人が一生のうちでそう何度も経験出来ないような、美しい、気散じな日々だった。
 しかし夜は寒く、淋しかった。下の村々から吹き上げてきた風が、この地の果てのような場所まで来ると、もう何処へいったらいいか分からなくなってしまったとでも云うように、療養所のまわりをいつまでもうろついていた。誰かが締めるのを忘れた硝子窓《ガラスまど》が、一晩中、ばたばた鳴っているような事もあった。……
 或日、菜穂子は一人の看護婦から、その春独断で療養所を出ていったあの若い農林技師がとうとう自分の病気を不治のものにさせて再び療養所に帰って来たという事を聞いた。彼女はその青年が療養所を立って行くときの、元気のいい、しかし青ざめ切った顔を思い浮べた。そしてそのときの何か決意したところのあるようなその青年の生き生きした眼ざしが彼を見送っていた他の患者達の姿のどれにも立ち勝って、強く彼女の心を動かした事まで思い出すと、彼女は何か他人事《ひとごと》でないような気がした。
 冬はすぐ其処まで来ているのだけれど、まだそれを気づかせないような温かな小春日和《こはるびより》が何日か続いていた。

[#3字下げ]十六[#「十六」は中見出し]

 おようは、二月《ふたつき》の余も病院で初枝を徹底的に診て貰っていたが、その効はなく、結局医者にも見放された恰好《かっこう》で、再び郷里に帰って行った。O村からは、牡丹屋の若い主婦《おかみ》さんがわざわざ迎えに来た。
 二週間ばかり建築事務所を休んでいた明は、それを知ると、喉《のど》に湿布をしながら、上野駅まで見送りに行った。初枝は、およう達に附添われて、車夫に背負われた儘《まま》、プラットフォームにはいって来た。明の姿を見かけると、きょうは殊更に血の気を頬に透かせていた。
「御機嫌よう。どうぞ貴方様もお大事に――」おようは、明の病人らしい様子を反って気づかわしそうに眺めながら、別れを告げた。
「僕は大丈夫です。事によったら冬休みに遊びに行きますから待っていて下さい」明はおようや初枝に寂しいほほ笑みを浮べて見せながら、そんな事を約束した。「では御機嫌よう」
 汽車はみるみる出て行った。汽車の去った跡、プラットフォームには急に冬らしくなった日差しがたよりなげに漂った。其処にぽつねんと一人残された明には、何か爽《さわ》やかな気分になり切れないものがあった。さて、これからどうしようかと云ったように、彼は何をするのも気だるそうに歩きだした。そして心の中でこんな事を考えていた。――結局は医者に見放されて郷里へ帰って行ったおようにも病人の初枝にも、さすがに何か淋しそうなところはあったけれども、それにしても世の中に絶望したような素振りは何処にも見られなかったではないか。寧《むし》ろ、二人ともO村へ早く帰れるようになったので、何かほっとして、いそいそとしているような安心な様子さえしていたではないか。此の人達には、それほど自分の村だとか家だとかが好いのだろうか?
「だが、そんなものの何んにもない此のおれは一体どうすれば好いのか? 此の頃のおれの心の空しさは何処から来ているのだ? ……」そう云う彼の心の空しさなど何事も知らないでいるようなおよう達に逢っていると、自分だけが誰にも附いて来られない自分勝手な道を一人きりで歩き出しているような不安を確めずにはいられなくなる一方、その間だけは何かと心の休まるのを覚えたのも事実だった。そのおよう達も遂に彼から去った今、彼の周囲で彼の心を紛わせてくれるものとてはもう誰一人いなくなった。そのとき彼は急に思い出したように烈《はげ》しい咳をしはじめ、それを抑えるために暫く背をこごめながら立ち止っていた。彼が漸《や》っとそれから背をもたげたときは、構内にはもう人影が疎《まば》らだった。「――いま事務所でおれにあてがわれている仕事なんぞは此のおれでなくったって出来る。そんな誰にだって出来そうな仕事を除いたら、おれの生活に一体何が残る? おれは自分が心からしたいと思った事をこれまでに何ひとつしたか? おれは何度今までにだって、いまの勤めを止め、何か独立の仕事をしたいと思ってそれを云い出しかけては、所長のいかにも自分を信頼しているような人の好さそうな笑顔を見ると、それもつい云いそびれて有耶無耶《うやむや》にしてしまったか分からない。そんな遠慮ばかりしていて一体おれはどうなる? おれはこんどの病気を口実に、しばらく又休暇を貰って、どこか旅にでも出て一人きりになって、自分が本気で求めているものは何か、おれはいま何にこんなに絶望しているのか、それを突き止めて来ることは出来ないものか? おれがこれまでに失ったと思っているものだって、おれは果してそれを本気で求めていたと云えるか? 菜穂子にしろ、早苗にしろ、それからいま去って行ったおよう達にしろ、……」
 そう明は沈鬱《ちんうつ》な顔つきで考え続けながら、冬らしい日差しのちらちらしている構内を少し背をこごめ気味にして歩いて行った。

[#3字下げ]十七[#「十七」は中見出し]

 八ヶ岳にはもう雪が見られるようになった。それでも菜穂子は、晴れた日などには、秋からの日課の散歩を廃《よ》さなかった。しかし太陽が赫《かがや》いて地上をいくら温めても、前日の凍《こご》えからすっかりそれをよみ返らせられないような、高原の冬の日々だった。白い毛の外套《がいとう》に身を包んだ彼女は、自分の足の下で、凍えた草のひび割れる音をきくような事もあった。それでもときおりは、もう牛や馬の影の見えない牧場の中へはいって、あの半ば立ち枯れた古い木の見えるところまで、冷い風に髪をなぶられながら行った。その一方の梢にはまだ枯葉が数枚残り、透明な冬空の唯一の汚点となった儘、自らの衰弱のためにもう顫《ふる》えが止まらなくなったように絶えず顫えているのを暫く見上げていた。それから彼女はおもわず深い溜息《ためいき》をつき療養所へ戻って来た。
 十二月になってからは、曇った、底冷えのする日ばかり続いた。この冬になってから、山々が何日も続いて雪雲に蔽《おお》われていることはあっても、山麓《さんろく》にはまだ一度も雪は訪れずにいた。それが気圧を重くるしくし、療養所の患者達の気をめいらせていた。菜穂子ももう散歩に出る元気はなかった。終日、開け放した寒い病室の真ん中の寝台にもぐり込んだ儘、毛布から目だけ出して、顔じゅうに痛いような外気を感じながら、暖炉が愉《たの》しそうに音を立てている何処かの小さな気持ちのいい料理店の匂だとか、其処を出てから町裏の程よく落葉の散らばった並木道をそぞろ歩きする一時《ひととき》の快さなどを心に浮べて、そんななんでもないけれども、いかにも張り合いのある生活がまだ自分にも残されているように考えられたり、又時とすると、自分の前途にはもう何んにも無いような気がしたりした。何一つ期待することもないように思われるのだった。
「一体、わたしはもう一生を終えてしまったのかしら?」と彼女はぎょっとして考えた。「誰かわたしにこれから何をしたらいいか、それともこの儘何もかも詮《あきら》めてしまうほかはないのか、教えて呉れる者はいないのかしら? ……」

 或日、菜穂子はそんなとりとめのない考えから看護婦に呼《よ》び醒《さ》まされた。
「御面会の方がいらしっていますけれど……」看護婦は彼女に笑を含んだ目で同意を求め、それから扉の外へ「どうぞ」と声をかけた。
 扉の外から、急に聞き馴れない、烈しい咳きの声が聞え出した。菜穂子は誰だろうと不安そうに待っていた。やがて彼女は戸口に立った、背の高い、痩《や》せ細《ほそ》った青年の姿を認めた。
「まあ、明さん。」菜穂子は何か咎《とが》めるようなきびしい目つきで、思いがけない都築明のはいって来るのを迎えた。
 明は戸口に立った儘《まま》、そんな彼女の目つきに狼狽《うろた》えたような様子で、鯱張《しゃちほこば》ったお辞儀をした。それから相手の視線を避けるように病室の中を大きな眼をして見廻わしながら、外套《がいとう》を脱ごうとして再び烈《はげ》しく咳き入っていた。
 寝台に寝た儘、菜穂子は見かねたように云った。「寒いから、着たままでいらっしゃい。」
 明はそう云われると、素直に半分脱ぎかけた外套を再び着直して、寝台の上の菜穂子の方へ笑いかけもせず見つめた儘、次いで彼女から云われる何かの指図を待つかのように突立っていた。
 彼女は改めてそう云う相手の昔とそっくりな、おとなしい、悪気のない様子を見ていると、なぜか痙攣《けいれん》が自分の喉元《のどもと》を締めつけるような気がした。しかし又、此の数年の間、――殊に彼女が結婚してからは殆ど音沙汰のなかった明が、何のためにこんな冬の日に突然山の療養所まで訪ねて来るような気になったのか、それが分からないうちは彼女はそう云う相手の悪気のなさそうな様子にも何か絶えずいらいらし続けていなければならなかった。
「そこいらにお掛けになるといいわ」菜穂子は寝たまま、いかにも冷やかな目つきで椅子を示しながら、そう云うのが漸《や》っとだった。
「ええ」と明はちらりと彼女の横顔へ目を投げ、それから又急いで目を外《そ》らせるようにしながら、端近い革張の椅子に腰を下ろした。「此処へ来ていらっしゃるという事を旅の出がけに聞いたので、汽車の中で急に思い立ってお立寄りしたのです」と彼は自分の掌で痩《や》せた頬を撫でながら云った。
「何処へいらっしゃるの?」彼女は相変らずいらいらした様子で訊《き》いた。
「別に何処って……」と明は自問自答するように口籠《くちごも》っていた。それから突然目を思い切り大きく見ひらいて、自分の云いたい事を云おうと思う前には、相手も何もないかのような語気で云った。「急に何処というあてもない冬の旅がしたくなったのです。」
 菜穂子はそれを聞くと、急に一種のにが笑いに近いものを浮べた。それは少女の頃からの彼女の癖で、いつも相手の明なんぞのうちに少年特有な夢みるような態度や言葉が現われると、彼女はそう云う相手を好んでそれで揶揄《やゆ》したものだった。
 菜穂子はいまも自分がそんな少女の頃に癖になっていたような表情をひとりでに浮べている事に気がつくと、いつの間にか自分のうちにも昔の自分がよみ返って来たような、妙に弾んだ気持ちを覚えた。が、それもほんの一瞬で、明が又さっきのように烈しく咳き込み出したので、彼女は思わず眉をひそめた。
「こんなに咳ばかりしていて此の人はまあ何んで無茶なんだろう、そんな為《し》なくとも好い旅に出て来るなんて……」菜穂子は他人事《ひとごと》ながらそんな事も思った。
 それから彼女は再び元の冷やかな目つきになりながら云った。「お風邪でも引いていらっしゃるんじゃない? それなのに、こんな寒い日に旅行なんぞなすってよろしいの?」
「大丈夫です。」明は何か上の空で返事をするような調子で返事をした。「ちょっと喉をやられているだけですから。雪のなかへ行けば反って好くなりそうな気がするんです。」
 そのとき彼は心の一方でこんな事を考えていた。――「おれは菜穂子さんに逢って見たいなんぞとはこれまでついぞ考えもしなかったのに、何故さっき汽車のなかで思い立つと、すぐその気になって、何年も逢わない菜穂子さんをこんなところに訪れるような真似が出来たんだろう。おれは菜穂子さんがいまどんな風にしているか、すっかり昔と変ってしまったか、それともまだ変らないでいるか、そんな事なぞちっとも知りたかあなかった。只、ほんの一瞬間、昔のようにお互に怒ったような眼つきで眼を見合わせて、それだけで帰るつもりだった。それだのに、此の人に逢っていると又昔のように、向うですげなくすればするほど、自分の痕《きず》を相手にぎゅうぎゅう捺《お》しつけなくては気がすまなくなって来そうだ。そう、おれはもう最初の目的を達したのだから、早く帰った方がいい。……」
 明はそう考えると急に立ち上って、菜穂子の寝ている横顔を見ながら、もじもじし出した。しかし、どうしてもすぐ帰るとは云い出せずに、少し咳払いをした。こんどは空咳だった。
「雪はまだなんですね?」明は菜穂子の方を同意を求めるような眼つきで見ながら、露台の方へ出て行った。そして半開きになった扉の傍に立ち止って、寒そうな恰好《かっこう》をして山や森を眺めていたが、暫くしてから彼女の方へ向って云った。「雪があると此の辺はいいんでしょうね。僕はもうこっちは雪かと思っていました。……」
 それから彼は漸っと思い切ったように露台に出て行った。そしてその手すりに手をかけて、背なかを丸くした儘、其処からよく見える山や森へ何か熱心に目をやっていた。
「あの人は昔の儘だ。」菜穂子はそう思いながら、いつまでも露台で同じような恰好をして同じところへ目をやっているような明の後姿をじっと見守っていた。昔からその明には、人一倍内気で弱々しげに見える癖に、いざとなるとなかなか剛情になり、自分のしたいと思う事は何でもしてしまおうとするような烈しい一面もあって、どうかするとそんな相手に彼女もときどき手古摺《てこず》らされた事のあったのを、彼女はその間何んという事もなしに思い出していた。……
 そのとき露台から明が不意に彼女の方へふり向いた。そして彼女が自分に向って何か笑いかけたそうにしているのに気がつくと、まぶしそうな顔をしながら、手すりから手を離して部屋の方へはいって来た。彼女は彼に向ってつい口から出るが儘に云った。「明さんは羨《うらや》ましいほど、昔と変らないようね。……でも、女はつまらない、結婚するとすぐ変ってしまうから。……」
「あなたでもお変りになりましたか?」明は何んだか意外なように、急に立ち止って、そう問い返した。
 菜穂子はそう率直に反問されると、急に半ばごまかすような、半ば自嘲するような笑いを浮べた。「明さんにはどう見えて?」
「さあ……」明は本当に困惑したような目つきで彼女を見返しながら口籠《くちごも》っていた。「……なんて云っていいんだか難しいなあ。」
 そう口では云いながら、彼は胸のうちで此の人は矢っ張誰にも理解して貰えずにきっと不為合《ふしあわ》せなのかも知れないと思った。彼は何も結婚後の菜穂子の事をたずねる気もしなかったし、又、そんな事はとても自分などには打明けてくれないだろうと思ったけれど、菜穂子の事なら今の自分にはどんな事でも分かってやれるような気がした。昔は彼女のする事が何もかも分からないように思われた一時期もないではなかったが、今ならば菜穂子がどんな心の中の辿《たど》りにくい道程を彼に聞かせても、何処までも自分だけはそれについて行けそうな気がした。……
「此の人はそれが誰にも分かって貰えないと思い込んで、苦しんでいるのではなかろうか?」と明は考え続けた。「菜穂子さんだって、昔はいつも僕の夢みがちなのを嫌ってばかりいたが、やっぱり自分だって夢をもっていたんだ、あの僕の大好きだった菜穂子さんのお母さんのように……。それがこんな勝気な人だものだから、心の底の底にその夢がとじこめられた儘、誰にも気づかれずにいたのだ、当の菜穂子さんにだって。……しかし、その夢はまあどんなに思いがけない夢だろうか? ……」
 明はそんな風な想念を眼ざしに籠《こ》めながら、菜穂子の上へじっとその眼を据えていた。
 彼女はしかしその間、目をつぶった儘《まま》、何か自身の考えに沈んでいた。ときどき痙攣《けいれん》のようなものが彼女の痩《や》せた頸《くび》の上を走っていた。
 明はそのとき不意といつか荻窪の駅で彼女の夫らしい姿を見かけた事を思い出し、それを菜穂子に帰りがけにちょっと云って行こうとしかけたが、急にそれは云わない方がいいような気がして途中でやめてしまった。そしてさあもう帰らなければと決心して、彼は二三歩寝台の方へ近づき、ちょっともじもじした様子でその傍に立った儘、
「僕、もう……」とだけ言葉を掛けた。
 菜穂子はさっきと同じように目をつぶった儘、相手が何を云い出そうとしているのか待っていたが、それきり何も云わないので、目をあけて彼の方を見て漸《や》っと彼が帰り支度をしているのに気がついた。
「もうお帰りになるの?」菜穂子は驚いたようにそれを見て、あまりあっけない別れ方だと思ったが、べつに引き留めもしないで、寧《むし》ろ何物かから釈《と》き放《はな》されるような感情を味いながら、相手に向って云った。「汽車は何時なの?」
「さあ、それは見て来なかったなあ。だけど、こんな旅だから、何時になったって構いません。」明はそう云いながら、はいって来たときと同様に、鯱張《しゃちほこば》ってお辞儀をした。「どうぞお大事に……」
 菜穂子はそのお辞儀の仕方を見ると、突然、明が彼女の前に立ち現われたときから何かしら自分自身に佯《いつわ》っていた感情のある事を鋭く自覚した。そして何かそれを悔いるかのように、いままでにない柔かな調子で最後の言葉をかけた。
「本当にあなたも御無理なさらないでね……」
「ええ……」明も元気そうに答えながら、最後にもう一度彼女の方へ大きい眼を注いで、扉の外へ出て行った。
 やがて扉の向うに、明が再びはげしく咳き込みながら立ち去って行くらしい気配がした。菜穂子は一人になると、さっきから心に滲《にじ》み出《だ》していた後悔らしいものを急にはっきりと感じ出した。

[#3字下げ]十八[#「十八」は中見出し]

 冬空を過《よぎ》った一つの鳥かげのように、自分の前をちらりと通りすぎただけでその儘消え去るかと見えた一人の旅びと、……その不安そうな姿が時の立つにつれていよいよ深くなる痕跡《きずあと》を菜穂子の上に印したのだった。その日、明が帰って行った後、彼女はいつまでも何かわけのわからない一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。最初、それは何か明に対して或感情を佯っているかのような漠然とした感じに過ぎなかった。彼が自分の前にいる間じゅう、彼女は相手に対してとも自分自身に対してともつかず始終|苛《い》ら立《だ》っていた。彼女は、昔、少年の頃の相手が彼女によくそうしたように、今も自分の痕を彼女の心にぎゅうぎゅう捺《お》しつけようとしているような気がされて、そのために苛ら苛らしていたばかりではなかった。――それ以上にそれが彼女を困惑させていた。云って見れば、それが現在の彼女の、不為合《ふしあわ》せなりに、一先ず落《お》ち著《つ》くところに落ち著いているような日々を脅《おびや》かそうとしているのが漠然と感ぜられ出していたのだ。彼女よりももっと痛めつけられている身体でもって、傷いた翼でもっともっと翔《か》けようとしている鳥のように、自分の生を最後まで試みようとしている、以前の彼女だったら眉をひそめただけであったかも知れないような相手の明が、その再会の間、屡々《しばしば》彼女の現在の絶望に近い生き方以上に真摯《しんし》であるように感ぜられながら、その感じをどうしても相手の目の前では相手にどころか自分自身にさえはっきり肯定しようとはしなかったのだった。
 菜穂子は自分のそう云う一種の瞞著《まんちゃく》を、それから二三日してから、はじめて自分に白状した。何故あんなに相手にすげなくして、旅の途中にわざわざ立寄って呉れたものを心からの言葉ひとつ掛けてやれずに帰らせてしまったのか、とその日の自分がいかにも大人気《おとなげ》ないように思われたりした。――しかし、そう思う今でさえ、彼女の内には、若《も》し自分がそのとき素直に明に頭を下げてしまって居たら、ひょっとしてもう一度彼と出逢うような事のあった場合、そのとき自分はどんなに惨《みじ》めな思いをしなければならないだろうと考えて、一方では思わず何かほっとしているような気持ちもないわけではなかった。……
 菜穂子が今の孤独な自分がいかに惨めであるかを切実な問題として考えるようになったのは、本当に此の時からだと云ってよかった。彼女は、丁度病人が自分の衰弱を調べるためにその痩せさらばえた頬へ最初はおずおずと手をやってそれを優しく撫で出すように、自分の惨めさを徐々に自分の考えに浮べはじめた。彼女には、まだしも愉《たの》しかった少女時代を除いては、その後彼女の母なんぞのように、一つの思出だけで後半生を充たすに足りるような精神上の出来事にも出逢わず、又、将来だっていまの儘では何等期待するほどのことは起りそうもないように思われる。現在をいえば、為合せなんぞと云うものからは遥かに遠く、とは云え此の世の誰よりも不為合せだと云うほどのことでもない。只、こんな孤独の奥で、一種の心の落ち著きに近いものは得ているものの、それとてこうして陰惨な冬の日々にも堪えていなければならない山の生活の無聊《ぶりょう》に比べればどんなに報《むく》いの少ないものか。殊に明があんなに前途に不安そうな様子をしながら、しかもなお自分の生のぎりぎりのところまで行って自分の夢の限界を突き止めて来ようとしているような真摯さの前では、どんなに自分のいまの生活はごまかしの多いものであるか。それでも自分はまだ此の先の日々に何か恃《たの》むものがあるように自分を説き伏せて此の儘こうした無為の日々を過していなければならないのか。それとも本当に其処に何か自分をよみ返らして呉れるようなものがあるのであろうか。……
 菜穂子の考えはいつもそうやって自分の惨めさに突き当った儘、そこで空しい逡巡《しゅんじゅん》を重ねている事が多かった。
(つづく)


底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」(「目覚め」の表題で。)
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [東京]
  • 大森 おおもり 東京都大田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 築地 つきじ 東京都中央区の一地区。銀座の南東に続く一帯。明暦の大火(1657年)後、低湿地を埋め立てて築地と称し、明治初年、一部を外国人の居留地とした。
  • 荻窪 おぎくぼ 東京都杉並区西部の地名。JR中央線・地下鉄丸の内線が通じる住宅・商業地域。
  • 上野駅 うえのえき 上野にあるJRの主要な駅の一つ。主に東北・上信越方面からの玄関口として発達。1883年(明治16)9月開業。
  • 上野 うえの (1) 東京都台東区西部地区の名。江戸時代以来の繁華街・行楽地。
  • [信州] しんしゅう 信濃国の別称。いまの長野県。科野。信州。
  • O村
  • 牡丹屋 ぼたんや
  • 八ヶ岳 やつがたけ 富士火山帯中の成層火山。長野県茅野市・南佐久郡・諏訪郡と山梨県北杜市にまたがる。赤岳(2899メートル)を最高峰として、硫黄岳・横岳・権現岳など8峰が連なり、山麓斜面が広く、高冷地野菜栽培が盛ん。尖石など先史遺跡が分布。
  • 松本 まつもと 長野県の中西部、松本盆地から岐阜県境にある市。もと戸田氏6万石の城下町。松本城(深志城)天守閣は国宝。もと信濃国府の地で、信府と称した。上高地・乗鞍高原・美ヶ原などの観光地への基地。人口22万8千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 菜穂子 なおこ 旧姓三村。
  • 黒川圭介 菜穂子の夫。
  • およう 牡丹屋の主人の姉。
  • 初枝 おようの娘。
  • 都築明 つづき あきら
  • 早苗 綿屋の娘。明の恋人。初枝の幼なじみ。
  • 若い巡査


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • まんじり (1) (多く、打消の語を伴う) ちょっと眠るさま。まどろむさま。(2) じっと。まじまじと。
  • 安逸・安佚 あんいつ (1) 安んじて楽しむこと。(2) 何もしないで遊び暮らすこと。
  • こごめる 屈める。かがませる。かがめる。
  • 咳き入る せきいる 激しく続けざまに咳をする。せきこむ。
  • 煩悶 はんもん わずらいもだえること。もだえ苦しむこと。
  • 慰藉 いしゃ 慰めいたわること。同情して慰めること。
  • 野分立つ のわきたつ 野分が吹く。
  • 野分 のわき (野の草をわけて吹く意) 二百十日・二百二十日前後に吹く暴風。台風。また、秋から初冬にかけて吹く強い風。
  • 省線 しょうせん (1) 鉄道省の経営した汽車または電車の線路。鉄道院時代には院線と言った。(2) 省線電車の略。国鉄時代の国電に相当する。
  • 気散じ きさんじ (1) 心の憂さをまぎらすこと。きばらし。(2) 気苦労のないこと。気楽なこと。のんき。
  • ぽつねん ひとりだけで寂しそうに居るさま。
  • 咳き入る せきいる 激しく続けざまに咳をする。せきこむ。
  • 瞞着 まんちゃく あざむくこと。ごまかすこと。人の目をくらますこと。
  • 無聊 ぶりょう (1) 心配事があって楽しくないこと。(2) つれづれなこと。たいくつ。
  • 逡巡 しゅんじゅん ぐずぐずすること。ためらうこと。しりごみすること。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


「宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)」。
 聞き覚えのある名前だと思ってバックナンバーを検索してみると、大川周明『清河八郎』に登場する。

文久元年(一八六一)一二月
「その夜、平野はひそかに八郎に向かって、肥後の人間は表面のみ飾って実意がないから油断ができぬ、いわゆる肥後の議論だおれである、松村父子および川上彦斎(げんさい)などは例外として、大成の弟永鳥三平をはじめ、大野鉄兵衛・宮部鼎蔵・轟(とどろき)武兵衛(ぶへい)など、みな高名の有志ではあるが、必死の覚悟は疑わしいと注意し、かつ鎮西の人物は真木に越す者ないと告げた。はたして八日朝に川上彦斎だけは来会したが、その他の有志は一つも見えなかった。」
「二十八日、肥後の有志轟武兵衛・愛敬左司馬・末松源太郎・松村深蔵・川上彦斎らが、永鳥三平の家に会し、宮部鼎蔵も五里の田舎から出てきて座に列した。はたして意見があわず、八郎は「とてもご決心なきところに長々とまかりおるにもおよばず」と言って別れを告げた。」

文久二年(一八六二)一月
「十五日には宮部鼎蔵・松村深蔵が肥後から上洛した。轟武兵衛の口供書にあるとおり、八郎遊説の虚実を探るために来たのである。(略)宮部・松村両人は忠愛(ただなる)卿の書簡を賜わり、真木・小河・安積にあてたる八郎の書簡をたずさえ、鎮西の義気をはげまして八郎らの西下を待つべく帰途についた。」
一月二二日ごろ 鼎蔵、帰熊。三平宅に集会をもよおし、早々京都の様子をうけたまわるに、かの地の事状は八郎らが噂よりもはなはだしく。
(以上、『週刊ミルクティー*第二巻 第四〇号』「清河八郎(三)大川周明」より)

文久3年(1863)4月、京都見廻組の佐々木只三郎らにより清河八郎、暗殺。
元治元年(1864)6月、池田屋事件。宮部鼎蔵ら死去。




*次週予告


第五巻 第三四号 
菜穂子(五)堀 辰雄


第五巻 第三四号は、
二〇一三年三月一六日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第三三号
菜穂子(四)堀 辰雄
発行:二〇一三年三月九日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
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