堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
菜穂子(三) 堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
菜穂子(三)

オリジナル版
菜穂子(三)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4805.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





菜穂子(三)

堀 辰雄

  菜穂子

   一


「やっぱり菜穂子さんだ。」おもわず都築つづきあきらは立ち止まりながら、ふりかえった。
 すれちがうまでは菜穂子さんのようでもあり、そうでないようにも思えたりして、彼は考えていたが、すれちがったとき、急にもうどうしても菜穂子さんだという気がした。
 あきらはしばらく目まぐるしい往来の中に立ち止まったまま、もうかなり行きすぎてしまった白い毛の外套がいとうを着た一人の女と、そのれの夫らしい姿を見送っていた。そのうちに突然、その女のほうでも、今すれちがったのは誰だか知った人のようだったとやっと気づいたかのように、彼のほうをふり向いたようだった。夫も、それにつられたように、こっちをちょいとふり向いた。その途端とたん、通行人の一人が明に肩をぶつけ、うつけたようにたたずんでいた背の高い彼を思わずよろめかした。
 明がそれからやっと立ちなおったときは、もうさっきの二人は人込ひとごみの中に姿を消していた。
 何年ぶりかで見た菜穂子は、なにか目に立って憔悴しょうすいしていた。白い毛の外套がいとうに身をつつんで、並んで歩いている彼女よりも背の低い夫には無頓着むとんじゃくそうに、考えごとでもしているように、まっすぐを見たままで足早に歩いていた。一度、夫がなにか彼女に話しかけたようだったが、それは彼女にチラリとさげすむような頬笑ほほみを浮かべさせただけだった。――都築明は自分のほうへ向かってくる人込みの中に目ざとくそういう二人の姿を見かけ、菜穂子さんを見るような人だがと思い出すと、にわかに胸の動悸どうきが高まった。彼がその白い外套がいとうの女から目を離さずに歩いて行くと、向こうでも一瞬、彼のほうをいぶかしそうに見つめ出したようだった。しかし、なんとなくこちらを見ていながら、まだ何も気づかないでいる間のような、空虚な眼ざしだった。それでも明はその宙に浮いた眼ざしを支えきれないように、思わずそれから目をそらせた。そして彼がちょいとなんでもないほうを見ているひまに、彼女はとうとう目の前の彼にそれとは気づかずに、夫といっしょにすれちがって行ってしまったのだった……。
 明はそれからその二人とは反対の方向へ、なぜ、自分だけがそっちへ向かって歩いて行かなければならないのか急にわからなくなりでもしたかのように、ぜんぜん気がすすまぬように歩いて行った。こうして人込みの中を歩いているのが、突然なんの意味もなくなってしまったかのようだった。毎晩、彼の勤めている建築事務所からまっすぐに荻窪おぎくぼの下宿へ帰らずに、何時間もこういう銀座の人込みの中でなんということもなしにすごしていたのが、今まではともかくも一つの目的を持っていたのに、その目的がもう永久に彼から失われてしまったとでもいうかのようだった。
 今いる町のなかは、三月なかばの、冷え冷えと曇り立ったがただった。
「なんだが〔なんだか〕菜穂子さんは、あんまりしあわせそうにも見えなかったな」と明は考え続けながら、有楽町駅のほうへ足を向け出した。「だが、そんなことを勝手に考えたりするオレのほうがよっぽどどうかしている。まるで人のふしあわせになったほうが自分の気に入るみたいじゃないか……。

   二


 都築明は去年の春、私立大学の建築科を卒業してから、ある建築事務所に勤め出していた。彼は毎日、荻窪の下宿から、銀座のあるビルディングの五階にあるその建築事務所へ通ってきては、几帳面きちょうめんに病院や公会堂なぞの設計に向かっていた。この一年間というもの、ときにはそんな設計の仕事に全身をうばわれることはあっても、しかし彼は、心からそれを楽しいと思ったことは一度もなかった。
「おまえはこんなところで何をしている?」ときどき、何物なにものかの声が彼にささやいた。
 このあいだ、彼がもう二度と胸に思い描くまいと心にちかっていた菜穂子に、はからずも町なかで出逢であったときのことは、誰にとて話す相手もなく、ただ彼の胸のうちに深い感動として残された。そして、それがもうそこを離れなかった。あの銀座の雑踏ざっとう、夕方のにおい、いっしょにいた夫らしい男、まだそれらのものをありありと見ることができた。あの白い毛の外套がいとうに身をつつんでくうを見ながら歩きすぎたその人も、―ことに、その空を見入っていたようなあのときの眼ざしが、いまだにそれを思い浮かべただけでも、それから彼が目をそらせずにはいられなくなるくらい、なにか痛々いたいたしい感じで、はっきりと思い出されるのだった。――昔から菜穂子はなにか気に入らないことでもあると、誰の前でもかまわずにあんな空虚な眼ざしをしだす習癖のあったことを、彼はある日、ふと何かのことから思い出した。
「そうだ、こないだあの人がなんだがふしあわせなような気がひょいとしたのは、事によるとあのときの、あの人の眼つきのせいだったのかも知れない。
 都築明はそんなことを考え出しながら、しばらく製図の手を休めて、事務所の窓から町の屋根だの、その彼方かなたにあるうす曇った空だのを、ぼんやりとながめていた。そんなとき、不意に自分の楽しかった少年時代のことなんぞがよみがえってきたりすると、明はもう仕事に身を入れず、どうにもしようがないように、そういう追憶に自分をまかせきっていた。……

 そのかがやかしい少年の日々は、七つのとき両親を失くした明をひきとって育ててくれた独身者の叔母おばの小さな別荘のあった信州のO村と、そこですごした数回の夏休みと、その村の隣人であった三村家の人々、―ことに彼と同じ年の菜穂子とがその中心になっていた。明と菜穂子とはよくテニスをしに行ったり、自転車に乗って遠乗りをしてきたりした。が、そのころからすでに、本能的に夢を見ようとする少年と、反対にそれから目醒めざめようとする少女とが、その村を舞台にして、たがいに見えつかくれつしながら真剣に鬼ごっこをしていたのだった。そしていつもその鬼ごっこから置きざりにされるのは少年のほうであった。……
 ある夏の日のこと、有名な作家のもり於菟彦おとひこが突然、彼らの前に姿を現わした。高原の避暑地として知られた隣村のMホテルにしばらく保養にきていたのだった。三村夫人は偶然そのホテルで、旧知の彼に出会って、つい長い間よもやまの話をしあった。それから二、三日してから、O村へのおりからの夕立ゆうだちをおかしての彼の訪れ、養蚕をしている村への菜穂子や明をまじえての雨後の散歩、村はずれでのたのしいほど期待にみちた別れ――、それだけの出会いが、すでに人生に疲弊したようなこの孤独な作家を急に若返らせでもさせたような、異様な亢奮こうふんをあたえずにはおかなかったように見えた。……
 翌年の夏もまた、隣村のホテルに保養にきていたこの孤独な作家は、不意にO村へも訪ねてきたりした。そのころから、三村夫人が彼女のまわりにひろげ出していた一種の悲劇的な雰囲気は、なにか理由がわからないなりにも明の好奇心をひいて、それを夫人のほうへばかり向けさせていた間、彼はそれと同じ影響が、菜穂子から今までの快活な少女を急に抜け出させてしまったことにはすこしも気がつかなかった。そして明がやっとそういう菜穂子の変化に気づいたときは、彼女はすでに彼からはほとんど手の届かないようなところに行ってしまっていた。この勝ち気な少女は、その間じゅう、一人で誰にも打ち明けられぬ苦しみを苦しみぬいて、そのあげく、もう元どおりの少女ではなくなっていたのだった。
 その前後からして、彼の輝かしかった少年の日々は急にかげり出していた。……
 ある日、所長が事務所の戸を開けて入ってきた。
都築つづき君。
 と所長は、明のそばにも近づいてきた。明の沈鬱ちんうつな顔つきがその人をおどろかせたらしかった。
「君は青い顔をしている。どこか悪いんじゃないか?」
「いいえ、べつに」と、明はなんだか気まりの悪そうな様子で答えた。前にはもっと入念に仕事をしていたではないか、どうしてこう熱意がなくなったのだ、と所長の眼がたずねているように彼には見えた。
「無理をして身体をこわしてはつまらん」しかし所長は、思いのほかのことを言った。
一月ひとつきでも二月ふたつきでも、休暇をあげるから田舎へ行ってきてはどうだ?」
「じつはそれよりも――」と明はすこし言いにくそうに言いかけたが、急に彼独特の人なつこそうな笑顔にまぎらわせた。「――が、田舎へ行かれるのはいいなあ。
 所長もそれにつりこまれたような笑顔を見せた。
「今の仕事がしあがりしだい行きたまえ」
「ええ、たいていそうさせてもらいます。じつはもう、そんなことは自分には許されないのかと思っていたのです……。
 明はそう答えながら、さっき思い切って所長にこの事務所をやめさせてくださいと言い出しかけて、それを途中で止めてしまった自分のことを考えた。今の仕事をやめてしまって、さてその自分にすぐ新しい人生をみなおす気力があるかどうか自分自身にもわかっていないことに気づくと、こんどは所長の勧告にしたがって、しばらくどこかへ行って養生してこよう、そうしたら自分の考えも変わるだろうと、とっさに思いついたのだった。
 明は一人になると、また沈欝な顔つきになって、人のよさそうな所長が彼のそばを去ってゆく後姿を、何か感謝にちた目でながめていた。

   三


 三村菜穂子が結婚したのは、今から三年前の冬、彼女の二十五のときだった。
 結婚した相手の男、黒川圭介は、彼女より十も年上で、高商こうしょう出身の、ある商事会社に勤務している、世間並にできあがった男だった。圭介は長いこと独身で、もう十年も後家を立て通した母と二人きりで、大森のある坂の上にある、元銀行家だった父の遺して行った古い屋敷に地味に暮らしていた。その屋敷をとりかこんだ数本のしいの木は、植木好きだった父をいつまでも思い出させるような恰好かっこうをして枝をひろげたまま、世間からこの母と子の平和な暮らしを安全に守っているように見えた。圭介はいつも勤め先からの帰りみち、夕方、折鞄おりかばんをかかえて坂をのぼってきて、わが家の椎の木が見え出すと、なにかホッとしながら思わず足早になるのが常だった。そして晩飯のあとも、夕刊をひざの上に置いたまま、長火鉢ながひばちをへだてて母や新妻を相手にしながら、何時間も暮らし向きの話などをしつづけていた。――菜穂子は結婚した当座は、そういう張りあいのないくらいに静かな暮らしにも、格別不満らしいものを感じているような様子はなかった。
 ただ、莱穂子の昔を知っている友達たちは、なぜ彼女が結婚の相手にそんな世間並の男を選んだのか、みな不思議がった。が、誰一人、それはその当時彼女をおびやかしていた不安な生から逃れるためだったことを知るものはなかった。――そして結婚してから一年近くというものは、菜穂子は自分が結婚をあやまたなかったと信じていられた。他人の家庭は、その平和がいかによそよそしいものであろうとも、彼女にとっては恰好かっこうの避難所であった。すくなくとも当時の彼女にはそう思えた。が、その翌年の秋、菜穂子の結婚から深い心の傷手いたでを負うたように見えた彼女の母の、三村夫人が突然狭心症でなくなってしまうと、急に菜穂子は自分の結婚生活が、これまでのようなちつきをうしない出したのを感じた。しずかに、今のままのよそよそしい生活にえていようという気力がなくなったのではなく、そのように自己をいつわってまで、それにえている理由がすこしもなくなってしまったように思えたのだ。
 菜穂子は、それでも最初のうちは、なにかをやっとえるような様子をしながらも、いままでどおり何のこともなさそうに暮らしていた。夫の圭介は、あいかわらず、晩飯後も茶の間を離れず、このごろはたいてい母とばかり暮らし向きの話などをしながら、何時間もすごしていた。そしていつも話の圏外に置きざりにされている菜穂子にはほとんど無頓着むとんじゃくそうに見えたが、圭介の母は女だけに、そういう菜穂子の落ちつかない様子にいつまでも気づかないでいるようなことはなかった。彼女のよめがいまのままの生活になにか不満そうにしだしていることが、(彼女にはなぜかわからなかったが)しまいには自分たちの一家の空気をも重苦しいものにさせかねないことを何よりもおそれだしていた。
 このごろは夜中などに、菜穂子がいつまでも眠れないでついせきなどをしたりすると、隣の部屋に寝ている圭介の母はすぐ目をさました。そうすると彼女はもう眠れなくなるらしかった。しかし、圭介や他のものの物音で目をさましたようなときは、かならずすぐまた眠ってしまうらしかった。そんなことがまた、菜穂子には何もかもわかって、いちいち心にこたえるのだった。
 菜穂子は、そういうことごとに、他家へ身をよせていて、自分のしたいことは何ひとつできずにいる者にありがちな、胸をされるような気持ちをたえず経験しなければならなかった。――それが結婚する前から彼女のうちに潜伏せんぷくしていたらしい病気をだんだんこうじさせて行った。菜穂子は目に見えてせだした。そして同時に、彼女のうちにいつかいてきた、結婚前のすでに失われた自分自身に対する一種の郷愁のようなものは、反対にいよいよつのるばかりだった。しかし、彼女はまだ自分でもそれに気づかぬようにできるだけえにえていこうと決心しているらしく見えた。
 三月のあるがた、菜穂子は用事のため夫といっしょに銀座に出たとき、ふと雑踏ざっとうの中で、幼なじみの都築明らしい、なにかこう打ちしずんだ、そのくせあいかわらず人懐しそうな、背の高い姿を見かけた。向こうでははじめから気がついていたようだが、こちらはそれが明であることをやっと思い出したのは、もうすれちがってだいぶたってからのことだった。ふり返って見たときは、もう明の背の高い姿は人波ひとなみの中に消えていた。
 それは菜穂子にとっては、なんでもない邂逅かいこうのように見えた。しかし、それから日がたつにつれて、なぜかその時から夫といっしょに外出したりなどするのが妙に、不快に思われ出した。わけても彼女をおどろかしたのは、それが何か自分をいつわっているという意識からはっきりと来ていることに気づいたことだった。それに近い感情は、このごろいつも彼女が意識のしきみの下に漠然と感じつづけていたものだったが、菜穂子はあの孤独そうな明を見てから、なぜか急にそれを意識のしきみの上にのぼらせるようになったのだった。

   四


 田舎へ行ってこいと言われたとき、都築つづきあきらはすぐ少年のころ、何度も夏をすごしに行った信州のO村のことを考えた。まだ寒いかもしれない、山には雪もあるだろう、何もかもがそこではこれからだ、―そういう、いまだ知らぬ春先の山国の風物が何よりも彼を誘った。
 明はその元は宿場だった古い村に、牡丹屋ぼたんやという夏のあいだ学生たちを泊めていた大きな宿のあったことを思い出して、それへ問い合わせてみると、いつでも来てくれと言ってよこしたので、四月のはじめ、明は正式に休暇をもらって信州への旅を決行した。
 明の乗った信越線の汽車が桑畑の多い上州をすぎて、いよいよ信州へ入ると、急にまだ冬れたままの、山陰などには斑雪まだらゆきの残っている、いかにも山国らしい景色しきに変わりだした。明はその夕方近く、雪解ゆきどけあとの異様な赭肌あかはだをした浅間山を近々と背にした、ある小さな谷間の停車場におりた。
 明には停車場から村までの途中の、昔とほとんど変わらない景色がなんともいえずさびしい気がした。それは、そんな昔のままの景色にくらべて、彼だけがもう以前の自分ではなくなったようなさびしい心持ちにさせられたばかりではなく、その景色そのものも昔からさびしかったのだ。――停車場からの坂道、おりからの夕焼け空を反射させている道ばたの残雪、森のかたわらに置き忘れられたように立っている一軒の廃屋に近い小家、きない森、その森もやっと半分すぎたことを知らせる、あるわかれ道(その一方は村へ、もう一方は、明がそこで少年の夏の日をすごした森の家へ通じていた……)、その森から出たとたん、旅人の眼に印象深く入ってくる火の山の裾野すそのにひとかたまりになってかたむいている小さな村……

 O村での静かな、すこし気の遠くなるような生活がはじまった。
 山国の春は遅かった。林はまだほとんど裸だった。しかし、もうこずえからこずえへくぐり抜ける小鳥たちの影には、春らしい敏捷びんしょうさが見られた。がたになると、近くの林のなかでキジがよくいた。
 牡丹屋の人たちは、少年のころの明のことも、数年前、故人になった彼の叔母のことも忘れずにいて、親切に世話を焼いてくれた。もう七十をすぎた老母、足の悪い主人、東京からとついだその若い細君、それから出戻りの主人の姉のおよう、―明はそんな人たちのことを少年のころから知るともなしに知っていた。ことにその姉のおようというのが、若いころその美しい器量を望まれて、有名な避暑地の隣の村でも一流のMホテルへ縁づいたものの、どうしても性分からそこがいやでいやで一年ぐらいして自分から飛び出してきてしまった話なぞを聞かされていたので、明はなんとなく、そのおように対しては前から一種の関心のようなものを抱いていた。が、そのおように今年十九になる、けれどもう七、八年前から脊髄炎せきずいえんで床につききりになっている、初枝という娘のあったことなぞはこのたびの滞在ではじめて知ったのだった。……
 そういう過去のある美貌の女としては、おようは今ではあまりに何でもない女のような、かまわない様子をしていた。けれどももう四十に近いのだろうに台所などでまめまめしく立ち働いている彼女の姿には、まだいかにも娘々した動作がそのままに残っていた。明は、こんな山国にはこんな女の人もいるのかと懐かしく思った。

 林はまだその枝をいてあらわに見えている火の山の姿とともに、日ごとに生気をおびてきた。
 来てから、もう一週間がすぎた。明はほとんど村じゅうを見て歩いた。森のなかの、昔住んでいた家のほうへも何度も行って見た。すでに人手に渡っているはずの亡き叔母の小さな別荘も、その隣の三村家の大きなにれの木のある別荘も、ここ数年だれも来ないらしくどこもかもくぎづけになっていた。夏の午後など、よくそこへみんなで集まったにれの木の下には、なかば傾いたベンチがいまにもくずれそうな様子で無数の落ち葉にうまっていた。明はそのにれの木かげでの最後の夏の日のことを、いまだに鮮やかに思い出すことができた。――その夏の末、隣村のホテルにまた来ているとかといううわさが前からあった森於菟彦が、突然O村に訪ねてきてから数日後、急に菜穂子が誰にも知らさずに東京へひきあげて行ってしまった。その翌日、明はこの木の下で、三村夫人からはじめてそのことを聞いた。何かそれが自分のせいだと思いこんだらしい少年は、おちつかないせかせかした様子で、思いきったようにいた。「菜穂子さんはぼくに、なんにも言って行きませんでしたか?」
「ええ、べつになんとも……」夫人は考え深そうな、暗い眼つきで彼のほうを見守った。
「あのはあんな人ですから……」少年はなにか、こらえるような様子をして、大きくうなずいて見せ、そのままそこを立ち去って行った。――それが、このにれの家に明の来た最後になった。翌年から、明はもう叔母が死んだためにこの村へは来なくなった。……
 これでもう何度目かにそのなかば傾いたベンチの上に腰かけたまま、その最後の夏の日のそういう情景を自分の内によみがえらせながら、永久にこっちを振り向いてくれそうもない少女のことをもういっぺん考えかけたとき、明は急に立ち上がって、もうここへはふたたび来まいと決心した。

 そのうちに春らしい驟雨しゅううが日に一度か二度はかならず通りすぎるようになった。明は、そんなある日、遠い林の中で、雷鳴さえともなったものすごい雨に出逢であった。
 明は頭からびしょぬれになって、林のき地に一つの藁葺わらぶき小屋を見つけると、大いそぎでそこへ飛び込んだ。なにかの納屋なやかと思ったら、中はまっ暗だが、空虚らしかった。小屋の中は思いのほか深い。彼は手さぐりで五、六段ある梯子はしごのようなものをおりて行ったが、底のほうの空気が異様に冷え冷えとしているので、おもわず身ぶるいをした。しかし彼をもっと驚かせたのは、その小屋の奥に誰かが、彼より先に入って雨やどりしているらしい気配のしたことだった。ようやく周囲に目のなれてきた彼は、突然の闖入者ちんにゅうしゃの自分のためにすみのほうへ寄って小さくなっている一人の娘の姿を認めた。
「ひどい雨だな。」彼はそれを認めると、てれくさそうに独りごとをいいながら、娘のほうへ背を向けたまま、小屋の外ばかり見上げていた。
 が、雨はいよいよはげしく降っていた。それは小屋の前の火山灰質の地面を削って、そこいらを泥流と化していた。落ち葉や折れた枝などがそれに押し流されて行くのが見られた。
 なかばこわれた藁屋根からは、諸方に雨もりがしはじめ、明はそれまでの場所に立っていられなくなって、一歩一歩後退して行った。娘との距離がだんだん近づいた。
「ひどい雨ですね。」と明はさっきと同じ文句を、今度はもっとうわずった声で娘のほうへ向けて言った。
「…………」娘はだまってうなずいたようだった。
 明はそのときはじめてその娘を間近まぢかに見ながら、それが同じ村の綿屋わたやという屋号の家の早苗という娘であるのに気づいた。娘のほうでは先に明に気づいていたらしかった。
 明はそれを知ると、こんな薄暗うすぐらい小屋の中にその娘と二人きりでだまりあってなんぞいるほうがよっぽど気づまりになったので、まだ少しうわずった声で、
「この小屋は、いったい何ですか?」と問うてみた。
 娘はしかし、なんだかモジモジしているばかりで、なかなか返事をせずにいた。
「ふつうの納屋でもなさそうだけれど……。」明は、もうすっかり目がなれてきているので小屋の中をひとあたり見まわした。
 そのとき娘がやっとかすかな返事をした。
氷室ひむろです。
 まだ、藁屋根の隙間すきまからはポタリポタリと雨だれが打ち続けていたが、さすがの雨もどうやらようやく上がりかけたらしかった。いくぶん外が明るくなってきた。
 明は急に気軽そうにいった。「氷室というのはこれですか。……」
 昔、この地方に鉄道が敷設された当時、村の一部の人たちは冬ごとに天然氷を採取し、それをたくわえておいて夏になると各地へ輸送していたが、東京のほうに大きな製氷会社ができるようになるとしだいに誰も手を出す者がなくなり、多くの氷室がそのまま諸方に立ち腐れになった。今でもまだ森の中なんぞだったらどこかに残っているかもしれない。――そんなことを村の人たちからもよく聞いていたが、明もそれを見るのははじめてだった。
「なんだか、今にもつぶれてきそうだなあ……。」明はそういいながら、もう一度ゆっくりと小屋の中を見まわした。いままで雨だれのしていた藁屋根わらやねのすきまから、突然、日の光がいくすじも細長い線を引き出した。不意と娘は、村の者らしくない色白な顔をその方へもたげた。彼はそれをぬすみ見て、一瞬美しいと思った。
 明が先になって、二人はその小屋を出た。娘は小さなかごを手にしていた。林の向こうの小川からセリをつんできた帰りなのだった。二人は林を出ると、それからはひとことも物を言いあわずに、後になったり先になったりしながら、桑畑の間を村のほうへ帰って行った。

 その日から、そんな氷室ひむろのある林のなかのき地は、明の好きな場所になった。彼は午後になるとそこへ行って、そのこわれかかった氷室を前にして草の中に横たわりながら、その向こうの林をいて火の山が近々と見えるのをかずに眺めていた。
 夕方近くになると、セリみからもどってきた綿屋の娘が彼の前を通りぬけて行った。そして、しばらく立ち話をしていくのが二人の習慣になった。

   五


 そのうちにいつのまにか、明と早苗とは、毎日、午後の何時間かをその氷室を前にしていっしょにすごすようになった。
 明が、娘の耳のすこし遠いことを知ったのはある風のある日だった。やっと芽ぐみはじめた林の中では、ときおり風がざわめきぎて木々のこずえがゆれるたびごとに、その先にある木の芽らしいものが銀色に光った。そんなとき、娘は何を聞きつけるのか、明がハッとみはるほど、神々こうごうしいような顔つきをすることがあった。明はただこの娘とこうやって、なんの話らしい話もしないでってさえいればよかった。そこには言いたいことを言いつくしてしまうよりか、それ以上の物語をしあっているような気分があった。そしてそれ以外の欲求はなんにも持とうとはしないことくらい、美しい出会いはあるまいと思っていた。それが相手にもなんとかしてわからないものかなあと考えながら……
 早苗はといえば、そんな明の心の中ははっきりとはわからなかったけれども、なにか自分が余計なことを話したりしだすと、すぐ彼が機嫌を悪くしたように向こうを向いてしまうので、ほとんど口をきかずにいることが多かった。彼女ははじめのうちはそれがよくわからなくて、彼の厄介やっかいになっている牡丹屋と自分の家とが親戚しんせきのくせに昔から仲が悪いので、自分が何の気なしに話したおようたちのことでもって、なにか明の気を悪くさせるようなことでもあったのだろうと考えた。が、ほかのことをいくら話し出しても同じだった。ただ一つ、彼女の話に彼が好んで耳を傾けたのは、彼女が自分の少女時代のことを物語ったときだけだった。ことに彼女の幼なじみだったおようの娘の初枝の小さいころの話は、何度もくり返して話させた。初枝は十二の冬、村の小学校への行きがけに、みついた雪の上に誰かに突き転がされて、それがもとで今の脊髄炎せきずいえんをわずらったのだった。その場に居合わせた多くの村の子たちにも、誰がそんな悪戯いたずらをしたのかついにわからなかった。……
 明はそういう初枝の幼時の話などを聞きながら、ふとあの勝ち気そうなおようが、どこかの物陰に一人でさみしそうにしている顔つきを心に描いたりした。今でこそおようは自分のことはすっかりあきらめきって、娘のためにすべてを犠牲にして生きているようだけれど、数年前、明がまだ少年でこの村へ夏休みを送りにきていた時分、そのおようがその年の春から彼女の家に勉強にきて、冬になってもまだ帰ろうとしなかったある法科の学生とあるうわさが立ち、それが別荘の人たちの話題にまでのぼったことのあるのを明はふと思い出したりして、そういう迷いのひとときもおようにはあったということが、いっそう彼のうちのおようの絵姿を完全にさせるように思えたりした。……
 早苗は、彼女のそばで明がうつけたような眼つきをしてそんなことなんぞを考え出している間、手近てぢかい草を手ぐりよせては、自分の足首をなでたりしていた。
 二人はそうやって二、三時間ったのち、夕方、別々に村へ帰って行くのが常だった。そんな帰りがけに明はよく途中の桑畑の中で、一人の巡査が自転車に乗ってくるのに出逢であった。それはこの近傍の村々を巡回している、人気のいい、若い巡査だった。明が通りすぎるとき、いつも軽い会釈えしゃくをして行った。明はこの人の好さそうな若い巡査が、いま自分の逢ってきたばかりの娘への熱心な求婚者であることをいつしか知るようになった。彼は、それからはいっそうその若い巡査に特殊な好意らしいものを感じ出していた。

   六


 ある朝、菜穂子はとこから起きようとしたとき、急にはげしくきこんで、変なたんが出たと思ったら、それはまっだった。
 菜穂子はあわてずに、それを自分で始末してから、いつものように起きて、誰にも言わないでいた。一日じゅう、ほかにはなんにも変わったことがおこらなかった。が、その晩、勤めから帰ってきていつものように何ごともなさそうにしている夫を見ると、突然その夫を狼狽ろうばいさせたくなって、二人きりになってからそっと朝の喀血かっけつのことをうちあけた。
「なに、それくらいならたいしたことはないさ。」圭介は口先くちさきではそう言いながら、見るも気の毒なほど顔色を変えていた。
 菜穂子はそれには故意と返事をせずに、ただ相手をじっと見つめ返していた。それが、いま夫の言った言葉をいかにも空虚に響かせた。
 夫はそういう菜穂子の眼ざしから顔をそらせたまま、もうそんな気休めのようなことは口に出さなかった。
 翌日、圭介は母には喀血のことは抜かして、菜穂子の病気を話し、今のうちにどこかへ転地させたほうがよくはないかと相談を持ちかけた。菜穂子もそれには同意していることもつけくわえた。昔気質むかしかたぎの母は、このごろなにかと気ぶっせいなよめを自分たちから一時別居させて、以前のように息子と二人きりになれる気楽さを圭介の前では顔色にまで現わしながら、しかし世間の手前、病気になったよめを一人で転地させることにはなかなか同意しないでいた。やっと菜穂子のてもらっている医者が、母を納得させた。転地先は、その医者もすすめるし当人も希望するので、信州の八ヶ岳のふもとにある、ある高原療養所が選ばれた。

 ある薄曇った朝、菜穂子は夫と母につきそわれて、中央線の汽車に乗り、その療養所に向かった。
 午後、その山麓さんろくの療養所に着いて、菜穂子が患者の一人としてある病棟の二階の一室に収容されるのを見届けると、日の暮れる前に、圭介と母は急いで帰って行った。菜穂子は、療養所にいるあいだ絶えず何かを怖れるように背中を丸くしていた母と、その母のいるところでは自分にろくろく口もきけないほど気の小さな夫とを送り出しながら、何かその母がわざわざ夫といっしょに自分につきそってきてくれたことを素直すなおには受け取れないように感じていた。それほどまで自分のことを気づかってくれるというよりか、圭介をこんな病人の自分と二人きりにさせておいて、彼の心を自分から離れがたいものにさせてしまうことを何よりも怖れているがためのようだった。菜穂子はその一方、そういうことまで猜疑さいぎせずにはいられなくなっている自分を、今こうしてこんな山の療養所に一人きりでいなければならなくなった自分よりも、いっそうさびしいような気持ちでながめていた。

 こここそは、確かに自分には持ってこいの避難所だ、と菜穂子は最初の日々、一人で夕飯をすませ、物静かにその日を終えようとしながら窓から山や森をながめて、そう考えた。バルコニーに出て見ても、近くの村々の物音らしいものがどこか遠くからのように聞こえてくるばかりだった。ときどき、風が木々の香りをあおりながら、彼女のところまでサッと吹いてきた。それがいわば、ここで許される唯一の生のにおいだった。
 彼女は自分の意外なめぐりあわせについて反省するために、どんなにかこういう一人になりたかったろう。どこから来ているのか自分自身にもわからない不思議な絶望に自分の心をまかせきって、気のすむまでじっとしていられるような場所を求めるための、昨日までのなんという渇望、―それが今すべてかなえられようとしている。彼女はもう今はなにもかも気ままにして、無理に聞いたり、笑ったりせずともいいのだ。彼女は自分の顔を装ったり、自分の眼つきを気にしたりする心配がもうないのだ。
 ああ、このような孤独のただ中での彼女のふしぎな蘇生そせい。――彼女はこういう種類の孤独であるならば、それをどんなに好きだったか。彼女が言い知れぬ孤独感に心をしめつけられるような気のしていたのは、一家いっか団欒だんらんのもなか、母や夫たちのかたわらであった。いま、山の療養所に、こうして一人きりでいなければならない彼女は、ここではじめて生のたのしさに近いものを味わっていた。生のたのしさ? それは単に病気そのもののけだるさ、そのために生じるすべての瑣事さじに対する無関心のさせるわざだろうか。あるいは抑制せられた生に抗して病気の勝手に生み出す一種の幻覚にすぎないのだろうか。

 一日は他の日のようにしずかに過ぎて行った。
 そういう孤独な、屈托くったくのない日々の中で、菜穂子が奇跡のように精神的にも肉体的にもよみがえってきだしたのは事実だった。しかし一方、彼女はよみがえればよみがえるほど、ようやくこうして取りもどし出した自分自身が、あれほどそれに対して彼女の郷愁をもよおしていた以前の自分とは、どこかちがったものになっているのを認めないわけにはいかなかった。彼女はもう昔の若い娘ではなかった。もう一人ではなかった。不本意にも、すでに人の妻だった。その重苦しい日常の動作は、こんな孤独な暮らしの中でも、彼女のすることなすことにはもはやその意味を失いながらも、いまだに執拗しつようくうを描きつづけていた。彼女は今でもあいかわらず、誰かが自分といっしょにいるかのように、なんということもなしにまゆをひそめたり、笑みをつくったりしていた。それから彼女の眼ざしはときどきひとりでに、なにか気に入らないものを見咎みとがめでもするように、長いことくうを見つめたきりでいたりした。
 彼女はそういう自分自身の姿に気がつくたびごとに、「もうすこしの辛抱しんぼう……もうすこしの……」と、なにかわけもわからずに、ただ、自分自身に言って聞かせていた。

   七


 五月になった。圭介の母からはときどき長い見舞いの手紙がきたが、圭介自身はほとんど手紙というものをよこしたことがなかった。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思い、結局そのほうが彼女にも気ままでよかった。彼女は気分がよくて起床しているような日でも、しゅうとめへ返事を書かなければならないときは、いつもわざわざ寝台に入り、あおむけになって鉛筆で書きにくそうに書いた。それが手紙を書く彼女の気持ちをいつわらせた。もし相手がそんなしゅうとめではなくて、もっと率直な圭介だったら、彼女は彼を苦しめるためにも、自分の感じている今の孤独の中での蘇生のよろこびを、いつまでもかくしおおせてはいられなかっただろう。……
「かわいそうな菜穂子。」それでもときどき彼女は、そんな一人でいい気になっているような自分をあわれむように独りごとをいうこともあった。「おまえがそんなに、おまえのまわりから人々を突き退けて大事そうにかかえこんでいるおまえ自身が、そんなにおまえにはいいのか。これこそ自分自身だと信んじこんで、そんなにしてまで守っていたものが、他日気がついてみたら、いつのまにか空虚だったというような目になんぞったりするのではないか……」
 彼女はそういうとき、そんな不本意な考えから自分をそらせるためには、窓の外へ目を持って行きさえすればいいことを知っていた。
 そこでは風がたえず木々の葉をいいにおいをさせたり、濃くあわく葉裏を返したりしながら、ざわめかせていた。「ああ、あのたくさんの木々。……ああ、なんていい香りなんだろう……」

 ある日、菜穂子が診察を受けに階下の廊下を通って行くと、二十七号室の扉の外で、白いセーターを着た青年が両腕で顔をおさえながら、たまらなそうに泣きじゃくっているのを見かけた。重患者の許嫁いいなずけの若い娘につきそって来ている、物静かそうな青年だった。数日前からその許嫁いいなずけが急に危篤きとくにおちいり、その青年が病室と医局との間をなにか血走った眼つきをして、一人で行ったりきたりしている、いつも白いセーターを着た姿がたえず廊下に見えていた。……
「やっぱりダメだったんだわ、お気の毒に……」菜穂子はそう思いながら、その痛々いたいたしい青年の姿を見るに忍びないように、いそいでそのそばを通りすぎた。
 彼女は看護婦室を通りかかったとき、ふいと気になったのでそこへ寄っていてみると、事実は、その許嫁いいなずけの若い娘がいましがた、急に奇跡のように持ち直して元気になりだしたのだった。それまでその危篤きとくの許嫁の枕もとにふだんとすこしも変わらない静かな様子でつきそっていた青年はそれを知ると、急にそのそばを離れて、扉の外へ飛び出して行ってしまった。そしてその陰で、突然、それが病人にもわかるほど、うれし泣きに泣きじゃくりだしたのだそうだった。……
 診察から帰ってきたときも、菜穂子はまだその病室の前にその白いセーターを着た青年が、さすがにもう声に出して泣いてはいなかったけれど、やはり同じように両腕で顔をおおいながら立ち続けているのを見い出した。菜穂子はこんどはわれ知らずむさぼるような眼つきで、その青年のふるえる肩を見入りながら、そのそばを大股にゆっくり通りすぎた。
 菜穂子はその日から、妙に心の重苦しいような日々を送っていた。機会さえあれば看護婦をとらえて、その若い娘の容態を自分でも心から同情しながら、根掘葉掘り聞いたりしていた。しかし、その若い娘がそれから五、六日後のある夜中に突然、喀血かっけつして死に、その白いセーター姿の青年も彼女の知らぬ間に療養所から姿を消してしまったことを知ったとき、菜穂子はなにか自分でも理由のわからずにいた、また、それを決してわかろうとはしなかった重苦しいものからの釈放を感ぜずにはいられなかった。そしてその数日の間、彼女を心にもなく苦しめていた胸苦しさは、それきり忘れ去られたように見えた。

   八


 あきらはあいかわらず、氷室ひむろのそばで、早苗と同じようなあいびきを続けていた。
 しかし明はますます気むずかしくなって、相手には滅多に口さえきかせないようになった。明自身もほとんどしゃべらなかった。そして二人はただ、肩を並べて、空を通りすぎる小さな雲だの、雑木林の新しい葉の光るぐあいだのを互いに見合っていた。
 明はときどき娘のほうへ目をそそいで、いつまでもじっと見つめていることがあった。娘がなんということもなしに笑いだすと、彼は怒ったような顔をして横を向いた。彼は、娘が笑うことさえ我慢がまんできなくなっていた。ただ娘が、無心そうにしている様子だけしか彼には気に入らないと見える。そういう彼が娘にもだんだんわかって、しまいには明に自分が見られていると気がついても、それには気がつかないようにしていた。明のくせで、彼女の上へ目をそそぎながら、彼女をとおしてそのもっと向こうにあるものを見つめているような眼つきを肩の上に感じながら……
 しかし、そんな明の眼つきが今日くらい遠くのものを見ていることはなかった。娘は自分の気のせいかとも思った。娘は今日こそ自分がこの秋にはどうしてもとついで行かなければならぬことを、それとなく彼にうちあけようと思っていた。それをうちあけてみて、さて相手にどうせよというのではない、ただ、彼にそんな話を聴いてもらって、思いきり泣いてみたかった。自分の娘としてのすべてに、そうやってしみじみと別れをげたかった。なぜなら、明とこうしてっている間くらい、自分が娘らしい娘に思われることはなかったのだ。いくら自分に気むずかしい要求をされても、その相手が明なら、そんなことは彼女の腹を立てさせるどころか、そうされればされるほど、自分がかえっていっそう娘らしい娘になって行くような気までしたのだった。……
 どこか遠くの森の中で、木をたおしている音がさっきから聞こえ出していた。
「どこかで木を伐っているようだね。あれはなんだか物悲しい音だなあ。」明は不意に独りごとのように言った。
「あのあたりの森も、もとは残らず牡丹屋の持ち物でしたが、二、三年前にみんな売りはらってしまって……」早苗はなにげなくそう言ってしまってから、自分の言い方に、もしや彼の気を悪くするような調子がありはしなかったかと思った。
 が、明はなんとも言わずに、ただ、さっきからくうを見つめ続けているその眼つきを一瞬、せつなげに光らせただけだった。彼はこの村でいちばん由緒ゆいしょあるらしい牡丹屋の地所も、そうやって漸次ぜんじ人手に渡って行くよりほかはないのかと思った。あの気の毒な旧家の人たち――足の不自由な主人や、老母や、おようや、その病身の娘など……。
 早苗は、その日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。日が暮れかかってきたので、明だけをそこに残して、早苗は心残りそうに一人で先に帰って行った。
 明は早苗をいつものように素気そっけなく帰したあと、しばらくしてから彼女が今日はなんとなく心残りのような様子をしていたのを思い出すと、急に自分も立ち上がって、村道を帰って行く彼女の後ろ姿の見える赭松あかまつの下まで行ってみた。
 すると、その夕日に輝いた村道を早苗が途中でいっしょになったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近づいたりしながら歩いていく姿が、だんだん小さくなりながら、いつまでも見えていた。
「おまえはそうやって、本来のおまえのところへ帰って行こうとしている……」と明はひとり心に思った。「オレはむしろ前から、そうなることをねがってさえいた。オレは言ってみればおまえを失うためにのみ、おまえを求めたようなものだ。いま、おまえに去られることはオレにはあまりにもせつなすぎる。だが、その切実さこそオレには入用なのだ。……」
 そんなとっさの考えがいかにも彼に気に入ったように、明はもう意を決したような面持おももちで、赭松に手をかけたまま、夕日を背にあびた早苗と巡査の姿がついに見えなくなるまで見送っていた。二人はあいかわらず自転車を中にして、たがいに近づいたり離れたりしながら歩いていた。

   九


 六月に入ってから、二十分の散歩を許されるようになった菜穂子は、気分のいい日などには、よく山麓さんろくの牧場のほうまで一人でぶらつきに行った。
 牧場ははるか彼方かなたまでひろがっていた。地平線のあたりには、木立ちの群れが不規則な間隔を置いては紫色に近い影を落としていた。そんな野面のはてには、十数匹の牛と馬がいっしょになって、あちこちと移りながら草を食べていた。菜穂子は、その牧場をグルリと取りまいた牧柵ぼくさく沿って歩きながら、最初はとりとめもない考えをそこいらに飛んでいる黄いろい蝶のようにさまよわせていた。そのうちに、しだいに考えがいつもと同じものになってくるのだった。
「ああ、なぜわたしはこんな結婚をしたのだろう?」莱穂子はそう考え出すと、どこでもかまわず草の上へ腰をおろしてしまった。そして彼女はもっとほかの生き方はなかったものかと考えた。「なぜあのとき、あんなふうな抜きさしならないような気持ちになって、まるでそれが唯一の避難所でもあるかのように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう?」彼女は、結婚の式をあげた当時のことを思い出した。彼女は式場の入口に新夫の圭介と並んで立ちながら、自分たちのところへ祝いを述べにくる若い男たちに会釈えしゃくしていた。この男たちとだって自分は結婚できたのだと思いながら、そしてそのゆえにかえって、自分と並んで立っている、自分より背の低いぐらいの夫に、ある気安さのようなものを感じていた。「ああ、あの日にわたしの感じていられたあんな心の安らかさは、どこへ行ってしまったのだろう?」
 ある日、牧柵をくぐりぬけて、かなり遠くまで芝草の上を歩いて行った菜穂子は、牧場の真ん中ほどに、ポツンと一本、大きな樹が立っているのを認めた。なにかその樹の立ち姿の持っている悲劇的な感じが、彼女の心をとらえた。ちょうど牛や馬の群れがずっと野のはてのほうで草をんでいたので、彼女はそちらへ気をくばりながら、思いきってそれに近づけるだけ近づいて行ってみた。だんだん近づいてみると、それはなんという木だか知らなかったけれど、幹が二つにわかれて、一方の幹には青い葉がむらがり出ているのに、他方の幹だけはいかにも苦しみもだえているような枝ぶりをしながらすっかりれていた。菜穂子は、形のいい葉が風にゆれて光っている一方のこずえと、痛々いたいたしいまでにれたもう一方の梢とを見くらべながら、
「わたしもあんなふうに生きているのだわ、きっと。半分れたままで……」と考えた。
 彼女はなにかそんな考えに一人で感動しながら、牧場を引き返すときには、もう牛や馬をこわいとも思わなかった。

 六月の末に近づくと、空は梅雨らしく曇って、幾日も菜穂子は散歩に出られない日が続いた。こういう無聊りょうな日々は、さすがの菜穂子にもほとんどえがたかった。一日じゅう、なんということもなしに日の暮れるのが待たれ、そしてやっと夜がきたと思うと、いつも気のめいるような雨の音がしだしていた。
 そんな薄寒いような日、突然圭介の母が見舞いにきた。そのことを知って、菜穂子が玄関まで迎えに行くと、ちょうどそこでは、一人の若い患者がほかの患者や看護婦に見送られながら退院して行くところだった。菜穂子もしゅうとめといっしょにそれを見送っていると、そばにいた看護婦の一人がそっと彼女に、その若い農林技師は自分がしかけてきた研究を完成してきたいからと言って、医師の忠告も聞かずに独断で山を下りて行くのだとささやいた。「まあ」と思わず口に出しながら、菜穂子はあらためてその若い男を見た。彼だけはもう背広姿だったので、ちょっと見たところは病人とは思えないくらいだったが、よく見ると手足のっ黒に日にけた他の患者たちよりもずっとせこけ、顔色も悪かった。そのかわり、他の患者たちに見られない、なにか切迫した生気が眉宇びうにただよっていた。彼女はその未知の青年に、一種の好意に近いものを感じた。……
「あそこにいたのが患者さんたちなのかえ?」しゅうとめは菜穂子と廊下を歩き出しながら、いぶかしそうなくちぶりで言った。「どの人もみんな、ふつうの人よりか丈夫そうじゃないか。
「ああ見えても、みんな悪いのよ。」菜穂子は、心にもなく彼らの味方についた。
「気圧なんかが急に変わったりすると、あんな人たちの中からも喀血かっけつしたりする人がすぐ出るのよ。ああして患者同志がおちあったりすると、こんどは誰の番だろうと思いながら、それが自分の番かもしれない不安だけはお互いに隠そうとしあうのね、だから元気というよりか、むしろ、はしゃいでいるだけだわ。
 菜穂子はそんな彼女らしい独断を下しながら、自分自身もしゅうとめにはすっかり快くなったように見え、こんな山の療養所にいつまでも一人でいるのを何かと言われはすまいかと気づかいでもするように、自分の左の肺からまだラッセルがとれないでいることなんぞを、いかにも不安そうに説明したりした。
 つきあたりの病棟の二階のはし近くにある病室に入ると、しゅうとめはクレゾールのにおいのする病室の中をチラリと見まわしたきりで、長くその中に止まることを怖れるかのように、すぐバルコニーへ出て行った。バルコニーはうすら寒そうだった。
「まあ、どうしてこの人はここへ来ると、いつもあんなに背中を曲げてばかりいるんだろう?」と菜穂子は、バルコニーの手すりに手をかけて向こうを向いているしゅうとめの背を、なにか気に入らないもののように見すえながら、心の中で思っていた。そのうち不意に、しゅうとめが彼女のほうへふり向いた。そして菜穂子が自分のほうをうつけたように見すえているのに気づくと、いかにもわざとらしい笑顔をして見せた。
 それから一時間ばかりたったあと、菜穂子はいくら引きめてもどうしてもすぐ帰るというしゅうとめを見送りながら、ふたたび玄関までついて行った。その間もたえず、何かを怖れでもするようにことさらに曲げているようなしゅうとめの背中に、何か虚偽的なものをいままでになく強く感じながら……

   十


 黒川圭介は、他人のために苦しむという、多くの者が人生の当初において経験するところのものを、人生なかばにしてようやく身に覚えたのだった。……
 九月初めのある日、圭介は丸の内の勤め先に、商談のために長与ながよという遠縁にあたる者の訪問を受けた。種々の商談のすえ、二人の会話がしだいに個人的な話柄へいのうえに落ちていったときだった。
「君の細君は、どこかのサナトリウムに入っているんだって? その後どうなんだい?」長与は人にものをくときのくせで、妙に目をまたたきながらいた。
「なに、たいしたことはなさそうだよ。」圭介はそれを軽く受け流しながら、それから話をそらせようとした。菜穂子が胸をわずらって入院していることは、母がそれをいやがって誰にも話さないようにしているのに、どうしてこの男が知っているのだろうかといぶかしかった。
「なんでも、いちばん悪い患者たちの特別な病棟へ入っているんだそうじゃないか。
「そんなことはない。それは何かの間違えだ。
「そうか。そんならいいが……。そんなことをこのあいだ、うちのおふくろがきみんちのおふくろから聞いてきたって言ってたぜ。
 圭介は、いつになく顔色を変えた。「うちのおふくろがそんなことを言うはずはないが……。
 彼はいつまでも妙な気持ちになりながら、その友人を不機嫌そうに送り出した。

 その晩、圭介は母と二人きりの口数の少ない食卓に向かっているとき、最初、なにげなさそうに口をきいた。
「菜穂子が入院していることを長与ながよが知っていましたよ。
 母はなにか空惚そらとぼけたような様子をした。「そうかい。そんなことがあの人たちにどうして知れたんだろうね。
 圭介は、そういう母から不快そうに顔をそらせながら、不意といま自分のそばにいないものが急に気になりだしたように、そちらへ顔を向けた。――こういう晩飯のときなど、菜穂子はいつも話の圏外におきざりにされがちだった。圭介たちはしかし、彼女にはほとんど無頓着むとんじゃくのように、昔の知人だの瑣末さまつな日々の経済だのの話に時間をつぶしていた。そういうときの菜穂子の何かをじっとこらえているような、神経の立ったうつむき顔を、いま圭介はそこにありありと見い出したのだった。そんなことは、彼にはほとんどそれがはじめてだといってよかった。……
 母は、自分の息子のよめが胸などをわずらってサナトリウムに入っていることを表向おもてむきはばかって、ちょっと神経衰弱くらいで転地しているように人前ひとまえをとりつくろっていた。そしてそれを圭介にも含ませ、一度も妻のところへ見舞いに行かせないぐらいにしていた。それゆえ、一方陰でもって、その母が菜穂子の病気のことを故意と言いふらしていようなどとは、圭介は今まで考えてもみなかったのだった。
 圭介は、菜穂子から母のもとへたびたび手紙がきたり、また、母がそれに返事を出しているらしいことは知ってはいた。が、まれに母に向かって病人の容態をたずねるくらいで、いつも簡単な母の答えで満足をし、それ以上、立ち入ってどういう手紙をやりとりしているか、ぜんぜん知ろうとはしなかった。圭介はその日の長与の話から、母がいつも何か自分に隠し立てをしているらしいことに気づくと、突然、相手に言いようのない苛立いらだたしさを感じ出すとともに、今までの自分のやり方にもはげしく後悔しはじめた。
 それから二、三日後、圭介は急に明日、会社を休んで妻のところへ見舞いに行ってくると言いった。母はそれを聞くと、なんとも言えないにがい顔をしたまま、しかし、べつにそれには反対もしなかった。

   十一


 黒川圭介が、ことによると自分の妻は重態で死にかけているのかもしれないというような漠然とした不安におののきながら、信州の南に向かったのは、ちょうど二百にひゃく二十日はつか前の荒れ模様の日だった。ときどき風がはげしくなって、汽車の窓ガラスには大粒の雨が音を立ててあたった。そんなはげしい吹き降りの中にも、汽車は国境に近い山地にかかると、何度も切り換えのためにあともどりしはじめた。そのたびごとに、外の景色しきのほとんど見えないほど雨にくもった窓の内で、旅にれない圭介は、なんだか自分がまったく未知の方向へ連れて行かれるような思いがした。
 汽車が山間らしい他の駅とすこしも変わらない小さな駅についたあと、あやうく発車しようとする間際まぎわになって、それが療養所のある駅であるのに気づいて、圭介はあわてて吹き降りの中にびしょぬれになりながら飛びおりた。
 駅の前には雨に打たれたふるぼけた自動車が一台、とまっていたきりだった。圭介のほかにも、若い女の客が一人いたが、同じ療養所へ行くので、二人はいっしょに乗っていくことにした。
「急に悪くなられた方があって、いそいでおりますので……」そう、その若い女のほうで言いわけがましく言った。その若い女は隣県のK市の看護婦で、療養所の患者が喀血かっけつなどして急につきそいがるようになると電話で呼ばれてくることを話した。
 圭介は突然胸さわぎがして、「女の患者ですか?」とだしぬけにいた。
「いいえ、こんどはじめて喀血をなすった、お若い男の方のようです。」相手は何のこともなさそうに返事をした。
 自動車は吹き降りの中を、街道に沿ったきたない家々へ水たまりの水を何度もはねかえしながら、小さな村を通りすぎ、それからある傾斜地に立った療養所のほうへよじのぼり出した。急にエンジンの音を高めたり、車台をかしがせたりして、圭介をまだ何となく不安にさせたまま……

 療養所につくと、ちょうど患者たちの安静時間中らしく、玄関先には誰の姿も見えないので、圭介はぬれたくつをぬぎ、一人でスリッパをつっかけて、かまわず廊下へ上がり、ここいらだったろうと思った病棟に折れて行ったが、やっと間違えに気がついて引き返してきた。途中の、ある病室の扉が半開きになっていた。通りすがりに、何の気なしに中をのぞいて見ると、つい鼻先の寝台の上に、若い男の、薄いあごひげをはやした、ろうのような顔があおむいているのがチラリと見えた。向こうでも扉の外に立っている圭介の姿に気がつくと、その顔の向きを変えずに、鳥のように大きく見ひらいた眼だけを彼の方へそろそろと向け出した。
 圭介は思わずギョッとしながら、その扉のそばをいそいで通りすぎようとすると、同時に内側からも誰かが近づいてきてその扉をしめた。その途端とたん、なにやらヒョイと会釈えしゃくされたようなので、気がついてみると、それはもう白衣に着がえた、駅からいっしょに来たさっきの若い女だった。
 圭介は、やっと廊下で一人の看護婦をとらえてくと、菜穂子のいる病棟はもう一つ先の病棟だった。教わったとおり、つきあたりの階段を上がると、ああ、ここだったなと前に妻の入院につきそって来たときのことを何かと思い出し、急に胸をときめかせながら菜穂子のいる三号室に近づいて行った。事によったら、菜穂子もすっかり衰弱して、さっきの若い喀血かっけつ患者かんじゃのような無気味なほど大きな眼で、こちらを最初誰だかわからないように見るのではないかと考えながら、そんな自身の考えに思わず身慄みぶるいをした。
 圭介はまず心を落ちつけて、ちょっと扉をたたいてから、それをしずかに開けてみると、病人は寝台の上にむこう向きになったままでいた。病人は誰が入ってきたのだか知りたくもなさそうだった。
「まあ、あなたでしたの?」菜穂子はやっとふり返ると、すこしやつれたせいか、いっそう大きくなったような眼で彼を見上げた。その眼は一瞬、異様に輝いた。
 圭介はそれを見ると、なにかホッとし、思わず胸がいっぱいになった。
「一度、来ようとは思っていたんだがね。なかなかいそがしくて来られなかった。
 夫がそう言いわけがましいことをいうのを聞くと、菜穂子の眼からは今まであった異様な輝きがスウと消えた。彼女は急に暗く陰った眼を夫から離すと、二重になったガラス窓の方へそれを向けた。風は、その外側のガラスへときどき思い出したように大粒の雨をぶつけていた。
 圭介は、こんな吹き降りをおかしてまで山へ来た自分を、妻がべつになんとも思わないらしいことがすこし不満だった。が、彼は目の前に彼女を見るまで自分の胸をおしつぶしていた例の不安を思い出すと、急に気をとりなおして言った。
「どうだ。あれからずっといいんだろう?」圭介は、いつも妻にあらたまってものを言うときのくせで、目をそらせながら言った。
「…………」菜穂子も、そんな夫の癖を知りながら、相手が自分を見ていようといまいとかまわないように、だまってうなずいただけだった。
「なあに、ここにもうしばらく落ちついていれば、おまえなんぞはすぐなおるさ。」圭介はさっき、思わず目に入れたあの喀血患者の死にかかった鳥のような無気味な目つきを浮かべながら、菜穂子のほうへ思いきってさぐるような目を向けた。
 しかし彼はそのとき、菜穂子の何か彼をあわれむような目つきと目をあわせると、おもわず顔をそむけ、どうしてこの女はいつもこんな目つきでしかオレを見られないんだろうといぶかりながら、雨のふきつけている窓のほうへ近づいて行った。窓の外には、向こう側の病棟も見えないくらい飛沫しぶきを散らしながら、木々が木の葉をざわめかせていた。

 がたになっても、この荒れ気味の雨はやまず、そのため圭介もいっこう帰ろうとはしなかった。とうとう日が暮れかかってきた。
「ここの療養所へめてもらえるかしら?」窓ぎわに腕を組んで木々のざわめきを見つめていた圭介が、不意に口をきいた。
 彼女はいぶかしそうに返事をした。「泊まっていらっしゃっていいの? そんなら村へ行けば宿屋だってないことはないわ。しかし、ここじゃ……」
「しかし、ここだって泊めてもらえないことはないんだろう? オレは宿屋なんぞよりここのほうがよっぽどいい。」彼は、いまさらのように狭い病室の中を見まわした。
「一晩くらいなら、ここの床板ゆかいただって寝られるさ。そう寒いというほどでもないし……」
 菜穂子は「まあこの人が……」とおどろいたようにしげしげと圭介を見つめた。それから言っても言わなくともいいことを言うように、「変わっているわね……」と軽く揶揄やゆした。しかし、そのときの菜穂子の揶揄するようなまなざしには、圭介をイライラさせるようなものは何一つ感ぜられなかった。
 圭介はひとりで、女の多い付きい人たちの食堂へ夕食をしに行き、当直の看護婦に泊まる用意もひとりで頼んできた。

 八時ごろ、当直の看護婦が圭介のために付き添い人用の組み立て式のベッドや毛布などを運んできてくれた。看護婦が夜の検温を見て帰ったあと、圭介は一人で無器用そうにベッドをこしらえだした。菜穂子は寝台の上から、不意と部屋のすみに圭介の母のすこし険をおびたまなざしらしいものを感じながら、軽くまゆをひそめるようにして圭介のすることを見ていた。
「これでベッドは出来たと……」圭介はそれを試すように即製のベッドに腰をかけてみながら、衣嚢かくしに手をつっこんで何か探しているような様子をしていたが、やがて巻きタバコを一本とり出した。
「廊下ならタバコをのんできてもいいかな。
 菜穂子は、しかしそれには取り合わないように黙っていた。
 圭介はとりつく島もなさそうに、ノソノソと廊下へ出て行ったが、そのうちに彼がタバコをのみながら部屋の外を行ったり来たりしているらしい足音が聞こえてきた。菜穂子はその足音と木の葉をざわめかせている雨風の音とに、かわるがわる耳を傾けていた。
 彼がふたたび部屋に入ってくると、が妻の枕もとを飛びまわり、天井にも大きなくるおしい影を投げていた。
「寝る前にあかりを消してね。」彼女がうるさそうに言った。
 彼は妻の枕もとに近づき、蛾を追いはらって、あかりを消す前に、まぶしそうに目をつぶっている彼女の眼のまわりの黒ずんだくまを、いかにも痛々いたいたしそうに見やった。

「まだ、おやすみになれないの?」暗がりの中から、菜穂子はとうとう自分の寝台のすそのほうでいつまでもズック張りのベッドをきしませている夫のほうへ声をかけた。
「うん……」夫はわざとらしく寝惚ねぼけたような声をした。「どうも雨の音がひどいなあ。おまえもまだ寝られないのか?」
「わたしは寝られなくったって平気だわ。……いつだってそうなんですもの……」
「そうなのかい。……でも、こんな晩はこんなところに一人でなんぞいるのはいやだろうな。……」圭介はそういいかけて、クルリと彼女のほうへ背を向けた。それは次の言葉を思い切って言うためだった。「……おまえは家へ帰りたいとは思わないかい?」
 暗がりの中で菜穂子は、おもわず身をすくめた。「身体がすっかりよくなってからでなければ、そんなことは考えないことにしていてよ。」そう言ったぎり、彼女は寝返りを打ってだまりこんでしまった。
 圭介もその先はもう何も言わなかった。二人を四方から取りかこんだ闇は、それからしばらくの間は、木々をざわめかす雨の音だけにたされていた。
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」「目覚め」の表題で。
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



菜穂子(三)

堀辰雄

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)その儘《まま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午餐《ごさん》後

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
-------------------------------------------------------

[#2字下げ]菜穂子[#「菜穂子」は大見出し]

[#3字下げ]一[#「一」は中見出し]

「やっぱり菜穂子さんだ。」思わず都築明は立ち止りながら、ふり返った。
 すれちがうまでは菜穂子さんのようでもあり、そうでないようにも思えたりして、彼は考えていたが、すれちがったとき急にもうどうしても菜穂子さんだという気がした。
 明は暫く目まぐるしい往来の中に立ち止った儘《まま》、もうかなり行き過ぎてしまった白い毛の外套《がいとう》を着た一人の女とその連れの夫らしい姿を見送っていた。そのうちに突然、その女の方でも、今すれちがったのは誰だか知った人のようだったと漸《や》っと気づいたかのように、彼の方をふり向いたようだった。夫も、それに釣られたように、こっちをちょいとふり向いた。その途端、通行人の一人が明に肩をぶつけ、空《うつ》けたように佇《たたず》んでいた背の高い彼を思わずよろめかした。
 明がそれから漸っと立ち直ったときは、もうさっきの二人は人込みの中に姿を消していた。
 何年ぶりかで見た菜穂子は、何か目に立って憔悴《しょうすい》していた。白い毛の外套に身を包んで、並んで歩いている彼女よりも背の低い夫には無頓著《むとんじゃく》そうに、考え事でもしているように、真直を見たままで足早に歩いていた。一度夫が何か彼女に話しかけたようだったが、それは彼女にちらりと蔑《さげす》むような頬笑みを浮べさせただけだった。――都築明は自分の方へ向って来る人込みの中に目ざとくそう云う二人の姿を見かけ、菜穂子さんを見るような人だがと思い出すと、俄《にわ》かに胸の動悸《どうき》が高まった。彼がその白い外套の女から目を離さずに歩いて行くと、向うでも一瞬彼の方を訝《いぶか》しそうに見つめ出したようだった。しかし、何となくこちらを見ていながら、まだ何にも気づかないでいる間のような、空虚な眼ざしだった。それでも明はその宙に浮いた眼ざしを支え切れないように、思わずそれから目を外《そ》らせた。そして彼がちょいと何でもない方を見ている暇に、彼女はとうとう目の前の彼にそれとは気づかずに、夫と一しょにすれちがって行ってしまったのだった……。
 明はそれからその二人とは反対の方向へ、なぜ自分だけがそっちへ向って歩いて行かなければならないのか急に分からなくなりでもしたかのように、全然気がすすまぬように歩いて行った。こうして人込みの中を歩いているのが、突然何んの意味も無くなってしまったかのようだった。毎晩、彼の勤めている建築事務所から真直に荻窪の下宿へ帰らずに、何時間もこう云う銀座の人込みの中で何と云う事もなしに過していたのが、今までは兎も角も一つの目的を持っていたのに、その目的がもう永久に彼から失われてしまったとでも云うかのようだった。
 今いる町のなかは、三月なかばの、冷え冷えと曇り立った暮方だった。
「なんだが菜穂子さんはあんまり為合《しあわ》せそうにも見えなかったな」と明は考え続けながら、有楽町駅の方へ足を向け出した。「だが、そんな事を勝手に考えたりするおれの方が余っ程どうかしている。まるで人の不為合せになった方が自分の気に入るみたいじゃないか……。」

[#3字下げ]二[#「二」は中見出し]

 都築明は、去年の春私立大学の建築科を卒業してから、或建築事務所に勤め出していた。彼は毎日荻窪の下宿から銀座の或ビルディングの五階にあるその建築事務所へ通って来ては、几帳面《きちょうめん》に病院や公会堂なぞの設計に向っていた。この一年間と云うもの、時にはそんな設計の為事《しごと》に全身を奪われることはあっても、しかし彼は心からそれを楽しいと思ったことは一度もなかった。
「お前はこんなところで何をしている?」ときどき何物かの声が彼に囁《ささや》いた。
 この間、彼がもう二度と胸に思い描くまいと心に誓っていた菜穂子にはからずも町なかで出逢ったときの事は、誰にとて話す相手もなく、ただ彼の胸のうちに深い感動として残された。そしてそれがもう其処を離れなかった。あの銀座の雑沓《ざっとう》、夕方のにおい、一しょにいた夫らしい男、まだそれらのものをありありと見ることが出来た。あの白い毛の外套に身を包んで空《くう》を見ながら歩き過ぎたその人も、――殊にその空を見入っていたようなあのときの眼ざしが、いまだにそれを思い浮べただけでもそれから彼が目を外らせずにはいられなくなる位、何か痛々しい感じで、はっきりと思い出されるのだった。――昔から菜穂子は何か気に入らない事でもあると、誰の前でも構わずにあんな空虚な眼ざしをしだす習癖のあった事を、彼は或日ふと何かの事から思い出した。
「そうだ、こないだあの人がなんだが不為合せなような気がひょいとしたのは、事によるとあのときのあの人の眼つきのせいだったのかも知れない。」
 都築明はそんな事を考え出しながら、暫く製図の手を休めて、事務所の窓から町の屋根だの、その彼方にあるうす曇った空だのを、ぼんやりと眺めていた。そんなとき不意に自分の楽しかった少年時代の事なんぞがよみ返って来たりすると、明はもう為事に身を入れず、どうにもしようがないように、そう云う追憶に自分を任せ切っていた。……

 その赫《かがや》かしい少年の日々は、七つのとき両親を失くした明を引きとって育てて呉れた独身者の叔母の小さな別荘のあった信州のO村と、其処で過した数回の夏休みと、その村の隣人であった三村家の人々、――殊に彼と同じ年の菜穂子とがその中心になっていた。明と菜穂子とはよくテニスをしに行ったり、自転車に乗って遠乗りをして来たりした。が、その頃から既に、本能的に夢を見ようとする少年と、反対にそれから目醒《めざ》めようとする少女とが、その村を舞台にして、互に見えつ隠れつしながら真剣に鬼ごっこをしていたのだった。そしていつもその鬼ごっこから置きざりにされるのは少年の方であった。……
 或夏の日の事、有名な作家の森於菟彦が突然彼等の前に姿を現わした。高原の避暑地として知られた隣村のMホテルに暫く保養に来ていたのだった。三村夫人は偶然そのホテルで、旧知の彼に出会って、つい長い間よもやまの話をし合った。それから二三日してから、O村へのおりからの夕立を冒しての彼の訪れ、養蚕をしている村への菜穂子や明を交《ま》じえての雨後の散歩、村はずれでの愉《た》しいほど期待に充ちた分かれ――、それだけの出会が、既に人生に疲弊したようなこの孤独な作家を急に若返らせでもさせたような、異様な亢奮《こうふん》を与えずにはおかなかったように見えた。……
 翌年の夏もまた、隣村のホテルに保養に来ていたこの孤独な作家は不意にO村へも訪ねて来たりした。その頃から、三村夫人が彼女のまわりに拡げ出していた一種の悲劇的な雰囲気は、何か理由がわからないなりにも明の好奇心を惹《ひ》いて、それを夫人の方へばかり向けさせていた間、彼はそれと同じ影響が菜穂子から今までの快活な少女を急に抜け出させてしまった事には少しも気がつかなかった。そして明が漸っとそう云う菜穂子の変化に気づいたときは、彼女は既に彼からは殆ど手の届かないようなところに行ってしまっていた。この勝気な少女は、その間じゅう、一人で誰にも打ち明けられぬ苦しみを苦しみ抜いて、その挙句もう元通りの少女ではなくなっていたのだった。
 その前後からして、彼の赫かしかった少年の日々は急に陰《かげ》り出していた。……
 或日、所長が事務所の戸を開けて入って来た。
「都築君。」
 と所長は明の傍にも近づいて来た。明の沈鬱《ちんうつ》な顔つきがその人を驚かせたらしかった。
「君は青い顔をしている。何処か悪いんじゃないか?」
「いいえ別に」と明は何だか気まりの悪そうな様子で答えた。前にはもっと入念に為事《しごと》をしていたではないか、どうしてこう熱意が無くなったのだ、と所長の眼が尋ねているように彼には見えた。
「無理をして身体を毀《こわ》してはつまらん」しかし所長は思いの外の事を云った。
「一月《ひとつき》でも二月《ふたつき》でも、休暇を上げるから田舎へ行って来てはどうだ?」
「実はそれよりも――」と明は少し云いにくそうに云いかけたが、急に彼独特の人懐そうな笑顔に紛《まぎ》らわせた。「――が、田舎へ行かれるのはいいなあ。」
 所長もそれに釣り込まれたような笑顔を見せた。
「今の為事が為上がり次第行きたまえ」
「ええ、大抵そうさせて貰います。実はもうそんな事は自分には許されないのかと思っていたのです……。」
 明はそう答えながら、さっき思い切って所長に此事務所をやめさせて下さいと云い出しかけて、それを途中で止めてしまった自分の事を考えた。今の為事をやめてしまって、さてその自分にすぐ新しい人生を踏み直す気力があるかどうか自分自身にも分かっていない事に気づくと、こんどは所長の勧告に従って、暫く何処かへ行って養生して来よう、そうしたら自分の考えも変るだろうと、咄嗟《とっさ》に思いついたのだった。
 明は一人になると、又沈欝な顔つきになって、人の好さそうな所長が彼の傍を去ってゆく後姿を、何か感謝に充ちた目で眺めていた。

[#3字下げ]三[#「三」は中見出し]

 三村菜穂子が結婚したのは、今から三年前の冬、彼女の二十五のときだった。
 結婚した相手の男、黒川圭介は、彼女より十も年上で、高商出身の、或商事会社に勤務している、世間並に出来上った男だった。圭介は長いこと独身で、もう十年も後家を立て通した母と二人きりで、大森の或坂の上にある、元銀行家だった父の遺して行った古い屋敷に地味に暮らしていた。その屋敷を取囲んだ数本の椎の木は、植木好きだった父をいつまでも思い出させるような恰好《かっこう》をして枝を拡げた儘《まま》、世間からこの母と子の平和な暮しを安全に守っているように見えた。圭介はいつも勤め先からの帰り途、夕方、折鞄《おりかばん》を抱えて坂を上って来て、わが家の椎の木が見え出すと、何かほっとしながら思わず足早になるのが常だった。そして晩飯の後も、夕刊を膝の上に置いたまま、長火鉢を隔てて母や新妻を相手にしながら、何時間も暮し向きの話などをしつづけていた。――菜穂子は結婚した当座は、そう云う張り合いのない位に静かな暮しにも格別不満らしいものを感じているような様子はなかった。
 唯、莱穂子の昔を知っている友達たちは、なぜ彼女が結婚の相手にそんな世間並の男を選んだのか、皆不思議がった。が、誰一人、それはその当時彼女を劫《おびや》かしていた不安な生から逃れるためだった事を知るものはなかった。――そして結婚してから一年近くと云うものは、菜穂子は自分が結婚を誤たなかったと信じていられた。他人の家庭は、その平和がいかによそよそしいものであろうとも、彼女にとっては恰好の避難所であった。少くとも当時の彼女にはそう思えた。が、その翌年の秋、菜穂子の結婚から深い心の傷手《いたで》を負うたように見えた彼女の母の、三村夫人が突然狭心症で亡くなってしまうと、急に菜穂子は自分の結婚生活がこれまでのような落《お》ち著《つ》きを失い出したのを感じた。静かに、今のままのよそよそしい生活に堪えていようという気力がなくなったのではなく、そのように自己を佯《いつわ》ってまで、それに堪えている理由が少しも無くなってしまったように思えたのだ。
 菜穂子は、それでも最初のうちは、何かを漸《や》っと堪えるような様子をしながらも、いままでどおり何んの事もなさそうに暮らしていた。夫の圭介は、相変らず、晩飯後も茶の間を離れず、この頃は大抵母とばかり暮し向きの話などをしながら、何時間も過していた。そしていつも話の圏外に置きざりにされている菜穂子には殆ど無頓著《むとんじゃく》そうに見えたが、圭介の母は女だけに、そう云う菜穂子の落ち著かない様子に何時までも気づかないでいるような事はなかった。彼女の娵《よめ》がいまのままの生活に何か不満そうにし出している事が、(彼女にはなぜか分からなかったが)しまいには自分たちの一家の空気をも重苦しいものにさせかねない事を何よりも怖れ出していた。
 この頃は夜なかなどに、菜穂子がいつまでも眠れないでつい咳などをしたりすると、隣りの部屋に寝ている圭介の母はすぐ目を醒ました。そうすると彼女はもう眠れなくなるらしかった。しかし、圭介や他のものの物音で目を醒ましたようなときは、必ずすぐまた眠ってしまうらしかった。そんな事が又、菜穂子には何もかも分かって、一々心に応えるのだった。
 菜穂子は、そう云う事毎に、他家へ身を寄せていて、自分のしたい事は何ひとつ出来ずにいる者にありがちな胸を刺されるような気持を絶えず経験しなければならなかった。――それが結婚する前から彼女の内に潜伏していたらしい病気をだんだん亢《こう》じさせて行った。菜穂子は目に見えて痩《や》せ出した。そして同時に、彼女の裡《うち》にいつか涌《わ》いて来た結婚前の既に失われた自分自身に対する一種の郷愁のようなものは反対にいよいよ募るばかりだった。しかし、彼女はまだ自分でもそれに気づかぬように出来るだけ堪えに堪えて行こうと決心しているらしく見えた。
 三月の或暮方、菜穂子は用事のため夫と一しょに銀座に出たとき、ふと雑沓《ざっとう》の中で、幼馴染の都築明らしい、何かこう打ち沈んだ、その癖相変らず人懐しそうな、背の高い姿を見かけた。向うでははじめから気がついていたようだが、こちらはそれが明である事を漸っと思い出したのは、もうすれちがって大ぶ立ってからの事だった。ふり返って見たときは、もう明の背の高い姿は人波の中に消えていた。
 それは菜穂子にとっては、何でもない邂逅《かいこう》のように見えた。しかし、それから日が立つにつれて、何故かその時から夫と一しょに外出したりなどするのが妙に不快に思われ出した。わけても彼女を驚かしたのは、それが何か自分を佯っていると云う意識からはっきりと来ていることに気づいた事だった。それに近い感情はこの頃いつも彼女が意識の閾《しきみ》の下に漠然と感じつづけていたものだったが、菜穂子はあの孤独そうな明を見てから、なぜか急にそれを意識の閾の上にのぼらせるようになったのだった。

[#3字下げ]四[#「四」は中見出し]

 田舎へ行って来いと云われたとき都築明はすぐ少年の頃、何度も夏を過しに行った信州のO村の事を考えた。まだ寒いかも知れない、山には雪もあるだろう、何もかもが其処ではこれからだ、――そういう未だ知らぬ春先きの山国の風物が何よりも彼を誘った。
 明はその元は宿場だった古い村に、牡丹屋《ぼたんや》という夏の間学生達を泊めていた大きな宿のあった事を思い出して、それへ問合わせて見ると、いつでも来てくれと云って寄したので、四月の初め、明は正式に休暇を貰って信州への旅を決行した。
 明の乗った信越線の汽車が桑畑のおおい上州を過ぎて、いよいよ信州へはいると、急にまだ冬枯れたままの、山陰などには斑雪《まだらゆき》の残っている、いかにも山国らしい景色に変り出した。明はその夕方近く、雪解けあとの異様な赭肌《あかはだ》をした浅間山を近か近かと背にした、或小さな谷間の停車場に下りた。
 明には停車場から村までの途中の、昔と殆ど変らない景色が何とも云えず寂しい気がした。それはそんな昔のままの景色に比べて彼だけがもう以前の自分ではなくなったような寂しい心もちにさせられたばかりではなく、その景色そのものも昔から寂しかったのだ。――停車場からの坂道、おりからの夕焼空を反射させている道端の残雪、森のかたわらに置き忘れられたように立っている一軒の廃屋にちかい小家、尽きない森、その森も漸《や》っと半分過ぎたことを知らせる或|岐《わか》れ道《みち》(その一方は村へ、もう一方は明がそこで少年の夏の日を過した森の家へ通じていた……)、その森から出た途端旅人の眼に印象深く入って来る火の山の裾野に一塊りになって傾いている小さな村……

 O村での静かなすこし気の遠くなるような生活が始まった。
 山国の春は遅かった。林はまだ殆ど裸かだった。しかしもう梢から梢へくぐり抜ける小鳥たちの影には春らしい敏捷《びんしょう》さが見られた。暮方になると、近くの林のなかで雉《きじ》がよく啼《な》いた。
 牡丹屋の人達は、少年の頃の明の事も、数年前故人になった彼の叔母の事も忘れずにいて、深切に世話を焼いて呉れた。もう七十を過ぎた老母、足の悪い主人、東京から嫁いだその若い細君、それから出戻りの主人の姉のおよう、――明はそんな人達の事を少年の頃から知るともなしに知っていた。殊にその姉のおようと云うのが若い頃その美しい器量を望まれて、有名な避暑地の隣りの村でも一流のMホテルへ縁づいたものの、どうしても性分から其処がいやでいやで一年位して自分から飛び出して来てしまった話なぞを聞かされていたので、明は何となくそのおように対しては前から一種の関心のようなものを抱いていた。が、そのおように今年十九になる、けれどもう七八年前から脊髄炎《せきずいえん》で床に就ききりになっている、初枝という娘のあった事なぞは此度の滞在ではじめて知ったのだった。……
 そう云う過去のある美貌の女としては、おようは今では余りに何でもない女のような構わない容子をしていた。けれどももう四十に近いのだろうに台所などでまめまめしく立ち働いている彼女の姿には、まだいかにも娘々した動作がその儘《まま》に残っていた。明はこんな山国にはこんな女の人もいるのかと懐しく思った。

 林はまだその枝を透いてあらわに見えている火の山の姿と共に日毎に生気を帯びて来た。
 来てから、もう一週間が過ぎた,明は殆ど村じゅうを見て歩いた。森のなかの、昔住んでいた家の方へも何度も行って見た。既に人手に渡っている筈の亡き叔母の小さな別荘もその隣りの三村家の大きな楡《にれ》の木のある別荘も、ここ数年誰も来ないらしく何処もかも釘づけになっていた。夏の午後などよく其処へ皆で集った楡の木の下には、半ば傾いたベンチがいまにも崩れそうな様子で無数の落葉に埋まっていた。明はその楡の木かげでの最後の夏の日の事をいまだに鮮かに思い出すことが出来た。――その夏の末、隣村のホテルに又来ているとかという噂が前からあった森於菟彦が突然O村に訪ねて来てから数日後、急に菜穂子が誰にも知らさずに東京へ引き上げて行ってしまった。その翌日、明はこの木の下で三村夫人からはじめてその事を聞いた。何かそれが自分のせいだと思い込んだらしい少年は落《お》ち著《つ》かないせかせかした様子で、思い切ったように訊《き》いた。「菜穂子さんは僕に何んにも云って行きませんでしたか?」
「ええ別に何んとも……」夫人は考え深そうな、暗い眼つきで彼の方を見守った。
「あの娘《こ》はあんな人ですから……」少年は何か怺《こら》えるような様子をして、大きく頷《うなず》いて見せ、その儘其処を立ち去って行った。――それがこの楡の家に明の来た最後になった。翌年から、明はもう叔母が死んだために此の村へは来なくなった。……
 これでもう何度目かにその半ば傾いたベンチの上に腰かけた儘、その最後の夏の日のそう云う情景を自分の内によみ返らせながら、永久にこっちを振り向いてくれそうもない少女の事をもう一遍考えかけたとき、明は急に立ち上って、もう此処へは再び来まいと決心した。

 そのうちに春らしい驟雨《しゅうう》が日に一度か二度は必らず通り過ぎるようになった。明は、そんな或日、遠い林の中で、雷鳴さえ伴った物凄い雨に出逢った。
 明は頭からびしょ濡れになって、林の空地に一つの藁葺小屋《わらぶきごや》を見つけると、大急ぎで其処へ飛び込んだ。何かの納屋かと思ったら、中はまっ暗だが、空虚らしかった。小屋の中は思いの外深い。彼は手さぐりで五六段ある梯子《はしご》のようなものを下りて行ったが、底の方の空気が異様に冷え冷えとしているので、思わず身顫《みぶる》いをした。しかし彼をもっと驚かせたのは、その小屋の奥に誰かが彼より先にはいって雨宿りしているらしい気配のした事だった。漸《ようや》く周囲に目の馴れて来た彼は突然の闖入者《ちんにゅうしゃ》の自分のために隅の方へ寄って小さくなっている一人の娘の姿を認めた。
「ひどい雨だな。」彼はそれを認めると、てれ臭そうに独り言をいいながら、娘の方へ背を向けた儘、小屋の外ばかり見上げていた。
 が、雨はいよいよ烈しく降っていた。それは小屋の前の火山灰質の地面を削って其処いらを泥流と化していた。落葉や折れた枝などがそれに押し流されて行くのが見られた。
 半ば毀《こわ》れた藁屋根からは、諸方に雨洩りがしはじめ、明はそれまでの場所に立っていられなくなって、一歩一歩後退して行った。娘との距離がだんだん近づいた。
「ひどい雨ですね。」と明はさっきと同じ文句を今度はもっと上ずった声で娘の方へ向けて云った。
「…………」娘は黙って頷《うなず》いたようだった。
 明はそのとき初めてその娘を間近かに見ながらそれが同じ村の綿屋《わたや》という屋号の家の早苗と云う娘であるのに気づいた。娘の方では先に明に気づいていたらしかった。
 明はそれを知ると、こんな薄暗い小屋の中にその娘と二人きりで黙り合ってなんぞいる方が余っ程気づまりになったので、まだ少し上ずった声で、
「此の小屋は一体何んですか?」と問うて見た。
 娘はしかし何んだかもじもじしているばかりで、なかなか返事をせずにいた。
「普通の納屋でもなさそうだけれど……。」明はもうすっかり目が馴れて来ているので小屋の中を一とあたり見廻した。
 そのとき娘が漸っとかすかな返事をした。
「氷室《ひむろ》です。」
 まだ藁屋根の隙間からはぽたりぽたりと雨垂れが打ち続けていたが、さすがの雨もどうやら漸く上りかけたらしかった。いくぶん外が明るくなって来た。
 明は急に気軽そうに云った。「氷室と云うのはこれですか。……」
 昔、此の地方に鉄道が敷設された当時、村の一部の人達は冬毎に天然氷を採取し、それを貯《たくわ》えて置いて夏になると各地へ輸送していたが、東京の方に大きな製氷会社が出来るようになると次第に誰も手を出す者がなくなり、多くの氷室がその儘諸方に立腐れになった。今でもまだ森の中なんぞだったら何処かに残っているかも知れない。――そんな事を村の人達からもよく聞いていたが明もそれを見るのは初めてだった。
「なんだか今にも潰《つぶ》れて来そうだなあ……。」明はそう云いながら、もう一度ゆっくりと小屋の中を見廻した。いままで雨垂れのしていた藁屋根《わらやね》の隙間から、突然、日の光がいくすじも細長い線を引き出した。不意と娘は村の者らしくない色白な顔をその方へもたげた。彼はそれをぬすみ見て、一瞬美しいと思った。
 明が先になって、二人はその小屋を出た。娘は小さな籠《かご》を手にしていた。林の向うの小川から芹《せり》を摘んで来た帰りなのだった。二人は林を出ると、それからは一ことも物を云い合わずに、後になったり先になったりしながら、桑畑の間を村の方へ帰って行った。

 その日から、そんな氷室《ひむろ》のある林のなかの空地は明の好きな場所になった。彼は午後になると其処へ行って、その毀《こわ》れかかった氷室を前にして草の中に横わりながら、その向うの林を透いて火の山が近か近かと見えるのを飽かずに眺めていた。
 夕方近くになると、芹摘みから戻って来た綿屋の娘が彼の前を通り抜けて行った。そして暫く立ち話をして行くのが二人の習慣になった。

[#3字下げ]五[#「五」は中見出し]

 そのうちにいつの間にか、明と早苗とは、毎日、午後の何時間かをその氷室を前にして一しょに過すようになった。
 明が娘の耳のすこし遠いことを知ったのは或風のある日だった。漸《や》っと芽ぐみ初めた林の中では、ときおり風がざわめき過ぎて木々の梢が揺れる度毎に、その先にある木の芽らしいものが銀色に光った。そんな時、娘は何を聞きつけるのか、明がはっと目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》るほど、神々しいような顔つきをする事があった。明はただ此の娘とこうやって何んの話らしい話もしないで逢ってさえいればよかった。其処には云いたい事を云い尽してしまうよりか、それ以上の物語をし合っているような気分があった。そしてそれ以外の欲求は何んにも持とうとはしない事くらい、美しい出会はあるまいと思っていた。それが相手にも何んとかして分からないものかなあと考えながら……
 早苗はと云えば、そんな明の心の中ははっきりとは分からなかったけれども、何か自分が余計な事を話したりし出すと、すぐ彼が機嫌を悪くしたように向うを向いてしまうので、殆ど口をきかずにいる事が多かった。彼女ははじめのうちはそれがよく分からなくて、彼の厄介になっている牡丹屋と自分の家とが親戚《しんせき》の癖に昔から仲が悪いので、自分が何の気なしに話したおよう達の事でもって何か明の気を悪くさせるような事でもあったのだろうと考えた。が、外の事をいくら話し出しても同じだった。ただ一つ、彼女の話に彼が好んで耳を傾けたのは、彼女が自分の少女時代のことを物語ったときだけだった。殊に彼女の幼馴染だったおようの娘の初枝の小さい頃の話は何度も繰返して話させた。初枝は十二の冬、村の小学校への行きがけに、凍《し》みついた雪の上に誰かに突き転がされて、それがもとで今の脊髄炎《せきずいえん》を患ったのだった。その場に居合わせた多くの村の子達にも誰がそんな悪戯《いたずら》をしたのか遂に分からなかった。……
 明はそう云う初枝の幼時の話などを聞きながら、ふとあの勝気そうなおようが何処かの物陰に一人で淋しそうにしている顔つきを心に描いたりした。今でこそおようは自分の事はすっかり詮《あきら》め切って、娘のためにすべてを犠牲にして生きているようだけれど、数年前明がまだ少年で此の村へ夏休みを送りに来ていた時分、そのおようがその年の春から彼女の家に勉強に来て冬になってもまだ帰ろうとしなかった或法科の学生と或噂が立ち、それが別荘の人達の話題にまで上った事のあるのを明はふと思い出したりして、そう云う迷いの一ときもおようにはあったと云う事が一層彼のうちのおようの絵姿を完全にさせるように思えたりした。……
 早苗は、彼女の傍で明が空《うつ》けたような眼つきをしてそんな事なんぞを考え出している間、手近い草を手ぐりよせては、自分の足首を撫でたりしていた。
 二人はそうやって二三時間逢った後、夕方、別々に村へ帰って行くのが常だった。そんな帰りがけに明はよく途中の桑畑の中で、一人の巡査が自転車に乗って来るのに出逢った。それは此の近傍の村々を巡回している、人気のいい、若い巡査だった。明が通り過ぎる時、いつも軽い会釈をして行った。明はこの人の好さそうな若い巡査がいま自分の逢って来たばかりの娘への熱心な求婚者である事をいつしか知るようになった。彼はそれからは一層その若い巡査に特殊な好意らしいものを感じ出していた。

[#3字下げ]六[#「六」は中見出し]

 或朝、菜穂子は床から起きようとした時、急にはげしく咳き込んで、変な痰《たん》が出たと思ったら、それは真赤だった。
 菜穂子は慌てずに、それを自分で始末してから、いつものように起きて、誰にも云わないでいた。一日中、外には何んにも変った事が起らなかった。が、その晩、勤めから帰って来ていつものように何事もなさそうにしている夫を見ると、突然その夫を狼狽《ろうばい》させたくなって、二人きりになってからそっと朝の喀血《かっけつ》のことを打明けた。
「何、それ位なら大した事はないさ。」圭介は口先ではそう云いながら、見るも気の毒なほど顔色を変えていた。
 菜穂子はそれには故意と返事をせずに、ただ相手をじっと見つめ返していた。それがいま夫の云った言葉をいかにも空虚に響かせた。
 夫はそう云う菜穂子の眼ざしから顔を外《そ》らせた儘《まま》、もうそんな気休めのようなことは口に出さなかった。
 翌日、圭介は母には喀血のことは抜かして、菜穂子の病気を話し、今のうちに何処かへ転地させた方がよくはないかと相談を持ちかけた。菜穂子もそれには同意している事もつけ加えた。昔気質《むかしかたぎ》の母は、この頃何かと気ぶっせいな娵《よめ》を自分達から一時別居させて以前のように息子と二人きりになれる気楽さを圭介の前では顔色にまで現わしながら、しかし世間の手前病気になった娵を一人で転地させる事にはなかなか同意しないでいた。漸っと菜穂子の診て貰っている医者が、母を納得させた。転地先は、その医者も勧めるし、当人も希望するので、信州の八ヶ岳の麓《ふもと》にある或高原療養所が選ばれた。

 或薄曇った朝、菜穂子は夫と母に附添われて、中央線の汽車に乗り、その療養所に向った。
 午後、その山麓《さんろく》の療養所に著《つ》いて、菜穂子が患者の一人として或病棟の二階の一室に収容されるのを見届けると、日の暮れる前に、圭介と母は急いで帰って行った。菜穂子は、療養所にいる間絶えず何かを怖れるように背中を丸くしていた母とその母のいるところでは自分にろくろく口も利けないほど気の小さな夫とを送り出しながら、何かその母がわざわざ夫と一しょに自分に附添って来てくれた事を素直には受取れないように感じていた。それほどまで自分の事を気づかって呉れると云うよりか、圭介をこんな病人の自分と二人きりにさせて置いて彼の心を自分から離れがたいものにさせてしまう事を何よりも怖れているがためのようだった。菜穂子はその一方、そう云う事まで猜疑《さいぎ》せずにはいられなくなっている自分を、今こうしてこんな山の療養所に一人きりでいなければならなくなった自分よりも、一層寂しいような気持で眺めていた。

 此処こそは確かに自分には持って来いの避難所だ、と菜穂子は最初の日々、一人で夕飯をすませ、物静かにその日を終えようとしながら窓から山や森を眺めて、そう考えた。露台に出て見ても、近くの村々の物音らしいものが何処か遠くからのように聞えて来るばかりだった。ときどき風が木々の香りを翻《あお》りながら、彼女のところまでさっと吹いて来た。それが云わば此処で許される唯一の生のにおいだった。
 彼女は自分の意外な廻り合わせについて反省するために、どんなにかこう云う一人になりたかったろう。何処から来ているのか自分自身にも分らない不思議な絶望に自分の心を任せ切って気のすむまでじっとしていられるような場所を求めるための、昨日までの何んという渇望、――それが今すべてかなえられようとしている。彼女はもう今は何もかも気ままにして、無理に聞いたり、笑ったりせずともいいのだ。彼女は自分の顔を装ったり、自分の眼つきを気にしたりする心配がもうないのだ。
 ああ、このような孤独のただ中での彼女のふしぎな蘇生《そせい》。――彼女はこう云う種類の孤独であるならばそれをどんなに好きだったか。彼女が云い知れぬ孤独感に心をしめつけられるような気のしていたのは、一家団欒《いっかだんらん》のもなか、母や夫たちの傍《かたわら》であった。いま、山の療養所に、こうして一人きりでいなければならない彼女は、此処ではじめて生の愉《たの》しさに近いものを味っていた。生の愉しさ? それは単に病気そのもののけだるさ、そのために生じるすべての瑣事《さじ》に対する無関心のさせる業だろうか。或は抑制せられた生に抗して病気の勝手に生み出す一種の幻覚に過ぎないのだろうか。

 一日は他の日のように徐《しず》かに過ぎて行った。
 そういう孤独な、屈托《くったく》のない日々の中で、菜穂子が奇蹟のように精神的にも肉体的にもよみ返って来だしたのは事実だった。しかし一方、彼女はよみ返ればよみ返るほど、漸《ようや》くこうして取戻し出した自分自身が、あれほどそれに対して彼女の郷愁を催していた以前の自分とは何処か違ったものになっているのを認めない訣《わけ》には行かなかった。彼女はもう昔の若い娘ではなかった。もう一人ではなかった。不本意にも、既に人の妻だった。その重苦しい日常の動作は、こんな孤独な暮しの中でも、彼女のする事なす事にはもはやその意味を失いながらも、いまだに執拗《しつよう》に空《くう》を描きつづけていた。彼女は今でも相変らず、誰かが自分と一しょにいるかのように、何んと云う事もなしに眉をひそめたり、笑をつくったりしていた。それから彼女の眼ざしはときどきひとりでに、何か気に入らないものを見咎《みとが》めでもするように、長いこと空《くう》を見つめたきりでいたりした。
 彼女はそう云う自分自身の姿に気がつく度毎に、「もう少しの辛抱……もう少しの……」と何かわけも分からずに、唯、自分自身に云って聞かせていた。

[#3字下げ]七[#「七」は中見出し]

 五月になった。圭介の母からはときどき長い見舞の手紙が来たが、圭介自身は殆ど手紙と云うものをよこした事がなかった。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思い、結局その方が彼女にも気儘《きまま》でよかった。彼女は気分が好くて起床しているような日でも、姑へ返事を書かなければならないときは、いつもわざわざ寝台にはいり、仰向けになって鉛筆で書きにくそうに書いた。それが手紙を書く彼女の気持を佯《いつわ》らせた。若《も》し相手がそんな姑ではなくて、もっと率直な圭介だったら、彼女は彼を苦しめるためにも、自分の感じている今の孤独の中での蘇生の悦《よろこ》びをいつまでも隠《かく》し了《おお》せてはいられなかっただろう。……
「かわいそうな菜穂子。」それでもときどき彼女はそんな一人で好い気になっているような自分を憐むように独り言をいう事もあった。「お前がそんなにお前のまわりから人々を突き退けて大事そうにかかえ込んでいるお前自身がそんなにお前には好いのか。これこそ自分自身だと信じ込んで、そんなにしてまで守っていたものが、他日気がついて見たら、いつの間にか空虚だったと云うような目になんぞ逢ったりするのではないか……」
 彼女はそういう時、そんな不本意な考えから自分を外《そ》らせるためには窓の外へ目を持って行きさえすればいい事を知っていた。
 其処では風が絶えず木々の葉をいい匂をさせたり、濃く淡く葉裏を返したりしながら、ざわめかせていた。「ああ、あの沢山の木々。……ああ、なんていい香りなんだろう……」

 或日、菜穂子が診察を受けに階下の廊下を通って行くと、二十七号室の扉のそとで、白いスウェタアを着た青年が両腕で顔を抑さえながら、溜《た》まらなそうに泣きじゃくっているのを見かけた。重患者の許嫁《いいなずけ》の若い娘に附添って来ている、物静かそうな青年だった。数日前からその許嫁が急に危篤に陥り、その青年が病室と医局との間を何か血走った眼つきをして一人で行ったり来たりしている、いつも白いスウェタアを着た姿が絶えず廊下に見えていた。……
「やっぱり駄目だったんだわ、お気の毒に……」菜穂子はそう思いながら、その痛々しい青年の姿を見るに忍びないように、いそいでその傍を通り過ぎた。
 彼女は看護婦室を通りかかったとき、ふいと気になったので其処へ寄って訊《き》いて見ると、事実はその許嫁の若い娘がいましがた急に奇蹟のように持ち直して元気になり出したのだった。それまでその危篤の許嫁の枕もとにふだんと少しも変らない静かな様子で附添っていた青年はそれを知ると、急にその傍を離れて、扉のそとへ飛び出して行ってしまった。そしてその陰で、突然、それが病人にもわかるほど、嬉し泣きに泣きじゃくり出したのだそうだった。……
 診察から帰って来たときも、菜穂子はまだその病室の前にその白いスウェタアを着た青年が、さすがにもう声に出して泣いてはいなかったけれど、やはり同じように両腕で顔を掩《おお》いながら立ち続けているのを見出した。菜穂子はこんどは我知らず貪《むさぼ》るような眼つきで、その青年の震える肩を見入りながら、その傍を大股にゆっくり通り過ぎた。
 菜穂子はその日から、妙に心の重苦しいような日々を送っていた。機会さえあれば看護婦を捉えて、その若い娘の容態を自分でも心から同情しながら根掘り葉掘り聞いたりしていた。しかし、その若い娘がそれから五六日後の或夜中に突然|喀血《かっけつ》して死に、その白いスウェタア姿の青年も彼女の知らぬ間に療養所から姿を消してしまった事を知ったとき、菜穂子は何か自分でも理由の分からずにいた、又、それを決して分かろうとはしなかった重苦しいものからの釈放を感ぜずにはいられなかった。そしてその数日の間彼女を心にもなく苦しめていた胸苦しさは、それきり忘れ去られたように見えた。

[#3字下げ]八[#「八」は中見出し]

 明は相変らず、氷室《ひむろ》の傍で、早苗と同じようなあいびきを続けていた。
 しかし明はますます気むずかしくなって、相手には滅多に口さえ利かせないようになった。明自身も殆ど喋舌《しゃべ》らなかった。そして二人は唯、肩を並べて、空を通り過ぎる小さな雲だの、雑木林の新しい葉の光る具合だのを互に見合っていた。
 明はときどき娘の方へ目を注いで、いつまでもじっと見つめている事があった。娘がなんと云う事もなしに笑い出すと、彼は怒ったような顔をして横を向いた。彼は娘が笑うことさえ我慢できなくなっていた。ただ娘が無心そうにしている容子だけしか彼には気に入らないと見える。そう云う彼が娘にもだんだん分かって、しまいには明に自分が見られていると気がついても、それには気がつかないようにしていた。明の癖で、彼女の上へ目を注ぎながら、彼女を通してそのもっと向うにあるものを見つめているような眼つきを肩の上に感じながら……
 しかし、そんな明の眼つきがきょうくらい遠くのものを見ている事はなかった。娘は自分の気のせいかとも思った。娘はきょうこそ自分が此の秋にはどうしても嫁いで行かなければならぬ事をそれとなく彼に打ち明けようと思っていた。それを打ち明けて見て、さて相手にどうせよと云うのではない、唯、彼にそんな話を聴いて貰って、思いきり泣いて見たかった。自分の娘としての全てに、そうやってしみじみと別れを告げたかった。何故なら明とこうして逢っている間くらい、自分が娘らしい娘に思われる事はなかったのだ。いくら自分に気むずかしい要求をされても、その相手が明なら、そんな事は彼女の腹を立てさせるどころか、そうされればされる程、自分が反って一層娘らしい娘になって行くような気までしたのだった。……
 何処か遠くの森の中で、木を伐《き》り倒《たお》している音がさっきから聞え出していた。
「何処かで木を伐っているようだね。あれは何だか物悲しい音だなあ。」明は不意に独り言のように云った。
「あの辺の森ももとは残らず牡丹屋の持物でしたが、二三年前にみんな売り払ってしまって……」早苗は何気なくそう云ってしまってから、自分の云い方に若《も》しや彼の気を悪くするような調子がありはしなかったかと思った。
 が、明はなんとも云わずに、唯、さっきから空《くう》を見つめ続けているその眼つきを一瞬切なげに光らせただけだった。彼は此の村で一番由緒あるらしい牡丹屋の地所もそうやって漸次人手に渡って行くより外はないのかと思った。あの気の毒な旧家の人達――足の不自由な主人や、老母や、おようや、その病身の娘など……。
 早苗はその日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。日が暮れかかって来たので、明だけを其処に残して、早苗は心残りそうに一人で先に帰って行った。
 明は早苗をいつものように素気なく帰した後、暫くしてから彼女がきょうは何んとなく心残りのような様子をしていたのを思い出すと、急に自分も立ち上って、村道を帰って行く彼女の後姿の見える赭松《あかまつ》の下まで行って見た。
 すると、その夕日に赫《かがや》いた村道を早苗が途中で一しょになったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近づいたりしながら歩いていく姿が、だんだん小さくなりながら、いつまでも見えていた。
「お前はそうやって本来のお前のところへ帰って行こうとしている……」と明はひとり心に思った。「おれは寧《むし》ろ前からそうなる事を希《ねが》ってさえいた。おれは云って見ればお前を失うためにのみお前を求めたようなものだ。いま、お前に去られる事はおれには余りにも切な過ぎる。だが、その切実さこそおれには入用なのだ。……」
 そんな咄嗟《とっさ》の考えがいかにも彼に気に入ったように、明はもう意を決したような面持ちで、赭松に手をかけた儘《まま》、夕日を背に浴びた早苗と巡査の姿が遂に見えなくなるまで見送っていた。二人は相変らず自転車を中にして互に近づいたり離れたりしながら歩いていた。

[#3字下げ]九[#「九」は中見出し]

 六月にはいってから、二十分の散歩を許されるようになった菜穂子は、気分のいい日などには、よく山麓《さんろく》の牧場の方まで一人でぶらつきに行った。
 牧場は遥か彼方まで拡がっていた。地平線のあたりには、木立の群れが不規則な間隔を置いては紫色に近い影を落していた。そんな野面の果てには、十数匹の牛と馬が一しょになって、彼処此処と移りながら草を食べていた。菜穂子は、その牧場をぐるりと取り巻いた牧柵《ぼくさく》に沿って歩きながら、最初はとりとめもない考えをそこいらに飛んでいる黄いろい蝶のようにさまよわせていた。そのうちに次第に考えがいつもと同じものになって来るのだった。
「ああ、なぜ私はこんな結婚をしたのだろう?」莱穂子はそう考え出すと、何処でも構わず草の上へ腰を下ろしてしまった。そして彼女はもっと外の生き方はなかったものかと考えた。「なぜあの時あんな風な抜きさしならないような気持になって、まるでそれが唯一の避難所でもあるかのように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう?」彼女は結婚の式を挙げた当時の事を思い出した。彼女は式場の入口に新夫の圭介と並んで立ちながら、自分達のところへ祝いを述べに来る若い男達に会釈していた。この男達とだって自分は結婚できたのだと思いながら、そしてその故に反って、自分と並んで立っている、自分より背の低い位の夫に、或気安さのようなものを感じていた。「ああ、あの日に私の感じていられたあんな心の安らかさは何処へ行ってしまったのだろう?」
 或日、牧柵を潜《くぐ》り抜けて、かなり遠くまで芝草の上を歩いて行った菜穂子は、牧場の真ん中ほどに、ぽつんと一本、大きな樹が立っているのを認めた。何かその樹の立ち姿のもっている悲劇的な感じが彼女の心を捉えた。丁度牛や馬の群れがずっと野の果ての方で草を食《は》んでいたので、彼女はそちらへ気を配りながら、思い切ってそれに近づけるだけ近づいて行って見た。だんだん近づいて見ると、それは何んと云う木だか知らなかったけれど、幹が二つに分かれて、一方の幹には青い葉が簇《むら》がり出ているのに、他方の幹だけはいかにも苦しみ悶《もだ》えているような枝ぶりをしながらすっかり枯れていた。菜穂子は、形のいい葉が風に揺れて光っている一方の梢と、痛々しいまでに枯れたもう一方の梢とを見比べながら、
「私もあんな風に生きているのだわ、きっと。半分枯れた儘で……」と考えた。
 彼女は何かそんな考えに一人で感動しながら、牧場を引き返すときにはもう牛や馬を怖いとも思わなかった。

 六月の末に近づくと、空は梅雨らしく曇って、幾日も菜穂子は散歩に出られない日が続いた。こういう無聊《ぶりょう》な日々は、さすがの菜穂子にも殆ど堪えがたかった。一日中、何んという事もなしに日の暮れるのが待たれ、そして漸《や》っと夜が来たと思うと、いつも気のめいるような雨の音がし出していた。
 そんな薄寒いような日、突然圭介の母が見舞に来た。その事を知って、菜穂子が玄関まで迎えに行くと、丁度其処では一人の若い患者が他の患者や看護婦に見送られながら退院して行くところだった。菜穂子も姑と一しょにそれを見送っていると、傍にいた看護婦の一人がそっと彼女に、その若い農林技師は自分がしかけて来た研究を完成して来たいからと云って医師の忠告もきかずに独断で山を下りて行くのだと囁《ささや》いた。「まあ」と思わず口に出しながら、菜穂子は改めてその若い男を見た。彼だけはもう背広姿だったので、ちょっと見たところは病人とは思えない位だったが、よく見ると手足の真黒に日に灼《や》けた他の患者達よりもずっと痩《や》せこけ、顔色も悪かった。その代り、他の患者達に見られない、何か切迫した生気が眉宇《びう》に漂っていた。彼女はその未知の青年に一種の好意に近いものを感じた。……
「あそこにいたのが患者さんたちなのかえ?」姑は菜穂子と廊下を歩き出しながら、訝《いぶか》しそうな口吻《くちぶり》で云った。「どの人も皆普通の人よりか丈夫そうじゃないか。」
「ああ見えても、皆悪いのよ。」菜穂子は心にもなく彼等の味方についた。
「気圧なんかが急に変ったりすると、あんな人達の中からも喀血《かっけつ》したりする人がすぐ出るのよ。ああして患者同志が落ち合ったりすると、こんどは誰の番だろうと思いながら、それが自分の番かも知れない不安だけはお互に隠そうとし合うのね、だから元気というよりか、寧《むし》ろはしゃいでいるだけだわ。」
 菜穂子はそんな彼女らしい独断を下しながら、自分自身も姑にはすっかり快くなったように見え、こんな山の療養所にいつまでも一人で居るのを何かと云われはすまいかと気づかいでもするように、自分の左の肺からまだラッセルがとれないでいる事なんぞを、いかにも不安そうに説明したりした。
 突き当りの病棟の二階の端近くにある病室にはいると、姑はクレゾオルの匂のする病室の中をちらりと見廻したきりで、長くその中に止まることを怖れるかのように、すぐ露台へ出て行った。露台はうすら寒そうだった。
「まあ、どうして此の人は此処へ来ると、いつもあんなに背中を曲げてばかりいるんだろう?」と菜穂子は露台の手すりに手をかけて向うを向いている姑の背を、何か気に入らないもののように見据えながら、心の中で思っていた。そのうち不意に姑が彼女の方へふり向いた。そして菜穂子が自分の方を空《うつ》けたように見据えているのに気づくと、いかにもわざとらしい笑顔をして見せた。
 それから一時間ばかり立った後、菜穂子はいくら引き留めてもどうしてもすぐ帰ると云う姑を見送りながら、再び玄関まで附いていった。その間も絶えず、何かを怖れでもするようにことさらに曲げているような姑の背中に、何か虚偽的なものをいままでになく強く感じながら……

[#3字下げ]十[#「十」は中見出し]

 黒川圭介は、他人のために苦しむという、多くの者が人生の当初において経験するところのものを、人生半ばにして漸《ようや》く身に覚えたのだった。……
 九月初めの或日、圭介は丸の内の勤め先に商談のために長与と云う遠縁にあたる者の訪問を受けた。種々の商談の末、二人の会話が次第に個人的な話柄の上に落ちて行った時だった。
「君の細君は何処かのサナトリウムにはいっているんだって? その後どうなんだい?」長与は人にものを訊《き》くときの癖で妙に目を瞬《またた》きながら訊いた。
「何、大した事はなさそうだよ。」圭介はそれを軽く受流しながら、それから話を外《そ》らせようとした。菜穂子が胸を患って入院している事は、母がそれを厭《いや》がって誰にも話さないようにしているのに、どうして此の男が知っているのだろうかと訝《いぶか》しかった。
「何でも一番悪い患者達の特別な病棟へはいっているんだそうじゃないか。」
「そんな事はない。それは何かの間違えだ。」
「そうか。そんなら好いが……。そんな事を此の間うちのおふくろが君んちのおふくろから聞いて来たって云ってたぜ。」
 圭介はいつになく顔色を変えた。「うちのおふくろがそんな事を云う筈はないが……。」
 彼はいつまでも妙な気持になりながら、その友人を不機嫌そうに送り出した。

 その晩、圭介は母と二人きりの口数の少ない食卓に向っているとき、最初何気なさそうに口をきいた。
「菜穂子が入院している事を長与が知っていましたよ。」
 母は何か空惚《そらとぼ》けたような様子をした。「そうかい。そんな事があの人達にどうして知れたんだろうね。」
 圭介はそう云う母から不快そうに顔を外らせながら、不意といま自分の傍にいないものが急に気になり出したように、そちらへ顔を向けた。――こういう晩飯のときなど、菜穂子はいつも話の圏外に置きざりにされがちだった。圭介達はしかし彼女には殆ど無頓著《むとんじゃく》のように、昔の知人だの瑣末《さまつ》な日々の経済だのの話に時間を潰《つぶ》していた。そう云うときの菜穂子の何かをじっと怺《こら》えているような、神経の立った俯向《うつむ》き顔を、いま圭介は其処にありありと見出したのだった。そんな事は彼には殆どそれがはじめてだと云ってよかった。……
 母は自分の息子の娵《よめ》が胸などを患ってサナトリウムにはいっている事を表向き憚《はばか》って、ちょっと神経衰弱位で転地しているように人前をとりつくろっていた。そしてそれを圭介にも含ませ、一度も妻のところへ見舞に行かせない位にしていた。それ故、一方陰でもって、その母が菜穂子の病気のことを故意と云い触らしていようなどとは、圭介は今まで考えても見なかったのだった。
 圭介は菜穂子から母のもとへ度々手紙が来たり、又、母がそれに返事を出しているらしい事は知ってはいた。が、稀《まれ》に母に向って病人の容態を尋ねる位で、いつも簡単な母の答で満足をし、それ以上立ち入ってどう云う手紙をやりとりしているか、全然知ろうとはしなかった。圭介はその日の長与の話から、母がいつも何か自分に隠し立てをしているらしい事に気づくと、突然相手に云いようのない苛立《いらだた》しさを感じ出すと共に、今までの自分の遣り方にも烈《はげ》しく後悔しはじめた。
 それから二三日後、圭介は急に明日会社を休んで妻のところへ見舞に行って来ると云い張った。母はそれを聞くと、なんとも云えない苦い顔をした儘《まま》、しかし別にそれには反対もしなかった。

[#3字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

 黒川圭介が、事によると自分の妻は重態で死にかけているのかも知れないと云うような漠然とした不安に戦《おのの》きながら、信州の南に向ったのは、丁度二百廿日前の荒れ模様の日だった。ときどき風が烈しくなって、汽車の窓硝子《まどガラス》には大粒の雨が音を立てて当った。そんな烈しい吹き降りの中にも、汽車は国境に近い山地にかかると、何度も切り換えのために後戻りしはじめた。その度毎に、外の景色の殆ど見えないほど雨に曇った窓の内で、旅に慣れない圭介は、何だか自分が全く未知の方向へ連れて行かれるような思いがした。
 汽車が山間らしい外の駅と少しも変らない小さな駅に著《つ》いた後、危く発車しようとする間際になって、それが療養所のある駅であるのに気づいて、圭介は慌てて吹き降りの中にびしょ濡れになりながら飛び下りた。
 駅の前には雨に打たれた古ぼけた自動車が一台|駐《とま》っていたきりだつた。圭介の外にも、若い女の客が一人いたが、同じ療養所へ行くので、二人は一しょに乗って行く事にした。
「急に悪くなられた方があって、いそいで居りますので……」そうその若い女の方で云《い》い訣《わけ》がましく云った。その若い女は隣県のK市の看護婦で、療養所の患者が喀血などして急に附添が入るようになると電話で呼ばれて来る事を話した。
 圭介は突然胸さわぎがして、「女の患者ですか?」とだしぬけに訊いた。
「いいえ、こんど初めて喀血をなすったお若い男の方のようです。」相手は何んの事もなさそうに返事をした。
 自動車は吹き降りの中を、街道に沿った穢《きたな》い家々へ水溜《みずたま》りの水を何度もはねかえしながら、小さな村を通り過ぎ、それから或傾斜地に立った療養所の方へ攀《よ》じのぼり出した。急にエンジンの音を高めたり、車台を傾《かし》がせたりして、圭介をまだ何んとなく不安にさせた儘……

 療養所に著《つ》くと、丁度患者達の安静時間中らしく、玄関先には誰の姿も見えないので、圭介は濡れた靴をぬぎ、一人でスリッパアを突っかけて、構わず廊下へ上がり、ここいらだったろうと思った病棟に折れて行ったが、漸《や》っと間違えに気がついて引き返して来た。途中の、或病室の扉が半開きになっていた。通りすがりに、何の気なしに中を覗いて見ると、つい鼻先きの寝台の上に、若い男の、薄い顎髭《あごひげ》を生やした、蝋《ろう》のような顔が仰向いているのがちらりと見えた。向うでも扉の外に立っている圭介の姿に気がつくと、その顔の向きを変えずに、鳥のように大きく見ひらいた眼だけを彼の方へそろそろと向け出した。
 圭介は思わずぎょっとしながら、その扉の傍をいそいで通り過ぎようとすると、同時に内側からも誰かが近づいて来てその扉を締めた。その途端、何やらひょいと会釈されたようなので、気がついて見ると、それはもう白衣に着換えた、駅から一しょに来たさっきの若い女だった。
 圭介は漸っと廊下で一人の看護婦を捉えて訊《き》くと、菜穂子のいる病棟はもう一つ先の病棟だった。教わったとおり、突き当りの階段を上がると、ああ此処だったなと前に妻の入院に附添って来たときの事を何かと思い出し、急に胸をときめかせながら菜穂子のいる三号室に近づいて行った。事によったら、菜穂子もすっかり衰弱して、さっきの若い喀血患者《かっけつかんじゃ》のような無気味なほど大きな眼でこちらを最初誰だか分からないように見るのではないかと考えながら、そんな自身の考えに思わず身慄《みぶる》いをした。
 圭介は先ず心を落ち著けて、ちょっと扉をたたいてから、それを徐《しず》かに明けて見ると、病人は寝台の上に向う向きになった儘《まま》でいた。病人は誰がはいって来たのだか[#「来たのだか」は底本では「来たのだが」]知りたくもなさそうだった。
「まあ、あなたでしたの?」菜穂子は漸っとふり返ると、少し窶《やつ》れたせいか、一層大きくなったような眼で彼を見上げた。その眼は一瞬異様に赫《かがや》いた。
 圭介はそれを見ると、何かほっとし、思わず胸が一ぱいになった。
「一度来ようとは思っていたんだがね。なかなか忙しくて来られなかった。」
 夫がそう云《い》い訣《わけ》がましい事を云うのを聞くと、菜穂子の眼からは今まであった異様な赫きがすうと消えた。彼女は急に暗く陰った眼を夫から離すと、二重になった硝子窓《ガラスまど》の方へそれを向けた。風はその外側の硝子へときどき思い出したように大粒の雨をぶつけていた。
 圭介はこんな吹き降りを冒してまで山へ来た自分を妻が別に何んとも思わないらしい事が少し不満だった。が、彼は目の前に彼女を見るまで自分の胸を圧《お》しつぶしていた例の不安を思い出すと、急に気を取り直して云った。
「どうだ。あれからずっと好いんだろう?」圭介はいつも妻に改ってものを云うときの癖で目を外《そ》らせながら云った。
「…………」菜穂子も、そんな夫の癖を知りながら、相手が自分を見ていようといまいと構わないように、黙って頷《うなず》いただけだった。
「何あに、此處にもう暫く落ち著いていれば、お前なんぞはすぐ癒《なお》るさ。」圭介はさっき思わず目に入れたあの喀血患者の死にかかった鳥のような無気味な目つきを浮べながら、菜穂子の方へ思い切って探るような目を向けた。
 しかし彼はそのとき菜穂子の何か彼を憐れむような目つきと目を合わせると、思わず顔をそむけ、どうして此の女はいつもこんな目つきでしか俺を見られないんだろうと訝《いぶか》りながら、雨のふきつけている窓の方へ近づいて行った。窓の外には、向う側の病棟も見えない位飛沫を散らしながら、木々が木の葉をざわめかせていた。

 暮方になっても、この荒れ気味の雨は歇《や》まず、そのため圭介もいっこう帰ろうとはしなかった。とうとう日が暮れかかって来た。
「ここの療養所へ泊めて貰えるかしら?」窓ぎわに腕を組んで木々のざわめきを見つめていた圭介が不意に口をきいた。
 彼女は訝かしそうに返事をした。「泊って入らっしゃっていいの? そんなら村へ行けば宿屋だってないことはないわ。しかし、此処じゃ……」
「しかし此処だって泊めて貰えないことはないんだろう。おれは宿屋なんぞより此処の方が余っ程好い。」彼はいまさらのように狭い病室の中を見廻した。
「一晩位なら、此処の床板だって寝られるさ。そう寒いというほどでもないし……」
 菜穂子は「まあ此の人が……」と驚いたようにしげしげと圭介を見つめた。それから云っても云わなくとも好い事を云うように、「変っているわね……」と軽く揶揄《やゆ》した。しかし、そのときの菜穂子の揶揄するような眼ざしには圭介を苛《い》ら苛《い》らさせるようなものは何一つ感ぜられなかった。
 圭介はひとりで女の多い附添人達の食堂へ夕食をしに行き、当直の看護婦に泊る用意もひとりで頼んで来た。

 八時頃、当直の看護婦が圭介のために附添人用の組立式のベッドや毛布などを運んで来て呉れた。看護婦が夜の検温を見て帰った後、圭介は一人で無器用そうにベッドをこしらえ出した。菜穂子は寝台の上から、不意と部屋の隅に圭介の母の少し険を帯びた眼ざしらしいものを感じながら、軽く眉をひそめるようにして圭介のする事を見ていた。
「これでベッドは出来たと……」圭介はそれを試めすように即製のベッドに腰をかけて見ながら、衣嚢《かくし》に手を突込んで何か探しているような様子をしていたが、やがて巻煙草を一本とり出した。
「廊下なら煙草をのんで来てもいいかな。」
 菜穂子はしかしそれには取り合わないように黙っていた。
 圭介はとりつく島もなさそうに、のそのそと廊下へ出て行ったが、そのうちに彼が煙草をのみながら部屋の外を行ったり来たりしているらしい足音が聞えて来た。菜穂子はその足音と木の葉をざわめかせている雨風の音とに代る代る耳を傾けていた。
 彼が再び部屋に入って来ると、蛾が妻の枕もとを飛び廻り、天井にも大きな狂おしい影を投げていた。
「寝る前にあかりを消してね。」彼女がうるさそうに云った。
 彼は妻の枕もとに近づき、蛾を追い払って、あかりを消す前に、まぶしそうに目をつぶっている彼女の眼のまわりの黒ずんだ暈《くま》をいかにも痛々しそうに見やった。

「まだおやすみになれないの?」暗がりの中から菜穂子はとうとう自分の寝台の裾の方でいつまでもズック張のベッドを軋《きし》ませている夫の方へ声をかけた。
「うん……」夫はわざとらしく寝惚《ねぼ》けたような声をした。「どうも雨の音がひどいなあ。お前もまだ寝られないのか?」
「私は寝られなくったって平気だわ。……いつだつてそうなんですもの……」
「そうなのかい。……でも、こんな晩はこんな所に一人でなんぞ居るのは嫌だろうな。……」圭介はそういいかけて、くるりと彼女の方へ背を向けた。それは次の言葉を思い切って云うためだった。「……お前は家へ帰りたいとは思わないかい?」
 暗がりの中で菜穂子は思わず身を竦《すく》めた。「身体がすっかり好くなってからでなければ、そんな事は考えないことにしていてよ。」そう云ったぎり、彼女は寝返りを打って黙り込んでしまった。
 圭介もその先はもう何んにも云わなかった。二人を四方から取り囲んだ闇は、それから暫くの間は、木々をざわめかす雨の音だけに充たされていた。
(つづく)


底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」(「目覚め」の表題で。)
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 荻窪 おぎくぼ 東京都杉並区西部の地名。JR中央線・地下鉄丸の内線が通じる住宅・商業地域。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 有楽町 ゆうらくちょう 東京都千代田区の一地区。銀座に接する繁華街。名称は織田信長の弟、有楽斎の屋敷があったことに因む。
  • 大森 おおもり 東京都大田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 丸の内 まるのうち 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
  • 高商 こうしょう 旧制の高等商業学校の略称。
  • 中央線 ちゅうおうせん → 中央本線か
  • 中央本線 ちゅうおう ほんせん 中部地方を縦貫するJR線。東京(起点は神田)から甲府・塩尻を経て名古屋に至る。迂回線を含み全長422.6km。
  • 信州 しんしゅう 信濃国の別称。いまの長野県。科野
  • O村
  • Mホテル O村の隣村にできたホテル。
  • 牡丹屋 ぼたんや
  • 八ヶ岳 やつがたけ 富士火山帯中の成層火山。長野県茅野市・南佐久郡・諏訪郡と山梨県北杜市にまたがる。赤岳(2899m)を最高峰として、硫黄岳・横岳・権現岳など8峰が連なり、山麓斜面が広く、高冷地野菜栽培が盛ん。尖石など先史遺跡が分布。
  • 高原療養所
  • 信越線 しんえつせん 信越本線とその支線(飯山線・越後線・彌彦線)との総称。
  • 上州 じょうしゅう 上野国の別称。今の群馬県。
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568m。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)
  • 隣県のK市


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 菜穂子 なおこ 旧姓三村。
  • 都築明 つづき あきら
  • 三村家
  • 森於菟彦 もり おとひこ
  • 三村夫人 菜穂子の母。
  • 黒川圭介 菜穂子の夫。
  • 圭介の母
  • 明の叔母
  • 牡丹屋
  • 老母
  • 主人
  • およう 主人の姉。
  • 初枝 おようの娘。
  • 綿屋 わたや
  • 早苗 綿屋の娘。
  • 長与 ながよ 圭介の遠縁の友人。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 空ける・虚ける うつける (1) 中がうつろになる。(2) 気がぬけてぼんやりする。ぼける。
  • 憔悴 しょうすい やせおとろえること。やつれること。
  • 折鞄 おりかばん 書類などを入れて携えるのに用いる、二つに折りたためるかばん。おれかばん。
  • 長火鉢 ながひばち 長方形の箱火鉢。ひきだし・猫板・銅壺などが付属し、茶の間・居間などに置く。
  • 狭心症 きょうしんしょう 心臓部に起こる激烈な疼痛発作。痛みは多く左腕に放散する。冠状動脈の痙攣・硬化・狭窄などにより、心臓への血流が妨げられることによって起こる。
  • 亢じる こうじる 高ずる・昂ずる、か。たかまる。はなはだしくなる。つのる。
  • 打ち沈む うちしずむ (1) 「沈む」を強めていう語。(2) すっかり元気がなくなる。
  • 邂逅 かいこう 思いがけなく出あうこと。めぐりあうこと。
  • 閾 しきみ 門戸の内外の区画を設けるために敷く横木。蹴放。また、敷居。戸閾。
  • 斑雪 まだらゆき 「はだれゆき」に同じ。はらはらとまばらに降る雪。また、うっすらと降り積もった雪。まだらになった残雪。はだらゆき。
  • 脊髄炎 せきずいえん 細菌・ウイルスなどによる脊髄の炎症の総称。
  • 楡 にれ ニレ属の落葉高木の総称。ハルニレ・アキニレ・オヒョウなど。材は堅く建築材・器具材。樹皮は強靱で、紙・縄・織布などとし、また、利尿・去痰剤とする。狭義にはハルニレを指す。
  • 驟雨 しゅうう 急に降り出し、間もなく止んでしまう雨。にわかあめ。
  • 芽ぐむ・萌む めぐむ 草木が芽を出す。めばえる。
  • 手ぐる てぐる
  • 喀血 かっけつ 肺・気管支粘膜などから出血した血液をせきとともに吐くこと。肺出血。
  • 気ぶっせい きぶっせい (キブサイの訛) 気づまりなこと。
  • 気塞い きぶさい (「きぶさいな(り)」の形でも使う) (1) 気づまりであるさま。気にさわるさま。きぶっせい。(2) 疑わしい。あやしい。
  • 療養所 りょうようじょ 病気、けがの療養をする施設。
  • もなか (2) まっさかり。最中。
  • 無聊 ぶりょう (1) 心配事があって楽しくないこと。(2) つれづれなこと。たいくつ。
  • 眉宇 びう (「宇」は軒の意。眉を眼の軒と見立てていう) まゆのあたり。まゆ。
  • ラッセル → ラッセル音か
  • ラッセル音 ラッセルおん 〔医〕Rasselgerausch 炎症などが原因で、気管・気管支・肺に分泌物が停滞するときなどに、呼吸に伴って聴診器に聞こえる異常音。�^音。
  • クレゾール Kresol 分子式C(6)H(4)(CH(3))OH フェノール類の一つ。オルト・メタ・パラの三つの異性体がある。コールタールおよび木タール中に含まれる。消毒薬・防腐剤に使用。
  • 話柄 わへい 話すことがら。話のたね。話題。
  • サナトリウム sanatorium 療養所。郊外・林間・海浜・高原に設け、清浄な空気と日光とを利用し、主として結核症など慢性疾患を治療した施設。
  • 二百二十日 にひゃく はつか 立春から数えて220日目。9月11日ころに当たり、二百十日と同じ意味で厄日とされる。新潟県の弥彦神社では、この日風祭を行う。
  • 険 けん (2) 顔つきにけわしさのあること。
  • 衣嚢 かくし ポケット。
  • ズック doek (1) 麻または綿の太撚糸で地を厚く平織にした織地。多くインドから産出。テント・靴・鞄・帆などに使用。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 T-Time 5.5。Windows 7 へインストールすると、縦組み、画像表示、字送り、インデントなど基本的な体裁は、そつなくこなしている。ソフトの起動時間、ページ送りも快適。
 ところが、どうも、それを読む気にならない。
 Mac の T-Time と Windows の T-Time。この差はなんなんだろうと、漠然と失望していたんだけれど、Windows の最大の急所は「フォント」だったんじゃないだろうかという思いに到る。
 
 Windows になくて Mac にあるのがヒラギノフォント。これが T-Time の縦組みとの相性がバツグンで、T-Time だけじゃなく、横組みのブラウザーでもエディターでも表示フォントにヒラギノの丸ゴシックを指定している。丸ゴのいいところは、レティナ・ディスプレイ以前の解像度の高くない環境でもストレスなく見れること。
 なぜ「丸ゴ」かというと、文字の級数を下げても明朝体のように横棒の細いラインがとばない。フォントのボディに対してずんぐりむっくりに、おおぶりに作ってあるので文字のつぶれもない。

「級数を下げても文字がつぶれずに読める」という条件は、書体にとってごくあたりまえの、とるにたらないことかもしれない。が、これがことパソコンやタブレットや電子書籍端末になると印刷本にくらべて解像度が低いぶん、シビアな評価をくだされることになる。
 表示級数に2つないし3つぐらいのバリエーションがあると、一冊の書籍としての表情がかなり豊かになる。なおかつルビは、「本文級数の半分のサイズ」になるから、ラインがとんだりつぶれて読めないフォントではその意味をなさない。
 
 市販のフォントを買いたせば、Windows だって条件は同じはず。
 たぶん、そう考えたのがマイクロソフト陣営の甘いところ。買いたす人とそうでない人の格差が、テキスト表示の質の格差にもなり、PC上での読書ストレスの格差にもなる。ただでさえ、うつろいやすい電子テキストなのに、もっともメジャーであるはずの環境で、安定感をそぐようなことをマイクロソフトはしてこなかっただろうか。OSを交換するたびに、テキストが変わったり、フォントがあったりなかったりとか。
 問題は Windows だけでなく、電子書籍端末でもタブレットでもスマートフォンでもたぶん同じ。

 さて、アップルのこれまでの強さのひとつにフォント「ヒラギノ」があったとすれば、ヒラギノに匹敵するような読みやすいフォントを自分で作って提供してしまえば、ユーザーの環境に関係なく、作り手の意図にほぼ忠実な再現ができるんじゃないか……なあんて。




*次週予告


第五巻 第三三号 
菜穂子(四)堀 辰雄


第五巻 第三三号は、
二〇一三年三月九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第三二号
菜穂子(三)堀 辰雄
発行:二〇一三年三月二日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。