日本歴史物語〈上〉(六)
五十、蝦夷地 の経営
京都での貴族の
大昔に
そこで
このころには、
そんなにまでして、政府は蝦夷地の経営に
ところが、なかには
その
五十一、前九年 の役 (一)
平安朝のはじめのころは、朝廷のご
その後
頼義は
源氏は経基の子
平氏もまた武士の
頼義の
五十二、前九年 の役 (二)
それからまた戦争がはじまりましたが、頼義のかわりに
しかしこれで安倍氏の
そのうちに、いよいよ
五十三、後三年 の役
長い間だれも手をようつけなかった安倍氏がとうとう
ところが、第七十三代
このとき清原氏では、武則の子
藤原清衡は、
義家は陸奥守として、その国のうちの
このときその武士の中に、
館の守りが
この後三年の役は、じつは清原氏が
五十四、平泉 の隆盛
清原氏が
清衡はたいそう仏教を信仰しまして、平泉に
清衡の子の
黄金 一〇〇両 。( 目方 にして四〇〇匁 で、今の価 にして二〇〇〇円以上)鷲 の羽 が一〇〇尻 。(これは弓の矢に使うのです) 七間半 の広さのアザラシの皮が六〇余枚 。安達絹 が一〇〇〇匹 。希婦 の細布 という織り物が二〇〇〇反 。糠部 〔「ぬかのぶ」か〕 の駿馬 が五〇匹 。白布 が三〇〇〇反 。信夫 毛地摺 りという織り物が一〇〇〇反 。
というので、そのほかにもいろいろの
基衡の子の
そればかりでなく秀衡は、そのころ京都でいちばん勢力のあった
そんなありさまですから、平泉は京都につぐほどの
五十五、古代史の回顧
同じ日本のうちに、いかに奥羽地方が遠く東北に離れておったとて、それが別の大きな
武士のなかでは、源氏と平氏とがいちばん強く、京都で
しかしそんなに国が
実際、わたくしどものこの大日本帝国は、世界に
しかし長い間には、
(おわり)
先生や父兄の方々に
わたしはかねて日本の古代史をおもに研究しておりますところから、このたび日本児童文庫の編集者から頼まれて、およばずながらこの一編を書いてみました。平素、児童相手のことには
なにぶんにも児童の読み物でありますから、なるべく興味本位であり、また、わかりやすいものであるようにしてみたいと思いまして、はじめはいくらかそのつもりで筆をとりかけましたけれども、それではあまりに長たらしくなって、とてもこの一冊だけでは、知らせておきたいと思うことがおさまりきれそうにもありません。また事柄によっては、わたしのつたない筆では、とてもわかりやすく書くことができないと覚悟をしました。つまり興味を持って読ませるということ、わかりやすくするということには、あきらかに失敗したのです。そこでわたしは、何十冊もの日本児童文庫の中には、みながみなまで娯楽的のものばかりでなくてもよかろう、なかには少々むずかしいものがあっても、先生方なり、父兄方なりのご説明をわずらわしてでも、日本の歴史のもっとも大切なところを知ってもらうようにしたいという気になりまして、とうとうこんなものにしあげてしまったのです。書き終わって読みかえしてみますと、それは児童の読み物というよりも、むしろ学校における先生方の参考書、家庭における補修用教科書、といってもよい物だという感じがいたしますが、いまさら
わたしはつねにこう考えております。小学校程度の日本歴史は、ただ歴史事実を教えて児童を小歴史家にするというのではなく、その歴史の知識によって、立派な帝国臣民としての、固い固い信念をつくりあげるようにしなければならぬものだと考えているのであります。すなわち、修身教科の一部であってもしかるべきものだと考えているのであります。小学校時代における教育は、ただ立派な人間を作ればよいというばかりでなく、同時に立派な帝国臣民をつくりあげる覚悟でなければならぬものだと考えているのであります。近ごろは何ごとにも国際的というようなことがはやりまして、歴史を国家的教育の材料にすることはまちがっている、などとの議論をしばしば耳にしますが、それは国民教育ということの本体を誤ったものだと考えております。そんなことを今ここで議論する必要はありませんが、わたしはどこまでも日本歴史によって、日本の国体はどんなものか、日本民族はどうしたものかというようなことを、よく児童に知らせるのがもっとも必要だと考えているのであります。
児童的の歴史の読み物としましては、小学校の教科書をはじめとして、むかしの偉人の事跡を中心として、その逸話などを事おもしろく述べたてて、その偉人を崇拝せしめつつ、興味のうちに事実を知らしめる仕組みになっているのがふつうであります。児童相手には、実際このくらいの程度がいちばんよいのでありましょうが、じつはそれだけでは、むかしこんな偉い人があった、こんな大きな事件があったというだけで、本当の世の中の移り変わりはわかりません。偉人の力はまことに大きなものであります。ただしその偉人をつくりだす世の中の目に見えぬ力に、さらにいっそう大きなものがあることをも知らせたいのです。それで、わたしのこの歴史は、小学校の教科書でひととおりのことは知っているものにという目標で、おそらく最初の試みとして、こんなものに書きあげてみたのです。
児童の読み物としては、これはたしかに失敗でありましょう。それはわたしの筆のつたないためとして、その非難はあまんじて受ける覚悟でおります。ただしこれまでは、歴史とだにいえば、かならず人とか、場所とか、時とかがわかるものでなければならぬというふうに、多くの人がとりあつかっていた
どうか、先生方や父兄の方々におかれまして、この書のおよばぬところをおぎなってくださって、将来の国家の中堅となるべき児童たちに、日本の国はこんなものだ、日本民族はこうしたものだ、時代はこんなふうに
昭和三年(一九二八)一月二十九日
喜田貞吉
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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日本歴史物語〈上〉(六)
喜田貞吉-------------------------------------------------------
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《》:ルビ
(例)兒童《じどう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
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(例)貞吉《ていきち》[#「ていきち」は底本のまま]
/\:二倍の踊り字(
(例)遠《とほ》い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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五十、蝦夷地《えぞち》の經營《けいえい》
京都《きようと》での貴族《きぞく》の榮華《えいが》、地方《ちほう》での民衆《みんしゆう》の苦《くる》しみが、まるで世界《せかい》が違《ちが》つてでもゐるかのように、別々《べつ/\》に動いてゐた間《あひだ》に、奧羽《おうう》地方《ちほう》の蝦夷《えぞ》民族《みんぞく》は、どんなふうであつたでありませう。
大昔《おほむかし》に四道《しどう》將軍《しようぐん》の巡回《じゆんかい》や、日本武尊《やまとたけるのみこと》の蝦夷《えぞ》征伐《せいばつ》があつてから、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》が次第《しだい》に東北《とうほく》の方《ほう》へのびてまゐりまして、蝦夷《えぞ》はだん/\從《したが》つて來《く》る。第二十一代《だいにじゆういちだい》雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》までに、東《ひがし》では蝦夷《えぞ》の國《くに》五十五《ごじゆうご》箇國《かこく》が、日本《につぽん》帝國《ていこく》に併合《へいごう》せられ、蝦夷人《えぞじん》の兵隊《へいたい》を以《もつ》て、天皇《てんのう》のお宮《みや》をお護《まも》らせになりますまでに、親《した》しくなつて來《き》たことは既《すで》に述《の》べて置《お》きました。しかし何分《なにぶん》にも交通《こうつう》の不便《ふべん》な昔《むかし》のことです。今日《こんにち》ならば京都《きようと》から、汽車《きしや》で二十《にじゆう》時間《じかん》もあれば、樂《らく》に行《ゆ》ける奧羽《おうう》地方《ちほう》の入《い》り口《ぐち》の白河《しらかは》まで、この頃《ころ》では半年《はんとし》もかゝつて、旅行《りよこう》したと言《い》はれたほどにも、奧州《おうしゆう》は遠方《えんぽう》の國《くに》でありました。ですから、その奧《おく》の方《ほう》にはまだ多《おほ》くの蝦夷人《えぞじん》が殘《のこ》つてをつて、天皇《てんのう》の尊《たふと》きを知《し》らず、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》に入《い》ることの仕合《しあは》せをもさとらず、相《あひ》變《かは》らず昔《むかし》ながらの暮《くら》しをして、かへつて日本人《につぽんじん》の方《ほう》に、反抗《はんこう》して來《く》るといふようなものがあつたのも、まったくやむを得《え》ぬことでした。
そこで齊明《さいめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、阿倍《あべの》比羅夫《ひらふ》がたくさんの船《ふな》いくさを率《ひき》ゐて、今《いま》の秋田縣《あきたけん》から、青森縣《あをもりけん》あたりの、日本《につぽん》海岸《かいがん》の蝦夷《えぞ》を伐《う》つて、之《これ》を從《したが》へましたばかりでなく、遠《とほ》く北海道《ほつかいどう》の方《ほう》へまでもまゐりました。これから日本海《につぽんかい》方面《ほうめん》の蝦夷《えぞ》は、だん/\開《ひら》けてまゐりました。
この頃《ころ》には、蝦夷人《えぞじん》は奧羽《おうう》ばかりでなく、越後《えちご》あたりにもまだ多《おほ》く住《す》んでをりました。越後《えちご》から奧羽《おうう》へかけて、土地《とち》が廣《ひろ》く、開墾《かいこん》すれば立派《りつぱ》な田地《でんち》になる所《ところ》がいくらでもあり、海《うみ》や川《かは》には昆布《こんぶ》や魚《うを》などの水産物《すいさんぶつ》が多《おほ》い。また山《やま》や林《はやし》には、鹿《しか》や熊《くま》などの動物《どうぶつ》がたくさんゐる。それを昔《むかし》ながらの蝦夷人《えぞじん》にのみまかしきりにして、國家《こつか》の利益《りえき》をはからないのは、惜《を》しいことであるばかりでなく、蝦夷《えぞ》をいつまでも、開《ひら》けない、みじめなまゝで捨《す》てゝ置《お》くことも、いかにも氣《き》の毒《どく》な次第《しだい》であります。そこで我《わ》が政府《せいふ》の方針《ほうしん》としましては、一方《いつぽう》では蝦夷《えぞ》の土地《とち》を開《ひら》いて、日本人《につぽんじん》をこゝに移《うつ》し、農業《のうぎよう》をすゝめ、山《やま》や海《うみ》の産物《さんぶつ》を起《おこ》す。一方《いつぽう》には蝦夷人《えぞじん》を内地《ないち》の諸國《しよこく》にうつして、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》にする。これによつて日本《につぽん》の土地《とち》も廣《ひろ》くなれば、人口《じんこう》も増《ま》し、國《くに》も富《と》む、蝦夷人《えぞじん》も幸福《こうふく》になるといふわけです。これが爲《ため》には、時《とき》には兵隊《へいたい》をさしむけて、朝廷《ちようてい》の御威光《ごいこう》を示《しめ》す場合《ばあひ》もありますが、しかしむやみに戰爭《せんそう》で勝《か》つて、蝦夷《えぞ》を押《おさ》へつければそれでよいといふのではありません。内地《ないち》に移《うつ》された蝦夷人《えぞじん》には、土地《とち》を與《あた》へて農民《のうみん》となし、内地《ないち》の暮《くら》しに慣《な》れるまで、二代《にだい》の間《あひだ》食料《しよくりよう》を與《あた》へるといふ程《ほど》にまで、これを優待《ゆうたい》したものでした。もちろん蝦夷地《えぞち》にゐるものも、これを優待《ゆうたい》して、だん/\日本人《につぽんじん》のふうに改《あらた》めさせます。その功勞《こうろう》のあるものには、位《くらゐ》を授《さづ》け、褒美《ほうび》を與《あた》へます。蝦夷人《えぞじん》の中《なか》でも、頭《かしら》とか、事《こと》のよくわかるようなものは、郡領《ぐんりよう》といふ役人《やくにん》に採用《さいよう》して、その地方《ちほう》を治《をさ》めさせました。
そんなにまでして、政府《せいふ》は蝦夷地《えぞち》の經營《けいえい》に骨《ほね》を折《を》つたものですから、蝦夷人《えぞじん》もその威《い》に恐《おそ》れ、その徳《とく》を慕《した》うて、だん/\從《したが》つてまゐりまして、奈良朝《ならちよう》の末頃《すゑごろ》には、今《いま》の宮城縣《みやぎけん》の北《きた》の方《ほう》から、秋田縣《あきたけん》の西南《にしみなみ》の方《ほう》までも、皆《みな》日本《につぽん》の領分《りようぶん》になりました。
[#図版(28.png)、坂上田村麿]
ところが、中《なか》には不心得《ふこゝろえ》なものがありまして、せっかく日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつたものに向《むか》つて、「お前《まへ》は蝦夷人《えぞじん》ぢやないか」とか、「蝦夷人《えぞじん》の癖《くせ》に生意氣《なまいき》だ」などと、嫌《いや》がらせを言《い》つては、これを輕蔑《けいべつ》するようなものがあります。それが爲《ため》に奈良朝《ならちよう》の末《すゑ》、光仁《こうにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、大《たい》へんな騷動《そうどう》が起《おこ》りました。もと蝦夷人《えぞじん》で、すでに從五位《じゆごい》の位《くらゐ》を授《さづ》かり、立派《りつぱ》な日本人《につぽんじん》になり、一郡《いちぐん》の郡領《ぐんりよう》にまで任《にん》ぜられてゐた程《ほど》の、伊治《いじの》呰麻呂《あたまろ》といふものが、とかく蝦夷人《えぞじん》扱《あつか》ひされるのを怒《いか》りまして、同《おな》じ仲間《なかま》を引《ひ》き連《つ》れて謀叛《むほん》したのです。その勢《いきほひ》が大《たい》そう強《つよ》く、一旦《いつたん》日本《につぽん》に從《したが》つてゐたものまでが、たくさんこれに加《くは》はりましたから、とう/\蝦夷《えぞ》の大亂《たいらん》となりまして、官軍《かんぐん》も容易《ようい》にこれを從《したが》へることが出來《でき》なくなりました。これがもととなりまして、蝦夷《えぞ》の大亂《たいらん》はその後《のち》二十年《にじゆうねん》以上《いじよう》も續《つゞ》きました。その間《あひだ》には、千《せん》何百人《なんびやくにん》といふ官軍《かんぐん》が、一度《いちど》に北上川《きたかみがは》へ落《お》ちて、溺死《できし》したといふような、大變《たいへん》な騷《さわ》ぎもありましたが、桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、坂上《さかのへの》田村麻呂《たむらまろ》が征夷《せいい》大將軍《たいしようぐん》となり、やっとこれを鎭定《ちんてい》することが出來《でき》ました。
その後《ご》第五十二代《だいごじゆうにだい》嵯峨《さが》天皇《てんのう》の御代《みよ》にも、征夷《せいい》大將軍《たいしようぐん》文室《ぶんやの》綿麻呂《わたまろ》の征伐《せいばつ》があり、前《まへ》に田村麻呂《たむらまろ》が行《ゆ》かなかつた奧《おく》の方《ほう》までも從《したが》へましたので、これから太平洋《たいへいよう》方面《ほうめん》も大《おほ》いに開《ひら》けまして、今《いま》の岩手縣《いはてけん》の半分《はんぶん》以上《いじよう》は、皆《みな》日本《につぽん》の領内《りようない》になり、その地方《ちほう》に住《す》んでゐる蝦夷人《えぞじん》も、だんだん日本《につぽん》の風俗《ふうぞく》に改《あらた》まり、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつてまゐりました。
五十一、前九年《ぜんくねん》の役《えき》(一)
平安朝《へいあんちよう》のはじめの頃《ころ》は、朝廷《ちようてい》の御威光《ごいこう》が盛《さか》んで、坂上《さかのへの》田村麻呂《たむらまろ》や、文室《ぶんやの》綿麻呂《わたまろ》の蝦夷《えぞ》征伐《せいばつ》があり、これがために蝦夷《えぞ》の地《ち》が大《おほ》いに開《ひら》けてまゐり、蝦夷人《えぞじん》もだん/\日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつて來《き》ましたことは、前《まへ》に申《まを》したような次第《しだい》でありましたが、何分《なにぶん》にも國《くに》の政治《せいじ》が亂《みだ》れて、地方《ちほう》が騷々《そう/″\》しくなり、武士《ぶし》や海賊《かいぞく》が盛《さか》んに起《おこ》るといふ時代《じだい》になりましては、蝦夷《えぞ》のゐた奧羽《おうう》地方《ちほう》だとて、その影響《えいきよう》を受《う》けないではゐられません。第五十七代《だいごじゆうしちだい》陽成《ようぜい》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、今《いま》の秋田縣《あきたけん》あたりにゐる蝦夷《えぞ》が叛《そむ》きまして、大騷《おほさわ》ぎが起《おこ》りました。しかしこれといふのも、もと/\國司《こくし》の政治《せいじ》が惡《わる》いからであります。はじめは蝦夷《えぞ》の勢《いきほひ》がつよく、官軍《かんぐん》も容易《ようい》にこれを靜《しづ》めることが出來《でき》なかつたのですが、藤原《ふぢはらの》保則《やすのり》といふ人《ひと》が、新《あらた》に國司《こくし》になつて、よくこれを諭《さと》し、よい政治《せいじ》を行《おこな》ひますと、かれ等《ら》は悉《こと/″\》く降參《こうさん》して、おとなしくなりましたのを見《み》ても、その罪《つみ》がおもに國司《こくし》にあつたことがわかりませう。
その後《ご》國司《こくし》の政治《せいじ》は、ます/\亂《みだ》れまして、人民《じんみん》はたゞ苦《くる》しめられるばかりといふ程《ほど》になりましたから、蝦夷《えぞ》の方《ほう》までは、とても十分《じゆうぶん》に手《て》が屆《とゞ》きません。方々《ほう/″\》に強《つよ》い武士《ぶし》が起《おこ》つたように、奧羽《おうう》地方《ちほう》にもだん/\強《つよ》いものが出來《でき》てまゐります。中《なか》にも第七十代《だいしちじゆうだい》後冷泉《ごれいぜい》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》の、安倍《あべの》貞任《さだとう》といふ豪傑《ごうけつ》の如《ごと》きは、最《もつと》もいちじるしいものでした。貞任《さだとう》は頼時《よりとき》の子《こ》です。頼時《よりとき》はもと蝦夷《えぞ》の頭《かしら》の家筋《いへすぢ》の人《ひと》で、今《いま》の岩手縣《いはてけん》中部《ちゆうぶ》地方《ちほう》の六郡《ろくぐん》の地《ち》を我《わ》が物《もの》にし、國司《こくし》の命《めい》をも聞《き》かず、租税《そぜい》をも納《をさ》めず、代々《だい/\》驕《おご》りをきはめてゐましたが、誰《だれ》もこれをどうすることも出來《でき》ません。全《まつた》く日本《につぽん》から獨立《どくりつ》したような有《あ》り樣《さま》になつて、だん/\と南《みなみ》の方《ほう》へ迫《せま》つてまゐります。この地方《ちほう》は、かつて田村麻呂《たむらまろ》や綿麻呂《わたまろ》の征伐《せいばつ》によつて、一旦《いつたん》朝廷《ちようてい》に從《したが》つてをつたのでありましたが、それが蝦夷《えぞ》に取《と》り返《かへ》されたといふ形《かたち》なのです。これはいかにしても、そのまゝ打《う》っちゃつて置《お》くわけにはまゐりません。國司《こくし》は兵隊《へいたい》をさしむけて、これを征伐《せいばつ》しましたけれども、頼時《よりとき》の勢《いきほひ》つよく、官軍《かんぐん》は勝《か》つことが出來《でき》ません。外《ほか》の人《ひと》ではとても駄目《だめ》だといふので、その頃《ころ》都《みやこ》でも一番《いちばん》武勇《ぶゆう》勝《すぐ》れたといふ評判《ひようばん》の、源《みなもとの》頼義《よりよし》が選《えら》ばれて陸奧守《むつのかみ》に任《にん》ぜられ、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《しようぐん》を兼《か》ねて、頼時《よりとき》征伐《せいばつ》に出《で》かけました。鎭守府《ちんじゆふ》とは、むかし坂上《さかのへの》田村麻呂《たむらまろ》が、岩手縣《いはてけん》地方《ちほう》の蝦夷《えぞ》を從《したが》へた時《とき》に、膽澤《ゐざは》といふところに城《しろ》を造《つく》つて、奧羽《おうう》地方《ちほう》の蝦夷《えぞ》に備《そな》へるために、置《お》いた役所《やくしよ》の名《な》であります。
頼義《よりよし》は源《みなもとの》經基《つねもと》の曾孫《ひまご》で、その父《ちゝ》頼信《よりのぶ》は、第六十八代《だいろくじゆうはちだい》後一條《ごいちじよう》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、平《たひらの》忠常《たゞつね》が東國《とうごく》で謀叛《むほん》したのを平《たひら》げて、大《たい》そう武勇《ぶゆう》の名《な》を揚《あ》げた人《ひと》でした。
源氏《げんじ》は經基《つねもと》の子《こ》滿仲《みつなか》以來《いらい》、藤原氏《ふぢはらし》と縁故《えんこ》が深《ふか》く、滿仲《みつなか》の子《こ》頼光《よりみつ》、頼信《よりのぶ》など、いづれも攝政《せつしよう》關白《かんぱく》の家人《けにん》となつて、諸國《しよこく》の國司《こくし》に任《にん》ぜられ、一方《いつぽう》では武士《ぶし》の頭《かしら》として、大《おほ》いに勢力《せいりよく》があつたのです。
平氏《へいし》もまた武士《ぶし》の頭《かしら》として、將門《まさかど》の滅《ほろ》びた後《のち》も、その一族《いちぞく》は東國《とうごく》で勢力《せいりよく》が多《おほ》く、將門《まさかど》の從弟《いとこ》の子《こ》に當《あた》る忠常《たゞつね》は、つひに房總《ぼうそう》半島《はんとう》の地方《ちほう》を取《と》つて謀叛《むほん》したのでした。そこで頼信《よりのぶ》が選《えら》ばれて、これを征伐《せいばつ》に向《むか》つたのでしたが、さすがの忠常《たゞつね》も、とても頼信《よりのぶ》にはかなはぬと覺悟《かくご》して降參《こうさん》し、東國《とうごく》は靜《しづ》かになりました。これから源氏《げんじ》は、ことに東國《とうごく》で勢力《せいりよく》があるようになつたのです。そしてその頼信《よりのぶ》の子《こ》の頼義《よりよし》が、今度《こんど》わざ/\選《えら》ばれて、安倍氏《あべし》征伐《せいばつ》のために奧羽《おうう》まで出《で》かけることになつたのです。
頼義《よりよし》の武勇《ぶゆう》の名《な》は、かねて奧羽《おうう》までひゞき渡《わた》つてをりました。それが今度《こんど》陸奧守《むつのかみ》兼《けん》鎭守府《ちんじゆふ》將軍《しようぐん》といふ重《おも》い役目《やくめ》を持《も》つて來《き》たのですから、安倍《あべの》頼時《よりとき》いかに強《つよ》くとも、とても敵對《てきたい》は出來《でき》ません。をりよくその後《のち》天下《てんか》大赦《たいしや》と申《まを》して、日本中《につぽんじゆう》の罪人《ざいにん》を、お許《ゆる》しになられたことがありました。頼時《よりとき》はこの機會《きかい》に降參《こうさん》して、その罪《つみ》を許《ゆる》され、それから頼義《よりよし》國司《こくし》の任期《にんき》がすむまで、三《さん》四年間《よねんかん》は無事《ぶじ》でありました。ところが、いよ/\任期《にんき》がすんで、頼義《よりよし》これから引《ひ》きあげる用意《ようい》をしようといふ時《とき》に、頼時《よりとき》の子《こ》貞任《さだとう》が、他《ひと》からその身分《みぶん》が賤《いや》しいといふので、侮辱《ぶじよく》されたのに腹《はら》を立《た》て、亂暴《らんぼう》をしたといふ事件《じけん》が起《おこ》りました。そこで頼義《よりよし》は、貞任《さだとう》を呼《よ》んでこれを處分《しよぶん》しようとしましたので、頼時《よりとき》は、「人《ひと》の世《よ》にあるは妻《つま》や子《こ》が可愛《かわい》いからである。然《しか》るに今《いま》その可愛《かわい》い子《こ》が殺《ころ》されるのを、どうして見《み》てゐることが出來《でき》よう。若《も》し軍《いくさ》に敗《ま》けたなら、一《いつ》しよに滅《ほろ》んでも恨《うら》みはない」と言《い》つて、つひに再《ふたゝ》び謀叛《むほん》しました。
五十二、前九年《ぜんくねん》の役《えき》(二)
それからまた戰爭《せんそう》が始《はじ》まりましたが、頼義《よりよし》の代《かは》りに新《あらた》に國司《こくし》になつたものは、こはがつてやつてまゐりません。朝廷《ちようてい》でもやむを得《え》ず、頼義《よりよし》をふたゝび陸奧守《むつのかみ》に任《にん》じて、いよ/\安倍氏《あべし》征伐《せいばつ》の始末《しまつ》をつけさせることになりました。そこで頼義《よりよし》は、奧《おく》の方《ほう》にゐる蝦夷《えぞ》の仲間《なかま》をさとして、身方《みかた》につけ、頼時《よりとき》を攻《せ》めましたところが、頼時《よりとき》は運惡《うんわる》く、とう/\流《なが》れ矢《や》に中《あた》つて死《し》んでしまひました。
しかしこれで安倍氏《あべし》の亂《らん》が平《たひら》いだのではありません。頼時《よりとき》の子《こ》貞任《さだとう》は、一層《いつそう》勢《いきほひ》がつよく、頼義《よりよし》はその子《こ》義家《よしいへ》と共《とも》に、これを攻《せ》めましたが、容易《ようい》に勝《か》つことが出來《でき》ません。ある時《とき》は頼義《よりよし》の軍《ぐん》が大敗《たいはい》して、頼義《よりよし》、義家《よしいへ》はやっと命《いのち》から/″\助《たす》かつたといふような、あぶない目《め》にもあひました。さうかうするうちに五年《ごねん》の月日《つきひ》もたつてしまひ、頼義《よりよし》の二度目《にどめ》の國司《こくし》の任期《にんき》も、近《ちか》くなりました。かうなつては、頼義《よりよし》は、いかにもして自分《じぶん》が陸奧守《むつのかみ》である間《あひだ》に、はやく安倍氏《あべし》の亂《らん》を平《たひら》げてしまはなければ、武士《ぶし》としての面目《めんもく》が立《た》ちませぬ。わざわざ選《えら》ばれて、この遠國《えんごく》まで出《で》かけて來《き》て、しかも二度《にど》まで國司《こくし》の任《にん》を重《かさ》ねて、それでもし貞任《さだとう》を滅《ほろ》ぼすことが出來《でき》ないとあつては、どうしておめ/\都《みやこ》に歸《かへ》ることが出來《でき》ませう。しかし國府《こくふ》の兵隊《へいたい》は、臆病《おくびよう》でとても役《やく》に立《た》ちませぬ。人民《じんみん》も徴兵《ちようへい》に取《と》られるのがこはくて、他國《たこく》へ逃《に》げてしまひます。隣《とな》りの出羽《では》の國《くに》へ援兵《えんぺい》を出《だ》すように、朝廷《ちようてい》から命令《めいれい》をして貰《もら》つても、國司《こくし》は恐《おそ》れて助《たす》けに來《き》てくれませぬ。他《ほか》の國々《くに/″\》からも、兵隊《へいたい》や兵糧《ひようろう》をよこすことになつてをりますが、それも一向《いつこう》まゐりませぬ。頼義《よりよし》の手下《てした》の武士《ぶし》だけでは、さういつまでも續《つゞ》くものではありませぬ。これにはさすがの頼義《よりよし》も、なんともして見《み》ようがありませぬ。そこで頼義《よりよし》は、出羽《では》の豪傑《ごうけつ》清原《きよはらの》武則《たけのり》の一族《いちぞく》を頼《たの》んで、加勢《かせい》をして貰《もら》ふことになりました。出羽《では》とは今《いま》の山形《やまがた》、秋田《あきた》二縣《にけん》の地方《ちほう》のことです。また清原氏《きよはらし》は安倍氏《あべし》と同《おな》じく、もと蝦夷《えぞ》の頭《かしら》で、出羽《では》の中《なか》でも今《いま》の秋田縣《あきたけん》の南《みなみ》の方《ほう》にをつて、東《ひがし》の安倍氏《あべし》と相對《あひたい》し、蝦夷地《えぞち》の武士《ぶし》の頭《かしら》として、勢力《せいりよく》を有《ゆう》した家《いへ》でした。この頃《ころ》は國《くに》の政治《せいじ》が亂《みだ》れたために、國家《こつか》の兵隊《へいたい》も役《やく》に立《た》たず、大《おほ》きな事《こと》があれば、どこでも、こゝでも、こんな工合《ぐあひ》に、民間《みんかん》の兵隊《へいたい》ともいふべき武士《ぶし》を、頼《たの》まねばならなかつたのです。後《のち》に日本《につぽん》が、武士《ぶし》の世《よ》の中《なか》になつてしまつたのも、やむを得《え》ないではありませんか。
[#図版(29.png)、八幡太郎]
そのうちに、いよ/\頼義《よりよし》二度目《にどめ》の國司《こくし》の任期《にんき》がすみまして、新《あたら》しい國司《こくし》がやつてまゐりました。しかしこんな騷《さわ》ぎの最中《さいちゆう》で、やつて來《き》たものゝなんともして見《み》ようがありませぬ。早速《さつそく》都《みやこ》へ逃《に》げて歸《かへ》りました。そこで頼義《よりよし》は、今《いま》はどうでも自分《じぶん》の手《て》で、安倍氏《あべし》を滅《ほろ》ぼして、自分《じぶん》の命《めい》ぜられたつとめを完《まつた》うして、新《あたら》しい國司《こくし》に引《ひ》き渡《わた》さなければならぬと、しきりに清原氏《きよはらし》の助《たす》けを催促《さいそく》します。武則《たけのり》も頼義《よりよし》の誠意《せいい》に感《かん》じて、一萬《いちまん》餘人《よにん》といふ大勢《おほぜい》の仲間《なかま》を連《つ》れて、やつてまゐりました。かうなつてはさすがの貞任《さだとう》も、とてもかなひっこはありません。南《みなみ》の入《い》り口《ぐち》を守《まも》る衣《ころも》の館《たて》が先《ま》づ破《やぶ》れ、貞任《さだとう》はだん/\北《きた》へ逃《に》げましたが、ところどころの要害《ようがい》を固《かた》めた館《たて》も、皆《みな》落《お》ちて、最後《さいご》に今《いま》の盛岡市《もりをかし》の近所《きんじよ》の、厨川《くりやがは》の館《たて》までも攻《せ》め落《おと》され、貞任《さだとう》は殺《ころ》されて、弟《おとうと》の宗任《むねとう》等《ら》は降參《こうさん》しました。頼義《よりよし》が國司《こくし》となつてから、十二年《じゆうにねん》かゝつて、やっと安倍氏《あべし》征伐《せいばつ》の目的《もくてき》を達《たつ》することが出來《でき》たのです。世間《せけん》でこれを奧州《おうしゆう》十二年《じゆうにねん》の合戰《かつせん》と申《まを》しました。奧州《おうしゆう》とは、今《いま》の福島《ふくしま》、宮城《みやぎ》、岩手《いはて》、青森《あをもり》の四縣《しけん》の地方《ちほう》のことで、むかしはこれを陸奧《むつ》といひ、出羽《では》と合《あは》せて奧羽《おうう》地方《ちほう》といふのです。その奧州《おうしゆう》十二年《じゆうにねん》の合戰《かつせん》のことを、普通《ふつう》に前九年《ぜんくねん》の役《えき》といふのは、後《のち》にこれを義家《よしいへ》が清原氏《きよはらし》を滅《ほろ》ぼした時《とき》の戰爭《せんそう》と、一《いつ》しよにしてしまつて、前《まへ》のが九年《くねん》、後《のち》のが三年《さんねん》、合《あは》せて十二年《じゆうにねん》の合戰《かつせん》だと、考《かんが》へまちがへした爲《ため》でありませう。しかし頼義《よりよし》が奧州《おうしゆう》に十二年《じゆうにねん》ゐた間《あひだ》にも、實《じつ》は中《なか》で三年《さんねん》ばかりは、頼時《よりとき》が降參《こうさん》しまして、戰爭《せんそう》がなかつたのですから、それを除《のぞ》けば足《あし》かけ九年《くねん》となるわけで、それで前《まへ》のが九年《くねん》といふことに、間違《まちが》つたものと見《み》えます。
義家《よしいへ》が貞任《さだとう》征伐《せいばつ》に出《で》かけた時《とき》は、まだ年《とし》十七《じゆうしち》の少年《しようねん》で、貞任《さだとう》の滅《ほろ》んだ時《とき》に、やっと二十二《にじゆうに》でありました。弓《ゆみ》が大《たい》そう上手《じようず》で、義家《よしいへ》にねらはれたもの、一人《ひとり》として斃《たふ》れないものがなかつたといふくらゐでしたから、蝦夷《えぞ》もこれには向《むか》ふことが出來《でき》ず、八幡《はちまん》太郎《たろう》といつて恐《おそ》れたと申《まを》します。これから義家《よしいへ》武勇《ぶゆう》の名《な》が、大《たい》そう高《たか》くなり、源氏《げんじ》はます/\勢《いきほひ》が強《つよ》くなりました。
五十三、後三年《ごさんねん》の役《えき》
長《なが》い間《あひだ》誰《たれ》も手《て》をようつけなかつた安倍氏《あべし》が、とう/\滅《ほろ》んでしまつたのは、もちろん源《みなもと》頼義《よりよし》、義家《よしいへ》の親子《おやこ》が、武勇《ぶゆう》勝《すぐ》れ、辛抱《しんぼう》づよく、手下《てした》の武士等《ぶしら》がまた主人《しゆじん》の爲《ため》に、命《いのち》を惜《を》しまず、一致《いつち》して働《はたら》いた爲《ため》ではありますが、しかし最後《さいご》に清原《きよはらの》武則《たけのり》が、一族《いちぞく》とともに自分《じぶん》の大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて、助《たす》けに來《き》てくれた爲《ため》に、つひによくその目的《もくてき》を達《たつ》することが出來《でき》たのでありました。そこで頼義《よりいへ》[#「よりいへ」は底本のまま]は、その功《こう》に報《むく》いる爲《ため》に、武則《たけのり》を朝廷《ちようてい》に推薦《すいせん》して、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《しようぐん》に任《にん》ぜられることになりました。鎭守府《ちんじゆふ》將軍《しようぐん》は、膽澤《ゐざは》の鎭守府《ちんじゆふ》にゐて、蝦夷《えぞ》の押《おさ》へをつとめるといふ、責任《せきにん》の重《おも》い役《やく》で、蝦夷《えぞ》の家筋《いへすぢ》の人《ひと》でこれに任《にん》ぜられたのは、武則《たけのり》が初《はじ》めであります。これから清原氏《きよはらし》は膽澤《ゐざは》に移《うつ》つて參《まゐ》りましたが、國司《こくし》は相變《あひかは》らず地方《ちほう》の政治《せいじ》をおろそかにしてゐますので、もと安倍氏《あべし》が取《と》つてゐた奧州《おうしゆう》六郡《ろくぐん》の地方《ちほう》は、自然《しぜん》清原氏《きよはらし》のもののようになり、清原氏《きよはらし》は、出羽《では》から奧州《おうしゆう》へかけて、安倍氏《あべし》以上《いじよう》に勢力《せいりよく》を有《ゆう》することになりました。しかし清原氏《きよはらし》は、安倍氏《あべし》のように國司《こくし》に反對《はんたい》することもなく、それから二十年《にじゆうねん》ばかりは、奧羽《おうう》地方《ちほう》にも、さう騷《さわ》ぎがありませんでした。
ところが、第七十三代《だいしちじゆうさんだい》堀河《ほりかは》天皇《てんのう》の御代《みよ》のはじめ、貞任《さだとう》が滅《ほろ》んでから二十二年目《にじゆうにねんめ》に、八幡《はちまん》太郎《たろう》義家《よしいへ》が陸奧守《むつのかみ》になつて、昔《むかし》の合戰《かつせん》の思《おも》ひ出《で》深《ふか》い奧州《おうしゆう》へ赴任《ふにん》して參《まゐ》りました時《とき》に、たまたまこの清原氏《きよはらし》の、一族《いちぞく》の間《あひだ》に騷動《そうどう》が起《おこ》りました。
この時《とき》清原氏《きよはらし》では、武則《たけのり》の子《こ》武貞《たけさだ》も死《し》んで、孫《まご》の眞衡《さねひら》の代《だい》でありました。眞衡《さねひら》は國司《こくし》の命《めい》を重《おも》んじ、朝廷《ちようてい》を尊《たつと》び奉《たてまつ》つて、奧州《おうしゆう》も無事《ぶじ》でありましたが、何分《なにぶん》にも他《ほか》に肩《かた》を並《なら》べるものもない程《ほど》の勢《いきほひ》で、その一族《いちぞく》の人《ひと》たちも、自然《しぜん》とその家人《けにん》(家來《けらい》)のようになり、眞衡《さねひら》は主人《しゆじん》として一人《ひとり》でいばつてをりました。そこで一族《いちぞく》の人々《ひと/″\》に對《たい》して、自然《しぜん》思《おも》ひやりの足《た》らぬところがありまして、他《ほか》のものはとかく不平《ふへい》でありましたが、その結果《けつか》とう/\眞衡《さねひら》と、眞衡《さねひら》の叔父《をじ》武衡《たけひら》、眞衡《さねひら》の弟《おとうと》家衡《いへひら》、藤原《ふぢはらの》清衡《きよひら》等《など》との間《あひだ》に戰爭《せんそう》が始《はじ》まつて、奧羽《おうう》が再《ふたゝ》び亂《みだ》れました。
藤原《ふぢはらの》清衡《きよひら》は、經清《つねきよ》といふものゝ子《こ》です。經清《つねきよ》は先祖《せんぞ》代々《だい/\》源氏《げんじ》の家人《けにん》でありましたが、その妻《つま》が安倍《あべの》頼時《よりとき》の娘《むすめ》であつた關係《かんけい》から、前九年《ぜんくねん》の役《えき》の時《とき》には、貞任方《さだとうがた》になり、厨川《くりやがは》攻《ぜ》めの時《とき》に、捕虜《ほりよ》になつて殺《ころ》されました。その後《ご》經清《つねきよ》の妻《つま》は、幼《をさ》な子《ご》の清衡《きよひら》を連《つ》れて、清原《きよはらの》武則《たけのり》の子《こ》の武貞《たけさだ》の妻《つま》になり、家衡《いへひら》を生《う》んだのですから、清衡《きよひら》と家衡《いへひら》とは、同《おな》じ母《はゝ》の兄弟《きようだい》で、清衡《きよひら》も母《はゝ》について、清原氏《きよはらし》の家《いへ》に養子《ようし》のような風《ふう》になつてゐたのです。それで初《はじ》めは清衡《きよひら》も、武衡《たけひら》、家衡《いへひら》の身方《みかた》になつて、眞衡《さねひら》と戰爭《せんそう》してゐましたが、ちょうどその時《とき》に義家《よしいへ》は、陸奧守《むつのかみ》となつて赴任《ふにん》して來《き》たのでした。
義家《よしいへ》は陸奧守《むつのかみ》として、その國《くに》のうちの騷動《そうどう》を、知《し》らぬ顏《かほ》して見《み》てゐるわけには參《まゐ》りません。そこで義家《よしいへ》は、國司《こくし》に忠實《ちゆうじつ》な眞衡《さねひら》を助《たす》けて、武衡《たけひら》、家衡《いへひら》、清衡《きよひら》等《ら》を討《う》ち、この亂《らん》を平《たひら》げようとしました。そのうちに、眞衡《さねひら》は病死《びようし》しまして、清衡《きよひら》は義家《よしいへ》に降參《こうさん》し、武衡《たけひら》、家衡《いへひら》と、義家《よしいへ》、清衡《きよひら》との間《あひだ》の戰爭《せんそう》となりました。しかし武衡《たけひら》、家衡《いへひら》の勢《いきほひ》がなか/\強《つよ》く、出羽《では》の金澤《かねざは》の館《たて》によつて、容易《ようい》に降《くだ》りません。これには義家《よしいへ》も大《たい》そう困《こま》りました。義家《よしいへ》の弟《おとうと》新羅《しんら》三郎《さぶろう》義光《よしみつ》は、この時《とき》京都《きようと》にをつてこれを聞《き》き、兄《あに》の身《み》を心配《しんぱい》して、官《かん》を辭《じ》してはる/″\奧羽《おうう》まで助《たす》けに參《まゐ》りました。義家《よしいへ》大《おほ》いに喜《よろこ》んで、共々《とも/″\》に金澤《かねざは》の館《たて》を攻《せ》めましたが、それでも武衡《たけひら》、家衡《いへひら》はよく防《ふせ》いで、なか/\降參《こうさん》致《いた》しません。館《たて》の中《なか》から矢《や》が飛《と》んで來《く》ること、雨《あめ》の降《ふ》るようで、義家《よしいへ》の手下《てした》の武士等《ぶしら》は、大勢《おほぜい》これにあたつて疵《きず》を受《う》けました。
この時《とき》その武士《ぶし》の中《なか》に、鎌倉《かまくら》權五郎《ごんごろう》景正《かげまさ》といふもの、年《とし》僅《わづか》に十六《じゆうろく》、武勇《ぶゆう》の勝《すぐ》れた少年《しようねん》で、眞先《まつさき》に立《た》つて戰《たゝか》つてゐましたが、敵《てき》の矢《や》で右《みぎ》の目《め》を射《い》ぬかれました。それでも景正《かげまさ》は、それほどの痛手《いたで》にも閉口《へいこう》せず、すぐにその矢《や》を折《を》つたまゝ、早速《さつそく》自分《じぶん》を射《い》た敵を射殺《いころ》し、それから引《ひ》き返《かへ》して、「景正《かげまさ》疵《きず》を受《う》けた」といつて、仰向《あふむ》けに倒《たふ》れました。景正《かげまさ》の友達《ともだち》で、これも武勇《ぶゆう》の聞《きこ》えの高《たか》い三浦《みうら》平次郎《へいじろう》爲次《ためつぐ》といふもの、これを聞《き》いて、仰向《あふむ》けに寢《ね》た景正《かげまさ》の顏《かほ》を、足《あし》で踏《ふ》みつけて、その矢《や》を拔《ぬ》いてやらうとしましたところが、景正《かげまさ》は寢《ね》たまゝに、いきなり刀《かたな》を拔《ぬ》いて、下《した》から爲次《ためつぐ》を刺《さ》さうとします。爲次《ためつぐ》驚《おどろ》いて、「これは何《なに》をするのだ」といひますと、景正《かげまさ》は、「弓矢《ゆみや》にあたつて死《し》ぬのは武士《ぶし》の本望《ほんもう》である、生《い》きながら、人《ひと》に顏《かほ》を踏《ふ》まれては、武士《ぶし》として勘辨《かんべん》は出來《でき》ないから、こゝでお前《まへ》を殺《ころ》して死《し》ぬのだ」と言《い》ひました。これには爲次《ためつぐ》も一言《いちごん》もなく、膝《ひざ》で顏《かほ》を押《おさ》へて、やっと、その矢《や》を拔《ぬ》いてやりましたと申《まを》します。この頃《ころ》の武士《ぶし》が、主人《しゆじん》の爲《ため》には戰場《せんじよう》で死《し》ぬことを厭《いと》はず、人《ひと》から恥《はぢ》を與《あた》へられたならば、命《いのち》を捨《す》てゝも爭《あらそ》ふといふ氣風《きふう》は、大體《だいたい》こんなものでした。
館《たて》の守《まも》りが堅《かた》く、さすがの義家《よしいへ》も、力《ちから》づくではどうしても、これを攻《せ》め落《おと》すことが出來《でき》ません。とう/\大軍《たいぐん》でもつて館《たて》を取《と》り圍《かこ》み、兵糧攻《ひようろうぜ》めにしました。これには武衡《たけひら》、家衡《いへひら》も困《こま》りました。戰爭《せんそう》には強《つよ》くとも、腹《はら》がへつてはたまりません。いよ/\食物《しよくもつ》が無《な》くなつたもので、武衡《たけひら》もとう/\降參《こうさん》を願《ねが》つて來《き》ましたが、義家《よしいへ》もかうなつては、もはやそれを許《ゆる》しません。武衡《たけひら》等《ら》も致《いた》し方《かた》なく、館《たて》に火《ひ》をかけて遁《に》げ出《だ》しましたが、すぐ捕《とら》へられて殺《ころ》され、清原氏《きよはらし》は滅《ほろ》びてしまひました。この戰《たゝか》ひは、義家《よしいへ》が陸奧守《むつのかみ》になつてから實《じつ》は五年《ごねん》かかつてをりますが、これを前九年《ぜんくねん》の役《えき》に對《たい》して、世《よ》に後三年《ごさんねん》の役《えき》と申《まを》します。
この後三年《ごさんねん》の役《えき》は、實《じつ》は清原氏《きよはらし》が謀叛《むほん》したといふのではなく、清原氏《きよはらし》一族《いちぞく》の間《あひだ》の内輪《うちわ》喧嘩《げんか》が本《もと》で、それに義家《よしいへ》が干渉《かんしよう》して、そのうちに眞衡《さねひら》は死《し》に、義家《よしいへ》と清原氏《きよはらし》との戰爭《せんそう》になつてしまつたようなものですから、朝廷《ちようてい》の御評議《ごひようぎ》では、これは義家《よしいへ》の勝手《かつて》の戰爭《せんそう》だといふことになつて、義家《よしいへ》の部下《ぶか》の武士等《ぶしら》に對《たい》しても、別《べつ》に戰功《せんこう》の賞《しよう》を賜《たま》はりませんでした。そこで義家《よしいへ》は、自分《じぶん》の財産《ざいさん》を分《わか》つてそれ/″\武士《ぶし》たちに與《あた》へました。これがために義家《よしいへ》は、ます/\武士《ぶし》たちから重《おも》んぜられるようになり、源氏《げんじ》の勢力《せいりよく》はいよ/\増《ま》して參《まゐ》りました。
五十四、平泉《ひらいづみ》の隆盛《りゆうせい》
清原氏《きよはらし》が滅《ほろ》びまして後《のち》、義家《よしいへ》に身方《みかた》した藤原《ふぢはらの》清衡《きよひら》が、清原《きよはらの》武貞《たけさだ》の養子《ようし》になつてをつた關係《かんけい》から、自然《しぜん》そのあとをつぎまして、安倍氏《あべし》以來《いらい》の奧州《おうしゆう》六郡《ろくぐん》を領《りよう》することになり、その勢力《せいりよく》は安倍《あべ》、清原《きよはら》兩氏《りようし》の時代《じだい》よりも、一層《いつそう》盛《さか》んなものになりました。安倍氏《あべし》の時代《じだい》には、六郡《ろくぐん》の南《みなみ》の境《さかひ》の衣川《ころもがは》を限《かぎ》りとして、こゝに衣《ころも》の關《せき》を置《お》き、衣《ころも》の館《たて》を設《まう》けて、南《みなみ》の入《い》り口《くち》を守《まも》つたのでありましたが、清衡《きよひら》は更《さら》に衣川《ころもがは》を越《こ》えて、その南《みなみ》の平泉《ひらいづみ》に移《うつ》り、だん/\と奧州《おうしゆう》全體《ぜんたい》に、勢力《せいりよく》を及《およ》ぼすようになりました。
清衡《きよひら》は大《たい》そう佛教《ぶつきよう》を信仰《しんこう》しまして、平泉《ひらいづみ》に中尊寺《ちゆうそんじ》を建《た》てました。その堂《どう》や塔《とう》の數《かず》が四十《しじゆう》あまり、僧《そう》の住《す》む建《た》て物《もの》が三百《さんびやく》あまりといふのでありますから、いかに盛《さか》んなものであつたかといふことは、これだけからでもわかります。その建《た》て物《もの》の中《なか》でも、金色堂《こんじきどう》といふのは、幸《さいは》ひにして今《いま》に殘《のこ》つてをりますが、その建築《けんちく》といひ、裝飾《そうしよく》といひ、また中《なか》の佛像《ぶつぞう》といひ、いづれもその時《とき》の第一流《だいいちりゆう》の人《ひと》を頼《たの》んで作《つく》つたものらしく、その見事《みごと》なことは申《まを》すまでもありません。殊《こと》に惜《を》しげもなく金《きん》をたくさんに使《つか》つてあるところは、日本《につぽん》國中《こくちゆう》他《ほか》に比《くら》べるものがない程《ほど》で、清衡《きよひら》がいかに富《と》んでゐたかゞ思《おも》ひやられます。その死《し》ぬまで三十年《さんじゆうねん》の間《あひだ》、日本《につぽん》の諸大寺《しよだいじ》をはじめとして、支那《しな》の寺々《てら/″\》までも金《きん》を送《おく》り、千僧《せんそう》供養《くよう》といつて、大勢《おほぜい》の僧侶《そうりよ》に施《ほどこ》しをしました。
清衡《きよひら》がそんなにまで富《と》んでゐたといふのも、清衡《きよひら》の勢《いきほひ》が盛《さか》んなので、國司《こくし》も手出《てだ》しをすることが出來《でき》ず、あの廣《ひろ》い奧州《おうしゆう》の土地《とち》も、大《おほ》かた清衡《きよひら》に取《と》られてしまつてゐたといふ有《あ》り樣《さま》で、當然《とうぜん》國家《こつか》に納《をさ》まるべき租税《そぜい》などまで、皆《みな》清衡《きよひら》が取《と》つてしまつてゐた爲《ため》であつたからです。それで京都《きようと》の心《こゝろ》ある人《ひと》たちの中《なか》には、清衡《きよひら》は國家《こつか》の土地《とち》を横領《おうりよう》してゐるものだから、いつか征伐《せいばつ》しなければならぬ時《とき》があるなどと、憤慨《ふんがい》してをりました。しかし何分《なにぶん》にも清衡《きよひら》には、金《きん》が多《おほ》く、その頃《ころ》の貴族《きぞく》たちも、清衡《きよひら》からそれが貰《もら》へるので、國家《こつか》の大損失《だいそんしつ》などは考《かんが》へずに、そのまゝに打《う》っちゃつて置《お》いたのでありませう。
清衡《きよひら》の子《こ》の基衡《もとひら》は、勢力《せいりよく》が父《ちゝ》清衡《きよひら》よりも一層《いつそう》盛《さか》んで、奧州《おうしゆう》ばかりでなく、出羽《では》の方《ほう》までも心《こゝろ》のまゝに扱《あつか》ふといふ程《ほど》になりました。基衡《もとひら》は、中尊寺《ちゆうそんじ》の南《みなみ》に毛越寺《もうおつじ》を建《た》てましたが、これは中尊寺《ちゆうそんじ》よりももつと大《おほ》がかりなもので、堂塔《どうとう》四十《しじゆう》あまり、僧侶《そうりよ》の住《す》む建《た》て物《もの》が五百《ごひやく》あまりもありました。基衡《もとひら》は毛越寺《もうおつじ》の本尊《ほんぞん》の佛像《ぶつぞう》を、その頃《ころ》京都《きようと》で一番《いちばん》の彫刻家《ちようこくか》の雲慶《うんけい》[#「雲慶」は底本のまま]に頼《たの》みましたが、その彫刻料《ちようこくりよう》として拂《はら》ひましたところだけでも、
[#ここから1字下げ]
黄金《こがね》百兩《ひやくりよう》。(目方《めかた》にして四百《しひやく》匁《もんめ》で、今《いま》の價《あたひ》にして二千圓《にせんえん》以上《いじよう》)
鷲《わし》の羽《はね》が百尻《ひやくしり》。(これは弓《ゆみ》の矢《や》に使《つか》ふのです)
七間半《しちけんはん》の廣《ひろ》さのあざらし[#「あざらし」に傍点]の皮《かは》が六十《ろくじゆう》餘枚《よまい》。
安達絹《あだちぎぬ》が千疋《せんびき》。
希婦《けふ》の細布《ほそぬの》といふ織《お》り物《もの》が二千反《にせんだん》。
糠部《ぬかべ》の駿馬《しゆんめ》が五十疋《ごじつぴき》。
白布《しろぬの》が三千反《さんぜんたん》。
信夫《しのぶ》毛地摺《もじず》りといふ織《お》り物《もの》が千反《せんだん》。
[#ここで字下げ終わり]
といふので、その外《ほか》にもいろ/\の進物《しんもつ》をそへまして、佛像《ぶつぞう》の出來上《できあが》るまで三年《さんねん》の間《あひだ》、その品物《しなもの》を送《おく》る人夫《にんぷ》が、東海道《とうかいどう》、東山道《とうさんどう》に絶《た》える間《ま》がなかつたといひます。それでもまだ不足《ふそく》だとあつて、生美絹《すゞしのきぬ》を船《ふね》三艘《さんぞう》に積《つ》んで送《おく》り、更《さら》に練《ね》り絹《ぎぬ》を三艘《さんぞう》に積《つ》んで送《おく》つたといひますから、毛越寺《もうおつじ》全體《ぜんたい》を造《つく》り上《あ》げるまでに、どれだけの費用《ひよう》がかゝつたか、とても想像《そうぞう》することが出來《でき》ません。この寺《てら》はその後《ご》燒《や》けてしまひましたが、今《いま》もそのあとは立派《りつぱ》に遺《のこ》つてをつて、昔《むかし》の盛《さか》んな時代《じだい》の有《あ》り樣《さま》が思《おも》ひやられます。
基衡《もとひら》の子《こ》の秀衡《ひでひら》も、無量光院《むりようこういん》といふ寺《てら》を近所《きんじよ》へ建《た》てました。これは關白《かんぱく》藤原《ふぢはらの》頼通《よりみち》の、宇治《うじ》の平等院《びようどういん》にならつて造《つく》つたもので、毛越寺《もうおつじ》や、中尊寺《ちゆうそんじ》とは、とても比《くら》べものにならぬ程《ほど》の、小《ちひ》さなものではありましたが、それでもその頃《ころ》京都《きようと》で榮華《えいが》の限《かぎ》りをつくした、藤原氏《ふぢはらし》の贅澤《ぜいたく》な建《た》て物《もの》に比《くら》べて、劣《おと》らぬ程《ほど》のものであつたと見《み》えます。
そればかりでなく秀衡《ひでひら》は、その頃《ころ》京都《きようと》で一番《いちばん》勢力《せいりよく》のあつた平《たひらの》清盛《きよもり》をはじめとして、大官《たいかん》たちにうまく取《と》り入《い》つて、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《しようぐん》に任《にん》ぜられ、更《さら》に陸奧守《むつのかみ》となりました。奧州《おうしゆう》の蝦夷《えぞ》の頭《かしら》で、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《しようぐん》になつたことは、清原《きよはらの》武則《たけのり》以來《いらい》、その例《れい》もありますが、陸奧守《むつのかみ》になつたことは、秀衡《ひでひら》がはじめです。今《いま》までは國司《こくし》の手《て》が屆《とゞ》かず、奧州《おうしゆう》、即《すなはち》、陸奧《むつ》一國《いつこく》を、實際《じつさい》には横領《おうりよう》せられた形《かたち》になつてをりましても、これをどうすることも出來《でき》ず、たゞ成《な》り行《ゆ》きにまかせて、好《す》きにさせてゐたのですが、今度《こんど》は秀衡《ひでひら》を陸奧守《むつのかみ》にして、表向《おもてむ》きにまで、奧州《おうしゆう》をすっかり秀衡《ひでひら》に任《まか》せてしまつたのですから、大事件《だいじけん》です。その時《とき》の右大臣《うだいじん》藤原《ふぢはら》兼實《かねざね》は、大《おほ》いにこれを憤慨《ふんがい》して、「天下《てんか》の恥《はぢ》これ以上《いじよう》のものはない」と、その日記《につき》に書《か》いてをりますけれども、たゞ憤慨《ふんがい》するだけで、やはりどうすることも出來《でき》なかつたのです。
そんな有《あ》り樣《さま》ですから、平泉《ひらいづみ》は、京都《きようと》につぐ程《ほど》の繁昌《はんじよう》なところとなりまして、奧羽《おうう》の地方《ちほう》は、もちろん日本《につぽん》の中《なか》でありながら、實際《じつさい》は半《はん》獨立國《どくりつこく》といつてもよいくらゐになり、後《のち》に源《みなもとの》頼朝《よりとも》が、秀衡《ひでひら》の子《こ》の泰衡《やすひら》を滅《ほろぼ》すまで、そのまゝつゞいてをりました。
五十五、古代史《こだいし》の回顧《かいこ》
同《おな》じ日本《につぽん》の中《うち》に、いかに奧羽《おうう》地方《ちほう》が遠《とほ》く東北《とうほく》に離《はな》れてをつたとて、それが別《べつ》の大《おほ》きな半《はん》獨立國《どくりつこく》のようなものになつて、誰《たれ》もそれに手《て》がつけられなかつたといふことは、今日《こんにち》から考《かんが》へると、いかにも不思議《ふしぎ》のようではありますが、それも無理《むり》はありません。京都《きようと》では藤原氏《ふぢはらし》の貴族《きぞく》たちが、長《なが》い間《あひだ》たくさんの莊園《しようえん》を取《と》りこんで、一國《いつこく》の政治《せいじ》をかへり見《み》ず、一般《いつぱん》民衆《みんしゆう》が、どんなに苦《くる》しんでゐるかにも一向《いつこう》頓着《とんちやく》せず、明《あ》けても、暮《く》れても、榮華《えいが》の夢《ゆめ》を見《み》て遊《あそ》んでゐた間《あひだ》に、地方《ちほう》はめちゃ/\になつてゐたからです。しかしそんな貴族《きぞく》たちの榮華《えいが》も、さういつまでも續《つゞ》くものではありません。武士《ぶし》の力《ちから》が強《つよ》くなつて、藤原氏《ふぢはらし》も武士《ぶし》の力《ちから》を借《か》らねば、何《なに》も出來《でき》ない世《よ》の中《なか》になりましたから、藤原氏《ふぢはらし》同士《どうし》の間《あひだ》に爭《あらそ》ひがありましても、やはり双方《そうほう》ともに、武士《ぶし》を身方《みかた》につけて、相《あひ》爭《あらそ》ふといふような始末《しまつ》で、とう/\武士《ぶし》と武士《ぶし》との間《あひだ》に、はげしい戰爭《せんそう》が起《おこ》るようになりました。そして朝廷《ちようてい》の大官等《たいかんら》も、それをどうすることも出來《でき》なくなりました。
武士《ぶし》の中《なか》では、源氏《げんじ》と平氏《へいし》とが一番《いちばん》強《つよ》く、京都《きようと》で保元《ほげん》の亂《らん》、平治《へいじ》の亂《らん》など、恐《おそ》ろしい戰爭《せんそう》が始《はじ》まりましたが、その戰爭《せんそう》に加《くは》はつたものは、やはり源氏《げんじ》と平氏《へいし》との武士《ぶし》がおもなものでした。その末《すゑ》に、一時《いちじ》は平氏《へいし》が勝利《しようり》を得《え》まして、源氏《げんじ》が衰《おとろ》へましたが、後《のち》に源氏《げんじ》が平氏《へいし》を滅《ほろ》ぼして、つひに源《みなもとの》頼朝《よりとも》が鎌倉《かまくら》に幕府《ばくふ》を開《ひら》いて、天下《てんか》の政治《せいじ》を武士《ぶし》の手《て》で行《おこな》ふといふような、武家《ぶけ》政治《せいじ》が始《はじ》まり、武士《ぶし》の世《よ》の中《なか》となつてしまひました。そして京都《きようと》の貴族《きぞく》たちは、たゞ名前《なまへ》ばかりで、少《すこ》しも實力《じつりよく》はなく、長《なが》い間《あひだ》亂《みだ》れに亂《みだ》れてゐた日本《につぽん》の國《くに》も、武士《ぶし》によつて立《た》て直《なほ》しが出來《でき》ることになつたのです。これ等《ら》のことは、いづれ平泉《ひらいづみ》先生《せんせい》が詳《くは》しくお述《の》べになりますから、それをよく讀《よ》んで貰《もら》ひませう。
しかしそんなに國《くに》が亂《みだ》れてゐても、萬世《ばんせい》一系《いつけい》の皇室《こうしつ》に對《たい》し奉《たてまつ》つて、不都合《ふつごう》な考《かんが》へを起《おこ》したり、こんな場合《ばあひ》に外國《がいこく》でならば、いつでもすぐ起《おこ》つて來《く》るように、強《つよ》いものが自分《じぶん》で天子《てんし》にならうなどといふ、大《だい》それた謀叛《むほん》を起《おこ》すものは一人《ひとり》もありません。藤原氏《ふぢはらし》でも、平氏《へいし》でも、源氏《げんじ》でも、皆《みな》天皇《てんのう》陛下《へいか》を高《たか》く上《うへ》にいたゞいて、その下《した》で勝手《かつて》な政治《せいじ》を行《おこな》うたまでゞありました。
實際《じつさい》私共《わたくしども》のこの大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》は、世界《せかい》に類《るい》のない程《ほど》の、名譽《めいよ》ある歴史《れきし》を持《も》つた國《くに》であります。人間《にんげん》の力《ちから》では、とてもわからない程《ほど》の古《ふる》い/\大昔《おほむかし》から、萬世《ばんせい》一系《いつけい》の皇室《こうしつ》を上《うへ》にいたゞき奉《たてまつ》つて、天壤《てんじよう》無窮《むきゆう》の皇運《こううん》は、どんなに強《つよ》いものが出《で》ても、指《ゆび》一本《いつぽん》さすことがないのであります。たまに平群《へぐりの》眞鳥《まとり》や、弓削《ゆげの》道鏡《どうきよう》や、平《たひらの》將門《まさかど》のような、不心得《ふこゝろえ》のものが出《で》ましても、それは自分《じぶん》で、皇室《こうしつ》に近《ちか》い關係《かんけい》のある身分《みぶん》だと考《かんが》へたが爲《ため》でありまして、それだとてもちろん成功《せいこう》する筈《はず》はありません。それと申《まを》すも、我《わ》が大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》の起《おこ》りが、外國《がいこく》で多《おほ》く見《み》るように、他《よそ》の國《くに》を取《と》り、その民《たみ》を苦《くる》しめてでも、自分《じぶん》ばかりが強《つよ》くならうといふのではなく、我《わ》が皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》は、豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》、即《すなはち》、この日本《につぽん》の國《くに》を、「安《やす》い國《くに》と平《たひら》かにお治《をさ》めになるように」と、天津神《あまつかみ》から御命令《ごめいれい》をお受《う》けになつて、この國《くに》へお降《くだ》りになり、これまで氣《き》の毒《どく》な有《あ》り樣《さま》であつた人民《じんみん》を、教《をし》へ、導《みちび》き、これを統一《とういつ》の大國家《だいこつか》の國民《こくみん》として、とも/″\に幸福《こうふく》になるようにと、固《かた》い/\御信仰《ごしんこう》をお持《も》ちになつて、この國《くに》を治《をさ》めになり、だん/\と大《おほ》きくなつたものだからであります。我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》の先祖《せんぞ》の中《なか》には、熊襲《くまそ》や、蝦夷《えぞ》などといはれた、前《まへ》からこの國《くに》に住《す》んでゐたものもあります。支那《しな》や朝鮮《ちようせん》から移住《いじゆう》して來《き》たものもあります。しかしそれが長《なが》い間《あひだ》に、皆《みな》一《ひと》つになつてしまつて、體《からだ》の中《なか》には同《おな》じ血《ち》が流《なが》れ、同《おな》じ言葉《ことば》を使《つか》ひ、同《おな》じ風俗《ふうぞく》をなし、同《おな》じ心《こゝろ》を持《も》つて、こと/″\くが少《すこ》しも區別《くべつ》のない、日本《やまと》民族《みんぞく》となつてしまつてゐるのであります。恐《おそ》れ多《おほ》いことではありますが、皇室《こうしつ》の御方々《おんかた/″\》のお體《からだ》に流《なが》れてをります御血《おんち》も、私《わたくし》ども臣民《しんみん》の體《からだ》に流《なが》れてゐる血《ち》も、皆《みな》同《おな》じ日本《やまと》民族《みんぞく》の血《ち》であります。そしてすべての民衆《みんしゆう》は、我《わ》が皇室《こうしつ》を總御本家《そうごほんけ》と仰《あふ》ぎ奉《たてまつ》つて、すべてのものがそれを中心《ちゆうしん》として、だん/\と進《すゝ》んで來《き》てゐるのであります。
しかし長《なが》い間《あひだ》には、油斷《ゆだん》をすればだん/\と、弊害《へいがい》の出來《でき》て來《く》るのはやむを得《え》ません。日本《やまと》民族《みんぞく》の中《なか》にも、時《とき》には不心得《ふこゝろえ》なものも出《で》て參《まゐ》ります。そして勢力《せいりよく》のあるものが、わがまゝをして他《ほか》のものを苦《くる》しめたり、これが爲《ため》に世《よ》の中《なか》がめちや/\に亂《みだ》れて來《き》て、その立《た》て直《なほ》しの必要《ひつよう》が起《おこ》ることも、長《なが》い間《あひだ》にはないではありませんでした。我《わ》が日本《につぽん》帝國《ていこく》のような、立派《りつぱ》な歴史《れきし》を持《も》つた國家《こつか》にでも、我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》のような、名譽《めいよ》ある成《な》り立《た》ちを持《も》つた民族《みんぞく》にでも、油斷《ゆだん》をすれば、そんな苦《くる》しい思《おも》ひをしなければならない時代《じだい》が、しば/\起《おこ》つて來《く》ることは、昔《むかし》の歴史《れきし》がよく私共《わたくしども》に教《をし》へてくれてをります。私《わたくし》ども日本《やまと》民族《みんぞく》は、歴史《れきし》によつて、私《わたくし》どもが先祖《せんぞ》以來《いらい》通《とほ》つて來《き》た道《みち》をよく考《かんが》へて、再《ふたゝ》び同《おな》じ過《あやま》ちを繰《く》り返《かへ》さぬように、すべてのものが心《こゝろ》を一《ひと》つにして、日本《につぽん》の國《くに》をいよ/\盛《さか》んにするように、日本《やまと》民族《みんぞく》をます/\幸福《こうふく》にするようにと、常《つね》に心《こゝろ》がけねばなりません。
[#地から2地上げ](をはり)
先生や父兄の方々に
私はかねて日本の古代史をおもに研究してをりますところから [#全角スペースあきは底本のまま]この度日本兒童文庫の編輯者から頼まれて、及ばずながらこの一篇を書いて見ました。平素兒童相手のことには慣れてゐないものですから、思ふように筆も動きませず、まことに不出來なものになつてしまつたことは、汗顏の至りに存じてをります。
何分にも兒童の讀み物でありますから、なるべく興味本位であり、又わかり易いものであるようにして見たいと思ひまして、はじめは幾らかその積りで筆を執りかけましたけれども、それではあまりに長たらしくなつて、とてもこの一册だけでは、知らせて置きたいと思ふことが納まり切れそうにもありません。又事柄によつては、私の拙い筆では、とてもわかり易く書くことが出來ないと覺悟をしました。つまり興味を持つて讀ませるといふこと、わかり易くするといふ[#「こと」]には、明かに失敗したのです。そこで私は、何十册もの日本兒童文庫の中には、皆が皆まで娯樂的のものばかりでなくてもよからう、中には少々むづかしいものがあつても、先生方なり、父兄方なりの御説明を煩はしてでも、日本の歴史の最も大切なところを、知つて貰ふようにしたいといふ氣になりまして、とう/\こんなものに仕上げてしまつたのです。書き終つて讀み返して見ますと、それは兒童の讀み物といふよりも、むしろ學校に於ける先生方の參考書、家庭に於ける補修用教科書、と言つてもよい物だといふ感じが致しますが、今更致し方がありません。
私は常にかう考へてをります。小學校程度の日本歴史は、たゞ歴史事實を教へて、兒童を小歴史家にするといふのではなく、その歴史の知識によつて、立派な帝國臣民としての、固い/\信念を作り上げるようにしなければならぬものだと、考へてゐるのであります。即、修身教科の一部であつても、然るべきものだと考へてゐるのであります。小學校時代に於ける教育は、ただ立派な人間を作ればよいといふばかりでなく、同時に立派な帝國臣民を作り上げる覺悟でなければ、ならぬものだと考へてゐるのであります。近ごろは何事にも國際的といふようなことがはやりまして、歴史を國家的教育の材料にすることは間違つてゐる、などとの議論をしば/\耳にしますが、それは國民教育といふことの、本體を誤つたものだと考へてをります。そんなことを今こゝで議論する必要はありませんが、私はどこまでも、日本歴史によつて、日本の國體はどんなものか、日本民族はどうしたものかといふようなことを、よく兒童に知らせるのが、最も必要だと考へてゐるのであります。
兒童的の歴史の讀み物としましては、小學校の教科書を始めとして、昔の偉人の事蹟を中心として、その逸話などを事面白く述べ立てゝ、その偉人を崇拜せしめつゝ、興味のうちに事實を知らしめる仕組みに、なつてゐるのが普通であります。兒童相手には、實際この位の程度が、一番よいのでありませうが、實はそれだけでは、昔こんな偉い人があつた、こんな大きな事件があつたといふだけで、本當の世の中の移り變りはわかりません。偉人の力はまことに大きなものであります。併しその偉人を作り出す世の中の、目に見えぬ力に、更に一層大きなものがあることをも知らせたいのです。それで私のこの歴史は、小學校の教科書で、ひと通りの事は知つてゐるものにといふ目標で、恐らく最初の試みとして、こんなものに書き上げて見たのです。
兒童の讀み物としては、これは確に失敗でありませう。それは私の筆の拙い爲として、その非難は甘んじて受ける覺悟でをります。併しこれまでは、歴史とだにいへば、必ず、人とか、場所とか、時とかがわかるものでなければならぬといふ風に、多くの人が取り扱つてゐた嫌ひがないでもありません。併し日本の歴史は、日本民族の歴史であります。日本の歴史は、日本民族の動きを明かにせねばなりません。たとひその中心となつた人の名や、その時や、場所がはつきりとしないでも、その事蹟は立派な歴史として、日本帝國の、今日まで進んで來た道筋をなしてゐるのであります。歴史事實の中心をなした偉人の力は、大きなものには相違ありませんが、皆過去に於て、私共日本民族が通つて來た道筋の、たゞ一部分をなしてゐるに過ぎません。それでこの書では、偉人中心といふことよりも、むしろ日本民族全體といふことに重きを置き、時代の變遷を明かにしたいといふ心持ちで筆を執りました。こんな事に經驗が乏しい上に、何分にも外に爲事を多く持つてゐる私が、編輯者からの矢の催促で、一月足らずの間に、暇々に書き終つたものですから、出來上つたものを見ますと、思うただけの事があらはれてをりませんが、今更書き直す暇もなく、そのまゝ編輯者の手に引渡したような次第です。たゞこれによつて、歴史にはこんな見方もある、それが良いか、惡いかといふことは別として、ともかく歴史には、こんな見方もあるといふことを知つていたゞけば、それで滿足するのであります。
どうか先生方や、父兄の方々におかれまして、この書の及ばぬところを補つて下さつて、將來の國家の中堅となるべき兒童たちに、日本の國はこんなものだ、日本民族はかうしたものだ、時代はこんな風に變遷するものだといふことを、知らせるように御助力下さるよう、くれ/″\もお頼み申し上げます。
昭和三年一月廿九日
[#地から5地上げ]喜田貞吉
底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [北海道]
- 日本海 にほんかい アジア大陸の東、朝鮮半島と日本列島との間にある海。面積約100万平方km。間宮・宗谷・津軽・朝鮮の諸海峡によってオホーツク海・太平洋・東シナ海に通ずる。水深は平均1667m、最深部は3796m。
- 蝦夷 えぞ (1) 古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従しなかった人びと。えみし。(2) 北海道の古称。蝦夷地。
- 奥羽 おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
- 蝦夷地 えぞち 明治以前、北海道・千島・樺太の総称。
- [奥州] おうしゅう (1) 陸奥国の別称。昔の勿来(なこそ)
・白河関以北で、今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部に当たる。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5カ国に分割。(2) 岩手県の内陸南部、北上川中流に位置する市。稲作を中心とした農業のほか、商工業も盛ん。人口13万。 - [陸奥] むつ (1) → みちのく。(2) 旧国名。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥に分割。分割後の陸奥は、大部分は今の青森県、一部は岩手県に属する。(3) (
「むつ」と書く)青森県北東部、下北半島の市。霊場恐山がある。人口6万4千。 - 陸奥 みちのく (ミチノオクの約) 磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥5カ国の古称。おく。むつ。みちのくに。奥州。
- 北上川 きたかみがわ 岩手県北部の七時雨山付近に発し、奥羽山脈と北上高地の間を南流し、同県中央部、宮城県北東部を貫流して追波湾に注ぐ川。石巻湾に直流する流路は旧北上川と称する。長さ249km。
- [青森県]
- 糠部 ぬかのぶ 中世、陸奥国北部にあった郡。現在の青森県東部、岩手県北部を占めた。近世初頭、北・二戸・三戸・九戸の四郡に分割された。
- [岩手県]
- 六郡 ろくぐん → 奥六郡
- 奥六郡 おくろくぐん 胆沢・江刺・和賀・稗貫(ひえぬき)
・紫波(しわ) ・岩手。 - 胆沢城 いさわじょう 802年(延暦21)陸奥鎮定のために坂上田村麻呂の築いた城。のち鎮守府を置く。岩手県奥州市水沢区に城跡がある。
- 衣の館 ころものたて 岩手県奥州市衣川にあった安倍頼時の居館。衣川柵。
- 盛岡 もりおか 岩手県中部、北上盆地の北部にある市。県庁所在地。もと南部氏の城下町。北上川と中津川・雫石川との合流点に位置する。鋳物・鉄器を産する。また古来南部馬の産地で、牛馬の市が開かれた。人口30万1千。
- 厨川の館 くりやがわのたて → 厨川柵
- 厨川柵 くりやがわのき 岩手県盛岡市下厨川にあった城柵。前九年の役の際、源頼義が安倍氏一族を滅ぼした古戦場。
- 衣川 ころもがわ 岩手県南部の川。平泉町の北部で北上川に注ぐ。
- 衣の関 ころものせき 平安時代、陸奥の安倍氏が築いた関。中尊寺金色堂の北西にその址がある。衣川の関。衣が関。
- 平泉 ひらいずみ 岩手県南部、北上川と衣川との間の町。奥州藤原氏3代(清衡・基衡・秀衡)および源義経の遺跡があり、今も中尊寺に光堂・経蔵などが残る。
- 中尊寺 ちゅうそんじ 岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺。1105年(長治2)藤原清衡が創立し、基衡・秀衡3代にわたって貴族文化が栄える。金色堂・経蔵のみ残存。
- 金色堂 こんじきどう (1) 浄土教寺院の阿弥陀堂の内部を金箔などで荘厳して極楽世界を象徴したもの。(2) 岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある藤原清衡・基衡・秀衡三代の廟堂。1124年(天治1)藤原清衡が建立。藤原時代建築の代表作。3間四方の単層、屋根は宝形造。内外上下4面黒漆の上に金箔を張り、柱梁はすべて螺鈿。通称、光堂。金色院。
- 毛越寺 もうおつじ/もうつじ (モウツウジとも) 岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の別格本山。850年(嘉祥3)円仁の開創と伝える。1105年(長治2)藤原清衡・同基衡が再興し、中尊寺をしのぐ大寺となった。平安時代末様式の庭園を残す。
- 無量光院 むりょうこういん → 無量光院跡
- 無量光院跡 むりょうこういん あと 岩手県平泉町にあった寺院跡。平安末期、藤原秀衡により建立された阿弥陀堂で、新御堂と称した。東には伽藍御所、北には平泉館が位置。宇治平等院を模して造られ、
「みちのくの平等院」 (「吾妻鏡」)をめざしたもの。1952(昭和27)からの発掘調査により、規模はおよそ南北243m、東西273m、周囲にめぐらされた土塁・濠・池の中の中島などが確認され、平等院と類似した伽藍構造であったことが判明。国特別史跡。 (日本史) - [宮城県]
- 太平洋方面
- [福島県]
- 安達 あだち 安達郡。陸奥国南部の郡。現在の福島県二本松市・安達郡にあたり、中通り地区北部に位置する。もと安積郡のうちで、906(延喜6)分立した。二本松市の郡山台遺跡が郡家に比定される。古くから安達絹の産地として知られる。現在、安達町・本宮町・岩代町・東和町・大玉村・白沢村の四町二村。
(日本史) - 信夫 しのぶ 福島県の旧郡名。はじめ石背国、のち陸奥国の一部。今の福島市南部に当たる。
- 白河 しらかわ (1) 磐城国南部、今の福島県南部一帯の地名。(2) 福島県南部の市。もと、阿部氏10万石の城下町。古来、関東から奥州に入る一門戸。人口6万6千。
- [出羽の国] でわのくに
- [秋田県]
- 金沢の館 かねざわのたて → 金沢柵
- 金沢柵 かねざわのき 秋田県横手市金沢にあった城柵。後三年の役に清原武衡・家衡がこれに拠り、源義家に攻め滅ぼされた。
- [山形県]
- [越後] えちご 旧国名。今の新潟県の大部分。古名、こしのみちのしり。
- 東海道 とうかいどう (1) 五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15カ国の称。(2) 五街道の一つ。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。
- 東山道 とうさんどう 五畿七道の一つ。畿内の東方の山地を中心とする地。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8カ国に分ける。また、これらの諸国を通ずる街道。とうせんどう。
- 房総半島 ぼうそう はんとう 千葉県の南半部(安房・上総)をなす半島。東と南は太平洋に面し(外房)
、西は三浦半島と共に東京湾を抱く(内房)。海岸は国定公園。 - 鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
- [京都]
- 宇治 うじ 京都府南部の市。宇治川の谷口に位置し、茶の名産地。平安時代、貴人の別荘地・遊楽地。平等院・黄檗宗本山万福寺がある。人口19万。
(歌枕) - 平等院 びょうどういん 京都府宇治市にある天台・浄土系の単立寺院。1052年(永承7)藤原頼通が宇治川畔にある別荘を寺として創建。翌年造立供養された鳳凰堂は平安時代に建造の阿弥陀堂の代表的遺構で、定朝作の阿弥陀如来坐像を安置。四壁および扉の絵は平安時代絵画の基準作。
- [陸奥] むつ (1) → みちのく。(2) 旧国名。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥に分割。分割後の陸奥は、大部分は今の青森県、一部は岩手県に属する。(3) (
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 奥州十二年の合戦 じゅうにねんのかっせん → 前九年の役
- 前九年の役 ぜんくねんのえき 源頼義・義家父子が奥羽地方の豪族安倍頼時とその子貞任・宗任らを討伐した戦役。平定した1062年(康平5)まで、実際は12年にわたって断続。後三年の役と共に源氏が東国に勢力を築く契機となる。前九年合戦。
- 後三年の役 ごさんねんのえき 奥羽の清原家衡・武衡と一族の真衡らとの間の戦乱。前九年の役に続いて1083年(永保3)より87年(寛治1)の間に起こり、陸奥守源義家が家衡らを金沢柵に攻めて平定。後三年合戦。
- 保元の乱 ほげん/ほうげんのらん 保元元年(1156)7月に起こった内乱。皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。
- 平治の乱 へいじのらん 平治元年(1159)12月に起こった内乱。藤原通憲(信西)対藤原信頼、平清盛対源義朝の勢力争いが原因で、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで戦ったが、源氏は平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致に殺された。
- 鎌倉幕府 かまくら ばくふ 鎌倉に開いた日本最初の武家政権。始期については1183年(寿永2)
、85年(文治1)など諸説がある。源氏将軍は3代で絶え、その後北条氏が権を握ったが、1333年(元弘3)滅ぶ。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 四道将軍 しどう しょうぐん 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命。古事記は西道を欠く。
- 日本武尊 やまとたけるのみこと 倭建命。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
- 雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
- 斉明天皇 さいめい てんのう 594-661 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。
(在位655〜661) - 阿倍比羅夫 あべの ひらふ/ひらぶ 古代の武人。658年頃、日本海沿岸の蝦夷・粛慎を討ち、661・663年には百済を助けて唐や新羅と戦った。
- 光仁天皇 こうにん てんのう 709-781 奈良後期の天皇。天智天皇の皇孫。施基親王の第6王子。名は白壁。藤原百川らにより擁立され、和気清麻呂を召還して改革を行う。
(在位770〜781) - 伊治呰麻呂 いじの あたまろ → 伊治公呰麻呂
- 伊治公呰麻呂 いじのきみ/これはりのきみ あたまろ/あざまろ ?-? 伊治呰麻呂、伊治公呰麿。奈良時代の陸奥国(後の陸前国)の蝦夷の指導者。国府に仕え上治郡大領となり律令政府より外従五位下に叙されていたが、780年に伊治城で宝亀の乱を起こした。
- 桓武天皇 かんむ てんのう 737-806 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。名は山部。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。
(在位781〜806) - 坂上田村麻呂 さかのうえの たむらまろ 758-811 平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。
- 嵯峨天皇 さが てんのう 786-842 平安初期の天皇。桓武天皇の皇子。名は神野。
「弘仁格式」 「新撰姓氏録」を編纂させ、漢詩文に長じ、 「文華秀麗集」 「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。 (在位809〜823) - 文室綿麻呂 ぶんやの/ふんやの わたまろ 765-823 平安初期の貴族。中納言。810年(弘仁1)薬子の変で上皇方につき捕らえられたが、のちに許され、坂上田村麻呂とともに蝦夷征討で武名をあげる。
- 陽成天皇 ようぜい てんのう 868-949 平安前期の天皇。清和天皇の第1皇子。名は貞明。藤原基経により廃位。
(在位876〜884) - 藤原保則 ふじわらの やすのり 825-895 平安前期の公卿。貞雄の子。南家。866(貞観8)従五位下。貞観年間に備前・備中の国司となり、善政をおこなった。878(元慶2)出羽権守。俘囚の乱の平定にあたり、翌年収拾。以後讃岐守・大宰大弐を歴任し治績をあげた。891(寛平3)左大弁。翌年従四位上で参議となり、寛平の治に参画。三善清行の「藤原保則伝」がある。
(日本史) - 後冷泉天皇 ごれいぜい てんのう 1025-1068 平安中期の天皇。後朱雀天皇の第1皇子。母は藤原道長の娘嬉子。名は親仁。在位中に前九年合戦が起こる。
(在位1045〜1068) - 安倍貞任 あべの さだとう 1019-1062 平安中期の豪族。頼時の子。宗任の兄。厨川次郎と称す。前九年の役で源頼義・義家と戦い、厨川柵で敗死。
- 安倍頼時 あべの よりとき ?-1057 平安中期、陸奥の豪族。初名、頼良。貞任・宗任の父。奥六郡の俘囚長として蝦夷を統率。陸奥守源頼義に攻められ、敗れて流矢に当たり鳥海柵に没。
- 源頼義 みなもとの よりよし 988-1075 平安中期の武将。頼信の長男。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。
- 陸奥守 むつのかみ
- 源経基 みなもとの つねもと ?-961 平安中期の貴族・武人。清和天皇の第6皇子貞純親王の長子。はじめ経基王。六孫王と称されたが、源姓を賜り清和源氏の祖となる。和歌をよくした。平将門の反乱を通報、のち小野好古に従って藤原純友を滅ぼした。
- 源頼信 みなもとの よりのぶ 968-1048 平安中期の武将。満仲の3男。鎮守府将軍。兵法に通じ武勇で名高く、平忠常の乱を平定し、美濃守。晩年、河内守となり、河内源氏の祖。
- 後一条天皇 ごいちじょう てんのう 1008-1036 平安中期の天皇。一条天皇の第2皇子。名は敦成。母は藤原彰子。
(在位1016〜1036) - 平忠常 たいらの ただつね ?-1031 平安中期の豪族。良文の孫。高望の曾孫。上総介・武蔵押領使。1028年(長元1)謀反し、源頼信の討伐により、降参して京都に送られる途中病没。
- 源満仲 みなもとの みつなか 912-997 平安中期の武将。経基の長子。鎮守府将軍。武略に富み、摂津多田に住んで多田氏と称し、多数の郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた。多田満仲。
- 源頼光 みなもとの よりみつ 948-1021 平安中期の武将。満仲の長男。摂津などの国司を歴任。左馬権頭。勇猛で、大江山の酒呑童子征伐の伝説や土蜘蛛伝説で知られる。
- 将門 まさかど → 平将門
- 平将門 たいらの まさかど ?-940 平安中期の武将。高望の孫。父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴いた。伯父国香を殺して近国を侵し、939年(天慶2)居館を下総猿島に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振るったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。後世その霊魂が信仰された。
- 源義家 みなもとの よしいえ 1039-1106 平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。
- 清原武則 きよはらの たけのり ?-? 平安後期の豪族。出羽の俘囚の長。1062年(康平5)源頼義を助けて安倍貞任を滅ぼし、功により鎮守府将軍に任ぜられ、安倍氏の旧領を併せ、奥羽の雄となった。生没年未詳。
- 安倍宗任 あべの むねとう ?-? 平安中期の豪族。頼時の子。貞任の弟。鳥海三郎。前九年の役で源頼義と戦って敗れ、いったん京都に連行されたが、のち大宰府に移され、出家。松浦党はその後裔という。生没年未詳。
- 八幡太郎 はちまん たろう (頼義の長子で、石清水八幡で元服したことからいう) 源義家の通称。
- 堀河天皇 ほりかわ てんのう 1079-1107 平安後期の天皇。白河天皇の第2皇子。名は善仁。父上皇が院政を開く。
(在位1086〜1107) - 清原武貞 きよはらの たけさだ ?-? 平安時代陸奥の豪族。父武則の後をついで陸奥の六郡を領したが嫡子がなく、亘経清の寡婦をめとって庶子家衡をもうけたが、まもなく嫡子真衡が生まれたので、家領を真衡にゆずった。ために庶兄家衡の心平かならず、ついに真衡との間に相続あらそいをおこし、後三年の役をおこすに至った。
(日本人名) - 清原真衡 きよはらの さねひら ?-1083 武則の孫。/「まさひら」とも。平安後期の武将。武貞の嫡子。父同様に出羽国仙北郡および奥六郡に勢力を拡大し、清原氏の全盛期をむかえる。しかし独裁的な支配をおこなったため、弟の清衡・家衡ら同族の反発をうけ、後三年の役がおきた。形成は真衡側に不利だったが、1083(永保3)陸奥守源義家の支援をうけ勢力を挽回する。陣中で病死し、以後、主導権は清衡・家衡に移った。
(日本史) - 清原武衡 きよはらの たけひら ?-1087 真衡の叔父。/平安後期の豪族。武則の子。兄の子家衡を助けて金沢柵に拠り、源義家の大軍に囲まれ兵粮攻めにあい、柵は陥落し、捕殺。
- 清原家衡 きよはらの いえひら ?-1087 真衡の弟。/平安後期の豪族。清衡の異父弟。1083年(永保3)清衡と共に兄真衡の館を焼く。源義家が陸奥守となって来たが、これに従わず、金沢柵に拠って防ぎ、討死。
- 藤原清衡 ふじわらの きよひら 1056-1128 平安後期、奥州の豪族。経清の子。源義家の支援によって清原家衡・武衡らを滅ぼし、奥羽両国の押領使となり、鎮守府将軍を兼ね、平泉に中尊寺を建立、奥州藤原氏の祖となった。清原清衡。
- 藤原経清 ふじわらの つねきよ
- 新羅三郎義光 しんら さぶろう よしみつ → 源義光
- 新羅三郎 しんら さぶろう 源義光の異称。新羅明神の社壇で元服したのでいう。
- 源義光 みなもとの よしみつ 1045-1127 平安後期の武将。頼義の3男。新羅明神の社前で元服し新羅三郎という。知謀に富み弓をよくし、笙に長じた。後三年の役に兄義家が出征すると、官を辞してその後を追い武功をたて、のち刑部少輔。佐竹氏・武田氏・小笠原氏などの祖。
- 鎌倉権五郎景正 かまくら ごんごろう かげまさ → 鎌倉景政
- 鎌倉景政 かまくら かげまさ ?-? 平安後期の武士。平景正。権五郎と称。相模の人。源義家の臣。後三年の役に、敵に右眼を射られた際の豪勇ぶりは有名。生没年未詳。
- 三浦平次郎為次 みうら へいじろう ためつぐ
- 藤原基衡 ふじわらの もとひら ?-? 平安末期の奥州の豪族。清衡の子。陸奥・出羽の押領使。京都の文化を移入し、毛越寺を建立。生没年未詳。
- 雲慶 うんけい → 運慶
- 運慶 うんけい ?-1223 鎌倉初期の仏師。定朝の玄孫康慶の子。写実的で力強い様式をつくり上げ、その系統は鎌倉時代の彫刻界を支配した。代表作は興福寺北円堂の諸仏や快慶らと合作した東大寺南大門の仁王像など。
- 藤原秀衡 ふじわらの ひでひら ?-1187 平安末期の武将。基衡の子。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉を拠点に、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。
- 平清盛 たいらの きよもり 1118-1181 平安末期の武将。忠盛の長子。平相国・浄海入道・六波羅殿などとも。保元・平治の乱後、源氏に代わって勢力を得、累進して従一位太政大臣。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、その子安徳天皇を位につけ、皇室の外戚として勢力を誇った。子弟はみな顕官となり専横な振舞が多く、その勢力を除こうとする企てもしばしば行われた。熱病のため死去し、のち数年にして平氏の嫡流は滅亡。
- 藤原兼実 ふじわら かねざね → 九条兼実
- 九条兼実 くじょう かねざね 1149-1207 平安末〜鎌倉初期の公家。九条家の祖。源頼朝の後援により議奏公卿の上首、摂政となり、記録所を設置。のち関白。明経に通じ、和歌・書道もよくした。日記を「玉葉」という。月の輪関白・後法性寺殿と称。
- 源頼朝 みなもとの よりとも 1147-1199 鎌倉幕府初代将軍(在職1192〜1199)。武家政治の創始者。義朝の第3子。平治の乱に伊豆に流されたが、1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山に敗れた後、富士川の戦に大勝。鎌倉にあって東国を固め、幕府を開いた。弟範頼・義経をして源義仲、続いて平氏を滅亡させた。その後守護・地頭の制を定め、右近衛大将、92年(建久3)征夷大将軍となった。
- 藤原泰衡 ふじわらの やすひら ?-1189 平安末期の奥州の豪族。秀衡の子。陸奥・出羽の押領使。父の遺命によって源義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧迫を受けてこれを殺害、かえって頼朝から攻撃されて殺された。
- 源氏 → 源
- 源 みなもと 姓氏の一つ。初め嵯峨天皇がその皇子を臣籍に下して賜った姓で、のち仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・冷泉・花山・三条・後三条・順徳・後嵯峨・後深草・亀山・後二条天皇などの、皇子・皇孫にも源氏を賜った。嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏が名高い。
- 平氏 → 平
- 平 たいら 皇族賜姓の豪族。(1) 桓武平氏。桓武天皇の皇子、葛原・万多・仲野・賀陽4親王の子孫。このうち最も繁栄したのは葛原親王の孫平高望の子孫。その一族のうち伊勢に根拠地を置いたものを伊勢平氏といい、忠盛・清盛などが出た。
- 平泉先生 → 平泉澄
- 平泉澄 ひらいずみ きよし 1895-1984 大正・昭和期の国粋主義的歴史学者。福井県出身。東京帝国大学教授。当初、西欧の中世史研究の成果をとりいれすぐれた研究をおこなったが、日本の対外膨張とともに熱狂的な皇国史観の指導者となり、大きな影響力をもった。敗戦後、大学を辞し、郷里にもどって白山神社宮司となった。著書「中世に於ける精神生活」
「中世に於ける社寺と社会との関係」 「建武中興の本義」 。(日本史) - 平群真鳥 へぐりの まとり 紀にだけみえる伝説上の人物。雄略〜仁賢朝に大臣に任じられたという。武烈即位前紀には、大臣として専横をきわめ、子の鮪が物部麁鹿火の女影媛を武烈と争って殺されたのち、真鳥も大伴金村に殺されたという説話を収めている。
(日本史) - 弓削道鏡 ゆげの どうきょう → 道鏡
- 道鏡 どうきょう ?-772 奈良時代の僧。河内の人。弓削氏。宮中に入り看病に功があったとして称徳天皇に信頼され、太政大臣禅師、ついで法王。宇佐八幡の神託と称して皇位の継承を企てたが、藤原一族の意をうけた和気清麻呂に阻止され、天皇死後、下野国薬師寺別当に左遷、同所で没。
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)- 日本児童文庫
◇参照:
*難字、求めよ
- 蝦夷民族 えぞ みんぞく
- 蝦夷人 えぞじん/えぞびと 蝦夷地方の人。
- 蝦夷 えぞ/えみし 「えぞ(蝦夷)
」の古称。 (広辞苑)/古代の東北地方を中心とした地域の住民に対する呼称。毛人(もうじん) ・蝦(かい) ・蝦狄(かてき) ・夷・俘囚(ふしゅう) ・夷俘(いふ)など多様な表記・表現があり、 「えびす」とも読み、平安中期以降は「えぞ」と読む。古くは東国の人々を毛人と称したが、のちに言語・風俗・文化などを異にし、政治的にも朝廷に従わない人々を区別して蝦夷とよび、奈良時代以降は服属した蝦夷を大きく蝦夷・俘囚に編成した。語原や実体がアイヌか否かをめぐり諸説があるが、現在のところ定説はない。 (日本史) - 船軍 ふないくさ (1) 兵船の軍兵。水軍。(2) 水上の戦闘。水戦。
- 郡領 ぐんりょう 郡司の中の大領と少領との総称。世襲の職で、土着の豪族を任じた。
- 征夷大将軍 せいい たいしょうぐん (1) 平安初期、蝦夷征討のために派遣された将軍。797年(延暦16)坂上田村麻呂が任命されたのが初の確かな例。(2) 源頼朝以後、鎌倉・室町・江戸幕府にいたる武家政権の首長の称号。
- 鎮定 ちんてい 乱をしずめさだめること。また、乱がしずまりさだまること。平定。
- 武士 ぶし 武芸を習い、軍事にたずさわる者。武技を職能として生活する職能民と捉える立場からは、平安後期に登場し江戸時代まで存続した社会層をいう。さむらい。もののふ。武者。武人。
- 海賊 かいぞく (1) 海上を横行し、往来の船や沿岸地方を襲って財貨を強奪する盗賊。(2) 中世、志摩・瀬戸などの海域で活躍した海上豪族、水軍の異称。
- 国司 こくし 律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官。守・介・掾・目の四等官と、その下に史生があった。その役所を国衙、国衙のある所を国府と称した。くにのつかさ。
- 鎮守府将軍 ちんじゅふ しょうぐん 古代、鎮守府の長官。その下に、副将軍・権副将軍・将監(のち軍監)
・将曹(のち軍曹) ・弩師・医師・陰陽師各一人を置いた。鎮東将軍。 - 鎮守府 ちんじゅふ (1) 古代、蝦夷を鎮圧するために陸奥国に置かれた官庁。初め多賀城に置き、後に胆沢城などに移した。(2) 明治以後、各海軍区の警備・防御、所管の出征準備に関することをつかさどり、所属部隊を指揮監督した海軍の機関。横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各軍港に置いた。
- 摂政 せっしょう
[礼記文王世子]君主に代わって政務を行うこと。また、その官。日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、清和天皇幼少のため外戚の藤原良房が任ぜられてのちは、藤原氏が専ら就任した。明治以降は、皇室典範により、天皇が成年に達しないとき、並びに精神・身体の重患または重大な事故の際、成年の皇族が任ぜられる。 - 関白 かんぱく (カンバクとも。関(あずか)り白(もう)す意)[漢書霍光伝「諸事皆先ず光に関白し、然る後天子に奏御す」] (1) 政務に関し、天子に奏上する前に、特定の権臣があずかり、意見を申し上げること。(2) 平安時代以降、天皇を補佐して政務を執り行なった重職。令外の官。884年(元慶8)光孝天皇の時、一切の奏文に対して、天皇の御覧に供する前に藤原基経に関白させたことに始まる。摂政からなるのを例とし、この職を兼ねるものは太政大臣の上に坐した。一の人。一の所。執柄。博陸。
- 家人 けにん (1) 律令制下の私賤身分の一つ。民有の奴婢だが、私奴婢よりも待遇がよく、相続の対象とはなっても売買されず、家族生活を営むことが許された。(2) (→)御家人に同じ。(3) 家来。奉公人。
- 謀叛・謀反 むほん (1) (ボウハンとも)国家・朝廷、また主君にそむくこと。古代の八虐の一つ。(2) ひそかにはかって事を挙げること。
- 天下大赦 てんか たいしゃ
- 大赦 たいしゃ (1) 古代の律の赦の一種。全国的にほとんどの罪人を赦免すること。←
→曲赦。(2) 恩赦の一種。政令で定めた罪に対する刑罰の執行を赦免すること。まだ刑の言渡しを受けていない者については公訴権が消滅する。 - 要害 ようがい (1) 地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。(2) とりで。城塞。(3) 防備。用心。
- 千僧供養 せんそう くよう 千人の僧を招き斎(とき)を設けて行う供養。無量の功徳があるという。千僧会。千僧供。千僧斎。
- 堂塔 どうとう 寺院の堂や塔。
- 尻 しり (尾羽を用いるところから) 矢羽に用いる鳥の羽を数える語。
- 安達絹 あだちぎぬ 岩代国安達郡(福島県二本松付近)で貢物として織り出した絹。
- ひき 匹・疋 (3) 布帛2反を単位として数える語。
- 希婦の細布 けふの ほそぬの
- 希婦 → 機婦(きふ)か? はたを織る女。はたおり女。はたおりめ。細布 ほそぬの (1) 幅の狭い布。(2) 細布衣の略。
- 細布衣 ほそぬのごろも 細布で作った衣。
- 段・反 たん (1) 距離の単位。6尺を1間、6間を1段とする。(2) 土地面積の単位。1段(反)は300歩(坪)で、約991.7平方m。太閤検地以前は360歩。(3) (
「端」とも書く) 布帛の大きさの単位。成人一人前の衣料に相当する分量。1反は、普通、布では並幅で鯨尺2丈6尺または2丈8尺とされる。 - 糠部の駿馬 ぬかべの しゅんめ
- 信夫毛地摺 しのぶ もじずり → 忍摺・信夫摺
- 忍摺・信夫摺 しのぶずり 摺込染の一種。昔、陸奥国信夫郡から産出した忍草の茎・葉などの色素で捩れたように文様を布帛に摺りつけたもの。捩摺ともいい、その文様が捩れからまっているからとも、捩れ乱れた文様のある石に布をあてて摺ったからともいう。しのぶもじずり。草の捩摺。しのぶ。
- 捩摺 もじずり (→)
「しのぶずり(忍摺) 」に同じ。 - 進物 しんもつ 進上する物品。おくりもの。つかいもの。
- 生美絹 すずしのきぬ 生絹(すずし)の衣(きぬ)。
(古くは「すすし」)生糸の織物で仕立てた衣。 - 練り絹 ねりぎぬ 練絹。練ってやわらかにした絹布。ねやしぎぬ。
- 横領 おうりょう (
「押領」から転じてできた語) 他人または公共のものを不法に奪うこと。横どり。 - 武家政治 ぶけ せいじ 武家が政権を握って行う政治。征夷大将軍が幕府を開いて行なった鎌倉・室町・江戸3幕府の政治。
- 万世一系 ばんせい いっけい 永遠に同一の系統がつづくこと。多く皇統についていわれた。
- 天壌無窮 てんじょう むきゅう 天地とともにきわまりのないこと。永遠に続くこと。
- 皇運 こううん 皇室の運。天子の運。
- 豊葦原の瑞穂の国 とよあしはらの みずほのくに (古くはミツホノクニ) 日本国の美称。
- 天津神 あまつかみ 天つ神。天にいる神。高天原の神。また、高天原から降臨した神、また、その子孫。←
→国つ神。 - 熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。
- 日本民族 やまと みんぞく 大和民族。日本民族に同じ。→日本人。
- 日本人 にほんじん (1) 日本国に国籍を有する人。日本国民。(2) 人類学的にはモンゴロイドの一つ。皮膚は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で直毛。言語は日本語。
- 臣民 しんみん 明治憲法のもとで、日本の人民。天皇・皇公族以外の者。
- 修身 しゅうしん (1) 自分の行いを正し、身をおさめととのえること。(2) 旧制の学校の教科の一つ。天皇への忠誠心の涵養を軸に、孝行・柔順・勤勉などの徳目を教育。1880年(明治13)以降重視され、第二次大戦後廃止。
- 隙々 ひまひま (1) 方々のすきま。すきますきま。すきずき。(2) (
「暇暇」とも書く) 用事のない間。
◇参照:
*後記(工作員 日記)
・九州の松浦党(肥前松浦) 渡辺氏=松浦氏、安倍氏。
・村上水軍(瀬戸内海)
・熊野水軍(紀州) → 九鬼水軍
大河『平清盛』で加藤浩次扮する海賊・兎丸が登場したものの、当時の実在する水軍との関係描写が希薄だったのが、かえすがえすも残念。現在の歴史学では謎のままということなんだろうか。
清盛、平家と親しかったのは、どの水軍か。複数の水軍との親密度のちがいや確執があったはず。位置的には村上水軍が最も近いだろうけれども……。
馬と弓と養蚕の源氏に対し、船と交易の平氏のイメージがある。とくにこの時代、長い平安の世から乱世への転換期、馬具や武具・刀剣の需要が急激に増大したはず。加えて、造船・社寺建築・仏像作製などがさかんだったことを考えると、時代をあらわすキーワードの上位に「鉄製品」があげられるんじゃないだろうか。
木造船、木造建築、製鉄、鉄製品……、ここから推測できるのは、当時の西日本、平家の領有地では急激に山林が伐採されただろうということ。東日本、鎌倉に政権が移った背景のひとつに、山林の疲弊度合いの差があった可能性。どちらが優れていたか、、、ということではなく、どちらの山林が余力を有していたか。
もうひとつ。
飛鳥時代に船団を組んで蝦夷・粛慎討伐にあたったのが阿倍比羅夫。平安中期、奥州で源頼義・義家親子に討たれたのが安倍一族。そのさいに筑前宗像に配流されたのが安倍貞任の弟、宗任。
*次週予告
第五巻 第二二号
『日本歴史物語〈上〉』索引 喜田貞吉
第五巻 第二二号は、
二〇一二年一二月二二日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第二一号
日本歴史物語
発行:二〇一二年一二月一五日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)上巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)上巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 第五巻
- 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉- 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
- 第六号 大震火災記 鈴木三重吉
- 第七号 校註『古事記』
(四) 武田祐吉- 第八号 校註『古事記』
(五) 武田祐吉- 第九号 校註『古事記』
(六) 武田祐吉- 第一〇号 校註『古事記』
(七) 武田祐吉- 第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介
- オウム―
―大震覚え書きの一つ― ― - 第一二号 日本歴史物語〈上〉
(一) 喜田貞吉- 第一三号 日本歴史物語〈上〉
(二) 喜田貞吉- 第一四号 日本歴史物語〈上〉
(三) 喜田貞吉- 第一五号 日本歴史物語〈上〉
(四) 喜田貞吉
- 第五巻 第一六号 校註『古事記』
(八) 武田祐吉- 古事記 下つ巻
- 一、仁徳天皇
- 后妃と皇子女
- 聖の御世
- 吉備の黒日売
- 皇后石の比売の命
- 八田の若郎女
- 速総別の王と女鳥の王
- 雁の卵(こ)
- 枯野という船
- 二、履中天皇・反正天皇
- 履中天皇と墨江の中つ王
- 反正天皇
- 子伊耶本和気(いざほわけ)の王〔履中天皇〕、伊波礼の若桜の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、葛城の曽都毘古(そつびこ)の子、葦田の宿祢が女、名は黒比売の命に娶いて生みませる御子、市の辺の忍歯の王、つぎに御馬の王、つぎに妹青海の郎女、またの名は飯豊の郎女〈三柱〉。
- もと難波の宮にましましし時に、大嘗にいまして、豊の明したまうときに、大御酒にうらげて、大御寝ましき。ここにその弟墨江の中つ王、天皇を取りまつらんとして、大殿に火をつけたり。ここに倭の漢の直の祖、阿知の直、ぬすみ出でて、御馬に乗せまつりて、倭にいでまさしめき。かれ多遅比野にいたりて寤めまして詔りたまわく、
「ここは何処ぞ」と詔りたまいき。ここに阿知の直白さく、 「墨江の中つ王、大殿に火をつけたまえり。かれ率まつりて、倭に逃るるなり」ともうしき。ここに天皇歌よみしたまいしく、 - 丹比野に 寝んと知りせば、
- 防壁(たつごも)も 持ちて来ましもの。
- 寝んと知りせば。
- 波邇賦(はにふ)坂にいたりまして、難波の宮を見放けたまいしかば、その火なお炳(も)えたり。ここにまた歌よみしたまいしく、
- 波邇布坂 吾が立ち見れば、
- かぎろいの 燃ゆる家群、
- 妻が家のあたり。
- かれ大坂の山口にいたりまししときに、女人遇えり。その女人の白さく、
「兵を持てる人ども、多(さわ)にこの山を塞えたれば、当岐麻道よりめぐりて、越え幸(い)でますべし」ともうしき。ここに天皇歌よみしたまいしく、 - 大坂に 遇うや嬢子を。
- 道問えば ただには告らず、
- 当岐麻路を告る。
- かれのぼり幸でまして、石の上の宮にましましき。
( 「二、履中天皇・反正天皇」 「履中天皇と墨江の中つ王」より)
- 第五巻 第一七号 校註『古事記』
(九) 武田祐吉- 古事記 下つ巻
- 三、允恭(いんぎょう)天皇
- 后妃と皇子女
- 八十伴の緒の氏姓
- 木梨の軽の太子
- 四、安康天皇
- 目弱の王の変
- 市の辺の忍歯の王
- 五、雄略天皇
- 后妃と皇子女
- 若日下部の王
- 引田部の赤猪子
- 吉野の宮
- 葛城山
- 春日の袁杼比売(おどひめ)と三重の采女
- 夏草の あいねの浜の
- 蛎貝に 足踏ますな。
- 明(あか)してとおれ。
- かれ、後にまた恋慕にたえかねて、追いいでまししとき、歌いたまいしく、
- 君が行き け長くなりぬ。
- 山たづの 迎えを行かん。
- 待つには待たじ。
〈ここに山たづといえるは、今の造木なり〉 - かれ追いいたりまししときに、待ち懐(おも)いて、歌いたまいしく、
- 隠国(こもりく)の 泊瀬の山の
- 大尾には 幡張り立て、
- さ小尾には 幡張り立て、
- 大尾よし ながさだめる
- 思い妻あわれ。
- 槻弓の 伏(こや)る伏りも、
- 梓弓 立てり立てりも、
- 後も取り見る 思い妻あわれ。
- また歌いたまいしく、
- 隠国の 泊瀬の川の
- 上つ瀬に 斎杙(いくい)を打ち、
- 下つ瀬に ま杙を打ち、
- 斎杙には 鏡をかけ、
- ま杙には ま玉をかけ、
- ま玉なす 吾が思う妹、
- 鏡なす 吾が思ふ妻、
- ありと いわばこそよ、
- 家にも行かめ。国をも偲(しの)わめ。
- かく歌いて、すなわちともにみずから死せたまいき。かれこの二歌は読歌なり。
( 「三、允恭天皇」 「木梨の軽の太子」より)
- 第五巻 第一八号 校註『古事記』
(一〇) 武田祐吉- 古事記 下つ巻
- 六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
- 清寧天皇
- 志自牟の新室楽
- 歌垣
- 顕宗天皇
- 仁賢天皇
- 七、武烈天皇、以後九代
- 武烈天皇
- 継体天皇
- 安閑天皇
- 宣化天皇
- 欽明天皇
- 敏達天皇
- 用明天皇
- 崇峻天皇
- 推古天皇
〔用明天皇〕 - 弟橘の豊日の命〔用明天皇〕、池の辺の宮にましまして、三歳天の下治(し)らしめしき。この天皇、稲目の大臣が女、意富芸多志比売に娶(あ)いて生みませる御子、多米の王〈一柱〉。また庶妹(ままいも)間人の穴太部の王に娶いて生みませる御子、上の宮の厩戸の豊聡耳の命〔聖徳太子〕、つぎに久米の王、つぎに植栗の王、つぎに茨田の王〈四柱〉。また当麻の倉首比呂が女、飯の子に娶いて生みませる御子、当麻の王、つぎに妹須賀志呂古の郎女〈二柱〉。
- この天皇〈丁未の年四月十五日、崩(かむあが)りたまいき。
〉御陵は石寸の池の上にありしを、のちに科長の中の陵にうつしまつりき。 〔崇峻天皇〕 - 弟長谷部の若雀の天皇〔崇峻天皇〕、倉椅の柴垣の宮にましまして、四歳天の下治らしめしき。
〈壬子の年十一月十三日、崩りたまいき。 〉御陵は倉椅の岡の上にあり。 〔推古天皇〕 - 妹豊御食炊屋比売の命〔推古天皇〕、小治田の宮にましまして、三十七歳天の下治らしめしき。
〈戊子の年三月十五日癸丑の日、崩りたまいき。 〉御陵は大野の岡の上にありしを、のちに科長の大陵にうつしまつりき。 ( 「七、武烈天皇、以後九代」より)
- 第五巻 第一九号 校註『古事記』
(一一) 武田祐吉- 語句索引
- 歌謡各句索引
- 第五巻 第二〇号 日本歴史物語〈上〉
(五) 喜田貞吉- 四十一、地方政治の乱(みだ)れ(一)
- 四十二、地方政治の乱れ(二)
- 四十三、地方政治の乱れ(三)
- 四十四、地方政治の乱れ(四)
- 四十五、武士・僧兵・海賊のおこり(一)
- 四十六、武士・僧兵・海賊のおこり(二)
- 四十七、武士・僧兵・海賊のおこり(三)
- 四十八、武士・僧兵・海賊のおこり(四)
- 四十九、平安朝の仏教
- じっさい平安朝時代には、貴族と平民とのあいだにはたいそうな隔(へだ)たりがありました。貴族たちが京都で好き勝手な栄華にふけっているあいだに、平民は地方で国司らにいじめられていました。そこで平民らは、自分で国民たるの権利を捨てて諸国に浮浪するというようなありさまでしたから、世の中の人気もしだいに荒くなります。活きるに困っているものは、活きるためにはやむを得ず悪いこともします。どうでこの世の中に活き長らえていたからとて、その末がよくなるという見込みがあるではなし、またすでに悪いことをしている身であれば、死んだのちには地獄へ落ちると仏教は教えています。こうなってはどんなものでも、自然やけになってくる。
(略) - このような気の毒な人たちを救うて、たといその日その日の暮らしは苦しくても、せめては心だけにでもゆっくりした安心をあたえて、無暗にやけにならぬようにと親切に教えをひろめたのは、念仏の宗旨でした。口に南無阿弥陀仏ととなえて、阿弥陀如来にすがりさえすれば、どんな罪の深いものでも、死んだのちにはみな必ず極楽へ行くことができるという教えです。
- はじめてこの教えを民間に説きすすめたのは、空也上人でありました。東には平将門、西には藤原純友の謀反があったのち、世の中がますます騒がしくなり、食うに困るような浮浪民がそこにも、ここにも、うようよしているというころに、空也は盛んにその仲間に説いてまわったものですから、いたるところに信者がたくさんにできました。平民らはこれがために、ひどくやけにもならず、救われて安心を得たものがはなはだ多かったのです。
- そののち平安朝も末になり、源平二氏の戦争が長いあいだ続いて、武士は多くの人を殺し、その罪のむくいがおそろしくなる。また一般の民衆は、多年の戦争に苦しんで、ますます貧乏のどん底に落ちこむというように、多数の人がひどく悩んでいるころに、法然上人が出て、盛んにこの教えをひろめました。
(略) (「四十九、平安朝の仏教」より)
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