喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

小村雪岱 こむら せったい
1887-1940(明治20.3.22-昭和15.10.17)
日本画家、挿絵画家。本名、安並泰輔。埼玉県川越生まれ。時代風俗の考証に通じ、のち舞台装置家、新聞雑誌の挿絵画家として活躍、その繊細で鮮烈な描線のかもし出すエロチシズムで、広くファンを熱狂させた。挿絵は泉鏡花作『日本橋』、邦枝完二作『お伝地獄』など。(人名)

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・小村雪岱。



もくじ 
日本歴史物語〈上〉(五)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
日本歴史物語〈上〉(五)
  四十一、地方政治の乱(みだ)れ(一)
  四十二、地方政治の乱れ(二)
  四十三、地方政治の乱れ(三)
  四十四、地方政治の乱れ(四)
  四十五、武士・僧兵・海賊のおこり(一)
  四十六、武士・僧兵・海賊のおこり(二)
  四十七、武士・僧兵・海賊のおこり(三)
  四十八、武士・僧兵・海賊のおこり(四)
  四十九、平安朝の仏教

オリジナル版
日本歴史物語〈上〉(五)

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後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html





日本歴史物語〈上〉(五)

喜田貞吉さだきち

   四十一、地方政治のみだれ(一)


 藤原氏の長い間のわがままなおこないは、日本の政治をメチャメチャにしてしまいました。これはもとより藤原氏ばかりのつみというわけではなく、世の中が自然ぜん、そういうふうになってきたのではありますが、上に立って人民をみちびくべきはずの大官たいかんたちが、自分の勢力のさかんなのにまかせて、好き勝手なことをしているに、いつとはなしに、だんだんと世の中がくずれてしまったのですから、藤原氏に責任がないとはいわれません。
 大化たいか新政しんせいは、天下の土地・人民をみな国家に属するものとして、人民にはそれぞれ同じだけの田地でんちを、口分田くぶんでんとしておりあてになったのでありましたから、これがうまく続いていってさえくれますれば、世間せけんにひどい貧乏びんぼうな人もなければ、またひどくんだというものもなく、みんなが同じように幸福に生きてゆくことができたはずでありましたが、実際にはそう都合つごうよくはまいりませんでした。第一に、人間の数がだんだんとふえてまいります。人間の数がふえれば、りあてる田地でんちがたりなくなる。あらたにれ地を開墾かいこんせねばなりませんが、開墾したとて、それが自分のものになるのでなければ、だれもそんなことに骨折ほねおるものはありません。そこであらたに開墾したものには、その土地をその人のものにするということに、自然しぜんなってまいります。
 第二に、これは前にもちょっともうしたことですが、人間には勉強するものもあれば、なまけものもある。達者なものもあれば、病身びょうしんなものもある。知恵ちえの多いものもあれば、いっこう物のわからぬ愚物ぐぶつもある。正直しょうじきなものばかりがそろっておればよいが、なかには他人の物でも取ろうという横着おうちゃくものも少なくない。自然しぜんいつまでもすべての人が、同じ暮らしをするというわけにはまいりません。第三に、大きな手柄てがらのあったものが、褒美ほうびに土地をたまわるとする。その土地はとうぜんその人の物にならねば、褒美ほうびの意味になりません。そんなしだいで、自然に勢力のあるところへとみが集まってまいります。口分田くぶんでんというけっこうな規則も、だんだんおこなわれなくなってまいります。第四に、勢力のあるものが荘園しょうえんという名をつけて、たくさんの土地を自分のものにするというような悪い習慣がひどくなりました。荘園となれば、もはやその土地やその土地に住んでいる人民は国家のものでありませんから、租税そぜいおさめることもいらねば国司こくしも手をつけないのです。そんなぐあいで、世の中がメチャメチャに乱れてこないでおられましょうか。
 荘園のはじめは、れ地を宅地の付属にするくらいのちょっとしたことでありましたが、それを開墾かいこんして自分のものにする、あるいはそれを神社や寺に寄付するとかいうようなことになり、それがだんだんおおげさになってきて、勢力のあるものはいろいろの理由をつけて、広い地面を自分のものに取りこんでしまうようになる。それを藤原氏のような大官たいかんからして先に立ってはじめたのですから、なんとも仕方がありません。横着おうちゃくなものは、自分の地面を藤原氏のような有力者に寄付してその荘園にしてもらい、自分は荘園の民になるというような悪いことを考え出します。自分が公民であり、またその土地が自分のものであれば国家へ租税ぜいを出さねばならず、国司こくしからもいろいろと課役かやくをかけられますが、荘園となればそれがいらぬ。ことに自分は地頭じとうという名義であいかわらずその土地を支配して、わずかばかりのけまえをその荘園の名前主なまえぬしにあたえて、あとは自分が取ってしまうのです。荘園主しょうえんぬしは、ただその名前をしたばかりで、ふところをしていて所得のけまえがもらえる。もとの地主じぬしは、少しばかりのけまえを荘園主に出すだけで、あとは自分のまるりとなる。そのうえ某殿なにがしどのの荘園の地頭だというようなことで、とらきつねというぐあいに、いばって世の中をわたることができるのでありますから、双方ともにこれほどとくなことはありません。そしてこれがために国家がまるぞんをしていても、そんなことは少しも考えてみないのです。
 荘園しょうえんとなりますと、国司こくしも手をつけることができません。そしてそれがだんだんとふえてきて、国司の支配する土地がしだいにってまいります。それではならぬと思うような忠実な国司がたまにありましても、もともと国司を任じたりめんじたりするちからのある朝廷の大官がその荘園主であるのですからたまりません。自分につごうの悪いような国司は、さっさと免職めんしょくしてしまいます。それで国司になったものも、忠実にその職務をつとめることができません。また忠実につとめてもつまりませんから、できるだけのわがままをして人民からしぼりあげて、自分のふところをやそうといたします。人民こそよいつらかわです。上のほうでは摂政せっしょう関白かんぱくをはじめとして、朝廷の大官たいかんたちが好き勝手な遊びをして、日夜にちや栄華えいがにふけっております間に、下のほうでは一般民衆が、うや食わずの苦しみをなめていたのでありました。
 後三条ごさんじよう天皇は、ご英邁えいまいにわたらせられまして、これではならぬとお考えになりましたから、あらたに荘園を作ることをおめになり、これまであるものでも、わけのわからぬものはご廃止はいしになされるご方針でありましたが、なにぶん長い間にだんだんとできてきた習慣でありますから、それがあたりまえということになっておりまして、なかなか立てなおしができません。ついには日本じゅうの土地は、おおかた荘園ということで少数の貴族や寺院などのものとなり、その荘園を支配している地頭などは、主人の威光いこうかさにきていばっておりますが、一般人民はたいてい水呑みずのみ百姓というような、まことにどくなものになってしまいました。

   四十二、地方政治のみだれ(二)


 藤原氏をはじめとして、そのころの貴族たちがたくさんの荘園しょうえんを持って栄華えいがをきわめているときに、一般民衆がどんなに苦しんでいたかということは、そのころの戸籍こせきを見ればいちばんよくわかります。戸籍には、そのときの人民の名やとしが残らず書いてありますが、それがまあどうでしょう。そのころの戸籍には、男と子どもとがごく少なくて、女と老人としよりがはなはだ多いのです。そんなことが実際にあろうはずはありませんが、戸籍がまさにそうなっているのだから不思議です。延喜えんぎ二年(九〇二)阿波あわの国の戸籍が少しばかり残っているのを見ますと、としとのわかるものが、五五〇人のうちで四八三人までがみな女で、男はわずかに六七人しかありません。女八人に男一人というくらいのりあいです。また十歳以下の子どもは一人もなく、二十歳以下の少年・青年がわずかに八人あるだけで、そのかわりに八十歳以上の年寄としよりが九五人もあり、なかには一一〇歳などというのがあるのです。
 これはいったいどうしたことなのかともうすに、このころ国司は政治におこたって、実際の人口調べなどはせず、生まれても出生しゅっしょうとどけがなければ戸籍に加えない。死んでも死亡とどけがなければ戸籍からのぞかないというのですから、前に子どもであったものもだんだん大人になりまして、戸籍のうえでは子どもがなくなり、そのかわりに死んでものぞきませぬから、だんだん年寄としよりが戸籍のうえにふえてくるのです。これではせっかくの大化たいか新政しんせいの口分田などは、りあててみようもありません。
 また男がいたって少ないのは、課役かやくといって、男には国司からいろいろのめんどうな仕事をいいつけてくる。いろいろの物を取り立てにくる。自分の土地を荘園に寄付して、自分が地頭になるというような横着おうちゃくなものの出るのも、じつは国司からあまりにめられるのがつらいためで、実際じっさいいたしかたもなかったのですが、それもできないものは、国司のめがおそろしさに国を逃げ出したり、また僧侶そうりょになったりして戸籍からけずられてしまうのです。そして戸籍に残るところは、女が大多数ということになるのです。
 国から逃げ出したものは無論ですが、僧侶となったものも、これを出家しゅっけといって、からだ実際じっさいその家におりましても、出家となれば文字どおり家を出たわけで、戸籍からけずられます。そして国司も課役をかけることができなくなるのです。戸籍からけずられますと、国民としての資格がなくなりますが、その資格があったところで、どうで国司からめんどうが見てもらえるではなし、口分田などをけてくれるでもなし、国民としての権利はほとんど認められずして、ただいじめられるばかりでありますから、そんなやっかいなものは、いっそないほうがよいということになるのです。
 このころの学者の三善みよし清行きよゆきという人は、「今、天下の民三分さんぶん坊主頭ぼうずあたまである」といっておりますが、右の戸籍を見ますと、出家して僧侶となった男は、実際は三分の二以上であったでありましょう。今日こんにちから考えますと、じつに不思議なようではありますけれども、いつとはなしに、だんだんとそうなってきたのですから、それがあたりまえになって、そのころの人はそう不思議にも思わなかったのでありましょう。

   四十三、地方政治のみだれ(三)


 そのくらいにまで地方の政治はみだれにみだれて、人民は苦しめられておったのです。しかもそれが延喜えんぎ(九〇一〜九二三)のころだというからおどろきます。延喜は第六十代醍醐だいご天皇の御代みよの年号で、桓武かんむ天皇が平安京へお移りになりましてから、まだ一一〇年ばかりにしかならず、菅原すがわらの道真みちざね右大臣うだいじんとして藤原氏の勢力をかとうとしていたころでありますから、まだ藤原氏のわがままもそうひどくはならず、世の中もまだ、そうはくずれていなかった時代だと思われますのに、一般の人民はすでにこんなありさまであったのです。それが年とともにだんだんとひどくなったのですから、のちのことは思いやられるではありませんか。
 それならば、国司こくしからいじめられるのがいやさに、戸籍からけずられたようなどくな人民は、いったいどうなったでありましょう。かれらはふだんから、やっとうやわずの、いたってみじめな暮らしをしているのですから、飢饉ききんでもあればにするか、人の物を取って生きるかせねばなりません。そうなると、盗賊とうぞくなどはいっこうめずらしくないものになります。世の中はだんだん騒々そうぞうしくなります。また国におってもきてゆく道のないものは、暮らしに都合つごうのよいところを求めて、ぐさなみに浮かぶように流れてまいります。いわゆる「浮浪民ふろうみん」となるのです。そのころは京都がいちばん繁華はんかで、人も多く、しぜん何かの仕事にありつきやすいというので、浮浪民は多くここへ集まりました。しかし、せっかく来てみたところで、住む家もなく、だれも歓迎かんげいしてくれるものはありません。今日こんにちのようにもなければ、宿屋やどやもなく、またあったとしても、かれらにはそれをりたり、宿屋住居ずまいしたりするちからもありませんから、しかたなく賀茂川かもがわ河原かわらや、東山ひがしやまの坂などのき地に小屋を作って、そこに仮住居かりずまいをなし、乞食こじきをしたり、人のいやがるいやしい仕事をしたりして、やっときてゆくよりほかはありません。そこで世間せけんの人は、かれらを「河原者かわらもの」とか、さかもの」とか、小屋者こやもの」などといっていやしみます。今日こんにち宿やどなしの浮浪民を、よくさんかものなどといいますが、それはこのさかのものということがなまったのです。かれらはもと国司からいじめられるのがいやさに、出家して戸籍からけずられ、僧侶の形をしておりますから、これをまた「非人ひにん」とも、非人ひにん法師ほうし」ともいいました。人間仲間でないということなのです。あるいはときに「エトリ」などともいいました。


 

   四十四、地方政治のみだれ(四)


 エトリというのは、タカや犬にわせるを取る者ということです。日本でも大昔には、けものの肉はだれもみな食べたもので、神にも獣肉じゅうにくをまつり、すこしもそれをけがれたものとは思っていなかったのですが、仏教がさかんになってから、生き物を殺したり、その肉をったりすることを、たいそう悪いこととしてきらうようになりました。ことに家にって人間の助けをする牛や馬などは、けっして殺したりったりしてはならぬことになってまいりました。それは仏教のほうできらうばかりでなく、清浄しょうじょうをお好みになる日本の神さまが、けがれとしてひどくそれをおきらいになって、そんなことをするものは、いっさい神さまに近づくことができないということに考えが変わってきたのです。ところで、しものほうで、多数の人民がそんなにまで苦しんでいることにはいっこう頓着とんちゃくなく、貴族などの仲間には、鷹狩たかがりといって、タカや犬を使って鳥を取らせて楽しみとする遊びがはやりました。そのタカや犬には、死んだ牛や馬の肉をとしてわせるのですが、牛や馬の皮をはいだり、その肉を取ったりすることは、けがれとして神さまがおきらいになる、そんなことをするものは、体がけがれているから神さまに近づけないということで、ふつうの人間はいっさいこれにさわりません。しかしうにこま河原者かわらもののような浮浪民は、そんなことはいっておられません。エトリのようなけがれたものとして人のきらう仕事でも、なんでもかまわずやります。死んだ牛馬の皮をはいで、太鼓たいこつづみにはるかわを作ったり、タカや犬のにする肉を取ったり、自分もそれを食べたりします。それで河原者かわらものなどのことを、ときにはエトリともいいました。そのエトリということがなまって「エタ」となり、エタはけがれが多いものだということから、のちにはそのエタという言葉に、けがれ多し」という意味の「穢多えた」といういやなて字を使うようになりました。そしてかれらとまじわったなら、そのけがれが自分にも移って、神さまに近づけなくなるということで、かれらはついに人間仲間の交際から、けものにせられるようになりました。
 もちろん、エトリとか非人ひにんとかいわれたものが、いつまでも同じ身分を続けていたのではありません。世の中は新陳しんちん代謝たいしゃもうして、古いものと新しいものとが入れかわります。いったん不幸にして落ちぶれても、その子孫が立派りっぱな身分になったものが多く、そのかわりに、もと立派な身分のものでも、落ちぶれてはエトリとも非人ともなります。つまりは、世の中のどく落伍者らくごしゃが不幸にしてそんな身分になったので、ことにそれが平安朝の地方の政治のみだれたために、一時いちじにたくさんできたのでありました。
 また平安朝の浮浪民ふろうみんのすべてが、京都へ流れてきたわけではありません。また、国司にいじめられたために逃げ出したという者ばかりでもありません。そのほかにもいろいろの原因から国におられなくなって、方々ほうぼうへ流れて行ったものもありますが、いずれにしてもみなふつうの日本やまと民族で、浮浪民ふろうみんだとて別に変わった人間ではありません。かれらは不幸にして、先祖以来いらい住みなれた国にいることができず、知らぬ他国へ流れて行って、人のいやがることをしてでもきてゆかねばならなかった、どくな人たちです。それをやれ河原者かわらものだ、やれさかものだ、非人ひにんだ、エタだなどといって、いやしんだのでした。ことにむかしエタといって格別かくべつにきらったものは、ただ皮をあつかったり、肉をったりして、体がけがれているものだと誤解ごかいしたためでありましたが、日本人はむかしはだれも肉をい、今日こんにちではまただれも肉をわぬものはありますまい。それでいて同じ仲間のどく落伍者らくごしゃをいやしんだり、きらったりしたということは、なんというまちがったことであったでありましょう。
 しかしこれというのも、長い間に藤原氏などの貴族たちが、天下の土地を荘園しょうえんという名前で自分どものものにして、勝手なわがままを遠慮えんりょなくおこない、これがために人民の苦しむことなどはいっこう考えず、また国司こくしは人民をしぼりあげて、自分のふところをやすことばかりを考え、地方の政治をかえりみなかったがために、世の中が自然にだんだんくずれてきた結果です。日本のような立派な歴史を持った国であっても、油断ゆだんをすれば政治がひどく乱れてきて、こんな時代にもなってまいります。おそろしいことではありませんか。

   四十五、武士・僧兵そうへい海賊かいぞくのおこり(一)


 地方の政治がひどくみだれて、どく浮浪民ふろうみんが多くできた一方には、また武士とか、僧兵そうへいとか、海賊かいぞくとかいわれるものがさかんにおこりました。なにぶんにもうにこまるものがたくさんできた世の中です。人を殺したり、人の物を取ったりすることのできぬようなものは、河原者かわらものともなり、さかものともなって、非人ひにんと呼ばれ、エタといやしめられて乞食こじきをしたり、人のいやがる仕事をしてでもきてゆかねばならなかったのですが、なかには人の物を取ったり、人殺ひとごろしをしたりしてでもきてゆこうというような、気の強いものもたくさんできてまいります。ことに国司こくしの悪い政治をにくみ、ひどく世間せけんをうらんでいるようなものにとっては、自然に気分があらくなってくるのも、じっさいやむを得ませんでした。そこで世の中はますますさわがしくなる。強いものが弱いものをいじめつけてきていくのはあたりまえだというような、おそろしいことにもなってくる。それでも自分さえよければよいというような、いたって不親切な国司たちは、政治をおこたって、そのしまりもしてくれません。人民は国司にめられるのがおそろしいが、それよりもさらに泥坊どろぼうのほうがいっそうおそろしく、油断ゆだんをすれば財産ばかりでなく、ついでに命までも泥坊どろぼうに取られてしまうという心配があったのであります。そこで人民はなんとかして、自分で自分の命なり財産なりをまもっていく方法を考えねばならなくなります。
 わたくしどもが今日こんにち安心してきてゆけますのは、国の法律がりっぱにおこなわれて、警察が始終しじゅう保護していてくれるためであります。もし国の法律がメチャメチャになり、警察の保護がなくなったなら、人民はこれほど心細こころぼそいことはありません。
 大正十二年の関東大震災のときに、ほんのわずかの間でしたけれども、警察の手がとどきかねるというので、めいめい自警団じけいだんを作って、おたがいに火つけや泥坊どろぼうの用心をしたことは、わたくしどもの忘れ得ないところでありますが、藤原氏の全盛ぜんせい時代には、それが長く長く続いたのでした。こんなときには、一人一人のちからではどうすることもできませんから、人民がおたがいに助けあって、力を一つにあわして、自分どもを守らねばなりません。つまり自警団じけいだんが必要になってくるのです。そしてその自警団の中では、強いものがかしらとなって一同のさしずをする。また強いかしらのところへは、自然に多くのものがついてきて、その保護を受けるようになる。強いものは、そのついてきた多くのものを手下てしたとして、ますます強くなる。またその強いものも、さらにいっそう強いものの下について、その保護を受けるというようになる。自然に主従しゅじゅう関係ができてまいります。大化の新政でせっかく立てなおしたところが、いつのまにかもとにもどって、きみの下にきみがあり、しんの下にしんがあるというようなふうになってきました。そのしんとなったものは、主人のそばについていて、主人の身をまもり、主人の用をつとめるのですから、それを「さむらい」といいました。さむらいとは、「そばについている」ということです。そのさむらいらは、もちろん殺伐さつばつな時代のことでありますから、めいめい武芸を練習して、主人のためには戦争をするだけの用意をしなければなりません。それを武士ぶしといいます。武士、すなわち、さむらいです。こういうぐあいにして、国家の兵隊のかわりに、武士という兵隊たようなものが、べつに民間にできてまいりました。
 地方の様子がそんなふうにひどく乱れているあいだに、京都におって相当そうとうの身分があり、りっぱな家柄いえがらに生まれたものであっても、やはり当世とうせい不平ふへいなものもたくさんありました。同じ藤原氏の人たちでも、みながみなまで大官たいかんになり、栄華えいがを心のままにするというわけにはまいりません。またそのほかの源氏みなもとうじ平氏たいらうじなど、近く皇室からかれ出た家の人たちでも、京都におってはとても立身りっしん出世しゅっせの見込みがないので、国司となって地方に出かけますと、そのままその土地にとどまって、多くの武士を手下てしたにし、自身じしん武士の大将となって、たいそう勢力を有するものができてまいります。そしてさらに身分のよい摂政せっしょうとか、関白かんぱくとか、大臣だいじんとかいうような人を主人として、ますますいばることができるようになります。また、摂政とか、関白とか、大臣とかいうような人は、そんな武士の大将を家人けにんにして、自分をまもる兵隊がわりに使い、あいかわらず栄華えいがをほしいままにしております。家人というのは、のちに家来けらいというと同じものです。
 どうで国家の政治はみだれて、兵隊などというものは名前ばかりになっている時代のことです。またあっても弱くて役に立たなくなっている時代のことですから、これらの武士が兵隊がわりにならねばにあいません。そこで、いっぽうでは有力者の家人けにんになっておる武士の大将が、いっぽうでは国家の武官ぶかんに任ぜられて、自分の手下てしたの武士をひきいて国家や貴族をまもるというような、みょうなしくみの世の中になってまいりました。これも時代のいきおいで、実際やむをなかったのであります。
 こんなぐあいにして、世の中はますますみだれてまいりました。

   四十六、武士・僧兵そうへい海賊かいぞくのおこり(二)


 一方いっぽうに武士がおこると同時に、一方にはまた僧兵という奇妙きみょうなものができてまいりました。ぼうさんの兵隊」です。いったい仏教では慈悲じひということがいちばん大切なので、生きた物を殺すことさえたいそうなつみとしているのでありますが、その仏教の僧侶そうりょまでが、武士の真似まねをして武芸を練習し、太刀たちをおびて戦争もしよう、人殺しもしようというのですから奇態きたいではありませんか。しかしこれも世の中が乱れた結果で、自然そうならなければならなかったのです。
 平安朝の仏教のことは、のちにあらためてもうしますが、わがままをきわめた貴族たちと同じように、そのころの大きな寺々てらでらは、またたくさんの荘園を持っておりまして、勢力のたいそうさかんなものでありました。なかにも京都の近くでは、延暦寺えんりゃくじ園城寺おんじょうじ、奈良では興福寺こうふくじ東大寺とうだいじなどは、もっともいちじるしいものでした。荘園は国家の支配以外で、国司もこれには手をふれませんから、荘園の持ち主は自分でその荘園の土地なり荘園の人民なりを支配する役所をもうけ、役人を置いて、国家とは無関係にこれを取りあつかわしめます。されば大きな荘園を持っているものは、同じ日本の中にありながらも、別の小さいはん独立国を持っているような形になっていたのです。それで国家の政治が乱れて、こう世の中が物騒ぶっそうになってまいりますと、荘園の持ちぬしらは自分で自分をまもるだけの用意をしなければなりません。貴族・大官たいかんたちが、武士を家人けにんとしたのもそのためでした。いかに慈悲じひを大切とする仏教の寺院でも、ぼんやりしていてはほかの強い者に取られてしまいますから、自然しぜん、寺にもこれをふせぐための兵隊がようになります。
 ところでこのころは、前に述べたとおり、課役かやくけんがために出家しゅっけして、戸籍からけずられたものがいたるところにたくさんおります。かれらはもと本当の仏教信仰から出家したのではありませんから、妻子つまこもあれば肉もうという、破戒はかいの仲間ではありますが、ともかく僧侶そうりょの形をしているのです。そしてそれが浮浪民ろうみんとなって、京都のような大きな都会へ流れてきて、生活の道を求めたのもたくさんありましたが、また大きな寺々へ集まって、そこに安全なかくれ場所を求めたものも、また少なくありませんでした。そしてかれらは、地方に武士がおこったと同じように武芸を練習して、ついに僧兵そうへいとなったのです。


 
 されば僧兵そうへいのおこったのも、やはり世の中の自然のなりゆき、やむを得ないのでありました。そのはじめはほかからの侵略しんりゃくに対して寺をまもるの必要からであったでありましょうが、そのいきおいがさかんになりますと、なかなかおとなしくしてのみはおりません。少しばかりの行きちがいから、寺と寺とのあいだにはげしい戦争がはじまり、僧侶と僧侶とが殺しあうというような、おそろしいさわぎもしばしばおこります。こうなってくれば、ほとけとうとさも何もあったものではありません。延暦寺と園城寺とは、同じ天台宗てんだいしゅう本山ほんざんでありながら、そのなかが悪く、延暦寺の僧兵は園城寺を焼き打ちにして、どうも、とうも、仏像も、用捨ようしゃなく焼いてしまったということもあります。
 奈良の興福寺こうふくじは、もと藤原ふじわらの鎌足かまたりのはじめた寺で、藤原氏の氏寺うじでらとして縁故えんこがもっとも深く、藤原氏がさかんなるとともに、この寺もまたはなはだ勢力がありました。奈良は南にある旧都きゅうとの地でありますから、これを「南都なんと」ともうし、これに対して延暦寺は、北のほうの比叡山ひえいざんにありますから、これを「北嶺ほくれい」ともうし、南都と北嶺のあいだにも、しばしば僧兵の戦争がおこります。かれらは朝廷に対したてまつっても、不平ふへいのことがあれば、無遠慮ぶえんりょにも宮城きゅうじょうに向かってガヤガヤと大勢おしかけてまいります。まことに始末しまつにおえぬものでありました。ことに北嶺の延暦寺は京都にいちばん近く、いちばん勢力があり、いちばん乱暴であって、朝廷をおこまらせもうすことがいちばん多かったので、ご英邁えいまいなる白河しらかわ法皇も、これにはたいそうご迷惑めいわくあそばされました。そこで法皇は、「天下ちんの意のごとくならぬものは、賀茂川の水と、双六すごろくさいと、山法師やまほうしとのみだ」とおおせられたともうします。山法師とは、北嶺・延暦寺の僧兵のことであります。そのくらいにまで、かれらはわがままをはたらいたのでした。

   四十七、武士・僧兵そうへい海賊かいぞくのおこり(三)


 地方に武士がおこり、諸大寺しょだいじに僧兵ができたと同じように、海にかこまれたわが日本の島国には、しぜん、海賊かいぞくさかんになるのもやむを得ませんでした。ことに中国から四国にかけての瀬戸内海せとないかいの島々、九州北部の沿岸地方などは、その本場ほんばともいうべきところです。かれらは数百そうの船を浮かべて海の上を横行おうこうし、ただに海上往来おうらいの船をおそうて、西の諸国から政府におさめる租税そぜいや、京都の貴族たちへ送る荘園の年貢ねんぐなどをうばうばかりでなく、しばしば陸上にあがって、おおじかけの掠奪りゃくだつをもおこない、ときには国司こくしをおびやかして、平素へいそのうらみをはらしたというようなこともあります。かれらはもと海岸住民として船のあつかいにれ、また海の様子もよく知っているので、地方の政治が乱れ、人民が国司の悪政あくせいのために苦しめられたときに、ふつうのものが出家して戸籍からけずられたり、郷里くにを逃げ出して浮浪民ふろうみんとなったりするかわりに、かれらは海上へ逃げ出したものでありました。つまり海上の浮浪民ともいうべきものなのです。ですから、これらの海賊ももちろんけっしてもとからのぞくではありません。かれらが国司の悪政のために苦しめられて、やけになってぞくになったものだということは、第六十一代朱雀すざく天皇の御代みよ(在位九三〇〜九四六)のころ、伊予いよの国でたいそう海賊がおこったときに、伊予守いよのかみきの淑人よしひとという人がまつりごとをおこなってこれをさとしましたがために、二五〇〇人という大勢の海賊が、あやまちをいて降参こうさんし、良民りょうみんとなったということからでもわかりましょう。
 この海上の浮浪民たる海賊も、やはり陸上に武士ができたと同じように、強いものの下に集まってしだいに大きな仲間になる。そこへ国司となって赴任ふにんしてきた人で、京都へ帰ったところでとても出世しゅっせの見込みがないというようなものが、任期がすんでもそのままその地方に残ってそのかしらになるというふうに、だんだん物がおおげさになってくるのです。


 
 これを海賊かいぞくもうしますから、いかにも悪党あくとうばかりのり集まりのようにも聞こえますが、じつは陸上にいる武士とそう変わりのないものでありました。武士の中には荘園の世話せわをしたり、荘園の持ち主たる勢力家の家人けにんになったりして、きることに不自由がなく、自身、泥坊どろぼうをする必要のないものも多かったでありましょうが、中にはやはり人の物を取ったり、人を殺したりすることをあたりまえのように心得こころえていたものも少なくありませんでした。強盗ごうとうは武士のならい」という言葉がのちの世にありますが、世が乱れてくれば、いつも同じことがくり返されるのです。かれらの中にはただの泥坊どろぼうとなって、他人の物を取るというような、そんな小さい悪事あくじをせぬかわりに、ちからずくで他人の荘園を取るとか、ほかの仲間を切りしたがえて自分の手下てしたにするとかいうような、おおげさな、大泥坊どろぼうをするものも出てまいります。海賊が海上往来おうらいの船をおそうて、政府へおさめる租税そぜいや、貴族に送る年貢ねんぐなどをうばうというのも、じつはそれとあまりちがったものではありません。
 さればこれを海賊かいぞくだなどといっても、じつは時勢が作った海上の武士というべきものでありまして、もし武士を陸軍とすれば、海賊は海軍といってもよいのです。現に江戸時代には、幕府の海軍のことを海賊といっていました。これは戦国時代の海賊が、そのまま国家の海軍になっていたからです。乱世に海賊となるほどの強いものは、平和時代には国をまもるの海軍となるべきほどのたのもしいものでありました。どうせ政治の乱れに乱れたメチャメチャな時代です。国家にたよることのできないどくな民衆は、自分ら仲間でみずからまもってゆかなければならなかったので、武士もおこれば海賊もおこる。僧兵のようなものまでができる。そしてそれがだんだんおおげさになって、わがままがひどくなる。貴族のわがままに対する、民衆のわがままとでもいうべきもので、実際、ときいきおいやむを得なかったのです。

   四十八、武士・僧兵そうへい海賊かいぞくのおこり(四)


 海賊かいぞくは多く西のほうにおこって、船の上で活動し、武士は多く東国とうごくにおこって、馬の上で活動しました。これを西船せいせん東馬とうばもうします。これは日本の地勢が、東には平野が広く開けて、土地の人ももとから馬のあつかいにれたものが多く、西のほうには島やが多く、土地の人ももとからふねのあつかいにれたものが多かったためです。
 その西船せいせんといわれた海賊のかしらのなかでも、第六十一代朱雀すざく天皇の御代みよ藤原ふじわらの純友すみともという人のごときは、もっとも有名でありました。かれはもと伊予いよの国司として京都から赴任ふにんした人でありますが、そのころは同じ藤原氏でも、基経もとつねの一流のみが勢力を得てしまって、かれは京都でとても頭の上がる見込みがないので、そのままその国にとどまって海賊のかしらとなったのです。
 純友は、同じ仲間の多くの海賊が、伊予守いよのかみきの淑人よしひとのさとしにしたがって降参こうさんして良民りょうみんとなったのちにも、なおさかんに海上を横行おうこうしまして、方々ほうぼうらしてまわりますので、ついに官軍の征伐せいばつを受けるというほどの大事件になりました。なにぶん一五〇〇余艘よそうというたくさんの手下てしたを持っているものですから、純友のいきおいははなはだ強く、備前びぜんの国司を途中におそうてこれを捕虜りょとしたとか、讃岐さぬき国府こくふめて国司を追い出したとか、遠く九州の太宰府だざいふめてこれを焼きちにしたとか、備後びんごも純友にやられた、阿波あわの国府もあぶない、京都に火事があったのも純友の仲間が焼きちにしようとしたのだとかいうふうに、京都のほうではたいそうな評判で、西のほうの国々は、ついには純友に取られてしまいはせぬかと心配したほどでした。
 西のほうでこの海賊純友すみとも謀反むほんがおこったとほとんど同じときに、遠く離れた東国では、武士のかしらたいらの将門まさかどの謀反がおこりました。
 武士のかしらとなったものの中には、源氏と平氏とがいちばんさかんでしたが、将門はその平氏の一族で、桓武かんむ天皇の皇子おうじ葛原かつらはら〔かずらわら〕親王しんのうの子、高望王たかもちおうから出た家です。かれは東国から京都に来て、はじめは摂政せっしょう藤原忠平ただひら家人けにんとなっていましたけれども、思うように出世しゅっせもできないので、下総しもふさへ帰っておりました。そのうち些細ささいなことから武士同士のあいだにケンカがはじまり、それがだんだんおおげさになって、将門の伯父常陸ひたちの国司であったたいらの国香くにかまでが、将門のために殺されるというさわぎ。常陸ひたち下野しもつけ上野こうづけなどの国府は将門のためにおとしいれられ、ほかの国々の国司などもそれを聞いて逃げ出す、関東八州はっしゅうことごとく将門の手に落ちてしまうといういきおいになりました。
 そればかりでなく、将門はあまりに勢いがよくなったのに調子ちょうしづいて、ついには東国を自分のものにして日本から独立し、自分でその天子になろうというだいそれた野心やしんをおこしました。調子に乗るということは、まことにおそろしいものであります。しかしながらこれというのも、ひとつは、将門の家が桓武天皇のご子孫から出て、皇室に縁故えんこがあるということと、いまひとつは、このころは藤原氏がわがままをして、摂政とか関白とかいっては日本の政治を自分の好き勝手にし、おそれ多くも天皇は、ただとうとく上にましますというばかりで、日本国は藤原氏のものとでもいうべきようなありさまになっておりましたうえに、その日本の土地も、勝手に荘園という名前をつけて、だんだん藤原氏をはじめとして貴族や寺院などのものになる、地方の政治はメチャメチャにみだれて、人民は政府の保護を受けることができないのみならず、かえって国司からひどくいじめられるというありさまでありましたから、もと自分が皇族からかれたというところで、ついそんなだいそれた野心をもおこすようになったのでありました。


 
 そこで将門まさかどは、自分で天子気取きどりになって平新皇へいしんのうといい、朝廷にならってニセの政府を下総しもふさもうけ、関東の国々の国司を任命するというほどのおおじかけな謀反むほんをおこしました。しかし、いくらその家が皇族から出たのであったとて、世の中が乱れておったとて、もちろん、そんなことが日本でゆるされるはずがありません。下野しもつけの武士のかしら藤原ふじわらの秀郷ひでさとや、国香くにかの子のたいらの貞盛さだもりのために、まもなく殺されてしまいました。
 東国で将門がほろんだのち、まもなく西国さいごくでも藤原純友すみともは、征西せいせい大将軍藤原ふじわらの忠文ただぶみや、追討使ついとうし小野おのの好古よしふるなどの官軍のために、ついにほろぼされてしまいました。この海賊退治の戦いには、武士のかしらみなもとの経基つねもとも官軍にしたがってたいそう手柄てがらがありました。経基は清和せいわ天皇の皇子おうじ貞純さだずみ親王の子だと申すことであります。あるいは陽成ようぜい天皇の皇子元平もとひら親王の子だとも申しますが、いずれにしても平氏とともに皇族から出た家で、地方に出て武士のかしらとなったのでありました。これからのち秀郷ひでさと貞盛さだもり経基つねもとなどの子孫は、しだいにさかんになりまして、ついには武士の天下というようなことになってくるのであります。

   四十九、平安朝の仏教


く花のにおうがごとく」とうたわれた奈良の都には、仏教がたいそうさかんであって、りっぱな多くの寺々てらでらが、そのはなやかな都をかざったものでありましたが、あまりに仏教がさかんになったために、またいろいろの弊害へいがいも出てきまして、国はだんだん貧乏びんぼうする、おしまいには道鏡どうきょうのような不心得ふこころえの僧侶が勢力を得て、とうとう奈良朝ならちょう時代は行きづまってしまったのでありました。そこで世の中はあらたまって、都は山城やましろにうつり平安朝の時代となりましたので、仏教はあいかわらずさかんでありましても、前とはだいぶようすが変わってまいりました。
 平安朝のはじめには、最澄さいちょう空海くうかいとの二人のえらい人が出ました。のちに最澄は伝教でんぎょう大師だいしという謚号おくりなを、空海は弘法こうぼう大師という謚号を朝廷からたまわりましたほどで、二人ともに若いときにシナに留学しまして、最澄は天台宗てんだいしゅうを伝え、空海は真言宗しんごんしゅうを伝えました。
 伝教大師は近江おうみ山城やましろとのさかいにある比叡山の上に、延暦寺を建てて天台宗をひろめる、その延暦寺から園城寺おんじょうじがわかれる。弘法大師は京都の東寺とうじ教王きょうおう護国寺ごこくじたまわって真言宗をひろめる。のちに紀伊きい高野山こうやさんの山奥に金剛峰寺こんごうぶじを建てるというふうに、大きな寺々がしだいにできてくる。前からあった寺々も、だんだん天台宗や真言宗に変わるものが多いといういきおいで、両方ともにたいそうさかんなものになりました。
 しかしあまりさかんになりますと、まただんだん弊害へいがいがおこってまいります。なにしろ平安朝は、藤原氏をはじめとして貴族たちがたくさんの荘園を持って、一般の人民がどんなに苦しんでいるかを考えてもみずに栄華えいがをきわめていた時代でありましたから、大きな寺々にもやはりその時代のふうが移って、たくさんの荘園を持ち、だんだんと貴族風きぞくふうになってきます。またその教えがよほど高尚こうしょうで、無学むがく文盲もんもうなものには耳に入りにくく、しぜんに下のほうで苦しんでいる一般の民衆とは、えんが遠いものとなってまいります。ことに地方の政治が乱れて世の中がさわがしくなりますと、前に述べましたとおり、大きな寺々は自分をまもるために多くの僧兵をかかえる、寺院同士のあいだで戦争をするというようなことになりましては、しぜん世間せけんの信仰もうすらいでくるのはやむを得ませんでした。
 じっさい平安朝時代には、貴族と平民とのあいだにはたいそうなへだたりがありました。貴族たちが京都で好き勝手な栄華えいがにふけっているあいだに、平民は地方で国司らにいじめられていました。そこで平民らは、自分で国民たるの権利を捨てて諸国に浮浪ふろうするというようなありさまでしたから、世の中の人気にんきもしだいにあらくなります。きるにこまっているものは、きるためにはやむを得ず悪いこともします。どうでこの世の中にながらえていたからとて、そのすえがよくなるという見込みがあるではなし、またすでに悪いことをしているであれば、死んだのちには地獄じごくへ落ちると仏教は教えています。こうなってはどんなものでも、自然ぜんやけになってくる。いわゆる「どくわばさらまで」で、ますます悪いことをするようになる。まことにどくなありさまでありました。
 このようなどくな人たちをすくうて、たといそのその日の暮らしは苦しくても、せめては心だけにでもゆっくりした安心をあたえて、無暗むやみやけにならぬようにと親切に教えをひろめたのは、念仏ねんぶつ宗旨しゅうしでした。口に南無阿弥陀仏ぶつととなえて、阿弥陀如来にょらいにすがりさえすれば、どんなつみの深いものでも、死んだのちにはみなかなら極楽ごくらくへ行くことができるという教えです。


 
 はじめてこの教えを民間にきすすめたのは、空也くうや上人しょうにんでありました。東にはたいらの将門まさかど、西には藤原ふじわらの純友すみとも謀反むほんがあったのち、世の中がますますさわがしくなり、うにこまるような浮浪民がそこにも、ここにも、うようよしているというころに、空也はさかんにその仲間にいてまわったものですから、いたるところに信者がたくさんにできました。平民らはこれがために、ひどくやけにもならず、すくわれて安心を得たものがはなはだ多かったのです。
 そののち平安朝もすえになり、源平げんぺい二氏にしの戦争が長いあいだ続いて、武士は多くの人を殺し、そのつみのむくいがおそろしくなる。また一般の民衆は、多年たねんの戦争に苦しんで、ますます貧乏びんぼうどんぞこに落ちこむというように、多数の人がひどくなやんでいるころに、法然ほうねん上人しょうにんが出て、さかんにこの教えをひろめました。どんな悪人でも、どんないやしい無学むがくな人でも、ただ一心いっしんに念仏をもうせば、みな極楽に生まれるというのでありますから、だれにでもわかりやすく、だれにでも入りやすく、その教えはたいそうさかんになりました。しかし、そのき方があまりに猛烈もうれつでありましたのと、一時いちじにその教えがさかんになったのとのために、ほかの宗派しゅうはのものからひどく反対せられまして、ついには一時土佐とさへ流されるというほどでありましたが、さえれば押さえるほど、その教えはますます民間にひろまってまいりました。今の浄土宗じょうどしゅうは、この法然上人の開いた宗旨で、真宗しんしゅう〔浄土真宗〕もまたその流れをうけ、法然の弟子の親鸞しんらん聖人しょうにんが開いた宗旨であります。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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日本歴史物語〈上〉(五)

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)兒童《じどう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一体|何《ど》うして

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)貞吉《ていきち》[#「ていきち」は底本のまま]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)遠《とほ》い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   四十一、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(一)

 藤原氏《ふぢはらし》の長《なが》い間《あひだ》のわがまゝな行《おこな》ひは、日本《につぽん》の政治《せいじ》をめちゃ/\にしてしまひました。これはもとより、藤原氏《ふぢはらし》ばかりの罪《つみ》といふわけではなく、世《よ》の中《なか》が自然《しぜん》、さういふ風《ふう》になつて來《き》たのではありますが、上《うへ》に立《た》つて人民《じんみん》を導《みちび》くべき筈《はず》の大官《たいかん》たちが、自分《じぶん》の勢力《せいりよく》の盛《さか》んなのにまかせて、好《す》き勝手《かつて》なことをしてゐる間《ま》に、いつとはなしに、だん/\と、世《よ》の中《なか》がくづれてしまつたのですから、藤原氏《ふぢはらし》に責任《せきにん》がないとはいはれません。
 大化《たいか》の新政《しんせい》は、天下《てんか》の土地《とち》人民《じんみん》を皆《みな》國家《こつか》に屬《ぞく》するものとして、人民《じんみん》にはそれ/″\、同《おな》じだけの田地《でんち》を、口分田《くぶんでん》としてお割《わ》り當《あ》てになつたのでありましたから、これがうまく續《つゞ》いて行《い》つてさへくれますれば、世間《せけん》にひどい貧乏《びんぼう》な人《ひと》もなければ、又《また》ひどく富《と》んだといふものもなく、みんなが同《おな》じように、幸福《こうふく》に生《い》きて行《ゆ》くことが出來《でき》た筈《はず》でありましたが、實際《じつさい》にはさう都合《つごう》よくは參《まゐ》りませんでした。第一《だいいち》に、人間《にんげん》の數《かず》がだん/\と殖《ふ》えて參《まゐ》ります。人間《にんげん》の數《かず》が殖《ふ》えれば、割《わ》り當《あ》てる田地《でんち》が足《た》りなくなる。新《あらた》に荒《あ》れ地《ち》を開墾《かいこん》せねばなりませんが、開墾《かいこん》したとて、それが自分《じぶん》のものになるのでなければ、誰《たれ》もそんなことに骨折《ほねを》るものはありません。そこで新《あらた》に開墾《かいこん》したものには、その土地《とち》をその人《ひと》のものにするといふことに、自然《しぜん》なつてまゐります。
 第二《だいに》に、これは前《まへ》にもちよっと申《まを》したことですが、人間《にんげん》には勉強《べんきよう》するものもあれば、怠《なま》けものもある。達者《たつしや》なものもあれば、病身《びようしん》なものもある。智惠《ちえ》の多《おほ》いものもあれば、一向《いつこう》物《もの》のわからぬ愚物《ぐぶつ》もある。正直《しようじき》なものばかりが揃《そろ》つてをればよいが、中《なか》には他人《たにん》の物《もの》でも取《と》らうといふ横着《おうちやく》ものも少《すくな》くない。自然《しぜん》いつまでもすべての人《ひと》が、同《おな》じ暮《くら》しをするといふわけには參《まゐ》りません。第三《だいさん》に、大《おほ》きな手柄《てがら》のあつたものが、褒美《ほうび》に土地《とち》を賜《たま》はるとする。その土地《とち》は當然《とうぜん》その人《ひと》の物《もの》にならねば、褒美《ほうび》の意味《いみ》になりません。そんな次第《しだい》で、自然《しぜん》に勢力《せいりよく》のあるところへ、富《とみ》が集《あつま》つて參《まゐ》ります。口分田《くぶんでん》といふ結構《けつこう》な規則《きそく》も、だん/\行《おこな》はれなくなつて參《まゐ》ります。第四《だいし》に、勢力《せいりよく》のあるものが、莊園《しようえん》といふ名《な》をつけて、たくさんの土地《とち》を自分《じぶん》のものにするといふような、惡《わる》い習慣《しゆうかん》がひどくなりました。莊園《しようえん》となれば、もはやその土地《とち》や、その土地《とち》に住《す》んでゐる人民《じんみん》は、國家《こつか》のものでありませんから、租税《そぜい》を納《をさ》めることもいらねば、國司《こくし》も手《て》をつけないのです。そんな工合《ぐあひ》で、世《よ》の中《なか》がめちや/\に亂《みだ》れて來《こ》ないでをられませうか。
 莊園《しようえん》のはじめは、荒《あ》れ地《ち》を宅地《たくち》の附屬《ふぞく》にするくらゐの、ちよっとしたことでありましたが、それを開墾《かいこん》して、自分《じぶん》のものにする、或《あるひ》はそれを神社《じんじや》や、寺《てら》に寄附《きふ》するとかいふようなことになり、それがだん/\大袈裟《おほげさ》になつて來《き》て、勢力《せいりよく》のあるものは、いろ/\の理由《りゆう》をつけて、廣《ひろ》い地面《じめん》を自分《じぶん》のものに取《と》りこんでしまふようになる。それを藤原氏《ふぢはらし》のような大官《たいかん》からして、先《さき》に立《た》つて始《はじ》めたのですから、なんとも仕方《しかた》がありません。横着《おうちやく》なものは、自分《じぶん》の地面《じめん》を藤原氏《ふぢはらし》のような有力者《ゆうりよくしや》に寄附《きふ》して、その莊園《しようえん》にして貰《もら》ひ、自分《じぶん》は莊園《しようえん》の民《たみ》になるといふような、惡《わる》いことを考《かんが》へ出《だ》します。自分《じぶん》が公民《こうみん》であり、又《また》その土地《とち》が自分《じぶん》のものであれば、國家《こつか》へ租税《そぜい》を出《だ》さねばならず、國司《こくし》からもいろ/\と課役《かやく》をかけられますが、莊園《しようえん》となればそれがいらぬ。ことに自分《じぶん》は地頭《じとう》といふ名義《めいぎ》で、相變《あひかは》らずその土地《とち》を支配《しはい》して、僅《わづか》ばかりの分《わ》け前《まへ》を、その莊園《しようえん》の名前主《なまへぬし》に與《あた》へて、あとは自分《じぶん》が取《と》つてしまふのです。莊園主《しようえんぬし》は、たゞその名前《なまへ》を貸《か》したばかりで、懷手《ふところで》をしてゐて所得《しよとく》の分《わ》け前《まへ》が貰《もら》へる。もとの地主《じぬし》は、少《すこ》しばかりの分《わ》け前《まへ》を莊園主《しようえんぬし》に出《だ》すだけで、あとは自分《じぶん》のまる取《ど》りとなる。その上《うへ》某殿《なにがしどの》の莊園《しようえん》の地頭《じとう》だといふようなことで、虎《とら》の威《い》を借《か》る狐《きつね》といふ工合《ぐあひ》に、いばつて世《よ》の中《なか》を渡《わた》ることが出來《でき》るのでありますから、双方《そうほう》ともに、これほど得《とく》なことはありません。そしてこれが爲《ため》に、國家《こつか》がまる損《ぞん》をしてゐても、そんなことは少《すこ》しも考《かんが》へて見《み》ないのです。
 莊園《しようえん》となりますと、國司《こくし》も手《て》をつけることが出來《でき》ません。そしてそれがだん/\と殖《ふ》えて來《き》て、國司《こくし》の支配《しはい》する土地《とち》が次第《しだい》に減《へ》つて參《まゐ》ります。それではならぬと思《おも》ふような、忠實《ちゆうじつ》な國司《こくし》がたまにありましても、もと/\國司《こくし》を任《にん》じたり、免《めん》じたりする力《ちから》のある朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》が、その莊園主《しようえんぬし》であるのですからたまりません。自分《じぶん》に都合《つごう》の惡《わる》いような國司《こくし》は、さっさと免職《めんしよく》してしまひます。それで國司《こくし》になつたものも、忠實《ちゆうじつ》にその職務《しよくむ》をつとめることが出來《でき》ません。また忠實《ちゆうじつ》につとめてもつまりませんから、出來《でき》るだけのわがまゝをして、人民《じんみん》から搾《しぼ》りあげて、自分《じぶん》の懷《ふところ》を肥《こ》やさうと致《いた》します。人民《じんみん》こそよい面《つら》の皮《かは》です。上《うへ》の方《ほう》では攝政《せつしよう》關白《かんぱく》を始《はじ》めとして、朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》たちが、好《す》き勝手《かつて》な遊《あそ》びをして、日夜《にちや》榮華《えいが》にふけつてをります間《あひだ》に、下《した》の方《ほう》では一般《いつぱん》民衆《みんしゆう》が、食《く》ふや食《く》はずの苦《くる》しみを、甞《な》めてゐたのでありました。
 後三條《ごさんじよう》天皇《てんのう》は、御英邁《ごえいまい》にわたらせられまして、これではならぬとお考《かんが》へになりましたから、新《あらた》に莊園《しようえん》を作《つく》ることをお止《と》めになり、これまであるものでも、わけのわからぬものは御廢止《ごはいし》になされる御方針《ごほうしん》でありましたが、何分《なにぶん》長《なが》い間《あひだ》に、だん/\と出來《でき》て來《き》た習慣《しゆうかん》でありますから、それが當《あた》り前《まへ》といふことになつてをりまして、なか/\立《た》て直《なほ》しが出來《でき》ません。つひには日本中《につぽんじゆう》の土地《とち》は、大方《おほかた》莊園《しようえん》といふことで、少數《しようすう》の貴族《きぞく》や、寺院《じいん》などのものとなり、その莊園《しようえん》を支配《しはい》してゐる地頭《じとう》等《など》は、主人《しゆじん》の威光《いこう》を笠《かさ》にきて、いばつてをりますが、一般《いつぱん》人民《じんみん》は、大抵《たいてい》水呑《みづの》み百姓《びやくしよう》といふような、まことに氣《き》の毒《どく》なものになつてしまひました。

   四十二、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(二)

 藤原氏《ふぢはらし》をはじめとして、その頃《ころ》の貴族《きぞく》たちが、たくさんの莊園《しようえん》を持《も》つて榮華《えいが》をきはめてゐる時《とき》に、一般《いつぱん》民衆《みんしゆう》が、どんなに苦《くる》しんでゐたかといふことは、その頃《ころ》の戸籍《こせき》を見《み》れば一番《いちばん》よくわかります。戸籍《こせき》には、その時《とき》の人民《じんみん》の名《な》や、年《とし》が殘《のこ》らず書《か》いてありますが、それがまあどうでせう。その頃《ころ》の戸籍《こせき》には、男《をとこ》と子供《こども》とがごく少《すくな》くて、女《をんな》と老人《としより》が甚《はなは》だ多《おほ》いのです。そんなことが實際《じつさい》にあらう筈《はず》はありませんが、戸籍《こせき》がまさにさうなつてゐるのだから不思議《ふしぎ》です。延喜《えんぎ》二年《にねん》の阿波《あは》の國《くに》の戸籍《こせき》が少《すこ》しばかり殘《のこ》つてゐるのを見《み》ますと、名《な》と年《とし》とのわかるものが、五百《ごひやく》五十人《ごじゆうにん》の中《うち》で、四百《しひやく》八十三人《はちじゆうさんにん》までが皆《みな》女《をんな》で、男《をとこ》は僅《わづか》に六十七人《ろくじゆうしちにん》しかありません。女《をんな》八人《はちにん》に男《をとこ》一人《ひとり》といふくらゐの割《わ》りあひです。また十歳《じつさい》以下《いか》の子供《こども》は一人《ひとり》もなく、二十歳《はたち》以下《いか》の少年《しようねん》青年《せいねん》が、僅《わづか》に八人《はちにん》あるだけで、その代《かは》りに八十歳《はちじつさい》以上《いじよう》の年寄《としよ》りが、九十五人《くじゆうごにん》もあり、中《なか》には百《ひやく》十歳《じつさい》などといふのがあるのです。
 これは一體《いつたい》どうしたことなのかと申《まを》すに、この頃《ころ》國司《こくし》は政治《せいじ》に怠《おこた》つて、實際《じつさい》の人口《じんこう》調《しら》べなどはせず、生《うま》れても出生《しゆつしよう》屆《とゞ》けがなければ戸籍《こせき》に加《くは》へない。死《し》んでも死亡《しぼう》屆《とゞ》けがなければ戸籍《こせき》から除《のぞ》かないといふのですから、前《まへ》に子供《こども》であつたものも、だん/\大人《おとな》になりまして、戸籍《こせき》の上《うへ》では子供《こども》がなくなり、その代《かは》りに死《し》んでも除《のぞ》きませぬから、だん/\年寄《としよ》りが戸籍《こせき》の上《うへ》に殖《ふ》えて來《く》るのです。これではせっかくの大化《たいか》の新政《しんせい》の口分田《くぶんでん》などは、割《わ》りあてゝ見《み》ようもありません。
 また男《をとこ》が至《いた》つて少《すくな》いのは、課役《かやく》といつて、男《をとこ》には國司《こくし》からいろ/\の面倒《めんどう》な爲事《しごと》をいひつけて來《く》る。いろ/\の物《もの》を取《と》り立《た》てに來《く》る。自分《じぶん》の土地《とち》を莊園《しようえん》に寄附《きふ》して、自分《じぶん》が地頭《じとう》になるといふような横着《おうちやく》なものゝ出《で》るのも、實《じつ》は國司《こくし》からあまりに責《せ》められるのがつらい爲《ため》で、實際《じつさい》致《いた》し方《かた》もなかつたのですが、それも出來《でき》ないものは、國司《こくし》の責《せ》めが恐《おそ》ろしさに、國《くに》を逃《に》げ出《だ》したり、また僧侶《そうりよ》になつたりして、戸籍《こせき》から削《けづ》られてしまふのです。そして戸籍《こせき》に殘《のこ》るところは、女《をんな》が大多數《だいたすう》といふことになるのです。
 國《くに》から逃《に》げ出《だ》したものは無論《むろん》ですが、僧侶《そうりよ》となつたものも、これを出家《しゆつけ》といつて、體《からだ》は實際《じつさい》その家《いへ》にをりましても、出家《しゆつけ》となれば文字通《もじどほ》り家《いへ》を出《で》たわけで、戸籍《こせき》から削《けづ》られます。そして國司《こくし》も課役《かやく》をかけることが出來《でき》なくなるのです。戸籍《こせき》から削《けづ》られますと、國民《こくみん》としての資格《しかく》がなくなりますが、その資格《しかく》があつたところで、どうで國司《こくし》から面倒《めんどう》が見《み》て貰《もら》へるではなし、口分田《くぶんでん》などを分《わ》けてくれるでもなし、國民《こくみん》としての權利《けんり》は、殆《ほとん》ど認《みと》められずして、たゞいぢめられるばかりでありますから、そんな厄介《やつかい》なものは、いっそない方《ほう》がよいといふことになるのです。
 この頃《ころ》の學者《がくしや》の三善《みよし》清行《きよゆき》といふ人《ひと》は、「今《いま》天下《てんか》の民《たみ》三分《さんぶん》の二《に》は坊主頭《ぼうずあたま》である」といつてをりますが、右《みぎ》の戸籍《こせき》を見《み》ますと、出家《しゆつけ》して僧侶《そうりよ》となつた男《をとこ》は、實際《じつさい》は三分《さんぶん》の二《に》以上《いじよう》であつたでありませう。今日《こんにち》から考《かんが》へますと、實《じつ》に不思議《ふしぎ》なようではありますけれども、いつとはなしに、だん/\とさうなつて來《き》たのですから、それが當《あた》り前《まへ》になつて、その頃《ころ》の人《ひと》はさう不思議《ふしぎ》にも思《おも》はなかつたのでありませう。

   四十三、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(三)

 そのくらゐにまで、地方《ちほう》の政治《せいじ》は紊《みだ》れに亂《みだ》れて、人民《じんみん》は苦《くる》しめられてをつたのです。しかもそれが延喜《えんぎ》の頃《ころ》だといふから驚《おどろ》きます。延喜《えんぎ》は第六十代《だいろくじゆうだい》醍醐《だいご》天皇《てんのう》の御代《みよ》の年號《ねんごう》で、桓武《かんむ》天皇《てんのう》が平安京《へいあんきよう》へお移《うつ》りになりましてから、まだ百《ひやく》十年《じゆうねん》ばかりにしかならず、菅原《すがはらの》道眞《みちざね》が右大臣《うだいじん》として、藤原氏《ふぢはらし》の勢力《せいりよく》を分《わ》かたうとしてゐた頃《ころ》でありますから、まだ藤原氏《ふぢはらし》のわがまゝも、さうひどくはならず、世《よ》の中《なか》もまだ、さうは崩《くづ》れてゐなかつた時代《じだい》だと思《おも》はれますのに、一般《いつぱん》の人民《じんみん》は、すでにこんなあり樣《さま》であつたのです。それが年《とし》と共《とも》にだん/\とひどくなつたのですから、後《のち》のことは思《おも》ひやられるではありませんか。
 それならば、國司《こくし》からいぢめられるのがいやさに、戸籍《こせき》から削《けづ》られたような氣《き》の毒《どく》な人民《じんみん》は、一體《いつたい》どうなつたでありませう。かれ等《ら》はふだんから、やっと食《く》ふや食《く》はずの、至《いた》つてみじめな暮《くら》しをしてゐるのですから、飢饉《ききん》でもあれば、飢《う》ゑ死《じ》にするか、人《ひと》の物《もの》を取《と》つて生《い》きるかせねばなりません。さうなると、盜賊《とうぞく》などは一向《いつこう》珍《めづら》しくないものになります。世《よ》の中《なか》はだん/\騷々《そう/″\》しくなります。また國《くに》にをつても、活《い》きて行《ゆ》く道《みち》のないものは、暮《くら》しに都合《つごう》のよい所《ところ》を求《もと》めて、浮《う》き草《ぐさ》が浪《なみ》に浮《うか》ぶように流《なが》れて參《まゐ》ります。いはゆる『浮浪民《ふろうみん》』となるのです。その頃《ころ》は京都《きようと》が一番《いちばん》繁華《はんか》で、人《ひと》も多《おほ》く、自然《しぜん》何《なに》かの爲事《しごと》にありつき易《やす》いといふので、浮浪民《ふろうみん》は多《おほ》くこゝへ集《あつま》りました。しかし、せっかく來《き》て見《み》たところで、住《す》む家《いへ》もなく、誰《たれ》も歡迎《かんげい》してくれるものはありません。今日《こんにち》のように貸《か》し家《や》もなければ、宿屋《やどや》もなく、又《また》あつたとしても、かれ等《ら》にはそれを借《か》りたり、宿屋《やどや》住居《ずまゐ》したりする力《ちから》もありませんから、仕方《しかた》なく賀茂川《かもがは》の河原《かはら》や、東山《ひがしやま》の坂《さか》などの空《あ》き地《ち》に小屋《こや》を作《つく》つて、そこに假住居《かりずまゐ》をなし、乞食《こじき》をしたり、人《ひと》の嫌《いや》がる賤《いや》しい爲事《しごと》をしたりして、やっと活《い》きて行《ゆ》くより外《ほか》はありません。そこで世間《せけん》の人《ひと》は、かれ等《ら》を『河原者《かはらもの》』とか、『坂《さか》の者《もの》』とか、『小屋者《こやもの》』などといつて賤《いや》しみます。今日《こんにち》宿《やど》なしの浮浪民《ふろうみん》を、よくさんかもの[#「さんかもの」に傍点]などといひますが、それはこのさかのもの[#「さかのもの」に傍点]といふことが訛《なま》つたのです。かれ等《ら》はもと國司《こくし》からいぢめられるのが嫌《いや》さに、出家《しゆつけ》して戸籍《こせき》から削《けづ》られ、僧侶《そうりよ》の形《かたち》をしてをりますから、これをまた『非人《ひにん》』とも、『非人《ひにん》法師《ほうし》』ともいひました。人間《にんげん》仲間《なかま》でないといふことなのです。或《あるひ》は時《とき》に『ゑとり』などともいひました。
[#図版(23.png)、一遍上人貧民に施行]

   四十四、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(四)

 ゑとり[#「ゑとり」に傍点]といふのは、鷹《たか》や犬《いぬ》に食《く》はせる餌《ゑ》を取《と》る者《もの》といふことです。日本《につぽん》でも大昔《おほむかし》には、獸《けもの》の肉《にく》は誰《たれ》も皆《みな》食《た》べたもので、神《かみ》にも獸肉《じゆうにく》を祭《まつ》り、少《すこ》しもそれを穢《けが》れたものとは思《おも》つてゐなかつたのですが、佛教《ぶつきよう》が盛《さか》んになつてから、生《い》き物《もの》を殺《ころ》したり、その肉《にく》を食《く》つたりすることを、大《たい》そう惡《わる》いこととして嫌《きら》ふようになりました。殊《こと》に家《いへ》に飼《か》つて、人間《にんげん》の助《たす》けをする牛《うし》や馬《うま》などは、決《けつ》して殺《ころ》したり、食《く》つたりしてはならぬことになつて參《まゐ》りました。それは佛教《ぶつきよう》の方《ほう》で嫌《きら》ふばかりでなく、清淨《しようじよう》をお好《この》みになる日本《につぽん》の神樣《かみさま》が、穢《けが》れとして、ひどくそれをお嫌《きら》ひになつて、そんなことをするものは、一切《いつさい》神樣《かみさま》に近《ちか》づくことが出來《でき》ないといふことに、考《かんが》へが變《かは》つて來《き》たのです。ところで下《しも》の方《ほう》で、多數《たすう》の人民《じんみん》が、そんなにまで苦《くる》しんでゐることには一向《いつこう》頓着《とんちやく》なく、貴族《きぞく》などの仲間《なかま》には、鷹狩《たかが》りといつて、鷹《たか》や犬《いぬ》を使《つか》つて、鳥《とり》を取《と》らせて樂《たの》しみとする遊《あそ》びがはやりました。その鷹《たか》や犬《いぬ》には、死《し》んだ牛《うし》や馬《うま》の肉《にく》を餌《ゑ》として食《く》はせるのですが、牛《うし》や馬《うま》の皮《かは》を剥《は》いだり、その肉《にく》を取《と》つたりすることは、穢《けが》れとして神樣《かみさま》がお嫌《きら》ひになる、そんなことをするものは、體《からだ》が穢《けが》れてゐるから、神樣《かみさま》に近《ちか》づけないといふことで、普通《ふつう》の人間《にんげん》は、一切《いつさい》これに觸《さは》りません。しかし食《く》ふに困《こま》る河原者《かはらもの》のような浮浪民《ふろうみん》は、そんなことはいつてをられません。ゑとり[#「ゑとり」に傍点]のような、穢《けが》れたものとして人《ひと》の嫌《きら》ふ爲事《しごと》でも、なんでもかまはずやります。死《し》んだ牛馬《うしうま》の皮《かは》を剥《は》いで、太鼓《たいこ》や鼓《つゞみ》に張《は》る革《かは》を作《つく》つたり、鷹《たか》や犬《いぬ》の餌《ゑ》にする肉《にく》を取《と》つたり、自分《じぶん》もそれを食《た》べたりします。それで河原者《かはらもの》などのことを、時《とき》にはゑとり[#「ゑとり」に傍点]ともいひました。そのゑとり[#「ゑとり」に傍点]といふことが訛《なま》つて『ゑた[#「ゑた」に傍点]』となり、ゑた[#「ゑた」に傍点]は穢《けが》れが多《おほ》いものだといふことから、後《のち》にはそのゑた[#「ゑた」に傍点]といふ言葉《ことば》に、「穢《けが》れ多《おほ》し」といふ意味《いみ》の、『穢多《ゑた》』といふ嫌《いや》な宛《あ》て字《じ》を使《つか》ふようになりました。そしてかれ等《ら》と交《まじ》はつたなら、その穢《けが》れが自分《じぶん》にも移《うつ》つて、神樣《かみさま》に近《ちか》づけなくなるといふことで、かれ等《ら》はつひに人間《にんげん》仲間《なかま》の交際《こうさい》から、除《の》けものにせられるようになりました。
 もちろん、ゑとり[#「ゑとり」に傍点]とか、非人《ひにん》とかいはれたものが、いつまでも同《おな》じ身分《みぶん》を續《つゞ》けてゐたのではありません。世《よ》の中《なか》は新陳《しんちん》代謝《たいしや》と申《まを》して、古《ふる》いものと新《あたら》しいものとが入《い》れかはります。一且《いつたん》[#「一且」は底本のまま]不幸《ふこう》にして落《お》ちぶれても、その子孫《しそん》が立派《りつぱ》な身分《みぶん》になつたものが多《おほ》く、その代《かは》りに、もと立派《りつぱ》な身分《みぶん》のものでも、落《お》ちぶれてはゑとり[#「ゑとり」に傍点]とも、非人《ひにん》ともなります。つまりは世《よ》の中《なか》の氣《き》の毒《どく》な落伍者《らくごしや》が、不幸《ふこう》にしてそんな身分《みぶん》になつたので、ことにそれが、平安朝《へいあんちよう》の地方《ちほう》の政治《せいじ》の亂《みだ》れた爲《ため》に、一時《いちじ》にたくさん出來《でき》たのでありました。
 また平安朝《へいあんちよう》の浮浪民《ふろうみん》のすべてが、京都《きようと》へ流《なが》れて來《き》たわけではありません。また國司《こくし》にいぢめられた爲《ため》に、逃《に》げ出《だ》したといふ者《もの》ばかりでもありません。その外《ほか》にもいろ/\の原因《げんいん》から、國《くに》にをられなくなつて、方々《ほう/″\》へ流《なが》れて行《い》つたものもありますが、いづれにしても皆《みな》普通《ふつう》の日本《やまと》民族《みんぞく》で、浮浪民《ふろうみん》だとて、別《べつ》に變《かは》つた人間《にんげん》ではありません。かれ等《ら》は不幸《ふこう》にして、先祖《せんぞ》以來《いらい》住《す》みなれた國《くに》にゐることが出來《でき》ず、知《し》らぬ他國《たこく》へ流《なが》れて行《い》つて、人《ひと》の嫌《いや》がることをしてでも、活《い》きて行《ゆ》かねばならなかつた、氣《き》の毒《どく》な人《ひと》たちです。それをやれ河原者《かはらもの》だ、やれ坂《さか》の者《もの》だ、非人《ひにん》だ、ゑた[#「ゑた」に傍点]だなどといつて、賤《いや》しんだのでした。殊《こと》にむかしゑた[#「ゑた」に傍点]といつて、格別《かくべつ》に嫌《きら》つたものは、たゞ皮《かは》を扱《あつか》つたり、肉《にく》を食《く》つたりして、體《からだ》が穢《けが》れてゐるものだと誤解《ごかい》した爲《ため》でありましたが、日本人《につぽんじん》は昔《むかし》は誰《たれ》も肉《にく》を食《く》ひ、今日《こんにち》では又《また》誰《たれ》も肉《にく》を食《く》はぬものはありますまい。それでゐて同《おな》じ仲間《なかま》の氣《き》の毒《どく》な落伍者《らくごしや》を、賤《いや》しんだり、嫌《きら》つたりしたといふことは、なんといふ間違《まちが》つたことであつたでありませう。
 しかしこれといふのも、長《なが》い間《あひだ》に、藤原氏《ふぢはらし》などの貴族《きぞく》たちが、天下《てんか》の土地《とち》を莊園《しようえん》といふ名前《なまへ》で、自分《じぶん》どものものにして、勝手《かつて》なわがまゝを遠慮《えんりよ》なく行《おこな》ひ、これが爲《ため》に人民《じんみん》の苦《くる》しむことなどは一向《いつこう》考《かんが》へず、また國司《こくし》は人民《じんみん》を搾《しぼ》り上《あ》げて、自分《じぶん》の懷《ふところ》を肥《こ》やすことばかりを考《かんが》へ、地方《ちほう》の政治《せいじ》をかへり見《み》なかつたが爲《ため》に、世《よ》の中《なか》が自然《しぜん》にだん/\崩《くづ》れて來《き》た結果《けつか》です。日本《につぽん》のような立派《りつぱ》な歴史《れきし》を持《も》つた國《くに》であつても、油斷《ゆだん》をすれば政治《せいじ》がひどく亂《みだ》れて來《き》て、こんな時代《じだい》にもなつて參《まゐ》ります。恐《おそ》ろしいことではありませんか。

   四十五、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(一)

 地方《ちほう》の政治《せいじ》がひどく亂《みだ》れて、氣《き》の毒《どく》な浮浪民《ふろうみん》が多《おほ》く出來《でき》た一方《いつぽう》には、また武士《ぶし》とか、僧兵《そうへい》とか、海賊《かいぞく》とかいはれるものが盛《さか》んに起《おこ》りました。何分《なにぶん》にも食《く》ふに困《こま》るものがたくさん出來《でき》た世《よ》の中《なか》です。人《ひと》を殺《ころ》したり、人《ひと》の物《もの》を取《と》つたりすることの出來《でき》ぬようなものは、河原者《かはらもの》ともなり、坂《さか》の者《もの》ともなつて、非人《ひにん》と呼《よ》ばれ、ゑた[#「ゑた」に傍点]と賤《いや》しめられて、乞食《こじき》をしたり、人《ひと》の嫌《いや》がる爲事《しごと》をしてでも、活《い》きて行《ゆ》かねばならなかつたのですが、中《なか》には人《ひと》の物《もの》を取《と》つたり、人殺《ひとごろ》しをしたりしてでも、活《い》きて行《ゆ》かうといふような、氣《き》の強《つよ》いものもたくさん出來《でき》て參《まゐ》ります。殊《こと》に國司《こくし》の惡《わる》い政治《せいじ》を憎《にく》み、ひどく世間《せけん》を恨《うら》んでゐるようなものに取《と》つては、自然《しぜん》に氣分《きぶん》が荒《あら》くなつて來《く》るのも、實際《じつさい》止《や》むを得《え》ませんでした。そこで世《よ》の中《なか》はますます騷《さわ》がしくなる。強《つよ》いものが弱《よわ》いものをいぢめつけて、活《い》きて行《い》くのは當《あた》り前《まへ》だといふような、恐《おそ》ろしいことにもなつて來《く》る。それでも自分《じぶん》さへよければよいといふような、至《いた》つて不親切《ふしんせつ》な國司《こくし》たちは、政治《せいじ》を怠《おこた》つて、その取《と》り締《しま》りもしてくれません。人民《じんみん》は國司《こくし》に責《せ》められるのが恐《おそ》ろしいが、それよりも更《さら》に泥坊《どろぼう》の方《ほう》が一《いつ》そう恐《おそ》ろしく、油斷《ゆだん》をすれば財産《ざいさん》ばかりでなく、ついでに命《いのち》までも、泥坊《どろぼう》に取《と》られてしまふといふ心配《しんぱい》があつたのであります。そこで人民《じんみん》は、なんとかして、自分《じぶん》で自分《じぶん》の命《いのち》なり、財産《ざいさん》なりを護《まも》つて行《い》く方法《ほう/\》を、考《かんが》へねばならなくなります。
 私《わたくし》どもが今日《こんにち》安心《あんしん》して活《い》きて行《ゆ》けますのは、國《くに》の法律《ほうりつ》が立派《りつぱ》に行《おこな》はれて、警察《けいさつ》が始終《しじゆう》保護《ほご》してゐてくれる爲《ため》であります。もし國《くに》の法律《ほうりつ》がめちや/\になり、警察《けいさつ》の保護《ほご》がなくなつたなら、人民《じんみん》はこれ程《ほど》心細《こゝろぼそ》いことはありません。
 大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大震災《だいしんさい》の時《とき》に、ほんの僅《わづか》の間《あひだ》でしたけれども、警察《けいさつ》の手《て》が屆《とゞ》きかねるといふので、めい/\自警團《じけいだん》を作《つく》つて、お互《たがひ》に火《ひ》つけや、泥坊《どろぼう》の用心《ようじん》をしたことは、私《わたくし》どもの忘《わす》れ得《え》ないところでありますが、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》時代《じだい》には、それが長《なが》く/\續《つゞ》いたのでした。こんな時《とき》には、一人《ひとり》々々《/\》の力《ちから》ではどうすることも出來《でき》ませんから、人民《じんみん》がお互《たがひ》に助《たす》け合《あ》つて、力《ちから》を一《ひと》つに合《あは》して、自分《じぶん》どもを守《まも》らねばなりません。つまり自警團《じけいだん》が必要《ひつよう》になつて來《く》るのです。そしてその自警團《じけいだん》の中《なか》では、強《つよ》いものが頭《かしら》となつて、一同《いちどう》のさしずをする。また強《つよ》い頭《かしら》のところへは、自然《しぜん》に多《おほ》くのものがついて來《き》て、その保護《ほご》を受《う》けるようになる。強《つよ》いものは、そのついて來《き》た多《おほ》くのものを手下《てした》として、ます/\強《つよ》くなる。又《また》その強《つよ》いものも、さらに一層《いつそう》強《つよ》いものの下《した》について、その保護《ほご》を受《う》けるといふようになる。自然《しぜん》に主從《しゆうじゆう》[#「しゆうじゆう」は底本のまま]關係《かんけい》が出來《でき》て參《まゐ》ります。大化《たいか》の新政《しんせい》でせっかく立《た》て直《なほ》したところが、いつのまにかもとに戻《もど》つて、君《きみ》の下《した》に君《きみ》があり、臣《しん》の下《した》に臣《しん》があるといふような風《ふう》になつて來《き》ました。その臣《しん》となつたものは、主人《しゆじん》のそばについてゐて、主人《しゆじん》の身《み》を護《まも》り、主人《しゆじん》の用《よう》をつとめるのですから、それを『侍《さむらひ》』といひました。さむらひ[#「さむらひ」に傍点]とは、「そばについてゐる」といふことです。その侍《さむらひ》等《ら》は、もちろん殺伐《さつばつ》な時代《じだい》のことでありますから、めい/\武藝《ぶげい》を練習《れんしゆう》して、主人《しゆじん》の爲《ため》には、戰爭《せんそう》をするだけの用意《ようい》をしなければなりません。それを武士《ぶし》といひます。武士《ぶし》、即《すなはち》、侍《さむらひ》です。かういふ工合《ぐあひ》にして、國家《こつか》の兵隊《へいたい》の代《かは》りに、武士《ぶし》といふ兵隊《へいたい》見《み》たようなものが、別《べつ》に民間《みんかん》に出來《でき》て參《まゐ》りました。
 地方《ちほう》の樣子《ようす》がそんな風《ふう》に、ひどく亂《みだ》れてゐる間《あひだ》に、京都《きようと》にをつて相當《そうとう》の身分《みぶん》があり、立派《りつぱ》な家柄《いへがら》に生《うま》れたものであつても、やはり當世《とうせい》に不平《ふへい》なものもたくさんありました。同《おな》じ藤原氏《ふぢはらし》の人《ひと》たちでも、皆《みな》が皆《みな》まで大官《たいかん》になり、榮華《えいが》を心《こゝろ》のまゝにするといふわけには參《まゐ》りません。またその外《ほか》の源氏《みなもとうぢ》や平氏《たひらうぢ》など、近《ちか》く皇室《こうしつ》から分《わか》れ出《で》た家《いへ》の人《ひと》たちでも、京都《きようと》にをつてはとても立身《りつしん》出世《しゆつせ》の見込《みこ》みがないので、國司《こくし》となつて地方《ちほう》に出《で》かけますと、そのまゝその土地《とち》に止《とゞ》まつて、多《おほ》くの武士《ぶし》を手下《てした》にし、自身《じしん》武士《ぶし》の大將《たいしよう》となつて、大《たい》そう勢力《せいりよく》を有《ゆう》するものが出來《でき》て參《まゐ》ります。そして更《さら》に身分《みぶん》のよい攝政《せつしよう》とか、關白《かんぱく》とか、大臣《だいじん》とかいふような人《ひと》を主人《しゆじん》として、ます/\いばることが出來《でき》るようになります。また攝政《せつしよう》とか、關白《かんぱく》とか、大臣《だいじん》とかいふような人《ひと》は、そんな武士《ぶし》の大將《たいしよう》を家人《けにん》にして、自分《じぶん》を護《まも》る兵隊《へいたい》代《がは》りに使《つか》ひ、相變《あひかは》らず榮華《えいが》をほしいまゝにしてをります。家人《けにん》といふのは、後《のち》に家來《けらい》といふと同《おな》じものです。
 どうで國家《こつか》の政治《せいじ》は亂《みだ》れて、兵隊《へいたい》などといふものは、名前《なまへ》ばかりになつてゐる時代《じだい》のことです。又《また》あつても、弱《よわ》くて役《やく》に立《た》たなくなつてゐる時代《じだい》のことですから、これ等《ら》の武士《ぶし》が、兵隊《へいたい》代《がは》りにならねば間《ま》にあひません。そこで一方《いつぽう》では、有力者《ゆうりよくしや》の家人《けにん》になつてをる武士《ぶし》の大將《たいしよう》が、一方《いつぽう》では國家《こつか》の武官《ぶかん》に任《にん》ぜられて、自分《じぶん》の手下《てした》の武士《ぶし》を率《ひき》ゐて、國家《こつか》や貴族《きぞく》を護《まも》るといふような、妙《みよう》な仕組《しく》みの世《よ》の中《なか》になつて參《まゐ》りました。これも時代《じだい》の勢《いきほひ》で、實際《じつさい》已《や》むを得《え》なかつたのであります。
 こんな工合《ぐあひ》にして、世《よ》の中《なか》はます/\亂《みだ》れて參《まゐ》りました。

   四十六、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(二)

 一方《いつぽう》に武士《ぶし》が起《おこ》ると同時《どうじ》に、一方《いつぽう》にはまた僧兵《そうへい》といふ奇妙《きみよう》なものが出來《でき》て參《まゐ》りました。「坊《ぼう》さんの兵隊《へいたい》」です。一體《いつたい》佛教《ぶつきよう》では、慈悲《じひ》といふことが一番《いちばん》大切《たいせつ》なので、生《い》きた物《もの》を殺《ころ》すことさへ、大《たい》そうな罪《つみ》としてゐるのでありますが、その佛教《ぶつきよう》の僧侶《そうりよ》までが、武士《ぶし》の眞似《まね》をして、武藝《ぶげい》を練習《れんしゆう》し、太刀《たち》を帶《お》びて戰爭《せんそう》もしよう、人殺《ひとごろ》しもしようといふのですから、奇態《きたい》ではありませんか。しかしこれも世《よ》の中《なか》が亂《みだ》れた結果《けつか》で、自然《しぜん》さうならなければならなかつたのです。
 平安朝《へいあんちよう》の佛教《ぶつきよう》のことは、後《のち》に改《あらた》めて申《まを》しますが、わがまゝを極《きは》めた貴族《きぞく》たちと同《おな》じように、その頃《ころ》の大《おほ》きな寺々《てら/″\》は、またたくさんの莊園《しようえん》を持《も》つてをりまして、勢力《せいりよく》の大《たい》そう盛《さか》んなものでありました。中《なか》にも京都《きようと》の近《ちか》くでは、延暦寺《えんりやくじ》、園城寺《おんじようじ》、奈良《なら》では興福寺《こうふくじ》、東大寺《とうだいじ》などは、最《もつと》も著《いちじる》しいものでした。莊園《しようえん》は國家《こつか》の支配《しはい》以外《いがい》で、國司《こくし》もこれには手《て》を觸《ふ》れませんから、莊園《しようえん》の持《も》ち主《ぬし》は、自分《じぶん》でその莊園《しようえん》の土地《とち》なり、莊園《しようえん》の人民《じんみん》なりを支配《しはい》する役所《やくしよ》を設《まう》け、役人《やくにん》を置《お》いて、國家《こつか》とは無關係《むかんけい》に、これを取《と》り扱《あつか》はしめます。されば大《おほ》きな莊園《しようえん》を持《も》つてゐるものは、同《おな》じ日本《につぽん》の中《なか》にありながらも、別《べつ》の小《ちひ》さい半《はん》獨立國《どくりつこく》を、持《も》つてゐるような形《かたち》になつてゐたのです。それで國家《こつか》の政治《せいじ》が亂《みだ》れて、かう世《よ》の中《なか》が物騷《ぶつそう》になつて參《まゐ》りますと、莊園《しようえん》の持《も》ち主等《ぬしら》は、自分《じぶん》で自分《じぶん》を護《まも》るだけの、用意《ようい》をしなければなりません。貴族《きぞく》大官《たいかん》たちが、武士《ぶし》を家人《けにん》としたのもその爲《ため》でした。いかに慈悲《じひ》を大切《たいせつ》とする佛教《ぶつきよう》の寺院《じいん》でも、ぼんやりしてゐては、他《ほか》の強《つよ》い者《もの》に取《と》られてしまひますから、自然《しぜん》寺《てら》にもこれを防《ふせ》ぐための、兵隊《へいたい》が入《い》り用《よう》になります。
 ところでこの頃《ころ》は、前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り、課役《かやく》を避《さ》けんが爲《ため》に出家《しゆつけ》して、戸籍《こせき》から削《けづ》られたものが、到《いた》るところにたくさんをります。かれ等《ら》はもと本當《ほんとう》の佛教《ぶつきよう》信仰《しんこう》から、出家《しゆつけ》したのではありませんから、妻子《つまこ》もあれば、肉《にく》も食《く》ふといふ、破戒《はかい》の仲間《なかま》ではありますが、ともかく僧侶《そうりよ》の形《かたち》をしてゐるのです。そしてそれが、浮浪民《ふろうみん》となつて、京都《きようと》のような大《おほ》きな都會《とかい》へ流《なが》れて來《き》て、生活《せいかつ》の道《みち》を求《もと》めたのもたくさんありましたが、又《また》大《おほ》きな寺々《てら/″\》へ集《あつま》つて、そこに安全《あんぜん》な隱《かく》れ場所《ばしよ》を求《もと》めたものも、また少《すくな》くありませんでした。そしてかれ等《ら》は、地方《ちほう》に武士《ぶし》が起《おこ》つたと同《おな》じように、武藝《ぶげい》を練習《れんしゆう》して、つひに僧兵《そうへい》となつたのです。
[#図版(24.png)、僧兵の図]
 されば僧兵《そうへい》の起《おこ》つたのも、やはり世《よ》の中《なか》の自然《しぜん》の成《な》り行《ゆ》き、やむを得《え》ないのでありました。そのはじめは他《ほか》からの侵畧《しんりやく》に對《たい》して、寺《てら》を護《まも》るの必要《ひつよう》からであつたでありませうが、その勢《いきほひ》が盛《さか》んになりますと、なか/\おとなしくしてのみはをりません。少《すこ》しばかりの行《ゆ》き違《ちが》ひから、寺《てら》と寺《てら》との間《あひだ》に烈《はげ》しい戰爭《せんそう》が始《はじ》まり、僧侶《そうりよ》と僧侶《そうりよ》とが、殺《ころ》し合《あ》ふといふような、恐《おそ》ろしい騷《さわ》ぎもしば/\起《おこ》ります。かうなつて來《く》れば、佛《ほとけ》の尊《たふと》さも何《なに》もあつたものではありません。延暦寺《えんりやくじ》と園城寺《おんじようじ》とは、同《おな》じ天台宗《てんだいしゆう》の本山《ほんざん》でありながら、その仲《なか》が惡《わる》く、延暦寺《えんりやくじ》の僧兵《そうへい》は、園城寺《おんじようじ》を燒《や》き打《う》ちにして、堂《どう》も、塔《とう》も、佛像《ぶつぞう》も、用捨《ようしや》なく燒《や》いてしまつたといふこともあります。
 奈良《なら》の興福寺《こうふくじ》は、もと藤原《ふぢはらの》鎌足《かまたり》の創《はじ》めた寺《てら》で、藤原氏《ふぢはらし》の氏寺《うぢでら》として縁故《えんこ》が最《もつと》も深《ふか》く、藤原氏《ふぢはらし》が盛《さか》んなるとともに、この寺《てら》もまた甚《はなは》だ勢力《せいりよく》がありました。奈良《なら》は南《みなみ》にある舊都《きゆうと》の地《ち》でありますから、之《これ》を『南都《なんと》』と申《まを》し、之《これ》に對《たい》して延暦寺《えんりやくじ》は、北《きた》の方《ほう》の比叡山《ひえいざん》にありますから、之《これ》を『北嶺《ほくれい》』と申《まを》し、南都《なんと》と北嶺《ほくれい》の間《あひだ》にも、しば/\僧兵《そうへい》の戰爭《せんそう》が起《おこ》ります。かれ等《ら》は朝廷《ちようてい》に對《たい》し奉《たてまつ》つても、不平《ふへい》のことがあれば、無遠慮《ぶえんりよ》にも宮城《きゆうじよう》に向《むか》つて、がや/\と大勢《おほぜい》押《お》しかけて參《まゐ》ります。まことに始末《しまつ》におへぬものでありました。殊《こと》に北嶺《ほくれい》の延暦寺《えんりやくじ》は、京都《きようと》に一番《いちばん》近《ちか》く、一番《いちばん》勢力《せいりよく》があり、一番《いちばん》亂暴《らんぼう》であつて、朝廷《ちようてい》をお困《こま》らせ申《まを》すことが、一番《いちばん》多《おほ》かつたので、御英邁《ごえいまい》なる白河《しらかは》法皇《ほうおう》も、これには大《たい》そう御迷惑《ごめいわく》遊《あそ》ばされました。そこで法皇《ほうおう》は、「天下《てんか》朕《ちん》の意《い》の如《ごと》くならぬものは、賀茂川《かもがは》の水《みづ》と、双六《すごろく》の釆《さい》[#「釆」は底本のまま]と、山法師《やまほうし》とのみだ」と仰《おほ》せられたと申《まを》します。山法師《やまほうし》とは、北嶺《ほくれい》延暦寺《えんりやくじ》の僧兵《そうへい》のことであります。そのくらゐにまで、かれ等《ら》は、わがまゝをはたらいたのでした。

   四十七、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(三)

 地方《ちほう》に武士《ぶし》が起《おこ》り、諸大寺《しよだいじ》に僧兵《そうへい》が出來《でき》たと同《おな》じように、海《うみ》にかこまれた我《わ》が日本《につぽん》の島國《しまぐに》には、自然《しぜん》海賊《かいぞく》の盛《さか》んになるのもやむを得《え》ませんでした。ことに中國《ちゆうごく》から四國《しこく》にかけての瀬戸内海《せとないかい》の島々《しま/″\》、九州《きゆうしゆう》北部《ほくぶ》の沿岸《えんがん》地方《ちほう》などは、その本場《ほんば》ともいふべきところです。かれ等《ら》は數百艘《すうひやくそう》の船《ふね》を浮《うか》べて、海《うみ》の上《うへ》を横行《おうこう》し、たゞに海上《かいじよう》往來《おうらい》の船《ふね》を襲《おそ》うて、西《にし》の諸國《しよこく》から政府《せいふ》に納《をさ》める租税《そぜい》や、京都《きようと》の貴族《きぞく》たちへ送《おく》る莊園《しようえん》の年貢《ねんぐ》などを、奪《うば》ふばかりでなく、しばしば陸上《りくじよう》に上《あが》つて、大仕掛《おほじか》けの掠奪《りやくだつ》をも行《おこな》ひ、時《とき》には國司《こくし》を脅《おびや》かして、平素《へいそ》の怨《うら》みを晴《は》らしたといふようなこともあります。かれ等《ら》はもと海岸《かいがん》住民《じゆうみん》として、船《ふね》の扱《あつか》ひに慣《な》れ、また海《うみ》の樣子《ようす》もよく知《し》つてゐるので、地方《ちほう》の政治《せいじ》が亂《みだ》れ、人民《じんみん》が國司《こくし》の惡政《あくせい》の爲《ため》に苦《くる》しめられた時《とき》に、普通《ふつう》のものが出家《しゆつけ》して戸籍《こせき》から削《けづ》られたり、郷里《くに》を逃《に》げ出《だ》して浮浪民《ふろうみん》となつたりする代《かは》りに、かれ等《ら》は海上《かいじよう》へ逃《に》げ出《だ》したものでありました。つまり海上《かいじよう》の浮浪民《ふろうみん》ともいふべきものなのです。ですから、これ等《ら》の海賊《かいぞく》も、もちろん決《けつ》してもとからの賊《ぞく》ではありません。かれ等《ら》が國司《こくし》の惡政《あくせい》の爲《ため》に苦《くる》しめられて、やけ[#「やけ」に傍点]になつて、賊《ぞく》になつたものだといふことは、第六十一代《だいろくじゆういちだい》朱雀《すじやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》、伊豫《いよ》の國《くに》で大《たい》そう海賊《かいぞく》が起《おこ》つた時《とき》に、伊豫守《いよのかみ》紀《きの》淑人《よしひと》といふ人《ひと》が、善《よ》い政《まつりごと》を行《おこな》つて、之《これ》をさとしましたが爲《ため》に、二千《にせん》五百人《ごひやくにん》といふ大勢《おほぜい》の海賊《かいぞく》が、過《あやま》ちを悔《く》いて降參《こうさん》し、良民《りようみん》となつたといふことからでもわかりませう。
 この海上《かいじよう》の浮浪民《ふろうみん》たる海賊《かいぞく》も、やはり陸上《りくじよう》に武士《ぶし》が出來《でき》たと同《おな》じように、強《つよ》いものの下《した》に集《あつま》つて、次第《しだい》に大《おほ》きな仲間《なかま》になる。そこへ國司《こくし》となつて赴任《ふにん》して來《き》た人《ひと》で、京都《きようと》へ歸《かへ》つたところで、とても出世《しゆつせ》の見込《みこ》みがないといふようなものが、任期《にんき》がすんでもそのまゝその地方《ちほう》に殘《のこ》つて、その頭《かしら》になるといふ風《ふう》に、だん/\物《もの》が大袈裟《おほげさ》になつて來《く》るのです。
 之《これ》を海賊《かいぞく》と申《まを》しますから、いかにも惡黨《あくとう》ばかりの寄《よ》り集《あつま》りのようにも聞《きこ》えますが、實《じつ》は陸上《りくじよう》にゐる武士《ぶし》と、さう變《かは》りのないものでありました。武士《ぶし》の中《なか》には莊園《しようえん》の世話《せわ》をしたり、莊園《しようえん》の持《も》ち主《ぬし》たる勢力家《せいりよくか》の家人《けにん》になつたりして、活《い》きることに不自由《ふじゆう》がなく、自身《じしん》泥坊《どろぼう》をする必要《ひつよう》のないものも、多《おほ》かつたでありませうが、中《なか》にはやはり人《ひと》の物《もの》を取《と》つたり、人《ひと》を殺《ころ》したりすることを、當《あた》り前《まへ》のように心得《こゝろえ》てゐたものも少《すくな》くありませんでした。「斬《き》り取《と》り強盜《ごうとう》は武士《ぶし》の習《なら》ひ」といふ言葉《ことば》が、後《のち》の世《よ》にありますが、世《よ》が亂《みだ》れて來《く》れば、いつも同《おな》じことが繰《く》り返《かへ》されるのです。かれ等《ら》の中《なか》にはたゞの泥坊《どろぼう》となつて、他人《たにん》の物《もの》を取《と》るといふような、そんな小《ちひ》さい惡事《あくじ》をせぬ代《かは》りに、力《ちから》づくで他人《たにん》の莊園《しようえん》を取《と》るとか、他《ほか》の仲間《なかま》を切《き》り從《したが》へて、自分《じぶん》の手下《てした》にするとかいふような、大袈裟《おほげさ》な、大泥坊《おほどろぼう》をするものも出《で》て參《まゐ》ります。海賊《かいぞく》が海上《かいじよう》往來《おうらい》の船《ふね》を襲《おそ》うて、政府《せいふ》へ納《をさ》める租税《そぜい》や、貴族《きぞく》に送《おく》る年貢《ねんぐ》などを奪《うば》ふといふのも、實《じつ》はそれとあまり違《ちが》つたものではありません。
[#図版(25.png)、海賊]
 されば之《これ》を海賊《かいぞく》だなどといつても、實《じつ》は時勢《じせい》が作《つく》つた海上《かいじよう》の武士《ぶし》といふべきものでありまして、若《も》し武士《ぶし》を陸軍《りくぐん》とすれば、海賊《かいぞく》は海軍《かいぐん》といつてもよいのです。現《げん》に江戸《えど》時代《じだい》には、幕府《ばくふ》の海軍《かいぐん》のことを海賊《かいぞく》といつてゐました。これは戰國《せんごく》時代《じだい》の海賊《かいぞく》が、そのまゝ國家《こつか》の海軍《かいぐん》になつてゐたからです。亂世《らんせい》に海賊《かいぞく》となる程《ほど》の強《つよ》いものは、平和《へいわ》時代《じだい》には國《くに》を護《まも》るの海軍《かいぐん》となるべき程《ほど》の、頼《たの》もしいものでありました。どうせ政治《せいじ》の亂《みだ》れに亂《みだ》れた、めちゃ/\な時代《じだい》です。國家《こくか》にたよることの出來《でき》ない氣《き》の毒《どく》な民衆《みんしゆう》は、自分等《じぶんら》仲間《なかま》で自《みづか》ら護《まも》つて行《ゆ》かなければならなかつたので、武士《ぶし》も起《おこ》れば、海賊《かいぞく》も起《おこ》る。僧兵《そうへい》のようなものまでが出來《でき》る。そしてそれがだん/\大袈裟《おほげさ》になつて、わがまゝがひどくなる。貴族《きぞく》のわがまゝに對《たい》する、民衆《みんしゆう》のわがまゝとでもいふべきもので、實際《じつさい》時《とき》の勢《いきほひ》やむを得《え》なかつたのです。

   四十八、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(四)

 海賊《かいぞく》は多《おほ》く西《にし》の方《ほう》に起《おこ》つて、船《ふね》の上《うへ》で活動《かつどう》し、武士《ぶし》は多《おほ》く東國《とうごく》に起《おこ》つて、馬《うま》の上《うへ》で活動《かつどう》しました。これを西船《せいせん》、東馬《とうば》と申《まを》します。これは日本《につぽん》の地勢《ちせい》が、東《ひがし》には平野《へいや》が廣《ひろ》く開《ひら》けて、土地《とち》の人《ひと》も、もとから馬《うま》の扱《あつか》ひに慣《な》れたものが多《おほ》く、西《にし》の方《ほう》には島《しま》や入《い》り江《え》が多《おほ》く、土地《とち》の人《ひと》も、もとから舟《ふね》の扱《あつか》ひに慣《な》れたものが多《おほ》かつた爲《ため》です。
 その西船《せいせん》といはれた海賊《かいぞく》の頭《かしら》の中《なか》でも、第六十一代《だいろくじゆういちだい》朱雀《すじやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の、藤原《ふぢはらの》純友《すみとも》といふ人《ひと》の如《ごと》きは、最《もつと》も有名《ゆうめい》でありました。かれはもと伊豫《いよ》の國司《こくし》として、京都《きようと》から赴任《ふにん》した人《ひと》でありますが、その頃《ころ》は同《おな》じ藤原氏《ふぢはらし》でも、基經《もとつね》の一流《いちりゆう》のみが勢力《せいりよく》を得《え》てしまつて、かれは京都《きようと》で、とても頭《あたま》の上《あが》る見込《みこ》みがないので、そのまゝその國《くに》に止《とゞ》まつて、海賊《かいぞく》の頭《かしら》となつたのです。
 純友《すみとも》は、同《おな》じ仲間《なかま》の多《おほ》くの海賊《かいぞく》が、伊豫守《いよのかみ》紀《きの》淑人《よしひと》のさとしに從《したが》つて、降參《こうさん》して良民《りようみん》となつた後《のち》にも、なほ盛《さか》んに海上《かいじよう》を横行《おうこう》しまして、方々《ほう/″\》を荒《あら》してまはりますので、つひに官軍《かんぐん》の征伐《せいばつ》を受《う》けるといふ程《ほど》の、大事件《だいじけん》になりました。何分《なにぶん》千五百《せんごひやく》餘艘《よそう》といふ、たくさんの手下《てした》を持《も》つてゐるものですから、純友《すみとも》の勢《いきほひ》は甚《はなは》だ強《つよ》く、備前《びぜん》の國司《こくし》を途中《とちゆう》に襲《おそ》うて、これを捕虜《ほりよ》としたとか、讃岐《さぬき》の國府《こくふ》を攻《せ》めて、國司《こくし》を追《お》ひ出《だ》したとか、遠《とほ》く九州《きゆうしゆう》の太宰府《だざいふ》を攻《せ》めて、これを燒《や》き討《う》ちにしたとか、備後《びんご》も純友《すみとも》にやられた、阿波《あは》の國府《こくふ》もあぶない、京都《きようと》に火事《かじ》があつたのも、純友《すみとも》の仲間《なかま》が燒《や》き討《う》き[#「討《う》き」は底本のまま]にしようとしたのだとかいふ風《ふう》に、京都《きようと》の方《ほう》では、大《たい》そうな評判《ひようばん》で、西《にし》の方《ほう》の國々《くに/″\》は、つひには純友《すみとも》に取《と》られてしまひはせぬかと、心配《しんぱい》した程《ほど》でした。
 西《にし》の方《ほう》でこの海賊《かいぞく》純友《すみとも》の、謀叛《むほん》が起《おこ》つたと殆《ほとん》ど同《おな》じ時《とき》に、遠《とほ》く離《はな》れた東國《とうごく》では、武士《ぶし》の頭《かしら》の平《たひらの》將門《まさかど》の謀叛《むほん》が起《おこ》りました。
 武士《ぶし》の頭《かしら》となつたものゝ中《なか》には、源氏《げんじ》と平氏《へいし》とが一番《いちばん》盛《さか》んでしたが、將門《まさかど》はその平氏《へいし》の一族《いちぞく》で、桓武《かんむ》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》葛原《かつらはら》親王《しんのう》の子《こ》、高望王《たかもちおう》から出《で》た家《いへ》です。かれは東國《とうごく》から、京都《きようと》に來《き》て、はじめは攝政《せつしよう》藤原《ふぢはら》忠平《たゞひら》の家人《けにん》となつてゐましたけれども、思《おも》ふように出世《しゆつせ》も出來《でき》ないので、下總《しもふさ》へ歸《かへ》つてをりました。そのうち些細《ささい》なことから、武士《ぶし》同士《どうし》の間《あひだ》に喧嘩《けんか》が始《はじ》まり、それがだん/\大袈裟《おほげさ》になつて、將門《まさかど》の伯父《をぢ》で常陸《ひたち》の國司《こくし》であつた平《たひらの》國香《くにか》までが、將門《まさかど》の爲《ため》に殺《ころ》されるといふ騷《さわ》ぎ。常陸《ひたち》、下野《しもつけ》、上野《かうづけ》などの國府《こくふ》は、將門《まさかど》の爲《ため》に陷《おとしい》れられ、外《ほか》の國々《くに/″\》の國司《こくし》なども、それを聞《き》いて逃《に》げ出《だ》す、關東《かんとう》八州《はつしゆう》こと/″\く將門《まさかど》の手《て》に落《お》ちてしまふといふ勢《いきほひ》になりました。
 そればかりでなく、將門《まさかど》は、あまりに勢《いきほひ》がよくなつたのに調子《ちようし》づいて、つひには東國《とうごく》を自分《じぶん》のものにして、日本《につぽん》から獨立《どくりつ》し、自分《じぶん》でその天子《てんし》にならうといふ、大《だい》それた野心《やしん》を起《おこ》しました。調子《ちようし》に乘《の》るといふことは、まことに恐《おそ》ろしいものであります。しかしながらこれといふのも、一《ひと》つは將門《まさかど》の家《いへ》が、桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御子孫《ごしそん》から出《で》て、皇室《こうしつ》に縁故《えんこ》があるといふことと、今一《いまひと》つは、この頃《ころ》は藤原氏《ふぢはらし》がわがまゝをして、攝政《せつしよう》とか關白《かんぱく》とかいつては、日本《につぽん》の政治《せいじ》を自分《じぶん》の好《す》き勝手《かつて》にし、恐《おそ》れ多《おほ》くも天皇《てんのう》は、たゞ尊《たふと》く上《うへ》にましますといふばかりで、日本國《につぽんこく》は藤原氏《ふぢはらし》のものとでもいふべきような、有《あ》り樣《さま》になつてをりました上《うへ》に、その日本《につぽん》の土地《とち》も、勝手《かつて》に莊園《しようえん》といふ名前《なまへ》をつけて、だん/\藤原氏《ふぢはらし》をはじめとして、貴族《きぞく》や寺院《じいん》などのものになる、地方《ちほう》の政治《せいじ》はめちゃ/\に亂《みだ》れて、人民《じんみん》は政府《せいふ》の保護《ほご》を受《う》けることが出來《でき》ないのみならず、かへつて國司《こくし》からひどくいぢめられるといふ、有《あ》り樣《さま》でありましたから、もと自分《じぶん》が皇族《こうぞく》から分《わか》れたといふところで、ついそんな大《だい》それた野心《やしん》をも、起《おこ》すようになつたのでありました。
 そこで將門《まさかど》は、自分《じぶん》で天子《てんし》氣取《きど》りになつて、平新皇《へいしんのう》といひ、朝廷《ちようてい》にならつて、僞《にせ》の政府《せいふ》を下總《しもふさ》に設《まう》け、關東《かんとう》の國々《くに/″\》の國司《こくし》を任命《にんめい》するといふ程《ほど》の、大仕掛《おほじか》けな謀叛《むほん》を起《おこ》しました。しかしいくらその家《いへ》が皇族《こうぞく》から出《で》たのであつたとて、世《よ》の中《なか》が亂《みだ》れてをつたとて、もちろん、そんなことが日本《につぽん》で許《ゆる》される筈《はず》がありません。下野《しもつけ》の武士《ぶし》の頭《かしら》の藤原《ふぢはらの》秀郷《ひでさと》や、國香《くにか》の子《こ》の平《たひらの》貞盛《さだもり》の爲《ため》に、間《ま》もなく殺《ころ》されてしまひました。
[#図版(26.png)、秀郷]
 東國《とうごく》で將門《まさかど》が滅《ほろ》んだ後《のち》、間《ま》もなく、西國《さいごく》でも藤原《ふぢはらの》純友《すみとも》は、征西《せいせい》大將軍《たいしようぐん》藤原《ふぢはらの》忠文《たゞぶみ》や、追討使《ついとうし》の小野《をのゝ》好古《よしふる》などの官軍《かんぐん》の爲《ため》に、つひに滅《ほろ》ぼされてしまひました。この海賊《かいぞく》退治《たいじ》の戰《たゝか》ひには、武士《ぶし》の頭《かしら》の源《みなもとの》經基《つねもと》も、官軍《かんぐん》に從《したが》つて大《たい》そう手柄《てがら》がありました。經基《つねもと》は清和《せいわ》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》貞純《さだずみ》親王《しんのう》の子《こ》だと申《まを》すことであります。或《あるひ》は陽成《ようぜい》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》元平《もとひら》親王《しんのう》の子《こ》だとも申《まを》しますが、いづれにしても、平氏《へいし》とともに皇族《こうぞく》から出《で》た家《いへ》で、地方《ちほう》に出《で》て武士《ぶし》の頭《かしら》となつたのでありました。これから後《のち》秀郷《ひでさと》、貞盛《さだもり》、經基《つねもと》などの子孫《しそん》は、次第《しだい》に盛《さか》んになりまして、つひには武士《ぶし》の天下《てんか》といふようなことになつて來《く》るのであります。

   四十九、平安朝《へいあんちよう》の佛教《ぶつきよう》

「咲《さ》く花《はな》の匂《にほ》ふがごとく」と歌《うた》はれた奈良《なら》の都《みやこ》には、佛教《ぶつきよう》が大《たい》そう盛《さか》んであつて、立派《りつぱ》な多《おほ》くの寺々《てら/″\》が、そのはなやかな都《みやこ》を飾《かざ》つたものでありましたが、あまりに佛教《ぶつきよう》が盛《さか》んになつた爲《ため》に、またいろ/\の弊害《へいがい》も出《で》て來《き》まして、國《くに》はだん/\貧乏《びんぼう》する、おしまひには道鏡《どうきよう》のような、不心得《ふこゝろえ》の僧侶《そうりよ》が勢力《せいりよく》を得《え》て、とう/\奈良朝《ならちよう》時代《じだい》は、行《ゆ》き詰《づま》つてしまつたのでありました。そこで世《よ》の中《なか》は改《あらた》まつて、都《みやこ》は山城《やましろ》にうつり、平安朝《へいあんちよう》の時代《じだい》となりましたので、佛教《ぶつきよう》は相《あ》ひ變《かは》らず盛《さか》んでありましても、前《まへ》とは大分《だいぶ》ようすが變《かは》つてまゐりました。
 平安朝《へいあんちよう》の初《はじ》めには、最澄《さいちよう》と空海《くうかい》との二人《ふたり》の偉《えら》い人《ひと》が出《で》ました。後《のち》に最澄《さいちよう》は傳教《でんぎよう》大師《だいし》といふ謚號《おくりな》を、空海《くうかい》は弘法《こうぼう》大師《だいし》といふ謚號《おくりな》を、朝廷《ちようてい》から賜《たま》はりました程《ほど》で、二人《ふたり》ともに若《わか》い時《とき》に、支那《しな》に留學《りゆうがく》しまして、最澄《さいちよう》は天台宗《てんだいしゆう》を傳《つた》へ、空海《くうかい》は眞言宗《しんごんしゆう》を傳《つた》へました。
 傳教《でんぎよう》大師《だいし》は近江《あふみ》と山城《やましろ》との境《さかひ》にある比叡山《ひえいざん》の上《うへ》に、延暦寺《えんりやくじ》を建《た》てゝ天台宗《てんだいしゆう》を廣《ひろ》める、その延暦寺《えんりやくじ》から園城寺《おんじようじ》が分《わか》れる。弘法《こうぼう》大師《だいし》は京都《きようと》の東寺《とうじ》を賜《たま》はつて眞言宗《しんごんしゆう》を廣《ひろ》める。後《のち》に紀伊《きい》の高野山《こうやさん》の山奧《やまおく》に、金剛峯寺《こんごうぶじ》を建《た》てるといふふうに、大《おほ》きな寺々《てら/″\》が次第《しだい》に出來《でき》て來《く》る。前《まへ》からあつた寺々《てら/″\》も、だん/\天台宗《てんだいしゆう》や眞言宗《しんごんしゆう》に變《かは》るものが多《おほ》いといふ勢《いきほひ》で、兩方《りようほう》ともに大《たい》そう盛《さか》んなものになりました。
 しかしあまり盛《さか》んになりますと、又《また》だん/\弊害《へいがい》が起《おこ》つてまゐります。何《なに》しろ平安朝《へいあんちよう》は、藤原氏《ふぢはらし》をはじめとして、貴族《きぞく》たちがたくさんの莊園《しようえん》を持《も》つて、一般《いつぱん》の人民《じんみん》がどんなに苦《くる》しんでゐるかを考《かんが》へても見《み》ずに、榮華《えいが》を極《きは》めてゐた時代《じだい》でありましたから、大《おほ》きな寺々《てら/″\》にも、やはりその時代《じだい》のふうが移《うつ》つて、たくさんの莊園《しようえん》を持《も》ち、だん/\と貴族風《きぞくふう》になつて來《き》ます。又《また》その教《をし》へがよほど高尚《こうしよう》で、無學《むがく》文盲《もんもう》なものには、耳《みゝ》にはひりにくく、自然《しぜん》に下《した》の方《ほう》で苦《くる》しんでゐる一般《いつぱん》の民衆《みんしゆう》とは、縁《えん》が遠《とほ》いものとなつてまゐります。殊《こと》に地方《ちほう》の政治《せいじ》が亂《みだ》れて、世《よ》の中《なか》が騷《さわ》がしくなりますと、前《まへ》に述《の》べました通《とほ》り、大《おほ》きな寺々《てら/″\》は自分《じぶん》を護《まも》る爲《ため》に、多《おほ》くの僧兵《そうへい》をかゝへる、寺院《じいん》同士《どうし》の間《あひだ》で、戰爭《せんそう》をするといふようなことになりましては、自然《しぜん》世間《せけん》の信仰《しんこう》も、薄《うす》らいで來《く》るのはやむを得《え》ませんでした。
 實際《じつさい》平安朝《へいあんちよう》時代《じだい》には、貴族《きぞく》と平民《へいみん》との間《あひだ》には、大《たい》そうな隔《へだ》たりがありました。貴族《きぞく》たちが京都《きようと》で、好《す》き勝手《かつて》な榮華《えいが》にふけつてゐる間《あひだ》に、平民《へいみん》は地方《ちほう》で、國司等《こくしら》にいぢめられてゐました。そこで平民等《へいみんら》は、自分《じぶん》で國民《こくみん》たるの權利《けんり》を捨《す》てゝ、諸國《しよこく》に浮浪《ふろう》するといふような有《あ》り樣《さま》でしたから、世《よ》の中《なか》の人氣《にんき》も次第《しだい》に荒《あら》くなります。活《い》きるに困《こま》つてゐるものは、活《い》きる爲《ため》にはやむを得《え》ず惡《わる》いこともします。どうでこの世《よ》の中《なか》に活《い》き長《なが》らへてゐたからとて、その末《すゑ》がよくなるといふ見込《みこ》みがあるではなし、又《また》すでに惡《わる》いことをしてゐる身《み》であれば、死《し》んだ後《のち》には地獄《じごく》へ落《お》ちると佛教《ぶつきよう》は教《をし》へてゐます。かうなつてはどんなものでも、自然《しぜん》やけ[#「やけ」に傍点]になつて來《く》る。いはゆる「毒《どく》食《く》はゞ皿《さら》まで」で、ます/\惡《わる》いことをするようになる。まことに氣《き》の毒《どく》な有《あ》り樣《さま》でありました。
[#図版(27.png)、空也上人]
 このような氣《き》の毒《どく》な人《ひと》たちを救《すく》うて、たとひその日《ひ》その日《ひ》の暮《くら》しは苦《くる》しくても、せめては心《こゝろ》だけにでも、ゆっくりした安心《あんしん》を與《あた》へて、無暗《むやみ》にやけ[#「やけ」に傍点]にならぬようにと、親切《しんせつ》に教《をし》へを弘《ひろ》めたのは、念佛《ねんぶつ》の宗旨《しゆうし》でした。口《くち》に南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》ととなへて、阿彌陀《あみだ》如來《によらい》にすがりさへすれば、どんな罪《つみ》の深《ふか》いものでも、死《し》んだ後《のち》には、みな必《かなら》ず極樂《ごくらく》へ行《ゆ》くことが出來《でき》るといふ教《をし》へです。
 はじめてこの教《をし》へを民間《みんかん》に説《と》きすゝめたのは、空也《くうや》上人《しようにん》でありました。東《ひがし》には平《たひらの》將門《まさかど》、西《にし》には藤原《ふぢはらの》純友《すみとも》の謀叛《むほん》があつた後《のち》、世《よ》の中《なか》がます/\騷《さわ》がしくなり、食《く》ふに困《こま》るような浮浪民《ふろうみん》が、そこにも、こゝにも、うよ/\してゐるといふころに、空也《くうや》は盛《さか》んにその仲間《なかま》に説《と》いて廻《まは》つたものですから、到《いた》るところに信者《しんじや》がたくさんに出來《でき》ました。平民等《へいみんら》はこれが爲《ため》に、ひどくやけ[#「やけ」に傍点]にもならず、救《すく》はれて安心《あんしん》を得《え》たものが、甚《はなは》だ多《おほ》かつたのです。
 その後《のち》平安朝《へいあんちよう》も末《すゑ》になり、源平《げんぺい》二氏《にし》の戰爭《せんそう》が、長《なが》い間《あひだ》續《つゞ》いて、武士《ぶし》は多《おほ》くの人《ひと》を殺《ころ》し、その罪《つみ》の報《むく》いが恐《おそ》ろしくなる。また一般《いつぱん》の民衆《みんしゆう》は、多年《たねん》の戰爭《せんそう》に苦《くる》しんで、ます/\貧乏《びんぼう》の、どん[#「どん」に傍点]底《ぞこ》に落《お》ち込《こ》むといふように、多數《たすう》の人《ひと》がひどく惱《なや》んでゐる頃《ころ》に、法然《ほうねん》上人《しようにん》が出《で》て、盛《さか》んにこの教《をし》へを弘《ひろ》めました。どんな惡人《あくにん》でも、どんな賤《いや》しい、無學《むがく》な人《ひと》でも、たゞ一心《いつしん》に念佛《ねんぶつ》を申《まを》せば、皆《みな》極樂《ごくらく》に生《うま》れるといふのでありますから、誰《だれ》にでもわかりやすく、誰《だれ》にでもはひりやすく、その教《をし》へは大《たい》そう盛《さか》んになりました。しかし、その説《と》き方《かた》があまりに猛烈《もうれつ》でありましたのと、一時《いちじ》にその教《をし》へが盛《さか》んになつたのとの爲《ため》に、他《ほか》の宗派《しゆうは》のものからひどく反對《はんたい》せられまして、つひには一時《いちじ》土佐《とさ》へ流《なが》されるといふ程《ほど》でありましたが、押《おさ》へれば押《おさ》へるほど、その教《をし》へはます/\民間《みんかん》に弘《ひろ》まつてまゐりました。今《いま》の淨土宗《じようどしゆう》は、この法然《ほうねん》上人《しようにん》の開《ひら》いた宗旨《しゆうし》で、眞宗《しんしゆう》もまたその流《なが》れをうけ、法然《ほうねん》の弟子《でし》の親鸞《しんらん》聖人《しようにん》が開《ひら》いた宗旨《しゆうし》であります。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 東国 とうごく (1) 東方の国。(ア) 畿内から、それよりも東の諸国を呼ぶ称。(イ) 箱根・足柄および碓氷以東の国を呼ぶ称。関東。あずま。
  • [常陸] ひたち 旧国名。今の茨城県の大部分。常州。
  • [下総] しもふさ/しもうさ 旧国名。今の千葉県の北部および茨城県の一部。上総を南総というのに対し、北総という。しもつふさ。
  • [下野] しもつけ 旧国名。今の栃木県。野州。
  • [上野] こうづけ/こうずけ (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転) 旧国名。今の群馬県。上州。
  • 関東八州 かんとう はっしゅう 相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8カ国。関八州。
  • [近江] おうみ 近江・淡海。(アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す) 旧国名。今の滋賀県。江州。
  • [山城] やましろ 山城・山背。旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
  • 比叡山 ひえいざん (1) 京都市北東方、京都府・滋賀県の境にそびえる山。古来、王城鎮護の霊山として有名。山嶺に2高所があり、東を大比叡または大岳(848m)、西を四明岳(839m)という。東の中腹に天台宗の総本山延暦寺がある。叡山。天台山。台岳。北嶺。台嶺。(2) 延暦寺の山号。
  • 延暦寺 えんりゃくじ 比叡山にある天台宗の総本山。788年(延暦7)最澄建立の一乗止観院が起源。11世紀以降園城寺(寺門)に対しては「山門」「山」と称し、興福寺(南都)に対しては北嶺と称し、僧兵を擁して権威と実力を誇った。1571年(元亀2)織田信長の焼討ちにあったが、豊臣・徳川2氏の援助で復興。
  • [京都]
  • 平安京 へいあんきょう 桓武天皇の794年(延暦13)に長岡京から移って、1868年(明治1)に東京へ移るまでの都。今の京都市の中心部。東西約4.5km、南北約5.1km。中央を南北に通ずる朱雀大路(現、千本通)によって左京(東京)・右京(西京)に分け、両京とも縦横に大路を開き、南北を九条、東西を四坊とし、さらにこれを小路によって碁盤目のように整然と区画していたが、右京は間もなく衰頽し、左京は賀茂川を越えて東山に連なるようになった。
  • 賀茂川 かもがわ 賀茂川・加茂川・鴨川。京都市街東部を貫流する川。北区雲ヶ畑の山間に発源、高野川を合わせて南流し(その合流点から下流を鴨川と書く)、桂川に合流する。(歌枕)
  • 賀茂川の河原 たびたび洪水をひきおこし、平安時代には防鴨河使(ぼうかし)が管理にあたった。水深が浅く舟運には適さなかったが、河原が発達し、早くから平安京の葬送の地・刑場となり、中世には猿楽やかぶき踊などがおこなわれた。(日本史)
  • 東山の坂
  • 東山 ひがしやま 京都市、鴨川の東に連なる丘陵。京都の東方に当たる山の意。ふつう北は比叡山から南は稲荷山までを指し、古来、東山三十六峰の称がある。風光すぐれ、名勝旧跡が多い。西山・北山に対していう。
  • 延暦寺 えんりゃくじ 比叡山にある天台宗の総本山。788年(延暦7)最澄建立の一乗止観院が起源。11世紀以降園城寺(寺門)に対しては「山門」「山」と称し、興福寺(南都)に対しては北嶺と称し、僧兵を擁して権威と実力を誇った。1571年(元亀2)織田信長の焼討ちにあったが、豊臣・徳川2氏の援助で復興。
  • 園城寺 おんじょうじ 大津市にある天台寺門宗の総本山。通称、御井寺・三井寺。延暦寺を山門・山と呼ぶのに対して寺門・寺という。奈良時代末に大友村主氏の氏寺として開創。859年(貞観1)円珍が再興して延暦寺の別院としたが、円仁門徒と争った円珍の門徒が993年(正暦4)当寺に拠り独立。
  • 東寺 とうじ → 教王護国寺
  • 教王護国寺 きょうおうごこくじ 京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山。一般には、東寺という。平安京の鎮護として794年(延暦13)の遷都直後に創建。823年(弘仁14)空海に勅賜され、真言密教専修の道場となった。真言七祖像・東寺百合文書など多数の文化財を所蔵。俗称、弘法さん。
  • [奈良]
  • 興福寺 こうふくじ 奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。藤原鎌足の遺志により夫人の鏡王女が山城国山科に創建した山階寺が起源で、藤原京に移って厩坂寺と称し、さらに平城京に移されたとされているが、実際には藤原不比等が8世紀初頭に現在の地に開創。以来藤原氏の氏寺、大和国領主として僧兵を擁し、久しく盛大をきわめた。東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、貴重な文化財多数を存する。こうぶくじ。
  • 東大寺 とうだいじ 奈良市にある華厳宗総本山。別称、金光明四天王護国之寺・大華厳寺・城大寺・総国分寺。南都七大寺の一つ。745年(天平17)聖武天皇により創建、本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏。751年(天平勝宝3)大仏殿(金堂)完成、翌年開眼供養を行い、754年に唐僧鑑真により日本で最初の戒壇院を設立、日本三戒壇の一つ。9世紀には広大な荘園と僧兵とを有して寺勢を誇った。草創以来の堂舎として法華堂・転害門・経庫および正倉院を残し、天平時代作の仏像を蔵し、また、鎌倉時代再興の南大門の仁王は運慶・快慶の合作。現存の大仏殿は江戸中期の再興で、世界最大の木造建築。
  • [紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの) 旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
  • 高野山 こうやさん 和歌山県北東部にある、千m前後の山に囲まれた真言宗の霊地。816年(弘仁7)空海が真言密教の根本道場として下賜を受け、のち真言宗の総本山金剛峯寺を創建。
  • 金剛峰寺 こんごうぶじ 和歌山県の高野山上にある高野山真言宗の総本山。816年(弘仁7)空海の創立だが、伽藍は没後完成。東寺とともに真言宗の中心寺院。平安末期以後、空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心。
  • 瀬戸内海 せとないかい 本州と四国・九州とに囲まれた内海。沖積世初期に中央構造線の北縁に沿う陥没帯が海となったもの。友ヶ島水道(紀淡海峡)・鳴門海峡・豊予海峡・関門海峡によってわずかに外洋に通じ、大小約3000の島々が散在し、天然の美観に恵まれ、国立公園に指定されている。沿岸には良港が多く、古くから海上交通が盛ん。
  • 中国
  • [備前] びぜん 旧国名。吉備国を大化改新後に前・中・後に分けた一つ。713年(和銅6)、北部は美作として分離独立。今の岡山県の南東部。
  • [備後] びんご 旧国名。吉備国を大化改新後に前・中・後に分けた一つ。広島県の東部。
  • 四国
  • [阿波] あわ 旧国名。今の徳島県。粟国。阿州。
  • [伊予] いよ 旧国名。今の愛媛県。伊余。伊与。予州。
  • [讃岐] さぬき 旧国名。今の香川県。讃州。
  • [土佐] とさ (古く「土左」とも書く) 旧国名。今の高知県。土州。
  • 九州北部
  • 太宰府 だざいふ 福岡県中部の市。古く大宰府が置かれた地。人口6万7千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 大化の新政 たいかの しんせい → 大化改新
  • 大化改新 たいかの かいしん 大化元年(645)夏、中大兄皇子(のちの天智天皇)を中心に、中臣(藤原)鎌足ら革新的な豪族が蘇我大臣家を滅ぼして開始した古代政治史上の大改革。孝徳天皇を立て都を難波に移し、翌春、私有地・私有民の廃止、国・郡・里制による地方行政権の中央集中、戸籍の作成や耕地の調査による班田収授法の実施、調・庸など税制の統一、の4綱目から成る改新の詔を公布、古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。しかし、律令国家の形成には、壬申の乱(672年)後の天武・持統朝の改革が必要であった。大化新政。大化革新。
  • 奈良朝時代 → 奈良時代
  • 奈良時代 なら じだい 平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代七十余年間(710〜784)。美術史では白鳳時代を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代ともいう。奈良朝。
  • 平安朝の時代 → 平安時代
  • 平安時代 へいあん じだい 桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府の成立まで約400年の間、政権の中心が平安京(京都)にあった時代。ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。平安朝時代。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 藤原 ふじわら 姓氏の一つ。天児屋根命の裔と伝え、大化改新の功臣中臣鎌足が、居地の大和国高市郡藤原に因んで藤原姓を賜ったのに始まる。姓は朝臣。鎌足の子不比等は文武天皇の頃から政界に重きをなし、その子武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟はそれぞれ南家・北家・式家・京家の四家の祖となる。北家は最も繁栄し、その一族は平安時代から江戸時代まで貴族社会の中枢を占めた。なお、奥州藤原氏はもと亘理氏で、別系。
  • 後三条天皇 ごさんじょう てんのう 1034-1073 平安中期の天皇。後朱雀天皇の第2皇子。名は尊仁。藤原氏の専権をおさえ、記録所を置いて荘園を整理し、政治の積弊を改めた。(在位1068〜1072)
  • 三善清行 みよし きよゆき 847-918 平安前期の官人・学者。文章得業生から立身して、文章博士兼大学頭。901年(延喜1)に革命改元の議を、914年に意見封事を上奏した。死の前年、参議となる。善相公。
  • 醍醐天皇 だいご てんのう 885-930 平安前期の天皇。宇多天皇の第1皇子。名は敦仁。後山科帝・小野帝とも。藤原時平・菅原道真らの補佐の下に国を治め、後世延喜の治と称される。古今和歌集を勅撰。(在位897〜930)
  • 桓武天皇 かんむ てんのう 737-806 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。名は山部。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。(在位781〜806)
  • 菅原道真 すがわらの みちざね 845-903 平安前期の貴族・学者。是善の子。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣となったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、同地で没。書をよくし、三聖の一人。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れたため御霊として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。菅公。菅丞相。菅家。
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  • 源氏 みなもとうじ → 源
  • 源 みなもと 姓氏の一つ。初め嵯峨天皇がその皇子を臣籍に下して賜った姓で、のち仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・冷泉・花山・三条・後三条・順徳・後嵯峨・後深草・亀山・後二条天皇などの、皇子・皇孫にも源氏を賜った。嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏が名高い。
  • 平氏 たいらうじ → 平
  • 平 たいら 皇族賜姓の豪族。(1) 桓武平氏。桓武天皇の皇子、葛原・万多・仲野・賀陽4親王の子孫。このうち最も繁栄したのは葛原親王の孫平高望の子孫。その一族のうち伊勢に根拠地を置いたものを伊勢平氏といい、忠盛・清盛などが出た。
  • 藤原鎌足 ふじわらの かまたり 614-669 藤原氏の祖。はじめ中臣氏。鎌子という。中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣に任じられた。天智天皇の時、大織冠。談山神社に祀る。中臣鎌足。
  • 白河法皇 しらかわ ほうおう → 白河天皇
  • 白河天皇 しらかわ てんのう 1053-1129 平安中期の天皇。後三条天皇の第1皇子。名は貞仁。六条帝とも。1086年(応徳3)譲位、上皇となり、初めて院政を開き、堀河・鳥羽・崇徳の3代43年にわたって実権をにぎった。96年(永長1)出家して法皇となる。(在位1072〜1086)
  • 朱雀天皇 すざく てんのう 923-952 平安中期の天皇。名は寛明。醍醐天皇の皇子。位を弟の村上天皇に譲る。(在位930〜946)
  • 紀淑人 きの よしひと/よしと ?-943 平安中期の官人。父は長谷雄(はせお)。兄に『古今集』真名序の作者淑望がいる。左近将監・左衛門権佐を歴任し、936(承平6)伊予日振島の海賊の不穏な動きを封じるため、伊予守南海道追捕使に任命され、藤原純友とともに下向。淑人は海賊に田畠を支給して農耕に従事させる投降策をとったが、939(天慶2)純友は海賊と結んで乱をおこした。(日本史)
  • 藤原純友 ふじわらの すみとも ?-941 平安中期の地方豪族。伊予掾。瀬戸内海の海賊の棟梁となり、各国衙や大宰府を襲ったが、追討軍に殺された。
  • 藤原基経 ふじわらの もとつね 836-891 平安前期の貴族。長良の子。叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の摂政となったが天皇を廃し、光孝天皇を立てて政務を代行、宇多天皇が即位すると阿衡の紛議を起こし、初めて関白となる。「文徳実録」を撰。世に堀河太政大臣と称。昭宣公と諡す。
  • 平将門 たいらの まさかど ?-940 平安中期の武将。高望の孫。父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴いた。伯父国香を殺して近国を侵し、939年(天慶2)居館を下総猿島に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振るったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。後世その霊魂が信仰された。
  • 桓武天皇 かんむ てんのう 737-806 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。名は山部。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。(在位781〜806)
  • 葛原親王 かつらはら/かずらわら しんのう 786-853 桓武天皇の第3皇子。桓武平氏の祖。大蔵卿・式部卿などを経て、一品大宰帥にいたる。
  • 高望王 たかもちおう → 平高望
  • 平高望 たいらの たかもち 839?-911(Wikipedia) 平安前期の官人。父は桓武天皇皇子葛原(かずらわら)親王の子高見王。高望流桓武平氏の祖。子に国香・良持・良兼・良文らがいる。889(寛平元)頃平朝臣となり、上総介として下向した東国にそのまま土着したという。子孫は関東各地に広がり、坂東八平氏と称された。中央に進出して武士の棟梁となる者もあり、平清盛もこの系統からでた。(日本史)
  • 藤原忠平 ふじわらの ただひら 880-949 平安中期の貴族。基経の子。醍醐天皇の時代の左大臣。兄時平の後を継いで延喜格式を撰上。朱雀天皇の時、摂政関白・太政大臣。時平・仲平とともに三平と称した。貞信公と諡し、日記「貞信公記」がある。
  • 平国香 たいらの くにか ?-935 平安中期の武将。高望の子。常陸大掾。甥の将門に殺された。
  • 藤原秀郷 ふじわらの ひでさと ?-? 平安中期の下野の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足退治などの伝説が多い。
  • 平貞盛 たいらの さだもり ?-? 平安中期の武将。国香の子。父が将門に殺されたとき、ただちに官を捨てて京都から国に帰り、常陸大掾となり、940年(天慶3)、下野の押領使藤原秀郷と力を合わせて将門を下総猿島に討った。のち鎮守府将軍に任ぜられ、世に平将軍という。
  • 藤原忠文 ふじわらの ただぶみ 873-947 平安中期の貴族。参議・民部卿。承平天慶の乱に征東大将軍・征西大将軍。乱後、恩賞を得られなかったのは藤原実頼の言のためといわれ、忠文の死後、実頼の子女が相次いで死んだので、その祟りによるとして、世に悪霊民部卿という。
  • 小野好古 おのの よしふる 884-968 平安中期の貴族。道風の兄。武勇の誉れ高く、天慶の乱のとき山陽道追捕使に任命されて藤原純友を追討、参議に至る。
  • 源経基 みなもとの つねもと ?-961 平安中期の貴族・武人。清和天皇の第6皇子貞純親王の長子。はじめ経基王。六孫王と称されたが、源姓を賜り清和源氏の祖となる。和歌をよくした。平将門の反乱を通報、のち小野好古に従って藤原純友を滅ぼした。
  • 清和天皇 せいわ てんのう 850-880 平安前期の天皇。文徳天皇の第4皇子。母は藤原明子。名は惟仁。水尾帝とも。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)落飾。法諱は素真。(在位858〜876)
  • 貞純親王 さだずみ しんのう ?-916 清和天皇の皇子。母は棟貞王の女。873(貞観15)親王になり、その後四品に叙され、中務卿・兵部卿・上総太守・常陸太守等を歴任した。源経基を親王の子とする伝承が流布しているため、その流れは清和源氏と称されてきたが、他方、経基を陽成天皇の孫と伝える史料もあり、問題が残されている。(日本史)
  • 陽成天皇 ようぜい てんのう 868-949 平安前期の天皇。清和天皇の第1皇子。名は貞明。藤原基経により廃位。(在位876〜884)
  • 元平親王 もとひら しんのう ?-958 陽成天皇皇子。母は藤原氏(主殿頭遠長の女)である。四品に叙せられ、延長8年11月、朱雀天皇御即位に左侍従を奉仕し、のち弾正尹を経て式部卿に任ぜられ、三品に進まる。(日本人名)
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  • 道鏡 どうきょう ?-772 奈良時代の僧。河内の人。弓削氏。宮中に入り看病に功があったとして称徳天皇に信頼され、太政大臣禅師、ついで法王。宇佐八幡の神託と称して皇位の継承を企てたが、藤原一族の意をうけた和気清麻呂に阻止され、天皇死後、下野国薬師寺別当に左遷、同所で没。
  • 最澄 さいちょう 767-822 平安初期、日本天台宗の開祖。近江の人。受戒後の785年(延暦4)比叡山に入って修行、法華一乗思想の中心として一乗止観院を建立。804年(延暦23)入唐、天台教学等を学んで翌年帰朝、天台宗を設立した。晩年は天台宗独自の大乗戒壇建立を主張して南都諸宗と対立したが、没後に実現。著「顕戒論」「守護国界章」「山家学生式」など。866年(貞観8)伝教大師と諡し、日本の大師号の初め。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。
  • 空海 くうかい 774-835 平安初期の僧。日本真言宗の開祖。讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、のち仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果に学び、806年(大同1)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めたほか、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教として定着させた。また、身分を問わない学校として綜芸種智院を設立。詩文に長じ、また三筆の一人。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号は弘法大師。
  • 伝教大師 でんぎょう だいし 最澄の諡号。
  • 弘法大師 こうぼう だいし 空海の諡号。
  • 空也 くうや 903-972 (コウヤとも)平安中期の僧。空也念仏の祖。出自未詳。尾張国分寺で出家後諸国を遍歴し、道路・橋梁・灌漑等の社会事業を行うとともに、京都を中心に貴賤を問わない口称念仏の布教を展開、市聖・阿弥陀聖と称せられた。948年(天暦2)比叡山で受戒しているが、戒名光勝は受戒後も用いていない。京都東山に六波羅蜜寺を建立。同寺蔵の空也上人木像は鎌倉時代の康勝の作。
  • 法然 ほうねん 1133-1212 浄土宗の開祖。諱は源空。美作の人。父の遺言で出家。比叡山に入り、皇円・叡空に師事。43歳のとき専修念仏に帰し、東山吉水で浄土法門を説く。また、大原で南都北嶺の僧徒と法門を論じた(大原問答)。1207年(承元1)弟子の住蓮・安楽の死罪事件を契機として土佐(実際には讃岐)に流罪となったが、同年末には許される。著「選択本願念仏集」など。諡号は円光大師など。黒谷上人。吉水上人。
  • 親鸞 しんらん 1173-1262 鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。皇太后宮大進日野有範の長子。綽空・善信とも称した。慈円、のちに法然の弟子となる。1207年(承元1)念仏弾圧により越後に流され、この間、愚禿と自称して非僧非俗の生活に入る。のちの恵信尼を妻にしたのはこの頃とされる。11年(建暦1)赦免され、晩年に帰京するまで久しく常陸国稲田郷など関東にあって信心為本などの教義を以て伝道布教を行う。著「教行信証」「唯信鈔文意」「浄土文類聚抄」「愚禿鈔」など。諡号は見真大師。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*難字、求めよ

  • 大官 たいかん 身分の高い官吏。顕官。高官。
  • 口分田 くぶんでん (1) 律令制で、班田収授法に基づいて、満6歳以上のすべての人民に割り当てられた田。良民の男子には2段(約23アール)、女子にはその3分の2(1段120歩)、賤民のうちで官有の官戸・官奴婢は良民と同額、私有の家人・私奴婢は良民の3分の1を基準として与え、その収穫の約3%を田租として徴収した。(2) 唐代の均田制で、耕作者に給した農地(北朝時代には露田と称)。ほかに永業田が割り当てられた。その額は時代・年齢・身分等により異なるが、丁男は口分80畝・永業110畝(合計約580アール)。
  • 荘園・庄園 しょうえん (1) 平安時代より室町時代にかけての貴族・寺社の私的な領有地。奈良時代に墾田などを起源として出現したが、平安時代には地方豪族の寄進による荘園形成が盛んとなり、全国的に拡大、不輸不入権も認められるに至った。鎌倉幕府の守護地頭制によって次第に武家に侵略され、南北朝の動乱以後、急速に衰退に向かい、豊臣秀吉の時、太閤検地によって最終的に廃止された。荘。
  • 国司 こくし 律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官。守・介・掾・目の四等官と、その下に史生があった。その役所を国衙、国衙のある所を国府と称した。くにのつかさ。
  • 課役 かやく/かえき (1) 仕事を割り当てること。また、割り当てられた仕事。(2) 律令制では課が調、役が庸と雑徭とを指す。ときに課に田租まで含める場合や、広く租税一般を指す場合がある。かやく。みつぎえだち。(3) 中世・近世では年貢や夫役など租税一般。かやく。
  • 地頭 じとう (2) 平安時代、荘園の領主が土地管理のために現地に置いた荘官。
  • 名前主 なまえぬし 一家の主人。所帯主。
  • 荘園主 しょうえんぬし
  • 摂政 せっしょう [礼記文王世子]君主に代わって政務を行うこと。また、その官。日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、清和天皇幼少のため外戚の藤原良房が任ぜられてのちは、藤原氏が専ら就任した。明治以降は、皇室典範により、天皇が成年に達しないとき、並びに精神・身体の重患または重大な事故の際、成年の皇族が任ぜられる。
  • 関白 かんぱく (カンバクとも。関(あずか)り白(もう)す意)[漢書霍光伝「諸事皆先ず光に関白し、然る後天子に奏御す」](1) 政務に関し、天子に奏上する前に、特定の権臣があずかり、意見を申し上げること。(2) 平安時代以降、天皇を補佐して政務を執り行なった重職。令外の官。884年(元慶8)光孝天皇の時、一切の奏文に対して、天皇の御覧に供する前に藤原基経に関白させたことに始まる。摂政からなるのを例とし、この職を兼ねるものは太政大臣の上に坐した。一の人。一の所。執柄。博陸。
  • 英邁 えいまい 才知がぬきんでてすぐれていること。
  • 水呑み百姓 みずのみ びゃくしょう 田畑を所有しない貧しい小作または日雇いの農民。無高百姓。水呑み。←→本百姓
  • 戸籍 こせき (1) 戸(家)ごとに戸主や家族の続柄・氏名・年齢・性別などを記載した公文書。日本では、中国にならって6世紀ごろから朝廷直轄領の一部で造り、大化改新後の律令国家では6年ごとに全国的に造ることとしたが、10世紀にはほぼ廃絶。明治維新後復活した。へじゃく。
  • 出家 しゅっけ 〔仏〕家を出て仏門に入ること。俗世間をすて、仏道修行に入ること。また、その人。僧。←→在家。
  • 右大臣 うだいじん (1) 律令制の太政官で、左大臣の次に位し、政務を統轄した官。左大臣とともに実際上の長官。右丞相。右相府。右府。みぎのおとど。みぎのおおいもうちぎみ。←→左大臣。(2) 明治初期の太政官制の官職の一つ。三条実美・岩倉具視が任じられた。1885年(明治18)廃止。
  • 浮浪民 ふろうみん → 浮浪
  • 浮浪 ふろう (1) 奈良・平安時代、農民が課役を逃れるため本貫(戸籍の地)を離れ、よそへおもむくこと。浮宕(ふとう)。
  • 河原者 かわらもの (1) 中世、河原に住み、卑賤視された雑役や下級遊芸などに従った者。河原は当時穢(けが)れを捨てる場所と考えられていた。かわらのもの。(2) 江戸時代、歌舞伎役者の賤称。
  • 坂の者 さかのもの 古代・中世、主要な街道や寺社の参詣道の坂道に集住し、掃除などの雑業や雑芸能に従事した被差別民。坂。
  • 小屋者 こやもの 小屋掛けをして住む者。かわらもの・非人の類。
  • さんかもの → 山窩
  • 山窩 さんか (多くサンカと書く) 村里に定住せずに山中や河原などで家族単位で野営しながら漂泊の生活をおくっていたとされる人々。主として川漁・箕作り・竹細工・杓子作りなどを業とし、村人と交易した。山家。さんわ。
  • 非人 ひにん (1) 〔仏〕人間でないもの、すなわち天竜八部衆などの類。(2) 出家遁世の沙門。世捨て人。(3) いやしい身分の人。極貧の人や乞食を指す。(4) 江戸幕藩体制下、えたとともに四民の下におかれた最下層の身分。卑俗な遊芸、罪人の送致、刑屍の埋葬などに従事した。
  • 非人法師 ひにん ほうし
  • エトリ 餌取り。古代・中世、鷹狩の鷹の餌とするため、牛馬を屠(ほふ)ってその肉を取る者。
  • エタ (「下学集」など中世以降、侮蔑の意をこめて「穢多」の2字を当てた) 中世・近世の賤民身分の一つ。牛馬の死体処理などに従事し、罪人の逮捕・処刑にも使役された。江戸幕藩体制下では、非人とともに士農工商より下位の身分に固定、一般に居住地や職業を制限され、皮革業に関与する者が多かった。1871年(明治4)太政官布告により平民の籍に編入された後も社会的差別が存続し、現在なお根絶されていない。
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  • 武士 ぶし 武芸を習い、軍事にたずさわる者。武技を職能として生活する職能民と捉える立場からは、平安後期に登場し江戸時代まで存続した社会層をいう。さむらい。もののふ。武者。武人。
  • 僧兵 そうへい 寺院の私兵。平安後期以後、延暦寺・興福寺など諸大寺の下級僧徒で、仏法保護を名として武芸を練り戦闘に従事した。悪僧。
  • 海賊 かいぞく (1) 海上を横行し、往来の船や沿岸地方を襲って財貨を強奪する盗賊。(2) 中世、志摩・瀬戸などの海域で活躍した海上豪族、水軍の異称。
  • 水軍 すいぐん (1) 水上の軍隊。水師。(2) 中世、瀬戸内海・西九州沿海に本拠を持つ、水上戦法や操船にたけた地方豪族。戦国時代には大名の各陣営に加わる。海賊。
  • 侍 さむらい (サブラヒの転) (1) (→)「さぶらい」に同じ。(2) (「士」とも書く)武士。中世では一般庶民を意味する凡下と区別される身分呼称で、騎馬・服装・刑罰などの面で特権的な扱いを受けた。江戸時代には幕府の旗本、諸藩の中小姓以上、また士農工商のうちの士身分の者を指す。
  • 侍 さぶらい (サブラフの連用形から) (1) 主君のそば近く仕えること。また、その人。さぶらいびと。(2) 平安時代、親王・摂関・公卿家に仕えて家務を執行した者。多く五位・六位に叙せられた。(3) 武器をもって貴族の警固に任じた者。平安中期、禁中滝口、院の北面、東宮の帯刀などの武士の称。
  • みたようだ 見た様だ (初め「…を見たようだ」の形で用いたが、後には「を」を伴わずに体言に直接した。明治期にさらに転じて「みたいだ」になった) …のようだ。…らしい。
  • 家人 けにん (1) 律令制下の私賤身分の一つ。民有の奴婢だが、私奴婢よりも待遇がよく、相続の対象とはなっても売買されず、家族生活を営むことが許された。(2) (→)御家人に同じ。(3) 家来。奉公人。
  • 武官 ぶかん (1) 軍務にたずさわる官吏。旧陸海軍では、下士官以上の軍人。←→文官。(2) 禁裏の内外を守護し、武事にたずさわった官。五衛府などの類。
  • 破戒 はかい 戒を破ること。受戒した者が戒法に違うこと。←→持戒。
  • 天台宗 てんだいしゅう (1) 仏教宗派の一つ。法華経を根本経典として一乗主義の立場をとり、五時八教の教判理論や止観の実践体系を特徴とする。中国で、北斉の慧文・慧思を経て、智�によって大成された。日本へは鑑真が最初にもたらしたが、本格的には804年(延暦23)最澄が入唐して学び、翌年帰朝して比叡山延暦寺を中心にこれを広めた。後に山門・寺門の両派に分かれ、中世末真盛派が分出した。最澄は密教・禅・戒をも合わせて伝え、総合的な学風を特徴とする。止観宗。天台法華宗。天台法華円宗。(2) 特に、延暦寺を本山とする天台宗山門派をいう。
  • 氏寺 うじでら 氏族が一族の冥福と現世の利益とを祈願するために建立した寺。藤原氏の興福寺、和気氏の神護寺の類。
  • 南都 なんと (1) 平城京すなわち奈良の称。平安京すなわち京都を北都または北京というのに対する。南京。(2) 奈良の興福寺の称。比叡山の延暦寺を北嶺というのに対する。
  • 山法師 やまほうし 比叡山延暦寺の僧。特に、その僧兵をいう。
  • 西船東馬 せいせん とうば
  • 国府 こくふ (1) (コクブ・コフとも) (ア) 令制で、一国ごとに置かれた国司の役所。国衙。←→別府。(イ) 国衙の所在地。府中。
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  • 真言宗 しんごんしゅう 仏教宗派の一つ。歴史上の釈迦仏を超えた永遠の宇宙仏である大日如来こそ真実の仏であるとし、大日経・金剛頂経などを所依の教説とする。胎蔵・金剛の両部を立て、六大・四曼・三密などの説により、即身成仏を目的とする。入唐して恵果に学んだ空海が帰国後、東寺・金剛峯寺などでこれを弘通。のち古義・新義に分かれ、現在はさらに各派に分かれている。真言陀羅尼宗。密宗。真言密教。
  • 念仏 ねんぶつ 心に仏の姿や功徳を観じ、口に仏名を唱えること。善導や法然の浄土教では、特に阿弥陀仏の名号を称えることをいい、それにより、極楽浄土に往生できるという。←→諸行
  • 宗旨 しゅうし (1) 宗門の教義の趣旨。(2) 宗門。宗派。(3) 自分の主義・職業・趣味・嗜好など。
  • 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ 阿弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。
  • 阿弥陀如来 あみだ にょらい → 阿弥陀
  • 阿弥陀 あみだ (梵語Amitayusは無量寿、Amitabhaは無量光と漢訳) 〔仏〕西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったという。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。浄土宗・浄土真宗などの本尊。阿弥陀仏。阿弥陀如来。略して弥陀。無量寿(仏)。無量光(仏)。
  • 浄土宗 じょうどしゅう 仏教の一派。浄土三部経を所依とし、法然を宗祖とする。自力教を排して、他力念仏によって極楽浄土に往生することを目的とする。その門流は、弁長の鎮西義、証空の西山流、隆寛の長楽寺流、長西の九品寺流、幸西の一念義の五流に分かれる。現在の浄土宗は鎮西派の流れをくむ。
  • 真宗 しんしゅう → 浄土真宗
  • 浄土真宗 じょうど しんしゅう 浄土門の一派。浄土三部経を所依とする。阿弥陀仏の他力本願を信ずることによって往生成仏できるとし、称名念仏は仏恩報謝の行であるとする。親鸞を開祖とし、浄土宗より出て一派をなした。本願寺派・大谷派・仏光寺派・高田派・木辺派・興正派・出雲路派・山元派・誠照寺派・三門徒派の十派に分かれる。門徒宗。一向宗。真宗。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 十六日(日)晴れ。天童駅までひさしぶりのダッシュ。村山市、甑葉しょうようプラザ。県埋蔵文化財センター発掘調査速報会。参加者二〇〇名ぐらいか。
 縄文時代、高畠町押出おんだし遺跡。ネフライト(翡翠ひすい)製の�状けつじょう耳飾り、縄紐、彩漆土器など。彩漆土器は片手のひらにおさまるくらいのかわいらしい浅鉢・椀状で、ふちまわりに穴が点々と一周あけられている。赤漆。内側には木のけずりくずのような繊維がつめられている。漆保存のため、水につけられた状態で展示。
 口の周りに孔が一周する彩漆土器……という解説を聞いた瞬間に思い浮かんだのは、小林達雄『縄文の世界』(朝日選書、1996.7)が紹介している有孔鍔付土器。栽培作物の種子壷説(藤森栄一)、果実酒の醸造器説(武藤雄六・長沢宏昌)などあるらしいが、山内清男は土器太鼓説をとなえ、打楽器奏者の土取利行や小林達雄らがその説を支持している。
 「穴にひもを通して皮をはって太鼓をつくったとする説を読んだことがあるが……」と、若い展示員に話をふってみたところ、にがい顔で首を横にふった。「太鼓として使うには小さすぎる」との返答。たしかにそのとおり。口径一〇センチほど、深さが五センチぐらい。けれども、小さいことは太鼓説を否定する条件になりうるだろうか。
 大太鼓のような野太く、遠くまで大音量が響きわたる音量はないだろうけれども、甲高く、携帯に適し、小集団が陶酔するにはふさわしいような気もする。タヌキ、キツネのような小動物の皮を使える利点もある。つづみ説。

 青空。白くなった葉山が西側に大きく見える。はるか南に陽がおちる。おだやかな夕暮れ。



12.7(金)17:18 青森・岩手・宮城、震度5弱。津波警報。
 震源三陸沖。震度、村山4、天童3、東京4。M7.3(=阪神大震災)。県内、停電なし。
12.13 「製本かい摘みましては」四釜さんって、山形そだちだったのか。。。
12.15 13:30、天童弱震。




*次週予告


第五巻 第二一号 
『日本歴史物語〈上〉』(六)喜田貞吉


第五巻 第二一号は、
二〇一二年一二月一五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第二〇号
日本歴史物語〈上〉(五)喜田貞吉
発行:二〇一二年一二月八日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
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