日本歴史物語〈上〉(二)
十、山幸彦 と海幸彦
天孫
十一、金鵄 の光
ところが、そのころ大和平野〔奈良盆地か〕には、
天皇はお船で瀬戸内海から、
「われは
天皇はこうお考えになりました。それで
このとき宇陀には
かくて大和平野もことごとく
天皇ご即位ののち、
天皇はまた前に申したとおり、
こんなありさまで、わが皇室の
十二、熊襲 と蝦夷 (一)
いわゆる四道将軍とは、
そんな
それでもなお遠く離れたところには、皇室のお
十三、熊襲 と蝦夷 (二)
今、天孫
わが国の石器時代には、
いまひとつの石器時代の住民は、西南は九州地方から、東は四国、中国、
こんなしだいで、石器時代の二つの
十四、熊襲 と蝦夷 (三)
同じ民族であっても、
そこで世の中には、これはだまし
熊襲の
「西の国には、わたくしどもよりも強いものは一人もありません。しかるに
と申し上げました。
十五、熊襲 と蝦夷 (四)
「もし
と、おおせられました。
日本武尊はこの二つの
かくいろいろの
その後も
しかしわが日本の盛んになりましたのは、じつはただこの
かくて第二十一代
十六、朝鮮 半島諸国 の服属
今は帝国の一部となっている
もちろんそのほかにも、まだどれにもつかない小さい国がいくらもありました。これらの小さい国が新羅の
かくて朝鮮には、
もともと朝鮮半島の住民の中には、わが出雲民族などと同じ流れのものが多く、国はそれぞれ別々に
はたして第十四代
十七、外人の渡来 と外国文化の輸入 (一)
わたくしども
シナ人でいちばん古く朝鮮半島に移住したのは、前に申した
この人たちは、朝鮮半島の西北部にある
その秦人のいた秦韓の地は、のちに新羅の国となったところですが、ここからはいちばん早く日本へ移住民がありました。
それは、むかし新羅の王子の天日槍という人が、新羅からわが国に
十八、外人の渡来 と外国文化の輸入 (二)
この
しからば、なぜそんなにたくさんに、そんな
しからばどんな場合に、そんなにたくさんな貴重な品がすっかり忘れられてしまうでしょう。これはその民族がまったく
天日槍が大国主神とたびたび戦争したというお話は、この新しく
このことは、なお
十九、外人の渡来 と外国文化の輸入 (三)
その後
しかしわが国の文化は、品物や学者や職人が朝鮮から
この
二十、外人の渡来 と外国文化の輸入 (四)
この
もと百二十県ともいわれたほどの多数の秦人が、どうしてその統一を
わが国における秦人の数はたいそう多く、雄略天皇がそのお世話をなさったころに調べましたら、九十二の組に
(つづく)
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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日本歴史物語〈上〉(二)
喜田貞吉-------------------------------------------------------
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十、山幸彦《やまさちびこ》と海幸彦《うみさちびこ》
天孫《てんそん》瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》が、日向《ひうが》の高千穗峯《たかちほのみね》にお降《くだ》りになりましてから御三代《ごさんだい》の間《あひだ》は、引《ひ》き續《つゞ》き日向《ひうが》の國《くに》においでになりました。尊《みこと》のお妃《きさき》の木花開耶姫《このはなさくやひめ》の親神《おやがみ》は、大山祇神《おほやまづみのかみ》と申《まを》して、山《やま》を御支配《ごしはい》になる神《かみ》です。またそのお子《こ》の彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》のお妃《きさき》は、豐玉姫《とよたまひめ》と申《まを》して、海《うみ》を御支配《ごしはい》になる綿津見神《わたつみのかみ》の御子《みこ》でした。これは山《やま》の神《かみ》も、海《うみ》の神《かみ》も、皆《みな》皇室《こうしつ》の御親類《ごしんるい》になりまして、たゞひとり稻《いね》のよく出來《でき》るといふ瑞穗《みづほ》の國《くに》の、平地《へいち》の場所《ばしよ》ばかりではなく、そのほかの、山《やま》も、海《うみ》も、皆《みな》天皇《てんのう》の御徳《おんとく》に從《したが》つたことを示《しめ》してゐるのであります。
木花開耶姫《このはなさくやひめ》は、御名《おんな》の通《とほ》り木《こ》の花《はな》の咲《さ》き盛《さか》つたような、至《いた》つてお美《うつく》しいお方《かた》でした。ところがそのお※[#「女+弟の下半分のような字」]《ねえ》さんに磐長姫《いはながひめ》と申《まを》して、御姿《おすがた》のおよろしくないお方《かた》がありました。瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》はこの磐長姫《いはながひめ》をお嫌《きら》ひになり、木花開耶姫《このはなさくやひめ》を妃《きさき》としてお選《えら》びになつたので、それから人間《にんげん》の命《いのち》は、木《こ》の花《はな》の開《さ》いてはやがて散《ち》るように、短《みじか》くなつたのだと申《まを》します。この時《とき》に若《も》し尊《みこと》が磐長姫《いはながひめ》をお妃《きさき》になさつたのであつたなら、人《ひと》の命《いのち》は磐《いはほ》のように、いつまでも/\、長《なが》く生《い》きられるのであつたと申《まを》すのです。併《しか》し若《も》し人間《にんげん》が生《うま》れるばかりで、いつまでも死《し》なないものであつたなら、この世《よ》の中《なか》はどうなつてゐるでせう。
瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》のお子《こ》の火闌降命《ほすせりのみこと》は、『海幸彦《うみさちびこ》』と申《まを》して、釣《つ》り針《ばり》を以《もつ》て海《うみ》で魚《うを》をお捕《と》りになる。又《また》その御弟《おんおとうと》の彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》は、『山幸彦《やまさちびこ》』と申《まを》して、弓矢《ゆみや》をもつて山《やま》で鳥《とり》や獸《けもの》をお獲《と》りになる。いつも/\同《おな》じ事《こと》ばかりをしてをられましたので、お互《たがひ》に飽《あ》きて來《き》まして、ある時《とき》御兄弟《ごきようだい》御相談《ごそうだん》の上《うへ》、釣《つ》り針《ばり》と弓矢《ゆみや》とをお取《と》りかへになりました。そして山幸彦《やまさちびこ》は海《うみ》へ、海幸彦《うみさちびこ》は山《やま》へと出《で》かけられましたが、どちらも慣《な》れぬ爲事《しごと》なものですから、一日《いちにち》かゝつて、一《ひと》つも獲物《えもの》がありませんでした。これはやはりもと通《どほ》りがよいと、火闌降命《ほすせりのみこと》は、弟神《おとうとがみ》の弓矢《ゆみや》を返《かへ》されました。併《しか》し困《こま》つたことには、彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》は、釣《つ》り針《ばり》を魚《うを》に取《と》られてしまつて、お返《かへ》しになることが出來《でき》ません。いろ/\とお詫《わ》びをなさいましたが、意地《いじ》の惡《わる》い火闌降命《ほすせりのみこと》は、どうしてもそれを御承知《ごしようち》になりません。仕方《しかた》がなく御自分《ごじぶん》のお腰《こし》の刀《かたな》をつぶして、千《せん》の釣《つ》り針《ばり》を作《つく》つてお返《かへ》しになりましたが、それでもやっぱり元《もと》のでなければいやだと言《い》はれます。いよ/\お困《こま》りになつて、若《も》しやそこらに落《お》ちてはゐまいかと、あてどもなく、泣《な》きながら海岸《かいがん》をうろついてをられますと、そこへ鹽椎翁《しほつちのおきな》といふお爺《ぢい》さんがやつて參《まゐ》りまして、そのわけを聞《き》いてお氣《き》の毒《どく》に思《おも》ひ、これを綿津見神《わたつみのかみ》の宮《みや》へとお送《おく》り申《まを》し上《あ》げました。綿津見神《わたつみのかみ》は海《うみ》を支配《しはい》する神《かみ》です。尊《みこと》はこの神《かみ》にお頼《たの》みになつて、すべての魚《うを》を集《あつ》めて調《しら》べてお貰《もら》ひになりますと、早速《さつそく》その釣《つ》り針《ばり》を喉《のど》にさして、困《こま》つてゐる魚《うを》が見《み》つかりました。そこで尊《みこと》はそれを返《かへ》してお貰《もら》ひになり、序《ついで》に三年《さんねん》の間《あひだ》、お客《きやく》としてこの宮《みや》に御逗留《ごとうりゆう》の上《うへ》、綿津見神《わたつみのかみ》のお子《こ》の豐玉姫《とよたまひめ》をお妃《きさき》として、釣《つ》り針《ばり》の外《ほか》に、いろ/\寶物《たからもの》をお土産《みやげ》に貰《もら》つて、お歸《かへ》りになりました。かうなればもはや尊《みこと》の方《ほう》が大威張《おほいば》りです。意地《いじ》の惡《わる》い火闌降命《ほすせりのみこと》も、今《いま》は尊《みこと》の御威徳《ごいとく》に恐《おそ》れ入《い》つて降參《こうさん》し、犬《いぬ》に代《かは》つて尊《みこと》のお宮《みや》の御門《ごもん》を衞《まも》ることになりましたと申《まを》します。昔《むかし》九州《きゆうしゆう》の南《みなみ》の方《ほう》には、隼人《はやと》といふ人《ひと》たちがをりまして、代《かは》りあつて京都《きようと》へ出《で》て、宮城《きゆうじよう》の御門《ごもん》を衞《まも》つたり、天皇《てんのう》行幸《みゆき》の時《とき》に、お道筋《みちすぢ》を護《まも》つたりするお役《やく》をつとめてをりましたが、これは火闌降命《ほすせりのみこと》の子孫《しそん》で、代々《だい/\》先祖《せんぞ》の例《れい》をついでゐたのだとのことでございます。
十一、金鵄《きんし》の光《ひかり》
彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》のお子《こ》が鵜草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》、鵜草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》のお子《こ》が、神武《じんむ》天皇《てんのう》であらせられます。天皇《てんのう》のまだお若《わか》い頃《ころ》までは、天孫《てんそん》降臨《こうりん》以來《いらい》、引《ひ》きつゞき日向《ひうが》の國《くに》においでになりましたが、そこはあまりに西南《にしみなみ》の端《はし》に片《かた》よりすぎて、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》からお任《まか》せを受《う》けたこの豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と平《たひら》かにお治《をさ》めになるには、御都合《ごつごう》がおよろしくない。遠方《えんぽう》の國々《くに/″\》には、まだ強《つよ》いものがたくさんゐて、弱《よわ》いものを從《したが》へて、お互《たがひ》に爭《あらそ》つてゐるといふようなあり樣《さま》でした。そこで天皇《てんのう》は、御兄樣《おにいさま》がたと御一《ごいつ》しよに、日本《につぽん》の眞中《まんなか》の、大和《やまと》の國《くに》にお移《うつ》りになり、それからだん/\、四方《しほう》の國々《くに/″\》をお平《たひら》げになりたいとのお考《かんが》へで、日向《ひうが》をあとに、海路《うみぢ》を、東《ひがし》へ/\とお進《すゝ》みになりました。
ところが、その頃《ころ》大和《やまと》平野《へいや》には、長髓彦《ながすねひこ》を始《はじ》めとして、強《つよ》いものが大《おほ》ぜいをりまして、天皇《てんのう》のお移《うつ》りになる事《こと》を拒《こば》みます。中《なか》にも長髓彦《ながすねひこ》は、これもやはり天津神《あまつかみ》のお子《こ》の饒速日命《にぎはやひのみこと》といふお方《かた》をいたゞいて、勢力《せいりよく》が最《もつと》も盛《さか》んでした。
天皇《てんのう》はお船《ふね》で瀬戸内海《せとないかい》から、浪速《なには》にお着《つ》きになりました。浪速《なには》とは今《いま》の大阪《おほさか》の事《こと》です。今《いま》の大阪《おほさか》附近《ふきん》の平地《へいち》は、その後《ご》だん/\と、淀川《よどがは》や、大和川《やまとがは》から流《なが》れて來《く》る砂《すな》が、積《つも》り積《つも》つて出來《でき》たので、その頃《ころ》には、大阪灣《おほさかわん》はまだ/\東《ひがし》の方《ほう》まで入《い》り込《こ》み、大和川《やまとがは》がそこへ流《なが》れ込《こ》んでゐたのでした。そこで天皇《てんのう》は、河内《かはち》の日下《くさか》といふところまで、船《ふね》でお進《すゝ》みになり、河内《かはち》と大和《やまと》との境《さかひ》の、生駒山《いこまやま》を越《こ》えて、大和《やまと》平野《へいや》へおはひりにならうとなさいますと、長髓彦《ながすねひこ》がこれを防《ふせ》いで、戰爭《せんそう》になりました。この戰爭《せんそう》は、天皇《てんのう》の軍《ぐん》の御敗北《ごはいぼく》で、おいたはしくも御兄樣《おあにいさま》の五瀬命《いつせのみこと》は、敵《てき》の箭《や》に中《あた》つたのがもとで、つひにおなくなりになりました。
「我《われ》は日《ひ》の神《かみ》の子孫《しそん》として、日《ひ》の進《すゝ》む方《ほう》に逆《さか》らつて、西《にし》から東《ひがし》へ向《むか》つて進《すゝ》んだから惡《わる》かつたのだ。これから南《みなみ》へ大《おほ》まはりして、日《ひ》の神《かみ》の威光《いこう》を背《せ》に負《お》うて、東《ひがし》の方《ほう》から大和《やまと》平野《へいや》に進入《しんにゆう》しよう」
天皇《てんのう》はかうお考《かんが》へになりました。それで紀伊《きい》の方《ほう》から、熊野《くまの》の山《やま》の中《なか》を過《す》ぎて、大和《やまと》の東部《とうぶ》、宇陀《うだ》といふところへお出《い》でになりました。何《なに》しろ木《き》が森々《しん/\》と繁《しげ》つた、道《みち》もない山《やま》の中《なか》で、どちらへ行《い》つたがよいか、方角《ほうがく》さへもよくわかりません。お困《こま》りになつてをられますと、そこへ八咫烏《やたがらす》といふ大《おほ》きな烏《からす》があらはれて、御案内《ごあんない》を致《いた》しました。その烏《からす》の飛《と》ぶ方《ほう》について、大伴氏《おほともうぢ》の先祖《せんぞ》の道臣命《みちのおみのみこと》が、木《き》を伐《き》り、道《みち》を開《ひら》いて、御無事《ごぶじ》に大和《やまと》平野《へいや》の東《ひがし》の方《ほう》の、宇陀《うだ》にお着《つ》きになつたのです。
この時《とき》宇陀《うだ》には、兄猾《えうかし》、弟猾《おとうかし》、又《また》その西《にし》の磯城《しき》といふところには、兄磯城《えしき》、弟磯城《おとしき》など、その外《ほか》にも、大和《やまと》平野《へいや》には、たくさんの強《つよ》いものがゐました。その中《なか》で弟猾《おとうかし》と弟磯城《おとしき》とが、先《ま》づ天皇《てんのう》にお從《したが》ひ申《まを》して、忠義《ちゆうぎ》をつくしましたので、天皇《てんのう》は、御命令《ごめいれい》に從《したが》はない兄猾《えうかし》、兄磯城《えしき》等《など》を滅《ほろ》ぼされまして、いよ/\長髓彦《ながすねひこ》を御征伐《ごせいばつ》なさることとなりました。併《しか》し長髓彦《ながすねひこ》はなか/\強《つよ》くて、容易《ようい》にお勝《か》ちになることが出來《でき》ません。ところへ不思議《ふしぎ》や、忽《たちま》ち空《そら》が眞暗《まつくら》になつて、恐《おそ》ろしい雹《ひよう》が降《ふ》り出《だ》し、金色《きんいろ》の鵄《とび》があらはれて、天皇《てんのう》のお弓《ゆみ》の弭《ゆはず》に止《と》まりました。その光《ひかり》がきら/\と、稻光《いなびかり》のように輝《かゞや》くので、敵《てき》の兵隊《へいたい》は目《め》が眩《くら》んで、向《むか》ふことが出來《でき》なくなり、つひに天皇《てんのう》の軍《ぐん》の大勝利《だいしようり》となりました。今《いま》の金鵄《きんし》勳章《くんしよう》は、このめでたい大勝利《だいしようり》を記念《きねん》して、戰爭《せんそう》の時《とき》勳功《くんこう》の殊《こと》に著《いちじる》しいものに與《あた》へて、その名譽《めいよ》をあらはす爲《ため》に、明治《めいじ》の御代《みよ》に御定《おさだ》めになつた勳章《くんしよう》です。
饒速日命《にぎはやひのみこと》は、天皇《てんのう》と同《おな》じく天津神《あまつかみ》の御子《おこ》で、はやく大和《やまと》へ降《くだ》つてをられたのではありますが、天皇《てんのう》の方《ほう》が、この豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と、平《たひら》かにお治《をさ》めになるようにと、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》から御命令《ごめいれい》を受《う》けて、お降《くだ》りになりました天孫《てんそん》の御正統《ごせいとう》のお方《かた》であらせられるので、命《みこと》はいさぎよくこれに從《したが》ひ奉《たてまつ》るようにと、長髓彦《ながすねひこ》におすゝめになりましたけれども、長髓彦《ながすねひこ》は頑固《がんこ》で、どうしてもそれを聞《き》き入《い》れません。そこで命《みこと》は致《いた》し方《かた》なく、長髓彦《ながすねひこ》を殺《ころ》して、高天原《たかまがはら》からお降《くだ》りの時《とき》にお持《も》ちになつた、十種《としな》の寳物《たからもの》を獻上《けんじよう》して、天皇《てんのう》にお仕《つか》へ申《まを》すことになりました。
[#図版(03.png)]
かくて大和《やまと》平野《へいや》も、悉《こと/″\》く平《たひら》ぎましたので、天皇《てんのう》は畝傍山《うねびやま》の東南《ひがしみなみ》の、橿原《かしはばら》といふ所《ところ》に宮殿《きゆうでん》をお建《た》てになり、初《はじ》めて御即位《ごそくい》の大禮《たいれい》を行《おこな》はせられました。これは今年《ことし》戊辰《つちのえたつ》の年《とし》から、二千五百《にせんごひやく》八十八年《はちじゆうはちねん》前《まへ》の、辛酉《かのととり》の年《とし》、正月《しようがつ》の元日《がんじつ》であります。これを我《わ》が國《くに》では紀元《きげん》元年《がんねん》と定《さだ》め、その正月《しようがつ》元日《がんじつ》は、今《いま》の暦《こよみ》にあてますと、二月《にがつ》十一日《じゆういちにち》になりますから、その日《ひ》を紀元節《きげんせつ》として、お祝《いは》ひ申《まを》す事《こと》になつてをります。又《また》そのお宮《みや》のあつた橿原《かしはばら》の地《ち》には、明治《めいじ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に橿原《かしはばら》神宮《じんぐう》を建《た》てゝ、神武《じんむ》天皇《てんのう》をお祭《まつ》り申《まを》すことゝなりました。
天皇《てんのう》御即位《ごそくい》の後《のち》、手柄《てがら》のあつた人々《ひと/″\》にそれ/″\賞《しよう》をお與《あた》へになりました。その中《なか》には、海路《かいろ》の御案内《ごあんない》を申《まを》した珍彦《うつひこ》といふ土人《どじん》や、大和《やまと》にあつて早《はや》く天皇《てんのう》にお從《したが》ひ申《まを》した弟猾《おとうかし》、弟磯城《おとしき》などの土人《どじん》もありまして、それ/″\國造《くにのみやつこ》とか、縣主《あがたぬし》とかに任《にん》ぜられました。國造《くにのみやつこ》とか、縣主《あがたぬし》とかいふのは、ともに一地方《いつちほう》の領主《りようしゆ》で、代々《だい/\》その土地《とち》にをつて、人民《じんみん》を支配《しはい》して、天皇《てんのう》にお仕《つか》へ申《まを》したものです。
天皇《てんのう》は又《また》、前《まへ》に申《まを》した通《とほ》り、事代主神《ことしろぬしのかみ》の御子《おこ》の、媛蹈鞴五十鈴媛命《ひめたゝらいすゞひめのみこと》と申《まを》されるお方《かた》を、皇后《こうごう》としてお迎《むか》へになりました。一説《いつせつ》に大國主神《おほくにぬしのかみ》の御子《おこ》だともありますが、いづれに致《いた》しても、天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》に、すでに大國《おほくに》の主《ぬし》として、この國土《こくど》や人民《じんみん》を領《りよう》し、それをいさぎよく天孫《てんそん》に奉《たてまつ》つたと申《まを》す名家《めいか》で、國津神《くにつかみ》の代表者《だいひようしや》とも申《まを》すべき御家柄《おいへがら》でした。
こんなあり樣《さま》で、我《わ》が皇室《こうしつ》の起《おこ》りは、強《つよ》いものが暴力《ぼうりよく》で土人《どじん》を苦《くる》しめ、その國《くに》を奪《うば》つたといふような次第《しだい》ではありませんでした。くりかへして申《まを》す通《とほ》り、もと/\我《わ》が國《くに》には統一《とういつ》がなくて、お互《たがひ》に相《あひ》爭《あらそ》ひ、みんなが苦《くる》しんでをつたといふばかりでなく、世《よ》の中《なか》も開《ひら》けず、生活《せいかつ》も豐《ゆたか》でなく、まことに氣《き》の毒《どく》な樣子《ようす》であつたこの豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と平《たひら》かにお治《をさ》めになつて、すべてが幸福《こうふく》になるようにとの、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御命令《ごめいれい》によつて、これを統一《とういつ》なさらうといふ爲《ため》でした。それ故《ゆゑ》に、どこまでも抵抗《ていこう》して、邪魔《じやま》になるものは、やむを得《え》ずお殺《ころ》しにもなりましたが、命《めい》を奉《ほう》じて忠義《ちゆうぎ》をつくしたものは、土人《どじん》であつても、それ/″\一地方《いつちほう》の領主《りようしゆ》とお取《と》り立《た》てになる。皇后《こうごう》も、前《まへ》からこの國《くに》にをられた名家《めいか》からお迎《むか》へになる。もちろん日向《ひうが》からお供《とも》をして、大和《やまと》御平定《ごへいてい》に功《こう》の多《おほ》かつた道臣命《みちのおみのみこと》をはじめとして、有功《ゆうこう》の人々《ひと/″\》が、御優待《ごゆうたい》に預《あづ》かつた事《こと》は申《まを》すまでもありません。長髓彦《ながすねひこ》を殺《ころ》してお從《したが》ひ申《まを》した、饒速日命《にぎはやひのみこと》の如《ごと》きは、特《とく》に御信頼《ごしんらい》になつて、宮中《きゆうちゆう》をお護《まも》り申《まを》す近衞《このえ》のお役《やく》をお任《まか》せになりました。それから後《のち》、その子孫《しそん》の物部氏《ものゝべし》は、道臣命《みちのおみのみこと》の子孫《しそん》の大伴氏《おほともし》と相《あひ》並《なら》んで、久《ひさ》しく皇室《こうしつ》と國家《こつか》とをお護《まも》り申《まを》す兵隊《へいたい》の頭《かしら》となりました。
十二、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(一)
人皇《にんのう》第一代《だいいちだい》神武《じんむ》天皇《てんのう》が大和《やまと》平野《へいや》をお定《さだ》めになり、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》かれましてから後《のち》、綏靖《すいぜい》、安寧《あんねい》、懿徳《いとく》、孝昭《こうしよう》、孝安《こうあん》、孝靈《こうれい》、孝元《こうげん》、開化《かいか》と、御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》の御徳澤《ごとくたく》は、次《つ》ぎから次《つ》ぎへと及《およ》びまして、日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》は、だん/\と廣《ひろ》くなり、その住民《じゆうみん》は、次第《しだい》に日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつて參《まゐ》りました。それでもまだ遠方《えんぽう》には、天皇《てんのう》の御徳《おんとく》のありがたいことを知《し》らず、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》に加《くは》はることの幸福《こうふく》を解《かい》せず、昔《むかし》のまゝに、相變《あひかは》らず氣《き》の毒《どく》な生活《せいかつ》をしてゐるものも、たくさんにありました。これでは天照《あまてらす》大神《おほみかみ》のお指《さ》し圖《ず》通《どほ》りに、豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安國《やすくに》と平《たいら》かにお治《をさ》めになるといふことには、まだ/\不十分《ふじゆうぶん》でありました。そこで神武《じんむ》天皇《てんのう》から第十代目《だいじゆうだいめ》の崇神《すじん》天皇《てんのう》は、皇族《こうぞく》のお方々《かた/″\》を四方《しほう》におつかはしになりまして、まだ從《したが》つてゐないものを教《をし》へ、導《みちび》き、どうしても命《めい》を奉《ほう》じないものは、これを征伐《せいばつ》せしめられました。これを『四道《しどう》將軍《しようぐん》』と申《まを》します。
いはゆる四道《しどう》將軍《しようぐん》とは、孝元《こうげん》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》大彦命《おほひこのみこと》、大彦命《おほひこのみこと》のお子《こ》の武渟川別命《たけぬなかはわけのみこと》、開化《かいか》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》彦坐王《ひこいますおう》のお子《こ》の丹波道主命《たにはのみちのうしのみこと》、孝靈《こうれい》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》吉備津彦命《きびつひこのみこと》です。天皇《てんのう》は又《また》御子《おこ》の豐城入彦命《とよきいりひこのみこと》を東國《とうごく》へおつかはしになり、これを治《をさ》めしめられました。この四道《しどう》將軍《しようぐん》や、皇子《おうじ》たちを、方々《ほう/″\》へおつかはしになりました結果《けつか》として、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》はます/\遠方《えんぽう》にまで及《およ》びました。帝國《ていこく》の領分《りようぶん》は大《たい》そう廣《ひろ》くなりました。
そんな勢《いきほひ》でありましたから、この御代《みよ》の末《すゑ》には、朝鮮《ちようせん》の方《ほう》からも、天皇《てんのう》のお助《たす》けを願《ねが》つて參《まゐ》りました程《ほど》で、それで崇神《すじん》天皇《てんのう》の御事《おんこと》を、『初國《はつくに》知《し》らす天皇《すめらみこと》』と申《まを》し上《あ》げました。初《はじ》めて大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》をお治《をさ》めになる天皇《てんのう》と申《まを》す意味《いみ》です。
それでもなほ遠《とほ》く離《はな》れた所《ところ》には、皇室《こうしつ》のお手《て》が屆《とゞ》かず、天皇《てんのう》の御徳澤《ごとくたく》に浴《よく》する機會《きかい》を得《え》ずして、熊襲《くまそ》だとか、蝦夷《えぞ》だとか呼《よ》ばれた土人《どじん》が、たくさん住《す》んでをりました。熊襲《くまそ》は西南《にしみなみ》の、九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》に、蝦夷《えぞ》は東北《ひがしきた》の、奧羽《おうう》地方《ちほう》にゐたのです。この熊襲《くまそ》も、また蝦夷《えぞ》も、天孫《てんそん》降臨《こうりん》の以前《いぜん》からこの國《くに》に住《す》んでゐたものどもで、ずっと大昔《おほむかし》には、廣《ひろ》い中央《ちゆうおう》の地方《ちほう》にまでも廣《ひろ》がつてゐたのですが、だん/\と天皇《てんのう》の御徳《おんとく》に從《したが》つて、中央《ちゆうおう》に近《ちか》い所《ところ》から、次第《しだい》に日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつてしまつて、後《のち》には日本《につぽん》の兩方《りようほう》の端《はし》に、まだ土人《どじん》のまゝで取《と》り遺《のこ》されることになつてゐたのです。
十三、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(二)
今《いま》天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》の樣子《ようす》を考《かんが》へて見《み》ますと、すでに多《おほ》くの人々《ひと/″\》が、各地《かくち》に住《す》んでをりましたけれども、かれ等《ら》はまだ金屬《かね》を使《つか》ふことを知《し》らないで、石《いし》で刄物《はもの》を作《つく》るといふような、至《いた》つて不自由《ふじゆう》な、開《ひら》けない生活《せいかつ》をしてをりました。それは今《いま》も方々《ほう/″\》の土《つち》の中《なか》から、石《いし》の鏃《やじり》や、石《いし》の斧《をの》、石《いし》の庖丁《ほうちよう》、石《いし》の刀《かたな》などが出《で》て來《く》るのでわかります。そんな時代《じだい》を『石器《せつき》時代《じだい》』と申《まを》します。
我《わ》が國《くに》の石器《せつき》時代《じだい》には、少《すくな》くも二《ふた》つの筋《すぢ》の違《ちが》つた民族《みんぞく》が住《す》んでをりました。一《ひと》つは今《いま》も北海道《ほつかいどう》にゐて、アイヌと呼《よ》ばれてゐる人《ひと》たちと、同《おな》じ筋《すぢ》のものでありまして、むかし奧羽《おうう》地方《ちほう》に住《す》んで、歴史《れきし》の上《うへ》で『蝦夷《えぞ》』といはれてゐた人《ひと》たちも、やはり同《おな》じ流《なが》れのものでした。かれ等《ら》は大《たい》そう毛《け》が多《おほ》いので、毛人《けびと》ともいはれ、むかし北陸《ほくろく》地方《ちほう》にゐて、『越人《こしびと》』などといはれたものも、同《おな》じ筋《すぢ》のものでありますが、遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》には、ひとり東北《とうほく》の奧羽《おうう》地方《ちほう》や、北陸《ほくろく》地方《ちほう》にばかりでなく、關東《かんとう》地方《ちほう》から、本州《ほんしゆう》中部《ちゆうぶ》、近畿《きんき》地方《ちほう》、中國《ちゆうごく》、四國《しこく》を經《へ》て、西南《せいなん》は九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》のはてにまでも、廣《ひろ》く住《す》んでゐたのでありました。今《いま》にそのあとは所々《ところ/″\》に遺《のこ》つてをります。かれ等《ら》は、この日本《につぽん》の島國《しまぐに》へ、一番《いちばん》初《はじ》めに來《き》て住《す》んでゐたものでありませう。かれ等《ら》はまだ農業《のうぎよう》を知《し》らず、魚《さかな》を捕《と》つたり、鳥獸《とりけもの》を獲《と》つたりして、生活《せいかつ》してゐましたが、しかし手藝《てわざ》の方《ほう》は餘程《よほど》進歩《しんぽ》してをりまして、かれ等《ら》の使《つか》つてゐた土器《どき》などには、こゝの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し繪《え》にあるように、今日《こんにち》の人《ひと》でも容易《ようい》に眞似《まね》の出來《でき》ぬほどの、よほど見事《みごと》な品《しな》がたくさんあります。
今一《いまひと》つの石器《せつき》時代《じだい》の住民《じゆうみん》は、西南《にしみなみ》は九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》から、東《ひがし》は四國《しこく》、中國《ちゆうごく》、近畿《きんき》地方《ちほう》を經《へ》て、本州《ほんしゆう》中部《ちゆうぶ》地方《ちほう》にまで廣《ひろ》がつてゐたもので、關東《かんとう》地方《ちほう》にも幾《いく》らかそのあとが遺《のこ》つてをりますが、石器《せつき》時代《じだい》には、まだ奧羽《おうう》地方《ちほう》にまでは及《およ》んでをりませんでした。かれ等《ら》は後《のち》に出雲《いづも》の地方《ちほう》に盛《さか》んになりまして、これに關《かん》するお話《はなし》が、多《おほ》くこの地方《ちほう》に遺《のこ》つてをりますから、普通《ふつう》に『出雲《いづも》民族《みんぞく》』などといはれてをりますが、しかしその住《す》んでゐた所《ところ》が、出雲《いづも》あたりにのみ限《かぎ》つてゐなかつたことは、その石器《せつき》時代《じだい》のあとが、廣《ひろ》く方々《ほう/″\》に遺《のこ》つてゐることでわかります。かれ等《ら》はアイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》の次《つ》ぎに、この島國《しまぐに》へ渡《わた》つて來《き》ましたもので、だん/\と前《まへ》からゐたこのアイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》を從《したが》へましたが、まだ奧羽《おうう》地方《ちほう》にまでは手《て》が屆《とゞ》かず、こゝには蝦夷《えぞ》が盛《さか》んに殖《ふ》えて來《き》たものと見《み》えます。前《まへ》に述《の》べた素戔嗚尊《すさのをのみこと》が、出雲《いづも》の簸《ひ》の川上《かはかみ》で、高志《こし》の八岐《やまた》の大蛇《をろち》を退治《たいじ》なされたといふお話《はなし》は、この出雲《いづも》民族《みんぞく》が、前《まへ》からゐた越人《こしびと》即《すなはち》、アイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》に苦《くる》しめられてゐたこと、また後《のち》にそれを從《したが》へるようになつたことを、語《かた》つてゐるものでありませう。また出雲《いづも》の大國主神《おほくにぬしのかみ》が、越《こし》の沼河姫《ぬながはひめ》をお妃《きさき》となされたといふお話《はなし》は、出雲《いづも》民族《みんぞく》が、アイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》と爭《あらそ》つたばかりでなく、一方《いつぽう》では平和《へいわ》に、親類《しんるい》づきあひをして、これを同《おな》じ仲間《なかま》にしたことを、語《かた》つてゐるものと思《おも》はれます。
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こんな次第《しだい》で、石器《せつき》時代《じだい》の二《ふた》つの違《ちが》つた民族《みんぞく》も、だん/\とお互《たがひ》の間《あひだ》に關係《かんけい》が出來《でき》て參《まゐ》りましたが、しかしこれを一《ひと》つにして、幸福《こうふく》なる國家《こつか》をなすといふように、偉《えら》いものもなく、相變《あひかは》らず、強《つよ》い者《もの》がお互《たがひ》に境《さかひ》を分《わか》つて、爭《あらそ》つてゐたといふ、氣《き》の毒《どく》なあり樣《さま》でした。そこへ天孫《てんそん》の御降臨《ごこうりん》はあつたのです。そして神武《じんむ》天皇《てんのう》は、これを「安國《やすくに》と平《たひら》けく治《しろ》しめせ」との、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の神勅《みことのり》を完《まつた》う遊《あそ》ばされるために、大和《やまと》にお移《うつ》りになりました。かくて天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》は、次第《しだい》に遠方《えんぽう》に及《およ》んで、日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》も廣《ひろ》まり、前《まへ》からゐた人《ひと》たちも、だんだんと日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》入《い》りをしたのでありました。しかし土地《とち》が遠《とほ》く離《はな》れて、まだ皇室《こうしつ》の御惠《おめぐ》みの行《ゆ》き屆《とゞ》かない西南《にしみなみ》の端《はし》の、九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》には熊襲《くまそ》が、また東北《ひがしきた》の端《はし》の奧羽《おうう》地方《ちほう》などには蝦夷《えぞ》が、もとのまゝに取《と》り遺《のこ》されてゐたのです。蝦夷《えぞ》が石器《せつき》時代《じだい》以來《いらい》のアイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》であることは、前《まへ》にすでに述《の》べましたが、熊襲《くまそ》は、人種《じんしゆ》の上《うへ》からは、大國主神《おほくにぬしのかみ》などと同《おな》じく、これも石器《せつき》時代《じだい》以來《いらい》の出雲《いづも》民族《みんぞく》の系統《けいとう》に屬《ぞく》するものであつたと見《み》えます。
十四、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(三)
崇神《すじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》が、廣《ひろ》く遠方《えんぽう》にまで及《およ》んで、我《わ》が日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》も、大《たい》そう大《おほ》きくなり、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》も殖《ふ》えて參《まゐ》りましたので、次《つ》ぎの第十一代《だいじゆういちだい》垂仁《すいにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、それらの地方《ちほう》の政治《せいじ》にお力《ちから》をおつくしになり、農業《のうぎよう》を御奬勵《ごしようれい》になつて、國民《こくみん》の幸福《こうふく》の基《もとゐ》をお定《さだ》めになりました。かくてその次《つ》ぎの第十二代《だいじゆうにだい》景行《けいこう》天皇《てんのう》の御代《みよ》に至《いた》つて、日本武尊《やまとたけるのみこと》の、熊襲《くまそ》や蝦夷《えぞ》の御征伐《ごせいばつ》といふようなことがあつて、皇威《こうい》の大發展《だいはつてん》が行《おこな》はれました。
同《おな》じ民族《みんぞく》であつても、都《みやこ》に近《ちか》くゐたものは、はやく天皇《てんのう》の御徳《おんとく》に從《したが》つて、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》に入《い》り、日本《につぽん》帝國《ていこく》の臣民《しんみん》として、幸福《こうふく》な身分《みぶん》となつてをりますが、遠《とほ》く離《はな》れた九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の熊襲《くまそ》や、奧羽《おうう》地方《ちほう》の蝦夷《えぞ》などは、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》入《い》りをしないのみならず、かへつてしばしば人民《じんみん》に害《がい》を加《くは》へます。これは國家《こつか》として、困《こま》つたものであるばかりでなく、かれ等《ら》自身《じしん》のためにも、まことに氣《き》の毒《どく》な次第《しだい》であるといはねばなりません。そこで景行《けいこう》天皇《てんのう》は、皇子《おうじ》小碓尊《をうすのみこと》に勅《みことのり》して、先《ま》づ九州《きゆうしゆう》の熊襲《くまそ》をお討《う》たせになりました。教《をし》へても、諭《さと》しても、どうしても命《めい》を奉《ほう》ぜぬような頑固《がんこ》なものは、これを國家《こつか》の敵《てき》として、兵隊《へいたい》の力《ちから》をもつてでも、これを從《したが》へねばなりません。しかし我《わ》が國家《こつか》の大方針《だいほうしん》は、敵《てき》を滅《ほろぼ》してその國《くに》を奪《うば》ふといふのではなく、これを從《したが》へて、一方《いつぽう》ではかれ等《ら》を幸福《こうふく》ならしめ、一方《いつぽう》では國家《こつか》の利益《りえき》をはかるといふ、いはゆる自他《じた》の福利《ふくり》を増進《ぞうしん》せしめんとするものでありますから、なるべく戰爭《せんそう》を避《さ》け、實際《じつさい》やむを得《え》ぬもののみを殺《ころ》して、他《ほか》の者《もの》を痛《いた》めないといふ方法《ほうほう》を取《と》りました。されば小碓尊《をうすのみこと》は、この時《とき》御年《おんとし》僅《わづか》にお十六歳《じゆうろくさい》の、至《いた》つてお可愛《かわい》らしい少年《しようねん》であらせられましたから、それを利用《りよう》して、少女《をとめ》のお姿《すがた》にお身《み》をやつし、熊襲《くまそ》の頭《かしら》の酒宴《さかもり》の席《せき》に交《まじ》つて、酒《さけ》をすゝめてこれを醉《よ》はしめ、ふいにこれをお殺《ころ》しになりました。
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そこで世《よ》の中《なか》には、これは欺《だま》し討《う》ちである、卑怯《ひきよう》な行《おこな》ひであるなどといふものもないではありませんが、それは我《わ》が國家《こつか》の大方針《だいほうしん》を知《し》らないものゝ批評《ひひよう》です。もと/\我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》は、至《いた》つて平和好《へいわず》きの民族《みんぞく》です。日本《につぽん》の神々《かみ/″\》は、血《ち》を見《み》る事《こと》が一等《いつとう》お嫌《きら》ひでありました。神《かみ》を祭《まつ》る時《とき》に、一番《いちばん》謹《つゝし》まねばならぬのは、血《ち》の穢《けが》れに觸《ふ》れることであるとまでいはれてをりますのも、畢竟《ひつきよう》これが爲《ため》であります。小碓尊《をうすのみこと》は熊襲《くまそ》の頭《かしら》のみを殺《ころ》して、その下《した》についてゐる、多《おほ》くの民衆《みんしゆう》をお助《たす》けになり、その國《くに》を平《たひら》げて、之《これ》を日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》に加《くは》へ、その民衆《みんしゆう》をいつくしんで、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》にお入《い》れになりました。「豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を安國《やすくに》と平《たひら》けく治《しろ》しめせ」といふ天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の神勅《みことのり》は、こんな工合《ぐあひ》にして、だん/\と實現《じつげん》されて行《ゆ》くのです。たとへば外科《げか》手術《しゆじゆつ》を行《おこな》ふにしましても、今日《こんにち》の文明《ぶんめい》時代《じだい》の外科《げか》醫者《いしや》は、その場所《ばしよ》に麻醉劑《ますいざい》を注射《ちゆうしや》したり、或《あるひ》は全身《ぜんしん》を麻醉《ますい》させたりして、なるべく患者《かんじや》の痛《いた》みを少《すくな》くするように、なるべく他《ほか》に影響《えいきよう》を及《およ》ぼさぬようにと、心《こゝろ》がけるようなものです。ちよっと見《み》ると卑怯《ひきよう》なように見《み》えましても、決《けつ》してさうではありません。これがお惠《めぐみ》の軍《いくさ》と申《まを》すものです。景行《けいこう》天皇《てんのう》の勅《みことのり》に、「今《いま》兵《へい》を興《おこ》すことが少《すくな》ければ、賊《ぞく》を滅《ほろ》ぼすに足《た》らず、さりとて多《おほ》く兵《へい》を動《うご》かすは、これ百姓《ひやくしよう》の害《がい》である。願《ねが》はくは刄《やいば》の威《い》を借《か》らずして、ゐながらにしてその國《くに》を平《たひら》げたい」とも、「これに示《しめ》すに威《い》をもつてし、これを懷《なづ》くるに徳《とく》をもつてし、兵《つはもの》を煩《わづら》はさずして、從《したが》はしめたい」ともありますのは、まったくこれが爲《ため》です。もちろん萬《ばん》やむを得《え》ぬ時《とき》は、戰爭《せんそう》も敢《あへ》て辭《じ》する所《ところ》ではありませんが、なるべく戰《たゝか》はずして、平定《へいてい》の目的《もくてき》を達《たつ》したいといふのであります。
熊襲《くまそ》の頭《かしら》の殺《ころ》される時《とき》に、かれは小碓尊《をうすのみこと》が少年《しようねん》の御身《おんみ》をもつて、たゞお一人《ひとり》で大勢《おほぜい》の敵《てき》の中《なか》に入《い》り、頭《かしら》をお刺《さ》しになつた勇氣《ゆうき》に感心《かんしん》しまして、
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「西《にし》の國《くに》には私共《わたくしども》よりも強《つよ》いものは一人《ひとり》もありません。しかるに日本《やまと》には、私共《わたくしども》にも増《ま》してお強《つよ》いお方《かた》がおありになる。どうかこれから、日本武尊《やまとたけるのみこと》と仰《おほ》せられますように」
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と申《まを》し上《あ》げました。『日本武《やまとたける》』とは、日本《につぽん》の武勇《ぶゆう》勝《すぐ》れたお方《かた》と申《まを》すことです。
十五、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(四)
日本武尊《やまとたけるのみこと》は熊襲《くまそ》を御平定《ごへいてい》になりまして、お歸《かへ》りになります道々《みち/\》にも、ところ/″\で、山《やま》や、河《かは》や、海峽《かいきよう》などによつて、人民《じんみん》をなやますものどもをお平《たひら》げになり、最後《さいご》に東國《とうごく》の蝦夷《えぞ》を御征伐《ごせいばつ》にお向《むか》ひになりました。その御途中《おんとちゆう》に、伊勢《いせ》の皇大神宮《こうたいじんぐう》に參拜《さんぱい》して、御叔母樣《おんをばさま》の倭姫命《やまとひめのみこと》にお暇乞《いとまご》ひを申《まを》されましたところが、命《みこと》は神宮《じんぐう》の天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》を御身《おんみ》の護《まも》りとして、御授《おんさづ》けになり、また別《べつ》に一《ひと》つの嚢《ふくろ》をお與《あた》へになりまして、
「もし急《きゆう》なことがあつたなら、この嚢《ふくろ》をあけて御覽《ごらん》なさい」
と仰《おほ》せられました。
日本武尊《やまとたけるのみこと》はこの二《ふた》つの贈《おく》り物《もの》をお持《も》ちになつて、行《ゆ》く/\道筋《みちすぢ》の從《したが》はぬものどもをお從《したが》へになり、駿河《するが》の國《くに》までおいでになりました。ところが、そこの頭《かしら》が、尊《みこと》を殺《ころ》し奉《たてまつ》らうとして、鹿狩《しかが》りをおすゝめして、野原《のはら》の中《なか》に尊《みこと》をお誘《さそ》ひ申《まを》し、四方《しほう》から火《ひ》をつけて燒《や》きたてました。ぐるり[#「ぐるり」に傍点]に火《ひ》は燃《も》えてゐます。尊《みこと》はもはやお遁《のが》れになる途《みち》もありません。そこで思《おも》ひ出《だ》されましたのは、倭姫命《やまとひめのみこと》から贈《おく》られた嚢《ふくろ》、今《いま》こそ開《ひら》くべき急《きゆう》な場合《ばあひ》よと、嚢《ふくろ》の口《くち》を解《と》けば、中《なか》に火打《ひう》ちがありました。そこで尊《みこと》は天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》を拔《ぬ》いて、御身《おんみ》のまはりの草《くさ》を薙《な》ぎ拂《はら》ひ、また火打《ひう》ちを打《う》つて火《ひ》を出《だ》し、先《さき》の方《ほう》の草《くさ》に向《むか》ひ火《ひ》をおつけになりましたところが、その火《ひ》が盛《さか》んに反對《はんたい》の方《ほう》に燃《も》えて行《い》つて、尊《みこと》は御無事《ごぶじ》に危難《きなん》をお免《まぬが》れになり、かへつて敵《てき》の方《ほう》が燒《や》かれました。このことがあつてから、天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》を『草薙劒《くさなぎのつるぎ》』と申《まを》し、その野火《のび》のあつた所《ところ》を燒津《やいづ》と申《まを》します。また向《むか》ひ火《び》と申《まを》すことは、今《いま》も大《おほ》きな山火事《やまかじ》などの場合《ばあひ》に、應用《おうよう》されてゐるところで、向《むか》う側《がは》につけた火《ひ》は、切《き》り拂《はら》つた場所《ばしよ》から先《さき》へ先《さき》へと、だん/\盛《さか》んに燃《も》えて行《ゆ》きまして、こちらは無難《ぶなん》になるのです。
尊《みこと》の御東征中《ごとうせいちゆう》の御難《ごなん》は、こればかりではありませんでした。相模《さがみ》の三浦《みうら》半島《はんとう》の走水《はしりみづ》から、房總《ぼうそう》半島《はんとう》の方《ほう》へお渡《わた》りになります時《とき》に、大《たい》そう海《うみ》が荒《あ》れて、お船《ふね》があぶなく沈沒《ちんぼつ》しそうになりました。この時《とき》お妃《きさき》の弟橘媛《おとたちばなひめ》が、これは海《うみ》の神《かみ》が尊《みこと》を取《と》らうとしてをられるのであらうと、尊《みこと》に代《かは》つて海《うみ》へおはひりになりました。それで波風《なみかぜ》も靜《しづ》まり、お船《ふね》は無事《ぶじ》に向《むか》う岸《ぎし》につきました。
かくいろ/\の危難《きなん》を冒《をか》されまして、尊《みこと》はめでたく蝦夷《えぞ》御平定《ごへいてい》の目的《もくてき》をお遂《と》げになり、その外《ほか》、所々《ところ/″\》の從《したが》はぬものどもをもお從《したが》へになりまして、お歸《かへ》り途《みち》に、上野《かうづけ》の碓氷峠《うすひたうげ》にお登《のぼ》りになりますと、東《ひがし》の方《ほう》に關東《かんとう》平野《へいや》が廣々《ひろ/″\》と開《ひら》けてをります。尊《みこと》はこれを御覽《ごらん》になりますにつけても、お妃《きさき》の弟橘媛《おとたちばなひめ》が、走水《はしりみづ》の海《うみ》で尊《みこと》の御身代《おみがは》りとして、海《うみ》に沈《しづ》まれましたことを思《おも》ひ起《おこ》されまして、思《おも》はず「吾妻《あがつま》はや」と御歎《おんなげ》きなさいましたので、それから東國《とうごく》のことを、『吾妻《あづま》』といふようになつたと申《まを》し傳《つた》へてをります。一説《いつせつ》には、このことを、相模《さがみ》の足柄《あしがら》の坂《さか》でのことだとも傳《つた》へてゐます。
その後《ご》も尊《みこと》は、お供《とも》の吉備《きびの》武彦《たけひこ》を越《こし》の國《くに》へおつかはしになつて、その樣子《ようす》を御調《おんしら》べさせになり、また信濃《しなの》では御坂《みさか》の惡神《わるがみ》をお平《たひら》げになり、尾張《をはり》に到《いた》つて宮簀媛《みやすひめ》といふお方《かた》をお妃《きさき》として、暫《しばら》くそこに御逗留《ごとうりゆう》の後《のち》、近江《あふみ》の伊吹山《いぶきやま》に惡神《わるがみ》ありとお聞《き》きになつて、草薙劒《くさなぎのつるぎ》を宮簀媛《みやすひめ》にお預《あづ》けになつたまゝ、その山《やま》へおいでになりましたが、中途《ちゆうと》で御病氣《ごびようき》にかゝり、伊勢《いせ》の能褒野《のぼの》でお崩《かく》れになりました。そこで草薙劒《くさなぎのつるぎ》は、そのまゝ尾張《をはり》に止《と》まつて、今《いま》に熱田《あつた》神宮《じんぐう》にお祭《まつ》り申《まを》すことになつてゐるのです。
日本武尊《やまとたけるのみこと》の御功業《ごこうぎよう》は、非常《ひじよう》に大《おほ》きなものでありまして、西南《にしみなみ》は熊襲《くまそ》から、東北《ひがしきた》は蝦夷《えぞ》まで、その間《あひだ》においても、從《したが》はぬものどもをそれ/″\お從《したが》へになりまして、我《わ》が帝國《ていこく》の領分《りようぶん》は、これがために大《たい》そう廣《ひろ》くなり、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》は、ます/\御盛《ごさか》んになりました。
しかし我《わ》が日本《につぽん》の盛《さか》んになりましたのは、實《じつ》はたゞこの景行《けいこう》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》たる日本武尊《やまとたけるのみこと》の、お一人《ひとり》のお力《ちから》ばかりでありません。その前《まへ》にも、またその後《ご》にも、御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》は、いづれも『日本《やまと》の武《たける》』とも申《まを》し上《あ》ぐべき程《ほど》の、武勇《ぶゆう》の勝《すぐ》れた、お徳《とく》の高《たか》いお方々《かた/″\》でありました。そして常《つね》に徳《とく》をもつて人民《じんみん》をお懷《なづ》けになり、やむを得《え》ぬ場合《ばあひ》には、威《い》をもつてこれをお從《したが》へになりましたので、その御代々《ごだい/\》の御功業《ごこうぎよう》が、積《つも》り積《つも》つて、帝國《ていこく》はます/\盛《さか》んになつて來《き》たのです。その中《なか》でも、景行《けいこう》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》たる日本武尊《やまとたけるのみこと》の御功業《ごこうぎよう》が、殊《こと》に著《いちじる》しかつたので、そればかりが特《とく》に名高《なだか》くなつてゐるのでありませう。
かくて第二十一代《だいにじゆういちだい》雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》には、東《ひがし》の方《ほう》では、毛人《けびと》即《すなはち》、蝦夷《えぞ》の國《くに》を五十五《ごじゆうご》箇國《かこく》、西《にし》の方《ほう》では、熊襲《くまそ》などの多《おほ》くの夷《えびす》を六十六《ろくじゆうろつ》箇國《かこく》、また海《うみ》を渡《わた》つては、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の九十五《くじゆうご》箇國《かこく》をお從《したが》へになるといふほどの、御盛《ごさか》んな勢《いきほひ》になつて參《まゐ》りました。その朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》のことは次《つ》ぎに申《まを》しませう。
十六、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》諸國《しよこく》の服屬《ふくぞく》
今《いま》は帝國《ていこく》の一部《いちぶ》となつてゐる朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》にも、大昔《おほむかし》にはたくさんの國《くに》がありました。その南《みなみ》の方《ほう》は、馬韓《ばかん》、弁辰《べんしん》、秦韓《しんかん》の三《みつ》つに分《わか》れて、それを三韓《さんかん》と申《まを》しましたが、そのうちでも名《な》の判《わか》つてゐるものが、馬韓《ばかん》五十四國《ごじゆうしこく》、これは半島《はんとう》の西南部《せいなんぶ》に、弁辰《べんしん》十二國《じゆうにこく》、秦韓《しんかん》十二國《じゆうにこく》、これは半島《はんとう》の東南部《とうなんぶ》に、三韓《さんかん》合《あは》せて七十八《しちじゆうはち》箇國《かこく》ありました。またその北《きた》には高麗《こま》といふ強《つよ》い國《くに》があり、その外《ほか》にも、まだ多《おほ》くの國々《くに/″\》がありまして、天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》の日本《につぽん》内地《ないち》と同《おな》じように、統一《とういつ》がなくて、お互《たがひ》に爭《あらそ》うてをりました。その中《なか》でも秦韓人《しんかんじん》は、支那《しな》の秦《しん》といふ時代《じだい》に移住《いじゆう》した支那人《しなじん》の末《すゑ》で、その秦韓《しんかん》の中《なか》の新羅《しらぎ》といふ國《くに》が、だん/\強《つよ》くなり、次第《しだい》に近所《きんじよ》の國《くに》を併合《へいごう》します。また馬韓《ばかん》の中《なか》の百濟《くだら》といふ國《くに》も、だん/\強《つよ》くなつて、近所《きんじよ》の國々《くに/″\》を併合《へいごう》しまして、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》には、北《きた》に高麗《こま》、東南《ひがしみなみ》に新羅《しらぎ》、西南《にしみなみ》に百濟《くだら》と、三《みつ》の強《つよ》い國《くに》が、鼎《かなへ》の足《あし》のように、並《なら》んでゐるといふあり樣《さま》となりました。
もちろん、その外《ほか》にも、まだどれにもつかない小《ちひ》さい國《くに》が、幾《いく》らもありました。これ等《ら》の小《ちひ》さい國《くに》が、新羅《しらぎ》の壓迫《あつぱく》に困《こま》つて、助《たす》けを我《わ》が日本《につぽん》に求《もと》めて參《まゐ》りました。これは第十代《だいじゆうだい》崇神《すじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》の末《すゑ》で、まもなく天皇《てんのう》お崩《かく》れになりましたので、次《つ》ぎの垂仁《すいにん》天皇《てんのう》は、兵《へい》をつかはして、これをお救《すく》ひになりました。これからこれ等《ら》の諸小國《しよしようこく》は、我《わ》が國《くに》に屬《ぞく》することになり、後《のち》に我《わ》が國《くに》からは、日本府《につぽんふ》といふ役所《やくしよ》を置《お》いて、これをお治《をさ》めになることになりました。これを任那《みまな》と申《まを》します。みまな[#「みまな」に傍点]とは、崇神《すじん》天皇《てんのう》の御名《おんな》を御間城入彦《みまきいりひこ》と申《まを》し上《あ》げましたので、その御名《おんな》を記念して、その小《ちひ》さい國々《くに/″\》を一《ひと》つにしたものにつけた名《な》だと申《まを》すことであります。
かくて朝鮮《ちようせん》には、新羅《しらぎ》、百濟《くだら》、高麗《こま》の三大國《さんだいこく》と、任那《みまな》の諸小國《しよしようこく》とがありましたが、その中《なか》にも、新羅《しらぎ》が一番《いちばん》我《わ》が國《くに》に近《ちか》く、自然《しぜん》何《なに》かと關係《かんけい》が起《おこ》つて參《まゐ》ります。
もと/\朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の住民《じゆうみん》の中《なか》には、我《わ》が出雲《いづも》民族《みんぞく》などと同《おな》じ流《なが》れのものが多《おほ》く、國《くに》はそれぞれ別々《べつ/\》に分《わか》れてゐても、人種《じんしゆ》の上《うへ》からいへば、お互《たがひ》に一續《ひとつゞ》きのもので、その間《あひだ》には、ほとんど、區別《くべつ》がありませんでした。そこで我《わ》が内地《ないち》にあつた多《おほ》くの小《ちひ》さい國々《くに/″\》が、次第《しだい》に皇室《こうしつ》の御徳澤《ごとくたく》によつて、統一《とういつ》されて參《まゐ》りますと、自然《しぜん》とその引《ひ》き續《つゞ》きとして、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の中《なか》の國々《くに/″\》も、次《つ》ぎには、やはり日本《につぽん》と一《ひと》つになるべき筈《はず》のものでしたが、果《はた》して任那《みまな》の諸小國《しよしようこく》が、先《ま》づもつて我《わ》が國《くに》に從《したが》つて參《まゐ》りましたのです。しかるに一番《いちばん》我《わ》が國《くに》に近《ちか》い新羅《しらぎ》の國《くに》は、その國《くに》の勢《いきほひ》の盛《さか》んなのにまかせて、かへつてとき/″\それを邪魔《じやま》するばかりでなく、狹《せま》い海《うみ》一《ひと》つを挾《はさ》んだばかりの、我《わ》が九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》にゐた熊襲《くまそ》などは、天皇《てんのう》のまします大和《やまと》よりも、かへつて新羅《しらぎ》の方《ほう》が近《ちか》いので、ついそれに引《ひ》かされて、自然《しぜん》我《わ》が國《くに》から離《はな》れようとするおそれがないではありません。
[#図版(06.png)]
果《はた》して第十四代《だいじゆうよだい》仲哀《ちゆうあい》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、熊襲《くまそ》が叛《そむ》きました。そこで天皇《てんのう》は、皇后《こうごう》と御共々《おんとも/″\》に、御自身《ごじしん》これを御征伐《ごせいばつ》にお出《で》かけになりましたが、熊襲《くまそ》の勢《いきほひ》強《つよ》くて、容易《ようい》に平《たひら》がないうちに、天皇《てんのう》は筑前《ちくぜん》の香椎宮《かしいのみや》でお崩《かく》れになりました。皇后《こうごう》は神功《じんぐう》皇后《こうごう》と申《まを》し上《あ》げて、開化《かいか》天皇《てんのう》の御曾孫《おんひまご》の、息長《おきなが》宿禰王《すくねおう》の御子《おんこ》であらせられます。御生《おうま》れつき御聰明《ごそうめい》で、天皇《てんのう》が熊襲《くまそ》御征伐中《ごせいばつちゆう》にお崩《かく》れになりましたについても、さうお力《ちから》を落《おと》しておしまひになるといふようなことはなく、どこまでも天皇《てんのう》の御志《おんこゝろざし》をついで、御國《みくに》の爲《ため》に熊襲《くまそ》を平《たひら》げなければならぬと、をゝしくも御決心《ごけつしん》なさいました。しかし熊襲《くまそ》には、近《ちか》い所《ところ》に、新羅《しらぎ》といふ強《つよ》い國《くに》がついてをりますので、幸《さいは》ひに一旦《いつたん》從《したが》ひましたとしても、また、いつ再《ふたゝ》び叛《そむ》くかも知《し》れません。これは更《さら》にその大本《おほもと》に遡《さかのぼ》つて、新羅《しらぎ》をまでもお從《したが》へにならねばならぬと、天皇《てんのう》崩御《ほうぎよ》の御悲《おんかな》しみの中《なか》にも、深《ふか》く後《のち》のことまでお考《かんが》へになりました。そこでお供《とも》の大臣《だいじん》武内《たけうちの》宿禰《すくね》と御相談《ごそうだん》の上《うへ》、まづ熊襲《くまそ》を平《たひら》げられまして、更《さら》に御自身《ごじしん》男《をとこ》の御《おん》よそほひをなされ、海《うみ》を渡《わた》つて遠《とほ》く新羅《しらぎ》をお討《う》ちになりました。その勢《いきほひ》大《たい》そう御盛《ごさか》んで、ふいに新羅《しらぎ》の都《みやこ》におし寄《よ》せて參《まゐ》りましたものですから、新羅王《しらぎおう》も大《おほ》いに驚《おどろ》いて、「かねて東《ひがし》の方《ほう》には日本《につぽん》といふ神《かみ》の國《くに》があり、そこには尊《たつと》い君《きみ》があつて、天皇《てんのう》と申《まを》すと聞《き》いてゐたが、これはその神兵《しんぺい》であらう、到底《とうてい》抵抗《ていこう》することは出來《でき》ぬ」と、忽《たちま》ち白旗《しらはた》をかゝげて降參《こうさん》しました。そして、「東《ひがし》から出《で》る日《ひ》が、西《にし》から出《で》るようにでもならばいざ知《し》らず、たとひアリナレ川《がは》の水《みづ》が逆《さか》さに流《なが》れ、河原《かはら》の石《いし》が天《てん》に上《のぼ》つて星《ほし》となるようなことがあらうとも、いつまでもお從《したが》ひ申《まを》して、毎年《まいねん》の貢《みつぎ》を怠《おこた》りませぬ」と、堅《かた》い御約束《おやくそく》を申《まを》し上《あ》げました。その後《ご》百濟《くだら》もこれを聞《き》いて我《わ》が國《くに》に降《くだ》り、高麗《こま》もまた從《したが》つて參《まゐ》りましたので、九州《きゆうしゆう》の熊襲《くまそ》も、再《ふたゝ》び叛《そむ》くことがなくなりました。かくして雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》には、前《まへ》に申《まを》したように、朝鮮《ちようせん》半島内《はんとうない》の九十五國《くじゆうごこく》までが、我《わ》が國《くに》に從《したが》ふといふような、盛《さか》んなあり樣《さま》となつたのであります。
十七、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(一)
私共《わたくしども》日本《やまと》民族《みんぞく》は、天孫《てんそん》降臨《こうりん》の前《まへ》からこの國《くに》にゐた多《おほ》くの民衆《みんしゆう》が、天孫《てんそん》民族《みんぞく》と一《いつ》しよになつて出來上《できあが》つたものでありますが、その外《ほか》に外國《がいこく》から渡《わた》つて來《き》て、同《おな》じ仲間《なかま》になつた者《もの》も少《すくな》くないといふことを、前《まへ》に述《の》べて置《お》きました。その外國《がいこく》といふのは、おもに支那《しな》や朝鮮《ちようせん》でありまして、中《なか》にも支那《しな》は古《ふる》くから國《くに》が開《ひら》け、文化《ぶんか》が大《たい》そう進《すゝ》んだ國《くに》でありました。また朝鮮《ちようせん》も、土地《とち》が支那《しな》に近《ちか》いものですから、早《はや》くから支那人《しなじん》が入《い》り込《こ》んだり、支那《しな》と交通《こうつう》したりして、支那《しな》の文化《ぶんか》を傳《つた》へてをりましたので、その支那人《しなじん》や朝鮮人《ちようせんじん》の渡來《とらい》によつて、その進《すゝ》んだ文化《ぶんか》は、盛《さか》んに我《わ》が國《くに》に傳《つた》はつて參《まゐ》りました。
支那人《しなじん》で一番《いちばん》古《ふる》く朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》に移住《いじゆう》したのは、前《まへ》に申《まを》した秦韓人《しんかんじん》で、これは支那《しな》では秦《しん》といふ時代《じだい》の人々《ひと/″\》だといはれてをりますが、その後《ご》今《いま》から二千年《にせんねん》ばかり前《まへ》、秦《しん》が滅《ほろ》んで、漢《かん》の時代《じだい》となり、その漢《かん》の武帝《ぶてい》といふ偉《えら》い天子《てんし》の時《とき》に、朝鮮《ちようせん》を伐《う》つて、盛《さか》んに漢人《かんじん》の移住《いじゆう》がありました。
この人《ひと》たちは、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の西北部《せいほくぶ》にある、大同江《だいどうこう》の附近《ふきん》、樂浪《らくろう》といふ所《ところ》におもに住《す》んでをりましたので、今《いま》にその地《ち》の古《ふる》い墓《はか》の中《なか》から、漢時代《かんじだい》の文化《ぶんか》を見《み》るべき、立派《りつぱ》な品物《しなもの》がたくさん掘《ほ》り出《だ》されまして、近《ちか》ごろ日本《につぽん》の大學《だいがく》の學者《がくしや》たちが、熱心《ねつしん》にそれを研究《けんきゆう》してをります。即《すなはち》、朝鮮《ちようせん》には、秦人《しんじん》と、漢人《かんじん》と、同《おな》じ支那人《しなじん》でも、時代《じだい》が違《ちが》ひ、自然《しぜん》文化《ぶんか》も違《ちが》つた二通《ふたとほ》りの人《ひと》たちが、秦韓《しんかん》と、樂浪《らくろう》とに、移住《いじゆう》してゐたのです。
その秦人《しんじん》のゐた秦韓《しんかん》の地《ち》は、後《のち》に新羅《しらぎ》の國《くに》となつた所《ところ》ですが、こゝからは一番《いちばん》早《はや》く日本《につぽん》へ移住民《いじゆうみん》がありました。天日槍《あめのひぼこ》のお話《はなし》は、そのことを語《かた》つてゐるものであります。
それは、むかし新羅《しらぎ》の王子《おうじ》の天日槍《あめのひぼこ》といふ人《ひと》が、新羅《しらぎ》から、我《わ》が國《くに》に渡《わた》つて來《き》たといふお話《はなし》です。時代《じだい》は天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》のことで、その頃《ころ》出雲《いづも》の地方《ちほう》を中心《ちゆうしん》として、すでに大國《おほくに》の主《ぬし》となつてをられたといふ大國主神《おほくにぬしのかみ》と、播磨《はりま》の國《くに》で土地《とち》を爭《あらそ》つて、度々《たび/″\》戰爭《せんそう》をしたといふのでありますから、相當《そうとう》大勢《おほぜい》の人民《じんみん》を連《つ》れて、移住《いじゆう》して來《き》たものと見《み》えます。後《のち》に日槍《ひぼこ》は、近畿《きんき》地方《ちほう》をあちこちと廻《まは》つた末《すゑ》に、但馬《たじま》の國《くに》に落《お》ちつき、土地《とち》の人《ひと》を妻《つま》として、子孫《しそん》がそこで繁昌《はんじよう》しました。その一《いつ》しよに來《き》た仲間《なかま》のものが、方々《ほう/″\》に住《す》みついたことは、申《まを》すまでもありますまい。近江《あふみ》の國《くに》の鏡谷《かゞみのはざま》で、古代《こだい》の朝鮮風《ちようせんふう》の陶器《とうき》を燒《や》いてゐた職人《しよくにん》のごときも、この仲間《なかま》の子孫《しそん》だといはれてゐます。又《また》第十一代《だいじゆういちだい》垂仁《すいにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、常世國《とこよのくに》といふ、遠《とほ》い/\國《くに》へ行《い》つて、橘《たちばな》を取《と》つて來《き》たといふ田道間守《たぢまのもり》も、この日槍《ひぼこ》の玄孫《げんそん》(孫《まご》の孫《まご》)であつたと申《まを》します。又《また》新羅《しらぎ》を御征伐《ごせいばつ》になりました神功《じんぐう》皇后《こうごう》の御母君《おんはゝぎみ》は、その田道間守《たぢまのもり》の姪《めい》に當《あた》らせられる御方《おかた》です。されば皇后《こうごう》が熊襲《くまそ》をお從《したが》へになるについて、先《ま》づその騷《さわ》ぎの大本《おほもと》になる、新羅《しらぎ》を從《したが》へることが必要《ひつよう》だとお考《かんが》へになつたのも、御母君《おんはゝぎみ》の御先祖《ごせんぞ》の關係《かんけい》から、新羅《しらぎ》のことをよく御承知《ごしようち》であつた爲《ため》でありませう。もっとも新羅《しらぎ》といふ國《くに》の出來《でき》たのは、天孫《てんそん》降臨《こうりん》よりもはるかに後《のち》のことでありますから、大國主神《おほくにぬしのかみ》と戰爭《せんそう》したといふ天日槍《あめのひぼこ》が、その頃《ころ》にはまだ國《くに》の出來《でき》てゐない筈《はず》の、新羅《しらぎ》の王子《おうじ》だといふわけはありません。これは後《のち》に新羅《しらぎ》の國《くに》になつた秦韓《しんかん》の人《ひと》のことを、後《のち》の國《くに》の名《な》で語《かた》り傳《つた》へたのでありませう。しからばその秦韓人《しんかんじん》の血《ち》を御母方《おんはゝかた》にお受《う》けになつた神功《じんぐう》皇后《こうごう》が、その新羅《しらぎ》をお從《したが》へになつたのは、新羅《しらぎ》の爲《ため》に併合《へいごう》せられた秦韓人《しんかんじん》の國《くに》を、お取《と》り返《かへ》しになつたといふわけにもなるのであります。
十八、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(二)
この秦韓人《しんかんじん》の子孫《しそん》が遺《のこ》したものでありませうか、近畿《きんき》地方《ちほう》から、本州《ほんしゆう》中部《ちゆうぶ》、中國《ちゆうごく》、四國《しこく》など、日本《につぽん》の中央部《ちゆうおうぶ》の土《つち》の中《なか》には、『銅鐸《どうたく》』といつて、こゝの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し繪《え》で見《み》るような、支那《しな》の大昔《おほむかし》の釣《つ》り鐘《がね》の形《かたち》をした、青銅《からかね》で作《つく》つた見事《みごと》なものが、たくさんに埋《うづ》まつてゐるのであります。この繪《え》は大正《たいしよう》十三年《じゆうさんねん》の末《すゑ》に、三河《みかは》の國《くに》から、三箇《さんこ》一《いつ》しよに掘《ほ》り出《だ》されたところを寫《うつ》したのですが、時《とき》としては十幾個《じゆういくこ》も、一《いつ》しよに出《で》ることがありまして、明治《めいじ》以來《いらい》六十年《ろくじゆうねん》ほどの間《あひだ》に、土地《とち》の開墾《かいこん》や、道路《どうろ》の工事《こうじ》などで、たま/\掘《ほ》り出《だ》されたものだけでも、百箇《ひやつこ》以上《いじよう》もありませう。そしてそれは遠《とほ》い昔《むかし》の時代《じだい》から、引《ひ》き續《つゞ》き掘《ほ》り出《だ》されてゐるのでありますから、これまでに掘《ほ》り出《だ》された數《かず》がどれだけ多《おほ》かつたか、又《また》まだ掘《ほ》り出《だ》されずに、土《つち》の中《なか》に殘《のこ》つてゐるものがどれだけ多《おほ》くありますか、ほとんど想像《そうぞう》も出來《でき》ぬほどに、たくさんに埋《うづ》まつてゐるのであります。しかもその品《しな》は、千何百年《せんなんびやくねん》も前《まへ》の日本人《につぽんじん》が、すでに一向《いつこう》知《し》らなかつたほどの古《ふる》いものなのです。さればたま/\それを掘《ほ》り出《だ》しでもしますると、それがいつの時代《じだい》に、どんな人《ひと》が使《つか》つたものだか、又《また》何《なに》に使《つか》つたものだかわからず、とても日本人《につぽんじん》のものではなからう、外國《がいこく》のものであらうといふようなことで、天竺《てんじく》(印度《いんど》)の塔《とう》の屋根《やね》の隅《すみ》にぶら下《さ》げた、鐸《べる》であらうなどといつてをりました程《ほど》です。
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しからばなぜそんなにたくさんに、そんな貴重《きちよう》な品《しな》が、そこにも、こゝにも、土《つち》の中《なか》に埋《うづ》まつてゐるのでせう。これは大昔《おほむかし》にこの銅鐸《どうたく》を持《も》つてゐた民族《みんぞく》が、近畿《きんき》地方《ちほう》から、その附近《ふきん》の國々《くに/″\》に、大《たい》そうたくさん住《す》んでをつたためであります。又《また》それがたくさんに土《つち》の中《なか》に埋《うづ》まつてゐるといふことは、その頃《ころ》にはまだ火難《かなん》盜難《とうなん》をふせぐ爲《ため》の、安全《あんぜん》な倉庫《そうこ》といふ程《ほど》のものもなく、また警察《けいさつ》の保護《ほご》といふ程《ほど》のものもなかつたので、火事《かじ》に燒《や》けたり、盜賊《とうぞく》に取《と》られたりしない爲《ため》に、大切《たいせつ》な品《しな》は、人《ひと》の知《し》らぬ土《つち》の中《なか》に隱《かく》して置《お》いたのが、そのまゝ忘《わす》れられてしまつたのです。
しからばどんな場合《ばあひ》に、そんなにたくさんな貴重《きちよう》な品《しな》が、すっかり忘《わす》れられてしまふでせう。これはその民族《みんぞく》が、まったく滅《ほろ》んでしまつたか、或《あるひ》は衰《おとろ》へて、方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてしまつたか、この二《ふた》つの場合《ばあひ》より外《ほか》はありますまい。そこで考《かんが》へられますのは、遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》に、我《わ》が國《くに》へ來《き》たといふ、天日槍《あめのひぼこ》のことであります。
天日槍《あめのひぼこ》が、大國主神《おほくにぬしのかみ》とたび/\戰爭《せんそう》したといふお話《はなし》は、この新《あたら》しく渡《わた》つて來《き》た秦韓《しんかん》民族《みんぞく》と、前《まへ》から日本《につぽん》の土地《とち》にゐた出雲《いづも》民族《みんぞく》とが、勢力《せいりよく》爭《あらそ》ひをしたことを語《かた》つてゐるのでありますが、この銅鐸《どうたく》がはたしてその秦韓人《しんかんじん》の遺《のこ》したものでありますならば、それがまったく忘《わす》れられたのは、その秦韓人《しんかんじん》の方《ほう》が爭《あらそ》ひに負けて、滅《ほろ》んでしまつたか、或《あるひ》は衰《おとろ》へて、方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてしまつたかの爲《ため》でありませう。しかし土《つち》の中《なか》に埋《うづ》めたまゝに、忘《わす》れられた銅鐸《どうたく》の數《かず》だけでも、そんなにたくさんある程《ほど》にも、秦韓人《しんかんじん》が盛《さか》んな民族《みんぞく》であつたならば、それがいかに勢力《せいりよく》爭《あらそ》ひに負《ま》けたとしましても、すっかり滅《ほろ》んでしまふといふようなことはありますまい。いづれその子孫《しそん》は後《のち》に遺《のこ》つて、私共《わたくしども》日本《やまと》民族《みんぞく》のうちには、この大昔《おほむかし》の支那《しな》の文化《ぶんか》を傳《つた》へた人々《ひと/″\》の血《ち》が、必《かなら》ず流《なが》れてゐるに相違《そうい》ありません。
このことは、なほ後《のち》に秦人《はたびと》のことをお話《はなし》する時《とき》に述《の》べることにしまして、こゝではたゞ、我《わ》が日本《につぽん》の大昔《おほむかし》には、近畿《きんき》地方《ちほう》を中心《ちゆうしん》として、その近所《きんじよ》の國々《くに/″\》に、支那《しな》の大昔《おほむかし》の文化《ぶんか》を傳《つた》へた民族《みんぞく》が、甚《はなは》だ多數《たすう》にをつたことを述《の》べるだけに止《と》めておきませう。
十九、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(三)
秦韓人《しんかんじん》は早《はや》く日本《につぽん》へ渡《わた》つて、近畿《きんき》地方《ちほう》からその近所《きんじよ》の國々《くに/″\》に、廣《ひろ》がつたようでありますが、漢人《かんじん》が朝鮮《ちようせん》の大同江《だいどうこう》の附近《ふきん》の、樂浪《らくろう》の地方《ちほう》に移住《いじゆう》するようになりましてから、九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の人《ひと》たちは、これと交通《こうつう》して、盛《さか》んに漢代《かんだい》の文化《ぶんか》を傳《つた》へました。中《なか》には直接《ちよくせつ》、漢《かん》の本國《ほんごく》へ交通《こうつう》して、漢《かん》の天子《てんし》から、その地方《ちほう》の王《おう》の位《くらゐ》を與《あた》へられた有力者《ゆうりよくしや》もありました。漢《かん》が滅《ほろ》んで、魏《ぎ》といふ國《くに》の時代《じだい》になりまして、朝鮮《ちようせん》の樂浪《らくろう》は、帶方《たいほう》と改《あらた》まりましたが、我《わ》が九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の有力者《ゆうりよくしや》は、引《ひ》き續《つゞ》きこれと交通《こうつう》しまして、その文化《ぶんか》を傳《つた》へましたので、漢《かん》や魏《ぎ》の時代《じだい》の鏡《かゞみ》や、刀劒《とうけん》などが、多《おほ》く日本《につぽん》へ渡《わた》つて來《き》ました。そして九州《きゆうしゆう》あたりでは、その時代《じだい》の支那《しな》の銅《どう》の劒《けん》や、銅《どう》の鉾《ほこ》にならつて、自分《じぶん》で日本風《につぽんふう》のものを作《つく》る程《ほど》にまで、鑄物《いもの》の技術《ぎじゆつ》も進歩《しんぽ》しました。かうして石器《せつき》時代《じだい》から、だん/\金《かね》の器《うつは》の時代《じだい》に移《うつ》つて來《き》たのです。
その後《ご》神功《じんぐう》皇后《こうごう》が、新羅《しらぎ》や百濟《くだら》をお從《したが》へになり、高麗《こま》もまた交通《こうつう》して來《く》るようになりましてからは、これ等《ら》の國々《くに/″\》から、いろ/\の品物《しなもの》を送《おく》つて來《き》ましたり、又《また》いろ/\の學者《がくしや》や、職人《しよくにん》が渡《わた》つて參《まゐ》りまして、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》が大《おほ》いに開《ひら》けて參《まゐ》りました。もと/\日本《につぽん》には、手藝《てわざ》が上手《じようず》で、その方面《ほうめん》に頭《あたま》の勝《すぐ》れたものが多《おほ》く、大昔《おほむかし》の石器《せつき》時代《じだい》の土器《どき》に、非常《ひじよう》に立派《りつぱ》なものが多《おほ》かつたことは、すでに述《の》べた通《とほ》りですが、そんな特長《とくちよう》を有《ゆう》する民族《みんぞく》が、新《あらた》に支那《しな》や朝鮮《ちようせん》の、進歩《しんぽ》した技術《ぎじゆつ》を學《まな》んだものですから、よく肥《こ》えてゐる畠《はたけ》に、よい種《たね》を蒔《ま》いたように、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》が、大《おほ》いに進歩《しんぽ》して來《き》たのは申《まを》すまでもありません。
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しかし我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》は、品物《しなもの》や、學者《がくしや》や、職人《しよくにん》が朝鮮《ちようせん》から渡《わた》つて來《き》て、それを日本人《につぽんじん》が學《まな》んで進歩《しんぽ》したといふばかりでなく、實《じつ》は一方《いつぽう》に、多數《たすう》の外人《がいじん》の移住《いじゆう》がありまして、それが爲《ため》に大《おほ》いに開《ひら》けたのでありました。
神功《じんぐう》皇后《こうごう》新羅《しらぎ》御征伐《ごせいばつ》の時《とき》には、すでにお身重《みおも》であらせられましたが、御凱旋《ごがいせん》の後《のち》に、九州《きゆうしゆう》でお生《う》まれになりました仲哀《ちゆうあい》天皇《てんのう》の御子《みこ》が、第十五代《だいじゆうごだい》の應神《おうじん》天皇《てんのう》であらせられます。この應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、百濟《くだら》から王仁《わに》といふ學者《がくしや》が來《き》たり、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》の子孫《しそん》だといふ弓月君《ゆつきのきみ》が、百二十縣《ひやくにじつけん》の人民《じんみん》を率《ひき》ゐて歸化《きか》したといはれたり、漢《かん》の靈帝《れいてい》の子孫《しそん》だといふ阿知使主《あちのおみ》、都加使主《つかのおみ》の親子《おやこ》が、十七縣《じゆうしちけん》の人民《じんみん》を率《ひき》ゐて來《き》たりしました。そして天皇《てんのう》は、その阿知使主《あちのおみ》、都加使主《つかのおみ》を、遠《とほ》く呉《くれ》の國《くに》へおつかはしになりまして、織《お》り物《もの》や縫《ぬ》ひ物《もの》の上手《じようず》な職人《しよくにん》を、お招《まね》きになりました。
王仁《わに》も、その先祖《せんぞ》は支那人《しなじん》でありましたが、久《ひさ》しく百濟《くだら》へ來《き》てゐまして、百濟《くだら》の王《おう》から我《わ》が國《くに》にお送《おく》り申《まを》したのです。そこで應神《おうじん》天皇《てんのう》の皇子《みこ》稚郎子《わきいらつこ》は、これを師《し》として漢文學《かんぶんがく》をお學《まな》びになり、大《たい》そう御上達《ごじようたつ》なさいました。これから日本《につぽん》には、文字《もじ》の道《みち》が開《ひら》けて參《まゐ》りました。そしてこの王仁《わに》の子孫《しそん》は、河内《かはち》の國《くに》に住《す》みつきまして、永《なが》く漢文學《かんぶんがく》をもつて朝廷《ちようてい》にお仕《つか》へしました。また阿知使主《あちのおみ》の子孫《しそん》も、同《おな》じく漢文學《かんぶんがく》をもつて朝廷《ちようてい》にお仕《つか》へしましたが、これは大和《やまと》にをりました。そこで王仁《わに》の子孫《しそん》を、河内《かはち》の文氏《ふみうぢ》といひ、阿知使主《あちのおみ》の子孫《しそん》を、大和《やまと》の文氏《ふみうぢ》といひました。この外《ほか》にもいろ/\の學者《がくしや》が、おひ/\朝鮮《ちようせん》から渡《わた》つて參《まゐ》りまして、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》が、大《おほ》いに開《ひら》けたことは申《まを》すまでもありません。
弓月君《ゆつきのきみ》は秦氏《はたうぢ》の先祖《せんぞ》です。かれは秦《しん》の始皇帝《しこうてい》の子孫《しそん》だといふことで、氏《うぢ》を『秦《しん》』と書《か》きますが、それを日本《につぽん》で『はた』と讀《よ》むのは、この一類《いちるい》の歸化人《きかじん》は、機《はた》を織《お》つて織《お》り物《もの》を作《つく》ることが多《おほ》かつたからでありませう。一説《いつせつ》に、その織《お》り物《もの》がやはらかで、大《たい》そう肌觸《はだざは》りがよろしかつたから、それで『はだ』氏《うぢ》といふのだといひますが、どうも實《まこと》らしくありません。
この一類《いちるい》の人々《ひと/″\》は、何《なに》しろ百二十縣《ひやくにじつけん》の多數《たすう》で渡來《とらい》したといはれる程《ほど》で、大團體《だいだんたい》の移住《いじゆう》でありました。もとは支那人《しなじん》でも、久《ひさ》しく朝鮮《ちようせん》に來《き》て住《す》んでをつたものらしく、その我《わ》が國《くに》に渡《わた》つて來《く》る時《とき》に、新羅人《しらぎじん》が邪魔《じやま》をしたといひますから、實《じつ》は古《ふる》くから朝鮮《ちようせん》へ來《き》てゐた、秦韓人《しんかんじん》の仲間《なかま》であつたでありませう。それを我《わ》が國《くに》では、ひっくるめて秦人《はたびと》と申《まを》しました。
二十、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(四)
この秦人《はたびと》は、そんなに多數《たすう》でありながら、どうしたわけか、後《のち》には諸國《しよこく》に散《ち》らばつて、有力者《ゆうりよくしや》の爲《ため》に追《お》ひ使《つか》はれるといふような、氣《き》の毒《どく》な身分《みぶん》になつてしまひました。それを第二十一代《だいにじゆういちだい》の帝《みかど》雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》がお救《すく》ひになり、弓月君《ゆつきのきみ》の子孫《しそん》の秦酒公《はたのさけのきみ》をその頭《かしら》として、いろいろとお世話《せわ》をなさいましたので、秦人《はたびと》はこれから再《ふたゝ》び盛《さか》んなものとなりました。
もと百二十縣《ひやくにじつけん》ともいはれた程《ほど》の多數《たすう》の秦人《はたびと》が、どうしてその統一《とういつ》を失《うしな》ひ、諸國《しよこく》に散《ち》らばつて、奴隷《どれい》のような氣《き》の毒《どく》な身分《みぶん》に落《お》ちてしまつたのでありませう。これはきっと歸化人《きかじん》だといふところから、他《た》の民族《みんぞく》に壓迫《あつぱく》せられて、爭《あらそ》ひに負《ま》けた結果《けつか》であつたとしか思《おも》はれません。しかし我《わ》が天孫《てんそん》民族《みんぞく》は、けつして異《ちが》つた民族《みんぞく》を虐待《ぎやくたい》するようなことはありません。土人《どじん》でも、歸化人《きかじん》でも、皆《みな》これをいつくしんで、同《おな》じ仲間《なかま》にしてしまつたものです。ことに昔《むかし》は人口《じんこう》が少《すくな》く、土地《とち》が割《わ》りあひに廣《ひろ》かつたのと、外國《がいこく》の文化《ぶんか》を輸入《ゆにゆう》して、我《わ》が國《くに》を進歩《しんぽ》させようとの方針《ほうしん》とから、むしろ歸化人《きかじん》を、大《おほ》いに歡迎《かんげい》したのでありました。そこで思《おも》ひ合《あは》されますのは、前《まへ》にお話《はなし》した銅鐸《どうたく》のことです。この支那《しな》文化《ぶんか》に關係《かんけい》ある品《しな》を持《も》つてゐた人《ひと》たちは、その數《かず》が大《たい》そう多《おほ》かつたにかゝはらず、後《のち》にそれが滅《ほろ》んでしまつたか、衰《おとろ》へて方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてしまつたかして、その貴重《きちよう》な品《しな》を土《つち》の中《なか》に埋《うづ》めたまゝに、忘《わす》れてしまつたのでありました。そしてこの銅鐸《どうたく》は、天日槍《あめのひぼこ》のお話《はなし》にあるような、古《ふる》く我《わ》が國《くに》に移住《いじゆう》した、秦韓人《しんかんじん》の持《も》つてゐたものだと思《おも》はれることと、考《かんが》へ合《あは》せて見《み》ますと、大昔《おほむかし》に銅鐸《どうたく》を持《も》つてをつた秦韓人《しんかんじん》が、即《すなはち》、この秦人《はたびと》のことであらうと思《おも》はれます。その秦人《はたびと》が、出雲《いづも》民族《みんぞく》との爭《あらそ》ひに負《ま》けて、方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつて、奴隷《どれい》のような氣《き》の毒《どく》な身分《みぶん》になりましたから、たとひその子孫《しそん》はたくさん方々《ほう/″\》に遺《のこ》つてをりましても、先祖《せんぞ》が土《つち》の中《なか》にしまつて置《お》いた銅鐸《どうたく》のことは、いつの間《ま》にか忘《わす》れてしまつたのだと解釋《かいしやく》しますと、始《はじ》めて理窟《りくつ》がよくわかります。もしほんとうに秦人《はたびと》が、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、百二十縣《ひやくにじつけん》といふような、大《おほ》きな團體《だんたい》で移住《いじゆう》して來《き》たのでありましたなら、同《おな》じ頃《ころ》に來《き》た阿知使主《あちのおみ》の十七縣《じゆうしちけん》の仲間《なかま》が、引《ひ》き續《つゞ》き我《わ》が國《くに》で榮《さか》えてをるのとは事變《ことかは》つて、久《ひさ》しからぬうちに、こと/″\く衰《おとろ》へてしまつたといふことも、實際《じつさい》理窟《りくつ》の通《とほ》らない話《はなし》ではありませんか。されば秦人《はたびと》が、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》にはじめて來《き》たといふのは間違《まちが》ひで、かれ等《ら》は遠《とほ》い大昔《おほむかし》からこの國《くに》に來《き》てゐて、一《いつ》たん落伍者《らくごしや》となり、奴隷《どれい》の身分《みぶん》となつて方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてゐたのを、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に來《き》た弓月君《ゆつきのきみ》の子孫《しそん》の酒公《さけのきみ》が、同《おな》じ秦《しん》の國《くに》の人《ひと》で、しかもその始皇帝《しこうてい》の子孫《しそん》だといふ縁故《えんこ》で、後《のち》にその頭《かしら》となつたといふようなことから、その下《した》についた秦人《はたびと》も、その先祖《せんぞ》の弓月君《ゆつきのきみ》と、一《いつ》しよに來《き》たといふことに、誤《あやま》り傳《つた》へたのでありませう。
我《わ》が國《くに》に於《お》ける秦人《はたびと》の數《かず》は大《たい》そう多《おほ》く、雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》がそのお世話《せわ》をなさつた頃《ころ》に調《しら》べましたら、九十二《くじゆうに》の組《くみ》に分《わか》れて、一萬《いちまん》八千《はつせん》餘人《よにん》もあり、第二十九代《だいにじゆうくだい》欽明《きんめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》には、七千《しちせん》五十三戸《ごじゆうさんこ》で、その頃《ころ》の日本《につぽん》の總戸數《そうこすう》に比《くら》べると、少《すくな》くも二十八分《にじゆうはちぶん》の一《いち》はありました。そしてそれが諸國《しよこく》に分《わか》れ住《す》んで、皆《みな》日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつてしまつたのです。
(つづく)
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- 瑞穂の国 みずほのくに 瑞穂国。瑞穂のみのる国。日本の美称。
- 豊葦原 とよあしはら 日本国の美称。
- 豊葦原の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくに (古くはミツホノクニ) 日本国の美称。
- 常世国 とこよのくに (1) 古代日本民族が、はるか海の彼方にあると想定した国。常の国。(2) 不老不死の国。仙郷。蓬莱山。(3) 死人の国。よみのくに。よみじ。黄泉。
- [奥羽] おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
- 北陸 ほくろく/ほくりく (1) 福井・石川・富山・新潟4県の総称。狭義には、新潟県を除く3県をいう。北陸地方。(2) (→)北陸道の略。
- 北陸道 ほくりくどう 五畿七道の一つ。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国。また、そこを通ずる街道。くぬがのみち。こしのみち。ほくろくどう。
- [高志] こし 越・高志。
(→) 「こしのくに(越の国) 」に同じ。 - [越の国] こしのくに 北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。
- 房総半島 ぼうそう はんとう 千葉県の南半部(安房・上総)をなす半島。東と南は太平洋に面し(外房)
、西は三浦半島と共に東京湾を抱く(内房)。海岸は国定公園。 - [上野] こうづけ/こうずけ (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転) 旧国名。今の群馬県。上州。
- 碓氷峠 うすいとうげ 群馬県安中市と長野県北佐久郡との境にある峠。中山道の険路。旧道に沿う峠は標高1200m、新道に沿う峠は958m。鳴くべ鳴かずの峠。
- 関東平野 かんとう へいや 関東地方の大部分を占める日本最大の平野。
- 吾妻 あがつま/あずま 東・吾妻・吾嬬。(景行紀に、日本武尊が東征の帰途、碓日嶺から東南を眺めて、妃弟橘媛の投身を悲しみ、
「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある) 日本の東部地方。古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を指すようになった。 - [相模] さがみ 旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
- 三浦半島 みうら はんとう 神奈川県南東部にある半島。南方に突出して東京湾と相模湾とを分ける。東岸には金沢八景・横須賀・浦賀など、西岸には鎌倉・逗子・葉山・三浦などがある。
- 走水 はしりみず 村名。現、神奈川県横須賀市走水。
- 足柄 あしがら 神奈川県南西部の地方名。
- 足柄の坂
- 坂本 さかもと 現、南足柄市足柄山。
- [駿河の国] するがのくに 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
- 焼津 やいづ 静岡県中部の市。駿河湾西岸に位置する遠洋漁業の根拠地で、缶詰など水産加工業が盛ん。日本武尊東征の際に、草を薙いで火難を鎮めた所という。人口12万。
- [信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
- 御坂 みさか
- 科野の坂 しなののさか 長野県の伊那から岐阜県の恵那に通ずる山路。木曽路は奈良時代になって開通された。
(武田祐吉『校註古事記』 ) - [三河の国] みかわのくに 旧国名。今の愛知県の東部。三州。参州。
- [尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
- 熱田神宮 あつた じんぐう 名古屋市熱田区にある元官幣大社。熱田大神を主神とし、相殿に天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀姫命・建稲種命を祀る。神体は草薙剣。
- [近江] おうみ (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す) 旧国名。今の滋賀県。江州。
- 伊吹山 いぶきやま 滋賀・岐阜両県の境にある山。標高1377m。山中薬草に富む。石灰岩の採取地。
- 鏡谷 かがみのはざま → 鏡宿か
- 鏡宿 かがみしゅく 中世東海道の宿駅(現、滋賀県竜王町)。近世中山道の道筋である。天目一(あめのめひとつ)命がこの地で鏡を作ったという伝承地。平安時代に宿駅がおかれ、
「平治物語」によると源義経が16歳で京都から奥州藤原氏を頼って下った際、この地で元服したとされ、義経元服池が残る。 (日本史) - [大阪]
- [河内の国] かわちのくに (古くカフチとも) 旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
- 浪速 なにわ 難波・浪速・浪花。(一説に「魚(な)庭(にわ)
」の意という) 大阪市およびその付近の古称。 - 淀川 よどがわ 琵琶湖に発源し、京都盆地に出て、盆地西端で木津川・桂川を合わせ、大阪平野を北東から南西に流れて大阪湾に注ぐ川。長さ75km。上流を瀬田川、宇治市から淀までを宇治川という。
- 大和川 やまとがわ 奈良県北西部から大阪府の中央を経て、堺市で大阪湾に流入する川。笠置山地に発源する。長さ68km。
- 大阪湾 おおさかわん 瀬戸内海の東端にあたる湾。西は明石海峡と淡路島、南は友ヶ島水道(紀淡海峡)で限られる。古称、茅渟海。和泉灘。摂津灘。
- 日下 くさか 大阪府北河内郡生駒山の西麓。
- 生駒山 いこまやま 奈良県と大阪府との境にある山。生駒山地の主峰。標高642m。草香山。
- 瀬戸内海 せとないかい 本州と四国・九州とに囲まれた内海。沖積世初期に中央構造線の北縁に沿う陥没帯が海となったもの。友ヶ島水道(紀淡海峡)
・鳴門海峡・豊予海峡・関門海峡によってわずかに外洋に通じ、大小約3000の島々が散在し、天然の美観に恵まれ、国立公園に指定されている。沿岸には良港が多く、古くから海上交通が盛ん。 - [大和の国] やまとのくに 大和・倭。(
「山処(やまと) 」の意か) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、 「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。 - 大和平野 やまと へいや 奈良盆地か。
- 奈良盆地 なら ぼんち 奈良県北西部、笠置山地と生駒・金剛山地に囲まれた盆地。初瀬・飛鳥・佐保などの河川が流下する。古代文化の発祥地。大和盆地。
- 宇陀 うだ 大和の東部。/奈良県北東部の市。大和政権時代、菟田県・猛田県があった。人口3万7千。
- 磯城 しき 奈良盆地南東部一帯の総称。現在の磯城郡・桜井市および橿原・天理両市の一部に当たる。大化改新以前の磯城県の地。陵墓・宮址などが多い。
- 畝傍山 うねびやま 橿原市の南西部にある小山。標高199m。耳成山・香具山と共に大和三山と称する。畝傍をめぐって耳成・香具の2山が争う山争い伝説は万葉集に歌われる。畝火山。雲飛山。
(歌枕) - 橿原 かしわばら/かしはら 奈良県中部、奈良盆地南部の市。歴代御陵・橿原神宮・藤原宮址など史跡が多い。大阪の衛星都市化が進む。人口12万5千。
- 橿原神宮 かしはら じんぐう 橿原市、畝傍山の南東麓にある元官幣大社。記紀伝承の橿原宮の旧址という。祭神は神武天皇と媛踏鞴五十鈴媛皇后。1889年(明治22)の創建。
- [紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの) 旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
- 熊野 くまの 和歌山県西牟婁郡から三重県北牟婁郡にかけての地の総称。森林資源に富み、また熊野三山・那智滝など名勝が多い。
- [伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
- 皇大神宮 こうたいじんぐう 三重県伊勢市五十鈴川上にある神宮。祭神は天照大神。古来、国家の大事には勅使を差遣、奉告のことが行われた。天照皇大神宮。内宮。
- 能褒野 のぼの 三重県亀山市の町。日本武尊を埋葬した地と称し、能褒野神社がある。
- [但馬の国] たじまのくに 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
- [播磨の国] はりまのくに 旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。
- [出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
- 簸の川 ひのかわ 簸川。日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したという。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。
- [筑前] ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
- 香椎宮 かしいのみや/かしいぐう 福岡市香椎にある元官幣大社。仲哀天皇・神功皇后を祀る。記紀伝承の橿日宮の旧址に当たるという。香椎廟。
- [日向] ひゅうが (古くはヒムカ) 旧国名。今の宮崎県。
- 高千穂峰 たかちほのみね 宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の伝説の地。標高1574m。頂上に「天の逆鉾」がある。
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- [朝鮮]
- 朝鮮半島 ちょうせん はんとう アジア大陸の東部にある半島。黄海と日本海とをわける。朝鮮海峡を隔てて日本と対する。
- 馬韓 ばかん 古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済によって統一。
- 弁辰 べんしん → 弁韓
- 弁韓 べんかん 三韓の一つ。古代、朝鮮南部にあった部族国家(十二国)の総称。今の慶尚南道の南西部にあたる。後に伽耶諸国となり、やがて新羅に併合。弁辰。
- 秦韓 しんかん → 辰韓
- 辰韓 しんかん 古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部にあった部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。この中の斯盧によって統合され、356年、新羅となった。
- 三韓 さんかん (1) 古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称。それぞれが数十の部族国家に分かれていた。(2) 新羅・百済・高句麗の総称。
- 高麗 こま 高麗・狛。(1) 高句麗の称。また、高句麗からの渡来人の氏称。(2) 高麗の称。また、高麗から伝来したもの、舶来のものの意を表す語。
- 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。
(356〜935) - 百済 くだら (クダラは日本での称) (1) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�(しひ)城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。
( 〜660)(2) (1) などからの渡来人の居住した土地の名。(ア) 奈良県北葛城郡広陵町の一地区。(イ) 大阪市生野区鶴橋付近の地。百済王氏の氏寺があったという。 - 日本府 にっぽんふ/にほんふ 日本書紀に、大和政権が朝鮮南部経営のために任那に置いたと記される官府。562年新羅に滅ぼされたとされる。任那日本府。
- 任那 みまな 4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国のうちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。にんな。
- アリナレ川 阿利那礼河。日本書紀に見える河の名。古くは鴨緑江を指すと解されたが、新羅の国都慶州付近の北川、古名閼川(ありなる)とする説が有力。
- 大同江 だいどうこう/テドンガン (Taedong-gang) 朝鮮半島北西部、平安南道の大河。慈江道・咸鏡南道境の小白山に発源、平壌市街を貫流して黄海に注ぐ。長さ約430km。
- 楽浪 らくろう 前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康はその南半を割いて帯方郡を設置。313年高句麗に滅ぼされた。遺跡は墳墓・土城・碑などを主とし、古墳群からは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土。なお、楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
- 帯方郡 たいほうぐん 古代朝鮮に置かれた中国の郡名。後漢末、遼東太守の公孫康が楽浪郡を領有、204年頃、その南半部を割いて帯方郡を分置。313年まで存続。今の黄海南道・黄海北道を中心とする地方と推定されるが、中国の遼河付近とする説もある。
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- [中国]
- 秦 しん (1) 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。
( 〜前206)(2) 中国、五胡十六国の西秦・前秦・後秦。(3) 中国陝西省の別称。 - 漢 かん 秦につづく統一王朝。前漢(西漢)
・後漢(東漢)に分ける。 - 魏 ぎ (1) 中国古代、戦国七雄の一つ。晋の六卿の一人、魏斯(文侯)が、韓・趙とともに晋を分割し、安邑に都した。のち大梁(河南開封)に遷る。山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めた。後に秦に滅ぼされた。
(前403〜前225)(2) 中国、三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕に至って帝位についた。都は洛陽。江北の地を領有。5世で晋に禅る。曹魏。 (220〜265) - 呉 くれ (1) 中国南北朝時代の南朝およびその支配した江南の地域を日本でいう称。また、広く中国の称。(2) 呉と通交して以来、中国伝来の事物に添えていう語。
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- [インド]
- 天竺 てんじく
[後漢書西域伝、天竺]日本および中国で、インドの古称。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 瓊瓊杵尊 ににぎのみこと 邇邇芸命。日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女、木花之開耶姫を娶り、火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊。
- 木花開耶姫 このはなさくやひめ 木花之開耶姫・木花之佐久夜毘売。日本神話で、大山祇神の女。天孫瓊瓊杵尊の妃。火闌降命・彦火火出見尊・火明命の母。後世、富士山の神と見なされ、浅間神社に祀られる。
- 大山祇神 おおやまづみのかみ 山をつかさどる神。伊弉諾尊の子。
- 彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと 記紀神話で瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の女と結婚。別名、火遠理命。山幸彦。
- 豊玉姫 とよたまひめ 豊玉毘売・豊玉姫。(古くはトヨタマビメ) 海神、豊玉彦神の娘で、彦火火出見尊の妃。産屋の屋根を葺き終わらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているのを夫神にのぞき見られ、恥じ怒って海へ去ったと伝える。その時生まれたのが��草葺不合尊という。
- 綿津見神 わたつみのかみ 海神・綿津見。(ワダツミとも。ツは助詞「の」と同じ、ミは神霊の意) 海をつかさどる神。海神。わたつみのかみ。
- 火闌降命 ほすせりのみこと/ほすそりのみこと (書紀の古訓ではホノスソリノミコト) 火照命の別名。
- 火照命 ほでりのみこと 瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。弟の山幸彦(彦火火出見尊)と幸をかえ、屈服して俳人(わざひと)として宮門を守護。隼人の始祖と称される。火闌降命。海幸彦。
- 塩椎翁 しおつちのおきな/しおつちのおじ 塩土老翁。山幸彦が海幸彦から借りた釣針を失って困っていた時、舟で海神の宮へ渡した神。また、神武天皇東征の際、東方が統治に適した地であると奏した神。しおつつのおじ。塩椎神。
- 鵜草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと ��草葺不合尊。記紀神話で、彦火火出見尊の子。母は豊玉姫。五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)の父。
- 神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
- 天照大神 あまてらす おおみかみ 天照大御神。伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
- 長髄彦 ながすねひこ/ながすねびこ 神話上の人物。神武天皇東征のとき、大和国生駒郡鳥見地方に割拠した土豪。孔舎衛坂で天皇に抵抗、饒速日命に討たれた。
- 饒速日命 にぎはやひのみこと 記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦の妹三炊屋姫を妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。
- 五瀬命 いつせのみこと ��草葺不合尊の長子。神武天皇の兄。天皇と共に東征、長髄彦と戦って負傷、紀伊国の竈山で没したという。竈山神社に祀る。
- 大伴氏 おおともうじ 姓氏の一つ。古代の豪族。来目部・靫負部・佐伯部などを率いて大和政権に仕え、大連となるものがあった。のち伴氏。
- 道臣命 みちのおみのみこと 天忍日命の後裔。大伴氏の祖。初名は日臣命。神武天皇の東征に先鋒をつとめ、天皇即位の時に宮門の警衛に任じ、その子孫は軍事をつかさどったと伝える。
- 兄猾 えうかし
- 弟猾 おとうかし 弟宇迦斯(記)。弟師木ともいう。大和の宇陀に住む土豪で、宇陀水取らの祖。紀では神武天皇が行手を幾多の賊にはばまれたとき、天香山の土で作った瓦で天社国社の神をまつるように助言している。また、猛田邑を賜り、菟田主水部の遠祖猛田県主に任ぜられた。
(神名) - 兄磯城 えしき
- 弟磯城 おとしき
- 明治天皇 めいじ てんのう 1852-1912 近代の天皇。名は睦仁。幼名、祐宮。孝明天皇の第2皇子。生母は中山慶子。慶応3年(1867)1月9日践祚。同年12月天皇の名により王政復古の大号令を出す。翌年「五カ条の誓文」を宣布、明治と改元。江戸を東京と改めて遷都。その治政下に、廃藩置県・憲法発布・議会召集・教育勅語発布など万般の新制が定められ、近代化が進められた。また、台湾出兵・日清戦争・日露戦争・韓国併合などの対外膨張も行われた。和歌をよくした。陵墓は伏見桃山陵。
(在位1867〜1912) - 珍彦 うつひこ → 槁根津日子
- 槁根津日子 さおねつひこ 椎根津彦命(紀)。紀で神武天皇東征の際、速吸之門で天皇の船を導いた国津神。名を珍彦と名乗ったが、神武は椎棹をさしわたして舟に引き入れ案内させ、この名を与えた。倭直の祖。
(日本史) - 事代主神 ことしろぬしのかみ 日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣を作り隠退した。託宣の神ともいう。八重言代主神。
- 媛踏鞴五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめのみこと 記では富登多多良伊須須岐比売命。神武天皇の皇后で綏靖天皇の母と伝えられる伝説上の人物。紀は大三輪の神の子あるいは事代主神の子とし、記では美和大物主神が三島湟咋(みぞくい)の女勢夜陀多良比売に生ませた子と伝える。神武天皇の没後、子の皇子を助けて即位させたという。
(日本史) - 大国主神 おおくにぬしのかみ 大国主命。日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊の子とも6世の孫ともいう。少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊に譲って杵築の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神・国魂神・葦原醜男・八千矛神などの別名が伝えられるが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。
- 物部氏 もののべし 古代の大豪族。姓は連。饒速日命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、族長は代々大連に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。
- 綏靖天皇 すいぜい てんのう 記紀伝承上の天皇。神武天皇の第3皇子。名は神渟名川耳。
- 安寧天皇 あんねい てんのう 記紀伝承上の天皇。綏靖天皇の第1皇子。名は磯城津彦玉手看。
- 懿徳天皇 いとく てんのう 記紀伝承上の天皇。安寧天皇の第2皇子。名は大日本彦耜友。
- 孝昭天皇 こうしょう てんのう 記紀伝承上の天皇。懿徳天皇の第1皇子。名は観松彦香殖稲。
- 孝安天皇 こうあん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝昭天皇の第2皇子。名は日本足彦国押人。
- 孝霊天皇 こうれい てんのう 記紀伝承上の天皇。孝安天皇の第1皇子。名は大日本根子彦太瓊。
- 孝元天皇 こうげん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝霊天皇の第1皇子。名は大日本根子彦国牽。
- 開化天皇 かいか てんのう 記紀伝承上の天皇。孝元天皇の第2皇子。名は稚日本根子彦大日日。
- 崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
- 大彦命 おおひこのみこと/おおびこのみこと 大毘古命(記)。孝元天皇の第一皇子で、母は皇后・鬱色謎命。開化天皇と少彦男心命(古事記では少名日子名建猪心命)の同母兄で、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した四道将軍の一人。
- 武渟川別命 たけぬなかわわけのみこと 大彦命の皇子。崇神天皇の時、四道将軍の一人として東海に遣わされたと伝える。阿倍臣の祖。
- 彦坐王 ひこいますおう/ひこいますのみこ 日子坐王。記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命。崇神天皇の異母弟、神功皇后の高祖父にあたる。
『古事記』によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠退治のために丹波に派遣されたとある。 - 丹波道主命 たにはのみちのうしのみこと 四道将軍の一人。彦坐王の子。崇神天皇の時、丹波・山陰・山陽地方を鎮めたと伝える。
- 吉備津彦命 きびつひこのみこと 日本神道の神。吉備冠者ともいう。孝霊天皇の皇子で山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。別名(本来の名)を五十狭芹彦といい、吉備国を平定した事によって吉備津彦を名乗る事になる。
(吉備津とは「吉備国」の「津」であり吉備津彦とは「吉備の勢力者」の意味)。 - 豊城入彦命 とよきいりひこのみこと 崇神天皇の皇子。東国の上毛野君、下毛野君の祖と伝えられる。
- 初国知らす天皇 はつくにしらす すめらみこと 始馭天下之天皇・御肇国天皇。はじめて造った国を統治される天皇の意。すなわち神武天皇、また崇神天皇をいう。
- 素戔嗚尊 すさのをのみこと 須佐之男命。日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
- 沼河姫 ぬながわひめ 沼河比売・沼名河比売。古事記で、高志国(新潟県)に住み八千矛神に求婚された神。
- 垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。
- 景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
- 日本武尊 やまとたけるのみこと 日本武尊・倭建命。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
- 小碓尊 おうすのみこと → 日本武尊
- 倭姫命 やまとひめのみこと 垂仁天皇の皇女といわれる伝説上の人物。天照大神の祠を大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して草薙剣を授けたという。
- 弟橘媛 おとたちばなひめ 日本武尊の妃。穂積氏忍山宿祢の女。記紀の伝説で尊東征の時、相模海上(浦賀水道の辺)で風波の起こった際、海神の怒りをなだめるため、尊に代わって海に投じたと伝える。橘媛。
- 吉備武彦 きびの たけひこ 稚武彦命の子。景行天皇の勅命により、大伴武日命とともに倭建御子に従って倭建御子をよく輔佐し、内事を専掌した。毛人・凶鬼らを伐って阿倍廬原国にいたり、その功により復命の日に廬原国を賜った。廬原国とは駿河国阿倍郡廬原郷。娘は倭建御子の妃となっている。
(神名) - 宮簀媛 みやすひめ/みやずひめ 記紀伝承で日本武尊の妃。尾張国造の祖、建稲種公の妹。日本武尊は東征後、草薙剣を媛の許に留めたが、尊の没後、媛は神剣を祀り、熱田神宮の起源をなした。
- 雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
- 御間城入彦 みまきいりひこ → 崇神天皇
- 仲哀天皇 ちゅうあい てんのう 記紀伝承上の天皇。日本武尊の第2王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦。熊襲征討の途中、筑前国の香椎宮で没したという。
- 神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。
(記紀伝承による) - 息長宿祢王 おきながすくねおう/おきながのすくねのみこ 気長宿祢王(紀)。息長は近江の地名。父は開化天皇の皇子日子坐王を祖父とする迦邇米雷王。母は高材比売。天之日矛の子孫である葛城之高額比売との間に息長帯比売、他二子が生まれた。近江国坂田郡日撫村式内社日撫神社(元郷社)その他に祀られている。
(神名) - 武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
- 漢の武帝 かんの ぶてい 前漢の第7代の皇帝。劉徹。内政を確立し匈奴を漠北に追い、西域・安南・朝鮮半島を経略。儒教を政治教化の基とした。
(在位前141〜前87) (前156〜前87) - 天日槍 あめのひぼこ 天之日矛。記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
- 田道間守 たじまのもり/たじまもり 記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
- 応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
- 王仁 わに 古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、
「論語」10巻、 「千字文」1巻をもたらしたという。和邇吉師。 - 始皇帝 し こうてい 前259-前210 秦の第1世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山の陵を築造。
(在位前247〜前221・前221〜前210) - 弓月君 ゆつきのきみ/ゆづきのきみ 秦氏の祖とされる伝説上の人物。秦の始皇帝の子孫で、百済に移住していた秦(はた)人・漢(あや)人から成る127県の民を率いて応神朝に来朝したという。融通王。
- 霊帝 れいてい 156-189 後漢第12代の皇帝。在位168-189。章帝の玄孫。竇太后(桓帝の皇后)に迎立され13歳で即位した。太后の父竇武が陳蕃・李膺らの名士を挙用し、宦官を除こうとしたが失敗して169年第二の党錮の獄となった。184年、黄巾の乱が起こり、平定ののちも群盗蜂起し討伐の諸将は割拠の風を生じた。外には羌胡・匈奴の背反があり、天下騒然として後漢衰亡の兆があった。死後弘農王弁が嗣いだが、董卓に廃された。
(東洋史) - 阿知使主 あちのおみ 応神天皇の時の渡来人。後漢の霊帝の曾孫ともいう。のち呉に使して織女・縫女を連れ帰ったと伝えられる。古代の最も有力な渡来人の一族、東漢直の祖という。
- 都加使主 つかのおみ 東漢掬(やまとのあやのつか)とも。生没年不詳。東漢氏の祖阿知使主の子とされる渡来人。紀の応神20年9月条に父とともに党類17県を率いて渡来、同37年2月条には縫工女を求め父と呉(くれ、中国の江南地方)に派遣されたとある。雄略7年詔により今来才伎を上桃原・下桃原・真神原に遷居させ、同23年8月天皇の遺詔に従い、皇太子(清寧天皇)を奉じ星川皇子を滅ぼした。雄略朝頃の人だが、東漢氏発展の基礎を築いたため渡来伝承に盛り込まれたか。
(日本史) - 稚郎子 わきいらつこ → 菟道稚郎子
- 菟道稚郎子 うじのわきいらつこ 宇遅の和紀郎子(記)。応神天皇の皇太子。仁徳天皇の弟。阿直岐・王仁について学び、博く典籍に通じたが、兄に帝位を譲るため自殺したという。/応神天皇の皇子。京都市宇治神社の祭神。仁徳天皇の異母弟にあたる。
(神名) - 河内の文氏 かわちの ふみうじ 西文氏。古代の渡来系氏族。河内国古市郡に住む。主に文筆・記録で朝廷に仕え、首の姓を称した。王仁の子孫と伝える。
- 大和の文氏 やまとのふみうじ 東文氏。倭書氏・倭漢文(書)氏とも。応神朝に来朝したと伝える阿知使主を祖とする渡来系氏族。東漢氏の同族。姓ははじめ直、685年(天武14)6月に忌寸を賜ったと推定され、785年(延暦4)6月には宿祢に改姓。
「古語拾遺」は雄略朝に西(かわち)文氏とともに三蔵の簿を勘録したと伝える。令制でも両文氏は東西史部と並称され、その子は大学入学の有資格者となった。 (日本史) - 秦氏 はたうじ (古くはハダ) 姓氏の一つ。古代の渡来系の氏族。応神天皇のとき渡来した弓月君の子孫と称するが、確かではない。5世紀後半頃より、伴造として多数の秦部を管理し、織物の生産などにたずさわった。
- 秦酒公 はたのさけのきみ 秦造酒とも。雄略天皇に仕えたとされる伝説上の人物。闘鶏御田(つげのみた)が無実の罪におとされようとしたとき、側にいた酒が歌に託して天皇を諫めたという。また、それまで諸氏族の支配下にあった秦の民を天皇から一括して賜った酒は、返礼として「百八十種勝」をひきいて庸調の絹布を献上し朝廷にうず高く積み上げたため、賞されて禹豆麻佐(うずまさ、太秦)の姓を賜った。
「新撰姓氏録」にも同様の話があり、貢物を収める大蔵の官人の長となったという。 (日本史) - 欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。名は天国排開広庭。即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)
、百済の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。 (在位 〜571) - 御坂の悪神 みさかのわるがみ → 科野の坂の神
- 科野の坂の神 しなの/しなぬのさかのかみ 倭建御子が東征の途中、科野国を越える際に言向けた神。
(神名)
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
- 隼人 はやと ハヤヒトの約。
- 隼人 はやひと 古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
- 安国 やすくに 安らかに治まる国。泰平の国。
- 平らか たいらか (1) 高低のないさま。凹凸のないさま。平坦なさま。(2) 安らかなさま。平和なさま。(3) 平穏無事なさま。
- 天津神 あまつかみ 天つ神。天にいる神。高天原の神。また、高天原から降臨した神、また、その子孫。←
→国つ神。 - 八咫烏 やたがらす (ヤタはヤアタの約。咫(あた)は上代の長さの単位) (1) 記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏。姓氏録によれば、賀茂建角身命の化身と伝えられる。(2) 中国古代説話で太陽の中にいるという3本足の赤色の烏の、日本での称。
- 弭 ゆはず 弓弭・弓。弓の両端の弓弦をかけるところ。上端のを末弭、下端のを本弭という。ゆみはず。
- 金鵄 きんし 神武天皇東征の時に、弓の先にとまったという金色のトビ。
- 金鵄勲章 きんし くんしょう 武功抜群の陸海軍軍人に下賜された勲章。功1級から功7級まで。1890年(明治23)制定。年金または一時金の支給を伴う。1947年廃止。
- 十種神宝 とくさの かんだから 饒速日命がこの国に降った時、天神が授けたという10種の宝。すなわち瀛都鏡・辺都鏡・八握剣・生玉・足玉・死反玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼をいう。
- 即位の大礼 そくいの たいれい → 即位の礼
- 即位の礼 そくいのれい 即位式の、現行の皇室典範における称。
- 紀元節 きげんせつ 四大節の一つ。1872年(明治5)
、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、2月11日。第二次大戦後廃止されたが、1966年、 「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施。 - 土人 どじん (1) その土地に生まれ住む人。土着の人。土民。(2) 未開の土着人。軽侮の意を含んで使われた。(3) 土でつくった人形。土人形。泥人形。
- 国造 くにのみやつこ (
「国の御奴」の意) 古代の世襲の地方官。ほぼ1郡を領し、大化改新以後は多く郡司となった。大化改新後も1国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。 - 県主 あがたぬし 大和時代の県の支配者。後に姓の一つとなった。
- 国津神 くにつかみ 国つ神・地祇。(1) 国土を守護する神。地神。(2) 天孫降臨以前からこの国土に土着し、一地方を治めた神。国神。←
→天つ神。 - 人皇 にんのう 神代と区別して、神武天皇以後の天皇をいう語。
- 徳沢 とくたく 徳化の余沢。めぐみ。恩沢。
- 四道将軍 しどう しょうぐん 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命。古事記は西道を欠く。
- 初国・肇国 はつくに はじめて造った国。
- 熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。日本武尊の征討伝説で著名。
- 蝦夷 えぞ (1) 古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従しなかった人びと。えみし。(2) 北海道の古称。蝦夷地。
- 蝦夷 えみし 「えぞ(蝦夷)
」の古称。 - 石器時代 せっき じだい 考古学上の時代区分の一つ。人類文化の第1段階。まだ金属の使用を知らず、石で利器を作った時代。旧石器時代・新石器時代に大別。
- アイヌ Ainu (アイヌ語で人間の意) かつては北海道・樺太(サハリン)
・千島列島に居住したが、現在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。かつては鮭・鱒などの川漁や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行なった。近世以降は松前藩の苛酷な支配や明治政府の開拓政策・同化政策などにより、固有の慣習や文化の多くが失われ、人口も激減したが、近年文化の継承運動が起こり、地位向上をめざす動きが進む。口承による叙事詩ユーカラなどを伝える。 - 越人 こしびと
- 八岐の大蛇 やまたのおろち 記紀神話で、出雲の簸川にいたという大蛇。頭尾はおのおの八つに分かれる。素戔嗚尊がこれを退治して奇稲田姫を救い、その尾を割いて天叢雲剣を得たと伝える。
- 皇威 こうい 天皇の威光。みいつ。
- 勅 みことのり 詔・勅。(
「御言宣」の意) 天皇のことば。おおせ。おおみこと。詔勅。勅諚。勅命。文書上の規定では「詔」の字は臨時の大事に用い、 「勅」は尋常の小事に用いる(令義解公式令)など諸説がある。 - 天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ 日本神話で、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した時、その尾から出たという剣。これを天照大神に奉った。後に、草薙剣と称して熱田神宮に祀る。
- 草薙剣 くさなぎのつるぎ 三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾から出たと伝える剣。日本武尊が東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣。
- 毛人 けびと/もうじん (毛深い人の意) 蝦夷(えぞ)の古称。
- 秦韓人 しんかんじん
- 鼎 かなえ (金瓮(かなへ)の意) 食物を煮るのに用いる金属製または土製の容器。普通は三足。
- 神兵 しんぺい 神の兵士。神の加護ある兵。
- 天孫民族 てんそん みんぞく 天照大神の子孫の集団。
- 秦人 しんじん/はたびと 秦氏。弓月君を祖と伝える有力渡来系氏族。本拠地は山背国葛野郡。
- 漢人 かんじん (1) 漢族の人。漢民族。また、ひろく中国の人をいう。(2) 元代、旧金朝治下の漢人・契丹人・女真人などの称。旧南宋下の南人と区別された。
- 橘 たちばな 食用柑橘類の総称。ときじくのかくのこのみ。
- 銅鐸 どうたく 弥生時代の青銅器の一種。釣鐘を扁平にした形で、上方に半円形の鈕がある。本来内部に舌を吊るし、ゆり動かして音を出したもの。次第に大形化し、装飾が多くなり、鳴りものの機能を失う。高さ十数cm前後から130cm以上のものまであり、装飾には原始絵画のあるものがあって有名。西日本で製作され、祭器として用いた。
- 青銅 からかね/せいどう 銅と錫との合金。各種あり、鋳造用のほか、鍛錬材・圧延材にも用いられ、亜鉛・鉛などを加えて古来美術品・貨幣につくられた。機械の部品にもしばしば用いられ(砲金)
、さらに燐を加えた燐青銅、金銀を加えた鐘青銅、特殊な鏡青銅などがある。真鍮に次ぐ日常に関係深い銅合金。唐金。ブロンズ。錫青銅。→アルミ青銅。 - 唐金 からかね (中国から製法が伝わったからいう) 青銅。
- 鐸 ベル/たく (1) 扁平な鐘形で、内部に舌をつるし、ゆり動かして音響を発する鳴りもの。馬鐸・風鐸など。ただし、古く中国では上に細長い柄をつけ、手に持って鳴らしたものをいい、教令を宣布する時、文事には木鐸(木舌のもの)
、武事には金鐸(金舌のもの)を用いたという。ぬて。ぬりて。鐸鈴。(2) 大形の風鈴。 - 帰化 きか (1) (ア)[論衡程材「帰化慕義」]君王の徳化に帰服すること。(イ)[後漢書循吏伝、童恢]他の地方の人がその土地に移って来て定着すること。(2) (naturalization) (ア) 志望して他の国の国籍を取得し、その国の国民となること。(イ)〔生〕人間の媒介で渡来した生物が、その土地の気候・風土に適応し、自生・繁殖するようになること。
- 漢文学 かん ぶんがく 中国古来の文学。経書・史書・詩文など。また、日本漢詩文も含めてそれらを研究する学問。
- 一類 いちるい (1) 同じたぐい。同じ種類。また、同じともがら。一味。(2) 同族。一族。
- 追い使う おいつかう 追いまわしてつかう。雇い人などを、容赦なくつかう。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
・鉄腕アトム……10万馬力の原子力モーター。
・ゴジラ……水爆実験で発生した放射性物質を浴び怪獣化。
・宇宙戦艦ヤマト……放射能汚染された地球。波動エンジン。
・ガンダム……核分裂エネルギーによる核動力(原子力)。
・未来少年コナン、三角塔……原子炉。
・ルパン三世、死の翼アルバトロス……原爆の製造プラント。
・巨神兵……プロトンビーム、生物に有害な「毒の光」
・沈黙の艦隊……原子力潜水艦。
赤坂憲雄・小熊英二(編)
(p.97) 放射線への恐怖が人々の判断能力を一時的に宙づり状態におき、同じ発言同じ内容が思想信条を問わずなされているように見える。ごく少数の例外もあろうが表には見えない。
(p.100)
(p.115) では、
*次週予告
第五巻 第一四号
日本歴史物語
第五巻 第一四号は、
二〇一二年一〇月二七日(土)発行予定です。
月末最終号:無料
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第一三号
日本歴史物語
発行:二〇一二年一〇月二〇日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)上巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)上巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 第五巻
- 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉- 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
- 第六号 大震火災記 鈴木三重吉
- 第五巻 第七号 校註『古事記』
(四) 武田祐吉- 古事記 中つ巻
- 一、神武天皇
- 東征
- 速吸の門
- 五瀬の命
- 熊野より大和へ
- 久米歌
- 大物主の神の御子
- 当芸志美美の命の変
- 二、綏靖天皇以後八代
- 綏靖天皇
- 安寧天皇
- 懿徳天皇
- 孝昭天皇
- 孝安天皇
- 孝元天皇
- 開化天皇
- 神倭伊波礼毘古の命〔神武天皇〕、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまわく、
「いずれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさん。なお東のかたに、行かん」とのりたまいて、すなわち日向より発たして、筑紫に幸でましき。 (略) - かれその国より上り行でますときに、浪速の渡をへて、青雲の白肩の津に泊てたまいき。このときに、登美の那賀須泥毘古、軍をおこして、待ち向かえて戦う。
(略) - また兄師木・弟師木を撃ちたまうときに、御軍しまし〔しばし〕疲れたり。ここに歌よみしたまいしく、
- 楯並めて 伊那佐の山の
- 樹の間よも い行きまもらい
- 戦えば 吾はや飢ん。
- 島つ鳥 鵜養が徒、
- 今助けに来ね。
- かれここに邇芸速日の命まい赴きて、天つ神の御子にもうさく、
「天つ神の御子、天降りましぬと聞きしかば、追いてまい降り来つ」ともうして、天つ瑞をたてまつりて仕えまつりき。かれ邇芸速日の命、登美毘古が妹登美夜毘売に娶いて生める子、宇摩志麻遅の命。 〈こは物部の連、穂積の臣、 臣が祖なり。 〉かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向けやわし、まつろわぬ人どもを退けはらいて、畝火の白梼原の宮にましまして、天の下治らしめしき。 - 第五巻 第八号 校註『古事記』
(五) 武田祐吉- 古事記 中つ巻
- 三、崇神天皇
- 后妃と皇子女
- 美和の大物主
- 将軍の派遣
- 四、垂仁天皇
- 后妃と皇子女
- 沙本毘古の反乱
- 本牟智和気の御子
- 丹波の四女王
- 時じくの香の木の実
- この天皇〔垂仁天皇〕、沙本毘売を后としたまいしときに、沙本毘売の命の兄、沙本毘古の王、その同母妹に問いていわく、
「夫と兄とはいずれか愛しき」と問いしかば、答えていわく「兄を愛しとおもう」と答えたまいき。ここに沙本毘古の王、謀りていわく、 「汝まことに我を愛しと思おさば、吾と汝と天の下治らさんとす」といいて、すなわち八塩折の紐小刀を作りて、その妹に授けていわく、 「この小刀もちて、天皇の寝したまうを刺し殺せまつれ」という。かれ天皇、その謀を知らしめさずて、その后の御膝を枕きて御寝したまいき。ここにその后、紐小刀もちて、その天皇の御首を刺しまつらんとして、三度挙りたまいしかども、哀しとおもう情にえ忍えずして、御首をえ刺しまつらずて、泣く涙、御面に落ちあふれき。天皇おどろき起ちたまいて、その后に問いてのりたまわく、 「吾は異しき夢を見つ。沙本の方より、暴雨の零りきて、急にわが面を沾しつ。また錦色の小蛇、わが首に纏わりつ。かかる夢は、こは何の表にあらん」とのりたまいき。ここにその后、争うべくもあらじとおもおして、すなわち天皇に白して言さく、 「妾が兄沙本毘古の王、妾に、夫と兄とはいずれか愛しきと問いき。ここにえ面勝たずて、かれ妾、兄を愛しとおもうと答えいえば、ここに妾に誂えていわく、吾と汝と天の下を治らさん。かれ天皇を殺せまつれといいて、八塩折の紐小刀を作りて妾に授けつ。ここをもちて御首を刺しまつらんとして、三度挙りしかども、哀しとおもう情にわかにおこりて、首をえ刺しまつらずて、泣く涙の落ちて、御面を沾らしつ。かならずこの表にあらん」ともうしたまいき。 - 第五巻 第九号 校註『古事記』
(六) 武田祐吉- 古事記 中つ巻
- 五、景行天皇・成務天皇
- 后妃と皇子女
- 倭建の命の西征
- 出雲建
- 倭建の命の東征
- 思国歌
- 白鳥の陵
- 倭建の命の系譜
- 成務天皇
- 六、仲哀天皇
- 后妃と皇子女
- 神功皇后
- 鎮懐石と釣り魚
- 香坂の王と忍熊の王
- 気比の大神
- 酒楽の歌曲
- その太后息長帯日売の命〔神功皇后〕は、当時神帰せしたまいき。かれ天皇〔仲哀天皇〕、筑紫の訶志比の宮にましまして熊曽の国を撃たんとしたまうときに、天皇御琴を控かして、建内の宿祢の大臣沙庭にいて、神の命を請いまつりき。ここに太后、神帰せして、言教え覚し詔りたまいつらくは、
「西の方に国あり。金銀をはじめて、目耀く種々の珍宝その国に多なるを、吾今その国を帰せたまわん」と詔りたまいつ。ここに天皇、答え白したまわく、 「高き地に登りて西の方を見れば、国は見えず、ただ大海のみあり」と白して、いつわりせす神と思おして、御琴を押し退けて、控きたまわず、黙いましき。ここにその神いたく忿りて詔りたまわく、 「およそこの天の下は、汝の知らすべき国にあらず、汝は一道〔一説に、死出の道。冥土〕に向かいたまえ」と詔りたまいき。ここに建内の宿祢の大臣白さく、 「恐し、わが天皇。なおその大御琴あそばせ」ともうす。ここにややにその御琴を取りよせて、なまなまに控きいます。かれ、幾時もあらずて、御琴の音聞こえずなりぬ。すなわち火をあげて見まつれば、すでに崩りたまいつ。 - 第五巻 第一〇号 校註『古事記』
(七) 武田祐吉- 古事記 中つ巻
- 七、応神天皇
- 后妃と皇子女
- 大山守の命と大雀の命
- 葛野の歌
- 蟹の歌
- 髪長比売
- 国主歌
- 文化の渡来
- 大山守の命と宇遅の和紀郎子
- 天の日矛
- 秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫
- 系譜
- また昔、新羅の国主の子、名は天の日矛というあり。この人まい渡り来つ。まい渡り来つる故は、新羅の国に一つの沼あり、名を阿具沼という。この沼のほとりに、ある賤の女昼寝したり。ここに日の耀虹のごと、その陰上にさしたるを、またある賤の男、そのさまを異しと思いて、つねにその女人のおこないをうかがいき。かれこの女人、その昼寝したりしときより妊みて赤玉を生みぬ。ここにそのうかがえる賤の男、その玉を乞い取りて、つねに裹みて腰につけたり。この人、山谷の間に田を作りければ、耕人どもの飲食を牛に負せて、山谷の中に入るに、その国主の子天の日矛に遇いき。ここにその人に問いていわく、
「何ぞ汝飲食を牛に負せて山谷の中に入る。汝かならずこの牛を殺して食うならん」といいて、すなわちその人を捕らえて、獄内に入れんとしければ、その人答えていわく、 「吾、牛を殺さんとにはあらず、ただ田人の食を送りつらくのみ」という。しかれどもなおゆるさざりければ、ここにその腰なる玉を解きて、その国主の子に幣しつ。かれその賤の夫をゆるして、その玉を持ち来て、床の辺に置きしかば、すなわち顔美き嬢子になりぬ。よりて婚して嫡妻とす。ここにその嬢子、つねに種々の珍つ味を設けて、つねにその夫に食わしめき。かれその国主の子心おごりて、妻を詈りしかば、その女人の言わく、 「およそ吾は、汝の妻になるべき女にあらず。わが祖の国に行かん」といいて、すなわち窃びて小船に乗りて、逃れ渡り来て、難波に留まりぬ。 〈こは難波の比売碁曽の社にます阿加流比売という神なり。 〉 - ここに天の日矛、その妻の遁れしことを聞きて、すなわち追い渡りきて、難波にいたらんとするほどに、その渡りの神塞えて入れざりき。かれさらに還りて、多遅摩の国に泊てつ。すなわちその国に留まりて、多遅摩の俣尾が女、名は前津見に娶いて生める子、多遅摩母呂須玖。これが子多遅摩斐泥。これが子多遅摩比那良岐。これが子多遅摩毛理、つぎに多遅摩比多訶、つぎに清日子〈三柱〉。この清日子、当摩の�@斐に娶いて生める子、酢鹿の諸男、つぎに妹菅竃由良度美、かれ上にいえる多遅摩比多訶、その姪由良度美に娶いて生める子、葛城の高額比売の命。
〈こは息長帯比売の命の御祖なり。 〉 - かれその天の日矛の持ち渡り来つる物は、玉つ宝といいて、珠二貫、また浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、また奥つ鏡、辺つ鏡、あわせて八種なり。
〈こは伊豆志の八前の大神なり。 〉 - 第五巻 第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介
- オウム ―
―大震覚え書きの一つ― ― - 大正十二年九月一日の大震に際して
- 一 大震雑記
- 二 大震日録
- 三 大震に際せる感想
- 四 東京人
- 五 廃都東京
- 六 震災の文芸に与うる影響
- 七 古書の焼失を惜しむ
- 今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思う。表慶館に陳列されていた陶器類はほとんど破損したということであるが、その他にも損害は多いにちがいない。しかし古美術品のことはしばらくおき、古書のことを考えると黒川家の蔵書も焼け、安田家の蔵書も焼け、大学の図書館の蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だろう。商売人でも村幸とか浅倉屋とか吉吉だとかいうのが焼けたから、そのほうの罹害も多いにちがいない。個人の蔵書はともかくも、大学図書館の蔵書の焼かれたことはなんといっても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近しているのもよろしくない。休日などには図書館に小使いくらいしかいないのもよろしくない、
(そのために今度のような火災にもどういう本が貴重かがわからず、したがって貴重な本を出すこともできなかったらしい。 )書庫そのものの構造のゾンザイなのもよろしくない。それよりももっとつきつめたことをいえば、大学が古書を高閣に束ねるばかりで古書の覆刻をさかんにしなかったのもよろしくない。いたずら材料を他に示すことを惜しんで、ついにその材料を烏有に帰せしめた学者の罪は、鼓をならして攻むべきである。大野洒竹の一生の苦心になった洒竹文庫の焼け失せただけでも残念でたまらぬ。 「八九間雨柳」という士朗〔井上士朗か〕の編んだ俳書などは、勝峰晋風氏の文庫と天下に二冊しかなかったように記憶しているが、それも今は一冊になってしまったわけだ。 ( 「七 古書の焼失を惜しむ」より) - 第五巻 第一二号 日本歴史物語〈上〉
(一) 喜田貞吉- 児童たちへ
- 一、万世一系の天皇陛下
- 二、日本民族(上)
- 三、日本民族(下)
- 四、天照大神
- 五、天の岩屋戸ごもり
- 六、八岐の大蛇退治
- 七、因幡の白兎
- 八、出雲の大社
- 九、天孫降臨と三種の神器
- (略)そこで天照大神は、いよいよ御孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をこの国にお降しになって、これを安い国として平らかにお治めしめなさることになりましたが、それにはまずもって、大国主神の国をたてまつらしめなければなりません。これがために、三度まで使いをつかわしになりました。しかし、なにぶん大国主神の威勢がさかんなものですから、使いの神もその方へついてしまって帰ってまいりませんでした。最後に武甕槌神と経津主神とがお使いに立ちました。武甕槌神はのちに常陸の鹿島神宮に、また経津主神はのちに下総の香取神宮に、それぞれ軍神としておまつり申したほどの武勇すぐれた神々でありましたから、大国主神の威勢にもおそれず、よく利害をお説きになり、国を天孫にたてまつるようにとお諭しになりました。天孫とは瓊瓊杵尊の御事を申すのです。しかしこれは大国主神にとってはまことに重大な事件です。ご自身だけのお考えでは、おはからいかねになりました。そこでまずもって御子の事代主神のご意見をお問いになりましたところが、このとき出雲の美保が崎で、魚を釣っておられました事代主神は、
- 「それはもちろん、大神のおおせにしたがいますよう」
- と、いさぎよくご同意申し上げました。出雲の美保神社は、ここで釣りをしておられました縁故で、この事代主神をおまつりしてあるのです。
- かく事代主神がご賛成申したので、大国主神も今はご異存もなく、久しく治めておられました国を天孫にさしあげましたが、事代主神の弟神の建御名方神は、たいそう元気のさかんな神でありましたから、なかなかそれを承知いたしません。
- 「それなら大神のお使いの神たちと、力競べをしてみよう」
- と申しました。しかし建御名方神の力は、とても武甕槌神にかないっこはありません。とうとう信濃の諏訪まで逃げて行って、そこでおそれ入りました。今の諏訪神社は、その土地にこの神をおまつり申したのです。
- 大国主神は、いよいよその国をさしあげましたについて、杵築の宮にお引きこもりになりました。これは今の出雲の大社で、その御殿は天孫のご宮殿と同じようにお造り申したということであります。命(みこと)が大神の命を奉じて、いさぎよくその国を治めることを天孫におまかせ申しあげましたので、天孫の方からは、特別の尊敬をもってこれをご待遇なされましたわけなのです。
( 「八、出雲の大社」より)
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