喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

小村雪岱 こむら せったい
1887-1940(明治20.3.22-昭和15.10.17)
日本画家、挿絵画家。本名、安並泰輔。埼玉県川越生まれ。時代風俗の考証に通じ、のち舞台装置家、新聞雑誌の挿絵画家として活躍、その繊細で鮮烈な描線のかもし出すエロチシズムで、広くファンを熱狂させた。挿絵は泉鏡花作『日本橋』、邦枝完二作『お伝地獄』など。(人名)

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・小村雪岱。



もくじ 
日本歴史物語〈上〉(二)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
日本歴史物語〈上〉(二)
  十、山幸彦と海幸彦
  十一、金鵄(きんし)の光
  十二、熊襲と蝦夷(一)
  十三、熊襲と蝦夷(二)
  十四、熊襲と蝦夷(三)
  十五、熊襲と蝦夷(四)
  十六、朝鮮半島諸国の服属
  十七、外人の渡来と外国文化の輸入(一)
  十八、外人の渡来と外国文化の輸入(二)
  十九、外人の渡来と外国文化の輸入(三)
  二十、外人の渡来と外国文化の輸入(四)

オリジナル版
日本歴史物語〈上〉(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03cm。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1mの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3m。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109m強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273km)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方cm。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。
  • 海里・浬 かいり (sea mile; nautical mile) 緯度1分の子午線弧長に基づいて定めた距離の単位で、1海里は1852m。航海に用いる。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。1尋は5尺(1.515m)または6尺(1.818m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 土地面積の単位。6尺四方、すなわち約3.306平方m。歩(ぶ)。



*底本

底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html





日本歴史物語〈上〉(二)

喜田貞吉さだきち

   十、山幸彦やまさちびこ海幸彦うみさちびこ


 天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことが、日向ひゅうが高千穂峰たかちほのみねにおくだりになりましてから御三代ごさんだいの間は、引き続き日向の国においでになりました。みことのおきさき木花開耶姫このはなさくやひめ親神おやがみは、大山祇神おおやまづみのかみと申して山をご支配になる神です。また、そのお子の彦火火出見尊ひこほほでみのみことのお妃は豊玉姫とよたまひめと申して、海をご支配になる綿津見神わたつみのかみ御子みこでした。これは山の神も、海の神も、みな皇室のご親類になりまして、ただひとりいねのよくできるという瑞穂みずほの国の、平地へいちの場所ばかりではなく、そのほかの山も、海も、みな天皇の御徳おんとくにしたがったことをしめしているのであります。
 木花開耶姫このはなさくやひめ御名おんなのとおりの花のさかったような、いたってお美しいおかたでした。ところがそのおねえさんに磐長姫いわながひめと申して、お姿すがたのおよろしくないおかたがありました。瓊瓊杵尊ににぎのみことはこの磐長姫をおきらいになり、木花開耶姫をきさきとしてお選びになったので、それから人間のいのちは、の花のいてはやがてるように短くなったのだと申します。このときに、もしみことが磐長姫をお妃になさったのであったなら、人のいのちいわおのようにいつまでもいつまでも長く生きられるのであったと申すのです。しかし、もし人間が生まれるばかりでいつまでも死なないものであったなら、この世の中はどうなっているでしょう。
 瓊瓊杵尊ににぎのみことのお子の火闌降命ほすせりのみことは「海幸彦うみさちびこ」と申して、ばりをもって海で魚をおりになる。またその御弟おんおとうと彦火火出見尊ひこほほでみのみことは「山幸彦やまさちびこ」と申して、弓矢ゆみやをもって山で鳥やけものをおりになる。いつもいつも同じことばかりをしておられましたので、おたがいにきてきまして、あるとき、ご兄弟ご相談のうえ、釣り針と弓矢とをお取りかえになりました。そして山幸彦は海へ、海幸彦は山へと出かけられましたが、どちらもれぬ仕事なものですから、一日かかって一つも獲物えものがありませんでした。これはやはりもとどおりがよいと、火闌降命ほすせりのみこと弟神おとうとがみの弓矢を返されました。しかしこまったことには、彦火火出見尊ひこほほでみのみことは釣り針を魚に取られてしまって、お返しになることができません。いろいろとおわびをなさいましたが、意地いじの悪い火闌降命ほすせりのみことは、どうしてもそれをご承知になりません。仕方がなくご自分のおこしかたなをつぶしてせんの釣り針を作ってお返しになりましたが、それでもやっぱりもとのでなければいやだと言われます。いよいよおこまりになって、もしやそこらに落ちてはいまいかと、あてどもなくきながら海岸をうろついておられますと、そこへ塩椎翁しおつちのおきなというおじいさんがやってまいりまして、そのわけを聞いておどくに思い、これを綿津見神わたつみのかみみやへとお送り申し上げました。綿津見神は海を支配する神です。みことはこの神におたのみになって、すべての魚を集めて調べておもらいになりますと、さっそくその釣り針をのどにさしてこまっている魚が見つかりました。そこでみことはそれを返しておもらいになり、ついでに三年のあいだ、おきゃくとしてこの宮にご逗留とうりゅうのうえ、綿津見神のお子の豊玉姫をおきさきとして、釣り針のほかにいろいろ宝物たからものをおみやげにもらってお帰りになりました。こうなればもはやみことのほうがおおいばりです。意地いじの悪い火闌降命ほすせりのみことも、今はみことのご威徳いとくにおそれって降参し、犬にかわってみことのお宮の御門ごもんをまもることになりましたと申します。むかし、九州の南のほうには隼人はやとという人たちがおりまして、わりあって京都へ出て宮城きゅうじょうの御門をまもったり、天皇行幸みゆきのときにお道筋みちすじをまもったりするおやくをつとめておりましたが、これは火闌降命ほすせりのみことの子孫で、代々だいだい先祖の例をついでいたのだとのことでございます。

   十一、金鵄きんしの光


 彦火火出見尊ひこほほでみのみことのお子が鵜草葺不合尊うがやふきあえずのみこと、鵜草葺不合尊のお子が神武じんむ天皇であらせられます。天皇のまだお若いころまでは、天孫降臨こうりん以来、引きつづき日向ひゅうがの国においでになりましたが、そこはあまりに西南のはしにかたよりすぎて、天照あまてらす大神おおみかみからおまかせを受けたこの豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国を、やすい国とたいらかにおおさめになるにはご都合がおよろしくない。遠方の国々にはまだ強いものがたくさんいて、弱いものをしたがえておたがいにあらそっているというようなありさまでした。そこで天皇は、おにいさまがたとごいっしょに日本のなか大和やまとの国にお移りになり、それからだんだん四方しほうの国々をおたいらげになりたいとのお考えで、日向ひゅうがをあとに、海路うみじを東へ東へとお進みになりました。
 ところが、そのころ大和平野〔奈良盆地か〕には、長髄彦ながすねひこをはじめとして強いものがおおぜいおりまして、天皇のお移りになることをこばみます。なかにも長髄彦は、これもやはり天津神あまつかみのお子の饒速日命にぎはやひのみことというおかたをいただいて、勢力がもっともさかんでした。
 天皇はお船で瀬戸内海から、浪速なにわにおきになりました。浪速とは今の大阪のことです。今の大阪付近の平地は、その後だんだんと淀川よどがわ大和川やまとがわから流れてくる砂がもり積もってできたので、そのころには大阪湾はまだまだ東の方まで入りこみ、大和川がそこへ流れんでいたのでした。そこで天皇は、河内かわち日下くさかというところまで船でお進みになり、河内と大和とのさかい生駒山いこまやまをこえて大和平野へお入りになろうとなさいますと、長髄彦がこれをふせいで戦争になりました。この戦争は天皇の軍のご敗北で、おいたわしくもおあにいさまの五瀬命いつせのみことは、てきの矢にあたったのがもとで、ついにおなくなりになりました。
「われはの神の子孫として、の進むほうにさからって西から東へ向かって進んだから悪かったのだ。これから南へおおまわりして、の神の威光いこううて、東のほうから大和平野に進入しよう」
 天皇はこうお考えになりました。それで紀伊きいのほうから熊野くまのの山の中をすぎて、大和の東部、宇陀うだというところへおでになりました。なにしろ木が森々しんしんとしげった道もない山の中で、どちらへ行ったがよいか、方角さえもよくわかりません。おこまりになっておられますと、そこへ八咫烏やたがらすという大きなカラスがあらわれてご案内をいたしました。そのカラスの飛ぶ方について大伴氏おおともうじの先祖の道臣命みちのおみのみことが木をり、道を開いて、ご無事に大和平野の東のほうの宇陀うだにおきになったのです。
 このとき宇陀には兄猾えうかし弟猾おとうかし、またその西の磯城しきというところには兄磯城えしき弟磯城おとしきなど、そのほかにも大和平野にはたくさんの強いものがいました。その中で弟猾おとうかし弟磯城おとしきとがまず天皇におしたがいもうして、忠義をつくしましたので、天皇はご命令にしたがわない兄猾えうかし兄磯城えしきなどをほろぼされまして、いよいよ長髄彦をご征伐せいばつなさることとなりました。しかし、長髄彦はなかなか強くて、容易にお勝ちになることができません。ところへ不思議や、たちまち空がまっくらになって、おそろしいひょうり出し、金色のとびがあらわれて天皇のおゆみゆはずに止まりました。その光がキラキラと稲光いなびかりのようにかがやくので、てきの兵隊は目がくらんで向かうことができなくなり、ついに天皇の軍の大勝利となりました。今の金鵄きんし勲章くんしょうは、このめでたい大勝利を記念して、戦争のとき勲功くんこうことにいちじるしいものにあたえて、その名誉めいよをあらわすために明治の御代みよにおさだめになった勲章です。
 饒速日命にぎはやひのみことは天皇と同じく天津神あまつかみ御子おこで、はやく大和へくだっておられたのではありますが、天皇のほうが、この豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国をやすい国とたいらかにおおさめになるようにと天照大神からご命令を受けて、おくだりになりました天孫のご正統のおかたであらせられるので、みことはいさぎよくこれにしたがいたてまつるようにと長髄彦におすすめになりましたけれども、長髄彦は頑固がんこで、どうしてもそれを聞き入れません。そこでみことはいたしかたなく長髄彦を殺して、高天原たかまがはらからおくだりのときにお持ちになった十種としな宝物たからもの献上けんじょうして、天皇におつかえ申すことになりました。


 
 かくて大和平野もことごとくたいらぎましたので、天皇は畝傍山うねびやまの東南の橿原かしわばら〔かしはら〕という所に宮殿をおてになり、はじめてご即位そくい大礼たいれいをおこなわせられました。これは今年〔一九二八年(昭和三)戊辰つちのえたつの年から二五八八年前の辛酉かのととりの年、正月の元日であります。これをわが国では紀元きげん元年とさだめ、その正月元日は今のこよみにあてますと二月十一日になりますから、その日を紀元節きげんせつとしておいわもうすことになっております。また、そのお宮のあった橿原の地には、明治天皇の御代みよ橿原かしわばら神宮じんぐうてて、神武天皇をおまつりもうすこととなりました。
 天皇ご即位ののち、手柄てがらのあった人々にそれぞれしょうをおあたえになりました。その中には、海路のご案内を申した珍彦うつひこ〔別名、槁根津日子さおねつひこ(記)椎根津彦しいねつひこ命(紀)という土人どじんや、大和にあって早く天皇におしたがい申した弟猾おとうかし弟磯城おとしきなどの土人もありまして、それぞれ国造くにのみやつことか県主あがたぬしとかに任ぜられました。国造とか県主とかいうのは、ともに一地方の領主で、代々その土地におって人民を支配して天皇におつかえ申したものです。
 天皇はまた前に申したとおり、事代主神ことしろぬしのかみ御子おこ媛踏鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことと申されるおかた皇后こうごうとしておむかえになりました。一説に大国主神おおくにぬしのかみの御子だともありますが、いずれにいたしても、天孫降臨以前にすでに大国おおくにぬしとしてこの国土や人民を領し、それをいさぎよく天孫にたてまつったと申す名家で、国津神くにつかみの代表者とも申すべきお家柄いえがらでした。
 こんなありさまで、わが皇室のこりは強いものが暴力で土人どじんを苦しめ、その国をうばったというようなしだいではありませんでした。くりかえして申すとおり、もともとわが国には統一がなくておたがいにあいあらそい、みんなが苦しんでおったというばかりでなく、世の中もひらけず、生活も豊かでなく、まことにどくな様子であったこの豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国を、やすい国とたいらかにおおさめになって、すべてが幸福になるようにとの天照大神のご命令によってこれを統一なさろうというためでした。それゆえに、どこまでも抵抗して邪魔じゃまになるものはやむをずお殺しにもなりましたが、めいを奉じて忠義をつくしたものは、土人であってもそれぞれ一地方の領主とお取り立てになる。皇后も、前からこの国におられた名家めいかからおむかえになる。もちろん日向ひゅうがからおともをして、大和ご平定にこうの多かった道臣命みちのおみのみことをはじめとして、有功ゆうこうの人々がご優待ゆうたいにあずかったことは申すまでもありません。長髄彦を殺しておしたがい申した饒速日命にぎはやひのみことのごときは、とくにご信頼になって宮中をおまもりもう近衛このえのおやくをおまかせになりました。それからのち、その子孫の物部氏もののべしは、道臣命の子孫の大伴氏おおともしあいならんで、ひさしく皇室と国家とをおまもり申す兵隊のかしらとなりました。

   十二、熊襲くまそ蝦夷えぞ(一)


 人皇にんのう第一代、神武じんむ天皇が大和平野をおさだめになり、天皇の御位みくらいにつかれましてからのち、綏靖すいぜい安寧あんねい懿徳とく孝昭こうしょう孝安こうあん孝霊こうれい孝元こうげん開化かいかと、ご代々だいだいの天皇のご徳沢とくたくはつぎからつぎへとおよびまして、日本帝国の領分はだんだんと広くなり、その住民はしだいに日本やまと民族の仲間になってまいりました。それでもまだ遠方には天皇の御徳おんとくのありがたいことを知らず、日本民族の仲間に加わることの幸福をかいせず、昔のままにあいかわらずどくな生活をしているものもたくさんにありました。これでは天照大神のおどおりに、豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国を安国やすくにたいらかにおおさめになるということにはまだまだ不十分でありました。そこで神武天皇から第十代目の崇神すじん天皇は、皇族のお方々かたがた四方しほうにおつかわしになりまして、まだしたがっていないものを教え、みちびき、どうしてもめいほうじないものは、これを征伐せいばつせしめられました。これを「四道しどう将軍」と申します。
 いわゆる四道将軍とは、孝元こうげん天皇の皇子おうじ大彦命おおひこのみこと、大彦命のお子の武渟川別命たけぬなかわわけのみこと開化かいか天皇の皇子彦坐王ひこいますおうのお子の丹波道主命たにはのみちのうしのみこと孝霊こうれい天皇の皇子吉備津彦命きびつひこのみことです。天皇はまた御子おこ豊城入彦命とよきいりひこのみこと東国とうごくへおつかわしになり、これをおさめしめられました。この四道将軍や皇子おうじたちを方々ほうぼうへおつかわしになりました結果として、天皇のご威光いこうはますます遠方にまでおよびました。帝国の領分はたいそう広くなりました。
 そんないきおいでありましたから、この御代みよすえには朝鮮のほうからも天皇のお助けを願ってまいりましたほどで、それで崇神すじん天皇の御事おんことを、初国はつくにらす天皇すめらみこと」と申し上げました。はじめて大日本帝国をおおさめになる天皇と申す意味です。
 それでもなお遠く離れたところには、皇室のおとどかず、天皇のご徳沢とくたくよくする機会をずして、熊襲くまそだとか蝦夷えぞだとかばれた土人どじんがたくさん住んでおりました。熊襲は西南の九州地方に、蝦夷は東北の奥羽おうう地方にいたのです。この熊襲も、また蝦夷も天孫降臨の以前からこの国に住んでいたものどもで、ずっと大昔には広い中央の地方にまでも広がっていたのですが、だんだんと天皇の御徳おんとくにしたがって、中央に近いところからしだいに日本やまと民族の仲間になってしまって、のちには日本の両方のはしに、まだ土人のままで取り残されることになっていたのです。

   十三、熊襲くまそ蝦夷えぞ(二)


 今、天孫降臨こうりん以前の様子を考えてみますと、すでに多くの人々が各地に住んでおりましたけれども、かれらはまだ金属かねを使うことを知らないで、石で刃物はものを作るというような、いたって不自由なひらけない生活をしておりました。それは今も方々ほうぼうの土の中から、石のやじりや、石のおの、石の庖丁ほうちょう、石のかたななどが出てくるのでわかります。そんな時代を「石器せっき時代」と申します。
 わが国の石器時代には、すくなくも二つのすじちがった民族が住んでおりました。一つは今も北海道にいてアイヌとばれている人たちと同じ筋のものでありまして、むかし奥羽おうう地方に住んで、歴史の上で「蝦夷えぞ」といわれていた人たちもやはり同じ流れのものでした。かれらはたいそうが多いので毛人けびとともいわれ、むかし北陸ほくろく地方にいて「越人こしびと」などといわれたものも同じ筋のものでありますが、遠い遠い大昔おおむかしには、ひとり東北の奥羽地方や北陸地方にばかりでなく、関東地方から本州ほんしゅう中部、近畿きんき地方、中国、四国をて、西南は九州地方のはてにまでも広く住んでいたのでありました。今にそのあとは所々ところどころに残っております。かれらは、この日本の島国しまぐにへいちばんはじめに来て住んでいたものでありましょう。かれらはまだ農業を知らず、魚をったり鳥獣とりけものったりして生活していましたが、しかし手芸てわざのほうはよほど進歩しておりまして、かれらの使っていた土器などには、ここのし絵にあるように、今日こんにちの人でも容易ようい真似まねのできぬほどの、よほど見事みごとしながたくさんあります。
 いまひとつの石器時代の住民は、西南は九州地方から、東は四国、中国、近畿きんき地方を本州ほんしゅう中部地方にまで広がっていたもので、関東地方にもいくらかそのあとが残っておりますが、石器時代にはまだ奥羽地方にまではおよんでおりませんでした。かれらはのちに出雲の地方にさかんになりまして、これに関するお話が多くこの地方に残っておりますから、ふつうに「出雲いずも民族」などといわれておりますが、しかしその住んでいたところが出雲あたりにのみかぎっていなかったことは、その石器時代のあとが広く方々ほうぼうに残っていることでわかります。かれらはアイヌ系統の民族のつぎにこの島国へわたってきましたもので、だんだんと前からいたこのアイヌ系統の民族をしたがえましたが、まだ奥羽地方にまでは手がとどかず、ここには蝦夷えぞがさかんにえてきたものとみえます。前に述べた、素戔嗚尊すさのおのみことが出雲の川上かわかみ高志こし八岐やまた大蛇おろちを退治なされたというお話は、この出雲民族が前からいた越人こしびとすなわちアイヌ系統の民族に苦しめられていたこと、またのちにそれをしたがえるようになったことを語っているものでありましょう。また出雲の大国主神おおくにぬしのかみが、こし沼河姫ぬながわひめをおきさきとなされたというお話は、出雲民族がアイヌ系統の民族とあらそったばかりでなく、一方では平和に親類づきあいをして、これを同じ仲間にしたことを語っているものと思われます。


 
 こんなしだいで、石器時代の二つのちがった民族もだんだんとおたがいの間に関係ができてまいりましたが、しかしこれを一つにして幸福なる国家をなすというようにえらいものもなく、あいかわらず強い者がおたがいにさかいかってあらそっていたというどくなありさまでした。そこへ天孫のご降臨はあったのです。そして神武天皇は、これを「安国やすくにたいらけくしろしめせ」との天照大神の神勅みことのりまっとうあそばされるために、大和にお移りになりました。かくて天皇のご威光いこうはしだいに遠方におよんで、日本帝国の領分も広まり、前からいた人たちもだんだんと日本やまと民族の仲間入りをしたのでありました。しかし土地が遠く離れて、まだ皇室のおめぐみの行きとどかない西南のはしの九州地方には熊襲くまそが、また東北のはしの奥羽地方などには蝦夷えぞが、元のままに取り残されていたのです。蝦夷が石器時代以来のアイヌ系統の民族であることは前にすでに述べましたが、熊襲は人種の上からは大国主神などと同じく、これも石器時代以来の出雲民族の系統に属するものであったとみえます。

   十四、熊襲くまそ蝦夷えぞ(三)


 崇神すじん天皇の御代みよに、天皇のご威光いこうが広く遠方にまでおよんで、わが日本帝国の領分もたいそう大きくなり、日本やまと民族の仲間もふえてまいりましたので、つぎの第十一代垂仁すいにん天皇の御代には、それらの地方の政治におちからをおつくしになり、農業をご奨励しょうれいになって国民の幸福のもといをおさだめになりました。かくてそのつぎの第十二代景行けいこう天皇の御代にいたって、日本武尊やまとたけるのみことの熊襲や蝦夷のご征伐せいばつというようなことがあって、皇威こういの大発展がおこなわれました。
 同じ民族であっても、みやこに近くいたものははやく天皇の御徳おんとくにしたがって日本やまと民族の仲間に入り、日本帝国の臣民しんみんとして幸福な身分となっておりますが、遠く離れた九州地方の熊襲や奥羽地方の蝦夷などは、日本民族の仲間入りをしないのみならず、かえってしばしば人民にがいを加えます。これは国家としてこまったものであるばかりでなく、かれら自身のためにもまことにどくなしだいであるといわねばなりません。そこで景行天皇は皇子小碓尊おうすのみことみことのりして、まず九州の熊襲をおたせになりました。教えてもさとしても、どうしてもめいほうぜぬような頑固がんこなものは、これを国家のてきとして、兵隊の力をもってでもこれをしたがえねばなりません。しかしわが国家の大方針は、敵をほろぼしてその国をうばうというのではなく、これをしたがえて、一方ではかれらを幸福ならしめ、一方では国家の利益をはかるという、いわゆる自他じた福利ふくりを増進せしめんとするものでありますから、なるべく戦争をけ、実際やむをぬもののみを殺してほかの者をいためないという方法を取りました。されば小碓尊おうすのみことは、このとき御年おんとしわずかにお十六歳の、いたっておかわいらしい少年であらせられましたから、それを利用して少女おとめのお姿すがたにおをやつし、熊襲のかしら酒宴さかもりせきにまじって、酒をすすめてこれをわしめ、ふいにこれをお殺しになりました。


 
 そこで世の中には、これはだましちである、卑怯ひきょうなおこないであるなどというものもないではありませんが、それはわが国家の大方針を知らないものの批評です。もともとわが日本やまと民族はいたって平和好きの民族です。日本の神々は血を見ることが一等いっとうきらいでありました。神をまつるときにいちばんつつしまねばならぬのは、血のけがれにれることであるとまでいわれておりますのも、畢竟ひっきょうこれがためであります。小碓尊おうすのみことは熊襲のかしらのみを殺して、その下についている多くの民衆をお助けになり、その国をたいらげてこれを日本帝国の領分にくわえ、その民衆をいつくしんで日本やまと民族の仲間にお入れになりました。豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国を安国やすくにたいらけくしろしめせ」という天照大神の神勅みことのりは、こんなぐあいにしてだんだんと実現されてゆくのです。たとえば外科手術をおこなうにしましても、今日の文明時代の外科医者は、その場所に麻酔剤ますいざいを注射したり、あるいは全身を麻酔させたりして、なるべく患者かんじゃいたみを少なくするように、なるべくほかに影響をおよぼさぬようにとこころがけるようなものです。ちょっと見ると卑怯ひきょうなように見えましても、けっしてそうではありません。これがおめぐみのいくさと申すものです。景行天皇のみことのりに、いま兵をおこすことがすくなければ、ぞくほろぼすにらず、さりとて多く兵を動かすは、これ百姓の害である。願わくはやいばらずして、いながらにしてその国をたいらげたい」とも、「これにしめすにをもってし、これをなづくるに徳をもってし、つわものをわずらわさずして、したがわしめたい」ともありますのは、まったくこれがためです。もちろんばんやむをぬときは、戦争もあえてするところではありませんが、なるべく戦わずして平定へいていの目的を達したいというのであります。
 熊襲のかしらの殺されるときに、かれは小碓尊おうすのみことが少年の御身おんみをもって、ただお一人で大勢の敵の中に入り、かしらをおしになった勇気に感心しまして、
「西の国には、わたくしどもよりも強いものは一人もありません。しかるに日本やまとには、わたくしどもにもしてお強いおかたがおありになる。どうかこれから、日本武尊やまとたけるのみこととおおせられますように」
と申し上げました。日本武やまとたける」とは、日本の武勇ぶゆうすぐれたおかたと申すことです。

   十五、熊襲くまそ蝦夷えぞ(四)


 日本武尊やまとたけるのみことは熊襲をご平定へいていになりまして、お帰りになります道々にもところどころで、山やかわや海峡などによって人民をなやますものどもをおたいらげになり、最後に東国の蝦夷をご征伐せいばつにお向かいになりました。その御途中おんとちゅう伊勢いせ皇大神宮こうたいじんぐう参拝さんぱいして、御叔母おんおばさまの倭姫命やまとひめのみことにお暇乞いとまごいを申されましたところが、みことは神宮の天叢雲剣あめのむらくものつるぎ御身おんみのまもりとして御授おんさずけになり、また別に一つの袋をおあたえになりまして、
「もしきゅうなことがあったなら、この袋をあけてごらんなさい」
と、おおせられました。
 日本武尊はこの二つのおくり物をお持ちになって、行く行く道筋みちすじしたがわぬものどもをお従えになり、駿河するがの国までおいでになりました。ところが、そこのかしらみことを殺したてまつろうとして、鹿狩しかがりをおすすめして野原はらの中にみことをおさそい申し、四方しほうから火をつけてきたてました。ぐるりに火は燃えています。みことはもはやおのがれになる道もありません。そこで思い出されましたのは倭姫命やまとひめのみことからおくられた袋、今こそひらくべききゅうな場合よと袋の口をけば、中に火打ひうちがありました。そこでみこと天叢雲剣あめのむらくものつるぎいて、御身おんみのまわりの草をなぎはらい、また火打ちを打って火を出し、先のほうの草にかいをおつけになりましたところが、その火がさかんに反対のほうに燃えて行って、みことはご無事に危難きなんをおまぬがれになり、かえって敵のほうが焼かれました。このことがあってから、天叢雲剣を「草薙剣くさなぎのつるぎ」と申し、その野火のびのあったところを焼津やいづと申します。またかいと申すことは、今も大きな山火事などのばあいに応用されているところで、向こう側につけた火は、切りはらった場所から先へ先へとだんだんさかんに燃えて行きまして、こちらは無難ぶなんになるのです。
 みことのご東征中とうせいちゅうのごなんは、こればかりではありませんでした。相模さがみ三浦みうら半島の走水はしりみずから房総ぼうそう半島のほうへおわたりになりますときに、たいそう海がれてお船があぶなく沈没ちんぼつしそうになりました。このとき、おきさき弟橘媛おとたちばなひめが、これは海の神がみことを取ろうとしておられるのであろうと、みことにかわって海へお入りになりました。それで波風なみかぜも静まり、お船は無事に向こうぎしにつきました。
 かくいろいろの危難きなんおかされまして、みことはめでたく蝦夷えぞ平定へいていの目的をおげになり、そのほか、所々ところどころしたがわぬものどもをもお従えになりまして、お帰り道に、上野こうづけ碓氷峠うすいとうげにお登りになりますと、東のほうに関東平野が広々と開けております。みことはこれをごらんになりますにつけても、おきさき弟橘媛おとたちばなひめが走水の海でみことのお身代みがわりとして海にしずまれましたことを思いおこされまして、思わず「吾妻あがつまはや」と御嘆おんなげきなさいましたので、それから東国とうごくのことを「吾妻あずま」というようになったと申し伝えております。一説にはこのことを、相模さがみ足柄あしがらの坂でのことだとも伝えています。
 その後もみことは、おとも吉備きびの武彦たけひここしの国へおつかわしになってその様子を御調おんしらべさせになり、また信濃しなのでは御坂みさか悪神わるがみをおたいらげになり、尾張おわりにいたって宮簀媛みやすひめというおかたをお妃として、しばらくそこにご逗留とうりゅうののち、近江おうみ伊吹山いぶきやまに悪神ありとお聞きになって、草薙剣くさなぎのつるぎを宮簀媛におあずけになったまま、その山へおいでになりましたが、中途ちゅうとでご病気にかかり、伊勢いせ能褒野のぼのでおかくれになりました。そこで草薙剣はそのまま尾張に止まって、今に熱田あつた神宮じんぐうにおまつりもうすことになっているのです。
 日本武尊やまとたけるのみことのご功業こうぎょうは非常に大きなものでありまして、西南は熊襲から、東北は蝦夷まで、その間においてもしたがわぬものどもをそれぞれお従えになりまして、わが帝国の領分はこれがためにたいそう広くなり、天皇のご威光いこうはますますごさかんになりました。
 しかしわが日本の盛んになりましたのは、じつはただこの景行けいこう天皇の皇子おうじたる日本武尊のお一人のお力ばかりでありません。その前にも、またその後にも、ご代々だいだいの天皇はいずれも「日本やまとたける」とも申しぐべきほどの武勇のすぐれたおとくの高いお方々かたがたでありました。そして、つねに徳をもって人民をおなづけになり、やむをぬばあいにはをもってこれをおしたがえになりましたので、そのご代々のご功業がもりもって帝国はますますさかんになってきたのです。そのなかでも景行天皇の皇子たる日本武尊のご功業がことにいちじるしかったので、そればかりがとく名高なだかくなっているのでありましょう。
 かくて第二十一代雄略ゆうりゃく天皇の御代みよのころには、東のほうでは毛人けびと、すなわち蝦夷の国を五十五か国、西のほうでは熊襲などの多くのえびすを六十六か国、また海をわたっては朝鮮半島の九十五か国をおしたがえになるというほどのごさかんないきおいになってまいりました。その朝鮮半島のことはつぎに申しましょう。

   十六、朝鮮ちょうせん半島諸国しょこく服属ふくぞく


 今は帝国の一部となっている朝鮮ちょうせん半島にも、大昔おおむかしにはたくさんの国がありました。その南のほうは馬韓ばかん弁辰べんしん弁韓べんかん秦韓しんかん辰韓しんかんの三つにかれて、それを三韓さんかんと申しましたが、そのうちでものわかっているものが馬韓五十四国、これは半島の西南部に、弁辰十二国、秦韓十二国、これは半島の東南部に、三韓あわせて七十八か国ありました。またその北には高麗こまという強い国があり、そのほかにもまだ多くの国々がありまして、天孫降臨以前の日本内地ないちと同じように、統一がなくておたがいにあらそうておりました。そのなかでも秦韓人しんかんじんは、シナのしんという時代に移住したシナじんすえで、その秦韓の中の新羅しらぎという国がだんだん強くなり、しだいに近所の国を併合へいごうします。また馬韓ばかんの中の百済くだらという国もだんだん強くなって近所の国々を併合しまして、朝鮮半島には北に高麗こま、東南に新羅、西南に百済と、三つの強い国がかなえの足のようにならんでいるというありさまとなりました。
 もちろんそのほかにも、まだどれにもつかない小さい国がいくらもありました。これらの小さい国が新羅の圧迫あっぱくこまって、助けをわが日本に求めてまいりました。これは第十代崇神すじん天皇の御代みよすえで、まもなく天皇おかくれになりましたので、つぎの垂仁すいにん天皇は兵をつかわしてこれをお救いになりました。これから、これらの諸小国しょしょうこくはわが国に属することになり、のちにわが国からは日本府にっぽんふという役所を置いてこれをおおさめになることになりました。これを任那みまなと申します。「みまな」とは、崇神すじん天皇の御名おんな御間城入彦みまきいりひこと申し上げましたので、その御名おんなを記念して、その小さい国々を一つにしたものにつけた名だと申すことであります。
 かくて朝鮮には、新羅しらぎ百済くだら高麗こまの三大国と、任那みまなの諸小国とがありましたが、その中にも新羅がいちばんわが国に近く、自然なにかと関係がおこってまいります。
 もともと朝鮮半島の住民の中には、わが出雲民族などと同じ流れのものが多く、国はそれぞれ別々にかれていても、人種の上からいえばおたがいにひと続きのもので、その間にはほとんど区別がありませんでした。そこでわが内地ないちにあった多くの小さい国々がしだいに皇室のご徳沢とくたくによって統一されてまいりますと、自然とその引き続きとして朝鮮半島の中の国々も、つぎには、やはり日本と一つになるべきはずのものでしたが、はたして任那みまなの諸小国がまずもってわが国にしたがってまいりましたのです。しかるに、いちばんわが国に近い新羅の国は、その国のいきおいのさかんなのにまかせて、かえってときどきそれを邪魔じゃまするばかりでなく、せまい海一つをはさんだばかりのわが九州地方にいた熊襲などは、天皇のまします大和よりもかえって新羅のほうが近いので、ついそれにかされて、自然わが国から離れようとするおそれがないではありません。


 
 はたして第十四代仲哀ちゅうあい天皇の御代みよに、熊襲がそむきました。そこで天皇は皇后と御共々おんともどもに、ご自身これをご征伐せいばつにおかけになりましたが、熊襲のいきおい強くて容易にたいらがないうちに、天皇は筑前ちくぜん香椎宮かしいのみやでおかくれになりました。皇后は神功じんぐう皇后と申し上げて、開化かいか天皇の御曾孫おんひまごの、息長おきなが宿祢すくねおう御子おんこであらせられます。お生まれつきご聡明そうめいで、天皇が熊襲ご征伐中におかくれになりましたについても、そうお力を落しておしまいになるというようなことはなく、どこまでも天皇の御志おんこころざしをついで御国みくにのために熊襲をたいらげなければならぬと、おおしくも雄々おおしくも〕ご決心なさいました。しかし、熊襲には近いところに新羅という強い国がついておりますので、さいわいにいったんしたがいましたとしても、また、いつふたたびそむくかもしれません。これはさらにその大本おおもとにさかのぼって新羅をまでもおしたがえにならねばならぬと、天皇崩御ほうぎょ御悲おんかなしみの中にも深くのちのことまでお考えになりました。そこでおとも大臣だいじん武内たけうちの宿祢すくねとご相談のうえ、まず熊襲をたいらげられまして、さらにご自身、男のおんよそおいをなされ、海をわたって遠く新羅をおちになりました。そのいきおいたいそうごさかんで、ふいに新羅のみやこにおしよせてまいりましたものですから、新羅王しらぎおうもおおいにおどろいて、「かねて東のほうには日本にっぽんという神の国があり、そこにはたっときみがあって天皇と申すと聞いていたが、これはその神兵しんぺいであろう、とうてい抵抗することはできぬ」と、たちまち白旗しらはたをかかげて降参こうさんしました。そして、「東から出るが、西から出るようにでもならばいざ知らず、たといアリナレ川の水が逆さに流れ、河原かわらの石が天にのぼって星となるようなことがあろうとも、いつまでもおしたがい申して、毎年のみつぎをおこたりませぬ」と、かたいお約束を申し上げました。その後百済くだらもこれを聞いてわが国にくだり、高麗もまたしたがってまいりましたので、九州の熊襲もふたたびそむくことがなくなりました。かくして雄略ゆうりゃく天皇の御代みよのころには、前に申したように朝鮮半島内の九十五国までが、わが国に従うというようなさかんなありさまとなったのであります。

   十七、外人の渡来とらいと外国文化の輸入ゆにゅう(一)


 わたくしども日本やまと民族は、天孫降臨の前からこの国にいた多くの民衆が天孫民族といっしょになってできあがったものでありますが、そのほかに外国からわたってきて同じ仲間になった者も少なくないということを前に述べておきました。その外国というのはおもにシナや朝鮮でありまして、中にもシナは古くから国がひらけ、文化がたいそう進んだ国でありました。また朝鮮も土地がシナに近いものですから、早くからシナじんが入りこんだり、シナと交通したりしてシナの文化を伝えておりましたので、そのシナ人や朝鮮人の渡来とらいによって、その進んだ文化はさかんにわが国に伝わってまいりました。
 シナ人でいちばん古く朝鮮半島に移住したのは、前に申した秦韓人しんかんじんで、これはシナではしんという時代の人々だといわれておりますが、その後今から二〇〇〇年ばかり前、秦がほろんでかんの時代となり、その漢の武帝ぶていというえらい天子のときに朝鮮をって、さかんに漢人かんじんの移住がありました。
 この人たちは、朝鮮半島の西北部にある大同江だいどうこうの付近、楽浪らくろうという所におもに住んでおりましたので、今にその地の古いはかの中から漢時代の文化を見るべき立派な品物しなものがたくさんり出されまして、近ごろ日本の大学の学者たちが熱心にそれを研究しております。すなわち朝鮮には秦人しんじんと漢人と、同じシナ人でも時代がちがい、しぜん文化も違った二通ふたとおりの人たちが秦韓しんかんと楽浪とに移住していたのです。
 その秦人のいた秦韓の地は、のちに新羅の国となったところですが、ここからはいちばん早く日本へ移住民がありました。天日槍あめのひぼこのお話はそのことを語っているものであります。
 それは、むかし新羅の王子の天日槍という人が、新羅からわが国にわたってきたというお話です。時代は天孫降臨以前のことで、そのころ出雲の地方を中心としてすでに大国おおくにぬしとなっておられたという大国主神おおくにぬしのかみと、播磨はりまの国で土地をあらそってたびたび戦争をしたというのでありますから、そうとう大勢の人民を連れて移住してきたものとみえます。のちに日槍ひぼこ近畿きんき地方をあちこちとまわったすえに但馬たじまの国におちつき、土地の人をつまとして、子孫がそこで繁昌はんじょうしました。そのいっしょに来た仲間のものが方々ほうぼうに住みついたことはもうすまでもありますまい。近江おうみの国の鏡谷かがみのはざまで古代の朝鮮風の陶器とうきを焼いていた職人のごときも、この仲間の子孫だといわれています。また第十一代垂仁すいにん天皇の御代みよに、常世国とこよのくにという遠い遠い国へ行ってたちばなを取ってきたという田道間守たじまのもりも、この日槍の玄孫げんそんまごの孫)であったと申します。また、新羅をご征伐せいばつになりました神功皇后の御母君おんははぎみは、その田道間守のめいにあたらせられる御方おかたです。されば皇后が熊襲をおしたがえになるについて、まずそのさわぎの大本おおもとになる新羅を従えることが必要だとお考えになったのも、御母君のご先祖の関係から新羅のことをよくご承知であったためでありましょう。もっとも、新羅という国のできたのは天孫降臨よりもはるかにのちのことでありますから、大国主神と戦争したという天日槍あめのひぼこが、そのころにはまだ国のできていないはずの新羅の王子だというわけはありません。これはのちに新羅の国になった秦韓しんかんの人のことを、のちの国の名で語り伝えたのでありましょう。しからばその秦韓人の血を御母方おんははかたにお受けになった神功皇后がその新羅をお従えになったのは、新羅のために併合へいごうせられた秦韓人の国をお取り返しになったというわけにもなるのであります。

   十八、外人の渡来とらいと外国文化の輸入ゆにゅう(二)


 この秦韓人しんかんじんの子孫が残したものでありましょうか、近畿きんき地方から本州ほんしゅう中部、中国、四国など日本の中央部の土の中には、銅鐸どうたく」といって、ここのし絵で見るようなシナの大昔おおむかしがねの形をした、青銅からかねで作った見事みごとなものがたくさんにうずまっているのであります。この絵は大正十三年(一九二四)すえ三河みかわの国から三個いっしょにり出されたところをうつしたのですが、時としては十幾個いくこもいっしょに出ることがありまして、明治以来六十年ほどの間に、土地の開墾かいこんや道路の工事などでたまたま掘り出されたものだけでも一〇〇個以上もありましょう。そしてそれは遠いむかしの時代から引き続き掘り出されているのでありますから、これまでに掘り出された数がどれだけ多かったか、また、まだ掘り出されずに土の中に残っているものがどれだけ多くありますか、ほとんど想像もできぬほどにたくさんにうずまっているのであります。しかもそのしなは、千何百年も前の日本人がすでにいっこう知らなかったほどの古いものなのです。されば、たまたまそれをり出しでもしますると、それがいつの時代に、どんな人が使ったものだか、また何に使ったものだかわからず、とても日本人のものではなかろう、外国のものであろうというようなことで、天竺てんじく(インド)とうの屋根のすみにぶらげたベルであろうなどといっておりましたほどです。


 
 しからば、なぜそんなにたくさんに、そんな貴重きちょうな品が、そこにもここにも土の中にうずまっているのでしょう。これは大昔おおむかしにこの銅鐸どうたくを持っていた民族が、近畿きんき地方からその付近の国々にたいそうたくさん住んでおったためであります。また、それがたくさんに土の中にうずまっているということは、そのころにはまだ火難かなん盗難とうなんをふせぐための安全な倉庫そうこというほどのものもなく、また警察けいさつの保護というほどのものもなかったので、火事に焼けたり盗賊とうぞくに取られたりしないために、大切な品は人の知らぬ土の中にかくしておいたのがそのまま忘れられてしまったのです。
 しからばどんな場合に、そんなにたくさんな貴重な品がすっかり忘れられてしまうでしょう。これはその民族がまったくほろんでしまったか、あるいはおとろえて方々ほうぼうらばってしまったか、この二つの場合よりほかはありますまい。そこで考えられますのは、遠い遠い大昔おおむかしにわが国へ来たという天日槍あめのひぼこのことであります。
 天日槍が大国主神とたびたび戦争したというお話は、この新しくわたってきた秦韓しんかん民族と、前から日本の土地にいた出雲民族とが勢力あらそいをしたことを語っているのでありますが、この銅鐸どうたくがはたしてその秦韓人の残したものでありますならば、それがまったく忘れられたのは、その秦韓人のほうがあらそいに負けてほろんでしまったか、あるいはおとろえて方々ほうぼうらばってしまったかのためでありましょう。しかし、土の中にうずめたままに忘れられた銅鐸の数だけでも、そんなにたくさんあるほどにも秦韓人がさかんな民族であったならば、それがいかに勢力あらそいに負けたとしましても、すっかりほろんでしまうというようなことはありますまい。いずれその子孫はのちに残って、わたくしども日本やまと民族のうちには、この大昔のシナの文化を伝えた人々の血が必ず流れているに相違そういありません。
 このことは、なおのち秦人はたびとのことをお話するときに述べることにしまして、ここではただ、わが日本の大昔には、近畿きんき地方を中心としてその近所の国々に、シナの大昔の文化を伝えた民族がはなはだ多数におったことを述べるだけに止めておきましょう。

   十九、外人の渡来とらいと外国文化の輸入ゆにゅう(三)


 秦韓人しんかんじんは早く日本へわたって、近畿きんき地方からその近所の国々に広がったようでありますが、漢人かんじんが朝鮮の大同江だいどうこうの付近の楽浪らくろうの地方に移住するようになりましてから、九州地方の人たちはこれと交通して、さかんに漢代かんだいの文化を伝えました。なかには直接、かんの本国へ交通して、漢の天子からその地方の王のくらいをあたえられた有力者もありました。漢がほろんでという国の時代になりまして、朝鮮の楽浪は帯方たいほうあらたまりましたが、わが九州地方の有力者は、引き続きこれと交通しましてその文化を伝えましたので、漢や魏の時代の鏡や刀剣などが、多く日本へわたってきました。そして九州あたりでは、その時代のシナのどうけんや、銅のほこにならって、自分で日本風のものを作るほどにまで鋳物いものの技術も進歩しました。こうして石器時代から、だんだんかねうつわの時代に移ってきたのです。
 その後神功じんぐう皇后こうごうが新羅や百済をおしたがえになり、高麗こまもまた交通してくるようになりましてからは、これらの国々からいろいろの品物しなものを送ってきましたり、またいろいろの学者や職人がわたってまいりまして、わが国の文化がおおいにひらけてまいりました。もともと日本には、手芸てわざが上手で、その方面に頭のすぐれたものが多く、大昔の石器時代の土器に非常に立派なものが多かったことはすでに述べたとおりですが、そんな特長をゆうする民族があらたにシナや朝鮮の進歩した技術を学んだものですから、よくえているはたけによいたねをまいたように、わが国の文化がおおいに進歩してきたのはもうすまでもありません。

 
 しかしわが国の文化は、品物や学者や職人が朝鮮からわたってきて、それを日本人が学んで進歩したというばかりでなく、じつは一方に多数の外人の移住がありまして、それがためにおおいにひらけたのでありました。
 神功じんぐう皇后こうごう新羅ご征伐せいばつのときには、すでにお身重みおもであらせられましたが、ご凱旋がいせんののちに、九州でお生まれになりました仲哀ちゅうあい天皇の御子みこが、第十五代の応神おうじん天皇であらせられます。この応神天皇の御代みよには百済から王仁わにという学者が来たり、しん始皇帝しこうていの子孫だという弓月君ゆつきのきみが百二十けんの人民をひきいて帰化きかしたといわれたり、かん霊帝れいていの子孫だという阿知使主あちのおみ都加使主つかのおみの親子が十七けんの人民をひきいて来たりしました。そして天皇は、その阿知使主・都加使主を遠くくれの国へおつかわしになりまして、り物やい物の上手な職人をおまねきになりました。
 王仁わにもその先祖はシナじんでありましたが、ひさしく百済へ来ていまして、百済の王からわが国にお送り申したのです。そこで応神天皇の皇子みこ稚郎子わきいらつこ菟道稚郎子うじのわきいらつこはこれをとしてかん文学をお学びになり、たいそうご上達じょうたつなさいました。これから日本には、文字の道がひらけてまいりました。そしてこの王仁の子孫は河内かわちの国に住みつきまして、ながく漢文学をもって朝廷におつかえしました。また阿知使主あちのおみの子孫も同じく漢文学をもって朝廷にお仕えしましたが、これは大和におりました。そこで王仁の子孫を河内かわち文氏ふみうじ〔西文氏〕といい、阿知使主の子孫を大和やまと文氏ふみうじといいました。このほかにもいろいろの学者がおいおい朝鮮からわたってまいりまして、わが国の文化がおおいにひらけたことはもうすまでもありません。
 弓月君ゆつきのきみ秦氏はたうじの先祖です。かれはしんの始皇帝の子孫だということで、うじを「しん」と書きますが、それを日本で「はた」と読むのは、この一類いちるいの帰化人ははたって織り物を作ることが多かったからでありましょう。一説にその織り物がやわらかで、たいそうはだざわりがよろしかったから、それで「はだ」うじというのだといいますが、どうもまことらしくありません。
 この一類いちるいの人々は、なにしろ百二十けんの多数で渡来したといわれるほどで、大団体だいだんたいの移住でありました。もとはシナじんでも、ひさしく朝鮮にきて住んでおったものらしく、そのわが国にわたってくるときに新羅人が邪魔じゃまをしたといいますから、じつは古くから朝鮮へきていた秦韓人しんかんじんの仲間であったでありましょう。それをわが国では、ひっくるめて秦人はたびとと申しました。

   二十、外人の渡来とらいと外国文化の輸入ゆにゅう(四)


 この秦人はたびとは、そんなに多数でありながら、どうしたわけかのちには諸国にらばって、有力者のために追い使われるというようなどくな身分になってしまいました。それを第二十一代のみかど雄略ゆうりゃく天皇がお救いになり、弓月君ゆつきのきみの子孫の秦酒公はたのさけのきみをそのかしらとしていろいろとお世話をなさいましたので、秦人はこれからふたたびさかんなものとなりました。
 もと百二十県ともいわれたほどの多数の秦人が、どうしてその統一をうしない、諸国に散らばって奴隷どれいのような気の毒な身分に落ちてしまったのでありましょう。これはきっと帰化人だというところから、の民族に圧迫あっぱくせられて、あらそいに負けた結果であったとしか思われません。しかしわが天孫民族は、けっしてちがった民族を虐待ぎゃくたいするようなことはありません。土人どじんでも帰化人でもみなこれをいつくしんで、同じ仲間にしてしまったものです。ことにむかしは人口が少なく、土地がわりあいに広かったのと、外国の文化を輸入してわが国を進歩させようとの方針とから、むしろ帰化人をおおいに歓迎かんげいしたのでありました。そこで思いわされますのは、前にお話した銅鐸どうたくのことです。このシナ文化に関係あるしなを持っていた人たちは、その数がたいそう多かったにかかわらず、のちにそれがほろんでしまったか、おとろえて方々ほうぼうらばってしまったかして、その貴重な品を土の中にうずめたままに忘れてしまったのでありました。そしてこの銅鐸は、天日槍あめのひぼこのお話にあるような、古くわが国に移住した秦韓人しんかんじんの持っていたものだと思われることと考えあわせてみますと、大昔に銅鐸を持っておった秦韓人が、すなわちこの秦人はたびとのことであろうと思われます。その秦人が出雲民族とのあらそいに負けて、方々ほうぼうへ散らばって奴隷どれいのような気の毒な身分になりましたから、たといその子孫はたくさん方々に残っておりましても、先祖が土の中にしまっておいた銅鐸のことはいつのにか忘れてしまったのだと解釈しますと、はじめて理屈りくつがよくわかります。もしほんとうに秦人が応神天皇の御代みよに百二十県というような大きな団体で移住してきたのでありましたなら、同じころにきた阿知使主あちのおみの十七県の仲間が引き続きわが国でさかえておるのとは事変ことかわって、ひさしからぬうちにことごとくおとろえてしまったということも、実際、理屈のとおらない話ではありませんか。されば秦人が応神天皇の御代みよにはじめてきたというのは間違いで、かれらは遠い大昔からこの国に来ていて、いったん落伍者らくごしゃとなり奴隷の身分となって方々ほうぼうへ散らばっていたのを、応神天皇の御代にきた弓月君ゆつきのきみの子孫の酒公さけのきみが同じしんの国の人で、しかもその始皇帝の子孫だという縁故えんこで、のちにそのかしらとなったというようなことから、その下についた秦人も、その先祖の弓月君といっしょに来たということにあやまり伝えたのでありましょう。
 わが国における秦人の数はたいそう多く、雄略天皇がそのお世話をなさったころに調べましたら、九十二の組にかれて一万八〇〇〇余人よにんもあり、第二十九代欽明きんめい天皇の御代のころには七〇五三戸で、そのころの日本の総戸数にくらべると、少なくも二十八分の一はありました。そしてそれが諸国にかれ住んで、みな日本やまと民族の仲間になってしまったのです。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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日本歴史物語〈上〉(二)

喜田貞吉

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《》:ルビ
(例)兒童《じどう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一体|何《ど》うして

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)貞吉《ていきち》[#「ていきち」は底本のまま]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)遠《とほ》い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   十、山幸彦《やまさちびこ》と海幸彦《うみさちびこ》

 天孫《てんそん》瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》が、日向《ひうが》の高千穗峯《たかちほのみね》にお降《くだ》りになりましてから御三代《ごさんだい》の間《あひだ》は、引《ひ》き續《つゞ》き日向《ひうが》の國《くに》においでになりました。尊《みこと》のお妃《きさき》の木花開耶姫《このはなさくやひめ》の親神《おやがみ》は、大山祇神《おほやまづみのかみ》と申《まを》して、山《やま》を御支配《ごしはい》になる神《かみ》です。またそのお子《こ》の彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》のお妃《きさき》は、豐玉姫《とよたまひめ》と申《まを》して、海《うみ》を御支配《ごしはい》になる綿津見神《わたつみのかみ》の御子《みこ》でした。これは山《やま》の神《かみ》も、海《うみ》の神《かみ》も、皆《みな》皇室《こうしつ》の御親類《ごしんるい》になりまして、たゞひとり稻《いね》のよく出來《でき》るといふ瑞穗《みづほ》の國《くに》の、平地《へいち》の場所《ばしよ》ばかりではなく、そのほかの、山《やま》も、海《うみ》も、皆《みな》天皇《てんのう》の御徳《おんとく》に從《したが》つたことを示《しめ》してゐるのであります。
 木花開耶姫《このはなさくやひめ》は、御名《おんな》の通《とほ》り木《こ》の花《はな》の咲《さ》き盛《さか》つたような、至《いた》つてお美《うつく》しいお方《かた》でした。ところがそのお※[#「女+弟の下半分のような字」]《ねえ》さんに磐長姫《いはながひめ》と申《まを》して、御姿《おすがた》のおよろしくないお方《かた》がありました。瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》はこの磐長姫《いはながひめ》をお嫌《きら》ひになり、木花開耶姫《このはなさくやひめ》を妃《きさき》としてお選《えら》びになつたので、それから人間《にんげん》の命《いのち》は、木《こ》の花《はな》の開《さ》いてはやがて散《ち》るように、短《みじか》くなつたのだと申《まを》します。この時《とき》に若《も》し尊《みこと》が磐長姫《いはながひめ》をお妃《きさき》になさつたのであつたなら、人《ひと》の命《いのち》は磐《いはほ》のように、いつまでも/\、長《なが》く生《い》きられるのであつたと申《まを》すのです。併《しか》し若《も》し人間《にんげん》が生《うま》れるばかりで、いつまでも死《し》なないものであつたなら、この世《よ》の中《なか》はどうなつてゐるでせう。
 瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》のお子《こ》の火闌降命《ほすせりのみこと》は、『海幸彦《うみさちびこ》』と申《まを》して、釣《つ》り針《ばり》を以《もつ》て海《うみ》で魚《うを》をお捕《と》りになる。又《また》その御弟《おんおとうと》の彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》は、『山幸彦《やまさちびこ》』と申《まを》して、弓矢《ゆみや》をもつて山《やま》で鳥《とり》や獸《けもの》をお獲《と》りになる。いつも/\同《おな》じ事《こと》ばかりをしてをられましたので、お互《たがひ》に飽《あ》きて來《き》まして、ある時《とき》御兄弟《ごきようだい》御相談《ごそうだん》の上《うへ》、釣《つ》り針《ばり》と弓矢《ゆみや》とをお取《と》りかへになりました。そして山幸彦《やまさちびこ》は海《うみ》へ、海幸彦《うみさちびこ》は山《やま》へと出《で》かけられましたが、どちらも慣《な》れぬ爲事《しごと》なものですから、一日《いちにち》かゝつて、一《ひと》つも獲物《えもの》がありませんでした。これはやはりもと通《どほ》りがよいと、火闌降命《ほすせりのみこと》は、弟神《おとうとがみ》の弓矢《ゆみや》を返《かへ》されました。併《しか》し困《こま》つたことには、彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》は、釣《つ》り針《ばり》を魚《うを》に取《と》られてしまつて、お返《かへ》しになることが出來《でき》ません。いろ/\とお詫《わ》びをなさいましたが、意地《いじ》の惡《わる》い火闌降命《ほすせりのみこと》は、どうしてもそれを御承知《ごしようち》になりません。仕方《しかた》がなく御自分《ごじぶん》のお腰《こし》の刀《かたな》をつぶして、千《せん》の釣《つ》り針《ばり》を作《つく》つてお返《かへ》しになりましたが、それでもやっぱり元《もと》のでなければいやだと言《い》はれます。いよ/\お困《こま》りになつて、若《も》しやそこらに落《お》ちてはゐまいかと、あてどもなく、泣《な》きながら海岸《かいがん》をうろついてをられますと、そこへ鹽椎翁《しほつちのおきな》といふお爺《ぢい》さんがやつて參《まゐ》りまして、そのわけを聞《き》いてお氣《き》の毒《どく》に思《おも》ひ、これを綿津見神《わたつみのかみ》の宮《みや》へとお送《おく》り申《まを》し上《あ》げました。綿津見神《わたつみのかみ》は海《うみ》を支配《しはい》する神《かみ》です。尊《みこと》はこの神《かみ》にお頼《たの》みになつて、すべての魚《うを》を集《あつ》めて調《しら》べてお貰《もら》ひになりますと、早速《さつそく》その釣《つ》り針《ばり》を喉《のど》にさして、困《こま》つてゐる魚《うを》が見《み》つかりました。そこで尊《みこと》はそれを返《かへ》してお貰《もら》ひになり、序《ついで》に三年《さんねん》の間《あひだ》、お客《きやく》としてこの宮《みや》に御逗留《ごとうりゆう》の上《うへ》、綿津見神《わたつみのかみ》のお子《こ》の豐玉姫《とよたまひめ》をお妃《きさき》として、釣《つ》り針《ばり》の外《ほか》に、いろ/\寶物《たからもの》をお土産《みやげ》に貰《もら》つて、お歸《かへ》りになりました。かうなればもはや尊《みこと》の方《ほう》が大威張《おほいば》りです。意地《いじ》の惡《わる》い火闌降命《ほすせりのみこと》も、今《いま》は尊《みこと》の御威徳《ごいとく》に恐《おそ》れ入《い》つて降參《こうさん》し、犬《いぬ》に代《かは》つて尊《みこと》のお宮《みや》の御門《ごもん》を衞《まも》ることになりましたと申《まを》します。昔《むかし》九州《きゆうしゆう》の南《みなみ》の方《ほう》には、隼人《はやと》といふ人《ひと》たちがをりまして、代《かは》りあつて京都《きようと》へ出《で》て、宮城《きゆうじよう》の御門《ごもん》を衞《まも》つたり、天皇《てんのう》行幸《みゆき》の時《とき》に、お道筋《みちすぢ》を護《まも》つたりするお役《やく》をつとめてをりましたが、これは火闌降命《ほすせりのみこと》の子孫《しそん》で、代々《だい/\》先祖《せんぞ》の例《れい》をついでゐたのだとのことでございます。

   十一、金鵄《きんし》の光《ひかり》

 彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》のお子《こ》が鵜草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》、鵜草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》のお子《こ》が、神武《じんむ》天皇《てんのう》であらせられます。天皇《てんのう》のまだお若《わか》い頃《ころ》までは、天孫《てんそん》降臨《こうりん》以來《いらい》、引《ひ》きつゞき日向《ひうが》の國《くに》においでになりましたが、そこはあまりに西南《にしみなみ》の端《はし》に片《かた》よりすぎて、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》からお任《まか》せを受《う》けたこの豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と平《たひら》かにお治《をさ》めになるには、御都合《ごつごう》がおよろしくない。遠方《えんぽう》の國々《くに/″\》には、まだ強《つよ》いものがたくさんゐて、弱《よわ》いものを從《したが》へて、お互《たがひ》に爭《あらそ》つてゐるといふようなあり樣《さま》でした。そこで天皇《てんのう》は、御兄樣《おにいさま》がたと御一《ごいつ》しよに、日本《につぽん》の眞中《まんなか》の、大和《やまと》の國《くに》にお移《うつ》りになり、それからだん/\、四方《しほう》の國々《くに/″\》をお平《たひら》げになりたいとのお考《かんが》へで、日向《ひうが》をあとに、海路《うみぢ》を、東《ひがし》へ/\とお進《すゝ》みになりました。
 ところが、その頃《ころ》大和《やまと》平野《へいや》には、長髓彦《ながすねひこ》を始《はじ》めとして、強《つよ》いものが大《おほ》ぜいをりまして、天皇《てんのう》のお移《うつ》りになる事《こと》を拒《こば》みます。中《なか》にも長髓彦《ながすねひこ》は、これもやはり天津神《あまつかみ》のお子《こ》の饒速日命《にぎはやひのみこと》といふお方《かた》をいたゞいて、勢力《せいりよく》が最《もつと》も盛《さか》んでした。
 天皇《てんのう》はお船《ふね》で瀬戸内海《せとないかい》から、浪速《なには》にお着《つ》きになりました。浪速《なには》とは今《いま》の大阪《おほさか》の事《こと》です。今《いま》の大阪《おほさか》附近《ふきん》の平地《へいち》は、その後《ご》だん/\と、淀川《よどがは》や、大和川《やまとがは》から流《なが》れて來《く》る砂《すな》が、積《つも》り積《つも》つて出來《でき》たので、その頃《ころ》には、大阪灣《おほさかわん》はまだ/\東《ひがし》の方《ほう》まで入《い》り込《こ》み、大和川《やまとがは》がそこへ流《なが》れ込《こ》んでゐたのでした。そこで天皇《てんのう》は、河内《かはち》の日下《くさか》といふところまで、船《ふね》でお進《すゝ》みになり、河内《かはち》と大和《やまと》との境《さかひ》の、生駒山《いこまやま》を越《こ》えて、大和《やまと》平野《へいや》へおはひりにならうとなさいますと、長髓彦《ながすねひこ》がこれを防《ふせ》いで、戰爭《せんそう》になりました。この戰爭《せんそう》は、天皇《てんのう》の軍《ぐん》の御敗北《ごはいぼく》で、おいたはしくも御兄樣《おあにいさま》の五瀬命《いつせのみこと》は、敵《てき》の箭《や》に中《あた》つたのがもとで、つひにおなくなりになりました。
 「我《われ》は日《ひ》の神《かみ》の子孫《しそん》として、日《ひ》の進《すゝ》む方《ほう》に逆《さか》らつて、西《にし》から東《ひがし》へ向《むか》つて進《すゝ》んだから惡《わる》かつたのだ。これから南《みなみ》へ大《おほ》まはりして、日《ひ》の神《かみ》の威光《いこう》を背《せ》に負《お》うて、東《ひがし》の方《ほう》から大和《やまと》平野《へいや》に進入《しんにゆう》しよう」
 天皇《てんのう》はかうお考《かんが》へになりました。それで紀伊《きい》の方《ほう》から、熊野《くまの》の山《やま》の中《なか》を過《す》ぎて、大和《やまと》の東部《とうぶ》、宇陀《うだ》といふところへお出《い》でになりました。何《なに》しろ木《き》が森々《しん/\》と繁《しげ》つた、道《みち》もない山《やま》の中《なか》で、どちらへ行《い》つたがよいか、方角《ほうがく》さへもよくわかりません。お困《こま》りになつてをられますと、そこへ八咫烏《やたがらす》といふ大《おほ》きな烏《からす》があらはれて、御案内《ごあんない》を致《いた》しました。その烏《からす》の飛《と》ぶ方《ほう》について、大伴氏《おほともうぢ》の先祖《せんぞ》の道臣命《みちのおみのみこと》が、木《き》を伐《き》り、道《みち》を開《ひら》いて、御無事《ごぶじ》に大和《やまと》平野《へいや》の東《ひがし》の方《ほう》の、宇陀《うだ》にお着《つ》きになつたのです。
 この時《とき》宇陀《うだ》には、兄猾《えうかし》、弟猾《おとうかし》、又《また》その西《にし》の磯城《しき》といふところには、兄磯城《えしき》、弟磯城《おとしき》など、その外《ほか》にも、大和《やまと》平野《へいや》には、たくさんの強《つよ》いものがゐました。その中《なか》で弟猾《おとうかし》と弟磯城《おとしき》とが、先《ま》づ天皇《てんのう》にお從《したが》ひ申《まを》して、忠義《ちゆうぎ》をつくしましたので、天皇《てんのう》は、御命令《ごめいれい》に從《したが》はない兄猾《えうかし》、兄磯城《えしき》等《など》を滅《ほろ》ぼされまして、いよ/\長髓彦《ながすねひこ》を御征伐《ごせいばつ》なさることとなりました。併《しか》し長髓彦《ながすねひこ》はなか/\強《つよ》くて、容易《ようい》にお勝《か》ちになることが出來《でき》ません。ところへ不思議《ふしぎ》や、忽《たちま》ち空《そら》が眞暗《まつくら》になつて、恐《おそ》ろしい雹《ひよう》が降《ふ》り出《だ》し、金色《きんいろ》の鵄《とび》があらはれて、天皇《てんのう》のお弓《ゆみ》の弭《ゆはず》に止《と》まりました。その光《ひかり》がきら/\と、稻光《いなびかり》のように輝《かゞや》くので、敵《てき》の兵隊《へいたい》は目《め》が眩《くら》んで、向《むか》ふことが出來《でき》なくなり、つひに天皇《てんのう》の軍《ぐん》の大勝利《だいしようり》となりました。今《いま》の金鵄《きんし》勳章《くんしよう》は、このめでたい大勝利《だいしようり》を記念《きねん》して、戰爭《せんそう》の時《とき》勳功《くんこう》の殊《こと》に著《いちじる》しいものに與《あた》へて、その名譽《めいよ》をあらはす爲《ため》に、明治《めいじ》の御代《みよ》に御定《おさだ》めになつた勳章《くんしよう》です。
 饒速日命《にぎはやひのみこと》は、天皇《てんのう》と同《おな》じく天津神《あまつかみ》の御子《おこ》で、はやく大和《やまと》へ降《くだ》つてをられたのではありますが、天皇《てんのう》の方《ほう》が、この豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と、平《たひら》かにお治《をさ》めになるようにと、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》から御命令《ごめいれい》を受《う》けて、お降《くだ》りになりました天孫《てんそん》の御正統《ごせいとう》のお方《かた》であらせられるので、命《みこと》はいさぎよくこれに從《したが》ひ奉《たてまつ》るようにと、長髓彦《ながすねひこ》におすゝめになりましたけれども、長髓彦《ながすねひこ》は頑固《がんこ》で、どうしてもそれを聞《き》き入《い》れません。そこで命《みこと》は致《いた》し方《かた》なく、長髓彦《ながすねひこ》を殺《ころ》して、高天原《たかまがはら》からお降《くだ》りの時《とき》にお持《も》ちになつた、十種《としな》の寳物《たからもの》を獻上《けんじよう》して、天皇《てんのう》にお仕《つか》へ申《まを》すことになりました。
[#図版(03.png)]
 かくて大和《やまと》平野《へいや》も、悉《こと/″\》く平《たひら》ぎましたので、天皇《てんのう》は畝傍山《うねびやま》の東南《ひがしみなみ》の、橿原《かしはばら》といふ所《ところ》に宮殿《きゆうでん》をお建《た》てになり、初《はじ》めて御即位《ごそくい》の大禮《たいれい》を行《おこな》はせられました。これは今年《ことし》戊辰《つちのえたつ》の年《とし》から、二千五百《にせんごひやく》八十八年《はちじゆうはちねん》前《まへ》の、辛酉《かのととり》の年《とし》、正月《しようがつ》の元日《がんじつ》であります。これを我《わ》が國《くに》では紀元《きげん》元年《がんねん》と定《さだ》め、その正月《しようがつ》元日《がんじつ》は、今《いま》の暦《こよみ》にあてますと、二月《にがつ》十一日《じゆういちにち》になりますから、その日《ひ》を紀元節《きげんせつ》として、お祝《いは》ひ申《まを》す事《こと》になつてをります。又《また》そのお宮《みや》のあつた橿原《かしはばら》の地《ち》には、明治《めいじ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に橿原《かしはばら》神宮《じんぐう》を建《た》てゝ、神武《じんむ》天皇《てんのう》をお祭《まつ》り申《まを》すことゝなりました。
 天皇《てんのう》御即位《ごそくい》の後《のち》、手柄《てがら》のあつた人々《ひと/″\》にそれ/″\賞《しよう》をお與《あた》へになりました。その中《なか》には、海路《かいろ》の御案内《ごあんない》を申《まを》した珍彦《うつひこ》といふ土人《どじん》や、大和《やまと》にあつて早《はや》く天皇《てんのう》にお從《したが》ひ申《まを》した弟猾《おとうかし》、弟磯城《おとしき》などの土人《どじん》もありまして、それ/″\國造《くにのみやつこ》とか、縣主《あがたぬし》とかに任《にん》ぜられました。國造《くにのみやつこ》とか、縣主《あがたぬし》とかいふのは、ともに一地方《いつちほう》の領主《りようしゆ》で、代々《だい/\》その土地《とち》にをつて、人民《じんみん》を支配《しはい》して、天皇《てんのう》にお仕《つか》へ申《まを》したものです。
 天皇《てんのう》は又《また》、前《まへ》に申《まを》した通《とほ》り、事代主神《ことしろぬしのかみ》の御子《おこ》の、媛蹈鞴五十鈴媛命《ひめたゝらいすゞひめのみこと》と申《まを》されるお方《かた》を、皇后《こうごう》としてお迎《むか》へになりました。一説《いつせつ》に大國主神《おほくにぬしのかみ》の御子《おこ》だともありますが、いづれに致《いた》しても、天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》に、すでに大國《おほくに》の主《ぬし》として、この國土《こくど》や人民《じんみん》を領《りよう》し、それをいさぎよく天孫《てんそん》に奉《たてまつ》つたと申《まを》す名家《めいか》で、國津神《くにつかみ》の代表者《だいひようしや》とも申《まを》すべき御家柄《おいへがら》でした。
 こんなあり樣《さま》で、我《わ》が皇室《こうしつ》の起《おこ》りは、強《つよ》いものが暴力《ぼうりよく》で土人《どじん》を苦《くる》しめ、その國《くに》を奪《うば》つたといふような次第《しだい》ではありませんでした。くりかへして申《まを》す通《とほ》り、もと/\我《わ》が國《くに》には統一《とういつ》がなくて、お互《たがひ》に相《あひ》爭《あらそ》ひ、みんなが苦《くる》しんでをつたといふばかりでなく、世《よ》の中《なか》も開《ひら》けず、生活《せいかつ》も豐《ゆたか》でなく、まことに氣《き》の毒《どく》な樣子《ようす》であつたこの豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と平《たひら》かにお治《をさ》めになつて、すべてが幸福《こうふく》になるようにとの、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御命令《ごめいれい》によつて、これを統一《とういつ》なさらうといふ爲《ため》でした。それ故《ゆゑ》に、どこまでも抵抗《ていこう》して、邪魔《じやま》になるものは、やむを得《え》ずお殺《ころ》しにもなりましたが、命《めい》を奉《ほう》じて忠義《ちゆうぎ》をつくしたものは、土人《どじん》であつても、それ/″\一地方《いつちほう》の領主《りようしゆ》とお取《と》り立《た》てになる。皇后《こうごう》も、前《まへ》からこの國《くに》にをられた名家《めいか》からお迎《むか》へになる。もちろん日向《ひうが》からお供《とも》をして、大和《やまと》御平定《ごへいてい》に功《こう》の多《おほ》かつた道臣命《みちのおみのみこと》をはじめとして、有功《ゆうこう》の人々《ひと/″\》が、御優待《ごゆうたい》に預《あづ》かつた事《こと》は申《まを》すまでもありません。長髓彦《ながすねひこ》を殺《ころ》してお從《したが》ひ申《まを》した、饒速日命《にぎはやひのみこと》の如《ごと》きは、特《とく》に御信頼《ごしんらい》になつて、宮中《きゆうちゆう》をお護《まも》り申《まを》す近衞《このえ》のお役《やく》をお任《まか》せになりました。それから後《のち》、その子孫《しそん》の物部氏《ものゝべし》は、道臣命《みちのおみのみこと》の子孫《しそん》の大伴氏《おほともし》と相《あひ》並《なら》んで、久《ひさ》しく皇室《こうしつ》と國家《こつか》とをお護《まも》り申《まを》す兵隊《へいたい》の頭《かしら》となりました。

   十二、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(一)

 人皇《にんのう》第一代《だいいちだい》神武《じんむ》天皇《てんのう》が大和《やまと》平野《へいや》をお定《さだ》めになり、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》かれましてから後《のち》、綏靖《すいぜい》、安寧《あんねい》、懿徳《いとく》、孝昭《こうしよう》、孝安《こうあん》、孝靈《こうれい》、孝元《こうげん》、開化《かいか》と、御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》の御徳澤《ごとくたく》は、次《つ》ぎから次《つ》ぎへと及《およ》びまして、日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》は、だん/\と廣《ひろ》くなり、その住民《じゆうみん》は、次第《しだい》に日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつて參《まゐ》りました。それでもまだ遠方《えんぽう》には、天皇《てんのう》の御徳《おんとく》のありがたいことを知《し》らず、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》に加《くは》はることの幸福《こうふく》を解《かい》せず、昔《むかし》のまゝに、相變《あひかは》らず氣《き》の毒《どく》な生活《せいかつ》をしてゐるものも、たくさんにありました。これでは天照《あまてらす》大神《おほみかみ》のお指《さ》し圖《ず》通《どほ》りに、豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安國《やすくに》と平《たいら》かにお治《をさ》めになるといふことには、まだ/\不十分《ふじゆうぶん》でありました。そこで神武《じんむ》天皇《てんのう》から第十代目《だいじゆうだいめ》の崇神《すじん》天皇《てんのう》は、皇族《こうぞく》のお方々《かた/″\》を四方《しほう》におつかはしになりまして、まだ從《したが》つてゐないものを教《をし》へ、導《みちび》き、どうしても命《めい》を奉《ほう》じないものは、これを征伐《せいばつ》せしめられました。これを『四道《しどう》將軍《しようぐん》』と申《まを》します。
 いはゆる四道《しどう》將軍《しようぐん》とは、孝元《こうげん》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》大彦命《おほひこのみこと》、大彦命《おほひこのみこと》のお子《こ》の武渟川別命《たけぬなかはわけのみこと》、開化《かいか》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》彦坐王《ひこいますおう》のお子《こ》の丹波道主命《たにはのみちのうしのみこと》、孝靈《こうれい》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》吉備津彦命《きびつひこのみこと》です。天皇《てんのう》は又《また》御子《おこ》の豐城入彦命《とよきいりひこのみこと》を東國《とうごく》へおつかはしになり、これを治《をさ》めしめられました。この四道《しどう》將軍《しようぐん》や、皇子《おうじ》たちを、方々《ほう/″\》へおつかはしになりました結果《けつか》として、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》はます/\遠方《えんぽう》にまで及《およ》びました。帝國《ていこく》の領分《りようぶん》は大《たい》そう廣《ひろ》くなりました。
 そんな勢《いきほひ》でありましたから、この御代《みよ》の末《すゑ》には、朝鮮《ちようせん》の方《ほう》からも、天皇《てんのう》のお助《たす》けを願《ねが》つて參《まゐ》りました程《ほど》で、それで崇神《すじん》天皇《てんのう》の御事《おんこと》を、『初國《はつくに》知《し》らす天皇《すめらみこと》』と申《まを》し上《あ》げました。初《はじ》めて大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》をお治《をさ》めになる天皇《てんのう》と申《まを》す意味《いみ》です。
 それでもなほ遠《とほ》く離《はな》れた所《ところ》には、皇室《こうしつ》のお手《て》が屆《とゞ》かず、天皇《てんのう》の御徳澤《ごとくたく》に浴《よく》する機會《きかい》を得《え》ずして、熊襲《くまそ》だとか、蝦夷《えぞ》だとか呼《よ》ばれた土人《どじん》が、たくさん住《す》んでをりました。熊襲《くまそ》は西南《にしみなみ》の、九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》に、蝦夷《えぞ》は東北《ひがしきた》の、奧羽《おうう》地方《ちほう》にゐたのです。この熊襲《くまそ》も、また蝦夷《えぞ》も、天孫《てんそん》降臨《こうりん》の以前《いぜん》からこの國《くに》に住《す》んでゐたものどもで、ずっと大昔《おほむかし》には、廣《ひろ》い中央《ちゆうおう》の地方《ちほう》にまでも廣《ひろ》がつてゐたのですが、だん/\と天皇《てんのう》の御徳《おんとく》に從《したが》つて、中央《ちゆうおう》に近《ちか》い所《ところ》から、次第《しだい》に日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつてしまつて、後《のち》には日本《につぽん》の兩方《りようほう》の端《はし》に、まだ土人《どじん》のまゝで取《と》り遺《のこ》されることになつてゐたのです。

   十三、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(二)

 今《いま》天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》の樣子《ようす》を考《かんが》へて見《み》ますと、すでに多《おほ》くの人々《ひと/″\》が、各地《かくち》に住《す》んでをりましたけれども、かれ等《ら》はまだ金屬《かね》を使《つか》ふことを知《し》らないで、石《いし》で刄物《はもの》を作《つく》るといふような、至《いた》つて不自由《ふじゆう》な、開《ひら》けない生活《せいかつ》をしてをりました。それは今《いま》も方々《ほう/″\》の土《つち》の中《なか》から、石《いし》の鏃《やじり》や、石《いし》の斧《をの》、石《いし》の庖丁《ほうちよう》、石《いし》の刀《かたな》などが出《で》て來《く》るのでわかります。そんな時代《じだい》を『石器《せつき》時代《じだい》』と申《まを》します。
 我《わ》が國《くに》の石器《せつき》時代《じだい》には、少《すくな》くも二《ふた》つの筋《すぢ》の違《ちが》つた民族《みんぞく》が住《す》んでをりました。一《ひと》つは今《いま》も北海道《ほつかいどう》にゐて、アイヌと呼《よ》ばれてゐる人《ひと》たちと、同《おな》じ筋《すぢ》のものでありまして、むかし奧羽《おうう》地方《ちほう》に住《す》んで、歴史《れきし》の上《うへ》で『蝦夷《えぞ》』といはれてゐた人《ひと》たちも、やはり同《おな》じ流《なが》れのものでした。かれ等《ら》は大《たい》そう毛《け》が多《おほ》いので、毛人《けびと》ともいはれ、むかし北陸《ほくろく》地方《ちほう》にゐて、『越人《こしびと》』などといはれたものも、同《おな》じ筋《すぢ》のものでありますが、遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》には、ひとり東北《とうほく》の奧羽《おうう》地方《ちほう》や、北陸《ほくろく》地方《ちほう》にばかりでなく、關東《かんとう》地方《ちほう》から、本州《ほんしゆう》中部《ちゆうぶ》、近畿《きんき》地方《ちほう》、中國《ちゆうごく》、四國《しこく》を經《へ》て、西南《せいなん》は九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》のはてにまでも、廣《ひろ》く住《す》んでゐたのでありました。今《いま》にそのあとは所々《ところ/″\》に遺《のこ》つてをります。かれ等《ら》は、この日本《につぽん》の島國《しまぐに》へ、一番《いちばん》初《はじ》めに來《き》て住《す》んでゐたものでありませう。かれ等《ら》はまだ農業《のうぎよう》を知《し》らず、魚《さかな》を捕《と》つたり、鳥獸《とりけもの》を獲《と》つたりして、生活《せいかつ》してゐましたが、しかし手藝《てわざ》の方《ほう》は餘程《よほど》進歩《しんぽ》してをりまして、かれ等《ら》の使《つか》つてゐた土器《どき》などには、こゝの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し繪《え》にあるように、今日《こんにち》の人《ひと》でも容易《ようい》に眞似《まね》の出來《でき》ぬほどの、よほど見事《みごと》な品《しな》がたくさんあります。
 今一《いまひと》つの石器《せつき》時代《じだい》の住民《じゆうみん》は、西南《にしみなみ》は九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》から、東《ひがし》は四國《しこく》、中國《ちゆうごく》、近畿《きんき》地方《ちほう》を經《へ》て、本州《ほんしゆう》中部《ちゆうぶ》地方《ちほう》にまで廣《ひろ》がつてゐたもので、關東《かんとう》地方《ちほう》にも幾《いく》らかそのあとが遺《のこ》つてをりますが、石器《せつき》時代《じだい》には、まだ奧羽《おうう》地方《ちほう》にまでは及《およ》んでをりませんでした。かれ等《ら》は後《のち》に出雲《いづも》の地方《ちほう》に盛《さか》んになりまして、これに關《かん》するお話《はなし》が、多《おほ》くこの地方《ちほう》に遺《のこ》つてをりますから、普通《ふつう》に『出雲《いづも》民族《みんぞく》』などといはれてをりますが、しかしその住《す》んでゐた所《ところ》が、出雲《いづも》あたりにのみ限《かぎ》つてゐなかつたことは、その石器《せつき》時代《じだい》のあとが、廣《ひろ》く方々《ほう/″\》に遺《のこ》つてゐることでわかります。かれ等《ら》はアイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》の次《つ》ぎに、この島國《しまぐに》へ渡《わた》つて來《き》ましたもので、だん/\と前《まへ》からゐたこのアイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》を從《したが》へましたが、まだ奧羽《おうう》地方《ちほう》にまでは手《て》が屆《とゞ》かず、こゝには蝦夷《えぞ》が盛《さか》んに殖《ふ》えて來《き》たものと見《み》えます。前《まへ》に述《の》べた素戔嗚尊《すさのをのみこと》が、出雲《いづも》の簸《ひ》の川上《かはかみ》で、高志《こし》の八岐《やまた》の大蛇《をろち》を退治《たいじ》なされたといふお話《はなし》は、この出雲《いづも》民族《みんぞく》が、前《まへ》からゐた越人《こしびと》即《すなはち》、アイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》に苦《くる》しめられてゐたこと、また後《のち》にそれを從《したが》へるようになつたことを、語《かた》つてゐるものでありませう。また出雲《いづも》の大國主神《おほくにぬしのかみ》が、越《こし》の沼河姫《ぬながはひめ》をお妃《きさき》となされたといふお話《はなし》は、出雲《いづも》民族《みんぞく》が、アイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》と爭《あらそ》つたばかりでなく、一方《いつぽう》では平和《へいわ》に、親類《しんるい》づきあひをして、これを同《おな》じ仲間《なかま》にしたことを、語《かた》つてゐるものと思《おも》はれます。
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 こんな次第《しだい》で、石器《せつき》時代《じだい》の二《ふた》つの違《ちが》つた民族《みんぞく》も、だん/\とお互《たがひ》の間《あひだ》に關係《かんけい》が出來《でき》て參《まゐ》りましたが、しかしこれを一《ひと》つにして、幸福《こうふく》なる國家《こつか》をなすといふように、偉《えら》いものもなく、相變《あひかは》らず、強《つよ》い者《もの》がお互《たがひ》に境《さかひ》を分《わか》つて、爭《あらそ》つてゐたといふ、氣《き》の毒《どく》なあり樣《さま》でした。そこへ天孫《てんそん》の御降臨《ごこうりん》はあつたのです。そして神武《じんむ》天皇《てんのう》は、これを「安國《やすくに》と平《たひら》けく治《しろ》しめせ」との、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の神勅《みことのり》を完《まつた》う遊《あそ》ばされるために、大和《やまと》にお移《うつ》りになりました。かくて天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》は、次第《しだい》に遠方《えんぽう》に及《およ》んで、日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》も廣《ひろ》まり、前《まへ》からゐた人《ひと》たちも、だんだんと日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》入《い》りをしたのでありました。しかし土地《とち》が遠《とほ》く離《はな》れて、まだ皇室《こうしつ》の御惠《おめぐ》みの行《ゆ》き屆《とゞ》かない西南《にしみなみ》の端《はし》の、九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》には熊襲《くまそ》が、また東北《ひがしきた》の端《はし》の奧羽《おうう》地方《ちほう》などには蝦夷《えぞ》が、もとのまゝに取《と》り遺《のこ》されてゐたのです。蝦夷《えぞ》が石器《せつき》時代《じだい》以來《いらい》のアイヌ系統《けいとう》の民族《みんぞく》であることは、前《まへ》にすでに述《の》べましたが、熊襲《くまそ》は、人種《じんしゆ》の上《うへ》からは、大國主神《おほくにぬしのかみ》などと同《おな》じく、これも石器《せつき》時代《じだい》以來《いらい》の出雲《いづも》民族《みんぞく》の系統《けいとう》に屬《ぞく》するものであつたと見《み》えます。

   十四、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(三)

 崇神《すじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》が、廣《ひろ》く遠方《えんぽう》にまで及《およ》んで、我《わ》が日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》も、大《たい》そう大《おほ》きくなり、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》も殖《ふ》えて參《まゐ》りましたので、次《つ》ぎの第十一代《だいじゆういちだい》垂仁《すいにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、それらの地方《ちほう》の政治《せいじ》にお力《ちから》をおつくしになり、農業《のうぎよう》を御奬勵《ごしようれい》になつて、國民《こくみん》の幸福《こうふく》の基《もとゐ》をお定《さだ》めになりました。かくてその次《つ》ぎの第十二代《だいじゆうにだい》景行《けいこう》天皇《てんのう》の御代《みよ》に至《いた》つて、日本武尊《やまとたけるのみこと》の、熊襲《くまそ》や蝦夷《えぞ》の御征伐《ごせいばつ》といふようなことがあつて、皇威《こうい》の大發展《だいはつてん》が行《おこな》はれました。
 同《おな》じ民族《みんぞく》であつても、都《みやこ》に近《ちか》くゐたものは、はやく天皇《てんのう》の御徳《おんとく》に從《したが》つて、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》に入《い》り、日本《につぽん》帝國《ていこく》の臣民《しんみん》として、幸福《こうふく》な身分《みぶん》となつてをりますが、遠《とほ》く離《はな》れた九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の熊襲《くまそ》や、奧羽《おうう》地方《ちほう》の蝦夷《えぞ》などは、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》入《い》りをしないのみならず、かへつてしばしば人民《じんみん》に害《がい》を加《くは》へます。これは國家《こつか》として、困《こま》つたものであるばかりでなく、かれ等《ら》自身《じしん》のためにも、まことに氣《き》の毒《どく》な次第《しだい》であるといはねばなりません。そこで景行《けいこう》天皇《てんのう》は、皇子《おうじ》小碓尊《をうすのみこと》に勅《みことのり》して、先《ま》づ九州《きゆうしゆう》の熊襲《くまそ》をお討《う》たせになりました。教《をし》へても、諭《さと》しても、どうしても命《めい》を奉《ほう》ぜぬような頑固《がんこ》なものは、これを國家《こつか》の敵《てき》として、兵隊《へいたい》の力《ちから》をもつてでも、これを從《したが》へねばなりません。しかし我《わ》が國家《こつか》の大方針《だいほうしん》は、敵《てき》を滅《ほろぼ》してその國《くに》を奪《うば》ふといふのではなく、これを從《したが》へて、一方《いつぽう》ではかれ等《ら》を幸福《こうふく》ならしめ、一方《いつぽう》では國家《こつか》の利益《りえき》をはかるといふ、いはゆる自他《じた》の福利《ふくり》を増進《ぞうしん》せしめんとするものでありますから、なるべく戰爭《せんそう》を避《さ》け、實際《じつさい》やむを得《え》ぬもののみを殺《ころ》して、他《ほか》の者《もの》を痛《いた》めないといふ方法《ほうほう》を取《と》りました。されば小碓尊《をうすのみこと》は、この時《とき》御年《おんとし》僅《わづか》にお十六歳《じゆうろくさい》の、至《いた》つてお可愛《かわい》らしい少年《しようねん》であらせられましたから、それを利用《りよう》して、少女《をとめ》のお姿《すがた》にお身《み》をやつし、熊襲《くまそ》の頭《かしら》の酒宴《さかもり》の席《せき》に交《まじ》つて、酒《さけ》をすゝめてこれを醉《よ》はしめ、ふいにこれをお殺《ころ》しになりました。
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 そこで世《よ》の中《なか》には、これは欺《だま》し討《う》ちである、卑怯《ひきよう》な行《おこな》ひであるなどといふものもないではありませんが、それは我《わ》が國家《こつか》の大方針《だいほうしん》を知《し》らないものゝ批評《ひひよう》です。もと/\我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》は、至《いた》つて平和好《へいわず》きの民族《みんぞく》です。日本《につぽん》の神々《かみ/″\》は、血《ち》を見《み》る事《こと》が一等《いつとう》お嫌《きら》ひでありました。神《かみ》を祭《まつ》る時《とき》に、一番《いちばん》謹《つゝし》まねばならぬのは、血《ち》の穢《けが》れに觸《ふ》れることであるとまでいはれてをりますのも、畢竟《ひつきよう》これが爲《ため》であります。小碓尊《をうすのみこと》は熊襲《くまそ》の頭《かしら》のみを殺《ころ》して、その下《した》についてゐる、多《おほ》くの民衆《みんしゆう》をお助《たす》けになり、その國《くに》を平《たひら》げて、之《これ》を日本《につぽん》帝國《ていこく》の領分《りようぶん》に加《くは》へ、その民衆《みんしゆう》をいつくしんで、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》にお入《い》れになりました。「豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を安國《やすくに》と平《たひら》けく治《しろ》しめせ」といふ天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の神勅《みことのり》は、こんな工合《ぐあひ》にして、だん/\と實現《じつげん》されて行《ゆ》くのです。たとへば外科《げか》手術《しゆじゆつ》を行《おこな》ふにしましても、今日《こんにち》の文明《ぶんめい》時代《じだい》の外科《げか》醫者《いしや》は、その場所《ばしよ》に麻醉劑《ますいざい》を注射《ちゆうしや》したり、或《あるひ》は全身《ぜんしん》を麻醉《ますい》させたりして、なるべく患者《かんじや》の痛《いた》みを少《すくな》くするように、なるべく他《ほか》に影響《えいきよう》を及《およ》ぼさぬようにと、心《こゝろ》がけるようなものです。ちよっと見《み》ると卑怯《ひきよう》なように見《み》えましても、決《けつ》してさうではありません。これがお惠《めぐみ》の軍《いくさ》と申《まを》すものです。景行《けいこう》天皇《てんのう》の勅《みことのり》に、「今《いま》兵《へい》を興《おこ》すことが少《すくな》ければ、賊《ぞく》を滅《ほろ》ぼすに足《た》らず、さりとて多《おほ》く兵《へい》を動《うご》かすは、これ百姓《ひやくしよう》の害《がい》である。願《ねが》はくは刄《やいば》の威《い》を借《か》らずして、ゐながらにしてその國《くに》を平《たひら》げたい」とも、「これに示《しめ》すに威《い》をもつてし、これを懷《なづ》くるに徳《とく》をもつてし、兵《つはもの》を煩《わづら》はさずして、從《したが》はしめたい」ともありますのは、まったくこれが爲《ため》です。もちろん萬《ばん》やむを得《え》ぬ時《とき》は、戰爭《せんそう》も敢《あへ》て辭《じ》する所《ところ》ではありませんが、なるべく戰《たゝか》はずして、平定《へいてい》の目的《もくてき》を達《たつ》したいといふのであります。
 熊襲《くまそ》の頭《かしら》の殺《ころ》される時《とき》に、かれは小碓尊《をうすのみこと》が少年《しようねん》の御身《おんみ》をもつて、たゞお一人《ひとり》で大勢《おほぜい》の敵《てき》の中《なか》に入《い》り、頭《かしら》をお刺《さ》しになつた勇氣《ゆうき》に感心《かんしん》しまして、
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「西《にし》の國《くに》には私共《わたくしども》よりも強《つよ》いものは一人《ひとり》もありません。しかるに日本《やまと》には、私共《わたくしども》にも増《ま》してお強《つよ》いお方《かた》がおありになる。どうかこれから、日本武尊《やまとたけるのみこと》と仰《おほ》せられますように」
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と申《まを》し上《あ》げました。『日本武《やまとたける》』とは、日本《につぽん》の武勇《ぶゆう》勝《すぐ》れたお方《かた》と申《まを》すことです。

   十五、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(四)

 日本武尊《やまとたけるのみこと》は熊襲《くまそ》を御平定《ごへいてい》になりまして、お歸《かへ》りになります道々《みち/\》にも、ところ/″\で、山《やま》や、河《かは》や、海峽《かいきよう》などによつて、人民《じんみん》をなやますものどもをお平《たひら》げになり、最後《さいご》に東國《とうごく》の蝦夷《えぞ》を御征伐《ごせいばつ》にお向《むか》ひになりました。その御途中《おんとちゆう》に、伊勢《いせ》の皇大神宮《こうたいじんぐう》に參拜《さんぱい》して、御叔母樣《おんをばさま》の倭姫命《やまとひめのみこと》にお暇乞《いとまご》ひを申《まを》されましたところが、命《みこと》は神宮《じんぐう》の天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》を御身《おんみ》の護《まも》りとして、御授《おんさづ》けになり、また別《べつ》に一《ひと》つの嚢《ふくろ》をお與《あた》へになりまして、
 「もし急《きゆう》なことがあつたなら、この嚢《ふくろ》をあけて御覽《ごらん》なさい」
と仰《おほ》せられました。
 日本武尊《やまとたけるのみこと》はこの二《ふた》つの贈《おく》り物《もの》をお持《も》ちになつて、行《ゆ》く/\道筋《みちすぢ》の從《したが》はぬものどもをお從《したが》へになり、駿河《するが》の國《くに》までおいでになりました。ところが、そこの頭《かしら》が、尊《みこと》を殺《ころ》し奉《たてまつ》らうとして、鹿狩《しかが》りをおすゝめして、野原《のはら》の中《なか》に尊《みこと》をお誘《さそ》ひ申《まを》し、四方《しほう》から火《ひ》をつけて燒《や》きたてました。ぐるり[#「ぐるり」に傍点]に火《ひ》は燃《も》えてゐます。尊《みこと》はもはやお遁《のが》れになる途《みち》もありません。そこで思《おも》ひ出《だ》されましたのは、倭姫命《やまとひめのみこと》から贈《おく》られた嚢《ふくろ》、今《いま》こそ開《ひら》くべき急《きゆう》な場合《ばあひ》よと、嚢《ふくろ》の口《くち》を解《と》けば、中《なか》に火打《ひう》ちがありました。そこで尊《みこと》は天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》を拔《ぬ》いて、御身《おんみ》のまはりの草《くさ》を薙《な》ぎ拂《はら》ひ、また火打《ひう》ちを打《う》つて火《ひ》を出《だ》し、先《さき》の方《ほう》の草《くさ》に向《むか》ひ火《ひ》をおつけになりましたところが、その火《ひ》が盛《さか》んに反對《はんたい》の方《ほう》に燃《も》えて行《い》つて、尊《みこと》は御無事《ごぶじ》に危難《きなん》をお免《まぬが》れになり、かへつて敵《てき》の方《ほう》が燒《や》かれました。このことがあつてから、天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》を『草薙劒《くさなぎのつるぎ》』と申《まを》し、その野火《のび》のあつた所《ところ》を燒津《やいづ》と申《まを》します。また向《むか》ひ火《び》と申《まを》すことは、今《いま》も大《おほ》きな山火事《やまかじ》などの場合《ばあひ》に、應用《おうよう》されてゐるところで、向《むか》う側《がは》につけた火《ひ》は、切《き》り拂《はら》つた場所《ばしよ》から先《さき》へ先《さき》へと、だん/\盛《さか》んに燃《も》えて行《ゆ》きまして、こちらは無難《ぶなん》になるのです。
 尊《みこと》の御東征中《ごとうせいちゆう》の御難《ごなん》は、こればかりではありませんでした。相模《さがみ》の三浦《みうら》半島《はんとう》の走水《はしりみづ》から、房總《ぼうそう》半島《はんとう》の方《ほう》へお渡《わた》りになります時《とき》に、大《たい》そう海《うみ》が荒《あ》れて、お船《ふね》があぶなく沈沒《ちんぼつ》しそうになりました。この時《とき》お妃《きさき》の弟橘媛《おとたちばなひめ》が、これは海《うみ》の神《かみ》が尊《みこと》を取《と》らうとしてをられるのであらうと、尊《みこと》に代《かは》つて海《うみ》へおはひりになりました。それで波風《なみかぜ》も靜《しづ》まり、お船《ふね》は無事《ぶじ》に向《むか》う岸《ぎし》につきました。
 かくいろ/\の危難《きなん》を冒《をか》されまして、尊《みこと》はめでたく蝦夷《えぞ》御平定《ごへいてい》の目的《もくてき》をお遂《と》げになり、その外《ほか》、所々《ところ/″\》の從《したが》はぬものどもをもお從《したが》へになりまして、お歸《かへ》り途《みち》に、上野《かうづけ》の碓氷峠《うすひたうげ》にお登《のぼ》りになりますと、東《ひがし》の方《ほう》に關東《かんとう》平野《へいや》が廣々《ひろ/″\》と開《ひら》けてをります。尊《みこと》はこれを御覽《ごらん》になりますにつけても、お妃《きさき》の弟橘媛《おとたちばなひめ》が、走水《はしりみづ》の海《うみ》で尊《みこと》の御身代《おみがは》りとして、海《うみ》に沈《しづ》まれましたことを思《おも》ひ起《おこ》されまして、思《おも》はず「吾妻《あがつま》はや」と御歎《おんなげ》きなさいましたので、それから東國《とうごく》のことを、『吾妻《あづま》』といふようになつたと申《まを》し傳《つた》へてをります。一説《いつせつ》には、このことを、相模《さがみ》の足柄《あしがら》の坂《さか》でのことだとも傳《つた》へてゐます。
 その後《ご》も尊《みこと》は、お供《とも》の吉備《きびの》武彦《たけひこ》を越《こし》の國《くに》へおつかはしになつて、その樣子《ようす》を御調《おんしら》べさせになり、また信濃《しなの》では御坂《みさか》の惡神《わるがみ》をお平《たひら》げになり、尾張《をはり》に到《いた》つて宮簀媛《みやすひめ》といふお方《かた》をお妃《きさき》として、暫《しばら》くそこに御逗留《ごとうりゆう》の後《のち》、近江《あふみ》の伊吹山《いぶきやま》に惡神《わるがみ》ありとお聞《き》きになつて、草薙劒《くさなぎのつるぎ》を宮簀媛《みやすひめ》にお預《あづ》けになつたまゝ、その山《やま》へおいでになりましたが、中途《ちゆうと》で御病氣《ごびようき》にかゝり、伊勢《いせ》の能褒野《のぼの》でお崩《かく》れになりました。そこで草薙劒《くさなぎのつるぎ》は、そのまゝ尾張《をはり》に止《と》まつて、今《いま》に熱田《あつた》神宮《じんぐう》にお祭《まつ》り申《まを》すことになつてゐるのです。
 日本武尊《やまとたけるのみこと》の御功業《ごこうぎよう》は、非常《ひじよう》に大《おほ》きなものでありまして、西南《にしみなみ》は熊襲《くまそ》から、東北《ひがしきた》は蝦夷《えぞ》まで、その間《あひだ》においても、從《したが》はぬものどもをそれ/″\お從《したが》へになりまして、我《わ》が帝國《ていこく》の領分《りようぶん》は、これがために大《たい》そう廣《ひろ》くなり、天皇《てんのう》の御威光《ごいこう》は、ます/\御盛《ごさか》んになりました。
 しかし我《わ》が日本《につぽん》の盛《さか》んになりましたのは、實《じつ》はたゞこの景行《けいこう》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》たる日本武尊《やまとたけるのみこと》の、お一人《ひとり》のお力《ちから》ばかりでありません。その前《まへ》にも、またその後《ご》にも、御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》は、いづれも『日本《やまと》の武《たける》』とも申《まを》し上《あ》ぐべき程《ほど》の、武勇《ぶゆう》の勝《すぐ》れた、お徳《とく》の高《たか》いお方々《かた/″\》でありました。そして常《つね》に徳《とく》をもつて人民《じんみん》をお懷《なづ》けになり、やむを得《え》ぬ場合《ばあひ》には、威《い》をもつてこれをお從《したが》へになりましたので、その御代々《ごだい/\》の御功業《ごこうぎよう》が、積《つも》り積《つも》つて、帝國《ていこく》はます/\盛《さか》んになつて來《き》たのです。その中《なか》でも、景行《けいこう》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》たる日本武尊《やまとたけるのみこと》の御功業《ごこうぎよう》が、殊《こと》に著《いちじる》しかつたので、そればかりが特《とく》に名高《なだか》くなつてゐるのでありませう。
 かくて第二十一代《だいにじゆういちだい》雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》には、東《ひがし》の方《ほう》では、毛人《けびと》即《すなはち》、蝦夷《えぞ》の國《くに》を五十五《ごじゆうご》箇國《かこく》、西《にし》の方《ほう》では、熊襲《くまそ》などの多《おほ》くの夷《えびす》を六十六《ろくじゆうろつ》箇國《かこく》、また海《うみ》を渡《わた》つては、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の九十五《くじゆうご》箇國《かこく》をお從《したが》へになるといふほどの、御盛《ごさか》んな勢《いきほひ》になつて參《まゐ》りました。その朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》のことは次《つ》ぎに申《まを》しませう。

   十六、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》諸國《しよこく》の服屬《ふくぞく》

 今《いま》は帝國《ていこく》の一部《いちぶ》となつてゐる朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》にも、大昔《おほむかし》にはたくさんの國《くに》がありました。その南《みなみ》の方《ほう》は、馬韓《ばかん》、弁辰《べんしん》、秦韓《しんかん》の三《みつ》つに分《わか》れて、それを三韓《さんかん》と申《まを》しましたが、そのうちでも名《な》の判《わか》つてゐるものが、馬韓《ばかん》五十四國《ごじゆうしこく》、これは半島《はんとう》の西南部《せいなんぶ》に、弁辰《べんしん》十二國《じゆうにこく》、秦韓《しんかん》十二國《じゆうにこく》、これは半島《はんとう》の東南部《とうなんぶ》に、三韓《さんかん》合《あは》せて七十八《しちじゆうはち》箇國《かこく》ありました。またその北《きた》には高麗《こま》といふ強《つよ》い國《くに》があり、その外《ほか》にも、まだ多《おほ》くの國々《くに/″\》がありまして、天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》の日本《につぽん》内地《ないち》と同《おな》じように、統一《とういつ》がなくて、お互《たがひ》に爭《あらそ》うてをりました。その中《なか》でも秦韓人《しんかんじん》は、支那《しな》の秦《しん》といふ時代《じだい》に移住《いじゆう》した支那人《しなじん》の末《すゑ》で、その秦韓《しんかん》の中《なか》の新羅《しらぎ》といふ國《くに》が、だん/\強《つよ》くなり、次第《しだい》に近所《きんじよ》の國《くに》を併合《へいごう》します。また馬韓《ばかん》の中《なか》の百濟《くだら》といふ國《くに》も、だん/\強《つよ》くなつて、近所《きんじよ》の國々《くに/″\》を併合《へいごう》しまして、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》には、北《きた》に高麗《こま》、東南《ひがしみなみ》に新羅《しらぎ》、西南《にしみなみ》に百濟《くだら》と、三《みつ》の強《つよ》い國《くに》が、鼎《かなへ》の足《あし》のように、並《なら》んでゐるといふあり樣《さま》となりました。
 もちろん、その外《ほか》にも、まだどれにもつかない小《ちひ》さい國《くに》が、幾《いく》らもありました。これ等《ら》の小《ちひ》さい國《くに》が、新羅《しらぎ》の壓迫《あつぱく》に困《こま》つて、助《たす》けを我《わ》が日本《につぽん》に求《もと》めて參《まゐ》りました。これは第十代《だいじゆうだい》崇神《すじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》の末《すゑ》で、まもなく天皇《てんのう》お崩《かく》れになりましたので、次《つ》ぎの垂仁《すいにん》天皇《てんのう》は、兵《へい》をつかはして、これをお救《すく》ひになりました。これからこれ等《ら》の諸小國《しよしようこく》は、我《わ》が國《くに》に屬《ぞく》することになり、後《のち》に我《わ》が國《くに》からは、日本府《につぽんふ》といふ役所《やくしよ》を置《お》いて、これをお治《をさ》めになることになりました。これを任那《みまな》と申《まを》します。みまな[#「みまな」に傍点]とは、崇神《すじん》天皇《てんのう》の御名《おんな》を御間城入彦《みまきいりひこ》と申《まを》し上《あ》げましたので、その御名《おんな》を記念して、その小《ちひ》さい國々《くに/″\》を一《ひと》つにしたものにつけた名《な》だと申《まを》すことであります。
 かくて朝鮮《ちようせん》には、新羅《しらぎ》、百濟《くだら》、高麗《こま》の三大國《さんだいこく》と、任那《みまな》の諸小國《しよしようこく》とがありましたが、その中《なか》にも、新羅《しらぎ》が一番《いちばん》我《わ》が國《くに》に近《ちか》く、自然《しぜん》何《なに》かと關係《かんけい》が起《おこ》つて參《まゐ》ります。
 もと/\朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の住民《じゆうみん》の中《なか》には、我《わ》が出雲《いづも》民族《みんぞく》などと同《おな》じ流《なが》れのものが多《おほ》く、國《くに》はそれぞれ別々《べつ/\》に分《わか》れてゐても、人種《じんしゆ》の上《うへ》からいへば、お互《たがひ》に一續《ひとつゞ》きのもので、その間《あひだ》には、ほとんど、區別《くべつ》がありませんでした。そこで我《わ》が内地《ないち》にあつた多《おほ》くの小《ちひ》さい國々《くに/″\》が、次第《しだい》に皇室《こうしつ》の御徳澤《ごとくたく》によつて、統一《とういつ》されて參《まゐ》りますと、自然《しぜん》とその引《ひ》き續《つゞ》きとして、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の中《なか》の國々《くに/″\》も、次《つ》ぎには、やはり日本《につぽん》と一《ひと》つになるべき筈《はず》のものでしたが、果《はた》して任那《みまな》の諸小國《しよしようこく》が、先《ま》づもつて我《わ》が國《くに》に從《したが》つて參《まゐ》りましたのです。しかるに一番《いちばん》我《わ》が國《くに》に近《ちか》い新羅《しらぎ》の國《くに》は、その國《くに》の勢《いきほひ》の盛《さか》んなのにまかせて、かへつてとき/″\それを邪魔《じやま》するばかりでなく、狹《せま》い海《うみ》一《ひと》つを挾《はさ》んだばかりの、我《わ》が九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》にゐた熊襲《くまそ》などは、天皇《てんのう》のまします大和《やまと》よりも、かへつて新羅《しらぎ》の方《ほう》が近《ちか》いので、ついそれに引《ひ》かされて、自然《しぜん》我《わ》が國《くに》から離《はな》れようとするおそれがないではありません。
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 果《はた》して第十四代《だいじゆうよだい》仲哀《ちゆうあい》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、熊襲《くまそ》が叛《そむ》きました。そこで天皇《てんのう》は、皇后《こうごう》と御共々《おんとも/″\》に、御自身《ごじしん》これを御征伐《ごせいばつ》にお出《で》かけになりましたが、熊襲《くまそ》の勢《いきほひ》強《つよ》くて、容易《ようい》に平《たひら》がないうちに、天皇《てんのう》は筑前《ちくぜん》の香椎宮《かしいのみや》でお崩《かく》れになりました。皇后《こうごう》は神功《じんぐう》皇后《こうごう》と申《まを》し上《あ》げて、開化《かいか》天皇《てんのう》の御曾孫《おんひまご》の、息長《おきなが》宿禰王《すくねおう》の御子《おんこ》であらせられます。御生《おうま》れつき御聰明《ごそうめい》で、天皇《てんのう》が熊襲《くまそ》御征伐中《ごせいばつちゆう》にお崩《かく》れになりましたについても、さうお力《ちから》を落《おと》しておしまひになるといふようなことはなく、どこまでも天皇《てんのう》の御志《おんこゝろざし》をついで、御國《みくに》の爲《ため》に熊襲《くまそ》を平《たひら》げなければならぬと、をゝしくも御決心《ごけつしん》なさいました。しかし熊襲《くまそ》には、近《ちか》い所《ところ》に、新羅《しらぎ》といふ強《つよ》い國《くに》がついてをりますので、幸《さいは》ひに一旦《いつたん》從《したが》ひましたとしても、また、いつ再《ふたゝ》び叛《そむ》くかも知《し》れません。これは更《さら》にその大本《おほもと》に遡《さかのぼ》つて、新羅《しらぎ》をまでもお從《したが》へにならねばならぬと、天皇《てんのう》崩御《ほうぎよ》の御悲《おんかな》しみの中《なか》にも、深《ふか》く後《のち》のことまでお考《かんが》へになりました。そこでお供《とも》の大臣《だいじん》武内《たけうちの》宿禰《すくね》と御相談《ごそうだん》の上《うへ》、まづ熊襲《くまそ》を平《たひら》げられまして、更《さら》に御自身《ごじしん》男《をとこ》の御《おん》よそほひをなされ、海《うみ》を渡《わた》つて遠《とほ》く新羅《しらぎ》をお討《う》ちになりました。その勢《いきほひ》大《たい》そう御盛《ごさか》んで、ふいに新羅《しらぎ》の都《みやこ》におし寄《よ》せて參《まゐ》りましたものですから、新羅王《しらぎおう》も大《おほ》いに驚《おどろ》いて、「かねて東《ひがし》の方《ほう》には日本《につぽん》といふ神《かみ》の國《くに》があり、そこには尊《たつと》い君《きみ》があつて、天皇《てんのう》と申《まを》すと聞《き》いてゐたが、これはその神兵《しんぺい》であらう、到底《とうてい》抵抗《ていこう》することは出來《でき》ぬ」と、忽《たちま》ち白旗《しらはた》をかゝげて降參《こうさん》しました。そして、「東《ひがし》から出《で》る日《ひ》が、西《にし》から出《で》るようにでもならばいざ知《し》らず、たとひアリナレ川《がは》の水《みづ》が逆《さか》さに流《なが》れ、河原《かはら》の石《いし》が天《てん》に上《のぼ》つて星《ほし》となるようなことがあらうとも、いつまでもお從《したが》ひ申《まを》して、毎年《まいねん》の貢《みつぎ》を怠《おこた》りませぬ」と、堅《かた》い御約束《おやくそく》を申《まを》し上《あ》げました。その後《ご》百濟《くだら》もこれを聞《き》いて我《わ》が國《くに》に降《くだ》り、高麗《こま》もまた從《したが》つて參《まゐ》りましたので、九州《きゆうしゆう》の熊襲《くまそ》も、再《ふたゝ》び叛《そむ》くことがなくなりました。かくして雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》には、前《まへ》に申《まを》したように、朝鮮《ちようせん》半島内《はんとうない》の九十五國《くじゆうごこく》までが、我《わ》が國《くに》に從《したが》ふといふような、盛《さか》んなあり樣《さま》となつたのであります。

   十七、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(一)

 私共《わたくしども》日本《やまと》民族《みんぞく》は、天孫《てんそん》降臨《こうりん》の前《まへ》からこの國《くに》にゐた多《おほ》くの民衆《みんしゆう》が、天孫《てんそん》民族《みんぞく》と一《いつ》しよになつて出來上《できあが》つたものでありますが、その外《ほか》に外國《がいこく》から渡《わた》つて來《き》て、同《おな》じ仲間《なかま》になつた者《もの》も少《すくな》くないといふことを、前《まへ》に述《の》べて置《お》きました。その外國《がいこく》といふのは、おもに支那《しな》や朝鮮《ちようせん》でありまして、中《なか》にも支那《しな》は古《ふる》くから國《くに》が開《ひら》け、文化《ぶんか》が大《たい》そう進《すゝ》んだ國《くに》でありました。また朝鮮《ちようせん》も、土地《とち》が支那《しな》に近《ちか》いものですから、早《はや》くから支那人《しなじん》が入《い》り込《こ》んだり、支那《しな》と交通《こうつう》したりして、支那《しな》の文化《ぶんか》を傳《つた》へてをりましたので、その支那人《しなじん》や朝鮮人《ちようせんじん》の渡來《とらい》によつて、その進《すゝ》んだ文化《ぶんか》は、盛《さか》んに我《わ》が國《くに》に傳《つた》はつて參《まゐ》りました。
 支那人《しなじん》で一番《いちばん》古《ふる》く朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》に移住《いじゆう》したのは、前《まへ》に申《まを》した秦韓人《しんかんじん》で、これは支那《しな》では秦《しん》といふ時代《じだい》の人々《ひと/″\》だといはれてをりますが、その後《ご》今《いま》から二千年《にせんねん》ばかり前《まへ》、秦《しん》が滅《ほろ》んで、漢《かん》の時代《じだい》となり、その漢《かん》の武帝《ぶてい》といふ偉《えら》い天子《てんし》の時《とき》に、朝鮮《ちようせん》を伐《う》つて、盛《さか》んに漢人《かんじん》の移住《いじゆう》がありました。
 この人《ひと》たちは、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の西北部《せいほくぶ》にある、大同江《だいどうこう》の附近《ふきん》、樂浪《らくろう》といふ所《ところ》におもに住《す》んでをりましたので、今《いま》にその地《ち》の古《ふる》い墓《はか》の中《なか》から、漢時代《かんじだい》の文化《ぶんか》を見《み》るべき、立派《りつぱ》な品物《しなもの》がたくさん掘《ほ》り出《だ》されまして、近《ちか》ごろ日本《につぽん》の大學《だいがく》の學者《がくしや》たちが、熱心《ねつしん》にそれを研究《けんきゆう》してをります。即《すなはち》、朝鮮《ちようせん》には、秦人《しんじん》と、漢人《かんじん》と、同《おな》じ支那人《しなじん》でも、時代《じだい》が違《ちが》ひ、自然《しぜん》文化《ぶんか》も違《ちが》つた二通《ふたとほ》りの人《ひと》たちが、秦韓《しんかん》と、樂浪《らくろう》とに、移住《いじゆう》してゐたのです。
 その秦人《しんじん》のゐた秦韓《しんかん》の地《ち》は、後《のち》に新羅《しらぎ》の國《くに》となつた所《ところ》ですが、こゝからは一番《いちばん》早《はや》く日本《につぽん》へ移住民《いじゆうみん》がありました。天日槍《あめのひぼこ》のお話《はなし》は、そのことを語《かた》つてゐるものであります。
 それは、むかし新羅《しらぎ》の王子《おうじ》の天日槍《あめのひぼこ》といふ人《ひと》が、新羅《しらぎ》から、我《わ》が國《くに》に渡《わた》つて來《き》たといふお話《はなし》です。時代《じだい》は天孫《てんそん》降臨《こうりん》以前《いぜん》のことで、その頃《ころ》出雲《いづも》の地方《ちほう》を中心《ちゆうしん》として、すでに大國《おほくに》の主《ぬし》となつてをられたといふ大國主神《おほくにぬしのかみ》と、播磨《はりま》の國《くに》で土地《とち》を爭《あらそ》つて、度々《たび/″\》戰爭《せんそう》をしたといふのでありますから、相當《そうとう》大勢《おほぜい》の人民《じんみん》を連《つ》れて、移住《いじゆう》して來《き》たものと見《み》えます。後《のち》に日槍《ひぼこ》は、近畿《きんき》地方《ちほう》をあちこちと廻《まは》つた末《すゑ》に、但馬《たじま》の國《くに》に落《お》ちつき、土地《とち》の人《ひと》を妻《つま》として、子孫《しそん》がそこで繁昌《はんじよう》しました。その一《いつ》しよに來《き》た仲間《なかま》のものが、方々《ほう/″\》に住《す》みついたことは、申《まを》すまでもありますまい。近江《あふみ》の國《くに》の鏡谷《かゞみのはざま》で、古代《こだい》の朝鮮風《ちようせんふう》の陶器《とうき》を燒《や》いてゐた職人《しよくにん》のごときも、この仲間《なかま》の子孫《しそん》だといはれてゐます。又《また》第十一代《だいじゆういちだい》垂仁《すいにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、常世國《とこよのくに》といふ、遠《とほ》い/\國《くに》へ行《い》つて、橘《たちばな》を取《と》つて來《き》たといふ田道間守《たぢまのもり》も、この日槍《ひぼこ》の玄孫《げんそん》(孫《まご》の孫《まご》)であつたと申《まを》します。又《また》新羅《しらぎ》を御征伐《ごせいばつ》になりました神功《じんぐう》皇后《こうごう》の御母君《おんはゝぎみ》は、その田道間守《たぢまのもり》の姪《めい》に當《あた》らせられる御方《おかた》です。されば皇后《こうごう》が熊襲《くまそ》をお從《したが》へになるについて、先《ま》づその騷《さわ》ぎの大本《おほもと》になる、新羅《しらぎ》を從《したが》へることが必要《ひつよう》だとお考《かんが》へになつたのも、御母君《おんはゝぎみ》の御先祖《ごせんぞ》の關係《かんけい》から、新羅《しらぎ》のことをよく御承知《ごしようち》であつた爲《ため》でありませう。もっとも新羅《しらぎ》といふ國《くに》の出來《でき》たのは、天孫《てんそん》降臨《こうりん》よりもはるかに後《のち》のことでありますから、大國主神《おほくにぬしのかみ》と戰爭《せんそう》したといふ天日槍《あめのひぼこ》が、その頃《ころ》にはまだ國《くに》の出來《でき》てゐない筈《はず》の、新羅《しらぎ》の王子《おうじ》だといふわけはありません。これは後《のち》に新羅《しらぎ》の國《くに》になつた秦韓《しんかん》の人《ひと》のことを、後《のち》の國《くに》の名《な》で語《かた》り傳《つた》へたのでありませう。しからばその秦韓人《しんかんじん》の血《ち》を御母方《おんはゝかた》にお受《う》けになつた神功《じんぐう》皇后《こうごう》が、その新羅《しらぎ》をお從《したが》へになつたのは、新羅《しらぎ》の爲《ため》に併合《へいごう》せられた秦韓人《しんかんじん》の國《くに》を、お取《と》り返《かへ》しになつたといふわけにもなるのであります。

   十八、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(二)

 この秦韓人《しんかんじん》の子孫《しそん》が遺《のこ》したものでありませうか、近畿《きんき》地方《ちほう》から、本州《ほんしゆう》中部《ちゆうぶ》、中國《ちゆうごく》、四國《しこく》など、日本《につぽん》の中央部《ちゆうおうぶ》の土《つち》の中《なか》には、『銅鐸《どうたく》』といつて、こゝの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し繪《え》で見《み》るような、支那《しな》の大昔《おほむかし》の釣《つ》り鐘《がね》の形《かたち》をした、青銅《からかね》で作《つく》つた見事《みごと》なものが、たくさんに埋《うづ》まつてゐるのであります。この繪《え》は大正《たいしよう》十三年《じゆうさんねん》の末《すゑ》に、三河《みかは》の國《くに》から、三箇《さんこ》一《いつ》しよに掘《ほ》り出《だ》されたところを寫《うつ》したのですが、時《とき》としては十幾個《じゆういくこ》も、一《いつ》しよに出《で》ることがありまして、明治《めいじ》以來《いらい》六十年《ろくじゆうねん》ほどの間《あひだ》に、土地《とち》の開墾《かいこん》や、道路《どうろ》の工事《こうじ》などで、たま/\掘《ほ》り出《だ》されたものだけでも、百箇《ひやつこ》以上《いじよう》もありませう。そしてそれは遠《とほ》い昔《むかし》の時代《じだい》から、引《ひ》き續《つゞ》き掘《ほ》り出《だ》されてゐるのでありますから、これまでに掘《ほ》り出《だ》された數《かず》がどれだけ多《おほ》かつたか、又《また》まだ掘《ほ》り出《だ》されずに、土《つち》の中《なか》に殘《のこ》つてゐるものがどれだけ多《おほ》くありますか、ほとんど想像《そうぞう》も出來《でき》ぬほどに、たくさんに埋《うづ》まつてゐるのであります。しかもその品《しな》は、千何百年《せんなんびやくねん》も前《まへ》の日本人《につぽんじん》が、すでに一向《いつこう》知《し》らなかつたほどの古《ふる》いものなのです。さればたま/\それを掘《ほ》り出《だ》しでもしますると、それがいつの時代《じだい》に、どんな人《ひと》が使《つか》つたものだか、又《また》何《なに》に使《つか》つたものだかわからず、とても日本人《につぽんじん》のものではなからう、外國《がいこく》のものであらうといふようなことで、天竺《てんじく》(印度《いんど》)の塔《とう》の屋根《やね》の隅《すみ》にぶら下《さ》げた、鐸《べる》であらうなどといつてをりました程《ほど》です。
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 しからばなぜそんなにたくさんに、そんな貴重《きちよう》な品《しな》が、そこにも、こゝにも、土《つち》の中《なか》に埋《うづ》まつてゐるのでせう。これは大昔《おほむかし》にこの銅鐸《どうたく》を持《も》つてゐた民族《みんぞく》が、近畿《きんき》地方《ちほう》から、その附近《ふきん》の國々《くに/″\》に、大《たい》そうたくさん住《す》んでをつたためであります。又《また》それがたくさんに土《つち》の中《なか》に埋《うづ》まつてゐるといふことは、その頃《ころ》にはまだ火難《かなん》盜難《とうなん》をふせぐ爲《ため》の、安全《あんぜん》な倉庫《そうこ》といふ程《ほど》のものもなく、また警察《けいさつ》の保護《ほご》といふ程《ほど》のものもなかつたので、火事《かじ》に燒《や》けたり、盜賊《とうぞく》に取《と》られたりしない爲《ため》に、大切《たいせつ》な品《しな》は、人《ひと》の知《し》らぬ土《つち》の中《なか》に隱《かく》して置《お》いたのが、そのまゝ忘《わす》れられてしまつたのです。
 しからばどんな場合《ばあひ》に、そんなにたくさんな貴重《きちよう》な品《しな》が、すっかり忘《わす》れられてしまふでせう。これはその民族《みんぞく》が、まったく滅《ほろ》んでしまつたか、或《あるひ》は衰《おとろ》へて、方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてしまつたか、この二《ふた》つの場合《ばあひ》より外《ほか》はありますまい。そこで考《かんが》へられますのは、遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》に、我《わ》が國《くに》へ來《き》たといふ、天日槍《あめのひぼこ》のことであります。
 天日槍《あめのひぼこ》が、大國主神《おほくにぬしのかみ》とたび/\戰爭《せんそう》したといふお話《はなし》は、この新《あたら》しく渡《わた》つて來《き》た秦韓《しんかん》民族《みんぞく》と、前《まへ》から日本《につぽん》の土地《とち》にゐた出雲《いづも》民族《みんぞく》とが、勢力《せいりよく》爭《あらそ》ひをしたことを語《かた》つてゐるのでありますが、この銅鐸《どうたく》がはたしてその秦韓人《しんかんじん》の遺《のこ》したものでありますならば、それがまったく忘《わす》れられたのは、その秦韓人《しんかんじん》の方《ほう》が爭《あらそ》ひに負けて、滅《ほろ》んでしまつたか、或《あるひ》は衰《おとろ》へて、方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてしまつたかの爲《ため》でありませう。しかし土《つち》の中《なか》に埋《うづ》めたまゝに、忘《わす》れられた銅鐸《どうたく》の數《かず》だけでも、そんなにたくさんある程《ほど》にも、秦韓人《しんかんじん》が盛《さか》んな民族《みんぞく》であつたならば、それがいかに勢力《せいりよく》爭《あらそ》ひに負《ま》けたとしましても、すっかり滅《ほろ》んでしまふといふようなことはありますまい。いづれその子孫《しそん》は後《のち》に遺《のこ》つて、私共《わたくしども》日本《やまと》民族《みんぞく》のうちには、この大昔《おほむかし》の支那《しな》の文化《ぶんか》を傳《つた》へた人々《ひと/″\》の血《ち》が、必《かなら》ず流《なが》れてゐるに相違《そうい》ありません。
 このことは、なほ後《のち》に秦人《はたびと》のことをお話《はなし》する時《とき》に述《の》べることにしまして、こゝではたゞ、我《わ》が日本《につぽん》の大昔《おほむかし》には、近畿《きんき》地方《ちほう》を中心《ちゆうしん》として、その近所《きんじよ》の國々《くに/″\》に、支那《しな》の大昔《おほむかし》の文化《ぶんか》を傳《つた》へた民族《みんぞく》が、甚《はなは》だ多數《たすう》にをつたことを述《の》べるだけに止《と》めておきませう。

   十九、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(三)

 秦韓人《しんかんじん》は早《はや》く日本《につぽん》へ渡《わた》つて、近畿《きんき》地方《ちほう》からその近所《きんじよ》の國々《くに/″\》に、廣《ひろ》がつたようでありますが、漢人《かんじん》が朝鮮《ちようせん》の大同江《だいどうこう》の附近《ふきん》の、樂浪《らくろう》の地方《ちほう》に移住《いじゆう》するようになりましてから、九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の人《ひと》たちは、これと交通《こうつう》して、盛《さか》んに漢代《かんだい》の文化《ぶんか》を傳《つた》へました。中《なか》には直接《ちよくせつ》、漢《かん》の本國《ほんごく》へ交通《こうつう》して、漢《かん》の天子《てんし》から、その地方《ちほう》の王《おう》の位《くらゐ》を與《あた》へられた有力者《ゆうりよくしや》もありました。漢《かん》が滅《ほろ》んで、魏《ぎ》といふ國《くに》の時代《じだい》になりまして、朝鮮《ちようせん》の樂浪《らくろう》は、帶方《たいほう》と改《あらた》まりましたが、我《わ》が九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の有力者《ゆうりよくしや》は、引《ひ》き續《つゞ》きこれと交通《こうつう》しまして、その文化《ぶんか》を傳《つた》へましたので、漢《かん》や魏《ぎ》の時代《じだい》の鏡《かゞみ》や、刀劒《とうけん》などが、多《おほ》く日本《につぽん》へ渡《わた》つて來《き》ました。そして九州《きゆうしゆう》あたりでは、その時代《じだい》の支那《しな》の銅《どう》の劒《けん》や、銅《どう》の鉾《ほこ》にならつて、自分《じぶん》で日本風《につぽんふう》のものを作《つく》る程《ほど》にまで、鑄物《いもの》の技術《ぎじゆつ》も進歩《しんぽ》しました。かうして石器《せつき》時代《じだい》から、だん/\金《かね》の器《うつは》の時代《じだい》に移《うつ》つて來《き》たのです。
 その後《ご》神功《じんぐう》皇后《こうごう》が、新羅《しらぎ》や百濟《くだら》をお從《したが》へになり、高麗《こま》もまた交通《こうつう》して來《く》るようになりましてからは、これ等《ら》の國々《くに/″\》から、いろ/\の品物《しなもの》を送《おく》つて來《き》ましたり、又《また》いろ/\の學者《がくしや》や、職人《しよくにん》が渡《わた》つて參《まゐ》りまして、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》が大《おほ》いに開《ひら》けて參《まゐ》りました。もと/\日本《につぽん》には、手藝《てわざ》が上手《じようず》で、その方面《ほうめん》に頭《あたま》の勝《すぐ》れたものが多《おほ》く、大昔《おほむかし》の石器《せつき》時代《じだい》の土器《どき》に、非常《ひじよう》に立派《りつぱ》なものが多《おほ》かつたことは、すでに述《の》べた通《とほ》りですが、そんな特長《とくちよう》を有《ゆう》する民族《みんぞく》が、新《あらた》に支那《しな》や朝鮮《ちようせん》の、進歩《しんぽ》した技術《ぎじゆつ》を學《まな》んだものですから、よく肥《こ》えてゐる畠《はたけ》に、よい種《たね》を蒔《ま》いたように、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》が、大《おほ》いに進歩《しんぽ》して來《き》たのは申《まを》すまでもありません。
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 しかし我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》は、品物《しなもの》や、學者《がくしや》や、職人《しよくにん》が朝鮮《ちようせん》から渡《わた》つて來《き》て、それを日本人《につぽんじん》が學《まな》んで進歩《しんぽ》したといふばかりでなく、實《じつ》は一方《いつぽう》に、多數《たすう》の外人《がいじん》の移住《いじゆう》がありまして、それが爲《ため》に大《おほ》いに開《ひら》けたのでありました。
 神功《じんぐう》皇后《こうごう》新羅《しらぎ》御征伐《ごせいばつ》の時《とき》には、すでにお身重《みおも》であらせられましたが、御凱旋《ごがいせん》の後《のち》に、九州《きゆうしゆう》でお生《う》まれになりました仲哀《ちゆうあい》天皇《てんのう》の御子《みこ》が、第十五代《だいじゆうごだい》の應神《おうじん》天皇《てんのう》であらせられます。この應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、百濟《くだら》から王仁《わに》といふ學者《がくしや》が來《き》たり、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》の子孫《しそん》だといふ弓月君《ゆつきのきみ》が、百二十縣《ひやくにじつけん》の人民《じんみん》を率《ひき》ゐて歸化《きか》したといはれたり、漢《かん》の靈帝《れいてい》の子孫《しそん》だといふ阿知使主《あちのおみ》、都加使主《つかのおみ》の親子《おやこ》が、十七縣《じゆうしちけん》の人民《じんみん》を率《ひき》ゐて來《き》たりしました。そして天皇《てんのう》は、その阿知使主《あちのおみ》、都加使主《つかのおみ》を、遠《とほ》く呉《くれ》の國《くに》へおつかはしになりまして、織《お》り物《もの》や縫《ぬ》ひ物《もの》の上手《じようず》な職人《しよくにん》を、お招《まね》きになりました。
 王仁《わに》も、その先祖《せんぞ》は支那人《しなじん》でありましたが、久《ひさ》しく百濟《くだら》へ來《き》てゐまして、百濟《くだら》の王《おう》から我《わ》が國《くに》にお送《おく》り申《まを》したのです。そこで應神《おうじん》天皇《てんのう》の皇子《みこ》稚郎子《わきいらつこ》は、これを師《し》として漢文學《かんぶんがく》をお學《まな》びになり、大《たい》そう御上達《ごじようたつ》なさいました。これから日本《につぽん》には、文字《もじ》の道《みち》が開《ひら》けて參《まゐ》りました。そしてこの王仁《わに》の子孫《しそん》は、河内《かはち》の國《くに》に住《す》みつきまして、永《なが》く漢文學《かんぶんがく》をもつて朝廷《ちようてい》にお仕《つか》へしました。また阿知使主《あちのおみ》の子孫《しそん》も、同《おな》じく漢文學《かんぶんがく》をもつて朝廷《ちようてい》にお仕《つか》へしましたが、これは大和《やまと》にをりました。そこで王仁《わに》の子孫《しそん》を、河内《かはち》の文氏《ふみうぢ》といひ、阿知使主《あちのおみ》の子孫《しそん》を、大和《やまと》の文氏《ふみうぢ》といひました。この外《ほか》にもいろ/\の學者《がくしや》が、おひ/\朝鮮《ちようせん》から渡《わた》つて參《まゐ》りまして、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》が、大《おほ》いに開《ひら》けたことは申《まを》すまでもありません。
 弓月君《ゆつきのきみ》は秦氏《はたうぢ》の先祖《せんぞ》です。かれは秦《しん》の始皇帝《しこうてい》の子孫《しそん》だといふことで、氏《うぢ》を『秦《しん》』と書《か》きますが、それを日本《につぽん》で『はた』と讀《よ》むのは、この一類《いちるい》の歸化人《きかじん》は、機《はた》を織《お》つて織《お》り物《もの》を作《つく》ることが多《おほ》かつたからでありませう。一説《いつせつ》に、その織《お》り物《もの》がやはらかで、大《たい》そう肌觸《はだざは》りがよろしかつたから、それで『はだ』氏《うぢ》といふのだといひますが、どうも實《まこと》らしくありません。
 この一類《いちるい》の人々《ひと/″\》は、何《なに》しろ百二十縣《ひやくにじつけん》の多數《たすう》で渡來《とらい》したといはれる程《ほど》で、大團體《だいだんたい》の移住《いじゆう》でありました。もとは支那人《しなじん》でも、久《ひさ》しく朝鮮《ちようせん》に來《き》て住《す》んでをつたものらしく、その我《わ》が國《くに》に渡《わた》つて來《く》る時《とき》に、新羅人《しらぎじん》が邪魔《じやま》をしたといひますから、實《じつ》は古《ふる》くから朝鮮《ちようせん》へ來《き》てゐた、秦韓人《しんかんじん》の仲間《なかま》であつたでありませう。それを我《わ》が國《くに》では、ひっくるめて秦人《はたびと》と申《まを》しました。

   二十、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(四)

 この秦人《はたびと》は、そんなに多數《たすう》でありながら、どうしたわけか、後《のち》には諸國《しよこく》に散《ち》らばつて、有力者《ゆうりよくしや》の爲《ため》に追《お》ひ使《つか》はれるといふような、氣《き》の毒《どく》な身分《みぶん》になつてしまひました。それを第二十一代《だいにじゆういちだい》の帝《みかど》雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》がお救《すく》ひになり、弓月君《ゆつきのきみ》の子孫《しそん》の秦酒公《はたのさけのきみ》をその頭《かしら》として、いろいろとお世話《せわ》をなさいましたので、秦人《はたびと》はこれから再《ふたゝ》び盛《さか》んなものとなりました。
 もと百二十縣《ひやくにじつけん》ともいはれた程《ほど》の多數《たすう》の秦人《はたびと》が、どうしてその統一《とういつ》を失《うしな》ひ、諸國《しよこく》に散《ち》らばつて、奴隷《どれい》のような氣《き》の毒《どく》な身分《みぶん》に落《お》ちてしまつたのでありませう。これはきっと歸化人《きかじん》だといふところから、他《た》の民族《みんぞく》に壓迫《あつぱく》せられて、爭《あらそ》ひに負《ま》けた結果《けつか》であつたとしか思《おも》はれません。しかし我《わ》が天孫《てんそん》民族《みんぞく》は、けつして異《ちが》つた民族《みんぞく》を虐待《ぎやくたい》するようなことはありません。土人《どじん》でも、歸化人《きかじん》でも、皆《みな》これをいつくしんで、同《おな》じ仲間《なかま》にしてしまつたものです。ことに昔《むかし》は人口《じんこう》が少《すくな》く、土地《とち》が割《わ》りあひに廣《ひろ》かつたのと、外國《がいこく》の文化《ぶんか》を輸入《ゆにゆう》して、我《わ》が國《くに》を進歩《しんぽ》させようとの方針《ほうしん》とから、むしろ歸化人《きかじん》を、大《おほ》いに歡迎《かんげい》したのでありました。そこで思《おも》ひ合《あは》されますのは、前《まへ》にお話《はなし》した銅鐸《どうたく》のことです。この支那《しな》文化《ぶんか》に關係《かんけい》ある品《しな》を持《も》つてゐた人《ひと》たちは、その數《かず》が大《たい》そう多《おほ》かつたにかゝはらず、後《のち》にそれが滅《ほろ》んでしまつたか、衰《おとろ》へて方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてしまつたかして、その貴重《きちよう》な品《しな》を土《つち》の中《なか》に埋《うづ》めたまゝに、忘《わす》れてしまつたのでありました。そしてこの銅鐸《どうたく》は、天日槍《あめのひぼこ》のお話《はなし》にあるような、古《ふる》く我《わ》が國《くに》に移住《いじゆう》した、秦韓人《しんかんじん》の持《も》つてゐたものだと思《おも》はれることと、考《かんが》へ合《あは》せて見《み》ますと、大昔《おほむかし》に銅鐸《どうたく》を持《も》つてをつた秦韓人《しんかんじん》が、即《すなはち》、この秦人《はたびと》のことであらうと思《おも》はれます。その秦人《はたびと》が、出雲《いづも》民族《みんぞく》との爭《あらそ》ひに負《ま》けて、方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつて、奴隷《どれい》のような氣《き》の毒《どく》な身分《みぶん》になりましたから、たとひその子孫《しそん》はたくさん方々《ほう/″\》に遺《のこ》つてをりましても、先祖《せんぞ》が土《つち》の中《なか》にしまつて置《お》いた銅鐸《どうたく》のことは、いつの間《ま》にか忘《わす》れてしまつたのだと解釋《かいしやく》しますと、始《はじ》めて理窟《りくつ》がよくわかります。もしほんとうに秦人《はたびと》が、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、百二十縣《ひやくにじつけん》といふような、大《おほ》きな團體《だんたい》で移住《いじゆう》して來《き》たのでありましたなら、同《おな》じ頃《ころ》に來《き》た阿知使主《あちのおみ》の十七縣《じゆうしちけん》の仲間《なかま》が、引《ひ》き續《つゞ》き我《わ》が國《くに》で榮《さか》えてをるのとは事變《ことかは》つて、久《ひさ》しからぬうちに、こと/″\く衰《おとろ》へてしまつたといふことも、實際《じつさい》理窟《りくつ》の通《とほ》らない話《はなし》ではありませんか。されば秦人《はたびと》が、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》にはじめて來《き》たといふのは間違《まちが》ひで、かれ等《ら》は遠《とほ》い大昔《おほむかし》からこの國《くに》に來《き》てゐて、一《いつ》たん落伍者《らくごしや》となり、奴隷《どれい》の身分《みぶん》となつて方々《ほう/″\》へ散《ち》らばつてゐたのを、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に來《き》た弓月君《ゆつきのきみ》の子孫《しそん》の酒公《さけのきみ》が、同《おな》じ秦《しん》の國《くに》の人《ひと》で、しかもその始皇帝《しこうてい》の子孫《しそん》だといふ縁故《えんこ》で、後《のち》にその頭《かしら》となつたといふようなことから、その下《した》についた秦人《はたびと》も、その先祖《せんぞ》の弓月君《ゆつきのきみ》と、一《いつ》しよに來《き》たといふことに、誤《あやま》り傳《つた》へたのでありませう。
 我《わ》が國《くに》に於《お》ける秦人《はたびと》の數《かず》は大《たい》そう多《おほ》く、雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》がそのお世話《せわ》をなさつた頃《ころ》に調《しら》べましたら、九十二《くじゆうに》の組《くみ》に分《わか》れて、一萬《いちまん》八千《はつせん》餘人《よにん》もあり、第二十九代《だいにじゆうくだい》欽明《きんめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》には、七千《しちせん》五十三戸《ごじゆうさんこ》で、その頃《ころ》の日本《につぽん》の總戸數《そうこすう》に比《くら》べると、少《すくな》くも二十八分《にじゆうはちぶん》の一《いち》はありました。そしてそれが諸國《しよこく》に分《わか》れ住《す》んで、皆《みな》日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつてしまつたのです。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 瑞穂の国 みずほのくに 瑞穂国。瑞穂のみのる国。日本の美称。
  • 豊葦原 とよあしはら 日本国の美称。
  • 豊葦原の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくに (古くはミツホノクニ) 日本国の美称。
  • 常世国 とこよのくに (1) 古代日本民族が、はるか海の彼方にあると想定した国。常の国。(2) 不老不死の国。仙郷。蓬莱山。(3) 死人の国。よみのくに。よみじ。黄泉。
  • [奥羽] おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
  • 北陸 ほくろく/ほくりく (1) 福井・石川・富山・新潟4県の総称。狭義には、新潟県を除く3県をいう。北陸地方。(2) (→)北陸道の略。
  • 北陸道 ほくりくどう 五畿七道の一つ。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国。また、そこを通ずる街道。くぬがのみち。こしのみち。ほくろくどう。
  • [高志] こし 越・高志。(→)「こしのくに(越の国)」に同じ。
  • [越の国] こしのくに 北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。
  • 房総半島 ぼうそう はんとう 千葉県の南半部(安房・上総)をなす半島。東と南は太平洋に面し(外房)、西は三浦半島と共に東京湾を抱く(内房)。海岸は国定公園。
  • [上野] こうづけ/こうずけ (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転) 旧国名。今の群馬県。上州。
  • 碓氷峠 うすいとうげ 群馬県安中市と長野県北佐久郡との境にある峠。中山道の険路。旧道に沿う峠は標高1200m、新道に沿う峠は958m。鳴くべ鳴かずの峠。
  • 関東平野 かんとう へいや 関東地方の大部分を占める日本最大の平野。
  • 吾妻 あがつま/あずま 東・吾妻・吾嬬。(景行紀に、日本武尊が東征の帰途、碓日嶺から東南を眺めて、妃弟橘媛の投身を悲しみ、「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある) 日本の東部地方。古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を指すようになった。
  • [相模] さがみ 旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
  • 三浦半島 みうら はんとう 神奈川県南東部にある半島。南方に突出して東京湾と相模湾とを分ける。東岸には金沢八景・横須賀・浦賀など、西岸には鎌倉・逗子・葉山・三浦などがある。
  • 走水 はしりみず 村名。現、神奈川県横須賀市走水。
  • 足柄 あしがら 神奈川県南西部の地方名。
  • 足柄の坂
  • 坂本 さかもと 現、南足柄市足柄山。
  • [駿河の国] するがのくに 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
  • 焼津 やいづ 静岡県中部の市。駿河湾西岸に位置する遠洋漁業の根拠地で、缶詰など水産加工業が盛ん。日本武尊東征の際に、草を薙いで火難を鎮めた所という。人口12万。
  • [信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
  • 御坂 みさか
  • 科野の坂 しなののさか 長野県の伊那から岐阜県の恵那に通ずる山路。木曽路は奈良時代になって開通された。(武田祐吉『校註古事記』
  • [三河の国] みかわのくに 旧国名。今の愛知県の東部。三州。参州。
  • [尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
  • 熱田神宮 あつた じんぐう 名古屋市熱田区にある元官幣大社。熱田大神を主神とし、相殿に天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀姫命・建稲種命を祀る。神体は草薙剣。
  • [近江] おうみ (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す) 旧国名。今の滋賀県。江州。
  • 伊吹山 いぶきやま 滋賀・岐阜両県の境にある山。標高1377m。山中薬草に富む。石灰岩の採取地。
  • 鏡谷 かがみのはざま → 鏡宿か
  • 鏡宿 かがみしゅく 中世東海道の宿駅(現、滋賀県竜王町)。近世中山道の道筋である。天目一(あめのめひとつ)命がこの地で鏡を作ったという伝承地。平安時代に宿駅がおかれ、「平治物語」によると源義経が16歳で京都から奥州藤原氏を頼って下った際、この地で元服したとされ、義経元服池が残る。(日本史)
  • [大阪]
  • [河内の国] かわちのくに (古くカフチとも) 旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
  • 浪速 なにわ 難波・浪速・浪花。(一説に「魚(な)庭(にわ)」の意という) 大阪市およびその付近の古称。
  • 淀川 よどがわ 琵琶湖に発源し、京都盆地に出て、盆地西端で木津川・桂川を合わせ、大阪平野を北東から南西に流れて大阪湾に注ぐ川。長さ75km。上流を瀬田川、宇治市から淀までを宇治川という。
  • 大和川 やまとがわ 奈良県北西部から大阪府の中央を経て、堺市で大阪湾に流入する川。笠置山地に発源する。長さ68km。
  • 大阪湾 おおさかわん 瀬戸内海の東端にあたる湾。西は明石海峡と淡路島、南は友ヶ島水道(紀淡海峡)で限られる。古称、茅渟海。和泉灘。摂津灘。
  • 日下 くさか 大阪府北河内郡生駒山の西麓。
  • 生駒山 いこまやま 奈良県と大阪府との境にある山。生駒山地の主峰。標高642m。草香山。
  • 瀬戸内海 せとないかい 本州と四国・九州とに囲まれた内海。沖積世初期に中央構造線の北縁に沿う陥没帯が海となったもの。友ヶ島水道(紀淡海峡)・鳴門海峡・豊予海峡・関門海峡によってわずかに外洋に通じ、大小約3000の島々が散在し、天然の美観に恵まれ、国立公園に指定されている。沿岸には良港が多く、古くから海上交通が盛ん。
  • [大和の国] やまとのくに 大和・倭。(「山処(やまと)」の意か) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。
  • 大和平野 やまと へいや 奈良盆地か。
  • 奈良盆地 なら ぼんち 奈良県北西部、笠置山地と生駒・金剛山地に囲まれた盆地。初瀬・飛鳥・佐保などの河川が流下する。古代文化の発祥地。大和盆地。
  • 宇陀 うだ 大和の東部。/奈良県北東部の市。大和政権時代、菟田県・猛田県があった。人口3万7千。
  • 磯城 しき 奈良盆地南東部一帯の総称。現在の磯城郡・桜井市および橿原・天理両市の一部に当たる。大化改新以前の磯城県の地。陵墓・宮址などが多い。
  • 畝傍山 うねびやま 橿原市の南西部にある小山。標高199m。耳成山・香具山と共に大和三山と称する。畝傍をめぐって耳成・香具の2山が争う山争い伝説は万葉集に歌われる。畝火山。雲飛山。(歌枕)
  • 橿原 かしわばら/かしはら 奈良県中部、奈良盆地南部の市。歴代御陵・橿原神宮・藤原宮址など史跡が多い。大阪の衛星都市化が進む。人口12万5千。
  • 橿原神宮 かしはら じんぐう 橿原市、畝傍山の南東麓にある元官幣大社。記紀伝承の橿原宮の旧址という。祭神は神武天皇と媛踏鞴五十鈴媛皇后。1889年(明治22)の創建。
  • [紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの) 旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
  • 熊野 くまの 和歌山県西牟婁郡から三重県北牟婁郡にかけての地の総称。森林資源に富み、また熊野三山・那智滝など名勝が多い。
  • [伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
  • 皇大神宮 こうたいじんぐう 三重県伊勢市五十鈴川上にある神宮。祭神は天照大神。古来、国家の大事には勅使を差遣、奉告のことが行われた。天照皇大神宮。内宮。
  • 能褒野 のぼの 三重県亀山市の町。日本武尊を埋葬した地と称し、能褒野神社がある。
  • [但馬の国] たじまのくに 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
  • [播磨の国] はりまのくに 旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。
  • [出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
  • 簸の川 ひのかわ 簸川。日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したという。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。
  • [筑前] ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
  • 香椎宮 かしいのみや/かしいぐう 福岡市香椎にある元官幣大社。仲哀天皇・神功皇后を祀る。記紀伝承の橿日宮の旧址に当たるという。香椎廟。
  • [日向] ひゅうが (古くはヒムカ) 旧国名。今の宮崎県。
  • 高千穂峰 たかちほのみね 宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の伝説の地。標高1574m。頂上に「天の逆鉾」がある。
  • -----------------------------------
  • [朝鮮]
  • 朝鮮半島 ちょうせん はんとう アジア大陸の東部にある半島。黄海と日本海とをわける。朝鮮海峡を隔てて日本と対する。
  • 馬韓 ばかん 古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済によって統一。
  • 弁辰 べんしん → 弁韓
  • 弁韓 べんかん 三韓の一つ。古代、朝鮮南部にあった部族国家(十二国)の総称。今の慶尚南道の南西部にあたる。後に伽耶諸国となり、やがて新羅に併合。弁辰。
  • 秦韓 しんかん → 辰韓
  • 辰韓 しんかん 古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部にあった部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。この中の斯盧によって統合され、356年、新羅となった。
  • 三韓 さんかん (1) 古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称。それぞれが数十の部族国家に分かれていた。(2) 新羅・百済・高句麗の総称。
  • 高麗 こま 高麗・狛。(1) 高句麗の称。また、高句麗からの渡来人の氏称。(2) 高麗の称。また、高麗から伝来したもの、舶来のものの意を表す語。
  • 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
  • 百済 くだら (クダラは日本での称) (1) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�(しひ)城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)(2) (1) などからの渡来人の居住した土地の名。(ア) 奈良県北葛城郡広陵町の一地区。(イ) 大阪市生野区鶴橋付近の地。百済王氏の氏寺があったという。
  • 日本府 にっぽんふ/にほんふ 日本書紀に、大和政権が朝鮮南部経営のために任那に置いたと記される官府。562年新羅に滅ぼされたとされる。任那日本府。
  • 任那 みまな 4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国のうちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。にんな。
  • アリナレ川 阿利那礼河。日本書紀に見える河の名。古くは鴨緑江を指すと解されたが、新羅の国都慶州付近の北川、古名閼川(ありなる)とする説が有力。
  • 大同江 だいどうこう/テドンガン (Taedong-gang) 朝鮮半島北西部、平安南道の大河。慈江道・咸鏡南道境の小白山に発源、平壌市街を貫流して黄海に注ぐ。長さ約430km。
  • 楽浪 らくろう 前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康はその南半を割いて帯方郡を設置。313年高句麗に滅ぼされた。遺跡は墳墓・土城・碑などを主とし、古墳群からは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土。なお、楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
  • 帯方郡 たいほうぐん 古代朝鮮に置かれた中国の郡名。後漢末、遼東太守の公孫康が楽浪郡を領有、204年頃、その南半部を割いて帯方郡を分置。313年まで存続。今の黄海南道・黄海北道を中心とする地方と推定されるが、中国の遼河付近とする説もある。
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  • [中国]
  • 秦 しん (1) 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。( 〜前206)(2) 中国、五胡十六国の西秦・前秦・後秦。(3) 中国陝西省の別称。
  • 漢 かん 秦につづく統一王朝。前漢(西漢)・後漢(東漢)に分ける。
  • 魏 ぎ (1) 中国古代、戦国七雄の一つ。晋の六卿の一人、魏斯(文侯)が、韓・趙とともに晋を分割し、安邑に都した。のち大梁(河南開封)に遷る。山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めた。後に秦に滅ぼされた。(前403〜前225)(2) 中国、三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕に至って帝位についた。都は洛陽。江北の地を領有。5世で晋に禅る。曹魏。(220〜265)
  • 呉 くれ (1) 中国南北朝時代の南朝およびその支配した江南の地域を日本でいう称。また、広く中国の称。(2) 呉と通交して以来、中国伝来の事物に添えていう語。
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  • [インド]
  • 天竺 てんじく [後漢書西域伝、天竺]日本および中国で、インドの古称。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 瓊瓊杵尊 ににぎのみこと 邇邇芸命。日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女、木花之開耶姫を娶り、火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊。
  • 木花開耶姫 このはなさくやひめ 木花之開耶姫・木花之佐久夜毘売。日本神話で、大山祇神の女。天孫瓊瓊杵尊の妃。火闌降命・彦火火出見尊・火明命の母。後世、富士山の神と見なされ、浅間神社に祀られる。
  • 大山祇神 おおやまづみのかみ 山をつかさどる神。伊弉諾尊の子。
  • 彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと 記紀神話で瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の女と結婚。別名、火遠理命。山幸彦。
  • 豊玉姫 とよたまひめ 豊玉毘売・豊玉姫。(古くはトヨタマビメ) 海神、豊玉彦神の娘で、彦火火出見尊の妃。産屋の屋根を葺き終わらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているのを夫神にのぞき見られ、恥じ怒って海へ去ったと伝える。その時生まれたのが��草葺不合尊という。
  • 綿津見神 わたつみのかみ 海神・綿津見。(ワダツミとも。ツは助詞「の」と同じ、ミは神霊の意) 海をつかさどる神。海神。わたつみのかみ。
  • 火闌降命 ほすせりのみこと/ほすそりのみこと (書紀の古訓ではホノスソリノミコト) 火照命の別名。
  • 火照命 ほでりのみこと 瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。弟の山幸彦(彦火火出見尊)と幸をかえ、屈服して俳人(わざひと)として宮門を守護。隼人の始祖と称される。火闌降命。海幸彦。
  • 塩椎翁 しおつちのおきな/しおつちのおじ 塩土老翁。山幸彦が海幸彦から借りた釣針を失って困っていた時、舟で海神の宮へ渡した神。また、神武天皇東征の際、東方が統治に適した地であると奏した神。しおつつのおじ。塩椎神。
  • 鵜草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと ��草葺不合尊。記紀神話で、彦火火出見尊の子。母は豊玉姫。五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)の父。
  • 神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
  • 天照大神 あまてらす おおみかみ 天照大御神。伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
  • 長髄彦 ながすねひこ/ながすねびこ 神話上の人物。神武天皇東征のとき、大和国生駒郡鳥見地方に割拠した土豪。孔舎衛坂で天皇に抵抗、饒速日命に討たれた。
  • 饒速日命 にぎはやひのみこと 記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦の妹三炊屋姫を妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。
  • 五瀬命 いつせのみこと ��草葺不合尊の長子。神武天皇の兄。天皇と共に東征、長髄彦と戦って負傷、紀伊国の竈山で没したという。竈山神社に祀る。
  • 大伴氏 おおともうじ 姓氏の一つ。古代の豪族。来目部・靫負部・佐伯部などを率いて大和政権に仕え、大連となるものがあった。のち伴氏。
  • 道臣命 みちのおみのみこと 天忍日命の後裔。大伴氏の祖。初名は日臣命。神武天皇の東征に先鋒をつとめ、天皇即位の時に宮門の警衛に任じ、その子孫は軍事をつかさどったと伝える。
  • 兄猾 えうかし
  • 弟猾 おとうかし 弟宇迦斯(記)。弟師木ともいう。大和の宇陀に住む土豪で、宇陀水取らの祖。紀では神武天皇が行手を幾多の賊にはばまれたとき、天香山の土で作った瓦で天社国社の神をまつるように助言している。また、猛田邑を賜り、菟田主水部の遠祖猛田県主に任ぜられた。(神名)
  • 兄磯城 えしき
  • 弟磯城 おとしき
  • 明治天皇 めいじ てんのう 1852-1912 近代の天皇。名は睦仁。幼名、祐宮。孝明天皇の第2皇子。生母は中山慶子。慶応3年(1867)1月9日践祚。同年12月天皇の名により王政復古の大号令を出す。翌年「五カ条の誓文」を宣布、明治と改元。江戸を東京と改めて遷都。その治政下に、廃藩置県・憲法発布・議会召集・教育勅語発布など万般の新制が定められ、近代化が進められた。また、台湾出兵・日清戦争・日露戦争・韓国併合などの対外膨張も行われた。和歌をよくした。陵墓は伏見桃山陵。(在位1867〜1912)
  • 珍彦 うつひこ → 槁根津日子
  • 槁根津日子 さおねつひこ 椎根津彦命(紀)。紀で神武天皇東征の際、速吸之門で天皇の船を導いた国津神。名を珍彦と名乗ったが、神武は椎棹をさしわたして舟に引き入れ案内させ、この名を与えた。倭直の祖。(日本史)
  • 事代主神 ことしろぬしのかみ 日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣を作り隠退した。託宣の神ともいう。八重言代主神。
  • 媛踏鞴五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめのみこと 記では富登多多良伊須須岐比売命。神武天皇の皇后で綏靖天皇の母と伝えられる伝説上の人物。紀は大三輪の神の子あるいは事代主神の子とし、記では美和大物主神が三島湟咋(みぞくい)の女勢夜陀多良比売に生ませた子と伝える。神武天皇の没後、子の皇子を助けて即位させたという。(日本史)
  • 大国主神 おおくにぬしのかみ 大国主命。日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊の子とも6世の孫ともいう。少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊に譲って杵築の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神・国魂神・葦原醜男・八千矛神などの別名が伝えられるが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。
  • 物部氏 もののべし 古代の大豪族。姓は連。饒速日命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、族長は代々大連に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。
  • 綏靖天皇 すいぜい てんのう 記紀伝承上の天皇。神武天皇の第3皇子。名は神渟名川耳。
  • 安寧天皇 あんねい てんのう 記紀伝承上の天皇。綏靖天皇の第1皇子。名は磯城津彦玉手看。
  • 懿徳天皇 いとく てんのう 記紀伝承上の天皇。安寧天皇の第2皇子。名は大日本彦耜友。
  • 孝昭天皇 こうしょう てんのう 記紀伝承上の天皇。懿徳天皇の第1皇子。名は観松彦香殖稲。
  • 孝安天皇 こうあん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝昭天皇の第2皇子。名は日本足彦国押人。
  • 孝霊天皇 こうれい てんのう 記紀伝承上の天皇。孝安天皇の第1皇子。名は大日本根子彦太瓊。
  • 孝元天皇 こうげん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝霊天皇の第1皇子。名は大日本根子彦国牽。
  • 開化天皇 かいか てんのう 記紀伝承上の天皇。孝元天皇の第2皇子。名は稚日本根子彦大日日。
  • 崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
  • 大彦命 おおひこのみこと/おおびこのみこと 大毘古命(記)。孝元天皇の第一皇子で、母は皇后・鬱色謎命。開化天皇と少彦男心命(古事記では少名日子名建猪心命)の同母兄で、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した四道将軍の一人。
  • 武渟川別命 たけぬなかわわけのみこと 大彦命の皇子。崇神天皇の時、四道将軍の一人として東海に遣わされたと伝える。阿倍臣の祖。
  • 彦坐王 ひこいますおう/ひこいますのみこ 日子坐王。記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命。崇神天皇の異母弟、神功皇后の高祖父にあたる。『古事記』によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠退治のために丹波に派遣されたとある。
  • 丹波道主命 たにはのみちのうしのみこと 四道将軍の一人。彦坐王の子。崇神天皇の時、丹波・山陰・山陽地方を鎮めたと伝える。
  • 吉備津彦命 きびつひこのみこと 日本神道の神。吉備冠者ともいう。孝霊天皇の皇子で山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。別名(本来の名)を五十狭芹彦といい、吉備国を平定した事によって吉備津彦を名乗る事になる。(吉備津とは「吉備国」の「津」であり吉備津彦とは「吉備の勢力者」の意味)。
  • 豊城入彦命 とよきいりひこのみこと 崇神天皇の皇子。東国の上毛野君、下毛野君の祖と伝えられる。
  • 初国知らす天皇 はつくにしらす すめらみこと 始馭天下之天皇・御肇国天皇。はじめて造った国を統治される天皇の意。すなわち神武天皇、また崇神天皇をいう。
  • 素戔嗚尊 すさのをのみこと 須佐之男命。日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
  • 沼河姫 ぬながわひめ 沼河比売・沼名河比売。古事記で、高志国(新潟県)に住み八千矛神に求婚された神。
  • 垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。
  • 景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
  • 日本武尊 やまとたけるのみこと 日本武尊・倭建命。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
  • 小碓尊 おうすのみこと → 日本武尊
  • 倭姫命 やまとひめのみこと 垂仁天皇の皇女といわれる伝説上の人物。天照大神の祠を大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して草薙剣を授けたという。
  • 弟橘媛 おとたちばなひめ 日本武尊の妃。穂積氏忍山宿祢の女。記紀の伝説で尊東征の時、相模海上(浦賀水道の辺)で風波の起こった際、海神の怒りをなだめるため、尊に代わって海に投じたと伝える。橘媛。
  • 吉備武彦 きびの たけひこ 稚武彦命の子。景行天皇の勅命により、大伴武日命とともに倭建御子に従って倭建御子をよく輔佐し、内事を専掌した。毛人・凶鬼らを伐って阿倍廬原国にいたり、その功により復命の日に廬原国を賜った。廬原国とは駿河国阿倍郡廬原郷。娘は倭建御子の妃となっている。(神名)
  • 宮簀媛 みやすひめ/みやずひめ 記紀伝承で日本武尊の妃。尾張国造の祖、建稲種公の妹。日本武尊は東征後、草薙剣を媛の許に留めたが、尊の没後、媛は神剣を祀り、熱田神宮の起源をなした。
  • 雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
  • 御間城入彦 みまきいりひこ → 崇神天皇
  • 仲哀天皇 ちゅうあい てんのう 記紀伝承上の天皇。日本武尊の第2王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦。熊襲征討の途中、筑前国の香椎宮で没したという。
  • 神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
  • 息長宿祢王 おきながすくねおう/おきながのすくねのみこ 気長宿祢王(紀)。息長は近江の地名。父は開化天皇の皇子日子坐王を祖父とする迦邇米雷王。母は高材比売。天之日矛の子孫である葛城之高額比売との間に息長帯比売、他二子が生まれた。近江国坂田郡日撫村式内社日撫神社(元郷社)その他に祀られている。(神名)
  • 武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
  • 漢の武帝 かんの ぶてい 前漢の第7代の皇帝。劉徹。内政を確立し匈奴を漠北に追い、西域・安南・朝鮮半島を経略。儒教を政治教化の基とした。(在位前141〜前87)(前156〜前87)
  • 天日槍 あめのひぼこ 天之日矛。記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
  • 田道間守 たじまのもり/たじまもり 記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
  • 応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
  • 王仁 わに 古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。和邇吉師。
  • 始皇帝 し こうてい 前259-前210 秦の第1世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山の陵を築造。(在位前247〜前221・前221〜前210)
  • 弓月君 ゆつきのきみ/ゆづきのきみ 秦氏の祖とされる伝説上の人物。秦の始皇帝の子孫で、百済に移住していた秦(はた)人・漢(あや)人から成る127県の民を率いて応神朝に来朝したという。融通王。
  • 霊帝 れいてい 156-189 後漢第12代の皇帝。在位168-189。章帝の玄孫。竇太后(桓帝の皇后)に迎立され13歳で即位した。太后の父竇武が陳蕃・李膺らの名士を挙用し、宦官を除こうとしたが失敗して169年第二の党錮の獄となった。184年、黄巾の乱が起こり、平定ののちも群盗蜂起し討伐の諸将は割拠の風を生じた。外には羌胡・匈奴の背反があり、天下騒然として後漢衰亡の兆があった。死後弘農王弁が嗣いだが、董卓に廃された。(東洋史)
  • 阿知使主 あちのおみ 応神天皇の時の渡来人。後漢の霊帝の曾孫ともいう。のち呉に使して織女・縫女を連れ帰ったと伝えられる。古代の最も有力な渡来人の一族、東漢直の祖という。
  • 都加使主 つかのおみ 東漢掬(やまとのあやのつか)とも。生没年不詳。東漢氏の祖阿知使主の子とされる渡来人。紀の応神20年9月条に父とともに党類17県を率いて渡来、同37年2月条には縫工女を求め父と呉(くれ、中国の江南地方)に派遣されたとある。雄略7年詔により今来才伎を上桃原・下桃原・真神原に遷居させ、同23年8月天皇の遺詔に従い、皇太子(清寧天皇)を奉じ星川皇子を滅ぼした。雄略朝頃の人だが、東漢氏発展の基礎を築いたため渡来伝承に盛り込まれたか。(日本史)
  • 稚郎子 わきいらつこ → 菟道稚郎子
  • 菟道稚郎子 うじのわきいらつこ 宇遅の和紀郎子(記)。応神天皇の皇太子。仁徳天皇の弟。阿直岐・王仁について学び、博く典籍に通じたが、兄に帝位を譲るため自殺したという。/応神天皇の皇子。京都市宇治神社の祭神。仁徳天皇の異母弟にあたる。(神名)
  • 河内の文氏 かわちの ふみうじ 西文氏。古代の渡来系氏族。河内国古市郡に住む。主に文筆・記録で朝廷に仕え、首の姓を称した。王仁の子孫と伝える。
  • 大和の文氏 やまとのふみうじ 東文氏。倭書氏・倭漢文(書)氏とも。応神朝に来朝したと伝える阿知使主を祖とする渡来系氏族。東漢氏の同族。姓ははじめ直、685年(天武14)6月に忌寸を賜ったと推定され、785年(延暦4)6月には宿祢に改姓。「古語拾遺」は雄略朝に西(かわち)文氏とともに三蔵の簿を勘録したと伝える。令制でも両文氏は東西史部と並称され、その子は大学入学の有資格者となった。(日本史)
  • 秦氏 はたうじ (古くはハダ) 姓氏の一つ。古代の渡来系の氏族。応神天皇のとき渡来した弓月君の子孫と称するが、確かではない。5世紀後半頃より、伴造として多数の秦部を管理し、織物の生産などにたずさわった。
  • 秦酒公 はたのさけのきみ 秦造酒とも。雄略天皇に仕えたとされる伝説上の人物。闘鶏御田(つげのみた)が無実の罪におとされようとしたとき、側にいた酒が歌に託して天皇を諫めたという。また、それまで諸氏族の支配下にあった秦の民を天皇から一括して賜った酒は、返礼として「百八十種勝」をひきいて庸調の絹布を献上し朝廷にうず高く積み上げたため、賞されて禹豆麻佐(うずまさ、太秦)の姓を賜った。「新撰姓氏録」にも同様の話があり、貢物を収める大蔵の官人の長となったという。(日本史)
  • 欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。名は天国排開広庭。即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)、百済の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。(在位 〜571)
  • 御坂の悪神 みさかのわるがみ → 科野の坂の神
  • 科野の坂の神 しなの/しなぬのさかのかみ 倭建御子が東征の途中、科野国を越える際に言向けた神。(神名)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)。



*難字、求めよ

  • 隼人 はやと ハヤヒトの約。
  • 隼人 はやひと 古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
  • 安国 やすくに 安らかに治まる国。泰平の国。
  • 平らか たいらか (1) 高低のないさま。凹凸のないさま。平坦なさま。(2) 安らかなさま。平和なさま。(3) 平穏無事なさま。
  • 天津神 あまつかみ 天つ神。天にいる神。高天原の神。また、高天原から降臨した神、また、その子孫。←→国つ神。
  • 八咫烏 やたがらす (ヤタはヤアタの約。咫(あた)は上代の長さの単位) (1) 記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏。姓氏録によれば、賀茂建角身命の化身と伝えられる。(2) 中国古代説話で太陽の中にいるという3本足の赤色の烏の、日本での称。
  • 弭 ゆはず 弓弭・弓。弓の両端の弓弦をかけるところ。上端のを末弭、下端のを本弭という。ゆみはず。
  • 金鵄 きんし 神武天皇東征の時に、弓の先にとまったという金色のトビ。
  • 金鵄勲章 きんし くんしょう 武功抜群の陸海軍軍人に下賜された勲章。功1級から功7級まで。1890年(明治23)制定。年金または一時金の支給を伴う。1947年廃止。
  • 十種神宝 とくさの かんだから 饒速日命がこの国に降った時、天神が授けたという10種の宝。すなわち瀛都鏡・辺都鏡・八握剣・生玉・足玉・死反玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼をいう。
  • 即位の大礼 そくいの たいれい → 即位の礼
  • 即位の礼 そくいのれい 即位式の、現行の皇室典範における称。
  • 紀元節 きげんせつ 四大節の一つ。1872年(明治5)、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、2月11日。第二次大戦後廃止されたが、1966年、「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施。
  • 土人 どじん (1) その土地に生まれ住む人。土着の人。土民。(2) 未開の土着人。軽侮の意を含んで使われた。(3) 土でつくった人形。土人形。泥人形。
  • 国造 くにのみやつこ (「国の御奴」の意) 古代の世襲の地方官。ほぼ1郡を領し、大化改新以後は多く郡司となった。大化改新後も1国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。
  • 県主 あがたぬし 大和時代の県の支配者。後に姓の一つとなった。
  • 国津神 くにつかみ 国つ神・地祇。(1) 国土を守護する神。地神。(2) 天孫降臨以前からこの国土に土着し、一地方を治めた神。国神。←→天つ神。
  • 人皇 にんのう 神代と区別して、神武天皇以後の天皇をいう語。
  • 徳沢 とくたく 徳化の余沢。めぐみ。恩沢。
  • 四道将軍 しどう しょうぐん 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命。古事記は西道を欠く。
  • 初国・肇国 はつくに はじめて造った国。
  • 熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。日本武尊の征討伝説で著名。
  • 蝦夷 えぞ (1) 古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従しなかった人びと。えみし。(2) 北海道の古称。蝦夷地。
  • 蝦夷 えみし 「えぞ(蝦夷)」の古称。
  • 石器時代 せっき じだい 考古学上の時代区分の一つ。人類文化の第1段階。まだ金属の使用を知らず、石で利器を作った時代。旧石器時代・新石器時代に大別。
  • アイヌ Ainu (アイヌ語で人間の意) かつては北海道・樺太(サハリン)・千島列島に居住したが、現在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。かつては鮭・鱒などの川漁や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行なった。近世以降は松前藩の苛酷な支配や明治政府の開拓政策・同化政策などにより、固有の慣習や文化の多くが失われ、人口も激減したが、近年文化の継承運動が起こり、地位向上をめざす動きが進む。口承による叙事詩ユーカラなどを伝える。
  • 越人 こしびと
  • 八岐の大蛇 やまたのおろち 記紀神話で、出雲の簸川にいたという大蛇。頭尾はおのおの八つに分かれる。素戔嗚尊がこれを退治して奇稲田姫を救い、その尾を割いて天叢雲剣を得たと伝える。
  • 皇威 こうい 天皇の威光。みいつ。
  • 勅 みことのり 詔・勅。(「御言宣」の意) 天皇のことば。おおせ。おおみこと。詔勅。勅諚。勅命。文書上の規定では「詔」の字は臨時の大事に用い、「勅」は尋常の小事に用いる(令義解公式令)など諸説がある。
  • 天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ 日本神話で、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した時、その尾から出たという剣。これを天照大神に奉った。後に、草薙剣と称して熱田神宮に祀る。
  • 草薙剣 くさなぎのつるぎ 三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾から出たと伝える剣。日本武尊が東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣。
  • 毛人 けびと/もうじん (毛深い人の意) 蝦夷(えぞ)の古称。
  • 秦韓人 しんかんじん
  • 鼎 かなえ (金瓮(かなへ)の意) 食物を煮るのに用いる金属製または土製の容器。普通は三足。
  • 神兵 しんぺい 神の兵士。神の加護ある兵。
  • 天孫民族 てんそん みんぞく 天照大神の子孫の集団。
  • 秦人 しんじん/はたびと 秦氏。弓月君を祖と伝える有力渡来系氏族。本拠地は山背国葛野郡。
  • 漢人 かんじん (1) 漢族の人。漢民族。また、ひろく中国の人をいう。(2) 元代、旧金朝治下の漢人・契丹人・女真人などの称。旧南宋下の南人と区別された。
  • 橘 たちばな 食用柑橘類の総称。ときじくのかくのこのみ。
  • 銅鐸 どうたく 弥生時代の青銅器の一種。釣鐘を扁平にした形で、上方に半円形の鈕がある。本来内部に舌を吊るし、ゆり動かして音を出したもの。次第に大形化し、装飾が多くなり、鳴りものの機能を失う。高さ十数cm前後から130cm以上のものまであり、装飾には原始絵画のあるものがあって有名。西日本で製作され、祭器として用いた。
  • 青銅 からかね/せいどう 銅と錫との合金。各種あり、鋳造用のほか、鍛錬材・圧延材にも用いられ、亜鉛・鉛などを加えて古来美術品・貨幣につくられた。機械の部品にもしばしば用いられ(砲金)、さらに燐を加えた燐青銅、金銀を加えた鐘青銅、特殊な鏡青銅などがある。真鍮に次ぐ日常に関係深い銅合金。唐金。ブロンズ。錫青銅。→アルミ青銅。
  • 唐金 からかね (中国から製法が伝わったからいう) 青銅。
  • 鐸 ベル/たく (1) 扁平な鐘形で、内部に舌をつるし、ゆり動かして音響を発する鳴りもの。馬鐸・風鐸など。ただし、古く中国では上に細長い柄をつけ、手に持って鳴らしたものをいい、教令を宣布する時、文事には木鐸(木舌のもの)、武事には金鐸(金舌のもの)を用いたという。ぬて。ぬりて。鐸鈴。(2) 大形の風鈴。
  • 帰化 きか (1) (ア)[論衡程材「帰化慕義」]君王の徳化に帰服すること。(イ)[後漢書循吏伝、童恢]他の地方の人がその土地に移って来て定着すること。(2) (naturalization) (ア) 志望して他の国の国籍を取得し、その国の国民となること。(イ)〔生〕人間の媒介で渡来した生物が、その土地の気候・風土に適応し、自生・繁殖するようになること。
  • 漢文学 かん ぶんがく 中国古来の文学。経書・史書・詩文など。また、日本漢詩文も含めてそれらを研究する学問。
  • 一類 いちるい (1) 同じたぐい。同じ種類。また、同じともがら。一味。(2) 同族。一族。
  • 追い使う おいつかう 追いまわしてつかう。雇い人などを、容赦なくつかう。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


・鉄腕アトム……10万馬力の原子力モーター。
・ゴジラ……水爆実験で発生した放射性物質を浴び怪獣化。
・宇宙戦艦ヤマト……放射能汚染された地球。波動エンジン。
・ガンダム……核分裂エネルギーによる核動力(原子力)。
・未来少年コナン、三角塔……原子炉。
・ルパン三世、死の翼アルバトロス……原爆の製造プラント。
・巨神兵……プロトンビーム、生物に有害な「毒の光」
・沈黙の艦隊……原子力潜水艦。

 赤坂憲雄・小熊英二(編)「辺境」からはじまる東京/東北論』(明石書店、2012.5)。以下、第3章、本多創史「再帰する優性思想」からのメモ。

(p.97) 放射線への恐怖が人々の判断能力を一時的に宙づり状態におき、同じ発言同じ内容が思想信条を問わずなされているように見える。ごく少数の例外もあろうが表には見えない。

(p.100)「分かっていることと、分かっていないことがある。分かっていないことに分かっている顔をしないようにしよう。分かっていないことに対しては、最大限弱い立場の人の側に立つこと」――水俣病の教訓、水俣病シンポジウム・パネリストより。

(p.115) では、「子どもが不幸で、不便で、大変だ」と述べるとき、それは誰にとって不幸、不便、大変なのか。親であり、周囲の人間であり、「社会」である。(略)しかも周囲の人間の負担や迷惑の原因は、本人の障害にあるのではなく社会の編成やまなざしにあることは、障害学が繰り返し論じてきたことである。




*次週予告


第五巻 第一四号 
日本歴史物語〈上〉(三)喜田貞吉


第五巻 第一四号は、
二〇一二年一〇月二七日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第一三号
日本歴史物語〈上〉(二)喜田貞吉
発行:二〇一二年一〇月二〇日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
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