喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

小村雪岱 こむら せったい
1887-1940(明治20.3.22-昭和15.10.17)
日本画家、挿絵画家。本名、安並泰輔。埼玉県川越生まれ。時代風俗の考証に通じ、のち舞台装置家、新聞雑誌の挿絵画家として活躍、その繊細で鮮烈な描線のかもし出すエロチシズムで、広くファンを熱狂させた。挿絵は泉鏡花作『日本橋』、邦枝完二作『お伝地獄』など。(人名)

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。口絵挿絵・小村雪岱。




口絵:天の岩屋戸


もくじ 
日本歴史物語〈上〉(一)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
日本歴史物語〈上〉(一)
  児童たちへ
  一、万世一系の天皇陛下
  二、日本民族(上)
  三、日本民族(下)
  四、天照大神
  五、天の岩屋戸ごもり
  六、八岐の大蛇退治
  七、因幡の白兎
  八、出雲の大社
  九、天孫降臨と三種の神器

オリジナル版
日本歴史物語〈上〉(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03cm。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1mの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3m。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109m強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273km)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方cm。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。
  • 海里・浬 かいり (sea mile; nautical mile) 緯度1分の子午線弧長に基づいて定めた距離の単位で、1海里は1852m。航海に用いる。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。1尋は5尺(1.515m)または6尺(1.818m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 土地面積の単位。6尺四方、すなわち約3.306平方m。歩(ぶ)。



*底本

底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html





日本歴史物語〈上〉(一)

喜田貞吉さだきち

   児童じどうたちへ


 あなたがたはすでに小学校で、日本歴史れきしの教科書で、ひととおりの歴史を学ばれたことでしょう。そしてわたくしどものこの日本の国が、大昔おおむかしから今日こんにちまで、どんなふうにうつりかわり、そこにどんな大きな事件があったかというようなことは、だいたい知っておられるでしょう。わたくしはそのあなたがたに、いまひとつ深入ふかいりして、わたくしどものこの日本にっぽん帝国ていこくは、いったいどんなふうにしてできたものか、わたくしどものこの日本やまと民族みんぞくは、いったいどんなわけのものかというようなことを、いっそうくわしく承知しょうちしてもらいたいのです。
 これまであなたがたの学ばれた歴史は、たいていは、だれが、いつ、どこで、どんなことをしたというように、えらい人のことをおもにべたものでした。それはもちろん、歴史として大切な事柄ことがらではありますが、しかし、そればかりが歴史ではありません。日本の歴史は、くわしくいえば、日本帝国全体の歴史、日本やまと民族全体の歴史でなければなりません。むかしえらい人たちは、それぞれその時代の歴史の中心になっておりましても、その人たちのことだけでは、日本の歴史はじゅうぶんなものとはいわれません。それで、わたくしのこの古代史だいでは、日本帝国の動き、日本やまと民族の動きをおもにべまして、わたくしども日本帝国の臣民しんみんは、つねにどんなこころがけでいなければならぬかということを、あなたがたによく心得こころえてもらいたいつもりで、ふでをとってみたのです。たといその人のがわからなくとも、そのとき場所ばしょがはっきりしなくとも、日本帝国なり、日本やまと民族なりは、つねに動いているのです。そして今日こんにちのさかんな時代となってきたのです。それをよく知らなければ、日本歴史を知ったとはいわれません。しかしそんなことは、あるいはあなたがたの読み物としては、ちとむずかしすぎて、わかりにくく、またおもしろくないかもしれません。そこはよく辛抱しんぼうして、わからぬところは父兄ふけいのかたなり、学校の先生がたなりにおたずねして、くりかえして読んでもらいたいのです。



日本歴史物語〈上〉(一)

喜田貞吉さだきち

   一、万世ばんせい一系いっけいの天皇陛下へいか


 世界せかいに国の数はたくさんありますが、わたくしどもの住んでいるこの大日本だいにっぽん帝国のように、万世ばんせい一系いっけい」ともうして、遠い遠い大昔おおむかしから、いつまでもいつまでも、同じ御血統おんちすじの天皇陛下へいかを上にいただきたてまつり、また「天壌てんじょう無窮むきゅう」ともうして、天地てんちのあらんかぎり、いつまでもけっして変わることのないというような、そんな名誉めいよある国はほかには一つもありません。
 なにぶん広い世界のことですから、日本よりも早くひらけたところもないではありません。しかしそこにできた国も、あるいはおこったり、あるいはつぶれたり、またそこに住んでいる人間も入れかわったりいたしまして、わが日本のようにはじめからけっして変わらぬという国は、ほかには一つもないのです。ごく近いころになっても、ほろんだ国やはじまった国が、世界にはたくさんあるのであります。そのようにほかの国がたびたび変わっているなかにあって、ただひとりこの大日本帝国ばかりは、何千年前からだか、何万年前からだか、とてもわからないほどの遠い遠い大昔おおむかしから始まって、いつまでもいつまでも、けっして変わることがないのです。この名誉めいよある国に生まれたわたくしどもは、なんというしあわせなことでありましょう。
 わが皇室こうしつのご先祖せんぞで、はじめてこの国へおいでになりましたおかたを、瓊瓊杵尊ににぎのみこともうげます。瓊瓊杵尊ににぎのみことがはじめてこの国へおいでになりましたときに、天照あまてらす大神おおみかみは、
「この国は、わが子孫しそんきみたるべきなり。なんじ皇孫こうそんゆいておさめよ。皇位みくらいさかんなること、天地あめつちともにきわまりなかるべし」
と、おっしゃいましたと、わたくしども大日本帝国の国民は、先祖せんぞ以来いらいかたり伝えて、かたく固く信じているのであります。わが「万世ばんせい一系いっけい天壌てんじょう無窮むきゅう」の皇室こうしつは、こんな古い時代からはじまりまして、わたくしども日本の国民は、先祖以来このかたい固い心持こころもちで、上下しょうかこころいつにして、この皇室をうやまい、この帝国を守り、これをさかんにし、ともどもに幸福になることのためにつとめてまいりました。わたくしどもは、わたくしどもの子孫の末々すえずえまでも、さらにこのかたい固い心持こころもちで、この名誉めいよある皇室をうやまい、この名誉ある帝国を守り、ますますこれをさかんにして、いっそう幸福になることにつとめねばなりません。それには、この国のとうとい歴史をよくよく心得こころえておくことが、いちばん大切なのであります。これからわたくしは、みなさんが小学校の教科書で学んだところをもととして、くわしくこの国のおこりや、その後のうつり変わりのことをお話しいたしましょう。

   二、日本やまと民族(上)


 わたくしども、この名誉めいよある大日本帝国の人民は、これを「日本やまと民族みんぞく」ともうします。日本民族は、皇室すなわち、万世ばんせい一系いっけいの天皇陛下へいか御家おいえを、総御本家そうごほんけと上にいただいて、おたがいに一家いっか親類のようなしたしみを持っているのであります。
 日本民族ともうしても、大昔おおむかしからただ一つの血統ちすじが、まじりけなしに、今日きょうまでそのまま続いているともうすのではありません。また、皇室を総御本家そうごほんけとあおぎたてまつるともうしても、すべての人民が、みな皇室からかれ出たともうすのでもありません。皇室のご先祖の瓊瓊杵尊ぎのみことがこの国へおいでになりましたときにも、すでにこの国には、たくさんの人間が住んでいたのです。そして皇室のご先祖は、外国でよく見るように、その前からいるたくさんの人間を、あるいは殺したり、あるいは追い出したりして、その国をお取りになったのではありません。前から住んでいた人間をいたわり、いつくしみ、教え、みちびいて、みな、そのお仲間なかまにしておしまいになったのです。
 皇室のご先祖は、なんのためにこの国におでになったのでありましょう。天照あまてらす大神おおみかみは、なんのために、「この国は、わが子孫のきみたるべきなり」とおさだめになったのでありましょう。
 瓊瓊杵尊ににぎのみことは、豊葦原とよあしはら瑞穗みずほの国を、安国やすくにたいらけくしろしめせ」という、天照大神のご命令を受けて、この国へおいでになったのだともうし伝えております。豊葦原とよあしはら瑞穗みずほの国」とは、わが日本のことです。わが日本の国には、水がかりのよい平地へいちが多くて、あしがよくしげっておりました。またそれを田地でんじにしていねを植えますと、いねがよくみのりますから、それで豊葦原とよあしはら瑞穗みずほの国といったのです。また「しろしめす」とは、おおさめになるということで、その豊葦原の瑞穗の国を、やすい国として、たいらかにおおさめになるようにともうすのが、瓊瓊杵尊ににぎのみことのこの国においでになりましたご目的でありました。ですから、前から住んでいる人々をおくるしめになるはずはけっしてありません。これをいたわり、これをいつくしみ、これを教え、これをみちびいて、みな同じお仲間なかまになさったのは、このありがたい天照大神のご命令にしたがって人民を幸福にしてやろうとの、とうといおぼしめしからであったのです。
 瓊瓊杵尊ににぎのみことのおいでにならぬ前から、この日本の土地に住んでおったたくさんの人々は、まことにどくなありさまでありました。人間の数は多くても、それを一つにして、やすい国と、たいらかにおさめるほどのものが、まだどこにもなかったのです。もちろんその中には、のちにくわしくお話しいたしますが、大国主神おおくにぬしのかみもうすおかたが、そのお名前のとおりに、大きなくにぬしとなられて人民をおさめておられましたけれども、それも日本全体からいえば、ほんの一部分にすぎなかったのです。そのほかの地方では、強いものがそのあたりの人々をしたがえて、おたがいにあらそいばかりして、世の中はいっこうひらけず、だいたいからもうすと、すべての人がまことにどくなありさまであったのです。
 そこへ皇室のご先祖はおいでになりました。そして天照あまてらす大神おおみかみのご命令どおりに、それをだんだんとやすい国として、たいらかにおおさめになりました。それからのちもご代々だいだいの天皇は、そのご精神をおつぎになりまして、しだいに遠方のものをもおしたがえになり、前から住んでおった人々は、皇室のご先祖のおともをしてこの国にたものとみんな一つになってしまって、わたくしども日本やまと民族というものができたのです。
 皇室のご先祖がおいでになりましたのちにも、外国からこの国のよいことを聞きまして移住してたものがたくさんあります。しかし日本やまと民族は、それらの人々をもべつものにすることなく、みな同じ仲間なかまにしてしまいました。

   三、日本やまと民族(下)


 このようにして、わが日本やまと民族はできあがったのです。そして天皇の御徳おんとくが遠くにまで行きわたり、日本にっぽん帝国が広くなればなるほど、日本民族の仲間なかまはふえてまいります。日本民族は、今も外国ではよく見るように、自分とちがった仲間をいつまでもものにするようなことは、けっしてありませんでした。日本帝国の中に住んだものは、いつのにか、みな同じ仲間なかまにしてしまいました。もとはちがったものであっても、ながくいっしょに住んでいるうちには、みな同じ言葉を使い、同じ心持こころもちになり、同じ風俗ふうぞくをして、同じ日本やまと民族になってしまったのです。たとえば一つの家庭のうちで、お母さんはほかの家からおよめた人、おじいさんはほかの家から養子ようした人であっても、その家の人になれば、みな同じしたしい家族になってしまうようなものです。
 同じ仲間なかまになった日本やまと民族は、ただ同じ言葉を使い、同じ心持ちになり、同じ風俗をしているというばかりでなく、実際はみな親類しんるいになってしまって、すべての日本やまと民族には、みな同じが流れているのです。
 その一つの例として、皇室のご先祖のことをもうげるのは、まことにおそれ多い次第しだいではありますが、瓊瓊杵尊ににぎのみことがこの国へおいでになりまして、おきさきにおむかえになりましたのは、木花開耶姫このはなさくやひめもうして、前からこの国におられたおかたでありました。そしてその間にお生まれになりましたのが彦火火出見尊ひこほほでみのみことで、そのおきさき豊玉姫とよたまひめは、やはり前からこの国におられたおかたです。つぎの鵜草葺不合尊うがやふきあえずのみことのおきさき玉依姫たまよりひめも、また同じく前からこの国におられましたおかたで、この鵜草葺不合尊とお妃の玉依姫との間にお生まれになりましたのが、わが国の天皇として第一代の、神武じんむ天皇であらせられます。その神武天皇も御位みくらいかれましてから、やはり前からおられた事代主神ことしろぬしのかみのおむすめ皇后こうごうにおむかえになりました。そのつぎの綏靖すいぜい天皇も、またそのつぎの安寧あんねい天皇も、皇后はみな同じように前からこの国におられたお方々かたがたでありました。
 日本の古いかたり伝えでは、日本人の先祖は「かみ」であり、その神々の「時代」を「神代かみよ」ともうします。そして瓊瓊杵尊ににぎのみこと高天原たかまがはらからこの国においでになりましたので、その高天原の神々を「天津神あまつかみ」ともうし、みことのおいでになる前からこの国におられた神々を「国津神くにつかみ」ともうしますが、その天津神と国津神との関係は、天津神はおっとであり、国津神はつまであり、天津神は父であり、国津神は母であるという、もっともおしたしい間柄あいだがらになっているのです。
 こんなぐあいに、わが皇室のご先祖たちは前からこの国に住んでおられたお方々かたがたと、ご代々だいだい結婚けっこんをあそばされたのでありましたが、瓊瓊杵尊ににぎのみことにおともをしていっしょにこの国にましたものも、やはり同じように、あれは前からこの国にいたものだからの、これはのちに外国から移住してたものだからのなどといって、それらの人々をものにするようなことはなく、おたがいになかよくし、おたがいに結婚けっこんもしまして、長い間にはみな親類同士の間柄あいだがらになり、たとい多いかすくないかのちがいはありましても、ともかくすべての日本やまと民族には、みな同じ血が流れるようになってしまったのです。
 それはわたくしどもが、わたくしどもの先祖のことを考えてみれば、よく合点がってんがいきましょう。わたくしどもにはみな二人ずつのおやがあり、その二人の親にはまた二人ずつの親がありまして、つまりおじいさんが二人、おばあさんが二人と、二代前には四人ずつの親があるわけです。そしてその四人の親にはまた二人ずつの親がありますから、三代前には八人、四代前には十六人、五代前には三十二人、六代前には六十四人と、一代ごとに親の数が二倍になります。そして十代前には一〇二四人の親があり、十五代前には三万二七六八人の親があり、二十代前には一〇四万八五七六人の親があったわけです。もちろんそのうちには、親類同士が夫婦ふうふになったものもありましょうから、この勘定かんじょうどおりにはまいりませんが、まあこんなふうに三十代、四十代、五十代と、遠い遠いむかしのことをたずねてみましたならば、とても口ではいえないほどのたくさんの先祖があったわけで、それらのたくさんの人々の血が、みなこのわたくしどもの身体しんたいの中を流れているはずなのであります。
 こう考えてみますと、すべての日本やまと民族はみな遠いか、近いか、親類同士の間柄あいだがらであり、すべての日本人には、多いか、少ないか、みな同じ血が流れているわけでありまして、おそれ多くも上に万世ばんせい一系いっけいの皇室をその総御本家そうごほんけといただきたてまつり、みんなが一家いっか一族のしたしみを持っているということがよくわかってくるでありましょう。
 よく世間せけんでは、源氏げんじの先祖は清和せいわ天皇だ、藤原氏ふじわらしの先祖は大織冠だいしょくかん鎌足かまたりだ、だれの先祖はなになにがしだなどともうしまして、先祖は一人しかないもののように思い、家柄いえがらちがえば、先祖がちがうようにいいますが、それはただ男親おとこおやのほうだけのことを見ていったので、人間がみな両親の血をうけて生まれたことを忘れてしまっているのです。それでもし、わたくしどもの遠い遠い先祖の血統けっとうをたずねてみましたならば、むかしの人はたいてい、今の日本人のおたがいの先祖ともうしてよいのであります。おそれ多いことをもうすようではありますが、皇室の御方々おんかたがたのおからだに流れております血も、私ども一般日本臣民しんみん身体しんたいに流れております血も、みな同じ日本やまと民族の血でありまして、皇室もまた私ども日本臣民と、遠いか近いかの親類関係にあらせられるともうげましてよろしいのであります。
 これからわたくしは、それならばどんなふうにしてわが日本やまと民族ができあがったか、どんなふうにしてわが日本の国はさかんになったか、だんだんとそのお話をいたしましょう。

   四、天照あまてらす大神おおみかみ


 わが皇室のいちばん遠いご先祖を、天照あまてらす大神おおみかみもうげます。この国へはじめておいでになりました瓊瓊杵尊ぎのみことは、この天照大神のおまごさまであらせられるのです。
 なにぶんにもとおい遠い大昔のことでありますから、今日こんにちからくわしいことはとてもわかりかねますが、わたくしどもの先祖たちは、日本の大昔は神代かみよであり、わたくしども日本人の遠い先祖はかみであったとかたり伝えております。そしてその神々の数がたいそう多いので、ひっくるめてそれを八百万神やおよろずのかみなどともうします。もっとも今日こんにちかみとしておまつりしておるのは、この神代かみよの神々たちばかりではありません。のちの時代の人々でも、とくが高く、こうが多かったものはやはり神としておまつりするのでありますが、その多くの神々の中でも、天照大神はいちばんとうとい神であらせられます。
 わたくしどもの先祖たちは、天照大神のお国を高天原たかまがはらもうして、大空おおぞらにある国であり、また大神をの神であらせられると語り伝えております。毎日毎日、天かららしてくれますがために、動物も、植物も、みな育つことができるのです。天照大神のおとくによって、この名誉めいよある日本の国もはじまり、すべてのものが幸福にらしていくことができるのだと、わたくしどもは先祖以来いらいかたく固く信じて、これをうやまいたてまつっているのです。
 この神代かみよのことについて、わたくしどもの先祖たちは、こういうふうに語り伝えておりました。
 むかし、むかし、大昔に、伊奘諾神いざなぎのかみ伊奘冉神いざなみのかみもうされるお二方ふたかたの神がありました。日本の国も、その国にいる山の神も、海の神も、木の神も、草の神も、風の神も、火の神も、あらゆる神々、みなこのお二方ふたかたの神がお生みになったともうすのです。そして天照大神もまた、このお二方ふたかたの神のお子さまとしてお生まれになりましたともうし伝えているのであります。
 ところが天照大神は、ほかの神々たちよりもことにたっとい神であらせられまして、そのおひかりが、世の中をらしかがやくというような、きわめておとくのお高いおかたでありましたから、親神おやがみたちはこれを高天原へお送りもうして、その国をおおさめになるようにと、おさだめになりましたのだともうし伝えております。

   五、あま岩屋戸いわやとごもり


 天照大神の御弟様おんおとうとさまに、素戔嗚尊すさのおのみこともうされるおかたがありました。お小さいときから、たいそうご元気のおよろしい、いたずらきのおかたでありまして、たびたび大神おおみかみにご迷惑めいわくをおかけになりました。しかし大神は、いつもそれを大目おおめにごらんになりまして、いっこうおとがめなさいませんでした。大神が水田みずたをおつくりになりますと、その田のあぜを切りはなして田の水を流してしまったり、用水ようすいみぞめて水をとおらなくしたりなさいます。しかし大神は、それをおとがめにならないで、
「あれはおおかた、あぜみぞのために大事だいじの地面をつぶすのがしいと思って、それであんなことをしたのであろう」
と、おっしゃいます。大神がお食事をあそばしていらっしゃいますと、そこへきたないものを出して、おこまらせになります。それでも大神は、
「あれは、おおかたさけうて、ついきたないものをいたのであろう」
とおっしゃいまして、やはりおとがめになりません。しかし素戔嗚尊すさのおのみことのおいたずらは、ますますひどくなりました。大神がはたをおらせになっていられましたときに、みことは馬のかわをむいて赤裸あかはだかになったのを、家根やねをこわしてその中へ追いこまれました。それを見た機織はたおはびっくりして、とうとう死んでしまいました。これにはさすがの大神も、もうご辛抱しんぼうがお出来できにならなくなりまして、あま岩屋いわやにおこもりになり、岩戸いわとめてかくれておしまいになりました。
 さあ、たいへんです。の神さまがお姿すがたをおかくしになったのですから、世の中はまっくらやみです。岩戸をかためておいでになりますから、いつまでたってもけっこがありません。何をするにも松明たいまつかりがいるようになりました。悪い神々は、ときたりと勝手かってわがままをいたします。八百万やおよろずの神々たちもこれにはひどくこまりまして、どうかして大神に岩戸から出ていただきますようにと、みんな集まって相談をいたしました。しかし、なにぶんにも大神がひどくおこりになっておられるのでありますから、これはただお願いもうしただけでは、とてもおましにはなりますまい、おそれ多いことではあるが、一つ大神をおだましもうして、出ていただくよりほかはないと、相談が一決いっけつしました。
 そこでまず常世とこよ長鳴ながなどりというとりを集めます。石凝姥命いしこりどめのみこと八咫鏡やたのかがみを作らせます。玉祖命たまのおやのみこと八坂瓊やさかにの曲玉まがたまを作らせます。八咫鏡とは大きな鏡ともうすこと、八坂瓊曲玉とはいろいろの玉をたくさん長いとおしたもののことです。その鏡と玉とを青や白のきれとともにさかきえだにかけて、忌部氏いんべうじの先祖の太玉命ふとだまのみことが、それを持って岩戸の前に立ちます。中臣氏なかとみうじの先祖の天児屋命あめのこやねのみことがおましを願うやくをつとめます。力の強い手力男神たぢからおのかみが岩戸のかげかくれて、いざといわば、すぐにをあけて大神をお出しもうはずです。用意がいよいよできたところで、岩戸の前で庭火にわびをあかあかとき、こっけいな鈿女命うずめのみことが、ふざけたぶりをしておどりおどりましたので、これまで大神のおましがないためにひどく悲しんでいた八百万やおよろずの神々たちも、これには思わず大笑おおわらいに笑わされました。庭火にわびあかるくなったので、集めたたくさんのとりも、一度にコッケッコーときました。
 天照あまてらす大神おおみかみは、岩戸いわとの中でそれをお聞きになりまして、たいそう不思議にお思いになりました。ご自分があまの岩戸におこもりになりましたので、世の中はまっくらやみになり、八百万やおよろずの神々たちもさだめて悲しんでいることであろうとおぼしめされましたのに、これはまたどうしたことか、岩戸の外ではたいそうおもしろそうに、にぎやかにさわいでおるではありませんか。これはへんだなと大神は、すこし岩戸を細目ほそめにあけてごらんになりますと、外はあかるく、とりく、まるでけたようです。悲しんでいるはずの八百万やおよろずの神々たちは、いかにもうれしそうに大笑おおわらいをしております。
「これはいったいどうしたことだ?」
と、鈿女命うずめのみことにお聞きになりますと、鈿女命は、
大神おおみかみよりもとうとい神がおいでになりましたから、みな楽しくわらうているのでございます」
と、お答えもうげました。それと同時に天児屋命あめのこやねのみこと太玉命ふとだまのみこととが、
「これが大神よりもたっとい神でございます」
と、かねて用意の八咫鏡やたのかがみをさし出しておにかけました。ところがその鏡が大神のおひかりらされて、別のの神があらわれでもしたように、キラキラとひかかがやきました。
 大神はいよいよ不思議におぼされて、すこしばかり岩戸からおましになりました。いまこそと手力男神たぢからおのかみ御手おんてを取って外へお出しもうし、天児屋命あめのこやねのみこと太玉命ふとだまのみこととは、さっそくうしろへ七五三縄をはって、ふたたびおはいりになりませぬようにとお願いもうげました。これから世の中はふたたびあかるくなり、八百万やおよろずの神々たちもほんとうに心から手をち、声をあげて、よろこびましたともうします。

   六、八岐やまた大蛇おろち退治たいじ


 天照あまてらす大神おおみかみの、あま岩屋戸いわやとごもりあそばされましたのも、つまりは素戔嗚尊すさのおのみことのおいたずらがあまりにおひどかったためであったので、大神のおましをお願いもうしたあとで、八百万やおよろずの神々たちはともどもに相談して、みことを高天原から追い出してしまいました。
 素戔嗚尊も、もともとご自分がお悪かったのですから、いまさらなんともいたしかたがありません。高天原から出てられまして、とぼとぼと出雲いずもの国の、の川の川上かわかみまでおいでになりました。そこはひどい山のおくで、とても人間などのいそうな所ではありません。それだのに、その川上かわかみからはしが流れてまいります。サルやクマでははしを使って物をたべるはずはありません。さては、まだこの山奥やまおくにも人間が住んでいるのだなと、みことはだんだんたずねてお登りになりますと、そこにははたして老人としより夫婦ふうふが、一人の少女おとめあいだいていているではありませんか。
「おまえたちは、いったいどうしたというのだ?」
みことはおたずねになりました。
「わたくしどもは、古くからここに住んでおりますもので、わたくしの名は足名椎あしなづちつまの名は手名椎てなづち〔この部分、底本は「私の名は手名椎、妻の名は足名椎」。筆者の誤認か〕むすめの名は奇稲田姫くしいなだひめもうします。わたくしどもには、ほかにもたくさんの娘がありましたが、ほかの娘どもはみな、高志こし八岐やまた大蛇おろちに取られまして、今ではこの娘一人になりました。それも今は取られるころとなりましたので、どうにもしようがなく、悲しんでいるのでございます」
と、老人としよりは答えました。
「それはさてさて、どくなことじゃ」
と、もともと元気のすぐれた、またあわれみふかいご性質のおかたでありましたから、素戔嗚尊すさのおのみことはさっそくその大蛇おろち退治たいじして、人民の難儀なんぎすくってやろうとご決心になりました。
 しかしなにぶんにも、頭が八つ、が八つにかれて、その長さが、山々から谷々たにだにわたっているというほどのおそろしい大蛇だいじゃのことでありますから、退治たいじするといっても容易よういなことではありません。計略けいりゃくをもって殺すがよいとのお考えで、よい酒をたくさん作って、大蛇おろちるころを見計みはからって、それを勝手かってに飲むようにと用意しておきました。

 
 そんなおそろしい計略けいりゃくがあるとは知らぬ酒ずきの大蛇おろちは、これはごちそうと、すきなだけその酒を飲んだものですからたまりません。奇稲田姫くしいなだひめのことなどもつい忘れてしまって、よい心地ここちになってねむってしまいました。それをすまして素戔嗚尊は、おこし十握剣とつかのつるぎいて、大蛇おろちをズタズタにおりになりました。さすがの大蛇おろちもこれではひとたまりもありません。もろくもそのまま死んでしまいました。
 みこと大蛇おろちをお切りになったときに、その尻尾しっぽからひとふりのつるぎが出てきました。これはたっといものだと、それを天照大神にご献上けんじょうになりました。これを天叢雲剣あめのむらくものつるぎもうします。大蛇おろちのいる所には、いつも雲がむらがり立っておりましたから、それでそうもうすのです。
 この八岐やまた大蛇おろちは、高志こしの八岐の大蛇ともうしまして、こしという遠い国から、はるばるとこの出雲いずもまで出かけてて人々を苦しめるのでした。こしというのは今の越前えちぜん越中えっちゅう越後えちごなど、東北ひがしきたかたにあたる日本海方面の地方のことです。大昔おおむかしには、このあたりはまだいっこうひらけないので、力の強い乱暴らんぼうなものがたくさんおって、出雲いずものような遠方の人々までがしばしばひどいにあわされたのです。それを素戔嗚尊すさのおのみことがお救いなされ、その国をおしたがえになったのが、この高志こしの八岐の大蛇退治たいじというおもしろいお話になって語り伝えられたのでありましょう。またその大蛇おろちから叢雲剣むらくものつるぎが出て、それをみことが天照大神にたてまつったともうすのは、このこしの国をおさめる力を、大神にご献上けんじょうなされたともうすことでありましょう。
 こうもうすと、素戔嗚尊はこしの人を殺して、その国を取り、これを天照大神にさしあげたというようにも聞こえますが、けっしてそうではありません。いくら教えても、みちびいても、それを聞かずに乱暴らんぼうをなし、ほかのものにがいをなして、どうしても手にあわぬようなものは仕方しかたなしに殺しもいたしましょうが、そうでないものは、やはり親切にいたわって同じ仲間なかまになされたのです。それはつぎにお話しする大国主神おおくにぬしのかみが、高志こし沼河姫ぬながわひめという女をおきさきになされたともうすお話からでもわかりましょう。

   七、因幡いなば白兎しろうさぎ


 素戔嗚尊すさのおのみこと御子みこに、大国主神おおくにぬしのかみというおかたがありました。たいそうお強い、しかしおとなしい、おなさけぶかい性質のおかたです。
 大国主神には、おおぜいのご兄弟の神たちがありましたが、中にもこの神はいちばんおとなしかったので、みんなでそろうて外出がいしゅつでもするときなどには、いつも荷物もつを持たされておともをさせられておりました。
 あるとき大国主神は、いつものとおりおおぜいの神たちのおともをして、ふくろをかついで、すこしおくれて、因幡いなばの国の気多けたさきという所をとおっておられますと、丸裸まるはだかになったウサギが、さもいたそうにヒイヒイといております。それを見たおおぜいの神たちは、
「ウサギよ、ウサギよ、おまえはなぜそんななりをしていているか?」
と、おたずねになりました。するとウサギはいたいのを辛抱しんぼうして、長々ながながとそのわけをもうげました。
 もとこのウサギは、隠岐おきしまにいたのでした。その島からこちらへわたろうと思いましたが、ウサギの力では遠い海をえることができません。これは一つ海のワニをだまして、隠岐おきからここまで橋をかけたようにならばせて、その上をピョンピョン飛んでわたろうと、横着おうちゃくなことを考えつきました。
「ワニさん、ワニさん、おまえたちの仲間なかまとわたしたちの仲間とどちらが多いであろうか。あるだけのワニがみな出てきて、この隠岐おきの島から因幡いなば気多けたさきまで一列いちれつにならんでみなさい。わたしがその上を走りながら、おまえたちの数をかぞえてみよう」
 だまされるとは知らないワニは、ウサギのいうとおりに正直しょうじきにならびましたから、ちょうど隠岐おきから因幡いなばまで、一つの長い長いワニばしができました。それをウサギは、一つ、二つ……と、数をかぞえる真似まねをして、ピョンピョンピョンと飛んでました。いよいよ今一いまひとねで、こちらのきしへ飛び上がろうというところで、だまっていればよいのに、おろかなウサギは、
「おまえたちはバカだな、うまくわたしにだまされた。どうもごくろうさま」
と、よけいな口をききましたから、さあ、たまりません。だまされたワニはたいそうおこって、いちばんおしまいにいたのがそのウサギをつかまえて、丸裸まるはだかきむいてしまったのです。ここにワニともうすのは、ワニザメというフカのるい大魚おおうをで、いまいう熱帯ねったい地方のワニのことではありません。
 ウサギはよけいな口をきいたために、ひどいにあわされましたが、もともと自分が悪かったのですから、いまさらなんともいたしかたがありません。しかしそれでもいたくてたまらないので海岸で苦しんでおりますと、そこへちょうどおおぜいの神々たちがおとおりかかりになりましたのです。同情のない神たちでしたから、その話を聞いてウサギに悪いことを教えました。
「ウサギよ、ウサギよ、そのきずいたむなら、潮水しおみずをあびて、高い、風あたりのよい所でていたなら、じきになおってしまうよ」
というのです。なんというかわいそうな悪戯いたずらをしたものでしょう。そうでなくてさえいたくていたくてたまらないのに、潮水しおみずをあびて風にかれたなら、いっそうひどくなるのはれたことです。しかしおろかなウサギはそんなことに気がつきません。教えられたとおりに正直しょうじきにやりましたから、たまりません。たちまちからだじゅうがピリピリとひどくいたみ出して、辛抱しんぼうができなくなっていていたのです。

 
 おなさけぶか大国主神おおくにぬしのかみは、そのわけをお聞きになりまして、
「それはとんでもないこと、さてさてかわいそうなことをしたものだ。はやく川水かわみずでそのしおをよくあらい落して、がまをほぐして、そこへまきらして、その上でころんでいよ」
と、お教えになりました。ウサギはそのとおりにしますと、がまからだじゅうについて、すっかり元の毛のとおりになりました。ウサギはたいそうよろこびまして、
「あなたはほんとうに、おなさけぶかいおかたでいらっしゃいます。あなたのおのぞみは、きっとかないます」
もうしました。
 ウサギのもうしたとおりに、そののち大国主神はだんだんおえらくなりまして、出雲いずもの地方をおしたがえになり、ほかの神々たちも国をゆずって、ついにお名前どおりの大きな国のぬしになられました。そして遠くこしの国へまでもおいでになって、高志こし沼河姫ぬながわひめをおきさきになさいました。これは大国主神が、こしの国をもおしたがえになって、その住民を同じ仲間なかまになさったことを語り伝えたものとみえます。

   八、出雲いずも大社おおやしろ


 出雲いずもの地方は大国主神おおくにぬしのかみのおちからによって、大国おおくにぬし」とお名前にばれるまでにかなり大きな国になりましたが、しかし、わが日本のうちには、ほかにもまだ小さい国がたくさんにありまして、おたがいにあらそいばかりしていたのです。それですから一般の人民の不幸ふこうは、一通ひととおりではありませんでした。これは前にももうしたとおり、すべてをひとまとめにしてこれをおさめるほどの、えらいものがいなかったためでありました。
 そこで天照あまてらす大神おおみかみは、いよいよ御孫おんまご瓊瓊杵尊ににぎのみことをこの国におくだしになって、これをやすい国としてたいらかにおおさめしめなさることになりましたが、それにはまずもって、大国主神の国をたてまつらしめなければなりません。これがために、三度まで使つかいをつかわしになりました。しかし、なにぶん大国主神の威勢いせいがさかんなものですから、使いの神もそのほうへついてしまって帰ってまいりませんでした。最後に武甕槌神たけみかづちのかみ経津主神ぬしのかみとがお使つかいに立ちました。武甕槌神はのちに常陸ひたち鹿島かしま神宮じんぐうに、また経津主神はのちに下総しもうさ香取かとり神宮に、それぞれ軍神いくさがみとしておまつりもうしたほどの武勇ぶゆうすぐれた神々でありましたから、大国主神の威勢いせいにもおそれず、よく利害りがいをおきになり、国を天孫てんそんにたてまつるようにとおさとしになりました。天孫とは瓊瓊杵尊ににぎのみこと御事おんこともうすのです。しかしこれは大国主神にとってはまことに重大な事件です。ご自身だけのお考えでは、おはからいかねになりました。そこでまずもって御子みこ事代主神ことしろぬしのかみのご意見をおいになりましたところが、このとき出雲いずも美保みほさきで、うおっておられました事代主神ことしろぬしのかみは、
「それはもちろん、大神おおみかみのおおせにしたがいますよう」
と、いさぎよくご同意もうげました。出雲の美保みほ神社は、ここでりをしておられました縁故えんこで、この事代主神をおまつりしてあるのです。
 かく事代主神がご賛成さんせいもうしたので、大国主神も今はご異存ごいぞんもなく、ひさしくおさめておられました国を天孫にさしあげましたが、事代主神の弟神おとうとがみ建御名方神たけみなかたのかみは、たいそう元気のさかんな神でありましたから、なかなかそれを承知しょうちいたしません。
「それなら大神のお使いの神たちと、力競ちからくらべをしてみよう」
もうしました。しかし建御名方神の力は、とても武甕槌神たけみかづちのかみにかないっこはありません。とうとう信濃しなの諏訪すわまでげて行って、そこでおそれりました。今の諏訪神社は、その土地にこの神をおまつりもうしたのです。

 
 大国主神おおくにぬしのかみは、いよいよその国をさしあげましたについて、杵築きずきみやにおきこもりになりました。これは今の出雲いずも大社おおやしろで、その御殿ごてんは天孫のご宮殿きゅうでんと同じようにおつくもうしたということであります。みことが大神のめいほうじて、いさぎよくその国をおさめることを天孫におまかせもうしあげましたので、天孫のほうからは、特別の尊敬そんけいをもってこれをご待遇たいぐうなされましたわけなのです。
 大国主神の国のほかにも前にももうしたとおり、わが国にはもとたくさんの小さい国がありました。しかしその中でも、いちばんごさかんな大国主神がいさぎよくその国をたてまつったものですから、そのほかの国々も、だんだんとわが皇室のご威光いこうにしたがいまして、わが大日本帝国はしだいに大きく、しだいにさかんになってまいりました。大国主神や事代主神ことしろぬしのかみのように、よくことがわかっていさぎよくその国をたてまつったものは、それぞれに相当のご待遇たいぐうをあたえられました。建御名方神たけみなかたのかみのごとく反抗したものは、やむをちからをもってこれをおしたがえにもなりましたが、それでも力がかなわないでおそれりますれば、やはり相当にご待遇たいぐうなされます。
 くりかえしてもうしますが、わが皇室のご先祖たちは、けっして乱暴に、前からいた国津神くにつかみの国をただ取り上げたり、わけもなくそれを殺したり虐待ぎゃくたいしたりなされたのではありません。豊葦原とよあしはら瑞穗みずほの国を、やすい国とたいらかにおおさめなされるためには、それらの小さい国々を一つにする必要がありますので、ご代々だいだいの天皇のご威徳いとくによって、近いところから順々に遠いところにまで、それらの国々をご併合へいごうなされたのです。そしてその国の人民は、みな幸福な日本やまと民族の仲間なかまになってしまったのです。

   九、天孫てんそん降臨こうりん三種さんしゅ神器じんぎ


 瓊瓊杵尊ににぎのみことは天照大神のお孫様まごさまであらせられますので、これを天孫てんそんもうげます。天照大神は、はじめ御子みこ天忍穂耳尊あめのおしほみみのみことをこの国におくだしになるお考えでありましたが、そのうちに天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことがお生まれになりましたので、みこと御父尊おんちちみことにかわってたくさんの神々をおしたがえになって、日向ひゅうがの国の高千穂たかちほみねにおくだりになりました。これを「天孫てんそん降臨こうりん」ともうします。
 天孫のご降臨なされるについて、天照大神は前にもうしたとおり、そのご子孫が天地あめつちのあらんかぎり、いつまでもいつまでも、この国の天皇となられますことをおさだめになりまして、三種さんしゅ神器じんぎ」をおさずけになりました。三種の神器とは、大神があま岩屋戸いわやとにおこもりになりましたときに、石凝姥命いしこりどめのみことがおつくりもうした八咫鏡やたのかがみと、玉祖命たまのおやのみことがおつくりもうした八坂瓊やさかにの曲玉まがたまと、素戔嗚尊が八岐やまたの大蛇おろちからてご献上けんじょうになった天叢雲剣あめのむらくものつるぎと、この三つの御宝器おたからです。
 この三種の神器のうちにも、八咫鏡やたのかがみ」は天照大神の御姿みすがたをおうつしになりました御鏡みかがみで、大神がこれをおさずけになりますときに、特に、
「この鏡は、わが御魂みたまとして、つねにわが前にあると思いてあがめたてまつれ」
とおおせになりました。それ以来この御鏡は、ご代々だいだいの天皇の御宮おみやの中で天照大神としておまつりもうげておりましたが、神武じんむ天皇からご十代目の、崇神すじん天皇の御代みよになりまして、つねにこれにちかづきたてまつって、つい大神のご威徳いとくをおけがしもうすようなことがあってはあいすまぬという深いお考えから、これを天皇のおみやからお出しもうげ、別に神のおみやをつくってそこにおまつりもうすことになりました。つぎの垂仁すいにん天皇の御代みよには、さらにそれを伊勢いせにおうつもうし、皇女こうじょ倭姫命やまとひめのみことがおつかもうげました。これが今の伊勢いせ皇大神宮こうだいじんぐうであります。
 叢雲剣むらくものつるぎ」もまた、はじめは御鏡みかがみといっしょに伊勢の神宮じんぐうにおまつりしたのでありましたが、これはのち景行けいこう天皇の皇子おうじ日本武尊やまとたけるのみこと東国とうごくしたがえにおかけなさいましたときに、御叔母おんおばさまの倭姫命やまとひめのみことが、みこと御身おんみまもりとしておさずけになり、みことはこれをもって草をいで野火のび危難きなんをおまぬがれになりましたので、それから「草薙剣くさなぎのつるぎ」ともうすことになりました。このことはまたのちにあらためてもうしましょう。しかるにこの草薙剣は、みことがお帰りの途中とちゅう尾張おわり熱田あつたにおきになったまま、ご病気にかかっておかくれになりましたので、そのままそこでおまつりもうすことになりました。今の熱田あつた神宮じんぐうがこれであります。
 崇神すじん天皇は、かく御鏡みかがみ御剣みつるぎとを宮中きゅうちゅうからお出しもうして、別におまつりもうすことになりましたので、はじめにこの御鏡をおつくりもうした石凝姥命いしこりどめのみことの子孫の人におめいじになって、あらたにかわりの御鏡をおつくらせになり、また天目一神あめのまひとつのかみという鍛冶かじの元祖の神の子孫におめいじになって、あらたにかわりの御剣をおつくらせになりました。この新しい御鏡と御剣とは、八坂瓊やさかにの曲玉まがたま」とともに、天皇の御位みくらいしるしとして、つねに御身おんみぢかくにおきになり、天皇の御代みよのかわるごとに、新しい天皇がお受けになりますこととなりました。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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日本歴史物語〈上〉(一)

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)兒童《じどう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一体|何《ど》うして

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)貞吉《ていきち》[#「ていきち」は底本のまま]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)遠《とほ》い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   兒童《じどう》たちへ
[#地から3字上げ]喜田《きた》貞吉《ていきち》[#「ていきち」は底本のまま]

 あなたがたはすでに小學校《しようがつこう》で、日本《につぽん》歴史《れきし》の教科書《きょうかしょ》で、一通《ひととほ》りの歴史《れきし》を學《まな》ばれたことでせう。そして私《わたくし》どものこの日本《につぽん》の國《くに》が、大昔《おほむかし》から、今日《こんにち》まで、どんな風《ふう》にうつりかはり、そこにどんな大《おほ》きな事件《じけん》があつたかといふようなことは、大體《だいたい》知《し》つてをられるでせう。私《わたくし》はそのあなたがたに、今一《いまひと》つ深入《ふかい》りして、私《わたくし》どものこの日本《につぽん》帝國《ていこく》は、一《いつ》たいどんな風《ふう》にして出來《でき》たものか、私《わたくし》どものこの日本《やまと》民族《みんぞく》は、一《いつ》たいどんなわけのものかといふようなことを、一《いつ》そう詳《くは》しく承知《しようち》してもらひたいのです。
 これまであなたがたの學《まな》ばれた歴史《れきし》は、大抵《たいてい》は、誰《たれ》が、いつ、どこで、どんなことをしたといふように、偉《えら》い人《ひと》のことをおもに述《の》べたものでした。それはもちろん、歴史《れきし》として大切《たいせつ》な事柄《ことがら》ではありますが、併《しか》し、そればかりが歴史《れきし》ではありません。日本《につぽん》の歴史《れきし》は、精《くは》しくいへば、日本《につぽん》帝國《ていこく》全體《ぜんたい》の歴史《れきし》、日本《やまと》民族《みんぞく》全體《ぜんたい》の歴史《れきし》でなければなりません。昔《むかし》の偉《えら》い人《ひと》たちは、それ/″\その時代《じだい》の歴史《れきし》の中心《ちゆうしん》になつてをりましても、その人《ひと》たちのことだけでは、日本《につぽん》の歴史《れきし》は十分《じゆうぶん》なものとはいはれません。それで私《わたくし》のこの古代史《こだいし》では、日本《につぽん》帝國《ていこく》の動《うご》き、日本《やまと》民族《みんぞく》の動《うご》きをおもに述《の》べまして、私《わたくし》ども日本《につぽん》帝國《ていこく》の臣民《しんみん》は、常《つね》にどんな心《こゝろ》がけでゐなければならぬかといふことを、あなたがたによく心得《こゝろえ》てもらひたい積《つも》りで、筆《ふで》を執《と》つて見《み》たのです。たとひその人《ひと》の名《な》がわからなくとも、その時《とき》や場所《ばしよ》がはっきりしなくとも、日本《につぽん》帝國《ていこく》なり、日本《やまと》民族《みんぞく》なりは、常《つね》に動《うご》いてゐるのです。そして今日《こんにち》の盛《さか》んな時代《じだい》となつて來《き》たのです。それをよく知《し》らなければ、日本《につぽん》歴史《れきし》を知《し》つたとはいはれません。しかしそんなことは、あるひはあなたがたの讀《よ》み物《もの》としては、ちとむづかし過《す》ぎて、わかりにくゝ、また面白《おもしろ》くないかも知《し》れません。そこはよく辛抱《しんぼう》して、わからぬところは父兄《ふけい》のかたなり、學校《がつこう》の先生《せんせい》がたなりにお尋《たづ》ねして、くりかへして讀《よ》んでもらひたいのです。



   目次《もくじ》
一、萬世《ばんせい》一系《いつけい》の天皇《てんのう》陛下《へいか》
二、日本《やまと》民族《みんぞく》(上)
三、日本《やまと》民族《みんぞく》(下)
四、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》
五、天《あま》の岩屋戸《いはやと》籠《ごも》り
六、八岐《やまた》の大蛇《をろち》退治《たいじ》
七、因幡《ゐなば》の白兎《しろうさぎ》
八、出雲《いづも》の大社《おほやしろ》
九、天孫《てんそん》降臨《こうりん》と三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》
十、山幸彦《やまさちびこ》と海幸彦《うみさちびこ》
十一、金鵄《きんし》の光《ひかり》
十二、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(一)
十三、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(二)
十四、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(三)
十五、熊襲《くまそ》と蝦夷《えぞ》(四)
十六、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》諸國《しよこく》の服屬《ふくぞく》
十七、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(一)
十八、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(二)
十九、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(三)
二十、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(四)
二十一、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(五)
二十二、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(六)
二十三、大臣《おほおみ》と大連《おほむらじ》
二十四、佛教《ぶつきよう》の傳來《でんらい》
二十五、聖徳《しようとく》太子《たいし》と文化《ぶんか》の進展《しんてん》(上)
二十六、聖徳《しようとく》太子《たいし》と文化《ぶんか》の進展《しんてん》(下)
二十七、大化《たいか》の新政《しんせい》(上)
二十八、大化《たいか》の新政《しんせい》(中)
二十九、大化《たいか》の新政《しんせい》(下)
三十、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》諸國《しよこく》の離反《りはん》
三十一、奈良《なら》の都《みやこ》(上)
三十二、奈良《なら》の都《みやこ》(下)
三十三、奈良朝《ならちよう》佛教《ぶつきよう》の隆盛《りゆうせい》(上)
三十四、奈良朝《ならちよう》佛教《ぶつきよう》の隆盛《りゆうせい》(下)
三十五、奈良《なら》時代《じだい》の行《ゆ》き詰《づま》り
三十六、平安《へいあん》遷都《せんと》
三十七、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(一)
三十八、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(二)
三十九、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(三)
四十、藤原氏《ふぢはらし》の全盛《ぜんせい》(四)
四十一、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(一)
四十二、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(二)
四十三、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(三)
四十四、地方《ちほう》政治《せいじ》の亂《みだ》れ(四)
四十五、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(一)
四十六、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(二)
四十七、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(三)
四十八、武士《ぶし》、僧兵《そうへい》、海賊《かいぞく》の起《おこ》り(四)
四十九、平安朝《へいあんちよう》の佛教《ぶつきよう》
五十、蝦夷地《えぞち》の經營《けいえい》
五十一、前九年《ぜんくねん》の役《えき》(一)
五十二、前九年《ぜんくねん》の役《えき》(二)
五十三、後三年《ごさんねん》の役《えき》
五十四、平泉《ひらいづみ》の隆盛《りゆうせい》
五十五、古代史《こだいし》の回顧《かいこ》



日本歴史物語(上)

裝幀・恩地孝四郎
口繪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫・小村雪岱


   一、萬世《ばんせい》一系《いつけい》の天皇《てんのう》陛下《へいか》

 世界《せかい》に國《くに》の數《かず》はたくさんありますが、私共《わたくしども》の住《す》んでゐるこの大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》のように、『萬世《ばんせい》一系《いつけい》』と申《まを》して、遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》から、いつまでも/\、同《おな》じ御血統《おんちすぢ》の天皇《てんのう》陛下《へいか》を上《うへ》にいたゞき奉《たてまつ》り、また『天壤《てんじよう》無窮《むきゆう》』と申《まを》して、天地《てんち》のあらん限《かぎ》り、いつまでも決《けつ》して變《かは》ることのないといふような、そんな名譽《めいよ》ある國《くに》は外《ほか》には一《ひと》つもありません。
 何分《なにぶん》廣《ひろ》い世界《せかい》のことですから、日本《につぽん》よりも早《はや》く開《ひら》けた所《ところ》もないではありません。しかしそこに出來《でき》た國《くに》も、あるひは起《おこ》つたり、あるひはつぶれたり、又《また》そこに住《す》んでゐる人間《にんげん》も入《い》れかはつたり致《いた》しまして、我《わ》が日本《につぽん》のように、初《はじ》めから決《けつ》して變《かは》らぬといふ國《くに》は、外《ほか》には一《ひと》つもないのです。ごく近《ちか》いころになつても、滅《ほろ》んだ國《くに》や、始《はじ》まつた國《くに》が、世界《せかい》にはたくさんあるのであります。そのように外《ほか》の國《くに》が、たび/\變《かは》つてゐる中《なか》にあつて、たゞひとりこの大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》ばかりは、何千《なんぜん》年前《ねんまへ》からだか、何萬《なんまん》年前《ねんまへ》からだか、とてもわからない程《ほど》の遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》から始《はじ》まつて、いつまでも/\、決《けつ》して變《かは》ることがないのです。この名譽《めいよ》ある國《くに》に生《うま》れた私共《わたくしども》は、なんといふ仕合《しあは》せなことでありませう。
 我《わ》が皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》で、初《はじ》めてこの國《くに》へおいでになりましたお方《かた》を、瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》と申《まを》し上《あ》げます。瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》が初《はじ》めてこの國《くに》へおいでになりました時《とき》に、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、
[#ここから1字下げ]
「この國《くに》は我《わ》が子孫《しそん》の君《きみ》たるべき地《ち》なり。汝《なんぢ》皇孫《こうそん》ゆいてをさめよ。皇位《みくらゐ》の盛《さか》んなること、天地《あめつち》と共《とも》にきはまりなかるべし」
[#ここで字下げ終わり]
と、おつしやいましたと、私共《わたくしども》大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》の國民《こくみん》は、先祖《せんぞ》以來《いらい》語《かた》り傳《つた》へて、堅《かた》く/\信《しん》じてゐるのであります。我《わ》が『萬世《ばんせい》一系《いつけい》天壤《てんじよう》無窮《むきゆう》』の皇室《こうしつ》は、こんな古《ふる》い時代《じだい》から始《はじ》まりまして、私共《わたくしども》日本《につぽん》の國民《こくみん》は、先祖《せんぞ》以來《いらい》この堅《かた》い/\心持《こゝろも》ちで、上下《しようか》心《こゝろ》を一《いつ》にして、この皇室《こうしつ》をうやまひ、この帝國《ていこく》を守《まも》り、これを盛《さか》んにし、共々《とも/″\》に幸福《こうふく》になることの爲《ため》につとめて參《まゐ》りました。私共《わたくしども》は、私共《わたくしども》の子孫《しそん》の末々《すゑ/″\》までも、さらにこの堅《かた》い/\心持《こゝろも》ちで、この名譽《めいよ》ある皇室《こうしつ》をうやまひ、この名譽《めいよ》ある帝國《ていこく》を守《まも》り、ます/\これを盛《さか》んにして、一層《いつそう》幸福《こうふく》になることにつとめねばなりません。それには、この國《くに》の尊《たふと》い歴史《れきし》を、よく/\心得《こゝろえ》て置《お》くことが、一番《いちばん》大切《たいせつ》なのであります。これから私《わたくし》は、皆《みな》さんが小學校《しようがつこう》の教科書《きようかしよ》で學《まな》んだところを本《もと》として、精《くは》しくこの國《くに》の起《おこ》りや、その後《ご》の移《うつ》り變《かは》りのことをお話《はな》し致《いた》しませう。

   二、日本《やまと》民族《みんぞく》(上)

 私共《わたくしども》この名譽《めいよ》ある大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》の人民《じんみん》は、これを『日本《やまと》民族《みんぞく》』と申《まを》します。日本《やまと》民族《みんぞく》は、皇室《こうしつ》すなはち、萬世《ばんせい》一系《いつけい》の天皇《てんのう》陛下《へいか》の御家《おいへ》を、總御本家《そうごほんけ》と上《うへ》に戴《いたゞ》いて、お互《たがひ》に一家《いつか》親類《しんるい》のような親《した》しみを持《も》つてゐるのであります。
 日本《やまと》民族《みんぞく》と申《まを》しても、大昔《おほむかし》からたゞ一《ひと》つの血統《ちすぢ》が、雜《まじ》りけなしに、今日《けふ》までそのまゝ續《つゞ》いてゐると申《まを》すのではありません。又《また》皇室《こうしつ》を總御本家《そうごほんけ》と仰《あふ》ぎ奉《たてまつ》ると申《まを》しても、すべての人民《じんみん》が、皆《みな》皇室《こうしつ》から分《わか》れ出《で》たと申《まを》すのでもありません。皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》の瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》が、この國《くに》へおいでになりました時《とき》にも、すでにこの國《くに》には、たくさんの人間《にんげん》が住《す》んでゐたのです。そして皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》は、外國《がいこく》でよく見《み》るように、その前《まへ》からゐるたくさんの人間《にんげん》を、あるひは殺《ころ》したり、あるひは追《お》ひ出《だ》したりして、その國《くに》をお取《と》りになつたのではありません。前《まへ》から住《す》んでゐた人間《にんげん》を、いたはり、いつくしみ、教《をし》へ、導《みちび》いて、皆《みな》そのお仲間《なかま》にしておしまひになつたのです。
 皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》は、なんの爲《ため》にこの國《くに》にお出《い》でになつたのでありませう。天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、なんの爲《ため》に、「この國《くに》は我《わ》が子孫《しそん》の君《きみ》たるべき地《ち》なり」とお定《さだ》めになつたのでありませう。
 瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》は、「豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安國《やすくに》と平《たひら》けく治《しろ》しめせ」といふ、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御命令《ごめいれい》を受《う》けて、この國《くに》へおいでになつたのだと申《まを》し傳《つた》へてをります。『豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》』とは、我《わ》が日本《につぽん》のことです。我《わ》が日本《につぽん》の國《くに》には、水《みづ》がかりのよい平地《へいち》が多《おほ》くて、葦《あし》がよく繁《しげ》つてをりました。又《また》それを田地《でんじ》にして、稻《いね》を植《う》ゑますと、稻《いね》の穗《ほ》がよくみのりますから、それで豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》といつたのです。又《また》『治《しろ》しめす』とは、お治《をさ》めになるといふことで、その豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》として、平《たひら》かにお治《をさ》めになるようにと申《まを》すのが、瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》のこの國《くに》においでになりました御目的《ごもくてき》でありました。ですから、前《まへ》から住《す》んでゐる人々《ひと/″\》を、お苦《くる》しめになる筈《はず》は決《けつ》してありません。これをいたはり、これをいつくしみ、これを教《をし》へ、これを導《みちび》いて、皆《みな》同《おな》じお仲間《なかま》になさつたのは、このありがたい天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御命令《ごめいれい》に從《したが》つて、人民《じんみん》を幸福《こうふく》にしてやらうとの、尊《たふと》いおぼしめしからであつたのです。
 瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》のおいでにならぬ前《まへ》から、この日本《につぽん》の土地《とち》に住《す》んでをつたたくさんの人々《ひと/″\》は、まことに氣《き》の毒《どく》なありさまでありました。人間《にんげん》の數《かず》は多《おほ》くても、それを一《ひと》つにして、安《やす》い國《くに》と、平《たひら》かに治《をさ》める程《ほど》のものが、まだどこにもなかつたのです。もちろんその中《なか》には、後《のち》に精《くは》しくお話《はな》し致《いた》しますが、大國主神《おほくにぬしのかみ》と申《まを》すお方《かた》が、そのお名前《なまへ》の通《とほ》りに、大《おほ》きな國《くに》の主《ぬし》となられて、人民《じんみん》を治《をさ》めてをられましたけれども、それも日本《につぽん》全體《ぜんたい》からいへば、ほんの一部分《いちぶぶん》に過《す》ぎなかつたのです。その外《ほか》の地方《ちほう》では、強《つよ》いものがそのあたりの人々《ひと/″\》を從《したが》へて、お互《たがひ》に爭《あらそ》ひばかりして、世《よ》の中《なか》は一向《いつこう》開《ひら》けず、大體《だいたい》から申《まを》すと、すべての人《ひと》が、まことに氣《き》の毒《どく》なありさまであつたのです。
 そこへ皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》はおいでになりました。そして天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御命令《ごめいれい》通《どほ》りに、それをだん/\と安《やす》い國《くに》として、平《たひら》かにお治《をさ》めになりました。それから後《のち》も御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》は、その御精神《ごせいしん》をおつぎになりまして、次第《しだい》に遠方《えんぽう》のものをもお從《したが》へになり、前《まへ》から住《す》んでをつた人々《ひと/″\》は、皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》のお供《とも》をしてこの國《くに》に來《き》たものと、みんな一《ひと》つになつてしまつて、私共《わたくしども》日本《やまと》民族《みんぞく》といふものが出來《でき》たのです。
 皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》がおいでになりました後《のち》にも、外國《がいこく》からこの國《くに》のよいことを聞《き》きまして、移住《いじゆう》して來《き》たものがたくさんあります。しかし日本《やまと》民族《みんぞく》は、それらの人々《ひと/″\》をも、別《べつ》に除《の》け者《もの》にすることなく、皆《みな》同《おな》じ仲間《なかま》にしてしまひました。

   三、日本《やまと》民族《みんぞく》(下)

 このようにして我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》は出來上《できあが》つたのです。そして天皇《てんのう》の御徳《おんとく》が遠《とほ》くにまで行《ゆ》き渡《わた》り、日本《につぽん》帝國《ていこく》が廣《ひろ》くなればなる程《ほど》、日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》は殖《ふ》えて參《まゐ》ります。日本《やまと》民族《みんぞく》は、今《いま》も外國《がいこく》ではよく見《み》るように、自分《じぶん》と違《ちが》つた仲間《なかま》を、いつまでも除《の》け者《もの》にするようなことは、決《けつ》してありませんでした。日本《につぽん》帝國《ていこく》の中《なか》に住《す》んだものは、いつの間《ま》にか、皆《みな》同《おな》じ仲間《なかま》にしてしまひました。もとは違《ちが》つたものであつても、ながく一《いつ》しよに住《す》んでゐるうちには、皆《みな》同《おな》じ言葉《ことば》を使《つか》ひ、同《おな》じ心持《こゝろも》ちになり、同《おな》じ風俗《ふうぞく》をして、同《おな》じ日本《やまと》民族《みんぞく》になつてしまつたのです。例《たと》へば一《ひと》つの家庭《かてい》のうちで、お母《かあ》さんは外《ほか》の家《いへ》からお嫁《よめ》に來《き》た人《ひと》、お祖父《ぢい》さんは外《ほか》の家《いへ》から養子《ようし》に來《き》た人《ひと》であつても、その家《いへ》の人《ひと》になれば、皆《みな》同《おな》じ親《した》しい家族《かぞく》になつてしまふようなものです。
 同《おな》じ仲間《なかま》になつた日本《やまと》民族《みんぞく》は、たゞ同《おな》じ言葉《ことば》を使《つか》ひ、同《おな》じ心持《こゝろも》ちになり、同《おな》じ風俗《ふうぞく》をしてゐるといふばかりでなく、實際《じつさい》は皆《みな》親類《しんるい》になつてしまつて、すべての日本《やまと》民族《みんぞく》には、皆《みな》同《おな》じ血《ち》が流《なが》れてゐるのです。
 その一《ひと》つの例《れい》として、皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》の事《こと》を申《まを》し上《あ》げるのは、まことに恐《おそ》れ多《おほ》い次第《しだい》ではありますが、瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》がこの國《くに》へおいでになりまして、お妃《きさき》にお迎《むか》へになりましたのは、木花開耶姫《このはなさくやひめ》と申《まを》して、前《まへ》からこの國《くに》にをられたお方《かた》でありました。そしてその間《あひだ》にお生《うま》れになりましたのが、彦火火出見尊《ひこほゝでみのみこと》で、そのお妃《きさき》の豐玉姫《とよたまひめ》は、やはり前《まへ》からこの國《くに》にをられたお方《かた》です。次《つ》ぎの鵜草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》のお妃《きさき》の玉依姫《たまよりひめ》も、また同《おな》じく前《まへ》からこの國《くに》にをられましたお方《かた》で、この鵜草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》と、お妃《きさき》の玉依姫《たまよりひめ》との間《あひだ》にお生《うま》れになりましたのが、我《わ》が國《くに》の天皇《てんのう》として、第一代《だいいちだい》の神武《じんむ》天皇《てんのう》であらせられます。その神武《じんむ》天皇《てんのう》も、御位《みくらゐ》に即《つ》かれましてから、やはり前《まへ》からをられた、事代主神《ことしろぬしのかみ》のお娘《むすめ》を、皇后《こうごう》にお迎《むか》へになりました。その次《つ》ぎの綏靖《すいぜい》天皇《てんのう》も、またその次《つ》ぎの安寧《あんねい》天皇《てんのう》も、皇后《こうごう》は皆《みな》同《おな》じように、前《まへ》からこの國《くに》にをられたお方々《かた/″\》でありました。
 日本《につぽん》の古《ふる》い語《かた》り傳《つた》へでは、日本人《につぽんじん》の先祖《せんぞ》は『神《かみ》』であり、その神々《かみ/″\》の『時代《じだい》』を『神代《かみよ》』と申《まを》します。そして瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》は高天原《たかまがはら》からこの國《くに》においでになりましたので、その高天原《たかまがはら》の神々《かみ/″\》を、『天津神《あまつかみ》』と申《まを》し、尊《みこと》のおいでになる前《まへ》から、この國《くに》にをられた神々《かみ/″\》を、『國津神《くにつかみ》』と申《まを》しますが、その天津神《あまつかみ》と國津神《くにつかみ》との關係《かんけい》は、天津神《あまつかみ》は夫《をつと》であり、國津神《くにつかみ》は妻《つま》であり、天津神《あまつかみ》は父《ちゝ》であり、國津神《くにつかみ》は母《はゝ》であるといふ、最《もつと》もお親《した》しい間柄《あひだがら》になつてゐるのです。
 こんな工合《ぐあひ》に、我《わ》が皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》たちは、前《まへ》からこの國《くに》に住《す》んでをられたお方々《かた/″\》と、御代々《ごだい/\》御結婚《ごけつこん》を遊《あそ》ばされたのでありましたが、瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》にお供《とも》をして、一《いつ》しよにこの國《くに》に來《き》ましたものも、やはり同《おな》じように、あれは前《まへ》からこの國《くに》にゐたものだからの、これは後《のち》に外國《がいこく》から移住《いじゆう》して來《き》たものだからのなどといつて、それらの人々《ひと/″\》を、除《の》け者《もの》にするような事《こと》はなく、お互《たがひ》に仲《なか》よくし、お互《たがひ》に結婚《けつこん》もしまして、長《なが》い間《あひだ》には、皆《みな》親類《しんるい》同士《どうし》の間柄《あひだがら》になり、たとひ多《おほ》いか少《すくな》いかの違《ちが》ひはありましても、ともかくすべての日本《やまと》民族《みんぞく》には、みな同《おな》じ血《ち》が流《なが》れるようになつてしまつたのです。
 それは私共《わたくしども》が、私共《わたくしども》の先祖《せんぞ》の事《こと》を考《かんが》へて見《み》れば、よく合點《がつてん》が行《ゆ》きませう。私共《わたくしども》には皆《みな》二人《ふたり》づゝの親《おや》があり。[#句点は底本のまま]その二人《ふたり》の親《おや》には、また二人《ふたり》づゝの親《おや》がありまして、つまりお祖父《ぢい》さんが二人《ふたり》、お祖母《ばあ》さんが二人《ふたり》と、二代前《にだいまへ》には四人《よにん》づゝの親《おや》があるわけです。そしてその四人《よにん》の親《おや》には、また二人《ふたり》づゝの親《おや》がありますから、三代前《さんだいまへ》には八人《はちにん》、四代前《よだいまへ》には十六人《じゆうろくにん》、五代前《ごだいまへ》には三十二人《さんじゆうににん》、六代前《ろくだいまへ》には六十四人《ろくじゆうよにん》と、一代《いちだい》ごとに親《おや》の數《かず》が二倍《にばい》になります。そして十代前《じゆうだいまへ》には千二十四人《せんにじゆうよにん》の親《おや》があり、十五代前《じゆうごだいまへ》には三萬二千《さんまんにせん》七百《しちひやく》六十八人《ろくじゆうはちにん》の親《おや》があり、二十代前《にじゆうだいまへ》には、百四萬《ひやくよまん》八千五百《はつせんごひやく》七十六人《しちじゆうろくにん》の親《おや》があつたわけです。もちろん、そのうちには、親類《しんるい》同士《どうし》が夫婦《ふうふ》になつたものもありませうから、この勘定《かんじよう》通《どほ》りには參《まい》りませんが、まあこんな風《ふう》に、三十代《さんじゆうだい》、四十代《しじゆうだい》、五十代《ごじゆうだい》と、遠《とほ》い/\昔《むかし》のことをたづねて見《み》ましたならば、とても口《くち》ではいへない程《ほど》のたくさんの先祖《せんぞ》があつたわけで、それらのたくさんの人々《ひと/″\》の血《ち》が、皆《みな》この私共《わたくしども》の身體《しんたい》の中《なか》を流《なが》れてゐる筈《はず》なのであります。
 かう考《かんが》へて見《み》ますと、すべての日本《やまと》民族《みんぞく》は、みな遠《とほ》いか、近《ちか》いか、親類《しんるい》同士《どうし》の間柄《あひだがら》であり、すべての日本人《につぽんじん》には、多《おほ》いか、少《すくな》いか、皆《みな》同《おな》じ血《ち》が流《なが》れてゐるわけでありまして、恐《おそ》れ多《おほ》くも上《うへ》に萬世《ばんせい》一系《いつけい》の皇室《こうしつ》を、その總御本家《そうごほんけ》といたゞき奉《たてまつ》り、みんなが一家《いつか》一族《いちぞく》の親《した》しみを持《も》つてゐるといふことが、よくわかつて來《く》るでありませう。
 よく世間《せけん》では、源氏《げんじ》の先祖《せんぞ》は清和《せいわ》天皇《てんのう》だ、藤原氏《ふぢはらし》の先祖《せんぞ》は大織冠《だいしよくかん》鎌足《かまたり》だ。[#句点は底本のまま]誰《たれ》の先祖《せんぞ》は何《なに》の某《なにがし》だなどと申《まを》しまして、先祖《せんぞ》は一人《ひとり》しかないものゝように思《おも》ひ、家柄《いへがら》が違《ちが》へば、先祖《せんぞ》が違《ちが》ふようにいひますが、それはたゞ、男親《をとこおや》の方《ほう》だけのことを見《み》ていつたので、人間《にんげん》がみな兩親《りようしん》の血《ち》をうけて生《うま》れたことを、忘《わす》れてしまつてゐるのです。それで、もし私共《わたくしども》の、遠《とほ》い遠《とほ》い先祖《せんぞ》の血統《けつとう》を尋《たづ》ねて見《み》ましたならば、昔《むかし》の人《ひと》は大抵《たいてい》、今《いま》の日本人《につぽんじん》のお互《たがひ》の先祖《せんぞ》と申《まを》してよいのであります。恐《おそ》れ多《おほ》いことを申《まを》すようではありますが、皇室《こうしつ》の御方々《おんかた/″\》のお體《からだ》に流《なが》れてをります血《ち》も、私共《わたくしども》一般《いつぱん》日本《につぽん》臣民《しんみん》の身體《しんたい》に流《なが》れてをります血《ち》も、皆《みな》同《おな》じ日本《やまと》民族《みんぞく》の血《ち》でありまして、皇室《こうしつ》もまた私共《わたくしども》日本《につぽん》臣民《しんみん》と、遠《とほ》いか近《ちか》いかの親類《しんるい》關係《かんけい》にあらせられると、申《まを》し上《あ》げましてよろしいのであります。
 これから私《わたくし》は、それならばどんな風《ふう》にして、我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》が出來上《できあが》つたか、どんな風《ふう》にして、我《わ》が日本《につぽん》の國《くに》は盛《さか》んになつたか、だん/\とそのお話《はなし》を致《いた》しませう。

   四、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》

 我《わ》が皇室《こうしつ》の一番《いちばん》遠《とほ》い御先祖《ごせんぞ》を、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》と申《まを》し上《あ》げます。この國《くに》へ初《はじ》めておいでになりました瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》は、この天照《あまてらす》大神《おほみかみ》のお孫樣《まごさま》であらせられるのです。
 何分《なにぶん》にも遠《とほ》い/\大昔《おほむかし》のことでありますから、今日《こんにち》から精《くは》しいことはとてもわかりかねますが、私共《わたくしども》の先祖《せんぞ》たちは、日本《につぽん》の大昔《おほむかし》は神代《かみよ》であり、私共《わたくしども》日本人《につぽんじん》の遠《とほ》い先祖《せんぞ》は神《かみ》であつたと語《かた》り傳《つた》へてをります。そしてその神々《かみ/″\》の數《かず》が大層《たいそう》多《おほ》いので、ひっくるめて、それを八百萬神《やほよろづのかみ》などと申《まを》します。もつとも今日《こんにち》神《かみ》としてお祭《まつ》りしてをるのは、この神代《かみよ》の神々《かみ/″\》たちばかりではありません。後《のち》の時代《じだい》の人々《ひと/″\》でも、徳《とく》が高《たか》く、功《こう》が多《おほ》かつたものは、やはり神《かみ》としてお祭《まつ》りするのでありますが、その多《おほ》くの神々《かみ/″\》の中《なか》でも、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は一番《いちばん》尊《たふと》い神《かみ》であらせられます。
 私共《わたくしども》の先祖《せんぞ》たちは、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》のお國《くに》を、高天原《たかまがはら》と申《まを》して、大空《おほぞら》にある國《くに》であり、また大神《おほみかみ》を、日《ひ》の神《かみ》であらせられると語《かた》り傳《つた》へてをります。毎日《まいにち》々々《/\》天《てん》から日《ひ》が照《て》らしてくれますがために、動物《どうぶつ》も、植物《しよくぶつ》も、皆《みな》育《そだ》つことが出來《でき》るのです。天照《あまてらす》大神《おほみかみ》のお徳《とく》によつて、この名譽《めいよ》ある日本《につぽん》の國《くに》も始《はじ》まり、すべてのものが幸福《こうふく》に、暮《く》らして行《ゆ》くことが出來《でき》るのだと、私共《わたくしども》は先祖《せんぞ》以來《いらい》、堅《かた》く/\信《しん》じて、これをうやまひ奉《たてまつ》つてゐるのです。
 この神代《かみよ》のことについて、私共《わたくしども》の先祖《せんぞ》たちは、かういふ風《ふう》に語《かた》り傳《つた》へてをりました。
 昔《むかし》、昔《むかし》、大昔《おほむかし》に、伊奘諾神《いざなぎのかみ》、伊奘冉神《いざなみのかみ》と申《まを》される、お二方《ふたかた》の神《かみ》がありました。日本《につぽん》の國《くに》も、その國《くに》にゐる山《やま》の神《かみ》も、海《うみ》の神《かみ》も、木《き》の神《かみ》も、草《くさ》の神《かみ》も、風《かぜ》の神《かみ》も、火《ひ》の神《かみ》も、あらゆる神々《かみ/″\》、皆《みな》このお二方《ふたかた》の神《かみ》がお生《う》みになつたと申《まを》すのです。そして天照《あまてらす》大神《おほみかみ》もまた、このお二方《ふたかた》の神《かみ》のお子樣《こさま》として、お生《うま》れになりましたと申《まを》し傳《つた》へてゐるのであります。
 ところが、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、外《ほか》の神々《かみ/″\》たちよりも、殊《こと》に尊《たつと》い神《かみ》であらせられまして、そのお光《ひかり》が、世《よ》の中《なか》を照《て》らし輝《かゞや》くといふような、極《きは》めてお徳《とく》のお高《たか》いお方《かた》でありましたから、親神《おやがみ》たちはこれを高天原《たかまがはら》へお送《おく》り申《まを》して、その國《くに》をお治《をさ》めになるようにと、お定《さだ》めになりましたのだと申《まを》し傳《つた》へてをります。

   五、天《あま》の岩屋戸《いはやと》籠《ごも》り

 天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御弟樣《おんおとうとさま》に、素戔嗚尊《すさのをのみこと》と申《まを》されるお方《かた》がありました。お小《ちひ》さい時《とき》から、大《たい》そう御元氣《ごげんき》のおよろしい、惡戯好《いたづらず》きのお方《かた》でありまして、たび/\大神《おほみかみ》に御迷惑《ごめいわく》をおかけになりました。しかし大神《おほみかみ》は、いつもそれを大目《おほめ》に御覽《ごらん》になりまして一向《いつこう》お咎《とが》めなさいませんでした。大神《おほみかみ》が水田《みづた》をおつくりになりますと、その田《た》の畔《あぜ》を切《き》り離《はな》して、田《た》の水《みづ》を流《なが》してしまつたり、用水《ようすい》の溝《みぞ》を埋《う》めて、水《みづ》を通《とほ》らなくしたりなさいます。しかし大神《おほみかみ》は、それをお咎《とが》めにならないで、
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「あれは大方《おほかた》、畔《あぜ》や溝《みぞ》のために、大事《だいじ》の地面《じめん》をつぶすのが惜《を》しいと思《おも》つて、それであんなことをしたのであらう」
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と、おつしやいます。大神《おほみかみ》がお食事《しよくじ》を遊《あそ》ばしていらつしやいますと、そこへ穢《きたな》いものを出《だ》して、お困《こま》らせになります。それでも大神《おほみかみ》は、
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「あれは大方《おほかた》酒《さけ》に醉《よ》うて、ついきたないものを吐《は》いたのであらう」
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と、おつしやいまして、やはりお咎《とが》めになりません。しかし素戔嗚尊《すさのをのみこと》のお惡戯《いたづら》は、ますますひどくなりました。大神《おほみかみ》が機《はた》をお織《お》らせになつてゐられました時《とき》に、尊《みこと》は馬《うま》の皮《かは》をむいて、赤裸《あかはだか》になつたのを、家根《やね》をこはしてその中《なか》へ追《お》ひ込《こ》まれました。それを見《み》た機織《はたお》り女《め》はびっくりして、とう/\死《し》んでしまひました。これにはさすがの大神《おほみかみ》も、もう御辛抱《ごしんぼう》がお出來《でき》にならなくなりまして、天《あま》の岩屋《いはや》にお籠《こも》りになり、岩戸《いはと》を閉《し》めて隱《かく》れておしまひになりました。
 さあ大變《たいへん》です。日《ひ》の神樣《かみさま》がお姿《すがた》をお隱《かく》しになつたのですから、世《よ》の中《なか》は眞暗闇《まつくらやみ》です。岩戸《いはと》を堅《かた》く閉《し》めておいでになりますから、いつまでたつても夜《よ》の明《あ》けっこがありません。何《なに》をするにも松明《たいまつ》の明《あか》りがいるようになりました。惡《わる》い神々《かみ/″\》は、時《とき》を得《え》たりと勝手《かつて》なわがまま[#「わがまま」に傍点]を致《いた》します。八百萬《やほよろづ》の神々《かみ/″\》たちも、これにはひどく困《こま》りまして、どうかして大神《おほみかみ》に、岩戸《いはと》から出《で》ていたゞきますようにと、皆《みんな》集《あつま》つて相談《そうだん》を致《いた》しました。しかし何分《なにぶん》にも大神《おほみかみ》が、ひどくお懲《こ》りになつてをられるのでありますから、これはたゞお願《ねが》ひ申《まを》しただけでは、とてもお出《で》ましにはなりますまい。恐《おそ》れ多《おほ》いことではあるが、一《ひと》つ大神《おほみかみ》をお欺《だま》し申《まを》して、出《で》ていたゞくより外《ほか》はないと、相談《そうだん》が一決《いつけつ》しました。
 そこで先《ま》づ常世《とこよ》の長鳴《ながな》き鳥《どり》といふ鷄《とり》を集《あつ》めます。石凝姥命《いしこりどめのみこと》に八咫鏡《やたのかゞみ》を作《つく》らせます。玉祖命《たまのおやのみこと》に八坂瓊《やさかにの》曲玉《まがたま》を作《つく》らせます。八咫鏡《やたのかゞみ》とは大《おほ》きな鏡《かゞみ》と申《まを》すこと、八坂瓊《やさかにの》曲玉《まがたま》とは、いろ/\の玉《たま》をたくさん長《なが》い緒《を》に通《とほ》したものゝことです。その鏡《かゞみ》と玉《たま》とを、青《あを》や白《しろ》の布《きれ》と共《とも》に榊《さかき》の枝《えだ》にかけて、忌部氏《いんべうぢ》の先祖《せんぞ》の太玉命《ふとだまのみこと》が、それを持《も》つて岩戸《いはと》の前《まへ》に立《た》ちます。中臣氏《なかとみうぢ》の先祖《せんぞ》の天兒屋命《あめのこやねのみこと》が、お出《で》ましを願《ねが》ふ役《やく》をつとめます。力《ちから》の強《つよ》い手力男神《たぢからをのかみ》が、岩戸《いはと》の蔭《かげ》に隱《かく》れて、いざといはゞ、すぐに戸《と》をあけて、大神《おほみかみ》をお出《だ》し申《まを》す手筈《てはず》です。用意《ようい》がいよいよ出來《でき》たところで、岩戸《いはと》の前《まへ》で庭火《にはび》をあか/\と焚《た》き、滑稽《こつけい》な鈿女命《うづめのみこと》が、ふざけた身振《みぶ》りをして、踊《をどり》を踊《をど》りましたので、これまで大神《おほみかみ》のお出《で》ましがないために、ひどく悲《かな》しんでゐた八百萬《やほよろづ》の神々《かみ/″\》たちも、これには思《おも》はず大笑《おほわら》ひに笑《わら》はされました。庭火《にはび》で明《あか》るくなつたので、集《あつ》めたたくさんの鷄《とり》も、一度《いちど》にこっけっこー[#「こっけっこー」に傍点]と鳴《な》きました。
 天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、岩戸《いはと》の中《なか》でそれをお聞《き》きになりまして、大《たい》そう不思議《ふしぎ》にお思《おも》ひになりました。御自分《ごじぶん》が天《あま》の岩戸《いはと》にお籠《こも》りになりましたので、世《よ》の中《なか》は眞暗闇《まつくらやみ》になり、八百萬《やほよろづ》の神々《かみ/″\》たちも、定《さだ》めて悲《かな》しんでゐることであらうとおぼしめされましたのに、これは又《また》どうしたことか、岩戸《いはと》の外《そと》では大《たい》そう面白《おもしろ》そうに、賑《にぎ》やかに騷《さわ》いでをるではありませんか。これは變《へん》だなと大神《おほみかみ》は、少《すこ》し岩戸《いはと》を細目《ほそめ》にあけて御覽《ごらん》になりますと、外《そと》は明《あか》るく、鷄《とり》は鳴《な》く、まるで夜《よ》が明《あ》けたようです。悲《かな》しんでゐる筈《はず》の八百萬《やほよろづ》の神々《かみ/″\》たちは、いかにも嬉《うれ》しそうに、大笑《おほわら》ひをしてをります。
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「これは一體《いつたい》どうしたことだ」
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と、鈿女命《うづめのみこと》にお聞《き》きになりますと、鈿女命《うづめのみこと》は、
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「大神《おほみかみ》よりも貴《たふと》い神《かみ》がおいでになりましたから、皆《みな》樂《たの》しく笑《わら》うてゐるのでございます」
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と、お答《こた》へ申《まを》し上《あ》げました。それと同時《どうじ》に天兒屋命《あめのこやねのみこと》と太玉命《ふとだまのみこと》とが、
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「これが大神《おほみかみ》よりも貴《たつと》い神《かみ》でございます」
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と、かねて用意《ようい》の八咫鏡《やたのかゞみ》をさし出《だ》して、お目《め》にかけました。ところがその鏡《かゞみ》が、大神《おほみかみ》のお光《ひかり》に照《て》らされて、別《べつ》の日《ひ》の神《かみ》が現《あらは》れでもしたように、きら/\と光《ひか》り輝《かゞや》きました。
 大神《おほみかみ》はいよ/\不思議《ふしぎ》に思《おぼ》し召《め》されて、少《すこ》しばかり岩戸《いはと》からお出《で》ましになりました。今《いま》こそと手力男神《たぢからをのかみ》は、御手《おんて》を取《と》つて外《そと》へお出《だ》し申《まを》し、天兒屋命《あめのこやねのみこと》と太玉命《ふとだまのみこと》とは、早速《さつそく》後《うしろ》へ七五三繩《しめなは》を張《は》つて、再《ふたゝ》びおはひりになりませぬようにと、お願《ねが》ひ申《まを》し上《あ》げました。これから世《よ》の中《なか》は再《ふたゝ》び明《あか》るくなり、八百萬《やほよろづ》の神々《かみ/″\》たちも、ほんとうに心《こゝろ》から、手《て》を拍《う》ち、聲《こゑ》をあげて、喜《よろこ》びましたと申《まを》します。

   六、八岐《やまた》の大蛇《をろち》退治《たいじ》

 天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の、天《あま》の岩屋戸《いはやと》籠《ごも》り遊《あそ》ばされましたのも、つまりは素戔嗚尊《すさのをのみこと》のお惡戯《いたづら》が、あまりにおひどかつた爲《ため》であつたので、大神《おほみかみ》のお出《で》ましをお願《ねが》ひ申《まを》した後《あと》で、八百萬《やほよろづ》の神々《かみ/″\》たちは、共々《とも/″\》に相談《そうだん》して、尊《みこと》を高天原《たかまがはら》から追《お》ひ出《だ》してしまひました。
 素戔嗚尊《すさのをのみこと》も、もと/\御自分《ごじぶん》がお惡《わる》かつたのですから、今更《いまさら》なんとも致《いた》し方《かた》がありません。高天原《たかまがはら》から出《で》て來《こ》られまして、とぼ/\と出雲《いづも》の國《くに》の、簸《ひ》の川《かは》の川上《かはかみ》までおいでになりました。そこはひどい山《やま》の奧《おく》で、とても人間《にんげん》などのゐそうな所《ところ》ではありません。それだのにその川上《かはかみ》から、箸《はし》が流《なが》れてまゐります。猿《さる》や熊《くま》では箸《はし》を使《つか》つて物《もの》をたべる筈《はず》はありません。さてはまだこの山奧《やまおく》にも、人間《にんげん》が住《す》んでゐるのだなと、尊《みこと》はだん/\尋《たづ》ねてお登《のぼ》りになりますと、そこには果《はた》して老人《としより》夫婦《ふうふ》が、一人《ひとり》の少女《をとめ》を間《あひだ》に置《お》いて、泣《な》いてゐるではありませんか。
 「お前《まへ》たちは一體《いつたい》どうしたといふのだ」
尊《みこと》はお尋《たづ》ねになりました。
 「私《わたくし》どもは古《ふる》くから、こゝに住《す》んでをりますもので、私《わたくし》の名《な》は手名椎《てなづち》、妻《つま》の名《な》は足名椎《あしなづち》[#「私《わたくし》の名《な》は手名椎《てなづち》、妻《つま》の名《な》は足名椎《あしなづち》」この部分、底本のまま]、娘《むすめ》の名《な》は奇稻田姫《くしいなだひめ》と申《まを》します。私《わたくし》どもには、外《ほか》にもたくさんの娘《むすめ》がありましたが、外《ほか》の娘《むすめ》どもは皆《みな》、高志《こし》の八岐《やまた》の大蛇《をろち》に取《と》られまして、今《いま》ではこの娘《むすめ》一人《ひとり》になりました。それも今《いま》は取《と》られる頃《ころ》となりましたので、どうにも仕樣《しよう》がなく、悲《かな》しんでゐるのでございます」
と、老人《としより》は答《こた》へました。
 「それはさて/\氣《き》の毒《どく》なことぢや」
と、もと/\元氣《げんき》のすぐれた、又《また》あはれみ深《ふか》い御性質《ごせいしつ》のお方《かた》でありましたから、素戔嗚尊《すさのをのみこと》は、早速《さつそく》その大蛇《をろち》を退治《たいじ》して、人民《じんみん》の難儀《なんぎ》を救《すく》つてやらうと、御決心《ごけつしん》になりました。
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 しかし何分《なにぶん》にも、頭《あたま》が八《やつ》つ、尾《を》が八《やつ》つに分《わか》れて、その長《なが》さが、山々《やま/\》から、谷々《たに/″\》に渡《わた》つてゐるといふほどの、恐《おそ》ろしい大蛇《だいじや》のことでありますから、退治《たいじ》するといつても、容易《ようい》なことではありません。計略《けいりやく》をもつて殺《ころ》すがよいとのお考《かんが》へで、よい酒《さけ》をたくさん作《つく》つて、大蛇《をろち》の來《く》る頃《ころ》を見計《みはか》らつて、それを勝手《かつて》に飮《の》むようにと、用意《ようい》して置《お》きました。
 そんな恐《おそ》ろしい計略《けいりやく》があるとは知《し》らぬ、酒《さけ》ずきの大蛇《をろち》は、これは御馳走《ごちそう》と、すきなだけその酒《さけ》を飮《の》んだものですからたまりません。奇稻田姫《くしいなだひめ》のことなども、つい忘《わす》れてしまつて、よい心地《こゝち》になつて眠《ねむ》つてしまひました。それを見《み》すまして素戔嗚尊《すさのをのみこと》は、お腰《こし》の十握劒《とつかのつるぎ》を拔《ぬ》いて、大蛇《をろち》をずた/\にお切《き》りになりました。さすがの大蛇《をろち》も、これでは一《ひと》たまりもありません。もろくもそのまゝ死《し》んでしまひました。
 尊《みこと》が大蛇《をろち》をお切《き》りになつた時《とき》に、その尻尾《しつぽ》から一《ひと》ふりの劒《つるぎ》が出《で》て來《き》ました。これは尊《たつと》いものだと、それを天照《あまてらす》大神《おほみかみ》に御獻上《ごけんじよう》になりました。これを天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》と申《まを》します。大蛇《をろち》のゐる所《ところ》には、いつも雲《くも》がむらがり立《た》つてをりましたから、それでさう申《まを》すのです。
 この八岐《やまた》の大蛇《をろち》は、高志《こし》の八岐《やまた》の大蛇《をろち》と申《まを》しまして、こし[#「こし」に傍点]といふ遠《とほ》い國《くに》から、はる/″\とこの出雲《いづも》まで出《で》かけて來《き》て、人々《ひと/″\》を苦《くる》しめるのでした。こし[#「こし」に傍点]といふのは、今《いま》の越前《えちぜん》、越中《えつちゆう》、越後《えちご》など、東北《ひがしきた》の方《かた》にあたる日本海《につぽんかい》方面《ほうめん》の地方《ちほう》のことです。大昔《おほむかし》には、このあたりは、まだ一向《いつこう》開《ひら》けないので、力《ちから》の強《つよ》い、亂暴《らんぼう》なものがたくさんをつて、出雲《いづも》のような遠方《えんぽう》の人々《ひと/″\》までが、しば/\ひどい目《め》にあはされたのです。それを素戔嗚尊《すさのをのみこと》がお救《すく》ひなされ、その國《くに》をお從《したが》へになつたのが、この高志《こし》の八岐《やまた》の大蛇《をろち》退治《たいじ》といふ、面白《おもしろ》いお話《はなし》になつて、語《かた》り傳《つた》へられたのでありませう。またその大蛇《をろち》から叢雲劒《むらくものつるぎ》が出《で》て、それを尊《みこと》が天照《あまてらす》大神《おほみかみ》に奉《たてまつ》つたと申《まを》すのは、このこし[#「こし」に傍点]の國《くに》を治《をさ》める力《ちから》を、大神《おほみかみ》に御獻上《ごけんじよう》なされたと申《まを》す事《こと》でありませう。
 かう申《まを》すと、素戔嗚尊《すさのをのみこと》はこし[#「こし」に傍点]の人《ひと》を殺《ころ》して、その國《くに》を取《と》り、これを天照《あまてらす》大神《おほみかみ》にさしあげたといふようにも聞《きこ》えますが、決《けつ》してさうではありません。いくら教《をし》へても、導《みちび》いても、それを聞《き》かずに亂暴《らんぼう》をなし、他《ほか》のものに害《がい》をなして、どうしても手《て》にあはぬようなものは、仕方《しかた》なしに殺《ころ》しも致《いた》しませうが、さうでないものは、やはり親切《しんせつ》にいたはつて、同《おな》じ仲間《なかま》になされたのです。それは次《つ》ぎにお話《はな》しする大國主神《おほくにぬしのかみ》が、高志《こし》の沼河姫《ぬながはひめ》といふ女《をんな》を、お妃《きさき》になされたと申《まを》すお話《はなし》からでもわかりませう。

   七、因幡《ゐなば》の白兎《しろうさぎ》

 素戔嗚尊《すさのをのみこと》の御子《みこ》に、大國主神《おほくにぬしのかみ》といふお方《かた》がありました。大《たい》そうお強《つよ》い、しかしおとなしい、おなさけ深《ぶか》い性質《せいしつ》のお方《かた》です。
 大國主神《おほくにぬしのかみ》には、大《おほ》ぜいの御兄弟《ごきようだい》の神《かみ》たちがありましたが、中《なか》にもこの神《かみ》は、一番《いちばん》おとなしかつたので、皆《みんな》で揃《そろ》うて外出《がいしゆつ》でもする時《とき》などには、いつも荷物《にもつ》を持《も》たされて、お供《とも》をさせられてをりました。
 ある時《とき》大國主神《おほくにぬしのかみ》は、いつもの通《とほ》り、大《おほ》ぜいの神《かみ》たちのお供《とも》をして、袋《ふくろ》をかついで、少《すこ》しおくれて、因幡《ゐなば》の國《くに》の氣多《けた》の崎《さき》といふ所《ところ》を通《とほ》つてをられますと、丸裸《まるはだか》になつた兎《うさぎ》が、さも痛《いた》そうにひい[#「ひい」に傍点]/\と泣《な》いてをります。それを見《み》た大《おほ》ぜいの神《かみ》たちは、
 「兎《うさぎ》よ、兎《うさぎ》よ、お前《まへ》はなぜそんな形《なり》をして泣《な》いてゐるか」
と、お尋《たづ》ねになりました。すると兎《うさぎ》は、痛《いた》いのを辛抱《しんぼう》して、長々《なが/\》とそのわけを申《まを》し上《あ》げました。
 もとこの兎《うさぎ》は、隱岐《おき》の島《しま》にゐたのでした。その島《しま》からこちらへ渡《わた》らうと思《おも》ひましたが、兎《うさぎ》の力《ちから》では遠《とほ》い海《うみ》を越《こ》えることが出來《でき》ません。これは一《ひと》つ海《うみ》のわに[#「わに」に傍点]を欺《だま》して、隱岐《おき》からここまで、橋《はし》をかけたように列《なら》ばせて、その上《うへ》をぴょん/\飛《と》んで渡《わた》らうと、横着《おうちやく》なことを考《かんが》へつきました。
 「わに[#「わに」に傍点]さん、わに[#「わに」に傍点]さん、お前《まへ》たちの仲間《なかま》と、私《わたし》たちの仲間《なかま》と、どちらが多《おほ》いであらうか。あるだけのわに[#「わに」に傍点]が皆《みな》出《で》て來《き》て、この隱岐《おき》の島《しま》から、因幡《ゐなば》の氣多《けた》の崎《さき》まで、一列《いちれつ》に列《なら》んで見《み》なさい。私《わたし》がその上《うへ》を走《はし》りながら、お前《まへ》たちの數《かず》をかぞへて見《み》よう」
 欺《だま》されるとは知《し》らないわに[#「わに」に傍点]は、兎《うさぎ》のいふ通《とほ》りに、正直《しようじき》に列《なら》びましたから、ちょうど隱岐《おき》から因幡《ゐなば》まで、一《ひと》つの長《なが》い/\わに[#「わに」に傍点]橋《ばし》が出來《でき》ました。それを兎《うさぎ》は、一《ひと》つ、二《ふた》つと、數《かず》をかぞへる眞似《まね》をして、ぴょん/\/\と飛《と》んで來《き》ました。いよ/\今一跳《いまひとは》ねで、こちらの岸《きし》へ飛《と》び上《あが》らうといふところで、默《だま》つてゐればよいのに、愚《おろか》な兎《うさぎ》は、
 「お前《まへ》たちは馬鹿《ばか》だな、うまく私《わたし》に欺《だま》された。どうも御苦勞樣《ごくろうさま》」
と、餘計《よけい》な口《くち》をきゝましたから、さあたまりません。欺《だま》されたわに[#「わに」に傍点]は大《たい》そう怒《おこ》つて、一番《いちばん》おしまひにゐたのが、その兎《うさぎ》をつかまへて、丸裸《まるはだか》に引《ひ》きむいてしまつたのです。こゝにわに[#「わに」に傍点]と申《まを》すのは、鰐鯊《わにざめ》といふ鱶《ふか》の類《るい》の大魚《おほうを》で、今《いま》いふ熱帶《ねつたい》地方《ちほう》の鰐《わに》の事《こと》ではありません。
 兎《うさぎ》は餘計《よけい》な口《くち》をきいた爲《ため》に、ひどい目《め》にあはされましたが、もと/\自分《じぶん》が惡《わる》かつたのですから、今更《いまさら》なんとも致《いた》し方《かた》がありません。しかしそれでも、痛《いた》くてたまらないので、海岸《かいがん》で苦《くる》しんでをりますと、そこへちょうど大《おほ》ぜいの神々《かみ/″\》たちが、お通《とほ》りかゝりになりましたのです。同情《どうじよう》のない神《かみ》たちでしたから、その話《はなし》を聞《き》いて、兎《うさぎ》に惡《わる》い事《こと》を教《をし》へました。
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 「兎《うさぎ》よ、兎《うさぎ》よ、その傷《きず》が痛《いた》むなら、潮水《しほみづ》を浴《あ》びて、高《たか》い、風《かぜ》あたりのよい所《ところ》で、寢《ね》てゐたなら、じきになほつてしまふよ」
といふのです。なんといふ可愛《かわい》そうな惡戯《いたづら》をしたものでせう。さうでなくてさへ痛《いた》くて痛《いた》くてたまらないのに、潮水《しほみづ》をあびて、風《かぜ》に吹《ふ》かれたなら、一層《いつそう》ひどくなるのは知《し》れたことです。しかし愚《おろか》な兎《うさぎ》は、そんなことに氣《き》がつきません。教《をし》へられた通《とほ》りに、正直《しようじき》にやりましたから、たまりません。忽《たちま》ち體中《からだじゆう》が、ぴり/\と、ひどく痛《いた》み出《だ》して、辛抱《しんぼう》が出來《でき》なくなつて泣《な》いてゐたのです。
 おなさけ深《ぶか》い大國主神《おほくにぬしのかみ》は、そのわけをお聞《き》きになりまして、
 「それは飛《と》んでもないこと、さて/\可愛《かわい》そうなことをしたものだ。はやく川水《かはみづ》でその潮《しほ》をよく洗《あら》ひ落《おと》して、蒲《がま》の穗《ほ》をほぐして、そこへまき散《ち》らして、その上《うへ》で寢《ね》ころんでゐよ」
と、お教《をし》へになりました。兎《うさぎ》はその通《とほ》りにしますと、蒲《がま》の穗《ほ》が體中《からだじゆう》について、すっかりもとの毛《け》の通《とほ》りになりました。兎《うさぎ》は大《たい》そう喜《よろこ》びまして、
 「あなたはほんとうに、おなさけ深《ぶか》いお方《かた》でいらつしやいます。あなたのお望《のぞ》みは、きつとかなひます」
と申《まを》しました。
 兎《うさぎ》の申《まを》した通《とほ》りに、その後《のち》大國主神《おほくにぬしのかみ》は、だん/\おえらくなりまして、出雲《いづも》の地方《ちほう》をお從《したが》へになり、外《ほか》の神々《かみ/″\》たちも國《くに》を讓《ゆづ》つて、つひにお名前《なまへ》通《どほ》りの、大《おほ》きな國《くに》の主《ぬし》になられました。そして遠《とほ》く越《こし》の國《くに》へまでもおいでになつて、高志《こし》の沼河姫《ぬながはひめ》をお妃《きさき》になさいました。これは大國主神《おほくにぬしのかみ》が、越《こし》の國《くに》をもお從《したが》へになつて、その住民《じゆうみん》を、同《おな》じ仲間《なかま》になさつたことを、語《かた》り傳《つた》へたものと見《み》えます。

   八、出雲《いづも》の大社《おほやしろ》

 出雲《いづも》の地方《ちほう》は大國主神《おほくにぬしのかみ》のお力《ちから》によつて、『大國《おほくに》の主《ぬし》』とお名前《なまへ》に呼《よ》ばれるまでに、かなり大《おほ》きな國《くに》になりましたが、しかし我《わ》が日本《につぽん》の中《うち》には、外《ほか》にもまだ小《ちひ》さい國《くに》がたくさんにありまして、お互《たがひ》に爭《あらそ》ひばかりしてゐたのです。それですから一般《いつぱん》の人民《じんみん》の不幸《ふこう》は、一通《ひととほ》りではありませんでした。これは前《まへ》にも申《まを》した通《とほ》り、すべてを一纒《ひとまと》めにして、これを治《をさ》める程《ほど》の、えらいものがゐなかつた爲《ため》でありました。
 そこで天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、いよ/\御孫《おんまご》の瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》をこの國《くに》にお降《くだ》しになつて、これを安《やす》い國《くに》として、平《たひら》かにお治《をさ》めしめなさることになりましたが、それには先《ま》づ以《もつ》て、大國主神《おほくにぬしのかみ》の國《くに》を奉《たてまつ》らしめなければなりません。これが爲《ため》に、三度《さんど》まで使《つか》ひをつかはしになりました。しかし何分《なにぶん》大國主神《おほくにぬしのかみ》の威勢《いせい》が盛《さか》んなものですから、使《つか》ひの神《かみ》も、その方《ほう》へついてしまつて、歸《かへ》つて參《まゐ》りませんでした。最後《さいご》に武甕槌神《たけみかづちのかみ》と、經津主神《ふつぬしのかみ》とが、お使《つか》ひに立《た》ちました。武甕槌神《たけみかづちのかみ》は後《のち》に常陸《ひたち》の鹿島《かしま》神宮《じんぐう》に、また經津主神《ふつぬしのかみ》は後《のち》に下總《しもふさ》の香取《かとり》神宮《じんぐう》に、それ/″\軍神《いくさがみ》としてお祭《まつ》り申《まを》した程《ほど》の、武勇《ぶゆう》勝《すぐ》れた神々《かみ/″\》でありましたから、大國主神《おほくにぬしのかみ》の威勢《いせい》にも恐《おそ》れず、よく利害《りがい》をお説《と》きになり、國《くに》を天孫《てんそん》に奉《たてまつ》るようにとお諭《さと》しになりました。天孫《てんそん》とは瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》の御事《おんこと》を申《まを》すのです。しかしこれは大國主神《おほくにぬしのかみ》に取《と》つては、まことに重大《じゆうだい》な事件《じけん》です。御自身《ごじしん》だけのお考《かんが》へでは、おはからひかねになりました。そこで先《ま》づもつて、御子《みこ》の事代主神《ことしろぬしのかみ》の御意見《ごいけん》をお問《と》ひになりましたところが、この時《とき》出雲《いづも》の美保《みほ》が崎《さき》で、魚《うを》を釣《つ》つてをられました事代主神《ことしろぬしのかみ》は、
 「それはもちろん、大神《おほみかみ》の仰《おほ》せに從《したが》ひますよう」
と、いさぎよく御同意《ごどうい》申《まを》し上《あ》げました。出雲《いづも》の美保《みほ》神社《じんじや》は、こゝで釣《つ》りをしてをられました縁故《えんこ》で、この事代主神《ことしろぬしのかみ》をお祭《まつ》りしてあるのです。
 かく事代主神《ことしろぬしのかみ》が御賛成《ごさんせい》申《まを》したので、大國主神《おほくにぬしのかみ》も今《いま》は御異存《ごいぞん》もなく、久《ひさ》しく治《をさ》めてをられました國《くに》を、天孫《てんそん》にさしあげましたが、事代主神《ことしろぬしのかみ》の弟神《おとうとがみ》の建御名方神《たけみなかたのかみ》は、大《たい》そう元氣《げんき》の盛《さか》んな神《かみ》でありましたから、なか/\それを承知《しようち》致《いた》しません。
 「それなら大神《おほみかみ》のお使《つか》ひの神《かみ》たちと、力競《ちからくら》べをして見《み》よう」
と申《まを》しました。しかし建御名方神《たけみなかたのかみ》の力《ちから》は、とても武甕槌神《たけみかづちのかみ》にかなひっこはありません。とうとう信濃《しなの》の諏訪《すわ》まで逃《に》げて行《い》つて、そこで恐《おそ》れ入《い》りました。今《いま》の諏訪《すわ》神社《じんじや》は、その土地《とち》にこの神《かみ》をお祭《まつ》り申《まを》したのです。
 大國主神《おほくにぬしのかみ》は、いよ/\その國《くに》をさしあげましたについて、杵築《きづき》の宮《みや》にお引《ひ》き籠《こも》りになりました。これは今《いま》の出雲《いづも》の大社《おほやしろ》で、その御殿《ごてん》は、天孫《てんそん》の御宮殿《ごきゆうでん》と同《おな》じように、お造《つく》り申《まを》したといふことであります。命《みこと》が大神《おほみかみ》の命《めい》を奉《ほう》じて、いさぎよくその國《くに》を治《をさ》めることを、天孫《てんそん》にお任《まか》せ申《まを》しあげましたので、天孫《てんそん》の方《ほう》からは、特別《とくべつ》の尊敬《そんけい》をもつて、これを御待遇《ごたいぐう》なされましたわけなのです。
 大國主神《おほくにぬしのかみ》の國《くに》の外《ほか》にも前《まへ》にも申《まを》した通《とほ》り、我《わ》が國《くに》にはもとたくさんの小《ちひ》さい國《くに》がありました。しかしその中《なか》でも、一番《いちばん》御盛《ごさか》んな大國主神《おほくにぬしのかみ》が、いさぎよくその國《くに》を奉《たてまつ》つたものですから、その外《ほか》の國々《くに/″\》も、だん/\と我《わ》が皇室《こうしつ》の御威光《ごいこう》に從《したが》ひまして、我《わ》が大日本《だいにつぽん》帝國《ていこく》は、次第《しだい》に大《おほ》きく、次第《しだい》に盛《さか》んになつて參《まゐ》りました。大國主神《おほくにぬしのかみ》や、事代主神《ことしろぬしのかみ》のように、よくことがわかつて、いさぎよくその國《くに》を奉《たてまつ》つたものは、それ/″\に相當《そうとう》の御待遇《ごたいぐう》を與《あた》へられました。建御名方神《たけみなかたのかみ》の如《ごと》く、反抗《はんこう》したものは、やむを得《え》ず力《ちから》を以《もつ》てこれをお從《したが》へにもなりましたが、それでも力《ちから》がかなはないで、恐《おそ》れ入《い》りますれば、やはり相當《そうとう》に御待遇《ごたいぐう》なされます。
 くりかへして申《まを》しますが、我《わ》が皇室《こうしつ》の御先祖《ごせんぞ》たちは、決《けつ》して、亂暴《らんぼう》に、前《まへ》からゐた國津神《くにつかみ》の國《くに》を、たゞ取《と》り上《あ》げたり、わけもなくそれを殺《ころ》したり、虐待《ぎやくたい》したりなされたのではありません。豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國《くに》を、安《やす》い國《くに》と平《たひら》かにお治《をさ》めなされる爲《ため》には、それらの小《ちひ》さい國々《くに/″\》を、一《ひと》つにする必要《ひつよう》がありますので、御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》の御威徳《ごいとく》によつて、近《ちか》い所《ところ》から、順々《じゆん/\》に、遠《とほ》い所《ところ》にまで、それらの國々《くに/″\》を御併合《ごへいごう》なされたのです。そしてその國《くに》の人民《じんみん》は、みな幸福《こうふく》な日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になつてしまつたのです。

   九、天孫《てんそん》降臨《こうりん》と三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》

 瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》は天照《あまてらす》大神《おほみかみ》のお孫樣《まごさま》であらせられますので、これを天孫《てんそん》と申《まを》し上《あ》げます。天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、はじめ御子《みこ》の天忍穗耳尊《あめのおしほみゝのみこと》をこの國《くに》にお降《くだ》しになるお考《かんが》へでありましたが、そのうちに天孫《てんそん》瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》がお生《うま》れになりましたので、尊《みこと》は御父尊《おんちゝみこと》に代《かは》つて、たくさんの神々《かみ/″\》をお隨《したが》へになつて、日向《ひうが》の國《くに》の高千穗《たかちほ》の峯《みね》にお降《くだ》りになりました。これを『天孫《てんそん》降臨《こうりん》』と申《まを》します。
 天孫《てんそん》の御降臨《ごこうりん》なされるに就《つ》いて、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》は、前《まへ》に申《まを》した通《とほ》り、その御子孫《ごしそん》が、天地《あめつち》のあらん限《かぎ》り、いつまでも/\、この國《くに》の天皇《てんのう》となられます事《こと》をお定《さだ》めになりまして、『三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》』をお授《さづ》けになりました。三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》とは、大神《おほみかみ》が天《あま》の岩屋戸《いはやど》にお籠《こも》りになりました時《とき》に、石凝姥命《いしこりどめのみこと》がお造《つく》り申《まを》した八咫鏡《やたのかゞみ》と、玉祖命《たまのおやのみこと》がお造《つく》り申《まを》した八坂瓊《やさかにの》曲玉《まがたま》と、素戔嗚尊《すさのをのみこと》が八岐《やまたの》大蛇《をろち》から得《え》て御獻上《ごけんじよう》になつた天叢雲劒《あめのむらくものつるぎ》と、この三《みつ》つの御寶器《おたから》です。
 この三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》のうちにも、『八咫鏡《やたのかゞみ》』は、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》の御姿《みすがた》をおうつしになりました御鏡《みかゞみ》で、大神《おほみかみ》がこれをお授《さず》けになります時《とき》に、特《とく》に、
 「この鏡《かゞみ》はわが御魂《みたま》として、常《つね》にわが前《まへ》にあると思《おも》ひて、あがめたてまつれ」
と仰《おほ》せになりました。それ以來《いらい》この御鏡《みかゞみ》は、御代々《ごだい/\》の天皇《てんのう》の御宮《おみや》の中《なか》で、天照《あまてらす》大神《おほみかみ》としてお祭《まつ》り申《まを》し上《あ》げてをりましたが、神武《じんむ》天皇《てんのう》から御十代目《ごじゆうだいめ》の、崇神《すじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》になりまして、常《つね》にこれに近《ちか》づき奉《たてまつ》つて、つひ大神《おほみかみ》の御威徳《ごいとく》をおけがし申《まを》すようなことがあつては、相《あひ》すまぬといふ深《ふか》いお考《かんが》へから、これを天皇《てんのう》のお宮《みや》からお出《だ》し申《まを》し上《あ》げ、別《べつ》に神《かみ》のお宮《みや》を造《つく》つて、そこにお祭《まつ》り申《まを》すことになりました。次《つ》ぎの垂仁《すいにん》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、さらにそれを伊勢《いせ》にお遷《うつ》し申《まを》し、皇女《こうじよ》倭姫命《やまとひめのみこと》がお仕《つか》へ申《まを》し上《あ》げました。これが今《いま》の伊勢《いせ》の皇大神宮《こうだいじんぐう》であります。
 『叢雲劒《むらくものつるぎ》』もまた、はじめは御鏡《みかゞみ》と一《いつ》しよに、伊勢《いせ》の神宮《じんぐう》にお祭《まつ》りしたのでありましたが、これは後《のち》に景行《けいこう》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》日本武尊《やまとたけるのみこと》が、東國《とうごく》を從《したが》へにお出《で》かけなさいました時《とき》に、御叔母樣《おんをばさま》の倭姫命《やまとひめのみこと》が、尊《みこと》の御身《おんみ》の護《まも》りとして、お授《さず》けになり、尊《みこと》はこれを以《もつ》て、草《くさ》を薙《な》いで野火《のび》の危難《きなん》をお免《まぬが》れになりましたので、それから『草薙劒《くさなぎのつるぎ》』と申《まを》すことになりました。このことは又《また》後《のち》にあらためて申《まを》しませう。然《しか》るにこの草薙劒《くさなぎのつるぎ》は、尊《みこと》がお歸《かへ》りの途中《とちゆう》、尾張《をはり》の熱田《あつた》にお置《お》きになつたまゝ、御病氣《ごびようき》にかゝつておかくれになりましたので、そのまゝそこでお祭《まつ》り申《まを》すことになりました。今《いま》の熱田《あつた》神宮《じんぐう》がこれであります。
 崇神《すじん》天皇《てんのう》は、かく御鏡《みかゞみ》と御劒《みつるぎ》とを、宮中《きゆうちゆう》からお出《だ》し申《まを》して、別《べつ》にお祭《まつ》り申《まを》すことになりましたので、はじめにこの御鏡《みかゞみ》をお造《つく》り申《まを》した、石凝姥命《いしこりどめのみこと》の子孫《しそん》の人《ひと》にお命《めい》じになつて、新《あらた》に代《かは》りの御鏡《みかゞみ》をお造《つく》らせになり、また天目一神《あめのまひとつのかみ》といふ、鍛冶《かじ》の元祖《がんそ》の神《かみ》の子孫《しそん》にお命《めい》じになつて、新《あらた》に代《かは》りの御劒《みつるぎ》をお造《つく》らせになりました。この新《あたら》しい御鏡《みかゞみ》と、御劒《みつるぎ》とは、『八坂瓊《やさかにの》曲玉《まがたま》』と共《とも》に、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》の御《お》しるしとして、常《つね》に御身《おんみ》ぢかくにお置《お》きになり、天皇《てんのう》の御代《みよ》のかはるごとに、新《あたら》しい天皇《てんのう》がお受《う》けになりますこととなりました。
(つづく)



底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス
   1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [高志] こし → 「こしのくに(越の国)」に同じ。
  • 越の国 こしのくに 北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。
  • [越前] えちぜん 旧国名。今の福井県の東部。古名、こしのみちのくち。
  • [越中] えっちゅう 旧国名。今の富山県。こしのみちのなか。
  • [越後] えちご 旧国名。今の新潟県の大部分。古名、こしのみちのしり。
  • [常陸] ひたち
  • 鹿島神宮 かしま じんぐう 茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社。祭神は武甕槌神。経津主神・天児屋根命を配祀。古来軍神として武人の尊信が厚い。常陸国一の宮。
  • [下総] しもうさ
  • 香取神宮 かとり じんぐう 千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神(斎主命)。古来、鹿島神宮と共に軍神として尊崇された。下総国一の宮。
  • [信濃] しなの
  • 諏訪 すわ 長野県中部の市。諏訪湖に臨み、もと諏訪氏3万石の城下町(高島城)。時計など精密機械工業が盛ん。近くに上諏訪温泉や霧ヶ峰がある。人口5万3千。
  • [尾張] おわり
  • 熱田 あつた 名古屋市にある熱田神宮の門前町。海陸交通の要地で、東海道の宿駅。現在、熱田区。
  • 熱田神宮 あつた じんぐう 名古屋市熱田区にある元官幣大社。熱田大神を主神とし、相殿に天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀姫命・建稲種命を祀る。神体は草薙剣。
  • [伊勢] いせ
  • 皇大神宮 こうだいじんぐう/こうたいじんぐう 三重県伊勢市五十鈴川上にある神宮。祭神は天照大神。古来、国家の大事には勅使を差遣、奉告のことが行われた。天照皇大神宮。内宮。
  • [因幡の国] いなばのくに
  • 気多の前 けたのさき 気多の埼。因幡国北西部にあった郡。現在の鳥取県気高郡にあたる。気多岬は郡内に比定。(日本史)
  • 隠岐の島 おきのしま 島根県に属し、本州の北約50km沖にある島。最大島の島後と島群である島前とから成る。後鳥羽上皇・後醍醐天皇の流された地。大山隠岐国立公園に属する。隠岐諸島。
  • [出雲の国] いずものくに
  • 簸の川 ひのかわ 簸川。日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したという。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。
  • 美保が崎 みほがさき 三穂之埼。現、島根県八束郡美保関町の東部地域を占めた中世郷。美保。島根半島の東端に位置。
  • 美保神社 みほ じんじゃ 島根県松江市美保関町にある元国幣中社。祭神は事代主神・美穂津姫命。
  • 杵築の宮 きづきのみや 高皇産霊神が大己貴命のために出雲国の杵築に建てた宮殿。今の出雲大社の地にあった。
  • 出雲の大社 いずものおおやしろ/いずも たいしゃ 島根県出雲市大社町杵築東にある元官幣大社。祭神は大国主命。天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・宇麻志阿志軻備比古遅命・天之常立神を配祀。社殿は大社造と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。
  • [日向の国] ひゅうがのくに
  • 高千穂の峰 たかちほのみね 宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の伝説の地。標高1574m。頂上に「天の逆鉾」がある。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 瓊瓊杵尊 ににぎのみこと 瓊瓊杵尊・邇邇芸命。日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女、木花之開耶姫を娶り、火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊。
  • 天照大神 あまてらす おおみかみ 天照大神・天照大御神。伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
  • 大国主神 おおくにぬしのかみ 大国主命。日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊の子とも6世の孫ともいう。少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊に譲って杵築の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神・国魂神・葦原醜男・八千矛神などの別名が伝えられるが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。
  • 木花開耶姫 このはなさくやひめ 木花之開耶姫・木花之佐久夜毘売。日本神話で、大山祇神の女。天孫瓊瓊杵尊の妃。火闌降命・彦火火出見尊・火明命の母。後世、富士山の神と見なされ、浅間神社に祀られる。
  • 彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと 記紀神話で瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の女と結婚。別名、火遠理命。山幸彦。
  • 豊玉姫 とよたまひめ 豊玉毘売・豊玉姫。(古くはトヨタマビメ) 海神、豊玉彦神の娘で、彦火火出見尊の妃。産屋の屋根を葺き終わらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているのを夫神にのぞき見られ、恥じ怒って海へ去ったと伝える。その時生まれたのが��草葺不合尊という。
  • 鵜草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと ��草葺不合尊。記紀神話で、彦火火出見尊の子。母は豊玉姫。五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)の父。
  • 玉依姫 たまよりひめ 記紀神話で綿津見神の女。��草葺不合尊の妃で、神武天皇・五瀬命等の母。
  • 神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
  • 事代主神 ことしろぬしのかみ 日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣を作り隠退した。託宣の神ともいう。八重言代主神。
  • 綏靖天皇 すいぜい てんのう 記紀伝承上の天皇。神武天皇の第3皇子。名は神渟名川耳。
  • 安寧天皇 あんねい てんのう 記紀伝承上の天皇。綏靖天皇の第1皇子。名は磯城津彦玉手看。
  • 源氏 げんじ 姓氏の一つ。初め嵯峨天皇がその皇子を臣籍に下して賜った姓で、のち仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・冷泉・花山・三条・後三条・順徳・後嵯峨・後深草・亀山・後二条天皇などの、皇子・皇孫にも源氏を賜った。嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏が名高い。
  • 清和天皇 せいわ てんのう 850-880 平安前期の天皇。文徳天皇の第4皇子。母は藤原明子。名は惟仁。水尾帝とも。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)落飾。法諱は素真。(在位858〜876)
  • 藤原氏 ふじわらし 姓氏の一つ。天児屋根命の裔と伝え、大化改新の功臣中臣鎌足が、居地の大和国高市郡藤原に因んで藤原姓を賜ったのに始まる。姓は朝臣。鎌足の子不比等は文武天皇の頃から政界に重きをなし、その子武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟はそれぞれ南家・北家・式家・京家の四家の祖となる。北家は最も繁栄し、その一族は平安時代から江戸時代まで貴族社会の中枢を占めた。なお、奥州藤原氏はもと亘理氏で、別系。
  • 大織冠 だいしょくかん/たいしょっかん (1) 647年(大化3)制定された十三階冠位より664年の二十六階冠位までの最高の位階(後の正一位に相当)。(2) (唯一人、授けられたので) 特に藤原鎌足の称。
  • 藤原鎌足 ふじわらの かまたり 614-669 藤原氏の祖。はじめ中臣氏。鎌子という。中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣に任じられた。天智天皇の時、大織冠。談山神社に祀る。中臣鎌足。
  • 伊奘諾神 いざなぎのかみ 伊弉諾尊・伊邪那岐命。(古くはイザナキノミコト) 日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊と共にわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどった男神。天照大神・素戔嗚尊の父神。
  • 伊奘冉神 いざなみのかみ 伊弉冉尊・伊邪那美命。日本神話で、伊弉諾尊の配偶女神。火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国に住むようになる。
  • 素戔嗚尊 すさのおのみこと 須佐之男命。日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
  • 石凝姥命 いしこりどめのみこと 記紀神話で、天糠戸神の子。天照大神が天の岩戸に隠れた時、鏡を作った神。鏡作部の遠祖とする。五部神の一神。
  • 玉祖命 たまのおやのみこと 古事記神話で、天岩屋戸の前で玉を作ったという神。五部神の一神。玉屋命。
  • 忌部氏 いんべうじ 斎部・忌部。(1) 古代の氏族の一つ。朝廷の祭祀に奉仕。伝承上の祖は天太玉命。姓は連・首など。連は天武天皇のときに宿祢に昇格。
  • 太玉命 ふとだまのみこと 日本神話で天照大神の岩戸ごもりの際に、天児屋根命と共に祭祀の事をつかさどった神。忌部氏の祖。五部神の一神。
  • 中臣氏 なかとみうじ 古代の氏族。天児屋根命の子孫と称し、朝廷の祭祀を担当。はじめ中臣連、後に中臣朝臣、さらに大中臣朝臣となる。なお、中臣鎌足は藤原と賜姓され、その子孫は中臣氏と分かれて藤原氏となった。
  • 天児屋命 あめのこやねのみこと 天児屋命・天児屋根命。日本神話で、興台産霊の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、のち、天孫に従ってくだった五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀をつかさどったという。中臣・藤原氏の祖神とする。
  • 手力男神 たぢからをのかみ 天手力男命。天岩屋戸を開いて天照大神を出したという大力の神。天孫の降臨に従う。
  • 鈿女命 うずめのみこと → 天鈿女命
  • 天鈿女命・天宇受売命 あまのうずめのみこと 日本神話で、天岩屋戸の前で踊って天照大神を慰め、また、天孫降臨に随従して天の八衢にいた猿田彦神を和らげて道案内させたという女神。鈿女命。猿女君の祖とする。
  • 足名椎 あしなづち/あしなずち 足名椎・脚摩乳。記紀神話で出雲の国つ神大山祇神の子。簸川の川上に住んだ。妻は手名椎。娘奇稲田媛は素戔嗚尊と結婚。
  • 手名椎 てなづち → 参照:足名椎
  • 奇稲田姫 くしいなだひめ 櫛名田姫。(クシイナダヒメとも) 出雲国の足名椎・手名椎の女。素戔嗚尊の妃となる。稲田姫。
  • 沼河姫 ぬながわひめ 沼名河比売。古事記で、高志国(新潟県)に住み八千矛神に求婚された神。
  • 武甕槌神 たけみかづちのかみ 武甕槌命・建御雷命。日本神話で、天尾羽張命の子。経津主命と共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、大国主命を説いて国土を奉還させた。鹿島神宮はこの神を祀る。
  • 経津主神 ふつぬしのかみ 日本神話で、磐筒男神・磐筒女神の子。天孫降臨に先だち、武甕槌神と共に葦原の中つ国を平定し、大己貴命を説得してその国を皇孫瓊瓊杵尊に譲らせた。刀剣の神。香取神宮に祀る。
  • 事代主神 ことしろぬしのかみ 日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣を作り隠退した。託宣の神ともいう。八重言代主神。
  • 建御名方神 たけみなかたのかみ 日本神話で、大国主命の子。国譲りの使者武甕槌命に抗するが敗れ、信濃国の諏訪に退いて服従を誓った。諏訪神社上社はこの神を祀る。
  • 天忍穂耳尊 あめのおしほみみのみこと 日本神話で、瓊瓊杵尊の父神。素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた神。正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。
  • 崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
  • 垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。
  • 倭姫命 やまとひめのみこと 垂仁天皇の皇女といわれる伝説上の人物。天照大神の祠を大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して草薙剣を授けたという。
  • 景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
  • 日本武尊 やまとたけるのみこと 倭建命。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
  • 天目一神 あめのまひとつのかみ 天目一箇神。天照大神が天岩屋戸に隠れた時、刀・斧など、祭器を作ったという神。後世、金工・鍛冶の祖神とする。天津麻羅。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • 万世一系 ばんせい いっけい 永遠に同一の系統がつづくこと。多く皇統についていわれた。
  • 天壌無窮 てんじょう むきゅう 天地とともにきわまりのないこと。永遠に続くこと。
  • 豊葦原の瑞穗の国 とよあしはらの みずほのくに (古くはミツホノクニ) 日本国の美称。
  • 安国 やすくに 安らかに治まる国。泰平の国。
  • 平らけし たいらけし おだやかである。無事である。
  • 知ろしめす しろしめす (「知る」の尊敬語「しろす」よりさらに敬意の強い言い方。上代には「しらしめす」とも) (1) お知りになる。ご存知である。(2) 領せられる。お治めになる。(3) お世話なさる。
  • 水がかり
  • 神代 かみよ 記紀神話で、天地開闢から��草葺不合尊まで、神武天皇以前の神々の時代。じんだい。
  • 高天原 たかまがはら/たかまのはら (1) 日本神話で、天つ神がいたという天上の国。天照大神が支配。「根の国」や「葦原の中つ国」に対していう。たかまがはら。(2) 大空。
  • 天津神 あまつかみ 天つ神。天にいる神。高天原の神。また、高天原から降臨した神、また、その子孫。←→国つ神。
  • 国津神 くにつかみ 国つ神・地祇。(1) 国土を守護する神。地神。(2) 天孫降臨以前からこの国土に土着し、一地方を治めた神。国神。←→天つ神。
  • 常世 とこよ (1) 常に変わらないこと。永久不変であること。(2) 「常世の国」の略。
  • 常世の長鳴鳥 とこよの ながなきどり (天照大神が天の岩戸に籠もり、天地が常闇になった時、鳴かせた鳥の意) 鶏の古称。
  • 八咫鏡 やたのかがみ (巨大な鏡の意) 三種の神器の一つ。記紀神話で天照大神が天の岩戸に隠れた時、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。伊勢神宮の内宮に天照大神の御魂代として奉斎され、その模造の神鏡は宮中の賢所に奉安される。まふつのかがみ。やたかがみ。
  • 八坂瓊曲玉 やさかにの まがたま 八尺瓊勾玉・八坂瓊曲玉。大きな玉で作った勾玉。一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉。三種の神器の一つとする。
  • 榊 さかき 榊・賢木。(1) (境(さか)木の意か) 常緑樹の総称。特に神事に用いる木をいう。(2) ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。5〜6月頃、葉のつけ根に白色の細花をつけ、紫黒色の球形の液果を結ぶ。古来神木として枝葉は神に供し、材は細工物・建築などに用いる。
  • 八岐大蛇 やまたのおろち 記紀神話で、出雲の簸川にいたという大蛇。頭尾はおのおの八つに分かれる。素戔嗚尊がこれを退治して奇稲田姫を救い、その尾を割いて天叢雲剣を得たと伝える。
  • 十握剣 とつかのつるぎ 刀身の長さが10握りほどある剣。
  • 天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ 日本神話で、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した時、その尾から出たという剣。これを天照大神に奉った。後に、草薙剣と称して熱田神宮に祀る。
  • ワニザメ 鰐鮫。猛悪な鮫の俗称。
  • 軍神 いくさがみ いくさの守護神。武運を守る神。経津主・武甕槌の2神、または八幡神など。兵家では、北斗七星、また、摩利支天・勝軍地蔵・不動明王などを祭る。弓矢の神。
  • 天孫降臨 てんそん こうりん 記紀の神話で、瓊瓊杵尊が高皇産霊尊・天照大神の命を受けて高天原から日向国の高千穂に天降ったこと。
  • 三種の神器 さんしゅの じんぎ 皇位の標識として歴代の天皇が受け継いできたという三つの宝物。すなわち八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 新シリーズ、いよいよ問題の書、喜田貞吉『日本歴史物語〈上〉』に突入! 目次を一見してわかるとおり、天の岩屋戸、八岐の大蛇、因幡の白兎といった神話・伝説から話をおこしている。いくらなんでもそりゃないだろ、とつっこみたくなる。さらに序文を読むと、「大日本帝国の臣民」「万世一系の天皇陛下」といったことばが並ぶ。
 そのはず、本書は一九二八年(昭和三)四月の発行。関東大震災から五年後。この年の六月四日に満洲で張作霖爆殺事件、三年後の一九三一年(昭和六)九月に満州事変がおこる。時代の雰囲気は、本文の端々(はしばし)にも現われている。
 
 おそらく、悪名名高い“戦前の歴史教科書”に類するとみていい。神話の時代から話をおこしているのは、現代の感覚からは相当ずれている。けれども、この国の歴史を本気で語ろうとすれば天孫降臨のエピソードにふれないわけにはいかないし、オオクニヌシの国譲りと出雲への隠遁、三種の神器の由来も避けてとおれない、ということだろう。
 問題ありまくりにも関わらずこの書を選んだのは、次号以後につづく「渡来人」や「蝦夷」に関する記述が豊富な点を評価したいため。児童向けの書き下ろしではあるが、喜田貞吉は一九三九年の没だから、彼の中〜後期の著書に属する。
 
 蛇足。三種の神器について。吉野裕子『蛇』と本書をつづけて読んだせいか、あることに思い至る。鏡や刀剣を神聖視する向きは、道教や山岳修験にも見られ、三種の神器との関連が示唆されている。鏡はとぐろを巻いた蛇、刀剣は長く伸びた蛇……もし、そう考えることが妥当ならば、三種の神器のうちの八咫鏡と天叢雲剣の二つは、いずれも蛇をなぞらえた器物ということになり、天皇の誕生と継承には蛇がまとわりついている、もしくは、天皇家は蛇によって守護されている、という想像が可能になる。

 2日、大滝秀治、87歳。
 13日、丸谷才一、87歳。




*次週予告


第五巻 第一三号 
日本歴史物語〈上〉(二)喜田貞吉


第五巻 第一三号は、
二〇一二年一〇月二〇日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第一二号
日本歴史物語〈上〉(一)喜田貞吉
発行:二〇一二年一〇月一三日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
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販売:DL-MARKET
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