大震 火災記
鈴木三重吉一
大正十二年(一九二三)のおそろしい関東大地震の震源地は、
そのために東京、横浜、
東京の市街だけでも、二里〔約8km〕四方の面積にわたって四十一万の家々が灰になり、死者七万四〇〇〇、ゆくえ不明二十一万、焼け出された人口が一四〇万、損害八億一五〇〇万円に
これまで世界じゅうでいちばんはげしかった地震火災は、今から十五年前に、イタリアのメッシーナという重要な港とその付近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八
この大きな被害も、つまり大部分が火災からきたわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人もわずか二、三千人ぐらい、
地震の、東京での
二
災害の来た一日はちょうど
ある人は、電車で
まったくそうでしょう。最初の
その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作
多くの人々は、たいてい、ソラ火がまわったというので、
てんでんに
そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、遠い山の手の知りあいの家々や、
なかでもいちばん
その
そのほかいろいろの方面の
三
こういう話をならべあげれば
同時に、一方では、あのおそろしい
つぎには、これは
それら全部の
そのとき
このことは、前に言った高橋さんたちのはたらきとともに、まだ
火はとうとうよく
以上のほか、火災をのがれた山の手や
四
しかし、震災の
第一の飛行機が日光へ向かった同じ午前に、一方では、
三日には東京府、神奈川、静岡、千葉、埼玉県に
同時に海軍では連合艦隊以下、多くの
同日、
赤サビの
地震のために
小学校は全市で一九六校あったのが一一八校まで
政府は東京や、その他の被害地を
最後にこの
英国でも、
シナでは
そのほかロシアでも、よゆうの少ない
いうまでもなくこの
底本:
1996(平成8)年11月18日第1刷発行
底本の親本:
1975(昭和50)年9月10日発行
初出:
1923(大正12)年11月
※「御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
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大震火災記
鈴木三重吉-------------------------------------------------------
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《》:ルビ
(例)相模《さがみ》なだ
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)世界|中《じゅう》
[#]:入力者注 主に傍点の位置の指定
(例)相模《さがみ》なだ[#「なだ」に傍点]
/\:くの字点
(例)ぐら/\/\と
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一
大正十二年のおそろしい関東大地震の震源地は相模《さがみ》なだ[#「なだ」に傍点]の大島《おおしま》の北上《きたうえ》の海底で、そこのところが横巾《よこはば》最長三海里、たて十五海里の間《あいだ》、深さ二十ひろから百ひろまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。
そのために東京、横浜、横須賀《よこすか》以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間《けいひんかん》、相模の海岸、それから、伊豆《いず》の、相模なだ[#「なだ」に傍点]に対面した海岸全たいから箱根《はこね》地方へかけて、少くて四寸以上のゆれ巾、六寸の波動の大震動が来たのです。それが手引《てびき》となって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみ[#「つなみ」に傍点]をかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家《いえ》が五万六千、焼けたり流れたりしたのが三十七万八千、死者十一万四千、負傷者十一万五千を出《いだ》し、損害総額百一億円と計上されています。
東京の市街だけでも、二里四方の面積にわたって四十一万の家々が灰になり、死者七万四千、ゆくえ不明二十一万、焼け出された人口が百四十万、損害八億一千五百万円に上《のぼ》っています。横浜、小田原《おだわら》なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
これまで世界|中《じゅう》で一ばんはげしかった地震火災は今から十五年|前《まえ》に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその附近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八|町《ちょう》四方を焼いたのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方《かた》だけは以上二つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。
この大きな被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人もわずか二、三千人ぐらい、家屋その他の損害も八、九十分の一ぐらいにとどまったろうということです。
地震の、東京での発震は、九月一|日《じつ》の午前十一時五十八分四十五秒でした。それから引きつづいて、余震(ゆれなおし)が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じ得たのが十二時間に百十四回以上、そのつぎの十二時間に八十八回、そのつぎが六十回、七十回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計千七百回以上に上《のぼ》っています。
二
災害の来た一日はちょうど二百十日《にひゃくとおか》の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々《あおあお》とはれて、平和な初秋《はつあき》びよりになったとおもうと、午《ひる》どきになって、とつぜんぐら/\/\とゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所《ほんじょ》のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ち上《あが》ると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場《だいこうば》の屋根|瓦《がわら》がうねうねと大蛇《だいじゃ》が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうと土烟《つちけむり》が立ち上る、附近の空地《あきち》へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上《あが》って来たと話した人があります。
或《ある》人は、電車で神田《かんだ》神保町《じんぼうちょう》のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下《お》りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町《すだちょう》の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒烟《くろけむり》が上っていたと言っています。
まったくそうでしょう。最初の震動は約十四秒つづいたのですが、それから、ものの三分とたたないうちに、神田以下十二区にわたって四十か所から発火したのです。本所や浅草《あさくさ》では、十二時におのおの十二、三か所からもえ上ったくらいです。それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川《ふかがわ》、浅草、日本橋《にほんばし》、京橋《きょうばし》の全部と、麹町《こうじまち》、神田、下谷《したや》のほとんど全部、本郷《ほんごう》、小石川《こいしかわ》、赤坂《あかさか》、芝《しば》の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。
その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろ[#「ろ」に傍点]や、家々のこんろ[#「こんろ」に傍点]なぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少くなかったようです。何分《なにぶん》地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、二十|間《けん》巾《はば》ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向うがわはもうまっ赤《か》にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割《ほりわり》やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルヂィングなぞには、地震でがらがらとつぶされて、一どに何百人という人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。
多くの人々は、大《たい》てい、ソラ火がまわったというので、着《き》のみ着のままにげ出したようです。中には、安全と思うところへ早く家財なぞをもち出して一安神《ひとあんしん》していると、間《ま》もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向《こ》うから火の子がふりかぶさって来《く》るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもにげにげするうちに、とうとうほりわり[#「ほりわり」に傍点]のところなぞへおいつめられて、仕方なしに泥水《どろみず》の中へとびこむと、その上へ、後《あと》から何十人という人がどんどんおちこんで、下のものはおしつけられておぼれてしまうし、上の方にいた人は黒こげになって、けっきょく一人のこらず死んだような場所もあります。
てんでんにつつみをしょってかけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手《からて》のまま、やっとくぐりぬけて来たというのが大方《おおかた》です。気のどくなのは、手近《てぢか》の小さな広場をたよって、坂本《さかもと》、浅草、両国《りょうごく》なぞのような千坪二千坪ばかりの小公園なぞへにげこんだ人たちです。そんな人は、ぎっしりつまったなり出るにも出られず、みんな一しょにむし焼きにあってしまいました。
そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城《きゅうじょう》前の広地《ひろち》や、芝、日比谷《ひびや》、上野《うえの》の大公園なぞを目がけてひなん[#「ひなん」に傍点]したのです。平生《へいぜい》はふつうの人のはいれない、離宮や御《ぎょ》えん[#「えん」に傍点]や、宮内省《くないしょう》の一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。
にげるについて一ばんじゃまになったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来に一ぱいつづきはだかっているので、歩こうにも出ようにもあがきがとれなかったと言います。そんなところでは、ただぎゅうぎゅうおされ/\て、やっと一寸二寸ずつうごいていくだけなので、目ざす広場へつくのに、平生なら二十分でいけるところを、二時間も三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちには後《うしろ》の方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分らないと言われています。
中でも一ばん悲さん[#「さん」に傍点]だったのは、本所の被服しょう[#「しょう」に傍点]あとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。
その群《むら》がりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が二、三十人ばかりあります。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。或一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつ伏《ぶ》しになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気《みずけ》というのは、人の小便《しょうべん》か、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
そのほかいろいろの方面のそう[#「そう」に傍点]難者について、さまざまのいたいたしい話を聞きました。永代橋《えいたいばし》が焼けおちるのと一しょに大川《おおかわ》の中へおちて、後《あと》でたすけ上げられた或婦人なぞは、最初三つになる子どもをつれて、深川の方からのがれて来て、橋の半ば以上のところまで、ぎゅうぎゅうおされてわたって来たと思うと、急に、さきが火の手にさえぎられて動きがつかなくなり、やがてま上《うえ》へもびゅうびゅう火の子をかぶって息も出来ません。婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯《こおび》をつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐり下《おろ》し、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに、つい火気《かっき》で目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一しょに落ちこんで流れていったのだと話していました。隅田川《すみだがわ》にかかっていた橋は、両国橋のほかはすべて焼けおちてしまいました。
浜町《はまちょう》や蔵前《くらまえ》あたりの川岸《かわぎし》で、火におわれて、いかだ[#「いかだ」に傍点]の上なぞへとびこんだ人々の中には、夜《よ》どおし火の風をあびつづけて、生きた思いもなく、こごまっていた人もあり、中にはくび[#「くび」に傍点]のあたりまで水につかって、火の子が来るともぐりこみ、もぐりこみして、七、八時間も立ちつづけていた人もあったそうです。
三
こういう話をならべ上げればかぎりもありません。
同時に、一方では、あのおそろしい猛火と混乱との中で、しまいまで、おちついて機敏に手をつくし、または命をまでもなげ出して、多くの人々をすくい上げた、いろいろの人々のとうといはたらきをも忘れてはなりません。たとえば、これまで深川の貧民たちのために尽力していた、富田老巡査のごときは、火の危険な街上にしまいまで立ちつくして、みんなを安全な方向ににがし/\したあげく、じぶんはついに焼け死んでしまいました。また、下谷から焼け出された或四十がっこうの一婦人は、本郷の大学病院の後《うしろ》までにげて来ると、火の手はだんだんにそこへものびて来そうになりました。その一角には、地震でこわれかけた家々が、いる人もなく立ちのこっています。その家々へ火がついたら、すぐに病院へもえうつるわけです。婦人はそれを考えて、そこらへにげて来ている人たちをはげまし、綱なぞをあつめて来て、それでもって、みんなと一しょに、今言った家々をたおしておいて立ちのいたと言われています。あんのごとく火はちょうど、そこのところまで来てとまりました。
つぎには、これは築地《つきじ》の、市の施療院《せりょういん》でのことですが、その病院では、当番の鈴木、上与那原《かみよなはら》両海軍軍医|少佐《しょうさ》以下の沈着なしょちで、火が来るまえに、看護婦たちにたん[#「たん」に傍点]架をかつがせなどして、すべての患者を裏手のうめ立て地なぞへうつしておいたのですが、同夜八時ごろには病院も焼け落ち、十一時半には構内にある第一火薬庫がばく[#「ばく」に傍点]発し、第二火薬庫もあやうくなりました。それで、患者たち一同を、川向うの浜離宮《はまりきゅう》へうつす外《ほか》にはみちもなくなりました。川は、ちょうどひき潮ですさまじい濁流がごうごうとうずまき、たぎっています。勇敢な高橋事務員は、その中へ決然一人でとびこんで、ようやく、向うの岸にひなん[#「ひなん」に傍点]していた船にたどりつき、船頭《せんどう》たちに、患者をはこんでくれるようにと、こんこんとたのみましたが、船頭はいやがって、がんとしておうじてくれません。すると幸い、だれも人のいない船が一そう、上手《かみて》から流れて来たので、高橋さんはそれに乗りうつり、氏一人を見かねてとびこんで来た河田《かわだ》軍医と二人で、岸から岸へ綱をわたし、それをたよりに、わずか一そうの船で、すべての患者を、重病者はたんかへ乗せたまま、一人ものこらず、すっかりぶじに離宮の構内へはこび入れました。
それら全部の救護は、ことごとく、少数の医員たちの外《ほか》、すべて二十年《はたち》以下の、年わかい看護婦五十名の、ちつじょただしい、ぎせい的の努力によって、しとげられたのです。
そのとき浜離宮へは、すでに何万という市民がひなんしていました。火の子はだんだんにそこへふって来ます。そのうちに、人の気づかない、離宮の物置小屋《ものおきごや》にとび火がして、屋根へもえ上《あが》りました。向う岸から患者をはこんで来たばかりの看護婦たちのうち、田島かつ子さん以下はそれを見て、すかさずかけつけて、ひっしになって消しとめました。かつ子さんたちはそれから一と晩|中《じゅう》バケツで池の水をはこんでは屋根へかけかけして、一《ひと》いきも休まずはたらきつづけました。その小屋をけしとめなかったなら、火はたちまち離宮の建物にも移ったのです。そうなったら――そこはすでに、両面に火の手をひかえており、後《うしろ》は海なので――何万人というひなん者は、まったく被服しょう[#「しょう」に傍点]のざん[#「ざん」に傍点]死者と同じように、ことごとく焼け死ぬか海へおちてでき[#「でき」に傍点]死するかして、一人もたすからなかったはずです。
このことは、前に言った高橋さんたちのはたらきとともに、まだ世間《せけん》につたえられていないのでとくに、人々の傾《けい》ちょう[#「ちょう」に傍点]をあおいでおきたいと思います。
火災からひなんしたすべての人たちのうち、おそらく少くとも百二十万以上の人は、ようやくのことで、上にあげた、それぞれの広地《ひろち》や、郊外の野原なぞにたどりつき、飲むものも食べるものもなしに、一晩中、くらやみの地上におびえあつまっていたのです。そのごったがえしの群々《むれむれ》の中には、そこにもここにも、全身にやけどをした人や、重病者が、横だおしになってうなっている。保護者にはぐれた子どもたちが、おんおんないてうろうろしている。恐怖と悲嘆とに気が狂った女が、きいきい声《ごえ》をあげてかけ歩く。びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気《さんけ》づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさがしまわっているものがあるなどその混乱といたましさとは、じっさい想像にあまるくらいでした。多くの人は火の中をくぐって来てのど[#「のど」に傍点]がかわいて苦しくてたまらないので、きたないどぶの水をもかまわずぐいぐい飲んだと言います。上野ではしのばず池のあの泥くさりの水で粉《こな》ミルクをといて乳《ち》のみ児《ご》にのませた婦人さえありました。
火はとうとうよく二日《ふつか》一ぱいもえつづき、ところによっては三日にとび火で焼けはじめた部分もあります。官省、学校、病院、会社、銀行、大商店、寺院、劇場なぞ、焼失したすべてを数え上げれば大変です。中でも五〇万冊の本をすっかり焼いた帝国大学図書館以下、いろいろの官署や個人が二つとない貴重な文書《ぶんしょ》なぞをすっかり焼いたのは何と言っても残念です。大学図書館の本は、すっかり灰になるまで三日間ももえつづけていました。
以上の外《ほか》、火災をのがれた山の手や郊外の町の混雑もたいへんでした。家のくずれかたむいた人は地震のゆれかえしをおそれて、街上へ家財をもち出し、布《きれ》や板で小屋がけをして寝たり、どのうちへも大てい一ぱい避難者が来て火事場におとらずごたごたする中で、一日|二日《ふつか》の夜は、ばく[#「ばく」に傍点]弾をもった或暴徒がおそって来るとか、どこどこの囚人が何千人にげこんで来たというような、根もない流言によって、一部の人々は非常におびえさわぎました。むろん電灯もつかないので夜は家の中もまっくらです。いろいろ物《ぶっ》そう[#「そう」に傍点]なので、町々では青年団なぞがそれぞれ自警団を作り、うろんくさいものがいりこむのをふせいだり、火の番をしたりして警戒しました。
郊外から見ると、二日の日なぞは一日中、大きなまっ赤な入道雲見たいなものが、市内の空に物すごく、おおいかぶさっていました。それは実は、まださかんにやけている火事の烟《けむり》のあつまりだったのです。
四
しかし、震災の突発について政府以下、すべての官民がさしあたり一ばんこまったのは、無線電信をはじめ、すべての通信機関がすっかり破《は》かい[#「かい」に傍点]されてしまったために、地方とのれんらくが全然とれなくなったことです。市民たちも、摂政宮《せっしょうのみや》殿下が御安全でいらせられるということは早く一日中に拝聞して、まず御安神《ごあんしん》申し上げましたが、日光《にっこう》の田母沢《たのもざわ》の御用邸に御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。それで二日の午前に、まず第一に陸軍から、大橋|特務曹長《とくむそうちょう》操縦、林|少尉《しょうい》同乗で、天候の観測をするよゆうもなく、冒険的に日光へ飛行機をかり、御用邸の上をせんかい[#「せんかい」に傍点]しながら、「両陛下が御安泰にいらせられるなら旗をふって合図をされたい」としたためたかきつけと、東京方面の事情を上奏《じょうそう》する書面を入れた報告|筒《とう》を投下し、胸をとどろかせてまっていると、下から大きな旗がふりはじめられたので、かしこみよろこんで、帰還し 摂政宮殿下に言上《ごんじょう》しました。
皇族の方々のおんうち、東京でおやしきがお焼けになった方《かた》もおありになりましたが、でも幸《さいわい》にいずれもおけがもなくておすみになりましたが、鎌倉《かまくら》では山階宮妃《やましなのみやひ》佐紀子《さきこ》女王殿下が御《ご》圧死になり、閑院宮《かんいんのみや》寛子《ひろこ》女王殿下が小田原《おだわら》の御用邸の倒《とう》かい[#「かい」に傍点]で、東久邇宮《ひがしくにのみや》師正《もろまさ》王殿下がくげ[#「くげ」に傍点]沼で、それぞれ御惨死《ござんし》なされたのはまことにおんいたわしいかぎりです。
第一の飛行機が日光へ向った同じ午前に、一方では、波多野《はたの》中尉が一名の兵卒をつれて、同じく冒険的に生命をとして大阪に飛行し、はじめて東京地方の惨状の報告と、救護その他軍事上の重要命令を第四師団にわたし、九時間二十分で往復して来ました。それでもって大阪から日本の各地や世界中へ、東京横浜の大惨害がつたえられ、地方からの食糧輸送とうがはじまったのです。同飛行機は、火災地の上空をいきかえりしたので、機体がすす[#「すす」に傍点]でまっ黒になったと言われています。
摂政宮殿下には災害について非常に御心痛あそばされ、当日ただちに内田臨時首相をめし、政府が全力をつくして罹災者《りさいしゃ》の救護につとめるようにおおせつけになりました。二日の午後三時に政府は臨時震災救護事務局というものを組織し、さしあたり九百五十万円の救護資金を支出して、り[#「り」に傍点]災者へ食糧、飲料水をくばり、傷病者の手あて以下、交通、通信、衛生、防備、警備の手くばりをつけました。同日午後五時に、山本|伯《はく》の内閣が出来上り、それと同時に非常徴発令を発布《はっぷ》して、東京および各地方から、食料品、飲料、薪炭《しんたん》その他の燃料、家屋、建築材料、薬品、衛生材料、船その他の運ぱん具、電線、労務を徴発する方法をつけ、まず市内の自動車数百だいをとりあつめて新宿《しんじゅく》駅につまれていた六千俵の米を徴発し、り[#「り」に傍点]災者へのたき出しにあてました。
三日には東京府、神奈川、静岡、千葉、埼玉県に戒厳令が布《し》かれ、福田大将が司令官に任命されて、以上の地方を軍隊で警備しはじめました。そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨《ほしょう》が立ち、暴徒しゅう来《らい》等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安神《あんしん》しましたし、混雑につけ入って色んな勝手なことをしがちな、市中一たいのちつじょ[#「ちつじょ」に傍点]もついて来ました。出動部隊は近衛《このえ》師団、第一師団のほか、地方の七こ師団以下合計九こ師団の歩兵|聯隊《れんたい》にくわえて、騎兵、重砲兵、鉄道等の各聯隊、飛行隊の外、ほとんど全国の工兵大隊とで、総員五万一千、馬匹《ばひつ》一万頭。それが全警備区に配分されて、配給や救護や、道路、橋の修理などにも全力を上げてはたらいたのです。軍用|鳩《ばと》も方々へお使いをしました。
同時に海軍では聯合艦隊以下、多くの艦船を派出して、関西地方からどんどん食料や衛生材料なぞを運び、ひなん者の輸送をもあつかい出しました。
同日、摂政宮殿下からは、救護用として御内《ごない》ど[#「ど」に傍点]金《きん》一千万円をお下《くだ》しになりました。食料品は鉄道なぞによっても、どんどん各地方からはこばれて来たので、市民のための食物はありあまるほどになりました。
赤さびの鉄片《てっぺん》や、まっ黒こげの灰土《はいつち》のみのぼうぼうとつづいた、がらんどうの焼けあとでは、四日《よっか》五日《いつか》のころまで、まだ火気のある路《みち》ばたなぞに、黒こげの死体がごろごろしていました。隅田川の岸なぞには水死者の死体が浮んでいました。街上には電線や電車の架空線がもつれ下《さが》っている下に、電車や自動車の焼けつくした、骨ばかりのがぺちゃんこにつぶれています。風がふくたびに、こげくさい灰土がもうもうとたって目もあけていられないくらいです。二日三日なぞはその中をいろいろのあわれなすがたをした人たちがおしおしになって、ぞろぞろ流れうごいていました。いずれも一時のがれにあつまっていたところから、それぞれのつてをもとめていったり、地方へにげ出すつもりで、日暮里《にっぽり》や品川《しながわ》のステイションなぞを目あてにうつッていくのです。女たちで、すはだしのまま、つかれ青ざめてよろよろと歩いていくのがどっさりいました。手車《てぐるま》や荷馬車《にばしゃ》に負傷者をつんでとおるのもあり、たずね人《びと》だれだれと名前をかいた旗を立てて、ゆくえの分らない人をさがしまわる人たちもあります。そのごたごたした中を、方々の救護班や、たき出しをのせた貨物《かもつ》自動車がかけちがうし、焼けあとのトタン板をがらがらひきずっていく音がするなぞ、その混雑と言ったらありません。
地震のために脱線したり、たおれこわれたりした列車は、全被害地にわたって四十四列車もあります。東京から地方へのがれ出るには、関西方面|行《ゆき》の汽車は箱根のトンネルがこわれてつうじないので、東京湾から船で清水港《しみずみなと》へわたり、そこから汽車に乗るのです。東北その他へ出る汽車には、みんながおしおしにつめかけて、機関車のぐるりや、箱車《はこぐるま》の屋根の上へまでぎっしりと乗上《のりあが》って、いのちがけでゆられていくありさまでした。
焼け出されたまま落ちつく先のない人々は、日比谷公園や宮城まえなぞに立てならべられた、宮内省の救護用テントの中にはいったり、焼けのこりの板|切《ぎ》れなぞをひろいあつめて道ばたにかり小屋をつくり、その中にこごまっていたりして、たき出しをもらって食べたりしていたのです。
震災後、二た月ばかりになりますと、市民の数《かず》は、七万の死者と、九十三万の人が地方へ出ていったのとで、二百五十万人が百四十万に減ってしまいました。いきどころをもたないり[#「り」に傍点]災者の一半《いっぱん》は、そのときも、まだ、救護局が建設した、日比谷、上野、その他のバラックの中に住んでいました。工兵隊は引つづき毎日爆薬で、やけあとのたてもののだん[#「だん」に傍点]片《ぺん》なぞを、どんどんこわしていました。九階から上が地震でくずれ落ちた浅草の十二階もばく[#「ばく」に傍点]破《は》されてしまいました。こうして片づけられていく焼けあとには、片はしからどんどんかり小屋をたてて、もとの商ばいにかえる人々もあり、十一月|末《すえ》にはすべてで四万以上の小屋がけが出来、十七万人の人々がはいりました。
小学校は全市で百九十六校あったのが百十八校まで焼け、り[#「り」に傍点]災した児童の数《すう》が十四万八千四百人に上《のぼ》っています。そのうちの四割は地方や郡部にうつったものと見て、あと八万九千の人たちは、十一月にもとのところにかり校舎がたつまでは、どうすることも出来なかったのです。中には焼けあとの校庭にあつまって、本も道具もないので、ただいろいろのお話を聞いたりしている生徒もいました。そのほか公園なぞの森の中に、林間学校がいくつかひらかれていましたが、そこへかようことの出来る子たちは、全部から見ればほんの僅少《きんしょう》な一部分にすぎませんでした。
政府は東京や、その他の被害地を再興するために復興院という役所を設けました。東京市のごときは、まず根本《こんぽん》に、火事のさいに多くの人がひなん[#「ひなん」に傍点]し得る、大公園や、広場や大きな交通路、その他いろいろの地割《じわり》をきめた上、こみ入ったところには耐火的のたて物以外にはたてさせないように規定して、だんだんに再建築にかかるのですが、帝都として、すっかりととのった東京が再現するまでには、少くとも十年以上はかかるにそういありません。
最後にこの震災について諸外国からそそがれた大きな同情にたいしては、全日本人が深く感謝しなければなりません。米国はいち早く東洋艦隊を急派して、医療具、薬品等を横浜へはこんで来ました。なお数せきの御用船で食糧や、何千人を入れ得るテント病院を寄そう[#「そう」に傍点]して来ました。その病院は横浜と東京とにたてられて、のちには日本人の手で活動しました。その他、ニューヨーク市では、「一|分《ぷん》早ければ一|人《にん》多くたすかる」という標語をかかげて、市民の間からたちまちに一千万円以上のお金をつのっておくりとどけました。サンフランシスコ市では、少年少女たちが日本への義《ぎ》えん[#「えん」に傍点]金《きん》を得るために花を売り出したところ、多くの人が一たばを五十円、百円で買ったと言われています。
英国でも、皇帝、皇后両陛下や、ロンドン市民から寄附をよこし、東洋艦隊や、カナダからの数せきの船は食糧を満さい[#「さい」に傍点]して来ました。
支那《しな》では北京《ペキン》政府が二十万|元《げん》を支出して送金して来た外、これまで米殻輸出を禁じていたのを、とくに日本のために、その禁令をといたり、全国の海関税《かいかんぜい》を今後一か年間一割ひき上げて、それだけを日本へおくることを発表しました。もと支那の皇帝であられた宣統帝《せんとうてい》は、今では何《なん》の収入もない境《きょう》ぐうにいられる中から、手もとにありたけの一万元を寄附された上、今後の生活費として売りはらうつもりでいられた高貴な宝石、道具二十余点を売って十五万元のお金をよこされました。
そのほかロシヤでも、よゆうの少い沿海州の市民たちでさえも、全力をあげて日本を救えとさけび、フランス、イタリー、メキシコ、オーストラリヤでは、日をきめて興行物《こうぎょうもの》一さいをさしひかえ各戸《かくこ》に半旗を上げて、日本の不幸に同情を表《ひょう》し、義えん[#「えん」に傍点]金を集めました。
いうまでもなくこの大災害は、精神的にも物質的にも、全日本そのものの心臓をつきさされたにひとしい大被害です。単に物質だけの百一億円の損害でも、日露《にちろ》戦争の費用の五倍以上にあたり、全|国富《こくふ》の十分の一を失ったわけです。われわれはおたがいに協同努力して一日も早くこの大負傷をいやすことにつとめなければなりません。これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だらけた考《かんがえ》におち、お金の上でも、間違った、むだのついえの多い生活をしていた点がどれだけあったかわかりません。この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をする習慣をかため上げなければならないと思います。
底本:「鈴木三重吉童話集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年11月18日第1刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第六巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月10日発行
初出:「赤い鳥」
1923(大正12)年11月
※「御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。」および「帰還し 摂政宮殿下
に言上《ごんじょう》しました。」の空白は底本のままです。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [栃木県]
- 日光 にっこう 栃木県北西部の市。奈良末期、勝道上人によって開かれ、江戸時代以後、東照宮の門前町として発達。日光国立公園の中心をなす観光都市。二荒山神社・東照宮・輪王寺の建造物群と周辺は「日光の社寺」として世界遺産。人口9万4千。
- 田母沢御用邸 たのもざわ ごようてい 現、日光市日光博物館。明治32年、旧日光町の上大工町・上本町・原町に皇太子の御用邸が建設された。
- [千葉県]
- [東京都]
- 東京 とうきょう (明治前期にはトウケイとも)日本国の首都。1868年9月(慶応4年7月)
、江戸幕府の所在地であった江戸を東京と改称、京都から遷都。78年(明治11)府制を施行、89年これを15区に分けて東京市とした。1932年隣接町村を併合して35区と改め、43年府・市を廃して都制を布き、47年23特別区および市・郡・支庁の区画を定めた。特に、23区の地域を東京と呼ぶ場合もある。日本の政治・経済・文化の中枢。面積2187平方km。人口1257万7千(うち、23区は849万)。全26市。 - 東京湾 とうきょうわん 関東平野の南に湾入している海湾。狭義には観音崎と富津岬を結んだ線より北の部分を、広義には三浦半島の剣崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北の部分を指す。浦賀水道によって太平洋に通ずる。沿岸の埋立が進んでいる。
- [墨田区]
- 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
- 両国 りょうごく 東京都墨田区、両国橋の東西両畔の地名。隅田川が古くは武蔵・下総両国の国界であったための称。
- 被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
- 永代橋 えいたいばし 東京都の隅田川下流、中央区新川と江東区永代との間にかかる鉄橋。1926年竣工。長さ185m。1698年(元禄11)日本橋箱崎町と深川佐賀町との間に架設したのに始まる。
- 大川 おおかわ (2) 東京都内を流れる隅田川の吾妻橋付近から下流の異称。
- 隅田川 すみだがわ (古く墨田川・角田河とも書いた)東京都市街地東部を流れて東京湾に注ぐ川。もと荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口までをいい、流域には著名な橋が多く架かる。隅田公園がある東岸の堤を隅田堤(墨堤)といい、古来桜の名所。大川。
- 両国橋 りょうごくばし 隅田川に架かる橋で、東京都中央区東日本橋2丁目と墨田区両国1丁目とを連絡する。1661年(寛文1)完成。1932年鋼橋を架設。長さ165m。江戸時代から川開きの花火の名所。
- [千代田区]
- 神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 神保町 じんぼうちょう 東京都千代田区神田神保町。
- 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 日比谷 ひびや 東京都千代田区南部、日比谷公園のある地区。
- 日比谷公園 ひびや こうえん 日比谷にある公園。1903年(明治36)6月開園。日本最初の洋式公園。
- 須田町 すだちょう 現、JR秋葉原駅南側にある町名。一帯をよぶ地域呼称でもある。中心になるのは神田川に架かる万世橋。
- 宮城 きゅうじょう (1) 天皇の平常の居所。東京遷都後、江戸城を皇居と定めて東京城と称し、1888年(明治21)旧西の丸に宮殿を新築完成するとともに宮城と改称。現在は皇居と称する。皇城。
- [江東区]
- 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- [台東区]
- 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
- 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 坂本 さかもと (1) 村名か。現、台東区北上野・下谷・入谷・松が谷・竜泉。東叡山寛永寺の北東に位置する。
- 上野 うえの 東京都台東区西部地区の名。江戸時代以来の繁華街・行楽地。
- 不忍池 しのばずのいけ 東京、上野公園の南西にある池。1625年(寛永2)寛永寺建立の際、池に弁財天を祀ってから有名になる。蓮の名所。
- 蔵前 くらまえ 東京都台東区の隅田川西岸の地区。厩橋から蔵前橋の少し下流までを指す。江戸時代、幕府の米倉があり、札差が多く集まって居住した。
- [中央区]
- 日本橋 にほんばし (1) 東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。(2) 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
- 京橋 きょうばし (1) 東京都中央区にあった橋。江戸時代、東海道で京へ上る際に日本橋を起点として最初に渡った。(2) もと東京市35区の一つ。京橋 (1) を中心とする地帯で、昔から繁華な所。
- 浜町 はまちょう 中央区北東部、新大橋付近の隅田川西岸一帯をさす。
- 築地 つきじ 東京都中央区の一地区。銀座の南東に続く一帯。明暦の大火(1657年)後、低湿地を埋め立てて築地と称し、明治初年、一部を外国人の居留地とした。
- 浜離宮 はまりきゅう 東京都中央区にある旧離宮。もと甲府徳川綱重の別邸で、のち浜御殿と称した。明治初年離宮となり、第二次大戦後は東京都に下付され、浜離宮恩賜庭園となる。
- [文京区]
- 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
- 小石川 こいしかわ 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。文教・住宅地区。江戸時代以来の植物園(もと薬園)
・後楽園・伝通院などがある。礫川。 - [港区]
- 赤坂 あかさか 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
- 離宮 りきゅう 皇居や王宮以外の地に定められた宮殿。外つ宮。
- 御えん ぎょえん 御苑。皇室所有の庭園。禁苑。
- 宮内省 くないしょう 旧制で、皇室・皇族・華族の事務を取り扱った官庁。1869年(明治2)設置。1947年(昭和22)宮内府、49年宮内庁と改称。
- 帝国大学 ていこく だいがく 旧制の官立総合大学。1886年(明治19)の帝国大学令により東京大学が帝国大学となり、97年京都帝国大学が設立、その後東北・九州・北海道・京城・台北・大阪・名古屋の各帝国大学が設置。略称、帝大。第二次大戦後、改編され新制の国立大学となった。
- 帝国大学図書館
- [荒川区]
- 日暮里 にっぽり 現、荒川区。範囲は谷中感応寺(現、台東区天王寺)裏門あたりから道灌山方面をさし、現在のJR山手線・京浜東北線・常磐線をまたいだ東西一帯にあたる。西部の台地には寺院が多く、東部の低地には農村が広がっていた。
- [品川区]
- 品川 しながわ 東京都23区の一つ。もと東海道五十三次の第1の宿駅で、江戸の南の門戸。
- 東京湾 とうきょうわん 関東平野の南に湾入している海湾。狭義には観音崎と富津岬を結んだ線より北の部分を、広義には三浦半島の剣崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北の部分を指す。浦賀水道によって太平洋に通ずる。沿岸の埋立が進んでいる。
- 東京市 とうきょうし 1889(明治22)5月1日から1943(昭和18)6月30日まで旧東京府管下におかれた市。当初の市域は府内15区で、特例により市長の職を府知事が兼務する変則的な自治体として発足した。1898年10月1日には特例廃止により普通の市制が適用されて市役所を開庁。1932年10月、隣接地域の82町村を市域に編入して新たに20区をおき、35区となる。36年10月北多摩郡の2村を世田谷区に編入し、市域は現在の23区の範囲になった。
(日本史) - 京浜 けいひん 東京と横浜。
- [相模] 旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
- 相模灘 さがみなだ 伊豆半島と房総半島との間の海。その前面に伊豆大島が横たわる。三浦半島先端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線以北を相模湾という。
- [神奈川県]
- 横浜 よこはま 神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港以来生糸の輸出港として急激に発展。現在、全国一の国際貿易港。人口358万。
- 横須賀 よこすか 神奈川県南東部の市。三浦半島の東岸、東京湾の入口に位置する。元軍港で、鎮守府・東京湾要塞司令部・造船所などがあった。現在、米海軍・自衛隊の基地、自動車工場がある。人口42万6千。
- 鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
- 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
- 小田原御用邸 おだわら ごようてい 現、小田原市小田原城跡。明治34年には宮内省所管となり御用邸が建てられた。大正12(1923)の関東大震災で御用邸は壊れ、小田原町に払い下げられる。
- 鵠沼 くげぬま 現、藤沢市鵠沼。南に相模湾を望み、引地川と境川(片瀬川)との間の低地に位置し、東は片瀬村、北は藤沢宿に接し、北西部を東海道が通る。
- 箱根 はこね 神奈川県足柄下郡の町。箱根山一帯を含む。温泉・観光地。芦ノ湖南東岸の旧宿場町は東海道五十三次の一つで、江戸時代には関所があった。
- [伊豆]
- 大島 おおしま (2) 東京都の伊豆七島の最大島。伊豆半島の東方にある。通称、伊豆大島。面積91平方km。椿油を産する。三原山がある。
- [静岡県]
- 伊豆 いず (1) 旧国名。今の静岡県の東部、伊豆半島および東京都伊豆諸島。豆州。(2) 静岡県東部、伊豆半島中部の市。温泉が多く、保養地として首都圏からの観光客が多く訪れる。人口3万7千。
- 清水港 しみずみなと 清水湊。現、清水市。巴川の河口部に位置した湊。当湊の北、同じ巴川沿いには江尻津・江尻湊と称された古代・中世の良港があった。しかし巴川の河口が土砂の堆積によって南進したことなどから、当地が江尻に替わって発展したものと考えられる。安政地震は湊に甚大な被害を与え、河口部と周辺が隆起して湊の利用は難しくなった。明治11(1878)巴川対岸の向島に港橋が架けられ、向島の駿河湾側の一画を掘り下げて清水波止場が築造。
- [イタリア]
- メッシーナ Messina イタリア南部、シチリア島北東端の港湾都市。同名の海峡を隔てて本土に対する。古代ギリシアの植民地。人口24万8千(2004)。
- [アメリカ]
- サンフランシスコ San Francisco アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州の都市。金門海峡南岸に位置し、太平洋航路・航空路の要地。同国屈指の良港をもつ。人口77万7千(2000)。桑港。
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 一八八二(明治一五)九月二九日 鈴木三重吉、広島県広島市生まれ。
- 一九一八(大正七)七月 三重吉、児童文芸誌『赤い鳥』を創刊。
- 一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。
- 一九三六(昭和一〇)六月 三重吉、死去。
『赤い鳥』廃刊。196冊刊行。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 富田 老巡査。
- 鈴木 海軍軍医少佐。
- 上与那原 かみよなはら 海軍軍医少佐。
- 高橋 事務員。
- 河田 かわだ 軍医。
- 田島かつ子
- 大橋 特務曹長。
- 林 少尉。
- 摂政宮 せっしょうのみや → 昭和天皇
- 昭和天皇 しょうわ てんのう 1901-1989 名は裕仁(ひろひと)。幼名、迪宮。大正天皇の第1皇子。母は貞明皇后。1921年(大正10)大正天皇の摂政。26年践祚、28年京都で即位。虎ノ門事件・昭和恐慌・十五年戦争など、多難な治世を送る。47年日本国憲法により象徴天皇となる。天皇としての在位は史上最長。生物学に造詣が深かった。
(在位1926〜1989) - 山階宮妃佐紀子女王 やましなのみやひ さきこ じょおう → 佐紀子女王
- 山階宮 やましなのみや 旧宮家の一つ。1864年(元治1)伏見宮邦家親王の第1王子晃親王が、山科の勧修寺より還俗して創始。1947年宮号廃止。
- 佐紀子女王 さきこ じょおう 1903-1923 皇族。賀陽宮邦憲王第二王女。1922(大正11)に、山階宮武彦王と結婚し、後に懐妊。しかし、翌年9月1日に起こった関東大震災で、滞在中だった神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸が崩壊し薨去。
- 閑院宮寛子女王 かんいんのみや ひろこ じょおう → 寛子女王
- 閑院宮 かんいんのみや 四親王家の一つ。東山天皇の皇子直仁親王に始まる。新井白石の建議に基づき、将軍家宣の上奏により、1710年(宝永7)創立。1947年まで7代にわたり存続した。
- 寛子女王 ひろこ じょおう 1906-1923 皇族。閑院宮載仁親王第四王女。母は三条実美の次女智恵子。大正12(1923)9月1日の関東大震災の際、神奈川県小田原市の閑院宮御別邸に父載仁親王、母智恵子妃および妹華子女王と滞在中、御別邸が倒壊し、その下敷きとなって薨去。
- 東久邇宮師正王 ひがしくにのみや もろまさおう → 師正王
- 東久邇宮 ひがしくにのみや 旧宮家の一つ。1906年(明治39)久邇宮朝彦親王の子稔彦が創始。47年宮号廃止。
- 師正王 もろまさおう 1918-1923 皇族。東久邇宮稔彦王第二王子、母は明治天皇第九皇女聰子内親王。大正12(1923)9月1日に関東大震災による難に遭遇し、避暑先の藤沢町鵠沼海岸の吉村鉄之助別荘で薨去。僅か6歳であった。遺骸は鵠沼在住の退役海軍軍人(元大佐)松岡静雄の命により、差し向けられた軍艦で東京へ運ばれた。
- 波多野 はたの 中尉。
- 内田康哉 うちだ やすや 1865-1936 外交官・政治家。肥後出身。明治末年より5度外相。満州事変前後、満鉄総裁。斎藤実内閣の外相として焦土外交を唱えた。
- 山本伯 やまもと はく → 山本権兵衛
- 山本権兵衛 やまもと ごんべえ 1852-1933 軍人・政治家。薩摩藩士。海軍大将。近代海軍創設に尽力、日露戦争では海相。1913年首相となるが、翌年シーメンス事件により辞職。関東大震災の翌日、再び首相となるも、虎ノ門事件で引責辞職。海軍、また薩閥の巨頭とされた。伯爵。
- 福田大将 → 福田雅太郎
- 福田雅太郎 ふくだ まさたろう 1866-1932 明治から昭和時代前期にかけての陸軍軍人。肥前大村生まれ。日清戦争に第一師団副官として出征。日露戦争には第一軍参謀として出征。大正10年、台湾軍司令官に任ぜられ、大将に昇進した。大正12年軍事参議官に転じた直後に関東大震災がおこり、関東戒厳司令官に任ぜられたが、指揮下の軍隊による朝鮮人虐殺がおこったり、甘粕正彦憲兵大尉による大杉栄殺害事件がおこったりし、甘粕事件の責任をとって辞任した。昭和5(1930)枢密顧問官となったが、7年6月病没。
(国史) - 宣統帝 せんとうてい 1906-1967 清朝第12代、最後の皇帝。姓は愛新覚羅。名は溥儀(ふぎ)。醇親王載の子。辛亥革命により退位。1932年、日本軍部に擁せられ満州国の執政、34年皇帝(康徳帝)。日中戦争後、戦犯。59年特赦。著「わが半生」
。(在位1908〜1912)
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)- 『赤い鳥』 あかいとり 鈴木三重吉編集の童話童謡雑誌。1918年(大正7)創刊、29年(昭和4)休刊。31年再刊、36年廃刊。日本の童話を巌谷小波時代のお伽噺の域から進め、文芸的に高めた。
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
- 発震 はっしん 地震が起こること。
- 発震機構 はっしん きこう 地震波初動の押し引き分布から推定される、震源における二つの偶力の働いた方向。二つの偶力のうちの一方は、断層のずれによるものであり、地震の原因である。他方は、有限のひずみに必ず伴う偶力で断層面に垂直な面上に働く。
- 余震 よしん 大地震の後に引き続いて起こる小地震。ゆりかえし。
- 二百十日 にひゃくとおか 立春から数えて210日目。9月1日ころ。ちょうど中稲の開花期で、台風襲来の時期にあたるから、農家では厄日として警戒する。
- 初秋 はつあき 秋のはじめ。孟秋。しょしゅう。
- 堀割 ほりわり 地を掘って水を通したところ。ほり。
- 小帯 こおび
- 案の如く あんのごとく 考えていたように。推量の通りに。
- うろんくさい
- うろん 胡乱 (唐音。
「胡」はでたらめの意) (1) 乱雑であること。いいかげんであること。また、不誠実なこと。(2) 疑わしいこと。うさんくさいこと。 - 施療院 せりょういん 貧しい病人などに無料の診療を施した医療施設。
- 摂政宮 せっしょうのみや
- 拝聞 はいぶん 聞くことの謙譲語。謹んで聞くこと。拝聴。
- 特務曹長 とくむ そうちょう 陸軍の准士官。後の准尉。
- 徴発令 ちょうはつれい 軍需物資などを徴発する法令。明治15(1882)に制定。
- 徴発 ちょうはつ (1) 呼び出すこと。兵士などを強制的に召し出すこと。(2) 他人から物を強制的に取り立てること。
- 戒厳令 かいげんれい 戒厳を宣告する命令。
- 戒厳 かいげん (1) 警戒を厳にすること。(2) 〔法〕戦時・事変に際し、立法・行政・司法の事務の全部または一部を軍の機関に委ねること。通常、人権の広範な制限がなされる。日本にも明治憲法下でこの制度があった。
- 歩哨 ほしょう 兵営・陣地の要所に立って警戒・監視の任にあたること。また、その兵。
- 内帑金 ないどきん 君主の手元にある金。
- 一半 いっぱん 二分したものの一方。なかば。
- 復興院 → 帝都復興院
- 帝都復興院 ていと ふっこういん 関東大震災後の復興計画にあたった内閣の外局。1923(大正12)9月27日、組閣中に大震災に直面した第二次山本内閣が設置。総裁は後藤新平内相。復興案は街路整備を中心に計画されたが、閣議・帝都復興審議会・議会で大幅に削減され、復旧中心となった。山本内閣の辞職で、翌年2月内務省外局の復興局に縮小されたが、事業の進展により30年(昭和5)4月復興事務局に改組。32年3月廃止。
(日本史) - 急派 きゅうは 急いで派遣すること。
- 御用船 ごようせん 政府の使用に供する船舶。
- 元 げん (呉音はガン) (4) 中国の貨幣の単位。1元は10角。
- 米穀 べいこく こめ。その他の穀物を含めてもいう。
- 海関税 かいかんぜい 輸入貨物に課せられる租税。関税。
- ついえ 費え。(3) かかり。費用。入費。(4) 無用の入費。損害。むだづかい。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
2012/08/29 晴れ
夢の中に、綾瀬はるか登場! はるかちゃんのほうから言い寄ってくる! ところが、そのアップになった顔の右半分があばたに犯されている。
「これでも好きになってくれる……?」というはるかちゃんの問いかけに、瞬間、たじろいで目をそらしてしまう。瞬時に顔をそむけた自分自身にうしろめたさを抱いたところで目を覚ます。
あばた顔は自分自身の鏡像。瞬間にいだいた感情は、おそらく自分の中の他者像でもあり、自分の中の自分像でもあり、他者の中の自分像でもある。
安彦良和『神武』第一巻(中公文庫、1997)読了。つづいて同『ヤマトタケル』第一回、読了。
松岡正剛・千夜千冊の総目次をながめていたところ、第1209夜の関裕二『物部氏の正体』がふと目に止まる。ちかごろ、書店も図書館も古代史の棚にはきまって関裕二ものが陣取っていて、センセーショナルなタイトルの行列にちょっと辟易していたところ。セイゴオ先生は関裕二をかなり買ってるご様子。
神武、ニギハヤヒ……物部氏。どうやら『古事記』中巻とドンピシャだったらしい。しかも、
原田常治、いまのところ千夜千冊に単独掲載なし。手元の Wikipedia にも項目がない。
*次週予告
第五巻 第七号
校註『古事記』
第五巻 第七号は、
二〇一二年九月八日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第六号
大震火災記 鈴木三重吉
発行:二〇一二年九月一日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)前巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)前巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 第五巻 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉 - 古事記 上つ巻 序并わせたり
- 序文
- 過去の時代
- 『古事記』の企画
- 『古事記』の成立
- 一、伊耶那岐の命と伊耶那美の命
- 天地のはじめ
- 島々の生成
- 神々の生成
- 黄泉の国
- 身禊
- 二、天照らす大神と須佐の男の命
- 誓約(うけい)
- 天の岩戸
- 「吾は子を生み生みて、生みの終に、三柱の貴子(うづみこ)を得たり」と詔りたまいて、すなわちその御首珠の玉の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神にたまいて詔りたまわく、
「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さしてたまいき。かれその御首珠の名を、御倉板挙の神という。つぎに月読の命に詔りたまわく、 「汝が命は夜の食(おす)国を知らせ」と、言依さしたまいき。つぎに建速須佐の男の命に詔りたまわく、 「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまいき。 - かれ、おのもおのもよさし〔寄さす。おまかせになる〕たまえる命のまにま知らしめすうちに、速須佐の男の命、依さしたまえる国を知らさずて、八拳須心前にいたるまで、啼きいさちき。その泣くさまは、青山は枯山なす泣きからし、河海はことごとに泣き乾しき。ここをもちて悪ぶる神の音ない、狭蝿なすみな満ち、万の物のわざわいつぶさに発りき。かれ伊耶那岐の大御神、速須佐の男の命に詔りたまわく、
「なにとかも汝は言依させる国を治らさずて、哭きいさちる」とのりたまえば、答え白(もう)さく〔申すには〕、 「僕は妣の国根の堅洲国に罷らんとおもうがからに哭く」ともうしたまいき。ここに伊耶那岐の大御神、大く忿らして詔りたまわく、 「しからば汝はこの国にはな住まりそ」と詔りたまいて、すなわち神逐いに逐いたまいき。かれ、その伊耶那岐の大神は、淡路の多賀にまします。 ( 「身禊」より) - 第五巻 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 古事記 上つ巻
- 三、須佐の男の命
- 穀物の種
- 八俣の大蛇
- 系譜
- 四、大国主の神
- 兎とワニ
- 貝比売と蛤貝比売
- 根の堅州国
- 八千矛の神の歌物語
- 系譜
- 少名毘古那の神
- 御諸の山の神
- 大年の神の系譜
- ここに速須佐の男の命、その童女を湯津爪櫛にとらして、御髻に刺さして、その足名椎・手名椎の神に告りたまわく、
「汝たち、八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの仮を結い、その仮ごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待たさね〔してほしい〕」とのりたまいき。かれ告りたまえるまにまにして、かく設け備えて待つときに、その八俣の大蛇、まことに言いしがごと来つ。すなわち船ごとに己が頭を乗り入れてその酒を飲みき。ここに飲み酔いて留まり伏し寝たり。ここに速須佐の男の命、その御佩の十拳の剣をぬきて、その蛇を切り散りたまいしかば、肥の河血になりて流れき。かれその中の尾を切りたまうときに、御刀の刃毀けき。ここに怪しと思おして、御刀の前もちて刺し割きて見そなわししかば、都牟羽の大刀あり。かれこの大刀を取らして、異しき物ぞと思おして、天照らす大御神に白しあげたまいき。こは草薙の大刀なり。 - かれここをもちてその速須佐の男の命、宮造るべき地を出雲の国に求ぎたまいき。ここに須賀の地にいたりまして詔りたまわく、
「吾、ここに来て、我が御心清浄し」と詔りたまいて、そこに宮作りてましましき。かれ、そこをば今に須賀という。この大神、はじめ須賀の宮作らししときに、そこより雲立ちのぼりき。ここに御歌よみしたまいき。その歌、 - や雲立つ 出雲八重垣。
- 妻隠みに 八重垣作る。
- その八重垣を。
- ここにその足名椎の神を喚して告りたまわく、
「汝をばわが宮の首に任けん」と告りたまい、また名を稲田の宮主須賀の八耳の神と負せたまいき。 ( 「八俣の大蛇」より) - 第五巻 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 古事記 上つ巻
- 五、天照らす大御神と大国主の神
- 天若日子
- 国譲り
- 六、邇邇芸の命
- 天降り
- 猿女の君
- 木の花の佐久夜毘売
- 七、日子穂穂出見の命
- 海幸と山幸
- 豊玉毘売の命
- 八、鵜葺草葺合えずの命
- ここに天つ日高日子番の邇邇芸の命、笠紗の御前に、麗(かおよ)き美人に遇いたまいき。ここに、
「誰が女ぞ」と問いたまえば、答え白(もう)さく、 「大山津見の神の女、名は神阿多都比売。またの名は木の花の佐久夜毘売ともうす」ともうしたまいき。また「汝が兄弟ありや」と問いたまえば答え白さく、 「わが姉石長比売あり」ともうしたまいき。ここに詔りたまわく、 「吾、汝に目合せんと思うはいかに」とのりたまえば答え白さく、 「僕はえ白さじ。僕が父大山津見の神ぞ白さん」ともうしたまいき。かれその父大山津見の神に乞いに遣わししときに、いたくよろこびて、その姉石長比売をそえて、百取の机代の物を持たしめてたてまつり出しき。かれここにその姉は、いと醜きによりて、見かしこみて、返し送りたまいて、ただその弟木の花の佐久夜毘売をとどめて、一宿婚わしつ。 (略) - かれ後に木の花の佐久夜毘売、まい出て白さく、
「妾は妊みて、今産むときになりぬ。こは天つ神の御子、ひそかに産みまつるべきにあらず。かれ請す」ともうしたまいき。ここに詔りたまわく、 「佐久夜毘売、一宿にや妊める。こはわが子にあらじ。かならず国つ神の子にあらん」とのりたまいき。ここに答え白さく、 「わが妊める子、もし国つ神の子ならば、産むとき幸くあらじ。もし天つ神の御子にまさば、幸くあらん」ともうして、すなわち戸なし八尋殿を作りて、その殿内に入りて、土もちて塗りふたぎて、産むときにあたりて、その殿に火をつけて産みたまいき。かれその火の盛りに燃ゆるときに、生れませる子の名は、火照の命〈こは隼人、阿多の君の祖なり。〉つぎに生れませる子の名は火須勢理の命、つぎに生れませる子の御名は火遠理の命、またの名は天つ日高日子穂穂出見の命。 ( 「木の花の佐久夜毘売」より) - 第五巻 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年(一九二三)の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に、ただひとつ助かった。
- それも邦原君自身や家族の者が取り出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねてきて、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのとき、あたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受け取って、彼女の姓名をも聞きもらしたというのである。なにぶんにもあの混雑の際であるから、それもよんどころないことであるが、彼女はいったい何者で、どうして邦原君の避難先までわざわざ届けにきてくれたのか、それらの事情はいっさいわからなかった。
- いずれそのうちにはわかるだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け主は今にいたるまでわからない。焼け跡の区画整理はかたづいて、邦原君一家は旧宅地へ立ち戻ってきたので、知人や出入りの者などについて心あたりをいちいち聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこでさらに考えられることは、平生ならともあれ、あの大混乱の最中に身許不明の彼女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、その兜をすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいうとおり、ほとんど着のみ着のままで立ち退いたのであるから、兜などを門前まで持ち出した覚えはないというのである。
( 「兜」より) - 第五巻 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
- 新旧東京雑題
- 祭礼
- 湯屋
- そば屋
- 人形の趣味
- 十番雑記
- 仮住居
- 箙(えびら)の梅
- 明治座
- 風呂を買うまで
- 郊外生活の一年
(略)もちろん、人に吹聴するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形をかわいがるというようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲は机のうえに人形をならべて浄瑠璃を書いたと伝えられています。イプセンのデスクのわきにも、熊が踊ったり、猫がオルガンをひいたりしている人形がひかえていたといいます。そんな先例がいくらもあるだけに、わたしもなんだかそれらの大家の真似をしているように思われるのもいやですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具(おもちゃ)の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や収集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申しておきます。したがって、人形や玩具などについてなにかの通をならべるような資格はありません。 - 人形にかぎらず、わたしもすべて玩具のたぐいが子どものときから大好きで、縁日などへ行くとよりどりの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめてきたものでした。
(略)しかしそのころのおもちゃはおおかたすたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲ぶよすがはありません。とにかく子どものときからそんな習慣がついているので、わたしはいくつになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九や二十歳の大供になってもやはり玩具屋を覗く癖が失せませんでした。 ( 「人形の趣味」より)
- かれ、おのもおのもよさし〔寄さす。おまかせになる〕たまえる命のまにま知らしめすうちに、速須佐の男の命、依さしたまえる国を知らさずて、八拳須心前にいたるまで、啼きいさちき。その泣くさまは、青山は枯山なす泣きからし、河海はことごとに泣き乾しき。ここをもちて悪ぶる神の音ない、狭蝿なすみな満ち、万の物のわざわいつぶさに発りき。かれ伊耶那岐の大御神、速須佐の男の命に詔りたまわく、
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