岡本綺堂 おかもと きどう
1872-1939(明治5.10.15-昭和14.3.1)
劇作家・小説家。本名、敬二。東京生れ。戯曲「修禅寺物語」「番町皿屋敷」、小説「半七捕物帳」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)
◇表紙イラスト:「北斎漫画」


もくじ 
新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂


ミルクティー*現代表記版
新旧東京雑題
  祭礼
  湯屋
  そば屋
人形の趣味
十番雑記
  仮住居
  箙(えびら)の梅
  明治座
風呂を買うまで
郊外生活の一年

オリジナル版
新旧東京雑題
人形の趣味
十番雑記
風呂を買うまで
郊外生活の一年

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03cm。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1mの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3m。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109m強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273km)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方cm。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1306.html

NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





新旧東京雑題

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂


   祭礼


 東京でいちじるしくすたれたものは祭礼まつりである。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王さんのう、神田の明神みょうじん深川ふかがわの八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどにおとろえてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
 震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼をおこなわないでもなかったが、それは文字どおりの「型ばかり」で、のき提灯ぢょうちん花山車はなだしぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内からきだすというわけではなく、氏子うじこの町々もだいたいにおいてひっそりかんとしていて、いわゆる天下祭りなどというすばらしい威勢はどこにも見いだされなかった。
 わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年(一八八四)の九月が名残なごりで、そのときには祭礼番付ができた。その祭礼中に九月十五日の大風雨おおあらしがあって、東京府下だけでも丸つぶれ一〇八〇戸、半つぶれ二二二五戸という大被害で、神田の山車だし小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭をおこたらなかったが、その繁昌はついに十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
 山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子うじこの範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子どものときから麹町に育って、氏子うじこの一人であったために、この祭礼をもっともよく知っているが、これは明治二十年(一八八七)六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりもさびしいくらいである。
 深川の八幡はわたしの家から遠いので、くわしいことを知らないが、これも明治二十五年(一八九二)の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼がにぎやかにできたといううわさを聞かないようである。ここは山車だしや踊り屋台よりも各町内の神輿みこしが名物で、俗に神輿みこし祭りとよばれ、いろいろの由緒ゆいしょつきの神輿みこしが江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災でおおかた焼亡しょうもうしたことと察せられる。
 そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日せきじつの壮観を想像することはできない。京の祇園会ぎおんえ大阪おおさか天満てんま祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。

   湯屋


 湯屋ゆやを風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬さんばの作に『浮世うきよ風呂ぶろ』の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯せんとうとか湯屋ゆうやとかいうのが普通で、元禄げんろくのむかしは知らず、文化ぶんか文政ぶんせいから明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などという者を田舎者いなかものとして笑ったのである。それが今日では反対になってきたらしい。
 湯屋の二階はいつごろまで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年(一八八七)、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子どものときにはたいていの湯屋に二階があって、そこには若い女がひかえていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯むぎゆ〔麦茶〕を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論、風俗上の取りまりからきたのであるが、たといその取り締まりがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことをくわだてたのはないようである。
 五月節句の菖蒲しょうぶ湯、土用のうちのもも湯、冬至のゆず湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉をわかした湯に入ると、虫に食われないとかいうのであったが、客が喜ばないのか、湯屋のほうで割に合わないのか、いつとはなしにめられてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲しょうぶ湯もゆず湯も型ばかりになってしまって、これもやがてはめられることであろう。
 むかしは菖蒲しょうぶ湯またはゆず湯の日には、湯屋の番台に三方さんぼうがすえてあって、客のほうでは「おひねり」ととなえ、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりもいくぶんか余計よけいにつつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲しょうぶ湯やゆず湯の日でもだれもおひねりを置いてゆく者がない。湯屋のほうでも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋にとっては菖蒲しょうぶゆず代だけが全然損失にするわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲やゆずを入れない。はなはだしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。ゆずの実を麻袋に入れてつないでおくのもある。こんな殺風景なことをするほどならば、いっそ桃湯同様に廃止したほうがよさそうである。
 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどといばったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年(一九一九)の十月からいっせいに廃止となった。早朝から風呂をたいては湯屋の経済が立たないというのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それはきわめて少数で、だいたいにおいては午後一時ごろに行ってもまだ本当にいていないというのが通例になってしまった。
 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどという説もあるが、これも実行されそうもない。

   そば屋


 そば屋は昔よりもいちじるしくきれいになった。どういうわけか知らないが、湯屋ゆやとそば屋とその歩調を同じくするもので、湯銭ゆせんが上がればそばの代も上がり、そばの代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対してそばのもりかけは十銭という倍額になった。もっとも、湯屋のほうは公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値上げを許可しないのである。
 わたしたちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこのそば屋もみなきたないものであった。きれいなそば屋にそばのうまいのは少ない、うまいそばを食いたければ汚い家へゆけと昔から言い伝えたものであるが、そのそば屋がみなきれいになった。そうして、だいたいにおいてまずくなった。まことに古人われをあざむかずである。山路やまじ愛山あいざん氏が何かの雑誌にそばのことを書いて、われわれの子どもなどはそばは庖丁ほうちょうで切るものであるということを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか言ったが、たしかに機械切りのそばはうまくないようである。そば切り庖丁ぼうちょうなどということばはいつか消滅するであろう。
 人間が贅沢ぜいたくになってきたせいか、近年はそば屋で種物たねものを食う人が非常に多くなった。それに応じて種物たねものの種類もすこぶるえた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうのそばを味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物たねものなどをよろこんで食うのは女子どもであるということになっていたが、近年はそれが一変して、ぜにのない人間が盛・掛を食うということになったらしい。種物たねものでは本当のそばの味はわからない。そば屋がそばを吟味ぎんみしなくなったのも当然である。
 地方の人が多くなった証拠として、うどんを食う客が多くなった。そば屋はそばを売るのが商売で、そば屋へ行ってうどんをくれなどというと、田舎者いなかものとして笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみなうどんを売る。阿亀おかめとか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、うどん台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていればそばに決まっていると思うが、それでも念のためにうどんであるかないかを確かめる必要があるほどに、うどんを食う客が多くなったのである。
 かの鍋焼きうどんなども江戸以来の売り物ではない。上方かみがたでは昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴ふうりんそばとか夜鷹よたかそばとか呼んでいたのである。鍋焼きうどんが東京に入りこんできたのは明治以後のことで、黙阿弥もくあみの『嶋鵆しまちどり月白浪つきのしらなみ』は明治十四年(一八八一)の作であるが、その招魂社しょうこんしゃ鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、そのかわりに鍋焼きうどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼きうどんに変わってしまった。なかにはシュウマイ屋に化けたのもある。
 そば屋では大正五、六年(一九一六、一九一七)ごろから天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、そばのうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。
(昭和2(一九二七)・4『サンデー毎日』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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人形の趣味

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



 ××さん。
 どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろというご注文でしたが、じつのところ、わたしは何も専門的に玩具おもちゃや人形を研究したり収集しゅうしゅうしたりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形をかわいがっているのは事実です。
 もちろん、人に吹聴ふいちょうするような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形をかわいがるというようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田たけだ出雲いずもは机のうえに人形をならべて浄瑠璃を書いたと伝えられています。イプセンのデスクのわきにも、熊がおどったり、猫がオルガンをひいたりしている人形がひかえていたといいます。そんな先例がいくらもあるだけに、わたしもなんだかそれらの大家たいか真似まねをしているように思われるのもいやですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱいならべてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具おもちゃの話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や収集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申しておきます。したがって、人形や玩具おもちゃなどについてなにかのつうをならべるような資格はありません。
 人形にかぎらず、わたしもすべて玩具おもちゃのたぐいが子どものときから大好きで、縁日などへ行くとよりどりの二銭八りんの玩具をむやみに買いあつめてきたものでした。二銭八りん―なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子どものころ、明治十八、九年(一八八五、一八八六)ごろまでは、どういう勘定から割り出してきたものか、縁日などで売っている安い玩具おもちゃは、たいてい二銭八りんと相場が決まっていたものでした。さらにやすいのは一銭というのもありました。もちろん、それより高価のもありましたが、われわれはたいてい二銭八りんから五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子どもたちにくらべると、これがほんとうの「幼稚ようち」というのかもしれません。しかしそのころのおもちゃはおおかたすたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしをしのぶよすがはありません。とにかく子どものときからそんな習慣がついているので、わたしはいくつになっても玩具おもちゃや人形のたぐいに親しみをもっていて、十九つづ二十歳はたち大供おおどもになってもやはり玩具屋をのぞくせせませんでした。
 そんな関係から、原稿などを書く場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然につきはじめたので、べつに深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものはおそろしいもので、それがだんだんに年をへるにしたがって、机の上に人形がないとなんだか物たらないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つならべるならばまだいいのですが、どうもそれでは物たらない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初のころは、脚本などを書く場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優やくしゃのかわりにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形がひかえていないと、なんだかまりがつかないようで、どうもおちついた気分になれません。小説を書く場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行きづまったような場合には、棚から手あたりしだいに人形をおろしてきて、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでゴタゴタと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「きゅうすれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をするとわかっているときにはかならず相当の人形をかばんに入れて同道して行きます。
 人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮にも人形と名のつくものならばなんでもいいので、べつに故事こじ来歴らいれきなどを詮議しているのではありません。要するに店じまいのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多がらくたがただ雑然と押し合っているだけのことですから、なにかおめずらしい人形がありますかなどとかれると、さっそく返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱をひっくりかえしたようだというのは、まったくわたしの書棚で、はじめて来た人に、「お子ども衆がよほどたくさんおありですか」などとかれて、いよいよ赤面することがあります。
 その瓦楽多がらくたのなかでも、わたしが一番かわいがっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっとおもしろいものです。先年、三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍したとき、満州の海城かいじょうの城外に老子ろうしびょうがあって、その祭日に人形をまわしにきたシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例のくせがムラムラとおこったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首の中から二つだけを無理に売ってもらいました。なにしろ土焼きですから、よほどていねいに保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながらこわれてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、木太刀きだち」の星野ほしの麦人ばくじん君の手をへて、神戸の堀江ほりえ君という未見の人からシナのあやつり人形の首を十二個送られました。これも三つばかりはこわれていましたが、南京ナンキンで買ったのだとかいうことで、わたしが満州で見たものとちっとも変わりませんでした。わたしはいったん紛失したおいえ宝物ほうもつをふたたびたずね出したようによろこんで、もろもろの瓦楽多がらくたのなかでも上座に押しすえて、今でももっとも敬意を表しています。ことにそのなかの孫悟空そんごくうは、わたしが申歳さるどしの生まれである因縁から、とりわけて寵愛ちょうあいしているわけです。
 そのほかの人形は―きょう伏見ふしみ奈良なら博多はかた伊勢いせ秋田あきた山形やまがたなど、どなたもご存じのものばかりで、例の今戸焼いまどやきもたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見がおもしろいと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなってきたようです。伏見の饅頭まんじゅう人形などはとりわけておもしろいと思います。伊勢の生子うぶこ人形も古風で雅味がみがあります。庄内しょうない小芥子人形は遠い土地だけにあまり世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、そのすそのほうを持って肩をたたくと、その人形の首がちょうどいいぐあいに肩の骨にコツコツとあたります。もちろん、非常に小さいものもありますから、肩をたたくのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かけるときには持ってゆくといいます。こんなたぐいを穿索せんさくしたら、各地方にいろいろのおもしろいものがありましょう。
 広東カントン製の竹彫りの人形にもなかなか精巧にできたのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒めんどうなものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆がま仙人がもっとも器用にできています。先年、外国へ行ったときにも、なにかおもしろいものはないかと方々探し歩きましたが、どうもこれはというほどのものを見あたりませんでした。戦争のために玩具おもちゃの製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈ばっこしているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んでくることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買ってきましたけれど、とりたてて申し上げるほどのものではありません。
 なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代いえじゅうだいというようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董こっとう趣味で古い人形をあつめる人、ただ何がなしに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしはもちろん、その最後の種類に属すべきものです。で、はなはだ我田がでん引水いんすいのようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとかいうので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとはいわれまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖にすぎないので、古いすずりを愛するのも、古い徳利とっくりを愛するのも、しょせんは同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形としてかわいがってやらなければなりません。その意味において、人形の新古や、値の高下こうげや、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかにかわいらしいとか、おもしろいとかいう点を発見したならば、連れて帰ってかわいがってやることです。
 舞楽ぶがくめんを毎日ながめていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものについてなにかさとるところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、かわいらしい人形をながめていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしはなにか気分がムシャクシャするようなときには、伏見人形のおにや、今戸焼のタヌキなどを机の上にならべます。そうして、その鬼やタヌキの滑稽こっけいな顔をつくづくながめていると、自然に頭がくつろいでくるように思われます。
 くどくも言うとおり、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧にできているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい注文を持ち出すから面倒めんどうになるので、わたしからいえばそれらは真の人形好きではありません。もちろん、わたしのように瓦楽多がらくたをむやみに陳列するにはおよびませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚の上に飾って、朝夕に愛玩あいがんするのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとかやすいとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。やすいものを飾っておいてはみっともないなどといっているようでは、ともに人形の趣味を語るにたらないと思います。やすい人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、そのかずも二つか三つでもよろしい。それを座右に飾って朝夕に愛玩あいがんすることを、わたしはみなさんにおすすめ申したいと思います。
 不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉かきに親しませるという方法が近年おこなわれてきたようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にもつとめて人形を愛玩あいがんさせる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをおすすめ申したいと思っています。なんの木偶でくぼう―とひと口にいってしまえばそれまでですが、生きた人間にも木偶でくぼうおとったのがないとはいえません。魂のない木偶でくぼうから、われわれはかえって生きた魂を伝えられることがないともかぎりません。
 我田引水といわれるのを承知のうえで、私はここに人形趣味をおおいに鼓吹こすいするのであります。
(大正9(一九二〇)・10『新家庭』
 この稿を書いたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年(一九二三)九月一日をなごりに私と長い別れをげてしまった。彼らは焼けてくだけて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つのこげた人形を掘り出してきてくれた。

わびしさや そでのこげたる 秋のひな
『十番随筆』所収)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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十番雑記ざっき

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



 昭和十二年(一九三七)八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
 虫干ししながらの書庫の整理も、連日の秋暑しゅうしょに疲れがちでとかくに捗取はかどらない。いよいよ晦日みそかであるから、思いきって今日じゅうにかたづけてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古ほご同様のものであったが、その中に「十番雑記ざっき」というのがある。わたしは大正十二年(一九二三)の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布あざぶ十番じゅうばん仮寓かぐうしていた。ただいま見いだしたのは、その当時の雑記である。
 わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳ねこやなぎ』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗うすぐらい窓のもとで、師走しわすの夜の寒さにすくみながら、当時の所懐しょかいと所見とを書き捨てたままで、べつにそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押し込んでしまったのであろう。自分も今までまったく忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情にたえなかった。それと同時に、いまさらのように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでもないように思われて、なんだか捨てがたい気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。

   仮住居


 十月十二日の時雨しぐれふる朝に、わたしたちは目白めじろ額田ぬかだ六福ろっぷく方を立ち退いて、麻布宮村町みやむらちょうへ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸し家である。裏は高いがけになっていて、南向きの庭には崖のすそ草堤くさづつみがななめに押しよせていた。
 崖下がいかの家はあまりうれしくないなどと贅沢ぜいたくを言っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多めったき家のあろうはずはなく、さんざんに探しぬいたあげくのはてに、河野こうの義博よしひろ君の紹介でようようここにおちつくことになったのは、まだしものさいわいであるといわなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字どおりに、はし一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、なにかと面倒めんどうなことが多い。ふだんでも冬の設けにいそがしい時節であるのに、新世帯もちのわれわれはいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でないうえに、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころくずれ落ちていた。障子もやぶれていた。ふすまいたんでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにかきれいに刈り取ってくれた。壁のくずれたところも一部分はってくれた。ふすまだけは家主から経師屋きょうじやの職人をよこして応急の修繕しゅうぜんをしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりでり残しの壁をはることにした。さいわいに女中が器用なので、まず日本紙で下張りをして、その上を新聞紙ではりつめて、さらに壁紙でうわばりをして、これもどうにかこうにか見苦みぐるしくないようになった。そのあくる日には障子しょうもはりかえた。
 そのかたわらに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買い歩いた。妻や女中は火鉢やたらいやバケツや七輪しちりんのたぐいを毎日買い歩いた。これでまず不完全ながらも文房具や世帯道具がひととおり整うと、今度は冬の近いのにおびやかされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たないわれわれは、どんな粗末なものでもよいから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類はできあいを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織はおり綿入わたいれや襦袢じゅばんや、その針仕事に女たちはまたいそがしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとがかわるがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線に行かれたところも、今ではとんでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分で行かれたところも、三十分五十分を要することになる。もちろん、どの電車も満員で容易に乗ることはできない。市内の電車がこのありさまであるから、それにつれて省線の電車がまた未曽有みぞうの混雑をきたしている。それらの不便のために、一日イライラながらけ歩いても、わずかに二軒か三軒しかまわりきれないような時もある。またそのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災によって生じたもろもろの事件の始末もつけなければならない。こうしてわたしも妻も女中らも無暗むやみにあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れてゆくのである。
「こんな年は早くすぎてしまう方がいい。
 まあ、こんなことでも言うよりほかはない。なにしろよほどの老人でないかぎりは、生まれて初めてこんな目に出逢であったのであるから、狼狽ろうばい混乱、どうにも仕様のないのがあたりまえであるかもしれないが、罹災りさい以来そのあと始末に四か月をついやして、まだほんとうにおちつかないのは、まったく困ったことである。年があらたまったといって、すぐに世の中が改まるわけでないのはわかりきっているが、それでも年が改まったらば、心持ちだけでもなんとか新しくなりうるかと思うがゆえに、こんな不祥ふしょうな年は早く送ってしまいたいというのも普通の人情かもしれない。
 今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるかわからない。元旦も晴れか雨か、風か雪か、それすらもまだわからないくらいであるから、今から何もいうことはできないが、いずれにしてもわたしはこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいを失っても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であるといわなければならない。わたしは今までにも奢侈おごりの生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接・間接に多大の損害を受けているから、そのいくぶんを回復するべくおおいに働かなければならない。まず第一に書庫の復興をはからなければならない。
 父祖の代から伝わっている刊本・写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらはもちろんあきらめるよりほかはない。そのほかにもわたしが随時に記入していた雑記帳、随筆、書き抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、いまさらやむのは愚痴ぐちである。せめてはその他の刊本・写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収はおぼつかなそうである。このごろになって書棚のさびしいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々きゅうきゅうとして帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興をはからなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式において、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家では、これまでもあまり正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変わったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対してぜんぜん無沙汰ぶさたで打ちぎるのもなんだか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことをハガキにしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常にみごとな花をつけるということであるが、元日までにはおそらく咲くまい。
(大正十二年(一九二三)十二月二十日)

   えびらの梅


狸坂たぬきざか くらやみ坂や 秋のくれ
 これは、わたしがここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂とよばれている。今でもかなりに高い、薄暗うすぐらいような坂路であるから、昔はさこそとしはかられて、タヌキ坂、くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身にとっては、この二つの坂の名がいっそう幽暗ゆうあんの感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にもタヌキ羊羹ようかん、タヌキせんべいなどがある。カフェー・たぬきというのも出来た。子どもたちも「麻布あざぶ十番、タヌキが通る」などと歌っている。タヌキはここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかしキツネやタヌキの巣窟そうくつであったらしく思われる。わたしもここに長く住むようならば、綺堂きどうをあらためてタヌキ堂とかキツネ堂とかいわなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「キツネに穴あり、人の子は枕するところなし」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし、わたしの横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみだせば、麻布あざぶ第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前にひろがっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃はわたしたちのような避難者がおびただしく流れ込んできて、平常よりもさらに幾層の繁昌を増している。ことに歳の暮れに押しつまって、ここらの繁昌と混雑はひととおりでない。あまり広くもない往来の両側に、つきの商店と大道の露店とが二重に隙間すきまもなくならんでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。またその中を自動車、自転車、人力車、荷車がたえず往来するのであるから、油断ゆだんをすれば車輪にひかれるか、路ばたの大溝おおどぶへでも転げ落ちないともかぎらない。じつにものすごいほどの混雑で、麻布あざぶ十番タヌキが通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来てケガをしてはつまらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
 そうは言っても、買い物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、なにかしら買って帰るのである。震災にりたのと、経済上の都合つごうとで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければすまないような必要品が次から次へと現われてきて、いつまでたってもてしがないように思われる。ひとくちに瓦楽多がらくたというが、その瓦楽多がらくた道具をよほどたくさんにたくわえなければ、人間の家一戸を支えていかれないものであるということを、このごろになってつくづくさとった。わたしたちばかりでなく、すべての罹災者りさいしゃはみなどこかでこの失費しっぴ面倒めんどうとをくり返しているのであろう。どう考えても、おそるべきわざわいであった。
 その鬱憤うっぷんをここにもらすわけではないが、十番の大通りはひどくみちの悪いところである。震災以後、路普請みちしんなどもなにぶん手まわりかねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡すかぎり一面の泥濘ぬかるみで、ほとんど足の踏みどころもないと言ってよい。その泥濘ぬかるみの中にも露店が出る、買い物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着とんちゃくしていられないのであろうが、わたしのような気の弱い者はその泥濘ぬかるみにおびやかされて、途中からむなしく引っ返してくることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるいおこして、そのぬかるみを踏み、その混雑をおかして、やや無用に類するものを買ってきた。わたしの外套がいとうそでの下にしのばせている梅の枝と寒菊かんぎくの花がそれである。移転以来、花を生けてながめるという気分にもなれず、花を生けるような物もそなえていないので、さきごろの天長てんちょう祝日に町内の青年団から避難者に対して戸ごとに菊の花を分配してくれたときにも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土にさしこんでおくにすぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利とっくりのような花瓶かびんを見つけて、ふとそれを買い込んできたのがはじまりで、急に花を生けてみたくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともしころにようやく書き終わった原稿をポストに入れながら、夜の七時半ごろに十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走しわすもだんだんにかぞにせまったので、混雑もまた予想以上である。その間をどうにかこうにかもぐりぬけて、夜店の切り花屋で梅と寒菊かんぎくとを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえてくるチャブ台に突きあたるやら、乙の女のげてくる風呂敷ふろしきづつみにれあうやら、ようようのことで安田銀行支店のかどまで帰りついて、人通りのやや少ないところでそでの下からかの花をり出して、電灯のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花もつぼみもかなりにいためられて、梶原かじわら源太げんたが「えびらの梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。
 この源太は二度のけをする勇気もないので、寒菊かんぎくの無難をせめてものさいわいに、えびらの梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中島なかじま俊雄としおが来て待っていた。
渋谷しぶや道玄坂どうげんざかあたりはたいへんな繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は言った。
「なんといっても、焼けない土地はしあわせだな。
 こういいながら、わたしは梅と寒菊かんぎくとを書斎の花瓶かびんにさした。底冷えのするよいである。
(十二月二十三日)

   明治座


 この二、三日はバカに寒い。けさは手水鉢ちょうずばちに厚い氷を見た。
 午前八時ごろに十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人がいそがしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次さだんじ一座が出演することになったので、にわかに修繕しゅうぜん工事にとりかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞せきばくとして横たわっていた建物が、急に生きかえって動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。たき火のけむりが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ちまってめずらしそうにそれをながめている人たちもある。
 足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上こうじょう看板がもうあがっている。二部興行で、昼の部は「忠信ただのぶ道行みちゆきいざり仇討あだうち」鳥辺山とりべやま心中」、夜の部は「信長記しんちょうき浪華なにわ春雨はるさめ双面ふたおもて」という番組も大きくり出してある。
 左団次一座が麻布あざぶの劇場に出勤するのは今度がはじめであるうえに、震災以後、東京で興行するのもこれがはじめであるから、その前景気まえげいきははなはだ盛んで、麻布十番の繁昌にまたいっそうの光彩をそえた観がある。どの人も浮かれたような心持ちで、劇場の前に群れ集まってきて、なにを見るともなしにたたずんでいるのである。
 わたしもその一人であるが、浮かれたような心持ちは他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、またその上演の番組のことも、わたしはうから承知しているのではあるが、いまやこの小さい新装の劇場の前に立ったときに、復興とか復活とかいうような、新しく勇ましい心持ちが胸いっぱいにみなぎるのを覚えた。
 わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つにはわたし自身の性格のしからしむるところとで、わたしは従来、自分の作物さくぶつの上演ということについてはあまりに敏感でないほうである。もちろん、不愉快なことではないが、またさのみに愉快ゆかいとも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の興奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに「鳥辺山心中」と「信長記」と「浪華の春雨」と、わたしの作物が三種までも加わっているというばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていたわたしにとって、自分はやはり何物をか失わずにいたということを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えているひまはない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つあるごときさざめきが伝えられている。
 わたしは愉快ゆかいにそれを聴いた。わたしもそれを待っているのである。少年時代の昔にかえって、春を待つというわかやいだ心がわたしの胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物たまものである。

「いや、まだほかにもある。
 こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだすべりそうにこおっているその細い路を、わたしの下駄げたはカチカチとんで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
 震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚のかたすみに押し込んである雑誌や新聞の切り抜きを手あたりしだいにバスケットへつかみこんできた。それから紀尾井町きおいちょう、目白、麻布あざぶと転々する間に、そのバスケットの底をていねいに調べてみる気もおこらなかったが、麻布にひとまずおちついて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切り抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存しておいたもので、自分自身の書いたものは二束にすぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆ももちろん全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでもつかみ出してきたのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊にまとめてみようかと思い立ったが、なにかと多忙に取りまぎれて、今日までそのままになっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切り抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
 わたしは今までずいぶんたくさんの雑文を書いている。その全部の中から選み出したらば、いくらか見られるものもできるかと思うのであるが、前にもいうとおり、手あたりしだいにバスケットへつかみこんできたのであるから、中には書き捨ての反古ほご同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨てがたい形見のようにも思われるので、なんでもかまわずにきあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、いっこうに仕事ははかどらず、どうにかこうにか片付かたづいたのは夜の九時ごろである。それでも門前には往来の足音がいそがしそうに聞こえる。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業よなべをしているのであろうなどとも思った。
 さて、まとまったこの雑文集の名を何といっていいかわからない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにしておいた。これもまた記念の意味にほかならない。
(昭和12(一九三七)・10刊『思い出草』所収)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



風呂を買うまで

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



 わたしは入浴が好きで、大正八年(一九一九)の秋以来、あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草あさくさ千束町せんぞくまちあたりの湯屋ゆやでは依然として朝湯をたくという話を聞いて、山の手から遠くそれをうらやんでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
 わたしが多年行きなれた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつもまっさきに立って運動する一人であるといううわさを聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼をのろっていたのであるが、のろわれた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白にいったん立ち退いて、雑司ヶ谷ぞうしがや鬼子母神きしもじん付近の湯屋にゆくことになった。震災後、どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合わせでもしたのかしれない、ふたたび開業するときには、たいていその初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯みそのゆという湯屋でその二日間、無料の恩恵をこうむった。恩恵に浴すとはまったくこのことであろう。それから十月のはじめまでわたしは、毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前ですすきを持っている若い婦人に出逢であった。その婦人もこの近所に避難している人であることをかねて知っているので、うすら寒い秋風になびいているそのすすきずれが、わたしの暗い心をひとしおさびしくさせたことを記憶している。
 わたしはそれから河野こうの義博よしひろ君の世話で、麻布あざぶの十番に近いところに貸し家を見つけて、どうにかまず新世帯を持つことになった。十番は平生へいぜいでも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまたいっそうはなはだしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋もすこしおくれて行くと、いもを洗うような雑踏ざっとうで、入浴する方がかえって不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここではこしと日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯でゆず湯に入った。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲しょうぶ湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしくながめながら、湯屋の新しいガラス戸をくぐった。

宿無やどなしも 今日はゆず湯の 男かな

 二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂の中はさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいるゆずの数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりとにおう柚の香は、このごろとかくにとがりがちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来はじめてほんとうに入浴したような、安らかなさわやかな気分になった。
 麻布あざぶで今年の正月をむかえたわたしは、その十五日にふたたびかなりの強震にあった。去年の大震でいたんでいる家屋がさらに破損して、長く住むにはたえられなくなった。家主も建てなおしたいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保おお百人町ひゃくにんまち「ひゃくにんちょう」か〕に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどうおちつくかわからない不安をいだきながら、ともかくもここをかり宿やどりと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらのツツジの咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲しょうぶ湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とはちがって、ここの菖蒲しょうぶは風呂いっぱいに青い葉を浮かべているのが見るからこころよかった。おおかた子どもたちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲しょうぶの幾束が小桶こおけしてあったのも、なんとなく田舎いなかめいておもしろかった。四日も五日もあいにくにかげっていたが、これで湯あがりにあおぎ見る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快そうかいであろうと思われた。
 湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることができた。日盛ひざかりに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
 わたしの家に湯殿はあるが、風呂ぶろがないので内湯うちゆくわけに行かない。さいわいに井戸の水はいいので、七月から湯殿で行水ぎょうずいを使うことにした。大盥おおだらいに湯をなみなみとたたえさせて、遠慮なしにザブザブ浴びてみたが、どうも思うようにいかない。行水――これも一種の俳味はいみをおびているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへとり出して、つとめて俳味をよびおこそうとした。わたしの家の畑にはトウモロコシもある、小さい夕顔ゆうがお棚もある、虫の声も聞こえる。月並つきなみながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひととおりそろっているのであるが、どうもいっこうに俳味はいみも俳趣もかび出さない。
 行水をつかって、トウモロコシの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満州で野天のてん風呂を浴びたことを思い出した。海城かいじょう遼陽りょうようその他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。さいわいにたいていの民家には大きいかめが一つ二つはえてあるので、そのかめを畑の中へ持ち出して、高梁コウリャンをたいて湯をわかした。満州の空は高い、月は鏡のようにすんでいる。畑にはスイカや唐茄子とうなすつるをはわせて転がっている。その中でかめから首を出して鼻唄を歌っていると、まるでキツネにかされたような形であるが、それも陣中の一興いっきょうとして、その愉快ゆかいは今でも忘れない。かめは焼き物であるから、湯があまりにきすぎた時、うかつにそのふちなどに手足をふれると、火傷やけどをしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
 しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天のてん風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水ぎょうずいも思ったほどに風流でない。せまくても窮屈きゅうくつでも、やはりえ風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿やどなしが一句うかんだ。

宿無やどなしが 風呂桶ふろおけを買う 暑さかな

(大正13(一九二四)・7『読売新聞』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
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郊外生活の一年

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



 震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九か月で、月並つきなみの文句ではあるが光陰流水の感にたえない。大久保へ流れこんできたのは〔大正〕十三年(一九二四)の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、はからずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物たまものと言っていいかもしれない。もちろん、その賜物たまものに対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
 はじめてここへ移ってきたのは、三月の春寒はるさむがまだ去りやらないころで、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝からかげって、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原とやまがはらには、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州びしゅう侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情ふぜいもなしに大きいれ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角ばった赤レンガの建築と、東洋製菓会社の工場にそびえている大煙突えんとつと、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙すなけむりと、これだけの道具をならべただけでもたいていは想像がつくであろう。じつに荒涼索莫さくばく、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満州の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住みなれている家内の女たちは言った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
 省線しょうせん電車や貨物列車のひびきも愉快ゆかいではなかった。陸軍の射的場しゃてきばのひびきもずいぶん騒がしかった。戸山ヶ原やまはらで夜間演習のときは、小銃を乱射するにもおどろかされた。湯屋の遠いことや、買い物の不便なことや、いちいちかぞえ立てたらいろいろあるので、わたしもここまで引っ込んできたのをやむような気にもなったが、れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春がきて、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣いけがきをこえて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっているわたしの家は絵のように見えた。戸山ヶ原とやまがはらにも春の草がえ出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろめったに見られない大きいトンビが悠々ゆうゆうと高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思いなおした。
 五月になると、大久保名物のツツジの色がここら一円をにわかに明るくした。ツツジ園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、すこしでも庭のあるところにツツジの花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にもみな、めざましい花をつけていた。わたしの庭にも紅白はもちろん、むらさきや樺色かばいろの変わりだねも乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持ちになって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、ひまさえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだをのぞき歩いた。
 庭の広いのとき地の多いのとを利用して、わたしも近所のひとまねに花壇かだんや畑を作った。花壇には和洋の草花の種をメチャクチャにまいた。畑にはトウモロコシや夏大根の種をまき、ナスやウリの苗を植えた。ユウガオの種もまき、ヘチマの棚も作った。不精者ぶしょうもののわたしにとっては、それらの世話がなかなかの面倒めんどうであったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりをいとわなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑にはくきつるがのび、葉や枝がひろがって、庭一面にぬれていた。
 夏になって、わたしを少しく失望させたのは、かわずのいっこうに鳴かないことであった。筋向こうの家の土手下のどぶで、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞こえなかった。麹町あたりでも震災前にはずいぶんその声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。ほたるも飛ばなかった。よそからもらったほたるを庭に放したが、その光はひと晩ぎりでみなどこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかにかわずを聴き、ほたるをながめようとしていたわたしの期待は裏切られた。そのかわりに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりにほえている。
 幾月か住んでいるうちに、買い物の不便にもなれた。電車や鉄砲の音にもおどろかなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂をたくことにした。風呂の話は別に書いたが、夕暮れのすずしい風にみだれるトウモロコシの花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりとひたっているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、のんきにさとるようにもなった。しかも、そうのんきにかまえてばかりもいられない時がきた。八月になるとひでりつづきで、さなきだに〔そうでなくてさえ〕水にとぼしいここら一帯の居住者は、水をうれいずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底をのぞくようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅をこえた遠方からわたしの井戸の水をもらいにきた。この井戸は水の質もよく、水の量も比較的に多いので、覿面てきめんに苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間はくめないような日もあった。庭の散水まきみずを倹約する日もあった。せっかくの風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少しりつづくと、ここらは水切れにおびやかされるのであると、土地の人は話した。
 かわずほたるとおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。ぜんぜん鳴かないというのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋のはじめになると機織虫はたおりむしなどが無暗むやみに飛び込んできたものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聞かれないのは、わたしの心をさびしくさせた。虫が少ないとともに、ヤブも案外に少なかった。わたしの家で蚊やりをたいたのは、前後ふたつきにすぎなかったように記憶している。
 秋になっては、コスモスと紫苑しおんがわたしの庭をにぎわした。夏の日ざかりにヒマワリがのきを越えるほど高く大きく咲いたのも愉快ゆかいであったが、紫苑しおんが枝や葉をひろげて高く咲きほこったのもわたしをよろこばせた。紫苑しおんといえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株もむらをなしているときは、かのヒマワリなどと一様に、むしろ男性的の雄大な趣きを示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉のかげから雲のようにたなびき出ているのを遠くながめると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からはあまりに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てからわたしはこの紫苑おんがひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑しおんえたいと思っている。
 トウモロコシもよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼くけむりをただながめているばかりであった。ヘチマも大きいのが七、八本ぶらさがって、その中には二尺をこえたのもあった。
 郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞさびしさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭のすすき木枯こがらしをおそれるようになると、ふたたびかの荒涼索莫さくばくがくり返されて、宵々よいよいごとに一種の霜気そうきが圧してくる。朝々ごとに庭の霜柱しもばしらが深くなる。晴れた日にもめずらしい小鳥がさえずってこない。戸山ヶ原とやまがはらは青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落とすと、わずかに生き残ったれ草が北風と砂煙すなけむりにいたましくむせんで、かの科学研究所のレンガや製菓会社の煙突えんとつがふたたび眼立ってくる。夜は火のまわりのの音がたえず聞こえて、霜にほえる家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりもたしかに強いので、感冒かぜにかかりやすいわたしは、おおいに用心しなければならなかった。
 郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよいほうではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕らえられたが、それからまもなく、わたしの家でも窃盗せっとうに見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物いちもつをも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾ずきんを残して立ち去った。一応、それを届けておくと、警察からは幾人の刑事巡査が来てていねいに現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野なかのの町で捕らわれたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰ってくる途中、横町の暗いところで例のチカンにおそわれかかったが、おりよく巡査が巡回してきたので救われた。とかくにこの種のチカンが出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版とうしゃばんの通知書をまわしてきたことがある。わたしの住んでいる百人町にはさいわいに火災はないが、淀橋よどばしあたりには頻繁ひんぱんの火事沙汰ざたがある。こうした事件は冬のはじめが最も多い。
「郊外と市内と、どちらがうございます?」
 わたしはたびたびこうかれることがある。それに対して、どちらも同じことですねとわたしは答えている。郊外生活と市内生活と、しょせんは一長一短で、公平にいえば、どちらも住みにくいというのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところにしたがえばよいのである。
(大正14(一九二五)・4『読売新聞』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



新旧東京雑題

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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     祭礼

 東京でいちじるしく廃《すた》れたものは祭礼《まつり》である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王《さんのう》、神田の明神《みょうじん》、深川《ふかがわ》の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
 震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車《はなだし》ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳《ひ》き出すというわけではなく、氏子《うじこ》の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
 わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残《なご》りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨《おおあらし》があって、東京府下だけでも丸|潰《つぶ》れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
 山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
 深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿《みこし》が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡《しょうもう》したことと察せられる。
 そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日《せきじつ》の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会《ぎおんえ》や大阪《おおさか》の天満《てんま》祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。

     湯屋

 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬《さんば》の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯《せんとう》とか湯屋《ゆうや》とかいうのが普通で、元禄《げんろく》のむかしは知らず、文化文政《ぶんかぶんせい》から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
 五月節句の菖蒲《しょうぶ》湯、土用のうちの桃《もも》湯、冬至の柚《ゆず》湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止《や》められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
 むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方《さんぼう》が据えてあって、客の方では「お拈《ひね》り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰《き》するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。

     そば屋

 そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦《そば》屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛《もり》・掛《かけ》は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
 私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚《きたな》いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺《あざむ》かずである。山路愛山《やまじあいざん》氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁《ほうちょう》で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞《ことば》はいつか消滅するであろう。
 人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物《たねもの》を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖《ふ》えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭《ぜに》のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
 地方の人が多くなった証拠として、饂飩《うどん》を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀《おかめ》とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
 かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方《かみがた》では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴《ふうりん》そばとか夜鷹《よたか》そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥《もくあみ》の「嶋鵆月白浪《しまちどりつきのしらなみ》」は明治十四年の作であるが、その招魂社《しょうこんしゃ》鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
 そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。[#地付き](昭和2・4「サンデー毎日」)
[#改ページ]



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



人形の趣味

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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 ××さん。
 どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろという御註文でしたが、実のところ、わたしは何も専門的に玩具《おもちゃ》や人形を研究したり蒐集《しゅうしゅう》したりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形を可愛がっているのは事実です。
 勿論、人に吹聴《ふいちょう》するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形を可愛がると云うようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲《たけだいずも》は机のうえに人形をならべて浄瑠璃をかいたと伝えられています。イプセンのデスクの傍《わき》にも、熊が踊ったり、猫がオルガンを弾いたりしている人形が控えていたと云います。そんな先例が幾らもあるだけに、わたしも何んだかそれらの大家《たいか》の真似をしているように思われるのも忌《いや》ですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列《なら》べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や蒐集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申して置きます。したがって、人形や玩具などに就いてなにかの通《つう》をならべるような資格はありません。
 人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択《よ》り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。二銭八厘――なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子供の頃、明治十八、九年頃までは、どういう勘定から割り出して来たものか、縁日などで売っている安い玩具は、大抵二銭八厘と相場が決まっていたものでした。更に廉《やす》いのは一銭というのもありました。勿論、それより高価のもありましたが、われわれは大抵二銭八厘から五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子供たちにくらべると、これがほんとうの「幼稚《ようち》」と云うのかも知れません。しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲《しの》ぶよすがはありません。とにかく子供のときからそんな習慣が付いているので、わたしは幾つになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九《つづ》や二十歳《はたち》の大供《おおども》になってもやはり玩具屋を覗《のぞ》く癖が失《う》せませんでした。
 そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものは怖ろしいもので、それがだんだんに年を経るにしたがって、机の上に人形がないと何んだか物足らないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つ列べるならばまだいいのですが、どうもそれでは物足らない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初の頃は、脚本などをかく場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優《やくしゃ》の代りにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形が控えていないと、なんだか極《き》まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「窮すれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄《かばん》に入れて同道して行きます。
 人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮りにも人形と名のつくものならば何んでもいいので、別に故事来歴《こじらいれき》などを詮議しているのではありません。要するに店仕舞いのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多《がらくた》がただ雑然と押し合っているだけのことですから、何かおめずらしい人形がありますかなどと訊かれると、早速返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱を引っくり返したようだというのは、全くわたしの書棚で、初めて来た人に、「お子供衆が余程たくさんおありですか」などと訊かれて、いよいよ赤面することがあります。
 その瓦楽多のなかでも、わたしが一番可愛がっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっと面白いものです。先年三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城《かいじょう》の城外に老子《ろうし》の廟《びょう》があって、その祭日に人形をまわしに来たシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例の癖がむらむらと起ったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首のなかから二つだけを無理に売って貰いました。なにしろ土焼きですから、よほど丁寧に保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながら毀《こわ》れてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の星野麦人《ほしのばくじん》君の手を経て、神戸の堀江《ほりえ》君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られました。これも三つばかりは毀れていましたが、南京《ナンキン》で買ったのだとか云うことで、わたしが満洲で見たものとちっとも変りませんでした。わたしは一旦紛失したお家《いえ》の宝物《ほうもつ》を再びたずね出したように喜んで、もろもろの瓦楽多のなかでも上坐に押し据えて、今でも最も敬意を表しています。殊にそのなかの孫悟空《そんごくう》は、わたしが申歳《さるどし》の生まれである因縁から、取分けて寵愛《ちょうあい》しているわけです。
 そのほかの人形は――京《きょう》、伏見《ふしみ》、奈良《なら》、博多《はかた》、伊勢《いせ》、秋田《あきた》、山形《やまがた》など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼《いまどやき》もたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見が面白いと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなって来たようです。伏見の饅頭《まんじゅう》人形などは取分けて面白いと思います。伊勢の生子《うぶこ》人形も古風で雅味があります。庄内《しょうない》の小芥子《こけし》人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、その裳《すそ》の方を持って肩をたたくと、その人形の首が丁度いい工合に肩の骨にコツコツとあたります。勿論、非常に小さいものもありますから、肩を叩くのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かける時には持ってゆくと云います。こんなたぐいを穿索《せんさく》したら、各地方にいろいろの面白いものがありましょう。
 広東《カントン》製の竹彫りの人形にもなかなか精巧に出来たのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒なものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆《がま》仙人が最も器用に出来ています。先年外国へ行った時にも、なにか面白いものはないかと方々探しあるきましたが、どうもこれはと云うほどのものを見当りませんでした。戦争のために玩具の製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈《ばっこ》しているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んで来ることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買って来ましたけれど、取り立てて申し上げるほどのものではありません。
 なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代《いえじゅうだい》というようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董《こっとう》趣味で古い人形をあつめる人、ただ何が無しに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしは勿論、その最後の種類に属すべきものです。で、甚だ我田引水《がでんいんすい》のようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとか云うので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとは云われまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖に過ぎないので、古い硯《すずり》を愛するのも、古い徳利《とっくり》を愛するのも、所詮《しょせん》は同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形として可愛がってやらなければなりません。その意味に於いて、人形の新古や、値の高下《こうげ》や、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかに可愛らしいとか面白いとかいう点を発見したならば、連れて帰って可愛がってやることです。
 舞楽《ぶがく》の面を毎日眺めていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものに就いてなにか悟《さと》るところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、可愛らしい人形を眺めていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしは何か気分がむしゃくしゃするような時には、伏見人形の鬼《おに》や、今戸焼の狸《たぬき》などを机のうえに列べます。そうして、その鬼や狸の滑稽《こっけい》な顔をつくづく眺めていると、自然に頭がくつろいで来るように思われます。
 くどくも云う通り、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧に出来ているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい註文を持出すから面倒になるので、わたしから云えばそれらは真の人形好きではありません。勿論、わたしのように瓦楽多をむやみに陳列するには及びませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚のうえに飾って、朝夕に愛玩するのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとか廉《やす》いとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。廉いものを飾って置いては見っともないなどと云っているようでは、倶《とも》に人形の趣味を語るに足らないと思います。廉い人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、その数《かず》も二つか三つでもよろしい。それを坐右に飾って朝夕に愛玩することを、わたしは皆さんにお勧め申したいと思います。
 不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉《かき》に親しませるという方法が近年行なわれて来たようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にも努めて人形を愛玩させる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをお勧め申したいと思っています。なんの木偶《でく》の坊《ぼう》――とひと口に云ってしまえばそれ迄《まで》ですが、生きた人間にも木偶の坊に劣ったのがないとは云えません。魂のない木偶の坊から、われわれは却って生きた魂を伝えられることがないとも限りません。
 我田引水と云われるのを承知の上で、私はここに人形趣味を大いに鼓吹《こすい》するのであります。[#地付き](大正9・10[#「10」は縦中横]「新家庭」)
 この稿をかいたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年九月一日をなごりに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
[#ここから2字下げ]
わびしさや袖の焦げたる秋の雛《ひな》
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『十番随筆』所収)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



十番雑記

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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 昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
 虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取《はかど》らない。いよいよ晦日《みそか》であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古《ほご》同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓《かぐう》していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
 わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳《ねこやなぎ》』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。

     仮住居

 十月十二日の時雨《しぐれ》ふる朝に、私たちは目白《めじろ》の額田六福《ぬかだろっぷく》方を立ち退いて、麻布|宮村町《みやむらちょう》へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖《がけ》になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
 崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多《めった》に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博《こうのよしひろ》君の紹介でようよう此処《ここ》に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖《ふすま》も傷《いた》んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋《きょうじや》の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯《こ》うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
 その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥《たらい》やバケツや七輪《しちりん》のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅《おびや》かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好《よ》いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢《じゅばん》や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有《みぞう》の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいら[#「いらいら」に傍点]ながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗《むやみ》にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
 まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災《りさい》以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改《あらた》まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥《ふしょう》な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
 今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈《おごり》の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
 父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々《きゅうきゅう》として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。[#地付き](大正十二年十二月二十日)

     箙《えびら》の梅

[#天から2字下げ]狸坂くらやみ坂や秋の暮

 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬき[#「たぬき」に傍点]と云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟《そうくつ》であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列《なら》んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢《ひ》かれるか、路ばたの大溝《おおどぶ》へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
 そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多《がらくた》というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟《さと》った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
 その鬱憤《うっぷん》をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘《ぬかるみ》で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空《むな》しく引っ返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長《てんちょう》祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走《しわす》もだんだんに数《かぞ》え日《び》に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにか斯《こ》うにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花を把《と》り出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾《つぼみ》もかなりに傷められて、梶原源太《かじわらげんた》が「箙《えびら》の梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
 この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄《なかじまとしお》が来て待っていた。
「渋谷《しぶや》の道玄坂《どうげんざか》辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
 こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。[#地付き](十二月二十三日)

     明治座

 この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢《ちょうずばち》に厚い氷を見た。
 午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞《せきばく》として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火《たきび》の烟《けむ》りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
 足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信《ただのぶ》の道行《みちゆき》、躄《いざり》の仇討、鳥辺山《とりべやま》心中、夜の部は信長記《しんちょうき》、浪華《なにわ》の春雨《はるさめ》、双面《ふたおもて》という番組も大きく貼り出してある。
 左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
 私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾《と》うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲《みなぎ》るのを覚えた。
 わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物《さくぶつ》の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇《ひま》はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
 わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復《かえ》って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。

「いや、まだほかにもある。」
 こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
 震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘《まま》になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
 わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古《ほご》同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯《こ》うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業《よなべ》をしているのであろうなどとも思った。
 さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。[#地付き](昭和12[#「12」は縦中横]・10[#「10」は縦中横]刊『思い出草』所収)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
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風呂を買うまで

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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 わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町《あさくさせんぞくまち》辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨《うらや》んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
 わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪《のろ》っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の鬼子母神《きしもじん》附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯《みそのゆ》という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄《すすき》を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予《かね》て知っているので、薄《うす》ら寒い秋風に靡《なび》いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
 わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓《ざっとう》で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越《こし》の湯《ゆ》と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚《ゆず》湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲《しょうぶ》湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。

[#天から2字下げ]宿無しも今日はゆず湯の男哉

 二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖《とが》り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽《さわや》かな気分になった。
 麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町《おおくぼひゃくにんまち》に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅《つつじ》の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快《こころよ》かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
 湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
 わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水《ぎょうずい》を使うことにした。大盥《おおだらい》に湯をなみなみと湛《たた》えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努《つと》めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛《う》かび出さない。
 行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕《かめ》が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁《コウリャン》を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜《すいか》や唐茄子《とうなす》が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興《いっきょう》として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁《ふち》などに手足を触れると、火傷《やけど》をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
 しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。

[#ここから2字下げ]
宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](大正13[#「13」は縦中横]・7「読売新聞」)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
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入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
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郊外生活の一年

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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 震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測《はか》らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物《たまもの》と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
 はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒《はるさむ》がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州《びしゅう》侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦《あかれんが》の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼|索莫《さくばく》、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
 省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場《しゃてきば》のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処《ここ》まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣《いけがき》を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌《も》え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶《とんび》が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
 五月になると、大久保名物の躑躅《つつじ》の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色《かばいろ》の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗《のぞ》きあるいた。
 庭の広いのと空地《あきち》の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍《とうもろこし》や夏大根の種をまき、茄子《なす》や瓜《うり》の苗を植えた。ゆうがおの種も播《ま》き、へちまの棚も作った。不精者《ぶしょうもの》のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭《いと》わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎《くき》や蔓《つる》がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
 夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙《かわず》の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝《どぶ》で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍《ほたる》も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
 幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気《のんき》に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱《ひでり》つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面《てきめん》に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水《まきみず》を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅《おびや》かされるのであると、土地の人は話した。
 蛙や蛍とおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。全然鳴かないと云うのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫《はたおりむし》などが無暗《むやみ》に飛び込んで来たものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊《やぶか》も案外に少なかった。わたしの家で蚊やりを焚いたのは、前後ふた月に過ぎなかったように記憶している。
 秋になっては、コスモスと紫苑《しおん》がわたしの庭を賑わした。夏の日ざかりに向日葵《ひまわり》が軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。紫苑といえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株も叢《むら》をなしているときは、かの向日葵などと一様に、むしろ男性的の雄大な趣を示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉の蔭から雲のようにたなびき出ているのを遠く眺めると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からは余りに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てから私はこの紫苑がひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑を栽《う》えたいと思っている。
 唐蜀黍もよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く煙りを唯ながめているばかりであった。糸瓜《へちま》も大きいのが七、八本ぶらさがって、そのなかには二尺を越えたのもあった。
 郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ寂しさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭の枯れ芒《すすき》が木枯らしを恐れるようになると、再びかの荒涼索莫がくり返されて、宵々ごとに一種の霜気《そうき》が圧して来る。朝々ごとに庭の霜柱が深くなる。晴れた日にも珍しい小鳥がさえずって来ない。戸山ヶ原は青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落すと、わずかに生き残った枯れ草が北風と砂煙りに悼《いた》ましくむせんで、かの科学研究所の煉瓦や製菓会社の煙突が再び眼立って来る。夜は火の廻りの柝《き》の音が絶えずきこえて、霜に吠える家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりも確かに強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
 郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗《せっとう》に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物《いちもつ》をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野《なかの》の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版《とうしゃばん》の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好《よ》うございます。」
 私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮《しょせん》は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。[#地付き](大正14[#「14」は縦中横]・4「読売新聞」)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
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  • 新旧東京雑題
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  • 麹町の山王 さんのう → 山王祭
  • 山王祭 さんのう まつり 山王権現の例祭。陰暦4月中の申の日。東京の日枝神社では、6月15日。
  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 神田明神 かんだ みょうじん 東京都千代田区外神田にある元府社。祭神は大己貴命・少彦名命。平将門をもまつる。神田神社。
  • 神田祭 かんだ まつり 東京の神田明神の祭礼。5月15日(もと9月15日)。本祭と陰祭とを隔年に行い、神輿巡幸・山車・踊などでにぎわう。山王祭と共に天下祭と呼ばれ、江戸の祭の代表。
  • 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 深川の八幡 → 富岡八幡宮
  • 富岡八幡宮 とみおか はちまんぐう 東京都江東区富岡にある元府社。応神天皇ほかをまつる。歴代横綱の碑があり、8月15日の深川祭が有名。深川八幡。
  • 四谷 よつや 東京都新宿区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 京橋 きょうばし (1) 東京都中央区にあった橋。江戸時代、東海道で京へ上る際に日本橋を起点として最初に渡った。(2) もと東京市35区の一つ。京橋 (1) を中心とする地帯で、昔から繁華な所。
  • 日本橋 にほんばし (1) 東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。(2) 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
  • [京都]
  • 祇園会 ぎおんえ 京都の八坂神社の祭礼。昔は6月7日から14日、今は7月17日から24日まで行う。山鉾巡行などは有名。祇園御霊会。祇園祭。
  • [大阪]
  • 天満祭 てんま まつり 大阪の天満宮の夏祭すなわち天神祭のこと。7月25日、昔は陰暦6月。神輿の川渡御を中心行事として江戸時代を通じて盛ん。天満の船祭。天満天神祭。
  • 招魂社 しょうこんしゃ 明治維新前後から、国家のために殉難した人の霊を祀った神社。1868年(明治1)各地の招魂場を改称。1939年(昭和14)さらに護国神社と改称。靖国神社も招魂社の一つであるが護国神社と改称しなかった。
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  • 人形の趣味
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  • 三越呉服店 みつこしごふくてん? 三越。東京都中央区日本橋室町に本店がある百貨店。延宝元年(1673)三井高利創業の呉服商越後屋に始まる。明治37(1904)三越呉服店と改称し、昭和3(1928)三越となる。
  • 満州 まんしゅう 満州・満洲。中国の東北一帯の俗称。もと民族名。行政上は東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国では東北と呼ぶ。
  • 海城 かいじょう/ハイチォン 中国、東北地区南部、遼寧省東部の都市。鞍山の南西約30km。沙河の左岸に位置。中長鉄道に沿い、小麦・大豆などの農産物を集散。柞蚕糸・絹織物・灯油・滑石酒類などを産する。漢の遼東郡の地、晋以後は高句麗が支配、唐に至ってその統治を脱した。遼代には海州、金代には橙州となり、明代には海州衛が置かれ、清朝に至って海城県と改められた。1985年、市となる。(地名コン)
  • 南京 ナンキン (Nanjing; Nanking)中国江蘇省南西部にある省都。長江に臨み、古来、政治・軍事の要地。古く金陵・建業・建康などと称し、明代に北京に対して南京と称。中華民国国民政府時代の首都。化学工業などが盛ん。人口362万4千(2000)。別称、寧。
  • 広東 カントン (1) (Guangdong)中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方km。別称、粤。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。(2) (Canton)広州の別称。
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  • 十番雑記
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  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 麻布十番 あざぶ じゅうばん 現、港区。一〜四丁目か。旧麻布区は、現港区の中央部西寄りを占める地域。麻布は、日清・日露の戦争前後から隣接する赤坂とともに軍都の一部、軍隊の街として変貌した地域。
  • 麻布宮村町 あざぶ みやむらちょう 現、港区六本木六丁目・元麻布二〜三丁目。麻布台地の頂部周辺にあり、片側町が分散している。
  • 目白 → 目白台か
  • 目白台 めじろだい 文京区関口台町。現、文京区目白台。新長谷寺の目白不動にちなみ目白台とも通称された。
  • 安田銀行 やすだ ぎんこう 両替営業を主とする安田商店をもとに、1880(明治13)1月、安田善次郎によって創設された銀行。第三銀行ほか多数の関係銀行をもち、多くの中小銀行の危機救済に関与しながら安田財閥の中心として発展。1923(大正12)11月、安田系11行の合併により、全国一の規模をもつ株式会社安田銀行となった。第二次大戦後の48年(昭和23)に富士銀行と改称。(日本史)
  • 渋谷 しぶや 東京都23区の一つ。渋谷駅付近は交通の結節点で、副都心の一つとして繁栄。明治神宮・代々木公園などがある。
  • 道玄坂 どうげんざか 東京都渋谷区南西部、JR渋谷駅の西側にある坂。また、その周辺の地名。
  • 末広座
  • 明治座 めいじざ 東京の日本橋浜町にある劇場。1873年(明治6)喜昇座として開場、93年現名に改称。
  • 松竹合名会社
  • 松竹 しょうちく 演劇・映画・演芸の興行会社。1902年(明治35)創立の松竹合名社に始まる。白井松次郎と大谷竹次郎の名前の1文字目を組み合わせたもの。
  • 紀尾井町 きおいちょう 東京都千代田区。主に大学と商業地域になっており、ビルのほか地域南部には日本を代表する高級ホテルがあるところとして知られる。地名は当地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来。
  • 麻布 あざぶ 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称。高級住宅地で外国大公使館などが多い。
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  • 風呂を買うまで
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  • 浅草千束町 あさくさ せんぞくまち 現、台東区浅草・千束・竜泉・東浅草・日本堤・清川・荒川区南千住。明治12(1879)千束村が浅草六軒町と合併。同22年には下谷区・浅草区にそれぞれ一部が属して下谷区下谷竜泉寺町、浅草区浅草南千束町。浅草北千束町などとなり、北豊島郡に残った分の一部は合併して南千住町となった。同24年には浅草区の千束村の大部分は浅草千束町一〜三丁目となり、残りは浅草町・浅草田中町へそれぞれ合併した。
  • 雑司ヶ谷 ぞうしがや 東京都豊島区南東部の住宅地区。雑司ヶ谷霊園や鬼子母神がある。
  • 雑司ヶ谷鬼子母神 ぞうしがや きしぼじん 現、豊島区雑司ヶ谷三丁目、法明寺。かつての雑司ヶ谷村のほぼ中央に位置する。威光山と号し、日蓮宗。江戸時代、当寺境内の南方に祀られていた鬼子母神は雑司ヶ谷鬼子母神の名で広く知られ、江戸市中からも多くの参詣客が訪れた。
  • 御園湯 みそのゆ
  • 越の湯 こしのゆ
  • 日の出湯
  • 大久保百人町 おおくぼ ひゃくにんまち 「ひゃくにんちょう」。現、新宿区百人町一〜四丁目など。明治初年に百人組同心大縄地を合わせて成立。早くから里俗に百人町とよばれ、また東西路によって大きく三つの区画に分かれ、南から南百人町・中百人町・北百人町ともよばれていた。
  • 都湯
  • 大久保駅
  • [満州]
  • 遼陽 りょうよう (Liaoyang)中国遼寧省の都市。瀋陽の南、旧満鉄沿線の要地。遼・金時代には東京と称した。日露戦争の激戦地。人口72万8千(2000)。
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  • 郊外生活の一年
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  • 戸山ヶ原 とやまがはら 東京都新宿区中央部を占める地区。もと原野で練兵場など陸軍の施設があった。
  • 陸軍科学研究所
  • 東洋製菓会社
  • 中野 なかの 東京都23区の一つ。新宿区の西に位置し、中央本線沿線の住宅地域。宝仙寺・新井薬師・哲学堂などがある。
  • 淀橋 よどばし (1) もと東京都新宿区の一地区。東は新宿の繁華街に接し、青梅街道が東西に貫通。浄水場の跡地に都庁が移転。この地区を中心に新宿新都心と俗に呼ばれる超高層ビル群を形成。(2) もと東京市35区の一つ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。




*年表

  • 明治五(一八七二)一〇月 岡本綺堂、生まれる。
  • 一八八一(明治一四) 黙阿弥の『嶋鵆月白浪』作。
  • 一八八四(明治一七)九月 神田の祭礼の名残り。祭礼番付ができる。祭礼中に九月十五日の大風雨があって、東京府下だけでも丸潰れ一〇八〇戸、半つぶれ二二二五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒される。
  • 一八八五、一八八六(明治一八、九)ごろまで 縁日などで売っている安い玩具は、たいてい二銭八厘と相場が決まっていた。
  • 一八八七(明治二〇)六月 山王の祭礼、この後はいちじるしく衰える。
  • 一八八七(明治二〇) 東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布。
  • 一八九二(明治二五)八月 深川の八幡、このころが名残りか。
  • 一九〇四〜〇五(明治三七〜三八) 日露戦争。
  • 一九一六、一九一七(大正五、六)ごろ そば屋で天どんや親子どんぶりを売りはじめる。
  • 一九一九(大正八)一〇月 東京の朝湯、いっせいに廃止。のち、客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもある。
  • 一九二〇(大正九)一〇月 綺堂「人形の趣味」『新家庭』。
  • 一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。綺堂、震災に麹町の家を焼かれる。
  • 一九二三(大正一二)九月八日 焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つのこげた人形を掘り出してきてくれる。
  • 一九二三(大正一二)一〇月のはじめまで 綺堂、雑司ヶ谷の御園湯にかよう。
  • 一九二三(大正一二)一〇月一二日 時雨ふる朝、目白の額田六福方を立ち退いて、麻布宮村町(麻布十番近く)へ引き移る。翌年の三月まで仮寓。越の湯と日の出湯へかよう。
  • 一九二四(大正一三)一月二日 末広座が明治座と改称して松竹合名会社の手で開場、左団次一座が出演。
  • 一九二四(大正一三)一月一五日 ふたたびかなりの強震。
  • 一九二四(大正一三)三月なかば 麻布を立ち退いて、大久保百人町に移転。都湯に毎日かよう。七月から湯殿で行水。
  • 一九二四(大正一三)三月二八日 朝から陰って、ときどき雪。
  • 一九二四(大正一三)五月 大久保名物のツツジの色が一円をにわかに明るくした。ツツジ園は一軒も残っていない。
  • 一九二四(大正一三)七月 綺堂「風呂を買うまで」『読売新聞』。
  • 一九二五(大正一四)四月 綺堂「郊外生活の一年」『読売新聞』。
  • 一九二七(昭和二)四月 綺堂「新旧東京雑題」『サンデー毎日』。
  • 一九三七(昭和一二)八月三一日 書庫の整理。
  • 一九三七(昭和一二)一〇月 綺堂『思い出草』刊。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 新旧東京雑題
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  • 式亭三馬 しきてい さんば 1776-1822 江戸後期の草双紙・滑稽本作者。本名、菊地久徳。別号、遊戯堂・洒落斎など。江戸の人。初め書肆を、のち薬商を営み、かたわら著作に従事。「雷太郎強悪物語」を書いて合巻流行のいとぐちを開く。作「浮世風呂」「浮世床」など。
  • 山路愛山 やまじ あいざん 1864-1917 ジャーナリスト・著作家。本名、弥吉。江戸生れ。幕臣の子。キリスト教徒。民友社に入り、国民新聞などの記者として、異色ある史論・文学論を発表。信濃毎日新聞主筆。雑誌「独立評論」を刊行。著「足利尊氏」「現代金権史」「社会主義管見」など。
  • 黙阿弥 もくあみ → 河竹黙阿弥
  • 河竹黙阿弥 かわたけ もくあみ 1816-1893 歌舞伎脚本作者。本姓吉村、のち古河。幼名、芳三郎。作者名、勝諺蔵・柴晋輔ほか。江戸の人。5世鶴屋南北に師事し、2世河竹新七を襲名。作劇技巧にすぐれ、詞藻豊か。生世話物を得意とし、明治の新社会劇散切物や新史劇活歴物を始めた。「船弁慶」など松羽目物にも新境地を開く。作「三人吉三廓初買」「白浪五人男」「島鵆月白浪」など。
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  • 人形の趣味
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  • 竹田出雲 たけだ いずも 浄瑠璃作者。(1) (初世)俳号、奚疑。竹本座の座元で作者を兼ねた。作「蘆屋道満大内鑑」など。(?〜1747)(2) (2世)初世の子。名は清定。初め小出雲と名乗る。座元と作者とを兼ね、人形芝居の最盛期を画した。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などは一代の名作。(1691〜1756)
  • イプセン Henrik Ibsen 1828-1906 ノルウェーの劇作家。当初は韻文劇も書いたが、後に散文写実劇に専念して一連の市民劇や社会問題劇を発表。近代劇の父と称される。「ペール=ギュント」「人形の家」「幽霊」「野鴨」「ヘッダ=ガブラー」など。
  • 星野麦人 ほしの ばくじん 1877-1965 俳人。本名仙吉。東京水道町生まれ。明治34年『俳藪』を創刊、のち秋声会機関誌『卯杖』と合併して『木太刀』と改題、大正期をへて没するに至るまでこれを主宰し、明治・大正・昭和の三代にわたって俳壇の長老と目された。句風は温和平明。句集『あぢさゐ』『草笛』『松の春』の他、『俳諧年表』『紅葉句帳』『蕉門十哲句集』の編著等多い。(人名)
  • 堀江 ほりえ 神戸住。
  • 孫悟空 そんごくう 中国の長編小説「西遊記」の中で中心的役割をする怪猿。七十二般変化の術とカ斗雲の法とを修得して天宮を騒がせ、斉天大聖と号したが、釈尊の法力によって鎮圧され、後に玄奘三蔵の天竺行きに随伴し、大小八十一難を凌いで、5048巻の経典を授けられるのを助けた。孫行者。
  • 蝦蟆仙人 がま せんにん (1) がまを使う仙人。とくに中国三国時代、呉の葛玄、および五代後梁の劉海蟾をさす。がません。(2) 画題の一つ。劉海蟾、呂洞賓、李鉄拐をいっしょに描くもの。
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  • 十番雑記
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  • 額田六福 ぬかだ ろっぷく 1890-1948 劇作家。本名、六福(むつとみ)。岡山県生まれ。明治44年処女作『踏絵』を書き、翌年上京して岡本綺堂の門下に入った。脚本『出陣』が大正6年1月、五代中村歌右衛門により歌舞伎座で上演され、劇作家としての地位を確立。同9年、早大卒業後はもっぱら創作に従い、歌舞伎、新派、新国劇など商業演劇のため多くの戯曲を執筆した。代表作として『真如』『冬木心中』『天一坊』『宇都宮城史』、翻案劇『白野弁十郎』などのほか、『毒鼓』『風流一代男』『諸国捕物帳』『相馬大作』などの大衆小説がある。新歌舞伎の正統な継承者として綺堂と同じく最も史劇に長じ、綺堂没後も雑誌『舞台』の主宰者として後進の指導に努めた。(人名)
  • 河野義博 こうの よしひろ 1890-? 大正期の劇作家。代表作は「日本戯曲全集」第18科巻に収録。東山梨郡の町村会長を務める。(人レ)
  • 梶原源太 かじわら げんた → 梶原景季
  • 梶原景季 かじわら かげすえ 1162-1200 鎌倉初期の武将。源頼朝の臣。景時の子。源太と称。騎射および和歌に長じた。宇治川の戦に先陣の功を佐々木高綱に奪われた。また、一谷・生田の森の合戦に箙に梅花の枝をさして奮戦。
  • 中島俊雄 なかじま としお
  • 左団次 → 市川左団次か
  • 市川左団次 いちかわ さだんじ 歌舞伎俳優。屋号、高島屋。(1) (初代)新作を得意とし9代市川団十郎・5代尾上菊五郎とともに明治の三名優と称せられた。明治座を創設・経営。(1842〜1904)(2) (2代)初代の子。岡本綺堂・真山青果と提携して新歌舞伎を開拓、小山内薫と自由劇場を組織して西洋近代劇を紹介。(1880〜1940)(3) (3代)6代市川門之助の養子。立役から女形まで広い芸域を持ち、6代尾上菊五郎没後は菊五郎劇団の重鎮。(1898〜1969)
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  • 風呂を買うまで
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  • 郊外生活の一年
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  • 尾州侯 びしゅうこう → 尾州家か
  • 尾州家 びしゅうけ 徳川氏三家の一つ。徳川家康の第9子義直を祖とする。尾張・美濃および信濃の一部を領した。石高61万9000石。尾張家。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 新旧東京雑題
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  • 『浮世風呂』 うきよぶろ 滑稽本。詳しくは、諢話浮世風呂。式亭三馬作。4編9冊。1809〜13年(文化6〜10)刊。町人の社交場であった銭湯における会話を通じて、庶民生活の種々相を描く。
  • 『嶋鵆月白浪』 しまちどり つきのしらなみ 島鵆月白浪。歌舞伎脚本。5幕。河竹黙阿弥作の散切物。1881年(明治14)初演。盗賊明石の島蔵が因果の道理を知り改心し、仲間の松島千太らをも改心させる筋。
  • 『サンデー毎日』 サンデー まいにち 毎日新聞社発行の週刊誌。1922年に大阪毎日新聞(現・毎日新聞大阪本社)の新社屋(大阪市北区堂島)の落成記念の一環として、「点字毎日」などと共に創刊され、週刊朝日と並ぶ、日本の週刊誌の老舗。
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  • 人形の趣味
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  • 「木太刀」 きだち? 星野麦人の著? 雑誌名?
  • 『新家庭』 しんかてい? 大正5(1916)、ジャーナリストの結城礼一郎が玄文社の主幹として招かれ、『新演芸』と共に創刊。同10年8月、結城は主幹を辞して顧問となる。(国史)
  • 『十番随筆』 岡本綺堂の随筆集。
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  • 十番雑記
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  • 『十番随筆』 岡本綺堂の随筆集。
  • 『猫柳』 ねこやなぎ 岡本綺堂の随筆集。
  • 「忠信の道行」 ただのぶの みちゆき
  • 「躄の仇討ち」 いざりのあだうち 浄瑠璃。「箱根霊験躄仇討」の通称。
  • 「箱根霊験躄仇討」 はこね れいげん いざりの あだうち 浄瑠璃。時代物。十二段。司馬芝叟作。享和元(1801)初演。座名は不明。同年大坂道頓堀東芝居で再演。歌舞伎でもすぐ上演された。天正18(1590)飯沼勝五郎が兄の敵加藤幸助を討った実説によるという。病気で足がなえ、零落した勝五郎が女房初花の献身で箱根権現の利生を受け、滝口上野と改名した敵を討つ「箱根滝の段」が名高い。通称「躄勝五郎」「躄の仇討」
  • 「鳥辺山心中」 とりべやま しんじゅう (1) 歌舞伎脚本。1706年(宝永3)京ではおまん源五兵衛の心中とし、同年夏大坂ではお染半九郎の心中と変わる。(2) 2代市川左団次の杏花戯曲十種の一つ。1幕。岡本綺堂作の新歌舞伎。1915年(大正4)初演。将軍のお供で上洛した旗本菊地半九郎が、祇園の遊女お染と鳥辺山で心中する筋。
  • 『信長記』 しんちょうき 「信長公記」参照。
  • 『信長公記』 しんちょうこうき 織田信長の一代記。首巻とも16巻。太田牛一著。1600年(慶長5)頃の成立。また「信長記」(15巻)は小瀬甫庵がこれに基づいて加筆論述し、22年(元和8)に刊行したもの。
  • 「浪華の春雨」 なにわの はるさめ
  • 「双面」 ふたおもて → 「両顔月姿絵」か
  • 「両顔月姿絵」 ふたおもて つきのすがたえ 常磐津。初世河竹新七作詞。木村円夫増補、二世岸沢古式部作曲。二世西川扇蔵振付。寛政10(1798)江戸森田座初演。お組を恋する法界坊の霊と若松の許嫁野分姫の霊とが一つに合して、お組と同一姿で現われ、荵(しのぶ)売りに身をやつしたお組と若松を悩ます。別名題「双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)」。通称「荵売」
  • 『思い出草』
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  • 風呂を買うまで
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  • 『読売新聞』 よみうり しんぶん 日本の主要新聞の一つ。1874年(明治7)子安峻・本野盛亨らが創刊。明治後期、尾崎紅葉らが作品を発表。大正末、正力松太郎が社長になってより大幅に部数を伸ばす。1942年(昭和17)報知新聞を合併。現在は、日本最大の全国紙。
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  • 郊外生活の一年
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ

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  • 新旧東京雑題
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  • 花山車 はなだし 花などで飾った山車。
  • 氏子 うじこ (1) 氏神すなわち祖神の子孫。藤原氏の春日神社における、橘氏の梅宮神社における類。うじびと。氏の子。(2) 産土神が守ってくれる地に住む人。
  • ミルク‐ホール (和製語milk hall)牛乳を飲ませ、パンなども売る簡易な飲食店。明治末期から大正期に流行。
  • 桃湯 ももゆ 夏の土用中に桃の葉を入れて沸かした浴湯。汗疹を治す効があるという。
  • 三方 さんぼう (1) (サンポウとも)三つの方向。三つの面。(2) 衝重の一種。神仏または貴人に供物を奉り、または儀式で物をのせる台。方形の折敷を桧の白木で造り、前・左・右の三方に刳形のある台を取り付けたもの。古くは食事をする台に用いた。
  • 湯銭 ゆせん 銭湯に入浴する料金。入浴料。
  • 種物 たねもの (2) てんぷら・玉子とじなど、他の材料の入っている汁蕎麦または汁饂飩。
  • 阿亀蕎麦 おかめそば かまぼこ・椎茸・湯葉などを入れたつゆそば。おかめ。
  • うどん台
  • 夜なきうどん よなきうどん 夜鳴饂飩。夜間、深更まで路上で蕎麦・饂飩を売り歩く人。また、その饂飩。夜鳴蕎麦ともいう。
  • 風鈴そば ふうりん そば 風鈴蕎麦。夜なき蕎麦の一種。行商するものが、その荷に風鈴をつけて歩くからいう。
  • 夜鷹そば よたか そば 夜鷹蕎麦。夜ふけまで街上を売り歩く蕎麦屋。また、その売っている蕎麦。夜鳴蕎麦。
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  • 人形の趣味
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  • 今戸焼 いまどやき (1) 江戸浅草の今戸で作られた素焼の土器。土風炉・灯心皿・人形などのほか、釉を施した楽焼風の雑器も産出。(2) (今戸人形の顔にたとえていう)不美人。醜い女。
  • 伏見人形 ふしみ にんぎょう 安土桃山時代頃より京都伏見で作られる、形・彩色の素朴な土製の人形。稲荷人形。伏見雛。
  • 饅頭人形 まんじゅう にんぎょう
  • 生子人形 うぶこ にんぎょう
  • 雅味 がみ 上品で風流な趣。
  • 小芥子 こけし 郷土人形の一つ。東北地方の特産。木地を轆轤で挽いた円筒状の胴に丸い頭をつけ、簡単な彩色をして女児の姿を表す。土湯系・弥治郎系など10の系統に分かれる。小芥子這子。こけし人形。木ぼこ。木でこ。
  • 家重代 いえ じゅうだい 家に代々伝わっていること。
  • 舞楽面 ぶがくめん 舞楽に使用する仮面。表情は象徴的で、伎楽面より小さく薄手。陵王・納曾利・還城楽・新鳥蘇・案摩など十数曲で用いる。
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  • 十番雑記
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  • 秋暑 しゅうしょ 秋の暑さ。立秋が過ぎてからの暑さ。残暑。
  • 書きさし かきさし 書止、か。書いて途中でやめること。また、途中で書きやめたもの。
  • 所懐 しょかい 心におもうところ。所感。
  • 草堤 くさづつみ 「くさどて(草土手)」に同じ。草のおいしげっている土手。
  • 経師屋 きょうじや 経師を職業とする人。表具屋。大経師。
  • 省線 しょうせん (1) 鉄道省の経営した汽車または電車の線路。鉄道院時代には院線と言った。(2) 省線電車の略。国鉄時代の国電に相当する。
  • さこそ 然こそ (1) まったくそのように(は)。あんなに。(2) (推量の表現を伴って)さだめし。さぞ。どんなにか。(3) いくら(…でも)。
  • 狸羊羹 たぬき ようかん
  • 狸せんべい たぬき せんべい 木更津市の名物煎餅。証城寺にちなむ。
  • 居着き・居付き いつき (1) いつくこと。(2) 一定の場所に常棲する魚。根付魚。
  • 寒菊 かんぎく アブラギクを改良した黄花の園芸品種。冬咲き。ほかに、晩生のキクで、冬まで開花を続けるものをもいう。残菊。冬菊。
  • 天長 てんちょう → 天長祭、天長節
  • 天長祭 てんちょうさい 天皇誕生日に宮中三殿で行われる祭祀。小祭の一つ。旧制では天長節祭と称した。
  • 天長節 てんちょうせつ 四大節の一つ。天皇誕生の祝日。1868年(明治1)制定。第二次大戦後、天皇誕生日と改称。
  • 降り暮らす ふりくらす 雨・雪などが朝から夕まで一日中降り続く。
  • 数え日 かぞえび (1) その年内の残りの日を指折り数えること。また、その残り少ない日。(2) 利益の多い日。書入れ日。
  • 箙の梅 えびらのうめ 生田の森の源平の戦で、梶原源太景季が箙に梅の枝を挿して奮戦した故事。能「箙」、浄瑠璃「ひらかな盛衰記」、常磐津舞踊「源太」などに作られ、また画題にされる。
  • 手水鉢 ちょうずばち 手水 (1) を入れておく鉢。
  • 手水 ちょうず (テミズの音便) (1) 手・顔などを洗う水。(2) 社寺など参拝の前に、手・顔を洗い清めること。(3) 厠。また、厠に行くこと。(4) 大小便。
  • 合名会社 ごうめい がいしゃ 社員全員が会社の債務について、連帯無限の責任を負う会社。多くは家族企業的・個人企業的で、原則として各社員が業務を執行して会社を代表し、その出資は財産のほか、労務または信用が認められる。
  • 口上看板 こうじょう かんばん 興行物の内容、出演する役者などを記す看板。
  • 躄・膝行 いざり いざること。尻を地につけたまま進むこと。また、いざる人。
  • 双面 ふた おもて 浄瑠璃・歌舞伎舞踊の演出様式。扮装の全く同じ二人の人物が現れて惑わすが、のちに一方が正体を現す趣向。能の「二人静」に原型が見える。歌舞伎では「隅田川続俤」で、法界坊がお組の霊になって現れ、お組と松若丸とを悩ます場面が有名。常磐津では「両顔月姿絵(ふたおもてつきのすがたえ)」が現存。
  • 前景気 まえ げいき 事が始まる前の景気。
  • さざめき さざめくこと。また、その音。
  • 若やぐ わかやぐ (1) 若々しく見える。若返る。(2) 酒席などが賑やかになる。
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  • 風呂を買うまで
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  • 葉擦れ はずれ 風などで草木の葉がすれ合い、音を立てること。
  • 日盛り ひざかり 一日のうち、日のさかんに照る時。日の照る最中。多く夏の午後にいう。
  • 俳味 はいみ 俳諧的な味わい。飄逸・洒脱の要素をもつ庶民的な趣味。俳諧味。俳趣味。
  • 俳趣
  • 高梁 コウリャン/コーリャン (中国語)中国産のモロコシ(唐黍)。高さ4mに達する。こうりょう。カオリャン。
  • 唐茄子 とうなす 唐茄子・蕃南瓜。(1) 東京地方で、南瓜類の総称。(2) カボチャの一品種。果体は長く瓢箪形を呈し、表面は平滑または瘤質をなすもの。京都付近に栽培。カラウリ。
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  • 郊外生活の一年
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  • 春寒 はるさむ 立春の後の寒さ。
  • 索莫・索寞・索漠 さくばく ものさびしいさま。また、元気の沮喪するさま。
  • 蒲色・樺色 かばいろ 蒲(がま)の穂の色。赤みをおびた黄色。
  • 覿面 てきめん (「覿」はまみえる意) (1) まのあたり。目の前。目前。(2) 結果・効果などが目の前にすぐあらわれること。即座。
  • 機織虫 はたおりむし キリギリスの異称。
  • 蚊遣り かやり 蚊を追い払うために、煙をくゆらし立てること。また、そのもの。かいぶし。
  • 紫苑・紫Y しおん (1) キク科の多年草。シベリア・モンゴルなどアジア北東部の草原と西日本に広く分布。観賞用に栽培。茎は直立し、高さ1.5m前後。秋、茎の上部で分枝、ノギクに似た淡紫色の優美な頭状花を多数つける。鬼の醜草。のし。しおに。
  • 霜気 そうき 霜の催す冷気。
  • 感冒 かぜ/かんぼう 身体を寒気にさらしたり濡れたまま放置したりしたときに起こる呼吸器系の炎症性疾患の総称。かぜ。風邪。
  • メリンス merinos (メリノ羊の毛で織ったからいう)薄く柔らかく織った毛織物。とうちりめん。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 ちかごろ出版された古事記や古代出雲関連の書籍を見ると、1984年に荒神谷遺跡から出土した銅剣358本、1996年に加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸がかならずといっていいほど登場する。
 ちなみに山形県の羽黒山御手洗池から出土した銅鏡は、大正のはじめから昭和のはじめにかけて四度の発掘によって、総数約600面以上が出土したと考えられている。現在、羽黒三山社務所にはそのうちの190面が保管されている。(阿部正己『出羽三山史』

 ふと気になったのは、出土した銅剣や銅鐸・銅鏡の表面をおおっている銅さび(緑青、ろくしょう)のこと。「飛鳥美人」で有名な高松塚古墳をはじめとする多くの古墳にも銅製品が埋葬されている。
 刀剣・鐸鈴・鏡などはいずれも埋葬者を邪気から守るための副葬品と説明されるが、当時のひとたちは銅さびの抗菌効果に気がついていたんじゃないだろうか、と思いつく。
「緑青……有毒とされてきたが、ほとんど無害。(広辞苑「緑青」)
「緑青は昔から毒物と考えられてきたが、これは金属製錬技術が未発達な時代に銅の中に鉱石由来の多量の砒素などが混入していたため、砒素中毒を引き起こしたためではないかとされている。実際は、過剰に摂取しない限り毒性は低いとみられている。(Wikipedia「緑青」)

 村上隆『金・銀・銅の日本史』(岩波新書、2007.7)読了。もちろん青銅や緑青サビに関する記述は豊富なものの、それが直接、有毒であるとは記してない。Wikipedia にもあるように、古代の銅製品はスズ、アンチモン、ヒ素、鉛との合金であるという記述が多く目につく。
 壁画「飛鳥美人」やキトラ古墳の「四神」が長い間、カビに犯されなかった一因には、副葬として銅製品がおさめられ、銅イオン、ヒ素、鉛の室内濃度が自然界よりも高かった可能性は考えられないだろうか。当時の人たちは経験的に銅製品の抗菌性に気がついていたんじゃないだろうか。だから、神聖な埋葬には、金や銀や鉄もさることながら、積極的に銅製品が選択されていたんじゃないだろうか。銅製副葬品の抗菌説……いちおうオリジナルの仮説です。




*次週予告


第五巻 第六号 
大震火災記 鈴木三重吉


第五巻 第六号は、
二〇一二年九月一日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第五号
新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
発行:二〇一二年八月二五日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。