岡本綺堂 おかもと きどう
1872-1939(明治5.10.15-昭和14.3.1)
劇作家・小説家。本名、敬二。東京生れ。戯曲「修禅寺物語」「番町皿屋敷」、小説「半七捕物帳」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)
◇表紙イラスト:「北斎漫画」


もくじ 
兜 / 島原の夢(他)岡本綺堂


ミルクティー*現代表記版

島原の夢
昔の小学生より
三崎町の原

オリジナル版

島原の夢
昔の小学生より
三崎町の原

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて校正中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03cm。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1mの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3m。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109m強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273km)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方cm。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本


底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「週刊朝日」
   1928(昭和3)年7月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card45482.html

島原の夢
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
初出:『随筆』
   1923(大正12)11月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1306.html

昔の小学生より
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
初出:『時事新報』
   1927(昭和2)10月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1306.html

三崎町の原
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
初出:『不同調』
   1927(昭和2)1月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1306.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html
NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





かぶと

岡本綺堂

   一


 わたしはこれから邦原くにはら君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年(一九二三)の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古いかぶとが不思議に、ただひとつ助かった。
 それも邦原君自身や家族の者が取り出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねてきて、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからおとどけ申しますと言って、かのかぶとを置いて帰った。そのとき、あたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受け取って、彼女の姓名をも聞きもらしたというのである。なにぶんにもあの混雑の際であるから、それもよんどころないことであるが、彼女はいったい何者で、どうして邦原君の避難先までわざわざ届けにきてくれたのか、それらの事情はいっさいわからなかった。
 いずれそのうちにはわかるだろうと、邦原君も深く気にもめずにいたのであるが、その届けぬしは今にいたるまでわからない。焼け跡の区画整理はかたづいて、邦原君一家は旧宅地へ立ち戻ってきたので、知人や出入りの者などについて心あたりをいちいち聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこでさらに考えられることは、平生へいぜいならともあれ、あの大混乱の最中に身許みもと不明の彼女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、そのかぶとをすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいうとおり、ほとんど着のみ着のままで立ち退いたのであるから、かぶとなどを門前まで持ち出した覚えはないというのである。そうなると、その事情がいよいよわからなくなる。まさかにそのかぶとが口をきいて、おれを邦原家の避難先へつれて行けと言ったわけでもあるまい。蘇鉄そてつ妙国寺みょうこくじへ行こうといい、安宅丸あたけまるが伊豆へ行こうといった昔話を、いまさら引き合いに出すわけにもゆくまい。
 はなはだよくない想像であるが、門前に落ちているはずのないかのかぶとが、はたして門前に落ちていたとすれば、当夜のどさくさにまぎれて何者かが家の内から持ち出したものではないかと思われる。いったん持ち出しては見たもののかぶとなどはどうにもなりそうもないので、なにか他の金目かねめのありそうな物だけをかかえ去って、重いかぶとはそのまま門前に捨てて行ったのではあるまいか。それを彼女がひろってきてくれたのであろう。盗んだ本人がわざわざと届けにくるはずもあるまいから、それを盗んだ者と、それを届けてくれた者とは別人でなければならない。盗んだ者をいまさら詮議せんぎする必要もないが、届けてくれた者だけは、それが何人なんぴとであるかを知っておきたいような気がしてならない、と邦原君は言っている。
 以下は邦原君の談話を紹介するのであるから、そのかぶとについて心あたりのある人は邦原君のところまで知らせてやってもらいたい。それによって、彼は今後、そのかぶとに対する取り扱い方をすこしく変更することになるかもしれないのである。

 まず、そのかぶとが邦原家に伝わった由来を語らなければならない。文久二年(一八六二)といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひどく騒々そうぞうしい。将軍家のお膝元ひざもとという江戸もすこぶる物騒ぶっそうで、押し込みの強盗や辻斬つじぎりが毎晩のように続く。その八月の十二日のよいである。この年は八月にうるうがあったそうで、ここにいう八月はうるうのほうであるから、平年ならばもう九月という時節で、朝晩はめっきりと冷えてきた。その冷たい夜露よつゆをふんで、ひとりの男が湯島の切り通しをぬけて、本郷の大通りへ出て、かの加州かしゅう〔加賀国〕の屋敷の門前にさしかかった。
 前にもいうとおり、今夜は八月十二日で、月の光はさえわたっているので、その男の姿はあざやかにらし出された。彼は単衣ひとえものの尻を端折はしょった町人ていの男で、大きい風呂敷ふろしき包みをかかえている。それだけならば別に不思議もないのであるが、彼はその頭に鉄のかぶとをいただいていた。かぶとにはしころもついていた。たといそれが町人でなくても、単衣ひとえを着てかぶとをかぶった姿などというものは、虫干しのときか何かでなくてはちょっと見られない図であろう。そういう異形いぎょうの男が加州かしゅうの屋敷の門前を足早に通りすぎて、やがて追分おいわけに近づこうとするときに、どこから出てきたのか知らないが、不意につかつかとって、うしろからそのかぶとのてっぺんへりつけた者があった。
 男はアッとおどろいたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半ちょうあまりも逃げのびて、みちばたの小さい屋敷へかけこんだ。その屋敷は邦原家で、そのころ祖父の勘十郎は隠居して、父の勘次郎が家督を相続していたが、まだ若年じゃくねんで去年ようよう番入りをしたばかりであるから、屋敷内のことはやはり祖父が支配していたのである。小身しょうしんではあるが、屋敷には中間ちゅうげん二人を召使めしつかっている。
 かぶとをかぶった男は、大きいイチョウの木を目あてに、その屋敷の門前へかけてきたが、夜はもう五つ(午後八時)をすぎているので、門はしめきってある。その門をむやみにたたいて、中間ちゅうげんのひとりが開けてやるのを待ちかねたように、彼は息を切ってころげこんできて、なかくち―すなわち内玄関うちげんかんの格子先でぶったおれてしまった。
 かぶとをかぶっているので、誰だかよくわからない。ほかの中間ちゅうげんも出てきて、まずそのかぶとを取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は白山前町はくさんまえまちに店を持っていて、道具屋といってもおもよろいかぶとや刀剣、やり、弓の武具を取り扱っているので、邦原家へも出入りをしている。年は四十前後で、すこぶるのんきなおもしろい男であるので、さのみ〔さほど、別段に〕近しく出入りをするというほどでもないが、屋敷内の人々によく知られているので、今夜、彼があわただしくけ込んできたについて、人々もおどろいて騒いだ。
「金兵衛、どうした?」
「やられました……」と、金兵衛はたおれたままでうなった。「頭のてっぺんからられました……」
「ケンカか? 辻斬つじぎりか?」と、ひとりの中間ちゅうげんいた。
辻斬つじぎりです、辻斬りです。もういけません、水をください……」と、金兵衛はまたうなった。
 水をのませて介抱して、だんだんあらためてみると、彼は今にも死にそうなことを言っているが、その頭はもちろん、からだの内にもべつにきずらしい跡は見いだされなかった。どこからも血などの流れている様子はなかった。
「おい、金兵衛、しっかりしろ。おまえはきつねにでもかされたのじゃあねえか?」と、中間ちゅうげんらは笑い出した。
「いいえ、られました。たしかに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。かぶとのてっぺんから梨子割なしわりにされたんです。
「バカをいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。
 押し問答のすえに、さらにそのかぶとをあらためると、なるほどそのてっぺんに薄い太刀傷たちきずのあとが残っているらしいが、鉢そのものがよほど堅固にできていたのか、あるいはった者の腕がにぶかったのか、いずれにしてもかぶとの鉢をち割ることができないで、金兵衛のあたまは無事であったということがわかった。
「まったく一太刀ひとたちでザクリとやられたものと思っていました。」と、金兵衛はホッとしたように言った。その口ぶりや顔つきがおかしいので、人々はまた笑った。
 それが奥にも聞こえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出てきた。
 金兵衛はその日、下谷したや御成道おなりみちの同商売の店から、他の古道具類といっしょにかのかぶとを買い取ってきたのである。その店はあまり武具をあつかわないので、かぶと邪魔物じゃまもののように店のすみに押し込んであったのを、金兵衛がふと見つけ出して、元値もとね同様に引き取ったが、ほかにもいろいろの荷物があって、その持ちかかえが不便であるので、彼はかぶとをかぶることにして、月の明るい夜道をたどってくると、はからずもかの災難に出逢であったのであった。最初から辻斬つじぎりのつもりで通行の人を待っていたのか、あるいは一時の出来心できごころか、いずれにしても彼がかぶとをかぶっていたのがわざわいのもとで、る方からいえばかぶとのてっぺんからぷたつにってみたいという注文であったらしい。いくら夜道でもかぶとなどをかぶって歩くから、そんな目にもあうのだと、勘十郎は笑いながらしかった。
 それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はそのかぶとを見たくなった。った者の腕前うでまえは知らないが、ともかくも鉢のてっぺんから撃ちおろして、かぶとにも人にもつつがないという以上、それは相当の冑師かぶとしの作でなければならないと思ったので、勘十郎は金兵衛を内へ呼び入れて、灯火あかりの下でそのかぶとをあらためた。
 刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、かぶとについてはなんにもわからなかったが、それがかなりに古い物で、鉢のきたえも決して悪くないということだけは容易に判断された。世のありさまがおだやかでなくなって、いずかたでも武具の用意や手入れにいそがしい時節であるので、勘十郎はそのかぶとを買いたいと言い出すと、金兵衛は一も二もなく承知した。
「どうぞお買いください。これをかぶっていたためにあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな縁喜えんぎの悪いものは早く手放てばなしてしまいとうございます。
 その代金は追って受け取ることにして、彼はそのかぶとを置いて帰った。

   二


 かぶとあたいはいくらであったか、それはべつに伝わっていないが、その以来、かぶとは邦原家の床の間に飾られることになって、下谷したやの古道具屋の店にころがっているよりは少しく出世したのである。ある人に鑑定してもらうと、それは何代目かの明珍みょうちんの作であろうというので、勘十郎は思いもよらない掘り出し物をしたのをよろこんだという話であるから、おそらく捨て値同様に値切りたおして買い入れたのであろう。
 それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分おいわけに近いみちばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五、六で、見苦みぐるしからぬ扮装いでたちの人物であったが、どこの何者であるか、その身許みもとを知りるような手がかりはなかった。そのうわさを聞いて、金兵衛は邦原家の中間ちゅうげんらにささやいた。
「その侍はきっとわたしをったやつですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。
「おまえのような唐茄子とうなす頭を二つや三つ斬ったところで、なにも切腹するにゃおよぶめえ。」と、中間ちゅうげんらは笑った。
 金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見とどけてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終わるのほかはなかった。しかし、彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほどこぼれていたといううわさが伝えられた。彼は相手のかぶとを斬り得ないで、かえって自分の刀のきずついたのを恥じくやんで、いさぎよくその場で自殺したのであろうと、金兵衛は主張するのであった。
 どういう身分の人か知らないが、辻斬つじぎりでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛のかぶとを斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許みもとは結局不明に終わったということであった。
 いずれにしても、それは邦原家にとって何のかかりあいもない出来事であったが、そのかぶとについてさらに新しい出来事がおこった。
 それからふたつきほどをすぎた十月のなかばに、かぶとが突然に紛失したのである。それは小春日和びよりのうららかに晴れた日のひるすぎで、当主の勘次郎は出番の日にあたっているので朝から留守であった。隠居の勘十郎も牛込うしごめあたりの親類をたずねて行って留守であった。かぶとはそのあいだに紛失したのであるから、隠居と主人の留守をうかがって、何者かが盗み出したのは明白であったが、座敷の縁側にも人の足跡らしいものなどは残されていなかった。ほかにはなんにも紛失ものはなかった。賊は白昼大胆に武家屋敷の座敷へしのびこんで、床の間に飾ってあるかぶとひとつを盗み出したのである。
 その当時の邦原家は隠居とその妻のお国と、当主の勘次郎との三人で、勘次郎はまだ独身であった。ほかには中間ちゅうげん二人と下女ひとりで、中間ちゅうげんらはいずれも主人の供をして出ていたのであるから、家に残っているのはお国と下女だけで、彼らは台所でなにか立ち働いていたために、座敷の方にそんなことのおこっているのを、ちっとも知らなかったというのである。
 盗んだ者については、なんの手がかりもない。しいて疑えば、日ごろ邦原家へ出入りをして、そのかぶとを見せられた者の一人が、うらやましさのあまり、欲しさのあまりに悪心をおこしたものかとも想像されないことはないので、あれかこれかと数えてゆくと、その嫌疑けんぎ者が二、三人ぐらいはないでもなかったが、べつに取りとめた証拠もないのに、武士に対して盗人ぬすびとのうたがいなどをかけるわけにはゆかない。邦原家では自分の不注意とあきらめて、何かの証拠を見いだすまでは泣き寝入りにしておくのほかはなかった。
「どうも普通の賊ではない。」と、勘十郎は言った。
 床の間には箱入りの刀剣類も置いてあったのに、賊はそれらに眼をかけず、よりによってふるびたかぶとひとつをかかえ出したのを見ると、最初からかぶとを狙ってきたものであろう。まさかに、かの金兵衛が取り返しにきたのでもあるまい。賊はこの屋敷に出入りする侍の一人に相違ないと、勘十郎は鑑定した。勘次郎もおなじ意見であった。
 それにつけても、かのかぶとの出所をよく取りただしておく必要があると思ったので、邦原家では金兵衛をよび寄せて詮議すると、金兵衛もその紛失におどろいていた。じつは自分もその出所を知っていないのであるから、さっそく下谷したやの道具屋へ行って聞き合わせてくるといって帰ったが、その翌日の夕方にふたたび来て、つぎのようなことを報告した。
「けさ下谷へ行って聞きますと、あのかぶとはことしの五月、なんでも雨のびしょびしょ降る夕方に、二十七、八の女が売りに来たんだそうです。わたしの店では武具をあつかわないから、ほかの店へ持って行ってくれと一旦いったんは断わったそうですが、いくらでもいいから引き取ってくれとしきりに頼むので、こっちも気の毒になってとうとう買い込むことになったのだということです。その女は屋敷者らしい上品な人でしたが、身なりはあまりよくない方で、れた番傘をさしていて、九つか十歳とおぐらいの女の子を連れていたそうで、まあ見たところでは浪人者か小身しょうしん御家人ごけにん御新造ごしんぞうでもあろうかという風体ふうていで、左の眼の下に小さいあざがあったそうです。
 それだけのことでは、その売主うりぬしについてもなんの手がかりを見いだすこともできなかった。まあいい。そのうちには何か知れることもあるだろうと、邦原家でももうあきらめてしまった。そうして、またふたつきあまりもすぎると、十二月の末の寒い日である。ゆうべから吹きつづくからっ風に鼻先を赤くしながら、あの金兵衛がまたけ込んできた。
「ご隠居さま、一大事でございます!」
 茶の間の縁側に出て、鉢植はちうえの梅をいじくっていた勘十郎は、内へひっかえして火鉢の前にすわった。
「ひどくあわてているな。例のかぶとのゆくえでも知れたのか?」
「知れました!」と、金兵衛は息をはずませながら答えた。「どうも驚きました。まったく驚きました。あのかぶとには、なにかたたっているんですな。
たたっている……。
「わたくしと同商売の善吉という奴が、ゆうべ下谷の坂本の通りでやられました。」と、金兵衛は顔をしかめながら話した。「善吉は下谷金杉に小さい店を持っているんですが、それが坂本二丁目の往来で斬られたんです。こいつはわたくしとちがって、うしろ袈裟げさにバッサリやられてしまいました。
「死んだのか?」と、勘十郎も顔をしかめた。
「死にました。なにしろ倒れているのを往来の者が見つけたんですから、どうして殺されたのかわかりませんが、時節柄じせつがらのことですからやっぱり辻斬つじぎりでしょう。ふだんから正直な奴でしたが、かわいそうなことをしましたよ。それはまあ災難としても、ここに不思議なことというのは、その善吉もかぶとをかかえて死んでいたんです。
「おまえはそのかぶとを見たか?」
「たしかに例のかぶとです。」と、金兵衛は一種の恐怖にとらわれているようにささやいた。「同商売ですから、わたくしもとりあえずやみに行って、そのかぶとというのを見せられてじつにギョッとしました。死人に口なしですから、いったいそのかぶとをどこから手に入れて、引っかかえてきたのかわからないというんですが、わたくしといい、善吉といい、そのかぶとを持っている者が続いてやられるというのは、どうも不思議じゃあありませんか。考えてみると、わたくしなぞは運がよかったんですね。かぶとをかぶっていたのがしあわせで、善吉のように引っかかえていたら、やっぱりぷたつにされてしまったかもしれないところでした。
 それがかぶとたたりと言い得るかどうかは疑問であるが、ともかくも邦原家から盗み出されたかのかぶとがどこかを転々して善吉の手に渡って、それを持ち帰る途中で彼も何者にか斬られたというのは事実である。ただし、そのかぶとうばい取る目的で彼を殺したものならば、かぶとが彼の手に残っているはずはない。そのかぶと辻斬つじぎりとはべつに何のかかりあいもないことで、単に偶然のまわりあわせにすぎないらしく思われるので、勘十郎はその理屈を説明して聞かせたが、金兵衛はまだほんとうにみこめないらしかった。
 そのかぶとには何かのたたりがあって、それを持っている者はみな何かのわざわいを受けるのであろうと、彼はあくまでも主張していた。
「それでは、最初お前にそのかぶとを売った御成道おなりみちの道具屋はどうした?」と、勘十郎はなじるように聞いた。
「それが、今になると思いあたることがあるんです。御成道おなりみちの道具屋の女房は、この七月に霍乱かくらんで死にました。
「それは暑さにあたったのだろう。
「暑さにあたって死ぬというのが、やっぱり何かのたたりですよ。
 金兵衛はなんでもそれをかぶとたたりにこじつけようとしているのであるが、勘十郎はさすがに大小をしている人間だけに、むやみにたたりとか因縁いんねんとかいうような奇怪な事実を信じる気にもなれなかった。
「そこで旦那だんな、どうなさいます? そのかぶとをまたお引き取りになりますか? むこうでは売るに相違ありませんが……。」と、金兵衛は聞いた。
「さあ……」と、勘十郎も考えていた。「まあ、よそうよ。
「わたくしもそう思っていました。あんなかぶとはもうお引き取りにならないほうが無事でございますよ。第一、それを持ってくる途中で、わたくしがまたどんな目にあうかわかりませんからね。
 言うだけのことをいって、彼は早々に帰った。

   三


 下谷したやの坂本通りで善吉をったのは何者であるか、このごろ流行はや辻斬つじぎりであろうというだけのことで、ついにその手がかりをずに終わった。主人をうしなった善吉の家族は、店をたたんでどこへか立ち退いてしまったので、かぶとのゆくえもわからなかった。おそらく他の諸道具といっしょに売り払われたのであろうと、金兵衛は言っていた。
 それから四年目の慶応二年(一八六六)に、隠居の勘十郎は世を去って、相続人の勘次郎が名実ともに邦原家の主人あるじとなった。彼はお町という妻をむかえて、慶応三年にはお峰という長女を生んだ。それが現代の邦原君の姉である。
 その翌年は慶応四年すなわち明治元年(一八六八)で、勘次郎は二十三歳の春をむかえた。この春から夏へかけて、江戸に何ごとがおこったかは、改めて説明するまでもあるまい。勘次郎は老いたる母と若い妻と幼い娘とを知己しるべのかたにあずけて、自分は上野の彰義しょうぎ隊にせ加わった。
 五月十五日の午後、勘次郎は落武者おちむしゃの一人として、りしきる五月雨さみだれのなかを根岸ねぎしのかたへ急いでゆくと、下谷から根岸方面の人々はいくさの難を逃がれようとして、思い思いに家財を取りまとめて立ち退いた後であるから、みちばたにはいろいろの物が落ち散っていて、さながら火事場のようである。そのあいだをみわけて、勘次郎はともかくも箕輪みのわの方角へ落ちて行こうとすると、いそぐがままに何物なにものにかつまずいて、あやうくたおれかかった。みとまって見ると、それは一つのかぶとであった。しかも見おぼえのあるかぶとであった。彼はそれをひろい取って小脇こわきにかかえた。
 持っている物でさえも、なるべくは打ち捨てて身軽になろうとする今の場合に、重いかぶとをひろってどうする気であったか。後日ごにちになって考えると、彼自身にもその時の心持ちはよくわからないとのことであったが、勘次郎はただなんとなくなつかしいように思って、そのかぶとをひろいあげたのである。そうして、その邪魔物じゃまものを大事そうにひっかかえて、また走り出した。
 箕輪のあたりまで落ちのびて、彼はまた考えた。雨が降っているものの、夏の日はまだなかなか暮れない。千住せんじゅ宿しゅくにはおそらく官軍がたむろしているであろう。その警戒の眼をくぐりぬけるには、暗くなるのを待たなければならない。さりとて、往来にさまよっていては人目に立つと思ったので、彼は円通寺えんつうじに近い一軒の茅葺かやぶき家根を見つけてけ込んだ。
「彰義隊の者だ。日の暮れるまでかくしてくれ。
 この場合、いやといえばどんな乱暴をされるかわからないのと、ここらの者はみな彰義隊に同情をよせているのとで、どこの家でも彰義隊の落武者をこばむものはなかった。ここの家でもこころよく承知して、勘次郎を庭口から奥へ案内した。百姓家ともつかず、店屋てんやともつかないうちで、表には腰高こしだか障子しょうじをしめてあった。ここらのことであるから相当に広い庭を取って、若葉のしげっている下に池なども掘ってあった。しかしかなりに古い家で、家内は六畳二間しかないらしく、勘次郎は草鞋わらじをぬいで、奥の六畳へ通されると、十六、七の娘が茶を持ってきてくれた。その母らしい三十四、五の女も出てきて挨拶あいさつした。身なりはよくないが、二人ともに上品な人柄であった。
「失礼ながら、おひもじくはございませんか?」と、女は聞いた。
 朝からの戦いで勘次郎は腹がすいているので、その言うがままに飯を食わせてもらうことになった。
「ここのうちに男はいないのか?」と、勘次郎は膳に向かいながら聞いた。
「はい。娘と二人ぎりでございます。」と、女はつつましやかに答えた。その眼の下に小さいあざのあるのを、勘次郎ははじめて見た。
「なんの商売をしている?」
「ひと仕事などをいたしております。
 飯を食うと、朝からの疲れが出て、勘次郎は思わずうとうとと眠ってしまった。やがて眼がさめると、日はもう暮れきって、池のかわず騒々そうぞうしく鳴いていた。
「もうよい時分だ。そろそろ出かけよう。
 おきて身支度みじたくをすると、いつのに用意してくれたのか、蓑笠みのかさのほかに新しい草鞋わらじまでも取りそろえてあった。腰弁当のにぎり飯もこしらえてあった。勘次郎はその親切をよろこんでふところから一枚の小判を出した。
「これはすこしだが、世話になった礼だ。受け取ってくれ」
「いえ、そんなご心配ではおそれ入ります。」と、女は固く辞退した。「いろいろ失礼なことを申し上げるようでございますが、旦那だんなさまはこれからご遠方へいらっしゃるのですから、一枚の小判でもお大切でございます。どうぞこれはおおさめなすってくださいまし。
「いや、そのほかにも多少の用意はあるから、心配しないで取ってくれ。
 彼は無理にその金を押しつけようとすると、女はすこしくことばをあらためて言った。
「それでははなはだ勝手がましゅうございますが、お金のかわりにおねだり申したい物がございますが……。
「大小は格別、そのほかの物ならばなんでも望め。
「あのおかぶとをいただきたいのでございます。
 言われて、勘次郎は気がついた。彼はひろってきたかのかぶとを縁側に置いたままで、今まで忘れていたのであった。
「ああ、あれか。あれは途中でひろってきたのだ。
「どこでおひろいなさいました?」
「根岸のみちばたに落ちていたのだ。どういう料簡りょうけんでひろってきたのか、自分にもわからない。
 彼は正直にこう言ったが、落武者の身でひろい物をしてきたなどとあっては、いかにもいやしいあさましい料簡のように思われて、この親子にさげすまれるのも残念であると、彼はまた正直にその理由を説明した。
「そのかぶとは一度、わたしの家にあった物だ。それがどうしてか往来に落ちていたので、ついひろってきたのだが、あんなものを持ち歩いていられるものではない。欲しければ置いて行くぞ。
「ありがとうございます。
 かぶとかぶと、金は金であるから、ぜひ受け取ってくれと、勘次郎はかの小判を押しつけたが、親子はどうしても受け取らないので、彼はとうとうその金を自分のふところに納めて出た。出るときにも親子はいろいろの世話をしてくれて、暗い表まで送ってきて別れた。
 上野の四方を取りまいた官軍は、三河島みかわしまの口だけをあけておいたので、彰義隊の大部分はその方面から落ちのびたが、三河島へゆくことを知らなかった者は、出口出口をふさがれてふたたび江戸へ引っ返すのほかはなかった。勘次郎も逃げ路をうしなって、さらに小塚原づかっぱらから浅草の方へひっかえした。それからさらに本所ほんじょへまわって、自分の菩提寺ぼだいじに隠れた。その以後のことはこの物語に必要はない。彼は無事に明治時代の人となって、最初は小学校の教師をつとめ、さらにある会社に転じて晩年は相当の地位にのぼった。
 彼がまだ小学校につとめている当時、箕輪みのわの円通寺に参詣した。その寺に彰義隊の戦死者を葬ってあるのは、だれも知ることである。そのついでにかの親子をたずねて、先年の礼を述べようと思って、いささかの手土産てみやげをたずさえてゆくと、その家はもうき家になっているので、近所について聞きあわせると、その家にはお道・おかねという親子が久しく住んでいたが、上野の戦いの翌年の夏、ふたりは奥の六畳の間で咽喉のどいて自殺した。もちろんその子細しさいはわからない。ふるびた机の上にかぶとをかざって線香をそなえ、ふたりはその前に死んでいたのである。
 その話を聞かされて、勘次郎はギョッとした。そうして、そのかぶとはどうしたかと聞くと、彼らの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。かぶともそのときに古道具屋に売り払われてしまったとのことであった。彼らの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓とともにおがんで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも香花こうげをそなえるのを例としていた。
 憲法発布の明治二十二年(一八八九)には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時、彼は築地つきじに住んでいたので、夏のよいに銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古いかぶとを発見した。彼は言い値でそのかぶとを買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすにしのびないような気がしたからであった。
 彼はそのかぶとを形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存しておいたのである。もちろん、そのかぶとが邦原家に復帰して以来、べつに変わったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後、どうしているかわからなかった。
 ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が出来しゅったいしたのである。何者がそのかぶとを邦原家の門前まで持ち出したか、また何者がそれを邦原君の避難先まで届けたか、それらの事情が判明すれば、べつに不思議でもなんでもないことかもしれない。ああそうかと笑ってすむことかもしれない。しかもそのかぶとの歴史にはいろいろの因縁話がともなっているので、邦原君もなんだか気がかりのようでもあると言っている。したがってそれを届けてくれた女に逢わなかったのをはなはだ残念がっているが、それを受け取ったのは避難先の若い女中で、その話によると、かの女は三十四、五の上品な人柄で、あの際のことであるからあまり綺麗きれいでもない白地の浴衣ゆかたを着て、破れかかった番傘をさしていたというのであった。
 もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さいあざのあることで、女中はたしかにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪みのわで宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さいあざがあった。しかし、その女はもう五十年前に自殺してしまったはずで、たとい生きていたとしても非常の老人になっていなければならない。それとも一種の遺伝で、このかぶとに因縁のあるものはみなその眼の下にあざを持っているのかもしれない。
 その以来、邦原君の細君さいくんはなんだか気味が悪いというので、そのかぶとを自宅に置くことをきらっているが、さりとてむざむざ手放すにもしのびないので、邦原君は今もそのままに保存している。そうして、往来を歩くときにも、電車に乗っている時にも、左の眼の下に小さいあざを持つ女に注意しているが、その後まだ一度もそれらしい女にめぐり逢わないそうである。
「万一、彼が五十年前の人であるならば、僕は一生たずねてもふたたびえないかもしれない。
 邦原君もこのごろは、こんな怪談じみたことを言い出すようになった。どうかその届け主を早く見つけ出して、彼の迷いをさましてやりたいものである。



底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「週刊朝日」
   1928(昭和3)年7月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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島原の夢

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



戯場しばい訓蒙きんもう図彙ずい』や『東都とうと歳事記さいじき』や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎かぶきの世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮しょせんは遠い昔の夢の夢であって、それにひかれろうとするにはあまりに縁が遠い。何かのけ橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんどえたといってもいいくらいに、ちながら残っていた。それが今度の震災とともに、東京の人と悲しい別離わかれをつげて、架け橋はまったくえてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代がかくされていた。それは明治の初年から二十七、八年(一八九四、一八九五)の日清戦争までと、その後の今年〔一九二三〕までとで、政治・経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、ガス灯がひかり、洋服や洋傘傘こうもりがさやトンビが流行しても、せんずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、ガス灯に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代からみ出してきた人たちであることを記憶しなければならない。わたしは明治になってからはじめてこの世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うにはいささか便たよりのよい架け橋を渡ってきたとも言い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべきことばを知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかにみ渡ってきた世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場いちじょうの過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界をあきらかに語ることができる。いさらばえた母をみて、おれはかつてこの母の乳を飲んだのかとあやしく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変わった現在の歌舞伎の世界を見ていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢からめ得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座しんとみざ、グラント将軍が見物したという新富座、はじめてガス灯をもちいたという新富座、はじめて夜芝居を興行こうぎょうしたという新富座、桟敷さじき五人づめ一間ひとまあたい四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場の前に、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。彼らは紙捻かみよりでこしらえた太い鼻緒の草履ぞうりをはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占つじうらせんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向こう側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋ものきには新しい花暖簾はなのれんをかけて、「さるや」とか「菊岡きくおか」とか「梅林ばいりん」とかいう家号を筆太ふでぶとにしるした提灯ちょうちんがかけつらねてある。劇場の木戸前には座主ざぬし俳優やくしゃに贈られたいろいろののぼりが文字どおりに林立している。そののぼりのあいだから幾枚の絵看板が見えがくれにあおがれて、木戸の前、茶屋の前には、のぼりとおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町しんとみちょうだの、新富座だのというものはない。一般に島原しまばらとか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓ゆうかくが一時栄えた歴史を持っているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地つきじの川は今よりも青く流れている。高い建物の少ない町の上に紺青こんじょうの空が大きくんで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸かしの柳は秋風に軽くなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優のくばりものらしい浴衣ゆかたを着て、日よけのほおかむりをしていきなタバコ入れを腰にさげている。そこには笛を吹いているあめ屋もある。そのあめ屋の小さい屋台店ののきには、俳優のもんどころを墨やあかあいで書いたいおり看板がかけてある。居付いつきの店で、今川焼いまがわやきを売るものも、稲荷鮓いなりずしを売るものも、そこの看板や障子しょうじ暖簾のれんには、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細しさいに検査したら、そこらを歩いている女のかんざしも扇子せんすも、男の手ぬぐいも団扇うちわも、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかもしれない。
 こうして、築地橋つきじばしから北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町しばいまちの空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響を立てて、ここの町の空気をかきみだすものはいっさい通過しない。たまたまここをすぎる人力車があっても、それはしずかに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。そのころの車夫にはなかなか芝居の消息をそらんじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながらいてゆくのをしばしば聞いた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇をひたいにかざしている。彼らは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないそのころの観客は、窮屈きゅうくつ土間どまに行儀よくかしこまっているか、茶屋へもどって休息するか、往来を歩いているかの他はないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻かみよりの太い鼻緒の草履ぞうりをはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らのほこりでもあるらしい。少年も芝居へくるたびにかならず買うことに決めているらしい辻占つじうらせんべいと八橋やつはしとのかごをぶらさげて、きわめて愉快ゆかいそうに徘徊はいかいしている。彼らにかぎらず、すべて幕間まくあいの遊歩に出ている彼らのれは、東京の大通りであるべき京橋区きょうばし新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、すれあいすれちがって往来のまんなか悠々ゆうゆうと散歩しているが、かどの交番所を守っている巡査もその交通妨害をとがめないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔じゃま者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥でが聞こえる。それが木戸の外までえて響きわたると、遊歩の人々は牧童の笛を聞いた小羊のれのように、みなぞろぞろとつながって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方でかたのうちでも、如才じょさいのないものは自分たちの客をさがし歩いて、もう幕が開きますとれてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉も同じく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅せんべいかごを投げ出すように姉にわたして、一番先にかけ出してゆく。柝の音はつづいて聞こえるが、幕はなかなか開かない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいをなおし、外から戻ってきた観客はようやく元の席におちついたころになっても、舞台と客席とをさえぎるはなやかな大きい幕はなおいつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕の開く前の拍子木ひょうしぎの音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸をおどらせて正面をみつめている。

 幕があく。妹背山いもせやま婦女おんな庭訓ていきん吉野川よしのがわの場である。岩にせかれてむせび落ちる山川を境にして、かみかた背山せやまにも、しもの方の妹山いもやまにも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段ひなだんが飾られて、若い美しい姫が腰元どもといっしょにさびしくその雛にかしずいている。背山せやまの家にはすだれがおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じぶみをむすびつけて打ち込んだ水の音におどろかされて、すだれがしずかに巻き上げられると、そこにはむらさきの小袖こそで茶宇ちゃうはかまをつけた美少年が殊勝しゅしょうげに経巻きょうかん読誦どくじゅしている。高島たかしま屋ァ」とよぶ声がしきりに聞こえる。美少年は市川左団次さだんじ久我之助こがのすけである。
 姫は太宰だざいの息女雛鳥ひなどりで、中村福助ふくすけである。雛鳥ひなどりが恋びとのすがたを見つけて庭におりたつと、これには「新駒しんこま屋ァ」とよぶ声がしきりにあびせかけられたが、彼の姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年にふんして、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼をうばったらしい。少年の父もうなるような吐息といきをもらしながらながめていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵にしきえをひろげてゆく。
 背山せやまかた大判司だいはんじ清澄きよずみ―チョボの太夫の力強い声によび出されて、かり花道にあらわれたのは織り物のかみしもを着た立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵からぬけ出してきたかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型にはまったような彼の姿、それは中村芝翫しかんである。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切りかみの女は太宰だざい後室こうしつ定高さだかで、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川団十郎だんじゅうろうである。大判司に対して、成駒なりこま屋ァ」の声がさかんにくと、それを圧倒するように、定高さだかに対して「成田なりた屋ァ」「親玉ァ」の声が三方からどっとおこる。
 大判司と定高さだかは花道で向かいあった。ふたりは桜の枝を手に持っている。
畢竟ひっきょう、親の子のというは人間のわたくし、ひろき天地よりるときは、おなじ世界にわいた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはってそらうそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切ってぎ木をいたさねば、太宰のいえが立ちませぬ。」と、定高さだかりんとした声で言いはなつ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、だれももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。彼は二時間にあまる長い一幕の終わるまで身動きもしなかった。

 その島原の名は、もう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山いもせやまの舞台に立った、かの四人の歌舞伎俳優やくしゃのうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門うたえもんだけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。いっさいの過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくりかえして、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。彼はおそらくその一生を終わるまで、その夢からさめる時はないのであろう。
(大正12(一九二三)・11『随筆』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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昔の小学生より

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



 十月二十三日、きょうは麹町こうじまち尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにももちろん同窓会をゆうしていたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工しゅんこうして、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名もつらなっている。巌谷いわや小波さざなみ氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
 それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年(一八七二)十月の生まれで、明治十七年(一八八四)の四月に小学を去って中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形をそなえるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
 ひとくちに麹町小学校出身者といいながら、巌谷小波氏やわたしのごときはじつは麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町もとそのちょうに女学校というのがあり、平河町ひらかわちょうに平河小学校というのがあって、その付近に住んでいるわれわれはどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校といっても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名がおもしろくないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎もまたその位置もわたしたちの通学当時とはまったく変わってしまった。したがって、母校とはいいながら、私たちにとっては縁の薄いほうである。
 そのほかに元園町に堀江小学、山元町やまもとちょうに中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校とよばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習てなら指南所しなんじょから明治時代の小学校に変わったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟はここに通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校のほうが、先生が物柔ものやわらかに親切に教えてくれるとかいううわさもあったが、わたしは私立へ行かないで公立へかよわせられた。
 そのころの小学校は尋常と高等とをねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒はまず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終わると中等科第六級に編入される。ただし高等科は今日の高等小学と同じようなものであったから、小学校だけですませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終わるとともに退学するのが例であった。
 進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月におこなわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績によって、そのつどに席順が変わるのであるが、それはその月かぎりのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日はもちろんであるが、定期試験の当日も盛装せいそうして出るのがならいで、わたしなども一張羅いっちょうら紋付もんつき羽織はおりを着て、よそ行きのはかまをはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生はもちろん、小使こづかいに至るまでも髪を刈り、ひげって、試験中は服装をあらためていた。
 授業時間や冬季・夏季の休暇は、今日こんにちと大差はなかった。授業の時間割もまず一定していたが、その教授のしかたは受け持ち教師の思い思いといったふうで、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くするというような傾きもあった。教え方はだいたいに厳重で、なまける生徒や不成績の生徒は頭からしかりつけられた。時には竹の教鞭きょうべんで背中をひっぱたかれた。癇癪かんしゃく持ちの教師は平手でよこっつらをピシャリとらわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭きょうべんの刑をうけたことも再三あった。
 今日ならば、生徒虐待ぎゃくたいとかいってたちまちに問題をひきおこすのであろうが、寺子屋の遺風の去らないその当時にあっては、師匠が弟子を仕込むうえにおいて、そのくらいの仕置しおきを加えるのは当然であると見なされていたので、べつにあやしむ者もなかった。もちろん、こわい先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるからこわい先生は生徒間にはなはだおそれられた。
 生徒に加える刑罰は、しかったりなぐったりするばかりでなかった。授業中に騒いだりいたずらをしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見るよだれくりをそのままの姿であった。さらに手重ておもいのになると、教授用の大きい算露盤ばん背負せおわせて、教師がつきそって各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであるとふれて歩くのである。所詮しょせんはむかしの引きまわしの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
 もっとも、今と昔とをくらべると、今日の児童はみなおとなしい。私たちの眼からみると、おとなしいのを通りして弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でもいわゆるいたずらッというものになると、どうにもこうにも手におえないのがある。父兄がしかろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないというてあまし者がずいぶん見いだされた。
 学校でも始末にこまって退学を命じると、父兄が泣いてあやまってくるから、ふたたび通学を許すことにする。しかも本人はいっこう平気で、授業中に騒ぐのはもちろん、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子いすをぶちこわす、窓ガラスを割る、ほかの生徒を泣かせる、はなはだしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人をおどすというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正きょうせいする見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引きまわしその他の厳刑を案出したのかもしれない。
 教師はみな羽織はおりはかままたは洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。もちろん、制帽などはなかったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、たいていは炎天にも頭をさらして歩いていた。はかまをはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂まえだれをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖つつそでを着るのは裏店うらだなの子に限っていたので、男の子も女の子と同じように、八つ口のあいたたもとをつけていて、そのたもとは女の子にくらべてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびにたもとをつかまれるので、八つ口からほころびることがしばしばあるので困った。これは今日の筒袖つつそでのほうが軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯へこおびをしめていたが、商家の子はたいてい角帯かくおびをしめていた。
 くつはもちろん少ない、みな草履ぞうりであったが、強い雨や雪の日には、尻をはしょり、あるいははかま股立ももだちを取って、はだしで通学する者もずいぶんあった。学校でもそれをとがめなかった。
 運動場はどこの小学校もせまかった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広いほうであったが、往来に面したところに低いどてを作って、大きいかしの木をえつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅かたすみにブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどにはそこらは一面の水たまりになってしまって、ブランコのそばなどへはとても寄りつくことはできなかった。もちろん、アスファルトや砂利じゃりが敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけでみちが悪い。そこで転んだりったりするのであるから、着物やはかまは毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、ひるの食後に三十分間であったが、べつに一定の遊戯というものもないから、男の子はなわとび、相撲、鬼ごっこ、いくさごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、まりをついたりする。男の子のあそびには相撲がもっともおこなわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえばただむやみにあばれるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子どももできなかったわけであろう。そのころには唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日におおぜいが隊を組んで、他の学校へケンカに行くことである。相手の学校でも隊を組んで出てくる。そのころは所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れでたたき合ったりする。中には自分の家から親父おやじ脇差わきざしを持ち出してくるような乱暴者もあった。ときには往来なかで闘うこともあったが、巡査もべつにとがめなかった。学校ではケンカをしてはならぬということになっていたが、それも表向おもてむきだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなといって、内々ないないで種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらのことを考えると、くどくも言うようであるが、今日の子どもたちはじつにおとなしい。
 その当時はべつに保護者会とか父兄会とかいうものもなかったが、昔の寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結びつけられているようであった。そのかわりに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。
(昭和2(一九二七)・10『時事新報』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
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三崎町みさきちょうの原

綺堂きどうむかし語り」より
岡本綺堂



 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田かんだ三崎町さきちょうまで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥のほうへは震災以後一度もふみこんだことがなかったので、久しぶりでぶらぶら歩いてみると、震災以前もここらはずいぶん混雑しているところであったが、その以後はさらに混雑してきた。区画整理が成就じょうじゅしたあかつきには、町の形がまたもや変わることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化にいまさらおどろくのははなはだ迂闊うかつであるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑のちまたに立って、自動車やトラックにおびやかされてうろうろしながら、周囲の情景のあまりに変化したのにおどろかされずにはいられなかった。いわゆる隔世かくせいの感というのは、まったくこのときの心持ちであった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜・祭日には自由に通行を許された。しかも草刈くさかりがじゅうぶんに行きとどかなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらがいたるところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高いどてで、大樹がおいしげっていた。その堤の松には首くくりの松などという、いやな名のついていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人をかんだ。いはぎも出た。明治二十四年(一八九一)二月、富士見町ふじみちょうの玉子屋の小僧がけ取りに行った帰りに、ここで二人の賊にしめ殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年(一八八五)から二十一年にいたる四年間、すなわち私が十四歳から十七歳にいたるあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通りぬけなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱のほうでもすぐにはそれを開こうともしないで、ただそのままの草原にしておいたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつかならずその原を通りぬけたのは、本郷ほんごう春木座はるきざへ行くためであった。
 春木座は今日こんにちの本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊とりくまという男が、大阪から中通ちゅうどおりの腕達者な俳優一座をつれてきて、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札はんふだをくれるので、来月はその半札に三銭をそえて出せばいいのであるから、要するに金九銭をもって二度の芝居がられるというわけである。ともかくも春木座はいわゆるひのき舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、たしかにやすいに相違ない。それが大評判となって、毎月ツメも立たないような大入りをめた。
 芝居狂の一少年がそれを見逃すはずがない。わたしは月はじめの日曜ごとに春木座へ通うことをおこたらなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りであるうえに、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時かおそくも五時ごろまでには劇場の前に行き着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町もとそのちょうから徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時ごろから家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時ごろに起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉のはかま股立ももだちを取って、朴歯ほおば下駄げたをはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通りぬけなければならないことになる。もちろん、須田町すだちょうのほうからまわって行く道がないでもないが、それでは非常の迂廻うかいであるから、どうしても九段下だんしたから三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
 その原は前にいうとおりのしだいであるから、午前四時、五時のころに人通りなどのあろうはずはない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟そうくつ、追いはぎのかせぎ場である。闇の奥で犬の声が聞こえる。きつねの声も聞こえる。雨の降るときには容赦ようしゃなくっかける。冬の明け方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行きぬけて水道橋へ出ても、お茶の水のどてぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。いくらの小遣こづかい銭を持っているでもないから、追いはぎはさのみに恐れなかったが、犬にえつかれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬にとりまかれて、じつに弱りきったことがあった。そういう難儀なんぎ廉価れんかの芝居見物にはかえられないので、わたしは約四年間をこんよく通いつづけた。そのころの大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月かならず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することができた。
 三崎町三丁目は明治二十二、三年(一八八九、一八九〇)ごろからだんだんに開けてきたが、それでも、かの小僧殺しのような事件はたえなかった。二十四年六月には三崎座みさきざができた。ことに二十五年一月の神田の大火以来、にわかにここらが繁昌はんじょうして、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠ぼうばくたる光景をよく知っている者は少ないかもしれない。武蔵野むさしのの原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷はなんでもないことかもしれないが、目前もくぜんにその変遷をよく知っている私たちにとっては、一種の感慨がないでもない。ことにわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
 暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼にうかんだ。
(昭和2(一九二七)・1『不同調』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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岡本綺堂

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《》:ルビ
(例)拠《よ》んどころない

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(例)半|町《ちょう》あまりも

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あっ[#「あっ」に傍点]と
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     一

 わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に唯ひとつ助かった。
 それも邦原君自身や家族の者が取出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねて来て、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのときあたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受取って、彼女の姓名をも聞き洩らしたというのである。何分にもあの混雑の際であるから、それも拠《よ》んどころないことであるが、彼女はいったい何者で、どうして邦原君の避難さきまでわざわざ届けに来てくれたのか、それらの事情は一切《いっさい》わからなかった。
 いずれその内には判るだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け主《ぬし》は今に至るまでわからない。焼け跡の区画整理は片付いて邦原君一家は旧宅地へ立ち戻って来たので、知人や出入りの者などについて心あたりを一々聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこで更に考えられることは、平生《へいぜい》ならともあれ、あの大混乱の最中に身許《みもと》不明の彼女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、その兜をすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいう通り、ほとんど着のみ着のままで立退《たちの》いたのであるから、兜などを門前まで持出した覚えはないというのである。そうなると、その事情がいよいよ判らなくなる。まさかにその兜が口をきいて、おれを邦原家の避難先へ連れて行けと言ったわけでもあるまい。蘇鉄《そてつ》が妙国寺へ行こうといい、安宅丸《あたけまる》が伊豆へ行こうといった昔話を、今さら引合いに出すわけにもゆくまい。
 甚だよくない想像であるが、門前に落ちている筈《はず》のないかの兜が、果たして門前に落ちていたとすれば、当夜のどさくさに紛れて何者かが家の内から持出したものではないかと思われる。いったん持出しては見たものの兜などはどうにもなりそうもないので、何か他の金目《かねめ》のありそうな物だけを抱え去って、重い兜はそのまま門前に捨てて行ったのではあるまいか。それを彼女が拾って来てくれたのであろう。盗んだ本人がわざわざと届けに来るはずもあるまいから、それを盗んだ者と、それを届けてくれた者とは、別人でなければならない。盗んだ者を今さら詮議《せんぎ》する必要もないが、届けてくれた者だけは、それが何人《なんぴと》であるかを知って置きたいような気がしてならない、と邦原君は言っている。
 以下は邦原君の談話を紹介するのであるから、その兜について心あたりのある人は邦原君のところまで知らせてやってもらいたい。それによって、彼は今後その兜に対する取扱い方をすこしく変更することになるかも知れないのである。

 まずその兜が邦原家に伝わった由来を語らなければならない。文久二年といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひどく騒々しい。将軍家のお膝元という江戸も頗《すこぶ》る物騒で、押込みの強盗や辻斬《つじぎ》りが毎晩のように続く。その八月の十二日の宵である。この年は八月に閏《うるう》があったそうで、ここにいう八月は閏の方であるから、平年ならばもう九月という時節で、朝晩はめっきりと冷えて来た。その冷たい夜露を踏んで、ひとりの男が湯島の切通しをぬけて、本郷の大通りへ出て、かの加州《かしゅう》の屋敷の門前にさしかかった。
 前にもいう通り、今夜は八月十二日で、月のひかりは冴え渡っているので、その男の姿はあざやかに照らし出された。かれは単衣《ひとえもの》の尻を端折《はしょ》った町人ていの男で、大きい風呂敷包みを抱えている。それだけならば別に不思議もないのであるが、彼はその頭に鉄の兜をいただいていた。兜には錣《しころ》も付いていた。たといそれが町人でなくても、単衣をきて兜をかぶった姿などというものは、虫ぼしの時か何かでなくてはちょっと見られない図であろう。そういう異形《いぎょう》の男が加州の屋敷の門前を足早に通り過ぎて、やがて追分《おいわけ》に近づこうとするときに、どこから出て来たのか知らないが、不意につかつかと駆け寄って、うしろからその兜の天辺《てっぺん》へ斬りつけた者があった。
 男はあっ[#「あっ」に傍点]と驚いたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半|町《ちょう》あまりも逃げ延びて、路ばたの小さい屋敷へかけ込んだ。その屋敷は邦原家で、そのころ祖父の勘十郎は隠居して、父の勘次郎が家督を相続していたが、まだ若年《じゃくねん》で去年ようよう番入りをしたばかりであるから、屋敷内のことはやはり祖父が支配していたのである。小身《しょうしん》ではあるが、屋敷には中間《ちゅうげん》二人を召使っている。
 兜をかぶった男は、大きい銀杏《いちょう》の木を目あてに、その屋敷の門前へかけて来たが、夜はもう五つ(午後八時)を過ぎているので、門は締め切ってある。その門をむやみに叩いて、中間のひとりが明けてやるのを待ちかねたように、彼は息を切ってころげ込んで来て、中の口――すなわち内玄関の格子さきでぶっ倒れてしまった。
 兜をかぶっているので、誰だかよく判らない。他の中間も出てきて、まずその兜を取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は白山前町《はくさんまえまち》に店を持っていて、道具屋といっても主《おも》に鎧《よろい》兜や刀剣、槍、弓の武具を取扱っているので、邦原家へも出入りをしている。年は四十前後で、頗るのんきな面白い男であるので、さのみ近しく出入りをするという程でもないが、屋敷内の人々によく識られているので、今夜彼があわただしく駈け込んで来たについて、人々もおどろいて騒いだ。
「金兵衛。どうした。」
「やられました。」と、金兵衛は倒れたままで唸《うな》った。「あたまの天辺から割られました。」
「喧嘩か、辻斬りか。」と、ひとりの中間が訊《き》いた。
「辻斬りです、辻斬りです。もういけません。水をください。」と、金兵衛はまた唸った。
 水をのませて介抱して、だんだん検《あらた》めてみると、彼は今にも死にそうなことを言っているが、その頭は勿論、からだの内にも別に疵《きず》らしい跡は見いだされなかった。どこからも血などの流れている様子はなかった。
「おい、金兵衛。しっかりしろ。おまえは狐にでも化かされたのじゃあねえか。」と、中間らは笑い出した。
「いいえ、斬られました。確かに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。「兜の天辺から梨子割《なしわ》りにされたんです。」
「馬鹿をいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。」
 押し問答の末に、更にその兜をあらためると、成程その天辺に薄い太刀疵のあとが残っているらしいが、鉢その物がよほど堅固に出来ていたのか、あるいは斬った者の腕が鈍《にぶ》かったのか、いずれにしても兜の鉢を撃ち割ることが出来ないで、金兵衛のあたまは無事であったという事がわかった。
「まったく一《ひと》太刀でざくりとやられたものと思っていました。」と、金兵衛はほっとしたように言った。その口ぶりや顔付きがおかしいので、人々は又笑った。
 それが奥にもきこえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出て来た。
 金兵衛はその日、下谷御成道《したやおなりみち》の同商売の店から他の古道具類と一緒にかの兜を買取って来たのである。その店はあまり武具を扱わないので、兜は邪魔物のように店の隅に押込んであったのを、金兵衛がふと見付け出して、元値同様に引取ったが、他にもいろいろの荷物があって、その持ち抱えが不便であるので、彼は兜をかぶることにして、月の明るい夜道をたどって来ると、図《はか》らずもかの災難に出逢ったのであった。最初から辻斬りのつもりで通行の人を待っていたのか、あるいは一時の出来ごころか、いずれにしても彼が兜をかぶっていたのが禍《わざわ》いのもとで、斬る方からいえば兜の天辺から真っ二つに斬ってみたいという注文であったらしい。いくら夜道でも兜などをかぶってあるくから、そんな目にも逢うのだと、勘十郎は笑いながら叱った。
 それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はその兜を見たくなった。斬った者の腕前は知らないが、ともかくも鉢の天辺から撃ちおろして、兜にも人にも恙《つつが》ないという以上、それは相当の冑師《かぶとし》の作でなければならないと思ったので、勘十郎は金兵衛を内へ呼び入れて、燈火《あかり》の下でその兜をあらためた。
 刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、兜についてはなんにも判らなかったが、それが可なりに古い物で、鉢の鍛《きた》えも決して悪くないということだけは容易に判断された。世のありさまが穏やかでなくなって、いずかたでも武具の用意や手入れに忙がしい時節であるので、勘十郎はその兜を買いたいと言い出すと、金兵衛は一も二もなく承知した。
「どうぞお買いください。これをかぶっていた為にあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな縁喜《えんぎ》の悪いものは早く手放してしまいとうございます。」
 その代金は追って受取ることにして、彼はその兜を置いて帰った。

     二

 兜の価《あたい》は幾らであったか、それは別に伝わっていないが、その以来、兜は邦原家の床の間に飾られることになって、下谷の古道具屋の店にころがっているよりは少しく出世したのである。或る人に鑑定してもらうと、それは何代目かの明珍《みょうちん》の作であろうというので、勘十郎は思いもよらない掘出し物をしたのを喜んだという話であるから、おそらく捨値同様に値切り倒して買入れたのであろう。
 それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分に近い路ばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五、六で、見苦しからぬ扮装《いでたち》の人物であったが、どこの何者であるか、その身許を知り得《う》るような手がかりはなかった。その噂《うわさ》を聞いて、金兵衛は邦原家の中間らにささやいた。
「その侍はきっとわたしを斬った奴ですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。」
「お前のような唐茄子《とうなす》頭を二つや三つ斬ったところで、なにも切腹するにゃ及ぶめえ。」と、中間らは笑った。
 金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見届けてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終るのほかはなかった。しかし彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほど零《こぼ》れていたという噂が伝えられた。彼は相手の兜を斬り得ないで、却って自分の刀の傷ついたのを恥じ悔《くや》んで、いさぎよくその場で自殺したのであろうと、金兵衛は主張するのであった。
 どういう身分の人か知らないが、辻斬りでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛の兜を斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許は結局不明に終ったということであった。
 いずれにしても、それは邦原家に取って何のかかり合いもない出来事であったが、その兜について更に新しい出来事が起った。
 それからふた月ほどを過ぎた十月のなかばに、兜が突然に紛失したのである。それは小春日和のうららかに晴れた日の午《ひる》すぎで、当主の勘次郎は出番の日に当っているので朝から留守であった。隠居の勘十郎も牛込辺の親類をたずねて行って留守であった。兜はそのあいだに紛失したのであるから、隠居と主人の留守を窺って、何者かが盗み出したのは明白であったが、座敷の縁側にも人の足跡らしいものなどは残されていなかった。ほかにはなんにも紛失ものはなかった。賊は白昼大胆に武家屋敷の座敷へ忍び込んで、床の間に飾ってある兜ひとつを盗み出したのである。
 その当時の邦原家は隠居とその妻のお国と、当主の勘次郎との三人で、勘次郎はまだ独身であった。ほかには中間二人と下女ひとりで、中間らはいずれも主人の供をして出ていたのであるから、家に残っているのはお国と下女だけで、かれらは台所で何か立ち働いていた為に、座敷の方にそんなことの起っているのを、ちっとも知らなかったというのである。
 盗んだ者については、なんの手がかりもない。しいて疑えば、日ごろ邦原家へ出入りをして、その兜を見せられた者の一人が、羨《うらや》ましさの余り、欲しさの余りに悪心を起したものかとも想像されないことはないので、あれかこれかと数えてゆくと、その嫌疑《けんぎ》者が二、三人ぐらいは無いでもなかったが、別に取留めた証拠もないのに、武士に対して盗人のうたがいなどを懸けるわけにはゆかない。邦原家では自分の不注意とあきらめて、何かの証拠を見いだすまでは泣き寝入りにして置くのほかはなかった。
「どうも普通の賊ではない。」と、勘十郎は言った。
 床の間には箱入りの刀剣類も置いてあったのに、賊はそれらに眼をかけず、択《よ》りに択って古びた兜ひとつを抱え出したのを見ると、最初から兜を狙って来たものであろう。まさかにかの金兵衛が取返しに来たのでもあるまい。賊はこの屋敷に出入りする侍の一人に相違ないと、勘十郎は鑑定した。勘次郎もおなじ意見であった。
 それにつけても、かの兜の出所をよく取糺《とりただ》して置く必要があると思ったので、邦原家では金兵衛をよび寄せて詮議すると、金兵衛もその紛失に驚いていた。実は自分もその出所を知っていないのであるから、早速下谷の道具屋へ行って聞合せて来るといって帰ったが、その翌日の夕方に再び来て、次のようなことを報告した。
「けさ下谷へ行って聞きますと、あの兜はことしの五月、なんでも雨のびしょびしょ降る夕方に、二十七、八の女が売りに来たんだそうです。わたしの店では武具を扱わないから、ほかの店へ持って行ってくれと一旦は断わったそうですが、幾らでもいいから引取ってくれと頻《しき》りに頼むので、こっちも気の毒になってとうとう買い込むことになったのだということです。その女は屋敷者らしい上品な人でしたが、身なりは余りよくない方で、破《や》れた番傘をさしていて、九つか十歳《とお》ぐらいの女の子を連れていたそうで、まあ見たところでは浪人者か小身の御家人《ごけにん》の御新造でもあろうかという風体《ふうてい》で、左の眼の下に小さい痣《あざ》があったそうです。」
 それだけのことでは、その売主《うりぬし》についてもなんの手がかりを見いだすことも出来なかった。まあいい。そのうちには何か知れることもあるだろうと、邦原家でももう諦めてしまった。そうして、またふた月あまりも過ぎると、十二月の末の寒い日である。ゆうべから吹きつづく空《から》っ風に鼻先を赤くしながら、あの金兵衛がまた駈け込んで来た。
「御隠居さま、一大事でございます。」
 茶の間の縁側に出て、鉢植えの梅をいじくっていた勘十郎は、内へ引っ返して火鉢の前に坐った。
「ひどく慌てているな。例の兜のゆくえでも知れたのか。」
「知れました。」と、金兵衛は息をはずませながら答えた。「どうも驚きました。まったく驚きました。あの兜には何か祟《たた》っているんですな。」
「祟っている……。」
「わたくしと同商売の善吉という奴が、ゆうべ下谷の坂本の通りでやられました。」と、金兵衛は顔をしかめながら話した。「善吉は下谷金杉に小さい店を持っているんですが、それが坂本二丁目の往来で斬られたんです。こいつはわたくしと違って、うしろ袈裟《げさ》にばっさりやられてしまいました。」
「死んだのか。」と、勘十郎も顔をしかめた。
「死にました。なにしろ倒れているのを往来の者が見付けたんですから、どうして殺されたのか判りませんが、時節柄のことですからやっぱり辻斬りでしょう。ふだんから正直な奴でしたが、可哀そうなことをしましたよ。それはまあ災難としても、ここに不思議な事というのは、その善吉も兜をかかえて死んでいたんです。」
「おまえはその兜を見たか。」
「たしかに例の兜です。」と、金兵衛は一種の恐怖にとらわれているようにささやいた。「同商売ですから、わたくしも取りあえず悔みに行って、その兜というのを見せられて実にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としました。死人に口無しですから、一体その兜をどこから手に入れて、引っかかえて来たのか判らないというんですが、わたくしといい、善吉といい、その兜を持っている者が続いてやられるというのは、どうも不思議じゃあありませんか。考えてみると、わたくしなぞは運がよかったんですね。兜をかぶっていたのが仕合せで、善吉のように引っかかえていたら、やっぱり真っ二つにされてしまったかも知れないところでした。」
 それが兜の祟りと言い得るかどうかは疑問であるが、ともかくも邦原家から盗み出されたかの兜がどこかを転々して善吉の手に渡って、それを持ち帰る途中で彼も何者にか斬られたというのは事実である。但しその兜を奪い取る目的で彼を殺したものならば、兜が彼の手に残っているはずはない。その兜と辻斬りとは別になんの係合いもないことで、単に偶然のまわり合せに過ぎないらしく思われるので、勘十郎はその理屈を説明して聞かせたが、金兵衛はまだほんとうに呑み込めないらしかった。
 その兜には何かの祟りがあって、それを持っている者はみな何かの禍いを受けるのであろうと、彼はあくまでも主張していた。
「それでは、最初お前にその兜を売った御成道の道具屋はどうした。」と、勘十郎はなじるように訊いた。
「それが今になると思い当ることがあるんです。御成道の道具屋の女房はこの七月に霍乱《かくらん》で死にました。」
「それは暑さに中《あた》ったのだろう。」
「暑さにあたって死ぬというのが、やっぱり何かの祟りですよ。」
 金兵衛はなんでもそれを兜の祟りに故事《こじ》つけようとしているのであるが、勘十郎はさすがに大小を差している人間だけに、むやみに祟りとか因縁《いんねん》とかいうような奇怪な事実を信じる気にもなれなかった。
「そこで旦那。どうなさいます。その兜を又お引取りになりますか。むこうでは売るに相違ありませんが……。」と、金兵衛は訊いた。
「さあ。」と、勘十郎もかんがえていた。「まあ、よそうよ。」
「わたくしもそう思っていました。あんな兜はもうお引取りにならない方が無事でございますよ。第一、それを持って来る途中で、わたくしが又どんな目に逢うか判りませんからね。」
 言うだけのことをいって、彼は早々に帰った。

     三

 下谷の坂本通りで善吉を斬ったのは何者であるか、このごろ流行る辻斬りであろうというだけのことで、遂にその手がかりを獲《え》ずに終った。主人をうしなった善吉の家族は、店をたたんで何処へか立退いてしまったので、兜のゆくえも判らなかった。おそらく他の諸道具と一緒に売払われたのであろうと、金兵衛は言っていた。
 それから四年目の慶応二年に、隠居の勘十郎は世を去って、相続人の勘次郎が名実ともに邦原家の主人《あるじ》となった。かれはお町という妻を迎えて、慶応三年にはお峰という長女を生んだ。それが現代の邦原君の姉である。
 その翌年は慶応四年すなわち明治元年で、勘次郎は二十三歳の春をむかえた。この春から夏へかけて、江戸に何事が起ったかは、改めて説明するまでもあるまい。勘次郎は老いたる母と若い妻と幼い娘とを知己《しるべ》のかたにあずけて、自分は上野の彰義《しょうぎ》隊に馳《は》せ加わった。
 五月十五日の午後、勘次郎は落武者《おちむしゃ》の一人として、降りしきる五月雨《さみだれ》のなかを根岸のかたへ急いでゆくと、下谷から根岸方面の人々は軍《いくさ》の難を逃がれようとして、思い思いに家財を取りまとめて立退いた後であるから、路ばたにはいろいろの物が落ち散っていて、さながら火事場のようである。そのあいだを踏みわけて、勘次郎はともかくも箕輪《みのわ》の方角へ落ちて行こうとすると、急ぐがままに何物にかつまずいて、危うく倒れかかった。踏みとまって見ると、それは一つの兜であった。しかも見おぼえのある兜であった。かれはそれを拾い取って小脇にかかえた。
 持っている物でさえも、なるべくは打捨てて身軽になろうとする今の場合に、重い兜を拾ってどうする気であったか。後日《ごにち》になって考えると、彼自身にもその時の心持はよく判らないとの事であったが、勘次郎は唯なんとなく懐かしいように思って、その兜を拾いあげたのである。そうして、その邪魔物を大事そうに引っかかえて又走り出した。
 箕輪のあたりまで落ちのびて、彼は又かんがえた。雨が降っているものの、夏の日はまだなかなか暮れない。千住《せんじゅ》の宿《しゅく》にはおそらく官軍が屯《たむ》ろしているであろう。その警戒の眼をくぐり抜けるには、暗くなるのを待たなければならない。さりとて、往来にさまよっていては人目に立つと思ったので、彼は円通寺に近い一軒の茅葺《かやぶ》き家根をみつけて駈け込んだ。
「彰義隊の者だ。日の暮れるまで隠してくれ。」
 この場合、忌《いや》といえばどんな乱暴をされるか判らないのと、ここらの者はみな彰義隊に同情を寄せているのとで、どこの家でも彰義隊の落武者を拒《こば》むものは無かった。ここの家でもこころよく承知して、勘次郎を庭口から奥へ案内した。百姓家とも付かず、店屋《てんや》とも付かない家《うち》で、表には腰高《こしだか》の障子をしめてあった。ここらの事であるから相当に広い庭を取って、若葉の茂っている下に池なども掘ってあった。しかしかなりに古い家で、家内は六畳二間しかないらしく、勘次郎は草鞋《わらじ》をぬいで、奥の六畳へ通されると、十六、七の娘が茶を持って来てくれた。その母らしい三十四、五の女も出て来て挨拶《あいさつ》した。身なりはよくないが、二人ともに上品な人柄であった。
「失礼ながらおひもじくはございませんか。」と、女は訊いた。
 朝からのたたかいで勘次郎は腹がすいているので、その言うがままに飯を食わせてもらうことになった。
「ここの家《うち》に男はいないのか。」と、勘次郎は膳に向いながら訊いた。
「はい。娘と二人ぎりでございます。」と、女はつつましやかに答えた。その眼の下に小さい痣《あざ》のあるのを、勘次郎は初めて見た。
「なんの商売をしている。」
「ひと仕事などを致しております。」
 飯を食うと、朝からの疲れが出て、勘次郎は思わずうとうとと眠ってしまった。やがて眼がさめると、日はもう暮れ切って、池の蛙《かわず》が騒々しく鳴いていた。
「もうよい時分だ。そろそろ出掛けよう。」
 起きて身支度をすると、いつの間に用意してくれたのか、蓑笠《みのかさ》のほかに新しい草鞋までも取揃えてあった。腰弁当の握り飯もこしらえてあった。勘次郎はその親切をよろこんで懐ろから一枚の小判を出した。
「これは少しだが、世話になった礼だ。受取ってくれ」
「いえ、そんな御心配では恐れ入ります。」と、女はかたく辞退した。「いろいろ失礼なことを申上げるようでございますが、旦那さまはこれから御遠方へいらっしゃるのですから、一枚の小判でもお大切でございます。どうぞこれはお納めなすって下さいまし。」
「いや、そのほかにも多少の用意はあるから、心配しないで取ってくれ。」
 彼は無理にその金を押付けようとすると、女はすこしく詞《ことば》をあらためて言った。
「それでは甚だ勝手がましゅうございますが、お金の代りにおねだり申したい物がございますが……。」
「大小は格別、そめほかの物ならばなんでも望め。」
「あのお兜をいただきたいのでございます。」
 言われて、勘次郎は気がついた。彼は拾って来たかの兜を縁側に置いたままで、今まで忘れていたのであった。
「ああ、あれか。あれは途中で拾って来たのだ。」
「どこでお拾いなさいました。」
「根岸の路ばたに落ちていたのだ。どういう料簡《りょうけん》で拾って来たのか、自分にもわからない。」
 かれは正直にこう言ったが、落武者の身で拾い物をして来たなどとあっては、いかにも卑しい浅ましい料簡のように思われて、この親子にさげすまれるのも残念であると、彼はまた正直にその理由を説明した。
「その兜は一度わたしの家にあった物だ。それがどうしてか往来に落ちていたので、つい拾って来たのだが、あんなものを持ち歩いていられるものではない。欲しければ置いて行くぞ。」
「ありがとうございます。」
 兜は兜、金は金であるから、ぜひ受取ってくれと、勘次郎はかの小判を押付けたが、親子はどうしても受取らないので、彼はとうとうその金を自分のふところに納めて出た。出るときにも親子はいろいろの世話をしてくれて、暗い表まで送って来て別れた。
 上野の四方を取りまいた官軍は、三河島の口だけをあけて置いたので、彰義隊の大部分はその方面から落ちのびたが、三河島へゆくことを知らなかった者は、出口出口をふさがれて再び江戸へ引っ返すのほかはなかった。勘次郎も逃げ路をうしなって、さらに小塚原から浅草の方へ引っ返した。それからさらに本所へまわって、自分の菩提寺《ぼだいじ》にかくれた。その以後のことはこの物語に必要はない。かれは無事に明治時代の人となって、最初は小学校の教師を勤め、さらに或る会社に転じて晩年は相当の地位に昇った。
 彼がまだ小学校に勤めている当時、箕輪の円通寺に参詣した。その寺に彰義隊の戦死者を葬ってあるのは、誰も知ることである。そのついでにかの親子をたずねて、先年の礼を述べようと思って、いささかの手土産をたずさえてゆくと、その家はもう空家になっているので、近所について聞合せると、その家にはお道おかねという親子が久しく住んでいたが、上野の戦いの翌年の夏、ふたりは奥の六畳の間で咽喉《のど》を突いて自殺した。勿論その子細はわからない。古びた机の上に兜をかざって線香をそなえ、ふたりはその前に死んでいたのである。
 その話を聞かされて、勘次郎はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そうして、その兜はどうしたかと訊くと、かれらの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。兜もそのときに古道具屋に売り払われてしまったとの事であった。かれらの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓と共に拝んで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも香花《こうげ》をそなえるのを例としていた。
 憲法発布の明治二十二年には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時かれは築地に住んでいたので、夏の宵に銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古い兜を発見した。彼は言い値でその兜を買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすに忍びないような気がしたからであった。
 かれはその兜を形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存して置いたのである。勿論、その兜が邦原家に復帰して以来、別に変ったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後どうしているか判らなかった。
 ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が出来《しゅったい》したのである。何者がその兜を邦原家の門前まで持出したか、また何者がそれを邦原君の避難先まで届けたか、それらの事情が判明すれば、別に不思議でもなんでもないことかも知れない。ああそうかと笑って済むことかも知れない。しかもその兜の歴史にはいろいろの因縁話が伴っているので、邦原君もなんだか気がかりのようでもあると言っている。したがってそれを届けてくれた女に逢わなかったのを甚だ残念がっているが、それを受取ったのは避難先の若い女中で、その話によると、かの女は三十四、五の上品な人柄で、あの際のことであるから余り綺麗でもない白地の浴衣を着て、破れかかった番傘をさしていたというのであった。
 もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さい痣のあることで、女中は確かにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪で宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さい痣があった。しかしその女はもう五十年前に自殺してしまった筈で、たとい生きていたとしても非常の老人になっていなければならない。それとも一種の遺伝で、この兜に因縁のあるものは皆その眼の下に痣を持っているのかも知れない。
 その以来、邦原君の細君《さいくん》はなんだか気味が悪いというので、その兜を自宅に置くことを嫌っているが、さりとてむざむざ手放すにも忍びないので、邦原君は今もそのままに保存している。そうして、往来をあるく時にも、電車に乗っている時にも、左の眼の下に小さい痣を持つ女に注意しているが、その後まだ一度もそれらしい女にめぐり逢わないそうである。
「万一かれが五十年前の人であるならば、僕は一生たずねても再び逢えないかも知れない。」
 邦原君もこの頃はこんな怪談じみた事を言い出すようになった。どうかその届け主を早く見付け出して、彼の迷いをさましてやりたいものである。



底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「週刊朝日」
   1928(昭和3)年7月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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島原の夢

「綺堂むかし語り」より
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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「戯場訓蒙図彙《しばいきんもうずい》」や「東都歳事記《とうとさいじき》」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎《かぶき》の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮《しょせん》は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離《わかれ》をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃《かく》されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯《ガス》燈がひかり、洋服や洋傘傘《こうもりがさ》やトンビが流行しても、詮《せん》ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食《は》み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊《いささ》か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞《ことば》を知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏《ふ》み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾《かつ》てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒《さ》め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座《しんとみざ》、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷《さじき》五人詰|一間《ひとま》の値《あた》い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻《かみよ》りでこしらえた太い鼻緒の草履《ぞうり》をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占《つじうら》せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾《はなのれん》をかけて、さるや[#「さるや」に傍点]とか菊岡《きくおか》とか梅林《ばいりん》とかいう家号を筆太《ふでぶと》にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主《ざぬし》や俳優《やくしゃ》に贈られたいろいろの幟《のぼり》が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町《しんとみちょう》だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原《しまばら》とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地《つきじ》の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青《こんじょう》の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸《かし》の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣《ゆかた》を着て、日よけの頬かむりをして粋《いき》な莨入《たばこい》れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴《あめ》屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹《あか》や藍《あい》で書いた庵《いおり》看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓《いなりずし》を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細《しさい》に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇《うちわ》も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町《しばいまち》の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切《いっさい》通過しない。たまたま此処《ここ》を過ぎる人力車があっても、それは徐《しず》かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳《そら》んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽《ひ》いてゆくのをしばしば聞いた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額《ひたい》にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間《どま》に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋《やつはし》との籠《かご》をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊《はいかい》している。彼らにかぎらず、すべて幕間《まくあい》の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋《きょうばし》区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺《す》れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎《とが》めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥で柝《き》の音《ね》がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋《つな》がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方《でかた》のうちでも、如才《じょさい》のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶《なお》いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳《おど》らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓《いもせやまおんなていきん》」吉野川《よしのがわ》の場である。岩にせかれて咽《むせ》び落ちる山川を境いにして、上《かみ》の方《かた》の背山にも、下《しも》の方の妹山《いもやま》にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段《ひなだん》が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾《すだれ》がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文《ぶみ》をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇《ちゃう》の袴をつけた美少年が殊勝《しゅしょう》げに経巻《きょうかん》を読誦《どくじゅ》している。高島《たかしま》屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川|左団次《さだんじ》の久我之助《こがのすけ》である。
 姫は太宰《だざい》の息女|雛鳥《ひなどり》で、中村|福助《ふくすけ》である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒《しんこま》屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
 背山の方《かた》は大判司清澄《だいはんじきよずみ》――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮《かり》花道にあらわれたのは織物の※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌《はま》ったような彼の姿、それは中村|芝翫《しかん》である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰《だざい》の後室《こうしつ》定高《さだか》で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川|団十郎《だんじゅうろう》である。大判司に対して、成駒《なりこま》屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田《なりた》屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟《ひっきょう》、親の子のと云うは人間の私《わたくし》、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接《つ》ぎ木をいたさねば、太宰の家《いえ》が立ちませぬ。」と、定高は凛《りん》とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎|俳優《やくしゃ》のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門《うたえもん》だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。[#地付き](大正12[#「12」は縦中横]・11[#「11」は縦中横]「随筆」)
[#改ページ]



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



昔の小学生より

「綺堂むかし語り」より
岡本綺堂

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
-------------------------------------------------------

 十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有《ゆう》していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列《つら》なっている。巌谷小波《いわやさざなみ》氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
 それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具《そな》えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
 ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町《ひらかわちょう》に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
 そのほかに元園町に堀江小学、山元町《やまもとちょう》に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所《てならいしなんじょ》から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処《ここ》に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
 その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但《ただ》し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
 進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅《いっちょうら》の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使《こづかい》に至るまでも髪を刈り、髭《ひげ》を剃《そ》って、試験中は服装を改《あらた》めていた。
 授業時間や冬季夏季の休暇は、今日《こんにち》と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭《きょうべん》で背中を引っぱたかれた。癇癪《かんしゃく》持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
 今日ならば、生徒|虐待《ぎゃくたい》とか云って忽《たちま》ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於《お》いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚《はなは》だ恐れられた。
 生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯《いたずら》をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎《よだれ》くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤《そろばん》を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮《しょせん》はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
 もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂《いわゆる》いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
 学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅《おど》すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
 教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒《さら》してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店《うらだな》の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯《へこおび》をしめていたが、商家の子は大抵|角帯《かくおび》をしめていた。
 靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折《はしょ》り、あるいは袴の股立《ももだ》ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎《とが》めなかった。
 運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤《どて》を作って、大きい樫《かし》の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処《そこ》らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍《そば》などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路《みち》が悪い。そこで転んだり起《た》ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、午《ひる》の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍《いくさ》ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠《まり》をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴《あば》れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢《おおぜい》が隊を組んで、他の学校へ喧嘩《けんか》にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父《おやじ》の脇差《わきざし》を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
 その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。[#地付き](昭和2・10[#「10」は縦中横]「時事新報」)
[#改ページ]



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



三崎町の原

「綺堂むかし語り」より
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田《かんだ》の三崎町《みさきちょう》まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊《うかつ》であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷《ちまた》に立って、自動車やトラックに脅《おびや》かされてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]しながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世《かくせい》の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤《どて》で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊《くびくく》りの松などという忌《いや》な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬《か》んだ。追剥《おいは》ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町《ふじみちょう》の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷《ほんごう》の春木座《はるきざ》へゆくためであった。
 春木座は今日《こんにち》の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊《とりくま》という男が、大阪から中通《ちゅうどお》りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札《はんふだ》を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜《ひのき》舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉《やす》いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
 芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠《おこた》らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯《ほおば》の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿諭、須田町《すだちょう》の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻《うかい》であるから、どうしても九段下《くだんした》から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
 その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろう筈はない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟《そうくつ》、追剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる。狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける。冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持っているでもないから、追剥ぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根《こん》よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することが出来た。
 三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでも、かの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座《みさきざ》が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄《にわ》かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠《ぼうばく》たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野《むさしの》の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いことかも知れないが、目前《もくぜん》にその変遷をよく知っている私たちに取っては、一種の感慨がないでもない。殊にわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
 暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼に浮かんだ。[#地付き](昭和2・1「不同調」)
[#改ページ]



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
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  • 目白 → 目白台か
  • 目白台 めじろだい 文京区関口台町。現、文京区目白台。新長谷寺の目白不動にちなみ目白台とも通称された。
  • 湯島 ゆしま 東京都文京区東端の地区。江戸時代から、孔子を祀った聖堂や湯島天神がある。
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 加州 かしゅう 加賀国の別称。賀州。
  • 白山前町 はくさんまえまち 小石川白山前町。現、文京区白山一丁目。
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 牛込 うしごめ 東京都新宿区東部の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称で、もと牧牛が多くいたからという。
  • 下谷金杉 したや かなすぎ (1) 上町(かみちょう)。現、台東区下谷1〜3丁目・根岸3〜5丁目。下谷坂本四丁目の北東にある。(2) 下町(しもちょう)。現、台東区竜泉1〜2丁目。三ノ輪一丁目・根岸五丁目。下谷金杉上町の北東に続く。
  • 坂本二丁目 さかもと にちょうめ 下谷坂本町二丁目か。現、台東区下谷一丁目・根岸一丁目。下谷坂本町一丁目の北にある。東は坂本村、西は東叡山内および火除地。
  • 上野 うえの 東京都台東区西部地区の名。江戸時代以来の繁華街・行楽地。
  • 根岸 ねぎし 東京都台東区北部の地区。上野公園の北東。江戸時代には閑静な地で鶯が多かったところから、初音の里といった。
  • 箕輪 みのわ 三之輪か。村名。現、荒川区南千住・台東区三ノ輪など。小塚原町・中村町の南にある。北西は三河島村。
  • 千住 せんじゅ 東京都足立区南部から荒川区東部にかけての地区。日光街道第1の宿として繁栄した。住宅と中小工場の混在地区。
  • 円通寺 えんつうじ 東京都荒川区南千住にある曹洞宗の寺院。
  • 三河島 みかわしま 村名。現、荒川1〜8丁目ほか。三之輪村・小塚原町の西、荒川(現、隅田川)西岸の低地にある。南は金杉村(現、台東区)、北東は荒川を隔て足立郡千住河原町(現、足立区)。
  • 小塚原 こづかっぱら 江戸千住(荒川区南千住)にあった江戸時代の死刑執行場。古塚原。骨ヶ原。
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • 築地 つきじ 東京都中央区の一地区。銀座の南東に続く一帯。明暦の大火(1657年)後、低湿地を埋め立てて築地と称し、明治初年、一部を外国人の居留地とした。
  • 伊豆 いず(1) 旧国名。今の静岡県の東部、伊豆半島および東京都伊豆諸島。豆州。(2) 静岡県東部、伊豆半島中部の市。温泉が多く、保養地として首都圏からの観光客が多く訪れる。人口3万7千。
  • 妙国寺 みょうこくじ 大阪府堺市材木町東にある日蓮宗の本山。山号は広普山。永禄11(1568)開創。開祖は油屋常言。開山は日�(にちこう)。境内に大きなソテツ(国天然記念物)があり、蘇鉄寺と呼ばれる。
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  • 島原の夢
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  • 新富座 しんとみざ 歌舞伎劇場。1872年(明治5)に猿若町から新富町に移転した守田座(もと森田座)が、75年に改称。12代守田勘弥の活躍で文明開化期に一時代を築く。関東大震災で焼失。
  • 新富町 しんとみちょう 現、中央区新富一〜二丁目。明治4(1871)以降の町名。もと武家地であったが、明治維新期に築地外人居留地が開設されるのにともない公収され、遊廓用地が雑居地域の北側に明治元年設定された。遊廓は新島原遊廓と名付けられたが繁盛せず、同4年8月に閉鎖されて新吉原(現、台東区)へ移転(築地居留地)。跡地に新富町一〜七丁目が起立された。
  • 島原 しまばら → 新島原か
  • 新島原 しんしまばら → 参照・新富町
  • 築地川 つきじがわ 築地一帯に巡らされた運河の総称。江戸時代には築地堀とよばれ、万治元(1658)に木挽町地先の海浜を埋め立てる際、埋め残され、この堀の内側が築地と総称された。
  • 築地 つきじ 東京都中央区の一地区。銀座の南東に続く一帯。明暦の大火(1657年)後、低湿地を埋め立てて築地と称し、明治初年、一部を外国人の居留地とした。
  • 築地橋 つきじばし
  • 猿若町 さるわかちょう 東京都台東区の旧町名。水野越前守の天保の改革の際、風俗取締りのために、江戸市中に分散していた芝居類の興行物を浅草聖天町の一郭に集合させて名づけた芝居町。3区分して一丁目(中村座)・二丁目(市村座)・三丁目(森田座)と称した。明治以後1966年まで町名だけ残る。
  • 京橋区 きょうばしく 明治11(1878)成立の区。現、中央区の南半を占める。江戸時代には京橋北方地域、京橋南方の銀座地域を中核とし、東方の八丁堀地域、大川(隅田川)河口部に面した埋め立て地である築地・鉄砲洲・霊巌島、河口部の砂州に成立した佃島・石川島などの地域からなる。
  • 吉野川 よしのがわ 紀ノ川。奈良・三重県境の大台ヶ原山に発源、奈良県の中央部、和歌山県の北部を西流、紀伊水道に注ぐ川。奈良県内の部分を吉野川という。上流地域は吉野杉の林業地として知られる。長さ136km。
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  • 昔の小学生より
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  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 麹町元園町 こうじまち もとそのちょう 現、千代田区麹町一〜四丁目・一番町。
  • 平河町 ひらかわちょう 麹町平河町一〜六丁目。現、千代田区平河町一〜二丁目。
  • 山元町 やまもとちょう 麻布山元町か。現、港区元麻布一丁目・麻布十番三〜四丁目。明治2(1869)麻布善福寺門前元町を改称して成立。
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  • 三崎町の原
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  • 神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 三崎町 みさきちょう 一〜三丁目。現、千代田区三崎町一〜三丁目。
  • 水道橋 すいどうばし 神田上水の水道橋があったことにちなむ地名。
  • 富士見町 ふじみちょう 一〜六丁目。現、千代田区九段南・九段北・富士見町。
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 春木座 はるきざ 旧本郷春木町と本郷金助町にまたがった地に明治6(1873)奥田座が開業。現、文京区本郷三丁目。同8年に春木座、同35年には本郷座と改称。
  • 本郷座 ほんごうざ 文京区本郷三丁目にあった春木座の後身。明治35(1902)改称。新派劇の本拠となり、大正時代は大歌舞伎を公演。昭和5(1930)映画館となる。同20年廃館。
  • 須田町 すだちょう 現、JR秋葉原駅南側にある町名。一帯をよぶ地域呼称でもある。中心になるのは神田川に架かる万世橋。
  • 九段下 くだんした
  • お茶の水 おちゃのみず 御茶の水。東京都千代田区神田駿河台から文京区湯島にわたる地区の通称。江戸時代、この辺の断崖に湧出した水を将軍のお茶用としたことから名づける。
  • 三崎座 みさきざ
  • 神田の大火 明治二十五年一月。
  • 武蔵野 むさしの (1) (ア) 関東平野の一部。埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域。広義には武蔵国全部。(イ) 東京都中部の市。吉祥寺を中心とする中央線沿線の衛星都市。人口13万8千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)




*年表

  • 慶応四(一八六八)五月 上野戦争。戊辰戦争の一部。上野の寛永寺を本拠とする彰義隊と新政府軍との戦い。
  • 明治五(一八七二)一〇月 岡本綺堂、生まれる。
  • 一八八四(明治一七)四月 綺堂、小学を去って中学に転じる。
  • 一八八五(明治一八)五月 大阪の鳥熊、大阪から中通りの腕達者な俳優一座をつれてきて、春木座(のちの本郷座)の値安興行をはじめる。
  • 一八八五〜一八八八(明治一八〜二一) 綺堂、十四歳から十七歳。三崎町の原を通って本郷の春木座へかよう。
  • 一八八九、一八九〇(明治二二、二三) 三崎町三丁目、このころからだんだんに開ける。
  • 一八九一(明治二四)二月 富士見町の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊にしめ殺される。
  • 一八九一(明治二四)六月 三崎座ができる。
  • 一八九二(明治二五)一月 神田の大火。
  • 一八九四〜九五(明治二七〜二八) 日清戦争。日本と清国との間に行われた戦争。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに94年6月日本は朝鮮に出兵し、同じく出兵した清軍と7月豊島沖海戦で戦闘を開始、同8月2日宣戦布告。日本は平壌・黄海・旅順などで勝利し、翌95年4月、講和条約を締結。
  • 一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。
  • 一九二三(大正一二)一一月 「島原の夢」『随筆』。
  • 一九二七(昭和二)一月 「三崎町の原」『不同調』。
  • 一九二七(昭和二)一〇月 「昔の小学生より」『時事新報』。
  • 一九二八(昭和三)七月 「兜」「週刊朝日」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 邦原 くにはら?
  • 明珍 みょうちん 甲冑師の家名。戦国時代の17代信家や高義・義通の頃から知られるようになった。轡・鐔なども製作した。
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  • 島原の夢
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  • グラント将軍 → ユリシーズ・グラント
  • ユリシーズ・グラント Ulysses Simpson Grant 1822-1885 アメリカの軍人。第18代大統領(1869〜1877)。南北戦争時、北軍の総司令官。1879年(明治12)日本を訪れた。
  • 市川左団次 いちかわ さだんじ 歌舞伎俳優。屋号、高島屋。(1) (初代)新作を得意とし9代市川団十郎・5代尾上菊五郎とともに明治の三名優と称せられた。明治座を創設・経営。(1842〜1904)(2) (2代)初代の子。岡本綺堂・真山青果と提携して新歌舞伎を開拓、小山内薫と自由劇場を組織して西洋近代劇を紹介。(1880〜1940)(3) (3代)6代市川門之助の養子。立役から女形まで広い芸域を持ち、6代尾上菊五郎没後は菊五郎劇団の重鎮。(1898〜1969)
  • 久我之助 こがのすけ
  • 太宰 だざい
  • 雛鳥 ひなどり
  • 中村福助 なかむら ふくすけ (1)〔1代〕 → 中村芝翫〔4代〕。(2)〔3代〕1846-1888 別名、中村寿蔵、中村寿太郎、中村十蔵、中村重蔵、中村政治郎、中村政之助。江戸時代末期・明治期の歌舞伎役者。四世芝翫の養子。三世を継ぐが離縁され、中村寿蔵、寿太郎と改名、田舎回り俳優になる。(3)〔4代〕 → 中村歌右衛門〔5代〕。
  • 清澄 きよずみ 大判司。
  • 中村芝翫 なかむら しかん 1830-1899 歌舞伎俳優。四世。大阪出身。天保9(1838)四世歌右衛門の養子となって江戸に下る。万延元(1860)四世芝翫を襲名。幕末から明治中期、東都の代表的俳優として活躍。
  • 定高 さだか 太宰の後室。
  • 市川団十郎 だんじゅうろう 市川系宗家の歌舞伎俳優。屋号、成田屋。
  • (7) (9代)7代の子で8代の弟。劇界の近代化を指導、劇聖と称せられた。活歴を創始。(1838〜1903)(8) (10代)9代の女婿。市川三升名で、没後10代の名を追贈。(1882〜1956)
  • 歌右衛門 うたえもん → 中村歌右衛門か
  • 中村歌右衛門 なかむら うたえもん (4) 五世か。 1865-1940 若女形。本名、中村栄次郎。江戸出身。四世中村芝翫の養子。明治44(1911)五世を襲名。大正・昭和初期の歌舞伎界の第一人者として活躍した。
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  • 昔の小学生より
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  • 巌谷小波 いわや さざなみ 1870-1933 童話作家。名は季雄。一六の子。東京生れ。尾崎紅葉らと硯友社を興し、のち童話文学に力を注いだ。著「こがね丸」「日本昔噺」「日本お伽噺」「世界お伽噺」など。
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  • 三崎町の原
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  • 鳥熊 とりくま


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 島原の夢
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  • 訓蒙図彙 きんもう ずい 図説百科事典。中村�斎編。序目2巻・本文20巻、全14冊。1666年(寛文6)刊。天文・地理以下17部門に分けて、計1343項目を挿絵入りで解説。以後、「武具訓蒙図彙」「好色訓蒙図彙」「人倫訓蒙図彙」など、分野別の同種の書が刊行された。
  • 『戯場訓蒙図彙』 しばい きんもう ずい 江戸後期の滑稽本・歌舞伎劇書。8巻5冊。式亭三馬作、勝川春英・歌川豊国画。享和3(1803)刊。後摺りでは「戯場訓蒙図絵」とも題する。歌舞伎世界を一つの国に見立て、「訓蒙図彙」にならってこの世界のあらゆる事象を分類・立項し、絵を中心に戯画的説明を加えたもの。先行の朋誠堂喜三二の滑稽本「羽勘三台図絵」や上方劇書「戯場楽屋図会」の影響を強く受けている。
  • 『東都歳時記』 とうと さいじき 江戸後期の年中行事書。4巻5冊。斎藤月岑編著。天保9(1838)刊。江戸とその近郊の民間・武家の年中行事を日月順に記載したもの。
  • 『妹背山婦女庭訓』 いもせやま おんなていきん 浄瑠璃。近松半二ほか合作の時代物。1771年(明和8)初演。藤原鎌足が蘇我入鹿を滅ぼすことを主題にし、雛鳥・久我之助の悲恋を描いた3段目後半の「山の段」は特に名高い。後に歌舞伎化。
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  • 昔の小学生より
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  • 『時事新報』 じじ しんぽう 1882年(明治15)3月に福沢諭吉が創刊した日刊新聞。昭和期に入り衰え、1936年(昭和11)廃刊して東京日日新聞に併合。第二次大戦後復刊され、その後、産業経済新聞(現、産経新聞)に合同。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

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  • 辻斬 つじぎり 武士が刀剣の切れ味をためし、または武術を練るため、街頭で往来の人を斬ること。また、その武士。
  • 切通し きりどおし (1) (キリトオシとも)山・丘などを切り開いて通した通路。(2) とどこおりなく物事をさばいてゆくこと。
  • 錣 しころ 錏・錣・。。(1) 兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの。革または鉄札で綴るのを常とする。その鉢についた第一の板すなわち鉢付の板から菱縫の板までの枚数により、三枚兜・五枚兜などといい、また、その形状によって割錏・饅頭錏・笠錏などの名がある。後世、布の錏も用いた。(2) 頭巾の四方に垂れて頸や頬を覆うもの。(3) 錏庇・錏屋根の略。
  • 追分 おいわけ (1) 道の左右に分かれる所。分岐点。各地に地名として残る。(2) 追分節の略。
  • 中間 ちゅうげん (3) (「仲間」とも書く)中世、公家・武家・寺院などに仕える従者の一種。侍と小者との中間に位する。近世には武家の奉公人で、雑役に従事。足軽と小者との中間に位する。
  • 安宅丸 あたけまる 1635年(寛永12)に完成した安宅船様式の巨艦。外側を銅板で覆い、2層の総矢倉を設け、屋形は天守に似る。櫓100梃、水手200人。米1万俵を積載。天下丸。(広辞苑)/(江戸に回漕して深川御船蔵に入れておかれたが、夜な夜な「伊豆へ行こう、伊豆へ行こう」とうなったという俗説に基づく)だだをいうこと。無理を言うこと。また、その人。(3)(「安宅丸」は取り壊され焼却されたので)やくこと。嫉妬すること。(大国語)
  • 梨子割 なしわり 梨割。(1) 太刀・刀などを用いて梨の実をさっくりと割るように、物をまっぷたつに切り割ること。
  • 御成道 おなりみち 貴人の外出の時の通路。
  • 唐茄子 とうなす (2) 人をののしることば。容貌の醜いこと。間がぬけていることなどにいう。かぼちゃ。
  • 小身 しょうしん 身分の低いこと。俸禄の少ないこと。また、そういう人。
  • 御新造 ごしんぞう (1) 武家や上層町人など身分ある人の新婦の尊敬語。(2) 転じて、中流社会の人の妻の尊敬語。また一般に、他人の妻をいう。御新造様。
  • 霍乱 かくらん 暑気あたりの病。普通、日射病を指すが、古くは吐瀉病も含めて用いた。
  • 知己 しるべ 知辺。知合いの人。ゆかりのある人。
  • 彰義隊 しょうぎたい 慶応4年(1868)2月、旧幕臣が江戸で結成した隊。最盛期は2000人ほど。新政府に反抗的な態度をとったが、5月の上野戦争で討滅された。
  • 店屋 てんや (1) 昔、宿駅を置いた時に併置された、売買を扱う所。(2) あきないをするみせ。商店。(3) 特に、飲食物を売る店。
  • 人仕事 ひとしごと 他人の仕事。他人に頼まれてする賃仕事。
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  • 島原の夢
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  • 日清戦争 にっしん せんそう 1894〜95年(明治27〜28)日本と清国との間に行われた戦争。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに94年6月日本は朝鮮に出兵し、同じく出兵した清軍と7月豊島沖海戦で戦闘を開始、同8月2日宣戦布告。日本は平壌・黄海・旅順などで勝利し、翌95年4月、講和条約を締結。
  • トンビ (2) (トビが物をさらうのに似ているからいう)通りがかりに店先・門口のものなどをかすめとる泥棒。(3) (トビの羽に似ているからいう)ダブルの袖無し外套。二重まわし。インバネス。
  • 一場 いちじょう (1) その場かぎり。わずかの間。(2) その場。一席。
  • 辻占せんべい つじうら せんべい 辻占をそえて包んだ煎餅。
  • 辻占 つじうら (1) 四辻に立ち、初めに通った人の言葉を聞いて物事の吉凶を判ずる占い。(2) 偶然起こった物事を将来の吉凶判断のたよりとすること。(3) 紙片に種々の文句を記し、巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うもの。
  • 積物 つみもの 積み重ねたもの。特に、積み重ねて飾った贈物。
  • 庵看板 いおり かんばん (1) 上端に庵形をつけた看板。歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場で、上位の演者の名と家紋とを掲げる。いおり。(2) 庵看板に名を出し得る上位の演者。
  • 居着き・居付き いつき (1) いつくこと。(2) 一定の場所に常棲する魚。根付魚。
  • 今川焼 いまがわやき 銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡を入れて焼いた菓子。江戸神田今川橋辺の店で製し始めた。今は輪の代りに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる。
  • 柝の音 きのね
  • 柝 き 拍子木のこと。
  • 妹背山 いもせやま (2) 奈良県吉野郡吉野町上市から竜門に入る谷口の丘陵で、吉野川を隔てて相対する妹山と背山。(歌枕)
  • 背山・兄山 せやま 相対する二つの山を男女に見たてた場合、男性・夫に見たてた山。←→妹山。
  • 妹山 いもやま 一対の山のうち、女性・妻に見立てられた方の山。←→背山
  • 封じ文 ふうじふみ 封をした手紙。封書。
  • 茶宇 チャウ 茶宇縞の略。
  • 茶宇縞 チャウ じま インドのチャウル(Chaul)の産で、ポルトガル人が舶来した薄地琥珀織の絹。精練絹糸を用いて織ったのを本練りという。袴地に用いる。日本では天和(1681〜1684)年間に京都の織工が製出。
  • 前髪立て まえがみだて (1) 男が前髪を立てていること。すなわち、まだ元服しないこと。また、その男。前髪立ち。(2) 結髪用具の一つ。鯨骨でつくり、前髪に入れて高く張り出すのに用いる。
  • ちょぼ 点 (1) しるしに打つ点。ぽち。ほし。(2) (本の中のその部分に傍点が打ってあるところから。普通、片仮名で書く)歌舞伎劇で、地の文(登場人物の動作・感情などの部分)を浄瑠璃で語ること。また、その浄瑠璃。ちょぼがたり。(3) 「ちょぼゆか(点床)」の略。
  • 切り髪 きりかみ 切髪。(1) 少女の肩の辺りで切り詰めた髪。(2) 切った髪の毛。(3) 女の髪の結い方。髷の端を短く切り揃え、後ろに下げておくもの。髻を紫色の打紐などで束ねる。大名の後室、旗本の寡婦などが結んだ。後室髷。
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  • 昔の小学生より
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  • 代用小学校 だいよう しょうがっこう 代用私立小学校。明治40(1907)3月以前、市町村において公立小学校に学齢児童全部を就学させられない特別な事情のあるとき、その代用として、市町村内または町村学校組合内につくった市立の尋常小学校。代用小学。代用学校。
  • 手習い指南所 てならい しなんじょ → 手習所か
  • 手習所 てならいどころ 文字の書き方を習うところ。習字を教える所。手習師匠の家。てならいじょ。
  • 指南所 しなんじょ 指南する場所。教授所。
  • 盛装 せいそう はなやかに着飾ること。また、そのよそおい。
  • 涎くり よだれくり 涎を垂らすこと。また、涎を垂らしている者。
  • 手重い ておもい (1) 動作がのろい。(2) たやすくない。おっくうである。(3) 取扱いが丁重である。←→手軽い
  • 裏店 うらだな 裏通りに建てた家。うらや。←→表店。
  • 八口 やつくち 和服のわきあけ。みやつくち。
  • 兵児帯 へこおび 男子または子供のしごき帯。もと薩摩の兵児が用いたからいう。
  • 角帯 かくおび 男帯の一つ。博多織・小倉織などの長さ1丈5寸、幅6寸の帯地を二つ折にして仕立てたもの。
  • 股立ち 袴の左右の、腰の側面にあたる明きの縫止めの所。
  • 股立を取る ももだちをとる 袴の左右の股立をつまみ上げて腰の紐に挟む。
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  • 三崎町の原
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  • 懸け取り かけとり 掛取り。掛売りの代金を取り立てること。また、その人。近世には、歳末だけ、あるいは歳末と盆との2度であった。掛け集め。掛乞い。
  • 中通り ちゅうどおり (1) 良くもなく悪くもないこと。ちゅうぐらい。(2) 歌舞伎役者の階級。名題下の俳優に3階級あるうち、中位にあるもの。中役者。
  • 朴歯 ほおば 朴の木で厚く作った足駄の歯。また、その歯を入れた下駄。
  • 廉価 れんか 値段が安いこと。やすね。安価。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 予想どおりというか、『古事記』上巻を三回にわけて連載したところでスケジュールが大きくずれこむ。中巻に入る前に、岡本綺堂の再登場。関東大震災の前後に執筆された作品や、当時を回顧する随筆を集めてみた。
 八月四日(土)晴、山寺駅で一夜をすごす。東の空、二口峠の方向に十三夜の月。汗ばんだ肌に、寒いくらいの夜風。翌日、本堂前にて磐司祭。獅子踊り。午前中から気温上昇、猛暑日。聞きはさんだところでは、演者二名が熱中症で救急車搬送。
 松岡正剛『連塾・方法日本 II・侘び・数寄・余白』(春秋社、2009.12)、読了。
 カレーの残りを温めなおして無理に食べたところ、予想どおりというか、深夜に嘔吐。直前にしょっぱい唾液がくちいっぱいに広がる新鮮な経験。自分の意志とはまったく関係なくはたらく身体の防衛本能に感動。

 桜島が活発。一八日、九州で震度4。十和田湖観光汽船が倒産。
 ん、鬱陵島も火山島かあ。




*次週予告


第五巻 第五号 
新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂


第五巻 第五号は、
二〇一二年八月二五日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第四号
兜 / 島原の夢(他)岡本綺堂
発行:二〇一二年八月一八日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。