科学 の不思議 (九)
STORY-BOOK OF SCIENCEアンリ・ファーブル Jean-Henri Fabre
七一 海
「おじさんがそのひきだしに持っていらっしゃるきれいな
「そうだ、みんな海からとれるのだ。
「海はたいへん大きいんですか?」
「そうだね。ある部分では、
「それで、海の上では何が見えるでしょうか?」
「頭の上にはここと同じに空がある。
「海は
「もし、おまえが
「海の
「海の底は、
「では、海の
「もちろんさ。水の深さを
「
「じゃあ、もしモン・ブランをその
「それよりも、もっと深いところがあるのだ。
「それらの山は、今、おじさんがお話しになったところの
「
「こんなおそろしい
「
「ぼくはキロメートルなんていうので
「おまえが考えるよりももっと、ずっとたくさんあるよ。おまえはフランスでいちばん大きなローヌ川を知っているね。そして
「ぼくのこんな頭では、考えただけでくらんでしまいます。海の色はどんな色でしょう? やっぱしローヌ川のように
「いやちがうよ。
七二 波 、塩 、海藻
「
「そのとおりだ、ジュールや。たいへんおそろしいのだ。
「おじさんが話してくだすった、あの海の底の
「それらの
「そんなだと、海はいつでも
「海がいつも
「風は
「この近くの海では、いちばん大きな波の高さが二メートルか三メートルをこえることはないのだ。しかし、
「波の力は、ほとんど
「そういう波の
「そんなにしてかきまぜて、海の水が
「その波の
「では、その海の水は
「
「いったいどんな
「
「だけど塩は……」とジュールが
「もちろんそうさ。だが、海の水の中には、もっと
「
「まあ! なんてたくさんな
「そうだ。それには、
「もしぼくたちが、
「できるとも。水は太陽の
「海の中には、いろんな魚がいますね。
「まず、彼らの
「が、それに対しては、
「わかりました。
「
七三 流 れる水
「ぼくにわかったのは……」とエミルがいいました。
「ローヌ川は海に流れこんでいる。
「そんなにたくさんの水をつづけざまに受けていたら、海は
「それはおまえたちに考えきれることじゃないよ、ぼうや。海へ
「そんな大きな川も、これ以上小さな川はないというような小さな
「流れる水はみんな……」とジュールがいいました。
「もしも
「そんなことは
「海はそれとおんなじだ。
「だけど、もしあのカニのいる
「たしかに
「
「
「ね、
「ぼく、どうして
「今、おじさんがわたしたちに話してくだすったことは、たいへんに
「そうだ、海からきて海へ帰るのだ。すべての
「海は
七四 巣分 かれの群
ポールおじさんが話を止めたときに、みんなは
この二人の
ちょうどそのとき、ポールおじさんと子どもたちが
小さい
エミルはそれを、ミツバチが
スグリ
「あんまり近づいたら、さされるでしょうか?」とエミルがたずねました。
「今のような場合では、めったにさしはしまい。もしおまえが、考えなしにそばに行ってハチをいじめたら、そのときにはハチがどうするか、おじさんにはその答えはできない。だがハチをそっとしておいて、おとなしく見ているのならば、何もこわいことはない。ハチどもは今、小さな
「その
「自分の
「ミツバチに村がありますか? それに―
「ハチには
「では、ハチどもは、その中に
「そうだ、
「そしていったいこの
「
「だけどハチどもは、よそに新しく
「あそこにはいられないのだ。あの
「その
「いるとも。その女王が、スグリの
村とか、
「
「もし、
ジャックが、
つぎの朝ジュールは、ハチがどうしているか見に出かけました。その家はハチどもにちょうどよくできていました。ハチどもは
七五 蜜蝋
ポールおじさんは、
「
「まず
「
「さて、
このポールおじさんの
「おじさんは、
「できあがったものを見つけだすのではない。ハチがそれをつくるのだ。それをしみ出させるのだ。別の言葉でいえば、
「ハチの
「そこでハチの
「ハチはその
「それで、
「じゃ、その家を
「カタツムリは……」とおじさんは
七六 蜜房
「この形の
「
「一つの
「ぼくは、その
「お
「おじさんはわたしたちに話してくださいましたわね」とクレールがいいました。
「今、ちょうどその
「
「それにまだ、たいへんな数の
「おじさん、ぼく、その
「
「まず、その
「それではこんどは
「だが、ここにまた
「できあがった形を
「
「そうすると、その
「ではハチは……」とクレールが聞きました。
「もしもハチが、前もってよく考え、
七七 ハチミツ
「ハチは
「ハチは一つの花に入って、
「最初にハチはおもしろがってその
「そのハチが花を
「もちろんさ。ハチは
「そこでその帰りみちにつけこんで、そのハチミツの
「ハチは
「みんなはき出してしまったのですか?」とエミルがたずねました。
「みんなじゃない。
「じゃあ、ハチは
「そうさ。おまえはたぶん、ハチが人間のために
「
「
「花は
「そのたくわえられた
「若いハチはどういうふうに
「
「
七八 女王 バチ
「
「女王バチがその部屋の中で
「いや、女王バチは知らない。知る
「ハチには、われわれのようないろいろ
「この
「では、ハチはそこにいる女王バチの
「そうだ。女王は
「さて、春、
「
「そうしているあいだに、いきどおりはますます
「
「ハチはずいぶん
「そうする
「その女王の上にも、つねにある
「
「ミツバチの話は、おじさんの話のうちでちょっとおもしろかった。
「わたしもそう思うよ」とおじさんは
「なんですって! ―
「おじさんはもう、わたしたちにお話をしてくださらないですか?」クレールがたずねました。
「まさか、そうじゃないんでしょう?」とエミルもいいました。
「いくらでも、おまえたちの
それから
(『科学 の不思議 』アルス、一九二三年八月一日)
底本:
2000(平成12)年12月15日初版発行
底本の親本:
1923(大正12)年8月1日
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:トレンドイースト
2010年7月31日作成
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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科学の不思議(九)
STORY-BOOK OF SCIENCEアンリイ・ファブル Jean-Henri Fabre
大杉栄、伊藤野枝訳
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[#5字下げ]七一 海[#「七一 海」は中見出し]
『叔父さんが其のひきだしに持つていらつしやる綺麗な貝殻は、みんな海からとれたのですか?』とエミルが尋ねました。
『さうだ、みんな海からとれるのだ。』
『海は大変大きいんですか?』
『さうだね。或る部分では、一方の海岸から他の海岸へ行くのに船に乗つて一と月もかゝる程大きいよ、その船も、早く走る船の中でもまた特別に早い汽船だ。それは殆んど機関車と同じ位の早さで走るのだ。』
『それで、海の上では何が見えるでせうか?』
『頭の上には此処と同じに空がある、周囲はすべて、大きな青い、広々とした端のない円の中にゐるやうなものだ。他には何んにもない。或る航海をする時などは、幾ら行つても行つても、まるで少しも進まなかつたかのやうにいつも青い水の真中にゐる。地球の形は円い。そして海はその形に従つて地球の大部分を覆ふてゐる。だからさういふ風に見えるのだ。眼ではたゞ海の極く小部分が見えるだけで、その見える広さと云ふのは、空の円天井が海の上にかぶさつて休んでゐるやうに見える円い線で区切られてゐる。そしてその円い線で囲まれた水の輪は、進んでも進んでも、同じやうな状態を保つて見えるだけで少しも新しくならない。それは丁度空の青い色と海の青い色とが融け合つてゐる円の中心にぢつとしてゐるやうに見える。だが、かうして進みつゞけて行くと、終に眼界を遮る線の上に小さな灰色の煙を見つける。それは陸が見えはじめたのだ。あと半日の間進むと、その灰色の煙は、海岸の岩か、陸地の山かになる。』
『海は陸よりも大きいと云ふ事は、僕、地理で知つてゐます。』とジユウルが云ひました。
『もし御前が地球儀の表面を四等分すれば陸はその内の一つを占めるだけで、あとはみんな海が占めてしまふのだ。』
『海の底は、どんな風なのでせう?』
『海の底は、湖水や川の底とおなじやうに、やつぱり地面だ。海底の地面は、陸地が平らでないのと同じやうに、やつぱり平らではない。或る部分では、漸くに測る事が出来る程深く陥ちくぼんだ穴になつて居り、他の処では山脈が截り立つてゐてその一番高い部分が水平線の上に出て島になつてゐるのだ。又、もつと別な処では、広い平野にのびてゐたり、或は又高原のやうに持ち上つてゐたりする。もし水がなかつたら、陸地と何の違ひもないだらう。』
『では、海の深さは何処も同じではないのですねえ。』
『勿論さ。水の深さを測るには、長い糸のはしにつけた錘《おもり》を海の中に投げ込む。糸は錘で巻かれる気づかいはないから、錘が落ちて行つて水につかつた糸の長さが、その水の深さを示すのだ。
『地中海の一番深い処は、アフリカとギリシヤの間だ。其処では底にふれるには、鉛を四千メートルから五千メートルの長さまで放さなければならない。此の深さは、ヨオロツパでの高山のモン・ブラン山の高さに等しいのだ。』
『ぢやあ、もしモン・ブランをその穴に埋めたら』とクレエルが話し出しました、『その頂上が、やつとその水の表面に届く位ですわね。』
『それよりも、もつと深い処があるのだ。大西洋のニユウフアウンドランド島の南に、其処は鱈のうんととれる処だが、殆んど八千メートル近い深さを示す処がある。世界一の高山は中央アジアにあるが、その高さは八千八百四十メートルだ。』
『それ等の山は、今叔父さんがお話しになつた処の水面からずつと高くつき出しますわね。そして八百五十メートルの高さの島になりますわ。』
『最後に、南極近くの海には一万四千メートルから一万五千メートルの深さ、或は四リイグ(凡《およそ》五里)の深さを示す処がある。陸地には、何処にもそんな高さの山はない。
『こんな恐ろしい陥ち窪んだ処と、人の指の厚さよりも深くない海岸との間には、あらゆる中間の深さがある。或る時には、だん/\に違つてゆき、或る時には急激に、その水底の地形に従つて違つてゐる。或る海辺では恐ろしく急に深さを増してゆく。その海岸は急斜面の頂上で、その海の水は根を波打つてゐるのだ。また他の海岸では、ほんの少しづつ深さを増して行つて、数メートルの深さの処までゆくには、ずつと遠くの方まで行かなければならない。其処の大洋の床はなだらかで、地平に従つて、極く僅かづつ傾いてゐるのだ。
『大洋の平均した深さは、六キロメートルから七キロメートル位だ。言葉を換へて云へば、もしもすべての海底の高低をなくして、丁度人間のつくつた水盤の底のやうに平らかにならしたら、海は、その表面を現在のまゝの広さを保つてゐる間は、六千メートルから七千メートルの深さの一様な水の層になるだらう。』
『僕はキロメートルなんて云ふので面喰つてしまひましたよ。』エミルがこぼしました。『だけど、大丈夫です。僕、海の中にどんなに沢山の水があるかと云ふ事が分りかけて来ましたから。』
『お前が考へるよりももつとずつと沢山あるよ。お前はフランスで一番大きなロオヌ河を知つてゐるね。そして洪水の時にも見たね。あの時には眼の届く限り、一方の岸から向ふの岸にかけて泥水が一杯になつてゐた。あの時には一秒間に五百万リツトル(二万七千七百二十石)の水が海に注ぎ込むと見積られた。いゝかい、もし此の大変な大水をいつも続いてゐるものとしても、此の大きな河は、十年かゝつても大洋の底の千分の二も満たすことは出来ないんだよ。これで、海がどんなに大きいものかと云ふ事がよく分つて来たらう?』
『僕のこんな頭では考へただけで眩んでしまひます。海の色はどんな色でせう? やつぱしロオヌ河のやうに黄色い泥水ですか?』
『いや違ふよ。川口の処は別だがね。少しばかりの水を見ると、水には色がない。だが沢山たまつたのを見ると水の自然の色、即ち緑がかつた青い色が表はれる。で、海は、緑色がかつた青色で、沖の方ではそれが暗い色になり、海岸に近づくにつれて明るい色になる。だが此の色は空の輝き工合につれて、非常にいろ/\変化する。太陽が輝いてゐる時の凪いだ海は蒼青色だつたり、暗い藍色だ。少し荒れ模様の空の下では、殆んど黒い濃緑色だ。』
[#5字下げ]七二 波、塩、海藻[#「七二 波、塩、海藻」は中見出し]
『波は何処から来るのですか?』とジユウルが尋ねました。『海が怒つた時には、大変恐いんですつてね。』
『その通りだジユウルや。大変恐ろしいのだ。泡をかぶつた、動く山の背のやうな波を私は忘れる事は出来ない。その波は重い船を胡桃の殻のやうに訳なく放りあげて、或る瞬間はその恐ろしい背中に乗せ、次の瞬間にはその水の峯と峯との間の谷底に突きおとす。おう! 船の上の人間はどんなに小さく、心細く感ずる事だらう。波の思ふまゝに、高く揺りあげられ、又谷底に突き落されるのだ! あゝ、胡桃の殻のやうな船が、暴れ狂ふ大波で裂け目が出来たら、もう吾々は運を天にまかすより仕方がないのだ。打ち砕かれた船は底の知れぬ海へ沈んでしまふに違ひないのだ。』
『叔父さんが話して下すつたあの海の底の裂け目へですか?』とクレエルが尋ねました。
『それ等の裂け目からは誰れも帰つて来たものはない。壊れた船は海の中に呑まれてしまふ。乗つてゐる人々は何んにも残さずあとかたもないやうになる。もうこの地上に残された何かの紀念物があるとしたら、その人の遺族だけだ。』
『そんなだと、海はいつでも静かでなくつちやいけませんね。』とジユウルが云ひました。
『海がいつも静かにしてゐたら、それは海にとつては可哀相な事なんだよ坊や。その静かにしてゐると云ふ事と海のためにいゝ事とは両立しないんだ。海の中の動物や植物に必要な空気を失つたり汚したりしないやうにするには、はげしくひつかきまはさなければならない。水は大洋の為めにも、大気或は空気の大洋の為めに必要なのとおなじ、健康を保つ為めの激動――大嵐でひつかきまはして水に生気を与へ、新しくする事が必要なのだ。
『風は大洋の表面を擾《さわが》す。若しそれが疾風であれば波が立つ。その波は泡立ちながら跳びあがつて、互ひちがひに高いうねりになつたり、くづれたりするのだ。もしまた、その疾風が強く間断なしに吹きつゞけると、その風に遂ひまくられる水は、大きく長くふくれた大浪になつて、広い海を平行線をつくつて前進する。そして堂々としたおなじ形で、あとからあとから追ひつくやうにして海岸に地響きをたてゝ打ちよせてゆくのだ。だが、それ等の運動は、いくら騒々しくても、たゞ海の表面だけの事だ。最も激しい大嵐の時でも、三十メートルも下の方は静かなのだ。
『此の近くの海では一番大きな波の高さが二メートルか三メートルを超える事はないのだ。しかし、南洋の或る処の波はひどい天気の時には、十メートルから十二メートル位まで高くなる事がある。それは全くの処動く丘と深い谷との広大な連脈だ。風に鞭打たれた水の峰の頂上は泡の雲を吐き、存分な力で驚くべき水を巻き上げて、その重さで大きな船をも打ち砕いてしまふ。
『波の力は、殆んど異常に近い。波が水から垂直に持ちあがつて力一杯で襲ひかゝつて行く処の海岸では、その衝動は、人間の足の下で地面が震へる程に激しい。最も堅固な堤も打ちこはされ、さらはれてしまふのだ。頑丈な木で固められたのも切りちぎられて地面をひきづられる。或は又石で築いた防波堤を壊して、それをまるでたゞの礫《こいし》のやうに、ころがしてしまふ。
『さういふ波の活動を連続して受けなければならないのは断崕《だんがい》になつてゐる処だ。即ち截り立てたやうに真直なあの断崕は、海の為めに海岸の堤の役目をつとめてゐるのだ。さういふ断崕は、フランスとイギリスの間のイギリス水道に沿ふた処で見る事が出来る。それ等の断崕は絶えずその下の方を海に穿《うが》たれてゐる。そしてその破片は砕かれて小石になつて放り出され、陸はずつと遠くの方まで海に掘つてゆかれる。歴史の上では、城砦や、建物や、村落でさへもあつたやうな処が、一様な山崩れの為めにだん/\に見棄てられて、今日では全く波の下にかくれてしまつてゐる。』
『そんなにして擾きまぜて、海の水が腐らないやうにするのですね。』とジユウルが念を押しました。
『その波の運動は、たゞ、海の水を腐らさない保証をするだけでは十分でないのだ。まだほかのものゝ健康に大事な関係がある。海の水には、無数の物質が溶け込んでゐる。それは極端にいやな味を持つてゐるが、それが、ものを腐らさぬやうに防ぐのだ。』
『ではその海の水は飲めないんですか?』とエミルが尋ねました。
『飲めない。お前がどんなにのどがかはいて苦しんでゐる時だつて飲めやしないよ。』
『一体どんな味がするんです、海の水は?』
『苦くつて辛らい。不快な味がして嘔気を呼ぶ位だ。それは水に溶け込んでゐる物の味なのだ。一番沢山に含んでゐるのは塩になるものだ。塩は、吾々の食物の味をつけるあの塩だ。』
『だけど塩は』とジユウルが不服を申立てました。『そんないやな味ぢやありませんよ。塩水をコツプへ入れて飲んだり出来はしませんけれど。』
『勿論さうさ。だが、海の水の中には、もつと他のいろんな沢山の物質が一緒になつて溶け込んでゐる。だからその味は非常に嫌やなのだ。塩を含んでゐる度合は、海によつていろ/\にちがふ。地中海の水は、一リツトル(五・五四四合)の中に四四グラムの塩分を含んでゐるし、大西洋の水一リツトルの中には三二グラムだけしか含んでゐない。
『試みに、大洋に含まれてゐる塩の総量の大凡《おおよ》その見積りをつくつて見ると、大洋がすつかり乾いてしまつてその底に、塩の原素が残つたとすると、その塩の素《もと》は地球の表面を一様に十メートルの厚さの層ですつかり包んでしまふに十分な程残るのだ。』
『まあ! 何んて沢山な塩だらう!』とエミルが叫び出しました。『ぢや、僕達人間がどんなに沢山食物に塩を使つても塩がなくなるなんて事はありませんねえ。それからその塩は海から取るのですか?』
『さうだ。それには、低く、平らにならされた海岸がいゝのだ。其処に、いゝ加減な広さの、浅い水溜りをいくつも掘るのだ。それを塩沢《しおさわ》といふ。その水溜りに、海の水を導き入れる。そして其処に一杯になつた時に、海との通路を塞いでしまふ。そしてその塩沢の仕事は、夏の間にしてしまふ。夏の太陽の熱によつて、その沢の水は少しづつ蒸発する。そして塩は結晶して地面の皮のやうになつて残る。それを熊手でかき起すのだ。そしてそれを大きな山のやうに堆みあげて、乾かすのだ。』
『もし僕達が塩水を平たい器物に容れて太陽にあてたら、それでも、やはり塩沢でやるのとおなじやうな結果がとれるでせうか?』とジユウルが尋ねました。
『出来るとも。水は太陽の熱ですぐに蒸発してなくなる。そして塩はその容れものに残るよ。』
『海の中には、いろんな魚がゐますね。』とクレエルが云ひました。『小さいのだの大きいんだの、大変に恐ろしいやうなのだのゐるんですわね。鰯、鱈、ひしこ、鮪、それからもつと沢山のいろんな魚をみんな海からとるのですわね。また叔父さんが教へて下すつた軟体動物と云ふのもゐるし、また殻で自分の体を被ふてゐるのもゐるし、それから人の握りこぶしよりも大きなはさみ[#「はさみ」に傍点]をもつてゐる蟹もゐますね。そしてもつと私の知らない沢山の活きものが棲んでゐるんですね。それ等の活きものは、どうして生きてゐるのでせうね?』
『先づ、彼等の大部分は、お互ひに食ひ合ふのだ。弱い奴が強い奴の餌食になるのだ。順々に強い奴に見つけ出されて、その食物になるのだ。だが、海の中に棲んでゐるものが、お互ひを食べ合ふ事より他に生きて行く手段を持たなかつたら、早かれおそかれ、食物がなくなつて、みんな死に絶えてしまふだらうと云ふ事は明らかだ。
『が、それに対しては、陸の生きものにあるのとおなじやうに、海の中の生きものにも、ほかに、営養物になるものが、海の中にある。植物が、食べものになるものとして備はつてゐるのだ。或る種のものゝ食物は、植物なのだ。彼等は植物をうんと食べるのだ。そしてそれは、直接間接に、植物がそれ等の生きものゝすべてを養つてゐることになるのだ。』
『分りました。』とジユウルが云ひました。『羊は草を食べます。そして狼は羊を食べます。さうするとそれは草が狼を養ふ事にもなります。それとおんなじなんですね。それで、海の中にも草があるのですか?』
『非常に豊富にある。人間の牧場の草叢も海の底のよりも沢山にあるとは云へない。たゞ、海の中の植物は、陸のとは大変に違ふ。海の中のは決して花を持たないし、決して葉にたとへるやうなものもない。それから根もない。そのねばついたもと[#「もと」に傍点]の方で岩にくつゝいてゐるだけで、岩から営養を取らねばならぬと云ふ事はないのだ。それ等の植物の食物は、水から取るのであつて、土地からではない。或るものはべた/\した革紐に似て居り、畳んだリボンのやうなのもあり、長い鬣《たてがみ》のやうなものもある。他のはまた小さな房になつた芽の形をして居たり、柔かい鳥の頭の朶毛《だもう》のやうなのがあり、ちぢれた羽毛に似たのがある。それからもつと他にはきれをめちや/\に引き裂いたやうなのや、螺旋状に巻かつたのや、或は木理《もくめ》のやうな形のやねば/\した、糸のやうなのがある。その或ものの色はオリイヴ緑であり、或ものは蒼い薔薇色、または蜂蜜のやうな黄色、或は輝くやうな紅などだ。これ等の妙な植物を、海藻と云ふのだ。』
[#5字下げ]七三 流れる水[#「七三 流れる水」は中見出し]
『僕に分つたのは』とエミルが云ひました。『ロオヌ河の水が、海に注ぐと云ふ事です。』
『ロオヌ河は海に流れ込んでゐる。』と叔父さんは繰り返しました。『一秒毎に五百万リツトル(二万七千七百二十石)づつの水が海へはいるのだ。』
『そんなに沢山の水をつゞけざまに受けてゐたら、海は池の水が一杯になりすぎたときのやうに、溢れ出はしませんか?』
『それはお前達に考へ切れる事ぢやないよ坊や。海へ注ぎ込んでゐるのはロオヌ河一つだけぢやないんだよ。フランスだけでも、ガロンヌ、ロアル、セエヌ、その他沢山の河がある。そして、それはただ海へ流れ込む沢山の河のうちの極く少部分なのだよ。世界中の河はみんな海につゞいてゐる。それは絶対にみんなが続いてゐる。そして、南アメリカのアマゾンと云ふ河などは、千四百リイグ(約二千二十五里以上)河口の広さが十リイグ(約十二里以上)もある。それはどんなに沢山の水を注ぎ込むことだらう!
『そんな大きな河も、これ以上小さな川はないと云ふやうな小さな谷川でも、大小にかゝはらず一様に、世界中の川が海へ注いでゐるのだと云ふ事を想像して御覧。お前達の知つてゐるあの蟹のゐる小さい流れだね、あの川の或る処はエミルにも飛び越すことが出来るだらう、そして何処だつてやつと水は膝位までしかないね。いゝかい、そんな小さな流れだつて、やつぱりアマゾンのやうな大きな河がするやうに、一秒毎に幾リツトルかの水を海に流し込むのだ。どの川もみんなさうなんだ。あの無限な海もみんなその川の水なんだ。だが、その小さな流れは自分だけで海までの長い旅行をすることは出来ないのだ。それは、途中で仲間のきれいな細い流れと出合ひ、一緒になつてもつと勢のいゝ流れになり、それがまた他のと一緒になつて大きな河になるのだ。海に流れ込む河は、いくつもの支流を合はせたもので、海はその小さな流れを飲んだ河の水を受けてゐるのだ。』
『流れる水はみんな』とジユウルが云ひました。『谷川の細い流れも、急流も、小川も大きな河も、みんな絶え間なしに、海に流れ込んでゐるのですね。そしてそれは、世界中にある河がみんなさうなのですね。さういふ風にして一秒毎に海はとても計算が出来ない程沢山の水嵩を受け入れてゐるのですね。さうすると、僕にもやつぱりエミルとおなじ疑問が起るのです。海はそんなに沢山の水を続けざまに受け容れてゐて溢れる事はないのですか?』
『若しも、貯水池に、泉から水を受けてゐても、丁度それだけの水を他へ流し出してゐるとする。そして水は何時も何時も貯水池の中にはいつて来る。貯水池はその為めに溢れるだらうか?』
『そんな事は決してありません。受けただけの水を失くしてゆくとすれば、それは何時もおなじ量でなくてはならない筈です。』
『海はそれとおんなじだ。得ただけの水を失くしてゆくのだ。そしていつもおなじ嵩だけの水が海に残つてゐる事になるのだ。谷川も小川も大河も、みんな海へ流れ込む。だが、その谷川や、小川や、大河の水はまた海から来てゐるのだ。河の水はその大きな無限の貯水池から取つたものを、また其処へ返すのだ。』
『だけど、もしあの蟹のゐる小川が海から来たものだとすると、』とエミルが云ひ出しました。『叔父さんがおつしやるとほりだと、その水は塩水でなくちやならない筈ですね。ところが、僕はよく知つてゐますが、あの水はさうぢやありません。塩なんかちつともありませんよ。』
『慥《たし》かに塩水ぢやないよ。だが、あの小川は決して、貯水池から溢れ出して来た水のやうな風《ふう》に海から戻つて来るのではない、これが海から戻つて来るには、川の水になる前に、まづ、空気を通つて雲になるのだ。』
『雲ですつて?』
『雲だよ、坊や。つい此の間私がお前達に話してあげた事を思ひ出して見るんだ。
『ね、太陽の熱は水を蒸発させる。そしてその目に見えないものに変つた水は空中に散ばつてしまふ。海の表面は陸地の三倍もある。その広い海からは絶えず沢山の水が蒸発して空中に昇つてゐる。その水蒸気が雲になるのだ。その雲は四方に運ばれて、雨や雪になつて降る。その雨や溶けた雪は地面にしみ込み、濾《こ》されて、此度は泉になつて湧き出し、その泉はだん/\に、谷川となり、小川となり、大河となるのだ。』
『僕、どうして谷川の水が塩水でないかと云ふ事が分りましたよ、』とジユウルが云ひました。『川の水は海から来たのだと云つても、叔父さんが教へて下すつたとほりに、平たい容器の中の塩水を太陽にあてると、水だけが蒸発して行つて塩は残ります。海から昇る水蒸気でも塩を含んではゆきません。塩は水と一緒に水蒸気になつてゆくことは出来ないのですからね。で、雲から降つて来る雨や雪で水を造られてゐる小川には塩がありよう筈はないのですね。』
『今、叔父さんが私達に話して下すつたことは大変に注意すべき事ですね』とクレエルが云ひました。『谷川も、小川も、大河も、すべての水の流れは、海から来て海へ帰つてゆくのですね。』
『さうだ、海から来て海へ帰るのだ。すべての大陸をよせ集めたよりも三倍も大きな面積が水で覆はれた、尽きる事のない貯水池から来るのだ。その或る場所の落ち窪んだ深淵は、十四キロメートルも測れる程深く、そして絶え間なく世界中のすべての河の水を受け容れてゐて、それを受けきれないと云ふ事はない。広い海の表面には、常に空気と水蒸気が接してゐる。その水蒸気は雲となり、その雲は溶けて雨となり、風に逐ひ立てられて、歩きまはり、無数の如露のやうに、地面を濡らして、地上のものに生気を与へて肥やす。かうして雲から雪になり雨になつて降つて来た水は、河を産み、その水は海に駆られてゆく。かうして海から出た水は、大気の中を雲の形で旅をし、雨になつて地面に降り、河となつて大陸を横ぎつてまた海へ帰つて行くと云ふやうに、絶えず、その同じ道をめぐつて同じ事を繰り返してゐるのだ。
『海は公共の貯水池だ。河も、泉も、すべての小さな流れも、みんなその貯水池から出て、其処へ帰つてゆく。露の滴りの水も草木のうちを循《めぐ》つてゐる汁液の水も、吾々の額に滲み出す玉のやうな汗の水も、すべて、海から来てまた海へ定められたとほりの道を通つて帰つてゆく。どんなに小さな滴りも途中で失くなつてしまふ恐れはないのだ。よし渇いた砂が水を吸ひ込んでしまつても、太陽は、どうしてそれを引き出して空中の水蒸気と結びつけるかと云ふことをよく知つてゐる。そして、その水は早かれ遅かれ、再び大洋にはいるのだ。神様の目からは何物も逃れることは出来ない。何物も失はれはしない。神様はその手で大洋の深い淵を測つてゐる。そして水の滴りの数まで知つてゐるのだ。』
[#5字下げ]七四 巣分れの群[#「七四 巣分れの群」は中見出し]
ポオル叔父さんが話を止めた時に、みんなは庭から響いて来る、ポン、ポン、ポン、ポンと云ふ耳にこびりつくやうな音を聞きました。それはまるであの大きな接骨木の下に、鍛冶屋が鉄床でも据ゑつけたやうに思はれるのでした。みんなはそれを何かと思つて見に馳けてゆきました。ジヤツクは真面目に如露の上を鍵で叩いてゐました。アムブロアジヌお婆さんも銅のソース鍋を小石でポン、ポン、ポン、ポンと叩いてゐました。
此の二人の善良な召使ひ達は頭を下げて、一心に身を入れて、こんな大まじめな空気の中で茶化し囃子をやつてゐるのでせうか? 二人は休みなしにその単調な仕事をしながら一言二言話し合ひました。『奴等はすぐり藪の方へ行つてゐるのかな?』とジヤツクが云ひます。『何んだか向ふの方へゆくやうに見えますよ。』とアムブロアジヌお婆あさんが答へます。そして、ポン、ポン、ポン、ポンと続けて居りました。
丁度その時ポオル叔父さんと子供達が来ました。ポオル叔父さんにはすべての事が一目で分りました。庭中に赤い煙のやうなものがとんでゐました。それは、或時は高く昇り、或時は低く沈み、また散ばつたり、密集して塊になつたりしてゐました。そしてその赤い煙の真中からは、一本調子なブンブン云ふ翅の音がしてゐます。ジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんとはまだその雲のあとについて叩いてゐました。ポオル叔父さんはそれを見るのにすつかり気を取られてゐました。エミルとジユウルとクレエルとは、それぞれに、何が始まつたのかと思つて驚いて見てゐました。
小さい雲が降りて来て、ジヤツクの先見どほりにすぐり藪に近づきます。そしてそのまはりをまはつて調べて見て、一つの枝を選びます。二人はなほもつと騒々しく、ポン、ポン、ポン、ポン、と叩きます。選ばれた枝の上には円く塊つたのが目に見えて増へてゆき、同時に雲はだん/\に密集して来てグル/\そのまはりをまはります。ジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんとは叩くのを止めました。直ぐにそのすぐり藪のある枝から大きな房がさがりました。それから離れてゐるのは、もうすぐに其処に帰りつく、生きた雲の最後の者だけです。すべては終りました。今は人間も其処に近づく事が出来ます。
エミルは、それを、蜜蜂が巣に帰つて来たのではないかと思ひました。エミルはずつと前に蜂の巣箱にしたいたづらを覚えてゐました。叔父さんはエミルを安心させる為めにその手を引いてやりました。エミルは元気よくすぐりの藪に近づきました。叔父さんと一緒にゐるのに何のあぶない事がありませう? ジユウルもクレエルも一緒にくつついて来ました。それは厄介な思ひをする甲斐のあるものでした。
すぐり藪にぶら下つてゐるのは蜜蜂の房でみんな其処に固まつてゐるのでした。後れて来た一つは彼方此方を行つたり来たりして、いゝ場所を見つけてゐます。そして、もう先きに落ちついてゐるものにくつつき合つて場所をとります。すぐりの枝はその上にのつた幾千といふ蜂の重荷で曲つてゐます。最初に来たものは、たしかに、一番強い奴です。彼等はその前肢の爪で枝をつかんで、そのあとから来るすべての重さを支へるのです。あとから来た他の者は、最初の者の後肢に自分の体をくつつけるのです。そして三列位までが、房のブラ下る根になり、それから、だんだんに、四番目六番目、ともつとずつと沢山くつついてゆきます。それからまた此度は、だん/\にその数を減じて行つて最後までしつかりとその手で、しがみついてゐます。子供達は、驚いてその蜂の房の前に立ちました。その赤い毛と光沢のある翅とは陽に輝いてゐました。けれどもみんなは少し隔《はな》れた処で用心深くしてゐました。
『あんまり近づいたら螫されるでせうか?』とエミルが尋ねました。
『今のやうな場合では、めつたに螫しはしまい。もしお前が、考へなしに側に行つて蜂をいぢめたら、その時には蜂がどうするか叔父さんにはその答へは出来ない。だが蜂をそつとしておいて、おとなしく見てゐるのならば、何も恐いことはない。蜂共は今、小さなものずきな子供を螫すことよりは、もつと他の心配をしてゐるのだ。』
『その心配といふのは何んです? 蜂共にはもうこれからみんな寝るのだと誰れでも思ふやうに何事もないやうに見えるぢやありませんか。』
『自分の住む村もなく住家をつくる処をさがしてゐる人間の真面目な心配とおなじ心配だ。』
『蜜蜂に村がありますか? それに――』
『蜂には巣があるよ。その巣は蜂の為めの住居のおなじものが沢山集つたものだ。』
『では、蜂共は、その中に住む巣を見つけてゐるのですね。』
『さうだ、巣を見つけてゐるのだ。』
『そして一体此の宿なしの蜂共は、何処から来たんでせう?』
『庭の中の古い巣から来たのだ。』
『だけど蜂共は、よそに新らしく領分をさがしに出なくても、あすこにゐてもいゝんでせうがねえ。』
『彼処にはゐられないのだ。あの巣の中の人口が殖えて、みんなのゐるのには部屋が足りなくなつたのだ。だから一匹の女王に導かれて、本国を離れ、大冒険をして自分達の為めの新しい殖民地を何処か他所で見つけるのだ。此の移住隊のことを巣分れの群れと云ふのだ。』
『その群れを導く女王は、――では其処の房の中にもゐるんですね?』
『ゐるとも。その女王が、すぐりの藪に降りて、仲間全体を其処に停めさせたのだ。』
村とか、女王とか、移住、殖民地、などと云ふ言葉は、子供達の頭に印象を残しました。みんなはそんな、人間の政治学の条件を蜂にあてはめた言葉を聞いてびつくりしてしまひました。尋ねたい事が、あとからあとから出て来ます。が、ポオル叔父さんは耳に入れませんでした。
『巣分れの蜂が、巣箱にはいつてしまふまでお待ち。そしたら、叔父さんはお前達に、驚くやうな蜂のお話を長く続けてしてあげる。そして今はたゞ、何故ジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんが、如露やソース鍋を叩いてゐたのかと云ふ、クレエルの質問にだけ答へよう。
『若し、巣分れの蜂共が、その村から飛び出して行つてしまつたら、その蜜蜂を私達は失くしてしまふ事になる。其処で、それを庭の中の木に降りさせて、其処で群をかためて房のやうになるやうに導いてやる事が必要なのだ。それには古くからの考へで、何か音をさせるといゝと云ふ事になつてゐる。その音は雷を真似るので、云はゞまあ、その蜂共は、嵐が近づいたと云ふ恐れで、大急ぎで避難所をさがすのだと云ふのだ。私は蜂が、古い如露を叩く音で嵐を恐れるやうな馬鹿気たものだとは信じない。蜂は古い巣箱からあまり遠くなく蜂共に適した場処でありさへすれば丁度いゝと思つた時に丁度いゝ処に降りるのだ。』
ジヤツクが、一方の手では金槌を下げ、一方の手をかざして見ながらポオル叔父さんを呼びました。お爺さんは新しい板で、巣分れをした蜂共の為めに家をつくつてゐるのでした。夕方になると巣箱が出来上りました。底の方には蜂の出入口になる小さな穴が三つ穿《あ》いてゐます。そして、内側には、今に出来る筈の蜜窩《みつか》を支へる為めの幾本かの木釘があります。一つの平たい石が、壁に立てかけて置いてあつたのが、巣箱の台石になりました。日の暮れ方になつて、みんなはすぐり藪に行きました。蜂のかたまりは枝から離すときに、少し揺れて巣箱の中にはいりました。最後にその巣箱は台石の上に置かれました。
次ぎの朝ジユウルは、蜂がどうしてゐるか見に出かけました。その家は蜂共に丁度よく出来てゐました。蜂共は巣箱の小さな扉の外に一つづつ出て来ては、台石の上の日あたりで一寸自分の体をさすつては、庭の花の方に飛んで行きます。蜂共は働きにゆくのです。殖民地はもう見つけ出されたのです。重大な会議で、すべての事は夜の間に決定されたのです。
[#5字下げ]七五 蜜蝋[#「七五 蜜蝋」は中見出し]
ポオル叔父さんは、約束を忘れませんでした。叔父さんは真先きに出来た閑暇《ひま》を利用して、子供達に蜜蜂の話をして聞かせました。
『非常によく蜂を住はせる巣箱には、二万から三万の蜂がはいつてゐる。その人口は殆んど吾々人間のつくつた、ちよつとした町位にはなる。町では、すべてのものがおなじ商売をする訳にはゆかない。パン焼きはパンをつくる、石工や煉瓦屋は家をつくるし、大工は家具をつくり、洋服屋は着物をつくる、手短かに云へば、それ/″\の仕事によつて職人がゐる。そのやうに蜂の社会にもいろ/\な分業がある。即ち、母親があり、父親があり、労働者があるといふ風に。
『まづ第一に、母親としては、それ/″\の巣箱の中に一匹しかゐない。たゞの一匹だ。その蜂が、全人口の母親なのだ。それを女王蜂といふ。此の女王蜂は、その大きな体で労働者からは抜んでて居り、そして働く道具を持たない。その蜂の仕事は卵を産むことなのだ。それは一ぺんに千二百もの卵をその体に持つのだ。そして最初の卵を産んでしまふとすぐにまた次ぎの卵をもつのだ。何んと云ふ驚くべき女王の仕事だらう? しかしまた、他の蜂共がその共同の母親を見るのにやさしい注意をすることはどうだらう! その丁寧な気のつけ方はどうだらう! 彼等はその貴い母親に一口づつ御馳走をする、彼等は、自分で食物を集めるひまのない女王蜂の為めに、一番上等のものを食べさせる。そしてあとからあとからと卵を産むのがたつた一つの役目なのだ。
父親の仕事をするのは、六百から八百位までの怠けもので雄蜂といふのだ。雄蜂は、労働者の蜂よりは大きく女王よりは小さい、その大きな脹れた眼は、頭の尖きにひつつき合つてついてゐる。雄蜂は螫毛を持つてゐない。毒を持つた小剣を持つてゐるのは女王と労働者だけだ。雄蜂はその武器を剥ぎ取られてゐる。その雄蜂は何をするのか? と云ふ問ひがある。それは、何時か、女王蜂が外を飛びまはつて楽しむ時に、そのお伴をするのだ。そして、もうそれ以上は何にも聞くことはない。彼等は惨めに外で死ぬか、或はもし巣に帰ると労働者から冷淡に取り扱はれる。労働者は雄蜂を穀つぶしだと云ふので虐待して仲間に入れないのだ。そして、すぐに労働者仲間には不必要な雄蜂をつつきまくる。しかし、それでもまだその虐待に平気でゐれば、此度は最後の手段がとられる。何時か、天気のいゝ朝、労働者共は、雄蜂をどれもこれも殺してしまふ。そしてその死体は巣箱から掃き出されてしまつてゐる。それが雄蜂の最後だ。
『さて、労働者だが、これは一匹の女王蜂に、二万から三万の蜂がついてゐる。此の労働者を働蜂と云ふのだ。その働蜂の或る者は、お前達が、庭の中を花から花へ飛びまはつて取り入れをしてゐるのを見るだらう? あの蜂なのだ。それからもう一つの他の働蜂は、その外へ出てゐる働蜂よりは少し年をとつてゐて、従つて経験をつんでゐる。此の蜂は巣の中に残つてゐて、巣の中での必要な仕事をする。そして、女王蜂の生むだ卵から孵つた幼虫に食物を分けてやる。此の二つの働蜂の体には区別がある。蜜の材料を集めて蜜蝋をつくる、蝋蜂は若い。家にゐて家族の面倒を見る養育係りの蜂の方は年を老つてゐる。此の二種類はお互ひに根からの相異を固持してゐるのではない。熱情に充ち、冒険的な若い時には、蜂は蜜蝋つくりの仕事に従ふ。蜂は野原に飛んで行つて、花をたづねては食料をさがし歩く。そして或時は、悪だくみを持つた侵略者に対して、螫毛の鞘を払つて、大いに自分を主張するために飛びかゝつてゆく。そしてその滲み出させる蜜蝋で、倉庫や小さな室がつくられる。その小さな室は、小さい幼虫を置く処なのだ。その働蜂が年をとつて来ると、経験を積んで来る。しかし、若い熱情を失くする。其処で、家にゐて、子供の養育係りといふ細かい面倒な仕事をするに相応するやうになるのだ。』
此のポオル叔父さんの前置きの、蜂の仕事がちやんと三つの階級に決められてゐるといふ話は、子供達に大変な興味を起させました。みんなは、蜂が、そんな不思議な念入りな、共同の規則を持つてゐるといふ事を知つて驚きました。真先きにジユウルが叔父さんに質問しはじめました。子供は、知りたいと思ふ事は、何んでも皆んなすぐに知らなければ承知が出来ないのです。
『叔父さんは、蜜蝋蜂は蜜蝋をつくると仰云ひましたね。僕はまた、もう花の中で出来あがつてゐる蜜蝋を蜂が見つけ出すのかと思つてゐましたよ。』
『出来上つたものを見つけ出すのではない。蜂がそれをつくるのだ。それを滲み出させるのだ。別の言葉で云へば、蠣《かき》が自分の殻の石を滲み出すやうに、メレアグリナが、真珠貝や真珠を滲み出すように、蜂は蜜蝋を滲み出さすのだ。
『蜂の胃をよく見ると、それが幾つもの輪がひつつき合つて出来てゐる事が分る。そしてどの昆虫の胃でも、皆なそれと同じやうに出来てゐる。かういふ風に幾つもの部分がひつつき合つて出来てゐると云ふのは、例外なしに、すべての昆虫の角でも、触角でも、肢でも、皆な同じ事なのだ。もと/\此の insect 即ち昆虫と云ふ言葉は、切れ/″\になつてゐるといふ意味で、此の幾つもの部分がひつつき合つてゐると云ふところから来たものなのだ。実際、昆虫のからだはさう云ふ風に幾つもの切れ切れがひつつき合つて出来てゐるのだ。
『其処で蜂の胃袋の話に戻る。その胃袋の中には、別々にたゝまれた輪が真中よりは下の方に見出される、それが蜜蝋をつくり出す機械なのだ。其処に皮膚をとほして汗が滲み出すように、蜜蝋の材料になるものが少しづつ滲み出るのだ。その滲み出したものは堆つて薄い層になる。蜂は肢でそれをこすつてはがすのだ。其処には八つの蜜蝋をつくる機械があつて、一つが怠けてゐる時には他のが働くといふやうにして自分の思ひどほりにいつも蜜蝋の層をつくつてゐる。』
『蜂はその蜜蝋を何にするのですか?』
『それで、蜜窩をつくるのだ。それは蜜を貯へておく倉庫で、そして幼虫の形をした蜂の子を育てる小さないくつもの室だ。』
『ぢや、その家を建てるのに』とエミルが云ひ出しました。『その胃袋のひだから取つた蜜蝋の層で建てるのですね。さうだと蜂は大変独特の工夫に富んだ処を見せる訳ですね。それは丁度僕達が家を建てるために要る石やなんかを手に入れるのに、自分の体を擦《こ》するやうなものですね。』
『蝸牛は』と叔父さんは結びました。『もう人間をさういふ動物の独特な理想を不思議がらせないやうにならしてしまつてゐる。蝸牛は自分の殻をつくるのに石を滲み出さすのだ。』
[#5字下げ]七六 蜜房[#「七六 蜜房」は中見出し]
蜜を貯へておくために、そして幼虫を育てる為めに、蜂はその蜜蝋で蜜房といふ一方の端は開き一方の端は塞がつてゐる小さないくつもの室をつくる。それはどれもみんな規則正しい六角形で排列されてゐる。幾何学上の言葉ではそれぞれが六角形|角※[#「土へん+壽」、第3水準1-15-67]《かくとう》、或は六面角※[#「土へん+壽」、第3水準1-15-67]と云ふ事が出来るだらう。
『此の形の科学、約《ひっくる》めて云へば幾何学の奉仕者とその美しいものの附属物の言葉の紹介に驚いてはいけない。蜂は此の上はないといふやうな熟練した幾何学者だ。彼等の仕事には、一番高い知識の運用が必要なのだ。すべての人間の理論の力は、一歩一歩昆虫の科学に従つて来たのだ。其処で私もすぐに、その目的に返つて、それは大変むづかしいのだが、お前達に分りやすいやうに話して見る事にしよう。
『蜜房は背中合はせに、塞がつてゐる方の側同志が結びついて、対になつて水平におかれる。そして猶、二つの隣り合つた室の仕切り壁のやうになつたそれ/″\の平たい側面をくつつき合はせて多く少く、いろ/\に並べられてある。そしてその小室《こべや》の塞つてゐる方の側同志で背中合はせになつた二つの層の事を蜜窩といふのだ。此の蜜窩の一方の側には同じ層の室の入口がみんなあり、第二の層の室は反対の側に開いてゐる。最後に、その蜜窩は巣箱の中に、半面は右、半面は左を向けて垂直に吊されてゐる。その上の方の縁は、巣箱の屋根か、或はその屋根の内側を交叉してゐる棒にくつゝいてゐる。
『一つの蜜窩では、人口が多い時には十分ではないので、またはじめの通りなのを、他につくる。いろいろな蜜窩が、お互ひに並行して、その中間に隙間を残して並んでゐる。それ等の蜜窩は街で、広場や通りは、丁度吾々の家の戸口が通りに向つて右左から開いてゐるやうに、隣り合つた蜜窩の小室が向き合つた、二つの層の間に出来てゐる。蜂は其処を一つの扉口から他のへとめぐつて倉庫のやうに使つてゐる室の中へ蜜を貯へたり、或は一つ一つ他の室に行つて若い幼虫に、食物をわけてやつたりする。そして必要な時には、それ等の公の場所に集まつて、公共の問題について考へたり会議をしたりする。例へば、養育係りの蜂が、幼虫の食物の世話をして彼方此方を歩いてゐるうちにか、或は蜜蝋蜂が一生懸命に自分の体をこすつて蜜蝋を引き出して家を建てはじめてゐるうちに、雄蜂を逐ひ出す隠謀が出来てゐる。処に、その時新しい女王蜂が生れて巣箱の中に内乱が起る。するとみんな集つての相談で移民の計画が熟する。其処で――だが、さう先き走りをして話すのは止めにしよう。蜜房の話に帰らう。』
『僕は、その珍らしい蜂の話をみんな本当に知りたいんです。』とジユウルが云ひ出しました。
『お待ち! まづ何よりも蜜房がどうして出来てゐるかを見よう。蜂はその必要を感ずるとその輪のひだから蜜蝋のうすい層を引きだして蜜房の材料にする。その少しばかりの蜜蝋の層は、その歯の間、即ち二つの顎の間にくはへられる。蜂はそれをかみしめて、その仲間の間を馳け抜ける。『私を通してお呉れ』と云つてゐるやうに見える。『さあ、私は仕事をしなければならないんだから。』さうして道をかきわけてゆく。その蜂は仕事場の真中に場所をとる。蜜蝋は顎の間で揉まれてゐるし、きれてもゐる。蜂はそれをリボンのやうに平らにのばす。それからまたそれを敲《たた》く。そしてもう一度揉んで、塊にしてしまふ。同時に、それに唾を含ませる。それはその塊を柔かくするのだ。その材料が、丁度適当な程度になつた時に、蜂は少しづつ少しづつそれを貼りつける。余分な処を切りおとすには、顎が鋏のやうに使はれてゐるし、触角は絶えず動いて探り針のやうにも、またコンパスにも使はれてゐる。それは蜜蝋の壁にさはつてその厚さを調べ、窪みへつつ込んで、その深さを確かめる。此の恐ろしく丁寧で規則正しい建物を完全につくりあげさすその生きたコンパスの触れ方は何んと云ふすばらしいものだらう! その上労働者が馳け出しだと、上手な蜂が、経験をつんだ眼でそれを見張つてゐて、ほんの少しのあやまちがあつても、すぐに、それを捉へて、急いでつくりなをす。下手な労働者は、控へ目勝ちにそのそばで、仕事を覚える為めにそれを注意してゐる。細工を覚えてしまふと、また働きはじめる。数千の蜜蝋蜂が一緒に働いて、二デシメートルから三デシメートルの広さの蜜窩一つをつくるのに、屡々一日仕事の事がある。』
『叔父さんは私達に話して下さいましたわね』とクレエルが云ひました。『その蜜房は幾何学的な排列で特別に珍らしいものだつて。』
『今、丁度その立派な話題へ来た処だ。だが私は前以てお前達に、一寸云つておく事がある。お前達には蜂の建築術の勝れた美しさはまだなか/\のみ込めるもんぢやない。いゝかいジユウル、そのつまらない虫のつくつた蜜蝋の家を、本当によく知つてしまふには、本当に少数の人達しか持つてゐない、最高の知識が要るのだ。それをお前が研究して、その珍らしいものをすつかり分るには、これからのお前の長い前途を、出来るだけ十分に打ち込まなければならないのだ。だが、今はたゞ、私が話して聞かせるだけの事にしておかう。
『蜜房は、或ものは蜜を入れておく倉庫のやうに、或ものは幼虫の為めの巣のやうに使はれる。それは蜜蝋でつくられてゐる。その材料は、蜂も無制限に得る事は出来ない。蜂共は、胃が少しばかりの蜜蝋の層を滲み出させるまで待たなければならない。そしてその層をつくり出すのもゆつくりで、余程自分の体をけづつてもゐるのだ。蜂は自分の体の材料で建築をするのだ。それは自分を痩せさせて滲み出させた処のものを以て蜜房をつくつてゐるのだ。その蜜蝋が蜂にとつてどれほど貴重なものかと云ふことゝ、同時に、それを蜂共がどんなに厳重に経済的に使はねばならぬか、判断が出来るだらう。
『それにまだ、大変な数の家族を養はねばならない。倉庫にある蜜は公共の必要に応ずるやうに殖やしてゆかなければならない。その上に猶、それ等の倉庫や育児室になる小さな室を出来るだけつくつてゆかねばならないのだ。それも巣箱の妨げにならないやうに、二万も三万もの市民が自由にそこらを飛びまはつて歩くのに少しも不都合を感じないやうにしなければならないのだ。最後に、蜂にとつて最も困難な問題にぶつかるのだ。彼等は最少の空間に、出来得る限り最少の蜜蝋で、出来るだけ沢山の蜜房をつくらねばならないのだ。さあジユウル、お前は此の蜂の問題を解く事が出来さうかい?』
『叔父さん、僕その説明がよく分りません。』
『蜜蝋を節約するのに、先づ最初の仕事をはじめる前に非常に簡単な方法を考へる。それはその室と室との間の仕きりをつくるのに、大変薄くすることだ。お前だつて、此の最初の方法は、蜂と全くおなじ事をするだらう。蜂はその蜜蝋の壁を、紙のやうに薄くつくる。だが、これではまだ不十分なんだ。もつと重大な必要は、一番経済的な形をさがして、その形で室をつくると云ふ事だ。さあ、みんなで考へて見よう。どうすれば、空間と蜜蝋との経済的な条件にあてはまるやうな形の室が出来るだらう?
『先づ、その小室を円いものとして考へて見よう。紙の上に、或る同じ大きさでお互ひに触れ合ふ円をいくつか書いて見る。それ等の隣り合つた三つの室の真中には、始終すき間が出来て来る。その何にもならない無駄なすき間が沢山に出来ることは、その室をつくる為めに経済的なやり方ではない。円形では駄目だ。
『それでは此度は四角にして見よう。紙の上におなじ大きさの四角を書かう。これは側面と側面とをくつつけて間にすきまを残さずに正しく並べてゆく事が出来る。此の室の床に嵌め込んだ小さな四角な赤煉瓦を御覧。此の煉瓦は、間に少しも隙間を残さず、どの側面も触れ合つてゐる。其処で四角な形は、第一の条件、即ち、隙間を利用してゐると云ふ条件には当てはまる。
『だが、此処にまた他に困難な事が現はれて来る。四角な格好をした室では、それを建てる時に使つた蜜蝋の量のせいで、十分な蜜を支へる事が出来なくなつて来る。その量を殖やす為めには、その角の面の数を出来るだけ沢山に殖やさなければならない。此のはつきりした真理をお前達にちやんと見せてのみ込ませてやることは私には出来さうにない。それは、お前達の知識とはまだずつと隔たりのある事なんだからね。その面を殖やすといふ理屈は幾何学が確かな事だと認めてゐるのだ。でそれを事実について考へて見よう。
『出来上つた形を選んで、其処から出発して考へる事にする。側面と側面を合はせて、少しも無駄な隙間を残さずに置く事の出来る、すべての規則正しい形のものゝ中から、お前達は最もその側面の数の多いものを選ばなければならない。さうすれば同じだけの蜜蝋をつかつても沢山の蜜を支へる事が出来るだらう。
『幾何学は、隙間をつくらずに並べることの出来る正しい形はたゞ三角か、四角か、六角と教へてゐる。それだけだ。他の形ではすべての周囲が触れ合つてしかも少しも隙間を残さないやうにする事は出来ないのだ。
『さうすると、その六角形をとつて室をつくれば、最も少い空間に、最も少い蜜蝋で総ての室を集める事が出来、そして沢山の蜜を貯へる事が出来る。蜂は誰よりもよくその事を知つてゐて、他のどの種類にも決してない六角形の室をつくるのだ。』
『では蜂は、』とクレエルが聞きました。『私達のやうに、或は私達以上に、その理屈を知つてゐて、そんな問題を解いたのでせうか?』
『もしも蜂が、前以てよく考へ、計画をたてたあとでその蜜房をつくつたら、それは驚くべき事だよ、クレエルや。動物は人間の競争者になるだらう。蜂は深い幾何学者だが、それは、もつと荘厳な幾何学者、即ち神様の霊感の下に知らず識らずの間にその仕事をしただけなのだ。さあ、もう此の話は止めよう、お前達に此の話がよく分つたかどうか怪しいが、しかし、もう少ししたら、此の驚くべき世界の事に、お前達の眼をあけてやることが出来よう。』
[#5字下げ]七七 蜂蜜[#「七七 蜂蜜」は中見出し]
『蜂は勤勉だ。朝日が昇る頃には、巣箱からずつと離れた処へ飛んで行つて一つづつ花を訪ねて働いてゐる。お前達はもう花の中の、虫を引きつけるものを知つてゐる筈だね、私はお前達に、前に花蜜の事について話しておいた。それは甘い液体で、花冠の底から滲み出して小さな翅のある虫共を誘ひ、それで柱頭の上の葯《やく》をゆするやうになつてゐる。此の花蜜が、蜂に入り用なものなのだ。これが、自分の大変な御馳走であり、猶また女王蜂にも、他のものにもやはり大変な御馳走なのだ。そして、それが蜂蜜の素なのだ。どうしてその液体を家に持つて帰つて他のもの達を喜ばせるのだらう? 蜂が持つてゐるのは、水差しでもないし、瓶でもない、壺でもない。さういふ種類のものぢやないのだ。ああさうだ、それは、それ、蟻が木虱の乳を労働者に持つて行つてやるやうに、自分の鑵といふやうな、胃袋、腹、※[#「月+奧」、358-19]《いぶくろ》で配つてやるのだ。
『蜂は一つの花にはいつて、花冠の底の方へ長いそして柔かな、それで甘い液汁を舐める舌のやうなものを突込む。一滴づつその花から汁を吸ひ出す。そして※[#「月+奧」、359-1]は一杯になる。同時に蜂は花粉の粒を少しづつ噛む。猶その上に、此のいゝ荷物を巣箱に持つて帰らうと思ふのだ。此の仕事の為めに蜂は特別な器物を持つてゐる。先づ第一がむく毛だ。それから、ブラシユと、籠だ。それは肢がその役に立つのだ。むく毛とブラシユは取り入れに、籠は持ち運びに使はれるのだ。
『最初に蜂は面白がつてその花粉をかぶつた雄蕋の中を転がる。そして彼方此方転がつてゐる蜂のびろうど体の後肢の端に、内側の方に四角に、短かい粗い毛が逆立つてゐる処がある。それがブラシユのやうな役に立つのだ。虫のむく毛の上に散ばつた花粉の粒は、そのブラシユで集められて小さな球になる。それは肢の間につかまれる。それが籠といふ名で呼ばれるのは、後肢のブラシユの少し上の方の外側の毛で一つの窪みがふちどられてゐるからだ。其処にある小さな花粉の球は、粉だらけになつたむく毛の上を大急ぎで刷き集めて堆み上げたものなのだ。その荷物は決して落ちる事はない。何故なら籠の縁の毛がそれを支へてゐるからだ。そしてまた、底の方に向つて粘りついてゐるのだ。女王蜂や雄蜂はそれ等の働く道具を持つてゐない。さういふ器物は働かない雄蜂や女王蜂には用がないのだ。』
『その蜂が花を訪ねては籠の中に集め込んだ花粉の荷物の小さい球は誰にでもその後肢の間で見えますか?』
『勿論さ。蜂は花冠の底からうんとその甘い汁を舐める。花粉を幾度も幾度も掃き集める。そして最後には※[#「月+奧」、359-12]は一杯になり籠はあふれ出る。巣箱に帰る時になつたのだ。蜂は、そんなに沢山の土産と一緒に大急ぎで飛んで行く。
『其処でその帰り途につけ込んで、その蜂蜜の原質について調べて見る事にする。蜂はその※[#「月+奧」、359-14]の中に一杯になつた甘い液汁と籠の中の二つの花粉の球を持つてゆく。だが、それはまだみんな蜂蜜ではない。本当の蜂蜜をつくるのには、蜂はその原素を準備する。それは集めて来た花蜜と花粉の球だ。それを料理するのだ、その※[#「月+奧」、359-16]の中でぐつぐつ煮立たすのだ。その小さな胃袋は、運んで来るのに壼として役に立つたよりも、もつといゝものになる。それは驚くやうに精巧な蒸溜器なのだ。その中で、舐めて来た液汁と咬みとつた花粉の粒とが消化作用で美味しい果※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《かこう》に変つてしまふ。それが蜂蜜なのだ。これで、その上手な料理はすんだのだ、その※[#「月+奧」、359-19]一杯につまつてゐるのが蜂蜜だ。
『蜂は巣に着く。もしいゝまはりあはせで、女王蜂に出遇ふと、労働者の蜂は女王を尊敬して、その胃袋から第一の一と啜りを口から口へと捧げる。それからあき部屋をさがしてその倉庫の中に自分の首をつつ込んで、その舌をさし出して胃袋の中に詰まつてゐるのを吐き出す。そして其処に蜂が吐き出した本当の蜂蜜があるのだ。』
『みんな吐き出してしまつたのですか?』とエミルが尋ねました。
『みんなぢやない。胃袋の中につまつてゐるものは、普通三分されるのだ。一部分は巣に残つてゐて家の中の仕事をしてゐる養育係りの為めに、第二には、まだ巣の中にゐる小さいものゝ為めで、第三には自分の為めでそれは蜂蜜になるのだ。よく働く為めには食物がなくてはならないだらう?』
『ぢやあ、蜂は蜜を食べるのですか?』
『さうさ。お前は多分、蜂が人間の為めに特別に蜜をこしらへたんだとでも思つてゐたね。そんな事を考へちやいけない。蜂は自分達の為めに蜜をつくるのであつて、人間の為めにつくるのぢやあない。人間は、蜂の富を分捕るのだ。』
『花粉の小さな球は何になるんです?』とジユウルが尋ねました。
『花粉は蜜をつくる中に入れてしまふのだ。そして蜂の営養物として役に立つのだ。働蜂はその取り入れの仕事から帰つて来て、その後肢を、幼虫か蜜かどつちかの置いてある室の中に入れる。そして真中の肢の先きでその小さな球は離してそれを底の方に衝き込む。その遠足を繰り返してゐると、最後には室の中は、吐き出した蜜と、しまつておく花粉が一ぱいになる。養育係りは、それ等の食物をひき出して、室から室へと歩いて少しづつの分け前を小さい者共に分けてやるのだ。それからまた自分の食物にもするのだ。そして天気の悪い時に全人口を養ふ其処に財産を見つけ出すのだ。
『花は年中咲いてはゐない。その上にまだ休みの日がある。雨降りの日には蜂は飛び出して行く事が出来ない。其処で、花粉や蜜を貯へて、うまく供給する必要が出来て来る。で、花が沢山あつて、その収穫がすぐに入用以上を越す時に、働蜂はすこしも怠けずに蜜や花粉をあつめて室の中に蔵ひ込む。そしてその室が一杯になると直ぐに蜜蝋でそれを被ふてしまふ。
『その貯へられた食料は、いつか食物が少くなつた場合の用心に保護されるのだ。その蜜蝋の覆いは厳重に注意されてゐる。早まつてそれに手をつけたものは国事犯といふ大変な罪になるにちがひない。必要な時になると、封ははがされて、それ/″\その蜜窩から引き出す。しかし節制と謹しみはちやんと持つてゐる。その蜜窩がおしまひになると、また他の封を破るのだ。』
『若い蜂はどういふ風に育てられるのですか?』と云ふのはジユウルの第二の質問でした。
『巣として使ふやうにきめられた室が、蜜蝋蜂によつて十分に用意された時に、女王蜂は一つ一つの室にその大きなおなかを大変な努力で曳きづつて行く。養育係りの蜂は丁寧な従者の形だ。それ/″\の室の中に一つだけ卵を産む。数日のうち――三日から六日まで――に、此の卵は幼虫の形になる。それはコンマのやうに曲つた、足のない、白い小さな虫だ。それから養育係りの面倒な仕事が始まるのだ。
『養育係りは毎日、そして一日のうちの毎時間、この小さい虫に営養を分けてやらなければならない。それは蜜でもなければ花粉でもない。しかし、最初の弱い胃袋に必要な濃さにして用意したものがある。それははじめには、水のやうな糊で、殆んど味のないものだ。それから少し甘くなり、最後に純粋の蜜で、それが一杯の濃さになつた食料だ。吾々は泣いてゐる赤ん坊に※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]た肉をやるだらうか? そんな事はしない。しかしお乳をやり、それからパン粥をやる。蜂だつておんなじ事だ。蜂は蜜を持つてゐるけれども、それは強い者の為めの強い食物だ。そして弱い者の食物は弱い者の為めに味のないパン粥がある。では蜂はどうしてそれ等の食物を用意するのだらう? それを話すのは六かしい。多分蜂は蜜と花粉とをまぜ合はしちがつたものにするのだらう。六日間に幼虫は雛と云はれるまでの発育を遂げる。それから他の昆虫の幼虫のやうに、変態をする為めにその世界から隠退する。その変形の危急な瞬間の肉体の苦痛を妨ぐために、それ/″\の幼虫は室の内側に絹で線をひく。そして働蜂はその上を蜜蝋で覆ふてしまふ。絹の線の中では皮膚の外側をひきはがして、蛹への経過を遂げる。十二日後には蛹は第二の誕生の深い眠りから目ざめる。そして自分の体を震はし、その狭い纏衣《まとい》をひきちぎると一匹の蜂が出て来る。蜜蝋の覆ひは内にとぢ込められた虫が咬み破り、同時に外からその蘇生を助ける働蜂によつて破られる。そして巣箱には新しい市民が加はるのだ。新しく生れた蜂は、翅を乾かしたり、体を磨いたりして一寸お化粧をして、それから仕事に出て行つてしまふ。その仕事は別に教はらなくても知つてゐるのだ。蜜蝋蜂には若い蜂がなり、養育係には年をとつたのがなるのだ。』
[#5字下げ]七八 女王蜂[#「七八 女王蜂」は中見出し]
『女王蜂に生れるやうに定められた卵は、普通の働蜂が孵へる処よりはずつと確つかりして外見もいゝ特別の室の中に産まれる。普通の働蜂の室の形は一般のものだ。が女王蜂の室はゆびぬきの形をしてゐる。それは蜜窩の縁にしつかりついてゐて王房と云ふのだ。』
『女王蜂がその室の中で卵を生む時には』とジユウルが尋ねました。『それが働蜂の卵か女王蜂の卵か知つてゐるのでせうか?』
『いや、女王蜂は知らない。知る必要もないのだ。女王蜂の卵と働蜂の卵との間には何にも違つた点はないのだ。その扱ひだけで卵から出るものが決まるのだ。或る扱ひを受けた若い幼虫が、未来の巣箱の繁昌のもとになる一匹の女王蜂になるのだ。そして他の方法で扱はれたものがブラシユや籠をもつた働蜂になるのだ。蜂が女王蜂をつくらうとする時には、その特別の王房に生れた卵をその目的で扱ふのだ。吾々人間を若い時の扱ひや教養でさういふ風に仕上げる事が出来るだらうか? 人間を扱ひや教養で王にしたり百姓にしたりする事は出来ない。けれども蜜蜂の国ではそれが一番いゝのだ。そして不埒者の間ではそんな事は一層悪い事になるのだ。
『蜂には、吾々のやうな、いろ/\異つた教育法は不必要だ。人間は、心にかけられるかぎりその注意を、心の感激をつよくし精神の向上に向けるやうにする。蜂の教育は純粋の動物の教育で、それは腹の指図によつて制禦されてゐる。食物の種類が、女王と労働者とそれ/″\につくられるのだ。女王になる幼虫の為めには、その養育係りは、特別のパン粥を用意するのだ。その王者の皿の中のものは、蜂だけが知つてゐる秘密だ。
『此の特別な営養は、普通よりはずつと目ざましい発育を齎らすのだ。だから、私が話したやうに、王様になるやうに決められた幼虫は特別な室の中で養はれるのだ。それ等の高貴な揺床《ゆりどこ》には蜜蝋を贅沢に使つてある。それはもう六角のつましい形をしてはゐないし、薄い仕切り壁でもない。大きな、贅沢な、厚いゆびぬきだ。女王に関はる処には経済は沈黙してしまふ。』
『では、蜂は其処にゐる女王蜂の知慧は借りずに、他の女王蜂をつくるのですね?』
『さうだ。女王は非常に嫉妬深くて、巣の中の或る蜂が、自分の王としての特権を少しでも減して持つてゆくと云ふ事は我慢がならないのだ。女王の権限内にある僭望者は禍なる哉!だ。「おゝ! お前は私を押し退けて、私の部下の愛を竊《ぬす》みに来たんだな!」あゝ! それは恐ろしい事になるんだ。人類の歴史の上では、王冠を頂いた頭が何かの不幸に出遇ふと、国民の上にまで困難を蒙らすと云ふ事はお前達も知つてゐるね、ところが働蜂は、女王がなかつたら、此の世の中には何でも残らないと云ふ事を知つてゐて、それに強く心を傾けてゐる。だから働蜂は、将来には他の女王が要るといふ目あてを失はずに、しかも現君主に対しては非常な尊敬を払つて待遇する。その種族継続の為めには女王がなくてはならない。どうしてもつくらなければならないだらう。此の為めに王のパン粥が大きな室の中の幼虫の役に立つのだ。
『さて、春、働蜂や雄蜂が既に孵つた時に、騒がしいバサ/\云ふ音が王房の中から聞える。それは若い女王が蜜蝋の牢屋の外に飛び出して見ようとしてゐるのだ。養育係りの蜂や、蜜蝋蜂が其処にぎつしりくつつき合つた歩兵大隊になつて、警衛に立つてゐる。彼等は女王蜂が飛び出すのを防ぐために援兵を増してその蜜蝋の室の中にゐる女王を守つてゐる。そして彼等はその覆ひを破る手伝ひをする。「今は飛び出す時ぢやありません」と彼等が云つてゐるやうに見える。「険呑です!」そして非常な尊敬をこめて激しく訴へる。若い女王はその新らしく出来た翅を動かしたくて我慢がならないのだ。
『親の女王蜂はそれを聞いてゐる。その激情を煽られる。そして激しい怒りで室の上で足ぶみをし、蜜蝋の覆ひの千切れを投げ、飛んで行つて、その僭望者共を室から引きづり出して来て、無慈悲にその若い女王達をきれ/″\になるやうに喰ひ裂く。いく匹かの女王蜂が、その狂暴の下にすくんでしまふ。しかしやがて、他の人民共が女王を取り巻いて円の中に入れてしまひ、だん/\にその殺戮の光景から引きづつて行つて遠ざけてしまふ。未来は助かつた。其処にはまだ幾匹かの女王蜂が残されてゐる。
『さうしてゐる間に、憤りはます/\激しくなり、内乱が勃発する。或るものは古い女王に加担し、或るものは若い女王に味方する。此の意見の混乱した争闘と騒ぎは、穏やかな活動に続いてゆく。巣箱は嚇しのブン/\云ふ声で一杯になり、一杯中味のつまつた倉庫は掠奪に会ふ。そして其処には明日の事などは考へない大宴会がはじまる。短刀はつき交へられた。女王蜂は巧妙な動作で、且つて自分が見出した、そして今は自分に叛く競争者が起つた恩知らずの国を見棄てる事を決定する。「私を愛する者は私に従《つ》いてお出!」そしてその女王は見栄をきつて巣箱を飛び出して決して再び其処にはいつて来ない。その女王の味方のものは女王と一緒に飛んで行つてしまふ。その移民隊が巣分れの群蜂を形づくるのだ。それは出て行つて新しい植民地を何処かに見つけるのだ。
『秩序を再び整へるために、騒ぎの間何処へか行つてゐた働蜂が来て、巣箱に残つてゐる蜂を結びつける。二匹の若い女王が彼等に頂かれるのだ。どれがその君主になるのだらう? それをきめるのに一匹が死ぬまで決闘をしなくてはならない。女王蜂はめい/\室から出る。そしてお互ひに、ねらひを定めるや否や飛びかゝつてゆく。背中をまつすぐに立て、顎でお互ひの触角をくはへ、頭と頭、胸と胸とを突き合はせる。此の姿勢で、めいめいにその胃袋の端の毒を持つた螫毛を少し相手の体に突き込む。だが、それでは二匹とも死んでしまふ。そんな襲撃の方法は許されない。彼等は引き分けられて退く。しかし、他の人民共は彼等を取り巻いて、飛んで行つてしまはないやうに防ぐ。彼等の中の一匹だけは降参しなくてはならない。二匹の女王蜂はもう一度闘ひはじめる。そのうまい方の一匹が、他の一匹が防ぎ損ねた一瞬間に、相手の背中に飛び乗つて、体と翅の番《つが》ひ目の処を捉んで、その脇の方を刺す。犠牲は股をつつぱつて死ぬ。それで、すべてが終るのだ。王は唯だ一つにかへつた。そして巣箱は、その秩序も、仕事も何時もの通りに繰り返されるやうになる。』
『蜂はずいぶん乱暴ですね、女王がたつた一匹になるまで殺し合ふなんて。』とエミルが云ひました。
『さうする必要があるのだよ坊や。それが彼等昆虫の要求なのだ。さうしなければ巣箱の中は絶えず内乱が起つてゐるだらう。しかし此の不愉快な争ひの間も王の威厳に対してはらはれる尊敬を一瞬間も彼等は忘れはしない。どうして彼等にとつては余計な女王達の出て行くのを防ぐのだらう? 雄蜂を逐払ふやうな風に手軽にやらないのだらう? 蜂共は非常に注意してそれをしないやうにするのだ。どうして沢山の中の一匹でもその邪魔に対する時と同様に剣を引き抜いてその主権者に向つて挑まないのだらう? 生命を救ふ力は彼等の中にはないのだ。彼等はたゞその僭望者達に戦はせてその名誉を救ふのだ。
『その女王の上にも常にある可能性がある。それは、女王が至上の主権をふるつてゐる時にでも、不時の災難で殺されるか、老衰の為めに死ぬ事があるのだ。蜂は尊敬を表はしてその死んだ周囲を取り巻く。そして丁寧にその体を刷き、まるで生き返つて来た者にするやうに蜜を捧げる。そしてその体をころがして見、やさしく触つて見て、生きてゐた時にしたのと同じやうに気をつけて扱ふ。女王が既に全く死んでゐて、彼等のすべての注意が不用だと云ふ事を覚るまでには、幾日かかゝるのだ。そしてやがて悲しみが来る。二日か三日かの間毎夕方、葬式の挽歌の一種であらう悲しさうなブンブン云ふ音が巣箱の中で聞こえる。
『悲しみが去ると、蜂共は女王をおく事について考へる。一匹の若い幼虫が、普通の室の中から選ばれる。それは蜜蝋蜂になるやうに生れて来たのだが、事情はその幼虫に王位を与へるやうに進んでゆく。働蜂はその神聖な幼虫のゐる室に隣り合つた室々を破しはじめる。女王は満場一致で王位につくのだ。王房を建てるにはもつと広い場所が要る。此の仕事は残された室を王位につくことに決められた幼虫のはいる室のやうに、取り拡げてゆびぬきの形に出来るやうにする。幾日か幼虫はこの王の為めの食物をたべる。その甘いパン粥が女王をつくるのだ。そして奇蹟は成就された。女王は死んだ、そして若い女王が生きてゐるのだ!』
『蜜蜂の話は、叔父さんの話のうちで一寸おもしろかつた。』とジユウルが云ひました。
『私もさう思ふよ』と叔父さんは同意しました。『だから、この話を一等おしまひまでとつておいたのだ。』
『何ですつて――おしまひですつて?』ジユウルが叫びました。
『叔父さんはもう私達にお話をして下さらないですか?』クレエルが尋ねました。
『まさかさうぢやないんでせう?』とエミルも云ひました。
『いくらでも、お前達の好きなだけしてあげるよ。だがね、それはあとでだ。もう取り入れ時が来たから叔父さんはその方に時間をとられてひまがないんだ。だから今はこれでおしまひにしておかう。』
それから後ポオル叔父さんは毎日畑に行つてゐて、夕方になつてももうお話をしませんでした。エミルはまたノアの箱船の処に行つて見ました。箱船の中でエミルはかびた象を見つけ出しました。あの蟻の話以来すつかりおもちや箱に御無沙汰をしてゐたのです。
[#地付き](『科学の不思議』アルス、一九二三年八月一日)
底本:「定本 伊藤野枝全集 第四巻 翻訳」學藝書林
2000(平成12)年12月15日初版発行
底本の親本:「科学の不思議」アルス
1923(大正12)年8月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:トレンドイースト
2010年7月31日作成
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- 地中海 ちちゅうかい (1) (Mediterranean Sea)ヨーロッパ南岸・アフリカ北岸およびアジア西岸に挟まれた海。東西3500km、南北1700km、面積297万平方km、日本海の約3倍。古代にはエジプト・フェニキア・ギリシア・ローマが相次いで支配、いわゆる地中海文化を形成。(2) 付属海の一種。ほぼ陸地に囲まれ、狭い海峡で外洋と結びついている海。(1) のほか北極海など。
- 大西洋 たいせいよう (Atlantic Ocean)三大洋の一つ。ヨーロッパおよびアフリカと南北アメリカとの間にある大洋。総面積約8656万平方km。地球表面の約6分の1、世界海面の約4分の1を占める。平均深度3736m。最大深度8605m(プエルト‐リコ海溝)。
- [アフリカ]
- [ギリシャ]
- [カナダ]
- ニューファンドランド Newfoundland (1) カナダ東海岸セント‐ローレンス湾口にある島。北アメリカで最古のイギリス植民地。1949年カナダに合併。面積11万平方km。南東沖合に大漁場グランド‐バンクがあり、タラ・ニシンの漁獲が多い。(2) カナダ南東部の州。(1) と本土のラブラドル地方とから成る。州都セント‐ジョンズ。ニューファンドランド‐ラブラドル州。
- セント‐ローレンス Saint Lawrence 北アメリカの大河。オンタリオ湖に発源し、カナダの南東部を流れ、セント‐ローレンス湾に注ぐ。水系は、五大湖をも含み、長さ3060km。含まなければ1163km。
- 中央アジア ちゅうおう アジア (Central Asia)アジア中央部、中国のタリム盆地からカスピ海に至る内陸乾燥地域。狭義には旧ソ連側の西トルキスタンを指し、カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタンの五つの共和国がある。イスラム教徒が多い。面積約400万平方km。
- [フランス]
- モン‐ブラン Mont Blanc (
「白い山」の意)アルプス山脈中の最高峰。標高4807m。フランス・イタリア両国の国境にそびえる。万年雪に覆われて多くの氷河が流下。山麓に登山基地シャモニの町がある。イタリア語名モンテ‐ビアンコ。 - ローヌ川 Rhone スイスおよび南フランスを流れる川。アルプス山脈に発源、レマン湖に入り、西へ流れ出てリヨンでソーヌ川と合流して南下し、地中海に注ぐ。長さ約810km。
- ガロンヌ川 Garonne フランス南西部、アキテーヌ地方の川。ピレネー山脈に発し、ジロンドの三角江を経て大西洋に注ぐ。長さ647km。
- ロアル川 → ロワール川
- ロワール川 Loire フランス中部の川。中央高地に発源、大西洋ビスケー湾に注ぐ。長さ約1000km。中流域にはルネサンス期建造の名城が点在。ロアール。
- セーヌ川 Seine フランス北部、パリ盆地を流れる川。ラングル高地に発源し、パリ市内を貫流し、イギリス海峡に注ぐ。長さ780km。
- [イギリス]
- イギリス水道 → イギリス海峡か
- イギリス海峡 English Channel 別称、ラ-マンシュ La Manche 海峡、ザ・チャンネル The Channel 海峡。幅32〜161km、深さ172m、平均深さ35m。ドーバー海峡はその一部で、北東に位置する。
(外国地名) - [南米]
- アマゾン川 南米の大河。アンデス山脈中の源流からブラジル北部アマゾン盆地を東に貫流して大西洋に注ぐ。密林が流域の大部分をおおい、長さ約6516km。川幅は河口で100km。流域705万平方km。水量・流域面積とも世界第一。
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
- 汽船 きせん (1) 蒸気機関で推進させる船。旧称、蒸気船。スチーム‐シップ。(2) 帆船に対して、機械力で推進させる船の総称。
- タラ 鱈・大口魚 タラ科の硬骨魚の総称。また、マダラのことを単にタラと呼ぶ。
- 和ぐ・凪ぐ なぐ おだやかになる。風・波が静まる。
- 蒼青色 そうじょうしょく? そうそうしょく?
- 紀念物 きねんぶつ 記念物。
- 原素 げんそ 元素。
- 塩沢 しおさわ
- カタクチイワシ 片口鰯 カタクチイワシ科の海産の硬骨魚。背部藍色、腹部は銀白色。幼魚を乾したものを「ごまめ」という。食用。またカツオ釣の餌として重要。日本各地の沿岸に分布。地方によって真鰯ともいう。シコ。ヒシコ。セグロイワシ。
- 朶毛 だもう
- 木理 もくり (→)木目に同じ。
- オリーブ緑
- 海藻 かいそう 海にすむ藻。とくに肉眼的な大きさの体をもつ海産の藻類の総称。主に緑藻(アオサ藻綱)
・褐藻・紅藻からなり、藍藻、黄緑藻などの一部を含むこともある。太陽光が届く深さまでの海底に定着して生活するが、他の海藻や動物に着生・浮遊するものもある。日本に約1500種。 - 如露 じょろ 「じょうろ」に同じ。
- 巣分かれ すわかれ 巣別。鳥や昆虫が巣立つこと。
- ニワトコ 庭常・接骨木 スイカズラ科の落葉大低木。高さ約3〜6m。幹には太い髄がある。春に白色の小花を円錐花序に密生し、球状の核果が赤熟。茎葉と花は生薬とし、煎汁を温罨など外用薬に使う。枝は小鳥の止り木に賞用。古名、たずのき。
- 鉄床 かなとこ 鉄床・鉄砧。
(→) 「かなしき」に同じ。 - 鉄敷・金敷 かなしき 鍛造や板金作業を行う際、被加工物をのせて作業をする鋳鋼または鋼鉄製の台。鉄床。アンビル。
- 茶化し囃子 ちゃかし ばやし?
- スグリ 酸塊 (1) ユキノシタ科スグリ属の落葉低木の総称。スグリ類・フサスグリ類(カランツ)に大別。いずれも高さ1〜2m。有柄の葉は3〜5裂。茎・葉に毛や腺毛をもつものが多い。夏、葉腋に花をつけ、果実は球形の液果で半透明、甘酸っぱく、食用。日本の山地に数種が自生。ヨーロッパ・北米原産種を栽培。(2) (1) の一種。長野県の山地にだけ自生。果実はやや細長く、赤褐色。(3) 「グーズベリー」参照。
- グーズベリー gooseberry ユキノシタ科スグリ属の落葉果樹数種の総称。セイヨウスグリ・アメリカスグリなどがある。幹は叢生、高さ約1m、多くの刺がある。葉はほぼ円形で、掌状に分裂。春、白色5弁の小花を下垂。球状の液果は生食またはジャムとして食用。
- ミツバチ 蜜蜂 ミツバチ科の蜂の総称。特にその一種で、別名セイヨウミツバチをいう。社会生活をする。群れには1匹の雌蜂(女王蜂)と少数の雄蜂と数万匹に達する働き蜂がいる。働き蜂は、体長10〜15mm、背部は暗黒色で、羽は透明、生殖機能がなく花蜜や花粉の採集、営巣・育児などを行う。蜂蜜・蜜蝋・ロイヤル‐ゼリーを採るために広く飼養され、品種が多い。在来種にニホンミツバチがある。
- 分蜂 ぶんぽう 分封。(1) 封地を分けること。また、分けられた封地。(2) 春や夏に、ハチ、特にミツバチが増殖し、女王を含む一群が古い巣から離れて新巣に移ること。分蜂。
- 蜜窩 みつか
- 木釘 きくぎ 木製の釘。指物などに用いる。
- 閑暇 かんか (古くはカンガとも)するべきことのない状態。ひま。
- 女王蜂 じょおうばち 社会生活をする蜂群において、産卵能力をもつ雌蜂。ミツバチでは、1群中に1匹だけいる。
- 雄蜂 おばち おすの蜂。
- 尖き さき
- 螫毛 さしけ → 刺毛
- 刺毛 しもう (1) 植物の表皮にある毛の一種。毒液を含み、先端はもろく、動物などが触れれば刺さって折れ、毒液を注入する。イラクサにある棘(とげ)はその例。棘毛。�o毛(きんもう)。螫毛(せきもう)。(2) 昆虫などにある毒腺につらなった毛。
- 働き蜂 はたらきばち ミツバチ・スズメバチなどの社会的生活を営むハチのうち、巣の造営、食物の採取・貯蔵などの労働に従う個体。生殖機能の退化した雌。職蜂。
- 蜜蝋 みつろう 蜜蜂の巣を加熱・圧搾して採取した蝋。蝋燭・光沢材などに利用する。主成分はパルミチン酸とミリシル‐アルコールとのエステル。蜂蝋。
- 蝋バチ
- 老って とって
- メレアグリナ
- 昆虫 こんちゅう (insect 「昆」は「多い」意)節足動物門の一綱。全動物の種数の4分の3以上を包含する。体は頭・胸・腹の3部に分かれ、頭部に各1対の触角・複眼と口器、胸部に2対の翅と3対の脚とがある。翅は1対のもの、また無いものもある。大部分は陸生。発育の途中で顕著な変態をするものが多い。六脚虫。六足虫。
- 蜜房 みつぼう 蜜脾。ミツバチの巣。はちの子やはちみつがとれる。
- 角� かくとう (→)角柱(2) に同じ。
- 角柱 かくちゅう (1) 切口が四角の柱。(2) 〔数〕平面上の多角形(底面)の周の各点から、その平面上にない決まった方向に決まった長さの線分(母線)を引いたとき、それらの線分および上下の底面で囲まれる多面体。角�(かくとう)。
- 六面角� ろくめん かくとう
- 馳ける、馳け出し 駆ける(かける)
、駆け出し? - 花蜜 かみつ 花の蜜腺から分泌する甘い液汁。
- 花冠 かかん 花の雌しべ雄しべの外側にある部分。様々な美しい色彩と形をもち、花の中で最も目立つ。花冠の構成する単位を花弁という。多くの場合、花冠は5・4・3個の花弁をもつ。花冠と萼を合わせて花被という。
- 柱頭 ちゅうとう (3) 雌しべの頂端にある花粉が付着する部分。多くは乳頭状で、粘液を分泌する。
- 葯 やく 雄しべの先にあって、中に花粉を生じる嚢状の部分。
- 水差・水指 みずさし 他の器に注ぐための水を入れておく器。鉄瓶・花瓶などに注ぎ入れるものは注ぎ口があり、茶湯の釜にさす水を入れるものは柄杓で汲み出すようになっている。水注。みずつぎ。
- 木ジラミ きじらみ 木蝨。カメムシ目キジラミ科の昆虫の総称。体長約2〜3mmのものが多い。後肢が発達し、よく跳躍する。植物の汁を吸収し、果樹などの害虫になるものが少なくない。虫�をつくるものも多い。ナシキジラミ・クワキジラミ・クストガリキジラミなど。
いぶくろ - むくげ 毳・尨毛 やわらかで薄く短く生えた毛。にこげ。また、獣のふさふさと長く垂れた毛。むく。
- ビロード体
- 原質 げんしつ もとの性質。もととなっている物質。
- 果イ かこう 「イ」コウはこってりした、むしもちの類。米の粉をむしてねる。日本のういろうのようなもの。
- 蔵いこむ しまいこむ
- パン粥 パンがゆ? オートミールのことか。
- 王房
- 僭望 せんぼう 僭妄(せんぼう)? せんもう。身分を越えていて不作法であること。
- 険呑 けんのん 険難・剣呑。(ケンナンの転という。
「剣呑」は当て字)あやういこと。あやぶむこと。 - 捉んで つかんで、か。
- 破し こわし、か。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
ファーブル『科学の不思議』、今回をもって大団円。次回より『週刊ミルクティー*』5年目。
いろいろありすぎまくりで、せーしんがえがしらなみに、すりへってるかんじ。わがみには原発よりもつーせつ。
なぽりたん、いもこはいづこ、なにをくふ
Windows 独自の縦組みフォント指定「@」に思い至る。前回にひきつづいて、honmonface="@HG丸ゴシック M-PRO"を再指定。
中沢新一『日本の大転換』
*次週予告
第五巻 第一号
校註『古事記』
第五巻 第一号は、
二〇一二年七月二八日(土)発行予定です。
月末最終号:無料
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第四巻 第五二号
科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
発行:二〇一二年七月二一日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号