藤田豊八 ふじた とよはち
1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15)
東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」

恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

水島爾保布 みずしま におう
1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30)
画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・水島爾保布。



もくじ 
東洋歴史物語(五)藤田豊八


ミルクティー*現代表記版
東洋歴史物語(五)
  二五、唐代(とうだい)の文化
  二六、五代(ごだい)の世相
  二七、宋(そう)の国情
  二八、金(きん)の興起(こうき)
  二九、蒙古(もうこ)の勃興(ぼつこう)
  三〇、元(げん)の世祖(せいそ)

オリジナル版
東洋歴史物語(五)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03cm。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1mの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3m。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109m強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273km)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方cm。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1679.html

NDC 分類:220(アジア史.東洋史)
http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html





東洋歴史物語(五)

藤田ふじた豊八とよはち

   二五、唐代とうだいの文化


 唐代とうだいの文化はシナ〔中国〕文化のもっとも豊熟ほうじゅくしたもの、すなわちシナ文化の黄金時代とも言いるのです。したがってそれが後世にシナにおよぼした影響もじつに大きいものでした。しかし、その影響を受けたのはひとりシナのみならず、東方の諸国はみなこの唐文化の光によくして、その文化の行く手をしめしてもらったのです。日本も朝鮮もみな、この唐文化の恩沢おんたくに浴しました。満州まんしゅうに国をてていた渤海ぼっかいですら同じ恩を受けたのです。
 たとえば、唐の制度についてもそのことはいえるのです。この唐の制度は、だいたい太宗たいそう〔第二代皇帝、世民せいみんのときに定められたものですが、歴代の制度のうちもっとも完備したものでした。日本の「大宝たいほう律令りつりょう」は、ほとんどこの唐制を基礎として作られたものでしたし、朝鮮・渤海いずれもこの模倣もほうをやったのです。儒学じゅがくのほうにおいては、そう新機軸しんきじくを出したわけではありませんが、文学の方面、ことに詩の方面においては、まるで新生面しんせいめんを開拓いたしました。李白りはくとか杜甫とほとかはく楽天らくてんはく居易きょいとかいずれも有名な詩人たちです。しかも、唐の文化というものは、旧来のシナ文化の極盛点きょくせいてんしめすのみならず、他面においてはそれはきわめて国際的の色合いろあいを持っているのです。すなわちこの唐代の文化には、シナ従来の文化以外にインドの文化、また東ローマの文化、イランの文化などと諸外国の文化が取り入れられ、それが混然こんぜんとしていました。インドもローマもイランも、いずれも当時におけるかがやかしい文化を持っていたのですが、それがこの唐代文化に流れこんでいるのです。
 唐代の文化がいかに国際的のものであったか、それをしめすのは唐代の宗教を見てもわかるのです。しかし、その前に唐と諸外国、ことに西方諸国との交通のことを見る必要があります。
 唐の盛世せいせいにおいては、その領土は西のほうにずっとび、またアジアの諸国はたいてい唐に通じましたので、西方諸国との交通はわりに容易になり、使いや商人などがかなりしげ往来おうらいしました。これが貿易の範囲を拡大したのはもちろんでした。西方の商人は遠くは地中海方面からパミールをえ、天山てんざん南路なんろをへて長安に来往らいおうしました。長安には一時いちじ数千の外人がいたと申します。じつにこの時代の長安は、ほんとうの国際的の都市だったのです。ローマ人もギリシャ人もアラビア人もペルシャ人もユダヤ人もインド人も中央アジア人も突厥人とっけつじん〔トルコ系の遊牧民〕も日本人も朝鮮人も、まるで人種展覧会のようだったろうと思われます。こういう人間たちは非常な困難をしのんで、当時、世界最大の都であった長安に集まってきたのです。
 これは陸からの交通ですが、海の上の交通もおおいに発達を見ました。南海なんかいの交通の最初の記録は、前に申しましたローマの使節の来たことですが、その後、南北朝なんぼくちょう〔四三九〜五八九年〕のころから、シナの海運事業もおおいにおこりました。これはことに仏教の関係からインドのほうの交通でありまして、シナ商人はその商権をにぎったといいます。それに対して向こうからやってきたのは、おもにペルシャ〔イランの旧称〕の船でした。しかし大食タージ〔アラビア人、イスラム教徒〕勃興ぼっこうしてからは、その海上の勢力はあっして南海の海上権を一手いってにおさめ、その国の商船はさかんに広州こうしゅう〔広東省〕泉州せんしゅう〔福建省〕抗州こうしゅう〔杭州か。浙江省〕とうの諸港にきて貿易に従事いたしました。唐ではこれらの港に市舶司はくもうけてそのりしまりをなし、また海関税かいかんぜいという税金を徴集ちょうしゅうしました。
 こうした唐代における対外交通の発達は、諸方しょほうの文化を輸入することをいかに容易にしたことでしょう。この唐代文化の国際性の一例として、ここに唐代におこなわれた西方の宗教をとって見ましょう。その第一はq教けんきょうであります。このq教という教えは上古じょうこペルシャのゾロアスターのとなえたもので、ゾロアスター教とも拝火教はいかきょうとも申します。そのシナに入ったのは唐より前ですが、とにかく唐代にかなりさかんになったのです。この教えは二元にげんの教えでありまして、光明こうみょうの神、すなわち善神ぜんしんと、暗黒の神、すなわち悪神あくしんとがある。そして宇宙の万象ばんしょうはことごとくこの二神にしん争闘そうとうから生まれ出る。そして人間は、その間にあって善神の身方みかたをして悪神をほろぼせというのがその教えでした。
 唐では太宗たいそう世民せいみんがこの教えの布教をゆるし、またq祠けんしといってその教えのお寺を建てました。しかしこの教えは、唐の武宗ぶそう〔第十五代皇帝、李炎〕が仏教に迫害を加えたとき、まきぞえに迫害をうけ、その勢力がおとろえました。
 第二の宗教はマニ教です。この教えは、やはりペルシャのマニがつくり出したもので、その根本はゾロアスター教の二元観にげんかんでしたが、それにキリスト教や仏教の教義も取り入れてあります。これにおいては、善神・悪神のあらそいに、善神の最後の勝利を認めません。この教えは則天そくてん武后ぶこうのときシナに伝わり、のち武宗の排撃はいげきを受けました。
 第三は景教けいきょうであります。これはキリスト教の一派、ネストリウス派の教えをいうのです。この派のキリスト教は、エフェソス〔トルコ西海岸の都市〕の宗教会議で異端いたんとされてしまったので、やむなく東方に布教の地を求めてペルシャ地方にひろまりました。唐の太宗のとき、宣教師ペルシャ人オロバン〔アラボン、阿羅本〕によってこの教えはシナに伝えられ、シナではこれを景教と申しました。その寺のことをはじめは波斯寺はしじといいましたが、のちに名を大秦寺たいしんじとあらためました。
 この景教がシナにひろまったことの記念として、大秦たいしん景教けいきょう流行りゅうこう中国碑ちゅうごくひ」が景浄けいじょうという僧によって長安に建てられるという盛観せいかんを見ました。このは今でも残っております。この景教もまた、武宗の迫害のために勢いを弱められました。
 これらは、いずれも西方から伝わった宗教であり、イラン、ローマ方面の文化がシナに流れこんだいい例になります。なお唐代には大食タージ人がさかんにやってまいりましたが、彼らのほうじていたイスラム教、すなわちマホメット教が、唐代のシナ人のあいだに信者を持ったかどうかはすこぶる疑問であります。
 これらは唐代前後の新宗教ですが、古くからの宗教で唐代にもっともさかんになったのは仏教でありました。それはもちろんインド系統の文化をしめすものでありますが、歴代の天子はこれを保護奨励しょうれいしたのでおおいに発展し、ことにみずからインドに出かけて行って経論きょうろんを持ち帰り、これを訳出やくしゅつした僧などもあって、その流行はさかんで、名僧・知識も多く輩出はいしゅつしました。しかし、武宗の迫害はこの仏教の隆盛にかなりの衰運すいうんをもたらしました。
 唐代には仏教はさかんでしたが、道教どうきょうの勢力もなかなかあなどりがたいものがありました。ことに道教であがめる老子ろうしという人の姓がだったというので、唐室の姓と同じだという点で歴代の天子の非常な尊信そんしんを得ました。武宗などはこの道教を信ずるあまり他宗教に迫害を加えたのでした。仏教がことに隆盛だったことは、寺塔じとうの建築をさかんにし、その結果、仏像・仏画の建立こんりゅうがさかんとなり、美術・工芸のいちじるしい進歩を見ました。書道もおおいに発達し、また印刷術もこのころからさかんになりました。この印刷というのは木版もくはん印刷ですが、とにかく印刷というものは世界においてシナで最初に発明せられたのです。
 唐代の仏教美術・工芸とうは、すべてわが王朝文化や新羅しらぎの文化、渤海ぼっかいの文化などに持った影響の大きさはいうまでもないことです。

   二六、五代ごだい世相せそう


 唐代は漢人の勢力がうちにおいても、また外に対しても極度に伸びた時代でしたが、これからはまた外民族の勢力、ことに北方の民族の勢力が漢人の上にのしかかってくる時代がつづくのです。
 唐につづく時代を五代ごだいと申しますが、これは五〇年ばかりの間に五つの王朝が交代したのでこうもうすのです。しかしこの五つの王朝と申しても、その勢力は微弱で、その力のおよぶ範囲もいたってせまく、したがってその他にもいろいろの群雄が割拠かっきょしていました。こうした諸勢力は、おもに唐代における藩鎮はんちんの勢力をひきついだものでした。この五代という五王朝は、はじめは唐をたおしたしゅ全忠ぜんちゅう後梁こうりょう、それから後唐ごとう後晋ごしん後漢ごかん後周ごしゅうとつづいたのです。
 この時代においてもっともいちじるしい現象は、武人の跋扈ばっこということです。彼らはほしいままに自分たちの気にった天子を擁立ようりつし、またそれがたないときははいしてしまうのです。ちょうど西洋の歴史でも、ローマの時代に兵士が横暴おうぼうをきわめ、皇帝を勝手に立てたりたおしたりしたのにた事情でした。ですから歴代の天子ものみの天子で、虚位きょいたもつにすぎなかったのです。
 この時分じぶんにシナの東北方に一つの新しい勢力がおこりました。それは契丹きったんです。それは東胡とうこ民族のあとで、東部内蒙古うちもうこに遊牧していた遊牧のたみでした。早くから唐に帰服していましたが、安史あんしの乱にはその叛軍はんぐんに加わって戦ったのです。唐末には独立の状態となり、耶律りつ阿保機あぼきという者が出てその契丹きったんの八部を一統してついにみずから帝と称し、シラムレン川のほとり臨�Lりんこうに都を定めました。これを太祖たいそといいます。そして諸方に征戦をおこないました。そのころ満州には渤海ぼっかいという大国がありましたが、太祖はついにこれをほろぼしてしまいました。
 ここに、この渤海の話をいたします。
 満州の東北部に靺鞨まっかつという種族がありました。それには七部ありましたが、そのうち粟末水ぞくまつすいすなわち松花江畔しょうかこうはんった粟末ぞくまつ靺鞨がもっとも勢力を、それにたい祚栄そえいという人が出て国を建てました。後唐ごとうから渤海郡王ぐんおうほうぜられたので渤海をもって国号と定めました。この国がさかんに唐と交通し、その文化の輸入につとめたことは前に申したとおりであります。またこの国は一方、わが国としみを通じました。その使節のはじめて来たのは聖武しょうむ天皇の世で、それから渤海が滅亡するまで交際はつづきました。その修交しゅうこうの目的の一面には、わが国から自分の国に物資を輸入しようということもあったようです。また日本のほうにもこの国から毛皮もうひなどが輸入されたようにも思われます。舞楽ぶがくなども渤海楽ぼっかいがくといって輸入せられたようです。この渤海の使人しじんなども唐文化の教養ある人が多かったので、わが国の平安朝の朝臣とのあいだに詩文の贈答をやったことは芸苑げいえん佳話かわです。大江おおえ朝綱ともつな「あさつな」か〕が渤海の使臣にあたえた詩で、

前途ぜんと程遠ほどとおし。思いを雁山がんざん暮雲ぼうんす。
後会こうかいはるかなり。えい鴻艫こうろ〔鴻臚か〕暁涙ぎょうるいうるおす。

んだのは有名な話です。こうした文化国、シナ人のいいまわしをりれば海東かいとう盛国せいこくであった渤海も、契丹の太祖の兵をこうむってはひとたまりもなく、その国都忽干城こっかんじょうもおちいりほろんでしまいました。
 かくて契丹は強勢となり、しだいにシナ内部のほうへ手をのばしはじめ、後晋ごしんを助けて後唐をほろぼす手伝いをし、そのおれいとしてシナ北辺雲燕うんえん以下十六州の地をもらったのでした。のち兵を南下させ、後晋の無礼をめて後晋を亡ぼし、都を開封かいほう〔いまの河南省東部〕に定めてあらたに国号を立ててりょうと申しました。しかしこの遼の中原ちゅうげん支配は、漢人の反抗にあって成功せず、ついに北に帰り、北方からたえず中原を威嚇いかくしていました。
 五代の最後の王朝、後周ごしゅうほろんだのもやはりこの遼の強勢と、武人の跋扈ばっことに関係があるのです。遼が南下して後周をほろぼそうとしたので、後周では将軍のちょう匡胤きょういんをつかわして、その侵寇しんこうふせごうとしました。ときに後周の天子はまだ幼弱で、国情やすらからならぬものがありましたので、趙匡胤の部下の兵士どもは、相議あいぎして趙匡胤をもって天子とすることにいたし、ついに後周の天子にせまってくらいを趙匡胤にゆずらせました。ここにおいても当時の武人の横暴ぶりを見ることができましょう。趙匡胤がすなわちそう太祖たいそです。

   二七、そう国情こくじょう


 兵士に擁立ようりつされて天子のくらいについた宋の太祖は、は武人でしたけれども、武弁ぶべんいっぺんの人ではありませんでした。唐末から五代にかけての革命の原因が、多く藩鎮はんちん武人の跋扈ばっこ・横暴にあることをよく知っていましたので、この武人どもの勢力をそいで世の泰平をいたそうとこころがけました。そのため節度使せつどしが欠けるたびごとに、その後任には文臣ぶんしんを任じ、また諸州には通判つうはんという役人を置いてまつりごとをおこなわせ、租税や運漕うんそうのことは諸方に転運使てんうんしを置いて始末させ、こうして武人専横せんおうへいめ、文治ぶんち政策をったのでした。
 この太祖の治世を助けたのは、趙普ちょうふという宰相さいしょうで、太祖はしばしば微行びこう〔おしのび。身分の高い人が、こっそりと外出すること〕して趙普をい、まつりごとをはかりました。この人は朝廷で大会議のあるごとに、自分の家でざし箱から書をとり出し、えつしたうえで会議に出席するのを常としていました。趙普が死んだのち、家の人がその書はなんだっただろうと、その箱を開けて見たら『論語』が入っていました。こうして趙普は一冊の『論語』を愛読し、それをかして天下の泰平をたそうとつとめたのです。こう書物を生かして読むということはむずかしいことですけれども、またおおいに学ばなければならないことです。しかし宋という国ができた当時には、各地にはまだ独立して宋に従わない国も多かったのでしたが、太祖とそのつぎの太宗たいそうとはしだいにこれら諸国を征服して、ついに天下の統一をなしとげました。
 かくて宋は唐末・五代の紛乱ふんらんをしずめ、天下の統一をなしたといっても、その政策が文治主義であったために、その国の武力というものがいたって弱く、ために北方や西方の外民族から非常な圧迫を受けるようになったのです。宋を最初圧迫した北方民族の国は、契丹きったん、すなわちりょうの国でした。これはしばしば宋とあいあらそいましたが、宋はどうしても押されがちで、宋のほうではこれにきぬだのぎんなどの歳幣さいへいをあたえて和親をたもったのでした。

図、太祖、微行して趙普を訪う


 朝鮮半島において新羅しらぎが国をてていたことは前に申しました。そののちその国勢のおとろえたのに乗じて高麗こうらいという国がおこって新羅をほろぼし、都を開城かいじょうに置きました。朝鮮半島にった国がたいていそうであるように、この高麗もシナ本土に国を建てていた宋にしみを通じましたが、北方の遼という未開国には、好意をしめさなかったのです。そこで遼では聖宗せいそう〔第六代皇帝〕のとき高麗の征伐せいばつをおこなって、ついにこれを屈服くっぷくさせました。こうして遼という国の勢いはきわめてさかんで、聖宗のときなどには、内外蒙古もうこから満州にかけての大領土を有し、国内に五つの都を置くまでに至りました。今、ロシア語やトルコ語でシナのことをキタイなどというのは、じつはこの遼すなわち契丹きったんの勢力がかようにさかんだったので、その契丹という語が遠く西のほうに伝わり、それがなまってキタイとなったものです。
 宋をなやましたのは、この北方の遼のみではなかったのです。今のオルドス〔内モンゴル自治区の一部〕の地方にっていたタングートが国をて、西夏せいかと号しました。この西北方の西夏も、しばしば宋の西辺をさわがして、遼とともに宋のわざわいのたねだったのです。宋ではこの西夏に対しても歳幣をあたえてやくしました。
 宋は、建国のはじめから前代の宿弊しゅくへい〔古くからある弊害〕をあらためるに急であったため極端な文治政策をとり、武力を弱めました。このために遼や西夏や、また南方の交趾こうちと戦って、みななく、極端な屈辱くつじょく外交をいたすほかはなかったのです。これにがいして〔なげく。うれえる〕、前代の失敗を回復し、国威をろうとしたのが神宗しんそう〔第六代皇帝〕でありました。そしてこの神宗は、おう安石あんせきという学者を登用して、その意見にもとづいて、改革のじつをあげようとしたのでした。
 王安石は新政策を実行し、それによって富国強兵のじつをあげようとしました。富国策として青苗法せいびょうほうとか募役えき市易しえきなどのいくぶん社会政策がかった法を実行してたみまし、また国をまそうといたしました。強兵策としておこなったのは、保甲ほこう保馬ほばの法でした。こうした新政策、すなわち新法によって、王安石は一挙に宋の国力を充実させようとしたのです。ところがまだ富強のじつのあがらぬうちに、神宗はしばしば外征がいせいの軍をおこし、かえってはいをまねき、遼のごときはこれに乗じて南侵なんしんして宋の北辺をうばうというありさまに立ちいたりました。そしてまた国内においても、王安石の新法に対する非難反対の声が高まってきました。由来シナ人というのは、古いものをとうとふうがあります。こうした保守的な一面を持ったシナ人は、この王安石の新法は先王せんのうの法と違うものであるといって、攻撃を加えました。
 この新法の反対派、すなわち旧法党きゅうほうとうの代表者というべきは、司馬しばこう欧陽おうようしゅう〔欧陽脩〕などという人でした。司馬光という人は、子どものとき水甕みずがめに落ちた友だちを助けるため石で水甕みずがめったというので有名な人です。もっとも王安石という人は、強腹ごうふくな、またいったんやりだしたらあとにひかないような頑固がんこな人でしたし、また新法を実行するために王安石がもちいた人々の中には、よくない人もまじっていたために、この反対の勢いをいっそう強くしたのはいうまでもありません。
 こうして新法党しんほうとうと旧法党があいあらそい、旧法党が政権をとれば新法をやめ、新法党がちょうに立てば新法をおこなうというふうで、両派はたがいに圧迫しあったのです。このあらそいは、はじめは政策のためのあらそいでしたが、しだいに政策はそっちのけとなって、ただ敵党てきとうをたおせばいいというあらそいのためのあらそいというふうになり、党争とうそう三十余年のひさしきにわたりました。
 この紛乱ふんらんした政争が、宋の国勢をどれだけ衰運すいうんにみちびいたか、それはいうまでもないことでした。

   二八、きん興起こうき


 宋が、国運ふるわぬながらも、北方のりょう、西北方の西夏せいか相対あいたいしているあいだに、また北方に一つの別な勢力が現われてまいりました。それが女真じょしんです。
 満州にった靺鞨まっかつの話は、前に渤海のところで申しました。その七つの部のうち、黒水こくすいすなわち今の黒龍江こくりゅうこうのほとりにいた靺鞨を黒水こくすい靺鞨と申しますが、その部のうちに女真という部がありました。この女真部じょしんぶははじめは渤海にしたがい、のち遼のおこるにおよんで遼に属していました。ところが阿骨打アクタ〔アクダ〕というものが出て、たまたま遼の国威のおとろえたのに乗じてこれにそむき、女真諸部しょぶを一統して皇帝となり、国をきんと称しました。阿骨打アクタのことを太祖たいそと申します。遼ではこれをってかえって失敗し、金は南下して遼にせまってまいりました。
 宋ではひさしく遼に対してうらみをいだいていましたが、いまあらたに北方に金という勢力がおこり、遼を苦しめているのを知るや、金と同盟して南北から遼をはさみちにしようとしました。ところが宋軍はしばしば利をうしなってはかばかしく行かないのに、金軍のほうはドシドシと遼をやぶってこれをほろぼしてしまいました。このとき、遼の一族の耶律やりつ大石たいせき余衆よしゅうをひきいて西に走り、のち中央アジアに入って西遼せいりょうという国を建設いたしました。
 かくて宋・金両国の同盟で遼はほろびましたが、この戦いに宋の勢いがきわめてふるわなかったので、ここから金のほうでは宋を軽侮けいぶしはじめました。そこで宋がもらう約束だった土地を宋にあたえず、多く金のほうへとってしまいました。かくて両国はたがいにさかいを接しましたが、金のほうでは宋の弱勢につけこんで南侵なんしんし、ついに国都開封かいほうをおとしいれて、ときの天子欽宗きんそう〔北宋第九代、最後の皇帝〕、その父の徽宗きそう〔北宋第八代の皇帝〕以下多くの皇族をとらえて北に帰りました。この事件は靖康せいこうという年号のときおこったというので、靖康せいこうなんといい、宋にとってはきわめて大きい屈辱くつじょくでありました。ここにとらえられた徽宗きそうという天子は、有芸な人で画筆えふでを取ってはまれに見る名人でありましたけれども、政事せいじのほうにおいて凡庸ぼんようきみであったせいでしょう、ついにこうした屈辱を見るにいたったのです。
 宋では国都こくとがいったん金の手におちいったので、金の勢いをおそれて都を南の臨安りんあん〔いまの浙江省杭州市〕に移しました。そして天子のくらいをついだのは欽宗の弟の高宗こうそうだったのです。これから以後の宋を、南宋なんそうと申します。
 宋が都を南に移したのち、宋のほうで金とそうとするものもあれば、また一方には学者・軍人などの純理派じゅんで戦いを主張するものもありました。ことに岳飛がくひなどという武将のごときはこの主戦派の頭目とうもく〔かしら、首領〕で、みずから兵をひきいてしばしば金軍をやぶり、金軍には鬼神きじんのようにおそれられた大将でした。しかし秦檜しんかいという宰相さいしょうはさかんに和議をとなえ、この誠忠無比むひの岳飛をばつしてついに金とし、宋は金に臣事しんじし、また歳貢さいこうをおさめ、土地をきあたえることになりました。
 今日こんにち、岳飛の墓へまいりますと、そこには秦檜しんかい夫妻の鉄の像ができていまして、それは裸でくさりにしばられているように作ってあるそうです。和親をはかって、そのために無理にこの誠忠な岳飛を殺した秦檜に対する後人こうじんの不満は、こうした形で永久に秦檜に私誅しちゅうを加えているのです。
 かくて宋と金とは相対あいたいしていましたが、一時は両国とも平和政策をとり、ことに金の世宗せいそう〔第五代皇帝〕の世のときは、宋には孝宗こうそう〔第二代皇帝〕くらいにあって両君ともに賢明で、を内治にそそぎ、両国は三十余年の平和を楽しみました。しかしそのうちに金も宋も国力がおとろえました。そしてまた北方砂漠のかなたには蒙古もうこという遊牧民が勃興ぼっこうしてしだいに金国きんこくの背後にせまってくるのでした。宋はなにしろ国初から文治政策をとった国ですから、武力はいたってふるわず、外民族にはたえず圧迫をこうむっていましたものの、学問・芸術という方面には、きわめて大きい進展を見せました。

   二九、蒙古もうこ勃興ぼつこう


 漢民族は、じつにひさしい以前から北方の民族としばしば抗争をつづけてきました。そしてその抗争も唐代にいたって一度、漢民族の極盛期という形で漢民族の勝利に終わったのです。
 しかし、唐代が終わるとともに、この漢民族の極盛期も終わりをつげ、ここにまた北方民族の優勢時代を見るにいたったのです。りょうは宋を圧し、遼にかわったきんはまた宋を圧しました。しかしまたこの二国は、徹底的に宋をつぶしてしまうには至りませんでした。ところが、ここに金にかわって蒙古もうこがまた北方に現われるにいたって、宋は完全にこれに打ちたおされ、ここに北方人の漢民族に対する勝利は確立かくりつされたのでした。
 では、蒙古はどこからおこったか。蒙古族は今の外蒙古そともうこのオノン川とケルレン川の中間地方にっていた遊牧民でありました。もともと遼や金に属していたのですが、その部に鉄木真テムジンというものが出て部長となるにおよんで勢いをり、付近の諸部をしたがえましたが、ついに内外ないがい蒙古を統一して大汗たいかんの位につきました。ジンギスカンともうすのがこれであります。これからジンギスカンは南へくだって西夏を攻め、つぎに金も攻めました。
 当時、西夏の王は暗愚あんぐでありましたし、また金は長いあいだの内乱のために苦しんでいましたので、いずれも蒙古の勢力にくっしなければなりませんでした。蒙古はついに金の都、燕京えんけい〔いまの北京〕をおとしいれ、黄河以北の地はほぼその占領するところとなりました。前に遼が金にほろぼされたとき、遼の一族の耶律やりつ大石たいせきが西に走り、西遼国せいりょうこくを建てたことは申しました。その後、西遼はますますさかんに中央アジアにあって勢威をふるっていたのです。もと、乃蛮ナイマンという部がありましたが、これはジンギスカンにほろぼされました。そのとき、その王子の屈出律クチュルクは逃れて西遼にったのです。のちこの屈出律クチュルクは、西遼の隣国の花剌子模王と同盟して西遼の国をうばって独立し、その勢いで蒙古に反抗しようとしたのです。そこでジンギスカンは兵を出して、これをほろぼしました。
 蒙古はかくて花剌子模国とさかいを接するにいたったのですが、たまたま蒙古の隊商がその国に入ったとき、密偵みっていの疑いで殺されました。そこでジンギスカンはおおいに怒って、自分の四子ししとともに大軍をひきいて花剌子模国をせいし、その都、今のサマルカンドをおとしいれ、進んでインドにも侵入しました。
 このとき、哲別チェベ速不台スブタイの二将は別軍として花剌子模王を裏海りかい〔カスピ海の別称〕まで追い、さらに西に進みペルシャをすぎ、欽察キプチャクせいし、ついで阿羅思(ロシア)諸侯の連合軍をカルカ川にやぶって武威をかがやかしました。ジンギスカンは西方の征戦七年で東に帰り、ついに西夏をほろぼし、ついで金をとうとしましたが、その途上、やまいにかかって六盤山ろくばんざんで死にました。ジンギスカンの功業は、こうしたはなばなしいものでした。またその業績ぎょうせきはその後継者たちによって受けつがれたのでした。
 ジンギスカン、すなわち太祖たいその死後されて位についたのが太祖の三男、オゴタイでした。これが太宗たいそうです。蒙古では後嗣こうし〔あとつぎ、子孫〕大汗たいかん長子ちょうし相続というわけではないので、クリルタイという会議によって決定されるのです。クリルタイともうすのは、宗族そうぞく・重臣などが相会あいかいして、皇位継承とか国の大事とかを決定するのです。オゴタイかんもこうしたクリルタイの決議によって大汗の位についたのです。彼は都をカラコルムにさだめ、また遼の遺臣の耶律やりつ楚材そざい宰相さいしょうとして国政を整え、蒙古の文化開発に力をつくしました。
 なお太宗は太祖のこころざしをうけて四方の攻伐こうばつをおこないました。まず金を攻め、都の開封かいほうにせまったので、金の天子は蔡州さいしゅうというところに逃れました。ときに宋のほうでは、この新興の蒙古と同盟して、久しいかたきの金をとうというので、宋と蒙古は南北から金を挟撃きょうげきしてこれをほろぼしてしまいました。太宗は東方高麗こうらいを平定しましたので、今度は西方の経略を思い立ちました。そこで抜都バツ〔バトゥ、Batu〕元帥げんすいとして五十万の大軍を発しました。貴由クユク〔グユク〕蒙哥マング〔モンケ〕がこれを助けて大挙して欧州おうしゅう欧羅巴ヨーロッパ州の略〕に侵入しました。抜都バツはモスクワ、キエフをほふ阿羅思の大部を服属せしめ、さらに軍をかってポーランド、ハンガリーに入り、いたるところ敵をやぶりました。ことにヴァールシュタット〔ワールシュタット〕で、当時、武士道はなやかだった欧州の騎士の連合軍をちやぶったことは、欧州を震駭しんがいさせるにじゅうぶんでした。ローマ法王はこのキリスト教の敵の異教徒に対して欧州を保護するため、十字軍を組織しようとさえ計画いたしました。しかし太宗たいそう訃報ふほうが伝わったので、彼らはそれ以上、欧州に深入ふかいりすることなしに軍を帰したのでした。
 欧州人が東方人をおそれ、ことに黄禍論こうかろんなどいうものがとなえられたのも、この蒙古の西方を震駭しんがいさせたことがその根底にあるのだろうと思われます。
 その後、蒙哥マング〔モンケ〕すなわち憲宗けんそうの世にいたって、また諸方の征伐がおこなわれました。東は高麗をち、西は弟のフラグ(旭烈兀)をして西方アジアの経略に従事させました。フラグはまずペルシャに侵入し、バグダッドをおとしいれてサラセン帝国をほろぼし、進んでシリア、アラビアをりゃくしました。また弟のフビライは雲南うんなん地方をしたがえまたチベットに進み、別将べっしょう交趾こうちおかし、自身は宋の征伐にかかりました。憲宗自身も出征して宋を一挙にほろぼそうとしましたが、憲宗が途中で死没したため、フビライはいったん宋の和議をゆるして北に帰りました。

   三〇、げん世祖せいそ


 前にも申しましたように、蒙古では大汗たいかんくらいにつくのはクリルタイの決議によるのですから、その継承のさいにはよく紛争がおこり、これがのちには国家衰亡すいぼう大因たいいんとなりました。
 憲宗けんそうが死ぬと、その弟の阿里不哥アリブカと申すものがカラコルムにいて、大汗たいかんの位につこうとしましたので、ちょうど宋征伐せいばつに行っていたフビライは急に宋として北に帰り、開平かいぴん〔いまの河北省〕で別にクリルタイを開いてみずから大汗の位につきました。これを世祖せいそと申します。
 世祖は阿里不哥アリブカを攻め、これをくだし、ついで都を今の北平ペーピン北京ペキン、すなわち燕京えんけいにうつし、シナふうに国号を立て、げんと申しました。いったん蒙古とした宋では、権臣けんしん似道じどうというものがしきりに策をろうし、蒙古との約束を実行しませんでした。世祖は怒って将軍伯顔バヤンらをして大挙して宋をたしめました。強力な元軍に対して宋軍は防戦につとめましたが、ふせぎ止めることができません。ぶん天祥てんしょうとかちょう世傑せいけつなどが勤王の軍をおこして、宋室のためにつくしましたが、みなやぶれ国都臨安りんあんまたおちいり、帝恭ていきょうくだりました。
 宋の遺臣らはなお天子を擁立して、宋室の回復をはかりましたが、しだいに追われ、ついにちょう世傑せいけつらは帝�Oへいほうじて�山島がいざんとうに立てこもりましたが、ここでもまたやぶれ、帝および一族は海に投じて死に、宋室はここにほろぼされてしまいました。その最後の悲惨ひさんな運命は、ちょうど日本の平家のだんうら末路まつろにも似てあわれをそそるものであります。
 張世傑は安南アンナン〔いまのベトナム〕方面にのがれて、なおも再挙をはかろうとしましたが、途中で死に、またぶん天祥てんしょうは不幸にもげんらわれてしまいました。この文天祥は非常にえらい人でしたので、世祖は重くもちいようと思って降参をすすめましたが、文天祥は「二君にくんに仕えず」といって、どうすすめても降参しませんでした。彼が獄中で作った『正気せいきの歌』は、忠君ちゅうくん愛国のこころざしを力強く歌ったもので、今でも人口じんこうにのぼっております。
 宋は弱い国ながら、どうやら三〇〇年あまりもつづきましたが、とうとうげんほろぼされてしまい、げんは完全に漢人の土地を手に入れました。北方人の漢人に対する優越は、ここにはじめて完成されたのです。
 高麗は太宗たいそう〔オゴタイ〕のとき、いったん蒙古にしたがいましたが、その後、叛服はんぷくつねなきありさまでしたから世祖はこれをって服せしめ、皇女こうじょをあたえて王妃おうひとしましたので、これから長く高麗はげんに服属いたしました。
 高麗のさらに東の海の中には日本があります。げん威勢いせいが強く、四隣しりんの国々はみなげんに服属するようになったのちまでも、日本はげんとしてげんしみを通じようともしなかったのです。そこで世祖は、高麗を仲介としてわが国を招致しょうちしようとしました。当時、鎌倉幕府の執権しっけん北条ほうじよう時宗ときむねは、元の国書の不礼ぶれいなるを、これをしりぞけました。元は怒って文永ぶんえい弘安こうあんの前後二回、大軍を出して九州博多はかたせまりましたが、日本の将士しょうの勇戦と天候の利とによって、元軍の覆滅ふくめつに終わりました。このときわが国では亀山かめやま上皇じょうこうをはじめ、君臣こころいつにしてこの外敵にあたり、わが国の名誉を傷つけず、このヨーロッパ、アジアの二大陸を席捲せっけんして膨大ぼうだいな領土を持った大勢力をしりぞけえたことは、みなさまが日本歴史でご承知のことであります。
 世祖はまた南方の征服をもはかり、今のビルマ〔ミャンマー〕交趾こうち・サイゴン〔ホーチミン市〕・カンボジアの地方をもしたがえ、また使いをつかわして、南海なんかい諸国を帰服させ、その威令いれいは、はるかジャヴァ、スマトラの島々にまでおよびました。世祖はかように外征の功をあげましたが、その結果として元の領土が広くなるにつれ、いろいろの民族を統治するようになりましたが、これらの諸民族はいずれも信仰の自由をゆるされ、また旧来きゅうらいの風俗・習慣にしたがっておさめられたのです。
 元ではこれらの諸民族を蒙古・色目しきもく・漢人・南人なんじん〔南宋の遺民〕らに大別していちばん蒙古人を重用しましたので、古来その文化をほこっていた漢民族も野蛮やばんな蒙古人の下位に立たなければならぬようになりました。しかし世祖は内治に意をもちい、諸般の制度を整えるいっぽう、広く人材を登用し、漢人でも何人でも才能あるものはどしどし政務にあずからせました。
 世祖がチベットを征したとき、その国に流行している仏教の一派のラマ教〔チベット仏教〕帰依きえいたし、その僧侶の抜思巴バスパ〔パスパ、八思巴か〕というものをはいして帝師ていしといたしました。元朝において極端にまで流れたラマ教の崇拝すうはいもといはここに開かれました。そして蒙古人は現在でもラマ教の信者でありますが、そのふうもここから発したわけなのです。世祖はこの抜思巴バスパに命じて、蒙古の文字を作らせました。蒙古人のための文字です。蒙古では前にはウイグル文字をもちいていましたが、世祖は抜思巴バスパに命じて、これを改良せしめ、あらたに蒙古文字を作らせたのです。これをまた抜思巴バスパ文字とも申します。しかし文字をつくった北方民族は、ひとりこの蒙古のみではありません。
 宋に対立していた遼は、まず自分の国の文字契丹きったん文字〕を作ったのでした。だいたい漢字にまねて作ったのでしたが、とにかく自分の文字として作ったのです。それについで西夏も、また遼にかわった金もみなそれぞれ自国の文字西夏せいか文字、女真じょしん文字〕を作りました。いまもうした蒙古もそうです。
 従来の北方の未開みかい民族にしてみれば、たとい政治的には漢民族を征服したにしても、文化的には逆に漢人に征服されてしまって、たとえば文字にしたところで漢字をすぐ採用したのでした。ところがこのころになりますと、遼、金、西夏、蒙古などいずれも一も二もなく漢字を採用するということなく、やはり自分のほうでは自分の文字を持つというところに、漢文化にいくぶんなりとも対抗してゆこうとするところが見えるのです。ここにおいても北方民族が漢民族に対する気持ちのうつりゆきが考えられ、北方民族の優越ゆうえつということも考えあわせて意味のふかいことです。(つづく)



底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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東洋歴史物語(五)

藤田豐八

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   二五、唐代《とうだい》の文化《ぶんか》

 唐代《とうだい》の文化《ぶんか》は支那《しな》文化《ぶんか》の最《もつと》も豐熟《ほうじゆく》したもの、すなはち支那《しな》文化《ぶんか》の黄金《おうごん》時代《じだい》ともいひ得《う》るのです。從《したが》つてそれが後世《こうせい》に支那《しな》に及《およ》ぼした影響《えいきよう》も實《じつ》に大《おほ》きいものでした。しかし、その影響《えいきよう》を受《う》けたのはひとり支那《しな》のみならず、東方《とうほう》の諸國《しよこく》はみなこの唐《とう》文化《ぶんか》の光《ひかり》に浴《よく》して、その文化《ぶんか》の行《ゆ》く手《て》を示《しめ》してもらつたのです。日本《につぽん》も朝鮮《ちようせん》もみなこの唐《とう》文化《ぶんか》の恩澤《おんたく》に浴《よく》しました。滿洲《まんしゆう》に國《くに》を建《た》てゝゐた渤海《ぼつかい》ですら同《おな》じ恩《おん》を受《う》けたのです。
 例《たと》へば、唐《とう》の制度《せいど》についてもそのことはいへるのです。この唐《とう》の制度《せいど》は、だいたい太宗《たいそう》の時《とき》に定《さだ》められたものですが、歴代《れきだい》の制度《せいど》のうちもっとも完備《かんび》したものでした。日本《につぽん》の大寶《たいほう》律令《りつりよう》は、ほとんどこの唐制《とうせい》を基礎《きそ》として作《つく》られたものでしたし、朝鮮《ちようせん》渤海《ぼつかい》いづれもこの模倣《もほう》を行《や》つたのです。儒學《じゆがく》の方《ほう》においては、さう新機軸《しんきじゆく》[#「しんきじゆく」は底本のまま]を出《だ》したわけではありませんが、文學《ぶんがく》の方面《ほうめん》、ことに詩《し》の方面《ほうめん》においては、まるで新生面《しんせいめん》を開拓《かいたく》いたしました。李白《りはく》とか杜甫《とほ》とか白《はく》樂天《らくてん》とかいづれも有名《ゆうめい》な詩人《しじん》たちです。しかも、唐《とう》の文化《ぶんか》といふものは、舊來《きゆうらい》の支那《しな》文化《ぶんか》の極盛點《きよくせいてん》を示《しめ》すのみならず、他面《ためん》においてはそれはきはめて國際的《こくさいてき》の色合《いろあひ》を持《も》つてゐるのです。すなはちこの唐代《とうだい》の文化《ぶんか》には、支那《しな》從來《じゆうらい》の文化《ぶんか》以外《いがい》にインドの文化《ぶんか》、また東《ひがし》ローマの文化《ぶんか》、イランの文化《ぶんか》などゝ諸外國《しよがいこく》の文化《ぶんか》がとりいれられ、それが渾然《こんぜん》としてゐました。インドもローマもイランも、いづれも當時《とうじ》におけるかゞやかしい文化《ぶんか》を持《も》つてゐたのですが、それがこの唐代《とうだい》文化《ぶんか》に流《なが》れこんでゐるのです。
 唐代《とうだい》の文化《ぶんか》がいかに國際的《こくさいてき》のものであつたか、それを示《しめ》すのは唐代《とうだい》の宗教《しゆうきよう》を見《み》てもわかるのです。しかし、その前《まへ》に唐《とう》と諸外國《しよがいこく》、ことに西方《せいほう》諸國《しよこく》との交通《こうつう》のことを見《み》る必要《ひつよう》があります。
 唐《とう》の盛世《せい/\》においては、その領土《りようど》は西《にし》の方《ほう》にずっと伸《の》び、またアジアの諸國《しよこく》はたいてい唐《とう》に通《つう》じましたので、西方《せいほう》諸國《しよこく》との交通《こうつう》はわりに容易《ようい》になり、使《つか》ひや商人《しようにん》などがかなり繁《しげ》く往來《おうらい》しました。これが貿易《ぼうえき》の範圍《はんい》を擴大《かくだい》したのはもちろんでした。西方《せいほう》の商人《しようにん》は遠《とほ》くは地中海《ちちゆうかい》方面《ほうめん》からパミールを越《こ》え、天山《てんざん》南路《なんろ》を經《へ》て長安《ちようあん》に來往《らいおう》しました。長安《ちようあん》には一時《いちじ》數千《すうせん》の外人《がいじん》がゐたと申《まを》します。實《じつ》にこの時代《じだい》の長安《ちようあん》は、ほんとうの國際的《こくさいてき》の都市《とし》だつたのです。ローマ人《じん》もギリシャ人《じん》もアラビア人《じん》もペルシャ人《じん》もユダヤ人《じん》もインド人《じん》も中央《ちゆうおう》アジア人《じん》も突厥人《とつけつじん》も日本人《につぽんじん》も朝鮮人《ちようせんじん》も、まるで人種《じんしゆ》展覽會《てんらんかい》のようだつたらうと思《おも》はれます。かういふ人間《にんげん》たちは非常《ひじよう》な困難《こんなん》をしのんで、當時《とうじ》世界《せかい》最大《さいだい》の都《みやこ》であつた長安《ちようあん》に集《あつま》つて來《き》たのです。
 これは陸《りく》からの交通《こうつう》ですが、海《うみ》の上《うへ》の交通《こうつう》も大《おほ》いに發達《はつたつ》を見《み》ました。南海《なんかい》の交通《こうつう》の最初《さいしよ》の記録《きろく》は、前《まへ》に申《まを》しましたローマの使節《しせつ》の來《き》たことですが、その後《ご》南北朝《なんぼくちよう》のころから、支那《しな》の海運《かいうん》事業《じぎよう》も大《おほ》いに興《おこ》りました。これはことに佛教《ぶつきよう》の關係《かんけい》からインドの方《ほう》の交通《こうつう》でありまして、支那《しな》商人《しようにん》はその商權《しようけん》を握《にぎ》つたといひます。それに對《たい》して向《むか》うからやつて來《き》たのは、主《おも》にペルシャの船《ふね》でした。しかし大食《たーじ》が勃興《ぼつこう》してからは、その海上《かいじよう》の勢力《せいりよく》は他《た》を壓《あつ》して南海《なんかい》の海上權《かいじようけん》を一手《いつて》に收《をさ》め、その國《くに》の商船《しようせん》は盛《さか》んに廣州《こうしゆう》泉州《せんしゆう》抗州《こうしゆう》[#「抗州」は底本のまま]等《とう》の諸港《しよこう》に來《き》て貿易《ぼうえき》に從事《じゆうじ》いたました[#「いたました」は底本のまま]。唐《とう》ではこれらの港《みなと》に市舶司《しはくし》を設《まう》けてその取《と》り締《しま》りをなし、また海關税《かいかんぜい》といふ税金《ぜいきん》を徴集《ちようしゆう》しました。
 かうした唐代《とうだい》における對外《たいがい》交通《こうつう》の發達《はつたつ》は、諸方《しよほう》の文化《ぶんか》を輸入《ゆにゆう》することをいかに容易《ようい》にしたことでせう。この唐代《とうだい》文化《ぶんか》の國際性《こくさいせい》の一例《いちれい》として、こゝに唐代《とうだい》に行《おこな》はれた西方《せいほう》の宗教《しゆうきよう》を採《と》つて見《み》ませう。その第一《だいゝち》は※[#「示+天」、第3水準1-89-22]教《けんきよう》であります。この※[#「示+天」、第3水準1-89-22]教《けんきよう》といふ教《をし》へは上古《じようこ》ペルシャのゾロアストルの唱《とな》へたもので、ゾロアストル教《きよう》とも拜火教《はいかきよう》とも申《まを》します。その支那《しな》にはひつたのは唐《とう》より前《まへ》ですが、とにかく唐代《とうだい》にかなり盛《さか》んになつたのです。この教《をし》へは二元《にげん》の教《をし》へでありまして、光明《こうみよう》の神《かみ》、すなはち善神《ぜんしん》と、暗黒《あんこく》の神《かみ》、すなはち惡神《あくしん》とがある。そして宇宙《うちゆう》の萬象《ばんしよう》はこと/″\くこの二神《にしん》の爭鬪《そうとう》から生《うま》れ出《で》る。そして人間《にんげん》は、その間《あひだ》にあつて善神《ぜんしん》の身方《みかた》をして惡神《あくしん》を亡《ほろぼ》せといふのがその教《をし》へでした。
 唐《とう》では太宗《たいそう》がこの教《をし》への布教《ふきよう》を許《ゆる》し、また※[#「示+天」、第3水準1-89-22]祠《けんし》といつてその教《をし》へのお寺《てら》を建《た》てました。しかしこの教《をし》へは、唐《とう》の武宗《ぶそう》が佛教《ぶつきよう》に迫害《はくがい》を加《くは》へた時《とき》、まきぞへに迫害《はくがい》をうけその勢力《せいりよく》が衰《おとろ》へました。
 第二《だいに》の宗教《しゆうきよう》は摩尼教《まにきよう》です。この教《をし》へは、やはりペルシャのマニが創《つく》り出《だ》したもので、その根本《こんぽん》はゾロアストル教《きよう》の二元觀《にげんかん》でしたが、それにキリスト教《きよう》や佛教《ぶつきよう》の教義《きようぎ》もとり入《い》れてあります。これにおいては、善神《ぜんしん》惡神《あくしん》の爭《あらそ》ひに、善神《ぜんしん》の最後《さいご》の勝利《しようり》を認《みと》めません。この教《をし》へは則天《そくてん》武后《ぶこう》のとき支那《しな》に傳《つた》はり、後《のち》武宗《ぶそう》の排撃《はいげき》を受《う》けました。
 第三《だいさん》は景教《けいきよう》であります。これはキリスト教《きよう》の一派《いつぱ》ネストリウス派《は》の教《をし》へをいふのです。この派《は》のキリスト教《きよう》は、エフェソスの宗教《しゆうきよう》會議《かいぎ》で異端《いたん》とされてしまつたので、やむなく東方《とうほう》に布教《ふきよう》の地《ち》を求《もと》めてペルシャ地方《ちほう》に弘《ひろ》まりました。唐《とう》の太宗《たいそう》の時《とき》、宣教師《せんきようし》ペルシャ人《じん》オロバンによつてこの教《をし》へは支那《しな》に傳《つた》へられ、支那《しな》ではこれを景教《けいきよう》と申《まを》しました。その寺《てら》のことを初《はじ》めは波斯寺《はしじ》といひましたが、後《のち》に名《な》を大秦寺《たいしんじ》と改《あらた》めました。
 この景教《けいきよう》が支那《しな》にひろまつたことの記念《きねん》として、大秦《たいしん》景教《けいきよう》流行《りゆうこう》中國碑《ちゆうこくひ》[#「ちゆうこくひ」は底本のまま]が景淨《けいじよう》といふ僧《そう》によつて長安《ちようあん》に建《た》てられるといふ盛觀《せいかん》を見《み》ました。この碑《ひ》は今《いま》でも殘《のこ》つてをります。この景教《けいきよう》もまた、武宗《ぶそう》の迫害《はくがい》のために勢《いきほ》ひを弱《よわ》められました。
 これらは、いづれも西方《せいほう》から傳《つた》はつた宗教《しゆうきよう》であり、イラン、ローマ方面《ほうめん》の文化《ぶんか》が支那《しな》に流《なが》れこんだいゝ例《れい》になります。なほ唐代《とうだい》には大食人《たーじじん》が盛《さか》んにやつてまゐりましたが、かれ等《ら》の奉《ほう》じてゐたイスラム教《きよう》、すなはちマホメット教《きよう》が、唐代《とうだい》の支那人《しなじん》の間《あひだ》に信者《しんじや》を持《も》つたかどうかはすこぶる疑問《ぎもん》であります。
 これらは唐代《とうだい》前後《ぜんご》の新宗教《しんしゆうきよう》ですが、古《ふる》くからの宗教《しゆうきよう》で唐代《とうだい》にもっとも盛《さか》んになつたのは佛教《ぶつきよう》でありました。それはもちろんインド系統《けいとう》の文化《ぶんか》を示《しめ》すものでありますが、歴代《れきだい》の天子《てんし》はこれを保護《ほご》奬勵《しようれい》したので大《おほ》いに發展《はつてん》し、ことに自《みづか》らインドに出《で》かけて行《い》つて經論《きようろん》を持《も》ち歸《かへ》りこれを譯出《やくしゆつ》した僧《そう》などもあつて、その流行《りゆうこう》はさかんで、名僧《めいそう》智識《ちしき》も多《おほ》く輩出《はいしゆつ》しました。しかし武宗《ぶそう》の迫害《はくがい》はこの佛教《ぶつきよう》の隆盛《りゆうせい》にかなりの衰運《すいうん》をもたらしました。
 唐代《とうだい》には佛教《ぶつきよう》は盛《さか》んでしたが、道教《どうきよう》の勢力《せいりよく》もなか/\あなどり難《がた》いものがありました。ことに道教《どうきよう》であがめる老子《ろうし》といふ人《ひと》の姓《せい》が李《り》だつたといふので、唐室《とうしつ》の姓《せい》と同《おな》じだといふ點《てん》で歴代《れきだい》の天子《てんし》の非常《ひじよう》な尊信《そんしん》を得《え》ました。武宗《ぶそう》などはこの道教《どうきよう》を信《しん》ずるあまり他宗教《たしゆうきよう》に迫害《はくがい》を加《くは》へたのでした。佛教《ぶつきよう》がことに隆盛《りゆうせい》だつたことは、寺塔《じとう》の建築《けんちく》を盛《さか》んにし、その結果《けつか》佛像《ぶつぞう》、佛畫《ぶつが》の建立《こんりゆう》が盛《さか》んとなり、美術《びじゆつ》工藝《こうげい》の著《いちじる》しい進歩《しんぽ》を見《み》ました。書道《しよどう》も大《おほ》いに發達《はつたつ》し、また印刷術《いんさつじゆつ》もこのころから盛《さか》んになりました。この印刷《いんさつ》といふのは木版《もくはん》印刷《いんさつ》ですが、とにかく印刷《いんさつ》といふものは世界《せかい》において支那《しな》で最初《さいしよ》に發明《はつめい》せられたのです。
 唐代《とうだい》の佛教《ぶつきよう》美術《びじゆつ》工藝《こうげい》等《とう》は、すべてわが王朝《おうちよう》文化《ぶんか》や新羅《しらぎ》の文化《ぶんか》、渤海《ぼつかい》の文化《ぶんか》などに持《も》つた影響《えいきよう》の大《おほ》いさはいふまでもないことです。

   二六、五代《ごだい》の世相《せそう》

 唐代《とうだい》は漢人《かんじん》の勢力《せいりよく》が内《うち》においても、また外《そと》に對《たい》しても極度《きよくど》に伸《の》びた時代《じだい》でしたが、これからはまた外民族《がいみんぞく》の勢力《せいりよく》、ことに北方《ほつぽう》の民族《みんぞく》の勢力《せいりよく》が漢人《かんじん》のうへにのしかゝつて來《く》る時代《じだい》がつゞくのです。
 唐《とう》につゞく時代《じだい》を五代《ごだい》と申《まを》しますが、これは五十年《ごじゆうねん》ばかりの間《あひだ》に五《いつ》つの王朝《おうちよう》が交代《こうたい》したのでかう申《まを》すのです。しかしこの五《いつ》つの王朝《おうちよう》と申《まを》しても、その勢力《せいりよく》は微弱《びじやく》で、その力《ちから》の及《およ》ぶ範圍《はんい》も至《いた》つてせまく、從《したが》つてその他《た》にもいろ/\の群雄《ぐんゆう》が割據《かつきよ》してゐました。かうした諸勢力《しよせいりよく》は、主《おも》に唐代《とうだい》における藩鎭《はんちん》の勢力《せいりよく》を引《ひ》きついだものでした。この五代《ごだい》といふ五王朝《ごおうちよう》は、始《はじ》めは唐《とう》を倒《たふ》した朱《しゆ》全忠《ぜんちゆう》の後梁《こうりよう》、それから後唐《ごとう》、後晉《ごしん》、後漢《ごかん》、後周《ごしゆう》とつゞいたのです。
 この時代《じだい》においてもっともいちじるしい現象《げんしよう》は、武人《ぶじん》の跋扈《ばつこ》といふことです。かれらはほしいまゝに自分《じぶん》たちの氣《き》に入《い》つた天子《てんし》を擁立《ようりつ》し、またそれが意《い》に滿《み》たない時《とき》は廢《はい》してしまふのです。ちょうど西洋《せいよう》の歴史《れきし》でも、ローマの時代《じだい》に兵士《へいし》が横暴《おうぼう》をきはめ、皇帝《こうてい》を勝手《かつて》に立《た》てたり倒《たふ》したりしたのに似《に》た事情《じじよう》でした。ですから歴代《れきだい》の天子《てんし》も名《な》のみの天子《てんし》で、虚位《きよい》を保《たも》つにすぎなかつたのです。
 この時分《じぶん》に支那《しな》の東北方《とうほくほう》に一《ひと》つの新《あたら》しい勢力《せいりよく》が興《おこ》りました。それは契丹《きつたん》です。それは東胡《とうこ》民族《みんぞく》の後《あと》で、東部《とうぶ》内蒙古《うちもうこ》に遊牧《ゆうぼく》してゐた遊牧《ゆうぼく》の民《たみ》でした。早《はや》くから唐《とう》に歸服《きふく》してゐましたが、安史《あんし》の亂《らん》にはその叛軍《はんぐん》に加《くは》はつて戰《たゝか》つたのです。唐末《とうまつ》には獨立《どくりつ》の状態《じようたい》となり、耶律《やりつ》阿保機《あほき》といふ者《もの》が出《で》てその契丹《きつたん》の八部《はちぶ》を一統《いつとう》してつひに自《みづか》ら帝《てい》と稱《しよう》し、シラムレン川《がは》の畔《ほとり》臨※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1-87-13]《りんこう》に都《みやこ》を定《さだ》めました。これを太祖《たいそ》といひます。そして諸方《しよほう》に征戰《せいせん》を行《おこな》ひました。そのころ滿洲《まんしゆう》には渤海《ぼつかい》といふ大國《たいこく》がありましたが、太祖《たいそ》はつひにこれを攻《せ》め亡《ほろぼ》してしまひました。
 こゝにこの渤海《ぼつかい》の話《はなし》をいたします。
 滿洲《まんしゆう》の東北部《とうほくぶ》に靺鞨《まつかつ》といふ種族《しゆぞく》がありました。それには七部《しちぶ》ありましたが、その中《うち》粟末水《ぞくまつすい》すなはち松花江畔《しようかこうはん》に據《よ》つた粟末《ぞくまつ》靺鞨《まつかつ》がもっとも勢力《せいりよく》を得《え》、それに大《たい》祚榮《そえい》といふ人《ひと》が出《で》て國《くに》を建《た》てました。後唐《ごとう》から渤海《ぼつかい》郡王《ぐんおう》に封《ほう》ぜられたので渤海《ぼつかい》をもつて國號《こくごう》と定《さだ》めました。この國《くに》がさかんに唐《とう》と交通《こうつう》し、その文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》につとめたことは前《まへ》に申《まを》したとほりであります。またこの國《くに》は一方《いつぽう》わが國《くに》と好《よ》しみを通《つう》じました。その使節《しせつ》の始《はじ》めて來《き》たのは聖武《しようむ》天皇《てんのう》の世《よ》で、それから渤海《ぼつかい》が滅亡《めつぼう》するまで交際《こうさい》はつゞきました。その修交《しゆうこう》の目的《もくてき》の一面《いちめん》には、わが國《くに》から自分《じぶん》の國《くに》に物資《ぶつし》を輸入《ゆにゆう》しようといふこともあつたようです。また日本《につぽん》の方《ほう》にもこの國《くに》から毛皮《もうひ》などが輸入《ゆにゆう》されたようにも思《おも》はれます。舞樂《ぶがく》なども渤海樂《ぼつかいがく》といつて輸入《ゆにゆう》せられたようです。この渤海《ぼつかい》の使人《しじん》なども唐《とう》文化《ぶんか》の教養《きようよう》ある人《ひと》が多《おほ》かつたので、わが國《くに》の平安朝《へいあんちよう》の朝臣《ちようしん》との間《あひだ》に詩文《しぶん》の贈答《ぞうとう》をやつたことは藝苑《げいえん》の佳話《かわ》です。大江《おほえ》朝綱《ともつな》[#「ともつな」は底本のまま]が渤海《ぼつかい》の使臣《ししん》に與《あた》へた詩《し》で、
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前途《ぜんと》程遠《ほどとほ》し。思《おも》ひを雁山《がんざん》の暮雲《ぼうん》に馳《は》す。
後會《こうかい》の期《き》遙《はる》かなり。纓《えい》を鴻艫《こうろ》[#「鴻艫」は底本のまま]の曉涙《ぎようるい》に霑《うるほ》す。
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と詠《よ》んだのは有名《ゆうめい》なはなしです。かうした文化國《ぶんかこく》、支那人《しなじん》のいひまはしをかりれば海東《かいとう》の盛國《せいこく》であつた渤海《ぼつかい》も、契丹《きつたん》の太祖《たいそ》の兵《へい》を蒙《かふむ》つては一《ひと》たまりもなく、その國都《こくと》忽干城《こつかんじよう》も陷《おちい》り亡《ほろ》んでしまひました。
 かくて契丹《きつたん》は強勢《きようせい》となり、次第《しだい》に支那《しな》内部《ないぶ》の方《ほう》へ手《て》をのばし始《はじ》め、後晉《ごしん》を助《たす》けて後唐《ごとう》を亡《ほろぼ》す手傳《てつだ》ひをし、そのお禮《れい》として支那《しな》北邊《ほくへん》雲燕《うんえん》以下《いか》十六州《じゆうろくしゆう》の地《ち》を貰《もら》つたのでした。後《のち》兵《へい》を南下《なんか》させ後晉《ごしん》の無禮《ぶれい》を責《せ》めて後晉《ごしん》を亡《ほろぼ》し、都《みやこ》を開封《かいほう》に定《さだ》めて新《あらた》に國號《こくごう》を立《た》てゝ遼《りよう》と申《まを》しました。しかしこの遼《りよう》の中原《ちゆうげん》支配《しはい》は、漢人《かんじん》の反抗《はんこう》にあつて成功《せいこう》せず、つひに北《きた》に歸《かへ》り、北方《ほつぽう》から絶《た》えず中原《ちゆうげん》を威嚇《いかく》してゐました。
 五代《ごだい》の最後《さいご》の王朝《おうちよう》、後周《ごしゆう》が亡《ほろ》んだのもやはりこの遼《りよう》の強勢《きようせい》と、武人《ぶじん》の跋扈《ばつこ》とに關係《かんけい》があるのです。遼《りよう》が南下《なんか》して後周《ごしゆう》を亡《ほろぼ》さうとしたので、後周《ごしゆう》では將軍《しようぐん》の趙《ちよう》匡胤《きよういん》を遣《つか》はして、その侵寇《しんこう》を防《ふせ》がうとしました。時《とき》に後周《ごしゆう》の天子《てんし》はまだ幼弱《ようじやく》で、國情《こくじよう》安《やす》らからならぬものがありましたので、趙《ちよう》匡胤《きよういん》の部下《ぶか》の兵士《へいし》どもは、相議《あひぎ》して趙《ちよう》匡胤《きよういん》をもつて天子《てんし》とすることにいたし、つひに後周《ごしゆう》の天子《てんし》に迫《せま》つて位《くらゐ》を趙《ちよう》匡胤《きよういん》に讓《ゆづ》らせました。こゝにおいても當時《とうじ》の武人《ぶじん》の横暴《おうぼう》ぶりを見《み》ることが出來《でき》ませう。趙《ちよう》匡胤《きよういん》がすなはち宋《そう》の太祖《たいそ》です。

   二七、宋《そう》の國情《こくじよう》

 兵士《へいし》に擁立《ようりつ》されて天子《てんし》の位《くらゐ》に即《つ》いた宋《そう》の太祖《たいそ》は、出《で》は武人《ぶじん》でしたけれども、武弁《ぶべん》一遍《いつぺん》の人《ひと》ではありませんでした。唐末《とうまつ》から五代《ごだい》にかけての革命《かくめい》の原因《げんいん》が、多《おほ》く藩鎭《はんちん》武人《ぶじん》の跋扈《ばつこ》横暴《おうぼう》にあることをよく知《し》つてゐましたので、この武人《ぶじん》どもの勢力《せいりよく》を削《そ》いで世《よ》の泰平《たいへい》をいたさうと心《こゝろ》がけました。そのため節度使《せつどし》が缺《か》ける度毎《たびごと》に、その後任《こうにん》には文臣《ぶんしん》を任《にん》じ、また諸州《しよしゆう》には通判《つうはん》といふ役人《やくにん》を置《お》いて政《まつりごと》を行《おこな》はせ、租税《そぜい》や運漕《うんそう》のことは諸方《しよほう》に轉運使《てんうんし》を置《お》いて始末《しまつ》させ、かうして武人《ぶじん》專横《せんおう》の弊《へい》を矯《た》め、文治《ぶんち》政策《せいさく》を採《と》つたのでした。
 この太祖《たいそ》の治世《じせい》を助《たす》けたのは、趙普《ちようふ》といふ宰相《さいしよう》で、太祖《たいそ》はしば/\微行《びこう》して趙普《ちようふ》を訪《と》ひ政《まつりごと》を圖《はか》りました。この人《ひと》は朝廷《ちようてい》で大會議《だいかいぎ》のある毎《ごと》に、自分《じぶん》の家《いへ》で戸《と》を閉《と》ざし箱《はこ》から書《しよ》をとり出《だ》し、閲《えつ》したうへで會議《かいぎ》に出席《しゆつせき》するのを常《つね》としてゐました。趙普《ちようふ》が死《し》んだのち、家《いへ》の人《ひと》がその書《しよ》はなんだつたゞらうと、その箱《はこ》を開《あ》けて見《み》たら論語《ろんご》がはひつてゐました。かうして趙普《ちようふ》は一册《いつさつ》の論語《ろんご》を愛讀《あいどく》し、それを生《い》かして天下《てんか》の泰平《たいへい》を來《きた》さうと努《つと》めたのです。かう書物《しよもつ》を生《い》かして讀《よ》むといふことはむづかしいことですけれども、また大《おほ》いに學《まな》ばなければならないことです。しかし宋《そう》といふ國《くに》が出來《でき》た當時《とうじ》には、各地《かくち》にはまだ獨立《どくりつ》して宋《そう》に從《したが》はない國《くに》も多《おほ》かつたのでしたが、太祖《たいそ》とその次《つ》ぎの太宗《たいそう》とは次第《しだい》にこれら諸國《しよこく》を征服《せいふく》して、遂《つひ》に天下《てんか》の統一《とういつ》をなしとげました。
[#図版(09.png)、太祖微行して趙普を訪ふ]
 かくて宋《そう》は唐末《とうまつ》五代《ごだい》の紛亂《ふんらん》を鎭《しづ》め、天下《てんか》の統一《とういつ》をなしたといつても、その政策《せいさく》が文治《ぶんち》主義《しゆぎ》であつたゝめに、その國《くに》の武力《ぶりよく》といふものが至《いた》つて弱《よわ》く、ために北方《ほつぽう》や西方《せいほう》の外民族《がいみんぞく》から非常《ひじよう》な壓迫《あつぱく》を受《う》けるようになつたのです。宋《そう》を最初《さいしよ》壓迫《あつぱく》した北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の國《くに》は、契丹《きつたん》、すなはち遼《りよう》の國《くに》でした。これはしば/″\宋《そう》と相《あひ》爭《あらそ》ひましたが、宋《そう》はどうしても押《お》されがちで、宋《そう》の方《ほう》ではこれに絹《きぬ》だの銀《ぎん》などの歳幣《さいへい》を與《あた》へて和親《わしん》を保《たも》つたのでした。
 朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》において新羅《しらぎ》が國《くに》を建《た》てゝゐたことは前《まへ》に申《まを》しました。その後《のち》その國勢《こくせい》の衰《おとろ》へたのに乘《じよう》じて高麗《こうらい》といふ國《くに》が興《おこ》つて新羅《しらぎ》を亡《ほろぼ》し、都《みやこ》を開城《かいじよう》に置《お》きました。朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》に建《た》つた國《くに》がたいていさうであるように、この高麗《こうらい》も支那《しな》本土《ほんど》に國《くに》を建《た》てゝゐた宋《そう》に好《よ》しみを通《つう》じましたが、北方《ほつぽう》の遼《りよう》といふ未開國《みかいこく》には、好意《こうい》を示《しめ》さなかつたのです。そこで遼《りよう》では聖宗《せいそう》のとき高麗《こうらい》の征伐《せいばつ》を行《おこな》つて遂《つひ》にこれを屈服《くつぷく》させました。かうして遼《りよう》といふ國《くに》の勢《いきほ》ひはきはめて盛《さか》んで、聖宗《せいそう》の時《とき》などには、内外《ないがい》蒙古《もうこ》から滿洲《まんしゆう》にかけての大領土《だいりようど》を有《ゆう》し、國内《こくない》に五《いつ》つの都《みやこ》を置《お》くまでに至《いた》りました。今《いま》ロシヤ語《ご》やトルコ語《ご》で支那《しな》のことをキタイなどといふのは、實《じつ》はこの遼《りよう》すなはち契丹《きつたん》の勢力《せいりよく》がかように盛《さか》んだつたので、その契丹《きつたん》といふ語《ご》が遠《とほ》く西《にし》の方《ほう》に傳《つた》はり、それが訛《なま》つてキタイとなつたものです。
 宋《そう》をなやましたのは、この北方《ほつぽう》の遼《りよう》のみではなかつたのです。今《いま》のオルドスの地方《ちほう》に據《よ》つてゐた黨項《たんぐーと》が國《くに》を建《た》て、西夏《せいか》と號《ごう》しました。この西北方《せいほつぽう》の西夏《せいか》も、しば/″\宋《そう》の西邊《せいへん》を騷《さわ》がして、遼《りよう》と共《とも》に宋《そう》の災《わざは》ひの種《たね》だつたのです。宋《そう》ではこの西夏《せいか》に對《たい》しても歳幣《さいへい》を與《あた》へて和《わ》を約《やく》しました。
 宋《そう》は、建國《けんこく》の初《はじ》めから前代《ぜんだい》の宿弊《しゆくへい》を改《あらた》めるに急《きゆう》であつたゝめ極端《きよくたん》な文治《ぶんち》政策《せいさく》をとり、武力《ぶりよく》を弱《よわ》めました。このために遼《りよう》や西夏《せいか》や、また南方《なんぽう》の交趾《こうち》と戰《たゝか》つて、みな利《り》なく、極端《きよくたん》な屈辱《くつじよく》外交《がいこう》をいたす外《ほか》はなかつたのです。これに慨《がい》して、前代《ぜんだい》の失敗《しつぱい》を回復《かいふく》し、國威《こくい》を張《は》らうとしたのが神宗《しんそう》でありました。そしてこの神宗《しんそう》は、王《おう》安石《あんせき》といふ學者《がくしや》を登用《とうよう》して、その意見《いけん》に基《もとづ》いて、改革《かいかく》の實《じつ》を擧《あ》げようとしたのでした。
 王《おう》安石《あんせき》は新政策《しんせいさく》を實行《じつこう》し、それによつて富國《ふこく》強兵《きようへい》の實《じつ》を擧《あ》げようとしました。富國策《ふこくさく》として青苗法《せいびようほう》とか募役《ぼえき》、市易《しえき》などの幾分《いくぶん》社會《しやかい》政策《せいさく》がかつた法《ほう》を實行《じつこう》して民《たみ》を富《と》まし、また國《くに》を富《と》まさうといたしました。強兵策《きようへいさく》として行《おこな》つたのは、保甲《ほこう》、保馬《ほば》の法《ほう》でした。かうした新政策《しんせいさく》、すなはち新法《しんほう》によつて、王《おう》安石《あんせき》は一擧《いつきよ》に宋《そう》の國力《こくりよく》を充實《じゆうじつ》させようとしたのです。ところがまだ富強《ふきよう》の實《じつ》の擧《あ》がらぬうちに、神宗《しんそう》はしば/\外征《がいせい》の軍《ぐん》を起《おこ》し、かへって敗《はい》を招《まね》き、遼《りよう》の如《ごと》きはこれに乘《じよう》じて南侵《なんしん》して宋《そう》の北邊《ほくへん》を奪《うば》ふといふあり樣《さま》に立《た》ち至《いた》りました。そしてまた國内《こくない》においても、王《おう》安石《あんせき》の新法《しんほう》に對《たい》する非難《ひなん》反對《はんたい》の聲《こゑ》が高《たか》まつて來《き》ました。由來《ゆらい》支那人《しなじん》といふのは、古《ふる》いものを尊《たふと》ぶ風《ふう》があります。かうした保守的《ほしゆてき》な一面《いちめん》をもつた支那人《しなじん》は、この王《おう》安石《あんせき》の新法《しんほう》は先王《せんのう》の法《ほう》と違《ちが》ふものであるといつて、攻撃《こうげき》を加《くは》へました。
 この新法《しんほう》の反對派《はんたいは》、すなはち舊法黨《きゆうほうとう》の代表者《だいひようしや》といふべきは、司馬《しば》光《こう》、歐陽《おうよう》修《しゆう》などゝいふ人《ひと》でした。司馬《しば》光《こう》といふ人《ひと》は、子供《こども》のとき水甕《みづがめ》に落《お》ちた友達《ともだち》を助《たす》けるため石《いし》で水甕《みづがめ》を割《わ》つたといふので有名《ゆうめい》な人《ひと》です。もっとも王《おう》安石《あんせき》といふ人《ひと》は、強腹《ごうふく》な、またいったんやり出《だ》したら後《あと》にひかないような頑固《がんこ》な人《ひと》でしたし、また新法《しんほう》を實行《じつこう》するために王《おう》安石《あんせき》が用《もち》ひた人々《ひと/″\》の中《なか》には、よくない人《ひと》も交《まじ》つてゐたゝめに、この反對《はんたい》の勢《いきほ》ひを一層《いつそう》強《つよ》くしたのはいふまでもありません。
 かうして新法黨《しんほうとう》と舊法黨《きゆうほうとう》が相《あひ》爭《あらそ》ひ、舊法黨《きゆうほうとう》が政權《せいけん》をとれば新法《しんほう》をやめ、新法黨《しんほうとう》が朝《ちよう》に立《た》てば新法《しんほう》を行《おこな》ふといふ風《ふう》で、兩派《りようは》は互《たがひ》ひ[#「互《たがひ》ひ」は底本のまま]壓迫《あつぱく》し合《あ》つたのです。この爭《あらそ》ひは、初《はじ》めは政策《せいさく》のための爭《あらそ》ひでしたが、次第《しだい》に政策《せいさく》はそっちのけとなつて、たゞ敵黨《てきとう》を倒《たふ》せばいゝといふ爭《あらそ》ひのための爭《あらそ》ひといふ風《ふう》になり、黨爭《とうそう》三十《じゆう》餘年《よねん》の久《ひさ》しきに亙《わた》りました。
 この紛亂《ふんらん》した政爭《せいそう》が、宋《そう》の國勢《こくせい》をどれだけ衰運《すいうん》に導《みちび》いたか、それはいふ迄《まで》もないことでした。

   二八、金《きん》の興起《こうき》

 宋《そう》が、國運《こくうん》振《ふる》はぬながらも、北方《ほつぽう》の遼《りよう》、西北方《せいほくほう》の西夏《せいか》と相對《あひたい》してゐる間《あひだ》に、また北方《ほつぽう》に一《ひつ》つ[#「一《ひつ》つ」は底本のまま]の別《べつ》な勢力《せいりよく》が現《あらは》れてまゐりました。それが女眞《じよしん》です。
 滿洲《まんしゆう》に據《よ》つた靺鞨《まつかつ》の話《はなし》は、前《まへ》に渤海《ぼつかい》の所《ところ》で申《まを》しました。その七《なゝ》つの部《ぶ》の内《うち》、黒水《こくすい》すなはち今《いま》の黒龍江《こくりゆうこう》のほとりにゐた靺鞨《まつかつ》を黒水《こくすい》靺鞨《まつかつ》と申《まを》しますが、その部《ぶ》の内《うち》に女眞《じよしん》といふ部《ぶ》がありました。この女眞部《じよしんぶ》は初《はじ》めは渤海《ぼつかい》に從《したが》ひ、後《のち》遼《りよう》の興《おこ》るに及《およ》んで遼《りよう》に屬《ぞく》してゐました。ところが阿骨打《あくた》といふものが出《で》て、たま/\遼《りよう》の國威《こくい》の衰《おとろ》へたのに乘《じよう》じてこれに叛《そむ》き、女眞《じよしん》諸部《しよぶ》を一統《いつとう》して皇帝《こうてい》となり、國《くに》を金《きん》と稱《しよう》しました。阿骨打《あくた》のことを太祖《たいそ》と申《まを》します。遼《りよう》ではこれを討《う》つてかへって失敗《しつぱい》し、金《きん》は南下《なんか》して遼《りよう》に迫《せま》つてまゐりました。
 宋《そう》では久《ひさ》しく遼《りよう》に對《たい》して恨《うら》みを抱《いだ》いてゐましたが、今《いま》新《あらた》に北方《ほつぽう》に金《きん》といふ勢力《せいりよく》が起《おこ》り、遼《りよう》を苦《くる》しめてゐるのを知《し》るや、金《きん》と同盟《どうめい》して南北《なんぼく》から遼《りよう》を挾《はさ》み討《う》ちにしようとしました。ところが宋軍《そうぐん》はしば/\利《り》を失《うしな》つてはか/″\しく行《ゆ》かないのに、金軍《きんぐん》の方《ほう》はどし/\と遼《りよう》を破《やぶ》つてこれを亡《ほろぼ》してしまひました。この時《とき》、遼《りよう》の一族《いちぞく》の耶律《やりつ》大石《たいせき》は餘衆《よしゆう》を率《ひき》ゐて西《にし》に走《はし》り、後《のち》中央《ちゆうおう》アジアにはひつて西遼《せいりよう》といふ國《くに》を建設《けんせつ》いたしました。
 かくて宋《そう》金《きん》兩國《りようごく》の同盟《どうめい》で遼《りよう》は亡《ほろ》びましたが、この戰《たゝか》ひに宋《そう》の勢《いきほ》ひがきはめて振《ふる》はなかつたので、こゝから金《きん》の方《ほう》では宋《そう》を輕侮《けいぶ》し始《はじ》めました。そこで宋《そう》が貰《もら》ふ約束《やくそく》だつた土地《とち》を宋《そう》に與《あた》へず、多《おほ》く金《きん》の方《ほう》へとつてしまひました。かくて兩國《りようごく》は互《たがひ》に境《さかひ》を接《せつ》しましたが、金《きん》の方《ほう》では宋《そう》の弱勢《じやくせい》につけこんで南侵《なんしん》し、つひに國都《こくと》開封《かいほう》を陷《おとしい》れて、時《とき》の天子《てんし》欽宗《きんそう》、その父《ちゝ》の徽宗《きそう》以下《いか》多《おほ》くの皇族《こうぞく》をとらへて北《きた》に歸《かへ》りました。この事件《じけん》は靖康《せいこう》といふ年號《ねんごう》の時《とき》起《おこ》つたといふので、靖康《せいこう》の難《なん》といひ、宋《そう》にとつてはきはめて大《おほ》きい屈辱《くつじよく》でありました。こゝにとらへられた徽宗《きそう》といふ天子《てんし》は、有藝《ゆうげい》な人《ひと》で畫筆《えふで》をとつてはまれに見《み》る名人《めいじん》でありましたけれども、政事《せいじ》の方《ほう》において、凡庸《ぼんよう》な君《きみ》であつたせいでせう、つひにかうした屈辱《くつじよく》を見《み》るに至《いた》つたのです。
 宋《そう》では國都《こくと》がいったん金《きん》の手《て》に陷《おちい》つたので、金《きん》の勢《いきほ》ひを恐《おそ》れて都《みやこ》を南《みなみ》の臨安《りんあん》に移《うつ》しました。そして天子《てんし》の位《くらゐ》を嗣《つ》いだのは欽宗《きんそう》の弟《おとうと》の高宗《こうそう》だつたのです。これから以後《いご》の宋《そう》を、南宋《なんそう》と申《まを》します。
 宋《そう》が都《みやこ》を南《みなみ》に移《うつ》した後《のち》、宋《そう》の方《ほう》で金《きん》と和《わ》さうとするものもあれば、また一方《いつぽう》には學者《がくしや》、軍人《ぐんじん》などの純理派《じゆんりは》で戰《たゝか》ひを主張《しゆちよう》するものもありました。ことに岳飛《がくひ》などといふ武將《ぶしよう》のごときはこの主戰派《しゆせんは》の頭目《とうもく》で、自《みづか》ら兵《へい》を率《ひき》ゐてしば/\金軍《きんぐん》を破《やぶ》り、金軍《きんぐん》には鬼神《きじん》のように恐《おそ》れられた大將《たいしよう》でした。しかし秦檜《しんかい》といふ宰相《さいしよう》はさかんに和議《わぎ》を唱《とな》へ、この誠忠《せいちゆう》無比《むひ》の岳飛《がくひ》を罰《ばつ》して遂《つひ》に金《きん》と和《わ》し、宋《そう》は金《きん》に臣事《しんじ》し、また歳貢《さいこう》を納《をさ》め、土地《とち》を割《さ》き與《あた》へることになりました。
 今日《こんにち》岳飛《がくひ》の墓《はか》へまゐりますと、そこには秦檜《しんかい》夫妻《ふさい》の鐵《てつ》の像《ぞう》が出來《でき》てゐまして、それは裸《はだか》で鎖《くさり》にしばられてゐるように作《つく》つてあるそうです。和親《わしん》を計《はか》つて、そのためにむりにこの誠忠《せいちゆう》な岳飛《がくひ》を殺《ころ》した秦檜《しんかい》に對《たい》する後人《こうじん》の不滿《ふまん》は、かうした形《かたち》で永久《えいきゆう》に秦檜《しんかい》に私誅《しちゆう》を加《くは》へてゐるのです。
 かくて宋《そう》と金《きん》とは相對《あひたい》してゐましたが、一時《いちじ》は兩國《りようこく》とも平和《へいわ》政策《せいさく》をとり、ことに金《きん》の世宗《せいそう》の世《よ》のときは、宋《そう》には孝宗《こうそう》位《くらゐ》にあつて兩君《りようくん》共《とも》に賢明《けんめい》で、意《い》を内治《ないち》に注《そゝ》ぎ、兩國《りようごく》は三十《さんじゆう》餘年《よねん》の平和《へいわ》を樂《たの》しみました。しかしそのうちに金《きん》も宋《そう》も國力《こくりよく》が衰《おとろ》へました。そしてまた北方《ほつぽう》沙漠《さばく》のかなたには蒙古《もうこ》といふ遊牧民《ゆうぼくみん》が勃興《ぼつこう》して次第《しだい》に金國《きんこく》の背後《はいご》に迫《せま》つて來《く》るのでした。宋《そう》は何《なに》しろ國初《こくしよ》から文治《ぶんち》政策《せいさく》をとつた國《くに》ですから、武力《ぶりよく》はいたつて振《ふる》はず、外民族《がいみんぞく》には絶《た》えず壓迫《あつぱく》を蒙《かふむ》つてゐましたものゝ、學問《がくもん》藝術《げいじゆつ》といふ方面《ほうめん》には、きはめて大《おほ》きい進展《しんてん》を見《み》せました。

   二九、蒙古《もうこ》の勃興《ぼつこう》

 漢民族《かんみんぞく》は、實《じつ》に久《ひさ》しい以前《いぜん》から北方《ほつぽう》の民族《みんぞく》としば/\抗爭《こうそう》をつゞけて來《き》ました。そしてその抗爭《こうそう》も唐代《とうだい》に至《いた》つて、一度《いちど》漢民族《かんみんぞく》の極盛期《きよくせいき》といふ形《かたち》で漢民族《かんみんぞく》の勝利《しようり》に終《をは》つたのです。
 しかし、唐代《とうだい》が終《をは》るとゝもに、この漢民族《かんみんぞく》の極盛期《きよくせいき》も終《をは》りを告《つ》げ、こゝにまた北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の優勢《ゆうせい》時代《じだい》を見《み》るに至《いた》つたのです。遼《りよう》は宋《そう》を壓《あつ》し、遼《りよう》に代《かは》つた金《きん》はまた宋《そう》を壓《あつ》しました。しかしまたこの二國《にこく》は徹底的《てつていてき》に宋《そう》を潰《つぶ》してしまふには至《いた》りませんでした。ところが、こゝに金《きん》に代《かは》つて蒙古《もうこ》がまた北方《ほつぽう》に現《あらは》れるに至《いた》つて、宋《そう》は完全《かんぜん》にこれに打《う》ち倒《たふ》され、こゝに北方人《ほつぽうじん》の漢民族《かんみんぞく》に對《たい》する勝利《しようり》は確立《かくりつ》されたのでした。
 では蒙古《もうこ》はどこから起《おこ》つたか。蒙古族《もうこぞく》は今《いま》の外蒙古《そともうこ》のオノン川《がは》とケルレン川《がは》の中間《ちゆうかん》地方《ちほう》に據《よ》つてゐた遊牧民《ゆうぼくみん》でありました。もと/\遼《りよう》や金《きん》に屬《ぞく》してゐたのですが、その部《ぶ》に鐵木眞《てむちん》といふものが出《で》て部長《ぶちよう》となるに及《およ》んで勢《いきほ》ひを張《は》り、附近《ふきん》の諸部《しよぶ》を從《したが》へましたが、遂《つひ》に内外《ないがい》蒙古《もうこ》を統一《とういつ》して大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》きました。成吉思《じんぎす》汗《かん》と申《まを》すのがこれであります。これから成吉思《じんぎす》汗《かん》は南《みなみ》へ下《くだ》つて西夏《せいか》を攻《せ》め、次《つ》ぎに金《きん》も攻《せ》めました。
 當時《とうじ》、西夏《せいか》の王《おう》は暗愚《あんぐ》でありましたし、また金《きん》は長《なが》い間《あひだ》の内亂《ないらん》のために苦《くる》しんでゐましたので、いづれも蒙古《もうこ》の勢力《せいりよく》に屈《くつ》しなければなりませんでした。蒙古《もうこ》は遂《つひ》に金《きん》の都《みやこ》、燕京《えんけい》を陷《おとしい》れ、黄河《こうが》以北《いほく》の地《ち》はほゞその占領《せんりよう》するところとなりました。前《まへ》に遼《りよう》が金《きん》に亡《ほろぼ》されたとき、遼《りよう》の一族《いちぞく》の耶律《やりつ》大石《たいせき》が西《にし》に走《はし》り、西遼國《せいりようこく》を建《た》てたことは申《まを》しました。その後《のち》西遼《せいりよう》は、ます/\盛《さか》んに中央《ちゆうおう》アジアにあつて勢威《せいゝ》を振《ふる》つてゐたのです。もと、乃蠻部《ないまんぶ》といふ部《ぶ》がありましたが、これは成吉思《じんぎす》汗《かん》に亡《ほろぼ》されました。その時《とき》、その王子《おうじ》の屈出律《くちゆるく》は逃《のが》れて西遼《せいりよう》に據《よ》つたのです。後《のち》この屈出律《くちゆるく》は、西遼《せいりよう》の隣國《りんこく》の花剌子模王《ほらずむおう》と同盟《どうめい》して西遼《せいりよう》の國《くに》を奪《うば》つて獨立《どくりつ》し、その勢《いきほ》ひで蒙古《もうこ》に反抗《はんこう》しようとしたのです。そこで成吉思《じんぎす》汗《かん》は兵《へい》を出《だ》して、これを亡《ほろぼ》しました。
 蒙古《もうこ》はかくて花刺子模國《ほらずむこく》[#「刺」は底本のまま]と境《さかひ》を接《せつ》するに至《いた》つたのですが、たま/\蒙古《もうこ》の隊商《たいしよう》がその國《くに》にはひつたとき、察偵《みつてい》[#「察偵」は底本のまま]の疑《うたが》ひで殺《ころ》されました。そこで成吉思《じんぎす》汗《かん》は大《おほ》いに怒《おこ》つて、自分《じぶん》の四子《しし》と共《とも》に大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて花剌子模國《ほらずむこく》を征《せい》し、その都《みやこ》今《いま》のサマルカンドを陷《おとしい》れ、進《すゝ》んでインドにも侵入《しんにゆう》しました。
 この時《とき》、哲別《ちえべ》、速不臺《すぶたい》の二將《にしよう》は別軍《べつぐん》として花剌木模王《ほらずむおう》を裏海《りかい》まで追《お》ひ、更《さら》に西《にし》に進《すゝ》みペルシャを過《す》ぎ、欽察部《きぷちやつくぶ》を征《せい》し、次《つ》いで阿羅思《おろす》(ロシア)諸侯《しよこう》の聯合軍《れんごうぐん》をカルカ川《がは》に破《やぶ》つて武威《ぶい》を輝《かゞや》かしました。成吉思《ちんぎす》汗《かん》は西方《せいほう》の征戰《せいせん》七年《しちねん》で東《ひがし》に歸《かへ》り、遂《つひ》に西夏《せいか》を亡《ほろぼ》し、次《つ》いで金《きん》を討《う》たうとしましたが、その途上《とじよう》病《やまひ》に罹《かゝ》つて六盤山《ろくばんざん》で死《し》にました。成吉思《じんぎす》汗《かん》の功業《こうぎよう》は、かうした花々《はな/″\》しいものでした。またその業蹟《ぎようせき》はその後繼者《こうけいしや》たちによつて受《う》けつがれたのでした。
 成吉思《じんぎす》汗《かん》、すなはち太祖《たいそ》の死後《しご》推《お》されて位《くらゐ》に即《つ》いたのが太祖《たいそ》の三男《さんなん》窩闊臺《おごたい》でした。これが太宗《たいそう》です。蒙古《もうこ》では後嗣《こうし》の大汗《たいかん》は長子《ちようし》相續《そうぞく》といふわけではないので、クリルタイといふ會議《かいぎ》によつて決定《けつてい》されるのです。クリルタイと申《まを》すのは、宗族《そうぞく》重臣《じゆうしん》などが相會《あひかい》して、皇位《こうい》繼承《けいしよう》とか國《くに》の大事《だいじ》とかを決定《けつてい》するのです。窩闊臺《おごたい》汗《かん》もかうしたクリルタイの決議《けつぎ》によつて大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》いたのです。かれは都《みやこ》を喀剌和林《からこるむ》に奠《さだ》め、また遼《りよう》の遺臣《いしん》の耶律《やりつ》楚材《そざい》を宰相《さいしよう》として國政《こくせい》を整《とゝの》へ、蒙古《もうこ》の文化《ぶんか》開發《かいはつ》に力《ちから》を盡《つく》しました。
 なほ太宗《たいそう》は太祖《たいそ》の志《こゝろざし》を承《う》けて四方《しほう》の攻伐《こうばつ》を行《おこな》ひました。まづ金《きん》を攻《せ》め都《みやこ》の開封《かいほう》に迫《せま》つたので、金《きん》の天子《てんし》は蔡州《さいしゆう》といふ所《ところ》に逃《のが》れました。時《とき》に宋《そう》の方《ほう》では、この新興《しんこう》の蒙古《もうこ》と同盟《どうめい》して、久《ひさ》しい敵《かたき》の金《きん》を討《う》たうといふので、宋《そう》と蒙古《もうこ》は南北《なんぼく》から金《きん》を挾撃《きようげき》してこれを亡《ほろぼ》してしまひました。太宗《たいそう》は東方《とうほう》高麗《こうらい》を平定《へいてい》しましたので、今度《こんど》は西方《せいほう》の經略《けいりやく》を思《おも》ひ立《た》ちました。そこで拔都《ばつ》を元帥《けんすい》[#「けんすい」は底本のまま]として五十萬《ごじゆうまん》の大軍《たいぐん》を發《はつ》しました。貴由《くゆく》、蒙哥《まんぐ》がこれを助《たす》けて大擧《たいきよ》して歐洲《おうしゆう》に侵入《しんにゆう》しました。拔部《ばつ》[#「拔部」は底本のまま]はモスクヴァ、キエフを屠《ほふ》り阿羅思《おろす》の大部《だいぶ》を服屬《ふくぞく》せしめ、更《さら》に軍《ぐん》を分《わか》つてポーランド、ハンガリーに入《い》り、到《いた》る所《ところ》敵《てき》をやぶりました。ことにヴァールシュタットで、當時《とうじ》武士道《ぶしどう》華《はな》やかだつた歐洲《おうしゆう》の騎士《きし》の聯合軍《れんごうぐん》を討《う》ち破《やぶ》つたことは、歐洲《おうしゆう》を震駭《しんがい》させるに十分《じゆうぶん》でした。ローマ法王《ほうおう》はこのキリスト教《きよう》の敵《てき》の異教徒《いきようと》に對《たい》して歐洲《おうしゆう》を保護《ほご》するため、十字軍《じゆうじぐん》を組織《そしき》しようとさへ計畫《けいかく》いたしました。しかし太宗《たいそう》の訃報《ふほう》が傳《つた》はつたので、かれ等《ら》はそれ以上《いじよう》歐洲《おうしゆう》に深入《ふかい》りすることなしに軍《ぐん》を歸《かへ》したのでした。
 歐洲人《おうしゆうじん》が東方人《とうほうじん》を恐《おそ》れ、ことに黄禍論《こうかろん》などいふものが唱《とな》へられたのも、この蒙古《もうこ》の西方《せいほう》を震駭《しんがい》させたことがその根柢《こんてい》にあるのだらうと思《おも》はれます。
 その後《ご》蒙哥《まんぐ》すなはち憲宗《けんそう》の世《よ》に至《いた》つて、また諸方《しよほう》の征伐《せいばつ》が行《おこな》はれました。東《ひがし》は高麗《こうらい》を討《う》ち西《にし》は弟《おとうと》の旭烈兀《ふらぐ》をして西方《せいほう》アジアの經略《けいりやく》に從事《じゆうじ》させました。旭烈兀《ふらぐ》はまづペルシャに侵入《しんにゆう》し、バグダッドを陷《おとしい》れてサラセン帝國《ていこく》を亡《ほろぼ》し、進《すゝ》んでシリヤ、アラビヤを略《りやく》しました。また弟《おとうと》の忽必烈《ふびらい》は雲南《うんなん》地方《ちほう》を從《したが》へまたチベットに進《すゝ》み、別將《べつしよう》は交趾《かうち》を侵《をか》し、自身《じしん》は宋《そう》の征伐《せいばつ》にかゝりました。憲宗《けんそう》自身《じしん》も出征《しゆつせい》して宋《そう》を一擧《いつきよ》に亡《ほろぼ》さうとしましたが、憲宗《けんそう》が途中《とちゆう》で死歿《しぼつ》したゝめ、忽必烈《ふびらい》はいったん宋《そう》の和議《わぎ》を許《ゆる》して北《きた》に歸《かへ》りました。

   三〇、元《げん》の世祖《せいそ》

 前《まへ》にも申《まを》しましたように、蒙古《もうこ》では大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》くのはクリルタイの決議《けつぎ》によるのですから、その繼承《けいしよう》の際《さい》にはよく紛爭《ふんそう》が起《おこ》り、これが後《のち》には國家《こつか》衰亡《すいぼう》の大因《たいいん》となりました。
 憲宗《けんそう》が死《し》ぬと、その弟《おとうと》の阿里不哥《ありぶか》と申《まを》すものが喀剌和林《からこるむ》にゐて、大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》かうとしましたので、ちょうど宋《そう》征伐《せいばつ》に行《い》つてゐた忽必烈《ふびらい》は急《きゆう》に宋《そう》と和《わ》して北《きた》に歸《かへ》り、開平《かいぴん》で別《べつ》にクリルタイを開《ひら》いて自《みづか》ら大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》きました。これを世祖《せいそ》と申《まを》します。
 世祖《せいそ》は阿里不哥《ありぶか》を攻《せ》め、これを降《くだ》し、ついで都《みやこ》を今《いま》の北平《ぺーぴん》、すなはち燕京《えんけい》に遷《うつ》し、支那風《しなふう》に國號《こくごう》を立《た》て、元《げん》と申《まを》しました。いったん蒙古《もうこ》と和《わ》した宋《そう》では、權臣《けんしん》の賈《か》似道《じどう》といふものが頻《しきり》に策《さく》を弄《ろう》し、蒙古《もうこ》との約束《やくそく》を實行《じつこう》しませんでした。世祖《せいそ》は怒《いか》つて將軍《しようぐん》伯顏《ばやん》等《ら》をして大擧《たいきよ》して宋《そう》を討《う》たしめました。強力《きようりよく》な元軍《げんぐん》に對《たい》して宋軍《そうぐん》は防戰《ぼうせん》につとめましたが、防《ふせ》ぎ止《と》めることが出來《でき》ません。文《ぶん》天祥《てんしよう》とか張《ちよう》世傑《せいけつ》などが勤王《きんのう》の軍《ぐん》を起《おこ》して、宋室《そうしつ》のためにつくしましたが、皆《みな》破《やぶ》れ國都《こくと》臨安《りんあん》また陷《おちい》り、帝恭《ていちよう》[#「ていちよう」は底本のまま]出《い》で降《くだ》りました。
 宋《そう》の遺臣等《いしんら》はなほ天子《てんし》を擁立《ようりつ》して、宋室《そうしつ》の回復《かいふく》をはかりましたが、次第《しだい》に追《お》はれ、遂《つひ》に張《ちよう》世傑《せいけつ》等《ら》は帝《てい》※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《へい》を奉《ほう》じて※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]山島《がいざんとう》に立《た》て籠《こも》りましたが、こゝでもまた敗《やぶ》れ、帝《てい》および一族《いちぞく》は海《うみ》に投《とう》じて死《し》に、宋室《そうしつ》はこゝに亡《ほろぼ》されてしまひました。その最後《さいご》の非慘《ひさん》な運命《うんめい》は、ちょうど日本《につぽん》の平家《へいけ》の壇《だん》の浦《うら》の末路《まつろ》にも似《に》て哀《あはれ》をそゝるものであります。
 張《ちよう》世傑《せいけつ》は南安《あんなん》[#「南安」は底本のまま]方面《ほうめん》に遁《のが》れて、なほも再擧《さいきよ》を謀《はか》らうとしましたが、途中《とちゆう》で死《し》に、また文《ぶん》天祥《てんしよう》は不幸《ふこう》にも元《げん》に捕《と》らはれてしまひました。この文《ぶん》天祥《てんしよう》は非常《ひじよう》に偉《えら》い人《ひと》でしたので、世祖《せいそ》は重《おも》く用《もち》ひようと思《おも》つて降參《こうさん》をすゝめましたが、文《ぶん》天祥《てんしよう》は「二君《にくん》に仕《つか》へず」といつて、どうすゝめても降參《こうさん》しませんでした。かれが獄中《ごくちゆう》で作《つく》つた『正氣《せいき》の歌《うた》』は、忠君《ちゆうくん》愛國《あいこく》の志《こゝろざし》を力強《ちからづよ》く歌《うた》つたもので、今《いま》でも人口《じんこう》に上《のぼ》つてをります。
 宋《そう》は弱《よわ》い國《くに》ながら、どうやら三百年《さんびやくねん》あまりもつゞきましたが、とう/\元《げん》に亡《ほろぼ》されてしまひ、元《げん》は完全《かんぜん》に漢人《かんじん》の土地《とち》を手《て》に入《い》れました。北方人《ほつぽうじん》の漢人《かんじん》に對《たい》する優越《ゆうえつ》は、こゝに始《はじ》めて完成《かんせい》されたのです。
 高麗《こうらい》は太宗《たいそう》の時《とき》、いったん蒙古《もうこ》に從《したが》ひましたが、その後《のち》叛服《はんぷく》常《つね》なきあり樣《さま》でしたから世祖《せいそ》はこれを討《う》つて服《ふく》せしめ、皇女《こうじよ》を與《あた》へて王妃《おうひ》としましたので、これから長《なが》く高麗《こうらい》は元《げん》に服屬《ふくぞく》いたしました。
 高麗《こうらい》の更《さら》に東《ひがし》の海《うみ》の中《なか》には日本《につぽん》があります。元《げん》の威勢《せいゝ》[#「威勢《せいゝ》」は底本のまま]が強《つよ》く、四隣《しりん》の國々《くに/″\》は皆《みな》元《げん》に服屬《ふくぞく》するようになつた後《のち》までも、日本《につぽん》は嚴《げん》として元《げん》に好《よ》しみを通《つう》じようともしなかつたのです。そこで世祖《せいそ》は、高麗《こうらい》を仲介《ちゆうかい》としてわが國《くに》を招致《しようち》しようとしました。當時《とうじ》鎌倉《かまくら》幕府《ばくふ》の執權《しつけん》北條《ほうじよう》時宗《ときむね》は、元《げん》の國書《こくしよ》の不禮《ぶれい》なるを見《み》、これを斥《しりぞ》けました。元《げん》は怒《いか》つて文永《ぶんえい》、弘安《こうあん》の前後《ぜんご》二回《にかい》大軍《たいぐん》を出《だ》して九州《きゆうしゆう》博多《はかた》に迫《せま》りましたが、日本《につぽん》の將士《しようし》の勇戰《ゆうせん》と天候《てんこう》の利《り》とによつて、元軍《げんぐん》の覆滅《ふくめつ》に終《をは》りました。この時《とき》わが國《くに》では龜山《かめやま》上皇《じようこう》を始《はじ》め、君臣《くんしん》心《こゝろ》を一《いち》にしてこの外敵《がいてき》に當《あた》り、わが國《くに》の名譽《めいよ》を傷《きず》つけず、このヨーロッパ、アジアの二大陸《にだいりく》を席捲《せきけん》して膨大《ぼうだい》な領土《りようど》をもつた大勢力《だいせいりよく》を斥《しりぞ》けえたことは、皆樣《みなさま》が日本《につぽん》歴史《れきし》で御承知《ごしようち》のことであります。
 世祖《せいそ》はまた南方《なんぽう》の征服《せいふく》をもはかり、今《いま》のビルマ、交趾《こうち》、サイゴン、カンボヂャの地方《ちほう》をも從《したが》へ、また使《つか》ひを遣《つか》はして、南海《なんかい》諸國《しよこく》を歸服《きふく》させ、その威令《いれい》は、はるかジャヴァ、スマトラの島々《しま/″\》にまで及《およ》びました。世祖《せいそ》はかように外征《がいせい》の功《こう》を擧《あ》げましたが、その結果《けつか》として元《げん》の領土《りようど》が廣《ひろ》くなるにつれ、いろ/\の民族《みんぞく》を統治《とうち》するようになりましたが、これらの諸民族《しよみんぞく》はいづれも信仰《しんこう》の自由《じゆう》を許《ゆる》され、また舊來《きゆうらい》の風俗《ふうぞく》習慣《しゆうかん》に從《したが》つて治《をさ》められたのです。
 元《げん》ではこれらの諸民族《しよみんぞく》を蒙古《もうこ》、色目《しきもく》、漢人《かんじん》、南人《なんじん》等《ら》に大別《たいべつ》して一番《いちばん》蒙古人《もうこじん》を重用《じゆうよう》しましたので、古來《こらい》その文化《ぶんか》を誇《ほこ》つてゐた漢民族《かんみんぞく》も野蠻《やばん》な蒙古人《もうこじん》の下位《かい》に立《た》たなければならぬようになりました。しかし世祖《せいそ》は内治《ないち》に意《い》を用《もち》ひ、諸般《しよはん》の制度《せいど》を整《とゝの》へる一方《いつぽう》、廣《ひろ》く人材《じんざい》を登用《とうよう》し、漢人《かんじん》でも何人《なにじん》でも才能《さいのう》あるものはどし/\政務《せいむ》に與《あづか》らせました。
 世祖《せいそ》がチベットを征《せい》したとき、その國《くに》に流行《りゆうこう》してゐる佛教《ぶつきよう》の一派《いつぱ》の喇嘛教《らまきよう》に歸依《きえ》いたし、その僧侶《そうりよ》の拔思巴《ばすぱ》といふものを拜《はい》して帝師《ていし》といたしました。元朝《げんちよう》において極端《きよくたん》にまで流《なが》れた喇嘛教《らまきよう》の崇拜《すうはい》の基《もとゐ》はこゝに開《ひら》かれました。そして蒙古人《もうこじん》は現在《げんざい》でも喇嘛教《らまきよう》の信者《しんじや》でありますが、その風《ふう》もこゝから發《はつ》したわけなのです。世祖《せいそ》はこの拔思巴《ばすぱ》に命《めい》じて、蒙古《もうこ》の文字《もじ》を作《つく》らせました。蒙古人《もうこじん》のための文字《もじ》です。蒙古《もうこ》では前《まへ》にはウイグル文字《もじ》を用《もち》ひてゐましたが、世祖《せいそ》は拔思巴《ばすぱ》に命《めい》じて、これを改良《かいりよう》せしめ、新《あらた》に蒙古《もうこ》文字《もじ》を作《つく》らせたのです。これをまた拔思巴《ばすぱ》文字《もじ》とも申《まを》します。しかし文字《もじ》を創《つく》つた北方《ほつぽう》民族《みんぞく》は、ひとりこの蒙古《もうこ》のみではありません。
 宋《そう》に對立《たいりつ》してゐた遼《りよう》は、まづ自分《じぶん》の國《くに》の文字《もじ》を作《つく》つたのでした。だいたい漢字《かんじ》にまねて作《つく》つたのでしたが、とにかく自分《じぶん》の文字《もじ》として作《つく》つたのです。それについで西夏《せいか》も、また遼《りよう》に代《かは》つた金《きん》もみなそれ/″\自國《じこく》の文字《もじ》を作《つく》りました。今《いま》申《まを》した蒙古《もうこ》もさうです。
 從來《じゆうらい》の北方《ほつぽう》の未開《みかい》民族《みんぞく》にしてみれば、たとひ政治的《せいじてき》には漢民族《かんみんぞく》を征服《せいふく》したにしても、文化的《ぶんかてき》には逆《ぎやく》に漢人《かんじん》に征服《せいふく》されてしまつて、たとへば文字《もじ》にしたところで漢字《かんじ》をすぐ採用《さいよう》したのでした。ところがこの頃《ごろ》[#「ごろ」は底本のまま]になりますと、遼《りよう》、金《きん》、西夏《せいか》、蒙古《もうこ》などいづれも一《いち》も二《に》もなく漢字《かんじ》を採用《さいよう》するといふことなく、やはり自分《じぶん》の方《ほう》では自分《じぶん》の文字《もじ》を持《も》つといふところに漢文化《かんぶんか》に幾分《いくぶん》なりとも對抗《たいこう》して行《ゆ》かうとするところが見《み》えるのです。こゝにおいても北方《ほつぽう》民族《みんぞく》が漢民族《かんみんぞく》に對《たい》する氣持《きも》ちのうつり行《ゆ》きが考《かんが》へられ、北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の優越《ゆうえつ》といふことも考《かんが》へ合《あは》せて意味《いみ》のふかいことです。(つづく)



底本:『東洋歴史物語 No.7』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
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xxxx年xx月xx日作成
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [満州]
  • 満州・満洲 まんしゅう 中国の東北一帯の俗称。もと民族名。行政上は東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国では東北と呼ぶ。
  • 渤海 ぼっかい 8〜10世紀、中国東北地方の東部に起こった国。高句麗の遺民ともいわれる大祚栄が靺鞨族を支配して建国。唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて栄え、727年以来しばしば日本と通交。15代で契丹に滅ぼされた。都は上京竜泉府(黒竜江省寧安市)以下の5京があった。(698〜926)
  • 臨�L りんこう → 臨�L府か
  • 臨�L府 りんおうふ 遼(契丹)の五京の一。太祖が918年建設して皇都とし、太宗は937年国号を遼と改め、938年、上京臨�L府とした。金国は1138年これを北京と改称したが、のちに臨�L府の名に復した。金国の滅亡後この地も衰えた。いま熱河の林西県の西にあたり、臨�L水のほとりにある遺跡波羅城(Boro Hotun)がそれである。(東洋史)
  • 粟末水 ぞくまつすい → 松花江
  • 松花江 しょうかこう (Songhua Jiang)中国東北部の大河。朝鮮国境の長白山頂の天池に発源し、黒竜江に合する。全長1840km。哈爾浜(ハルビン)より下流は船が通じ、運輸・交通に利用する。満州語名のスンガリーは「天の河」の意。
  • 忽干城 こっかんじょう
  • 雲燕 うんえん → 燕雲十六州
  • 燕雲十六州 えんうん じゅうろくしゅう 五代の後晋の石敬�が遼に割譲した長城以南の河北・山西の一部の地方。燕は今の北京に当たる。遼や金が宋へ侵入する前進基地となった。
  • 黒水 こくすい 黒龍江のほとり。
  • 黒龍江 こくりゅうこう (Heilong Jiang)中国東北地区の北境、シベリアの南東部を東流して、間宮海峡に注ぐ大河。南は内モンゴルのアルグン河、北はモンゴルのオノン河を源流とし、松花江・ウスリー江を合わせ、長さ6237km。別称アムール川。
  • [朝鮮]
  • 朝鮮 ちょうせん (Choson; Korea)アジア大陸東部の大半島。南北に細長く突出し、南は朝鮮海峡を挟んで日本に対し、北は鴨緑江・豆満江を隔てて中国東北部およびシベリアに接している。面積22万平方km。ほぼ単一の朝鮮民族が住む。檀君・箕氏神話に反映される古朝鮮の時代の後、前2世紀初め衛氏朝鮮となったが、前108年漢の武帝はこれを滅ぼし、楽浪・臨屯・真番・玄菟の四郡をおいた。南部には韓族がおり馬韓・弁韓・辰韓の三部数十国に分かれていた。4世紀中ごろ高句麗・新羅・百済・伽耶が対立、7世紀に至り新羅が統一、10〜14世紀は高麗、14世紀以降は李氏朝鮮がこれをつぎ、いずれも中国に朝貢。のち日清・日露戦争によって日本が植民地化を進め、1910年日本に併合された(韓国併合)が、日本の敗戦により解放。北緯38度線を境に、48年8月南部に大韓民国が、9月北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮の異称・雅号として青丘・鶏林・海東・槿域などがある。
  • 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
  • 高麗 こうらい (1) 朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。高麗。(918〜1392)(2) 高句麗。また、一般に朝鮮の称。
  • 開城 かいじょう/ケソン (Kaesong)朝鮮民主主義人民共和国南西部の直轄市。高麗朝の首都で、当時創建の古建築が多い。近年、工業団地が造成される。人口33万4千(1993)。
  • [陝西省]
  • 長安 ちょうあん 中国陝西省西安市の古称。洛陽と並んで中国史上最も著名な旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄。西京。
  • [広東省]
  • 広州 こうしゅう (Guangzhou)中国広東省の省都。珠江デルタ北部に位置し、古来中国南部最大の貿易港。華南地域の経済・交通の中心。人口852万5千(2000)。別称、穂・羊城。カントン。
  • �山島 がいざんとう → �山
  • �山 がいざん 広東省新会県の南、珠江デルタの中にある小島。南宋朝滅亡の場所。1279年、張広範の率いる元軍が、この地に拠った南宋軍を破り、幼帝、衛王趙�Oが陸秀夫に抱かれて入水した。
  • [福建省]
  • 泉州 せんしゅう (Quanzhou)中国福建省南東部の港湾都市。マルコ=ポーロはザイトンの名で西洋に紹介。唐代から元代まで南海貿易の中心として栄え、華僑の出身地としても知られる。人口119万2千(2000)。
  • [浙江省]
  • 抗州 こうしゅう → 杭州
  • 杭州 こうしゅう (Hangzhou)中国浙江省の省都。杭州湾および銭塘江河口に間近く古来外国貿易で栄え、大運河の南端で、水陸交通の要地。南宋の首都(臨安)。西湖に臨む景勝地。伝統的な絹・手工芸品のほか、各種工業が発達。マルコ=ポーロはキンザイ(行在)の名で西洋に紹介。人口245万1千(2000)。
  • 臨安 りんあん 南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で、「行在」とも称した。
  • [河北省]
  • 開平 かいぴん/かいへい (Kaiping)中国河北省の都市。京瀋鉄道に沿い、付近に開�b炭鉱がある。
  • [河南省]
  • 開封 かいほう (Kaifeng)中国河南省中部の都市。黄河の南方平野にあり隴海鉄道に沿う。戦国時代の魏の都(大梁)、五代の後梁の都(東都)、後晋・後漢・後周・宋の都(東京)、金の都(�京・南京)となる。民国時代の省都。絹の刺繍は特産。人口79万6千(2000)。
  • [内モンゴル自治区]
  • 内蒙古 うちもうこ/ないもうこ モンゴルのゴビ砂漠以南の地。うちもうこ。
  • シラムレン川 Sira-muren 遼寧省の興安嶺に源を発し、東流してラオハ(老哈)川を合わせ、西遼川に注ぐ川。蒙古語で黄色い川の意。流域には鮮卑族が興亡し、とくに契丹族の遼は河畔に都をおいた。(東洋史)
  • オルドス 鄂爾多斯・Ordos 中国内モンゴル自治区の一部、黄河の湾曲部に囲まれた部分で長城以北の地域。古くは河南と呼ばれたが、明末、蒙古オルドス部がこの地を占拠して以来オルドスと称。1635年、清の支配下に入る。河套。
  • [雲南省]
  • 雲南 うんなん (Yunnan)中国南西部の省。貴州・広西の西、四川の南に位置する高原地帯で、ミャンマー・ラオス・ベトナムと国境を接する。省都は昆明。20余の少数民族が住み、中国で民族の種類が最も多い省。面積39万平方km。略称、雲。別称、�@。
  • [寧夏回族自治区]
  • 六盤山 ろくばんざん 寧夏回族自治区固原地区にある山名。チンギス=カンが病没した地。元代では軍事上の要地とされ、四川・陝西地方に事変がおこると、つねにここを出陣の基地とした。(東洋史)
  • [モンゴル]
  • 蒙古 もうこ (Mongolia)(→)モンゴルに同じ。
  • モンゴル Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • 外蒙古 そともうこ  → がいもうこ
  • 外蒙古 がいもうこ モンゴルのゴビ砂漠以北の地。そともうこ。
  • モンゴル国 モンゴル こく 外モンゴルの大部分を占める共和国。1921年中国より離れ、はじめ活仏を元首とする君主国を樹立、24年共和制とし、18の部(アイマク)で構成、モンゴル人民共和国となり、92年現名に改称する。首都はウラン‐バートル。面積156万平方km。人口250万(2003)。
  • オノン川 Onon・斡難 黒竜江上流のシルカ川の支流。モンゴルのヘンティーン山脈に発源し、北東流してシベリアに入り、シルカ川に注ぐ。長さ1032km。
  • ケルレン川 Kerulen Gol 源を肯特山脈(Kentei Mts.)に発し、黒竜江省のホロン=ノールに注ぐ。全長920km。流域は牧草に富み、古来蒙古人の根拠地となる。チンギス=カンはこの付近に大オルドを建て、明の永楽帝、清の康熙帝らも、蒙古親征にあたってこの河畔に馬をすすめている。(東洋史)
  • 燕京 えんけい 中国、遼・金代の北京の呼称。
  • 北平 ペーピン → 燕京
  • 北京 ペキン (Beijing; Peking)中華人民共和国の首都。河北省中央部に位置し、中央政府直轄市。遼・金・元・明・清の古都で、明代に至り北京と称し、1928年南京(ナンキン)に国民政府が成立して北平(ペーピン)と改称、49年北京の称に復す。政治・文化・教育・経済・交通の大中心地。面積1万7000平方km。人口1151万(2000)。
  • 黄河 こうが (Huang He)(水が黄土を含んで黄濁しているからいう)中国第2の大河。青海省の約古宗列盆地の南縁に発源し、四川・甘粛省を経て陝西・山西省境を南下、汾河・渭河など大支流を合わせて東に転じ、華北平原を流れて渤海湾に注ぐ。しばしば氾濫し、人民共和国建国後に大規模な水利工事が行われた。近年下流部で水量の減少が著しい。全長5464km余。流域は中国古代文明の発祥地の一つ。河。
  • 中央アジア ちゅうおう- ユーラシア大陸中央部の乾燥地帯。西はカスピ海、北はシベリア平原、東はアルタイ山脈、南はヒンズークシ・崑崙両山脈に囲まれた、パミールを中央とする地域をさす。古代から遊牧とオアシス農業、シルクロードによる隊商の中継貿易がおこなわれ、数多くの国家が交替。現在は中国の新疆ウイグル自治区、カザフスタン・ウズベキスタン・キルギス・トルクメニスタン・タジキスタンの五か国、アフガニスタンの北部とに分かれる。
  • パミール Pamir 中央アジア南東部の地方。チベット高原の西に連なり、標高7000m級の高峰を含む諸山系と高原とから成り、世界の屋根といわれる。大部分はタジキスタンに含まれる。葱嶺。
  • 天山南路 てんざん なんろ 中国新疆ウイグル自治区の天山山脈以南の地域。崑崙・天山二大山脈間の盆地。古く東西交通の要路。東トルキスタン。
  • 天山山脈 てんざん さんみゃく 中央アジアにあって、西はキルギス、東は中国領にわたる多くの山脈の集まり。延長2450km。最高はポベーダ峰(7439m)。
  • 突厥 とっけつ (Turkut)トルコ系の遊牧民。また、その遊牧民が支配した国。6世紀中葉、アルタイ山麓に起こり、柔然の支配を破って独立、伊利可汗と称し、モンゴル高原・中央アジアに大遊牧帝国を建設。6世紀後半、東西に分裂し、630年以後前後して唐に征服されたが、682年東突厥が復興し(突厥第二帝国)、744年ウイグルに滅ぼされた。東アジア遊牧民最初の文字を残した。
  • ホラズム Khorazm・花剌子模 中央アジアのアム河下流域の古称。またその地を中心とした王朝。10世紀末、サーマーン朝から独立したが、1220年ジンギス汗に敗れ、31年滅亡。コラズム。フワーリズム。
  • サマルカンド Samarkand・撒馬児干 中央アジア、ウズベキスタン共和国の東部、中央アジア最古の都市。隋・唐時代の康国。のちティムール帝国の都。人口36万1千(2001)。
  • 欽察部 キプチャクぶ → キプチャク=カン国
  • キプチャク=カン国 Qipchaq Khan 国 欽察汗国(金帳汗国)。キプチャク高原(カザーフスタン)に指定されたジュチ所領地がその子バトゥのヨーロッパ遠征によって南ロシアにまで発展した結果、13世紀中ごろサライを首都として出現したジュチ後王の帝国。一族を白帳汗、青帳汗に封じ、金帳汗とよばれたバトゥの子孫がこれを統轄した。この汗国は14世紀前半にいたって最盛期を迎えたが、まもなくティムール帝国の圧迫をこうむり、以後内に政権の争いを生じ、外にモスクワ公国の台頭をひかえて衰退の一路をたどり、16世紀早々をもって解体した。(東洋史)
  • 喀剌和林 カラコルム 哈剌和林?
  • カラコルム Kharakhorum モンゴル帝国の太宗・定宗・憲宗時代の首都。オルホン河の右岸、モンゴル国中部のエルデニジョーにその遺跡がある。哈剌和林。和林。和寧。
  • カラコルム Karakorum チベット高原とパミール高原との間にあり、北は崑崙山脈、南はヒマラヤ山脈に続く山脈。7千m以上の高峰が多く、最高峰はK2(8611m)。古来パミールと共に葱嶺と称した。
  • 蔡州 さいしゅう
  • [チベット]
  • チベット Tibet・西蔵 中国四川省の西、インドの北、パミール高原の東に位置する高原地帯。7世紀には吐蕃が建国、18世紀以来、中国の宗主権下にあったが、20世紀に入りイギリスの実力による支配を受け、その保護下のダライ=ラマ自治国の観を呈した。第二次大戦後中華人民共和国が掌握、1965年チベット自治区となる。住民の約90%はチベット族で、チベット語を用い、チベット仏教を信仰する。平均標高約4000mで、東部・南部の谷間では麦などの栽培、羊・ヤクなどの牧畜が行われる。面積約123万平方km。人口263万(2005)。区都ラサ(拉薩)。
  • [インド]
  • [イラン]
  • イラン Iran 西南アジア、カスピ海の南に位置するイスラム共和国。旧称ペルシア。1935年改称。79年までは王制。砂漠・荒地が多い。世界屈指の産油国。住民の大半はペルシア人でイスラム教シーア派を信じ、公用語は現代ペルシア語。面積163万3000平方km。人口6748万(2004)。首都テヘラン。
  • ペルシャ/ペルシア Persia・波斯 (イラン南西部の古代地名パールサParsaに由来)イランの旧称。アケメネス朝・ササン朝・サファヴィー朝・カージャール朝などを経て、1935年パフレヴィー朝が国号をイランと改めた。
  • 波斯 はし 中国におけるペルシアの古称。波斯国。
  • カルカ川 karkheh → カルケー川
  • カルケー川 イラン南西部、クルディスターン地方の川。ザクロス山脈に源を発して南流し、イラク国境付近でティグリス川下流の湿地帯に入る。古称コアスペス(Choaspes)川。全長322km。(地名コン)
  • [東ローマ]
  • エフェソス Ephesos トルコ西海岸の都市。431年公会議がここで開かれ、ネストリオス説が異端とされた。エペソ。
  • 地中海 ちちゅうかい (Mediterranean Sea)ヨーロッパ南岸・アフリカ北岸およびアジア西岸に挟まれた海。東西3500km、南北1700km、面積297万平方km、日本海の約3倍。古代にはエジプト・フェニキア・ギリシア・ローマが相次いで支配、いわゆる地中海文化を形成。
  • [ヨーロッパ]
  • 欧州 おうしゅう 欧羅巴(ヨーロッパ)州の略。
  • ヨーロッパ Europa・欧羅巴 (ギリシア語のEuropeから)六大州の一つ。ユーラシア大陸の西部をなす半島状の部分と、それに付属する諸島とから成り、面積約1050万平方km。人口約7億2600万(1995)。北は北極海、西は大西洋に臨み、南は地中海を距ててアフリカ大陸に対し、アジアとは東はウラル山脈、南東はカフカス山脈・黒海・カスピ海で境を接する。ギリシア・ローマの高度古代文明を経て、中世の約千年間キリスト教的統一文明圏を形成。イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・ロシアなど約40の独立国に分かれる。エウロパ。欧州。
  • [ロシア]
  • 阿羅思 おろす ロシア。
  • オロス 俄羅斯 ロシアの異称。オロシャ。
  • ロシア Rossiya・露西亜 ヨーロッパ東部からシベリア・極東に及ぶ、スラヴ民族を中心とする国。862年ノヴゴロド公国の成立に始まり、10世紀にはキエフ公国が栄え、13世紀モンゴル人に征服されたが、1480年モスクワ大公国が独立。ツァーリの専制権力を強化し、17世紀以降300年余りロマノフ王朝の絶対主義支配が続いたが、1917年の革命を経て、22年ソビエト社会主義共和国連邦が成立、同連邦内のロシア‐ソビエト連邦社会主義共和国となる。91年のソ連解体で独立。
  • 裏海 りかい (1) うちうみ。内海。(2) カスピ海の別称。
  • カスピ海 カスピ かい (Caspian Sea)世界最大の湖。ロシア南部・カザフスタン南西部からイラン北部にかけて広がる中央アジアの西部にある。塩湖。ヴォルガ川などが流入。湖底油田がある。面積37万4000平方km。水面高度は海面より28m低い。最大深度1025m。裏海。
  • モスクワ Moskva ロシア連邦の首都。ヨーロッパ‐ロシアの中央に位置し、ヴォルガ川支流のモスクワ川に臨む。ロシアの政治・経済・文化の中心で、機械工業が発達。市街はクレムリン宮殿を中心として放射状に発達。大学・芸術座のほか、ウスペンスキー聖堂(15世紀)などのロシア正教の教会堂、トレチャコフ美術館・プーシキン美術館などがある。人口1040万7千(2004)。英語名モスコー。
  • [ウクライナ]
  • キエフ Kiev ウクライナの首都。ドニエプル川中流に位置する。東スラヴ最古の都市の一つで、キエフ公国の首都として繁栄。ソフィア大聖堂などの建築物群は世界遺産。人口256万7千(2001)。
  • [ハンガリー]
  • ハンガリー Hungary・洪牙利・匈牙利 中部ヨーロッパに位置する共和国。ドナウ川中流のハンガリー盆地を中心とし、面積9万3000平方km。人口1010万7千(2004)。9世紀末マジャール人が定着、11世紀初め王国を建設。1867年オーストリア‐ハンガリー帝国、1918年共和国、20年再び王制、46年共和制。2004年EU加盟。農畜産業と食品・化学工業が発展。首都ブダペスト。
  • [ポーランド]
  • ポーランド Poland・波蘭 中部ヨーロッパの共和国。9世紀には王国を成し、中世後期には勢威を振るったが、近世初期から衰え、3次にわたってロシア・オーストリア・ドイツ3国に分割され、1815年ロシア領に編入、1918年独立。39年第二次大戦の当初ドイツ軍が侵入、ソ連軍も分割占領した。45年ソ連軍によって解放され、独立を回復。ポーランド統一労働者党が指導権を掌握し、52年人民共和国となる。89年の東欧民主化のなかで、非共産勢力による政権が発足。2004年EU加盟。工業・農業・畜産業が盛んで、石炭を始めとする鉱物資源も豊富。面積32万3000平方km。人口3818万(2004)。そのほとんどは西スラヴ系ポーランド人で、カトリック教徒が圧倒的に多い。首都ワルシャワ。
  • ヴァールシュタット → ワールシュタット
  • ワールシュタット Wahlstatt シュレジェン南西のリーグニツ(Liegnitz、レグニツァ。現、ポーランド南西部レグニツァ州)の南東。ワールシュタットの戦い、あるいはリーグニツの戦いともいう。1241年4月9日、バイダルの指揮するバトゥ麾下のモンゴル軍団がシュレジエン公ハインリヒ2世のドイツ・ポーランド軍を破った戦い。(地名コン、世界大百科)
  • [イラク]
  • バグダッド/バグダード Baghdad イラク共和国の首都。8世紀に建設、以後イスラム帝国の発展と共に繁栄。1258年モンゴル軍の破壊で衰退、20世紀に再び発展。チグリス川中流に臨み、西アジアの商業の要地。人口384万1千(1987)。バグダッド。
  • [シリア]
  • サラセン帝国 -ていこく 7世紀中頃から13世紀中頃にかけて、西アジア、北アフリカ、南ヨーロッパの広大な地域を支配したイスラム教徒(サラセン人)の諸帝国。元首はムハンマド(マホメット)の後継者、カリフ。東方ではメディナに都した正統カリフの時代(632〜661)、ダマスカスに都し、ビザンツ文化の影響の濃いウマイヤ朝(661〜750)バグダードに都し、ペルシア文化色豊かなアッバース朝(東カリフ=750〜1258)と続いたが、1258年、蒙古軍によって滅ぼされた。のち16世紀にはオスマントルコ、サファビー朝、ムガル帝国の三帝国となった。なお、コルドバに都してスペインを支配した後ウマイヤ朝(西カリフ=756〜1031)もまたサラセン帝国に含まれる。サラセンは、中世ヨーロッパでの呼称。イスラム帝国。
  • サラセン Saracen ヨーロッパで、古くはシリア付近のアラブの呼称。のちイスラム教徒の総称。ウマイヤ朝やアッバース朝はサラセン帝国と呼ばれた。唐名、大食(タージ)。
  • シリア Syria (1) 地中海東岸一帯の地域の総称。現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルを含む。古くはフェニキア人の活動やキリスト教成立の舞台。7世紀、ウマイヤ朝の中心。16世紀以降オスマン帝国の属領、第一次大戦後英仏両国の委任統治領であった。(2) 西アジアの地中海に面するアラブ共和国。シリア (1) の北半部を占める。フランス委任統治領から1946年独立。面積18万5000平方km。人口1798万(2004)。首都ダマスカス。
  • アラビア Arabia・亜剌比亜・亜拉毘亜 アジア大陸南西端、インド洋に突出する世界最大の半島。紅海を隔ててアフリカと対し、面積270万平方km。住民はアラブ人で、イスラム教徒。
  • [ベトナム]
  • 交趾・交阯 こうち/コーチ (1) 現在のベトナム北部トンキン・ハノイ地方の古称。前漢の武帝が南越を滅ぼして交趾郡を設置した。こうし。(2) 12世紀頃までの中国で、ベトナム人居住地域を漠然と呼んだ称。
  • 安南 アンナン Annam 中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。
  • サイゴン Saigon・西貢・柴棍 ホーチミン市の旧称。
  • [ビルマ]
  • ビルマ Burma・緬甸 東南アジア大陸部西部の国。ミャンマー連邦の旧称。
  • [カンボジア]
  • カンボジア Cambodia・柬埔寨 インドシナ半島南東部の国。1世紀以来扶南、7世紀以来真臘と称した。1863年フランスの保護国。1953年立憲王国として独立。75年国名を民主カンボジアと改称。78年以来の内戦の後、93年カンボジア王国が成立。面積18万1000平方km。人口1309万(2004)。住民の大部分はクメール人で仏教徒。言語はカンボジア語。首都プノンペン。カンプチア。
  • [南海諸国]
  • 南海 なんかい 中国史でいわゆる南洋をさす語。本来は中国の南方にある海を意味し、南シナ海をさす。転じてその沿海地方・インドシナ半島・マライ半島・フィリピン群島・インドネシアなどをさすようになり、さらにこれを通じて中国と交渉をもったインド洋・ペルシア湾・アラビア海・紅海などの沿海地方をも含めて呼ぶ言葉にもなった。(東洋史)
  • ジャヴァ → ジャワ
  • ジャワ Java・爪哇・闍婆 東南アジア大スンダ列島南東部の島。インドネシア共和国の中心をなし、首都ジャカルタがある。17世紀オランダによる植民地化が始まり、1945年まで同国領。面積は属島マドゥラを合わせて13万平方km。ジャヴァ。
  • スマトラ Sumatra 東南アジア、大スンダ列島の北西端にある島。シュリーヴィジャヤなど多くの王国が興亡、のちオランダ領。1945年独立を宣言、インドネシア共和国の一部となった。面積43万平方km。主な都市はメダン・パレンバン。
  • [日本]
  • 壇の浦 だんのうら 壇ノ浦。山口県下関市、早鞆瀬戸に臨む海岸。源平合戦最後の戦場。長門壇ノ浦。
  • 壇ノ浦の戦 だんのうらの たたかい 元暦2(文治1)年(1185)3月24日、長門壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将とし、激戦の後に平氏は全滅し、二位尼は安徳天皇を抱いて入水した。
  • 博多 はかた 福岡市東半部の地名。博多湾に面した港町・商業都市として発展。西隣の城下町福岡とともに、現在の福岡市の中心部を形成。古く官家が置かれて諸国の屯倉からの穀を収め、また朝鮮半島との交通の要衝として開けた。古名、那大津・那津。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表

  • 南北朝 なんぼくちょう 南北朝時代。中国で、439年北魏が華北を統一、江南の宋と対立してから、589年隋が陳を滅ぼすまでの時代。すなわち、漢人の南朝と鮮卑族の北朝が南北に対立した約150年間の称。
  • 安史の乱 あんしの らん 755〜763年、唐の玄宗の末年から起こった安禄山父子・史思明父子の反乱。鎮圧されたが、乱後、節度使の自立化が進み、唐は衰退に向かった。
  • 唐 とう 中国の王朝。李唐。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。(618〜907)
  • 五代 ごだい 唐と宋の間に、華北に興亡した「後梁」・「後唐」・「後晋」・「後漢」・「後周」の5王朝。(907〜960)
  • 後梁 こうりょう 五代の最初の国。節度使朱全忠が唐を滅ぼして建てた国。都は東都(河南開封)、のち洛陽。2世で後唐の李存勗に滅ぼされた。(907〜923)
  • 後唐 ごとう/こうとう 中国、五代の一国。突厥出身の李存勗が後梁を滅ぼして建てた国。都は洛陽。4世でその臣石敬�に滅ぼされた。ごとう。(923〜936)
  • 後晋 ごしん/こうしん 中国、五代の一国。石敬�が後唐を滅ぼして建てた国。都は東京(河南開封)。2世で遼に滅ぼされた。晋。ごしん。(936〜946)
  • 後漢 ごかん/こうかん 五代の一国。後晋の将劉知遠が建国。都は東京(開封)。2世で後周に滅ぼされた。ごかん。(947〜950)
  • 後周 ごしゅう/こうしゅう 五代の最後の王朝。郭威が後漢を滅ぼして建てた国。都は東京(開封)。3世で宋の趙匡胤に滅ぼされた。周。ごしゅう。(951〜960)
  • 遼 りょう 契丹族が中国東北部を中心に建てた国。始祖耶律阿保機が契丹族を統一、さらに党項(タングート)・吐谷渾を征し、渤海を滅ぼし、太宗の時に後晋から燕雲十六州をとりあげ、947年国を遼と号した。9世で滅亡。(916〜1125)
  • 西夏 せいか 李元昊が、宋代に甘粛省およびオルドス地方に建てた国。大夏と自称。都は興慶(銀川)。中心はチベット系タングート(党項)族。宋・遼・金と和平・抗争を繰り返して最後にモンゴルに滅ぼされた。文化は中国文化・西方文化の混融したもので、仏教が栄え、独自の西夏文字を有した。(1038〜1227)
  • 金 きん 中国東北部の女真族完顔部の首長阿骨打(アクダ)の建てた国。遼・北宋を滅ぼし、東北・内モンゴル・華北を支配。都は初め会寧(黒竜江省阿城市)、後に燕京・�京。女真文字を作った。9世でモンゴル軍に滅ぼされた。(1115〜1234)
  • 西遼 せいりょう カラキタイの別称。遼と区別していう。
  • カラキタイ Qara-Khitai・黒契丹 遼の王族耶律大石が遼滅亡の際に中央アジアに建てた国。トルコ系のナイマン部に滅ぼされた。西遼。(1132〜1211)
  • 靖康の難 せいこうのなん → 靖康の変
  • 靖康の変 せいこうの へん 北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻撃につづいて都の開封を陥れ、徽宗・欽宗らをはじめとする3000人余を捕虜として北方に拉致した事件。宋朝が南遷する原因となった。
  • 南宋 なんそう 「宋(3) 」参照。
  • 宋 そう (3) 中国、後周の将軍趙匡胤が建てた王朝。�(開封)に都し、文治主義による官僚政治を樹立したが、外は遼・西夏の侵入に悩まされ、内は財政の窮迫に苦しみ、1127年金の侵入により9代で江南に逃れた。これまでを北宋といい、以後、臨安(杭州)に都して、9代で元に滅ぼされるまでを南宋という。(960〜1276)
  • 元 げん 中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃を降し、安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。大元。(1271〜1368)
  • 文永の役 ぶんえいの えき → 「元寇」参照。
  • 弘安の役 こうあんの えき → 「元寇」参照。
  • 元寇 げんこう 鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件。元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの兵10万を送ったが、2度とも大風が起こって元艦の沈没するものが多かった。蒙古襲来。文永・弘安の役。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 太宗 たいそう 中国の王朝で、その勲功や徳行が太祖に次ぐ皇帝を称する廟号。唐の李世民、宋の趙匡義、元の窩闊台(オゴタイ)、清の皇太極(ホンタイジ)など。
  • 李世民 り せいみん 598-649 唐の第2代皇帝。太宗。高祖李淵の次子。玄武門の変で兄弟を殺し、父高祖に迫り譲位させて即位。天下統一を完成し、律令を整備、いわゆる貞観の治をしいて、唐朝支配の基礎を固めた。(在位626〜649)
  • 李白 り はく 701-762 盛唐の詩人。四川の人、また砕葉(キルギス共和国のトクマク付近)の生れともいう。母が太白星(金星)を夢みて生んだので太白を字としたと伝える。号は青蓮(居士)。謫仙人とも称された。酒を好み奇行多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に座して流罪となったが途中で恩赦。最後は酔って水中の月を捕らえようとして溺死したという。その詩は天馬行空と称され、絶句と長編古詩を得意とした。杜甫と共に李杜と併称され、詩仙とも呼ばれる。詩文集「李太白集」30巻がある。
  • 杜甫 と ほ 712-770 盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。鞏県(河南鄭州)の人。先祖に晋の杜預があり、祖父杜審言は初唐の宮廷詩人。科挙に及第せず、長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇。一時左拾遺として宮廷に仕えたが、後半生を放浪のうちに過ごす。その詩は格律厳正、律詩の完成者とされる。社会を鋭く見つめた叙事詩に長じ、「詩史」の称がある。李白と並び李杜と称され、杜牧(小杜)に対して老杜という。工部員外郎となったので、その詩集を「杜工部集」という。
  • 白楽天 はく らくてん 白居易。楽天はその字。
  • 白居易 はく きょい 772-846 中唐の詩人。字は楽天、号は香山居士。下※[#「圭+おおざと」、U+90BD](陝西渭南)の人。その詩は流麗で平易、広く愛誦され、日本の平安朝文学にも多大の影響を与えた。「長恨歌」「琵琶行」など最も人口に膾炙し、「白氏文集」の著のほか、社会の矛盾を指弾した「新楽府」50首がある。
  • ゾロアスター Zoroaster ?-? ゾロアストル。古代ペルシアの宗教家、予言者。ゾロアスター教の開祖。生存年代は不明であるが、前7世紀中頃から前6世紀後半とされる。ツァラトゥストラ。
  • 武宗 ぶ そう 814-846 唐の15代皇帝。李炎。道教を信じて、仏教を排斥。(在位840〜846)
  • マニ Mani 216-274 バビロニアの生まれ。ササン朝のシャープール一世即位に際し新宗教を提唱した。創始当時はササン朝でも認められ、宮廷内にも信徒を得たが、ゾロアスター教から異端として迫害され、マニもペルシアを出国し、のち剥皮の刑に処せられ、経典類も焼き払われた。しかし、彼の在世中から死後を通じてマニ教は、西ではシリアからエジプト・北アフリカに渡り、4世紀以後はスペイン・南フランス・イタリアにもおよび、東方ではトルキスタン・中央アジア方面に流行し、7世紀末には唐まで渡った。(東洋史)
  • 則天武后 そくてん ぶこう 624頃-705 唐の高宗の皇后。姓は武。中宗・睿宗を廃立、690年自ら即位、則天大聖皇帝と称し、国号を周と改めた(武周)。その老病に及び、宰相張柬之に迫られて退位、中宗が復位、唐の国号を復した。武則天。武后。(在位690〜705)
  • ネストリウス/ネストリオス Nestorios ?-451頃 コンスタンチノープルの司教。イエス=キリストの神性に対し人性を強調し、マリアの「神の母」の称号を否認したために431年司教の座を追われ、異端の宣告を受けた。エジプトに客死。
  • オロバン → アラボン
  • アラボン 阿羅本 ?-? 7世紀に中国へはじめてネストリウス派のキリスト教(景教)を伝えた大秦国の僧侶。大秦景教流行中国碑によれば、635年唐の都長安に到着し、太宗の命をうけた宰相房玄齢・魏徴らに迎えられ、内殿に入って教義をのべた。ついで638年7月、詔をうけて長安義寧坊に大秦寺を建立し、僧21人を度して訳経宣教を公許された。さらに高宗のころには各地に寺院を建立し、鎮国大法主の号を賜り、唐代における景教の中心者となった。(東洋史)
  • 景浄 けいじょう ?-? 8世紀後半に長安大秦寺に住した景教の僧侶。本名はアダム。唐の皇帝に命じられて多数の経典のなかより、とくに30種をえらんで翻訳した。そのうち、敦煌文書の中には「景教三威蒙度讃」が残り、仏教の「大乗理趣六波羅密多経」の訳出の援助をした。また、大秦景教流行中国碑文の撰者として知られる。(東洋史)
  • 老子 ろうし ?-? 中国、春秋戦国時代にいたとされる思想家。道家の祖。史記によれば、姓は李、名は耳、字はまたは伯陽。楚の苦県�郷曲仁里(河南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。乱世を逃れて関(函谷関または散関)に至った時、関守の尹喜が道を求めたので、『老子』を説いたという。
  • 朱全忠 しゅ ぜんちゅう 852-912 五代、後梁の太祖。名は温。全忠は唐の僖宗より賜った名。安徽e山の人。初め黄巣の部下、唐に降り節度使。哀帝に迫って位を譲らせ、東都開封府に都して国号を梁と称。次子の朱友珪に殺された。(在位907〜912)
  • 耶律阿保機 やりつ あぼき 872-926 遼(契丹)の太祖。汗位につき、契丹の八部を統一、東西の諸部族を従え、大聖大明天皇帝を称し、中国本土に侵入。また、渤海国を滅ぼす。漢人を登用し、国力をたくわえた。(在位916〜926)
  • 太祖 たいそ → 耶律阿保機
  • 大祚栄 だい そえい ?-719 渤海国の建国者。高王。高句麗人説と靺鞨人説とがある。唐の則天武后の時、松花江上流の粟末靺鞨族の支配者となり、698年自立して震国王と称。713年唐より渤海郡王に封ぜられ、国号を渤海と改めた。(在位698〜719)
  • 聖武天皇 しょうむ てんのう 701-756 奈良中期の天皇。文武天皇の第1皇子。名は首。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。(在位724〜749)
  • 大江朝綱 おおえ ともつな → おおえの あさつな、か
  • 大江朝綱 おおえの あさつな 886-957 『国語大辞典』は「あさつな」。/平安中期の貴族・学者。中国古典に精通、村上天皇の勅命により「新国史」を撰進。民部大輔・文章博士・左大弁を歴任、参議に昇る。祖父音人の江相公に対して後江相公と称する。著「後江相公集」
  • 趙匡胤 ちょう きょういん 927-976 宋の太祖。河北�郡の人。後周の禁軍(親衛隊)の長で節度使を兼ねていたが、幼主恭帝の時、部下に擁立され、開封に入り、帝位につき、国号を宋と称した。文治主義の方針を樹立、中央集権体制を確立、皇帝権を強化。(在位960〜976)
  • 趙普 ちょうふ 922-992 北宋の功臣。趙匡胤の推戴運動の中心者で、のち宰相。性は剛毅果断、文治主義の基礎を固めた。
  • 聖宗 せいそう 971-1031 遼の6代皇帝。在位982-1031。姓名耶律隆緒。景宗の長子。12歳で即位。母后の摂政のもと、中央集権制をおこない、国力の充実をはかった。高麗、西域のウイグルなどの朝貢を受け、宋朝とは「�T淵の盟」を結んで文化・経済の交流をおこない、遼朝の基礎を築いた。
  • 神宗 しん そう 1048-1085 北宋第6代の皇帝。英宗の長子。財政再建・富国強兵をはかり王安石を登用して新法を断行。(在位1067〜1085)
  • 王安石 おう あんせき 1021-1086 北宋の政治家。字は介甫、号は半山、諡は文。撫州臨川(江西省撫州市)の人。神宗の信任を得て宰相となり、科挙改革・学制改革のほか青苗法・均輸法・市易法・募役法などの経済政策からなる新法を実施した。唐宋八大家の一人。著「周官新義」「臨川先生文集」など。
  • 司馬光 しば こう 1019-1086 北宋の政治家・学者。字は君実。水先生と称された。山西夏県の人。神宗の時、翰林学士・御史中丞。王安石の新法の害を説いて用いられず政界を引退、力を「資治通鑑」の撰述に注いだ。哲宗の時に執政、旧法を復活させたが、数カ月で病没。太師温国公を賜り司馬温公と尊称。文正と諡。
  • 欧陽修 おうよう しゅう → 欧陽脩
  • 欧陽脩 おうよう しゅう 1007-1072 北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一人。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。著「欧陽文忠公全集」「新唐書」「新五代史」「集古録」「詩本義」など。
  • アクダ 阿骨打 1068-1123 金の太祖武元帝の名。完顔(ワンヤン)氏。女真族を統一、会寧に都して、金国を建て皇帝を称し、遼を滅ぼした。(在位1115〜1123)
  • 金の太祖 → 阿骨打
  • 耶律大石 やりつ たいせき 1087-1143 カラキタイの建国者。遼の王族の出身。遼の末期に西征して1132年カラハン朝に代わって東トルキスタンを支配、ベラサグンを都とする。次いで西トルキスタンにも勢力を拡張。
  • 欽宗 きんそう 1096-1156 北宋第9代の皇帝。在位1125-1127。姓は趙桓。金軍侵入時に即位。開封陥落(靖康の変)後、父徽宗らとともに北に送られ、そこに没した。
  • 徽宗 きそう 1082-1135 北宋第8代の皇帝。名は佶。神宗の子。詩・書・画をよくし、特に花鳥画に巧み。美術工芸を奨励するかたわら、土木工事を盛んにし、経済を活性化させた。1125年金軍南下により欽宗に譲位、27年再度の金軍侵入により捕虜となり(靖康の変)、五国城(今の黒竜江省)で没。(在位1100〜1125)
  • 高宗 こうそう 1107-1187 南宗の初代皇帝。在位1127-1162。趙構の廟号。徽宗・欽宗が金軍に捕らえられたため、即位。のち、臨安を都と定め、金と和議を結ぶ。経済開発を推進し、南宋の基礎を築いた。/徽宗の9男。
  • 岳飛 がく ひ 1103-1141 南宋の武将。字は鵬挙。河南湯陰の人。高宗に仕え、江淮を平定し、「精忠岳飛」と記した旗を受けた。金軍を破って功をたてたが、宰相秦桧に讒せられ獄死。武穆・忠武の諡号を受け、鄂王に追封。著「岳忠武王集」
  • 秦桧 しん かい 1090-1155 南宋初めの宰相。字は会之。江寧(南京)の人。高宗に仕え、侵入する金国と講和して南宋を安定させた。主戦派の岳飛を獄死させ、自らの栄達をはかったと批判され、後世奸臣の典型とされる。
  • 世宗 せい そう 1123-1189 中国、金の5代皇帝。完顔雍。(在位1161〜1189)
  • 孝宗 こうそう 1127-1194 南宋の第2代皇帝。在位1162〜1189。太祖7代の孫。高宗に養われて皇太子となり、1162年、帝位についた。聡明英毅で、ながく紛争の絶えなかった宋金の外交を調整し、従来の君臣関係を叔姪関係に、歳貢を歳幣に改めた。治世27年間は南宋の極盛期で、官制の改革、軍備の削減、江南の開発、文化の興隆、社会経済の発達等、みるべき治績が多い。ことに彼の会子(紙幣)政策は後世範とされ、当時低価値の紙幣を銭より高く評価されるようにした。(東洋史)
  • 鉄木真 テムジン ジンギス汗の名。
  • 成吉思汗 ジンギス かん 1162-1227一説に1167-1227 モンゴル帝国の創設者。元の太祖。名は鉄木真(テムジン)。モンゴル高原のモンゴル族を統一、1206年ハンの位につき成吉思汗と号した。ついで、金を攻略する一方、西夏に侵入、19年以降、西征の大軍を発し、ホラズムを滅ぼし、27年西夏を滅ぼしたが、負傷がもとで病没。征服した地を諸子に分封、諸ハン国の基礎を築いた。チンギス汗。チンギス=ハン。(在位1206〜1227)
  • 大汗 たいかん モンゴル帝国の支配者の通称。1206年ジンギス汗が大汗と称したのが最初。
  • 汗 ハン 汗・khan 韃靼・モンゴル・トルコなど北方遊牧民の君主の称号。カン(汗)。可汗(かがん・かかん)。
  • 屈出律 クチュルク → クチュルグ=カン
  • クチュルグ=カン Kuchlug Khan ?-1218 古出魯古汗(屈出律、曲出律)。ナイマン部長タヤン=カンの子。1204年、タヤン=カンがチンギス=カンと戦って敗死すると、08年のがれて西遼王直魯克(チルク)のもとに亡命し、王女をめとった。彼は西遼の国勢が衰えたのに乗じてこの国をうばい(1211)、チンギス=カンに対抗しようとしたが、18年かえって蒙古軍の進攻にあって捕殺された。(東洋史)
  • 哲別 チェベ/ジェベ Jebe 者別。遮別。12〜13世紀の人。蒙古帝国国初の勇将。別速�(ベスート)部出身。はじめ泰赤兀�(タイチウト)部に隷す。旧名は只児豁阿歹(ジルコあだい)。ジェベの名はチンギス=カンに降ったとき賜った。ナイマン部・西夏・金など攻撃の先鋒として功をたて、千戸長となる。ついでナイマン部の古出魯克(クチュルグ)を西遼の地で破り、1219年、チンギス=カンの西域親征の先鋒としてサマルカンドを陥して勇名をとどろかし、その後ホラムズ=シャー朝の王ムハンマドを追って侵略をつづけ、ついにはアゾフ海沿岸からクリミア半島まで進出した。のちチンギス=カンの本体に合し、帰国の途中死んだ。(東洋史)
  • スブタイ Subutai 1176-1248 速不台。速別額台とも。モンゴル帝国の武将。ウリヤンハイ部族の出身。ジンギス=カンの時、ジェルメ、フビライ、ジェベとともに四先鋒と称された。オゴタイ=カンの時、ロシア、ハンガリー、ポーランドに転戦し功をたてた。
  • オゴタイ Ogodai・窩闊台 1186-1241 モンゴル帝国第2代皇帝。太宗。ジンギス汗の第3子。金国を滅ぼし、首都をオルホン河畔カラコルムに営み、バトゥを総司令官として西征軍を派遣、南ロシア・ハンガリーを経略。エゲディ。(在位1229〜1241)
  • 耶律楚材 やりつ そざい 1190-1244 モンゴル帝国の政治家。遼の王族の出身。名は晋卿。初め金に仕えたが、1215年ジンギス汗に降り、その西域遠征に従軍。オゴタイ汗の即位に功あり。学問にすぐれ、天文・地理・医学にも通じた。
  • バツ/バトゥ Batu・抜都 1207-1255 キプチャク‐ハン国の創始者。ジンギス汗の長子ジュチ(朮赤)の第2子。父の没後、ハン位を継ぎキプチャク部を統轄。1236年よりロシア・東欧に侵入、ロシア諸侯を撃破。43年ヴォルガ河畔のサライに都し、ハン国を樹立。(在位1227〜1255)
  • 貴由 クユク/グユク Guyuk 1206-1248 グユック。古余克。モンゴル帝国第3代皇帝。在位1246-1248。廟号は定宗。オゴタイの長子。ロシア遠征に参加し、キエフ公国平定に功をあげる。1246年即位し、帝王権の強化につとめたが、病弱のため間もなく没した。
  • 蒙哥 マング → モンケ
  • 憲宗 けんそう (→)モンケに同じ。
  • モンケ Mongke 1208-1259 モンゴル帝国の4代皇帝。憲宗。ジンギス汗の末子トゥルイの子。モンゴル帝国の再統一に取り組み、雲南・ベトナムを征し、南宋を攻める途次病死。(在位1251〜1259)
  • フラグ Hulagu・旭烈兀 1218-1265 イル‐ハン国の創始者。ジンギス汗の子ツルイ(※[#「てへん+施」、U+63D3]雷)の子。1253年兄モンケ(憲宗)の命により西征。イラク・シリアに侵入、アッバース朝を滅ぼす。モンケ没後、自立してタブリーズに国都を定めた。(在位1258〜1265)
  • フビライ 忽必烈・忽比烈 1215-1294 (Khubilai)元朝の初代皇帝。世祖。モンゴル帝国第5代の皇帝。ジンギス汗の孫。金を滅ぼし、宋を併合し、都を大都(北京)に移し、1271年国号を元と定めた。越南・占城・ジャワまで併呑を企図、高麗を服属させた。日本にも2度遠征軍を派遣したが失敗。クビライ。(在位1260〜1294)
  • 阿里不哥 アリブカ 〓 モンケ(憲宗)の弟。 → アリクブカ
  • アリクブカ/アリクブケ
  • アリクブカの乱 阿里不哥の乱。1260年におこったクビライ・アリクブカ兄弟を中心とする蒙古宗家の内紛。蒙古第4代皇帝のメンケ=カンが陣没すると、実弟のクビライが開平で、またアリクブカが和林で、ともに即位を宣言し、大汗継承の問題をめぐって対立した。アリクブカにはカイドゥやメンケ=カンの遺臣たちが味方した。前後5年間、蒙古から甘粛地方までおよんだ激闘は、64年にクビライ派の勝利となり、アリクブカの罪は許されたが、蒙古本地主義の保守派は壊滅した。この事件は、これを契機として蒙古族が遊牧国家の蒙古帝国から、征服国家の元朝へ、つまり国家の重心を蒙古本地から華北に移し、その政治的・経済的体制を遊牧制から農耕制にきりかえたことに重大な意義がある。(東洋史)
  • 世祖 せいそ → フビライ
  • 賈似道 か じどう 1213-1275 南宋末の宰相。字は師憲。財政立直しのため公田法を施行。モンゴル軍の再侵に敗北、罪をえて流され、福建�G州で殺された。
  • バヤン 伯顔 Bayan 1246-1294 元初の武将。八隣(バリン)部の人。曾祖父以来蒙古帝国に仕えた名門の出身。ペルシア遠征に従軍後、中書左丞相となった。1274年、南宋討伐軍の前線総司令官となり、揚子江を渡り、建康(南京)を攻略、76年南宋の首都臨安(杭州)を陥し、恭帝を捕らえた。のち和林行枢密院の長官となり、北辺に鎮し、しばしば海都の軍を破った。成宗即位後、顕職を兼ねた。死後、淮安王に追封された。(東洋史)
  • 文天祥 ぶん てんしょう 1236-1282 南宋末の忠臣。文山と号す。理宗に仕えて江西安撫使。恭帝の時に元軍が侵入すると、1275年任地から義勇軍を率いて上京、のち捕らえられて大都(北京)に護送。フビライの帰順の勧めを拒否し、幽閉3年後処刑。獄中で五言古詩「正気歌」を作る。
  • 張世傑 ちょう せいけつ ?-1279 南宋の武将。元軍の侵入にしばしば功をたて節度使となった。衛王を奉じて南方に逃げ、�山を死守したが、たまたま台風にあい船が沈没し、溺死した。
  • 帝恭 ていちょう → 恭帝
  • 恭帝 きょう てい 1270-? 南宋末期の皇帝。趙。臨安の陥落で元軍の捕虜となる。(在位1274〜1276)
  • 帝�O へい
  • 北条時宗 ほうじょう ときむね 1251-1284 鎌倉幕府の執権。通称、相模太郎。時頼の子。1274年(文永11)元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築き、81年(弘安4)の再度の元寇もよく防御。円覚寺を建て、宋より無学祖元を招いて開山とする。
  • 亀山上皇 かめやま じょうこう → 亀山天皇
  • 亀山天皇 かめやま てんのう 1249-1305 鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁。蒙古襲来時の天皇。後宇多天皇に譲位後、1287年(弘安10)まで院政。(在位1259〜1274)
  • 抜思巴 ばすぱ → パスパ、か
  • パスパ 八思巴 1235-1280 チベット仏教サキャ派の法王。フビライの帝師となり、その命をうけてモンゴル語を写すためにパスパ文字を作る。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 「大宝律令」 たいほう りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
  • 「大秦景教流行中国碑」 たいしん けいきょう りゅうこう ちゅうごくひ 唐代の781年、長安の景教寺院大秦寺に建てられた石碑。中国に伝来した景教(ネストリウス派キリスト教)の教義・歴史を記して、その流行を記念したもの。明末に発掘され、イエズス会の宣教師がヨーロッパに紹介した。
  • 『論語』 ろんご 四書の一つ。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編。学而篇より尭曰篇に至る。弟子たちの記録したものに始まり、漢代に集大成。孔子の説いた理想的秩序「礼」の姿、理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの具体的意見を述べる。日本には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
  • 『正気歌』 せいきの うた 宋末、元軍に捕らえられた文天祥が、大都(北京)の獄中で作った五言の古詩。忠臣の気概を詠ずる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • しな 支那 (「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
  • 恩沢 おんたく (オンダクとも)めぐみ。なさけ。おかげ。
  • 儒学 じゅがく 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一つ。後漢に五経などの経典が権威をもち儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた。南北朝・隋・唐では経典の解釈学が進み、また礼制の普及・実践が見られた反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時おくれをとった。宋代に宋学が興って哲理面で深化し、特に朱子学による集大成がなされた。やがて朱子学が体制教学化するにつれ、明代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家による学理上の革新が続き、清末の共和思想に及ぶ。日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称されるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。
  • 新生面 しんせいめん 新しい方面・分野。
  • 盛世 せいせい 盛んな御代。
  • 来往 らいおう 行ったり来たりすること。往来。
  • ローマ人 -じん 古代ローマをつくったラテン人。高度の文明を持った大帝国を建設し、都市や建造物を築いた。古代ローマ人。
  • ギリシャ人 -じん ギシリア人。ギシリアの国の人。また、古代ギリシアの人。現在のギリシア人は地中海種に区分する白人で、古代ギリシアの彫刻にみられるような身体形質とは、度重なる諸民族の侵入による混血によって、かなり異質なものになっている。
  • アラビア人 → 「アラブ人」に同じ。
  • アラブ人 アラブじん 本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民族の総称。現在はアラビア語を母語とし、イスラム勃興以降のアラブの歴史・文化遺産に帰属意識を持つ人々を指す。西アジアから北アフリカにかけて居住。アラビア人。
  • ペルシャ人 -じん → イラン人
  • イラン人 -じん イラン国家の大半を占める住民。アーリア系民族。ペルシアの名で知られた古い文明国を形成し、多くの文化遺産をもつが、1930年前後の革命以来、その生活は急速に近代化した。
  • ユダヤ人 ユダヤじん (Jew)(ヤコブの子ユダ(Judah)の子孫の意)ユダヤ教徒を、キリスト教の側から別人種と見なして呼ぶ称。現在イスラエルでは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と規定している。十字軍時代以降、ヨーロッパのキリスト教徒の迫害を受けた。近世、資本主義の勃興とともに実力を蓄え、学術・思想・音楽方面にも活躍。
  • インド人 -じん インドの国民。また、インド半島、セイロン島とその周辺の島々を含む地域の住民。人種構成はきわめて複雑で、その基本となっているものは、ドラビダ型とインド-アーリア型である。地域によってモンゴロイド型、イラン型、トルコ型、インドネシア型の血が加わっている。
  • 中央アジア人
  • 突厥人 とっけつじん トルコ系民族。6世紀頃、鉄勒諸部・柔然を滅ぼし、モンゴル高原・中央アジアで活躍。のちその国家は東西突厥に分かれ、唐に滅ぼされた。
  • 日本人 にほんじん (1) 日本国に国籍を有する人。日本国民。(2) 人類学的にはモンゴロイドの一つ。皮膚は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で直毛。言語は日本語。
  • 朝鮮人 ちょうせんじん 朝鮮の人。朝鮮半島および周辺の島に分布する韓民族集団の総称。人種的にはモンゴロイド(蒙古人種)に属し、黒色・直毛の頭髪、高いほお骨などを特徴とする。
  • 大食 タージ (Tazi ペルシアの音訳)唐代にアラビア人を呼ぶのに用いた名称。広義にはイスラム教徒に対する呼称。
  • 市舶司 しはくし 宋・元・明初に外国貿易および関税徴収事務を監督した官庁(税関)。
  • 海関 かいかん 中国で、清朝が開港場に設けた外国貿易に対する税関。今日でも、飛行場に設けたものも含めて、税関をこう呼ぶ。
  • q教 けんきょう 中国で、ゾロアスター教の称。南北朝末にペルシアから伝来、唐代にはその寺院も建てられたが、武宗(在位840〜846)の時に禁圧。拝火教。
  • 拝火教 はいかきょう 火を神化して崇拝する信仰の総称。特に、ゾロアスター教の称。
  • ゾロアスター教 ゾロアスターきょう 前7〜6世紀ペルシアの預言者ゾロアスター(Zoroaster)の創始した宗教。善なる最高神をアフラ=マズダ、悪神をアフリマン(アングラ=マンユ)と呼び、勤倹力行によって悪神を克服し、善神の勝利を期することを教旨とし、善神の象徴である太陽・星・火などを崇拝。アヴェスタ経典を奉じ、古代ペルシアの国教として栄え、中国には南北朝の頃伝来、q教または拝火教と称。7世紀来、イスラム教の興隆とともに急速に衰微。インド西海岸に残る信徒はパルシーと呼ばれる。マズダ教。ザラットラ教。
  • 二元 にげん (1) 二つの要素。(2) 事物が二つの異なる根本原理からできていると考える場合の、その二つの原理。
  • 二元論 にげんろん (dualism)ある対象の考察にあたって二つの根本的な原理または要素をもって説明する考え方。(1) 宇宙の構成要素を精神と物質との2実体とする考え方。デカルトの物心二元論は代表的な例。(2) 世界を善悪二つの原理(神)の闘争と見る宗教。ゾロアスター教・マニ教など。
  • 万象 ばんしょう 天地に存在する、さまざまの形。あらゆる事物。
  • q祠 けんし
  • マニ教 マニきょう 摩尼教・末尼教。ペルシアのゾロアスター教を基本とし、キリスト教的要素をも加味したグノーシス宗教。3世紀中頃のペルシア人マニ(Mani)が教祖。善は光明、悪は暗黒という倫理的二元論を教理の根本とし、教徒は菜食主義・不淫戒・断食・浄身祈祷をする。ゾロアスター教の圧迫でマニは処刑され、この宗教の活動の中心は後にサマルカンドに移り、ウイグル人の間に拡がった。唐の則天武后の時に中国に伝わり、12世紀頃まで行われた。摩尼q教。
  • 景教 けいきょう (「光り輝く教え」の意)ネストリオス派キリスト教の中国での呼称。唐代に中国に伝わり、唐朝が保護したために隆盛、唐末に至ってほとんど滅亡。後また、モンゴル民族の興隆と共に興ったが、元と共に衰滅。
  • ネストリオス派 ネストリオス は ネストリオスの起こしたキリスト教分派。その教義は東方ペルシアに勢力を得、インド・中国に入り、中国では景教という。
  • 波斯寺 はしじ
  • 大秦寺 たいしんじ 中国、唐代のキリスト教ネストリオス派(景教)の寺院の名称。この宗派の発生地が大秦国であることを知り、745年波斯寺(はしじ)を改称。長安などに建てられた。
  • 盛観 せいかん さかんなながめ。盛大なみもの。
  • イスラム教 イスラムきょう 世界的大宗教の一つ。610〜632年頃、ムハンマドが創始、アラビア半島から東西に広がり、中東から西へは大西洋に至る北アフリカ、東へはイラン・インド・中央アジアから中国・東南アジア、南へはサハラ以南アフリカ諸国に、民族を超えて広がる。サウジ‐アラビア・イラン・エジプト・モロッコ・パキスタンなどでは国教となっている。ユダヤ教・キリスト教と同系の一神教で、唯一神アッラーと預言者ムハンマドを認めることを根本教義とする。聖典はコーラン。信仰行為は五行、信仰箇条は六信にまとめられる。その教えは、シャリーアとして体系化される。法学・神学上の違いから、スンニー派とシーア派とに大別される。中世には、オリエント文明やヘレニズム文化を吸収した独自の文明が成立、哲学・医学・天文学・数学・地理学などが発達し、近代ヨーロッパ文化の誕生にも寄与した。三大聖地はメッカ・メディナ・エルサレム。回教。マホメット教。
  • 仏教 ぶっきょう (Buddhism)仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。前5世紀頃インドに興った。もともとは、仏陀の説いた教えの意。四諦の真理に目覚め、八正道の実践を行うことによって、苦悩から解放された涅槃の境地を目指す。紀元前後には大乗仏教とよばれる新たな仏教が誕生、さらに7〜8世紀には密教へと展開した。13世紀にはインド亜大陸からすがたを消したのと対照的に、インドを超えてアジア全域に広まり、各地の文化や信仰と融合しながら、東南アジア、東アジア、チベットなどに、それぞれ独自の形態を発展させた。
  • 経論 きょうろん 仏陀の説法を集成した経と、経を注釈した論。
  • 道教 どうきょう 中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来の巫術や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之によって改革され、仏教の教理をとり入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護をうけて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在まで広く行われる。
  • 漢人 かんじん (1) 漢族の人。漢民族。また、ひろく中国の人をいう。(2) 元代、旧金朝治下の漢人・契丹人・女真人などの称。旧南宋下の南人と区別された。
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 藩鎮 はんちん (1) 地方のしずめとして駐屯した軍隊。(2) 王室の藩屏たる諸侯。(3) 唐・五代の節度使の異称。特に、観察使を兼ねて中央政府から半ば独立し、軍閥化したもの。方鎮。
  • 擁立 ようりつ 擁護して帝王などの位に即かせること。また、位に即かせようとして、もりたてること。
  • 遊牧民 ゆうぼくみん 遊牧しながら季節的・周期的に移動する人々。農耕生活を営む定着民とはまったく異なる文化圏を形成。住地は農耕の営めない中央アジア・イラン・アラビアなどの草原・乾燥・半砂漠地帯。
  • 契丹 きったん 4世紀以来、内蒙古�L河(シラムレン)流域にいた、モンゴル系にツングース系の混血した遊牧民族。10世紀に耶律阿保機が諸部族を統一、その子太宗の時に国号を遼と称した。キタイ。
  • 東胡 とうこ 中国、春秋の頃から、内モンゴル東部にいた狩猟遊牧民族。烏桓・鮮卑・契丹などはその後裔とされる。
  • 靺鞨 まっかつ ツングース族の呼称の一つ。周の粛慎、漢・魏の�婁、南北朝の勿吉などはみな旧称で、この名称が起こったのは6世紀後半。有力な部族が7部族あり、その一つである粟末靺鞨族の支配者、大祚栄が中心になって渤海国が起こり、また、黒水靺鞨はのちに女真と称した。
  • 粟末靺鞨 ぞくまつ まっかつ 靺鞨七部の一つ。白山部とともに高句麗に服属したと考えられ、渤海国が成立すると他の諸部も多くはこれに包含された。(東洋史)
  • 修好・修交 しゅうこう (1) なかよくすること。(2) 特に、国と国とが親しく交際すること。
  • 舞楽 ぶがく 雅楽の外来楽舞の演出法で器楽合奏を伴奏として舞を奏でるもの。また、その曲。器楽合奏のみ行う管弦の対語。
  • 渤海楽 ぼっかいがく 奈良時代に渤海から日本に伝来した楽舞。平安初期以降は三韓楽と併合されて、高麗楽(2) の一部とされる。
  • 高麗楽 こまがく (1) 三韓楽の一つ。高句麗起源の楽舞。臥箜篌の使用が特徴的。(2) 雅楽の外来楽舞の2様式の一つ。三韓楽と渤海楽とを併せて平安時代に様式統一されたもので、日本で新作された曲目をも含む。演奏は舞楽形式のみで行う。楽器編成は高麗笛・篳篥・三ノ鼓・鉦鼓・太鼓の5種。右方高麗楽。右方の楽。右楽。
  • 朝臣 ちょうしん 朝廷に仕える臣。廷臣。
  • 芸苑 げいえん 学芸の社会。
  • 佳話 かわ よい話。美談。
  • 雁山 がんざん (→)雁門に同じ。
  • 雁門 がんもん 中国山西省代県の北西、句注山のこと。高山なので、北に帰る雁が飛び越えられないことから、中途に穴をうがってその通路としたという俗説がある。雁山。
  • 暮雲 ぼうん ゆうぐれの雲。
  • 後会 こうかい 将来会うこと。後日の面会。
  • 纓 えい (1) 冠の付属具。中世以降は羅や紗の縁に芯をつけ漆を塗って製し、冠の後に垂れる。立纓・垂纓・巻纓・細纓・縄纓などの種類がある。もと巾子の根を締めた紐のあまりを、背後に垂れ下げたもののなごり。(2) 冠が脱げないように顎の下で結ぶ紐。
  • 鴻臚 こうろ 中国の官名。外国の賓客の応接にあたる。秦では典客、漢の武帝は大鴻臚をおき、北斉では鴻臚寺と改め、以下これを継承。
  • 暁涙 ぎょうるい
  • 海東の盛国 かいとうの せいこく
  • 中原 ちゅうげん (1) 広い野原の中央。(2) 中国文化の発源たる黄河中流の南北の地域、すなわち河南および山東・山西の大部と河北・陝西の一部の地域。(3) 天下の中央の地。転じて、競争の場。逐鹿場裡。
  • 侵寇 しんこう 敵地に侵入して害を加えること。
  • 武弁 ぶべん (武官のかぶる冠の意から)武官。武人。
  • 節度使 せつどし (1) 唐・五代の軍職。8世紀初め、辺境の要地に置かれた軍団の司令官。安史の乱中、国内の要地にも置かれ、軍政のみでなく民政・財政権をも兼ねて強大な権限を有した。宋初に廃止。藩鎮。せっとし。(2) 唐にならって、奈良時代に東海・西海など道ごとに置いた臨時の官。新羅対策などのため諸国の軍団を整備・強化するのを任とした。
  • 文臣 ぶんしん 文事をもって仕える臣。文官。←→武臣
  • 通判 つうはん 中国の官名。宋初にはじまる地方官。前代の藩鎮の弊害を一掃し中央集権をはかるために設置。1州の政事を監督し、知州の専権を牽制。明・清では州の財政をつかさどる属官。
  • 運漕 うんそう 船で貨物を運ぶこと。
  • 転運使 てんうんし 唐・宋の地方官職。唐の中頃に設け、漕運をつかさどったが、次第に権限を拡大し、宋代には地方行政区画「路」の実質的な行政長官として財政・監察・刑獄などをつかさどる。元・明では都転運使という。
  • 矯める ためる (1) まがっているのをまっすぐにする。また、まっすぐなのをまげる。(2) 改めなおす。正しくする。
  • 文治 ぶんち (ブンジとも)教化または法令によって世を治めること。文政。←→武断。
  • 微行 びこう 身分の高い人が、こっそりと外出すること。しのびあるき。おしのび。
  • 紛乱 ふんらん まぎれみだれること。混乱。
  • 歳幣 さいへい 中国宋朝が講和条約にもとづいて遼や金に毎年支払った銀と絹。南北間の平和を保障し、経済活性化にも役立ったとされる。
  • キタイ 契丹 (1) (Khitai) → きったん(契丹)。(2) (Kitai)ロシア語で、中国の称。
  • タングート 党項・Tangqut 6〜14世紀、中国北西辺境に活躍したチベット系民族。11世紀前半、オルドスに拠って西夏を建てたのはその一族。
  • 宿弊 しゅくへい 古くからある弊害。
  • 慨する がいする なげく。うれえる。
  • 青苗法 せいびょうほう 王安石の新法の一つ。春秋二季に、官から人民に銭穀を貸し、2分の利息を付して返納させたこと。春に貸せば秋に徴した。農民に低利で融資し、民間の高利を禁止して政府の歳入増加をはかるのがその趣旨。
  • 募役法 ぼえきほう 宋の王安石の新法の一つ。賦役免除の代りに納入させた免役銭・助役銭を用いて希望者を雇って政府の力役にあたらせ、一般民の服役の負担軽減をはかったもの。
  • 市易法 しえきほう 中国、北宋の王安石の新法の一つ。小商人を豪商の搾取から守るため主な都市に市易務を設置し、小商人の滞貨を買い上げ、あるいはこれを抵当に低利で資金を融通した。
  • 保甲法 ほこうほう 中国の隣保制度。宋の王安石の新法の一つ。強兵策と軍事費軽減をめざした民兵制度。10戸を保、5保を大保、10大保を都保とし、農閑期に軍事訓練を行い、平素は自警団の役割を演じた。明代中期より地方自治制度として各地に普及し、清初から全国的に施行、10戸で1牌、10牌で1甲、10甲で1保を組織した。
  • 保馬法 ほばほう 宋の王安石の新法の一つ。兵馬の訓練と牧畜とを兼ねて農民1戸に馬1〜2頭を交付し、官から馬料を給して飼育させ、平時は農耕に使わせ、戦時には軍馬として徴用した。
  • 強腹 ごうふく 無理やりに服従させること。
  • 剛腹 ごうふく 胆力のすわっていること。度量の大きいこと。
  • 女真 じょしん 中国東北地方から沿海州方面に居住したツングース系の民族。隋・唐代には靺鞨といい、黒竜江地方に散在。五代の頃より女真と称し、のち女直ともいう。1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を建国し、宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。
  • 黒水靺鞨 こくすい まっかつ 靺鞨七部の一つ。渤海国が成立すると他の諸部はこれに包含されたが、黒水のみは松花江・黒竜江下流域にあってこれと鋭く対立した。(東洋史)
  • 余衆 よしゅう/よしゅ 残りの人々。
  • 純理 じゅんり 純粋な理論。純粋な学理。
  • 臣事 しんじ 臣として仕えること。
  • 歳貢 さいこう 毎年、産物をみつぐこと。また、毎年のみつぎ物。
  • 私誅 しちゅう
  • 漢民族 (→)漢族に同じ。
  • 乃蛮 ナイマン Naiman・乃蛮 トルコ系の部族。10〜13世紀、アルタイ山脈の東西にわたって建国したが、1218年モンゴル軍によって討滅。
  • 隊商 たいしょう (caravan)砂漠のような鉄道の発達しない地方で、隊伍を組み、象・ラクダ・ラバなどの背に、商品などを積んで行く商人の一団。キャラバン。
  • 後嗣 こうし あとつぎ。子孫。
  • 長子相続 ちょうし そうぞく 長子が一切の家督・財産を相続すること。
  • クリルタイ khuriltai (集会の意)モンゴル民族など北方遊牧民族の族長会議。大ハンの推戴、開戦・講和、法令の公布などについて、王侯・将領・貴族などが集まって協議した。
  • 宗族 そうぞく 同一祖先の父系血縁の子孫として、共同して活動する地域的な集団。一族。一門。
  • 攻伐 こうばつ 攻めうつこと。
  • ローマ法王 → ローマ教皇
  • ローマ教皇 ローマ きょうこう 全カトリック教会の首長。使徒ペトロの後継者と信ぜられ、ローマの司教。かつては政治的権力をも有した。ヴァチカン市国の元首でもある。現在は、枢機卿の選挙により選ばれる。ローマ法王。
  • 十字軍 じゅうじぐん (1) (Crusades)(従軍者が十字架の記章を帯びたからいう)西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒から聖地パレスチナ、特にエルサレムを回復するために、11世紀末(1096年)〜13世紀後半、7回にわたって行なった遠征。第3回(1189〜92年)以後は宗教目的よりも現実的利害関係に左右されるに至り、当初の目的は達し得なかったが、東方との交通・貿易によって都市の興隆を促進し、また、ビザンチン文化・イスラム文化との接触はルネサンスにも影響を与えた。(2) 広義には、一般に中世のカトリック教会が異端の徒や異教徒に対して行なった遠征を指す。(3) 転じて、ある理想または信念に基づく集団的な運動。
  • 黄禍 こうか (1) (yellow peril)黄色人種の勃興により、白色人種に加えられるという禍害。日清戦争後、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が日本の進出に対する反感から黄禍論を主張したのが有名。
  • 権臣 けんしん 権力を持った家来。
  • 叛服常無し はんぷく つねなし そむいたり服従したりして、その態度が決まらない。
  • 執権 しっけん 鎌倉幕府の政所別当のうち最上級者の称。将軍を補佐し政務を総轄した最高の職。源実朝の時、北条時政がこれに任ぜられ、以後北条氏が世襲。理非決断職。探題職。
  • 覆滅 ふくめつ くつがえりほろびること。また、くつがえしほろぼすこと。
  • 威令 いれい (1) 威光と命令。(2) 威力のある命令。
  • 色目人 しきもくじん (諸種族に属する者の意)元代、その治下のトルコ・イラン・アラビアなどの西方系諸民族の総称。モンゴル人・色目人・漢人・南人の四身分の第2位。準支配階級として財政・流通を担当。
  • 南人 なんじん 元代、もと南宋の版図の漢民族の称。モンゴル人・色目人・漢人の下位に置かれ、冷遇されたという。蛮子。
  • ラマ教 ラマきょう 喇嘛教。(Lamaism)チベット仏教の俗称。→チベット仏教
  • チベット仏教 チベット ぶっきょう 仏教の一派。吐蕃王国時代にインドからチベットに伝わった大乗仏教と密教の混合形態。チベット大蔵経を用いる。のちモンゴル・旧満州(中国東北地方)・ネパール・ブータン・ラダックにも伝播した。主な宗派はニンマ派(紅教)・サキャ派・カギュー派・ゲルク派(黄教)の4派。俗称、ラマ教。
  • 帝師 ていし 皇帝の師範。天子の師匠。帝傅。
  • ウイグル文字 ウイグル もじ 9〜14世紀にかけて用いられた、ウイグル語を書き表すための文字。ソグド文字をもとに作られた表音文字で、右から左、あるいは上から下へ書く。
  • 蒙古文字 もうこ もじ (→)モンゴル文字に同じ。
  • モンゴル文字 モンゴル もじ モンゴル語を表記するための文字。14世紀にウイグル文字を基にして作られた。表音文字で左から右に縦書きする。蒙古文字。
  • 契丹文字 キタイ もんじ 遼王朝の契丹語で用いた文字。耶律阿保機が920年に漢字をもとに考案。多くの表音文字とわずかの表意文字とから成り、大小文字の区別がある。
  • 西夏文字 せいか もじ 西夏語で用いた文字。漢字を基にした音節文字。膨大な量の文学や仏典が残されている。
  • 女真文字 じょしん もんじ 金王朝の女真語で用いた文字。太祖阿骨打(アクダ)が1119年、完顔希尹(ワンヤンキイン)に命じて契丹(キタイ)文字および漢字の楷書を基にして作った。表意文字と表音文字とからなり、大小文字の区別がある。完全には解読されていない。
  • 北方民族


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 図版は前回同様、『学研新漢和大字典』(2005.5)と『世界史年表・地図』(吉川弘文館、1995.4)『最新図説世界史』(浜島書店、1988.3)を参照。東アジア年表テーブルは渡邊義浩『宗教から見る中国古代史』(ナツメ社、2007.12)をベースに、『東洋歴史物語』本文からトピックを追加。
 かけ足でどうにか元まで到着。『平清盛』の平安末期まで追いついたので、シリーズはいったん中断。次回、次々回はファーブル『科学の不思議』。こちらはいよいよファイナル。

 源氏、石清水八幡、ハト。八幡太郎、新羅三郎。八幡、やはた、絹。養蚕、桑、駒、馬。コマ……
 円仁(慈覚大師)は入唐して、武宗の仏教弾圧に遭遇する。道教への傾向。50年ほどのち、菅原道真による遣唐使廃止。唐との国交を絶ったあいだも、新羅、高麗、渤海との交流はつづく。
 
 保元の乱が1156年、平治の乱が1159年。1161年に金の世宗が、翌年に南宋の孝宗がそれぞれ即位。日宋貿易がさかんとなる。1168年、平清盛が厳島神社の社殿を造営、同年に栄西が南宋に留学、禅宗に感化。
 おっと、藤原秀衡の家督相続が1157年かあ。藤原基成の娘と婚姻したのもこのころか。藤原基成の異母兄弟が“裸の大将”藤原信頼! 藤原基衡による毛越寺の伽藍建立、薬師像の仏師運慶への依頼も1156年には完了している。




*次週予告


第四巻 第五一号 
科学の不思議(八)アンリ・ファーブル

第四巻 第五一号は、
二〇一二年七月一四日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第五〇号
東洋歴史物語(五)藤田豊八
発行:二〇一二年七月七日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。