藤田豊八 ふじた とよはち
1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15)
東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」

恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

水島爾保布 みずしま におう
1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30)
画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・水島爾保布。


もくじ 
東洋歴史物語(三)藤田豊八


ミルクティー*現代表記版
東洋歴史物語(三)
  一四、漢・楚(そ)のあらそい
  一五、武帝の功業
  一六、王莽(おうもう)の纂奪(さんだつ)
  一七、後漢の興隆(こうりゅう)

オリジナル版
東洋歴史物語(三)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1679.htm

NDC 分類:220(アジア史.東洋史)
http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html





東洋歴史物語(三)

藤田ふじた豊八とよはち

   一四、かんのあらそい


 秦末しんまつ紛乱ふんらんに乗じて立ち、おおいに秦軍をやぶって威名いめいをとどろかした二人の英雄があったことは前にも申しました。一人は項羽こうう、一人は劉邦りゅうほうです。
 そのうちしん国都こくとにせまり、事実上、秦をほろぼしたのは劉邦でした。それが項羽には気にいらないので、劉邦のあとから函谷関かんこくかんへ入って行き、劉邦と衝突しょうとつしようとしました。それが有名な鴻門こうもんかいでしたが無事におさまりました。これからのちも項羽と劉邦のあいだはよく行きません。項羽はみずから西楚せいそ覇王はおうといい、劉邦を漢王かんおうふうじていましたので、この二人のあらそいはかんのあらそいといわれます。劉邦自身はそんなに戦争のうまい人ではありませんでしたが、その臣下しんかにはすぐれた人がそろっていまして、劉邦はじつによくその人々を使いました。そのうちでも韓信かんしん張良ちょうりょう蕭何しょうの三人はぬきん出た人でした。韓信は用兵のうまい大将でした。韓信がもと出世しない時分のことです。市場いちばならずものどもが韓信をあなどって、
「おまえは大きい図体ずうたいをしてかたななんぞさしこんでいるが、心は臆病おくびょうなのさ。切れるものなら切ってみろ! 切れなきゃ、おれのまたの下をくぐれ!」
と申しました。韓信にしたところで、こんな男を切るくらいはなんでもなかったのでしょうが、ここが我慢がまんのしどころ、こんな男を切って前途ぜんとある自分をだいなしにしてはならないと、その男のいうなりにまたの下をくぐりました。市場の人は韓信はきょう〔おくびょう、弱虫〕だといって笑いました。しかし、こういうところを我慢まんすることこそほんとの勇気なのですが、うわべしか見ない人々にはわからなかったのでしょう。大事の前の小事しょうじ、こうした忍耐にんたいということがようなのは韓信ばかりではありませんね。のちにこの韓信が劉邦にもちいられるようになり、大軍の総大将として、ほんとうの勇気をしめしたのでした。
 張良ちょうりょうという人ははかりごとを立てる名人でしたし、蕭何しょうかは後方の兵站へいたん事務などをたくみに処理する人でした。こんなすぐれた部下を自由自在に使って劉邦は項羽とたたかったのです。ところがこの項羽という人は、じつに強い勇気のある戦争の上手な大将でした。劉邦などはしばしばこの項羽にこっぴどくやっつけられました。けれども項羽という人はあまり部下を上手に使えなかった人で、はじめは范増はんぞうなどというえらけらいもいましたが、じゅうぶん使いきれず離れて行ってしまいました。こうした点などから、項羽自身はいかに強くっても、しだいにその勢力は弱ってまいりました。
 最後に項羽は、垓下がいかというところで漢王かんのうの軍にかこまれました。兵は少なくしょくもつきておりました。項羽が夜きますと、漢の軍の四面しめんの地方の歌をうたっていました。項羽は、おおいにおどろいて、
かんはもう自分の根拠地であったを占領してしまったのだろうか……。なんとの人の多いことよ」
といって最後のはらをきめました。四面しめん楚歌そかという言葉は、ここから来たのです。そこでって宴会えんかいを開き、項羽が寵愛ちょうあいしていた虞美人ぐびじんという女にいを舞わしめました。項羽は悲歌ひか慷慨こうがいなみだ数行すうこうくだるというありさまでした。その項羽の歌った歌は、

ちから山をき、おおう。
ときあらず、すいかずすいかず、
いかにすべけん、
や、なんじをいかにせん。

というのでした。すいというのは項羽が平生へいぜい乗っていた駿馬しゅんめでした。左右にいる人々はみないてあえてあおぎ見るものもないありさまでした。
 項羽はそのかこみをやぶって烏江うこうまでのがれましたけれど、天命のきわまったのを知ってみずから首切って悲壮ひそうな最後をとげました。薄命はくめい佳人かじん虞美人ぐびじんをうずめた墓からき出した草が、あの赤い赤い虞美人草ぐびじんそう〔ヒナゲシ〕だったと伝えます。

図、項羽、垓下がいかの決別


 かんあいあらそうこと四年、最後の勝利は劉邦りゅうほうの手ににぎられ、ついに天下を一統いっとうして帝位につきました。これをかん高祖こうそと申します。高祖はしゅう故都こと鎬京こうけいみやこし、これを長安ちょうあんといいました。秦が早く滅亡したのにかんがみて封建の制を復活し、一族・功臣こうしんと諸侯にほうじましたが、のちには一族でない諸侯はしだいにこれをのぞいて、後々のちのちの危険をふせごうといたしました。韓信かんしん彭越ほうえつなどの建国の功臣も、このため終わりがよくありませんでした。しかし、この政策は一族の横暴おうぼうということをまねきがちで、高祖の死後、高祖の外戚がいせきにあたる呂氏ろしの乱をひきおこし、ついで景帝けいていにはとう七国しちこくの諸侯の大乱をまねきました。
 しかし、この大乱の結果はかえって雨って地かたまるというふうによくなって、これからのちは諸王は都にとどめられ、実際その地方地方の政治にあたったのは、中央政府からつかわされた国相こくしょうであったので、名前だけは封建ほうけんですけれども、その内容は郡県ぐんけんと同じであるようになり、政権が中央に統一せられるようになりました。

   一五、武帝の功業こうぎよう


 文帝ぶんていという人は非常によく政治につとめ、そのつぎの景帝けいていのときには前に申しました呉楚ごそ七国しちこくの乱があって、中央の漢室かんしつの勢威がそのために伸張しんちょうしました。また、この二代をへて府庫ふこも充実いたしておりました。
 このとき、英邁えいまい天資てんしをもって天子のくらいに登ったのが武帝ぶていでした。武帝はこの勢いに乗じて内にあっては文教ぶんきょうをおこし、外は四方の遠征をくわだてて空前の大偉業だいいぎょうをなしとげました。
 秦代しんだいにおいては、始皇帝の文教圧迫あっぱく政策によって文教はおとろえましたが、かんおこるとまた諸種の学術も芽をふきかえし、秦代にかくされていた書物もあちらこちらから現われてくるというありさまでした。そこで武帝は、標準の学術を定めて思想の統一をしようといたしまして、とう仲舒ちゅうじょという人の建議けんぎにしたがって、儒教をもって政教せいきょうの基準といたしました。これはこれから以後のシナの思想界において、儒教がもっとも根本的なものと考えられるもといをなしたのです。武帝は大学をもうけ、儒教のほうの経典けいてんの『えき〔周易〕〔詩経〕しょ〔書経〕礼記らいき春秋しゅんじゅう』の五経ごけいの専門の学者、五経博士はくしを置いて子弟の教育をおこないました。後世の儒教流行、儒学尊崇そんすうふうは、この武帝によってはじめられたということができます。なお、武帝はおおいに文学を奨励しょうれいしたもので、武帝の朝廷には文学の士も多く、詞賦しふ司馬しば相如そうぎょぶん司馬しばせんは有名であります。
 司馬しばせんという人はすぐれた歴史家で、よくギリシャのヘロドトスとならべて歴史家の父などと申される人です。その歴史の書物『史記しき』は、シナ上代の歴史を見ることにくべからざるものです。
 匈奴きょうどのはなしは前に申しました。しんのとき、いったん北方に追いはらわれましたが、かんのはじめにあたって冒頓ぼくとつという単于せんう〔ぜんう〕が出ました。単于せんうというのは匈奴の王という言葉です。この単于のとき勢力を回復いたし、匈奴の東のほう、今の蒙古もうこの東部におった東胡族とうこぞくをしたがえ、また西のほう、甘粛省かんしゅくしょう敦煌とんこう地方によっていた月氏げっし種族をやぶって、あたるべからざる大勢力でした。月氏という種族はよくわかりませんが、だいたいトルコ種族と思われます。漢の高祖はこれを征伐せいばつしようと出かけたのでしたが、山西省さんせいしょう白登はくとうというところで匈奴にかこまれいのちからがら逃げ帰ったことがあります。これからのち、漢の匈奴に対する政策はいたって消極的で、たえず匈奴のご気嫌きげんをとるようなことをして、その鋭鋒えいほうをさけました。すなわち公主こうしゅすなわち天子の娘を匈奴によめにやってこんを通じ、また多くのはくおくって、匈奴と和親わしんをたもったのです。この外民族がいみんぞくこんを通じたりおくり物をしたりして、和親をつづけるというやり方は、かん民族のよくやりつけの方策ほうさくです。文帝の時代においても、漢は匈奴に対して非常に屈辱的くつじょくてきな態度をとっていましたが、武帝の出るにおよんでかかる態度にあるをいさぎよしとせず、匈奴の討伐とうばつをくわだてるに至りました。
 以前に敦煌とんこうにおりました月氏げっしは、匈奴の冒頓ぼくとつ単于せんうにやぶられて遠く伊犂いり地方〔中国新疆しんきょうウイグル自治区の北西地域〕にのがれておりましたが、武帝の時代には南へくだり、中央アジアに大月氏国だいげっしこくて、オクソス川〔Oxus。アムダリア川〕の南によっていた大夏国たいかこく(ヨーロッパの歴史に見えるバクトリア王国)をもふくせしめて勢いがさかんでありました。この大月氏は一度、匈奴にやぶられたので、匈奴に対して心からのうらみをいだいているということを武帝は聞いたので、それではこの大月氏と同盟して匈奴を東西から挟撃きょうげきしようとして、張騫ちょうけんという人をその国につかわしましたが、大月氏はその土地に安住あんじゅうし、匈奴とたたかおうなんて気はなかったので、この同盟の計画は失敗にしました。
 その後、武帝は衛青えいせいかく去病きょへいなどの諸名将をつかわして、大軍をひきいて匈奴をたせ、匈奴を砂漠さばくの北に追いはらいました。
 また張騫ちょうけん進言しんげんを聞いて、当時、匈奴の西方、今の伊犂いり地方にいた烏孫うそんこんを通じ、同盟して匈奴の勢いをおさえました。烏孫も大月氏と同じくトルコ種と思われます。もとはやはり大月氏と同じく敦煌とんこうのほとりにいたのですが、匈奴にやぶられ伊犂いりのほうへにげたのでした。
 張騫ちょうけんが大月氏へ使いした旅行の目的はたっせられませんでしたけれども、この張騫の大旅行によってシナと西のほうの国々(シナではそのことを西域せいいきと申しますが)との交通が開かれたということもできるのです。そういう点でこの張騫の大旅行を、コロンブスのアメリカ発見の航海と比較したヨーロッパの学者もあります。最初に張騫が大月氏に使いしたときは、その旅行は前後十三年にわたっていました。そのうち十年以上は敵である匈奴にとらえられていたのですが、その手をだっして大月氏への使いをまっとうしたのです。
 この旅行から西域せいいき諸国に関する事情がシナのほうにあきらかにされるに至りました。西域という言葉は、ふつうはパミール高原の東西、シナ・トルキスタン〔東トルキスタン(中国新疆しんきょうウイグル自治区)か〕、ロシア・トルキスタン〔西トルキスタンか。中央アジア〕の地方をいうのです。
 これらの地方には康居かんぐ于�uホータン大宛だいえん安息あるさく〔パルティア〕とうの国々が当時ありました。このあたりに住んでいた人種は、アリアン系統のものだったろうと思われます。その地方の人々は、だいたい定着の都城とじょう生活をなし、商業がさかんであったようであります。ことにそこにはペルシャの文化、インドの文化、ギリシャの文化などが早くから入りこんでいて、種々の文化が混然こんぜんとして、花いていたようです。
 張騫ちょうけんや、彼にならってこれらの地方へ旅行へ出た人々は、こうした特殊の西域の文化のふうをいくぶんでもシナへ持ち帰ったことでしょう。しかし、具体的にこの西域の文物ぶんぶつが当時のシナに伝わったものとしては、西域地方に栽培せられている植物でしょう。ブドウ(葡萄)とかツメクサ(苜蓿)とか、キュウリ(胡瓜)とかクルミ(胡桃)とかゴマ(胡麻)とかザクロ(柘榴)とかを張騫が西域から輸入したとふつう申します。しかし、これは張騫が持ってきたのでないにしても、張騫によってはじめられたシナと西域との交通の結果として西域からシナへ伝わったことはうなずかれるところです。
 なお西域の大宛だいえんという国は、とてもすばらしい名馬の産地でした。汗血馬かんけつばといって、血のような汗をかくという馬です。武帝はこの汗血馬をシナに輸入するためにおおいにほねったのでした。
 匈奴きょうどは物資がゆたかでないので、この西域の国々からみつぎ物をとっていました。ですから武帝にしてみれば、この西域から匈奴の勢力を追いはらえば、軍事的にもまた経済的にも匈奴の片手を切って落としたようなものです。そこで武帝は、シナ・トルキスタンの諸国をふくし、そのあげく広利こうりをしてパミールのかなた大宛だいえんの国まで征伐せいばつをおこなわせました。
 武帝はこうして北や西にのみ勢力の伸張しんちょうをはかったのみではありませんでした。南のほう、今の広東カントン広西こうさい東京トンキン〔ハノイを中心とするベトナム北部の古称。また、ハノイの旧称〕の地方は、秦の始皇帝のとき中国にあわせられましたが、秦末の騒乱そうらん趙佗ちょうだというものが独立して南越国なんえつこくを建てました。武帝はその国の内乱に乗じてこれを征服し、漢の郡県といたしました。それから西南夷せいなんといって、今の雲南うんなん貴州きしゅう四川しせんの地方によっていた諸族のほうにもしだいに漢のを伸ばしました。
 この時分じぶん、朝鮮半島の形勢は、南には馬韓ばかん弁韓べんかん辰韓しんかん三韓さんかんが分立していました。これはかん人種の国です。ところが北には、遼東りょうとうから大同江だいどうこうの南にかけて古朝鮮の国がありました。これはかん人種の植民地でした。伝説によればいんほろびたとき、王族の箕子きしというものが逃れて朝鮮に入ってここに王となり、王倹壌おうけんじょう、すなわち今の平壌へいじょう〔ピョンヤン〕みやこしたというのです。これがいわゆる箕氏きしの朝鮮です。
 漢前漢ぜんかんのはじめのころ、その王の箕準きじゅんえんの国からの亡命者、衛満えいまんに国をうばわれ、衛氏えいしがかわってこれに王となっていましたが、その孫右渠うきょのときにいたって漢とあらそいをおこしましたので、武帝は軍をつかわしてこれをほろぼし、その地を真番しんばん楽浪らくろう臨屯りんとん玄菟げんとの四郡にわかちました。かくて漢の威光は南の三韓のほうにまでおよぶようになりました。
 武帝はこうやって五十四年の長い在位のあいだ、たえず四方の計略にしたがっていたため、漢のは四方にふるったものの、このため国費をついやすことが多く、文帝・景帝けいてい以後、充実していた国庫もそのためからっぽになってしまうありさまでした。ことに武帝のようにこうとげた人の最後の欲望というものは、とこしなえ〔とこしえ。永遠〕に生きたいということです。不老ろう不死ふしを願うということです。シナには古くから不老不死の生活をする神仙しんせんという考えがありました。そして方士ほうしというものは、ある特殊の薬をり、その薬をさえもちいれば神仙になれるというのです。前に話した秦の始皇帝も死ぬ前には、この方士のげんを信じて不老不死の薬を得ようと望みました。狡猾こうかつ〔わるがしこい〕な方士どもは、いまたちまちに武帝の心をとりこにいたしました。神仙をまねくための楼台ろうだい長生ちょうせい不死の薬の材料を得るための特別な建築、こうしておびただしい土木の乱費らんぴがおこなわれました。こうした多くの乱費のうめあわせをするためには、国民に対する重税、鉄・塩・酒などに対する専売がおこなわれるのむなきに至りました。あるいは売官ばいかん贖罪とくざいによって国庫の収入をそうとし、また鹿皮しかかわへいによって国用をべんじようといたしました。こうしたいろいろの経済政策を画策かくさくしたのは、そう弘羊こうよう孔僅こうきんなどという連中れんじゅうでした。こうした乱費と国民に対する重き負担とが、民力を疲弊ひへいせしめ、民衆のうらみを買ったのはいうまでもありませんでした。
 武帝はおのれをめる追悔ついかいみことのりを出して国民にしゃして、漢が秦となってしまう運命をわずかにまぬかれたのでした。

   一六、王莽おうもう纂奪さんだつ


 武帝が一般民衆の不平のうちに死にますと、あとに立ったのはわずかに八歳の昭帝しょうていでしたが、霍光かくこうという人が遺詔いしょうによって摂政せっしょうとして、よく民力の休養をはかり、不平をしずめるのに努力いたしました。
 昭帝の死後、霍光は宣帝せんていを立てましたが、この宣帝は、長いあいだ民間で育った人のうえに英明えいめいであったので、よく民治みんじほねりました。この人は民治の根本は、ことによい地方官を得ることにあることを知っていましたので、地方官をにんずるときには、じかに会って見聞けんぶんし、またよい地方官のあるときは、これを表彰ひょうしょうするというふうにいたしましたので、天下はよくおさまりました。また一方、外部においては匈奴に対する外征がいせいの軍をおこしておおいに漢威かんいをあげ、漢室の中興ちゅうこうまっとうしました。
 匈奴きょうどは武帝のとき、かなり手痛ていたいめに会いましたけれども、なお北方に勢力をゆうし、西域諸国を服属ふくぞくさせ、しばしば漢のうれいをなしていました。宣帝せんていはまた烏孫うそんと力をあわせておおいに匈奴をやぶりました。ここから西域諸国はおおむね漢に帰属するに至りましたので、宣帝は鄭吉ていきつ西域せいいき都護とごという役に任じ、烏塁城うるいじょうにとどまって西域の地をしずめました。これから、匈奴は西域に勢力をうしない、それに内乱があいつづき、南北の二部にわかれましたが、そのあげく南部の呼韓邪こかんや単于せんうは北部の@支しつし〔ちつし?〕単于せんうにやぶられて、漢に降参こうさんいたしました。@支しつし単于せんうも西のほう康呉こうごに逃れましたが、漢の甘延寿かんえんじゅは遠くこれを追い、@支しつしはついに敗北いたしました。
 呼韓邪こかんや単于せんうが漢にを通じたとき、いつものとおり漢の方からこれに公主こうしゅをつかわすことになりました。けれど実際の公主はやらないで、奥向おくむきのふつうの女を公主としょうしてやることにいたしました。ところがシナでは、後宮こうきゅう三千の美姫びきという言葉があるくらい天子の奥向おくむきには女が多いのです。天子はこれらの女のうちで、もっともみにくい女を呼韓邪こかんやのところへよめにやろうと思いました。けれども、なにしろ数が多いので、どれがいちばんみにくいか天子自身にはまるでわからない。そこで天子は絵師えしに命じて女どもの絵を作らせ、その絵でいちばんみにくいのをよめにやることにきめました。多くの女どもは自分を美しくえがいてもらおうとして、絵師に多くの賄賂わいろおくりました。
 ときに後宮におう昭君しょうくんという女がおりました。王昭君はたいへんな美人でした。この王昭君は、自分の顔に自信を持っていたのでしょう。絵師に賄賂わいろいたしませんでした。貪欲どんよくな絵師は、絵のうえで王昭君に復讐ふくしゅういたしました。王昭君は女どもの絵のなかで、もっともみにくえがかれてしまいました。天子は絵を見て、王昭君を呼韓邪こかんやよめにやることを宣言してしまいました。そして告別こくべつのために天子の前に出た王昭君は、絵の中での王昭君とはどれほどの相違そういだったでしょう。しかし、今となっては王昭君をよめにやるという宣言を取り消すわけにはいきません。みんなのなみだのうちに、王昭君はしおれた姿で匈奴に旅立ってゆかねばなりませんでした。こうしたあわれなロマンスも、漢と匈奴との外交のうちにはかくされていたのでした。

図、王昭君


 宣帝せんていが死に元帝げんていが立つと、宦官かんがん石顕せきけん弘恭こうきょうけんをもてあそびましたが、成帝せいていの代となると宦官はしりぞけられたかわりに、外戚がいせき王鳳おうほうの一族が勢いをほしいままにしたので、漢室の勢いはしだいにおとろえました。成帝のとき、外戚に王莽おうもうというものがありました。心ひそかに天子になりたいという望みを持ちながら、外面がいめん恭順きょうじゅんのふうをよそおって、しゅう公旦こうたん再来さいらいをきどっていた大偽善者だいぎぜんしゃでした。
 ところがおべっかきのシナ人のこととて、王莽おうもうはわざわざ人気にんきとりにやっていることなのに、そのとくをたたえてたものが四十八万五一七〇人もあったということです。
 王莽おうもうはこうやって人気とりをやりながら、一方、自分の娘を平帝へいていれ、そのあげく太傅たいふとなって権力をかため、ついにていしいしてみずから帝位をみました。漢は高祖こうそからここまで二一〇年でいったんほろびました。この漢のことを前漢ぜんかんと申します。
 王莽はこうやって政権をにぎってから国号をしんとあらため、いろいろの改革をやろうとしました。自分をしゅう公旦こうたんの再来のつもりでいるのですから、今の時勢にくかどうかもかまわずに、しゅうの諸制度を再興さいこうしようとしました。井田せいでんほうを復活するとか、田の売買を禁ずるとかいろいろやりましたが、法令が煩雑はんざつで民心をうしない、それに課税がきびしく、そのうえ匈奴や西域に対する政策も失敗したので、反乱が方々ほうぼうにおこりました。
 そのうちでも漢の宗族しゅうぞく劉玄りゅうげん〔更始帝〕は皇帝と称して人心じんしんをあつめ、劉秀りゅうしゅう〔光武帝〕王莽おうもうの軍を昆陽こんようにやぶりました。このとき王莽の軍は百余万よまんと号し、その軍にはトラ、ヒョウ、サイ、ゾウまで付属していました。それを劉秀りゅうしゅうはわずかの兵をもって打ちやぶりました。ちょうど大雪風だいせっぷうにあたったので、せっかくの王莽軍おうもうぐんのたよりのトラもヒョウもふるえる一方で役に立ちませんでした。
 漢軍の勢いはここからふるい、ついに長安に入って王莽を殺しました。しんという国のいのちは、わずかに十五年にすぎませんでした。

   一七、後漢ごかん興隆こうりゅう


 王莽おうもうほろんだのち、昆陽こんようの戦いで武名ぶめいをあげた劉秀りゅうしゅうされて帝位に登り、都を洛陽らくように定めてまた漢室を再興いたしました。この新しくおこった漢を後漢ごかんといい、前の漢と区別いたします。劉秀のことは光武帝こうぶていと申します。しかし、漢室は再興しても群雄ぐんゆうはまだ各地によっておりましたから、ていは諸将をつかわしてこれをしたがえ、ついに一統の大業たいぎょうをなしました。
 光武帝は前漢末ぜんかんまつの政治の紊乱びんらんにかんがみ、外戚がいせきの政治にあずかることを禁じ、みずからまつりごとをおこない、また国力の充実をはかるためできるだけ武事ぶじをつつしみました。そして外国との事端じたんをしげく〔しきりに〕するのをおそれてかんをとざし、外国との交渉をいっさい持たぬようにし、他方おおいに文教をおこし、前漢末ぜんかんまつ以来おおいにみだれた士風しふうの養成につとめました。その結果、天下よくおさまり、気骨きこつある気節きせつというものが輩出はいしゅつしました。この気節をたっとぶふうというものは、これから後漢一代のふうとなったのです。この光武こうぶののち、明帝めいてい章帝しょうていいずれもよく遺業いぎょうをついで内外の経営につとめたので、後漢の国運はおおいにおこったしだいです。
 王莽おうもうのとき匈奴を軽侮けいぶしたので、匈奴はこれをうらんでしきりに入寇にゅうこうしてまいりましたが、光武帝のときは、南北の二部に分裂し、みなみ匈奴は漢に帰服きふくいたしましたもののきた匈奴はあくまでも漢に抵抗いたし、明帝のときには西域諸国をつらねてしばしば漢をおかしました。明帝はそこで竇固とうこをしてこれをたせ、班超はんちょうをつかわして西域諸国の経略けいりゃくに従事させました。和帝わていのとき、竇憲とうけんに命じて北匈奴をせいしてこれを西方に走らせました。これから匈奴の北方における勢力はほとんどおとろえ、これにかわって北方の地方に登場してまいりますものは、鮮卑せんぴという種族であります。
 西域は、章帝しょうていのとき一時これを放棄ほうきしましたが、のち和帝のとき班超はこれら西域諸国を威服いふくし、ふたたび漢に帰服きふくせしめました。
 そこで前漢代にあった西域都護府を復興して亀茲きじ〔中国新疆ウイグル自治区、庫車クチャに置き、班超を都護とごとし、この地方五十余国よこくとくさせました。けれどものちにこの西域は放棄するのむなきに至りました。
 ローマという国が世界的の大領土を持った国であったことは、みなさんは西洋歴史でごぞんじでしょう。このローマは、後漢のはじめに領土を西方アジアにゆうし、その威名いめい遠近えんきんふるいました。シナの方にもこのローマの名は聞こえ、シナではその国のことを、大秦国たいしんこくと呼んでいました。
 この大秦国のほうでは、シナの産物さんぶつ、ことにきぬがほしかったのです。絹というものは、今日こんにちは日本やフランスから産出されますが、しかし、そのもとはいずれもシナから出たもので、むかしはシナがきぬを産出する唯一ゆいつの国といってもよかったのです。英語で絹のことをシルクと申しますのも、古くシナのことをギリシャ語でセリカといったのがなまったのです。この点からみても絹とシナとの関係がどれほど深いものであるかわかりましょう。そしてこのシナにしか出ない絹は、外国においてはきわめて珍重ちんちょうされたのです。たとえばローマ人がていたトーガという着物も、だいたいこのシナ産の絹で作られたものでした。ですから大秦たいしんのほうでもシナと直接交渉をつけてこうした産物がほしいし、漢のほうでしても大秦と交通を開きたい。そこで班超は部下の甘英かんえいを大秦につかわしました。甘英はペルシャ湾まで達しましたが、土人どじんいつわられてそこから帰り、ついに目的を達しませんでした。というのは、漢と大秦とのあいだに当時、安息あるさくという国がありました。ローマとしばしばあらそった、西洋歴史で有名なパルティアという国です。ところがこのパルティアは、漢と大秦との間にいて両国の間の物資交換の仲介ちゅうかいをして利益をしめていたのです。ですから甘英かんえいの旅行が成功して大秦と漢との直接貿易が開かれれば、あがったりになってしまいます。そこでこの甘英の世界的大壮挙だいそうきょ邪魔じゃまをしたわけなのでしょう。
 陸の上で漢と大秦たいしんとを結びつけようという漢側かんがわの計画は失敗に終わりましたが、その失敗は海の上からのみちでつぐなわれました。後漢の桓帝かんていのとき、大秦王たいしんおう安敦あんとんは、海路から使いを漢に送ってきて、シナの南、日南にちなん〔現在のベトナム、フエ付近か〕につきました。ここから両国の交通は開かれました。この安敦あんとんは、西洋史の上で有名なマルクス‐アウレリウス‐アントニウスのことだろうと思われます。これから大秦たいしんの商人もシナ南部に来たり、漢の商船もインド洋を往来おうらいしてたがいに貿易に従事し、文化の交換につとめたことと思われます。(つづく)



底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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東洋歴史物語(三)

藤田豐八

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   一四、漢楚《かんそ》の爭《あらそ》ひ

 秦末《しんまつ》の紛亂《ふんらん》に乘《じよう》じて立《た》ち、大《おほ》いに秦軍《しんぐん》をやぶつて威名《いめい》をとゞろかした二人《ふたり》の英雄《えいゆう》があつたことは前《まへ》にも申《まを》しました。一人《ひとり》は項羽《こうう》、一人《ひとり》は劉邦《りゆうほう》です。
 そのうち秦《しん》の國都《こくと》に迫《せま》り、事實上《じじつじよう》秦《しん》を亡《ほろぼ》したのは劉邦《りゆうほう》でした。それが項羽《こうう》には氣《き》に入《い》らないので、劉邦《りゆうほう》の後《あと》から函谷關《かんこくかん》へはひつて行《ゆ》き、劉邦《りゆうほう》と衝突《しようとつ》しようとしました。それが有名《ゆうめい》な鴻門《こうもん》の會《かい》でしたが無事《ぶじ》に納《をさ》まりました。これから後《のち》も項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》の間《あひだ》はよく行《ゆ》きません。項羽《こうう》は自《みづか》ら西楚《せいそ》の覇王《はおう》といひ、劉邦《りゆうほう》を漢王《かんおう》に封《ふう》じてゐましたので、この二人《ふたり》の爭《あらそ》ひは漢楚《かんそ》の爭《あらそ》ひといはれます。劉邦《りゆうほう》自身《じしん》はそんなに戰爭《せんそう》のうまい人《ひと》ではありませんでしたが、その臣下《しんか》にはすぐれた人《ひと》が揃《そろ》つてゐまして、劉邦《りゆうほう》は實《じつ》によくその人々《ひと/″\》を使《つか》ひました。その中《うち》でも韓信《かんしん》、張良《ちようりよう》、肅何《しゆくか》[#「肅何《しゆくか》」は底本のまま]の三人《さんにん》はぬきん出《で》た人《ひと》でした。韓信《かんしん》は用兵《ようへい》のうまい大將《たいしよう》でした。韓信《かんしん》がもと出世《しゆつせ》しない時分《じぶん》のことです。市場《いちば》でならずもの[#「ならずもの」に傍点]どもが韓信《かんしん》を侮《あなど》つて、
「お前《まへ》は大《おほ》きい圖體《ずうたい》をして刀《かたな》なんぞさしこんでゐるが、心《こゝろ》は臆病《おくびよう》なのさ。切《き》れるものなら切《き》つて見《み》ろ、切《き》れなきゃおれの股《また》の下《した》をくゞれ」
と申《まを》しました。韓信《かんしん》にしたところで、こんな男《をとこ》を切《き》るくらゐはなんでもなかつたのでせうが、こゝが我慢《がまん》のしどころ、こんな男《をとこ》を切《き》つて前途《ぜんと》ある自分《じぶん》をだいなしにしてはならないと、その男《をとこ》のいふなりに股《また》の下《した》をくゞりました。市場《いちば》の人《ひと》は韓信《かんしん》は怯《きよう》だといつて笑《わら》ひました。しかし、かういふところを我慢《がまん》することこそほんとの勇氣《ゆうき》なのですが、うはべしか見《み》ない人々《ひと/″\》にはわからなかつたのでせう。大事《だいじ》の前《まへ》の小事《しようじ》、かうした忍耐《にんたい》といふことが入《い》り用《よう》なのは韓信《かんしん》ばかりではありませんね。後《のち》にこの韓信《かんしん》が劉邦《りゆうほう》に用《もち》ひられるようになり、大軍《たいぐん》の總大將《そうだいしよう》として、ほんとうの勇氣《ゆうき》を示《しめ》したのでした。
 張良《ちようりよう》といふ人《ひと》は謀《はかりごと》を立《た》てる名人《めいじん》でしたし、肅何《しゆくか》[#「肅何《しゆくか》」は底本のまま]は後方《こうほう》の兵站《へいたん》事務《じむ》などを巧《たくみ》に處理《しより》する人《ひと》でした。こんなすぐれた部下《ぶか》を自由《じゆう》自在《じざい》に使《つか》つて劉邦《りゆうほう》は項羽《こうう》と戰《たゝか》つたのです。ところがこの項羽《こうう》といふ人《ひと》は、實《じつ》に強《つよ》い勇氣《ゆうき》のある戰爭《せんそう》の上手《じようず》な大將《たいしよう》でした。劉邦《りゆうほう》などはしばしばこの項羽《こうう》にこっぴどくやっつけられました。けれども項羽《こうう》といふ人《ひと》はあまり部下《ぶか》を上手《じようず》に使《つか》へなかつた人《ひと》で、始《はじ》めは范増《はんぞう》などといふ偉《えら》い臣《けらい》もゐましたが、十分《じゆうぶん》使《つか》ひ切《き》れず離《はな》れて行《い》つてしまひました。かうした點《てん》などから、項羽《こうう》自身《じしん》はいかに強《つよ》くっても、次第《しだい》にその勢力《せいりよく》は弱《よわ》つてまゐりました。
 最後《さいご》に項羽《こうう》は、垓下《がいか》といふ所《ところ》で漢王《かんのう》の軍《ぐん》に圍《かこ》まれました。兵《へい》は少《すくな》く食《しよく》も盡《つ》きてをりました。項羽《こうう》が夜《よる》聞《き》きますと、漢《かん》の軍《ぐん》の四面《しめん》で楚《そ》の地方《ちほう》の歌《うた》を歌《うた》つてゐました。項羽《こうう》は、大《おほ》いに驚《おどろ》いて、
「漢《かん》はもう自分《じぶん》の根據地《こんきよち》であつた楚《そ》を占領《せんりよう》してしまつたのだらうか。なんと楚《そ》の人《ひと》の多《おほ》いことよ」
といつて最後《さいご》の腹《はら》をきめました。四面《しめん》楚歌《そか》といふ言葉《ことば》は、こゝから來《き》たのです。そこで起《た》つて宴會《えんかい》を開《ひら》き、項羽《こうう》が寵愛《ちようあい》してゐた虞美人《ぐびじん》といふ女《をんな》に舞《ま》ひを舞《ま》はしめました。項羽《こうう》は悲歌《ひか》慷慨《こうがい》、涙《なみだ》數行《すうこう》下《くだ》るといふありさまでした。その項羽《こうう》の歌《うた》つた歌《うた》は、
[#ここから1字下げ]
力《ちから》山《やま》を拔《ぬ》き氣《き》世《よ》を蓋《おほ》ふ。
時《とき》利《り》あらず騅《すい》逝《ゆ》かず騅《すい》逝《ゆ》かず、
いかにすべけん、
虞《ぐ》や虞《ぐ》やなんぢをいかにせん。
[#ここで字下げ終わり]
といふのでした。騅《すい》といふのは項羽《こうう》が平生《へいぜい》乘《の》つてゐた駿馬《しゆんめ》でした。左右《さゆう》にゐる人々《ひと/″\》は皆《みな》泣《な》いて敢《あ》へて仰《あふ》ぎ見《み》るものもないあり樣《さま》でした。
 項羽《こうう》はその圍《かこ》みを破《やぶ》つて烏江《うこう》まで逃《のが》れましたけれど、天命《てんめい》のきはまつたのを知《し》つて自《みづか》ら首《くび》切《き》つて悲壯《ひそう》な最後《さいご》をとげました。薄命《はくめい》の佳人《かじん》、虞美人《ぐびじん》を埋《うづ》めた墓《はか》から咲《さ》き出《だ》した草《くさ》が、あの赤《あか》い赤《あか》い虞美人草《ぐびじんそう》だつたと傳《つた》へます。
[#図版(〓.png)、項羽垓下の訣別]
 漢楚《かんそ》は相《あひ》爭《あらそ》ふこと四年《よねん》、最後《さいご》の勝利《しようり》は劉邦《りゆうほう》の手《て》に握《にぎ》られ、遂《つひ》に天下《てんか》を一統《いつとう》して帝位《ていゝ》につきました。これを漢《かん》の高祖《こうそ》と申《まを》します。高祖《こうそ》は周《しゆう》の故都《こと》鎬京《こうけい》に都《みやこ》し、これを長安《ちようあん》といひました。秦《しん》が早《はや》く滅亡《めつぼう》したのに鑑《かんが》みて封建《ほうけん》の制《せい》を復活《ふつかつ》し、一族《いちぞく》功臣《こうしん》と諸侯《しよこう》に封《ほう》じましたが、後《のち》には一族《いちぞく》でない諸侯《しよこう》は次第《しだい》にこれを除《のぞ》いて、後々《のち/\》の危險《きけん》を防《ふせ》がうといたしました。韓信《かんしん》、彭越《ほうえつ》などの建國《けんこく》の功臣《こうしん》も、このため終《をは》りがよくありませんでした。しかし、この政策《せいさく》は一族《いちぞく》の横暴《おうぼう》といふことを招《まね》きがちで、高祖《こうそ》の死後《しご》、高祖《こうそ》の外戚《がいせき》にあたる呂氏《ろし》の亂《らん》をひき起《おこ》し、ついで景帝《けいてい》の世《よ》には呉楚《ごそ》等《とう》の七國《しちこく》の諸侯《しよこう》の大亂《たいらん》をまねきました。
 しかし、この大亂《たいらん》の結果《けつか》はかへって雨降《あめふ》つて地固《じかた》まるといふふうによくなつて、これから後《のち》は諸王《しよおう》は都《みやこ》に留《とゞ》められ、實際《じつさい》その地方《ちほう》/\の政治《せいじ》に當《あた》つたのは、中央《ちゆうおう》政府《せいふ》から遣《つか》はされた國相《こくしよう》であつたので、名前《なまへ》だけは封建《ほうけん》ですけれども、その内容《ないよう》は郡縣《ぐんけん》と同《おな》じであるようになり、政權《せいけん》が中央《ちゆうおう》に統一《とういつ》せられるようになりました。

   一五、武帝《ぶてい》の功業《こうぎよう》

 文帝《ぶんてい》といふ人《ひと》は非常《ひじよう》によく政治《せいじ》につとめ、そのつぎの景帝《けいてい》のときには前《まへ》に申《まを》しました呉楚《ごそ》七國《しちこく》の亂《らん》があつて、中央《ちゆうおう》の漢室《かんしつ》の勢威《せいゝ》がそのために伸張《しんちよう》しました。またこの二代《にだい》をへて府庫《ふこ》も充實《じゆうじつ》いたしてをりました。
 この時《とき》、英邁《えいまい》な天資《てんし》をもつて天子《てんし》の位《くらゐ》に登《のぼ》つたのが武帝《ぶてい》でした。武帝《ぶてい》はこの勢《いきほ》ひに乘《じよう》じて内《うち》にあつては文教《ぶんきよう》を興《おこ》し、外《そと》は四方《しほう》の遠征《えんせい》を企《くはだ》てゝ空前《くうぜん》の大偉業《だいゝぎよう》をなしとげました。
 秦代《しんだい》においては、始皇帝《しこうてい》の文教《ぶんきよう》壓迫《あつぱく》政策《せいさく》によつて文教《ぶんきよう》は衰《おとろ》へましたが、漢《かん》が興《おこ》るとまた諸種《しよしゆ》の學術《がくじゆつ》も芽《め》をふきかへし、秦代《しんだい》に隱《かく》されてゐた書物《しよもつ》もあちらこちらから現《あらは》れて來《く》るといふあり樣《さま》でした。そこで武帝《ぶてい》は、標準《ひようじゆん》の學術《がくじゆつ》を定《さだ》めて思想《しそう》の統一《とういつ》をしようといたしまして、董《とう》仲舒《ちゆうじよ》といふ人《ひと》の建議《けんぎ》に從《したが》つて、儒教《じゆきよう》をもつて政教《せいきよう》の基準《きじゆん》といたしました。これはこれから以後《いご》の支那《しな》の思想界《しそうかい》において、儒教《じゆきよう》が最《もつと》も根本的《こんぽんてき》なものと考《かんが》へられる基《もとゐ》をなしたのです。武帝《ぶてい》は大學《だいがく》を設《まう》け、儒教《じゆきよう》の方《ほう》の經典《けいてん》の易《えき》、詩《し》、書《しよ》、禮記《らいき》、春秋《しゆんじゆう》の五經《ごけい》の專門《せんもん》の學者《がくしや》、五經《ごけい》博士《はくし》を置《お》いて子弟《してい》の教育《きよういく》を行《おこな》ひました。後世《こうせい》の儒教《じゆきよう》流行《りゆうこう》、儒學《じゆがく》尊崇《そんすう》の風《ふう》は、この武帝《ぶてい》によつて始《はじ》められたといふことが出來《でき》ます。なほ武帝《ぶてい》は大《おほ》いに文學《ぶんがく》を奬勵《しようれい》したもので、武帝《ぶてい》の朝廷《ちようてい》には文學《ぶんがく》の士《し》も多《おほ》く、詞賦《しふ》の司馬《しば》相如《そうぎよ》文《ぶん》の司馬《しば》遷《せん》は有名《ゆうめい》であります。
 司馬《しば》遷《せん》といふ人《ひと》はすぐれた歴史家《れきしか》で、よくギリシャのヘロデトスと竝《なら》べて歴史家《れきしか》の父《ちゝ》などと申《まを》される人《ひと》です。その歴史《れきし》の書物《しよもつ》史記《しき》は、支那《しな》上代《じようだい》の歴史《れきし》を見《み》ることに缺《か》くべからざるものです。
 匈奴《きようど》のはなしは前《まへ》に申《まを》しました。秦《しん》の時《とき》、いったん北方《ほつぽう》に追《お》ひ拂《はら》はれましたが、漢《かん》の初《はじ》めにあたつて冒頓《ぼくとつ》といふ單于《せんう》が出《で》ました。單于《せんう》といふのは匈奴《きようど》の王《おう》といふ言葉《ことば》です。この單于《せんう》のとき勢力《せいりよく》を回復《かいふく》いたし、匈奴《きようど》の東《ひがし》の方《ほう》、今《いま》の蒙古《もうこ》の東部《とうぶ》にをつた東胡族《とうこぞく》を從《したが》へ、また西《にし》の方《ほう》、甘肅省《かんしゆくしよう》の敦煌《とんこう》地方《ちほう》によつてゐた月氏《げつし》種族《しゆぞく》を破《やぶ》つて、あたるべからざる大勢力《だいせいりよく》でした。月氏《げつし》といふ種族《しゆぞく》はよくわかりませんが、だいたいトルコ種族《しゆぞく》と思《おも》はれます。漢《かん》の高祖《こうそ》はこれを征伐《せいばつ》しようと出《で》かけたのでしたが、山西省《さんせいしよう》の白登《はくとう》といふ所《ところ》で匈奴《きようど》に圍《かこ》まれ命《いのち》から/″\逃《に》げ歸《かへ》つたことがあります。これから後《のち》、漢《かん》の匈奴《きようど》に對《たい》する政策《せいさく》はいたつて消極的《しようきよくてき》で、たえず匈奴《きようど》の御氣嫌《ごきげん》をとるようなことをして、その鋭鋒《えいほう》を避《さ》けました。すなはち公主《こうしゆ》すなはち天子《てんし》の娘《むすめ》を匈奴《きようど》に嫁《よめ》にやつて婚《こん》を通《つう》じ、また多《おほ》くの帛《はく》を贈《おく》つて、匈奴《きようど》と和親《わしん》を保《たも》つたのです。この外民族《がいみんぞく》に婚《こん》を通《つう》じたり贈《おく》り物《もの》をしたりして、和親《わしん》をつゞけるといふやり方《かた》は、漢民族《かんみんぞく》のよくやりつけの方策《ほうさく》です。文帝《ぶんてい》の時代《じだい》においても、漢《かん》は匈奴《きようど》に對《たい》して非常《ひじよう》に屈辱的《くつじよくてき》な態度《たいど》をとつてゐましたが、武帝《ぶてい》の出《で》るに及《およ》んでかゝる態度《たいど》にあるをいさぎよしとせず、匈奴《きようど》の討伐《とうばつ》を企《くはだ》てるに至《いた》りました。
 以前《いぜん》に敦煌《とんこう》にをりました月氏《げつし》は、匈奴《きようど》の冒頓《ぼくとつ》單于《せんう》に破《やぶ》られて遠《とほ》く伊犂《いり》地方《ちほう》に遁《のが》れてをりましたが、武帝《ぶてい》の時代《じだい》には南《みなみ》へ下《くだ》り、中央《ちゆうおう》アジアに大月氏國《だいげつしこく》を建《た》て、オクソス川《がは》の南《みなみ》によつてゐた大夏國《たいかこく》(ヨーロツパの歴史《れきし》に見《み》えるバクトリア王國《おうこく》)をも服《ふく》せしめて勢《いきほ》ひがさかんでありました。この大月氏《だいげつし》は一度《いちど》匈奴《きようど》に破《やぶ》られたので、匈奴《きようど》に對《たい》して心《こゝろ》からの恨《うら》みを抱《いだ》いてゐるといふことを武帝《ぶてい》は聞《き》いたので、それではこの大月氏《だいげつし》と同盟《どうめい》して匈奴《きようど》を東西《とうざい》から挾撃《きようげき》しようとして、張騫《ちようけん》といふ人《ひと》をその國《くに》に遣《つか》はしましたが、大月氏《だいげつし》はその土地《とち》に安住《あんじゆう》し、匈奴《きようど》と戰《たゝか》はうなんて氣《き》はなかつたので、この同盟《どうめい》の計畫《けいかく》は失敗《しつぱい》に歸《き》しました。
 その後《ご》、武帝《ぶてい》は衞青《えいせい》、霍去病《かつきよへい》などの諸名將《しよめいしよう》をつかはして、大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて匈奴《きようど》を討《う》たせ、匈奴《きようど》を沙漠《さばく》の北《きた》に追《お》ひ拂《はら》ひました。
 また張騫《ちようけん》の進言《しんげん》をきいて、當時《とうじ》匈奴《きようど》の西方《せいほう》今《いま》の伊犂《いり》地方《ちほう》にゐた烏孫《うそん》と婚《こん》を通《つう》じ、同盟《どうめい》して匈奴《きようど》の勢《いきほ》ひを抑《おさ》へました。烏孫《うそん》も大月氏《だいげつし》と同《おな》じくトルコ種《しゆ》と思《おも》はれます。もとはやはり大月氏《だいげつし》と同《おな》じく敦煌《とんこう》のほとりにゐたのですが、匈奴《きようど》に破《やぶ》られ伊犂《いり》の方《ほう》へにげたのでした。
 張騫《ちようけん》が大月氏《だいげつし》へ使《つか》ひした旅行《りよこう》の目的《もくてき》は達《たつ》せられませんでしたけれども、この張騫《ちようけん》の大旅行《だいりよこう》によつて支那《しな》と西《にし》の方《ほう》の國々《くに/″\》(支那《しな》ではそのことを西域《せいゝき》と申《まを》しますが)との交通《こうつう》が開《ひら》かれたといふことも出來《でき》るのです。さういふ點《てん》でこの張騫《ちようけん》の大旅行《だいりよこう》を、コロンブスのアメリカ發見《はつけん》の航海《こうかい》と比較《ひかく》したヨーロツパの學者《がくしや》もあります。最初《さいしよ》に張騫《ちようけん》が大月氏《だいげつし》に使《つか》ひした時《とき》は、その旅行《りよこう》は前後《ぜんご》十三年《じゆうさんねん》に亙《わた》つてゐました。そのうち十年《じゆうねん》以上《いじよう》は敵《てき》である匈奴《きようど》に囚《とら》へられてゐたのですが、その手《て》を脱《だつ》して大月氏《だいげつし》への使《つか》ひを完《まつた》うしたのです。
 この旅行《りよこう》から西域《せいゝき》諸國《しよこく》に關《かん》する事情《じじよう》が支那《しな》の方《ほう》に明《あきら》かにされるに至《いた》りました。西域《せいゝき》といふ言葉《ことば》は、普通《ふつう》はパミール高原《こうげん》の東西《とうせい》、支那《しな》トルキスタン、ロシア・トルキスタンの地方《ちほう》をいふのです。
 これらの地方《ちほう》には康居《かんぐ》、于※[#「門<眞」、第3水準1-93-54]《ほたん》、大宛《たいえん》、安息《あるさく》等《とう》の國々《くに/″\》が當時《とうじ》ありました。このあたりに住《す》んでゐた人種《じんしゆ》は、アリアン系統《けいとう》のものだつたらうと思《おも》はれます。その地方《ちほう》の人々《ひと/″\》は、だいたい定着《ていちやく》の都城《とじよう》生活《せいかつ》をなし、商業《しようぎよう》が盛《さか》んであつたようであります。ことにそこにはペルシャの文化《ぶんか》、インドの文化《ぶんか》、ギリシャの文化《ぶんか》などが早《はや》くから入《い》りこんでゐて、種々《しゆ/″\》の文化《ぶんか》が混然《こんぜん》として、花《はな》咲《さ》いてゐたようです。
 張騫《ちようけん》や、かれにならつてこれらの地方《ちほう》へ旅行《りよこう》へ出《で》た人々《ひと/″\》は、かうした特殊《とくしゆ》の西域《せいゝき》の文化《ぶんか》の風《ふう》を幾分《いくぶん》でも支那《しな》へ持《も》ち歸《かへ》つたことでせう。しかし、具體的《ぐたいてき》にこの西域《せいゝき》の文物《ぶんぶつ》が當時《とうじ》の支那《しし》[#「しし」は底本のまま]に傳《つた》はつたものとしては、西域《せいゝき》地方《ちほう》に栽培《さいばい》せられてゐる植物《しよくぶつ》でせう。葡萄《ぶどう》とか苜宿《つめくさ》とか、胡瓜《きうり》とか胡桃《くるみ》とか胡麻《ごま》とか柘榴《ざくろ》とかを張騫《ちようけん》が西域《せいゝき》から輸入《ゆにゆう》したと普通《ふつう》申《まを》します。しかし、これは張騫《ちようけん》がもつて來《き》たのでないにしても、張騫《ちようけん》によつて始《はじ》められた支那《しな》と西域《せいゝき》との交通《こうつう》の結果《けつか》として西域《せいゝき》から支那《しな》へ傳《つた》はつたことはうなづかれるところです。
 なほ西域《せいゝき》の大宛《たいえん》といふ國《くに》は、とてもすばらしい名馬《めいば》の産地《さんち》でした。汗血馬《かんけつば》といつて、血《ち》のような汗《あせ》をかくといふ馬《うま》です。武帝《ぶてい》はこの汗血馬《かんけつば》を支那《しな》に輸入《ゆにゆう》するために大《おほ》いに骨《ほね》を折《を》つたのでした。
 匈奴《きようど》は物資《ぶつし》がゆたかでないので、この西域《せいゝき》の國々《くに/″\》から貢《みつ》ぎ物《もの》をとつてゐました。ですから武帝《ぶてい》にして見《み》れば、この西域《せいゝき》から匈奴《きようど》の勢力《せいりよく》を追《お》ひ拂《はら》へば、軍事的《ぐんじてき》にもまた經濟的《けいざいてき》にも匈奴《きようど》の片手《かたて》を切《き》つて落《おと》したようなものです。そこで武帝《ぶてい》は、支那《しな》トルキスタンの諸國《しよこく》を服《ふく》し、そのあげく李《り》廣利《こうり》をしてパミールのかなた大宛《たいえん》の國《くに》まで征伐《せいばつ》を行《おこな》はせました。
 武帝《ぶてい》はかうして北《きた》や西《にし》にのみ勢力《せいりよく》の伸張《しんちよう》をはかつたのみではありませんでした。南《みなみ》の方《ほう》今《いま》の廣東《かんとん》、廣西《こうさい》、東京《とんきん》の地方《ちほう》は、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》のとき中國《ちゆうごく》に併《あは》せられましたが、秦末《しんまつ》の騷亂《そうらん》に趙陀《ちようだ》[#「趙陀」は底本のまま]といふものが獨立《どくりつ》して南越國《なんえつこく》を建《た》てました。武帝《ぶてい》はその國《くに》の内亂《ないらん》に乘《じよう》じてこれを征服《せいふく》し、漢《かん》の郡縣《ぐんけん》といたしました。それから西南夷《せいなんい》といつて、今《いま》の雲南《うんなん》、貴州《きしゆう》、四川《しせん》の地方《ちほう》によつてゐた諸族《しよぞく》の方《ほう》にも次第《しだい》に漢《かん》の威《い》を伸《のば》しました。
 この時分《じぶん》、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》の形勢《けいせい》は、南《みなみ》には、馬韓《ばかん》、弁韓《べんかん》、辰韓《しんかん》の三韓《さんかん》が分立《ぶんりつ》してゐました。これは韓人種《かんじんしゆ》の國《くに》です。ところが北《きた》には、遼東《りようとう》から大同江《だいどうこう》の南《みなみ》にかけて古朝鮮《こちようせん》の國《くに》がありました。これは漢人種《かんじんしゆ》の植民地《しよくみんち》でした。傳説《でんせつ》によれば殷《いん》の亡《ほろ》びた時《とき》、王族《おうぞく》の箕子《きし》といふものが遁《のが》れて朝鮮《ちようせん》にはひつてこゝに王《おう》となり、王儉壤《おうけんじよう》、すなはち今《いま》の平壤《へいじよう》に都《みやこ》したといふのです。これがいはゆる箕氏《きし》の朝鮮《ちようせん》です。
 漢《かん》の初《はじ》めの頃《ころ》、その王《おう》の箕準《きじゆん》は燕《えん》の國《くに》からの亡命者《ぼうめいしや》、衞滿《えいまん》に國《くに》をうばはれ、衞氏《えいし》が代《かは》つてこれに王《おう》となつてゐましたが、その孫《まご》右渠《うきよ》の時《とき》に至《いた》つて漢《かん》と爭《あらそ》ひを起《おこ》しましたので、武帝《ぶてい》は軍《ぐん》を遣《つか》はしてこれを亡《ほろぼ》し、その地《ち》を眞番《しんばん》、樂浪《らくろう》、臨屯《りんとん》、玄菟《げんと》の四郡《しぐん》に分《わか》ちました。かくて漢《かん》の威光《いこう》は南《みなみ》の三韓《さんかん》の方《ほう》にまで及《およ》ぶようになりました。
 武帝《ぶてい》はかうやつて五十四年《ごじゆうよねん》の長《なが》い在位《ざいゝ》の間《あひだ》、絶《た》えず四方《しほう》の計略《けいりやく》に從《したが》つてゐたゝめ、漢《かん》の威《い》は四方《しほう》に振《ふる》つたものゝ、このため國費《こくひ》を費《つひや》すことが多《おほ》く、文帝《ぶんてい》、景帝《けいてい》以後《いご》、充實《じゆうじつ》してゐた國庫《こつこ》もそのため空《から》っぽになつてしまふあり樣《さま》でした。ことに武帝《ぶてい》のように功《こう》成《な》り名《な》遂《と》げた人《ひと》の最後《さいご》の欲望《よくぼう》といふものは、とこしなへに生《い》きたいといふことです。不老《ふろう》不死《ふし》を願《ねが》ふといふことです。支那《しな》には古《ふる》くから不老《ふろう》不死《ふし》の生活《せいかつ》をする神仙《しんせん》といふ考《かんが》へがありました。そして方士《ほうし》といふものは、ある特殊《とくしゆ》の藥《くすり》を練《ね》り、その藥《くすり》をさへ用《もち》ひれば神仙《しんせん》になれるといふのです。前《まへ》に話《はな》した秦《しん》の始皇帝《しこうてい》も死《し》ぬ前《まへ》には、この方士《ほうし》の言《げん》を信《しん》じて不老《ふろう》不死《ふし》の藥《くすり》を得《え》ようと望《のぞ》みました。狡猾《こうかつ》な方士《ほうし》どもは、今《いま》たちまちに武帝《ぶてい》の心《こゝろ》をとりこにいたしました。神仙《しんせん》を招《まね》くための樓臺《ろうだい》、長生《ちようせい》不死《ふし》の藥《くすり》の材料《ざいりよう》をえるための特別《とくべつ》な建築《けんちく》、かうしておびたゞしい土木《どぼく》の濫費《らんぴ》が行《おこな》はれました。かうした多《おほ》くの濫費《らんぴ》の埋《う》め合《あは》せをするためには、國民《こくみん》に對《たい》する重税《じゆうぜい》、鐵《てつ》、鹽《しほ》、酒《さけ》などに對《たい》する專賣《せんばい》が行《おこな》はれるの止《や》むなきに至《いた》りました。あるひは賣官《ばいかん》贖罪《とくざい》によつて國庫《こつこ》の收入《しゆうにゆう》を増《ま》さうとし、また鹿皮《しかゝは》の幤《へい》によつて國用《こくよう》を辨《べん》じようといたしました。かうしたいろ/\の經濟《けいざい》政策《せいさく》を劃策《かくさく》したのは、桑《そう》弘羊《こうよう》、孔僅《こうきん》などといふ連中《れんじゆう》でした。かうした濫費《らんぴ》と國民《こくみん》に對《たい》する重《おも》き負擔《ふたん》とが、民力《みんりよく》を疲弊《ひへい》せしめ、民衆《みんしゆう》の怨《うら》みを買《か》つたのはいふまでもありませんでした。
 武帝《ぶてい》は己《おのれ》を責《せ》める追悔《ついかい》の詔《みことのり》を出《だ》して國民《こくみん》に謝《しや》して、漢《かん》が秦《しん》となつてしまふ運命《うんめい》をわづかに免《まぬか》れたのでした。

   一六、王莽《おうもう》の纂奪《さんだつ》

 武帝《ぶてい》が一般《いつぱん》民衆《みんしゆう》の不平《ふへい》のうちに死《し》にますと、あとに立《た》つたのはわづかに八歳《はつさい》の昭帝《しようてい》でしたが、霍光《かつこう》といふ人《ひと》が遺詔《いしよう》によつて攝政《せつしよう》として、よく民力《みんりよく》の休養《きゆうよう》をはかり、不平《ふへい》を鎭《しづ》めるのに努力《どりよく》いたしました。
 昭帝《しようてい》の死後《しご》、霍光《かつこう》は宣帝《せんてい》を立《た》てましたが、この宣帝《せんてい》は、長《なが》い間《あひだ》民間《みんかん》で育《そだ》つた人《ひと》の上《うへ》に英明《えいめい》であつたので、よく民治《みんじ》に骨《ほね》を折《を》りました。この人《ひと》は民治《みんじ》の根本《こんぽん》は、ことによい地方官《ちほうかん》を得《う》ることにあることを知《し》つてゐましたので、地方官《ちほうかん》を任《にん》ずる時《とき》には、ぢかに會《あ》つて見聞《けんぶん》し、またよい地方官《ちほうかん》のあるときは、これを表彰《ひようしよう》するといふふうにいたしましたので、天下《てんか》はよく治《をさ》まりました。また一方《いつぽう》、外部《がいぶ》においては匈奴《きようど》に對《たい》する外征《がいせい》の軍《ぐん》を起《おこ》して大《おほ》いに漢威《かんい》を揚《あ》げ、漢室《かんしつ》の中興《ちゆうこう》を完《まつた》うしました。
[#行頭全角スペースなしは底本のまま]匈奴《きようど》は武帝《ぶてい》のとき、かなり手痛《ていた》いめに會《あ》ひましたけれども、なほ北方《ほつぽう》に勢力《せいりよく》を有《ゆう》し、西域《せいゝき》諸國《しよこく》を服屬《ふくぞく》させ、しば/\漢《かん》の患《うれ》ひをなしてゐました。宣帝《せんてい》はまた烏孫《うそん》と力《ちから》を合《あは》せて大《おほ》いに匈奴《きようど》を破《やぶ》りました。こゝから西域《せいゝき》諸國《しよこく》はおほむね漢《かん》に歸屬《きぞく》するに至《いた》りましたので、宣帝《せんてい》は鄭吉《ていきつ》を西域《せいゝき》都護《とご》といふ役《やく》に任《にん》じ、烏壘城《うるいじよう》にとゞまつて西域《せいゝき》の地《ち》を鎭《しづ》めました。これから、匈奴《きようど》は西域《せいゝき》に勢力《せいりよく》を失《うしな》ひ、それに内亂《ないらん》が相《あひ》つゞき、南北《なんぼく》の二部《にぶ》に別《わか》れましたが、そのあげく南部《なんぶ》の呼韓邪《こかんや》單于《せんう》は北部《ほくぶ》の※[#「至+おおざと」、第3水準1-92-67]支《しつし》單于《せんう》に破《やぶ》られて、漢《かん》に降參《こうさん》いたしました。※[#「至+おおざと」、第3水準1-92-67]支《しつし》單于《せんう》も西《にし》の方《ほう》康呉《こうご》に逃《のが》れましたが、漢《かん》の甘延壽《かんえんじゆ》は遠《とほ》くこれを追《お》ひ、※[#「至+おおざと」、第3水準1-92-67]支《しつし》は遂《つひ》に敗北《はいぼく》いたしました。
 呼韓邪《こかんや》單于《せんう》が漢《かん》に私《し》を通《つう》じたとき、いつものとほり漢《かん》の方《ほう》からこれに公主《こうしゆ》を遣《つか》はすことになりました。けれど實際《じつさい》の公主《こうしゆ》はやらないで、奧向《おくむ》きの普通《ふつう》の女《をんな》を公主《こうしゆ》と稱《しよう》してやることにいたしました。ところが支那《しな》では、後宮《こうきゆう》三千《さんぜん》の美姫《びき》といふ言葉《ことば》があるくらゐ天子《てんし》の奧向《おくむ》きには女《をんな》が多《おほ》いのです。天子《てんし》はこれらの女《をんな》の中《うち》で、最《もつと》も醜《みにく》い女《をんな》を呼韓邪《こかんや》の所《ところ》へ嫁《よめ》にやらうと思《おも》ひました。けれども、なにしろ數《かず》が多《おほ》いので、どれが一番《いちばん》醜《みにく》いか天子《てんし》自身《じしん》にはまるでわからない。そこで天子《てんし》は繪師《えし》に命《めい》じて女《をんな》どもの繪《え》を作《つく》らせ、その繪《え》で一番《いちばん》醜《みにく》いのを嫁《よめ》にやることにきめました。多《おほ》くの女《をんな》どもは自分《じぶん》を美《うつく》しく描《えが》いてもらはうとして、繪師《えし》に多《おほ》くの賄賂《わいろ》を贈《おく》りました。
 時《とき》に後宮《こうきゆう》に王《おう》昭君《しようくん》といふ女《をんな》がをりました。王《おう》昭君《しようくん》はたいへんな美人《びじん》でした。この王《おう》昭君《しようくん》は、自分《じぶん》の顏《かほ》に自信《じしん》を持《も》つてゐたのでせう。繪師《えし》に賄賂《わいろ》いたしませんでした。貪欲《どんよく》な繪師《えし》は、繪《え》の上《うへ》で王《おう》昭君《しようくん》に復讐《ふくしゆう》いたしました。王《おう》昭君《しようくん》は女《をんな》どもの繪《え》のなかで、最《もつと》も醜《みにく》く描《えが》かれてしまひました。天子《てんし》は繪《え》を見《み》て、王《おう》昭君《しようくん》を呼韓邪《こかんや》に嫁《よめ》にやることを宣言《せんげん》してしまひました。そして告別《こくべつ》のために天子《てんし》の前《まへ》に出《で》た王《おう》昭君《しようくん》は、繪《え》の中《なか》での王《おう》昭君《しようくん》とはどれほどの相違《そうい》だつたでせう。しかし今《いま》となつては王《おう》昭君《しようくん》を嫁《よめ》にやるといふ宣言《せんげん》をとりけすわけには行《ゆ》きません。皆《みんな》の涙《なみだ》のうちに、王《おう》昭君《しようくん》はしほれた姿《すがた》で匈奴《きようど》に旅立《たびだ》つてゆかねばなりませんでした。かうした哀《あは》れなろまんす[#「ろまんす」に傍点]も、漢《かん》と匈奴《きようど》との外交《がいこう》のうちには隱《かく》されてゐたのでした。
[#図版(〓.png)、王昭君]
 宣帝《せんてい》が死《し》に元帝《げんてい》が立《た》つと、宦官《かん/″\》の石顯《せきけん》、弘恭《こうきよう》が權《けん》を弄《もてあそ》びましたが、成帝《せいてい》の代《だい》となると宦官《かん/″\》は斥《しりぞ》けられた代《かは》りに、外戚《がいせき》の王鳳《おうほう》の一族《いちぞく》が勢《いきほ》ひをほしいまゝにしたので、漢室《かんしつ》の勢《いきほ》ひは次第《しだい》に衰《おとろ》へました。成帝《せいてい》の時《とき》、外戚《がいせき》に王莽《おうもう》といふものがありました。心《こゝろ》ひそかに天子《てんし》になりたいといふ望《のぞ》みをもちながら、外面《がいめん》は恭順《きようじゆん》の風《ふう》を裝《よそほ》つて、周《しゆう》公旦《こうたん》の再來《さいらい》をきどつてゐた大僞善者《だいぎぜんしや》でした。
 ところがおべっかずきの支那人《しなじん》のことゝて、王莽《おうもう》はわざ/\人氣《にんき》とりにやつてゐることなのに、その徳《とく》をたゝへて來《き》たものが四十八萬《しじゆうはちまん》五千百《ごせんひやく》七十人《しちじゆうにん》もあつたといふことです。
 王莽《おうもう》はかうやつて人氣《にんき》とりをやりながら、一方《いつぽう》自分《じぶん》の娘《むすめ》を平帝《へいてい》に納《い》れ、そのあげく大傅《たいふ》[#「大傅」は底本のまま]となつて權力《けんりよく》を固《かた》め、遂《つひ》に帝《てい》を弑《しひ》して自《みづか》ら帝位《ていゝ》を踐《ふ》みました。漢《かん》は高祖《こうそ》からこゝまで二百《にひやく》十年《じゆうねん》でいったん亡《ほろ》びました。この漢《かん》のことを前漢《ぜんかん》と申《まを》します。
 王莽《おうもう》はかうやつて政權《せいけん》を握《にぎ》つてから國號《こくごう》を新《しん》と改《あらた》め、いろ/\の改革《かいかく》をやらうとしました。自分《じぶん》を周《しゆう》公旦《こうたん》の再來《さいらい》のつもりでゐるのですから、今《いま》の時勢《じせい》に向《む》くかどうかもかまはずに、周《しゆう》の諸制度《しよせいど》を再興《さいこう》しようとしました。井田《せいでん》の法《ほう》を復活《ふつかつ》するとか、田《た》の賣買《ばい/″\》を禁《きん》ずるとか、いろ/\やりましたが、法令《ほうれい》が煩雜《はんざつ》で民心《みんしん》を失《うしな》ひ、それに課税《かぜい》がきびしく、その上《うへ》匈奴《きようど》や西域《せいゝき》に對《たい》する政策《せいさく》も失敗《しつぱい》したので、叛亂《はんらん》が方々《ほう/″\》に起《おこ》りました。
 そのうちでも漢《かん》の宗族《しゆうぞく》、劉玄《りゆうげん》は皇帝《こうてい》と稱《しよう》して人心《じんしん》をあつめ、劉秀《りゆうしゆう》は王莽《おうもう》の軍《ぐん》を昆陽《こんよう》に破《やぶ》りました。この時《とき》王莽《おうもう》の軍《ぐん》は百《ひやく》餘萬《よまん》と號《ごう》し、その軍《ぐん》には虎《とら》、豹《ひよう》、犀《さい》、象《ぞう》まで附屬《ふぞく》してゐました。それを劉秀《りゆうしゆう》はわづかの兵《へい》をもつて打《う》ち破《やぶ》りました。ちょうど大雪風《だいせつぷう》に當《あた》つたので、せっかくの王莽軍《おうもうぐん》のたよりの虎《とら》も豹《ひよう》も震《ふる》へる一方《いつぽう》で役《やく》に立《た》ちませんでした。
 漢軍《かんぐん》の勢《いきほ》ひはこゝから振《ふる》ひ、遂《つひ》に長安《ちようあん》にはひつて王莽《おうもう》を殺《ころ》しました。新《しん》といふ國《くに》の命《いのち》は、わづかに十五年《じゆうごねん》にすぎませんでした。

   一七、後漢《ごかん》の興隆《こうりゆう》

 王莽《おうもう》の亡《ほろ》んだ後《のち》、昆陽《こんよう》の戰《たゝか》ひで武名《ぶめい》を揚《あ》げた劉秀《りゆうしゆう》が推《お》されて帝位《ていゝ》に登《のぼ》り、都《みやこ》を洛陽《らくよう》に定《さだ》めてまた漢室《かんしつ》を再興《さいこう》いたしました。この新《あたら》しく興《おこ》つた漢《かん》を後漢《ごかん》といひ、前《まへ》の漢《かん》と區別《くべつ》いたします。劉秀《りゆうしゆう》のことは光武帝《こうぶてい》と申《まを》します。しかし、漢室《かんしつ》は再興《さいこう》しても郡雄《ぐんゆう》[#「郡雄」は底本のまま]はまだ各地《かくち》に據《よ》つてをりましたから、帝《てい》は諸將《しよしよう》を遣《つか》はしてこれを從《したが》へ、遂《つひ》に一統《いつとう》の大業《たいぎよう》をなしました。
 光武帝《こうぶてい》は前漢末《ぜんかんまつ》の政治《せいじ》の紊亂《びんらん》に鑑《かんが》み、外戚《がいせき》の政治《せいじ》に與《あづか》ることを禁《きん》じ、親《みづか》ら政《まつりごと》を行《おこな》ひ、また國力《こくりよく》の充實《じゆうじつ》を計《はか》るため出來《でき》るだけ武事《ぶじ》をつゝしみました。そして外國《がいこく》との事端《じたん》をしげくするのを恐《おそ》れて關《かん》を鎖《とざ》し、外國《がいこく》との交渉《こうしよう》を一切《いつさい》持《も》たぬようにし、他方《たほう》大《おほ》いに文教《ぶんきよう》を興《おこ》し、前漢末《ぜんかんまつ》以來《いらい》大《おほ》いに亂《みだ》れた士風《しふう》の養成《ようせい》につとめました。その結果《けつか》、天下《てんか》よく治《をさ》まり、氣骨《きこつ》ある氣節《きせつ》の士《し》といふものが輩出《はいしゆつ》しました。この氣節《きせつ》を尚《たつと》ぶ風《ふう》といふものは、これから後漢《ごかん》一代《いちだい》の風《ふう》となつたのです。この光武《こうぶ》の後《のち》、明帝《めいてい》、章帝《しようてい》いづれもよく遺業《いぎよう》をついで内外《ないがい》の經營《けいえい》につとめたので、後漢《ごかん》の國運《こくうん》は大《おほ》いに興《おこ》つた次第《しだい》です。
 王莽《おうもう》のとき匈奴《きようど》を輕侮《けいぶ》したので、匈奴《きようど》はこれを怨《うら》んで頻《しきり》に入寇《にゆうこう》してまゐりましたが、光武帝《こうぶてい》の時《とき》は、南北《なんぼく》の二部《にぶ》に分裂《ぶんれつ》し、南《みなみ》匈奴《きようど》は漢《かん》に歸服《きふく》いたしましたものゝ北《きた》匈奴《きようど》はあくまでも漢《かん》に抵抗《ていこう》いたし、明帝《めいてい》の時《とき》には西域《せいゝき》諸國《しよこく》を連《つら》ねて屡々《しば/\》漢《かん》を侵《をか》しました。明帝《めいてい》はそこで竇固《とうこ》をしてこれを討《う》たせ、班超《はんちよう》を遣《つか》はして西域《せいゝき》諸國《しよこく》の經略《けいりやく》に從事《じゆうじ》させました。和帝《わてい》の時《とき》、竇憲《とうけん》に命《めい》じて北《きた》匈奴《きようど》を征《せい》してこれを西方《せいほう》に走《はし》らせました。これから匈奴《きようど》の北方《ほつぽう》における勢力《せいりよく》はほとんど衰《おとろ》へ、これに代《かは》つて北方《ほつぽう》の地方《ちほう》に登場《とうじよう》してまゐりますものは、鮮卑《せんぴ》といふ種族《しゆぞく》であります。
 西域《せいゝき》は、章帝《しようてい》のとき一時《いちじ》これを放棄《ほうき》しましたが、後《のち》和帝《わてい》のとき班超《はんちよう》はこれら西域《せいゝき》諸國《しよこく》を威服《いふく》し、再《ふたゝ》び漢《かん》に歸服《きふく》せしめました。
 そこで前漢代《ぜんかんだい》にあつた西域《せいゝき》都護府《とごふ》を復興《ふつこう》して龜茲《きじ》に置《お》き班超《はんちよう》を都護《とご》とし、この地方《ちほう》五十《ごじゆう》餘國《よこく》を督《とく》させました。けれども後《のち》にこの西域《せいゝき》は放棄《ほうき》するの止《や》むなきに至《いた》りました。
 ローマといふ國《くに》が世界的《せかいてき》の大領土《だいりようど》をもつた國《くに》であつたことは、皆《みな》さんは西洋《せいよう》歴史《れきし》で御存《ごぞん》じでせう。このローマは、後漢《ごかん》の初《はじ》めに領土《りようど》を西方《せいほう》アジアに有《ゆう》し、その威名《いめい》遠近《えんきん》に振《ふる》ひました。支那《しな》の方《ほう》にもこのローマの名《な》は聞《きこ》え、支那《しな》ではその國《くに》のことを、大秦國《たいしんこく》と呼《よ》んでゐました。
 この大秦國《たいしんこく》の方《ほう》では、支那《しな》の産物《さんぶつ》ことに絹《きぬ》がほしかつたのです。絹《きぬ》といふものは、今日《こんにち》は日本《につぽん》やフランスから産出《さんしゆつ》されますが、しかしそのもとはいづれも支那《しな》から出《で》たもので、昔《むかし》は支那《しな》が絹《きぬ》を産出《さんしゆつ》する唯一《ゆいつ》の國《くに》といつてもよかつたのです。英語《えいご》で絹《きぬ》のことをしるく[#「しるく」に傍点]と申《まを》しますのも、古《ふる》く支那《しな》のことをギリシャ語《ご》でせりか[#「せりか」に傍点]といつたのが訛《なま》つたのです。この點《てん》からみても絹《きぬ》と支那《しな》との關係《かんけい》がどれほど深《ふか》いものであるかわかりませう。そしてこの支那《しな》にしか出《で》ない絹《きぬ》は、外國《がいこく》においてはきはめて珍重《ちんちよう》されたのです。例《たと》へばローマ人《じん》が着《き》てゐたとーが[#「とーが」に傍点]といふ着物《きもの》も、だいたいこの支那産《しなさん》の絹《きぬ》で作《つく》られたものでした。ですから大秦《たいしん》の方《はう》でも支那《しな》と直接《ちよくせつ》交渉《こうしよう》をつけてかうした産物《さんぶつ》がほしいし、漢《かん》の方《ほう》でしても大秦《たいしん》と交通《こうつう》を開《ひら》きたい。そこで班超《はんちよう》は部下《ぶか》の甘英《かんえい》を大秦《たいしん》に遣《つか》はしました。甘英《かんえい》はペルシャ灣《わん》まで達《たつ》しましたが、土人《どじん》に僞《いつは》られてそこから歸《かへ》り遂《つひ》に目的《もくてき》を達《たつ》しませんでした。といふのは、漢《かん》と大秦《たいしん》との間《あひだ》に當時《とうじ》安息《あるさく》といふ國《くに》がありました。ローマと屡《しば/\》爭《あらそ》つた、西洋《せいよう》歴史《れきし》で有名《ゆうめい》なパルチアといふ國《くに》です。ところがこのパルチアは、漢《かん》と大秦《たいしん》との間《あひだ》にゐて兩國《りようごく》の間《あひだ》の物資《ぶつし》交換《こうかん》の仲介《ちゆうかい》をして利益《りえき》をしめてゐたのです。ですから甘英《かんえい》の旅行《りよこう》が成功《せいこう》して大秦《たいしん》と漢《かん》との直接《ちよくせつ》貿易《ぼうえき》が開《ひら》かれゝば上《あが》つたりになつてしまひます。そこでこの甘英《かんえい》の世界的《せかいてき》大壯擧《だいそうきよ》の邪魔《じやま》をしたわけなのでせう。
 陸《りく》の上《うへ》で漢《かん》と大秦《たいしん》とを結《むす》びつけようといふ漢側《かんがは》の計畫《けいかく》は失敗《しつぱい》に終《をは》りましたが、その失敗《しつぱい》は海《うみ》の上《うへ》からの路《みち》で償《つぐな》はれました。後漢《ごかん》の桓帝《かんてい》の時《とき》、大秦王《たいしんおう》の安敦《あんとん》は、海路《かいろ》から使《つか》ひを漢《かん》に送《おく》つて來《き》て、支那《しな》の南《みなみ》、日南《にちなん》につきました。こゝから兩國《りようごく》の交通《こうつう》は開《ひら》かれました。この安敦《あんとん》は、西洋史《せいようし》の上《うへ》で有名《ゆうめい》なマルクス・アウレリウス・アントニウスのことだらうと思《おも》はれます。これから大秦《たいしん》の商人《しようにん》も支那《しな》南部《なんぶ》に來《きた》り、漢《かん》の商船《しようせん》もインド洋《よう》を往來《おうらい》して互《たがひ》に貿易《ぼうえき》に從事《じゆうじ》し、文化《ぶんか》の交換《こうかん》に努《つと》めたことゝ思《おも》はれます。(つづく)



底本:『東洋歴史物語 No.7』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • シナ 支那 (「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
  • 殷 いん 中国の古代王朝の一つ。「商」と自称。前16世紀から前1023年まで続く。史記の殷本紀によれば、湯王が夏を滅ぼして始めた。30代、紂王に至って周の武王に滅ぼされた。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。
  • 秦 しん 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。( 〜前206)
  • 新 しん 中国の王朝の一つ。前漢末、新都侯王莽が簒奪して建て、漢復興をめざす反乱によって滅ぼされた。(8〜23)
  • [河南省]
  • 函谷関 かんこくかん 中国河南省北西部にある交通の要地。新旧二関があり、秦代には霊宝県、漢初、新安県の北東に移された。河南省洛陽から潼関に至る隘路にある。古来、多くの攻防戦が行われた。
  • 昆陽 こんよう 中国、戦国時代、魏の邑。のち、昆陽の戦で劉秀(後漢の光武帝)が王莽の大軍を破った所。今の河南省葉県。
  • 洛陽 らくよう 洛陽・�陽。(Luoyang)(洛河の北に位置するからいう)中国河南省の都市。北に山を負い、南に洛河を控えた形勝の地。周代の洛邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐の都となり、今日も白馬寺・竜門石窟など旧跡が多い。機械工業が盛ん。人口149万2千(2000)。
  • [陝西省]
  • 鴻門 こうもん 中国陝西省西安市臨潼区の地名。今の項王営。
  • 西楚 せいそ 紀元前206-紀元前202年。秦が滅びた後に項羽が自ら覇王と称して建てた国。
  • 周 しゅう 中国の古代王朝の一つ。姓は姫。殷に服属していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた。幽王の子の携王までは鎬京に都したが、前770年平王が成周(今の洛陽付近)に即位し、いったん周は東西に分裂。西の周はまもなく滅亡。以上を東遷といい、東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代にあたる)という。(前1023〜前255)
  • 鎬京 こうけい 周の武王から幽王の子である携王までの都。今の中国陝西省西安市。
  • 長安 ちょうあん 中国陝西省西安市の古称。洛陽と並んで中国史上最も著名な旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄。西京。
  • [安徽省]
  • 垓下 がいか 中国安徽省霊璧県の南東の古戦場。前202年、漢の高祖の軍が楚の項羽をこの地に包囲、羽は四面楚歌のうちに烏江に逃れて自殺、高祖の天下統一が実現した。
  • 楚 そ 中国古代、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一つ。長江中下流域を領有。戦国時代には、帝��の子孫を自称。春秋の初め王号を称する。郢に都し、強大を誇ったが、秦のために滅ぼされた。中原諸国とは風俗言語も異なり、蛮夷の国と見なされた。( 〜前223)
  • 烏江 うこう (1) 中国安徽省和県の北東の地名。長江に通ずる小運河に沿う。劉邦と天下を争って敗れた項羽が自刎した所。(2) 中国貴州省の川。四川省�陵付近で長江に合流。全長1050キロメートル。黔江。
  • [モンゴル]
  • 蒙古 もうこ (Mongolia)(→)モンゴルに同じ。
  • モンゴル Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • [甘粛省] かんしゅくしょう (Gansu)中国北西部の省。省都は蘭州。面積約45万平方キロメートル。明代まで陝西省に属したが、清初に分離。古来、天山南北路に連なる東西交通路に当たり、西域文化が栄えた。略称、甘。別称、隴。
  • 敦煌 とんこう 敦煌・燉煌。(Dunhuang)中国、甘粛省北西部の市。古来、西域との交通の要衝。市街の南東に4〜14世紀の美しい壁画・塑像を持つ世界遺産の千仏洞(莫高窟)があり、20世紀初め以来その壁の中から貴重な文書・仏典等を発見。人口18万8千(2000)。
  • [山西省] さんせいしょう (Shanxi)(太行山脈の西方の意)中国華北地区西部の省。東西を山地に挟まれた高原地帯。省都は太原。面積約16万平方キロメートル。別称、晋・山右。春秋の晋の地。石炭・鉄など地下資源が豊富。
  • 白登 はくとう 山西省の大同市の東にある山名。漢の高祖が匈奴を討ちに行って、逆に匈奴に囲まれた所。
  • [西域]
  • 伊犂 いり (Ili)中国新疆ウイグル自治区の北西地域。古来、遊牧民の拠った地、すなわち、漢・魏時代の烏孫、唐代の西突厥の住地。チャガタイ‐ハン国の中心。現住民はカザフ族・ウイグル族など少数民族が多い。土壌は肥沃で、農業・牧畜に適する。
  • 中央アジア
  • 大月氏国 → 大月氏 今のアフガニスタン北部か。バクトリア(大夏)。
  • オクソス川 Oxus オクサス川 → アム・ダリア川(東洋史)
  • アム‐ダリア川 Amu-Darya (ダリアはペルシア語で川・海の意)中央アジアの大河。古名オクサス(Oxus)。パミール高原に発源し、中央アジア数カ国とアフガニスタンの境をなし、転じてウズベキスタン・トルクメニスタン両共和国の境界をなし、カラクム・キジルクム両砂漠を流れてアラル海に注ぐ。中流からカラクム運河がアシガバードまで通じる。長さ2540キロメートル。アム河。
  • 大夏国 たいかこく → 大夏
  • 大夏 たいか (1) 漢代の西域の一国。水(アム川)の南にあり、藍市城に都したという。イラン系遊牧民トハラの音訳と見なす説が有力。→トハラ。(2) 五胡十六国の一つ。匈奴の赫連勃勃が後秦にそむいて建てた国。今の陝西省の北西部、甘粛省の北東部および内モンゴル、オルドスの地。3代25年で、北魏に滅ぼされた。(407〜431)(3) (→)西夏に同じ。
  • トハラ Tokhara・吐火羅・都貨邏 中央アジアのアム川中流域を支配したイラン系遊牧民。また、その支配した地域の名称。前2世紀、バクトリア王国を倒して王国を建設したが、やがて南下した大月氏に服属。中国文献に見える大夏は、このトハラの音訳と思われる。トカラ。
  • バクトリア Bactria 中央アジアのアム川中流域のバルフを中心とした地域の古名。前6世紀の古代ペルシアの碑文に初見。前3世紀半ば、シリア王国の太守ディオドトスが独立してギリシア‐バクトリア王国を建設。のち、王国の支配はインダス河畔にまで及んだが、前139年トハラ人によって滅ぼされた。
  • 西域 せいいき (サイイキとも)中国の西方諸国を中国人が呼んだ汎称。広義にはペルシア・小アジア・シリア・エジプト方面まで含む。狭義にはタリム盆地(東トルキスタン)をいい、漢代にはオアシスにイラン系諸族が分散・定住して小都市国家が分立、西域三十六国と総称され、唐代にかけて東西交通の要衝。
  • パミール高原 → パミール
  • パミール Pamir 中央アジア南東部の地方。チベット高原の西に連なり、標高7000メートル級の高峰を含む諸山系と高原とから成り、世界の屋根といわれる。大部分はタジキスタンに含まれる。葱嶺。
  • シナ・トルキスタン 東トルキスタン(中国新疆ウイグル自治区)か。
  • 新疆 しんきょう (Xinjiang)(新しい土地の意)中国北西端に位置する西域の主要地域。東西に走る崑崙・天山・アルタイの3山脈とその間に拡がるタリム・ジュンガリアの両盆地とから成る。清の乾隆(1736〜1795)年間、中国の版図に入り、1884年省制をしく。1955年新疆ウイグル自治区となる。ウイグル族が住民の約46パーセント、漢族が約40パーセントを占め、石油など鉱物資源が豊富。区都はウルムチ。面積約166万平方キロメートル。
  • ロシア・トルキスタン 西トルキスタン(カザフスタン・キルギス・タジキスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタンの五か国)か。
  • トルキスタン Turkestan アジア中央部、パミール高原および天山山脈を中心としてその東西にわたる地方。西部の西トルキスタンはカザフスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスの5共和国から成り、東部の東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区に属す。
  • 烏塁城 うるいじょう 前漢時代、西域都護が置かれた西域の要衝。現在の中国新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)付近にあったという。
  • 康呉 こうご
  • 康居 かんぐ/こうきょ 漢・魏時代の史書に見える中央アジアのトルコ系遊牧民。シル河下流地域からキルギス平原に拠った。
  • 于�u ホータン/うてん 漢から宋代にかけての西域の一国。今の中国新疆ウイグル自治区天山南路の和田(和�u)(ホータン)。西域交通路の南道に沿う文化・貿易上の要地。古来、玉の産地として有名。20世紀初めイギリスの探検家スタインにより多くの遺址が発掘された。
  • 大宛 たいえん/だいえん 中国、漢・魏の時代の西域の一国。中央アジアのシル川中流域フェルガナ盆地に位置し、住民はイラン系。中国では西域の代表国とみなした。その特産に汗血馬があった。
  • 安息 あるさく 中国人がパルティアを呼んだ名称。始祖名アルサケスの転じたアルシャク(Arshak)の音訳。安息国。
  • パルチア Parthia → パルティア
  • パルティア Parthia (1) 古代西アジアの王国。イラン系遊牧民の族長アルサケスが、前3世紀中葉セレウコス朝の衰微に乗じて、カスピ海の南東岸地方に拠って独立。226年(一説に224年)ササン朝に滅ぼされた。中国の史書では、安息国と記す。アルサケス朝。パルチア。(前238頃〜後226)(2) 前1世紀〜後1世紀頃、現在のアフガニスタン南部・東部、パキスタンを支配していた王朝。
  • 亀茲 きじ → クチャ
  • クチャ 庫車。(Kuqa; Kucha)中国新疆ウイグル自治区、天山山脈南麓のオアシス都市。古代の亀茲国の地で、付近にキジル石窟など仏教遺跡が多い。人口41万(2004)。
  • [中国南部]
  • 呉 ご 中国古代、春秋時代の列国の一つ。周の文王の伯父太伯の建国と称する。長江河口地方を領有。楚を破り勢を張ったが、夫差の時、越王勾践に滅ぼされた。( 〜前473)
  • 広東 カントン (1) (Guangdong)中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方キロメートル。別称、粤。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。(2) (Canton)広州の別称。
  • 広西 こうさい/こうせい (Guangxi)中国南部にあるチワン(壮)族自治区。もと広西省、1958年改称。南西はベトナムに接する。区都は南寧。面積約24万平方キロメートル。別称、桂・粤西。
  • 西南夷 せいなんい 漢代に現在の四川省西南、雲南省・貴州省および広西省西部にわたって住んでいた異民族。漢の領域の西南にあったのでこの称がある。漢の武帝のとき益州郡をおいて支配したが、反服常なく、前後両漢にわたって何回か反乱をおこしている。民族もチベット、タイ、ミャオなど多岐にわたっている。(東洋史)
  • 雲南 うんなん (Yunnan)中国南西部の省。貴州・広西の西、四川の南に位置する高原地帯で、ミャンマー・ラオス・ベトナムと国境を接する。省都は昆明。20余の少数民族が住み、中国で民族の種類が最も多い省。面積39万平方キロメートル。略称、雲。別称、�@。
  • 貴州 きしゅう (Guizhou)中国南西部の省。四川省の南にある高原地帯。省都、貴陽。面積約18万平方キロメートル。略称、貴。別称、黔。苗(ミャオ)族・布依(プイ)族・�(トン)族・彝(イ)族などの少数民族が多く居住。
  • 四川 しせん (Sichuan)中国の南西部にある省。長江上流の諸支流にまたがる地。省都は成都。面積約49万平方キロメートル。別称、蜀・巴蜀。略称は川。漢族のほか、苗(ミャオ)族・チベット族などの少数民族が居住。古来「天府の国」と呼ばれ、地味肥え、天然資源に富む。
  • [遼寧省]
  • 遼東 りょうとう (Liaodong)(遼河の東の意)中国遼寧省南東部一帯の地。
  • 遼東半島 りょうとう はんとう 中国遼寧省南部、渤海と黄海との間に突出している半島。南西端に大連・旅順の良港がある。
  • [朝鮮]
  • 朝鮮 ちょうせん (Choson; Korea)アジア大陸東部の大半島。南北に細長く突出し、南は朝鮮海峡を挟んで日本に対し、北は鴨緑江・豆満江を隔てて中国東北部およびシベリアに接している。面積22万平方キロメートル。ほぼ単一の朝鮮民族が住む。檀君・箕氏神話に反映される古朝鮮の時代の後、前2世紀初め衛氏朝鮮となったが、前108年漢の武帝はこれを滅ぼし、楽浪・臨屯・真番・玄菟の四郡をおいた。南部には韓族がおり馬韓・弁韓・辰韓の三部数十国に分かれていた。4世紀中ごろ高句麗・新羅・百済・伽耶が対立、7世紀に至り新羅が統一、10〜14世紀は高麗、14世紀以降は李氏朝鮮がこれをつぎ、いずれも中国に朝貢。のち日清・日露戦争によって日本が植民地化を進め、1910年日本に併合された(韓国併合)が、日本の敗戦により解放。北緯38度線を境に、48年8月南部に大韓民国が、9月北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮の異称・雅号として青丘・鶏林・海東・槿域などがある。
  • 朝鮮半島 ちょうせん はんとう アジア大陸の東部にある半島。黄海と日本海とをわける。朝鮮海峡を隔てて日本と対する。
  • 馬韓 ばかん 古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済によって統一。
  • 弁韓 べんかん 三韓の一つ。古代、朝鮮南部にあった部族国家(十二国)の総称。今の慶尚南道の南西部にあたる。後に伽耶諸国となり、やがて新羅に併合。弁辰。
  • 辰韓 しんかん 古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部にあった部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。この中の斯盧によって統合され、356年、新羅となった。
  • 三韓 さんかん (1) 古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称。それぞれが数十の部族国家に分かれていた。(2) 新羅・百済・高句麗の総称。
  • 大同江 だいどうこう/テドンガン (Taedong-gang)朝鮮半島北西部、平安南道の大河。慈江道・咸鏡南道境の小白山に発源、平壌市街を貫流して黄海に注ぐ。長さ約430キロメートル。
  • 古朝鮮 こちょうせん 前108年、漢の武帝による楽浪郡設置以前の箕子朝鮮と衛氏朝鮮。地域はほぼ大同江以北。神話である檀君の時代を含めていうこともある。
  • 箕子朝鮮 きし ちょうせん 古朝鮮の一つ。殷の箕子が、紂王の末年に開いたとされる朝鮮の伝説上の王朝。首都は王倹城(現、平壌)。前195年頃、衛満に滅ぼされた。→ 箕子
  • 王倹壌 おうけんじょう
  • 平壌 へいじょう/ピョンヤン (Pyongyang)朝鮮民主主義人民共和国の首都。特別市。大同江に臨む。古朝鮮・高句麗などの都として長い歴史を有する朝鮮最古の都市。政治・軍事・経済・交通の中心都市。人口274万1千(1993)。
  • 衛氏朝鮮 えいし ちょうせん 古朝鮮の一つ。華北の燕から朝鮮北西部に逃れた衛満が建て、その孫右渠が漢の武帝に滅ぼされるまで存続した朝鮮の王朝。都は王険城(現、平壌)。(前195頃〜前108)
  • 真番郡 しんばんぐん 前漢武帝の朝鮮遠征の結果、前108(元封3)設置された四郡の一で、後二十数年にして廃止された。その位置境域については楽浪の北方説と南方説があり、二十余氏の論争があるが、南方説が有力である。(東洋史)
  • 楽浪 らくろう 前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康はその南半を割いて帯方郡を設置。313年高句麗に滅ぼされた。遺跡は墳墓・土城・碑などを主とし、古墳群からは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土。なお、楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
  • 臨屯郡 りんとんぐん 漢の武帝が、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして設置した四郡の一つ。現在の咸鏡南道から江原道に至る朝鮮半島の東部に当たるという。昭帝のとき楽浪郡に合併された。
  • 玄菟郡 げんとぐん 漢の武帝が、衛氏朝鮮を滅ぼした後、朝鮮半島に置いた四郡の一つ。
  • 燕 えん 中国古代、戦国七雄の一つ。始祖は周の武王の弟、召公�。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊(北京)に都し、43世で秦の始皇帝に滅ぼされた。( 〜前222)
  • [ベトナム]
  • 東京 トンキン Tonkin; Tongking・東京 ハノイを中心とするベトナム北部の古称。また、ハノイの旧称。
  • 南越国 なんえつこく → 南越
  • 南越 なんえつ 漢代の国名。秦末、趙佗が建国。今の広東・広西地方にあり、番禹(今の広州)に都したが、前漢の武帝に5世で滅ぼされた。(前207〜前111)/中国の漢代前期、中国南部からベトナム北部に自立した王国。(Wikipedia)
  • 日南 にちなん 日南郡。前漢武帝による南越国滅亡後に置かれた郡。現在のヴェトナム・フエ付近とされる。
  • ベトナム Vietnam・越南 インドシナ半島東部の社会主義共和国。面積33万平方キロメートル。人口8203万(2004)、約60の少数民族を含む。前2世紀以来中国の支配に服したベトナム民族は10世紀に独立して大越と号し、版図を拡大。19世紀初め現在の領域を統一して越南と号したが、1883年以降フランス領となる。1945年ホー=チミンのもとにベトナム民主共和国(首都ハノイ)として独立、これを認めないフランスの介入を招いた。54年のジュネーヴ協定により、フランスは撤退したが、アメリカが介入して55年南部にベトナム共和国(首都サイゴン)を建てた。これに対して、60年南ベトナム解放民族戦線が結成され、ハノイ政権の支援のもとに69年臨時革命政府を樹立、73年米軍は南ベトナムから撤兵、75年ベトナム共和国は崩壊した。76年南北ベトナムは統一して、ベトナム社会主義共和国となる。首都ハノイ。
  • フエ Hue・順化 ベトナム中部の都市。フエ川の左岸、河口から16キロメートル。19世紀、グエン(阮)王朝の首都。ベトナム戦争の激戦地。王城・寺院など史跡が多く、世界遺産。人口21万9千(1992)。ユエ。
  • インド洋 インド よう 三大洋の一つ。アジア・オーストラリア・アフリカの各大陸と南極大陸とに囲まれた海。その北部はベンガル湾・アラビア海。面積約7343万平方キロメートル。平均深度3872メートル。最大深度7125メートル(ジャワ海溝)。
  • インド 印度 (India)南アジア中央部の大半島。北はヒマラヤ山脈を境として中国と接する。古く前2300年頃からインダス流域に文明が栄え、前1500年頃からドラヴィダ人を圧迫してアーリア人が侵入、ヴェーダ文化を形成。前3世紀アショーカ王により仏教が興隆。11世紀以来イスラム教徒が侵入、16世紀ムガル帝国のアクバル帝が北インドの大部分を統一。一方、当時ヨーロッパ諸国も進出を図ったが、イギリスの支配権が次第に確立、1858年直轄地。第一次大戦後、ガンディーらの指導で民族運動が急激に高まり、第二次大戦後、ヒンドゥー教徒を主とするインドとイスラム教徒を主とするパキスタンとに分かれて独立。古名、身毒・天竺。
  • [ペルシャ]
  • ペルシャ/ペルシア Persia・波斯 (イラン南西部の古代地名パールサParsaに由来)イランの旧称。アケメネス朝・ササン朝・サファヴィー朝・カージャール朝などを経て、1935年パフレヴィー朝が国号をイランと改めた。
  • ペルシャ湾 → ペルシア湾
  • ペルシア湾 ペルシア わん アラビア半島とペルシア(イラン)との間に挟まれたアラビア海の湾入部分。湾岸および海底に油田の開発がすすんでいる。アラビア湾。
  • トルコ Turco・土耳古 小アジア半島と、バルカン半島の南東端とにまたがる共和国。オスマン帝国の中心として栄えたが、第一次大戦に敗北後、ケマル=パシャの指導する民族運動が興って帝政を廃し、イギリス・ギリシア・フランスなどの侵入軍を撃破、1923年共和制を宣言し、ローザンヌ条約で現国土を確保。国民はイスラムを信奉。面積77万5000平方キロメートル、人口7115万(2004)。首都アンカラ。
  • ギリシア Gresia・希臘 (「希臘」はHellas ギリシアの音訳)ヨーロッパ南東部、バルカン半島の南端と付近の諸島とから成る共和国。紀元前9〜8世紀にアテナイ・スパルタなど多くの都市国家が成立、前5世紀にそれらが同盟してペルシア戦争を乗り切り、アテナイを中心に黄金時代を実現した。前4世紀にマケドニアに併呑され、ついでローマ帝国の支配下におかれ、15世紀にはオスマン帝国に征服されたが、1829年独立の王国となった。第一次大戦後、一時共和国(1924〜35年)、第二次大戦後、46年王政復古、67年軍部独裁、74年王制が完全に廃止され共和制に復帰。古代ギリシアの生んだ哲学・科学・文学・美術はヨーロッパ文化の重要な源泉の一つ。面積13万2000平方キロメートル。人口1106万2千(2004)。首都アテネ。
  • [ローマ]
  • ローマ Roma・羅馬 (1) イタリア共和国の首都。イタリア中部テヴェレ川に沿い、ローマ帝国の都として古代以来ヨーロッパの政治・文化・宗教の大中心地。由緒ある建物・遺跡・美術品に富み、博物館・美術館・パンテオン・サン‐ピエトロ大聖堂・ヴァチカン宮殿・コロセウムなどがある。人口254万8千(2004)。(2) 古代ローマ共和国および帝国の略。(3) ローマ教会の略。
  • ローマ帝国 ローマ ていこく 西洋古代最大の帝国。イタリア半島、テヴェレ川の河口にエトルリア人が前7世紀頃建てた都市国家に発したが、前6世紀末からラティウム人が支配。王政、共和政、第1次・第2次三頭政治を経て、前27年オクタウィアヌスが統一、帝政時代を実現。最盛期の版図は、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカ地中海沿岸、北はイギリスに及んだが、テオドシウス帝の死後、395年東・西に分裂。文学・美術・哲学ではギリシア模倣の域を多く出なかったが、軍事・土木・法制に稀有の才を発揮。
  • 大秦国 たいしんこく → 大秦
  • 大秦 たいしん 後漢以後、中国人がローマ帝国およびその東方の領土を呼んだ称。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)。




*年表

  • 秦 しん 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。( 〜前206)
  • 呂氏の乱 りょしの らん 漢の高祖の皇后呂氏が、その執政に当たって同族の呂氏を諸王に封じ、劉氏をおさえて漢の天下を奪おうとしたので、呂后の崩後(前180年)斉王劉襄が陳平・周勃らと協力して呂氏一族を滅ぼした事件。
  • 呉楚七国の乱 ごそしちこくの らん 前154年、前漢の景帝が封建諸王の領地を削ったのに対し、呉・楚・趙・膠西・膠東・\川・済南の七国の諸王が起こした反乱。直ちに鎮圧されて中央集権が強化された。
  • 漢室 かんしつ 漢廷。漢庭。漢の帝室。
  • 漢 かん 中国の王朝名。秦につづく統一王朝。前漢(西漢)・後漢(東漢)に分ける。
  • 前漢 ぜんかん 中国の王朝の一つ。秦の崩壊後、項羽を倒して、漢王劉邦(高祖)が建て、武帝の治世を経て、平帝の時、王莽の簒奪により滅亡。都長安が後漢(東漢)の都洛陽よりも西にあったから西漢ともいう。(前202〜後8)
  • 後漢 ごかん 中国の王朝の一つ。前漢の景帝の6世の孫劉秀が王莽の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して東漢ともいう。(25〜220)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 項羽 こう う 前232-前202 秦末の武将。名は籍。羽は字。下相(江蘇宿遷)の人。叔父項梁と挙兵、劉邦(漢の高祖)とともに秦を滅ぼして楚王となった。のち劉邦と覇権を争い、垓下に囲まれ、烏江で自刎。
  • 劉邦 りゅう ほう 前247-前195 前漢の初代皇帝。高祖。字は季。江蘇沛の人。農民から出て、泗水の亭長となる。秦末に兵を挙げ、項梁・項羽らと合流して楚の懐王を擁立し、巴蜀・漢中を与えられて漢王となる。後に項羽と争い、前202年これを垓下に破って天下を統一。長安に都して漢朝を創立。(在位前202〜前195)
  • 韓信 かん しん ?-前196 漢初の武将。蕭何・張良とともに漢の三傑。江蘇淮陰の人。高祖に従い、蕭何の知遇を得て大将軍に進み、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を孤立させて天下を定め、楚王に封、後に淮陰侯におとされた。謀叛の嫌疑で誅殺。
  • 張良 ちょう りょう ?-前168 前漢創始の功臣。字は子房。韓の人。秦の始皇帝の暗殺に失敗、のち黄石公から太公望の兵書を授けられ、劉邦の謀臣となって秦を滅ぼし、鴻門の会に劉邦の危難を救い、遂に項羽を平らげ、漢の統一後、留侯に封。
  • 粛何 しゅくか → 蕭何か
  • 蕭何 しょう か ?-前193 前漢の宰相。張良・韓信と共に高祖三傑の一人。江蘇沛県の人。劉邦(高祖)が関中に入るや秦の律令・図書を収め、軍政・民政に通じ、劉邦が項羽と争った時、よく関中の経営にあたり、後顧の患をなくした。天下定まって後、相国(宰相)となり、功第一を以てス(さん)侯に封。
  • 范増 はん ぞう ?-前204 秦末の人。楚の項羽に仕え、奇計を以て戦功を立て、鴻門の会には劉邦を刺そうとして果たさず、後に項羽と不和を生じて去った。
  • 虞美人 ぐびじん → 虞氏の通称。
  • 虞氏 ぐし 秦末の武将項羽の寵姫。虞姫。虞美人。
  • 高祖 こうそ (4) 中国王朝で最初の天子。特に、漢の劉邦および唐の李淵。
  • 漢の高祖 → 劉邦
  • 彭越 ほうえつ ?-? 前漢代の将軍。はじめ項羽、のち高祖に仕え、梁王となったが、謀反の罪で殺された。
  • 呂氏 ろし
  • 景帝 けい てい 前188-前141 前漢の第6代の皇帝。劉啓。呉楚七国の乱を鎮定、集権化を進めた。(在位前157〜前141)
  • 文帝 ぶんてい 前202-前157 前漢の第4代皇帝。在位前180-前157。高祖の第二子。名は恒。徳をもっておさめ、賢王と称せられた。
  • 武帝 ぶ てい 前156-前87 前漢の第7代の皇帝。劉徹。内政を確立し匈奴を漠北に追い、西域・安南・朝鮮半島を経略。儒教を政治教化の基とした。(在位前141〜前87)
  • 始皇帝 し こうてい 前259-前210 秦の第1世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山の陵を築造。(在位前247〜前221・前221〜前210)
  • 董仲舒 とう ちゅうじょ 前179頃-前104頃 前漢の儒者。河北広川の人。春秋公羊伝に精通。景帝の時、春秋博士。漢書に、武帝が彼の献策をいれて儒学を国教化したとあるが、この説には疑問がある。後世、儒宗とされた。著「春秋繁露」「董子文集」
  • 司馬相如 しば しょうじょ 前179-前117 前漢の文人。字は長卿。四川成都の人。梁の孝王の客となって「子虚賦」を作り、武帝に知られた。賦の大成者。妻は卓文君。著「上林賦」「大人賦」「封禅書」など。
  • 司馬遷 しば せん 前145頃-前86頃 前漢の歴史家。字は子長。陝西夏陽の人。武帝の時、父談の職を継いで太史令となり、自ら太史公と称した。李陵が匈奴に降ったのを弁護して宮刑に処せられたため発憤したと伝え、父の志をついで「史記」130巻を完成した。
  • ヘロドトス Herodotos 前5世紀ギリシアの史家。小アジア生れ。諸方を遊歴。著書「歴史」でペルシア戦争を中心に東方諸国の歴史・伝説、アテナイやスパルタなどの歴史を叙述。「歴史の父」と呼ばれる。
  • 冒頓単于 ぼくとつ ぜんう 在位前209-前174 匈奴帝国の第2代の王。実質上の建国者。東胡・月氏を破り、漢に侵入、高祖の軍を破って、歳貢を約束させた。
  • 張騫 ちょう けん ?-前114 前漢の外交使節。字は子文。陝西漢中の人。武帝の建元年間、大月氏に使したが途中匈奴に捕囚11年、脱走して大宛・康居を経て大月氏に達し、前126年、13年目に帰った。その後、イリ地方の烏孫と結ぶため再び西域に使し、これにより漢と西方諸国との交渉が開けた。
  • 衛青 えい せい ?-前106 前漢の武将。字は仲卿。姉が武帝の皇后となった縁で将軍となり、匈奴を征すること十数回、武名高く長平侯に封。大将軍、のち大司馬。諡は烈侯。霍去病はその甥。
  • 霍去病 かつ きょへい → かく きょへい、か
  • 霍去病 かく きょへい 前140頃-前117 前漢の将軍。衛青の甥。武帝の時、匈奴を討ち、大功を以て冠軍侯に封。驃騎将軍、大司馬に任じられた。諡は景桓侯。
  • コロンブス Christopher Columbus 1446頃-1506 (Cristoforo Colombo イタリア)イタリアの航海者。ジェノヴァの生れ。スペイン女王イサベルの援助を得て、1492年アジアに向かって出帆、西インド諸島サン‐サルバドル島に上陸、キューバ・ハイチに到達。その後も3回の航海でジャマイカ、南アメリカ北部、中央アメリカに到達。その業績は、「新大陸の発見」として重視された。
  • 李広利 り こうり ?-前90 前漢の将軍。武帝の寵妃李夫人の兄。大宛遠征を指揮した。
  • 趙陀 ちょうだ → 趙佗
  • 趙佗 ちょう だ ?-前137 中国南越初代の帝。河北真定の人。秦代、南海郡の県令。秦滅亡とともに南越国を建て帝位に即き、漢の高祖は格を下げて南越王に封じた。(在位前207頃〜前137)
  • 箕子 きし ?-? 殷の貴族。名は胥余。伝説では、紂王の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、朝鮮王として人民教化に尽くしたとされる。→ 箕子朝鮮
  • 箕準 きじゅん ?-? 箕子朝鮮の末王。秦末漢初のころ大同江地方に国を保った。燕人衛満が亡命してきたとき、これを受け入れて優遇したが、かえって満にはかられて滅ぼされた。(東洋史)
  • 衛満 えいまん ?-? 衛氏朝鮮の祖。もと燕の人。漢の高祖の末年、朝鮮の大同江流域に至り、前195年頃、箕子朝鮮を滅ぼして王となった。朝鮮出身者とする説もある。
  • 右渠 うきょ ?-? 衛満の孫。
  • 桑弘羊 そう こうよう 前152-前80 (ソウクヨウとも)前漢の武帝・昭帝に仕えた財務官僚。洛陽の人。塩と鉄の専売開始を受けて、均輸法・平準法を実施し、国家収益の増加を図った。
  • 孔僅 こうきん ?-?
  • 昭帝 しょうてい BC94-BC74 前漢第8代の皇帝。在位前87-前74。姓名は劉弗陵。武帝の第6子。大司馬大将軍霍光の補佐を得て、国力の回復に尽力した。
  • 霍光 かっこう/かく こう ?-前68 前漢の政治家。字は子孟。霍去病の異母弟。武帝に仕えて匈奴を征し、太子の傅となり、昭帝の時、大司馬大将軍、宣帝の時、何事も霍光に関かり白して後に天子に奏した(関白の号の起源)。執政前後20年。その女は宣帝の皇后となり、一門尊貴を極めた。彼の死後、族滅。
  • 宣帝 せんてい BC91-BC49 前漢第10代の皇帝。在位前74-前49。姓名は劉詢。字は次卿。武帝の曾孫。救民・勧農の政策や地方行政機構を整備し、匈奴を破るなど、中興の帝と称された。
  • 鄭吉 ていきつ ?-? 前漢の西域経営に活躍した将軍。会稽(浙江)の人。宣帝のとき、諸国の兵を発して車師を破り、鄭善以西の南道を支配し、さらに匈奴の西方勢力を代表する日逐王を降伏させた。前59年、初代の西域都護となり、都護府を烏塁城に設けた。この功により安遠侯に封じられた。漢の号令が西域におこなわれるようになったのは、張騫にはじまり鄭吉に完成したといわれる。(東洋史)
  • 呼韓邪単于 こかんや ぜんう/せんう ?-? 匈奴第14代の単于。名は稽侯※[#「けものへん+冊」]。漢の宣帝の前51年入朝、漢の援助によって匈奴を統一し、元帝の前33年、北帰に当たって帝から王昭君を妻として賜った。(在位前58〜前31)
  • @支単于 しつし せんう ?-? 北部の匈奴。
  • 甘延寿 かんえんじゅ ?-? 前漢末の将軍。西域都護在任中、前36年、副校尉陳湯とともに西域諸国の兵をひきい、タラス(都頼水)河畔により、中央アジア方面に勢をふるっていた匈奴の@支単于を攻め滅ぼし、北匈奴を瓦解させた。(東洋史)
  • 王昭君 おう しょうくん ?-? 前漢の元帝の宮女。名を�、字を昭君という(一説に名を昭君、字を�とも)。元帝の命で前33年に匈奴の呼韓邪単于に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。中国王朝の政策の犠牲となった女性の代表として文学・絵画の題材となった。元曲「漢宮秋」はその代表。
  • 元帝 げんてい 前75-前33 前漢、10代の皇帝。劉�。(在位前49〜前33)
  • 石顕 せきけん
  • 弘恭 こうきょう
  • 成帝 せいてい
  • 王鳳 おうほう
  • 王莽 おう もう 前45-後23 在位8-23。前漢末の簒立者。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を収攬、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位に就く。ついで真皇帝と称し、国を奪って新と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、後漢が復興した。
  • 周公旦 しゅうこう たん ?-? 周公。周の文王の子、武王の弟。姓名は姫旦。武王を助けて殷の紂王を討ち、武王の死んだのち、武王の子成王を助けて周王朝の基礎を固めた。儒教で聖人のひとりとされている。
  • 平帝 へいてい
  • 劉玄 りゅうげん ?-250 後漢の人。新の末年、劉秀(後漢の光武帝)が兵をおこしたとき、劉玄は更始将軍とされ、ついで皇帝となって長安にはいった。しかし酒にふけって、劉秀らの兄弟を信任せず、赤眉の賊のために殺された。
  • 劉秀 りゅう しゅう 前6-後57 在位25-57。後漢の初代皇帝。廟号、世祖。諡、光武帝。字は文叔。前漢の高祖9世の孫。湖北に兵を挙げて王莽を昆陽に破り、25年帝位について漢室を再興、洛陽に都した。儒学を唱道し、後漢王朝の基を開いた。
  • 明帝 めい てい 28-75 後漢第2代の皇帝。劉荘。儒教を奨励し、内治外征に尽力、班超を西域に派遣。67年夢に感じて西域に仏教を求めさせたという。(在位57〜75)
  • 章帝 しょうてい 56-88 後漢第3代の皇帝。在位75-88。明帝の第5子。前代の法術的政治を補って寛厚の政をおこない、儒術を好んで諸儒を白虎観に会して五経の同異を議せしめた。また北匈奴が乱れたので西域経営を中止しようとしたが、班超はなおとどまって独力経略にあたった。帝が33歳で死ぬと、竇皇后が太后として勢力をふるい、後漢の外戚専横の端を開くにいたった。(東洋史)
  • 竇固 とうこ ?-88 後漢の政治家。後漢創業の功臣竇融の弟の子。光武帝の女涅陽公主をめとり、黄門侍郎となる。56年、父を継いで顕親侯に封じられ、72年、奉車都尉に任じられ、涼州に駐屯。呼衍王を撃ち、車師を降して功を立てた。章帝即位ののち、徴されて大鴻臚となり、さらに光禄勲となった。(東洋史)
  • 班超 はん ちょう 32-102 後漢の将軍。字は仲升。班彪の子。班固の弟。西域諸国を鎮撫し西域都護となり、定遠侯に封ぜられた。97年、部下の甘英を大秦に派遣した。
  • 和帝 わてい 79-105 後漢第4代の皇帝。在位88-105。章帝の第4子。母は梁貴人。88年、10歳で即位した。帝の養母竇太后が臨朝し、后兄の竇憲らの外戚が専横をきわめ、ついに大逆を謀ったので、92年、宦官鄭衆の協力で竇氏一族を滅ぼして親政した。しかしこれより外戚と宦官の横暴がはじまった。在位中91年、班超が西域都護となり西域五十余国を従え、漢威は外にもっともふるった。(東洋史)
  • 竇憲 とうけん ?-92 後漢の政治家。竇融の曾孫。妹が章帝の皇后となり、外戚として栄えた。ことに和帝が即位し、妹が太后として政をとると勢いにまかせて政敵を打倒して一身に権力を集めようとして失敗した。その償いとして匈奴を討って大功を立て、大将軍となり、一門枢要の地位を占め、朝政を左右し、驕恣不法の振舞いが多かった。帝はこれを憂え、憲の印綬を収め、のち自殺させた。(東洋史)
  • 甘英 かんえい ?-? 後漢の武将。97年、班超の命をうけ大秦(ローマ帝国)に使し、西域・パルティア(安息)を経てシリア(条支)に到達したが、そこから引きかえした。地中海(一説にペルシア湾)をみた最初の中国使節とされる。
  • 桓帝 かんてい 132-167 後漢第11代の皇帝。在位146-167。章帝の曾孫。梁太后(順帝の皇后)に迎えられて15歳で即位した。外戚梁冀が国政を私して専権をきわめたので、159年、宦官単超らと梁氏一族を滅ぼしたが、以後宦官が横暴となった。167年、党錮の獄がおこる。帝の一代は外戚・宦官・党人の政争に終始し、後漢衰亡の端緒となった。在位中166年、大秦(ローマ)国王安敦の使がきた。(東洋史)
  • 大秦王安敦 たいしんおう あんとん ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの漢名。166年、その使と称する者が後漢領のベトナムに入貢。
  • マルクス・アウレリウス・アントニウス → マルクス‐アウレリウス‐アントニヌス
  • マルクス‐アウレリウス‐アントニヌス Marcus Aurelius Antoninus 121-180 古代ローマ皇帝。五賢帝の最後。異民族と戦う。ストア学派に属する哲学者。著「自省録」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新編東洋史辞典』東京創元社、1980)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『易』 えき 易経(周易)のこと。また、易経の説くところに基づいて、算木と筮竹とを用いて吉凶を判断する占法。中国に古く始まる。うらない。
  • 『易経』 えききょう 五経の一つ。「周易」または単に「易」と称する。 → 周易
  • 『周易』 しゅうえき 三易の一つ。中国古代、伏羲氏の画した卦について周の文王がその総説をなして卦辞といい、周公がこれの六爻について細説して爻辞といい、孔子がこれに深奥な原理を付して十翼を作ったとされる。実際は古代の占術を儒家がとり入れて経書としたもの。その理論は、陰・陽二元をもって天地間の万象を説明する。陰・陽は老陽(夏)・少陽(春)・少陰(秋)・老陰(冬)の四象となり、更に乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八卦となり、八卦を互いに相重ねて六十四卦を生ずるとなし、これを自然現象・家族関係・方位・徳目などに当て、哲学上・倫理上・政治上の説明・解釈を加えたもの。周代に大成されたから周易という。今日の易学はこれを祖述したもの。易経。
  • 『詩』 し (3) 詩経の略。
  • 『詩経』 しきょう 五経の一つ。中国最古の詩集。孔子の編ともいわれるが確証はない。春秋中期までの詩311編(うち6編は詩題のみ)を風(国風)・雅・頌の3部に大別。国風は諸国の民謡160編。雅は周の宮廷で奏せられた饗宴や儀式の歌で、105編。頌は宗廟の祭祀に用いられた歌で、40編。→毛詩
  • 『書』 しょ (5) 書経の略。
  • 『書経』 しょきょう 五経の一つ。尭舜から秦の穆公に至る政治史・教戒を記した中国最古の経典。20巻、58編(33編は今文尚書、25編は古文尚書にのみあるもの)。孔子の編と称する。成立年代は一定せず、殊に古文は魏・晋代の偽作とされている。初め書、漢代には尚書、宋代に書経といった。
  • 『礼記』 らいき 五経の一つ。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書。初め漢の武帝の時、河間献王が礼儀に関する古書131編を編述、その後214編となったが、戴徳が削って「大戴礼」85編を作り、その甥戴聖が更に削って「小戴礼」49編としたとされる。今の礼記は小戴礼をいう。大学・中庸・曲礼・内則・王制・月令・礼運・楽記・緇衣などから成る。「周礼」「儀礼」と共に三礼と称。
  • 『春秋』 しゅんじゅう (年月・四季の順を追って記したからいう)五経の一つ。孔子が魯国の記録を筆削したと伝えられてきた年代記。魯の隠公元年(前722)から哀公14年(前481)に至る12代242年間の記事を編年体に記し、毀誉褒貶の意を含むとされる。前480年頃成立。注釈に左氏・穀梁・公羊の三伝があり、左氏伝が最も有名。
  • 『史記』 しき 二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、表10巻、書8巻、合計130巻。前漢の司馬遷の撰。紀元前91年頃に完成。ただし「三皇本紀」1巻は唐の司馬貞により付加。注釈書に、南朝宋の裴の「史記集解」、司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などがある。太史公書。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 紛乱 ふんらん まぎれみだれること。混乱。
  • 威名 いめい 威勢のすぐれた評判。威光と名声。
  • 国都 こくと 一国の首都。
  • 鴻門の会 こうもんの かい 前206年、漢の高祖劉邦と楚王項羽とが鴻門に会し、羽は范増の勧めによって邦を殺そうとしたが、邦は張良の計に従って樊�Xを伴って逃れ去った事件。
  • 漢王 かんおう → 劉邦(高祖)
  • 封 ほう 領土。領地を与えて諸侯・大名とすること。
  • 漢楚の争い かんその あらそい
  • 怯 きょう おくびょう。弱虫。また、ひきょう者。
  • 兵站 へいたん 作戦軍のために、後方にあって連絡・交通を確保し、車両・軍需品の前送・補給・修理などに任ずる機関・任務。ロジスティックス。
  • 四面楚歌 しめん そか [史記項羽本紀](楚の項羽が垓下で漢の劉邦の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌が起こるのを聞いて、楚の民がすべて漢に降ったかと、驚き嘆いたという故事から)たすけがなく孤立すること。周囲がみな敵や反対者ばかりであること。楚歌。
  • 寵愛 ちょうあい 特別に愛すること。
  • 悲歌慷慨 ひか こうがい 悲壮なうたをうたい、いきどおりなげくこと。
  • 慷慨 こうがい 社会の不義や不正を憤って嘆くこと。うれいなげくこと。
  • 騅 すい (1) 葦毛の馬。あしげうま。(2) [史記項羽本紀「時に利あらず騅逝かず」]楚の項羽の愛馬の名。
  • 駿馬 しゅんめ すぐれてよく走る馬。すぐれてよい馬。しゅんば。
  • 佳人薄命 かじん はくめい [蘇軾、薄命佳人詩]美人には不幸な者や短命な者が多いということ。美人薄命。
  • 虞美人草 ぐびじんそう ヒナゲシの別称。虞氏にちなんだ名。
  • 国相 こくしょう 一国の宰相。
  • 郡県制度 ぐんけん せいど 中国の地方行政制度。春秋戦国から秦代にかけて、全国を郡・県などの行政区画に分け、地方官を選任して行政を執行させた。←→封建制度
  • 府庫 ふこ (「府」はくらの意)貨財をおさめ入れておく蔵。
  • 英邁 えいまい 才知がぬきんでてすぐれていること。
  • 天資 てんし 生れつき。天性。天稟。
  • 文教 ぶんきょう (1) 学問・教育によって人を教化すること。また、その教化。教育。(2) 文部科学省がつかさどる教育行政。
  • 儒教 じゅきょう 孔子を祖とする教学。儒学の教え。四書・五経を経典とする。
  • 政教 せいきょう (1) 政治と教育。(2) 政治と宗教。
  • 大学 だいがく 中国漢の時代(紀元前124年)より設立された官僚養成学校。「太學」と呼ばれた。(Wikipedia)
  • 太学 たいがく 中国古代、官吏養成のための学校。前漢の武帝の時、始まる。大学。
  • 経典 けいてん (「経」は永久に変わらない道の意)聖人・賢人の書き表した書。経書。/主に儒教において、聖人・賢人の教えを記した書物のこと。四書五経など。経書を参照。(Wikipedia)
  • 経書 けいしょ 孔子など中国古代の聖人が述作したとされる書。儒学の経典。四書・五経・九経・十三経の類。経籍。
  • 五経 ごけい/ごきょう 儒教で尊重される五種の経典。すなわち、易・書・詩・礼・春秋。先秦時代に存したと伝えられる六経のうち、亡失した楽経以外の経書で、漢代に諸家の流伝をもとに復元編纂。唐代の五経博士が、詩・春秋の諸家のうち毛氏の詩、三礼のうち礼記、左氏の春秋を正科として以来、易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)の五種が五経となった。ごけい。
  • 詞賦 しふ 詞と賦。また、韻文の総称。詩歌。この「詞」は「辞」と同じで、「辞」も「賦」もともに古い韻文の一形式。
  • 詩賦 しふ 詩と賦、すなわち中国の韻文。
  • 匈奴 きょうど 前3世紀から後5世紀にわたって中国を脅かした北方の遊牧民族。首長を単于と称し、冒頓単于(前209〜前174)以後2代が全盛期。武帝の時代以後、漢の圧迫をうけて東西に分裂、後漢の時さらに南北に分裂。南匈奴は4世紀に漢(前趙)を建国。種族についてはモンゴル説とトルコ説とがあり、フンも同族といわれる。
  • 単于 ぜんう 匈奴の君主の称号。
  • 東胡 とうこ 中国、春秋の頃から、内モンゴル東部にいた狩猟遊牧民族。烏桓・鮮卑・契丹などはその後裔とされる。
  • 月氏・月支 げっし 秦・漢時代、中央アジアに拠ったイラン系またはトルコ系の民族。前漢の初め、甘粛省敦煌地方から匈奴に追われてイリ地方に、前2世紀頃さらに烏孫に追われてアム河畔に移り、大夏を征服して一大国家を建てた。要地に五翕侯(諸侯)を置いたが、前1世紀の中葉、その一人クシャーナ翕侯によって滅ぼされた。匈奴に追われて西走したものを大月氏、故地に残留したものを小月氏という。
  • 鋭鋒 えいほう (1) するどいほこさき。(2) するどく攻め立てる、その勢い。転じて、言論などによるするどい攻撃。
  • 公主 こうしゅ (昔、中国で天子がその女を諸侯に嫁がせる時、三公にその事をつかさどらせたからいう)天子の息女。皇女。
  • 帛 はく きぬ。絹布。
  • 漢民族 かん みんぞく 漢族に同じ。
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 烏孫 うそん 漢代から南北朝初期にかけて西域に拠ったトルコ系の民族。その領域は天山山脈の北方、イシッククル湖畔からイリ川の盆地を含む。前漢の武帝はこれと同盟したが、5世紀後半にモンゴル系の柔然の侵入で衰えた。
  • アリアン系統 → アーリア人
  • アーリア人 -じん Aryan (アーリアは「高貴」を意味するサンスクリット arya に由来)(1) インド・ヨーロッパ語族の諸言語を用いる人種の総称。特に紀元前二千年紀に北インドに侵入して定着したインド・イラン語派に属する種族をさす場合もある。アーリアン。(2) インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語を用いる諸人種のうちの主要人種であるコーカサス人種(コーカソイド)。元来は人種名ではないが、ナチスは、この人種は金髪、青い目、長身、やせ型という身体特徴をもち、ゲルマン民族こそがそれであるとした。
  • 都城 とじょう 都市にめぐらした城郭。また、城郭をかまえた都市。城市。
  • ぶどう 葡萄 (西域の土語に由来するという) ブドウ科ブドウ属の蔓性落葉低木の総称。特に果樹およびその果実をいう。ペルシア・カフカス地方の原産とされ古くからペルシア・インドで栽培されたヨーロッパ系と、北米原産の系統がある。茎は枝の変形した巻ひげで他物によじ昇る。葉は心臓形。初夏、花穂を出し、淡緑色5弁の細小花を開く。花後、円い液果を房状に生じ、秋熟して暗紫色または淡緑色となる。甘くて美味。生食あるいは乾葡萄にし、また、ジュース・葡萄酒にする。日本での栽培の歴史も古く品種が多い。エビカズラ。
  • 苜宿 つめくさ 爪草。ナデシコ科の一年草または越年草。路傍や山野に普通な雑草で、茎は根元から枝分れし、高さ3〜10センチメートル。葉は線形で小さい。春から秋にかけて白色5弁の小花を次々と開き、j果を結ぶ。タカノツメ。
  • 詰草 つめくさ (梱包の詰物として用いたのでいう)シロツメクサの別称。
  • 馬肥・苜蓿 うまごやし (1) マメ科の越年草。地中海地方原産。江戸時代に日本に入り、多く海辺に野生化。匍匐性。黄色の小型蝶形花をつける。全草を肥料・牧草とする。苜蓿は本来、これに似て紫花をつけるアルファルファ(和名ムラサキウマゴヤシ)のこと。唐草。コットイゴヤシ。マゴヤシ。(2) シロツメクサの俗称。
  • きゅうり 胡瓜・黄瓜・木瓜 (「黄(き)瓜(うり)」の意)ウリ科の一年生果菜。原産地はインドとされ、古く中国を経て渡来。蔓性草本。雌雄異花で、初夏に黄色の五弁花をつける。果実は細長く緑色、とげ状のいぼがあり、熟すれば黄色となる。若い果実を生食し、また漬物・ピクルスなどにする。唐瓜。そばうり。
  • くるみ 胡桃・山胡桃 クルミ科クルミ属の落葉高木の総称、またその食用果実。欧州産のテウチグルミ(カシグルミ)など北半球に15種ほどが分布。オニグルミは日本の山地に自生し、栽培もされる。幹は高さ20メートル以上、樹皮は褐色を帯びた紫黒色。葉は羽状複葉。雌雄同株で、雄花は緑色、雌花の花柱は帯赤色で6月頃咲く。花後、石果を結び、核は極めて堅い。材は種々の器材に用い、樹皮・果皮は染料、種子は薬用または食用、また、油を搾る。
  • ごま 胡麻 ゴマ科の一年生作物。原産地はアフリカとされ、胡(西域のこと)を経て古く中国から渡来した。中国・インドに生産が多い。j果中に小さい多数の種子をつけ、油を含む。9月ごろ収穫。食用とし、また、搾って半乾性の油をとる。白胡麻・黒胡麻・茶胡麻などがある。ウゴマ。
  • ざくろ 石榴・柘榴・若榴 ザクロ科の落葉高木。ペルシア・インド原産で、栽培の歴史はきわめて古い。高さ5〜10メートル。幹には瘤が多く枝に棘がある。葉は細い楕円形で対生、つやがある。6月ごろ鮮紅色5弁の花を開き、果実は大きな球形。果皮は黄紅色で黒斑があり、秋に熟すると裂けて多数の種子を一部露出する。種皮は生食し、また果実酒を作る。樹皮は煎じて駆虫剤、材は硬く装飾用の柱などに使う。また、通常は結実しない観賞用のハナザクロがある。色玉。じゃくろ。
  • 汗血馬 かんけつば (1) [史記大宛伝]前漢の将李広利が大宛を討って得たという名馬。一日に千里を走り血のような汗を流したと伝える。(2) 駿馬。
  • 功成り名を遂げる こう なり なを とげる 手柄をあげ、名声も得る。
  • とこしなえ 常しなへ・永久 「とこしえ」に同じ。
  • とこしえ 常しえ・永久 永くかわらないこと。いつまでも続くこと。とこしなえ。
  • 不老不死 ふろう ふし いつまでも老いもせず死ぬこともないこと。
  • 神仙・神僊 しんせん 神または仙人。神通力を得た仙人。
  • 方士 ほうし (ホウジとも)神仙の術すなわち方術を行う人。道士。
  • 楼台 ろうだい (古くはロウタイとも)(1) 高い建物。たかどの。(2) 屋根のある台。
  • 長生 ちょうせい 長命を保つこと。ながいき。
  • 専売 せんばい (2) 国家が、行政・財政上の目的で、特定財貨の生産または販売を独占すること。日本では製造たばこ・塩・アルコール等が専売されていたが、それぞれ1985年、97年、2001年に廃止。
  • 売官 ばいかん 官職を売ること。日本では平安時代を中心に国費の不足を来した結果、公務の執行を請け負う者から任料を取ってその官職を授けた。
  • 贖罪 しょくざい (1) 体刑に服する代りに、財物を差し出して罪過を許されること。(2) 〔宗〕(atonement)犠牲や代償を捧げることによって罪過をあがなうこと。特に、キリスト教では、自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果たしたとする。和解。赦し。
  • 贖罪 とくざい (「とく」は「贖」の慣用読み)しょくざいに同じ。
  • 鹿革・鹿皮 しかがわ 鹿のなめしがわ。
  • 幣 へい (1) 神前に供える布帛。ぬさ。みてぐら。(2) 通貨。おさつ。
  • 国用 こくよう 国家の費用。国費。
  • 追悔 ついかい 事の終わった後からくやむこと。後悔。
  • 詔・勅 みことのり (「御言宣」の意)天皇のことば。おおせ。おおみこと。詔勅。勅諚。勅命。文書上の規定では「詔」の字は臨時の大事に用い、「勅」は尋常の小事に用いる(令義解公式令)など諸説がある。
  • 遺詔 いしょう 帝王の遺言。
  • 摂政 せっしょう [礼記文王世子]君主に代わって政務を行うこと。また、その官。日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、清和天皇幼少のため外戚の藤原良房が任ぜられてのちは、藤原氏が専ら就任した。明治以降は、皇室典範により、天皇が成年に達しないとき、並びに精神・身体の重患または重大な事故の際、成年の皇族が任ぜられる。
  • 英明 えいめい 才知がすぐれて事理に明るいこと。
  • 中興 ちゅうこう いったん衰えたことを再び盛んにすること。また、その人。
  • 服属 ふくぞく 従いつくこと。つきしたがうこと。
  • 西域都護 せいいき とご 漢代西域経営の長官。前59年前漢の宣帝の時、烏塁城に設置。
  • 私を通じる
  • 私通 しつう 男女がひそかに情を通ずること。密通。
  • 奥向 おくむき (1) 家の奥の方。(2) 家計・家事に関する方面。また、その仕事。武家や大家についていった。
  • 後宮 こうきゅう (1) 皇后・妃などが住み、女官の奉仕する、宮中奥向きの殿舎。平安京内裏では、天皇の住む仁寿殿の後方にある承香・常寧・貞観・弘徽・登花・麗景・宣耀の七殿と昭陽・淑景・飛香・凝花・襲芳の五舎との十二舎の総称。掖庭。椒房。(2) 転じて、皇后・妃などの称。
  • 後宮三千の美姫
  • 美姫 びき うつくしい姫。うつくしい女。美人。
  • 宦官 かんがん 東洋諸国で後宮に仕えた去勢男子。特に中国で盛行、宮刑に処せられた者、異民族の捕虜などから採用したが、後には志望者をも任用した。常に君主に近接し、重用されて政権を左右することも多く、後漢・唐・明代にはその弊害が著しかった。宦者。寺人。閹官。閹人。刑余。�s寺。
  • 外戚 がいせき (ゲシャクとも)母方の親族。←→内戚
  • 大傅 たいふ → 太傅か
  • 太傅 たいふ (1) 周代の三公の一つ。天子の師傅となる官。(2) 太政大臣・左大臣の唐名。(3) 旧皇室典範で、天皇が未成年の時に保育の任にあたる職。
  • 弑する しいする (シスルの慣用読み)主君・父を殺す。目上の者を殺す。
  • 践む ふむ その地位に身をおく。跡をつぐ。
  • 井田 せいでん 夏・殷・周3代に施行されたと伝えられる田制。開墾した土地を井字形に区画し、分配したといわれるが、鉄器の普及により、区画された土地が広く出現した後の戦国時代の理念的なもの。「孟子」によれば、周では9等分した土地の中央の1田を公田とし、周囲の8田を8家に分け、8家共同して公田を耕し、その収穫を租としたという。井田法。
  • 宗族 しゅうぞく/そうぞく 同一祖先の父系血縁の子孫として、共同して活動する地域的な集団。一族。一門。
  • 大業 たいぎょう (1) 大きな事業。重大な事業。(2) 帝王の業。洪業。
  • 紊乱 びんらん (ブンランの慣用読み)みだれること。みだすこと。
  • 武事 ぶじ 武芸や戦争に関する事柄。
  • 事端 じたん 事柄のいとぐち。事件の端緒。
  • しげく 繁く (シゲシの連用形から)間をおかずに何度も。しきりに。
  • 士風 しふう 武士の気風。士人の風紀。
  • 気節 きせつ (1) 気概があって節操の堅いこと。気骨。
  • 遺業 いぎょう 故人が成しとげて、この世に残した事業。または、故人がやりかけたままの事業。
  • 軽侮 けいぶ かろんじあなどること。軽蔑。
  • 入寇 にゅうこう (「寇」は、あだをする意)外国からある国に攻め入ってくること。来寇。
  • 経略 けいりゃく (1) はかり治めること。国家を経営統治すること。(2) 天下を経営し、四方を攻めとること。
  • 鮮卑 せんぴ 古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。中国戦国時代から興安嶺の東に拠った。2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、三国時代、慕容・宇文・拓跋などの集団に分裂。晋代に、前燕・後燕・西秦・南涼・南燕の国を建て、拓跋氏は南北朝時代に北魏を建てた。
  • 威服 いふく 権威をもって従わせること。
  • 都護 とご (1) 都護府の長官。前漢の宣帝の時の西域都護に始まる。(2) 按察使の唐名。
  • 都護府 とごふ 唐で、周辺諸民族の支配のために辺境に置かれた官庁。安東・安南・安西・安北・単于・北庭の六都護府が主要なもの。
  • 督する とくする (1) とりしまる。監督する。(2) 統率する。(3) うながす。督促する。
  • 威名 いめい 威勢のすぐれた評判。威光と名声。
  • 絹 きぬ 蚕の繭からとった繊維。また、それで織った織物。絹織物。
  • シルク silk (1) 生糸。絹糸。絹布。
  • セリカ Serica 古代のローマ人が中国を指した呼称。絹(sericum ラテン)に由来するという。
  • トーガ toga 古代ローマ人が着た、半楕円形の大きな布を体に巻く形式の外衣。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 図版は前回と同様、『学研新漢和大字典』(2005.5)を参照。

「シナは古来しばしば大地震に見舞われるところから、まがりなりにも一つの地震観を有していたため、わが国がその影響をこうむらないはずはないのである。これに反して、かの国には噴火現象というものが見られないため、火山噴火に関する思想については、大陸文化の影響をこうむることなく、わが国独自の発展をとげたのである」(今村明恒『地震の国』「地震および火山噴火に関する思想の変遷」より)

 Wikipedia によれば、藤田豊八は1869年(明治2)の生まれ。1909年以来中国へわたり、1923年(大正12)に帰国とある。関東大震災が54歳のとき。本作品の出版は1929(昭和4)年。
 本文中、洪水については「五、大洪水」がある。入力作業を終えたかぎりでは、残念ながら地震も火山噴火の記述も見あたらなかった。
 始皇帝から前漢の武帝の時代、儒教にくわえて道教を重用した形跡がある。時代が大きく変わる背景には、しばしばそれをとりまく自然環境の大きな変化が先行することがあり、そういう時代に新しい思想や宗教が誕生することがままある。

 小林達雄『縄文の思考』(ちくま新書、2008.4)、同『縄文人の世界』(朝日選書、1996.7)、石川日出志『農耕社会の成立』(岩波新書、2010.10)読了。いずれも、姶良カルデラ噴火の広域降灰(約2万2000年前)や縄文海進(約6500年前がピーク)については記述があるが、それ以外の地震や噴火活動については記していない。




*次週予告


第四巻 第四九号 
東洋歴史物語(四)藤田豊八

第四巻 第四九号は、
二〇一二年六月三〇日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四八号
東洋歴史物語(三)藤田豊八
発行:二〇一二年六月二三日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
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