藤田豊八 ふじた とよはち
1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15)
東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」

恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

水島爾保布 みずしま におう
1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30)
画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。挿絵・水島爾保布。


もくじ 
東洋歴史物語(二)藤田豊八


ミルクティー*現代表記版
東洋歴史物語(二)
   九、周(しゅう)の建国
  一〇、春秋の世
  一一、戦国の世
  一二、先秦(せんしん)の文化
  一三、秦(しん)の興亡

オリジナル版
東洋歴史物語(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1679.htm

NDC 分類:220(アジア史.東洋史)
http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html





東洋歴史物語(二)

藤田ふじた豊八とよはち

   九、しゅう建国けんこく


 いんほろぼしてしゅうという国をてたのは、武王ぶおうという王さまだということをもうしましたが、この武王のお父さまの文王ぶんのうという人が非常に徳望とくぼうの高かった人で、ずっとシナの西のほうの諸侯しょこうでしたが、多くの他の諸侯もこの人に心ひそかに望みをせていたのでした。
 この時分じぶん呂尚ろしょうという人がありました。変わった人でりをしながら天下を遊歴ゆうれきしておりました。文王ぶんのうりょうに出かけて、ちょうどこの呂尚ろしょうというじいさんのりをしているところに出会いました。話し合ってみると、なかなかこのじいさんは見識けんしきの高い人なので、さっそく自分の車に乗せて帰って、この人を顧問こもんとして採用いたしました。それでこの文王ぶんのうの祖父にあたる太公たいこうが、こういう人のしゅうに来るのを望んでいたというので、この呂尚ろしょうのことを太公望たいこうぼうと呼びました。今でもりをすることを「太公望」などというのは、こうしたわけからなのです。
 文王ぶんのうはこうして太公望をもちい善政ぜんせいをおこなっておりましたが、死んでその子の武王の代になってはじめていんほろぼして、周がシナを支配するようになったのであります。
 当時、武王の臣下しんか伯夷はくい叔斉しゅくせいという兄弟がありましたが、武王がいん紂王ちゅうおう征伐せいばつに出かけようとするとき、それをさえぎって武王の馬をたたいていさめ、
「父上文王ぶんのうがなくなられてまだ葬祭そうさいもしないうちに戦争をおこなうということは、孝行こうこうの道にはずれます。それに臣下しんかをもって主人をしいすのはじんといえるでしょうか?」
もうしました。しかし武王はかずにいん紂王ちゅうおうほろぼしたので、この伯夷はくい叔斉しゅくせいの兄弟は憤慨ふんがいして周の国のあわうまいというので、首陽山しゅようざんという山にかくれ、そのわらびってってふたたびでずにえて死んでしまいました。この伯夷はくい叔斉しゅくせいの行動はせつを守ったというので、後のシナ人から非常にとうとばれております。
 武王はいん紂王ちゅうおうほろぼして周という王朝を建てましたが、まもなく死に、子の成王せいおうが後をつぎました。おさないので武王の弟、成王の叔父おじ周公しゅうこうたんという人がまつりごとりました。
 周のまつりごとが長くつづき、またそれが後の世の手本になるような立派なものであったというのは、ひとえにこの周公しゅうこうたん骨折ほねおりでした。周の政治のやり方、制度せいどというものは、ずっと後々までシナの模範もはんでありましたが、それらの制度は、みな周公しゅうこうの手ひとつで作られたというのです。その周の制度のうち政治のほうに関係していちばん有名なのは、封建ほうけんの制で、周の王室の一族と功臣こうしんとを天下にほうじ、諸侯としてこれをこうこうはくだん五爵ごしゃくにわけて、それを王室の藩屏はんぺいといたしました。また中央政府の官制かんせい田制でんせい・税制・兵制・学制などのもろもろの制度もみな周公しゅうこうがつくったというのです。こうして周という王朝も、周公の努力によって固められ、ことにその文物ぶんぶつ制度がそなわった立派なものであっただけに、孔子こうしなどもこの周公の人となりを非常に渇仰かつごう〔人の徳をあおぎしたうこと。されました。「われ夢に周公しゅうこうを見ず」といって、孔子が自分の身のおとろえたのをなげかれたのは有名な話です。
 周は建国のはじめは勢いがさかんでしたが、そのうちに王室の勢いがしだいにおとろえはじめ、またそれにつれてシナの西方・北方に住んでいるじゅうとかてきとかいう野蛮人やばんじんがしきりに内地に侵入しんにゅうしてたみうれいとなりました。
 宣王せんのうのとき、いったんこれを追いはらって中興ちゅうこうぎょうを立てました。けれどもその子の幽王ゆうおうという人があまりかしこくない人でした。この幽王は褒�ほうじという女を寵愛ちょうあいしていましたが、この女はどうしたわけかちっとも笑わないのです。幽王はどうかしてこの褒�ほうじを笑わせようとしましたが、なかなか笑いません。
 その当時、烽火のろしというものがありました。今日こんにちのように、電信とか電話などの発達しない古代にあっては、この烽火のろしという通信機関で国家の大事、たとえば外敵の侵入しんにゅうなどを報知ほうちしたものです。これはひとりシナだけではなく日本などにもさかんにおこなわれたことです。
 さて幽王ゆうおうはこの烽火のろしに火をつけさせました。するとそれを見た諸侯たちは、すわこそ〔「さあ大変」の意味〕国家の一大事、てきが侵入しきたったと信じて、取るものもとりあえず、都をさして集まってまいりました。ところが都までやってくると、あん相違そういしててきなどは一人もいないので、諸侯たちはいぬけがしてポカンとしてしまいました。その諸侯のまぬけた顔がおかしいというので、褒�ほうじははじめて笑ったのだそうです。冗談じょうだんからこまが出るといいますが、そのうちにほんとうの外敵の犬戎けんじゅうというえびすが都へせめよせてまいりました。
 幽王ゆうおうはびっくりして烽火のろしをあげさせましたが、諸侯たちはまた都へ出ればなぶりものになるのだと思って、だれも都へ助けに来ません。とうとう幽王は犬戎けんじゅうに殺されてしまったともうします。ちょうどこの幽王のおはなしは、『イソップ物語』でみなさんの知っているうそつきの羊飼ひつじかいの子がオオカミがたとうそをついたはなしと同じようなはなしです。
 幽王がこうして犬戎けんじゅうという西のほうのえびすに殺されてしまったので、その子の平王へいおうは、諸侯に擁立ようりつされて天子になったものの、犬戎けんじゅうの勢いをさけて今までの都の鎬京こうけいを離れて、都を東のほうの洛邑らくゆううつしました。

   一〇、春秋しゅんじゅう


 周室しゅうしつ東遷とうせんしてからのち、三〇〇年ばかりを春秋しゅんじゅうと申します。
 春秋の世ともうすわけは、孔子こうしというシナの大聖人だいせいじんが、この時代の歴史を作ってその名を『春秋しゅんじゅう』と名づけました。その書物にこの時代のことがっているからです。
 これより前の時代にはいんという時代があり、またその前にはの時代があり、もっと前には三皇さんこう五帝ごていなどの時代があったように言い伝えているものの、ほんとうのことは実際はわからないのです。それでほんとうにたしかなことは、じつはこの春秋の世からはじまるのです。いいかえれば、シナはこの春秋の時代から歴史時代に入ったもので、それ以前は、伝説の時代なのです。つまり周室しゅうしつ東遷とうせん以後から信頼できる歴史がはじまるのです。
 この春秋の時代になってからは、周の王室の権威はますますおとろえまして、諸侯の大きいのがわるがわる出て勢いをふるい、天子にかわって他の諸侯に号令するようなのが出るようになりました。こうした強大な諸侯のことを覇者はしゃと申します。そして首尾しゅびよく覇者になりとげることを覇業はぎょうをなしたと申します。この時代の諸侯は、どれもこれも覇者となり、覇業をなしとげようとつとめたものです。そのうちうまく覇業をなしとげたものは、せい桓公かんこうしん文公ぶんこう荘王そうおう呉王ごおう夫差越王えつおう勾践こうせんの五人だけでした。これを春秋の五覇ごはと申します。
 これらの覇者はしゃがその目的としてとなえたのは、尊王そんのう攘夷じょうということでした。当時、周室の勢いはいたっておとろえていましたので、覇者が諸侯のかしらに立って、王室をとうとぼうというのが尊王そんのうでした。また周室の勢力の微弱びじゃくにつけこんで、シナの西北の方面から多くの異民族がシナの内地に侵入しんにゅうして来ていました。こうした異民族を追いはらおうというのが攘夷じょういです。
 この五覇のうち、最初に覇業をとげたのがせい桓公かんこうでした。せいは今の山東省さんとうしょうで、水陸のの多いところです。それに桓公は名相めいしょうであった管仲かんちゅうという人を使って国政こくせいおさめしめましたから、その国威こくいはおおいにり、せいは一度覇業をなしとげました。
 この管仲かんちゅうという宰相さいしようえらい人でしたが、この人の友人に鮑叔ほうしゅくという人がありました。この二人の友人の間柄あいだがらは、じつに信頼しあったものでした。管仲がまだ宰相さいしょうにならないころ、管仲は鮑叔ほうしゅくといっしょにあきないをやりました。さて管仲は利益を自分のほうに多く取ってしまいました。しかし鮑叔はちっとも管仲がよくばりだなどといって、さげすみませんでした。管仲が貧乏びんぼうだからそうしたんだということを、鮑叔はよく知っていたからです。またあるときは、管仲が鮑叔といっしょに何かことを計画してうまくいかないでこまったことがありました。しかし鮑叔ほうしゅくは、管仲がバカだからとは考えませんでした。物事ものごとはうまく行くときと行かぬときがあることを鮑叔は知っていたからです。管仲は三度戦争をして三度とも逃げ走りました。しかし、鮑叔ほうしゅくは管仲を卑怯ひきょうだとはしませんでした。管仲にはいた母があるのを知っていたからです。
 二人の友情は、こうしたほんとうの理解のうえに立っていました。ですから世間では、こうした友人の間柄あいだがらのことを管鮑かんぽうまじわりと申します。よい友人を持つということは、どんなたからを持つよりもすぐれたことです。こうした管仲が死に、また主人の桓公かんこうの死んだあとは、せいの覇業はおとろえ、これにかわって天下にとなえたのはしん文公ぶんこうでした。そのしんにかわったのが南方ので、荘王そうおうのときを中国にとなえたのでありました。
 その後、覇業をなしたのは、やはり南のの国とえつの国でした。この二国のうちで呉がはじめ勢力をはり、その王、闔閭こうりょをやぶったのでした。ところがこの闔閭は、越王えつおう勾践こうせんと戦争をしたさいきずついて死にました。そこで闔閭の子夫差ふさは父の復讐ふくしゅうをしようというので、まきの上にして夜もおちおちずに心をくだき、ついに越王勾践こうせんをやぶり、勾践は会稽かいけいというところで降参しました。こうして呉の覇業はなりました。ところが一度降参した越王勾践は、范蠡はんれいというしんはかりごとをもちいて国力の回復をくわだて、にがいきもをなめてはから受けた屈辱くつじょくを思い、ついに呉をやぶって夫差ふさを殺し、えつはここにをなしとげました。臥薪がしん嘗胆しょうたんという言葉は、この呉王夫差ふさや越王勾践こうせんのしぐさから言いはじめたのだといいます。また会稽かいけいはじをそそぐということも、越王勾践が会稽かいけいで降参して受けた屈辱くつじょくをついにそそいだことをいうのです。

   一一、戦国の


 春秋時代ののちになると、周室しゅうしつの勢いはまったくおとろえてしまい、諸侯しょこうたちはいよいよ強勢きょうせいをほしいままにし、諸侯のうちでもあるものは勝手に王などと称して、おのおのその勢いをきそいました。その結果、周の王室というものは名目めいもくは王ですけれど、ほとんど何の実権もなく、ただ都の洛邑らくゆう付近の一つの小諸侯であるにすぎなくなってしまいました。こうした春秋時代以後の二百余年よねんのことを戦国のと申します。
 春秋時代には、それでも諸侯の数は大小三百もありましたが、それがしだいに衰亡すいぼうし、戦国の時代になりますと、だいたい天下はしんえんせいかんちょう七国しちこくにわかたれてしまいました。この七国のことを戦国の七雄しちゆうと申します。この七雄がおのおの富国ふこく強兵きょうへいをはかって国の勢力をだいにし、他の国の領土をけずろうとしのぎをけずってあらそったのであります。これら七国のうち、とりわけ勢力の強かったのはしんの国でした。秦はシナの西方の険要けんようの地をめていましたものの、他の国々からは西のほうのえびすの国だといって軽蔑けいべつされていました。しかし、メキメキ実力を充実させ、春秋の時代にしんをあらそったこともありました。戦国時代に入ってまもなく、秦に孝公こうこうというきみが出ました。
 この孝公こうこうは、商鞅しょうおうという人を任用して政治をおこなわせました。この商鞅という人の政治の仕方は法治ほうち主義というので、国民をおさめるのに、法律をもってピシピシとおさえたのです。商鞅はこうした法律の励行れいこうによって土地の開墾、農事の奨励をはかり秦の富国強兵をはかったのです。そしてその法律の適用は、どこまでも厳格で、あるとき秦の太子が法をおかしました。そのとき商鞅しょうおうは太子だといってうっちゃっておけばほう威信いしんにかかわり、法がおこなわれないようになってしまう。しかし太子にけいするわけにいかないからというので、太子のおやくとその先生とをばっしました。こうまでして法の励行れいこうをはかりましたので、秦の国勢はにわかに増大しました。
 当時、しんをのぞいた他の六つの国を六国りっこくと申しますが、秦がこうしてにわかに強大になって六国を威圧いたしましたので、六国側りっこくがわでは、いかにして秦のこの圧迫あっぱくのがるべきかということが、外交上、また軍事上のさしせまった問題となったのです。そこで六国のほうでは六国が連合してしん一国に対抗しようとする計画を立てました。この六国同盟の計画を最初にとなえはじめた人は蘇秦そしんという雄弁家ゆうべんかでして、この人が諸侯のあいだを遊説ゆうぜいして歩いてその弁舌べんぜつによってこの同盟を成立させ、蘇秦みずからは六国のしょうになって得意になっておりました。この六国同盟の策略を合従がっしょうさくと申します。
 合従がっしょうしょうの字はたてというのと同じで、六国は秦に対して縦、すなわち南北につらなっていたので、その六国を合わせる策でしたから合従の策というのです。
 ところが、いったん六国の同盟ができたものの、そうたいして効果のないうちに秦が離間りかんけいこうじたため、六国のうちにうちわもめができ、この同盟もくずれてしまいました。
 合従の策に対して、また別の策を立てた人がありました。それは張儀ちょうぎという人で、さきに合従をとなえた蘇秦しんの友人で同じ鬼谷きこく先生という人に学びました。この張儀の唱えたのは連衡れんこうの策というので、六国をおのおの秦と和睦わぼくさせる計画でした。こうというのは横のことで、秦と六国の各国は横、すなわち東西の位置にありましたから、この六国と秦とをさせる策のことを連衡れんこうと申したのです。張儀もまたみずから諸侯のあいだを遊説し、諸侯もこれにきふせられて、いったんは秦に服事ふくじすることをやくしましたが、しかしこの策もただちにやぶれてしまいました。
 戦国時代には、蘇秦そしん張儀ちょうぎのように諸侯のあいだをいて歩いて、その説をもちいてもらおうとする人が、とても多く出ました。そうした人々のことを、遊説のとか弁士べんしとか申します。これからのちも秦の強大なる勢いに、六国はいかにして対抗していこうと、いろいろほねりましたがおのおの方針が定まらず、しだいに衰運をまねくようになりました。こうしていますあいだに、秦は六国の形勢をうかがって范雎はんすい〔はんしょ〕という人の意見にしたがい遠交えんこう近攻きんこうの策をりました。それは遠い国とは平和な交際をつづけておいて、手近てぢかな国からめてゆくという政策でした。
 秦は周をめ、赧王たんのうらえて名前のうえではまだ残っていた周室をほろぼしました。ついでせい〔始皇帝〕という人が王位に登ると、宰相さいしょう李斯りしの策をもちいて六国の君臣くんしん離間りかんして、とうとうかんちょうえんせいの六国を順々にほろぼして、ついに一統いっとうの大事業を完成いたしました。周室の東遷とうせん以後ずっと分裂して、諸侯がおのおのその強大をきそい統一のつかなかったシナは、ここに秦の武力とその法治主義とによって、またようやく統一されるに至ったのです。

   一二、先秦せんしんの文化


 しゅうの時代の制度が、どんなにすぐれた行きとどいたものであったかは、前にしゅう公旦こうたんのところでお話しましたから、ここに申しません。この制度も、春秋から戦国と世の中がみだれるにつれくずれて行きましたけれど、後世シナで制度をたてるときは、いずれもこの周の制度をもってもといとしたものです。
 秦が天下を統一する前の時代、戦国や春秋をあわせて先秦せんしんの時代と申しますが、この時代は政治的に分裂こそしていたが、その文化の方面ことに精神文化の方面では、かん民族の到達したもっとも高いところをしめしているものでしょう。そういう方面でいろいろのえらい人が出ました。また実際、春秋・戦国の時代は、すべてが競争の世の中でしたから、自然にいろいろの人材が要求され、そこから学問もおこり、またその方面でのひいでた人々も出たのです。
 この時代の人々で、いちばん有名なのは孔子こうしです。孔子は春秋のすえ、山東省さんとうしょうの国の曲阜きょくふに生まれた人です。世の中の乱れているのをすくおうと思って、諸侯のあいだを遊説して歩きましたが、もちいられません。そこで故郷へひきこもり、多くの弟子たちとともに学をおさめ書物を作って終わりました。
 その学というのも道徳の教えでありまして、人たるものはじん、すなわちなさけをもって立たなければならないという仁道じんどう中心の教えでした。『春秋』という歴史の書物を、この孔子が作ったことは前にも述べました。
 この孔子の教えはずっと後々までさかえつづき、この影響は、ひとりシナのみならず日本にも朝鮮にもおよんだのでした。その教えのことを儒教じゅきょうと申します。孔子はその人格がじつに完全だというので、聖人せいじんと称され、後世こうせいのシナ人からは神さまのように思いなされました。孔子の言行げんこうは、その死後にまれました『論語ろんご』という本にいちばんくわしく出ております。孔子の教え、すなわち儒教をほうずるものを儒家じゅかと申しますが、その儒家には孔子の孫に子思ししという人があり、中庸ちゅうよう』という書をあらわし、また孟子もうしという人も出ました。
 孟子もうしは、孔子のいたじんということをつけ加えて仁義じんぎきました。その教えは、孟子もうし』という書物に出ております。孟子のお母さまは、子どもの教育にをもちいたので有名です。はじめおさない孟子とそのお母さまは墓場はかばのそばに住んでいました。すると孟子は葬式ごっこばかりやります。そこでお母さまは、これでは子どもの教育によろしくないというので、ひっこして、市場いちばのそばに移りました。ところがこんどは商売のまねばかりします。これを見てお母さまは、こんな下等かとうなことを覚えてはいけないと、またひっこして学校のそばに移りました。ところが、今度孟子のまねたのは学校のことでした。お母さまはこれでやっと安心いたしました。このことを孟母もうぼ三遷さんせんの教えと申します。こうしたお母さまでしたから、孟子が学問をしによそへ行っていて、学問のまだできあがらぬうちに家へ帰ってまいりましたとき、かあさんはりかけのはたかたなでバリバリと切ってしまいました。つまり学問をなしとげずに帰ってくるというのは、りかけのはたを切るようなもので、それではだめだという意味なのです。孟子はお母さまにこうしていましめられ、ついにその学問を大成たいせいいたしました。
 この時分じぶん孟子もうしの他に儒教の大家たいかとして有名な人に、荀子じゅんしという人がありました。この人は、孟子が人間の本性はぜんだといったのに対し、人間の本性はあくだといったので有名な人です。孟子を中心とする儒教以外に、これとって老荘ろうそうの学派がありました。この学派のはじめは老子ろうしという人でした。お母さまのおなかの中に長いこと入っていたので、生まれたときはもう頭の毛の白い老人だったから老子といったといい伝えています。孔子とほぼ同時代の人で、孔子はこの老子にものを学んだと申します。その教えは無為むい自然しぜんとうとぶので、いっさいの人為的の努力というものをしりぞけ、物のあるままに放任せよといったふうのものです。
 この学派には列子れっしとか荘子そうしとかの後継者が出て、さかんに儒教などを非難いたしました。老子と荘子から名をとって老荘ろうそうの学ともいい、またその学派のことを道家どうかとも申します。この老荘の学は、また今後のシナ人の生活と学問とに大きい影響をおよぼしました。

孟母、機を断つ図


 この先秦せんしんの時代には儒家・道家どうかの他にも、いろいろの説を立てるものがありました。これをひっくるめて諸子しょし百家ひゃっかと申します。そのうちに楊子ようし楊朱ようしゅという人がありました。この人の説は極端な個人主義的な自愛説あいせつで、人間は自分を愛することさえやっておればいいので、なまなか他人のことをかまうからうるさくなる。各人かくじんが自分さえ愛しておればいいというのがその説です。この楊子ようしの説と極端な対照をしていたのが墨子ぼくしという人の説です。この人の説は、人間はあらゆる他の人間を平等に愛すべきであるというのです。自分一個を犠牲にしても他人も愛せよというのです。この平等愛の説を兼愛説けんあいせつと申します。したがってこの立ち場から墨子は、人間が他の人間を殺しあう戦争というものに絶対的に反対いたしました。彼は平和主義者でした。しかし、墨子ぼくし自身は平和主義者のくせに非常に戦争のうまい人で、あるときしろを守ってあくまでも守りとおしたので、墨守ぼくしゅという言葉さえできたくらいでした。
 またこの他に法家ほうかという学派もありました。法律をもって国家をおさめることを主張した学派でして、前に述べました商鞅しょうおうもこの派の人ですし、戦国すえの韓非かんなどはこの派の大成者たいせいしゃともいえるのでしょう。秦という国がこの法家をもちいることによって、結局六国をやぶったことは前にも申しました。したがってのちに述べます秦の一統いっとう時代に入って、天下に勢力を得た学派は、この法家であることはいうまでもありません。
 またこの時代には戦争がさかんでしたから戦術の研究もさかんで、そのために孫武そんぶ〔孫子〕呉起ごき〔呉子〕などの兵法家へうほうかも出ました。これを兵家へいかと申します。なおこの時代の学者は、多く諸侯の間をめぐり歩いて諸侯を説きふせてもちいてもらおうとするので、雄弁術ゆうべんじゅつもさかんに研究され、ことに一種の論理学の学派も生まれました。名家めいかというものがこれでして、公孫龍こうそんりゅうとか恵施けいしとかがその学派の人々でした。
 先秦せんしんの時代には、こうしたいろいろの学者が出て種々の学説がとかれ、のちのシナにも見られないような精神文化の頂点をしめしていまして、その後世におよぼした影響はじつに深く広いものがあります。

   一三、しん興亡こうぼう


 しん周室しゅうしつほろぼし、その王政おうせいにいたっては、六国をほろぼして従来分裂していた国家をここに一つの統一国家にまとめあげました。そこでこの統一国家の威勢をおおいにすべく、いろいろの改革をやりました。
 従来の主権者は、王とごうしていまして、本来、天下に一人しかないはずだったのです。ところが春秋から戦国にかけて周室の勢いが弱くなると同時に、諸侯の強大なものは、みなぞくぞく王を称しました。そこでやはり需要・供給の関係と同じで、王というもののうちがさがってしまいました。しんがここに強大な統一国家をつくりあげるのに、従来の王という称号では、あまりやすっぽすぎるというので、秦の主権者はここに新しい称号を案出あんしゅつしようとしました。その結果、皇帝こうていという名称をつくって、それを主権者の称としました。前にシナの上代に、三皇さんこう五帝ごていという王さまがあったという伝説のあることを申しました。この三皇五帝をまぜたよりもなおえらいというので、三皇のこうと五帝のていとをあわせて、皇帝こうていということばをつくったのです。
 なおシナには諡法しほうということがあって、天子が死にますと、そのあとに残った子や臣下しんかが、その天子の生前の行徳こうとくにちなんでおくりなをいたす習慣があります。すなわち雄々おおしい天子であったばあいには武王ぶおうおくりなし、文治ぶんじにつとめた天子は文王ぶんのうおくりなする。こうしたおくりなは、じつのところ父が死んだのち子が父のことをとやかくし、きみが死んだのちしんきみのことをとやかく論じて定めるのであるからもってのほかのことである。こうした諡号しごうはいっさいやめ、単純に自分を最初の皇帝、すなわち始皇帝しこうていと称し、つぎが二世皇帝、つぎが三世皇帝……とこうやって、万世ばんせい皇帝まで伝えるようにと定めました。
 それから行政のうえにも大変革をおこないました。従来、周の制度は封建ほうけん制度で、地方地方には諸侯がふうぜられていました。これが周末しゅうまつみだれをひきおこしたというので、始皇帝はこれをはいし、そのかわりに郡県ぐんけん制度をしきました。全国を三十六郡にわかち、郡の下には県があり、この郡県の政治は全部、中央政府のつかわした官吏かんりによっておこなわれる。こうして中央集権のじつをあげました。郡県制度か封建制度か、シナに国をてた諸王朝は、このいずれかの型にしたがって地方制度をてました。だから秦はここにおいても一つの新しい型を提出したということができます。
 なお、従来じゅうらい六国の国々においてまちまちであった法度はっとを一つにし、また文学「文字」の誤植か〕を改定統一し、度量衡どりょうこうをも統一して統一政治のじつをあげるのにつとめました。始皇帝は永久に秦が主権をたもつようにつとめ、そのために人民の反乱をふせごうといたしました。人民が武器を持っているから反乱などがおこるのだというので、民間にあった武器を全部おかみに没収して、これをつぶして祭りの道具だの大きな銅像などを作ってしまいました。この時代はてつというものもあったでしょうが、だいたい道具に使われた金属はどうでしたので、これらの武器もみな銅だったのです。また反乱のおきるのは、地方の金持ちがこれを援助するからだ、金持ちさえ地方に置かなければ反乱はおこさないというので、天下の富豪ふごう十二万戸を都の咸陽かんように移しました。
 この新しいやりくちは、一般の人民にもよろこばれず、学者もこれを非難したので、始皇しこうは学者が人民を煽動せんどうするのだと考え、宰相さいしょう李斯りしの意見にしたがって、民間にある書物ですこしでも政治にかかわりのあるものはことごとくこれを焼いて知識のみなもとち、おかみのいうなりに国民をしたがわせようとしました。この書物の焼き打ちのことを焚書ふんしょと申します。また、政治を非難した儒者じゅしゃ四百六十余人よにん坑埋あなうめにしてしまいました。これを坑儒こうじゅと申します。始皇帝はうちに対してこうした弾圧政策をとって、しん王朝を万世ばんせいまでもつづけうると考えていたのでありました。
 始皇帝は、また大規模な外国征伐せいばつをやりました。シナ人はだいたいにおいて定着の生活をして、農業をいとなんでいるのに対して、その北や西にはたいてい水草すいそうを追うて移動する遊牧の人間が住んでいます。そうした人間にとっては、シナという国が無上の楽園のようにえいじるので、きさえあればシナに入りこもうとしています。この北や西の野蛮人とシナ人とのあらそいということは、これからずっとつづくのです。
 さてこの始皇帝の時代に、シナの北の方に住んでいた人種は匈奴きょうどというのでした。匈奴はどういう人種だかはっきりしません。ある学者はこれをトルコ人だと考え、また他の学者はこれを蒙古人もうこじん〔モンゴル族〕だと考えています。とにかくヨーロッパへのちになって侵入したフンヌと、名前の上のつながりを持った人種です。
 この匈奴きょうどは定着生活をしないで遊牧をやっていますので、馬に乗るのがじつにたくみですから、すぐそのまますぐれた騎兵きへいです。この匈奴が北のほうにかなりの大勢力を持っていたので、始皇帝は蒙恬もうてんという将軍をして大軍をつかわしこれをたしめ、これをゴビ砂漠さばくの北においはらいました。しかし、匈奴は秦の統一前、戦国の時代からしばしばシナへ侵入して来ているので、北辺ほくへんの諸国、秦・ちょうえんはおのおのとりできずいてこれをふせいだのです。いまあらたに秦がシナを代表して匈奴に対抗するようになると、これらの古いとりでを修築し、連絡して、ここにいわゆる万里ばんり長城ちょうじょうを完成しました。東は遼河りょうがの東、遼東りょうとうからおこし、西は甘粛省かんしゅくしょう臨�りんとうにいたる八〇〇里〔およそ三二〇〇キロメートル〕のあいだ、山をこえ谷をよこぎる大土木事業です。しかし、いまのこっている万里の長城なるものは、ずっとのち明代みんだいの修築にかかるものです。こうやって始皇は、北辺のかためをなすと同時に、南のほう安南あんなん地方をって地を広め、その地に南海なんかい桂林けいりんしょうの三郡をおきました。
 秦の武威ぶいはあがりましたが、国民はそのために苦しみ、はんをくわだてるものがありました。始皇しこう死して二世皇帝こうてい立つや、暗愚あんぐで政治はまったくみだれ、方々ほうぼうに群雄がきそい立ちました。そのうちでもいちばん大きい勢力のあったのは、項羽こうう劉邦りゅうほうの二人でして、しきりに秦軍をやぶりました。しかし、ついに劉邦は函谷関かんこくかんをやぶって都の咸陽かんようにせまり、始皇帝が万世までつづけようと思った秦の王朝も、わずか三世、十五年でほろんでしまいました。
 秦の事業はこうしてはかなくやぶれましたが、それはのちの世に一つのすばらしい記念物を残しました。それはシナという国号であります。
 シナとは本来ほんらいシナ人みずからがよんだ国号ではないのです。秦の武威ぶい四隣しりんにふるいましたので、しんという名が西のほうに伝わりまして、インドに入ってシナとなったのです。のちにシナのほうからインドへ行った人々が、インドでは自分の国のことをシナと呼ぶことを知り、シナという言葉でそれをうつしたのです。ですから、秦という国ははかなくほろんでも、そのほまれはシナという国名のうちに永久にひびいているのです。(つづく)



底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
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東洋歴史物語(二)

藤田豐八

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(例)東洋《とうよう》

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   九、周《しゆう》の建國《けんこく》

 殷《いん》を亡《ほろぼ》して周《しゆう》といふ國《くに》を建《た》てたのは、武王《ぶおう》といふ王樣《おうさま》だといふことを申《まを》しましたが、この武王《ぶおう》のお父《とう》さまの文王《ぶんのう》といふ人《ひと》が非常《ひじよう》に徳望《とくぼう》の高《たか》かつた人《ひと》で、ずっと支那《しな》の西《にし》の方《ほう》の諸侯《しよこう》でしたが、多《おほ》くの他《た》の諸侯《しよこう》もこの人《ひと》に心《こゝろ》ひそかに望《のぞ》みを寄《よ》せてゐたのでした。
 この時分《じぶん》、呂尚《ろしよう》といふ人《ひと》がありました。變《かは》つた人《ひと》で釣《つ》りをしながら天下《てんか》を遊歴《ゆうれき》してをりました。文王《ぶんのう》が獵《りよう》に出《で》かけて、ちょうどこの呂尚《ろしよう》といふ爺《ぢい》さんの釣《つ》りをしてゐるところに出《で》あひました。話《はな》し合《あ》つて見《み》ると、なか/\この爺《ぢい》さんは見識《けんしき》の高《たか》い人《ひと》なので、さっそく自分《じぶん》の車《くるま》に乘《の》せて歸《かへ》つて、この人《ひと》を顧問《こもん》として採用《さいよう》いたしました。それでこの文王《ぶんのう》の祖父《そふ》にあたる太公《たいこう》が、かういふ人《ひと》の周《しゆう》に來《く》るのを望《のぞ》んでゐたといふので、この呂尚《ろしよう》のことを太公望《たいこうぼう》と呼《よ》びました。今《いま》でも釣《つ》りをすることを、『太公望《たいこうぼう》』などゝいふのは、かうしたわけからなのです。
 文王《ぶんのう》はかうして太公望《たいこうぼう》を用《もち》ひ善政《ぜんせい》を行《おこな》つてをりましたが、死《し》んでその子《こ》の武王《ぶおう》の代《だい》になつて始《はじ》めて殷《いん》を亡《ほろぼ》して、周《しゆう》が支那《しな》を支配《しはい》するようになつたのであります。
 當時《とうじ》、武王《ぶおう》の臣下《しんか》に伯夷《はくい》、叔齊《しゆくせい》といふ兄弟《きようだい》がありましたが、武王《ぶおう》が殷《いん》の紂王《ちゆうおう》を征伐《せいばつ》に出《で》かけようとするとき、それを遮《さへぎ》つて武王《ぶおう》の馬《うま》を叩《たゝ》いて諫《いさ》め、
「父上《ちゝうへ》文王《ぶんのう》がなくなられてまだ葬祭《そうさい》もしないうちに戰爭《せんそう》を行《おこな》ふといふことは、孝行《こう/\》の道《みち》にはづれます。それに臣下《しんか》をもつて主人《しゆじん》を弑《しひ》すのは仁《じん》といへるでせうか」
と申《まを》しました。しかし武王《ぶおう》は聽《き》かずに殷《いん》の紂王《ちゆうおう》を亡《ほろぼ》したので、この伯夷《はくい》、叔齊《しゆくせい》の兄弟《きようだい》は憤慨《ふんがい》して周《しゆう》の國《くに》の粟《あは》を食《く》ふまいといふので、首陽山《しゆようざん》といふ山《やま》に隱《かく》れ、その薇《わらび》を採《と》つて食《く》つて再《ふたゝ》び世《よ》に出《い》でずに餓《う》ゑて死《し》んでしまひました。この伯夷《はくい》、叔齊《しゆくせい》の行動《こうどう》は節《せつ》を守《まも》つたといふので、後《のち》の支那人《しなじん》から非常《ひじよう》に尊《たふと》ばれてをります。
 武王《ぶおう》は殷《いん》の紂王《ちゆうおう》を亡《ほろぼ》して周《しゆう》といふ王朝《おうちよう》を建《た》てましたが、まもなく死《し》に、子《こ》の成王《せいおう》が後《あと》をつぎました。幼《をさな》いので武王《ぶおう》の弟《おとうと》、成王《せいおう》の叔父《をぢ》の周公《しゆうこう》旦《たん》といふ人《ひと》が政《まつりごと》を攝《と》りました。
 周《しゆう》の政《まつりごと》が長《なが》くつゞき、またそれが後《のち》の世《よ》の手本《てほん》になるような立派《りつぱ》なものであつたといふのは、ひとへにこの周公《しゆうこう》旦《たん》の骨折《ほねを》りでした。周《しゆう》の政治《せいじ》のやり方《かた》、制度《せいど》といふものは、ずっと後々《のち/\》まで支那《しな》の模範《もはん》でありましたが、それらの制度《せいど》は、みな周公《しゆうこう》の手一《てひと》つで作《つく》られたといふのです。その周《しゆう》の制度《せいど》のうち政治《せいじ》の方《ほう》に關係《かんけい》して一番《いちばん》有名《ゆうめい》なのは、封建《ほうけん》の制《せい》で、周《しゆう》の王室《おうしつ》の一族《いちぞく》と功臣《こうしん》とを天下《てんか》に封《ほう》じ、諸侯《しよこう》としてこれを公《こう》侯《/\》伯《はく》子《し》男《だん》の五爵《ごしやく》にわけて、それを王室《おうしつ》の藩屏《はんぺい》といたしました。また中央《ちゆうおう》政府《せいふ》の官制《かんせい》、田制《でんせい》、税制《ぜいせい》、兵制《へいせい》、學制《がくせい》などの諸々《もろ/\》の制度《せいど》も皆《みな》周公《しゆうこう》がつくつたといふのです。かうして周《しゆう》といふ王朝《おうちよう》も、周公《しゆうこう》の努力《どりよく》によつて固《かた》められ、ことにその文物《ぶんぶつ》制度《せいど》が備《そな》はつた立派《りつぱ》なものであつたゞけに、孔子《こうし》などもこの周公《しゆうこう》の人《ひと》となりを非常《ひじよう》に渇仰《かつこう》[#「かつこう」は底本のまま]されました。『われ夢《ゆめ》に周公《しゆうこう》を見《み》ず』といつて、孔子《こうし》が自分《じぶん》の身《み》の衰《おとろ》へたのを歎《なげ》かれたのは有名《ゆうめい》な話《はなし》です。
 周《しゆう》は建國《けんこく》の初《はじ》めは勢《いきほ》ひがさかんでしたが、そのうちに王室《おうしつ》の勢《いきほ》ひが次第《しだい》に衰《おとろ》へ始《はじ》め、またそれにつれて支那《しな》の西方《せいほう》、北方《ほつぽう》に、住《す》んでゐる戎《じゆう》とか狄《てき》とかいふ野蠻人《やばんじん》が頻《しき》りに内地《ないち》に侵入《しんにゆう》して民《たみ》の患《うれ》ひとなりました。
 宣王《せんのう》のとき、いったんこれを追《お》ひ拂《はら》つて中興《ちゆうこう》の業《ぎよう》を立《た》てました。けれどもその子《こ》の幽王《ゆうおう》といふ人《ひと》があまり賢《かしこ》くない人《ひと》でした。この幽王《ゆうおう》は褒似《ほうじ》といふ女《をんな》を寵愛《ちようあい》してゐましたが、この女《をんな》はどうしたわけかちっとも笑《わら》はないのです。幽王《ゆうおう》はどうかしてこの褒似《ほうじ》を笑《わら》はせようとしましたが、なか/\笑《わら》ひません。
 その當時《とうじ》、烽火《のろし》といふものがありました。今日《こんにち》のように、電信《でんしん》とか電話《でんわ》などの發達《はつたつ》しない古代《こだい》にあつては、この烽火《のろし》といふ通信《つうしん》機關《きかん》で國家《こつか》の大事《だいじ》、例《たと》へば外敵《がいてき》の侵入《しんにゆう》などを報知《ほうち》したものです。これはひとり支那《しな》だけではなく日本《につぽん》などにもさかんに行《おこな》はれたことです。
 さて幽王《ゆうおう》はこの烽火《のろし》に火《ひ》をつけさせました。するとそれを見《み》た諸侯達《しよこうたち》は、すはこそ國家《こつか》の一大事《いちだいじ》、狄《てき》が侵入《しんにゆう》しきたつたと信《しん》じて、とるものもとりあへず、都《みやこ》をさして集《あつま》つてまゐりしまた[#「しまた」は底本のまま]。ところが都《みやこ》までやつて來《く》ると、案《あん》に相違《そうい》して狄《てき》などは一人《ひとり》もゐないので、諸侯《しよこ》[#「しよこ」は底本のまま]たちは張《は》り合《あ》ひぬけがしてぽかんとしてしまひました。その諸侯《しよこう》の間《ま》ぬけた顏《かほ》がをかしいといふので、褒似《ほうじ》は始《はじ》めて笑《わら》つたのだそうです。冗談《じようだん》から駒《こま》が出《で》るといひますが、そのうちにほんとうの外敵《がいてき》の犬戎《けんじゆう》といふ夷《えびす》が都《みやこ》へせめよせてまゐりました。
 幽王《ゆうおう》はびっくりして烽火《のろし》をあげさせましたが、諸侯《しよこう》たちはまた都《みやこ》へ出《で》ればなぶりものになるのだと思《おも》つて、誰《たれ》も都《みやこ》へたすけに來《き》ません。とう/\幽王《ゆうおう》は犬戎《けんじゆう》に殺《ころ》されてしまつたと申《まを》します。ちょうどこの幽王《ゆうおう》のおはなしは、イソップ物語《ものがたり》で皆《みな》さんの知《し》つてゐる嘘《うそ》つきの羊飼《ひつじか》ひの子《こ》が狼《おほかみ》が來《き》たと嘘《うそ》をついたはなしと同《おな》じようなはなしです。
 幽王《ゆうおう》がかうして犬戎《けんじゆう》といふ西《にし》の方《ほう》の夷《えびす》に殺《ころ》されてしまつたので、その子《こ》の平王《へいおう》は、諸侯《しよこう》に擁立《ようりつ》されて天子《てんし》になつたものゝ、犬戎《けんじゆう》の勢《いきほ》ひを避《さ》けて今《いま》までの都《みやこ》の鎬京《こうけい》を離《はな》れて、都《みやこ》を東《ひがし》の方《ほう》の洛邑《らくゆう》に遷《うつ》しました。

   一〇、春秋《しゆんじゆう》の世《よ》

 周室《しゆうしつ》が東遷《とうせん》してから後《のち》、三百年《さんびやくねん》ばかりを春秋《しゆんじゆう》の世《よ》と申《まを》します。
 春秋《しゆんじゆう》の世《よ》と申《まを》すわけは、孔子《こうし》といふ支那《しな》の大聖人《だいせいじん》が、この時代《じだい》の歴史《れきし》を作《つく》つてその名《な》を春秋《しゆんじゆう》と名《な》づけました。その書物《しよもつ》にこの時代《じだい》のことが載《の》つてゐるからです。
 これより前《まへ》の時代《じだい》には殷《いん》といふ時代《じだい》があり、またその前《まへ》には夏《か》の時代《じだい》があり、もっと前《まへ》には三皇《さんこう》五帝《ごてい》などの時代《じだい》があつたように、いひつたへてゐるものゝ、ほんとうのことは實際《じつさい》はわからないのです。それでほんとうにたしかなことは、實《じつ》はこの春秋《しゆんじゆう》の世《よ》から始《はじ》まるのです。いひかへれば、支那《しな》はこの春秋《しゆんじゆう》の時代《じだい》から歴史《れきし》時代《じだい》にはひつたもので、それ以前《いぜん》は、傳説《でんせつ》の時代《じだい》なのです。つまり周室《しゆうしつ》の東遷《とうせん》以後《いご》から信頼《しんらい》出來《でき》る歴史《れきし》が始《はじ》まるのです。
 この春秋《しゆんじゆう》の時代《じだい》になつてからは、周《しゆう》の王室《おうしつ》の權威《けんい》はます/\衰《おとろ》へまして、諸侯《しよこう》の大《おほ》きいのが交《かは》る/″\出《で》て勢《いきほ》ひを振《ふる》ひ、天子《てんし》に代《かは》つて他《た》の諸侯《しよこう》に號令《ごうれい》するようなのが出《で》るようになりました。かうした強大《きようだい》な諸侯《しよこう》のことを覇者《はしや》と申《まを》します。そして首尾《しゆび》よく覇者《はしや》になりとげることを覇業《はぎよう》をなしたと申《まを》します。この時代《じだい》の諸侯《しよこう》は、どれもこれも覇者《はしや》となり、覇業《はぎよう》をなしとげようと努《つと》めたものです。そのうちうまく覇業《はぎよう》をなしとげたものは、齊《せい》の桓公《かんこう》、晋《しん》の文公《ぶんこう》、楚《そ》の莊王《そうおう》、呉王《ごおう》夫差《ふさ》と越王《えつおう》勾踐《こうせん》の五人《ごにん》だけでした。これを春秋《しゆんじゆう》の五覇《ごは》と申《まを》します。
 これらの覇者《はしや》がその目的《もくてき》として唱《とな》へたのは、尊王《そんのう》攘夷《じようい》といふことでした。當時《とうじ》周室《しゆうしつ》の勢《いきほ》ひは、いたって衰《おとろ》へてゐましたので、覇者《はしや》が諸侯《しよこう》の頭《かしら》に立《た》つて、王室《おうしつ》を尊《たふと》ばうといふのが尊王《そんのう》でした。また周室《しゆうしつ》の勢力《せいりよく》の微弱《びじやく》につけこんで、支那《しな》の西北《せいほく》の方面《ほうめん》から多《おほ》くの異民族《いみんぞく》が支那《しな》の内地《ないち》に侵人《しんにゆう》[#「侵人」は底本のまま]して來《き》てゐました。かうした異民族《いみんぞく》を追《お》ひ拂《はら》はうといふのが攘夷《じようい》です。
 この五覇《ごは》のうち、最初《さいしよ》に覇業《はぎよう》をとげたのが齊《せい》の桓公《かんこう》でした。齊《せい》は今《いま》の山東省《さんとうしよう》で、水陸《すいりく》の利《り》の多《おほ》い所《ところ》です。それに桓公《かんこう》は名相《めいしよう》であつた管仲《かんちゆう》といふ人《ひと》を使《つか》つて國政《こくせい》を治《をさ》めしめましたから、その國威《こくい》は大《おほ》いに張《は》り、齊《せい》は一度《いちど》覇業《はぎよう》をなしとげました。
 この管仲《かんちゆう》といふ宰相《さいしよう》は偉《えら》い人《ひと》でしたが、この人《ひと》の友人《ゆうじん》に鮑叔《ほうしゆく》といふ人《ひと》がありました。この二人《ふたり》の友人《ゆうじん》の間柄《あひだがら》は、實《じつ》に信頼《しんらい》し合《あ》つたものでした。管仲《かんちゆう》がまだ宰相《さいしよう》にならない頃《ころ》、管仲《かんちゆう》は鮑叔《ほうしゆく》と一《いつ》しょに商《あきな》ひをやりました。さて管仲《かんちゆう》は利益《りえき》を自分《じぶん》の方《ほう》に多《おほ》くとつてしまひました。しかし鮑叔《ほうしゆく》はちっとも管仲《かんちゆう》が欲張《よくば》りだなどといつて、さげすみませんでした。管仲《かんちゆう》が貧乏《びんぼう》だからさうしたんだといふことを、鮑叔《ほうしゆく》はよく知《し》つてゐたからです。またある時《とき》は、管仲《かんちゆう》が鮑叔《ほうしゆく》と一《いつ》しょに何《なに》かことを計畫《けいかく》してうまく行《ゆ》かないで困《こま》つたことがありました。しかし鮑叔《ほうしゆく》は、管仲《かんちゆう》がばかだからとは考《かんが》へませんでした。物事《ものごと》はうまく行《ゆ》く時《とき》と行《ゆ》かぬ時《とき》があることを鮑叔《ほうしゆく》は知《し》つてゐたからです。管仲《かんちゆう》は三度《さんど》戰爭《せんそう》をして三度《さんど》とも逃《に》げ走《はし》りました。しかし、鮑叔《ほうしゆく》は管仲《かんちゆう》を卑怯《ひきよう》だとはしませんでした。管仲《かんちゆう》には老《お》いた母《はゝ》があるのを知《し》つてゐたからです。
 二人《ふたり》の友情《ゆうじよう》は、かうしたほんとうの理解《りかい》の上《うへ》に立《た》つてゐました。ですから世間《せけん》では、かうした友人《ゆうじん》の間柄《あひだがら》のことを管鮑《かんぽう》の交《まじは》りと申《まを》します。よい友人《ゆうじん》を持《も》つといふことは、どんな寶《たから》をもつよりも優《すぐ》れたことです。かうした管仲《かんちゆう》が死《し》に、また主人《しゆじん》の桓公《かんこう》の死《し》んだあとは、齊《せい》の覇業《はぎよう》は衰《おとろ》へ、これに代《かは》つて天下《てんか》に覇《は》を唱《とな》へたのは晋《しん》の文公《ぶんこう》でした。その晋《しん》に代《かは》つたのが南方《なんぽう》の楚《そ》で、莊王《そうおう》のとき覇《は》を中國《ちゆうごく》に唱《とな》へたのでありました。
 その後《ご》、覇業《はぎよう》をなしたのは、やはり南《みなみ》の呉《ご》の國《くに》と越《えつ》の國《くに》でした。この二國《にこく》のうちで呉《ご》が始《はじ》め勢力《せいりよく》を張《は》り、その王《おう》、闔閭《かつりよ》[#「かつりよ」は底本のまま]は楚《そ》を破《やぶ》つたのでした。ところがこの闔閭《かつりよ》[#「かつりよ」は底本のまま]は、越王《えつおう》の勾踐《こうせん》と戰爭《せんそう》をした際《さい》傷《きず》ついて死《し》にました。そこで闔閭《かつりよ》[#「かつりよ」は底本のまま]の子《こ》夫差《ふさ》は父《ちゝ》の復讐《ふくしゆう》をしようといふので、薪《まき》の上《うへ》に臥《ふ》して夜《よる》もおち/\ねずに心《こゝろ》を碎《くだ》き、つひに越王《えつおう》勾踐《こうせん》を破《やぶ》り、勾踐《こうせん》は會稽《かいけい》といふ所《ところ》で降參《こうさん》しました。かうして呉《ご》の覇業《はぎよう》はなりました。ところが一度《いちど》降參《こうさん》した越王《えつおう》勾踐《こうせん》は、范蠡《はんれい》といふ臣《しん》の謀《はかりごと》を用《もち》ひて國力《こくりよく》の回復《かいふく》を企《くはだ》て、にがい膽《きも》を嘗《な》めては呉《ご》から受《う》けた屈辱《くつじよく》を思《おも》ひ、つひに呉《ご》を破《やぶ》つて夫差《ふさ》を殺《ころ》し、越《えつ》はこゝに覇《は》をなしとげました。臥薪《がしん》嘗膽《しようたん》といふ言葉《ことば》は、この呉王《ごおう》夫差《ふさ》や越王《えつおう》勾踐《こうせん》のしぐさからいひ始《はじ》めたのだといひます。また會稽《かいけい》の恥《はぢ》を雪《そゝ》ぐといふことも、越王《えつおう》勾踐《こうせん》が會稽《かいけい》で降參《こうさん》して受《う》けた屈辱《くつじよく》をつひに雪《そゝ》いだことをいふのです。

   一一、戰國《せんごく》の世《よ》

 春秋《しゆんじゆう》時代《じだい》の後《のち》になると、周室《しゆうしつ》の勢《いきほ》ひはまったく衰《おとろ》へてしまひ、諸侯《しよこう》たちはいよ/\強勢《きようせい》をほしいまゝにし、諸侯《しよこう》の中《うち》でもあるものは勝手《かつて》に王《おう》などと稱《しよう》して、おの/\その勢《いきほ》ひを競《きそ》ひました。その結果《けつか》、周《しゆう》の王室《おうしつ》といふものは名目《めいもく》は王《おう》ですけれど、ほとんどなんの實權《じつけん》もなく、たゞ都《みやこ》の洛邑《らくゆう》附近《ふきん》の一《ひと》つの小諸侯《しようしよこう》であるに過《す》ぎなくなつてしまひました。かうした春秋《しゆんじゆう》時代《じだい》以後《ゝご》の二百《にひやく》餘年《よねん》のことを戰國《せんごく》の世《よ》と申《まを》します。
 春秋《しゆんじゆう》時代《じだい》には、それでも諸侯《しよこう》の數《すう》は大小《だいしよう》三百餘《さんびやくよ》もありましたが、それが次第《しだい》に衰亡《すいぼう》し、戰國《せんごく》の時代《じだい》になりますと、だいたい天下《てんか》は秦《しん》、楚《そ》、燕《えん》、齊《せい》、韓《かん》、魏《ぎ》、趙《ちよう》の七國《しちこく》にわかたれてしまひました。この七國《しちこく》のことを戰國《せんごく》の七雄《しちゆう》と申《まを》します。この七雄《しちゆう》がおの/\富國《ふこく》強兵《きようへい》をはかつて國《くに》の勢力《せいりよく》を大《だい》にし、他《た》の國《くに》の領土《りようど》を削《けづ》らうとしのぎを削《けづ》つて爭《あらそ》つたのであります。これら七國《しちこく》のうち、とりわけ勢力《せいりよく》の強《つよ》かつたのは秦《しん》の國《くに》でした。秦《しん》は支那《しな》の西方《せいほう》の險要《けんよう》の地《ち》を占《し》めてゐましたものゝ、他《た》の國々《くに/″\》からは西《にし》の方《ほう》の夷《えびす》の國《くに》だといつて輕蔑《けいべつ》されてゐました。しかし、めき/\實力《じつりよく》を充實《じゆうじつ》させ、春秋《しゆんじゆう》の時代《じだい》に晋《しん》と覇《は》を爭《あらそ》つたこともありました。戰國《せんごく》時代《じだい》にはひつてまもなく、秦《しん》に孝公《こう/\》といふ君《きみ》が出《で》ました。
 この孝公《こう/\》は、商鞅《しようおう》といふ人《ひと》を任用《にんよう》して政治《せいじ》を行《おこな》はせました。この商鞅《しようおう》といふ人《ひと》の政治《せいじ》の仕方《しかた》は法治《ほうち》主義《しゆぎ》といふので、國民《こくみん》を治《をさ》めるのに、法律《ほうりつ》をもつてぴし/\と抑《おさ》へたのです。商鞅《しようおう》はかうした法律《ほうりつ》の勵行《れいこう》によつて土地《とち》の開墾《かいこん》、農事《のうじ》の奬勵《しようれい》をはかり秦《しん》の富國《ふこく》強兵《きようへい》をはかつたのです。そしてその法律《ほうりつ》の適用《てきよう》は、どこまでも嚴格《げんかく》で、あるとき秦《しん》の太子《たいし》が法《ほう》を犯《をか》しました。そのとき商鞅《しようおう》は太子《たいし》だといつてうっちゃつて置《お》けば法《ほう》の威信《いしん》にかゝはり、法《ほう》が行《おこな》はれないようになつてしまふ。しかし太子《たいし》に刑《けい》を科《か》するわけに行《ゆ》かないからといふので、太子《たいし》のお守《も》り役《やく》とその先生《せんせい》とを罰《ばつ》しました。かうまでして法《ほう》の勵行《れいこう》をはかりましたので、秦《しん》の國勢《こくせい》はにはかに増大《ぞうだい》しました。
 當時《とうじ》秦《しん》をのぞいた他《た》の六《むつ》つの國《くに》を六國《りつこく》と申《まを》しますが、秦《しん》がかうしてにはかに強大《きようだい》になつて六國《りつこく》を威壓《いあつ》いたしましたので、六國側《りつこくがは》では、いかにして秦《しん》のこの壓迫《あつぱく》を免《のが》るべきかといふことが、外交上《がいこうじよう》、また軍事上《ぐんじじよう》のさしせまつた問題《もんだい》となつたのです。そこで六國《りつこく》の方《ほう》では六國《りつこく》が聯合《れんごう》して秦《しん》一國《いつこく》に對抗《たいこう》しようとする計畫《けいかく》を立《た》てました。この六國《りつこく》同盟《どうめい》の計畫《けいかく》を最初《さいしよ》に唱《とな》へ始《はじ》めた人《ひと》は蘇秦《そしん》といふ雄辯家《ゆうべんか》でして、この人《ひと》が諸侯《しよこう》の間《あひだ》を遊説《ゆうぜい》して歩《ある》いてその辯舌《べんぜつ》によつてこの同盟《どうめい》を成立《せいりつ》させ、蘇秦《そしん》自《みづか》らは六國《りつこく》の相《しよう》になつて得意《とくい》になつてをりました。この六國《りつこく》同盟《どうめい》の策略《さくりやく》を合從《がつしよう》の策《さく》と申《まを》します。
 合從《がつしよう》の從《しよう》の字《じ》は縱《たて》といふのと同《おな》じで、六國《りつこく》は秦《しん》に對《たい》して縱《たて》、すなはち南北《なんぼく》に連《つらな》つてゐたので、その六國《りつこく》を合《あは》せる策《さく》でしたから合從《がつしよう》の策《さく》といふのです。
 ところが、いったん六國《りつこく》の同盟《どうめい》が出來《でき》たものゝ、さう大《たい》して效果《こうか》のないうちに秦《しん》が離間《りかん》の計《けい》を講《こう》じたゝめ、六國《りつこく》のうちに内《うち》わもめが出來《でき》、この同盟《どうめい》も崩《くづ》れてしまひました。
 合從《がつしよう》の策《さく》に對《たい》して、また別《べつ》の策《さく》を立《た》てた人《ひと》がありました。それは張儀《ちようぎ》といふ人《ひと》で、さきに合從《がつしよう》を唱《とな》へた蘇秦《そしん》の友人《ゆうじん》で同《おな》じ鬼谷《きこく》先生《せんせい》といふ人《ひと》に學《まな》びました。この張儀《ちようぎ》の唱《とな》へたのは連衡《れんこう》の策《さく》といふので、六國《りつこく》をおの/\秦《しん》と和睦《わぼく》させる計畫《けいかく》でした。衡《こう》といふのは横《よこ》のことで、秦《しん》と六國《りつこく》の各國《かつこく》は横《よこ》、すなはち東西《とうざい》の位置《いち》にありましたから、この六國《りつこく》と秦《しん》とを和《わ》させる策《さく》のことを連衡《れんこう》と申《まを》したのです。張儀《ちようぎ》もまた自《みづか》ら諸侯《しよこう》の間《あひだ》を遊説《ゆうぜい》し、諸侯《しよこう》もこれに説《と》き伏《ふ》せられて、いったんは秦《しん》に服事《ふくじ》することを約《やく》しましたが、しかしこの策《さく》も直《たゞち》に破《やぶ》れてしまひました。
 戰國《せんごく》時代《じだい》には、泰蘇《そしん》[#「泰蘇」は底本のまま]、張儀《ちようぎ》のように諸侯《しよこう》の間《あひだ》を説《と》いて歩《ある》いて、その説《せつ》を用《もち》ひて貰《もら》はうとする人《ひと》が、とても多《おほ》く出《で》ました。さうした人々《ひと/″\》のことを、遊説《ゆうぜい》の士《し》とか辯士《べんし》とか申《まを》します。これから後《のち》も秦《しん》の強大《きようだい》なる勢《いきほ》ひに、六國《りつこく》はいかにして對抗《たいこう》して行《い》かうと、いろ/\骨《ほね》を折《を》りましたがおの/\方針《ほうしん》が定《さだ》まらず、次第《しだい》に衰運《すいうん》を招《まね》くようになりました。かうしてゐます間《あひだ》に、秦《しん》は六國《りつこく》の形勢《けいせい》を窺《うかゞ》つて范雎《はんすい》といふ人《ひと》の意見《いけん》に從《したが》ひ遠交《えんこう》近攻《きんこう》の策《さく》を採《と》りました。それは遠《とほ》い國《くに》とは平和《へいわ》な交際《こうさい》をつゞけて置《お》いて、手近《てぢか》な國《くに》から攻《せ》めて行《ゆ》くといふ政策《せいさく》でした。
 秦《しん》は周《しゆう》を攻《せ》め、赧王《たんのう》を捕《とら》へて名前《なまへ》の上《うへ》ではまだ殘《のこ》つてゐた周室《しゆうしつ》を亡《ほろぼ》しました。ついで政《せい》といふ人《ひと》が王位《おうい》に登《のぼ》ると、宰相《さいしよう》の李斯《りし》の策《さく》を用《もち》ひて六國《りつこく》の君臣《くんしん》を離間《りかん》して、とう/\韓《かん》、趙《ちよう》、魏《ぎ》、楚《そ》、燕《えん》、齊《せい》の六國《りつこく》を順々《じゆん/\》に亡《ほろぼ》して、遂《つひ》に一統《いつとう》の大事業《だいじぎよう》を完成《かんせい》いたしました。周室《しゆうしつ》の東遷《とうせん》以後《いご》ずっと分裂《ぶんれつ》して、諸侯《しよこう》がおの/\その強大《きようだい》をきそひ統一《とういつ》のつかなかつた支那《しな》は、こゝに秦《しん》の武力《ぶりよく》とその法治《ほうち》主義《しゆぎ》とによつて、また漸《やうや》く統一《とういつ》されるに至《いた》つたのです。

   一二、先秦《せんしん》の文化《ぶんか》

 周《しゆう》の時代《じだい》の制度《せいど》が、どんなに優《すぐ》れた行《ゆ》きとゞいたものであつたかは、前《まへ》に周公《しゆうこう》旦《たん》のところでお話《はなし》しましたから、こゝに申《まを》しません。この制度《せいど》も、春秋《しゆんじゆう》から戰國《せんごく》と世《よ》の中《なか》が亂《みだ》れるにつれ崩《くづ》れて行《ゆ》きましたけれど、後世《こうせい》支那《しな》で制度《せいど》を建《た》てるときは、いづれもこの周《しゆう》の制度《せいど》をもつて基《もとゐ》としたものです。
 秦《しん》が天下《てんか》を統一《とういつ》する前《まへ》の時代《じだい》、戰國《せんごく》や春秋《しゆんじゆう》を合《あは》せて先秦《せんしん》の時代《じだい》と申《まを》しますが、この時代《じだい》は政治的《せいじてき》に分裂《ぶんれつ》こそしてゐたが、その文化《ぶんか》の方面《ほうめん》ことに精神《せいしん》文化《ぶんか》の方面《ほうめん》では、漢《かん》民族《みんぞく》の到達《とうたつ》した最《もつと》も高《たか》いところを示《しめ》してゐるものでせう。さういふ方面《ほうめん》でいろ/\の偉《えら》い人《ひと》が出《で》ました。また實際《じつさい》春秋《しゆんじゆう》、戰國《せんごく》の時代《じだい》は、すべてが競爭《きようそう》の世《よ》の中《なか》でしたから、自然《しぜん》にいろ/\の人材《じんざい》が要求《ようきゆう》され、そこから學問《がくもん》も起《おこ》り、またその方面《ほうめん》での秀《ひい》でた人々《ひと/″\》も出《で》たのです。
 この時代《じだい》の人々《ひと/″\》で、一番《いちばん》有名《ゆうめい》なのは孔子《こうし》です。孔子《こうし》は春秋《しゆんじゆう》のすゑ、山東省《さんとうしよう》の魯《ろ》の國《くに》の曲阜《きよくふ》に生《うま》れた人《ひと》です。世《よ》の中《なか》の亂《みだ》れてゐるのを濟《すく》はうと思《おも》つて、諸侯《しよこう》の間《あひだ》を遊説《ゆうぜい》して歩《ある》きましたが、用《もち》ひられません。そこで故郷《こきよう》へひきこもり、多《おほ》くの弟子達《でしたち》とともに學《がく》を修《をさ》め書物《しよもつ》を作《つく》つて終《をは》りました。
 その學《がく》といふのも道徳《どうとく》の教《をし》へでありまして、人《ひと》たるものは仁《じん》、すなはち情《なさけ》をもつて立《た》たなければならないといふ仁道《じんどう》中心《ちゆうしん》の教《をし》へでした。春秋《しゆんじゆう》といふ歴史《れきし》の書物《しよもつ》を、この孔子《こうし》が作《つく》つたことは前《まへ》にも述《の》べました。
 この孔子《こうし》の教《をし》へはずっと後々《のち/\》まで榮《さか》えつゞき、この影響《えいきよう》は、ひとり支那《しな》のみならず日本《につぽん》にも朝鮮《ちようせん》にも及《およ》んだのでした。その教《をし》へのことを儒教《じゆきよう》と申《まを》します。孔子《こうし》はその人格《じんかく》が實《じつ》に完全《かんぜん》だといふので、聖人《せいじん》と稱《しよう》され、後世《こうせい》の支那人《しなじん》からは神《かみ》さまのように思《おも》ひなされました。孔子《こうし》の言行《げんこう》は、その死後《しご》に編《あ》まれました論語《ろんご》といふ本《ほん》に一番《いちばん》詳《くは》しく出《で》てをります。孔子《こうし》の教《をし》へ、すなはち儒教《じゆきよう》を奉《ほう》ずるものを儒家《じゆか》と申《まを》しますが、その儒家《じゆか》には孔子《こうし》の孫《まご》に子思《しゝ》といふ人《ひと》があり、中庸《ちゆうよう》といふ書《しよ》を著《あらは》し、また孟子《もうし》といふ人《ひと》も出《で》ました。
 孟子《もうし》は、孔子《こうし》の説《と》いた仁《じん》に義《ぎ》といふことをつけ加《くは》へて仁義《じんぎ》を説《と》きました。その教《をし》へは、孟子《もうし》といふ書物《しよもつ》に出《で》てをります。孟子《もうし》のお母樣《かあさま》は、子供《こども》の教育《きよういく》に意《い》を用《もち》ひたので有名《ゆうめい》です。初《はじ》め幼《をさな》い孟子《もうし》とそのお母樣《かあさま》は墓場《はかば》のそばに住《す》んでゐました。すると孟子《もうし》は葬式《そうしき》ごっこばかりやります。そこでお母樣《かあさま》は、これでは子供《こども》の教育《きよういく》によろしくないといふので、ひっ越《こ》して、市場《いちば》のそばに移《うつ》りました。ところがこんどは商賣《しようばい》のまねばかりします。これを見《み》てお母樣《かあさま》は、こんな下等《かとう》なことを覺《おぼ》えてはいけないと、またひっ越《こ》して學校《がつこう》のそばに移《うつ》りました。ところが、今度《こんど》孟子《もうし》のまねたのは學校《がつこう》のことでした。お母樣《かあさま》はこれでやっと安心《あんしん》いたしました。このことを孟母《もうぼ》三遷《さんせん》の教《をし》へと申《まを》します。かうしたお母樣《かあさま》でしたから、孟子《もうし》が學問《がくもん》をしによそへ行《い》つてゐて、學問《がくもん》のまだ出來上《できあが》らぬうちに家《いへ》へ歸《かへ》つてまゐりました時《とき》、母《かあ》さんは織《お》りかけの機《はた》を刀《かたな》でばり/\と切《き》つてしまひました。つまり學問《がくもん》をなしとげずに歸《かへ》つて來《く》るといふのは、織《お》りかけの機《はた》を切《き》るようなもので、それではだめだといふ意味《いみ》なのです。孟子《もうし》はお母《かあ》さまにかうして戒《いまし》められ、遂《つひ》にその學問《がくもん》を大成《たいせい》いたしました。
 この時分《じぶん》孟子《もうし》の他《ほか》に儒教《じゆきよう》の大家《たいか》として有名《ゆうめい》な人《ひと》に、荀子《じゆんし》といふ人《ひと》がありました。この人《ひと》は孟子《もうし》が人間《にんげん》の本性《ほんせい》は善《ぜん》だといつたのに對《たい》し、人間《にんげん》の本性《ほんせい》は惡《あく》だといつたので有名《ゆうめい》な人《ひと》です。孟子《もうし》を中心《ちゆうしん》とする儒教《じゆきよう》以外《いがい》に、これと張《は》り合《あ》つて老莊《ろうそう》の學派《がくは》がありました。この學派《がくは》の始《はじ》めは老子《ろうし》といふ人《ひと》でした。お母《かあ》さまのお腹《なか》の中《なか》に長《なが》いことはひつてゐたので、生《うま》れた時《とき》はもう頭《あたま》の毛《け》の白《しろ》い老人《ろうじん》だつたから老子《ろうし》といつたといひ傳《つた》へてゐます。孔子《こうし》とほゞ同時代《どうじだい》の人《ひと》で、孔子《こうし》はこの老子《ろうし》に物《もの》を學《まな》んだと申《まを》します。その教《をし》へは無爲《むい》自然《しぜん》を尊《たふと》ぶので、一切《いつさい》の人爲的《じんいてき》の努力《どりよく》といふものを斥《しりぞ》け、物《もの》のあるまゝに放任《ほうにん》せよといつたふうのものです。
 この學派《がくは》には列子《れつし》とか莊子《そうし》とかの後繼者《こうけいしや》が出《で》て、盛《さか》んに儒教《じゆきよう》などを非難《ひなん》いたしました。老子《ろうし》と莊子《そうし》から名《な》をとつて老莊《ろうそう》の學《がく》ともいひ、またその學派《がくは》のことを道家《どうか》とも申《まを》します。この老莊《ろうそう》の學《がく》は、また今後《こんご》の支那人《しなじん》の生活《せいかつ》と學問《がくもん》とに大《おほ》きい影響《えいきよう》を及《およ》ぼしました。
[#図版(〓)、孟母機を断つ圖]
 この先秦《せんしん》の時代《じだい》には儒家《じゆか》、道家《どうか》の他《ほか》にも、いろ/\の説《せつ》を立《た》てるものがありました。これをひっくるめて諸子《しよし》百家《ひやつか》と申《まを》します。そのうちに楊子《ようし》といふ人《ひと》がありました。この人《ひと》の説《せつ》は極端《きよくたん》な個人《こじん》主義的《しゆぎてき》な自愛説《じあいせつ》で、人間《にんげん》は自分《じぶん》を愛《あい》することさへやつてをればいゝので、なまなか他人《たにん》のことをかまふからうるさくなる。各人《かくじん》が自分《じぶん》さへ愛《あい》してをればいゝといふのがその説《せつ》です。この楊子《ようし》の説《せつ》と極端《きよくたん》な對照《たいしよう》をしてゐたのが墨子《ぼくし》といふ人《ひと》の説《せつ》です。この人《ひと》の説《せつ》は、人間《にんげん》はあらゆる他《た》の人間《にんげん》を平等《びようどう》に愛《あい》すべきであるといふのです。自分《じぶん》一個《いつこ》を犧牲《ぎせい》にしても他人《たにん》も愛《あい》せよといふのです。この平等愛《びようどうあい》の説《せつ》を兼愛説《けんあいせつ》と申《まを》します。從《したが》つてこの立《た》ち場《ば》から墨子《ぼくし》は、人間《にんげん》が他《た》の人間《にんげん》を殺《ころ》し合《あ》ふ戰爭《せんそう》といふものに絶對的《ぜつたいてき》に反對《はんたい》いたしました。かれは平和《へいわ》主義者《しゆぎしや》でした。しかし墨子《ぼくし》自身《じしん》は平和《へいわ》主義者《しゆぎしや》のくせに非常《ひじよう》に戰爭《せんそう》のうまい人《ひと》で、ある時《とき》城《しろ》を守《まも》つてあくまでも守《まも》りとほしたので、墨守《ぼくしゆ》といふ言葉《ことば》さへ出來《でき》たくらゐでした。
 またこの他《ほか》に法家《ほうか》といふ學派《がくは》もありました。法律《ほうりつ》をもつて國家《こつか》を治《をさ》めることを主張《しゆちよう》した學派《がくは》でして、前《まへ》に述《の》べました商鞅《しようおう》もこの派《は》の人《ひと》ですし、戰國《せんごく》すゑの韓非《かんぴ》などはこの派《は》の大成者《たいせいしや》ともいへるのでせう。秦《しん》といふ國《くに》がこの法家《ほうか》を用《もち》ひることによつて、結局《けつきよく》六國《ろつこく》を破《やぶ》つたことは前《まへ》にも申《まを》しました。從《したが》つて後《のち》に述《の》べます秦《しん》の一統《いつとう》時代《じだい》にはひつて、天下《てんか》に勢力《せいりよく》を得《え》た學派《がくは》は、この法家《ほうか》であることはいふまでもありません。
 またこの時代《じだい》には戰爭《せんそう》が盛《さか》んでしたから戰術《せんじゆつ》の研究《けんきゆう》も盛《さか》んで、そのために孫武《そんぶ》、呉起《ごき》などの兵法家《へうほうか》も出《で》ました。これを兵家《へいか》と申《まを》します。なほこの時代《じだい》の學者《がくしや》は、多《おほ》く諸侯《しよこう》の間《あひだ》をめぐり歩《ある》いて諸侯《しよこう》を説《と》き伏《ふ》せて用《もち》ひて貰《もら》はうとするので、雄辯術《ゆうべんじゆつ》も盛《さか》んに研究《けんきゆう》され、ことに一種《いつしゆ》の論理學《ろんりがく》の學派《がくは》も生《うま》れました。名家《めいか》といふものがこれでして、公孫龍《こうそんりゆう》とか惠施《けいし》とかがその學派《がくは》の人々《ひと/″\》でした。
 先秦《せんしん》の時代《じだい》には、かうしたいろ/\の學者《がくしや》が出《で》て種々《しゆ/″\》の學説《がくせつ》がとかれ、後《のち》の支那《しな》にも見《み》られないような精神《せいしん》文化《ぶんか》の頂點《ちようてん》を示《しめ》してゐまして、その後世《こうせい》に及《およ》ぼした影響《えいきよう》は實《じつ》に深《ふか》く廣《ひろ》いものがあります。

   一三、秦《しん》の興亡《こうぼう》

 秦《しん》は周室《しゆうしつ》を亡《ほろぼ》し、その王政《おうせい》に至《いた》つては、六國《ろつこく》を亡《ほろぼ》して從來《じゆうらい》分裂《ぶんれつ》してゐた國家《こつか》をこゝに一《ひと》つの統一《とういつ》國家《こつか》にまとめあげました。そこでこの統一《とういつ》國家《こつか》の威勢《いせい》を大《おほ》いにますべく、いろいろの改革《かいかく》をやりました。
 從來《じゆうらい》の主權者《しゆけんじや》は、王《おう》と號《ごう》してゐまして、本來《ほんらい》天下《てんか》に一人《ひとり》しかないはずだつたのです。ところが春秋《しゆんじゆう》から戰國《せんごく》にかけて周室《しゆうしつ》の勢《いきほ》ひが弱《よわ》くなると同時《どうじ》に、諸侯《しよこう》の強大《きようだい》なものは、みなぞく/\王《おう》を稱《しよう》しました。そこでやはり需要《じゆよう》供給《きようきゆう》の關係《かんけい》と同《おな》じで、王《おう》といふものゝ直《ね》うちがさがつてしまひました。秦《しん》がこゝに強大《きようだい》な統一《とういつ》國家《こつか》をつくり上《あ》げるのに、從來《じゆうらい》の王《おう》といふ稱號《しようごう》では、あまり安《やす》っぽすぎるといふので、秦《しん》の主權者《しゆけんじや》はこゝに新《あたら》しい稱號《しようごう》を案出《あんしゆつ》しようとしました。その結果《けつか》、皇帝《こうてい》といふ名稱《めいしよう》をつくつて、それを主權者《しゆけんじや》の稱《しよう》としました。前《まへ》に支那《しな》の上代《じようだい》に、三皇《さんこう》五帝《ごてい》といふ王樣《おうさま》があつたといふ傳説《でんせつ》のあることを申《まを》しました。この三皇《さんこう》五帝《ごてい》をまぜたよりもなほ偉《えら》いといふので、三皇《さんこう》の皇《こう》と五帝《ごてい》の帝《てい》とを合《あは》せて、皇帝《こうてい》といふことばをつくつたのです。
 なほ支那《しな》には諡法《しほう》といふことがあつて、天子《てんし》が死《し》にますと、その後《あと》に殘《のこ》つた子《こ》や臣下《しんか》が、その天子《てんし》の生前《せいぜん》の行徳《こうとく》に因《ちな》んで諡《おくりな》をいたす習慣《しゆうかん》があります。すなはち雄々《をゝ》しい天子《てんし》であつた場合《ばあひ》には武王《ぶおう》と諡《おくりな》し、文治《ぶんじ》につとめた天子《てんし》は文王《ぶんのう》と諡《おくりな》する。かうした諡《おくりな》は、實《じつ》のところ父《ちゝ》が死《し》んだのち子《こ》が父《ちゝ》のことをとやかく議《ぎ》し、君《きみ》が死《し》んだのち臣《しん》が君《きみ》のことをとやかく論《ろ》[#ルビの「ろ」は底本のまま]じて定《さだ》めるのであるからもっての外《ほか》のことである。かうした諡號《しごう》は一切《いつさい》やめ、單純《たんじゆん》に自分《じぶん》を最初《さいしよ》の皇帝《こうてい》、すなほち[#「すなほち」は底本のまま]始皇帝《しこうてい》と稱《しよう》し、次《つ》ぎが二世《にせい》皇帝《こうてい》次《つ》ぎが三世《さんせい》皇帝《こうてい》とかうやつて、萬世《ばんせい》皇帝《こうてい》まで傳《つた》へるようにと定《さだ》めました。
 それから行政《ぎようせい》の上《うへ》にも大變革《だいへんかく》を行《おこな》ひました。從來《じゆうらい》周《しゆう》の制度《せいど》は封建《ほうけん》制度《せいど》で、地方《ちほう》/\には諸侯《しよこう》が封《ふう》ぜられてゐました。これが周末《しゆうまつ》の亂《みだ》れをひき起《おこ》したといふので、始皇帝《しこうてい》はこれを廢《はい》し、その代《かは》りに郡縣《ぐんけん》制度《せいど》をしきました。全國《ぜんこく》を三十六郡《さんじゆうろくぐん》に分《わか》ち、郡《ぐん》の下《した》には縣《けん》があり、この郡縣《ぐんけん》の政治《せいじ》は全部《ぜんぶ》中央《ちゆうおう》政府《せいふ》の遣《つか》はした官吏《かんり》によつて行《おこな》はれる。かうして中央《ちゆうおう》集權《しゆうけん》の實《じつ》をあげました。郡縣《ぐんけん》制度《せいど》か封建《ほうけん》制度《せいど》か、支那《しな》に國《くに》を建《た》てた諸王朝《しよおうちよう》は、このいづれかの型《かた》に從《したが》つて地方《ちほう》制度《せいど》を建《た》てました。だから秦《しん》はこゝにおいても一《ひと》つの新《あたら》しい型《かた》を提出《ていしゆつ》したといふことが出來《でき》ます。
 尚《なほ》、從來《じゆうらい》六國《ろつこく》の國々《くに/″\》においてまち/\であつた法度《はつと》を一《ひと》つにし、また文學《ぶんがく》[#「文學《ぶんがく》」は底本のまま]を改定《かいてい》統一《とういつ》し、度量衡《どりようこう》をも統一《とういつ》して統一《とういつ》政治《せいじ》の實《じつ》を擧《あ》げるのにつとめました。始皇帝《しこうてい》は永久《えいきゆう》に秦《しん》が主權《しゆけん》を保《たも》つようにつとめ、そのために人民《じんみん》の叛亂《はんらん》を防《ふせ》がうといたしました。人民《じんみん》が武器《ぶき》をもつてゐるから叛亂《はんらん》などが起《おこ》るのだといふので、民間《みんかん》にあつた武器《ぶき》を全部《ぜんぶ》お上《かみ》に沒收《ぼつしゆう》して、これを鑄《ゐ》つぶして祭《まつ》りの道具《どうぐ》だの大《おほ》きな銅像《どうぞう》などを作《つく》つてしまひました。この時代《じだい》は鐵《てつ》といふものもあつたでせうが、だいたい道具《どうぐ》に使《つか》はれた金屬《きんぞく》は銅《どう》でしたので、これらの武器《ぶき》も皆《みな》銅《どう》だつたのです。また叛亂《はんらん》の起《お》きるのは、地方《ちほう》の金持《かねも》ちがこれを援助《えんじよ》するからだ。金持《かねも》ちさへ地方《ちほう》に置《お》かなければ叛亂《はんらん》は起《おこ》さないといふので、天下《てんか》の富豪《ふごう》十二萬戸《じゆうにまんこ》を都《みやこ》の咸陽《かんよう》に移《うつ》しました。
 この新《あたら》しいやり口《くち》は、一般《いつぱん》の人民《じんみん》にも喜《よろこ》ばれず、學者《がくしや》もこれを非難《ひなん》したので、始皇《しこう》は學者《がくしや》が人民《じんみん》を煽動《せんどう》するのだと考《かんが》へ、宰相《さいしよう》の李斯《りし》の意見《いけん》に從《したが》つて民間《みんかん》にある書物《しよもつ》で、少《すこ》しでも政治《せいじ》にかゝはりのあるものは悉《こと/″\》くこれを燒《や》いて知識《ちしき》の源《みなもと》を絶《た》ち、お上《かみ》のいふなりに國民《こくみん》を從《したが》はせようとしました。この書物《しよもつ》の燒《や》き打《う》ちのことを焚書《ふんしよ》と申《まを》します。また政治《せいじ》を非難《ひなん》した儒者《じゆしや》四百《しひやく》六十《ろくじゆう》餘人《よにん》を坑埋《あなう》めにしてしまひました。これを坑儒《こうじゆ》と申《まを》します。始皇帝《しこうてい》は内《うち》に對《たい》してかうした彈壓《だんあつ》政策《せいさく》をとつて、秦《しん》王朝《おうちよう》を萬世《ばんせい》までもつゞけうると考《かんが》へてゐたのでありました。
 始皇帝《しこうてい》は、また大規模《だいきぼ》な外國《がいこく》征伐《せいばつ》をやりました。支那人《しなじん》はだいたいにおいて定着《ていちやく》の生活《せいかつ》をして、農業《のうぎよう》をいとなんでゐるのに對《たい》して、その北《きた》や西《にし》にはたいてい水草《すいそう》を追《お》うて移動《いどう》する遊牧《ゆうぼく》の人間《にんげん》が住《す》んでゐます。さうした人間《にんげん》にとつては、支那《しな》といふ國《くに》が無上《むじよう》の樂園《らくえん》のように映《えい》じるので、隙《す》きさへあれば支那《しな》に入《い》りこまうとしてゐます。この北《きた》や西《にし》の野蠻人《やばんじん》と支那人《しなじん》との爭《あらそ》ひといふことは、これからずっとつゞくのです。
 さてこの始皇帝《しこうてい》の時代《じだい》に、支那《しな》の北《きた》の方《ほう》に住《す》んでゐた人種《じんしゆ》は匈奴《きようど》といふのでした。匈奴《きようど》はどういふ人種《じんしゆ》だかはっきりしません。ある學者《がくしや》はこれをトルコ人《じん》だと考《かんが》へ、また他《た》の學者《がくしや》はこれを蒙古人《もうこじん》だと考《かんが》へてゐます。とにかくヨーロッパへ後《のち》になつて侵入《しんにゆう》したフンヌと、名前《なまへ》の上《うへ》のつながりを持《も》つた人種《じんしゆ》です。
 この匈奴《きようど》は定着《ていちやく》生活《せいかつ》をしないで遊牧《ゆうぼく》をやつてゐますので、馬《うま》に乘《の》るのが實《じつ》に巧《たく》みですから、すぐそのまゝ優《すぐ》れた騎兵《きへい》です。この匈奴《きようど》が北《きた》の方《ほう》にかなりの大勢力《だいせいりよく》を持《も》つてゐたので、始皇帝《しこうてい》は蒙恬《もうてん》といふ將軍《しようぐん》をして大軍《たいぐん》を遣《つか》はしこれを撃《う》たしめ、これをゴビ沙漠《さばく》の北《きた》におひはらひました。しかし、匈奴《きようど》は秦《しん》の統一前《とういつぜん》戰國《せんごく》の時代《じだい》からしば/\支那《しな》へ侵入《しんにゆう》して來《き》てゐるので、北邊《ほくへん》の諸國《しよこく》、秦《しん》趙《ちよう》燕《えん》はおの/\塞《とりで》を築《きづ》いてこれを防《ふせ》いだのです。今《いま》新《あらた》に秦《しん》が支那《しな》を代表《だいひよう》して匈奴《きようど》に對抗《たいこう》するようになると、これらの古《ふる》い塞《とりで》を修築《しゆうちく》し連絡《れんらく》して、こゝにいはゆる萬里《ばんり》の長城《ちようじよう》を完成《かんせい》しました。東《ひがし》は遼河《りようが》の東《ひがし》、遼東《りようとう》から起《おこ》し、西《にし》は甘肅省《かんしゆくしよう》の臨※[#「さんずい+兆」、第3水準1-86-67]《りんとう》に至《いた》る八百里《はつぴやくり》の間《あひだ》、山《やま》を越《こ》え谷《たに》を横《よこ》ぎる大土木《だいどぼく》事業《じぎよう》です。しかし、今《いま》遺《のこ》つてゐる萬里《ばんり》の長城《ちようじよう》なるものは、ずっと後《のち》明代《みんだい》の修築《しゆうちく》にかゝるものです。かうやつて始皇《しこう》は、北邊《ほくへん》の固《かた》めをなすと同時《どうじ》に、南《みなみ》の方《ほう》安南《あんなん》地方《ちほう》を討《う》つて地《ち》を廣《ひろ》め、その地《ち》に南海《なんかい》、桂林《けいりん》、象《しよう》の三郡《さんぐん》を置《お》きました。
 秦《しん》の武威《ぶい》は揚《あが》りましたが、國民《こくみん》はそのために苦《くる》しみ、叛《はん》を企《くはだ》てるものがありました。始皇《しこう》死《し》して二世《にせい》皇帝《こうてい》立《た》つや、暗愚《あんぐ》で政治《せいじ》はまったく紊《みだ》れ、方々《ほう/″\》に群雄《ぐんゆう》がきそひ立《た》ちました。その中《うち》でも一番《いちばん》大《おほ》きい勢力《せいりよく》のあつたのは、項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》の二人《ふたり》でして、しきりに秦軍《しんぐん》を破《やぶ》りました。しかし、遂《つひ》に劉邦《りゆうほう》は函谷關《かんこくかん》を破《やぶ》つて都《みやこ》の咸陽《かんよう》に迫《せま》り、始皇帝《しこうてい》が萬世《ばんせい》までつゞけようと思《おも》つた秦《しん》の王朝《おうちよう》も、わづか三世《さんせい》十五年《じゆうごねん》で亡《ほろ》んでしまひました。
 秦《しん》の事業《じぎよう》はかうしてはかなく破《やぶ》れましたが、それは後《のち》の世《よ》に一《ひと》つのすばらしい記念物《きねんぶつ》を殘《のこ》しました。それは支那《しな》といふ國號《こくごう》であります。
 支那《しな》とは本來《ほんらい》支那人《しなじん》自《みづか》らがよんだ國號《こくごう》ではないのです。秦《しん》の武威《ぶい》が四隣《しりん》にふるひましたので、秦《しん》といふ名《な》が西《にし》の方《ほう》に傳《つた》はりまして、インドにはひつてしな[#「しな」に傍点]となつたのです。後《のち》に支那《しな》の方《ほう》からインドへ行《い》つた人々《ひと/″\》が、インドでは自分《じぶん》の國《くに》のことをしな[#「しな」に傍点]と呼《よ》ぶことを知《し》り、支那《しな》といふ言葉《ことば》でそれをうつしたのです。ですから、秦《しん》といふ國《くに》ははかなく亡《ほろ》んでも、その譽《ほまれ》は支那《しな》といふ國名《こくめい》のうちに永久《えいきゆう》にひゞいてゐるのです。(つづく)



底本:『東洋歴史物語 No.7』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • シナ 支那 (「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
  • 首陽山 しゅようざん 古代中国の周初、伯夷・叔斉の兄弟が隠れ住んで餓死したと伝える山。その所在地については諸説がある。
  • 鎬京 こうけい 周の武王から幽王の子である携王までの都。今の中国陝西省西安市。
  • 洛邑 らくゆう 「洛陽(1) 」参照。
  • 洛陽・�陽 らくよう (1) (Luoyang)(洛河の北に位置するからいう)中国河南省の都市。北に山を負い、南に洛河を控えた形勝の地。周代の洛邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐の都となり、今日も白馬寺・竜門石窟など旧跡が多い。機械工業が盛ん。人口149万2千(2000)。(2) (ア) 平安京の一部、左京すなわち東の京の雅称。←→長安。(イ) 京都の異称。
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  • 春秋時代
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  • 斉 せい 中国の国名。(1) 春秋時代の一国。周の武王が呂尚(太公望)を封じた国。今の山東省の地。田氏のもとで名目的な存在となった。都は営丘(�博(しはく)市臨�)。姜斉。(前1122〜前379)
  • 晋 しん (1) 中国古代、春秋時代の十二諸侯の一つ。姫姓。周の成王の弟叔虞の後裔という。都は絳(現、山西省侯馬市)。文公に至って楚を破り周を助けて国力大いに振るい、領土は河北の南部、河南の北部に及んだ。前403年、韓・魏・趙(三晋)の独立により名目的な存在となった。
  • 楚 そ (1) 中国古代、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一つ。長江中下流域を領有。戦国時代には、帝��の子孫を自称。春秋の初め王号を称する。郢に都し、強大を誇ったが、秦のために滅ぼされた。中原諸国とは風俗言語も異なり、蛮夷の国と見なされた。( 〜前223)
  • 呉 ご (1) 中国古代、春秋時代の列国の一つ。周の文王の伯父太伯の建国と称する。長江河口地方を領有。楚を破り勢を張ったが、夫差の時、越王勾践に滅ぼされた。( 〜前473)
  • 越 えつ (1) 春秋戦国時代、列国の一つ。はじめ中国東南の少数民族から出たと考えられる。隣国呉と抗争、前473年、勾践は呉王夫差を破り、会稽に都し、浙江・江蘇・山東に覇を唱えたが、楚の威王に滅ぼされた。( 〜前257頃)
  • 山東省 さんとうしょう (Shandong)(太行山脈の東方の意)中国華北地区北東部の省。黄海と渤海湾との間に突出する山東半島と西方の泰山山脈とを含む地域。省都、済南。面積約16万平方キロメートル。別称、魯・山左。中国有数の農業地域で、石油など地下資源も豊富。
  • 魯 ろ 中国古代、西周・春秋時代の列国の一つ。周公旦の長子伯禽が封ぜられる。のち分家の三桓氏が実権を握り、頃公のとき楚に滅ぼされた。孔子の生国。( 〜前257)
  • 曲阜 きょくふ (Qufu)中国山東省南西部、京滬線の沿線、泗水の南岸にある都市。周代の魯の都。また、孔子誕生の地。魯の故城や世界遺産の孔子廟・孔子邸宅・孔林(孔子とその子孫の墓所)がある。人口62万5千(2000)。
  • 会稽 かいけい → 会稽山
  • 会稽山 かいけいざん 中国浙江省紹興市の南東にある山。呉王夫差が越王勾践を降した地。夏の禹が諸侯と会した所と伝える。
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  • 戦国時代
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  • 秦 しん 中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。( 〜前206)
  • 楚 そ 中国古代、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一つ。長江中下流域を領有。戦国時代には、帝��の子孫を自称。春秋の初め王号を称する。郢に都し、強大を誇ったが、秦のために滅ぼされた。中原諸国とは風俗言語も異なり、蛮夷の国と見なされた。( 〜前223)
  • 燕 えん 中国古代、戦国七雄の一つ。始祖は周の武王の弟、召公�。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊(北京)に都し、43世で秦の始皇帝に滅ぼされた。( 〜前222)
  • 斉 せい 春秋時代の一国。周の武王が呂尚(太公望)を封じた国。今の山東省の地。田氏のもとで名目的な存在となった。都は営丘(�博(しはく)市臨�)。姜斉。(前1122〜前379)
  • 韓 かん 中国、戦国時代の国名。戦国七雄の一つ。韓氏はもと晋の六卿の一人。魏・趙とともに晋を分割し、平陽・宜陽・鄭に都して国勢盛んな時期もあったが、秦に滅ぼされた。(前403〜前230)
  • 魏 ぎ 中国古代、戦国七雄の一つ。晋の六卿の一人、魏斯(文侯)が、韓・趙とともに晋を分割し、安邑に都した。のち大梁(河南開封)に遷る。山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めた。後に秦に滅ぼされた。(前403〜前225)
  • 趙 ちょう 中国の戦国時代の一国。戦国七雄の一つ。趙氏は、もと晋の六卿の一人であったが、韓・魏とともに晋より独立、諸侯となった。邯鄲に都し、武霊王の時、王号を僭称、一時強盛を誇ったが、秦に滅ぼされた。(前403〜前222)
  • 咸陽 かんよう (Xianyang)中国陝西省中部、渭河北岸にある工業都市。秦の孝公が都を定め、始皇帝が拡張して大都城をつくって以来の古都。人口95万4千(2000)。
  • ゴビ砂漠 → ゴビ
  • ゴビ Gobi・戈壁 (モンゴル語で、砂礫を含むステップの意)モンゴル地方から天山南路に至る一帯の砂礫のひろがる大草原。狭義(通常)には、モンゴル高原南東部の砂漠。標高約1000メートル。ゴビ砂漠。
  • 万里の長城 ばんりの ちょうじょう 中国の北辺、東は河北省山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る大城壁。長さ約2400キロメートル、高さ約6〜9メートル、上部の幅4.5メートル。春秋戦国時代に斉・燕・趙・魏などの諸国が辺境を守るために築き、秦の始皇帝が大増築して、この名を称した。現在の長城は明代に築造、位置は遥かに南に下っている。
  • 遼河 りょうが (Liao He)中国東北地区南部の大河。吉林省南西部に発する東遼河と内モンゴルの大興安嶺の東側に発する西遼河とが、遼寧省昌図県付近で合流して遼河となり、南西流して盤山県で双台子河となり遼東湾に注ぐ。全長1430キロメートル。
  • 遼東 りょうとう (Liaodong)(遼河の東の意)中国遼寧省南東部一帯の地。
  • 甘粛省 かんしゅくしょう (Gansu)中国北西部の省。省都は蘭州。面積約45万平方キロメートル。明代まで陝西省に属したが、清初に分離。古来、天山南北路に連なる東西交通路に当たり、西域文化が栄えた。略称、甘。別称、隴。
  • 臨� りんとう 現、甘粛省武都地区岷県にあたる。(東洋史)
  • 函谷関 かんこくかん 中国河南省北西部にある交通の要地。新旧二関があり、秦代には霊宝県、漢初、新安県の北東に移された。河南省洛陽から潼関に至る隘路にある。古来、多くの攻防戦が行われた。
  • 安南 あんなん/アンナン Annam。中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。
  • 南海郡 なんかいぐん 広東省の沿海地方のことか。
  • 桂林 けいりん (Guilin)中国広西チワン族自治区北東部の都市。西江の支流桂江の西岸に沿い、湖南省との交通の要地。リ江沿いに石灰岩の奇峰が並び、山水の美で名高い。人口80万5千(2000)。
  • 象郡 しょうぐん/ぞうぐん 秦、漢の郡名。前214(始皇33)の南征で、嶺南の地がはじめて漢族の政権の版図に加えられる。普通、中国の広西西南部からヴェトナムの東北部にかけての地方とされる。(東洋史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 夏 か (呉音はゲ) 殷の前にあったとされる中国最古の王朝。伝説では、禹が舜の禅を受けて建国。都は安邑(山西省)など。紀元前21〜16世紀頃まで続く。桀に至り、殷の湯王に滅ぼされたという。殷に先行する時代の都市遺跡が夏王朝のものと主張される。
  • 殷 いん 中国の古代王朝の一つ。「商」と自称。前16世紀から前1023年まで続く。史記の殷本紀によれば、湯王が夏を滅ぼして始めた。30代、紂王に至って周の武王に滅ぼされた。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。
  • 周 しゅう 中国の古代王朝の一つ。姓は姫。殷に服属していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた。幽王の子の携王までは鎬京に都したが、前770年平王が成周(今の洛陽付近)に即位し、いったん周は東西に分裂。西の周はまもなく滅亡。以上を東遷といい、東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代にあたる)という。(前1023〜前255)
  • 紀元前780年、関中で大地震が発生。(Wikipedia「幽王」)
  • 春秋時代 しゅんじゅう じだい (「春秋」に記載された時代の意)中国で、前770年周の東遷から前403年晋の大夫韓・魏・趙の三氏の独立に至る約360年間。周室は次第に衰えてその権威を失い、諸侯は互いに併呑を事として戦争が絶えず、弱肉強食の状を呈した。「春秋」の記事は前722〜前481年に限られるが、その前後を含めていう。
  • 戦国時代 せんごく じだい 中国で、魏・趙・韓の三国が晋を分割して諸侯に封ぜられてから秦の始皇帝の統一に至る時代。(前403〜前221)
  • 先秦 せんしん 中国史で、前221年の秦による統一国家成立以前の時期。先秦時代。
  • 明代 みんだい 明王朝。1368〜1644年の間、17代、277年続いたが、満州族の清に滅ぼされた。
  • 明 みん 中国の王朝の一つ。朱元璋(太祖)が他の群雄を倒し、元を北に追い払って建国。成祖の時、国都を南京から北京に遷し、南海諸国を経略、その勢威はアフリカ東岸にまで及んだ。中期以後、宦官の権力増大、北虜南倭に悩まされ、農民反乱が続発し、李自成に北京を占領され、17世で滅亡。(1368〜1644)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 武王 ぶおう 周王朝の祖。姓は姫。名は発。文王の長子。弟周公旦を補佐とし、太公望を師とし、殷の紂王を討ち天下を統一、鎬京を都とした。在位10年余。
  • 文王 ぶんのう (ブンノウとも)周王朝の基礎をつくった王。姓は姫。名は昌。武王の父。殷に仕えて西伯と称。勢い盛んとなり紂王に捕らえられたが、許されて都を豊邑に遷した。その人物・政治は儒家の模範とされる。生没年未詳。
  • 呂尚 ろしょう/りょ しょう 太公望の称。 → 太公望
  • 太公望 たいこうぼう (1) 周代の斉国の始祖。姓は姜。呂尚・師尚父とも称される。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を滅ぼしたという。兵書「六韜」は彼に仮託した後世の書。(2) ((1) の故事から)釣師の異称。
  • 伯夷 はくい → 伯夷・叔斉
  • 叔斉 しゅくせい → 伯夷・叔斉
  • 伯夷・叔斉 はくい・しゅくせい ともに殷の処士で、伯夷が兄、叔斉が弟。周の武王が殷の紂王を討つに当たり、臣が君を弑する不可を説いていさめたが聞き入れられなかった。周が天下を統一すると、その禄を食むことを拒んで首陽山に隠れ、ともに餓死したと伝える。清廉潔白な人のたとえとする。
  • 紂王 ちゅうおう → 紂
  • 紂 ちゅう ?-前1023 殷王朝の最後の王。妲己を愛し、酒池肉林に溺れ、虐政のため民心が離反したといい、周の武王に滅ぼされた。夏の桀王とともに暴君の代表とされる。帝辛。殷紂。紂王。
  • 成王 せいおう 周の第2代の王。武王の子。名は誦。幼時、叔父周公旦が摂政、7年後親政。洛陽に東都成周を営む。
  • 周公旦 しゅうこう たん 周公。周の文王の子、武王の弟。姓名は姫旦。武王を助けて殷の紂王を討ち、武王の死んだのち、武王の子成王を助けて周王朝の基礎を固めた。儒教で聖人のひとりとされている。
  • 孔子 こうし 前551-前479 (呉音はクジ)中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑(山東省曲阜)に出生。文王・武王・周公らを尊崇し、礼を理想の秩序、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡され、また至聖先師と呼ばれる。
  • 宣王 せんのう/せんおう ?-BC782 周王朝第11代の王。在位BC827-BC782。名は静。周朝の中興の祖とたたえられた。/父の�王亡命後、14年間の共和時代をおいて即位、政治につとめてふたたび諸侯をひきい、名相尹吉甫をして北の(のちの匈奴)を、さらに方叔と召伯虎に南の荊蛮・淮夷を征伐させ、周王朝の勢威を回復した。『新編東洋史辞典』東京創元社、1983.2)
  • 幽王 ゆう おう ?-前771 周の王。宣王の子。暗愚な王で、申侯の娘を妃としたが、褒�の愛に溺れ、犬戎の軍に攻められ、驪山の麓で殺された。(在位前782〜前771)
  • 褒� ほうじ 周の幽王の寵妃。褒国(陝西勉県にあった�姓の国)から献上され、申后に代わって后となる。容易に笑わず、王が何事もないのに烽火を挙げて諸侯を集めたのを見て初めて笑った。のち申后の父申侯が周を攻めた時、烽火を挙げたが諸侯が集まらず、王は殺され、褒�は捕虜にされたという。
  • 平王 へいおう 西周の最後の王。幽王の子。犬戎に敗れ、鎬京を去り東遷、洛邑に都した。(在位前771〜前720)
  • 斉の桓公 せいの かんこう → 桓公
  • 桓公 かんこう ?-前643 春秋時代、斉の15代の君主。春秋五覇の一人。姓は姜、名は小白。釐公の子、襄公の弟。鮑叔牙・管仲を用いて富国強兵策を行う。(在位前685〜前643)
  • 晋の文公 しんの ぶんこう → 文公
  • 文公 ぶんこう 前697-前628 春秋時代、晋の王。名は重耳。公子のとき内乱が起こり、諸国を流寓したが、秦の穆公の援助のもとに帰国、即位した。五覇の一人。(在位前636〜前628)
  • 楚の荘王 その そうおう → 荘王
  • 荘王 そうおう 在位前613-前591 春秋時代の楚の王。五覇の一人。穆王の子。名は侶。政治に励み、諸国を破って中原に進出、覇権を握った。周王に鼎の軽重を問うたことは名高い。
  • 呉王夫差 ごおう ふさ → 夫差
  • 夫差 ふさ ?-前473 春秋時代の呉の王。越王勾践を会稽に破り父闔閭の仇を討ったが、のち勾践に敗れて自殺し、呉は滅びた。
  • 越王勾践 えつおう こうせん → 勾践
  • 勾践・句践 こうせん ?-前465 春秋時代の越の王。父王の頃から呉と争い、父の没後、呉王闔閭を敗死させたが、前494年闔閭の子夫差に囚われ、ようやく赦されて帰り、のち范蠡と謀って前477年遂に呉を討滅。
  • 管仲 かん ちゅう ?-前645 春秋時代、斉の賢相。法家の祖。名は夷吾。字は仲・敬仲。河南潁上の人。親友鮑叔牙のすすめによって桓公に仕え、覇を成さしめた。「管子」はその名に託した後世の書。
  • 鮑叔 ほうしゅく → 鮑叔牙
  • 鮑叔牙 ほう しゅくが 春秋時代の斉の賢臣。襄公の弟小白の大夫としてこれを補佐し、後に小白が斉公(桓公)となったとき、その知己管仲を宰相に推した。「管鮑の交わり」を以て名高い。
  • 闔閭・闔廬 こうりょ ?-前496 春秋時代の呉の王。名は光。越王勾践と戦って負傷、子の夫差に復讐を誓わせて死ぬ。
  • 范蠡 はんれい 春秋時代の越王勾践の功臣。楚の人。会稽の戦に敗れた勾践を助けて呉王夫差に復讐させた。のち野に下り、富を得、陶朱公と称された。
  • 孝公 こうこう 前381-前338 戦国時代秦の王。在位前362-前338。20歳で父献公のあとをついで王となり、国勢の伸長につとめ、魏から来た商鞅を相として国政を改革し、前352年には魏の都安邑を降し、前350年都を雍から咸陽に移した。のち第二次の改革をおこない、郡県制をしき、土地制度を改め、秦の国力はさかんとなり、前343年には覇者となり、翌年には諸侯を会して天子に朝した。始皇帝が天下を統一する基礎を築いた。(東洋史)
  • 商鞅 しょう おう ?-前338 中国、戦国時代の政治家。衛の公族。公孫氏。刑名の学を好み、秦の孝公に仕え、法令を変革、富国強兵を推進、商邑に封。恵文王が立つに及んで讒せられ、車裂きの刑に処された。公孫鞅。衛鞅。
  • 蘇秦 そ しん ?-前317 中国、戦国時代の縦横家。洛陽の人。斉の鬼谷子に学び、諸国に遊説、秦に対抗する国家連合を作ったが、斉で殺された。死後、張儀がその国家連合を破った。
  • 張儀 ちょう ぎ ?-前310 中国の戦国時代の縦横家。魏の人。鬼谷子に師事し、秦の恵王の相となり、秦のために韓・斉・趙・燕に遊説。恵王の死後、憎まれ、魏に逃れ相となったが、1年で死去。
  • 鬼谷 きこく → 鬼谷子
  • 鬼谷子 きこくし (1) 中国、戦国時代の縦横家。姓氏・事跡不詳。鬼谷(山西省沢州府内)に隠棲したことから鬼谷先生と呼ばれた。蘇秦・張儀が彼に師事したという。(2) 権謀術数の法などを述べた書。3巻。(1) の著とする後世の偽作。
  • 范雎 はんすい/はんしょ (「范�(はんすい)」は誤)中国、戦国時代の秦の宰相。魏の人。はじめ魏の須賈に従って斉に使し異心ありと疑われ、逃れて秦に入り、昭襄王に遠交近攻の策を説いて丞相となった。
  • 赧王 たんのう/たんおう ?-前256 周王朝最後の王。在位前314〜前256。顕王の孫。名は延。
  • 政 せい → 始皇帝
  • 李斯 り し ?-前210 秦の宰相。楚の上蔡の人。荀子に学び、始皇帝に仕え、宰相となり、焚書を行なった。最後は讒せられて刑死。
  • 子思 しし 前483?-前402? 中国、春秋時代の学者。孔子の孫。伯魚の子。名は�。子思は字。曾子の門人。「子思子」23編を著したとされ、「中庸」はその中の1編という。
  • 孟子 もうし 前372-前289 中国、戦国時代の思想家。山東鄒の人。名は軻、字は子車・子輿。学を孔子の孫の子思の門人に受け、王道主義を以て諸国に遊説したが用いられず、退いて弟子万章らと詩書を序し、孔子の意を祖述して「孟子」7編を作る。その倫理説は性善説に根拠を置き、仁義礼智の徳を発揮するにありとした。
  • 荀子 じゅんし 前298?-前238以後 中国、戦国時代の思想家。名は況。荀卿また孫卿と尊称。趙の人。50歳にして初めて斉に遊学し、襄王に仕え祭酒となる。讒に遭って楚に移り春申君により蘭陵の令となったが、春申君の没後、任地に隠棲。
  • 老子 ろうし ?-? 中国、春秋戦国時代にいたとされる思想家。道家の祖。史記によれば、姓は李、名は耳、字はまたは伯陽。楚の苦県�郷曲仁里(河南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。乱世を逃れて関(函谷関または散関)に至った時、関守の尹喜が道を求めたので、『老子』を説いたという。
  • 列子 れっし ?-? 春秋戦国時代の道家。名は禦寇。鄭の人。老子よりややおくれ、荘子より前、孔孟の中間の頃の人ともいうが、伝未詳。唐の玄宗は冲虚真人と諡した。
  • 荘子 そうし (曾子との混同を避けてソウジとも) 荘周の敬称。
  • 荘周 そうしゅう ?-? 戦国時代の思想家。字は子休。宋国の蒙(河南)の人。孟子と同時代という。漆園の吏となり、恵施と交わる。老子とともに道家の代表者で、老荘と並称。「荘子」はその著とされる。南華真人・南華老仙と称。荘子と敬称。
  • 楊子 ようし 楊朱の尊称。 → 楊朱
  • 楊朱 よう しゅ 前395頃-前335頃 中国、戦国初期の思想家。字は子居。老子の無為・独善の説を取り入れて墨子の兼愛とは正反対の「為我」、すなわち個人主義を主張。「列子」に楊朱篇がある。楊子。
  • 墨子 ぼくし 前480頃-前390頃 春秋戦国時代の思想家。墨家の祖。魯の人。姓は墨(顔が黒かったためとも、入墨の意で一種の蔑称ともいう)、名はレ。宋に仕官して大夫となる。
  • 韓非 かん ぴ ?-前233頃 中国、戦国時代の韓の公子。法家の大成者。かつて荀子に師事。申不害・商鞅らの刑名の学を喜んだ。しばしば書を以て韓王を諫めたが用いられず、発憤して「韓非子」を著した。のち秦に使して李斯らに謀られ獄中で毒をおくられ自殺。
  • 孫武 そんぶ 春秋時代の呉の兵法家。斉の人。呉王闔閭に仕え、楚を破り、斉・晋を威圧、闔閭の覇業を助けた。兵法書「孫子」は彼に仮託した戦国時代の書。呉子と併称。孫子は敬称。
  • 呉起 ごき → 呉子
  • 呉子 ごし 前440頃-前385 中国、戦国時代の兵法家。名は起。衛の人。魯・魏・楚に仕え、楚の悼王の大臣となり国を強盛ならしめたが、王の没後殺された。
  • 公孫龍 こうそんりゅう → 公孫竜
  • 公孫竜 こうそん りゅう 前320頃-前250頃 中国、戦国時代の思想家。名家(論理学者)の一人。字は子秉。趙の平原君の客。堅白同異、白馬論の詭弁で有名。著「公孫竜子」14編(現存6編)。
  • 恵施 けい し 前370頃-前310頃 中国、戦国時代の思想家。名家(論理学者)の一人。宋に生まれ、魏の恵王・襄王に仕えた。弁説をもって知られ、荘子と交わる。著「恵子」
  • 始皇帝 し こうてい 前259-前210 秦の第1世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山の陵を築造。(在位前247〜前221・前221〜前210)
  • 蒙恬 もう てん ?-前210 中国、秦の将軍。始皇帝のとき匈奴を討ち、万里の長城を築いたが、丞相李斯らに投獄され、2世皇帝のとき自殺。
  • 項羽 こう う 前232-前202 秦末の武将。名は籍。羽は字。下相(江蘇宿遷)の人。叔父項梁と挙兵、劉邦(漢の高祖)とともに秦を滅ぼして楚王となった。のち劉邦と覇権を争い、垓下に囲まれ、烏江で自刎。
  • 劉邦 りゅう ほう 前247-前195 前漢の初代皇帝。高祖。字は季。江蘇沛の人。農民から出て、泗水の亭長となる。秦末に兵を挙げ、項梁・項羽らと合流して楚の懐王を擁立し、巴蜀・漢中を与えられて漢王となる。後に項羽と争い、前202年これを垓下に破って天下を統一。長安に都して漢朝を創立。(在位前202〜前195)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『イソップ物語』 イソップ寓話。イソップが物語ったと伝えられる寓話集。前3世紀ごろ散文で編集、以後次々に増補された。1593年(文禄2)九州天草から刊行した邦訳がある。イソップ物語。
  • 『春秋』 しゅんじゅう (年月・四季の順を追って記したからいう)五経の一つ。孔子が魯国の記録を筆削したと伝えられてきた年代記。魯の隠公元年(前722)から哀公14年(前481)に至る12代242年間の記事を編年体に記し、毀誉褒貶の意を含むとされる。前480年頃成立。注釈に左氏・穀梁・公羊の三伝があり、左氏伝が最も有名。
  • 『論語』 ろんご 四書の一つ。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編。学而篇より尭曰篇に至る。弟子たちの記録したものに始まり、漢代に集大成。孔子の説いた理想的秩序「礼」の姿、理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの具体的意見を述べる。日本には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
  • 『中庸』 ちゅうよう 四書の一つ。1巻。天人合一を説き、中庸の徳と誠の道とを強調した儒教の総合的解説書。孔子の孫、子思の作とされる。もと「礼記」の1編であったが、宋儒に尊崇され、別本となり、朱熹が章句を作って盛行するに至った。
  • 『孟子』 もうし (古くはモウジとも)四書の一つ。孟子が孔子の道を祖述して仁義を説き、あるいは遊歴の際、諸侯および弟子と問答したことを記した書。梁恵王・公孫丑・滕文公・離婁・万章・告子・尽心の7編から成る。後漢の趙岐が各編を上下に分けて14巻とし、これに注した。また、朱熹の集注がある。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 徳望 とくぼう 徳が高く、人望のあること。
  • 諸侯 しょこう (1) 昔、中国で、天子から受けた封土内の人民を支配した人。
  • 太公 たいこう (1) 父または祖父の称。曾祖父にもいう。(2) 高齢の人の尊称。
  • 弑する しいする (シスルの慣用読み)主君・父を殺す。目上の者を殺す。
  • 封建 ほうけん (1) [左伝僖公24年「周の懿徳有りしも、猶兄弟に如く莫しと曰う、故に之を封建す」](封土を分けて諸侯を建てる意)天子が公領以外の土地を諸侯に分け与え、領有統治させること。(2) 封建制度の略。
  • 封建制度 ほうけん せいど (1) 天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織。中国周代に行われた。←→郡県制度。(2) (feudalism)封建社会の政治制度。領主が家臣に封土を給与し、代りに軍役の義務を課する主従関係を中核とする。ヨーロッパでは、カロリング朝初期に国家制度となり、11〜13世紀が最盛期。国王・貴族・家臣・教会などの領主と、その支配下に入った農奴とを基本的階級とする。日本では、荘園制に胚胎し、鎌倉幕府の創立と共に発展、江戸時代には内容を変えたが外形は完備した。
  • 功臣 こうしん 国家や主君に功労のあった臣下。
  • 封ずる ほうずる (2) 領地を与えてその支配者にとり立てる。
  • 五爵 ごしゃく 公・侯・伯・子・男の五等の爵位。
  • 藩屏 はんぺい (1) まがき。囲い。(2) 帝室を守護すること。また、その者。藩翰。藩籬。(3) 直轄の領地。膝元の地。
  • 官制 かんせい 国の行政機関の設置・廃止・名称・組織および権限などについての規定。旧制では勅令によったが、現在は法律で定める。
  • 田制 でんせい 田地に関する制度。
  • 文物 ぶんぶつ 文化の所産。法律・学問・芸術・宗教など、文化に関するもの。
  • 渇仰 かつごう 人の徳を仰ぎ慕うことを、のどの渇いた者が水を求めるのにたとえた語。かつぎょう。
  • 戎 じゅう 古代中国で西方の異民族の呼称。えびす。
  • 狄 てき 古代中国で、北方の異民族の称。
  • 狼煙・烽火 のろし (「狼煙」の表記は、中国で狼の糞を燃やしたからという) (1) 火急の際の遠方への合図として高く上げる煙。とぶひ。(2) (比喩的に)一つの大きなことを起こすきっかけとなる目立った行動。(3) 昼間あげる花火。
  • 烽火 ほうか のろし。とぶひ。ほう。
  • すわこそ (「すわ」を強めた表現)突然の出来事に驚いて発する言葉。さあ大変。
  • 案に相違する あんに そうい する 予想していたこととはちがう。案に違う。
  • 犬戎 けんじゅう 周代、中国の北西辺境に住んだ異民族。→
  • ・允 けんいん 中国周代の異民族。西周滅亡の原因となったとされる犬戎は戦国時代にこれを言い換えたもの。のちの匈奴と同一視する説もある。
  • 夷・戎 えびす (エミシ(蝦夷)の転) (1) (→)「えぞ」(1) に同じ。(2) 都から遠く離れた開けぬ土地の人民。(3) 荒々しい武士。特に京都人が東国武士をさしていった語。あずまえびす。(4) 外国人をあなどっていう語。
  • 東遷 とうせん 東方にうつること。
  • 周室 しゅうしつ 周の王室。
  • 三皇 さんこう 中国古代の伝説上の三天子。伏羲・女�・神農、天皇・地皇・人皇など諸説がある。
  • 五帝 ごてい 古代中国の伝説上の五聖君。「史記」には黄帝・��・帝�]・尭・舜を、「帝王世紀」には小昊・��・帝�]・尭・舜を挙げる。
  • 覇者 はしゃ (1) 覇道を以て天下を治める者。特に、中国、春秋時代の諸侯の首領。←→王者。
  • 覇業 はぎょう 覇者の事業。覇権を制すること。
  • 五覇 ごは 春秋時代の5人の覇者。(1) [孟子告子下]斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王の総称。(2) [荀子王覇]斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践の総称。
  • 宰相 さいしょう (1) 古く中国で、天子を輔佐して大政を総理する官。丞相。
  • 管鮑の交わり かんぽうの まじわり [史記管仲伝](管仲と鮑叔牙とが互いに親しくして、終始交情を温めたことから)友人同士の親密な交際。
  • 会稽の恥 かいけいの はじ [史記越王勾践世家](春秋時代、越王勾践が、会稽山で呉王夫差に降伏したが、多年辛苦の後に夫差を破ってその恥をすすいだ故事から)以前に受けたひどい恥辱。
  • 臥薪嘗胆 がしん しょうたん (春秋時代、呉王夫差が越王勾践を討って父の仇を報じようと志し、常に薪の中に臥して身を苦しめ、また、勾践が呉を討って会稽の恥をすすごうと期し、にがい胆を時々なめて報復を忘れまいとした故事から)仇をはらそうと長い間苦心・苦労を重ねること。転じて、将来の成功を期して長い間辛苦艱難すること。
  • 険要 けんよう 地勢がけわしく敵を防ぐのに都合がよいこと。また、その地。
  • 法治主義 ほうち しゅぎ (1) 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。(2) 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理。
  • 合従 がっしょう (「従」は縦で、南北に六国を合する意)中国戦国時代に、韓・魏・趙・燕・楚・斉の六国が連合して秦に対抗した攻守同盟の政策。←→連衡。
  • 連衡 れんこう (「衡」は横で、東西の意)同盟すること。中国の戦国時代、張儀が秦の東方の6国(韓・魏・趙・楚・燕・斉)にそれぞれ単独に秦と同盟条約を結ばせようと企てた政策。←→合従
  • 合従連衡 がっしょう れんこう 合従策と連衡策。転じて、外交上の駆け引き、また連合したり同盟したりして勢力を伸ばすこと。縦横。
  • 離間 りかん 相互の仲をさくこと。仲たがいさせること。
  • 服事・服仕 ふくじ (ブクジとも)服従し、つかえること。
  • 遠交近攻 えんこう きんこう 中国、戦国時代に魏の范雎の唱えた外交政策。遠い国と親しく交際を結んでおいて、近い国々を攻め取る策。秦はこれを採用して他の6国を滅ぼした。
  • 漢民族 かんみんぞく → 漢族に同じ。
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 仁道 じんどう 仁の道。人のふみ行うべき道。
  • 儒教 じゅきょう 孔子を祖とする教学。儒学の教え。四書・五経を経典とする。
  • 儒学 じゅがく 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一つ。後漢に五経などの経典が権威をもち儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた。南北朝・隋・唐では経典の解釈学が進み、また礼制の普及・実践が見られた反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時おくれをとった。宋代に宋学が興って哲理面で深化し、特に朱子学による集大成がなされた。やがて朱子学が体制教学化するにつれ、明代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家による学理上の革新が続き、清末の共和思想に及ぶ。日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称されるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。
  • 仁義 じんぎ 仁と義。「仁」はひろく人や物を愛すること。「義」は物事のよろしきを得て正しい道筋にかなうこと。孟子の主要な思想で、儒教でもっとも重んじる徳目。
  • 孟母三遷の教え もうぼ さんせんの おしえ [劉向、列女伝]孟子の母が住居を、最初は墓所の近くに、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと3度遷しかえて、孟子の教育のためによい環境を得ようとはかった故事。
  • 老荘 ろうそう 老子と荘子。
  • 無為 むい (1) 自然のままで作為のないこと。老子で、道のあり方をいう。ぶい。
  • 道家 どうか (1) 先秦時代、老荘一派の虚無・恬淡・無為の説を奉じた学者の総称。諸子百家の一つで、儒家と共に二大学派をなす。(2) 道教を奉ずる人。道士。
  • 諸子百家 しょし ひゃっか 春秋戦国時代に現れた多くの思想家の総称。また、その学派・学説。
  • 自愛説
  • 自愛 じあい (1) (多く手紙文で使う)自らその身を大切にすること。(2) 品行を慎むこと。(3) 物を愛すること。(4) 〔哲〕(self-love)人間が自然状態において持つ自己保存の傾向。ホッブズやスピノザは、これを人間の行為や善悪の基礎とする功利主義的な立場をとる。
  • なまなか 生半 (1) どちらともつかないさま。中途半端。中ぶらり。生半可。(2) かえって。むしろ。いっそ。
  • 兼愛 けんあい 自他・親疎の差別なく平等に人を愛すること。墨子の倫理説。
  • 墨守 ぼくしゅ (墨子がよく城を守った故事から)古い習慣や自説を固く守りつづけること。融通がきかないこと。
  • 法家 ほうか 中国、戦国時代の諸子百家の一つ。天下を治める要は仁・義・礼などでなく法律である、と説く。申不害・商鞅・韓非など。
  • 兵家 へいか (1) 軍事にたずさわる人。武士。兵法家。(2) 中国、春秋戦国時代の諸子百家の一つ。用兵・戦術などを論じた学派。孫子・呉子の類。
  • 雄弁術 ゆうべんじゅつ 公衆の前で、明確に印象的に自分の意見を発表する術。
  • 名家 めいか 中国、春秋戦国時代の諸子百家の一つ。名(言葉)と実(実体)との関係を明らかにしようとする論理学派。公孫竜・恵施はその代表者。
  • 案出 あんしゅつ かんがえ出すこと。
  • 皇帝 こうてい (「皇」は美しく大なること、「帝」は徳が天に合する意)帝国の君主の尊称。秦の始皇帝が初めて称した。
  • 諡法 しほう おくりなをつける法則。
  • 行徳 こうとく 道徳を実践・実行する。
  • 贈り名・諡 おくりな 人の死後に、その徳をたたえて贈る称号。後の諱。諡号。
  • 郡県制度 ぐんけん せいど 中国の地方行政制度。春秋戦国から秦代にかけて、全国を郡・県などの行政区画に分け、地方官を選任して行政を執行させた。←→封建制度。
  • 官吏 かんり 役人。官人。官員。
  • 度量衡 どりょうこう (1) 長さと容積と重さ。(2) 尺と枡と秤。
  • 焚書 ふんしょ 書籍を焼きすてること。学問・言論を圧迫する手段として行われた。
  • 坑儒 こうじゅ → 「焚書坑儒」参照。
  • 焚書坑儒 ふんしょ こうじゅ 前213年、秦の始皇帝が民間に蔵する医薬・卜筮・農業などの実用書以外の書をすべて集めて焼き捨て、数百人の儒者を捕らえて、翌年咸陽で坑に埋めて殺したこと。
  • 水草 すいそう (1) 水と草。川と草花。
  • 水草を追う すいそうを おう 一定の住所を定めないで、水や草のある所を求めて移り住む。
  • 匈奴 きょうど 前3世紀から後5世紀にわたって中国を脅かした北方の遊牧民族。首長を単于と称し、冒頓単于(前209〜前174)以後2代が全盛期。武帝の時代以後、漢の圧迫をうけて東西に分裂、後漢の時さらに南北に分裂。南匈奴は4世紀に漢(前趙)を建国。種族についてはモンゴル説とトルコ説とがあり、フンも同族といわれる。
  • フンヌ 匈奴  → きょうど(匈奴)
  • トルコ人 → トルコ族
  • トルコ族 -ぞく アルタイル語族の主要な一民族。トルコ共和国に住むものを狭義にトルコといい、その他をテュルクと区別する場合もある。かつては遊牧・狩猟民としておもに内陸アジアを舞台に活躍した。人種的には元来、モンゴロイド型であったが、現在東北アジアからヨーロッパにかけて広く分布し、他民族との混血・同化がいちじるしく地域差が大きい。トルコ族は、前3世紀末から丁零の名で中国人に知られ、バイカル湖の南辺からアルタイ山脈の北方にかけて居住した。後5世紀に高車と呼ばれたものはその後身で、486年ごろに独立してジュンガリアの地に高車国を建てた。6世紀この民族は、中国史料で鉄勒 Trk と総称され、バイカル湖の南からカスピ海地域まで広まっていた。その中からアルタイ山麓に突厥が興り、北アジアに遊牧帝国を建設した。(東洋史)
  • モンゴル Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
  • モンゴル族 → 蒙古族
  • 蒙古族 もうこぞく 漢民族のいう北狄の一つ。アジア大陸中央部に居住した遊牧民族。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


屈斜路カルデラ:クッチャロ羽幌。約12万年前に最大級の噴火。
阿蘇カルデラ(Aso4)の火山灰:9万年前。
姶良丹沢火山灰(AT):約2万5千年前、姶良カルデラの大噴火。九州から関東地方まで降灰。東北地方北部や朝鮮半島でも確認。
肘折カルデラ:約1万2千年前に噴火。
十和田カルデラ:約1万年前に東南部で噴火。
鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah。AK)、約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火に伴って噴出した火山灰。地層の年代決定において縄文時代の早期と前期とを分ける。
阿多カルデラ池田降下火山灰(Id-a):鹿児島湾南端の湾口部。約5500年前大噴火。
十和田火山:915年(延喜15年)大噴火。過去2000年間、日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる。
白頭山(長白山)苫小牧テフラ(B-Tm):10世紀。

 図版は、『学研新漢和大字典』(2005.5)p.2185 および渡邊義浩『宗教から見る中国古代史』(ナツメ社、2007.12)p.61 の「春秋時代」「戦国時代」を参照。五覇や七雄の位置関係は両者でもビミョーに異なるところもあるが、中間を取った。
 それ以上に問題があると思うのは、河川の流路と海岸線と湖水の大きさ。いずれも現代地図から借用したが、春秋時代の開始が紀元前770年、戦国時代の開始が紀元前403年だから、今から2400〜2800年ほど前のこと。日本では縄文中期〜後期、まもなく弥生時代というころにあたるらしい。海岸線が現在とまったく同じということはありえない。

 とくに大河の河口部。
 本文中、「渤海」はまだ登場しないけれども、地図中ではカッコ書きで示した。平均水深25m。おなじく隣の黄海は平均水深44m。「渤(ボツ)」は水のわきたつ音の意味というが、ボツの音はどうしても「没・沒」を連想する。
 そして春秋五覇のうち、最初の覇者となったのが斉の桓公。斉は現、山東省北部、渤海湾沿岸にあたる。




*次週予告


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編集:しだひろし / PoorBook G3'99
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