藤田豊八 ふじた とよはち
1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15)
東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」

恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

水島爾保布 みずしま におう
1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30)
画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵・恩地孝四郎。口絵挿絵・水島爾保布。




口絵:関羽

もくじ 
東洋歴史物語(一)藤田豊八


ミルクティー*現代表記版
東洋歴史物語(一)
  一、東洋とその文明
  二、黄河と黄土(こうど)
  三、三皇(さんこう)五帝(ごてい)
  四、尭舜(ぎょうしゅん)
  五、大洪水
  六、酒のとが
  七、夏(か)王朝
  八、殷(いん)王朝

オリジナル版
東洋歴史物語(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/〓〓

NDC 分類:220(アジア史.東洋史)
http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html





東洋歴史物語(一)

藤田ふじた豊八とよはち

   一、東洋とその文明


 地球の上にはいくつかの大陸がありますが、その一つにアジア大陸という大きい大陸があります。
 アジア大陸は、いうまでもなくヨーロッパ大陸とはつづきで一つの大陸ともいえるのですが、いろいろのつごうのうえからこれをわけて二つの大陸としているのです。
 このアジアとヨーロッパの二つの大陸に、いろいろの国がおこったりほろんだり、いろいろの人種がさかえたりおとろえたりいたしました。そのうちヨーロッパ大陸におこったこういう出来事できごとは、『西洋歴史物語』でくわしくお話がありましょう。この本でお話しようとするのは、おもにアジア大陸のほうのお話、東洋の歴史のお話です。
 アジア、東洋にはいろいろの国がおこり、さまざまの人種もさかえました。しかし、それらの国々のうちでもっとも早く文明になった国が二つあります。その一つはシナ〔中国〕で、も一つはインドです。
 いったい世界の歴史で文明がおこりはじめたところがほぼ四つあります。一はエジプトで、二にはバビロン、三にはシナ、四にはインドです。
 しかし東洋の国々におもに影響をおよぼしたのは、これらのうちのシナとインドとの文明でありまして、エジプトとバビロンの文明は、おもに西洋の国々に影響をおよぼしたのでした。ですから東洋の歴史では、このシナとインドという二つの古い文明国のことを中心にして、それらの国でできた文明が、東洋のの国々にどういうふうな感化かんかをおよぼしたかということをお話しようとするのです。
 さて前にお話しましたように、世界の古い文明は、エジプト、バビロン、シナ、インドの四つの文明ですが、これらの文明はどれもこれも、これらの国々に流れている大きい川のほとりから生まれ出ました。というわけは、大きい川があれば水利すいりに便利ですから早くから農業が発達する。この農業の発達ということは、自然に文明を生み出すようになるのです。
 エジプトの川はナイル川ですし、バビロンの川はチグリス、ユーフラテスという二つの川ですし、シナの川は黄河こうが揚子江ようすこう長江ちょうこう、インドの川はインダス川とガンジス川です。
 ことにシナだけはべつですが、の四つの国々はいずれもあつい国です。したがってこれらの国は穀物こくもつ生長せいちょうが早いから、どうしても早くから農業が発達し、したがって早く文明が生まれたのです。では、なぜシナだけはそうあつくないのに早くから農業が発達し、文明がそだてられたか、そのわけはあとでお話しいたしましょう。
 とにかく、東洋歴史の中心をしめるのは、この世界に四つの古い文明のうちの二つ、シナとインドとの文明です。つまり黄河こうが揚子江ようすこうの二つの川のほとりの文明と、インダス川とガンジス川のほとりの文明とです。
 では、まずシナの文明のお話をいたしましょう。

   二、黄河こうが黄土こうど


 シナという国に住んでいる人間、すなわちシナじん〔中国人〕のことを漢人かんじんもうします。ですからシナの土地に古くから文明がさかえたというのは、つまりこの漢人かんじんが古くから文明を生み出したわけなのです。
 前にもうしましたように、世界で古く文明のおこったところが四かしょあって、いずれも大きな川のほとりであります。ところがの三かしょはいずれもあつい土地ですから農業に便利なのは当然とうぜんであります。ところがシナだけはそうあつい国でないのに古くから農業がさかんであって、文明が古く生まれたのはどうしたわけか。それには、シナ独得どくとくのわけがあるのです。
 シナの土地を流れている大きい川は、全部で三つあります。北からかぞえますと、まず黄河、それから長江ちょうこう(ふつうには揚子江ようすこうもうします)それに珠江しゅこうです。この三つの川のうちで漢人かんじんの文明のまずおこったのは、いちばん北の黄河のほとりでした。
 黄河こうがという川はそのしめすとおり、川の水のまっ黄色な川なのです。いま、黄河が海に入るところへ行って見ましても、海の沖合おきあいの何里なんりというところまでまっ黄色の水が一筋ひとすじに流れこんでいるくらいです。では、なぜ黄河の水はこんなに黄色いかといいますと、その川の水は黄色い土をたくさんふくんでいるせいです。ですから黄河の水をとってビンに入れておきますと、まもなく下のほうに黄色い土がたくさん沈殿ちんでんします。では、なぜ黄河の水にはこんな土がふくまれているかともうしますと、黄河の流れてくる区域くいきにこの黄色い土の地層ちそうがずっとひろがっているせいです。この黄色い土を黄土こうどと申しますが、その黄土がシナの北方ほっぽう大半たいはんの地域をあつ地層ちそうをなしておおうているということは、シナでなければ見られない独得どくとく光景こうけいです。ところが黄河の流域地がこういう黄土層こうどそうという独得の地質しつを持っているということが、シナの歴史の上に重い意味を持っているのです。黄土という土はかわいたときは、こまかいパサパサした土ですが、これに水を加えるとよく水をいこんで非常に耕作こうさくてきした土となるのです。
 黄河の流域がこういう土からなっていたので、その流域地方には早くから農業が発達したのでした。したがって黄河流域の漢人かんじんのあいだに早くから文明のがふき出したわけなのです。
 世界で古く文明のおこったほかの国とはちがって、シナだけはそうあつくないのに文明がおこったのはどうしたわけだろうかと前にもうしました。そのわけがこの黄土こうどなのです。この黄土という特別な地層ちそうがあればこそ、あまりあつくもないのにシナに古い文明がわいたのでした。
 ですからシナの文明は、黄河の上流地方の漢人かんじんのあいだから始まりました。そしてその文明の範囲はんいはだんだんに広がって黄河より南にある大きなかわ長江ちょうこう揚子江ようすこう沿岸えんがんのほうまでふくむようになりました。ですけれども、古くは、この長江流域は、シナの文明のとどいた区域くいきではなく、この南のほうがシナ文明のひかりびたのは、かなりのちのことです。シナの文明はまず黄河上流の漢人かんじんのあいだにおこったのです。したがって「黄河こうが」と「黄土こうど」とはシナの農業、ひいてはシナの文明の生みの父母ふぼとももうすことができましょう。

   三、三皇さんこう五帝ごてい


 黄河こうがの上流域に住んでいた漢人かんじんは、早くから定着ていちゃくの生活をして農業をいとなみ、文明がわき出たということは前にもうしましたが、そんならいつごろからそういう文明がおこったかというと、はっきりしたことはまるでわかりません。
 シナのごく上代じょうだいのことにかんして、いろいろのいいつたえがありますが、いずれもそれは伝説でありまして、正しい歴史上の事実ではないのです。これはどこの国でも古い国ではみんなそうであって、ごくむかしのことはたいてい信じがたいような伝説のくもにつつまれているのです。
 それでシナの古い伝説によりますと、シナのごく古いときには、三皇さんこう五帝ごていという神さまのような王さまがあったというのです。
 三皇さんこうというのはどんな王さまかというと、いろいろいいつたえによってちがいますが、燧人氏すいじんし伏犠氏ふっきし神農氏しんのうしの三人ともいわれています。
 燧人氏すいじんしというのは、はじめて火を作り出すことや、食物しょくもつを火で煮焚にたきすることを人民に教えたというのです。
 伏犠ふっきという王さまは、また不思議ふしぎな体をしているので、体の部分はヘビで首だけは人間の首をしていたということです。結婚けっこん制度せいどさだめたり漁猟ぎょりょうを人民に教えたりしたと伝えられています。神農氏しんのうしもまたけずおとらず奇妙きみょうな体の王さまで、体は人間ですが首から上は牛の恰好かっこうだったというのです。この王さまは人民に農業を教えた王さまだとしてとうとばれていました。またこの王さまはいろいろの草をなめわけて、くすりになる草をさだめたといいます。したがってこの神農氏しんのうしは、のちのの人からは医者いしゃ元祖がんそみたいに言いはやされました。
 こういう三皇さんこうのあとに五帝ごていが出たというのです。五帝という五人の王さま(同時に神さま)の名も、伝えによってまちまちです。この五帝という五人の王さまのうちで、いちばん有名なのは黄帝こうていという王さまです。
 黄帝こうていはいろんな仕事をし、いろんなことを人民に教えたといいつたえております。この王ははじめてふねや車を発明して交通の便べんをはかったり、蒼頡そうきつという人はこのていのとき鳥の足跡あしあとを見て文字をせいしたりしたとももうします。この黄帝が蚩尤しゆうというものと戦いをしたことがありました。ところがその蚩尤しゆうという人のひたいは、銅鉄どうてつでできていてなかなかごわく、そのうえ、その人はよくきりき出して黄帝のぐんまよわしたのです。
 そこで黄帝は、蚩尤しゆうきりき出されても方角をうしなわないために指南車しなんしゃというものを発明して蚩尤しゆうきりにまどわないようにして、ついに蚩尤しゆうを打ちやぶったというのです。
 指南車しなんしゃというのは、車の上に人形が立っていて、車がどっちへこうが、人形はいつでも南をさすというしかけなのです。今でもわたしどもはもののさしなどをすることを「指南しなんする」というのは、こうした指南車なんしゃのわけからです。
 三皇さんこうといい五帝ごていといい、いずれも奇々きき怪々かいかいな人とも神ともつかないような王さまです。こんな人が実際にいたわけではもちろんないでしょう。ただ人智じんちひらけなかった時代のシナじんは、ずっと古くこうしたおうがあったと信じていただけのことです。そして、こういう王さまは人民のためにいろいろの物を発明し、いろいろの制度せいど制定せいていしたりしていますが、これもそのまま実際のことではないでしょう。いろいろの発明とか制度とかは人間が長い間かかって自然にできてくるもので、けっして一人のもっとも古い王さまたちが前もってつくっておいてくれるものではありません。たとえば文字の発明にしたところで、一人の人が一時いちじ勝手かってに文字をつくって人民に使用させるというわけには行くものではありません。長い間かかって、自然に大勢おおぜいの人の手で発達していくものです。
 ところが、むかしの人々にはこうしたわけがわからなかったものですから、どんな発明でもどんな制度でも、ずっとむかしの王さまたちの発明かのようにかずけられて〔かこつける、ことよせること。しまったのです。


伏犠ふっき (葛飾北斎『北斎漫画』三編より。


神農しんのう (葛飾北斎『北斎漫画』三編より。


   四、ぎょうしゅん


 この五帝ごていのうちで、のちのシナの人にいちばん尊敬そんけいされているのは尭帝ぎょうてい舜帝しゅんていとです。
 ぎょうという天子てんしは非常に高徳こうとくきみで、その御殿ごてんなどもごく質素しっそなものでした。五十年も天下をおさめていながら、天下がよくおさまっているかいないかも知らなかった、というくらいに、むりに天下を治めようとしなくっても、天下がその天子のとくされて自然に泰平たいへいだったというのです。
 シナの人は政治の理想として、このぎょうのようなやりかたをもっとも高いものと考えています。つまり、むりにほねって天下をおさめるのではなくて、かみに立つ人のとくが大きいので人民が自然とそれになびいておのずから天下がおさまるということ――シナじんはそれを「無為にしてす」ともうしますが――を政治の極致きょくちとしております。
 それですからこのぎょうの政治のやり方は、こういう政治の標本ひょうほんとしてたえず後代こうだいのシナじんによってたたえられています。
 ぎょうには丹朱たんしゅという子がありましたが、親にもない子だったもので、ぎょうの後をうけついだものは、他人のしゅんでした。では、なぜしゅんという他人がぎょうのあととりにされたのでしょう?
 しゅんという人は瞽叟こそうという人の子だというのです。ところがお父さんの瞽叟こそうしゅんのままははのいうなりになって、ままお母さんの子の、弟のしょうという子ばかりかわいがってしゅん邪魔物じゃまものにしまして、すきさえあればしゅんころそうといたしました。
 しゅんはかわいそうに、お父さんやお母さんや弟にいじめられましたけれども、ちっともうらみに思わず、ますます父母ふぼには孝行こうこうをつくし、弟をも大切にいたしました。
 しゅんがこういうふうにとくの高いところから人民にしたわれて、そのまわりに大勢おおぜい人がって自然に町ができるくらいでした。そのしゅん親孝行おやこうこう評判ひょうばんがあまり高いので、いつしかぎょうの耳に入りました。そこでぎょうしゅん高徳こうとくにめで、自分のむすめつまにあたえました。そしてしゅん登用とうようして大臣だいじんにし、天下のまつりごとをおこなわせました。ぎょうが死んだのちは、しゅんがかわって天子になったのです。こういうふうな天子のあとつぎのやり方を禅譲ぜんじょうもうします。自分の子でなくて、とくの高い人に天子のくらいゆずることなのです。
 シナじんは、天子というものはてんであって、天にかわって人民をおさめるものと考えています。それならばどういう人が天にかわって人民をおさめる資格しかくがあるかともうしますと、とくの高い人に天が任命にんめいするというのです。
 日本人があらゆる道徳どうとくのうちで忠義ちゅうぎということをいちばんとうといものとしたように、シナじん孝行こうこうというとくをいちばん高いものとしているのです。ですからしゅん親孝行おやこうこうなゆえに天子のくらいゆずられたというのは、それがシナじんから見ていちばん高徳こうとくだから天のめいくだったというわけなのです。こういう禅譲ぜんじょうというようなくらいゆずりは、事実上においてはたやすくおこなわれることではありません。しかし、シナじんの理想として考えている天子のくらいゆずりは、親から子へと伝わっていくのではなくて、このぎょうしゅんのお話に見えるような、高徳こうとくの人へくらいをゆずるという禅譲ぜんじょうにあるのです。ぎょうからこうやってくらいをゆずられたしゅんは、またじつによく天下をおさめました。
 シナじんは天下のもっともよくおさまった黄金時代として、すぐ「ぎょうしゅん」というふうに、ぎょうしゅんとをあわせしょうします。そして人君じんくんの理想としてもこの二人の名がつねにあげられます。
 ですけれども、まだこのへんのお話は正しい歴史上の事実ではありませんから、ぎょうとかしゅんとかいう王さまが事実上あって、こういうわざをしたかどうかはうたがわしいことですけれども、とにかく後のにシナじん二言ふたことめにはすぐぎょうしゅん、尭舜といって、あらゆる天子の模範もはんとして、二人をたっとんでおります。

   五、大洪水だいこうずい


 聖書せいしょにノアのとき大地が全部かくれてしまうほどの大洪水だいこうずいがあって、ノアだけは箱船はこふねに乗ってたすかったが、あとの人類はみんなほろんでしまったという話があります。こういう大洪水の話は、このヘブライ民族〔ユダヤ民族〕の間だけではなく、世界じゅうの方々ほうぼうの民族の間に伝わっていますが、シナにもやはり大洪水の話があるのです。
 この大洪水だいこうずいのおこったのは、ぎょうのときからだというのです。こんという人が選ばれて、この洪水をしずめるやくにあたったのですが、なかなかうまく行きません。こんが役に立たないので、しゅんはとうとうこん免職めんしょくして、こんの子のげて治水ちすいのことにあたらせました。
 は親の不名誉ふめいよを回復しようというはらもあったのでしょうが、とにかくいっしょう懸命けんめいになって治水につとめました。その骨折ほねおりは非常なもので、十三年の間も外にいて活動して、たまたま自分の家の門の前をとおっても、うちには入らなかったというのです。りくを行くときは車に乗り、水を行くときは船に乗り、どろを行くときはソリに乗り、山を行くときには、きくというかんじきのようなものに乗ってところかまわずに走りめぐって洪水こうずいおさめました。そして方々ほうぼうの山々を切り開いてみなぎっている水を落として洪水をしずめたのです。とにかくこのの非常な骨折ほねおりで、この大災難だいさいなんまぬかれたので、しゅんを非常によみしまして〔ほめること。もちいてしゅんの死んだあとはがかわって天子になるようにしたのでした。もちろんしゅんにも子がありましたけれども、しゅんは天子のくらいを子にゆずらないで、他人のにゆずったのでした。つまりしゅんから禅譲ぜんじょうのかたちで天子のくらいにつきました。
 では、なぜしゅんから禅譲ぜんじょうを受けたのでしょう? このおさめるのに成功した洪水というのは、黄河こうがの洪水であったのです。黄河という川が上代じょうだいのシナの人にとって、どれほど関係ふかいかは前にもうしました。この川はじつにしばしば大氾濫だいはんらんをひきおこす川なのです。そしてこの川が氾濫はんらんしたら最後、せっかくの農作物のうさくもつはみなし流されてしまいます。ですからシナの国ではずっとのちまで、どうして黄河の洪水をふせぐかということが、歴代の王さまの重要な問題であったのです。はこういうのちまでもシナの人を苦しめた黄河の洪水をおさめるために苦心くしんした人なのです。ですからシナじんにとってみれば、すくぬしみたいな人であるわけです。
 シナの人がどういう人を理想の天子と考えたかということは前にもうしました。とくの高い人が天子になるはずだというのですが、そのとくの高いという一方また人民のためににしてもつくすという人も、シナじんの理想の天子の資格の一つです。
 がシナじんをずっとのちまで苦しめた黄河の洪水をおさめるためにあれまで努力したということは、シナじんの天子の理想から見て禅譲ぜんじょうを受けるじゅうぶんの資格があるわけでしょう。

   六、さけのとが


 は、こういうふうに努力力行りっこうで天子になった人ですが、天子てんしさまになるのが家柄いえがらというようなものでなくて、その人のとくによるのだと考えるところが、日本の国とシナとちがうところです。ですから、シナでは乞食じき坊主ぼうず一躍いちやくして天子になったところで、シナじんはすこしもそれを不都合ふつごうなこととは考えないで、その人にそれだけのとくがあるのだと、へいきでおさめられているのです。
 このも天下の政治には非常に注意いたしました。ちょうどこの人のときに儀狄ぎてきという人がはじめておさけを作ったというのです。もちろんそのお酒が日本のお酒みたいにこめでできたものやらどういうお酒やらわかりませんが、禹王うおうはこのお酒を飲んでたいへんおいしいとお思いになった。それで禹王うおうがふつうの王さまだったら儀狄ぎてきはごほうびをたんといただくところでしょうが、なにしろという王さまはすぐれたかたですから、こうお考えになりました。
「お酒というものはおいしいものだ。しかしそのおいしさにふければ、このお酒のためにのちには国をほろぼしてしまうものも出てこよう」
 そうしたかしこいお考えから、この酒の発明者の儀狄ぎてきをおちかづけにならなかったということです。
 賢明けんめい禹王うおう先見せんけんは、けっしてあやまりませんでした。禹王うおうの子孫がずっとてていたという帝国がほろんだのも、その最後の王さまのけつが酒におぼれて国の政治をなげやりにしたせいだともうします。しかし、酒はひとりの国をほろぼしたのみならず、じつに多くの国をほろぼしました。ただ国をほろぼしただけではありません。そのおいしさはじつにの多くの人々のあやまり、そのどくは多くの人の体をそこねたのです。
 が考えた酒の害毒がいどくということは、今日こんにちにもそのままあてはまることです。がほんとうにそういうことを言ったかどうかは、わかったものではありませんが、その言葉にはかみしめなければならないものがふくまれております。
 はまた禅譲ぜんじょうくらいゆずりのやり方で、えきという人をつぎの天子に立てるつもりでいたのでした。ところがが死んでみると、人民は新しい天子にごあいさつに行くというのに、このえきのところへはまいりませんで、の実際の子であったけいという人のところへしよせたのです。そしてけいのことを「わがきみ御子おこさんだ」といって、天子としてまつりあげてしまったのです。ですからのつぎには他人のえきが立たずに、実子じっしけいがあとをつぎました。これからずっとの子孫がくらいにつきました。ぎょうしゅんくらいの伝わってきたあいだは禅譲ぜんじょうだったのですが、からのちはその血統けっとうのものがくらいをつぐようになりました。つまり王位おうい世襲せしゅうということがらがおこったわけなのです。
 シナでもふつうにおこなわれる世嗣よつぎのほうはこの世襲しゅうなのでして、前にもうした禅譲ぜんじょうなどということは、だいたいシナじんの理想で、事実上において容易よういにおこなわれることではないのです。
 このの子孫が立てていた国のことをもうします。

   七、王朝


 このの子孫が、ずっと代々だいだい王さまになったというのがの国だと前にもうしました。の国というものの実際は、の王朝と申したほうが正しいのです。
 シナでは、自分の国をよぶ名前がありませんでした。それでただ中国ちゅうごく―世界のなかの国――とか、中華ちゅうか―やはり中国と同じ意味――とかもうしていただけです。そして、このとか次のいんとかしゅうというのは、ちょっと見ると国の名らしいけれど、実際は王朝の名なのであります。
 日本の国では、天子てんしさまの血統けっとうはずっと一つでございます。したがって日本の天子さまには、せいというものは必要がありませんが、シナは日本と国柄くにがらがまるでちがいまして、いろんな血統の人が天子になっているのです。それですからとかいんとかしゅうとかいうのは、みなその血統の一つ一つなのでございます。
 このの血統は、約十七代、四三二年つづいたというのですが、その最後の王さまがけつという人でした。の王朝を開いたすぐれた人であったと反対に、このけつという人はごくわるい人でした。
 この王さまは、無道ぶどうで乱暴で、人民が苦しむことなどはかまわずに贅沢ぜいたくをきわめたのでした。豪奢ごうしゃをきわめた御殿ごてんを作ったり、また宴会えんかいをするときは肉を山のように積みあげ、酒を池のようにたたえたりしてらんちきさわぎをいたしました。けつというこの王朝の最後の王がこういった手のつけられない王さまだったので、人民の心がこの王からったことはいうまでもありません。
 このとき、諸侯しょこうの一人にとうという人がありましたが、けつがあまり無道ぶどうであって人民の苦しむのを平気へいきでいるのを見かねて兵をあげてけつち、とうとうけつほろぼしてしまいました。そしてみずからけつにかわって天子のくらいにつきました。ですからによってはじめられた王朝は、けついたってその無道ぶどうのためにほろびました。そしてとうをそのとするいんの王朝ができたのです。こういう王朝の代変だいがわりのことをシナでは革命かくめいもうします。
 前にも申しましたように、シナでは天子になるのは、天のめいを受けて天子になるのだと思っています。ところが、ある王朝の王が天子になるうちもないとくの人である場合は、天のめいはその王朝をってよその王朝へくだるようになるのです。こういうふうに、天のめいかわるというところから革命かくめいもうすのです。
 この王朝からいん王朝への革命は、平和におこなわれたのではなくて、武力にうったえておこなわれました。この武力による王朝の代変だいがわりということは、これからのシナの歴史ではごくあたりまえのことでありまして、日本の天子さまの万世ばんせい一系いっけいとくらべてみて、両方の国の国柄くにがらがどれほどちがうかがわかるでしょう。

   八、いん王朝


 けつにかわってあらたにいん王朝をおこしたとうは、けつとはまるで反対に有徳ゆうとくなさぶかい人だったというのです。
 あるときとう外出がいしゅつしますと、あみをはって鳥やけものろうとする人が目に入りました。近寄ちかよって見ますと、その人はあみ四方しほうにはって、逃げ場のないようにしていました。そして、こうもうしました。
「天からくだったのも、から出たのも、四方からたのも、みなこのあみにかかれ」
とうはこの言葉をきいてなげいて、
「それではひどすぎる」
といって、四面しめんにはったあみの三面をきはなし、一面だけにしてもうしました。
「左にこうと思うものは左に行くがいい。右にこうと思うものは右に行くがいい。だが、わたしの命令にしたがわないものは、仕方しかたがないからこのあみにかかるがいい」
こういうとうなさぶかい言葉を聞いて、当時の諸侯しょこうたちは、
とうとく鳥獣ちょうじゅうにまでおよんでいる」
と、感心かんしんしたというのです。
 けつがあんなに無道ぶどうなのにひきかえて、このとうはこんなにとくの高い人ですから、天下の人望じんぼうけつってとうにあつまり、とうがついに王位についたのもむりはありません。
 けつという人が実際にそんな悪い人であったか、またとうという人がほんとにあんなすぐれた人であったかは疑わしいかもしれません。しかし、たとい王さまであっても無道ぶどうなら王さまのうちのないもの、たとい平民でも有徳ゆうとくなら王さまになる資格のあるものと考えるくせのあるシナじんから見れば、あらたに一つの王朝の創立者そうりつしゃとなった人は、どこか有徳ゆうとくなところがなければならないわけですし、それにひきかえて、ある王朝の最後の王さまはきわめて無道ぶどうな人とされてしまいます。
 けつとうとが、こういうふうにあくぜんとをあらわして向かい合っているのも、一つにはこうしたシナじん特有の考え方によるのでしょう。
 とうのはじめたいんの王朝は、三十一代、六〇〇年あまりつづいてちゅうという王さまにいたってほろびました。このちゅうという王さまは、前の王朝の最後のおうけつとならんで桀紂けっちゅうという暴虐ぼうぎゃくきみをあらわす熟語じゅくごさえできているくらいけつにもおとらないわるい王さまでした。もともとちゅうという人は本来ほんらいすぐれたところのある人で、口はごく達者たっしゃづから猛獣もうじゅう格闘かくとうできるくらいの力もあり、その知恵は人が諫言かんげんするのをこばむにじゅうぶんで、その言葉は自分の悪いところをごまかせるだけ上手でした。
 この王さまがはじめて象牙ぞうげはしを作りました。そのとき、王さまの親戚しんせき箕子きしというかしこい人がこの話を聞いて、
はし象牙ぞうげで作った以上、うつわだって前のように土で作ったものでは満足しないで、ぎょくで作るようになるだろう。そうすれば食べ物だって衣服だって住居すまいだって、だんだん贅沢ぜいたくになって、しまいには天下の物をもってしてもらなくなってしまおう」
と、嘆息たんそくしたというのでした。
 ちゅうのおごりはしだいにきわまりました。ちゅうは、妲己だっきという女を寵愛ちょうあいいたしまして、そのいうことならなんでもくというありさまで、人民からしぼる租税そぜいを重くして、それでもって贅沢ぜいたく三昧ざんまいをきめこみました。酒池しゅち肉林の宴会えんかいをやり、夜昼よるひるぶっとおしに遊びたわむれていました。そこで百姓ひゃくしょうたちは不平ふへいの声を立てるし、諸侯しょこうの間にも心を紂王ちゅうおうからはなすものがありました。
 紂王ちゅうおうはこういう人たちをおさえるつもりで刑罰けいばつを重くし、銅の柱にあぶらって炭火すみびの上によこたえ、その上を罪人ざいにんに歩かせる刑罰法けいばつほうを思いつきました。そうするとねつのためあぶらがとけて柱がヌラヌラになるでしょう。罪人はどうしても足をすべらして火の中に落ちこみます。紂王ちゅうおうはこれを炮烙ほうろくけいと名づけて妲己だっきといっしょにこの残酷ざんこくな光景を見るのを楽しみにしました。こういうふうに、贅沢ぜいたく無道ぶどうでは人々の心がってゆくのは当然です。民心がちゅうから離れたあげく、ちゅうしゅう武王おうというかしこ諸侯しょこうやぶられて死に、いんの王朝はほろびました。
 この紂王ちゅうおう桀王けつおうとは、後々のちのちまで悪い王さまの代表となって桀紂けっちゅうという言葉さえできています。ちょうどいい王さまの代表として尭舜ぎょうしゅんという言葉ができたのと同じわけあいです。
 けつという悪い王さまも、ちゅうという悪い王さまも、いずれもの人にほろぼされてしまって、新しい国がこれにかわりました。こういう国のだいがわりを革命ということは前にもうしましたが、そのときから悪い王さまを攻伐こうばつすることを放伐ほうばつと申します。
 王さまとはとうとくらいです。ですがシナじんの考えでは、悪い王さまというものは、王さまになる資格がない。だからいくらそんな王さまのくらいとうとくとも、そんな王さまなら征伐せいばつしてもさしつかえないというのですから、シナの人は、その人がとくさえ高ければ、たとい百姓ひゃくしょうであっても王さまのくらいをゆず禅譲ぜんじょうのをあたりまえと考えたと同じように、たとい天子でも、そのとくが低ければこれを攻伐こうばつする放伐ほうばつことを当然と思っているのです。(つづく)



底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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東洋歴史物語(一)

藤田豐八

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)東洋《とうよう》

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(例)一体|何《ど》うして

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#口絵、關羽]

裝幀・恩地孝四郎
口繪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]繪・水島爾保布


   一、東洋《とうよう》とその文明《ぶんめい》

 地球《ちきゆう》の上《うへ》にはいくつかの大陸《たいりく》がありますが、その一《ひと》つにアジア大陸《たいりく》といふ大《おほ》きい大陸《たいりく》があります。
 アジア大陸《たいりく》は、いふまでもなくヨーロッパ大陸《たいりく》とは地《じ》つゞきで一《ひと》つの大陸《たいりく》ともいへるのですが、いろ/\のつごうの上《うへ》からこれを分《わ》けて二《ふた》つの大陸《たいりく》としてゐるのです。
 このアジアとヨーロッパの二《ふた》つの大陸《たいりく》に、いろ/\の國《くに》が興《おこ》つたり亡《ほろ》んだり、いろ/\の人種《じんしゆ》が榮《さか》えたり衰《おとろ》へたりいたしました。そのうちヨーロッパ大陸《たいりく》に起《おこ》つたかういふ出來事《できごと》は、西洋《せいよう》歴史《れきし》物語《ものがたり》で詳《くは》しくお話《はなし》がありませう。この本《ほん》でお話《はなし》しようとするのは、主《おも》にアジア大陸《たいりく》の方《ほう》のお話《はなし》、東洋《とうよう》の歴史《れきし》のお話《はなし》です。
 アジア、東洋《とうよう》にはいろ/\の國《くに》が興《おこ》り、さま/″\の人種《じんしゆ》も榮《さか》えました。しかし、それらの國々《くに/″\》の中《うち》でもっとも早《はや》く文明《ぶんめい》になつた國《くに》が二《ふた》つあります。その一《ひと》つは支那《しな》で、も一《ひと》つはインドです。
 いったい世界《せかい》の歴史《れきし》で文明《ぶんめい》が興《おこ》り始《はじ》めた所《ところ》がほゞ四《よつ》つあります。一《いち》はエジプトで、二《に》にはバビロン、三《さん》には支那《しな》、四《し》にはインドです。
 しかし東洋《とうよう》の國々《くに/″\》に主《おも》に影響《えいきよう》を及《およ》ぼしたのは、これらの中《うち》の支那《しな》とインドとの文明《ぶんめい》でありまして、エジプトとバビロンの文明《ぶんめい》は、主《おも》に西洋《せいよう》の國々《くに/″\》に影響《えいきよう》を及《およ》ぼしたのでした。ですから東洋《とうよう》の歴史《れきし》では、この支那《しな》とインドといふ二《ふた》つの古《ふる》い文明國《ぶんめいこく》のことを中心《ちゆうしん》にして、それらの國《くに》で出來《でき》た文明《ぶんめい》が、東洋《とうよう》の他《た》の國々《くに/″\》にどういふふうな感化《かんか》を及《およ》ぼしたかといふことをお話《はなし》しようとするのです。
 さて前《まへ》にお話《はなし》しましたように、世界《せかい》の古《ふる》い文明《ぶんめい》は、エジプト、バビロン、支那《しな》、インドの四《よつ》つの文明《ぶんめい》ですが、これらの文明《ぶんめい》はどれもこれも、これらの國々《くに/″\》に流《なが》れてゐる大《おほ》きい川《かは》のほとりから生《うま》れ出《で》ました。といふわけは、大《おほ》きい川《かは》があれば水利《すいり》に便利《べんり》ですから早《はや》くから農業《のうぎよう》が發達《はつたつ》する。この農業《のうぎよう》の發達《はつたつ》といふことは、自然《しぜん》に文明《ぶんめい》を生《う》み出《だ》すようになるのです。
 エジプトの川《かは》はナイル川《がは》ですし、バビロンの川《かは》はチグリス、ユーフラテスといふ二《ふた》つの川《かは》ですし、支那《しな》の川《かは》は黄河《こうが》、揚子江《ようすこう》、インドの川《かは》はインダス川《がは》とガンヂス川《がは》です。
 ことに支那《しな》だけは別《べつ》ですが、他《た》の四《よつ》つの國々《くに/″\》はいづれも暑《あつ》い國《くに》です。從《したが》つてこれらの國《くに》は穀物《こくもつ》の生長《せいちよう》が早《はや》いから、どうしても早《はや》くから農業《のうぎよう》が發達《はつたつ》し、從《したが》つて早《はや》く文明《ぶんめい》が生《うま》れたのです。では、なぜ支那《しな》だけはさう暑《あつ》くないのに早《はや》くから農業《のうぎよう》が發達《はつたつ》し、文明《ぶんめい》がそだてられたか、そのわけは後《あと》でお話《はなし》いたしませう。
 とにかく、東洋《とうよう》歴史《れきし》の中心《ちゆうしん》をしめるのは、この世界《せかい》に四《よつ》つの古《ふる》い文明《ぶんめい》のうちの二《ふた》つ支那《しな》とインドとの文明《ぶんめい》です。つまり黄河《こうが》、揚子江《ようすこう》の二《ふた》つの川《かは》のほとりの文明《ぶんめい》と、インダス川《がは》とガンヂス川《がは》のほとりの文明《ぶんめい》とです。
 では、まづ支那《しな》の文明《ぶんめい》のお話《はなし》をいたしませう。

   二、黄河《こうが》と黄土《こうど》

 支那《しな》といふ國《くに》に住《す》んでゐる人間《にんげん》、すなはち支那人《しなじん》のことを漢人《かんじん》と申《まを》します。ですから支那《しな》の土地《とち》に古《ふる》くから文明《ぶんめい》が榮《さか》えたといふのは、つまりこの漢人《かんじん》が古《ふる》くから文明《ぶんめい》を生《う》み出《だ》したわけなのです。
 前《まへ》に申《まを》しましたように、世界《せかい》で古《ふる》く文明《ぶんめい》の興《おこ》つた所《ところ》が四箇所《しかしよ》あつて、いづれも大《おほ》きな川《かは》のほとりであります。ところが他《た》の三箇所《さんかしよ》はいづれも暑《あつ》い土地《とち》ですから農業《のうぎよう》に便利《べんり》なのは當然《とうぜん》であります。ところが支那《しな》だけはさう暑《あつ》い國《くに》でないのに古《ふる》くから農業《のうぎよう》が盛《さか》んであつて、文明《ぶんめい》が古《ふる》く生《うま》れたのはどうしたわけか。それには、支那《しな》獨得《どくとく》のわけがあるのです。
 支那《しな》の土地《とち》を流《なが》れてゐる大《おほ》きい川《かは》は、全部《ぜんぶ》で三《みつ》つあります。北《きた》から數《かぞ》へますと、まづ黄河《こうが》、それから長江《ちようこう》(普通《ふつう》には揚子江《ようすこう》と申《まを》します)それに珠江《しゆこう》です。この三《みつ》つの川《かは》の中《うち》で漢人《かんじん》の文明《ぶんめい》のまづ興《おこ》つたのは、一番《いちばん》北《きた》の黄河《こうが》のほとりでした。
 黄河《こうが》といふ川《かは》はその名《な》の示《しめ》すとほり、川《かは》の水《みづ》のまっ黄色《きいろ》な川《かは》なのです。今《いま》、黄河《こうが》が海《うみ》にはひる所《ところ》へ行《い》つて見《み》ましても、海《うみ》の沖合《おきあひ》の何里《なんり》といふ所《ところ》までまっ黄色《きいろ》の水《みづ》が一筋《ひとすぢ》に流《なが》れ込《こ》んでゐるくらゐです。では、なぜ黄河《こうが》の水《みづ》はこんなに黄色《きいろ》いかといひますと、その川《かは》の水《みづ》は黄色《きいろ》い土《つち》をたくさんふくんでゐるせいです。ですから黄河《こうが》の水《みづ》をとつて瓶《びん》に入《い》れて置《お》きますと、間《ま》もなく下《した》の方《ほう》に黄色《きいろ》い土《つち》がたくさん沈澱《ちんでん》します。では、なぜ黄河《こうが》の水《みづ》にはこんな土《つち》が含《ふく》まれてゐるかと申《まを》しますと、黄河《こうが》の流《なが》れて來《く》る區域《くいき》にこの黄色《きいろ》い土《つち》の地層《ちそう》がずっとひろがつてゐるせいです。この黄色《きいろ》い土《つち》を黄土《こうど》と申《まを》しますが、その黄土《こうど》が支那《しな》の北方《ほつぽう》の大半《たいはん》の地域《ちいき》を厚《あつ》い地層《ちそう》をなしておほうてゐるといふことは、支那《しな》でなければ見《み》られない獨得《どくとく》の光景《こうけい》です。ところが黄河《こうが》の流域地《りゆういきち》がかういふ黄土層《こうどそう》といふ獨得《どくとく》の地質《ちしつ》をもつてゐるといふことが、支那《しな》の歴史《れきし》の上《うへ》に重《おも》い意味《いみ》をもつてゐるのです。黄土《こうど》といふ土《つち》は乾《かわ》いたときは、細《こま》かいぱさ/\した土《つち》ですが、これに水《みづ》を加《くは》へるとよく水《みづ》を吸《す》ひ込《こ》んで非常《ひじよう》に耕作《こうさく》に適《てき》した土《つち》となるのです。
 黄河《こうが》の流域《りゆういき》がかういふ土《つち》から成《な》つてゐたので、その流域《りゆういき》地方《ちほう》には早《はや》くから農業《のうぎよう》が發達《はつたつ》したのでした。從《したが》つて黄河《こうが》流域《りゆういき》の漢人《かんじん》の間《あひだ》に早《はや》くから文明《ぶんめい》の芽《め》がふき出《だ》したわけなのです。
 世界《せかい》で古《ふる》く文明《ぶんめい》の起《おこ》つた他《ほか》の國《くに》とはちがつて、支那《しな》だけはさう暑《あつ》くないのに文明《ぶんめい》が興《おこ》つたのはどうしたわけだらうかと前《まへ》に申《まを》しました。そのわけがこの黄土《こうど》なのです。この黄土《こうど》といふ特別《とくべつ》な地層《ちそう》があればこそ、あまり暑《あつ》くもないのに支那《しな》に古《ふる》い文明《ぶんめい》がわいたのでした。
 ですから支那《しな》の文明《ぶんめい》は、黄河《こうが》の上流《じようりゆう》地方《ちほう》の漢人《かんじん》の間《あひだ》から始《はじ》まりました。そしてその文明《ぶんめい》の範圍《はんい》はだん/\に廣《ひろ》がつて黄河《こうが》より南《みなみ》にある大《おほ》きな河《かは》、長江《ちようこう》(揚子江《ようすこう》)の沿岸《えんがん》の方《ほう》まで含《ふく》むようになりました。ですけれども、古《ふる》くは、この長江《ちようこう》流域《りゆういき》は、支那《しな》の文明《ぶんめい》のとゞいた區域《くいき》ではなく、この南《みなみ》の方《ほう》が支那《しな》文明《ぶんめい》の光《ひかり》を浴《あ》びたのは、かなり後《のち》のことです。支那《しな》の文明《ぶんめい》はまづ黄河《こうが》上流《じようりゆう》の漢人《かんじん》の間《あひだ》に興《おこ》つたのです。從《したが》つて『黄河《こうが》』と『黄土《こうど》』とは支那《しな》の農業《のうぎよう》、ひいては支那《しな》の文明《ぶんめい》の生《う》みの父母《ふぼ》とも申《まを》すことが出來《でき》ませう。

   三、三皇《さんこう》五帝《ごてい》

 黄河《こうが》の上流域《じようりゆういき》に住《す》んでゐた漢人《かんじん》は、早《はや》くから定着《ていちやく》の生活《せいかつ》をして農業《のうぎよう》を營《いとな》み、文明《ぶんめい》がわき出《で》たといふことは前《まへ》に申《まを》しましたが、そんならいつごろからさういふ文明《ぶんめい》が興《おこ》つたかといふと、はっきりしたことはまるでわかりません。
 支那《しな》のごく上代《じようだい》のことに關《かん》して、いろ/\のいひ傳《つた》へがありますが、いづれもそれは傳説《でんせつ》でありまして、正《たゞ》しい歴史上《れきしじよう》の事實《じじつ》ではないのです。これはどこの國《くに》でも古《ふる》い國《くに》ではみんなさうであつて、ごく昔《むかし》のことはたいてい信《しん》じ難《がた》いような傳説《でんせつ》の雲《くも》につゝまれてゐるのです。
 それで支那《しな》の古《ふる》い傳説《でんせつ》によりますと、支那《しな》のごく古《ふる》い時《とき》には、三皇《さんこう》五帝《ごてい》といふ神《かみ》さまのような王《おう》さまがあつたといふのです。
 三皇《さんこう》といふのはどんな王《おう》さまかといふと、いろ/\いひ傳《つた》へによつて違《ちが》ひますが、燧人氏《すいじんし》、伏犧氏《ふつきし》、神農氏《しんのうし》の三人《さんにん》ともいはれてゐます。
 燧人氏《すいじんし》といふのは、始《はじ》めて火《ひ》を作《つく》り出《だ》すことや、食物《しよくもつ》を火《ひ》で煮焚《にた》きすることを人民《じんみん》に教《をし》へたといふのです。
 伏犧《ふつき》といふ王《おう》さまは、また不思議《ふしぎ》な體《からだ》をしてゐるので、體《からだ》の部分《ぶぶん》は蛇《へび》で首《くび》だけは人間《にんげん》の首《くび》をしてゐたといふことです。結婚《けつこん》の制度《せいど》を定《さだ》めたり漁獵《ぎよりよう》を人民《じんみん》に教《をし》へたりしたと傳《つた》へられてゐます。神農氏《しんのうし》もまた負《ま》けず劣《おと》らず奇妙《きみよう》な體《からだ》の王《おう》さまで、體《からだ》は人間《にんげん》ですが首《くび》から上《うへ》は牛《うし》の恰好《かつこう》だつたといふのです。この王《おう》さまは人民《じんみん》に農業《のうぎよう》を教《をし》へた王《おう》さまだとして尊《たふと》ばれてゐました。またこの王《おう》さまはいろ/\の草《くさ》を嘗《な》めわけて、藥《くすり》になる草《くさ》を定《さだ》めたといひます。從《したが》つてこの神農氏《しんのうし》は、後《のち》の世《よ》の人《ひと》からは醫者《いしや》の元祖《がんそ》みたいにいひはやされました。
 かういふ三皇《さんこう》のあとに五帝《ごてい》が出《で》たといふのです。五帝《ごてい》といふ五人《ごにん》の王《おう》さま(同時《どうじ》に神樣《かみさま》)の名《な》も、傳《つた》へによつてまち/\です。この五帝《ごてい》といふ五人《ごにん》の王《おう》さまのうちで、一番《いちばん》有名《ゆうめい》なのは黄帝《こうてい》といふ王樣《おうさま》です。
 黄帝《こうてい》はいろんな爲事《しごと》をし、いろんなことを人民《じんみん》に教《をし》へたといひ傳《つた》へてをります。この王《おう》は始《はじ》めて舟《ふね》や車《くるま》を發明《はつめい》して交通《こうつう》の便《べん》を計《はか》つたり、蒼頡《そうきつ》といふ人《ひと》はこの帝《てい》のとき鳥《とり》の足跡《あしあと》を見《み》て文字《もじ》を製《せい》したりしたとも申《まを》します。この黄帝《こうてい》が蚩尤《しゆう》といふものと戰《たゝか》ひをしたことがありました。ところがその蚩尤《しゆう》といふ人《ひと》の額《ひたひ》は、銅鐵《どうてつ》で出來《でき》てゐてなか/\手剛《てごは》く、その上《うへ》その人《ひと》はよく霧《きり》を吹《ふ》き出《だ》して黄帝《こうてい》の軍《ぐん》を迷《まよ》はしたのです。
 そこで黄帝《こうてい》は、蚩尤《しゆう》に霧《きり》を吹《ふ》き出《だ》されても方角《ほうがく》を失《うしな》はないために指南車《しなんしや》といふものを發明《はつめい》して蚩尤《しゆう》の霧《きり》にまどはないようにして、遂《つひ》に蚩尤《しゆう》を打《う》ち破《やぶ》つたといふのです。
 指南車《しなんしや》といふのは、車《くるま》の上《うへ》に人形《にんぎよう》が立《た》つてゐて、車《くるま》がどつちへ向《むか》うが、人形《にんぎよう》はいつでも南《みなみ》を指《さ》すといふ仕掛《しか》けなのです。今《いま》でも私《わたし》どもは物《もの》の指《さ》し圖《ず》などをすることを『指南《しなん》する』といふのは、かうした指南車《しなんしや》のわけからです。
 三皇《さんこう》といひ五帝《ごてい》といひ、いづれも奇々《きゝ》怪々《かい/\》な人《ひと》とも神《かみ》ともつかないような王《おう》さまです。こんな人《ひと》が實際《じつさい》にゐたわけではもちろんないでせう。たゞ人智《じんち》の開《ひら》けなかつた時代《じだい》の支那人《しなじん》は、ずっと古《ふる》くかうした王《おう》があつたと信《しん》じてゐたゞけのことです。そして、かういふ王《おう》さまは人民《じんみん》のためにいろ/\の物《もの》を發明《はつめい》し、いろ/\の制度《せいど》を制定《せいてい》したりしてゐますが、これもそのまゝ實際《じつさい》のことではないでせう。いろ/\の發明《はつめい》とか制度《せいど》とかは人間《にんげん》が長《なが》い間《あひだ》かゝつて自然《しぜん》に出來《でき》て來《く》るもので、けっして一人《ひとり》の最《もつと》も古《ふる》い王《おう》さま達《たち》が前《まへ》もつて造《つく》つて置《お》いてくれるものではありません。例《たと》へば文字《もじ》の發明《はつめい》にしたところで、一人《ひとり》の人《ひと》が一時《いちじ》に勝手《かつて》に文字《もじ》をつくつて人民《じんみん》に使用《しよう》させるといふわけには行《ゆ》くものではありません。長《なが》い間《あひだ》かかつて、自然《しぜん》に大勢《おほぜい》の人《ひと》の手《て》で發達《はつたつ》して行《ゆ》くものです。
 ところが、昔《むかし》の人々《ひと/″\》にはかうしたわけがわからなかつたものですから、どんな發明《はつめい》でもどんな制度《せいど》でも、ずっと昔《むかし》の王《おう》さま達《たち》の發明《はつめい》かのようにかづけられてしまつたのです。

   四、堯《ぎよう》舜《しゆん》

 この五帝《ごてい》のうちで、後《のち》の支那《しな》の人《ひと》に一番《いちばん》尊敬《そんけい》されてゐるのは堯帝《ぎようてい》と舜帝《しゆんてい》とです。
 堯《ぎよう》といふ天子《てんし》は非常《ひじよう》に高徳《こうとく》の君《きみ》で、その御殿《ごてん》などもごく質素《しつそ》なものでした。五十年《ごじゆうねん》も天下《てんか》を治《をさ》めてゐながら、天下《てんか》がよく治《をさ》まつてゐるかゐないかも知《し》らなかつた、といふくらゐに、むりに天下《てんか》を治《をさ》めようとしなくつても、天下《てんか》がその天子《てんし》の徳《とく》に化《か》されて自然《しぜん》に泰平《たいへい》だつたといふのです。
 支那《しな》の人《ひと》は政治《せいじ》の理想《りそう》として、この堯《ぎよう》のようなやり方《かた》を最《もつと》も高《たか》いものと考《かんが》へてゐます。つまりむりに骨《ほね》を折《を》つて天下《てんか》を治《をさ》めるのではなくて、上《かみ》に立《た》つ人《ひと》の徳《とく》が大《おほ》きいので人民《じんみん》が自然《しぜん》とそれに靡《なび》いて自《おのづ》から天下《てんか》が治《をさ》まるといふこと――支那人《しなじん》はそれを『無爲《むい》にして化《か》す』と申《まを》しますが――を政治《せいじ》の極致《きよくち》としてをります。
 それですからこの堯《ぎよう》の政治《せいじ》のやり方《かた》は、かういふ政治《せいじ》の標本《ひようほん》として絶《た》えず後代《こうだい》の支那人《しなじん》によつて稱《たゝ》へられてゐます。
 堯《ぎよう》には丹朱《たんしゆ》といふ子《こ》がありましたが、親《おや》にも肖《に》ない子《こ》だつたもので、堯《ぎよう》の後《あと》をうけ嗣《つ》いだものは、他人《たにん》の舜《しゆん》でした。では、なぜ舜《しゆん》といふ他人《たにん》が堯《ぎよう》のあとゝりにされたのでせう。
 舜《しゆん》といふ人《ひと》は瞽叟《こそう》といふ人《ひと》の子《こ》だといふのです。ところがお父《とう》さんの瞽叟《こそう》は舜《しゆん》のまゝ母《はゝ》のいふなりになつて、まゝお母《かあ》さんの子《こ》の、弟《おとうと》の象《しよう》といふ子《こ》ばかり可愛《かわい》がつて舜《しゆん》を邪魔物《じやまもの》にしまして、すきさへあれば舜《しゆん》を殺《ころ》さうといたしました。
 舜《しゆん》はかわいそうに、お父《とう》さんやお母《かあ》さんや弟《おとうと》にいぢめられましたけれども、ちつとも怨《うら》みに思《おも》はず、ます/\父母《ふぼ》には孝行《こう/\》を盡《つく》し、弟《おとうと》をも大切《たいせつ》にいたしました。
 舜《しゆん》がかういふふうに徳《とく》の高《たか》いところから人民《じんみん》にしたはれて、そのまはりに大勢《おほぜい》人《ひと》が寄《よ》つて自然《しぜん》に町《まち》が出來《でき》るくらゐでした。その舜《しゆん》の親孝行《おやこう/\》の評判《ひようばん》があまり高《たか》いので、いつしか堯《ぎよう》の耳《みゝ》にはひりました。そこで堯《ぎよう》は舜《しゆん》の高徳《こうとく》にめで、自分《じぶん》の娘《むすめ》を妻《つま》に與《あた》へました。そして舜《しゆん》を登用《とうよう》して大臣《だいじん》にし、天下《てんか》の政《まつりごと》を行《おこな》はせました。堯《ぎよう》が死《し》んだ後《のち》は、舜《しゆん》が代《かは》つて天子《てんし》になつたのです。かういふふうな天子《てんし》の後《あと》つぎのやり方《かた》を禪讓《ぜんじよう》と申《まを》します。自分《じぶん》の子《こ》でなくて、徳《とく》の高《たか》い人《ひと》に天子《てんし》の位《くらゐ》を讓《ゆづ》ることなのです。
 支那人《しなじん》は、天子《てんし》といふものは天《てん》の子《こ》であつて、天《てん》に代《かは》つて人民《じんみん》を治《をさ》めるものと考《かんが》へてゐます。それならばどういふ人《ひと》が天《てん》に代《かは》つて人民《じんみん》を治《をさ》める資格《しかく》があるかと申《まを》しますと、徳《とく》の高《たか》い人《ひと》に天《てん》が任命《にんめい》するといふのです。
 日本人《につぽんじん》があらゆる道徳《どうとく》のうちで忠義《ちゆうぎ》といふことを一番《いちばん》貴《たふと》いものとしたように、支那人《しなじん》は孝行《こう/\》といふ徳《とく》を一番《いちばん》高《たか》いものとしてゐるのです。ですから舜《しゆん》が親孝行《おやこう/\》なゆゑに天子《てんし》の位《くらゐ》を讓《ゆづ》られたといふのは、それが支那人《しなじん》から見《み》て一番《いちばん》高徳《こうとく》だから天《てん》の命《めい》が下《くだ》つたといふわけなのです。かういふ禪讓《ぜんじよう》といふような位讓《くらゐゆづ》りは、事實上《じじつじよう》においてはたやすく行《おこな》はれることではありません。しかし、支那人《しなじん》の理想《りそう》として考《かんが》へてゐる天子《てんし》の位讓《くらゐゆづ》りは、親《おや》から子《こ》へと傳《つた》はつて行《ゆ》くのではなくて、この堯《ぎよう》舜《しゆん》のお話《はなし》に見《み》えるような、高徳《こうとく》の人《ひと》へ位《くらゐ》を讓《ゆづ》るといふ禪讓《ぜんじよう》にあるのです。堯《ぎよう》からかうやつて位《くらゐ》を讓《ゆづ》られた舜《しゆん》は、また實《じつ》によく天下《てんか》を治《をさ》めました。
 支那人《しなじん》は天下《てんか》の最《もつと》もよく治《をさ》まつた黄金《おうごん》時代《じだい》として、すぐ『堯《ぎよう》舜《しゆん》の世《よ》』といふふうに、堯《ぎよう》と舜《しゆん》とをあはせ稱《しよう》します。そして人君《じんくん》の理想《りそう》としてもこの二人《ふたり》の名《な》が常《つね》に擧《あ》げられます。
 ですけれども、まだこの邊《へん》のお話《はなし》は正《たゞ》しい歴史上《れきしじよう》の事實《じじつ》ではありませんから、堯《ぎよう》とか舜《しゆん》とかいふ王《おう》さまが事實上《じじつじよう》あつて、かういふ業《わざ》をしたかどうかは疑《うたが》はしいことですけれども、とにかく後《のち》の世《よ》に支那人《しなじん》は二言《ふたこと》めにはすぐ堯《ぎよう》舜《しゆん》、堯《ぎよう》舜《しゆん》といつて、あらゆる天子《てんし》の模範《もはん》として、二人《ふたり》を尊《たつと》んでをります。

   五、大洪水《だいこうずい》

 聖書《せいしよ》にノアのとき大地《だいち》が全部《ぜんぶ》かくれてしまふほどの大洪水《だいこうずい》があつて、ノアだけは箱船《はこふね》に乘《の》つてたすかつたが、あとの人類《じんるい》はみんな亡《ほろ》んでしまつたといふ話《はなし》があります。かういふ大洪水《だいこうずい》の話《はなし》は、このヘブライ民族《みんぞく》の間《あひだ》だけではなく、世界中《せかいじゆう》の方々《ほう/″\》の民族《みんぞく》の間《あひだ》に傳《つた》はつてゐますが、支那《しな》にもやはり大洪水《だいこうずい》の話《はなし》があるのです。
 この大洪水《だいこうずい》の起《おこ》つたのは、堯《ぎよう》の時《とき》からだといふのです。鯀《こん》といふ人《ひと》が選《えら》ばれて、この洪水《こうずい》を鎭《しづ》める役《やく》に當《あた》つたのですが、なか/\うまく行《ゆ》きません。鯀《こん》が役《やく》に立《た》たないので、舜《しゆん》はとう/\鯀《こん》を免職《めんしよく》して、鯀《こん》の子《こ》の禹《う》を擧《あ》げて治水《ちすい》のことに當《あた》らせました。
 禹《う》は親《おや》の不名譽《ふめいよ》を恢復《かいふく》しようといふ肚《はら》もあつたのでせうが、とにかく一《いつ》しょう懸命《けんめい》になつて治水《ちすい》につとめました。その骨折《ほねを》りは非常《ひじよう》なもので、十三年《じゆうさんねん》の間《あひだ》も外《そと》にゐて活動《かつどう》して、たま/\自分《じぶん》の家《いへ》の門《もん》の前《まへ》を通《とほ》つても、うちにははひらなかつたといふのです。陸《りく》を行《ゆ》くときは車《くるま》に乘《の》り、水《みづ》を行《ゆ》くときは船《ふね》に乘《の》り、泥《どろ》を行《ゆ》くときは橇《そり》に乘《の》り、山《やま》を行《ゆ》くときには、※[#「木+賛」、U+6AD5]《きく》といふかんぢき[#「かんぢき」に傍点]のようなものに乘《の》つて所《ところ》かまはずに走《はし》りめぐつて洪水《こうずい》を治《をさ》めました。そして方々《ほう/″\》の山々《やま/\》を切《き》り開《ひら》いて漲《みなぎ》つてゐる水《みづ》を落《おと》して洪水《こうずい》を鎭《しづ》めたのです。とにかくこの禹《う》の非常《ひじよう》な骨折《ほねを》りで、この大災難《だいさいなん》も免《まぬか》れたので、舜《しゆん》は禹《う》を非常《ひじよう》に嘉《よみ》しまして、禹《う》を擧《あ》げ用《もち》ひて舜《しゆん》の死《し》んだ後《あと》は禹《う》が代《かは》つて天子《てんし》になるようにしたのでした。もちろん舜《しゆん》にも子《こ》がありましたけれども、舜《しゆん》は天子《てんし》の位《くらゐ》を子《こ》に讓《ゆづ》らないで、他人《たにん》の禹《う》に讓《ゆづ》つたのでした。つまり禹《う》は舜《しゆん》から禪讓《ぜんじよう》のかたちで天子《てんし》の位《くらゐ》につきました。
 では、なぜ禹《う》は舜《しゆん》から禪讓《ぜんじよう》を受《う》けたのでせう。この禹《う》が治《をさ》めるのに成功《せいこう》した洪水《こうずい》といふのは、黄河《こうが》の洪水《こうずい》であつたのです。黄河《こうが》といふ川《かは》が上代《じようだい》の支那《しな》の人《ひと》にとつて、どれほど關係《かんけい》深《ふか》いかは前《まへ》に申《まを》しました。この川《かは》は實《じつ》にしば/\大氾濫《だいはんらん》をひき起《おこ》す川《かは》なのです。そしてこの川《かは》が氾濫《はんらん》したら最後《さいご》、せっかくの農作物《のうさくもつ》はみな押《お》し流《なが》されてしまひます。ですから支那《しな》の國《くに》ではずっと後《のち》の世《よ》まで、どうして黄河《こうが》の洪水《こうずい》を防《ふせ》ぐかといふことが、歴代《れきだい》の王《おう》さまの重要《じゆうよう》な問題《もんだい》であつたのです。禹《う》はかういふ後《のち》までも支那《しな》の人《ひと》を苦《くる》しめた黄河《こうが》の洪水《こうずい》を治《をさ》めるために苦心《くしん》した人《ひと》なのです。ですから支那人《しなじん》にとつて見《み》れば、救《すく》ひ主《ぬし》みたいな人《ひと》であるわけです。
 支那《しな》の人《ひと》がどういふ人《ひと》を理想《りそう》の天子《てんし》と考《かんが》へたかといふことは前《まへ》に申《まを》しました。徳《とく》の高《たか》い人《ひと》が天子《てんし》になるはずだといふのですが、その徳《とく》の高《たか》いといふ一方《いつぽう》また人民《じんみん》のために身《み》を粉《こ》にしても盡《つく》すといふ人《ひと》も、支那人《しなじん》の理想《りそう》の天子《てんし》の資格《しかく》の一《ひと》つです。
 禹《う》が支那人《しなじん》をずっと後《のち》まで苦《くる》しめた黄河《こうが》の洪水《こうずい》を治《をさ》めるためにあれまで努力《どりよく》したといふことは、支那人《しなじん》の天子《てんし》の理想《りそう》から見《み》て禪讓《ぜんじよう》を受《う》ける十分《じゆうぶん》の資格《しかく》があるわけでせう。

   六、酒《さけ》のとが

 禹《う》は、かういふふうに努力《どりよく》力行《りつこう》で天子《てんし》になつた人《ひと》ですが、天子樣《てんしさま》になるのが家柄《いへがら》といふようなものでなくて、その人《ひと》の徳《とく》によるのだと考《かんが》へるところが、日本《につぽん》の國《くに》と支那《しな》と違《ちが》ふところです。ですから、支那《しな》では乞食《こじき》坊主《ぼうず》が一躍《いちやく》して天子《てんし》になつたところで、支那人《しなじん》は少《すこ》しもそれをふつごうなことゝは考《かんが》へないで、その人《ひと》にそれだけの徳《とく》があるのだと、へいきで治《をさ》められてゐるのです。
 この禹《う》も天下《てんか》の政治《せいじ》には非常《ひじよう》に注意《ちゆうい》いたしました。ちょうどこの人《ひと》の時《とき》に儀狄《ぎてき》といふ人《ひと》が始《はじ》めてお酒《さけ》を作《つく》つたといふのです。もちろんそのお酒《さけ》が日本《につぽん》のお酒《さけ》みたいに米《こめ》で出來《でき》たものやらどういふお酒《さけ》やらわかりませんが、禹王《うおう》はこのお酒《さけ》を飮《の》んでたいへんおいしいとお思《おも》ひになつた。それで禹王《うおう》が普通《ふつう》の王樣《おうさま》だつたら儀狄《ぎてき》は御褒美《ごほうび》をたんといたゞくところでせうが、何《なに》しろ禹《う》といふ王《おう》さまは優《すぐ》れた方《かた》ですから、かうお考《かんが》へになりました。
「お酒《さけ》といふものはおいしいもだ[#「もだ」は底本のまま]。しかしそのおいしさに耽《ふけ》れば、このお酒《さけ》のために後《のち》にには[#「にには」は底本のまま]國《くに》を亡《ほろぼ》してしまふものも出《で》て來《こ》よう」
 さうした賢《かしこ》いお考《かんが》へから、この酒《さけ》の發明者《はつめいしや》の儀狄《ぎてき》をお近《ちか》づけにならなかつたといふことです。
 賢明《けんめい》な禹王《うおう》の先見《せんけん》は、けっして誤《あやま》りませんでした。禹王《うおう》の子孫《しそん》がずっと建《た》てゝゐた夏《か》といふ帝國《ていこく》が亡《ほろ》んだのも、その最後《さいご》の王《おう》さまの桀《けつ》が酒《さけ》に溺《おぼ》れて國《くに》の政治《せいじ》をなげやりにしたせいだと申《まを》します。しかし、酒《さけ》はひとり夏《か》の國《くに》を亡《ほろぼ》したのみならず、實《じつ》に多《おほ》くの國《くに》を亡《ほろぼ》しました。たゞ國《くに》を亡《ほろぼ》したゞけではありません。そのおいしさは實《じつ》に世《よ》の多《おほ》くの人々《ひと/″\》の身《み》を誤《あやま》り、その毒《どく》は多《おほ》くの人《ひと》の體《からだ》をそこねたのです。
 禹《う》が考《かんが》へた酒《さけ》の害毒《がいどく》といふことは、今日《こんにち》の世《よ》にもそのまゝあてはまることです。禹《う》がほんとうにさういふことをいつたかどうかは、わかつたものではありませんが、その言葉《ことば》にはかみしめなければならないものが含《ふく》まれてをります。
 禹《う》はまた禪讓《ぜんじよう》の位《くらゐ》ゆづりのやり方《かた》で、益《えき》といふ人《ひと》を次《つ》ぎの天子《てんし》に立《た》てるつもりでゐたのでした。ところが禹《う》が死《し》んで見《み》ると、人民《じんみん》は新《あたら》しい天子《てんし》に御挨拶《ごあいさつ》に行《ゆ》くといふのに、この益《えき》の所《ところ》へはまゐりませんで、禹《う》の實際《じつさい》の子《こ》であつた啓《けい》といふ人《ひと》の所《ところ》へ押《お》し寄《よ》せたのです。そして啓《けい》のことを『わが君《きみ》禹《う》の御子《おこ》さんだ』といつて、天子《てんし》としてまつりあげてしまつたのです。ですから禹《う》の次《つ》ぎには他人《たにん》の益《えき》が立《た》たずに、禹《う》の實子《じつし》啓《けい》があとをつぎました。これからずっと禹《う》の子孫《しそん》が位《くらゐ》につきました。堯《ぎよう》舜《しゆん》禹《う》と位《くらゐ》の傳《つた》はつて來《き》た間《あひだ》は禪讓《ぜんじよう》だつたのですが、禹《う》から後《のち》はその血統《けつとう》のものが位《くらゐ》を嗣《つ》ぐようになりました。つまり王位《おうい》の世襲《せしゆう》といふことがらが起《おこ》つたわけなのです。
 支那《しな》でも普通《ふつう》に行《おこな》はれる世嗣《よつ》ぎの法《ほう》はこの世襲《せしゆう》なのでして、前《まへ》に申《まを》した禪讓《ぜんじよう》などといふことは、だいたい支那人《しなじん》の理想《りそう》で、事實上《じじつじよう》において容易《ようい》に行《おこな》はれることではないのです。
 この禹《う》の子孫《しそん》が立《た》てゝゐた國《くに》のことを夏《か》と申《まを》します。

   七、夏《か》王朝《おうちよう》

 この禹《う》の子孫《しそん》が、ずっと代々《だい/″\》王《おう》さまになつたといふのが夏《か》の國《くに》だと前《まへ》に申《まを》しました。夏《か》の國《くに》といふものゝ實際《じつさい》は、夏《か》の王朝《おうちよう》と申《まを》した方《ほう》が正《たゞ》しいのです。
 支那《しな》では、自分《じぶん》の國《くに》をよぶ名前《なまへ》がありませんでした。それでたゞ中國《ちゆうごく》――世界《せかい》の眞中《まんなか》の國《くに》――とか、中華《ちゆうか》――やはり中國《ちゆうごく》と同《おな》じ意味《いみ》――とか申《まを》してゐたゞけです。そして、この夏《か》とか次《つ》ぎの殷《いん》とか周《しゆう》といふのは、ちょっと見《み》ると國《くに》の名《な》らしいけれど、實際《じつさい》は王朝《おうちよう》の名《な》なのであります。
 日本《につぽん》の國《くに》では、天子樣《てんしさま》の血統《けつとう》はずっと一《ひと》つでございます。從《したが》つて日本《につぽん》の天子樣《てんしさま》には、姓《せい》といふものは必要《ひつよう》がありませんが、支那《しな》は日本《につぽん》と國柄《くにがら》がまるで違《ちが》ひまして、いろんな血統《けつとう》の人《ひと》が天子《てんし》になつてゐるのです。それですから夏《か》とか殷《いん》とか周《しゆう》とかいふのは、みなその血統《けつとう》の一《ひと》つ/\なのでございます。
 この夏《か》の血統《けつとう》は、約《やく》十七代《じゆうしちだい》、四百《しひやく》三十二年《さんじゆうにねん》つゞいたといふのですが、その最後《さいご》の王《おう》さまが桀《けつ》といふ人《ひと》でした。夏《か》の王朝《おうちよう》を開《ひら》いた禹《う》が優《すぐ》れた人《ひと》であつたと反對《はんたい》に、この桀《けつ》といふ人《ひと》はごく惡《わる》い人《ひと》でした。
 この王樣《おうさま》は、無道《ぶどう》で亂暴《らんぼう》で、人民《じんみん》が苦《くる》しむことなどはかまはずに贅澤《ぜいたく》をきはめたのでした。豪奢《ごうしや》を極《きは》めた御殿《ごてん》を作《つく》つたり、また宴會《えんかい》をするときは肉《にく》を山《やま》のように積《つ》みあげ、酒《さけ》を池《いけ》のようにたゝへたりしてらんちき[#「らんちき」に傍点]騷《さわ》ぎをいたしました。桀《けつ》といふこの夏《か》王朝《おうちよう》の最後《さいご》の王《おう》がかういつた手《て》のつけられない王《おう》さまだつたので、人民《じんみん》の心《こゝろ》がこの王《おう》から去《さ》つたことはいふまでもありません。
 この時《とき》、諸侯《しよこう》の一人《ひとり》に湯《とう》といふ人《ひと》がありましたが、桀《けつ》があまり無道《ぶどう》であつて人民《じんみん》の苦《くる》しむのをへいきでゐるのを見《み》かねて兵《へい》を擧《あ》げて桀《けつ》を伐《う》ち、とう/\桀《けつ》を亡《ほろぼ》してしまひました。そして自《みづか》ら桀《けつ》に代《かは》つて天子《てんし》の位《くらゐ》につきました。ですから禹《う》によつて創《はじ》められた王朝《おうちよう》は、桀《けつ》に至《いた》つてその無道《ぶどう》のために亡《ほろ》びました。そして湯《とう》をその祖《そ》とする殷《いん》の王朝《おうちよう》が、出來《でき》たのです。かういふ王朝《おうちよう》の代變《だいがは》りのことを支那《しな》では革命《かくめい》と申《まを》します。
 前《まへ》にも申《まを》しましたように、支那《しな》では天子《てんし》になるのは、天《てん》の命《めい》を受《う》けて天子《てんし》になるのだと思《おも》つてゐます。ところが、ある王朝《おうちよう》の王《おう》が天子《てんし》になる直《ね》うちもない徳《とく》の人《ひと》である場合《ばあひ》は、天《てん》の命《めい》はその王朝《おうちよう》を去《さ》つてよその王朝《おうちよう》へ下《くだ》るようになるのです。かういふふうに、天《てん》の命《めい》が革《かは》るといふところから革命《かくめい》と申《まを》すのです。
 この夏《か》王朝《おうちよう》から殷《いん》王朝《おうちよう》への革命《かくめい》は、平和《へいわ》に行《おこな》はれたのではなくて、武力《ぶりよく》に訴《うつた》へて行《おこな》はれました。この武力《ぶりよく》による王朝《おうちよう》の代變《だいがは》りといふことは、これからの支那《しな》の歴史《れきし》ではごくあたりまへのことでありまして、日本《につぽん》の天子樣《てんしさま》の萬世《ばんせい》一系《ゝつけい》と比《くら》べて見《み》て、兩方《りようほう》の國《くに》の國柄《くにがら》がどれほど違《ちが》ふかゞわかるでせう。

   八、殷《いん》王朝《おうちよう》

 桀《けつ》に代《かは》つて新《あらた》に殷《いん》王朝《おうちよう》を興《おこ》した湯《とう》は、桀《けつ》とはまるで反對《はんたい》に有徳《ゆうとく》な情深《なさけぶか》い人《ひと》だつたといふのです。
 あるとき湯《とう》が外出《がいしゆつ》しますと、網《あみ》を張《は》つて鳥《とり》や獸《けもの》を捕《と》らうとする人《ひと》が目《め》にはひりました。近寄《ちかよ》つて見《み》ますと、その人《ひと》は網《あみ》を四方《しほう》に張《は》つて、逃《に》げ場《ば》のないようにしてゐました。そしてかう申《まを》しました。
「天《てん》から降《くだ》つたのも、地《ち》から出《で》たのも、四方《しほう》から來《き》たのも、みなこの網《あみ》にかゝれ」
湯《とう》はこの言葉《ことば》をきいて歎《なげ》いて、
「それではひどすぎる」
といつて、四面《しめん》に張《は》つた網《あみ》の三面《さんめん》を解《と》きはなし、一面《いちめん》だけにして申《まを》しました。
「左《ひだり》に行《ゆ》かうと思《おも》ふものは左《ひだり》に行《ゆ》くがいゝ。右《みぎ》に行《ゆ》かうと思《おも》ふものは右《みぎ》に行《ゆ》くがいゝ。だが私《わたし》の命令《めいれい》に從《したが》はないものは、仕方《しかた》がないからこの網《あみ》にかゝるがいゝ」
かういふ湯《とう》の情深《なさけぶか》い言葉《ことば》をきいて、當時《とうじ》の諸侯《しよこう》たちは、
「湯《とう》の徳《とく》は鳥獸《ちようじゆう》にまで及《およ》んでゐる」
と、感心《かんしん》したといふのです。
 桀《けつ》があんなに無道《ぶどう》なのにひきかへて、この湯《とう》はこんなに徳《とく》の高《たか》い人《ひと》ですから、天下《てんか》の人望《じんぼう》が桀《けつ》を去《さ》つて湯《とう》にあつまり、湯《とう》がつひに王位《おうい》に即《つ》いたのもむりはありません。
 桀《けつ》といふ人《ひと》が實際《じつさい》にそんな惡《わる》い人《ひと》であつたか、また湯《とう》といふ人《ひと》がほんとにあんな傑《すぐ》れた人《ひと》であつたかは疑《うたが》はしいかもしれません。しかしたとひ王《おう》さまであつても無道《ぶどう》なら王《おう》さまの直《ね》うちのないもの、たとひ平民《へいみん》でも有徳《ゆうとく》なら王《おう》さまになる資格《しかく》のあるものと考《かんが》へるくせのある支那人《しなじん》から見《み》れば、新《あらた》に一《ひと》つの王朝《おうちよう》の創立者《そうりつしや》となつた人《ひと》は、どこか有徳《ゆうとく》なところがなければならないわけですし、それにひきかへて、ある王朝《おうちよう》の最後《さいご》の王《おう》さまはきはめて無道《ぶどう》な人《ひと》とされてしまひます。
 桀《けつ》と湯《とう》とが、かういふふうに惡《あく》と善《ぜん》とをあらはして向《むか》ひ合《あ》つてゐるのも、一《ひと》つにはかうした支那人《しなじん》特有《とくゆう》の考《かんが》へ方《かた》によるのでせう。
 湯《とう》の創《はじ》めた殷《いん》の王朝《おうちよう》は、三十一代《さんじゆういちだい》六百年《ろつぴやくねん》あまりつゞいて紂《ちゆう》といふ王《おう》さまに至《いた》つて亡《ほろ》びました。この紂《ちゆう》といふ王《おう》さまは、前《まへ》の夏《か》王朝《おうちよう》の最後《さいご》の王《おう》の桀《けつ》とならんで桀紂《けつちゆう》といふ暴虐《ぼうぎやく》な君《きみ》をあらはす熟語《じゆくご》さへ出來《でき》てゐるくらゐ桀《けつ》にも劣《おと》らないわるい王《おう》さまでした。もと/\紂《ちゆう》といふ人《ひと》は本來《ほんらい》すぐれたところのある人《ひと》で、口《くち》はごく達者《たつしや》で手《て》づから猛獸《もうじゆう》と格鬪《かくとう》出來《でき》るくらゐの力《ちから》もあり、その智慧《ちえ》は人《ひと》が諫言《かんげん》するのを拒《こば》むに十分《じゆうぶん》で、その言葉《ことば》は自分《じぶん》の惡《わる》いところをごまかせるだけ上手《じようず》でした。
 この王樣《おうさま》が始《はじ》めて象牙《ぞうげ》の箸《はし》を作《つく》りました。その時《とき》、王樣《おうさま》の親戚《しんせき》で箕子《きし》といふ賢《かしこ》い人《ひと》がこの話《はなし》を聞《き》いて、
「箸《はし》を象牙《ぞうげ》で作《つく》つた以上《いじよう》、器《うつは》だつて前《まへ》のように土《つち》で作《つく》つたものでは滿足《まんぞく》しないで、玉《ぎよく》で作《つく》るようになるだらう。さうすれば食《た》べ物《もの》だつて衣服《いふく》だつて住居《すまゐ》だつて、だん/″\贅澤《ぜいたく》になつて、しまひには天下《てんか》の物《もの》をもつてしても足《た》らなくなつてしまはう」
と、歎息《たんそく》したといふのでした。
 紂《ちゆう》のおごりは次第《しだい》にきはまりました。紂《ちゆう》は、姐已《だつき》といふ女《をんな》を寵愛《ちようあい》いたしまして、そのいふことならなんでも聽《き》くといふありさまで、人民《じんみん》からしぼる租税《そぜい》を重《おも》くして、それでもつて贅澤《ぜいたく》三昧《ざんまい》をきめこみました。酒池《しゆち》肉林《にくりん》の宴會《えんかい》をやり、夜晝《よるひる》ぶっとほしに遊《あそ》びたはむれてゐました。そこで百姓《ひやくしよう》たちは不平《ふへい》の聲《こゑ》を立《た》てるし、諸侯《しよこう》の間《あひだ》にも心《こゝろ》を紂王《ちゆうおう》から離《はな》すものがありました。
 紂王《ちゆうおう》はかういふ人《ひと》たちを抑《おさ》へるつもりで刑罰《けいばつ》を重《おも》くし、銅《どう》の柱《はしら》に膏《あぶら》を塗《ぬ》つて炭火《すみび》の上《うへ》に横《よこ》たへ、その上《うへ》を罪人《ざいにん》に歩《ある》かせる刑罰法《けいばつほう》を思《おも》ひつきました。さうすると熱《ねつ》のため膏《あぶら》がとけて柱《はしら》がぬら/\になるでせう。罪人《ざいにん》はどうしても足《あし》をすべらして火《ひ》の中《なか》に落《お》ち込《こ》みます。紂王《ちゆうおう》はこれを炮烙《ほうろく》の刑《けい》と名《な》づけて姐已《だつき》と一《いつ》しょにこの殘酷《ざんこく》な光景《こうけい》を見《み》るのを樂《たの》しみにしました。かういふふうに、贅澤《ぜいたく》で無道《ぶどう》では人々《ひと/″\》の心《こゝろ》が去《さ》つて行《ゆ》くのは當然《とうぜん》です。民心《みんしん》が紂《ちゆう》から離《はな》れたあげく、紂《ちゆう》は周《しゆう》の武王《ぶおう》といふ賢《かしこ》い諸侯《しよこう》に破《やぶ》られて死《し》に、殷《いん》の王朝《おうちよう》は亡《ほろ》びました。
 この紂王《ちゆうおう》と桀王《けつおう》とは、後々《のち/\》まで惡《わる》い王《おう》さまの代表《だいひよう》となつて桀紂《けつちゆう》といふ言葉《ことば》さへ出來《でき》てゐます。ちょうどいゝ王樣《おうさま》の代表《だいひよう》として堯舜《ぎようしゆん》といふ言葉《ことば》が出來《でき》たのと同《おな》じわけあひです。
 桀《けつ》といふ惡《わる》い王樣《おうさま》も、紂《ちゆう》といふ惡《わる》い王樣《おうさま》も、いづれも他《た》の人《ひと》に攻《せ》め亡《ほろぼ》されてしまつて、新《あたら》しい國《くに》がこれに代《かは》りました。かういふ國《くに》の代《だい》がはりを革命《かくめい》といふことは前《まへ》に申《まを》しましたが、そのときから惡《わる》い王樣《おうさま》を攻伐《こうばつ》することを放伐《ほうばつ》と申《まを》します。
 王樣《おうさま》とは貴《たふと》い位《くらゐ》です。ですが支那人《しなじん》の考《かんが》へでは、惡《わる》い王樣《おうさま》といふものは、王樣《おうさま》になる資格《しかく》がない。だからいくらそんな王樣《おうさま》の位《くらゐ》が貴《たふと》くとも、そんな王樣《おうさま》なら征伐《せいばつ》しても差《さ》し支《つか》へないといふのですから、支那《しな》の人《ひと》は、その人《ひと》が徳《とく》さへ高《たか》ければ、たとひ百姓《ひやくしよう》であつても王樣《おうさま》の位《くらゐ》を讓《ゆづ》る(禪讓《ぜんじよう》)のをあたりまへと考《かんが》へたと同《おな》じように、たとひ天子《てんし》でも、その徳《とく》が低《ひく》ければこれを攻伐《こうばつ》する(放伐《ほうばつ》)ことを當然《とうぜん》と思《おも》つてゐるのです。(つづく)



底本:『東洋歴史物語 No.7』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • [シナ]
  • 支那 しな (「秦(しん)」の転訛) 外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
  • 中国 ちゅうごく 東アジアの国。きわめて古い時代に黄河中流域に定住した漢民族の開いた国で、伝説的な夏王朝に次いで、前16世紀頃から殷王朝が興り、他民族と対立・統合を繰り返しつつ、周から清までの諸王朝を経て、1912年共和政体の中華民国が成立、49年中華人民共和国が成立。
  • 黄河 こうが (Huang He) (水が黄土を含んで黄濁しているからいう)中国第2の大河。青海省の約古宗列盆地の南縁に発源し、四川・甘粛省を経て陝西・山西省境を南下、汾河・渭河など大支流を合わせて東に転じ、華北平原を流れて渤海湾に注ぐ。しばしば氾濫し、人民共和国建国後に大規模な水利工事が行われた。近年下流部で水量の減少が著しい。全長5464キロメートル余。流域は中国古代文明の発祥地の一つ。河。
  • 揚子江 ようすこう (Yanzi Jiang) 長江の通称。本来は揚州付近の局部的名称。
  • 長江 ちょうこう (Chang Jiang) 中国第一の大河。青海省南西部に発源、雲南・四川の省境を北東流し、重慶市を貫き、三峡を経て湖北省を横断、江西・安徽・江蘇3省を流れて東シナ海に注ぐ。全長約6300キロメートル。流域は古来交通・産業・文化の中心。揚子江。大江。江。
  • 珠江 しゅこう (Zhu Jiang) 中国南部の大河。雲南省東部に発源、本流は西江。東江・北江等の支流を合わせ、三水から多くの分流を派出して珠江デルタを形成。全長約2200キロメートル。粤江。沈珠浦。
  • [インド]
  • インド 印度 (India) (1) 南アジア中央部の大半島。北はヒマラヤ山脈を境として中国と接する。古く前2300年頃からインダス流域に文明が栄え、前1500年頃からドラヴィダ人を圧迫してアーリア人が侵入、ヴェーダ文化を形成。前3世紀アショーカ王により仏教が興隆。11世紀以来イスラム教徒が侵入、16世紀ムガル帝国のアクバル帝が北インドの大部分を統一。一方、当時ヨーロッパ諸国も進出を図ったが、イギリスの支配権が次第に確立、1858年直轄地。第一次大戦後、ガンディーらの指導で民族運動が急激に高まり、第二次大戦後、ヒンドゥー教徒を主とするインドとイスラム教徒を主とするパキスタンとに分かれて独立。古名、身毒・天竺。(2) インド(1) の大部分を占める共和国。1947年英国より独立、50年共和制。農畜産を主とするが、地下資源に恵まれ工業も発達。民族・言語・宗教構成は複雑。ヒンドゥー教を主とし、公用語はヒンディー語、英語はこれに準ずる。首都ニューデリー。面積328万7000平方キロメートル(中国・パキスタンとの係争地を含む)。人口10億8560万(2004)。インディア。バーラト。
  • インダス川 Indus インド北西部からパキスタンを流れる川。チベットに発源、パンジャブ地方・タール砂漠西辺を経て、アラビア海に注ぐ。全長約2900キロメートル。流域では、前2300〜前1800年頃インダス文明が栄えた。
  • ガンジス川 Ganges インドの大河。西部ヒマラヤ山脈に発源、諸支流を合わせて南東に流れ、ベンガル湾に注ぐ。長さ約2500キロメートル。ヒンドスタン大平原を形成、下流はインドの主要米作地帯。三角洲はブラマプトラ川と合し、広大。ヒンドゥー教徒の崇拝の対象で、流域に聖地が多い。恒河。ガンガー。
  • [エジプト]
  • エジプト Egypt・埃及。アフリカ北東部にある共和国。約5000年前に統一国家を形成、古代文明の発祥地で、ピラミッドなどの遺跡が多い。13世紀以後、イスラム世界の文化的中心。1882年イギリスに占領されたが、独立運動が盛んで、1922年立憲王国。52年革命の結果、共和国。58〜61年、シリアとアラブ連合共和国を形成。71年エジプト‐アラブ共和国と改称。住民の大多数はイスラム教徒で、コプト教徒も居住。綿花・穀物・サトウキビなどの農産物に富む。面積100万1000平方キロメートル。人口7122万(2004)。首都カイロ。ミスル。
  • ナイル川 Nile アフリカ大陸北東部を北流する世界最長の大河。ヴィクトリア湖西方の山地に発源、同湖とアルバート湖とを経、白ナイルと呼ばれて北流、南スーダンを過ぎ、ハルツーム付近で東方エチオピア高原から流下する青ナイルと合して、エジプトを貫流し、地中海に注ぐ。長さ6650キロメートル。下流域は灌漑による農業地帯で、古代文明発祥の地。
  • [バビロン]
  • バビロン Babylon イラク中部にあった、メソポタミアの古代都市。バビロン第1王朝の首都。新バビロニア王国の当時も、世界都市として栄えた。後代荒廃。
  • チグリス川 Tigris 小アジアからメソポタミアへと流れる川。トルコ東部の山地に発源し、ユーフラテス川と合流してペルシア湾に注ぐ。その流域にはバビロニア・アッシリアの古代文明が興った。全長1900キロメートル。ティグリス。
  • ユーフラテス川 Euphrates 西アジア第一の大河。トルコ東部の山地に発源し、南流してシリア・イラクを南東に貫流、チグリス川と合してペルシア湾に注ぐ。長さ約2800キロメートル。その下流域のメソポタミア平原は氾濫のため沃地となり、ここにバビロニア・アッシリアの文明が興った。エウフラテス。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 夏 か (呉音はゲ) (1) 殷の前にあったとされる中国最古の王朝。伝説では、禹が舜の禅を受けて建国。都は安邑(山西省)など。紀元前21〜16世紀頃まで続く。桀に至り、殷の湯王に滅ぼされたという。殷に先行する時代の都市遺跡が夏王朝のものと主張される。
  • 殷 いん 中国の古代王朝の一つ。「商」と自称。前16世紀から前1023年まで続く。史記の殷本紀によれば、湯王が夏を滅ぼして始めた。30代、紂王に至って周の武王に滅ぼされた。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。
  • 周 しゅう 中国の古代王朝の一つ。姓は姫。殷に服属していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた。幽王の子の携王までは鎬京に都したが、前770年平王が成周(今の洛陽付近)に即位し、いったん周は東西に分裂。西の周はまもなく滅亡。以上を東遷といい、東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代にあたる)という。(前1023〜前255)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 関羽 かん う ?-219 三国の蜀漢の武将。字は雲長。諡は忠義侯。山西解の人。劉備・張飛と義兄弟の約を結ぶ。容貌魁偉、美髯を有し、義勇をもってあらわれ、劉備を助けて功があり、のち魏・呉両軍に攻められ呉の馬忠に殺された。後世軍神・財神として各地に廟(関帝廟)を建てて祀った。
  • 燧人氏 すいじんし 中国古伝説上の帝王。伏羲氏の前に当たり、火の技術を教えたという。
  • 伏犠 ふっき 伏犠・伏羲。中国古伝説上の三皇の一人。人首蛇身で、燧人氏に代わって帝王となり、初めて八卦・書契・網罟・瑟を作り、庖厨を教え、婚姻の制を設けたと伝える。庖犠(包犠)。太。
  • 神農 しんのう 中国古伝説上の帝王。三皇の一人。姓は姜。人身牛首、民に耕作を教えた。五行の火の徳を以て王となったために炎帝という。百草をなめて医薬を作り、5弦の琴を作り、八卦を重ねて六十四爻を作る。神農氏。
  • 黄帝 こうてい 中国古代伝説上の帝王。三皇五帝の一人。姓は姫、号は軒轅氏。炎帝の子孫を破り、蚩尤を倒して天下を統一、養蚕・舟車・文字・音律・医学・算数などを制定したという。陝西省の黄帝陵に祭られ、漢民族の始祖として尊ばれる。
  • 蒼頡 そうきつ/そうけつ 蒼頡・倉頡。黄帝の臣。鳥の足跡をみて初めて文字を作ったといわれる。
  • 蚩尤 しゆう 中国の古伝説上の人物。神農氏の時、乱を起こし、黄帝と�鹿の野に戦う。一説に、濃霧を起こして敵を苦しめたが、黄帝は指南車を作って方位を示し、ついにこれを捕らえ殺したという。
  • 尭 ぎょう 中国古代の伝説上の聖王。名は放勲。帝�]の子。舜と並んで中国の理想的帝王とされる。陶唐氏。唐尭。帝尭。
  • 舜 しゅん 中国の古代説話に見える五帝の一人。��の6世の孫。虞の人で、有虞氏という。父は舜の異母弟の象を愛し、常に舜を殺そうと計ったが、舜はよく両親に孝を尽くした。尭の知遇を得て摂政となり、その娥皇と女英の二人の娘を妻とした。尭の没後、帝位につき、天下は大いに治まった。南方を巡幸中に、蒼梧の野で死んだと伝える。大舜。虞舜。
  • 丹朱 たんしゅ 尭の子。
  • 瞽叟 こそう (1) 盲目の老翁。(2) 古代中国の舜帝の父の名。
  • 象 しょう 舜の義弟。まま母の子。
  • ノア Noah 旧約聖書創世記6章以下の洪水伝説中の主人公。人類の堕落がもとで起きた大洪水に、方舟に乗って難を免れるよう神に命ぜられ、新しい契約を授かって、アダムにつぐ人類の第2の祖先になったという。
  • 鯀 こん 中国古代伝説上の人物。尭の臣。��の子、禹の父。治水に従うこと9年、功が挙がらなかったので誅されたという。
  • 禹 う 中国古代伝説上の聖王。夏の始祖。鯀の子で、舜の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分けて、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位につき、安邑(山西省)に都し、国を夏と号し、禹の死後、世襲王朝となったという。大禹。夏禹。夏伯。
  • 儀狄 ぎてき 中国古伝説上の人物。夏のとき、初めて酒を造る。禹はその害を憂え、酒を絶ったという。
  • 桀 けつ 夏の最後の君主。履癸ともいう。殷の湯王に討たれ鳴条(山西省安邑県の北、現運城市)に走って死んだという。暴君の典型として殷の紂王と併称。桀王。
  • 益 えき 
  • 啓 けい 禹の実際の子。
  • 湯 とう 商(殷)の湯王のこと。
  • 湯王 とうおう 殷(商)王朝を創始した王。殷の祖契より14世目。夏の桀王を討ち滅ぼす。亳(河南偃師とする説が有力)に都し、伊尹などを用いた。商湯。成湯。武湯。大乙。
  • 紂 ちゅう ?-前1023 殷王朝の最後の王。妲己を愛し、酒池肉林に溺れ、虐政のため民心が離反したといい、周の武王に滅ぼされた。夏の桀王とともに暴君の代表とされる。帝辛。殷紂。紂王。
  • 箕子 きし 殷の貴族。名は胥余。伝説では、紂王の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、朝鮮王として人民教化に尽くしたとされる。
  • 妲己 だっき 殷の紂王の寵妃。淫楽・残忍を極めたといわれる。
  • 武王 ぶおう 周王朝の祖。姓は姫。名は発。文王の長子。弟周公旦を補佐とし、太公望を師とし、殷の紂王を討ち天下を統一、鎬京を都とした。在位10年余。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『西洋歴史物語』 せいよう れきし ものがたり 日本兒童文庫 No.4〜6、アルス。執筆、上巻は村川堅固、中巻は大類 伸、下巻は斎藤清太郎が担当。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 漢人 かんじん (1) 漢族の人。漢民族。また、ひろく中国の人をいう。(2) 元代、旧金朝治下の漢人・契丹人・女真人などの称。旧南宋下の南人と区別された。
  • 黄土 こうど/おうど (1) 中国北部・ヨーロッパ・アメリカ合衆国中央部などに広く分布している厚い黄灰色の主として風成の堆積物。更新世の氷期に大陸氷の周辺地域や、氷河・周氷河作用をうけた高山帯山麓の沖積平野の堆積物が風で運ばれて堆積。レス。(2) オーカーに同じ。
  • 上代 じょうだい (1) おおむかし。太古。上世。
  • 三皇 さんこう 中国古代の伝説上の三天子。伏羲・女�・神農、天皇・地皇・人皇など諸説がある。
  • 五帝 ごてい 古代中国の伝説上の五聖君。「史記」には黄帝・��・帝�]・尭・舜を、「帝王世紀」には小昊・��・帝�]・尭・舜を挙げる。
  • 指南車 しなんしゃ 古代の、方向を指し示す車。上に仙人の木像をのせ、歯車の仕掛けで、最初に南に向けておくと常に南を指すように装置した。中国で3世紀頃作られたが、伝説では黄帝が蚩尤と�鹿の野に戦い、大霧に襲われたので、これを作って兵士に方向を教え示したといい、周初に越裳氏の使者が来貢し、その帰路に迷ったから、周公がこれを授けて国に帰らせたとも伝える。
  • かずける 被ける (1) 頭にかぶらせる。(2) 祝儀や褒美として衣類をその人の肩にかけさせる。かずけものを与える。(3) かこつける。ことよせる。(4) いやがるものなどを押しつける。責任などを転嫁する。
  • 無為にして化す むいにしてかす [老子第57章「我無為にして民自ら化す」]ことさら手段を用いなくても、自然のままにまかせておけば人民は自然に感化される。聖人の理想的な政治のあり方をいう。
  • 禅譲 ぜんじょう (1) 中国で、帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。尭が舜に、舜が禹に帝位を譲った類。(2) 天子が皇位を譲ること。
  • 尭舜 ぎょう しゅん 尭と舜。中国の伝説で、徳をもって天下を治めた古代の理想的帝王として並称される。
  • 尭舜時代 ぎょう しゅん じだい 尭・舜が徳で天下を治めた時代。治世の模範とする。
  • 人君 じんくん 人の君たるもの。君主。
  •  きく かんじきのようなもの。
  • 嘉する よみする (「良みす」の意)(目上の者が目下の者を)愛でたたえる。ほめる。
  • とが 咎・科 (1) とがめなければならない行為。あやまち。(2) 非難されるような欠点。短所。(3) とがめ。非難。(4) 罪となる行為。罪。(5) 罪によって科せられる罰。処罰。◇責任を負うべき過失・あやまちの場合に「咎」、法律上罪となる行いの場合に「科」と書き分けることがある。
  • 力行 りっこう (1) 努力して行うこと。りょっこう。
  • 乞食坊主 こじき ぼうず 僧侶をあざけっていう語。
  • 王朝 おうちょう (1) 帝王親政の宮廷。(2) (dynasty) 同じ王家に属する帝王の系列。また、その君臨する時期。
  • 中華 ちゅうか 中国で、漢族が、周囲の文化的におくれた各民族(東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ぶ)に対して、自らを世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ自称。中夏。
  • 無道 ぶとう (ムドウ・ブドウとも)道理にそむくこと。人たる道にそむくこと。非道。不道。不法。
  • 豪奢 ごうしゃ ぜいたくで、はでなこと。はなばなしい贅沢。
  • 革命 かくめい (1) [易経革卦「湯武命を革(あらた)めて、天に順(したが)い人に応ず」]天命があらたまること。天命をうけた有徳者が暗君に代わって天子となること。易姓革命。(2) 辛酉の歳の称。讖緯説・陰陽道で、この年に変乱が多いといい、日本では改元してそれを避けるのが慣例であった。(3) (revolution) (ア) 従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること。(イ) ある状態が急激に発展、変動すること。
  • 万世一系 ばんせい いっけい 永遠に同一の系統がつづくこと。多く皇統についていわれた。
  • 桀紂 けっちゅう 夏の桀王と殷の紂王。暴虐無道の君主として併称。
  • 諫言 かんげん 目上の人の非をいさめること。また、その言葉。
  • 炮烙・焙烙 ほうらく (1) あぶりやくこと。また、つつみやくこと。(2) ほうろく。(3) 殷の紂王の行なった刑罰。油を塗った銅柱を炭火の上に架け渡して罪人を渡らせたという。
  • 攻伐 こうばつ 攻めうつこと。
  • 放伐 ほうばつ 中国人の革命観において、徳を失った君主を討伐して放逐すること。
  • ヘブライ民族 Hebraios 他民族がイスラエルの民を呼ぶのに用いた名称。ヘブリュー。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 尭舜禹湯文武。ぎょうしゅんうとうぶんぶ。

 尭のときに大洪水がおこって、舜は鯀を免職して、鯀の子の禹を黄河の治水にあたらせる。禹は、夏王朝の創始者。尭舜禹は五帝のうちの三人。

 そういえば、三皇のうちの伏犠(ふっき/ふくぎ)と妻(あるいは妹)の女�(じょか)も洪水をおさめる神だったはずと思い出す。本書中では記していないが、Wikipedia に記述がある。伏犠・女�ともに蛇身人首で、雲南省、苗(ミャオ)族に由来する伝説らしい。
 『淮南子』だったろうか、『抱朴子』だったろうか。愛嬌のある顔をした男女の蛇がからだをからみあわせているアイコンが印象的。
 建国、洪水をおさめる、カップル……。




*次週予告


第四巻 第四七号 
東洋歴史物語(二)藤田豊八

第四巻 第四七号は、
二〇一二年六月一六日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四六号
東洋歴史物語(一)藤田豊八
発行:二〇一二年六月九日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
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    ※ おわびと訂正
     長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ

  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  •  原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
  •  ユネスコと科学
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  •  J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと 
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  •  総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
  •  ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
  • 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
  • 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
  • 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
  • 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
  • 第三〇号 『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空
  • 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
  • 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
  • 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
  • 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
  • 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
  • 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より    寺田寅彦
  • 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
  • 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
    • 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
    • (略)このとき大地震後三十分、もはや二十人ほどの新聞記者(うち二人は外国人)諸君が自分をかこんで説明を求められている。そこで自分は何の躊躇もなく次のとおり発表した。
    •  発震時刻は午前十一時五十八分四十四秒で、震源は東京の南方二十六里〔約一〇四キロメートル〕すなわち伊豆大島付近の海底と推定する。そうして振幅四寸〔約十二センチメートル〕に達するほどの振動をも示しているから、東京では安政(一八五五)以来の大地震であるが、もし震源の推定に誤りがなかったら一時間以内にあるいは津波をともなうかもしれぬ。それでも波は相模湾の内、ことに小田原方面に著しく、東京湾はかならず無事であろう。また今後、多少の余震は継続せんも、大地震は決してかさねておこるまい。
    •  なお、外国記者の念入りの質問に対して、地震の性質の非火山性にして、構造性なるべきことをつけくわえておいた。
    •  こう発表している真最中、午後〇時四十分に余震中のもっとも強く感じたものの一つが襲来した。(大地震調査日記「九月一日」より)
    •  
    •  帝都復興策に民心を鼓舞している今日、思いおこすことはイタリア、メッシーナ市の復興である。同市は前にも述べたとおり十五年前の大震災により、火災こそおこさなかったとはいえ、市街は全滅して十三万八〇〇〇の人口中八万三〇〇〇は無惨な圧死をとげた。当時は破壊物の取りかたづけでさえ疑われ、自然、イタリア名物の廃虚となるだろうと予想されていた。自分はこの廃虚を訪うつもりで昨年メッシーナに行ってみると、あにはからんや、廃虚どころかこの十四年間に市街は立派に回復され、人口は十五万人をかぞえ、以前にも増した繁昌である。ただし、いつも震災には無頓着なイタリア人もこのときだけはこりたものと見えて、道路をおおいにひろげ、公園を増し、高層家屋をよして、やむなき場合にかぎり三層とし、最多数は二層以下である。それで自分は一見、ああ、これが地震国の都市かなと感じたのである。「大地震雑話」より)
    • 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
    • 九月二十四日
    • (略)加藤委員ら、伊豆半島ならびに三浦半島の調査を終えて帰られた。同氏らは初島まで調査におもむかれ、その隆起せること五、六尺〔一五〇〜一八〇センチメートル〕なることを認め得られた。そのほか湘南一帯・三浦半島の隆起は、これまで報道せられたものと大差なく、また地変としては小田原と熱海との間、ことに根府川付近がもっともはなはだしいことなどから推測して、震源は大島と大磯との間であろうかと断ぜられた。ただ、自分としては最も期待しておった土地の低下せる場所が同委員の報告にもその存在を認められなかったことを不思議とし、陸地測量部の水準測量の結果を静かに待つことにした。つまり、この測量あるいは水路部の水深測量が数か月をへて完結するまでは、起震帯に関する正確なる推定はむつかしいことではあるまいか。
    •  
    • 九月二十五日
    • (略)待ちに待ったる油壷験潮儀記録の写し三角課長より送り越された。取る手もおそしと披見すると自分の期待はことごとく裏切られ、地震前には何らの地変も記しおらぬのみか、大地震開始後、幾秒間の後には時計も止まり、これと同時に陸地隆起のあったことを示すだけであった。ただ、基準点の実測から陸地の隆起一・四四四メートルすなわち四尺八寸であることを確かに証明されたのみである。なお、陸地測量部においてわが国の沿岸各地に散布された験潮儀の示す一年平均水位を比較してみると、油壷のみはこの最近二年間において、ある異状をあらわしているように見える。すなわち前の二年間においてすべての場所が水位の下降を示し、ただ、日向細島のみが一昨年度においてのみ僅少なる上昇を示しているのみなるに反して、油壷のみは最近二か年間は著しき上昇を示しているのである。これは見様によっては、三浦半島がこの二年間、地盤が下がりつつあったことを意味している。なお後日の研究を要する問題である。
    • 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
    • 十月一日
    • (略)あの有名な被服廠をおそった旋風は、一番最初に気づかれた位置は東京高等工業学校前の大川の中であって、時刻はちょうど午後四時ごろ、旋風の大きさは国技館くらい、高さ一〇〇メートルないし二〇〇メートル(略)時針の反対の向きにまわり、川に浮かんでいる小舟を一間あるいは二間〔一間は六尺、約一・八メートル〕の高さにすいあげてははね飛ばし、当時さかんに燃えつつあった高等工業学校の炎と煙とを巻き込み、まもなくそれが横網河岸に上陸して、北の安田邸と南の安田邸との間をかすめ、被服廠の中心から北の方を通り、たちまちの間にそこに避難しておった群集の荷物に延焼し、同時に避難者の着物にも点火して、一面に煙と炎の浪になり、またたくひまにこの一郭にて、三万八〇一五人の生命を奪ったものであるらしい。
    • (略)さいわいに被服廠において助かった人たちは、合計二〇〇〇人もあろうとのことであるが、それは多くは被服廠の中央から以南に避難しておった人たちであった。しかし、いずれもわずかな水を土にひたしてそれを皮膚に塗りて火気をよけたとか、あるいは地面にはって地に向かって呼吸をしてようやく助かったという人たちであった。これらの人が目撃した話によれば、この火災をうずまいた旋風に出会った人は、見る間に黒こげとなり、あるいは立ち上がったかと思うとそのままたおれて、たちまち絶息をするというように見受けた。この後の場合は、窒息によったものか、あるいはかかる際に発生する有毒なガス(一酸化炭素のごとき)にでもよるのか、研究すべき問題であるように考えた。
    •  いまひとつ書きつけておきたいのは、新大橋の交通を無難にした警察官、橋本政之助・古瀬猪三郎両氏の殊勲である。橋本氏は深川方面よりの避難者の携帯せる荷物を危険と看てとり、しいてこれを遺棄せしめようとしたが、当時、同氏は平服であったがために市民がなかなかいうことをきかない。それで橋向かいの制服警察官を応援にたのんで右のことを励行し、ついで古瀬巡査の応援を得、ついには制しきれずして抜剣までもなし、荷物を河中へ投げ込んだとのことである。(略)
    • 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
    •  四六 プリニィの話
    •  四七 煮え立つ茶釜(ちゃがま)
    •  四八 機関車
    •  四九 エミルの観察
    •  五〇 世界の果(は)てへの旅
    •  五一 地球
    •  五二 空気
    •  五三 太陽
    • 「救い主キリストの仲間がまだ生きていた、紀元七十九年のことである。そのころヴェスヴィアス山は何ごともないおだやかな山だった。今日のような煙の出る山になっていたのではなく、わずかに持ち上った岡で、うもれた噴火口の跡には小さな草や野ブドウが生えていただけだった。そして山腹には豊かな穀物がしげって、ふもとの方にはヘルクラニウムとポンペイというにぎやかな二つの町があったのだ。
    • 「最後の噴火が人々の記憶にも残らぬほどのむかしになって、これからは永遠にしずまるものと思われていたこの噴火山は、突然、生き返って煙を出しはじめた。(略)
    • 「さて、そのころ、ヴェスヴィアスから遠くないメシナ〔メッシーナ〕という港に、この話を伝えたプリニィのおじさんがいた。この人は自分の甥(おい)と同じくプリニィという名の人で、この港に停泊していたローマ艦隊の司令官だった。そして非常に勇敢な人で、新しいことを知るとか、他人を助けるばあいには、どんな危険もおそれなかったのだ。ヴェスヴィアス山上にただよう一筋の雲を見ておどろいたプリニィは、すぐさま艦隊を出動させて、こまっている海岸町の人を助けたり、近所からおそろしい雲を観察したりした。ヴェスヴィアスのふもとの住民は気ちがいのようになって、うろたえてさわいで逃げた。プリニィはみんなが逃げている、このいちばん危険なほうへ行ったのだ。(略)
    • 「(略)石の雨が……実際、小石と火のついた燃えかすとが雨のように降ってくる。人々はこの雨をよけるために、枕を頭にのせて、おそろしいまっ暗やみの中をぬけて、手に持った松明(たいまつ)の光でようやく海岸へ向かって進んで行った。プリニィはちょっと休もうと思って地の上にすわった。ちょうどその時、強烈な硫黄のにおいのする大きな火が飛んできて、みんなをビックリさせた。プリニィは立ち上がったが、そのまま死んでたおれてしまった。噴火山の溶岩や燃えかすや煙が、プリニィを窒息させたのである。
    • 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
    •  五四 昼と夜
    •  五五 一年と四季
    •  五六 ベラドンナの実(み)
    •  五七 有毒(ゆうどく)植物
    •  五八 花
    •  五九 果実(かじつ)
    •  六〇 花粉(かふん)
    •  六一 ツチバチ
    • 「みなさん。」とおじさんは始めました。「あぶないことを見ないように目を閉じて、それで安全だと思っている人があります。また、人間に害になる物のあることがわかって、それがどんなものだかを知ろうとする人があります。あなた方は、このあとの方の人です。そしてわたしは、それをうれしく思うのです。いろんな悪いことがわれわれを待ちもうけています。われわれはそれをよく注意して、その害悪の数を少なくしなければなりません。さて、今われわれは、毎年その犠牲をつくるこのおそろしい植物を知って、それを避けるという、この大事なことがわからなかったために、おそろしい不幸な目にあってしまいました。もしこの知識がもっと広まっていたら、われわれがいま、その死をくやんでいるあの子どもは、死なずにすんで、いまなお、そのお母さんのいとし子でいることができていたろうと思います。じつにあの子どもはかわいそうでした。「五七 有毒植物」より)
    • 「ここにあるゼニアオイの萼(がく)は、やはり五枚の小さな葉でできていて、五枚の大きな花冠はバラ色をしている。この花冠の一つ一つを花弁というのだ。花弁が集まって花冠になるのだ。
    • 「ジギタリスの花冠は一つの花弁もなくって、ゼニアオイには五枚ありますね。」とクレールがいいました。
    • 「ちょっと見るとそうだが、気をつけて見ると両方とも五枚あるのだ。どの花でもほとんどみんな、ツボミの中で花弁が一つにかたまってしまって、一枚の花弁としか見えない花冠になるものだ。しかし、たいてい、そのかたまった花弁が花のはしの方でちょっと割れていて、そのギザギザで何枚の花弁が一つになったのかわかる。(略)
    • 「どれにもこれにも五という数があるんですわね。」とクレールがいいました。
    • 「花はいうまでもなくじつに美しいものだが、また不思議な構造にできている。どの花もちゃんとした規則で作ったように、数がきまっている。そして五の数でできているのがいちばん普通なんだ。だから今朝調べた花には、どれも五つの花弁と五つの萼片とがあるのだ。
    • 「そのつぎに普通なのはその数だ〔「三の数」か。〕。それはチューリップや、ユリや、谷間のヒメユリのようなふくらんだ花がそうだ。これらの花には緑色の萼(がく)はなくて、内側に三枚、外側に三枚、つごう六枚の花弁でできた花冠があるのだ。「五八 花」より)
    • 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
    •  なんだか頭がまだほんとうにおちつかないので、まとまったことは書けそうもない。
    •  去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳の年に日本橋で安政〔一八五五年〕の大地震に出逢ったそうで、子どもの時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみこんだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事ができない。すこし強い地震があると、またそのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうもおちついていられない。
    •  わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年(一八九四)六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時ごろと記憶しているが、これもずいぶんひどい揺れ方で、市内に潰れ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それにともなって二、三か所にボヤもおこったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいでみな消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後にはしずまった。三年まえ〔一八九一年〕の尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずとしずまった。もちろん、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてからはじめてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰ってきた。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴したのであった。その以来、わたしにとって地震というものが、いっそうおそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
    •  こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年(一九二三)九月一日をむかえたのであった。――(「震災の記」より)
    • 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
    • 仙台五色筆
    •  三人の墓
    •  三人の女
    •  塩竈神社の神楽
    •  孔雀船の舟唄
    •  金華山の一夜
    • ランス紀行
    •  乗り合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう馴れきったような口調で高々と説明しながら行く。幌のない自動車の上には暑い日が一面に照りつけて、眉のあたりには汗が滲んでくる。死んだ町には風すらも死んでいるとみえて、今日はそよりとも吹かない。散らばっている石やレンガを避けながら、せまい路を走ってゆく自動車の前後には白い砂けむりが舞いあがるので、どの人の帽子も肩のあたりも白く塗られてしまった。(略)
    •  町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散りつくして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落としている。木の下にはヒナゲシの紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、ときどきは人通りがあって、青白い夏服を着た十四、五の少女が並木の下をうつむきながら歩いてゆく。彼は自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人たちは帽子をふる。少女はうれしそうに微笑みながら、これもしきりにハンカチーフをふる。砂煙がまいあがって、少女の姿がおぼろになったころに、自動車も広い野原のようなところに出た。
    •  戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網もからみあったままで光っている。立木はほとんど見えない。眼のとどくかぎりはヒナゲシの花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路を行き抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というのであると教えてくれた。

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