仙台五色筆
岡本綺堂わたしは初めて仙台の地を
三人の墓
仙台の土にも昔から
政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている
いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり
わたしは今、この瑞鳳殿の前に立った。
彼は五十以上であろう。色のやや
わたしはこの男の案内によって、
さらに奥深く進んで、
わたしの眼からは涙がこぼれた。
この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来を持っていた。その多数のうちには
土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終わるまで、一度も物を言ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は
こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたびほえてきた。
黒い門柱がヌッと立ったままで、
林子平はどんなに
わが
ローマに使いした
案内を
墓地を左に折れると、石の
この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人がきて、清い水も供えたであろう、美しい花もささげたであろう。わたしの手にはなんにもたずさえていなかった。あいにく
秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。
三人の女
仙台や
塩竈街道の
伝えていう。
わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が
尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを賛美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船・入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる
彼は甘い酒を人にほどこしたが、人からは甘い
「塩竈街道に白菊
これは比較的に有名な話で、いまさら紹介するまでもないかもしれないが、将門の娘と同じような運命の女だということが、わたしの心をひいた。
松島の観音堂のほとりに「
そのときに、象潟の商人は
掃部もよろこんで
子をうしなった掃部夫婦もやはりその時代の人であった。つまりはその願いにまかせて、夫のない
観音堂のほとりには、小太郎が幼いころに手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに
さけかしな 今はあるじと 眺むべし
軒端 の梅の あらむかぎりは
比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を
最後には「先代
初子は四十八歳で死んだ。彼は伊達
こんな疑問は大槻博士〔
仙台市の町はずれには、いたるところに杉の木立ちと
塩竈 神社の神楽
わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。
「松島行きの乗り合い船は、今、出ます。
その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や
「おもしろそうだ。行ってみよう。
同行の
この四人が野蛮人の
かたわらにいる土地の人に聞くと、あれは
わたしは口を開いて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずにおどっていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいとわたしは思った。
孔雀 船の舟唄
伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二
われわれが
船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の
�[やら目出 たやな。初春の好 き日をとしの着長 は、えい、小桜おどしとなりにける。えい、さてまた夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらい革。秋になりてのその色は、いつも軍 に勝色 の、えい、紅葉にまがう錦革 。冬は雪げの空晴れて、えい、冑 の星の菊の座も、えい、はなやかにこそ威毛 の、思う仇 を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣 は箱に納めおく、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴 の国とぞなりにける。やんら……。
わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。もちろん、その
政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を
それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたる彼らはみずから
わたしはこの老人たちに対して、一種尊敬の念の
この唄は、この老人たちの
しかし仙台の国歌ともいうべき「さんさ
金華山の一夜
海中の孤島、
「この天気では、あしたの船が出るかしら……」と、わたしは寝ながら考えた。
これを案じているのはわたしばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も
こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じこめられても、べつに心配することもない。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この
今の信仰の薄い人―
雷雨はようやくやんだ。山のほうでは鹿の声が遠く聞こえた。あわれな無信仰者ははじめて平和の眠りについた。枕もとの時計はもう一時をすぎていた。
(大正2(一九一三)・10『やまと新聞』)
底本:
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
ランス紀行
岡本綺堂How to See the
宿からはさのみ遠くもないのであるが、パリへついてまだ一週間をすぎないわれわれには、停車場の方角がよく知れない。おまけに電車はストライキの最中で、一台も運転していない。その影響で、タクシーも容易に見つからない。地図で見当をつけながら、ともかくもガル・ド・レストへ行き着いたのは、七時十五分ごろであった。七時二十分までに停車場へ集合するという約束であったが、クックの帽子をかぶった人間は一人も見えない。停車場は
混雑の中をくぐりぬけて、自分たちの乗るべき線路のプラットホームに立って、まずほっとした時に、ロンドンで
「やあ、あなたもですか。
「これはいい
これで今日の一行中に四人の日本人を見い出したわけである。たがいに懐かしそうな顔をして、しばらく立ち話をしていると、クックの案内者が他の人々を案内してきて、
「どうぞおかまいなく……。わたしも
七時五十三分に出るはずの列車がなかなか出ない。一行三十余人はことごとく乗り込んでしまっても、列車は動かない。八時をすぎて、ようように汽笛は鳴り出したが、速力はすこぶる
窓をあけて見わたすと、何というところか知らないが、青い水が線路を斜めによこぎってゆるく流れている。その岸には二、三本の大きい柳の枝が眠そうになびいている。線路に近いところには低い堤が
「八十五、六度だろう。
英国紳士はあいかわらずニヤニヤ笑っているが、われわれはもう笑ってはいられない。
「どうかしてくれないかなあ。
気休めのように列車はすこし動き出すかと思うと、またすぐに停まってしまう。どの人もあきあきしたらしく、列車が停まるとみんな車外に出てブラブラしていると、それを車内へ追い込むように夏の日光はいよいよ強く照りつけてくる。メガネをかけているわたしもまぶしいくらいで、早々に元の席へ逃げて帰ると、列車はまた思い出したように動きはじめる。こんな
大きい栗の下をくぐって停車場を出て、一丁ほども白い土の上をたどって行くと、レストラン・コスモスという新しい料理店の前に出た。
ランスという町について、わたしはなんの知識も持たない。今度の戦争で、一度は敵に占領されたのを、さらにフランスの軍隊が回復したということのほかには、なんにも知らない。したがって、その破壊以前のおもかげを
メチャメチャに
もちろん、町民の大部分はどこへか立ち
地理を知らないわたしは―
ここらには人も見えない、犬も見えない。
乗り合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう
市役所も劇場もその前づらだけを残して、内部はことごとくくずれ落ちている。大きい寺も
町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散りつくして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落としている。木の下にはヒナゲシの紅い小さい花がしおらしく
戦争前には畑になっていたらしいが、今では
自動車からおろされて、思い思いに丘のほうへ登ってゆくと、そこには絵はがきや果物などを売る店が出ている。ここへくる見物人を相手の商売らしい。同情もいくぶんか手伝って、どの人もあまり
丘の上にも
これに対して、ある者を
坂を登るのでいよいよ汗になったわれわれは、
停車場へもどって自動車を降りると、町の入口には露店をならべて、絵はがきや果物のたぐいを売っている男や女が五、六人見えた。砲弾の破片で作られた巻き煙草の灰皿や、ドイツ兵のヘルメットを模したインキ
「なにしろ暑い。
異口同音にさけびながら、停車場のカフェーへかけこんで、
(大正8・9『新小説』)
この紀行は大正八年(一九一九)の夏、パリの客舎で書いたものである。その当時、かのランスの戦場のような、むしろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまんなかで見せつけられようとは、思いもおよばないことであった。よそごとのように眺めてきた大破壊のあとが、今やありありとわが眼のまえにひろげられているではないか。わたしはまだ異国の夢がさめないのではないかと、ときどきに自分を疑うことがある。
(大正十二年(一九二三)十月追記『十番随筆』所収)
底本:
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
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仙台五色筆
岡本綺堂-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
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[#…]:返り点
(例)「虫声満[#レ]地」
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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仙台《せんだい》の名産のうちに五色筆《ごしきふで》というのがある。宮城野《みやぎの》の萩、末の松山《まつやま》の松、実方《さねかた》中将の墓に生《お》うる片葉の薄《すすき》、野田《のだ》の玉川《たまがわ》の葭《よし》、名取《なと》りの蓼《たで》、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島《まつしま》記念大会に招かれて、仙台、塩竈《しおがま》、松島、金華山《きんかざん》などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟《こせき》に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判《わか》らない。
三人の墓
仙台の土にも昔から大勢《おおぜい》の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜《ひそ》んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜《くや》しくないと思う人は三人ある。曰《いわ》く、伊達政宗《だてまさむね》。曰く、林子平《はやししへい》。曰く、支倉六右衛門《はせくらろくえもん》。今度もこの三人の墓を拝した。
政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書《こもんじょ》にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡《ふじわらのひでひら》の子供にも錦戸太郎《にしきどたろう》、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館《たて》次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍《どくがんりゅう》などという水滸伝《すいこでん》式の渾名《あだな》を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿《ずいほうでん》というのに斂《おさ》められている。さきごろの出水に頽《くず》された広瀬《ひろせ》川の堤《どて》を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然《げんぜん》とそびえている。
わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈《たけ》抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
彼は五十以上であろう。色のやや蒼《あお》い、痩形《やさがた》の男で、短く苅った鬢《びん》のあたりは斑《まだら》に白く、鼻の下の髭《ひげ》にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣《ひとえもの》に小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて、白|足袋《たび》に麻裏の草履《ぞうり》を穿《は》いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記《しる》した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面《おもて》を掠《かす》めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉《せみ》が破《や》れた笛を吹くように咽《むせ》んでいた。
さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭《こうべ》をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝《らいはい》していた。
私の眼からは涙がこぼれた。
この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒《ざら》しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯《きょうがみね》の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄《きよ》めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。
林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿《むくげ》の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
黒い門柱がぬっと立ったままで、扉《とびら》は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅《さるすべり》の大木が真紅《まっか》に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎《ろくむさい》友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑《しおん》や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政《だじょう》大臣|三条実美《さんじょうさねとみ》篆額《てんがく》、斎藤竹堂《さいとうちくどう》撰文、一方は陸奥守《むつのかみ》藤原慶邦《ふじわらよしくに》篆額、大槻磐渓《おおつきばんけい》撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立《きつりつ》している。なにさま堂々たるものである。
林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽《くず》れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。
ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
案内を乞うと、白地の単衣《ひとえもの》を着た束髪《そくはつ》の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪《たけやぶ》に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
墓地を左に折れると、石の柵《さく》をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五|輪《りん》の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所《ありか》も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風《ふう》・空《くう》の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺《あたり》に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹《つつし》んで墓の前に供えた。
秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。
三人の女
仙台や塩竈《しおがま》や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」の付近に比丘尼《びくに》坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
伝えて云う。天慶《てんぎょう》の昔、平将門《たいらのまさかど》が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太《たわらとうた》の矢先にかかった。娘は陸奥《みちのく》に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵《いおり》を結んで、謀叛《むほん》人と呼ばれた父の菩提《ぼだい》を弔《とむら》いながら、往き来の旅人《たびびと》に甘酒を施していた。比丘尼塚の主《ぬし》はこの尼であると。
わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬《そうま》へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王《へいしんのう》将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥《むつ》の秋風に法衣《ころも》の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
鎌倉《かまくら》の東慶《とうけい》寺には、豊臣秀頼《とよとみひでより》の忘れ形見という天秀尼《てんしゅうに》の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷《にな》って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘|瀧夜叉姫《たきやしゃひめ》よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧《おぼろ》月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人《あきうど》が、ここの軒にたたずんで草鞋《わらじ》の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由《よし》なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻《せば》められた謀叛《むほん》人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎《しぼ》んだ白菊であった。
これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
松島の観音堂のほとりに「軒場《のきば》の梅」という古木がある。紅蓮尼《こうれんに》という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行《さいぎょう》法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟《でわのくにきさがた》の町に生まれた、商人《あきうど》の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音|詣《もう》でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥《むつ》松島の掃部《かもん》という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂《たもと》を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
その時に、象潟の商人は尽きぬ名残《なごり》を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦《むつ》み暮らそうではないか。
掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎《こたろう》は我が不在《るす》の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢《はか》なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯《き》かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已《すで》に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難《ひなん》しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気《けなげ》な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵《いおり》を結んだ。
[#ここから2字下げ]
さけかしな今はあるじと眺むべし
軒端の梅のあらむかぎりは
[#ここで字下げ終わり]
嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸《げこ》のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。
最後には「先代萩」で名高い政岡《まさおか》を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本《まるほん》で名高い局《つぼね》政岡とは三沢初子《みさわはつこ》のことだそうで、その墓は榴《つつじ》ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達|綱宗《つなむね》の側室《そばめ》で、その子の亀千代《かめちよ》(綱村《つなむら》)が二歳で封《ほう》をつぐや、例のお家騒動が出来《しゅったい》したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達|安芸《あき》らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡《あさおか》で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽《たちま》ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母《めのと》ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿《むくげ》の籬《まがき》とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。
塩竈神社の神楽
わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧《あお》暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙《いろがみ》で造った花紅葉《はなもみじ》を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕《たなばた》の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻《しき》りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹《ばいたらようじゅ》や、泉の三郎の鉄燈籠《かなどうろう》や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽《かぐら》堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
同行の麗水《れいすい》・秋皐《しゅうこう》両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中《さなか》であった。果たして神楽というのか、舞楽《ぶがく》というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗《しょうき》のような、烏天狗《からすてんぐ》のような、一種不可思議の面《おもて》を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣《ひとえもの》を袒《はだ》ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅《あか》で染められた唐草模様の襦袢《じゅばん》(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲《かさ》ねていた。頭には黒または唐黍《もろこし》色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘《ざや》の刀を佩《さ》していた。
この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃《はや》しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞《ことば》が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗《すこぶ》る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅《こが》なものであった。
かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川《いいのがわ》の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。
孔雀船の舟唄
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰《ほうおう》丸と孔雀《くじゃく》丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二|艘《そう》の御座船《ござぶね》を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即《すなわ》ちそれである。風流の仙台|太守《たいしゅ》は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型《ひながた》に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来《しゅったい》を急いだ為に船べりに黒漆《こくしつ》を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に何の注意をも払わなかった。
船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森《もり》知事が起《た》って、かの老人たちを紹介した。今日《こんにち》この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節《ひとふし》を聴いて貰いたいとのことであった。
素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔《けいけん》の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭《あか》かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説《よろいくど》き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]やら目出たやな。初春の好き日をとしの着長《きせなが》は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも軍《いくさ》に勝色《かついろ》の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、冑《かぶと》の星の菊の座も、えい、華やかにこそ威毛《おどしげ》の、思ふ仇《かたき》を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣《つるぎ》は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。
[#ここで字下げ終わり]
わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕《まんまく》が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫《ろ》をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢《ろかい》を把《と》らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃《かみしも》も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧《ふる》い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃《たいはい》した古廟に白髪の伶人《れいじん》が端坐して簫《ふえ》の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
この唄は、この老人たちの生命《いのち》と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍《なまぬる》い肉声に歌われて、いわゆる緑酒《りょくしゅ》紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優《まし》かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。
金華山の一夜
金華山《きんかざん》は登り二十余町、さのみ嶮峻《けんしゅん》な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立《きつりつ》しているので、その眼界はすこぶる闊《ひろ》い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓《ふもと》の霧は山腹の細雨《こさめ》となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷《らい》が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴《あ》れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿《おじか》半島にむかって合図の鐘を撞《つ》くと、半島の南端、鮎川《あゆかわ》村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉《やまどり》の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社《やしろ》の創建は遠い上代《じょうだい》のことで、その年時も明らかでないと云う。尤《もっと》もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯《こ》ういう場所を撰んで、神を勧請《かんじょう》したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光|明媚《めいび》の地、もしくは山谷嶮峻の地を相《そう》して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木《こ》の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島《はなれじま》に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻《はば》められて、ほとんど流人《るにん》同様の艱難《かんなん》を嘗《な》めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋《ちひろ》の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
雷雨は漸《ようや》くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。[#地付き](大正2・10[#「10」は縦中横]「やまと新聞」)
底本:
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
ランス紀行
岡本綺堂六月七日、午前六時頃にベッドを這《は》い降りて寒暖計をみると八十度。きょうの暑さも思いやられたが、ぐずぐずしてはいられない。同宿のI君をよび起して、早々に顔を洗って、紅茶とパンをのみ込んで、ブルヴァー・ド・クリシーの宿を飛び出したのは七時十五分前であった。
How to See the battlefields――抜目のないトーマス・クックの巴里《パリ》支店では、この四月からこういう計画を立てて、仏蘭西《フランス》戦場の団体見物を勧誘している。われわれもその団体に加入して、きょうこのランスの戦場見物に行こうと思い立ったのである。切符はきのうのうちに買ってあるので、今朝はまっすぐにガル・ド・レストの停車場へ急いでゆく。
宿からはさのみ遠くもないのであるが、パリへ着いてまだ一週間を過ぎない我々には、停車場の方角がよく知れない。おまけに電車はストライキの最中で、一台も運転していない。その影響で、タキシーも容易に見付からない。地図で見当をつけながら、ともかくもガル・ド・レストへゆき着いたのは、七時十五分頃であった。七時二十分までに停車場へ集合するという約束であったが、クックの帽子をかぶった人間は一人もみえない。停車場は無暗《むやみ》に混雑している。おぼつかないフランス語でクックの出張所をたずねたが、はっきりと教えてくれる人がない。そこらをまごまごしているうちに、七時三十分頃であろう、クックの帽子をかぶった大きい男をようよう見付け出して、あの汽車に乗るのだと教えてもらった。
混雑のなかをくぐりぬけて、自分たちの乗るべき線路のプラットホームに立って、先ずほっとした時に、倫敦《ロンドン》で知己《ちき》になったO君とZ君とが写真機械携帯で足早にはいって来た。
「やあ、あなたもですか。」
「これはいい道連れが出来ました。」
これできょうの一行中に四人の日本人を見いだしたわけである。たがいに懐かしそうな顔をして、しばらく立ち話をしていると、クックの案内者が他の人々を案内して来て、レザーヴしてある列車の席をそれぞれに割りあてる。日本人はすべて一室に入れられて、そのほかに一人の英国紳士が乗り込む。紳士はもう六十に近い人であろう、容貌といい、服装といい、いかにも代表的のイングリッシュ・ゼントルマンらしい風采《ふうさい》の人物で、丁寧に会釈《えしゃく》して我々の向うに席を占めた。O君があわてて喫《す》いかけた巻莨《まきたばこ》の火を消そうとすると、紳士は笑いながら徐《しず》かに云った。
「どうぞお構いなく……。わたしも喫います。」
七時五十三分に出る筈の列車がなかなか出ない。一行三十余人はことごとく乗り込んでしまっても、列車は動かない。八時を過ぎて、ようように汽笛は鳴り出したが、速力はすこぶる鈍《にぶ》い。一時間ほども走ると、途中で不意に停車する。それからまた少し動き出したかと思うと、十分ぐらいでまた停車する。英国紳士はクックの案内者をつかまえて其の理由を質問していたが、案内者も困った顔をして笑っているばかりで、詳しい説明をあたえない。こういう始末で、一進一止、捗《はかど》らないことおびただしく、われわれももううんざり[#「うんざり」に傍点]して来た。きょうの一行に加わって来た米国の兵士五、六人は、列車が停止するたびに車外に飛び出して路ばたの草花などを折っている。気の早い連中には実際我慢が出来ないであろうと思いやられた。
窓をあけて見渡すと、何というところか知らないが、青い水が線路を斜めに横ぎって緩く流れている。その岸には二、三本の大きい柳の枝が眠そうに靡《なび》いている。線路に近いところには低い堤が蜿《のたく》ってつづいて、紅い雛芥子《ひなげし》と紫のブリュー・ベルとが一面に咲きみだれている。薄《すすき》のような青い葉も伸びている。米国の兵士はその青い葉をまいて笛のように吹いている。一丁も距《はな》れた畑のあいだに、三、四軒の人家の赤煉瓦が朝の日に暑そうに照らされている。
「八十五、六度だろう。」と、I君は云った。汽車が停まるとすこぶる暑い。われわれが暑がって顔の汗を拭いているのを、英国紳士は笑いながら眺めている。そうして、「このくらいならば歩いた方が早いかも知れません。」と云った。われわれも至極《しごく》同感で、口を揃えてイエス・サアと答えた。
英国紳士は相変らずにやにや笑っているが、我々はもう笑ってはいられない。
「どうかして呉れないかなあ。」
気休めのように列車は少し動き出すかと思うと、又すぐに停まってしまう。どの人もあきあきしたらしく、列車が停まるとみんな車外に出てぶらぶらしていると、それを車内へ追い込むように夏の日光はいよいよ強く照り付けてくる。眼鏡をかけている私もまぶしい位で、早々に元の席へ逃げて帰ると、列車はまた思い出したように動きはじめる。こんな生鈍《なまぬる》い汽車でよく戦争が出来たものだと云う人もある。なにか故障が出来たのだろうと弁護する人もある。戦争中にあまり激しく使われたので、汽車も疲れたのだろうと云う人もある。午前十一時までに目的地のランスに到着する筈の列車が二時間も延着して、午後一時を過ぎる頃にようようその停車場にゆき着いたので、待ち兼ねていた人々は一度にどやどやと降りてゆく。よく見ると、女は四、五人、ほかはみな男ばかりで、いずれも他国の人たちであろう、クックの案内者二人はすべて英語を用いていた。
大きい栗の下をくぐって停車場を出て、一丁ほども白い土の上をたどってゆくと、レストラン・コスモスという新しい料理店のまえに出た。仮普請同様の新築で、裏手の方ではまだ職人が忙がしそうに働いている。一行はここの二階へ案内されて、思い思いにテーブルに着くと、すぐに午餐《ごさん》の皿を運んで来た。空腹のせいか、料理はまずくない。片端から胃の腑へ送り込んで、ミネラルウォーターを飲んでいると、自動車の用意が出来たと知らせてくる。又どやどやと二階を降りると、特別に註文したらしい人たちは普通の自動車に二、三人ずつ乗り込む。われわれ十五、六人は大きい自動車へ一緒に詰め込まれて、ほこりの多い町を通りぬけてゆく。案内者は車の真先《まっさき》に乗っていて、時どきに起立して説明する。
ランスという町について、わたしはなんの知識も有《も》たない。今度の戦争で、一度は敵に占領されたのを、さらにフランスの軍隊が回復したということのほかには、なんにも知らない。したがって、その破壊以前のおもかげを偲ぶことは出来ないが、今見るところでは可なりに美しい繁華な市街であったらしい。それを先ず敵の砲撃で破壊された。味方も退却の際には必要に応じて破壊したに相違ない。そうして、いったん敵に占領された。それを取返そうとして、味方が再び砲撃した。敵が退却の際にまた破壊した。こういう事情で、幾たびかの破壊を繰り返されたランスの町は禍《わざわい》である。市街はほとんど全滅と云ってもよい。ただ僅かに大通りに面した一部分が疎《まば》らに生き残っているばかりで、その他の建物は片端から破壊されてしまった。大火事か大地震のあとでも恐らく斯《こ》うはなるまい、大火事ならば寧《むし》ろ綺麗に灰にしてしまうかも知れない。
滅茶滅茶に叩き毀された無残の形骸《けいがい》をなまじいに留めているだけに痛々しい。無論、砲火に焼かれた場所もあるに相違ないが、なぜその火が更に大きく燃え拡がって、不幸な町の亡骸《なきがら》を火葬にしてしまわなかったか。形見《かたみ》こそ今は仇《あだ》なれ、ランスの町の人たちもおそらく私と同感であろうと思われる。
勿論、町民の大部分はどこへか立ち退いてしまって、破壊された亡骸の跡始末をする者もないらしい。跡始末には巨額の費用を要する仕事であるから、去年の休戦以来、半年以上の時間をあだに過して、いたずらに雨や風や日光のもとにその惨状を晒しているのであろう。敵国から償金を受取って一生懸命に仕事を急いでも、その回復は容易であるまい。
地理を知らない私は――ちっとぐらい知っていても、この場合にはとうてい見当は付くまいと思われるが――自動車の行くままに運ばれて行くばかりで、どこがどうなったのかちっとも判らないが、ヴェスルとか、アシドリュウとか、アノウとかいう町々が、その惨状を最も多く描き出しているらしく見えた。大抵の家は四方の隅々だけを残して、建物全体がくずれ落ちている。なかには傾きかかったままで、破れた壁が辛《から》くも支えられているのもある。家の大部分が黒く焦げながら、不思議にその看板だけが綺麗に焼け残っているのは、却って悲しい思いを誘い出された。
ここらには人も見えない、犬も見えない。骸骨《がいこつ》のように白っぽい破壊のあとが真昼の日のもとにいよいよ白く横たわっているばかりである。この頽《くず》れた建物の下には、おじいさんが先祖伝来と誇っていた古い掛時計も埋められているかも知れない。若い娘の美しい嫁入衣裳も埋められているかも知れない。子供が大切にしていた可愛らしい人形も埋められているかも知れない。それらに魂はありながら、みんな声さえも立てないで、静かに救い出される日を待っているのかも知れない。
乗合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう馴れ切ったような口調で高々と説明しながら行く。幌《ほろ》のない自動車の上には暑い日が一面に照りつけて、眉のあたりには汗が滲《にじ》んでくる。死んだ町には風すらも死んでいると見えて、きょうはそより[#「そより」に傍点]とも吹かない。散らばっている石や煉瓦を避《よ》けながら、狭い路を走ってゆく自動車の前後には白い砂けむりが舞いあがるので、どの人の帽子も肩のあたりも白く塗られてしまった。
市役所も劇場もその前づらだけを残して、内部はことごとく頽れ落ちている。大きい寺も伽藍堂《がらんどう》になってしまって、正面の塔に据え付けてあるクリストの像が欠けて傾いている。こうした古い寺には有名な壁画などもたくさん保存されていたのであろうが、今はどうなったか判るまい。一羽の白い鳩がその旧蹟を守るように寺の門前に寂しくうずくまっているのを、みんなが珍しそうに指さしていた。
町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散り尽くして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落している。木の下には雛芥子《ひなげし》の紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、時どきは人通りがあって、青白い夏服をきた十四、五の少女が並木の下を俯向《うつむ》きながら歩いてゆく。かれは自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人たちは帽子を振る。少女は嬉しそうに微笑《ほほえ》みながら、これも頻《しき》りにハンカチーフを振る。砂煙が舞い上がって、少女の姿がおぼろになった頃に、自動車も広い野原のようなところに出た。
戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹壕《ざんごう》のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網も絡み合ったままで光っている。立木はほとんどみえない。眼のとどく限りは雛芥子の花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路をゆき抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というのであると教えてくれた。
自動車から卸《おろ》されて、思い思いに丘の方へ登ってゆくと、そこには絵葉書や果物などを売る店が出ている。ここへ来る見物人を相手の商売らしい。同情も幾分か手伝って、どの人も余り廉《やす》くない絵葉書や果物を買った。
丘の上にも塹壕がおびただしく続いていて、そこらにも鉄条網や砲弾の破片が見いだされた。丘の上にも立木はない。石の間にはやはり雛芥子が一面に咲いている。戦争が始まってから四年の間、芥子の花は夏ごとに紅く咲いていたのであろう。敵も味方もこの花を友として、苦しい塹壕生活をつづけていたのであろう。そうして、この優しい花を見て故郷の妻子を思い出したのもあろう。この花よりも紅い血を流して死んだのもあろう。ある者は生き、ある者はほろび、ある者は勝ち、ある者は敗れても、花は知らぬ顔をして今年の夏も咲いている。
これに対して、ある者を傷《いた》み、ある者を呪うべきではない。勿論、商船の無制限撃沈を試みたり、都市の空中攻撃を企てたりした責任者はある。しかしながら戦争そのものは自然の勢いである。欧洲の大勢《たいせい》が行くべき道を歩んで、ゆくべき所へゆき着いたのである。その大勢に押し流された人間は、敵も味方も悲惨である。野に咲く百合を見て、ソロモンの栄華を果敢《はか》なしと説いた神の子は、この芥子の花に対して何と考えるであろう。
坂を登るのでいよいよ汗になった我々は、干枯《ひから》びたオレンジで渇《かつ》を癒《いや》していると、汽車の時間が追っているから早く自動車に乗れと催促される。二時間も延着した祟《たた》りで、ゆっくり落着いてはいられないと案内者が気の毒そうに云うのも無理はないので、どの人もおとなしく自動車に乗り込むと、車は待ちかねたように走り出したが、途中から方向をかえて、前に来た路とはまた違った町筋をめぐってゆく。路は変っても、やはり同じ破壊の跡である。プレース・ド・レパプリクの噴水池は涸《か》れ果てて、まんなかに飾られた女神の像の生白い片腕がもがれている。
停車場へ戻って自動車を降りると、町の入口には露店をならべて、絵葉書や果物のたぐいを売っている男や女が五、六人見えた。砲弾の破片で作られた巻莨の灰皿や、独逸《ドイツ》兵のヘルメットを摸したインキ壷なども売っている。そのヘルメットは剣を突き刺したり、斧《おの》を打ち込んだりしてあるのが眼についた。摸造品ばかりでなく、ほん物のドイツ将校や兵卒のヘルメットを売っているのもある。おそらく戦場で拾ったものであろう。その値をきいたら九十フランだと云った。勿論、云い値で買う人はない。ある人は五十フランに値切って二つ買ったとか話していた。
「なにしろ暑い。」
異口同音に叫びながら、停車場のカフェーへ駈け込んで、一息にレモン水を二杯のんで、顔の汗とほこりを忙がしそうに拭いていると、四時三十分の汽車がもう出るという。あわてて車内に転がり込むと、それがまた延着して、八時を過ぎる頃にようようパリに送り還された。[#地付き](大正8・9「新小説」)
この紀行は大正八年の夏、パリの客舎で書いたものである。その当時、かのランスの戦場のような、むしろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまん中で見せ付けられようとは、思いも及ばないことであった。よそ事のように眺めて来た大破壊のあとが、今やありありと我が眼のまえに拡げられているではないか。わたしはまだ異国の夢が醒めないのではないかと、時どきに自分を疑うことがある。[#地付き](大正十二年十月追記『十番随筆』所収)
[#改ページ]
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- -----------------------------------
- 仙台五色筆
- -----------------------------------
- [宮城県]
- [仙台市]
- 仙台 せんだい 宮城県中部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。広瀬川の左岸、昔の宮城野の一部を占める東北地方の中心都市。もと伊達氏62万石の城下町。織物・染物・漆器・指物・埋木細工・鋳物などを産するほか、近代工業も活発。東北大学がある。人口102万5千。
- 宮城野 みやぎの 仙台市の東部にある平野。昔は萩など秋草の名所として有名。
(歌枕) - 瑞鳳殿 ずいほうでん 宮城県仙台市青葉区霊屋下にある伊達政宗を祀る霊廟。政宗の後を継いだ二代藩主伊達忠宗は、政宗の遺言に従い、翌寛永14年(1637年)10月政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)を建立し瑞鳳殿と命名した。
- 広瀬川 ひろせがわ 宮城郡宮城町から仙台市へと流れる川。山形県境の関山峠付近に源を発し、日辺付近で一級河川名取川と合流する。流路延長45km。
- 日光廟 にっこうびょう 日光にある徳川家康と徳川家光の廟。
- 経ヶ峰 きょうがみね 現、仙台市霊屋下。広瀬川右岸で、越路山の一部として半島状に突き出た丘陵地。鎌倉期、聖徳一世に聞こえた満海が当地で修業し、没後ここに経典を納めたことから地名があると伝える。
- 伊達堂山の下
- 龍雲院 りゅううんいん 宮城県仙台市青葉区子平町にある曹洞宗の寺院。寺がある「子平町」の町名は、寺に葬られている仙台藩士、林子平の名に由来する。
- 青葉神社 あおば じんじゃ 宮城県仙台市青葉区にある神社。旧社格は県社。武振彦命(たけふるひこのみこと。仙台藩祖伊達政宗の神号)を祀る。
- 光明院 → 光明寺?
- 光明寺 こうみょうじ 現、仙台市青葉町。旧北田町の北にあり、臨済宗東福寺派。松蔭山と号し、本尊は千手観音。伊達五山の一つ。
- 燕沢 つばめざわ 村名。現、仙台市旧宮城郡地区燕沢。
- 比丘尼坂 びくにざか?
- 比丘尼塚
- 榴ヶ岡 つつじがおか 現、仙台市榴ヶ岡。仙台城下の東部および城下外の南目村に続く段丘で、古くから歌枕に詠まれたつつじの名所。躑躅岡と書き、つつじのおかとも読む。
- 孝勝寺 こうしょうじ 現、仙台市東九番丁。新寺小路の北裏にある日蓮宗の寺。光明寺山と号し、本尊は日蓮。貞享3(1686)四代綱村の生母三沢初子も法華経を尊信しこの寺に葬られる。墓地境内に、二代忠宗の夫人振姫の墓と、戦後、黄檗宗萬壽寺から移された四代綱村の夫人仙姫の墓がある。
- [多賀城市]
- 末の松山 すえの まつやま 宮城県多賀城市にあったという山。(歌枕)
- [塩竈市]
- 野田の玉川 のだの たまがわ 六玉川の一つ。宮城県の塩竈付近、多賀城の東方を流れる川。千鳥の名所。
(歌枕) - 玉川 たまがわ 宮城県塩竈・多賀城両市を流れる川。野田の玉川。千鳥の玉川。
- 塩竈街道 しおがま かいどう 塩竈海道。石巻街道から分岐する。今市から多賀城、塩竈へ至り、松島でふたたび石巻街道と合流する。
- 塩竈神社 しおがま じんじゃ 宮城県塩竈市にある元国幣中社。祭神は塩土老翁神ほか。古来、安産の神として名高い。境内に志波彦神社が鎮座。
- [名取市]
- 名取 なとり 宮城県中部、仙台市の南に隣接する市。もと奥州街道の宿駅・市場町。仙台の衛星都市として住宅地化が進む。南東部に仙台空港がある。人口6万9千。
- [松島町]
- 松島 まつしま 宮城県松島湾内外に散在する大小260余の諸島と湾岸一帯の名勝地。日本三景の一つ。富山・扇谷・大高森・多聞山の松島四大観、雄島夕照・瑞巌寺晩鐘・霞浦帰雁・塩釜暮煙などの松島八景がある。
- 塩竈 しおがま 塩竈・塩釜。宮城県中部の市。松島湾の南西端に臨む漁港。古来の景勝地。(歌枕)人口5万9千。行政上の市名は「塩竈市」と書く。
- 松島の観音堂
- [河北町]
- 飯野川 いいのがわ 村名。旧町名。現、桃生郡河北町相野谷。本吉郡柳津方面へ至る通称一関街道、大森村辻堂方面、十三浜のうち追波浜方面への道などが交差。北上川に面し水上交通の要地でもあり、渡しも置かれた。
- [石巻市]
- 金華山 きんかさん/きんかざん 宮城県牡鹿半島の南東先端にある島。面積9平方キロメートル、標高445メートル。山頂に大海祇神社、山腹に黄金山神社がある。古称、陸奥山。/金華山は天平勝宝元年(749)4月1日陸奥国小田郡から黄金が献納され(続日本紀)
、大伴家持が詠んだ「天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥(みちのく)山に金(くがね)花咲く」 (「万葉集」巻18)に近世以来結びつけられ、その産金地であるとする考えが一般的であった。昭和32(1957)の発掘調査の結果、真の産金地は遠田郡涌谷町涌谷の黄金迫にある黄金山神社付近と確認された。 - 黄金山神社 こがねやま じんじゃ 金華山にある黄金山神社は「延喜式」神名帳に記載される小田郡黄金山神社とは別のもの。参照 → 遠田郡黄金迫黄金山神社。/江戸時代まで、日本書紀に伝えられる天平年間に日本で初めて金が産出した場所であると信じられてきた。実際には、金の産出地は牡鹿郡の隣の小田郡(現 宮城県遠田郡涌谷町)であり、当地には同名の黄金山神社がある。中世から修験道場となり、大金寺を別当寺として弁財天堂を中心として信仰を集めた。
(Wikipedia) - 牡鹿半島 おじか/おしか はんとう 宮城県北東部に突出する半島。太平洋に臨む。先端の沖合に金華山がある。北上高地の南端、石巻湾の東を限る。
- 鮎川村 あゆかわむら 村名。現、牡鹿郡牡鹿町。明治22(1889)町村制施行により成立。近代以降捕鯨が盛んとなり、鮎川浜は鯨の町として繁栄した。昭和30年、鮎川町と大原村が合併して牡鹿町となる。
- 山雉の渡し やまどりのわたし 山鳥渡(やまどりわたし)。牡鹿半島と金華山との間にある金華山瀬戸を渡る渡し。
- [遠田郡涌谷町]
- 黄金山神社 こがねやま じんじゃ 宮城県遠田郡涌谷町黄金迫に鎮座する神社。日本で初めて金を産出した場所である。延喜式神名帳の「陸奥国小田郡 黄金山神社」に比定される。神社の祭神は鉱山の神の金山毘古神で、現在は商売繁盛の神様として信仰されている。例祭は9月15日。
- [出羽国] でわのくに
- 象潟 きさがた 秋田県南西部の海岸、由利郡(現、にかほ市)鳥海山の北西麓にあった潟湖。東西20町余、南北30町余で、湖畔に蚶満寺(円仁の草創)があり、九十九島・八十八潟の景勝の地で松島と並称されたが、1804年(文化1)の地震で地盤が隆起して消失。
(歌枕) - [福島県]
- 伊達 だて 福島県北東部の市。伊達氏発祥の地。葉わさび・あんぽ柿の生産が盛ん。人口6万9千。
- 相馬 そうま 福島県北東部の市。もと相馬氏6万石の城下町。付近は古来馬の産地。相馬野馬追が有名。人口3万9千。
- 白河関 しらかわのせき 古代の奥羽三関の一つ。遺称地は福島県白河市の旗宿にある。能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌で有名。
- [下総国]
- 相馬郡 そうまぐん 1878年まで下総国にあった郡。明治期の行政区分変更に伴い、茨城県の北相馬郡と千葉県の南相馬郡に分裂。南相馬郡はその後東葛飾郡に併合。鎌倉時代にこの地域の有力武士だったのが相馬氏。相馬氏はその後地頭職を得ていた陸奥国宇多郡、行方郡地域へ移住。子孫はその後相馬中村藩藩主となる。
- [神奈川県]
- 鎌倉 かまくら
- 東慶寺 とうけいじ 鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺。1285年(弘安8)北条時宗の妻覚山尼の創建。離縁を欲する妻女がこの寺に入り、足かけ3年過ごせばそれを許されたので、縁切寺・駆込寺として知られた。後醍醐天皇の皇女用堂尼の入寺以後松ヶ岡御所・松岡尼寺とも称され、寺格の高い尼寺であったが、1905年(明治38)から僧寺となった。
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- ランス紀行
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- ランス Reims フランス北東部の商工業都市。歴代国王の即位式を行なったゴシック式大聖堂と聖レミ教会は世界遺産。人口18万7千(1999)。
- ブルヴァー・ド・クリシー
- トーマス・クック トーマスクックグループ 社 (Thomas Cook Group plc)はイギリスの旅行代理店。ドイツのトーマスクック AG (Thomas Cook AG) とイギリスのMyTravel Group plcが2007年7月19日に合併し誕生した。近代的な意味での世界最初の旅行代理店とされる。1841年にイギリスに創業。
- トーマス・クック・パリ支店
- ガル・ド・レスト
- パリ Paris フランス共和国の首都。国の北方、パリ盆地の中心部に位置し、セーヌ川にまたがる。市街はシテ島を核心として、これを取り巻く同心円状の3帯から成り、20区に分かれる。中世以来西ヨーロッパにおける文化・政治・経済の中心地の一つ。また、世界的な芸術・流行の中心地。著名な建築物・学校・旧跡などが多い。人口212万5千(1999)。
- ロンドン
- レストラン・コスモス
- ヴェスル
- アシドリュウ
- アノウ
- 百八高地
- プレース・ド・レパプリク
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 天慶(九三八〜九四七) 平将門がほろびた時、十六歳の娘は陸奥に落ちてきて、尼となったと伝える。
- 万治三(一六六〇) 伊達騒動。仙台藩に起こった御家騒動。伊達綱宗は所行紊乱の廉で幕命により隠居、幼少の世子亀千代丸(綱村)が家督を嗣いだ。伊達兵部少輔宗勝(綱宗の叔父)は後見として田村右京宗良や奉行原田甲斐宗輔らと共に藩政の実権を握った。老臣伊達安芸宗重はこれと対立し非違を幕府に訴え、71年(寛文11)裁きの席上、宗重は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、宗勝は土佐藩にお預け、宗良は閉門。奈河亀輔作「伽羅先代萩」など歌舞伎・講談に脚色。寛文事件。
- 明治二七(一八九四) 支倉六右衛門常長の墓、ふたたび光明寺にて発見される。
- 大正二(一九一三)九月 岡本綺堂、松島記念大会にまねかれて、仙台、塩竈、松島、金華山などを四日間巡回。
- 大正二(一九一三)九月二四日 綺堂、午後、金華山に登る。
- 大正二(一九一三)一〇月 「仙台五色筆」
『やまと新聞』。 - 大正八(一九一九)六月七日 綺堂、パリから汽車にてランスを訪れる。トーマス・クック主催のフランス戦場の団体見物。
- 大正八(一九一九)九月 「ランス紀行」
『新小説』。 - 大正一二(一九二三)一〇月 追記、
『十番随筆』所収。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- -----------------------------------
- 仙台五色筆
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- 実方中将 さねかた ちゅうじょう → 藤原実方
- 藤原実方 ふじわらの さねかた ?-998 平安時代の官人、歌人。北家左大臣師尹孫、従五位上侍従定時(貞時)男。母は左大臣源雅信女。幼くして父を失い、叔父左大将済時の養子となる。侍従、少将、馬頭、中将などを歴任。長徳元(995)正四位下陸奥守、同4年12月任地で没。舞や和歌に優れた風流人で、藤原公任や清少納言らと交遊があった。
『小右記』や『権記』に記されるほど、儀式の言動にはこだわらない奔放な性格。辺地で客死という数奇な晩年であるため、多くのエピソードを生む。陸奥国赴任は藤原行成との口論が原因とするのもその一つ。中古三十六歌仙の一人で、 『実方朝臣集』があり、 『拾遺和歌集』以下の勅撰集に67首入集している。 (国史) - 伊達政宗 だて まさむね 1567-1636 安土桃山・江戸初期の武将。輝宗の子。独眼竜と称。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。また、その臣支倉常長を海外に派遣。
- 林子平 はやし しへい 1738-1793 江戸中期の経世家。寛政三奇人の一人。名は友直。六無斎と号す。江戸の人。仙台に移住。長崎に遊学、海外事情に注目、海防に心を注ぎ「三国通覧図説」
「海国兵談」などを著して世人を覚醒しようとしたが、幕府の忌諱にふれて蟄居。 - 支倉六右衛門 はせくら ろくえもん → 支倉常長
- 支倉常長 はせくら つねなが 1571-1622 江戸初期の仙台藩士。通称、六右衛門。1613年(慶長18)伊達政宗の正使としてイスパニア・ローマに使し、通商貿易を開くことを求めたが、目的を達せず20年(元和6)帰国。
- 藤原秀衡 ふじわらの ひでひら ?-1187 平安末期の武将。基衡の子。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉を拠点に、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。
- 錦戸太郎 にしきど たろう → 参照、錦戸(謡曲)
- 伊達次郎
- 西木戸太郎
- 館次郎 たて じろう?
- 南部太郎
- 伊達次郎
- 六無斎 ろくむさい (幕府より「海国兵談」絶版を命ぜられて詠んだ「親も無し妻無し子無し板木無し金も無けれど死にたくも無し」の和歌によっていう) 林子平の号。
- 三条実美 さんじょう さねとみ 1837-1891 幕末・明治期の公家・政治家。実万の子。尊王攘夷運動の先頭に立ち、維新後太政大臣。内閣制発足後は内大臣。公爵。
- 斎藤竹堂 さいとう ちくどう 1815-1852 江戸後期の儒学者。陸奥の人。仙台藩校養賢堂に学び、後に昌平黌に入り、その舎長となる。江戸で私塾を開き、歴史や時事を論じた。著「鴉片始末」
「竹堂文鈔」など。 - 藤原慶邦 ふじわら よしくに → 伊達慶邦
- 伊達慶邦 だて よしくに 1825-1874 江戸時代末期・明治時代の大名。陸奥仙台藩主。
(人レ)/第13代藩主。第11代藩主・伊達斉義の次男。正室は鷹司政煕の娘、継室は徳川斉昭の娘。天保12年(1841) 、第12代藩主・伊達斉邦が25歳で死去し、家督を継いで第13代藩主に就任した。実質的な最後の仙台藩主で、慶応4年(1868) 、東北地方、北海道、新潟を領土とする奥羽越列藩同盟(北部政府)を樹立して、自ら盟主となった。 (Wikipedia) - 大槻磐渓 おおつき ばんけい 1801-1878 幕末・明治初年の儒学者。玄沢の次子。仙台藩校養賢堂学頭。西洋砲術への興味から、蘭学への関心を深め、開港論を主張。著「近古史談」
。 - 平将門 たいらの まさかど ?-940 平安中期の武将。高望の孫。父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴いた。伯父国香を殺して近国を侵し、939年(天慶2)居館を下総猿島に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振るったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。後世その霊魂が信仰された。
- 田原藤太 たわら とうた → 俵藤太、藤原秀郷
- 俵藤太 たわら とうだ 藤原秀郷の異称。
- 藤原秀郷 ふじわらの ひでさと ?-? 平安中期の下野の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足退治などの伝説が多い。
- 豊臣秀頼 とよとみ ひでより 1593-1615 安土桃山時代の武将。秀吉の子。6歳で家を継ぎ徳川秀忠の女千姫を娶る。大坂夏の陣で、城は陥落し母淀君と共に自刃。
- 天秀尼 てんしゅうに 1609-1645 江戸前期の臨済宗の禅尼。諱は法泰。父は豊臣秀頼。母は成田助直の女。1615(元和元)大坂城落城後、千姫の養女となり出家。鎌倉東慶寺に入る際、徳川家康に縁切寺法の存続を願って許されたという。寛永年間に東慶寺二〇世となる。沢庵宗彭らに禅を学ぶとともに伽藍の整備に努めた。
(日本史) - 滝夜叉姫 たきやしゃひめ 平将門の遺児として近世の小説・戯曲などに登場する人物。源家への復讐を企てる弟良門を助ける。山東京伝の読本「善知安方忠義伝」
(1806年刊)に見え、歌舞伎にも脚色。 - 紅蓮尼 こうれんに ?-1329 鎌倉時代後期の女性。出羽国象潟の商人の娘。
(人レ) - 西行 さいぎょう 1118-1190 平安末・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清。法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の武士。23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録。家集「山家集」
。 - 掃部 かもん 陸奥松島の男。
- 政岡 まさおか 歌舞伎「伽羅先代萩」で、わが子を犠牲に御家安泰をはかる乳母。
「実録先代萩」では浅岡。モデルは伊達綱宗の側室三沢初子だという。 - 三沢初子 みさわ はつこ 1639-1686 別名、政岡。江戸時代前期・中期の女性。陸奥仙台藩主伊達綱宗の妻。
(人レ)/伊達綱宗の側室。 - 伊達綱宗 だて つなむね 1640-1711 江戸前期の陸奥国仙台藩主。忠宗の子。陸奥守。万治3(1660)幕命により江戸神田川を開削。同年伊達騒動により隠居を命ぜられた。
- 伊達綱村 だて つなむら 1659-1719 江戸中期の陸奥国仙台藩主。綱宗の子。幼名亀千代丸。父が幕命で隠居のため、二歳で襲封。長じては伊達騒動後の藩政の立て直しに努力し、特に産業の振興をはかり仙台平の産出をするなど英主の誉れが高かった。
- 亀千代 かめちよ → 伊達綱村
- 伊達安芸 だて あき
- 大槻博士 → 大槻文彦か
- 大槻文彦 おおつき ふみひこ 1847-1928 国語学者。磐渓の第3子。復軒と号。江戸の生れ。文部省から日本辞書の編纂を命ぜられて「言海」
(のち増補・訂正して「大言海」)を完成。著「広日本文典」 「口語法別記」など。 - 泉の三郎
- 麗水 れいすい
- 秋皐 しゅうこう
- 鍾馗 しょうき (唐の玄宗の夢の中に、終南山の人で、進士試験に落第して自殺した鍾馗が出て来て魔を祓い病を癒したという故事から)疫鬼を退け魔を除くという神。巨眼・多髯で、黒冠をつけ、長靴をはき、右手に剣を執り、小鬼をつかむ。日本でも謡曲に作られ、その像を五月幟に描き、五月人形に作り、また朱で描いたものは疱瘡除になるとされる。鍾馗大臣。
- 森知事 もり → 森正隆(1913年(大正2年)2月27日 - ) か
- 森正隆 もり 〓 宮城県知事。1913年(大正2)2月27日〜1914年(大正3)4月。
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- ランス紀行
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- I君
- トーマス・クック Thomas Cook 1808-1892 ダービーシャー州メルボルン出身で、彼の名前がついた旅行代理店・トーマス・クック社の創業者、近代ツーリズムの祖として知られるイギリスの実業家。
- O君
- Z君
- ソロモン Solomon ?-? 在位前961頃〜前922頃。イスラエルの3代目の王。ダヴィデの子。経済に明るく、通商によって莫大な利を得、盛んに建築工事を行なった。その奢侈は「ソロモンの栄華」とうたわれたが、民は重税に苦しみ、王の没後、ついに国家は南北両国に分裂。
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)- -----------------------------------
- 仙台五色筆
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- 『太平記』 たいへいき 軍記物語。40巻。作者は小島法師説が最も有力。いくつかの段階を経て応安(1368〜1375)〜永和(1375〜1379)の頃までに成る。北条高時失政・建武中興を始め、南北朝時代五十余年間の争乱の様を華麗な和漢混淆文によって描き出す。
- 『水滸伝』 すいこでん 明代の長編小説。四大奇書の一つ。作者は施耐庵。全120回。宋末の「大宋宣和遺事」に見える群盗宋江らの物語を発展させ、梁山泊に集まった豪傑108人の興亡を描く。原型を伝える100回本のほか金聖嘆編集の70回本がある。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」など、日本の近世文学に大きな影響を与えた。
- 「錦戸」 にしきど 謡曲。四番目物。観世・宝生・金春流。作者不詳。藤原秀衡の長男錦戸太郎は源頼朝の命によって義経を討つため弟の泉三郎の同行を求める。泉は父の遺言を守って申し出を断わったので、錦戸は弟を討つこととする。泉の妻は自害して夫の覚悟をはげます。やがて錦戸が攻めよせ、泉は力戦ののち、捕えられる。
- 「軒場の梅」 のきばの うめ 謡曲「東北(とうぼく)
」の古名。 - 「東北」 とうぼく 謡曲。三番目物。各流。作者不詳。古名「軒場梅」
。東国の僧が都の東北院で梅をながめていると、里の女が来て、この梅はむかし和泉式部が軒場の梅と名づけてながめた木であるといわれを語り、自分はその梅の主だと告げて姿を消す。その夜、僧の夢の中に和泉式部が現われ、むかし御堂関白がこの門前を通ったとき、和歌を詠んだことや和歌の功徳を語って舞をまう。 (国語)/能。鬘物の典型的作品。軒端の梅をめでた和泉式部の物語に取材。古名、軒端梅。 (広辞苑) - 「鎧口説き」 よろいくどき 舟歌。
- 「さんさ時雨」 さんさ しぐれ 仙台地方の民謡。江戸中期から唄われ、祝儀唄として手拍子で唄い、また、酒宴などに三味線ではやし、踊りも加える。歌詞は「さんさ時雨か萱野の雨か音もせで来て濡れかかる」など。
- 『やまと新聞』 日出国新聞。明治19(1886)条野伝平が発刊。同17年創刊の「警察新聞」の後身。福地桜痴・柳川春菜・岡本綺堂・三遊亭円朝らが活躍。のち、軍官僚と結びつき右翼機関誌となり、昭和19(1944)4月廃刊か。
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- ランス紀行
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- 『新小説』 しんしょうせつ 文芸雑誌。春陽堂より1889年(明治22)創刊。森田思軒・饗庭篁村・須藤南翠・依田学海・山田美妙らの作品・翻訳を掲げ、いったん中絶し、96年幸田露伴を編集主任として再刊、1927年(昭和2)
「黒潮」と改題、まもなく廃刊。 - 『十番随筆』
- 「東北」 とうぼく 謡曲。三番目物。各流。作者不詳。古名「軒場梅」
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
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- 仙台五色筆
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- 萩・芽子 はぎ マメ科ハギ属の小低木の総称。高さ約1.5メートルに達し、叢生。枝を垂れるものもある。葉は複葉。夏から秋、紅紫色または白色の蝶形花を多数総状につけ、のち莢を結ぶ。種類が多い。観賞用、また、家畜の飼料。普通にはヤマハギ・ミヤギノハギを指す。秋の七草の一つ。胡枝花。
- 葦・蘆・葭 よし (アシの音が「悪(あ)し」に通ずるのを忌んで「善し」に因んでいう) 「あし(葦)
」に同じ。 - 蓼 たで (1) イヌタデ・ハナタデ・ヤナギタデなど「たで」の名をもつ植物の通称。(2) ヤナギタデおよびその一変種。特有の辛みを有し、全体紅色の幼苗を刺身のつまなどにして食用。マタデ。ホンタデ。
- 故跡 こせき 古跡・古蹟。
- 少しく すこしく すこし。わずかに。
- かすり 絣・飛白 所々かすったように文様を織り出した織物または染文様。文様を織り出したのを織絣、模様を染め出したのを染絣という。
- 単衣 ひとえもの/ひとえぎぬ 公家男女装束の最も下に着る単仕立の衣。平絹や綾を用い、綾の文様は菱。ひとえ。
- 単物 ひとえもの 裏地をつけない、一重の和服。初夏から初秋へかけて着る。ひとえぎぬ。ひとえ。←
→袷(あわせ)。 - 小倉織 こくらおり 経糸を密にし、緯糸を太くして博多織のように織った綿織物。小倉地方の産。帯地・袴地・学生服地とする。
- 麻裏草履 あさうら ぞうり 麻糸の平組紐を渦巻きにして裏につけた草履。
- 木槿・槿 むくげ アオイ科の落葉大低木。インド・中国の原産で、日本で庭木・生垣として広く栽培。高さ約3メートル。枝は繊維が多く折れにくい。夏から秋にかけて一重または八重の淡紫・淡紅・白色などの花をつけ、朝開き夜しぼむ。白花の乾燥したものを胃腸カタル・腸出血などに煎じて用いる。古くは「あさがお」といった。大韓民国の国花。はちす。きはちす。ゆうかげぐさ。もくげ。
- サルスベリ 猿滑り・百日紅・紫薇。(幹の皮が滑らかなので猿もすべるの意) ミソハギ科の落葉高木。中国南部の原産。幹は高さ数メートル。平滑でこぶが多く、淡褐色。葉は楕円形で四稜のある枝に対生。夏から秋に紅色または白色の小花が群がり咲く。日本で庭木として古くから栽培。材は緻密で細工用。ヒャクジツコウ。サルナメリ。
- 紫苑・紫Y しおん キク科の多年草。シベリア・モンゴルなどアジア北東部の草原と西日本に広く分布。観賞用に栽培。茎は直立し、高さ1.5メートル前後。秋、茎の上部で分枝、ノギクに似た淡紫色の優美な頭状花を多数つける。鬼の醜草。のし。しおに。
- 篆額 てんがく 碑などの上部に篆文で書いた題字。
- 撰文 せんぶん 文章をつくること。また、その文章。
- 女郎山
- そそり節 そそりぶし 遊郭などのはやり唄。ひやかし客のうたう唄。
- さけかしな 咲け-かし-な? 咲いてくれるな(強調)
、の意か。 - 先代萩 せんだいはぎ 「伽羅先代萩」の略称。
「千代萩」とも書く。 - 伽羅先代萩 めいぼく せんだいはぎ (伽羅は伊達綱宗が伽羅の下駄で吉原に通ったという巷説により、先代萩は仙台名産の萩に因む) (1) 歌舞伎脚本。5幕。奈河亀輔作の時代物。1777年(安永6)初演。仙台の伊達騒動を鎌倉の世界に脚色し、遊女高尾の吊し切り、奸臣のお家横領の計画、乳人政岡の忠義などに仕組む。先代萩。(2) 人形浄瑠璃。松貫四ほか合作の時代物。(1) と同じ題材を脚色。1785年(天明5)初演。
- 院本 まるほん/いんぽん (行院本の略。行院は、中国金代の俳優の演ずる所)演劇の筋書を記したもの。(2) 浄瑠璃本。脚本。まるほん。
- 籬 まがき (1) 竹・柴などを粗く編んでつくった垣。ませ。ませがき。
- 神楽 かぐら (
「かむくら(神座) 」の転) (1) 皇居および皇室との関連が深い神社で神をまつるために奏する歌舞。伴奏楽器は笏拍子・篳篥・神楽笛・和琴の4種。毎年12月に賢所で行われるものが代表的。(2) と区別する場合は御神楽という。神遊。(2) 民間の神社の祭儀で奏する歌舞。(1) と区別する場合は里神楽という。全国各地に様々な系統がある。(3) 能の舞事。リズム豊かな曲で、小鼓が神楽特有の譜を奏し、女神・巫女などが幣を手に舞う。(4) 狂言の舞事。能とは別の曲。巫女が鈴と扇を手にして舞う。(5) 歌舞伎囃子の一群。宮神楽・早神楽・本神楽・夜神楽(大べし) ・三保神楽・岩戸・「あばれ」などがあり、神社またはその付近の場面に用いるのを原則とする。(6) 地歌。手事物。18世紀中頃、津山検校作曲。賀茂社の神楽とその弥栄を歌ったもの。別称、洞の梅。 - 松島経営記念大会
- 満艦飾 まんかんしょく (1) 祝祭日などに、停泊中の軍艦が艦全体を信号旗などでかざり立てること。(2) 女性などが盛んに着かざること、洗濯物を一面に干し並べることなどにたとえる。
- 塩竈・塩釜 しおがま 海水を汲み入れて塩を製するかまど。
- 貝多羅葉 ばいたらよう (
「貝多羅」は梵語pattraの音写、葉の意)古代インドで文書や手紙を書くのに用いた多羅樹の葉。棕櫚の葉に似て厚くて固い。干して切り整え、竹筆や鉄筆で文字を彫りつけた。仏教の経文を書写するのにも使用。貝葉。貝書。貝多羅。多羅葉。 - 烏天狗 からす てんぐ 烏のようなくちばしや羽を持つと想像された天狗。
- はだぬぎ 肌脱ぎ。袒。帯から上の衣服をぬいで、肌をあらわすこと。肉袒。
- 塗り鞘 ぬりざや/ぬりさや 漆で塗ってある鞘。
- 舟唄・船歌 ふなうた 水夫が艪・櫂を押しながらうたう歌。さおうた。櫂歌。欸乃。
- 粛然 しゅくぜん (1) おごそかなさま。また、かしこまるさま。(2) しずかなさま。
- 着背長・著長 きせなが 武将着用の大鎧が草摺長で大形なことによる美称。
- おどし 縅。(
「緒通し」の意。 「縅」は国字、もと「威」と当てた) 鎧の札を糸または細い革でつづること。また、そのもの。 - 錦革 にしきがわ 織物の錦に似せた染革。
- ゆきげ 雪気。雪になりそうなけはい。ゆきもよい。
- 威毛 おどしげ 縅毛。毛引による鎧の威。
- 居列んで いならんで 居並ぶ。
- 幔幕 まんまく 式場・会場などに張りめぐらす幕。上下両端を横幅とし、その間を縦幅として縫い合わせたもの。上端だけ横幅のもの、あるいは縦幅だけで全く横幅を欠くものもある。まだらまく。うちまく。幔。
- 艫擢 ろかい → 艪櫂・櫓櫂か
- 艪櫂・櫓櫂 ろかい 艪と櫂。また、船の両側の艪櫂を扱う所の総称。船�w。
- フロック‐コート frock coat 男子の昼用正式礼服。上衣はダブルで丈が膝まで及ぶ。黒ラシャを用い、チョッキも同布地、ズボンは縞物をはく。
- 古廟 こびょう 古いおたまや。古い神社。
- 伶人 れいじん 音楽を奏する人。特に雅楽寮で雅楽を奏する人。楽人。楽官。
- 芸妓 げいぎ 酒宴の間をとりもち、歌・三味線・舞踊などで客を楽しませる女。芸者。芸子。
- 緑酒 りょくしゅ 中国の、みどり色に澄んだ上等の酒。うまい酒。
- 紅灯 こうとう (1) 紅色の灯火。(2) 紅色の提灯。酸漿提灯。
- さのみ (1) そのようにむやみに。そうばかり。(2) (否定的な表現を伴って) さほど。別段に。
- 勧請 かんじょう (1) 神仏の来臨を請うこと。(2) 神仏の分霊を請じ迎えてまつること。
- 聡明 そうめい (耳と目との鋭敏なことから) 頭がよく道理に通じていること。
- 艱難 かんなん 困難に出合って苦しみなやむこと。つらいこと。なんぎ。
- 千尋 ちひろ (中世はチイロ) 1尋の千倍。非常に長いこと。また、非常に深いこと。
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- ランス紀行
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- 華氏温度 かし おんど 水の氷点を32度、沸点を212度とし、その間を180等分した温度目盛り。記号F。
- battlefield バトルフィールド。英語で戦場の意味。
- レザーヴ reserve 予約。
- 一進一止
- ブリュー・ベル
- ブルヴァー
- フラン franc フランス・ベルギー・スイスなどの貨幣単位。フランス・ベルギーは1999年ユーロに移行。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
本文、
「将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬へはなぜ隠れないで、わざわざこんなところへ落ちてきたかを論じたくない。
んん……、将門には弟が多かったようだから、将門の娘、もしくは将門の弟の娘、ということもありえるか。福島の相馬は、奥州合戦の恩賞として源頼朝から千葉氏がたまわってからの創建だから、将門の娘の時代の相馬といえば、下総国相馬郡のこと。
将門と近い親族ならば、本拠の下総相馬では遅かれ早かれ面が割れるおそれがある。それが第一の理由。もう一つ考えられるのは、将門の父親・平良将(良持説あり)のこと。良将は鎮守府将軍として陸奥多賀城へ直接赴任した可能性が高いから、なんらかのつてがなかったとはいえないこと。
宮崎駿『本へのとびら』
*次週予告
第四巻 第四六号
東洋歴史物語(一)藤田豊八
第四巻 第四六号は、
二〇一二年六月九日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第四巻 第四五号
仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
発行:二〇一二年六月二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 【欠】
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)前巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)前巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- (略)このとき大地震後三十分、もはや二十人ほどの新聞記者(うち二人は外国人)諸君が自分をかこんで説明を求められている。そこで自分は何の躊躇もなく次のとおり発表した。
- 発震時刻は午前十一時五十八分四十四秒で、震源は東京の南方二十六里〔約一〇四キロメートル〕すなわち伊豆大島付近の海底と推定する。そうして振幅四寸〔約十二センチメートル〕に達するほどの振動をも示しているから、東京では安政(一八五五)以来の大地震であるが、もし震源の推定に誤りがなかったら一時間以内にあるいは津波をともなうかもしれぬ。それでも波は相模湾の内、ことに小田原方面に著しく、東京湾はかならず無事であろう。また今後、多少の余震は継続せんも、大地震は決してかさねておこるまい。
- なお、外国記者の念入りの質問に対して、地震の性質の非火山性にして、構造性なるべきことをつけくわえておいた。
- こう発表している真最中、午後〇時四十分に余震中のもっとも強く感じたものの一つが襲来した。
(大地震調査日記「九月一日」より) - 帝都復興策に民心を鼓舞している今日、思いおこすことはイタリア、メッシーナ市の復興である。同市は前にも述べたとおり十五年前の大震災により、火災こそおこさなかったとはいえ、市街は全滅して十三万八〇〇〇の人口中八万三〇〇〇は無惨な圧死をとげた。当時は破壊物の取りかたづけでさえ疑われ、自然、イタリア名物の廃虚となるだろうと予想されていた。自分はこの廃虚を訪うつもりで昨年メッシーナに行ってみると、あにはからんや、廃虚どころかこの十四年間に市街は立派に回復され、人口は十五万人をかぞえ、以前にも増した繁昌である。ただし、いつも震災には無頓着なイタリア人もこのときだけはこりたものと見えて、道路をおおいにひろげ、公園を増し、高層家屋をよして、やむなき場合にかぎり三層とし、最多数は二層以下である。それで自分は一見、ああ、これが地震国の都市かなと感じたのである。
( 「大地震雑話」より) - 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 九月二十四日
- (略)加藤委員ら、伊豆半島ならびに三浦半島の調査を終えて帰られた。同氏らは初島まで調査におもむかれ、その隆起せること五、六尺〔一五〇〜一八〇センチメートル〕なることを認め得られた。そのほか湘南一帯・三浦半島の隆起は、これまで報道せられたものと大差なく、また地変としては小田原と熱海との間、ことに根府川付近がもっともはなはだしいことなどから推測して、震源は大島と大磯との間であろうかと断ぜられた。ただ、自分としては最も期待しておった土地の低下せる場所が同委員の報告にもその存在を認められなかったことを不思議とし、陸地測量部の水準測量の結果を静かに待つことにした。つまり、この測量あるいは水路部の水深測量が数か月をへて完結するまでは、起震帯に関する正確なる推定はむつかしいことではあるまいか。
- 九月二十五日
- (略)待ちに待ったる油壷験潮儀記録の写し三角課長より送り越された。取る手もおそしと披見すると自分の期待はことごとく裏切られ、地震前には何らの地変も記しおらぬのみか、大地震開始後、幾秒間の後には時計も止まり、これと同時に陸地隆起のあったことを示すだけであった。ただ、基準点の実測から陸地の隆起一・四四四メートルすなわち四尺八寸であることを確かに証明されたのみである。なお、陸地測量部においてわが国の沿岸各地に散布された験潮儀の示す一年平均水位を比較してみると、油壷のみはこの最近二年間において、ある異状をあらわしているように見える。すなわち前の二年間においてすべての場所が水位の下降を示し、ただ、日向細島のみが一昨年度においてのみ僅少なる上昇を示しているのみなるに反して、油壷のみは最近二か年間は著しき上昇を示しているのである。これは見様によっては、三浦半島がこの二年間、地盤が下がりつつあったことを意味している。なお後日の研究を要する問題である。
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 十月一日
- (略)あの有名な被服廠をおそった旋風は、一番最初に気づかれた位置は東京高等工業学校前の大川の中であって、時刻はちょうど午後四時ごろ、旋風の大きさは国技館くらい、高さ一〇〇メートルないし二〇〇メートル(略)時針の反対の向きにまわり、川に浮かんでいる小舟を一間あるいは二間〔一間は六尺、約一・八メートル〕の高さにすいあげてははね飛ばし、当時さかんに燃えつつあった高等工業学校の炎と煙とを巻き込み、まもなくそれが横網河岸に上陸して、北の安田邸と南の安田邸との間をかすめ、被服廠の中心から北の方を通り、たちまちの間にそこに避難しておった群集の荷物に延焼し、同時に避難者の着物にも点火して、一面に煙と炎の浪になり、またたくひまにこの一郭にて、三万八〇一五人の生命を奪ったものであるらしい。
- (略)さいわいに被服廠において助かった人たちは、合計二〇〇〇人もあろうとのことであるが、それは多くは被服廠の中央から以南に避難しておった人たちであった。しかし、いずれもわずかな水を土にひたしてそれを皮膚に塗りて火気をよけたとか、あるいは地面にはって地に向かって呼吸をしてようやく助かったという人たちであった。これらの人が目撃した話によれば、この火災をうずまいた旋風に出会った人は、見る間に黒こげとなり、あるいは立ち上がったかと思うとそのままたおれて、たちまち絶息をするというように見受けた。この後の場合は、窒息によったものか、あるいはかかる際に発生する有毒なガス(一酸化炭素のごとき)にでもよるのか、研究すべき問題であるように考えた。
- いまひとつ書きつけておきたいのは、新大橋の交通を無難にした警察官、橋本政之助・古瀬猪三郎両氏の殊勲である。橋本氏は深川方面よりの避難者の携帯せる荷物を危険と看てとり、しいてこれを遺棄せしめようとしたが、当時、同氏は平服であったがために市民がなかなかいうことをきかない。それで橋向かいの制服警察官を応援にたのんで右のことを励行し、ついで古瀬巡査の応援を得、ついには制しきれずして抜剣までもなし、荷物を河中へ投げ込んだとのことである。
(略) - 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 四六 プリニィの話
- 四七 煮え立つ茶釜(ちゃがま)
- 四八 機関車
- 四九 エミルの観察
- 五〇 世界の果(は)てへの旅
- 五一 地球
- 五二 空気
- 五三 太陽
- 「救い主キリストの仲間がまだ生きていた、紀元七十九年のことである。そのころヴェスヴィアス山は何ごともないおだやかな山だった。今日のような煙の出る山になっていたのではなく、わずかに持ち上った岡で、うもれた噴火口の跡には小さな草や野ブドウが生えていただけだった。そして山腹には豊かな穀物がしげって、ふもとの方にはヘルクラニウムとポンペイというにぎやかな二つの町があったのだ。
」 - 「最後の噴火が人々の記憶にも残らぬほどのむかしになって、これからは永遠にしずまるものと思われていたこの噴火山は、突然、生き返って煙を出しはじめた。
(略) 」 - 「さて、そのころ、ヴェスヴィアスから遠くないメシナ〔メッシーナ〕という港に、この話を伝えたプリニィのおじさんがいた。この人は自分の甥(おい)と同じくプリニィという名の人で、この港に停泊していたローマ艦隊の司令官だった。そして非常に勇敢な人で、新しいことを知るとか、他人を助けるばあいには、どんな危険もおそれなかったのだ。ヴェスヴィアス山上にただよう一筋の雲を見ておどろいたプリニィは、すぐさま艦隊を出動させて、こまっている海岸町の人を助けたり、近所からおそろしい雲を観察したりした。ヴェスヴィアスのふもとの住民は気ちがいのようになって、うろたえてさわいで逃げた。プリニィはみんなが逃げている、このいちばん危険なほうへ行ったのだ。
」 (略) - 「(略)石の雨が……実際、小石と火のついた燃えかすとが雨のように降ってくる。人々はこの雨をよけるために、枕を頭にのせて、おそろしいまっ暗やみの中をぬけて、手に持った松明(たいまつ)の光でようやく海岸へ向かって進んで行った。プリニィはちょっと休もうと思って地の上にすわった。ちょうどその時、強烈な硫黄のにおいのする大きな火が飛んできて、みんなをビックリさせた。プリニィは立ち上がったが、そのまま死んでたおれてしまった。噴火山の溶岩や燃えかすや煙が、プリニィを窒息させたのである。
」 - 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 五四 昼と夜
- 五五 一年と四季
- 五六 ベラドンナの実(み)
- 五七 有毒(ゆうどく)植物
- 五八 花
- 五九 果実(かじつ)
- 六〇 花粉(かふん)
- 六一 ツチバチ
- 「みなさん。
」とおじさんは始めました。 「あぶないことを見ないように目を閉じて、それで安全だと思っている人があります。また、人間に害になる物のあることがわかって、それがどんなものだかを知ろうとする人があります。あなた方は、このあとの方の人です。そしてわたしは、それをうれしく思うのです。いろんな悪いことがわれわれを待ちもうけています。われわれはそれをよく注意して、その害悪の数を少なくしなければなりません。さて、今われわれは、毎年その犠牲をつくるこのおそろしい植物を知って、それを避けるという、この大事なことがわからなかったために、おそろしい不幸な目にあってしまいました。もしこの知識がもっと広まっていたら、われわれがいま、その死をくやんでいるあの子どもは、死なずにすんで、いまなお、そのお母さんのいとし子でいることができていたろうと思います。じつにあの子どもはかわいそうでした。 」 ( 「五七 有毒植物」より) - 「ここにあるゼニアオイの萼(がく)は、やはり五枚の小さな葉でできていて、五枚の大きな花冠はバラ色をしている。この花冠の一つ一つを花弁というのだ。花弁が集まって花冠になるのだ。
」 - 「ジギタリスの花冠は一つの花弁もなくって、ゼニアオイには五枚ありますね。
」とクレールがいいました。 - 「ちょっと見るとそうだが、気をつけて見ると両方とも五枚あるのだ。どの花でもほとんどみんな、ツボミの中で花弁が一つにかたまってしまって、一枚の花弁としか見えない花冠になるものだ。しかし、たいてい、そのかたまった花弁が花のはしの方でちょっと割れていて、そのギザギザで何枚の花弁が一つになったのかわかる。
」 (略) - 「どれにもこれにも五という数があるんですわね。
」とクレールがいいました。 - 「花はいうまでもなくじつに美しいものだが、また不思議な構造にできている。どの花もちゃんとした規則で作ったように、数がきまっている。そして五の数でできているのがいちばん普通なんだ。だから今朝調べた花には、どれも五つの花弁と五つの萼片とがあるのだ。
」 - 「そのつぎに普通なのはその数だ〔「三の数」か。
〕。それはチューリップや、ユリや、谷間のヒメユリのようなふくらんだ花がそうだ。これらの花には緑色の萼(がく)はなくて、内側に三枚、外側に三枚、つごう六枚の花弁でできた花冠があるのだ。 」 ( 「五八 花」より) - 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- なんだか頭がまだほんとうにおちつかないので、まとまったことは書けそうもない。
- 去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳の年に日本橋で安政〔一八五五年〕の大地震に出逢ったそうで、子どもの時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみこんだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事ができない。すこし強い地震があると、またそのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうもおちついていられない。
- わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年(一八九四)六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時ごろと記憶しているが、これもずいぶんひどい揺れ方で、市内に潰れ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それにともなって二、三か所にボヤもおこったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいでみな消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後にはしずまった。三年まえ〔一八九一年〕の尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずとしずまった。もちろん、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてからはじめてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰ってきた。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴したのであった。その以来、わたしにとって地震というものが、いっそうおそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
- こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年(一九二三)九月一日をむかえたのであった。―
―( 「震災の記」より)
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