森 林太郎 もり りんたろう
1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9)
森鴎外。作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


*底本
底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室)
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もくじ 能久親王事跡(六)

ミルクティー*現代表記版
能久親王事跡(六) 森 林太郎

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能久親王事蹟(六) 森 林太郎

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能久親王事跡(六)

森 林太郎


 〔明治二八年(一八九五)八月〕二十九日、左翼隊の編成を解かる。右翼隊に、歩兵第一連隊本部ならびに第三・第四中隊、工兵半小隊を加え、川村支隊と改称し、鹿港ろくこうに置きて、西螺せいら街方面を警戒せしめらる。歩兵第三連隊第二大隊本部は胡盧�~を守備せんがために、同じ連隊の第五・第七中隊は東大�~を守備せんがために、ならびに彰化しょうかを発しつ。宮はこの日より彰化に淹留えんりゅうせさせ給いぬ。
 三十日、歩兵第三連隊第一大隊本部および第一・第四中隊に、三塊廟荘付近の敵を撃攘げきじょうし、斗六とろくに通ずる道を偵察することを命じて、彰化を出発せしめらる。
 三十一日、追撃隊北斗ほくとに至り、第一連隊第六中隊を留めて守備せしめ、進みて樹仔脚・剌桐港・他里霧・大甫林などを偵察せんとす。歩兵第三連隊第一大隊は雲林うんりんに至りて敵を見ざりき。参謀総長彰仁あきひと親王の祝電いたる。
 九月一日、歩兵第三連隊第一大隊、彰化に返る。彰化のしょうをほめさせ給う勅語および皇后宮の令旨いたる。
 二日、追撃隊の歩兵第一連隊第八中隊および騎兵大隊は他里霧に至り、同じ連隊の第五・第七中隊 千田少佐ひきいたり。は騎兵第一中隊 二小隊闕。高橋中尉ひきいたり。とともに雲林に至りて、大甫林に会し、打猫方面を偵察す。歩兵第一連隊本部および第三・第四中隊、鹿港ろくこうを発し、第三中隊を員林いんりん街付近に留めて北斗に向かう。工兵第一大隊は道路をおさめて、彰化より北斗に向かう。
 三日、追撃隊、打猫付近を偵察しおわりて大甫林に集合したりしに、午後二時、敵八百ばかり包囲しつ。追撃隊これを撃退す。歩兵第一連隊第四中隊北斗に至り、第六中隊と交代して守備す。宮はこの日午前七時、鹿港ろくこうを観に出で立たせ給い、九時四十分、鹿港に至らせ給い、第一旅団司令部などを訪わせ給い、午後二時、彰化しょうかにかえらせ給う。
 四日、午後五時四十分、敵ありて他里霧の逓騎哨をおそう。伝騎三人 一等卒、井手喜一郎および歩兵二人 急を追撃隊に報ぜんがために大甫林に向かう。これより先、歩兵第一連隊第八中隊は、命令によりて、ふたたび他里霧に至らんと欲し、たまたま伝騎三人の来るにあい、使いを北斗の守備隊につかわし、剌桐港に向かいて進みしに、みちに同じ連隊の第六中隊の北斗より来るにあい、午後七時、共に剌桐港をへて、他里霧の北門外四〇〇メートルの地に至り、第八中隊は南門にせまり、第六中隊は北門にせまりぬ。
 五日、午前一時、第六中隊、他里霧の北門をやぶりて入り、火をはなちて攻撃し、第八中隊、南門をやくしつ。敵、もに散ず。五時、両中隊南門に集合しつ。歩兵第四連隊第一、第四中隊および砲兵第三中隊の一小隊、追撃隊をたすけんがために、北斗方面におもむくことを命ぜらる。川村支隊の歩兵第一連隊本部および連隊の残部を社斗街に進めらる。
 六日、歩兵第一連隊の残部、社斗街に至る。
 七日、午前零時四十分、追撃隊の歩騎兵大甫林にありて、宮の訓令に接し、あかつきを待ちて背進せんとせしに、五時、敵、至りぬ。歩兵第一連隊第五中隊、まずこれにあたり、午前八時、第七中隊の一部とともに敵を撃退し、夜、虎尾剌桐港の南にあり。に至り、渓水汎濫はんらんしてわたるべからざるをもて、その右岸に露営しつ。歩兵第一連隊の残部、社斗街より、第一中隊を内湾に派す。彰化におこりおこなわれて、在院患者一二〇〇に至り、軽症者入院することあたわず。新たに四〇〇人をるる病院を作る。
 八日、追撃隊、樹仔脚に至る。歩兵第四連隊第一・第四中隊ら、鹿港ろくこう渓にはばまれたりしに、ようよう北斗に達す。
 九日、歩兵第一連隊第二大隊、樹仔脚を発して北斗に向かう。その第七中隊は騎兵大隊とともに樹仔脚に留まる。
 十日、騎兵大隊、樹仔脚を発して永靖えいせい街に至る。途にて第二中隊の浮田小隊を内湾に派す。
 十一日、騎兵大隊第二中隊。一小隊闕。を永靖街に留めて彰化に帰る。第四連隊第一大隊は、ともない行きし砲兵一小隊を北斗に留めて彰化に帰りぬ。この頃、彰化以北の師団諸隊、新たに至れる後備諸隊と交代し、後方を守備したりし混成第四旅団、台北たいほく基隆キールン間に集合す。
 十三日、歩兵第三連隊第二・第三中隊・騎兵一小隊・砲兵第四中隊の一小隊をもて、志賀支隊 隊長、志賀範之。を編成し、これに内湾付近の敵を撃攘げきじょうすることを命じて彰化を発せしむ。総督、混成第四旅団の戦闘序列を解き、第二師団に復帰せしむ。
 十五日、志賀支隊内湾守備隊とともに、内湾東方高地の敵を撃退す。この頃、彰化以北にありし諸隊、彰化に集中す。総督、近衛および第二師団をもて南進軍を編成す。
 十六日、歩兵第二連隊第一大隊、鹿港ろくこうに至り、川村支隊に入る。
 十七日、彰化のおこりますますおこなわれて、師団の健康者、五分の一と称せらる。
 十九日、歩兵第一連隊・第二連隊・騎兵第二中隊・砲兵第二大隊・工兵第一中隊を歩兵第一旅団長の麾下きかに属し、鹿港渓右岸にありて、嘉義かぎ方向を警戒せしめらる。砲兵第一大隊および第一中隊を鹿港より彰化に呼び返さる。
 二十日、歩兵第三連隊半部および砲兵第四中隊、社斗街を守備せんがために彰化を発す。
 二十二日、南進の命令、総督府より至る。
 二十六日、師団命令出づ。その要領にいわく。敵は台南たいなん付近にあり。その一部は鳳山ほうざん嘉義かぎにあるがごとし。師団は嘉義に向かいて進まんとす。右側支隊は西螺せいら街方面の敵を掃蕩そうとうしつつ進むべし。左側支隊は雲林方面の敵を掃蕩しつつ進むべし。師団本隊は中央の道路を進むべし。歩兵第三連隊第一大隊は北斗・剌桐港・他里霧・打猫に守備兵を留め置くべしとなり。軍隊区分は、歩兵第一連隊、第一大隊本部および二中隊闕。騎兵大隊、第一中隊闕。工兵一小隊を前衛とし、川村少将、司令官たり。歩兵第二連隊本部および第一大隊、騎兵一小隊、工兵半小隊を右側支隊とし、阪井さかい大佐支隊長たり。歩兵第四連隊、第二大隊本部および第二中隊闕。騎兵第一中隊、二小隊闕。砲兵第二大隊、第三中隊闕。工兵一小隊を左側支隊とし、内藤大佐支隊長たり。衛生隊半部を属せらる。歩兵第二旅団司令部、歩兵第一連隊第一大隊、二中隊闕。歩兵第四連隊第二大隊、二中隊闕。歩兵第三連隊、第一大隊闕。騎兵一小隊、砲兵連隊本部および第一大隊、一小隊闕。工兵大隊本部および半小隊・第二・第三機関砲隊および合併第三砲隊を師団本隊とす。衛生隊半部を属せらる。当時、嘉義かぎ方面にある敵は、黒旗兵と新集兵とを合わして、約一万と称す。劉永福りゅうえいふく叔父・劉歩高これをべたりき。
 二十七日、宮、明日途にかせ給わんとす。
 二十八日、大雨洪水のために兵をとどめて発せしめず。この夜、少将山根やまね信成のぶなりおこりを病みて没す。瘧の流行ようやくおとろう。
 二十九日、進軍を令す。
 三十日、大雨洪水のために、ふたたび兵をとどめて発せしめず。この日、ドイツ人某いたりて従軍す。宮の乗馬 宮城野。みて馬廠に送らる。

 十月三日、南進の行程を計画せさせ給う。前衛は六日剌桐港に至り、七日他里霧に至り、八日打猫に至り、九日に嘉義かぎに至らんとす。右側支隊は六日西螺せいら街に至り、七日土庫とこに至り、八日ちんぼうけいに至り、九日嘉義に至らんとす。左側支隊は六日樹仔脚に至り、七日雲林うんりんに至り、八日火焼かしょう庄に至り、九日嘉義に至らんとす。本隊は六日社頭しゃとう街に至り、七日剌羽港に至り、八日大甫林に至り、九日嘉義に至らんとす。宮はこの日午前七時、彰化しょうかを立たせ給い、十一時五十分、員林いんりん街にいこわせ給い、午後三時四十分、南港西荘に着かせ給う。従卒中村文蔵、病みて野戦病院に入る。
 四日、宮、北斗ほくといて洪水の状を観、明日の前衛の前進を計画せさせ給う。
 五日、前衛永靖えいせい街、北斗より樹仔脚に集合せんとせしに、敵はげしく抗抵こうていせるを、午前十時、撃退して樹仔脚に入り、一部隊をつかわして剌桐港を占領せしむ。右側支隊は鹿港ろくこう渓を渡りて北斗に宿りぬ。
 六日、前衛、剌桐港に集合して、他里霧を偵察す。右側支隊は払暁北斗ほくとを発し、西螺せいら渓を渡り、敵を撃攘げきじょうして西螺街に入り、ここに露営す。西螺街はいわゆる細目族のいるところにして、その性獰悪どうあくなりといえど、事なかりき。前衛は一部隊を出して、右側支隊をたすけしめしが、西螺街のすでに占領せられしを聞いてむなしく帰りぬ。左側支隊は樹仔脚に露営し、本隊は社斗街にとどまりぬ。宮はこの日、午前八時十五分、南港西荘を立たせ給い、午後二時、北斗に着かせ給う。
 七日、前衛は午前六時、剌桐港を発し、八時三十分、他里霧北方一吉米の地に至りて敵にあい、午前十時これを撃退して他里霧を占領す。敵の死傷三〇〇を下らず。われに死者五人、重傷者九人ありき。敵は黄某・王某・粛某らのひきいし二〇〇〇余の兵なりき。右側支隊は午前七時、西螺せいら街を発し、七缺をへて、虎尾こび渓をわたり、午後一時、土庫とこの敵を撃退して、部落の南端に露営す。左側支隊は午前六時、樹仔脚の東南端に集合し、六時三十分集合地を発し、虎尾渓をわたり、斗六とろく門付近の敵と戦をまじえ、午後十時三十分に至りて、斗六門街を占領し、ここに舎営す。司令部をば雲林うんりん県庁に設けつ。敵の死者二五〇ばかり。われに死者五人、傷者十二人ありき。敵は上にあげたる黄某らの他、李某・林某らひきいたりき。本隊は社頭しゃとう街を発して、剌桐港に宿りぬ。宮はこの日午前六時十五分、北斗を発せさせ給い、十一時、剌桐港に着かせ給う。
 八日、午前八時三十分、前衛他里霧を発し、九時、大甫林の北約一吉米の地に至りて戦闘し、午時、大甫林を占領す。午後三時、敵の残兵、寺院および竹林にれるを撃退し、七時、打猫に至りて宿営す。右側支隊は午前六時三十分、土庫とこを発し、ひとたび興化荘に戦い、ふたたび双渓そうけい口の北なる洪家店に戦い、ちんぼうけいに露営す。左側支隊は午前四時三十分、斗六とろく街の南端に集合し、十時五十分、内林の西方四百メートルの地に至りて戦闘し、十時五十分内林を占領し、また林仔頭の西北端に至りて戦闘し、打猫の東方なる沙崙仔荘に宿営す。本隊は剌桐港を発し、他里霧をへて、午前十時大甫林に至り、大甫林の南方二吉米半ばかりなる竹林に露営す。宮はこの日午前六時、剌桐港を発せさせ給い、午後八時十分、露営地に着かせ給いぬ。
 九日、天晴れて、暑さ、やや退きぬ。前衛は昧爽まいそう打猫を発せしに、道かりければ、午前八時三十分、両側支隊に先だちて、嘉義かぎの北門外一吉米の地に至りぬ。右側の須永すなが支隊は昧爽、ちんぼうけいを発し、午前十時三十分、嘉義の西門外七〇〇メートルの地に至りぬ。左側支隊は昧爽、沙崙仔荘を発し、山仔脚、北勢をへて、牛桐渓をわたり、十時ごろ嘉義の東門外に至りぬ。本隊は南湖西荘を発して、九時三十分すぎ、嘉義の北門外一吉米の地に至りぬ。午前十一時、戦闘は始まりぬ。前衛は砲兵して北門の西方なる敵の砲兵陣地を攻撃せしめ、十一時五十五分、竹はしごを架して嘉義の外郭に登り、北門を占領す。右側支隊は第二連隊第一中隊 有馬中隊。を南門に分派して、西門にせまり、十一時四十五分、外郭に竹はしごを架して登り、西門を占領す。第二連隊第一中隊は南門より廓壁の上を東門に向かいて進み、東門を攻めたる阪井さかい支隊と協力して、午後零時五分、東門を占領す。零時十五分、嘉義はまったく占領せられぬ。宮は午前六時、大甫林南方の露営地を立たせ給い、十時、嘉義の北方六〇〇メートルの地に至らせ給いぬ。参謀長、大樹のかげに案内しまつり、宮はここにて、民家より借り来たる椅子いすにましまして、敵情を聴かせ給い、嘉義のおちいるにのぞみて、歩兵第三連隊第二大隊・騎兵第二中隊・砲兵第一大隊 一中隊闕。に追撃を命ぜさせ給い、午後一時三十分、嘉義に入りて、旧県庁に舎営せさせ給う。この戦に敵の死者四〇〇を超え、生擒いけどりせらるるもの五〇〇余人なりき。師団諸隊は嘉義付近に宿営す。追撃隊は午後四時、水屈頭に至りて宿営しつ。この夜、歩兵第三連隊第二大隊・第四連隊第二大隊 二中隊闕。・騎兵第二中隊・砲兵第一大隊 第一中隊闕。・工兵半小隊を前衛とし、新たに昇進せし阪井少将 阪井さかい重季しげすえは十月三日、少将に進み、第二旅団長に補せられき。に指揮せしめて、台南たいなん方面を偵察せしめらる。また歩兵第二連隊第一大隊・第一連隊第一大隊 二中隊闕。・騎兵一小隊・砲兵一中隊・工兵一小隊を右側支隊とし、須永すなが中佐に指揮せしめて、混成第四旅団の上陸を援護せしめらる。
 十日、宮は、しばらく嘉義に留まらせ給う。混成第四旅団は澎湖島ほうことう馬公湾に停泊したりしが、この日、布袋嘴に上陸し、第二師団歩兵第四連隊・第十六連隊・騎兵第二大隊・砲兵第二連隊などもまた馬公湾を発しつ。英船、劉永福りゅうえいふくが条約二端を立てて台湾を譲与せんとする書をもたらして、澎湖島ほうことう錨地にある軍艦浪速なにわに至る。南進軍司令官、台湾副総督高島たかしま鞆之助とものすけこれに復してその無礼をめつ。
 十一日、須永すなが支隊、塩水港汎に至りて敵を撃攘げきじょうし、混成第四旅団と連絡す。第二師団の諸隊枋寮ほうりょうに上陸して、その前衛大荘および茄苳脚付近の敵を撃攘す。
 十二日、劉永福、英商にたくして、和をう書を宮のもとにいたしつ。宮、劉が行動の条理なきをめて、使者を放ちかえさせ給う。第二師団はほとんど抗抵こうていこうむらずして東港とうこうを占領しつ。
 十三日、高島軍司令官、南進軍を部署し、貞愛さだなる親王のひきいさせ給う混成第四旅団を塩水港汎より進ましめ、乃木のぎ希典まれすけのひきいる第三旅団を枋寮より、鳳山ほうざんをへて進ましめ、近衛師団を嘉義より進ましめ、二十三日を期して台南を攻撃せんとす。
 十六日、第三旅団、鳳山を占領す。宮の従卒中村文蔵、病えて帰る。
 十七日、宮、南進軍司令官の意図をうけて、師団命令を発せさせ給う。その略にいわく。混成第四旅団は塩水港汎より茅港尾、看西をへて進み、第二師団は鳳山より進まんとす。近衛師団は左右両縦隊をなして、番仔申および湾裏に通ずる道を進み、本隊は右縦隊の道によるべしとなり。軍隊区分は、歩兵第一連隊、第二大隊闕。第二連隊、第二大隊闕。騎兵第一中隊、二小隊闕。砲兵第一大隊、第一中隊闕。臨時工兵中隊、小架橋縦列の一部を右縦隊とし、川村かわむら景明かげあきひきい、歩兵第三連隊、第一大隊闕。第四連隊、第一大隊の二中隊闕。騎兵大隊、三小隊闕。砲兵第一中隊、工兵大隊本部および第一中隊、一小隊闕。小架橋縦列の一部を左縦隊とし、阪井さかい重季しげすえひきい、衛生隊は両縦隊に半部ずつ分属す。歩兵第四連隊、第二大隊本部および二中隊闕。騎兵一小隊、砲兵連隊本部および第二大隊、工兵一小隊、第一および第二機関砲隊を本隊とせられぬ。混成第四旅団はこの日、塩水港汎を発し、鉄線橋付近の敵を撃退して、一部を茅港尾方面に派遣しつ。南進軍司令官は布袋嘴に上陸して、塩水港汎に至りぬ。宮は明日、嘉義を発せさせ給うべき準備をせさせ給うほどに、夜に入りて発熱せさせ給う。師団軍医部長、木村達、しんしまつるに、舌の白苔をこうむれるほか、徴候の認むべきなかりき。達はおこりと診断しつ。

 十八日、右縦隊は安渓寮に宿営し、左縦隊は内藤大佐ひきいて、估仔内、紅毛寮をへて、店仔口に至り、ここに宿営し、本隊は右縦隊とともに安渓寮に宿営す。宮はこの日、午前三時、悪寒、腰痛をおぼえさせ給いしかど、七時、病をつとめて嘉義かぎを発せさせ給い、午後一時二十分、大茄苳に至らせ給う。この時、達、しんしまつるに、後頭重ずじゅう、口渇、全身倦怠けんたいなどおわしましき。一時三十分、体温三十八・四度、脈八十一至おわしき。塩酸キニーネをたてまつりぬ。安渓寮に着かせ給うに、竹の門ある矮屋わいおくにて、宮の居させ給う室は、畳八枚ばかり敷きつべき所なりしが、壁湿うるおいて小き菌をさえ生じたりき。扉を脱して地によこたえ、わらを敷きて宮を寝させまつりぬ。されど宮はこの夜をば安眠せさせ給いぬ。
 十九日、左右縦隊および本隊、みな古旗後に宿営す。宮は朝、安渓寮にいますを、達、しんしまつりぬ。体温三十八・一度、脈八十至、全身倦怠けんたいやや加わらせ給う。のすこしく肥大せるを認めつ。午前六時、出で立たせ給うとき、御馬に乗らせ給うべくもあらねば、きょうに宮を載せまいらせつ。この朝、川村かわむら景明かげあき阪井さかい重季しげすえ、皆、おこりを病みて、きょうに乗りて行きぬ。歩兵第三連隊長、伊崎良煕もまたみて、担架に乗りて進めるを、宮、看行みそなわしてなぐさめさせ給う。午後五時、宮、古旗後に着かせ給う。御服薬は前方を服せさせ給う。この日、劉永福りゅうえいふくは台南にありて、講和なりぬと称して兵を解散し、英船二隻をやとい、金九千両をあたえて保険せしめ、おのれ、その一隻 船名を THALESタリス 号という。に乗り、随従せる男女千余人を二船に分かち載せて安平アンピン港を発し、ベトナムに向かいてはしりぬ。船、発するにあたりて、わが軍艦臨検りんけんし、木村信というもの刀をさげて船内を捜索せしかど、劉の石炭庫に潜匿せんとくしたりしを発見することあたわざりき。わが軍はなお劉のはしりしを知らざりき。
 二十日、左右縦隊および本隊、皆、湾裡に至りて宿す。宮は朝、体温三十八・五度、脈九十二至にして、食思しょくし振わせ給わざりき。きょうに乗りて古旗後を立たせ給い、午後四時半、湾裡に至らせ給い、五時半、某の民家に宿りましぬ。夕の体温三十九・八度、脈九十二至なりき。ANTIFEBRINアンチフェブリン を服せさせ給う。半夜、下痢のために次硝酸じしょうさん蒼鉛そうえんをたてまつる。この夜はじめ、宮の宿らせ給うに定まれりし寺院は、副官室となりたるに、敵のその梁上にひそめるありて、闇に乗じて逃れ去らんとしつるを、人々捕獲しつ。この日、午前九時、第二師団司令部は、英国の宣教師三人の詣で来て、劉永福のはしりしことを告ぐるを聞きつ。されど近衛師団はいまだこれを知らざりき。
 二十一日、近衛師団の諸隊、大目降に至りて宿営す。宮は朝の体温三十九・五度、脈百至おわしき。著しく疲れさせ給うと見えさせ給いしかば、きょうに載せまいらすべきにあらずとて、竹四本を結びて長方形になし、これに竹むしろをはり、わらを敷き、毛布をべ、上に竹を架して浅葱あさぎ色の木綿布をおおいて、日をさえぎるように補理しつらい、これに載せまつりて土人にかせ、午前七時、湾裡を立ちぬ。午後三時、大目降に着かせ給う。夕の体温四十・一度、脈百零一至。倦怠けんたいいよいよはなはだしきを覚えさせ給う。キニーネ、赤ブドウ酒、里謨那底をたてまつりぬ。夜、下利せさせ給う。この日、午前八時、第二師団司令部、台南に入りぬ。夕に至りて、劉永福りゅうえいふくはしりしこと、第二師団司令部の台南に入りしことなど、近衛師団に聞こえぬれど、軍の通報はいまだ至らず。
 二十二日、近衛師団の諸隊、大目降を発して台南に入りぬ。台南に近づくとき、軍の台南を占領せし通報を得つ。宮は朝の体温三十九・六度、脈八十至おわしき。午前七時三十分、かれて大目降を発せさせ給い、午後五時三十分、台南に着かせ給う。夕の体温四十・二度、脈百零一至おわしましき。口渇、倦怠けんたい食思しょくしまた減退せさせ給い、の肥大、著しくならせ給う。下利一行おわしき。赤ブドウ酒、里謨那底をたてまつりぬ。この夜より徹夜して看病せしむ。
 二十三日、朝の体温三十九・二度、脈百二十至おわしき。午前十一時、新たに選び定めたる家に移らせ給う。宮の居させ給うは、なかば床板をはり、なかば直土ひたつちのままなる、畳四枚ばかりを敷きつべき室なり。幅三尺の窓に玻�戸を立つ。籐の臥床ふしど一つ求め得て、宮を寝させまつる。午後三時、諸症やや増悪せさせ給う。総督府軍医部長石阪いしざか惟寛いかん、第二師団軍医部長谷口謙、西郷さいごう吉義よしみち、来診しまつる。夕の体温三十九・九度、脈百二十至おわしき。軟便をくださせ給うこと三度。次硝酸じしょうさん蒼鉛そうえん龍脳りゅうのう、赤ブドウ酒、里謨那底をたてまつる。夜、譫語せんごせさせ給う。この日より客にわせ給わず。貞愛さだなる親王にわせ給いしを終として、ついで至れる高島軍司令官はむなしく帰りぬ。
 二十四日、朝の体温三十九・零度、脈百十至、呼吸三十、夕の体温三十九・三度、脈百十九至、呼吸三十三。口渇せさせ給いて、舌に褐色のこけあり。右肩胛けんこう下隅の下に濁音ありて、両胸の呼吸音、�雑に、右胸に水泡音を聞く。こは肺炎のしるしなり。尿量六〇〇立方サンチメートルにして、タンパクの痕跡あり。実岐答利斯、吐根とこん浸剤しんざい、龍脳、赤ブドウ酒、牛乳をたてまつる。
 二十五日、朝の体温三十八・五度、脈百零四至、呼吸三十、夕の体温三十八・零度、脈軟細にして百二十至、呼吸三十。便秘せさせ給う。右肩胛けんこう下隅の下に捻髪音を聞く。ときどき応答不明におわしき。
 二十六日、朝の体温三十八・二度、脈百十八至、夕の体温三十八・零度、脈百十九至、呼吸二十九。唇乾き、舌うるおい、面・胸・手背しゅはいに粘汗をおびさせ給い、四肢振顫しんせんせさせ給う。龍脳、加斯篤里幾尼涅をたてまつる。
 二十七日、朝の体温三十八・六度、脈百二十至、呼吸三十、夕の体温三十七・六度、脈百二十至、呼吸三十。舌および四肢振顫しんせんせさせ給う。全身粘汗をおびさせ給う。ときどき精神朦朧もうろうにおわす。濁音および捻髪音、左胸におよびぬ。前方をたてまつり、龍脳の皮下注射をなしまいらす。午後九時の体温三十七・五度、脈百三十至、呼吸三十七。この日、樺山かばやま総督いたる。
 二十八日、午前三時三十分、脈不正にして百三十五至。五時、体温三十九・六度、脈百三十六至、呼吸四十五。四肢厥冷けつれいして冷汗を流させ給う。人事を省せさせ給わず。龍脳の皮下注射、COGNACコニャック 酒の灌腸かんちょうをなしまいらす。七時十五分、病、すみやかになりて、幾ならぬにこうぜさせ給う。貞愛さだなる親王・樺山かばやま資紀すけのり高島たかしま鞆之助とものすけ乃木のぎ希典まれすけの諸将、別を御遺骸に告げまいらせ、秘して喪を発せず。午後七時、高野盛三郎 家扶心得。・山本喜勢治 家従心得。御衣をえまいらせ、同じ二人、佐本寿人・岩尾惇正 ならびに将校なり。および中村文蔵 従卒。御柩におさめまいらす。この時、軍医監石阪いしざか惟寛かんは松本三郎とともに介助す。貞愛さだなる親王も立ち会わせ給う。御衣は素絹の単衣ひとえ、白き麻の襦袢じゅばん、白き紋縮緬ちりめんの帯、白足袋にて、紋縮緬ちりめん敷布団しきぶとんをしき、同じ地質の掛布団かけぶとんけまいらせ、夏軍衣袴を添えまつりぬ。御柩は厚さ一寸五分のクスノキ板もて、縦七尺、幅四尺、深さ二尺に作らせ、裏面に亜鉛あえん板をはり、御遺骸の周匝めぐりには朱と石灰とをうずむ。御柩のおおいは紺地紋緞子どんすもてわせ、上覆うわおおいは紺繻子しゅすもてわせつ。御柩の台をもクスノキもて作らせつ。宮のこうぜさせ給いし家の一室をば、一切の什具じゅうぐを移動せしめず、行軍の間、宮を載せまつりし竹の担架をもあわせて安置し、室の周匝めぐりには注連縄しめなわりぬ。この日より川村かわむら景明かげあき、近衛師団長の職務を代理す。

 二十九日、午前六時、歩兵少佐佐本寿人のひきいる一行、宮の御柩を奉じて台南を発す。おもてには宮、御病のために帰らせ給うと沙汰さたせしめき。御柩に随従しまつるは、近衛師団軍医部長木村達、歩兵少佐佐本寿人、師団副官久松ひさまつ定謨さだこと 歩兵中尉。同伊達紀隆、歩兵少尉。特務曹長菱田栄和・家扶心得高野盛三郎・家従心得山本喜勢治・従卒中村文蔵および兵卒九人、看護人二人、力士数人なりき。はじめ、宮の台湾に渡らせ給いしとき随従しまつりし家令心得恩地おんち轍・家扶心得高屋宗繁の二人は先に帰りぬ。馬丁は松本政吉・田村喜一郎・田中倉吉の三人なりき。安平アンピンにて御柩を西京丸に載せまつり、軍艦吉野もて護衛しまつる。十時三十分、抜錨ばつびょうす。貞愛さだなる親王を始めとし、樺山かばやま資紀すけのり・高島鞆之助とものすけ乃木のぎ希典まれすけらの諸将、埠頭に送りまつる。
 十一月一日、宮に菊花頸飾章をたまい、また功三級に叙して、金鵄勲章を賜う。年金七〇〇円。御留守別当、高崎たかさき五六ごろくかわりて拝受しつ。
 二日、台南を平定せしをほめさせ給う勅語および皇后宮令旨、近衛師団に至りぬ。川村少将かわりて拝受しつ。
 三日、御柩を載せたる舟、土佐国須崎すさきまりぬ。
 四日、午前七時四十分、舟、横須賀の港に入りぬ。勅使、土方ひじかた久元ひさもといたる。御息所、御子三人、彰仁あきひと親王、同妃、依仁よりひと親王をはじめとし、御柩を迎えまつるもの数百人なりき。夜、御柩を汽車に移しまつりて、横須賀を発しつ。この日、宮は陸軍大将に任ぜられさせ給い、金一万円をたまわらせ給う。
 五日、午前零時四十五分、御柩を載せたる汽車、新橋に至る。迎えまつるもの、はなはだおおし。留守、近衛師団司令部は兵卒五十人ばかりを派して御柩をかしむ。二時、御柩を霞関かすみがせき 二丁目角。なる御館にき入れまつりぬ。別当高崎五六、ただちに宮内大臣土方ひじかた久元ひさもと、陸軍大臣大山おおやまいわおに、宮の着かせ給うを報ず。七時十分、喪を発す。届書は内閣総理大臣伊藤博文、宮内大臣、陸軍大臣、枢密院議長黒田くろだ清隆きよたか、賞勲局総裁大給おぎゅうゆずる、貴族院議長蜂須賀はち茂韶もちあきに発せられ、通知書は在外諸公使および在京外国諸公使に発せられぬ。○宮内省告示第十五号は宮の薨去こうきょを公布しつ。宮中、喪五日間。同上告示。全国に歌舞音曲を停止せらるること三日間。閣令第五号。停止は五日より算す。東京はさらに葬送の日に停止す。国葬を令せられぬ。勅令第百五十六号。○葬儀係を置かる。係長を式部長三宮さんのみや義胤よしたねおおせつけられ、係には内匠頭つつみ正誼まさよし、内閣書記官多田ただ好問こうもん、式部官木戸きど孝正たかまさ、宮内大臣秘書官斎藤さいとう桃太郎ももろう、内閣書記官田口乾三、式部官兼掌典万里小路までのこうじ正秀、命ぜられ、下に属官、技手ら二十人を添えらる。葬儀事務所は衆議院議長官舎をもてあてらる。葬儀係の選びて内閣にもうし、允許いんきょせられし斎主以下の職員は、斎主大社教管長千家尊愛、副斎主大教正千家尊弘、地鎮祭ならび出棺後清祓奉仕権大教正平田盛胤なりき。宮内大臣は半旗弔砲ちょうほうの事を陸海軍大臣に牒じ、神奈川・兵庫・長崎・新潟・北海道の五港の知事に報じつ。別当は宮内大臣にうかがいて、成久王を喪主となしまつりぬ。貴族院の弔詞いたる。議長蜂須賀はちすか茂韶もちあきもたらし至りぬ。

 六日、午前十時、麻布なる出雲大社分祠において、帰幽奏上式をおこなう。午後五時、入棺式をおこなう。祭官は斎主任命す。権大教正戸田忠幸、中教正佐佐木幸見、同竹崎嘉通、権中教正木村信嗣、大講義西村清太郎、権大講義桜井敬正の六人なりき。同時に地鎮祭ならび清祓奉仕を任命す。少教正鶴田豊雄、大講義竹下正衛の二人なりき。中講義千葉洪胤は準備員なり。御柩はヒノキの白木をもて作り、左右両面に金色御紋章をえがく。豊島岡の墓地を交付せらる。墓地第九号四二九坪にして、諸陵寮交付しつ。内旨もて上野・日光両輪王寺に法会をおこなうことを命ぜらる。輪王寺は宮に法諡ほうしをたてまつりて、鎮護王院という。この日、南進軍の編制を解きて、第二師団に台湾南部を守備することを命ぜられぬ。
 七日、午後一時、霊遷式をおこなう。勅して儀仗兵ぎじょうへいを賜う。第一師団の歩兵二連隊・騎兵一大隊・砲兵一連隊・輜重兵しちょうへい一大隊・工兵一大隊、近衛師団の歩兵二大隊・騎兵一中隊・砲兵一中隊・工兵一中隊これなり。聖上および皇后妃に果子かしを賜う。
 八日、午前十時、霊祭をおこなう。送葬の日に、聖上および皇后、代拝に人をつかわさせ給うべきよし告知せられぬ。
 九日、霊祭をおこなうこと前日のごとし。儀仗諸兵、指揮官らを任命せらる。諸兵指揮官は第一師団長・陸軍中将山地やまぢ元治もとはる、参謀長は第一師団参謀長心得・砲兵中佐内山うちやま小二郎こじろう、参謀は留守近衛師団参謀・歩兵少佐西川政成、第一師団副官・歩兵少佐亀岡かめおか泰辰やすたつ、副官は第一師団副官・騎兵中尉稲垣三郎なりき。
 十日、霊祭をおこなうこと前日のごとし。午後一時、勅使西四辻にしよつつじ公業きんなりいたりて賻弔す。供物料金五〇〇円、白地錦一巻、さかき一対、神饌しんせん七台。皇太后・皇后・皇太子、各使をつかわして賻弔せしめらる。皇太后の使は掌侍ないしのじょう吉田滝子、さかき一対、絹五種、金一五〇〇円。皇后の使は掌侍ないしのじょう姉小路あねのこうじ良子、は上に同じ。皇太子の使は東宮侍従稲葉いなば正縄まさなおは上に同じ。三時、豊島岡において地鎮祭じちんさいをおこなう。
 十一日、午前七時、棺前祭をおこなう。聖上・皇太后・皇后・皇太子、使をつかわして代拝せしめらる。勅使は西四辻にしよつつじ公業きんなり、皇太后の使は吉田滝子、皇后の使は姉小路良子、皇太子の使は前田青莎なりき。ひつぎれんに上す。九時、御柩を出す。送葬の道路は内幸町、龍口、大手町、神田橋、錦町、小川町、水道橋、砲兵工廠前、江戸川端、小日向水道町、音羽町なりき。行列の概略は、騎馬の憲兵一伍を先頭とし、騎馬の警視一人、警部四人これに次ぐ。そのつぎは軍楽隊、つぎは儀仗兵なりき。諸兵指揮官、参謀長、士官三人、近衛師団の歩・騎・砲・工兵これなり。つぎは真榊まさかき一対、紅白旗十旒なりき。皇宮警手二人両側を行く。つぎは神饌辛櫃からびつなりき。直垂ひたたれ着たる祭官二人、両側を行く。つぎは呉床くれどこ雨皮あまかわなりき。直垂着たる祭官二人、騎馬にて両側を行く。つぎは副斎主の馬車、つぎは斎主の馬車にて、直垂着たる祭官二人、騎馬にて従えり。つぎは錦旗なりき。中村文蔵、直垂着て捧持ほうじす。つぎは直垂着たる伶人れいじん六人なりき。つぎはねこじ真榊まさかきおよび生花二十八対、ほこ三対、造花二対なりき。つぎは勲章十個にて、陸軍砲兵少佐馬淵正文、海軍少佐岩崎達人以下十九人捧持ほうじす。つぎは直垂着たる家従二人、両側を行く。つぎは陸軍将校総代・陸軍大将野津のづ道貫どうがん以下五人なりき。つぎは御柩なりき。つぎは宮に台湾に随従しまつりし陸海軍将校・海軍中将有地ありち品之允しなのじょう以下十人および近衛兵、若干人なりき。つぎは家扶二人、家従六人にて、家扶は皆、直垂ひたたれなり。つぎは呉床くれどこ雨皮あまかわ。つぎは直垂ひたたれ着たる家従二人にて、右なるは刀、左なるは剣を錦のふくろに入れ台に載せ捧持ほうじす。つぎは直垂ひたたれ着たる家従、くつ捧持ほうじす。つぎは乗馬四頭、宮家の章服着たる馭者ぎょしゃこれをひく。つぎは直垂ひたたれ着たる家従二人ならび行く。つぎは喪主、成久王なるひさおうなりき。喪服に素衣を加えさせ給い、もて織れるくつ穿かせ給い、竹の杖を突かせ給いて、徒歩せさせ給う。つぎは恒久王つねひさおう輝久王てるひさおう、ならびに喪服にて徒歩せさせ給う。直垂ひたたれ着たる家扶六人、同じよそおいしたる家従二人、両側を行く。つぎは別当高崎五六、家令恩地轍にて、ならびに布衣なり。つぎは喪主以下若宮三人の馬車なりき。つぎは近親の皇族および華族なりき。能久よしひさ親王妃の馬車には吉田貞子陪乗ばいじょうす。満子みつこ女王、貞子さだこ女王、武子たけこ女王、拡子ひろこ女王、彰仁あきひと親王、彰仁親王妃の馬車つづきぬ。博経ひろつね親王妃の馬車には竹内絢子陪乗す。載仁ことひと親王、依仁よりひと親王、邦芳王くにかおう博恭王ひろやすおう菊麿王きくまろおうおよび妃、邦彦王くによしおう守正王もりまさおう鳩彦王やすひこおう稔彦王なるひこおうの馬車、近親華族七人の馬車、禎子女王代拝者の馬車つづきぬ。つぎは常の親戚華族十三人にして、皆、馬車なりき。つぎは葬儀係の馬車なりき。つぎは騎馬の家従二人なりき。つぎは内閣総理大臣伊藤博文以下大臣九人、枢密顧問官六人、文武諸官、貴族院および衆議院議員若干人、馬車もしくは騎馬にて続きぬ。つぎは儀仗兵なりき。第一師団の歩・騎・砲・工・輜重兵しちょうへいなり。つぎは常の会葬者なりき。後衛は警視一人、警部二人、騎馬にてつとめき。十一時三十分、御柩、豊島岡に至りぬ。葬場祭をおこなう。勅使以下の代拝など棺前祭の時に同じ。御柩をうずみまつる。墓穴は石もてたたみなせり。深さ一丈余、幅八尺、長さ二間なり。御柩をば児タールを塗りたる上箱に納め、川田かわだつよしが撰び、西尾為忠が書きし墓誌銘を、長さ三尺、幅二尺、厚さ三分の銅板にらせたるを添えておろしまつり、周匝めぐりをば木炭をもてうずみまつりぬ。さて土を盛り墓標を立てつ。申橋融次、下村弥一郎、墓所勤仕を命ぜられ、これより百日間、幄舎あくしゃの中に宿直す。午後三時、御館において宮殿解除式をおこなう。
 十二日、午前九時、霊祭をおこない、十一時、墓祭をおこなう。これより後、十一月十四日、十日祭をおこない、二十四日、二十日祭をおこない、十二月四日、三十日祭をおこない、十四日、四十日祭をおこない、二十四日、五十日祭をおこなう。この日の例のごとし。五十日祭をおこないおわりて、葬儀係をかれぬ。
 二十八日、近衛師団凱旋がいせんしおわりぬ。これより先、十一月十三日、近衛師団の諸隊はじめて打狗だぐより舟に乗り、十八日、師団司令部宇品うじなに至り、二十一日、東京に入りぬ。諸隊は舟十七隻に載せられにき。師団司令部は薩摩丸に乗りぬ。
 十二月十日、近衛師団、諸隊復員しおわりぬ。師団の将卒、台湾に死せし者、一四〇〇余人なりき。

 二十五日、逓信省ていしんしょう記念郵券に宮の肖像を印することを議定しつ。この事は逓信大臣白根しらね専一せんいち、書を宮内大臣によせて許諾を得つ。宮の肖像は熾仁たるひと親王の肖像とともに記念券に印せられ、翌年七月十八日発行せられぬ。
 二十九年(一八九六)五月十一日、宮の乗らせ給いし馬一頭を帝室博物館付属動物園に寄付し、他の一頭を日光東照宮神馬所に寄付す。動物園に寄付せられしは木崎野号なり。明治二十一年(一八八八)四月、陸奥国上北郡かみきたぐん三沢村谷地頭に生まれぬ。宮の台湾におわしまししとき多く乗らせ給いしはこの馬なり。三十二年(一八九九)八月四日、動物園にたおれぬ。東照宮に寄付せられしは坂東号なり。明治二十一年(一八八八)上野国吾妻郡応桑村北白川宮の牧場に生まれぬ。これも宮の常に乗らせ給いし馬なり。
 八月、記念碑を宮の露営せさせ給いし新竹しんちくの南方なる牛埔に建つ。
 十月二十二日、宮の牙髪塔を日光なる歴世親王墓地の南端に立て、その前面に廟門、拝殿および本殿を造りて成りぬ。塔は五輪にして、能久よしひさ親王塔という。拝殿に護王殿の額へんがくあり。本殿に御影を安置す。別に輪王寺内の霊殿に木位を安置し、題して鎮護王院宮能久よしひさ親王尊儀という。以上の文字は皆、小松宮彰仁あきひと親王の筆なり。塔の地所は明治三十年(一八九七)四月二十三日、諸陵寮の所轄に帰し、本殿、拝殿などは三十二年(一八九九)十二月二十二日、日光社寺合同修繕区域に編入せられぬ。
 十一月四日、豊島岡の墓成りぬ。高さ一丈六尺の伊予の自然石に「近衛師団長陸軍大将大勲位功三級能久親王墓」と刻せり。彰仁あきひと親王、書かせ給いぬ。五日、宮の社殿を紀尾井町なる北白川宮邸の東南隅に立ててなりぬ。この日、遷霊式をおこなう。また同じ日に豊島岡において宮の一週年祭、執行せられぬ。
 三十一年(一八九八)九月、宮と御息所との写真を近衛師団の将校にわかたせ給う。
 三十二年一月、記念碑を宮の上陸せさせ給いし洩底に建つ。
 三十三年九月十八日、台北たいほく県芝蘭一堡剣潭山に台湾神社を建てて、宮をいつきまつり、大国魂命、大己貴命、少彦名命を配祀しまつる。官幣大社に列せらる。
 三十四年(一九〇一)十月二十日、台湾神社成りぬ。二十七日、鎮座式をおこなう。二十八日、台湾神社において宮の五年祭、執行せられぬ。
 三十五年(一九〇二)二月二十六日、台南たいなんにて宮の宿らせ給いし家屋に保存工事をほどこして成る。
 三十六年(一九〇三)一月二十八日、宮の銅像を丸の内近衛師団歩兵営の南門外に建てて除幕す。銅像は新海しんかい竹太郎たけたろう、その木雕原型を作りぬ。原型は明治四十年(一九〇七)十月二十八日、日光なる牙髪塔の側に、木型奉安殿を立てて安置しまつりぬ。

   能久よしひさ親王年譜


弘化四年(一八四七)丁未、二月十六日、能久よしひさ親王、京都伏見宮邸にれさせ給い、満宮みつのみやと名のらせ給う。
嘉永元年(一八四八)戊申、二歳。京都におわす。仁孝にんこう天皇の御猶子、青蓮院宮しょうれんいんのみやの御付弟にならせ給う。
二年己酉、三歳。京都におわす。
三年庚戌、四歳。京都におわす。
四年辛亥、五歳。京都におわす。
五年壬子、六歳。京都におわす。梶井宮の御付弟にならせ給う。
六年癸丑、七歳。京都におわす。
安政元年(一八五四)甲寅、八歳。京都におわす。梶井宮邸にうつらせ給う。
二年乙卯、九歳。京都におわす。
三年丙辰、十歳。京都におわす。
四年丁巳、十一歳。京都におわす。
五年戊午、十二歳。京都におわす。輪王寺宮りんのうじのみや御付弟にならせ給う。一条河原御殿にうつらせ給う。親王宣下ありて能久よしひさと名のらせ給う。法諱、公現こうげん
六年己未、十三歳。二月四日、江戸東叡山に入らせ給う。
万延元年(一八六〇)庚申、十四歳。江戸におわす。一身阿闍梨の宣下あり。二品に叙せられさせ給う。
文久元年(一八六一)辛酉、十五歳。江戸におわす。御生母、堀内氏信子みまからせ給う。
二年壬戌、十六歳。江戸におわす。
三年癸亥、十七歳。江戸におわす。
元治元年(一八六四)甲子、十八歳。江戸におわす。一品宣下あり。
慶応元年(一八六五)乙丑、十九歳。江戸におわす。孝明天皇、崩ぜさせ給う。
二年丙寅、二十歳。江戸におわす。将軍徳川家茂いえもちこうず。
三年丁卯、二十一歳。江戸におわす。輪王寺宮慈性親王病すみやかなるをもて、能久よしひさ親王職をつがせ給う。ついで慈性親王こうぜさせ給う。将軍徳川慶喜、政権を朝廷にかえしまつる。
明治元年(一八六八)戊辰、二十二歳。はじめ江戸におわし、中ごろ北国にさすらい給い、後、京都におわす。これより先、慶喜、大阪より江戸にかえる。朝廷、慶喜をたしめ給う。慶喜、東叡山に入る。二月二十一日、能久よしひさ親王、慶喜のうによりて京都へ立たせ給う。親王、駿府に至らせ給い、大総督宮、有栖川熾仁たるひと親王の命によりて駕を回らし、三月二十日、東叡山に帰り入らせ給う。慶喜、東叡山を出でて水戸におもむく。大総督宮、江戸城に入らせ給う。能久よしひさ親王を城に迎えまつらんとせさせ給いしに、さわりありてはたさせ給わず。五月十五日、官軍、東叡山をかこみて彰義隊をつ。能久よしひさ親王、東叡山を出でさせ給う。二十五日、親王、長鯨丸に乗りて江戸を発せさせ給う。これより仙台・白石しろいしなどに留まらせ給う。九月二十日、書を白河しらかわ口なる総督、四条しじょう隆謌たかうたに致させ給う。十月十二日、仙台を発せさせ給う。十一月十九日、京都に着かせ給い、朝命によりて伏見宮邸に謹慎せさせ給う。
二年(一八六九)己巳、二十三歳。京都におわす。十月四日、謹慎を解かれ、伏見宮に復帰せさせ給う。
三年(一八七〇)庚午、二十四歳。京都におわし、後、欧州行の途に着かせ給う。これより先、京都大学に入らせ給う。十月二十七日、京都を発せさせ給い、閏十月二日、東京なる東伏見宮邸に着かせ給い、ついで有栖川宮邸にうつらせ給う。能久よしひさの名にかえらせたまい、伏見満宮みつのみやと称えさせ給う。十二月三日、ドイツに留学せんと、横浜を発せさせ給う。
四年(一八七一)辛未、二十五歳。ベルリンにおわす。これより先、二月十八日、ベルリンに着かせ給う。
五年(一八七二)壬申、二十六歳。ベルリンにおわす。三品に叙せられさせ給う。北白川宮をつがせ給う。御父邦家くにいえ親王、こうぜさせ給う。
六年(一八七三)癸酉、二十七歳。ベルリンにおわす。
七年(一八七四)甲戌、二十八歳。ベルリンにおわす。
八年(一八七五)乙亥、二十九歳。ベルリンにおわす。連隊勤務にかせ給い、プロシア国陸軍大学校に入らせ給う。歩兵少佐に任ぜられさせ給う。
九年(一八七六)丙子、三十歳。ベルリンにおわす。紀尾井町の邸の地をたまわる。
十年(一八七七)丁丑、三十一歳。はじめベルリン、後、東京におわす。プロシア国陸軍大学校の業をえさせ給い、四月十二日、ベルリンを発せさせ給い、七月二日、紀尾井町の邸に帰り入らせ給う。
十一年(一八七八)戊寅、三十二歳。東京におわす。戸山学校に入らせ給う。仁孝天皇の御猶子にかえらせ給う。近衛局出仕にならせ給う。勲一等に叙せられさせ給う。妃、山内氏光子をれさせ給う。
十二年(一八七九)己卯、三十三歳。東京におわす。中佐に任ぜられさせ給う。
十三年(一八八〇)庚辰、三十四歳。東京におわす。近衛局出仕をやめられ、参謀本部出仕にならせ給う。二品に叙せられさせ給う。
十四年(一八八一)辛巳、三十五歳。東京におわす。議定官を兼ねさせ給う。歩兵大佐に任ぜられさせ給う。紀尾井邸を営むとて、しばらく東叡山に住ませ給う。
十五年(一八八二)壬午、三十六歳。東京におわす。恒久王つねひさおうれさせ給う。東叡山より新邸に帰り入らせ給う。
十六年(一八八三)癸未、三十七歳。東京におわす。参謀本部出仕をやめられ、戸山学校次長に補せられさせ給う。戸山学校次長をやめられ、同じ学校の教頭に補せられさせ給う。
十七年(一八八四)甲申、三十八歳。東京におわす。陸軍少将に任ぜられ、東京鎮台司令官に補せられさせ給う。
十八年(一八八五)乙酉、三十九歳。東京におわす。歩兵第一旅団長に補せられさせ給う。延久王のぶひさおう満子みつこ女王、れさせ給う。
十九年(一八八六)丙戌、四十歳。東京におわす。妃、山内氏光子、病のために家に帰らせ給う。妃、島津氏富子とみこれさせ給う。大勲位に叙せられさせ給う。
二十年(一八八七)丁亥、四十一歳。東京におわす。成久王なるひさおう貞子さだこ女王、れさせ給う。
二十一年(一八八八)戊子、四十二歳。東京におわす。輝久王てるひさおうれさせ給う。
二十二年(一八八九)己丑、四十三歳。東京におわす。
二十三年(一八九〇)庚寅、四十四歳。東京におわす。武子たけこ女王、れさせ給う。貴族院の議席に列せさせ給う。
二十四年(一八九一)辛卯、四十五歳。東京におわす。露国皇太子、大津に遭難せさせ給うとき、勅によりて往きてわせ給う。信子女王、れさせ給う。
二十五年(一八九二)壬辰、四十六歳。はじめ東京に、後、熊本におわす。これより先、信子ことこ女王、こうぜさせ給う。御母鷹司たかつかさ景子ひろここうぜさせ給う。陸軍中将に任ぜられ、第六師団長に補せられさせ給いて、十二月二十三日、東京を発し、二十八日、熊本に着かせ給う。
二十六年(一八九三)癸巳、四十七歳。はじめ熊本、後、大阪におわす。これより先、東京にて第四師団長に任ぜられさせ給い、大阪に赴任せさせ給い、泉布観せんぷかんに住ませ給う。
二十七年(一八九四)甲午、四十八歳。大阪におわす。清国との戦、始まる。
二十八年(一八九五)乙未、四十九歳。はじめ大阪、つぎに東京、つぎに満州、後、台南たいなんにおわす。これより先、近衛師団長に補せられさせ給い、二月二日、大阪より東京に至り、霞関なる海軍大臣官舎に入らせ給う。三月二十五日、東京を発せさせ給い、二十七日、広島に至らせ給う。四月十日、宇品うじなにて乗船せさせ給い、十四日、柳樹屯にて上陸せさせ給う。五月二十二日、旅順を発せさせ給い、三十日、台湾三貂角さんちょうかくにて上陸せさせ給う。十月二十八日、台南たいなんこうぜさせ給う。


底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
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能久親王事蹟(六)

森林太郎

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(例)鷹司左大臣政※[#「冫+熙」、第3水準1-87-58]

〈〉:級下げ
(例)〈後の文書に、御誕生の年弘化三年と記《しる》せるも見ゆめるは、嘉永元年八月仁孝天皇の御猶子に立たせ給ふに及びて、同じ帝《みかど》の崩御の年をもて御誕生の年となししなるべし。〉
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 二十九日、左翼隊の編成を解かる。右翼隊に、歩兵第一聯隊本部並に第三、第四中隊、工兵半小隊を加へ、川村支隊と改稱し、鹿港に置きて、西螺街方面を警戒せしめらる。歩兵第三聯隊第二大隊本部は胡盧※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]を守備せんが爲めに、同じ聯隊の第五、第七中隊は東大※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]を守備せんが爲めに、並に彰化を發しつ。宮は此日より彰化に淹留せさせ給ひぬ。三十日、歩兵第三聯隊第一大隊本部及第一、第四中隊に、三塊廟莊附近の敵を撃攘し、斗六に通ずる道を偵察することを命じて、彰化を出發せしめらる。三十一日、追撃隊北斗に至り、第一聯隊第六中隊を留めて守備せしめ、進みて樹仔脚、剌桐港、他里霧、大甫林等を偵察せんとす。歩兵第三聯隊第一大隊は雲林に至りて敵を見ざりき。參謀總長彰仁親王の祝電至る。九月一日、歩兵第三聯隊第一大隊彰化に返る。彰化の捷を褒めさせ給ふ勅語及皇后宮の令旨至る。二日、追撃隊の歩兵第一聯隊第八中隊及騎兵大隊は他里霧に至り、同じ聯隊の第五、第七中隊〈千田少佐率ゐたり。〉は騎兵第一中隊〈二小隊闕。高橋中尉率ゐたり。〉と共に雲林に至りて、大甫林に會し、打猫方面を偵察す。歩兵第一聯隊本部及第三、第四中隊鹿港を發し、第三中隊を員林街附近に留めて北斗に向ふ。工兵第一大隊は道路を修めて、彰化より北斗に向ふ。三日、追撃隊打猫附近を偵察し畢りて大甫林に集合したりしに、午後二時敵八百許包圍しつ。追撃隊これを撃退す。歩兵第一聯隊第四中隊北斗に至り、第六中隊と交代して守備す。宮は此日午前七時鹿港を觀に出で立たせ給ひ、九時四十分鹿港に至らせ給ひ、第一旅團司令部等を訪はせ給ひ、午後二時彰化に還らせ給ふ。四日、午後五時四十分敵ありて他里霧の遞騎哨を襲ふ。傳騎三人〈一等卒井手喜一郎及歩兵二人〉急を追撃隊に報ぜんが爲めに大甫林に向ふ。是より先き歩兵第一聯隊第八中隊は、命令によりて、再び他里霧に至らんと欲し、たまたま傳騎三人の來るに遇ひ、使を北斗の守備隊に遣し、剌桐港に向ひて進みしに、途に同じ聯隊の第六中隊の北斗より來るに逢ひ、午後七時共に剌桐港を經て、他里霧の北門外四百米の地に至り、第八中隊は南門に薄り、第六中隊は北門に薄りぬ。五日、午前一時第六中隊他里霧の北門を破りて入り、火を放ちて攻撃し、第八中隊南門を扼しつ。敵四もに散ず。五時兩中隊南門に集合しつ。歩兵第四聯隊第一、第四中隊及砲兵第三中隊の一小隊、追撃隊を援けんが爲めに、北斗方面に赴くことを命ぜらる。川村支隊の歩兵第一聯隊本部及聯隊の殘部を社斗街に進めらる。六日、歩兵第一聯隊の殘部社斗街に至る。七日、午前零時四十分追撃隊の歩騎兵大甫林に在りて、宮の訓令に接し、曉を待ちて背進せんとせしに、五時敵至りぬ。歩兵第一聯隊第五中隊先づこれに當り、午前八時第七中隊の一部と共に敵を撃退し、夜虎尾溪〈剌桐港の南にあり。〉に至り、溪水汎濫して渉るべからざるをもて、其右岸に露營しつ。歩兵第一聯隊の殘部社斗街より、第一中隊を内灣に派す。彰化に瘧行はれて、在院患者千二百に至り、輕症者入院すること能はず。新に四百人を容るる病院を作る。八日、追撃隊樹仔脚に至る。歩兵第四聯隊第一、第四中隊等、鹿港溪に阻まれたりしに、やうやう北斗に達す。九日、歩兵第一聯隊第二大隊樹仔脚を發して北斗に向ふ。〈其第七中隊は騎兵大隊と倶に樹仔脚に留まる。〉十日、騎兵大隊樹仔脚を發して永靖街に至る。〈途にて第二中隊の浮田小隊を内灣に派す。〉十一日、騎兵大隊第二中隊。〈一小隊闕。〉を永靖街に留めて彰化に歸る。第四聯隊第一大隊は、伴ひ行きし砲兵一小隊を北斗に留めて彰化に歸りぬ。此頃彰化以北の師團諸隊新に至れる後備諸隊と交代し、後方を守備したりし混成第四旅團臺北、基隆間に集合す。十三日、歩兵第三聯隊第二、第三中隊、騎兵一小隊、砲兵第四中隊の一小隊をもて、志賀支隊〈隊長志賀範之。〉を編成し、これに内灣附近の敵を撃攘することを命じて彰化を發せしむ。總督混成第四旅團の戰鬪序列を解き、第二師團に復歸せしむ。十五日、志賀支隊内灣守備隊と共に、内灣東方高地の敵を撃退す。此頃彰化以北に在りし諸隊彰化に集中す。總督近衞及第二師團をもて南進軍を編成す。十六日、歩兵第二聯隊第一大隊鹿港に至り、川村支隊に入る。十七日、彰化の瘧益行はれて、師團の健康者五分の一と稱せらる。十九日、歩兵第一聯隊、第二聯隊、騎兵第二中隊、砲兵第二大隊、工兵第一中隊を歩兵第一旅團長の麾下に屬し、鹿港溪右岸に在りて、嘉義方向を警戒せしめらる。砲兵第一大隊及第一中隊を鹿港より彰化に呼び返さる。二十日、歩兵第三聯隊半部及砲兵第四中隊社斗街を守備せんが爲めに彰化を發す。二十二日、南進の命令總督府より至る。二十六日、師團命令出づ。其要領に曰はく。敵は臺南附近に在り。其一部は鳳山嘉義に在るが如し。師團は嘉義に向ひて進まんとす。右側支隊は西螺街方面の敵を掃蕩しつつ進むべし。左側支隊は雲林方面の敵を掃蕩しつつ進むべし。師團本隊は中央の道路を進むべし。歩兵第三聯隊第一大隊は北斗、剌桐港、他里霧、打猫に守備兵を留め置くべしとなり。軍隊區分は、歩兵第一聯隊、〈第一大隊本部及二中隊闕。〉騎兵大隊、〈第一中隊闕。〉工兵一小隊を前衞とし、川村少將司令官たり。歩兵第二聯隊本部及第一大隊、騎兵一小隊、工兵半小隊を右側支隊とし、阪井大佐支隊長たり。歩兵第四聯隊、〈第二大隊本部及第二中隊闕。〉騎兵第一中隊、〈二小隊闕。〉砲兵第二大隊、〈第三中隊闕。〉工兵一小隊を左側支隊とし、内藤大佐支隊長たり。〈衞生隊半部を屬せらる。〉歩兵第二旅團司令部、歩兵第一聯隊第一大隊、〈二中隊闕。〉歩兵第四聯隊第二大隊、〈二中隊闕。〉歩兵第三聯隊、〈第一大隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵聯隊本部及第一大隊、〈一小隊闕。〉工兵大隊本部及半小隊、第二、第三機關砲隊及合併第三砲隊を師團本隊とす。〈衞生隊半部を屬せらる。〉當時嘉義方面に在る敵は、黒旗兵と新集兵とを合して、約一萬と稱す。劉永福の叔父劉歩高これを統べたりき。二十七日、宮明日途に就かせ給はんとす。二十八日、大雨洪水の爲めに兵を勒《とど》めて發せしめず。是夜、少將山根信成瘧を病みて歿す。瘧の流行漸く衰ふ。二十九日、進軍を令す。三十日、大雨洪水の爲めに、再び兵を勒《とど》めて發せしめず。是日、獨逸人某至りて從軍す。宮の乘馬〈宮城野。〉病みて馬廠に送らる。
 十月三日、南進の行程を計畫せさせ給ふ。前衞は六日剌桐港に至り、七日他里霧に至り、八日打猫に至り、九日に嘉義に至らんとす。右側支隊は六日西螺街に至り、七日土庫に至り、八日ちんぼうけいに至り、九日嘉義に至らんとす。左側支隊は六日樹仔脚に至り、七日雲林に至り、八日火燒庄に至り、九日嘉義に至らんとす。本隊は六日社頭街に至り、七日剌羽港に至り、八日大甫林に至り、九日嘉義に至らんとす。宮は此日午前七時彰化を立たせ給ひ、十一時五十分員林街に憩はせ給ひ、午後三時四十分南港西莊に着かせ給ふ。從卒中村文藏病みて野戰病院に入る。四日、宮北斗に往いて洪水の状を觀、明日の前衞の前進を計畫せさせ給ふ。五日、前衞永靖街、北斗より樹仔脚に集合せんとせしに、敵劇しく抗抵せるを、午前十時撃退して樹仔脚に入り、一部隊を遣して剌桐港を占領せしむ。右側支隊は鹿港溪を渡りて北斗に宿りぬ。六日、前衞剌桐港に集合して、他里霧を偵察す。右側支隊は拂曉北斗を發し、西螺溪を渡り、敵を撃攘して西螺街に入り、ここに露營す。西螺街は所謂細目族の居るところにして、其性獰惡なりと云へど、事なかりき。〈前衞は一部隊を出して、右側支隊を援けしめしが、西螺街の既に占領せられしを聞いて空しく歸りぬ。〉左側支隊は樹仔脚に露營し、本隊は社斗街に駐まりぬ。宮は此日午前八時十五分南港西莊を立たせ給ひ、午後二時北斗に着かせ給ふ。七日、前衞は午前六時剌桐港を發し、八時三十分他里霧北方一吉米の地に至りて敵に逢ひ、午前十時これを撃退して他里霧を占領す。敵の死傷三百を下らず。我に死者五人、重傷者九人ありき。敵は黄某、王某、肅某等の率ゐし二千餘の兵なりき。右側支隊は午前七時西螺街を發し、七缺を經て、虎尾溪を渉り、午後一時土庫の敵を撃退して、部落の南端に露營す。左側支隊は午前六時樹仔脚の東南端に集合し、六時三十分集合地を發し、虎尾溪を渉り、斗六門附近の敵と戰を交へ、午後十時三十分に至りて、斗六門街を占領し、ここに舍營す。司令部をば雲林縣廳に設けつ。敵の死者二百五十許。我に死者五人、傷者十二人ありき。敵は上に擧げたる黄某等の他、李某、林某等率ゐたりき。本隊は社頭街を發して、剌桐港に宿りぬ。宮は此日午前六時十五分北斗を發せさせ給ひ、十一時剌桐港に着かせ給ふ。八日、午前八時三十分前衞他里霧を發し、九時大甫林の北約一吉米の地に至りて戰鬪し、午時大甫林を占領す。午後三時敵の殘兵寺院及竹林に據れるを撃退し、七時打猫に至りて宿營す。右側支隊は午前六時三十分土庫を發し、一たび興化莊に戰ひ、二たび雙溪口の北なる洪家店に戰ひ、ちんぼうけいに露營す。左側支隊は午前四時三十分斗六街の南端に集合し、十時五十分内林の西方四百米の地に至りて戰鬪し、十時五十分内林を占領し、又林仔頭の西北端に至りて戰鬪し、打猫の東方なる沙崙仔莊に宿營す。本隊は剌桐港を發し、他里霧を經て、午前十時大甫林に至り、大甫林の南方二吉米半許なる竹林に露營す。宮は此日午前六時剌桐港を發せさせ給ひ、午後八時十分露營地に着かせ給ひぬ。九日、天晴れて暑さ※[#「宀/浸」、第4水準2-8-7]《やや》退きぬ。前衞は昧爽打猫を發せしに、道善かりければ、午前八時三十分兩側支隊に先だちて、嘉義の北門外一吉米の地に至りぬ。右側の須永支隊は昧爽ちんぼうけいを發し、午前十時三十分嘉義の西門外七百米の地に至りぬ。左側支隊は昧爽沙崙仔莊を發し、山仔脚、北勢を經て、牛桐溪を渉り、十時頃嘉義の東門外に至りぬ。本隊は南湖西莊を發して、九時三十分過嘉義の北門外一吉米の地に至りぬ。午前十一時戰鬪は始まりぬ。前衞は砲兵して北門の西方なる敵の砲兵陣地を攻撃せしめ、十一時五十五分竹梯を架して嘉義の外廓に登り、北門を占領す。右側支隊は第二聯隊第一中隊〈有馬中隊。〉を南門に分派して、西門に薄り、十一時四十五分外廓に竹梯を架して登り、西門を占領す。第二聯隊第一中隊は南門より廓壁の上を東門に向ひて進み、東門を攻めたる阪井支隊と協力して、午後零時五分東門を占領す。零時十五分嘉義は全く占領せられぬ。宮は午前六時大甫林南方の露營地を立たせ給ひ、十時嘉義の北方六百米の地に至らせ給ひぬ。參謀長大樹の蔭に案内しまつり、宮はここにて、民家より借り來たる椅子に坐して、敵情を聽かせ給ひ、嘉義の陷るに臨みて、歩兵第三聯隊第二大隊、騎兵第二中隊、砲兵第一大隊〈一中隊闕。〉に追撃を命ぜさせ給ひ、午後一時三十分嘉義に入りて、舊縣廳に舍營せさせ給ふ。此戰に敵の死者四百を踰え、生擒せらるるもの五百餘人なりき。師團諸隊は嘉義附近に宿營す。追撃隊は午後四時水屈頭に至りて宿營しつ。是夜歩兵第三聯隊第二大隊、第四聯隊第二大隊、〈二中隊闕。〉騎兵第二中隊、砲兵第一大隊、〈第一中隊闕。〉工兵半小隊を前衞とし、新に陞進せし阪井少將〈阪井重季は十月三日少將に進み、第二旅團長に補せられき。〉に指揮せしめて、臺南方面を偵察せしめらる。又歩兵第二聯隊第一大隊、第一聯隊第一大隊〈二中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵一中隊、工兵一小隊を右側支隊とし、須永中佐に指揮せしめて、混成第四旅團の上陸を掩護せしめらる。十日、宮は暫く嘉義に留まらせ給ふ。混成第四旅團は澎湖島馬公灣に碇泊したりしが、此日布袋嘴に上陸し、第二師團歩兵第四聯隊、第十六聯隊、騎兵第二大隊、砲兵第二聯隊等も亦馬公灣を發しつ。英船劉永福が條約二端を立てて臺灣を讓與せんとする書を齎して、澎湖島錨地に在る軍艦浪速に至る。南進軍司令官臺灣副總督高島鞆之助これに復してその無禮を責めつ。十一日、須永支隊鹽水港汎に至りて敵を撃攘し、混成第四旅團と連絡す。第二師團の諸隊枋寮に上陸して、其前衞大莊及茄苳脚附近の敵を撃攘す。十二日、劉永福英商に托して、和を乞ふ書を宮の許に致しつ。宮劉が行動の條理なきを責めて、使者を放ち還させ給ふ。第二師團は殆抗抵を被らずして東港を占領しつ。十三日、高島軍司令官南進軍を部署し、貞愛親王の率ゐさせ給ふ混成第四旅團を鹽水港汎より進ましめ、乃木希典の率ゐる第三旅團を枋寮より、鳳山を經て進ましめ、近衞師團を嘉義より進ましめ、二十三日を期して臺南を攻撃せんとす。十六日、第三旅團鳳山を占領す。〈宮の從卒中村文藏病癒えて歸る。〉十七日、宮南進軍司令官の意圖を承けて、師團命令を發せさせ給ふ。其略に曰はく。混成第四旅團は鹽水港汎より茅港尾、看西を經て進み、第二師團は鳳山より進まんとす。近衞師團は左右兩縱隊をなして、番仔申及灣裏に通ずる道を進み、本隊は右縱隊の道に由るべしとなり。軍隊區分は、歩兵第一聯隊、〈第二大隊闕。〉第二聯隊、〈第二大隊闕。〉騎兵第一中隊、〈二小隊闕。〉砲兵第一大隊、〈第一中隊闕。〉臨時工兵中隊、小架橋縱列の一部を右縱隊とし、川村景明率ゐ、歩兵第三聯隊、〈第一大隊闕。〉第四聯隊、〈第一大隊の二中隊闕。〉騎兵大隊、〈三小隊闕。〉砲兵第一中隊、工兵大隊本部及第一中隊、〈一小隊闕。〉小架橋縱列の一部を左縱隊とし、阪井重季率ゐ、〈衞生隊は兩縱隊に半部づつ分屬す。〉歩兵第四聯隊、〈第二大隊本部及二中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵聯隊本部及第二大隊、工兵一小隊、第一及第二機關砲隊を本隊とせられぬ。混成第四旅團は此日鹽水港汎を發し、鐵線橋附近の敵を撃退して、一部を茅港尾方面に派遣しつ。南進軍司令官は布袋嘴に上陸して、鹽水港汎に至りぬ。宮は明日嘉義を發せさせ給ふべき準備をせさせ給ふほどに、夜に入りて發熱せさせ給ふ。師團軍醫部長木村達診しまつるに、舌の白苔を被れる外、徴候の認むべきなかりき。達は瘧と診斷しつ。
 十八日、右縱隊は安溪寮に宿營し、左縱隊は内藤大佐率ゐて、估仔内、紅毛寮を經て、店仔口に至り、ここに宿營し、本隊は右縱隊と倶に安溪寮に宿營す。宮は此日午前三時惡寒、腰痛を覺えさせ給ひしかど、七時病を力めて嘉義を發せさせ給ひ、午後一時二十分大茄苳に至らせ給ふ。此時達診しまつるに、後頭重、口渇、全身倦怠などおはしましき。一時三十分體温三十八度、四 脉八十一至おはしき。鹽酸規尼涅を上りぬ。安溪寮に着かせ給ふに、竹の門ある矮屋にて、宮の居させ給ふ室は、疊八枚ばかり敷きつべき處なりしが、壁濕ひて小き菌をさへ生じたりき。扉を脱して地に横へ、藁を敷きて宮を寢させまつりぬ。されど宮は此夜をば安眠せさせ給ひぬ。十九日、左右縱隊及本隊、皆古旗後に宿營す。宮は朝安溪寮にいますを、達診しまつりぬ。體温三十八度、一 脉八十至、全身倦怠稍加はらせ給ふ。脾の少しく肥大せるを認めつ。午前六時出で立たせ給ふとき、御馬に乘らせ給ふべくもあらねば、轎に宮を載せ參らせつ。此朝川村景明、阪井重季皆瘧を病みて、轎に乘りて行きぬ。歩兵第三聯隊長伊崎良※[#「冫+熙」、第3水準1-87-58]も亦病みて、擔架に乘りて進めるを、宮|看行《みそなは》して慰めさせ給ふ。午後五時宮古旗後に着かせ給ふ。御服藥は前方を服せさせ給ふ。是日、劉永福は臺南に在りて、講和成りぬと稱して兵を解散し、英船二隻を雇ひ、金九千兩を與へて保險せしめ、己れ共一隻〈船名を THALES《タリス》 號と云ふ。〉に乘り、隨從せる男女千餘人を二船に分ち載せて安平港を發し、越南に向ひて奔りぬ。船發するに當りて、我軍艦臨檢し、木村信といふもの刀を提げて船内を搜索せしかど、劉の石炭庫に潛匿したりしを發見すること能はざりき。我軍は猶劉の奔りしを知らざりき。二十日、左右縱隊及本隊、皆灣裡に至りて宿す。宮は朝體温三十八度、五 脈九十二至にして、食思振はせ給はざりき。轎に乘りて古旗後を立たせ給ひ、午後四時半灣裡に至らせ給ひ、五時半某の民家に宿りましぬ。夕の體温三十九度、八 脈九十二至なりき。ANTIFEBRIN《アンチフエブリン》 を服せさせ給ふ。半夜下痢の爲めに次硝酸蒼鉛を上る。此夜初め宮の宿らせ給ふに定まれりし寺院は、副官室となりたるに、敵の其梁上に潛めるありて、闇に乘じて逃れ去らんとしつるを、人々捕獲しつ。是日、午前九時第二師團司令部は、英國の宣教師三人の詣で來て、劉永福の奔りしことを告ぐるを聞きつ。されど近衞師團は未だこれを知らざりき。二十一日、近衞師團の諸隊大目降に至りて宿營す。宮は朝の體温三十九度、五 脈百至おはしき。著く疲れさせ給ふと見えさせ給ひしかば、轎に載せまゐらすべきにあらずとて、竹四本を結びて長方形になし、これに竹蓆を張り、藁を敷き、毛布を展べ、上に竹を架して淺葱色の木綿布を覆ひて、日を遮るやうに補理《しつら》ひ、これに載せまつりて土人に舁かせ、午前七時灣裡を立ちぬ。午後三時大目降に著かせ給ふ。夕の體温四十度、一 脈百零一至。倦怠愈甚しきを覺えさせ給ふ。規尼涅、赤葡萄酒、里謨那底を上りぬ。夜下利せさせ給ふ。是日、午前八時第二師團司令部臺南に入りぬ。夕に至りて、劉永福の奔りしこと、第二師團司令部の臺南に入りしこと等、近衞師團に聞えぬれど、軍の通報は未だ至らず。二十二日、近衞師團の諸隊大目降を發して臺南に入りぬ。臺南に近づくとき、軍の臺南を占領せし通報を得つ。宮は朝の體温三十九度、六 脈八十至おはしき。午前七時三十分舁かれて大目降を發せさせ給ひ、午後五時三十分臺南に著かせ給ふ。夕の體温四十度、二 脈百零一至おはしましき。口渇、倦怠、食思亦減退せさせ給ひ、脾の肥大著くならせ給ふ。下利一行おはしき。赤葡萄酒、里謨那底を上りぬ。此夜より徹夜して看病せしむ。二十三日、朝の體温三十九度、二 脈百二十至おはしき。午前十一時新に選び定めたる家に移らせ給ふ。宮の居させ給ふは、半ば床板を張り、半ば直土《ひたつち》のままなる、疊四枚ばかりを敷きつべき室なり。幅三尺の窓に玻※[#「王+黎」、第3水準1-88-35]戸を立つ。籐の臥床一つ求め得て、宮を寢させまつる。午後三時諸症稍増惡せさせ給ふ。總督府軍醫部長石阪惟寛、第二師團軍醫部長谷口謙、西郷吉義來診しまつる。夕の體温三十九度、九 脈百二十至おはしき。軟便を下させ給ふこと三度。次硝酸蒼鉛、龍腦、赤葡萄酒、里謨那底を上る。夜譫語せさせ給ふ。此日より客に逢はせ給はず。貞愛親王に逢はせ給ひしを終として、次いで至れる高島軍司令官は空しく歸りぬ。二十四日、朝の體温三十九度、零 脈百十至呼吸三十、夕の體温三十九度、三 脈百十九至呼吸三十三。口渇せさせ給ひて、舌に褐色の苔あり。右肩胛下隅の下に濁音ありて、兩胸の呼吸音※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]雜に、右胸に水泡音を聞く。こは肺炎の徴なり。尿量六百立方珊米にして、蛋白の痕迹あり。實岐答利斯、吐根の浸劑、龍腦、赤葡萄酒、牛乳を上る。二十五日、朝の體温三十八度、五 脈百零四至呼吸三十、夕の體温三十八度、零 脈軟細にして百二十至呼吸三十。便祕せさせ給ふ。右肩胛下隅の下に捻髮音を聞く。時時應答不明におはしき。二十六日、朝の體温三十八度、二 脈百十八至、夕の體温三十八度、零 脈百十九至呼吸二十九。唇乾き、舌潤ひ、面、胸、手背に粘汗を帶びさせ給ひ、四肢振顫せさせ給ふ。龍腦、加斯篤里幾尼涅を上る。二十七日、朝の體温三十八度、六 脈百二十至呼吸三十、夕の體温三十七度、六 脈百二十至呼吸三十。舌及四肢振顫せさせ給ふ。全身粘汗を帶びさせ給ふ。時時精神朦朧におはす。濁音及捻髮音左胸に及びぬ。前方を上り、龍腦の皮下注射をなしまゐらす。午後九時の體温三十七度、五 脈百三十至呼吸三十七。是日、樺山總督至る。二十八日、午前三時三十分脈不正にして百三十五至。五時體温三十九度、六 脈百三十六至呼吸四十五。四肢厥冷して冷汗を流させ給ふ。人事を省せさせ給はず。龍腦の皮下注射、COGNAC《コニヤツク》 酒の灌膓をなしまゐらす。七時十五分病|革《すみやか》になりて、幾ならぬに薨ぜさせ給ふ。貞愛親王、樺山資紀、高島鞆之助、乃木希典の諸將別を御遺骸に告げまゐらせ、祕して喪を發せず。午後七時高野盛三郎、〈家扶心得。〉山本喜勢治〈家從心得。〉御衣を更へまゐらせ、同じ二人、佐本壽人、岩尾惇正〈並に將校なり。〉及中村文藏〈從卒。〉御柩に歛めまゐらす。此時軍醫監石阪惟寛は松本三郎と倶に介助す。貞愛親王も立ち會はせ給ふ。御衣は素絹の單衣、白き麻の襦袢、白き紋縮緬の帶、白足袋にて、紋縮緬の敷布團を敷き、同じ地質の掛布團を掛けまゐらせ、夏軍衣袴を添へまつりぬ。御柩は厚さ一寸五分の樟板もて、縱七尺幅四尺深さ二尺に作らせ、裏面に亞鉛板を張り、御遺骸の周匝《めぐり》には朱と石灰とを填む。御柩の覆《おほひ》は紺地紋緞子もて縫はせ、上覆《うはおほひ》は紺繻子もて縫はせつ。御柩の臺をも樟もて作らせつ。宮の薨ぜさせ給ひし家の一室をば、一切の什具を移動せしめず、行軍の間宮を載せまつりし竹の擔架をも併せて安置し、室の周匝には注連繩を張りぬ。此日より川村景明近衞師團長の職務を代理す。
 二十九日、午前六時歩兵少佐佐本壽人の率ゐる一行、宮の御柩を奉じて臺南を發す。表《おもて》には宮御病の爲めに歸らせ給ふと沙汰せしめき。御柩に隨從しまつるは、近衞師團軍醫部長木村達、歩兵少佐佐本壽人、師團副官久松定謨〈歩兵中尉。〉同伊達紀隆、〈歩兵少尉。〉特務曹長菱田榮和、家扶心得高野盛三郎、家從心得山本喜勢治、從卒中村文藏及兵卒九人、看護人二人、力士數人なりき。〈初め宮の臺灣に渡らせ給ひしとき隨從しまつりし家令心得恩地轍、家扶心得高屋宗繁の二人は先きに歸りぬ。馬丁は松本政吉、田村喜一郎、田中倉吉の三人なりき。〉安平にて御柩を西京丸に載せまつり、軍艦吉野もて護衞しまつる。十時三十分拔錨す。貞愛親王を始とし、樺山資紀、高島鞆之助、乃木希典等の諸將埠頭に送りまつる。十一月一日、宮に菊花頸飾章を賜ひ、又功三級に叙して、金鵄勳章を賜ふ。〈年金七百圓。〉御留守別當高崎五六代りて拜受しつ。二日、臺南を平定せしを褒めさせ給ふ勅語及皇后宮令旨近衞師團に至りぬ。川村少將代りて拜受しつ。三日、御柩を載せたる舟土佐國須崎に泊りぬ。四日、午前七時四十分舟横須賀の港に入りぬ。勅使土方久元至る。御息所、御子三人、彰仁親王、同妃、依仁親王を始とし、御柩を迎へまつるもの數百人なりき。夜御柩を汽車に移しまつりて、横須賀を發しつ。是日、宮は陸軍大將に任ぜられさせ給ひ、金一萬圓を賜はらせ給ふ。五日、午前零時四十五分御柩を載せたる汽車新橋に至る。迎へまつるもの甚だ衆し。留守近衞師團司令部は兵卒五十人許を派して御柩を舁かしむ。二時御柩を霞關〈二丁目角。〉なる御館に舁き入れまつりぬ。〈別當高崎五六直ちに宮内大臣土方久元、陸軍大臣大山巖に、宮の著かせ給ふを報ず。〉七時十分喪を發す。〈屆書は内閣總理大臣伊藤博文、宮内大臣、陸軍大臣、樞密院議長黒田清隆、賞勳局總裁大給恒、貴族院議長蜂須賀茂韶に發せられ、通知書は在外諸公使及在京外國諸公使に發せられぬ。○宮内省告示第十五號は宮の薨去を公布しつ。〉宮中喪五日間。〈同上告示。〉全國に歌舞音曲を停止せらるること三日間。〈閣令第五號。停止は五日より算す。東京は更に葬送の日に停止す。〉國葬を令せられぬ。〈勅令第百五十六號。○葬儀係を置かる。係長を式部長三宮義胤仰せ付けられ、係には内匠頭堤正誼、内閣書記官多田好問、式部官木戸孝正、宮内大臣祕書官齋藤桃太郎、内閣書記官田口乾三、式部官兼掌典萬里小路正秀命ぜられ、下に屬官、技手等二十人を添へらる。葬儀事務所は衆議院議長官舍をもて充てらる。葬儀係の選びて内閣に稟し、允許せられし齋主以下の職員は、齋主大社教管長千家尊愛、副齋主大教正千家尊弘、地鎭祭並出棺後清祓奉仕權大教正平田盛胤なりき。宮内大臣は半旗弔砲の事を陸海軍大臣に牒じ、神奈川、兵庫、長崎、新潟、北海道の五港の知事に報じつ。別當は宮内大臣に伺ひて、成久王を喪主となしまつりぬ。〉貴族院の弔詞至る。〈議長蜂須賀茂韶齎し至りぬ。〉
 六日、午前十時麻布なる出雲大社分祠に於いて、歸幽奏上式を行ふ。午後五時入棺式を行ふ。〈祭官は齋主任命す。權大教正戸田忠幸、中教正佐佐木幸見、同竹崎嘉通、權中教正木村信嗣、大講義西村清太郎、權大講義櫻井敬正の六人なりき。同時に地鎭祭並清祓奉仕を任命す。少教正鶴田豐雄、大講義竹下正衞の二人なりき。中講義千葉洪胤は準備員なり。〉御柩は檜の白木をもて作り、左右兩面に金色御紋章を畫く。豐島岡の墓地を交附せらる。〈墓地第九號四百二十九坪にして、諸陵寮交付しつ。〉内旨もて上野日光兩輪王寺に法會を行ふことを命ぜらる。輪王寺は宮に法謚を上りて、鎭護王院と曰ふ。是日、南進軍の編制を解きて、第二師團に臺灣南部を守備することを命ぜられぬ。七日、午後一時靈遷式を行ふ。勅して儀仗兵を賜ふ。第一師團の歩兵二聯隊、騎兵一大隊、砲兵一聯隊、輜重兵一大隊、工兵一大隊、近衞師團の歩兵二大隊、騎兵一中隊、砲兵一中隊、工兵一中隊是なり。〈聖上及皇后妃に果子を賜ふ。〉八日、午前十時靈祭を行ふ。〈送葬の日に、聖上及皇后代拜に人を遣させ給ふべきよし告知せられぬ。〉九日、靈祭を行ふこと前日の如し。儀仗諸兵指揮官等を任命せらる。〈諸兵指揮官は第一師團長陸軍中將山地元治、參謀長は第一師團參謀長心得砲兵中佐内山小二郎、參謀は留守近衞師團參謀歩兵少佐西川政成、第一師團副官歩兵少佐龜岡泰辰、副官は第一師團副官騎兵中尉稻垣三郎なりき。〉十日、靈祭を行ふこと前日の如し。午後一時勅使西四辻公業至りて賻弔す。〈供物料金五百圓、白地錦一卷、榊一對、神饌七臺。〉皇太后、皇后、皇太子各使を遣して賻弔せしめらる。〈皇太后の使は掌侍吉田瀧子、賻は榊一對、絹五種、金千五百圓。皇后の使は掌侍※[#「女+弟の下半分のような字」]小路良子、賻は上に同じ。皇太子の使は東宮侍從稻葉正繩、賻は上に同じ。〉三時豐島岡に於いて地鎭祭を行ふ。十一日、午前七時棺前祭を行ふ。聖上、皇太后、皇后、皇太子使を遣して代拜せしめらる。〈勅使は西四辻公業、皇太后の使は吉田瀧子、皇后の使は※[#「女+弟の下半分のような字」]小路良子、皇太子の使は前田青莎なりき。〉棺を輦に上す。九時御柩を出す。〈送葬の道路は内幸町、龍口、大手町、神田橋、錦町、小川町、水道橋、砲兵工廠前、江戸川端、小日向水道町、音羽町なりき。行列の概略は、騎馬の憲兵一伍を先頭とし、騎馬の警視一人、警部四人これに次ぐ。其次は軍樂隊、次は儀仗兵なりき。諸兵指揮官、參謀長、士官三人、近衞師團の歩、騎、砲、工兵是なり。次は眞榊一對、紅白旗十旒なりき。皇宮警手二人兩側を行く。次は神饌辛櫃なりき。直垂着たる祭官二人兩側を行く。次は呉床、雨皮なりき。直垂着たる祭官二人騎馬にて兩側を行く。次は副齋主の馬車、次は齋主の馬車にて、直垂着たる祭官二人騎馬にて從へり。次は錦旗なりき。中村文藏直垂着て捧持す。次は直垂着たる伶人六人なりき。次は掘《ねこじ》眞榊及生花二十八對、鉾三對、造花二對なりき。次は勳章十個にて、陸軍砲兵少佐馬淵正文、海軍少佐岩崎達人以下十九人捧持す。次は直垂着たる家從二人兩側を行く。次は陸軍將校總代陸軍大將野津道貫以下五人なりき。次は御柩なりき。次は宮に臺灣に隨從しまつりし陸海軍將校海軍中將有地品之允以下十人及び近衞兵若干人なりき。次は家扶二人、家從六人にて、家扶は皆直垂なり。次は呉牀、雨皮。次は直垂着たる家從二人にて、右なるは刀、左なるは劍を錦の嚢に入れ臺に載せ捧持す。次は直垂着たる家從沓を捧持す。次は乘馬四頭、宮家の章服着たる馭者これを牽く。次は直垂着たる家從二人並び行く。次は喪主成久王なりき。喪服に素衣を加へさせ給ひ、藺もて織れる沓を穿かせ給ひ、竹の杖を突かせ給ひて、徒歩せさせ給ふ。次は恒久王、輝久王、並に喪服にて徒歩せさせ給ふ。直垂着たる家扶六人、同じ裝したる家從二人兩側を行く。次は別當高崎五六、家令恩地轍にて、並に布衣なり。次は喪主以下若宮三人の馬車なりき。次は近親の皇族及び華族なりき。能久親王妃の馬車には吉田貞子陪乘す。滿子女王、貞子女王、武子女王、擴子女王、彰仁親王、彰仁親王妃の馬車續きぬ。博經親王妃の馬車には竹内絢子陪乘す。載仁親王、依仁親王、邦芳王、博恭王、菊麿王及妃、邦彦王、守正王、鳩彦王、稔彦王の馬車、近親華族七人の馬車、禎子女王代拜者の馬車續きぬ。次は常の親戚華族十三人にして、皆馬車なりき。次は葬儀係の馬車なりき。次は騎馬の家從二人なりき。次は内閣總理大臣伊藤博文以下大臣九人、樞密顧問官六人、文武諸官、貴族院及衆議院議員若干人、馬車若くは騎馬にて續きぬ。次は儀仗兵なりき。第一師團の歩、騎、砲、工、輜重兵なり。次は常の會葬者なりき。後衞は警視一人、警部二人騎馬にて勤めき。〉十一時三十分御柩豐島岡に至りぬ。葬場祭を行ふ。〈勅使以下の代拜等棺前祭の時に同じ。〉御柩を埋みまつる。墓穴は石もて疊み成せり。深さ一丈餘、幅八尺、長さ二間なり。御柩をば※[#「父/多」、第4水準2-80-13]兒を塗りたる上箱に納め、川田剛が撰び、西尾爲忠が書きし墓誌銘を、長さ三尺、幅二尺、厚さ三分の銅板に鐫らせたるを添へて卸しまつり、周匝をば木炭をもて填みまつりぬ。さて土を盛り墓標を立てつ。〈申橋融次、下村彌一郎墓所勤仕を命ぜられ、是より百日間幄舍の中に宿直す。〉午後三時御舘に於いて宮殿解除式を行ふ。十二日、午前九時靈祭を行ひ、十一時墓祭を行ふ。〈是より後十一月十四日十日祭を行ひ、二十四日二十日祭を行ひ、十二月四日三十日祭を行ひ、十四日四十日祭を行ひ、二十四日五十日祭を行ふ。此日の例の如し。五十日祭を行ひ畢りて、葬儀係を解かれぬ。〉二十八日、近衞師團凱旋し畢りぬ。〈是より先十一月十三日、近衞師團の諸隊始て打狗より舟に乘り、十八日師團司令部宇品に至り、二十一日東京に入りぬ。諸隊は舟十七隻に載せられにき。師團司令部は薩摩丸に乘りぬ。〉十二月十日、近衞師團諸隊復員し畢りぬ。〈師團の將卒臺灣に死せし者千四百餘人なりき。〉
 二十五日、遞信省記念郵劵に宮の肖像を印することを議定しつ。〈此事は遞信大臣白根專一書を宮内大臣に寄せて許諾を得つ。宮の肖像は熾仁親王の肖像と共に記念劵に印せられ、翌年七月十八日發行せられぬ。〉二十九年五月十一日、宮の乘らせ給ひし馬一頭を帝室博物館附屬動物園に寄附し、他の一頭を日光東照宮神馬所に寄附す。〈動物園に寄附せられしは木崎野號なり。明治二十一年四月陸奧國上北郡三澤村谷地頭に生れぬ。宮の臺灣におはしまししとき多く乘らせ給ひしは此馬なり。三十二年八月四日動物園に斃れぬ。東照宮に寄附せられしは坂東號なり。明治二十一年上野國吾妻郡應桑村北白川宮の牧場に生れぬ。これも宮の常に乘らせ給ひし馬なり。〉八月、記念碑を宮の露營せさせ給ひし新竹の南方なる牛埔に建つ。十月二十二日、宮の牙髮塔を日光なる歴世親王墓地の南端に立て、其前面に廟門、拜殿及本殿を造りて成りぬ。〈塔は五輪にして、能久親王塔と曰ふ。拜殿に護王殿の※[#「匚<扁」、第4水準2-3-48]額あり。本殿に御影を安置す。別に輪王寺内の靈殿に木位を安置し、題して鎭護王院宮能久親王尊儀と云ふ。以上の文字は皆小松宮彰仁親王の筆なり。塔の地所は明治三十年四月二十三日、諸陵寮の所轄に歸し、本殿、拜殿等は三十二年十二月二十二日、日光社寺合同修繕區域に編入せられぬ。〉十一月四日、豐島岡の墓成りぬ。高さ一丈六尺の伊豫の自然石に、近衞師團長陸軍大將大勳位功三級能久親王墓と刻せり。彰仁親王書かせ給ひぬ。五日、宮の社殿を紀尾井町なる北白川宮邸の東南隅に立てて成りぬ。〈是日、遷靈式を行ふ。又同じ日に豐島岡に於いて宮の一週年祭執行せられぬ。〉三十一年九月、宮と御息所との寫眞を近衞師團の將校に頒たせ給ふ。三十二年一月、記念碑を宮の上陸せさせ給ひし洩底に建つ。三十三年九月十八日、臺北縣芝蘭一堡劍潭山に臺灣神社を建てて、宮を齋きまつり、〈大國魂命、大己貴命、少彦名命を配祀しまつる。〉官幣大社に列せらる。三十四年十月二十日、臺灣神社成りぬ。二十七日、鎭座式を行ふ。〈二十八日、臺灣神社に於いて宮の五年祭執行せられぬ。〉三十五年二月二十六日、臺南にて宮の宿らせ給ひし家屋に保存工事を施して成る。三十六年一月二十八日、宮の銅像を丸の内近衞師團歩兵營の南門外に建てて除幕す。〈銅像は新海竹太郎其木雕原型を作りぬ。原型は明治四十年十月二十八日、日光なる牙髮塔の側に、木型奉安殿を立てて安置しまつりぬ。〉
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  能久親王年譜

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弘化四年丁未、二月十六日能久親王京都伏見宮第に生れさせ給ひ、滿宮と名のらせ給ふ。
嘉永元年戊申、二歳。京都におはす。仁孝天皇の御猶子、青蓮院宮の御附弟にならせ給ふ。
二年己酉、三歳。京都におはす。
三年庚戌、四歳。京都におはす。
四年辛亥、五歳。京都におはす。
五年壬子、六歳。京都におはす。梶井宮の御附弟にならせ給ふ。
六年癸丑、七歳。京都におはす。
安政元年甲寅、八歳。京都におはす。梶井宮第に徙らせ給ふ。
二年乙卯、九歳。京都におはす。
三年丙辰、十歳。京都におはす。
四年丁巳、十一歳。京都におはす。
五年戊午、十二歳。京都におはす。輪王寺宮御附弟にならせ給ふ。一條河原御殿に徙らせ給ふ。親王宣下ありて能久と名告らせ給ふ。法諱公現。
六年己未、十三歳。二月四日江戸東叡山に入らせ給ふ。
萬延元年庚申、十四歳。江戸におはす。一身阿闍梨の宣下あり。二品に叙せられさせ給ふ。
文久元年辛酉、十五歳。江戸におはす。御生母堀内氏信子みまからせ給ふ。
二年壬戌、十六歳。江戸におはす。
三年癸亥、十七歳。江戸におはす。
元治元年甲子、十八歳。江戸におはす。一品宣下あり。
慶應元年乙丑、十九歳。江戸におはす。孝明天皇崩ぜさせ給ふ。
二年丙寅、二十歳。江戸におはす。將軍徳川家茂薨ず。
三年丁卯、二十一歳。江戸におはす。輪王寺宮慈性親王病革なるをもて、能久親王職を襲がせ給ふ。尋いで慈性親王薨ぜさせ給ふ。將軍徳川慶喜政權を朝廷に還しまつる。
明治元年戊辰、二十二歳。初め江戸におはし、中ごろ北國にさすらひ給ひ、後京都におはす。是より先き慶喜大阪より江戸に還る。朝廷慶喜を討たしめ給ふ。慶喜東叡山に入る。二月二十一日能久親王慶喜の請ふによりて京都へ立たせ給ふ。親王駿府に至らせ給ひ、大總督宮有栖川熾仁親王の命によりて駕を囘らし、三月二十日東叡山に歸り入らせ給ふ。慶喜東叡山を出でて水戸に赴く。大總督宮江戸城に入らせ給ふ。能久親王を城に迎へまつらんとせさせ給ひしに、障ありて果させ給はず。五月十五日官軍東叡山を圍みて彰義隊を討つ。能久親王東叡山を出でさせ給ふ。二十五日親王長鯨丸に乘りて江戸を發せさせ給ふ。これより仙臺、白石等に留まらせ給ふ。九月二十日書を白河口なる總督四條隆謌に致させ給ふ。十月十二日仙臺を發せさせ給ふ。十一月十九日京都に着かせ給ひ、朝命によりて伏見宮邸に謹愼せさせ給ふ。
二年己巳、二十三歳。京都におはす。十月四日謹愼を解かれ、伏見宮に復歸せさせ給ふ。
三年庚午、二十四歳。京都におはし、後歐洲行の途に着かせ給ふ。是より先き、京都大學に入らせ給ふ。十月二十七日京都を發せさせ給ひ、閏十月二日東京なる東伏見宮第に着かせ給ひ、尋いで有栖川宮第に徙らせ給ふ。能久の名に復らせたまひ、伏見滿宮と稱へさせ給ふ。十二月三日獨逸に留學せんと、横濱を發せさせ給ふ。
四年辛未、二十五歳。伯林におはす。是より先き、二月十八日伯林に着かせ給ふ。
五年壬申、二十六歳。伯林におはす。三品に叙せられさせ給ふ。北白川宮を襲がせ給ふ。御父邦家親王薨ぜさせ給ふ。
六年癸酉、二十七歳。伯林におはす。
七年甲戌、二十八歳。伯林におはす。
八年乙亥、二十九歳。伯林におはす。聯隊勤務に就かせ給ひ、普魯士國陸軍大學校に入らせ給ふ。歩兵少佐に任ぜられさせ給ふ。
九年丙子、三十歳。伯林におはす。紀尾井町の第の地を賜はる。
十年丁丑、三十一歳。初め伯林、後東京におはす。普魯士國陸軍大學校の業を卒へさせ給ひ、四月十二日伯林を發せさせ給ひ、七月二日紀尾井町の第に歸り入らせ給ふ。
十一年戊寅、三十二歳。東京におはす。戸山學校に入らせ給ふ。仁孝天皇の御猶子に復らせ給ふ。近衞局出仕にならせ給ふ。勳一等に叙せられさせ給ふ。妃山内氏光子を納れさせ給ふ。
十二年己卯、三十三歳。東京におはす。中佐に任ぜられさせ給ふ。
十三年庚辰、三十四歳。東京におはす。近衞局出仕を罷められ、參謀本部出仕にならせ給ふ。二品に叙せられさせ給ふ。
十四年辛巳、三十五歳。東京におはす。議定官を兼ねさせ給ふ。歩兵大佐に任ぜられさせ給ふ。紀尾井第を營むとて、姑く東叡山に住ませ給ふ。
十五年壬午、三十六歳。東京におはす。恒久王生れさせ給ふ。東叡山より新第に歸り入らせ給ふ。
十六年癸未、三十七歳。東京におはす。參謀本部出仕を罷められ、戸山學校次長に補せられさせ給ふ。戸山學校次長を罷められ、同じ學校の教頭に補せられさせ給ふ。
十七年甲申、三十八歳。東京におはす。陸軍少將に任ぜられ、東京鎭臺司令官に補せられさせ給ふ。
十八年乙酉、三十九歳。東京におはす。歩兵第一旅團長に補せられさせ給ふ。延久王、滿子女王生れさせ給ふ。
十九年丙戌、四十歳。東京におはす。妃山内氏光子病の爲に家に歸らせ給ふ。妃島津氏富子を納れさせ給ふ。大勳位に叙せられさせ給ふ。
二十年丁亥、四十一歳。東京におはす。成久王、貞子女王生れさせ給ふ。
二十一年戊子、四十二歳。東京におはす。輝久王生れさせ給ふ。
二十二年己丑、四十三歳。東京におはす。
二十三年庚寅、四十四歳。東京におはす。武子女王生れさせ給ふ。貴族院の議席に列せさせ給ふ。
二十四年辛卯、四十五歳。東京におはす。露國皇太子大津に遭難せさせ給ふとき、勅によりて往きて訪はせ給ふ。信子女王生れさせ給ふ。
二十五年壬辰、四十六歳。初め東京に、後熊本におはす。是より先き信子女王薨ぜさせ給ふ。御母鷹司氏景子薨ぜさせ給ふ。陸軍中將に任ぜられ、第六師團長に補せられさせ給ひて、十二月二十三日東京を發し、二十八日熊本に着かせ給ふ。
二十六年癸巳、四十七歳。初め熊本、後大阪におはす。是より先き、東京にて第四師團長に任ぜられさせ給ひ、大阪に赴任せさせ給ひ、泉布觀に住ませ給ふ。
二十七年甲午、四十八歳。大阪におはす。清國との戰始まる。
二十八年乙未、四十九歳。初め大阪、次に東京、次に滿洲、後臺南におはす。是より先き近衞師團長に補せられさせ給ひ、二月二日大阪より東京に至り、霞關なる海軍大臣官舍に入らせ給ふ。三月二十五日東京を發せさせ給ひ、二十七日廣島に至らせ給ふ。四月十日宇品にて乘船せさせ給ひ、十四日柳樹屯にて上陸せさせ給ふ。五月二十二日旅順を發せさせ給ひ、三十日臺灣三貂角にて上陸せさせ給ふ。十月二十八日臺南に薨ぜさせ給ふ。
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底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 鹿港
  • 鹿港鎮 ろくこうちん 台湾彰化県の鎮。台湾語ではLo?k-ka'ng(ロッカン)と発音される。鹿港鎮は彰化平原北西部の鹿港渓北岸似位置している。西側は台湾海峡に面し、東は秀水郷と、南は鹿港渓を隔てて福興郷と、北は番雅溝を隔てて線西郷及び和美鎮と接している。
  • 西螺 せいら/シーロー 台湾。台西の北東。台中の南。 
  • 西螺鎮 せいらちん 台湾雲林県の鎮。
  • 胡盧�~ ころ〓、か。
  • 東大�~ 台中。
  • 彰化 しょうか/チョンフア 彰化県彰化市。
  • 三塊廟荘 さんかい〓
  • 斗六 とろく 台湾雲林県の県轄市。雲林県政府の所在地。雲林県の東端、嘉南平原北端と中央山脈西麓の丘陵地帯の接点に位置している。東は南投県竹山鎮と、南は古坑郷と、西は虎尾鎮、斗南鎮と、北は?桐郷、林内郷と接している。東西約15Km、南北16Kmとなっている。
  • 北斗
  • 北斗鎮 ほくとちん 台湾彰化県の鎮。彰化平原の南端、鹿港渓の南岸に位置している。東は田中鎮と、西は?頭郷と、南は渓州郷と、北は田尾郷と接している。
  • 樹仔脚
  • 剌桐港
  • 他里霧
  • 大甫林
  • 雲林 うんりん
  • 雲林県 うんりんけん 台湾の南西部に位置する県。県政府所在地は斗六市。彰化県、南投県、嘉義県と隣接する。
  • 打猫
  • 員林街 いんりん/ユェンリン〓
  • 員林鎮 いんりんちん 台湾彰化県の鎮。彰化平原の東部に位置し、南投県との県境にある八卦台地を除き平原により構成されている。平均海抜は25m。機構は亜熱帯気候区に属し、年間平均気温は23℃。
  • 社斗街
  • 虎尾渓 こびけい? 剌桐港の南。
  • 虎尾鎮 こびちん、慣用読み:とらお 台湾雲林県の鎮。
  • 永靖街 えいせい/ヨンジン
  • 永靖郷 えいせいきょう 台湾彰化県の郷。
  • 台北 たいほく/タイペイ (Taibei)台湾北部、台北盆地の中央にある台湾最大の都市。第二次大戦後、国共内戦に敗北した中華民国国民政府の首都。人口264万(1999)。
  • 基隆 キールン (Jilong; Keelung)台湾北端の港湾都市。1860年天津条約によって正式に開港、台湾の重要な貿易港として発展。人口38万3千(1999)。
  • 内湾
  • 嘉義 かぎ (Jiayi)台湾中央部の都市。西部縦貫鉄道に沿い、製糖・製材の中心地。人口26万4千(1999)。
  • 台南 たいなん (Tainan)台湾南西岸にある台湾最古の都市。南部台湾の商工業の中心。安平はその外港。人口72万5千(1999)。
  • 鳳山 ほうざん  (高雄)、台湾高雄市にある山。
  • 土庫
  • 土庫鎮 とこちん、慣用読み:つちくら 台湾雲林県の鎮。
  • ちんぼうけい
  • 火焼庄 かしょう 火焼島か。緑島の別称。台湾省東方海上の小火山島。台東の東約32kmに位置。
  • 社頭街 しゃとう/シャートウ
  • 社頭郷 しゃとうきょう 台湾彰化県の郷。
  • 南港西荘 なんこう/ナンガン
  • 南港区 なんこうく 台北市の市轄区。
  • 七缺
  • 興化荘
  • 双渓口
  • 双渓郷 そうけいきょう 台湾台北県の郷。
  • 洪家店 双渓口の北。
  • 内林
  • 沙崙仔荘 打猫の東方。
  • 山仔脚
  • 北勢
  • 牛桐渓
  • 南湖西荘
  • 水屈頭
  • 澎湖島 ほうことう
  • 澎湖諸島 ほうこしょとう/ぼうこ/ポンフー 台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群。澎湖列島、澎湖群島とも呼ばれる。島々の海岸線は複雑で、その総延長は約300キロメートルを誇っている。大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島。
  • 馬公湾 澎湖島。
  • 布袋嘴
  • 台湾 たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • 塩水港汎
  • 塩水鎮 えんすいちん 台湾台南県の鎮。台南県北西部に位置し、北は嘉義県義竹郷と、東北は後壁郷と、東は新営市と、西は学甲鎮と、南は下営郷とそれぞれ接している。八掌渓南岸に位置し、八掌渓及び急水渓の沖積により形成された平原が広がり、地勢は平坦。
  • 枋寮 ほうりょう/ぼうりょう 台湾屏東県枋寮郷枋寮村。
  • 大荘
  • 茄苳脚
  • 東港 とうこう 台湾省南部。屏東県南部の港町。下淡水渓河口左岸に位置。
  • 茅港尾
  • 看西
  • 番仔申
  • 湾裏
  • 鉄線橋
  • 安渓寮
  • 估子内
  • 紅毛寮
  • 店仔口
  • 大茄苳
  • 古旗後
  • 安平港
  • 安平 アンピン、Anping 台湾・台南市の行政区域。安平古堡が含まれる。
  • ベトナム Vietnam・越南 インドシナ半島東部の社会主義共和国。面積33万平方キロメートル。人口8203万(2004)、約60の少数民族を含む。前2世紀以来中国の支配に服したベトナム民族は10世紀に独立して大越と号し、版図を拡大。19世紀初め現在の領域を統一して越南と号したが、1883年以降フランス領となる。1945年ホー=チミンのもとにベトナム民主共和国(首都ハノイ)として独立、これを認めないフランスの介入を招いた。54年のジュネーヴ協定により、フランスは撤退したが、アメリカが介入して55年南部にベトナム共和国(首都サイゴン)を建てた。これに対して、60年南ベトナム解放民族戦線が結成され、ハノイ政権の支援のもとに69年臨時革命政府を樹立、73年米軍は南ベトナムから撤兵、75年ベトナム共和国は崩壊した。76年南北ベトナムは統一して、ベトナム社会主義共和国となる。首都ハノイ。
  • 大目降
  • 土佐国須崎 すさき 市名。土佐湾のほぼ中央。
  • 横須賀
  • 新橋
  • 霞関 かすみがせき
  • 神奈川
  • 兵庫
  • 長崎
  • 新潟
  • 北海道
  • 麻布
  • 出雲大社分祠 麻布。
  • 豊島岡
  • 上野・日光両輪王寺
  • 内幸町
  • 龍口
  • 大手町
  • 神田橋
  • 錦町
  • 小川町
  • 水道橋
  • 砲兵工廠前
  • 江戸川端
  • 小日向水道町
  • 音羽町
  • 打狗(高雄)
  • 打狗港 だぐこう 台湾の高雄港の古称。打狗とは高雄の古称。
  • 宇品 うじな 広島市南部の港。1932年広島港と改称。日清戦争以後、第二次大戦終了まで陸軍の輸送基地。
  • 帝室博物館付属動物園
  • 日光東照宮神馬所
  • 陸奥国上北郡三沢村谷地頭
  • 上北郡 かみきたぐん 青森県の郡。
  • 上野国吾妻郡応桑村
  • 応桑
  • 北白川宮
  • 新竹 しんちく (Xinzhu)台湾北西部、台湾海峡に臨む都市。清代からの県城で、1980年代以降、ハイテク産業が発達。別称、風城。人口35万9千(1999)。
  • 牛埔 〓 新竹の南方。
  • 紀尾井町
  • 洩底
  • 台北県 たいほくけん?
  • 芝蘭一堡剣潭山
  • 台湾神社
  • 駿府 すんぷ 駿河国の国府の所在地。中世には府中、近世に駿府と称した。今の静岡市。
  • 東叡山 とうえいざん (東の比叡山の意)東京上野の寛永寺の山号。
  • 水戸 みと 茨城県中部の市。県庁所在地。那珂川の南に位置する、もと徳川氏35万石の城下町。城址には弘道館・孔子廟があり、偕楽園も有名。水府。人口26万3千。
  • 江戸城 えどじょう 1457年(長禄1)太田道灌が江戸に築いた城。1590年(天正18)徳川家康の居城となり、以後、徳川氏15代の居城。慶長年間から寛永年間にかけて大修築、本城(本丸・二の丸・三の丸)・西城(西の丸)・吹上の三部となった。明治初年以来、皇居となる。
  • 白石 しろいし 宮城県南西部、白石盆地の南部を占める市。もと仙台藩支藩片倉氏の城下町。蔵王観光の入口で、西部に鎌先・小原の温泉がある。人口3万9千。
  • 白河 しらかわ 福島県南部の市。もと、阿部氏10万石の城下町。古来、関東から奥州に入る一門戸。人口6万6千。
  • 仙台 せんだい 宮城県中部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。広瀬川の左岸、昔の宮城野の一部を占める東北地方の中心都市。もと伊達氏62万石の城下町。織物・染物・漆器・指物・埋木細工・鋳物などを産するほか、近代工業も活発。東北大学がある。人口102万5千。
  • 京都
  • ドイツ
  • ベルリン Berlin・伯林 ドイツ北東部の都市。1945年までドイツの首都。第二次大戦後、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連4カ国の共同管理下におかれ、1948年以来東部はドイツ民主共和国(東独)の首都、西部は実質上ドイツ連邦共和国(西独)の一部。90年、東西ドイツの統一によりドイツ連邦共和国の首都。人口338万7千(1999)。
  • プロシア国陸軍大学校
  • 戸山学校
  • 近衛局 近衛とは、1872年に従来の御親兵を改組して設置された日本陸軍の部隊の名称。当初は「近衛局」と呼称。
  • 東京鎮台
  • 熊本 くまもと 熊本県西部、熊本平野中央部の市。県庁所在地。もと細川氏54万石の城下町。人口67万。
  • 大阪
  • 泉布観 せんぷかん 大阪市の大川沿いにある大阪府で現存する最古の洋風建築。国の重要文化財。
  • 満州 まんしゅう 中国の東北一帯の俗称。もと民族名。行政上は東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国では東北と呼ぶ。
  • 広島 ひろしま 広島県西部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。もと浅野氏42万石の城下町。日清戦争の際に大本営設置。太平洋戦争末期、1945年8月6日、アメリカが投下した原子爆弾により市街は壊滅、二十数万の死者を出した。戦後、再建して国際平和文化都市。太田川沿岸と海岸部は自動車・機械・造船などの重工業地帯。人口115万4千。
  • 柳樹屯
  • 旅順 りょじゅん 中国遼寧省、遼東半島の南西端、大連市の港湾地区。日清戦争および日露戦争に日本軍が攻略し、租借。第二次大戦後、ソ連の管理下におかれ、1955年中国に返還。
  • 三貂角 さんちょうかく 台湾省北東端、台北県の岬。
  • [軍艦]
  • 浪速 なにわ 日本海軍の防護巡洋艦。浪速型の1番艦である。艦名は大阪の古称「浪速」にちなんで名づけられた。1884年、イギリス、ニューキャッスルのアームストロング社エルジック工場で起工、1886年2月15日に竣工し、二等艦と定められた。日本海軍が採用した最初の防護巡洋艦である。日本に回航され、同年6月26日、品川に到着した。
  • 吉野 よしの 日清戦争時に活躍した、日本海軍の防護巡洋艦。吉野型の1番艦。当時世界最速の軍艦。豊島沖海戦や黄海海戦で活躍。又国民の募金で作られた軍艦でもある。イギリスから回航する時にのちに艦長となる河原要一とともに委員として秋山真之も同行。
  • THALES 号 タリスごう
  • 西京丸
  • 薩摩丸
  • 長鯨丸
  • [乗馬]
  • 木崎野号
  • 坂東号


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

*年表

  • 明治二一(一八八八)四月 木崎野号、陸奥国上北郡三沢村谷地頭に生まれぬ。宮の台湾におわしまししとき多く乗らせ給う。同年、坂東号、上野国吾妻郡応桑村北白川宮の牧場に生まれぬ。これも宮の常に乗らせ給う。
  • -----------------------------------
  • 明治二八(一八九五)八月
  • -----------------------------------
  • 二九日 宮、この日より彰化に淹留。
  • 三一日 参謀総長彰仁親王の祝電いたる。
  • -----------------------------------
  • 九月
  • -----------------------------------
  •  一日 彰化の捷をほめさせ給う勅語および皇后宮の令旨いたる。
  •  三日 宮、午前、鹿港を観に出で立ち、第一旅団司令部などを訪い、午後、彰化にかえる。
  •  七日 午前、追撃隊の歩騎兵大甫林にありて、宮の訓令に接し、暁を待ちて背進せんとせしに、敵、至る。撃退し、夜、虎尾渓に至り、その右岸に露営。彰化に瘧おこなわれて、在院患者千二百に至り、軽症者入院することあたわず。あらたに四百人を容るる病院を作る。
  • 一七日 彰化の瘧ますますおこなわれて、師団の健康者、五分の一と称せらる。
  • 二二日 南進の命令、総督府より至る。
  • 二六日 師団命令出づ。
  • 二七日 宮、明日途に就かせ給わんとす。
  • 二八日 大雨洪水のために兵を勒めて発せしめず。この夜、少将山根信成、病没。瘧の流行ようやく衰う。
  • 二九日 進軍を令す。
  • 三〇日 大雨洪水。再び兵を勒めて発せしめず。この日、ドイツ人某いたりて従軍。宮の乗馬(宮城野)病みて馬廠に送らる。
  • -----------------------------------
  • 一〇月
  • -----------------------------------
  •  三日 南進の行程を計画。午前、彰化を立ち、員林街に憩わせ給い、午後、南港西荘に着く。従卒中村文蔵、病みて野戦病院に入る。
  •  四日 北斗に往いて洪水の状を観、明日の前衛の前進を計画。
  •  六日 午前、南港西荘を立ち、午後、北斗に着く。
  •  七日 午前、北斗を発し、剌桐港に着く。
  •  八日 午前、剌桐港を発し、午後、露営地に着く。
  •  九日 午前、大甫林南方の露営地を立ち、嘉義の北方六百メートルの地に至る。歩兵第三連隊第二大隊・騎兵第二中隊・砲兵第一大隊(一中隊闕)に追撃を命じ、午後、嘉義に入りて、旧県庁に舎営。この戦に敵の死者四百を超え、生擒せらるるもの五百余人。
  • 一〇日 宮、しばらく嘉義に留まる。
  • 一二日 劉永福、英商に托して、和を乞う書を宮のもとに致す。宮、劉が行動の条理なきをせめて、使者を放つ。第二師団はほとんど抗抵を被らずして東港を占領。
  • 一六日 第三旅団、鳳山を占領。宮の従卒中村文蔵、病癒えて帰る。
  • 一七日 宮、南進軍司令官の意図をうけて、師団命令を発す。夜に入りて発熱。師団軍医部長、木村達、診しまつるに、舌の白苔を被れるほか、徴候の認むべきなかりき。達は瘧と診断。
  • 一八日 午前、悪寒、腰痛をおぼえさせ給いしかど、病をつとめて嘉義を発し、午後、大茄苳に至る。
  • 一九日 朝、安渓寮にいますを、達、診しまつりぬ。午前、出で立たせ給うとき、轎に宮を載せまいらせつ。午後、古旗後に着く。
  • 二〇日 食思振わず。轎に乗りて古旗後を立ち、午後、湾裡に至り、某の民家に宿る。
  • 二一日 轎に載せまいらすべきにあらずとて、竹四本を結びて長方形になし、これに竹蓆をはり、藁を敷き、毛布を展べ、上に竹を架して浅葱色の木綿布をおおいて、日をさえぎるように補理い、これに載せまつりて土人に舁かせ、午前、湾裡を立ち、午後、大目降に着く。
  • 二二日 舁かれて大目降を発し、午後、台南に着く。
  • 二三日 午後、諸症やや増悪。総督府軍医部長石阪惟寛、第二師団軍医部長谷口謙、西郷吉義、来診。夕、軟便をくださせ給うこと三度。夜、譫語。この日より客に逢わせ給わず。貞愛親王に逢わせ給いしを終として、ついで至れる高島軍司令官はむなしく帰る。
  • 二五日 ときどき応答不明。
  • 二六日 唇乾き、舌うるおい、面・胸・手背に粘汗をおびさせ給い、四肢振顫。
  • 二七日 舌および四肢振顫。全身粘汗。ときどき精神朦朧。この日、樺山総督いたる。
  • 二八日 午前、薨去。貞愛親王・樺山資紀・高島鞆之助・乃木希典の諸将、別を御遺骸に告げ、秘して喪を発せず。この日より川村景明、近衛師団長の職務を代理。
  • 二九日 午前、歩兵少佐佐本寿人のひきいる一行、宮の御柩を奉じて台南を発す。表には宮、御病のために帰らせ給うと沙汰せしめき。はじめ、宮の台湾に渡らせ給いしとき随従しまつりし家令心得恩地轍・家扶心得高屋宗繁の二人は先に帰る。安平にて御柩を西京丸に載せまつり、軍艦吉野もて護衛。
  • -----------------------------------
  • 一一月
  • -----------------------------------
  •  二日 台南を平定せしをほめさせ給う勅語および皇后宮令旨、近衛師団に至る。川村少将かわりて拝受。
  •  三日 御柩を載せたる舟、土佐国須崎に泊まる。
  •  四日 午前、舟、横須賀の港に入る。夜、御柩を汽車に移しまつりて、横須賀を発す。
  •  五日 午前、御柩を載せたる汽車、新橋に至る。二時、御柩を霞関(二丁目角)なる御館に舁き入れまつりぬ。七時十分、喪を発す。
  •  六日 午前、麻布の出雲大社分祠において帰幽奏上式。午後、入棺式。豊島岡の墓地を交付せらる。内旨もて上野・日光両輪王寺に法会をおこなうことを命ぜらる。輪王寺は宮に法諡をたてまつりて、鎮護王院という。この日、南進軍の編制を解きて、第二師団に台湾南部を守備することを命ぜられぬ。
  •  七日 霊遷式。
  •  八日 霊祭。
  •  九日 霊祭。
  • 一〇日 霊祭。豊島岡において地鎮祭。
  • 一一日 棺前祭。葬場祭。御館において宮殿解除式。
  • 一二日 霊祭。墓祭。
  • 一八日 近衛師団司令部宇品に至り、二一日、東京に入りぬ。
  • 二八日 近衛師団凱旋しおわりぬ。
  • -----------------------------------
  • 一二月
  • -----------------------------------
  • 一〇日 近衛師団、諸隊復員し畢りぬ。師団の将卒、台湾に死せし者、千四百余人。
  • 二四日 五十日祭。おこない畢りて、葬儀係を解かれぬ。
  • 二五日 逓信省記念郵券に宮の肖像を印することを議定。翌年七月一八日発行。
  • -----------------------------------
  • 明治二九(一八九六)
  • -----------------------------------
  •  五月一一日 宮の乗らせ給いし馬一頭(木崎野号)を帝室博物館付属動物園に寄付。他の一頭〔坂東号〕を日光東照宮神馬所に寄付。
  •  八月 記念碑を宮の露営せさせ給いし新竹の南方なる牛埔に建つ。
  • 一〇月二二日 宮の牙髪塔を日光なる歴世親王墓地の南端に立て、その前面に廟門、拝殿および本殿を造成。
  • 一一月四日 豊島岡の墓成りぬ。
  • 一一月五日 宮の社殿を紀尾井町なる北白川宮邸の東南隅に立てる。この日、遷霊式。豊島岡において一週年祭。
  • 明治三〇(一八九七)四月二三日 日光の牙髪塔の地所、諸陵寮の所轄に帰す。
  • 明治三一(一八九八)九月 宮と御息所との写真を近衛師団の将校に頒布。
  • 明治三二(一八九九)一月 記念碑を宮の上陸せさせ給いし洩底に建つ。
  • 明治三二(一八九九)八月四日 木崎野号、動物園にたおれぬ。
  • 明治三二(一八九九)一二月二二日 本殿、拝殿など日光社寺合同修繕区域に編入。
  • 明治三三(一九〇〇)九月一八日 台北県芝蘭一堡剣潭山に台湾神社を建てて、宮を斎きまつり、官幣大社に列せらる。
  • -----------------------------------
  • 明治三四(一九〇一)
  • -----------------------------------
  • 一〇月二〇日 台湾神社なる。
  • 一〇月二七日 鎮座式。
  • 一〇月二八日 台湾神社において宮の五年祭、執行。
  • 明治三五(一九〇二)二月二六日 台南にて宮の宿らせ給いし家屋に保存工事をほどこす。
  • 明治三六(一九〇三)一月二八日 宮の銅像を丸の内近衛師団歩兵営の南門外に建てて除幕。銅像は新海竹太郎、木雕原型を作る。
  • 明治四〇(一九〇七)一〇月二八日 日光の牙髪塔側に、木型奉安殿を立てて安置。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 能久親王 よしひさ しんのう 1847-1895 北白川宮第2代。伏見宮邦家親王の第9王子。仁孝天皇の猶子。陸軍大将。近衛師団長として台湾出兵中、台南で没。
  • 河村秀一 幕僚。師団の参謀。
  • 彰仁親王 あきひと しんのう 1846-1903 伏見宮邦家親王第8王子。初めの名は嘉彰。小松宮と改称。維新政府では議定・軍事総裁。英国留学後、陸軍に入り、参謀総長。元帥。
  • 皇后宮
  • 千田少佐
  • 千田貞幹 第一連隊第二大隊、隊長。
  • 高橋利作 隊長中尉。
  • 井手喜一郎 一等卒。
  • 浮田家雄 騎兵一小隊。少尉。
  • 志賀範之 隊長。
  • 阪井重季 さかい しげすえ/しげき 1847-1922 陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助。土佐藩馬廻役、二川周五郎の長男。歩兵第二連隊長。司令官。当時、大佐。
  • 内藤正明 歩兵第四連隊長。当時、大佐。
  • 劉永福 りゅうえいふく 1837-1917 字は淵亭、広東省欽州(現在の広西チワン族自治区)の清朝の軍人。民主国政府より大将軍に任じられ、台北陥落後の抵抗を担うこととなった。日本軍が台南に迫ると安平へ、その後ドイツ船籍の船で中国へ逃亡。
  • 劉歩高 劉永福の叔父。
  • 山根信成 やまね のぶなり 1851-1895 陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。山口県出身。明治維新後、陸軍に入る。2月、歩兵第12連隊長となり、10月、歩兵大佐に昇進した。
  • 中村文蔵 従卒。
  • 黄某
  • 王某
  • 粛某
  • 須永中佐
  • 高島鞆之助 たかしま とものすけ 1844-1916 薩摩藩出身の陸軍軍人、政治家。薩摩藩士高島嘉兵衛の四男。諱は昭光。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任。南進軍司令官、台湾副総督。
  • 貞愛親王 さだなる しんのう 1858-1923 皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第14王子、母は鷹司政熙の女鷹司景子。伏見宮第22代および第24代。幼名は敦宮。
  • 乃木希典 のぎ まれすけ 1849-1912 軍人。陸軍大将。長州藩士。日露戦争に第三軍司令官として旅順を攻略。後に学習院長。明治天皇の大葬当日、自邸で妻静子とともに殉死。
  • 川村景明 かわむら かげあき 1850-1926 薩摩藩士、野崎吉兵衛の三男。後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぐ。陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任し、官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。通称は源十郎。旅団長。
  • 木村達 近衛師団軍医部長。
  • 伊崎良煕 歩兵第三連隊長。
  • 木村信
  • 石阪惟寛 いしざか いかん 1840-1923 岡山県出身。赤松秀の二男。岡山藩医・石阪堅壮の養子。岡山藩侍医。医師、日本陸軍軍医、政治家。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。貴族院議員。幼名、逸蔵。当時、総督府軍医部長。
  • 谷口謙 第二師団軍医部長。
  • 西郷吉義 さいごう よしみち 1855-1927 医家・医学博士。宮中顧問官。信州松本藩士、西郷直諒の二男。明治37年、軍医監、大本営付となる。享年73。
  • 樺山資紀 かばやま すけのり 1837-1922 軍人。海軍大将。薩摩藩士。戊辰・西南戦争で軍功をあげ、海相となり、日清戦争時は軍令部長。初代台湾総督。伯爵。
  • 高野盛三郎 家扶心得。
  • 山本喜勢治 家従心得。
  • 佐本寿人 将校。歩兵少佐。
  • 岩尾惇正 将校。
  • 松本三郎
  • 久松定謨 ひさまつ さだこと 1867-1943 陸軍軍人、華族。伊予松山藩主である久松家の当主で、歩兵第1旅団長・歩兵第5旅団長を歴任。旧名?三郎。妻の貞子は島津忠義公爵の娘。当時、歩兵中尉。師団副官。
  • 伊達紀隆 歩兵少尉。師団副官。
  • 菱田栄和 特務曹長。
  • 恩地轍 おんち〓 家令心得。東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職。四男は装幀家の孝四郎。
  • 高屋宗繁 家扶心得。
  • 松本政吉 馬丁。
  • 田村喜一郎 馬丁。
  • 田中倉吉 馬丁。
  • 高崎五六 たかさき ごろく/いつむ 1836-1896 薩摩藩士の高崎善兵衛の長男。明治時代の官僚。男爵。通称を猪太郎または兵部と名乗り、のち諱を友愛。当時、御留守別当。
  • 土方久元 ひじかた ひさもと 1833-1918 幕末・明治期の政治家。土佐藩士。尊王論を唱え、1863年(文久3)藩命で七卿落ちに従って長州・太宰府に移った。維新後は農商務相・宮内相などを歴任。伯爵。当時、勅使。
  • 彰仁親王妃 → 彰仁親王妃頼子
  • 彰仁親王妃頼子 あきひとしんのうひ よりこ 1852-1914 皇族。小松宮彰仁親王の妃。旧久留米藩主・有馬頼咸の長女。
  • 依仁親王 よりひと しんのう 1867-1922 皇族、海軍軍人。伏見宮邦家親王王子。妃は岩倉具定公爵の長女周子。
  • 大山巌 おおやま いわお 1842-1916 軍人。薩摩藩士。西郷隆盛の従弟。陸軍大将・元帥。陸相・参謀総長を歴任。日清戦争で第二軍司令官、日露戦争で満州軍総司令官。のち元老、内大臣。当時、陸軍大臣。
  • 伊藤博文 いとう ひろぶみ 1841-1909 明治の政治家。初名は利助、のち俊輔。号、春畝。長州藩士。松下村塾に学ぶ。討幕運動に参加。維新後、藩閥政権内で力を伸ばし、憲法制定の中心となる。首相・枢密院議長・貴族院議長(いずれも初代)を歴任、4度組閣し、日清戦争などにあたる。政友会を創設。1905年(明治38)韓国統監。ハルビンで朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された。元老。公爵。当時、内閣総理大臣。
  • 黒田清隆 くろだ きよたか 1840-1900 幕末・明治期の政治家。通称、了介。薩摩藩士。戊辰・西南戦争の政府軍参謀。また、開拓長官として北海道開拓に尽力。大久保利通死後の薩摩閥の中心で、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任。晩年、元老。伯爵。当時、宮内大臣、陸軍大臣、枢密院議長。
  • 大給恒 おぎゅう ゆずる 1839-1910 三河奥殿藩の第8代藩主。のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代。江戸幕府の老中、若年寄。明治時代の政治家・伯爵。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平乗謨。当時、賞勲局総裁。
  • 蜂須賀茂韶 はちすか もちあき 1846-1918 阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。第13代藩主・蜂須賀斉裕の次男。母は鷹司標子。正室は蜂須賀隆芳の娘、継室は徳川慶篤の娘・随子。子は蜂須賀正韶(長男)。官位は従四位上、阿波守。侍従。爵位は侯爵。幼名は氏太郎。当時、貴族院議長。明治5年より12年までイギリスに留学。帰国後、外務省御用掛。15年12月よりフランス駐在。23年5月、東京府知事。29年、文部大臣。享年73。
  • 三宮義胤 さんのみや よしたね 1843-1905 官吏。近江出身。三宮内海の長男。式部長。大政復古ののち重要の軍務に参じた。明治2年、兵部権少丞に任じ、翌年10月東伏見宮に随従して英国に航し、10年1月、ドイツ公使館に在勤し、13年9月帰国。病没。享年63。
  • 堤正誼 つつみ まさよし 1834-1921 内匠頭。宮内官。福井藩士堤甚平の長男。足羽郡新屋敷生まれ。幕府の海軍教授所に入って航海術を学ぶ。戊辰の役には北越・奥羽に転戦。明治4年、宮内省出仕、明治天皇の侍従を奉仕。享年80。
  • 多田好問 ただ こうもん 1845-1918 内閣書記官。官吏。岩倉家の臣。太政官に出仕。享年74。
  • 木戸孝正 きど たかまさ 1857-1917 式部官。山口藩士来原良蔵の長子。米国に留学。明治7年帰国。宮内省に出仕し、34年、威仁親王に随行して渡英。のち宮中顧問官。享年61。
  • 斎藤桃太郎 さいとう ももたろう 1853-1915 宮内大臣秘書官。宮内官。東京府士族栄の長子。明治6年、イタリアに遊学、帰朝後外務省に出仕し、のち宮内省御用掛などを歴任。享年63。
  • 田口乾三 内閣書記官。
  • 万里小路正秀 までのこうじ 〓 式部官兼掌典。
  • 千家尊愛 斎主大社教管長。
  • 千家尊弘 副斎主大教正。
  • 平田盛胤 地鎮祭ならび出棺後清祓奉仕権大教正。
  • 戸田忠幸 権大教正。
  • 佐佐木幸見 中教正。
  • 竹崎嘉通 中教正。
  • 木村信嗣 権中教正。
  • 西村清太郎 大講義。
  • 桜井敬正 権大講義。
  • 鶴田豊雄 少教正。
  • 竹下正衛 大講義。
  • 千葉洪胤 中講義。
  • 山地元治 やまぢ もとはる 1841-1897 山地元恒の長男。土佐藩士、軍人。最終階級は陸軍中将。子爵。幼名・忠七。第一師団長陸軍中将。
  • 内山小二郎 うちやま こじろう 1859-1945 陸軍の軍人、華族。侍従武官長・第12師団長・東京湾要塞司令官を務める。妻は田中綱常海軍中将の娘。当時、参謀長、第一師団参謀長心得砲兵中佐。
  • 西川政成 参謀、留守近衛師団参諜歩兵少佐。
  • 亀岡泰辰 かめおか やすたつ 1852-1933 第一師団副官歩兵少佐。陸軍少将。西南戦役、日清・日露各戦役に出征。享年82。
  • 稲垣三郎 副官、第一師団副官騎兵中尉。
  • 西四辻公業 にしよつつじ きんなり 1838-1899 勅使。大総督府参謀。侍従。父は宰相高松公祐。西四辻公恪の養嗣子となる。有栖川宮熾仁親王に随って東海道に出張、江戸に至る。明治2年大阪府知事、5年明治天皇の侍従に奉仕。享年62。
  • 吉田滝子 皇太后の使。掌侍。
  • 姉小路良子 あねのこうじ 〓 皇后の使。掌侍。
  • 稲葉正縄 いなば まさなお 1867-1919 皇太子の使。東宮侍従。式部官。松浦詮の子。明治21年、英国に留学し、25年帰朝。まもなく東宮侍従となる。享年38。
  • 前田青莎 皇太子の使。
  • 馬淵正文 陸軍砲兵少佐。
  • 岩崎達人 海軍少佐。
  • 野津道貫 のづ どうがん/みちつら 1841-1908 薩摩藩士、陸軍軍人。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。陸軍中将・野津鎮雄の弟。通称は七次。諱は道貫。当時、陸軍将校総代陸軍大将。
  • 有地品之允 ありち しなのじょう 1843-1919 海軍軍人。海軍中将、貴族院議員、男爵。別名・信政。長州藩士で武術指南役であった、有地藤馬の長男。
  • 成久王 なるひさおう 1887-1923 皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。喪主。
  • 恒久王 つねひさおう 1882-1919 皇族・陸軍軍人。北白川宮能久親王第1王子。妃は明治天皇の皇女昌子内親王。1903年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争の激戦を経験した。
  • 輝久王 てるひさおう → 小松輝久
  • 小松輝久 こまつ てるひさ 1888-1970 北白川宮家出身の華族、海軍軍人。最終階級は海軍中将。皇族時代は(北白川宮)輝久王という。北白川宮能久親王第4王子。
  • 吉田貞子
  • 満子女王 みつこ じょおう 1885-1975  能久親王の第1王女。母は申橋幸子。甘露寺受長夫人となる。
  • 貞子女王 さだこ じょおう 1887-1964 能久親王の第2王女。有馬?寧夫人。母は岩浪稻子。
  • 武子女王 たけこ じょおう 1890-1977 能久親王の第3王女。保科正昭夫人。母は申橋幸子。
  • 拡子女王 ひろこ じょおう 1895-1990 能久親王の第5王女。二荒芳?夫人。母は浮山幾牟。
  • 博経親王 ひろつね しんのう 1851-1876 皇族、海軍軍人。官位は議定会計事務総督海軍少将。徳川家茂の猶子。伏見宮邦家親王第十二王子、母は家女房堀内信子。華頂宮を創設した。
  • 博経親王妃 ひろつねしんのうひ 南部郁子か。
  • 竹内絢子
  • 載仁親王 ことひと しんのう 1865-1945 皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第16王子。閑院宮。
  • 邦芳王 くにかおう 1880-1933 皇族。父は伏見宮貞愛親王、母は利子女王(有栖川宮幟仁親王第四王女)。伏見宮邦芳王。
  • 博恭王 ひろやすおう 1875-1946 皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。
  • 菊麿王 きくまろおう 1873-1908 皇族、海軍軍人。山階宮晃親王の第一王子。母は家女房中条千枝子。
  • 菊麿王妃 前妻は九条範子、後妻は島津常子。
  • 邦彦王 くによしおう 1873-1929 皇族で陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第三王子。官位は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位功四級。
  • 守正王 もりまさおう 1874-1951 久邇宮朝彦親王の第4王子。皇族、軍人。梨本宮。
  • 鳩彦王 やすひこおう 1887-1981 皇族、軍人。朝香宮家の初代当主。1947年(昭和22年)10月14日に臣籍降下して、朝香鳩彦という。陸軍大将。久邇宮朝彦親王の第八王子。
  • 稔彦王 なるひこおう 1887-1990 東久邇宮。第43代内閣総理大臣(在任:1945年8月17日-1945年10月9日)。元皇族。陸軍軍人。皇族で唯一の、かつ戦後初の内閣総理大臣。階級は陸軍大将。久邇宮朝彦親王の九男。
  • 禎子女王
  • 川田剛 かわだ つよし 墓誌銘を撰ぶ。書家。島根県鹿足郡津和野町後田生まれ。 → 川田甕江
  • 川田甕江 かわだ おうこう 1830-1896 備中浅口郡阿賀崎村出身。山田方谷の薦により、備中藩主老中板倉松叟侯に随行して渡英。のち宮中顧問官。享年61。
  • 西尾為忠 墓誌銘を書く。
  • 申橋融次 墓所勤仕。
  • 下村弥一郎 墓所勤仕。
  • 白根専一 しらね せんいち 1849-1898 官吏。逓信大臣。長藩士白根太助の子。萩城下生まれ。明治5年、司法省十等出仕、21年愛媛県知事、翌年愛知県知事、23年内務次官、25年宮中顧問官。病没。享年50。
  • 熾仁親王 たるひと しんのう 1835-1895 有栖川宮幟仁親王の第1王子。王政復古の際に新政府の総裁。戊辰戦争に東征大総督、1876年(明治9)元老院議長、西南戦争に征討総督。陸軍大将。左大臣・参謀総長を歴任。
  • 新海竹太郎 しんかい たけたろう 1868-1927 彫刻家。山形市生れ。小倉惣次郎(1846〜1913)に塑造を、浅井忠にデッサンを学び、ベルリンに留学。帰国後、太平洋画会彫刻部を主宰。新古典主義的作風で知られる。作「ゆあみ」
  • 仁孝天皇 にんこう てんのう 1800-1846 江戸後期の天皇。光格天皇の第6皇子。名は恵仁。学習所(後の学習院)設立に着手。(在位1817〜1846)
  • 青蓮院宮 しょうれんいんのみや
  • 梶井宮
  • 輪王寺宮 りんのうじのみや 日光の輪王寺の門跡であった法親王の称号。
  • 堀内信子 能久親王の生母。
  • 徳川家茂 とくがわ いえもち 1846-1866 徳川第14代将軍(在職1858〜1866)。紀州藩主斉順の長子。初名、慶福。紀州藩主。のち将軍の位を継ぎ、公武合体のため和宮と結婚。大坂城で第2次長州征討の軍を統督中に病没。諡号、昭徳院。
  • 慈性親王 じせい/じしょう しんのう 1813-1867 輪王寺宮。有栖川宮韶仁親王第二皇子。十四世法統天台座主。慶応3年5月退職。寺務を公現法親王にゆずる。『日本人名』『覚王院義観の生涯』長島 進)
  • 徳川慶喜 とくがわ よしのぶ 1837-1913 徳川第15代将軍(在職1866〜1867)。徳川斉昭の7男。初め一橋家を嗣ぎ、後見職として将軍家茂を補佐、1866年(慶応2)将軍職を継いだが幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政を奉還。68年鳥羽伏見の戦で敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府に隠棲。のち公爵。
  • 四条隆謌 しじょう たかうた 1828-1898 華族、陸軍軍人。官位は陸軍中将正四位勲二等侯爵に昇り、元老院議官・貴族院議員を務める。権大納言四条隆生の三男で、醍醐輝久の孫。安政勤王八十八廷臣の一人。中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討総督平潟口総督などを務める。
  • 伏見宮 → 邦家親王
  • 邦家親王 くにいえ しんのう 1802-1872 伏見宮邦家親王。江戸時代末期、明治時代の皇族。伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬親王の第1王子。幼称は睦宮。伏見宮。禅楽。/能久親王の父。
  • 山内光子 能久親王の妃。
  • 延久王 のぶひさおう 1885-1886 能久親王の第2王子。母は岩浪稻子。
  • 島津富子 しまづ とみこ 1862-1936 旧宇和島藩主、侯爵伊達宗徳の二女。後に島津久光の養女となる。皇族。能久親王の妃。
  • 信子女王 ことこ じょおう 1891-1892 能久親王の第4王女。母は申橋幸子。
  • 鷹司景子 たかつかさ ひろこ 1814-1892 伏見宮邦家親王の妃。御母。関白鷹司政煕の娘。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)『日本人名大事典』平凡社、『覚王院義観の生涯』長島 進、長尾『戊辰秘策』。

*難字、求めよ

  • 淹留 えんりゅう 久しくとどまること。
  • 撃攘 げきじょう 敵を撃って追い払うこと。
  • 四もに散ず
  • 汎濫 はんらん
  • 益 ますます、か。
  • 麾下 きか (大将の指図する旗の下の意から) (1) 将軍直属の家来。旗下。(2) ある人の指揮の下にあること。また、そのもの。部下。幕下。
  • 馬廠
  • 往いて ゆいて
  • 昧爽 まいそう よあけ。あかつき。昧旦。未明。
  • 生擒 いけどり 生け捕り。いけどること。また、いけどられた人や動物。
  • 白苔
  • 瘧 おこり 間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指す。わらわやみ。
  • 規尼涅 キニーネ kinine・規尼涅。キナの樹皮から製するアルカリ性の苦味あるアルカロイド。絹糸状光沢の結晶。以前はマラリアの唯一の治療剤であり、現在でも他の薬剤に耐性のあるマラリアに用いる。その他、解熱作用・子宮収縮作用などがある。キニン。〈植学啓原〉
  • 矮屋 わいおく ひくく小さい家。小屋。
  • 湿いて うるおいて
  • 横へ よこたえ
  • 舁かせ かかせ
  • 臨検 りんけん (1) その場に臨んで検査すること。(2) 行政法上、行政機関の職員がその職務執行のため、他人の住所・営業所・事務所などの中に立ち入ること。立入り。(3) 訴訟法上、裁判所以外の場所で行われる検証。(4) 国際法上、停船を命じた後、船舶の書類について検査すること。
  • 食思 しょくし 食欲。くいけ。
  • アンチフェブリン ANTIFEBRIN アセトアニリドの薬品名。解熱・鎮痛剤。解熱力・毒性ともにアンチピリンより強い。
  • 次硝酸蒼鉛 じしょうさん そうえん 次硝酸ビスマス。収斂薬の1つ。腸粘膜表面のタンパク質と結合して不溶性の被膜を形成し、粘膜の保護作用、炎症抑制作用を示す。
  • 蒼鉛剤 そうえんざい 創面や粘膜などの局部に対し分泌を制限し、かつ収斂・防腐をなす蒼鉛製剤。腸疾患・梅毒などに用いた。
  • 里謨那底
  • 下利 下痢、か。
  • 脾 ひ
  • 脾臓 ひぞう 内臓の一つ。胃の左後にある。暗赤色で重さ約100グラム。内部は海綿状の血管腔(赤脾髄)とリンパ組織(白脾髄)とから成る。老廃した血球の破壊、血中の異物や細菌に対する免疫の機能をもつ。ひ。よこし。
  • 玻�戸
  • 龍脳 りゅうのう ボルネオール(borneol)。ボルネオショウノウ。
  • 譫語 せんご 高熱などで正気を失ったとき無意識に発することば。うわごと。
  • 肩胛 けんこう 肩甲骨・肩胛骨。胸郭の背面上部にあり、左右各1個から成る逆三角形の扁平骨。上肢骨を躯幹に連ねる。かいがらぼね。
  • �雑 そざつ、か。
  • 実岐答利斯 → ジギタリスか
  • ジギタリス Digitalis ゴマノハグサ科ジギタリス属の多年草。南ヨーロッパ原産の薬用・観賞用植物。高さ約1メートル、全体に短毛がある。下部の葉柄は長く、上部のものは無柄。夏、淡紫紅色の鐘形花を花穂の一側面に並べて開く。葉を陰干しにして強心剤とするが劇毒。別名、狐の手袋。また、広義にはジギタリス属植物(その学名)。
  • 吐根 とこん アカネ科の常緑多年草。ブラジル南部原産の薬用植物で、東南アジアで栽培。高さ約40センチメートル。基部は木質となり横に這う。根は連珠状に膨れる。葉は対生。小形白色の筒状花を大形の総苞上に密集。果実は豌豆大の液果で、初め紅色、のち紫色。乾燥した根は暗灰褐色でアルカロイド(エメチン)を含み、生薬として吐剤または去痰薬。また、アメーバ赤痢の特効薬。
  • 浸剤 しんざい 熱湯を注ぎ成分を浸出して服用する薬剤。また、その浸出した薬液。ふりだし。
  • 捻髪音
  • 手背 しゅはい 手の甲。
  • 震顫・振顫 しんせん (1) ふるえること。(2) 〔医〕(「振戦」とも書く)無意識的に頭部・手指・躯幹に起こる筋肉の無目的規則的な運動。パーキンソン病・アルコール中毒・ヒステリーなどで起こる。
  • 加斯篤里幾尼涅 → ストリキニーネか?
  • ストリキニーネ strychnine フジウツギ科のマチン(属名ストリクノス)の種子などに含まれるアルカロイド。白色結晶性の苦味ある猛毒物。中枢神経の麻痺・筋強直・痙攣などを起こして窒息するが、少量は神経刺激剤として有効。ストリキニン。
  • 厥冷 けつれい
  • コニャック COGNAC フランス南西部、コニャック地方に産するブランデー。最高級品とされる。
  • 歛め おさめ
  • 填む うずむ
  • 什具 じゅうぐ 日常用いる道具。什器。
  • 抜錨 ばつびょう 錨をあげて船が出帆すること。←→投錨
  • 衆し おおし
  • 法諡 ほうし
  • 果子 かし
  • 賻弔 ふちょう?
  • 神饌 しんせん 神に供える飲食物。稲・米・酒・鳥獣・魚介・野菜・塩・水など。供物。みけ。
  • 掌侍 ないしのじょう (ショウジとも)内侍司の判官。もと従七位相当、後に従五位相当。その第一位を勾当内侍という。内侍。
  • 賻 ふ 弔慰の金品を贈る。香典。
  • 地鎮祭 じちんさい 土木・建築などで、基礎工事に着手する前、その土地の神を祀って工事の無事を祈願する祭儀。土祭。地祝。地祭。
  • 輦 れん (1) 天子の乗物。(2) 手ぐるま。腰車。輦車。
  • 真榊 まさかき 真賢木。(マは接頭語)榊の美称。太玉串として神に奉り、また、神籬として神の憑代とすることもある。
  • 辛櫃 からびつ 唐櫃・韓櫃・辛櫃。(古くはカラヒツ。カラウヅ・カラウドとも)脚のつかない和櫃に対し、4本または6本の脚のついた櫃。白木造りのほか、漆塗り、さらに螺鈿・蒔絵などで飾ったものがある。衣服・甲冑・文書などの収納具、また中世までは運搬具としても盛んに使われた。
  • 呉床 くれどこ 呉床・牙床。中国の胡床にならって作った座臥の具。椅子の類。
  • 雨皮 あまかわ 車輿・唐櫃などの雨覆い。表は練絹に油をひき、裏は生絹。後には油をひかないもの、また油紙も用いた。
  • 捧持 ほうじ ささげもつこと。
  • 伶人 れいじん 音楽を奏する人。特に雅楽寮で雅楽を奏する人。楽人。楽官。
  • 藺 い イグサ科の多年草。湿地に自生。また水田に栽培。地下茎をもつ。茎は地上約1メートル、中に白色の髄がある。葉は退化し、茎の基部で褐色の鞘となる。5〜6月頃、茎の先端に花穂をつけ、その上部に茎のように伸びるのは苞。花は小さく緑褐色。茎は畳表・花筵、髄は灯心とする。イグサ。トウシンソウ。
  • 陪乗 ばいじょう 貴人に従って同じ車に乗ること。
  • 埋み うずみ?
  • 児 タール。tar 石炭や木材などを乾留するときにできる黒色の粘りけのある液体。コールタール・木タールなど。防腐塗料とする。
  • 幄舎 あくしゃ 幄屋に同じ。儀式や祭祀などの際、庭上に設けるテントのような仮屋。参列者を入れたり儀式の準備をしたりするところ。四隅と中央に柱を立てて幕を張り、屋上にも棟を作って布を張る。平張に対して、「あげばり」ともいう。幄。幄舎。あくや。
  • 逓信省 ていしんしょう もと内閣各省の一つ。1949年郵政省と電気通信省とに分かれて廃止。
  • 額 へんがく
  • 斎き いつき?
  • 大国魂命
  • 大已貴命 → 大己貴神
  • 大己貴神・大穴牟遅神・大汝神 おおなむちのかみ 大国主命の別名。大名持神とも。
  • 少彦名命 → 少彦名神
  • 少彦名神 すくなびこなのかみ 日本神話で、高皇産霊神(古事記では神産巣日神)の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭などの法を創めたという。
  • 木雕
  • 牙髪塔
  • 頭重 ずじゅう 頭が重たい感じがして、うっとうしいこと。ずおも。
  • 口渇
  • 馭者 ぎょしゃ 御者・馭者。(1) 馬を取り扱う人。(2) 馬車の前に乗って、馬をあやつり走らせる人。(3) 俗に、自動車の運転手。
  • 細目族
  • 允許 いんきょ (「允」も許す意)認め許すこと。印可。
  • 弔砲 ちょうほう 弔意を表するために打つ礼砲。
  • 儀仗兵 ぎじょうへい 儀礼・警衛のために、天皇・皇族・大臣・高官、あるいは外国の賓客などにつけられた兵士。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)
 「生る / 生れる」は「ある / あれる」と読み、古語で、神や天皇など神聖なものが出現する、生まれることをいう(『古語辞典』旺文社、1984 より)。本文中に出てくる「生る / 生れる」の読みも「ある / あれる」にした。青空文庫では、芥川龍之介・北原白秋・中原中也・夢野久作・徳冨健次郎・中島敦・宮沢賢治に用例がある。

 『能久親王事跡』、これにて完結!

*次週予告


第二巻 第一七号 
赤毛連盟 コナン・ドイル


第二巻 第一七号は一一月一四日(土)〔既刊〕です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第二巻 第一六号
能久親王事跡(六)森 林太郎
発行:二〇〇九年一〇月三一日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/pages/1.html
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。

T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

奇巌城 モーリス・ルブラン 菊池寛(訳)

第二巻 第一号 奇巌城(一)  月末最終号:無料
「十分わかりました。第一、レイモンド嬢が塀の外の小路で君を見たという時間に、君はたしかにブールレローズにおられた。君はまちがいなくジャンソン中学の学生で、しかも優等生であることがわかりました。
「では、放免してくださいますか?」
「もちろんします。しかし、先日話しかけてやめてしまった話のつづきを、ぜひしていただきたい。二日間も飛びまわったことだから、だいぶ調べは進んだでしょう。
(略)「ガニマールさん、いけない、いけない、ここにいらっしゃい。ボートルレ君の話は十分聞くだけの値があります。ボートルレ君の、するどい頭を持っていることはなかなかの評判で、英国の名探偵エルロック・ショルムス氏のいい対手(あいて)とさえいわれているのですよ。(略)
 伯爵が室を出ていったあとで、判事は今度は、犯人のかくれている宿屋のことのついてたずねた。ボートルレの答えは、また、ちがっていた。ボートルレの答えによると、犯人は宿屋などにはいないというのである。宿屋へ運んだように見せかけたのは警察をたぶらかす陥穽(わな)であった。犯人はたしかにまだ、あの僧院の中にかくれている。死にそうになっている病人をそんなに運び出せるものではない。あの火事さわぎをやっている間に、医学博士を僧院の中へ案内した。医学博士が宿屋だといったのは、犯人たちが博士をおどかして、あのようにいわせたのだとボートルレは語った。
「しかし、僧院の中は円柱が五、六本あるばかりで……」
 判事は不思議がった。
「そこに、もぐりこんでいるのです。」とボートルレは力をこめてさけんだ。「判事さん、そこを探さなければ、アルセーヌ・ルパンを見つけだすことはできません。

第二巻 第二号 奇巌城(二)  定価:200円(税込)
 少年はある朝、村の小さな飯屋(めしや)で、馬方(うまかた)のような男がじろじろと自分を見ているのに気がついた。ボートルレは、変(へん)なやつだと思ってその飯屋(めしや)を出ようとすると、その馬方(うまかた)が声をかけた。
「ボートルレさんでしょう、変装(へんそう)していてもわかりますよ。」という。どうやらその男も変装(へんそう)しているらしい。
「あなたはどなたです?」
「わかりませんかね、私はショルムスです。
 ああ、英国(えいこく)の名探偵(めいたんてい)ショルムス! ここであうということは、何というめずらしいことであろう。しかしショルムスは、少年よりも先に秘密(ひみつ)をにぎったのではないだろうか。探偵(たんてい)は、少年のその顔色(かおいろ)を見て、
「いや、心配(しんぱい)なさらんでもいい、私のはエイギュイユの秘密(ひみつ)のことではない。私のは、ルパンの乳母(うば)のヴィクトワールのいる場所(ばしょ)がわかったので、そこで、ルパンをつかまえようというつもりなんです。」なお、探偵(たんてい)はいった。「私とルパンとが顔をつきあわせる日には、そのときこそ、どちらかに悲劇(ひげき)が起(お)こらないではすまないでしょう。
 探偵(たんてい)は、ルパンに深いうらみを持っている。ルパンとのたたかいに、ショルムスは死ぬ覚悟(かくご)を持っているのだ。二人はわかれた。



第二巻 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫
定価:200円(税込)
美し姫と怪獣 ヴィルヌーヴ夫人
長ぐつをはいた猫 ペロー
楠山正雄(訳)

(略)ある日、町(まち)からしらせがとどいて、難船(なんせん)したとおもった商人(しょうにん)の持(も)ち船(ふね)が、にもつを山(やま)とつんだまま、ぶじに港(みなと)へ入(はい)ってきたということがわかりました。さあ、うちじゅうの大(おお)よろこびといってはありません。なかでも、ふたりの姉(あね)むすめは、あしたにももう、いやないなかをはなれて、町(まち)の大きな家(いえ)へかえれるといって、はしゃいでいました。そして、もうさっそくに、きょう、町(まち)へ出たら、きものと身(み)の飾(かざ)りのこまものを、買(か)ってきてくれるように、父親(ちちおや)にせがみました。
「それで、美し姫(ラ・ベル)ちゃん、お前(まえ)さんは、なんにも注文(ちゅうもん)はないのかい?」と、父(ちち)はいいました。
「そうですね、せっかくおっしゃってくださるのですから、では、バラの花(はな)を一(いち)りん、おみやげにいただきましょう。このへんには、一本もバラの木がありませんから。」と、むすめはいいました。べつだん、バラの花(はな)のほしいわけもなかったのですが、姉(あね)たちがワイワイいうなかで、自分(じぶん)ひとり、りこうぶって、わざとなかまはずれになっていると、おもわれたくないからでした。
「美し姫と怪獣」より)


第二巻 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教
定価:200円(税込)
毒と迷信 小酒井不木
若水の話 折口信夫
安吾巷談 麻薬・自殺・宗教 坂口安吾

 ダーウィンの進化論を、明快なる筆により、通俗的に説明せしことをもって名高い英国の医学者ハックスレーが、「医術はすべての科学の乳母(うば)だ」といったのはけだし至言(しげん)といわねばなるまい。何となれば、吾人(ごじん)の祖先すなわち原始人類が、この世を征服するために最も必要なりしことは主として野獣との争闘であり、したがって野獣を殺すための毒矢の必要、また負傷したときの創(きず)の手当(てあて)の必要などからして、医術は人類の創成とともに発達しなければならなかったからである。しかして現今の医学の主要なる部分を占(し)むる薬物療法なるものは、じつに原始人類から伝えられてきた種々の毒に関する口碑(こうひ)が基(もと)となって発達してきたものであって、この意味において、毒はすべての科学の開祖とみなしてもさしつかえないのである。本来、「薬」なる語は毒を消す意味を持ち、毒と相対峙(あいたいじ)してもちいられたものであるが、毒も少量にもちうるときは薬となり、のみならず最も有効な薬は、これを多量に用うれば最もおそろしい毒であることは周知のことである。
「毒と迷信」より)


第二巻 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流
定価:200円(税込)
空襲警報 海野十三
水の女  折口信夫
支流   斎藤茂吉

「炭なんか持ってきて……お前(まえ)さん、この暑いのに火をおこす気かネ?」
 辻村氏の顔を見て、鉄造は首を横にふった。
「牛乳、ビール、サイダーの空(あき)ビンを集めてください」
 妙(みょう)な物を注文した。――やがて七、八本の空(あき)ビンが、鉄造の前にならんだ。
 炭は女づれのところへまわされ、学生のピッケルをかりて、こまかく砕(くだ)くことを命じた。一人の奥さんの指から、ルビーの指環(ゆびわ)が借りられ、それを使って、ガラスビンの下部に小さな傷(きず)をつけた。それから登山隊の連中からロウソクが借りられた。灯をつけると、ガラスビンの傷(きず)をあぶった。ピーンとビンに割目(われめ)が入った。ビンをグルグルまわしてゆくと、しまいにビンの底がきれいに取れた。一同は固唾(かたず)をのんで鍛冶屋(かじや)の大将の手(て)もとを見ている。
 彼はポケットから綿をつかみだした。炭と綿とは、駅の宿直室(しゅくちょくしつ)から集めてきたのだった。――綿をのばしたのを三枚、ぬけたビン底から上の方へ押しこんだ。
「炭をあたためて水気(みずけ)をなくし、活性炭(かっせいたん)にすれば一番いいのだが、今はそんな余裕もないから……」
 といいながら小さくした堅炭(かたずみ)をドンドン中へつめこんだ。そしてまた底の方をすこしすかせ、綿を三枚ほどかさねてふたをした。そうしておいてビン底を、使いのこりの布で包み、その上を長い紐(ひも)で何回もグルグル巻(ま)いてしばった。
(略)「形は滑稽(こっけい)だが、これでも猛烈(もうれつ)に濃(こ)いホスゲンガスの中で正味一時間ぐらい、風に散(ち)ってすこし薄(うす)くなったガスなら三、四時間ぐらいはもつ。立派な防毒面(ぼうどくめん)が手に入らないときは、これで一時はしのげるわけさ……」
「空襲警報」より)

特集 花郎(ファラン)

第二巻 第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏
月末最終号:無料
(略)そうして新羅の地理上の位置は、他の諸国に比してすこぶる遜色(そんしょく)がある。半島の東方に偏在して、海岸線が短かく、山岳が多くて肥沃(ひよく)なる大平野がない。のみならず直接に大陸と交通する便宜(べんぎ)を欠いていたから、文化の発達もおくれていた。だからこの国が周囲の圧迫にたえてゆくには、是非ともおのずからたのみとする力強い何ものかを持たねばならぬ。そういうものがなければ、国家の存立すら危(あや)うくなる。いわんや進んで国力を振張(しんちょう)せんとするにおいてをやである。祖国の擁護(ようご)のためには身命をかえりみない武士的精神、―忠と勇とを基調とする愛国的精神は、かような関係から自然に涵養(かんよう)せられたであろう。のみならずそれがまた奨励(しょうれい)せられたであろう。そうしてことに真興王(しんこうおう)の領域拡張の結果、百済・高句麗二国の共同の圧迫が、いっそう強く加わるようになると、それに正比例して、こういう精神はますます強烈の度を加えたにちがいない。それは上に目(もく)をかかげた忠臣義士の伝が、いずれもこの時代に属するのを見てもあきらかである。かくのごとき国家多難の時代において、特にその衝(しょう)にあたった偉大なる政治家には金(きん)春秋(しゅんじゅう)があり、抜群(ばつぐん)なる武将には金(きん)�信(ゆしん)があった。これら二人の努力の結果は、ついに新羅をして半島全体の主人たることに成功せしめた。しかも彼らの背後には、彼らを支持する有形無形の民衆的の強い力のはたらいていたことを認めなければならないのである。


第二巻 第七号 新羅の花郎について 池内宏
定価:200円(税込)
(略)花郎(ファラン)はおおむね貴族の子弟であって、年十五、六のうら若き少年である。そうしてさまざまの階級の徒衆がこれに属し、その数は数百ないし一千にのぼった。すなわちいわゆる「郎徒」である。
 無慮二百余人もあったという上中下三代の花郎のうち、その事跡のあきらかにして、かつ最も古いのは、上代における真興王(第二十四代)の二十三年(五六四)、加羅征伐のおこなわれた時、名将異斯夫(いしふ)にしたがって抜群なる戦功を立てた斯多含(したがん)である。
(略)花郎および郎徒の風流韻事は、前章に述べた尽忠報国、勇壮義烈の精神とともに、その特別なる修養団体の本質の一部をなすものであろう。花郎が徒衆を領して山水に優遊することが、それおのずから風流なる行為であると同時に、彼らはそういう場合にかぎらず、平生韻事をたしなみ、かつ文字に親しんでいたにちがいない。
(略)『三国遺事』には、郷歌(きょうか)を対象とする記事がすこぶる多い。全然『三国史記』に記されていない十四首の郷歌のごときも、本書によって今日に伝わったのである。そうして本書の国仙すなわち花郎の物語は、おおむね郷歌に関係づけられている。しかるに前章に述べた『三国史記』列伝の花郎は、いずれもいわゆる芳名美事を遺した武勇伝中の人物であって、たがいに著しい対照をなしている。


第二巻 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
定価:200円(税込)
(略)転じて本郷の通りへ出て、焼けたという一高へ行ってみると、これも噂ばかりで何のこともない。門内には避難者が群集している。様子を聞こうと門衛所の前へ行くと、「喜田先生ではありませんか」と声をかける生徒がいる。よく見るとこれは原博士(京大文学部長)の令息が警戒に立っておられるのだ。
 帝大の大部はすでに無残にも焼け落ちている。門衛について聞くと、法文両学部は全滅で、図書館の書庫まで焼けてしまったという。なんという情けないことであろう。ここには金で補いのつかぬ多くの書籍があったはずだのに。しかし史料編纂掛が無事だと聞いて、国史科のためには思わず万歳を唱えざるを得なかった。
 大学の前は避難者でいっぱいだ。その中を押しわけて本郷三丁目の十字路へ来てみると、角の長島雑貨店など二、三戸を残したほかは、本郷座の方へかけて見渡すかぎり一面の火だ。これではたとい水があったとて消防の手のまわるはずはない。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田英松君(史料編纂官)のお宅が気にかかるがとても寄りつかれそうもない。同君は自分ら仲間ではことに蔵書家として知られている人だ。浅草には黒川真道君や大槻如電翁がおられる。有名な書肆(しょし)浅倉屋がある。その莫大な蔵書はどうなったことであろうと気にかかる。


第二巻 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
定価:200円(税込)
 ゴーシュは、町の活動写真館でセロを弾(ひ)く係でした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく、じつは仲間の楽手のなかではいちばん下手(へた)でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
 ひるすぎ、みんなは楽屋にまるくならんで、今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしていました。
 トランペットは一生けん命歌っています。
 ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
 クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
 ゴーシュも、口をりんと結(むす)んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながら、もう一心に弾いています。
 にわかにパタッと楽長が両手をならしました。みんなピタリと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやりなおし。はいっ。
「セロ弾きのゴーシュ」より)


第二巻 第十号 風の又三郎 宮沢賢治
月末最終号:無料
(略)二人(ふたり)ともまるでびっくりして棒立(ぼうだ)ちになり、それから顔を見あわせてブルブルふるえましたが、ひとりはとうとう泣(な)き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室(きょうしつ)のなかにどこからきたのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪(かみ)の子供(こども)がひとり、いちばん前の机(つくえ)にちゃんとすわっていたのです。そしてその机(つくえ)といったら、まったくこの泣(な)いた子の自分の机(つくえ)だったのです。(略)
「あいづは外国人(がいこくじん)だな。
「学校さはいるのだな。」みんなは、ガヤガヤガヤガヤいいました。ところが五年生の嘉助(かすけ)がいきなり、
「ああ三年生さはいるのだ。」とさけびましたので、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
 変(へん)なこどもは、やはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰(こし)かけています。
 そのとき風(かぜ)がドウと吹(ふ)いてきて教室(きょうしつ)のガラス戸(ど)はみんなガタガタ鳴(な)り、学校のうしろの山の萱(かや)や栗(くり)の木はみんな変(へん)に青じろくなってゆれ、教室(きょうしつ)のなかのこどもはなんだか、ニヤッとわらってすこしうごいたようでした。


第二巻 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
定価:200円(税込)
(安政)五年(一八五八)九月二十七日、勅によりて梶井宮より召し還され、輪王寺宮の御付弟にならせ給う。輪王寺宮とは、明暦元年(一六五五)十一月二十六日、後水尾上皇の勅して、当時、東叡山寛永寺におわせし上皇の第三子、守澄親王に賜わりし称号なり。同じ宮をば、また日光御門主と称えたてまつる。これよりさき、天文年間(一五三二〜一五五五)慈眼大師、満願寺を下野国日光山に興し、比叡・日光両山を管領す。慶長十四年(一六〇九)後陽成上皇の勅によりて、山城国山科なる毘沙門堂を再興す。元和三年(一六一七)後水尾天皇の勅によりて、徳川家康の遺骸の駿河国久能山におさめられたるを、日光山に移し、東照廟を建つ。寛永三年(一六二六)、徳川家光、勅許を受けて、東叡山寛永寺を武蔵国江戸、忍岡に建て、山城国比叡山に擬う。(略)当時(安政五年)在職せさせ給えるは、弘化三年(一八四六)四月二十五日、公紹親王の後をうけさせ給いし韶仁(つなひと)親王の子、光格天皇の御養子、慈性親王にておわしき。御付弟をば、世に日光新宮とぞ称えまつりし。(略)十月七日(略)輪王寺宮執当代、霊山院官田は同日江戸を立ちて、十月十一日、京都にいたりぬ。(略)


第二巻 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
定価:200円(税込)
(略)亮栄、星野長兵衛をまねきて、宮の召させ給うべき端艇のことを委托す。長兵衛は紀州家の用達回漕問屋にして、鉄砲洲船松町二丁目に住めり。屋号は松坂屋なり。(略)二十五日、午餉おわりて、未刻のころ、宮の一行は医師の病家にゆく状に擬して自証院を出づ。西川玄仲、先に立ちて行けり。宮は自証院の侍、伊藤喜作の帷子羽織を召して、角帯をしめ、木刀を挿し、雪駄を穿きて、玄仲が門人に扮せさせ給う。背後には匹田丑之助、薬籠を負いて随えり。(略)夜半、長兵衛、小舟を屋後の溝渠に漕ぎ入れて一行を載せ、羽田沖に停泊せる軍艦長鯨丸に送りとどく。榎本和泉守は回陽丸より来て、長鯨丸の乗組、斯波清一郎らと宮を迎えまつる。艦内には二室を準備し、一つを宮の御座間にあて、一つには随行員を居らしむ。(略)榎本、御前に進みていわく。こたびの御出発は重大なる事なり。もしなお大総督府におもむかせ給わん思召しおわしまさば、船員、命をすてて護衛しまいらせてん。然らずして必ず北国に渡らせ給わんとおぼさば、その御趣旨をうけたまわらばやという。宮、宣給わく。東叡山の道場、兵燹(へいせん)にかかりて、身を寄すべきところなし。頃日(けいじつ)左右に諮るに、みな江戸の危険にして、たとい大総督府に倚(よ)らんも、また安全を期し難かるべきを語れり。よりてしばらく乱を奥州に避けて、皇軍の国内を平定せん日を待たんとすと。(略)須臾(しゅゆ)にして舟、羽田沖を発す。榎本は回陽丸もて安房国館山沖まで送りまつりぬ。


第二巻 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
定価:200円(税込)
(略、慶応四年九月)二十日(略)この日、円覚院義観、米沢より帰る。ただちに執当の職を免じて、尭忍とともに謹慎せんことを命ぜさせ給う。二人は仙岳院の末寺に閉居しつ。義観、人に語りていわく。宮のこの行あるに至らせ給いしは、東叡山の戦にさきだちて、我がほしいままに大総督府の使をこばみしによる。我、いかでか宮の陳謝状に自署せさせ給うを傍看して恬然(てんぜん)たることを得べきと。これより自証院亮栄、かわりて執当の職をおこなう。
(略、十月)五日、(略)義観・尭忍の職を免じ、その弟子をして覚王院、龍王院の後住たらしめんことを約せさせ給う。(略)六日、功徳院慈亮、東照宮の神体・什物を護り、別当大楽院、安居院、信行房、社家二人、神職十七人を伴いて、羽前柏山寺(はくさんじ)より帰る。
(略)八日、慶邦(よしくに)に書を与えて、伊達家の借りたる東叡山府庫(ふこ)の金をかえすことを要せずと告げ、かねて義観、尭忍の仙台にあらんかぎり、扶持せんことを頼み聞こえさせ給う。(略)
(十月)十二日、辰半刻、宮は輿に乗りて仙岳院を立たせ給う。伊州藩士藤堂仁右衛門、兵六十人ばかりをひきいて、菊御紋を染めさせたる旗をたて、輿の前後を護れり。藩主慶邦、後藤孫兵衛を遣わして送りまいらす。東照宮の神体および什宝は、別当ら護りて一行の後に随いぬ。さて陸前国名取郡中田、増田、岩沼をへて、火ともし頃に柴田郡槻木(つきのき)に着かせ給う。この日、義観、尭忍、檻にて東京に送られぬ。


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