岡本綺堂 おかもと きどう
1872-1939(明治5.10.15-昭和14.3.1)
劇作家・小説家。本名、敬二。東京生れ。戯曲「修禅寺物語」「番町皿屋敷」、小説「半七捕物帳」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙イラスト:『北斎漫画』より。

もくじ 
震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂


ミルクティー*現代表記版
綺堂むかし語り 震災の記
指輪一つ

オリジナル版
綺堂むかし語り 震災の記
指輪一つ

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

綺堂むかし語り 震災の記
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
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指輪一つ
底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「講談倶樂部」
   1925(大正14)年8月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43547.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html
NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





綺堂むかし語り
震災の記

岡本綺堂


 なんだか頭がまだほんとうにおちつかないので、まとまったことは書けそうもない。
 去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳とおの年に日本橋で安政あんせい〔一八五五年〕おお地震に出逢であったそうで、子どもの時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみこんだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事ができない。すこし強い地震があると、またそのあとにゆり返しがはしないかという予覚よかくにおびやかされて、やはりどうもおちついていられない。
 わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年(一八九四)六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時ごろと記憶しているが、これもずいぶんひどいれ方で、市内につぶれ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それにともなって二、三か所にボヤもおこったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいでみな消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後にはしずまった。三年まえ〔一八九一年〕尾濃びのう震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日とぎるうちにそれもおのずとしずまった。もちろん、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてからはじめてこれほどの強震に出逢であったので、その災禍さいかのあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰ってきた。そうして、しきりに地震の惨害さんがい吹聴ふいちょうしたのであった。その以来、わたしにとって地震というものが、いっそうおそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
 こういう私がなんの予覚よかくもなしに大正十二年(一九二三)九月一日をむかえたのであった。この朝は誰も知っているとおり、二百にひゃく十日とおか前後にありがちの、なんとなくおだやかならない空模様で、驟雨しゅううがおりおりに見舞みまってきた。広くもない家の中はいやに蒸し暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹きこんで、ガラス戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸を閉め切って下座敷の八畳におりて、二、三日まえから取りかかっている『週刊朝日』の原稿を書きつづけていた。庭の垣根から棚の上にはいあがったアサガオとヘチマの長いつるや大きい葉がもつれあって、雨風にザワザワとみだれてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨を予報するように見えて、わたしの心はなんだかおちつかなかった。
 勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、国民図書刊行会の広谷君が雨をおかしてきて、一時間ほど話して帰った。広谷君はわたしの家から遠くもない麹町山元町やまもとちょうに住んでいるのである。広谷君の帰るころには雨もやんで、うす暗い雲の影はとけるように消えて行った。茶の間で早い午飯ひるめしを食っているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさしこんできた。どこかでセミも鳴き出した。
 わたしははしをおいてった。天気がなおったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先えんさきへ出てまぶしい日をあおいだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段はしごだんを半分以上ものぼりかけると、突然に大きい鳥がばたきをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端とたんにわたしのんでいる階子はしごがミリミリと鳴って動き出した。壁もふすまもガラス窓もみんなそれぞれの音を立ててれはじめた。
 もちろん、わたしはすぐにひっかえして階子はしごをかけおりた。玄関の電灯はいまにも振り落とされそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻めはなにしみた。
「地震だ! ひどい地震だ。早く逃げろ!」
 妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄げたをつっかけて、沓脱くつぬぎからガラス戸の外へ飛び出すと、碧桐あおぎりの枯葉がバサバサと落ちてきた。門の外へ出ると、妻もつづいて出てきた。女中も裏口から出てきた。震動はまだやまない。わたしたちはまっすぐに立っているにえられないで、門柱に身をよせて取りすがっていると、向こうのA氏の家からも細君さいくんや娘さんや女中たちが逃げ出してきた。わたしの家の門構もんがまえは比較的堅固にできているうえに、門の家根やねが大きくてかわら墜落ついらくをよける便宜べんぎがあるので、A氏の家族はみんなわたしの門前に集まってきた。となりのM氏の家族もきた。大勢おおぜいが門柱にすがってられているうちに、第一回の震動がようやくにしずまった。ホッと一息ひといきついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内けないには何の被害もないらしかった。掛時計かけどけいの針も止まらないで、十二時五分をさしていた。二度のゆり返しをおそれながら、急いで二階へあがってうかがうと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王やしゃおうがうつむきに倒れて、その首がいたましくくだけて落ちているのがわたしの心をさびしくさせた。
 と思う間もなしに、第二回の烈震れっしんがまたおこったので、わたしは転げるように階子はしごをかけおりてふたたび門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間をおいてさらに第三、第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がわらがバラバラとれ落とされた。横町のかどにある玉突場たまつきばの高い家根やねからつづいてふるい落とされる瓦の黒い影が、カラスの飛ぶようにみだれて見えた。
 こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、われも人もいくらか震動になれてきたのと、震動がだんだんに長い間隔を置いてきたのとで、近所の人たちもすこしくおちついたらしく、思い思いに椅子いす床几しょうぎ花筵はなむしろなどを持ち出してきて、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几しょうぎを持ち出した。そのときには、赤坂の方面に黒い煙がムクムクとうずまきあがっていた。三番町さんばんちょうの方角にも煙がみえた。とりわけて下町したまち方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのがわたしの注意をひいた。雲か煙か、晴天にこの一種の怪物の出現をあおぎみたときに、わたしは言い知れない恐怖を感じた。
 そのうちに見舞いの人たちがだんだんにけつけてきてくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先ほさきがいまや帝劇をおそおうとしていることも聞いた。
「しかし、ここらは無難でしあわせでした。ほとんど被害がないといってもいいくらいです。」と、どの人も言った。まったくわたしの付近では、家根瓦やねがわらをふるい落とされた家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町ばんちょう方面の煙はまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上かざかみくらいしているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々にわかれているのは心さびしいので、近所の人たちはわたしの門前を中心として、椅子いす床几しょうぎや花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出してきた。ビールやサイダーのビンを運び出すのもあった。わたしの家からもなしを持ち出した。一種の路上茶話会ちゃわかいがここに開かれて、諸家の見舞い人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動はいくたびかくり返された。わたしば花むしろのうえにすわって、「地震加藤かとう」の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れきって、電灯のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるにつれて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧してきた。各方面の夜の空が真紅まっかにあぶられているのがあざやかに見えて、時どきにすさまじい爆音も聞こえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかにあますところは西口の四谷方面だけで、わたしたちの三方は猛火にかこまれているのである。茶話会ちゃかいのむれのうちから若い人はひとりち、ふたりって、番町方面の状況を偵察ていさつに出かけた。しかし、どの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町もとそのちょう方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞いにきてくれたのは演芸画報社の市村いちむら君で、その住居は土手どて三番町であるが、火先がほかへそれたのでさいわいに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ちかよることができないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半ごろになると、近所がまたさわがしくなってきて、火の手がふたたびさかんになったという。それでも、まだまだと油断ゆだんして、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子も見えなかった。午前一時ごろ、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬がかける。提灯ちょうちんが飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがいまなこでかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵ちどりがふち公園付近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかってくるのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押しよせてくる。
 うっかりしていると、突きたおされ、みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火はいまや五味坂ごみざか上の三井みつい邸のうしろにせまって、怒涛どとうのように暴れ狂うほのおのなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白く見えた。
 迂回うかいしてゆけば格別、さしわたしにすればわたしの家から一町あまりにすぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡たかをくくっていたのは油断ゆだんであった。――こう思いながらわたしは無意識に、そこにある長床几ながしょうぎに腰をかけた。床几しょうぎのまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。
 あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几しょうぎをたちあがると、その眼のまえには広い青い草原がよこたわっているのを見た。それは明治十年(一八七七)前後の元園町の姿であった。そこにはまばらに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅ぼたもちの店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の子が肩もかくれるような夏草をかきわけて、しきりにバッタを探していた。そういう少年時代の思い出が、それからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
旦那だんな、もう、あぶのうございますぜ。
 誰が言ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へかけて帰ると、横町の人たちももう危険のせまってきたのをさとったらしく、路上の茶話会ちゃわかいはいつか解散して、どこの家でもにわかに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗い中にも一本のロウソクの火がかすかにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一のばあいには紀尾井町きおいちょう小林こばやし蹴月しゅうげつ君のところへ立ち退くことに決めてあるので、わたしたちはさしあたり行く先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追ってきたらば、さらにどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲ばったところでどうにもしようはないので、わたしたちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは『週刊朝日』の原稿をふところにねじこんで、バスケットと旅行用のカバンとをひっさげて出ると、地面がまた大きくゆらいだ。
「火の粉がくるよう!」
 どこかの暗い家根やねのうえで呼ぶ声が遠く聞こえた。庭のすみにはコオロギの声がさびしく聞こえた。ロウソクをふき消したわたしの家の中は闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へ行きついてから、わたしは『宇治うじ拾遺しゅうい物語』にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足をもって、わが家の焼けるのを笑いながらながめていたということである。わたしはそのけむりさえも見ようとはしなかった。
(大正12(一九二三)・10『婦人公論』



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



指輪一つ

岡本綺堂

   一


「あのときはじつに驚きました。もちろん、僕ばかりではない、誰だっておどろいたに相違ありませんけれど、僕などはその中でもいっそう強いショックを受けた一人で、一時はまったくぼうとしてしまいました。」と、K君は言った。座中ではもっとも年の若い私立大学生で、大正十二年(一九二三)の震災当時は飛騨ひだ高山たかやまにいたというのである。

 あの年の夏は友人ふたりと三人づれで京都へ遊びに行って、それから大津のあたりにブラブラしていて、八月の二十日はつかすぎに東京へ帰ることになったのです。それからまっすぐに帰ってくればよかったのですが、僕は大津にいるあいだに飛騨へ行った人の話を聞かされて、なんだか一種の仙境のような飛騨というところへ一度はふみこんでみたいような気になって、帰りの途中でそのことを言い出したのですが、ふたりの友人は同意しない。自分ひとりで出かけて行くのもなんだかさびしいようにも思われたので、僕も一旦いったん躊躇ちゅうちょしたのですが、やっぱり行ってみたいという料簡りょうけんが勝ちをめたので、とうとう岐阜で道連みちづれに別れて、一騎けて飛騨の高山までふみこみました。その道中にも多少のお話がありますが、そんなことを言っていると長くなりますから、途中の話はいっさいぬきにして、手っ取りばやく本題に入ることにしましょう。
 僕が震災の報知をはじめて聞いたのは、高山についてからちょうど一週間目だとおぼえています。僕の宿屋に泊まっていた客は、ほかに四組ありまして、どれも関東方面の人ではないのですが、それでも東京の大震災だというと、みな顔の色を変えておどろきました。町じゅうもひっくり返るような騒ぎです。飛騨の高山――ここらは東京とそれほど密接の関係もなさそうに思っていましたが、実地をんでみるとなかなかそうでない。ここらからも関東方面に出ている人がたくさんあるそうで、甲の家からは息子が出ている、乙の家からは娘がよめに行っている。やれ、叔父おじがいる、叔母がいる、兄弟がいるというようなわけで、役場へ聞き合わせに行く。警察へかけつける。新聞社の前にあつまる。その周章しゅうしょうと混乱はまったく予想以上でした。おそらくどこの土地でもそうであったでしょう。
 なにぶんにも交通不便の土地ですから、詳細のことが早くわからないので、町の青年団は岐阜まで出張して、刻々に新しい報告をもたらしてくる。こうして五、六日をすぎるうちに、まずだいたいの事情もわかりました。それを待ちかねて町から続々上京する者がある。僕もどうしようかと考えたのですが、ご承知のとおり僕の郷里は中国で、今度の震災にはほとんど無関係です。東京に親戚が二軒ありますが、いずれも山の手の郊外に住んでいるので、さしたる被害もないようです。してみると、なにもそう急ぐにもおよばない。そのうえに自分はひどく疲労している。なにしろ震災の報知を聞いて以来六日ばかりのあいだはほとんど一睡もしない、食い物もうまくない。東京の大部分が一朝にして灰燼かいじんに帰したかと思うと、ただむやみに神経が興奮して、まったくても立ってもいられないので、町の人たちといっしょになって毎日そこらをかけまわっていた。その疲労が一度に打って出たとみえて、急にがっかりしてしまったのです。だいたいの模様もわかって、まずすこしはおちついたわけですけれども、夜はやっぱり眠られない。食欲も進まない。要するに一種の神経衰弱にかかったらしいのです。ついては、この矢さきに早々帰京して、震災直後の惨状さんじょうを目撃するのは、いよいよ神経をきずつけるおそれがあるので、もうすこしここにふみとどまって、世間もやや静まり、自分の気も静まったころに帰京するほうが無事であろうと思ったので、無理におちついて九月のなかばごろまで飛騨の秋風にかれていたのでした。
 しかし、どうも本当におちついてはいられない。震災の実情がだんだんにくわしくわかればわかるほど、神経がいらだってくる。もう我慢がまんができなくなったので、とうとう思い切って九月の十七日にここをつことにしました。飛騨から東京へのぼるには、北陸線か、東海道線か、二つにひとつです。僕は東海道線を取ることにして、もと来た道をひっかえして岐阜へ出ました。そうして、ともかくも汽車に乗ったのですが、なにしろ関西方面から満員の客を乗せてくるのですから、その混雑はたいへん、とてもお話にもならない始末で、富山から北陸線を取らなかったことをいまさらやんでっつかない。べつに荷物らしい物も持っていなかったのですが、からだ一つの置きどころにも困って、いまにもしつぶされるかと思うような苦しみをしのびながら、どうやら名古屋まで運ばれてきましたが、神奈川県にはまだ徒歩連絡のところがあるとかいうことを聞いたので、さらに方角をかえて、名古屋から中央線に乗ることにしました。さて、これからがお話です。

「ひどい混雑ですな。からだが煎餅せんべいのようにつぶされてしまいます。
 僕のとなりに立っている男が話しかけたのです。この人も名古屋からいっしょに乗りかえてきたらしい。煎餅せんべいのようにつぶされるとは本当のことで、僕もさっきからそう思っていたところでした。どうにかこうにか車内にはもぐり込んだものの、ぎっしりと押しつめられたままで突っ立っているのです。おまけに残暑が強いので、汗のにおいやら人いきれやらで眼がくらみそうになってくる。僕はすこし気が遠くなったような形で、周囲の人たちが何かガヤガヤしゃべっているのも、半分は夢のように聞こえていたのですが、この人の声だけははっきりと耳にひびいて、僕もすぐに答えました。
「まったくたいへんです。じつにやりきれません。
「あなたは震災後、はじめてお乗りになったんですか?」
「そうです。
「それでものぼりはまだ楽です。」と、その男は言いました。「このあいだのくだりの時は、じつにおそろしいくらいでした。
 その男は単衣ひとえものを腰にまきつけて、ちぢみの半シャツ一枚になって、足にはゲートルを巻いて足袋たびはだしになっている。その身ごしらえといい、その口ぶりによって察しると、震災後に東京からどこへかいったん立ち退いて、ふたたび引っ返してきたらしいのです。僕はすぐに聞きました。
「あなたは東京ですか?」
「本所です。
「ああ……。」と、僕はおもわずさけびました。東京のうちでも本所の被害がもっともはなはだしく、被服廠跡だけでも何万人も焼死したというのを知っていたので、本所と聞いただけでもゾッとしたのです。
「じゃあ、お焼けになったのですね。」と、僕はかさねて聞きました。
「焼けたにもなんにも型なしです。店や商品なんぞはどうでもいい。この場合、そんなことをグズグズ言っちゃあいられませんけれど、職人が四人と女房と娘ふたり、女中がひとり、あわせて八人が型なしになってしまったんで、どうもおどろいているんですよ。
 僕ばかりでなく、周囲の人たちも一度にその男の顔を見ました。車内に押し合っている乗客はみな直接・間接に今度の震災に関係のある人たちばかりですから、本所と聞き、さらにその男の話を聞いて、彼に注意と同情の眼をあつめたのも無理はありません。そのうちの一人――手ぬぐい地の浴衣ゆかた筒袖つつそでを着ている男が、横合よこあいからその男に話しかけました。
「あなたは本所ですか。わたしは深川です。家財はもちろん型なしで、ちり一っ残りませんけれど、それでも家の者五人は命からがら逃げまわって、まあみんな無事でした。あなたのところでは八人、それがみんな行くえ不明なんですか……。
「そうですよ。」と、本所の男はうなずいた。「なにしろその当時、わたしは伊香保いかほへ行っていましてね。ちょうど朔日ついたちの朝に向こうをってくると、途中であのグラグラに出っくわしたという一件で。仕方がなしに赤羽あかばねから歩いて帰ると、あのとおりの始末で何がどうなったのかちっともわかりません。牛込うしごめのほうに親類があるので、たぶんそこだろうと思って行ってみると、誰もていない。それから方々をかけまわって心あたりを探し歩いたんですが、どこにも一人もていない。その後二日たち、三日たっても、どこからも一人も出てこない。大津に親類があるので、もしやそこへ行っているのではないかと思って、八日の朝東京をって、くるしい目をして大津へ行ってみると、ここにも誰もいない。では、大阪へ行ったかとまた追っかけて行くと、ここにも来ていない。仕方がないので、またひっかえして東京へ帰るんですが、今までどこへも沙汰さたのないのをみると、もうあきらめものかもしれませんよ。
 大勢の手前もあるせいか、それとも本当にあきらめているのか、男は案外にさっぱりした顔をしていましたが、僕はじつにたまらなくなりました。ことにこのごろは著しく感傷的の気持ちになっているので、相手が平気でいればいるほど、僕の方がかえっていっそう悲しくなりました。

   二


 今までは単に本所の男といっていましたが、それからだんだんに話し合ってみると、その男は西田といって、僕にはよくわかりませんけれど、店の商売は絞染しぼりぞめ屋だとかいうことで、まず相当に暮らしていたらしいのです。年のころは四十五、六で、あの当時のことですから顔は日に焼けて真っ黒でしたが、からだの大きい、元気のいい、見るからじょうぶそうな男で、骨太の腕には金側きんがわの腕時計などをはめていました。細君は四十一で、総領のむすめは十九で、つぎのむすめは十六だということでした。
「これも運で、仕方がありませんよ。うちの者ばかりが死んだわけじゃあない、東京じゅうで何万人という人間が一度に死んだんですから、世間一統いっとうのことで愚痴ぐちも言えませんよ。
 人の手前ばかりでなく、西田という人はまったくあきらめているようです。もちろん、ほんとうにさとったとかあきらめたとかいうのではない。絶望から生み出されたよんどころないあきらめには相違ないのですが、なにしろ愚痴ぐちひとつ言わないで、ひどく思い切りのいいような様子で、元気よくいろいろのことを話していました。ことに僕にむかって余計に話しかけるのです。となりに立っているせいか、それともなんとなく気に入ったのか、前からのなじみであるように打ちとけて話すのです。僕もこの不幸な人の話し相手になって、いくぶんでも彼をなぐさめてやるのが当然の義務であるかのようにも思われたので、無口ながらもつとめてその相手になっていたのでした。そのうちに西田さんは僕の顔をのぞいて言いました。
「あなた、どうかしやしませんか? なんだか顔の色がだんだんに悪くなるようだが……。
 実際、僕は気分がよくなかったのです。高山以来、毎晩ろくろくに安眠しないうえに、列車の中に立ち往生おうじょうをしたままで、すしめになってゆすられてくる。暑さは暑し、人いきれはする。まったく地獄の苦しみを続けてきたのですから、軽い脳貧血のうひんけつをおこしたらしく、頭が痛む、嘔気はきけをもよおしてくる。この際どうすることもできないので、さっきから我慢がまんをしていたのですが、それがだんだんに激しくなってきて、あおざめた顔の色が西田さんの眼にもついたのでしょう。僕も正直にその話をすると、西田さんもひどく心配してくれて、途中の駅々に土地の青年団などが出張していると、それから薬をもらって僕に飲ませてくれたりしました。
 そのころの汽車の時間は不定でしたし、乗客も無我夢中で運ばれて行くのでしたが、午後に名古屋を出た列車が木曽路へ入るころにはもう暮れかかっていました。僕はまたまた苦しくなって、頭ががんがん痛んできます。これで押して行ったらば、途中でぶったおれるかもしれない。それも短い時間ならば格別ですが、これから東京まではどうしても十時間ぐらいはかかると思うと、僕にはもう我慢がまんができなくなったのです。そこで、思い切って途中の駅で下車しようと言い出すと、西田さんはいよいよ心配そうにいいました。
「それは困りましたね。汽車の中でぶったおれでもしてはたいへんだから、いっそりた方がいいでしょう。わたしもご一緒いっしょりましょう。
「いえ、決してそれには……。
 僕は固くことわりました。なんの関係もない僕の病気のために、西田という人の帰京をおくらせては、この場合、まったくまないことだと思いましたから、僕はいくどもことわって出ようとすると、脳貧血はますます強くなってきたとみえて、足もとがフラフラするのです。
「それ、ごらんなさい。あなた一人じゃあとてもむずかしい。
 西田さんは、僕を介抱かいほうして、ぎっしりに押しつまっている乗客をかきわけて、どうやらこうやら車外へ連れ出してくれました。気の毒だとは思いながら、僕はもう口をきく元気もなくなって、相手のするままにまかせておくよりほかはなかったのです。そのときは夢中でしたが、それが奈良井ならいの駅であるということを後に知りました。ここらで降りる人はほとんどなかったようでしたが、それでも青年団が出ていて、いろいろの世話をやいていました。
 僕はただぼんやりしていましたから、西田さんがどういう交渉をしたのか知りませんが、やがて土地の人に案内されて、町なかの古い大きい宿屋のような家へ送り込まれました。汗だらけの洋服をぬいで浴衣ゆかたに着かえさせられて、奥の方の座敷にかされて、僕は何かの薬をのまされて、しばらくはうとうとと眠ってしまいました。
 眼がさめると、もうすっかりと夜になっていました。縁側の雨戸は明け放してあって、その縁側に近いところに西田さんはあぐらをかいて、ひとりで巻煙草をすっていました。僕が眼をあいたのを見て、西田さんは声をかけました。
「どうです。気分はようござんすか?」
「はあ……。
 おちついてひと寝入ねいりしたせいか、僕の頭はよほど軽くなったようです。起きなおってもう眩暈めまいがするようなことはない。枕もとに小さい湯わかしとコップが置いてあるので、その水をついで一杯のむと、木曽の水は冷たい、気分は急にはっきりしてきました。
「どうもいろいろご迷惑をかけて、あいすみません。」と、僕はあらためて礼を言いました。
「なに、おたがいさまですよ。
「それでも、あなたはお急ぎのところを……。
「こうなったら一日半日をあらそっても仕様しようがありませんよ。助かったものならばどこかに助かっている。死んだものならばとうに死んでいる。どっちにしても急ぐことはありませんよ。」と、西田さんはあいかわらずおちついていました。
 そうはいっても、自分の留守のあいだに家族も財産もみな消え失せてしまって、何がどうしたのかいっさいわからないという不幸の境涯にしずんでいる人の心持ちを思いやると、僕の頭はまた重くなってきました。
「あなた、気分がよければ、風呂へ入ってちゃあどうです?」と、西田さんは言いました。「汗を流してくると、気分がいよいよはっきりしますぜ。
「しかしもう遅いでしょう。
「なに、まだ十時前ですよ。風呂があるかないか、ちょいと行って聞いてきてあげましょう。
 西田さんはすぐに立っておもてのほうへ出て行きました。僕はもう一杯の水をのんで、はじめてあたりを見まわすと、ここは奥の下屋敷で十畳の間らしい。庭には小さい流れが引いてあって、水のきわにはススキが高くしげっている。なんという鳥か知りませんが、どこかで遠く鳴く声が時々にさびしく聞こえる。眼の前には高い山の影が真っ黒にそそり立って、みきった空には大きい星が銀色にきらめいている。飛騨と木曽と、僕はかさねて山国の秋を見たわけですが、場合が場合だけに、今夜の山の景色けしきの方がなんとなく僕のこころを強くひきしめるように感じられました。
「あしたもまたあの汽車に乗るのかな……。
 僕はそれを思ってうんざりしていると、そこへ西田さんが足早に帰ってきました。
「風呂はまだあるそうです。早く行っていらっしゃい。
 催促さいそくするように追い立てられて、僕もタオルを持って出て、西田さんに教えられたとおりに、縁側から廊下づたいに風呂場へ行きました。

   三


 なんといっても木曽の宿です。ことに中央線の汽車が開通してからは、ここらの宿しゅくもさびれたということを聞いていましたが、まったく夜はしずかです。ここの家もむかしは大きい宿屋であったらしいのですが、今は養蚕か何かを本業にして、宿屋は片商売という風らしいので、今夜もわたしたちのほかには泊まり客もないようでした。店の方では、まだ起きているのでしょうが、なんの物音も聞こえず森閑しんかんとしていました。
 家の構えはなかな大きいので、風呂場はずっと奥のほうにあります。長い廊下を渡って行くと、横手のほうには夜露よつゆひかる畑が見えて、虫の声がきれぎれに聞こえる。昼間の汽車の中とはちがって、ここらの夜風は冷々ひやひやと肌にしみるようです。こういう時に油断ゆだんすると風邪かぜをひくと思いながら、僕は足を早めて行くと、眼の前に眠ったような灯の光が見える。それが風呂場だなと思ったときに、ひとりの女が戸をあけて入って行くのでした。うす暗いところで、そのうしろ姿を見ただけですから、もちろん詳しいことはわかりませんが、どうも若い女であるらしいのです。
 それを見て僕は立ち止まりました。どうで宿屋の風呂であるから、男湯と女湯の区別があろうはずはない。泊まり客か宿の人か知らないが、いずれにしても婦人――ことに若い婦人が夜ふけて入浴しているところへ、僕のような若い男が無遠慮に闖入ちんにゅうするのはさしひかえなければなるまい。――こう思ってすこし考えていると、どこかで人のすすり泣きをするような声が聞こえる。水の流れの音かとも思ったのですが、どうもそれが女の声らしく、しかも風呂場の中からもれてくるらしいので、僕もすこし不安を感じて、そっと抜足ぬきあしをして近寄って、入口の戸のすきまからうかがうと、内は静まりかえっているらしい。たった今、ひとりの女がたしかにここへ入ったはずなのに、なんの物音も聞こえないというのはいよいよおかしいと思って、入口の戸をすこし開け、またすこし開けてのぞいてみると、薄暗うすぐらい風呂場の中には誰もいる様子はないのです。
「はてな……。
 思い切って戸をガラリと開けて入ると、中には誰もいないのです。なんだか薄気味うすきみ悪くもなったのですが、ここまできた以上、つまらないことを言ってただこのままに引っ返すのは、西田さんの手前、あまり臆病おくびょう者のようにも見えてきわまりが悪い。どうなるものかと度胸をすえて、僕は手早く浴衣ゆかたをぬいで、勇気をふるって風呂場に入りましたが、かの女の影も形も見えないのです。
「おれはよほど頭が悪くなったな……。
 風呂に心持ちよくひたりながら僕は、自分の頭の悪くなったことを感じたのです。震災以来、どうも頭の調子が狂っている。神経も衰弱している。それがために一種の幻覚を視たのである。その幻覚が若い女の形を見せたのは、西田さんの娘ふたりのことが頭にきざまれてあるからである。姉は十九で、妹は十六であるという。その若いふたりの生死不明ということが自分の神経を強く刺激したので、今ここでこんな幻覚を見たに相違ない。すすり泣きのように聞こえたのはやはり流れの音であろう。昔から幽霊を見たという伝説もうそではない。自分も今ここでいわゆる幽霊を見せられたのである。――こんなことを考えながら、僕はゆっくりと風呂にひたって、きょう一日の汗とほこりを洗い流して、ひどくさっぱりした気分になって、ふたたび浴衣ゆかたを着て入口の戸を内から開けようとすると、足のつま先に何かさわるものがある。うつむいてかして見ると、それは一つの指輪でした。
「誰かが落として行ったのだろう……。
 風呂場に指輪を落としたとか、置き忘れたとか、そんなことはべつにめずらしくもないのですが、ここで僕をちょっと考えさせたのは、さっき僕の眼に映った若い女のことです。もちろん、それは一種の幻覚と信じているのですが、ちょうどその矢先に若い女の所持品らしいこの指輪を見い出したということが、なんだか子細しさいありげにも思われたのです。ただしそれはこっちの考え方にもよることで、幻覚は幻覚、指輪は指輪とまったく別々に引き離してしまえば、なんにも考えることもないわけです。
 僕はともかくもその指輪をひろい取って、もとの座敷へ帰ってくると、留守のあいだに二つの寝床をしかせて、西田さんは床の上にすわっていました。
「やっぱり木曽ですね。九月でもふけると冷えますよ。
「まったくです。」と、僕も寝床の上にすわりながら話し出しました。「風呂場でこんなものをひろったのですが……。
「ひろいもの? ……なんです? お見せなさい。
 西田さんは手をのばして指輪を受け取って、灯火あかりの下で打ち返してながめていましたが、急に顔の色が変わりました。
「これは風呂場でひろったんですか?」
「そうです。
「どうも不思議だ、これはわたしの総領娘の物です。
 僕はびっくりした。それはダイヤ入りの金の指輪で、形はありふれたものですが、裏に「みつ」と平仮名ひらがなで小さく彫ってある。それが確かな証拠だと西田さんは説明しました。
「なにしろ風呂場へ行ってみましょう……。
 西田さんは、すぐにちました。僕も無論ついて行きました。風呂場には誰もいません。そこらにも人の隠れている様子はありません。西田さんはさらに店の帳場へ行って、震災以来の宿帳をいちいち調査すると、前にもいうとおり、ここの宿屋は近来ほとんど片商売のようになっているので、平生へいぜいでも泊まりの人は少ない。ことに九月以来は休業同様で、ときどきに土地の青年団が案内してくる人たちを泊めるだけでした。それはみな東京の罹災者りさいしゃで、男女あわせて十組の宿泊客があったが、宿帳に記された住所姓名も年齢も西田さんの家族とはぜんぜん相違しているのです。念のために宿の女中たちにも聞きあわせたが、それらしい人相や風俗の女はひとりも泊まらないらしかった。
 ただひと組、九月九日の夜に投宿した夫婦づれがある。これは東京から長野のほうをまわってきたらしく、男は三十七、八の商人体で、女は三十前後の小粋な風俗であったということです。この二人がどうしてここへりたかというと、女のほうがやはり僕とおなじように汽車の中で苦しみ出したので、よんどころなく下車してここに一泊して、あくる朝、早々に名古屋行きの汽車に乗って行った。女は真っ蒼な顔をしていて、まだほんとうに快くならないらしいのを、男が無理に連れ出して行ったが、その前夜にもなにかしきりに言いあらそっていたらしいというのです。
 単にそれだけのことならばべつに子細しさいもないのですが、ここに一つの疑問として残されているのは、その男が大きいカバンの中に宝石や指輪のたぐいをたくさん入れていたということです。当人の話では、自分は下谷したやあたりの宝石商で家財はみんな灰にしたが、わずかにこれだけの品を持ち出したとか言っていたそうです。したがって、宿の者の鑑定では、その指輪はあの男が落として行ったのではないかというのですが、九月九日から約十日のあいだも他人の眼にふれずにいたというのは不思議です。また、はたしてその男が持っていたとすれば、どうして手に入れたのでしょう。
「いや、そいつかもしれません。宝石商だなんてうそだか本当だかわかるもんですか。指輪をたくさん持っていたのは、おおかた死人の指を切ったんでしょう。」と、西田さんは言いました。
 僕は戦慄せんりつしました。なるほど飛騨にいるときに、震災当時、そんな悪者わるもののあったという新聞記事を読んで、よもやと思っていたのですが、西田さんのように解釈すれば、あるいはそうかと思われないこともありません。それはまずそれとして、僕としてさらに戦慄せんりつを禁じ得ないのは、その指輪が西田さんの総領娘の物であったということです。こうなると、僕の眼に映った若い女のすがたは単に一種の幻覚とのみ言われないようにも思われます。女の泣き声、女の姿、女の指輪――それがみな縁を引いてつながっているようにも思われてなりません。それとも幻覚は幻覚、指輪は指輪、どこまで行っても別物でしょうか。
「なんにしてもいいものが手に入りました。これが娘の形見です。あなたと道連れにならなければ、これを手に入れることはできなかったでしょう。
 礼をいう西田さんの顔を見ながら、僕はまた一種の不思議を感じました。西田さんは僕と懇意になり、またその僕が病気にならなければ、ここに下車してここに泊まるはずはあるまい。一方の夫婦――彼らが西田さんの推量どおりであるならば――これもその女房が病気にならなかったら、おそらくここには泊まらずに行きすぎてしまったであろう。かれらも偶然にここに泊まり、われわれも偶然にここに泊まりあわせて、娘の指輪はその父の手に戻ったのである。もちろんそれは偶然であろう。偶然といってしまえば、簡単明瞭に解決がつく。しかもそれはあまりに平凡な月並つきなみ式の解釈であって、この事件の背後にはもっと深いおそろしい力がひそんでいるのではあるまいか。西田さんもこんなことを言いました。
「これはあなたのおかげ、もう一つには娘のたましいが私たちをここへ呼んだのかもしれません。
「そうかもしれません。
 僕はおごそかに答えました。
 われわれは翌日東京に着いて、新宿駅で西田さんに別れました。僕の宿は知らせておいたので、十月のなかばごろになって西田さんは訪ねて来てくれました。店の職人三人はだんだんに出てきたが、その一人はどうしてもわからない。ともかくも元のところにバラックを建てて、このごろようやくおちついたということでした。
「それにしても、女の人たちはどうしました……?」と、僕は聞きました。
「わたしの手にもどってきたのは、あなたに見つけていただいた指輪一つだけです。
 僕はまた胸が重くなりました。



底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「講談倶樂部」
   1925(大正14)年8月
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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綺堂むかし語り 震災の記

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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 なんだか頭がまだほんとうに落着かないので、まとまったことは書けそうもない。
 去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳《とお》の年に日本橋で安政《あんせい》の大《おお》地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落着いていられない。
 わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分《ずいぶん》ひどい揺れ方で、市内に潰《つぶ》れ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃《びのう》震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴《ふいちょう》したのであった。その以来、わたしに取って地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
 こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後にありがちの何となく穏かならない空模様で、驟雨《しゅうう》が折りおりに見舞って来た。広くもない家のなかはいやに蒸し暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸を閉め切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている週刊朝日の原稿を書きつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這いあがった朝顔と糸瓜《へちま》の長い蔓《つる》や大きい葉がもつれ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨《あらし》を予報するように見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
 勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、国民図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町|山元町《やまもとちょう》に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯《ひるめし》を食っているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉《せみ》も鳴き出した。
 わたしは箸《はし》を措《お》いて起《た》った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段《はしごだん》を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏《はばた》きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖《ふすま》も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
 勿論、わたしはすぐに引っ返して階子をかけ降りた。玄関の電燈は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ。ひどい地震だ。早く逃げろ。」
 妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱《くつぬぎ》から硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐《あおぎり》の枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだやまない。私たちはまっすぐに立っているに堪えられないで、門柱に身を寄せて取りすがっていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢《おおぜい》が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動がようやくに鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王《やしゃおう》がうつ向きに倒れて、その首が悼《いた》ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
 と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根からつづいて震い落される瓦の黒い影が鴉《からす》の飛ぶようにみだれて見えた。
 こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我れも人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しく落着いたらしく、思い思いに椅子《いす》や床几《しょうぎ》や花筵《はなむしろ》などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あが》っていた。三番町の方角にも煙りがみえた。取分けて下町《したまち》方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙りか、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。
 そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。ほとんど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上《かざかみ》に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分かれているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出して来た。ビールやサイダーの壜《びん》を運び出すのもあった。わたしの家からも梨《なし》を持ち出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰り返された。わたしば花むしろのうえに坐って、「地震|加藤《かとう》」の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電燈のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅《まっか》にあぶられているのが鮮やかにみえて、時どきに凄《すさ》まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰《あま》すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群れのうちから若い人はひとり起《た》ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村《いちむら》君で、その住居は土手《どて》三番町であるが、火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再び熾《さか》んになったという。それでも、まだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬が駆ける。提灯が飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがい眼《まなこ》でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵《ちどりがふち》公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押し寄せてくる。
 うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂《ごみざか》上の三井《みつい》邸のうしろに迫って、怒涛《どとう》のように暴れ狂う焔《ほのお》のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
 迂回《うかい》してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡《たか》をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
 あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎《まば》らに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかき分けて、しきりにばった[#「ばった」に傍点]を探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
 誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駈けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄《にわ》かに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭《ろうそく》の火が微《かす》かにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一の場合には紀尾井町《きおいちょう》の小林蹴月《こばやししゅうげつ》君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻《ね》じ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
 どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺《うじしゅうい》物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。[#地付き](大正12[#「12」は縦中横]・10[#「10」は縦中横]「婦人公論」)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
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指輪一つ

岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)飛騨《ひだ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一旦|立退《たちの》いて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぼう[#「ぼう」に傍点]として
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     一

「あのときは実に驚きました。もちろん、僕ばかりではない、誰だって驚いたに相違ありませんけれど、僕などはその中でもいっそう強いショックを受けた一人で、一時はまったくぼう[#「ぼう」に傍点]としてしまいました。」と、K君は言った。座中では最も年の若い私立大学生で、大正十二年の震災当時は飛騨《ひだ》の高山《たかやま》にいたというのである。

 あの年の夏は友人ふたりと三人づれで京都へ遊びに行って、それから大津のあたりにぶらぶらしていて、八月の二十日《はつか》過ぎに東京へ帰ることになったのです。それから真っ直ぐに帰ってくればよかったのですが、僕は大津にいるあいだに飛騨へ行った人の話を聞かされて、なんだか一種の仙境のような飛騨というところへ一度は踏み込んでみたいような気になって、帰りの途中でそのことを言い出したのですが、ふたりの友人は同意しない。自分ひとりで出かけて行くのも何だか寂しいようにも思われたので、僕も一旦は躊躇したのですが、やっぱり行ってみたいという料簡《りょうけん》が勝を占めたので、とうとう岐阜で道連れに別れて、一騎駈けて飛騨の高山まで踏み込みました。その道中にも多少のお話がありますが、そんなことを言っていると長くなりますから、途中の話はいっさい抜きにして、手っ取り早く本題に入ることにしましょう。
 僕が震災の報知を初めて聞いたのは、高山に着いてからちょうど一週間目だとおぼえています。僕の宿屋に泊まっていた客は、ほかに四組ありまして、どれも関東方面の人ではないのですが、それでも東京の大震災だというと、みな顔の色を変えておどろきました。町じゅうも引っくり返るような騒ぎです。飛騨の高山――ここらは東京とそれほど密接の関係もなさそうに思っていましたが、実地を踏んでみるとなかなかそうでない。ここらからも関東方面に出ている人がたくさんあるそうで、甲の家からは息子が出ている、乙の家からは娘が嫁に行っている。やれ、叔父がいる、叔母がいる、兄弟がいるというようなわけで、役場へ聞き合せに行く。警察へ駈け付ける。新聞社の前にあつまる。その周章と混乱はまったく予想以上でした。おそらく何処の土地でもそうであったでしょう。
 なにぶんにも交通不便の土地ですから、詳細のことが早く判らないので、町の青年団は岐阜まで出張して、刻々に新しい報告をもたらしてくる。こうして五、六日を過ぎるうちにまず大体の事情も判りました。それを待ちかねて町から続々上京する者がある。僕もどうしようかと考えたのですが、御承知の通り僕の郷里は中国で今度の震災にはほとんど無関係です。東京に親戚が二軒ありますが、いずれも山の手の郊外に住んでいるので、さしたる被害もないようです。してみると、何もそう急ぐにも及ばない。その上に自分はひどく疲労している。なにしろ震災の報知をきいて以来六日ばかりのあいだはほとんど一睡もしない、食い物も旨くない。東京の大部分が一朝にして灰燼に帰したかと思うと、ただむやみに神経が興奮して、まったく居ても立ってもいられないので、町の人たちと一緒になって毎日そこらを駈け廻っていた。その疲労が一度に打って出たとみえて、急にがっかりしてしまったのです。大体の模様もわかって、まず少しはおちついた訳ですけれども、夜はやっぱり眠られない。食慾も進まない。要するに一種の神経衰弱にかかったらしいのです。ついては、この矢さきに早々帰京して、震災直後の惨状を目撃するのは、いよいよ神経を傷つけるおそれがあるので、もう少しここに踏みとどまって、世間もやや静まり、自分の気も静まった頃に帰京する方が無事であろうと思ったので、無理におちついて九月のなかば頃まで飛騨の秋風に吹かれていたのでした。
 しかしどうも本当に落ち着いてはいられない。震災の実情がだんだんに詳しく判れば判るほど、神経が苛立《いらだ》ってくる。もう我慢が出来なくなったので、とうとう思い切って九月の十七日にここを発つことにしました。飛騨から東京へのぼるには、北陸線か、東海道線か、二つにひとつです。僕は東海道線を取ることにして、元来た道を引っ返して岐阜へ出ました。そうして、ともかくも汽車に乗ったのですが、なにしろ関西方面から満員の客を乗せてくるのですから、その混雑は大変、とてもお話にもならない始末で、富山から北陸線を取らなかったことを今更悔んで追っ付かない。別に荷物らしい物も持っていなかったのですが、からだ一つの置きどころにも困って、今にも圧《お》し潰《つぶ》されるかと思うような苦しみを忍びながら、どうやら名古屋まで運ばれて来ましたが、神奈川県にはまだ徒歩連絡のところがあるとかいうことを聞いたので、さらに方角をかえて、名古屋から中央線に乗ることにしました。さて、これからがお話です。

「ひどい混雑ですな。からだが煎餅のように潰されてしまいます。」
 僕のとなりに立っている男が話しかけたのです。この人も名古屋から一緒に乗換えて来たらしい。煎餅のように潰されるとは本当のことで、僕もさっきからそう思っていたところでした。どうにかこうにか車内にはもぐり込んだものの、ぎっしりと押し詰められたままで突っ立っているのです。おまけに残暑が強いので、汗の匂いやら人いきれやらで眼が眩《くら》みそうになってくる。僕は少し気が遠くなったような形で、周囲の人たちが何かがやがやしゃべっているのも、半分は夢のように聞こえていたのですが、この人の声だけははっきりと耳にひびいて、僕もすぐに答えました。
「まったく大変です。実にやり切れません。」
「あなたは震災後、はじめてお乗りになったんですか。」
「そうです。」
「それでも上りはまだ楽です。」と、その男は言いました。「このあいだの下りの時は実に怖ろしいくらいでした。」
 その男は単衣《ひとえもの》を腰にまき付けて、ちぢみの半シャツ一枚になって、足にはゲートルを巻いて足袋はだしになっている。その身ごしらえといい、その口ぶりによって察しると、震災後に東京からどこへか一旦|立退《たちの》いて、ふたたび引っ返して来たらしいのです。僕はすぐに訊きました。
「あなたは東京ですか。」
「本所です。」
「ああ。」と、僕は思わず叫びました。東京のうちでも本所の被害が最もはなはだしく、被服厰跡だけでも何万人も焼死したというのを知っていたので、本所と聞いただけでもぞっ[#「ぞっ」に傍点]としたのです。
「じゃあ、お焼けになったのですね。」と、僕はかさねて訊きました。
「焼けたにもなんにも型なしです。店や商品なんぞはどうでもいい。この場合、そんなことをぐずぐず言っちゃあいられませんけれど、職人が四人と女房と娘ふたり、女中がひとり、あわせて八人が型なしになってしまったんで、どうも驚いているんですよ。」
 僕ばかりでなく、周囲の人たちも一度にその男の顔を見ました。車内に押合っている乗客はみな直接間接に今度の震災に関係のある人たちばかりですから、本所と聞き、さらにその男の話をきいて、かれに注意と同情の眼をあつめたのも無理はありません。そのうちの一人――手拭地の浴衣の筒袖をきている男が、横合いからその男に話しかけました。
「あなたは本所ですか。わたしは深川です。家財はもちろん型なしで、塵《ちり》一っ葉残りませんけれど、それでも家の者五人は命からがら逃げまわって、まあみんな無事でした。あなたのところでは八人、それがみんな行くえ不明なんですか。」
「そうですよ。」と、本所の男はうなずいた。「なにしろその当時、わたしは伊香保へ行っていましてね。ちょうど朔日《ついたち》の朝に向うを発って来ると、途中であのぐらぐらに出っ食わしたという一件で。仕方がなしに赤羽から歩いて帰ると、あの通りの始末で何がどうなったのかちっとも判りません。牛込の方に親類があるので、多分そこだろうと思って行ってみると、誰も来ていない。それから方々を駈け廻って心あたりを探しあるいたんですが、どこにも一人も来ていない。その後二日たち、三日たっても、どこからも一人も出て来ない。大津に親類があるので、もしやそこへ行っているのではないかと思って、八日の朝東京を発って、苦しい目をして大津へ行ってみると、ここにも誰もいない。では、大阪へ行ったかとまた追っかけて行くと、ここにも来ていない。仕方がないので、また引っ返して東京へ帰るんですが、今まで何処へも沙汰のないのをみると、もう諦めものかも知れませんよ。」
 大勢の手前もあるせいか、それとも本当にあきらめているのか、男は案外にさっぱりした顔をしていましたが、僕は実にたまらなくなりました。殊にこのごろは著るしく感傷的の気持になっているので、相手が平気でいればいるほど、僕の方がかえって一層悲しくなりました。

     二

 今までは単に本所の男といっていましたが、それからだんだんに話し合ってみると、その男は西田といって、僕にはよく判りませんけれど、店の商売は絞染《しぼりぞめ》屋だとかいうことで、まず相当に暮らしていたらしいのです。年のころは四十五六で、あの当時のことですから顔は日に焼けて真っ黒でしたが、からだの大きい、元気のいい、見るから丈夫そうな男で、骨太の腕には金側の腕時計などを嵌めていました。細君は四十一で、総領のむすめは十九で、次のむすめは十六だということでした。
「これも運で仕方がありませんよ。家《うち》の者ばかりが死んだわけじゃあない、東京じゅうで何万人という人間が一度に死んだんですから、世間一統のことで愚痴も言えませんよ。」
 人の手前ばかりでなく、西田という人はまったく諦めているようです。勿論、ほんとうに悟ったとか諦めたとかいうのではない。絶望から生み出されたよんどころない諦めには相違ないのですが、なにしろ愚痴ひとつ言わないで、ひどく思い切りのいいような様子で、元気よくいろいろのことを話していました。ことに僕にむかって余計に話しかけるのです。隣りに立っているせいか、それとも何となく気に入ったのか、前からの馴染みであるように打解けて話すのです。僕もこの不幸な人の話し相手になって、幾分でもかれを慰めてやるのが当然の義務であるかのようにも思われたので、無口ながらも努めてその相手になっていたのでした。そのうちに西田さんは僕の顔をのぞいて言いました。
「あなた、どうかしやしませんか。なんだか顔の色がだんだんに悪くなるようだが……。」
 実際、僕は気分がよくなかったのです。高山以来、毎晩碌々に安眠しない上に、列車のなかに立往生をしたままで、すし詰めになって揺すられて来る。暑さは暑し、人いきれはする。まったく地獄の苦しみを続けて来たのですから、軽い脳貧血をおこしたらしく、頭が痛む、嘔気《はきけ》を催してくる。この際どうすることも出来ないので、さっきから我慢をしていたのですが、それがだんだんに激しくなって来て、蒼ざめた顔の色が西田さんの眼にも付いたのでしょう。僕も正直にその話をすると、西田さんもひどく心配してくれて、途中の駅々に土地の青年団などが出張していると、それから薬をもらって僕に飲ませてくれたりしました。
 そのころの汽車の時間は不定でしたし、乗客も無我夢中で運ばれて行くのでしたが、午後に名古屋を出た列車が木曽路へ入る頃にはもう暮れかかっていました。僕はまたまた苦しくなって、頭ががんがん痛んで来ます。これで押して行ったらば、途中でぶっ倒れるかも知れない。それも短い時間ならば格別ですが、これから東京まではどうしても十時間ぐらいはかかると思うと、僕にはもう我慢が出来なくなったのです。そこで、思い切って途中の駅で下車しようと言い出すと、西田さんはいよいよ心配そうにいいました。
「それは困りましたね。汽車のなかでぶっ倒れでもしては大変だから、いっそ降りた方がいいでしょう。わたしも御一緒に降りましょう。」
「いえ、決してそれには……。」
 僕は堅くことわりました。なんの関係もない僕の病気のために、西田という人の帰京をおくらせては、この場合、まったく済まないことだと思いましたから、僕は幾度もことわって出ようとすると、脳貧血はますます強くなって来たとみえて、足もとがふらふらするのです。
「それ、ご覧なさい。あなた一人じゃあとてもむずかしい。」
 西田さんは、僕を介抱して、ぎっしりに押詰まっている乗客をかき分けて、どうやらこうやら車外へ連れ出してくれました。気の毒だとは思いながら、僕はもう口を利く元気もなくなって、相手のするままに任せておくよりほかはなかったのです。そのときは夢中でしたが、それが奈良井《ならい》の駅であるということを後に知りました。ここらで降りる人はほとんどなかったようでしたが、それでも青年団が出ていて、いろいろの世話をやいていました。
 僕はただぼんやりしていましたから、西田さんがどういう交渉をしたのか知りませんが、やがて土地の人に案内されて、町なかの古い大きい宿屋のような家へ送り込まれました。汗だらけの洋服をぬいで浴衣に着かえさせられて、奥の方の座敷に寝かされて、僕は何かの薬をのまされて、しばらくはうとうとと眠ってしまいました。
 眼がさめると、もうすっかりと夜になっていました。縁側の雨戸は明け放してあって、その縁側に近いところに西田さんはあぐらをかいて、ひとりで巻煙草をすっていました。僕が眼をあいたのを見て、西田さんは声をかけました。
「どうです。気分はようござんすか。」
「はあ。」
 落ち着いてひと寝入りしたせいか、僕の頭はよほど軽くなったようです。起き直ってもう眩暈《めまい》がするようなことはない。枕もとに小さい湯沸しとコップが置いてあるので、その水をついで一杯のむと、木曽の水は冷たい、気分は急にはっきりして来ました。
「どうもいろいろ御迷惑をかけて相済みません。」と、僕はあらためて礼を言いました。
「なに、お互いさまですよ。」
「それでも、あなたはお急ぎのところを……。」
「こうなったら一日半日を争っても仕様がありませんよ。助かったものならば何処かに助かっている。死んだものならばとうに死んでいる。どっちにしても急ぐことはありませんよ。」と、西田さんは相変らず落ちついていました。
 そうはいっても、自分の留守のあいだに家族も財産もみな消え失せてしまって、何がどうしたのかいっさい判らないという不幸の境涯に沈んでいる人の心持を思いやると、僕の頭はまた重くなって来ました。
「あなた気分がよければ、風呂へはいって来ちゃあどうです。」と、西田さんは言いました。「汗を流してくると、気分がいよいよはっきりしますぜ。」
「しかしもう遅いでしょう。」
「なに、まだ十時前ですよ。風呂があるかないか、ちょいと行って聞いて来てあげましょう。」
 西田さんはすぐに立って表の方へ出て行きました。僕はもう一杯の水をのんで、初めてあたりを見まわすと、ここは奥の下屋敷で十畳の間らしい。庭には小さい流れが引いてあって、水のきわには芒《すすき》が高く茂っている。なんという鳥か知りませんが、どこかで遠く鳴く声が時々に寂しくきこえる。眼の前には高い山の影が真っ黒にそそり立って、澄み切った空には大きい星が銀色にきらめいている。飛騨と木曽と、僕はかさねて山国の秋を見たわけですが、場合が場合だけに、今夜の山の景色の方がなんとなく僕のこころを強くひきしめるように感じられました。
「あしたもまたあの汽車に乗るのかな。」
 僕はそれを思ってうんざりしていると、そこへ西田さんが足早に帰って来ました。
「風呂はまだあるそうです。早く行っていらっしゃい。」
 催促するように追い立てられて、僕もタオルを持って出て、西田さんに教えられた通りに、縁側から廊下づたいに風呂場へ行きました。

     三

 なんといっても木曽の宿です。殊に中央線の汽車が開通してからは、ここらの宿《しゅく》もさびれたということを聞いていましたが、まったく夜は静かです。ここの家もむかしは大きい宿屋であったらしいのですが、今は養蚕か何かを本業にして、宿屋は片商売という風らしいので、今夜もわたし達のほかには泊まり客もないようでした。店の方では、まだ起きているのでしょうが、なんの物音もきこえず森閑《しんかん》としていました。
 家の構えはなかな大きいので、風呂場はずっと奥の方にあります。長い廊下を渡って行くと、横手の方には夜露のひかる畑がみえて、虫の声がきれぎれに聞える。昼間の汽車の中とは違って、ここらの夜風は冷々《ひやひや》と肌にしみるようです。こういう時に油断すると風邪をひくと思いながら、僕は足を早めて行くと、眼の前に眠ったような灯のひかりが見える。それが風呂場だなと思った時に、ひとりの女が戸をあけてはいって行くのでした。うす暗いところで、そのうしろ姿を見ただけですから、もちろん詳しいことは判りませんが、どうも若い女であるらしいのです。
 それを見て僕は立ちどまりました。どうで宿屋の風呂であるから、男湯と女湯の区別があろうはずはない。泊まり客か宿の人か知らないが、いずれにしても婦人――ことに若い婦人が夜ふけて入浴しているところへ、僕のような若い男が無遠慮に闖入《ちんにゅう》するのは差控えなければなるまい。――こう思って少し考えていると、どこかで人のすすり泣きをするような声がきこえる。水の流れの音かとも思ったのですが、どうもそれが女の声らしく、しかも風呂場の中から洩れてくるらしいので、僕もすこし不安を感じて、そっと抜足《ぬきあし》をして近寄って、入口の戸の隙きまからうかがうと、内は静まり返っているらしい。たった今、ひとりの女が確かにここへはいったはずなのに、なんの物音もきこえないというのはいよいよおかしいと思って、入口の戸を少し明け、またすこし明けて覗いてみると、薄暗い風呂場のなかには誰もいる様子はないのです。
「はてな。」
 思い切って戸をがらりと明けてはいると、なかには誰もいないのです。なんだか薄気味悪くもなったのですが、ここまで来た以上、つまらないことをいって唯このままに引っ返すのは、西田さんの手前、あまり臆病者のようにもみえて極まりが悪い。どうなるものかと度胸を据えて、僕は手早く浴衣をぬいで、勇気を振るって風呂場にはいりましたが、かの女の影も形もみえないのです。
「おれはよほど頭が悪くなったな。」
 風呂に心持よく浸りながら僕は自分の頭の悪くなったことを感じたのです。震災以来、どうも頭の調子が狂っている。神経も衰弱している。それがために一種の幻覚を視たのである。その幻覚が若い女の形をみせたのは、西田さんの娘ふたりのことが頭に刻まれてあるからである。姉は十九で、妹は十六であるという。その若いふたりの生死不明ということが自分の神経を強く刺戟したので、今ここでこんな幻覚を見たに相違ない。すすり泣きのように聞えたのはやはり流れの音であろう。昔から幽霊をみたという伝説も嘘ではない。自分も今ここでいわゆる幽霊をみせられたのである。――こんなことを考えながら、僕はゆっくりと風呂にひたって、きょう一日の汗とほこりを洗い流して、ひどくさっぱりした気分になって、再び浴衣を着て入口の戸を内から明けようとすると、足の爪さきに何かさわるものがある。うつむいて透かして見ると、それは一つの指輪でした。
「誰かが落して行ったのだろう。」
 風呂場に指輪を落したとか、置き忘れたとか、そんなことは別に珍らしくもないのですが、ここで僕をちょっと考えさせたのは、さっき僕の眼に映った若い女のことです。もちろん、それは一種の幻覚と信じているのですが、ちょうどその矢さきに若い女の所持品らしいこの指輪を見いだしたということが、なんだか子細ありげにも思われたのです。ただしそれはこっちの考え方にもよることで、幻覚は幻覚、指輪は指輪と全く別々に引き離してしまえば、なんにも考えることもないわけです。
 僕はともかくもその指輪を拾い取って、もとの座敷へ帰ってくると、留守のあいだに二つの寝床を敷かせて、西田さんは床の上に坐っていました。
「やっぱり木曽ですね。九月でもふけると冷えますよ。」
「まったくです。」と、僕も寝床の上に坐りながら話し出しました。「風呂場でこんなものを拾ったのですが……。」
「拾いもの……なんです。お見せなさい。」
 西田さんは手をのばして指輪をうけ取って、燈火《あかり》の下で打ち返して眺めていましたが、急に顔の色が変りました。
「これは風呂場で拾ったんですか。」
「そうです。」
「どうも不思議だ、これはわたしの総領娘の物です。」
 僕はびっくりした。それはダイヤ入りの金の指輪で、形はありふれたものですが、裏に「みつ」と平仮名で小さく彫ってある。それが確かな証拠だと西田さんは説明しました。
「なにしろ風呂場へ行ってみましょう。」
 西田さんは、すぐに起ちました。僕も無論ついて行きました。風呂場には誰もいません。そこらにも人の隠れている様子はありません。西田さんはさらに店の帳場へ行って、震災以来の宿帳をいちいち調査すると、前にもいう通り、ここの宿屋は近来ほとんど片商売のようになっているので、平生でも泊まりの人は少ない。ことに九月以来は休業同様で、ときどきに土地の青年団が案内してくる人たちを泊めるだけでした。それはみな東京の罹災者で、男女あわせて十組の宿泊客があったが、宿帳に記された住所姓名も年齢も西田さんの家族とは全然相違しているのです。念のために宿の女中たちにも聞きあわせたが、それらしい人相や風俗の女はひとりも泊まらないらしかった。
 ただひと組、九月九日の夜に投宿した夫婦連れがある。これは東京から長野の方をまわって来たらしく、男は三十七八の商人体で、女は三十前後の小粋な風俗であったということです。この二人がどうしてここへ降りたかというと、女の方がやはり僕とおなじように汽車のなかで苦しみ出したので、よんどころなく下車してここに一泊して、あくる朝早々に名古屋行きの汽車に乗って行った。女は真っ蒼な顔をしていて、まだほんとうに快くならないらしいのを、男が無理に連れ出して行ったが、その前夜にも何かしきりに言い争っていたらしいというのです。
 単にそれだけのことならば別に子細もないのですが、ここに一つの疑問として残されているのは、その男が大きいカバンのなかに宝石や指輪のたぐいをたくさん入れていたということです。当人の話では、自分は下谷辺の宝石商で家財はみんな灰にしたが、わずかにこれだけの品を持出したとか言っていたそうです。したがって、宿の者の鑑定では、その指輪はあの男が落して行ったのではないかというのですが、九月九日から約十日のあいだも他人の眼に触れずにいたというのは不思議です。また、果してその男が持っていたとすれば、どうして手に入れたのでしょう。
「いや、そいつかも知れません。宝石商だなんて嘘だか本当だか判るもんですか。指輪をたくさん持っていたのは、おおかた死人の指を切ったんでしょう。」と、西田さんは言いました。
 僕は戦慄しました。なるほど飛騨にいるときに、震災当時そんな悪者のあったという新聞記事を読んで、よもやと思っていたのですが、西田さんのように解釈すれば、あるいはそうかと思われないこともありません。それはまずそれとして、僕としてさらに戦慄を禁じ得ないのは、その指輪が西田さんの総領娘の物であったということです。こうなると、僕の眼に映った若い女のすがたは単に一種の幻覚とのみ言われないようにも思われます。女の泣き声、女の姿、女の指輪――それがみな縁を引いて繋がっているようにも思われてなりません。それとも幻覚は幻覚、指輪は指輪、どこまで行っても別物でしょうか。
「なんにしてもいいものが手に入りました。これが娘の形見です。あなたと道連れにならなければ、これを手に入れることは出来なかったでしょう。」
 礼をいう西田さんの顔をみながら、僕はまた一種の不思議を感じました。西田さんは僕と懇意になり、またその僕が病気にならなければ、ここに下車してここに泊まるはずはあるまい。一方の夫婦――かれらが西田さんの推量通りであるならば――これもその女房が病気にならなかったら、おそらくここには泊まらずに行き過ぎてしまったであろう。かれらも偶然にここに泊まり、われわれも偶然にここに泊まりあわせて、娘の指輪はその父の手に戻ったのである。勿論それは偶然であろう。偶然といってしまえば、簡単明瞭に解決が付く。しかもそれは余りに平凡な月並式の解釈であって、この事件の背後にはもっと深い怖ろしい力がひそんでいるのではあるまいか。西田さんもこんなことを言いました。
「これはあなたのお蔭、もう一つには娘のたましいが私たちをここへ呼んだのかも知れません。」
「そうかも知れません。」
 僕はおごそかに答えました。
 われわれは翌日東京に着いて、新宿駅で西田さんに別れました。僕の宿は知らせておいたので、十月のなかば頃になって西田さんは訪ねて来てくれました。店の職人三人はだんだんに出て来たが、その一人はどうしても判らない。ともかくも元のところにバラックを建てて、この頃ようやく落ちついたということでした。
「それにしても、女の人たちはどうしました。」と、僕は訊きました。
「わたしの手に戻って来たのは、あなたに見付けていただいた指輪一つだけです。」
 僕はまた胸が重くなりました。



底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「講談倶樂部」
   1925(大正14)年8月
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
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  • 震災の記
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  • [中央区]
  • 日本橋 にほんばし (1) 東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。(2) 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 銀座の大通り 中央通り。東京都港区新橋から台東区上野まで至る道路の東京都通称道路名。上野駅周辺・上野広小路・秋葉原・神田・日本橋・京橋・銀座など、著名な繁華街・商業地を通り、都心の大動脈となっている。中央区・銀座通り入口交差点から、銀座8丁目にかけては、中央通りの他に銀座通りや銀座中央通りの名称で呼ばれることもある。
  • 京橋 きょうばし (1) 東京都中央区にあった橋。江戸時代、東海道で京へ上る際に日本橋を起点として最初に渡った。(2) もと東京市35区の一つ。京橋 (1) を中心とする地帯で、昔から繁華な所。
  • [台東区]
  • 上野 うえの 東京都台東区西部地区の名。江戸時代以来の繁華街・行楽地。
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • [千代田区]
  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 麹町山元町 こうじまち やまもとちょう 現、千代田区麹町三〜四丁目。
  • 三番町 さんばんちょう 東京都千代田区にある地名。
  • 神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 帝劇 ていげき 帝国劇場の略称。
  • 帝国劇場 ていこく げきじょう 東京都千代田区丸の内にある劇場。1911年(明治44)日本最初の本格的洋式劇場として開場。初期には専属の役者・女優・歌手を擁し、オペラも上演。略称、帝劇。
  • 番町 ばんちょう 現、千代田区西部、目白通の少し南側から、新宿通(国道20号)の少し北側に該当する。
  • 元園町 → 麹町元園町
  • 麹町元園町 こうじまち もとそのちょう 現、千代田区麹町一〜四丁目・一番町。
  • 土手三番町 どて さんばんちょう 現、千代田区五番町。
  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 英国大使館
  • 千鳥ヶ淵 ちどりがふち 東京都千代田区、皇居の内堀北西部にある、田安門から南の内堀の称。桜の名所。
  • 五味坂 ごみざか 千代田区神田駿河台、紅梅坂の別名か。
  • 三井邸 みついてい
  • おてつ牡丹餅 -ぼたもち 御鉄。江戸麹町三丁目(東京都千代田区一番町)で、名物の三色牡丹餅を売った店。また、その牡丹餅。文政(1818〜1830)年間から明治22(1889)頃まで売られた。お鉄牡丹餅。松坂屋おてつ。
  • 紀尾井町 きおいちょう 東京都千代田区。主に大学と商業地域になっており、ビルのほか地域南部には日本を代表する高級ホテルがあるところとして知られる。地名は当地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来。
  • 警視庁 けいしちょう 東京都の警察行政をつかさどる官庁。長として警視総監をおき、管内には警察署をおく。
  • [港区]
  • 赤坂 あかさか 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 横町 よこまち? 文京区小日向の横町か? 小日向水道町は神田上水の南側、江戸川の北側を占め、両流の間を東西に走る通りの両側町。町の東部、神田上水の北側、南北に走る服部坂の通りに沿って横町が発達。
  • 芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
  • 下町 したまち 低い所にある市街。商人・職人などの多く住んでいる町。東京では、台東区・千代田区・中央区から隅田川以東にわたる地域をいう。しものまち。
  • [新宿区]
  • 四谷 よつや 東京都新宿区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • -----------------------------------
  • 指輪一つ
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  • [岐阜県]
  • [岐阜] ぎふ (1) 中部地方西部、内陸の県。美濃・飛騨2国の全域。面積1万621平方キロメートル。人口210万7千。全21市。(2) 岐阜県南部の市。県庁所在地。濃尾平野北部、長良川に臨む商業・交通の要地。織田信長が中国の岐山と曲阜から命名。産業は紡織業など。長良川は鵜飼で名高い。人口41万3千。
  • [飛騨] ひだ (1) 旧国名。今の岐阜県の北部。飛州。(2) 岐阜県北端の市。飛騨山脈・飛騨高地に囲まれた山間に位置する。野菜・果樹栽培と畜産が盛ん。人口2万9千。
  • 高山 たかやま 岐阜県の北部の市。飛騨地方の中心都市。もと江戸幕府の幕領で代官を置いた所。陣屋跡は史跡に指定。古い町並が多く小京都ともよばれる。木工業が盛ん。人口9万6千。
  • [京都]
  • [滋賀県]
  • 大津 おおつ 滋賀県の市。県庁所在地。琵琶湖の南西岸に位置し、古くから湖上交通と東海道・東山道・北陸道の要地。延暦寺・三井寺・石山寺がある。人口32万4千。
  • 北陸線
  • 東海道線
  • 中央線
  • [富山] とやま (1) 中部地方日本海側の県。越中国を管轄。面積4247平方キロメートル。人口111万2千。全10市。(2) 富山県中央部の市。県庁所在地。もと前田氏10万石の城下町。神通川の流域に位置し、臨海部は重化学工業が盛ん。人口42万1千。
  • [名古屋] なごや 愛知県西部の市。濃尾平野の南東端に位置する。県庁所在地。政令指定都市の一つ。古くは那古野、ついで名児屋・名護屋と書いた。もと御三家の筆頭尾張徳川氏62万石の城下町。中部日本の商業・交通・行政の中心で、中京工業地帯の中核。人口221万5千。中京。
  • [神奈川県]
  • [東京都]
  • [墨田区]
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • 被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
  • [江東区]
  • 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • [北区]
  • 赤羽 あかばね 東京都北区の地名。荒川の右岸に位置し、もと岩槻街道の宿場町。戦時中は陸軍の被服廠があり、現在は工業地・住宅地。
  • [新宿区]
  • 牛込 うしごめ 東京都新宿区東部の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称で、もと牧牛が多くいたからという。
  • 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
  • [台東区]
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • [群馬県]
  • 伊香保 いかほ 群馬県渋川市の地名。榛名山東斜面にある温泉町。泉質は硫酸塩泉・単純温泉。
  • [長野県]
  • 木曽 きそ → 木曾谷
  • 木曾谷 きそだに 長野県の南西部、木曾川上流の渓谷一帯の総称。古来中山道が通じ、重要な交通路をなす。木曾桟道・寝覚の床・小野滝の三絶勝があり、ヒノキその他の良材の産地。木曾。
  • 木曽路 きそじ 中山道の一部。木曾谷を通る街道。贄川から馬籠あたりまでをいう。木曾街道。
  • 奈良井 ならい 長野県塩尻市の地名。中山道の宿駅で、景観保存地区。南西に鳥居峠がある。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 一八五四(嘉永7/安政元)一一月四日 東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州灘沖。M8.4。死者約2000〜3000人。
  • 一八五四(嘉永7/安政元)一一月五日 南海道の大地震。安政南海地震。震源地土佐沖。M8.4。死者数千人。
  • 一八五五(安政二)一〇月二日 江戸の大地震。江戸地震。震源地江戸川河口。M6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。
  • 一八九一(明治二四)一〇月二八日 濃尾地震。岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。M8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • 一八九四(明治二七)六月二〇日 明治東京地震 発生。東京湾を震源として発生した直下型地震。東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に被害をもたらした。地震の規模はM7.0。死者31人、負傷者157人(Wikipedia)。
  • 一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(M7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • -----------------------------------
  • 震災の記
  • -----------------------------------
  • 国民図書刊行会
  • 広谷
  • 演芸画報社 えんげい がほうしゃ? 明治40年1月『演芸画報』創刊。(国史)
  • 市村 いちむら
  • 小林蹴月 こばやし しゅうげつ 1868-1944? 明治〜昭和期の小説家・劇作家。戯曲は新派で上演。作品に「うもれ咲」「滝の音」「灯」など。(人レ)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • -----------------------------------
  • 震災の記
  • -----------------------------------
  • 『週刊朝日』 しゅうかん あさひ 大正11年(1922)2月15日、『旬刊朝日』創刊。同年4月2日『週刊朝日』に改題・創刊。大阪朝日新聞社刊。(国史)
  • 「地震加藤」 じしん かとう 歌舞伎脚本「増補桃山譚」の通称。新歌舞伎十八番の一つ。5幕。河竹黙阿弥作の時代物。1873年(明治6)初演。伏見の大地震に、閉門中の加藤清正が真先に駆けつけて、豊臣秀吉を保護し、その功によって閉門は許され、太刀を賜って朝鮮に出陣するという筋。
  • 『宇治拾遺物語』 うじ しゅうい ものがたり (宇治大納言物語の拾遺の意)説話集。2冊。編者未詳。成立は13世紀初めか。天竺・震旦・本朝にわたる説話197話。滑稽的要素も少なくないが、仏教的色彩が濃い。今昔物語などを承け、鎌倉時代説話文学を代表する。
  • 『婦人公論』 ふじん こうろん 婦人雑誌。大正5(1916)1月、中央公論社より発刊。編集長は長嶋中雄作。太平洋戦争下、昭和19年に休刊を強いられたが、敗戦後21年4月に再刊。現在も続刊。(国史)
  • -----------------------------------
  • 指輪一つ
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  • 『講談倶樂部』 こうだん くらぶ 講談社が発行した大衆文学雑誌。1911年創刊、戦後の中断を挟んで1962年終刊。速記講談に始まり、時代小説雑誌として人気を博した。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『国史大辞典』(吉川弘文館)



*難字、求めよ

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  • 震災の記
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  • 予覚 よかく 予感に同じ。
  • 二百十日 にひゃく とおか 立春から数えて210日目。9月1日ころ。ちょうど中稲の開花期で、台風襲来の時期にあたるから、農家では厄日として警戒する。
  • 縁先 えんさき 縁側の外に近い方。また、縁に近い所。
  • 階子 はしご 梯子。
  • 眼鼻 めはな?
  • 靴脱ぎ・沓脱ぎ くつぬぎ 玄関や縁側の上がり口などの、はきものをぬぐ所。
  • 碧桐 あおぎり → アオギリ
  • アオギリ 青桐・梧桐 アオギリ科の落葉高木。中国南部原産。樹皮は緑色。葉は大きく、3〜5裂、長柄。夏、黄白色5弁の小花を群生。果実は熟すと舟形の5片に割れ、各片に小球状の種子が載る。庭木・街路樹にし、材を建具・家具・楽器などとする。蒼梧。碧梧。
  • 家根 やね 屋根。
  • 玉突場 たまつきば 玉突きをする場所。玉突き屋。
  • 少しく すこしく すこし。わずかに。
  • 床几・牀机・将几 しょうぎ (1) 腰掛の一種。長方形の枠2個を組み合わせ、中央で打違えとして両枠の一方の端に革を張って尻の当たる所とし、折りたたんで携帯に便利なように作る。(2) 庭や露地に置いて月見や夕涼みに使う細長い腰掛。(3) 上に緋毛氈などを敷いて茶店などで使う広い台。(4) 能や狂言で鬘桶のこと。
  • 花蓆・花筵 はなむしろ (1) 「はなござ」に同じ。(2) 花見の宴に使う蓆。転じて、花見の宴。(3) 草花などの一面に咲き揃ったさま、また、花びらなどの一面に散り敷いているさまを筵に見立てていう語。
  • 花茣蓙 はなござ 種々の色に染めた藺で山水や草花などの模様を織り出したござ。はなむしろ。
  • 茶話会 ちゃわかい 茶菓を供して催す談話会。さわかい。
  • 茶話会 さわかい 茶菓をともにしながら話し合う会。ちゃわかい。
  • 尾濃震災 びのう しんさい → 濃尾地震
  • 濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • -----------------------------------
  • 指輪一つ
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  • 仙境・仙郷 せんきょう 仙人の住む所。また、俗界を離れた清らかな所。
  • 聞き合わせる ききあわせる (1) 同一の事柄について、あれこれと問い合わせる。いろいろ聞いて考え合わせる。(2) 問い合わせる。照会する。
  • 周章 しゅうしょう あわてふためくこと。うろたえさわぐこと。
  • 絞染屋 しぼりぞめや
  • 絞り染 しぼりぞめ 染色法の一つ。糸で布帛をつまみ、また縫い締め、その後に竹皮や合成樹脂のシートで包むなどの方法で皺を生じさせて、部分的に液の浸入を防いでから染め出す法。鹿子絞り・有松絞りなど。くくりぞめ。くくしぞめ。しぼり。纐纈。目染め。
  • 金側 きんがわ 外側を金で作ったもの。
  • 世間一統 せけん いっとう 世間中。世間いたるところ。満天下。
  • 一統 いっとう 一同。みなみな。総体。
  • 脳貧血 のうひんけつ 種々の原因によって脳の血液量が減少して起こる疾患。顔面蒼白となり、冷汗をもよおし、倒れて失神状態となることもある。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


「震災の記」    「火に追われて」
国民図書刊行会   図書刊行会
ばさばさ      ぱさぱさ
第一回の震動が   第一回の震動は
ようやくに     ようやく
花筵        花莚
だんだんに     だんだん
そこも       そこにも
くる。(改行)うっかり  くる。うっかり
おてつ       お鉄《てつ》
小林蹴月君     K君
小林君       K君
笑いながち     笑いながら
光文社時代小説文庫 「岡本綺堂随筆集」岩波文庫

 同じ作品ながら、微妙に異なる。岩波版が「K君」とイニシャル書きのところを光文社版は「小林蹴月君」と書いているので、今回は光文社版を採用。

 思えば、震災日記のたぐいが少なからず集まってきた。以下、これまで『週刊ミルクティー*』でとりあげた作品をならべてみる。題して「震災日記アンソロジー」

・第二巻 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
・第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
・第三巻 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
・第三巻 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
・第四巻 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
・第四巻 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
・第四巻 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
・第四巻 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
・第四巻 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂

 東日本大震災直後、「ニッポン人」をたたえる海外の報道が多数あったということを、NHKはじめ民放でも連日伝えていた。礼儀正しさ、冷静沈着さ、美談のたぐい。なんだか歯が浮くくらい異様なほど。うがった見方をすれば、なんだか何かを隠したがっているかのような。
 そういう「他者からの眼」を報道することの目的は、たしかにわかる。これがもしATMやコンビニの盗難やら、空き巣強盗、待ち列への割り込み、避難所でのいざこざなど逐一報道することは、メンタルな面でも治安の面でもあまりよい方向には働かないだろう。

 でも、これもまた「現実を曲解」した報道であって、関東大震災当時に流布した噂やデマとは裏返しの、じつは表裏一体の現象なんじゃないだろうか。
 異国へユートピアを切望したがる傾向というのは、ちょっと考えてみただけでもいろいろ出てくる。マルコ・ポーロのジパング黄金伝説、イザベラ・バードの桃源郷、そこにゆけばどんな夢もかなうという天竺ガンダーラ、新大陸のゴールドラッシュ、明治の北海道開拓や、昭和の満州建国、奥州藤原・平泉、沖縄や北欧、秋葉原もしかり。

 それは結局、形を変えた流言蜚語であって、原発推進というのも現実的の皮をかぶったユートピア論が出発点にあったんじゃないだろうか。同様のユートピア幻想がクリーンエネルギーの推進にも、ひそんでやいやしないだろうか。
 ……とまあ、こんなことを、旧石器捏造事件とひきあわせて考えているところです。




*次週予告


第四巻 第四五号 
仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂

第四巻 第四五号は、
二〇一二年六月二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四四号
震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
発行:二〇一二年五月二六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。