今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)


もくじ 
大地震調査日記(二)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
大地震調査日記(二)

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大地震調査日記(二)


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※ 製作環境
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学 / 地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html





大地震調査日記(二)

今村明恒

九月十二日

 午前、自動車をとばして被害状況を瞥見べっけんした。まず西大久保・新宿から代々木に出て渋谷を通り天現寺に出で、金杉川かなすぎがわの流域を視察し、ことに網代あじろ〔あみしろ、か。新網しんあみ・森元町あたりの被害のいちじるしき状況に新しき知識を得(東京市街地震動分布予察図、改良のため)、それより伊皿子いさらご台にあがり八ツ山やつやま下に出で高輪たかなわ田町、金杉橋を経由して銀座通りより日本橋通りへすすみ、両国橋をわたりて本所区内をのぞき、ことに被服廠ひふくしょう跡に向かいては哀悼あいとうの敬意を表し、ふたたび両国橋をわたって(自動車はほかの鉄橋を通れなかった)浅草観音の安全地を見学し、ことに境内の軒瓦のきがわらが依然としてよく整い、少しの隙間すきまも見せないことが眼だって感心せられた。浅草観音の焼け残った理由は周囲の樹林にもよることであろう。
 午後、震災予防調査会を開く、出席者十七名の多数であった。調査の部署を定めるために特別委員を選び、それによって十四日ふたたび委員会を開くことに決した。

九月十三日

 特別委員として選ばれた中村なかむら清二せいじ博士・寺田博士〔寺田寅彦か〕・佐野博士佐野さの利器としかたか〕と地震学教室に集まって打ち合わせをなし、午後、ふたたび会合した。

九月十四日

 午後より委員会を開いた。出席者十五名、調査上の委員分担は次のように定まった。

一、地震観測に関する件
   今村・志田志田しだとしか〕・中村(左)の各委員
二、地変に関する件
   井上・加藤加藤かとう武夫たけおか〕各委員
三、気象に関する件
   岡田岡田おかだ武松たけまつか〕・寺田各委員
四、建築に関する件
曽根・佐野・内田内田うちだ祥三よしかずか〕・内藤・竹内・堀越・笠原笠原かさはら敏郎としろうか〕各委員(のち、柴垣委員が加わった)
五、鉄道に関する件
   那波委員
六、河川・建築・道路・橋梁等、鉄道以外の土木工事に関する件
   物部もののべ委員〔物部長穂ながほか〕(のち、原田委員が加わった)
七、地震に起因する火災に関する件
今村・寺田各委員(のち、消防部長たる緒方委員、大学化学教授たる片山・大島委員、電気工場監督たる渋沢しぶさわ委員〔渋沢元治もとじか〕、東京市助役たる田島委員らが加わった)
八、各種の公報・私報・新聞記事などを収集整理する件
   今村委員
九、死傷に関する件
   竹内委員
十、機関工場に関する件
   末広委員末広すえひろ恭二きょうじか〕(のち、竹中委員が加わった)

 右のほか、地震に起因する火災に関する調査事項をことに詳細に定めた。これ、今度の災害の大部分は地震にともなっておこった火災にもとづいたので、しかも本会においてはこれまで、その研究が不足しておったきらいがあったために、ことに十分に力を入れて調査し、もって震災予防の目的を達したい希望によるのであった。なお、本会の経常費は残り少なになっているので、臨時調査費を請求することとし、この外交ならびに新委員交渉の件は、委員・古市男爵古市ふるいち公威こういか〕をわずらわすことにした。

九月十五日

 終日教室にあって、昨日の委員会の結果を整理することに尽力した。ことにこの際、自分がもっとも驚いたのは、震災予防調査会なるものが世に認められていないのみならず、文部省のお役人にまで了解せられていなかったということにある。ついにみずから筆を取って会の自己紹介をおこなうことにし、これを関係の方に提唱した。すなわち次のとおりである。

 地震に対する災害予防問題、特に耐震的の建築および土木工事については、本会の調査がこれまで世に裨益えきをあたえたことが年報に明記したるとおりであり、また、地震の予知問題に対しては研究がいまだ期待するとおり進んでおらぬけれども、これとても大地震の場所に関する予知問題のごときについては、相当の成果をおさめていること、これまた年報に示したとおりである。特に地震にともなう火災のもっとも恐るべきことは、機会あるごとに本会の唱導したるところであって、あまりたいした地震でなくとも、すなわち、ちょっとした強い地震の際でも水道鉄管が破損のため消防の用をなさぬゆえに、これが施設について改良を加えなければならぬことは、当局ならびに社会に対して再三再四、つまり各地方に地震が突発する機会ごとに警告を発したしだいである。とくに西洋文化の輸入の結果、発火の原因が去る明治三十九年(一九〇六)のサンフランシスコ地震において経験せられたことにかんがみ、電気・ガス、とくに化学材料にまでおよぶべきことも本会の調査報告によって指摘されたところである。ただ、これらの結果があまり世におもんぜられずして今日に至ったのはまことに遺憾いかんのしだいで、春秋の筆法をもってすれば、今度の災厄さいやくの大部分は、震災予防調査会の献言けんげんをもちいなかったため、みずからまねいたものとも言えるであろう。既往きおうは追うべからず。ふたたび、かくのごとき大地震があってもかくのごとき災厄からまぬかるるようにしなければならない。これに関してこの際、今回の地震火災を資料として各方面にわたり徹底的の研究をなすことは、今日においてもっとも切実なることであるが、これをなしたもの本調査会をおいてほかにあるまい。これじつに政府が本調査会を濃尾のうび大地震の苦しき経験によって設立したる趣旨であって、くすることが本調査会の使命である。本調査会は別紙のとおり各委員の部署を定め、研究資料の湮滅いんめつせざるうちにと研究をあせっているけれども、資金不足のため十分の活躍かつやくもできぬしだいである云々うんぬん

九月十六日

 午前、地震記象、東西動ならびに南北動を組み合わせて、実際の水平動を図にあらわすことを試みた。
〔省略、図ならびに地震動の説明〕
 午後、水沢臨時緯度観測所から応援にこられた池田氏と、根津谷中・根岸方面の調査をやった。自分は前に安政二年(一八五五)の江戸地震、明治二十七年(一八九四)の地震と、東京における土地の沿革・地質ならびに市内五、六か所における地震動の同時観測の比較から、東京市街地における震度分布予察図を作ったことがあったが『震災予防調査会報告』第七十七号)、さらに麻布網代あみしろ町・新網しんあみ町・森元町付近における家屋の損害程度と、根津八重垣やえがき町あたりの家屋損害程度とから見て修正を加える必要を感じ、まず、焼け残り区域について調査することとした。ただし、いちいち自分が飛びまわるようでは、いたずらに時間を費やすのみであるから、調べ方の方法を伝えて、池田氏・小端理科学生ならびに子どもたちの手を借りることにした。
 その後、焼け残りの場所については、主として警察の調査、罹災者りさいしゃの言によって、その区域あるいは付近における家屋損害の状況をきとり、また、墓地の墓石あるいは残骸となったレンガ建築、あるいはまれに焼け残った木造建築などについて調査し、震度分布図に改良を加えた。

九月十七日

 これまでは登山服装でテクテクやっておったが、今日から震災予防調査会において自動車一台借り入れることになり、午前は池田氏らと千住せんじゅまでの調べをなし、午後は寺田委員らと浅草・今戸いまどあたりまで調査に出かけた。

九月十八日

 震災予防調査において新規に加わるべき委員が全部そろった。
 午前、消防本部におもむき、新たに委員に加わった緒方氏に面会を求めた。消防部においても今回の火災については必死の努力をなし、消防署員にして署長以下、職務にたおれたる人も多数であって、悪戦苦闘を続けること二昼夜、ことに江東こうとうの本所・深川はもっとも苦戦であって、五個の消防隊中三個は消防機械をあわせて全滅し、署員はわずかに避難人民の生命を援護する働きをなすに止まるくらいであった。しかも一人の消防手のごときは、一四三名ほどの人民を火に対する経験の力によって炎の下にれ物をかぶってこれをしのがしむること数時間、ついに完全にこれを救い得たなどの悲壮ひそうな話もある。
 訪問によってわれわれが得た知識は、各所におこった火の手が集まってついに所々に一団となり、爾後じご、幾多の火道となって風のまにまに奔放ほんぽうし、ついに風向きの変化にともなって、時計の反針路の向きにおよそ一周して、焼きくさざればまないという勢いであったということである。
 九月一日正午以来、一時間ごとの風向きならびに速さを図に示した。これは中央気象台における観測にもとづいたもので、だいたいにおいては、市内においてたいがい図のような順序に風向きが変わったはずであるが、しかしながら局部的には多少の変化があったと見なければならぬ。火道のことに猛烈なる場所においては、所々に旋風をおこして、かの被服廠ひふくしょうにおけるがごとく、たちまち三万八〇〇〇有余の人命をうばい取ったしだいである。



〔日記の図を元に作成した。9月1日の夕刻までは、台風の影響とみられる風速10m毎秒程度の南寄りの風が吹き、夜半ごろからは北北西の風に変わり、風速は20m毎秒にも達した。この強風は火災の影響を強く受けた結果と思われる。

旋風のことはあとの日記にくわしくのべる。
 いまひとつ気づいたことは、今度の地震に原因した火災のうち、化学薬品の発火がその原因をなしたことが多いことである。まず知名の場所においては、帝大応用化学教室および医化学教室・早稲田大学・陸軍士官学校・学習院・東京高等工業学校〔現、東京工業大学〕高輪たかなわ御殿宝物庫・三輪みつわ化学研究所などいずれも火災をおこし、ことに帝大医化学教室からの火は、図書館・法文科教室・八角大講堂などを焼き払い、ついに地震学教室をあやうからしめたものである。その他、市内の薬店においてもあきらかにわかったものでさえも数軒あるが、大事に至らずして消し止めたうち、一高・地質調査所などすこぶる多い。しかも、発火の薬品はりんナトリウムなどのごとき単純なもののみでなく、薬品の混合によっておこった場合もそうとうにあるようである。わが震災予防調査会はこれにかんがみて、かくのごとき原因によれる発火をのぞくために、十分な研究をとげるつもりである。
〔省略、消防部発表の記事〕
 午後は中村・寺田・諸委員と和泉町ならびに向柳原むこうやなぎはらの焼け残りを見、さらに本所・深川をへて小松川までを調査した。和泉町と向柳原とは、下町における焼け残りの区域の筆頭であって、和泉町はその東側に並立せる済生会病院のレンガ建築が防火壁をかたちづくり、また向柳原は、火流がこれを一周したにもかかわらず、松浦伯爵邸の有名なる泉水がこの一郭いっかくを防ぎとめたのであった。

九月十九日

 発火の場所を地図に記入してみると、震度分布図に密接な関係があるように思われる、すなわち発火の場所が震度の濃厚なる所ほど、ことに多いということを示している。本所・深川の火災が最も激しかったのもすなわちそれである。
 午後から各委員とこうじ町・赤坂方面における焼け止まりの場所の研究をした。

九月二十日

 中村・寺田・池田諸氏と横浜まで調査に出かけた。品川あたりまでは東京とさほどの違を感じなかったが、大森にいたって被害やや増加したように感じた。川崎は大工場、ことに明治製糖工場・東京電気工場などに著しき損害があった。これはんぼの埋立地うめたてちであるがための現象で、ことに最も著名なるは東京電気において、鉄筋コンクリートの三階の建物が同じ設計でできていながら、そのうち第十三号の建物は池として最後まで残っておった埋立地に建てられたものである。同じ地方における家屋の損害は、多少設計工事にもよることであるが、地盤の影響がことにはなはだしい。自分の同窓であった研究所長・藤井氏、同学の板橋理学士、ことに学生中自分が保証人であったところの大橋理学博士などをはじめとして、十余人の研究所主脳者をたおしたのは、まことになさけないことであった。鶴見から振動やや軽くなったような感じがしはじめたが、ことに生麦なまむぎにおいて左様さようであった。これはまったく地盤の関係である。
 子安・神奈川あたりは、その震力おそらく重力の四分の一程度に達したものであろう。倒壊家屋の数などもかなりに増したように見うけた。横浜にいたっては、地盤の振動ローム質の地山においても、相当に強かったらしく六分の一ぐらいもあったろうが、ことに全部焼き払われた下町においては、残骸をとどめたレンガ建築の状況から見ても、また地盤が脆弱ぜいじゃくでときどき大なる一部の沈降をおこし、土蔵またはレンガ倉庫など外形は少しも形を崩さないで全部が傾斜をなし、あたかもピサの斜塔然たるものはかしこ此処ここに散在しているのを見ても、また磯子いそご方面に焼け残っている木造家屋の破損状態から見ても、震力は重力の三分の一程度にも達したろうかと推測した。
 本日踏査とうさの各地方における振動の方向は、だいたい東京と同じようであった。

九月二十一日

 丸ノ内 諸建築を見学す。東京会館・郵船ビルディング・丸ノ内ビルディングなどの高大なる建物の損害はさもあるべきことと考えられたが、銀行集会所・興業銀行・田中大川事務所などの災害軽きはレンガ建築家のために気をくものと考えた。ことに興業銀行の七階建て鉄骨レンガ建築が、外面からは裂罅ひび一つ見つからぬ丈夫さ加減かげん耐震建築の権威者たる曽根博士の名をいっそう重からしむるものであろう。〔続編注書きで以下のように修正。設計者は渡辺・内藤氏らであるとのことである」〕ただし、かく言ったからとて、自分は最も適当なる耐震的洋風建築として鉄筋コンクリートを疑うものではない。
 芝方面にまわり焼け止まり条件を調査す。金杉かなずぎ三ノ十六、松宮久兵衛氏の石造蔵、功を奏したことは一見してあきらかである。聞けばこの蔵はこれで焼け止まりの功を奏すること三回目だとか。さればこの石蔵は表彰の価値あるものであろう。

九月二十二日

 午前、雨天なりしため地質調査所をい、地変調査の情況をく。厚木方面は震源に深い縁故を持たない地変のみであったとのこと。
 昼から中村・寺田の諸委員と本所・深川方面を調査し、小松川こまつがわまで行った。小松川は処々しょしょひとかたまりになってつぶれたところあり。

九月二十三日

 汽車にてまず茅ヶ崎ちがさきへ行き、馬入ばにゅう川の鉄橋破損の状況をる。鉄橋の橋脚、たいてい南二十度東から南三十度東ぐらいの方向にレールを負いながら倒れたのは、いかに振動が強かったかを想像せしめる。この辺りより鳥井戸とりいど・辻堂あたり、震力は重力の三分の一から五分の二ぐらいまであったらしく思われる。大船へひきかえし、それより鎌倉へ行く。鎌倉名所いずれも惨憺さんたんたる状況で、八幡宮の神楽殿ならびに拝殿の平潰ひらつぶれなど、その一端を語るものである。なお大仏は築き上げられた石台上において南十五度東、すなわち前方へすべり出すことおよそ一尺、膝頭ひざがしらをしずめることおよそ一尺七寸〔約五一センチメートル〕、山門は重心のまわりにおいて時針に反対に十度ほどまわり、そのうえ、およそ七寸ほど全部が北の方へずれたことを示している。ついでに八幡の二の鳥居に近き島津邸を見舞った。ここは二階建ての本邸が平押しにつぶれて、公爵夫人ならびに五人の令息・令嬢が下敷きになられた。さいわいにいずれも一時間の後に無難に掘り出された。建築はかなり堅固にできているように見受けられるが、これにても地震の強かったことが想像される。笹目ささめやつの島津邸でも、公爵はじめ二、三の人が下敷きになられた。ここでも一時間の後に救い出されたのであるが、この間に大きな梁木りょうぼくが二本までノコギリで切られるまでの間の公爵の苦しみは、想像に難くはない。この家の建築はその基礎工事の設計に自分も参加したので、つまり天然の岩石から直接に蝋燭石ろうそくせきをセメント付けにして土台石を築き上げた方の平家はまったく無難であったが、これに続く二階建ての方がそうできていなかったのである。
 今日調査した結果によれば、振動のおもな方向は東京などとたいした変化はない。ただ、公爵夫人・その他居合いあわせの人の話をくに、いわゆる初期微動なるものは五、六秒ないし十秒くらいの間にあったらしく、しかして家屋や煙突えんとつなどのつぶれ転倒したのは無論、主要動のはじめでなくして、相当な秒数経過した後のことらしく思われる。あるいはこれが初発から一分くらいもあったろうかという人もある。とにかく、比較的大きな二階建ての木造家屋においても、地震動の周期やや大で、振幅ことに大なる振動の影響を著しく受けたかのようである。佐野博士のいわゆる悪性の振動は、このようなふうの建物にも多少悪性であったらしく思われる。
 帰途は非常な雑踏で、鎌倉・大船間の汽車にもかろうじて乗ったが、大船で鳥井戸とりいど発の東京行きを待っているとほとんど満員である。わずかに窓から飛び込む勇者のみが収容せられて、大部分は乗れなかった。この日、さいわいに自分は鈴木鉄道技師の案内で馬入ばにゅう川鉄橋をに行った関係上、機関手にたのんで石炭の上に乗せてもらった。これをうらやむ乗客があってなかなか承知しないので、平服の技師と自分とは、ついに鉄道職員の証明書をそれらの人たちに見せて無事なることができた。ただし、戸塚のトンネルをくぐる時の亜硫酸ガスと火の粉とにめられたのは、被服廠ひふくしょうの苦しみもくやと一時は思ったくらいであった。

九月二十四日

 暴風雨につき室内調査をなす。横須賀海軍部内における験潮儀記象に、大地震と同時に陸地の隆起を意味するところの潮候が現われたのみならず、四、五時間前から鋸歯きょし状の波動まで現われたので、これこそ大地震の前兆ならむかとの見解もあったようであるが、右は当日夜半より朝にかけての低気圧のために生じたもので、地震とは無関係なこと明らかである。
 加藤委員ら、伊豆半島ならびに三浦半島の調査を終えて帰られた。同氏らは初島はつしままで調査におもむかれ、その隆起せること五、六尺〔一五〇〜一八〇センチメートル〕なることを認め得られた。そのほか湘南一帯・三浦半島の隆起は、これまで報道せられたものと大差なく、また地変としては小田原と熱海との間、ことに根府川ねぶかわ付近がもっともはなはだしいことなどから推測して、震源は大島と大磯おおいそとの間であろうかと断ぜられた。ただ、自分としては最も期待しておった土地の低下せる場所が同委員の報告にもその存在を認められなかったことを不思議とし、陸地測量部の水準測量の結果を静かに待つことにした。つまり、この測量あるいは水路部の水深測量が数か月をへて完結するまでは、起震帯きしんたいに関する正確なる推定はむつかしいことではあるまいか。

九月二十五日

 三菱合資会社は、われわれの調査を補助する意味をもって五千円を寄付せられた。ハワイ火山観測所長ジャッガー博士(Dr. Jaggar)は夫人携帯、来訪せられた。これまでの地震調査の結果を聴聞し、器械・標本類をて帰られた。
 待ちに待ったる油壷あぶらつぼ験潮儀記録の写し三角みすみ課長より送り越された。取る手もおそしと披見ひけんすると自分の期待はことごとく裏切られ、地震前には何らの地変も記しおらぬのみか、大地震開始後、幾秒間の後には時計も止まり、これと同時に陸地隆起のあったことを示すだけであった。ただ、基準点の実測から陸地の隆起一・四四四メートルすなわち四尺八寸であることを確かに証明されたのみである。なお、陸地測量部においてわが国の沿岸各地に散布された験潮儀の示す一年平均水位を比較してみると、油壷のみはこの最近二年間において、ある異状をあらわしているように見える。すなわち前の二年間においてすべての場所が水位の下降を示し、ただ、日向細島ほそしまのみが一昨年度においてのみ僅少きんしょうなる上昇を示しているのみなるに反して、油壷のみは最近二か年間は著しき上昇を示しているのである。これは見様みようによっては、三浦半島がこの二年間、地盤が下がりつつあったことを意味している。なお後日の研究を要する問題である。

九月二十六日

 調査会の調査事業に対して、外間がいかんの了解を得んがため、つぎのようなものを起草してみた。

 政府、先に濃尾大震災の惨事にかんがみて本会〔震災予防調査会〕を設立し、地震・建築・土木・地質・物理・機械およびその他専門に関し、一流の人士を集めてその委員とし、もってかくのごとき大地震の再襲をこうむりてもかくのごとき災害よりまぬがるることの調査研究を命じたり。爾来じらい三十年、本会の調査は、地震動の性質を闡明せんめいして建築および土木工事の耐震的方法に成果をおさめ、地震予知問題に対してはいまだ期待の程度に達せざるも、場所に関する予知方法のごときは諸問題につきすでにその解決の曙光しょこうを認めたりと称して可ならんか。この間、本会は調査成績を浩瀚こうかんなる報告書によりて発表し、あるいは地震に対する正確なる知識をあたえて民心の不安を除き、あるいは災前災後の建築修繕しゅうぜん方法を指示しては災厄さいやくを軽からしめ、特に大地震にともなえる火災のおそるべき所以ゆえんのもの、西洋文化の輸入にともない電気・ガス・化学材料によりて発火原因の増加したる所以のもの、現在の水道工事は地震の際、破損してその用をなさざる所以のものに考えおよびては、当局に警告し社会の注意をうながせること十年一日のごとし、ただ、この献言いまだ用いられざるに先だって今回の大災厄にえり、本会の遺憾いかんなにものかこれに加えん。既往きおうは追うべからず、要は前車の覆轍ふくてつを踏まざるにあり。本会は、今回の災厄の主として火災にもとづけることに想到そうとうし、本会委員としてさらに化学・電気・ガス・水道・消防に関する達識の士を加え、着々ちゃくちゃくと調査の歩を進めつつあり。とくに帝都復興計画につきては最も価値ある参考案を提供せんことを期せり。今、その具体案を得るに先だって別紙調査所得の要項を述べ、もって第一回調査報告とす。

     都市復興計画に対する注意事項

  • 一、耐震火構造、すなわち大地震に遭遇してよくこれにえ、また、その後といえども依然として耐火性を失わざる家屋・橋梁きょうりょうなどの構造様式の基準を定むること
  • 二、耐震火家屋をつらねて防火線とし、これを大道路の両側などに配置すること
  • 三、防火あるいは避難用として大道路・地下道・溝渠こうきょ・貯水池・公園などを改修あるいは新設する場合においては、地質あるいは震度分布、東京における風の習性、防火に適する樹木の種類などを顧慮すべきこと。たとえば防火線として大道路・溝渠こうきょ・公園などを設ける場合は、なるべく軟弱なる土地をもってこれにつることとし、地盤良好なるかまたは街衛がいえとして形勝の位置なるかによって、以上のごとき防火道路などを設くることの不経済なる場合は、耐震火家屋をつらねてこれに代用するがごとし。また、これらの防火線を設くるにあたりては、東京における一般の風向きを察してこれに正対するに重きをおくなどのことあるべし
  • 四、大地震の際、発火の原因となるべき化学薬品、たとえばりんナトリウムのごときものの保管法、炉火・電気・ガス・石油・コンロなどの取りまり法ならびに臨機処置法を定めること
  • 五、延焼を助長すべき築造物、たとえば高き建物または屋上における可燃性構造のごときものの取りまり法を定めること
  • 六、消防用の水利をおこすこと。たとえば、遠近おちこちの清濁流を引きてこれを公園または大道路に配置し、あるいは潮水ちょうすいき止めてこれを溝渠こうきょにたくわえ、あるいは消火専用の高圧貯水池を設くるがごとし
  •   また現在、消防に使用しがたき流止水については、至急その利用の途を開くこと。たとえば、消火車のこれに接近しうる道路を設くるがごとし
  • 七、地震ならびにこれに帰因する火災に対し、市民の訓練をすすむること

九月二十七日

 中村・寺田らの諸委員と本所・被服廠ひふくしょう跡・安田邸などに行き旋風研究をなす。旋風の向きは時針の反対の向きにおこったこと、ならびにそのいかに猛勢のものであったことがぎ倒された樹木によって推知され、ことにその強さを示す好標本としては、亜鉛トタン板があたかも暴力によってしごかれたる紙のごとく、しかもそれが斜めに高き樹の枝に打ちつけられたまま落ちもやらず引っかかっている。こういう例はいくつも存在しているが、聞けば自転車さえも高きイチョウに引きかかっておったとのことである(今は取りおろされて見ることができなかったのは残念であった)。
 つまり被服廠における幾万の市民は、かくのごときほのおの旋風によってきわめて短時間のあいだに殺戮さつりくしつくされたものと考えられる。これらは今回の震火災の最大なる悲惨事として特に研究を要するしだいである。自分はそこから中村・寺田らの一行と別れて向島・寺島てらじま鐘ヶ淵かねがふち方面の焼け残りの部分を調査した。この辺り一帯に震力は、重力の六分の一程度のものであったろうと思われる。

九月二十八日

 市内の低地たる茗荷谷みょうがだに・白金あたりを調査す。一部脆弱ぜいじゃくな地盤あり。板橋方面はがいしてし。王子町おうじまちは北部近郊において震度もっとも強き部分であったろう。つぶれ家屋多く、ことに柳町あたりにてはひとかたまりに数十軒平つぶれにつぶれたところもある。それから荒川を沿うて尾久おくの一区は震度いっそう強く、三河島においては尾久におよばざるも、震度そうとうに大きかったようである。

九月二十九日

 午前、深川方面を調査し、午後、市勢調査会〔市政調査会の誤り〕におもむき会の幹部ならびにジャッガー博士と意見の交換をした。ジャッガー博士は震災調査上について注意をあたえられ、なお、お望みとあらば米国におけるこの道の大家を招致しょうちしてもよろしいが、との好意など示された。自分は好機会と考えて、震災予防調査会の現在の調査成績を皆に向かって説明した。要するに会は、経済的見地に深く立ち入ることなく、主として地震ならびにこれに帰因する災厄さいやくを、今後の大地震からまぬかれんがための調査研究をなしているのであって、会の沿革、目的ならびに現時の調査事項、およびその分担委員、またこれまでの調査結果の概要として得たところの報告を、前記の書き物(日記、十四日および二十六日参照)を敷衍ふえんしたのであった。なお、ジャッガー博士の辞去じきょせられた後、自分は市勢調査会長たる後藤子爵に、むしろ内務の当局としていてもらいたい意見があるから、それを取りつがれたしとて次のようなことを述べてみた。

 京都の小川博士小川おがわ琢治たくじか〕が、外側がいそく大地震帯おおじしんたいの上において一つの大地震がおこるとき、その後あまり長い期間をへだてないで次の大地震をおこした例あることを指摘し、あるいはそのうちに第二の大地震のおこりうることを述べて、しかもそれが東海道の東部であるかもしれぬということを警告されたとのことであって、自分はこの問題のためにたびたび質問を発せられた。自分はかくのごとき意見の生ぜんことをおもんぱかって、第二回の調査報告にこのことを指摘し、しかして東京には今後しばらくの間は大地震あるまじとの推測を下しておいた。なるほど外側大地震帯においては小川博士の言わるるとおりに、大地震が引きつづいておこった例がないこともない。自分が承知している範囲では前に述べたとおり、例の元禄十六年(一七〇三)の房総半島の大地震にひきつづいて五年の後、すなわち宝永四年(一七〇七)十月四日にはきわめて大なる地震が土佐沖においておこった。また安政元年(一八五四)十一月四日、朝の駿河沖大地震に引きつづいて、翌五日夕方、紀州沖にほぼ同程度の大地震をひきおこし大津波つなみまでともない、大阪は安治あじ川口へその津波が浸入して東横堀ひがしよこぼりまでの橋梁をことごとく破壊し、莫大ばくだいな流死人を生じた。また、近ごろにおいては明治二十七年(一八九四)三月二十二日、根室沖の大地震にひきつづいて同年六月十五日には、あの大津波を引きおこした三陸大地震がおこった。なお、この地震帯の他の部分をとって見るならば、明治三十九年(一九〇六)四月十八日、北米サンフランシスコの大地震についで、同年八月十七日、南米ワルパライソの大地震があった。いったい小規模の地震帯においては、大地震がとなりあってつぎつぎにおこる場合が多いけれども、この外側がいそく大地震帯おおじしんたいのごときにおいては、そういう例はほとんどないくらいで、たいていの場合は単独におこるけれども、まれには右に取った数例のごとく飛びはなれておこることもある。それには相当の理由もあるらしく思われたが、今はこれを省略しておく。しかるにこれら数例について吟味ぎんみしてみると、第二回目におこるところの地震は、わが日本の近くにおいてはいずれも西または南の方に場所を変えている。それで自分は、あまり時を経ないうちに、この外側がいそく地震帯においてふたたび大地震をおこすことがありうるという小川説を否定はしないが、ただ、たぶん左様さようなことにはおそらくなるまいと想像する。たとえこれが現実するようなことがあっても、それは前例のとおりむしろ今度の震源の遠く西へ離れた場所であるまいかと想像するのである。
 東京の今回の災厄さいやくの原因の一つとして、地震に対する市民の訓練と消防機関が不足であったということを数えることができるが、なかにも市民が地震に対して無知識であり、これを非常におそれてあるいは火の元の注意を忘れ、あるいは発見しても当にこれを恐れて消防をなすことなく、避難一方のみであったということがわざわいをみずから大きくした所以ゆえんであった。今、仮に今回のごとき大地震が関西方面におこったとして、われわれが最も不安にたえないのは大阪地方である。ことにこの大切なる商業地が、もし不幸にして東京のごとき災禍さいかにかかったとしたら、東京以上に悲惨な結果におちいるかもしれない。自分は今日においてかくのごとき不詳のことを想像したくもないのであるが、しかしながら、ただ一編の注意よくかくのごとき災禍を除きうるものこれありとしたなら、むしろこのことを識者に向かって披瀝ひれきするほうが忠実なる所以ゆえんであると考える。
 一編の警告とは何か。地震に対して市民の訓練、ならびに消防機関の完備これである。市民の訓練とは何か。地震のまでおそるべきものでなくして、まことにおそるべきはこれにともなう火災であることを了解し、平日においては発火をうながす化学薬品の取り締まりをげんにし、地震に際して避難よりも火の元の注意を先にし、出火しては大事に至らないうちに隣保りんほ相扶あいたすけてこれを撲滅ぼくめつし、また大火にのぞみては重荷の執着をてるなどのことがあるのであろう。
 また消防機関完備については、消防用の水利をあたえ、また現存の水源にむかっては、消防車がこれに近づき得るよう道路を設けるなどのことがあろう。もし、時と金とを犠牲にしたならば、なおいっそう十分な準備ができるであろうが、前に記したことはいずれもあまり時と金を要しない速成そくせいのことのみである。徳川時代においてはかくのごとき用意はよく整っておったようであるが、西洋文化に酔い、また、このために傲慢ごうまんとなった東京においては、以前のような用意がまったく欠けておったため、今回の災厄さいやくをまねいたともいえる。
 右のような用意さえあれば、大地震はまでおそるるにたりないと自分は信じている。この理解が東京はもちろん、いやしくも大地震の襲来を受くべき宿命を持っていると信ぜらるる大都の市民には、この用意があってほしいものである。

九月三十日

 深川方面を調査した。越中島えっちゅうじまから木場に至る一郭いっかくは地盤もっとも脆弱ぜいじゃくであるが、これまで同様であろうと想像しておった深川区の西部は、さほどでもなく事を了解し得た。(続く)



底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
入力:しだひろし
校正:
2010年7月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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大地震調査日記(二)

今村明恒

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九月十二日
 午前自動車を飛ばして被害状況を瞥見《べっけん》(ちらっと見ること)した。先ず西大久保新宿から代々木に出て渋谷を通り天現寺に出で、金杉川の流域を視察し、殊《こと》に網代《あじろ》新網《しんあみ》森元町あたりの被害の著しき状況に新らしき知識を得(東京市街地震動分布予察図改良のため)、其《そ》れより伊皿子《いさらご》台に上がり八ツ山下に出で高輪《たかなわ》田町、金杉橋を経由して銀座通より日本橋通へすゝみ、両国橋を渡りて本所区内をのぞき、殊《こと》に被服廠《ひふくしょう》跡に向ては哀悼の敬意を表し、再び両国橋を渡つて(自動車は外の鉄橋を通れなかった)浅草観音の安全地を見学し、殊《こと》に境内の軒瓦が依然としてよく整い、少しの隙間《すきま》も見せない事が眼だって感心せられた。浅草観音の焼け残った理由は周囲の樹林にもよる事であろう。
 午後震災予防調査会を開く、出席者十七名の多数であった。調査の部署を定めるために特別委員を選び、それによって十四日再び委員会を開く事に決した。

九月十三日
 特別委員として選ばれた中村清二博士、寺田博士、佐野博士と地震学教室に集まって打合をなし、午後再び会合した。

九月十四日
 午後より委員会を開いた。出席者十五名、調査上の委員分担は次の様に定った。
一、地震観測に関する件   今村、志田、中村(左)の各委員
二、地変に関する件   井上、加藤各委員
三、気象に関する件   岡田、寺田各委員
四、建築に関する件   曽根、佐野、内田、内藤、竹内、堀越、笠原各委員(後柴垣委員が加わった)
五、鉄道に関する件   那波委員
六、河川、建築、道路、橋梁等、鉄道以外の土木工事に関する件   物部《もののべ》委員(後原田委員が加わった)
七、地震に起因する火災に関する件   今村、寺田各委員(後消防部長たる緒方委員、大学化学教授たる片山、大島委員、電気工場監督たる澁澤《しぶさわ》委員、東京市助役たる田島委員等が加わった)
八、各種の公報私報新聞記事等を収集整理する件   今村委員
九、死傷に関する件   竹内委員
十、機関工場に関する件   末廣委員(後竹中委員が加わった)

 右の外地震に起因する火災に関する調査事項を殊《こと》に詳細に定めた。是《こ》れ今度の災害の大部分は地震に伴って起った火災に基いたので、而《しか》も本会に於《おい》てはこれまで其《その》[#ルビの「その」は底本のまま]の研究が不足して居った嫌いがあった為《ため》に、殊《こと》に十分に力を入れて調査し、以《もっ》て震災予防の目的を達したい希望に依《よ》るのであった。尚《な》お本会の経常費は残り少なになって居るので、臨時調査費を請求することとし、この外交|並《ならび》に新委員交渉の件は、委員古市男爵を煩《わずら》わす事にした。

九月十五日
 終日教室に在つて昨日の委員会の結果を整理する事に尽力した。殊《こと》に此《こ》の際自分が最も驚いたのは、震災予防調査会なるものが、世に認められていないのみならず、文部省のお役人にまで了解せられて居なかったと云《い》う事に在る。終《つい》に自《みずか》ら筆を取って会の自己紹介を行うことにしこれを関係の方に提唱した。即《すなわ》ち次の通りである。

 地震に対する災害予防問題特に耐震的の建築及土木工事に就《つい》ては、本会の調査が是迄《これまで》世に裨益《ひえき》(おぎない益すること)を与えた事が年報に明記したる通りであり、又地震の予知問題に対しては研究が未《いま》だ期待する通り進んで居らぬけれども、是《こ》れとても大地震の場所に関する予知問題の如《ごと》きに就《つい》ては、相当の成果を収めて居る事|是亦《これまた》年報に示した通りである。特に地震に伴う火災の最も恐るべき事は、機会ある毎に本会の唱導したる所であって、余り大した地震でなくとも即《すなわ》ち一寸《ちょっと》した強い地震の際でも水道鉄管が破損のため消防の用をなさぬ故に、之《これ》が施設に就《つい》て改良を加えなければならぬ事は、当局|並《ならび》に社会に対して再三再四、つまり各地方に地震が突発する機会毎に警告を発した次第である。特に西洋文化の輸入の結果発火の原因が去る明治三十九年の桑港《サンフランシスコ》地震に於《おい》て経験せられた事に鑑《かがみ》み、電気、瓦斯《がす》特に化学材料にまで及ぶべき事も本会の調査報告に依《よっ》て指摘された所である。唯此《これ》等の結果が余り世に重んぜられずして今日に至ったのは誠に遺憾の次第で、春秋の筆法(中正に厳しく批判すると)を以《もっ》てすれば、今度の災厄《さいやく》の大部分は震災予防調査会の献言を用いなかった為《た》め、自《みずか》ら招いたものとも言えるであろう。既往は追うべからず。再び如斯《かくのごと》き大地震があっても如斯《かくのごと》き災厄《さいやく》から免るゝ様にしなければならない。之《これ》に関して此《この》際今回の地震火災を資料として各方面に渉《わた》り徹底的の研究をなすことは、今日に於《おい》て最も切実なる事であるが、之《これ》を為《な》し得たもの本調査会を措《お》いて外にあるまい。是《これ》実に政府が本調査会を濃尾大地震の苦しき経験に依《よっ》て設立したる趣旨であって、斯《か》くすることが本調査会の使命である。本調査会は別紙の通り各委員の部署を定め研究資料の湮滅《いんめつ》(あとかたも消えてなくなること)せざる中《うち》にと研究を焦《あせっ》て居るけれども、資金不足のため十分の活躍も出来ぬ次第である云々《うんぬん》。

九月十六日
 午前、地震記象東西動|並《ならび》に南北動を組合せて、実際の水平動を図に表わす事を試みた。
(省略、図ならびに地震動の説明)
 午後、水沢臨時緯度観測所から応援に来られた池田氏と、根津谷中、根岸方面の調査をやった。自分は前に安政二年の江戸地震、明治二十七年の地震と、東京に於《お》ける土地の沿革、地質|並《ならび》に市内五六ヶ所に於《お》ける地震動の同時観測の比較から、東京市街地に於《お》ける震度分布予察図を作った事があったが(震災予防調査会報告第七十七号)、更《さら》に麻布|網代《あじろ》町、新網《しんあみ》町、森元町付近に於《お》ける家屋の損害程度と、根津|八重垣《やえがき》町辺の家屋損害程度とから見て修正を加える必要を感じ、先ず焼残り区域に就《つい》て調査する事とした。但《ただ》し一々自分が飛びまわるようでは、徒《いたず》らに時間を費やすのみであるから、調べ方の方法を伝えて、池田氏、小端理科学生|並《なら》びに子供達の手を借りることにした。
 その後焼残りの場所に就《つ》いては、主として警察の調査、罹災者の言に依《よ》って、その区域|或《あるい》は付近に於《お》ける家屋損害の状況を聴《き》き取り、又墓地の墓石|或《あるい》は残骸となった煉瓦《れんが》建築、或《あるい》は稀《まれ》に焼残った木造建築等に就《つい》て調査し、震度分布図に改良を加えた。

九月十七日
 これ迄《まで》は登山服装でテクテクやって居ったが、今日から震災予防調査会に於《おい》て自動車一台借り入れる事になり、午前は池田氏等と千住《せんじゅ》までの調べをなし、午後は寺田委員等と浅草|今戸《いまど》辺まで調査に出かけた。

九月十八日
 震災予防調査に於《おい》て新規に加わるべき委員が全部|揃《そろ》つた。
 午前消防本部に趨《おもむ》き、新たに委員に加わった緒方氏に面会を求めた。消防部に於《おい》ても今回の火災に就《つい》ては必死の努力をなし、消防署員にして署長以下職務に斃《たお》れたる人も多数であって、悪戦苦闘を続ける事二昼夜、殊《こと》に江東の本所、深川は最も苦戦であって、五ケの消防隊中三ケは消防機械を併《あわ》せて全滅し、署員は僅かに避難人民の生命を援護する働きをなすに止まる位であった。而《しか》も一人の消防手の如《ごと》きは、百四十三名程の人民を火に対する経験の力に依《よ》って炎の下に濡れ物をかぶってこれをしのがしむること数時間、終《つい》に完全にこれを救い得たなどの悲壮な話もある。
 訪問によって吾々が得た知識は、各所に起った火の手が集って遂《つい》に所々に一団となり、爾後《じご》幾多の火道となって風のまにまに奔放《ほんぽう》し、遂《つい》に風向きの変化に伴って、時計の反針路の向きに凡《およ》そ一週(一周)して、焼き尽くさゞれば熄《や》まないと云《い》う勢であったと云《い》う事である。
 九月一日正午以来一時間毎の風向き並《ならび》に速さを図に示した。これは中央気象台に於《お》ける観測に基いたもので、大体に於《おい》ては、市内に於《おい》て大概図のような順序に風向きがかわった筈《はず》であるが、然《しか》し乍《なが》ら局部的には多少の変化があったと見なければならぬ。火道の殊《こと》に猛烈なる場所に於《おい》ては、所々に旋風をおこして、かの被服廠《ひふくしょう》に於《お》けるが如《ごと》く、忽《たちま》ち三万八千有余の人命を奪い取った次第である。

[#図版、図 中央気象台(麹町区元衛町、現千代田区大手町)における風向及び風力の変化図]
[#ここからキャプション]
 日記の図を元に作成した。9月1日の夕刻までは、台風の影響とみられる風速10m毎秒程度の南寄りの風が吹き、夜半頃からは北北西の風に変わり風速は20m毎秒にも達した。この強風は火災の影響を強く受けた結果と思われる。
[#キャプションここまで]
旋風の事はあとの日記に詳しくのべる。
 今一つ気づいた事は、今度の地震に原因した火災の内、化学薬品の発火がその原因をなした事が多い事である。先ず知名の場所に於《おい》ては、帝大応用化学教室及び医化学教室、早稲田大学、陸軍士官学校、学習院、東京高等工業学校、高輪《たかなわ》御殿宝物庫、三輪《みつわ》化学研究所等何れも火災を起し、殊《こと》に帝大医化学教室からの火は図書館、法文科教室、八角大講堂等を焼き払い、ついに地震学教室を危うからしめたものである。その他市内の薬店に於《おい》ても明らかにわかったものでさえも数軒あるが、大事に至らずして消しとめたうち、一高、地質調査所など頗《すこぶ》る多い。而《しか》も発火の薬品は燐《りん》ナトリウムなどの如《ごと》き単純なものゝみでなく、薬品の混合によって起った場合も相当にあるようである。我震災予防調査会はこれに鑑《かんが》みて、斯《か》くの如《ごと》き原因によれる発火をのぞくために、十分な研究を遂げるつもりである。
 (省略、消防部発表の記事)
 午後は中村、寺田、諸委員と和泉町|並《ならび》に向柳原《むこうやなぎはら》の焼残りを見、更《さら》に本所深川を経て小松川までを調査した。和泉町と向柳原《むこうやなぎはら》とは、下町に於《お》ける焼残りの区域の筆頭であって、和泉町はその東側に並立せる済生会病院の煉瓦《れんが》建築が防火壁を形作り、又|向柳原《むこうやなぎはら》は、火流がこれを一周したにも拘《かかわ》らず、松浦伯爵邸の有名なる泉水がこの一|郭《かく》を防ぎとめたのであった。

九月十九日
 発火の場所を地図に記入して見ると、震度分布図に密接な関係があるように思われる、即《すなわ》ち発火の場所が震度の濃厚なる所程|殊《こと》に多いと云《い》うことを示している。本所深川の火災が最もはげしかったのも即《すなわ》ちそれである。
 午後から各委員と麹《こうじ》町赤坂方面に於《お》ける焼止まりの場所の研究をした。

九月二十日
 中村、寺田、池田諸氏と横浜まで調査に出かけた。品川あたりまでは東京とさほどの違を感じなかったが、大森に至って被害|稍々《やや》増加したように感じた。川崎は大工場殊に明治製糖工場、東京電気工場等に著しき損害があった。これは田圃《たんぼ》の埋立地であるがための現象で、殊《こと》に最も著名なるは東京電気に於《おい》て、鉄筋コンクリートの三階の建物が同じ設計で出来て居ながら、その内第十三号の建物は池として最後まで残って居った埋立地に建てられたものである。同じ地方に於《お》ける家屋の損害は、多少設計工事にもよる事であるが、地盤の影響が殊《こと》に甚《はなはだ》しい。自分の同窓であった研究所長藤井氏、同学の板橋理学士、殊《こと》に学生中自分が保証人であったところの大橋理学博士などを初めとして、十余人の研究所主脳者を斃《たお》したのは、誠になさけない事であった。鶴見から振動やゝ軽くなったような感じがしはじめたが、殊《こと》に生麦《なまむぎ》に於《おい》て左様であった。これは全《まった》く地盤の関係である。
 子安神奈川あたりは、その震力おそらく重力の四分の一程度に達したものであろう。倒壊家屋の数などもかなりに増したように見うけた。横浜に至っては、地盤の振動|※[#「土+盧」、第3水準1-15-68]拇《ローム》質の地山に於《おい》ても、相当に強かったらしく、六分の一位もあったろうが、殊《こと》に全部焼払れた下町に於《おい》ては、残骸をとゞめた煉瓦《れんが》建築の状況から見ても、また地盤が脆弱《ぜいじゃく》で時々大なる一部の沈降をおこし、土蔵又は煉瓦《れんが》倉庫など外形は少しも形を崩さないで全部が傾斜をなし、恰《あたか》もピサの斜塔然たるものは彼処《かしこ》此処《ここ》に散在して居るのを見ても、亦《また》磯子方面に焼残っている木造家屋の破損状態から見ても、震力は重力の三分の一程度にも達したろうかと推測した。
 本日踏査の各地方に於《お》ける振動の方向は大体東京と同じようであった。

九月二十一日
 丸ノ内 諸建築を見学す。東京会舘、郵船ビルヂング、丸ノ内ビルヂングなどの高大なる建物の損害はさもあるべき事と考えられたが、銀行集会所、興業銀行、田中大川事務所等の災害軽きは煉瓦《れんが》建築家の為《ため》に気を吐《は》くものと考えた。殊《こと》に興業銀行の七階建鉄骨|煉瓦《れんが》建築が、外面からは裂罅《ひび》一つ見付からぬ丈夫さ加減、[#丸傍点]耐震建築の権威者たる曽根博士の名を一層重からしむるものであらう。[#丸傍点終わり](続編注書きで以下のように修正 [#丸傍点]設計者は渡邊、内藤氏等であるとの事である[#丸傍点終わり])但《ただ》し斯《か》く言ったからとて、自分は最も適当なる耐震的洋風建築として鉄筋コンクリートを疑うものではない。
 芝方面にまわり焼止まり条件を調査す。金杉三ノ十六松宮久兵衛氏の石造蔵功を奏した事は一見して明かである。聞けばこの蔵はこれで焼止まりの功を奏すること三回目だとか、されば此《この》石蔵は表彰の価値あるものであらう。

九月二十二日
 午前雨天なりしため地質調査所を訪い、地変調査の情況を聴《き》く。厚木方面は震源に深い縁故を持たない地変のみであったとのこと。
 昼から中村、寺田の諸委員と本所深川方面を調査し、小松川まで行った。小松川は処々《しょしょ》一|塊《かたまり》になって潰《つぶ》れたところあり。

九月二十三日
 汽車にて先ず茅ヶ崎へ行き、馬入《ばにゅう》川の鉄橋破損の状況を観る。鉄橋の橋脚大抵南二十度東から、南三十度東位の方向に、レールを負いながら倒れたのは如何《いか》に振動が強かったかを想像せしめる。此《この》辺より鳥井戸《とりいど》、辻堂あたり、震力は重力の三分の一から五分の二位まであったらしく思われる。大船へ引き返しそれより鎌倉へ行く。鎌倉名所何れも惨憺《さんたん》たる状況で、八幡宮の神楽殿|並《ならび》に拝殿の平潰《ひらつぶ》れなど、その一端を語るものである。尚《なお》大仏は築き上げられた石台上に於《おい》て南十五度東|即《すなわ》ち前方へ辷《すべ》り出すこと凡《およ》そ一尺、膝頭《ひざがしら》を沈める事|凡《およ》そ一尺七寸、山門は重心の周りに於《おい》て時針に反対に十度程廻り、その上|凡《およ》そ七寸程全部が北の方へずれた事を示して居る。序《ついで》に八幡の二の鳥居に近き島津邸を見舞った。此処《ここ》は二階建ての本邸が平押しに潰《つぶ》れて、公爵夫人|並《ならび》に五人の令息令嬢が下敷きになられた。幸いに何れも一時間の後に無難に掘り出された。建築は可《か》なり堅固に出来て居るように見受けられるが、これにても地震の強かった事が想像される。笹目《ささめ》が谷《やつ》の島津邸でも、公爵始め二三の人が下敷きになられた。此処《ここ》でも一時間の後に救い出されたのであるが、この間に大きな梁木《りょうぼく》が二本まで鋸《のこぎり》で切られる迄《まで》の間の公爵の苦しみは、想像に難くはない。この家の建築はその基礎工事の設計に自分も参加したので、つまり天然の岩石から直接に蝋燭石《ろうそくせき》をセメント付にして土台石を築き上げた方の平家は全《まった》く無難であったが、これに続く二階建の方がそう出来て居なかったのである。
 今日調査した結果に拠《よ》れば、振動の重《おも》な方向は東京等と大した変化はない。たゞ公爵夫人|其《その》他居合せの人の話を聴《き》くに、所謂《いわゆる》初期微動なるものは五六秒|乃至《ないし》十秒位の間にあったらしく、而《しか》して家屋や煙突などの潰《つぶ》れ転倒したのは無論主要動の始めでなくして、相当な秒数経過した後の事らしく思われる。或《あるい》はこれが初発から一分位もあったろうかと云《い》う人もある。兎《と》に角《かく》比較的大きな二階建の木造家屋に於《おい》ても、地震動の周期|稍《やや》大で振幅|殊《こと》に大なる振動の影響を著しく受けたかのようである。佐野博士の所謂《いわゆる》悪性の振動は、このような風の建物にも多少悪性であったらしく思われる。
 帰途は非常な雑沓で鎌倉大船間の汽車にも辛うじて乗ったが、大船で鳥井戸《とりいど》発の東京行きを待って居ると殆《ほと》んど満員である。僅かに窓から飛び込む勇者のみが収容せられて大部分は乗れなかった。此《この》日幸いに自分は鈴木鉄道技師の案内で馬入《ばにゅう》川鉄橋を視《み》に行った関係上、機関手に頼んで石炭の上に乗せて貰《もら》った。これを羨《うらや》む乗客があって中々承知しないので、平服の技師と自分とは、遂《つい》に鉄道職員の証明書を其《それ》等の人達に見せて無事なる事が出来た。但《ただ》し戸塚のトンネルをくゞる時の亜硫酸|瓦斯《がす》と火の粉とに責められたのは、被服廠《ひふくしょう》の苦しみも斯《か》くやと一時は思った位であった。

九月二十四日
 暴風雨につき室内調査をなす。横須賀海軍部内に於《お》ける験潮儀記象に、大地震と同時に陸地の隆起を意味する所の潮候が現われたのみならず、四五時間前から鋸歯《きょし》状の波動まで現われたので、これこそ大地震の前兆ならむかとの見解もあったようであるが、右は当日夜半より朝にかけての低気圧のために生じたもので、地震とは無関係なこと明らかである。
 加藤委員等伊豆半島|並《ならび》に三浦半島の調査を終えて帰られた。同氏等は初島まで調査に趨《おもむ》かれその隆起せること五六尺なることを認め得られた。その外湘南一帯三浦半島の隆起は、これ迄《まで》報道せられたものと大差なく、又地変としては小田原と熱海との間、殊《こと》に根府《ねぶ》川付近が最も甚《はなはだ》しい事などから推測して、震源は大島と大磯との間であろうかと断ぜられた。たゞ自分としては最も期待して居った土地の低下せる場所が同委員の報告にも其《その》存在を認められなかった事を不思議とし、陸地測量部の水準測量の結果を静かに待つことにした。つまり此《この》測量|或《あるい》は水路部の水深測量が数ヶ月を経て完結する迄《まで》は、起震帯《きしんたい》に関する正確なる推定は六ケ《むつか》しい事ではあるまいか。

九月二十五日
 三菱合資会社は、我々の調査を補助する意味を以《もっ》て五千円を寄付せられた。布哇《ハワイ》火山観測所長ジャッガー博士(Dr. Jaggar)は夫人携帯来訪せられた。これ迄《まで》の地震調査の結果を聴聞し、器械標本類を観て帰られた。
 待ちに待ったる油壺《あぶらつぼ》験潮儀記録の写し三角《みすみ》課長より送り越された。取る手もおそしと披見(文章をひらいて見ること)すると自分の期待は悉《ことごと》く裏切られ、地震前には何等の地変も記し居らぬのみか、大地震開始後幾秒間の後には時計も止まり、これと同時に陸地隆起のあった事を示すだけであった。たゞ基準点の実測から陸地の隆起一・四四四|米《メートル》即《すなわ》ち四尺八寸である事を確かに証明されたのみである。尚《な》お陸地測量部に於《おい》て我国の沿岸各地に散布された験潮儀の示す一年平均水位を比較して見ると、油壺《あぶらつぼ》のみは此《この》最近二年間に於《おい》てある異状を呈しているように見える。即《すなわ》ち前の二年間に於《おい》て凡《すべ》ての場所が水位の下降を示し、たゞ日向細島のみが一昨年度に於《おい》てのみ僅少なる上昇を示して居るのみなるに反して、油壺《あぶらつぼ》のみは最近二カ年間は著しき上昇を示しているのである。これは見様によっては三浦半島がこの二年間地盤が下がりつゝあった事を意味して居る。尚《な》お後日の研究を要する問題である。

九月二十六日
 調査会の調査事業に対して、外間《がいかん》(当局者以外の人々の間)の了解を得んがため次のようなものを起草して見た。

 政府先に濃尾大震災の惨事に鑑《かんが》みて本会(震災予防調査会)を設立し、地震、建築、土木、地質、物理、機械及び其《その》他専門に関し、一流の人士を集めて其《その》委員とし、以《もっ》て斯《かく》の如《ごと》き大地震の再襲を蒙《こうむ》りても斯《かく》の如《ごと》き災害より免がるゝことの調査研究を命じたり。爾来《じらい》三十年、本会の調査は地震動の性質を闡明《せんめい》(開いて明らかにすること)して建築及び土木工事の耐震的方法に成果を収め、地震予知問題に対しては未《いま》だ期待の程度に達せざるも、場所に関する予知方法の如《ごと》きは諸問題につき既《すで》に其《その》解決の曙光《しょこう》(あけぼのの光)を認めたりと称して可ならんか。此《この》間本会は調査成績を浩瀚(書物の量の多いこと)なる報告書によりて発表し、或《あるい》は地震に対する正確なる知識を与えて民心の不安を除き、或《あるい》は災前災後の建築修繕方法を指示しては災厄《さいやく》を軽からしめ、特に大地震に伴える火災の恐るべき所以《ゆえん》のもの、西洋文化の輸入に伴い電気、瓦斯《がす》、化学材料によりて発火原因の増加したる所以《ゆえん》のもの、現在の水道工事は地震の際破損してその用をなさゞる所以《ゆえん》のものに考え及びては、当局に警告し社会の注意を促《うなが》せること十年一日の如《ごと》し、唯此《この》献言|未《いま》だ用いられざるに先だって今回の大|災厄《さいやく》に遭えり、本会の遺憾何物か之《これ》に加えん。既往は追う可《べ》からず要は前車の覆轍《ふくてつ》(失敗の前例)を踏まざるにあり。本会は今回の災厄《さいやく》の主として火災に基づけることに想到《そうとう》し、本会委員として更《さら》に化学電気|瓦斯《がす》水道消防に関する達識(すぐれた見識)の士を加え、着々と調査の歩を進めつゝあり。特に帝都復興計画につきては最も価値ある参考案を提供せんことを期せり。今|其《その》具体案を得るに先だって別紙調査所得の要項を述べ、以《もっ》て第一回調査報告とす。
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 都市復興計画に対する注意事項
一、耐震火構造|即《すなわ》ち大地震に遭遇して能《よ》く之《これ》に耐え又|其《そ》の後と雖《いえど》も依然として耐火性を失わざる家屋橋梁等の構造様式の基準を定むること
二、耐震火家屋を列ねて防火線とし之《これ》を大道路の両側等に配置すること
三、防火|或《あるい》は避難用として大道路、地下道、溝渠《こうきょ》、潴《ちょ》水池、公園等を改修|或《あるい》は新設する場合に於《おい》ては、地質|或《あるい》は震度分布、東京に於《お》ける風の習性、防火に適する樹木の種類等を顧慮すべきこと。例えば防火線として大道路|溝渠《こうきょ》公園等を設ける場合は、成るべく軟弱なる土地を以《もっ》て之《これ》に充《あ》つることとし、地盤良好なるか又は街衛《がいえ》(街を護ること)として形勝(地勢にすぐれていること)の位置なるかに由《よっ》て、以上の如《ごと》き防火道路等を設くることの不経済なる場合は、耐震火家屋を列ねて之《これ》に代用するが如《ごと》し。又|此《これ》等の防火線を設くるに当たりては、東京に於《お》ける一般の風向きを察して之《これ》に正対するに重きを措《お》く等のことあるべし
四、大地震の際発火の原因となるべき化学薬品例えば燐《りん》ナトリウムの如《ごと》きものゝ保管法、炉火電気|瓦斯《がす》石油コンロ等の取締法|並《ならび》に臨機処置法を定めること
五、延焼を助長すべき築造物例えば高き建物又は屋上に於《お》ける可燃性構造の如《ごと》きものの取締法を定めること
六、消防用の水利を興すこと、例えば遠近の清濁流を引きて之《これ》を公園又は大道路に配置し、或《あるい》は潮水《ちょうすい》を堰《せ》き止めて之《これ》を溝渠《こうきょ》に貯え、或《あるい》は消火専用の高圧貯水池を設くるが如《ごと》し
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 又現在消防に使用し難き流止水に就《つ》いては至急|其《その》利用の途を開くこと。例えば消火車の之《これ》に接近し得る道路を設くるが如《ごと》し
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七、地震|並《ならび》に之《これ》に帰因する火災に対し市民の訓練を奨《すす》むること
[#ここで字下げ終わり]

九月二十七日
 中村、寺田等の諸委員と本所|被服廠《ひふくしょう》跡安田邸等に行き旋風研究をなす。旋風の向は時針の反対の向きに起ったこと、並《なら》びにその如何《いか》に猛勢のものであったことが薙《な》ぎ倒された樹木によって推知され、殊《こと》にその強さを示す好標本としては、亜鉛《トタン》板が恰《あた》かも暴力によってしごかれたる紙の如《ごと》く、しかもそれが斜めに高き樹の枝に打ちつけられた儘《まま》落ちもやらず引掛って居る。斯《こ》う云《い》う例は幾つも存在して居るが、聞けば自転車さえも高き公孫樹《いちょう》に引き掛って居ったとのことである(今は取りおろされて見る事が出来なかったのは残念であった)。
 つまり被服廠《ひふくしょう》に於《お》ける幾万の市民は、斯《かく》の如《ごと》き焔《ほのお》の旋風に依《よ》って極めて短時間の間に殺戮《さつりく》し尽されたものと考えられる。此《これ》等は今回の震火災の最大なる悲惨事として特に研究を要する次第である。自分は其処《そこ》から中村、寺田等の一行と別れて向島寺島鐘ヶ淵方面の焼残りの部分を調査した。此の辺一帯に震力は重力の六分の一程度のものであったろうと思われる。

九月二十八日
 市内の低地たる茗荷谷《みょうがだに》白金辺を調査す。一部|脆弱《ぜいじゃく》な地盤あり。板橋方面は概して好《よ》し。王子町は北部近郊に於《おい》て震度最も強き部分であったろう。潰《つぶ》れ家屋多く殊《こと》に柳町辺にては一|塊《かたまり》に数十軒平潰《つぶ》れに潰《つぶ》れた処《ところ》もある。それから荒川を沿うて尾久《おく》の一区は震度一層強く三河島に於《おい》ては尾久《おく》に及ばざるも、震度相当に大きかったようである。

九月二十九日
 午前深川方面を調査し、午後市勢調査会(市政調査会の誤り)に趨《おもむ》き会の幹部|並《ならび》にジャッガー博士と意見の交換をした。ジャッガー博士は震災調査上に就《つい》て注意を与えられ、尚《な》お御望みとあらば米国に於《お》ける斯《この》道の大家を招致してもよろしいがとの好意など示された。自分は好機会と考えて震災予防調査会の現在の調査成績を皆に向って説明した。要するに会は経済的見地に深く立入ることなく、主として地震|並《なら》びにこれに帰因する災厄《さいやく》を、今後の大地震から免れんがための調査研究を為《な》して居るのであって、会の沿革、目的|並《なら》びに現時の調査事項及び其《その》分担委員、又これ迄《まで》の調査結果の概要として得たところの報告を前記の書き物(日記十四日|及《および》二十六日参照)を敷衍《ふえん》(意義などを広げて説くこと)したのであった。尚《なお》ジャッガー博士の辞去せられた後、自分は市勢調査会長たる後藤子爵に、寧《むし》ろ内務の当局として聴《き》いて貰《もら》いたい意見があるから、それを取次がれたしとて次のようなことを述べて見た。

 京都の小川博士が、外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》の上に於《おい》て一つの大地震が起る時、その後余り長い期間を隔てないで次の大地震を起した例あることを指摘し、或《あるい》はその内に第二の大地震の起り得ることを述べて、而《しか》もそれが東海道の東部であるかもしれぬと云《い》う事を警告されたとのことであって、自分は此《こ》の問題の為《た》めに度々質問を発せられた。自分は斯《かく》の如《ごと》き意見の生ぜんことを慮《おもんぱか》って、第二回の調査報告にこのことを指摘し、而《しか》して東京には今後暫くの間は大地震あるまじとの推測を下して置いた。成る程|外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》に於《おい》ては小川博士の言わるゝ通りに、大地震が引きつゞいて起った例がないこともない。自分が承知して居る範囲では前に述べた通り例の元禄十六年の房総半島の大地震に引き続いて五年の後、即《すなわ》[#ルビの「すなわ」は底本のまま]宝永四年十月四日には極めて大なる地震が土佐沖に於《おい》て起った。又安政元年十一月四日朝の駿河沖大地震に引きつゞいて、翌五日夕方紀州沖に略《ほ》ぼ同程度の大地震を引き起し大|津浪《つなみ》まで伴い、大阪は安治《あじ》川口へその津浪《つなみ》が浸入して東横堀までの橋梁を悉《ことごと》く破壊し、莫大な流死人を生じた。又近頃に於《おい》ては明治二十七年三月二十二日根室沖の大地震に引きつゞいて同年六月十五日には、あの大|津浪《つなみ》を引きおこした三陸大地震が起った。尚《な》おこの地震帯の他の部分をとって見るならば、明治三十九年四月十八日北米|桑港《サンフランシスコ》の大地震に次で同年八月十七日南米ワルパライソの大地震があった。一体小規模の地震帯に於《おい》ては、大地震がとなり合って次々に起る場合が多いけれども、此《こ》の外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》の如《ごと》きに於《おい》ては、そう云《い》う例は殆《ほとん》ど無い位で、大抵の場合は単独に起るけれども、稀《まれ》には右に取った数例の如《ごと》く飛びはなれて起る事もある。それには相当の理由もあるらしく思われたが、今は之《これ》を省略しておく。然《しか》るに此《これ》等数例に就《つ》いて吟味して見ると、第二回目に起る所の地震は我日本の近くに於《おい》ては何れも西又は南の方に場所を変えて居る。それで自分は、余り時を経ないうちに、此《こ》の外側《がいそく》地震帯に於《おい》て再び大地震を起す事が有り得ると云《い》う小川説を否定はしないが、たゞ多分左様な事には恐らくなるまいと想像する。仮令《たとえ》これが現実するような事があっても、それは前例の通り寧《むし》ろ今度の震源の遠く西へ離れた場所であるまいかと想像するのである。
 東京の今回の災厄《さいやく》の原因の一つとして、地震に対する市民の訓練と消防機関が不足であったと云《い》う事を数える事が出来るが、中にも市民が地震に対して無知識であり、これを非常に恐れて或《あるい》は火の元の注意を忘れ或《あるい》は発見しても当にこれを恐れて消防をなすこと無く、避難一方のみであったと云《い》う事が災いを自《みずか》ら大きくした所以《ゆえん》であった。今仮りに今回の如《ごと》き大地震が関西方面に起ったとして、吾々が最も不安に堪《た》えないのは大阪地方である。殊《こと》にこの大切なる商業地が、若《も》し不幸にして東京の如《ごと》き災禍に罹《かか》ったとしたら、東京以上に悲惨な結果に陥るかもしれない。自分は今日に於《おい》て斯《かく》の如《ごと》き不詳の事を想像したくもないのであるが、然《しか》し乍《なが》らたゞ一編の注意|能《よ》く斯《かく》の如《ごと》き災禍を除きうるもの之《こ》れ有りとしたなら、寧《むし》ろこの事を識者に向って披瀝《ひれき》する方が忠実なる所以《ゆえん》であると考える。
 一編の警告とは何か。地震に対して市民の訓練|並《なら》びに消防機関の完備|是《こ》れである。市民の訓練とは何か。地震の左《さ》まで恐るべきものでなくして、真に恐るべきはこれに伴う火災であることを了解し、平日に於《おい》ては発火を促《うなが》す化学薬品の取り締まりを厳にし、地震に際して避難よりも火の元の注意を先にし、出火しては大事に至らないうちに隣保《りんほ》(隣近所の人々)相|扶《たす》けて之《これ》を撲滅し、又大火に臨みては重荷の執着を棄《す》てる等のことがあるのであろう。
 又消防機関完備に就《つ》いては、消防用の水利を与え、又現存の水源に向っては消防車がこれに近づき得るよう道路を設けるなどの事があろう。若《も》し時と金とを犠牲にしたならば、尚《な》お一層十分な準備が出来るであろうが、前に記した事は何れも余り時と金を要しない速成の事のみである。徳川時代に於《おい》ては斯《かく》の如《ごと》き用意は能《よ》く整って居ったようであるが、西洋文化に酔い、又|此《こ》の為《た》めに傲慢《ごうまん》となった東京に於《おい》ては、以前のような用意が全《まった》く欠けて居ったため、今回の災厄《さいやく》を招いたとも言える。
 右の様な用意さえあれば大地震は左《さ》まで恐るゝに足りないと自分は信じて居る。此《こ》の理解が東京は勿論《もちろん》、苟《いやし》くも大地震の襲来を受くべき宿命を持って居ると信ぜらるる大都の市民には、この用意があって欲しいものである。

九月三十日
 深川方面を調査した。越中島から木場に至る一|郭《かく》は地盤最も脆弱《ぜいじゃく》であるが、これまで同様であろうと想像して居った深川区の西部は、左程《さほど》でもなく事を了解し得た。(続く)



底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [北海道]
  • 根室 ねむろ (アイヌ語で樹林の意のニムオロからともいう) (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在の根室支庁の管轄。(2) 北海道東部の支庁。根室市・別海町など5市町。(3) 北海道東部、日本最東端の市。根室支庁の所在地。北洋漁業の基地。人口3万1千。
  • [岩手県]
  • 水沢 みずさわ 岩手県奥州市の地名。もと伊達藩支藩留守氏1万6000石の城下町。盛岡とともに鋳物の産地。国立天文台水沢VERA観測所(旧、緯度観測所)がある。
  • 水沢緯度観測所 みずさわ いど かんそくじょ 明治32年に設立。国際極運動観測事業中央局。初代所長はZ項発見で知られる木村栄。昭和63年、東京大学東京天文台などと統合され、新設の国立天文台の一機関として再出発。名称も国立天文台水沢観測センターとなった。/現、水沢VERA観測所。
  • 三陸沖地震 さんりくおき じしん 三陸沖に起こる巨大地震。震源は日本海溝付近にあるため、地震動による被害は少ないが、リアス海岸になっているため津波の被害が大きい。1896年には3万人近い死者、1933年には3000人以上の死者を出した。
  • [東京都]
  • [新宿区]
  • 西大久保 にしおおくぼ 現、新宿区大久保一〜三丁目ほか。
  • 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
  • [渋谷区]
  • 代々木 よよぎ 東京都渋谷区の一地区。明治神宮があり、その参道大鳥居付近にある名木を代々木という。
  • 渋谷 しぶや 東京都23区の一つ。渋谷駅付近は交通の結節点で、副都心の一つとして繁栄。明治神宮・代々木公園などがある。
  • 金杉川 かなすぎがわ 古川。新宿区・渋谷区・港区を流れる東京都の二級河川。新堀川・赤羽川ともいう。
  • [港区]
  • 天現寺 てんげんじ 現、港区南麻布四丁目か。
  • 網代 あじろ → 麻布網代町か
  • 麻布網代町 あざぶ あみしろちょう 町名。現、港区麻布十番二〜三丁目。
  • 新網 しんあみ → 芝新網町か、麻布新網町か
  • 芝新網町 しば しんあみちょう 現、港区浜松町二丁目・海岸一丁目。新網町ともいう。
  • 麻布新網町 あざぶ しんあみちょう 現、港区麻布十番。
  • 森元町 もりもとちょう 芝森元町。現、東麻布一〜二丁目。
  • 伊皿子台 → 芝伊皿子台町か
  • 芝伊皿子台町 しば いさらごだいまち 現、港区三田四丁目。高輪一〜二丁目。
  • 高輪 たかなわ 東京都港区南部の地名。近世は東京湾に臨む景勝地。泉岳寺・東禅寺などがあり、明治以降は住宅地。
  • 田町 たまち 東京都港区の田町駅を中心とする、芝・芝浦・三田地域の総称。
  • 高輪御殿 たかなわ ごてん? 現、港区高輪一丁目か。高輪西台町。明治26年、全町域が明治天皇の第六・第七皇女邸(高輪御殿)となり、さらに東宮御所を経て昭和2年(1927)一部が高松宮邸となった。
  • 芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
  • 金杉 かなずぎ 現、港区の東部、古川南岸のJR東海道本線西側一帯にあたる地域の名称。
  • 赤坂 あかさか 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 白金 しろかね 東京都港区の地名。広義には現在の港区白金に白金台・高輪の一部を含めた旧芝白金地区全域を指すことがある。港区の南部に位置し、古川(渋谷川)を隔てて北は南麻布、南は白金台、東は高輪、西は渋谷区恵比寿にそれぞれ接する。
  • 麻布 あざぶ 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称。高級住宅地で外国大公使館などが多い。
  • 金杉橋 かなすぎばし 現、港区浜松町二丁目・芝大門二丁目。古川に架かる。芝金杉通一丁目へ渡した橋。
  • 和泉町 → 青山和泉町か
  • 青山和泉町 あおやま いずみちょう? 現、港区北青山一〜二丁目。
  • 銀座通り
  • 日本橋通り
  • [墨田区]
  • 両国橋 りょうごくばし 隅田川に架かる橋で、東京都中央区東日本橋2丁目と墨田区両国1丁目とを連絡する。1661年(寛文1)完成。1932年鋼橋を架設。長さ165メートル。江戸時代から川開きの花火の名所。
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • 被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
  • 向島 むこうじま 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川と荒川(荒川放水路)に挟まれた江東北部の地。工業地帯。もと東郊の景勝地で、墨堤の桜、百花園、白鬚神社などがある。
  • 寺島 てらじま 村名か。現、墨田区北半、東向島・堤通ほか。旧、向島区地区。大川(隅田川)東岸に位置する。
  • 鐘ヶ淵 かねがふち 東京都墨田区の一地区。元来は木母寺の北、荒川が綾瀬川と近接する地点で、深淵をなす所を指す。伝説に、橋場長昌寺の釣鐘または亀戸普門院の釣鐘がこの淵に沈んだという。
  • 安田邸 → 安田庭園か
  • 安田庭園 やすだ ていえん 現、墨田区横網一〜二丁目。丹波宮津藩松平氏屋敷にあった潮入回遊式庭園。江戸名園の一。安田善次郎邸となって、善次郎の死後、東京市に寄贈。
  • [台東区]
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • 浅草観音 あさくさ かんのん 浅草寺の通称。
  • 浅草寺 せんそうじ 東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像を祀ったのが始まりと伝え、円仁・源頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めた。浅草観音。
  • 谷中 やなか 東京都台東区北西端の地名。下町風の町並みが残り、寺や史跡も多い。
  • 根岸 ねぎし 東京都台東区北部の地区。上野公園の北東。江戸時代には閑静な地で鶯が多かったところから、初音の里といった。
  • 今戸 いまど 東京都台東区北東部の一地区。隅田川に臨み、今戸焼などで有名。
  • 向柳原 むこうやなぎはら 町名。現、台東区浅草橋二〜五丁目・千代田区神田三丁目。
  • [文京区]
  • 根津 ねづ 東京都文京区東部の地区。根津権現がある。江戸時代にはその門前に娼家があって繁昌したが、明治中頃に洲崎へ移された。
  • 帝大 ていだい 帝国大学の略称。
  • 帝国大学 ていこく だいがく 旧制の官立総合大学。1886年(明治19)の帝国大学令により東京大学が帝国大学となり、97年京都帝国大学が設立、その後東北・九州・北海道・京城・台北・大阪・名古屋の各帝国大学が設置。略称、帝大。第二次大戦後、改編され新制の国立大学となった。
  • 東京大学 とうきょう だいがく 国立大学法人の一つ。起源は江戸時代に幕府が設立した開成所(蕃書調所)および医学所(種痘所)。1877年(明治10)東京開成学校と東京医学校とを合併して東京大学創設。86年に帝国大学となり、97年東京帝国大学と改称。1949年旧制の第一高等学校・東京高等学校を合わせて新制の東京大学となる。2004年法人化。文京区(教養学部は目黒区駒場)。
  • 帝大応用化学教室
  • 医化学教室
  • 地震学教室
  • 茗荷谷 みょうがだに 町名。現、文京区小日向四丁目。
  • 根津八重垣町 ねづ やえがきちょう? 旧、根津門前町。現、文京区根津一〜二丁目。明治2(1869)根津八重垣町と改めた。
  • [荒川区]
  • 千住 せんじゅ 東京都足立区南部から荒川区東部にかけての地区。日光街道第1の宿として繁栄した。住宅と中小工場の混在地区。
  • 尾久 おく 「おぐ」か。郷名・村名。現、荒川区東尾久・西尾久。隅田川南岸。
  • 三河島 みかわしま 村名。現、荒川区荒川・町屋ほか。荒川(現隅田川)西岸の低地にある。
  • 消防本部
  • [江東区]
  • 江東 こうとう 東京都隅田川の東岸に沿う地域一帯の名称。23区の一つ。
  • 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 木場 きば 材木商の多く集まっている地域。特に、江戸深川の木場は、元禄(1688〜1704)年間、幕府の許可を得て材木市場を開いたのに始まり、材木問屋が多いことで有名。1974〜76年(昭和49〜51)、大部分が南東方の埋立地の新木場に移転。
  • 越中島 えっちゅうじま 東京都江東区南西部の地区。江戸初期、榊原越中守の別邸所在地。隅田川河口東岸に位置し、1875年(明治8)日本最初の商船学校(現、東京海洋大学)が設置された。
  • 早稲田大学 わせだ だいがく 私立大学の一つ。前身は1882年(明治15)大隈重信が創設した東京専門学校。1902年現校名に改称。20年大学令による大学となり、49年新制大学。本部は東京都新宿区。
  • 陸軍士官学校 りくぐん しかんがっこう 陸軍の士官候補生および准士官・下士官を教育した学校。1874年(明治7)東京市ヶ谷に設置、敗戦時は神奈川県座間にあった。略称、陸士。
  • 学習院 がくしゅういん 私立学校の一つ。1847年(弘化4)公家子弟の教育のために京都に開講された学習院が起源。皇族・華族のために77年(明治10)東京で再開。84年宮内省の直轄。85年女子部が華族女学校として独立(後の女子学習院)。1947年女子学習院を併合して学校法人となり一般に開放。49年旧制高等科を母体として新制の学習院大学を設置。本部は東京都豊島区。
  • 東京高等工業学校 → 東京工業大学
  • 東京工業大学 とうきょう こうぎょう だいがく 国立大学法人の一つ。前身は1881年(明治14)創立の東京職工学校。その後東京工業学校、東京高等工業学校を経て、1929年東京工業大学となり、49年新制大学。2004年法人化。本部は目黒区。
  • [板橋区]
  • 板橋 いたばし 東京都23区の一つ。もと中山道第一番目の宿駅の所在地。
  • 王子町 おうじまち かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。1908年(明治41年)の町制施行によって誕生した。現在の東京都北区中部に当たる地域。
  • 柳町
  • 荒川 あらかわ 関東平野を流れる川。奥秩父の西部、甲武信ヶ岳に発し、秩父盆地を流れて関東平野に出て、埼玉県の中部を貫き、下流は荒川放水路(荒川本流)・隅田川となって東京湾に注ぐ。長さ173キロメートル。
  • [江戸川区]
  • 小松川 こまつがわ 東京都江戸川区北西部の一地区。江戸川区北西部に位置し、荒川・中川をもって同区本土から分離されている町域は東・南・西を河川に囲まれ、北隣の平井の他に陸続きでは移動できない。町域南半は公園が多く立地している。
  • [千代田区]
  • 中央気象台 ちゅうおう きしょうだい 気象庁の前身に当たる官庁。1875年(明治8)東京気象台として創立、87年中央気象台と改称。
  • 気象庁 きしょうちょう 気象事業を統轄する官庁。中央気象台を1956年に昇格改称、国土交通省の外局。国内の気象をはじめとする自然現象を観測し、それを国外資料とともに収集・解析・配布し、気象・地震関連の予報警報等を発する。また、気象事業を統轄し、気象業務についての国際協力、民間気象業務の支援をも行う。
  • 麹町区 こうじまちく 現、千代田区の南西部を占める。
  • 元衛町 → 神田橋内元衛町か
  • 神田橋内元衛町 かんだばしない もとえいちょう 現、千代田区大手町一丁目。
  • 大手町 おおてまち 東京都千代田区東部の地区。地名は江戸城大手門の門前に因む。丸の内に続く日本最大級のビジネス街。
  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 丸ノ内 まるのうち 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
  • 東京会館 とうきょうかいかん 株式会社東京會舘。宴会場、結婚式場、レストランを経営する会社。贈答用の洋菓子や料理缶詰の販売も手がけている。1920年(大正9年)4月24日に設立され、1922年(大正11年)11月1日竣工。フランス料理のレストランと宴会場を持った。本社でもある丸の内本館は、東京都千代田区丸の内の皇居近くにある。
  • 三輪化学研究所 みつわ-
  • 一高 → 第一高等学校か
  • 第一高等学校 だいいち こうとうがっこう 旧制官立高等学校の一つ。前身は1877年(明治10)設立の東京大学予備門。86年中学校令により第一高等中学校。94年高等学校令により3年制高校。1935年東京、向丘から駒場に移転。49年新制東京大学の教養学部として統合。略称、一高。
  • 地質調査所
  • 済生会病院
  • 済生会 さいせいかい 恩賜財団済生会の略称。1911年(明治44)明治天皇の下賜金を基本として発足。52年社会福祉法人に改組。全国に医療・保健・福祉等の施設を有する。
  • 郵船ビルディング
  • 丸ノ内ビルディング
  • 銀行集会所
  • 興業銀行 こうぎょう ぎんこう 日本興業銀行の略称。
  • 日本興業銀行 にほん こうぎょう ぎんこう もと特殊銀行の一つ。株券・債券の流通を円滑にし、長期設備資金の融資を目的として、1902年(明治35)設立。52年以後は長期信用銀行の一つとして、比較的長期の設備資金の貸付を行う。略称、興銀。2002年第一勧業銀行・富士銀行と合併し、みずほ銀行となる。
  • 田中大川事務所
  • 陸地測量部 りくち そくりょうぶ 日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった。前身は兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局(地図課及び測量課が昇格した)で、明治21年5月14日に陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁として設置された。
  • 三菱合資会社 旧、長崎製鉄所。1893年(明治26) 「三菱合資会社三菱造船所」と改称。現、三菱重工業長崎造船所。
  • 市政調査会
  • [品川区]
  • 品川 しながわ 東京都23区の一つ。もと東海道五十三次の第1の宿駅で、江戸の南の門戸。
  • 八ツ山 やつやま 現、品川区か。北品川・西品川。
  • [大田区]
  • 大森 おおもり 東京都大田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • [伊豆七島]
  • 大島 おおしま 東京都の伊豆七島の最大島。伊豆半島の東方にある。通称、伊豆大島。面積91平方キロメートル。椿油を産する。三原山がある。
  • [神奈川県]
  • 川崎 かわさき 神奈川県北東部の市。政令指定都市の一つ。北は六郷川(多摩川)を隔てて東京都に、南西は横浜市に隣接。海岸に近い地区は京浜工業地帯の一部、内陸地区は住宅地。昔は東海道の宿駅。人口132万7千。
  • 明治製糖工場
  • 東京電気工場
  • 横浜 よこはま 神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港以来生糸の輸出港として急激に発展。現在、全国一の国際貿易港。人口358万。
  • 鶴見 つるみ 横浜市北東部の区。昔、渡り鶴が多く見られたという。現在、臨海地域は埋立による大工場地帯。曹洞宗大本山総持寺がある。
  • 生麦 なまむぎ 横浜市鶴見区の一地区。
  • 子安 こやす 村名か。旧、東子安村・西子安村。現、神奈川区入江・子安台・新子安・子安通ほか。
  • 神奈川 かながわ 横浜市の区の一つ。その中心をなす旧神奈川町は、もと東海道五十三次の一つで、神奈川条約締結の地。
  • 磯子 いそご 村名。現、磯子区磯子。東は海に臨む。
  • 厚木 あつぎ 神奈川県中央部の市。相模平野の中心地。東方の綾瀬市・大和市に米軍の厚木航空基地がある。人口22万2千。
  • 茅ヶ崎 ちがさき 神奈川県南部の相模湾に面した市。湘南の保養・住宅地。工場も進出。人口22万8千。
  • 馬入川 ばにゅうがわ 神奈川県中部を南流する相模川の下流の称。
  • 相模川 さがみがわ 神奈川県の中部を流れる川。山梨県山中湖に発源し、上流を桂川、相模に入って相模川といい、下流を馬入川という。長さ109キロメートル。
  • 鳥井戸 とりいど 橋名か。鳥井戸橋。現、茅ヶ崎市南湖。西境千ノ川に架かる。
  • 辻堂 つじどう 村名。現、藤沢市辻堂。南は相模湾に臨み、引地川右岸の低地に位置し、南部は砂丘地。北部を東海道・大山道が通る。
  • 大船 おおふな 神奈川県鎌倉市北部の大船駅東口(商店街)を中心とする地域。古来湿地帯に丘が点在する。
  • 鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
  • 八幡宮 → 鶴岡八幡宮
  • 鶴岡八幡宮 つるがおか はちまんぐう 鎌倉市雪ノ下にある元国幣中社。祭神は応神天皇・比売神・神功皇后。1063年(康平6)源頼義が石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷鶴岡に勧請し、1180年(治承4)源頼朝が今の地に移して旧名をうけついだ。源氏の氏神として尊崇された。鎌倉八幡宮。
  • 島津邸
  • 笹目が谷 ささめがやつ 佐々目ヶ谷。現、鎌倉市。長楽寺ヶ谷の北方、御成中学校の西麓の谷をいう。「笹目」と書くのは近世以降のことと思われる。
  • 戸塚 とつか 横浜市西部の区。東海道の宿駅から発達し、現在は住宅地域であるが、工場の進出も著しい。
  • 横須賀 よこすか 神奈川県南東部の市。三浦半島の東岸、東京湾の入口に位置する。元軍港で、鎮守府・東京湾要塞司令部・造船所などがあった。現在、米海軍・自衛隊の基地、自動車工場がある。人口42万6千。
  • 横須賀海軍部 横須賀海軍工廠か? 横須賀鎮守府か? 横須賀半島部。
  • 三浦半島 みうら はんとう 神奈川県南東部にある半島。南方に突出して東京湾と相模湾とを分ける。東岸には金沢八景・横須賀・浦賀など、西岸には鎌倉・逗子・葉山・三浦などがある。
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • 大磯 おおいそ 神奈川県南部、中郡にある町。東海道五十三次の一つ。1885年(明治18)日本で最初の海水浴場が開かれた地。
  • 油壷 あぶらつぼ 神奈川県三浦市、三浦半島の南端にある地。東大三崎臨海実験所・水族館・ヨット‐ハーバーなどがある。
  • [静岡県]
  • [駿河] するが 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
  • 伊豆半島 いず はんとう 静岡県東部、駿河湾と相模湾の間に突出する半島。火山・温泉が多く、観光・保養地として発展。富士箱根伊豆国立公園の一部。
  • 初島 はつしま 静岡県熱海市に属する島。市の東方海上10キロメートル。戸数を42戸に定めて増加を許さず、耕地を各戸に均分し共同作業を行なっていたことで有名。現在は観光地化。旧名、端島。
  • 熱海 あたみ 静岡県伊豆半島の北東隅、相模湾に面する市。観光・保養都市。全国有数の温泉場(塩化物泉・硫酸塩泉など)。人口4万1千。
  • 根府川 ねぶかわ 村名。現、小田原市根府川。東は相模湾、三方を根府川山が囲み海に迫る。
  • 東海道 とうかいどう (1) 五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15カ国の称。(2) 五街道の一つ。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。
  • 房総半島 ぼうそう はんとう 千葉県の南半部(安房・上総)をなす半島。東と南は太平洋に面し(外房)、西は三浦半島と共に東京湾を抱く(内房)。海岸は国定公園。
  • [濃尾] のうび 美濃と尾張。
  • 濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • [大阪]
  • 安治川 あじかわ 淀川下流の分流。大阪市堂島の南から南西流して大阪湾に入る。貞享(1684〜1688)年間河村瑞賢が開削。河口部南側に天保山がある。
  • 東横堀 → 東横堀川か
  • 東横堀川 ひがしよこぼりがわ 現、大阪市。東区と南区を南流する川。東区北浜一丁目東端で土佐堀川から分かれて南流し、途中、長堀川を西に分流、南区瓦屋町三丁目で西に直角に折れて道頓堀川となる。
  • [紀州] きしゅう 紀伊国の別称。
  • [紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの)旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
  • 紀伊半島 きい はんとう 近畿地方南部を占める日本最大の半島。東は熊野灘、西部は紀伊水道に面し、黒潮の影響が大。大部分が山地で占められ、雨量の多い吉野・熊野地方は林業が盛ん。
  • [土佐] とさ (1) (古く「土左」とも書く)旧国名。今の高知県。土州。(2) 高知県中部、仁淀川下流に沿う市。高岡平野での野菜・藺草栽培のほか、和紙製造・鰹漁が盛ん。人口3万。
  • [日向] ひゅうが (1) (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。(2) 宮崎県北部の市。旧幕府直轄領。市の北東部にある細島港は天然の良港で京浜・阪神とのフェリーの発着地。人口6万4千。
  • 細島 ほそしま 宮崎県日向市にある字の名称。重要港湾である細島港のうち、細島商業港が帰属する。古くは江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した。現在も妙国寺庭園(国の名勝)や「有栖川征討総督宮殿下御本営跡」(宮崎県指定史跡)をはじめ、有形無形の文化財が多く存在する。
  • [アメリカ]
  • ハワイ火山観測所
  • サンフランシスコ San Francisco アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州の都市。金門海峡南岸に位置し、太平洋航路・航空路の要地。同国屈指の良港をもつ。人口77万7千(2000)。桑港。
  • サンフランシスコ地震 1906年4月18日にサンフランシスコ湾一帯で発生した大地震。M8.3。長さ450kmにわたってサンアンドレアス断層が最大6m右横ずれを起こした。この運動のようすを説明するために弾性反発説が提唱された。地震による死者は約700人と推定されている。サンフランシスコ市に大火災が発生し、被害を拡大した。この地震で動いたサンアンドレアス断層の南端近くで、1989年10月17日にサンフランシスコ市の南東90kmを震源とするロマプリエタ地震(M7.1、死者61人)が発生した。(地学)
  • [南米]
  • ワルパライソ


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)




*年表

  • 元禄一六(一七〇三)一一月二三日 元禄地震。震源は房総半島野島崎沖。M7.9〜8.2。小田原・江戸を中心に倒壊家屋2万戸、死者約5000人。ケンペル「日本誌」にも記述。
  • 宝永四(一七〇七)一〇月四日 きわめて大なる土佐沖地震(宝永地震)。東海地方から四国・九州にかけての地震。震源は東海沖・南海沖の二つと考えられる。M8.4。東海道・紀伊半島を中心に倒壊6万戸、流失2万戸、死者約2万人。
  • 安政元(一八五四)一一月四日 朝、駿河沖大地震(安政東海地震)。震源地遠州灘沖。M8.4。死者約2000〜3000人。
  • 安政元(一八五四)一一月五日 夕方、紀州沖大地震(安政南海地震)。震源地土佐沖。M8.4。死者数千人。
  • 安政二(一八五五)一〇月二日 江戸地震。震源地江戸川河口。M6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。
  • 明治二七(一八九四)三月二二日 根室沖大地震。
  • 明治二七(一八九四)六月一五日 三陸大地震。M8.5。死者2万1915名。
  • 明治二七(一八九四)六月二〇日 明治東京地震。東京湾を震源として発生した直下型地震。東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に被害をもたらした。地震の規模はM7.0。死者31人、負傷者157人(Wikipedia)。
  • 明治三九(一九〇六)四月一八日 サンフランシスコ地震。
  • 明治三九(一九〇六)八月一七日 南米ワルパライソ大地震。
  • 大正一二(一九二三)
  • 九月一二日 午前、自動車をとばして被害状況を瞥見。午後、震災予防調査会を開く、出席者十七名。
  • 九月一三日 中村清二博士・寺田博士〔寺田寅彦か〕・佐野博士〔佐野利器か〕と地震学教室に集まって打ち合わせ。
  • 九月一四日 午後より委員会を開く。出席者十五名。
  • 九月一五日 終日教室にあって、昨日の委員会の結果を整理。
  • 九月一六日 午後、水沢臨時緯度観測所から応援にこられた池田氏と、根津谷中・根岸方面の調査。
  • 九月一七日 今日から震災予防調査会において自動車一台借り入れることになり、午前は池田氏らと千住までの調べをなし、午後は寺田委員らと浅草・今戸あたりまで調査。
  • 九月一八日 午前、消防本部におもむき、新たに委員に加わった緒方氏に面会。午後、中村・寺田・諸委員と和泉町ならびに向柳原の焼け残りを見、さらに本所・深川をへて小松川までを調査。
  • 九月一九日 午後から各委員と麹町・赤坂方面における焼け止まりの場所の研究。
  • 九月二〇日 中村・寺田・池田諸氏と横浜まで調査。
  • 九月二一日 丸ノ内、諸建築を見学。芝方面にまわり焼け止まり条件を調査。
  • 九月二二日 地質調査所を訪う。昼から中村・寺田の諸委員と本所・深川方面を調査し、小松川まで行く。
  • 九月二三日 汽車にて茅ヶ崎・鎌倉を調査。
  • 九月二四日 暴風雨につき室内調査をなす。加藤委員ら、伊豆半島ならびに三浦半島の調査を終えて帰る。
  • 九月二五日 三菱合資会社、五千円を寄付。ハワイ火山観測所長ジャッガー博士(Dr. Jaggar)来訪。油壷験潮儀記録の写しが届く。
  • 九月二六日 「第一回調査報告」を作成。
  • 九月二七日 中村・寺田らの諸委員と本所・被服廠跡・安田邸などに行き旋風研究をなす。
  • 九月二八日 茗荷谷・白金あたりを調査。
  • 九月二九日 午前、深川方面を調査し、午後、市勢調査会〔市政調査会の誤り〕におもむき会の幹部ならびにジャッガー博士と意見交換。震災予防調査会の現在の調査成績を説明。
  • 九月三〇日 深川方面を調査。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
  • 中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 震災予防調査会特別委員。/物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。(Wikipedia)
  • 寺田博士 特別委員 → 寺田寅彦か
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  • 佐野博士 特別委員 → 佐野利器か
  • 佐野利器 さの としかた 1880-1956 建築学者。山形県生れ。東大教授。関東大震災後、帝都復興院理事。技術重視の建築思想を提唱し、耐震構造の理論を開拓。
  • 志田 → 志田順か
  • 志田順 しだ とし 1876-1936 地球物理学者。千葉県生れ。京大教授。地球の剛性および地震動の研究に貢献。
  • 中村(左)
  • 井上 地質調査所長委員。
  • 加藤 → 加藤武夫か
  • 加藤武夫 かとう たけお 1883-1949 地質学者、理学博士。山形県に生まれる。加藤謹吾の長男。東京帝大理科大学地質学科卒業。同講師をへて欧米諸国に留学。大正9(1920)東京帝大教授に任ぜられて鉱床地質学講座を担任。その足跡は世界各地に及び、その豊富な見聞のもとに著した『鉱床地質学』は長く新進学徒の好指針となった。このほか『岡山県棚原鉱山の研究』『本邦に於ける火成活動と鉱床生成時代の総括』『本邦硫黄鉱床の総括』などがある。(日本人名)/帝大地震学教授、震災予防調査会委員。
  • 岡田 → 岡田武松か
  • 岡田武松 おかだ たけまつ 1874-1956 気象学者。千葉県生れ。中央気象台長。日本の気象事業の確立に貢献。文化勲章。
  • 曽根
  • 内田 → 内田祥三か
  • 内田祥三 うちだ よしかず 1885-1972 建築学者。東京生れ。東大教授、のち総長。関東大震災後の都市計画に業績をあげる。文化勲章。
  • 内藤
  • 竹内
  • 堀越
  • 笠原
  • 柴垣
  • 那波
  • 物部 もののべ → 物部長穂か
  • 物部長穂 もののべ ながほ 1888-1941 土木工学者、工学博士。秋田県仙北郡生まれ。大正元(1912)内務省技師となり、9年、欧米諸国に留学。14年には『構造物の震動に関する研究』によって帝国学士院より恩賜賞を贈られた。耐震土木建築の権威。このほか、内務省土木試験所長、東大教授などを歴任。(日本人名)
  • 原田
  • 緒方 消防部長。
  • 片山 大学化学教授。
  • 大島 大学化学教授。
  • 渋沢 しぶさわ 電気工場監督。
  • 田島 東京市助役。
  • 末広 → 末広恭二か
  • 末広恭二 すえひろ きょうじ 1877-1932 造船工学者。旧、東京市芝区浜松町生まれ。末広重恭の次男。明治33年9月、長崎三菱造船所に入社、35年、東京帝国大学工科大学助教授に任ぜられ、力学講座を分担。42年独英留学、44年9月帰朝。同年11月教授に進み、造船学第三講座を担任。大正7年11月、地震研究所所長。日本の造船工業の発展に寄与。享年56。(日本人名・人レ)
  • 竹中
  • 古市 男爵。 → 古市公威か
  • 古市公威 ふるいち こうい 1854-1934 土木工学者。江戸の生れ。工科大学(現、東大工学部)学長。近代土木技術の確立、土木行政の改善、土木法規の制定などに寄与。
  • 池田 水沢臨時緯度観測所から応援。
  • 小端 理科学生。
  • 松浦伯爵
  • 藤井氏 同窓であった研究所長。
  • 板橋理学士 同学。
  • 大橋理学博士 学生中、今村が保証人。
  • 松宮久兵衛
  • 鈴木 鉄道技師。
  • ジャッガー Dr. Jaggar 
  • ジャッガー夫人
  • 三角課長 みすみ
  • 後藤子爵 市勢調査会長。
  • 小川 → 小川琢治か
  • 小川琢治 おがわ たくじ 1870-1941 地質学者・地理学者。和歌山県生れ。湯川秀樹の父。京大教授。中国の地理学・天文学に造詣が深かった。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『国史大辞典』(吉川弘文館)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『科学知識』 雑誌。
  • 『震災予防調査会報告』第七十七号


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 瞥見 べっけん ちらりと見ること。
  • 経常費 けいじょうひ 毎年きまって支出する経費。←→臨時費。
  • 裨益 ひえき おぎない益すること。たすけとなること。役に立つこと。
  • 春秋の筆法 しゅんじゅうの ひっぽう 「春秋」のように批判の態度が中正できびしいこと。また、間接の原因を直接の原因であるようにいう論法。
  • 献言 けんげん 意見を申し上げること。また、その意見。進言。
  • 地震記象 じしん きしょう (seismogram)地震動を地震計で記録したもの。
  • 爾後 じご この後。その後。それ以来。
  • 燐ナトリウム りん ナトリウム 燐酸ナトリウムか。ナトリウムの燐酸塩。化学式 Na3PO4 十二水塩、十水塩、六水塩、〇・五水塩、無水塩などが知られ、洗浄剤、皮なめし剤、硬水の軟化剤などに用いる。
  • ローム loam (1) 壌土。(2) 風成火山灰土の一種。関東ロームが代表的で、10メートルに達する層をなす。酸化鉄に富み、赤褐色。赤土。
  • 踏査 とうさ 実際にその地へ出かけていって調査すること。
  • 震力
  • 平押し ひらおし 一気に押し進むこと。
  • 梁木 りょうぼく 体操用具の一種。地上に2本の高い柱を立て、その柱の頂に横木をわたし、その上を渡り歩くもの。
  • 梁 はり 上部の重みを支えるため、あるいは柱を固定するために柱上に架する水平材。桁と梁とを区別して、棟と直角にかけたもののみを指すこともある。うつばり。/柱の上に渡して屋根などを支える横木。はり。うつばり。「桁」に対して、棟木に直角方向のものをいうことが多い。
  • 蝋燭石 ろうそくせき → 蝋石?
  • 蝋石 ろうせき 脂肪光沢と石蝋様触感のある岩石や鉱物の総称。葉蝋石・滑石・凍石など。非晶質で緻密塊状。デイサイトや石英斑岩が変質してできたと考えられる。
  • 潮候 ちょうこう 潮の変化する時刻。潮どき。
  • 起震帯 きしんたい
  • 披見 ひけん 文書などをひらいて見ること。
  • 外間 がいかん 当局者以外の人々の間。その事に関係のない人々。
  • 闡明 せんめい はっきりしていなかった道理や意義を明らかにすること。
  • 曙光 しょこう (2) 暗黒の中にわずかに現れはじめる明るいきざし。前途に望みが出はじめたことにいう。
  • 浩瀚 こうかん (「浩」も「瀚」も広大の意)書籍の大部なこと。また、書籍の多いこと。
  • 想到 そうとう 考えが及ぶこと。考えつくこと。
  • 街衛 がいえ
  • 溝渠 こうきょ 給水または排水のため、水を通ずるように掘ったものの総称。みぞ。
  • 流止水
  • 敷衍・布衍 ふえん (1) のべひろげること。ひきのばすこと。展開。(2) 意義を広くおしひろげて説明すること。わかりやすく言い替えたり詳しく説明したりすること。
  • 辞去 じきょ わかれを告げて立ち去ること。
  • 外側地震帯 がいそく じしんたい 日本列島の太平洋沿岸沖に沿って帯状に続く地震多発地帯。日本に大きな損害を与える地震は、この地帯に発生したもので、津波を伴いやすい。←→内側地震帯
  • 災禍 さいか (地震・台風・火事などによる)わざわい。災害。
  • 披瀝 ひれき (披(ひら)き瀝(そそ)ぐ意)心中の考えを包むことなくうちあけること。
  • 隣保 りんぽ (1) となり近所の人々。(2) 近隣の人々によって組織された互助組合。
  • 速成 そくせい 速やかになしとげること。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 サッカーボール、バレーボール、アラスカへ漂着。住民が発見。
 遠き島より流れよる椰子の実ひとつ。
 ボール、空気、球形、浮遊、シェルター、エアバッグ……

 明治二七年(一八九四)。
 三月二二日に根室沖大地震、六月一五日に三陸大地震、おなじく六月二〇日に明治東京地震。
 明治東京地震の震源は東京湾。大正一二年(一九二三)関東大震災の震源は相模湾北西沖。ふたつの間は二十九年間。関東大震災から今年でちょうど八十九年。

 『図説 福島県の歴史』(河出書房新社、1989.10)読了。以下「南奥州の武士団」(p100〜)より。
 文治五年(一一八九)八月七日、源頼朝の軍は陸奥国伊達郡の国見宿に到着(『吾妻鑑』)。翌八日から阿津賀志山の合戦が始まる。
 合戦の論功行賞で、東海道大将軍をつとめた下総の豪族、千葉常胤の一族は、街道の好島庄・行方郡と亘理郡および宮城郡・黒川郡(以上、現宮城県)にわたる郡庄の地頭職を与えられた。常胤の次男相馬師常が行方郡(現、相馬郡)を与えられて奥州相馬氏の祖となり、また常胤とその四男大須賀胤信はあいついで好島庄の預所職となる。
 好島庄(よしまのしょう)とはいわき市の平(たいら)市街以北の広大な地域の鎌倉期の呼称。庄園領主は山城国の石清水八幡。事実上は、鎌倉将軍家の所領=関東御領。相馬氏初代当主、師常(もろつね)の子孫が行方郡に移るのは鎌倉期すえのころ(Wikipedia「相馬氏」によれば6代重胤のとき)。
 
 ここからが問題。以来、徳川幕末までおよそ七〇〇年間、相馬氏が陸奥相馬を所領していたわけだけれども、その間、大地震や大津波を経験したことはなかったのだろうかということ。
 仮に今回のような震災と津波を経験したとすれば、家伝として記録がないほうが不自然。記録はあったけれども津波や戦災などで失ったのか。それとも、記録は現存するけれども人知れず埋もれたままなのか。それとも、七〇〇年間ほんとうに地震や津波に見舞われたことがなかったということなのか。




*次週予告


第四巻 第四一号 
大地震調査日記(三)今村明恒

第四巻 第四一号は、
二〇一二年五月五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四〇号
大地震調査日記(二)今村明恒
発行:二〇一二年四月二八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
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    ※ おわびと訂正
     長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ

  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  •  原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
  •  ユネスコと科学
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  •  J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと 
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  •  総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
  •  ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
  • 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
  • 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
  • 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
  • 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
  • 第三〇号 『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空
  • 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  二八 猟(りょう)
  •  二九 毒虫
  •  三〇 毒
  •  三一 マムシとサソリ
  •  三二 イラクサ
  •  三三 行列虫
  •  三四 嵐(あらし)
  •  三五 電気
  •  三六 ネコの実験
  • 「さて、ここにその空気よりはもっとかくれた、もっと眼に見えない、もっと見あらわしにくいものがある。それはどこにもある。かならずどこにもある。わたしたちの体の中にさえある。だがそれは、お前たちが自分がそれを持っていることに今もまだ決して気がつかないくらいに、静かにしているのだ。(略)
  • 「お前たちだけで一日じゅうさがしても、一年じゅうさがしても、たぶん一生かかっても、それはムダだろう。お前たちには見つけ出すことはできまい。そのわたしの話している物は、別段によく隠れている。学者たちは、それについてのいろんなことを知るために、非常にめんどうな研究をした。わたしたちは、その学者たちがわたしたちに教えてくれた方法をもちいて、手軽にそれを引っぱり出してみよう。
  •  ポールおじさんは、机から封蝋(ふうろう)の棒を取って、それを上着のそでで手早くこすりました。それからそれを、小さな紙きれに近づけました。子どもたちはそれを見つめています。見ると、その紙は舞いあがって封蝋の棒にくっつきました。その実験を、いくどもくりかえしました。そのたびに紙きれは、ひとりで舞い上がって棒にくっつきます。
  • (略)この見えないものを、電気というのだ。ガラスのかけらや、硫黄、樹脂、封蝋などの棒を着物にこすりつけて、それで電気をおこすことはお前たちにもたやすくできることだ。それらの物は摩擦をすると、小さな藁(わら)きれや紙のきれっぱしや、ほこりのような軽いものを引きつけるもちまえを出すのだ。もし、うまいぐあいにゆけば、今夜、ネコがそのことについて、もっとよくわたしたちに教えてくれるだろう。
  • 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  三七 紙の実験
  •  三八 フランクリンとド・ロマ
  •  三九 雷(かみなり)と避雷針
  •  四〇 雲(くも)
  •  四一 音の速度
  •  四二 水差(みずさ)しの実験
  •  四三 雨
  •  四四 噴火山
  •  四五 カターニア
  •  
  • 「もし、噴火山の近所に町があったら、その火の河はそこへ流れこんでこないでしょうか? そして灰の雲がその町をうめてしまいやしないでしょうか?」とジュールが聞きました。
  • 「不幸にしてそんなこともありえる。そしてまた、実際ありもした。(略)
  • 「そうだ。今から二〇〇年ほどむかしのこと、シチリアに歴史上もっとも激しい大噴火がおこった。激しい暴風雨(あらし)があった後で、たくさんの馬が一時にドッとたおれるような強い地震が夜じゅうつづいた。木は葦が風になびくようになぎ倒され、人はたおれる家の下におしつぶされないように気狂いのように野原へ逃げようとしたが、ふるえる地上に足場を失って、つまずき倒れた。ちょうどそのとき、エトナは爆発して四里ほどの長さに裂けて、この割れ目に沿うてたくさんの噴火口ができ、爆発のおそろしい響きともろともに、黒煙と焼け砂とを雲のように吐き出した。やがて、この噴火口の七つが、一つの深い淵のようになって、それが四か月間雷鳴したり、うなったり、燃えかすや溶岩を噴き出した。(略)
  • 「そのうちに溶岩の河は山のすべての裂け目から流れ出して、家や森や作物をほろぼしながら平原のほうへ流れて行った。この噴火山から数里離れた海岸に、じょうぶな壁にとりかこまれたカターニアという大きな町があった。火の河はとうとう数か村を飲みつくして、カターニアの壁の前まできた。そしてその近郊にひろがって行った。(略)
  • 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
  •  翌日も水道はよく出なかった。そして新聞を見ると、このあいだできあがったばかりの銀座通りの木レンガが雨で浮き上がって破損したという記事が出ていた。多くの新聞はこれと断水とをいっしょにして、市当局の責任を問うような口調をもらしていた。わたしはそれらの記事をもっともと思うと同時に、また当局者の心持ちも思ってみた。
  •  水道にせよ木レンガにせよ、つまりはそういう構造物の科学的研究がもう少し根本的に行きとどいていて、あらゆる可能な障害に対する予防や注意が明白にわかっていて、そして材料の質やその構造の弱点などに関する段階的・系統的の検定を経たうえでなければ、だれも容認しないことになっていたのならば、おそらくこれほどの事はあるまいと思われる。
  •  長い使用にたえない間にあわせの器物が市場にはびこり、安全に対する科学的保証のついていない公共構造物がいたるところに存在するとすれば、その責めを負うべきものはかならずしも製造者や当局者ばかりではない。 (「断水の日」より)
  •  火山から噴出した微塵が、高い気層に吹き上げられて高層に不断に吹いている風に乗っておどろくべき遠距離に散布されることは珍しくない。クラカトア火山の爆破のときに飛ばされた塵は、世界中の各所に異常な夕陽の色を現わし、あるいは深夜の空にうかぶ銀白色の雲を生じ、あるいはビショップ環と称する光環を太陽の周囲に生じたりした。近ごろの研究によると火山の微塵は、あきらかに広区域にわたる太陽の光熱の供給を減じ、気温の降下をひきおこすということである。これに連関して飢饉と噴火の関係を考えた学者さえある。 (「塵埃と光」より)
  • 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
  •  肝心の石油ランプはなかなか見つからなかった。粗末なのでよければ田舎へ行けばあるだろうとおもっていたが、いよいよあたってみると、都に近い田舎で電灯のないところは、いまどきもうどこにもなかった。したがってそういうさびしい村の雑貨店でも、神田本郷の店屋とまったく同様な反応しか得られなかった。
  •  だんだんに意外と当惑の心持ちが増すにつれてわたしは、東京というところは案外に不便なところだという気がしてきた。
  •  もし万一の自然の災害か、あるいは人間の故障、たとえば同盟罷業やなにかのために、電流の供給が中絶するようなばあいがおこったらどうだろうという気もした。そういうことは非常にまれな事とも思われなかった。一晩くらいならロウソクで間にあわせるにしても、もし数日も続いたらだれもランプが欲しくなりはしないだろうか。
  •  これに限らず一体にわれわれは、平生あまりに現在の脆弱な文明的設備に信頼しすぎているような気がする。たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電流やガスの供給が絶たれて狼狽することはあっても、しばらくすれば忘れてしまう。そうしてもっとはなはだしい、もっと長続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にあることは考えない。
  •  人間はいつ死ぬかわからぬように、器械はいつ故障がおこるかわからない。ことに日本でできた品物にはごまかしが多いからなおさらである。 (「石油ランプ」より)
  • 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
  •  しかし、このような〔火災〕訓練が実際上、現在のこの東京市民にいかに困難であろうかということは、試みにラッシュアワーの電車の乗降に際する現象を注意して見ていても、ただちに理解されるであろう。東京市民は、骨を折っておたがいに電車の乗降をわざわざ困難にし、したがって乗降の時間をわざわざ延長させ、車の発着を不規則にし、各自の損失を増すことに全力をそそいでいるように見える。もし、これと同じ要領でデパート火事の階段にのぞむものとすれば、階段は瞬時に、生きた人間の「栓」で閉塞されるであろう。そうしてその結果は、世にも目ざましき大量殺人事件となって世界の耳目を聳動するであろうことは、まことに火を見るよりもあきらかである。 (「火事教育」より)
  •  
  • (略)そうして、この根本原因の存続するかぎりは、将来いつなんどきでも適当な必要条件が具足しさえすれば、東京でもどこでも今回の函館以上の大火を生ずることは決して不可能ではないのである。そういう場合、いかに常時の小火災に対する消防設備が完成していても、なんの役にも立つはずはない。それどころか、五分、一〇分以内に消し止める設備が完成すればするほど、万一の異常の条件によって生じた大火に対する研究はかえって忘れられる傾向がある。火事にもかぎらず、これで安心と思うときにすべての禍(わざわ)いの種が生まれるのである。 (「函館の大火について」より)
  • 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
  •  このように、台風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方の安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見える。しかし、逆説的に聞こえるかもしれないが、その同じ台風はまた、思いもかけない遠い国土と日本とを結びつける役目をつとめたかもしれない。というのは、この台風のおかげで南洋方面や日本海の対岸あたりから意外な珍客が珍奇な文化をもたらして漂着したことがしばしばあったらしいということが、歴史の記録から想像されるからである。ことによると日本の歴史以前の諸先住民族の中には、そうした漂流者の群れが存外多かったかもしれないのである。(略)
  •  昔は「地を相する」という術があったが、明治・大正の間にこの術が見失われてしまったようである。台風もなければ烈震もない西欧の文明を継承することによって、同時に、台風も地震も消失するかのような錯覚にとらわれたのではないかと思われるくらいに、きれいに台風と地震に対する「相地術」を忘れてしまったのである。 (「台風雑俎」より)
  •  
  •  無事な日の続いているうちに突然におこった著しい変化をじゅうぶんにリアライズするには、存外手数がかかる。この日は二科会を見てから日本橋あたりへ出て昼飯を食うつもりで出かけたのであったが、あの地震を体験し、下谷の方から吹き上げてくる土ほこりのにおいを嗅いで大火を予想し、東照宮の石灯籠のあの象棋倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし弁天社務所の倒壊を見たとき、初めてこれはいけないと思った。そうしてはじめてわが家のことがすこし気がかりになってきた。
  •  弁天の前に電車が一台停まったまま動きそうもない。車掌に聞いても、いつ動き出すかわからないという。後から考えるとこんなことを聞くのがいかな非常識であったかがよくわかるのであるが、その当時、自分と同様の質問を車掌に持ち出した市民の数は万をもって数えられるであろう。 (「震災日記より」)
  • 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
  •  ポチの鳴き声でぼくは目がさめた。
  •  ねむたくてたまらなかったから、うるさいなとその鳴き声を怒っているまもなく、まっ赤な火が目に映ったので、おどろいて両方の目をしっかり開いて見たら、戸だなの中じゅうが火になっているので、二度おどろいて飛び起きた。そうしたら、ぼくのそばに寝ているはずのおばあさまが、何か黒い布のようなもので、夢中になって戸だなの火をたたいていた。なんだか知れないけれども、ぼくはおばあさまの様子がこっけいにも見え、おそろしくも見えて、思わずその方に駆けよった。そうしたらおばあさまはだまったままでうるさそうにぼくをはらいのけておいて、その布のようなものをめったやたらにふりまわした。それがぼくの手にさわったらグショグショにぬれているのが知れた。 「おばあさま、どうしたの?」
  •  と聞いてみた。おばあさまは、戸だなの中の火の方ばかり見て答えようともしない。ぼくは火事じゃないかと思った。
  •  ポチが戸の外で気ちがいのように鳴いている。 (「火事とポチ」より)
  • 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
  •  むかし、京都から諸国修行に出た坊さんが、白河の関をこえて奥州に入りました。磐城国(いわきのくに)の福島に近い安達が原という原にかかりますと、短い秋の日がとっぷり暮れました。
  •  坊さんは一日さびしい道を歩きつづけに歩いて、おなかはすくし、のどは渇(かわ)くし、何よりも足がくたびれきって、この先歩きたくも歩かれなくなりました。どこぞに百姓家でも見つけしだい、頼んで一晩泊めてもらおうと思いましたが、折(おり)あしく原の中にかかって、見わたすかぎりぼうぼうと草ばかり生いしげった秋の野末のけしきで、それらしい煙の上がる家も見えません。もうどうしようか、いっそ野宿ときめようか、それにしてもこうおなかがすいてはやりきれない、せめて水でも飲ましてくれる家はないかしらと、心細く思いつづけながら、とぼとぼ歩いて行きますと、ふと向こうにちらりと明かりが一つ見えました。
  • 「やれやれ、ありがたい、これで助かった。」と思って、一生懸命明かりを目当てにたどって行きますと、なるほど家があるにはありましたが、これはまたひどい野中の一つ家で、軒はくずれ、柱はかたむいて、家というのも名ばかりのひどいあばら家でしたから、坊さんは二度びっくりして、さすがにすぐとは中へ入りかねていました。 (楠山正雄「安達が原」より)
  • 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
  • (略)このとき大地震後三十分、もはや二十人ほどの新聞記者(うち二人は外国人)諸君が自分をかこんで説明を求められている。そこで自分は何の躊躇もなく次のとおり発表した。
  •  発震時刻は午前十一時五十八分四十四秒で、震源は東京の南方二十六里〔約一〇四キロメートル〕すなわち伊豆大島付近の海底と推定する。そうして振幅四寸〔約十二センチメートル〕に達するほどの振動をも示しているから、東京では安政(一八五五)以来の大地震であるが、もし震源の推定に誤りがなかったら一時間以内にあるいは津波をともなうかもしれぬ。それでも波は相模湾の内、ことに小田原方面に著しく、東京湾はかならず無事であろう。また今後、多少の余震は継続せんも、大地震は決してかさねておこるまい。
  •  なお、外国記者の念入りの質問に対して、地震の性質の非火山性にして、構造性なるべきことをつけくわえておいた。
  •  こう発表している真最中、午後〇時四十分に余震中のもっとも強く感じたものの一つが襲来した。(大地震調査日記「九月一日」より)
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  •  帝都復興策に民心を鼓舞している今日、思いおこすことはイタリア、メッシーナ市の復興である。同市は前にも述べたとおり十五年前の大震災により、火災こそおこさなかったとはいえ、市街は全滅して十三万八〇〇〇の人口中八万三〇〇〇は無惨な圧死をとげた。当時は破壊物の取りかたづけでさえ疑われ、自然、イタリア名物の廃虚となるだろうと予想されていた。自分はこの廃虚を訪うつもりで昨年メッシーナに行ってみると、あにはからんや、廃虚どころかこの十四年間に市街は立派に回復され、人口は十五万人をかぞえ、以前にも増した繁昌である。ただし、いつも震災には無頓着なイタリア人もこのときだけはこりたものと見えて、道路をおおいにひろげ、公園を増し、高層家屋をよして、やむなき場合にかぎり三層とし、最多数は二層以下である。それで自分は一見、ああ、これが地震国の都市かなと感じたのである。「大地震雑話」より)

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