今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)


もくじ 
大地震調査日記(一)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
大地震調査日記(一)


オリジナル版
大地震調査日記(一)


地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学 / 地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html





大地震調査日記(一)

今村明恒


 この夏季を利用して、自分は北海道ならびに東北地方の火山調査に行った。八月二十二日には樽前山たるまえさんに登ったが、この数日来、噴煙減少したとのことで注意して登山したものの、霧深くして、せっかくの苦心も水泡に帰した。それで翌二十三日にも登山したが、当日は噴煙まったく途絶し、爆発のおそれ十分にこれありと想像したから、最大の注意をはらい、調査を割愛して二時間も早く切りあげ、そこそこに下山した。途中、札幌小学校の二訓導くんどうに出会い、くれぐれも登山危険の注意をあたえて帰途につける最中、樽前たるまえ果然かぜん爆発をなし、自分にとってはまたと得難い経験であったが、負傷した二訓導には気の毒であった。しかし当時、東京では自分の行方不明を伝えられたとかで心配した筋もあったそうである。そんなことのあったとは知らず月末には帰京して、樽前爆発の写真など助手を相手に整理していると、九月一日正午前にはあのおそろしい大地震。いやいや自分には、あの火山爆発も、あの大地震・大火災もおそろしかったには違いなかったが、しかし最も恐ろしかったのは、夜警の青年団におびやかされたときであった。ああ、なにもかもまったく夢のようである。この三週間の昼夜を分かたぬ悪戦苦闘、連日連夜三、四時間しか睡眠を取り得ぬいそがしさ、今にしてこれを書きつけおかないと、ほんとうに夢になってしまう。そこでついにこれを書きつけることにした。(九月二十日記)

九月一日

 地震学教室に出勤し、爆発の写真もそうとうによく写ったなどと興に入っていると、正午前一分十六秒、あの大地震。しかし、最初はさほど大きなものとは思わなかった。例のとおり着席のまま初期微動を暗算すると十二秒を得た(実際、地震計ははじめに緩慢な波動をかいているし、そのうち一、二秒は人身に感じにくい部に属するから、自分の暗算はあまり違っておらぬ)。ただし、このなかばころより初期微動も著しく大きくなり(近県における測候所、十倍以上地震計の描針のはずれたのもこのころであろう)、いや、これはずいぶん大きいぞとは感じたが、しかしまだあんな大地震とは思わなかった。そうするうちに主要部に入り、軒の瓦がガタついて墜落しはじめたが、振動はかねて期していたものとは異なり、家屋の動揺しだいにはげしく、主要部のはじめから三、四秒目ごろ、すなわち初発から十五、六秒目ごろにいたって、振動もっとも強大を覚え(方向は北西・南東と感じた)家鳴やなりはげしく、軒瓦のきがわら飛び散り、世界一体に騒々そうぞうしくなってきた。教室においても一、二室外に飛び出したものもあったようだが、多数は自分同様、室内におちついていたものもあり、機敏に観測室におもむいたものもあった。東京でたいていこれまで感じた大きな地震では、震動ももうこのあたりで急に小さくなるところであるが、今度のはそうでなかった。すなわち震動最強部に達した後も、ゆらゆら動くことはあまり減退せず、ただ震動の周期がのろくなったくらいのことで、なんだか大船にゆられているような気持ちであった。かくすること二分の後、震動もしだいににぶくなったから、所員をはげまして観測に取りかからしめ、さしあたり大地震に適する地震計の記象紙〔ゆれの記録紙〕数葉すうようを取りよせ調査することにした。
 自分はかねて日本の外側がいそく大地震帯おおじしんたい中、相模沖に相当する部分は、大地震を起こし得べきところでありながら、歴史にその記事なきことにより、将来の大震発生地と想像しておった。そうしてこの想像は多年自分に苦悶くもんの種をまいたところのものであった。今はなき世外がいの老父にまで心配をかけたところのものであった。今、記象を取りよせ、さて震源はどこと考え見た瞬間、いやこれは例のところだぞ。震動の経過は江戸川・東京湾式でないから、てっきりそうであろうと考えた。そうして記象紙を熟視すると、初動の方向といい、初期微動(今度のような大地震では微動でなく、土壁を破壊するほどの震力を持っている。しかし主要部の大震動に比較して、学術上、かく名づけてあるのだ)の継続時間といい、明瞭に自分の予想を裏書きしてくれた。このとき大地震後三十分、もはや二十人ほどの新聞記者(うち二人は外国人)諸君が自分をかこんで説明を求められている。そこで自分は何の躊躇ちゅうちょもなく次のとおり発表した。
 発震時刻は午前十一時五十八分四十四秒で、震源は東京の南方二十六里〔約一〇四キロメートル〕すなわち伊豆大島付近の海底と推定する。そうして振幅四寸〔約十二センチメートル〕に達するほどの振動をも示しているから、東京では安政(一八五五)以来の大地震であるが、もし震源の推定に誤りがなかったら一時間以内にあるいは津波をともなうかもしれぬ。それでも波は相模湾の内、ことに小田原方面に著しく、東京湾はかならず無事であろう。また今後、多少の余震は継続せんも、大地震は決してかさねておこるまい。
 なお、外国記者の念入ねんいりの質問に対して、地震の性質の非火山性にして、構造性なるべきことをつけくわえておいた。
 こう発表している真最中、午後〇時四十分に余震中のもっとも強く感じたものの一つが襲来した。このとき記者の中にはおどろいて屋外に飛び出された人もあったが、自分は室内から笑っていたので、きまり悪げに、もう大丈夫ですかなどと念を押す人もあった。このとき感心したのは、外国記者が自分の姓名・片書かたがきを入念りに、ことに姓はそのつづり方まで問われたことであった。これに反して、内国の新聞には自分を大森博士〔大森房吉。と間違えたのが一つ二つではなかった。先生にもご迷惑のことと苦笑を止め得なかった。
 急務がひととおりかたづいたから、外の模様を見るため玄関口に出ると、瓦がいくつも落ちかかっていたから、これをつき落として出入口を安全にしておいた。まず本郷通りを見ようと思って正門のほうへ足を転ずると、法文学部新館のレンガ建築が蛇腹じゃばらを墜落せしめているのにおどろいたが、なお数歩の後、工学部の応用化学教室が焼けつつあったのにさらにおどろいた。門前に出ると、通りの大学側はすべて民家から飛び出した人をもって埋められ、商店の屋根瓦やねがわらはたいてい擾乱じょうらん墜落し、土壁は多くくずれ落ちた模様であるのみならず、遠く南方には火の手も見える騒ぎである。ここに至って自分ははじめて、こは容易ならぬことである、折悪く風も出ている、かねて自分が苦悶くもんした大火災が現実しなければよいがと念じながら、取って返してその室に入り、樽前たるまえ爆発の写真など取りかたづけているうち、風上にあたる図書館あたりに煙が見え出した。医化学教室から発火し、図書館あやうしとの注進である。自分はかく聞いても中間にある法文の新旧館・教室・八角大講堂などいずれもレンガ建築であり耐火性を信じていたから、自然に鎮火するものと楽観していたが、この想像は刻一刻に裏切られてきた。およそ一時間の後には、勇敢ゆうかんなる職工小使こづかいを指揮して、屋根にのぼり飛び火を防がして、一方、所員を指揮して最も重要な地震記象紙・その他を搬出せしめ、自分も大童おおわらわになって働いているうち、火は隣接の数学教室に燃え移り、わが教室はいよいよ危険にひんした。特に地震のために屋根瓦やねがわらが墜落し、下見したみ柿葺こけらぶきを最も延焼しやすい条件の下に暴露ばくろしているので、ついに三回ほども燃え上がった。しかも一滴の水なしではこころもとないわざではあったが、わが勇敢ゆうかんなる大工君は、下からの指示にしたがい、屋根の上を平地のごとく飛びまわり、応接にいとまなき飛び火をもみ消し、はき落とし、かなり燃え上がったこけらかたまりをめくり取って捨てたこと三度におよんだ。このきわどき芸当をやること、二十分にもおよんだろうか。折よく風向きが変わりはじめて火はしだいに西になびき、ついに危地を脱することができた。この間、運動場側にある観測室が危ないとの注進もあったが、どうすることもできずそのままにしておいたから、形勢を見せにやると、化学教室の力で防ぎ止めたとのこと。そのうえ風はいっそう強くはなったが、反対に北にまわったので理学部本館も安全となったのは午後六時ごろであった。この間、自宅のことが案ぜられないでもなかったが、四時ごろに長男が自転車を飛ばして無事を報じてくれたのではじめて安心したものの、家はぶれんばかりに傾いたとのことだから、帰宅するまで外にいよと命じておいた。まずまず危機を脱し得たので、さらに外方おもての模様を展望するため、新築中の工学部教室屋上に出て見ると、まったく言いようのない凄惨せいさんな景況、南面して左からかぞえると上野の山を越えたかなたから、右の方麹町こうじまち・新宿方面にいたるまで、紅蓮ぐれんき出す煙は入道雲のごとくうずまきかえり、その数二十幾条、二重三重にもなって目の届かぬものもあろう。おりしく風も強い。あああ、これではかねて学術的根拠のない浮説、治安を妨害する憶説とあざけられた自分の想像が現出するのではあるまいか、なんたる不幸なことであろうと思いながら、しおしおと教室に帰ると、まもなく付属観測室ふたたびあやうしとの注進、よしきたとばかりに、例の勇敢ゆうかんな大工君をはげまし、梯子はしごをかついでかけつける。いったいこの棟が焼ければ、化学教室は助からぬ。そうなると病院があぶない。そこで、このときばかりは応援がじゅうぶんにあった。化学はもちろん、近藤病院長についで入沢学長もくる。医科の一助手君が屋根にのぼって、わが大工君を圧倒する働きぶり、中にも一個中隊ほどの看護嬢が、池の水をくんでくる。火も水にあっては往生、たちまち消し止められた。ときに午後九時。
 やや心もおちついてくると、飢渇きかつの感じが台頭してくる。朝めしのままの空腹を、友人大谷文学士の好意によってしのぎ得たのは十時ごろであった。
 搬出物の始末もついたから、遠くに住む所員をまず帰らせ、家の顧慮こりょの少なき所員で徹夜観測することとし、十一時に門を出たが、途中、本郷南方の火災は今たけなわであるところから、はるかに迂回して東大久保の自宅にたどりついたのは二日の午前一時。家を検査してみると、ビクともしない丈夫じょうぶ加減かげん、隣家両三軒にもはや大地震の心配なきことを説き、家人をはげまして屋内に眠らしめた。

九月二日

 早朝、リュックサックを負い登山服装甲斐々かいがいしく、地震学教室に出勤。保田助手の一ツ橋官舎ならびに歴史的沿革を有する一ツ橋観測室焼失、その他職工二名焼き出され、助手もたいてい自宅の損害のため家族をまとむるにいそがしく、忠実なる助手神永氏と二人にて終日観測を続け記象の整理をなす。この日、頻々ひんぴんにくる余震にて一倍半の地動計の描針を折らるること幾回なるを知らず、神永助手は根よくこれを修理した。
 外は大学構内に逃げこむ避難の市民によってますます雑踏ざっとうしてくる。不安におもい外の形勢をのぞいて見ると、上野うえの広小路ひろこうじの松坂屋がまさに危険に瀕している。西側の博品館に燃えうつると、不忍の池畔ちはんに避難している十万の生霊があぶない。飛び火が下谷したや茅町かやちょうにとびつくと大学までもまた危ない、あせをにぎってとうとう松坂屋の燃え終わるのを見とどけ教室に帰った。(のち数日、広小路に出てみておどろいたことは、博品館の側が一面に消え失せていることであった。不思議に思い調べてみると、松坂屋までで消し止めた消防隊が引きあげてから四十分の後に、再発したのだそうである。
 夜に入りて二、三の所員、家族をまとめて教室内の付属家屋に避難した。そこでこれらの所員に終夜観測警戒を委任して帰途についた。ちょうど十二時ごろ自宅へ数丁〔一丁は一〇〇メートルあまり〕のところで夜警の青年団にひどい目にあったのはこのときである。

九月三日

 所員の罹災者りさいしゃはひとまず教室付属屋を避難所にあてたため、今日から観測者の手もそろい、破損した器械の修理にとりかかる。このときまで観測を継続しきたった器械は、不断観測型では、実動を記録するもの、二倍拡大のもの(以上いずれも水平動、上下動地震計)、一倍半南北動同く東西動地動計であった。また自発型では五倍地震計と実動記録のものであった。
 午後、観測の結果をつぎのとおりにまとめた。
〔省略、地震観測結果の報告〕

 以上〔地震観測結果〕を謄写版によりおよそ五十通を作った。平常ならばこれを公表することはわけもないことであるが、電話全滅、電車も全滅、新聞社も二、三を除くのほかは全焼とのことで、これを公表することすこぶる難儀なんぎであった。そこで自分は例の登山服装でまず本郷警察署を訪い、巡査の案内で暗黒をたどって焼け跡をとおり、お茶の水へさしかかってみると橋は今、焼けつつある。やむをえず万世まんせい橋へまわり神田橋へかかると、ここも焼け落ちている。そこでさらに鎌倉河岸かしへまわり、新常磐ときわ橋から丸ノ内宮城きゅうじょう下をすぎて、一中構内へ退却した。警視庁へ到着したのは午後八時、ただちに警視総監に会って情報をききとり、印刷物を官衙かんがならびに各新聞社に分配することを委託いたくし、さらに警保局長と連れ立って内務大臣官舎に退却せる内務省におもむき、近県からの情報を写し取り、なお今後の連絡を約束依頼し、帰途についたのは午後十時。前晩の青年団にこりて大事をとり、まず自動車で早稲田警察署まで送ってもらい、そこから巡査部長の保護によってようやく家まで帰りついた。

九月四日

 早朝、地震学教室に行き、考一考こういっこうしてみると、自分は地震学について一個の学究の身でないことに気づいた。震災予防調査会長でありその幹事でもあり、また地震学教室主任であるところの斯学しがく唯一の権威者である大森博士は、おりしく海外出張中である。不肖自分はその三つの職務を代理している。今回の大震災についてすべての方面に向かい徹底的な学術的調査研究をなすべきもの、また、なし得べきもの、ただわが震災予防調査会あるのみである。自分はじつに重大なる任務をおびていることに気づいた。しかるに文部省における事務所は焼けた。さればここに新しく震災予防調査会を組織する必要がある。そこでまず、会の事務員をさがしだすことにした。
 長男をして自転車をとばし、市内の概況を視察せしめ、かねて昨日の印刷物を携帯し、親戚・知人を慰問せしめた。

九月五日

 震災予防調査会書記・島谷氏を探し出し、事務所を仮に地震学教室内に置き、かくして本会の震災調査上連絡の中心ができた。そうして右のしだいを各委員に通知することにした。
 委員中村なかむら清二せいじ博士、大島から帰京してただちに当事務所を訪われ、貴重なる調査資料を提供せられた。

九月六日

 まず海軍省・鉄道省・内務省を訪い、調査上の打ち合わせをなし、午後は内閣翰長かんちょうの招致によりて首相官邸におもむき、今回の大地震につき学術的の所見を述べてきた。
 また陸軍省におもむき航空課の調査材料を求め、測量部につき三崎油壷あぶらつぼにおける験潮儀けんちょうぎ記録を取りよせ、また房総半島・三浦半島・伊豆沿岸水準測量を至急実施せられたきことを依頼した。
 なお、海軍水路部においても右地方沿岸の水深測量を迅速におこなわれたき依頼につき快諾かいだくをあたえられた。
〔省略、各方面より集めた公報とその説明〕

九月七日

 朝 陸軍士官学校を訪い、砲弾の転倒したるものにつき、これを倒すべき震力を計算することを兵器学教官に依頼して好結果を得た。それより九段坂方面を調べ、岸上きしのうえ博士を番町ばんちょうの焼け跡に訪い、気象台の地震課におもむき地震観測上の結果を問い合わせ、なお中村技師に連絡をとりたき希望をことづけして、のち大学へ行った。

九月八日

 鉄道省・内務省よりの情報やや詳細に近づいてきた。さきに末広博士、家族の安否をうために鎌倉に強行せられたが、その日帰着、横浜・鎌倉・横須賀などの情況を詳細に報ぜられた。これにより鎌倉の震動ことに激烈なりしことと、三浦半島ならびに湘南地方陸地の隆起数尺なることをつまびらかにした。この日、大震調査の結果を第三回分として発表した。それはつぎに掲げたとおりである。
〔省略、大震調査第三回発表〕

 ちなみに記してみる。津波は伊豆の東海岸にもっとも著しく、三浦半島ならびに房総半島南部沿岸では著しき津波を気づかなかったとのことである。これすなわち気づかなかっただけであって、実際は伊豆の東海岸同様であったらしく思われる。ただし、房総ならびに三浦半島では土地の隆起四、五尺ないし七、八尺にまでおよんでおり、伊豆東海岸を荒した程度の津波では波がちょうど元の平均水準までに達するくらいの高さであるから、津波がなかったと見誤るのも無理はなかったのである。

九月九日

 帝大地震学教授・震災予防調査会委員・加藤かとう武夫たけお氏来室。伊豆半島・三浦半島ならびに房総半島における地変調査のことを委嘱いしょくした。同委員は鈴木理学士同伴、十一日出発せられた。
 地質調査所長委員・井上博士と前記地方地変調査のことを議した。震災予防調査会・建築に関する委員との連絡もとれるようになった。
 中村清二博士、駆逐艦江風うみかぜ「かわかぜ」か。に便乗、北条・館山・伊豆南東沿岸の視察報告をもたらして帰られた。

九月十日

 物理学教授委員・寺田博士〔寺田寅彦か。の意見にしたがい震災予防調査会委員会を十二日開くことに決心した。

九月十一日

 急使を特派して委員会開催の件を各委員に通知した。
 この四、五日以前より地震状況問い合わせの来客多く、事務ならびに調査を妨害せらるること少なからず。そこでなつぎのようなものを書き取って来賓らいひんの参考に供し、応接のひまつぶしから逃れることにした。

「大地震雑話」

理学博士 今村明恒   

 ああ、夢々、こんな大地震は世界の震災史にもまったくその記録がない。何もかも、まるで夢のようである。
 とはいえ、こんな強さの地震は歴史上においても少くない。こんな大きさの地震は、わがくにでもしばしば経験せられた。今度の震災では、死人の数は八万人にも達するであろう。隣国シナにおいては八十三万人の死人をかぞえた地震もあった。イタリアにおいては十万またはそれ以上の死人を生じた地震を二回も経験し、中にも今から十五年前におこったメッシーナ地震では、その市内だけで十三万八〇〇〇の人口中八万三〇〇〇の圧死者を出し、付近の市街町村を合わして十四万人の死者をかぞえた。今回の地震では、地震だけの損害はたいしたことではなかったのであろう。おそらく数千の死者にとどまり、家屋の損害も一億円の位取りであったにちがいない。しかるに損害は火災のために幾十倍せられた。死人十万、財産の損失百億円と号するにいたった。こんな大震災が世界の歴史にあるものではない。思えば思えば惨鼻さんびの極みである。
 地震に帰因する火災はじつにおそるべきものである。負けぎらいの米国人は、サンフランシスコ大地震と言わずしてサンフランシスコ大火災と言っている。されば、われわれも大正大地震といわずして大正大火災と言いたいくらいである。
 地震学の泰斗たいと大森博士は、震災と火災との関係につき深くうれえ、水道設備の改良をうながし、警告を発せられたこと再三再四であった。しかも、時勢その実施を見ないうち、早くも大地震に先駆せられたのは実もって遺憾いかんのしだいである。
 思えば思えば残念でたまらぬ。自分も大森博士の驥尾に付して、機会あるごとに大地震のさい、消防機関として水道の頼みがたきをさけんだ一人である。それのみにとどまらず、自分は大地震の襲来をもって、わが東京のまぬかるべからざる宿命たることを信じ、それが幾十年の間に現実されそうに想像せられ、憂慮のあまり軽率にもこれを公表した。しかも、当時はまだ石油灯ももちいられている時分であったから、火災をいっそう重大視し、今日のごとく消防を水道のみに依頼していては、火の荒らぶるにまかせなくてはならず、さすれば十万や二十万の死人を生ずるような惨劇さんげきを演ずるかもしれぬとまで論じた。この意見が当時、世人のるるところとならなかったのは、まったく自分の研究の未熟と自信の薄かったことによるので、思えば思えばじつに残念でたまらぬ。しかし、今回の発震時が日中で、しかも火気を多くもちいない夏季であったことを僥倖ぎょうこうとし、みずからなぐさめているのである。いまさら死児しじとしをかぞうるようなことであるが、帝都の再建問題に士気を鼓舞こぶしている今日、大地震襲来に対する東京の宿命を述べることは無益ではあるまい。
 江戸開府以前は知らず、その以後再近〔最近〕にいたるまで、東京において感じた半壊的以上の地震は、十七回をかぞえる。そのうち、ことに激しかったのは慶安二年(一六四九)六月二十日午前三時、元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日午前二時、安政二年(一八五五)十月二日午後十時におこったものであって、第一は死人数百名(本所・深川・浅草などの埋立地うめたてちがまだ開けない時分のこと)、第二は同五二三三名、第三は同六七五七名を生じた。今度の地震が夜でなくてしあわせであったと思うのも、無理はないと思ってもらいたい。
 また地震帯についていえば、主なるもの二つを数えることができる。一つは江戸川より東京湾にいたるもの、いま一つは房総半島の沿岸から伊豆の南端近く海底を沿うて走るもので、これはわが地球をほぼ二等分している大地震帯おおじしんたいの一部分であり、これをわが日本の外側がいそく大地震帯おおじしんたいと言っている。そうして前記三大震のうち、第一、第三は江戸川・東京湾地震帯に属し、第二は外側大地震帯に属している。
 今、これらの地震帯において、大地震発生順序を追跡してみるに、江戸川・東京湾地震帯においては、慶安二年(一六四九)品川・川崎あたりの地震、文化九年(一八一二)神奈川・保土ヶ谷ほどがやあたり地震、安政二年(一八五五)江戸地震(震源、金町かなまち亀有かめあり地方)、明治二十七年(一八九四)東京地震(震源、こう桶川おけがわ地方)により、東京近傍は活動一巡し終わり、とうぶん活動の余力をたくわらざるものと認められている。さればこの地震帯からは、とうぶん大地震をおこすことはあるまじとの大森博士の高見にはまったく異議のないところである。
 つぎに外側大地震帯においては、房総の東海岸に元禄の大地震(一七〇三)がおこり、その後、安政元年(一八五四)十一月四日において駿河沖に大地震がおこったが、ただ、自分が多年疑問に思っていたのが、この地震帯中において相模の沖合いに相当する部分が歴史地震によって占有せられていないらしいことであった。この点については大森先生にも機会生ずるごとに質疑しながら、最近まで解しかねていた点であったが、今日ややこれを解し得るにいたったのは、何たる不幸なことであろう。
 以上の経験から見ると、東京においてはこれで大地震の襲来は一巡し終わったように見えるし、ここ数十年あるいは百年、もしくは、それ以上に大地震のわずらいがないことであろう。しかしながら幾百年の後には、ふたたび次の地震勢力が蓄えられて、同じ地震帯にまた前のようなことをくり返すらしいから、わが大帝都の回復計画については、このことを必ず考慮に加えなければなるまい。
 これまで東京に地震がおこるたびごとに「中央気象台と大学との震源あらそい」という見出しでわれわれはよくいじめられた。しかも両者の推定がほぼ一致していた去る六月二日の常陸ひたち沖地震のような時でもそうであった。まことにもってやりきれない。しかるに幸か不幸か今度という今度は新聞全滅で、争いもあげ足もまったくなくなった。今後もこうありたいものである。
 震源とは地震の原動力が働く区域の中心と見てよかろう。この区域は無論、点でもなく、線でもなく、はた面でもなく、ある立体であろう。そうしてこの立体の各部から発する震波〔地震波〕の合成波動を地震計が記録する。われわれは外界からのなんらの報道も待つことなく、単に観測室内において地震計によって描かれた地動の記象のみによって、とっさの間に震源の位置を推定するのである。それには方法が通常二通りであるが、特に多く用いらるるは、初動すなわち地震の第一波と初期微動の継続時間とによる方法である。右のうち初動は縦波であるから震源の方向を示すことになる。すなわち東西・南北にわけて描かれた水平動と、上下動とを組み合わせて、方向がたとえば北東の下方動ほうどうとなれば、震源北東にあることを示し、もし北東の上方動じょうほうどうとなれば、震源は反対に南西にあることを示すのである。また震源までの距離は、初期微動の継続時間に比例することによって計算されるので、その秒数に一・九をかけると距離が里数で出てくる。今回の大地震において自分がとらえた一組の地震記象の初動は、北の上方動で初期微動十三・九秒を示した。自分はあの大地震を体得するやいなやその振動の性質により、かねて期していた場所だなと直覚したが、今、その記象を見るやいなや、なんの躊躇ちゅうちょもなく、そうして大震後三十分ののちに自分を包囲していた一ダース以上の内外新聞記者諸氏にむかい、震源を東方から南方二十六里の大島付近と断定したのであった。実際、地震の第一波は、通常きわめて微細であるから、これを正確に観測することはきわめて難事である。それでおなじ観測所でも器械によりかならずしもあい一致しない。十度くらいの差違のおこることはありがちである。また初期微動の継続時間についても二十分の一の差違のおこることは通常である。それゆえ、このくらいの差違をもって震源あらそいと名づけるならば、このあらそいは気象台と大学とを待たず、とくの昔、大学内の地震計同士で震源あらそいをやっているわけである。それで自分はさきに一組の地震計によりて今度の大震の震源を断定したが、その後さらに二組の観測をとり、これらを平均してみると南微西となる。すなわち震源は大島のすこしく北にあたることになるのである。これすなわち、今回の大地震をおこした起震帯きしんたいの中心であろうという意味である。震源の位置に定めるのに、近所の観測点での観測がわかればいっそう正確に近づくわけだが、今回は周囲との交通困難であるので、いまだにその材料を得ることができぬ。起震力の働ける状態に推測するも隣接測候所における初動の方向を要するわけだが、後日、おのずから明白になることと思う。
 小地震のばあいには震源の位置を知ることくらいで満足しなければならないが、今回のごとき大地震においては、起震帯きしんたいの区域ならびに原動力の働きぐあいなどまで入り用になってくる。自分は地震帯の関係上、今度の起震帯きしんたいはほぼ東西に延長し、東方は元禄地震(一七〇三)のものに接続するだろうと想定しているが、これとても周囲陸地の地変の状況があきらかになれば明確に推定せらるることと思うのである。今日までの情報によれば、房総半島の南部は二尺ないし三尺隆起し、三浦半島も同様で(三崎の油壷あぶらつぼにおける験潮儀は四尺八寸〔約一四四センチメートル。ほどの隆起を示しているとのこと)湘南沿岸においては鎌倉から馬入ばにゅう〔相模川〕までの間もおなじく隆起したとのこと、また伊豆の初島はつしまなどにも同様の隆起を報ずるのに反して、大島においては土地沈降したとのことである(これは事実でないらしい)。これは、かの起震帯きしんたいにおいて断層を生じ、南部は低下し、北部は隆起した(全局ぜんきょくにおいては土地低下し地球縮小す)と見ればよいことになるし、あわせて津波の発生方法まで説明せられることになる(元禄地震のばあいにも房総は隆起したようである)。ただし、房総半島ならびに伊豆の南端の模様が不明であるから、この項、さらに精測を要するしだいである。それで地質調査所・震災予防調査会からはすでに各所に観測技師を派出し、陸地測量部・海軍水路部なども震災予防調査会の懇請こんせいに応じてこの沿岸の水準なり水深なりの測量を急速に実施せられることと信ずるから、ここ旬日〔十日ほど。にはこの問題もだいたい目鼻がつくことと信ずるのである。しかし精密な結果は、数か月を待たねばならぬことである。
 よく、今度の地震は安政のに比較して聞かれるが、東京における強さは大差なく、むしろ今度のほうがやや軽いように思うけれども、大きさはよほどまさっている。元来、地のれ方がぜんぜん違うので、安政度は地動の主要部が一回の往復振動の後、ただちに弱くなったらしく思われるに対して、今度の主要部がずいぶん長く(著しき部分は一分以上あった)そうして後の方にかえって大きな、しかし緩漫かんまんな波動が現われている。さればわれわれは、主要部のはじめ十秒間ぐらいを最も強く感じたけれども、自己振動のろき高塔・大伽藍などはかえって後の部分に敏感であったかもしれぬ。転倒物・破壊物などが平常に異なり一定の方向を示さないものもこのためであろうと思われる。
 帝都復興策に民心を鼓舞している今日、思いおこすことはイタリア、メッシーナ市の復興である。同市は前にも述べたとおり十五年前の大震災により、火災こそおこさなかったとはいえ、市街は全滅して十三万八〇〇〇の人口中八万三〇〇〇は無惨むざんな圧死をとげた。当時は破壊物の取りかたづけでさえ疑われ、自然、イタリア名物の廃虚となるだろうと予想されていた。自分はこの廃虚をうつもりで昨年メッシーナに行ってみると、あにはからんや、廃虚どころかこの十四年間に市街は立派に回復され、人口は十五万人をかぞえ、以前にも増した繁昌はんじょうである。ただし、いつも震災には無頓着むとんちゃくなイタリア人もこのときだけはこりたものと見えて、道路をおおいにひろげ、公園を増し、高層家屋をよして、やむなき場合にかぎり三層とし、最多数は二層以下である。それで自分は一見、ああ、これが地震国の都市かなと感じたのである。
 わが帝都復興と事がきまれば、その実行は容易なことであろう。もちろんそれには今度のような大地震がふたたび襲来しても、ビクともしないようにしなければならぬ。かくすることは自分でさえもその案があるように思う。ましても、震災予防調査会のごとき、震災に関係ある問題につき、各種の専門大家を網羅もうらした団体が立つならば、かならず違算いさんなき成案ができることと信ずるのである。
 いま、試みに私案を述べてみるに、震災軽減法のもっとも重大な部分は、自分が多年となえているとおり火災の防止である。今回の震災中、人命の喪失も家屋・財産の損失も、百分の九十五は火災の防止さえ完全におこなわるれば、震災軽減の目的はもはや達したともいえる。しかし火災防止の一手段として、堅固な家屋を要すること今回も経験せられたとおりであるから、この意味において完全な耐震家屋を有することが、これまた必要である。畢竟ひっきょう、家屋は耐震火となればよいのである。ただし大地震に見舞われた際にも耐震火たることを要するのである。わが帝都の復興にさいして取るべき理想的耐震火家屋の様式は、おのずから震災予防調査会において成案ができることと信ずるが、仮に自分が注文を発してみれば、今日、耐震構造として賞揚しょうようせられる鉄筋コンクリートのようなものに、さらに耐火性を加えることである。家屋の周囲あるいは上部はすべて、耐火性材料をもって建てることなどその手段であろう。今回の震災において類焼した家屋を見るに、地震のために生じた壁のれ目・間隙かんげき屋根瓦やねがわらの落ちたあとに露出した燃焼しやすきものより延焼し、または空天井のガラスが火熱に溶けたところより火をひいた例がすこぶる多く、むしろ一般的といってよいくらいである。要するに耐震火家屋の研究は以上の点から見ても、国防上から考えてもきわめて大切なことである。
 自分はかつて関谷博士の研究を踏襲とうしゅうして、東京における震度分布の予察図を作ったことがある〔詳細は九月十六日の記述にある〕。すなわち、

(一)震度小の区域は、ローム質の台地、駿河台の南部、西鳥越にしとりごえ付近であって、震度小なるもやや中に近きは、銀座付近、浅草・下谷したやの南部ローム質の台地に沿うた部分、日本橋、呉服橋そと
(二)震度中の区域は、下谷・浅草の中部以南、根津・湯島の東、御徒町おかちまち付近、神田明神下、白山下、江戸川筋、牛込堀端ほりばた、赤坂溜池ためいけ筋、金杉川かなすぎがわ筋、丸の内大名だいみょう小路こうじ東側より隅田川に至る部分(日本橋、呉服橋そと、銀座付近、築地、鉄砲洲てっぽうず霊岸島れいがんじま高砂町たかさごちょう付近などを除く)佃島つくだじま
(三)震度やや大の区域は、芝柴井町しばいちょう宇田川町うだがわちょう付近、高砂町付近、霊岸島、鉄砲洲、築地、浅草田原町たわらまちあたり、本所・深川の東部。
(四)震度大の区域は、池のはた、神田淵の跡、大名だいみょう小路こうじの西側、浅草・下谷の北部、本所・深川の西部、越中島えっちゅうじま佃島つくだじまの南部。

と、こうなるので、今度の震災につき多少の修正を要するけれども、あまり大きな誤差はないようである〔修正されたものは、『震災予防調査会報告』第百号甲(大正十四年(一九二五))にある〕。ただし震度の大きな区域でも、地表に近き柔軟じゅうなんな土砂を除き、天然地盤に基礎を置くようにして建築すれば、震度小なる区域に建てたと同様の結果となるので、この件は帝都復興問題につき耐震建築のみを考うるときは、あまり顧慮を要しないのである。
 つぎに、地震に起因する火災の防止につき私案を述べてみる。

(一)地震によりて発火する原因を除くこと。今回の地震に際し、従来知られた発火原因のほか、化学材料によりて発火した場合がかなりあった。自分の寡聞かぶんでさえ、帝大二か所・早稲田大学・高等工業〔現、東京工業大学〕・学習院・士官学校・ミツワ科学研究所などがあるくらいだから、市内の商店においても同様のことがあったのではあるまいか。畢竟ひっきょう、発火の原因をできるだけ除き置くことがもっとも簡単で、しかもおこないやすい震災軽減法である。
(二)建築を耐震火的にし、延焼の原因を除き、また、こんな耐震火災家屋をつらねて消火壁に代用すること。
(三)家屋の高さをさらに制限し、かねて延焼の原因を減少せしめること。
(四)防火区域を設け、延焼の原因を除くこと。この区画を設けるには、震度分布・東京における風向きなどを参照して便宜べんぎこれを定め、境目さかいめには中央に避難所にて得べき公園を有する大道路を設けること。
(五)消防施設を完備すること。水道は頼みにならないとして、用水をたたうる溝渠こうきょ、貯水池を設け(貯水池は、平日遊泳にも使用したら一挙両得)、また地震消防隊を編成し、地震のさい他をかえりみず、もっぱら消防に従事せしめること。
(六)避難所として公園を増設すること。

 右のようにすれば非住宅地が多くできるから、さなきだに〔そうでなくてさえ〕茫漠ぼうばくたる東京がいっそう広くなるであろうとの非難もあろうが、しかし、下町の店舗を三階建てぐらいのアパートメント式耐震火建築にしたら、面積はかえって縮まるであろうと考える。
 右のようなことを考えてみるとき、わが大東京がこの災厄さいやくのためにメッシーナ市以上に生まれ変わって、今後あるいは襲来をこうむることあるべき大地震はもちろん、大空中戦に際しても、ビクともしない立派なものとして現出することが、ありありと見えるような気持ちがするのである。終わりにのぞみ、所感を一言ひとこと加える。それは、かかる世界開闢かいびゃく未曽有の大震災に遭遇しても、わが東京市民いな帝国臣民は、老幼男女いささかも秩序をみだすことなく、沈着にこれをしのいだということにある。自分は実際、今日まで喪神そうしんしあるいは号泣ごうきゅうした人を見ないばかりか、罹災者りさいしゃはいずれも平日以上に緊張しているように見受ける。『安政地震見聞記けんもんき』にこんなことが書いてあり、わざわいを転じて福となす気分がみなぎっていたことを想像せしめるが、今日、このことを目撃してじつに人意をつようするものがあるように思う。(九月十二日稿)(つづく)



底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
入力:しだひろし
校正:
2010年7月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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大地震調査日記(一)

今村明恒

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此《こ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)北海道|並《ならび》に

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)大童《おおわらべ》[#「おおわらべ」は底本のまま]
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 此《こ》の夏季を利用して、自分は北海道|並《ならび》に東北地方の火山調査に行った。八月二十二日には樽前山に登つたが、此《この》数日来噴煙減小したとのことで注意して登山したものゝ、霧深くして、折角《せっかく》の苦心も水泡に帰した。それで翌二十三日にも登山したが、当日は噴煙|全《まった》く杜絶し、爆発の虞《おそれ》十分に之《こ》れ有りと想像したから、最大の注意を払い、調査を割愛して二時間も早く切上げ、そこそこに下山した。途中札幌小学校の二訓導(旧制小学校教員の法的な呼称)に出会い、呉《く》れぐれも登山危険の注意を与えて帰途につける最中、樽前は果然爆発をなし、自分に取っては又と得難い経験であったが、負傷した二訓導には気の毒であった。然《しか》し当時東京では自分の行方不明を伝えられたとかで心配した筋もあったそうである。そんなことのあつたとは知らず月末には帰京して、樽前爆発の写真等助手を相手に整理して居ると、九月一日正午前にはあの恐ろしい大地震。いやいや自分には、あの火山爆発も、あの大地震大火災も、恐ろしかったには違いなかったが、然《しか》し最も恐ろしかったのは、夜警の青年団に脅かされたときであった。嗚呼《ああ》何もかも全《まった》く夢の様である。此《こ》の三週間の昼夜を分たぬ悪戦苦闘、連日連夜三四時間しか睡眠を取り得ぬ忙しさ、今にして之《これ》を書きつけ置かないと、ほんとうに夢になって仕舞う。そこで遂《つい》に之《これ》を書きつけることにした。(九月二十日記)

九月一日
 地震学教室に出勤し、爆発の写真も相当に能《よ》く写ったなどゝ興に入って居ると、正午前一分十六秒、あの大地震。然《しか》し最初は左程《さほど》大きなものとは思わなかった。例の通り着席のまゝ初期微動を暗算すると十二秒を得た(実際地震計は初《はじめ》に緩慢な波動を画いて居るし、其中《そのうち》一二秒は人身に感じにくい部に属するから、自分の暗算は余り違って居らぬ)。但《ただ》し此《この》半ば頃より初期微動も著しく大きくなり(近県に於《お》ける測候所十倍以上地震計の描針のはずれたのも此《この》頃であろう)、いや、此《これ》は随分大きいぞとは感じたが、併《しか》しまだあんな大地震とは思わなかった。そうする中《うち》に主要部に入り、軒の瓦ががたついて、墜落し始めたが、振動は予《か》ねて期して居たものとは異なり、家屋の動揺次第に烈しく、主要部の初めから三四秒目頃、即《すなわ》ち初発から十五六秒目頃に至って、振動最も強大を覚え(方向は北西・南東と感じた)、家鳴《やな》り烈しく、軒瓦飛び散り、世界一体に騒々しくなって来た。教室に於《おい》ても一二室外に飛び出したものもあった様だが、多数は自分同様、室内に落着いて居たものもあり、機敏に観測室に赴いたものもあった。東京で大底|是《これ》まで感じた大きな地震では、震動ももう此《この》辺で急に小さくなる処《ところ》であるが、今度のはそうでなかった。即《すなわ》ち震動最強部に達した後も、ゆらゆら動くことは余り減退せず、唯《ただ》震動の週期(以下今日流に周期と改める)がのろくなつた位のことで、何だか大船にゆられて居る様な気持ちであった。斯《か》くすること二分の後震動も次第に鈍くなったから、所員を励まして観測に取り掛らしめ、差し当たり大地震に適する地震計の記象紙(揺れの記録紙)数葉を取寄せ調査することにした。
 自分は予《かね》て日本の外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》中、相模沖に相当する部分は、大地震を起し得べき処《ところ》でありながら、歴史に其《その》記事なきことにより、将来の大震発生地と想像して居った。そうして此《この》想像は多年自分に苦悶の種を蒔いた処《ところ》のものであった。今は亡き世外《せがい》(うき世を離れた世界、あの世)の老父にまで、心配を掛けた処《ところ》のものであった。今記象を取寄せ、さて震原(以下今日流に震源と改める)は何処《どこ》と考へ見た瞬間、いや此《これ》は例の処《ところ》だぞ。震動の経過は江戸川、東京湾式でないから、てっきりそうであろうと考えた。そうして記象紙を熟視すると、初動の方向と言い、初期微動(今度の様な大地震では微動でなく、土壁を破壊する程の震力を有《も》つて居る。併《しか》し主要部の大震動に比較して、学術上|斯《か》く名づけてあるのだ)の継続時間と言い、明瞭に自分の予想を裏書して呉《く》れた。此《こ》の時、大地震後三十分、最早《もはや》二十人程の新聞記者(内二人は外国人)諸君が自分を囲んで説明を求められて居る。そこで自分は何の躊躇《ちゅうちょ》もなく次の通り発表した。
 発震時刻(揺れの初動が到達した時刻)は午前十一時五十八分四十四秒で、震源は東京の南方二十六里(一里は約四キロメートル)即《すなわ》ち伊豆大島付近の海底と推定する。そうして振幅四寸(一寸は約三センチメートル)に達する程の振動をも示して居るから、東京では安政以来の大地震であるが、若《も》し震源の推定に誤りがなかったら一時間以内に或《あるい》は津波《つなみ》を伴うかも知れぬ。それでも波は相模湾の内|殊《こと》に小田原方面に著しく、東京湾は必ず無事であろう。又今後多少の余震は継続せんも大地震は決して重ねて起るまい。
 猶《な》お外国記者の念入りの質問に対して、地震の性質の非火山性にして、構造性なるべきことを付加えて置いた。
 こう発表して居る真最中、午後零時四十分に余震中の最も強く感じたものゝ一つが襲来した。此《この》時記者の中には驚いて屋外に飛び出された人もあったが、自分は室内から笑って居たので、きまり悪げに、もう大丈夫ですか抔《など》と念を押す人もあった。此《この》時感心したのは、外国記者が自分の姓名片書を入念に、殊《こと》に姓は其《その》綴り方まで問われたことであった。之《これ》に反して、内国の新聞には自分を大森博士と間違えたのが、一つ二つではなかった。先生にも御迷惑のことゝ苦笑を止め得なかつた。
 急務が一通り片付いたから、外の模様を見る為《た》め玄関口に出ると、瓦が幾つも落ちかゝって居たから、之《これ》をつき落として出入口を安全にして置いた。先ず本郷通を見ようと思って正門の方へ足を転ずると、法文学部新館の煉瓦《れんが》建築が蛇腹を墜落せしめて居るのに驚いたが、猶《な》お数歩の後、工学部の応用化学教室が焼けつゝあったのに更《さら》に驚いた。門前に出ると、通りの大学側は、総て民家から飛出した人を以《もっ》て埋められ、商店の屋根瓦は大抵擾乱《じょうらん》墜落し、土壁は多く崩れ落ちた模様であるのみならず、遠く南方には火の手も見える騒ぎである。此《ここ》に至って自分は始めて、こは容易ならぬことである。折悪く風も出て居る。予《か》ねて自分が苦悶した大火災が現実しなければよいがと念じながら、取って返して其《その》室に入り、樽前爆発の写真|抔《など》取片付けて居る中《うち》、風上にあたる図書館辺に煙が見え出した。医化学教室から発火し、図書館危しとの注進である。自分は斯《か》く聞いても中間にある法文の新旧館、教室、八角大講堂|抔《など》何れも煉瓦《れんが》建築であり耐火性を信じて居たから、自然に鎮火するものと楽観して居たが、此《この》想像は刻一刻に裏切られて来た。凡《およ》そ一時間の後には、勇敢なる職工小使を指揮して、屋根に上り飛火を防がして、一方所員を指揮して最も重要な地震記象紙|其《その》他を搬出せしめ、自分も大童《おおわらべ》[#「おおわらべ」は底本のまま]になって働いて居る中《うち》、火は隣接の数学教室に燃移り、我が教室は愈々《いよいよ》危険に瀕した。特に地震の為《ため》に屋根瓦が墜落し、下見《したみ》の柿葺《こけらぶ》き(桧などの薄板で葺いた屋根)を最も延焼し易い条件の下に暴露して居るので、遂《つい》に三回程も燃え上がった。而《しか》も一滴の水なしでは心元《こころもと》ない業《わざ》ではあったが、我が勇敢なる大工君は、下からの指示に従い、屋根の上を平地の如《ごと》く飛廻り、応接に遑《いとま》なき飛火を揉み消し、はき落とし、可《か》なり燃え上がったこけら[#「こけら」に黒丸傍点]の塊りをめくり取って捨てたこと三度に及んだ。このきはどき芸当をやること、二十分にも及んだろうか。折|能《よ》く風向きが変り始めて火は次第に西に靡《なび》き、遂《つい》に危地を脱することが出来た。此《この》間運動場側にある観測室が危いとの注進もあつたが、どうすることも出来ず、其儘《そのまま》にして置いたから、形勢を見せに遣《や》ると、化学教室の力で防ぎ止めたとの事。其《その》上風は一層強くはなったが、反対に北に廻ったので理学部本館も安全となったのは午後六時頃であつた。此《この》間自宅の事が案ぜられないでもなかったが、四時頃に長男が自転車を飛ばして無事を報じて呉《く》れたので始めて安心したものゝ、家は潰《つ》ぶれん許《ばか》りに傾いたとの事だから、帰宅するまで外に居よと命じて置いた。先ず先ず危機を脱し得たので、更《さら》に外方《おもて》の模様を展望する為《た》め、新築中の工学部教室屋上に出て見ると、全《まった》く言い様のない凄惨《せいさん》な景況、南面して左から数えると上野の山を越えた彼方《かなた》から、右の方|麹《こうじ》町、新宿方面に至るまで、紅蓮《ぐれん》の吐《は》き出す煙は入道雲の如《ごと》く渦《うずま》きかえり、其《その》数二十幾条、二重三重にもなって目の届かぬものもあろう。折|悪《あ》しく風も強い。あゝあ、是《こ》れでは予《か》ねて学術的根拠のない浮説、治安を妨害する臆説と嘲《あざけ》られた自分の想像が、現出するのではあるまいか。何たる不幸な事であろうと思いながら、しおしおと教室に帰ると、間もなく付属観測室再び危しとの注進、よし来たと許《ばか》りに、例の勇敢な大工君を励まし、梯子《はしご》を担《かつ》いでかけつける。一体|此《この》棟が焼ければ、化学教室は助からぬ。そうなると病院が危い。そこで此《この》時|計《ばか》りは応援が十分にあつた。化学は勿論《もちろん》、近藤病院長に次いで入澤学長も来る。医科の一助手君が屋根に上って、我が大工君を圧倒する働き振り、中にも一個中隊程の看護嬢が、池の水を汲んで来る。火も水に遭つては往生、忽《たちま》ち消止められた。時に午後九時。
 稍《やや》心も落着いて来ると、飢渇《きかつ》の感じが台頭して来る。朝飯の儘《まま》の空腹を、友人大谷文学士の好意によって凌《しの》ぎ得たのは十時頃であった。
 搬出物の始末もついたから、遠くに住む所員を先ず帰らせ、家の顧慮の少なき所員で徹夜観測することゝし、十一時に門を出たが、途中本郷南方の火災は今|酣《たけなわ》である所から、遥《はるか》に迂回して東大久保の自宅に辿《たど》り着いたのは二日の午前一時。家を検査して見ると、ビクともしない丈夫さ加減、隣家両三軒に最早《もはや》大地震の心配なきことを説き、家人を励まして屋内に眠らしめた。

九月二日
 早朝、リュックサックを負い登山服装|甲斐々《かいがい》しく、地震学教室に出勤。保田助手の一ツ橋官舎|並《ならび》に歴史的沿革を有する一ツ橋観測室焼失|其《その》他職工二名焼き出され、助手も大抵自宅の損害のため家族をまとむるに忙しく、忠実なる助手神永氏と二人にて終日観測を続け記象の整理をなす。此《この》日頻々に来る余震にて一倍半の地動計の描針を折らるゝこと幾回なるを知らず、神永助手は根よくこれを修理した。
 外は大学構内に逃げ込む避難の市民に依《よ》って益々雑沓して来る。不安におもい外の形勢をのぞいて見ると、上野広小路の松坂屋が将《まさ》に危険に瀕している。西側の博品館に燃えうつると、不忍の池畔《ちはん》に避難している十万の生霊が危ない。飛火が下谷|茅《かや》町にとびつくと大学までも亦《また》危ない、冷汗をにぎってとうとう松坂屋の燃え終るのを見届け教室に帰った。(後《のち》数日、広小路に出て見て愕《おどろ》いた事は、博品館の側が一面に消え失せて居る事であった。不思議に思い調べて見ると、松坂屋までゞ消しとめた消防隊が引き場げてから四十分の後に、再発したのだそうである。
 夜に入りて二三の所員家族をまとめて教室内の付属家屋に避難した。そこで此《これ》等の所員に終夜観測警戒を委任して帰途についた。丁度十二時頃自宅へ数丁(一丁は百メートル余り)のところで夜警の青年団にひどい目に合ったのはこの時である。

九月三日
 所員の罹災者は一先《ひとまず》教室付属屋を避難所にあてたため、今日から観測者の手も揃《そろ》い、破損した器械の修理に取りかゝる。この時まで観測を継続し来《きた》った器械は、不断観測型では、実動を記録するもの、二倍拡大のもの(以上何れも水平動、上下動地震計)、一倍半南北動同く東西動地動計であった。また自発型では五倍地震計と実動記録のものであった。
 午後観測の結果を次の通りにまとめた。
(省略、地震観測結果の報告)
 以上(地震観測結果)を謄写版により凡《およ》そ五十通を作った。平常ならばこれを公表する事はわけもない事であるが、電話全滅、電車も全滅、新聞社も二三を除くの外は全焼との事で、これを公表する事|頗《すこぶ》る難儀であった。そこで自分は例の登山服装で先ず本郷警察署を訪い、巡査の案内で暗黒をたどって焼跡を通り、お茶の水へさしかゝって見ると橋は今焼けつゝある。止むを得ず万世《まんせい》橋へまわり神田橋へかゝると、こゝも焼け落ちている。そこで更《さら》に鎌倉|河岸《かし》へまわり、新|常磐《ときわ》橋から丸ノ内宮城下をすぎて、一中構内へ退却した。警視庁へ到着したのは午後八時、直《ただ》ちに警視総監に会って情報をきゝとり、印刷物を官衙《かんが》(役所)並《なら》びに各新聞社に分配する事を委托し、更《さら》に警保局長と連立って内務大臣官舎に退却せる内務省に趨《おもむ》き、近県からの情報を写し取り、尚《なお》今後の連絡を約束依頼し、帰途に就《つ》いたのは午後十時。前晩の青年団に懲りて大事を取り、先ず自動車で早稲田警察署まで送って貰《もら》い、そこから巡査部長の保護に依《よ》って漸《ようや》く家まで帰りついた。

九月四日
 早朝地震学教室に行き、考一考して見ると、自分は地震学に就《つい》て一個の学究の身でない事に気付いた。震災予防調査会長でありその幹事でもあり、また地震学教室主任であるところの斯《し》学(この学問領域、ここでは地震学)唯一の権威者である大森博士は、折|悪《あ》しく海外出張中である。不肖自分はその三つの職務を代理して居る。今回の大震災に就《つい》て凡《すべ》ての方面に向い徹底的な学術的調査研究を為《な》すべきもの、又|為《な》し得べきものたゞ我震災予防調査会あるのみである。自分は実に重大なる任務を帯びて居ることに気付いた。然《しか》るに文部省に於《お》ける事務所は焼けた。さればこゝに新らしく震災予防調査会を組織する必要がある。そこで先ず会の事務員を探し出す事にした。
 長男をして自転車を飛ばし、市内の概況を視察せしめ兼《かね》て昨日の印刷物を携帯し親戚知人を慰問せしめた。

九月五日
 震災予防調査会書記島谷氏を探出し、事務所を仮りに地震学教室内に置き、かくして本会の震災調査上連絡の中心が出来た。そうして右の次第を各委員に通知することにした。
 委員中村清二博士大島から帰京して直《ただ》ちに当事務所を訪われ、貴重なる調査資料を提供せられた。

九月六日
 先ず海軍省、鉄道省、内務省を訪い、調査上の打合をなし、午後は内閣|翰《かん》長(内閣書記官長、現在の内閣官房長官の俗称)の招致に依《よ》りて首相官邸に趨《おもむ》き、今回の大地震につき学術的の所見を述べて来た。
 また陸軍省に趨《おもむ》き航空課の調査材料を求め、測量部に就《つ》き三崎|油壺《あぶらつぼ》に於《お》ける験潮儀(潮汐による海面の昇降を測定する機械)記録を取り寄せ、また房総半島、三浦半島、伊豆沿岸水準測量を至急実施せられたき事を依頼した。
 尚《な》お海軍水路部に於《おい》ても右地方沿岸の水深測量を迅速に行われたき依頼につき快諾を与えられた。
 (省略、各方面より集めた公報とその説明)

九月七日
 朝 陸軍士官学校を訪い、砲弾の転倒したるものにつき、これを倒すべき震力を計算する事を兵器学教官に依頼して好結果を得た。夫《それ》より九段坂方面を調べ、岸上《きしのうえ》博士を番町の焼跡に訪い、気象台の地震課に趨《おもむ》き地震観測上の結果を問い合せ、尚《なお》中村技師に連絡をとりたき希望をことづけして、後大学へ行った。

九月八日
 鉄道省内務省よりの情報|稍《やや》詳細に近づいて来た。さきに末廣博士、家族の安否を訪うために鎌倉に強行せられたが、其《その》日帰着横浜鎌倉横須賀等の情況を詳細に報ぜられた。これにより鎌倉の震動|殊《こと》に激烈なりし事と、三浦半島|並《ならび》に湘南地方陸地の隆起数尺(一尺は約三〇センチメートル)なる事を詳《つまびらか》にした。此《この》日大震調査の結果を第三回分として発表した。それは次に掲げた通りである。
 (省略、大震調査第三回発表)
 因《ちな》みに記して見る。津浪《つなみ》は伊豆の東海岸に最も著しく、三浦半島|並《ならび》に房総半島南部沿岸では著しき津浪《つなみ》を気付かなかったとの事である。是《こ》れ即《すなわ》ち気付かなかった丈《だけ》であって実際は伊豆の東海岸同様であったらしく思われる。但《ただ》し房総|併《ならび》に三浦半島では土地の隆起四五尺|乃至《ないし》七八尺にまで及んで居り、伊豆東海岸を荒した程度の津浪《つなみ》では波が丁度元の平均水準までに達する位の高さであるから、津浪《つなみ》がなかったと見誤るのも無理はなかったのである。

九月九日
 帝大地震学教授震災予防調査会委員加藤武夫氏来室。伊豆半島三浦半島|並《ならび》に房総半島に於《お》ける地変調査の事を委嘱した。同委員は鈴木理学士同伴十一日出発せられた。
 地質調査所長委員井上博士と前記地方地変調査の事を議した。震災予防調査会建築に関する委員との連絡もとれるようになった。
 中村清二博士駆逐艦|江風《うみかぜ》に便乗、北條、館山、伊豆南東沿岸の視察報告を斉《もたら》して帰られた。

九月十日
 物理学教授委員寺田博士の意見に従い震災予防調査会委員会を十二日開く事に決心した。

九月十一日
 急使を特派して委員会開催の件を各委員に通知した。
 此《こ》の四五日以前より地震状況|問合《といあわせ》の来客多く事務|並《ならび》に調査を妨害せらるゝ事少からず。そこで夜な夜な次のようなものを書取って来賓《らいひん》の参考に供し、応接のひまつぶしから逃れることにした。



「大地震雑話」
   理学博士 今村明恒

 嗚呼《ああ》、夢々、こんな大地震は世界の震災史にも全《まった》く其《その》の[#「其《その》の」は底本のまま]記録がない。何もかもまるで夢の様である。
 とは云《い》えこんな強さの地震は歴史上に於《おい》ても少くない。こんな大さの地震は我|邦《くに》でも屡々《しばしば》経験せられた。今度の震災では死人の数は八万人にも達するであらう。隣国支那に於《おい》ては八十三万人の死人を数えた地震もあった。伊太利《イタリー》に於《おいて》は十万又は其《そ》れ以上の死人を生じた地震を二回も経験し、中にも今から十五年前に起ったメッシーナ地震では、其《その》市内だけで十三万八千の人口中八万三千の圧死者を出し、付近の市街町村を合して十四万人の死者を数えた。今回の地震では地震だけの損害は大したことではなかったのであらう。恐らく数千の死者に止まり、家屋の損害も一億円の位取りであったに違いない。然《しか》るに損害は火災のために幾十倍せられた。死人十万財産の損失百億円と号するに至った。こんな大震災が世界の歴史にあるものではない。思えば思えば惨鼻《さんび》の極みである。
 地震に帰因する火災は実に恐るべきものである。負け嫌いの米国人は、桑港《サンフランシスコ》大地震と言わずして桑港《サンフランシスコ》大火災と言って居る。されば我々も大正大地震と言わずして大正大火災と言いたい位である。
 地震学の泰斗《たいと》(大学者の称)大森博士は、震災と火災との関係につき深く憂え、水道設備の改良を促《うなが》し、警告を発せられた事再三再四であった。而《しか》も時勢|其《その》実施を見ない中《うち》、早くも大地震に先駆せられたのは実|以《もっ》て遺憾の次第である。
 思えば思えば残念でたまらぬ。自分も大森博士の驥尾《きび》に付して(後進者が先達の士に付き従い事を成すたとえ)、機会ある毎に大地震の際消防機関として、水道の頼み難きを叫んだ一人である。それのみに止まらず、自分は大地震の襲来を以《もっ》て、我が東京の免かるべからざる宿命たる事を信じ、それが幾十年の間に現実されそうに想像せられ、憂慮の余り軽率にも之《これ》を公表した。然《しか》も当時はまだ石油燈も用いられて居る時分であったから、火災を一層重大視し、今日の如《ごと》く消防を水道のみに依頼して居ては、火の荒ぶるに任せなくてはならず、さすれば十万や二十万の死人を生ずる様な惨劇を演ずるかも知れぬとまで論じた。此《この》意見が当時世人の容《い》るゝ所とならなかったのは、全《まった》く自分の研究の未熟と自信の薄かったことによるので、思えば思えば実に残念で堪《たま》らぬ。併《しかし》今回の発震時が日中で、而《しか》も火気を多く用いない夏季であったことを僥倖《ぎょうこう》(思いがけない幸せ)とし自《みずか》ら慰めているのである。今|更《さら》死児の齢《とし》を算《かぞ》うるような事であるが、帝都の再建問題に士気を鼓舞している今日、大地震襲来に対する東京の宿命を述べる事は無益ではあるまい。
 江戸開府以前は知らず、其《その》以後再近(最近)に至るまで、東京に於《おい》て感じた半壊的以上の地震は、十七回を算《かぞ》える。其中《そのうち》殊《こと》に激しかったのは慶安二年(西暦千六百四十九年)六月二十日午前三時、元禄十六年(西暦千七百三年)十一月二十三日午前二時、安政二年(西暦千八百五十五年)十月二日午後十時に起ったものであって、第一は死人数百名(本所深川浅草等の埋立地がまだ開けない時分のこと)、第二は同五千二百三十三名、第三は同六千七百五十七名を生じた。今度の地震が夜でなくて仕合せであったと思うのも、無理はないと思って貰《もら》いたい。
 又地震帯に就《つい》いて[#「就《つい》いて」は底本のまま]言えば、主なるもの二つを数える事が出来る。一つは江戸川より東京湾に至るもの、今一つは房総半島の沿岸から伊豆の南端近く海底を沿うて走るもので、此《これ》は我地球を略《ほ》ぼ二等分している大地震帯《おおじしんたい》の一部分であり、之《これ》を我日本の外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》と言っている。そうして前記三大震の中《うち》、第一第三は江戸川東京湾地震帯に属し、第二は外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》に属している。
 今|此《これ》等の地震帯に於《おい》て、大地震発生順序を追跡して見るに、江戸川東京湾地震帯に於《おい》ては、慶安二年品川川崎辺の地震、文化九年神奈川保土ヶ谷辺地震、安政二年江戸地震(震源金町亀有地方)明治二十七年東京地震(震源鴻の巣|桶川《おけがわ》地方)により、東京近傍は活動一巡し終り、当分活動の余力を蓄え居らざるものと認められている。されば此《この》地震帯からは、当分大地震を起すことはあるまじとの大森博士の高見には全《まった》く異議のないところである。
 次に外側《がいそく》大地震帯《おおじしんたい》に於《おい》ては、房総の東海岸に元禄の大地震が起り、其《その》後安政元年十一月四日に於《おい》て駿河沖に大地震が起つたが、唯《ただ》自分が多年疑問に思つて居たのが、此《この》地震帯中に於《おい》て、相模の沖合いに相当する部分が、歴史地震に依《よ》って占有せられて居ないらしいことであった。此《この》点については、大森先生にも機会生ずる毎に質疑しながら、最近まで解しかねて居た点であったが、今日|稍《やや》之《これ》を解し得るに至ったのは、何たる不幸な事であろう。
 以上の経験から見ると、東京に於《おい》てはこれで大地震の襲来は一巡し終ったように見えるし、ここ数十年|或《あるい》は百年|若《も》しくは、其《それ》れ[#「其《それ》れ」は底本のまま]以上に大地震の患いがない事であろう。然《しか》しながら幾百年の後には、再び次の地震勢力が蓄えられて、同じ地震帯に又前の様なことを繰り返すらしいから我大帝都の回復計画については、此《この》事を必ず考慮に加えなければなるまい。
 これまで東京に地震が起るたびごとに『中央気象台と大学との震源あらそい』という見出しでわれわれは能《よ》くいじめられた。しかも両者の推定がほゞ一致していた去る六月二日の常陸《ひたち》沖地震の様な時でもそうであった。誠に以《もっ》てやり切れない。然《しか》るに幸か不幸か今度という今度は新聞全滅で争いも上げ足も全《まった》くなくなつた。今後もこうありたいものである。
 震源とは地震の原動力が働く区域の中心と見てよかろう。この区域は無論点でもなく、線でもなく、はた面でもなく、或《ある》立体であろう。そうしてこの立体の各部から発する震波(地震波)の合成波動を地震計が記録する。われわれは外界からの何等の報道も待つことなく、単に観測室内において地震計によって画かれた地動の記象のみによって、咄嗟《とっさ》の間に震源の位置を推定するのである。それには方法が通常二通りであるが、特におおく用いらるるは、初動|即《すなわ》ち地震の第一波と初期微動の継続時間とによる方法である。右の内初動は縦波であるから震源の方向を示すことになる。即《すなわ》ち東西、南北に分けて画かれた水平動と、上下動とを組合せて、方向が例えば北東の下方動《かほうどう》となれば、震源北東にあることを示し、若《も》し北東の上方動《じょうほうどう》となれば、震源は反対に南西にあることを示すのである。また震源までの距離は、初期微動の継続時間に比例することによって計算されるので、その秒数に一・九を掛けると距離が里数で出てくる。今回の大地震に於《おい》て自分がとらえた一組の地震記象の初動は北の上方動で初期微動十三・九秒を示した。自分はあの大地震を体得するや、否《いな》やその振動の性質により、予《かね》て期していた場所だなと、直覚したが今その記象を見るや否《いな》や、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく、そうして大震後三十分の後に自分を包囲していた一ダース以上の内外新聞記者諸氏に向かい、震源を東方から南方廿六里の大島付近と断定したのであった。実際地震の第一波は通常極めて微細であるから、これを正確に観測することは極めて難事である。それでおなじ観測所でも器械により必ずしも相《あい》一致しない。十度位の差違のおこることはあり勝ちである。また初期微動の継続時間についても二十分の一の差違の起ることは通常である。それゆえ此《この》位の差違を以《もっ》て震源あらそいと名づけるならば、このあらそいは気象台と大学とを待たず、疾《と》くの昔、大学内の地震計同士で震源あらそいをやっている訳である。それで自分はさきに一組の地震計によりて今度の大震の震源を断定したが、その後|更《さら》に二組の観測を取り、これ等を平均して見ると南微西となる、即《すなわ》ち震源は大島の少しく北に当たることになるのである。これ即《すなわ》ち今回の大地震を起した起震帯《きしんたい》の中心であろうといふ意味である。震源の位置に定めるのに、近所の観測点での観測が分かれば一層正確に近づく訳だが、今回は周囲との交通困難であるので、未《いま》だにその材料を得ることが出来ぬ。起震力の働ける状態に推測するも隣接測候所における初動の方向を要する訳だが、後日|自《おのずか》ら明白になることと思う。
 小地震の場合には震源の位置を知ること位で満足しなければならないが、今回の如《ごと》き大地震においては起震帯《きしんたい》の区域|並《ならび》に原動力の働き具合などまで入り用になつてくる。自分は地震帯の関係上今度の起震帯《きしんたい》はほゞ東西に延長し東方は元禄地震のものに接続するだろうと想定しているが、これとても周囲陸地の地変の状況が明かになれば明確に推定せらるゝことと思うのである。今日までの情報によれば、房総半島の南部は二尺|乃至《ないし》三尺隆起し、三浦半島も同様で(三崎の油壺《あぶらつぼ》に於《お》ける験潮儀は四尺八寸程の隆起を示して居るとの事)湘南沿岸に於《おい》ては鎌倉から馬入《ばにゅう》川(相模川)までの間もおなじく隆起したとの事、また伊豆の初島等にも同様の隆起を報ずるのに反して大島においては土地沈降したとの事である(これは事実でないらしい)。これはかの起震帯《きしんたい》において断層を生じ、南部は低下し、北部は隆起した(全局《ぜんきょく》に於《おい》ては土地低下し地球縮小す)と見ればよい事になるし、あわせて津浪《つなみ》の発生方法まで説明せられることになる(元禄地震の場合にも房総は隆起した様である)。但《ただし》房総半島|並《なら》びに伊豆の南端の模様が不明であるから、この項|更《さら》に精測を要する次第である。それで地質調査所、震災予防調査会からは既《すで》に各所に観測技師を派出し、陸地測量部、海軍水路部等も震災予防調査会の懇請に応じてこの沿岸の水準なり水深なりの測量を急速に実施せられることゝ信ずるから、こゝ旬日(十日)にはこの問題も大体目鼻がつく事と信ずるのである。併《しか》し精密な結果は数ヶ月を待たねばならぬ事である。
 能《よ》く今度の地震は安政のに比較して聞かれるが、東京における強さは大差なく寧《むし》ろ今度の方が稍《やや》軽い様に思うけれども、大いさは余程まさっている。元来地の揺れ方が全然ちがうので安政度は地動の主要部が一回の往復振動の後、直《ただち》に弱くなったらしく思われるに対して、今度の主要部が随分長く(著しき部分は一分以上あった)そうして後の方に却《かえ》って大きな併《しか》し緩漫な波動が現れている。さればわれわれは主要部の初め十秒間位を最も強く感じたけれども、自己振動のろき高塔、大伽藍等は却《かえつ》て後の部分に敏感であったかも知れぬ。転倒物、破壊物等が平常に異なり一定の方向を示さないものもこの為《ため》であろうと思われる。
 帝都復興策に民心を鼓舞している今日、思い起すことはイタリーメッシーナ市の復興である。同市は前にも述べた通り十五年前の大震災により、火災こそ起さなかったとはいえ市街は全滅して十三万八千の人口中八万三千は無惨な圧死を遂げた。当時は破壊物の取り片付けでさえ疑われ、自然イタリー名物の廃墟となるだろうと予想されていた。自分はこの廃墟を訪う積もりで昨年メッシーナにいって見ると、あに計らんや、廃墟どころかこの十四年間に市街は立派に回復され、人口は十五万人をかぞえ、以前にも増した繁昌《はんじょう》である。但《ただし》いつも震災には無頓着なイタリー人もこの時だけはこりたものと見えて、道路を大にひろげ、公園を増し、高層家屋をよして、已《や》むなき場合にかぎり三層とし、最多数は二層以下である。それで自分は一見、噫《ああ》、これが地震国の都市かなと感じたのである。
 わが帝都復興と事がきまれば、その実行は容易な事であらう。勿論《もちろん》それには今度の様な大地震が再び襲来しても、びくともしないようにしなければならぬ。斯《か》くすることは自分でさえもその案がある様に思う。況《ま》しても、震災予防調査会の如《ごと》き、震災に関係ある問題につき、各種の専門大家を網羅した団体が立つならば、必ず違算なき(見込み違いの無い)成案が出来る事と信ずるのである。
 今試みに私案を述べて見るに、震災軽減法の最も重大な部分は、自分が多年唱えている通り火災の防止である。今回の震災中人命の喪失も家屋財産の損失も、百分の九十五は火災の防止さえ完全に行わるれば、震災軽減の目的は最早《もはや》達したともいえる。併《しか》し火災防止の一手段として、堅固な家屋を要すること、今回も経験せられた通りであるから、この意味において完全な耐震家屋を有することが、これまた必要である。畢竟《ひっきょう》(つまるところ)家屋は耐震火となればよいのである。但《ただし》[#丸傍点]大地震に見舞われた際にも耐震火たること[#丸傍点終わり]を要するのである。わが帝都の復興に際して取るべき理想的耐震火家屋の様式は、自《おのずか》ら震災予防調査会において成案が出来ることゝ信ずるが、仮に自分が注文を発して見れば、今日耐震構造として賞揚せられる鉄筋|混凝土《コンクリート》の様なものに、更《さら》に耐火性を加えることである。家屋の周囲|或《あるい》は上部は総て耐火性材料を以《もっ》て建てることなどその手段であろう。今回の震災において類焼した家屋を見るに地震の為《ため》に生じた壁の破れ目|間隙《かんげき》、屋根瓦の落ちた後に露出した燃焼しやすきものより延焼し、または空天井の硝子が火熱に溶けたところより火をひいた例が頗《すこぶ》るおおく寧《むし》ろ一般的といってよい位である。要するに耐震火家屋の研究は以上の点から見ても、国防上から考えても極わめて大切な事である。
 自分は嘗《かつ》て [#全角アキは底本のまま]関谷博士の研究を踏襲して東京における震度分布の予察図を作ったことがある(詳細は九月十六日の記述にある)。即《すなわ》ち(一)震度小の区域は※[#「土+盧」、第3水準1-15-68]拇《ローム》質の台地、駿河台の南部、西鳥越付近であって、震度小なるも稍《やや》中に近きは銀座付近、浅草下谷の南部|※[#「土+盧」、第3水準1-15-68]拇《ローム》質の台地に沿うた部分、日本橋、呉服橋|外《そと》。(二)震度中の区域は下谷浅草の中部以南、根津湯島の東、御徒《おかち》町付近、神田明神下、白山下、江戸川筋、牛込堀端、赤坂|溜池《ためいけ》筋、金杉川筋、丸の内大名小路東側より隅田川に至る部分(日本橋、呉服橋|外《そと》、銀座付近、築地、鉄砲|洲《ず》、霊岸島、高砂町付近等を除く)、佃《つくだ》島。(三)震度稍《やや》大の区域は芝柴井町、宇田川町付近、高砂町付近、霊岸島、鉄砲|洲《ず》、築地、浅草田原町辺、本所深川の東部。(四)震度大の区域は池の端、神田淵の跡、大名小路の西側、浅草下谷の北部、本所深川の西部、越中島、佃《つくだ》島の南部とこうなるので、今度の震災につき多少の修正を要するけれども余り大きな誤差はない様である(修正されたものは、震災予防調査会報告第百号甲(大正十四年)にある)。但《ただし》震度の大きな区域でも地表に近き柔軟な土砂を除き天然地盤に基礎を置くようにして建築すれば震度小なる区域に建てたと同様の結果となるので、この件は帝都復興問題につき耐震建築のみを考うるときは、余り顧慮を要しないのである。
 次に地震に起因する火災の防止につき私案を述べて見る。
 (一)地震によりて発火する原因を除くこと。今回の地震に際し従来知られた発火原因の外、化学材料によりて発火した場合が可《か》なりあった。自分の寡聞《かぶん》(見聞きの狭いこと)でさえ、帝大(現東京大学)二ヶ所、早稲田大学、高等工業(現、東京工業大学)、学習院、士官学校、ミツワ科学研究所等がある位だから、市内の商店においても同様のことがあったのではあるまいか。畢竟《ひっきょう》発火の原因を出来るだけ除き置くことが最も簡単でしかも行い易い震災軽減法である。
 (二)建築を耐震火的にし、延焼の原因を除き又|斯《こ》んな耐震火災家屋を列ねて消火壁に代用すること。
 (三)家屋の高さを更《さら》に制限し、兼《かね》て延焼の原因を減少せしめること。
 (四)防火区域を設け、延焼の原因を除くこと。この区画を設けるには、震度分布、東京における風向き等を参照して便宜(適宜)これを定め、境目には中央に避難所に充《あ》て得べき公園を有する大道路を設けること。
 (五)消防施設を完備すること。水道は頼みにならないとして、用水を湛《たた》うる溝渠《こうきょ》、潴《ちょ》水池を設け(潴《ちょ》水池は平日遊泳にも使用したら一挙両得)、また地震消防隊を編成し地震の際他を顧《かえり》みず専《もっぱ》ら消防に従事せしめること。
 (六)避難所として公園を増設すること。
 右の様にすれば非住宅地が多く出来るから、さなきだに(そうでなくてさえ)茫漠《ぼうばく》たる東京が一層広くなるであろうとの非難もあろうが、併《しか》し下町の店舗を三階建て位のアパートメント式耐震火建築にしたら面積は却《かえつ》て縮まるであろうと考える。
 右の様なことを考えて見るとき、わが大東京がこの災厄《さいやく》のためにメッシーナ市以上に生まれ変って、今後|或《ある》いは襲来をこうむることあるべき大地震は勿論《もちろん》、大空中戦に際しても、びくともしない立派なものとして現出することが、ありありと見える様な気持ちがするのである。終りに臨み所感を一言加える。それは斯《か》かる世界|開闢《かいびゃく》未曾有の大震災に遭遇しても、わが東京市民いな帝国臣民は老幼男女|聊《いささ》かも秩序をみだすことなく、沈着にこれをしのいだということにある。自分は実際今日まで喪神《そうしん》し(正気を失う)或《ある》いは号泣した人を見ないばかりか、罹災者は何づれも平日以上に緊張している様に見受ける。安政地震|見聞記《けんもんき》にこんな事が書いてあり、わざわいを転じて福となす気分がみなぎっていた事を想像せしめるが、今日この事を目撃して実に人意を強うするものがある様に思う。(九月十二日稿)(つづく)



底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [北海道]
  • 樽前山 たるまえさん/たるまえざん 標高1,041m。北海道南西部、支笏湖の南、苫小牧市と千歳市にまたがる活火山。支笏洞爺国立公園に属する。
  • 札幌小学校
  • [常陸]
  • 常陸沖地震
  • [埼玉県]
  • 鴻の巣 → 鴻巣か
  • 鴻巣 こうのす 埼玉県北東部、大宮台地の北端部にある市。中山道の宿駅から発達。園芸農業が盛ん、人形が有名。東京の衛星都市化が進行。人口12万。
  • 桶川 おけがわ 埼玉県中部の市。もと中山道の宿駅。かつては紅花の栽培が盛ん。近年工場が進出、住宅地化が進行。人口7万4千。
  • [千葉県]
  • 房総半島 ぼうそう はんとう 千葉県の南半部(安房・上総)をなす半島。東と南は太平洋に面し(外房)、西は三浦半島と共に東京湾を抱く(内房)。海岸は国定公園。
  • 館山 たてやま 千葉県南端の市。房総半島南西岸の館山湾に臨む。漁業根拠地・観光保養地。人口5万1千。
  • [東京]
  • 地震学教室
  • 震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
  • 江戸川 えどがわ (1) 利根川の分流。千葉県野田市関宿付近から南流、埼玉県・千葉県・東京都の境を流れ東京湾に注ぐ。長さ60キロメートル。(2) 隅田川の支流神田川の、文京区関口から千代田区飯田橋辺にかけての称呼。
  • 東京湾 とうきょうわん 関東平野の南に湾入している海湾。狭義には観音崎と富津岬を結んだ線より北の部分を、広義には三浦半島の剣崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北の部分を指す。浦賀水道によって太平洋に通ずる。沿岸の埋立が進んでいる。
  • [文京区]
  • 本郷通り
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 本郷警察署
  • 一中 いっちゅう? 第一大学区第一番中学校か。明治5年学制施行の前は湯島の大学南校と称し、さらにその前は神田一ツ橋の開成学校。現、文京区本郷七丁目か。
  • 根津 ねづ 東京都文京区東部の地区。根津権現がある。江戸時代にはその門前に娼家があって繁昌したが、明治中頃に洲崎へ移された。
  • 湯島 ゆしま 東京都文京区東端の地区。江戸時代から、孔子を祀った聖堂や湯島天神がある。
  • 白山下 はくさん した
  • 白山 はくさん 東京都文京区にある地名。一丁目から五丁目まである。住宅地。主要な商業地域は、都営地下鉄三田線白山駅の周辺に集中しており、駅周辺をほぼ南北に貫く坂(薬師坂)の頂上の地域を白山上、坂の入口の地域を白山下、白山下から白山上と逆方向に上っていったところを白山御殿町と呼ぶ。
  • [台東区]
  • 上野 うえの 東京都台東区西部地区の名。江戸時代以来の繁華街・行楽地。
  • 上野の山
  • 上野広小路 うえの ひろこうじ 旧町名。現、台東区上野三〜四丁目。
  • 松坂屋
  • 博品館
  • 不忍の池 しのばずのいけ 東京、上野公園の南西にある池。1625年(寛永2)寛永寺建立の際、池に弁財天を祀ってから有名になる。蓮の名所。
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 下谷茅町 したや かやちょう 現、台東区池之端。一丁目は不忍池の西側にあたる。二丁目は池の東に面し、一丁目の北に続く。
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • 西鳥越 にしとりごえ 浅草西鳥越町か。旧町名。現、台東区鳥越・浅草橋。浅草元鳥越町の西にある。
  • 御徒町 おかちまち 下谷御徒町か。現、台東区台東・上野。
  • 浅草田原町 あさくさ たわらまち 一〜三丁目。現、台東区雷門一丁目。
  • 池の端 → 池之端か
  • 池之端 いけのはた 現、台東区上町二丁目・池之端一丁目。上野広小路の西側を不忍池の端という意味で池之端と称した。
  • [千代田区]
  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 一ツ橋官舎
  • 一ツ橋観測室
  • 一橋 ひとつばし 東京都千代田区にある橋、およびその付近の地名。
  • お茶の水 → 御茶の水
  • 御茶の水 おちゃのみず 東京都千代田区神田駿河台から文京区湯島にわたる地区の通称。江戸時代、この辺の断崖に湧出した水を将軍のお茶用としたことから名づける。
  • 万世橋 まんせいばし 須田町の中心、神田川に架かる。現、JR秋葉原南側。明治6(1873)に架けられた。万代橋、のちに元万世橋、眼鏡橋ともいう。市区改正事業でやや上流へ移され鉄橋となった。
  • 神田橋 かんだばし 現、千代田区大手町一丁目。神田橋御門跡か。橋の名はかつてこの地に神田明神があったことに由来する。明暦の大火(1657)、享保の焼失(1717)、明和の焼失(1772)にあうも再建・修復される。明治6年(1873)撤廃。
  • 鎌倉河岸 かまくら かし 現、千代田区内神田。徳川氏による江戸城築城の際に、相模国から運ばれてきた石材を荷揚げしたため、南側の堀沿いが鎌倉河岸とよばれ、隣接する町が鎌倉町と名付けられたという。
  • 新常磐橋 しんときわばし → 新常盤橋か
  • 新常盤橋 しんときわばし? 常盤橋御門跡か。現、千代田区大手町二丁目。
  • 丸の内 まるのうち (1) 城郭などの本丸の内。(2) 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
  • 宮城 きゅうじょう (1) 天皇の平常の居所。東京遷都後、江戸城を皇居と定めて東京城と称し、1888年(明治21)旧西の丸に宮殿を新築完成するとともに宮城と改称。現在は皇居と称する。皇城。
  • 大名小路 だいみょうこうじ 千代田区の東部、現在丸の内と称される地域にほぼ該当する。江戸時代には江戸城内堀と外堀に挟まれた範囲で、大名屋敷が立ち並んでいたことからこの通称が生まれた。もともと一帯は湿地。
  • 陸地測量部 りくち そくりょうぶ 日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった。前身は兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局(地図課及び測量課が昇格した)で、明治21年5月14日に陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁として設置された。(Wikipedia)
  • 中央気象台 ちゅうおう きしょうだい 気象庁の前身に当たる官庁。1875年(明治8)東京気象台として創立、87年中央気象台と改称。
  • 気象庁 きしょうちょう 気象事業を統轄する官庁。中央気象台を1956年に昇格改称、国土交通省の外局。国内の気象をはじめとする自然現象を観測し、それを国外資料とともに収集・解析・配布し、気象・地震関連の予報警報等を発する。また、気象事業を統轄し、気象業務についての国際協力、民間気象業務の支援をも行う。
  • 呉服橋外 ごふくばし そと? 呉服橋御門跡か。現、千代田区丸の内一丁目。橋は明治6年(1873)撤廃。
  • 神田明神 かんだ みょうじん 東京都千代田区外神田にある元府社。祭神は大己貴命・少彦名命。平将門をもまつる。神田神社。
  • 神田明神下 かんだ みょうじん した (1) ――御台所町。(2) ――御賄手代屋敷。(3) ――同朋町。いずれも現、千代田区外神田二丁目。
  • 九段坂 くだんざか (江戸時代に坂に9層の石段を築いて徳川氏の御用屋敷の長屋があり、九段屋敷と称したことによる)市ヶ谷から靖国神社脇を経て神田方面に下る長い坂。
  • 番町 ばんちょう 現、千代田区西部、目白通の少し南側から新宿通の少し北側、一番町から六番町、富士見町一〜二丁目、九段二〜四丁目、同北一〜四丁目に該当する。
  • 駿河台 するがだい (徳川家康の死後、江戸幕府が駿府の家人を住まわせたからいう)東京都千代田区神田の一地区。もと本郷台地と連続、江戸時代、神田川の開削によって分離、また、けずって下町を埋めたために、今は台地でない所もある。駿台。
  • 神田淵の跡
  • [新宿区]
  • 新宿 しんじゅく 東京都23区の一つ。旧牛込区・四谷区・淀橋区を統合。古くは甲州街道の宿駅、内藤新宿。新宿駅付近は関東大震災後急速に発展し、山の手有数の繁華街。東京都庁が1991年に移転。
  • 東大久保 ひがしおおくぼ 村名。現、新宿区新宿六〜七丁目、歌舞伎町一〜二丁目。
  • 早稲田 わせだ 東京都新宿区北部の地名。
  • 早稲田警察署
  • 牛込 うしごめ 東京都新宿区東部の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称で、もと牧牛が多くいたからという。
  • 堀端 ほりばた
  • 陸軍士官学校 りくぐん しかんがっこう 陸軍の士官候補生および准士官・下士官を教育した学校。1874年(明治7)東京市ヶ谷に設置、敗戦時は神奈川県座間にあった。略称、陸士。
  • [墨田区]
  • 隅田川 すみだがわ (古く墨田川・角田河とも書いた)東京都市街地東部を流れて東京湾に注ぐ川。もと荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口までをいい、流域には著名な橋が多く架かる。隅田公園がある東岸の堤を隅田堤(墨堤)といい、古来桜の名所。大川。
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • [江東区]
  • 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 越中島 えっちゅうじま 東京都江東区南西部の地区。江戸初期、榊原越中守の別邸所在地。隅田川河口東岸に位置し、1875年(明治8)日本最初の商船学校(現、東京海洋大学)が設置された。
  • [品川区]
  • 品川 しながわ 東京都23区の一つ。もと東海道五十三次の第1の宿駅で、江戸の南の門戸。
  • [葛飾区]
  • 金町 かなまちむら、か 旧村名。現、葛飾区金町ほか。新宿町の東に位置。東は江戸川を限り下総国葛飾郡松戸町・上矢切村(現、千葉県松戸市)。南は柴又村。
  • 亀有 かめあり 旧村名。現、葛飾区亀有など。中川をはさみ新宿町の西に位置する。水戸・佐倉道が通る。
  • [中央区]
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 日本橋 にほんばし (1) 東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。(2) 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
  • 呉服橋門 ごふくばしもん 江戸城外濠の門の一つ。今の中央区八重洲にあった。
  • 築地 つきじ 東京都中央区の一地区。銀座の南東に続く一帯。明暦の大火(1657年)後、低湿地を埋め立てて築地と称し、明治初年、一部を外国人の居留地とした。
  • 鉄砲洲 てっぽうず (江戸時代に鉄砲方井上氏が大砲の演習をしたからいう)東京都中央区湊1丁目付近の俗称。隅田川西岸に位置し、佃島・石川島に相対する。印刷工場が集中。
  • 霊岸島 れいがんじま 東京都中央区中部、隅田川河口右岸の旧地名。西・南・北の3方に溝渠があって、島形をなしている。古く、蒟蒻島。1624年(寛永1)霊岸寺の建立があったことから名付ける。
  • 高砂町 たかさごちょう (1) 現、中央区日本橋富沢町。明暦(1657)吉原が浅草へ移転した後、その旧地江戸町二丁目跡地に起立した町。(2) 現、葛飾区高砂町か。
  • 佃島 つくだじま 東京都中央区の南東部、隅田川の川口に生じた小島。今では埋立により、石川島・月島に接続。古くシラウオの産地、佃煮・佃祭で名高い。近年住宅地化が進行。近世初期、摂津国佃村の漁民が移住したことに因む名。
  • [港区]
  • 赤坂 あかさか 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 溜池 ためいけ 現、港区赤坂一〜三丁目の北東辺と現、千代田区との境界上、江戸城南西の外曲輪に造成された堀。山王台と赤坂台地間の低湿地。
  • 金杉川 かなすぎがわ 古川。新宿区・渋谷区・港区を流れる東京都の二級河川。新堀川・赤羽川ともいう。
  • 芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
  • 柴井町 しばいちょう 現、港区新橋五〜六丁目。露月町の南、東海道沿いに位置する両側町の町屋。
  • [渋谷区]
  • 宇田川町 うだがわちょう 東京都渋谷区にある地名・町名。渋谷の繁華街の一角を担っている地域として知られている。渋谷区の中部に位置する。地域の北部から東部は、渋谷区神南に接する。地域の東部の境界には渋谷公園通りに接している。
  • [以下、当時のキャンパス位置不詳のため、地区分類せず]
  • 帝大 ていだい → 帝国大学
  • 帝国大学 ていこく だいがく 旧制の官立総合大学。1886年(明治19)の帝国大学令により東京大学が帝国大学となり、97年京都帝国大学が設立、その後東北・九州・北海道・京城・台北・大阪・名古屋の各帝国大学が設置。略称、帝大。第二次大戦後、改編され新制の国立大学となった。
  • 高等工業学校 こうとう こうぎょうがっこう 工業に関する専門教育を施した旧制の実業専門学校。高工。
  • 東京工業大学 とうきょう こうぎょう だいがく 国立大学法人の一つ。前身は1881年(明治14)創立の東京職工学校。その後東京工業学校、東京高等工業学校を経て、1929年東京工業大学となり、49年新制大学。2004年法人化。本部は目黒区。
  • 士官学校 しかん がっこう → 陸軍士官学校
  • 陸軍士官学校 りくぐん しかんがっこう 陸軍の士官候補生および准士官・下士官を教育した学校。1874年(明治7)東京市ヶ谷に設置、敗戦時は神奈川県座間にあった。略称、陸士。
  • 早稲田大学 わせだ だいがく 私立大学の一つ。前身は1882年(明治15)大隈重信が創設した東京専門学校。1902年現校名に改称。20年大学令による大学となり、49年新制大学。本部は東京都新宿区。
  • 高等工業 → 東京工業大学
  • 東京工業大学 とうきょう こうぎょう だいがく 国立大学法人の一つ。前身は1881年(明治14)創立の東京職工学校。その後東京工業学校、東京高等工業学校を経て、1929年東京工業大学となり、49年新制大学。2004年法人化。本部は目黒区。
  • 学習院 がくしゅういん 私立学校の一つ。1847年(弘化4)公家子弟の教育のために京都に開講された学習院が起源。皇族・華族のために77年(明治10)東京で再開。84年宮内省の直轄。85年女子部が華族女学校として独立(後の女子学習院)。1947年女子学習院を併合して学校法人となり一般に開放。49年旧制高等科を母体として新制の学習院大学を設置。本部は東京都豊島区。
  • ミツワ科学研究所
  • [神奈川県]
  • [相模] さがみ 相摸。旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
  • 川崎 かわさき 神奈川県北東部の市。政令指定都市の一つ。北は六郷川(多摩川)を隔てて東京都に、南西は横浜市に隣接。海岸に近い地区は京浜工業地帯の一部、内陸地区は住宅地。昔は東海道の宿駅。人口132万7千。
  • 神奈川 かながわ (1) 関東地方の県。武蔵国の一部及び相模国全部を管轄。県庁所在地は横浜市。面積2416平方キロメートル。人口879万2千。全19市。(2) 横浜市の区の一つ。その中心をなす旧神奈川町は、もと東海道五十三次の一つで、神奈川条約締結の地。
  • 保土ヶ谷 ほどがや 横浜市中部の区。もと東海道の宿駅。「程ヶ谷」とも書いた。
  • 鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
  • 横浜 よこはま 神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港以来生糸の輸出港として急激に発展。現在、全国一の国際貿易港。人口358万。
  • 横須賀 よこすか 神奈川県南東部の市。三浦半島の東岸、東京湾の入口に位置する。元軍港で、鎮守府・東京湾要塞司令部・造船所などがあった。現在、米海軍・自衛隊の基地、自動車工場がある。人口42万6千。
  • 三崎 みさき 神奈川県南東部、三浦半島先端にある三浦市の漁港。太平洋岸有数の漁業基地。三浦三崎。
  • 油壷 あぶらつぼ 神奈川県三浦市、三浦半島の南端にある地。東大三崎臨海実験所・水族館・ヨット‐ハーバーなどがある。
  • 北条 ほうじょう 湾名。現、三浦市三崎。
  • 三浦半島 みうら はんとう 神奈川県南東部にある半島。南方に突出して東京湾と相模湾とを分ける。東岸には金沢八景・横須賀・浦賀など、西岸には鎌倉・逗子・葉山・三浦などがある。
  • 馬入川 ばにゅうがわ 神奈川県中部を南流する相模川の下流の称。
  • 相模川 さがみがわ 神奈川県の中部を流れる川。山梨県山中湖に発源し、上流を桂川、相模に入って相模川といい、下流を馬入川という。長さ109キロメートル。
  • 相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • [伊豆] いず 旧国名。今の静岡県の東部、伊豆半島および東京都伊豆諸島。豆州。
  • 伊豆大島 いず おおしま 伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。行政区域は、東京都大島町。水深300〜400mほどの海底からそびえる活火山の陸上部分であって、山頂火口のある三原山は1777年ごろの安永の大噴火の際にカルデラ内に出来た中央火口丘。最近では1912〜1914年、1950〜1951年、1986年に中規模以上の噴火があり、特に1986年の大噴火では全島民が避難。
  • 初島 はつしま 静岡県熱海市に属する島。市の東方海上10キロメートル。戸数を42戸に定めて増加を許さず、耕地を各戸に均分し共同作業を行なっていたことで有名。現在は観光地化。旧名、端島。
  • 伊豆半島 いず はんとう 静岡県東部、駿河湾と相模湾の間に突出する半島。火山・温泉が多く、観光・保養地として発展。富士箱根伊豆国立公園の一部。
  • [駿河] するが 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
  • 駿河湾 するがわん 静岡県東部、伊豆半島と御前崎とに抱かれる湾。沿岸より急に深さを増し、中央部は1000メートル以上となる。湾内は好漁場。
  • 江風 うみかぜ 「かわかぜ」か。駆逐艦。
  • メッシーナ Messina イタリア南部、シチリア島北東端の港湾都市。同名の海峡を隔てて本土に対する。古代ギリシアの植民地。人口24万8千(2004)。
  • メッシーナ地震 1783年2月5日の夕刻、メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアに地震が発生。1908年12月8日、メッシーナは地震でほぼ市全てが破壊され、朝に発生した津波によっておよそ60,000人が亡くなり、古くからある建物の多くが破壊された。さらにモダンで合理的な都市計画によって、市はその後の年月で広範囲に再建された(Wikipedia)。/1908年の大地震では6万人の死者および建物の90%が破壊された。地震対策を考慮した新都市が建設されたが、第二次世界大戦で爆撃により大きな損害を被った(世界大百科)。
  • サンフランシスコ San Francisco アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州の都市。金門海峡南岸に位置し、太平洋航路・航空路の要地。同国屈指の良港をもつ。人口77万7千(2000)。桑港。
  • サンフランシスコ地震 1906年4月18日にサンフランシスコ湾一帯で発生した大地震。M8.3。長さ450kmにわたってサンアンドレアス断層が最大6m右横ずれを起こした。この運動のようすを説明するために弾性反発説が提唱された。地震による死者は約700人と推定されている。サンフランシスコ市に大火災が発生し、被害を拡大した。この地震で動いたサンアンドレアス断層の南端近くで、1989年10月17日にサンフランシスコ市の南東90kmを震源とするロマプリエタ地震(M7.1、死者61人)が発生した。(地学)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『世界大百科事典』(平凡社、2007)。




*年表

  • 江戸開府以後、最近にいたるまで、東京において感じた半壊的以上の地震は十七回。
  • 慶安二(一六四九)六月二〇日 午前三時。品川・川崎あたりの地震。死人数百名(本所・深川・浅草などの埋立地がまだ開けない時分のこと)。
  • 元禄一六(一七〇三)一一月二三日 午前二時、元禄の大地震。死者、五二三三名。震源、房総の東海岸。
  • 文化九(一八一二) 神奈川・保土ヶ谷あたり地震。
  • 安政元(一八五四)一一月四日 駿河沖に大地震。
  • 安政二(一八五五)一〇月二日 午後十時、江戸地震。死者、六七五七名。震源、金町・亀有地方。
  • 明治二七(一八九四) 東京地震。震源、鴻巣・桶川地方。
  • 一九〇六年四月一八日 サンフランシスコ大地震。M8.3。長さ450kmにわたってサンアンドレアス断層が最大6m右横ずれを起こした。死者は約700人と推定。サンフランシスコ市に大火災が発生し被害を拡大した。(地学)
  • 一九〇八年一二月八日 イタリア、メッシーナ地震。市内だけで十三万八〇〇〇の人口中八万三〇〇〇の圧死者を出し、付近の市街町村を合わして死者十四万人。
  • 一九二二(大正一一) 今村、イタリア、メッシーナを訪れる。
  • 一九二三(大正一二)六月二日 常陸沖地震。
  • 八月二二日 北海道樽前山に登る。数日来、噴煙減。霧深。
  • 八月二三日 ふたたび登山。噴煙まったく途絶。調査を割愛して二時間も早く切りあげ、そこそこに下山。帰途につける最中、爆発。
  • 夏季 北海道ならびに東北地方の火山調査。
  • 月末 帰京。
  • 九月一日 地震学教室に出勤。正午前、関東大地震発生。
  • 九月一日 午後〇時四十分にやや大きな余震。医化学教室から発火し、図書館危うしとの注進。四時ごろに長男が自転車を飛ばして無事を報じる。十一時に門を出、はるかに迂回して東大久保の自宅にたどりついたのは二日の午前一時。
  • 九月二日 地震学教室に出勤。上野広小路、松坂屋焼失。帰途、十二時ごろ夜警の青年団にひどい目にあう。
  • 九月三日 破損した器械の修理。地震観測結果を謄写版によりおよそ五十通を作成。本郷警察署を訪い、お茶の水、万世橋、鎌倉河岸、丸ノ内宮城下、一中構内へ退却、午後八時、警視庁へ到着。内務省におもむく。午後十時、帰途につく。
  • 九月四日 早朝、地震学教室に行く。
  • 九月五日 震災予防調査会書記・島谷氏を探し出し、事務所を仮に地震学教室内に置く。中村清二、大島から帰京してただちに当事務所を訪う。
  • 九月六日 海軍省・鉄道省・内務省を訪い、調査上の打ち合わせ。午後、内閣翰長の招致によりて首相官邸におもむき、今回の大地震につき学術的の所見を述べる。陸軍省におもむき航空課の調査材料を求め、房総半島・三浦半島・伊豆沿岸水準測量を至急実施せられたきことを依頼。
  • 九月七日 朝、陸軍士官学校を訪う。九段坂方面を調べ、岸上博士を番町の焼け跡に訪い、気象台の地震課におもむき地震観測上の結果を問い合わせ、なお中村技師に連絡をとりたき希望をことづけして、のち大学へ行く。
  • 九月八日 鉄道省・内務省より情報。末広博士、鎌倉より帰着。横浜・鎌倉・横須賀などの情況を詳報。大震調査の結果を第三回分として発表。
  • 九月九日 加藤武夫、来室。伊豆半島・三浦半島ならびに房総半島における地変調査のことを委嘱。加藤・鈴木、十一日出発。井上博士と前記地方地変調査のことを議す。中村清二、北条・館山・伊豆南東沿岸の視察報告。
  • 九月一〇日 寺田博士の意見にしたがい震災予防調査会委員会を十二日開くことに決心。
  • 九月一一日 開催の件を各委員に通知。
  • 九月一二日 「大地震雑話」を記し、来賓の参考に供す。
  • 九月二〇日 今村、記「大地震調査日記」。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 大森博士 → 大森房吉か
  • 大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
  • 近藤病院長
  • 入沢学長
  • 大谷文学士 友人。
  • 保田助手
  • 神永氏 助手
  • 島谷氏 震災予防調査会書記。
  • 中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 震災予防調査会委員。/物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。(Wikipedia)
  • 岸上博士 きしのうえ
  • 中村技師
  • 末広博士
  • 加藤武夫 かとう たけお 1883-1949 地質学者、理学博士。山形県に生まれる。加藤謹吾の長男。東京帝大理科大学地質学科卒業。同講師をへて欧米諸国に留学。大正9(1920)東京帝大教授に任ぜられて鉱床地質学講座を担任。その足跡は世界各地に及び、その豊富な見聞のもとに著した『鉱床地質学』は長く新進学徒の好指針となった。このほか『岡山県棚原鉱山の研究』『本邦に於ける火成活動と鉱床生成時代の総括』『本邦硫黄鉱床の総括』などがある。(日本人名)/帝大地震学教授、震災予防調査会委員。
  • 鈴木理学士
  • 井上博士 地質調査所長委員。
  • 寺田博士 物理学教授委員。 → 寺田寅彦か
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  •  
  • 関谷博士 


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『科学知識』 雑誌。
  • 『安政地震見聞記』 あんせい じしん けんもんき 安政見聞録? 安政見聞誌?
  • 『安政見聞誌』 あんせい けんもんし 安政の地震を報道した一枚摺の類。何百種類となく刊行されている。(国史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 減小 減少か。
  • 訓導 くんどう (2) 旧制小学校の正規の教員の称。学校教育法により現在は教諭。
  • 果然 かぜん 予想どおりであること。案のとおり。はたして。
  • 初期微動 しょき びどう 地震動のうちで最初に現れる比較的振幅の小さく周期の短い微振動。P波による振動と考えられる。この継続時間を震源の位置決定に利用する。
  • 主要動 しゅようどう 地震動で、初期微動に続いて起こる振幅の大きな振動。S波による振動と考えられる。
  • 大底 たいてい 大体、大抵。
  • 記象紙
  • 数葉 すうよう 「葉(よう)」は接尾語。木の葉・紙などのように薄いものや小舟を数えるのに用いる。
  • 外側地震帯 がいそく じしんたい 日本列島の太平洋沿岸沖に沿って帯状に続く地震多発地帯。日本に大きな損害を与える地震は、この地帯に発生したもので、津波を伴いやすい。←→内側地震帯
  • 世外 せがい 世俗をはなれた所、また、境遇。
  • 余震 よしん 大地震の後に引き続いて起こる小地震。ゆりかえし。
  • 構造地震 こうぞう じしん 地質学上の断層と密接な関係のある地震。多くの地震はこれに属すると考えられる。断層地震。
  • 片書 かたがき 肩書き。
  • 蛇腹 じゃばら (2) 壁を囲繞して水平に取り付けた装飾的突出部。
  • 擾乱 じょうらん (1) 入り乱れること。乱れさわぐこと。また、乱し騒がすこと。騒擾。
  • 小使 こづかい 学校・会社・官庁などで雑用に従事する人。用務員。
  • しおしお 気落ちしてうなだれ、元気なく行動するさま。しおれ弱るさま。悄然。
  • 飢渇・饑渇 きかつ うえとかわき。食物や飲物がない苦しみ。
  • 委托 いたく 委託。
  • 考一考 こういっこう ちょっと考えてみること。
  • 斯学 しがく この学問。
  • 翰長 かんちょう 旧制の内閣書記官長(今の内閣官房長官に当たる)の俗称。
  • 水準測量 すいじゅん そくりょう 地表上の各点間の相対的高低の差を定める測量。水準儀と標尺を使用して行う直接水準測量と、三角水準測量・気圧水準測量などの水準儀を用いない間接水準測量とがある。高低測量。
  • 惨鼻 さんび 酸鼻。ひどく心を痛めて、悲しむこと。また、いたましくむごたらしいさま。
  • 驥尾に付す きびにふす [史記伯夷伝、注]蠅が駿馬の尾について千里も遠い地に行くように、後進者がすぐれた先達につき従って、事を成しとげたり功を立てたりすることをいう。蒼蠅驥尾に付して千里を致す。
  • 驥尾 きび 駿馬の尾。または駿馬の後方。
  • 僥倖 ぎょうこう 思いがけないしあわせ。偶然の幸運。
  • 再近 最近か。
  • 地震帯 じしんたい 細長い帯状をなす、震源の分布地域。
  • 地震波 じしんは 地震の際、震源から発して四方に伝わる弾性波。疎密波(P波)と横波(S波)とに分けられ、さらに地表に沿って伝わる表面波があり、それぞれ伝播速度が異なる。
  • 懇請 こんせい ひたすらねんごろに願うこと。
  • 旬日 じゅんじつ 10日間。10日ほど。
  • 違算・遺算 いさん (1) 勘定ちがい。(2) 計画の立てそこない。見込みちがい。誤算。
  • 賞揚 しょうよう ほめあげること。称揚。
  • 予察 よさつ あらかじめ察し知ること。
  • ローム loam (1) 壌土。(2) 風成火山灰土の一種。関東ロームが代表的で、10メートルに達する層をなす。酸化鉄に富み、赤褐色。赤土。
  • 壌土 じょうど (1) つち。土地。土壌。(2) 土性の名称の一つ。粘土・砂・シルトの混合割合がほどよく、耕し易く養分の管理も容易。
  • 寡聞 かぶん 見聞の狭いこと。多く、自己の見聞を謙遜していう。
  • 潴水 ちょすい 豬水、瀦水。水をせきとめてためること。また、その水。
  • 潴水池 ちょすいち 貯水池か。
  • さなきだに そうでなくてさえ。
  • 喪心・喪神 そうしん (1) 正気を失うこと。放心。(2) 失神すること。気絶。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 新月か。穀雨。
 ムスカリ、ハクモクレン開花。

 明治東京地震について。
 1894年(明治27)6月20日発生。M7.0。死者31人、負傷者157人。東京の下町と神奈川県横浜市、川崎市を中心に被害をもたらした(Wikipedia 出典不明)。/震源地は東京湾北部。神田・本所・深川で全半壊多く、死者も31人出た(『新版 地学事典』平凡社、2005.5)。
 Wikipedia と『新版 地学事典』はほぼ同じ内容だけれども、今村明恒の本文には「明治二十七年(一八九四)東京地震(震源、鴻の巣・桶川地方)」とある。日付は不明。鴻巣・桶川は埼玉県北東〜中部。鴻巣や桶川のWikipedia 解説を読んでも、明治にそんな地震があったことは記していない。
 
 寺田寅彦と今村明恒の日記を比較すると、寺田の冷静沈着・傍観的な姿勢に対して、今村がいかに地震学渦中の当事者であったかということがわかる。

 今村明恒のことを「悲劇の人」と形容している書籍やTV報道をたびたび目にするが、ほんとうにそうだったのか疑問がある。
 今村が記した「地震の話」「火山の話」『地震の国』、それから今回の「大地震調査日記」を読むかぎり、彼の筆には“悲観”がほとんど見られない。まったくないわけではないが、将来への諦観にうちのめされたような陰湿さ・絶望を感じることはない。行動力、態度、調査研究の継続。
 なによりも、笑顔の近影に「悲劇の人」というイメージはまったくない。

 ところで、寺田寅彦のこと。
 長岡半太郎・石原純という電気物理学の系統でありながら、同時に今村明恒・中村清二・加藤武夫ら地球物理学の系統にもあって震災予防調査会に籍を置く。電気学と地学を越境し、文学と科学を越境し、研究者と非研究者を越境する身軽さと意志。
 寺田寅彦『地球物理学』、そろそろ読まねばなるまい。




*次週予告


第四巻 第四〇号 
大地震調査日記(二)今村明恒

第四巻 第四〇号は、
二〇一二年四月二八日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三九号
大地震調査日記(一)今村明恒
発行:二〇一二年四月二一日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
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