寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」より。


もくじ 
台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
台風雑俎
震災日記より

オリジナル版
颱風雑俎
震災日記より

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


台風雑俎
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「思想」
   1935(昭和10)年2月1日
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card4670.html

震災日記より
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card4671.html

NDC 分類:451(地球科学.地学 / 気象学)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc451.html
NDC 分類:915(日本文学 / 日記.書簡.紀行)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html





台風雑俎

寺田寅彦


 昭和九年(一九三四)九月十三日ごろ、南洋パラオの南東海上に台風の卵子たまごらしいものが現われた。それがだいたい北西の針路を取って、ざっと一昼夜に一〇〇里程度の速度で進んでいた。十九日の晩、ちょうど台湾の東方に達したころから針路を東北に転じて、二十日の朝ごろからは琉球列島にほぼ平行して進み出した。それと同時に進行速度がだんだんに大きくなり、中心の深度が増してきた。二十一日の早朝に中心が室戸岬むろとざき付近に上陸するころには、台風として可能な発達の極度に近いと思わるる深度に達して、室戸岬測候所の観測簿に六八四・〇ミリという今まで知られた最低の海面気圧の記録を残した。それからこの台風の中心は土佐の東端沿岸の山づたいに徳島の方へ越えたあとに、大阪湾をその楕円だえんの長軸に沿うて縦断して大阪付近に上陸し、そこに用意されていた数々の脆弱ぜいじゃくな人工物をなぎたおしたうえで、さらに京都の付近を見舞みまってあばれまわりながら琵琶湖上に出た。その頃からそろそろ中心が分裂しはじめ、正午ごろには新潟付近で三つくらいの中心に分かれてしまって、しだいに勢力が衰えていったのであった。
 この台風は日本で気象観測はじまって以来、器械で数量的に観測されたものの中ではもっとも顕著なものであったのみならず、それがたまたま日本の文化的施設の集中地域を通過して、いわば台風としての最も能率のよい破壊作業を遂行した。それからもう一つには、この年にあいついでおこったいろいろの災害レビューの終幕における花形として出現したために、その「災害価値」がいっそう高められたようである。そのおかげで、それまではこの世における台風の存在などは忘れていたらしく見える政治界・経済界の有力な方々が、急に台風ならびにそれに連関した現象による災害の防止法を科学的に研究しなければならないということを主唱するようになり、結局、実際にそういう研究機関が設立されることになったといううわさである。まことに喜ぶべきことである。
 このような台風が昭和九年に至って突然に日本に出現したかというと、そうではないようである。昔は気象観測というものがなかったから遺憾いかんながら数量的の比較はできないが、しかし古来の記録に残った暴風で今度のに匹敵するものを求めれば、おそらくいくつでも見つかりそうな気がするのである。古い一例をあげれば、清和せいわ天皇の御代貞観じょうがん十六年(八七四)八月二十四日に京師けいしを襲った大風雨では「樹木じゅもく有名なあるは皆吹倒みなふきたおれ、内外官舎、人民居廬きょろ罕有全者まったきものあることまれなり京邑けいゆう衆水、暴長七八尺、水流迅激、直衝城下ただちにじょうかをつき、大小橋梁、無有孑遺げついあることなし云々うんぬん」とあって、水害もひどかったが風もそうとう強かったらしい。この災害のあとで、班幣畿内諸神きないのしょしんにはんぺいして祈止風雨ふううをとどめんことをいのる」あるいは「向柏原山陵かしわばらさんりょうにむかい申謝風水之ふうすいのわざわいをしんしゃせしむ」といったような、その時代としては適当な防止策がおこなわれ、またもっともはなはだしく風水害をこうむった三一五九家のために「開倉廩そうりんをひらきて賑給之これにしんごうす」という応急善後策もほどこされている。比較的新しい方の例で自分の体験の記憶に残っているのは、明治三十二年(一八九九)八月二十八日、高知市を襲ったもので、学校・病院・劇場が多数倒壊し、市の東端吸江きゅうこうに架した長橋青柳橋あおやぎばしが風の力で横だおしになり、旧城天守閣の頂上の片方のしゃちほこが吹き飛んでしまった。この新旧二つの例は、いずれも台風として今度のいわゆる室戸むろと台風にくらべてそれほどひどくひけをとるものとは思われないようである。明治から貞観まで約千年の間に、この程度の台風がおよそ何回くらい日本の中央部近くを襲ったかと思って考えてみると、仮に五十年に一回として二十回、二十年に一回として五十回となる勘定かんじょうである。
 風の強さの程度は不明であるが、海嘯かいしょうをともなった暴風として記録に残っているものでは、貞観よりも古い天武天皇時代から宝暦四年(一七五四)までに十余例があげられている。
 千年のあいだに二十回とか三十回といえば、やはり稀有けうという形容詞を使っても不穏当とはいえないし、目前にのみ気を使っている政治家や実業家たちが忘れていても不思議はないかもしれない。
 こうした極端な程度からすこし下がった中等程度の台風となると、その頻度は目立めだって増してくる。やっと台風と名のつく程度のものまでも入れれば、中部日本を通るものだけでも年に一つや二つくらいはいつでも数えられるであろう。遺憾いかんながら、まだ台風の深度対頻度の統計がじゅうぶんにできていないようであるが、そうした統計はやはり災害対策の基礎資料として、ぜひとも必要なものであろうと思われる。
 台風災害防止研究機関の設立は喜ぶべきことであるが、もしも設立者の要求に科学的な理解がともなっていないとすると、研究を引き受けるほうの学者たちは、後日たいへんな迷惑をすることになりはしないかという取り越し苦労を感じないわけにはいかないようである。設立者としての政治家、出資者としての財団や実業家たちが二、三年か四、五年も研究すれば台風の予知が完全に的確にできるようになるものと思いこんでいるようなことが、ないとはいわれないような気がするからである。
 台風に関する気象学者の研究は、ある意味では今日でもかなり進歩している。なかんずく本邦学者の多年の熱心な研究のおかげで、台風の構造に関する知識、たとえば台風圏内における気圧・気温・風速・降雨などの空間的・時間的分布などについてはなかなか詳しく調べ上げられているのであるが、かんじんの台風の成因についてはまだ何らの定説がないくらいであるから、できあがった台風が二十四時間後に強くなるか弱くなるか、進路をどの方向にどれだけ転ずるかというような、いちばん大事な事項を決定する決定因子がどれだけあって、それが何と何であるかというような問題になると、まだほとんど目鼻もつかないような状況にある。
 南洋に発現してから徐々に北西に進み、台湾の東からしだいに北東に転向して土佐沖に向かって進んできそうに見えるという点までは、今度の台風とほとんど同じような履歴書を持ってくるのがいくらもある。しかしそれが、ふいと見当をちがえて転向してみたり、また不明な原因で勢力がおとろえてしまって、軽い嵐くらいですんでしまうことがしばしばあるのである。
 転向の原因、勢力消長の決定因子が徹底的にわからないかぎり、一時間後の予報はできても一昼夜後の情勢を的確に予報することは、じつははなはだ困難な状況にあるのである。
 これらの根本的、決定因子を知るにはいったいどこをさがせばよいかというと、それはおそらく台風の全勢力を供給する大源泉と思われる、北太平洋ならびにアジア大陸の大気活動中心における気流大循環系統のかなり明確な知識と、その主要循環系の周囲に随伴する多数の副低気圧が相互におよぼす勢力交換作用の知識との中に求むべきもののように思われる。それらの知識を確実に把握するためには、シナ・満州・シベリアはもちろんのこと、北太平洋全面からオホーツク海にわたる海面にかけて広く多数に分布された観測点における海面から高層までの気象観測を、系統的・定時的に少なくも数十年継続することが望ましいのであるが、これは現時においてはとうてい期待しがたい大事業である。ただ、さしあたっての方法としては、南洋・シナ・満州における観測ならびに通信機関の充実をはかって、それによって得られる材料を基礎として応急的の研究を進めるほかはないであろう。
 自分のすこしばかり調べてみた結果では、昨年の台風のばあいには、同時に満州の方から現われた二つの副低気圧と南方から進んできた主要台風との相互作用がこの台風の勢力増大に参与したように見えるのであるが、不幸にして満州方面の観測点が僅少きんしょうであるために、それらの関係をあきらかにすることができないのは遺憾いかんである。
 ともかくもこのような事情であるから、台風の災害防止の基礎となるべき台風の本性に関する研究は、なかなか生やさしいことではないのである。目前の災禍さいかにおどろいて急いで研究機関を設置しただけではげられると保証のできない仕事である。ただ冷静で、気ながく、ねばり強い学者のために将来役に立つような資料を永続的・系統的に供給することのできるような、しかも政治界や経済界の動乱とは無関係に観測研究を永続させうるような機関を設置することが大切であろう。

 台風が日本の国土におよぼす影響は、単に物質的なものばかりではないであろう。日本の国の歴史に、また日本国民の国民性にこの特異な自然現象がおよぼした効果は、普通に考えられているよりも深刻なものがありはしないかと思われる。
 弘安四年(一二八一)に日本に襲来した蒙古もうこの軍船が、おりからの台風のために覆没ふくぼつして、そのために国難をまぬがれたのはあまりに有名な話である。日本武尊やまとたけるのみこと東征の途中の遭難とか、義経よしつね大物浦だいもつのうらの物語とかは、はたして台風であったかどうかわからないから別として、『日本書紀』時代における遣唐使がしばしば台風のために苦しめられたのは事実であるらしい。斉明さいめい天皇の御代に二そうの船に分乗して出かけた一行が暴風にあって、一そうは南海の島に漂着して島人にひどい目にわされたとあり、もう一そうもまた大風のために見当ちがいの地点に吹きよせられたりしている。これは立派な台風であったらしい。また仁明にんみょう天皇の御代に僧真済しんさいが唐にわたる航海中に船が難破し、やっといかだして漂流二十三日、同乗者三十余人ことごとく餓死し、真済と弟子の真然しんねんとたった二人だけ助かったという記事がある。これも台風らしい。こうした実例から見てもわかるように、遣唐使の往復はまったく命がけの仕事であった。
 このように、台風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方かなたの安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見える。しかし、逆説的に聞こえるかもしれないが、その同じ台風はまた、思いもかけない遠い国土と日本とを結びつける役目をつとめたかもしれない。というのは、この台風のおかげで南洋方面や日本海の対岸あたりから意外な珍客が珍奇な文化をもたらして漂着したことがしばしばあったらしいということが、歴史の記録から想像されるからである。ことによると日本の歴史以前の諸先住民族の中には、そうした漂流者のれが存外多かったかもしれないのである。
 故意に、また漂流の結果、自由意志に反してこの国土に入り込んで住みついたわれわれの祖先は、年々に見舞みまってくる台風の体験知識を大切な遺産として子々孫々に伝え、子孫はさらにこの遺産を増殖し蓄積した。そうしてそれらの世襲知識を整理し、帰納し、演繹えんえきして、この国土にもっとも適した防災方法を案出し、さらにまたそれに改良を加えてもっとも完全なる耐風建築・耐風村落・耐風市街を建設していたのである。そのように少なくも二〇〇〇年かかって研究しつくされた結果に準拠して作られた造営物は、昨年のような稀有の台風の試練にもたえることができたようである。
 大阪の天王寺てんのうじの五重塔がたおれたのであるが、あれは文化・文政〔一八〇四〜一八三一〕ごろの廃頽期はいたいきにつくられたもので、正当な建築法によらない、肝心な箇所にごまかしのあるものであったといわれている。
 十月はじめに信州へ旅行して、台風の余波をうけた各地の損害程度を汽車の窓からながめて通ったとき、いろいろ気のついたことがある。それがいずれも祖先から伝わった耐風策の有効さを物語るものであった。
 畑中にある民家で、ボロボロに腐朽ふきゅうしているらしく見えていながら存外無事なのがある。そういう家はたいてい周囲に植木が植え込んであって、それが有力な障壁の役をしたものらしい。これに反して、新道沿いに新しくできた当世風の二階家などで大損害を受けているらしいのがいくつも見られた。松本付近で、ある神社の周囲を取りかこんでいるはずの樹木の南側だけが欠けている。そうしてたぶんそのためであろう、神殿の屋根がだいぶ風にいたんでいるように見受けられた。南側の樹木が今度の風でたおれたのではなくて、以前に何かの理由で取りはらわれたものらしく見受けられた。
 諏訪湖畔はんでも、山麓に並んだ昔からの村落らしい部分はまったく無難のように見えるのに、水辺に近い近代的造営物にはずいぶんひどくそんじているのがあった。
 おかしいことには、古来の屋根の一型式にしたがってこけらぶきの上に石ころを並べたのは案外平気でいるそのすぐ隣に、当世風のトタンぶきや、油布張ゆふばりの屋根がベロベロにがれて醜骸しゅうがいをさらしているのであった。
 甲州路へかけても、いたるところの古い村落はほとんど無難であるのに、停車場のできたために発達した新集落には相当な被害が見られた。古い村落は永い間の自然淘汰によって、台風の害の最小なような地の利のある地域に定着しているのに、新集落はそうした非常時に対する考慮をぬきにして発達したものだとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことであるといわなければならない。
 昔は「地をそうする」という術があったが、明治・大正の間にこの術が見失われてしまったようである。台風もなければ烈震もない西欧の文明を継承することによって、同時に、台風も地震も消失するかのような錯覚にとらわれたのではないかと思われるくらいに、きれいに台風と地震に対する「相地術」を忘れてしまったのである。
 ドイツの町を歩いていたとき、空洞レンガ一枚ばりの壁でかこまれた大きな家が建てられているのを見て、こんな家が日本にあったらどうだろうと言って友人らと話したことがあった。ナウエンの無線電信塔の鉄骨構造の下端が、ガラスのボール・ソケット・ジョイントになっているのを見たときにもきもを冷やしたことであった。しかし日本では、濃尾のうび震災の刺激によって設立された震災予防調査会における諸学者の熱心な研究によって、日本に相当した耐震建築法が設定され、それが関東震災の体験によってさらにいっそうの進歩をとげた。その結果として得られた規準にしたがって作られた家は、耐震的であると同時にまた耐風的であるということは、今度の大阪における木造小学校建築物被害の調査からも実証された。すなわち、昭和四年(一九二九)三月以後に建てられた小学校はみな、この規準にしたがって建てられたものであるが、それらのうちで倒壊はおろか傾斜したものさえ一校もなかった。これに反して、この規準によらなかった大正十年(一九二一)ないし昭和二年(一九二七)の建築にかかるものは約十パーセントの倒壊率を示しており、もっと古い大正九年以前のものは二十四パーセントの倒壊率を示している。もっともこの最後のものは古くなったためもいくらかあるのである。鉄筋構造のものはもちろん無事であった。
 このように建築法は進んでも、それでもまだ地を相することの必要は決して消滅しないであろう。去年の秋の所見によると、塩尻から辰野たつのへ越える渓谷の両側のところどころに樹木が算をみだしてたおれ、あるいは折れくだけていた。これは伊那いな盆地から松本だいらへ吹きぬける風の流線がこの谷に集約され、したがって異常な高速度を生じたためと思われた。こんな谷の斜面の突端にでも建てたのでは、規準様式の建築でもまったく無難であるかどうか疑わしいと思われた。
 地震による山崩やまくずれはもちろん、台風の豪雨で誘発される山津波についても慎重に地を相する必要がある。海嘯かいしょうについてはなおさらである。大阪では、安政の地震津波で洗われた区域にかまわず新市街を建てて、昭和九年(一九三四)の暴風による海嘯かいしょうの洗礼をうけた。東京では先ごろ、深川の埋め立て区域に府庁を建設するという案を立てたようであるが、あの地帯は著しい台風のさいには海嘯かいしょうおそわれやすいところで、そのうえに年々に著しい土地の沈降を示している区域である。それにかかわらずそういう計画をたてるというのは、現代の為政の要路にある人たちが地を相することを完全に忘れている証拠である。
 地を相するというのは畢竟ひっきょう、自然の威力をおそれ、その命令にさからわないようにするための用意である。安倍あべ能成よししげ君が西洋人と日本人とで自然に対する態度に根本的の差違があるということを論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが、日本人は自然に帰し自然にしたがおうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には、台風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである。

 台風の災害を軽減するには、これに関する国民一般の知識の程度を高めることが必要であると思われるが、現在のところでは、この知識の平均水準はきわめて低いようである。たとえば低気圧という言葉の意味すらよく飲みこめていない人が、立派な教養を受けたはずのいわゆる知識階級にも存外に多いのにおどろかされることがある。台風中心の進行速度と、風の速度とをまちがえて平気でいる人もなかなか多いようである。これは人々の心がけによることであるが、しかし、大体において学校の普通教育ないし中等教育の方法に重大な欠陥があるためであろうと想像される。これにかぎったことではないが、いわゆる理科教育が妙な型に入ってわかりやすいことをわざわざわかりにくく、おもしろいことをわざわざしかつめらしく教えているのではないかという気がする。子どもに固有なするどい直観の力を利用しないで、頭の悪い大人に適合するような教案ばかりをりすぎるのではないかと思われるふしもある。これについては教育者の深い反省をうながしたいと思っているしだいである。

 ついでながら、昨年〔一九三四〕の室戸台風が上陸する前に、室戸岬沖の空に不思議なひかりものが見えたということが報ぜられている。いろいろ聞き合わせてみても、その現象の記載がどうも要領を得ないのであるが、ともかくも電光などのような瞬間的の光ではなくて、かなり長く持続する光が空中の広い区域に現われたことだけは事実であるらしい。こういう現象はふつうの気象学の書物などには書いてないことで、はたして台風と直接関係があるかないかも不明であるが、しかし、土佐の漁夫のあいだには昔からそういう現象が知られていて、「とうじ」という名前までついているそうである。これが現われると大変なことになると伝えられているそうである。昨年の台風の上陸したのは早朝であったので、その前にも空はいくらかもう明るかったであろうから、ことによるといわゆる台風眼の上層に雲のない区域ができて、そこから空の曙光しょこうがもれて下層の雨の柱でもらしたのではないかという想像もされなくはないが、なにぶんにも確実な観察の資料がないから、何らのもっともらしい推定さえくだすこともできない。
 これに連関して、やはり土佐で古老から聞いたことであるが、暴風の風力がもっとも劇烈なばあいには空中をひかものが飛行する、それを「ひだつ(火竜?)」と名づけるという話であった。これも何かの錯覚であるかどうか信用のできる資料がないから不明である。しかし自分の経験によると、暴風の夜にかすかな空明かりにらされた木立ちを見ていると、烈風のかたまりが吹きつける瞬間に樹の葉がことごとく裏返うらがえって白っぽく見えるので、そのあたりが一体に明るくなるような気のすることがある。そんな現象があるいはひかものと誤認されることがないともかぎらない。もっとも『土佐古今の地震』という書物に、著者寺石てらいし正路まさみち氏が明治三十二年(一八九九)の台風のさいに見たひかものの記載には、「火事場の火粉ひのこのごときもの無数空気中を飛行するを見受けたりき」とあるから、これはまた別の現象かもしれない。
 非常な暴風のために空気中に物理的な発光現象がおこるということは、全然あり得ないと断定することも今のところ困難である。そういう可能性もまったく考えられなくはないからである。しかし何よりもまず、事実の方から確かめてかかることが肝心であるから、万一、読者の中でそういう現象を目撃した方があったら、その観察についての示教を願いたいと思うしだいである。
 事実をたしかめないで学者が机上の議論を戦わして大笑いになる例は、ディケンスの『ピクウィック・ペーパー』にもあったと思うが、現実の科学者の世界にもしばしばある。たとえばこんな笑い話があった。ある学会で懸賞問題を出して答案をつのったが、その問題は、「コップに水をいっぱい入れておいて、さらに徐々に砂糖を入れても水があふれないのはなぜか」というのであった。応募答案の中にはじつに深遠をきわめた学説のさまざまが展開されていた。しかし、当選した正解者の答案はきわめて簡単明瞭で、「水はこぼれますよ」というのであった。
 台風のような複雑な現象の研究には、なおさら事実の観測が基礎にならなければならない。それには、台風の事実をとらえる観測網をできるだけ広く密に張りわたすのが第一着の仕事である。
 軍艦飛行機をつくるのが国防であると同じように、このような観測網の設置も日本にとってはやはり国防の第一義であるかと思われるのである。
(昭和十年(一九三五)二月『思想』



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「思想」
   1935(昭和10)年2月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」
※単行本「蛍光板」に収録。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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震災日記より

寺田寅彦


大正十二年(一九二三)
八月二十四日 くもり、後驟雨しゅうう
 子どもらと志村しむらの家へ行った。崖下のたんぼみち南蛮なんばんギセルという寄生植物をたくさん採集した。加藤首相〔加藤友三郎。痼疾こしつ急変して薨去こうきょ

八月二十五日 晴
 日本橋で散弾二きん買う。ランプの台に入れるため。

八月二十六日 くもり、夕方雷雨
 月食げっしょく雨で見えず。夕方めずらしい電光 Rocket lightningライトニング が西から天頂へかけての空に見えた。ちょうど紙テープを投げるように西から東へのびて行くのであった。一同で見物する。この歳になるまでこんなおひかりは見たことがないと母上が言う。

八月二十七日 晴
 志村の家で泊まる。めずらしい日本晴れ。旧暦十六夜いざよいの月が赤く森から出る。

八月二十八日 晴、驟雨しゅうう
 朝霧が深く地をはう。草刈くさかり。百舌もずが来たが鳴かず。夕方の汽車で帰るころ、雷雨の先端がきた。加藤首相葬儀。

八月二十九日 くもり、午後雷雨
 午前、気象台で藤原君〔藤原咲平さくへいの渦や雲の写真を見る。

八月三十日 晴
 妻と志村の家へ行き、スケッチ板一枚描く。

九月一日 (土曜)
 朝はしけ模様で、ときどき暴雨が襲ってきた。非常な強度で降っていると思うと、まるでち切ったようにパタリとやむ。そうかと思うとまた急に降り出す、じつにめずらしい断続的な降り方であった。雑誌『文化生活』への原稿「石油ランプ」を書き上げた。雨がおさまったので上野二科会にかかい展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半ごろ。蒸し暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を飲みながら、同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人おっとからの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子いすに腰かけている両足のうらを、下から木槌きづちで急速に乱打するように感じた。たぶんその前にきたはずの弱い初期微動を気がつかずに、ただちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短周期の振動だと思っているうちに、いよいよ本当の主要動が急激に襲ってきた。同時に、これは自分のまったく経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に、子どものときから何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、ちょうど船に乗ったように、ゆたりゆたりれるという形容が適切であることを感じた。仰向あおむいて会場の建築のれぐあいを注意して見ると、四、五秒ほどと思われる長い周期でミシミシ、ミシミシと音を立てながら、ゆるやかにれていた。それを見たとき、これならこの建物は大丈夫だということが直感されたので、おそろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、このめずらしい強震の振動の経過をできるだけくわしく観察しようと思って骨を折っていた。
 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に、一時振動がおとろえ、このぶんではたいしたこともないと思うころにもう一度急激な、最初にも増した激しい波がきて二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長周期の波ばかりになった。
 同じ食卓にいた人々は、たいてい最初の最大主要動でわれ勝ちに立ち上がって出口の方へかけだして行ったが、自分らの筋向かいにいた中年の夫婦は、その時はまだ立たなかった。しかもその夫人がビフテキを食っていたのが、少なくも見たところ平然と肉片を口に運んでいたのがハッキリ印象に残っている。しかし、二度目の最大動がきたときは一人残らず出てしまって場内はガランとしてしまった。油画あぶらえの額はゆがんだり、落ちたりしたのもあったが、たいていはちゃんとしてかかっているようであった。これで見ても、そう、この建物の震動は激烈なものでなかったことがわかる。あとで考えてみると、これは建物の自己周期が著しく長いことが有利であったのであろうと思われる。震動が衰えてから外の様子を見に出ようと思ったが、喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって誰もいないので勘定をすることができない。それで、勘定場近くの便所の口へ出て低い木柵越しに外を見ると、そこに一団、かしこに一団というふうに人間が寄り集まって茫然ぼうぜんとして空をながめている。この便所口から柵をこえて逃げ出した人々らしい。空はもうなかば晴れていたが、ちぎれちぎれの綿雲が嵐のときのように飛んでいた。そのうちにボーイの一人が帰ってきたので勘定をすませた。ボーイがひどくていねいに礼を言ったように記憶する。出口へ出ると、そこでは下足番のばあさんがただ一人、落ち散らばった履物はきものの整理をしているのを見つけて、あずけた蝙蝠傘こうもりがさを出してもらって、館の裏手うらての集団の中からT画伯をさがしあてた。同君の二人の子どもも一緒にいた。そのとき気のついたのは、付近の大木の枯れ枝の大きなのが折れておちている。地震のために折れ落ちたのか、それとも今朝けさの暴風雨で折れたのかわからない。T君に別れて東照宮前の方へ歩いてくると、異様なカビくさいにおいが鼻をついた。空をあおぐと下谷したやの方面からひどい土ほこりが飛んでくるのが見える。これは非常に多数の家屋が倒壊したのだと思った。同時に、これでは東京じゅうが火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内をのぞくと石灯籠いしどうろうは一つ残らず象棋しょうぎ倒しに北の方へたおれている。大鳥居の柱は立っているが、上の横桁よこげたがはずれかかり、しかも落ちないであやうく止まっているのであった。精養軒せいようけんのボーイたちが、大きな桜の根元ねもとに寄り集まっていた。大仏の首の落ちたことは後で知ったが、そのときはすこしも気がつかなかった。池の方へ下りる坂脇の稲荷の鳥居も、柱が立ってけたが落ちくだけていた。坂を下りてみると、不忍しのばず弁天べんてんの社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり飲みこめてきた。
 無事な日の続いているうちに突然におこった著しい変化をじゅうぶんにリアライズするには、存外手数がかかる。この日は二科会を見てから日本橋あたりへ出て昼飯を食うつもりで出かけたのであったが、あの地震を体験し、下谷の方から吹き上げてくる土ほこりのにおいをいで大火を予想し、東照宮の石灯籠いしどうろうのあの象棋倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし弁天社務所の倒壊を見たとき、初めてこれはいけないと思った。そうしてはじめてわが家のことがすこし気がかりになってきた。
 弁天の前に電車が一台停まったまま動きそうもない。車掌に聞いても、いつ動き出すかわからないという。後から考えるとこんなことを聞くのがいかな非常識であったかがよくわかるのであるが、その当時、自分と同様の質問を車掌に持ち出した市民の数は万をもって数えられるであろう。
 動物園裏までくると、道路のまんなかへ畳を持ち出してその上に病人をねかせているのがあった。人通りのない町はひっそりしていた。根津をぬけて帰るつもりであったが、頻繁ひんぱんにおそってくる余震でレンガ壁のくずれかかったのがあらたに倒れたりするのを見て、低湿地の街路は危険だと思ったから、谷中やなか三崎町みさきちょうから団子坂だんござかへ向かった。谷中のせまい町の両側に倒れかかった家もあった。塩せんべい屋の取り散らされた店先に烈日れつじつの光がさしていたのが心をひいた。団子坂をのぼって千駄木せんだぎへくると、もう倒れかかった家などは一軒もなくて、ところどころ、ただ瓦の一部分はがれた家があるだけであった。曙町へ入ると、ちょっと見たところではほとんど何ごともおこらなかったかのように森閑しんかんとして、春のようにほがらかな日光が門並かどなみを照らしている。うちの玄関へ入ると、妻はほうきを持って壁のすみずみからこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。となりの家の前のレンガ塀はすっかり道路へくずれ落ち、隣と宅の境の石垣も全部、これは宅の方へたおれている。もし裏庭へ出ていたら危険なわけであった。聞いてみると、かなりひどいゆれ方で居間の唐紙からかみがすっかりたおれ、猫がおどろいて庭へ飛び出したが、わが家の人々は飛び出さなかった。これは平生、幾度となく家族に言いふくめてあったことの効果があったのだというような気がした。ピアノが台の下の小滑車ですこしばかり歩き出しており、花瓶かびん台の上の花瓶が板の間にころがり落ちたのが、不思議にくだけないでちゃんとしていた。あとは、瓦が数枚落ちたのと壁に亀裂きれつが入ったくらいのものであった。長男が中学校の始業日で本所ほんじょのはてまで行っていたのだが、地震のときはもう帰宅していた。それで、時々の余震はあっても、その余は平日と何も変わったことがないような気がして、ついさきに東京じゅうが火になるだろうと考えたことなどは綺麗きれいに忘れていたのであった。
 そのうちに助手の西田君がきて、大学の医化学教室が火事だが理学部は無事だという。N君がくる。となりのTM教授がきて市中所々出火だという。縁側から見ると、南の空にめずらしい積雲せきうんが盛り上がっている。それは普通の積雲とはまったくちがって、先年、桜島大噴火のさいの噴雲を写真で見るのと同じように、典型的のいわゆるカリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。この雲の上にはじつに、東京ではめったに見られない紺青こんじょうの秋の空がみきって、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭はげいとうに輝いているのであった。そうして電車の音も止まり、近所の大工の音もみ、世間がしんとしてじつに静寂な感じがしたのであった。
 夕方藤田君がきて、図書館と法文科も全焼、山上集会所も本部も焼け、理学部では木造の数学教室が焼けたという。夕食後、E君と白山はくさんへ行ってロウソクを買ってくる。TM氏が来て大学の様子を知らせてくれた。夜になってから大学へ様子を見に行く。図書館の書庫の中の燃えているさまが窓外からよく見えた。一晩じゅうくらいはかかって燃えそうに見えた。ふつうの火事ならば大勢の人が集まっているであろうに、あたりには人影ひとかげもなく、ただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた。メートルとキログラムの副原器をおさめた小屋の木造の屋根が燃えているのを三人がかりで消していたが、耐火構造の室内はだいじょうぶと思われた。それにしても、屋上にこんな燃草もえくさをわざわざ載せたのはおろかな設計であった。物理教室の窓枠の一つに飛び火がついて燃えかけたのを、秋山・小沢両理学士が消していた。バケツ一つだけで弥生町やよいちょう門外の井戸までくみに行ってはぶっかけているのであった。これも捨てておけば建物全体が焼けてしまったであろう。十一時ごろ帰る途中の電車通りは露宿者でいっぱいであった。火事で真紅に染まった雲の上には、青い月が照らしていた。

九月二日 くもり
 朝、大学へ行って破損の状況を見まわってから、本郷通りを湯島五丁目あたりまで行くと、きれいに焼きはらわれた湯島台の起伏した地形が一目ひとめに見え、上野の森が思いもかけない近くに見えた。兵燹へいせんという文字が頭に浮かんだ。また、江戸以前のこのあたりの景色けしきも想像されるのであった。電線がかたまりこんがらがって道をふさぎ、焼けた電車の骸骨がいこつが立ち往生おうじょうしていた。土蔵もみんな焼け、ところどころレンガ塀の残骸がまじっている。こげた樹木のこずえがそのまま真っ白に灰をかぶっているのもある。明神前の交番と自働電話だけが、奇跡のように焼けずに残っている。松住町まつずみちょうまで行くと浅草・下谷したや方面はまだ一面に燃えていて、黒煙とほのおの海である。煙が暑くむせっぽく、眼にみて進めない。その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難してくる人々の中には、顔も両手もライ病患者のように火膨ひぶくれのしたのを左右二人で肩にもたらせ引きずるようにして連れて来るのがある。そうかと思うとまた反対に向こうへ行く人々の中には、写真機をさげて遠足にでも行くような呑気のんきそうな様子の人もあった。浅草の親戚を見舞うことは断念して、松住町から御茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂きょううんどう病院の避難所になっていると立札が読まれる。御茶の水橋はなかほどの両側がすこしくずれただけで残っていたが、駿河台するがだいは全部焦土であった。明治大学前に黒こげの死体がころがっていて、一枚の焼けたトタン板がかぶせてあった。神保町じんぼうちょうから一ツ橋まできてみると、気象台も大部分は焼けたらしいが官舎が不思議に残っているのが石垣越しに見える。橋に火がついて燃えているので、巡査がり番していて人を通さない。自転車が一台飛んできて制止にかまわず突っ切って渡って行った。堀に沿うてうしふちまで行って道端みちばたいこうていると、前を避難者がひっきりなしに通る。じつにいろんな人が通る。五十恰好かっこうの女が一人、大きな犬を一匹背中におぶって行く、風呂敷ふろしきづつみ一つ持っていない。浴衣ゆかたが泥水でもびたかのように黄色く染まっている。多勢の人が見ているのも無関心のように、わき見もしないで急いで行く。若い男で大きなはすの葉を頭にかぶって上から手ぬぐいでしばっているのがある。それからまた、氷袋に水を入れたのを頭にぶらさげて歩きながら、ときどきその水をあおっているのもある。と、土方どかた風の男が一人、縄で何かガラガラ引きずりながらひっぱってくるのを見ると、一枚の焼けトタンの上に二尺角くらいの氷塊をのっけたのをなんとなく得意げに引きずって行くのであった。そうした行列の中を一台、立派な高級自動車が人の流れにかれながらいるのを見ると、車の中にはたぶん掛物でも入っているらしい桐の箱がいっぱいに積み込まれて、その中にうずまるように一人の男が腰をかけてあたりを見まわしていた。
 帰宅してみたら、焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難してきていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜、上野公園で露宿していたら巡査がきて、○○人の放火者が徘徊はいかいするから注意しろと言ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説ふせつが聞こえてくる。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには、いったい何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうか。そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。
 夕方に駒込の通りへ出て見ると、避難者のむれが陸続と滝野川たきのがわの方へ流れて行く。表通りの店屋などでも荷物をまとめて立ち退き用意をしている。帰ってみると、近所でも家をひきはらったのがあるという。上野方面の火事がこのあたりまで焼けてこようとは思われなかったが、万一の場合の避難の心がまえだけはした。さて避難しようとして考えてみると、どうしても持ち出さなければならないような物はほとんど無かった。ただ、自分の描き集めた若干の油絵だけがちょっとしいような気がしたのと、人からあずかっていたローマ字書きの書物の原稿に責任を感じたくらいである。妻が三毛猫だけ連れて、もう一匹のタマの方は置いて行こうと言ったら、子どもらがどうしても連れて行くといってバスケットかなんかを用意していた。

九月三日 (月曜) くもり、のち雨
 朝九時ごろから長男を板橋へやり、三代吉をたのんで白米・野菜・塩などを送らせるようにする。自分は大学へ出かけた。追分おいわけの通りの片側を、田舎へ避難する人がひっきりなしに通った。反対の側はまだ避難していた人が帰ってくるのや、田舎から入り込んでくるのが反対の流れをなしている。呑気のんきそうな顔をしている人もあるが、見ただけでずいぶん悲惨ひさんな感じのする人もある。負傷した片足をひきずりひきずりつえにすがって行く若者の顔には、どこへ行くというあてもないらしい絶望の色があった。夫婦して小さな躄車いざりぐるまのようなものに病人らしい老母を載せて引いて行く。病人が塵埃じんあいで真っ黒になった顔をうつむけている。
 帰りに追分おいわけあたりでミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が、漸次ぜんじに波及していくさまが歴然とわかった。帰ってから用心に鰹節かつおぶし・うめぼし・缶詰・片栗粉などを近所へ買いにやる。なんだか悪いことをするような気がするが、二十余人の口を託されているのだからやむをえないと思った。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米・サツマイモ・大根・ナス・醤油しょうゆ・砂糖など車に積んで持ってきたので、すこし安心することができた。しかしまたこの場合に、台所から一車もの食料品を持ち込むのはかなり気のひけることであった。
 E君に、青山の小宮君の留守宅の様子を見に行ってもらった。帰っての話によると、地震のとき長男が二階にいたら書棚がたおれて出口をふさいだので心配した、それだけでべつに異状はなかったそうである。その後は邸前のところに避難していたそうである。
 夜警でいっしょになった人で地震当時、前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事はちょうど火柱のように見えたので、大島の噴火でないかといううわさがあったそうである。
(昭和十年(一九三五)十月)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
※生前未発表稿。
※単行本「橡の実」に収録。
※「八月三十日」の「三十」には編集部によって〔三十一〕の注記がついています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
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颱風雑俎

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)颱風《たいふう》の卵子《たまご》らしいものが現われた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)清和天皇の御代|貞観《じょうがん》十六年

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「宀/火」、第4水準2-79-59]
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 昭和九年九月十三日頃南洋パラオの南東海上に颱風《たいふう》の卵子《たまご》らしいものが現われた。それが大体北西の針路を取ってざっと一昼夜に百里程度の速度で進んでいた。十九日の晩ちょうど台湾の東方に達した頃から針路を東北に転じて二十日の朝頃からは琉球列島にほぼ平行して進み出した。それと同時に進行速度がだんだんに大きくなり中心の深度が増して来た。二十一日の早朝に中心が室戸岬《むろとざき》附近に上陸する頃には颱風として可能な発達の極度に近いと思わるる深度に達して室戸岬測候所の観測簿に六八四・〇ミリという今まで知られた最低の海面気圧の記録を残した。それからこの颱風の中心は土佐の東端沿岸の山づたいに徳島の方へ越えた後に大阪湾をその楕円の長軸に沿うて縦断して大阪附近に上陸し、そこに用意されていた数々の脆弱《ぜいじゃく》な人工物を薙倒《なぎたお》した上で更に京都の附近を見舞って暴れ廻りながら琵琶湖上に出た。その頃からそろそろ中心が分裂しはじめ正午頃には新潟附近で三つくらいの中心に分れてしまって次第に勢力が衰えて行ったのであった。
 この颱風は日本で気象観測始まって以来、器械で数量的に観測されたものの中では最も顕著なものであったのみならず、それがたまたま日本の文化的施設の集中地域を通過して、云わば颱風としての最も能率の好い破壊作業を遂行した。それからもう一つには、この年に相踵《あいつ》いで起った色々の災害レビューの終幕における花形として出現したために、その「災害価値」が一層高められたようである。そのおかげで、それまではこの世における颱風の存在などは忘れていたらしく見える政治界経済界の有力な方々が急に颱風並びにそれに聯関した現象による災害の防止法を科学的に研究しなければならないということを主唱するようになり、結局実際にそういう研究機関が設立されることになったという噂である。誠に喜ぶべきことである。
 このような颱風が昭和九年に至って突然に日本に出現したかというとそうではないようである。昔は気象観測というものがなかったから遺憾ながら数量的の比較は出来ないが、しかし古来の記録に残った暴風で今度のに匹敵するものを求めれば、おそらくいくつでも見付かりそうな気がするのである。古い一例を挙げれば清和天皇の御代|貞観《じょうがん》十六年八月二十四日に京師《けいし》を襲った大風雨では「樹木有名皆吹倒《じゅもくなあるはみなふきたおれ》、内外官舎、人民|居廬《きょろ》、罕有全者《まったきものあることまれなり》、京邑《けいゆう》衆水、暴長七八尺、水流迅激、直衝城下《ただちにじょうかをつき》、大小橋梁、無有孑遺《げついあることなし》、云々」とあって水害もひどかったが風も相当強かったらしい。この災害のあとで、「班幣畿内諸神《きないのしょしんにはんぺいして》、祈止風雨《ふううをとどめんことをいのる》」あるいは「向柏原山陵《かしわばらさんりょうにむかい》、申謝風水之※[#「宀/火」、第4水準2-79-59]《ふうすいのわざわいをしんしゃせしむ》」といったようなその時代としては適当な防止策が行われ、また最も甚だしく風水害を被《こうむ》った三千百五十九家のために「開倉廩賑給之《そうりんをひらきてこれにしんごうす》」という応急善後策も施されている。比較的新しい方の例で自分の体験の記憶に残っているのは明治三十二年八月二十八日高知市を襲ったもので、学校、病院、劇場が多数倒壊し、市の東端|吸江《きゅうこう》に架した長橋|青柳橋《あおやぎばし》が風の力で横倒しになり、旧城天守閣の頂上の片方の鯱《しゃちほこ》が吹き飛んでしまった。この新旧二つの例はいずれも颱風として今度のいわゆる室戸颱風に比べてそれほどひどくひけをとるものとは思われないようである。明治から貞観まで約千年の間にこの程度の颱風がおよそ何回くらい日本の中央部近くを襲ったかと思って考えてみると、仮りに五十年に一回として二十回、二十年に一回として五十回となる勘定である。
 風の強さの程度は不明であるが海嘯《かいしょう》を伴った暴風として記録に残っているものでは、貞観よりも古い天武天皇時代から宝暦四年までに十余例が挙げられている。
 千年の間に二十回とか三十回といえばやはり稀有《けう》という形容詞を使っても不穏当とは云えないし、目前にのみ気を使っている政治家や実業家達が忘れていても不思議はないかもしれない。
 こうした極端な程度から少し下がった中等程度の颱風となると、その頻度は目立って増して来る。やっと颱風と名のつく程度のものまでも入れれば中部日本を通るものだけでも年に一つや二つくらいはいつでも数えられるであろう。遺憾ながらまだ颱風の深度対頻度の統計が十分に出来ていないようであるが、そうした統計はやはり災害対策の基礎資料として是非とも必要なものであろうと思われる。
 颱風災害防止研究機関の設立は喜ぶべき事であるが、もしも設立者の要求に科学的な理解が伴っていないとすると研究を引受ける方の学者達は後日大変な迷惑をすることになりはしないかという取越苦労を感じないわけには行かないようである。設立者としての政治家、出資者としての財団や実業家達が、二、三年か四、五年も研究すれば颱風の予知が完全に的確に出来るようになるものと思い込んでいるようなことがないとは云われないような気がするからである。
 颱風に関する気象学者の研究はある意味では今日でもかなり進歩している。なかんずく本邦学者の多年の熱心な研究のおかげで颱風の構造に関する知識、例えば颱風圏内における気圧、気温、風速、降雨等の空間的時間的分布等についてはなかなか詳しく調べ上げられているのであるが、肝心の颱風の成因についてはまだ何らの定説がないくらいであるから、出来上がった颱風が二十四時間後に強くなるか弱くなるか、進路をどの方向にどれだけ転ずるかというような一番大事な事項を決定する決定因子がどれだけあって、それが何と何であるかというような問題になると、まだほとんど目鼻も附かないような状況にある。
 南洋に発現してから徐々に北西に進み台湾の東から次第に北東に転向して土佐沖に向かって進んで来そうに見えるという点までは今度の颱風とほとんど同じような履歴書を持って来るのがいくらもある。しかしそれがふいと見当をちがえて転向してみたり、また不明な原因で勢力が衰えてしまって軽い嵐くらいですんでしまうことがしばしばあるのである。
 転向の原因、勢力消長の決定因子が徹底的に分らない限り、一時間後の予報は出来ても一昼夜後の情勢を的確に予報することは実は甚だ困難な状況にあるのである。
 これらの根本的決定因子を知るには一体どこを捜せばよいかというと、それはおそらく颱風の全勢力を供給する大源泉と思われる北太平洋並びにアジア大陸の大気活動中心における気流大循環系統のかなり明確な知識と、その主要循環系の周囲に随伴する多数の副低気圧が相互に及ぼす勢力交換作用の知識との中に求むべきもののように思われる。それらの知識を確実に把握するためには支那、満洲、シベリアは勿論のこと、北太平洋全面からオホツク海にわたる海面にかけて広く多数に分布された観測点における海面から高層までの気象観測を系統的定時的に少なくも数十年継続することが望ましいのであるが、これは現時においては到底期待し難い大事業である。たださし当っての方法としては南洋、支那、満洲における観測並びに通信機関の充実を計って、それによって得られる材料を基礎として応急的の研究を進める外はないであろう。
 自分の少しばかり調べてみた結果では、昨年の颱風の場合には、同時に満洲の方から現われた二つの副低気圧と南方から進んで来た主要颱風との相互作用がこの颱風の勢力増大に参与したように見えるのであるが、不幸にして満洲方面の観測点が僅少であるためにそれらの関係を明らかにすることが出来ないのは遺憾である。
 ともかくもこのような事情であるから颱風の災害防止の基礎となるべき颱風の本性に関する研究はなかなか生やさしいことではないのである。目前の災禍に驚いて急いで研究機関を設置しただけでは遂げられると保証の出来ない仕事である。ただ冷静で気永く粘り強い学者のために将来役に立つような資料を永続的系統的に供給することの出来るような、しかも政治界や経済界の動乱とは無関係に観測研究を永続させ得るような機関を設置することが大切であろう。

 颱風が日本の国土に及ぼす影響は単に物質的なものばかりではないであろう。日本の国の歴史に、また日本国民の国民性にこの特異な自然現象が及ぼした効果は普通に考えられているよりも深刻なものがありはしないかと思われる。
 弘安四年に日本に襲来した蒙古《もうこ》の軍船が折からの颱風のために覆没《ふくぼつ》してそのために国難を免れたのはあまりに有名な話である。日本武尊《やまとたけるのみこと》東征の途中の遭難とか、義経《よしつね》の大物浦《だいもつのうら》の物語とかは果して颱風であったかどうか分らないから別として、日本書紀時代における遣唐使がしばしば颱風のために苦しめられたのは事実であるらしい。斉明天皇の御代に二艘の船に分乗して出掛けた一行が暴風に遭って一艘は南海の島に漂着して島人にひどい目に遭わされたとあり、もう一艘もまた大風のために見当ちがいの地点に吹きよせられたりしている。これは立派な颱風であったらしい。また仁明《にんみょう》天皇の御代に僧|真済《しんさい》が唐に渡る航海中に船が難破し、やっと筏《いかだ》に駕《が》して漂流二十三日、同乗者三十余人ことごとく餓死し真済と弟子の真然《しんねん》とたった二人だけ助かったという記事がある。これも颱風らしい。こうした実例から見ても分るように遣唐使の往復は全く命がけの仕事であった。
 このように、颱風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方《かなた》の安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見える。しかし、逆説的に聞えるかもしれないが、その同じ颱風はまた思いもかけない遠い国土と日本とを結び付ける役目をつとめたかもしれない、というのは、この颱風のおかげで南洋方面や日本海の対岸あたりから意外な珍客が珍奇な文化を齎《もたら》して漂着したことがしばしばあったらしいということが歴史の記録から想像されるからである。ことによると日本の歴史以前の諸先住民族の中にはそうした漂流者の群が存外多かったかもしれないのである。
 故意に、また漂流の結果自由意志に反してこの国土に入り込んで住みついた我々の祖先は、年々に見舞って来る颱風の体験知識を大切な遺産として子々孫々に伝え、子孫は更にこの遺産を増殖し蓄積した。そうしてそれらの世襲知識を整理し帰納し演繹《えんえき》してこの国土に最も適した防災方法を案出し更にまたそれに改良を加えて最も完全なる耐風建築、耐風村落、耐風市街を建設していたのである。そのように少なくも二千年かかって研究しつくされた結果に準拠して作られた造営物は昨年のような稀有の颱風の試煉にも堪えることが出来たようである。
 大阪の天王寺《てんのうじ》の五重塔が倒れたのであるが、あれは文化文政頃の廃頽期《はいたいき》に造られたもので正当な建築法に拠らない、肝心な箇所に誤魔化《ごまか》しのあるものであったと云われている。
 十月初めに信州へ旅行して颱風の余波を受けた各地の損害程度を汽車の窓から眺めて通ったとき、いろいろ気のついたことがある、それがいずれも祖先から伝わった耐風策の有効さを物語るものであった。
 畑中にある民家でぼろぼろに腐朽しているらしく見えていながら存外無事なのがある。そういう家は大抵周囲に植木が植込んであって、それが有力な障壁の役をしたものらしい。これに反して新道沿いに新しく出来た当世風の二階家などで大損害を受けているらしいのがいくつも見られた。松本附近である神社の周囲を取りかこんでいるはずの樹木の南側だけが欠けている。そうして多分そのためであろう、神殿の屋根がだいぶ風にいたんでいるように見受けられた。南側の樹木が今度の風で倒れたのではなくて以前に何かの理由で取払われたものらしく見受けられた。
 諏訪湖畔《すわこはん》でも山麓に並んだ昔からの村落らしい部分は全く無難のように見えるのに、水辺に近い近代的造営物にはずいぶんひどく損じているのがあった。
 可笑《おか》しいことには、古来の屋根の一型式に従ってこけら葺《ぶき》の上に石ころを並べたのは案外平気でいるそのすぐ隣に、当世風のトタン葺や、油布張《ゆふばり》の屋根がべろべろに剥《は》がれて醜骸《しゅうがい》を曝《さら》しているのであった。
 甲州路へかけても到る処の古い村落はほとんど無難であるのに、停車場の出来たために発達した新集落には相当な被害が見られた。古い村落は永い間の自然淘汰によって、颱風の害の最小なような地の利のある地域に定着しているのに、新集落は、そうした非常時に対する考慮を抜きにして発達したものだとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことであると云わなければならない。
 昔は「地を相《そう》する」という術があったが明治大正の間にこの術が見失われてしまったようである。颱風もなければ烈震もない西欧の文明を継承することによって、同時に颱風も地震も消失するかのような錯覚に捕われたのではないかと思われるくらいに綺麗に颱風と地震に対する「相地術」を忘れてしまったのである。
 ドイツの町を歩いていたとき、空洞煉瓦一枚張りの壁で囲まれた大きな家が建てられているのを見て、こんな家が日本にあったらどうだろうと云って友人等と話したことがあった。ナウエンの無線電信塔の鉄骨構造の下端がガラスのボール・ソケット・ジョイントになっているのを見たときにも胆を冷やしたことであった。しかし日本では濃尾《のうび》震災の刺戟によって設立された震災予防調査会における諸学者の熱心な研究によって、日本に相当した耐震建築法が設定され、それが関東震災の体験によって更に一層の進歩を遂げた。その結果として得られた規準に従って作られた家は耐震的であると同時にまた耐風的であるということは、今度の大阪における木造小学校建築物被害の調査からも実証された。すなわち、昭和四年三月以後に建てられた小学校は皆この規準に従って建てられたものであるが、それらのうちで倒潰はおろか傾斜したものさえ一校もなかった。これに反して、この規準に拠らなかった大正十年ないし昭和二年の建築にかかるものは約十プロセントの倒潰率を示しており、もっと古い大正九年以前のものは二十四プロセントの倒潰率を示している。尤もこの最後のものは古くなったためもいくらかあるのである。鉄筋構造のものは勿論無事であった。
 このように建築法は進んでも、それでもまだ地を相することの必要は決して消滅しないであろう。去年の秋の所見によると塩尻から辰野へ越える渓谷の両側のところどころに樹木が算を乱して倒れあるいは折れ摧《くだ》けていた。これは伊那《いな》盆地から松本|平《だいら》へ吹き抜ける風の流線がこの谷に集約され、従って異常な高速度を生じたためと思われた。こんな谷の斜面の突端にでも建てたのでは規準様式の建築でも全く無難であるかどうか疑わしいと思われた。
 地震による山崩れは勿論、颱風の豪雨で誘発される山津浪についても慎重に地を相する必要がある。海嘯《かいしょう》については猶更である。大阪では安政の地震津浪で洗われた区域に構わず新市街を建てて、昭和九年の暴風による海嘯の洗礼を受けた。東京では先頃深川の埋立区域に府庁を建設するという案を立てたようであるが、あの地帯は著しい颱風の際には海嘯に襲われやすい処で、その上に年々に著しい土地の沈降を示している区域である。それにかかわらずそういう計画をたてるというのは現代の為政の要路にある人達が地を相することを完全に忘れている証拠である。
 地を相するというのは畢竟《ひっきょう》自然の威力を畏《おそ》れ、その命令に逆らわないようにするための用意である。安倍能成《あべよししげ》君が西洋人と日本人とで自然に対する態度に根本的の差違があるという事を論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが日本人は自然に帰し自然に従おうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には颱風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである。

 颱風の災害を軽減するにはこれに関する国民一般の知識の程度を高めることが必要であると思われるが、現在のところではこの知識の平均水準は極めて低いようである。例えば低気圧という言葉の意味すらよく呑込めていない人が立派な教養を受けたはずのいわゆる知識階級にも存外に多いのに驚かされることがある。颱風中心の進行速度と、風の速度とを間違えて平気でいる人もなかなか多いようである。これは人々の心がけによることであるが、しかし大体において学校の普通教育ないし中等教育の方法に重大な欠陥があるためであろうと想像される。これに限ったことではないが、いわゆる理科教育が妙な型にはいって分りやすいことをわざわざ分りにくく、面白いことをわざわざ鹿爪《しかつめ》らしく教えているのではないかという気がする。子供に固有な鋭い直観の力を利用しないで頭の悪い大人に適合するような教案ばかりを練り過ぎるのではないかと思われる節もある。これについては教育者の深い反省を促したいと思っている次第である。

 ついでながら、昨年の室戸颱風が上陸する前に室戸岬沖の空に不思議な光りものが見えたということが報ぜられている。色々聞合わせてみてもその現象の記載がどうも要領を得ないのであるが、ともかくも電光などのような瞬間的の光ではなくてかなり長く持続する光が空中の広い区域に現われたことだけは事実であるらしい。こういう現象は普通の気象学の書物などには書いてないことで、果して颱風と直接関係があるかないかも不明であるが、しかし土佐の漁夫の間には昔からそういう現象が知られていて「とうじ」という名前までついているそうである。これが現われると大変なことになると伝えられているそうである。昨年の颱風の上陸したのは早朝であったのでその前にも空はいくらかもう明るかったであろうから、ことによるといわゆる颱風眼の上層に雲のない区域が出来て、そこから空の曙光が洩れて下層の雨の柱でも照らしたのではないかという想像もされなくはないが、何分にも確実な観察の資料がないから何らの尤もらしい推定さえ下すことも出来ない。
 これに聯関して、やはり土佐で古老から聞いたことであるが、暴風の風力が最も劇烈な場合には空中を光り物が飛行する、それを「ひだつ(火竜?)」と名づけるという話であった。これも何かの錯覚であるかどうか信用の出来る資料がないから不明である。しかし自分の経験によると、暴風の夜にかすかな空明りに照らされた木立を見ていると烈風のかたまりが吹きつける瞬間に樹の葉がことごとく裏返って白っぽく見えるので、その辺が一体に明るくなるような気のすることがある。そんな現象があるいは光り物と誤認されることがないとも限らない。尤も『土佐古今の地震』という書物に、著者|寺石正路《てらいしまさみち》氏が明治三十二年の颱風の際に見た光り物の記載には「火事場の火粉《ひのこ》の如きもの無数空気中を飛行するを見受けたりき」とあるからこれはまた別の現象かもしれない。
 非常な暴風のために空気中に物理的な発光現象が起るということは全然あり得ないと断定することも今のところ困難である。そういう可能性も全く考えられなくはないからである。しかし何よりも先ず事実の方から確かめてかかる事が肝心であるから、万一読者の中でそういう現象を目撃した方があったらその観察についての示教を願いたいと思う次第である。
 事実を確かめないで学者が机上の議論を戦わして大笑いになる例はディッケンスの『ピクウィック・ペーパー』にもあったと思うが、現実の科学者の世界にもしばしばある。例えばこんな笑い話があった。ある学会で懸賞問題を出して答案を募ったが、その問題は「コップに水を一杯入れておいて更に徐々に砂糖を入れても水が溢れないのは何故か」というのであった。応募答案の中には実に深遠を極めた学説のさまざまが展開されていた。しかし当選した正解者の答案は極めて簡単明瞭で「水はこぼれますよ」というのであった。
 颱風のような複雑な現象の研究にはなおさら事実の観測が基礎にならなければならない。それには颱風の事実を捕える観測網を出来るだけ広く密に張り渡すのが第一着の仕事である。
 軍艦飛行機を造るのが国防であると同じように、このような観測網の設置も日本にとってはやはり国防の第一義であるかと思われるのである。[#地から1字上げ](昭和十年二月『思想』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「思想」
   1935(昭和10)年2月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」。
※単行本「蛍光板」に収録。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
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震災日記より

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)子供等と志村《しむら》の家へ行った。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)後|驟雨《しゅうう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十年十月)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)みし/\
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大正十二年八月二十四日 曇、後|驟雨《しゅうう》
 子供等と志村《しむら》の家へ行った。崖下の田圃路《たんぼみち》で南蛮ぎせるという寄生植物を沢山採集した。加藤首相|痼疾《こしつ》急変して薨去《こうきょ》。

八月二十五日 晴
 日本橋で散弾二|斤《きん》買う。ランプの台に入れるため。

八月二十六日 曇、夕方雷雨
 月蝕《げっしょく》雨で見えず。夕方珍しい電光 Rocket lightning が西から天頂へかけての空に見えた。丁度紙テープを投げるように西から東へ延びて行くのであった。一同で見物する。この歳になるまでこんなお光りは見たことがないと母上が云う。

八月二十七日 晴
 志村の家で泊る。珍しい日本晴。旧暦|十六夜《いざよい》の月が赤く森から出る。

八月二十八日 晴、驟雨
 朝霧が深く地を這う。草刈。百舌《もず》が来たが鳴かず。夕方の汽車で帰る頃、雷雨の先端が来た。加藤首相葬儀。

八月二十九日 曇、午後雷雨
 午前気象台で藤原君の渦や雲の写真を見る。

八月三十日 晴
 妻と志村の家へ行きスケッチ板一枚描く。

九月一日 (土曜)
 朝はしけ模様で時々暴雨が襲って来た。非常な強度で降っていると思うと、まるで断ち切ったようにぱたりと止む、そうかと思うとまた急に降り出す実に珍しい断続的な降り方であった。雑誌『文化生活』への原稿「石油ランプ」を書き上げた。雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人《おっと》からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠《うら》を下から木槌《きづち》で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向《あおむ》いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。
 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。
 同じ食卓にいた人々は大抵最初の最大主要動で吾勝ちに立上がって出口の方へ駆出して行ったが、自分等の筋向いにいた中年の夫婦はその時はまだ立たなかった。しかもその夫人がビフテキを食っていたのが、少なくも見たところ平然と肉片を口に運んでいたのがハッキリ印象に残っている。しかし二度目の最大動が来たときは一人残らず出てしまって場内はがらんとしてしまった。油画《あぶらえ》の額はゆがんだり、落ちたりしたのもあったが大抵はちゃんとして懸かっているようであった。これで見ても、そうこの建物の震動は激烈なものでなかったことがわかる。あとで考えてみると、これは建物の自己週期が著しく長いことが有利であったのであろうと思われる。震動が衰えてから外の様子を見に出ようと思ったが喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって誰も居ないので勘定をすることが出来ない。それで勘定場近くの便所の口へ出て低い木柵越しに外を見ると、そこに一団、かしこに一団という風に人間が寄集まって茫然《ぼうぜん》として空を眺めている。この便所口から柵を越えて逃げ出した人々らしい。空はもう半ば晴れていたが千切《ちぎ》れ千切れの綿雲が嵐の時のように飛んでいた。そのうちにボーイの一人が帰って来たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に礼を云ったように記憶する。出口へ出るとそこでは下足番の婆さんがただ一人落ち散らばった履物《はきもの》の整理をしているのを見付けて、預けた蝙蝠傘《こうもりがさ》を出してもらって館の裏手の集団の中からT画伯を捜しあてた。同君の二人の子供も一緒に居た。その時気のついたのは附近の大木の枯枝の大きなのが折れて墜ちている。地震のために折れ落ちたのかそれとも今朝の暴風雨で折れたのか分らない。T君に別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭《かびくさ》い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷《したや》の方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒潰したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗《のぞ》くと石燈籠は一つ残らず象棋《しょうぎ》倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁《よこげた》が外《はず》れかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知ったがその時は少しも気が付かなかった。池の方へ下りる坂脇の稲荷の鳥居も、柱が立って桁が落ち砕けていた。坂を下りて見ると不忍弁天《しのばずべんてん》の社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり呑込めて来た。
 無事な日の続いているうちに突然に起った著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛かる。この日は二科会を見てから日本橋辺へ出て昼飯を食うつもりで出掛けたのであったが、あの地震を体験し下谷の方から吹上げて来る土埃《つちほこ》りの臭を嗅《か》いで大火を予想し東照宮の石燈籠のあの象棋倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし弁天社務所の倒潰を見たとき初めてこれはいけないと思った、そうして始めて我家の事が少し気懸りになって来た。
 弁天の前に電車が一台停まったまま動きそうもない。車掌に聞いてもいつ動き出すか分らないという。後から考えるとこんなことを聞くのが如何な非常識であったかがよく分るのであるが、その当時自分と同様の質問を車掌に持出した市民の数は万をもって数えられるであろう。
 動物園裏まで来ると道路の真中へ畳を持出してその上に病人をねかせているのがあった。人通りのない町はひっそりしていた。根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽《くず》れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町《やなかみさきちょう》から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家もあった。塩煎餅屋《しおせんべいや》の取散らされた店先に烈日の光がさしていたのが心を引いた。団子坂を上って千駄木《せんだぎ》へ来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、所々ただ瓦の一部分剥がれた家があるだけであった。曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかったかのように森閑として、春のように朗らかな日光が門並《かどなみ》を照らしている。宅《うち》の玄関へはいると妻は箒《ほうき》を持って壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。隣の家の前の煉瓦塀はすっかり道路へ崩れ落ち、隣と宅の境の石垣も全部、これは宅の方へ倒れている。もし裏庭へ出ていたら危険なわけであった。聞いてみるとかなりひどいゆれ方で居間の唐紙《からかみ》がすっかり倒れ、猫が驚いて庭へ飛出したが、我家の人々は飛出さなかった。これは平生幾度となく家族に云い含めてあったことの効果があったのだというような気がした。ピアノが台の下の小滑車で少しばかり歩き出しており、花瓶台の上の花瓶が板間にころがり落ちたのが不思議に砕けないでちゃんとしていた。あとは瓦が数枚落ちたのと壁に亀裂が入ったくらいのものであった。長男が中学校の始業日で本所《ほんじょ》の果てまで行っていたのだが地震のときはもう帰宅していた。それで、時々の余震はあっても、その余は平日と何も変ったことがないような気がして、ついさきに東京中が火になるだろうと考えたことなどは綺麗に忘れていたのであった。
 そのうちに助手の西田君が来て大学の医化学教室が火事だが理学部は無事だという。N君が来る。隣のTM教授が来て市中所々出火だという。縁側から見ると南の空に珍しい積雲《せきうん》が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青《こんじょう》の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭《はげいとう》に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。
 夕方藤田君が来て、図書館と法文科も全焼、山上集会所も本部も焼け、理学部では木造の数学教室が焼けたと云う。夕食後E君と白山《はくさん》へ行って蝋燭《ろうそく》を買って来る。TM氏が来て大学の様子を知らせてくれた。夜になってから大学へ様子を見に行く。図書館の書庫の中の燃えているさまが窓外からよく見えた。一晩中くらいはかかって燃えそうに見えた。普通の火事ならば大勢の人が集まっているであろうに、あたりには人影もなくただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた。メートルとキログラムの副原器を収めた小屋の木造の屋根が燃えているのを三人掛りで消していたが耐火構造の室内は大丈夫と思われた。それにしても屋上にこんな燃草をわざわざ載せたのは愚かな設計であった。物理教室の窓枠の一つに飛火が付いて燃えかけたのを秋山、小沢両理学士が消していた。バケツ一つだけで弥生町《やよいちょう》門外の井戸まで汲みに行ってはぶっかけているのであった。これも捨てておけば建物全体が焼けてしまったであろう。十一時頃帰る途中の電車通りは露宿者で一杯であった。火事で真紅に染まった雲の上には青い月が照らしていた。

九月二日 曇
 朝大学へ行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目辺まで行くと、綺麗に焼払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた。兵燹《へいせん》という文字が頭に浮んだ。また江戸以前のこの辺の景色も想像されるのであった。電線がかたまりこんがらがって道を塞ぎ焼けた電車の骸骨が立往生していた。土蔵もみんな焼け、所々煉瓦塀の残骸が交じっている。焦げた樹木の梢がそのまま真白に灰をかぶっているのもある。明神前の交番と自働電話だけが奇蹟のように焼けずに残っている。松住町まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔の海である。煙が暑く咽《むせ》っぽく眼に滲《し》みて進めない。その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難して来る人々の中には顔も両手も癩病患者《らいびょうかんじゃ》のように火膨《ひぶく》れのしたのを左右二人で肩に凭《もた》らせ引きずるようにして連れて来るのがある。そうかと思うとまた反対に向うへ行く人々の中には写真機を下げて遠足にでも行くような呑気《のんき》そうな様子の人もあった。浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町から御茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂《きょううんどう》病院の避難所になっていると立札が読まれる。御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台《するがだい》は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。神保町《じんぼうちょう》から一ツ橋まで来て見ると気象台も大部分は焼けたらしいが官舎が不思議に残っているのが石垣越しに見える。橋に火がついて燃えているので巡査が張番していて人を通さない。自転車が一台飛んで来て制止にかまわず突切って渡って行った。堀に沿うて牛《うし》が淵《ふち》まで行って道端で憩《いこ》うていると前を避難者が引切りなしに通る。実に色んな人が通る。五十恰好の女が一人大きな犬を一匹背中におぶって行く、風呂敷包一つ持っていない。浴衣《ゆかた》が泥水でも浴びたかのように黄色く染まっている。多勢の人が見ているのも無関心のようにわき見もしないで急いで行く。若い男で大きな蓮の葉を頭にかぶって上から手拭でしばっているのがある。それからまた氷袋に水を入れたのを頭にぶら下げて歩きながら、時々その水を煽《あお》っているのもある。と、土方《どかた》風の男が一人縄で何かガラガラ引きずりながら引っぱって来るのを見ると、一枚の焼けトタンの上に二尺角くらいの氷塊をのっけたのを何となく得意げに引きずって行くのであった。そうした行列の中を一台立派な高級自動車が人の流れに堰《せ》かれながらいるのを見ると、車の中には多分掛物でも入っているらしい桐の箱が一杯に積込まれて、その中にうずまるように一人の男が腰をかけてあたりを見廻していた。
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊《はいかい》するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入《い》るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。
 夕方に駒込の通りへ出て見ると、避難者の群が陸続と滝野川の方へ流れて行く。表通りの店屋などでも荷物を纏《まと》めて立退用意をしている。帰ってみると、近所でも家を引払ったのがあるという。上野方面の火事がこの辺まで焼けて来ようとは思われなかったが万一の場合の避難の心構えだけはした。さて避難しようとして考えてみると、どうしても持出さなければならないような物はほとんど無かった。ただ自分の描き集めた若干の油絵だけがちょっと惜しいような気がしたのと、人から預かっていたローマ字書きの書物の原稿に責任を感じたくらいである。妻が三毛猫だけ連れてもう一匹の玉の方は置いて行こうと云ったら、子供等がどうしても連れて行くと云ってバスケットかなんかを用意していた。

九月三日 (月曜) 曇後雨
 朝九時頃から長男を板橋へやり、三代吉を頼んで白米、野菜、塩などを送らせるようにする。自分は大学へ出かけた。追分の通りの片側を田舎へ避難する人が引切りなしに通った。反対の側はまだ避難していた人が帰って来るのや、田舎から入り込んで来るのが反対の流れをなしている。呑気そうな顔をしている人もあるが見ただけでずいぶん悲惨な感じのする人もある。負傷した片足を引きずり引きずり杖にすがって行く若者の顔にはどこへ行くというあてもないらしい絶望の色があった。夫婦して小さな躄車《いざりぐるま》のようなものに病人らしい老母を載せて引いて行く、病人が塵埃で真黒になった顔を俯向《うつむ》けている。
 帰りに追分辺でミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が漸次に波及して行く様が歴然とわかった。帰ってから用心に鰹節《かつおぶし》、梅干、缶詰、片栗粉などを近所へ買いにやる。何だか悪い事をするような気がするが、二十余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子《なす》、醤油、砂糖など車に積んで持って来たので少し安心する事が出来た。しかしまたこの場合に、台所から一車もの食料品を持込むのはかなり気の引けることであった。
 E君に青山の小宮君の留守宅の様子を見に行ってもらった。帰っての話によると、地震の時長男が二階に居たら書棚が倒れて出口をふさいだので心配した、それだけで別に異状はなかったそうである、その後は邸前の処に避難していたそうである。
 夜警で一緒になった人で地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事は丁度火柱のように見えたので大島の噴火でないかという噂があったそうである。
[#地から1字上げ](昭和十年十月)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
※生前未発表稿。
※単行本「橡の実」に収録。
※「八月三十日」の「三十」には編集部によって〔三十一〕の注記がついています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
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  • 台風雑俎
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  • [南洋]
  • パラオ Palau 西太平洋、ミクロネシアのカロリン諸島西端の小群島から成る共和国。第二次大戦まで日本の委任統治領として南洋庁がおかれ、多くの日本人が居住。戦後、アメリカの信託統治領を経て、1994年独立。住民はミクロネシア系で、言語はパラオ語。面積488平方キロメートル。人口2万(2003)。首都マルキョク。ベラウ。
  • 台湾 たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • 琉球列島 → 琉球諸島
  • 琉球諸島 りゅうきゅう しょとう 南西諸島の南半部、北緯27度以南の沖縄諸島・先島諸島の総称。
  • [土佐]
  • 室戸岬 むろとざき 高知県の土佐湾東端に突出する岬。奇岩や亜熱帯性植物で有名。近海は好漁場。室戸崎。むろとみさき。
  • 室戸岬測候所
  • 高知 こうち 高知県中央部の市。県庁所在地。高知平野を形成し浦戸湾に注ぐ鏡川の三角州に発達。もと山内氏24万石の城下町。人口33万3千。
  • 吸江 きゅうこう/ぎゅうこう 現、高知県高知市吸江。五台山西麓浦戸湾に沿う。かつては長岡郡に属する。
  • 青柳橋 あおやぎばし
  • 高知城 こうちじょう 土佐国土佐郡高知(現在の高知県高知市丸の内)にある城。平山城であり、国の史跡に指定されている。戦国時代以前は大高坂山城と称した。城郭の形式は梯郭式平山城。高知平野のほぼ中心に位置し、鏡川と江の口川を外堀として利用している。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成した。4層5階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したと言われている。
  • 高知城天守閣 こうちじょう てんしゅかく 現、高知市丸ノ内一丁目。天守閣は本丸東北の角に位置し、北側の高い石垣の上に建つ。三層六階の高さ18.5mの建物。延享4年11月に上棟された棟木の銘文が残る。明治以後、咸臨閣と名付けられた。
  • [徳島] とくしま (1) 四国地方東部の県。阿波国の全域。面積4145平方キロメートル。人口81万。全8市。(2) 徳島県北東部の市。県庁所在地。吉野川河口南岸にある。もと蜂須賀氏26万石の城下町。古くは藍の集散地。「阿波踊り」は有名。人口26万8千。
  • 京都 きょうと (みやこ・首府の意) (1) 近畿地方中央部、大阪と共に二府の一つ。山城・丹後の2国と丹波国の大部分を管轄。面積4613平方キロメートル。人口264万8千。全15市。
  • 琵琶湖 びわこ 滋賀県中央部にある断層湖。面積670.3平方キロメートルで、日本第一。湖面標高85メートル。最大深度104メートル。風光明媚。受水区域が広く、上水道・灌漑・交通・発電・水産などに利用価値大。湖中に沖島・竹生島・多景島・沖の白石などの島がある。近江の海。鳰の海。
  • 新潟 にいがた (1) 中部地方北東部、日本海側の県。越後・佐渡2国を管轄。面積1万2583平方キロメートル。人口243万1千。全20市。(2) 新潟県中部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。信濃川河口に位する港湾都市で、寛文(1661〜1673)年間に河村瑞軒により西廻り航路の寄港地と定められて以来発展、1858年(安政5)の日米修好通商条約により日本海沿岸唯一の開港場となった。天然ガスを産し、化学・機械工業が盛ん。人口81万4千。
  • 室戸台風 むろと たいふう 1934年9月21日、室戸岬の西に上陸、当時の地上最低気圧911.9ヘクトパスカルを記録し、大阪を通り、日本海を北上、三陸沖に抜けた超大型の台風。暴風雨・高潮のため全国の死者・行方不明者約3000人。
  • [大阪]
  • 大阪湾 おおさかわん 瀬戸内海の東端にあたる湾。西は明石海峡と淡路島、南は友ヶ島水道(紀淡海峡)で限られる。古称、茅渟海。和泉灘。摂津灘。
  • 大物浦 だいもつのうら 摂津国にあった港。今の尼崎市大物町。1185年(文治1)源義経が行家と共に西国に赴こうとしたが、大風のため果たさなかった。
  • 天王寺 てんのうじ → 四天王寺
  • 四天王寺 してんのうじ 大阪市天王寺区にある和宗の総本山。山号は荒陵山。聖徳太子の建立と伝え、623年頃までに成立。奈良時代には五大寺に次ぐ地位にあり、平安時代には極楽の東門とされて信仰を集めた。伽藍配置は塔・金堂・講堂を中心線上に並べた、四天王寺式と称する古制を示す。堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後、飛鳥様式に復原建造。扇面法華経冊子などを所蔵。荒陵寺。難波寺。御津寺。堀江寺。天王寺。
  • 五重塔 ごじゅうのとう 初代は593年建立、現在あるものは1959年建立の八代目。1934年の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は1939年に再建されるが、数年後の1945年、大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失。
  • [信州] しんしゅう 信濃国の別称。
  • 松本 まつもと 長野県の中西部、松本盆地から岐阜県境にある市。もと戸田氏6万石の城下町。松本城(深志城)天守閣は国宝。もと信濃国府の地で、信府と称した。上高地・乗鞍高原・美ヶ原などの観光地への基地。人口22万8千。
  • 諏訪湖 すわこ 長野県諏訪盆地の中央にある断層湖。天竜川の水源。湖面標高759メートル。最大深度7.6メートル。周囲8キロメートル。面積12.9平方キロメートル。冬季は結氷しスケート場となり、氷が割れ目に沿って盛り上がる御神渡りの現象が見られる。代表的な富栄養湖。
  • 塩尻 しおじり 長野県中部の市。松本盆地の南端部、塩尻峠の北西麓に当たり、中山道の宿駅。精密機械・電機などの工業が発達。人口6万8千。
  • 辰野 たつの 長野県中部、伊那盆地北端の町。交通の結節点で、精密機械工業が盛ん。
  • 伊那盆地 いな ぼんち 長野県南部、天竜川に沿って南北に細長く伸びる盆地。西を中央アルプス、東を南アルプスが囲む。伊那平。伊那谷。
  • 松本平 まつもとだいら → 松本盆地
  • 松本盆地 まつもと ぼんち 長野県中部、松本市東部を中心に犀川流域に広がる盆地。西縁の飛騨山脈の断層崖下には扇状地が発達。松本平。
  • 甲州路
  • [甲州] こうしゅう 甲斐国の別称。
  • 濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • 震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
  • [東京]
  • 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • [ドイツ]
  • ナウエン
  • -----------------------------------
  • 震災日記より
  • -----------------------------------
  • 志村 しむら 東京都板橋区の地名・町名。板橋区の北東部に位置する小さな町。主に住宅地が広がるが、中小の工業施設も多数立地する。
  • 日本橋 にほんばし (1) 東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。(2) 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
  • 東照宮 → 上野東照宮
  • 上野東照宮 うえの とうしょうぐう 東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 精養軒 → 上野精養軒
  • 上野精養軒 うえの せいようけん 東京都台東区上野恩賜公園内にある老舗西洋料理店。株式会社精養軒によって運営されている。本店のある上野公園内の博物館・美術館などに系列店を出店している。
  • 不忍弁天 しのばず べんてん
  • 不忍池 しのばずのいけ 東京、上野公園の南西にある池。1625年(寛永2)寛永寺建立の際、池に弁財天を祀ってから有名になる。蓮の名所。
  • 弁天島 べんてんじま 不忍池を琵琶湖になぞらえ、近江竹生島に準じて築島されたという。弁天祠は最初は北隣の聖天島に建立され、のち弁天島に移されたともいわれる。谷中七福神の一。
  • 根津 ねづ 東京都文京区東部の地区。根津権現がある。江戸時代にはその門前に娼家があって繁昌したが、明治中頃に洲崎へ移された。
  • 谷中 やなか 東京都台東区北西端の地名。下町風の町並みが残り、寺や史跡も多い。
  • 三崎町 みさきちょう → さんさきちょう、か
  • 谷中三崎町 やなか さんさきちょう 現、台東区谷中二〜五丁目。美作勝山藩抱屋敷(のち谷中真島町)の北方にある。
  • 団子坂 だんござか 東京都文京区北東端の千駄木から谷中・上野に通ずる坂。明治末年までは狭く急な坂で、秋には両側に菊人形を作り並べ、東京名物の一つであった。
  • 千駄木 せんだぎ 東京都文京区にある地名。千駄木一丁目から千駄木五丁目まである。日本医科大学が1910年(明治43年)3月 に私立東京医学校を合併し、10月私立東京医学校跡地駒込(現千駄木校舎)に移転。旧安田邸。太平首相の邸宅もあった。中曽根康弘元総理大臣が下宿していたことでも有名。
  • 曙町 あけぼのちょう 駒込曙町か。現、文京区本駒込一〜二丁目。
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • 山上集会所
  • 白山 はくさん 現、文京区小石川。
  • 弥生町 やよいちょう 現、文京区弥生。本郷上台、旧、向ヶ岡弥生町か。
  • 本郷通り ほんごうどおり 東京都千代田区神田錦町から北区滝野川に至る道路の通称。途中、文京区本郷を通ることから、この名が付けられた。江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、徳川将軍家が日光東照宮へ社参する際に利用された街道。本郷追分(文京区弥生一丁目)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流する。「日光御成道」や「岩槻街道」とも呼ばれる。
  • 湯島 ゆしま 東京都文京区東端の地区。江戸時代から、孔子を祀った聖堂や湯島天神がある。(岩波)/古代豊島郡湯島郷(和名抄)を継承する。現、文京区の南東端部を占め、東は上野・下谷地区、南は神田地区、西と北は本郷地区に囲まれる。(地名)
  • 湯島五丁目 ゆしま ごちょうめ 現、文京区湯島一丁目。湯島四丁目の北西に位置する中山道の両側町。
  • 湯島台
  • 上野の森 → 上野恩賜公園
  • 上野恩賜公園 うえの おんし こうえん 東京都台東区にある公園。一般には通称の上野公園で知られる。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。
  • 明神前 → 神田明神か
  • 神田明神 かんだ みょうじん 東京都千代田区外神田にある元府社。祭神は大己貴命・少彦名命。平将門をもまつる。神田神社。
  • 松住町 まつずみちょう 旧、湯島横町。現、千代田区外神田二丁目。湯島聖堂の東側、神田川に南面する片側町。明治5(1872)松住町と改称。
  • 御茶の水 おちゃのみず 東京都千代田区神田駿河台から文京区湯島にわたる地区の通称。江戸時代、この辺の断崖に湧出した水を将軍のお茶用としたことから名づける。
  • 御茶の水橋
  • 女子高等師範学校 じょし こうとうしはんがっこう 高等女学校などの女子中等教員を養成した旧制の官立学校。1890年(明治23)に東京、1908年に奈良、45年に広島に設置。略称、女高師。
  • 杏雲堂病院 きょううんどう びょういん
  • 駿河台 するがだい (徳川家康の死後、江戸幕府が駿府の家人を住まわせたからいう)東京都千代田区神田の一地区。もと本郷台地と連続、江戸時代、神田川の開削によって分離、また、けずって下町を埋めたために、今は台地でない所もある。駿台。
  • 明治大学 めいじ だいがく 私立大学の一つ。前身は1881年(明治14)創立の明治法律学校。1903年明治大学と改称。20年大学令による大学となり、49年新制大学。本部は東京都千代田区。
  • 神保町 じんぼうちょう 東京都千代田区神田神保町。
  • 一ツ橋 ひとつばし 現、千代田区一ツ橋。
  • 牛が淵 うしがふち
  • 駒込 こまごめ 東京都文京区北部から豊島区東部にまたがる地区名。六義園・東洋文庫・吉祥寺などがあり、現在は住宅地。
  • 滝野川 たきのがわ 東京都北区の一地区。もと東京市35区の一つ。滝野川の名は源平盛衰記にも見え、その起源は、この地を流れる石神井川を滝野川と称したのによるという。江戸時代、不動の滝、飛鳥山の花見・紅葉などで行楽地として栄えた。
  • 板橋 いたばし 東京都23区の一つ。もと中山道第一番目の宿駅の所在地。
  • 追分 おいわけ 中山道と日光御成道との分岐点およびその周辺をいう。おおよそ本郷と駒込の境にあたるところから本郷追分とも駒込追分ともいった。日本橋からちょうど一里で、一里塚もある。
  • 青山 あおやま (もと青山氏の邸があった)東京都港区西部から渋谷区東部にかけての地区名。
  • [群馬県]
  • 前橋 まえばし 群馬県南部の市。県庁所在地。もと松平氏17万石の城下町。生糸・絹織物の産地として知られた。旧称、厩橋。人口31万9千。
  • 大島 おおしま (2) 東京都の伊豆七島の最大島。伊豆半島の東方にある。通称、伊豆大島。面積91平方キロメートル。椿油を産する。三原山がある。
  • [鹿児島県]
  • 桜島 さくらじま 鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の3火山体から成り、面積77平方キロメートル。しばしば噴火し、1475〜76年(文明7〜8)、1779年(安永8)および1914年(大正3)の噴火は有名。1914年の噴火で大隅半島と陸続きとなる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 斉明天皇御代(六五五〜六六一) 二艘の船に分乗して出かけた一行が暴風にあって、一艘は南海の島に漂着して島人にひどい目に遭わされたとあり、もう一艘もまた大風のために見当ちがいの地点に吹きよせられる。
  • 仁明天皇御代(八三三〜八五〇) 僧真済が唐にわたる航海中に船が難破し、筏に駕して漂流二十三日、同乗者三十余人ことごとく餓死し、真済と弟子の真然とたった二人だけ助かる。
  • 貞観一六(八七四)八月二四日 京師を襲った大風雨。「樹木有名皆吹倒、内外官舎、人民居廬、罕有全者、京邑衆水、暴長七八尺、水流迅激、直衝城下、大小橋梁、無有孑遺、云々」
  • 弘安四(一二八一) 弘安の役。日本に襲来した蒙古の軍船が、おりからの台風のために覆没。
  • 嘉永七/安政元(一八五四)一一月四日 東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州灘沖。M8.4。死者約2000〜3000人。
  • 嘉永七/安政元(一八五四)一一月五日 南海道の大地震。安政南海地震。震源地土佐沖。M8.4。死者数千人。
  • 安政二(一八五五)一〇月二日 江戸の大地震。江戸地震。震源地江戸川河口。M6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。
  • 明治三二(一八九九)八月二八日 台風、高知市を襲う。学校・病院・劇場が多数倒壊。
  • 明治三二(一八九九) 寺石正路『土佐古今の地震』「火事場の火粉のごときもの無数空気中を飛行するを見受けたりき」
  • 大正一二(一九二三)八月二六日 月食、雨。
  • 大正一二(一九二三)九月一日 関東大震災。
  • 昭和四(一九二九)三月以後 小学校はみな、耐震建築法の規準にしたがって建てられる。
  • 昭和九(一九三四)九月一三日ごろ 南洋パラオの南東海上に台風の卵子らしいものが現われる(室戸台風の発生)。
  • 昭和九(一九三四)九月二一日早朝 台風中心が室戸岬付近に上陸。室戸岬測候所、六八四・〇ミリという今まで知られた最低の海面気圧の記録。
  • 昭和九(一九三四)一〇月はじめ 寺田、信州へ旅行して、台風の余波をうけた各地の損害程度を汽車の窓からながめて通る。
  • 昭和一〇(一九三五)二月 寺田「台風雑俎」『思想』。
  • 昭和一〇(一九三五)一〇月 寺田「震災日記より」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 台風雑俎
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  • 清和天皇 せいわ てんのう 850-880 平安前期の天皇。文徳天皇の第4皇子。母は藤原明子。名は惟仁。水尾帝とも。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)落飾。法諱は素真。(在位858〜876)
  • 天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
  • 日本武尊 やまとたけるのみこと 倭建命。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
  • 源義経 みなもとの よしつね 1159-1189 平安末期の武将。義朝の9男。幼名は牛若。7歳で鞍馬寺に入り、次いで陸奥の藤原秀衡の許に身を寄せたが、1180年(治承4)兄頼朝の挙兵に応じて源義仲を討ち、さらに平氏を一谷・屋島・壇ノ浦に破った。しかし頼朝の許可なく検非違使・左衛門尉に任官したことから不和となり、再び秀衡に身を寄せ、秀衡の死後、その子泰衡に急襲され、衣川の館に自殺。薄命の英雄として伝説化される。九郎判官義経。
  • 斉明天皇 さいめい てんのう 594-661 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。(在位655〜661)
  • 仁明天皇 にんみょう てんのう 810-850 平安初期の天皇。嵯峨天皇の第2皇子。名は正良。御陵に因んで深草帝とも。(在位833〜850)
  • 真済 しんさい/しんぜい 800-860 平安前期の真言宗の僧。空海に師事し、師の詩文を集めて「性霊集」を編む。東寺の一長者。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称す。編著「高雄口訣」「空海僧都伝」など。
  • 真然 しんねん/しんぜん 804-891 平安時代前期の真言宗の僧。俗姓は佐伯氏。讃岐国多度郡の出身。中院僧正・後僧正とも称される。空海の甥と伝えられている。
  • 安倍能成 あべ よししげ 1883-1966 哲学者・教育家。松山生れ。東大卒。京城大教授・一高校長を経て、第二次大戦後文相・学習院長。夏目漱石の門下。著「カントの実践哲学」「西洋道徳思想史」「岩波茂雄伝」など。
  • 寺石正路 てらいし まさみち 1868-1949 明治・大正期の地方史研究家。旧制高知高校教諭。高知県史を研究。宿毛貝塚・平塚貝塚を発見。(人レ)/著『土佐古今の地震』。
  • ディッケンス → ディケンズ
  • ディケンズ Charles Dickens 1812-1870 イギリスを代表する小説家。ヴィクトリア朝の英国社会を諧謔と共感を込めて描いた。小説「オリヴァー=トゥイスト」「クリスマス‐キャロル」「デヴィッド=カパフィールド」「二都物語」「荒涼館」など。
  • -----------------------------------
  • 震災日記より
  • -----------------------------------
  • 加藤首相 → 加藤友三郎(細川)
  • 加藤友三郎 かとう ともさぶろう 1861-1923 軍人・政治家。海軍大将・元帥。広島藩士の子。日露戦争時、連合艦隊参謀長。海相として八八艦隊計画の決定に努めるが、ワシントン会議では首席全権として軍縮条約をまとめる。のち首相。子爵。
  • 藤原君 → 藤原咲平(細川)
  • 藤原咲平 ふじわら さくへい 1884-1950 気象学者。長野県生れ。中央気象台に入り、気象技監・中央気象台長、東大教授を兼任。「音の異常伝播の研究」により学士院賞。
  • T君 → 津田青楓(細川)
  • 津田青楓 つだ せいふう 1880-1978 画家。名は亀治郎。京都生れ。浅井忠らに学び、パリに留学。帰国後、二科会創立に参加。夏目漱石・河上肇らと親交。作「ブルジョア議会と民衆生活」「犠牲者」などで官憲に転向を強いられ、二科会をやめて日本画に転じた。
  • 西田君 助手。
  • N君 → 円地与志松
  • 円地与志松 えんち 〓 1895-1972 東京日日新聞記者。夫人は作家・円地文子。学生時代の読書会で寅彦の知遇を得る。ツェッペリン号の来日時には記者として乗船した。(細川)
  • TM教授 → 友枝高彦
  • 友枝高彦 〓 1876-1957 倫理学者。(細川)
  • 藤田君
  • E君
  • 秋山・小沢両理学士
  • 三代吉
  • 辰五郎 三代吉の父親。
  • 小宮君 → 小宮豊隆か
  • 小宮豊隆 こみや とよたか 1884-1966 独文学者・評論家。福岡県生れ。東大卒。東北大教授・東京音楽学校校長を経て、学習院大教授。夏目漱石門下。漱石全集の編集に尽くす。著「夏目漱石」「中村吉右衛門」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、千葉俊二・細川光洋『地震雑感/津波と人間 寺田寅彦随筆選集』(中央公論社、2011.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 台風雑俎
  • -----------------------------------
  • 『土佐古今の地震』 寺石正路の著。
  • 『ピクウィック・ペーパー』 ディケンズの著。
  • 雑誌『思想』 寺田「台風雑俎」昭和十年(一九三五)二月。
  • -----------------------------------
  • 震災日記より
  • -----------------------------------
  • 雑誌『文化生活』
  • 「石油ランプ」『文化生活』 寺田寅彦の著。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

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  • 台風雑俎
  • -----------------------------------
  • 雑俎 ざっそ いろいろのものを集めること。また、そのさま。
  • 京師 けいし (「京」は大、「師」は衆の意)みやこ。首都。京都。
  • 京邑 けいゆう みやこ。
  • 孑遺 げつい/けつい (「孑」も「遺」も残るの意)わずかに残っているもの。少しの残り。残余。
  • 班幣 はんぺい 祈年祭・新嘗祭などのために、一定の日にあらかじめ幣帛を諸神に頒けること。
  • 申謝 しんしゃ
  • 賑給 しんごう (「給」をコウと読むことは、年中行事秘抄に見える)平安時代、朝廷の恩恵を示すために毎年5月吉日、京中の窮民に米塩を支給する公事。奈良時代には、高齢者、身寄りのない者、困窮者などを対象に全国的に行われていたが、律令制が衰えるに及んで、京中に限られるようになった。
  • 海嘯 かいしょう [楊慎、古今諺]満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、激しく波立ちながら進行する現象。中国の銭塘江、イギリスのセヴァン川、南アメリカのアマゾン川の河口付近で顕著。タイダル‐ボーア。潮津波。
  • 副低気圧 ふくていきあつ 主低気圧の縁辺にできる小低気圧。また、一つの低気圧の影響で他の場所に発生する低気圧のことをもいう。
  • 覆没 ふくぼつ (1) 艦船などが、くつがえって沈むこと。(2) やぶれほろびること。覆敗。
  • わだつみ/わたつみ 海神・綿津見 (ワダツミとも。ツは助詞「の」と同じ、ミは神霊の意) (1) 海をつかさどる神。海神。わたつみのかみ。(2) 海。
  • こけらぶき こけら板で屋根を葺くこと。また、その屋根。笹屋根。小田原葺。
  • 油布 ゆふ (1) 油をしみ込ませて防水した布。 オイルクロス。(2) エナメルを塗って種々の模様を描いた布。
  • 醜骸 しゅうがい みにくい死骸。転じて、罪にけがれたみにくい姿。
  • 地相 ちそう (1) 土地のありさま。地形。(2) 住宅などを設ける土地の形勢を観察して判断される吉凶。
  • ボール・ソケット・ジョイント
  • 算を乱す さんをみだす (人の集団が)算木を乱したように無秩序に散らばる。
  • 山津波・山津浪 やまつなみ 山崩れの大規模なもので、多量の土砂や岩屑が山地から急激に押し出すこと。豪雨の後や大地震などで起こりやすい。
  • しかつめ‐らし・い (シカツベラシから変化した語)堅苦しく形式ばっている。もっともらしい。また、態度・表情がきまじめで緊張している。
  • とうじ
  • 曙光 しょこう (1) 夜明けのひかり。暁光。(2) 暗黒の中にわずかに現れはじめる明るいきざし。前途に望みが出はじめたことにいう。
  • 光り物 ひかりもの (1) ひかるもの。光を放つもの。発光体。人魂・鬼火・流星などの類。
  • ひだつ(火竜?)
  • ピクウィック pickwick (石油ランプの)芯(しん)のつまみ。
  • -----------------------------------
  • 震災日記より
  • -----------------------------------
  • 南蛮煙管 なんばん ギセル ハマウツボ科の一年生寄生植物。ススキ・ミョウガなどの根に寄生し、全体に葉緑素を欠く。高さ約15センチメートル。秋、淡紅紫色花を頂につけ、横を向いて開く。花冠は長い筒形、先は5裂。古名、おもいぐさ。
  • 痼疾 こしつ 久しくなおらない病気。持病。
  • 斤 きん (1) 重量の単位。1斤は普通160匁で、600グラムに当たる。しかし、古来量るべき品目によって目方を異にし、舶来品は120匁を用い、また、180匁(大和目)、200匁(大目)、210匁(沈香目)、230匁(白目)、250匁(山目)など種々ある。
  • 散弾
  • Rocket lightning
  • lightning ライトニング。稲妻、稲光、電光。
  • 十六夜の月 いざよいのつき (陰暦16日の月は、満月よりもおそく、ためらうようにして出てくるのでいう)陰暦16日の夜の月。既望。
  • 二科会 にかかい 美術団体。1913年(大正2)文展洋画部を新旧二科制にすることを当局に具申していれられず、文展を脱退して組織したもの。19年彫塑部を設ける。
  • 初期微動 しょき びどう 地震動のうちで最初に現れる比較的振幅の小さく周期の短い微振動。P波による振動と考えられる。この継続時間を震源の位置決定に利用する。
  • 主要動 しゅようどう 地震動で、初期微動に続いて起こる振幅の大きな振動。S波による振動と考えられる。
  • リアライズ Realize (1)(現象・他人の心などを)をはっきり理解すること。悟(さと)ること。実感すること。(2)(夢・希望などを)を実現すること。(コンサイス・カタカナ)
  • 烈日 れつじつ はげしく照りつける太陽。
  • 深閑・森閑 しんかん 物音が聞こえず、ひっそりと静まりかえっているさま。
  • 門並 かどなみ (1) 家ごと。毎戸。(2) 家のならび。家つづき。
  • 葉鶏頭 はげいとう ヒユ科の観賞用一年草。インド原産。茎の高さは90〜120センチメートル。葉は細長い楕円形、黄色や紅色・紫色の斑紋を持ち、非常に美しい。夏から秋に、黄緑色の微小な花を葉のつけ根に密生。アマランサス。鎌柄。漢名、雁来紅。
  • 副原器
  • 燃草 もえくさ 燃種。火を燃やしつけたり燃やすための草木など。燃料。
  • 兵燹 へいせん (「燹」は野火の意)戦争のために起こる火事。兵火。
  • 自動電話 じどう でんわ 公衆電話の旧称。
  • 目の子勘定 めのこ かんじょう 「目の子算」に同じ。
  • 目の子算 めのこざん (1) 一つ一つ目で確かめながらする数の数え方。(2) 算盤などを用いず、目で見て計算すること。概算。目の子勘定。目の子算用。
  • 陸続 りくぞく ひっきりなしに続くさま。
  • 躄車 いざりぐるま 膝行車。いざりが乗り、自分の、また他人の手によって動かす車。
  • いざり 膝行。躄。(1) ひざやしりを地につけて、手を使って進むこと。膝行。(2) 足が不自由で、立って歩けない人をいった語。躄者。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)*フクシマ・ノートその4


『福島県の歴史散歩』(山川出版社、2007.3)をパラパラと読み始める。あら、フタバスズキリュウっていわき市の出土だったのか。これまで、てっきり福井県のほうかと思ってた。ピー助のふるさとは福島かあ。

『季刊東北学』最終号、読了。

「集団での高台移転」と聞くたび、なんだかいやな胸騒ぎを感じていたのだけれども、今回「台風雑俎」を読んでその理由がはっきりわかった。台風だ。
 この列島は地震国であり、かつ、台風の常襲国。
 むしろ大地震の頻度にくらべれば、台風・暴風は律儀に毎年、数回のペースで訪れる。沖縄や西日本のような台風銀座にはおよばないにせよ、東北でも過去に台風被害をこうむっている。ちょっと年表を見ただけでも、1947年キャサリン台風、翌年のアイオン台風による北上川氾濫、福島では1902年に暴風雨(足尾台風)の襲来……などがある。
 吹きさらしの高台は、暴風の影響をまともに受けやすい。だから、津波の被害に何度もあいながらも、高台ではなく谷間や低地へもどっていたんじゃないだろうか。
 
 仙台平野には、宅地の周囲を樹木でとりかこむ“いぐね”の習慣がいまも残る。おそらく、それほどまでに季節風の影響が大きいということだろう。風の通り道。  




*次週予告


第四巻 第三七号 
火事とポチ 有島武郎
水害雑録  伊藤左千夫


第四巻 第三七号は、
二〇一二年四月七日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三六号
台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
発行:二〇一二年三月三一日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。




※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
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