寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」より。


もくじ 
火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
火事教育
函館の大火について

オリジナル版
火事教育
函館の大火について

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


火事教育
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2476.html

函館の大火について
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2493.html

NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





火事教育

寺田寅彦


 旧臘きゅうろう〔一九三二年十二月。押しつまっての白木屋しろきやの火事は、日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったが、この災厄さいやくが東京市民にあたえた教訓もまたはなはだ貴重なものである。しかしせっかくの教訓も肝心な市民の耳に入らず、また、心にしみなければあれだけの犠牲はまったくなんの役にも立たずに煙になってしまったことになるであろう。今度の火災については消防方面の当局者はもちろん、建築家、百貨店経営者など直接利害を感ずる人々の側ではすぐに徹底的の調査研究に着手して、とりあえず災害予防方法を講究しておられるようであるが、なによりもいちばんだいじと思われる市民の火災訓練のほうがいかなる方法によってどれだけの程度にできるであろうかという問題については、ほとんどだれにも見当さえつかないように見える。
 白木屋の火事のばあいにおける消防当局の措置は、あの場合としては、事情のゆるす範囲内で最善をつくされたもののように見える。それが事件の直前に、ちょうどこの百貨店で火災時の消防予行演習がおこなわれていたためもあっていっそうの効力を発揮したようであるが、あのさい、もしもあの建物の中で遭難した人らに、もうすこし火災に関する一般的科学知識が普及しており、そうして避難方法に関する平素の訓練がもうすこし行き届いていたならば、少なくも死傷者の数を実際あったよりも著しく減ずることができたであろうということは、だれしも異論のないことであろうと思われる。そうしてまたじつに驚くべく非科学的なる市民、逆上したる街頭の市民傍観者のある者が、物理学も生理学もいっさい無視した五階飛び降りを激励げきれいするようなことがなかったら、あたら美しい青春の花のつぼみを舗道ほどう石畳いしだたみらすような惨事もなくてすんだであろう。このようにして、白昼帝都のまんなかで衆人環視の中におこなわれた殺人事件は、不思議にも司直しちょくの追求を受けず、また市人の何人なんぴともこれをとがむることなしにそのままに忘却のやみに葬られてしまった。じつに不可解な現象といわなければなるまい。
 それはとにかく、じつにさいわいなことには、事件の発生時刻が朝の開場まぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの災害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑のばあいでもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍ではたりず、ことによると数千の犠牲者を出したであろうと想像させるだけの根拠はある。考えてもゾッとする話である。しかしそういう場合であっても、もしも入場していた市民がそのような危急のばあいに対する充分な知識と訓練を持ちあわせていて、そうして、かねてから訓練を積んだ責任ある指揮者の指揮にしたがって合理的・統整的行動を取ることができれば、たとえ二万人、三万人の群集があっても立派に無事に避難することが可能であるということは、簡単な数理からでも割り出されることであると思う。火の伝播でんぱがいかに迅速であるとしても、発火と同時に全館に警鈴が鳴りわたり、かねてから手ぐすねひいている火災係が各自の部署につき、良好な有力な拡声機によって安全なる避難路が指示され、群集はおちつきはらってその号令に耳をすまして静かに行動をおこし、そうして階段通路をその幅員ふくいん尺度に応じて二列、三列あるいは五列などの隊伍たいごを乱すことなく、また一定度以上の歩調を越すことなく軍隊的に進行すれば、みごとに引き上げられるはずである。そのはずでなければならないのである。
 しかし、このできるはずのことがなかなか容易にできないのは、多くのばあいに群集が周章しゅうしょう狼狽ろうばいするためであって、その周章しゅうしょう狼狽ろうばい畢竟ひっきょう、火災の伝播でんぱに関する科学的知識の欠乏からくるのであろう。火がおよそ、いかなる速度でいかなる方向に燃えひろがる傾向があるか、煙がどういうぐあいにって行くものか、火災がどのくらいの距離にせまれば危険であるか、木造とコンクリートとで燃え方がどうちがうか、そういうことに関する漠然ばくぜんたる概念でもよいから、一度確実に腹の底におちつけておけば、おどろくにはおどろいても、決して極度の狼狽ろうばいから知らず知らずとりかえしのつかぬ自殺的行動に突進するようなことはなくてすむわけである。同時にまた消防当局の提供する避難機関に対するひととおりの予備知識と、その知識から当然生まれるはずの信頼とをもっておりさえすれば、たとい女子どもでも、そうあわてなくてすむわけである。
 しかし、このような訓練が実際上、現在のこの東京市民にいかに困難であろうかということは、試みにラッシュアワーの電車の乗降に際する現象を注意して見ていても、ただちに理解されるであろう。東京市民は、骨を折っておたがいに電車の乗降をわざわざ困難にし、したがって乗降の時間をわざわざ延長させ、車の発着を不規則にし、各自の損失を増すことに全力をそそいでいるように見える。もし、これと同じ要領でデパート火事の階段にのぞむものとすれば、階段は瞬時に、生きた人間の「せん」で閉塞へいそくされるであろう。そうしてその結果は、世にも目ざましき大量殺人事件となって世界の耳口を聳動しょうどうするであろうことは、まことに火を見るよりもあきらかである。このような実例の小規模なものは従来、小さな映画館の火事のばあいに記録されている。しかし人数の桁数けたすうのちがうデパートであったら、はたしてどうであろう。
 これに処する根本的対策としては、小学校教育ならびに家庭教育において児童の感受性ゆたかなる頭脳に、鮮明なる、しかも持続性ある印象として火災に関する最重要な心得の一般を固定させるよりほかに道はないように思われる。
 現在の小学校教育の教程中に、火災のことがどれだけの程度にとりあつかわれているかということについては、自分はまだまったく何も知らない。しかしどれほど立派な教程があっても、それの効果が今日われわれの眼前にあまり明白に現われていないことだけは、たしかな事実であると思われる。
 火事は人工的災害であって、地震や雷のような天然現象ではないという簡単明瞭めいりょうな事実すら、はっきり認識されていない。火事の災害のおこる確率は、失火の確率と、それが一定時間内に発見され通報される確率によって決定されるということも明白に認められていない。火事のために日本の国が年々、幾億円を費やして灰と煙を製造しているかということを知る政府の役人も少ない。火事が科学的研究の対象であるということを考えてみる学者もまれである。
 話は変わるが、先日、銀座ぎんざ伊東屋いとうやの六階に開催されたソビエトロシア印刷芸術展覧会というのをのぞいて見た。かの国の有名な画廊にある名画の複製や、『アラビアン・ナイト』と『デカメロン』の豪華版や、愛書家のよだれを流しそうな、芸術のための芸術と思われる書物が並んでいて、これにはちょっと意外な感じもした。そのほかに、なかなか美しい人形や小箱なども陳列してあったが、いちばん自分の注意をひいたのは、児童教育のために編纂へんさんされた各種の安直あんちょくな絵本であった。残念ながらわが国の書店やデパート書籍部にならんでいるあの職人仕立ての児童用絵本などとはとうてい比較にも何もならないほど、芸術味の豊富なデザインを示したものがいろいろあって、子どもばかりか、むしろおとなの好事家こうずかを喜ばすに充分なものが多数にあった。その中に、火事パジアール」という見出しで、表紙も入れてたった十二ページの本が見つかったので、これはおもしろいと思って試みに買ってきた。絵もなかなかおもしろいが、絵とチャンポンに印刷されたテキストがわれわれが読んでさえ非常に口調のいいと思われる韻文いんぶんになっていて、おそらく、ロシアの子どもなら、ひとりでに歌わないではいられなくなるであろうと思われるものである。簡単に内容を紹介すると、まずその第一ページは、消防署で日夜にちや火の手を見張っている様子を歌ってある。第二ページは、おかあさんの留守に幼少な娘のリエナが禁を犯してペチカのふたをあけ、はね出した火がそれからそれと燃え移って火事になる光景。第三ページは、近所が騒ぎだし、家財を持ち出す場面、さすがにサモワール〔ロシアの湯沸し器。を持ち出すのを忘れていない。第四ページは、消防隊のくり出す威勢のいいシーン。つぎは消防作業で、ポンプはほとばしり消防夫は屋根に上がる。おかしいのはポンプが手押しの小さなものである。つぎは二人の消防夫が屋根から墜落。勇敢ゆうかんなクジマ、今までに四〇人の生命を助け、一〇回も屋根からころがり落ちた札つきのクジマのおやじが、屋根裏の窓から一匹のかわいい三毛みけの子ネコを助け出す。そのつぎは、クジマがポケットへ子ネコをねじこんだままで、今にも焼け落ちんばかりの屋根の上の奮闘。子ネコがかくし〔ポケット。から首と前足を出して見物しているのが愉快ゆかいである。そのつぎは、火事のほうがとうとう降参して「ごめんください、クジマさん」とあやまる。クジマが「今後は、ペチカとランプとロウソク以外に飛び出してはいけないぞ」と命令する場面で、ページの下半には、ランプとロウソクのクローズアップ。つぎのページには、リエナが戸外のベンチで泣いているところへクジマが子ネコの襟首えりくびをつかんで頭上高くさしあげながらやってくる。「ぼうや。泣くんじゃないよ。おうちは新しく建ててやる。子ネコも無事だよ。そら、かわいがっておやり」という一編のクライマックスがあって、さて最後には、消防隊がひきあげる光景。クジマの顔には焼けど、額には血、目のふちは黒くなって、そうして平気で揚々ようようと引き上げて行くところで「おしまい」である。
 紙芝居にしても悪くはなさそうである。それはとにかく、これだけの小さな小さな「火事教育」でも、これだけの程度にでもちゃんとしたものが、わが国の本屋の店頭にあるかどうか、もし見つかったかたがあったらどうか、ごめんどうでもちょっとお知らせを願いたい。
 ついでながら見本として、この絵本の第一ページの文句だけを紹介する。発音は自己流でいいかげんのものであるが、およその体裁だけはわかるであろう。

フ、プロースチャデイ、バザールノイ
ナ、カランチェー、パジャールノイ
クルーグルイ、スートキ
ダゾールヌイ、ウ、ブードキ
スマトリート、ワクルーグ
  ナ、シェビェール
  ナ、ユーグ
  ナ、ザーパド
  ナ、ウォストク
ニェ、ウィディエイ、リ、ドゥイモーク、

 右の訳。これもいいかげんである。

市場のつじ
消防屯所とんしょ
夜でも昼でも
火の見で見張り
グルグル見まわる
  北は………
  南は………
  西は………
  東は………
どっかに煙は、さて見えないか。

 わが国の教育家・画家・詩人ならびに出版業者が、ともかくもこの粗末な絵本を参考のために一見して、そうしてわが国児童のために、ほんの些細ささいの労力を貢献して、若干の火事教育の絵本を提供されることを切望するしだいである。そうすれば、この赤露せきろの絵本などよりは数等すうとうすぐれた、もっと科学的に有効適切で、もっと芸術的にも立派なものができるであろうと思われる。そういう仕事は、決して一流の芸術家をはずかしめるものではあるまいと信ずるのである。科学国の文化への貢献という立場からみれば、むしろ、このほうが帝展で金牌きんぱいをもらうよりも、もっともっとはるかに重大な使命であるかもしれないのである。
(昭和八年(一九三三)一月)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



函館の大火について

寺田寅彦


 昭和九年(一九三四)三月二十一日の夕から翌朝へかけて函館はこだて市に大火があって、二万数千戸を焼きはらい二〇〇〇人に近い死者を生じた。じつにめずらしい大火である。そうしてこれが昭和九年の大日本の都市におこったということが実にいっそう珍しいことなのである。
 徳川時代の江戸には大火が名物であった。振袖ふりそで火事として知られた明暦の大火(一六五七)はいうまでもなく、明和九年(一七七二)二月二十九日のひるごろ、目黒行人坂ぎょうにんざか大円寺だいえんじからおこった火事は、おりからの南西風に乗じてしば・桜田から今のまるうちを焼いて神田・下谷したや・浅草と焼けつづけ、とうとう千住せんじゅまでも焼けけて、なおその火の支流は本郷から巣鴨すがもにも延長し、また一方の逆流は今の日本橋区の目抜めぬきの場所を広野こうやにした。これは焼失区域のだいたいの長さからいって、今度の函館のそれの三倍以上であった。これは西暦一七七二年の出来事で、今から一六二年の昔の話である。当時、江戸の消防機関は長いあいだのにがい経験で教育され、訓練されてかなりに発達してはいたであろうが、ともかくも日本にまだ科学と名のつくもののなかった昔の災害であったのである。
 関東震災にくびすをついでおこった大正十二年(一九二三)九月一日から三日にわたる大火災は、明暦の大火に肩をくらべるものであった。あの一九二三年の地震によって発生した直接の損害は、副産物として生じた火災の損害にくらべればむしろ軽少なものであったといわれている。あのときの火災がどうしてあれほどに暴威をほしいままにしたかについては、もとよりいろいろの原因があった。一つには水道が止まったうえに、出火の箇所が多数に一時に発生して消防機関がにあわなかったのは事実である。また一つには、東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために、徳川時代に多大の犠牲をはらって修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防のことは警察の手にさえまかせておけばそれで永久に安心であると思いこみ、警察のほうでもまたそうとばかり信じきっていたために、市民の手からその防火の能力を没収してしまった。そのために焼かずともすむものまでも焼けるにまかせた、という傾向のあったのもやはり事実である。しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実にもとづくものであろう。
 今回の函館はこだての大火はいかにして成立しえたか、これについていくらかでも正鵠せいこくに近い考察をするためには、今のところ信ずべき資料があまりに僅少きんしょうである。新聞記事は例によってまちまちであって、感傷をそそる情的資料は豊富でも、考察に必要な正確な物的資料はとぼしいのであるが、内務省警保局けいほきょく発表と称する新聞記事によると、発火地点や時刻や延焼区域のきわめてだいたいの状況を知ることはできるようである。まず何よりもこの大火を大火ならしめた重要な直接原因は、当時、日本海からオホーツク海にかけぬけた低気圧のしわざに帰せなければならない。天気図によると、二十一日午前六時にはかなりな低気圧の目玉が日本海の中央に陣取っていて、これからしっぽをひいた不連続線〔前線に同じ。は中国から豊後ぶんご水道のあたりを通って太平洋上に消えている。こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度ひんどが多くなるのであるが、この日はさいわいに雨気・雪気が勝っていたために本州・四国・九州いずれも無事であった。ところが午後六時には、この低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌さっぽろの真西あたりの見当の日本海のまん中にきて、その威力をたくましくしていた。そのために、東北地方から北海道南部は一般に南西がかった雪まじりの烈風が吹きつのり、函館はこだてでは南々西・秒速十余メートルの烈風が報ぜられている。この時にあたってである。じつに函館全市を焼きはらうためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上かざかみの、谷地頭町やちがしらまちから最初の火の手があがったのである。
 古来の大火の顛末てんまつを調べてみると、いずれのばあいでも同様な運命ののろいがある。明暦三年(一六五七)振袖ふりそで火事では、毎日のように吹き続く北西気候風に乗じて、江戸の大部分を焼きはらうにはいかにすべきかを慎重に考究した結果ででもあるように本郷・小石川いしかわ麹町こうじまちの三か所にあいついで三度に火を発している。由井ゆい正雪しょうせつの残党が放火したのだという流言がおこなわれたのも、もっともなしだいである。明和九年(一七七二)の行人坂の火事には、南西風に乗じて江戸を縦に焼き抜くために最好適地と考えられる目黒の一地点に乞食こじき坊主ぼうず真秀しんしゅうが放火したのである。しかし、それはもちろんだれが計画したわけでもなく、偶然そういう「大火の成立条件」がそろったために必然的に大火が成立し、それがためにこそ稀有けうの大火として歴史に残っているにすぎないのである。同様に現在の函館のばあいにおいても、偶然にも運悪くこの条件が具備していたために歴史的な大火災ができあがったに相違ないのである。
 江戸の火災の焼失区域を調べてみると、相応な風のあったばあいにはほとんどきまって火元を「かなめ」として末広がりに、半開きの扇形に延焼している。これは理論上からも予期されることであり、また、たとえば実験室において油をしみこませた石綿板の一点に放火して、電扇でんせんの風であおぐという実験をやってみてもわかることである。風速の強いときほどがいしてこの扇形の頂角が小さくなるのが普通で、極端な例として享保年間(一七一六〜一七三六)のある火事は麹町こうじまちから発火して品川沖しながわおきへまで焼けけたが、その焼失区域は横幅の平均わずかに一、二町ぐらいで、まるで一直線の帯のようなかっこうになっている。風がもっともっと強くなれば、すべての火事はほんとうに「吹き消される」はずである。しかし江戸大火の例で見ると、この焼失区域の扇形の頂角はざっと六〇度から三〇度の程度である。明暦大火のばあいはかなりの烈風で、おそらく一〇メートル以上の秒速であったと思われる根拠があるが、そのときのこの頂角がだいたいにおいて、今度の函館はこだての火元から焼失区域の外郭に接して引いた二つの直線のなす角に等しい。そうしてこの頂角を二等分する線の方向が、ほぼ発火当時の風向きに近いのである。これはなんという不幸な運命のいたずらであろう。くわしくいえば、この日、この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上に、あたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。
 二十二日、午前六時には低気圧中心はもうオホーツク海に進出して邦領カラフトの東に位し、そのために東北地方から北海道南部はいずれもほとんど真西の風となっている。それで発火後風向きはだんだんに南々西から西へ西へと回転して行ったに相違ない。このことが、またじつに延焼区域を増大せしめるために、まるであつらえたかのように適応しているのである。もしも最初の南々西の風が発火後その方向を持続しながら風速を増大したのであったら、おそらく火流は停車場付近を右翼の限界として海へぬけてしまったであろうと思われるのが、不幸にもしだいに西へまわった風の転向のために火流の針路が五稜郭ごりょうかくの方面に向けられ、そのためにいっそう災害を大きくしたのではないかと想像される。この気象学者には予測さるべき風向きの旋転せんてんのために、死なずともよい多数の人が死んだのである。
 火災中にしばしば風向きが変わったと報ぜられているが、これは大火には必然な局部的随伴現象であって、現場にいる人にとっては重大な意義を持つものであるが、延焼区域の大勢を支配するものではないから、上記の推測に影響をおよぼす性質のものではないと思われる。
 要するに、当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであったことは疑いもない事実である。
 函館はこだて市は従来、しばしば大火に見舞われたにがい経験から、自然に消防機関の発達をうながされ、その点においては全国中でも優秀な設備を誇っていたと称せられているのであるが、それにもかかわらず今日のような惨禍さんかのできあがったというのは、一つには上記のごとき不幸な偶然の回り合わせによるものであるには相違ない。おそらく、そのほかにもいろいろ平生の火災とはちがった意外な事情が重なり合って、それでこそ、あのような稀有けうの大火となってしまったであろうと想像される。
 だれも知るとおり、火事の大小は最初の五分間できまるといわれている。近ごろの東京で冬期かなりの烈風の日に発火してもいっこうに大火にならないのは、消火着手の迅速なことによるらしい。しかし、現在の東京でもなんらか「異常な事情」のためにほんの少しばかり消防が手おくれになって、そのために誤ってある程度以上に火流の前線を郭大かくだいせしめ、そうしてそれを十余メートルの烈風があおり立てたとしたら、現在の消防設備をもってしても、また、たいていの広い火よけ街路の空間をもってしてもはたして防ぎ止められるかどうか、はなはだ疑わしい。さいわいに大雨でも降り出すか、あるいは川か海か野へでも焼けけてしまわないかぎり、鎮火することはとうてい困難であろうと考えられる。それで函館のばあいにもかならず、何かしら異常な事情の存在したために最初の五分間ににあわなかったのではないかと想像しないわけにはゆかないのである。しかし、どんな事情があったかを判断すべき材料は、今のところ一つもない。いろいろのあやしいうわさはあるが、にわかに信用することはできない。しかし、そういうことを今詮索せんさくするのはもとより自分の任でもなんでもない。ただ自分は今回の惨禍から、われわれが何ごとを学ぶべきかについていくらかでも考察し、そうして将来の禍根かこんをいくらかでも軽減するための参考資料にしたいと思うのである。
 あんなにも痛ましくたくさんの死者を出したのは、一つには市街が狭い地峡ちきょうの上にあって逃げ道を海によって遮断しゃだんせられ、しかも飛び火のためにあちらこちらと同時に燃え出し、そのうえに風向旋転のために避難者の見当がつかなかったことなども重要な理由には相違ないが、何よりも函館はこだて市民のだれもが、よもやあのような大火が今の世にありえようとは夢にも考えなかったということに、すべての惨禍の根本的の原因があるように思われるのである。もう一歩根本的に考えてみると、畢竟ひっきょうわが国において火災、特に大火災というものに関する科学的・基礎的の研究が、ほとんどまるきりできていないということが究竟きゅうきょうの原因であると思われる。そうして、この根本原因の存続するかぎりは、将来いつなんどきでも適当な必要条件が具足ぐそくしさえすれば、東京でもどこでも今回の函館以上の大火を生ずることは決して不可能ではないのである。そういう場合、いかに常時の小火災に対する消防設備が完成していても、なんの役にも立つはずはない。それどころか、五分、一〇分以内に消し止める設備が完成すればするほど、万一の異常の条件によって生じた大火に対する研究はかえって忘れられる傾向がある。火事にもかぎらず、これで安心と思うときにすべてのわざわいの種が生まれるのである。
 火事は、地震や雷のような自然現象でもなく、「おやじ」やむすこのような自由意志をそなえた存在でもなく、主としてセルロースと称する物質が空気中で燃焼する物理学的・化学的現象であって、そうして九九パーセントまでは人間自身の不注意からおこるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説はかならずしも穏当おんとうではない。なぜといえば人間が「過失の動物」であるということは、統計的に見ても動かしがたい天然自然の事実であるからである。しかしまた一方でこの過失は、適当なる統制方法によって、ある程度まで軽減し得られるというのもまた疑いのない事実である。
 それで火災を軽減するには、一方では人間の過失を軽減する統制方法を講究し実施すると同時に、また一方では、火災伝播でんぱに関する基礎的な科学的研究を遂行し、その結果を実地に応用して消火の方法を研究することが必要である。
 もちろん従来でも、一部の人士のあいだでは消防に関する研究がいろいろおこなわれており、また一方では防火に関する宣伝につとめている向きも決して少なくはないようであるが、それらの研究はまだ決して徹底的とは言いがたく、宣伝の効果もはなはだ薄弱であると思われる。
 消防当局のほうでも、たとえばポンプやはしごの改良とか、筒先つつさきの扱い方、消し口のかけひきといったようなことはかなり詳しく論ぜられていても、まだまだだいじな、いろいろの基礎的問題がたくさんに未研究のままで取り残されているのである。たとえば今回のような大火災のばあいにあたって、火流前線がどれだけ以上になったばあいに、どれだけの風速、どの風向きではどの方向にどこまで焼けるかという予測が明確にでき、また気象観測の結果から風向き旋転の順位が相当たしかに予測され、そうして出火当初に消防方針を定め、また市民に避難の経路を指導することができたとしたらおそらく、あれほどの大火にはいたらず、また少なくも、あんなに多くの死人は出さずにすんだであろうと想像される。こういうことはあらかじめ充分に研究さえすれば決して不可能なことではないのである。
 それからまた不幸にして最初の消防が失敗し、すでにもう大火と名のつく程度になってしまって、しかも三〇メートルの風速で注水が霧吹きりふきのように飛散して用をなさないというようなばあいに、いかにして火勢を、食い止めないまでもしだいに鎮圧すべきかということでも、現代科学の精髄を集めたうえで一生懸命研究すれば、決して絶対に不可能なことではないであろう。
 現代日本人の科学に対する態度ほど不可思議なものはない。一方において科学の効果がむしろ滑稽こっけいなる程度にまで買いかぶられているかと思うと、一方ではまた了解のできないほどに科学の能力が見くびられているのである。火災防止のごときは実に後者の適例の一つである。おそらく世界第一の火災国たる日本の消防が、ほとんどまったく科学的素養にとぼしい消防機関の手にゆだねられ、そうして、いちばん肝心な基礎科学はかえって無用の長物ででもあるように火事場からはいっさい疎外されているのである。
 わが国で年々火災のために灰と煙になってしまう動産・不動産の価格は、じつに二億円を超過している。年々火災のために生ずる死者の数は、約二〇〇〇人と見積もられている。十年たてば二〇億円の金と二万人の命の損失である。関東震災の損害がいかに大きくても、それは八十年か百年かに一回の出来事であるとすれば、これを年々根気よくこくめいに持続しくりかえす火事の災害に比すれば、長年の統計から見てはかえってそれほどのものではないといわれよう。
 年に二〇〇〇人といえば全国的に見て僅少きんしょうかもしれないが、それでも天然痘や猩紅熱しょうこうねつで死ぬ人の数よりは多い。また、年二億円の損失は日本の世帯から見て非常に大きいとはいわれないかもしれないが、それでも輸入超過年額の幾割かにあたり、国防費の何十パーセントにはなりうる。
 これほどの損害であるのに一般世間はもちろんのこと、為政の要路にあたる人々の大多数もこれについてほとんどまったく無感覚であるかのように見えるのはいったいどういうわけであるか、じつに不思議なようにも思われるのである。議会などでわずかばかりの予算の差額が問題になったり、また、わずかな金のためにおおぜいの官吏かんりの首を切ったり俸給ほうきゅうを減らしたりするのも結構けっこうであるが、この火災による損失をいくぶんでも軽減することもたまには講究したらどんなものであろうかと思われる。この損失は全然なくすることは困難であるとしても、半分なり三分の一なりに減少することは決して不可能ではないのである。
 火災による国家の損失を軽減しても、なるほど直接現金は浮かび上がってはこない。むしろかえって火災は金の動きの一つの原因とはなりうるかもしれない。このことが、火災の損害に対する一般の無関心を説明する一つの要項であるには相違ないのであるが、しかしともかくも、日本の国の富が年々二億円ずつ煙と灰になって消失しつつある事実を平気で見すごすということは、少なくも為政の要路に立つ人々の立場としてはあまりに申しわけのないことではないかと思われるのである。
 文明をほこる日本帝国には、国民の安寧あんねいをおびやかす各種の災害に対して、それぞれ専門の研究所を設けている。健康保全に関するものでは伝染病研究所やガン研究所のようなもの、それから衛生試験所とか栄養研究所のようなものもある。地震に関しては大学地震研究所をはじめ、中央気象台の一部にもその研究をつかさどるところがある。暴風や雷雨に対しては、中央気象台に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中には、いずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ、日本のどこにも一つの理化学的火災研究所のある話を聞いたおぼえがないのである。
 もちろん警視庁には消防部があって、そこでは消防設備方法に関する直接の講究練習に努力しておられることは事実であるが、ここでいわゆる火災研究とはそういうものではなくて、火災という一つの理化学的現象を、純粋な基礎科学的な立場から根本的・徹底的に研究する科学的研究をさしていうのである。
 研究すべき問題は無数にある。発火の原因となるべき化学的・物理学的現象の研究だけでもたくさんの問題が未解決のまま残されている。たとえば、つい近ごろアメリカで、巻きタバコの吸いがらから火事の卵のできる比率条件について実験的研究をおこなった結果の報告が発表されていた。しかしその結果が、気候を異にする日本にどこまで適用されうるかについてはだれも知らない。またたとえばガソリンが地上にこぼれたときいかなる気象条件のもとに、いかなる方向に、いかなる距離で引火の危険率が何パーセントであるかというようなことすら、だれもまだ知らないことである。
 火災延焼に関する方則ほうそくもぜんぜん不明である。延焼を支配するものは、当時の風向・風速・気温・湿度などのみならず、過去の湿度の履歴効果も少なからず関係する。またその延焼区域の住民家屋の種類、密集の程度にもよることもちろんである。これらの支配因子があたえられた場合に、火災が自由に延焼するとすればいかなる速度で、いかなる面積に広がるかという問題について、たしかな解答をあたえることは現在において困難である。しかし、これとても研究さえすればしだいに判明すべき種類のことがらである。この基礎的の方則ほうそくが判明しないかぎり、大火に対する有効な消防方針の決定されるはずはないのである。
 火災の基礎的研究には単に自然科学方面のみならず、また心理学的方面、社会学的方面にも広大な分野が存在する。たとえば東京市の近年の火災について少しばかり調べてみた結果でも、市民一人あての失火の比率とか、また失火を発見して即座に消し止める比率とか、そういう人間的因子が、たとえば京橋区きょうばしく日本橋区にほんばしくのごとき区域と浅草・本所ほんじょのごとき区域とで顕著な区別のあることが発見されている。ともかくも、この種の研究をじゅうぶんに進めたうえで、消防署の配置や消火栓しょうせんの分布を定めるのでなければ、決して合理的とはいえないであろうと思われる。
 これらの研究は、化学者・物理学者・気象学者・工学者はもちろん、心理学者・社会学者らの精鋭を集めてはじめて可能となるような難問題に当面するであろう。決して物ずきな少数学者の気まぐれな研究に任すべき性質のものでなく、消防吏員りいんや保険会社の統計係の手にゆだねてそれで安心していられるようなものでもなく、国家の一機関として統制された研究所の研究室において、徹底的・系統的に研究さるべきものではないかと思われる。
 西洋では今どき、もう日本のような木造家屋集団の火災は容易に見られない。したがって、これに対する研究もまれであるのは当然である。しかし、西洋に木造都市の火事の研究がないからといって、日本人がそれに気兼ねをして研究を遠慮するにはあたらない。それは、英独には地震が少ないからといって日本で地震研究をおこたる必要のないと同様である。ノルウェーの理学者が北光オーロラの研究で世界にをとなえており、近ごろの日本の地震学者の研究は、ようやく欧米学界の注意を引きつつある。しかしそれでもまだ、灸治きゅうじの研究をする医学者の少ないのと同じような特殊の心理から火事の研究をする理学者が少ないとしたら、それは日本のためになげかわしいことであろう。
 アメリカでは都市の大火はなくても、森林火災が頻繁ひんぱんでその損害も多大である。そのために特別な科学的研究機関もあり、あまり理想的ではないまでも、ともかくも各種の研究がおこなわれ、その結果はある程度まで有効に、予防と消火の実際に応用されている。西部の森林地帯では「火事日和びより」なるものを指定して警報を発する設備もあるようである。
 わが国でも毎年四、五月ごろは山火事のシーズンである。同じ一日じゅうに、全国各地数十か所でほとんど同時に山火事を発することもそうめずらしくはない。そういう時はたいていきまって、著しい不連続線が日本海を縦断してしだいに本州にせまってくる際であって、同時に全国いったいに気温が急に高まってくるのが通例である。そういう時にたとえばラジオによって全国に火事注意の警報を発し、各村役場がそれを受け取ったうえでそれを山林地帯の住民に伝え、青年団や小学生の力をかりて一般の警戒をうながすような方法でもとれば、それだけでもおそらく、森林火災の損害を半減するくらいのことはできそうに思われる。われわれ素人しろうとの考えでは、このくらいのことはいつでもわけもなくできそうに思われるのに、実際はまだどこでもそういう方法のおこなわれているという話を聞かない。そうして年々、数千万円の樹林が炎となり灰となっていたずらにウサギやタヌキをおどろかしているのである。そうして国民の選良たる代議士で、だれ一人として山火事に関する問題を口にする人はないようである。
 数年前、山火事に関する若干の調査をしたいと思い立って、目ぼしい山火事のあったときに、自分の関係のぼう官衙かんがから公文書でその山火事のあった府県の官庁にかけあって、その山火事の延焼の過程をできるだけ詳しく知らせてくれるように頼んでやったことがあった。しかし、その結果は予期に反する大失敗であって、どこからもなんらの具体的の報告が得られなかったばかりか、返事さえもよこしてくれない県が多かった。これはおそらく、どこでも単に「山火事があった」「何千町歩やけた」というくらいの大ざっぱなこと以上に、なんらの調査も研究もしていないということを物語るものであろうと思われた。たださえいそがしい県庁のお役人様はこのうえに山火事の調査までおおせつかっては困るといわれるかもしれないが、しかしこれも日本のためだと思って、もう少しめんどうを見てもらいたいと思うのである。山が焼ければ、間接には飛行機や軍艦が焼けたことになり、それだけ日本が貧乏になり、国防が手薄になるのである。それだけ国民全体の負担は増す勘定である。
 いずれにしても今回のような大火は、文化をもってほこる国家の恥辱ちじょくであろうと思われる。昔の江戸でも火事の多いのが自慢の「花」ではなくて、消防機関の活動が「花」であったのである。とにかくこのたびの災害をふたたびしないようにするためには、単に北海道民のみならず日本全国民の覚醒かくせいを要するであろう。政府でも、火災の軽減を講究する学術的機関を設ける必要のあることは前述のとおりであるが、民衆一般にももう少し火災に関する科学的知識を普及させるのが急務であろうと思われる。少なくもさしあたり小学校・中等学校の教程中に、適当なる形において火災学初歩のようなものを挿入そうにゅうしたいものである。一方ではまた、わが国の科学者がおりにふれてはそのいわゆるアカデミックな洞窟どうくつをいでて、火災現象の基礎科学的研究にも相当の注意をはらうことを希望したいと思うしだいである。
 まさにこの稿を書きおわらんとしているきょう四月五日の夕刊を見ると、この日、午前十時十六分、函館はこだて西部から発火して七十一戸二十九むねを焼き、その際、消防手一名焼死、数名負傷、罹災者りさいしゃ四〇〇名中、先日の大火で焼け出され避難中の再罹災者七〇名であると報ぜられている。
 きのうあったことはきょうあり、きょうあったことはまたあすもありうるであろう。函館にあったことが、またいつ東京・大阪にないともかぎらぬ。考え得らるべき最悪の条件の組み合わせがあすにも突発しないとはかぎらないからである。同じ根本原因のあるところに、同じ結果がいつ発生しないと保証はできないのである。それで全国民は、函館はこだて罹災民の焦眉しょうびの急を救うために応分の力をえることを忘れないと同時に、各自自身が同じ災禍さいかにかからぬように覚悟をきめることがいっそう大切であろう。そうしてこのような災害をけるためのあらゆる方法施設は、火事というものの科学的研究にその基礎をおかなければならないという根本の第一義を忘却しないようにすることがいちばん肝要であろうと思われるのである。
(昭和九年(一九三四)五月『中央公論』



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



火事教育

寺田寅彦

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)旧臘《きゅうろう》押し詰まって

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)簡単|明瞭《めいりょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年一月)
-------------------------------------------------------

 旧臘《きゅうろう》押し詰まっての白木屋《しろきや》の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄《さいやく》が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。しかしせっかくの教訓も肝心な市民の耳に入らず、また心にしみなければあれだけの犠牲は全くなんの役にも立たずに煙になってしまったことになるであろう。今度の火災については消防方面の当局者はもちろん、建築家、百貨店経営者等直接利害を感ずる人々の側ではすぐに徹底的の調査研究に着手して取りあえず災害予防方法を講究しておられるようであるが、何よりもいちばんだいじと思われる市民の火災訓練のほうがいかなる方法によってどれだけの程度にできるであろうかという問題についてはほとんどだれにも見当さえつかないように見える。
 白木屋の火事の場合における消防当局の措置は、あの場合としては、事情の許す範囲内で最善を尽くされたもののように見える。それが事件の直前にちょうどこの百貨店で火災時の消防予行演習が行なわれていたためもあっていっそうの効力を発揮したようであるが、あの際もしもあの建物の中で遭難した人らにもう少し火災に関する一般的科学知識が普及しており、そうして避難方法に関する平素の訓練がもう少し行き届いていたならば少なくも死傷者の数を実際あったよりも著しく減ずることができたであろうという事はだれしも異論のないことであろうと思われる。そうしてまた実に驚くべく非科学的なる市民、逆上したる街頭の市民傍観者のある者が、物理学も生理学もいっさい無視した五階飛び降りを激励するようなことがなかったら、あたら美しい青春の花のつぼみを舗道の石畳に散らすような惨事もなくて済んだであろう。このようにして、白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行なわれた殺人事件は不思議にも司直の追求を受けずまた市人の何人《なんぴと》もこれをとがむることなしにそのままに忘却の闇《やみ》に葬られてしまった。実に不可解な現象と言わなければなるまい。
 それはとにかく、実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの災害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと想像させるだけの根拠はある。考えてもぞっとする話である。しかしそういう場合であっても、もしも入場していた市民がそのような危急の場合に対する充分な知識と訓練を持ち合わせていて、そうしてかねてから訓練を積んだ責任ある指揮者の指揮に従って合理的統整的行動を取ることができれば、たとえ二万人三万人の群集があっても立派に無事に避難することが可能であるということは簡単な数理からでも割り出されることであると思う。火の伝播《でんぱ》がいかに迅速であるとしても、発火と同時に全館に警鈴が鳴り渡りかねてから手ぐすね引いている火災係が各自の部署につき、良好な有力な拡声機によって安全なる避難路が指示され、群集は落ち着き払ってその号令に耳をすまして静かに行動を起こし、そうして階段通路をその幅員尺度に応じて二列三列あるいは五列等の隊伍《たいご》を乱すことなく、また一定度以上の歩調を越すことなく、軍隊的に進行すればみごとに引き上げられるはずである。そのはずでなければならないのである。
 しかしこのできるはずのことがなかなか容易にできないのは多くの場合に群集が周章狼狽《しゅうしょうろうばい》するためであって、その周章狼狽《しゅうしょうろうばい》は畢竟《ひっきょう》火災の伝播《でんぱ》に関する科学的知識の欠乏から来るのであろう。火がおよそいかなる速度でいかなる方向に燃え広がる傾向があるか、煙がどういうぐあいに這《は》って行くものか、火災がどのくらいの距離に迫れば危険であるか、木造とコンクリートとで燃え方がどうちがうか、そういう事に関する漠然《ばくぜん》たる概念でもよいから、一度確実に腹の底に落ちつけておけば、驚くには驚いても決して極度の狼狽から知らず知らず取り返しのつかぬ自殺的行動に突進するようなことはなくてすむわけである。同時にまた消防当局の提供する避難機関に対する一通りの予備知識と、その知識から当然生まれるはずの信頼とをもっておりさえすれば、たとい女子供でも、そうあわてなくてすむわけである。
 しかしこのような訓練が実際上現在のこの東京市民にいかに困難であろうかという事は、試みにラッシュアワーの電車の乗降に際する現象を注意して見ていても直ちに理解されるであろう。東京市民は、骨を折ってお互いに電車の乗降をわざわざ困難にし、従って乗降の時間をわざわざ延長させ、車の発着を不規則にし、各自の損失を増すことに全力を注いでいるように見える。もしこれと同じ要領でデパート火事の階段に臨むものとすれば階段は瞬時に生きた人間の「栓《せん》」で閉塞《へいそく》されるであろう。そうしてその結果は世にも目ざましき大量殺人事件となって世界の耳口を聳動《しょうどう》するであろうことは真に火を見るよりも明らかである。このような実例の小規模なものは従来小さな映画館の火事の場合に記録されている。しかし人数の桁数《けたすう》のちがうデパートであったらはたしてどうであろう。
 これに処する根本的対策としては小学校教育ならびに家庭教育において児童の感受性ゆたかなる頭脳に、鮮明なるしかも持続性ある印象として火災に関する最重要な心得の一般を固定させるよりほかに道はないように思われる。
 現在の小学校教育の教程中に火災の事がどれだけの程度に取り扱われているかということについては自分はまだ全く何も知らない。しかしどれほど立派な教程があっても、それの効果が今日われわれの眼前にあまり明白に現われていないことだけは確かな事実であると思われる。
 火事は人工的災害であって地震や雷のような天然現象ではないという簡単|明瞭《めいりょう》な事実すら、はっきり認識されていない。火事の災害の起こる確率は、失火の確率と、それが一定時間内に発見され通報される確率によって決定されるということも明白に認められていない。火事のために日本の国が年々幾億円を費やして灰と煙を製造しているかということを知る政府の役人も少ない。火事が科学的研究の対象であるということを考えてみる学者もまれである。
 話は変わるが先日|銀座伊東屋《ぎんざいとうや》の六階に開催されたソビエトロシア印刷芸術展覧会というのをのぞいて見た。かの国の有名な画廊にある名画の複製や、アラビアンナイトとデカメロンの豪華版や、愛書家の涎《よだれ》を流しそうな、芸術のための芸術と思われる書物が並んでいて、これにはちょっと意外な感じもした。そのほかになかなか美しい人形や小箱なども陳列してあったが、いちばん自分の注意をひいたのは児童教育のために編纂《へんさん》された各種の安直な絵本であった。残念ながらわが国の書店やデパート書籍部に並んでいるあの職人仕立ての児童用絵本などとは到底比較にも何もならないほど芸術味の豊富なデザインを示したものがいろいろあって、子供ばかりかむしろおとなの好事家《こうずか》を喜ばすに充分なものが多数にあった。その中に「火事《パジアール》」という見出しで、表紙も入れてたった十二ページの本が見つかったのでこれはおもしろいと思って試みに買って来た。絵もなかなかおもしろいが絵とちゃんぽんに印刷されたテキストが、われわれが読んでさえ非常に口調のいいと思われる韻文になっていて、おそらく、ロシアの子供なら、ひとりでに歌わないではいられなくなるであろうと思われるものである。簡単に内容を紹介すると、まずその第一ページは、消防署で日夜火の手を見張っている様子を歌ってある。第二ページはおかあさんの留守に幼少な娘のリエナが禁を犯してペチカのふたを明け、はね出した火がそれからそれと燃え移って火事になる光景、第三ページは近所が騒ぎだし、家財を持ち出す場面、さすがにサモワールを持ち出すのを忘れていない。第四ページは消防隊の繰り出す威勢のいいシーン。次は消防作業でポンプはほとばしり消防夫は屋根に上がる。おかしいのはポンプが手押しの小さなものである。次は二人の消防夫が屋根から墜落。勇敢なクジマ、今までに四十人の生命を助け十回も屋根からころがり落ちた札付きのクジマのおやじが屋根裏の窓から一匹のかわいい三毛の子ねこを助け出す。その次はクジマがポケットへ子ねこをねじ込んだままで、今にも焼け落ちんばかりの屋根の上の奮闘。子ねこがかくしから首と前足を出して見物しているのが愉快である。その次は火事のほうがとうとう降参して「ごめんください、クジマさん」とあやまる。クジマが「今後はペチカとランプと蝋燭《ろうそく》以外に飛び出してはいけないぞ」と命令する場面で、ページの下半にはランプと蝋燭のクローズアップ。次のページにはリエナが戸外のベンチで泣いているところへクジマが子ねこの襟首《えりくび》をつかんで頭上高くさし上げながらやって来る。「坊や。泣くんじゃないよ。お家《うち》は新しく建ててやる。子ねこも無事だよ。そら、かわいがっておやり」という一編のクライマックスがあって、さて最後には消防隊が引き上げる光景、クジマの顔には焼けど、額には血、目の縁は黒くなって、そうして平気で揚々と引き上げて行くところで「おしまい」である。
 紙芝居にしても悪くはなさそうである。それはとにかく、これだけの、小さな小さな「火事教育」でも、これだけの程度にでもちゃんとしたものがわが国の本屋の店頭にあるかどうか、もし見つかったかたがあったらどうかごめんどうでもちょっとお知らせを願いたい。
 ついでながら見本としてこの絵本の第一ページの文句だけを紹介する。発音は自己流でいいかげんのものであるが、およその体裁だけはわかるであろう。
[#ここから3字下げ]
フ、プロースチャデイ、バザールノイ
ナ、カランチェー、パジャールノイ
クルーグルイ、スートキ
ダゾールヌイ、ウ、ブードキ
スマトリート、ワクルーグ
  ナ、シェビェール
  ナ、ユーグ
  ナ、ザーパド
  ナ、ウォストク
ニェ、ウィディエイ、リ、ドゥイモーク、
[#ここから5字下げ]
右の訳。これもいいかげんである。
[#ここから3字下げ]
市場の辻《つじ》の
消防|屯所《とんしょ》
夜でも昼でも
火の見で見張り
ぐるぐる見回る
  北は………
  南は………
  西は………
  東は………
どっかに煙はさて見えないか。
[#ここで字下げ終わり]
 わが国の教育家、画家、詩人ならびに出版業者が、ともかくもこの粗末な絵本を参考のために一見して、そうしてわが国児童のために、ほんの些細《ささい》の労力を貢献して、若干の火事教育の絵本を提供されることを切望する次第である。そうすればこの赤露の絵本などよりは数等すぐれた、もっと科学的に有効適切で、もっと芸術的にも立派なものができるであろうと思われる。そういう仕事は決して一流の芸術家を恥ずかしめるものではあるまいと信ずるのである。科学国の文化への貢献という立場から見れば、むしろ、このほうが帝展で金牌《きんぱい》をもらうよりも、もっともっとはるかに重大な使命であるかもしれないのである。
[#地から3字上げ](昭和八年一月)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



函館の大火について

寺田寅彦

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)函館《はこだて》市に大火があって

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|詮索《せんさく》するのは

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和九年五月、中央公論)
-------------------------------------------------------

 昭和九年三月二十一日の夕から翌朝へかけて函館《はこだて》市に大火があって二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。そうしてこれが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいことなのである。
 徳川時代の江戸には大火が名物であった。振袖火事《ふりそでかじ》として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午《ひる》ごろ目黒《めぐろ》行人坂《ぎょうにんざか》大円寺《だいえんじ》から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝《しば》桜田《さくらだ》から今の丸《まる》の内《うち》を焼いて神田《かんだ》下谷《したや》浅草《あさくさ》と焼けつづけ、とうとう千住《せんじゅ》までも焼け抜けて、なおその火の支流は本郷《ほんごう》から巣鴨《すがも》にも延長し、また一方の逆流は今の日本橋区《にほんばしく》の目抜きの場所を曠野《こうや》にした。これは焼失区域のだいたいの長さから言って今度の函館のそれの三倍以上であった。これは西暦一七七二年の出来事で今から百六十二年の昔の話である。当時江戸の消防機関は長い間の苦《にが》い経験で教育され訓練されてかなりに発達してはいたであろうが、ともかくも日本にまだ科学と名のつくもののなかった昔の災害であったのである。
 関東震災に踵《くびす》を次いで起こった大正十二年九月一日から三日にわたる大火災は明暦の大火に肩を比べるものであった。あの一九二三年の地震によって発生した直接の損害は副産物として生じた火災の損害に比べればむしろ軽少なものであったと言われている。あの時の火災がどうしてあれほどに暴威をほしいままにしたかについてはもとよりいろいろの原因があった。一つには水道が止まった上に、出火の箇所が多数に一時に発生して消防機関が間に合わなかったのは事実である。また一つには東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために徳川時代に多大の犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防の事は警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、警察のほうでもまたそうとばかり信じ切っていたために市民の手からその防火の能力を没収してしまった。そのために焼かずとも済むものまでも焼けるに任せた、という傾向のあったのもやはり事実である。しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。
 今回の函館《はこだて》の大火はいかにして成立し得たか、これについていくらかでも正鵠《せいこく》に近い考察をするためには今のところ信ずべき資料があまりに僅少《きんしょう》である。新聞記事は例によってまちまちであって、感傷をそそる情的資料は豊富でも考察に必要な正確な物的資料は乏しいのであるが、内務省警保局発表と称する新聞記事によると発火地点や時刻や延焼区域のきわめてだいたいの状況を知ることはできるようである。まず何よりもこの大火を大火ならしめた重要な直接原因は当時日本海からオホツク海に駆け抜けた低気圧のしわざに帰せなければならない。天気図によると二十一日午前六時にはかなりな低気圧の目玉が日本海の中央に陣取っていて、これからしっぽを引いた不連続線は中国から豊後水道《ぶんごすいどう》のあたりを通って太平洋上に消えている。こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度《ひんど》が多くなるのであるが、この日は幸いに雨気雪気が勝っていたために本州四国九州いずれも無事であった。ところが午後六時にはこの低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌《さっぽろ》の真西あたりの見当の日本海のまん中に来てその威力をたくましくしていた。そのために東北地方から北海道南部は一般に南西がかった雪交じりの烈風が吹きつのり、函館《はこだて》では南々西秒速十余メートルの烈風が報ぜられている。この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町《やちがしらまち》から最初の火の手が上がったのである。
 古来の大火の顛末《てんまつ》を調べてみるといずれの場合でも同様な運命ののろいがある。明暦三年の振袖火事《ふりそでかじ》では、毎日のように吹き続く北西気候風に乗じて江戸の大部分を焼き払うにはいかにすべきかを慎重に考究した結果ででもあるように本郷《ほんごう》、小石川《こいしかわ》、麹町《こうじまち》の三か所に相次いで三度に火を発している。由井正雪《ゆいしょうせつ》の残党が放火したのだという流言が行なわれたのももっともな次第である。明和九年の行人坂の火事には南西風に乗じて江戸を縦に焼き抜くために最好適地と考えられる目黒の一地点に乞食坊主《こじきぼうず》の真秀《しんしゅう》が放火したのである。しかし、それはもちろんだれが計画したわけでもなく、偶然そういう「大火の成立条件」がそろったために必然的に大火が成立し、それがためにこそ稀有《けう》の大火として歴史に残っているに過ぎないのである。同様に現在の函館の場合においても偶然にも運悪くこの条件が具備していたために歴史的な大火災ができあがったに相違ないのである。
 江戸の火災の焼失区域を調べてみると、相応な風のあった場合にはほとんどきまって火元を「かなめ」として末広がりに、半開きの扇形に延焼している。これは理論上からも予期される事であり、またたとえば実験室において油をしみ込ませた石綿板の一点に放火して、電扇の風であおぐという実験をやってみてもわかることである。風速の強いときほど概してこの扇形の頂角が小さくなるのが普通で、極端な例として享保年間のある火事は麹町《こうじまち》から発火して品川沖《しながわおき》へまで焼け抜けたが、その焼失区域は横幅の平均わずかに一二町ぐらいで、まるで一直線の帯のような格好になっている。風がもっともっと強くなればすべての火事はほんとうに「吹き消される」はずである。しかし江戸大火の例で見ると、この焼失区域の扇形の頂角はざっと六十度から三十度の程度である。明暦大火の場合はかなりの烈風でおそらく十メートル以上の秒速であったと思われる根拠があるが、その時のこの頂角がだいたいにおいて、今度の函館《はこだて》の火元から焼失区域の外郭に接して引いた二つの直線のなす角に等しい。そうしてこの頂角を二等分する線の方向がほぼ発火当時の風向に近いのである。これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。
 二十二日午前六時には低気圧中心はもうオホツク海に進出して邦領カラフトの東に位し、そのために東北地方から北海道南部はいずれもほとんど真西の風となっている。それで発火後風向はだんだんに南々西から西へ西へと回転して行ったに相違ない。このことがまた実に延焼区域を増大せしめるためにまるであつらえたかのように適応しているのである。もしも最初の南々西の風が発火後その方向を持続しながら風速を増大したのであったらおそらく火流は停車場付近を右翼の限界として海へ抜けてしまったであろうと思われるのが、不幸にも次第に西へ回った風の転向のために火流の針路が五稜郭《ごりょうかく》の方面に向けられ、そのためにいっそう災害を大きくしたのではないかと想像される。この気象学者には予測さるべき風向の旋転のために死なずともよい多数の人が死んだのである。
 火災中にしばしば風向が変わったと報ぜられているがこれは大火には必然な局部的随伴現象であって現場にいる人にとっては重大な意義をもつものであるが、延焼区域の大勢を支配するものではないから、上記の推測に影響を及ぼす性質のものではないと思われる。
 要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであったことは疑いもない事実である。
 函館《はこだて》市は従来しばしば大火に見舞われた苦《にが》い経験から自然に消防機関の発達を促され、その点においては全国中でも優秀な設備を誇っていたと称せられているのであるが、それにもかかわらず今日のような惨禍のできあがったというのは、一つには上記のごとき不幸な偶然の回り合わせによるものであるには相違ない。おそらくそのほかにもいろいろ平生の火災とはちがった意外な事情が重なり合って、それでこそあのような稀有《けう》の大火となってしまったであろうと想像される。
 だれも知るとおり火事の大小は最初の五分間できまると言われている。近ごろの東京で冬期かなりの烈風の日に発火してもいっこうに大火にならないのは消火着手の迅速なことによるらしい。しかし現在の東京でもなんらか「異常な事情」のためにほんの少しばかり消防が手おくれになって、そのために誤ってある程度以上に火流の前線を郭大せしめ、そうしてそれを十余メートルの烈風があおり立てたとしたら、現在の消防設備をもってしても、またたいていの広い火よけ街路の空間をもってしてもはたして防ぎ止められるかどうかはなはだ疑わしい。幸いに大雨でも降り出すか、あるいは川か海か野へでも焼け抜けてしまわない限り鎮火することは到底困難であろうと考えられる。それで函館の場合にも必ず何かしら異常な事情の存在したために最初の五分間に間に合わなかったのではないかと想像しないわけにはゆかないのである。しかしどんな事情があったかを判断すべき材料は今のところ一つもない。いろいろの怪しいうわさはあるがにわかに信用することはできない。しかしそういうことを今|詮索《せんさく》するのはもとより自分の任でもなんでもない。ただ自分は今回の惨禍からわれわれが何事を学ぶべきかについていくらかでも考察し、そうして将来の禍根をいくらかでも軽減するための参考資料にしたいと思うのである。
 あんなにも痛ましくたくさんの死者を出したのは一つには市街が狭い地峡の上にあって逃げ道を海によって遮断《しゃだん》せられ、しかも飛び火のためにあちらこちらと同時に燃え出し、その上に風向旋転のために避難者の見当がつかなかったことなども重要な理由には相違ないが、何よりも函館《はこだて》市民のだれもが、よもやあのような大火が今の世にあり得ようとは夢にも考えなかったということにすべての惨禍の根本的の原因があるように思われるのである。もう一歩根本的に考えてみると畢竟《ひっきょう》わが国において火災特に大火災というものに関する科学的基礎的の研究がほとんどまるきりできていないということが究竟《きゅうきょう》の原因であると思われる。そうして、この根本原因の存続する限りは、将来いつなんどきでも適当な必要条件が具足しさえすれば、東京でもどこでも今回の函館以上の大火を生ずることは決して不可能ではないのである。そういう場合、いかに常時の小火災に対する消防設備が完成していてもなんの役にも立つはずはない。それどころか五分十分以内に消し止める設備が完成すればするほど、万一の異常の条件によって生じた大火に対する研究はかえって忘れられる傾向がある。火事にも限らず、これで安心と思うときにすべての禍《わざわ》いの種が生まれるのである。
 火事は地震や雷のような自然現象でもなく「おやじ」やむすこのような自由意志を備えた存在でもなく、主としてセリュローズと称する物質が空気中で燃焼する物理学的化学的現象であって、そうして九九プロセントまでは人間自身の不注意から起こるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説は必ずしも穏当ではない。なぜと言えば人間が「過失の動物」であるということは、統計的に見ても動かし難い天然自然の事実であるからである。しかしまた一方でこの過失は、適当なる統制方法によってある程度まで軽減し得られるというのもまた疑いのない事実である。
 それで火災を軽減するには、一方では人間の過失を軽減する統制方法を講究し実施すると同時に、また一方では火災|伝播《でんぱ》に関する基礎的な科学的研究を遂行し、その結果を実地に応用して消火の方法を研究することが必要である。
 もちろん従来でも一部の人士の間では消防に関する研究がいろいろ行なわれており、また一方では防火に関する宣伝につとめている向きも決して少なくはないようであるが、それらの研究はまだ決して徹底的とは言い難く、宣伝の効果もはなはだ薄弱であると思われる。
 消防当局のほうでもたとえばポンプや梯子《はしご》の改良とか、筒先の扱い方、消し口の駆け引きといったようなことはかなり詳しく論ぜられていても、まだまだだいじないろいろの基礎的問題がたくさんに未研究のままで取り残されているのである。たとえば今回のような大火災の場合に当たって、火流前線がどれだけ以上になった場合に、どれだけの風速どの風向ではどの方向にどこまで焼けるかという予測が明確にでき、また気象観測の結果から風向旋転の順位が相当たしかに予測され、そうして出火当初に消防方針を定めまた市民に避難の経路を指導することができたとしたらおそらく、あれほどの大火には至らず、また少なくもあんなに多くの死人は出さずに済んだであろうと想像される。こういうことはあらかじめ充分に研究さえすれば決して不可能なことではないのである。
 それからまた不幸にして最初の消防が失敗しすでにもう大火と名のつく程度になってしまってしかも三十メートルの風速で注水が霧吹きのように飛散して用をなさないというような場合に、いかにして火勢を、食い止めないまでも次第に鎮圧すべきかということでも、現代科学の精髄を集めた上で一生懸命研究すれば決して絶対に不可能なことではないであろう。
 現代日本人の科学に対する態度ほど不可思議なものはない。一方において科学の効果がむしろ滑稽《こっけい》なる程度にまで買いかぶられているかと思うと、一方ではまた了解のできないほどに科学の能力が見くびられているのである。火災防止のごときは実に後者の適例の一つである。おそらく世界第一の火災国たる日本の消防がほとんど全く科学的素養に乏しい消防機関の手にゆだねられ、そうして、いちばん肝心な基礎科学はかえって無用の長物ででもあるように火事場からはいっさい疎外されているのである。
 わが国で年々火災のために灰と煙になってしまう動産不動産の価格は実に二億円を超過している。年々火災のために生ずる死者の数は約二千人と見積もられている。十年たてば二十億円の金と二万人の命の損失である。関東震災の損害がいかに大きくてもそれは八十年か百年かに一回の出来事であるとすれば、これを年々根気よくこくめいに持続し繰り返す火事の災害に比すれば、長年の統計から見てはかえってそれほどのものではないと言われよう。
 年に二千人と言えば全国的に見て僅少《きんしょう》かもしれないが、それでも天然痘や猖紅熱《しょうこうねつ》で死ぬ人の数よりは多い。また年二億円の損失は日本の世帯から見て非常に大きいとは言われないかもしれないが、それでも輸入超過年額の幾割かに当たり、国防費の何十プロセントにはなりうる。
 これほどの損害であるのに一般世間はもちろんのこと、為政の要路に当たる人々の大多数もこれについてほとんど全く無感覚であるかのように見えるのはいったいどういうわけであるか、実に不思議なようにも思われるのである。議会などでわずかばかりの予算の差額が問題になったり、またわずかな金のためにおおぜいの官吏の首を切ったり俸給《ほうきゅう》を減らしたりするのも結構であるが、この火災による損失をいくぶんでも軽減することもたまには講究したらどんなものであろうかと思われる。この損失は全然無くすることは困難であるとしても半分なり三分の一なりに減少することは決して不可能ではないのである。
 火災による国家の損失を軽減してもなるほど直接現金は浮かび上がっては来ない。むしろかえって火災は金の動きの一つの原因とはなりうるかもしれない。このことが火災の損害に対する一般の無関心を説明する一つの要項であるには相違ないのであるが、しかしともかくも日本の国の富が年々二億円ずつ煙と灰になって消失しつつある事実を平気で見過ごすということは少なくも為政の要路に立つ人々の立場としてはあまりに申し訳のないことではないかと思われるのである。
 文明を誇る日本帝国には国民の安寧を脅かす各種の災害に対して、それぞれ専門の研究所を設けている。健康保全に関するものでは伝染病研究所や癌《がん》研究所のようなもの、それから衛生試験所とか栄養研究所のようなものもある。地震に関しては大学地震研究所をはじめ中央気象台の一部にもその研究をつかさどるところがある。暴風や雷雨に対しては中央気象台に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中にはいずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ日本のどこにも一つの理化学的火災研究所のある話を聞いた覚えがないのである。
 もちろん警視庁には消防部があって、そこでは消防設備方法に関する直接の講究練習に努力しておられることは事実であるが、ここでいわゆる火災研究とはそういうものではなくて、火災という一つの理化学的現象を純粋な基礎科学的な立場から根本的徹底的に研究する科学的研究をさしていうのである。
 研究すべき問題は無数にある。発火の原因となるべき化学的物理学的現象の研究だけでもたくさんの問題が未解決のまま残されている。たとえばつい近ごろアメリカで、巻き煙草《たばこ》の吸いがらから火事の卵のできる比率条件について実験的研究を行なった結果の報告が発表されていた。しかしその結果が気候を異にする日本にどこまで適用されうるかについてはだれも知らない。またたとえばガソリンが地上にこぼれたときいかなる気象条件のもとにいかなる方向にいかなる距離で引火の危険率が何プロセントであるかというようなことすらだれもまだ知らないことである。
 火災延焼に関する方則も全然不明である。延焼を支配するものは当時の風向風速気温湿度等のみならず、過去の湿度の履歴効果も少なからず関係する。またその延焼区域の住民家屋の種類、密集の程度にもよることもちろんである。これらの支配因子が与えられた場合に、火災が自由に延焼するとすればいかなる速度でいかなる面積に広がるかという問題についてたしかな解答を与えることは現在において困難である。しかしこれとても研究さえすれば次第に判明すべき種類の事がらである。この基礎的の方則が判明しない限り大火に対する有効な消防方針の決定されるはずはないのである。
 火災の基礎的研究には単に自然科学方面のみならず、また心理学的方面、社会学的方面にも広大な分野が存在する。たとえば東京市の近年の火災について少しばかり調べてみた結果でも、市民一人あての失火の比率とか、また失火を発見して即座に消し止める比率とか、そういう人間的因子が、たとえば京橋区《きょうばしく》日本橋区《にほんばしく》のごとき区域と浅草《あさくさ》本所《ほんじょ》のごとき区域とで顕著な区別のあることが発見されている。ともかくも、この種の研究を充分に進めた上で、消防署の配置や消火栓《しょうかせん》の分布を定めるのでなければ決して合理的とは言えないであろうと思われる。
 これらの研究は化学者物理学者気象学者工学者はもちろん心理学者社会学者等の精鋭を集めてはじめて可能となるような難問題に当面するであろう。決して物ずきな少数学者の気まぐれな研究に任すべき性質のものでなく、消防吏員や保険会社の統計係の手にゆだねてそれで安心していられるようなものでもなく、国家の一機関として統制された研究所の研究室において徹底的系統的に研究さるべきものではないかと思われる。
 西洋では今どきもう日本のような木造家屋集団の火災は容易に見られない。従ってこれに対する研究もまれであるのは当然である。しかし、西洋に木造都市の火事の研究がないからと言って日本人がそれに気兼ねをして研究を遠慮するには当たらない。それは、英独には地震が少ないからと言って日本で地震研究を怠る必要のないと同様である。ノルウェーの理学者が北光《オーロラ》の研究で世界に覇《は》をとなえており、近ごろの日本の地震学者の研究はようやく欧米学界の注意を引きつつある。しかしそれでもまだ灸治《きゅうじ》の研究をする医学者の少ないのと同じような特殊の心理から火事の研究をする理学者が少ないとしたらそれは日本のためになげかわしいことであろう。
 アメリカでは都市の大火はなくても森林火災が頻繁《ひんぱん》でその損害も多大である。そのために特別な科学的研究機関もあり、あまり理想的ではないまでもともかくも各種の研究が行なわれ、その結果はある程度まで有効に予防と消火の実際に応用されている。西部の森林地帯では「火事日和《かじびより》」なるものを指定して警報を発する設備もあるようである。
 わが国でも毎年四五月ごろは山火事のシーズンである。同じ一日じゅうに全国各地数十か所でほとんど同時に山火事を発することもそう珍しくはない。そういう時はたいていきまって著しい不連続線が日本海を縦断して次第に本州に迫って来る際であって同時に全国いったいに気温が急に高まって来るのが通例である。そういう時にたとえばラジオによって全国に火事注意の警報を発し、各村役場がそれを受け取った上でそれを山林地帯の住民に伝え、青年団や小学生の力をかりて一般の警戒を促すような方法でもとれば、それだけでもおそらく森林火災の損害を半減するくらいのことはできそうに思われる。われわれ素人《しろうと》の考えではこのくらいのことはいつでもわけもなくできそうに思われるのに、実際はまだどこでもそういう方法の行なわれているという話を聞かない。そうして年々数千万円の樹林が炎となり灰となっていたずらにうさぎやたぬきを驚かしているのである。そうして国民の選良たる代議士でだれ一人として山火事に関する問題を口にする人はないようである。
 数年前山火事に関する若干の調査をしたいと思い立って、目ぼしい山火事のあったときに自分の関係の某《ぼう》官衙《かんが》から公文書でその山火事のあった府県の官庁に掛け合って、その山火事の延焼の過程をできるだけ詳しく知らせてくれるように頼んでやったことがあった。しかしその結果は予期に反する大失敗であって、どこからもなんらの具体的の報告が得られなかったばかりか、返事さえもよこしてくれない県が多かった。これはおそらく、どこでも単に「山火事があった」「何千町歩やけた」というくらいの大ざっぱなこと以上になんらの調査も研究もしていないということを物語るものであろうと思われた。たださえ忙しい県庁のお役人様はこの上に山火事の調査まで仰せつかっては困ると言われるかもしれないが、しかしこれも日本のためだと思って、もう少しめんどうを見てもらいたいと思うのである。山が焼ければ間接には飛行機や軍艦が焼けたことになり、それだけ日本が貧乏になり国防が手薄になるのである。それだけ国民全体の負担は増す勘定である。
 いずれにしても今回のような大火は文化をもって誇る国家の恥辱であろうと思われる。昔の江戸でも火事の多いのが自慢の「花」ではなくて消防機関の活動が「花」であったのである。とにかくこのたびの災害を再びしないようにするためには単に北海道民のみならず日本全国民の覚醒《かくせい》を要するであろう。政府でも火災の軽減を講究する学術的機関を設ける必要のあることは前述のとおりであるが、民衆一般にももう少し火災に関する科学的知識を普及させるのが急務であろうと思われる。少なくもさし当たり小学校中等学校の教程中に適当なる形において火災学初歩のようなものを插入《そうにゅう》したいものである。一方ではまたわが国の科学者がおりにふれてはそのいわゆるアカデミックな洞窟《どうくつ》をいでて火災現象の基礎科学的研究にも相当の注意を払うことを希望したいと思う次第である。
 まさにこの稿を書きおわらんとしているきょう四月五日の夕刊を見るとこの日午前十時十六分|函館《はこだて》西部から発火して七十一戸二十九|棟《むね》を焼き、その際消防手一名焼死数名負傷、罹災者《りさいしゃ》四百名中先日の大火で焼け出され避難中の再罹災者七十名であると報ぜられている。
 きのうあった事はきょうあり、きょうあった事はまたあすもありうるであろう。函館にあったことがまたいつ東京|大阪《おおさか》にないとも限らぬ。考え得らるべき最悪の条件の組み合わせがあすにも突発しないとは限らないからである。同じ根本原因のある所に同じ結果がいつ発生しないと保証はできないのである。それで全国民は函館《はこだて》罹災民の焦眉《しょうび》の急を救うために応分の力を添えることを忘れないと同時に各自自身が同じ災禍にかからぬように覚悟をきめることがいっそう大切であろう。そうしてこのような災害を避けるためのあらゆる方法施設は火事というものの科学的研究にその基礎をおかなければならないという根本の第一義を忘却しないようにすることがいちばん肝要であろうと思われるのである。
[#地から3字上げ](昭和九年五月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • -----------------------------------
  • 火事教育
  • -----------------------------------
  • 白木屋 しろきや 東京の日本橋一丁目に、かつて存在した日本を代表する百貨店。法人としては現在の東急百貨店で、1967年に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999年1月31日に閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設されている。1932年、白木屋大火が発生。日本初の高層建築物火災となった。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 伊東屋 いとうや 東京都銀座にある文房具、画材、手芸用品販売店。品揃えは非常に豊富であり、各フロアに専門の販売員を配置するといった特徴がある。2008年現在、東京都内や横浜市に10店舗(別館含む)を展開する。
  • -----------------------------------
  • 函館の大火について
  • -----------------------------------
  • [北海道]
  • 函館 はこだて (古くは「箱館」と書いた)北海道渡島半島の南東部に位置する市。港湾都市。渡島支庁所在地。もと江戸幕府の奉行所所在地。安政の仮条約により開港。1988年まで青函連絡船による北海道の玄関口。五稜郭・トラピスチヌ修道院がある。人口29万4千。
  • 谷地頭町 やちがしらまち/やちがしらちょう 現、北海道函館市谷地頭町・青柳町。明治6(1873)の町名町域再整理の際に、尻沢辺町を細かく区画割してできた町の一つ。
  • 五稜郭 ごりょうかく (五角形の平面をもつ洋式城塞の意)江戸幕府が北方警備の箱館奉行庁舎として建造した城郭。1864年(元治1)完成。68〜69年(明治1〜2)榎本武揚・大鳥圭介ら旧幕軍がここに拠って、新政府軍に最後の抵抗を行なった。国特別史跡。
  • [東京都]
  • 目黒 めぐろ 東京都23区の一つ。武蔵野台地の一部、住宅地として発展。東京大学教養学部・東京工業大学や目黒不動(滝泉寺)・祐天寺などがある。
  • 行人坂 ぎょうにんざか 現、東京都目黒区下目黒。永峰町から太鼓橋に下る急坂。幅三間、登り80間ほど。名称は往古木食行者がこの地に住んだことに由来するという。
  • 大円寺 だいえんじ 行人坂の中腹に位置する天台宗の寺。明和9(1772)2月29日出火、折からの強風で麻布・芝方面から江戸城、さらに日本橋・神田・本郷・浅草方面などを延焼し、翌30日に鎮火。死傷者は数千人に及んだ(「北叟遺言」など)。世にいう明和の大火で、目黒行人坂火事ともいう。
  • 芝 しば 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。古くは品川沖を望む東海道の景勝の地。
  • 桜田 さくらだ 東京都千代田区の桜田 (千代田区)。皇居(江戸城)南端にある桜田門橋一帯の地名。 現在の東京都千代田区霞が関2丁目付近。古くは桜田郷と呼ばれた。地名の由来は、谷間に水田があり「狭倉田」と呼ばれたことからとの説がある。
  • 丸の内 まるのうち 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
  • 神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  • 千住 せんじゅ 東京都足立区南部から荒川区東部にかけての地区。日光街道第1の宿として繁栄した。住宅と中小工場の混在地区。
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 巣鴨 すがも 東京都豊島区の一地区。江戸時代には中山道沿いの街村。「とげぬき地蔵」で知られる高岩寺がある。
  • 日本橋区 にほんばしく 東京都中央区の旧地名。日本橋地域の南西側に位置。
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 小石川 こいしかわ 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。文教・住宅地区。江戸時代以来の植物園(もと薬園)・後楽園・伝通院などがある。礫川。
  • 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 京橋区 きょうばしく 1878年から1947年にかけて東京に存在した区。
  • 京橋は、日本橋を起点に南へのびる東海道(国道1号・中央通り)が京橋川(現在は埋め立てられている)を渡る地点に架けられていた橋。この通りを中心とした京橋・銀座地区、その東の八丁堀・築地地区、隅田川河口の中洲である石川島・佃島、明治後期以降の埋立地である月島・晴海地区などを領域とした。
  • 本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
  • 豊後水道 ぶんご すいどう 愛媛県西岸と大分県南東部海岸との間の海域。南は太平洋に、北は豊予海峡を経て瀬戸内海に続く。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 明暦三(一六五七)一月一八〜二〇日 振袖火事(明暦の大火)。焼失町数400町。死者10万人余。
  • 享保年間(一七一六〜一七三六) 火災。麹町から発火して品川沖へまで焼け抜ける。
  • 明和九(一七七二)二月二九日 明和の大火。目黒行人坂大円寺からおこる。死者は1万5千人、行方不明者は4千人を超えた。
  • 大正一二(一九二三)九月一日〜三日 関東震災に踵をついでおこった大火災。/焼失21万余(広辞苑)。/136件の火災が発生、住家焼失 44万7128戸。震源に近かった横浜市では火災によって外国領事館の全てが焼失,工場・会社事務所も90%近くが焼失。(Wikipedia)。
  • 昭和七(一九三二)一二月一六日 白木屋大火が発生。4階から8階までを全焼して午後12時過ぎに鎮火。逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し500人余りが重軽傷を負うなどして、日本初の高層建築物火災となった。
  • 昭和八(一九三三)一月 寺田「火事教育」
  • 昭和九(一九三四)三月二十一日夕から翌朝へかけて 函館市大火。二万数千戸を焼きはらい二〇〇〇人に近い死者を生じた(本文)。/死者2,166名、焼損棟数11,105棟を数える大惨事となった(Wikipedia)。
  • 昭和九(一九三四)四月五日 午前十時十六分、函館西部から発火して七十一戸二十九棟を焼き、その際、消防手一名焼死、数名負傷、罹災者四〇〇名中、先日の大火で焼け出され避難中の再罹災者七〇名。
  • 昭和九(一九三四)五月 寺田「函館の大火について」『中央公論』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • -----------------------------------
  • 火事教育
  • -----------------------------------
  • 函館の大火について
  • -----------------------------------
  • 由井正雪 ゆい しょうせつ 1605-1651 (姓は由比とも書く)江戸初期の軍学者。慶安事件の首謀者。駿河由比の紺屋弥右衛門の子というが、諸説ある。楠木流の軍学を学び、江戸で講じ、門人5000人。丸橋忠弥と結んで倒幕を計るが、事前に発覚し、自刃。事件の顛末は歌舞伎・講談などに脚色。
  • 真秀 しんしゅう 明和九年(一七七二)の行人坂の火事のさい、目黒の一地点に放火したとされる乞食坊主。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • -----------------------------------
  • 火事教育
  • -----------------------------------
  • 『アラビアン・ナイト』 Arabian Nights (原題「千夜一夜物語」の英語名)インド・イラン起源や中東諸地方の物語集。シェヘラザードという才女が面白い物語を千一夜にわたって続けるという形式をとる。初めパフラヴィー語で書かれ、8世紀後半頃アラビア語に訳され、以後増補。著者不明。アラビア夜話。千一夜物語。
  • 『デカメロン』 Decameron(e) (「十日物語」の意)ボッカッチョの小説。1349〜51年頃の作。48年フィレンツェを襲ったペストの渦中に、高貴な身分の男女10人が郊外に集い、1日に一話ずつ、決まったテーマの話を10日間語り続けるという体裁。俗世に生きる人間の姿をありのままに肯定し、ダンテの「神曲」に比して「人曲」とも称される。
  • -----------------------------------
  • 函館の大火について
  • -----------------------------------
  • 『中央公論』 ちゅうおう こうろん 代表的な総合雑誌の一つ。1899年(明治32)「反省会雑誌」(87年創刊)を改題。滝田樗陰を編集者(のち主幹)として部数を伸ばし、文壇の登竜門、大正デモクラシー言論の中心舞台となる。1944年(昭和19)横浜事件にまきこまれて廃刊を命じられる。第二次大戦後、46年復刊。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • -----------------------------------
  • 火事教育
  • -----------------------------------
  • 旧臘 きゅうろう (「臘」は陰暦12月)(新年から見て)昨年の12月。客臘。
  • 司直 しちょく 法律によって事の曲直を裁く役人。裁判官。
  • 幅員 ふくいん (幅は「はば」、員は「まわり」の意)船や道・橋などの横の長さ。はば。
  • 隊伍 たいご (「隊」は2人以上、「伍」は5人以上の兵士の組)隊列の組。くみ。
  • 耳口
  • 聳動 しょうどう 恐れ動くこと。驚かし動かすこと。
  • ペチカ pechka 暖炉の一種。石・煉瓦・粘土などで造った壁面からの放射熱で暖房するもの。ペーチカ。
  • サモワール samovar ロシア特有の湯沸し器。中央の上下に通ずる管の中で木炭を焚いて周囲の湯を沸かす装置。今は多く電熱を用いる。
  • 赤露 せきろ (「赤色(共産主義)露西亜(ロシア)」の意)ソ連の、第二次大戦以前の俗称。
  • 数等 すうとう (1) 数段階。(2) (副詞的に)かなり。ずっと。はるかに。
  • 帝展 ていてん 帝国美術院の主催した展覧会。文部省主催の文展に代わって1919年(大正8)以来毎年開催。37年帝国芸術院の創設とともに文展(新文展)の名称に戻り、46年日展に改組。
  • -----------------------------------
  • 函館の大火について
  • -----------------------------------
  • 振袖火事 ふりそで かじ 「明暦の大火」の俗称。
  • 明暦の大火 めいれきの たいか 明暦3年正月18〜20日、江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払った大火事。焼失町数400町。死者10万人余。本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼に焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因といわれ、俗に振袖火事と称した。災後、本所に回向院を建てて死者の霊を祀った。
  • 関東大震災 かんとう だいしんさい 1923年(大正12)9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。
  • 警保局 けいほきょく 旧内務省の一局。全国の警察行政全般を指揮し、特に高等警察・特別高等警察に関する活動が顕著であった。
  • 電扇 でんせん 電気扇風機のこと。
  • 旋転 せんてん くるくるとめぐること。くるくるまわすこと。
  • 郭大 かくだい 拡大、廓大。
  • 地峡 ちきょう (isthmus)二つの陸地を結びつける、くびれて細くなっている陸地部。パナマ地峡・コリント地峡の類。地頸。
  • 究竟 きゅうきょう → くっきょう
  • 究竟 くっきょう (クキョウの促音化) (1) 物の究極に達したところ。つまるところ。結局。(2) (「屈強」とも書く)きわめて力の強いこと。堅固。(3) きわめて都合のよいこと。
  • 具足 ぐそく (1) 十分に備わっていること。揃っていること。
  • セリュローズ → セルロースか
  • セルロース cellulose グルコースが結合して生じた鎖状高分子化合物。植物の細胞壁および繊維の主要成分で、地球上最多の炭水化物。普通、綿やパルプから採取し、粉末または繊維状を呈する。熱および電気の不良導体。火薬・コロジオンなどの製造に用い、製紙材料・ニトロ‐セルロース・アセチル‐セルロース、その他人造絹糸原料として利用。繊維素。セルローズ。
  • 消口 けしくち 消火にとりかかる場所。
  • 天然痘 てんねんとう 痘瘡に同じ。
  • 痘瘡 とうそう (small-pox)痘瘡ウイルスによる感染症。気道粘膜から感染。高熱を発し、悪寒・頭痛・腰痛を伴い、解熱後、主として顔面に発疹を生じ、あとに痘痕を残す。感染性が強く、死亡率も高いが、種痘によって予防できる。1980年WHOが絶滅宣言を出した。疱瘡。天然痘。
  • 猖紅熱 → 猩紅熱か
  • 猩紅熱 しょうこうねつ A群溶血性連鎖球菌による発疹性感染症。小児に多い。急に発熱し、頭痛・咽頭痛・四肢痛・悪寒が起こり、顔面紅潮し、全身皮膚に紅色小丘疹が出る。発疹は3〜5日で消退、後に落屑を見る。
  • 伝染病研究所 でんせんびょう けんきゅうじょ 感染症(伝染病)の検索・予防・治療の研究を目的とする研究所。1892年(明治25)発足。99年国立の機関、1916年東京帝国大学の一機関となる。略称、伝研。67年、感染症のみならず一般の重要疾患の基礎研究を目的として東京大学医科学研究所と改称。東京都港区にある。
  • 衛生試験所 えいせい しけんじょ 都道府県および政令指定都市に置かれて、細菌・ウイルス・食品・飲料水・医薬品・医療用品・家庭用品などの衛生学的検査を行い、その他衛生行政の科学的裏づけにつとめる施設。衛生研究所。
  • 栄養研究所 えいようけんきゅうじょ 国立健康栄養研究所。栄養と健康に関する調査研究を行っている日本の研究機関。2001年より独立行政法人となった。1919(大正8)内務省の栄養研究所として設立。前身は、1914(大正3)に佐伯矩によって設立された世界初の栄養学研究機関である営養研究所。
  • 大学地震研究所 → 東京大学地震研究所
  • 東京大学地震研究所 とうきょうだいがく じしんけんきゅうじょ 略称:ERI。東京大学の附置研究所(附置全国共同利用研究所)。1925年に設立。地震学、火山学などを中心に幅広い分野の研究が行われている。
  • 中央気象台 ちゅうおう きしょうだい 気象庁の前身に当たる官庁。1875年(明治8)東京気象台として創立、87年中央気象台と改称。
  • オーロラ aurora (ローマ神話の曙の女神アウロラから)地球の南北極に近い地方でしばしば100キロメートル以上の高さの空中に現れる美しい薄光。不定形状・幕状など数種あり、普通、白色または赤緑色を呈する。主として太陽から来る帯電微粒子に起因し、磁気嵐に付随することが多い。極光。
  • 不連続線 ふれんぞくせん 〔気〕前線に同じ。
  • 前線 ぜんせん (2) 〔気〕前線面と地表面との交線。また前線面を含めて前線と呼ぶこともあり、天気変化に重要な役割を果たす。寒冷前線・温暖前線・閉塞前線・停滞前線などがある。不連続線。フロント。
  • 灸治 きゅうじ 灸をすえて治療すること。
  • 焦眉の急 しょうびの きゅう さし迫った危難または急務。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)*フクシマ・ノートその3


 前回の続き。復興構想会議の議事録、第一回より。玄侑宗久「大袈裟に言いますと、今の状態は出エジプトに近い」「下手をしますと、ユダヤ人状態になりながら、今浜通りの人々は、分散居住している」

 たしかにユダヤ人のディアスポラ(離散)が頭をよぎるけれども、それじゃあ、原爆を落とされた広島や長崎はどうかといえば、周知のように再生をはたして久しい。表面上は、広島や長崎県民であることの差別があるとは聞かないし、広島・長崎産食品だからといってとくに忌避されることもない。当時、どのくらい放射能除染がおこなわれたかあやしいが、現在、広島には285万、長崎には144万の県民が住んでおり、青森(139万)・山形(116万)・岩手(112万)・秋田(109万)よりも多い。平均寿命も全国とちがわない。両県への修学旅行や観光旅行がとりわけ問題にされることもない。
 
 唯一、原爆被災したはずの国が、なぜ世界に名だたる長寿国であり健康国なのか。なにか、数字上のトリックでもあるのだろうか。

 十七日(土)雨。県立図にてDVD観賞。NHKスペシャル『人間は何を食べてきたか』第五巻「海と川の狩人たち・海編」。インドネシア・ロンバタ島、ラマレラ村のクジラ捕り。南太平洋・マンドック島、海人ムトゥ。前者は若い女性の額にいれずみ。後者は男性のほおに二本線のいれずみ。TV放映は1992年。付録の座談会は2002年の収録。  




*次週予告


第四巻 第三六号 
台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦


第四巻 第三六号は、
二〇一二年三月三一日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三五号
火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
発行:二〇一二年三月二四日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。




※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
※ タイトルをクリックすると、月末週無料号(赤で号数表示) はダウンロードを開始、有料号および1MB以上の無料号はダウンロードサイトへジャンプします。