寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」より。


もくじ 
石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
石油ランプ
流言蜚語
時事雑感

オリジナル版
石油ランプ
流言蜚語
時事雑感

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


石油ランプ
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card43253.html

流言蜚語
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card43260.html

時事雑感
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2458.html

NDC 分類:368(社会 / 社会病理)
http://yozora.kazumi386.org/3/6/ndc368.html
NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





石油ランプ

寺田寅彦


(この一編を書いたのは八月の末であった。九月一日の朝、最後の筆を加えた後に、これを状袋じょうぶくろに入れて、本誌に送るつもりで服のかくしに入れて外出した。途中であの地震に会って急いで帰ったので、とうとう出さずにしまっておいた。今取り出して読んでみると、今度の震災の予感とでもいったようなものが書いてある。それでわざとそのままに本誌にのせることにした。

 生活上のある必要から、近い田舎のさびしいところに小さなかくを設けた。おおかたは休日などの朝出かけて行って、夕方はもう東京の家へ帰ってくることにしてある。しかしどうかすると、一晩くらいそこで泊まるような必要がおこるかもしれない。そうすると夜の灯火とうかの用意がいる。
 電灯はその村に来ているが、わたしの家は民家とかなりかけ離れたところに孤立しているから、架線工事がすこし面倒であるのみならず、月に一度か二度くらいしか用のないのに、わざわざそれだけの手数と費用をかけるほどのこともない。やはり石油ランプの方が便利である。
 それで家ができあがる少し前から、わたしはランプを売る店を注意してたずねていた。
 散歩のついでにときどき本郷神田かんだあたりのガラス屋などを聞いて歩いたが、どこの店にも持ちあわせなかった。それらの店の店員や主人は、「石油ランプはドーモ……」と、特に「は」の字にアクセントをおいて言って、当惑そうな、あるいは気の毒そうな表情をした。そばで聞いている小店員の中には顔を見合わせてニヤニヤ笑っているのもあった。おそらくこれらの店の人にとって、いまごろ石油ランプのことなどを顧客に聞かれるのは、とうの昔に死んだ祖父のことを、戸籍調べの巡査に聞かれるような気でもすることだろう。
 ある店屋の主人は、銀座の十一屋じゅういちやにでも行ったらあるかも居〔知〕れないといって注意してくれた。散歩のついでに行ってみると、なるほどあるにはあった。米国製でなかなか丈夫にできていて、ちょっとくらいほうり出しても壊れそうもない、またどんな強い風にも消えそうもない、実用的には申し分のなさそうな品である。それだけに、どうも座敷用または書卓用としては、あまりに殺風景なような気がした。
 これは台所用として、ともかくも一つ求めることにした。
 ロウソクにホヤをはめた燭台しょくだい手燭てしょくもあったが、これは明るさが不充分なばかりでなく、なんとなく一時のにあわせの灯火とうかだというような気がする。それにランプのほのおはどこかしっかりした底力を持っているのに反して、ロウソクのほのおはいわば根のない浮き草のようにはかない弱い感じがある。そのうえにだんだんに燃え縮まっていくという自覚は、なんとなくわたしを落ちつかせない。わたしは、ロウソクの光の下でおちついて仕事に没頭する気にはなれないように思う。
 しかし何かのばあいの臨時の用にもと思って、これも一つ買うことにはした。
 肝心の石油ランプはなかなか見つからなかった。粗末なのでよければ田舎へ行けばあるだろうとおもっていたが、いよいよあたってみると、都に近い田舎で電灯のないところは、いまどきもうどこにもなかった。したがってそういうさびしい村の雑貨店でも、神田本郷の店屋とまったく同様な反応しか得られなかった。
 だんだんに意外と当惑の心持ちが増すにつれてわたしは、東京というところは案外に不便なところだという気がしてきた。
 もし万一の自然の災害か、あるいは人間の故障、たとえば同盟どうめい罷業ひぎょうやなにかのために、電流の供給が中絶するようなばあいがおこったらどうだろうという気もした。そういうことは非常にまれな事とも思われなかった。一晩くらいならロウソクでにあわせるにしても、もし数日も続いたらだれもランプが欲しくなりはしないだろうか。
 これに限らず一体にわれわれは、平生あまりに現在の脆弱ぜいじゃくな文明的設備に信頼しすぎているような気がする。たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電流やガスの供給が絶たれて狼狽ろうばいすることはあっても、しばらくすれば忘れてしまう。そうしてもっとはなはだしい、もっと長続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にあることは考えない。
 人間はいつ死ぬかわからぬように、器械はいつ故障がおこるかわからない。ことに日本でできた品物にはごまかしが多いからなおさらである。
 ランプが見つからない不平から、ついこんなことまで考えたりした。
 そのうちに偶然ある人から、日本橋区のある町に石油ランプを売っている店があるということを教えられた。やっぱりないのではない、自分のさがし方が不充分なのであった。
 ちょうど忙しい時であったから、家族を見せにやった。
 その店はおろし屋で小売りはしないのであったが、しいて頼んで二つだけ売ってもらったそうである。どうやらランプの体裁だけはしている。しかし、非常に粗末な薄っぺらな品である。店屋の人自身が、これはほんのその時きりのものですから長持ちはしませんよといって断わっていたそうである。
 どうして、わざわざそんな一時かぎりの用にしか立たないランプを製造しているのか。そういう品物がどういう種類の需要者によって、どういう目的のために要求されているかということを聞きただしてみたいような気がした。なぜもう少し、しっかりした、役に立つものを作らないのか要求しないのか。
 この最後の疑問はしかし、おそらく現在のわが国の物質的のみならず精神的文化の種々の方面にあてはまるものかもしれない。このにあわせのランプは、ただそれの一つの象徴であるかもしれない。
 二つ買ってきたランプの一つは、石油を入れてみると底のハンダ付けの隙間すきまから油がしみ出して用をなさない。これでは一時の用にも立ちかねる。これはランプではない。つまりランプの外観だけを備えた玩具か標本にすぎない。
 ランプのしんは一でなくては売らないというので、一把百何十本買ってきた。おそらく生涯使っても使いきれまい。自分のうちでこれだけ充実した未来への準備は、ほかにはないだろうと思っている。しかし、ランプの方の保存期限が心の一本の寿命よりも短いのだとすると心細い。
 このランプにくらべてみると、実際、アメリカ出来の台所用ランプはよくできている。粗末なようでも、急所がしっかりしている。すべてが使用の目的を明確に眼前に置いて設計され、製造されている。これに反して日本出来のは見かけのニッケル鍍金めっきなどに無用な骨を折って、使用の方からは根本的な、油のもれないということの注意さえ忘れている。
 ただアメリカ製のこの文化的ランプには、少なくも自分にとっては、一つ欠けたものがある。それを何と名づけていいか、今、ちょっと適当な言葉がみつからない。しかしそれはただこのランプにかぎらず、近ごろの多くの文化的何々と称するものにも共通して欠けているある物である。
 それはいわゆる装飾でもない。
 何と言ったらいいか。たとえば書物のページの余白のようなものか。それとも人間のからだでいえば、たとえば――まあ「耳たぶ」か何かのようなものかもしれない。耳たぶは、あってもなくても、べつにさしつかえはない。しかし、なくてはやっぱりものたりない。

 その後、軽井沢に避暑している友人の手紙の中に、かのでランプを売っている店を見たといってわざわざ知らせてくれた。また、郷里へ注文して取りよせてやろうかといってくれる人もあった。しかしせっかく遠方から取りよせても、それがわたしの要求に応じるものでなかったら困ると思って、そのままにしてある。どうせ取りよせるなら、どこか、イギリスあたりの片田舎からでも取りよせたら、そうしたらあるいは、わたしの思っているようなものが得られそうな気がする。
 しかしそれも面倒めんどうである。結局わたしは、この油のもれる和製の文化的ランプをハンダづけでもして修繕しゅうぜんして、どうにかにあわせて、それで我慢がまんするほかはなさそうである。
(大正十三年(一九二四)一月『文化生活の基礎』



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



流言蜚語ひご

寺田寅彦


 長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく。そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花をガスの中で飛ばせる。すると、その火花のところではじまった燃焼が、次へ次へと伝播でんぱしていく。伝播の速度が急激に増加し、ついにいわゆる爆発の波となっておどろくべき速度で進行していく。これはよく知られたことである。
 ところが水素の混合の割合があまり少なすぎるか、あるいは多すぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼がおこらない。もっとも火花のすぐそばでは、火花のために化学作用がおこるが、そういう作用が四方へ伝播しないで、そこかぎりですんでしまう。
 流言蜚語ひごの伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式のうえから見ていくぶんか類似した点がある。
 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しないことはもちろんであるが、もしもそれを、つぎへつぎへと受けつぎ取りつぐべき媒質が存在しなければ「伝播」はおこらない。したがっていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場かぎりに立ち消えになってしまうことも明白である。
 それでもしある機会に、東京市中にある流言蜚語の現象がおこなわれたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。ことによると、その九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の源となりうべき小さな火花が、故意にも偶然にもいたるところに発生するということは、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ、流言は決して有効に成立し得ないのだから。
「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株おやじかぶの人のたとえば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化かえらないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が、いかに少数であるかということを示す証拠と見られても仕方がない。
 大地震、大火事の最中に、暴徒がおこって東京じゅうの井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。そのばあいに、市民の大多数が、仮につぎのようなことを考えてみたとしたら、どうだろう。
 たとえば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだときに、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時にはたしてどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、もちろんまず毒薬の種類を仮定したうえで、その極量きょくりょうを推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それがいかに多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は地震前からかなり大きな毒薬のストックを持っていたと考えなければならない。そういうことはありえないことではないかもしれないが、すこしおかしいことである。
 仮にそれだけの用意があったと仮定したところで、それから先がなかなかたいへんである。何百人、あるいは何千人の暴徒にいちいち部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さて、それができたとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出かけたうえで、自分の受け持ち方面の井戸の在所ありかをさがして歩かなければならない。井戸を見つけて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし、有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積もってそのうえで投入の分量を加減かげんしなければならない。そうして、それを投入したうえで、よく溶解し混和するようにかきまぜなければならない。考えてみるとこれはなかなかたいへんな仕事である。
 こんなことを考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々めいめいの自宅の井戸についてのおそろしさはいくらか減じはしないだろうか。
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んで歩くために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並のきなみに破裂しでもするような過度の恐慌をひきおこさなくてもすむことである。
 もっとも、非常な天災などのばあいにそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味でのきた科学的常識が欠乏しているということを示すものではあるまいか。
 科学的常識というのは、なにも天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンのいろいろな種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もうすこし手近かなところにきて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
 もちろん、常識の判断はあてにはならないことが多い。科学的常識はなおさらである。しかし適当な科学的常識は、事にのぞんでわれわれに「科学的な省察せいさつの機会と余裕」をあたえる。そういう省察のおこなわれるところには、いわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるようなことがあっても、少なくも文化的市民としてのはなはだしい恥辱ちじょくをさらすことなくてみはしないかと思われるのである。
(大正十三年(一九二四)九月『東京日日新聞』



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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時事雑感

寺田寅彦

   煙突えんとつ


 ある紡績会社の労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突えんとつの頂上に登って赤旗をひるがえし演説をしたのみならず、頂上に百何十時間すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽車で見物にくる人さえできたので、おしまいにはそれを相手の屋台店が出たりした。これに関する新聞記事はおりからの陸軍大演習のそれと相交錯して天下の耳目をそばだたせた。宗教も道徳も哲学も科学も法律もみんなただ、茫然ぼうぜんと口をあいてこの煙突えんとつの空の一個の人影ひとかげをながめるのであった。
 争議が解決して煙突えんとつ男がふたたび地上におりた翌日の朝、わたしはいつも行くある研究所へ行った。ちょうど若い軍人たちがおおぜいで見学にきていたが、四階屋上のバルコニーから下を見おろしている同僚の一群を、下の連中が見上げながら大声で何かからかっている。「おうい、もう争議は解決したぞ、おりろおりろ」というのが聞こえた。その後ある大学の運動会では、余興の作りものの中にやはりこの煙突えんとつ男のおどけた人形が喝采かっさいを博した。
 こうして、この肺病の一労働青年は日本じゅうの人気男となり、その波動はまたおそらく世界じゅうの新聞に伝わったのであろう。
 この男のしたことが何ゆえこれほどに人の心を動かしたかと考えてみた。新聞というものの勢力のせいもあるが、一つにはその所業がかなり独創的であって相手の伝統的対策を少なくも一時とまどいをさせた、そのオリジナリティに対する賛美に似たあるものと、もう一つには、その独創的計画をどこまでも遂行しようという耐久力の強さ、しかも病弱の体躯たいくを寒い上空の風雨にさらし、おまけに渦巻うずま煤煙ばいえんの余波にむせびながら、飢渇きかつや甘言の誘惑と戦っておしまいまで決意をひるがえさなかったその強さに対する嘆賞に似たあるものとが、おのずから多くの人の心に共通に感ぜられたからであろうと思われる。しかし一方ではまた彼が、不治の病気を自覚して死に所を求めていたにすぎないのだと言い、あるいは一種の気ちがいの所業だとして簡単に解釈をつけ、そうしてこの所業の価値を安くもうとする人もあるであろう。そういう見方にも半面の真理はあるかもしれない。そういう批判などはどうでもいいが、わたしはこの煙突えんとつ男の新聞記事を読みながら、ふと、「これが紡績会社の労働者でなくて、自分の研究室の一員であったとしたら」と考えてみた。ともかくもだれのまねでもない、そうしてはなはだ合目的なこの一つの所行を、自分の頭で考えついて、そうしてあらゆる困難と戦ってそれをおしまいまで遂行することのできる人間が、もし充分な素養と資料とをあたえられて、そうして自由にある専門の科学研究に従事することができたら、どんな立派な仕事ができるかもしれないという気がした。もちろん、ちょっとそういう気がしただけである。
 日本人には独創力がないという。また耐久力がないという。これはいかなる程度までの統計的事実であるかがわかりかねる。しかし少なくとも学術研究の方面で従来、この二つのものがあまり尊重されなかったことだけは疑いもない事実である。従来、だれもあまり問題にしなかったような題目をつかまえ、あるいは従来おこなわれなかった毛色の変わった研究方法を遂行しようとするものは、たいてい、だれからも相手にされないか、陰であるいはまともにバカにされるか、あるいは正面の壇上からしかられるにきまっている。そうしてそれにかまわず、いつまでもそれに執着していればおしまいには気ちがいあつかいにされ、その暗示に負けてほんとうの気ちがいになるか、あるいはどこからかの権威の力でさしとめをくい、手も足も出なくなってしまうということになっているようである。もっとも多くの場合に、このような独創力と耐久力を併有しているような種類の人間は、同時にその性状が奇矯きょう頑強がんきょうであるばあいが多いから、学者といっても同じく人間であるところの同学や先輩の感情を害することが多いという事実も争われないのである。そういう風変わりな学者の逆境に沈むのは、まことにやむをえないことかもしれない。そうして、またそういう独創的な仕事の常として「きずだらけの玉」といったようなものが多いから、アカデミックな立場から批評してそのきずだけを指摘すれば、これを葬り去るのは赤子の手をねじあげるよりも容易である。そうしてみがけば輝くべき天下の美玉が塵塚ちりづかに埋められるのである。これも人間的自然現象の一つで、どうにもならないかもしれない。しかしそういう場合に、もし感情は感情として、ほんとうの学問のために冷静な判断を下し、泥土でいどによごれた玉を認めることができたら、世界の、あるいはわが国の学問ももう少しどうにかなるかもしれない。
 日本人の仕事は、それがある適当な条件をそなえたパッスを持つものでないかぎり、容易には海外の学界に認められにくい。そうして一度海外で認められて逆輸入されるまでは、なかなか日本の学界では認められないことになっている。海外の学界でもやはり国際的・封建的の感情があり、またいろいろな学閥があるので、ことに東洋人の独自の研究などはなかなか目をつけないのであるが、しかし、たとえ東洋人のでもそれがほんとうにいいものでさえあれば、ついにはそれを認めるということにならないほどに世界の学界は盲目ではないから、認められなくとも不平などおこさないで、きげんよく根気よく研究をつづけていけば、結局は立派なものになりうるであろう。多くの人からあんなつまらないことといわれるようなことがらでも深く深く研究していけば、案外、非常に重大で有益な結果が掘り出されうるものである。自然界は古いも新しいもなく、つまらぬものもつまるものもないのであって、それを研究する人の考えと方法が新しいか古いかなどが問題になるのである。最新型の器械を使って、最近流行の問題を流行の方法で研究するのがはたして新しいのか、古い問題を古い器械を使って、しかし新しい独自の見地から伝統を離れた方法で追究するのがはたして古いか、わからないのである。
 今年、物理学上の功績によってノーベル賞をもらったインド人ラマンの経歴については自分はあまり確かなことを知らないが、人の話によると、インドの大学を卒業してから衣食のために銀行員のしたっぱかなんかを勤めながら、楽しみにケンブリッジのマセマチカル・トライポスの問題などをいて英国の学者に見てもらったりしていた。そんなことから見いだされて、カルカッタ大学の一員になったのが踏み出しだそうである。はじめのうちは振動の問題や海の色の問題や、ともかくも見たところあまり先端的でない、新しがり屋にいわせれば、いわゆる古色蒼然そうぜんたる問題を、自分だけはおもしろそうにコツコツとやっていた。しかし彼の古いティンダル効果の研究は、いつのまにか現在物理学の前線へ向かってひそかにからめ手から近づきつつあった。研究資金にあまり恵まれなかった彼は、「分光器が一つあるといいがなあ」と嘆息していた。そうして、やっと分光器が手に入って実験をはじめるとまもなく一つの「発見」をひろいあげた。それは今日、彼の名によって「ラマン効果」とよばれるものである。田舎いなかから出てきたばかりの田吾作たごさくが、一躍して帝都の檜舞台ひのきぶたいの立て役者になったようなものである。そうして物理学者としての最高の栄冠が、自然にこの東洋学者の頭上をかざることになってしまった。思うにこの人もやはり、すこし変わった人である。多数の人の血眼ちまなこになっていきせき追っかけるいわゆる先端的前線などは、てんでかまわないような顔をして、のんきそうに骨董こっとういじりをしているように見えていた。そうして思いもかけぬ間道をさきくぐりして突然、前哨ぜんしょうの面前に顔をつきだして笑っているようなところがある。
 もっとも、ラマンのまねをするつもりで、同じように古くさい問題ばかりコツコツと研究をしていれば、ついにはラマンと同じように新しい発見に到達するかといえば、そういうわけにはいかない。これもたしかである。ただ、たまにはラマンのような例もあるから、われわれはそういう毛色の変わった学者たちも気長い目でり立てたいと思うのである。
 この世界的物理学者の話と、川崎かわさきの煙突男の話とにはなんら直接の関係はない。前者は賞をもらったが、後者は家宅侵入罪その他で告発されるという話である。これはたいへんな相違である。ただ二人の似ているのは人まねでないということと、根気のいいという点だけである。
 それでもし煙突えんとつ男の所業のまねをしたら、そのまねということ自身が人のまねをしない煙突男のまねではなくなるということになる。のみならず、昔話のまねじじいと同様によほどひどい目にあうのが落ちであろう。
 オリジナリティのないと称せらるる国の昔話に、人まねをいましめる説話の多いのも興味のあることである。
 それから、また労働争議というはなはだオリジナルでない運動の中から、こういう個性的にオリジナルなものが出現して喝采かっさいを博したのもまた一つの不思議な現象といわなければならない。

   金曜日


 総理大臣が乱暴な若者に狙撃そげきされた。それが金曜日であった。前にある首相が同じ駅でされたのが金曜日、その以前に某が殺されたのも金曜日であった。不思議な暗合であるというような話がもてはやされたようである。実際そういわれれば、だれでもちょっと不思議な気がしないわけにはいかないであろう。
 ある特定のことがらが三回、相互に無関係におこるとする。そうしてそのおのおのが七曜日のいずれにおこる確率も均等であると仮定すれば、三度続けて金曜日におこるという確率は七分の一の三乗すなわち三四三分の一である。しかしこれはまた、木曜が三度くる確率とも同じであり、また任意の他の組み合わせ、たとえば「木金土」「月水金」……となるのとも同じである。しかしもし、これがたとえば木金土という組み合わせでおこったとしたら、だれも不思議ともなんとも思わないであろう。それだのに、同じめずらしさの「金金金」を人はなにゆえ不思議がるであろうか。
 三四三のばあいの中で「同じ」名前の三つ続くばあいは七種、これに対して「三つとも同じではない」ばあいが三三六種、したがって二つの場合の種別数の比は一対四十八である。人々の不思議はこの対比からくることはあきらかである。
 三つ同じという場合だけを特に取り出して一方にまつりあげ、同じでないというのを十ひとからげに安くんで同じところへ押しこんでしまうということは、抽象的な立場からは無意味であるにかかわらず、人間的な立場からはいろいろの深い意味があるように思われる。これを少しつっこんで考えていくと、ずいぶん重大な問題にふれてくるようである。しかし今、それをここで取りあつかおうというのではない。
 現在の「金曜三つ」のばあいでも、人々は通例同様の事件でしかも金曜以外の日におこったのは、はじめから捨ててしまって問題にしないのである。そうして金曜におこったのだけを拾い出して並べて不思議がるのが通例である。この点が科学者の目で見たときに、すこしおかしく思われるのである。今度のばあいが偶然ノトリアスに有名な「金曜」すなわち耶蘇やその「金曜」であったので、それで、「曜」が問題になり、前の首相のばあいをあたってみると、それがちょうどまた金曜であった。そうして過去の中からもう一つの「金曜」が拾い出されたというのが、実際の過程であろう。
 これと似通にかよっていて、しかも本質的にだいぶ違う「金曜日」の例が一つある。
 わたしは過去十何年の間、ほとんど毎週のように金曜日には、深川ふかがわの某研究所にかよってきた。電車がずいぶん長くかかるのに、電車をおりてからの道がかなりあって、しかもそれがあまり感じのよくない道路である。それで特に雨の降る日などは、この金曜日が一倍苦になるのであった。ところが妙なことには、どうかして金曜日に雨のふるまわりがくると、くる週もくる週も金曜日というと雨が降る。前日まではいい天気だと思うていると、金曜の朝はもう降っているか、さもなくば行きには晴れであったのが帰りが雨になる。こういうことをしばしば感じるのである。そうかと思うとまた天気のいい金曜が続きだすと、それが幾週となく継続することもあるように思われた。もちろん他の週日に降る降らぬはまったく度外視どがいししての話である。
 これもやはり、他の多くのばあいと同様に、自分の注目し期待する特定のばあいの記憶だけが蓄積され、これにあたらない場合はぜんぜん忘れられるか、あるいは採点を低くして値ぶみされるためかもしれない。しかしかならずしもそういう心理的の事実のみではなくて、実際に科学的な説明がいくぶんかつけ得られるかもしれない。それは気圧変化にほぼ一週間に近い周期あるいは擬似的周期の現われることがしばしばあるからである。
 朝鮮で三寒四温という言葉があるそうで、これはまさに七日の周期を暗示する。自分が先年、東京における冬季の日々の気圧を曲線にして見たときに、著しい七日ぐらいの周期を見たことがある。これについてはすでに専門家のまじめな研究もあるようであるから、ときどき同じ週日に同じ天気がめぐってきても、これはそれほど不思議ではないわけである。
 深川の研究所が市の西郊に移転した。この新築へ初めて出かけた金曜日が雨、それから四週間か五週間つづけて金曜は天気が悪かった。耶蘇やそのたたりが一九三〇年後の東洋の田舎いなかまで追究しているのかと冗談を言ったりした。ところがやっと天気のいい金曜のまわりがやってきて、それから数週間はずっとつづいた。そうしたある美しい金曜日の昼食時に、美しい日光のさした二階食堂でその朝突発した首相遭難のことを聞き知った。それからもいまだに好晴の金曜がつづいている。昼食後に研究所の屋上へ上がって武蔵野むさしのの秋をながめながら、それにしても、もういっぺん金曜日の不思議をよく考えなおしてみなければならぬと思うのである。

   地震国防


 伊豆いず地方が強震におそわれた。四日目に日帰りで三島町しままちまで見学に出かけた。三島駅でおりて見たが、かわらがすこし落ちた家があるくらいでたいした損害はないように見えた。平和な小春日がのどかに野を照らしていた。三島町へ入ってもいっこう強震のあったらしい様子がないので不審に思っていると、突然に倒壊家屋の一群にぶつかってなるほどと合点がてんがいった。町の地図を三十銭で買って、赤青の鉛筆でたおれ屋と安全な家との分布をしるして歩いてみた。がんじょうそうな家がクチャクチャにつぶれている隣に元来のボロ家が平気でいたりする。そうかと思うとボロ家がつぶれて、丈夫じょうぶそうな家がちゃんとしているという当然すぎるような例もある。つぶれ家はだいたいヘビのようにうねった線上にあたる区域に限られているように見えた。地震のれ目か、昔の川床かわどこか、もっとよく調べてみなければたしかなことはわからない。線にあたった人はふしあわせというほかはない。科学も今のところそれ以上の説明はできない。
 震央に近い町村の被害は、なかなか三島の比ではないらしい。災害地の人々を思うときに明日あすはたが身の上ということに考えおよばないではいられない。
 軍縮問題が一時、国内の耳目を聳動しょうどうした。問題はいつに国防の充実いかんにかかっている。陸海軍当局者が仮想敵国の襲来を予想して憂慮するのももっともなことである。これと同じように平生、地震というものの災害を調べているものの目から見ると、この恐るべき強敵に対する国防のあまりに手薄すぎるのが心配にならないわけにはいかない。戦争のほうは会議でいくらか延期されるかもしれないが、地震とは相談ができない。
 大正十二年(一九二三)の大震災は、帝都と関東地方にかぎられていた。今度のは箱根はこねから伊豆いずへかけての一帯の地にかぎられている。いつでもこの程度ですむかというと、そうはかぎらないようである。安政元年(一八五四)十一月四日、五日、六日にわたる地震には東海とうかい東山とうさん北陸ほくりく山陽さんよう山陰さんいん南海なんかい西海さいかい諸道しょどうことごとく震動し、災害地帯はあるいは続き、あるいはえてはまた続いてこれらの諸道に分布し、いたるところの沿岸にはおそろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数百、家屋の損失数万をもって数えられた。これとよく似たのが宝永四年(一七〇七)にもあった。こういう大規模の大地震にくらべると、先年の関東地震などはむしろ局部的なものともいえる。今後、いつかまたこの大規模地震がきたとする。そうして東京・横浜よこはま沼津ぬまづ静岡しずおか浜松はままつ名古屋なごや大阪おおさか神戸こうべ岡山おかやま広島ひろしまから福岡ふくおかへんまで一度に襲われたら、そのときはいったいわが日本の国はどういうことになるであろう。そういうことがないとは何人も保証できない。宝永・安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが、つぎの場合にはそうはいかないことは明らかである。昔の日本はサンゴかポリポクラゲのような群生体で、半分死んでも半分は生きていられた。今の日本は有機的の個体である。三分の一死んでも全体が死ぬであろう。
 このおそろしい強敵に備える軍備はどれだけあるか。政府がこれに対してどれだけの予算を組んでいるかと人に聞いてみてもよくわからない。ただ、きわめて少数な学者たちが熱心に地震の現象とその生因ならびにこれによる災害防止の研究に従事している。そうしてじつに僅少きんしょうな研究費をあたえられて、それでおどろくべき能率をあげているようである。おそらくは戦闘艦の巨砲の一発の価、陸軍兵員の一日分のたくあんの代金にもたりないくらいの金を使って懸命に研究し、そうして世界的に立派な結果を出しているようである。そうして世間の人はもちろん、政府のお役人たちもそれについてはなんにも知らない。
 今度の伊豆いず地震じしんなど、地震現象の機構の根本的な研究にもっとも有用な資料を多分に供給するものであろうが、学者の熱心がいかに強くても研究資金がとぼしいため、思う研究の万分の一もできないであろうから、おそらくこの貴重な機会はまた、いつものように大部分利用されずに逃げてしまうであろう。
 アリの巣を突きくずすと大騒ぎがはじまる。しばらくすると復興事業がはじまって、いつのまにかもとのように立派な都市ができる。もういっぺん突きくずしてもまた同様である。アリにはそうするよりほかに道がないであろう。
 人間も、何度同じ災害にあっても決して利口りこうにならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人とくらべると、少なくも火事に対してはむしろ、今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚をくりかえしているのである。
 昔の為政者の中には、まじめに百年後のことを心配したものもあったようである。そういう時代に、もし地震学が現在の程度ぐらいまで進んでいたとしたら、その子孫たる現在のわれわれは地震に対してもうすこし安全であったであろう。今の世で百年後の心配をするものがあるとしたら、おそらくは地震学者ぐらいのものであろう。国民自身も今のようなスピード時代ではとうてい百年後の子孫の安否まで考えるひまがなさそうである。しかしそのいわゆる「百年後」の期限が「いつからの百年」であるか、ことによるともう三年、二年、一年あるいは数日、数時間の後にその「百年目」がせまっていないとは誰が保証できるであろう。
 昔シナに妙な苦労性の男がいて、天が落ちてくると言ってたいそう心配し、とうとう神経衰弱になったとかいう話を聞いた。この話はことによると、ちょうど自分のような人間の悪口をいうために作られたかもしれない。この話をして笑う人の真意は、天が落ちないというのではなくて、天は落ちるかもしれないが、しかし「いつ」かがわからないからというのであろう。
 三島の町を歩いていたら、向こうから兵隊さんが二、三人やってきた。今はじめてこの町へ入ってきて、そうしてはじめてつぶれ家のある地帯にさしかかったところであった。その中の一人が「おもしろいな。ウム、こりゃあ、おもしろいな」と言ってしきりに感心していた。この「おもしろいな」というのは決して悪意に解釈してはならないと思った。この「おもしろいな」が数千年の間にわれらの祖先が受けてきた試練の総勘定であるかもしれない。そのおかげで帝都の復興が立派にできて、そうして七年後の今日における円タクの洪水こうずい、ジャズ、レビューのあらしがおこったのかもしれない。
 三島の町の復旧工事の早いのにもおどろいた。この様子では半月もたった後にきて見たら、もう災害の痕跡こんせきはきれいに消えているのではないかという気もした。もっと南のほうの損害のひどかった町村ではおそらくそう急には回復がむつかしいであろうが。
 三島神社の近くで、だいぶゆすぶられたらしい小さなシナ料理店から強大な蓄音機演奏の音波の流れ出すのが聞こえた。レコードは浅草あさくさの盛り場の光景を描いた「音画おんが」らしい、コルネット、クラリネットのジンタ音楽にまじって花屋敷はなやしきを案内する声が陽気にきこえていた。警備の巡査、兵士、それから新聞社、保険会社、宗教団体などの慰問隊の自動車、それから、なんの目的とも知れず流れ込むいろいろの人の行きかいを、美しい小春日がらし出して何かお祭りでもあるのかという気もするのであった。今度の地震では近い所の都市がさいわいに無難であったので、救護も比較的迅速に行き届くであろう。しかし、もしや宝永・安政タイプの大規模地震が主要の大都市をひとなでになぎたおす日がきたら、われらの愛する日本の国はどうなるか。小春の日光はおそらくこれほどうららかには国土蒼生そうせいらさないであろう。軍縮国防で十に対する六か七かが大問題であったのに、地震国防は事実上ゼロである。そうして為政者の間ではだれもこれを問題にする人がない。戦争はしたくなければしなくてもすむかもしれないが、地震はよしてくれといっても待ってはくれない。地震学者だけが口をっぱくして説いてみても、救世軍の太鼓ほどの反響もない。そうして恐ろしい最後の審判の日はジリジリと近づくのである。
 帰りの汽車で夕日の富士をあおいだ。富士の噴火は近いところで一五一一、一五六〇、一七〇〇から八、最後に一七九二年にあった。今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい。しかし十六世紀にも十八世紀にも活動したものが二十世紀の千九百何十年かにまた活動をはじめないと保証しうる学者もないであろう。こんなことを考えながら、うとうとしているうちに日が暮れた。川崎かわさき駅を通るときに、ふと先日の「煙突えんとつ男」を思い出した。そうしてあの男が十一月二十四日の午前四時までまだ煙突えんとつの上にとどまっていて、そうしてあの地震に大きくゆられたのであったら、彼はおりたであろうか、おりなかったであろうか。そんなことも考えてみるのであった。
 自分もどこかの煙突えんとつの上に登って地震国難来を絶叫し、地震研究資金のはしたぜに募集でもしたいような気がするが、さてだれもとうてい相手にしてくれそうもない。政治家も実業家も民衆も、十年後の日本のことでさえ問題にしてくれない。天下の奇人で金をたくさん持っていて、そうして百年後の日本を思う人でもさがして歩くほかはない。
 汽車が東京へ入って高架線にかかると、美しい光の海が眼下に波立なみだっている。七年前のすさまじい焼け野原も「百年後」のおそろしい破壊の荒野も知らず顔に、昭和五年(一九三〇)の今日の夜の都を享楽しているのであった。
 五月に入ってから、防火演習や防空演習などがにぎにぎしくおこなわれる。結構けっこうなことであるが、火事よりも空軍よりも数百層倍おそろしいはずの未来の全日本的地震、五、六大都市をひとなぎにするかもしれない大規模地震に対する防備の予行演習をやるようなうわさはさっぱり聞かない。おろかなるわれら杞人きひと後裔こうえいから見れば、ひそかに垣根かきねの外に忍びよるトラや獅子の大群を忘れて、アブラムシやネズミを追いかけまわし、ハタキやすりこぎを振りまわして空騒からさわぎをやっているような気がするかもしれない。これが杞人のうれいである。
(昭和六年(一九三一)一月、『中央公論』



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
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石油ランプ

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)小さな隠《かく》れ家《が》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ランプの心《しん》は一|把《わ》でなくては売らない

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
-------------------------------------------------------

[#ここから2字下げ]
(この一篇を書いたのは八月の末であった。九月一日の朝、最後の筆を加えた後に、これを状袋に入れて、本誌に送るつもりで服のかくしに入れて外出した。途中であの地震に会って急いで帰ったので、とうとう出さずにしまっておいた。今取出して読んでみると、今度の震災の予感とでも云ったようなものが書いてある。それでわざとそのままに本誌にのせる事にした。)
[#ここで字下げ終わり]

 生活上のある必要から、近い田舎の淋しい処に小さな隠《かく》れ家《が》を設けた。大方は休日などの朝出かけて行って、夕方はもう東京の家へ帰って来る事にしてある。しかしどうかすると一晩くらいそこで泊るような必要が起るかもしれない。そうすると夜の燈火の用意が要る。
 電燈はその村に来ているが、私の家は民家とかなりかけ離れた処に孤立しているから、架線工事が少し面倒であるのみならず、月に一度か二度くらいしか用のないのに、わざわざそれだけの手数と費用をかけるほどの事もない。やはり石油ランプの方が便利である。
 それで家が出来上がる少し前から、私はランプを売る店を注意して尋ねていた。
 散歩のついでに時々本郷神田辺のガラス屋などを聞いて歩いたが、どこの店にも持合わせなかった。それらの店の店員や主人は「石油ランプはドーモ……」と、特に「は」の字にアクセントをおいて云って、当惑そうな、あるいは気の毒そうな表情をした。傍で聞いている小店員の中には顔を見合せてニヤニヤ笑っているのもあった。おそらくこれらの店の人にとって、今頃石油ランプの事などを顧客に聞かれるのは、とうの昔に死んだ祖父の事を、戸籍調べの巡査に聞かれるような気でもする事だろう。
 ある店屋の主人は、銀座の十一屋《じゅういちや》にでも行ったらあるかも居〔知〕れないと云って注意してくれた。散歩のついでに行って見ると、なるほどあるにはあった。米国製でなかなか丈夫に出来ていて、ちょっとくらい投《ほう》り出しても壊れそうもない、またどんな強い風にも消えそうもない、実用的には申し分のなさそうな品である。それだけに、どうも座敷用または書卓用としては、あまりに殺風景なような気がした。
 これは台所用としてともかくも一つ求める事にした。
 蝋燭《ろうそく》にホヤをはめた燭台《しょくだい》や手燭《てしょく》もあったが、これは明るさが不充分なばかりでなく、何となく一時の間に合せの燈火だというような気がする。それにランプの焔はどこかしっかりした底力をもっているのに反して、蝋燭の焔は云わば根のない浮草のように果敢《はか》ない弱い感じがある。その上にだんだんに燃え縮まって行くという自覚は何となく私を落着かせない。私は蝋燭の光の下で落着いて仕事に没頭する気にはなれないように思う。
 しかし何かの場合の臨時の用にもと思ってこれも一つ買う事にはした。
 肝心の石油ランプはなかなか見付からなかった。粗末なのでよければ田舎へ行けばあるだろうとおもっていたが、いよいよあたって見ると、都に近い田舎で電燈のない処は今時もうどこにもなかった。従ってそういう淋しい村の雑貨店でも、神田本郷の店屋と全く同様な反応しか得られなかった。
 だんだんに意外と当惑の心持が増すにつれて私は、東京という処は案外に不便な処だという気がして来た。
 もし万一の自然の災害か、あるいは人間の故障、例えば同盟罷業《どうめいひぎょう》やなにかのために、電流の供給が中絶するような場合が起ったらどうだろうという気もした。そういう事は非常に稀な事とも思われなかった。一晩くらいなら蝋燭で間に合せるにしても、もし数日も続いたら誰もランプが欲しくなりはしないだろうか。
 これに限らず一体に吾々は平生あまりに現在の脆弱《ぜいじゃく》な文明的設備に信頼し過ぎているような気がする。たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電流や瓦斯《ガス》の供給が絶たれて狼狽する事はあっても、しばらくすれば忘れてしまう。そうしてもっと甚だしい、もっと永続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にある事は考えない。
 人間はいつ死ぬか分らぬように器械はいつ故障が起るか分らない。殊に日本で出来た品物には誤魔化《ごまか》しが多いから猶更である。
 ランプが見付からない不平から、ついこんな事まで考えたりした。
 そのうちに偶然ある人から日本橋区のある町に石油ランプを売っている店があるという事を教えられた。やっぱり無いのではない、自分の捜し方が不充分なのであった。
 丁度忙しい時であったから家族を見せに遣《や》った。
 その店は卸し屋で小売はしないのであったが、強いて頼んで二つだけ売ってもらったそうである。どうやらランプの体裁だけはしている。しかし非常に粗末な薄っぺらな品である。店屋の人自身がこれはほんのその時きりのものですから永持ちはしませんよと云って断っていたそうである。
 どうして、わざわざそんな一時限りの用にしか立たないランプを製造しているのか。そういう品物がどういう種類の需要者によって、どういう目的のために要求されているかという事を聞きただしてみたいような気がした。何故もう少し、しっかりした、役に立つものを作らないのか要求しないのか。
 この最後の疑問はしかしおそらく現在の我国の物質的のみならず精神的文化の種々の方面に当て嵌《は》まるものかもしれない。この間に合せのランプはただそれの一つの象徴であるかもしれない。
 二つ買って来たランプの一つは、石油を入れてみると底のハンダ付けの隙間から油が泌《し》み出して用をなさない。これでは一時の用にも立ちかねる。これはランプではない。つまりランプの外観だけを備えた玩具か標本に過ぎない。
 ランプの心《しん》は一|把《わ》でなくては売らないというので、一把百何十本買って来た。おそらく生涯使っても使いきれまい。自分の宅《うち》でこれだけ充実した未来への準備は外にはないだろうと思っている。しかしランプの方の保存期限が心の一本の寿命よりも短いのだとすると心細い。
 このランプに比べてみると、実際アメリカ出来の台所用ランプはよく出来ている。粗末なようでも、急所がしっかりしている。すべてが使用の目的を明確に眼前に置いて設計され製造されている。これに反して日本出来のは見掛けのニッケル鍍金《めっき》などに無用な骨を折って、使用の方からは根本的な、油の漏れないという事の注意さえ忘れている。
 ただアメリカ製のこの文化的ランプには、少なくも自分にとっては、一つ欠けたものがある。それを何と名づけていいか、今ちょっと適当な言葉が見付からない。しかしそれはただこのランプに限らず、近頃の多くの文化的何々と称するものにも共通して欠けているある物である。
 それはいわゆる装飾でもない。
 何と云ったらいいか。例えば書物の頁の余白のようなものか。それとも人間のからだで云えば、例えば――まあ「耳たぶ」か何かのようなものかもしれない。耳たぶは、あってもなくても、別に差支えはない。しかしなくてはやっぱり物足りない。

 その後軽井沢に避暑している友人の手紙の中に、彼地《かのち》でランプを売っている店を見たと云ってわざわざ知らせてくれた。また郷里へ注文して取寄せてやろうかと云ってくれる人もあった。しかしせっかく遠方から取寄せても、それが私の要求に応じるものでなかったら困ると思って、そのままにしてある。どうせ取寄せるなら、どこか、イギリス辺の片田舎からでも取寄せたら、そうしたらあるいは私の思っているようなものが得られそうな気がする。
 しかしそれも面倒である。結局私はこの油の漏れる和製の文化的ランプをハンダ付けでもして修繕して、どうにか間に合わせて、それで我慢する外はなさそうである。
[#地から1字上げ](大正十三年一月『文化生活の基礎』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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流言蜚語

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)火花を瓦斯《ガス》の中で飛ばせる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)流言|蜚語《ひご》の伝播

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十三年九月『東京日日新聞』)
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 長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯《ガス》の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播《でんぱ》して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。
 ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。
 流言|蜚語《ひご》の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。
 それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも到る処に発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから。
「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株《おやじかぶ》の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化《かえ》らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量《きょくりょう》を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所《ありか》を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
 こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。
 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
 勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更《なおさら》である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察《せいさつ》の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝《さら》す事なくて済みはしないかと思われるのである。
[#地から1字上げ](大正十三年九月『東京日日新聞』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



時事雑感

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)茫然《ぼうぜん》と口をあいて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古色|蒼然《そうぜん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和六年一月、中央公論)
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     煙突男

 ある紡績会社の労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間居すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽車で見物に来る人さえできたので、おしまいにはそれを相手の屋台店が出たりした。これに関する新聞記事はおりからの陸軍大演習のそれと相交錯して天下の耳目をそばだたせた。宗教も道徳も哲学も科学も法律もみんなただ茫然《ぼうぜん》と口をあいてこの煙突の空の一個の人影をながめるのであった。
 争議が解決して煙突男が再び地上におりた翌日の朝私はいつも行くある研究所へ行った。ちょうど若い軍人たちがおおぜいで見学に来ていたが、四階屋上の露台から下を見おろしている同僚の一群を下の連中が見上げながら大声で何かからかっている。「おうい、もう争議は解決したぞ、おりろおりろ」というのが聞こえた。その後ある大学の運動会では余興の作りものの中にやはりこの煙突男のおどけた人形が喝采《かっさい》を博した。
 こうしてこの肺病の一労働青年は日本じゅうの人気男となり、その波動はまたおそらく世界じゅうの新聞に伝わったのであろう。
 この男のした事が何ゆえこれほどに人の心を動かしたかと考えてみた。新聞というものの勢力のせいもあるが、一つにはその所業がかなり独創的であって相手の伝統的対策を少なくも一時戸まどいをさせた、そのオリジナリティに対する賛美に似たあるものと、もう一つには、その独創的計画をどこまでも遂行しようという耐久力の強さ、しかも病弱の体躯《たいく》を寒い上空の風雨にさらし、おまけに渦巻《うずま》く煤煙《ばいえん》の余波にむせびながら、飢渇や甘言の誘惑と戦っておしまいまで決意を翻さなかったその強さに対する嘆賞に似たあるものとが、おのずから多くの人の心に共通に感ぜられたからであろうと思われる。しかし一方ではまた彼が不治の病気を自覚して死に所を求めていたに過ぎないのだと言い、あるいは一種の気違いの所業だとして簡単に解釈をつけ、そうしてこの所業の価値を安く踏もうとする人もあるであろう。そういう見方にも半面の真理はあるかもしれない。そういう批判などはどうでもいいが、私はこの煙突男の新聞記事を読みながら、ふと「これが紡績会社の労働者でなくて、自分の研究室の一員であったとしたら」と考えてみた。ともかくもだれのまねでもない、そうしてはなはだ合目的なこの一つの所行を、自分の頭で考えついて、そうしてあらゆる困難と戦ってそれをおしまいまで遂行することのできる人間が、もし充分な素養と資料とを与えられて、そうして自由にある専門の科学研究に従事することができたら、どんな立派な仕事ができるかもしれないという気がした。もちろんちょっとそういう気がしただけである。
 日本人には独創力がないという。また耐久力がないという。これはいかなる程度までの統計的事実であるかがわかりかねる。しかし少なくとも学術研究の方面で従来この二つのものがあまり尊重されなかったことだけは疑いもない事実である。従来だれもあまり問題にしなかったような題目をつかまえ、あるいは従来行なわれなかった毛色の変わった研究方法を遂行しようとするものは、たいていだれからも相手にされないか、陰であるいはまともにばかにされるか、あるいは正面の壇上からしかられるにきまっている。そうしてそれにかまわずいつまでもそれに執着していればおしまいには気違い扱いにされ、その暗示に負けてほんとうの気違いになるか、あるいはどこからかの権威の力で差しとめを食い手も足も出なくなってしまうという事になっているようである。もっとも多くの場合にこのような独創力と耐久力を併有しているような種類の人間は、同時にその性状が奇矯《ききょう》で頑強《がんきょう》である場合が多いから、学者と言っても同じく人間であるところの同学や先輩の感情を害することが多いという事実も争われないのである。そういう風変わりな学者の逆境に沈むのは誠にやむを得ないことかもしれない。そうして、またそういう独創的な仕事の常として「きずだらけの玉」といったようなものが多いから、アカデミックな立場から批評してそのきずだけを指摘すればこれを葬り去るのは赤子の手をねじ上げるよりも容易である。そうしてみがけば輝くべき天下の美玉が塵塚《ちりづか》に埋められるのである。これも人間的自然現象の一つでどうにもならないかもしれない。しかしそういう場合に、もし感情は感情として、ほんとうの学問のために冷静な判断を下し、泥土《でいど》によごれた玉を認めることができたら、世界の、あるいはわが国の学問ももう少しどうにかなるかもしれない。
 日本人の仕事は、それがある適当な条件を備えたパッスを持つものでない限り容易には海外の学界に認められにくい。そうして一度海外で認められて逆輸入されるまではなかなか日本の学界では認められないことになっている。海外の学界でもやはり国際的封建的の感情があり、またいろいろな学閥があるので、ことに東洋人の独自の研究などはなかなか目をつけないのであるが、しかしたとえ東洋人のでもそれがほんとうにいいものでさえあれば、ついにはそれを認めるということにならないほどに世界の学界は盲目ではないから、認められなくとも不平など起こさないで、きげんよく根気よく研究をつづけて行けば結局は立派なものになりうるであろう。多くの人からあんなつまらないことと言われるような事がらでも深く深く研究して行けば、案外非常に重大で有益な結果が掘り出されうるものである。自然界は古いも新しいもなく、つまらぬものもつまるものもないのであって、それを研究する人の考えと方法が新しいか古いか等が問題になるのである。最新型の器械を使って、最近流行の問題を、流行の方法で研究するのがはたして新しいのか、古い問題を古い器械を使って、しかし新しい独自の見地から伝統を離れた方法で追究するのがはたして古いかわからないのである。
 今年物理学上の功績によってノーベル賞をもらったインド人ラマンの経歴については自分はあまり確かな事を知らないが、人の話によると、インドの大学を卒業してから衣食のために銀行員の下っぱかなんかを勤めながら、楽しみにケンブリッジのマセマチカル・トライポスの問題などを解いて英国の学者に見てもらったりしていた。そんな事から見いだされてカルカッタ大学の一員になったのが踏み出しだそうである。始めのうちは振動の問題や海の色の問題や、ともかくも見たところあまり先端的でない、新しがり屋に言わせれば、いわゆる古色|蒼然《そうぜん》たる問題を、自分だけはおもしろそうにこつこつとやっていた。しかし彼の古いティンダル効果の研究はいつのまにか現在物理学の前線へ向かってひそかにからめ手から近づきつつあった。研究資金にあまり恵まれなかった彼は「分光器が一つあるといいがなあ」と嘆息していた。そうして、やっと分光器が手に入って実験を始めるとまもなく一つの「発見」を拾い上げた。それは今日彼の名によって「ラマン効果」と呼ばれるものである。田舎《いなか》から出て来たばかりの田吾作《たごさく》が一躍して帝都の檜舞台《ひのきぶたい》の立て役者になったようなものである。そうして物理学者としての最高の栄冠が自然にこの東洋学者の頭上を飾ることになってしまった。思うにこの人もやはり少し変わった人である。多数の人の血眼になっていきせき追っかけるいわゆる先端的前線などは、てんでかまわないような顔をしてのんきそうに骨董《こっとう》いじりをしているように見えていた。そうして思いもかけぬ間道を先くぐりして突然|前哨《ぜんしょう》の面前に顔を突き出して笑っているようなところがある。
 もっとも、ラマンのまねをするつもりで、同じように古くさい問題ばかりこつこつと研究をしていれば、ついにはラマンと同じように新しい発見に到達するかといえば、そういうわけには行かない。これも確かである。ただたまにはラマンのような例もあるから、われわれはそういう毛色の変わった学者たちも気長い目で守り立てたいと思うのである。
 この世界的物理学者の話と、川崎《かわさき》の煙突男の話とにはなんら直接の関係はない。前者は賞をもらったが、後者は家宅侵入罪その他で告発されるという話である。これはたいへんな相違である。ただ二人の似ているのは人まねでないということと、根気のいいという点だけである。
 それでもし煙突男の所業のまねをしたら、そのまねという事自身が人のまねをしない煙突男のまねではなくなるということになる。のみならず、昔話のまね爺《じじい》と同様によほどひどい目にあうのが落ちであろう。
 オリジナリティの無いと称せらるる国の昔話に人まねを戒める説話の多いのも興味のあることである。
 それから、また労働争議というはなはだオリジナルでない運動の中からこういう個性的にオリジナルなものが出現して喝采《かっさい》を博したのもまた一つの不思議な現象と言わなければならない。

     金曜日

 総理大臣が乱暴な若者に狙撃《そげき》された。それが金曜日であった。前にある首相が同じ駅で刺されたのが金曜日、その以前に某が殺されたのも金曜日であった。不思議な暗合であるというような話がもてはやされたようである。実際そう言われればだれでもちょっと不思議な気がしないわけには行かないであろう。
 ある特定の事がらが三回相互に無関係に起こるとする。そうしてそのおのおのが七曜日のいずれに起こる確率も均等であると仮定すれば、三度続けて金曜日に起こるという確率は七分の一の三乗すなわち三百四十三分の一である。しかしこれはまた、木曜が三度来る確率とも同じであり、また任意の他の組み合わせたとえば、「木金土」、「月水金」……となるのとも同じである。しかしもしこれがたとえば木金土という組み合わせで起こったとしたら、だれも不思議ともなんとも思わないであろう。それだのに、同じ珍しさの「金金金」を人は何ゆえ不思議がるであろうか。
 三百四十三の場合の中で「同じ」名前の三つ続く場合は七種、これに対して「三つとも同じではない」場合が三百三十六種、従って二つの場合の種別数の比は一対四十八である。人々の不思議はこの対比から来ることは明らかである。
 三つ同じという場合だけを特に取り出して一方に祭り上げ、同じでないというのを十|把《ぱ》ひとからげに安く踏んで同じ所へ押し込んでしまうということは、抽象的な立場からは無意味であるにかかわらず人間的な立場からはいろいろの深い意味があるように思われる。これを少し突っ込んで考えて行くとずいぶん重大な問題に触れて来るようである。しかし今それをここで取り扱おうというのではない。
 現在の「金曜三つ」の場合でも、人々は通例同様の事件でしかも金曜以外の日に起こったのは、はじめから捨ててしまって問題にしないのである。そうして金曜に起こったのだけを拾い出して並べて不思議がるのが通例である。この点が科学者の目で見た時に少しおかしく思われるのである。今度の場合が偶然ノトリアスに有名な「金曜」すなわち耶蘇《やそ》の「金曜」であったので、それで、「曜」が問題になり、前の首相の場合を当たってみると、それがちょうどまた金曜であった。そうして過去の中からもう一つの「金曜」が拾い出されたというのが、実際の過程であろう。
 これと似通《にかよ》っていて、しかも本質的にだいぶ違う「金曜日」の例が一つある。
 私は過去十何年の間、ほとんど毎週のように金曜日には、深川《ふかがわ》の某研究所に通《かよ》って来た。電車がずいぶん長くかかるのに、電車をおりてからの道がかなりあって、しかもそれがあまり感じのよくない道路である。それで特に雨の降る日などは、この金曜日が一倍苦になるのであった。ところが妙なことには、どうかして金曜日に雨のふるまわりが来ると、来る週も来る週も金曜日というと雨が降る。前日まではいい天気だと思うていると、金曜の朝はもう降っているか、さもなくば行きには晴れであったのが帰りが雨になる。こういうことをしばしば感じるのである。そうかと思うとまた天気のいい金曜が続きだすとそれが幾週となく継続することもあるように思われた。もちろん他の週日に降る降らぬは全く度外視しての話である。
 これもやはり、他の多くの場合と同様に自分の注目し期待する特定の場合の記憶だけが蓄積され、これにあたらない場合は全然忘れられるかあるいは採点を低くして値踏みされるためかもしれない。しかし必ずしもそういう心理的の事実のみではなくて、実際に科学的な説明がいくぶんか付け得られるかもしれない。それは気圧変化にほぼ一週間に近い週期あるいは擬似的週期の現われることがしばしばあるからである。
 朝鮮で三寒四温という言葉があるそうで、これはまさに七日の週期を暗示する。自分が先年、東京における冬季の日々の気圧を曲線にして見たときに著しい七日ぐらいの週期を見たことがある。これについてはすでに専門家のまじめな研究もあるようであるから、時々同じ週日に同じ天気がめぐって来ても、これはそれほど不思議ではないわけである。
 深川の研究所が市の西郊に移転した。この新築へ初めて出かけた金曜日が雨、それから四週間か五週間つづけて金曜は天気が悪かった。耶蘇《やそ》のたたりが千九百三十年後の東洋の田舎《いなか》まで追究しているのかと冗談を言ったりした。ところがやっと天気のいい金曜の回りがやって来て、それから数週間はずっとつづいた。そうしたある美しい金曜日の昼食時に美しい日光のさした二階食堂でその朝突発した首相遭難のことを聞き知った。それからもいまだに好晴の金曜がつづいている。昼食後に研究所の屋上へ上がって武蔵野《むさしの》の秋をながめながら、それにしてももう一ぺん金曜日の不思議をよく考え直してみなければならぬと思うのである。

     地震国防

 伊豆《いず》地方が強震に襲われた。四日目に日帰りで三島町《みしままち》まで見学に出かけた。三島駅でおりて見たが瓦《かわら》が少し落ちた家があるくらいでたいした損害はないように見えた。平和な小春日がのどかに野を照らしていた。三島町へはいってもいっこう強震のあったらしい様子がないので不審に思っていると突然に倒壊家屋の一群にぶつかってなるほどと合点《がてん》が行った。町の地図を三十銭で買って赤青の鉛筆で倒れ屋と安全な家との分布をしるして歩いてみた。がんじょうそうな家がくちゃくちゃにつぶれている隣に元来のぼろ家が平気でいたりする。そうかと思うとぼろ家がつぶれて丈夫そうな家がちゃんとしているという当然すぎるような例もある。つぶれ家はだいたい蛇《へび》のようにうねった線上にあたる区域に限られているように見えた。地震の割れ目か、昔の川床か、もっとよく調べてみなければ確かな事はわからない。線にあたった人はふしあわせというほかはない。科学も今のところそれ以上の説明はできない。
 震央に近い町村の被害はなかなか三島の比ではないらしい。災害地の人々を思うときにあすはたが身の上ということに考え及ばないではいられない。
 軍縮問題が一時国内の耳目を聳動《しょうどう》した。問題は一に国防の充実いかんにかかっている。陸海軍当局者が仮想敵国の襲来を予想して憂慮するのももっともな事である。これと同じように平生地震というものの災害を調べているものの目から見ると、この恐るべき強敵に対する国防のあまりに手薄すぎるのが心配にならないわけには行かない。戦争のほうは会議でいくらか延期されるかもしれないが、地震とは相談ができない。
 大正十二年の大震災は帝都と関東地方に限られていた。今度のは箱根《はこね》から伊豆《いず》へかけての一帯の地に限られている。いつでもこの程度ですむかというとそうは限らないようである。安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海《とうかい》、東山《とうさん》、北陸《ほくりく》、山陽《さんよう》、山陰《さんいん》、南海《なんかい》、西海《さいかい》諸道《しょどう》ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布し、至るところの沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数百、家屋の損失数万をもって数えられた。これとよく似たのが宝永四年にもあった。こういう大規模の大地震に比べると先年の関東地震などはむしろ局部的なものとも言える。今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜《よこはま》、沼津《ぬまづ》、静岡《しずおか》、浜松《はままつ》、名古屋《なごや》、大阪《おおさか》、神戸《こうべ》、岡山《おかやま》、広島《ひろしま》から福岡《ふくおか》へんまで一度に襲われたら、その時はいったいわが日本の国はどういうことになるであろう。そういうことがないとは何人も保証できない。宝永安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが次の場合にはそうは行かないことは明らかである。昔の日本は珊瑚《さんご》かポリポくらげのような群生体で、半分死んでも半分は生きていられた。今の日本は有機的の個体である。三分の一死んでも全体が死ぬであろう。
 この恐ろしい強敵に備える軍備はどれだけあるか。政府がこれに対してどれだけの予算を組んでいるかと人に聞いてみてもよくわからない。ただきわめて少数な学者たちが熱心に地震の現象とその生因ならびにこれによる災害防止の研究に従事している。そうして実に僅少《きんしょう》な研究費を与えられて、それで驚くべき能率を上げているようである。おそらくは戦闘艦の巨砲の一発の価、陸軍兵員の一日分のたくあんの代金にも足りないくらいの金を使って懸命に研究し、そうして世界的に立派な結果を出しているようである。そうして世間の人はもちろん政府のお役人たちもそれについてはなんにも知らない。
 今度の伊豆地震《いずじしん》など、地震現象の機構の根本的な研究に最も有用な資料を多分に供給するものであろうが、学者の熱心がいかに強くても研究資金が乏しいため、思う研究の万分の一もできないであろうから、おそらくこの貴重な機会はまたいつものように大部分利用されずに逃げてしまうであろう。
 蟻《あり》の巣を突きくずすと大騒ぎが始まる。しばらくすると復興事業が始まって、いつのまにかもとのように立派な都市ができる。もう一ぺん突きくずしてもまた同様である。蟻《あり》にはそうするよりほかに道がないであろう。
 人間も何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人と比べると、少なくも火事に対してはむしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。
 昔の為政者の中にはまじめに百年後の事を心配したものもあったようである。そういう時代に、もし地震学が現在の程度ぐらいまで進んでいたとしたらその子孫たる現在のわれわれは地震に対してもう少し安全であったであろう。今の世で百年後の心配をするものがあるとしたらおそらくは地震学者ぐらいのものであろう。国民自身も今のようなスピード時代では到底百年後の子孫の安否まで考える暇がなさそうである。しかしそのいわゆる「百年後」の期限が「いつからの百年」であるか、事によるともう三年二年一年あるいは数日数時間の後にその「百年目」が迫っていないとはだれが保証できるであろう。
 昔シナに妙な苦労性の男がいて、天が落ちて来ると言ってたいそう心配し、とうとう神経衰弱になったとかいう話を聞いた。この話は事によるとちょうど自分のような人間の悪口をいうために作られたかもしれない。この話をして笑う人の真意は、天が落ちないというのではなくて、天は落ちるかもしれないが、しかし「いつ」かがわからないからというのであろう。
 三島の町を歩いていたら、向こうから兵隊さんが二三人やって来た。今始めてこの町へはいって来てそうして始めてつぶれ家のある地帯にさしかかったところであった。その中の一人が「おもしろいな。ウム、こりゃあおもしろいな」と言ってしきりに感心していた。この「おもしろいな」というのは決して悪意に解釈してはならないと思った。この「おもしろいな」が数千年の間にわれらの祖先が受けて来た試練の総勘定であるかもしれない。そのおかげで帝都の復興が立派にできて、そうして七年後の今日における円タクの洪水《こうずい》、ジャズ、レビューのあらしが起こったのかもしれない。
 三島の町の復旧工事の早いのにも驚いた。この様子では半月もたった後に来て見たらもう災害の痕跡《こんせき》はきれいに消えているのではないかという気もした。もっと南のほうの損害のひどかった町村ではおそらくそう急には回復がむつかしいであろうが。
 三島神社の近くでだいぶゆすぶられたらしい小さなシナ料理店から強大な蓄音機演奏の音波の流れ出すのが聞こえた。レコードは浅草《あさくさ》の盛り場の光景を描いた「音画」らしい、コルネット、クラリネットのジンタ音楽に交じって花屋敷《はなやしき》を案内する声が陽気にきこえていた。警備の巡査、兵士、それから新聞社、保険会社、宗教団体等の慰問隊の自動車、それから、なんの目的とも知れず流れ込むいろいろの人の行きかいを、美しい小春日が照らし出して何かお祭りでもあるのかという気もするのであった。今度の地震では近い所の都市が幸いに無難であったので救護も比較的迅速に行き届くであろう。しかしもしや宝永安政タイプの大規模地震が主要の大都市を一なでになぎ倒す日が来たらわれらの愛する日本の国はどうなるか。小春の日光はおそらくこれほどうららかには国土|蒼生《そうせい》を照らさないであろう。軍縮国防で十に対する六か七かが大問題であったのに、地震国防は事実上ゼロである。そうして為政者の間ではだれもこれを問題にする人がない。戦争はしたくなければしなくても済むかもしれないが、地震はよしてくれと言っても待ってはくれない。地震学者だけが口を酸《す》っぱくして説いてみても、救世軍の太鼓ほどの反響もない。そうして恐ろしい最後の審判の日はじりじりと近づくのである。
 帰りの汽車で夕日の富士を仰いだ。富士の噴火は近いところで一五一一、一五六〇、一七〇〇から八、最後に一七九二年にあった。今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい。しかし十六世紀にも十八世紀にも活動したものが二十世紀の千九百何十年かにまた活動を始めないと保証しうる学者もないであろう。こんな事を考えながら、うとうとしているうちに日が暮れた。川崎《かわさき》駅を通るときにふと先日の「煙突男」を思い出した。そうしてあの男が十一月二十四日の午前四時までまだ煙突の上にとどまっていて、そうしてあの地震に大きく揺られたのであったら、彼はおりたであろうか、おりなかったであろうか。そんなことも考えてみるのであった。
 自分もどこかの煙突の上に登って地震国難来を絶叫し地震研究資金のはした銭募集でもしたいような気がするが、さてだれも到底相手にしてくれそうもない。政治家も実業家も民衆も十年後の日本の事でさえ問題にしてくれない。天下の奇人で金をたくさん持っていてそうして百年後の日本を思う人でも捜して歩くほかはない。
 汽車が東京へはいって高架線にかかると美しい光の海が眼下に波立っている。七年前のすさまじい焼け野原も「百年後」の恐ろしい破壊の荒野も知らず顔に、昭和五年の今日の夜の都を享楽しているのであった。
 五月にはいってから防火演習や防空演習などがにぎにぎしく行なわれる。結構な事であるが、火事よりも空軍よりも数百層倍恐ろしいはずの未来の全日本的地震、五六大都市を一なぎにするかもしれない大規模地震に対する防備の予行演習をやるようなうわさはさっぱり聞かない。愚かなるわれら杞人《きひと》の後裔《こうえい》から見れば、ひそかに垣根《かきね》の外に忍び寄る虎《とら》や獅子《しし》の大群を忘れて油虫やねずみを追い駆け回し、はたきやすりこ木を振り回して空騒《からさわ》ぎをやっているような気がするかもしれない。これが杞人の憂いである。
[#地から3字上げ](昭和六年一月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
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  • 石油ランプ
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  • [東京都]
  • 本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
  • 神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 十一屋 じゅういちや
  • 日本橋区 にほんばしく 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
  • [長野県]
  • 軽井沢 かるいざわ 長野県東部、北佐久郡にある避暑地。浅間山南東麓、標高950メートル前後。もと中山道碓氷峠西側の宿駅。
  • -----------------------------------
  • 流言蜚語
  • -----------------------------------
  • 時事雑感
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  • [イギリス]
  • ケンブリッジ Cambridge (1) イギリスのイングランド東部にある同名州の州都。ロンドンの北約80キロメートルにある大学都市。人口11万7千(1996)。
  • ケンブリッジ大学 だいがく ケンブリッジ (1) にある名門総合大学。1209年研究者集団がケンブリッジの交易場で講義を行なったことに始まる。イギリス指導階層の最高教育機関として発展。多数の学寮(カレッジ)から成る。
  • [インド]
  • カルカッタ大学
  • カルカッタ Calcutta コルカタの旧称。
  • コルカタ Kolkata インド北東部、西ベンガル州の州都。ガンジス川の河口近くにある大都市。18世紀以来イギリス植民地支配の中心地となる。人口458万1千(2001)。旧称カルカッタ。
  • 深川 ふかがわ (1) 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 武蔵野 むさしの (1) 関東平野の一部。埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域。広義には武蔵国全部。(2) 東京都中部の市。吉祥寺を中心とする中央線沿線の衛星都市。人口13万8千。
  • [伊豆] いず (1) 旧国名。今の静岡県の東部、伊豆半島および東京都伊豆諸島。豆州。(2) 静岡県東部、伊豆半島中部の市。温泉が多く、保養地として首都圏からの観光客が多く訪れる。人口3万7千。
  • 三島町 みしままち  静岡県田方郡三島町。現、三島市。
  • 箱根 はこね 神奈川県足柄下郡の町。箱根山一帯を含む。温泉・観光地。芦ノ湖南東岸の旧宿場町は東海道五十三次の一つで、江戸時代には関所があった。
  • 東海道 とうかいどう (1) 五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15カ国の称。(2) 五街道の一つ。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。
  • 東山道 とうさんどう 五畿七道の一つ。畿内の東方の山地を中心とする地。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8カ国に分ける。また、これらの諸国を通ずる街道。とうせんどう。
  • 北陸道 ほくりくどう 五畿七道の一つ。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国。また、そこを通ずる街道。くぬがのみち。こしのみち。ほくろくどう。
  • 山陽道 さんようどう 五畿七道の一つ。播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の8カ国。また、これらの諸国を通ずる街道。かげとものみち。せんようどう。
  • 山陰道 さんいんどう 五畿七道の一つ。丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の8カ国。現在の中国地方・近畿地方の日本海側。また、これらの各地を通ずる街道。せんいんどう。古称、そとものみち。
  • 南海道 なんかいどう 五畿七道の一つ。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の6カ国の称。畿内・山陽道の南方にあるからいう。
  • 西海道 さいかいどう 五畿七道の一つ。今の九州地方。筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩および壱岐・対馬の9国2島の称。
  • 東京 とうきょう 以下、略。
  • 横浜 よこはま
  • 沼津 ぬまづ
  • 静岡 しずおか
  • 浜松 はままつ
  • 名古屋 なごや
  • 大阪 おおさか
  • 神戸 こうべ
  • 岡山 おかやま
  • 広島 ひろしま
  • 福岡 ふくおか
  • 三島神社 → 三島大社か
  • 三島大社 みしま たいしゃ (三嶋と書く)静岡県三島市大宮町にある元官幣大社。祭神は大山祇神・事代主神(昔はいずれか一神とされた)。伊豆国一の宮。
  • 川崎 かわさき 神奈川県北東部の市。政令指定都市の一つ。北は六郷川(多摩川)を隔てて東京都に、南西は横浜市に隣接。海岸に近い地区は京浜工業地帯の一部、内陸地区は住宅地。昔は東海道の宿駅。人口132万7千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表

  • 一五一一 富士山噴火。(時事雑感)
  • 一五六〇 富士山噴火。(時事雑感)
  • 一七〇〇〜八 富士山噴火。(時事雑感)
  • 宝永四(一七〇七)一〇月四日 宝永地震。東海地方から四国・九州にかけての地震。震源は東海沖・南海沖の二つと考えられる。M8.4。東海道・紀伊半島を中心に倒壊6万戸、流失2万戸、死者約2万人。
  • 宝永四(一七〇七)一一月〜 宝永大噴火。大量のスコリアと火山灰を噴出。
  • 寛政四(一七九二) 富士山噴火(?)。(時事雑感)
  • 安政元(一八五四)一一月四日 安政東海地震。震源地遠州灘沖。M8.4。死者約2000〜3000人。
  • 安政元(一八五四)一一月五日 安政南海地震。震源地土佐沖。M8.4。死者数千人。
  • 大正一二(一九二三)九月一日 関東大震災。M 7.9、死者・行方不明者10万5,385人。
  • 大正一三(一九二四)一月 寺田「石油ランプ」『文化生活の基礎』。
  • 大正一三(一九二四)九月 寺田「流言蜚語」『東京日日新聞』。
  • 昭和五(一九三〇) チャンドラセカール・ラマン、ノーベル物理学賞を受賞。
  • 昭和五(一九三〇)一一月一四日 濱口首相遭難事件。東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され重傷。
  • 昭和五(一九三〇)一一月一六日 煙突男。川崎市の紡績工場の労働争議の際に、煙突に登って会社へ抗議。5日後に煙突を降りる。
  • 昭和五(一九三〇)一一月二六日(※ 本文には「十一月二十四日」) 伊豆地方大地震。死者行方不明者331名、全壊4317戸。寺田、四日目に日帰りで三島町まで見学。
  • 昭和六(一九三一)一月 寺田「時事雑感」『中央公論』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 石油ランプ
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  • 流言蜚語
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  • 時事雑感
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  • ラマン Chandrasekhara Venkata Raman 1888-1970 チャンドラシェーカル・ヴェンカタ・ラーマン。インドの物理学者。1930年のノーベル物理学賞受賞者。ラマン効果 (ラマンスペクトル)の発見者。タミル・ナードゥ州のティルッチラーッパッリ生まれ。1917年にカルカッタ大学の教授となり光学の研究を行った。インド本国で研究したインド人研究者としては初めてのノーベル賞受賞者。(Wikipedia)/マドラス州立大学に学び、大蔵省主計官補となったが、カルカッタにおもむき、科学研究を始めた(1909)。カルカッタ大学物理学教授。インド科学振興協会名誉書記、インド科学大会会長、バンガロールのインド科学研究所所長として、同地にラーマン研究所を建て所長となる(1948来)。初め弦および絃楽器の振動を研究、のち光の散乱の研究に転じ、溶液による光の散乱においてラーマン効果を発見し(1928)、量子理論の結論に対し実験的証明をあたえた。この業績に対しノーベル物理学賞を受く。(岩波西洋)
  • チンダル → ジョン・チンダル
  • ジョン・チンダル John Tyndall 1820-1893 イギリスの物理学者。アイルランド生まれ。著『アルプスの旅より』『アルプスの氷河』。/おおむね独学、のちブンゼンに学ぶ。国立研究所教授。微粒子の散光を研究してチンダル現象を解明し、これによって空の青色が微粒子によることを説明した。また、結晶体の磁気的性質、音響に関する研究もあり、特に音波の透過におよぼす大気密度の効果を発見した。そのほか、T.H.ハクスリと共にスイスの氷河を研究し、またアメリカで講義したこともある(72-73)。文筆に長じ、科学の通俗化に寄与したところが大きい。(岩波西洋)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 石油ランプ
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  • 『文化生活の基礎』
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  • 流言蜚語
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  • 『東京日日新聞』 とうきょう にちにち しんぶん 日刊新聞の一つ。1872年(明治5)創刊。74年、福地桜痴が主筆となり政府支持の論調を張る。1911年大阪毎日新聞の経営下に入り、43年(昭和18)毎日新聞に統合。東日と略称。
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  • 時事雑感
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  • 『中央公論』 ちゅうおう こうろん 代表的な総合雑誌の一つ。1899年(明治32)「反省会雑誌」(87年創刊)を改題。滝田樗陰を編集者(のち主幹)として部数を伸ばし、文壇の登竜門、大正デモクラシー言論の中心舞台となる。1944年(昭和19)横浜事件にまきこまれて廃刊を命じられる。第二次大戦後、46年復刊。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

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  • 石油ランプ
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  • ホヤ 火屋 (1) 香炉や手焙(てあぶり)などの上におおう蓋。(2) ランプやガス灯などの火をおおうガラス製の筒。(3) 火葬場の異称。ひや。
  • 同盟罷業 どうめい ひぎょう ストライキに同じ。
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  • 流言蜚語
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  • 蜚語・飛語 ひご 根拠のないうわさ。無責任な評判。飛言。
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  • 時事雑感
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  • 奇矯 ききょう 言動が普通とちがっていること。とっぴなこと。
  • ラマン効果 こうか 物質が単色の光によって照射される際、散乱光には照射光と等しい波長だけでなく、若干それより長い波長や短い波長が含まれる現象。1928年ラマンとクリシュナン(K. S. Krishnan1898〜1961)が発見。
  • ティンダル効果 → チンダル現象
  • チンダル現象 げんしょう 透明物質中に多数の微粒子が分散している場合、光が散乱されるため、その通路を観察できる現象。これを研究したイギリスの物理学者チンダルの名に因む。
  • 分光器 ぶんこうき 光をスペクトルに分ける光学装置。プリズム・回折格子などを用いる。
  • 先潜り さきくぐり (1) 先まわりしてひそかに事をなすこと。ぬけがけ。(2) 推量して疑うこと。邪推。かんぐり。
  • ノトリアス ノートリアス? notorious。悪名高いさま。悪い方面で有名なさま。
  • 三寒四温 さんかん しおん 三日ほど寒い日が続いた後に四日ほどあたたかい日が続き、これを交互にくりかえす現象。中国北部・朝鮮などで冬季に見られる。
  • ポリポクラゲ
  • ポリポ → ポリプか
  • ポリプ polyp (1) 刺胞動物に見られる形態の基本形の一つで、固着生活をする個体型。体は円筒形。一生のあいだに浮遊生活をするクラゲ型も経るものでは無性世代にあたり、出芽・分裂により増殖する。群体を作ることが多い。水※[#「虫+息」、u8785](すいし)。
  • 群生体 群生(ぐんせい)
  • 音画 おんが (1) (Tonfilm ドイツの訳語)トーキー。発声映画。(2) (Tonmalerei ドイツの訳語)自然現象・物語などを音楽で表現したもの。標題音楽の一つ。
  • コルネット cornet (小さい角笛の意) (1) 金管楽器。真鍮または銀製。2ないし3個の弁を有し、トランペットより小型で、音色が明るい。吹奏楽の主要楽器。(2) 中世〜16世紀頃の木製吹奏楽器。
  • ジンタ音楽
  • じんた 大正の頃、サーカス・映画館の客寄せや広告宣伝などに、通俗的な楽曲を演奏した小人数の吹奏楽隊とその吹奏楽の俗称。
  • 花屋敷 はなやしき (1) 多くの花樹を栽培して人の観覧に供する庭園。(2) (現在「花やしき」)東京都旧浅草公園にある遊園地。
  • 蒼生 そうせい [書経益稷](民を青く茂る草にたとえていう)あおひとくさ。人民。
  • 救世軍 きゅうせいぐん (Salvation Army)キリスト教プロテスタントの一派。1878年イギリス人牧師ブースがロンドンで創始し、軍隊的組織のもとに民衆伝道と社会事業を行う。95年(明治28)に日本にも支部が設けられた。
  • 六大都市 ろくだいとし 東京・大阪・京都・名古屋・神戸・横浜の6都市の称。
  • ひとなぎ
  • 杞人の憂え きじんの うれえ 杞憂に同じ。
  • 杞憂 きゆう [列子天瑞](中国の杞の国の人が、天地が崩れて落ちるのを憂えたという故事に基づく)将来のことについてあれこれと無用の心配をすること。杞人の憂え。取り越し苦労。
  • マセマチカル mathematical 数学
  • トライポス tripos (ケンブリッジ大学の)優等卒業試験。優等及第者名簿。(小学館英和中辞典、1981.1)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)*フクシマ・ノートその2


 猫になりたい〜
 ドラえもんになりたい〜
 フサフサになりたい〜
 クログロになりたい〜
 
 『巨大地震・巨大津波――東日本大震災の検証』(朝倉書店、2011.11)読了。宮城県沖牡鹿半島で東南東に5.3m移動、1.2m沈降。東北の日本海沿岸では1m程度東に移動。「地震後6か月たっても、この延びの動きは収まっていない」「地震後6か月経過した9月になっても、プレート境界は、ゆっくりすべり続けている」

 余効的すべり。
 「大局的には本震のときのすべりと同じ方向、つまり、太平洋プレートが西に傾き下がるように沈み込み、東北日本の陸地が東側にせり上がる方向に進んでいる。だたし、余効すべりが発生している領域は、本震時に大きくずれた領域より、やや深部と北部・南部のプレート境界上である。
 「この余効的すべりによって、東北日本は地震発生後6か月経っても東西に引き延ばされている。その速さは徐々に遅くなっているが、9月になっても1週間で1cm程度の大変な速さである。」←→「東北日本は地震前には1年間に1〜2cm縮んでいた。

 「東北地方の太平洋沿岸では現在ゆっくりとした隆起が進行している。隆起の量は、まだまだ地震時の沈降量には及ばない」「少なくとも地震発生6か月後でも止まる気配はない」。以上、平田直(ひらた なおし)「巨大地震のメカニズム」(p.1〜54)より。東京大学・地震研究所地震予知研究センター長、地震調査研究推進本部・政策委員会委員。

 「20世紀以降に発生したM9クラスの巨大地震は、2004年のスマトラ島沖地震を含めて5回程度」(佐竹健治)。

 過去に高台へ集団移転したはずの人たちが再び沿岸へ戻って定住してしまった事例について、目黒公郎は「高台では飲料水の確保が困難なこと」と「山腹の密集地で火災が発生したこと」を指摘。

 三月八日(木)。復興構想会議の議事録 pdf が web にアップ。さっそく13号までをダウンロードして、ぼちぼちと読み始める。初回なかばで玄侑さんは、「大袈裟に言いますと、今の状態は出エジプトに近い」「下手をしますと、ユダヤ人状態になりながら、今浜通りの人々は、分散居住している」と語る。




*次週予告


第四巻 第三五号 
火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦


第四巻 第三五号は、
二〇一二年三月二四日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三四号
石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
発行:二〇一二年三月一七日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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販売:DL-MARKET
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