武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」「武田祐吉著作集」全8巻。

宇野円空 うの えんくう
1885-1949(明治18.11.28-昭和24.1.1)
宗教学・宗教民族学者。京都生れ。東大教授。著「宗教民族学」「宗教学」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。


もくじ 
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰


ミルクティー*現代表記版
『古事記』解説  武田祐吉
上代人の民族信仰 宇野円空
  自然崇拝
  呪物崇拝
  霊魂観念と霊威観念
  神祇観念

オリジナル版
『古事記』解説  武田祐吉
上代人の民族信仰 宇野円空

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、異句同音の一部のひらがなに限り、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


『古事記』解説
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

上代人の民族信仰
底本:『上代人の民族信仰』岩波講座日本文学、岩波書店
   1932(昭和7)年6月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person442.html

NDC 分類:163(宗教 / 原始宗教.宗教民族学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc163.html
NDC 分類:910(日本文学)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc910.html





『古事記』解説

武田祐吉

   一


 『古事記』は、上中下の三巻からなる。その上巻のはじめに序文があって、どのようにしてこの書が成立したかを語っている。『古事記』の成立に関する文献は、この序文以外には何も伝わらない。
 『古事記』の成立の企画は、天武天皇(在位六七二〜六八六)にはじまる。天皇は、当時諸家に伝わっていた『帝紀ていき』と『本辞ほんじ』とが、誤謬ごびゅうが多くなり正しい伝えを失しているとされ、これを正して後世に伝えようとして、稗田ひえだ阿礼あれに命じてこれをみ習わしめた。しかしまだ書巻となすに至らないで過ぎたのを、奈良時代のはじめ、和銅四年(七一一)九月十八日に、元明げんめい天皇が、おお安万侶やすまろ(七二三没)に稗田の阿礼が誦むところのものの筆録を命じ、和銅五年(七一二)正月二十八日に稿って奏上した。これが『古事記』である。
 かようにして『古事記』は成立した。その資材となったものは、諸家に伝わっていた『帝紀』と『本辞』とであるから、さかのぼってはこれらの性質をあきらかにし、ひいてはこれらが『古事記』において、どのような形をっているかをきわめなければならない。
 『帝紀』は、帝皇ていおう日継ひつぎともいう。一言ひとことにしていえば天皇の歴史である。歴代天皇がつぎつぎに帝位を継承された次第は、天皇の大葬たいそうのときに誄詞しのひこととしてとなえられていた。その唱えられることばそのままではないだろうが、たぶん、それと同じものから出てさらに内容の豊富になったものが、比較的早い時代からすでに書巻の形になって存在したのであろう。推古天皇の二十八年(六二〇)に聖徳太子らによって撰録せんろくされた書巻のうち、『天皇記』というのも、この種のものであったのだろう。奈良時代には、『帝紀』『日本帝紀』など称する書物の存在したことが知られ、『日本書紀』に見える『帝王本紀』というのも、同様の書物であったのだろう。
 『本辞』はまた『旧辞くじ』ともいい、これらの語は『古事記』の序文以外には古い使用例がない。その内容は神話・伝説・昔話・物語の類をいうもののごとく、まとまった書物とはならなかったようであるが、そのある一部は、すでに文字によって記されたものもあったようである。
 『帝紀』や『本辞』に誤謬ごびゅうが多くなっているという観察がなされたのは、種々の原因があるだろう。一つには主として口誦こうしょうによる伝来において、自然に生じた差違があるだろう。時代の推移にともなって新しい解釈も加わり、また他の要素を取り入れて成長発達もしてゆくであろう。また一方には、諸家に伝わるものは、それぞれその家を本位として語り伝えられてゆくために、甲の家と乙の家とで違ったものを伝えることにもなる。たとえばアメノホヒのみことのごとき、『古事記』に採録した伝来ではよくは言わないのだが、その神の子孫であるという出雲氏の伝来では、忠誠な神とするような類である。
 かくの如くにして諸家に伝来した『帝紀』と『本辞』とに対して、これを批判して整理されたのが天武天皇であり、これをみ習ったのが稗田の阿礼であり、これを文字に書きつづったのが太の安万侶であって、『古事記』は、この三人の共同事業ということになる。
 そこで『古事記』には、『帝紀』を材料としたものと『本辞』によるものとがあるはずであり、今日の研究の段階では、ある程度これを分解することができる。『帝紀』については他に文献もあって、だいたいどのような内容のものであるかの推測ができるので、まず『古事記』について『帝紀』からきたと考えられる部分を抽出する。そうして残った部分が『本辞』からきたものと見るのである。
 かくして『古事記』が、『帝紀』の記事と『本辞』とをつぎあわせてったものであることがあきらかにされる。両者がたくみに融合している部分もあり、また、どちらからきているか問題になる部分もあるが、だいたいにおいては分解が可能であり、これによって『古事記』の性格もあきらかにされるのである。伝来の形にしても、従来ある一部の人によって信じられていたように、現在の全形で古くから語り伝えられていたものではないことがわかる。
 『古事記』の内容は、天地のはじめの物語からはじまって、推古天皇のご事跡に終わっている。上巻は、神代の物語、神話とよばれるものであって、これは『本辞』を材料としているであろう。しかしこれも、はじめからまとまって語り伝えられたものではなくして、もと遊離して存在していた神話を、ある時期にぎあわせて成立したものと考えられる。
 さて中巻は、神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの計三十三代の天皇のご事跡である。この二巻は、『帝紀』の記事を骨子として、これに『本辞』からきた材料を配合して成立している。三十三代のうち、神武・崇神すじん・垂仁・景行・仲哀・応神・仁徳・履中りちゅう允恭いんぎょう安康あんこう・雄略・清寧せいねい顕宗けんぞうの各天皇の記事は、『本辞』からの材料を含んでいるとみられて、長大複雑であり、他の二十代の天皇の記事は、主として『帝紀』のみによったもののごとくで簡単である。この簡単の部分は、『帝紀』の原形そのままであるとも断言はできないけれども、少なくも『帝紀』の原形をうかがうにたるものである。そこでもし『帝紀』の原形をうかがおうと思うならば、たとえば綏靖すいぜい天皇の記事のような簡単なものを見ればよいのである。しかし『帝紀』からの材料によっている部分でも、后妃こうひや皇子・皇女に関しては、家々の伝来を取り入れているものもあるだろう。
 『帝紀』と『本辞』とを組み合わせて書かれている部分は、だいたい『帝紀』の記事を二つにわけ、その中間に『本辞』からの物語をはさんで成立しており、また天皇崩後の物語をその後につけているところもある。神武天皇のご事跡は、『帝紀』と『本辞』とがたくみに融合して、分解することがやや困難であるが、その他はたいてい容易に分解することができる。

   二


 『帝紀』と『本辞』とは、本来性質を異にするものである。『帝紀』は、歴代天皇の御名・皇居・治天下・后妃こうひ・皇子皇女・崩御・御寿・山陵について述べ、これに大きな事件の項目だけを加えたと見られるものもある。これをご即位の順序に配列した事務的なものである。これに反して『本辞』は、神話・伝説・昔話・物語というように、説話系統の形式を有するものであって、信仰・政治・文学・芸能などの各種の方面にわたって豊富な内容を持っている。これをその中に登場する人物によって、神代および各天皇の時代にそれぞれ配当したものである。
 そこで『古事記』は、神代から以下、歴代天皇の時代におよんで、時代順に叙述されている大きな物語と見ることができる。それと同時に一方では、時代というつなぎによって配列されている小説話の集録とも見ることができるのである。もちろん、この書によって取りあげられている時間的配列は、そのままには信じられないものであるにしても、この書自身においては、真実に近い時間的配列であると考えていたであろう。
 そうしてその内容についても、かつて一度真実におこった事として伝えているのであろう。それは序文において、この書の要求されるわけを論じた部分によっても知られるところである。しかし今日においては、この書の記事のすべてが、真実にかつてあった事とは信じない。『帝紀』の部分においては、元来、天皇即位という大きな事実を語るものであるだけに、その古い部分や、またこまかい記事については別として、大体においては事実を伝えたものということができよう。しかし『本辞』の部分は説話であって、浮動性が多く、よし若干の事実を根拠として出発したものであっても、その各時代への結びつきは、そのままには受け入れがたいものである。
 『帝紀』は、主として皇室、およびその系統の家に伝えられたのであろうが、『本辞』の伝来は、さまざまであったのである。まず皇室をはじめ、諸家において、その祖先に関する説話を伝えているであろう。それはその家のはじめを語るものもあり、また英雄・佳人じんの事跡を語るものもある。つぎに諸国に語部かたりべと称するものがあって、大嘗祭だいじょうさいの時などに宮廷に出てきて、古詞をとなえ、その採録されたものもある。そのほか、祭のことばから抜け出して語り伝えられたもの、歌曲かきょく舞曲きょくなどの形で伝えられたものもあり、民間に語り伝えられたものもあって、その伝来の形式はじつにさまざまである。
 このような各種の伝来による材料を、手ぎわよく整理して一貫した内容の作品を構成している。このような説話のたぐいは、なお無数に存在していたであろうが、それらの中から採用されたものが、それぞれの位置に配列されているのである。
 採用されるにあたっては種々の理由があって、それがその説話の位置をきめるに役立っている。まずその説話の中に語られる人物が、歴史上の人物として知られていること。もちろんその人物は、その説話に不可分のものばかりではなく、同じ説話を『日本書紀』においては別の人物にあてているものもある。しかしとにかく、ヤマトタケルの物語、オホハツセの天皇の物語というようなものを取りあげて、それぞれの人物の名のもとに織り込んでいるのである。これは神代の部分においても同様であって、たとえばスサノヲのみことの物語を、その神の名のもとに集めていると見られるがごときである。
 つぎに、国家組織・社会組織に対して説明をあたえようとする意図の見られることが指摘される。神代をもって歴史上の古代とし、日本の国のおこりが、その神代にあることを証明しようとした。そうして天皇家が神の子孫であることを説明しようとした。このために神話が採択され、配列された。また歴代天皇の物語にしても、国家組織の確立を語るものとして採択されたものが少なくない。一方では、国家および皇室との関係を語る各氏族の説話は、ずいぶん広く採択さいたくしている。おのおのの氏族はその系統が重視され、これによって社会上の地位も決定されたので、ここにその氏族の祖先の説話がそれぞれの家にあり、これが『古事記』によって多く採択されている。それらの説話の内容は、ひとり国家に対して忠誠であった物語のみにとどまらず、皇室の祖先の兄ではあるが、まずいことをしたために臣下となったという話や、はなはだしいのは、皇室に対して反逆をくわだてて殺されたという話――たとえばサホヒコの王、オホヤマモリのみことの話など――もある。そういう反逆人の子孫が氏族として栄えているのだから、それによってもこれらの説話の存在の意味がおし測られる。
 つぎに思想的の理由によって採択され、配列されたものがある。古人が万物の存在に関して思索しさくした結果、いかにしてこれが存在するかの問題を説話によって説明した。これはすべての事物の起原を語る物語となって現われ、またそれらの事物が出現し活動する原理を思索して、神霊の形式においてその概念を表現した。また人生の諸問題について、信仰によって解決するばあいにも、説話としての形式によってこれを表現して人生指導の根拠とした。かくの如きたぐいは、みな『古事記』によって採択されているところである。
 つぎに、興趣きょうしゅのゆたかな説話が多く採択され、配列された。その一つに文学的興趣きょうしゅのゆたかなものがある。歌曲・舞曲のごときは、古い時代から喜ばれていたであろう。それらは引き続いておこなわれていたものもあるであろうし、またすでに古曲となって詞章ししょうだけが伝わっていたものもあるかもしれない。『古事記』は、そういう類のものからも採択した。それらは、ある人物の事跡として歴史的に結びつけられたのである。『古事記』に載せた歌謡のうち、歌曲としての名称を伝えているものの多いことは、この間の消息を語るものである。海幸・山幸の神話のごときも原形は舞曲であったのだろうが、のち独立の説話として伝播でんぱし、『古事記』にも採択されるに至ったようである。また一方には、奇事きじ異聞いぶんふうな説話があって、これも興味がせられるままに採択されている。
 以上、採択の理由となったと思われるところの主なものについてあげてきたが、もちろん一つの説話が各種の条件を兼ねそなえているものが多く、また部分的にある種の条件をそなえているものもあるのである。とにかく、各種の方面から採択したものが混合して存在していると考えられるが、これらがいかなる段階において採択・結合したかというに、これもおそらくは一様でないのだろう。
 本来は別個の存在であった『帝紀』と『本辞』とを一つに結合することは、天武天皇のご企画であったようであるが、実際、稗田の阿礼に対してどのような形でみ習わしめたのかはあきらかでない。『帝紀』を資料とする部分が、特殊の文字使用法を温存しているによれば、太の安万侶が文を書くにあたって、成書せいしょである『帝紀』を使用したもののごとくであり、稗田の阿礼は成書の『帝紀』を読みながら『本辞』の物語を挿入して語ったかどうか、今日では不明である。ただ、文字に書くにあたって新たになされたと見られる結合の部分も指摘される。それと同時に、『本辞』自体において、もっと古い時代にすでに結合していたものもあるのだろう。諸家の伝来を総集したのだから、自然系統の相違する説話も結合されている。たとえば、神代の説話において二大系統である高天たかまはら系統と出雲系統との神話が、あるものは融合して一つになり、あるものは融合しないままの形で接続している。たとえば誓約うけいの神話において、系統の違う氏族の祖先が共に出現すると説くことなど、かなり古い結合によるものではないだろうか。出雲系であるスサノヲのみことが高天の原系統の神話に現われることなども、天武天皇が新たに整理された結果であるとは考えられない。

   三


 以上、『古事記』の組織について述べてきたことによって、『古事記』の性質もあきらかにされると思う。歴史的事実を語るものとして解釈してよいものと、そのように解釈してはならないものとが混合されているのである。もちろんどのようなものでも人生を離れては存在しないのであるから、その意味では人生の歴史を語るものであるに相違はないが、ただ言葉によって表示されているとおりに事実があったとするわけにはゆかないのである。
 『帝紀』と『本辞』との結合のくわだてられた天武天皇の時代は、国家組織が完成し、中央政府の権力が強大となった時代であった。そういう国家組織の説明のために、『古事記』の撰録が企画されたのである。また『古事記』が書物として成立した奈良時代の初期は、大陸の文化の影響を受けて文化運動のさかんな時代であった。この文化運動の一環として歴史的体系による『古事記』『日本書紀』は成立し、地誌的体系による『風土記』は選進せんしんされたのである。
 奈良時代の文化は、大陸の文化を指導者としての文化であった。そこに使用される文字は漢字であって、公用文としても漢文が書かれていた。したがって、その時代に成立した書物は漢字で書かれるほかはなく、『日本書紀』のごときも漢文で書かれている。しかしながら、国語で伝えられたことを漢文で表現することは困難であり無理でもあるので、漢字を使って国語の文を書きあらわすことも種々試みられた。漢語と国語とではとくに語序が相違し、また補助詞の用法に相違がある。そこで、国語の語序による文字の位置や補助詞を音韻によって表示する方法などが考案された。『古事記』は、これらの種々の表示法を併用して、漢文風にも、国語の音韻表示の風にも、交えて書いた。そうしてつねに注を加えて読み方や意義について説明している。歌謡のごときは、とくに国語の原形を尊重するがゆえに、全部字音による音韻表記の法によった。本書では、すべて原文を省略したから、今参考として、天地のはじめの条の一部の原文をつぎに載せる。

天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神、〈訓高下天阿麻、下効此。高御産巣日神たかみむすびのかみ、次神産巣日神かみむすびのかみ。此三柱神者、並独神成座而、隠身也。次国稚如浮脂うきあぶら而、久羅下那州多陀用弊流之時、〈流字以上十字以音。葦牙あしかび萌騰之物而、成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神のかみ〈此神名以音。天之常立神あめのとこたちのかみ〈訓常云登許、訓立云多知此二柱神亦並独神成座而、隠身也。

 句読点・返り点は原文にはなく、後人の付けたものである。
 これは、もと国語による伝承をなるべく原形を保存する形で文字に表記したものと考えられるが、さてこれを読むことによってもとの国語にかえすことは、なかなか困難である。「久羅下那州多陀用弊流」のごときは音韻表記がなされているから、「くらげなすただよへる」と読むことができるが、その他の部分は簡単にはゆかない。「天地初発之時」の句にしても、「あめつちのはじめのとき」「あめつちのはじめておこりしとき」「あめつちのはじめてひらくるとき」など、さまざまの読み方が考えられている。撰者にしても意味がとおればよいとしたものであるかもしれない。しかし「隠身也」のごときは、「みみをかくしたまひき」の訓と「かくりみにましき」の訓とが対立しており、これは読み方によって意味が相違してくるので、どちらでもよいというわけにはゆかない。
 太の安万侶は序文については立派な漢文で書いているのであって、漢文の素養の十分にあった人と考えられるが、『古事記』の本文を書くにあたって漢文のみを採用せず、できるだけ国語の原形を保存するにつとめたことは大きな功績である。国語の伝承は、漢文に訳してしまっては本意を失することが大きいのである。
 『古事記』は成立の後、あまり広くはおこなわれなかった。これは、その成立後八年にして『日本書紀』が成立し、これが国家の正史として見られたからでもあるのだろう。『日本書紀』は三十巻あって、『帝紀』と『本辞』のほかにできるだけ広く材料を集めて編纂したようであって、『古事記』にくらべると時代が下るにしたがって詳密になっている点に特色がある。
 『古事記』は、古いところでは『万葉集』『土佐国風土記』琴歌譜きんかふ』などに書名をあげて引用しており、先代せんだい旧事本紀くじほんぎ』には、書名はあげないが材料として使用している。その後流布されることが少なかったらしく、中世の頃は所在がまれであったという。したがって古い写本も少なく、応安四、五年(一三七一、一三七二)に書かれた真福寺本が最古の写本であるにすぎない。しかし、近世国学がおこるにおよんでは『日本書紀』をもって漢意からごころが多いとし、『古事記』を偏重するようになり、本居宣長の『古事記伝』のごとき大著をも見るに至った。
 最後に『古事記』の注釈書の主なものをあげておく。

『古事記伝』   本居宣長

『本居宣長全集』に入っているほかに、数種の刊行がある。

『古事記新講』  次田つぎたうるう
『古事記評釈』  中島悦次

   四


 『古事記』の神話・説話は、歴史的体系のもとに序列されてあるので、種類・性質による配列はない。よって今、便宜べんぎのためにその主なものを種類わけにしてつぎに掲げる。一つの神話・説話についてはその主な性質によって分類したが、数種の性質を有するものは、各項に重出ちょうしゅつしたものもある。各称の下の数字は本書のページ数である。〔以下、ページ数の表記は省略〕

祭祀  鎮火祭ひしずめのまつり 道饗祭みちあえのまつり 身禊 風神祭かぜのかみまつり 誓約うけい 天の岩戸 はらえ 収穫の神の系譜 新嘗祭にいなめまつり
神宮・神社 草薙の大刀 須賀の宮 御諸山みもろやまの神 出雲大社 伊勢の神宮 気比けひの大神 比売碁曽の社 出石いずしの大神
天降あまくだり  伊耶那岐の命 菩比ほひの神 天若日子あめわかひこ 建御雷たけみかづちの神 迩々芸の命
神教  天の神の教え キジ 事代主ことしろぬしの神 熊野の高倉下たかくらじ 八咫烏やたがらす 弊羅坂へらさか〔幣羅坂〕の少女 神功皇后
神の出現 少名�古那すくなびこなの神 一言主ひとことぬしの神
神のたたり 出雲の大神
呪禁じゅごん卜占ぼくせん 太卜ふとまに 鎮懐石ちんかいせき うけい うけい狩り 神うれづく
神婚  豊玉�売とよたまひめの命 大物主おおものぬしの神 肥長比売ひながひめ 阿加流比売の神
異郷  黄泉の国 根の堅州国かたすくに 海神わたつみの宮
事物の起原 天地のはじめ 婚姻 大八島 万物 三貴子の出現 穀物 医薬 葦原の瑞穂の国 天皇の御命 時じくの香の木の実 松浦河まつうらがわの釣り魚 吉野の蜻蛉野あきずの(他の地名起源は省略)
英雄・豪傑 八岐の大蛇退治 建御雷たけみかづちの神 神武天皇  五瀬いつせみこと 大�古おおびこの命 倭建やまとたけるの命 建振熊たけふるくま 雄略天皇
氏族  海神の系統 民族同祖 猿女さるめの君 意富おおの臣ら 建内たけうち宿祢すくねの系譜 置目おきめ老媼おうな
兄弟の争い 大国主の神 海幸と山幸 大山守おおやまもりの命 秋山あきやま下氷壮夫したびをとこ
兄弟の国譲くにゆずり 神八井耳かむやいみみの命 菟道うじ稚郎子わきいらつこ 仁賢にんけん天皇
頌徳しょうとく  初国知らし御真木の天皇 聖帝の御世 雁の卵
国土  千葉の葛野
求婚  八千矛やちほこの神 神武天皇 若日下部わかくさかべの王 金�Kかなすきの岡
婚姻  伊耶那岐の命 木の花のさくや姫 美夜受比売 カニの歌 髪長比売かみながひめ 吉備きび黒日売くろひめ 八田やた若郎女わかいらつめ 木梨きなしかる太子みこ
妻争い 大国主の神 伊豆志袁登売 女鳥めどりおおきみ 歌垣うたがき
嫉妬しっと  須勢理�売 石の比売の命
醜女しこめ  石長比売いわながひめ 丹波の二女王
勧盃かんぱい  須勢理�売 酒楽の歌 三重みえ采女うねめ
御子みこの誕生 日子穂々手見の命 鵜葺草葺合うがやふきあえずの命
刀剣  あめ尾羽張おはばりの神 草薙くさなぎの大刀 佐士布都の神
葬式  天若日子あめわかひこ 倭建やまとたけるの命
反乱  当芸志美美の命 沙本�古みこ 墨江すみえの中つ王 目弱まよわの王
芸能  国主歌くずうた 枯野からのという船 吉野の童女 歌垣うたがき
雑   兎とワニ 貝比売きさがいひめ蛤貝比売うむぎひめ 大国主の神の災難 神名の名のり 建御名方たけみなかたの神 引田部ひけたべ赤猪子あか 志自牟の新室楽



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
入力:川山隆
校正:しだひろし
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上代人の民族信仰

宇野円空

   自然崇拝


 古代人の生活はその物質的方面においてと同様に、その精神的方面においても、周囲の事物から離れてはまったく考えられないものであった。かくてたとえば、その食養的関係にあるもの、漁業・狩猟の対象または、その用具あるいはそれに関する種々の行事、これらがただ単なる物質的事物である以上に、それに対して特殊の宗教的態度をとり、神聖視するので、そこから種々の呪術的儀礼や消極的な禁忌きんきも生じ、礼拝や祭祀さいしもおこなわれるのである。したがってこれらを神聖視することは、かならずしも精霊せいれい神祇じんぎの観念を含むものとはかぎらない。かかる観念なく、単に事物そのものを神聖視する場合があるのである。かくしていわゆる自然崇拝 naturism にも、自然の事象が神秘的呪力をそなえておるとか、神霊の宿すところまたはその権化であるとか、またその象徴であるとかのために神聖なものと見られるほかに、さらにもっと簡単にまた直接に、事象そのものを神聖視するばあいを見のがしてはならない。
 そして、これをわが上代について見るときは、少くともわれわれの知る時代はすでに相当に進んだ文化を持った民族として、その宗教的信仰もアニミズム風の信仰ないし精霊崇拝を基調とする状態であったから、このきわめて簡単なる自然崇拝に関しては、がいしてそういう事実は直接にはあたえられていないといってよい。しかし、厳密にその資料を吟味ぎんみすれば、やはりその痕跡もしくはその断片をいたるところに認めることができ、それらを総合することによって、これが原初形態を再現して見ることもできる。そしてこれは、ある意味では自然崇拝の幼稚な段階であると同時に、また進んだ宗教観念のうちにも常に存し、多くのばあいにはその基礎をなしておる。この意味でもこの方面の説明が重要なことではあるが、いまは直接にそれに深入りすることができない。
 由来、自然崇拝といえば、上代人はその周囲の自然に対して、その全体をつねに神聖視し、そのすべてに対して宗教的態度をとるもののように考えられがちであるが、しかし事実はかならずしもそうではない。それは、なんらかの特殊の関係によって、特殊のもののみが選ばれて宗教的対象とされる。そしてこれにはことに各民族の自然的環境・地理的関係、ならびにその文化の程度・経済的生活の様式などによって著しい差異が生ずるので、したがってそれが上代人の間にいかなる傾向をもっておこなわれておるかを確かめ、その種類や動機をあきらかにすることによって、その宗教信仰の特徴を具体的に示すことともなる。
 いま、これを上代日本人について見るに、動植物ないしその他の事物で宗教的崇拝の対象となったものは、その種類においてはきわめて少なく、またこれらがその経済的価値から神化されるということは少なからずその事実を認めるにしても、かならずしもそれにかぎらず、またそれが主要なるものでもない。それで神聖な動物としては、記録に現われるところではヘビがもっとも多くその大部分を占め、そのほかにはオオカミも少くはないが、トラ・ワニ・ウサギなどは特殊の例と見ることができる。植物としては単に大木としたのがことに多く、けやき・杉・くすむくなどもあり、またツバキ・発枳などの特例もあげることができるが、ただしこれらも特に、その大木であるばあいが多い。これをもって見るに、その崇拝の対象となるものが、有用、殊に経済的生活に必要なものからむしろよほどかけ離れておるということができる。動物においてもクマやイノシシ・シカの類をさしおいて、特にヘビとオオカミとが諸所に散見することは、上代人の神秘観が単に食用、または有用ということにもとづいているのでないことを明らかにするものである。これは、一面には上代日本人がすでに狩猟時代のものでなく、肉としてのイノシシ・シカなどに宗教的力を認める以上に、農耕時代の民族として、殊にその開墾かいこんまたは耕作に密接な関係のあるヘビやオオカミの類を、より多くいっそう神秘的な存在と考えたからでもあろう。すなわち『常陸風土記』によると、麻多智という人が開墾に従事中、夜刀神やとのかみすなわちヘビが群がり来たって耕作を妨げた。そこで麻多智は大いに怒り、みずから武装してこれらのヘビを打ち殺し、また駆逐くちくし、山口のところに至ってくいを打ち、堺を掘り、夜刀神やとのかみに告げてこれより以上を神地しんちとし、以下を人間の田地とする。今後、神祝かみのはふりとなって永久に奉斎ほうさいするから、たたることなくうらむことなかれといった、とある。これたまたま宗教信仰が、その生活様式すなわち農耕生活と密接なる関係を持つことを物語る一つの例ではあるまいか。しかして、その神秘観の根底をなすものは畏怖いふすなわち「かしこ」の感情であり、ただ単に恐れるだけでなく、一面にはこれを尊崇そんすうする方面もあるので、したがってヘビに対してもただこれを調伏ちょうぶくする方面があるのみならず、これを宥和ゆうわして、神とあがめまつる方面があるのである。
 また樹木においてもその種類はきわめて少なく、くすけやき・杉など、そのいずれにおいてもそれらが崇拝の対象となる所以ゆえんは、かかる樹木の一般に持つ神秘的特性によるのでもなく、したがって、かかる種類の樹木一般についての種属的崇拝でもない。むしろそれらの亭々ていていとしてそびえた姿、鬱蒼うっそうとしてしげった様子に、一種の神秘感をいだくのである。ためにそれは、くすけやきなどの個々の樹木の崇拝である以上に、それらが大木であり茂樹もじゅであるところに、その宗教的性質があり、これがために、記録の上でも特に何の木ということなくして、単に大木とのみ記されるのを多く見受けるのである。
 これは石の場合にも同様にいうことができる。石の崇拝は、現今でも種々の形をとっておこなわれておるが、上代記録にはきわめてその事例が豊富である。しかしてあたかも、さざれ石のいわおとなるように、石にもまた他の動植物と同じく生命あり、成長するものという考えがあったので、したがって石は、われわれの考えるように生物から区別さるべき無生物ではなかったのである。そこでかかる石がその大小の如何いかんによらず、その本来の性質から一種の神秘的存在と考えられることはありうるにしても、それが特に人間の注意をひくためには、たとえば稀少とか壮大そうだいというような何らかの条件がなくてはならない。この点からも、すべての石が宗教的に取り扱われるということはかならずしも普遍的なことではなく、殊に上代の記録においては、厳密な意味でこの種に属するものはかえって見い出しがたい。かくて宗教的信仰の対象となった石は、ただ単に石である以上に、巨石であるか奇石であるか、その他美しき石などいうように、また何らかその実生活に関係を持つものであった。この意味で少なくとも上代日本において見るところは、石の崇拝というよりもむしろ巨岩・奇石の崇拝であり、これはさらに厳密には、巨大なるもの・奇異なるものに対する崇拝ともいうべきである。
 巨大なるもの・奇異なるものという点では、山の崇拝のごときもまた樹木の崇拝、森の崇拝のごときも同様である。ただし、山は巨大なるもの・奇異なるものというほかに、なお種々なる意味で上代人の世界観にも密接なる関係を有し、殊に農耕生活をいとなむものにとっては雨の神・水の神としてその実生活に密接なる関係があるから、単に壮大そうだいなるもの・恐るべきものという以上に、鎮護の神・農耕の神として親しみの深いものとされた。このことは山の神が少なくともその古代的な形では、女性神と関係深いことの多い点からも知られるかと思う。殊に、こんもりとした山が特に神のうしはくうしはく。領有する。山として崇拝されることは少くない。香具山や三輪山のごときはそれであるが、これと同じ意味で高台の地域は多く、神のうしはくところとされる。もとより山と丘とは明らかな区別はないが、それはまた、森とも区別さるべきものではない。森が神の境域とされたことは、古く「社」もしくは「神社」の字をもりと読ましたことからも知られる。もりの語原が何であろうと、すでにシナでも『史記』などでは「社」と「杜」とが相通わした個所があるごとく、森と神の境域とには密接なる関係があったのである。
 また、火山国という地質的関係からは火山に対する崇拝があり、地震の神・温泉の神が記録の上に少なからず見られる。しかしてこの火山と普通の山とが上代人におよぼす関係はおのずから異なるが、一般に山の神・丘の神・もりの神が人間生活と親しい関係を持ったのに比較すれば、一方、海の神・浦の神は一般に恐れられる方面が強い。ただし、四面海をめぐらす地理的関係にありながら、海に親しむ方面があまりにもなく、海のかなたに関する観念も物語もほとんどないのは、また一見奇異な特徴である。これおそらくは、上代日本人がすでに農耕期にあった民族として、海によって生活する民でなかったためでもあろうし、それは上代人が星に関する信仰も物語もほとんど持ちあわせていないことと一致するもののようである。
 これはまた風雨や雷電のばあいにも同様で、これらに対する崇拝も、風土によってその分布と性質とを異にする。素戔嗚尊すさのおのみことを暴風神と解する説はしばらくおいて、一般に上代日本人にとっては、暴風・雷雨はこれに対する恐怖以外に、また農耕生活に深い関係あるものとして宗教的対象となったのである。ことに風の神は龍田たつた風神かぜのかみとしてのほかには特殊の活動を見ないが、この風神の祭りが国家の重要なる行事とされたのは、広瀬ひろせ大忌祭おおいみのまつりとならびおこなわれるところからも、それは何よりもまず農耕生活に関するもので、この点は『延喜式』祝詞のりと」を見てもあきらかである。
 かくして風雨・雷電も、これを天空のおそるべき現象としてあがめるよりも、それが農耕に関係深いために、宗教的な儀礼の対象となったというほうがかえって穏当おんとうである。これらから考えると、他の民族で多く重要な位置をしめておる火の神が、日本の古いところでは迦具土神かぐつちのかみとして以外にえて現われてこないのも、農耕生活に集中された上代人の信仰の一つの反映ではあるまいか。かくして上代日本人の精神生活は、ある意味では、この地上の生活に集中されていた。すなわち現実の地上生活以上に、海に対しても天空に対しても、あまり関心を持たずにすんだように見える。したがってまた、彼らが天体の諸現象に対しても、これをどれだけ宗教的対象としたか疑わしくなる。もとよりシナ思想の影響からも、天空に関する種々の思想は記紀にも相当にあらわれているが、本来の民族的信仰として、はたしてどのくらいのものがおこなわれていたのであろうか。
 天照あまてらす大神おおみかみ素戔嗚尊すさのおのみこととを、太陽と嵐とに配して解するごときは、その神名の解釈にもとづくものと思われるので、その神名の解釈としても、これをただちに太陽とし嵐とすることは、なお考慮の余地があるのではなかろうか。ただしそれは上代日本の神話および信仰において、ことに『日本書紀』や『古事記』の上で、天照大神が太陽神を意味しないというのではない。天照大神をさして日神ひのかみといった語は『書紀』にも諸所にあり、『古事記』序文のごときは太陽そのもののようにも書きあらわしている。また、天皇みずからを『古事記』で日神ひのかみの子孫といい、『万葉』で日之皇子と称することが、ただちに天照大神を「日」と見なしてのことだかどうかは明らかでないけれども、少なくとも太陽をその祖先として考えていたことだけはたしかであろう。
 この天照大神をおいても、これとなんらの関係もなくして、別に太陽神の信仰があったことは認められる。すなわち、顕宗けんぞう紀」三年四月の条には日神とあり、これは『旧事紀くじき『天神本紀』に天日神命とあるもので、これを「神名帳しんみょうちょう」についていえば、対馬島つしまじま下県郡しもあがたぐん阿麻�留神社に該当すると考えてよかろう。これはまた「顕宗紀」三年二月の条に月神とあるものが、『旧事紀』で天月神命にあたり、「神名帳」において壱岐島きのしま壱岐郡いきぐんの月読神社に該当するところからも知ることができる。もちろん、この月神命というのも日神命というのも、壱岐いき対馬つしま県主あがたぬしの祖先であった歴史的な人物神ではなく、天体崇拝から祖先をそれに結びつけたものであろう。それゆえこの月神といい日神というのも、やはり太陽の神であり月の神にほかならないのである。ただし、それがためにこの日神および月神を天照大神および月読尊つくよみのみことにあてはめるべきではない。しかもこの場合の日神ならびに月神が壱岐・対馬の事実であることは、おのずからこれが西方文化の影響ではないかとまで思わしめるのである。ただし天照大神の起源の如何いかんによらず、それが月読尊と併称される物語ないし記録の時代においては、すでに天照大神という内に太陽神としての意味が含まれておるので、月読尊はかかる日神に対する月神であるのである。今、『延喜式』「神名帳」について月神に関する社を列挙すると、伊勢には内宮ないくう月読宮つきよみのみや一座、外宮げくう月夜見つきよみ神社があり、山城国には葛野座月読社、樺井月かばいつき神社、月読つきよみ神社、丹波国には小川月おがわつき神社、および壱岐の月読つきよみ神社があるが、このうち葛野の月読社が壱岐の月読神社と直接の関係あることは、「顕宗紀」三年二月の記事によっても知られる。そのほか『万葉』などにも月読ということはしばしばあらわれておるので、これらから見ても、月の崇拝があったことだけはこれを認められる。しかし、それらがはたしてどのくらいに古い思想であるか、また、一般人の信仰生活に関係を持っておったかは疑わしい。それゆえ神話上にも、月読尊の活躍かつやくした点はきわめて少なく、しばしば素戔嗚尊すさのおのみことと重複し、したがってこの両神を同一神とさえ見る人もあるくらいである。
 かくして日月に関する信仰は、一般に予想せられるほどには主要なものでなかったらしく思われるが、さらに星に関する崇拝はほとんどなく、わずかに住吉すみよし三神さんじん、すなわち三筒男神のつつは星を意味するともいわれ、あるいは住吉の神が航海の神であるところから、これが星崇拝であったかもしれない。ただし、これはきわめてまれに見る事実で、その他には天甕星天津甕星あまみかほしか。とか香背男天香香背男あまのかがせおか。といい、親しみのない、むしろ荒ぶる神として表現されたものがあるくらいである。これらの事実からすると、少なくとも上代日本人においては、その信仰生活においてもまた神話の上においても、天体の諸現象があまり重要な位置を占めていなかったということができるように思う。かくして、大自然の諸現象に対する不可知ふかち感から宗教信仰の発生を説く自然崇拝説のかならずしも穏当おんとうでないことは、この上代日本の信仰の事実からも認められる。そして、それよりも手近てぢかい周囲の事象に対する驚異、たとえば雷や火のごとく上代人に直接畏怖いふの感を惹起じゃっきさすもの、さらに、それにも増して彼らの経済的生活、ことにその農耕生活に密接なる関係を有するものが、その宗教信仰の対象となったのである。

   呪物じゅぶつ崇拝すうはい


 呪物じゅぶつ崇拝すうはいについてはその概念規定に種々の説があるが、それだけこれには、他のいわゆる自然崇拝や精霊せいれい崇拝と交錯こうさくした部分を含んでいるばあいが多い。しかしこれが自然物と人工物との如何いかんによらず、だいたいに手ごろな物体に対する宗教的態度として、呪物じゅぶつの崇拝には他の崇拝と異なる性質がじゅうぶんに認められる。しかもこの意味で、自然物がそのまま特に呪物とされるばあいが少なからずある。たとえば、石のごときも手ごろなものが呪物とされたことは、神功じんぐう皇后の子饗コフ石によって出産をばされた物語でも知ることができる。この他、米や酒・塩をもってけがれをはらうとか、桃の実をもって悪魔をはらうようなこともあった。また、牛の肉や男茎おはせの形をしたものを用いて、種々の呪術的行為をしておるのも一種の呪物である。かくて動物や人間の髪・つめ・骨を使ったり、植物の実・枝・葉などが呪術的にもちいられたり、殊に金石きんせきの類はそのまま呪物となることもあるが、なお一般に呪物は、これらのものを模造したものや、またそれらを組み合わせたり人工を加えたものであった。それゆえまた事実上、多くの人工物は、呪物として崇拝されるということができる。かの八坂瓊やさかに勾玉まがたまというようなものも、その形態によって名づけられた一個の玉についていうのではなく、種々のものをつづり合わせたものに名づけられたので、そこに装飾美も生ずると同時に、呪物としての意味も生じたのである。
 しかして自然物はもとよりのこと、人工物といえども本来呪物として作られたものでなく、他の目的のために作られたものが多いので、たとえば多くの鏡・剣・玉の如きは、かくして第二次的に呪物となったのである。同様に米などのごときも、本来の食物としての強い関心から呪物とされ、その食用とはまったく別な方面、たとえば悪魔をはらうために用いられ、またけがれをはらうためにも用いられている。そして上代人は、その所有物、殊に身につけるものに対しては特殊の関心を持ち、これを身体の一部分とさえ意識するので、したがって、かかる装飾品が特別の呪物となることは多い。しかも一面には何らかの呪物を身体に飾って、その力によって自己を外界から擁護ようごすることにつとめるので、そこには両者の帰一きいつがあった。かくてくしつえ、または領布ヒレが特殊の呪物とされ、これをもって悪魔をはらうための呪具ともしたのである。また身辺に所持する玉や鏡はそのかがやく性質から、剣や矛はその截断せつだん破邪はじゃの能力から一つの呪物ともなるので、したがってまた、これを身体につけ身辺に所持するところに、その本来の性質以上に外界の悪気あっきを防ぎ、生命を増長すると認められるのであった。
 もとより領布ヒレは、考古学的遺物としては存しないが、たとえば出石いずしの八神などの中に見え、その他の場合にもしばしば呪物としてあげられるものである。大己貴おおなむち命が素戔嗚尊すさのおのみことのもとに行きヘビのムロに寝たとき、須勢理毘売命がヘビの領布ヒレをあたえて、その領布ヒレをもってヘビをはらえと教え、さらにムカデの領布ヒレはち領布ヒレをも得て身の難を逃れたという物語は、領布ヒレが一つの有力な呪物であったことを示すのである。しかしてこの領布ヒレについては、『古事記伝』や『書紀通釈』『日本書紀通釈』か。その他に種々の説があるにしても、それが服具であることだけは誤りでなかろうし、服具が単なる実用以上にその所有者の一部分とみなされ一種の呪物とされたことは、玉や剣・鏡のばあいとも同様に見るべきである。
 玉は上代人にとっては剣・鏡とともに特別の呪物となっており、特に三種の神器の構成のごときは、上代人のこの宗教的信仰にもとづくものということができる。しかし、この玉の語源的な意味、殊にこれと魂との間に予想される何らかの関係に至っては、いまだ明らかな説明がほどこされていない。ただ「たま」という語は、あたかもその他の神聖語のごとく、事物の名や人名・神名の上あるいは下にそえられて、一種の美称となることがある。しかもこのばあい多くは、いわゆるに該当する意味であることはいうまでもないが、もともと玉そのものが神秘的にして魂と密接なる関係があるとすれば、かかる「たま」という語も、これをさらにその原本的な意味にまで還元して考えることが無意義ではなくなる。そして、玉そのものが少なくとも呪力あるものとして呪物に用いられたことは記録の諸所に見受け、ことに記紀によると塩盈珠しおみつたま塩乾珠しおひるたま、または如意珠にょいしゅというのがあり、また御祈玉ホギというのが『古語こご拾遺しゅうい』や『延喜式』などに見えるので、特に後者は、卜占ぼくせん降神こうしんの儀にもちいる凝視の白玉でないかと思われる。
 元来、玉については手玉てだま足玉あしだまのごとく装飾する場所を示したもの、白玉・赤玉・青玉・紺玉・緑玉という如くその色合いを示すもの、荒玉あらたま・未玉などの如くその加工状態を示すもの、丸玉まるだま竹玉たかたまのごとくその形態を示すものもある。しかして上代の記録でもっともあらわれるものは、特に曲玉まがたまと称せられるものである。この曲玉については古来、種々の説があって一致しない。すでに『書紀』ではこのをもって曲妙の意なりとしておるので、本来の意味はおそらくはこのあたりにあるのかもしれない。しかし、また一方考古学上の遺物として、もっとも特色ある牙形のいわゆる勾玉まがたまの存するところから、曲玉まがたまをもってその形態より称せられた名称とする説明も有力であって、その牙形をなすに至った起源については、また種々の説明がある。すなわちその一つは坪井博士〔坪井正五郎か。以来の通説となっておる牙説で、これは日本人の南洋的起源および狩猟生活の想定と密接な関係がある。このほか勾玉まがたまを穀物の象徴とするのは農耕生活に関連し、釣針つりばりより来たとするのは漁業生活を予想し、また腎臓の形だとするのも狩猟生活にそのよるところがあるといえる。ただし、これらの諸説はいずれも実証的根拠の薄弱な点から、容易に賛同しがたいのであって、その牙形の玉を称してまが玉というのも、じつは近代のことであり、上代にはたしてそれのみを曲玉まがたまと称したかは少なくとも問題である。
 また剣や、殊に鏡の中でも、少くとも現今、考古学的遺物として知りうるものは、多くはシナ起源に属するものであるが、それらが新しい伝来の金属器であるだけ、上代日本人にとってもその貴重さから一つの呪物となったことは想像される。鏡と巫術ふじゅつとの根本的関係は別にして、すでにシナにおいてもその鏡製作の目的について、よく日月とその明を合し鬼神きしんとその意を通じ、もって魑魅ちみを防ぎ疾苦しっくを整えるというような古伝説もある。もとよりこれを事実として信ずることはできないが、鏡が単に肖像を写し光熱を集めるためのみでなく、一つの呪物として信仰されたということを物語るものである。ただし、これがためにかかる事物の伝来にともなってそれに関する呪物的崇拝がはじめて伝わったというのではなく、呪物崇拝発生の心理的過程が、特に鏡などに関して独自におこったものとしてさしつかえなかろう。このほか、釣針つりばりが呪物となったような記事はあるが、これはかならずしも近年往々いわれるように、釣針つりばり一般に対して呪力を認めたのにもとづくのではなかろう。ただ偶然の機会が、特定の釣針つりばりを呪物としたので、それが呪物とされるのは何らか特殊な一つの事件に関連して、むしろ偶然におこってくる場合がきわめて多いように思われる。

   霊魂観念と霊威れいい観念


 霊魂観念のうちにはそれ自体一つの個体的、もしくは人格的な存在であるばあいと、機能的・流動的な存在として一種の非人格的なものとをけて見ることができる。しかもすでにアニミズム的傾向を持った上代日本人、ことにその記録にあらわれたうえでは、一般に「たま」と称せられるものが、これらすべてを包含ほうがんした内容を持っている。したがって人格的な霊魂も自由霊としての精霊せいれいも、また、それらのはたらきとしての霊威れいいというような観念も、ひとしく「魂」という語であらわされている。
 しかしてこの魂は人間にもあるごとく、その他の特別の事象にもあるとされる。ことに農耕民族であった上代日本人にとって、農作物すなわち穀物、特に稲(いね=よね米)がその主要なる対象となるところから、すでに「いね」また「よね」という語にも見るごとく、それに一種の神秘的な魂を認めて、これを稲霊イナダマと意識した。けだし米は穀物の主要なるものであったから、その稲の魂は総じて穀物の魂まで包括ほうかつしたが、これは草一般を「かや」をもって総称するものと同様である。かくして記録の上でこれを漢字をもってあらわすときには、稲魂とか稲霊というように稲に制限されておるが、ただしその和訓である「うか」または「うけ」たるものは、かならずしも稲ないし米に限ったものではない。日本紀にほんぎ私記しき』にも「宇気者食之義也」とあり、一般に食物をさすと見てよい。
 木または森についてその木霊こだまという語は、ずっと古い記録には見い出されないけれども、『延喜式』には木霊こだま山神をまつることがあり、『和名抄』にも樹神(コダマ)などあるところからは、少なくともその霊魂または精霊せいれいという観念を人々は持っていたらしい。またつるぎのごときも玉などとともに一種の呪物とされ崇拝の対象とされたのであるが、『記』には布都ふつの御魂みたまとあり、これを『紀』に�霊とあるごときは、特殊の剣に対してその霊魂の存在が認められていたというべきである。
 なおまた魂はただにかかる事物のみならず、言語とか地域などにもこれを認めている。言霊ことだまは古くは『万葉』に見え、その後もしばしば見えるのであるが、これらの事例によると、上代人が言葉そのものに一種の神秘的な作用を認めたものと見ることができ、一般にはこれを言語精霊と解釈している。そしてもとより一般の言語よりも宗教的な言語に、特に神秘性の認識が強かったことは事実であろうが、実際はかならずしもそれに限らないようである。また古代において地域は、これを「くに」という語であらわすのが普通であるが、その語源についてはしばらくおいて、「くに」はかならずしも土地のみをいうのではなく、土地に即した共同社会といったほうがよいかもしれない。しかして上代記録の諸所、殊に『延喜式』「神名帳」の諸地方に、国魂神くにたまのかみに関する記事が少なからず発見される。そしてこれら各地の多くの国魂くにたまは、後には一つの統一された国魂神くにたまのかみとなっておるが、最初から本質的にそうであったのではなく、きわめて部分的に限定されたものであったらしい。
 以上あげてきた種類の魂は、がいして独立な人格的な存在とは考えられない方面であるが、これが人間の魂となると、比較的に個性のある人格的なもの、すなわち第二存在としての霊魂というような観念となる。ただしこれもやはり、生命霊ないしは霊威れいいというような内容を持ったものが多い。これに幸魂さきみたま奇魂くしみたまといわれるものと和魂にぎみたま荒魂あらみたまといわれるものとがある。幸魂・奇魂というのは『書紀』によると、大己貴神おおなむちのかみ〔大国主命。が天下をおさめる協力者を求めたときに、神光しんこう海をらして浮びくるものあり、我あらずんばなんじ何ぞこの国をたいらぐると得んと言ったので、大己貴神がなんじたれぞと問うた。そこで答えて我はこれなんじ幸魂さきみたま奇魂くしみたまなりといったとある。これによると幸魂・奇魂は一つの副人格 Doppelgngerドッペルゲンガー であるが、かかる事例は、ただこのところに一回だけ見え、『万葉』に見える「くしみたま」がはたして同一のものかも疑わしい。これをもってただちに和魂・荒魂にあてるのも何ら実証的根拠がなく、本居宣長のごとく両者を和魂にぎみたまの一名のとするのも、六人部むとべ是香よしかのごとく荒魂についていうとするのも、また加藤かとう千蔭ちかげのごとく奇魂をもって和魂・荒魂の両方をさすとするのも確かでない。これは幸魂さきみたま奇魂くしみたまというばあいの幸および奇と、和魂・荒魂というばあいの和および荒とは、ぜんぜん相違した範疇はんちゅうであって、両方を相互に関係せしめて解しようとするのは穏当おんとうでないということになる。かくして幸および奇については『日本紀私記』以来種々の説明もあるが、畢竟ひっきょう文字どおりに解したのがもっとも穏当で、幸というも奇というも、いずれも魂そのものをたたえたものにすぎず、したがってこれは二個の魂をみとめる複霊観ではなく、かつまた必然に、和魂に該当すべきものでもない。
 しかし和魂にぎみたま荒魂あらみたまという考えは、その事例の数からみても幸魂・奇魂の比でなく、また幸魂・奇魂が単に同一のものの讃称さんしょうであるのとは異なり、和魂と荒魂との間にはどれだけか相対立したものという考えがある。もとよりその起源においては、これも同じく単に魂をその性質にしたがって二様にたたえたものにほかならないにしても、少なくとも記録の上ではその間に多少、分化対立の考えがあったと見ねばならない。これは「神功紀」に「和魂は王身について寿命を守り、荒魂は先鋒となって師船を導く」とか、「荒魂をぎて軍の先鋒となし、和魂を請じて王船の鎮となす」とあり、また『出雲風土記』に諸神の「和魂は静まって、荒魂は皆ことごとく猪麻呂が乞うところにりたまえ」というような両者の対立からも明らかである。そこでこの和および荒についてもこれまで種々の異説が生じたが、これもまた結局、それを文字どおりに解するのがもっとも穏当なようである。和と荒との対立を善と悪との対立とするのも一つの解釈ではあろうが、ただし、悪と荒とが語源的には密接に関係するにしても、荒はただちに悪そのものではない。これは荒魂に関する記録上の事実が示すごとく、すべてが決してにくむべきものではなくて、むしろ多くの事例が好意的なものであることからもじゅうぶんに理解される。魂のほかにも、和と荒とは種々のばあいに相対立して用いられておるが、それはいずれの場合にも善とか悪というような倫理的な意味ではなく、さらに異なった内容を持ったものである。すなわち本居宣長のいうところ『記伝』三十、『全集』二の一八四七、参照)はだいたいにおいてもっとも穏当な説で、和に対する荒の意味は単なる荒ではなくして、むしろ広く剛強ごうきょうといったような内容を持ち、それは和と同じく、しかしてそれと相並んで魂の性質や機能を示した一種の修飾辞にほかならないのである。したがって、和魂と荒魂とを相対立する二個の霊魂と解するのは、かならずしもその原始的な意味に適合するとはいえないであろう。ただしそれが記録時代のずっと後になると、殊に年代はたしかでないが、「大倭神社注進状ちゅうしんじょう」などでは、両者の分化対立はいっそう明らかとなってくる。すなわちそれに「やまとの大国おおくに魂神たまのかみは大汝貴命の荒魂にして、和魂と力をあわせ心を一つにして天下の地を経営せり」とあって、これは先にあげたところと比較しても、そこに相当の距離または発展がある。以上述べたところを要約すれば、幸魂・奇魂はもちろん、和魂・荒魂においても少なくともその初めの状態では、魂は人間・その他の事物の特殊の機能に対する古代人の意識をあらわすもので、その特性が種々の言葉でいいかえられたにすぎないのである。ただし、この魂が多少とも実体あるもの、その本体である人や事物を離れて、どれだけか別に存在するものと見られるようなアニミズム的な観念が固定したときには、はじめその種々の性質・機能の表現であった和魂と荒魂なども、おのおの独立な別個の存在と考えられるのである。かかる心理過程は他にも多くの事例があることで、たとえば生井いくい栄井さくい生日いくひ足日たるひ、または豊石とよいわ窓神まどのかみ櫛石くしいわ窓神まどのかみなどのばあい、最初はその性質による二種の呼びかえにすぎなかったものが、後にはまったく二個の存在となったのである。
 かくて魂(たま)の古代形態は、事物そのものの性能を示すもので、それが多少とも実体的に考えられるまでは、単に属性的な力やはたらきであったように、それ自身独立の存在を有するものではない。この意味では、「たま」は個体的な霊魂というよりも、むしろ機能的・流動的な存在として一種の非人格的な霊質というべきもので、人と動植物とを問わず共通の普遍的な生命であり、そのまま死後に存続して死者の人格を代表する、いわゆる霊魂とはちがったものである。そしてこの生命としての霊質は、ひとり人間や動植物のみならず、上代人の心理としては石にもつるぎにも、あるいは言葉にも国土にもこれを認め、すべてを生きたものとしてその神秘的な生命原理である霊質、すなわち魂を想定するのである。さらに『万葉』などによっても、「たま」という語は心ということをあらわし、また、「たましい」となっても心または精神という意味にあたり、これが平安朝ごろの用例から見ても力量・才能などの意味に使われている。だから、魂がこんな神秘的な活動能力、生きる力の意味を持っていた点からも、「たましい」または「たま」の古代的意味は、人格的・個体的な霊魂というよりも、むしろ霊質の方の性質をより多く含んでいたと見るべきであろう。
 しかして、その生命ある事物のはたらきが多方面にわたれば、その機能的な魂にも多方面があり、やがてまた幾種かの魂すなわち霊質を持つという考え、すなわち一種の複霊観が生ずるので、かくて和魂にぎみたま荒魂あらみたまも分化して記録時代にはこの複霊観にまで変わったということができよう。ただしこれは、ただちに上代日本人に人格的な霊魂観念の存在を否定するものではない。もとより一般に、霊質と霊魂とはその発生を異にするにしても、両者は多くは互いに結合して具体的な霊魂観念をかたちづくるし、また霊質がそれ自身に個体化され、人格化されて、霊魂となることもあるので、この意味で「たま」ないし「たましい」が、霊質から人格的な霊魂にまで進展したとも考えられ、また「たま」という語の使用が漸次ぜんじ、かく転移したということもできる。かくして霊魂観念の存在に対する事実としては、大己貴神おおなむちのかみの副人格としての幸魂・奇魂のほかにも、特に死屍や墓場に関係ある動物が死霊の顕現けんげんとされるばあいがあり、日本武尊やまとたけるのみことが白鳥に化した物語、田道田道たじ間守まもりか。の墓から出た大蛇の記事などのそれがある。『万葉』には人魂ひとだまというのが一か所見えるが、人魂の色合いは蒼白そうはくであったらしい。以上のごとくして、上代日本においては第二存在ないし死後の霊魂という考えは、少なくとも記録の上ではきわめてその事例にとぼしいのであるが、これ一つには、その来世思想の幼稚なのと相応ずるものではなかろうか。伊弉諾尊いざなぎのみこと黄泉よみ訪問は、その構想が上代墳墓の形式によっておるようにもいわれ、少なくとも死後の存在が認められたうえでの物語であろうが、ただし『書紀』の本文ではなぜかこの物語を削除しておる。また素戔嗚尊すさのおのみこと根国ねのくに妣国ははのくに訪問の記事も散見するが、それもきわめて現実的で、いまだこの世から隔離され、区別された来世というような考えにまではじゅうぶんに発達していない。しかもこれらは単なる死者観念を含んではいても、死霊観念にはなっていない。
 かくして、死後にひきついて存在するというようにあきらかに意識した霊魂の観念はきわめて少ないにしても、記録での幸魂さきみたま奇魂くしみたまないし和魂にぎみたま荒魂あらみたまはいうまでもなく、その他なにがし神の御魂みたまとか皇祖の御霊という記事はきわめて多い。これらは、その個性的であり人格的である点ではたしかに霊魂であるが、実際それは、第二の実体としての魂よりも、その本体の人格のはたらきを意味するものである。一般に魂というときには、同時にまた魂のはたらきをも含めて意識し、多くの場合、むしろこの方面が根底をなして、魂そのものの観念も生じたと見るべきであろう。すでに本居宣長もある場所では、御魂みたまとは恩頼ミタマノフユ(神霊、また霊などともある)などある意にて、その功徳くどくをとなえたる名であるとまでいい、飯田いいだ武郷たけさとも同じようなことをいっておる。かくして魂は、そのはたらきをおいては考えられないようなもの、したがって魂を理解するためにもそのはたらきとしての恩頼ミタマノフユの観念を吟味ぎんみすることが必要である。
 「みたまのふゆ」の原義については、あるいはといい谷川たにかわ士清ことすが、あるいはである小山田おやまだ与清ともきよといっている。しかしこれはまた『天武紀』に招魂を「みたまふり」とみ、『延喜式』に鎮魂祭を「おほむたまふり」とんでおるのと関係するというべく、したがってまた「ふゆ」を「ふるう(振)」という意味に解することもできるばん信友のぶとも比古婆衣ひこばえ』によるとふゆふるうの義であり、神の霊の威ふるいてことさらにさいわたまうをたたえてみたまのふゆというとある。これらの諸説はいずれにしても、発動する魂のはたらきを意味するので、これは記録の上では神祇じんぎ・皇祖・天皇が主であり、まれには三宝に対しても用いられておる。そして、これらのもののおよぼす種々の作用や功果が神秘的・呪術的な力と認めれたときに、それは一種の霊威れいい観念であるが、かかる恩頼ミタマノフユすなわち霊威の観念も、古いところではいくらか実体的に考えられるために、これを記録の上で見ると、恩頼ミタマノフユが魂そのものと混同されるばあいが多いのである。

   神祇観念


 神祇じんぎの観念は多くのばあい、精霊や霊鬼れいきとその用語においても区別できないばあいがあり、したがって、たとえそれらに関係なく独立に発生するばあいがあるにしても、この精霊や霊鬼の段階を経過してそこから転化してくるばあいが多い。そして上代日本人の信仰のうちにも、いわゆる自然神としてまたは機能神としてこの種類のものが多いが、これらの自然神が自然物の精霊観から転化したにしても、神祇としてはもはや、その本体たる事物の第二存在とか別体というのではなく、むしろその支配者、作為者としての超越的な人格となっておるのである。たとえば稲霊イナダマというようなものも、これを稲霊神というばあいには、それは稲の霊ではなくして稲ないし穀物を支配する神祇である。また山に対する山祇神やまつみのかみ、海に対する海童神わたつみのかみのごとき、また木に対する句句廼馳神くくのちのかみというごとき、すでにそれは山や海、木の第二存在というようなものではなく、山海を支配するもの、木や森を支配するものとして、きわめて人格的に考えられた一つの超越的な存在である。ところがその人格的というのにも、その形態や性能に種々のちがいがあるだろうし、われわれの考えるような人格を認めたのは決して早い時代からではなかったろう。しかし、人間の人格に関する観念が発達したからとて、ただちにそのおがまれる対象にまでこれと同様な人格を認めたにはかぎらない。なおまた、たとえ対象が人格的に意識されるからとて、すぐにそれが人格的に言いあらわされるにはかぎらない。ことにこれを文字にした記録からみれば、人格的な崇拝の対象は必然的に、人格的に書きあらわされるものでもなく、また、したがって人格的に書いてないからとて、その内容に人格的要素が全然ないということもできない。
 かくして、殊に『風土記』や『万葉集』、『延喜式』に見える神々が、多くその地名または場所名をもって示されてあるにしても、多くの場合それは超越的人格観念をともなう神祇である。ただしそれらの神祇は、その職能において分化していないものが多く、農耕に関することも、旅行や戦争に関することも、あわせて支配するような神で、厳密にその神の崇拝せられる地域についていえば、たとえ他にも種々の神祇や精霊が同時に存するにしても、これは、その生活全体を支配する守護神ないし至上神であったばあいが多かろう。こういう神祇が民族の発展、地域の拡張とともなって発展していったところに、神々のうちでの大神というようなものも生じ、一部に住吉の大神とか大三輪おおみわの大神というように、地名を冠することはあっても、他の多くの神々の上に特にひいでた神とされてきたのでもあろう。そして一面、地名や場所名を冠した神名が固有名となると同時に、神の特性をもってたたえた一般的な名称もまた固有の神名となる。こうした意味で天照大神というような神名にも、倭国わこくの発展した大倭おおやまとの国での至上神という内容が示されておるということができる。
 これと同時に、人間と同じような尊称をあたえて神々の名を固有名化し、それによって神々を人間化していく方面がある。これについては軻具突智軻遇突智かぐつち句句廼馳くくのちなどのも、天津日子根あまつひこねなどのも、山祇やまつみ海童わたつみつみもしくはも、本居宣長によると一種の尊称・美称であると見られている。これらの語を含むことによって神名が人格的に表現されることになったかどうかはしばらくおいても、とか、さらに男女の性をあらわすなどをそえることによって、神々の人間的性質が明瞭となってきたことは記録の示すところである。なおまた、神という言葉の語源はいまだ明らかでないにしても、神と対立するみことが神々といわず人々といわず、その尊敬辞であることはいうまでもない。そして神というよりもみこととあるものが、いっそう人格的な神であることは、概括がいかつ的にでもいうことができる。
 しかして、神々の個性の発達とその固有名の発達とは相互に影響するもので、これと同時に神々の職能にも分化をきたす。この多神的傾向から、一方に多少それらの間に組織がおこなわれ、殊に物語の構成や記録の編纂によって一つの神会pantheonパンテオン〔神殿。組織が生ずる。この意味では特にわが神代の物語は、上代人の持っていた種々の神祇に、その社会的また血族的な組織をあたえたもので、その時代の社会組織を反映して、神々を父子、兄妹、または君臣主従の関係にまで結びつけたものである。
 かくてこの神会組織、すなわち神代かみよ物語にあらわれる神々には、これまでの民間信仰にその基礎を有するものがきわめて多いことは疑われない。ただし、事実は単にそれだけではなく、なおその物語の作者または記録の編者の手によって構想せられた神々、あるいはシナ的思想の影響を受け入れた神々、こうした比較的に新しく考えられるものが少なからず含まれておると見ねばならない。したがってそういう神々は、上代人の宗教的対象としてよりも、物語上の人物としてのみ存在したものである。しかしてこれらが民族信仰に反映して、その一部にまで取り入れられたのはよほど後のことである。事実、『延喜式』祝詞のりと」などを見ても、そこに神代史に見える固有神名が少なからずあるが、それらの宗教的崇拝の内容に至ってはこれにともなわないで、その固有名の如何いかんによらず、もとの幼稚な形で残っておる場合が少なくない。
 以上述べたところは、主として上代記録にもとづいて論じたのであるが、なおこのほかにも、これまでトーテミズムの痕跡を認めるような論者も少なくないようである。ただしトーテミズムの特徴は、動植物と人間との単なる親縁関係の意識よりも、さらにその特殊の社会組織にあるので、したがってそういう社会組織の痕跡があきらかにせられざる限り、たとえかかる親縁関係が信仰の中にあらわれても、これをもってトーテミズムの痕跡であるとは言いがたいのである。しかして、だいたいから言ってわが国上代には、かかる痕跡はむしろないといったほうが穏当おんとうで、トーテミズム的社会組織の想定は民族的系統の上からも無理である。そしてここにも、上代人の信仰の一つの消極的な特徴が存するのではあるまいか。
 これを要するに、記録の示す上代人の信仰の種々相を以上の如くあげくると、これによってその民族的な信仰の特徴、ことに現実を享楽きょうらくする幸福なる農耕民族としての特徴を、何ほどかあきらかにすることができるようである。



※『うわづらをblogで』収録。
底本:『上代人の民族信仰』岩波講座日本文学、岩波書店
   1932(昭和7)年6月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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古事記

解説
武田祐吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稗田《ひえだ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「田+比」、第3水準1-86-44]

 [#…]:返り点
 (例)於[#二]高天原[#一]成神名
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]

 古事記は、上中下の三卷から成る。その上卷のはじめに序文があつて、どのようにしてこの書が成立したかを語つている。古事記の成立に關する文獻は、この序文以外には何も傳わらない。
 古事記の成立の企畫は、天武天皇(在位六七二―六八六)にはじまる。天皇は、當時諸家に傳わつていた帝紀と本辭とが、誤謬が多くなり正しい傳えを失しているとされ、これを正して後世に傳えようとして、稗田《ひえだ》の阿禮《あれ》に命じてこれを誦み習わしめた。しかしまだ書卷となすに至らないで過ぎたのを、奈良時代のはじめ、和銅四年(七一一)九月十八日に、元明天皇が、太《おお》の安萬侶《やすまろ》(七二三歿)に稗田の阿禮が誦む所のものの筆録を命じ、和銅五年(七一二)正月二十八日に、稿成つて奏上した。これが古事記である。
 かようにして古事記は成立した。その資材となつたものは、諸家に傳わつていた帝紀と本辭とであるから、さかのぼつてはこれらの性質をあきらかにし、ひいてはこれらが古事記において、どのような形を採つているかを究めなければならない。
 帝紀は、帝皇の日繼ともいう。一言にして云えば、天皇の歴史である。歴代天皇が、次々に帝位を繼承された次第は、天皇の大葬の時に、誄詞《しのひこと》として唱えられていた。その唱えられる詞そのままでは無いだろうが、たぶんそれと同じものから出て更に内容の豐富になつたものが、比較的早い時代から、既に書卷の形になつて存在したのであろう。推古天皇の二十八年(六二〇)に聖徳太子等によつて撰録された書卷のうち、天皇記というのも、この種のものであつたのだろう。奈良時代には、帝紀、日本帝紀など稱する書物の存在したことが知られ、日本書紀に見える帝王本紀というのも、同樣の書物であつたのだろう。
 本辭は、また舊辭《くじ》ともいい、これらの語は、古事記の序文以外には、古い使用例が無い。その内容は、神話、傳説、昔話、物語の類をいうものの如く、まとまつた書物とはならなかつたようであるが、その或る一部は、既に文字によつて記されたものもあつたようである。
 帝紀や本辭に、誤謬が多くなつているという觀察がなされたのは、種々の原因があるだろう。一つには主として口誦による傳來において、自然に生じた差違があるだろう。時代の推移に伴なつて、新しい解釋も加わり、また他の要素を取り入れて成長發達もしてゆくであろう。また一方には、諸家に傳わるものは、それぞれその家を本位として語り傳えられてゆくために、甲の家と乙の家とで、違つたものを傳えることにもなる。例えばアメノホヒの命の如き、古事記に採録した傳來では、よくは言わないのだが、その神の子孫であるという出雲氏の傳來では、忠誠な神とするような類である。
 かくの如くにして諸家に傳來した帝紀と本辭とに對して、これを批判して整理されたのが天武天皇であり、これを誦み習つたのが稗田の阿禮であり、これを文字に書き綴つたのが太の安萬侶であつて、古事記は、この三人の共同事業ということになる。
 そこで古事記には、帝紀を材料としたものと、本辭によるものとがあるはずであり、今日の研究の段階では、ある程度これを分解することができる。帝紀については、他に文獻もあつて、大體どのような内容のものであるかの推測ができるので、まず古事記について、帝紀から來たと考えられる部分を抽出する。そうして殘つた部分が、本辭から來たものと見るのである。
 かくして古事記が、帝紀の記事と本辭とを繼ぎ合わせて成つたものであることがあきらかにされる。兩者が巧みに融合している部分もあり、またどちらから來ているか問題になる部分もあるが、大體においては分解が可能であり、これによつて古事記の性格もあきらかにされるのである。傳來の形にしても、從來ある一部の人によつて信じられていたように、現在の全形で古くから語り傳えられていたものでは無いことがわかる。
 古事記の内容は、天地のはじめの物語から始まつて、推古天皇の御事蹟に終つている。上卷は、神代の物語、神話と呼ばれるものであつて、これは本辭を材料としているであろう。しかしこれもはじめから纏まつて語り傳えられたものではなくして、もと遊離して存在していた神話を、ある時期に繼ぎ合わせて成立したものと考えられる。
 さて中卷は、神武天皇から應神天皇まで、下卷は仁徳天皇から推古天皇までの計三十三代の天皇の御事蹟である。この二卷は、帝紀の記事を骨子として、これに本辭から來た材料を配合して成立している。三十三代のうち、神武、崇神、垂仁、景行、仲哀、應神、仁徳、履中、允恭、安康、雄略、清寧、顯宗の各天皇の記事は、本辭からの材料を含んでいると見られて、長大複雜であり、他の二十代の天皇の記事は、主として帝紀のみに依つたものの如くで、簡單である。この簡單の部分は、帝紀の原形そのままであるとも斷言はできないけれども、少くも帝紀の原形を窺うに足るものである。そこでもし帝紀の原形を窺おうと思うならば、例えば綏靖天皇の記事のような簡單なものを見ればよいのである。しかし帝紀からの材料によつている部分でも、后妃や皇子皇女に關しては、家々の傳來を取り入れているものもあるだろう。
 帝紀と本辭とを組み合わせて書かれている部分は、大體、帝紀の記事を二つに分け、その中間に本辭からの物語を插んで成立しており、また天皇崩後の物語をその後に附けているところもある。神武天皇の御事蹟は、帝紀と本辭とが巧みに融合して、分解することがやや困難であるが、その他は大抵容易に分解することができる。

[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]

 帝紀と本辭とは、本來性質を異にするものである。帝紀は、歴代天皇の御名、皇居、治天下、后妃、皇子皇女、崩御、御壽、山陵について述べ、これに大きな事件の項目だけを加えたと見られるものもある。これを御即位の順序に配列した事務的なものである。これに反して本辭は、神話、傳説、昔話、物語というように、説話系統の形式を有するものであつて、信仰、政治、文學、藝能等の各種の方面にわたつて、豐富な内容を持つている。これをその中に登場する人物によつて、神代および各天皇の時代にそれぞれ配當したものである。
 そこで古事記は、神代から以下、歴代天皇の時代に及んで、時代順に敍述されている大きな物語と見ることができる。それと同時に、一方では、時代というつなぎによつて配列されている小説話の集録とも見ることができるのである。勿論この書によつて取りあげられている時間的配列は、そのままには信じられないものであるにしても、この書自身においては、眞實に近い時間的配列であると考えていたであろう。
 そうしてその内容についても、かつて一度眞實に起つた事として傳えているのであろう。それは序文において、この書の要求されるわけを論じた部分によつても知られるところである。しかし今日においては、この書の記事のすべてが、眞實にかつてあつた事とは信じない。帝紀の部分においては、元來天皇即位という、大きな事實を語るものであるだけに、その古い部分や、またこまかい記事については別として、大體においては、事實を傳えたものということができよう。しかし本辭の部分は、説話であつて、浮動性が多く、よし若干の事實を根據として出發したものであつても、その各時代への結びつきは、そのままには受け入れがたいものである。
 帝紀は、主として皇室、およびその系統の家に傳えられたのであろうが、本辭の傳來は、さまざまであつたのである。まず皇室をはじめ、諸家において、その祖先に關する説話を傳えているであろう。それはその家のはじめを語るものもあり、また英雄佳人の事蹟を語るものもある。次に諸國に語部《かたりべ》と稱するものがあつて、大嘗祭の時などに宮廷に出て來て、古詞を唱え、その採録されたものもある。その外、祭の詞から拔け出して語り傳えられたもの、歌曲舞曲などの形で傳えられたものもあり、民間に語り傳えられたものもあつて、その傳來の形式は、實にさまざまである。
 このような各種の傳來による材料を、手ぎわよく整理して一貫した内容の作品を構成している。このような説話の類は、なお無數に存在していたであろうが、それらの中から採用されたものが、それぞれの位置に配列されているのである。
 採用されるに當つては、種々の理由があつて、それがその説話の位置をきめるに役立つている。まずその説話の中に語られる人物が、歴史上の人物として知られていること。勿論その人物は、その説話に不可分のものばかりではなく、同じ説話を日本書紀においては別の人物に當てているものもある。しかしとにかく、ヤマトタケルの物語、オホハツセの天皇の物語というようなものを取りあげて、それぞれの人物の名のもとに織り込んでいるのである。これは神代の部分においても同樣であつて、例えば、スサノヲの命の物語を、その神の名のもとに集めていると見られるが如きである。
 次に、國家組織、社會組織に對して説明を與えようとする意圖の見られることが指摘される。神代をもつて、歴史上の古代とし、日本の國のおこりが、その神代にあることを證明しようとした。そうして天皇家が神の子孫であることを説明しようとした。このために神話が採擇され配列された。また歴代天皇の物語にしても、國家組織の確立を語るものとして採擇されたものが少くない。一方では、國家および皇室との關係を語る各氏族の説話は、ずいぶん廣く採擇している。おのおのの氏族は、その系統が重視され、これによつて社會上の地位も決定されたので、ここにその氏族の祖先の説話が、それぞれの家にあり、これが古事記によつて多く採擇されている。それらの説話の内容は、ひとり國家に對して忠誠であつた物語のみにとどまらず、皇室の祖先の兄ではあるが、まずいことをしたために臣下となつたという話や、はなはだしいのは、皇室に對して反逆を企てて殺されたという話――例えばサホヒコの王、オホヤマモリの命の話など――もある。そういう反逆人の子孫が、氏族として榮えているのだから、それによつてもこれらの説話の存在の意味がおし測られる。
 次に、思想的の理由によつて採擇され配列されたものがある。古人が、萬物の存在に關して思索した結果、いかにしてこれが存在するかの問題を、説話によつて説明した。これはすべての事物の起原を語る物語となつて現れ、またそれらの事物が出現し活動する原理を思索して、神靈の形式においてその概念を表現した。また人生の諸問題について、信仰によつて解決する場合にも、説話としての形式によつてこれを表現して、人生指導の根據とした。かくの如き類は、みな古事記によつて採擇されているところである。
 次に、興趣のゆたかな説話が多く採擇され配列された。その一つに文學的興趣のゆたかなものがある。歌曲舞曲の如きは、古い時代から喜ばれていたであろう。それらは引き續いて行われていたものもあるであろうし、また既に古曲となつて詞章だけが傳わつていたものもあるかもしれない。古事記は、そういう類のものからも採擇した。それらは或る人物の事蹟として、歴史的に結びつけられたのである。古事記に載せた歌謠のうち、歌曲としての名稱を傳えているものの多いことは、この間の消息を語るものである。海幸山幸の神話の如きも、原形は舞曲であつたのだろうが、のち獨立の説話として傳播し、古事記にも採擇されるに至つたようである。また一方には、奇事異聞ふうな説話があつて、これも興味が寄せられるままに採擇されている。
 以上、採擇の理由となつたと思われるところの、おもなものについて擧げて來たが、勿論一つの説話が各種の條件を兼ね備えているものが多く、また部分的にある種の條件を備えているものもあるのである。とにかく各種の方面から採擇したものが、混合して存在していると考えられるが、これらがいかなる段階において採擇結合したかというに、これも恐らくは一樣でないのだろう。
 本來は別個の存在であつた帝紀と本辭とを、一つに結合することは、天武天皇の御企畫であつたようであるが、實際稗田の阿禮に對して、どのような形で誦み習わしめたのかはあきらかで無い。帝紀を資料とする部分が、特殊の文字使用法を温存しているによれば、太の安萬侶が文を書くに當つて、成書である帝紀を使用したものの如くであり、稗田の阿禮は、成書の帝紀を讀みながら、本辭の物語を插入して語つたかどうか、今日では不明である。ただ文字に書くに當つて新になされたと見られる結合の部分も指摘される。それと同時に、本辭自體において、もつと古い時代に既に結合していたものもあるのだろう。諸家の傳來を總集したのだから、自然系統の相違する説話も結合されている。例えば、神代の説話において、二大系統である高天の原系統と出雲系統との神話が、或るものは融合して一つになり、或るものは融合しないままの形で接續している。例えば誓約の神話において、系統の違う氏族の祖先が、共に出現すると説くことなど、かなり古い結合によるものではないだろうか。出雲系であるスサノヲの命が、高天の原系統の神話に現れることなども、天武天皇が新に整理された結果であるとは考えられない。

[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]

 以上、古事記の組織について述べて來たことによつて、古事記の性質もあきらかにされると思う。歴史的事實を語るものとして解釋してよいものと、そのように解釋してはならないものとが混合されているのである。勿論どのようなものでも、人生を離れては存在しないのであるから、その意味では、人生の歴史を語るものであるに相違はないが、ただ言葉によつて表示されている通りに事實があつたとするわけにはゆかないのである。
 帝紀と本辭との結合の企てられた天武天皇の時代は、國家組織が完成し、中央政府の權力が強大となつた時代であつた。そういう國家組織の説明のために、古事記の撰録が企畫されたのである。また古事記が、書物として成立した奈良時代の初期は、大陸の文化の影響を受けて、文化運動の盛んな時代であつた。この文化運動の一環として歴史的體系による古事記日本書紀は成立し、地誌的體系による風土記は選進されたのである。
 奈良時代の文化は、大陸の文化を指導者としての文化であつた。そこに使用される文字は、漢字であつて、公用文としても漢文が書かれていた。從つてその時代に成立した書物は、漢字で書かれる外は無く、日本書紀の如きも漢文で書かれている。しかしながら國語で傳えられたことを、漢文で表現することは、困難であり無理でもあるので、漢字を使つて國語の文を書き現すことも種々試みられた。漢語と國語とでは、特に語序が相違し、また補助詞の用法に相違がある。そこで、國語の語序による文字の位置や補助詞を音韻によつて表示する方法などが考案された。古事記は、これらの種々の表示法を併用して、漢文ふうにも、國語の音韻表示のふうにも、交えて書いた。そうして常に註を加えて、讀み方や意義について説明している。歌謠の如きは、特に國語の原形を尊重するが故に、全部字音による音韻表記の法によつた。本書では、すべて原文を省略したから、今參考として、天地のはじめの條の一部の原文を次に載せる。

[#ここから2字下げ]
天地初發之時、於[#二]高天原[#一]成神名、天之御中主神、[#割り注]訓[#二]高下天[#一]云[#二]阿麻[#一]、下效[#レ]此。[#割り注終わり]次高御産巣日神、次神産巣日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱[#レ]身也。次國稚如[#二]浮脂[#一]而、久羅下那州多陀用弊流之時、[#割り注]流字以上十字以[#レ]音。[#割り注終わり]如[#二]葦牙[#一]因[#二]萌騰之物[#一]而、成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神、[#割り注]此神名以[#レ]音。[#割り注終わり]次天之常立神。[#割り注]訓[#レ]常云[#二]登許[#一]、訓[#レ]立云[#二]多知[#一]。[#割り注終わり]此二柱神亦並獨神成坐而、隱[#レ]身也。
[#ここで字下げ終わり]

 句讀點、返り點は、原文には無く、後人の附けたものである。
 これはもと國語による傳承を、なるべく原形を保存する形で文字に表記したものと考えられるが、さてこれを讀むことによつて、もとの國語に還すことは、なかなか困難である。久羅下那州多陀用弊流の如きは、音韻表記がなされているから、クラゲナスタダヨヘルと讀むことができるが、その他の部分は、簡單にはゆかない。天地初發之時の句にしても、アメツチノハジメノトキ、アメツチノハジメテオコリシトキ、アメツチノハジメテヒラクルトキなど、さまざまの讀み方が考えられている。撰者にしても、意味が通ればよいとしたものであるかもしれない。しかし隱身也の如きは、ミミヲカクシタマヒキの訓と、カクリミニマシキの訓とが對立しており、これは讀み方によつて意味が相違してくるので、どちらでもよいというわけにはゆかない。
 太の安萬侶は序文については、りつぱな漢文で書いているのであつて、漢文の素養の十分にあつた人と考えられるが、古事記の本文を書くに當つて、漢文のみを採用せず、できるだけ國語の原形を保存するに努めたことは、大きな功績である。國語の傳承は、漢文に譯してしまつては、本意を失することが大きいのである。
 古事記は、成立の後あまり廣くは行われなかつた。これは、その成立後八年にして、日本書紀が成立し、これが國家の正史として見られたからでもあるのだろう。日本書紀は、三十卷あつて、帝紀と本辭のほかに、できるだけ廣く材料を集めて編纂したようであつて、古事記にくらべると時代が下るに從つて詳密になつている點に特色がある。
 古事記は、古いところでは、萬葉集、土佐國風土記、琴歌譜等に、書名をあげて引用しており、先代舊事本紀には、書名はあげないが材料として使用している。その後流布されることが少かつたらしく、中世の頃は所在が稀であつたという。從つて古い寫本も少く、應安四年五年(一三七一、一三七二)に書かれた眞福寺本が最古の寫本であるに過ぎない。しかし近世國學が興るに及んでは、日本書紀をもつて漢意が多いとし、古事記を偏重するようになり、本居宣長の古事記傳の如き大著をも見るに至つた。
 最後に古事記の註釋書のおもなものをあげておく。
[#ここから2字下げ]
古事記傳   本居宣長
[#ここから3字下げ]
本居宣長全集に入つている外に、數種の刊行がある。
[#ここから2字下げ]
古事記新講  次田潤
古事記評釋  中島悦次
[#ここで字下げ終わり]

[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]

 古事記の神話、説話は、歴史的體系のもとに序列されてあるので、種類性質による配列はない。よつて今、便宜のために、そのおもなものを種類わけにして次に掲げる。一の神話説話については、そのおもな性質によつて分類したが、數種の性質を有するものは、各項に重出したものもある。各稱の下の數字は本書のページ數である。

[#ここから2字下げ、折り返して9字下げ]
祭祀    鎭火祭 道饗祭 身禊 風神祭 誓約 天の岩戸 祓 收穫の神の系譜 新嘗祭
神宮神社  草薙の大刀 須賀の宮 御諸山の神 出雲大社 伊勢の神宮 氣比の大神 比賣碁曾の社 出石の大神
天降    伊耶那岐の命 菩比の神 天若日子 建御雷の神 邇々藝の命
神教    天の神の教 雉子 事代主の神 熊野の高倉下 八咫烏 弊羅坂[#「弊羅坂」は底本のまま]の少女 神功皇后
神の出現  少名※[#「田+比」、第3水準1-86-44]古那の神 一言主の神
神の祟り  出雲の大神
呪禁卜占  太卜 鎭懷石 うけひ うけひ狩 神うれづく
神婚    豐玉※[#「田+比」、第3水準1-86-44]賣の命 大物主の神 肥長比賣 阿加流比賣の神
異郷    黄泉の國 根の堅州國 海神の宮
事物の起原 天地のはじめ 婚姻 大八島 萬物 三貴子の出現 穀物 醫藥 葦原の瑞穗の國 天皇の御命 時じくの香の木の實 松浦河の釣魚 吉野の蜻蛉野(他の地名起源は省略)
英雄豪傑  八岐の大蛇退治 建御雷の神 神武天皇  五瀬の命 大※[#「田+比」、第3水準1-86-44]古の命 倭建の命 建振熊 雄略天皇
氏族    海神の系統 民族同祖 猿女の君 意富の臣等 建内の宿禰の系譜 置目の老媼
兄弟の爭い 大國主の神 海幸と山幸 大山守の命 秋山の下氷壯夫
兄弟の國讓 神八井耳の命 兎道の稚郎子 仁賢天皇
頌徳    初國知らし御眞木の天皇 聖帝の御世 雁の卵
國土    千葉の葛野
求婚    八千矛の神 神武天皇 若日下部の王 金※[#「金+且」、第3水準1-93-12]の岡
婚姻    伊耶那岐の命 木の花のさくや姫 美夜受比賣 蟹の歌 髮長比賣 吉備の黒日賣 八田の若郎女 木梨の輕の太子
妻爭い   大國主の神 伊豆志袁登賣 女鳥の王 歌垣
嫉妬    須勢理※[#「田+比」、第3水準1-86-44]賣 石の比賣の命
醜女    石長比賣 丹波の二女王
勸盃    須勢理※[#「田+比」、第3水準1-86-44]賣 酒樂の歌 三重の采女
御子の誕生 日子穗々手見の命 鵜葺草葺合へずの命
刀劒    天の尾羽張の神 草薙の大刀 佐士布都の神
葬式    天若日子 倭建の命
叛亂    當藝志美美の命 沙本※[#「田+比」、第3水準1-86-44]古の王 墨江の中つ王 目弱の王
藝能    國主歌 枯野といふ船 吉野の童女 歌垣
雜     兎と※[#「鰐」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、392-9] ※[#「討/虫」、第4水準2-87-68]貝比賣と蛤貝比賣 大國主の神の災難 神名の名のり 建御名方の神 引田部の赤猪子 志自牟の新室樂
[#ここで字下げ終わり]



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
※「解説」の「四」の種類分けの頁数は省略しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
入力:川山隆
校正:しだひろし
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上代人の民族信仰

宇野圓空

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)子饗《コフ》石

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|御祈玉《ホギ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ふゆ[#「ふゆ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もつと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Doppelga:nger〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   目次
自然崇拜
呪物崇拜
靈魂觀念と靈威觀念
神祇觀念


   自然崇拜

 古代人の生活はその物質的方面に於いてと同樣に、その精神的方面に於いても、周圍の事物から離れては全く考へられないものであつた。かくて例へばその食養的關係にあるもの、漁業狩獵の對象又はその用具或はそれに關する種種の行事、これらが唯だ單なる物質的事物である以上に、それに對して特殊の宗教的態度を採り、神聖視するので、そこから種々の呪術的儀禮や消極的な禁忌も生じ、禮拜や祭祀も行はれるのである。從つてこれらを神聖視することは、必ずしも精靈や神祇の觀念を含むものとは限らない。かゝる觀念なく單に事物そのものを神聖視する場合があるのである。かくして所謂自然崇拜 naturism にも、自然の事象が神祕的呪力を備へてをるとか、神靈の宿すところ又はその權化であるとか又その象徴であるとかのために神聖なものと見られる外に、更にもつと簡單に又直接に事象そのものを神聖視する場合を見遁してはならない。
 そしてこれを我が上代について見る時は、少くとも我々の知る時代は既に相當に進んだ文化を持つた民族として、その宗教的信仰もアニミズム風の信仰乃至精靈崇拜を基調とする状態であつたから、この極めて簡單なる自然崇拜に關しては、概してさういふ事實は直接には與へられて居ないと云つてよい。しかし嚴密にその資料を吟味すれば、矢張りその痕跡もしくはその斷片を到るところに認めることが出來、それらを綜合することによつてこれが原初形態を再現して見ることも出來る。そしてこれは或る意味では自然崇拜の幼稚な段階であると同時に、又進んだ宗教觀念の内にも常に存し、多くの場合にはその基礎をなしてをる。この意味でもこの方面の説明が重要なことではあるが、今は直接にそれに深入りすることが出來ない。
 由來自然崇拜といへば、上代人はその周圍の自然に對して、その全體を常に神聖視し、そのすべてに對して宗教的態度をとるもののやうに考へられがちであるが、しかし事實は必ずしもさうではない。それは何等かの特殊の關係によつて、特殊のもののみが選ばれて宗教的對象とされる。そしてこれには殊に各民族の自然的環境、地理的關係並びにその文化の程度、經濟的生活の樣式などによつて著しい差異が生ずるので、從つてそれが上代人の間に如何なる傾向を以て行はれてをるかを確め、その種類や動機を明かにすることによつて、その宗教信仰の特徴を具體的に示すことともなる。
 今これを上代日本人について見るに、動植物乃至その他の事物で宗教的崇拜の對象となつたものは、その種類に於いては極めて少く、又これらがその經濟的價値から神化されるといふことは少からずその事實を認めるにしても、必ずしもそれに限らず又それが主要なるものでもない。それで神聖な動物としては、記録に現はれるところでは蛇が最も多くその大部分を占め、その外には狼も少くは無いが、虎、鰐、兎などは特殊の例と見ることが出來る。植物としては單に大木としたのが殊に多く、槻、杉、楠、椋などもあり又椿、發枳などの特例も擧げることが出來るが、併しこれらも特にその大木である場合が多い。これを以て見るにその崇拜の對象となるものが、有用殊に經濟的生活に必要なものから、むしろ餘程かけ離れてをるといふことが出來る。動物に於いても熊や猪、鹿の類を差し措いて、特に蛇と狼とが諸所に散見することは、上代人の神祕觀が單に食用又は有用といふことに基いてゐるのでないことを明かにするものである。是は一面には上代日本人が既に狩獵時代のものでなく、肉としての猪、鹿などに宗教的力を認める以上に、農耕時代の民族として殊にその開墾又は耕作に密接な關係のある蛇や狼の類を、より多く一層神祕的な存在と考へたからでもあらう。即ち常陸風土記によると、麻多智といふ人が開墾に從事中、夜刀神即ち蛇が群り來つて耕作を妨げた。そこで麻多智は大いに怒り、自ら武裝してこれらの蛇を打殺し又驅逐し、山口のところに至つて杭を打ち堺を掘り、夜刀神に告げてこれより以上を神地とし、以下を人間の田地とする。今後神祝となつて永久に奉齋するから、祟ることなく恨むこと勿れといつたとある。これたま/\宗教信仰がその生活樣式即ち農耕生活と密接なる關係を持つことを物語る一の例ではあるまいか。而してその神祕觀の根底をなすものは畏怖即ち「かしこ」の感情であり、たゞ單に恐れるだけでなく一面にはこれを尊崇する方面もあるので、從つて蛇に對してもたゞこれを調伏する方面があるのみならず、これを宥和して神と崇め祭る方面があるのである。
 又樹木に於いてもその種類は極めて少く、楠、槻、杉など、その何れに於いてもそれらが崇拜の對象となる所以は、かゝる樹木の一般に持つ神祕的特性によるのでもなく、從つてかゝる種類の樹木一般についての種屬的崇拜でもない。むしろそれらの亭々として聳えた姿、鬱蒼として繁つた容子に、一種の神祕感を抱くのである。ためにそれは楠や槻などの個々の樹木の崇拜である以上に、それらが大木であり茂樹であるところに、その宗教的性質があり、これがために、記録の上でも特に何の木といふことなくして、單に大木とのみ記されるのを多く見受けるのである。
 これは石の場合にも同樣にいふことが出來る。石の崇拜は現今でも種々の形をとつて行はれてをるが、上代記録には極めてその事例が豐富である。而して恰もさゞれ石の巖となるやうに、石にも亦た他の動植物と同じく生命あり、成長するものといふ考があつたので、從つて石は吾々の考へるやうに生物から區別さるべき無生物ではなかつたのである。そこでかゝる石がその大小の如何によらず、その本來の性質から一種の神祕的存在と考へられることはあり得るにしても、それが特に人間の注意を惹くためには、例へば稀少とか壯大といふやうな何等かの條件がなくてはならない。この點からもすべての石が宗教的に取扱はれるといふことは必ずしも普遍的なことではなく、殊に上代の記録に於いては嚴密な意味でこの種に屬するものは却つて見出し難い。かくて宗教的信仰の對象となつた石は、たゞ單に石である以上に、巨石であるか奇石であるか、その他美しき石などいふやうに、又何らかその實生活に關係を持つものであつた。この意味で少くとも上代日本に於いて見るところは、石の崇拜といふよりもむしろ巨岩奇石の崇拜であり、これは更に嚴密には巨大なるもの奇異なるものに對する崇拜ともいふべきである。
 巨大なるもの奇異なるものといふ點では、山の崇拜の如きも又樹木の崇拜、森の崇拜の如きも同樣である。併し山は巨大なるもの奇異なるものといふ外に、尚ほ種々なる意味で上代人の世界觀にも密接なる關係を有し、殊に農耕生活を營むものにとつては雨の神、水の神としてその實生活に密接なる關係があるから、單に壯大なるもの恐るべきものといふ以上に鎭護の神、農耕の神として親しみの深いものとされた。このことは山の神が少くともその古代的な形では、女性神と關係深いことの多い點からも知られるかと思ふ。殊にこんもりとした山が特に神のうしはく山として崇拜されることは少くない。香具山や三輪山の如きはそれであるが、これと同じ意味で高臺の地域は多く神のうしはくところとされる。固より山と丘とは明かな區別はないが、それは又森とも區別さるべきものではない。森が神の境域とされたことは古く社もしくは神社の字をもり[#「もり」に傍点]と讀ましたことからも知られる。もり[#「もり」に傍点]の語原が何であらうと、既に支那でも史記などでは社と杜とが相通はした個所がある如く、森と神の境域とには密接なる關係があつたのである。
 又火山國といふ地質的關係からは火山に對する崇拜があり、地震の神、温泉の神が記録の上に少からず見られる。而してこの火山と普通の山とが上代人に及ぼす關係は自ら異なるが、一般に山の神、丘の神、杜の神が人間生活と親しい關係を持つたのに比較すれば、一方海の神、浦の神は一般に恐れられる方面が強い。併し四面海を繞らす地理的關係にありながら、海に親しむ方面が餘りにもなく、海の彼方に關する觀念も物語も殆んどないのは、又一見奇異な特徴である。これ恐らくは上代日本人が既に農耕期にあつた民族として、海によつて生活する民でなかつたためでもあらうし、それは上代人が星に關する信仰も物語も殆んど持ち合せてゐないことと一致するもののやうである。
 これは又風雨や雷電の場合にも同樣で、これらに對する崇拜も風土によつてその分布と性質とを異にする。素戔嗚尊を暴風神と解する説は暫く措いて、一般に上代日本人にとつては、暴風雷雨はこれに對する恐怖以外に、また農耕生活に深い關係あるものとして宗教的對象となつたのである。ことに風の神は龍田風神としての外には特殊の活動を見ないが、この風神の祭が國家の重要なる行事とされたのは、廣瀬大忌祭と竝び行はれるところからも、それは何よりもまづ農耕生活に關するもので、この點は延喜式祝詞を見ても明らかである。
 かくして風雨雷電も、これを天空の恐るべき現象として崇めるよりも、それが農耕に關係深いために、宗教的な儀禮の對象となつたといふ方が却つて穩當である。これらから考へると他の民族で多く重要な位置を占めてをる火の神が、日本の古いところでは迦具土神として以外に絶えて現はれて來ないのも、農耕生活に集中された上代人の信仰の一の反映ではあるまいか。かくして上代日本人の精神生活は或る意味では、この地上の生活に集中されてゐた。すなはち現實の地上生活以上に、海に對しても天空に對しても、餘り關心を持たずに濟んだやうに見える。從つて又かれらが天體の諸現象に對しても、これをどれだけ宗教的對象としたか疑はしくなる。もとより支那思想の影響からも、天空に關する種々の思想は記紀にも相當にあらはれてゐるが、本來の民族的信仰として、果してどの位のものが行はれてゐたのであらうか。
 天照大神と素戔嗚尊とを、太陽と嵐とに配して解するごときは、その神名の解釋に基づくものと思はれるので、その神名の解釋としても、これを直ちに太陽とし嵐とすることは、なほ考慮の餘地があるのではなからうか。併しそれは上代日本の神話及び信仰に於いて、殊に日本書紀や古事記の上で、天照大神が太陽神を意味しないといふのではない。天照大神を指して日神といつた語は書紀にも諸所にあり、古事記序文の如きは太陽そのもののやうにも書き表はしてゐる。また天皇自らを古事記で日神の子孫といひ、萬葉で日之皇子と稱することが、直ちに天照大神を「日」と見なしてのことだかどうかは明らかでないけれども、少くとも太陽をその祖先として考へてゐたことだけは確かであらう。
 この天照大神を措いてもこれと何らの關係もなくして、別に太陽神の信仰があつたことは認められる。即ち顯宗紀三年四月の條には日神[#「日神」に傍点]とあり、これは舊事紀天神本紀に天日神命[#「天日神命」に傍点]とあるもので、これを神名帳についていへば對馬島下縣郡阿麻※[#「低のつくり」、第3水準1-86-47]留神社に該當すると考へてよからう。是は又顯宗紀三年二月の條に月神[#「月神」に傍点]とあるものが、舊事紀で天月神命[#「天月神命」に傍点]に當り、神名帳に於いて壹岐島壹岐郡の月讀神社に該當するところからも知ることが出來る。勿論この月神命といふのも日神命といふのも、壹岐や對馬の縣主の祖先であつた歴史的な人物神ではなく天體崇拜から祖先をそれに結び付けたものであらう。それ故この月神といひ日神といふのも、矢張り太陽の神であり月の神に外ならないのである。併しそれがためにこの日神及び月神を天照大神及び月讀尊に當てはめるべきではない。しかもこの場合の日神並びに月神が壹岐對馬の事實であることは、自らこれが西方文化の影響ではないかとまで思はしめるのである。併し天照大神の起源の如何によらず、それが月讀尊と併稱される物語乃至記録の時代に於いては、既に天照大神といふ内に太陽神としての意味が含まれてをるので、月讀尊はかゝる日神に對する月神であるのである。今延喜式神名帳について月神に關する社を列擧すると、伊勢には内宮に月讀宮一座、外宮に月夜見神社があり、山城國には葛野坐月讀社、樺井月神社、月讀神社、丹波國には小川月神社、及び壹岐の月讀神社があるが、此の内葛野の月讀社が壹岐の月讀神社と直接の關係あることは、顯宗紀三年二月の記事によつても知られる。その外萬葉などにも月讀[#「月讀」に傍点]といふことは屡※[#二の字点]表はれてをるので、これらから見ても月の崇拜があつたことだけはこれを認められる。しかしそれらが果してどの位に古い思想であるか、又一般人の信仰生活に關係を持つてをつたかは疑はしい。それ故神話上にも月讀尊の活躍した點は極めて少く屡※[#二の字点]素戔嗚尊と重複し、從つて此の兩神を同一神とさへ見る人もある位である。
 かくして日月に關する信仰は、一般に豫想せられるほどには主要なものでなかつたらしく思はれるが、更に星に關する崇拜は殆んどなく、僅かに住吉の三神即ち三筒男神のつゝ[#「つゝ」に傍点]は星を意味するともいはれ、或は住吉の神が航海の神であるところから、これが星崇拜であつたかも知れない。併しこれは極めて稀に見る事實で、その他には天甕星[#「天甕星」に傍点]とか香背男といひ、親しみのないむしろ荒ぶる神として表現されたものがある位である。これらの事實からすると少くとも上代日本人に於いては、その信仰生活に於いても又神話の上に於いても、天體の諸現象が餘り重要な位置を占めてゐなかつたといふことが出來るやうに思ふ。かくして大自然の諸現象に對する不可知感から宗教信仰の發生を説く自然崇拜説の必ずしも穩當でないことは、この上代日本の信仰の事實からも認められる。そしてそれよりも手近い周圍の事象に對する驚異、例へば雷や火の如く上代人に直接畏怖の感を惹起さすもの、更にそれにも増して彼等の經濟的生活、殊にその農耕生活に密接なる關係を有するものが、その宗教信仰の對象となつたのである。

   呪物崇拜

 呪物崇拜についてはその概念規定に種々の説があるが、それだけこれには他の所謂自然崇拜や精靈崇拜と交錯した部分を含んでゐる場合が多い。しかしこれが自然物と人工物との如何によらず、大體に手ごろな物體に對する宗教的態度として、呪物の崇拜には他の崇拜と異なる性質が充分に認められる。しかもこの意味で自然物がそのまゝ特に呪物とされる場合が少からずある。例へば石の如きも手ごろなものが呪物とされたことは、神功皇后の子饗《コフ》石によつて出産を延ばされた物語でも知ることが出來る。この他米や酒、鹽を以て穢を祓ふとか、桃の實を以て惡魔を拂ふやうなこともあつた。又牛の肉や男莖の形をしたものを用ひて、種々の呪術的行爲をしてをるのも一種の呪物である。かくて動物や人間の髮、爪、骨を使つたり、植物の實、枝、葉等が呪術的に用ひられたり、殊に金石の類はそのまゝ呪物となることもあるが、なほ一般に呪物はこれらのものを模造したものや又それらを組合せたり人工を加へたものであつた。それ故又事實上多くの人工物は、呪物として崇拜されるといふことが出來る。かの八坂瓊の勾玉といふやうなものも、その形態によつて名づけられた一個の玉についていふのではなく、種々のものを綴り合せたものに名づけられたので、そこに裝飾美も生ずると同時に呪物としての意味も生じたのである。
 而して自然物はもとよりのこと、人工物といへども本來呪物として作られたものでなく、他の目的のために作られたものが多いので、例へば多くの鏡、劒、玉の如きはかくして第二次的に呪物となつたのである。同樣に米などの如きも、本來の食物としての強い關心から呪物とされ、その食用とは全く別な方面、例へば惡魔を拂ふために用ひられ、又穢を祓ふためにも用ひられてゐる。そして上代人はその所有物殊に身につけるものに對しては特殊の關心を持ち、これを身體の一部分とさへ意識するので、從つてかゝる裝飾品が特別の呪物となることは多い。しかも一面には何らかの呪物を身體に飾つて、その力によつて自己を外界から擁護することに努めるので、そこには兩者の歸一があつた。かくて櫛や杖又は領布《ヒレ》が特殊の呪物とされ、これを以て惡魔を拂ふための呪具ともしたのである。又身邊に所持する玉や鏡はその照り輝く性質から、劒や矛はその截斷破邪の能力から一の呪物ともなるので、從つて又これを身體につけ身邊に所持するところに、その本來の性質以上に外界の惡氣を防ぎ、生命を増長すると認められるのであつた。
 もとより領布は考古學的遺物としては存しないが、例へば出石の八神などの中に見え、その他の場合にも屡※[#二の字点]呪物として擧げられるものである。大己貴命が素戔嗚尊のもとに行き蛇の室《ムロ》に寐た時、須勢理毘賣命が蛇の領布を與へて、その領布を以て蛇を拂へと教へ、更に蜈蚣の領布、蜂の領布をも得て身の難を逃れたといふ物語は、領布が一の有力な呪物であつたことを示すのである。而して此の領布については古事記傳や書紀通釋その他に種々の説があるにしても、それが服具であることだけは誤りでなからうし、服具が單なる實用以上にその所有者の一部分と見なされ一種の呪物とされたことは、玉や劒、鏡の場合とも同樣に見るべきである。
 玉は上代人にとつては劒、鏡と共に特別の呪物となつてをり、特に三種の神器の構成の如きは、上代人のこの宗教的信仰に基づくものといふことが出來る。しかしこの玉の語源的な意味、殊にこれと魂との間に豫想される何らかの關係に至つては、未だ明らかな説明が施されてゐない。たゞ「たま」といふ語は恰かも神[#「神」に傍点]その他の神聖語の如く、事物の名や人名神名の上或は下に添へられて、一種の美稱となることがある。しかもこの場合多くは所謂玉[#「玉」に傍点]に該當する意味であることはいふまでもないが、もともと玉そのものが神祕的にして魂と密接なる關係があるとすれば、かゝる「たま」といふ語もこれを更にその原本的な意味にまで還元して考へることが無意義ではなくなる。そして玉そのものが少くとも呪力あるものとして呪物に用ひられたことは記録の諸所に見受け、殊に記紀によると鹽盈珠、鹽乾珠又は如意珠といふのがあり、又|御祈玉《ホギ》といふのが古語拾遺や延喜式などに見えるので、特に後者は卜占や降神の儀に用ひる凝視の白玉でないかと思はれる。
 元來玉については手玉足玉の如く裝飾する場所を示したもの、白玉赤玉青玉紺玉緑玉といふ如くその色合を示すもの、荒玉未玉などの如くその加工状態を示すもの、丸玉竹玉の如くその形態を示すものもある。而して上代の記録で最も表はれるものは特に曲玉と稱せられるものである。この曲玉については古來種々の説があつて一致しない。既に書紀では此の曲[#「曲」に傍点]を以て曲妙の意なりとしてをるので、本來の意味は恐らくは此の邊にあるのかも知れない。しかし又一方考古學上の遺物として、最も特色ある牙形の所謂勾玉の存するところから、曲玉を以てその形態より稱せられた名稱とする説明も有力であつて、その牙形をなすに至つた起源については、亦た種々の説明がある。即ちその一つは坪井博士以來の通説となつてをる牙説で、これは日本人の南洋的起源及び狩獵生活の想定と密接な關係がある。此の外勾玉を穀物の象徴とするのは農耕生活に關聯し、釣針より來たとするのは漁業生活を豫想し、又腎臟の形だとするのも狩獵生活にそのよるところがあるといへる。併しこれらの諸説はいづれも實證的根據の薄弱な點から、容易に贊同し難いのであつて、その牙形の玉を稱してまが[#「まが」に傍点]玉といふのも、實は近代のことであり、上代に果してそれのみを曲玉と稱したかは少くとも問題である。
 又劒や殊に鏡の中でも、少くとも現今考古學的遺物として知り得るものは、多くは支那起源に屬するものであるが、それらが新しい傳來の金屬器であるだけ、上代日本人にとつてもその貴重さから一の呪物となつたことは想像される。鏡と巫術との根本的關係は別にして、既に支那に於いてもその鏡製作の目的について、能く日月とその明を合し鬼神とその意を通じ、以て魑魅を防ぎ疾苦を整へるといふやうな古傳説もある。もとよりこれを事實として信ずることは出來ないが、鏡が單に肖像を寫し光熱を集めるためのみでなく、一の呪物として信仰されたといふことを物語るものである。併しこれがためにかゝる事物の傳來に伴つてそれに關する呪物的崇拜が始めて傳はつたといふのではなく、呪物崇拜發生の心理的過程が、特に鏡等に關して獨自に起つたものとして差し支へなからう。此の外釣針が呪物となつたやうな記事はあるが、これは必ずしも近年往々いはれるやうに、釣針一般に對して呪力を認めたのに基づくのではなからう。たゞ偶然の機會が特定の釣針を呪物としたので、それが呪物とされるのは何らか特殊な一の事件に關聯して、むしろ偶然に起つて來る場合が極めて多いやうに思はれる。

   靈魂觀念と靈威觀念

 靈魂觀念の内にはそれ自體一の個體的若しくは人格的な存在である場合と、機能的流動的な存在として一種の非人格的なものとを分けて見ることが出來る。しかも既にアニミズム的傾向を持つた上代日本人、殊にその記録にあらはれた上では、一般に「たま」と稱せられるものが、これらすべてを包含した内容を持つてゐる。從つて人格的な靈魂も自由靈としての精靈も、又それらのはたらきとしての靈威といふやうな觀念も等しく「魂」といふ語で表はされてゐる。
 而して此の魂は人間にもある如く、その他の特別の事象にもあるとされる。殊に農耕民族であつた上代日本人にとつて、農作物即ち穀物、特に稻(いね=よね米)がその主要なる對象となるところから、すでに「いね」又「よね」といふ語にも見る如く、それに一種の神祕的な魂を認めて、これを稻靈《イナダマ》と意識した。けだし米は穀物の主要なるものであつたから、その稻の魂は總じて穀物の魂まで包括したが、これは草一般を「かや」を以て總稱するものと同樣である。かくして記録の上でこれを漢字を以て表はすときには、稻魂とか稻靈といふやうに稻に制限されてをるが、併しその和訓である「うか」又は「うけ」たるものは必ずしも稻乃至米に限ったものではない。日本紀私記にも「宇氣者食之義也」とあり、一般に食物を指すと見てよい。
 木又は森についてその木靈といふ語は、ずつと古い記録には見出されないけれども、延喜式には木靈山神を祭ることがあり、和名抄にも樹神(コダマ)などあるところからは、少くともその靈魂または精靈といふ觀念を人々は持つてゐたらしい。又劒の如きも玉などと共に一種の呪物とされ崇拜の對象とされたのであるが、記には布都御魂とあり、これを紀に※[#「音+師のつくり」、第3水準1-93-85]靈とある如きは、特殊の劒に對してその靈魂の存在が認められてゐたといふべきである。
 尚ほまた魂はたゞにかゝる事物のみならず、言語とか地域などにもこれを認めてゐる。言靈は古くは萬葉に見え、その後も屡※[#二の字点]見えるのであるが、これらの事例によると上代人が言葉そのものに一種の神祕的な作用を認めたものと見ることが出來、一般にはこれを言語精靈と解釋してゐる。そして固より一般の言語よりも宗教的な言語に、特に神祕性の認識が強かつたことは事實であらうが、實際は必ずしもそれに限らないやうである。又古代に於いて地域はこれを「くに」といふ語で表はすのが普通であるが、その語源については暫らく措いて、「くに」は必ずしも土地のみをいふのではなく、土地に即した共同社會と云つた方がよいかも知れない。而して上代記録の諸所殊に延喜式神名帳の諸地方に、國魂神に關する記事が少からず發見される。そしてこれら各地の多くの國魂は、後には一の統一された國魂神となつてをるが、最初から本質的にさうであつたのではなく、極めて部分的に限定されたものであつたらしい。
 以上擧げて來た種類の魂は、概して獨立な人格的な存在とは考へられない方面であるが、これが人間の魂となると、比較的に個性のある人格的なもの、即ち第二存在としての靈魂といふやうな觀念となる。併しこれも矢張り生命靈乃至は靈威といふやうな内容を持つたものが多い。これに幸魂奇魂といはれるものと和魂荒魂といはれるものとがある。幸魂奇魂といふのは書紀によると大己貴神が天下を治める協力者を求めた時に、神光海を照して浮び來るものあり、我在らずんば汝何ぞ此の國を平らぐると得んと云つたので、大己貴神が汝は誰ぞと問うた。そこで答へて我はこれ汝の幸魂奇魂なりといつたとある。これによると幸魂奇魂は一の副人格 〔Doppelga:nger〕 であるが、かゝる事例はたゞこのところに一囘だけ見え、萬葉に見える「くしみたま」が果して同一のものかも疑はしい。これを以て直ちに和魂荒魂に當てるのも何等實證的根據がなく、本居宣長の如く兩者を和魂の一名のとするのも、六人部是香の如く荒魂についていふとするのも、又加藤千蔭の如く奇魂を以て和魂荒魂の兩方を指すとするのも確かでない。これは幸魂奇魂といふ場合の幸及び奇と、和魂荒魂といふ場合の和及び荒とは、全然相違した範疇であつて、兩方を相互に關係せしめて解しようとするのは穩當でないといふことになる。かくして幸及び奇については日本紀私記以來種々の説明もあるが、畢竟文字通りに解したのが最も穩當で、幸といふも奇といふも何れも魂そのものを賞め稱へたものに過ぎず、從つてこれは二個の魂をみとめる複靈觀ではなく、且つ又必然に和魂に該當すべきものでもない。
 しかし和魂荒魂といふ考は、その事例の數から見ても幸魂奇魂の比でなく、又幸魂奇魂が單に同一のものの讚稱であるのとは異なり、和魂と荒魂との間にはどれだけか相對立したものといふ考がある。もとよりその起源に於いてはこれも同じく單に魂をその性質に從つて二樣に賞め稱へたものに外ならないにしても、少くとも記録の上ではその間に多少分化對立の考があつたと見ねばならない。これは神功紀に「和魂は王身について壽命を守り、荒魂は先鋒となつて師船を導く」とか、「荒魂を※[#「てへん+爲」、第4水準2-13-48]ぎて軍の先鋒となし、和魂を請じて王船の鎭となす」とあり、又出雲風土記に諸神の「和魂は靜つて、荒魂は皆悉く猪麻呂が乞ふところに依り給へ」と云ふやうな兩者の對立からも明らかである。そこで此の和及び荒についてもこれまで種々の異説が生じたが、これも亦た結局それを文字通りに解するのが最も穩當なやうである。和と荒との對立を善と惡との對立とするのも一の解釋ではあらうが、併し惡と荒とが語源的には密接に關係するにしても、荒は直ちに惡そのものではない。これは荒魂に關する記録上の事實が示すごとく、すべてが決して憎むべきものではなくて、むしろ多くの事例が好意的なものであることからも充分に理解される。魂の外にも和と荒とは種々の場合に相對立して用ひられてをるが、それは何れの場合にも善とか惡といふやうな倫理的な意味ではなく、更に異なつた内容を持つたものである。即ち本居宣長のいふところ(記傳三十全集二ノ一八四七參照)は大體に於いて最も穩當な説で、和に對する荒の意味は單なる荒ではなくして、むしろ廣く剛強といつたやうな内容を持ち、それは和と同じく而してそれと相竝んで魂の性質や機能を示した一種の修飾辭に外ならないのである。從つて和魂と荒魂とを相對立する二個の靈魂と解するのは、必ずしもその原始的な意味に適合するとはいへないであらう。併しそれが記録時代のずつと後になると、殊に年代は確かでないが大倭神社注進状などでは、兩者の分化對立は一層明らかとなつて來る。即ちそれに「倭大國魂神は大汝貴命の荒魂にして、和魂と力を戮せ心を一にして天下の地を經營せり」とあつて、これはさきに擧げたところと比較しても、そこに相當の距離または發展がある。以上述べたところを要約すれば、幸魂奇魂は勿論、和魂荒魂に於いても少くともその初めの状態では、魂は人間その他の事物の特殊の機能に對する古代人の意識を表はすもので、その特性が種々の言葉でいひかへられたに過ぎないのである。併しこの魂が多少とも實體あるもの、その本體である人や事物を離れてどれだけか別に存在するものと見られるやうなアニミズム的な觀念が固定した時には、初めその種々の性質機能の表現であつた和魂と荒魂等も、各※[#二の字点]獨立な別個の存在と考へられるのである。かゝる心理過程は他にも多くの事例がある事で、例へば生井榮井、生日足日、又は豐石窓神櫛石窓神などの場合、最初はその性質による二種の呼びかへに過ぎなかつたものが、後には全く二個の存在となつたのである。
 かくて魂(たま)の古代形態は事物そのものの性能を示すもので、それが多少とも實體的に考へられるまでは、單に屬性的な力やはたらきであつたやうに、それ自身獨立の存在を有するものではない。この意味では「たま」は個體的な靈魂といふよりも、むしろ機能的流動的な存在として一種の非人格的な靈質といふべきもので、人と動植物とを問はず共通の普遍的な生命であり、そのまゝ死後に存續して死者の人格を代表する所謂靈魂とは違つたものである。そしてこの生命としての靈質は、獨り人間や動植物のみならず、上代人の心理としては石にも劒にも、或は言葉にも國土にもこれを認め、すべてを生きたものとしてその神祕的な生命原理である靈質即ち魂を想定するのである。更に萬葉などによつても「たま」といふ語は心といふことを表はし、又「たましひ」となつても心又は精神といふ意味に當り、これが平安朝頃の用例から見ても力量才能などの意味に使はれてゐる。だから魂がこんな神祕的な活動能力、生きる力の意味を持つてゐた點からも、「たましひ」又は「たま」の古代的意味は、人格的個體的な靈魂といふよりも、むしろ靈質の方の性質をより多く含んでゐたと見るべきであらう。
 而してその生命ある事物のはたらきが多方面に亙れば、その機能的な魂にも多方面があり、やがて又幾種かの魂即ち靈質を持つといふ考、即ち一種の複靈觀が生ずるので、かくて和魂荒魂も分化して記録時代には此の複靈觀にまで變つたといふことが出來よう。併しこれは直ちに上代日本人に人格的な靈魂觀念の存在を否定するものではない。もとより一般に靈質と靈魂とはその發生を異にするにしても、兩者は多くは互ひに結合して具體的な靈魂觀念を形くるし、又靈質がそれ自身に個體化され人格化されて、靈魂となることもあるので、この意味で「たま」乃至「たましひ」が、靈質から人格的な靈魂にまで進展したとも考へられ、又「たま」といふ語の使用が漸次かく轉移したといふことも出來る。かくして靈魂觀念の存在に對する事實としては、大己貴神の副人格としての幸魂奇魂の外にも、特に死屍や墓場に關係ある動物が死靈の顯現とされる場合があり、日本武尊が白鳥に化した物語、田道の墓から出た大蛇の記事などのそれがある。萬葉には人魂といふのが一箇所見えるが、人魂の色合は蒼白であつたらしい。以上の如くして上代日本に於いては第二存在乃至死後の靈魂といふ考は少くとも記録の上では極めてその事例に乏しいのであるが、これ一にはその來世思想の幼稚なのと相應ずるものではなからうか。伊弉諾尊の黄泉訪問はその構想が上代墳墓の形式によつてをるやうにもいはれ、少くとも死後の存在が認められた上での物語であらうが、併し書紀の本文では何故かこの物語を削除してをる。又素戔嗚尊の根國妣國訪問の記事も散見するが、それも極めて現實的で未だこの世から隔離され區別された來世といふやうな考にまでは充分に發達してゐない。しかもこれらは單なる死者觀念を含んではゐても、死靈觀念にはなつてゐない。
 かくして死後に引繼いて存在するといふやうに明らかに意識した靈魂の觀念は極めて少いにしても、記録での幸魂奇魂乃至和魂荒魂はいふ迄もなく、その他何某神の御魂とか皇祖の御靈といふ記事は極めて多い。これらはその個性的であり人格的である點では確かに靈魂であるが、實際それは第二の實體としての魂よりも、その本體の人格のはたらきを意味するものである。一般に魂といふ時には同時にまた魂のはたらきをも含めて意識し、多くの場合寧ろ此の方面が根底をなして、魂そのものの觀念も生じたと見るべきであらう。既に本居宣長も或る場所では御魂とは恩頼《ミタマノフユ》(神靈又靈などともある)などある意にて、その功徳を稱へたる名であるとまでいひ、飯田武郷も同じやうなことをいつてをる。かくして魂はそのはたらきを措いては考へられないやうなもの、從つて魂を理解するためにもそのはたらきとしての恩頼の觀念を吟味することが必要である。
 「みたまのふゆ」の原義については或は殖[#「殖」に傍点]といひ(谷川士清)或は榮[#「榮」に傍点]である(小山田與清)と云つてゐる。しかしこれは又天武紀に招魂[#「招魂」に傍点]を「みたまふり」と訓み、延喜式に鎭魂祭を「おほむたまふり」と訓んでをるのと關係するといふべく、從つて又ふゆ[#「ふゆ」に傍点]をふるふ[#「ふるふ」に傍点](振)といふ意味に解することも出來る(伴信友)。比古婆衣によるとふゆ[#「ふゆ」に傍点]はふるふ[#「ふるふ」に傍点]の義であり、神の靈の威震ひて殊更に幸ひ給ふを稱へてみたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍点]といふとある。これらの諸説はいづれにしても發動する魂のはたらきを意味するので、これは記録の上では神祇、皇祖、天皇が主であり、稀には三寳に對しても用ひられてをる。そしてこれらのものの及ぼす種々の作用や功果が神祕的呪術的な力と認めれた時に、それは一種の靈威觀念であるが、かゝる恩頼即ち靈威の觀念も、古いところでは幾らか實體的に考へられるために、これを記録の上で見ると恩頼が魂そのものと混同される場合が多いのである。

   神祇觀念

 神祇の觀念は多くの場合、精靈や靈鬼とその用語に於いても區別出來ない場合があり、從つて假令それらに關係なく獨立に發生する場合があるにしても、此の精靈や靈鬼の段階を經過してそこから轉化して來る場合が多い。そして上代日本人の信仰の内にも所謂自然神として又は機能神として此種類のものが多いが、これらの自然神が自然物の精靈觀から轉化したにしても、神祇としては最早やその本體たる事物の第二存在とか別體といふのではなく、むしろその支配者、作爲者としての超越的な人格となつてをるのである。例へば稻靈といふやうなものも、これを稻靈神といふ場合には、それは稻の靈ではなくして稻乃至穀物を支配する神祇である。又山に對する山祇神、海に對する海童神の如き、又木に對する句句廼馳神といふ如き、既にそれは山や海、木の第二存在といふやうなものではなく、山海を支配するもの、木や森を支配するものとして、極めて人格的に考へられた一の超越的な存在である。ところがその人格的といふのにも、その形態や性能に種々の違ひがあるだらうし、吾々の考へるやうな人格を認めたのは決して早い時代からではなかつたらう。しかし人間の人格に關する觀念が發達したからとて、直ちにその拜まれる對象にまでこれと同樣な人格を認めたには限らない。なほ又たとへ對象が人格的に意識されるからとて、すぐにそれが人格的にいひ表はされるには限らない。ことにこれを文字にした記録から見れば、人格的な崇拜の對象は必然的に人格的に書き表はされるものでもなく、又從つて人格的に書いてないからとて、その内容に人格的要素が全然ないといふことも出來ない。
 かくして殊に風土記や萬葉集、延喜式に見える神々が、多くその地名又は場所名を以て示されてあるにしても、多くの場合それは超越的人格觀念を伴ふ神祇である。併しそれらの神祇はその職能に於いて分化してゐないものが多く、農耕に關することも、旅行や戰爭に關することも、併せて支配するやうな神で、嚴密にその神の崇拜せられる地域についていへば、假令他にも種々の神祇や精靈が同時に存するにしても、これはその生活全體を支配する守護神乃至至上神であつた場合が多からう。かういふ神祇が民族の發展、地域の擴張と伴つて發展して行つたところに、神々の内での大神といふやうなものも生じ、一部に住吉の大神とか大三輪の大神といふやうに、地名を冠することはあつても他の多くの神々の上に特に秀でた神とされて來たのでもあらう。そして一面地名や場所名を冠した神名が固有名となると同時に、神の特性を以て賞め稱へた一般的な名稱も亦た固有の神名となる。かうした意味で天照大神といふやうな神名にも、倭國の發展した大倭の國での至上神といふ内容が示されてをるといふことが出來る。
 これと同時に人間と同じやうな尊稱を與へて神々の名を固有名化し、それによつて神々を人間化して行く方面がある。これについては軻具突智や句句廼馳などのち[#「ち」に傍点]も、天津日子根などのね[#「ね」に傍点]も、山祇、海童のつみ[#「つみ」に傍点]若くはみ[#「み」に傍点]も、本居宣長によると一種の尊稱美稱であると見られてゐる。これらの語を含むことによつて神名が人格的に表現されることになつたかどうかは暫らく措いても、主[#「主」に傍点]とか別[#「別」に傍点]、更に男女の性を表はす岐[#「岐」に傍点]と美[#「美」に傍点]、彦[#「彦」に傍点]と姫[#「姫」に傍点]、男と女などを添へることによつて、神々の人間的性質が明瞭となつて來たことは記録の示すところである。なほ又神といふ言葉の語源は未だ明らかでないにしても、神と對立する命が神々といはず人々といはず、その尊敬辭であることはいふまでもない。そして神といふよりも命とあるものが、一層人格的な神であることは、概括的にでもいふことが出來る。
 しかして神々の個性の發達とその固有名の發達とは相互に影響するもので、これと同時に神々の職能にも分化を來たす。この多神的傾向から、一方に多少それらの間に組織が行はれ、殊に物語の構成や記録の編纂によつて一の神會(pantheon)組織が生ずる。この意味では特に我が神代の物語は、上代人の持つてゐた種々の神祇に、その社會的また血族的な組織を與へたもので、その時代の社會組織を反映して、神々を父子、兄妹、又は君臣主從の關係にまで結び付けたものである。
 かくてこの神會組織即ち神代物語に表はれる神々には、これまでの民間信仰にその基礎を有するものが極めて多いことは疑はれない。併し事實は單にそれだけではなく、尚ほその物語の作者又は記録の編者の手によつて構想せられた神々、或は支那的思想の影響を受け入れた神々、かうした比較的に新しく考へられるものが少からず含まれてをると見ねばならない。從つてさういふ神々は上代人の宗教的對象としてよりも、物語上の人物としてのみ存在したものである。而してこれらが民族信仰に反映して、その一部にまで取入れられたのは餘程後のことである。事實、延喜式祝詞などを見ても、そこに神代史に見える固有神名が少からずあるが、それらの宗教的崇拜の内容に至つてはこれに伴はないで、その固有名の如何によらず、もとの幼稚な形で殘つてをる場合が少くない。
 以上述べたところは、主として上代記録に基づいて論じたのであるが、なほこの外にも、これまでトーテミズムの痕跡を認めるやうな論者も少くないやうである。併しトーテミズムの特徴は動植物と人間との單なる親縁關係の意識よりも、更にその特殊の社會組織にあるので、從つてさういふ社會組織の痕跡が明らかにせられざる限り、假令かゝる親縁關係が信仰の中に表はれても、これを以てトーテミズムの痕跡であるとはいひ難いのである。而して大體からいつて我國上代にはかゝる痕跡はむしろ無いといつた方が穩當で、トーテミズム的社會組織の想定は民族的系統の上からも無理である。そしてこゝにも上代人の信仰の一の消極的な特徴が存するのではあるまいか。
 これを要するに記録の示す上代人の信仰の種々相を以上の如く擧げ來ると、これによつてその民族的な信仰の特徴、殊に現實を享樂する幸福なる農耕民族としての特徴を、何ほどか明らかにすることが出來るやうである。



※『うわづらをblogで』収録。
底本:『上代人の民族信仰』岩波講座日本文学、岩波書店
   1932(昭和7)年6月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [尾張国]
  • 真福寺 しんぷくじ 名古屋市中区にある真言宗の寺。別称、宝生院。通称、大須観音。建久(1190〜1199)年中、尾張国中島郡大須郷(岐阜県羽島市)に建立、中島観音堂と称したものを1612年(慶長17)現在地に移建。古事記・日本霊異記などの古写本を蔵し、大須本・真福寺本と称する。
  • [大和]
  • 御諸山 みもろやま ミモロは、神座をいい、ひいて神社のある所をいふ。ここは葛城の三諸。現、三輪山。
  • 三輪山 みわやま 奈良県桜井市にある山。標高467メートル。古事記崇神天皇の条に、活玉依姫と蛇神美和の神とによる地名説明伝説が見える。三諸山。
  • 龍田大社 たつた たいしゃ 奈良県生駒郡三郷町にある神社である。風の神(風神)として古くから信仰を集める。
  • 香具山 かぐやま 香具山・香久山。奈良県橿原市の南東部にある山。標高152メートル。耳成山・畝傍山と共に大和三山と称する。樹木が繁茂して美しい。麓に埴安池の跡がある。天の香具山。
  • 広瀬大忌祭 ひろせおおいみのまつり 奈良県北葛城郡川合町にある広瀬神社の祭礼。古くは陰暦の四月四日、七月四日、現在は四月四日、七月二十一日に農作物の成熟を願っておこなわれる。龍田神社の龍田風神祭と並び称される。大忌祭。広瀬の祭。
  • 廣瀬大社 ひろせたいしゃ 奈良県北葛城郡河合町にある神社。旧社名廣瀬神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社。広瀬大忌神ともいう。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。ただし、本来の祭神は長髄彦であるとする説もある。
  • 秋津野・蜻蛉野 あきずの (1) 奈良県の、古代の吉野離宮辺にあった野。萩・呼子鳥などの名所。(2) 和歌山県田辺市の北の野。
  • [伊勢]
  • 伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。
  • 内宮 ないくう (「宮」を清音によむのが伊勢神宮での慣習)皇大神宮のこと。←→外宮
  • 皇大神宮 こうたいじんぐう 三重県伊勢市五十鈴川上にある神宮。祭神は天照大神。古来、国家の大事には勅使を差遣、奉告のことが行われた。天照皇大神宮。内宮。
  • 月読宮 つきよみのみや 月読宮・月夜見宮。(1) (月読宮)皇大神宮の別宮。伊勢市中村町にある。祭神は月読尊。(2) (月夜見宮)豊受大神宮の別宮。伊勢市宮後にある。祭神は月夜見尊ならびにその荒御魂。
  • 外宮 げくう (「宮」を清音によむのが伊勢神宮での慣習)豊受大神宮のこと。←→内宮。
  • 豊受大神宮 とようけ だいじんぐう 伊勢市山田原にある神宮。祭神は豊受大神。もと丹波国真井原にあったのを雄略天皇の代にこの地に遷したと伝える。豊受宮・度会宮・外宮ともいい、皇大神宮とともに総称して伊勢神宮という。
  • 月夜見神社 → 月夜見宮か
  • 月夜見宮 つきよみのみや 現、三重県伊勢市伊勢神宮。祭神は月夜見尊・月夜見尊荒御魂。宮後町にある。儀式帳の外宮所管社中の筆頭に月読神社とある。承元4年、土宮に准じ別宮となった。
  • [山城国]
  • 葛野座月読社
  • 樺井月神社 かばいつき じんじゃ 現、京都府城陽市大字水主。水主神社の境内に鎮座。祭神は月読命。旧村社。もと綴喜郡樺井(現、田辺町大字大住)にあったが、木津川の氾濫に遭い寛文12(1672)水主神社境内に遷宮したと伝える。もとの地には樺井姓の人々が住み、現在も当社を管理している。『延喜式』神名帳の綴喜郡十四座のうちの「樺井月神社」に比定。
  • 月読神社 つきよみ じんじゃ 京都府京都市西京区にある神社。式内社(名神大社)で、現在は松尾大社摂社。月読尊を主祭神とし、高皇産霊尊を相殿に祀る。
  • 弊羅坂 → 幣羅坂
  • 幣羅坂 へらさか 現、京都府相楽郡木津町大字市坂小字幣羅坂。紀は平坂。
  • [丹波国]
  • 小川月神社 おがわつき じんじゃ 現、京都府亀岡市馬路町。馬路の西南、月読にあり、大堰川の東岸、田地の中に鎮座。『延喜式』神名帳にみえる名神大社で、同書神祇臨時祭に記される。「名神祭二百八十五座」の一。祭神は月読尊。旧村社。
  • [但馬国]
  • 出石神社 いずし じんじゃ 兵庫県豊岡市出石町宮内にある元国幣中社。祭神は天日槍命。同命が将来したという8種の神宝を神体とする。但馬国一の宮。
  • [越前国]
  • 気比神宮 けひ じんぐう 福井県敦賀市曙町にある元官幣大社。祭神は伊奢沙別命・日本武尊・帯中津彦命・息長帯姫命・誉田別命・豊姫命・武内宿祢。越前国一の宮。
  • [出雲国]
  • 須賀の宮 すがのみや (1) 現、鳥取県日野郡日野町根雨神社。社伝などによれば、出雲国須賀宮から勧請したため須賀宮と称し、源平争乱の頃に京都から日野郡へ配流された長谷部信連が当社を京都祇園社に見立て、以後、祇園社・牛頭天王と称したという。(2) 出雲国須賀宮。現、島根県大原郡大東町須賀。須賀神社。赤川の支流須賀川中流域に位置する。須賀神社は、『出雲国風土記』大原にみえる須我社に比定される。
  • 出雲大社 いずも たいしゃ 島根県出雲市大社町杵築東にある元官幣大社。祭神は大国主命。天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・宇麻志阿志軻備比古遅命・天之常立神を配祀。社殿は大社造と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。
  • 比売碁曽の社 (1) 比売語曽社 ひめこそしゃ 現、大分県東国東郡姫島村。両瀬の明神様とよばれる。姫古曽神社(豊後国古蹟名寄)、比売許曽神社(豊後志)などとも記された。祭神は比売語曽神。(2) 比売許曽神社 ひめこそ じんじゃ 現、大阪府東成区東小橋三丁目。東小橋の字大小橋にあり、下照比売命を主神とし、速素戔嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀。旧村社。『延喜式』神名帳、東成郡の「比売許曽(ヒメコソノ)神社」に比定されている。当時、下照比売社ともよんだとみえる。
  • 千葉の葛野
  • 金�Kの岡 かなすきのおか
  • 引田部の赤猪子 ひけたべの あかいこ 赤猪子。古事記の所伝によると、雄略天皇の目にとまり、空しく召しを待つこと80年、天皇がこれをあわれみ、歌と禄とを賜ったという女性。
  • [対馬]
  • 対馬島 つしまじま 現、長崎県。『魏志倭人伝』に「対馬国」とあり、『日本書紀』大八洲生成条に「対馬嶋」とある。『古事記』ではすべて「津嶋(津島)」とする。令制下では国とするか島とするか、混用がみられる。
  • 下県郡 しもあがたぐん 長崎県の対馬(対馬国)南部にかつて存在した郡。消滅直前となる2004年2月29日の時点で3町を含んでいた。
  • 阿麻�留神社 あまてる じんじゃ 現、長崎県下県郡美津島町小船越。堀切の丘に鎮座。祭神は天日神命(天照魂命)。旧村社。
  • [壱岐]
  • 壱岐島 いきのしま 九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島。九州と対馬の中間に位置する。周囲には21の属島(有人島4・無人島17)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐地方局を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。
  • 壱岐郡 いきぐん 長崎県にかつてあった郡。
  • 月読神社 つきよみ じんじゃ 長崎県壱岐市芦辺町国分東触にある神社。延喜式内社で名神大社。
  • [肥前]
  • 松浦川 まつうらがわ 佐賀県北部を流れる松浦川水系の本流で一級河川。武雄市北西部の黒髪山(標高518m)の北、青螺山(標高599m)に発し、伊万里市西部で筑肥線を添わせつつ北東流。唐津市相知で厳木川を合わせ、北流に転じる。唐津市街地で川幅を広げ、唐津湾に注ぐ。河口の西に唐津城が聳える。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 推古天皇二八(六二〇) 『天皇記』、聖徳太子らによって撰録された書巻の一つ。
  • 天武天皇在位(六七二〜六八六) 当時諸家に伝わっていた『帝紀』と『本辞』とが、誤謬が多くなり正しい伝えを失しているとされ、これを正して後世に伝えようとして、稗田の阿礼に命じてこれを誦み習わしめる。
  • 和銅四(七一一)九月一八日 元明天皇、太の安万侶に稗田の阿礼が誦むところのものの筆録を命じる。
  • 和銅五(七一二)正月二八日 稿成って『古事記』を奏上。
  • 養老七(七二三) 太の安万侶、没。
  • 昭和七(一九三二)六月 宇野円空『上代人の民族信仰』岩波講座日本文学、岩波書店。
  • 昭和三一(一九五六)五月二〇日 武田祐吉『古事記』角川文庫、初版発行。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 『古事記』解説
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  • 天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
  • 稗田の阿礼 ひえだの あれ ?-? 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
  • 元明天皇 げんめい てんのう 661-721 奈良前期の女帝。天智天皇の第4皇女。草壁皇子の妃。文武・元正天皇の母。名は阿閉。都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶らに古事記を撰ばせ、諸国に風土記を奉らせた。(在位707〜715)
  • 太の安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
  • 推古天皇 すいこ てんのう 554-628 記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫。また、額田部皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮で即位。後に同国の小墾田宮に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。(在位592〜628)
  • 聖徳太子 しょうとく たいし 574-622 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇后。名は厩戸。厩戸王・豊聡耳皇子・法大王・上宮太子とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、「三経義疏」を著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。
  • アメノホヒの命 → 天穂日命
  • 天穂日命 あまのほひのみこと 日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた子。天孫降臨に先だち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主となる。出雲国造らの祖とする。千家氏はその子孫という。
  • 出雲氏 いずもうじ 天穂日命を祖とする古代の豪族。姓は臣。出雲国と山城国愛宕郡雲上里・雲下里に集中し、大和・河内・播磨・丹波などにも分布。出雲連が摂津国、無姓の出雲が越前国にみえる。出雲国の出雲臣は意宇郡を本拠とし、郡大領・出雲国造を兼帯した家系を本宗とし、九郡中五郡の郡司として現れ、大勢力を有した。律令制下でも出雲国造の任命が知られる。国造家は南北朝期に千家・北島両家に分裂。出雲連には医書「大同類聚方」を著した出雲広貞がでて、医道の道として栄えた。(日本史)
  • 神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
  • 応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
  • 仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
  • 綏靖天皇 すいぜい てんのう 記紀伝承上の天皇。神武天皇の第3皇子。名は神渟名川耳。
  • オホハツセの天皇 → 大長谷王、雄略天皇
  • サホヒコの王 → さほひこ、狭穂彦、狭穂彦王
  • オホヤマモリの命 → 大山守皇子
  • 大山守皇子 おおやまもり の みこ 応神天皇の第一皇子。母は高城入姫命。応神天皇の崩御後、皇位を継ごうと企み、有力候補の菟道稚郎子・大鷦鷯皇子(後の仁徳天皇)らを殺害しようと数百の兵とともに挙兵するが、船で宇治川を渡る際に、計画を察知した大鷦鷯皇子から話を聞いた菟道稚郎子が渡し守に紛し、船をわざと転覆させたため、水死した。
  • 高皇産霊神・高御産巣日神・高御産日神・高御魂神 たかみむすひのかみ 古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという神。天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神の一神。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一神。たかみむすびのかみ。別名、高木神。
  • 神産巣日神・神皇産霊神 かみむすひのかみ 記紀神話で天地開闢の際、天御中主神・高皇産霊神と共に高天原に出現したと伝える神。造化三神の一神。女神ともいう。かむみむすひのかみ。
  • 天常立神 あまのとこたちのかみ 古事記で、天地開闢の時、現れたという神。
  • 次田潤 つぎた うるう 1884ー1966 明治・昭和期の国文学者。第一高等学校教授、学習院大学教授。立正大学教授などを歴任し、上代文学に多くの業績を残す。主著に「古事記新講」「万葉集新講」など。(人レ)
  • 中島悦次 〓 著『古事記評釈』。
  • 菩比の神 ほひのかみ → アメノホヒの命
  • アメノホヒの命 天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神。日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた子。天孫降臨に先だち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主となる。出雲国造らの祖とする。千家氏はその子孫という。
  • 天稚彦・天若日子 あめわかひこ 日本神話で、天津国玉神の子。天孫降臨に先だって出雲国に降ったが復命せず、問責の使者雉の鳴女を射殺、高皇産霊神にその矢を射返されて死んだという。
  • 武甕槌命・建御雷命 たけみかずちのみこと 日本神話で、天尾羽張命の子。経津主命と共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、大国主命を説いて国土を奉還させた。鹿島神宮はこの神を祀る。
  • 迩々芸の命 → 瓊瓊杵尊
  • 瓊瓊杵尊 ににぎのみこと 瓊瓊杵尊・邇邇芸命。日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊の子。天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女、木花之開耶姫を娶り、火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を生んだ。天津彦彦火瓊瓊杵尊。
  • 事代主神 ことしろぬしのかみ 日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣を作り隠退した。託宣の神ともいう。八重言代主神。
  • 熊野の高倉下 たかくらじ 日本神話に登場する人物。夢で見た神託により、神武天皇に霊剣布都御魂をもたらした。「高倉下」という名前は「高い倉の主」の意。布都御魂が祀られている石上神宮は、物部氏に関係の深い神社。
  • 八咫烏 やたがらす (ヤタはヤアタの約。咫は上代の長さの単位) (1) 記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏。姓氏録によれば、賀茂建角身命の化身と伝えられる。(2) 中国古代説話で太陽の中にいるという3本足の赤色の烏の、日本での称。
  • 弊羅坂の少女 → 幣羅坂か
  • 少彦名神 すくなびこなのかみ 日本神話で、高皇産霊神(古事記では神産巣日神)の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭などの法を創めたという。
  • 一言主神 ひとことぬしのかみ 葛城山に住み、吉事も凶事も一言で表現するという神。
  • 豊玉毘売・豊玉姫 とよたまひめ (古くはトヨタマビメ)海神、豊玉彦神の娘で、彦火火出見尊の妃。産屋の屋根を葺き終わらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているのを夫神にのぞき見られ、恥じ怒って海へ去ったと伝える。その時生まれたのが��草葺不合尊という。
  • 大物主神 おおものぬしのかみ 奈良県大神神社の祭神。蛇体で人間の女に通じ、また祟り神としても現れる。一説に大己貴神(大国主命)と同神。
  • 肥長比売 ひながひめ 垂仁天皇の子本牟智和気命が出雲の大神を拝み帰還する時に、出雲国造祖に駅使(はゆまづかい)を献上され、肥長比売と一宿婚する。命が比売をうかがいみると蛇であったので、命は驚き逃げる。そのため比売は悲しんで海原を照らして追いかけるが、命はついに逃げ帰ってしまう。(神名)
  • 阿加流比売神 あかるひめのかみ 古事記説話で、天之日矛の妻。新羅の女が日の光を受けて懐妊し、生んだ赤玉の成った女神。のち日本に来て難波の比売許曾神社に鎮座した。
  • 五瀬命 いつせのみこと ��草葺不合尊の長子。神武天皇の兄。天皇と共に東征、長髄彦と戦って負傷、紀伊国の竈山で没したという。竈山神社に祀る。
  • 大�古の命 おおびこのみこと ?-? 大彦命。皇族(王族)。大毘古命。孝元天皇の第一皇子で、母は皇后・鬱色謎命。開化天皇と少彦男心命(古事記では少名日子名建猪心命)の同母兄で、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した四道将軍の一人。
  • 建振熊 たけふるくま 難波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)。神功皇后の時の勇将。丸邇氏の祖。皇后が新羅より凱旋しようとした時、香坂・忍熊の二王が反乱をはかったので、建振熊命に鎮圧の命を下した。勢力の衰えない敵に対し、建振熊命は智謀をめぐらして、皇后がすでに崩じたため戦意を失ったといつわり、降意を表して油断させ、にわかに逆襲に出て逢坂で戦い、さらに近江の滋賀に攻め討ってことごとく賊を亡ぼした。また、仁徳紀にも皇命に逆らう飛騨国人を討った話がみえる。近江国滋賀郡の神田神社境内園神社に祀られている。(神名)
  • 意富の臣 おおの おみ
  • 武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
  • 置目の老媼 おきめの おうな
  • 菟道稚郎子 うじの わきいらつこ 応神天皇の皇太子。仁徳天皇の弟。阿直岐・王仁について学び、博く典籍に通じたが、兄に帝位を譲るため自殺したという。
  • 仁賢天皇 にんけん てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。磐坂市辺押磐皇子の第1王子。名は億計。父が雄略天皇に殺された時、弟(顕宗天皇)とともに播磨に逃れた。のちに清寧天皇の皇太子となり、弟に次いで即位したという。
  • 八千矛神 やちほこのかみ (「多くの矛の神」の意)古事記で、大国主命の異称。神語に歌われる。
  • 若日下部の王 わかくさかべの王 オオクサカの王の妹。ハタビの若郎女。別名、ナガメ姫の命。
  • 美夜受比売 みやずひめ 宮簀媛。記紀伝承で日本武尊の妃。尾張国造の祖、建稲種公の妹。日本武尊は東征後、草薙剣を媛の許に留めたが、尊の没後、媛は神剣を祀り、熱田神宮の起源をなした。
  • 髪長比売 かみながひめ 髪長姫。日向髪長媛。ヒムカノムラガタの君ウシモロの娘。
  • 吉備の黒日売 きびのくろひめ 容姿端正のため仁徳天皇の妃となるが、大后の石之日売命の嫉妬を恐れて本国に帰る。天皇の思慕はやまず、淡路島の巡幸と称して密に吉備に行った。(神名)
  • 八田の若郎女 やたの わかいらつめ 応神天皇の皇女。異母兄である仁徳天皇の妃となった。この婚姻をめぐる后の石之日売(磐之媛)の嫉妬の物語と歌謡が記紀にある。(神名)
  • 伊豆志袁登売 いづしおとめ 伊豆志袁登売神。応神記の天之日矛伝承の後に登場する。天之日矛が将来した伊豆志之八前大神の女。名義は出石の巫女の神。伊豆志は兵庫県出石郡出石町。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫との兄弟二神から求婚される。兄弟神は賭をし、母の助力を得てそれに勝った春山之霞壮夫が伊豆志袁登売神を得た。(神名)
  • 女鳥王 めどりのおおきみ 古代伝説上の人物。応神天皇の女。異母兄仁徳天皇の求婚を断って媒人の速総別王と結婚。雌鳥皇女。
  • 須勢理毘売 すせりびめ 古事記神話で須佐之男命の女。大国主命の苦難を助けて嫡妻となる。
  • 石の比売の命 いしひめ 石姫の命。石比売の命 名義不詳。宣化天皇の御子。母は橘中比売命。妹は小石姫の命。のちに欽明天皇の皇后となって八田王、沼名倉太玉敷命、笠縫王を生んだ。(神名)
  • 丹波の二女王
  • 三重の采女 みえの うねめ 伊勢国三重郡から奉られた采女。雄略記にのみ登場する。新嘗祭の酒宴で采女の失態に怒った天皇が斬り殺そうとすると、采女は歌をたてまつって罪を許されたとある。(神名)
  • 彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと 記紀神話で瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の女と結婚。別名、火遠理命。山幸彦。
  • ��草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと 記紀神話で、彦火火出見尊の子。母は豊玉姫。五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)の父。
  • 天尾羽張 あまのおはばり 伊弉諾尊が迦具土神を斬った剣の名。伊都尾羽張。
  • 佐士布都の神 さじふつのかみ 大刀の名。
  • 当芸志美美の命 タギシミミの命 多芸志美美の命、手研耳命。神武天皇の皇子。母は、吾平津姫で、同母弟に岐須美美命(ただし古事記のみ登場)が、異母弟に綏靖天皇、神八井耳命、彦八井耳命がいる。
  • 沙本�古の王 さほひこのみこ 狭穂彦王。記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では狭穂彦王、『古事記』では沙本毘古王。彦坐王の子で、開化天皇の孫に当たる。日下部連・甲斐国造の祖。母は春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸売。同母の兄弟に葛野別・近淡海蚊野別の祖袁邪本王、若狭耳別の祖室毘古王、垂仁天皇皇后狭穂姫命がいる。
  • 狭穂彦狭穂姫・沙本毘古沙本毘売 さおびこ・さおびめ 古代伝説上の兄妹。開化天皇の孫という。妹は垂仁天皇の皇后となり、兄の謀反を知りつつ夫との板ばさみに苦しみ、兄とともに果てた。
  • 墨江の中つ王 スミノエノナカツの王 墨江之中津王。住吉仲皇子。仁徳天皇の皇子で、母は、磐之姫命。兄履中天皇の婚約者黒媛を天皇の名をかたって犯してしまい、事の発覚を恐れて、天皇の宮殿を包囲、焼殺しようとするが失敗。天皇に命じられた瑞歯別尊(のちの反正天皇)によって殺された。
  • 目弱の王 マヨワの王 眉輪王(紀)。父は仁徳天皇の皇子オオクサカの王。母は履中天皇の皇女ナガタの大郎女。根の臣の讒謗により安康天皇はオオクサカの王を殺し、妻のナガタの大郎女を奪い自分の皇后とする。真実を知ったマヨワの王は、天皇が眠っている間をうかがい殺してツブラノオオミの家へ逃げ込む。オオハツセの王(雄略天皇)はツブラノオオミの家を包囲。ツブラはマヨワの王を護り奮戦するが力つきてマヨワの王を刺し自刃する。(神名)
  • 貝比売 きさがいひめ 赤貝を神格化した女神の義という。和名抄に(赤貝の意)に木佐の訓をつける。記では、兄弟の八十神たちのために、大きな焼き石の下敷となって殺された大穴牟遅神を、神産巣日神の命令の下、蛤貝比売と共に蘇生させたことを伝える。(神名)
  • 蛤貝比売 うむぎ/うむがい/はまぐり ひめ 蛤貝姫。蛤を神格化した神の義という。和名抄に海蛤の訓を宇無木乃加比と付す。大穴牟遅神を貝比売と共に蘇生させた神。(神名)
  • 建御名方神 たけみなかたのかみ 日本神話で、大国主命の子。国譲りの使者武甕槌命に抗するが敗れ、信濃国の諏訪に退いて服従を誓った。諏訪神社上社はこの神を祀る。
  • シジム 志自牟。播磨国の豪族。父のイチノベノオシハの王を殺されたオケの王・ヲケの王が、シジムの家に馬甘・牛甘として隠れ住んだ。二皇子はシジムの家の新室楽のとき、訪れた山部連小楯に見出される。紀で該当するのは縮見屯倉首忍海部造細目。播磨風土記では志深村首伊等尾。
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  • 上代人の民族信仰
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  • 麻多智
  • 夜刀神 やとのかみ 谷神(やとのかみ)。「やと」は谷、湿地の意)谷または低湿地をつかさどる祭。蛇をいう。
  • 素戔嗚尊・須佐之男命 すさのおのみこと 日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
  • 龍田風神 → 龍田風神祭
  • 龍田風神祭 たつたかぜのかみまつり 風害を免れて豊作になるよう祈願する祭。奈良県生駒郡三郷町の龍田神社で、広瀬神社の大忌祭とともに国家的な大祭として後世に伝えられ、四月と七月の四日におこなわれる。たつたのまつり。風神祭。
  • 迦具土神 かぐつちのかみ 記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉二尊の子。火をつかさどる神。誕生の際、母を焼死させたため、父に切り殺される。火産霊神。
  • 天照大神・天照大御神 あまてらす おおみかみ 伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
  • 日之皇子
  • 顕宗天皇 けんぞう てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。履中天皇の皇孫。磐坂市辺押磐皇子の第2王子。名は弘計。父が雄略天皇に殺された時、兄(仁賢天皇)と共に播磨に逃れたが、後に発見されて即位したという。
  • 月読尊・月夜見尊 つきよみのみこと (古くはツクヨミノミコト)記紀神話で伊弉諾尊の子で天照大神の弟。月神。「夜の食す国」を治めたという。
  • 住吉三神 すみよし さんじん 神道で信仰される神で、底筒男命、中筒男命、表筒男命の総称。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神とされる。
  • 三筒男神
  • 住吉神・墨江神 すみのえのかみ 大阪の住吉神社の祭神である表筒男命・中筒男命・底筒男命の三神。伊弉諾尊が筑紫の檍原で、禊をした時に生まれたという。航海の神、また和歌の神とされる。すみよしのかみ。
  • 天甕星 → 天津甕星か
  • 天津甕星 あまつみかぼし 日本神話に登場する星の神。別名、天香香背男、香香背男。古事記には登場せず、日本書紀の葦原中国平定にのみ登場する。本文では、経津主神・武甕槌命は国津神をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは征服できなかったとある。/名義不詳。天に在る悪神で、折々怪光を現わし高天原の諸神を惑わす。経津主神が武甕槌命と天神の命を受けて中国平定の途につくに先だち、この神を誅したという。天香香背男の別名。(神名)
  • 香背男 → 天香香背男か
  • 天香香背男 あまのかがせお 天津甕星の別名。香香背男。/香香は�f(かが)、背は「さえ」、光の明るいさま。天津甕星の別名で悪神とされる。(神名)
  • 神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
  • 大己貴神・大穴牟遅神・大汝神 おおなむちのかみ 大国主命の別名。大名持神とも。
  • 須勢理毘売 すせりびめ 古事記神話で須佐之男命の女。大国主命の苦難を助けて嫡妻となる。
  • 坪井博士 → 坪井正五郎か
  • 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 人類学者。江戸生れ。東大教授。日本の人類学の始祖。東京人類学会を創設、「人類学会報告」を創刊。日本石器時代住民についてコロポックル説を主唱。
  • 国魂神 くにたまのかみ 国土を経営する神。大国主神など。くにみたま。
  • 本居宣長 もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、「もののあはれ」の文学評論を展開、「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言」「直毘霊」「玉勝間」「うひ山ぶみ」「馭戎慨言」「玉くしげ」など。
  • 六人部是香 むとべ よしか 1798-1864 幕末の国学者。山城国乙訓郡向日神社の神職(忠篤)の子。節香は忠篤の弟で、是香の伯父にあたる。初名惟篤 通称は縫殿・美濃守・宿禰などと称する。号は葵渓・一翁・篶舎など。生年は1806年説もある。享年66。
  • 加藤千蔭 かとう ちかげ 1735-1808 江戸中期の歌人・国学者。橘氏。枝直の子。号は芳宜園。江戸の人。江戸町奉行所与力。賀茂真淵に師事し、村田春海と共に双璧と称され、書画にも長じた。著「万葉集略解」「うけらが花」など。
  • 倭大国魂神 やまとのおおくにたまのかみ 日本神話に登場する神。日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神。『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
  • 大汝貴命 → 大己貴命、大汝命か
  • 豊石窓神 とよいわまどのかみ
  • 櫛石窓神 くしいわまどのかみ
  • 天石戸別神 あまのいわとわけのかみ 天石門別神。日本神話で、御門の守護神として天孫降臨の際に随伴したという神。みかどのかみ。
  • 日本武尊・倭建命 やまとたけるのみこと 古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
  • 田道 → 田道間守か
  • 田道間守 たじ まもり 記は多遅麻毛理。代々、但馬出石郡におり、多遅摩比那良岐の子。天之日矛の子孫。三宅連の祖。(神名)/記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
  • 伊弉諾尊・伊邪那岐命 いざなぎのみこと (古くはイザナキノミコト)日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊と共にわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどった男神。天照大神・素戔嗚尊の父神。
  • 飯田武郷 いいだ たけさと 1827-1900 幕末・明治の国学者。信濃高島藩士。気比神宮・浅間神社等の宮司。東大教授等を歴任。主著「日本書紀通釈」
  • 谷川士清 たにかわ ことすが 1709-1776 江戸中期の国学者・神道家。号は淡斎。伊勢の人。垂加神道を学び、また、著書「日本書紀通証」や編著書の「和訓栞」などにより国語学者として重要。
  • 小山田与清 おやまだ ともきよ 1783-1847 江戸後期の国学者。号は松屋。隠居前高田氏。武蔵の人。群書を蒐集し、その書庫を擁書楼といった。考証学に精通。徳川斉昭の知遇を得て、「八洲文藻」「扶桑拾葉集註釈」を撰。著「松屋筆記」など。
  • 伴信友 ばん のぶとも 1773-1846 江戸後期の国学者。近世考証学の泰斗。若狭小浜藩士。本居宣長没後の門人。1821年(文政4)致仕後、和漢の古典の考証に励む。著「日本書紀考」「比古婆衣」「仮字本末」「長等の山風」など。
  • 住吉の大神 → 住吉三神
  • 大三輪の大神 おおみわのおおかみ 大神神。大和の式内社大神神社(元官幣大社)の祭神。倭大物主櫛玉命という。大己貴命の幸魂・奇魂を祀る。三輪明神として知られる。(神名)
  • 軻具突智 → 迦具土神、軻遇突智
  • 迦具土神 かぐつちのかみ 軻遇突智。記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉二尊の子。火をつかさどる神。誕生の際、母を焼死させたため、父に切り殺される。火産霊神。
  • 天津日子根 あまつひこね 古事記では天津日子根命、日本書紀では天津彦根命と書かれる。アマテラスとスサノオの誓約の際に、天照大神の八尺勾玉の五百箇の御統の珠から生まれた五柱の男神のうちの一柱である。古事記や日本書紀本文ほかでは3番目に生まれ、天照大神の物種より生まれたので天照大神の子であるとされる。その後、神話の記述には登場しない。多くの氏族の祖神とされている。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 『古事記』解説
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  • 『帝紀』 ていき 天皇の系譜の記録。帝皇日嗣(ていおうのひつぎ)。
  • 『本辞』 ほんじ 皇族や氏族の伝承、また、民間の説話などを書きとどめたもの。旧辞。
  • 『天皇記』 てんのうき 歴代天皇の系譜か。620年、聖徳太子・蘇我馬子らの撰。蘇我蝦夷が自邸に火を放った際、焼失したと伝える。
  • 『日本帝紀』 〓 『正倉院文書』に記す『帝紀』の表現。(国史)
  • 『帝王本紀』 〓 『日本書紀』に記す『帝紀』の表現。(国史)
  • 『旧辞』 くじ/きゅうじ 神話・伝承の記録または口誦されたもの。
  • 『風土記』 ふどき 713年(和銅6)元明天皇の詔によって、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた地誌。完本として伝わるものは出雲風土記のみで、常陸・播磨の両風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものはかなり省略されていて、撰進された時期も一律ではない。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれた風土記と区別するため「古風土記」という。
  • 『土佐国風土記』 とさのくにふどき? 和銅6(713)の詔によりつくられるが散逸。『釈日本紀』や仙覚の『万葉集註釈』に引用されている。前書には玉島・土佐高賀茂大社(土佐神社)・朝倉神社、後書には神河(仁淀川)に関する伝承などが収められる。(地名)
  • 『琴歌譜』 きんかふ 万葉仮名で書いた大歌22首を和琴の譜とともに記した書。1巻。平安初期の成立。981年(天元4)の写本がある。
  • 『先代旧事本紀』 せんだいくじほんぎ → 『旧事紀』
  • 『古事記新講』 次田潤の著。
  • 『古事記評釈』 中島悦次の著。
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  • 上代人の民族信仰
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  • 『常陸風土記』 ひたち ふどき 古風土記の一つ。1巻。常陸国11郡のうち、河内(逸文あり)・白壁(のちの真壁)の2郡を欠く9郡の地誌。713年(和銅6)の詔に基づいて養老(717〜724)年間に撰進。文体は漢文による修飾が著しい。常陸国風土記。
  • 『史記』 しき 二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、表10巻、書8巻、合計130巻。前漢の司馬遷の撰。紀元前91年頃に完成。ただし「三皇本紀」1巻は唐の司馬貞により付加。注釈書に、南朝宋の裴の「史記集解」、司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などがある。太史公書。
  • 『延喜式』「祝詞」 のりと 巻8。
  • 『延喜式』 えんぎしき 弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
  • 『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
  • 『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
  • 『万葉』 → 『万葉集』
  • 『万葉集』 まんようしゅう (万世に伝わるべき集、また万の葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。
  • 「顕宗紀」 けんぞうき
  • 『旧事紀』 くじき 神代から推古朝までの事跡を記した史書。10巻。序に蘇我馬子らが勅を奉じて撰したとあるが、実際には平安初期に編纂された。先代旧事本紀。旧事本紀。
  • 『天神本紀』 〓 『先代旧事本紀』巻三。(国史)
  • 「神名帳」 じんみょうちょう/しんめいちょう 神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式をいい、毎年祈年祭の幣帛にあずかる宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。
  • 『古事記伝』 こじきでん 古事記の注釈書。本居宣長著。44巻。1767年(明和4)頃起稿、98年(寛政10)完成。1822年(文政5)刊行終了。国学の根底を確立した労作で、今日でも古代史・古代研究の典拠。
  • 『書紀通釈』 → 『日本書紀通釈』か
  • 『日本書紀通釈』 にほんしょき つうしゃく 『日本書紀』に関する諸注釈書を集大成した書。70巻。飯田武郷が48年の歳月を費やして死の前年1899(明治32)に完成。(日本史)
  • 『古語拾遺』 こごしゅうい 歴史書。斎部広成著。1巻。807年(大同2)成る。古来中臣氏と並んで祭政にあずかってきた斎部氏が衰微したのを嘆き、その氏族の伝承を記して朝廷に献じた書。記紀にみえない伝承も少なくない。
  • 『日本紀私記』 にほんぎ しき 朝廷でおこなわれた『日本書紀』講書に際して成立した述作。完本は現存せず、一部しか残っていない零本四種が伝わり、また「釈日本紀」が逸文を載せる。(日本史)
  • 「神功紀」
  • 『出雲風土記』 いずも ふどき 古風土記の一つ。733年(天平5)成る。完全な形で伝わる唯一の古風土記。出雲国9郡の風土・物産・伝承などを述べる。記紀にみえない出雲地方の神話も含む。1巻。出雲国風土記。
  • 「大倭神社注進状」
  • 『比古婆衣』 ひこばえ 随筆集。日本史・文学・語学の各分野にわたる考証の集録。伴信友著。20巻。弘化4年(1847)から明治にかけて刊行。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*難字、求めよ

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  • 『古事記』解説
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  • 誄詞 しのひこと/るいし 「るい(誄)」に同じ。
  • 誄 るい 死者生前の功徳をたたえて哀悼の意を表す詞。しのびごと。弔辞。
  • 撰録 せんろく 文章を作って記録すること。
  • 大嘗祭 だいじょうさい 天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2カ所に設け、東(左)を悠紀、西(右)を主基といい、神に供える新穀はあらかじめ卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。
  • 古詞 ふることば? 古辞(こじ)か。昔、使われていたことば。古語。ふること(古言、古語)?
  • 興趣 きょうしゅ あじわいのあるおもしろみ。おもむき。
  • 詞章 ししょう 詩歌や文章。謡曲・浄瑠璃などの文章。
  • 海幸山幸 うみさち やまさち 日本神話の一つ。彦火火出見尊(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるため塩椎神の教えにより海宮に赴き、海神の女と結婚、釣針と潮盈珠・潮乾珠を得て兄を降伏させたという話。天孫民族と隼人族との闘争の神話化とも見られる。また仙郷滞留説話・神婚説話・浦島伝説の先駆をなすもの。
  • 奇事 きじ 不思議なこと。あやしい事。珍しい事。
  • 異聞 いぶん 常とかわった風聞。珍しい話。
  • 成書 せいしょ 書物としてできあがっているもの。
  • 祈請・誓約 うけい (動詞ウケフの連用形から)神に祈って成否や吉凶を占うこと。
  • 選進 せんしん よりすぐって天皇などに奉ること。
  • 語序 ごじょ 文中における語の配列の順序。語順。
  • 葦牙 あしかび 葦の若芽。
  • 可美葦牙彦舅神 うましあしかびひこじのかみ 記紀神話で、国土がまだ出来あがらず天地混沌の時、アシカビ(葦の芽の意)のように生まれたとされる神。
  • 漢心・漢意 からごころ 漢籍を学んで中国の国風に心酔、感化された心。近世の国学者が用いた語。←→やまとごころ
  • 道饗の祭 みちあえのまつり 律令制で、6月・12月の両度、京都の四隅の道上で八衢比古・八衢比売・久那斗の3神を祀る祭事。魑魅・妖物に食物を饗して、その京都に入るのを防いだ。ちあえのまつり。
  • 呪禁 じゅごん (ゴンは呉音)まじないをして物怪などをはらうこと。
  • 太卜 ふとまに (「ふと」は美称)上代の占いの一種。ハハカの木に火をつけ、その火で鹿の肩の骨を焼き、骨のひび割れの形を見て吉凶を占うもの。太町。
  • 鎮懐石 ちんかいせき
  • 大八洲・大八島 おおやしま (多くの島から成る意)日本国の古称。おおやしまぐに。
  • 猿女 さるめ 古代、縫殿寮に属して、大嘗祭・鎮魂祭での神楽の舞や天皇の前行などに奉仕した女官。
  • 頌徳 しょうとく 功徳をほめたたえること。
  • 歌垣 うたがき (1) 上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。(2) 男女相唱和する一種の歌舞。宮廷に入り踏歌を合流して儀式化する。
  • 勧杯・勧盃 かんぱい 盃をさして酒をすすめること。けんぱい。
  • 草薙剣 くさなぎのつるぎ 三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾から出たと伝える剣。日本武尊が東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣。
  • 国主歌 くずうた → 国栖歌か
  • 国栖歌 くずうた 古代、国栖の人が宮廷の儀式の際に宮中承明門外で奏した風俗歌。
  • 枯野 からの 記紀に見える、高木を材料としてつくられた船の名。記によると仁徳帝の代に、紀では応神帝の代につくられたという。加良怒。
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  • 上代人の民族信仰
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  • 自然崇拝 naturism しぜん すうはい 自然の事物や現象を神として崇拝すること。星辰崇拝、太陽崇拝、山岳崇拝、樹木崇拝、動物崇拝などの類。天然崇拝。
  • 霊威 れいい 霊妙な威光。すぐれて不思議な力。
  • 神祇 じんぎ 天神と地祇。天つ神と国つ神。かみがみ。
  • アニミズム animism 呪術・宗教の原初的形態の一つ。自然界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、諸現象はその意思や働きによるものと見なす信仰。タイラーが提唱。
  • 精霊崇拝 せいれい すうはい アニミズムの一形態で、特に精霊の観念の明らかなもの。
  • 精霊 せいれい (1) 万物の根源をなすという不思議な気。精気。(2) 草木・動物・人・無生物などの個々に宿っているとされる超自然的な存在。(3) 肉体または物体から解放された自由な霊。死者の霊魂。
  • 発枳 はつかし?
  • 神所・神地 かむどころ (1) 朝廷から神社に寄進した所領。神領。(2) 神の鎮座する所。
  • 神地 しんち 神の鎮座する土地。宗廟・山陵・神社などの所在地や神社の境内。
  • 神の祝 かみのはふり 神に仕える人。神職。神官。
  • 奉斎 ほうさい 神仏をつつしんでお祭り申すこと。
  • かしこ 恐・畏・賢。(カシコシの語幹) (1) おそれおおいこと。慎むべきこと。(2) 巧妙であるさま。うまいさま。(3) 賢明なこと。利口。(4) 手紙の末尾に書く語。恐惶謹言などと同意。「かしく」とも。多く、女性が用いる。
  • 調伏 ちょうぶく (1) 〔仏〕(ジョウブクとも) (ア) 心身を制御して煩悩や悪行にうちかつこと。(イ) 密教の四種法の一つで、五大明王などを本尊として法を修し、怨敵・魔障を降伏すること。調伏法。降伏法。(2) 人をのろい殺すこと。呪詛。
  • 宥和 ゆうわ ゆるして仲よくすること。
  • 亭々 ていてい 樹木などの高くまっすぐにそびえたつさま。
  • 茂樹 もじゅ 繁茂している樹木。
  • うしはく 領く 自分のものとして領有する。
  • 個所 かしょ 箇所。
  • 火の神 ひのかみ 火をつかさどる神。迦具土神。
  • 県主 あがたぬし 大和時代の県の支配者。後に姓の一つとなった。
  • 荒ぶる神 あらぶるかみ 荒立つ国つ神。人に害を与える暴悪の神。
  • 不可知 ふかち 人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないこと。たとえば、現象の背後に隠れた実体や神などを知ることができないとすること。
  • 不可知論 ふかちろん 〔哲〕(agnosticism)意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識できないという説。そういう実在を認める立場と、その有無も不確実とする立場とがある。
  • 呪物崇拝 じゅぶつ すうはい (fetishism)呪物の崇拝とその儀礼。世界各地で見られる。かつては宗教の原初形態の一つと考えられた。物神崇拝。
  • 呪物 じゅぶつ (fetish)超自然的な力をもつとされる物。呪具・呪符・護符などの類。
  • 子饗《コフ》石
  • 男茎 おはせ 陰茎。おはし。
  • 金石 きんせき (1) 金属と岩石。鉱物。(2) 金属器と石器。石碑・鼎・鐘など。
  • 八尺瓊勾玉・八坂瓊曲玉 やさかにの まがたま 大きな玉で作った勾玉。一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉。三種の神器の一つとする。
  • 領布 ヒレ → 領巾・肩巾
  • 領巾・肩巾 ひれ (風にひらめくものの意) (1) 古代、波をおこしたり、害虫・毒蛇などをはらったりする呪力があると信じられた、布様のもの。(2) 奈良・平安時代に用いられた女子服飾具。首にかけ、左右へ長く垂らした布帛。別れを惜しむ時などにこれを振った。(3) 平安時代、鏡台の付属品として、鏡をぬぐうなどに用いた布。(4) 儀式の矛などにつける小さい旗。
  • 出石の八神 → 八種の神宝
  • 八種の神宝 『紀』垂仁天皇三年三月条が引く一書によると、(1) 葉細の珠、(2) 足高の珠、(3) 鵜鹿鹿の赤石の珠、(4) 出石の刀子、(5) 出石の槍、(6) 日鏡、(7) 熊の神籬、(8) 胆狭浅の太刀。ただし『紀』本文では、(1) 羽太の玉、(2) 足高の玉、(3) 鵜鹿鹿の赤石の玉、(4) 出石の刀子、(5) 出石の桙、(6) 日鏡、(7) 熊の神籬の七種とし、『記』の所伝では、珠二貫、浪振る比礼、浪切る比礼などの八種とする。これらをたずさえて天日槍が渡来したという。
  • 服具
  • 三種の神器 さんしゅの じんぎ 皇位の標識として歴代の天皇が受け継いできたという三つの宝物。すなわち八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉。
  • 塩盈珠 しおみつたま/しおみちのたま 潮満珠。海水につければ潮水を満ちさせる呪力があるという珠。満珠。
  • 塩乾珠 しおひるたま/しおふるたま/しおひのたま 潮干珠・潮乾珠。海水につければ潮水を引かせる呪力があるという珠。干珠。
  • 如意珠 にょいしゅ/にょいす 「にょいほうじゅ(如意宝珠)」に同じ。仏語。一切の願いが自分の意の如くかなうという不思議な宝のたまの意で、民衆の願かけに対し、それを成就させてくれる仏の徳の象徴。如意宝。如意珠。如意の珠。
  • 御祈玉 ホギ
  • 降神 こうしん 神を来臨せしめること。神降ろし。
  • 凝視の白玉
  • 手玉 てだま (1) 手首などにつける飾りの玉。ただま。(2) 女子の玩具の一種。おてだま。
  • 足玉 あしだま 足首の飾りにつけた玉。
  • 粗玉・荒玉・璞 あらたま 掘りだしたままでまだ磨かぬ玉。
  • 未玉
  • 丸玉 まるだま 古代の装身具に使われた、球形の、中央に貫通孔のある飾り玉。
  • 竹玉 たかたま 細い竹を輪切りにして緒に通したもの。神事に用いる。
  • 曲玉・勾玉 まがたま 古代の装身・祭祀用の玉。C字形で、端に近く紐を通す孔がある。多くは翡翠・瑪瑙・碧玉を材料とし、また、純金・水晶・琥珀・ガラス・粘土などを用いた。長さ1センチメートル未満の小さいものから5センチメートル以上のものもある。形状は縄文時代の動物の犬歯に孔をうがったものから出たといい、首や襟の装飾とし、また、副葬品としても用いられた。朝鮮半島にもあり、王冠を飾る。まがりたま。
  • 曲妙
  • 牙形
  • 鬼神 きじん (1) 死者の霊魂と天地の神霊。人の耳目では接しえない、超人的な能力を有する存在。おにがみ。きしん。(2) 荒々しく恐ろしい鬼。ばけもの。へんげ。
  • 魑魅 ちみ [史記五帝本紀](「魑」は虎の形をした山神、「魅」は猪頭人形の沢神)山林の異気から生ずるという怪物。山の神。すだま。
  • 疾苦 しっく なやみ苦しむこと。
  • 稲霊 イナダマ 稲魂(稲の穀霊の意で、初夏の雷光によって穀霊が成長し孕(はら)むという信仰から転じて)いなずま。いなびかり。
  • 稲魂 いなたま いなずま。いなびかり。
  • 木霊・谺 こだま (室町時代までは清音) (1) 樹木の精霊。木魂。(2) やまびこ。反響。(3) 歌舞伎囃子の一つ。深山または谷底のやまびこに擬するもの。小鼓2梃を、下座と上手舞台裏にわかれて、ポポン、ポポンと打ち合う。
  • �霊・布都御魂 ふつの みたま (フツは断ち切るさまをいう)日本神話で、天照大神(および高木神)の神慮により、神武天皇が熊野の人高倉下から受け、国土を平定したという霊剣。石上神宮の祭神。
  • 言霊 ことだま 言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。
  • 言語精霊
  • 幸魂 さきみたま 人に幸福を与える神の霊魂。さきたま。
  • 奇魂 くしみたま 奇御魂。神秘な力を持つ神霊。また、そのような霊威の宿っているもの。
  • 和魂・和御魂 にきみたま (後世はニギミタマとも)柔和・精熟などの徳を備えた神霊または霊魂。にきたま。
  • ドッペルゲンガー Doppelgnger (ドッペルゲンゲルとも) (1) 生き写し。分身。(2) 自身の姿を自分で目にする幻覚現象。
  • くしみたま 奇御魂 不可思議な力を持つ神霊。
  • 畢竟 ひっきょう (「畢」も「竟」も終わる意)つまるところ。つまり。所詮。結局。
  • ぎて キ、さしまねく 招(お)ぐ、か。
  • 注進状 ちゅうしんじょう 土地の状況その他を調査し、その明細を注記して具申する文書。平安後期から室町後期ごろ行われた。注文。勘録状。実検状。
  • 生井 いくい 生気のある井の意。永久に水のかれない井戸・泉。神として祭る。
  • 栄井 さくい 栄える井戸・泉。井戸をたたえていう語。また、井戸の神の名。
  • 生日 いくひ いきいきと栄える日。神事・儀式の日を祝っていう。吉日。
  • 足日 たるひ 物事の十分に満ち足りた日。よい日。吉日。
  • 形くる 形づくる。
  • 死屍 しし しかばね。かばね。死体。死骸。
  • 顕現 けんげん はっきりと現れること。明らかにあらわし示すこと。
  • 人魂 ひとだま (1) 夜間に空中を浮遊する青白い火の玉。古来、死人のからだから離れた魂といわれる。(2) 流星の俗称。
  • 黄泉 よみ (ヤミ(闇)の転か。ヤマ(山)の転ともいう)死後、魂が行くという所。死者が住むと信じられた国。よみのくに。よもつくに。よみじ。こうせん。冥土。九泉。
  • 根の国 ねのくに 地底深く、また海の彼方など遠くにあり、現世とは別にあると考えられた世界。死者がゆくとされた。黄泉の国。根の堅洲国。
  • 妣国
  • 恩賚・恩頼 みたまのふゆ 天神または天皇の恩恵・加護・威力を尊んでいう語。
  • みたまふり 御霊振 鎮魂祭(たましずめのまつり)。
  • 鎮魂祭 たましずめのまつり 陰暦11月の中の寅の日(新嘗祭の前日)に、天皇・皇后・皇太子などの魂を鎮め、御代長久を祈るために宮内省で行われた祭事。一時廃絶、現在は綾綺殿で挙行。魂を身体に鎮め留める斎事という。御霊振。ちんこんさい。
  • 霊鬼 れいき 鬼と化した死者の霊。具体的な事物から切り離された超感覚的な宗教的存在。怪異・悪霊・死神などを指し、広義には精霊・霊魂をも意味する。
  • 自然神 しぜんしん 自然の現象・事物を崇拝して神としたもの。
  • 稲霊神
  • 海童神 わたつみのかみ わたつみ、に同じ。海の神。
  • 句句廼馳神 くくのちのかみ 久久能智神。日本神話で、木の神。木の守護神。
  • 山祇・山神 やまつみ 山の霊。山の神。
  • 海童 → わたつみ、か
  • わたつみ 海神・綿津見 (ワダツミとも。ツは助詞「の」と同じ、ミは神霊の意) (1) 海をつかさどる神。海神。わたつみのかみ。(2) 海。
  • 尊・命 みこと (「御言(みこと)」の意) (1) 上代、神または貴人の尊称。(2) (二人称)相手を軽くみていう語。おまえさん。貴様。お方。
  • パンテオン Pantheon (もとギリシア語で万神殿の意) (1) 古代ローマの諸神を祭った神殿。前27年アグリッパの創建、後に焼失して120〜24年ハドリアヌス帝の命によって再建。円形平面祠堂で、ローマ時代の建築中最も原形に近い。
  • トーテミズム totemism 親族集団をそれぞれ特定の自然物(トーテム)と象徴的に同定することによって社会の構成単位として明瞭に識別される社会認識の様式。トーテムに対する儀礼やタブーの遵守が個人の社会認知の機会として重視される。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 寒川旭『日本人はどんな大地震を経験してきたのか 地震考古学入門』(平凡社新書、2011.11)読了。“考古学”を銘打っているが、歴史史料の紹介内容も豊富。貞観地震と菅原道真の関係も押さえている。915年の十和田湖火山の噴火は、若干の記述があるのみ。

 宇野円空。上代日本人=農耕民族という前提のもとで論を組み立てているところに強引なあらっぽさがある。が、着眼点のかずかずはいい。
 トーテミズムについて。
「トーテミズムの特徴は、動植物と人間との単なる親縁関係の意識よりも、さらにその特殊の社会組織にあるので、したがってそういう社会組織の痕跡があきらかにせられざる限り、たとえかかる親縁関係が信仰の中にあらわれても、これをもってトーテミズムの痕跡であるとは言い難いのである。しかして、だいたいから言ってわが国上代には、かかる痕跡はむしろないといったほうが穏当で、トーテミズム的社会組織の想定は民族的系統の上からも無理である。そしてここにも、上代人の信仰の一つの消極的な特徴が存するのではあるまいか。」というように否定している。

 歩道はガリガリ君。
 星降る深夜、アパート廊下をノラが快走。




*次週予告


第四巻 第三一号 
科学の不思議(四)アンリ・ファーブル


第四巻 第三一号は、
二〇一二年二月二五日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰
発行:二〇一二年二月一八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  •  原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
  •  ユネスコと科学
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  •  J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと 
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  •  総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  訳者から
  •  一 六人
  •  二 おとぎ話と本当のお話
  •  三 アリの都会
  •  四 牝牛(めうし)
  •  五 牛小舎
  •  六 利口な坊さん
  •  七 無数の家族
  •  学問というものは、学者といういかめしい人たちの研究室というところにばかり閉じこめておかれるはずのものではありません。だれもかれも知らなければならないのです。今までの世間の習慣は、学問というものをあんまり崇(あが)めすぎて、一般の人たちから遠ざけてしまいすぎました。何の研究でも、その道の学者だけが知っていれば、ほかの者は知らなくてもいいようなふうにきめられていました。いや、知らなくてもいい、ではなくて、知る資格がないようにきめられていました。けれども、この習慣はまちがっています。非常にこみ入ったむずかしい研究は別として、だれでもひととおりの学問は知っていなければなりません、子どもでも大人でも。
  •  子どものためのおとぎ話の本は、たくさんすぎるほどあります。けれども、おとぎ話よりは「本当の話が聞きたい」という、ジュールのような子どものためのおもしろい本を書いてくれる学者は日本にはあまりないのか、いっこうに見あたりません。 (伊藤野枝「訳者から」より)
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  八 古い梨の木
  •  九 樹木の齢(とし)
  •  一〇 動物の寿命
  •  一一 湯わかし
  •  一二 金属
  •  一三 被金(きせがね)
  •  一四 金と鉄
  •  一五 毛皮
  •  一六 亜麻と麻
  •  一七 綿
  •  一八 紙
  • 「亜麻(あま)は小さな青い花が咲く細い植物で、毎年まいたり、刈ったりする。これは北フランスや、ベルギーや、オランダにたくさん栽培されている。そしてこれは、人間が一番はじめに織り物をつくるのに使った植物だ。四〇〇〇年以上もたった大昔のエジプトのミイラは、リンネルの帯でまいてある。(略)
  • 「麻は何百年もヨーロッパじゅうで栽培された。麻は一年生の、じょうぶな、いやな香(にお)いのする、緑色の陰気な小さな花を開く。そして茎は溝が深くて六尺くらいにのびる。麻は、亜麻と同じように、その皮と、麻の実という種子を取るために栽培せられるんだ。(略)
  • 「麻や亜麻が成熟すると、刈られて種子は扱(こ)きわけられてしまう。それから、それを湿して、皮の繊維を取る仕事がはじまる。すなわち、その繊維がわけもなく木から離れるようにする仕事だ。実際この繊維は、茎にくっついていて、非常に抵抗力の強い、弾力の強い物で、くさってしまうまで離れないようになっている。時によると、この麻の皮を一、二週間も野原にひろげて、なんべんもなんべんもひっくり返して、皮が自然と木質の部分、すなわち、茎から離れるまでつづける。
  • 「だが、一番早い方法は、亜麻や麻を束にしてしばって、池の中にしずめておくことだ。すると、まもなく腐っていやなにおいを出し、皮は朽ちて、強い弾力を持った繊維がやわらかくなる。
  • 「それから麻束を乾かして、ブレーキという道具の歯の間でそれを押しつぶして、皮と繊維とを離してしまう。しまいに、その繊維のくずを取って、それを美しい糸にするために、刷梳(こきくし)という大きな櫛のような鋼鉄の歯のあいだを通す。そしてこの繊維は手なり機械なりでつむがれて、そうしてできた糸を機(はた)にかけるのだ。
  • 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
  • ラザフォード卿を憶う
  •  順風に帆をはらむ
  •  放射性の探究へ
  •  新しき関門をひらく
  •  核原子
  •  原子転換に成功
  •  学界の重鎮
  •  卿の風貌の印象
  •  ラザフォード卿からの書簡
  • ノーベル小伝とノーベル賞
  • 湯川博士の受賞を祝す
  •  〔ノーベル〕物理学賞と化学賞とを受けた研究者の中で、原子関係の攻究に従事した学者がもっとも多い。したがってこれらの人々の多くは、原子爆弾の発案構造などを協議して終(つい)にこれを実現するに至った。その過程を調べれば、発明の功績は多分にこれらの諸賢に帰せねばならぬ。さらに目下懸案中の原子動力機の発展も、ひとしくこれらの人々の協力を藉(か)らざれば、実用の領域に進まぬであろう。一朝、平和工業にこれを活用するに至らば、いかに世界の状況を変化するであろうか、一言(ひとこと)にしてつくすべからざるものがある。(略)加速度的に進歩する科学界において、原子動力機の端緒をとらえるを得ば、その工業的に発展するは論をまたず、山岳を平坦にし、河流をつごうよく変更し、さらに天然の形勢を利用せず、人為的に港湾河川を築造するに至らば、世界は別天地を出現するであろう。かくして国際的の呑噬(どんぜい)行動を絶滅し、互いに相融和するに至らば、ユートピアならざるもこれに近き安楽国を出現するは疑いをいれず、巨大なる威力を獲得して、これを恐れるよりもむしろこれを善用するが得策である。今日の科学研究は、もっぱらこの針路をたどりつつある。現今、危機一髪の恐怖に迷わされて神経をとがらしているから、世界平和を信ずるもの少ないが、一足飛びにここに至らざるも、波乱は幾回か曲折をへて、ついにここに収まるであろう。けだしこの証左を得るには、少なくも半世紀を要するは必然である。
  • 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
  •  物心がついた時分、わたしの頭に最初に打ち込まれた深い印象は、わたしの祖父(おじい)さんのことだ。わたしの祖父さんは十七のとき家の系図を見て、自分の祖先に出世した人が一人もいないのを悲しみ、奮発してシナ貿易を始め、六、七回も福州に渡った人だ。わたしが四つの時には祖父さんはまだ六十にしかならなかったが、髪の毛もひげも真っ白くなって、七、八十ぐらいの老人のようであった。(略)
  •  わたしは生まれてから何不足なしに育てられたが、どうしたのか、泣くくせがついて家の人を困らせたとのことだ。
  •  いつぞやわたしが泣き出すと、乳母がわたしを抱き、祖母さんは団扇でわたしをあおぎ、お父さんは太鼓をたたき、お母さんは人形を持ち、家中の者が行列をなして、親見世(今の那覇警察署)の前から大仮屋(もとの県庁)の前を通って町を一周したのを覚えている。もう一つ、家の人を困らせたことがある。それは、わたしが容易に飯を食べなかったことだ。他の家では子どもが何でも食べたがって困るが、わたしの家では子どもが何も食べないで困った。そこで、わたしに飯を食べさせるのは家中の大仕事であった。あるとき祖父さんはおもしろいことを考え出した。向かいの屋敷の貧しい家の子どもで、わたしより一つ年上のワンパク者を連れてきて、わたしといっしょに食事をさせたが、わたしはこれと競争していつもよりたくさん食べた。その後、祖父さんはしばしばこういう晩餐会を開くようになった。
  •  それから祖父さんは、わたしと例の子どもとに竹馬をつくってくれて、十二畳の広間で競馬のまねをさせて非常に興に入ることもあった。そのときには祖父さんはまったく子どもとなって子どもとともに遊ぶのであった。 (「わたしの子ども時分」より)
  • 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
  • (略)おおよそ古代において国家団結の要素としては権力・腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものはみな祖先を同じうせる者の相集まって組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集まって組織せる宗教団体であります。いったい、物には進化してはじめて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体などおのおの相分かれて互いに別種の形式内容を保っているものの、これら各種の団体は、古代にさかのぼるとしだいに相寄り相重なり、ついにまったくその範囲を同じうして、政治的団体たる国家は同時に家族的団体たり、宗教的団体たりしもので、古来の国家がはじめて歴史にあらわれた時代にはみなそうであったのであります(略)。わたしは沖縄の歴史においても、かくのごとき事実のあることを発見するのであります。
  • (略)さて、政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては聞得大君が国民最高の神官でありました。(略)それは伊勢神宮に奉仕した斎女王のようなもので、昔は未婚の王女(沖縄では昔は、王女は降嫁しなかった)がこれに任ぜられたのであります。(略)聞得大君の下には、前に申し上げた三殿内(三神社)の神官なる大アムシラレがあります。これには首里の身分のよい家の女子が任ぜられるのであります。もちろん昔は、未婚の女子が任ぜられたのであります。さてこの「あむ」という語は母ということで、「しられ」という語は治めるまたは支配するということであるから、大アムシラレには政治的の意味のあることがよくわかります。そして大アムシラレの下には三〇〇人以上のノロクモイという田舎の神官がありまして、これには地方の豪族の女子(もちろん昔は未婚の女子)が任ぜられたのであります(ノロクモイの中で格式のよいのは、大アムととなえられています)。(略)そしてこれらのノロクモイの任免の時分には、銘々の監督たる大アムシラレの所に行って辞令を受けるのであります(これらの神官はいずれも世襲であります)。
  • 第二八号 科学の不思議(三) アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  一九 本
  •  二〇 印刷
  •  二一 チョウ
  •  二二 大食家(たいしょくか)
  •  二三 絹(きぬ)
  •  二四 変態(へんたい)
  •  二五 クモ
  •  二六 ジョロウグモの橋
  •  二七 蛛網(くものす)
  •  
  • 「その絹糸は、唇の下から出てくる。その孔を糸嚢(しのう)という。虫の体の中には絹の材料がうんと入っているのだ。それはゴムに似たネバネバする液体だ。唇が開いて出てくるその液体をひきのばしたものが糸になるが、それは糸になるまでは膠(にかわ)のような粘着物だが、すぐに固まってしまう。絹の材料は虫の食べる桑の葉の中には、まったく含まれてはいない。(略)虫の助けがなかったならば、人間は決して桑の葉から高価な織り物の材料を引き出すことはできなかったのだ。(略)
  • 「二週間のあいだに、もしも適当な温度であればカイコの蛹(さなぎ)は熟した果物のように割れる。そして、その小さな部屋を破り開いてそこからチョウがぬけ出す。すべてがクシャクシャで湿って、そのふるえる足でやっと立つことができるくらいだ。(略)
  • 「そのマユは歯でやぶって出るのじゃないんですか?」とエミルがたずねました。
  • 「だが、ぼうや、それがないんだよ。それに似たものもないんだ。ただ、とがった鼻を持っているだけだ。いいかげんな骨折りは役に立たない。
  • 「じゃあ、ツメでですか?」とジュールがいい出しました。
  • 「そうだ、もしそれを持っていればじゅうぶん役に立つ。だが厄介なことには、それもないのだ。
  • 「だって、チョウは外に出ることができなければならないのです」とジュールががんばりました。
  • 「まちがいなく外へ出る。すべての生物がそうとはゆかないが、生命の困難な瞬間の手段はみんな持っている。ニワトリのヒナが閉じこめられていた卵を破るのに、その小さなヒナのくちばしの端がその目的のために、ほんのすこしその先が固くなっている。だが、チョウはそのマユを破るのに何も持たないだろうか? 持っている! だが、お前たちには、とても簡単な道具だが、何を使うか察しはつくまい。それはね、眼を使うのだよ。
  • 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
  •  南島の黥もやはり宗教的意義を有していたようである。琉球の漢詩人喜舎場朝賢翁の『続東汀随筆』にこういうことが見えている。
  •  女子すでに人に嫁すれば、すなわち左右の手指表面に墨黥す。これを波津幾(はづき)という。鍼衝(はりつき)の中略なり。婦女もっとも愛好す。もし久しく白指なる者は、※(ちくり)これを笑う。ゆえに、二十一、二をすぎて墨黥せざる者なし。『隋書』「流求伝」に、婦人手に墨黥して梅花の形をなすと。上古の遺風なり。すでに黥して数年を経れば、墨色淡薄になる。ふたたび黥して新鮮ならしむ。すでに黥して五、六回におよぶときは終身淡薄になる憂いなし。置県の今日にいたり、人身墨黥するを許さざる法律を発せらる。もしこれを犯しおよびこれを業となす者あらば、捕えられて処刑せらるるにつき、ついにその悪弊を止めたり。
  •  はじめて黥するときは、閑静な別荘などを借り、親戚縁者を招待してごちそうしながらおこなったものであるが、このとき十二、三歳ぐらいの少女たちは、図のごとき黥をしてもらい、黥の色のあせた人たちもその上に黥をしてもらうのであった。歌などを謡っていたところから見ると、古くはオモロなどを謡って、宗教的儀式をおこなっていたことが推測される。すでに嫁した者が黥をしないうちに死ぬことがあったら、そのままであの世に行くと、葦のイモを掘らせられるというので、手の甲にその紋様を描いてやって、野辺送りをすることになっていた。ついでにいうが、葦のイモを掘ることは、あの世での最も苦しい労働だと信じられている。 (「南島の黥」より)

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