ユタの歴史的研究
伊波普猷わたしは昨今、本県の社会で問題となっているユタについてお話をしてみたいと思います。
さて本論に入る前に、古琉球の政教一致について簡単に述べる必要があります。おおよそ古代において国家団結の要素としては権力・腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものはみな祖先を同じうせる者の相集まって組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集まって組織せる宗教団体であります。いったい、物には進化してはじめて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体などおのおの
沖縄の歴史を研究してみると、
わたしの考えでは、
以上申し上げたとおり、沖縄で四〇〇年前、中央集権をおこなった時分に政教一致はひとしお必要になったのであります。さてこの以前から男子は政治にたずさわり、女子は宗教にたずさわるというふうに分業的になっていたのであるが、政教一致の時代においては二者は離るべからざる関係を持っているから、当時、二者は一心同体となって活動していたのであります。それゆえにこの時代を研究するに、二者を離して別々に研究すると失敗に終わるのであります。さて、政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては聞得大君が国民最高の神官でありました。
沖縄の古い歌に、
というのがあるが、これは今度の伊平屋の神官の大アムは
そして、これらの女の神官たちは祭礼のときなどにはみな馬にまたがったのである。
右に申し述べたノロクモイ以上の者は、政略上いわば人為的にできたもので、いずれも純然たる
わが国古来の習俗として人家相継して七世におよべば、かならず神を生じて尊信す。その神はただ二位を設く。けだし祖考 以上始祖にいたるの亡霊をもって神となるなり。しかして親族の女子二名をもって神コデと称し、これに任ぜしむ。一名はオメケイオコデとなし、一名はオメナイオコデとなし(方言、男兄弟をオメケイといい、姉妹をオメナイという)、その神をまつる一切のことをつかさどる。その祭祀 は毎年二月には麦の穂祭と称し、麦の穂を薦 む。三月には麦の祭と称し、酒香 酢脯を薦 む。五月には稲の穂祭と称し(稲の穂を薦 む。六月には稲の祭と称し)酒香酢脯を薦 む。また族中課出金をもって祖考 祖妣 の神衣を製し、祭祀ごとに神コデ二人これを着て神を拝祭す。三月・五月の祭には族中男女ことごとく来たり、香をたき、礼拝す。コデの酌を受く。しかして神の生ずる期月、三年の期月、七年の期月、十三年の期月、二十五年の期月、三十三年の期月には、酒香 酢脯餅をそなえてもって、これを薦 む。その費用ことごとく族中課出をなす。三十三年の期月をおわれば、その翌年また神を生じ、および期月ごとに祭礼すること旧のごとし。そのコデの任命はもっぱら祖宗神霊の命ずるところによる。あらかじめ祖宗の神霊あり。そのコデとなすべき者および巫婦の身に付着して言語をなし、あるいはコデとなるべき者疾病をなし、その女コデとなることをお請 けすれば、すなわち癒 ゆ。これをもってコデとなることを得る。コデは終身の職となす。死するときはすなわちその後任を選ぶことまたかくの如し。ゆえにコデ職はおのずから命ぜられんと欲するも得ず。おのずから免れんと欲するも得ざるものとす。このコデという者は、シナのいにしえ祭祀あるごとに設くるところの尸と同一なるべし。
そしてコデは五年おき、もしくは七年おきに
これはとりもなおさず軍隊的組織で、聞得大君の一令の
近ごろ、日本の学者はしきりに古神道や家族制度のことをやがましく説かれますが、琉球人の信仰生活や家族制度を
ただいま拝読しおわり、大なる刺激を得申候、加藤玄智 氏らの仲間にて神道談話会と申す熱心なる研究者の団体これあり、この連中に一読させ申度存まかりおり候 、内地の神道は承知のごとく平田派の学説一代を風靡 し、これに反して説をなす者を仮容せず候も、その原形においては御島の風習と相似たる者一、二にして止まらず、半月来、古き人類学会雑誌を集め、南島の信仰生活をよりよりうかがい見候て後、いよいよ驚くべき共通を発見いたし候……南島の研究者が古宗教の原形をうかがい得らるるは、これらの高僧碩徳 の少なかりしためと考え候えば、かつはうらやましく存申候、また本居・平田などの大学者のなかりしためと存候
ということがありますが、じつにそのとおりであります。沖縄の民俗的宗教は、儒教も仏教も知らなかったところの婦女子の手にゆだねられたために、かえってその原形を保存するに都合がよかったのであります(沖縄の女子が古来、学問をしなかったということはおもしろいところであります)。そして柳田氏は、そのほかにユタが絶滅せぬ前にわかるだけユタのことを研究してくれとの注文をされました。これがそもそも、私のユタの歴史的研究を始めるようになった動機であります。
さて、ユタのことを了解するに必要なることと思いまして政教一致のことをかなりくわしく申し上げましたが、これからいよいよ本論に入って琉球史上におけるユタの位地を観察してみようと思います。
ご承知のとおり、いずれの宗教にも神秘的の分子は含まれているが、沖縄の民族宗教にもまた神秘的の分子(悪くいえば迷信)が含まれているのであります。いったい小氏の
おもろねやがりぎや
時とたるまさしや
おふれ よそわてちよわれ
せるむ ねやがりぎや
きやのうち ぬきまるが
時とたるまさしや
ぐすく二ぐすく時とたる
おどん二おどの時とたる
時とたるまさしや
おふれ よそわてちよわれ
せるむ ねやがりぎや
きやのうち ぬきまるが
時とたるまさしや
ぐすく二ぐすく時とたる
おどん二おどの時とたる
おもろとのばらよ
すえのくちまさしや
すえのくちまさしや
ということがありますが、これは「オモロの詩人よ、
今の尚家の大祖の
虎の子や虎、犬の児や犬、食与 ゆ者 ど我 御主 、内間 御鎖 ど我御主
というふうに
往古之礼、聖上即位、必択吉旦 、召群臣於禁中、且聚会国中男女於獄(平等所 )而覡巫呪詛 而焼灰宇呂武 、和水而飲 焉、中古而来、王已即位、必択吉日、偏召群臣於護国寺、令飲霊社神文之水、且遣使者、往至諸郡諸島、而飲神水於庶民、永守君臣之義、不敢有二心也。
すでに
国王のお墓を玉御殿という。書に筆するには玉陵 と書す。綾門の路傍にあり。三個相並べている中の御墓ははじめ薨御 せらるるとき葬 りたてまつる所なり。東の御墓は、御洗骨の後ご夫婦の美骨を一厨子 に納めたてまつる所なり。西の御墓は、御子部を葬りたてまつる所なり。中の御墓内に一つの石厨子あり。銘書もあらず何人たるを知らず。世にこれ武久田 大時 の髑髏 なりと伝う。昔何王の時代なるを知らず、巫道さかんに流行し、妖術をもって人を眩迷 せしむるものとて痛く厳禁せらる。そのとき武久田 その魁 となりたるをもってその術を試みんと欲し、匣内にネズミ一頭をいれ、武久田 を召して幾個あるやと占 わしむ。武久田 占いて三個ありという。王もって験あらずとてこれを誅 せらる。ふたを開けて見るに、果 して子を産して三個あり。王、悔 やみて玉陵 に葬らせたまうと伝えらる。
(
わたしは、これから沖縄以外の記録によって当時の沖縄を観察してみようと思います。新井白石の『
按使琉球録 及�p書云、俗信レ 鬼畏レ 神神以下 婦人不レ 経二 二夫一 者上 為レ 尸。降則数著二 霊異一 能使二 愚民悚懼 一 。王及世子陪臣 莫レ 不二 稽首 下拝一 。国人凡謀二 不善一 神輙告レ 王。王就擒レ 之惟其守二 -護斯土一 。是以国王敬レ 之而国人畏レ 之也。尸婦 名二 女君一 首従動至二 三五百人一 。各頂二 草圏 一 二 樹枝 一 、有 二 乗騎者 一 有二 徒-行者一 、入二 王宮中一 以遊戯一唱百和音声凄-惨、倏忽 往来莫レ 可二 踪跡 一 。袋中 所レ 録略相同而尤為二 詳悉 一 。凡其神異鬼怪不レ 可二 挙数一 而已。甲午使人曰本国旧俗詳見二 袋中書一 百年以来民風大変神怪之事今則絶矣云々 。
国王以下、国民の尊敬を受けた三〇〇人以上のノロクモイが、キノマキ(すなわち、シャミセンヅル)という草で
わたくし考えまするに、沖縄の民族的宗教の衰えた原因は二つあります。第一は
とあるのを見ても、民族的宗教衰微のありさまが想像されるのであります。
前々より時之 大屋子 とて文字の一字も不存者を百姓中より立置、日の吉凶を選、万事用候得共 、この前より唐日本の暦用可申由申達相済候事。
とあるのを見ても明白であります。これじつに今から二四七年前のことである。前にも申し上げたとおり、
といって広告を出す。そうすると、ある孝女がそれを見て、家内の困難を救うために老母のとめるのも聞かないでみずから進んで今度の犠牲になろうと申し出る。そこでムルチのほとりに祭壇を設けて、いよいよ
とうとうわらべ、祭 り時 なたん、果報 時のなたん、急 ぢ立 ち登 れ、御祭 よすらに
といって孝女を祭壇にすわらせ、さて、
と
ああ天道 も近 さ、神もあるものよ
とさけぶと、
ああ天道も近さ、とき もあるものだやべる
といって自画自賛をやるような仕組みになっている。これで
わたしは
当春
一、久高島 は一里あまりの島とは申しながら、左右方々津も無御座、殊二月之比あがり風時分にて、大事成御身渡海被成候儀、念遣存候事。
一、久高 祭礼之趣うけたまわり候 えども、聖賢 之諸規式にても無御座候、大国之人うけたまわり候ては、女性巫女 の参会、還而可致嘲哢 と被察候事。
一、年越に両度之祭礼にて候得者、毎年渡参之賦にて候、左候得者、東四間切 百姓之疲者不及申、島尻 八間切 浦添 ・中城 ・北谷 ・越来 ・美里 ・勝連 ・具志川 ・読谷山 八間切 百姓の疲不可勝計候、かつまた御物も過分之失墜 にて候、君子者節用愛之 と御座そうらえば、為主君民之疲題目可被おぼしめし候ところ、旧例と計御座候 ては、仁政にて無御座候、知念 ・久高 之祭礼開闢 のはじめより有り来たる儀にあらず、近比人々之作にて候、かよう成儀別而被致了簡儀めでたく存じ候事。
一、右祭礼旧規と被思召候わば、せめて一代に一度かまたは使いにても可然と存じ候、無左は知念・久高の神城近江取請移被致崇敬可然候、大国より諸仏当国へ被請移被尊敬と同断之儀に御座候 、窃惟者この国人生初者日本より為渡儀疑無御座候、然者末世の今に、天地山川・五形五倫・鳥獣草木之名に至るまでみな通達せり、雖然言葉之余相違者、遠国之上久敷通融為絶故なり、五穀も人同時日もとより為渡物なれば、右祭礼何方にて被仕候ても同事と存じ候事。
一、知念 城内わずかに三十間不足狭所に苫 かけ桟敷 七、八間為作産、四、五日被致滞留候儀は用心不足と存じ候、万一火出来候わば、女性どもは可遁方無御座念遣存じ候事。
右熟思慮回候ところ一つとして理に為当事無御座候、強而留度存じ候 えども、障多御座候 間、叡慮次第と存じ候、なお不顧愚才短慮如此 候以上。
これじつに西暦一六七三年(わが延宝元年、清の
国中仕置 相改可然儀者おおかた致吟味 、国司 へ申し入れ置き申候、前々 女性巫女 風俗□多候 ゆえ、巫女の偽に不惑様にと如斯御座候 、今少相改めたき儀御座候 えども 、国中に同心の者無御座 、悲嘆のことに候 、知我者北方に一両公御座候 事 。
この
一、御初地入 之儀、常式に而候得者、弥此節ご執行被遊可然存じたてまつり候得ども、ご賢慮 のとおり、冠船 ご用意付而は、諸士百姓へ段々出物など被仰付置、せっかくその用意仕事候かつまた勅使 ご滞在中にも野菜肴 種々申し付け候、上、七、八か月におよび、家内を離、農業不仕候 ゆえ、兼而より百姓有付貯物などこれなく候而不叶最中、その差し引き被仰付時節候得者、少迚も百姓手障を費、農業之滞有之儀、題目冠船 ご用意の方支窮に而候、封王使来々年ご申請のこと候 えども、不図来年ご渡海の儀も不相知候 ゆえ、諸事その手当仕事候ところ、究竟成時節差しあたり、百姓の痛罷成候儀いくえにも御断被仰上可然儀と存じたてまつり候、
一、御初地入 の儀、
一、また当年中御初地入 被仰付由御座候 らわば、乍漸相調申に而社これあり候得ども、百姓致辛苦 、迷惑乍存、ご奉公までと存、是非なく相勤申筋に而は、却而御祈願の旨にも叶申間敷と恐れながら存じたてまつり候。たとえ当年に限御初地入 不被遊候而は神の御祟ともこれありなどとの御占方にしかも右通時節柄 相応不仕段は眼前に候間、第一封王使ご申請の御願、第二百姓恵之筋を以、年季御延被遊候儀は、仏神にも納受これあるべく候間、封王使ご帰朝以後時分柄御見合を以御初地入 有御座度存じたてまつり候。右の段々ご賢慮のうえに而御座候 得者、およばず申し上げ候 えども、ご政道何方に付而も首尾能相調候様にと奉存、彼是 善否致差し引き、心底のほど不残申上候。なおもってご裁断所仰御座候 以上。
これで政治と宗教との衝突のありさまがよくわかるだろうと思います(
時ゆたの儀その身の後世を題目存、いろいろ虚言申し立て、人を相訛候付而、堅禁制申し付け置き候、右類の挙動有之者は、皆以世間の妨候間、上下共その心得可有之事。
ということがあります。そしてこれから半世紀もたつとトキユタがまたまた
四月二十五日 評定所
これはじつに口碑と一致しているように思われます。また明治の初年になっても、時の
以上、歴史上におけるトキユタの位置と沖縄婦人の信仰生活とについてひととおりお話しいたしましたが、みなさんはこれによって、彼らが古往
政府の命令ありて、わが国をしてシナへの進貢 を絶たしむ。これをお断 わりする使者三司官 池城親方、東京にありて三、四嘆願すれども政府聴されず。国王謂 えらく人力すでに尽したり、このうえは神力に憑 らねばならぬとの御意気ごみにて鬼神を崇神したまうこと時に厚し。時に系図座保存の旧記数十巻をお取り寄せ謄写 を命ぜらる。この書は国中御社の由来事実を記したるものなり。予命を奉じ別室において謄写す。左右人なく王予に謂 いて是好き書なるかな喜舎場 よ、とのたまう。予対 えて唯 という。すでにして予貌 を正し謹 みて奏しけるは、国家の興廃存亡は君臣御心をあわせよく御政事をお勤むるにあり、鬼神の関するところにあらずと。王のたまう、汝 何の所見ありて爾 かいう、その説を聞かんと。予対 えていう、古 にその証拠があります、昔、春秋の時、訣 君臣鬼神を崇信すること最も厚し、国家の政事決を鬼神にとらずということなし、鬼神もまたこれによって威光を増し、霊応 を顕 わし、よく人の如く言語をなして応対す、周の天子これを聞き、奇異なりとて臣某を遣 わして視せしむ、王の使臣撃ノいたる、君臣よろこび迎えて鬼神のところに延 いてこれを視せしむ、その君臣国家の政務をことごとく鬼神に告 ぐ、鬼神はたして言語応対すること人の如し、王の使臣帰りて復命すること実の如し、かつ言う、訣 はそれ亡 びんか、国家の政務は君臣協心戮力 するにあり、訣 は君臣上下怠慢してもっぱら鬼神に任 す、豈 亡 びざるを得んやと、その後はたして亡 びたりとぞ申し上げる。王、黙然 として何とものたまわざりき。ただし、鬼神のご崇信 は旧の如く替 わりたまわず。
わたしは、迷信の打破には科学思想を
欧米諸国においては近来、読心術であるとか、透視すなわち
底本:
2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:
1913(大正2)年3月11日―20日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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ユタの歴史的研究
伊波普猷-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)有《も》っている
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)諸|按司《あんず》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]
[#…]:返り点
(例)下馬被[#レ]仕候事
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私は昨今、本県の社会で問題となっているユタについて御話をしてみたいと思います。「ユタの歴史的研究」! これはすこぶる変な問題でありますが、那覇の大火後、那覇の婦人社会を騒がしたユタという者を歴史的に研究するのもあながち無益なことではなかろうと思います。ユタの事などは馬鹿馬鹿しいと思われる方があるかもしれませぬが、この馬鹿馬鹿しいことが実際沖縄の社会に存在しているから仕方がない。哲学者ヘーゲルが「一切の現実なる者は悉く理に合せり」と申した通り、世の中に存在している事物には存在しているだけの理由があるだろうと思います。沖縄の婦人がユタに共鳴するところはやがて問題のあるところであります。女子は人類社会のほとんど半数を占めている、沖縄五十万の人民中二十五万以上は女子である。かくのごとく大なる数を有《も》っている女子に関する問題が等閑に附せられているのは遺憾なることであります。それはとにかく、中央の劇場でイプセンの「ノラ」やズーダーマンの「マグダ」が演ぜられつつある今日、沖縄の劇場でユタの事が演ぜられるのは妙なコントラストであります。そこで私は、ユタを中心として活動する沖縄の古い女は婦人問題で活動する新しい女より二千年も後れていると断言せざるを得ないのであります。
さて本論に這入る前に、古琉球の政教一致について簡単に述べる必要があります。おおよそ古代において国家団結の要素としては権力腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものは皆祖先を同じうせる者の相集って組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集って組織せる宗教団体であります。いったい物には進化して始めて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体等おのおの相分れて互に別種の形式内容を保っているものの、これら各種の団体は古代に遡ると次第に相寄り相重り、ついにまったくその範囲を同じうして政治的団体たる国家は同時に家族的団体たり宗教的団体たりしもので、古来の国家が初めて歴史に見《あら》われた時代には皆そうであったのであります(河上肇著『経済学研究』の第九章「崇神天皇の朝、神宮・皇居の別新たに起りし事実を以て国家統一の一大時期を画すものなりと云ふの私見」参照)。私は沖縄の歴史においてもかくのごとき事実のあることを発見するのであります。
沖縄の歴史を研究してみると、三山の区画はその形式だけはとうに尚巴志《しょうはし》によって破壊されたが、その実質は尚真《しょうしん》王のころ三山の諸侯が首里に移された時まで存在したということがわかります。そしてこの中央集権は、じつに三山の割拠を演じていた周廻百里の舞台を首里という一小丘を中心とせる一方里の範囲に縮小したようなものであります。三山の遺臣はなお三平等《みひら》(三ツの行政区画)に割拠して調和しなかったのであります。語を換えて言えば、政治的に統一された沖縄はまだ宗教的(すなわち精神的)に統一されなかったのであります。とにかく、尚家を中心とせる政治的団体は同時に家族的団体であってまた宗教的団体でありましたが、新しく這入って来た団体はこれとは血液を異にし、神を異にしていると思っていたところの団体でありました。そこで首里の方では島尻《しまじり》地方から来た連中を真和志《まわし》の平等《ひら》に置き、中頭《なくがみ》地方から来た連中を南風《はえ》の平等に置き、国頭《くんじゃん》地方から来た連中を北《にし》の平等に置き、その間に在来の首里人を混ぜてその首里化を計ったのであります。そして三山の諸|按司《あんず》はその領地にて地頭代という者を置いて、自分等はいよいよ首里に永住するようになっても折り折り祖先の墳墓に参詣したのであります。ところが彼等をしばしばその故郷にかえすということは復古的の考えを起させる基になるので政策上よくないことでありますから、尚家の政治家は三平等に各自の遥拝所を設けさせたのであります。すなわち南風の平等は赤田《あかた》に首里《しゅん》殿内《どのち》を、真和志《まわし》の平等は山川に真壁《まかん》殿内《どのち》を、北《にし》の平等は儀保《ぎぼ》に儀保《ぎぼ》殿内《どんち》を建てさせました。そしてその形式はいずれも尚《しょう》家の神社なる聞得《きこえ》大君《おおきみ》御殿《おどん》にまねて祖先の神と火の神と鉄の神とを祭らしたのであります。そして時の経つにつれて三種族は合して一民族を形成するようになり、その中で最も勢力のあった尚家の神が一歩を進めて新たに発生した民族全体の神となり相合した数多の氏族は皆これをもって共同の祭神となすに至りました。
私の考えでは、首里城附近否首里城中にあった聞得大君御殿が時代を経るに従ってその神威はますます高まり、ついには一定の場所を撰んでここに鎮座するに至ったのでありましょう。今もそうであるが特に古代においては、御互の間に血縁なりとの仮想が生ずる時に、これがやがて新たに主君との恩顧の関係、はじめて非血縁者を人為的に血縁同胞たらしめるのであります。すなわち三山の遺民は戯曲「忠孝婦人」の玉栄が村原《むらばる》婦人と「御神《んちゃんてぃ》一ツの近親類《ちちやおんぱだん》」といって誇ったように威名赫々たる中山王と神を同じうする近い親類といって喜んだのでありましょう。これがやがて「弱者の心理」であります。今日皆さんが御覧になるところの本県の祖先崇拝の宗教はこういう風にして出来上ったのであります。これはじつに当時の人心を支配すること極めて甚しく、彼等はその吉凶禍福をもって一に懸って祖先の神意になるものとなしました(今なおそうである)。ゆえに当時の社会においてはその祖先を祭るということは、社会共同の禍福を保存するがために最も重大なる用務であって、政治はすなわち祭事、祭事はすなわち政治でありました。かくのごとくにしていわゆる政教一致の国家が出来上りました。政治的に統一された沖縄は宗教的にも統一されたのであります。じつにこの民族的宗教は当時の国民的生活を統一するにはなくてならぬものでありました。
以上申上げた通り、沖縄で四百年前、中央集権を行った時分に政教一致はひとしお必要になったのであります。さてこの以前から男子は政治にたずさわり女子は宗教にたずさわるという風に分業的になっていたのであるが、政教一致の時代においては二者は離るべからざる関係を持っているから、当時二者は一心同体となって活動していたのであります。それゆえにこの時代を研究するに、二者を離して別々に研究すると失敗に終るのであります。さて政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては聞得大君が国民最高の神官でありました。『女官御双紙』に「此大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座《ましま》しゝに大清康熙六〈丁未〉年王妃に次ぐ御位に改め玉ふなり」ということがあります。それは伊勢神宮に奉仕した斎女王《いつきのひめみこ》のようなもので、昔は未婚の王女(沖縄では昔は王女は降嫁しなかった)がこれに任ぜられたのであります。ギリシア・ローマの文化の未だ及ばなかった時代のゲルマン民族の女子も一般に男子より一段下に位するものとなっていたが、しかし女子は一種不思議な力を有《も》っているものと考えられ、女子は予言をする力を有っていて神によって一種不思議な力を与えられているという考えを有っておりました。女子が祭事にたずさわるべき者という思想は、おそらく古代においては世界共通の思想であったのでありましょう。実際昔は沖縄における女子の位地は今日よりはよほど高かったのであります。それはとにかく、後世になってこの民族的宗教が衰えて来るといったん嫁して帰って来た王女が聞得大君に任ぜられるようになりました。聞得大君の下には前に申上げた三殿内(三神社)の神官なる大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]があります。これには首里の身分のよい家の女子が任ぜられるのであります。もちろん昔は未婚の女子が任ぜられたのであります。さてこの「あむ」という語は母ということで「しられ」という語は治める[#「治める」に傍点]または支配する[#「支配する」に傍点]ということであるから、大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]には政治的の意味のあることがよくわかります。そして大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]の下には三百人以上ののろくもい[#「のろくもい」に傍点]という田舎の神官がありまして、これには地方の豪族の女子(もちろん昔は未婚の女子)が任ぜられたのであります(のろくもい[#「のろくもい」に傍点]の中で格式のよいのは大あむ[#「大あむ」に傍点]ととなえられています)。もっとくわしくいうと真壁の大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]は島尻地方および久米《くめ》、両先島の百人余ののろくもい[#「のろくもい」に傍点]を支配し、首里の大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]は中頭地方の六十人余ののろくもい[#「のろくもい」に傍点]を支配し、儀保の大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]は国頭地方の四十人余ののろくもい[#「のろくもい」に傍点]を支配していたのであります。そしてこれらののろくもい[#「のろくもい」に傍点]の任免の時分には銘々の監督たる大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]の所にいって辞令を受けるのであります(これらの神官はいずれも世襲であります)。
沖縄の古い歌に、
[#ここから2字下げ]
伊平屋《いへや》のあむがなしわらべあむがなしいきやし七親島おかけめしやいが
[#ここで字下げ終わり]
というのがあるが、これは今度の伊平屋の神官の大あむ[#「大あむ」に傍点]は歳が若いがどうしてマア、この伊平屋列島を支配することが出来ようかとの意であります(そのほかにもこういう例はたくさんあるが)。この一例を見ても当時聞得大君以下大あむしられ[#「大あむしられ」に傍点]、大あむ[#「大あむ」に傍点]のろくもい[#「のろくもい」に傍点]が政治上勢力を有していたかがよくわかるだろうと思います。
そしてこれらの女の神官達は祭礼の時などには皆馬に跨ったのである。『女官御双紙』を見ると「首里大あむしられ根神のあむしられ乗馬にて継世門の外にて下馬被[#レ]仕候事……首里大あむしられ根神のあむしられ如[#レ]前継世門の外より乗馬にて崎山の御嶽に被[#レ]参……」ということがあり、また『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』という本の御初地入り[#「御初地入り」に傍点]の条に「知念のろ[#「のろ」に傍点]二人あむしられた[#「あむしられた」に傍点]三人女性たち白巾《しろざし》にて騎馬にて御通り聞得大君御馬にて被[#レ]召筈之処御馬被[#レ]召候儀は御遠慮にて云々」ということがあるのを見ても、昔は上は王女から下は田舎娘に至るまで馬に乗ったということが明白にわかります。そして現今でもこの遺風は田舎に遺《のこ》っていて祭礼の時にのろくもい[#「のろくもい」に傍点]が馬に乗るところが稀にあるようであります。私は先年八重山にいって十名以上の八重山乙女が馬に跨ってあるくのを見たことがありますが、その時、上古における沖縄婦人はこういう風に勇壮活溌であったろうと思いました。
尚真王時代に八重山征伐があったことは皆様御承知でありましょうが、その時、久米島の君南風《きみはえ》が従軍をしたという事実があります。これは『女官御双紙』にも書いてあれば、オモロにも謳ってあります。実際当時の沖縄では八重山を征服したのは君南風の策略が与《あずか》って力があると信じていました。そして船中の勇士たちはこの女傑のオモロ(讃美歌)とオタカベ(祈祷)によって鼓舞されたとのことであります。これは神功皇后の話とともに上古における日本民族の女子の位地が低くなかったという証拠になると思います(与那国《よなぐに》島にはかつてサカイイソバという女王があって、島を支配したという口碑が遺っています)。私は、『漢書』や「魏志」に九州地方に当時たくさんの女王がいたと書いてあるのは、たぶん支那の航海者がこの勇壮活溌にして政治上に勢力のあったのろくもい[#「のろくもい」に傍点]のごとき者がたくさん活動しているのを目撃して早合点をしたのではなかろうかと思います。ここはおおいに研究する価値があるだろうと思います。とにかく、上古においては男女のケジメが心身ともに今日見るような甚しい差はなかったのでありましょう。
右に申述べたのろくもい[#「のろくもい」に傍点]以上の者は、政略上いわば人為的に出来たものでいずれも純然たる官吏であります。そして旧琉球政府は、こののろくもい[#「のろくもい」に傍点]を自然に出来上った根人《ねっちゅ》(氏神すなわち根神《ねがみ》に仕える女子)の上に置いてこれを支配させたのであります。この根人の下にもまた多くの神人《かみんちゅ》があるのであります。『混効験集[#「混効験集」に傍点]』に「さしぼ[#「さしぼ」に傍点](またはむつき[#「むつき」に傍点])はくで[#「くで」に傍点]の事、またくで[#「くで」に傍点]とは託女[#「託女」に傍点]の事也、今神人と云是也」ということがあります。この神人の事を明らかにしておくことは沖縄の家族制度を了解する上にいたって必要なることでありますから、喜舎場《きしゃば》朝賢《ちょうけん》翁の近著『東汀《とうてい》随筆』の一節を引用して御覧に入れましょう。
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我が国古来の習俗として人家相継して七世に及べば必ず神を生じて尊信す。其の神は只二位を設く。蓋し祖考以上始祖に至るの亡霊を以て神となるなり。而して親族の女子二名を以て神コデと称し、之に任ぜしむ。一名はオメケイオコデと為し、一名はオメナイオコデと為し(方言、男兄弟をオメケイと言い姉妹をオメナイと言う)、其の神を祭る一切の事を掌る。其の祭祀は毎年二月には麦の穂祭と称し麦の穂を薦む。三月には麦の祭と称し、酒香酢脯を薦む。五月には稲の穂祭と称し(稲の穂を薦む。六月には稲の祭と称し)酒香酢脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考祖妣の神衣を製し、祭祀毎に神コデ二人之を着て神を拝祭す。三月五月の祭には族中男女尽く来り、香を焚き、礼拝す。コデの酌を受く。而して神の生ずる期月三年の期月七年の期月十三年の期月二十五年の期月三十三年の期月には、酒香酢脯※[#「麥+比」]餅を具へて以て、之を薦む。其の費用悉く族中課出をなす。三十三年の期月を畢れば、其の翌年復た神を生じ及び期月毎に祭礼すること旧の如し。其のコデの任命は専ら祖宗神霊の命ずる所に因る。予め祖宗の神霊あり。其のコデと為すべき者及び巫婦の身に附着して言語をなし、或はコデと為るべき者疾病を為し、其の女コデと為ることを御請すれば、即ち癒ゆ。是を以てコデと為ることを得る。コデは終身の職と為す。死するときは即ち其の後任を選ぶこと復た此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲するも得ず。自ら免れんと欲するも得ざるものとす。此コデと言ふ者は支那の古へ祭祀ある毎に設くる所の尸と同一なるべし。
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そしてコデは五年おきもしくは七年おきに今帰仁《なきじん》拝《おが》みとか東廻《あがまわ》りとかいうように族中の男女二、三名を携えて祖先の墳墓の地に往って祖先の神を拝し山川を祭るのであるが、巡礼が畢《おわ》って帰るとすなわち家中の神への報告祭があります。この日、氏子等(すなわち親類中の者)はサーカンケーといって半里位の所まで出かけてこれを迎えることになっています。じつにこの神人(もしくは根人)なるものは親族を宗教的に(すなわち精神的に)纏《まと》める者であります。田舎の村落に行くと根神の家(すなわち根所)が一|字《あざ》に一カ所(?)あるが、昔は村の真中にあってそれを中心として家族的の村が出来たようであります。それでこの根神を研究すればその村の歴史がだいたいわかるわけであります。私は沖縄中の根神の数を算《かぞ》えたらアマミキョの移住当時の人数(そうでなくとも上古の人口)が大略わかるのではなかろうかと考えたこともあります。さて今申上げたところを図であらわしてみるとこうである。
これはとりも直さず軍隊的組織で、聞得大君の一令の下に沖縄中ののろくもい[#「のろくもい」に傍点]、根人[#「根人」に傍点]、神人[#「神人」に傍点]が動き出すような仕組になっていたのであります。思うに日本の古神道の寺院組織は(外国文明が這入って来たために)ここまで発達しないでおわったでありましょう。じつにこの民族的宗教は沖縄の大家族制度を発達させて、尚真王時代の健全な国家を見るに至ったのであります。
近頃、日本の学者は頻《しき》りに古神道や家族制度のことをやがましく説かれますが、琉球人の信仰生活や家族制度を一瞥《いちべつ》されたら思い半ばに過ぐるものがあるだろうと思います。日本中で完全な家族制度はおそらく沖縄にばかり遺っているのではなかろうか。私はかつて『沖縄毎日新聞』に「古琉球[#「古琉球」に傍点]の政教一致[#「政教一致」に傍点]」という論文を書いて、その切抜きを柳田国男氏におくったところが、氏はさっそく返書を認められていろいろの注意を与えられたことがあります。その一節に、
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只今拝読し了り大なる刺激を得申候加藤玄智氏等の仲間にて神道談話会と申熱心なる研究者の団体有之此連中に一読させ申度存罷在候内地の神道は承知の如く平田派の学説一代を風靡し之に反して説を為す者を仮容せず候も其原形に於ては御島の風習と相似たる者一二にして止まらず半月来古き人類学会雑誌を集め南島の信仰生活をより/\窺見候て後愈驚くべき共通を発見致候……南島の研究者が古宗教の原形を伺ひ得らるゝは此等の高僧碩徳の少なかりし為と考へ候へばかつは羨しく存申候又本居平田などの大学者の無かりし為と存候
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ということがありますが、じつにその通りであります。沖縄の民俗的宗教は儒教も仏教も知らなかったところの婦女子の手に委ねられたために、かえってその原形を保存するに都合がよかったのであります(沖縄の女子が古来学問をしなかったということは面白いところであります)。そして柳田氏は、そのほかにユタが絶滅せぬ前にわかるだけユタの事を研究してくれとの注文をされました。これがそもそも私のユタの歴史的研究を始めるようになった動機であります。
さて、ユタの事を了解するに必要なることと思いまして政教一致のことをかなりくわしく申上げましたが、これからいよいよ本論に這入って琉球史上におけるユタの位地を観察してみようと思います。
御承知の通りいずれの宗教にも神秘的の分子は含まれているが、沖縄の民族宗教にもまた神秘的の分子(悪くいえば迷信)が含まれているのであります。いったい小氏の神人《かみんちゅ》より大氏の神人に至るまで、古くは神秘的な力を有《も》っていて神託を宣伝するものであると信ぜられていたのでありますが、なかにはそういう力を有っていない名義ばかりの神人もいたのでありますから、これらに代って神託を宣伝する連中が民間に出で、そうしてとうとうこれをもって職業とするようになったのであります。これがすなわちトキまたはユタと称するものであります(そして後には神人にしてこれを職業とするものも出るようになりました)。彼等の職掌は神託(琉球古語ではミスズリ[#「ミスズリ」に傍点]またはミセセル[#「ミセセル」に傍点]といいます)を宣伝するのでありますが、後には生霊死霊の口寄(死者の魂を招いて己が口に藉《か》りてその意を述べることで、今日の沖縄語ではカカイモンと申します)をも兼ねるようになりました。こういうように神の霊または生霊死霊を身に憑らしめて言出すことをウジャシュンと申します。こういうところから考えてみると、ユタ[#「ユタ」に傍点]という語とユンタ(しゃべる)という語との間には内容上の関係があるかもしれません。そのほか彼等は時の吉凶を占ったり人の運命を占ったりするようなこともするので一名物知り[#「物知り」に傍点]ともいっています。ユタという語はやや日本語のミコ[#「ミコ」に傍点]または女カンナギに当るから巫という漢字を当てはめたらよいかもしれません。このユタという言葉は『オモロ双紙』や『女官御双紙』のような古い本の中にも一向見当らない言葉で、『混効験集《こんこうけんしゅう》』には「時とりや[#「時とりや」に傍点]、占方《うらかた》をするもの、巫女の類也、ゑかとりや[#「ゑかとりや」に傍点]、返しの詞、いづれもありきゑとの神歌御《おもろ》双紙《さうし》に見ゆ」とあります。今日の沖縄語でウラナヒのことをトキウラカタ[#「トキウラカタ」に傍点]またはトキハンジ[#「トキハンジ」に傍点]といいますが、そのトキということは男《お》カンナギすなわち覡のことであります。この言葉は本県の田舎には今なおのこっています。私はかつてウラナヒの上手な老翁をさしてあの人はコマトキであるというのを聞いたことがあります。しかし今日では、首里・那覇ではトキユタ(巫覡《ふげき》)という熟語を聞くのみでトキという言葉はほとんど死語となってしまいました。巫覡を時とりや(時を取る人)または、えかとりや(日を取る人)というところから見るときは日や時の吉凶を占うところから来たようでもあるが、日本語に夢解き[#「夢解き」に傍点]という言葉のあるのを見るとまた解く[#「解く」に傍点]という動詞の名詞形「解《と》き」から出たようでもある。とにかく今日の人がトキという言葉を忘れてしまって覡をイケガユタ(男ユタ)といっているのは、近代になってユタ(巫)が増加するにつれてトキが減少したためでありましょう。文献に現われているだけで判断してみると、昔はユタ[#「ユタ」に傍点]の勢力よりもトキ[#「トキ」に傍点]の勢力が強かったようであります。『オモロ双紙』の八の巻の二にこういうことがある。
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おもろねやがりぎや
時とたるまさしや
おふれ よそわてちよわれ
せるむ ねやがりぎや
きやのうち ぬきまるが
時とたるまさしや
ぐすく二ぐすく時とたる
おどん二おどの時とたる
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おもろねやがり[#「おもろねやがり」に傍点]は尚真王時代の人で日の吉凶を占うに妙を得た人であった。一名きやのうち[#「きやのうち」に傍点](御城京のうちのこと)ぬきまる[#「ぬきまる」に傍点]とも言われたこの人は、城二カ所を造る日を占った人だ、御城二カ所を造る時を占った人だというのであります。また同じ八の巻の十三に、
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おもろとのばらよ
すゑのくちまさしや
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ということがありますが、これは「オモロの詩人よ、汝の予言はよく適中す」の意であります。以上二つの例をもって見ると当時は詩人と予言者とは一致していたようであります。『混効験集』に、「きやのうぬきまる[#「きやのうぬきまる」に傍点]、時取の名人也、もくだよのかね、是も時取の名人也」ということが見えていますが、もくだよのかねは有名な武久田《むくだ》大時《おおとき》のことで、きやのうぬきまる(俗にチャヌチといってその墓も浦添辺にある)その高弟であります。二者の関係は後で細《くわ》しく申上げることにします。とにかくこのオモロを見てもこれらの覡が当時宮中にまで出入していたことがわかります。また羽地《はねじ》王子《おうじ》向象賢《しょうしょうけん》の『仕置《しおき》』を見ても、向象賢以前には時之《ときの》大屋子《おおやこ》という覡がいて政府の御用を務めていたことがわかります。政治家が神託を伺って政治を行った時代は巫覡の得意時代であったに相違ありませぬ。
今の尚家の大祖の尚円《しょうえん》王(伊平王)が即位された時の有様を『王代記』または口碑によって調べてみると、当時沖縄に革命が起って尚巴志の王朝が亡ぶとさっそく首里城の京の中で国王選挙の大会が開かれたとのことでありますが、群衆の中から白髪の老人|安里《あさと》の比屋《ひや》が声を放って、
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虎の子や虎、犬の児や犬、食与《ものくゐ》ゆ者《す》ど我《わが》御主《おしゅう》、内間《うちま》御鎖《おざす》ど我御主
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という風に謡ったところが、衆皆これに和してここに一国の君主は選挙されたとのことであります。これがいわゆる世謡《ユーウテー》というもので、琉球の上古にあってはいわゆる世替《よがわり》(革命)がある場合にはおおかたこの形式によって国王の選挙は行われたとのことであります。世謡ということは「国家の大事件を謡う」の意で、予言者と詩人とを兼ねた社会の先覚者が神の命を承けて詩歌の形でこれを民衆に告げることであります。近代的の言葉を用いていえば、その社会の公然の秘密――雲のごとく煙のごとくたなびける社会情調――を民衆が意識せざるに先だちあるいは意識していても発表し切れない時に、見識なり勇気ある人がこれを看破し表明することであります。もっと手短にいえば時代精神を具体化することであります。カーライルの『英雄崇拝論』を繙《ひもと》いてみると、ある古代のヨーロッパ語ではポエット(詩人)とプロフェット(予言者)とは同義語であって二者を表わすべきヴァーテスという語は別にあるとのことでありますが、前に申上げたおもろねやがり[#「おもろねやがり」に傍点]もきやのうちぬきまる[#「きやのうちぬきまる」に傍点]も詩人・予言者を兼ねたヴァーテスの類であったろうと思われます。そしてわが安里の比屋もまたこういう種類の人間であって時代精神を具体化した警醒者であったろうと思います。悪くいえばいくらか覡のような性質を有っていた者でありました。この世謡という選挙の形式は今から見るとほとんど信ずることも出来ないほど妙なものでありますが、人文の未だ開けなかった時代にはいずれの民族の間にも行われた形式であります。琉球の上古は世替の時代でありました。英雄の時代でありました。そして相互の人格・才幹・技倆・能力・体力に非常なる懸隔があって、ある一人の偉大なる強者の下に衆者平伏して文句なしにその命に屈服した時代でありました(後世になって発達した多数決という選挙の形式と比較して研究するのはいたって趣味あることでありますが、こはまたいつかお話することに致します)。それから『遺老《いろう》説伝《せつでん》』に国王の即位についての面白い記事がありますから、引用することに致しましょう。
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往古之礼、聖上即位、必択吉旦、召群臣於禁中、且聚会国中男女於獄(平等所)而覡巫呪詛而焼灰宇呂武[#「覡巫呪詛而焼灰宇呂武」に傍点]、和水而飲[#「和水而飲」に傍点]焉、中古而来、王已即位、必択吉日、偏召群臣於護国寺、令飲霊社神文之水、且遣使者、往至諸郡諸島、而飲神水於庶民、永守君臣之義、不敢有弐心也。
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すでに世謡《ユーウテー》があって国王が立つと吉日を択《えら》んで官吏を禁中に集め、それから国中の男女を平等所《ひらじょ》(警察と裁判と監獄とを兼ねた所)に集めてトキ(覡)ユタ(巫)が呪《まじな》いをして灰を焼き、これを水に解かして飲ませる儀式がありました(中古以後すなわち尚真王以後は官吏のみを護国寺に集めてそういう宣誓式を行うようになりました。そして田舎や離島には別に官吏を派遣してこれを飲ませ、永く君臣の義を守って弐心のないようにとの官誓式を行わせました)。これを見ても、当時トキユタの連中が幅をきかしていたことがわかります。こういう風に政府の御用まで勤めるようになっては民間におけるその勢力は一層大なるものとなったでありましょう。そこで尚真王の頃であったか、時の政治家がトキユタの跋扈《ばっこ》を憂いこれを抑えようとしてやりそこなって一層|跋扈《ばっこ》させたという口碑があります。『東汀随筆』の二の九にこういうことがあります。
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国王の御墓を玉御殿といふ。書に筆するには玉陵と書す。綾門の路傍に在り。三箇相並て居る中の御墓は初め薨御せらるゝ時葬り奉る所なり。東の御墓は、御洗骨の後御夫婦の美骨を一厨子に納め奉る所なり。西の御墓は、御子部を葬り奉る所なり。中の御墓内に一の石厨子あり。銘書もあらず何人たるを知らず。世に是れ武久田大時の髑髏なりと伝ふ。昔何王の時代なるを知らず、巫道盛んに流行し、妖術を以て人を眩迷せしむるものとて痛く厳禁せらる。其時武久田其魁となりたるを以て其術を試んと欲し、匣内に鼠一頭を納れ、武久田を召して幾箇あるやと占はしむ。武久田占て三ケありと云ふ。王以て験あらずとて之を誅せらる。蓋を開けて見るに、果して子を産して三ケあり。王悔みて玉陵に葬らせ玉ふと伝へらる。
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(知花区長も尚泰《しょうたい》侯が薨御になった時、この不思議な厨子《ずし》を見られたとのことであります)。口碑によると武久田大時(『混効験集』に「もくだよのかね[#「もくだよのかね」に傍点]是も時取の名人也」とあり)の高弟のきやのち[#「きやのち」に傍点](前に御話いたしましたきやのちぬきまる[#「きやのちぬきまる」に傍点]のこと)と東方《あがりかた》カニーという二人がこういう神通力をもっている、人を殺しては大変であると言って騒いだところが、政府の方ではうろたえたあげく、とうとう武久田大時を玉陵《たまおどん》に葬ったということであります。さてこの教祖の犠牲によってトキユタはますます盛んになったとのことであります。そして今日に至るまで沖縄のユタは武久田大時をその開祖のように思っています。とにかくある主義または運動が主唱者の死刑によって大活動を始めたことは古今東西の歴史にその例が少くないのであります。この辺は経世家のおおいに注意せねばならぬところであります。
私は、これから沖縄以外の記録によって当時の沖縄を観察してみようと思います。新井白石の『南島志[#「南島志」に傍点]』の風俗の条に沖縄の宗教のことがかなりくわしくあるが、その注にこういうことがあります。
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按使琉球録[#「使琉球録」に傍点]及※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]書云、俗信[#レ]鬼畏[#レ]神神以[#下]婦人不[#レ]経[#二]二夫[#一]者[#上]為[#レ]尸。降則数著[#二]霊異[#一]能使[#二]愚民悚懼[#一]。王及世子陪臣莫[#レ]不[#二]稽首下拝[#一]。国人凡謀[#二]不善[#一]神輙告[#レ]王。王就擒[#レ]之惟其守[#二]-護斯土[#一]。是以国王敬[#レ]之而国人畏[#レ]之也。尸婦名[#二]女君[#一]首従動至[#二]三五百人[#一]。各頂[#二]草圏[#「草圏」に傍点][#一][#二]樹枝[#「樹枝」に傍点][#一]、有[#「有」に傍点][#二]乗騎者[#「乗騎者」に傍点][#一]有[#二]徒-行者[#一]、入[#二]王宮中[#一]以遊戯一唱百和音声凄-惨、倏忽往来莫[#レ]可[#二]踪跡[#一]。袋中所[#レ]録略相同而尤為[#二]詳悉[#一]。凡其神異鬼怪不[#レ]可[#二]挙数[#一]而已。甲午使人曰本国旧俗詳見[#二]袋中書[#一]百年以来民風大変神怪之事今則絶矣云々。
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国王以下国民の尊敬を受けた三百人以上ののろくもい[#「のろくもい」に傍点]が、きのまき[#「きのまき」に傍点](すなわち、さみせんづる)という草で八巻《はちまき》をして馬に乗りオモロなど謡う有様が、まのあたり見えるようであります。これは政教一致のところで御話する積りでありましたが、ちょっと忘れましたからここで申上げることに致します。『使琉球録[#「使琉球録」に傍点]』という本は、明の嘉靖七年(今から三百八十六年前)尚清《しょうせい》王(尚真王の子)の時、琉球に使した冊封使《さっぽうし》陳侃《ちんかん》という人が書いたのであるが、沖縄の民族的宗教全盛代の有様を写すことがこのように詳細であります。それから慶長年間の琉球征伐の頃に琉球を見舞った日本僧|袋中《たいちゅう》が『琉球神道記[#「琉球神道記」に傍点]』にもほぼこれと同様なことが書いてあるとのことであるが、その時から百年も経つと、琉球の風俗習慣が著しく変化して以前のような迷信はほとんどなくなったということであります。民族的宗教が衰えるにつれて巫道も衰えたのでありましょう。
私考えまするに、沖縄の民族的宗教の衰えた源因は二つあります。第一は島津氏の琉球入り[#「島津氏の琉球入り」に傍点]で、第二は儒教が盛んになったこと[#「儒教が盛んになったこと」に傍点]であります。前にも申上げた通り、この宗教は昔は三十六島を統一するために欠くべからざる要具でありました。しかし幾多の氏族が合して一民族となり、相互に神を同じうし血を同じうすることを自覚した時には、最早その使命をおおかた全うしたのであります。しかのみならず島津氏に征服されて以来、尚家は政治上の自由は失ったがその王位はひとしお安固な位地に置かれたから、民族的宗教の必要はますますなくなったのであります。これから古来沖縄では男子にのみ学問をさせて女子には学問をさせなかったために、儒教が盛んになっても男子はこれによって開発されたが女子はこれとはまったく没交渉でありました。それゆえに男子はようやく迷信を脱することが出来たが、女子は少しもこれを脱することが出来なかったのであります。したがって男子は民族的宗教を記念祭的のものとし、女子は相変わらずこれを宗教的のものといたしました。ここにおいてか政治家はこれを政治以外に放逐しようとしてここに政教の分離が始まるようになりました。これはじつに代々の政治家を悩ました大問題であったが、有名なる羽地王子向象賢が国相となった時に断行するようになりました。『女官御双紙[#「女官御双紙」に傍点]』に、
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聞得大君、此大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座しゝに大清康熙六年丁未王妃に次ぐ御位に改め玉ふなり。
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とあるのを見ても民族的宗教衰微の有様が想像されるのであります。向象賢は同じ年に民族的宗教の附属物なる巫道に向って大打撃を与えています。これは彼の『仕置[#「仕置」に傍点]』の中に、
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前々より時之大屋子とて文字の一字も不存者を百姓中より立置、日の吉凶を撰、万事用候得共、此前より唐日本の暦用可申由申達相済候事。
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とあるのを見ても明白であります。これじつに今から二百四十七年前のことである。前にも申上げた通り、時之《ときの》大屋子《おおやこ》という覡は民間において勢力を有していたばかりでなく政府の御用をも務めたのであるから、当時の社会においてはかなり枢要な位地を占めていて劇文学の材料にまでなったくらいであります。余計な事とは思いますが、昔□時之大屋子のことを想像する便りにもと思って「孝行の巻[#「孝行の巻」に傍点]」という組踊《くみおどり》を紹介することに致しましょう。御参考にもなることと思いますから原文のままを御覧に入れようと思います。最初に頭が出て来て、
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出様来《でやうきや》る者《もの》や、伊祖《いぞ》の大主《おほぬし》の御万人《おまんちよ》の中《うち》に頭取《かしらどり》聞《き》ちゆる者どやゆる、お万人のまぢり誠《だに》よ聞留《ききと》めれ、ムルチてる池に大蛇《おほぢや》住《す》で居《を》とて、風《かぜ》の根《ね》も絶《て》らぬ、雨《あめ》の根《ね》も絶《て》らぬ、屋蔵《やぐら》吹《ふき》くづち、原《はる》の物作《もづくり》も、根葉《ねは》からち置《お》けば、昨年《こぞ》今年《ことし》なてや、首里《しゆり》納《をさ》めならぬ、那覇《なは》納《をさ》めならぬ、御百姓《おひやくしやう》のまじりかつ死《じに》に及《およ》で、御願《おねげ》てる御願《おねげ》、祈《たか》べてるたかべ、肝揃《きもそろ》て立《た》てゝ、肝揃《きもそろ》て願《ね》げは、時のうらかたも神のみすゞり[#「みすゞり」に傍点]も、十四五なるわらべ、蛇《ぢや》の餌《えぢき》餝《かざ》て、おたかべ[#「おたかべ」に傍点]のあらば、お祭りのあらば、うにきやらや誇《ほこ》て、又からや誇《ほこ》て、作る物《も》作《づく》りも時々に出来《でき》て、御祝事《おいわひごと》ばかり、百果報《もゝがほう》のあんで、みすゞりのあもの、心ある者や、御主《おしゆ》加那志《がなし》御為《おだめ》、御万人《おまんちよ》の為《ため》に、命《いのち》うしやげらば、産《な》し親《おや》やだによ、引《ひき》はらうぢ迄《まで》もおのそだて召《めしや》いる、仰《おほ》せ事拝《ごとをが》で、高札《たかふだ》に記《しる》ち、道側《みちばた》に立てゝ、道々《みち/\》に置《おき》ゆん、心ある者や、心づくものや、肝揃《きもそろ》て拝め、肝留《きもと》めて拝め、高札よ/\立てやうれ/\
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といって広告を出す。そうするとある孝女がそれを見て、家内の困難を救うために老母のとめるのも聞かないで自ら進んで今度の犠牲になろうと申出る。そこでムルチのほとりに祭壇を設けていよいよ人身御供をやるという段になる。時之大屋子がこの可憐なる孝女を列《つ》れて来て、
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たう/\わらべ、祭《まつ》り時《どき》なたん、果報《かほ》時のなたん、急《いそ》ぢ立《た》ち登《のぼ》れ、御祭《おまつり》よすらに
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といって孝女を祭壇に坐らせ、さて、
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今日《けふ》のよかる日に、今日《けふ》のまさる日に、我のとき[#「とき」に傍点]我の物知り[#「物知り」に傍点]の御祭りよしゆものおたかべ[#「おたかべ」に傍点]よしゆもの、このわらべ得て誇れ、このわらべ取《と》て誇れ、うんちやらや又からや、風の業《わざ》するな、雨のわざするな、あゝたうと/\
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と唱えると蛇が口から火を吐きつつ出て来て、この犠牲を受取ろうとするその一|刹那《せつな》に天から神降りて来て孝女を救うこの奇蹟を見て、頭取がびっくりして、
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あゝ天道《てんとう》も近《ちか》さ、神もあるものよ/\
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と叫ぶと、時之大屋子が、
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あゝ天道も近さ、とき[#「とき」に傍点]もあるものだやべる
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といって自画自賛をやるような仕組になっている。これで覡のことが一層よくおわかりになったことと存じます。
私は真境名《まざきな》笑古《しょうこ》氏の注意により『中山王府官制[#「中山王府官制」に傍点]』に巫覡長[#「巫覡長」に傍点]という官名があってこれがすなわち時之大屋子の漢名であることを学びました。してみると時之大屋子というものはトキユタの頭であって、公然たる官吏であったことは明白であります。向象賢が時之大屋子を政治上から駆逐したのは、とりも直おさずトキユタを社会から排斥する第一歩であって、これから七、八年の間、彼れは全力を迷信打破に注いだのであります。『仕置[#「仕置」に傍点]』を読んでみると次のような面白いことが出ています。
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当春久高知念へ祭礼事に付、国司被参筈にて候故愚意了簡之所及申入候。
一久高島は一里余の島とは乍申、左右方々津も無御座、殊二月之比あがり風時分にて、大事成御身渡海被成候儀、念遣存候事。
一久高祭礼之趣承候得共、聖賢之諸規式にても無御座候、大国之人承候ては、女性巫女[#「女性巫女」に傍点]の参会、還而可致嘲哢と被察候事。
一年越に両度之祭礼にて候得者、毎年渡参之賦にて候、左候得者、東四間切百姓之疲者不及申、島尻八間切浦添中城北谷越来美里勝連具志川読谷山八間切百姓の疲不可勝計候、且復御物も過分之失墜にて候、君子者節用愛之[#「君子者節用愛之」に傍点]と御座候得ば、為主君民之疲題目可被思召候処、旧例と計御座候ては、仁政にて無御座候、知念久高之祭礼開闢之初より有来たる儀に非ず、近比人々之作にて候、ケ様成儀別而被致了簡儀目出度存候事。
一右祭礼旧規と被思召候はゞ、せめて一代に一度か又は使にても可然と存候、無左は知念久高の神城近江取請移被致崇敬可然候、大国より諸仏当国へ被請移被尊敬と同断之儀に御座候、竊惟者此国人生初者日本より為渡儀疑無御座候、然者末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木之名に至迄皆通達せり、雖然言葉之余相違者、遠国之上久敷通融為絶故也、五穀も人同時日本より為渡物なれば、右祭礼何方にて被仕候ても同事と存候事。
一知念城内僅に三十間不足狭所に苫かけ桟敷七八間為作産、四五日被致滞留候儀は用心不足と存候、万一火出来候はゞ、女性共は可遁方無御座念遣存候事。
右熟思慮廻候処一として理に為当事無御座候、強而留度存候得共、障多御座候間、叡慮次第と存候、仍不顧愚才短慮如此候以上。
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これじつに西暦千六百七十三年(わが延宝元年、清の康熙十二年)三月のことで、時之大屋子を廃してから七、八年後のことであります。これから二十三年前に編纂した『中山《ちゅうざん》世鑑《せいかん》』の中に向象賢は五穀の祭神のことを書いて、久高《くだか》知念《ちねん》玉城《たまぐすく》は五穀の始めて出来た所であるから昔は二月には久高の行幸があり、四月にも知念玉城の行幸があって「[#傍点]是報本返始之大祭可敬々々五朝神願と申は此等の事に依て也[#傍点終わり]」といっているのに、右のような矛盾したことをいうようになったのはそもそもどういうわけでありましょうか。これは前にも申上げた通り、男子はその祖先崇拝の宗教を記念祭的のものとしてしまったのに、女子はあいかわらずこれを宗教的なものとして信じたためにいろいろの迷信が生じて来て、かえって政治の妨害となったために心配していったことでありましょう。しかしながら向象賢の敏腕をもってしても、この数百年の歴史ある迷信を打破することが出来なかったのであります。それで同年の十一月に、向象賢は次のような歎声をもらしています。
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国中仕置相改可然儀者大方致吟味、国司江申入置申候、前々女性巫女[#「女性巫女」に傍点]風俗□多候故、巫女の偽に不惑様にと如斯御座候、[#傍点]今少相改度儀御座候へ共、国中に同心の者無御座、悲歎之事に候、知我者北方に一両公御座候事[#傍点終わり]。
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向象賢はじつにやがましい政治家であってたいがいのことはやっつけてしまったが、宮中にはだいぶ手を焼いたようであります。とにかく、この老政治家を手古摺《てこずら》した婦人の勢力もまた侮るべからざるものであったということを知らなければなりませぬ。『中山世鑑』によれば民族的宗教の盛んであった頃には、国王が親《みずか》ら久高知念玉城に行幸されたのでありますが、『仕置』によれば、向象賢の頃には国王の名代として三司官《さんしかん》が行くようになっていたのであります。そして何時からそうなったのであるかわからないが、近代になっては国王の名代として下庫理《したくり》当《あたり》(式部官)が行くようになりました。民族的宗教衰微の歴史はこういうところにも現われているのであります。
『古琉球[#「古琉球」に傍点]』にも書いておいた通り、沖縄人の祖先は最初久高島に到着し、それから知念に上陸して玉城辺に居を卜したのでありますから、この地方すなわち俗に東方《あがりかた》と称する所は古来沖縄の霊地となっていたのであります。それゆえに上古においては、国王のこの霊地への行幸は政治上重大な意味を有していたのであります。そして、これに劣らず重大な事件は聞得《きこえ》大君《おおぎみ》の御初地入《おしょちいり》(俗にお新下《あらお》りという)でありました。これは聞得大君が任命されると間もなく、その領地たる知念へ始めて御下りになって霊地|斎場《さやは》御嶽《おたけ》に参詣されることで、昔は国王の冊封の儀式にも比すべき儀式でありました。さて今から二百十七年前すなわち清の康熙五十六年に、この御初地入[#「御初地入」に傍点]を挙行することについて端なくも政治家と聞得大君|御殿《おどん》との間に大衝突が起ったのであります。事の起りはこうである。聞得大君御殿で、この頃トキユタに占いを仰付けられた。ところが今度は聞得大君の厄年で辰巳の方の神の御祟りがあるので、この年内に御初地入を挙行されないとためにならないといって摂政三司官の方に交渉が始った。すると政府の方では、来々年|尚敬《しょうけい》王の冊封《さっぽう》(冠船《かんせん》)があるので財政上都合が悪いから延期されてはどうかといって御婦人方の再考を求められたところが、御婦人方の側では、来々年冊封があるとすればその御願のためにもやはり年内に挙行した方がよいではないかとそれ相応の理窟を述べてきた。そこで政治家の側でも大層もてあまして、神は国民を苦しめてまでも祭りをうけ給うものではないから是非冊封の済んだ後に挙行するようにとつっかえした。
この悶着の始末は、有名なる文者《ぶんしゃ》石嶺《いしみね》の筆で書れて今日まで遺っている。今煩をいとわず全文を御覧に入れましょう。
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頃日御籤御占方[#「御籤御占方」に傍点]被仰付儀共御座候処、
聞得大君加那志御厄辰巳之方神之御祟も御座候由有之候。然者御初地入の儀此年内に相当宜候由、時占方[#「時占方」に傍点]より有之候間、弥御初地入御執行被遊旨御意被成下候、然処冠船御用意に付而、百姓江出物等被仰付置、折角其働仕時節候間、年季御延御座候様にと御断被仰上候処、右躰之御規式等無滞相済候得者、封王使御申請御願之為にも宜可有之候間、弥当年御初地入可被遊旨、段々御諚之趣御座候。雖然いまだ得と御請之筋不知御了簡候いづも之筋有之可然候哉、依之吟味可仕旨、被仰付、相談之趣左に申上候。
一御初地入之儀、常式に而候得者、弥此節御執行被遊可然奉存候得共、御賢慮之通、冠船御用意付而は、諸士百姓江段々出物等被仰付置、折角其用意仕事候且又勅使御滞在中にも野菜肴種々申付候、上七八ケ月に及、家内を離、農業不仕候故、兼而より百姓有付貯物等無之候而不叶最中、其差引被仰付時節候得者、少迚も百姓手障を費、農業之滞有之儀、題目冠船御用意之方支窮に而候、封王使来々年御申請之事候得共、不図来年御渡海之儀も不相知候故、諸事其手当仕事候処、究竟成時節差当、百姓之痛罷成候儀幾重にも御断被仰上可然儀と奉存候、
一御初地入之儀、
聞得大君加那志付而、為差定神事之御規定にては無之、諸並之初地入同断之筋候得者、是を以封王使御申請御願之為に可罷成筋とは存当不申候。縦令為差定神事に而も、時之宜に随ひ、致遅速候儀は、於何国も其例可有之、尋常に而候得者、無滞御執行有之、一段之事候得共、此節差当百姓之困窮引比候得者、対神前却而神慮に叶申間敷と奉存候。
一亦当年中御初地入被仰付由御座候はゞ、乍漸相調申に而社有之候得共、百姓致辛苦、迷惑乍存、御奉公迄と存、無是非相勤申筋に而は、却而御祈願之旨にも叶申間敷と乍恐奉存候。縦令当年に限御初地入不被遊候而は神之御祟共有之抔と之御占方に而も右通時節柄相応不仕段は眼前に候間、第一封王使御申請之御願、第二百姓恵之筋を以、年季御延被遊候儀は、仏神にも納受可有之候間、封王使御帰朝以後時分柄御見合を以御初地入有御座度奉存候。右之段々御賢慮之上に而御座候得者、不及申上候得共、御政道何方に付而も首尾能相調候様にと奉存、彼是善否致差引、心底之程不残申上候。猶以御裁断所仰御座候以上。
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これで政治と宗教との衝突の有様がよくわかるだろうと思います(御初地入りの事[#「御初地入りの事」に傍点]については他日くわしく述べる積り)。この頃、有名なる蔡温《さいおん》は国師として漸次頭角を顕《あら》わして来ましたが、尚敬王の冊封が済んだ翌年かにその政治的天才を認められて三司官《さんしかん》に抜擢されました。そしてこの時代は日本および支那の両文化が沖縄において調和した時代で、程順則《ていじゅんそく》ほか多くの学者の輩出した時代であります。しかしこういう黄金時代にも拘わらずトキユタは影を隠さなかったと見えて、蔡温の『教条《きょうじょう》』に、
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時ゆた之儀其身之後世を題目存、色々虚言申立、人を相訛候付而、堅禁制申付置候、右類之挙動有之者は、皆以世間之妨候間、上下共其心得可有之事。
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ということがあります。そしてこれから半世紀も経つとトキユタがまたまた跋扈《ばっこ》したのであります。尚敬王についで王位についたのはその子|尚穆《しょうぼく》王であるが、この王が西暦千七百九十四年(わが寛政六年、清の乾隆五十九年)に死なれて、王孫|尚温《しょうおん》がその翌年王位に即かれました(尚穆の世子尚哲は父王より六年前になくなった)。この時、尚温のお母さんがトキユタを信ぜられて首里城内には多くの神々が生れることになり、民間でもトキユタが大繁昌を来たしたとのことであります。口碑によれば、当時神の婚礼などというおかしなことまでがはやり出したとのことであります。そこで尚温の叔父の浦添《うらそい》王子尚図が王の即位の翌年|摂政《せっせい》となるや否や、首里城中の無数の神棚を破壊して多くのトキユタを罰したとのことであります。寛政乙卯七年(清の乾隆六十年)の四月二十五日に、評定所の方からこういう令達が出ています。
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時よた[#「時よた」に傍点]之儀、前々より堅禁止申渡置事候処、速々緩に成行、就中頃日差立候方もよた[#「よた」に傍点]に被訛、神信仰にて色祭奠執行、又は田舎江も差越、段々神事致貪着候由相聞得候、有来候神社嶽之参詣を格別に候得共、不謂虚説に惑ひ、神社抔と申致信心候儀、国家之妨甚以不可然事候条、右之断然と可相止候、依之横目中にも見聞申付、若違背之者於有之は、時よた[#「時よた」に傍点]は勿論夫れを用候方も不依貴賤[#「不依貴賤」]に傍点、吟味之上重科にも可及候条、此旨支配中不洩可申渡者也、
四月廿五日 評定所
御物奉行申口
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これはじつに口碑と一致しているように思われます。また明治の初年になっても時の聞得大君がユタ道楽をされたために一時巫道が盛んになったことがあったが、摂政|与那城《よなぐすく》王子が浦添王子を学んでユタ征伐をされたことがあります。この時検挙されたユタの親玉は小禄《おろく》のクンパタグワーのユタ、垣花蔵《かちぬはなくら》の前《めー》のユタ、トーのパアー/\、前東江《めーあがりー》のユタ、の四人でありましたが、首にチャー(枷?)というものをかけられ、三日の間首里の三市場に引出されて見せ物にされたとのことであります。とにかく、向象賢以下の沖縄の政治家の強敵はこのユタというものでありました。そしてここに注意すべきことは、人智の進むにつれて、今まで個人的に活動していたユタが明治の初年頃から結社をする傾向を生じたことであります。特に天理教の輸入以来これをまねてオモチ教(御母前一派の巫道)のようなものの出来たことであります。古来こういう巫道が上下に勢力を有していた沖縄では、仏教の振わなかったのも無理のないことであります。したがって沖縄の仏教は巫道化せざるを得なかったのであります。
以上、歴史上におけるトキユタの位置と沖縄婦人の信仰生活とについて一通り御話いたしましたが、皆さんはこれによって、彼等が古往今来信仰なしに生活することが出来なかったということがおわかりになったことと存じます。最初に申上げた通り、沖縄五十万の人民のうち過半は女子であります。それから、首里・那覇一部の男子を除くのほかの沖縄の男子の多くはほとんど女子と心理状態を同じうしている連中であります。してみると、沖縄の人民の大多数は皆悉くこの迷信に囚われた者であります。こういう雰囲気の中に養育されて来たところの人間の心理状態がどういう風になっているかということは、教育家諸君はとうに御研究になっていることと思ます[#「思ます」は底本のまま]。私はその一例として『東汀随筆[#「東汀随筆」に傍点]』中の記事を引用して御覧に入れようと思います。
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政府の命令ありて、我が国をして支那への進貢を絶たしむ。之を御断りする使者三司官池城親方、東京に在て三四嘆願すれども政府聴されず。国王謂へらく人力既に尽したり、此上は神力に憑らねばならぬとの御意気込みにて鬼神を崇神し玉ふこと時に厚し。時に系図座保存の旧記数十巻を御取寄せ謄写を命ぜらる。此書は国中御社の由来事実を記したるものなり。予命を奉じ別室に於て謄写す。左右人なく王予に謂て是好き書なるかな喜舎場よ、との玉ふ。予対へて唯と言ふ。既にして予貌を正し謹て奏しけるは、国家の興廃存亡は君臣御心を協せ能く御政事を御勤むるにあり、鬼神の関する所にあらずと。王の玉ふ、汝何の所見ありて爾か云、其説を聞かんと。予対へて言ふ、古へに其証拠があります、昔春秋の時※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]国君臣鬼神を崇信すること最も厚し、国家の政事決を鬼神にとらずと云ふことなし、鬼神も亦是に因て威光を増し霊応を顕はし能く人の如く言語を為して応対す、周の天子之を聞き、奇異なりとて臣某を遣はして視せしむ、王の使臣※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]に到る、君臣喜び迎へて鬼神の所に延て之を視せしむ、其君臣国家の政務を悉く鬼神に告ぐ、鬼神果して言語応対すること人の如し、王の使臣帰りて復命すること実の如し、且つ言ふ、※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]国は夫れ亡びん乎、国家の政務は君臣協心戮力するにあり、※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]国は君臣上下怠慢して専ら鬼神に任す、豈亡びざるを得ん乎と、其後果して亡びたりとぞ申上ける。王黙然として何んともの玉はざりき。併し鬼神の御崇信は旧の如く替はり玉はず。
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喜舎場《きしゃば》翁の話によると、当時、王は非常に神事に熱中しておられてしばしば城中の首里森という所で国中の鬼神を祭られたとのことであります。尚泰《しょうたい》王は琉球国王の中でも名君の部類に這入るべきほどの人でありましたが、この智者にしてなおかつこうであります。世に宗教のあるのは事実であります。宗教のない国民といってはないはずであります。宗教は人類の生活を統一するに必要なるものであります。しかしながら、世には宗教の必要を認めない人もたくさんあります。経済の必要、政治の必要、学術の必要を認めないものはないが宗教となるとその必要を認める者はいたって少ないようであります。これらの人々は宗教は愚民を導くに有用である、婦女子と子供とを教えるに便利である、しかし智者には必要はないと申します。ところが人類はすべてその心の深きところにおいて神仏を慕いつつある者である。ある人はただ我慢してこの切なる要求を外に発せざるまでであります。今度那覇の火災によって暴露されたところの沖縄婦人の迷信は、やがて人間に宗教心の存在することを証明するものであります。私どもは「存在の理由」を軽々しく看《み》てはなりません。子供を有《も》っていない婦人が人形を弄《もてあそ》ぶことがありますが、たとえて言えば、子供を愛する心は信仰で人形を愛する心は迷信であります。ただ人形を棄《す》てろ迷信を棄てろと叫ぶのは残酷であります。私どもは人形や迷信に代るべき子供と信仰とを与えなければなりません。
私は迷信の打破には科学思想を鼓吹《こすい》するのが何よりも急務だと思っていますが、これと同時に宗教思想を伝播させるのも急務だろうと思います。この辺のところは特に女子教育の任に当ておられる教育家諸君に十二分に研究して貰いたいのであります。馬に跨って活動したところの琉球婦人の子孫を教育して近代的の活動をさせることは、最も愉快なる事業であると思います。昔時、向象賢や蔡温を悩ましたところの沖縄婦人は、他日、女子問題をひっさげて有髯《ゆうぜん》男子をして顔色なからしむるような活動をやるかもしれませぬ。沖縄の女子教育は沖縄の発展と大関係のあるものであるから、この方面には常に多大な注意を払って貰いたいのであります。つい横道に這入りましたが、私はユタの歴史上における位地を御話したのみで彼等の心理学上の研究については一言も御話いたしませんでしたが、これは他日その道の人に研究して貰うことにいたしまして、私は欧米諸国にもこれに似た現象があることを紹介しようと思います。
欧米諸国においては近来、読心術であるとか透視すなわち千里眼とか降神術とか幽霊研究とかいうような唯物観的な従来の思想では迷想なりとせられ、または打ち棄て顧みられなかった精神現象の新しい研究がようやく盛んになって来て、ひとり一般の民衆のみならず科学者や哲学者などもこの方面の研究に力を尽すようになったのであります。たとえば民族心理学者のルボンのごとき、イタリアの有名な法医学者故ロンブロゾーのごとき、仏国の天文学者フランマリオンのごとき、英国の物理学者ロッジや化学者クルークスのごとき自然科学の大家さえ心霊に心を傾けるようになりました。いわんやかかる問題の研究を目的とする心理学者や哲学者に至ってはなおさらであります。この心霊研究という現象は一般にはまだ承認されておらないが、とにかくその盛んとなった事実は民心の傾向が那辺《なへん》に向っているかを示すものであります。それからこの現象と似通っている今一つの事実は、科学の宗教および哲学に接近したことであります。一方では宗教的思想や哲学がその研究態度においても組み方においてもはたまた出発点に関しても科学的となったことで、他方では自然科学者が哲学の研究に進み入るものの多いことであります。仏国の数学者ポアンカレーのごときも自然科学の立脚地に立って形而上学に接近して来たとのことであります。また近頃人気者なる仏のベルグソンのごときも初め数学を学び次に病理学を修めた者であるが、その哲学的傾向と新思想の潮流とは彼をして思いを人生観や世界観の問題に潜めしめ、とうとう唯心論に到達せしめたのであります。その他、科学から出でて哲学や宗教に入った大家は少くないのであります。科学といえども最終の仮定を要すること、すなわち物質とかエネルギーとかの憶説の上に成立することを知るに及んで、精神と物質との現象の最終的説明のためには物心二元の根柢を形而上の何物かに求むるか認識の根柢に求むるかの必要を認めしめ、また物と心との原造者として超絶的のもの、すなわち神またはこれに似たある者を最終仮定としなければならぬという思想に到らしめたのは当然の経路であります。これ皆、物質万能主義の反動として起った新たなる霊の自覚であります。この霊の自覚が欧米思想界における最近の要求であります。以上は樋口竜峡氏がその近著[#「近著」に傍点]『近代思想の解剖[#「近代思想の解剖」に傍点]』の「新思想の曙光」の条において説くところの大略であります。私は近来本県においてもこの霊の自覚が始まっているように思います。那覇の大火後は特にそういう感じがします。これじつに教育家や宗教家の見逃がしてはならない現象であります。終りに私は、この支離滅裂なる変な演説を長い間辛棒して御聴き下さったことを感謝いたします。
底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『琉球新報』
1913(大正2)年3月11日―20日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。- [琉球] [沖縄]
- 那覇 なは 沖縄本島南西部、東シナ海に面する市。沖縄県の県庁所在地。太平洋戦争中に焦土と化し、戦後米軍の沖縄占領中は軍政府、のちに民政府・琉球政府がおかれた。市の東部、首里には再建した首里城など史跡が多い。人口31万2千。
- 首里 しゅり 沖縄本島南部の旧都。今、那覇市の東部。もと琉球国王尚氏王城の地。外郭に石垣をめぐらす。
- 首里城 しゅりじょう 首里にある旧琉球王朝の城。15世紀より尚氏の居城となり、19世紀の琉球処分の際に明治政府により収公される。1945年の沖縄戦で焼失したが、守礼門・正殿などを復元。
- 三平等 みひら 首里三平等。近世の首里の呼称。三平等とは、首里を三区域に分けたもので、王城の西側が真和志之平等、王城を含む東から南側が南風之平等、北側が西之平等となっていた。三平等はおのおのその背後に真和志間切・南風間切・西原間切を擁していた。三間切の接する中心部分を分割した地域が首里三平等で、その中心のやや南側に首里城が位置する構造となっていた。
- 三市場
- 首里森 〓 首里の御いべ。首里杜。下之御庭にある。首里城十嶽の一で、城内第一の御岳であり、首里大君(神女名ナヨカサ)の管轄だった。
- 真和志の平等 まわしのひら/まーじぬふぃら 現、那覇市。首里城の南側から西側の斜面に広がる地域。
- 真壁殿内 まかん どのち 現、那覇市首里山川町一丁目。真和志之平等に配置された真壁「大あむしられ」の殿内。殿内には火神御前が祭祀されていた。
- 南風の平等 はえのひら/ふえーぬふぃら 西之平等と真和志の平等にはさまれた首里台地の中央に位置し、首里城の南東側から北西側に展開した地域。
- 赤田 あかた 村名。現、那覇市首里赤田町。崎山村の北、首里城継世門(赤田御門)の東に位置する。
- 首里殿内 しゅん どのち 現、那覇市首里赤田町二丁目。赤田公民館付近にあった王府時代の三平等の大あむしられ殿内の一つ。
- 北の平等 にしのひら 西之平等。首里城の北側に位置し、南は真嘉比川を境に南風之平等、北は西原間切。
「ニシ」は北の意。 - 儀保 ぎぼ 沖縄県那覇市首里儀保町。
- 儀保殿内 ぎぼ どんち/じーぶ どぅんち 現、那覇市首里汀良町二丁目。三平等の大あむしられ殿内の一つ。跡地は県道82号線および住宅地となっている。
- 継世門 けいせいもん 首里城の外郭に設けられた石造アーチ門の上に櫓が載る形式。
- 崎山の御岳 さちやまぬうたき 現、那覇市首里崎山一丁目。首里城跡の南に接した首里崎山町の北西隅にある。
「遺老説伝」によると、当御岳は崎山里主の死後、その徳を慕って彼の屋敷を御岳にしたものという。 - 小禄 おろく/ウルク 沖縄県那覇市最南部の位置する一地区で、かつては小禄村として存在していた。1954年に那覇市に編入。現在、那覇市役所小禄支所の管轄。一般的に小禄支所管内といわれる。
- [島尻地方] しまじり
- 島尻郡 しまじりぐん 沖縄県の郡。久米島町・南風原町・与那原町・八重瀬町・粟国村・伊是名村・伊平屋村・北大東村・座間味村・渡嘉敷村・渡名喜村・南大東村、以上の4町・8村を含む。
- 山川 やまがーむら 村名。現、島尻郡南風原町山川。
- 伊平屋村 いへやそん 沖縄県島尻郡の村。沖縄県の有人島としては最北端である伊平屋島を主島とし、第一尚氏王朝をひらいた尚巴志の祖父:佐銘川大主(または鮫川大主とも)の出身地であるとされる。沖縄本島辺戸岬の北西約40km、与論島のほぼ真西に位置し、伊平屋島と野甫島の2島からなる。2つの島は新野甫大橋によってつながっている。
- 久高 → 久高島か
- 久高島 くだかじま 沖縄本島知念岬の東海上5.3kmに浮かぶ、周囲8kmの細長い小島。所在は沖縄県南城市、面積は1.37km
2 、人口は200人強、最大標高は17m。交通は南城市知念安座真港より高速船で15分、フェリーで20分。- 知念 → 知念村か
- 知念村 ちねんそん 村名。現、島尻郡知念村。沖縄島南部の東海岸に位置し、東から南は太平洋に臨み、北部は中城湾に面する。
- 東方 あがりかた
- 斎場御岳 せいふぁ うたき/せーふぁ うたき/サイハノうたき 現在の南城市(旧知念村)にある史跡。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。
「せーふぁ」は「最高位」を意味し、 「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。 - 玉城 たまぐすく 沖縄県島尻郡玉城村(現・南城市)
- [国頭地方] くんじゃん/くにがみ 国頭郡。自然の宝庫として知られる山原は国頭郡にある。金武町・本部町・伊江村・大宜味村・恩納村・宜野座村・国頭村・今帰仁村・東村、以上の2町・7村を含む。
- 浦添 うらそえ/うらそい 沖縄本島南西部の市。那覇市の北に隣接。12〜14世紀、琉球国の王都。人口10万6千。
- 伊祖 いぞ 村名。いーずむら。現、浦添市伊祖。城間村の東、仲間村の北西に位置。
- [中頭地方] なくがみ/なかがみ 中頭郡。嘉手納町・北谷町・西原町・北中城村・中城村・読谷村、以上の3町・3村を含む。
- 中城村 なかぐすくそん 沖縄県中頭郡の村。村の南部に国立大学法人琉球大学千原キャンパスがあり(本部は西原町だが、法文学部と理学部は同村内に入る)
、周辺は学生アパートが建ち、活気がある。沖縄本島中部の東海岸に位置し、中城湾に面している。国道329号の東側は海抜10m以下の沖積低地。 - 北谷町 ちゃたんちょう 沖縄県中頭郡の町。読みは「きたたに」が「ちたたに→ちゃたに」と沖縄風に訛ったものである。西海岸地区美浜には、若者や駐留米軍関係者に人気のスポットであり、県内唯一の観覧車があるアメリカンビレッジがあり、地域でも比較的大規模な琉球ジャスコ北谷店といった娯楽・店舗施設を擁しており、日々、多くの地元県民や観光客が訪れている。
- 美里村 みさとそん 沖縄県中頭郡にあった村。1974年にコザ市と合併、沖縄市となり消滅。村役場は美里に置かれ、合併後は沖縄市役所美里支所、第二庁舎、美里出張所と名称と場所を変えたが、2004年で廃止された。
- 勝連町 かつれんちょう 沖縄県中頭郡に属していた町。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として首里城、斎場御嶽等と共に勝連城跡が世界遺産に登録された。米海軍と海上自衛隊が共同で使用する港湾施設ホワイトビーチには原子力潜水艦が頻繁に寄港する。
- 具志川 ぐしかわ 沖縄本島中部東岸の旧市名。現在のうるま市の中心部。第二次大戦後都市化が進んだ。アメリカ軍用地が点在。
- 読谷山 ヨンタンジャ 村名。現、中頭郡読谷村。沖縄島中部の西海岸に位置する。
- 与那城 よなぐすく 村名。ゆなぐしくむら。現、中頭郡与那城町与那城。西原村の東にあり、北は金武湾に面する。
- 与那城町 よなしろちょう 沖縄県中頭郡に属していた町。町域の全ての島が海中道路や橋で結ばれている。与勝半島と平安座島を結ぶ全長4.7kmの海中道路はドライブコースとして人気のスポット。2005年4月1日に具志川市、石川市、中頭郡勝連町と合併してうるま市になったため消滅した。町役場は屋慶名に置かれたが、1993年に現在地に移転するときに役場周辺を字名を「中央」とした。合併後はうるま市役所与那城庁舎となった。
- 久米島 くめじま (クメシマとも)沖縄県那覇市の西方100キロメートルにある島。古くは、中国との交易の中継地。久米島紬(古くは琉球紬とも)を産する。
- 八重山列島 やえやま れっとう 沖縄県に属する諸島。八重山諸島とも言う。沖縄県八重山郡。南西諸島西部の島嶼群。先島諸島の一部を成す。行政区分では沖縄県石垣市、八重山郡竹富町、及び与那国町の1市2町に属する。北に尖閣諸島、東に宮古列島がある。1962年に風土病であったマラリアが撲滅された。
- 先島 → 先島諸島
- 先島諸島 さきしま しょとう 沖縄県南西部の宮古諸島と八重山諸島の総称。尖閣諸島を含めることもある。
- 与那国島 よなぐにじま 沖縄県の島。日本の最西端。台湾への距離110キロメートル、那覇へ530キロメートル。サトウキビを産する。俗称、女護島。面積28.8平方キロメートル。
- [三重県]
- 伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮(ないくう)
)と豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう) )との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代(みたましろ)は八咫鏡(やたのかがみ)。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造(ゆいつしんめいづくり)と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。 - [中国]
- 訣早@かくこく 周代の国の名。(1) 西戟iせいかく)今の陝西省宝鶏市の地方。周の武王の弟、健がおさめていた。(2) 南戟iなんかく)今の河南省陝県の地方。西撃ェ移ってできた国。(3) 北戟iほくかく)今の山西省平陸県の地方。健の子孫がおさめた。(4) 東戟iとうかく)今の河南省�A沢(けいたい)県の地方。周の武王の弟、件f(かくしゅく)がおさめた。
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 享禄元/嘉靖七(一五二八) 尚清王(尚真王の子)のとき、冊封使・陳侃、琉球に使する。著『使琉球録』。
- 慶長年間(一五九六〜一六一五) 琉球征伐のころ、日本僧・袋中、琉球を見舞う。著『琉球神道記』。
- 慶安三/順治七(一六五〇) 向象賢『中山世鑑』編纂。五穀の祭神のことを書く。昔は二月には久高の行幸があり、四月にも知念・玉城の行幸があって「是報本返始之大祭可敬々々五朝神願と申すはこれらの事によりてなり」
。 - 寛文七/康煕六(一六六七)
「聞得大君、この大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座ししに大清康煕六年丁未、王妃につぐ御位に改めたまうなり」 『女官御双紙』。 - 延宝元/康煕一二(一六七三)三月 向象賢、執筆『仕置』。時之大屋子を政治上から駆逐、トキユタを社会から排斥してから七、八年後のこと。
- 享保二/康煕五六(一七一七) 御初地入を挙行することについて政治家と聞得大君御殿との間に大衝突がおこる。
- 天明八/乾隆五三(一七八八) 尚穆の世子尚哲、死去。
- 寛政六/乾隆五九(一七九四) 尚敬王についで王位についた子尚穆王、死去。
- 寛政七/乾隆六〇(一七九五) 王孫尚温、王位につく。このとき、尚温のお母さんがトキユタを信ぜられて、首里城内には多くの神々が生まれることになり、民間でもトキユタが大繁昌をきたす。
- 寛政七/乾隆六〇(一七九五)四月二五日 評定所の方から令達。尚温の叔父の浦添王子尚図、首里城中の無数の神棚を破壊して多くのトキユタを罰す。
- 明治初年(一八六八)ごろ 今まで個人的に活動していたユタが結社をする傾向生じる。特に天理教の輸入以来、これをまねてオモチ教(御母前一派の巫道)のようなもののできる。
- 明治四五(一九一二)三月 伊波普猷「古琉球の政教一致」
『沖縄毎日新聞』。 - 大正二(一九一三)一月一八日夜 那覇の大火。
- 大正二(一九一三)三月一一日〜二〇日 伊波普猷「ユタの歴史的研究」
『琉球新報』。 - 寛文七/康煕六(一六六七)
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770-1831 ドイツ観念論哲学の代表者。自己が異質な他者(対象)のなかでいったん自己を見失い、その他者と和解しあうことによってより大きな自己へと生成し、究極的に絶対知へ至る論理を示した精神現象学とともに、論理・自然・精神の3部門から成る哲学体系(エンチクロペディー)を、理念の弁証法的発展という方法で提示した。その包括的な体系は、キリスト教の三位一体説をグノーシス的に思弁化しようとすると同時に、諸学問を哲学に統合する試みでもあった。主著「精神現象学」
「論理学」 「エンチクロペディー」 「法の哲学」のほか、死後出版された哲学史・歴史哲学・美学・宗教哲学などの講義がある。 - イプセン Henrik Ibsen 1828-1906 ノルウェーの劇作家。当初は韻文劇も書いたが、後に散文写実劇に専念して一連の市民劇や社会問題劇を発表。近代劇の父と称される。
「ペール=ギュント」 「人形の家」 「幽霊」 「野鴨」 「ヘッダ=ガブラー」など。 - ズーダーマン Hermann Sudermann 1857-1928 ドイツの作家。自然主義の小説「憂愁夫人」
「猫橋」、戯曲「名誉」 「故郷」など。ズーデルマン。/「マグダ」 。 - 河上肇 かわかみ はじめ 1879-1946 経済学者。山口県生れ。東大卒。京大教授。人道主義的立場から貧困問題の解決に関心を寄せ、のちマルクス経済学の研究・啓蒙に専心。1928年大学を追われ、労働農民党・日本共産党などの運動に従事。33〜37年入獄。著「資本論入門」
「貧乏物語」 「自叙伝」など。 - 崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
- 尚巴志 しょうはし 1372-1439 尚巴志王。在位1421年 - 1439年。尚思紹王の子供で、琉球王国・第一尚氏王統第2代目の国王。初代琉球国王。神号は勢治高真物。父思紹、母美里子の娘の長男として生まれる。
- 尚真王 しょうしんおう 1465-1526 琉球王国第二尚氏王朝の第3代国王(在位1477-1526)。第9代琉球国王。琉球王国第二尚氏王朝初代国王尚円王の子。1500年のオヤケアカハチの乱を平定して八重山諸島を、さらに1522年には与那国島を征服した。50年にわたって王位にあり、琉球王朝の最盛期を現出した。地方の按司(豪族)らを首里に集居せしめて中央集権化を図るとともに、叛乱を防ぐ為に琉球版刀狩りなどを実施した。
- 尚家 → 尚氏
- 尚氏 しょうし 琉球の王家。思紹・尚巴志父子が15世紀初め沖縄本島の山南・山北・中山を統一して首里に統一政権をつくる。普通これを第一尚氏という。7代で滅び、1470年尚円により第二尚氏の王朝が成立、以後その勢力は近隣諸島にも延び、19代400年にわたって琉球を支配した。1872年、尚泰(1843〜1901)は明治政府により琉球藩王とされたが、79年琉球処分により東京に移住。
- 斎女王 いつきのひめみこ → 斎王
- 斎王 いつきのみこ 即位の初め、伊勢神宮や賀茂神社に奉仕した未婚の内親王または女王。いつきのみや。
- 君南風 きみはえ/ちんべえ 沖縄の久米島ののろ(祝女)の中で最高位の神女。室町後期、尚真王の時、八重山遠征に従軍して大功を立てた。
- 神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。
(記紀伝承による) - サカイイソバ 与那国島の口碑に残る女王。
- 喜舎場朝賢 きしゃば ちょうけん 1840-1916 東汀。江戸時代末期・明治期の役人、詩人。琉球王側仕。維新慶賀使。著『琉球見聞録』
『東汀詩集』など。 (人レ)/著『東汀随筆』。 - 柳田国男 やなぎた くにお 1875-1962 民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立。
「遠野物語」 「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。 - 加藤玄智 かとう げんち 1873-1965 明治〜昭和期の宗教学者、神道学者。文学博士。明治聖徳記念学会理事。明治聖徳記念学会設立に参加。著『本邦生祠の研究』など。
(人レ) - 神道談話会
- 平田派 → 平田篤胤
- 平田篤胤 ひらた あつたね 1776-1843 江戸後期の国学者。国学の四大人の一人。はじめ大和田氏。号、気吹舎・真菅乃屋。秋田の人。本居宣長没後の門人として古道の学に志し、復古神道を体系化。草莽の国学として尊王運動に影響大。著「古史徴」
「古道大意」 「霊能真柱」など。 - 本居 → 本居宣長
- 本居宣長 もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、
「もののあはれ」の文学評論を展開、 「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」 「古今集遠鏡」 「てにをは紐鏡」 「詞の玉緒」 「石上私淑言」 「直毘霊」 「玉勝間」 「うひ山ぶみ」 「馭戎慨言」 「玉くしげ」など。 - おもろねやがり 尚真王時代の人。日の吉凶を占うに妙を得た。一名「きやのうちぬきまる」
。 - もくだよのかね 時取の名人。武久田大時のこと。
- 武久田大時 むくだ おおとき
- きやのうぬきまる 俗にチャヌチ。
- 羽地王子向象賢 はねじ おうじ しょうしょうけん 著『仕置』。
- 向象賢 しょう しょうけん 1617-1675 琉球国の摂政。琉球名は羽地朝秀。琉球史「中山世鑑」を編纂、また財政の立て直しに成功。その布達文書集を後世「羽地仕置」という。
- 時之大屋子 ときの おおやこ 覡。政府の御用をつとめた。
- 尚円王 しょうえんおう 1415-1476 伊平王。今の尚家の大祖。/琉球王国・第二尚氏王統の初代国王。在位は1469(成化6)-1476(成化12)。第7代琉球国王。即位以前の名は金丸、童名は思徳金。伊是名島の諸見村(現・島尻郡伊是名村諸見)に父・尚稷、母・瑞雲の長男として生まれる。
- 安里の比屋 あさとのひや 安里大親。室町時代の真和志間切安里村の地頭。
(人レ) - カーライル Thomas Carlyle 1795-1881 イギリスの評論家・歴史家。ドイツ文学を研究。著「衣裳哲学」
「英雄及び英雄崇拝」 「フランス革命史」 「過去及び現在」など。 - 知花区長 ちばな 知花朝章、首里区長。
- 尚泰侯 → 尚泰王
- 尚泰王 しょうたいおう 1843-1901 琉球王国第二尚氏王統第19代国王。最後の国王。在位1848年〜1879年。父は、第18代国王尚育王。わずか4歳(数え年では6歳)にして即位。1879年の所謂琉球処分の断行で琉球藩に沖縄県が設置されると、王号を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、明治政府の命により東京に移住させられる。
- 新井白石 あらい はくせき 1657-1725 江戸中期の儒学者・政治家。名は君美。字は済美。通称、勘解由。江戸生れ。木下順庵門人。6代将軍徳川家宣、7代家継の下で幕政を主導した(正徳の治)。朝鮮通信使への応対変更、幣制・外国貿易の改革、閑院宮家創立などは主な業績。公務に関する備忘録「新井白石日記」や「藩翰譜」
「読史余論」 「采覧異言」 「西洋紀聞」 「古史通」 「東雅」 「折たく柴の記」などの著がある。 - 尚清王 しょう せいおう 1497-1555 第二尚氏王朝の第4代国王。第3代国王・尚真王の第5王子(在位:1527年 - 1555年)。童名は真仁堯樽金。1526年12月11日に父が死去した後の翌年に即位。1534年、明王朝に冊封を受ける。1537年には奄美大島で起こった与湾大親による反乱を鎮圧し、同時に倭寇に対する圧力、防備も強化するなど軍事面で大きな功績を挙げた。
- 陳侃 ちんかん 琉球に使した冊封使。
- 袋中 たいちゅう 1552-1639 江戸時代前期の浄土宗の学僧。俗姓は佐藤氏。陸奥国菊多郡の出身。弁蓮社入観・良定と号する。/慶長年間の琉球征伐のころに琉球を見舞う。著『琉球神道記』。
- 島津氏 しまづし 中世〜近世南九州の大名家。本姓惟宗氏。始祖忠久は近衛家の家司出身で、源頼朝の御家人となり、島津荘惣地頭職に任じられた。のち薩摩・大隅・日向三国の守護。
(日本史) - 加那志 がなし 御主。
- 真境名笑古 まざきな しょうこ → 真境名安興
- 真境名安興 まざきな/まじきな あんこう 1875-1933 沖縄学の研究者。伊波普猷、東恩納寛惇とならんで、戦前の沖縄学における〈御三家〉と呼ばれることもある。五大姓の一つ、毛氏池城殿内(元祖・新城親方安基)の支流・毛氏真境名家(系祖・玉城里之子親雲上安暉)の分家13世。父・真境名安布、母・毛氏真牛の次男として首里桃原村(現・桃原町)に生まれる。
- 尚敬王 しょうけいおう 1700-1752 琉球第2尚氏王朝第13代国王(在位、1713-1752)。第12代国王尚益王の子。蔡温を三司官にして、多くの改革を行った。1712年(康熙51年)
、薩摩藩から許され、琉球国司から琉球国王の王号に復す。 - 石嶺 いしみね 文者。
- 蔡温 さい おん 1682-1761 琉球の三司官。琉球名は具志頭文若。中国に留学後、尚敬王に信任され、造林や河川の改修など殖産に功績があった。著「図治要伝」
「実学真秘」 「独物語」 「教条」 。 - 程順則 ていじゅんそく 1663-1734 近世琉球を代表する文人。高徳の人として名護聖人とも称された。久米村程氏の出身。位は親方、領地は名護間切で名護親方と称した。1683年、進貢存留役として渡唐。福州琉球館に4年間留まり儒学を学んだ。その後も5度渡唐。1713(正徳3)江戸上りの一員となり、新井白石らと会見。著『指南広義』、漢詩集『雪堂燕遊草』。
(日本史) - 尚穆王 しょうぼくおう 1739-1794 琉球王国第二尚氏王朝の第14代国王(在位:1752年 - 1794年)。寝廟御殿を創建。また、このころ琉球科律完成。さらに、褒章制度を整備し、国民の模範となるものに物品や役職を授けた。
- 尚温王 しょうおんおう 1784-1802 琉球王国第二尚氏王朝の第15代国王(在位:1795年 - 1802年)。童名は思五郎金。1798年に国学(現首里高等学校)
、平等学校を開く。 - 尚哲 しょう てつ 1759-1788 琉球第二尚氏王統14代尚穆王の長男。童名を思徳金といい、世子であり中城王子を称した。父王:尚穆より先に薨じてしまい、王位を継ぐことはなかったが、次男:尚温が15代王になると、王号を追贈された。また、四男:尚?ものち践祚し、17代王となった。
- 『中山世譜』に学問を好む心の広い人物であったと記されている。歴代王が眠る墓所、玉陵に葬られた。
- 尚図 〓 尚温の叔父の浦添王子。摂政となるや否や、首里城中の無数の神棚を破壊して多くのトキユタを罰す。
- 与那城王子 よなぐすく おうじ 摂政。
- クンパタグワー 小禄のユタ。
- 垣花蔵の前 かちぬはなくらの めー ユタ。
- トーのパアーパアー
- 前東江 めーあがりー ユタ。
- 池城親方 いちぐしく うぇーかた 田井等の古名か。親方地頭は嘉靖年間に任じられた新城親方安基を祖とする。池城の名島を与えられ、代々池城姓を称した。
- 周の天子
- ギュスターヴ・ル・ボン Gustave Le Bon 1841-1931 フランスの心理学者、社会学者、物理学者。もともと医者として出発したが、趣味・関心が広範にわたり、1860〜80年代は、ヨーロッパやアジア、アフリカを遍歴し、そのなかで考古学や人類学に関する執筆も行なっている。しだいにル・ボンの関心は社会心理学へと向かい、その群集心理学は、20世紀前半における社会心理学に大きな影響を及ぼすまでになった。
- ロンブローゾ Cesare Lombroso 1836-1909 イタリアの精神病学者。犯罪人類学を創始。主著「天才と狂人」
。 - ニコラ・カミーユ・フラマリオン Nicolas Camille Flammarion 1842-1925 フランマリオン。フランスの天文学者、天文普及家、作家。フランス天文学会を創設する一方で、天文学の普及に尽力し、一般向けの著書を多く発表した。1912年にはそれらが認められて、レジオンドヌール勲章を受勲。
- ロッジ Lodge, Sir Oliver Joseph 1851-1940 イギリスの物理学者。リヴァプール大学教授、バーミンガム大学の創立とともにその初代総長。電気通信、特に無線電信を研究して、電磁誘導無線通信を発明し、また初めて電波の同調をおこなって感度をあげた(1897)。他に熱・エーテルの研究もある。後年は心霊学にこって死者との通信を信じた。
(岩波西洋) - クルークス → クルックスか
- クルックス Crookes, Sir William 1832-1919 イギリスの物理学者・化学者。フラウンホーファー線の研究から元素タリウムを発見(1861)。また、高真空内放電現象を研究して〈クルックス管〉を発明し、陰極線が電気的微粒子(電子)の放射であることを確証した。ラジオメーターおよび、スピンサクスコープを発明。その他ウラニウムXの分離に成功した(1900)。
(岩波西洋) - ポアンカレ Henri Poincare 1854-1912 フランスの数学者。数論・関数論・微分方程式・位相幾何学のほか天体力学および物理数学・電磁気についても卓抜な研究を行い、また、マッハの流れをくむ実証主義の立場から科学批判を展開。主著「天体力学」
。 - ベルグソン → ベルクソン
- ベルクソン Henri Louis Bergson 1859-1941 フランスの哲学者。自然科学的世界観に反対し、物理的時間概念に純粋持続としての体験的時間を対立させ、絶対的・内面的自由、精神的なものの独自性と本源性を明らかにし、具体的生は概念によって把握し得ない不断の創造的活動であり(直観主義)
、創造的進化にほかならないと説いた。著「時間と自由」 「物質と記憶」 「創造的進化」など。ノーベル賞。 - 樋口竜峡 → 樋口龍峡
- 樋口龍峡 ひぐち りゅうきょう 1875-1929 明治〜昭和期の評論家、政治家。衆議院議員。文芸革新会を興す。雑誌『新日本』編集。著『時代と文芸』など。
(人レ)/著『近代思想の解剖』 「新思想の曙光」 。 - イプセン Henrik Ibsen 1828-1906 ノルウェーの劇作家。当初は韻文劇も書いたが、後に散文写実劇に専念して一連の市民劇や社会問題劇を発表。近代劇の父と称される。
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)ノラ Nora イプセンの戯曲「人形の家」の女主人公。人形のような妻であることをやめ、一個の独立した人間として生きようとする女性で、女性解放運動の象徴的存在となった。ノーラ。 - 「マグダ」 ズーダーマン。
- 『経済学研究』 河上肇の著。第九章「崇神天皇の朝、神宮・皇居の別新たにおこりし事実をもって国家統一の一大時期を画すものなりというの私見」
。 - 「忠孝婦人」 戯曲。
- 『女官御双紙』 にょかん おそうし 3冊。康煕44年頃成立か。上巻に王妃や夫人・世子妃・王女の呼称や知行扶持米、大勢頭部以下の御内原の宮中女官らの職掌を記す。中巻は首里三平等の大阿母志良礼と配下の神女の職掌、就任儀礼などを詳細に記す。下巻には聞得大君、三十三君の名称を列挙、聞得大君の御新下りの次第などを記す。
- 『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』 きこえ おおきみ おどん 〓
おもろ ( 「思い」と同源で、神に申し上げる、宣(の)り奉るの意)沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、ほぼ12世紀から17世紀はじめにわたって謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」 (22巻、1554首、1531〜1623年)がある。 - 『漢書』 かんじょ 二十四史の一つ。前漢の歴史を記した紀伝体の書。後漢の班固の撰。本紀12巻、表8巻、志10巻、列伝70巻。計100巻(現行120巻)。82年頃成立。妹班昭が兄の死後、表および天文志を補う。紀伝体の断代史という形式は後世史家の範となる。前漢書。西漢書。
- 「魏志」 ぎし 中国の魏の史書。晋の陳寿撰。
「三国志」の中の魏書の通称。本紀4巻、列伝26巻。 - 『混効験集』 こんこうけんしゅう 琉球最古の辞書。副題は「内裏言葉」
。尚貞王の命により1702年頃編纂事業が開始され、11年完成。編者は奉行の松村按司、主取の座間味親雲上ら8人で、とくに三司官識名盛命は和文学者として知られる。見出し語は1050語。 (日本史) - 『東汀随筆』 とうてい ずいひつ 喜舎場朝賢の著。
- 「古琉球の政教一致」
『沖縄毎日新聞』 伊波の著。明治45年3月。 - 『オモロ双紙』 → 『おもろさうし』か
- 『おもろさうし』 おもろそうし。尚清王代の嘉靖10年(1531)から尚豊王代の天啓3年にかけて首里王府によって編纂された歌集。沖縄の古い歌謡であるおもろを集録したもの。漢字表記すれば「おもろ草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられる。なお「おもろ」の語源は「うむい(=思い)
」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられている。全22巻。 - 『王代記』 → 『球陽』か
- 『球陽』 きゅうよう (球陽は琉球の美称)琉球王国の正史。国王の命令で鄭秉哲らが編纂。本巻(正22巻・付4巻)
・外巻(正3巻・付1巻)。1745年(延享2)完成(以後1876年(明治9)まで書きつがれる)。漢文体。薩摩との関係はすべて付巻に収め、中国人に知られないように配慮している。原名、球陽会記。 - 『英雄崇拝論』 カーライルの著。
- 『遺老説伝』 いろう せつでん 1745年、鄭秉哲らによって編纂された「球陽」の外巻として編纂される。外巻3巻、附巻1巻の4巻。全部で141話。外巻3巻に琉球国内の説話128話を収め、附巻に日本(薩摩)と関連する説話を集めている。
「遺老」とは、経験を経た老人の意で、本編に収めるほどには信頼できない話をここにまとめている。 - 『南島志』 なんとうし 新井白石の著。琉球の使節(程順則・名護親方寵文や向受祐・玉城親方朝薫など)らとの会談でえた情報等をまとめた。/「琉球志」
「南倭志」とも。琉球国についての地誌。上下二巻。1719(享保4)成立。上巻は地理・世系、下巻は官職・宮室・冠服・礼刑・文芸・風俗・食貨・物産からなり、琉球の歴史的・地理的な位置と、その法制・学芸・風俗などを概説。 (日本史) �p書 びんしょ? - 『使琉球録』 しりゅうきゅうろく 2巻。陳侃著。1534年に尚清王の冊封正使として来琉した陳侃の復命書。現在確認される最古の使琉球録(冊封使録)であり、上巻に使事紀略、下巻に群書質異・天妃霊応記、夷語を収める。16世紀中期の琉球の国情・地誌を知るうえで貴重。
- 『琉球神道記』 りゅうきゅう しんとうき 禅僧袋中が著した琉球神道に関する最古の書。1603年から3年間の那覇滞在中に、馬幸明(ばこうめい、馬高明)に請われて筆をおこした。琉球の説話や風俗についての記述も多い。5巻からなり、第4巻は琉球の寺院、第5巻は琉球の神社について記す。第5巻の巻末に「キンマモン事」と題する章を設け、本来の琉球の神道について見聞を記録する。
(日本史) - 「孝行の巻」 組踊り。
- 『中山王府官制』
- 『中山世鑑』 ちゅうざん せいかん 琉球王国の最初の正史。国王の命で向象賢が編纂。首巻とあわせて全6巻。1650年(慶安3)の成立。和文体。これを漢訳・校訂したものを「中山世譜」という。
- 『仕置』 しおき → 『羽地仕置』か
- 『羽地仕置』 はねじ しおき 四代羽地王子仕置。1冊。羽地朝秀(向象賢)の摂政期(1666〜1673)に布達された文書を集成したもの。断簡を除く収録文書は27件。羽地の改革路線を伝える公文書が過半数を占める。
- 『古琉球』 こ りゅうきゅう 伊波普猷が、沖縄の言語・歴史・民俗・文学などを研究した学術書。1911年出版。
『おもろさうし』と並ぶ、沖縄学の最重要文献と位置付けられている。現在は伊波普猷全集第一巻収録。岩波文庫にも収録。 - 『教条』 きょうじょう 蔡温の著。
- 『近代思想の解剖』
「新思想の曙光」 樋口竜峡の著。
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
- ユタ (沖縄で)口寄せをする巫(かんなぎ)。男にも女にもいう。
- 等閑に付す とうかんに ふす いいかげんにして放っておく。なおざりにする。
- 三山 さんざん → 三山時代
- 三山時代 さんざん じだい 古代琉球の時代区分のひとつ。1322年ごろから1429年まで。沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)
、中部の中山、北部の北山(山北)である。三つの王統が並立する時代が約100年続いた。いずれも中国の明帝国に朝貢し交流を深めたが、その中から中山の尚氏が勢力を増し、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一した。 - 按司 あんず/あんじ (アンズ・アジとも)古琉球の階級の一つ。諸侯に相当する。もと領主の意、後には一間切(村)を与えられた王家の近親をいう。
- 聞得大君 きこえのおおきみ/きこえおおぎみ 琉球の固有宗教における神女の最高位の呼称(通称)。
「聞得大君」は「最も名高い神女」という意味で、宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」 。/首里王府において国家的な女性司祭組織の頂点に位置する司祭。方言ではチフィジン。制度化されたのは第二尚氏王統(1470)以降のこと。地方の女性司祭を管轄する三平等(みひら)のオオアムシラレや三十三君(きみ)と称される中央の女性司祭集団を統轄し、国王や王室の繁栄を祈り、王国レベルの祭祀儀礼を施行した。廃藩置県まで、王女・王妃・王母などがその職につき、就任式であるお新下(あらお)りはセーファウタキ(斎場御嶽)で行われた(日本史)。 - 赫々 かっかく (1) 赤くかがやくさま。熱気を発するさま。(2) あらわれて盛んなさま。功名などの人にすぐれているさま。
- 三十三君
- 降嫁 こうか 皇女・王女がその身分を離れて、皇族・王室以外の者にとつぐこと。
- ゲルマン人 ゲルマンじん 紀元前5〜4世紀に北ヨーロッパに住んでいたインド‐ヨーロッパ系の民族。フランク・アングロ‐サクソンなど多くの部族から成る。後に民族大移動によってケルト人のヨーロッパを席捲し、また、西ローマ帝国の没落をもたらす一方、その影響を受けてキリスト教化した。
- 三殿内 みどぅんち 明治初年に王府が解体、明治末期には真壁殿内は他の二つの殿内と統合され、天界寺跡に場所を移して三殿内とよばれるようになった。三平等の各大あむしられの殿内を統合した神殿。
- 大アムシラレ おお- 大阿母志良礼などと記され、大アモシラレともよぶ。王府の女神官組織のなかの職名。聞得大君の次位に位置し、首里を三分割した三平等に対応。沖縄を三区分した各地域のノロを監督、国家的祭祀にかかわった。/三殿内(三神社)の神官。
- ノロクモイ 大アムシラレの下に属する田舎の神官。地方の豪族の女子(昔は未婚の女子)が任ぜられた。
- 大アム おおあむ 大阿母・大アモとも記す。王国時代の女神官組織における上級神官の一。アム(阿母)の原義は母で、転じて女神の意がある。
『女官御双紙』によれば、楚辺(すび) ・泉崎(いずんざち) ・久米村(くにんだ)西井・久米村東井・泊(とうまい) ・那覇(なーふぁ) (現、那覇市) 、宮古(みやーく) ・八重山(やいま)といった地名を冠された八名の大阿母がいて、それぞれのその地域における国家的祭祀をつかさどっていた。/ノロクモイの中で格式のよいもの。 - 大屋子 おおやこ 古琉球では一般にシマ名を冠する地方官人のこと。首里大屋子とともに間切・シマ制度下の枢要な職であった。
- 真壁の大アムシラレ
- 御岳 うたき 沖縄の村々にある聖地で、多くは森。石やクバ・ガジュマルの木などがあり、最も神聖な場所とされ、祭りの多くはここで催される。おたき。
- 白巾 しろざし
- 根神 ねがみ (沖縄で)村の開創者の家系の娘。戸主を根人(ねひと)というのに対し、その姉妹をいい、宗教的権威を持った。にいがん。
- オタカベ 沖縄で神にささげる祈願の言葉。豊作や航海・生命の安全、雨乞などを祈る。最初に女神が名乗りをあげ、次に神の出自をのべてほめたたえ、最後に願意を述べる。
- 根人 ねっちゅ/ねひと (沖縄で)村を開創した家系の戸主。村の政治的支配者。にっちゅ。
- 神人 かみんちゅ 琉球の信仰での神職者の通称。狭義にはノロ(祝女)のことであるが、広義には神に仕える者と言う意味で、祝女の補佐役などの神職者、根神や根人といった集落の祭司や、民間シャーマンであるユタも神人に含まれる。
- 祖考 そこう (1) 死んだ祖父。亡祖父。また、死んだ祖父と死んだ父。(2) 遠い祖先。
- 神コデ
- オメケイオコデ
- オメナイオコデ
- 薦む すすむ(
「進める」と同源) (酒・薬などを)相手に差し出す。献ずる。また、 (敷物・腰掛などを)利用するようにとさし出す。 - 酒香酢脯
- 酒香 しゅこう 酒のかおり。
- 祖妣 そひ (
「妣」は亡母の意) (1) 死んだ祖母。(2) 先祖と亡母。 - 神衣
餅 - 巫婦 ふふ?
- 尸
- 今帰仁拝み なきじん おがみ
- 東回り あがりまわり
- アマミキョ あまみきよ。沖縄の開闢の神。
「しねりきよ」と対で伝承されている。 - 古神道 こしんとう 仏教・儒教・道教など外来宗教の強い影響を受ける以前の神祇信仰の称。記紀・万葉集・風土記などにうかがわれる。
- やがましく
- 仮容 仮用(かよう)か?
- 碩徳 せきとく (
「碩」は大の意) (1) 徳の高い人。(2) 高徳の僧。大徳。 - トキ
- ミスズリ/ミセセル 神託を宣伝すること。
- 口寄せ くちよせ (1) 巫女などが神がかりになって霊魂を呼び寄せ、その意思を伝え告げること。神霊を寄せるのを神口(かみくち)
、生霊を寄せるのを生口(いきくち) 、死霊を寄せるのを死口(しにくち)という。神子寄せ。(2) (1) をする人。いたこ。いちこ。みこ。 - カカイモン 沖縄語で口寄せのこと。
- ウジャシュン 神の霊または生霊・死霊を身に憑らしめて言い出すこと。
- ユンタ しゃべる、の意。
- かんなぎ 巫・覡 (古くはカムナキ。神なぎの意)神に仕え、神楽を奏して神慮をなだめ、また、神意を伺い、神おろしを行いなどする人。男を「おかんなぎ(覡)
」、女を「めかんなぎ(巫) 」という。かみなぎ。こうなぎ。 - トキウラカタ/トキハンジ ウラナイのこと。
- コマトキ 占い師のこと。
- トキユタ 巫覡のこと。
- 巫覡 ふげき (ブゲキとも)神と人との感応を媒介する者。神に仕えて人の吉凶を予言する者。女を巫、男を覡という。
- 夢解き ゆめとき 夢の吉凶を判じ解くこと。また、その人。
- イケガユタ 男ユタのこと。
- とのばら 殿原 (バラは複数を示す接尾語) (1) 身分の高い人々、また男性一般に対する尊敬語。とのたち。(2) 中世、伊勢神宮の御師に属して檀家へ御札を下付するもの。
- 時取り ときどり (1) あらかじめ時刻を定めること。(2) 時間を計ること。
- 世謡 ユーウテー
- 預言者 よげんしゃ prophet 神の言葉を預かり、民に知らせ新しい世界観を示す人。特に旧約聖書では前8〜7世紀におけるイスラエルの宗教的指導者。コーランではアダム・アブラハム・モーセ・イエスらを預言者とし、ムハンマドはその最後の人物とされる。
- ヴァーテス
- 警醒 けいせい (1) 人のねむりをさますこと。(2) 警告を与えて人の迷いをさますこと。
- 才幹・材幹 さいかん (
「幹」は任に堪えて事をよくする意)物事をきちんとやりとげる能力。うでまえ。 - 懸隔 けんかく (古くはケンガクとも) (1) かけ離れていること。(2) 程度のはなはだしいこと。
- 吉旦 きったん 物事をするのによい日。きちにち。
- 洗骨葬 せんこつそう 遺骸を一度埋葬もしくは風葬した後、一定の期間を経て、洗い浄め、再び埋葬もしくは納骨すること。東南アジアの一部から中国東南部・台湾・沖縄・朝鮮半島南部にかけて行われる。
- 眩迷 げんめい 目がくらみ、まようこと。また、その状態。
- 匣内 こうない?
- 悚懼・聳懼 しょうく 恐れおののくこと。びくびくすること。
- 稽首・啓首 けいしゅ (
「稽」は傾に借用。 「啓」は当て字) (1) 首が地につくまで体を屈して拝すること。稽�(けいそう)。(2) 書簡文の終りに書く語。頓首。 - 倏忽 しゅっこつ たちまち。にわかに。
- 踪跡 そうせき 足跡。転じて、あとかた。ゆくえ。
- 詳悉 しょうしつ 甚だしくくわしいこと。
- キノマキ 植物。シャミセンヅル(三味線蔓)。
「かにくさ(蟹草) 」の異名。 - 冊封使 さっぽうし/さくほうし 明代・清代に中国皇帝から周辺属国の国王を冊封するために派遣された使節。琉球の場合、洪武5(1372)から同治5(1866)までの約500年間に23回にわたって派遣されている。冊封使節団は正副使のほか、護送の兵役など400〜500名で構成され、琉球滞在期間は4か月〜8か月にわたる。
- 摂政 せっせい/しっしー 王府の官職の一つ。官位の最高位で、近世には王族が任じられた。三司官とともに評定所の上(うい)の御座(うざ)を構成した。
- 巫道
- 安固 あんこ しっかりして、ゆるぎないこと。安全で堅固なこと。
- 国相 こくしょう 一国の宰相。
- 組踊 くみおどり (1) 数人が組んで踊ること。(2) 種々の踊を組み合わせたもの。(3) せりふ・歌・舞踊から成る琉球古典劇。
- ムルチてる池
- 時のうらかた
- うらかた 占形・占方・卜兆。(1)(占形)亀卜(かめうら)の結果、おもてに現われた亀裂のかたち。占(うら)に現われたかたち。また、占いの結果。(2)(占方)うらないをすること。また、うらないをする人。うらがかた。
- 神のみすずり
- 人身御供 ひとみ ごくう (1) 生贄として人間を神に供えること。また、供えられる人。犠牲。(2) ある人の欲望を満たすために犠牲とされる人。
- 嘲哢 ちょうろう 嘲弄。
- 間切 まぎり (1) 間切ること。(2) 琉球で土地の区画の称。行政区画の一つで、数村から成り、郡の管轄に属した。
- 窃惟 せつゆい?
- 五倫 ごりん [孟子滕文公上]儒教で、人として守るべき五つの道。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信をいう。
- 五形五倫
- 苫・篷 とま 菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも)のように編み、和船の上部や小家屋を覆うのに用いるもの。とば。
- 三司官 さんしかん 琉球の官職。摂政に次ぐ地位。定員3名。評定所で合議して国務を処理し、また重要な役所を分担して行政を指揮した。三法司。三司台。あすたべ。
- 親方 おやかた/うぇーかた 首里王府の位階称号の一。古琉球期の「大やくもい」の一半。脇地頭と惣地頭、および両方の場合があり、前者は脇地頭親方と称した。
- 親方地頭 おやかた じとう/うぇーかた じとぅう 間切を領する両惣地頭の一人。近世の間切には二人の惣地頭が置かれていた。一人は古琉球以来の間切の領主である按司地頭で、もう一人が近世に登場する親方地頭。惣地頭家・殿内と称され、有力家系にほぼ固定されていた。
- 下庫理当 したくり あたり 式部官。
- 庫理 くり 古琉球辞令書に登場する用語で、北(にし)の庫理、南風(はえ)の庫理、名称不明の庫理の三つがあった。庫理=王府官衙説によれば、12のヒキ(軍事・行政的組織)を三つの組に分け、それぞれの組に庫理が属し、三つの庫理の統括者が世あすたべ(三司官)とする。なお庫理(庫裏)の用例としてほかに首里城の正殿(百浦添御殿)の下庫理(したくり/シチャグイ、一階)
・大庫理(おおくり/ウフグイ、二階)があるほか、斎場御岳(現、知念村)の祭場である大庫理・三庫理(さんくり/サングーイ)がある。 - 下庫理 したくり/しゃちぐい 史料的に正確なものは、首里城の正殿(百浦添御殿)の一階をさす。下庫理・大庫理ともに国王の玉座に相当する御差床(うさすか)があり、諸種の会合・儀礼がおこなわれた。
- 式部官 しきぶかん 明治以後の式部職の職員で、祭典・儀式・接待などをつかさどる官。
- はしなくも 端無くも これといったきっかけなく。思いがけず。はからずも。
- 冠船 かんせん 御冠船・封舟(ほうしゅう)とも。中国(明・清両朝)から琉球へ派遣された冊封使船。明は琉球などの国王を冊封する際、頒賜品として皮弁(ひべん)冠や皮弁服などを与えた。琉球では弁皮冠を乗せた船を冠船と称した。清は明と冠船制度が異なり、朝貢国へ冠服を頒賜することはなかったが、琉球は依然として冊封使船のことを冠船とよび慣わした。
(日本史) - 雖然 たとい/けれども
- 文者 ぶんじゃ 文章を上手に書く者。文章家。能文家。また広く、学者・儒者。もんじゃ。
- 国師 こくし (1) 奈良時代の僧官。諸国に分置し、その国の僧尼を監督し、これに経を講じたもの。のち講師と改称。(2) 朝廷から国家の師表たるべき高僧におくられた称号。
- 祭奠 さいてん 祭祀の供物。
- 御物奉行 おもの ぶぎょう 室町時代の職名。将軍の参内などの際、衣冠・刀剣などを入れた唐櫃を預かり、付き添った職。唐櫃奉行。直廬役。ごもつぶぎょう。
- 天理教 てんりきょう (1) もと教派神道の一つ。1838年(天保9)中山みきが創唱。親神の天理王命を祀り、欲など八つの悪い心を捨てて神にもたれ、
「陽気ぐらし」の理想世界を建設することを教旨とする。本部は奈良県天理市にあり、親神が人間世界を創造した聖地とする。(2) 清の乾隆(1736〜1795)年間に起こった民間宗教。白蓮教の一分派。天文を観て予言する。1813年その徒李文成・林清らが乱を起こし、北京の宮城内に潜入、誅せられた。 - オモチ教 御母前一派の巫道。
- 進貢 しんこう みつぎものをたてまつること。
- 系図座 けいずざ? 家譜編纂などを管理する。首里城、下之御庭の西寄りにあった。/康煕28年、諸士の系図をただすために設置。当初、天界寺で業務を始動させたようで、東風平王子朝春・読谷山按司朝易・識名安依がそれぞれ王子奉行、按司奉行、親方奉行に任命されている。
- 霊応 れいおう 神仏の不思議な感応。霊験。
- 戮力 りくりょく 力をあわせること。協力。
- 辛棒 しんぼう 辛抱。
- 御殿・殿内 うどぅん・とぅんち 王子、按司や上級士の屋敷および人(屋敷の主)をさす。たとえば中城御殿は中城王子、またその屋敷をさす。殿内は一般に惣地頭本人および屋敷をさし、また旧家・名家や上級神女の屋敷(真壁殿内ほか)などに用いた。
- 王子 おうじ 本来、国王の男子や弟などをさしたが、近世においては、位階としても使用された。王子地頭は按司地頭と同様に惣地頭の一半として間切を管した。王子地頭がいる場合には、親方地頭は名前を変えた。
- 火神 ひぬかん 台所に祀られる神。火之神とも。名称としてはヒヌカン(火神)系、ウカマ(竈)系、ミチムン系(
「三つ物」で、かつて石を鼎立させ竈としたことにちなむ)に大別される。現在は台所に香炉もしくは香炉と小石三個を置いて火神の依代とする場合が多い。 - 間切 まぎり 古琉球から近世に至る行政区画。マジリともいい、近世の漢文史料には郡・県ともある。古琉球には複数のシマをくくって間切とし、近世は複数の村によって構成され、両惣地頭が領有した。間切に準じる島も含め、間切数は約50で、一間切の村数は平均すると12村ほど。17世紀中期、間切の再編がなされ、間切数は増加した。1908(明治41)の沖縄県および島嶼町村制施行により町ないしは村となり消滅。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
1909年8月29日 沖縄本島付近で地震。M 6.2、死者2人。
2010年2月27日 沖縄本島近海地震。M7.2。糸満市で震度5弱。沖縄本島での震度5以上の地震発生は1909年の地震以来101年ぶり。うるま市では震度4の揺れが観測され、世界遺産に登録されている勝連城跡の石垣が一部崩落した。この地震の約10時間後にチリ地震が発生。
伊波普猷は1876年(明治9)生まれで、Wikipedia によれば「1906年に東京帝国大学を卒業し帰郷」
*次週予告
第四巻 第二八号
科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
第四巻 第二八号は、
二〇一二年二月四日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第四巻 第二七号
ユタの歴史的研究 伊波普猷
発行:二〇一二年一月二八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 【欠】
- 第一六号 【欠】
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)前巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)前巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理
- 一 緒言
- 二 原子爆弾の威力
- 三 原子力の管理
- 日本再建と科学
- 一.緒言
- 二.科学の役割
- 三.科学の再建
- 四.科学者の組合組織
- 五.科学教育
- 六.結語
- 国民の人格向上と科学技術
- ユネスコと科学
- 原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。
( 「日本再建と科学」より) - 科学は呪うべきものであるという人がある。その理由は次のとおりである。
- 原始人の闘争と現代人の戦争とを比較してみると、その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある。個人どうしのつかみ合いと、航空機の爆撃とをくらべて見るがよい。さらに進んでは人口何十万という都市を、一瞬にして壊滅させる原子爆弾にいたっては言語道断である。このような残虐な行為はどうして可能になったであろうか。それは一に自然科学の発達した結果にほかならない。であるから、科学の進歩は人類の退歩を意味するものであって、まさに呪うべきものであるという。
( 「ユネスコと科学」より) - 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝
- 学修時代
- 研究生時代
- 実験場におけるトムソン
- トムソンの研究
- 余談
- アインシュタイン博士のこと
- 帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気を帯びたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke
2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉されたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。(略) - 電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物が一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性を有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個の忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快である。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要
- 基礎研究とその応用
- 原子核探求の思い出
- 湯川君の受賞
- 土星原子模型
- トムソンが電子を発見
- マックスウェル論文集
- 化学原子に核ありと発表
- 原子核と湯川君
(略)十七世紀の終わりに、カヴェンジッシュ(Cavendish)が、ジェレキ恒数〔定数〕・オーム則などを暗々裏に研究していたが、その工業的価値などはまったく論外であった。一八三一年にファラデー(Faraday)が誘導電流を発見したけれども、その利用は数十年後に他人によって発展せられ、強電流・弱電流・変圧器・モーターなどにさかんに用いられ、結局、電気工学の根幹はこの誘導電流の発見にもとづくものといってよろしい。 (略)近年は電気工学の一部門として、電子工学なるものが生まれた。その源をたずねてみると、J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が気体中の電気伝導を研究したのに始まっている。気体が電離すると、物質は異なっていても必ず同じ帯電と同じ質量を持っている微細なものが存在する。すなわち電子であって、今日まで知られているもっとも微質量の物質である。その帯電を利用し、自由にこれが速度を調節することが可能であることを認め、はじめてフレミング(Fleming)によって無線通信を受けるに使われた。 (略) - つぎに申し上げるのは、光電池のことである。ドイツの片田舎ウォルフェンブッテル(Wolfenbu:ttel)の中学教員エルステル(Elster)とガイテル(Geitel)は、真空内にカリウム元素を置き、これに光をあてると電子の発散するのを認め、ついにこれをもって光電池を作った。近ごろではカリウムよりセシウム(Caesium)が感度が鋭敏であるから、物質は変化したけれども、その本能においては変わらない。この発見者はこれを工業的に発展することはべつに考えなかったが、意外な方面に用いられるようになった。すなわち光度計としては常識的に考えうるが、これを利用してドアを開閉し、あるいは盗賊の警戒にもちい、あるいは光による通信に利するなど、意外なる利用方法が普通におこなわれるようになった。もっともさかんに使われるのは活動写真のトーキーであろう。光電池の創作者にこの盛況を見せ得ないのは残念である。
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
(略)当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、然様さようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひき鷹を肘にして遊ぶほどの身分でもなく、さればといって何の洒落た遊技を知っているほど怜悧(れいり)でもない奴は、他に知恵がないから博奕を打って閑(ひま)をつぶす。戦(いくさ)ということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチが流行る。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭(か)ける料がなくなる。負ければ何の道の勝負でもくやしいから、賭ける料がつきてもやめられない。仕方がないから持ち物をかける。また負けて持ち物を取られてしまうと、ついには何でも彼でもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついには賭けるものがなくなる。それでも剛情にいまひと勝負したいと、それでは乃公(おれ)は土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度、戦のある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約を果たせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束に従ってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、分捕(ぶんどり)して渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前(とまえ)受け取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有ではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。 - 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
(略)政宗も底倉(そこくら)幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師として茶事を学んで、秀吉をして「辺鄙(ひな)の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足〔高弟のこと。 〕であった。 (略)また氏郷があるときに古い古い油を運ぶ竹筒を見て、その器をおもしろいと感じ、それを花生けにして水仙の花を生け、これも当時風雅をもって鳴っていた古田織部に与えたという談が伝わっている。織部はいまに織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺している人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘(わび)に徹した人である。氏郷のその花生けの形は普通に「舟」という竹の釣花生けに似たものであるが、舟とはすこし異なったところがあるので、今にその形を模した花生けを舟とはいわずに、 「油さし」とも「油筒」ともいうのは最初の因縁からおこってきているのである。古い油筒を花生けにするなんというのは、もう風流において普通を超えて宗匠分になっていなくてはできぬ作略で、宗匠の指図や道具屋の入れ知恵を受け取っている分際の茶人のことではない。 (略)天下指折りの大名でいながら古油筒のおもしろみを見つけるところはうれしい。 (略)氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込んでいたのは利休の教えを受けた故ばかりではあるまい、たしかに料簡の据えどころを合点して何にも徹底することのできる人だったからであろう。しかも油筒ごとき微物をとりあげるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙を所望したときには、それが蒲生重代の重器であったにかかわらず(略)真物を与えた。 (略)竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチではない人だ、家重代のものをも惜し気なく親友の所望には任せる。なかなかおもしろい心の行きかたを持った人だった。 - 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 氏郷はまことに名生(みょう)の城が前途にあったことを知らなかったろうか。種々の書にはまったくこれを知らずに政宗にあざむかれたように記してある。なるほど氏郷の兵卒らは知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえっていた小田原を天下の軍勢と共に攻めたときにさえ、忍びの者を出しておいて、五月三日の夜の城中からの夜討ちを知って、使い番をもって陣中へ夜討ちがくるぞと触れ知らせたほどに用意をおこたらぬ氏郷である。ましていまだかつて知らぬ敵地へふみこむ戦、ことに腹の中の黒白不明な政宗を後ろへおいて、三里五里の間も知らぬごとき不詮議のことで真っ黒闇の中へ盲目さぐりで進んで行かれるものではない。小田原の敵の夜討ちを知ったのは、氏郷の伊賀衆の頭、忍びの上手と聞こえし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城をうかがったとある。
(略)頭があれば手足は無論ある。不知案内の地へのぞんで戦い、料簡不明の政宗と与(とも)にするに、氏郷がこの輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせておいたり徒(いたず)らに卒伍の間に編入していることのありうるわけはない。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、 (略)ある者は政宗の営をうかがい、ある者は一揆方の様子をさぐり、必死の大活躍をしたろうことは推察にあまりあることである。そしてこれらの者の報告によって、いたって危ない中からいたって安らかな道を発見して、精神気迫の充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は兜の銀のナマズを悠然と游がせたのだろう。それでなくて何で中新田城から幾里も距らぬところにあった名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後ろにして出立しよう。城は騎馬武者の一隊ではない、突然にわいて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村隠岐守が守っていたのを旧柳沢の城主・柳沢隆綱が攻め取って拠っていたのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬわけはない。 - 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 大杉栄、伊藤野枝(訳)
- 訳者から
- 一 六人
- 二 おとぎ話と本当のお話
- 三 アリの都会
- 四 牝牛(めうし)
- 五 牛小舎
- 六 利口な坊さん
- 七 無数の家族
- 学問というものは、学者といういかめしい人たちの研究室というところにばかり閉じこめておかれるはずのものではありません。だれもかれも知らなければならないのです。今までの世間の習慣は、学問というものをあんまり崇(あが)めすぎて、一般の人たちから遠ざけてしまいすぎました。何の研究でも、その道の学者だけが知っていれば、ほかの者は知らなくてもいいようなふうにきめられていました。いや、知らなくてもいい、ではなくて、知る資格がないようにきめられていました。けれども、この習慣はまちがっています。非常にこみ入ったむずかしい研究は別として、だれでもひととおりの学問は知っていなければなりません、子どもでも大人でも。
- 子どものためのおとぎ話の本は、たくさんすぎるほどあります。けれども、おとぎ話よりは「本当の話が聞きたい」という、ジュールのような子どものためのおもしろい本を書いてくれる学者は日本にはあまりないのか、いっこうに見あたりません。 (伊藤野枝「訳者から」より)
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 大杉栄、伊藤野枝(訳)
- 八 古い梨の木
- 九 樹木の齢(とし)
- 一〇 動物の寿命
- 一一 湯わかし
- 一二 金属
- 一三 被金(きせがね)
- 一四 金と鉄
- 一五 毛皮
- 一六 亜麻と麻
- 一七 綿
- 一八 紙
- 「亜麻(あま)は小さな青い花が咲く細い植物で、毎年まいたり、刈ったりする。これは北フランスや、ベルギーや、オランダにたくさん栽培されている。そしてこれは、人間が一番はじめに織り物をつくるのに使った植物だ。四〇〇〇年以上もたった大昔のエジプトのミイラは、リンネルの帯でまいてある。
」 (略) - 「麻は何百年もヨーロッパじゅうで栽培された。麻は一年生の、じょうぶな、いやな香(にお)いのする、緑色の陰気な小さな花を開く。そして茎は溝が深くて六尺くらいにのびる。麻は、亜麻と同じように、その皮と、麻の実という種子を取るために栽培せられるんだ。
」 (略) - 「麻や亜麻が成熟すると、刈られて種子は扱(こ)きわけられてしまう。それから、それを湿して、皮の繊維を取る仕事がはじまる。すなわち、その繊維がわけもなく木から離れるようにする仕事だ。実際この繊維は、茎にくっついていて、非常に抵抗力の強い、弾力の強い物で、くさってしまうまで離れないようになっている。時によると、この麻の皮を一、二週間も野原にひろげて、なんべんもなんべんもひっくり返して、皮が自然と木質の部分、すなわち、茎から離れるまでつづける。
」 - 「だが、一番早い方法は、亜麻や麻を束にしてしばって、池の中にしずめておくことだ。すると、まもなく腐っていやなにおいを出し、皮は朽ちて、強い弾力を持った繊維がやわらかくなる。
」 - 「それから麻束を乾かして、ブレーキという道具の歯の間でそれを押しつぶして、皮と繊維とを離してしまう。しまいに、その繊維のくずを取って、それを美しい糸にするために、刷梳(こきくし)という大きな櫛のような鋼鉄の歯のあいだを通す。そしてこの繊維は手なり機械なりでつむがれて、そうしてできた糸を機(はた)にかけるのだ。
」 - 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う
- 順風に帆をはらむ
- 放射性の探究へ
- 新しき関門をひらく
- 核原子
- 原子転換に成功
- 学界の重鎮
- 卿の風貌の印象
- ラザフォード卿からの書簡
- ノーベル小伝とノーベル賞
- 湯川博士の受賞を祝す
〔ノーベル〕物理学賞と化学賞とを受けた研究者の中で、原子関係の攻究に従事した学者がもっとも多い。したがってこれらの人々の多くは、原子爆弾の発案構造などを協議して終(つい)にこれを実現するに至った。その過程を調べれば、発明の功績は多分にこれらの諸賢に帰せねばならぬ。さらに目下懸案中の原子動力機の発展も、ひとしくこれらの人々の協力を藉(か)らざれば、実用の領域に進まぬであろう。一朝、平和工業にこれを活用するに至らば、いかに世界の状況を変化するであろうか、一言(ひとこと)にしてつくすべからざるものがある。 (略)加速度的に進歩する科学界において、原子動力機の端緒をとらえるを得ば、その工業的に発展するは論をまたず、山岳を平坦にし、河流をつごうよく変更し、さらに天然の形勢を利用せず、人為的に港湾河川を築造するに至らば、世界は別天地を出現するであろう。かくして国際的の呑噬(どんぜい)行動を絶滅し、互いに相融和するに至らば、ユートピアならざるもこれに近き安楽国を出現するは疑いをいれず、巨大なる威力を獲得して、これを恐れるよりもむしろこれを善用するが得策である。今日の科学研究は、もっぱらこの針路をたどりつつある。現今、危機一髪の恐怖に迷わされて神経をとがらしているから、世界平和を信ずるもの少ないが、一足飛びにここに至らざるも、波乱は幾回か曲折をへて、ついにここに収まるであろう。けだしこの証左を得るには、少なくも半世紀を要するは必然である。