伊波普猷 伊波普猷 いは ふゆう
1876-1947(明治9.3.15-昭和22.8.13)
言語学者・民俗学者。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂おもろさうし」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-Ihafuyu.JPG」より。


もくじ 
追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷


ミルクティー*現代表記版
追遠記
わたしの子ども時分

オリジナル版
追遠記
私の子供時分

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  • 一、同音異句のごく一部のひらがなに限り、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person232.html

NDC 分類:289(伝記 / 個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html
NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





追遠ついえん

伊波普猷


 わたしの祖先のことなどはべつに書きたてるほどの価値もないのであるが、三、四百年前における琉球りゅうきゅうの海外貿易や外来者同化のありさまなどを知る便たよりにもなると思うから、いたって簡単に述べることにしよう。
 琉球でシナ人の子孫だといえば、ただちに�pびんの三十六せいの子孫なる久米くめ村人をさすのであるが、わたしなどもやはりシナ人の子孫である。しかもそれがモンゴルとチベットとの間にある甘粛かんしゅく省の渭水いすいに沿うた天水てんすいという所の魚氏の子孫である。口碑こうひによると、わたしの祖先は明帝の侍医になっていたが、不老長寿の薬を求めて日本の日向ひゅうがにやって来た、ということである。そして日向に二代いて、三代目には琉球へ渡ったということである。わたしはかつて学友・武藤むとう長平ちょうへい文学士にわたしの祖先の歴史を物語ったついでに、祖父がわたしに魚培元という唐名カラナをつけた話をしたら、シナ趣味の武藤君はだいぶおもしろく聞いていたが、近ごろ一書をせて数日前『明医小史』を読んだが、魚姓がすこぶる多い、ということを知らしてくれた。これを明時代に不老長寿の薬を求めて日本に来た、という口碑と照らし合わせて考えると、わたしの祖先はもと医者であったということが推測される。
 渡辺世祐よすけ文学士の『室町時代史』を読むと、この時代の貿易港として摂津の兵庫ひょうご、筑前の博多はかた、薩摩の坊津ぼうのつ、日向の飫肥おび、伊勢の阿濃津〔安濃津〕の五港があげてあるが、わたしの研究したところによると、当時、琉球船は阿濃津を除くほかのあらゆる貿易港に出入りしたのである(このことについては「三偉人とその背景」中に考証しておいた)。この五港の中で、坊津と飫肥おびとは島津氏の勢力範囲であったから、九州南部の貨物を集中し、南シナおよび琉球の貨物を貿易するに適当な地であったということである。そして当時、明の市場は寧波ニンポウであったから、わたしの祖先のお医者さんはこのあたりから船に乗って、はるばると日向の飫肥にやってきたに相違ない。それから琉球に放浪してきたその孫――シナ人と日本人との混血児――が読谷山ヨンタンジャの長浜に上陸し、まもなく安谷屋アダニヤ按司あじに知られて、そのむこになったことは口碑の語るところであるが、このときの記念物は今に大殿内オオドンチという旧家となってのこっている。安谷屋アダニヤ按司あじ云々うんぬんというところから考えてみると、琉球で按司あじと称して地方に割拠していたのは、尚清しょうせい王以前であるから、わたしの祖先が琉球へやってきた年代もほぼ推定することができる。当時は日本人の琉球に帰化したものがかなり多かったから、排外思想なども後世のように強くはなかったであろう。否、むしろ外来人を歓迎したのであろう。
 元和九年(一六二三)編纂へんさんされた『おもろそうし』の十五の巻「うらおそいきたたんよんたむざおもろのおそうし」の六十六ふるげものろ古堅フルケン祝女ノロのふしに、

おざの、たちよもいや、
う、あきない、はえらちへ、
あんじに、おもわれれ、
いじへきたちよもいや。

ということがあるが、これは宇座ウーザかしこきタチヨモイは、シナ貿易をやり始めて(流行させて)按司あじ(領主)寵愛ちょうあいされた、という意である。これで見ると、読谷山ヨンタンジャ長浜ナガハマワン渡具地トグチのあたりが当時、琉球の貿易港の一つであったことも知れる。わたしの祖先が長浜にやってきたのも、あやしむにたらない。彼と按司あじの女との間にできた子は、なかなか元気な放縦ほうじゅうな人であったが、このあたりに来ていた豊州ほうしゅう〔豊前・豊後〕の商人・賀山太郎右衛門の女思乙オミトめとって妻にした。これで見ると、このあたりがいよいよ当時の貿易港であって、日本の商人も多少来ていたことになる。思乙オミトという琉球的の名から判断すると、彼女が賀山と土地の女との間にできたものであることも明らかである。口碑によると彼はある年、商用で薩州に行っていたが、島津氏が琉球を征伐するということを聞いて、牛助春大頭オオツブル我那覇がなはといわれた人で、その大きな頭で秀吉をおどろかした、という言い伝えがある)らと同船して帰国し、薩軍が読谷山ヨンタンジャのあたりから上陸するだろうといって警戒を与えたということであるが、薩州の記録を見ると、その水軍の一部ははたしてワン読谷山ヨンタンジャの湾のこと)から上陸している。外来者の子なる彼は、このときまったく同化していたが、祖国のために刃をって薩軍と戦わなかったであろうか。このことについては、記録や口碑は何も語っていない。
 『魚氏家譜』によると、この魚某は慶長十九年(一六一四)(すなわち琉球入りがあってから六年後)に一子をあげている。この可憐かれん児こそは、三郎(名乗りは普元、唐名カラナは魚登龍)といって、浮き世の風波にもまれるべく運命づけられた者である。多情なる彼の父は、めかけ狂いをしたので、彼の母は彼をたずさえて那覇へ逃げていった。そこで彼の父は、公然めかけを自宅に引っぱってきて、それとの間にできた子に家督を相続させた。長浜の大殿内オオドンチという所はすなわちその後裔こうえいである。わたしはまだ祖先の墳墓の地を訪れたことがないが、海岸にはわたしの祖先が上陸して、はじめて水を飲んだという井戸が今にのこっていて、なかなかゆかしい所であるということだ。わたしは他日そこに「追遠碑」を建てようと思っている(そういうことで、親戚の宮城普喜君をさそって長浜に遊び、三〇〇年前に手をわかった一腹氏チョハラウジ歓待かんたいされたのは、大正の末ごろであった)。
 これから魚登龍の出世談になるが、彼は長じて多賀良筑登之チクドン親雲上ペーチンとなり、那覇の伊那峰イナンミ親雲上ペーチンの娘真世仁をめとって三人の男の子を生んだ。寛永十七年(一六四〇)には彼は二十七歳であったが、この年、八重山やま出兵のことがあった。この事はかつて真境名まざきな笑古しょうこ氏によって紹介されたことがあるが、多少、魚登龍に関係したこともあるから、ここでかいつまんで述べることにする。日本でキリスト教の迫害がその密度を加えてきて、禁教令の実行が苛酷かこくと思われるまでに厳しかった寛永の終わりごろ、南蛮人(すなわち天主教てんしゅきょうの宣教師ら)が八重山に現われた。すると、琉球の方では薩州の二将、渋谷・喜入きいれらの一行がやってこない前に、那覇の柏氏小禄オロク親雲上良宗、泊の明氏幸地コウチ親雲上長則を大将として討伐隊を派遣したが、そのとき、わが魚登龍は兵卒となって八重山へおもむいたということだ。これで外来者の子孫が三代目にしてその土地のために身命をささげるまでに同化していたことがわかる。さてこの討伐隊の着船三、四日前に南蛮船は出航していたので、彼らの一行はただちに帰国しようとしたが、風の都合が悪くて、ながらく滞在するようになった。その間に薩州勢および向氏読谷山ヨンタンジャ按司アンジ朝宗、仮三司官カリサンシカン章氏、宜野湾ギノワン親方オヤカタ正成らの討伐本隊が見えたので、薩州の役人に南蛮船停泊ていはくの跡などを検閲けんえつさせた後、同年の五月二十日に一同は無事に那覇に引きあげた。
 魚登龍は遠征から帰ってくると、彼の若い妻が三人の稚児ちごをすてて出奔しゅっぽんしていたので、非常に吃驚びっくりした。彼女は絶世の美人であったが、夫の出征中に夫の親友某とかけおちしたということである。どこでも同じことだが外来者の妻になるものにろくな者はいない。この真世仁マゼニもたぶん素性のよくない女であったに違いない。可憐かれんなる子どもらはいずれも立派に成長したが、長男は父と気質が合わなかったために勘当かんどうされて、次男が父の跡を継ぐことになり、三男は薩州山川やまがわの冬比貞衛門の娘思乙(名前から判断してみると、これもやはり土地の女との間にできたもの)をめとって分家することになった。この三男がすなわち魚徳盛中里ナカザト筑登之チクドン親雲上ペーチン普信で、わたしはじつにその九世の孫にあたる。
 わたしの『家譜かふ』を一読して、いつも悲しく思うことは、近代にいたるまで社会の表面に立った人のないことである。祖父が十七歳のときにこのさびしい『家譜』を見て泣いたというのも無理でない(祖父がわたしに培元という唐名カラナを与えたところにも、彼の気持ちはよくあらわれているが、わたしはこれに即して、則碩という字をもちいることにした)。さて、こういうことが発奮はっぷんの動機となって、彼は六、七回ほどもシナに渡って貿易をなし、ようやく家産かさんをつくって、後、伊波村いはむらの地頭となり、御物城おものぐすくの候補者にまで物色されたが、廃藩置県になってまったく前途の希望を失ったので、ついに中風ちゅうふうにかかっててないようになった。そうして年の暮れごろから全身不随になって、ときどき私を見つめていたが、たぶんこの恐ろしい世の中で、最愛の孫の行く末がどうなるだろうかということを考えていたらしい。彼は、沖縄が今日のように幸福な時代になろうとは夢にも見なかったであろう。わたしの唯一の教育者なる彼は、わたしの五歳の年(すなわち明治十三年(一八八〇)の三月に眠るがごとくこの世を辞した。わたしの今日あるは、まったくこの祖父のおかげである。
 それから彼は同姓相めとらずという教訓を遵奉じゅんぽうして、よく親戚や友人の結婚問題などにくちばしをいれていたとのことである。幸いなることには過去三〇〇年間の家の系図を調べてみても、近親結婚は見あたらないようだ。とにかく放浪者の子孫なるわたしの血管の中には種々の血液が流れているが、ここでは近代になって流れ込んだ主なるものだけをあげてみる。まず、わたしの曽祖母をとおして袁氏謡島袋ウタイシマブクなどの系統)の芸術家の血液が入ってきたかと思うと、祖母をとおして宮氏の変質者の血液が入ってきて少からず私たちを悩ましたが、わたしは学問好きな母方・呉氏の血液によって救われた。呉氏の「おくで」(祖神に仕える尸婦しふであったわたしの母は、自分たちは鬼大城とモモトフミアガリ阿麻和利夫人)との間にできた次男の系統だといって、ときたま麻文仁家を訪れていたが、神事に関するかぎりこれはたぶん事実であろう。してみると、わたしの血液にはモモトフミアガリをとおして三山統一の英主尚巴志しょうはしの血液が入り、鬼大城をとおして尚巴志にほろぼされた北山王ほくざんおうの血液も流れ込んでいるわけだ。わたしは『家譜』を調べて、じつに不思議なのは人間の血液の歴史であることを知った。
 わたしの考古癖はおぼえず妙なことを口走くちばしって読者を顰蹙ひんしゅくさせたが、このあたりはくれぐれもご容宥を願わなければならない。
(大正五年(一九一六)一月一日稿『沖縄毎日新報』所載・昭和十七年(一九四二)七月改稿)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『沖縄毎日新報』
   1916(大正5)年1月1日
※ 底本「解題」には初出『沖縄毎日新聞』とある。
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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わたしの子ども時分

伊波普猷

   一


 わたしの子どもの時分のことを書いてくれとのことであるが、当時の事はおおかた忘れてしまって、記憶にのこっている部分はいたって少ない。わたしの生まれたのは、もう三年たつと沖縄が廃藩置県になるという明治九年(一八七六)のことだ。そのころの沖縄といえば熊本鎮台の分遣隊が古波蔵こはぐら村に置かれるやら松田道之みちゆきがやってくるやらでずいぶん物騒ぶっそうであったろうが、残念ながら当人はそんなことなぞ覚えていようはずがない。
 物心ものごころがついた時分、わたしの頭に最初に打ち込まれた深い印象は、わたしの祖父おじいさんのことだ。わたしの祖父おじいさんは十七のとき家の系図を見て、自分の祖先に出世した人が一人もいないのを悲しみ、奮発ふんぱつしてシナ貿易を始め、六、七回も福州ふくしゅうに渡った人だ。わたしが四つの時には祖父おじいさんはまだ六十にしかならなかったが、髪の毛もひげも真っ白くなって、七、八十ぐらいの老人のようであった。いたって厳格な人ではあったが、また慈悲の深い人であった。今日でいう胎内教育のことなぞもよく心得ていて、わたしが母の体内に宿やどると、母の食物やかれこれに非常な注意をはらったということだ。わたしが生まれ落ちて乳母をやとうというときにも、十名ぐらいの応募者を集めて、身元みもとや体質や乳などを試験したうえで採用したとのことだ。
 わたしは生まれてから何不足なしに育てられたが、どうしたのか、泣くくせがついて家の人を困らせたとのことだ。
 いつぞやわたしが泣き出すと、乳母がわたしを抱き、祖母おばあさんは団扇うちわでわたしをあおぎ、お父さんは太鼓をたたき、お母さんは人形を持ち、家中の者が行列をなして、親見世おやみせ(今の那覇警察署)の前から大仮屋(もとの県庁)の前を通って町を一周したのを覚えている。もう一つ、家の人を困らせたことがある。それは、わたしが容易に飯を食べなかったことだ。他の家では子どもが何でも食べたがって困るが、わたしの家では子どもが何も食べないで困った。そこで、わたしに飯を食べさせるのは家中の大仕事であった。あるとき祖父おじいさんはおもしろいことを考え出した。向かいの屋敷の貧しい家の子どもで、わたしより一つ年上のワンパク者を連れてきて、わたしといっしょに食事をさせたが、わたしはこれと競争していつもよりたくさん食べた。その後、祖父おじいさんはしばしばこういう晩餐ばんさん会を開くようになった。
 それから祖父おじいさんは、わたしと例の子どもとに竹馬をつくってくれて、十二畳の広間で競馬のまねをさせて非常に興に入ることもあった。そのときには祖父おじいさんはまったく子どもとなって子どもとともに遊ぶのであった。
 せんだって、途中でわたしを呼びとめた者がいるから、誰だろうと思ってふり向いて見ると、例の竹馬の友であった。彼は、わたしの祖父おじいさんのことは今に忘れられない、あんな慈悲の深い人はまたといないといって涙ぐんだ。
 祖父おじいさんは猫が大好きであった。そのころわたしの家には十数匹の猫がいたが、いずれもえ太った綺麗きれいな猫であった。祖父おじいさんは外から帰ってくるときには、いつもせきばらいするのであったが、十数匹の猫はこの声を聞くやいなや、先をあらそって門のところまで行って、その老主人を迎えるのであった。そうすると、祖父じいさんはふところからカステラとかカマボコとかいうようなおみやげを出して、これを分配してやるようなこともしばしばあった。
 明治十二年(一八七九)にはわたしは四歳であったこの年はわれわれ沖縄人が記憶しなければならない廃藩置県のあった年であるが、わたしには当時の騒動のことなぞはわからない。出世して系図を飾るという考えを持っていた祖父おじいさんは、この政治上の変動でぜんぜん前途の希望がなくなって、心身ともににわかに弱ったとのことだ。おまけに大仮屋に出勤していたわたしの叔父おじ当時十五になる利口りこうの青年が相談なしに東京に連れて行かれたので祖父おじいさんの落胆はひととおりではなかったとのことだわたしは彼の盗まれた日親戚の者がおおぜい本家に集まって人が死んだときのように声を立てて泣いたのを覚えている
 そういう心配のために、しばらくすると祖父おじいさんは中風ちゅうぶうにかかった。としの暮れごろから全身が不随になって、口もきかなかった。そして目ばかりパチパチさせてわたしの顔を見ていた。
 今になって考えてみると、祖父おじいさんはこの恐ろしい世の中で、その最愛の孫の行く末がどうなるだろうということばかり考えていたらしい。彼は沖縄が今日のように幸福な時代になろうとは夢にも思わなかったであろう。わたしの五つの年の三月に、わたしの唯一の教育者であった祖父おじいさんはとうとうあの世の人となった。わたしは白い着物を着て、下男に抱かれて葬式に出たのを覚えている。祖父おじいさんの領地の伊波村いはむらからたくさんの人々がやってきて行列に加わったのも覚えている。

   二


 祖父おじいさんがなくなって後、わたしの家は急にさびしくなった。この数か月の間、どういうことがおこったか、また、どういうことをわたしがやったか、よくは覚えていない。ただ旧の大晦日おおみそかの二、三日前に、わたしの弟月城げつじょうが生まれたので、祖母おばあさんがこれを祖父おじいさんが生まれかわったのだといって、喜んでいたのを記憶しているばかりだ。
 けると明治十五年(一八八二)わたしは六歳になったこの年に東京で博覧会が開かれたので沖縄の方からも多くの人々が見物に出かけたわたしの本家の方では盗まれた叔父おじをこの機会に取り返すという議があっていちばん上の伯父おじさんがわざわざ上京することになった
 叔父おじが盗まれたというとすこし語弊があるが、当時の人はみなそういっていた。ところがその実、叔父おじは盗まれたのではなく、自分で希望して行ったということだ。今になって考えてみると、当局者はこの利口りこうな少年を東京につれていって、新しい教育を受けさせるつもりであったということがわかる。そこで世間の悪口わるくち屋は許田きょだの家では子どもを高価たかねで日本人に売ったなぞといっていた。とにかく叔父おじは東京に行くとまもなく、共慣羲塾に入って勉強した。そしてさっそく断髪して服装までかえたということだ。してみると、叔父は沖縄から東京に行った最初の遊学生でしかも沖縄人で断髪した者の嚆矢こうしといわなければならぬ。ほかに沖縄の先輩となった岸本以下数名の青年は、彼と入りちがいに上京したということだ。四月に叔父おじは、いよいよその兄さんにつれられて帰省した。故郷を飛び出して満二年で帰ったのだ。家の人は彼が断髪して、みちがえるほどになったのを見て吃驚びっくりした。そして、死んだ人がよみがえってきたかのようによろこんだ。その日、叔父おじはいたって快活に話していた。しかし二年の間、母国の言葉を使わなかったためか、その語調はすこし変であった。私はじめ親類の子どもたちは、今までに見たことのないオモチャのおみやげをもらってよろこんだ。叔父おじは断髪姿で外出しては剣呑けんのんだというので夜分でなければいっさい外出はしなかった。数か月たって、髪の毛が長くのびたので、また昔のように片髻かたかしらうて、さかんに親戚朋友ほうゆうの家を訪問していた。この年の暮れに家の祖母おばあさんが死んだ。叔父おじは、祖母おばあさんの墓参りにはかかさず行った。そしていつもわたしたちには、東京のおもしろい話をして聞かせた。ところが翌年(一八八三)の正月に、この新文明の鼓吹すい者であった叔父おじは腸チフスにかかって急に死んだ。彼はじつに末頼すえたのもしい活発かっぱつな青年であったが、十八歳を一期いちごとして白玉はくぎょく楼中ろうちゅうの人となった。わたしは今まで、ただ叔父おじと呼んで彼の名を言わなかったが、彼の名は許田きょだ普益であることを読者にお知らせしたい。さて、時勢はだんだん変わってきて、沖縄から公然と数名の青年を東京に遊学させることになったので、本家の方では、こうなると思えばあのまま東京に置いておくのであったといって、いまさらのように後悔した。叔父おじは今まで生きながらえていたら、まだ四十九歳で、盛んに活動しているころだがしいことをしたものだ。こういう事件があったために、わたしの親類は自然新しい文明に対して恐怖心をいだくようになった。わたしの家なぞは少し広すぎたにかかわらず、内地人にはいっさい間を貸さないことにした。そして、わたしの家ではわたしたちが言うことを聞かない場合には、「アレ日本人ヤマトンチュードー」といって、わたしたちをおどすのであった。わたしはろくに外出なぞはさせられなかったので、どこに学校があるかということさえも知らずにいた。ずっと後になって、ようやく学校のあることには気がついたが、そういう所に入ろうという気にはなれなかった。
 七歳のときに、わたしは従弟いとこといっしょにはじめて、ある漢学塾みたいな所におくられた。そこの先生は漢那かんな大佐〔漢那憲和けんわの外戚の叔父おじにあたる玉那覇たまなは某という人であったが、わたしたちはこの人からはじめて「大舜」という素読を習った。そして二、三年の間、ここで四書の素読を習った。当時の漢那君は非常なワンパク者で、いつも叔父おじの家に裸足はだしで入ってきて、イモを取って食ったり、いろいろのいたずらしたりしていた。あまり大さわぎをして私たちの勉強をさまたげると、玉那覇たまなは大喝だいかつ一声いっせいで退去を命じたが、未来の海軍大佐はいっこう平気なもので、叔父おじをひやかしながら退却するのであった。だいぶ後になって玉那覇たまなは先生は、「今後の人はこういうものも知っていなくてはいけない」といってイロハと算術をわたしたちに教えた。しかし、学校に入学しろとすすめたことは一度もなかった。
 わたしの家では祖父おじいさんがなくなり、また引き続いて祖母おばあさんもなくなったので、血気の盛んなわたしの父はだんだん放縦ほうじゅうになって、酒色しゅしょくにふけるようになった。そして家庭の平和は破れて、わたしは子ども心に悲哀を感じた。しかし、こういうことはひとり私の家にかぎったことでもないから、このことはあまりくわしく述べずにおこう。とにかく当時の沖縄の男子で、子どもの教育なぞのことを考えるものは一人もなかった。わたしの母は、子どもをこのままにしておくのは将来のためによくないということに気がついて、学校に出す気になった。父はこの意見にはあまり賛成しなかったが、母が独断で明治十九年(一八八六)の三月に師範学校の付属小学校に入校願を出した。しかし、そのときは人員超過で後まわしにされた。そのころ、付属の主事の戸川という先生が家の座敷を借りにきたのをさいわい、母はさっそくこの先生をつかまえて一種の交換問題を提出した。それは今後、わたしを付属に入れてくれるなら座敷を貸してあげようということであった。戸川先生はすぐ入学を許可するから座敷は是非ぜひ貸してくれといって、二、三日たつと引っ越してきた。わたしはいよいよ付属に通学するようになった。これがわたしの十一歳のときである。このときの学校は那覇の郵便局のところにあった。そして、当時の新入生でわたしが覚えている主なる者は、当真当間とうまか〕前那覇区長や我謝教諭である。当時の読本には神は天地の主宰しゅさいにして万物の霊なりというようなことが書いてあったと覚えている。このときの教生きょうせいはもとの松山尋常小学校の校長祖慶先生であったが、先生はこのときから非常な熱心家であった。一、二か月たつと祖慶先生が、突然今日は進級試験をやるからといって、一、二の問題を出して皆に聞いた。わたしと、それからもう二人の子どもはかなりうまく答えたというので、この日から三人は五級に行って授業を受けることになった。五級の先生は阿嘉先生であった。

   三


 那覇でのわたしの学校生活は、ほんの一、二か月にすぎなかった。いくらかお友達ができたかと思うと、わたしはまもなく、首里しゅりに行かなければならないようになった。この年師範学校が首里に引っ越したので今まで付属にいた生徒たちは西泉崎いずんざち久茂地くもじなどの学校に分配されたがわたしは戸川先生のすすめによって首里に行くことになった。そのとき、わたしは家というものを離れた。はじめて両親の膝下しっかを離れるというので、出発の際などは両親をはじめとして、親類の者が十名ばかり別れをしんで、わたしを首里まで送った。わずか一里しかへだてていない所に旅をさせるのを、当時の人は東京にでも出すくらいに考えていたのであろう。世間では、まだ寝小便ねしょうべんをするくらいの子どもを手離して人にあずけるのは惨酷ざんこくであるといって、わたしの両親を非難したとのことだ。実際わたしは、ときどき寝小便をやらかして先生をおどろかすこともあった。
 さて首里というところは今日はさびしい都会になっているがその当時はずいぶん盛んな都会であって道を歩くとき大名の行列に出合であわさないことはないくらいであった。わたしはときどき、百人モモソ御物参モノマイリといって百名近くの男子が観音堂などに参詣さんけいするのを見たことがあった。
 はじめて学校に行って変に感じたのは、生徒の言葉づかいや風習が那覇なはと異なっていることであった。当時はまだ階級制度の余風よふうのこっていて、貴族の子は平民の子を軽蔑けいべつしたものだ。こういう所へわたしのような他所者よそものが入ったからたまらない。彼らはいつもわたしを「那覇人ナーファー、那覇人」といってひやかした。おまけにわたしは大きなカラジを結び、振りそでの着物を着て、女の子みたようであったからいっそう困った。元来、那覇では十三歳にならなければ元服しない(すなわち片髻かたかしらわない)規定であったが、わたしは十一歳のときに元服して、彼らと調子を合わすように余儀なくされた。こういうふうであったから、最初のあいだ首里の学校生活は愉快ゆかいではなかった。このころまでは、九〆くじめといって晩の八時ごろになると、円覚寺えんかくじ天界寺てんかいじや天王寺や末吉の寺の鐘が同時に鳴り出すので、なんとなくさびしいような気がして、夜はたいがいは家の夢ばかり見ていた。だからわたしにとっては、土曜日を待つのが何よりも楽しみであった。土曜の昼すぎになると、いつも蒲平カマートー太良タラー駕籠かごを持って迎えにきたものだ。蒲平カマートーは六尺ぐらいの大男で、太良タラーは五尺たらずの小男であったから、ずいぶん乗り心地ごこちの悪い駕籠かごであったが、わたしには彼らにかつがれていくのが何よりも楽しみであった。家に帰ると、両親のよろこびはひととおりではなかった。お友達も訪ねてきて、首里の話などを聞いてよろこんだ。しかし、わたしの言葉が変な調子になっているのを聴いて笑っていた。
 月曜日の朝は、例の駕籠かごで首里にのぼった。今になって考えてみると、首里に行ったのはわたしにとっては非常な幸福であった。それはこのころの家の悶着もんちゃくを聞かずにすんだから。
 わたしの同級生には、もとの首里区の徒弟学校長の島袋しまぶくろ盛政君がいた。彼は幼少のとき、わたしの近所で育った人で、わたしより一年ばかり前に首里に行ったのであるが、そのころはもう首里の方言を使って、首里人と識別することができないようになっていた。
 このころは首里那覇に人力車は一台もなかった沖縄じゅうに知事さんの車がたった一つあったばかりでこれを県令車といっていたから、貴族の方々や師範中学の先生たちはおおかた駕籠かごで往復したものだ。師範中学の先生たちは土曜日になると、よく集まって酒を飲んだものだが、ほろ加減かげんになると、例の駕籠を用意させて那覇に下っていくのであった。その翌年すなわち明治二十年(一八八七)に、首里の安慶田という人が大阪から十二台ほど人力車を取り寄せて、人力車営業を始めたが、この車が通ると、沿道の人民は老幼男女を問わず、門の外に飛び出して見物するのであった。これからはもう師範中学の先生たちの那覇くだりも楽になった。わたしも、ときどき高い車賃を払ってこれに乗った。車賃はたしか片路で二十六銭であったと覚えている。このときから、わたしのへんちきりんのカゴはあまり見えないようになった。

   四


 この年(一八八七)の二月、森有礼ありのり文部大臣が沖縄の学校をに来られたころは、師範学校の生徒中に断髪した者は一人もなかった。そのころ断髪したのは沖縄じゅうに一、二名しかなかった。わたしは伊江朝貞君(日本キリスト教の宣教師)が師範学校の寄宿合に行って、富永先生(元の高等女学校長)片髻かたかしらってもらったのを覚えている。
 この結髪の師範生らがくつをはき鉄砲をかついで中隊教練をやり始めたらくちさがなき京わらべは鉄砲かためてくつくまち親の不幸やならんかやと歌って彼らをあざけった。しばらくして、師範生中で桑江(元の佐敷さしき校長)・奥平(菓子屋の主人)ら五、六名のものが断髪したら、世間の人から売国奴ばいこくどとしてののしられた。あるとき、この連中が識名園しきなえんに遊びに行くと、見物人が市をなして歩けないくらいであったということだ。ところがこれから一年もたって、二十一年(一八八八)の四月ごろになると、師範生中にはもはや一人の結髪者も見えないようになった。
 小学校で体操や唱歌や軍歌が始まったのもこのときだ。わたしは行軍のときにはいつでも「我は官軍」や「ああ正成よ」の音頭取りをやらせられた。よほど後になって、首里の小学校では「むかし唐土の朱文公」という軍歌をうたい出した。そうすると、那覇の小学校でも「一つとせ」という軍歌をやり始めた。
 戸川先生はわたしに、わざわざ那覇からつれてきたからには一番になってくれないと困るといわれたが、わたしは元来がなまける性質なので、いつも五、六番ぐらいのところにおちついていた。そういうふうにグズグズしていたから、わたしはとうてい「ヤマトジフエー」なる先生の気に入ることはできなかった。後で聞くと、先生はわたしの行く末を悲観しておられたとのことだ。
 そのころ、わたしは出しゃばるくせがあったが、某先生が修身の時間に、「実の入らぬ首折れれ」という俚諺げんを説明して、わたしに風刺をしたので、わたしはにわかにだんまりになった。わたしは戸川先生のところに二年ほどいたが、先生の都合で中学の平尾先生のところにあずけられた。
 あるとき、わたしは本校生の真似まねをしてくつを買ってはいたら、あの子どもは今に断髪をするだろう、といってそしられた。
 このころであったろう。学校から帰ると、わたしはいつも城の下に蝶々をりに行ったが、田村軍曹に蝶々二十匹ぐらい分捕ぶんどりされて泣いたこともあった。
 わたしは、これから軍人が少々きらいになった。平尾先生のところには一年ぐらいもいたが、先生が先島さきしまに転任されたので、今度こんどは家に帰って、毎日一里以上のところを通学するようになった。歳の若いわたしには道が遠すぎて、学校も自然欠席がちになった。そこで家では、弟の乳母の子でわたしと同歳になる仁王という小僧をわたしにつけてやったが、学校へ行くまねをして、よく八幡の寺のあたりで遊んだものだ。わたしが名も知れない野生の花をつんでいる間に、仁王は阿旦葉だんでラッパをつくって吹いていた。このころ、わたしの家にはいろいろの事件がおこった。わたしの身の上にも多少の変化がおこった。とにかくいろいろのことがあるのだけれども、それはそのうち都合のよいとき、自分で素破すっぱ抜くことにして、ここでは言わないことにする。

   五


 学校から帰ると、わたしはいつも城岳ぐすくだけの前のちっぽけな別荘に行って勉強していたが、首里にいた時分から昆虫の採集に趣味を持つようになり、昆虫のことを書いた本を愛読して、いつも蝶々ばかり追いまわしていた。城岳ぐすくだけのあたりは、わたしにとってはじつに思い出の多いところだ。
 高等一年の時であったろうはじめて沖縄史を教えられたがわたしにはそれが何よりもおもしろかったこの以前平尾先生の所にいたとき西村県令知事南島紀事を読んで郷土についていくらか趣味を感じたことはあるがわたしが今日郷土の研究に指をめるようになったのはもっぱらこの人の影響ではないかと思う。ところがわたしはこの先生の名を忘れた。この先生が首里の人でもなく、那覇の人でもなく、田舎の人であったというだけはたしかに覚えている。わたしはこの無名の先生に感謝せなければならぬ。
 わたしは満五か年の小学校生活を切り上げて明治二十四年(一八九一)の四月に、いよいよ中学に入るようになった。当時の中学はもとの国学のあとにあったが、ずいぶん古風な建築物であった。いっしょに入った連中は、漢那かんな(大佐)や照屋(工学士)や当間(前区長)真境名まざきな笑古しょうこなどであった。これからわたしは那覇人中にも友達ができるようになった。このとき二年以上の生徒はおおかた断髪をしていたと覚えている。
 ある日のこと、一時間目の授業がすむと、先生方が急に教場の入口に立ちふさがった。なんだか形勢が不穏おんだと思っていると、教頭下国先生がズカズカと教壇にのぼって、一場の演説を試みられた。その内容はよくは覚えてはいないが、アメリカ・インディアンの写真を見たが、生徒はいずれも断髪をして洋服を着ている。ところが日本帝国の中学の中で、まだ結髪をしてだらしのない風をしているところがあるのは、じつになげかわしいことだ、今日みなさんは決心して断髪をしろ、そうでなければ退校をしろ、という意味の演説であったと思う。全級の生徒は真っ青になった。頑固がんこ党の子どもらしい者が、一、二名叩頭こうとうをして出て行った。父兄に相談してきます、といって出て行ったのもあった。しばらくすると、数名の理髪師が入口に現われた。この一刹那いっせつなに、先生方と上級生は手々にハサミを持って教場に闖入ちんにゅうし、手あたりしだいチョンマゲを切り落とした。この混雑中に窓から飛んで逃げたのもいた。宮古島からきた一学生は切るのをこばんだ。何とかいう先生が無理矢理むりやりに切ろうとしたらこの男、かんざしを武器にして手ひどく抵抗した。あちこちですすり泣きの声も聞こえた。一、二時間たつと、沖縄の中学には一人のチョンマゲも見えないようになった。翌日は、識名園しきなえんで祝賀会が開かれた。このときいくさゴッコをやったが、先生と生徒との組み打ちもあった。児玉校長が、イモムシが蟻群に引きずられるように、二、三十名の新入生に引きずられるのもおかしかった。このとき断髪した者の中で、父兄の反対にあって退校して髪をはやしたのも二、三名いた(世間の人は彼らのことを「ゲーイ」と言った。「ゲーイ」とはやがて還俗のことだ)。わたしの友達に阿波連あわれんという者がいたが、これがために煩悶はんもんして死んだ。彼は漢那かんな君と同じくらいにできた末頼すえたのもしい青年であったが。さて、わたしの時分は、こういう悲劇のような喜劇で一段落をつげた。今から考えると、まるで夢のようである。読者諸君がこれによってわが沖縄の変遷を知ることができたら、望外の望である。わたしはそのうち気が向いたとき、わたしの青春時代のことを書いてみようと思う。(終わり)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『龍文』沖縄県師範学校附属小学校創立四十周年記念誌
   1921(大正10)年11月20日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



追遠記

伊波普猷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)便《たよ》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十六|姓《せい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]
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 私の祖先のことなどは別に書き立てるほどの価値もないのであるが、三、四百年前における琉球の海外貿易や外来者同化の有様などを知る便《たよ》りにもなると思うから、いたって簡単に述べることにしよう。
 琉球で支那人の子孫だといえば、直ちに※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》の三十六|姓《せい》の子孫なる久米《くめ》村人を指すのであるが、私などもやはり支那人の子孫である。しかもそれが蒙古《モンゴル》と西蔵《チベット》との間にある甘粛《かんしゅく》省の渭水《いすい》に沿うた天水という所の魚氏の子孫である。口碑によると、私の祖先は明帝の侍医になっていたが、不老長寿の薬を求めて日本の日向《ひゅうが》にやって来た、ということである。そして日向に二代いて、三代目には琉球へ渡ったということである。私はかつて学友武藤〔長平〕文学士に私の祖先の歴史を物語ったついでに、祖父が私に魚培元[#「培元」に傍点]という唐名《カラナ》を附けた話をしたら、支那趣味の武藤君はだいぶ面白く聞いていたが、近頃一書を寄せて数日前『明医小史』を読んだが、魚姓がすこぶる多い、ということを知らしてくれた。これを明時代に不老長寿の薬を求めて、日本に来た、という口碑と照し合せて考えると、私の祖先はもと医者であったということが推測される。
 渡辺〔世祐〕文学士の『室町時代史』を読むと、この時代の貿易港として摂津の兵庫《ひょうご》、筑前の博多《はかた》、薩摩の坊津《ぼうのつ》、日向の飫肥《おび》、伊勢の阿濃津《あのつ》の五港があげてあるが、私の研究したところによると、当時琉球船は阿濃津を除くほかのあらゆる貿易港に出入したのである(このことについては「三偉人と其背景」中に考証しておいた)。この五港の中で、坊津と飫肥とは島津氏の勢力範囲であったから、九州南部の貨物を集中し、南支那および琉球の貨物を貿易するに適当な地であったということである。そして当時明の市場は寧波《ニンポウ》であったから、私の祖先の御医者さんはこの辺から船に乗って、遥々と日向の飫肥にやって来たに相違ない。それから琉球に放浪して来たその孫――支那人と日本人との混血児――が読谷山《ヨンタンジャ》の長浜に上陸し、間もなく安谷屋《アダニヤ》の按司《あじ》に知られて、その聟《むこ》になったことは、口碑の語るところであるが、この時の記念物は今に大殿内《オオドンチ》という旧家となって遺《のこ》っている。安谷屋の按司云々というところから考えて見ると、琉球で按司と称して地方に割拠していたのは、尚清《しょうせい》王以前であるから、私の祖先が琉球へやって来た年代もほぼ推定することが出来る。当時は日本人の琉球に帰化したものがかなり多かったから、排外思想なども後世のように強くはなかったであろう。否むしろ外来人を歓迎したのであろう。
 元和九年(西暦一六二三)に編纂された『おもろさうし』の十五の巻「うらおそいきたゝんよんたむざ[#「よんたむざ」に傍点]おもろのおさうし」の六十六ふるげものろ(古堅《フルケン》祝女《ノロ》)のふしに、
[#ここから2字下げ]
おざの、たちよ[#「ちよ」に⌒]もいや、
たう[#「たう」に⌒]、あきない、はゑらちへ[#「ちへ」に⌒]、
あんじに、おもわれゝ、
いぢへ[#「ぢへ」に⌒]きたちよ[#「ちよ」に⌒]もいや。
[#ここで字下げ終わり]
ということがあるが、これは宇座《ウーザ》の賢きタチヨモイは、支那貿易をやり始めて(流行させて)、按司(領主)に寵愛された、という意である。これで見ると、読谷山の長浜《ナガハマ》、湾《ワン》、渡具地《トグチ》の辺が、当時琉球の貿易港の一であったことも知れる。私の祖先が長浜にやって来たのも、怪しむに足らない。彼と按司の女との間に出来た子は、なかなか元気な放縦な人であったが、この辺に来ていた豊州の商人賀山太郎右衛門の女|思乙《オミト》を娶《めと》って妻にした。これで見ると、この辺がいよいよ当時の貿易港であって、日本の商人も多少来ていたことになる。思乙という琉球的の名から判断すると、彼女が賀山と土地の女との間に出来たものであることも明らかである。口碑によると彼はある年商用で薩州にいっていたが、島津氏が琉球を征伐するということを聞いて、牛助春(大頭《オオツブル》我那覇といわれた人で、その大きな頭で秀吉を驚かした、という言伝えがある)等と同船して帰国し、薩軍が読谷山の辺から上陸するだろうといって、警戒を与えたということであるが、薩州の記録を見ると、その水軍の一部は果して腕《ワン》(読谷山の湾のこと)から上陸している。外来者の子なる彼は、この時まったく同化していたが、祖国のために刃を執って薩軍と戦わなかったであろうか。この事については、記録や口碑は何も語っていない。
 『魚氏家譜』によると、この魚某は慶長十九年(すなわち琉球入があってから六年後)に一子を挙げている。この可憐児こそは、三郎(名乗は普元、唐名は魚登龍)といって、浮世の風波にもまれるべく、運命づけられた者である。多情なる彼の父は、妾狂いをしたので、彼の母は彼を携えて那覇へ逃げていった。そこで彼の父は公然妾を自宅に引張って来て、それとの間に出来た子に家督を相続させた。長浜の大殿内という所はすなわちその後裔《こうえい》である。私はまだ祖先の墳墓の地を訪れたことがないが、海岸には私の祖先が上陸して、始めて水を飲んだという井戸が、今に遺っていて、なかなかゆかしい所であるということだ。私は他日そこに「追遠碑」を建てようと思っている(そういうことで、親戚の宮城普喜君をさそって、長浜に遊び、三百年前に手をわかった一腹氏《チョハラウジ》に歓待されたのは、大正の末頃であった)。
 これから魚登龍の出世談になるが、彼は長じて多賀良《タカラ》筑登之《チクドン》親雲上《ペーチン》となり、那覇の伊那峯《イナンミ》親雲上《ペーチン》の娘|真世仁《マゼニ》を娶って、三人の男の子を生んだ。寛永十七年には彼は二十七歳であったが、この年|八重山《やえやま》出兵の事があった。この事はかつて真境名《まざきな》笑古《しょうこ》氏によって紹介されたことがあるが、多少魚登龍に関係したこともあるから、ここでかいつまんで述べることにする。日本でキリスト教の迫害がその密度を加えて来て、禁教令の実行が苛酷と思われるまでに厳しかった寛永の終り頃、南蛮人(すなわち天主教の宣教師等)が八重山に現われた。すると、琉球の方では薩州の二将、渋谷、喜入等の一行がやって来ない前に、那覇の柏氏|小禄《オロク》親雲上良宗、泊の明氏|幸地《コウチ》親雲上長則を大将として討伐隊を派遣したが、その時わが魚登龍は兵卒となって、八重山へ赴《おもむ》いたということだ。これで外来者の子孫が三代目にしてその土地のために身命を捧げるまでに同化していたことがわかる。さてこの討伐隊の着船三、四日前に、南蛮船は出航していたので、彼等の一行は直ちに帰国しようとしたが、風の都合が悪くて、永らく滞在するようになった。その間に薩州勢および向氏|読谷山《ヨンタンジャ》按司《アンジ》朝宗、仮三司官《カリサンシカン》章氏、宜野湾《ギノワン》親方《オヤカタ》正成等の討伐本隊が見えたので、薩州の役人に南蛮船|碇泊《ていはく》の跡などを検閲させた後、同年の五月二十日に一同は無事に那覇に引きあげた。
 魚登龍は遠征から帰って来ると、彼の若い妻が三人の稚児を棄てて出奔していたので、非常に吃驚《びっくり》した。彼女は絶世の美人であったが、夫の出征中に夫の親友某と駆落ちしたということである。どこでも同じことだが外来者の妻になるものに碌《ろく》な者はいない。この真世仁《マゼニ》も多分素性の善くない女であったに違いない。可憐なる子供等はいずれも立派に成長したが、長男は父と気質が合わなかったために勘当されて、次男が父の跡を継ぐことになり、三男は薩州山川の冬比貞衛門の娘思乙(名前から判断して見ると、これもやはり土地の女との間に出来たもの)を娶って分家することになった。この三男がすなわち魚徳盛|中里《ナカザト》筑登之《チクドン》親雲上《ペーチン》普信で、私はじつにその九世の孫に当る。
 私の『家譜《かふ》』を一読して、いつも悲しく思うことは、近代に至るまで社会の表面に立った人のないことである。祖父が十七歳の時にこの寂しい『家譜』を見て泣いたというのも無理でない(祖父が私に培元という唐名を与えたところにも、彼の気持はよくあらわれているが、私はこれに即して、則碩という字を用いることにした)。さてこういうことが発奮の動機となって、彼は六、七回程も支那に渡って貿易をなし、ようやく家産を造って、後、伊波村の地頭となり、御物城《おものぐすく》の候補者にまで物色されたが、廃藩置県になってまったく前途の希望を失ったので、ついに中風に罹《かか》って起てないようになった。そうして年の暮頃から全身不随になって、時々私を見詰めていたが、たぶんこの恐しい世の中で、最愛の孫の行末がどうなるだろうか、ということを考えていたらしい。彼は沖縄が今日のように幸福な時代になろうとは夢にも見なかったであろう。私の唯一の教育者なる彼は、私の五歳の年(すなわち明治十三年)の三月に眠るがごとくこの世を辞した。私の今日あるはまったくこの祖父のお蔭である。
 それから彼は同姓相娶らずという教訓を遵奉《じゅんぽう》して、よく親戚や友人の結婚問題などに嘴《くちばし》を容れていたとのことである。幸なることには過去三百年間の家の系図を調べて見ても、近親結婚は見当らないようだ。とにかく放浪者の子孫なる私の血管の中には、種々の血液が流れているが、ここでは近代になって流込んだ主なるものだけをあげてみる。まず私の曾祖母をとおして袁氏(謡島袋《ウタイシマブク》などの系統)の芸術家の血液が這入って来たかと思うと、祖母をとおして宮氏の変質者の血液が這入って来て、少からず私達を悩ましたが、私は学問好きな母方呉氏の血液によって救われた。呉氏の「おくで」(祖神に仕える尸婦《しふ》)であった私の母は、自分たちは鬼大城とモモトフミアガリ(阿麻和利《あまわり》夫人)との間に出来た次男の系統だと言って、ときたま麻文仁《まぶに》家を訪れていたが、神事に関する限り、これはたぶん事実であろう。してみると、私の血液には、モモトフミアガリをとおして、三山統一の英主|尚巴志《しょうはし》の血液が這入り、鬼大城をとおして、尚巴志に亡ぼされた北山王の血液も流込んでいるわけだ。私は『家譜』を調べて、じつに不思議なのは人間の血液の歴史であることを知った。
 私の考古癖は覚えず妙なことを口走って、読者を顰蹙《ひんしゅく》させたが、この辺はくれぐれも御容宥を願わなければならない。 (大正五年一月一日稿『沖縄毎日新報』所載・昭和十七年七月改稿)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『沖縄毎日新報』
   1916(大正5)年1月1日
※ 底本「解題」には、初出『沖縄毎日新聞』とある。
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



私の子供時分

伊波普猷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鬚《ひげ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|百人《モモソ》
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   一

 私の子供の時分のことを書いてくれとのことであるが、当時の事はおおかた忘れてしまって、記憶にのこっている部分はいたって少い。私の生れたのはもう三年経つと沖縄が廃藩置県になるという明治九年のことだ。[#傍点]その頃の沖縄といえば、熊本鎮台の分遣隊が古波蔵村に置かれるやら、松田がやって来るやらで、随分物騒であったろうが、[#傍点終わり]残念ながら当人はそんなことなぞ覚えていようはずがない。
 物心が付いた時分、私の頭に最初に打込まれた深い印象は私の祖父さんのことだ。私の祖父さんは、十七の時、家の系図を見て、自分の祖先に出世した人が一人もいないのを悲しみ、奮発して支那貿易を始め、六、七回も福州に渡った人だ。私が四つの時には祖父さんはまだ六十にしかならなかったが、髪の毛も鬚《ひげ》も真白くなって、七、八十位の老人のようであった。いたって厳格な人ではあったが、また慈悲の深い人であった。今日でいう胎内教育のことなぞもよく心得ていて、私が母の体内に宿ると、母の食物やかれこれに非常な注意を払ったということだ。私が生れ落ちて乳母をやとうという時にも、十名位の応募者を集めて、身元や体質や乳などを試験した上で採用したとのことだ。
 私は生れてから何不足なしに育てられたが、どうしたのか、泣くくせが附いて家の人を困らせたとのことだ。
 いつぞや私が泣き出すと、乳母が私を抱き、祖母さんは団扇《うちわ》で私を扇ぎ、お父さんは太鼓を敲き、お母さんは人形を持ち、家中の者が行列をなして、親見世(今の那覇警察署)の前から大仮屋(もとの県庁)の前を通って町を一周したのを覚えている。もう一つ家の人を困らせたことがある。それは私が容易に飯を喰べなかったことだ。他の家では子供が何でも喰べたがって困るが、私の家では子供が何にも喰べないで困った。そこで私に飯を喰べさせるのは家中の大仕事であった。ある時祖父さんは面白いことを考え出した。向いの屋敷の貧しい家の子供で私より一つ年上のワンパク者を連れて来て、私と一緒に食事をさせたが、私はこれと競争していつもよりたくさん喰べた。その後祖父さんはしばしばこういう晩餐会を開くようになった。
 それから祖父さんは、私と例の子供とに竹馬を造ってくれて十二畳の広間で競馬のまねをさせて非常に興に入ることもあった。その時には祖父さんはまったく子供となって子供とともに遊ぶのであった。
 先達て途中で私を呼びとめた者がいるから、誰れだろうと思ってふり向いて見ると例の竹馬の友であった。彼は私の祖父さんのことは今に忘れられない、あんな慈悲の深い人はまたといないといって涙ぐんだ。
 祖父さんは猫が大好きであった。その頃私の家には、十数匹の猫がいたが、いずれも肥え太った綺麗な猫であった。祖父さんは外から帰って来る時には、いつも咳《せき》払いするのであったが、十数匹の猫はこの声を聞くや否や、先を争って門の所まで行って、その老主人を迎えるのであった。そうすると、祖父さんは懐からカステラとかカマボコとかいうような御土産を出して、これを分配してやるようなこともしばしばあった。
 [#傍点]明治十二年には私は四歳であった。この年はわれわれ沖縄人が記憶しなければならない廃藩置県のあった年であるが、[#傍点終わり]私には当時の騒動のことなぞはわからない。出世して系図を飾るという考えを有《も》っていた祖父さんはこの政治上の変動で全然前途の希望がなくなって、心身ともに俄《にわ》かに弱ったとのことだ。おまけに[#傍点]大仮屋に出勤していた私の叔父で、当時十五になる利口の青年が、相談なしに東京に連れて行かれたので、祖父さんの落胆は一通りではなかったとのことだ、[#読点は底本のまま]私は彼の盗まれた日、親戚の者が大勢本家に集まって、人が死んだ時のように、声を立てて泣いたのを覚えている。[#傍点終わり]
 そういう心配のために、しばらくすると祖父さんは中風《ちゅうぶう》に罹《かか》った。歳の暮頃から全身が不随になって、口もきかなかった。そして目ばかりぱちぱちさせて私の顔を見ていた。
 今になって考えて見ると、祖父さんはこの恐ろしい世の中で、その最愛の孫の行末がどうなるだろうということばかり考えていたらしい、[#読点は底本のまま][#傍点]彼は沖縄が今日のように幸福な時代になろうとは、夢にも思わなかったであろう。[#傍点終わり]私の五つの年の三月に私の唯一の教育者であった祖父さんはとうとう彼の世の人となった。私は白い着物を着て下男に抱かれて葬式に出たのを覚えている。祖父さんの領地の伊波村からたくさんの人々がやって来て行列に加わったのも覚えている。

   二

 祖父さんがなくなって後、私の家は急に寂しくなった。この数カ月の間、どういうことが起ったか、またどういうことを私がやったか、よくは覚えていない。ただ旧の大晦日の二、三日前に、私の弟(月城《げつじょう》)が生れたので、祖母さんがこれを祖父さんが生れかわったのだといって、喜んでいたのを記憶しているばかりだ。
 明けると[#傍点]明治十五年私は六歳になった。この年に東京で博覧会が開かれたので沖縄の方からも多くの人々が見物に出かけた。私の本家の方では盗まれた叔父をこの機会に取り返すという議があって、一番上の伯父さんがわざわざ上京することになった。[#傍点終わり]
 叔父が盗まれたというと少し語弊があるが、当時の人は皆そういっていた。ところがその実叔父は盗まれたのではなく、自分で希望していったということだ。今になって考えて見ると、当局者はこの利口な少年を東京につれていって、新しい教育を受けさせる積りであったということがわかる。そこで[#傍点]世間の悪口屋は許田の家では子供を高価で日本人に売ったなぞといっていた。[#傍点終わり]とにかく叔父は東京に行くと間もなく、共慣羲塾に這入って勉強した。そしてさっそく断髪して服装までかえたということだ。してみると、[#傍点]叔父は沖縄から東京にいった最初の遊学生で、しかも沖縄人で断髪した者の嚆矢と言わなければならぬ。[#傍点終わり]ほかに沖縄の先輩となった岸本以下数名の青年は彼と入り違いに上京したということだ。四月に叔父はいよいよその兄さんにつれられて帰省した。故郷を飛び出して満二年で帰ったのだ。家の人は彼が断髪して、見違えるほどになったのを見て吃驚《びっくり》した。そして死んだ人が蘇って来たかのように喜んだ。その日叔父はいたって快闊に話していた。しかし二年の間母国の言葉を使わなかったためか、その語調は少し変であった。私始め親類の子供達は今までに見たことのないオモチャの御土産を貰って喜んだ。[#傍点]叔父は断髪姿で外出しては剣呑だというので、夜分でなければいっさい外出はしなかった。[#傍点終わり]数カ月経って、髪の毛が長くのびたので、また昔のように片髻《かたかしら》を結うて、盛んに親戚朋友の家を訪問していた。この年の暮に家の祖母さんが死んだ。叔父は祖母さんの墓参にはかかさずいった。そしていつも私達には東京の面白い話をして聞かせた。ところが翌年の正月に、この新文明の鼓吹者であった叔父は腸チブスに罹って急に死んだ。彼はじつに末頼もしい活撥な青年であったが、十八歳を一期として白玉《はくぎょく》楼中《ろうちゅう》の人となった。私は今までただ叔父と呼んで彼の名を言わなかったが、彼の名は許田普益であることを読者におしらせしたい。さて時勢はだんだん変って来て、沖縄から公然と数名の青年を東京に遊学させることになったので、本家の方では、こうなると思えばあのまま東京に置いておくのであったといって今更のように後悔した。叔父は今まで生きながらえていたら、まだ四十九歳で、盛んに活動している頃だが惜しいことをしたものだ。こういう事件があったために、私の親類は自然新しい文明に対して恐怖心を懐くようになった。私の家なぞは少し広すぎたに拘わらず、内地人にはいっさい間を貸さないことにした。そして私の家では私達が言うことを聞かない場合には「アレ日本人《ヤマトンチュー》ドー」といって、私達を威《おど》すのであった。私はろくに外出なぞはさせられなかったので、どこに学校があるかということさえも知らずにいた。ずっと後になって、ようやく学校のあることには気がついたが、そういう所に這入ろうという気にはなれなかった。
 七歳の時に、私は従弟と一緒に始めてある漢学塾みたいな所におくられた。そこの先生は漢那大佐の外戚の叔父に当る玉那覇某という人であったが、私達はこの人から始めて「大舜」という素読を習った。そして二、三年の間、ここで四書の素読を習った。当時の漢那君は非常なワンパク者で、いつも叔父の家に裸足で這入って来て、イモを取って食ったり、いろいろのいたずらしたりしていた。あまり大騒ぎをして私達の勉強を妨げると、玉那覇は大喝一声で退去を命じたが、未来の海軍大佐は一向平気なもので、叔父をひやかしながら退却するのであった。だいぶ後になって玉那覇先生は「今後の人はこういうものも知っていなくてはいけない」といってイロハと算術を私達に教えた。しかし学校に入学しろとすすめたことは一度もなかった。
 私の家では祖父さんがなくなり、また引続いて祖母さんもなくなったので、血気の盛んな私の父はだんだん放縦になって、酒色に耽るようになった。そして家庭の平和は破れて、私は子供心に悲哀を感じた。しかしこういうことは独り私の家にかぎったことでもないから、この事はあまりくわしく述べずに置こう。とにかく当時の沖縄の男子で子供の教育なぞのことを考えるものは一人もなかった。私の母は子供をこのままにしておくのは将来のために善くないということに気がついて、学校に出す気になった。父はこの意見にはあまり賛成しなかったが、母が独断で明治十九年の三月に師範学校の附属小学校に入校願を出した。しかしその時は人員超過で後廻しにされた。その頃、附属の主事の戸川という先生が家の座敷を借りに来たのをさいわい、母はさっそくこの先生をつかまえて一種の交換問題を提出した。それは今後私を附属に入れてくれるなら座敷を貸して上げようということであった。戸川先生はすぐ入学を許可するから座敷は是非かしてくれといって、二、三日経つと引越して来た。私はいよいよ附属に通学するようになった。これが私の十一歳の時である。[#傍点]この時の学校は那覇の郵便局の所にあった。[#傍点終わり]そして当時の新入生で私が覚えている主なる者は当真前那覇区長や我謝教諭である。[#傍点]当時の読本には「神は天地の主宰にして万物の霊なり」というようなことが書いてあったと覚えている。[#傍点終わり]この時の教生はもとの松山尋常小学校の校長祖慶先生であったが、先生はこの時から非常な熱心家であった。一、二カ月経つと祖慶先生が、突然今日は進級試験をやるからといって、一、二の問題を出して皆にきいた。私とそれからもう二人の子供はかなりうまく答えたというので、この日から三人は五級にいって授業を受けることになった。五級の先生は阿嘉先生であった。

   三

 那覇での私の学校生活はほんの一、二カ月に過ぎなかった。いくらかお友達が出来たかと思うと、私は間もなく、首里に行かなければならないようになった。[#傍点]この年師範学校が首里に引越したので、今まで附属にいた生徒達は西、東、泉崎、久茂地等の学校に分配されたが、私は戸川先生のすすめによって、首里に行くことになった。[#傍点終わり]その時私は家というものを離れた。はじめて両親の膝下《しっか》を離れるというので、出発の際などは両親を始めとして、親類の者が十名ばかり、別れを惜しんで、私を首里まで送った。わずか一里しか隔てていない所に旅をさせるのを、当時の人は東京にでも出すくらいに考えていたのであろう。世間ではまだ寝小便をするくらいの子供を手離して人に預けるのは惨酷《ざんこく》であるといって、私の両親を非難したとのことだ。実際私は時々寝小便をやらかして先生を驚かすこともあった。
 [#傍点]さて首里という所は今日は寂しい都会になっているが、その当時は随分盛んな都会であって、道を歩く時大名の行列に出合わさないことはないくらいであった。[#傍点終わり]私は時々|百人《モモソ》御物参《オモノマイリ》といって百名近くの男子が観音堂などに参詣するのを見たことがあった。
 はじめて学校に行って変に感じたのは、生徒の言葉遣いや風習が那覇と異なっていることであった。当時はまだ階級制度の余風《よふう》が遺っていて、貴族の子は平民の子を軽蔑したものだ。こういう所へ私のような他所者《よそもの》が這入ったからたまらない、彼等はいつも私を那覇人《ナーファー》那覇人といって冷かした。おまけに私は大きなカラジを結び、振り袖の着物を着て、女の子みたようであったから一層困った。元来那覇では十三歳にならなければ、元服しない(すなわち片髻《かたかしら》を結わない)規定であったが、私は十一歳の時に元服して、彼等と調子を合すように余儀なくされた。こういう風であったから、最初の間首里の学校生活は愉快ではなかった。この頃までは九〆《くじめ》といって晩の八時頃になると、円覚寺《えんかくじ》や天界寺や天王寺や末吉の寺の鐘が同時に鳴り出すので、何となく寂しいような気がして、夜はたいがいは家の夢ばかり見ていた。だから私に取っては、土曜日を待つのが何よりも楽しみであった。土曜の昼過ぎになると、いつも蒲平《カマートー》と太良《タラー》が駕籠《かご》を持って迎えに来たものだ。蒲平は六尺位の大男で太良は五尺足らずの小男であったから、随分乗り心地の悪い駕籠であったが、私には彼等に担がれていくのが何よりも楽しみであった。家に帰えると、両親の喜びは一通りではなかった。お友達も訪ねて来て、首里の話などを聞いて喜んだ。しかし私の言葉が変な調子になっているのを聴いて笑っていた。
 月曜日の朝は例の駕籠で首里に上った。今になって考えてみると、首里にいったのは私にとっては非常な幸福であった。それはこの頃の家の悶着を聞かずに済んだから。
 私の同級生にはもとの首里区の徒弟学校長の島袋盛政君がいた。彼は幼少の時、私の近所で育った人で、私より一年ばかり前に首里にいったのであるが、その頃はもう首里の方言を使って、首里人と識別することが出来ないようになっていた。
 [#傍点]このころは首里・那覇に人力車は一台もなかった。沖縄中に知事さんの車がたった一つあったばかりで、これを県令車といっていた[#傍点終わり]から貴族の方々や師範中学の先生達はおおかた駕籠で往復したものだ。師範中学の先生達は土曜日になると、よく集まって酒を呑んだものだが、ほろ酔加減になると、例の駕籠を用意させて那覇に下っていくのであった。その翌年すなわち明治二十年に、首里の安慶田という人が大阪から十二台ほど人力車を取寄せて、人力車営業を始めたが、この車が通ると、沿道の人民は老幼男女を問わず、門の外に飛出して見物するのであった。これからはもう師範中学の先生達の那覇下りも楽になった。私も時々高い車賃を払ってこれに乗った。車賃は確か片路で二十六銭であったと覚えている。この時から私の変ちきりんの籠はあまり見えないようになった。

   四

 この年の二月、森文部大臣が沖縄の学校を視《み》に来られた頃は、師範学校の生徒中に、断髪した者は一人もなかった。その頃断髪したのは沖縄中に一、二名しかなかった。私は伊江朝貞君(日本キリスト教の宣教師)が師範学校の寄宿合に行って、富永先生(元の高等女学校長)に片髻《かたかしら》を結って貰ったのを覚えている。
 [#傍点]この結髪の師範生等が、靴をはき、鉄砲をかついで、中隊教練をやり始めたら、口さがなき京童は、「鉄砲かためて靴くまち、親の不幸やならんかや」と歌って、彼等を嘲けった。[#傍点終わり]しばらくして、師範生中で桑江(元の佐敷校長)、奥平(菓子屋の主人)等五、六名のものが断髪したら、世間の人から売国奴として罵られた。ある時この連中が識名園《しきなえん》に遊びに行くと、見物人が市をなして歩けないくらいであったということだ。ところがこれから一年も経って、二十一年の四月頃になると、師範生中には最早一人の結髪者も見えないようになった。
 小学校で体操や唱歌や軍歌が始まったのもこの時だ。私は行軍の時にはいつでも「我は官軍」や「嗚呼正成よ」の音頭取をやらせられた。よほど後になって、首里の小学校では「昔唐土の朱文公」という軍歌をうたい出した。そうすると、那覇の小学校でも「一つとせ」という軍歌をやり始めた。
 戸川先生は私にわざわざ那覇からつれて来たからには、一番になってくれないと困る、と言われたが、私は元来が懶《なま》ける性質なので、いつも五、六番位のところに落着いていた。そういう風に愚図愚図していたから、私はとうてい「ヤマトジフエー」なる先生の気に入る事は出来なかった。後で聞くと、先生は私の行末を悲観しておられたとのことだ。
 その頃、私は出しゃばる癖があったが、某先生が修身の時間に「実の入らぬ首折れれ」という俚諺《りげん》を説明して、私に諷刺をしたので、私は俄《にわか》にだんまりになった。私は戸川先生の所に二年ほどいたが、先生の都合で中学の平尾先生の所に預けられた。
 ある時私は本校生の真似をして、靴を買ってはいたら、あの子供は今に断髪をするだろう、といつてそしられた。
 この頃であったろう、学校から帰えると、私はいつも城の下に蝶々を採りにいったが、田村軍曹に蝶々二十匹位|分捕《ぶんどり》されて泣いたこともあった。
 私はこれから軍人が少々嫌いになった。平尾先生の所には一年位もいたが先生が先島に転任されたので、今度は家に帰って、毎日一里以上のところを通学するようになった。歳の若い私には、道が遠過ぎて、学校も自然欠席がちになった。そこで家では弟の乳母の子で私と同歳になる仁王という小僧を私に付てやったが、学校へ行くまねをして、よく八幡の寺の辺で遊んだものだ。私が名も知れない野生の花を摘んでいる間に、仁王は阿旦葉《あだんば》でラッパを造って吹いていた。この頃私の家にはいろいろの事件がおこった。私の身の上にも多少の変化がおこった。とにかくいろいろのことがあるのだけれども、それはそのうち都合のよい時、自分で素破《すっぱ》抜くことにして、ここでは言わないことにする。

   五

 学校から帰えると、私はいつも城嶽の前のちっぽけな別荘にいって勉強していたが、首里にいた時分から昆虫の採集に趣味を有《も》つようになり、昆虫のことを書いた本を愛読して、いつも蝶々ばかり追いまわしていた。城嶽の辺は私にとってはじつに思い出の多いところだ。
 [#傍点]高等一年の時であったろう、はじめて沖縄史を教えられたが、私にはそれが何よりも面白かった。この以前平尾先生の所にいた時、西村県令(知事)の『南島紀事』を読んで、郷土についていくらか趣味を感じたことはあるが、私が今日郷土の研究に指を染めるようになったのは、専らこの人の影響ではないかと思う。[#傍点終わり]ところが私はこの先生の名を忘れた。この先生が首里の人でもなく、那覇の人でもなく、田舎の人であったというだけは確かに覚えている。私はこの無名の先生に感謝せなければならぬ。
 私は満五カ年の小学校生活を切り上げて明治二十四年の四月に、いよいよ中学に這入るようになった。当時の中学はもとの国学のあとにあったが、随分古風な建築物であった。一緒に這入った連中は漢那(大佐)や照屋(工学士)や当間(前区長)や真境名(笑古)などであった。これから私は那覇人中にも友達が出来るようになった。この時二年以上の生徒はおおかた断髪をしていたと覚えている。
 ある日のこと、一時間目の授業が済むと、先生方が急に教場の入口に立ちふさがった。何だか形勢が不穏だと思っていると、教頭下国先生がずかずかと教壇に上って、一場の演説を試みられた。その内容はよくは覚えてはいないが、アメリカインデアンの写真を見たが、生徒はいずれも断髪をして洋服を着ている。ところが日本帝国の中学の中で、まだ結髪をしてだらしのない風をしているところがあるのは、じつに歎かわしいことだ、今日皆さんは決心して断髪をしろ、そうでなければ退校をしろ、という意味の演説であったと思う。全級の生徒は真青になった。頑固党の子供らしい者が、一、二名叩頭をして出ていった。父兄に相談して来ます、といって出ていったのもあった。しばらくすると、数名の理髪師が入口に現われた。この一刹那に、先生方と上級生は手々に鋏を持って教場に闖入し、手当り次第チョン髷を切落した。この混雑中に窓から飛んで逃げたのもいた。宮古島から来た一学生は切るのを拒んだ。何とかいう先生が無理矢理に切ろうとしたらこの男、簪《かんざし》を武器にして手ひどく抵抗した。あちこちですすり泣きの声も聞えた。一、二時間経つと、沖縄の中学には、一人のチョン髷も見えないようになった。翌日は識名園で祝賀会が開かれた。この時戦ごっこをやったが、先生と生徒との組打もあった。児玉校長が芋虫が蟻群に引摺られるように、二、三十名の新入生に引摺られるのもおかしかった。この時断髪した者の中で、父兄の反対にあって、退校して髪を生やしたのも二、三名いた(世間の人は彼等のことを「ゲーイ」といった、「ゲーイ」とはやがて還俗のことだ)。私の友達に阿波連という者がいたが、これがために煩悶して死んだ。彼は漢那君と同じくらいに出来た末頼もしい青年であったが。さて私の時分は、こういう悲劇のような喜劇で一段落を告げた。今から考えると、凡《まる》で夢のようである。読者諸君がこれによってわが沖縄の変遷を知ることが出来たら望外の望である。私はそのうち気が向いた時、私の青春時代の事を書いてみようと思う。(終り)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『龍文』沖縄県師範学校附属小学校創立四十周年記念誌
   1921(大正10)年11月20日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [東京]
  • 共慣羲塾
  • [伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
  • 阿濃津 あのつ → 安濃津
  • 安濃津 あのつ 三重県津市の港の古称。博多津・坊津とともに中世の三箇津の一つ。あののつ。
  • [摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。
  • 兵庫 ひょうご 近畿地方北西部の県。但馬・播磨・淡路3国、摂津国の西半部、丹波国の一部を管轄。県庁所在地は神戸市。面積8395平方キロメートル。人口559万1千。全29市。
  • [日向] ひゅうが (1) (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。(2) 宮崎県北部の市。旧幕府直轄領。市の北東部にある細島港は天然の良港で京浜・阪神とのフェリーの発着地。人口6万4千。
  • 飫肥 おび 宮崎県南東部、日南市の中心地区。もと飫肥藩伊東氏5万石の城下町。
  • [筑前] ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
  • 博多 はかた 福岡市東半部の地名。博多湾に面した港町・商業都市として発展。西隣の城下町福岡とともに、現在の福岡市の中心部を形成。古く官家が置かれて諸国の屯倉からの穀を収め、また朝鮮半島との交通の要衝として開けた。古名、那大津・那津。
  • [豊州] ほうしゅう 豊前・豊後国の総称。
  • [熊本]
  • 熊本鎮台 くまもと ちんだい 現、熊本市本丸。明治7年、熊本城内は熊本鎮台用地に編入された。
  • [薩摩] さつま 旧国名。今の鹿児島県の西部。薩州。
  • 坊津 ぼうのつ 鹿児島県南さつま市の町名。薩摩半島南西端の港で、古代、遣唐使の出発地。筑前の博多津、伊勢の安濃津とともに中世の三箇津の一つ。室町時代に最も繁栄、江戸時代も大陸や琉球との密貿易の根拠地となる。
  • 山川 やまがわ 町・郷・湊の名。現、揖宿郡山川町。薩摩半島の南端、鹿児島湾口に位置し、揖宿郡の南端東部にあたる。
  • [琉球] りゅうきゅう 沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。15世紀統一王国が成立、日本・中国に両属の形をとり、17世紀初頭島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、1879年(明治12)沖縄県となる。
  • 久米村 くめむら/くにんだ 現、那覇市久米。市中央西部の海辺近く、久茂地川沿いに位置する。北から南は那覇に囲まれ、若狭町村・辻村・西村・東村・泉崎村、東は当村から分離して成立した久茂地村、北東は泊村に接する。
  • 読谷山 ヨンタンジャ 村名。現、中頭郡読谷村。沖縄島中部の西海岸に位置する。
  • 長浜 ナガハマ  村名。現、読谷村長浜。
  • 湾 ワン 村名。大湾村か。現、読谷村大湾。
  • 渡具地 トグチ 村名。現、読谷村渡具地。古堅村の西。
  • 安谷屋 アダニヤ/あだんな 村名。安谷屋村。現、北中城村安谷屋。
  • 古堅村 ふるぎんむら 現、読谷村古堅。大湾村の南。
  • 宜野湾 ぎのわん 沖縄本島南西部にある市。第二次大戦後都市化が進んだ。アメリカ軍基地が広い面積を占める。人口9万。
  • 伊波村 いはむら 村名。源、島尻郡東風平町伊覇。
  • 御物城 おものぐすく 現、那覇市桓花町。那覇港中の小岩礁に築かれた公倉。/近世以前に那覇港内の岩礁上に築かれた対外交易の基地倉庫。それにちなんで対外貿易を統轄する職を御物城御鎖之側(おさすのそば)とよんだ。近世に入ると職務が変化し、那覇里主とともに那覇を専管。那覇里主が首里士族から選任されたのに対し、御物城は那覇士族から選任された。那覇士族の最高職で役知行は80石。(日本史)
  • 古波蔵村 こはぐら/くふぁんぐわ 村名。現、那覇市古波蔵。
  • 首里 しゅり 沖縄本島南部の旧都。今、那覇市の東部。もと琉球国王尚氏王城の地。外郭に石垣をめぐらす。
  • 西村 にしむら 村名。現、那覇市西。那覇の南西部に位置。
  • 東村 ひがしむら 村名。現、那覇市東町。
  • 泉崎 いずんざち 村名。現、那覇市泉崎。
  • 久茂地 くむじ/くもじ 村名。現、那覇市久茂地。久米村の東。
  • 円覚寺 えんかくじ 現、那覇市首里当蔵町二丁目。首里城久慶門の北にあった臨済宗の寺。沖縄戦で破壊され、復元・修復された総門と放生池・放生橋があるのみ。国指定史跡。
  • 天界寺 てんかいじ 現、那覇市首里金城町一丁目。首里城の西、守礼門の南にあった臨済宗の妙心寺派の寺院。明治後期に廃寺。琉球国王尚家の菩提寺で、円覚寺・天王寺とともに王府の三大寺。
  • 天王寺 てんのうじ 現、那覇市首里当蔵町二丁目。蓮小堀を隔てて広徳寺の東にあった臨済宗の寺。
  • 末吉 しーし/すえよし 村名か。現、那覇市首里末吉町。「末吉の寺」は遍照寺のことか。東寺真言宗。もと護国寺の末寺で、末吉宮の神宮寺。
  • 那覇 なは 沖縄本島南西部、東シナ海に面する市。沖縄県の県庁所在地。太平洋戦争中に焦土と化し、戦後米軍の沖縄占領中は軍政府、のちに民政府・琉球政府がおかれた。市の東部、首里には再建した首里城など史跡が多い。人口31万2千。
  • 親見世 おやみせ 今の那覇警察署。/王府の役所の一。方言ではウェーミンと発音する。那覇の東村と西村の境に位置した。親見世は「御店」の意とされ、古琉球には諸国との交易の商品を収納し売買する役所で。「海東諸国」に「国庫」と記される。近世には筆者・大屋子らが詰め、那覇四町の民政にあたった。(地名)
  • 親見世 うえーみし 現、那覇市東町。近世の東村にあった役所で、近世は那覇の民政ほかをつかさどった。ウェーミシとよぶ。設立年代は不詳であるが、『琉球国由来記』には、那覇の公界所であり、かつ諸国との交易事務を担い、貿易品の取納・売払をおこなう役所だったとしている。
  • 大仮屋 もとの県庁。
  • 仮屋 かりや 方言でカイヤ。首里王府が派遣した在番役人の役宅。薩摩鹿児島藩が外城(郷)に置いた政庁にちなんだ呼称。那覇には鹿児島藩の在番仮屋(御仮屋)が置かれた。
  • 八幡の寺
  • 城岳 ぐすくだけ 城嶽。現、那覇市楚辺一丁目にある小丘陵。最高所は標高約32m。景勝の地として知られた。現在は城岳公園として整備されている。
  • 佐敷町 さしきちょう 沖縄本島南部にあった町。2006年1月に知念村、玉城村、大里村と合併し南城市となり消滅。町役場は字佐敷に置かれ、合併後は南城市役所佐敷庁舎となった。
  • 識名園 しきなえん 沖縄県那覇市識名にある琉球庭園の一つ。識名の御殿とも、また首里城の南にあることから南苑とも呼ばれた。造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752年 - 1795年)の時代に始まったと言われるが定かではない。完成は尚温の時代の1799年。
  • 先島 → 先島諸島か
  • 先島諸島 さきしま しょとう 沖縄県南西部の宮古諸島と八重山諸島の総称。尖閣諸島を含めることもある。
  • 宮古島 みやこじま (1) 沖縄県、宮古諸島の主島。面積159平方キロメートル。サトウキビ・宮古上布を産する。(2) 沖縄県の市。(1) を含む宮古諸島のほぼ全域を市域とする。2005年、平良市ほか5市町村が合併して発足。人口5万3千。
  • 八重山 やえやま → 八重山列島か
  • 八重山列島 沖縄県に属する諸島。八重山諸島とも言う。沖縄県八重山郡。
  • [中国]
  • �p びん (1) 中国、五代十国の一つ。後梁から�p王に封ぜられた王審知が福州を都として建てた国。6世で南唐に滅ぼされた。(909〜945)(2) 中国福建省の別称。
  • 甘粛省 かんしゅくしょう (Gansu)中国北西部の省。省都は蘭州。面積約45万平方キロメートル。明代まで陝西省に属したが、清初に分離。古来、天山南北路に連なる東西交通路に当たり、西域文化が栄えた。略称、甘。別称、隴。
  • 渭水 いすい 渭河。(Wei He)中国甘粛省蘭州北西の岷山山脈の北麓に発源し、東流して陝西省の中央を流れ、潼関の東方で黄河に合流する川。全長約800キロメートル。流域は黄土の沃野で、周・秦・漢・唐の旧都がある。渭水。渭川。
  • 天水 てんすい (Tianshui)中国甘粛省南東部、渭水沿岸の都市。隴海鉄道沿線にあり、甘粛・陝西・四川3省の交通の要衝。付近に麦積山石窟がある。人口111万(1995)。
  • 寧波 ニンポー (Ningbo)中国浙江省北東部の沿海港湾都市。1842年南京条約により開港。遣唐使派遣時より日中交通の要地として知られた。人口156万7千(2000)。ねいは。 
  • 福州 ふくしゅう (Fuzhou)中国福建省の省都。�p江下流に位置し、古来からの貿易港で、茶・木材・竹紙などの集散地。軽工業が発達。人口212万4千(2000)。
  • [モンゴル]
  • [チベット]


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 慶長一九(一六一四) (琉球入りがあってから六年後)三郎(名乗りは普元、唐名(カラナ)は魚登龍、生まれる。
  • 元和九(一六二三) 『おもろそうし』編纂。
  • 寛永一七(一六四〇) 魚登龍、二十七歳。この年、八重山出兵。
  • 明治九(一八七六) このころ熊本鎮台の分遣隊が古波蔵村に置かれ、松田道之がくる。
  • 明治一二(一八七九) 伊波普猷、四歳。この年、沖縄にて廃藩置県。叔父、東京へ出る。
  • 明治一三(一八八〇)三月 祖父亡くなる。普猷、五歳のとき。
  • 明治一四(一八八一)旧の大晦日の二、三日前 弟(月城)生まれる。
  • 明治一五(一八八二) 東京で博覧会が開かれる。
  • 明治一五(一八八二)四月 叔父、その兄につれられて帰省。
  • 明治一五(一八八二)暮れ 祖母、死去。
  • 明治一六(一八八三)正月 叔父、腸チフスにかかって急死。十八歳。
  • 明治一九(一八八六)三月 母が独断で師範学校の付属小学校に入校願を出す。この年、師範学校が首里に引っ越す。普猷、家を離れて首里に行く。
  • 明治二〇(一八八七) 首里の安慶田、大阪から十二台ほど人力車を取り寄せて、人力車営業を始める。
  • 明治二〇(一八八七)二月 森有礼文部大臣、沖縄の学校を視察。師範学校の生徒中に断髪した者は一人もない。そのころ断髪したのは沖縄じゅうに一、二名。
  • 明治二一(一八八八)四月 このころ、師範生中に結髪者いなくなる。
  • 明治二四(一八九一)四月 普猷、中学に入る。
  • 大正五(一九一六)一月一日 普猷「追遠記」『沖縄毎日新報』所載。
  • 大正一〇(一九二一)一一月二〇日 普猷「わたしの子ども時分」『龍文』沖縄県師範学校附属小学校創立四十周年記念誌。
  • 大正の末ごろ 普猷、親戚の宮城普喜君をさそって長浜に遊び、三〇〇年前に手をわかった一腹氏に歓待される。
  • 昭和一七(一九四二)七月 「追遠記」改稿。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • -----------------------------------
  • 追遠記
  • -----------------------------------
  • 魚氏
  • 明帝 めいてい (1) 後漢第2代の皇帝。劉荘。儒教を奨励し、内治外征に尽力、班超を西域に派遣。67年夢に感じて西域に仏教を求めさせたという。(在位57〜75)(28〜75)(2) 三国の魏の第2代皇帝。曹叡。司馬懿に命じて蜀を討ち、東北・朝鮮に領土を広め、魏律を制定。(在位226〜239)(205?〜239)
  • 武藤長平 むとう ちょうへい 1879-1938 文学士。伊波普猷の学友。/大正期の日本史学者。広島高等師範学校教授。近世史を研究。(人レ)
  • 渡辺世祐 わたなべ よすけ 1874-1957 日本史学者。山口県生まれ。文学士。著『室町時代史』。
  • 島津氏
  • 大殿内 オオドンチ
  • 尚清王 しょう せいおう 1497-1555 第二尚氏王朝の第4代国王。第3代国王・尚真王の第5王子(在位:1527年 - 1555年)。童名は真仁堯樽金。1526年12月11日に父が死去した後の翌年に即位する。1534年、明王朝に冊封を受ける。1537年には奄美大島で起こった与湾大親による反乱を鎮圧し、同時に倭寇に対する圧力、防備も強化するなど軍事面で大きな功績を挙げた。
  • 賀山太郎右衛門 豊州の商人。
  • 思乙 オミト 賀山太郎右衛門の娘。
  • 牛助春 〓 大頭《オオツブル》我那覇。
  • 三郎 名のりは普元、唐名は魚登龍。
  • 宮城普喜 伊波普猷の親戚。
  • 一腹氏 チョハラウジ
  • 多賀良《タカラ》筑登之《チクドン》親雲上《ペーチン》 魚登龍。
  • 伊那峰《イナンミ》親雲上《ペーチン》
  • 真世仁 マゼニ 伊那峰親雲上の娘。
  • 真境名笑古 まざきな しょうこ → 真境名安興
  • 真境名安興 まざきな あんこう
  • 渋谷 薩州の将。
  • 喜入 きいれ 薩州の将。
  • 小禄《オロク》親雲上良宗 那覇の柏氏。
  • 幸地《コウチ》親雲上長則 泊の明氏。
  • 読谷山《ヨンタンジャ》按司《アンジ》朝宗 向氏。
  • 仮三司官《カリサンシカン》章氏
  • 宜野湾《ギノワン》親方《オヤカタ》正成
  • 冬比貞衛門
  • 思乙 冬比貞衛門の娘。
  • 魚徳盛|中里《ナカザト》
  • 筑登之《チクドン》親雲上《ペーチン》普信
  • 袁氏 謡島袋などの系統。
  • 宮氏
  • 呉氏 伊波普猷の母方。
  • 鬼大城
  • モモトフミアガリ 阿麻和利夫人。
  • 阿麻和利 あまわり ?-1458 勝連半島を勢力下に置いた按司。北谷間切屋良村(現・嘉手納町字屋良)出身。史書によれば、悪政を強いる前城主の茂知附按司を倒して勝連城の按司となる。東亜細亜との貿易を進め大陸の技術などを積極的に取り入れた。
  • 麻文仁《まぶに》家 → 摩文仁か
  • 摩文仁 まぶに 沖縄本島南部の集落名。近世〜明治期には摩文仁を主邑とする摩文仁間切(まぎり)があった。1908年(明治41)摩文仁村となる。第二次大戦の沖縄の戦では、首里戦線撤退後、日本軍司令部が摩文仁の丘におかれ、住民・日本軍はこの地に追いつめられて、多くの犠牲者を出した。現、糸満町。(日本史)
  • 尚巴志王 しょう はしおう 1372-1439 在位1421年 - 1439年。尚思紹王の子供で、琉球王国・第一尚氏王統第2代目の国王。初代琉球国王。神号は勢治高真物。父思紹、母美里子の娘の長男として生まれる。
  • 北山王 ほくざんおう → 北山
  • 北山 ほくざん 14〜15世紀に沖縄本島北部に成立した王権。居城は今帰仁城。中国の史書は山北と記す。中山・南山に続いて1383年、怕尼芝(はにし)が明太祖の冊封を受け、琉球国山北王となった。中国への進貢貿易を展開したが、三山の中で進貢回数などは最下位であった。1416年攀安知(はんあんち)のとき、中山に攻め滅ぼされた。滅亡年については1420年頃とする説もある。(日本史)
  • -----------------------------------
  • わたしの子ども時分
  • -----------------------------------
  • 松田道之 まつだ みちゆき 1839年-1882 内務官僚・政治家。大津県令、滋賀県令(初代)、東京府知事(第7代)などを務めた。琉球処分において中心的な役割を果たしたことで知られる。
  • 伊波月城 いは げつじょう 1880-1945 伊波普猷の弟。/別名、伊波普信、伊波普成。明治〜昭和期の新聞記者、文芸評論家。近代沖縄を代表する言論人、思想家として著名。(人レ)
  • 許田 きょだ?
  • 岸本 岸本賀昌。
  • 許田普益 ?-1883 きょだ 〓 伊波普猷の叔父。
  • 漢那大佐 → 漢那憲和
  • 漢那憲和 かんな けんわ 1877-1950 琉球藩那覇区西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。大日本帝国海軍の軍人、海軍少将、政治家。海軍兵学校27期卒。大正時代、当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元・沖縄県選出の衆議院議員となった。
  • 玉那覇 たまなは
  • 戸川 〓 師範学校付属小学校の主事の先生。
  • 当真 → 当間か
  • 当間 とうま 前那覇区長。
  • 我謝教諭 がじゃ?
  • 祖慶先生 〓 教生。もとの松山尋常小学校の校長。
  • 阿嘉先生 あか? 五級の担任。
  • 蒲平 カマートー
  • 太良 タラー
  • 島袋盛政 しまぶくろ 〓 首里区の徒弟学校長。伊波普猷の同級生。
  • 安慶田 〓 首里。人力車を営業。
  • 森文部大臣 → 森有礼
  • 森有礼 もり ありのり 1847-1889 政治家。薩摩藩士。幕末欧米に留学、新政府に入る。明六社を設立。文相となり、学校令の公布など教育制度の基礎を固める。欧化主義者とみなされ、国粋主義者により暗殺。
  • 伊江朝貞 日本キリスト教の宣教師。
  • 富永先生 元の高等女学校長。
  • 桑江 〓 元の佐敷校長。
  • 奥平 〓 菓子屋の主人。
  • 朱文公 しゅもんこう?
  • 平尾先生
  • 田村軍曹
  • 仁王 弟の乳母の子で伊波普猷と同歳。
  • 西村県令 → 西村捨三
  • 西村捨三 にしむら すてぞう 1843-1908 彦根藩士。官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。/著『南島紀事』。
  • 照屋 てるや? 照屋宏。工学士。伊波普猷と中学の同級。
  • 下国良之助 〓 中学教頭。
  • 児玉喜八 〓 校長。
  • 阿波連 あわれん


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • -----------------------------------
  • 追遠記
  • -----------------------------------
  • 『明医小史』
  • 『室町時代史』 渡辺世祐の著。
  • 「三偉人とその背景」 伊波普猷の著。
  • 『おもろそうし』 おもろさうし。尚清王代の嘉靖10年(1531)から尚豊王代の天啓3年にかけて首里王府によって編纂された歌集。沖縄の古い歌謡であるおもろを集録したもの。漢字表記すれば「おもろ草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられる。なお「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられている。全22巻。
  • 『魚氏家譜』
  • 『沖縄毎日新報』 ※ 底本「解題」には初出『沖縄毎日新聞』とある。
  • -----------------------------------
  • わたしの子ども時分
  • -----------------------------------
  • 「大舜」
  • 「我は官軍」
  • 「ああ正成よ」
  • 「むかし唐土の朱文公」
  • 「一つとせ」
  • 『南島紀事』 県令、西村捨三の著。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • -----------------------------------
  • 追遠記
  • -----------------------------------
  • 追遠 ついえん [論語学而「終りを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す」]先祖の徳を追慕して心をこめて供養すること。
  • 家譜 かふ 近世、首里王府の士族層の家系に関する記録。系図ともいう。1879年の廃藩置県まで書き継がれた。沖縄島の町方士の家譜は約700系統で(姓の数は400余)、約3000冊が作成された。(地名)
  • 按司 あじ/あんじ (アンズ・アジとも)古琉球の階級の一つ。諸侯に相当する。もと領主の意、後には一間切(村)を与えられた王家の近親をいう。
  • おもろ (「思い」と同源で、神に申し上げる、宣(の)り奉るの意)沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、ほぼ12世紀から17世紀はじめにわたって謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」(22巻、1554首、1531〜1623年)がある。
  • 祝女 ノロ 祝女・巫女。(沖縄で)部落の神事をつかさどる世襲の女性司祭者。
  • 宇座 ウーザ
  • タチヨモイ
  • 親雲上 ペーチン/おやくもい 琉球の官職。ペーチンとも読む。親方の下で筑登之の上。1村程度を所領とし、行政上重要な役職の大部分は、この層から選任された。
  • 筑登之 ちくどうん/チクドゥン 古琉球辞令書に「ちくどの」の名で登場し、ヒキ制度の副主任級にあたる。筑登之はその当て字。近世では低位の位階に用いられた。
  • 天主教 てんしゅきょう (明治・大正期までの語)カトリック教の別称。キリシタン宗。
  • 中風 ちゅうぶう (チュウフウ・チュウブとも)半身の不随、腕または脚の麻痺する病気。脳または脊髄の出血・軟化・炎症などの器質的変化によって起こるが、一般には脳出血後に残る麻痺状態をいう。古くは風気に傷つけられたものの意で、風邪の一症。中気。風疾。
  • 尸婦 しふ
  • 容宥 ようゆう?
  • -----------------------------------
  • わたしの子ども時分
  • -----------------------------------
  • 険難・剣呑 けんのん (ケンナンの転という。「剣呑」は当て字)あやういこと。あやぶむこと。
  • 片髻 かたかしら → 欹髻
  • 欹髻 かたかしら 首里王府時代の成人男子の髪型。士族も百姓も同じ髪型である。結い方は、頭の中央部をそり、さらにそのまわりの髪を短く切り、残りの髪を頭頂で束ねてやや卵形に結いあげ、後方から前方へ副簪(そえかんざし)を通し、次に前方から後方へ本簪の髪差を、花の部分を正面にして差し通す。名称はもともと頭の片方に偏って結髪したことに由来するとされる。(日本史)
  • 活撥 かっぱつ 活発。
  • 一期 いちご (1) 一生。一生涯。生まれてから死ぬまで。(2) 臨終。
  • 白玉楼中の人となる はくぎょく ろうちゅう (「書言故事」にある、唐の文人李賀の臨終に天の使いが来て、「天帝の白玉楼成る、君を召してその記を作らしむ」と告げたという故事による)文人・墨客の死ぬこと。
  • 教生 きょうせい 教員養成に必要な教育実習を行うために付属学校等に配属されている学生。教育実習生。
  • 百人御物参 モモソ オモノマイリ
  • カラジ
  • 九〆 くじめ
  • 口さがない くちさがない 口うるさくやたらに言いふらす傾向がある。
  • ヤマトジフエー
  • 実の入らぬ首折れれ
  • 阿旦葉 あだんば → 阿檀か
  • 阿檀 あだん タコノキ科の熱帯性常緑低木。樹皮は暗褐色で葉跡がめだつ。幹の下部から多数の気根を出す。沖縄・台湾に自生。葉で日除帽子やうちわを、また、気根を裂いて乾かし、わらじを作る。茎は弦楽器の胴、根はキセル材など、生活用品の材料に多用された。タコノキとごく近縁。
  • 叩頭 こうとう (頭で地をたたく意)頭を地につけて拝礼すること。叩首。
  • やがて還俗


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 岡本真さん「本を送りません宣言」。さすが。一部抜粋。

・被災地に古本を送りません。また、新品を贈ることにも慎重にふるまいます。被災地には「本」で営みを立てている方々もいます。
・古本はバザーやフリーマーケットで売り、現金にして支援に役立てるほうが効果的です。

 同感。天童でもスーパーがてんやわんやだったりコンビニが閉店をよぎなくされたりJRもストップ、市立図書館も節電臨時休館していた震災3、4日目ごろだったろうか、ブックオフと八文字屋書店がいちはやく営業。雪空のなか、連日の震災報道にうんざりしはじめた人や学生たちの姿が少なくなかった。
 
 瞬間、本を購入して被災地に送ることを考えたが、けっきょくやめた。「本で営みを立てている方々もいます」。これは書店にかぎったことでなくほかの支援物資にも同様にいえることで、「善意」が被災地やその周辺の商業活動をズタズタにしてしまうことも大いに予想がついた。
 じぶんにできることは何だろうか……じぶんが最も得意で力を発揮できることは何だろうか。自問の答えは、ほどなく出た。三月二六日、今村明恒『地震の話』から個人出版を再開する。
 
 21日(土)くもり。『平清盛』の評判を二、三、耳にしたので、駅ビルにて第二回を観賞。元服する清盛、白河皇の前で舞をまう。




*次週予告


第四巻 第二七号 
ユタの歴史的研究 伊波普猷


第四巻 第二七号は、
二〇一二年一月二八日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第二六号
追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
発行:二〇一二年一月二一日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉        
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉

  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  • 原子力の管理
  •  一 緒言
  •  二 原子爆弾の威力
  •  三 原子力の管理
  •  
  • 日本再建と科学
  •  一.緒言
  •  二.科学の役割
  •  三.科学の再建
  •  四.科学者の組合組織
  •  五.科学教育
  •  六.結語
  •  
  • 国民の人格向上と科学技術
  • ユネスコと科学
  •  
  •  原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。「日本再建と科学」より)
  •  科学は呪うべきものであるという人がある。その理由は次のとおりである。
  •  原始人の闘争と現代人の戦争とを比較してみると、その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある。個人どうしのつかみ合いと、航空機の爆撃とをくらべて見るがよい。さらに進んでは人口何十万という都市を、一瞬にして壊滅させる原子爆弾にいたっては言語道断である。このような残虐な行為はどうして可能になったであろうか。それは一に自然科学の発達した結果にほかならない。であるから、科学の進歩は人類の退歩を意味するものであって、まさに呪うべきものであるという。「ユネスコと科学」より)
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  • J・J・トムソン伝
  •  学修時代
  •  研究生時代
  •  実験場におけるトムソン
  •  トムソンの研究
  •  余談
  • アインシュタイン博士のこと 
  •  帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気を帯びたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉されたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。(略)
  •  電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物が一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性を有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個の忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快である。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  • 総合研究の必要
  • 基礎研究とその応用
  • 原子核探求の思い出
  •  湯川君の受賞
  •  土星原子模型
  •  トムソンが電子を発見
  •  マックスウェル論文集
  •  化学原子に核ありと発表
  •  原子核と湯川君
  •  (略)十七世紀の終わりに、カヴェンジッシュ(Cavendish)が、ジェレキ恒数〔定数〕・オーム則などを暗々裏に研究していたが、その工業的価値などはまったく論外であった。一八三一年にファラデー(Faraday)が誘導電流を発見したけれども、その利用は数十年後に他人によって発展せられ、強電流・弱電流・変圧器・モーターなどにさかんに用いられ、結局、電気工学の根幹はこの誘導電流の発見にもとづくものといってよろしい。(略)近年は電気工学の一部門として、電子工学なるものが生まれた。その源をたずねてみると、J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が気体中の電気伝導を研究したのに始まっている。気体が電離すると、物質は異なっていても必ず同じ帯電と同じ質量を持っている微細なものが存在する。すなわち電子であって、今日まで知られているもっとも微質量の物質である。その帯電を利用し、自由にこれが速度を調節することが可能であることを認め、はじめてフレミング(Fleming)によって無線通信を受けるに使われた。(略)
  •  つぎに申し上げるのは、光電池のことである。ドイツの片田舎ウォルフェンブッテル(Wolfenbu:ttel)の中学教員エルステル(Elster)とガイテル(Geitel)は、真空内にカリウム元素を置き、これに光をあてると電子の発散するのを認め、ついにこれをもって光電池を作った。近ごろではカリウムよりセシウム(Caesium)が感度が鋭敏であるから、物質は変化したけれども、その本能においては変わらない。この発見者はこれを工業的に発展することはべつに考えなかったが、意外な方面に用いられるようになった。すなわち光度計としては常識的に考えうるが、これを利用してドアを開閉し、あるいは盗賊の警戒にもちい、あるいは光による通信に利するなど、意外なる利用方法が普通におこなわれるようになった。もっともさかんに使われるのは活動写真のトーキーであろう。光電池の創作者にこの盛況を見せ得ないのは残念である。
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  •  (略)当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、然様さようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひき鷹を肘にして遊ぶほどの身分でもなく、さればといって何の洒落た遊技を知っているほど怜悧(れいり)でもない奴は、他に知恵がないから博奕を打って閑(ひま)をつぶす。戦(いくさ)ということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチが流行る。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭(か)ける料がなくなる。負ければ何の道の勝負でもくやしいから、賭ける料がつきてもやめられない。仕方がないから持ち物をかける。また負けて持ち物を取られてしまうと、ついには何でも彼でもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついには賭けるものがなくなる。それでも剛情にいまひと勝負したいと、それでは乃公(おれ)は土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度、戦のある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約を果たせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束に従ってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、分捕(ぶんどり)して渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前(とまえ)受け取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有ではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  •  (略)政宗も底倉(そこくら)幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師として茶事を学んで、秀吉をして「辺鄙(ひな)の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足〔高弟のこと。〕であった。(略)また氏郷があるときに古い古い油を運ぶ竹筒を見て、その器をおもしろいと感じ、それを花生けにして水仙の花を生け、これも当時風雅をもって鳴っていた古田織部に与えたという談が伝わっている。織部はいまに織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺している人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘(わび)に徹した人である。氏郷のその花生けの形は普通に「舟」という竹の釣花生けに似たものであるが、舟とはすこし異なったところがあるので、今にその形を模した花生けを舟とはいわずに、「油さし」とも「油筒」ともいうのは最初の因縁からおこってきているのである。古い油筒を花生けにするなんというのは、もう風流において普通を超えて宗匠分になっていなくてはできぬ作略で、宗匠の指図や道具屋の入れ知恵を受け取っている分際の茶人のことではない。(略)天下指折りの大名でいながら古油筒のおもしろみを見つけるところはうれしい。(略)氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込んでいたのは利休の教えを受けた故ばかりではあるまい、たしかに料簡の据えどころを合点して何にも徹底することのできる人だったからであろう。しかも油筒ごとき微物をとりあげるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙を所望したときには、それが蒲生重代の重器であったにかかわらず(略)真物を与えた。(略)竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチではない人だ、家重代のものをも惜し気なく親友の所望には任せる。なかなかおもしろい心の行きかたを持った人だった。
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  •  氏郷はまことに名生(みょう)の城が前途にあったことを知らなかったろうか。種々の書にはまったくこれを知らずに政宗にあざむかれたように記してある。なるほど氏郷の兵卒らは知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえっていた小田原を天下の軍勢と共に攻めたときにさえ、忍びの者を出しておいて、五月三日の夜の城中からの夜討ちを知って、使い番をもって陣中へ夜討ちがくるぞと触れ知らせたほどに用意をおこたらぬ氏郷である。ましていまだかつて知らぬ敵地へふみこむ戦、ことに腹の中の黒白不明な政宗を後ろへおいて、三里五里の間も知らぬごとき不詮議のことで真っ黒闇の中へ盲目さぐりで進んで行かれるものではない。小田原の敵の夜討ちを知ったのは、氏郷の伊賀衆の頭、忍びの上手と聞こえし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城をうかがったとある。(略)頭があれば手足は無論ある。不知案内の地へのぞんで戦い、料簡不明の政宗と与(とも)にするに、氏郷がこの輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせておいたり徒(いたず)らに卒伍の間に編入していることのありうるわけはない。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、(略)ある者は政宗の営をうかがい、ある者は一揆方の様子をさぐり、必死の大活躍をしたろうことは推察にあまりあることである。そしてこれらの者の報告によって、いたって危ない中からいたって安らかな道を発見して、精神気迫の充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は兜の銀のナマズを悠然と游がせたのだろう。それでなくて何で中新田城から幾里も距らぬところにあった名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後ろにして出立しよう。城は騎馬武者の一隊ではない、突然にわいて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村隠岐守が守っていたのを旧柳沢の城主・柳沢隆綱が攻め取って拠っていたのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬわけはない。
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  訳者から
  •  一 六人
  •  二 おとぎ話と本当のお話
  •  三 アリの都会
  •  四 牝牛(めうし)
  •  五 牛小舎
  •  六 利口な坊さん
  •  七 無数の家族
  •  学問というものは、学者といういかめしい人たちの研究室というところにばかり閉じこめておかれるはずのものではありません。だれもかれも知らなければならないのです。今までの世間の習慣は、学問というものをあんまり崇(あが)めすぎて、一般の人たちから遠ざけてしまいすぎました。何の研究でも、その道の学者だけが知っていれば、ほかの者は知らなくてもいいようなふうにきめられていました。いや、知らなくてもいい、ではなくて、知る資格がないようにきめられていました。けれども、この習慣はまちがっています。非常にこみ入ったむずかしい研究は別として、だれでもひととおりの学問は知っていなければなりません、子どもでも大人でも。
  •  子どものためのおとぎ話の本は、たくさんすぎるほどあります。けれども、おとぎ話よりは「本当の話が聞きたい」という、ジュールのような子どものためのおもしろい本を書いてくれる学者は日本にはあまりないのか、いっこうに見あたりません。 (伊藤野枝「訳者から」より)
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 大杉栄、伊藤野枝(訳)
  •  八 古い梨の木
  •  九 樹木の齢(とし)
  •  一〇 動物の寿命
  •  一一 湯わかし
  •  一二 金属
  •  一三 被金(きせがね)
  •  一四 金と鉄
  •  一五 毛皮
  •  一六 亜麻と麻
  •  一七 綿
  •  一八 紙
  • 「亜麻(あま)は小さな青い花が咲く細い植物で、毎年まいたり、刈ったりする。これは北フランスや、ベルギーや、オランダにたくさん栽培されている。そしてこれは、人間が一番はじめに織り物をつくるのに使った植物だ。四〇〇〇年以上もたった大昔のエジプトのミイラは、リンネルの帯でまいてある。(略)
  • 「麻は何百年もヨーロッパじゅうで栽培された。麻は一年生の、じょうぶな、いやな香(にお)いのする、緑色の陰気な小さな花を開く。そして茎は溝が深くて六尺くらいにのびる。麻は、亜麻と同じように、その皮と、麻の実という種子を取るために栽培せられるんだ。(略)
  • 「麻や亜麻が成熟すると、刈られて種子は扱(こ)きわけられてしまう。それから、それを湿して、皮の繊維を取る仕事がはじまる。すなわち、その繊維がわけもなく木から離れるようにする仕事だ。実際この繊維は、茎にくっついていて、非常に抵抗力の強い、弾力の強い物で、くさってしまうまで離れないようになっている。時によると、この麻の皮を一、二週間も野原にひろげて、なんべんもなんべんもひっくり返して、皮が自然と木質の部分、すなわち、茎から離れるまでつづける。
  • 「だが、一番早い方法は、亜麻や麻を束にしてしばって、池の中にしずめておくことだ。すると、まもなく腐っていやなにおいを出し、皮は朽ちて、強い弾力を持った繊維がやわらかくなる。
  • 「それから麻束を乾かして、ブレーキという道具の歯の間でそれを押しつぶして、皮と繊維とを離してしまう。しまいに、その繊維のくずを取って、それを美しい糸にするために、刷梳(こきくし)という大きな櫛のような鋼鉄の歯のあいだを通す。そしてこの繊維は手なり機械なりでつむがれて、そうしてできた糸を機(はた)にかけるのだ。
  • 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
  • ラザフォード卿を憶う
  •  順風に帆をはらむ
  •  放射性の探究へ
  •  新しき関門をひらく
  •  核原子
  •  原子転換に成功
  •  学界の重鎮
  •  卿の風貌の印象
  •  ラザフォード卿からの書簡
  • ノーベル小伝とノーベル賞
  • 湯川博士の受賞を祝す
  •  〔ノーベル〕物理学賞と化学賞とを受けた研究者の中で、原子関係の攻究に従事した学者がもっとも多い。したがってこれらの人々の多くは、原子爆弾の発案構造などを協議して終(つい)にこれを実現するに至った。その過程を調べれば、発明の功績は多分にこれらの諸賢に帰せねばならぬ。さらに目下懸案中の原子動力機の発展も、ひとしくこれらの人々の協力を藉(か)らざれば、実用の領域に進まぬであろう。一朝、平和工業にこれを活用するに至らば、いかに世界の状況を変化するであろうか、一言(ひとこと)にしてつくすべからざるものがある。(略)加速度的に進歩する科学界において、原子動力機の端緒をとらえるを得ば、その工業的に発展するは論をまたず、山岳を平坦にし、河流をつごうよく変更し、さらに天然の形勢を利用せず、人為的に港湾河川を築造するに至らば、世界は別天地を出現するであろう。かくして国際的の呑噬(どんぜい)行動を絶滅し、互いに相融和するに至らば、ユートピアならざるもこれに近き安楽国を出現するは疑いをいれず、巨大なる威力を獲得して、これを恐れるよりもむしろこれを善用するが得策である。今日の科学研究は、もっぱらこの針路をたどりつつある。現今、危機一髪の恐怖に迷わされて神経をとがらしているから、世界平和を信ずるもの少ないが、一足飛びにここに至らざるも、波乱は幾回か曲折をへて、ついにここに収まるであろう。けだしこの証左を得るには、少なくも半世紀を要するは必然である。

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