幸田露伴 こうだ ろはん
1867-1947(慶応3.7.23-昭和22.7.30)
本名、成行(しげゆき)。江戸(現東京都)下谷生れ。小説家。別号には、蝸牛庵、笹のつゆ、雪音洞主、脱天子など。『風流仏』で評価され、「五重塔」「運命」などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。第1回文化勲章受章。娘の文は随筆家。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-Rohan_Koda.jpg」より。


もくじ 
蒲生氏郷(三)幸田露伴


ミルクティー*現代表記版
蒲生氏郷(三)

オリジナル版
蒲生氏郷(三)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。「云う」「処」「有つ」のような語句は「いう/言う」「ところ/所」「持つ」に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/card2709.html

NDC 分類:289(伝記 / 個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html





蒲生がもう氏郷うじさと(三)

幸田露伴


 この政宗はたしかに一怪物である。しかし一怪物であるからとてその政宗を恐れるような氏郷ではない。かいの水の巻く力はすさまじいものだが、水の力には陰もあるおもてもある、吸い込みもすればき上がりもする。よく水を知る者は水を制することをして水に制せらるることをなさぬ。魔の淵であろうとも竜宮へ続くうずであろうとも、おそるることはない。いわんや会津へ来たはじめよりその政宗に近づくべく運命を賦与ふよされているのであり、今はまさにその男に手を差し出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が棘々とげとげ満面だらけの手だろうが粘滑ぬらぬら油膩あぶらの手だろうがうろこのはえた手だろうがみずかきのある手だろうが、どんな手だろうがかまわぬ、ウンとその手をとらえて引きずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷・政宗に命令しておいた。新規平定の奥羽のこと、一揆いっき騒乱などおこったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に切りしずめよ、という命令を下しておいた。で、氏郷はその命のとおり、サア案内に立て、と政宗にかからねばならぬのであった。その案内人がはなはだ怪しい物騒ぶっそう千万なもので、こちらから差し出す手を向こうから引っつかんで竜宮の一町目あたりへ引き込もうとするかどうかは知れたものでないのである。このところ活動写真の、つぎの映画幕はどのような光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面さるめん冠者じゃの藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払ったかわり一等席に淀君よどぎみ御神酒おみき徳利どくりかなんかでおさまりかえって見物しているのであった。しかも洗ってみればその観覧料も、映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんからじつは巻き上げたものであった。
 木村伊勢領内一揆蜂起ほうきのことは、氏郷から一面秀吉ならびに関東押さえの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺ごへんは殿下のかねての教令により出陣征伐あるべし、と通牒つうちょうしておいて、氏郷が出陣したことは前に述べたとおりであった。五日は出発、猪苗代泊まり、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷いたやの山脈を越えてヌッと出てきた。その兵数は一万だったとも一万五千だったともいわれている。氏郷勢よりは多かったので、兵が少なくては何をするにも不都合だからであることは言うまでもない。板谷山脈を越えればすぐに飯坂いいざかだ。今は温泉場として知られているが、当時は城があったものと見える。政宗は本軍を飯坂にすえて、東のかた南北に通っている街道を俯視ふししつつ氏郷勢を待った。氏郷の先鋒せんぽうは二本松から杉目、鎌田と進んだ。杉目は今の福島で、鎌田はその北にある。政宗勢もその先鋒はその辺りまで押し出していたから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。しかるに伊達勢が本気になって案内者の任をはたし、先に立って一揆いっき対治たいじに努力しようと進む意のないことは、氏郷勢の場数をふんだ老功の者の眼には明々白々に見えた。すべて他の軍の有している真の意向を看破することは戦にとって何より大切のことであるから、当時の武人はみなこれを鍛錬して、些細ささいのこと、機微の間にも洞察することをつとめたものである。関ヶ原の戦に金吾中納言の裏切りを大谷刑部ぎょうぶがかならずそうと悟ったのもそのためである。氏郷の前軍の蒲生源左衛門・町野左近将監らは政宗勢の不誠実なところを看破したからおおいに驚いた。一揆討伐に誠意のないことは一揆方に意をかよわせていて、そして味方に対して害意を持っているのでなくて何であろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へせさせて政宗の異心謀反むほん、疑いなしと見え申す、そこに二、三日もご逗留とうりゅうありてなおその体をもご覧あるべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞してこれに従うかと思いのほか、おおいに怒って瞋眼しんがんから光を放った。ここはさすがに氏郷だ。二人をにらみすえて言葉も荒々しく、政宗謀反むほんとははじめより覚悟してこそ若松を出でたれ、何方いずくにもあれ支えたらば踏みつぶそうまでじゃ、明日あすは早天に打ち立とうず、とののしった。総軍はこれを聞いてウンと腹の中にこたえができた。
 政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者はもちろんあるし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光っていたに違いない。見ると蒲生勢はりんとしている、そのころの言葉にいう「たたかいを持っている」のである。戦を持っているというのは、いつでも火蓋ひぶたを切ってやりつけてくれよう、というのである。コレハと思ったに違いない。
 氏郷は翌日早朝に天気の不利をおかして二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城についた。政宗遅滞するならば案内の任を持っている者より先へも進むべき勢いを氏郷が示したので、政宗も役目上しかたがないから先へ立って進んだ。氏郷はその後から油断ゆだんなく陣を押した。何のことはない政宗はいやいやながらい立てられた形だ。政宗は忌々いまいましかったろうが理めに押されているので仕方がない、どうしようもない。氏郷は理に乗って押しているのである。グングンと押した。大森あたりから北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順にいえば伊達郡・刈田かった郡・柴田郡・名取郡・宮城郡・黒川郡であって、黒川郡から先が一揆反乱地はんらんちになっているのである。その間ずいぶんと長い路程ろていであるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬわけにゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗がもしも途中で下手へたに何ごとか起こした日には、わが領分ではあるし、勝手は知ったり、大軍ではあり、無論政宗にとって有利の歩合いは多いが、わが領内でいわば関白の代官同様な氏郷に力沙汰ざたにおよんだ日には、まぬかるるところなく明白に天下に対して弓をひいた者となってしまって、おのずから救う道は絶対にないのである。そこを知らぬ政宗ではないから、振りもぎろうにもたぐろうにもすべなくて押されている。またそこを知りきっている氏郷だから、業をするならしてみよ、と十分に腰を落として油断ゆだんなくグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢いを得ている。でも押す方にも押される方にも、力士と力士との双方に言うに言われぬ気味合いがあるから、寒気もひどかったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、反乱地の境近くに至るまでに十日もかかっている。
 このかん、政宗はおもしろくない思いをしたであろうが、そのかわり氏郷もひどい目にあっている。それはこの十日のあいだに通った地方は政宗の家の恩威が早くからおこなわれていた地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠むねとうあたりが切り従えたのだから、中ごろこれを失ったことがあるにせよ、今また政宗に属しているので、土豪・民庶みんしょみな伊達家びいきであるからであった。本来なら氏郷・政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜べんぎをば政宗領の者も提供すべき筋合いであるが、前にあげたごとく人民は蒲生勢を酷遇こくぐうした。寒天風雪のときにあたって宿をかさなかったり敷物しきものをかさなかったり、まきや諸道具を供することをこばんだ。おぼろ月夜づきよにしくものぞなき、という歌なんどはよいが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきはいかに強い武人であり優しい歌人でありわびの味知りの茶人である氏郷でも、下風したかぜは寒くしてほおに知らるる雪ぞ降りけるなどは感心しなかったろう。桑折こおり・刈田・岩沼・丸森などの所々、こういう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限りなし」と政宗領の町人百姓のことをののしっているのも道理である。
 押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬ちゅうとうの寒い奥州の長途もつきてようやくめざす反乱地に近づいた。政宗はわが領のほとんど尽頭はずれの黒川の前野に陣取った。前野とあるのはたぶん富谷とみやから吉岡へ至る路の東にあたって、いまは舞野まいのというところですなわち吉岡の舞野であろう。そこでその日、政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴のいおり、何の風情ふぜいもなくわびしうは候が、なにかと万端御意を得たく候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たるべく、粗茶進上つかまりたく候、という慇懃いんぎんなものであった。日ごろ懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈かんか弓鉄砲の地へ踏み込む前にあたって、床の間の花、釜の沸音にえおと、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣きも深く味も遠く、なんという楽しくもまたうれしいことであろう。しかし相手が相手である、伊達政宗である。おつな手を出してきたぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来たちの誰しも思ったことだろう。みな氏郷の返辞を何とあろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。まことにご懇志こんしかたじけのうこそ候え、明朝まいりてお礼を申そうず、というのであった。
 イヤ驚いたのは家来たちであった。政宗謀反むほんとは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と言った主人が、政宗に招かれてにじり上がりからその茶室へ入ろうというのである。もし彼方においてあらかじめ大力手利てきき打手うちてを用意し、押取籠おっとりこめて打ってかからんには誰か防ぎえよう。主人もし打たれては残卒全からず、何十里の敵地、そこの川、どこのはざまで待ち設けられては人種ひとだねも尽きるであろう。こはこれ一期いちごの大事到来と、千丈の絶壁に足をつま立て、万仞ばんじんの深き淵にのぞんだ思いがしたろう。とんでもない返辞をしてくれたものだと、うらみもしあきれもし悲しみもしたことであろう。しかし忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというにわれが行かぬ法はない、いて危ういことはあるとも、招くに往かずば臆したにあたる、機にのぞみて身をあつかおうに、何ほどのことがあろうぞ、朝の茶とあるに手間てま暇はいらぬ、立ち寄って政宗が言語ものいい面色つらつきをも見てくりょう、というのであったろう。政宗の方にはどういう企図きとがあったかわからぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌ちゃえんに招いたのは、まさに氏郷を数寄屋すきやの中で討ち取ろうためであったと明記している。しかしそれは実際そうだったかもしれぬが、何も政宗の方で手を出している事実がないから、蒲生方でそう思ったという証拠にはなるが、政宗方でそういうくわだてをしたという証拠にはならぬ。また万一そういう企てをしたとすれば、鶺鴒せきれいの印の眼球めだまで申し開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手をくださせて、後に至ってどうともすることのできぬような不利の証拠をのこそうようはない。前野と敵地大崎領とは目睫もくしょうの間であるから、あるいは一揆方いっきがたの剛の者を手引きして氏郷の油断ゆだんに乗じて殺させ、そして政宗方の者がたってその者どもをその場で切り殺して口を滅してしまおう、という企てをしたというのならば、その企てもいささかはあり得もすべきことになる。さもなくば政宗にしてはちと知恵がたらないで手ばかり荒いように思える。ただし蒲生方の言もまったく想像にせよあたっているところがあるのではないかと思われる所以ゆえんは幾個条もあり、またずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動でちょっとうかがえるような気のすることがある。それは後に至って言おう。ここでは政宗に悪意があったあかしはないというのを公平とする。が、何にせよこのとき蒲生方にとって主人氏郷が茶讌ちゃえんにおもむくことを非常に危ぶんだことは事実で、そしてその疑懼ぎくの念をいだいたのも無理ならぬことであった。氏郷がその請いをこばまないで、何ほどのことやあらんとおそもなしに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟鮫室こうしつの中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らないきもッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田孝高よしたかは城井谷鎮房しずふさを酒席でりつけている世の中であるに。
 夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗をうた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装はどうであったか記されたものがない。いかにこれからいくさにおもむく途中であるとしても、皆具かいぐ取鎧とりよろうて草摺長くさずりながにザックと着なした大鎧おおよろいで茶室へも通れまいし、また、いかに茶に招かれたにしてもただちにその場より修羅のちまたに踏み込もうというのにはかま肩衣かたぎぬで、その肩衣のくじらも抜いたようななりも変である。利久〔利休か〕高足こうそくといわれた氏郷だから、かならずや武略ではない茶略をしかるべく見せて、工合ぐあいのよい形で参会したろうが、ちょっと想像ができない。これは茶道鍛錬の人への問題に提供しておく。氏郷の家来たちはもちろん甲冑かっちゅうで、やり薙刀なぎなた・弓・鉄砲、昨日に変わることなくひしひしと身を固めて主人に前駆後衛したことであろう。やがて前野に着く。政宗方は迎える。氏郷は数寄屋の路地へ潜門くぐりを入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷にしたがってきた蒲生源左衛門・蒲生忠左衛門・蒲生四郎兵衛・町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者・佐久間玄蕃〔玄蕃允、盛政もりまさか〕が弟と聞こえた佐久間久右衛門安政やすまさか〕同苗どうみょう舎弟しゃてい源六〔源六郎、勝之かつゆきか〕綿利わたり八右衛門など一人当千の勇士の面々、火の中にもあれ水の中にもあれ、死出三途さんず主従一緒と思いつめたる者どもがたまりかねてツツとおどり出た。伊達の家来は狼籍ろうぜきに近きふるまいと支え立てせんとした。制して制さるる男どもであればこそ、右と左へ伊達の家来を押し退け押し飛ばして、たてに取る門の扉をもメリメリと押し破った。氏郷の相伴つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門まかり通る、蒲生忠右衛門まかり通る、町野左近将監まかり通る、まかり通る、まかり通る、と陣鐘じんがねのような声もあれば陣太鼓のような声もある、陣法螺じんぼら吹き立てるような声もあって、あわいへだたったる味方の軍勢の耳にも響けかしに勢いたけ挨拶あいさつして押し通った。茶の道に押しかけの客というもあるが、これが真個ほんとの押しかけで、もとより大鎧おおよろい罩手こて臑当すねあてで立ちの、射向けのそでに風を切って、長やかなる陣刀のこじりあたり散らして、寄付よりつきの席に居流れたのは、鴻門こうもんの会に樊�Xはんかいけ込んで、怒眼をつぶらにはって項王〔項羽か〕にらんだにもまさったろう。外面そともはまた外面で、士卒おのおのかぶとの緒をしめ、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀たちを取りしぼって、座の中に心をかよわせ、イザと言えばオッとこたえようと振い立っていた。これではたとい政宗に何の企てがあっても手は出せぬ形勢であった。
 茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合もあるべきわけで、主従といえば離れぬ中である。しかし主人と臣下とをいかに茶なればとて同列にすることはその主に対しては失礼であり、その臣下に対しては僭上せんじょううるあたわざらしむるものであるから、織田有楽うらくの工夫であったかどうであったか、客席に上段下段を設けて、ひざつきあわすほど狭い室ではあるが主を上段に、家来を下段に座せしむるようにした席もあったとおぼえている。主従関係の確立していた当時、もとより主従は一列にさるべきものではない。たぶん政宗方では物やわらかにその他意なきを示して、書院で饗応きょうおうでもしたろうが、よろい武者むしゃを七人も八人も数寄屋に請ずることはできもせぬことであり、主従の礼を無視するにもあたるから、ごめんこうむったろう。さて政宗出座して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談・軍談取りまぜて、むしろ軍事談の方を多く会話したろうが、このとき氏郷が、佐沼への道のほどに一揆いっきの城はなにほど候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へはこれより田舎町(六町ほどか)百四十里ばかりにて候、その間に一揆のこもりたる高清水と申すが佐沼より三十里此方こなたに候、その他には一つも候わず、とはかるところあるためにいつわりを言ったと蒲生方では記している。ことさらに虚言を言ったのか、くわしく情報を得ていなかったのかわからぬ。ついでおこる事情の展開に照らして考えるほかはない。候わば今日道どおりの民家を焼き払わしめ、明日は高清水を踏みつぶし候わん、と氏郷は言ったが、目論見もくろみ齟齬そごした政宗は無念さのあまりに第二の一手を出して、毒を仕込みおいたる茶を立てて氏郷に飲ませた、といわれている。毒薬には劇毒で飲むとじきに死ぬのもあろうし、ほど経てくのもあろうが、かかる場合に飲んですぐに血ヘドを出すような毒をおうようはないから、仕込んだなら緩毒、少くとも二、三日後になってその効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷もあやしいと思わぬことはなかった。しかし茶に招かれて席に参した以上は、亭主がみずから点じてすすめる茶を飲まぬというそんな大きな無礼無作法はあるものでないから、一団の和気を面にたたえて怡然いぜんとしてこれを受け、茶味以外の味を細心に味わいながら、しかも御服合おふくあい結構けっこう挨拶あいさつ常套じょうとうの賛辞まで呈して飲んでしまった。そして茶事が終わったから謝意をていねいに致して、その席を辞した。氏郷の家来たちもしたがって去った。客も主人も今日これから戦地へおもむかねばならぬのである。
 氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来たちの面を見たことであろう。主従は互いに見かわす眼と眼に思い入れよろしくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御すましありしか、飲ませられしか、いかに、いかに、と口々くちぐちに問わぬことはなかったろう。そして皆々の面はくもったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯ひきょう余瀝よれきも余さず飲んだわやい、と答える。家来たちはギェーッといまさらながら驚きあやぶむ。そあれ、水をもて、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急にはしって馬柄杓ばびしゃくに水をくんでくる。その間に氏郷は印籠いんろうから「西大寺さいだいじ(宝心丹豊心丹ほうしんたんをいう)を取り出して、その水で服用し、彼に計謀はかりごとあれば我にも防備そなえあり、案ずるな、者ども、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早くたちまちにカッと飲んだ茶をいてしまった。
 以上は蒲生方の記するところによって述べたので、伊達方にはもちろん毒を飼うたなどという記事のあろうようはない。毒をもちいて即座にまたは陰密に人を除いてしまうことは恐ろしい世にはどうしてもおこり、かつおこなわれることであるから、かかることもありうべきではある。毒がいは毒飼で、毒害はかえってアテ字である、その毒飼という言葉が時代のにおいを表現しているとおり、この時代には毒飼は頻々ひんぴんとしておこなわれた。けれども毒飼はもっともケチビンタな、しらみッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人かんじん小人・妬婦とふ悪婦のなすことで、人間の考え出したことの中でもっとも醜悪卑劣のことである。自死に毒をもちいるのは恥辱ちじょくを受けざるためで、クレオパトラの場合などはまだしもじょすべきだが、自分の利益のために他を犠牲にして毒を飼うごときは何といういやしいことだろう。それでも当時はずいぶんおこなわれたことであるから、これに対する用心もしたがって存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠いんろう根付ねつけにウニコールをもちいたり、緒締おじめ珊瑚珠さんごじゅをもちいたごときも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告をあたえ、ウニコールは解毒の神効があるとされた信仰にもとづく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐さいとの効あるものとして、そのころ用いられたものとみえる。さてこの毒飼のことがじつに存したこととすれば、氏郷はいいが政宗はいたく器量が下がる。ただし、はたして事実であったかどうかは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりはないが、政宗のために虚談・想像談であってほしい。政宗こそかえって今歳ことし天正の十八年(一五九〇)四月の六日に米沢城においてあやうく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取りかつ小田原参向遅怠ちたいのために罪を得んとするの事情があきらかであったところから、最上もがみ義光にたぶらかされた政宗の目上が、政宗をくして政宗の弟の季氏すえうじを立てたら伊達家が安泰であろうというわけで毒飼の手段をめぐらした。さいわいにそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒にあたって苦悶くもん即死したから事あらわれて、政宗は無事であったが、そのために政宗は手ずから小次郎季氏をり、小次郎のもり小原おばら縫殿助ぬいのすけちゅうし、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人すなわち政宗の母義姫よしひめはその実家たる最上義光の山形へ出奔いではしったということがある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったともいう。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼さわぎのあったことはあったらしく、また世俗のいわゆる鬼役おにやくすなわち毒味役なる者が各家に存在したほどに毒飼のことは繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことはなかったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思ってもあながち無理ではなく、氏郷が西大寺を服したとても過慮かりょでもない。またずっと後の寛永初年(五年か)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸にのぞんだ時、政宗がみずから饗膳きょうぜんを呈した。そのとき将軍の扈従こじゅうの臣の内藤外記げきが支え立てして、御主人おんあるじ役に一応お試み候え、といった。すると政宗はおおいに怒って、それがしすでにかく老いて、いまさら何で天下をこころがきょうず、天下に心をかけしは二十余年もの昔、その時にだに人に毒を飼うごとききたなき所存は持たず、と言い放った。それで秀忠が笑って外記のために挨拶あいさつがあってそのままにすんだ、ということがある。政宗の答えは胸がすくように立派で、外記ははなはだ不面目であったが、外記だとて一手ひとてさきが見えるほどの男ならば政宗がこのくらいの返辞をするのはわからぬでもあるまいに、何でかようなことを言ったろう。それはまったく将軍を思うあまりの過慮から出たに相違ないが、みすみす振り飛ばされるとわかってながらひと押し押してみたところに、外記は外記だけの所存があったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲のよかった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少ない人ではあったが、それでも最上の伊白という鍼医はりいのために健康を危うくされて、老臣の村井豊後ぶんごの警告により心づいてこれを遠ざけた、というはなしがある。毒によらずはりによらず、陰密に人を除こうとするが如きことはうちの世で、最も名高いのは加藤清正毒饅頭どくまんじゅう一件だが、それらの談はみな虚誕きょたんであるとしても、各自が他を疑いかつ自らいましめ備えたことはあまねく存した事実であった。政宗が毒を使ったということはなくても、氏郷が西大寺を飲んだということは存在した事実とみてさしつかえあるまい。
 その日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はやこの辺りは反乱地はんらんちで、地理は山あり水あってちょっと錯綜さくそうし、所々に大崎氏の諸将らが以前っていた小城があるのだった。氏郷軍は民家を焼き払って進んだところ、本街道筋にも一揆いっきこもった敵城があった。それは四竃しかま中新田なかにいだなどいうのであった。氏郷の勢いに怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田にとどまり、氏郷は城の中に、政宗は城より七、八町へだたった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論、政宗を監視する押さえであった。この中新田付近は最近、すなわちあしかけ四年前の天正十五年(一五八七)正月に戦場となったところで、その戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西かさい左京太夫晴信はるのぶが使いを遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者をよこして特に慰問されたほど諸方に響きわたり、また反覆はんぷく常なき大内おおうち定綱さだつなは一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分につかせたほど、伊達の威を落としたものだった。それは大崎の大崎義隆よしたかの臣の里見隆景から事おこって、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山いわでやまの城主氏家うじいえ弾正を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎によって政宗に援を請うたところから紛糾ふんきゅうした大崎家の内訌ないこうが、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を手づるにして大崎を飲んでしまおうということになったのである。ところが氏家をたすけに出た伊達軍の総大将の小山田おやまだ筑前は三千余騎をひきいて、金の采配さいはいを許されて勇み進んだにかかわらず、岩出山の氏家弾正をたすけようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将らと戦っているうちに、中新田城よりはあとにあたっている下新田しもにいだ城や師山もろやま城や桑折くわおり桑折こおり西山にしやま城か〕やの敵城に策応さくおうされて、袋のネズミのごとくに環攻され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍ほとんど覆没ふくぼつし、陣代じんだいの高森上野こうつけ婿むこしゅうとのよしみをもってあわれみを敵の桑折(福島付近の桑折こおりにあらず、志田郡鳴瀬川なるせがわ付近)の城将・黒川月舟に請うてわずかに帰るを得たほどである。今、氏郷は南から来て四竃しかまをすぎてその中新田城に陣取ったが、大崎家のあまり強くもない鉾先ほこさきですら、中新田の北にあたって同盟者をさえ有した伊達家の兵に大打撃をあたえ得た地勢である。氏郷の立場は危ういところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へまわって立ち切った日には、西には小野田の城があって、それから向こうは出羽・奥羽の脊梁せきりょう山脈に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、その奥に弱い味方の木村父子がいるがそれは一揆いっきが囲んでいる、東には古川城ふるかわじょう、東々南には鳴瀬川のまたに師山城・松山城・新沼城・下新田城、川南には山によって桑折城、東の一方を除いては三方みな山であるから、四方策応して取ってかかられたが最期、城によって固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍ふくてつむほかはない。氏郷が十二分の注意をもって、政宗の陣のそばへ先手さきての四将をおいたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元えりもとに蜂を止まらせておいたようなものである。動静監視のみではない、もしわれに不利なるべく動いたらすぐにさせよう、させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間にすぐにり立てよう、というのである。七、八町の距離というのは当時の戦には天秤てんびんのカネアイというところである。
 小山田筑前が口惜くちおしくも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗っ取ろうとしてかかったところ、城将葛岡くずおか監物けんもつが案外に固く防ぎこらえて、そこより一里内外の新田にいた主人義隆よしたかに援をこい、義隆がただちに諸将をつかわしたのにもとづくので、中新田の城の外郭そとぐるわまではったが、その間に各所の城々より敵兵が切って出たからである。たとえば一個のけもの相搏あいうってこれをようとしている間に、四方から出てきた獣に脚をかまれ、腹をかまれ、肩をつかみかれ、背をつかみかれてたおれたようなものである。氏郷は今それと同じ運命にのぞまんとしている。なぜといえば氏郷は中新田城にっているとはいえ、中新田をることいくばくもないところに、名生みょうの城というのがあって、一揆がこもっている。小さい城ではあるがかなり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、ぜひその途中の敵城は落とさねばならぬ。その名生の城にして防ぎえれば、氏郷における名生の城はあたかも小山田筑前における中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城はないといったのであるから、蒲生軍は名生の城というのがあって一揆がこもっていることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引きかかったが最期である、よしんば政宗が氏郷にってかからずとも、傍観の態度をとるだけとしても、一揆いっき方の諸城よりって出たならば、蒲生勢は千手せんじゅ観音かんのんでも働ききれぬ場合におちいるのである。
 明日はいよいよ一揆勢との初手合わせである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻めかかろう。もし途中の様子、敵の仕業しわざによって、高清水に着くのが日暮れにおよんだなら、明後日あさってはぜひ攻めやぶる、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かにふけた。無論、政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務をわせられていたのである。しかるにその朝は前野の茶室で元気よく氏郷に会った政宗が、その夜の、しかもの刻、すなわち十二時ごろになって氏郷陣へ使者をよこした。その言には、政宗今日、夕刻よりにわかに虫気むしけにまかりあり、なんとも迷惑いたしおり候、明日のお働き相ばされたく、御先鋒さきをつかまつり候事なりがたく候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、巌石も凍融いてとけの春の風にはくずるるならいだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩のことである。氏郷および氏郷の諸将はこれを聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀は露顕ろけんしたぞ、と思って眼の底に冷然たるえみをたたえてうなずき合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答えは鷹揚おうようなものであった。おおせの趣きはうけたまわり候、さりながら敵地に入り、敵を目近まぢかにおきながら留まるべくも候わねば、明日はわが人数を先へ通し候べし、ご養生候て後より御出候え、とおだやかな挨拶あいさつだ。この返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったかどうだか、それは想像されるばかりで、何の証もない。ただもし政宗に陰険いんけんな計略があったとすれば、思うつぼに氏郷をはめて先へやることになったのである。
 十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにしている。氏郷は潮合しおあいを計って政宗のかたへ使者を出した。それがしはただいま打ち立ち候、油断ゆだんなくゆるゆるご養生のうえ、後より御出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置くうえは常体の陣組には似るべからず、というのであったろう、五手与いってぐみ・六手与・七手与、この三与みくみ後備あとぞなえと定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入れかえた。前にも見えた五手与・六手与などというのは、このころの言葉で五隊で一集団をなすのを五手与、六隊で一集団をなすのを六手与というのであった。さてこの三与みくみはもちろん政宗の押さえであるから、十分にいくさを持って、みな後ろへ向かって逆歩しりあしに歩み、政宗打ってかからばすぐにもまくらん勢いを含んでいた。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉どおりに身構えは南へ向かいあしは北へ向かって行くことであるか、それともべつに間隔交替か何かの隊法があって、後ろを向きながら前へ進む行進の仕方があったかどうかくわしく知らない。ただし飯田いいだ忠彦ただひこ野史やしに、「行布常蛇陣」とあるのはまったく書きそこないの漢文で、常山じょうざん蛇勢だせいの陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢に向かい、後ろの三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援のために佐沼の城を志して、さしあたりは高清水の敵城をほふらんと進行したのは稀有けうな陣法で、氏郷雄毅ゆうき深沈しんちんとはいえ、十死一生、危うきこと一髪をもって千鈞せんきんつなぐものである。すでに急使は家康にも秀吉にも発してあるし、また政宗が露骨に打ってかかるのは、少なくとも自分ら全軍を鏖殺みなごろしにすることのできるくよく十二分の見込みが立たなくてはあえてせぬことであると多寡たかをくくって、その政宗の見込みを十二分には立たせなくするだけの備えをしておれば恐るるところはない、と測量の意味であるところの当時の言葉の「下墨さげすみ」をしきっており、一揆征服・木村救援の任をはたそうとしているところは、その魂のりきりたぎりきっているところ、じつに懦夫だふ怯夫きょうふをしてだに感じてしかしてふるい立たしむるにるものがある。
 高清水まで敵城はないということであったが、それはまっ赤なうそであった。中新田を出てわずかの里数を行くと、そこに名生の城というがあって一揆の兵がこもっており、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門・蒲生忠右衛門・蒲生四郎兵衛・町野左近ら、何躊躇ちゅうちょすべき、しおらしい田舎武士めが弓箭ゆみやだて、われらが手並てなみを見せてくれん、ただひともみぞと揉み立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々はげみ勇みおめさけんで攻め立った。作右衛門、すばやく走り戻って本陣に入り、首を大将の見参げんざんに備え、ここに名生の城と申す敵城あって、先手の四人合戦つかまつった、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取りかけて手間取てまどっておれば、四年前の小山田筑前と同じことになって、それよりもなおはなはだしい不利の場合に身を置くことになるのである。鏖殺おうさつさるべき運命を享受する位置に立つのである。
 氏郷はまことに名生みょうの城が前途にあったことを知らなかったろうか。種々の書にはまったくこれを知らずに政宗にあざむかれたように記してある。なるほど氏郷の兵卒らは知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえっていた小田原を天下の軍勢と共に攻めたときにさえ、忍びの者を出しておいて、五月三日の夜の城中からの夜討ちを知って、使い番をもって陣中へ夜討ちがくるぞと触れ知らせたほどに用意をおこたらぬ氏郷である。ましていまだかつて知らぬ敵地へふみこむ戦、ことに腹の中の黒白こくびゃく不明な政宗を後ろへおいて、三里五里の間も知らぬごとき不詮議のことで真っ黒闇くらやみの中へ盲目さぐりで進んで行かれるものではない。小田原の敵の夜討ちを知ったのは、氏郷の伊賀衆のかしら、忍びの上手じょうずと聞こえし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城をうかがったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、もしくは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者どもという義で、甲賀衆というのは江州甲賀こうかの侍にもとづく同様の義の語、そして転じては伊賀衆・甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察の任をおびている者という意味にもちいられたのである。日本語も満足に使えぬ者らが言葉の妄解妄用をはばからぬので、今では忍術は妖術ようじゅつのように思われているが、忍術は妖術ではない、潜行偵察の術である。戦乱の世において偵察は大必要であるから、伊賀衆・甲賀衆がなかなか用いられ、伊賀流・甲賀流などと武術の技としての名目も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀・河内かわちの間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭があれば手足は無論ある。不知案内の地へのぞんで戦い、料簡りょうけん不明の政宗とともにするに、氏郷がこの輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせておいたりいたずらに卒伍そつごの間に編入していることのありうるわけはない。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の口吻こうふんにしたがえばそれこそねずみになってあなからもぐり込んだり、ヘビになって樹のぼりをしたりして、ある者は政宗の営をうかがい、ある者は一揆方の様子をさぐり、必死の大活躍をしたろうことは推察にあまりあることである。そしてこれらの者の報告によって、いたって危うい中からいたって安らかな道を発見して、精神気迫きはくちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷はかぶとの銀のナマズを悠然とおよがせたのだろう。それでなくて何で中新田城から幾里もへだたらぬところにあった名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後ろにして出立しよう。城は騎馬武者の一隊ではない、突然にわいて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村隠岐守おきのかみが守っていたのを旧柳沢の城主・柳沢隆綱が攻め取ってっていたのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬわけはない。
 氏郷は前隊からの名生みょう攻めの報を得ると、その雄偉ゆうい豪傑の本領をあらわして、よし、分際ぶんざい知れた敵ぞ、またたくにその城乗っ取れ、気息いきつかすな、と猛烈果決の命令をくだした。そして一方五手組・六手組・七手組の後備あとぞなえむかっては、おもしろいぞ、おもしろいぞ、名生の城攻むると聞かば必定、政宗めが寄せて来ようぞ、三段に陣を立てて静まりかえって待ちかけよ、比類なき手柄するときはなんじらに来たぞ、とはげまし立てる。後備あとぞなえの三隊は手薬錬てぐすねひいて粛として、政宗れかし、眼に物見せてくれんと意気込む。先手は先手で、分際ぶんざい知れた敵ぞや、またたくに乗っ取れという猛烈の命令に、勇気すでに小敵をひと飲みにして、心頭の火は燃えてのぼる三千丈、迅雷じんらいの落ちかかるが如くに憤怒ふんぬの勢いすさまじく取ってかかった。敵もさすがに土民ではない、柳沢隆綱らは、ここをこらえでは、と熱湯の玉の汗になって防ぎ戦った。しかし蒲生勢の恐ろしい勢いは敵のきもをうばった。外郭そとぐるわはすでに乗っ取った。二の丸も乗っ取った。見る見る本丸へ攻めつめた。上坂源之丞・西村左馬允さまのすけ・北川久八、三騎ならんで大手口へ寄せたが、久八今年十七、八歳、上坂・西村をぬいて進む。さはせぬ者ぞという間もあらせず、敵を切りふせ首を取る。先んぜられたり、心外、と二人も駈け入りて手痛く戦う。氏郷本陣の小姓・馬廻りまで、ただまたたくおとせ、と手柄を競ってみ立つる。中にも氏郷が小小姓こごしょう名古屋なごや山三郎さんさぶろう生年しょうねん十五歳、天下に名を得た若者だったが、白綾しらあや紅裏もみうら打ったる鎧下よろいした色々糸縅いろいろおどしよろい小梨打こなしうちかぶと猩々緋しょうじょうひ陣羽織じんばおりして、手鑓やりひっさげ、城内に駈け入りやりを合わせ、めざましく働きてき首を取ったのは、たけきばかりが生命いのちの武者どもにも嘆賞の眼を見張らさせた。名古屋は尾州の出で、家の規模として振袖ふりそでの間にひと高名してからそでをふさぐことに定まっていたとかいう。当時この戦の功をたたえて、鎗仕やりし鎗仕は多けれど名古屋山三は一のやり、と世にうたわれたということだが、まさにこれ火裏かり蓮華れんげ、人のまなこを快うしたものであったろう。あるいは山三の先登せんとうはこの翌年、天正十九年(一五九一)九戸くのへ政実まさざねを攻めたときだともいうが、そのときは氏郷のみではなく、秀次・徳川・堀尾ほりお吉晴よしはるか〕・浅野・伊達・井伊〔直政か〕ら大軍で攻めたのだから、なにも氏郷が小小姓まで駈け出させることはなかったろう。この戦は瞬間に攻め落とすことを欲したから、北村・名古屋のやからまでに力を出させたのである。それはともあれかくもあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家孫一・粟井六右衛門・町野新兵衛・田付理介らの勇士も戦死し、兵卒の討死うちじに手負いも少くなかったが、ついにまったく息もつかせずまたたくに攻め落としてしまって、討ち取る首数六八〇余だったというから、城攻めとしては非常に短い時間の、ずいぶん激烈苛辣からつの戦であったに疑いない。
 政宗ははかったとおりに氏郷をやりすごして先へ立たせてしまった。氏郷は名生の城へ引っかかるに相違ない、と思った。そこで、いざ急ぎ打ち立てや者どもと、同苗藤五郎成実しげざね・片倉小十郎景綱かげつなを先手にして、みに揉んで押しよせた。ところが氏郷の手配てくばりは行きとどいていて、かの三隊の後備あとぞなえは三段に備えを立てて、静かなること林の如く、厳然として待ちもうけていた。すわや政宗するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、弾丸たまるまわん、と鉄砲の火縄の火を吹いている勢いだ。名生の城はすでに落されてけむりがあがり、氏郷勢はみな城を後にして、政宗如何いかがているのである。これをて取った政宗は案に相違して、どうにも乗ろう潮がない。仕方がないから名生の左の野へ引き取って、そこへ陣を取った。
 氏郷は名生の城へ入ってこれにった。政宗が来ぬ間に城を落としてしまったから、小田山筑前と同じようにはならなかった。氏郷が名生の城を攻めるに手間取てまどっていたならば、名生の城で相図の火をあげる、そのとき宮沢・岩手山・古川・松山四か所の城々より一揆いっき勢はり出し、政宗と策応さくおうして氏郷勢を鏖殺おうさつし、氏郷武略つたなくて一揆の手にたおれたとすれば、木村父子は元来論ずるにもたらず、その後一揆どもを剛、柔、水、火の手段にあしらえば、奥州はしだいにたなごころの大きい者の手へ転げ込むのであった。しかし名生の城は気息もつけぬ間に落とされてしまって、相図の火をあげるいとまなぞもなく、宮沢・岩手山など四か所の城々の者どもは、策応するもヘチマもなく、かえって氏郷の雄威に腰を抜かされてしまった。
 政宗は氏郷へ使いを立てた。名生を攻められ候わば、それがしへも一方おおせつけられたく候いしに、かくては京都への聞こえも如何と残念に候、というのであった。氏郷の返辞はアッサリとして妙を極めたものであった。この敵城あることをばそれがしも存ぜず候間に、先手の者ども、はや攻め落として候、と空嘯そらうそぶいてかたづけておいて、さてそれからが反対に政宗の言葉に棒を刺してこじっている。京都への聞こえ、御心づかいにもおよび申すまじく候、この向こうに宮沢とやらん申す敵城の候、それを攻められ候え、しかるべく聞こえ候わむ、というのであった。政宗は違儀もできない。宮沢の城へ寄せたが、もとより政宗の兵力、宮沢の城の攻めつぶせぬことはないに関わらず、人目ばかりに鉄砲を打つくらいのことしかしなかった。宮沢の城将・岩崎隠岐は後に政宗に降った。
 明日は高清水をほふってしまおうと氏郷は意をもらした。名生の一戦は四方を震駭しんがいして、氏郷の頼むにりまたおそるるにる雄将であることを誰にも思わせたろう。ことに政宗方にあって、一揆の方の様子をも知り、政宗の画策をも知っていた者にとっては、驚くべき人だと思わずにはおられなかったろう。そこで政宗に心服している者はとにかく、政宗に対してかねてからイヤ気を持っていた者は、政宗についているよりも氏郷に随身ずいじんした方がわが行く末もたのもしい、と思うに至るのも不思議ではない。ここに政宗にとっては厄介やっかいの者が出てきた。それは政宗の臣の須田伯耆ほうきという者で、伯耆の父の大膳という者は政宗の父輝宗てるむねの臣であった。輝宗が二本松義継よしつぐに殺されたとき、後藤基信が殉死しようとしたのを政宗は制したくらいで、政宗は殉死をみ嫌ったけれど、その基信も須田大膳も、馬場右衛門という人もついに殉死してしまった。殉死の是非は別として、不忠の心から追い腹は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌み嫌う政宗の意は非とすべきではないが、殉死を忌むあまりに殉死した者をもにくんだ。で、大膳は狂者のようにいわれ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、その子は優遇されなくても普通には取り扱われてもしかるべきだが、主人の意にそむいたというかどであろう、伯耆はみずから不遇であることを感じたから、何につけにつけ、日ごろ不快に思っていた。これもまた凡人である以上は人情のまさにしかるべきところだ。氏郷の大将ぶり、政宗の処置ぶり、自分がとうてい政宗にれられないで行く末のたのもしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷についた方が賢いと思った。ちょうどその家を思わぬではない良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者はさてさてなさけないものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負いたのである。
 そこでその十九日の夜深よふかに須田伯耆は他の一人と共に逃げこんできて、蒲生源左衛門をたのんだ。ただ来たところでれられるわけはないから、とんでもない手土産てみやげを持ってきた。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げてきた二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛・牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘をあばいた者となっている。
 蒲生源左衛門は須田らをきゅうした。二人は証拠文書をってきたのだから、それにあわせて逐一ちくいちに述べたてた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家そうけとしていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和のこと、政宗が大崎を図ったこと、そんなことをも語ったろうが、それよりはまずさしあたって、一揆をすすめたこと、黒川においての企てのこと、中新田にて虚病のこと、名生の城へ氏郷を釣りよせること、四城とはかりごとを合わせて氏郷を殺し、一揆の手に打ち死にを遂げたることにせんとしたること、政宗方に名生の城の落ち武者きたりて、あまりに厳しく攻められて相図合期ごうごせざりしと語れることなどをあばきたてた。そしてそのうえに、高清水に籠城ろうじょうしている者も、また佐沼の城をかこんでいる者も、みな政宗の指図によってじつは働いている者であることを語り、よく政宗が様子をお見留めなされて後にお働きなさるべしと言った。
 二人がげん悉皆しっかい信ずべきかどうかは疑わしかったろう。しかし氏郷は証拠とすべきところの物をとって、かつ二人を収容して生き証拠とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるにすぎぬ。木村父子を一揆いっきが殺す必要もなく政宗が殺す必要もないことはあきらかだから、焦慮しょうりょする要はない。かえってこの城に動かずにおれば政宗も手を出しようはない、と高清水攻めをあえてせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆はしきりに働いたことだろう。
 氏郷は兵粮ひょうろうを徴発し、武具を補足して名生にるの道を講じた。急使は会津へせ、会津からは弾薬を送ってきた。政宗は氏郷が動かぬのを見てなんとも仕難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝鏖殺おうさつが期せるのでなければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても吾身わがみの破滅であるからなすすべはなかった。須田伯耆が駈け込んだことはわかっているが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日までいたが、氏郷は微動だになさぬので、事みな成らずと見切って、引き取って帰ってしまった。もちろん氏郷のいる名生の城の前は通らず、ことわりもしなかったが、氏郷がこれを知って黙していたのであることももちろんである。もう氏郷は秀吉に対してつくすべき任務を予期以上の立派さをもってげているのである。佐々さっさ成政なりまさにはならなかったのである。一揆らは氏郷に対して十分おそれ縮んでおり、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子あこを名生の城へ人質に取られているのを悲しんで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換してほしいと請い求めたので、これをだくしてその翌月二十六日、その交換をりょうしたのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵といって氏郷の臣となった。
 浅野長政は関東の諸方の仕置きをすませて駿河府中ふちゅうまでのぼった時に、氏郷の飛脚にあった。江戸に立ち寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継がんために奥州へまかりくだる、ご加勢ありたし、と請うたから家康もだまってはおられぬ。結城秀康を大将に、榊原康政やすまさ先鋒せんぽうにした。長政らの軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷のもとへやった。六右衛門は名生へ行ったから、いっさいの事情は分明した。長政は政宗をぶ、政宗は出ぬわけにはいかぬ、片倉小十郎そのほか三、四人を引き連れて、おとなしく出てきて言いわけをした。何ごとも須田伯耆の讒構ざんこうということにした。それならば成実しげざね・盛重両人を氏郷へ人質にやりて、氏郷これへまいられて後にその仔細しさいをうけたまわりて、言上ごんじょう可申もうすべしとつっこんだ。政宗は領掌りょうしょうしたが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。ついに十二月二十八日、成実は人質に出た。この成実はかつて政宗にかわって会津の留守をしたほどの男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出たとき、上杉景勝が五万石をもって迎えようとした。しかし景勝には随身しないで、また伊達家へ帰ったが、そのときはわずかに百人扶持ぶちを給されたのみであったのに、斎藤兵部というものがみずから請うて信夫しのぶ郡の土兵五千人をひきいて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理わたり郡二万三千八百石をたまわって亘理城わたりじょうに居らしめらるるに至ったという。いわゆる埋没さるることなき英霊底のおのこである。大坂陣のときは老病の床にあったが、子の重綱にむかって、この戦はかならず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と外濠そとぼりを埋められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共にじつに伊達家の二大人物であった。その成実を強要していったんにせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみではない樽俎そんそ折衝せっしょうにおいても手ごわいものであった。
 その年は明けて天正十九年(一五九一)正月元日、氏郷は木村父子をたずさえて名生みょうを発して会津へと帰るそのみちで、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子はすべて長政に合点できた。長政はそこで上洛じょうらくする。政宗も手をつかねいてはならぬから、秀吉の招喚しょうかんに応じて上洛する。氏郷は人質を返して、彼の二人が提出した証文を持参し、これも同じく上洛した。政宗が必死を覚悟して、金箔きんぱくを押した磔刑柱はりつけばしらを馬の前に立てて上洛したのはこの時のことで、それがしの花押かきはん鶺鴒せきれいの眼のたまはひと月に三たびところをえまする、この書面の花押はそれがしの致したるにはこれなく、と言い抜けたのもこの時のことである。鶺鴒せきれい眼睛がんせい在処ありどこを月に三度かえるとは、平生から恐ろしい細かい細工をしたものだ。
 政宗はかくのごとく証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。みぞの底の汚泥をつかみ出すのは世態に通じたもののすることではない、と天明度の洒落者しゃれもの山東さんとう京伝きょうでんったが、秀吉もさすがに洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通りぬけさせてやる気がある。人の腹の中がいいの悪いのと注文を言っている絛虫さなだむし蛔虫かいちゅうのようなケチなものではない。三百さんびゃく代言だいげん気質かたぎにわずらわしいことをもって政宗をめはしなかった。かえって政宗に、一手をもって葛西・大崎の一揆をたいらげよと命じた。あるいはこれは政宗がみずから請うたのだともいうが、いずれへまわっても悪い役目は葛西・大崎の土酋どしゅうで、政宗のために小苛こっぴどい目にってしまった。
 この年の夏、南部の九戸くのへ左近政実まさざねという者が葛西・大崎などのより規模の大きい反乱をおこしたが、秀次の総大将、氏郷の先鋒せんぽう、諸将出陣というので論なく対治されてしまい、それで奥羽は腫物はれものの根が抜けたようにまったく平定した。氏郷はこのときも功があったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。
 たぶん九戸乱のすんだ後、天正十九年(一五九一)か二十年のことであったろう。前年の行きがかりからどうも氏郷・政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人にケンカされては困るから、秀吉は加賀大納言・前田利家へ聚楽じゅらくでのないしょ話に、大納言方にて仲をなおさするようにとの依頼をした。利家もちょっと迷惑でないこともなかったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲がなおればよいが、かえって何かの間違いから角立かどだった日には、両虎一澗いっかんに会うので、あいたんずばまざるの勢いである。刃傷にんじょうでもすればケンカ両成敗、氏郷も政宗も取りつぶされてしまうし、自分も大きな越度おちどである。二桃にとう三士さんしを殺すのはかりごととも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉にとってはそういうことがおこってもさしつかえはあるまいか知らぬが、自分らにとっては大変である。そこで辞したいはやまやまだったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為ふためであるという秀吉の言には、重量おもみがあって避けることができぬ。是非がないから、氏郷・政宗を請待しょうたいして太閤たいこうの思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家のあつかいとあり、理の当然で押さえられているのであるからもどくことはできぬ。しかし主人の利家は氏郷と大の仲よしで、かつまたまぬがれぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷びいきなのは知れきったことである。ことに前年、自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。いかに剛胆な政宗でも、コリャ迂闊うかつには、と思ったことであろう。けれどもわがままに出席をことわるわけにはならぬ、虚病も卑怯ひきょうである。是非がない。ありがたきしあわせ、当日罷出まかりいで、ご芳情ほうじょう・御礼申し上ぐるでござろう、と挨拶あいさつせねばならなかった。あまり御礼など申し上げたいことはなかったろう。しかしさすがは政宗である、シャ、何ごともあらばあれ、と参会を約諾やくだくした。
 その日は来た。前田利家もかなり心づかいをしたことであろうが、これはまた人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところがあって、そして実はなかなか骨太であり、諸大名の受けもよくて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷たんいの表面の底に行きとどいた用意を存していたことであろう。相客には浅野長政・前田徳善院とくぜんいん〔前田玄以げんい・細川越中守・金森かなもり法印・有馬法印・佐竹備後守びんごのかみ義宣よしのぶか〕、その他五、六人の大名たちを招いた。場所はもちろん主人利家のやしきで、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合わせは、こういう時において非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、いわゆる両立りょうだてというところの、双方に甲乙上下のつかぬように請じて座せしめたことだろう。それから自然と相客の贔負ひいきひいきがあるから、右方ひいきの人々をば右方へそろえ、左方ひいきの人々を左方へそろえて座らせる仕方もあれば、これを左右錯綜さくそうさせて座らせる座らせ方もあるわけで、その時・その人・その事情によって主人の用意は一様に定まったことではあるまいが、利家がこの日、人々をどう組み合わせて座らせたかはわからない。ただしこの日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家とあらそい戦ったことはあるが元来が親類合しんるいあいだから、伊達が蒲生に対する場合は無論、備後守は伊達びいきの随一ずいいちだ。徳善院は早くから政宗と懇親である。細川越中守は蒲生びいきたること言うまでもない。浅野弾正大弼長政はなかなか硬直で、場合によれば太閤殿下をも、きつねかれておわすなぞとののしることもあるほどだが、平日は穏便おんびんなることが好きな、物わかりのいい人であるから、氏郷びいきではあるが政宗にも同情をしむ人ではない。有馬・金森、いずれもなかなか立派にひと器量ある人々であり、他の人々も利家がその席をたっとくして吾子わがこ利長としなが利政としまさをも同座させなかったほどだから、みな相応の人々だったに疑いない。主人利家にとっては自分の支持をするものが一人でも多いのがよいわけだから、子息たちも立派な大名であるゆえ同座させた方が万事に都合がいいのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂ではない。両者の仲裁仲なおりの席に、司会者の側の顔を大勢ならべて両者を威圧するようにするのは卑怯ひきょうで、かかる場合、万々一間違いができれば、左方からも右方からも甘んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そしてあくまでも双方を取りまとめるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞはかえって要せぬのである。
 人々は座になおった。利家は一座を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押しつけられまじい面魂つらだましいでウムと座っている。それもそのはずで、いろいろの経緯いきさつがあった蒲生忠三郎を面前にひかえているのであるから。また蒲生忠三郎氏郷も、何をといわぬばかりの様子でスイとましている。これもそのはずだ。氏郷は「きりふくろにたまらぬ風情ふぜいの人」だと記されているから、これもずいぶん恐ろしい人だ。厄介やっかいな人たちの仲なおりを利家はあつかわせられたものだ。前田家の家臣の書いているところによると、「その節お勝手衆も申し候は、今日政宗のてい、大納言殿御屋にてなく候わば、まんをもつかまつられ申すべく候、また飛騨守殿も少もさようのこと堪忍かんにんこれなき仁にて、事もでき申し候こともこれあるべく候えども云々うんぬん」とある。まん」とはわがままである。氏郷・政宗二人の様子を饗応きょうおうかりの者の眼から見たところを写しているのである。そこで利家が見ると、政宗は肩衣かたぎぬでいる、それはよい、脇指わきざしをさしている、それもいいが、その脇指が朱鞘しゅざやの大脇指も大脇指、長さが一尺八、九寸もあった。そんな長い脇指というものがあるものでない。利家の眼はかようなおそろしく長い脇指をさしている政宗の胸の中をやさしく見やった。ここをわれらから政宗の器量が小さいようにて取ってはならぬ。政宗は政宗で、むしろここが政宗のいいところである。脇指はいかに長くてもおどかしにはならぬ、まして一座の者はみな、血烟ちけむりの灌頂かんちょう洗礼を受けている者たちだ。だからその恐ろしく長い大脇指は使うつもりでなくて何であろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んでこれを使おうようはないが、主人のあいさつ、相手の出方、まかり間違ったら、おれはおれだ、の料簡りょうけんがある。何十万石も捨てる、生命いのちも捨てる、屈辱くつじょくに生きることは嫌だ、やりつけるまでだ、という所存があったのである。たぎり立った魂は誰もこうである。これが男児たる者の立派な根性でなくて何であろう。後にいたっては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一拳をわせられたが、その時はもう「あり牡丹ぼたんにのぼる、観を害せず」で、殴ったやつは蟻、自分は大きな白牡丹とおさまりかえったのである。が、この時はまだ若ざかり、二十六、七、せいぜい二十八である。まだ泰平の世ではない、戦乱の世である。すこしでも他に押し込まれて男をてては生き甲斐がいがないのである。一尺七、八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来、政宗はまた人に異なったひと気象があった者で、茶の湯を学んでから、そこはいかに政宗でも時代の風にはきこまれて、千金もする茶碗ちゃわんを買った。ところがそれを玩賞がんしょうしていたおりから、ふと手をすべらせてその茶碗ちゃわんを落とした。するとさすが大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗はみずからじ、みずからいきどおった。たっといとはいえ多寡たかが土細工の茶碗ちゃわんだ、それにおれほどの者が心を動かしたのは何ごとだ、エエ忌々いまいましい、とその茶碗をとって、ハッシ、庭前の石へたたきつけて粉にしてしまったということがある。千両の茶碗をたたきつけたところはちと癇癪かんしゃくが強すぎるか知らぬが、物にとらわれる心をくだいたところは千両じゃやすいくらいだ。千両の茶碗をも叩ッ壊したその政宗が一尺七、八寸のたたき壊し道具を腰にしている、何をたたき壊すか知れたものではない。そしてその対座むこうざにすわっているのは、古い油筒を取り上げて三百年も後までその器の名を伝えた氏郷である。かたや割茶碗、片や油筒、よい取り組みである。
 氏郷その日の容儀ようぎはべつに異様ではなかった。「飛騨守殿仕立したては雨かかりの脇指にて候」とある。すこし不明であってくわしくはわからぬ。が、政宗の如きではなく、尋常にやさしかったのであろう。主人はじめその他の人々も無論、普通礼服で、法印ら法体ほったいの人々は直綴じきとつなどであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目をつけてこれを読んだろう。仲なおり扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけにさすがによかった。その大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御仕立したて、と挨拶あいさつながらあてた。綿の中に何かがある言葉だ。じつに味がある。又左衛門大出来おおでき、大出来。太閤たいこうが死病のとき、この人の手を押しいただいて、秀頼の上を頼み聞こえたが、じつに太閤にいただかせるだけの手をこの人は持っていたのだ。なんとまあいい言葉だろう、この時、この場、このうえにいい語はあるまい。政宗は古禅僧の徳山とくさんの意気である、それもたしかにおもしろい。しかし利家は徳山どころではない、大禅師だ。「政宗はことのほかあたりたる体にて候」と前田の臣下が書いているが、いかに政宗でも、扱い役である利家にむかってこの語を如何いかんともすることはできなかったろう、ことのほかあたったに相違ない。しかし政宗も悪くはなかった、遠国にそうろうゆえ、と言ってつつしんでおとなしくしたという。田舎者いなかものでござるから、というようなものだ。そこで盃が二ツ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲よからんことを望む趣意をあいさつし、双方へ盃を進め、酒礼よろしくあって、ついに無事円満にその席は終わってしまった。利家のおどしも強く徳もあり器量もあったので上首尾に終わったのである、殿下が利家にこのことを申し付けられたのもごもっともだった、というので秀吉までがほめられて、氏郷・政宗の仲なおりはすんだ。「だてなるお仕立したて」はじつによかった。「だて」という語は伊達家の衣装・持ち物の豪華からおこったの、朝鮮陣のときに政宗の臣・遠藤宗信や原田宗時むねときらが非常に大きな刀や薙刀なぎなたなどを造ったから起こったのだなどというのは疑わしい。もすこし古くから存した言葉だろう。
 天正二十年すなわち文禄元年(一五九二)、彼の朝鮮陣がおこったので、氏郷は会津に在城していたが上洛じょうらくの途にのぼった。白河を越え、下野にかかり、遊行上人に道しるべした柳の陰に歌を詠じ、それから那須野が原へとかかった。茫々ぼうぼうたる曠野あらの草莱そうらいいたずらにしげって、千古せんこただあるがままにあるのみなのを見て、氏郷は「世の中に われは何をか なすの原 なすわざもなく 年や経ぬべき」とたんじた。歌のおもてはもちろん那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと嘆じたのである。しかし歌は顕昭けんしょう阿闍黎あじゃりの論じたごとく、詩は祇園ぎおん南海なんかいの説いたごとく、その裏にくめばくむべき意の自然に存しているものである。この歌を味わえば氏郷が身ようやく老いんとして志いまだ遂げざるをばみずから悲しみ嘆じたさまが思い浮められる。それから佐野の舟橋をすぎ信濃へ入ったところ、火を持つ浅間の山の煙は濛々もうもう漠々ばくばくとして天をがしている。そこで「信濃なる 浅間のたけは 何を思う」とみかけたりなぞしている。自分が日ごろ胸をこがして思うところがあるからであったろう。
 肥前名護屋にあって太閤たいこうに侍していたころ、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬをよろこばずして、我みずから中軍をひきい、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海しようといったとき、氏郷がおおいによろこんで、人生は草葉の露、願わくは思うさま働きて、といったことは名高いはなしである。そのことは実現しなかったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤にたのもしく思われた程度とは想察そうさつにあまりある。氏郷が病死したのは文禄四年(一五九五)二月七日で、よわいは四十歳であったが、その死後、右筆頭の満田長右衛門があるとき氏郷の懸硯かけすずりを開いて、「朝鮮へ国替くにかえおおせつけられたく、一類眷属けんぞくことごとく引率してかの地へ渡り、ただちに大明だいみんに取ってかかり、事はてぬ限りは帰国つかまつるまじき旨の目安めやす」を作り置かれしが、これをたてまつらるるにおよばずしてご寿命がきさせられた、と嘆じたという。これをケチな史家どもは、太閤にその材能をまれたから、氏郷がみずからやすんぜずしてそういう考えをおこしたのであるというが、そんなしらみッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺梯子ばしごは九尺梯子で、後の太平の世に生まれて女飯おんなめしを食った史伝家輩は、元亀・天正の丈高い人を見損なう傾きがある。
 太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田掃部かもん正忠に命じて毒茶を飲ませたなどというのは、じつに忌々いまいましい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血をいたことはあろうが、それは病気の故であったろう。ないことに証拠はないものであるから、毒を飼わなかったという証拠はないわけだが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤がそんなことをする人とは思えないばかりでない、さようなことをする必要がどこにあるであろう。氏郷が生きておれば、豊臣家はかえってあんなにはならなかったろう。氏郷が利家と仲よく、利家はいい人物であり、氏郷と家康とは肌合いが合わぬのであった。そういうことを知らぬようなぼけた秀吉ではない。あるとき氏郷邸でかりの汁の会食があって、前田肥前守・細川越中守忠興ただおき・上田主水もんど・戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、もし太閤殿下に万一のことがあったら、天下をおきてするものは誰だろうということが話題になった。そのとき氏郷は、あれあれ、あの親父おやじ、といって肥前守利長をゆびさした。利長の親父はすなわち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々はちと合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足にさわる者もなく、毛利はありても浮田がさえぎり申す、家康上洛じょうらくを心がけなばこの飛騨がこれある、即時に食いつきて箱根を越えさせ申すまじ、また諸大名多く洛にありて事おこらば、なおさら利家の味方多からん、と言ったという。氏郷が家康に食いつけば、政宗が氏郷に食いつきもするだろうが、それはとにかくとして、氏郷は利家びいきであった。また他の場合にも氏郷は利家が天下をおきてするにることをいい、前田殿を除きてはと問われたら、そのときはおれが、といったので、徳川殿はと問う者が出たところ、あの物おしみめがナニ、といったはなしが伝えられている。氏郷が家康を重くていず、また、あまりこころよく思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌さいきの念のないことはない。しかし氏郷を除きたがる念があったとすれば、よほどわけのわからぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成のざんにもとづくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血げけつをわずらったと同じ人が記し、面は黄に黒く、項頸うなじのかたわら、肉少なく、目の下すこし浮腫ふしゅし、そののち腫脹しゅちょういよいよはなはだしかったと記してある。法眼正純まさずみの薬、名護屋にて宗叔の薬、また京の半井なからい道三どうさんらの治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに腎臓じんぞうなどの病いで終わったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年(一五九七)の氏郷像賛に「可惜談笑中窃置鴆毒ちんどく」の句があったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像にもとづいたものであろう。下風うたが氏郷の父の賢秀かたひでの上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院のことをいったのであろうとも、何でもさしつかえないと同じく、深く論ずるに値せぬ。
 かの氏郷がみずから毒飼をされたことを知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば 積らぬさきに 払へかし 雪には折れぬ 青柳あをやぎの枝」という歌を示して落涙らくるいしたなどというのはあまりおもしろくない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われてしまった後に何になろう。かつその歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずともよろしかろう。二月七日に死んだのである。春のことであり、花をしむことをんだので、その中おのずからに自らいたんでいるのである。べつに毒のにおいなどはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にしている太閤が、なんで氏郷に毒を飼うような卑劣・狭小きょうしょうな心を持とう。太閤はそんなケチな魂を持ってはいぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命がなくて、朝鮮へ国替えの願いを出さずにしまったことは、氏郷のために、太閤のためにしんでもあまりある。太閤は無論よろこんでこれを許したことであろうに。家康も家康公といってしかるべき方である、利家も利家公といってしかるべき人である、その他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派なたぎり立った魂は少くないが、朝鮮へ国替えの願いを出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰があったろう。



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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蒲生氏郷(三)

幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嘴《くちばし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)微物凡物も亦|是《かく》の如く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+止」、第3水準1-84-71]

 [#…]:返り点
 (例)老来不[#レ]識

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)今一[#(ト)]勝負

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)又飛騨守殿も少も/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 此の政宗は確に一怪物である。然し一怪物であるからとて其の政宗を恐れるような氏郷では無い。※[#「さんずい+回」、第3水準1-86-65]の水の巻く力は凄《すさま》じいものだが、水の力には陰もある陽《おもて》もある、吸込みもすれば湧上りもする。能《よ》く水を知る者は水を制することを会《え》して水に制せらるることを為さぬ。魔の淵で有ろうとも竜宮へ続く渦で有ろうとも、怖るることは無い。況《いわ》んや会津へ来た初より其政宗に近づくべく運命を賦与されて居るのであり、今は正《まさ》に其男に手を差出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が棘々満面《とげとげだらけ》の手だろうが粘滑油膩《ぬらぬらあぶら》の手だろうが鱗《うろこ》の生えた手だろうが蹼《みずかき》の有る手だろうが、何様《どん》な手だろうが構わぬ、ウンと其手を捉えて引ずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷政宗に命令して置いた。新規平定の奥羽の事、一揆《いっき》騒乱など起ったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に切鎮《きりしず》めよ、という命令を下して置いた。で、氏郷は其命の通り、サア案内に立て、と政宗に掛らねばならぬのであった。其の案内人が甚だ怪しい物騒千万なもので、此方から差出す手を向うから引捉《ひっつか》んで竜宮の一町日あたりへ引込もうとするか何様かは知れたもので無いのである。此の処活動写真の、次の映画幕は何《ど》の様な光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面冠者の藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払った代り一等席に淀君《よどぎみ》と御神酒徳利《おみきどくり》かなんかで納まりかえって見物して居るのであった。しかも洗って見れば其の観覧料も映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんから実は巻上げたものであった。
 木村伊勢領内一揆|蜂起《ほうき》の事は、氏郷から一面秀吉ならびに関東押えの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺は殿下の予《かね》ての教令により出陣征伐あるべし、と通牒《つうちょう》して置て、氏郷が出陣したことは前に述べた通りであった。五日は出発、猪苗代泊り、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷の山脈を越えてヌッと出て来た。其の兵数は一万だったとも一万五千だったとも云われて居る。氏郷勢よりは多かったので、兵が少くては何をするにも不都合だからであることは言うまでも無い。板谷山脈を越えれば直《すぐ》に飯坂だ。今は温泉場として知られて居るが、当時は城が有ったものと見える。政宗は本軍を飯坂に据えて、東の方《かた》南北に通って居る街道を俯視《ふし》しつつ氏郷勢を待った。氏郷の先鋒《せんぽう》は二本松から杉[#(ノ)]目、鎌田と進んだ。杉[#(ノ)]目は今の福島で、鎌田は其北に在る。政宗勢も其先鋒は其辺まで押出して居たから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。然るに伊達勢が本気になって案内者の任を果し、先に立って一揆《いっき》対治に努力しようと進む意の無いことは、氏郷勢の場数を踏んだ老功の者の眼には明々白々に看えた。すべて他の軍の有して居る真の意向を看破することは戦に取って何より大切の事であるから、当時の武人は皆これを鍛錬して、些細《ささい》の事、機微の間にも洞察することを力《つと》めたものである。関ヶ原の戦に金吾中納言の裏切を大谷|刑部《ぎょうぶ》が必ず然様《そう》と悟ったのも其の為である。氏郷の前軍の蒲生源左衛門、町野左近将監等は政宗勢の不誠実なところを看破したから大《おおい》に驚いた。一揆討伐に誠意の無いことは一揆方に意を通わせて居て、そして味方に対して害意を有《も》っているので無くて何で有ろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へ馳《は》せさせて政宗の異心|謀叛《むほん》、疑無しと見え申す、其処に二三日も御|逗留《とうりゅう》ありて猶《なお》其体をも御覧有るべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞して之に従うかと思いのほか、大に怒って瞋眼《しんがん》から光を放った。ここは流石《さすが》に氏郷だ。二人を睨《にら》み据えて言葉も荒々しく、政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松を出でたれ、何方《いずく》にもあれ支えたらば踏潰《ふみつぶ》そうまでじゃ、明日《あす》は早天に打立とうず、と罵《ののし》った。総軍はこれを聞いてウンと腹の中に堪《こた》えが出来た。
 政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者は勿論有るし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光って居たに違無い。見ると蒲生勢は凜《りん》としている、其頃の言葉に云う「戦《たたかい》を持っている」のである。戦を持っているというのは、何時でも火蓋《ひぶた》を切って遣りつけて呉れよう、というのである。コレハと思ったに違いない。
 氏郷は翌日早朝に天気の不利を冒して二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城に着いた。政宗遅滞するならば案内の任を有っている者より先へも進むべき勢を氏郷が示したので、政宗も役目上仕方が無いから先へ立って進んだ。氏郷は其後から油断無く陣を押した。何の事は無い政宗は厭々《いやいや》ながら逐立《おいた》てられた形だ。政宗は忌々《いまいま》しかったろうが理詰めに押されて居るので仕方が無い、何様《どう》しようも無い。氏郷は理に乗って押して居るのである。グングンと押した。大森辺から北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順に云えば伊達郡、苅田《かった》郡、柴田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡であって、黒川郡から先が一揆|叛乱地《はんらんち》になって居るのである。其間随分と長い路程であるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬ訳にゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗が若《も》しも途中で下手《へた》に何事か起した日には、吾《わ》が領分では有るし、勝手は知ったり、大軍では有り、無論政宗に取って有利の歩合は多いが、吾が領内で云わば関白の代官同様な氏郷に力沙汰に及んだ日には、免《まぬか》るるところ無く明白に天下に対して弓を挽《ひ》いた者となって終《しま》って、自ら救う道は絶対に無いのである。そこを知らぬ政宗では無いから、振捩《ふりもぎ》ろうにも蹴たぐろうにも為《せ》ん術《すべ》無くて押されている。又そこを知り切っている氏郷だから、業を為るなら仕て見よ、と十分に腰を落して油断無くグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢を得ている。でも押す方にも押される方にも、力士と力士との双方に云うに云われぬ気味合が有るから、寒気も甚《ひど》かったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、叛乱地の境近くに至るまでに十日もかかって居る。
 此|間《かん》政宗は面白く無い思をしたであろうが、其代り氏郷も酷《ひど》い目にあっている。それは此十日の間に通った地方は政宗の家の恩威が早くから行われて居た地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠あたりが切従えたのだから、中頃之を失ったことが有るにせよ、今又政宗に属しているので、土豪民庶皆伊達家|贔屓《びいき》であるからであった。本来なら氏郷政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜をば政宗領の者も提供すべき筋合であるが、前に挙げた如く人民は蒲生勢を酷遇した。寒天風雪の時に当って宿を仮さなかったり敷物を仮さなかったり、薪や諸道具を供することを拒んだ。朧月夜《おぼろづきよ》にしくものぞ無き、という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人であり侘《わび》の味知りの茶人である氏郷でも、木《こ》の下風《したかぜ》は寒くして頬に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心し無かったろう。桑折《こおり》、苅田、岩沼、丸森などの処々、斯様《こう》いう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事を罵《ののし》っているのも道理である。
 押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きて漸《ようや》く目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領の殆んど尽頭《はずれ》の黒川の前野に陣取った。前野とあるのは多分富谷から吉岡へ至る路の東に当って、今は舞野というところで即ち吉岡の舞野であろう。其処で其日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴の庵《いおり》、何の風情も無く侘しうは候が、何彼《なにか》と万端御意を得度く候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たる可く、粗茶進上|仕度《つかまりたく》候、という慇懃《いんぎん》なものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈《かんか》弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜の沸音《にえおと》、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣も深く味も遠く、何という楽しくも亦嬉しいことであろう。然し相手が相手である、伊達政宗である。異《おつ》な手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠に御懇志かたじけのうこそ候え、明朝参りて御礼を申そうず、というのであった。
 イヤ驚いたのは家来達であった。政宗|謀叛《むほん》とは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれて躪《にじ》り上りから其茶室へ這入《はい》ろうというのである。若《も》し彼方に於てあらかじめ大力|手利《てきき》の打手を用意し、押取籠《おっとりこ》めて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人若し打たれては残卒全からず、何十里の敵地、其処《そこ》の川、何処の峡《はざま》で待設けられては人種《ひとだね》も尽きるであろう。こは是れ一期《いちご》の大事到来と、千丈の絶壁に足を爪立て、万仞《ばんじん》の深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をして呉れたものだと、怨みもし呆れもし悲みもした事であろう。然し忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、往《ゆ》いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆したに当る、機に臨みて身を扱おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間暇はいらぬ、立寄って政宗が言語《ものいい》面色《つらつき》をも見て呉りょう、というのであったろう。政宗の方には何様いう企図が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌《ちゃえん》に招いたのは、正《まさ》に氏郷を数寄屋《すきや》の中で討取ろう為であったと明記して居る。然しそれは実際|然様《そう》だったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出して居る事実が無いから、蒲生方で然様思ったという証拠にはなるが、政宗方で然様いう企を仕たという証拠にはならぬ。又万一然様いう企をしたとすれば、鶺鴒《せきれい》の印の眼球《めだま》で申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至って何様《どう》ともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは目睫《もくしょう》の間であるから、或は一揆方《いっきがた》の剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起って其者共を其場で切殺して口を滅して終《しま》おう、という企をしたというのならば、其の企も聊《いささ》かは有り得もす可きことになる。然《さ》も無くば政宗にしては些《ちと》智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。但し蒲生方の言も全く想像にせよ中《あた》って居るところが有るのでは無いかと思われる所以《ゆえん》は幾箇条もあり、又ずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動で一寸|窺《うかが》えるような気のすることがある。それは後に至って言おう。此処では政宗に悪意が有った証は無いというのを公平とする。が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌《ちゃえん》に赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の疑懼《ぎく》の念を懐《いだ》いたのも無理ならぬことであった。氏郷が其の請を拒まないで、何程の事やあらんと懼《おそ》れ気《げ》も無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟|鮫室《こうしつ》の中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らない胆ッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田|孝高《よしたか》は城井谷|鎮房《しずふさ》を酒席で遣りつけて居る世の中であるに。
 夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗を訪《と》うた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装は何様であったか記されたものが無い。如何にこれから戦に赴く途中であるとしても、皆具《かいぐ》取鎧《とりよろ》うて草摺長《くさずりなが》にザックと着なした大鎧《おおよろい》で茶室へも通れまいし、又如何に茶に招かれたにしても直《ただち》に其場より修羅の衢《ちまた》に踏込もうというのに袴《はかま》肩衣《かたぎぬ》で、其肩衣の鯨も抜いたような形《なり》も変である。利久高足と云われた氏郷だから、必ずや武略では無い茶略を然るべく見せて、工合の宜い形で参会したろうが、一寸想像が出来ない。是は茶道鍛錬の人への問題に提供して置く。氏郷の家来達は勿論|甲冑《かっちゅう》で、鎗《やり》や薙刀《なぎなた》、弓、鉄砲、昨日に変ること無く犇々《ひしひし》と身を固めて主人に前駆後衛した事であろう。やがて前野に着く。政宗方は迎える。氏郷は数寄屋の路地へ潜門《くぐり》を入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷に随《したが》って来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間玄蕃が弟と聞えた佐久間久右衛門、同苗《どうみょう》舎弟《しゃてい》源六、綿利《わたり》八右衛門など一人当千の勇士の面々、火の中にもあれ水の中にもあれ、死出|三途《さんず》主従一緒と思詰めたる者共が堪《たま》り兼ねてツツと躍り出た。伊達の家来は此《こ》は狼籍《ろうぜき》に近き振舞と支え立てせんとした。制して制さるる男共であればこそ、右と左へ伊達の家来を押退け押飛ばして、楯《たて》に取る門の扉をもメリメリと押破った。氏郷の相伴つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門|罷《まか》り通る、蒲生忠右衛門罷り通る、町野左近将監罷り通る、罷り通る、罷り通る、と陣鐘《じんがね》のような声もあれば陣太鼓のような声も有る、陣法螺《じんぼら》吹立てるような声も有って、間《あわい》隔たったる味方の軍勢の耳にも響けかしに勢い猛《たけ》く挨拶して押通った。茶の道に押掛の客というも有るが、これが真個《ほんと》の押掛けで、もとより大鎧|罩手《こて》臑当《すねあて》の出で立ちの、射向けの袖《そで》に風を切って、長やかなる陣刀の鐺《こじり》あたり散らして、寄付《よりつき》の席に居流れたのは、鴻門《こうもん》の会に樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《はんかい》が駈込んで、怒眼を円《つぶら》に張って項王を睨《にら》んだにも勝ったろう。外面《そとも》は又外面で、士卒各々|兜《かぶと》の緒を緊《し》め、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀《たち》を取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応えようと振い立っていた。これでは仮令《たとい》政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。
 茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。然し主人と臣下とを如何に茶なればとて同列にすることは其の主に対しては失礼であり、其の臣下に対しては※[#「にんべん+(先+先)/日」、1038-下-25]上《せんじょう》に堪うる能《あた》わざらしむるものであるから、織田|有楽《うらく》の工夫であったか何様であったか、客席に上段下段を設けて、膝突合わすほど狭い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐せしむるようにした席も有ったと記《おぼ》えている。主従関係の確立して居た当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物柔らかに其他意無きを示して、書院で饗応《きょうおう》でも仕たろうが、鎧武者《よろいむしゃ》を七人も八人も数寄屋に請ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、御免|蒙《こうむ》ったろう。扨《さて》政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談|取交《とりま》ぜて、寧《むし》ろ軍事談の方を多く会話したろうが、此時氏郷が、佐沼への道の程に一揆《いっき》の城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へは是より田舎町(六町程|歟《か》)百四十里ばかりにて候、其間に一揆の籠《こも》りたる高清水と申すが佐沼より三十里|此方《こなた》に候、其の外には一つも候わず、と謀《はか》るところ有る為に偽りを云ったと蒲生方では記している。殊更に虚言を云ったのか、精《くわ》しく情報を得て居なかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。然《さ》候わば今日道通りの民家を焼払わしめ、明日は高清水を踏潰《ふみつぶ》し候わん、と氏郷は云ったが、目論見《もくろみ》の齟齬《そご》した政宗は無念さの余りに第二の一手を出して、毒を仕込み置いたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むと直《じき》に死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に血反吐《ちへど》を出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒、少くとも二三日後になって其効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪しいと思わぬことは無かった。然し茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じて薦《すす》める茶を飲まぬという其様《そん》な大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面に湛《たた》えて怡然《いぜん》として之を受け、茶味以外の味を細心に味いながら、然も御服合《おふくあい》結構の挨拶の常套《じょうとう》の讃辞まで呈して飲んで終った。そして茶事が終ったから謝意を叮嚀《ていねい》に致して、其席を辞した。氏郷の家来達も随《したが》って去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。
 氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互に見交わす眼と眼に思い入れ宜しくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御[#(ン)]済ましありしか、飲ませられしか、如何に、如何に、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯《ひきょう》、余瀝《よれき》も余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。誰《た》そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急に駛《はし》って馬柄杓《ばびしゃく》に水を汲んで来る。其間に氏郷は印籠《いんろう》から「西大寺」(宝心丹をいう)を取出して、其水で服用し、彼に計謀《はかりごと》あれば我にも防備《そなえ》あり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早く忽《たちま》ちにカッと飲んだ茶を吐いて終った。
 以上は蒲生方の記するところに拠って述べたので、伊達方には勿論毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座に又は陰密に人を除いて終うことは恐ろしい世には何様しても起り、且つ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は却《かえ》ってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にお》いを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨《しらみ》ッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人《かんじん》小人|妬婦《とふ》悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは耻辱《ちじょく》を受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしも恕《じょ》すべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心も随《したが》って存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠《いんろう》の根付にウニコールを用いたり、緒締《おじめ》に珊瑚珠《さんごじゅ》を用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。扨《さて》此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗は甚《いた》く器量が下がる。但し果して事実であったか何様《どう》かは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗の為に虚談想像談で有って欲しい。政宗こそ却《かえ》って今歳《ことし》天正の十八年四月の六日に米沢城に於て危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取り且つ小田原参向遅怠の為に罪を得んとするの事情が明らかであったところから、最上《もがみ》義光に誑《たぶら》かされた政宗の目上が、政宗を亡くして政宗の弟の季氏《すえうじ》を立てたら伊達家が安泰で有ろうという訳で毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に中《あた》って苦悶《くもん》即死したから事|露《あら》われて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏を斬《き》り、小次郎の傅《もり》の小原縫殿助《おばらぬいのすけ》を誅《ちゅう》し、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人即ち政宗の母は其実家たる最上義光の山形へ出奔《いではし》ったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったことは有ったらしく、又世俗の所謂《いわゆる》鬼役即ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思っても強《あなが》ち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寛永初年(五年|歟《か》)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、政宗が自ら饗膳《きょうぜん》を呈した。其時将軍の扈従《こじゅう》の臣の内藤|外記《げき》が支え立てして、御主人《おんあるじ》役に一応御試み候え、と云った。すると政宗は大《おおい》に怒って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、其時にだに人に毒を飼う如ききたなき所存は有《も》たず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記の為に挨拶が有って其儘《そのまま》に済んだ、という事がある。政宗の答は胸が透《す》くように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて一手《ひとて》さきが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何で斯様《かよう》なことを云ったろう。それは全く将軍を思う余りの過慮から出たに相違無いが、見す見す振飛ばされると分ってながら一[#(ト)]押し押して見たところに、外記は外記だけの所存が有ったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲の好かった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少い人ではあったが、それでも最上の伊白という鍼医《はりい》の為に健康を危うくされて、老臣の村井|豊後《ぶんご》の警告により心づいて之を遠ざけた、という談《はなし》がある。毒によらず鍼によらず、陰密に人を除こうとするが如きことは有り内の世で、最も名高いのは加藤清正|毒饅頭《どくまんじゅう》一件だが、それ等の談は皆虚誕であるとしても、各自が他を疑い且つ自ら警《いまし》め備えたことは普《あまね》く存した事実であった。政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看て差支あるまい。
 其日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はや此辺は叛乱地《はんらんち》で、地理は山あり水あって一寸|錯綜《さくそう》し、処々に大崎氏の諸将等が以前|拠《よ》って居た小城が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進んだところ、本街道筋にも一揆《いっき》の籠《こも》った敵城があった。それは四竈《しかま》、中新田《なかにいだ》など云うのであった。氏郷の勢に怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田に止《とど》まり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町|距《へだ》たった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。此の中新田附近は最近、即ち足掛四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、其戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西左京太夫晴信が使を遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者を遣《よこ》して特に慰問されたほど諸方に響き渡り、又反覆常無き大内定綱は一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。それは大崎の大崎義隆の臣の里見隆景から事起って、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山の城主氏家弾正を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎に因って政宗に援を請うたところから紛糾した大崎家の内訌《ないこう》が、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を手蔓《てづる》にして大崎を呑んで終《しま》おうということになったのである。ところが氏家を援《たす》けに出た伊達軍の総大将の小山田筑前は三千余騎を率いて、金の采配《さいはい》を許されて勇み進んだに関らず、岩出山の氏家弾正を援けようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将等と戦って居る中に、中新田城よりは後《あと》に当って居る下新田城や師山《もろやま》城や桑折《くわおり》城やの敵城に策応されて、袋の鼠《ねずみ》の如くに環攻され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍殆んど覆没し、陣代の高森|上野《こうつけ》は婿《むこ》舅《しゅうと》の好《よし》みを以て哀《あわれみ》を敵の桑折(福島附近の桑折《こおり》にあらず、志田郡鳴瀬川附近)の城将黒川月舟に請うて僅に帰るを得た程である。今氏郷は南から来て四竈を過ぎて其の中新田城に陣取ったが、大崎家の余り強くも無い鉾先《ほこさき》ですら、中新田の北に当って同盟者をさえ有した伊達家の兵に大打撃を与え得た地勢である。氏郷の立場は危いところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へ廻って立切った日には、西には小野田の城が有って、それから向うは出羽奥羽の脊梁《せきりょう》山脉に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆《いっき》が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛られたが最期、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍《ふくてつ》を履《ふ》むほかは無い。氏郷が十二分の注意を以て、政宗の陣の傍へ先手《さきて》の四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元に蜂を止まらせて置いたようなものである。動静監視のみでは無い、若《も》し我に不利なるべく動いたら直に螫《さ》させよう、螫させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間に直に斬立《きりた》てよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には天秤《てんびん》のカネアイというところである。
 小山田筑前が口措くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将|葛岡監物《くずおかけんもつ》が案外に固く防ぎ堪《こら》えて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の外郭《そとぐるわ》までは奪《と》ったが、其間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。譬《たと》えば一箇の獣《けもの》と相搏《あいう》って之を獲ようとして居る間に、四方から出て来た獣に脚を咬《か》まれ腹を咬まれ肩を攫《つか》み裂かれ背を攫み裂かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。何故といえば氏郷は中新田城に拠って居るとは云え、中新田を距《さ》ること幾許《いくばく》も無いところに、名生《めふ》の城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るが可なり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非其の途中の敵城は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷に於ける名生の城は恰《あたか》も小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠って居ることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観の態度を取るだけとしても、一揆《いっき》方の諸城より斬《き》って出たならば、蒲生勢は千手観音《せんじゅかんのん》でも働ききれぬ場合に陥るのである。
 明日は愈々《いよいよ》一揆勢との初手合せである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻掛かろう。若《も》し途中の様子、敵の仕業《しわざ》に因って、高清水に着くのが日暮に及んだなら、明後日は是非攻め破る、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かに更けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負わせられていたのである。然るに其朝は前野の茶室で元気好く氏郷に会った政宗が、其夜の、しかも亥《い》の刻、即ち十二時頃になって氏郷陣へ使者をよこした。其の言には、政宗今日夕刻より俄《にわか》に虫気《むしけ》に罷《まか》り在り、何とも迷惑いたし居り候、明日の御働き相延ばされたく、御[#(ン)]先鋒《さき》を仕《つかまつり》候事成り難く候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、巌石も凍融《いてとけ》の春の風には潰《くず》るる習いだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩の事である。氏郷及び氏郷の諸将は之を聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀は露顕したぞ、と思って眼の底に冷然たる笑《えみ》を湛《たた》えて点頭《うなず》き合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答は鷹揚《おうよう》なものであった。仰《おおせ》の趣は承り候、さりながら敵地に入り、敵を目近に置きながら留まるべくも候わねば、明日は我が人数を先へ通し候べし、御養生候て後より御出候え、と穏やかな挨拶だ。此の返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったか何様《どう》だか、それは想像されるばかりで、何の証も無い。ただ若し政宗に陰険な計略が有ったとすれば、思う壺に氏郷を嵌《は》めて先へ遣ることになったのである。
 十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにして居る。氏郷は潮合を計って政宗の方《かた》へ使者を出した。それがしは只今打立ち候、油断無くゆるゆる御養生の上、後より御出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置く上は常体の陣組には似る可からず、というのであったろう、五手与《いつてぐみ》、六手与、七手与、此|三与《みくみ》を後備《あとぞなえ》と定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入替えた。前にも見えた五手与、六手与などというのは、此頃の言葉で五隊で一集団を成すのを五手与、六隊で一集団を成すのを六手与というのであった。さて此の三与は勿論政宗の押えであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って逆歩《しりあし》に歩み、政宗打って掛らば直にも斬捲《きりまく》らん勢を含んで居た。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構は南へ向い歩《あし》は北へ向って行くことであるか、それとも別に間隔交替か何かの隊法があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったか何様か精《くわ》しく知らない。但し飯田忠彦の野史《やし》に、行布[#二]常蛇陣[#一]とあるのは全く書き損いの漢文で、常山蛇勢の陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢に向い、後の三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援の為に佐沼の城を志して、差当りは高清水の敵城を屠《ほふ》らんと進行したのは稀有《けう》な陣法で、氏郷|雄毅《ゆうき》深沈とは云え、十死一生、危きこと一髪を以て千鈞《せんきん》を繋《つな》ぐものである。既に急使は家康にも秀吉にも発してあるし、又政宗が露骨に打って掛るのは、少くとも自分等全軍を鏖殺《みなごろし》にすることの出来る能《よ》く能く十二分の見込が立た無くては敢てせぬことであると多寡を括《くく》って、其の政宗の見込を十二分には立たせなくするだけの備えを仕て居れば恐るるところは無い、と測量の意味であるところの当時の言葉の「下墨《さげすみ》」を仕切って居り、一揆征服木村救援の任を果そうとして居るところは、其の魂の張り切り沸《たぎ》り切って居るところ、実に懦夫《だふ》怯夫《きょうふ》をしてだに感じて而して奮い立たしむるに足るものがある。
 高清水まで敵城は無いと云う事であったが、それは真赤な嘘であった。中新田を出て僅の里数を行くと、そこに名生の城というが有って一揆の兵が籠《こも》って居り、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近等、何|躊躇《ちゅうちょ》すべき、しおらしい田舎武士めが弓箭《ゆみや》だて、我等が手並を見せてくれん、ただ一[#(ト)]揉《もみ》ぞと揉立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々励み勇み喊《おめ》き叫んで攻立った。作右衛門|素捷《すばや》く走り戻って本陣に入り、首を大将の見参《げんざん》に備え、ここに名生の城と申す敵城有って、先手の四人合戦仕った、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取掛けて手間取って居れば、四年前の小山田筑前と同じ事になって、それよりも猶《なお》甚だしい不利の場合に身を置くことになるのである。鏖殺《おうさつ》さるべき運命を享受する位置に立つのである。
 氏郷は真に名生の城が前途に在ったことを知らなかったろうか。種々の書には全く之を知らずに政宗に欺かれたように記してある。成程氏郷の兵卒等は知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえって居た小田原を天下の軍勢と共に攻めた時にさえ、忍びの者を出して置いて、五月三日の夜の城中からの夜討を知って、使番を以て陣中へ夜討が来るぞと触れ知らせた程に用意を怠らぬ氏郷である。まして未だ曾《かつ》て知らぬ敵地へ踏込む戦、特《こと》に腹の中の黒白《こくびゃく》不明な政宗を後へ置いて、三里五里の間も知らぬ如き不詮議の事で真黒闇《まっくらやみ》の中へ盲目探りで進んで行かれるものでは無い。小田原の敵の夜討を知ったのは、氏郷の伊賀衆の頭《かしら》、忍びの上手《じょうず》と聞えし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城を窺《うかが》ったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、若《もし》くは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者共という義で、甲賀衆と云うのは江州甲賀の侍に本づく同様の義の語、そして転じては伊賀衆甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察の任を帯びて居る者という意味に用いられたのである。日本語も満足に使えぬ者等が言葉の妄解妄用を憚《はばか》らぬので、今では忍術は妖術《ようじゅつ》のように思われているが、忍術は妖術では無い、潜行偵察の術である。戦乱の世に於て偵察は大必要であるから、伊賀衆甲賀衆が中々用いられ、伊賀流甲賀流などと武術の技としての名目も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀河内の間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭が有れば手足は無論有る。不知案内の地へ臨んで戦い、料簡《りょうけん》不明の政宗と与《とも》にするに、氏郷が此の輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせて置いたり徒《いたず》らに卒伍《そつご》の間に編入して居ることの有り得る訳は無い。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の口吻《こうふん》に従えばそれこそ鼠《ねずみ》になって孔《あな》から潜《もぐ》り込んだり、蛇になって樹登りをしたりして、或者は政宗の営を窺い或者は一揆方の様子を探り、必死の大活躍をしたろうことは推察に余り有ることである。そして此等の者の報告によって、至って危い中から至って安らかな道を発見して、精神|気魄《きはく》の充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は兜《かぶと》の銀の鯰《なまず》を悠然と游《およ》がせたのだろう。それで無くて何で中新田城から幾里も距《へだた》らぬところに在った名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後にして出立しよう。城は騎馬武者の一隊では無い、突然に湧いて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村|隠岐守《おきのかみ》が守って居たのを旧柳沢の城主柳沢隆綱が攻取って拠って居たのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬ訳はない。
 氏郷は前隊からの名生攻の報を得ると、其の雄偉豪傑の本領を現わして、よし、分際知れた敵ぞ、瞬く間に其城乗取れ、気息《いき》吐《つ》かすな、と猛烈果決の命令を下した。そして一方五手組、六手組、七手組の後備に対《むか》っては、おもしろいぞ、おもしろいぞ、名生の城攻むると聞かば必定政宗めが寄せて来うぞ、三段に陣を立てて静まりかえって待掛けよ、比類無き手柄する時は汝等に来たぞ、と励まし立てる。後備《あとぞなえ》の三隊は手薬錬《てぐすね》ひいて粛として、政宗来れかし、眼に物見せて呉れんと意気込む。先手は先手で、分際知れた敵ぞや、瞬く間に乗取れという猛烈の命令に、勇気既に小敵を一[#(ト)]呑みにして、心頭の火は燃えて上《のぼ》る三千丈、迅雷の落掛るが如くに憤怒の勢|凄《すさま》じく取って掛った。敵も流石《さすが》に土民ではない、柳沢隆綱等は、此処を堪《こら》えでは、と熱湯の玉の汗になって防ぎ戦った。然し蒲生勢の恐ろしい勢は敵の胆《きも》を奪った。外郭《そとぐるわ》は既に乗取った。二の丸も乗取った。見る見る本丸へ攻め詰めた。上坂源之丞、西村左馬允、北川久八、三騎並んで大手口へ寄せたが、久八今年十七八歳、上坂西村を抜いて進む。さはせぬ者ぞと云う間もあらせず、敵を切伏せ首を取る。先んぜられたり、心外、と二人も駈入りて手痛く戦う。氏郷本陣の小姓馬廻りまで、ただ瞬く間に陥《おと》せ、と手柄を競って揉立《もみた》つる。中にも氏郷が小小姓名古屋山三郎、生年十五歳、天下に名を得た若者だったが、白綾《しらあや》に紅裏《もみうら》打ったる鎧下《よろいした》、色々糸縅《いろいろおどし》の鎧、小梨打《こなしうち》の冑《かぶと》、猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織して、手鑓《てやり》提《ひっさ》げ、城内に駈入り鑓を合せ、目覚ましく働きて好き首を取ったのは、猛《たけ》きばかりが生命《いのち》の武者共にも嘆賞の眼を見張らさせた。名古屋は尾州の出で、家の規模として振袖《ふりそで》の間に一[#(ト)]高名してから袖を塞《ふさ》ぐことに定まって居たとか云う。当時此戦の功を讃えて、鎗仕《やりし》鎗仕は多けれど名古屋山三は一の鎗、と世に謡われたということだが、正《まさ》に是《これ》火裏《かり》の蓮華《れんげ》、人の眼《まなこ》を快うしたものであったろう。或は山三の先登は此の翌年、天正十九年九戸政実を攻めた時だともいうが、其時は氏郷のみでは無く、秀次、徳川、堀尾、浅野、伊達、井伊等大軍で攻めたのだから、何も氏郷が小小姓まで駈出させることは無かったろう。此の戦は瞬間に攻落すことを欲したから、北村、名古屋の輩までに力を出させたのである。それは兎もあれ角もあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家孫一、粟井六右衛門、町野新兵衛、田付理介等の勇士も戦死し、兵卒の討死手負も少くなかったが、遂に全く息もつかせず瞬く間に攻落して終《しま》って、討取る首数六百八十余だったと云うから、城攻としては非常に短い時間の、随分激烈|苛辣《からつ》の戦であったに疑無い。
 政宗は謀った通りに氏郷を遣り過して先へ立たせて仕舞った。氏郷は名生の城へ引掛るに相違無い、と思った。そこで、いざ急ぎ打立てや者共と、同苗藤五郎成実、片倉小十郎景綱を先手にして、揉《も》みに揉んで押寄せた。ところが氏郷の手配《てくばり》は行届いて居て、彼《か》の三隊の後備は三段に備を立てて、静かなること林の如く、厳然として待設けて居た。すわや政宗寄するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、弾丸《たま》振舞わん、と鉄砲の火縄の火を吹いて居る勢だ。名生の城は既に落されて烟《けむり》が揚り、氏郷勢は皆城を後にして、政宗如何と観て居るのである。これを看て取った政宗は案に相違して、何様《どう》にも乗ろう潮が無い。仕方が無いから名生の左の野へ引取って、そこへ陣を取った。
 氏郷は名生の城へ入って之に拠った。政宗が来ぬ間に城を落して終ったから、小田山筑前と同じようにはならなかった。氏郷が名生の城を攻めるに手間取って居たならば、名生の城で相図の火を挙げる、其時宮沢、岩手山、古川、松山四ヶ処の城々より一揆《いっき》勢は繰出し、政宗と策応して氏郷勢を鏖殺《おうさつ》し、氏郷武略|拙《つたな》くて一揆の手に斃《たお》れたとすれば、木村父子は元来論ずるにも足らず、其後一揆共を剛、柔、水、火の手段にあしらえば、奥州は次第に掌《たなごころ》の大きい者の手へ転げ込むのであった。然し名生の城は気息《いき》も吐けぬ間に落されて終って、相図の火を挙げる暇《いとま》なぞも無く、宮沢、岩手山等四ヶ処の城々の者共は、策応するも糸瓜《へちま》も無く、却《かえっ》て氏郷の雄威に腰を抜かされて終った。
 政宗は氏郷へ使を立てた。名生を攻められ候わばそれがしへも一方仰付けられたく候いしに、かくては京都への聞えも如何と残念に候、と云うのであった。氏郷の返辞はアッサリとして妙を極めたものであった。此の敵城あることをば某《それがし》も存ぜず候間に、先手の者ども、はや攻落して候、と空嘯《そらうそぶ》いて片付けて置いて、扨《さて》それからが反対に政宗の言葉に棒を刺して拗《こじ》って居る。京都への聞え、御心づかいにも及び申すまじく候、此の向うに宮沢とやらん申す敵城の候、それを攻められ候え、然るべく聞え候わむ、というのであった。政宗は違儀も出来ない。宮沢の城へ寄せたが、もとより政宗の兵力宮沢の城の攻潰《せめつぶ》せぬことは無いに関らず、人目ばかりに鉄砲を打つ位の事しか為無《しな》かった。宮沢の城将岩崎隠岐は後に政宗に降った。
 明日は高清水を屠《ほふ》って終おうと氏郷は意を洩《も》らした。名生の一戦は四方を震駭《しんがい》して、氏郷の頼むに足り又|畏《おそ》るるに足る雄将である事を誰にも思わせたろう。特《こと》に政宗方に在って、一揆の方の様子をも知り、政宗の画策をも知っていた者に取っては、驚くべき人だと思わずには居られなかったろう。そこで政宗に心服して居る者はとに角、政宗に対して予《かね》てからイヤ気を持って居た者は、政宗に付いて居るよりも氏郷に随身した方が吾《わ》が行末も頼もしい、と思うに至るのも不思議では無い。ここに政宗に取っては厄介の者が出て来た。それは政宗の臣の須田|伯耆《ほうき》という者で、伯耆の父の大膳という者は政宗の父輝宗の臣であった。輝宗が二本松義継に殺された時、後藤基信が殉死しようとしたのを政宗は制した位で、政宗は殉死を忌嫌ったけれど、其基信も須田大膳も、馬場右衛門という人も遂に殉死して終った。殉死の是非は別として、不忠の心から追腹は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌嫌う政宗の意は非とすべきでは無いが、殉死を忌む余りに殉死した者をも悪《にく》んだ。で、大膳は狂者のように謂《い》われ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、其子は優遇されなくても普通には取扱われても然るべきだが、主人の意に負《そむ》いたと云う廉《かど》であろう、伯耆は自ら不遇であることを感じたから、何につけ彼《か》につけ、日頃不快に思っていた。これも亦凡人である以上は人情の当《まさ》に然るべきところだ。氏郷の大将振り、政宗の処置ぶり、自分が到底政宗に容れられないで行末の頼もしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷に附いた方が賢いと思った。丁度其家を思わぬでは無い良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者は扨々なさけ無いものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負いたのである。
 そこで其十九日の夜深《よふか》に須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛、牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘を訐《あば》いた者となって居る。
 蒲生源左衛門は須田等を糺《きゅう》した。二人は証拠文書を攘《と》って来たのだから、それに合せて逐一に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりは先ず差当って、一揆を勧めたこと、黒川に於ての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣寄せる事、四城と計《はかりごと》を合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図|合期《ごうご》せざりしと語れる事等を訐き立てた。そして其上に、高清水に籠城《ろうじょう》して居る者も、亦佐沼の城を囲んで居る者も、皆政宗の指図に因って実は働いて居る者であることを語り、能《よ》く政宗が様子を御見留めなされて後に御働きなさるべしと云った。
 二人が言は悉皆《しっかい》信ずべきか何様《どう》かは疑わしかったろう。然し氏郷は証拠とすべきところの物を取って、且二人を収容して生証拠とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるに過ぎぬ。木村父子を一揆《いっき》が殺す必要も無く政宗が殺す必要も無いことは明らかだから、焦慮する要は無い。却《かえ》って此城に動かずに居れば政宗も手を出しようは無い、と高清水攻を敢てせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆は頻《しき》りに働いたことだろう。
 氏郷は兵粮《ひょうろう》を徴発し、武具を補足して名生に拠るの道を講じた。急使は会津へ馳《は》せ、会津からは弾薬を送って来た。政宗は氏郷が動かぬのを見て何とも仕難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝|鏖殺《おうさつ》が期せるので無ければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても吾身《わがみ》の破滅であるから為す術《すべ》は無かった。須田伯耆が駈込んだことは分って居るが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日まで居たが、氏郷は微動だに為さぬので、事皆成らずと見切って、引取って帰って終《しま》った。勿論氏郷の居る名生の城の前は通らず、断りもしなかったが、氏郷が此を知って黙して居たのであることも勿論である。もう氏郷は秀吉に対して尽すべき任務を予期以上の立派さを以て遂げているのである。佐々成政にはならなかったのである。一揆等は氏郷に対して十分|畏《おそ》れ縮んで居り、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子を名生の城へ人質に取られて居るのを悲んで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換して欲しいと請求めたので、之を諾して其翌月二十六日、其交換を了したのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵と云って氏郷の臣となった。
 浅野長政は関東の諸方の仕置を済ませて駿河府中まで上った時に、氏郷の飛脚に逢った。江戸に立寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継がん為に奥州へ罷《まか》り下《くだ》る、御加勢ありたし、と請うたから家康も黙っては居られぬ。結城秀康を大将に、榊原康政を先鋒《せんぽう》にした。長政等の軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の許《もと》へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を招《よ》ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎其外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の讒構《ざんこう》ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後に其|仔細《しさい》を承わりて、言上《ごんじょう》可申《もうすべし》と突込んだ。政宗は領掌したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。遂に十二月二十八日成実は人質に出た。此の成実は嘗《かつ》て政宗に代って会津の留守をした程の男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石を以て迎えようとした。然し景勝には随身しないで、復《また》伊達家へ帰ったが、其時は僅に百人|扶持《ぶち》を給されたのみであったのに、斎藤兵部というものが自ら請うて信夫《しのぶ》郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理《わたり》郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。所謂《いわゆる》埋没さるること無き英霊底の漢《おのこ》である。大坂陣の時は老病の床に在ったが、子の重綱に対《むか》って、此戦は必ず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と外濠《そとぼり》を埋められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共に実に伊達家の二大人物であった。其の成実を強要して一旦にせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみでは無い樽俎《そんそ》折衝に於ても手強《てごわ》いものであった。
 其年は明けて天正十九年正月元日、氏郷は木村父子を携えて名生を発して会津へと帰る其途で、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子は凡《す》べて長政に合点出来た。長政はそこで上洛《じょうらく》する。政宗も手を束《つか》ね居てはならぬから、秀吉の招喚に応じて上洛する。氏郷は人質を返して、彼の二人が提出した証文を持参し、これも同じく上洛《じょうらく》した。政宗が必死を覚悟して、金箔《きんぱく》を押した磔刑柱《はりつけばしら》を馬の前に立てて上洛したのは此時の事で、それがしの花押《かきはん》の鶺鴒《せきれい》の眼の睛《たま》は一[#(ト)]月に三たび処を易《か》えまする、此の書面の花押はそれがしの致したるには無之《これなく》、と云い抜けたのも此時の事である。鶺鴒の眼睛《がんせい》の在処《ありどこ》を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。
 政宗は是《かく》の如く証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。溝《みぞ》の底の汚泥を掴《つか》み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度の洒落者《しゃれもの》の山東京伝は曰《い》ったが、秀吉も流石《さすが》に洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る絛虫《さなだむし》や蛔虫《かいちゅう》のようなケチなものではない。三百代言|気質《かたぎ》に煩わしいことを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛西大崎の一揆を平《たいら》げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだとも云うが、孰《いず》れへ廻っても悪い役目は葛西大崎の土酋《どしゅう》で、政宗の為に小苛《こっぴど》い目に逢って終った。
 此年の夏、南部の九戸左近政実という者が葛西大崎などのより規模の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の先鋒《せんぽう》、諸将出陣というので論無く対治されて終い、それで奥羽は腫物《はれもの》の根が抜けたように全く平定した。氏郷は此時も功が有ったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。
 多分九戸乱の済んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行掛りから何様も氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に喧嘩《けんか》されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ聚楽《じゅらく》での内証話に、大納言方にて仲を直さするようにとの依頼をした。利家も一寸迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直れば宜いが、却て何かの間違から角立《かどだ》った日には、両虎|一澗《いっかん》に会うので、相搏《あいう》たんずば已《や》まざるの勢である。刃傷《にんじょう》でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も取潰《とりつぶ》されて終うし、自分も大きな越度《おちど》である。二桃三士を殺すの計《はかりごと》とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取っては然様《そう》いうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞し度いは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為《ふため》であるという秀吉の言には、重量《おもみ》が有って避けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を請待《しょうたい》して太閤《こう》の思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから戻《もど》くことは出来ぬ。然し主人の利家は氏郷と大の仲好しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷|贔屓《びいき》なのは知れきった事である。特《こと》に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。如何に剛胆な政宗でも、コリャ迂闊《うかつ》には、と思ったことで有ろう。けれども我儘《わがまま》に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も卑怯《ひきょう》である。是非が無い。有難き仕合、当日|罷出《まかりい》で、御芳情御礼申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上度いことは無かったろう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾した。
 其日は来た。前田利家も可なり心遣いをしたことであろうが、これは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実は中々骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷《たんい》の表面の底に行届いた用意を存して居たことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹|備後守《びんごのかみ》、其他五六人の大名達を招いた。場処は勿論主人利家の邸《やしき》で、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、斯様《こう》いう時に於て非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、所謂《いわゆる》両立《りょうだて》というところの、双方に甲乙上下の付かぬように請じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の贔負《ひいき》贔負が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右|錯綜《さくそう》させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、其時其人其事情に因って主人の用意は一様に定った事では有るまいが、利家が此日人々を何様《どう》組合せて坐らせたかは分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親である。細川越中守は蒲生贔負たること言うまでも無い。浅野弾正大弼長政は中々硬直で、場合によれば太閤殿下をも、狐に憑《つ》かれておわすなぞと罵《ののし》ることもある程だが、平日は穏便なることが好きな、物分りの宜い人であるから、氏郷贔負では有るが政宗にも同情を吝《おし》む人では無い。有馬、金森、いずれも中々立派に一[#(ト)]器量ある人々であり、他の人々も利家が其席を尊《たっと》くして吾子《わがこ》の利長利政をも同坐させなかった程だから、皆相応の人々だったに疑無い。主人利家に取っては自分の支持をするものが一人でも多いのが宜い訳だから、子息達も立派な大名である故同座させた方が万事に都合が好いのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂では無い。両者の仲裁仲直りの席に、司会者の側の顔を大勢並べて両者を威圧するようにするのは卑怯《ひきょう》で、かかる場合万々一間違が出来れば、左方からも右方からも甘んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そして飽迄も双方を取纏《とりまと》めるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞは却《かえ》って要せぬのである。
 人々は座に直った。利家は一坐を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押つけられまじい面魂でウムと坐っている。それも其筈で、いろいろの経緯《いきさつ》があった蒲生忠三郎を面前に扣《ひか》えているのであるから。又蒲生忠三郎氏郷も、何をと云わぬばかりの様子でスイと澄まして居る。これも其筈だ。氏郷は「錐《きり》、嚢《ふくろ》にたまらぬ風情の人」だと記されて居るから、これも随分恐ろしい人だ。厄介な人達の仲直りを利家は扱わせられたものだ。前田家の家臣の書いているところに拠ると、「其節御勝手衆も申候は、今日政宗の体《てい》、大納言殿御[#(ン)]屋にて無く候はば、まんをも仕《つかまつ》られ申すべく候、又飛騨守殿も少も/\左様の事|堪忍《かんにん》これなき仁にて、事も出来申候事も之有るべく候へども云々《うんぬん》」とある。まんとは我儘《わがまま》である。氏郷政宗二人の様子を饗応《きょうおう》掛りの者の眼から見たところを写して居るのである。そこで利家が見ると、政宗は肩衣《かたぎぬ》でいる、それは可《よ》い、脇指をさして居る、それも可いが、其の脇指が朱鞘《しゅざや》の大脇指も大脇指、長さが壱尺八九寸もあった。そんな長い脇指というものが有るもので無い。利家の眼は斯様《かよう》な恐ろしく長い脇指を指している政宗の胸の中を優しく見やった。ここを我等から政宗の器量が小さいように看て取ってはならぬ。政宗は政宗で、寧《むし》ろ此処《ここ》が政宗の好い処である。脇指は如何に長くても脅かしにはならぬ、まして一坐の者は皆|血烟《ちけむ》りの灌頂《かんちょう》洗礼を受けている者達だ。だから其の恐ろしく長い大脇指は使うつもりで無くて何で有ろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んで此を使おうようは無いが、主人の挨拶、相手の出方、罷《まか》り間違ったら、おれはおれだ、の料簡《りょうけん》がある。何十万石も捨てる、生命《いのち》も捨てる、屈辱に生きることは嫌だ、遣りつけるまでだ、という所存があったのである。沸《たぎ》り立った魂は誰も斯様《こう》である。これが男児たる者の立派な根性で無くて何で有ろう。後に至っては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一拳を食わせられたが、其時はもう「蟻、牡丹《ぼたん》に上る、観を害せず」で、殴った奴は蟻、自分は大きな白牡丹と納まりかえったのである。が、此時はまだ若盛り、二十六七、せいぜい二十八である。まだ泰平の世では無い、戦乱の世である。少しでも他に押込まれて男を棄てては生甲斐が無いのである。壱尺七八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来政宗は又人に異った一[#(ト)]気象が有った者で、茶の湯を学んでから、そこは如何に政宗でも時代の風には捲込《まきこ》まれて、千金もする茶碗を買った。ところが其を玩賞《がんしょう》していた折から、ふと手を滑らせて其茶碗を落した。すると流石《さすが》大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗は自ら慚《は》じ自ら憤った。貴《たっと》いとは云え多寡が土細工の茶碗だ、それに俺ほどの者が心を動かしたのは何事だ、エエ忌々《いまいま》しい、と其の茶碗を把《と》って、ハッシ、庭前の石へ叩きつけて粉にして終《しま》ったということがある。千両の茶碗を叩きつけたところは些《ちと》癇癪《かんしゃく》が強過ぎるか知らぬが、物に囚《とら》われる心を砕いたところは千両じゃ廉《やす》いくらいだ。千両の茶碗をも叩ッ壊した其政宗が壱尺七八寸の叩き壊し道具を腰にして居る、何を叩き壊すか知れたものでは無い。そして其の対坐《むこうざ》に坐って居るのは、古い油筒を取上げて三百年も後まで其器の名を伝えた氏郷である。片や割茶碗、片や油筒、好い取組である。
 氏郷其日の容儀《ようぎ》は別に異様では無かった。「飛騨守殿|仕立《したて》は雨かゝりの脇指にて候」とある。少し不明であって精《くわ》しくは分らぬ。が、政宗の如きでは無く、尋常に優しかったのであろう。主人はじめ其他の人々も無論普通礼服で、法印等|法体《ほったい》の人々は直綴《じきとつ》などであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目を着けて之を読んだろう。仲直り扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけに流石に好かった。其大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御[#(ン)]仕立、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かが有る言葉だ。実に味が有る。又左衛門大出来、大出来。太閤《たいこう》が死病の時、此人の手を押頂いて、秀頼の上を頼み聞えたが、実に太閤に頂かせるだけの手を此人は持っていたのだ。何とまあ好い言葉だろう、此時此場、此上に好い語は有るまい。政宗は古禅僧の徳山《とくさん》の意気である、それも慥《たしか》におもしろい。然し利家は徳山どころではない、大禅師だ。「政宗は殊のほか当りたる体にて候」と前田の臣下が書いて居るが、如何に政宗でも、扱い役である利家に対《むか》って此語を如何ともすることは出来無かったろう、殊のほか当ったに相違無い。然し政宗も悪くはなかった、遠国に候故、と云って謹んでおとなしくしたという。田舎者でござるから、というようなものだ。そこで盃が二ツ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲好からん事を望む趣意を挨拶し、双方へ盃を進め、酒礼宜しく有って、遂に無事円満に其席は終ってしまった。利家の威も強く徳もあり器量も有ったので上首尾に終ったのである、殿下が利家に此事を申付けられたのも御尤《ごもっとも》だった、というので秀吉までが讃《ほ》められて、氏郷政宗の仲直りは済んだ。「だてなる御仕立」は実に好かった。「だて」という語は伊達家の衣裳持物の豪華から起ったの、朝鮮陣の時に政宗の臣遠藤宗信や原田宗時等が非常に大きな刀や薙刀《なぎなた》などを造ったから起ったのだなどと云うのは疑わしい。も少し古くから存した言葉だろう。
 天正二十年即ち文禄元年、彼の朝鮮陣が起ったので、氏郷は会津に在城していたが上洛《じょうらく》の途に上った。白河を越え、下野にかかり、遊行上人に道しるべした柳の陰に歌を詠じ、それから那須野が原へとかかった。茫々《ぼうぼう》たる曠野、草莱《そうらい》いたずらに茂って、千古ただ有るがままに有るのみなのを見て、氏郷は「世の中にわれは何をかなすの原なすわざも無く年や経ぬべき」と歎《たん》じた。歌のおもては勿論那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと歎じたのである。然し歌は顕昭|阿闍黎《あじゃり》の論じた如く、詩は祇園南海の説いた如く、其裏に汲めば汲むべき意の自然に存して居るものである。此歌を味わえば氏郷が身|漸《ようや》く老いんとして志未だ遂げざるをば自ら悲み歎じたさまが思い浮められる。それから佐野の舟橋を過ぎ信濃へ入ったところ、火を有《も》つ浅間の山の煙は濛々《もうもう》漠々として天を焦して居る。そこで「信濃なる浅間の岳《たけ》は何を思ふ」と詠み掛けたりなぞしている。自分が日頃胸を焦がして思うところが有るからであったろう。
 肥前名護屋に在って太閤《たいこう》に侍して居た頃、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬを悦《よろこ》ばずして、我みずから中軍を率い、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海しようと云った時、氏郷が大《おおい》に悦んで、人生は草葉の露、願わくは思うさま働きて、と云ったことは名高い談《はなし》である。其事は実現し無かったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤に頼もしく思われた程度とは想察に余りある。氏郷が病死したのは文禄四年二月七日で、齢《よわい》は四十歳で有ったが、其死後右筆頭の満田長右衛門が或時氏郷の懸硯《かけすずり》を開いて、「朝鮮へ国替《くにかへ》仰せ付けられたく、一類|眷属《けんぞく》悉《こと/″\》く引率して彼地へ渡り、直ちに大明《だいみん》に取って掛り、事果てぬ限りは帰国|仕《つかまつ》るまじき旨の目安《めやす》」を作り置かれしが、これを上《たてまつ》らるるに及ばずして御寿命が尽きさせられた、と歎じたという。これをケチな史家共は、太閤に其材能を忌まれたから、氏郷が自ら安んぜずして然様《そう》いう考を起したのであるというが、そんな蝨《しらみ》ッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺|梯子《ばしご》は九尺梯子で、後の太平の世に生れて女飯《おんなめし》を食った史伝家輩は、元亀天正の丈高い人を見損う傾がある。
 太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田|掃部《かもん》正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に忌々《いまいま》しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を咯《は》いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤が然様《そん》なことをする人とは思えないばかりで無い、然様なことをする必要が何処にあるであろう。氏郷が生きて居れば、豊臣家は却《かえ》って彼様《あんな》にはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。然様いうことを知らぬような寐惚《ねぼ》けた秀吉では無い。或時氏郷邸で雁の汁の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田主水、戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、若《も》し太閤殿下に万一の事があったら、天下を掟《おきて》するものは誰だろうということが話題になった。其時氏郷は、あれあれ、あの親父、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父は即ち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々は些《ちと》合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障る者もなく、毛利は有りても浮田が遮り申す、家康|上洛《じょうらく》を心掛けなば此の飛騨が之有る、即時に喰付て箱根を越えさせ申すまじ、又諸大名多く洛に在りて事起らば、猶更《なおさら》利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それは兎に角として、氏郷は利家|贔屓《びいき》であった。又他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、其時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、彼《あ》の物悋《ものおし》みめがナニ、と云った談《はなし》が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、又余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌《さいき》の念の無いことは無い。然し氏郷を除きたがる念があったとすれば、余程訳の分らぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の讒《ざん》に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ったと同じ人が記し、面は黄に黒く、項頸《うなじ》の傍《かたわら》、肉少く、目の下|微《すこ》し浮腫《ふしゅ》し、其後|腫脹《しゅちょう》弥《いよいよ》甚しかったと記してある。法眼|正純《まさずみ》の薬、名護屋にて宗叔の薬、又京の半井道三《なからいどうさん》等の治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに腎臓《じんぞう》などの病で終ったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に「可[#レ]惜談笑中窃置[#二]|鴆毒《ちんどく》[#一]」の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。
 彼《か》の氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払へかし雪には折れぬ青柳《あをやぎ》の枝」という歌を示して落涙したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われて終《しま》った後に何になろう。且《かつ》其歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずとも宜かろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜むことを詠んだので、其中おのずからに自ら傷んで居るのである。別に毒の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《におい》などはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心を有《も》とう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずに終ったことは、氏郷の為に、太閤の為に惜んでも余りある。太閤は無論悦んで之を許した事であろうに。家康も家康公と云って然るべき方である、利家も利家公と云って然るべき人である、其他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な沸《たぎ》り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • 南部 なんぶ 南部氏の旧領地の通称。青森・岩手・秋田3県にまたがる。特に、盛岡をいう。
  • 佐沼 さぬま 現、登米郡迫町佐沼。
  • 佐沼城 さぬまじょう 現、登米郡迫町佐沼。近世には栗原郡北方村に属し、大崎平野の北東部の迫川流域に位置し、登米郡と栗原郡および領内北部と仙台城下を結ぶ枢要の地にある。天文年間(1532〜1555)以降、この地方の支配は葛西氏から大崎氏に移り、佐沼城には大崎家臣石川氏が数代続いた。天正18(1590)葛西・大崎両家が滅び、木村吉清が葛西・大崎十二郡を領したが、葛西大崎一揆がおこり、一揆勢は佐沼城に拠って抵抗し、翌19年7月伊達政宗によって落城した。以後、伊達氏領となり、伊達家臣湯目(のち津田)氏が佐沼城を居城とした。
  • 高清水 たかしみず 村名。現、栗原郡高清水町。
  • 名生城 みょうじょう → 名生館
  • 名生館 みょうだて 現、古川市大崎・館など。古代郡衙跡と中世の名生城跡との複合遺跡。
  • 柳沢 やなぎさわ 村名。現、加美郡宮崎町柳沢。
  • 柳沢城
  • 四竃 しかま 村名。現、加美郡色麻町四釜。
  • 中新田 なかにいだ 村名。現、加美郡中新田町。大崎平野の北西端の交通の要衝。
  • 黒川郡 くろかわぐん 県のほぼ中央部。西端にある船形連峰の根元から東へ末広がりに広がるような形をなす。
  • 舞野 まいの 村名。現、黒川郡大和町落合・舞野上・舞野下。
  • 富谷 とみや 村名。現、黒川郡富谷町富谷。
  • 吉岡 よしおか 町名。現、黒川郡富谷町吉岡。城下町兼宿場町。
  • 岩出山城 いわでやまじょう 陸奥国(のち陸前国)玉造郡(現・宮城県大崎市)にあった城(一国一城令ののち要害)。伊達氏以前は「岩手沢城」と呼ばれており、古くは足利氏一門で奥州探題であった大崎氏の家臣氏家氏の居城であった。
  • 下新田城 しもにいだじょう 現、加美郡中新田町下新田。
  • 師山 もろやま 村名。現、古川市師山。多田川と緒絶川が鳴瀬川に合流する地点にある。
  • 師山城 もろやまじょう
  • 桑折城 くわおりじょう → こおりじょう、か
  • 桑折城 こおりじょう 現、志田郡三本木町桑折。
  • 桑折 こおり 村名。現、志田郡三本木町桑折。鳴瀬川付近。
  • 鳴瀬川 なるせがわ 宮城県北部を流れ太平洋に注ぐ一級河川。鳴瀬川水系の本流。
  • 小野田城 おのだじょう 現、加美郡小野田町小野田・城内。
  • 宮沢城 みやざわじょう 現、古川市宮沢。大崎平野北端の微高地上にある。
  • 古川城 ふるかわじょう 現、古川市二ノ構。古川市街の西端にあり、本丸跡には現在、古川第一小学校がある。
  • 松山城 まつやまじょう 現、志田郡松山町千石。
  • 新沼城 にいぬまじょう 現、志田郡三本木町新沼下沖。
  • 黒川郡 くろかわぐん 宮城県(陸前国)の郡。北の大松沢丘陵と南の松島丘陵に挟まれた吉田川水系による平地が歴史的に主な可住地となっており、水田が拓かれている。大郷町以外の2町1村の町村役場がある中心部は、奥州街道沿いの微高地にあり、旧宿場町を起源とする。
  • 宮城郡 みやぎぐん 過去に陸前国(旧陸奥国中部)に属し、今は宮城県に属する郡。宮城県の名はこの郡に由来する。もとは奥羽山脈から太平洋まで、今の仙台市の大部分、多賀城市、塩竈市を含む東西に細長い領域であった。
  • 名取郡 なとりぐん 陸前国(旧陸奥国中部)。宮城県にかつて存在した郡。1988年(昭和63年)3月1日 秋保町が仙台市に編入され、名取郡は消滅。
  • 柴田郡 しばたぐん 宮城県(陸前国)の郡。県南部に位置し、郡域は東西に長い。西部は蔵王連邦の北端、名号峰・雁戸山・笹谷峠と連なる分水嶺で山形県上山市・山形市と接する。
  • 刈田郡 かったぐん 磐城国(旧陸奥国南東部)北部、宮城県南部の郡。
  • 亘理郡 わたりぐん 宮城県海岸部最南端に位置。
  • 亘理城 わたりじょう 陸奥国亘理郡(宮城県亘理郡亘理町)にあった城。地形が牛の臥せた形に似ていることから臥牛城ともいわれる。また、江戸時代は亘理要害と呼ばれた。亘理重宗が天正19年(1591)、涌谷城に移った後、片倉小十郎景綱が城主となった。慶長7年(1602)、片倉景綱は白石城に移り、伊達成実が城主となった。成実は亘理城を改修し、城下町の建設に着手した。
  • 丸森 まるもり 村名。現、伊具郡丸森町。丸森城=丸山館は、横町東南の矢洗にあった。
  • 岩沼 いわぬま 宮城県南東部の市。奥州街道と陸前浜街道が分岐する宿場町から発達。北部に仙台空港がある。人口4万4千。
  • [山形県]
  • 米沢 よねざわ 山形県南部の市。米沢盆地の南端に位置し、もと上杉氏15万石の城下町。古来、機業で知られる。人口9万3千。
  • 板谷峠 いたや とうげ 山形・福島の県境にあり、奥羽山脈をこえる峠。標高755メートル。
  • [福島県]
  • 伊達郡 だてぐん 福島県西半分(岩代国)の郡。福島盆地という比較的肥沃な土地も多く、とくに北部の平野部は古代から比較的活発な経済活動が行われた。中世には伊達氏の本拠地として、江戸時代には阿武隈川の舟運で栄える。また北部の半田山には日本三大銀山に数えられる半田銀山があり、幕府の直轄として代官所が置かれた。一方で奥州街道から羽州街道が分岐する追分けの宿場町も栄えた。
  • 飯坂温泉 いいざか おんせん 福島市北部、摺上川に沿う温泉。昔は「鯖湖の湯」といわれ、秋保・鳴子と共に奥州三名湯の一つ。今は対岸の湯野温泉も含める。泉質は単純温泉。
  • 鎌田 かまた 村名。現、福島市鎌田。
  • 杉ノ目 すぎのめ 現、福島市。福島城下一帯の戦国時代の呼称。
  • 福島 ふくしま 福島県北東部、福島盆地にある市。県庁所在地。もと板倉氏3万石の城下町。生糸・織物業で発展。食品・機械工業のほか、モモ・リンゴなどの栽培も盛ん。人口29万1千。
  • 大森城 おおもりじょう 現、福島市大森。城山(鷹峯山)に位置。伊達輝宗・政宗父子の時代は米沢城から板谷峠越で結ばれ、南奥州侵攻のための重要な拠点とされた。
  • 二本松 にほんまつ福島県北部、阿武隈川に臨む市。もと丹羽氏10万石の城下町。酒・家具が特産。西の安達太良山の麓に岳温泉がある。人口6万3千。
  • 猪苗代 いなわしろ 現、猪苗代町・磐梯町がおおよその範囲。
  • 若松 → 会津若松
  • 会津若松 あいづ わかまつ 福島県西部、会津盆地南東隅にある市。もと松平(保科)氏23万石の城下町。漆器・家具・織物を産する。市街東方の飯盛山は白虎隊で名高い。人口13万1千。
  • 信夫郡 しのぶぐん 岩代国(旧陸奥国南西部)の郡で、現在の福島県の北部、福島盆地地域の西半分にあたる。
  • [栃木県]
  • 那須野ヶ原 なすのがはら 栃木県北部、那須岳の南方、那珂川の上流および箒川沿岸の原野。明治中期以後開拓が行われ、現在は工業地化も進む。
  • [群馬県]
  • 佐野 さの 群馬県の地名。今は高崎市に入る。昔は、その地の烏川に船橋があって、「万葉集」の佐野の船橋の故地と伝え、佐野の渡りという。また、能「鉢木」の佐野源左衛門尉常世の邸跡という。(歌枕)
  • 佐野 さの 現、群馬県高崎市上佐野町。船橋は烏川に架けられた舟橋からつけられた小字名と考えられている。「佐野の舟橋」は上野・下野両国の境、渡良瀬川沿岸に位置する埼玉県佐野市にあたるともいわれる。
  • [信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568メートル。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)
  • [神奈川県]
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • [駿河] するが 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
  • 駿河府中 するが ふちゅう 現、静岡市。国府・府中・城府・駿府。古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については諸説がある。
  • [尾州] びしゅう 尾張国の別称。
  • [江州] ごうしゅう 近江国の別称。
  • 甲賀 こうか (俗にコウガとも)滋賀県南端の市。鈴鹿山脈西麓、野洲川他の原流域。信楽焼・水口細工などの工芸品が有名。人口9万4千。
  • [伊賀] いが (1) 旧国名。今の三重県の西部。賀州。伊州。(2) 三重県北西部の市。上野盆地の中北部を占め、古くから近畿と東海を結ぶ交通の要衝。人口10万1千。
  • 石川村 いしかわむら 村名、三重県阿山郡阿山町石川。
  • [河内] かわち (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
  • 南禅寺 なんぜんじ 京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の本山。山号は瑞竜山。1291年(正応4)亀山上皇の離宮を無関普門に賜い禅林禅寺としたのに始まり、足利義満の時、五山を超える寺格に列した。江戸初期、崇伝が金地院を移入して再興。
  • [肥前] ひぜん 旧国名。一部は今の佐賀県、一部は長崎県。
  • 名護屋 なごや 佐賀県北部、東松浦半島北端の海岸沿いの村(現、唐津市)。中世、松浦党の一族、名護屋氏の本拠地。豊臣秀吉は朝鮮出兵の際この地に本営をおき、名護屋城を築いた。那古邪。
  • [中国]
  • 鴻門 こうもん 中国陝西省西安市臨潼区の地名。今の項王営。
  • 鴻門の会 こうもんのかい 前206年、漢の高祖劉邦と楚王項羽とが鴻門に会し、羽は范増の勧めによって邦を殺そうとしたが、邦は張良の計に従って樊�Xを伴って逃れ去った事件。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 天正一五(一五八七)正月 中新田付近にて伊達政宗方、大敗。
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  • 天正一八(一五九〇)
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  • 一一月五日 氏郷軍出発、猪苗代泊まり。六日は二本松に着陣。政宗の軍は米沢から板谷の山脈を越え、本軍を飯坂にすえる。福島近傍の大森から、反乱地の境近くに至るまでに十日かかる。
  • 一一月一七日 政宗、黒川の前野(舞野)に陣取る。
  • 一一月一八日朝 氏郷は約に従って政宗を訪い、茶会。その日、氏郷は本街道、政宗は街道右手を並んで進む。その夕刻、政宗虫気。
  • 一一月一九日早朝 氏郷軍、中新田を立つ。氏郷軍、名生城を攻略、入ってこれに拠る。夜深、須田伯耆は他の一人と共に逃げこんできて、蒲生源左衛門をたのむ。
  • 一二月二日 氏郷軍、名生城に入り微動だになさぬので、政宗軍、事みな成らずと見切って、引き取って帰る。
  • 一二月中旬 浅野長政らの軍、二本松に達する。
  • 一二月二六日 一揆の一雄将・黒沢豊前守、吾子を名生城へ人質に取られているのを悲しんで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換してほしいと請い求めた。これを諾して、その交換を了した。豊前守の子は後に黒沢六蔵といって氏郷の臣となる。
  • 一二月二八日 成実は人質に出る。
  • -----------------------------------
  • 天正一九(一五九一)
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  • 正月元日 氏郷、木村父子をたずさえて名生を発して会津へと帰るその途で、浅野長政に二本松で会する。
  • 九月一日〜二日 秀次・徳川・堀尾〔吉晴か〕・浅野・伊達・井伊〔直政か〕ら大軍、九戸政実を攻める。名古屋山三郎の先登はこのときだともいう。
  • (天正十九年か二十年)九戸乱のすんだ後、秀吉、前田利家へ氏郷・政宗の間をとりもつことを依頼。
  • -----------------------------------
  • 天正二〇 / 文禄元(一五九二) 朝鮮陣。氏郷、会津に在城していたが上洛の途にのぼる。
  • 文禄四(一五九五)二月七日 氏郷、病死。四十歳。
  • 慶長二(一五九七) 南禅寺霊三和尚、氏郷像賛「可惜談笑中窃置鴆毒ちんどく」の句。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 蒲生氏郷 がもう うじさと 1556-1595 安土桃山時代の武将。初名、教秀・賦秀(やすひで)。近江蒲生の人。織田信長・豊臣秀吉に仕え、会津92万石を領した。茶道・和歌もよくした。
  • 伊達政宗 だて まさむね 1567-1636 安土桃山・江戸初期の武将。輝宗の子。独眼竜と称。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。また、その臣支倉常長を海外に派遣。
  • 豊臣秀吉 とよとみ ひでよし 1537-1598 一説に 1536-1598 戦国・安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。15歳で松下之綱の下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に譲って太閤と称した。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起こし朝鮮に出兵、戦半ばで病没。
  • 淀君 よどぎみ ?-1615 豊臣秀吉の側室の俗称。幼名、茶々。浅井長政の長女。母は信長の妹お市の方。柴田勝家滅亡後、山城の淀城に住み、秀頼を生む。秀吉没後は、秀頼を擁して大坂城に在り、その落城の際、城中に自刃。淀殿。
  • 木村伊勢 → 木村吉清
  • 木村吉清 きむら よしきよ ?-1598 戦国時代・安土桃山時代の武将。伊勢守。光清。明智光秀の家臣。荒木村重に仕えていたが、いつのころか、光秀の家臣となる。山崎の合戦後に秀吉に取り立てられ家臣となった。
  • 木村清久 きむら きよひさ ?-1615 戦国時代・安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の家臣、木村吉清の息子。弥一右衛門。秀望。キリシタンで洗礼名ジョアン。天正14年(1586)には石田三成、増田長盛と連名で上杉景勝に上洛を促す書状を、天正18年(1590)の小田原攻めに際しては伊達政宗に参陣を催促する書状を送っている。葛西大崎一揆は伊達政宗の煽動もあって大規模化し、木村氏は結局独力では一揆を鎮圧できず、戦後改易。後吉清の遺領豊後1万4千石を次いで豊臣大名となる。
  • 徳川家康 とくがわ いえやす 1542-1616 徳川初代将軍(在職1603〜1605)。松平広忠の長子。幼名、竹千代。初名、元康。今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、1590年(天正18)関八州に封じられて江戸城に入り、秀吉の没後伏見城にあって執政。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、03年征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた。将軍職を秀忠に譲り大御所と呼ばれた。07年駿府に隠居後も大事は自ら決し、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府260年余の基礎を確立。諡号、東照大権現。法号、安国院。
  • 金吾中納言
  • 金吾 きんご (漢代に宮門の警衛をつかさどった武官である執金吾の略) 衛門府の唐名。また、衛門督の称。
  • 大谷刑部 おおたに ぎょうぶ → 大谷吉継
  • 大谷吉継 おおたに よしつぐ 1559-1600? 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも。業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った。近江国生まれ。父は豊後の戦国大名・大友宗麟の家臣・大谷盛治ともいわれるが、近江六角氏の旧臣・大谷吉房とする説も有力である。一説に、豊臣秀吉の隠し子とも。母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女である東殿といわれる。天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。
  • 蒲生源左衛門 がもう げんざえもん ?-1614 陸奥会津藩士。(人レ)
  • 町野左近 〓 将監、繁仍(しげより)。奉行。妻は鶴千代丸(氏郷)の乳母。
  • 蒲生四郎兵衛
  • 玉井数馬助
  • 伊達政家 だて 〓 九代前。
  • 伊達宗遠 だて むねとう 1324-1385 守護大名。伊達氏第8代当主。官位は従五位下、弾正少弼。父は伊達行宗、母は田村氏の娘・静照院。息子に伊達政宗など。 宗遠の息子の宗行は、大条氏(大枝) (大条氏の宗家は明治期・大条道徳が伊達に復姓している。
  • 〓正望 〓 蒲生家の士。
  • 織田信長 おだ のぶなが 1534-1582 戦国・安土時代の武将。信秀の次子。今川義元を桶狭間に破り、美濃斎藤氏を滅ぼし、天下統一を標榜、1568年(永禄11)足利義昭を擁して上洛したが、73年(天正1)義昭を追って幕府を滅ぼす。安土城を築き、諸国平定の歩を進めたが、京都本能寺で明智光秀に襲われて自刃。
  • 稲葉一鉄 いなば いってつ 1516-1588 安土桃山時代の武将。名は長通、また良通。剃髪して一鉄と号。美濃三人衆の一人。斎藤氏、のち織田氏に属し、姉川の戦に功あり。秀吉に仕える。文学の造詣があった。
  • 黒田孝高 くろだ よしたか 1546-1604 安土桃山時代の武将。初め小寺氏。官兵衛と称。剃髪して如水と号。播磨の人。豊臣秀吉の中国・九州経略および朝鮮出兵に加わり、豊前6郡を領した。関ヶ原の戦には徳川家康方につく。キリスト教を信じシメオンと称。
  • 城井谷鎮房 きのいだに? しずふさ → 城井鎮房か
  • 城井鎮房 きい しげふさ 1536-1588 戦国時代から安土桃山時代の人物。父は城井長房、子に城井朝房、鶴姫、空誉(合元寺住持)。豊前国の戦国大名城井氏の第16代当主。法名は宗永。通称は弥三郎。官途は民部少輔。城井谷城主。初名は貞房、後に大友義鎮に服従した際に、義鎮から一字拝領し、「鎮房」と名乗る。正妻は大友義鎮の妹。義鎮は義兄にあたる。怪力無双の人物で強弓の使い手であったとも伝わる。
  • 利久 → 千利休か
  • 千利休 せんの りきゅう 1522-1591 安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び侘茶を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ自刃。
  • 佐久間玄蕃 さくま げんば → 佐久間玄蕃允(盛政)か
  • 佐久間盛政 さくま もりまさ 1554-1583 安土桃山時代の武将。玄蕃允と称。尾張の人。織田信長に仕え、のち柴田勝家に仕えた。勝家の先鋒となり、賤ヶ岳の戦に敗れ、斬首。/佐久間盛次の子。
  • 佐久間久右衛門 さくま 〓 佐久間玄蕃の弟 → 佐久間安政
  • 佐久間安政 さくま やすまさ 1555-1627 久右衛門。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(のち大名)。佐久間盛次の子。佐久間盛政の弟、柴田勝政、佐久間勝之の兄。母は柴田勝家の妹(姉?)である。従五位下備前守。はじめ紀伊・河内の守護、畠山昭高家臣の保田知宗の養子となり保田久六を名乗る。後に久右衛門と改める。知宗の娘を妻とした。
  • 佐久間源六 さくま 〓 久右衛門の舎弟。 → 佐久間源六郎勝之か
  • 佐久間勝之 さくま かつゆき 1568-1634 安土桃山時代の武将、のち江戸時代の大名。織田氏の家臣。源六郎。佐久間盛次の四男。兄に佐久間盛政、佐久間安政、柴田勝政がいる。従五位下大膳亮。
  • 綿利八右衛門 わたり 〓 → 亘利八右衛門?
  • 亘利八右衛門 わたり 〓 蒲生氏郷の家臣。
  • 樊�X はん かい ?-前189 漢初の武将。江蘇沛県の人。高祖劉邦に仕えて戦功を立て、鴻門の会には劉邦の危急を救い、その即位後に舞陽侯に封。諡は武侯。
  • 項王 → 項羽か
  • 項羽 こうう 前232-前202 秦末の武将。名は籍。羽は字。下相(江蘇宿遷)の人。叔父項梁と挙兵、劉邦(漢の高祖)とともに秦を滅ぼして楚王となった。のち劉邦と覇権を争い、垓下に囲まれ、烏江で自刎。
  • 織田有楽 おだ うらく → 織田有楽斎
  • 織田有楽斎 おだ うらくさい 1547-1621 安土桃山・江戸初期の武将。織田信長の弟。名は長益。大坂冬の陣に豊臣方にくみしたが、のち堺・京都などに隠棲、茶人として知られた。
  • クレオパトラ Cleopatra 前69-前30 古代エジプト、プトレマイオス朝の女王の名。7世は美貌をもってカエサルを魅惑し、一時ローマに移住。のちアントニウスと結婚し東方の女王として君臨、アクティウムの海戦に敗れ、自殺。
  • 最上義光 もがみ よしあき 1546-1614 戦国末〜江戸前期の武将。出羽の山形城を拠点に庄内地方に勢力を築き、上杉景勝・伊達政宗らと争う。豊臣秀吉に帰順し、関ヶ原の戦では徳川方に従って、山形57万石を領有。
  • 伊達季氏 だて すえうじ 小次郎 → 伊達政道
  • 伊達政道 だて まさみち 1568?-1590 戦国時代の武将。伊達輝宗の次男。母は最上義守の娘(最上義光の妹)・義姫。伊達政宗の同母弟に当たる。幼名、竺丸。通称は小次郎というが、伊達小次郎の方が名としては知られている。
  • 小原縫殿助 おばら ぬいのすけ 小次郎の傅。
  • 粟野藤八郎 〓 小次郎の傅。
  • 義姫 よしひめ 1548-1623 は戦国時代の人物で出羽国の戦国大名、最上義守の娘、最上義光の二歳下の妹。伊達輝宗の正室、伊達政宗の母。「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほど気丈な性格であり、自分の意志を持って行動する戦国女性であった。米沢城の東館に住んだ事から「お東の方」とも呼ばれた。出家後は保春院。
  • 鈴木七右衛門
  • 徳川秀忠 とくがわ ひでただ 1579-1632 徳川第2代将軍(在職1605〜1623)。家康の3男。家康が定めた諸法度に基づき、一門・譜代を含む39大名を改易するなど、大名・朝廷・寺社の統制を強化、幕府創業に尽力。諡号、台徳院。
  • 内藤外記 ないとう? げき 徳川秀忠の扈従。
  • 前田利家 まえだ としいえ 1538-1599 安土桃山時代の武将。加賀金沢藩の祖。尾張の出身。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉没後は五大老の一人として秀頼を補佐した。
  • 伊白 〓 最上の鍼医。
  • 村井豊後 〓 ぶんご 前田利家の老臣。
  • 加藤清正 かとう きよまさ 1562-1611 安土桃山時代の武将。尾張の人。豊臣秀吉の臣。通称虎之助と伝える。賤ヶ岳七本槍の一人。文禄の役に先鋒、慶長の役で蔚山に籠城、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。
  • 大崎氏 おおさきし 陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を祖先とする斯波氏の一族。斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。
  • 葛西晴信 かさい はるのぶ 1534-1597? 葛西晴胤の子。葛西氏の第十七代当主。伊達氏と手を結んでたびたび大崎氏と戦った。また、外交的にも1569年に上洛して時の天下人・織田信長に謁見して所領を安堵されている。しかし大崎氏との抗争に明け暮れた晴信は、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できず、改易されている。これにより、葛西氏は滅亡したのである。
  • 上杉景勝 うえすぎ かげかつ 1555-1623 安土桃山時代の武将。長尾政景の子。上杉謙信の養子。謙信の死後、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となり、会津120万石に封ぜらる。関ヶ原の戦に石田三成と結んだため、米沢30万石に移封。会津中納言。
  • 大内定綱 おおうち さだつな 1545-1610 戦国時代の武将。本姓は多々良氏。家系は西国一の守護大名 大内氏の分家。父は大内義綱。弟に片平親綱。子に大内重綱がいる。当初、塩松氏の家老。塩松氏を追い塩松城の城主となり国人となる。後に伊達氏の家臣。仮名は太郎左衛門、勘解由左衛門。受領名は備前守。法号は廉也斎。諱は定綱。
  • 阿子島民部 〓 一度政宗に降参。
  • 大崎義隆 おおさき よしたか 1548-1603 大崎義直の子で、大崎氏第13代(最後)の当主。子には大崎義興、義成等。父・義直の時代に伊達氏に服属した大崎氏であるが、義隆は最上義光の支援を受けて伊達氏から独立を目指し、対立する。このため、1588年に伊達政宗の侵攻を受けるが勝利した(大崎合戦)。しかし、1589年に蘆名氏が滅び、政宗が名実共に奥州の覇者となると、政宗の圧迫を再び受け、伊達氏に臣従した。そして、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、義直は所領を没収されて改易。これにより大崎氏は滅亡。その後、義隆は上杉氏に身柄を預けられたという。
  • 里見隆景 大崎義隆の臣。
  • 氏家弾正 岩出山の城主。 → 氏家弾正吉継
  • 氏家弾正吉継 うじいえ だんじょう よしつぐ ?-1591 大崎氏家臣。(人レ)
  • 片倉小十郎景綱 かたくら こじゅうろう かげつな 1557-1615 父は米沢八幡神社主・片倉景重。(日本史)/はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575)に政宗の近侍となり、軍師として重用されるようになる。
  • 小山田筑前 おやまだ ちくぜん ?-1588 伊達氏家臣。(人レ)
  • 高森上野 〓こうつけ 小山田筑前の陣代。舅。
  • 黒川月舟
  • 葛岡監物 くずおか けんもつ ?-? 隆信(たかのぶ)か。武将。大崎氏家臣。(人レ)/中新田の城将。
  • 義隆 → 大崎義隆
  • 関勝蔵
  • 飯田忠彦 いいだ ただひこ 1798-1860 幕末の史家・志士。周防徳山藩士の子。有栖川宮に仕え、「大日本史」の後をつぐ「大日本野史」を著す。安政の大獄に連座、のち自刃。
  • 木村父子 → 木村吉清、木村清久
  • 蒲生忠右衛門
  • 池野作右衛門
  • 町野輪之丞 〓 氏郷の伊賀衆の頭、忍びの上手。
  • 石川五右衛門 いしかわ ごえもん 1558?-1594 安土桃山時代の大盗賊。京都三条河原で釜煎にされた。浄瑠璃「釜淵双級巴」、歌舞伎「楼門五三桐」などに脚色されたほか、数多くの作品の題材となった。
  • 川村隠岐守 〓おきのかみ 木村の家来。
  • 柳沢隆綱 〓 旧柳沢の城主。
  • 上坂源之丞
  • 西村左馬允 〓 さまのすけ
  • 北川久八
  • 名古屋山三郎 なごや さんさぶろう 1572-1603 氏郷の小小姓。尾張国(現在の名古屋市)の生まれ。また出雲阿国の愛人と言われ、阿国とともに歌舞伎の祖とされている。
  • 九戸政実 くのへ まさざね 1536-1591 陸奥九戸城主。南部氏の重臣。九戸信仲の子。弟に九戸実親。九戸氏はもともと南部氏の一族である。
  • 豊臣秀次 とよとみ ひでつぐ 1568-1595 安土桃山時代の武将。三好一路の子。母は秀吉の姉。1591年(天正19)秀吉の養子、ついで関白。秀頼の出生後、秀吉と不和を生じ、高野山に追放のうえ自殺を命ぜられた。世に殺生関白という。
  • 堀尾 → 堀尾吉晴か
  • 堀尾吉晴 ほりお よしはる 1543-1611 (名は可晴とも書く)戦国時代の武将。尾張の出身。豊臣秀吉に仕え、小田原合戦後、浜松に入封。家康に通じ、功により子の忠氏は松江に封ぜられたが、孫忠晴の没後廃絶。
  • 浅野長政 あさの ながまさ 1547-1611 安土桃山時代の武将。尾張の人。初め織田信長に仕え、のち豊臣秀吉の五奉行の一人。文禄の役に軍監。関ヶ原の戦には東軍に属した。
  • 井伊 → 井伊直政か
  • 井伊直政 いい なおまさ 1561-1602 安土桃山時代の武将。徳川四天王の一人。直孝の父。長久手の戦、小田原攻めなどに勇名をはせる。
  • 道家孫一
  • 粟井六右衛門
  • 町野新兵衛
  • 田付理介
  • 藤五郎成実 → 伊達成実
  • 伊達成実 だて しげざね 1568-1646 藤五郎。信夫郡大森城主、伊達実元の嫡男。仙台藩初代藩主である伊達政宗の重臣で従弟。片倉景綱と共に、伊達政宗の片腕として活躍した。伊達実元の子。母は実元の兄伊達晴宗の娘。父・実元と母はもともと叔父・姪の間柄であったことから、成実は母方をたどれば伊達政宗と従兄弟、父方をたどると政宗の父・輝宗と従兄弟にあたる。仙台藩一門第2席。亘理伊達家の初代。(人レ)
  • 岩崎隠岐 〓 宮沢の城将。
  • 須田伯耆 すだ? ほうき
  • 須田大膳 すだ? 〓 伯耆の父。政宗の父輝宗の臣。
  • 伊達輝宗 だて てるむね 1544-1584 戦国時代の武将・戦国大名。伊達氏第十六代当主。元亀3年(1572)に甲斐国から武田信玄の師とされる快川紹喜の弟子である臨済宗の虎哉宗乙禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者、僧を当時の伊達家居城、米沢城に招く。/出羽国米沢城(現、山形県米沢市)城主。政宗の父。(日本史)
  • 二本松義継 にほんまつ よしつぐ ?-1585 南北朝期の奥州管領・畠山国氏の子孫。1574(天正2)北方の伊達氏に圧迫され、会津の蘆名氏や常陸の佐竹氏と同盟を結んだ。85年10月、伊達輝宗との戦闘で降伏し、講和の場で輝宗を拉致し逃亡。政宗の追撃をうけ、阿武隈川岸の高田原で輝宗とともに殺された。翌年政宗は二本松城を攻撃、二本松氏は滅亡。(日本史)
  • 後藤基信
  • 馬場右衛門
  • 山戸田八兵衛
  • 牛越宗兵衛
  • 佐々成政 さっさ なりまさ 1539-1588 安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕え、越中富山に受封、のち織田信雄を助けて豊臣秀吉と戦い、敗れて降り、九州平定に従い肥後隈本(熊本)に移封、一揆が起こり、罪を問われて切腹。
  • 黒沢豊前守
  • 黒沢六蔵 〓 豊前守の子。のちに氏郷の臣。
  • 浅野長政 あさの ながまさ 1547-1611 安土桃山時代の武将。尾張の人。初め織田信長に仕え、のち豊臣秀吉の五奉行の一人。文禄の役に軍監。関ヶ原の戦には東軍に属した。
  • 結城秀康 ゆうき ひでやす 1574-1607 江戸初期の武将。徳川家康の次子。越前福井の藩祖。初め豊臣秀吉の猶子。秀吉の命により結城氏を継ぐ。関ヶ原の戦功により越前国68万石に封。
  • 榊原康政 さかきばら やすまさ 1548-1606 安土桃山・江戸初期の武将。式部大輔。三河生れ。徳川氏創業の臣。家康四天王の一人。家康の近臣となり、小牧・長久手の戦などに武功をたて、上野館林10万石を与えられた。
  • 浅野六右衛門
  • 盛重
  • 斎藤兵部
  • 伊達重綱 だて 〓 伊達成実の子。
  • 山東京伝 さんとう きょうでん 1761-1816 江戸後期の戯作者・浮世絵師。本名、岩瀬醒。俗称、京屋伝蔵。住居が江戸城紅葉山の東方に当たるので山東庵、また、京橋に近いので京伝と号した。京山の兄。初め北尾重政に浮世絵を学び北尾政演と号、のち作家となる。作は黄表紙「御存商売物」「江戸生艶気樺焼」「心学早染草」、読本「桜姫全伝曙草紙」「昔話稲妻表紙」、洒落本「通言総籬」など。
  • 前田徳善院 まえだ とくぜんいん → 前田玄以 (人レ)
  • 前田玄以 まえだ げんい 1539-1602 安土桃山時代の武将。美濃の人。民部卿法印・徳善院と号。織田信忠・豊臣秀吉に仕え、17年間京都奉行職。五奉行の一人。丹波亀山城主。
  • 細川越中守 → 細川忠興
  • 細川忠興 ほそかわ ただおき 1563-1645 安土桃山時代の武将。幽斎の子。織田信長に仕え、丹後宮津城主。妻ガラシヤの父明智光秀が信長を殺害した時、その招きに応ぜず、豊臣秀吉に従って軍功を積み、関ヶ原の戦には徳川氏に属して戦功あり、豊前・豊後40万石に封。1620年(元和6)剃髪して三斎宗立と号。和歌・典故に通じ、また茶の湯を好んだ。
  • 金森法印 → 金森宗和か
  • 金森宗和 かなもり そうわ 1584-1656 江戸前期の茶人。宗和流の祖。飛騨高山の城主可重の長男。名は重近。父に勘当され京都に蟄居。姫宗和と呼ばれて公家風の茶で知られ、陶工野々村仁清を指導して御室焼を創始させた。
  • 有馬法印
  • 佐竹備後守 さたけ びんごのかみ → 佐竹義宣か
  • 佐竹義重 さたけ よししげ 1547-1612 戦国時代の武将。常陸の戦国大名。本姓は源氏。家系は河内源氏の八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の流れを汲む名族で、常陸守護職家である佐竹氏第18代当主。第17代当主・義昭の嫡男。正室は伊達晴宗の娘。佐竹義盛や上杉憲定の仍孫にあたる。「鬼義重」「坂東太郎」の異名で恐れられ、北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた名将。
  • 前田利長 まえだ としなが 1562-1614 安土桃山〜江戸初期の武将、大名。加賀藩祖である前田利家の長男(嫡男)として生まれる。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589)頃、利長と改名する。若年より主として豊臣秀吉旗下の将校として転戦した。秀吉没後から徳川幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。
  • 前田利政 まえだ としまさ 1578-1633 安土桃山時代から江戸時代の武将、加賀金沢藩初代藩主である前田利家の次男、母はまつ。兄弟に前田利長、前田利常ほか。妻は蒲生氏郷の娘の籍。子に前田直之。孫四郎。尾張国荒子城(愛知県名古屋市)に生まれる。
  • 飛騨守 → 蒲生氏郷
  • 豊臣秀頼 とよとみ ひでより 1593-1615 安土桃山時代の武将。秀吉の子。6歳で家を継ぎ徳川秀忠の女千姫を娶る。大坂夏の陣で、城は陥落し母淀君と共に自刃。
  • 徳山 とくさん 古禅僧。
  • 遠藤宗信 えんどう むねのぶ 1572-1593 伊達氏家臣。(人レ)/遠藤基信の子。
  • 原田宗時 はらだ むねとき 1565-1593 安土桃山時代の人物。伊達氏の家臣。原田宗政の甥(父は山嶺源市郎)。虎駒。左馬之助。宗時の原田氏は伊達氏初代の朝宗以来の代々の宿老といわれる。
  • 顕昭 けんしょう 1130頃-1210頃 平安末〜鎌倉初期の歌人・歌学者。藤原顕輔の猶子。僧位は法橋。博覧宏識、六条家歌学の大成者。考証注釈に長じ、その歌風には理知の冴えが見える。著「古今集註」「袖中抄」など。
  • 祇園南海 ぎおん なんかい 1676-1751 江戸中期の漢詩人・画家。名は瑜、字は伯玉。紀州藩医の子。江戸生れ。木下順庵の門下。紀州藩儒・藩校教授。日本における初期南画(文人画)の代表。著「詩学逢原」「南海詩訣」など。
  • 満田長右衛門 〓 氏郷の右筆頭。
  • 石田三成 いしだ みつなり 1560-1600 安土桃山時代の武将。幼名は佐吉。治部少輔と称す。近江の人。年少から豊臣秀吉に近侍、五奉行の一人となり、太閤検地など特に経済・財政の面に活躍した。佐和山19万石の城主。のち徳川家康を除こうとして挙兵、関ヶ原に敗れて京都で斬首された。
  • 直江兼続 なおえ かねつぐ 1560-1619 安土桃山時代の武将。もと樋口氏。山城守。上杉景勝に仕え、名家宰として知られる。詩文をよくした。
  • 瀬田掃部正忠  〓 かもん 〓 利休の弟子。
  • 前田肥前守 → 前田利長
  • 上田主水 うえだ もんど (1) 安土桃山時代・江戸時代前期の茶人。(人レ)
  • 戸田武蔵守
  • 毛利
  • 浮田
  • 正純 まさずみ 法眼。
  • 宗叔
  • 半井道三 なからい どうさん
  • 霊三 〓 南禅寺和尚。
  • 池田和泉守 〓 蒲生の家臣。
  • 蒲生賢秀 がもう かたひで 1534-1584 戦国時代の武将。近江日野城主。六角氏の重臣・蒲生定秀の嫡男。六角氏が織田信長によって滅ぼされる(観音寺城の戦い)と賢秀は嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となった。
  • 崇禅院 〓 蒲生出身の山法師。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*難字、求めよ

  • � まき/カイ (1) 川の水がまわりながら流れる。(2) 川の流れをさかのぼる。
  • 膩 ジ (1) あぶら。ねっとりした脂肪。(2) なめらか。きめがこまかい。
  • 俯視 ふし うつむいて見ること。伏し目がちに見ること。
  • 瞋眼 しんがん 目をいからすこと。目をむいてにらむこと。瞋目。
  • 早天 そうてん 早朝。あけがた。
  • 仲冬 ちゅうとう (冬の3カ月の真ん中の意)陰暦11月の異称。
  • 懇志 こんし 親切にゆきとどいた志。親しくつき合おうとする気持。
  • 躙り上がり にじりあがり (1) 「にじりぐち」の旧称。
  • 躙り口 にじりぐち 茶室特有の小さな出入口。にじって出入する。幅1尺9寸5分、高さ2尺2寸5分が定法。にじりあがり。潜(くぐ)り。←→貴人(きにん)口。
  • 残卒
  • 万仞・万尋 ばんじん (「仞・尋」は両手を広げた長さ)非常に高いこと。また、非常に深いこと。
  • 茶讌 ちゃえん 茶宴。茶の湯の会。茶会。
  • 目睫 もくしょう (1) 目と睫(まつげ)。(2) 転じて、極めて接近している所。目前。
  • 鮫室 こうしつ。蛟室。鮫人(こうじん)が住むという所。南海水中にあると想像された。
  • 皆具 かいぐ 装束・武具・馬具などの、各部分の一揃い。一式。
  • 草摺長 くさずりなが 草摺を長く垂れて着ているさま。
  • 響けかし
  • 寄付き よりつき (1) 寄り付くこと。(2) 入ってすぐの部屋。(3) 庭園などに設ける簡略な休息所。茶会の待合。(4) 取引所で、前場または後場の最初の立会。通常は前場をいう。また、その際の値段。より。←→大引。
  • 怒眼
  • 僭上 せんじょう/せんしょう 僭上。(1) 臣下、使用人などが、身分を越えて長上をしのぐこと。分をわきまえずにさし出たおこないをすること。また、そのさま。(2) 分をすぎた贅沢をすること。おごりたかぶること。みえをはること。また、そのさま。過差。(3) 大言壮語すること。ほらを吹くこと。また、そのさま。
  • 緩毒
  • 怡然 いぜん よろこぶさま。
  • 余瀝 よれき 残ったしずく。余りのしたたり。余滴。残滴。
  • 西大寺 さいだいじ (1) 奈良市にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。高野寺・四王院ともいう。764年(天平宝字8)称徳天皇の勅願により創建。1235年(嘉禎1)叡尊(興正菩薩)が入寺し再興、戒律の道場となった。寺宝に十二天画像など。(2) 岡山市にある真言宗の寺。奈良中期の創建と伝え、(1) との関係も深い。会陽と呼ばれる修正会は裸祭として有名。(3) (1) で売った薬、豊心丹の異名。
  • 宝心丹 → 豊心丹
  • 豊心丹 ほうしんたん 奈良の西大寺から、興正菩薩伝来と称して製出した薬。一説に公家富小路家が調製したともいう。
  • 毒飼い どくがい (1) 毒を飲ませること。(2) 身をそこなわすこと。
  • 妬婦 とふ 嫉妬ぶかい女。やきもちやきの女。
  • 恕する じょする 思いやりの心で許す。
  • 根付 ねつけ (1) 巾着・煙草入・印籠などを帯に挟んで提げる時、落ちないようにその紐の端につける留め具。珊瑚・瑪瑙・象牙などの材に精巧な彫刻を施したものが多い。おびばさみ。
  • ウニコール unicornis (1) 一角の牙から製した生薬で、毒消し及び健胃剤。昔は痘瘡の薬として用いた。(2) (この薬に、にせ物が多かったからいう)うそ。
  • 珊瑚珠 さんごじゅ 珊瑚をみがいて作った珠。色は赤・桃・ぼけ・ぼけまがい・白の5種があり、種々の装飾品に用いる。
  • 鬼役 おにやく 主人のために飲食物の毒見をする役。鬼番。
  • 扈従 こしょう/こじゅう (「扈」は、つきそう意)貴人につき従うこと。また、その人。おとも。供奉。随行。。
  • 有り内 ありうち 有打。「うち」は接尾語)「ありがち(有勝)」に同じ。世の中によくあること。ありがち。
  • 虚誕 きょたん 事実無根のことをおおげさに言うこと。うそ。でたらめ。
  • 反覆常なき → 叛服常無し、か
  • 叛服常無し はんぷく つね なし そむいたり服従したり、その態度がきまらない。
  • 内訌 ないこう 内部の乱れ。うちわもめ。内乱。
  • 策応 さくおう 両方ではかりごとを通じ合わせること。しめしあわせること。
  • 環攻 かんこう まわりを取り囲み、せめてくること。
  • 覆没 ふくぼつ (1) 艦船などが、くつがえって沈むこと。(2) やぶれほろびること。覆敗。
  • 陣代 じんだい 武家時代、首将に代わって軍務を統べた役。また、幼少の当主の後見役。
  • 虫気 むしけ (1) 腹痛を伴う病気の総称。(2) 小児が、回虫または消化不良などのために体質が虚弱となり、不眠・癇癪などを伴う病症。むし。(3) 産気。陣痛。
  • 逆歩 しりあし
  • 常山の蛇勢 じょうざんの だせい [孫子九地](常山にすむ率然という蛇は、その頭を撃てば尾が、尾を撃てば頭が助け、胴を撃てば頭と尾との両方が助けるというところから)各部隊の前後左右が相応じて攻撃・防御し、敵が乗ずることのできないようにする陣法。また、文章が首尾照応して、各部分の関係が緊密で一貫していること。
  • 雄毅 ゆうき 雄々しく強いこと。
  • 深沈 しんちん (1) おちついて物事に動じないこと。沈着。(2) 夜のふけてゆくこと。夜がふけて物音の聞こえないこと。
  • 十死一生 じっし いっしょう 到底生きる見込みのないこと。「十死に一生」とも。「九死一生」をさらに強めていう語。
  • 千鈞 せんきん (「鈞」は目方の単位。1鈞は30斤という) 非常に重いこと。
  • 多寡 たか 多いことと少ないこと。多少。
  • 下墨 さげすみ (サゲズミとも) (1) 柱などの傾きを見るために、大工が墨糸を垂直にたらして見定めること。下げ振り。垂準。(2) 物事をおしはかること。見積もること。
  • 懦夫 だふ 気の弱い男。臆病な男。いくじなし。
  • 怯夫 きょうふ 臆病な男。懦夫。
  • 黒白 こくびゃく (1) 黒色と白色。明と暗。(2) よいこととわるいこと。是非。正邪。
  • 伊賀衆 いがしゅう 伊賀者に同じ。
  • 伊賀者 いがもの 江戸幕府に仕えた伊賀の郷士出身の下士で、御広敷番・明屋敷番・小普請・山里門番などに属した者。忍びの術に長ずる。伊賀衆。
  • 甲賀衆 こうがしゅう 甲賀者に同じ。
  • 甲賀者 こうがもの 江戸幕府に仕えて鉄砲同心を勤めた甲賀の地侍出身者。隠密に秀でたといわれ、伊賀者と並称。甲賀衆。
  • 雄偉 ゆうい すぐれてたくましいこと。雄壮で偉大なこと。
  • 分際 ぶんざい (1) その者に応じた程度・限界。また、数量。(2) 身のほど。分限。身分。
  • 来れかし くれかし?
  • かし (1)(聞き手に対する)念押し。強いもちかけ。「…よ。「…ね。「…だよ。」(2)(自分に対する)言い聞かせ。「…のだ。」(3)(上に付つ副詞・感動詞の意味の)強調。
  • 糸縅 いとおどし 組糸による甲冑のおどし。糸の色によって赤糸縅・黒糸縅など種々の名称がある。
  • 色々威 いろいろおどし 鎧の威の一種。適宜な配色の組み合わせによる糸、または革、綾などで威したもの。威し交ぜ。段々威。
  • 小梨打 こなしうち
  • 梨子打の兜 なしうちのかぶと 当世兜の変わり鉢の一種。梨子打烏帽子の形に似せて鉄板をはぎ合わせてつくった鉢。大小によって、大梨子打、小梨子打の呼称がある。梨子打烏帽子の兜。
  • 火裏 かり 火の中。火中。
  • 火裏の蓮華 かりの れんげ
  • 先登 せんとう (1) まっさきに敵城に登ること。まっさきに敵城に切り入ること。いちばんのり。さきがけ。先陣。(2) まっさきに到着すること。また、まっさきに物事を行うこと。
  • 寄する よする 寄る。近づく。「寄す」の自サ下二。押し寄せる。
  • 水火 すいか (2) 水におぼれ火に焼かれる苦痛。また、そのようなひどい苦しみ。(3) 互いに相いれないもの。相反すること。また、非常に仲が悪いことのたとえ。水火氷炭。氷炭。(5) 洪水と火災。また、そのように勢いの激しいことのたとえ。
  • 合期 ごうご (1) 期日にたがわぬこと。まにあうこと。(2) 思うようになること。心にかなうこと。
  • 焦慮 しょうりょ 心をいらだたせること。焦心。
  • 讒構 ざんこう ないことをつくり上げて人をそしること。
  • 英霊底の漢 おのこ
  • 樽俎折衝 そんそ せっしょう [戦国策斉策]平和的な外交談判で相手の攻勢をかわして、自国に有利に交渉をすすめること。転じて、外交をすること。かけひきすること。折衝樽俎。
  • 手を束ねる てをつかねる (1) (敬意を表して)両手を組む。(2) なすすべもなく傍観する。
  • 三百代言 さんびゃく だいげん (1) 明治前期、代言人の資格がなくて他人の訴訟や談判を引き受けた者。また、弁護士の蔑称。(2) 転じて、詭弁を弄すること。また、その人。
  • 両虎一澗に会う いっかん
  • 越度 おちど (ヲツドの転。「落度」とも当てる)あやまち。手おち。失敗。
  • 二桃三士を殺す にとう さんしを ころす [晏子春秋諫下](「士」は「子」とも書く)斉の景公に公孫接・田開疆・古冶子の3勇士があって、皆功を誇って勝手気ままであった。景公は宰相晏子の計を用い、3士に2個の桃を与えて互いに争わせ、ついに全部自殺させたという故事。奇計を用いて人を自滅させることにいう。
  • 戻く もどく (方言)結んだ糸などをほどく。解く。
  • もどく 擬く・抵牾く・牴牾く (1) 他の物に似せて作る。まがえる。(2) さからって非難する。とがめる。
  • 坦夷 たんい (「坦」「夷」ともに平の意)土地などの平らなこと。平坦。
  • 親類合い しんるいあい 親類としてのかかわり合い。親類関係。
  • お勝手衆 → 勝手方
  • 勝手方 かってがた (1) 食事を作るところ。また、その係の人。まかない方。(3) 勝手方勘定奉行に同じ。
  • 肩衣 かたぎぬ (1) 古代、庶民の用いた服。丈短く袖と衽のない着物。(2) 室町時代の末から武家が素襖の代用として用いた服。背の中央と両身頃胸部とに家紋をつけた素襖の、袖をなくしたもの。肩から背にかけて小袖の上に着る。下は袴を用いる。
  • 雨かかり あまがかり 天掛。雨懸。(1) 和船の帆柱の部分の名称。帆柱を立てたとき、船体の筒ばさみの上部に棕櫚縄(しゅろなわ)でくくりつける箇所。あまがらみ。(2)「あまがらみなわ」に同じ。雨搦縄。
  • 直綴・直 じきとつ 僧衣の一種。偏衫と裙子とを直に綴りあわせ、腰から下に襞のあるもの。禅宗などで僧尼がふつうに用いる衣服。ころも。
  • 遊行上人 ゆぎょう しょうにん 時宗の総本山遊行寺の歴代住職の称。諸国を遊行することをならいとする。特に、開祖一遍または同宗遊行派の祖、他阿を指すこともある。
  • 草莱 そうらい (1) 草原。くさむら。(2) 荒地。未開の地。
  • 懸硯 かけすずり かけごのある硯箱。
  • 懸子・掛子 かけご (1) 他の箱の縁にかけて、その中にはまるように作った箱。(2) 転じて、本心を隠して打ち明けないこと。
  • 女飯 おんなめし おみなえし。(4) 粟(あわ)、または粟飯をいう女房詞。
  • 下血 げけつ 種々の疾患により消化管内に出た血が肛門から排出されること。
  • 腫脹 しゅちょう 腫瘍・炎症または充血・液体の貯留などにより身体の一部がはれあがること。はれ。
  • 鴆毒・酖毒 ちんどく 鴆の羽にあるという猛毒。
  • 下風 げふ/げふう 屁をすること。また、屁。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 幸田露伴「蒲生氏郷」、もしや慶長十六年(1611)の会津地震や三陸地震、元和二年(1616)の宮城県沖地震のことにふれているんじゃないかと期待して読んだが、結局、記述なし。「蒲生氏郷」は大正14年9月『改造』の発表だから、関東大震災から2年後にあたる。

 「喜多、梵天丸は醜いか?」『独眼竜政宗』。西郷輝彦の片倉小十郎、三浦友和の伊達成実、大滝秀治の虎哉和尚、原田芳雄の最上義光。原作、山岡荘八。そして蒲生氏郷は片えくぼの寺泉憲。
 
 宮崎駿『出発点』(徳間書店、1996.7)、対談・村上龍「密室からの脱出」(出典『アニメージュ』1989.11月号)。

・宮崎「結果的に(自分たちは)若者から時間を奪っただけじゃないかとか……」
・宮崎「ぼくは子どもを暇にするしかないと思っているんです」
・宮崎「たとえば映像をいっぱい見ることと映像感覚が鋭くなることは、全然関係がないんじゃないかとこのごろ思うんです」
・村上「子どもにいちばん正直に、社会全体の価値観が、無言のうちに浸透しますからね」
・村上「カルチャーっていうのは、自分がいかにほかの人と違うのかってことを、相手にわからせるようにすることだと思うんです。そういうことを目指せばいいのに、やっぱり金に未練があるから、マネーゲームに走ったり、右往左往しているんだと思うんです」

 村上龍『愛と幻想のファシズム』上下(講談社、1987.8)(『週刊現代』1984.1月1日号〜1986.3月29日号連載)。カバー装幀、横尾忠則、リサ・ライオン。
 宮崎×村上の対談リード文で、宮崎さんが村上龍と当作品を高く評価していた。その内容を確認したかったのだが、『出発点』にはかんじんの部分は見つからず。1989年秋、高校三年だったぼくは、受験勉強せずに『愛と幻想……』を夢中になって読んだ。



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2011/12/20 19:33
晴れ。ひさしぶりに八文字屋へ。

んん……、MS-IME にもしてみたが、キーカスタマイズ(キー設定の「キー割付」)がうまくいかない。「Alt+カーソルキー」でページ up/down できるのだが、いちいち両手打ちしなければならないのがめんどうなので、「カタカナ/ひらがな/ローマ字」キーに「Alt」を割り付けたい。ところが、ATOK でも MS-IME でもうまくいかない。何か思い違いでもしているんだろうか??

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2011/12/21 18:46 雪。
風邪、峠越えたか。鼻水ほとんどなし。のど若干いがらっぽいのが残るのみ。アパートに引っ越して十数年来、愛用していたトイレ便座カバーを交換する。

昨日までに、『古事記』中巻42ページ分校正終了。

20:56 乾電池アイコン減少はじめる。

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2011/12/22 18:52 Thu
くもり、ときどき小雨。
駅前、電気店で乾電池充電用の太陽電池パネルの取り扱いをたずねるも、なし。ゴリラ、ソーラーパネル購入。小荷物をかかえて図書館へ。

20:18 「電池電圧低下」「電池入れ替え」指示。交換4回目。あーあ、また、時刻設定がクリアに。日記メモやテキストは無事。なんだかなあ・・・。

20:33 『古事記』中巻、校正終了!!!
ボタン電池アイコン、あいかわらず点滅中。

PCATOK辞書のインポートを再度挑戦、するも失敗。なにゆえ??

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2011/12/23 18:43 小雪、寒。
昨夜、ソーラーパネルの取説読む。購入を考えている人向けに参考インフォ。

△ 乾電池は、常に4本同時にセットしなければいけない。
△ バッテリーパックは一応2000回が使用の上限。

ポメラ DM100 はつねに単三2本ずつ交換なので、ソーラー充電にはひと思案いるところ。なるべく充電残量の異なるものやブランドの異なる電池をいっしょにしたくないし・・・。

いまのところ、ポメラは週一回の電池交換頻度。年に50回の充電とするならば2000回は、40年間分になる。

ポメラのほか、携帯ラジオ、ラジカセ・TV各リモコン、ラジオ兼ボイスレコーダーぐらいなので、ソーラー充電地の活躍する場はそう多くない。

ふと、PSPでPDFを見れるかぐぐる。可能ではあるものの、ファームウェアの書き換えが条件になるらしい。機種にも依存。すなおに Reader かな。

カイロのかわりに iPhone やタブレットを買うっていう手もあるか? ポメラ MD100 は発熱いっさいなし!

20:49 さほど気になることでもないが、入力中、ポメラ中央部にごく若干のたわみが生じるのは事実。気温が高くなる季節にはフニャフニャ感が強調されるかもしれない。

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2011/12/24 Sat
晴れ、のち雪。朝風呂、予報のわりに天気がよさそうなので、傘を持って山形へ。夕方から降り始める。ラジオのイヤホンジャックが2本具合悪い。断線か。

100均、デニムの巾着袋購入。
山形市立図、県立図ともに創作絵本を展示。

若鶏肉、チョコレート、クリームにシュガーパン。パスタ。

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2011/12/25 18:52 大雪
FM山下達郎・竹内まりあ、クリスマス夫婦放談。

夕方、まだ路面がところどころ見えていたのが、図書館帰りには15〜20センチの積雪。

20:11 残り底本25ページ分!

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2011/12/26 09:36 大雪
アパートとなりの家の屋根には30センチくらいの積雪。

NOMAD7 に単三エネループ2本とソニーブランドの電池をセット。充電開始。部屋の南向きの曇りガラス脇に水平に設置。さっそくインジケーターが赤く点滅。日差しの有無にあわせて点滅がはじまったり止まったりをくりかえす。

12:12 曇りガラスごしでは、頻繁に充電と停止をくりかえす。隣室の障子をあけて窓ガラスわきに設置しなおす。室内気温0度近い。

14:27 14:00すぎまで充電していたが、雪が舞って曇りがち。今日はここまでか。正味2時間ぐらいだろうか。

18:40 『古事記』校正、残り底本13ページ分!
20:43 『古事記』校正、終了!!! 窓の外は雪がやんだ模様。

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2011/12/27 09:12 雪
充電再開。点滅始まらず。

10時頃、日差し出る。
11:07 グリーンの速い点滅。
14:01 赤点滅→グリーン点滅。

八文字屋、PS Vista お試し。
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(以上、ポメラ日記。ほぼポメ入力。




*次週予告


第四巻 第二三号 
科学の不思議(一)アンリ・ファーブル


第四巻 第二三号は、
一二月三一日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第二二号
蒲生氏郷(三)幸田露伴
発行:二〇一一年一二月二四日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
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  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
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  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉        
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
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  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  •  はしがき
  •  庄内三郡
  •  田川郡と飽海郡、出羽郡の設置
  •  大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領
  •  高張田地
  •  本間家
  •  酒田の三十六人衆
  •  出羽国府の所在と夷地経営の弛張
  •  
  •  奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  •  出羽国分寺の位置に関する疑問
  •  これは「ぬず」です
  •  奥羽地方の方言、訛音
  •  藤島の館址――本楯の館址
  •  神矢田
  •  夷浄福寺
  •  庄内の一向宗禁止
  •  庄内のラク町
  •  庄内雑事
  •   妻入の家 / 礫葺の屋根 / 共同井戸 / アバの魚売り / 竹細工 /
  •   カンジョ / マキ、マケ――ドス / 大山町の石敢当 / 手長・足長 /
  •   飛島 / 羅漢岩 / 玳瑁(たいまい)の漂着 / 神功皇后伝説 / 花嫁御
  •  桃生郡地方はいにしえの日高見の国
  •  佳景山の寨址
  •  
  •  だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音によってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。(略)近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音だということで、小学校ではつとめて矯正する方針をとっているがために、子どもたちはよほど話がわかりやすくなったが、老人たちにはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、じつに奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふっぱりきたものを」などは、ぜんぜん奥羽なまり丸出しの感がないではない。(略)
  •  また、遠く西南に離れた薩隅地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」とよばれている。なお歴史的に考えたならば、上方でも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、篠がシヌ、相模がサガム、多武の峰も田身(たむ)の峰であった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島のごときも、『延喜式』にはあきらかにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本参られて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊の幸わうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁な中部地方では後世しだいになまってきて、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった僻遠地方には、まだ昔の正しいままの発音が遺っているのだと言ってよいのかもしれぬ。(略)
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  •  館と柵および城
  •  広淵沼干拓
  •  宝ヶ峯の発掘品
  •  古い北村
  •  姉さんどこだい
  •  二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑
  •  日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏
  •  天照大神は大日如来
  •  茶臼山の寨、桃生城
  •  貝崎の貝塚
  •  北上川改修工事、河道変遷の年代
  •  合戦谷付近の古墳
  •  いわゆる高道の碑――坂上当道と高道
  •  
  •  しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗る村民も少くないらしい。(略)先日、出羽庄内へ行ったときにも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉・神護景雲三年(七六九)に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年(七七二)に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命の後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかもしれぬ。前九年の役後には、別に屋・仁土呂志・宇曽利あわして三郡の夷人安倍富忠などいう人もあった。かの日本将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館がはたして安倍氏の人の拠った所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かもしれぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野氏の多いのもちょっと目に立った。(略)今野はけだし「金氏」であろう。前九年の役のときに気仙郡の郡司金為時が、頼義の命によって頼時を攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものとみえる。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。その金に、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏をオオノ、紀氏をキノと呼ぶのと同様である。
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  •  
  •  私はいつも神さまの国へ行こうとしながら地獄の門をもぐってしまう人間だ。ともかく私ははじめから地獄の門をめざして出かけるときでも、神さまの国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局、地獄というものに戦慄したためしはなく、バカのようにたわいもなくおちついていられるくせに、神さまの国を忘れることができないという人間だ。私はかならず、いまに何かにひどい目にヤッツケられて、たたきのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらしてまっさかさまに落とされてしまう時があると考えていた。
  •  私はずるいのだ。悪魔の裏側に神さまを忘れず、神さまの陰で悪魔と住んでいるのだから。いまに、悪魔にも神さまにも復讐されると信じていた。けれども、私だって、バカはバカなりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神さまを相手に組み打ちもするし、蹴とばしもするし、めったやたらに乱戦乱闘してやろうと悲愴な覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。ずいぶん甘ったれているけれども、ともかく、いつか、化の皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落とされる時を忘れたことだけはなかったのだ。
  •  利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言うだろう。私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、なんとでも言うがいいや。私は、私自身の考えることもいっこうに信用してはいないのだから。「私は海をだきしめていたい」より)
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  •  
  •  (略)父がここに開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入の『古今集』をもらった。たぶん田安家にたてまつったものであっただろうとおもうが、佳品の朱できわめてていねいに書いてあった。出所も好し、黒川真頼翁の鑑定を経たもので、わたしが作歌を学ぶようになって以来、わたしは真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはりいっしょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年(一九二四)暮の火災のとき灰燼になってしまった。わたしの書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、かろうじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失せた。わたしは東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思い出して残念がるのであるが、何ごとも思うとおりに行くものでないと今ではあきらめている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとしたことにもとづくものがあると知って、それであきらめているようなわけである。
  •  まえにもちょっとふれたが、上京したとき、わたしの春機は目ざめかかっていて、いまだ目ざめてはいなかった。今はすでに七十の齢をいくつか越したが、やをという女中がいる。わたしの上京当時はまだ三十いくつかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」とわたしに教えた女中である。その女中がわたしを、ある夜、銭湯に連れて行った。そうすると浴場にはみな女ばかりいる。年寄りもいるけれども、キレイな娘がたくさんにいる。わたしは故知らず胸のおどるような気持ちになったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかもしれない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことがわかり、女中は母にしかられて私はふたたび女湯に入ることができずにしまった。わたしはただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。「三筋町界隈」より)
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  • 原子力の管理
  •  一 緒言
  •  二 原子爆弾の威力
  •  三 原子力の管理
  •  
  • 日本再建と科学
  •  一.緒言
  •  二.科学の役割
  •  三.科学の再建
  •  四.科学者の組合組織
  •  五.科学教育
  •  六.結語
  •  
  • 国民の人格向上と科学技術
  • ユネスコと科学
  •  
  •  原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。「日本再建と科学」より)
  •  科学は呪うべきものであるという人がある。その理由は次のとおりである。
  •  原始人の闘争と現代人の戦争とを比較してみると、その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある。個人どうしのつかみ合いと、航空機の爆撃とをくらべて見るがよい。さらに進んでは人口何十万という都市を、一瞬にして壊滅させる原子爆弾にいたっては言語道断である。このような残虐な行為はどうして可能になったであろうか。それは一に自然科学の発達した結果にほかならない。であるから、科学の進歩は人類の退歩を意味するものであって、まさに呪うべきものであるという。「ユネスコと科学」より)
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  • J・J・トムソン伝
  •  学修時代
  •  研究生時代
  •  実験場におけるトムソン
  •  トムソンの研究
  •  余談
  • アインシュタイン博士のこと 
  •  帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気を帯びたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉されたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。(略)
  •  電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物が一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性を有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個の忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快である。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  • 総合研究の必要
  • 基礎研究とその応用
  • 原子核探求の思い出
  •  湯川君の受賞
  •  土星原子模型
  •  トムソンが電子を発見
  •  マックスウェル論文集
  •  化学原子に核ありと発表
  •  原子核と湯川君
  •  (略)十七世紀の終わりに、カヴェンジッシュ(Cavendish)が、ジェレキ恒数〔定数〕・オーム則などを暗々裏に研究していたが、その工業的価値などはまったく論外であった。一八三一年にファラデー(Faraday)が誘導電流を発見したけれども、その利用は数十年後に他人によって発展せられ、強電流・弱電流・変圧器・モーターなどにさかんに用いられ、結局、電気工学の根幹はこの誘導電流の発見にもとづくものといってよろしい。(略)近年は電気工学の一部門として、電子工学なるものが生まれた。その源をたずねてみると、J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が気体中の電気伝導を研究したのに始まっている。気体が電離すると、物質は異なっていても必ず同じ帯電と同じ質量を持っている微細なものが存在する。すなわち電子であって、今日まで知られているもっとも微質量の物質である。その帯電を利用し、自由にこれが速度を調節することが可能であることを認め、はじめてフレミング(Fleming)によって無線通信を受けるに使われた。(略)
  •  つぎに申し上げるのは、光電池のことである。ドイツの片田舎ウォルフェンブッテル(Wolfenbu:ttel)の中学教員エルステル(Elster)とガイテル(Geitel)は、真空内にカリウム元素を置き、これに光をあてると電子の発散するのを認め、ついにこれをもって光電池を作った。近ごろではカリウムよりセシウム(Caesium)が感度が鋭敏であるから、物質は変化したけれども、その本能においては変わらない。この発見者はこれを工業的に発展することはべつに考えなかったが、意外な方面に用いられるようになった。すなわち光度計としては常識的に考えうるが、これを利用してドアを開閉し、あるいは盗賊の警戒にもちい、あるいは光による通信に利するなど、意外なる利用方法が普通におこなわれるようになった。もっともさかんに使われるのは活動写真のトーキーであろう。光電池の創作者にこの盛況を見せ得ないのは残念である。
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  •  (略)当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、然様さようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひき鷹を肘にして遊ぶほどの身分でもなく、さればといって何の洒落た遊技を知っているほど怜悧(れいり)でもない奴は、他に知恵がないから博奕を打って閑(ひま)をつぶす。戦(いくさ)ということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチが流行る。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭(か)ける料がなくなる。負ければ何の道の勝負でもくやしいから、賭ける料がつきてもやめられない。仕方がないから持ち物をかける。また負けて持ち物を取られてしまうと、ついには何でも彼でもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついには賭けるものがなくなる。それでも剛情にいまひと勝負したいと、それでは乃公(おれ)は土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度、戦のある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約を果たせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束に従ってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、分捕(ぶんどり)して渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前(とまえ)受け取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有ではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  •  (略)政宗も底倉(そこくら)幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師として茶事を学んで、秀吉をして「辺鄙(ひな)の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足〔高弟のこと。〕であった。(略)また氏郷があるときに古い古い油を運ぶ竹筒を見て、その器をおもしろいと感じ、それを花生けにして水仙の花を生け、これも当時風雅をもって鳴っていた古田織部に与えたという談が伝わっている。織部はいまに織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺している人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘(わび)に徹した人である。氏郷のその花生けの形は普通に「舟」という竹の釣花生けに似たものであるが、舟とはすこし異なったところがあるので、今にその形を模した花生けを舟とはいわずに、「油さし」とも「油筒」ともいうのは最初の因縁からおこってきているのである。古い油筒を花生けにするなんというのは、もう風流において普通を超えて宗匠分になっていなくてはできぬ作略で、宗匠の指図や道具屋の入れ知恵を受け取っている分際の茶人のことではない。(略)天下指折りの大名でいながら古油筒のおもしろみを見つけるところはうれしい。(略)氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込んでいたのは利休の教えを受けた故ばかりではあるまい、たしかに料簡の据えどころを合点して何にも徹底することのできる人だったからであろう。しかも油筒ごとき微物をとりあげるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙を所望したときには、それが蒲生重代の重器であったにかかわらず(略)真物を与えた。(略)竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチではない人だ、家重代のものをも惜し気なく親友の所望には任せる。なかなかおもしろい心の行きかたを持った人だった。

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