幸田露伴 こうだ ろはん
1867-1947(慶応3.7.23-昭和22.7.30)
本名、成行(しげゆき)。江戸(現東京都)下谷生れ。小説家。別号には、蝸牛庵、笹のつゆ、雪音洞主、脱天子など。『風流仏』で評価され、「五重塔」「運命」などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。第1回文化勲章受章。娘の文は随筆家。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-Rohan_Koda.jpg」より。


もくじ 
蒲生氏郷(二)幸田露伴


ミルクティー*現代表記版
蒲生氏郷(二)

オリジナル版
蒲生氏郷(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。「云う」「処」「有つ」のような語句は「いう/言う」「ところ/所」「持つ」に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/card2709.html

NDC 分類:289(伝記 / 個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html





蒲生がもう氏郷うじさと(二)

幸田露伴


 氏郷はどんな男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢としかたがはじめて江州蒲生郡がもうぐんを領したので蒲生とよばれた家の賢秀かたひでというものの子である。この蒲生郡を慶長六年(一六〇一)すなわち関ヶ原の戦のすんだその翌年三月にいたって家康は政宗にたまわっている。仲の悪かった氏郷の家の地をもらったから、大きな地でなくても政宗にはちょっとよい心地ここちであったろうが、すでに早く病死していた氏郷にとっては泉下せんかにイヤな心持ちのしたことであろう。家康もまたちょっと変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに言えば下風げふおこる、具足を脱ぎやれ法衣ころも召せ、と歌われたといわれもしている。下風という言葉はあまり聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのはその義がはなはだ多くて、頭風ずふうといえば頭痛、驚風きょうふうといえば神経疾患、中風といえば脳溢血のういっけつその他からの不仁ふじんの病、痛風はリウマチス、なお馬痺風ばひふう〔馬脾風〕だの何だのというのもあって、病とか邪気とかいうのと同じくらいの広い意味を有していて、また一般にただ風といえば気狂きちがいという意で、風僧といえばすなわち気狂い坊主である。中風の中は上中下の中ではないと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、はなはだせつな言葉である。風はやはりただの風で、下風は身体からだから風をらすことである。いやしい語にセツナ何とかいうのがある、すなわちそれである。その人が心弱くて、戦争とさえいえば下風おこる、とても武士にはなりきらぬゆえに甲冑かっちゅうをぬぎすてて法衣をよ、というのが一首の歌の意である。これがはたして賢秀の上をあざけったとならば、賢秀は仕方のない人だが、またその子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷はいよいよえらいものだ。しかし蒲生家の者は、その歌は賢秀の上を言ったのではなく、賢秀の小舅こじゅうとの後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師のことだから兵仗へいじょうにもたずさわった、その人のことだ、というのである。なるほどそうでなければ、法衣めせの一句が唐突とうとつすぎるし、また領主のことをさようひどくあざけりもすまいし、かつまた賢秀は信長に「義の侍」といわれたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。ただし賢秀がよわくてもつよくても、親父おやじの善悪はせがれの善悪には響くことではない、親父はせがれの手細工ではない。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢よしかた〔六角義賢か〕が凡物で信長にい落とされたので、いったんは信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸かんべ蔵人くらんどの言にしたがって信長についた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝のぶたかの養父である。そこで子の鶴千代丸すなわち後年の氏郷は十三歳で信長のところへやられた。いわば賢秀に異心なき証拠の人質にされたのである。
 信長は鶴千代丸を見るとなかなかの者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかのとしだが、たぎり立っている世の中の児童だ、三太郎・甚六じんろくなどのご機嫌とりの少年雑誌や、アメリカの牛飼・馬飼めらのくだらないケンカの活動写真をながら、アメチョコをなめて育つお坊ちゃんとはわけが違う。その物ごし・物言いにも、だんだんと自分をきたいあげていこうという立派な心のひらめきが見えたことであろう、信長は賢秀にむかって、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者ではあるべからず、信長が婿むこにせん、といったのである。これは賢秀の心をるために言ったのではなく、その翌年、鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正だんじょうちゅうの忠の字にちなみ、忠三郎秀賦ひでます賦秀やすひでか〕と名のらせて、まことにその言葉どおり婿むこにしたのである。目つきはなるほどその人を語るが、信長が人相の術を知っていたわけではない、十三歳の子どもの目つきだけでは婿むこに取るとまではれないだろうが、別にこういうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質のことゆえ町野左近という者が付き人として信長居城の岐阜へ置かれた。あるとき稲葉一鉄がきて信長と軍議におよんだ。一鉄いってつは美濃三人衆の第一で、信長が浅井・朝倉を取って押さえるにつけては大功を立てている、大剛だいごうにして武略もあった一将だ。しかし信長にとっては外様とざまなので、後に至って信長がその将材をはばかって殺そうとしたくらいだ。ところが茶室にかかっていたかん退之たいしの詩の句をもとめられるままに読みかつ講じたので、物陰ものかげでそれを聞いた信長が感じて殺さずにしまったのである。詩の句は劇的伝説をもって名高い雲横雪擁の一れんであったと伝えられているが、坊主かえりの士とはいえ、戦乱の世においてこれを説くことができたといえば修養のほども思うべき立派な文武の達人だ。この一鉄と信長とが、四方よもの経略、天下の仕置きを談論していた。夜はしだいにふけたが、談論はつきぬ。もとより機密のはなしだから雑輩ざっぱいは席におらぬ。しょくり扇をふるって論ずる物静かに奥深き室の夜はいよいよふけて沈々ちんちんとなった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の座をやや遠く離れて蒲生のこせがれが端然とすわっていた。座睡いねむりをせぬまでも、十三歳やそこらの小童こわっぱだから、眼の皮をたるませて退屈しきっているべきはずだのに、耳をかたむけ魂を入れて聞いていた様子は、少くとも信長や自分の談論がわかって、そしてそのうえに興味をもっているのだ。さすがに武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃえらい物だぞ、今の年歯としはでかようでは、と感嘆かんたんして、おそるべし、おそるべし、この児の行く末は百万にも将たるに至ろう、と言ったという。ずいぶん怜悧りこう芸妓げいしゃでも、いいかげんに年を取ったヒゲづら野郎でも、相手にせずにそこへ座らせておいてすこし上品な談話でもしていると、たいていの者は自分は自分だけの胸の中でくだらぬことを考えているか座睡いねむりしたりするものである。鶴千代丸のこの事のあったのは、ただ者でないことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことはない。おまけに信長は人を試みるのが嫌いではない男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みたくらいであるから、何ぞにつけて鶴千代丸をしかと見定めるところがあって、そしてわが婿むこにとれこんだのであろう。
 鶴千代丸は信長・一鉄の鑑識にそむかなかった。十四歳の八月のことである。信長が伊勢の国司の北畠と戦ったとき、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解けっかい十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじてよい敵の首を取ったので、鶴千代丸に付ち置かれた二人は面目ないやらうれしいやらで舌をまいた。信長も大感悦で手ずから打鮑うちあわびを取って賜わったが、そこでいよいよそのとしの冬、十二になる女子を与えて岐阜で式をおこない、その女子に乳人めのと加藤次兵衛をそえて、十四と十二の夫婦を日野の城へとやった。もはや人質ではなく、京畿けいきに威をふるった信長の縁者、小さくはあるが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
 これよりして忠三郎は信長に従って各所の征戦に従事して功を立てており、信長が光秀にしいされたときは、光秀から近江おうみ半国の利をくらわせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引き受けて城にって戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下についてだんだんと武功を積んだが、ことに九州攻めには、ほり秀政ひでまさの攻めあぐんだ巌石がんじゃくの城〔現、福岡県岩石城がんじゃくじょうか〕に熊井越中守を攻めせて勇名をとどろかした。今ここに氏郷の功績を注記したい意もないから省略するが、かくて十余年の間にしだいに大身たいしんになり、羽柴の姓を賜わって飛騨守ひだのかみ氏郷といえば味方はたのもしく思い、敵は恐ろしく思う一方ひとかたの雄将となってしまった。秀賦の名は秀吉と相犯すをんで、改めて氏郷としたのであって、先祖・田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年(一五八八)、秀吉が聚楽じゅらくだいを造ったその年、氏郷は伊勢の四五百森よいおのもりへ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島まつがしまの松の字をめでたしとして用いたのである。当時、正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
 小田原陣のとき、無論氏郷は兵をひきいて出陣していて、わりあいに他の大名よりはいくさに遇っており、戦功をあらわしている。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津とついてきたのであるが、今しも秀吉の鑑識をもって会津の城主、奥州・出羽の押さえということに定められたのである。
 氏郷は法をとること厳峻げんしゅんな人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことをしかるべきこととした人である。もちろん乱れ立った世にあっては、一軍の主将として下知げぢのとおりに物事のはこぶのを期するのは至当のわけで、なくても軍隊の中においては下々しもじもの心まかせなどがあってはならぬものであるが、それでもおのずからに寛厳かんげんの異があり程度がある。かく子儀光弼こうひつはいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大いに違っていたことが伝えられている。氏郷はおそろしく厳しい方で、小田原北条攻めのために松坂を立った二月七日のことだ、一人の侍に蒲生重代じゅうだいの銀のナマズのかぶとを持たせておいたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見まわったとき、ここに居よというところにその侍がいなかった。そこで氏郷が、きっとここにいよ、と注意を与えておいて、それから組々を見まわり終えてかえった、よくよく取りめた所存のなかった侍とみえて、またもやここにいよと言いつけたところにいなかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀たちを抜くがいなや、そっ首ちょうと打ち落として、かぶとを別の男に持たせたので、士卒らこれを見て舌をふるって驚き、一軍粛然しゅくぜんとしたということである。巌石の城を攻め落とした時に、上坂左文・横山喜内〔蒲生頼郷よりさと・本多三弥の三人が軍奉行いくさぶぎょうでありながら令を犯して進んで戦ったので厳しくこれをとがめたところ、上坂・横山の二人は自分の高名こうみょうのためではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたのでゆるされたが、本多は言い分立たずであったので勘当されてしまった。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信まさのぶの弟で、隠れない勇士であったがそのごとくで、その他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内・西村左馬允さまのすけ・岡田大介・岡半七ら、いずれも崛強くっきょうの者どもで、その戦に功があったのだったが、皆、令を犯したかどでいとまを出されて浪人するのやむを得ざるに至った。
 氏郷はかくのごとく厳しい男だったが、他の一面にはまた人を遇するにズバリとした気持ちのいいところもあった人だった。かならずしも重箱の中へ羊羹ようかんをギチリとつめるような、形式好き・融通きかずの偏屈へんくつ者ではなかった。前にあげた関白その他に敵対行為をとって世のあまされ者になった強者つわものどもを召し抱えたごときはその著しい例で、別にこういう妙味のあるはなしさえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方かみがたやなんぞではげんでいたころ、すなわち小田原陣前のことであろうが、あるとき松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶じゅんけいに仕えていたがどういうわけであったか臆病おくびょう者と言われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持ふちを望むについてこういうことを言った。拙者せっしゃは臆病者といわれた者でござる、ただし臆病者も良将の下に用いらるる道がござらばご扶持をこうむりとうござる、と言ったのである。筒井家は順慶流だのほらとうげだのという言葉を今にのこしているくらいで、あまり武辺ぶへんのかんばしい家ではない。その家で臆病者といわれたのは虚実はとにかくに、これもかんばしいことではない。ところが氏郷はその男を呼び出して対面したうえ、召し抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、たぶんは以前から臆病者なぞではなかったのだろう、権助は合戦あるごとにいい働きをする。で、氏郷はたちまち物頭ものがしらにして二千石を与えたというのである。後にこの男が打ち死にしたところ氏郷がみずから責めて、おれが悪かった、もすこしユックリ取り立ててやったらばいて打ち死にもせずにだんだん武功を積んだろうに、と言ったということだ。この話をみしめてみると松倉権助もおもしろければ氏郷もおもしろい。
 氏郷は法令厳峻げんしゅんであるかわりにはみずから処することも一毫いちごう緩怠かんたいもない、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神をふるっている。いわゆる「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴ではない。蒲生家に仕官を望んで新規に召し抱えられる侍があると、氏郷はこう言って教えたということである。当家の奉公はさして面倒めんどうなことはない、ただ戦場という時に、銀のナマズのかぶとをかぶって油断ゆだんなく働く武士があるが、その武士にじぬように心がけて働きさえすればそれでよい、といったという。もちろんこれはいまだ小身であった時のことであろうが、訓諭もヘチマも入ったものではない、人を使うのはこれでなければうそだ。ろくな店も工場も持っていぬ奴が小やかましい説教沙汰ざたばかりを店員や職工に下して、おのれは座布団ざぶとんの上で煙草たばこをふかしながらよい事をしたがるごときしらみッたかりとはまるで段が違う。言うまでもなく銀のナマズのかぶとをかぶって働く者は氏郷なのである。こういう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣のときは驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をしている。それは氏郷の方から好んでしでかしたことではないが、他の大将ならばあるいは遁逃とんとう的態度に出て、そして敵をしてその企図きとを多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害をこうむるの勢いをなさしめたであろうに、氏郷が勇敢ゆうかんに職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることができなかった。これは五月三日の夜のことで、城中に居縮いすくんでばかりいては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者ありと聞こえた北条氏房うじふさが広沢重信をして夜討ちをかけさせたときと、七月二日に氏房がまた春日左衛門尉さえもんのじょうをして夜討ちをかけさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢いのあった時なのでなかなか猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によってもちろん逐払おいはらった。しかし、そのときの闘いはいかにも突嗟とっさに急激に敵が斫入きりいったので、氏郷自身までやりを取って戦うに至ったが、事んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、よろい胸板むないた掛算けさん太刀傷たちきず鎗傷やりきずが四か所、例の銀のナマズのかぶとに矢のあとが二ツ、やりの柄には刀痕とうこんが五か所あったという。もって氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとするところに置いた以上は一歩も半歩も退かぬ剛勇の人であることがうかがい知られる。つまり氏郷は、他を律することも厳峻げんしゅんなかわりに、みずから律することも厳峻な人だったのである。
 かくのごとき人は主人としてはおそろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としてはいわゆる手ごわい敵、味方としては堅城・鉄壁のようなものである。しかし、かくの如きの人には、ややもすれば我執がしゅうの強い、古い言葉でいえば「カタムクロ」の人が多いものだが、さすがに氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗そうろう快活なところもあった人だ。かつて九州陣巌石の城攻めのときに軍令にそむいて勘当された臣下の者どもが、氏郷と交情のよかった細川越中守忠興ただおきをたのんで詫言わびごとをしてもらって、またあらたに召し抱えられることになった。その中に西村左馬允という者があって、大の男の大力のうえに相撲はことさら上手の者であった。その男が勘当をゆるされて新たに召還めしかえされたばかりの次の日出仕すると、左馬允、なんじは大力相撲上手よナ、さあ一番こい、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲をいどんだ。氏郷ももとより非力の相撲弱ではなかったのであろう。左馬允は弱った。勘気かんきをゆるされて帰り新参になったばかりなので、主人をたたきつけて主人がいい心持ちのするはずはないから、当惑するのに無理はない。しかし主命である、挑まれて相手にならぬわけにはいかぬから、心得ましたと引っ組んでじ合った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と惑わぬことはなかったろうが、そこは人の魂のたぎり立っている代である、左馬允は思いきって大力を出してとうとう氏郷をじ倒した。そこで、ヤア左馬允、なんじは強い、と主人に笑ってもらえれば上首尾なのだが、そうはいかなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度こい、と力足をふんでまなざし鋭く再闘を挑んだ。ている者は気の毒でたまらない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気をこうむった奴である、手討ちになるか何か知れた者ではないとあやぶんだ。左馬允もこうなっては是非がない、ここで負けてはたとい過まって負けたにしても軽薄者・表裏者ひょうりものになると思ったから、油断ゆだんなく一生懸命にじ合った。双方死力を出してあらそった末、とうとう左馬允は氏郷をやっつけた。そのときはじめて氏郷は莞爾かんじと笑って、いい奴だ、なんじはこの乃公おれによう勝ったぞ、と褒美ほうびして、その翌日、知行米加増を出したという。このはなしの最初一度負けたところで、褒詞ほうしを左馬允に与えてすますくらいのところなら、すこし腹の大きい者にはできることだが、二度目の取ッ組み合いをしたところがちょっとおもしろい。氏郷のはらひろいばかりでなく、奥深いところがあった。
 こういう性格で、手厳しくもあり、打ち開けたところもあり、そしてその能は勇武もあり、機略もあった人だが、そのうえに氏郷は文雅ぶんがをよろこび、趣味の発達した人であった。矢叫やたけときこえの世の中でも放火・殺人専門の野蛮な者ではなかった。机にりて静坐して書籍に親しんだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休じっきゅう義賢よしかたや太田道灌や細川幽斎はいうにおよばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前にあげた稲葉一鉄も伊達政宗も、みな文学に志をよせたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされていた時代の信仰にもよったろうが、そればかりでもなく、人間の本然ほんねんをあざむきおおうべからざるところから、優等資質を有している者が文雅を好尚するのは自ずからなることでもあったろう。今川や大内などのように文に傾きすぎて弱くなったのもあるが、大将たるほどの者はたいてい文道に心をよせていて、相応の造詣ぞうけいを有していた。わがままな太閤たいこう殿下は「奥山に 紅葉もみじ踏みわけ 鳴くほたる」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ 森のともし火」と苦しみながらうなり出させたという笑話をのこしているが、それでも聚楽第じゅらくだいに行幸を仰いだときなど、代作か知らぬがまじめくさって月並つきなみ調の和歌を詠じている。政宗の「ささずとも 誰かは越えん 逢坂おうさかの 関の戸うず夜半よは白雪しらゆき」などは関路雪という題詠の歌ではあろうか知らぬが、どうしてなかなか素人しろうとではない。「四十年前少壮時、功名聊カラカニ、老来不干戈かんか事、只把春風桃李サカヅキ」なぞと太平の世のいいおじいさんになってニコニコしながら、それでいて支倉はせくら六右衛門常長つねなが、松本忠作らを南蛮からローマかけてやっているところなどは、味なところのあるよい男ぶりだ。その政宗監視の役にあたった氏郷は、文事にかけても政宗に負けてはいなかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向こうの黒塚というところは伊達領だということであったとき、平兼盛かねもりの「陸奥みちのくの 安達か原の 黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか」という歌があるから安達が原に付属した黒塚であると言った氏郷の言に理があると認められて、蒲生方が勝ちになったというはなしはおもしろい公事くじとして名高い談である。その逸話はおいて、氏郷が天正二十年すなわち文禄元年(一五九二)朝鮮陣のおこったとき、会津から京までのぼって行ったおりの紀行をものしたものは今にのこっている。文段もんだん歌章、当時の武将のものとしてはその才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」の一章はだれしも感嘆かんたんするがじつに幽婉ゆうえん雅麗がれいで、時やたすけず、天、われをうしなう、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼ひりょう愴凄そうせいの威をいかにもうるわしく詠じ出したもので、三百年後の人をしてなお涙珠るいじゅを弾ぜしむるにるものだ。そればかりではない、政宗も底倉そこくら幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千利休を師として茶事さじを学んで、秀吉をして「辺鄙ひなの都人」だと嘆賞たんしょうさせたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足こうそく〔高弟のこと。であった。氏郷と仲のよかった細川忠興は、茶庭の路地の植え込みにまきの樹などはおもしろいが、まだ立派すぎる、と言ったというほどにわびの趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑ゆうかん清寂の茶旨には十分に徹した人であった。利休がこころひそかに自ら可なりとしていた茶入れを氏郷も目が高いのでしきりに賞美してこれを懇望こんもうし、ついに利休をしてそれを与うるを余儀なくせしめたという談も伝えられている。また氏郷があるときに古い古い油を運ぶ竹筒を見て、その器をおもしろいと感じ、それを花生はないけにして水仙すいせんの花をけ、これも当時風雅をもって鳴っていた古田ふるた織部おりべに与えたという談が伝わっている。織部はいまに織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺している人で、利休に雁行がんこうすべき侘道の大宗匠そうしょうであり、利休より一段簡略な、わびに徹した人である。氏郷のその花生はないけの形は普通に「舟」という竹の釣花生つりはないけに似たものであるが、舟とはすこし異なったところがあるので、今にその形を模した花生けを舟とはいわずに、「油さし」とも「油筒」ともいうのは最初の因縁からおこってきているのである。古い油筒を花生けにするなんというのは、もう風流において普通を超えて宗匠分になっていなくてはできぬ作略さりゃくで、宗匠の指図や道具屋の入れ知恵を受け取っている分際の茶人のことではない。かの山科やましな丿貫べちかんという大の侘茶人がのりを入れた竹器にアサガオの花を生けて紹鴎じょうおうの賞美を受け、のりつぼ」という一器の形を遺したとともに、作略無礙むげ境界きょうがいに入っている風雅の骨髄を語っているものである。天下指折ゆびおりの大名でいながら古油筒のおもしろみを見つけるところはうれしい。山県含雪公は、茶の湯は道具沙汰とらわれるというので半途からあまり好まれぬようになったと聞いたが、時に利休もなく織部もなかったためでもあろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込ふんごんでいたのは利休の教えを受けた故ばかりではあるまい、たしかに料簡りょうけんえどころを合点して何にも徹底することのできる人だったからであろう。しかも油筒ごとき微物をとりあげるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木のあぶみ所望しょもうしたときには、それが蒲生重代じゅうだいの重器であったにかかわらず、また家臣のわたり利八右衛門という者が、ご許諾きょだくなされたうえは致し方なけれどもご当家重代の物ゆえに、ただ模品うつしをこしらえておつかわしなされまし、と言ったほどにもかかわらず、天下に一つのあぶみゆえ他に知る者はあるまいけれど、模品をつかわすなどとはわが心がずかしい、といって真物しんぶつを与えた。そこで忠興も後にわが所望したことが不覚そぞろであったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、いったん差し上げたものなればご遠慮にはおよばぬ、と受け取らなかった。忠興もいい人だから、氏郷の死後にその子秀行ひでゆきへとうとう返戻へんれいしたというはなしがある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチではない人だ、家重代のものをもなく親友の所望にはまかせる。なかなかおもしろい心の行きかたを持った人だった。
 さて話は前へもどる。かくのごとき忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時、氏郷は何万石取っていたか分明でないが、松坂にいた天正十六年(一五八八)は十六万石もしくは十八万石であったというから、その後は大戦もなく大功も立つわけがないから、たいてい十八万石か少しそれ以上ぐらいであったろう。しかるに小田原陣の手柄があって後に会津にめらるるについては、大沼・河沼かわぬま・稲川・耶摩やま猪苗代いなわしろ・南の山、以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河・石川・岩瀬・安積あさか・安達・二本松、以上六郡、都合つごう十二郡一庄で、四十二万石に封ぜられたのだ。十八万石ほどから一足飛びに四十二万石の大封たいほうを賜わったのだから、たとい大役を引き受けさせられたとはいえ、奥州・出羽の押さえという名誉を背負せおい、目ざましい加禄かろくを得たので、家臣連のよろこんだろうことは察するにあまりある。これは八月十七日の事といわれている。
 ちょうど仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷はひとり書院の柱にって物を思っていた。天は高く晴れわたって碧落へきらくに雲なく、つゆけき庭の面の樹も草もしっとりとして、おもむきのある夜の静かさに虫の声々こえごえすずしく、水にも石にも月の光が清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐ゆうかいも動くべきおりからの光景だった。北越の猛将・上杉謙信が「数行過雁月三更」と能登の国を切り従えたとき吟じたのも、霜は陣営に満ちて秋気しゅうき清きちょうどこういう夜であった。三国の代の英雄の曹孟徳〔曹操〕が、百万の大軍をひきいて呉の国を呑滅どんめつしようとしつつ、「月あきらかに星まれにして、烏鵲うじゃくみんなみに飛ぶ」とさくを馬上によこたえて詩をしたのもちょうどこういう夜であった。江州ごうしゅう日野五千石ばかりから取り上って、今は日本無双ぶそうの大国たる出羽・奥州、藤原の秀衡や清原きよはらの武衡たけひらの故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然ぎょうぜんと黙々としている。侍坐じざしていたのは山崎家勝というものだった。いかに深沈しんちんな人とはいえ、かかるめでたきおりにあたって何か考えにしずんでいる主人の様子を、いぶかしく思ってひそかに注意した。するとこれはまた何ごとであろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝はただちにてとってあやしんだ。が、たちまちにして思った、これは感喜の涙であろうと。かにこうらに似せて穴を掘る。仕方のないもので、九尺くしゃくばしごは九尺しか届かぬ、自分の料簡がその辺りだから家勝にはその辺りだけしか考えられなかった。しかしそれにしてはどうも様子がに落ちかねたから、おそるおそる進んで、おそれながらわが君にはご落涙らくるいあそばされたと見受けたてまつってござるが、殿下の取り分けてのご懇命こんめい、会津四十二万石の大禄をかずけられたまいし御感ぎょかんの御涙にばし御座おわすか、と聞いてみた。自分が氏郷であれば無論うれし涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷はちょっと嘆息たんそくして、ア、そのようなことに思われたか、我、はずかしい、といったが、一段と声を落としてほとんど独語ひとりごとのように、そうではない山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、なんぞの折にはいかようなる働きをもなし得て、旗を天下になびかすこともなろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川はるかにへだたりて、王城を霞の日に出でても秋の風にたもとを吹かるる、白川の関〔白河関〕の奥なる奥州・出羽の辺鄙ひなにありては、日頃の本望もとげむことは難く、わがやりも太刀も草叢くさむらうずもるるばかり、それが無念さの不覚そぞろの涙じゃわ、今日より後は奥羽の押さえ、贈太政大臣信長の婿むこたるこの忠三郎がよしなき田舎いなか武士ざむらい我武者がむしゃどもをも、ことしなによりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命はめに立ち至ったが忌々いまいましい、と胸中のうつをしめやかにらした。無論、家勝もこれを聞いてわかった。なるほど、わが主人は信長公の婿むこだ、今、にわかに関白に楯突たてつこうようはあるまいが、いわば秀吉は家来筋だ、秀吉に何ごとかあらばわが主人が手を天下にかけようとしたとて不思議はない、男たる者のあたりまえだ、と悟るにつけてかような草深い田舎に身柄といい器量といいあっぱれ立派な主人がうずめられかかったのを思うと、凄然せいぜん惻然そくぜんとして家勝も悲壮の感に打たれないわけにはいかなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、しゅくとして秋の気は座前座後にちたが、月は何知らず冷ややかにっていた。
 氏郷が会津四十二万石を受けてよろこばずに落涙らくるいしたというのはなんという味のある話だろう。鼻くそほどのボーナスをもらってカフェへけ込んだり、高等官になったとてかかあ殿に誇るような極楽トンボ、菜畠なばたけ蝶々ちょうちょうにくらべては、罪が深い、無邪気でないには違いないが、氏郷の感慨の涙もさすがに氏郷の涙だと言いたい。それだけに生まれついているものは生まれついているだけの情懐じょうかいがある。韓信かんしん絳灌こうかん樊�Xはんかいの輩とをなすをじたのは韓信にとってはどうすることもできないことなのだ。樊�Xだって立派な将軍だが、「生きてすなわち�Xらとをなす」と仕方がなしの苦笑をした韓信の笑みには涙がもよおされる。氏郷の書院柱によりかかって月に泣いたこの涙には片頬かたほえみがもよおされるではないか。さすがによい男ぶりだ。トンボ・蝶々やキリギリスの手合いの、免職されたァ、失恋したァなどという眼から出る酸ッぱい青くさい涙じゃない。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石もあり、女房は信長のむすめでいい器量で、氏郷死後に秀吉にいどまれたが位牌いはいみさおを立てて尼になってしまったほど、忠三郎さんを大事にしていたのだった。
 天下の見懲みごらしに北条をやりつけてから、その勢いの刷毛はけついでに武威を奥州に示してひとなでになでたうえに氏郷という強い者を押さえにして、秀吉は京へ帰った。奥州・出羽は裏面ではモヤモヤムクムクしていてもまずおさまった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。せっかくくわえた大きなカモをこれから�Rおうとしてよだれまで出したところを取り上げられてしまった犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将らが帰ってしまって見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方がなければ手もひっこめているのだが、仕方があるから手が出したくなる。しかし氏郷という重石おもしはかなり重そうである。氏郷は白河をば関右兵衛尉うひょうえのじょう、須賀川をば田丸中務なかつかさ少輔しょうゆう阿子あこしまをば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、伊南いなみを蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門にあたえて、武威も強く政治もとどく様子だから、政宗もうかつに手をかけるわけにはゆかぬ。こうなると暴風雨は弱い塀にたたる道理で、魔の手は蒲生へ向かうよりは葛西・大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向かって伸ばされ出した。木村父子は武辺ぶへんもさほどではなく、小勢こぜいでもある。伊勢父子がドジをふんでマゴマゴすれば蒲生はこれを捨てておくわけにはゆかぬ、伊勢父子のいる地方と蒲生の会津とはその間はるかにへだたっているけれどもかならず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何ほどもあろう、木村・蒲生に味噌をつけさせれば好運は自然にこちらへ転げ込んでくる理合りあいだ、というような料簡はおのずからも存したことであろう。政宗方の史伝に何もこういう計画をしたということがのこっているのではないが、前後の事情を考えると、邪推じゃすいかは知らぬがこう思える節があるのである。また木村父子は実際小身で無能であったから、今度、葛西・大崎を賜わったについては人手がたらぬから急に浪人どもを召し抱えたに違いなく、浪人どもを召し抱えても法度はっと厳正にこれを取りまればさしつかえないが、元来地盤が固くない所へ安普請やすぶしんをしたように、規模が立たんで家風家法が確立していないところへ、世に余され者の浪人どもを無鑑識にかかえこんだのでは、いずれおとなしくないところがあるから浪人するにも至った者どもが、ナニこの奥州の田舎者いなかものめとあなどって不道理を働くこともありがちなことで、そうなればなきだに他国者の天降あまくだり武士を憎んでいる地侍の怒り出すのもまたうちの情状であるから、そこで一揆いっきもおこるべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものはいつもその下とその上と和睦わぼくしがたいような事情がおこると、第三者がひそかにその下に助力してその主権者をい落とし、そしてその土地の主人となってしまうのである。あるいはことに利をくらわせてその下をしてその上にそむかせてわれにこころを寄せしめおいて、そして表面は他の口実をもって襲ってこれを取るのであるし、下たるものもまたかくの如くにして自己の地位や所得を盛り上げてゆくのである。ひそかに心を寄せるのが「内通」であり、利をくらわせて事をおこさせるのが「嘱賂そくろを飼う」のであり、まだ表面には何のこともなくても他領・他国へ対して計略をめぐらすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取ったとき、いったんは降参した横田氏勝のごときは、降参してみると所領をあまり削減されたので政宗をうらんだ。そこで政宗から会津を取り返したくて使いを石田三成へつかわしたりなんぞしている。そういう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋でしぶった腹の底でもなんでも知れてしまうのである。かくの如きことは甲にも乙にもかみにもしもにも互いにあることで、戦乱の世の月並みでめずらしいことではない。小田原は松田尾張、大道寺駿河らの逆心から関白方にほろぼされたのであり、会津は蘆名あしなの四天王といわれた平田・松本・佐瀬・富田らが心変わりしたから政宗に取られたのである。政宗は前に言ったとおり、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度こんど拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信をわれに内通させて氏家うじいえ吉継よしつぐとともに大崎を図らせていたのである。そういうわけなのであるから、大崎の一揆の中にその湯山隆信らがいたかどうだかはわからぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通していたことは疑いない。サア、木村父子が新来しんらい無恩の天降あまくだり武士で多少の秕政ひせい〔悪政〕があったのだろうから、土着の武士たちが一揆をおこすにいたって、その一揆はなかなか手広くまた手強てごわかった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れておいた佐沼城を一揆は取り囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田にった駅あるいはせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙けせんの方へ行くみちにあたる。伊勢守父子は成合を救わずにはいられないから、伊勢守吉清よしきよは葛西の豊間城〔登米寺池城か〕、すなわち今の登米とめ郡の登米とよまという北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久きよひさは大崎の古河城古川城ふるかわじょう、今の小牛田駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰ごづめを議したところ、一揆の方はあらかじめ作戦計画を立てていたものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗っ取れというのでたちまち攻めおとしてしまった。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東にあたるが、豊間と古河との距離は直接にすればのみへだたっておらぬとはいえ、さほどに近いわけでもないのに、かくの如く手際てぎわよく木村父子が樹に離れた猿か水を失ったフナのように本拠を奪われたところをみると、一揆の方には十分の準備があり統一が保てていて、思うつぼへおとしいれたものとみえる。ナマヌル魂の木村父子はりょの文にいわゆる鳥その巣をかれた旅烏たびがらす、バカァバカァとみずから鳴くよりほかなくて、なんともせんかたないから、自分が援助するつもりできた成合平左衛門にかえってたすけられる形となって、佐沼の城へ父子とも立てこもることになった。
 西を向いても東を向いても親類縁者があるでもない新領地での苦境におちいっては、二人はかねての秀吉の言葉によって、会津の蒲生氏郷とはずいぶんの遠距離だがその来援を乞うよりほかなかった。いったいあまり器量もない小身の木村父子を急に引き立てて、葛西・大崎・胆沢いさわを与えたのはちと過分かぶんであった。どうも秀吉の料簡がわからない。木村父子の材能さいのうが見ぬけぬ秀吉でもなく、新領主と地侍とがどんなイキサツを生じやすいものだということを合点せぬ秀吉でもない。いったん自分に対して深刻の敵意をさしはさんだ狠戻こんれい豪黠ごうかつ佐々さっさ成政なりまさを熊本に封じたのは、成政が無異ぶいでありうれば九州の土豪らに対して成政はわが藩屏はんぺいとなるのであり、また成政がドジをふめば成政を自滅させてしまうにたりるというので、ついに成政はそのバカあらい性格の欠陥により一揆の蜂起ほうきをいたして大ドジを演じたから、立花・黒田ら諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うてしまった。木村父子はなにも越中立山から日本アルプスをこえて徳川家康と秀吉を挟撃きょうげきする相談をした内蔵介くらのすけ成政ほどのイタチ花火はなびのような物狂ものぐるわしい火炎魂を持った男でもないし、それを飛び離れた奥地に置いたわけはちょっと解しかねる。事によるとこれは羊をもって狼をさそうのはかりごとで、このような弱武者の木村父子を活餌いきえにして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらばコン畜生ちくしょうめと殺してしまおうし、また、どこまでも殊勝気しゅしょうげに狼が法衣ころもを着とおすならば物のわかる狼だからそのままにしておいてよい、というので、何のことはない木村父子は狼のいわやのそばに遊ばせておかれる羊の役目を言い付かったのかもしれない。筋書きがもし然様さようならば木村父子はあまりいい役ではないのだった。
 また氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えといい、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉のくれぐれも訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのにすぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺されたばあいは番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重ちんちょう珍重、番人が死んだ場合には大概たいがいくたびれた狼をぶちのめすだけのこと、狼と番人とが四つに組んでじ合っていたら危気あぶなげなしに背面から狼を胴斬どうぎりにしてしまう分のこと、という四本のクジのどれが出てもさしつかえなしというすずしい料簡で、それで木村父子と氏郷とをくさりでしばってにかわけたようにしたのかもしれない。してみれば秀吉はいいけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとはいえごくごく短期のあいだにその年俸を受け取れるかどうかわからぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マァ薄いらしい。会津拝領は八月中旬のことで、もうそのとしの十月の二十三日には羊の木村父子は安穏あんのんに草を�Rんではおられなくなって、ねたり鳴いたり大苦おおにがみをし始めたのであった。
 いったい氏郷は父の賢秀かたひでの義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことはごうもあえてしておらぬ、この時代においては律義な人である。また佐々成政のような偏倚へんい性格を持った男でもなかった。だから成政をむように秀吉から忌まれるべきでもなかった。が、氏郷を会津に置いて葛西・大崎の木村父子と結びつけたのは、氏郷に対してもし温かい情があったとすれば、秀吉の仕方はいささか無理だった。葛西・大崎と会津との距離はあまり懸隔けんかくしている、その間にいま一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせてもよいはずと思われる。温かではなくて、冷たいものであったとすれば、あのとおりでちょうどよいであろう。氏郷が秀吉にこころひそかに冷ややかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿むこであったことと、最初は小身であったがしだいしだいに武功を積んで、人品じんぴん骨柄こつがらのなかなか立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見あたらぬ。しかし小田原征伐出陣のときに、氏郷が画師に命じて、白綾しらあや小袖こそでに、左の手には扇、右の手には楊枝ようじを持ったるありのままの姿を写させ、打ち死にせば忘れ形見にもなるべし、といい、奉行・町野左近将監繁仍しげよりの妻で、もと鶴千代丸のときの乳母だった者に、この絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々いまいましきことをせさせたまう君かな、御年も若うおわしながら何のためにかかることを、と泣いたというはなしが伝わっている。いくさのたびごとに戦死と覚悟してかかるのが覚悟ある武士というものではあるが、ちょっとおかしい、氏郷の心中奥深きところに何かあったのではないかと思われぬでもないが、またさほどに深く解釈せずともすむ。秀吉が姿絵を氏郷のつくらせたということを聞いて感涙をおとしたというのも、なんだかちょっと考えどころのあるようだが、まったくの感涙とも思われる。すべてにおいて想察のまとまるような材料はない。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠さんがいがさ馬幟うまじるしを氏郷がうて、くまの棒という棒鞘ぼうざやに熊の皮を巻きつけたものに替えたのは、熊の棒が見だてがなかったからと、かつは驍勇ぎょうゆうの名をとどろかした成政の用いたものを誰もはばかって用いなかったからとであったろうが、秀吉にとっておもしろい感じを与えたかどうか、あらずもがなの事だった。しかしもちろんそんな些事さじ歯牙しがにかける秀吉ではない。秀吉が氏郷を遇するにべつに何もあったわけではない、ただことにこれを愛するというまでに至っておらずにいささか冷ややかであったというまでである。細川忠興ただおきが会津の鎮守を辞退したというのは信じがたい談だが、忠興がべつに咎立とがめだてもされずこの難しい役を辞したとすれば、忠興はなかなか手際てぎわのよい利口りこう者である。
 氏郷が政宗の後の会津を引き受けさせられたと同じように、織田信雄のぶかつは小田原陣のすんだときに秀吉から徳川家康の後の駿遠参すんえんさんに封ぜられた。ところが信雄はこの国替えをよろこばなくて、しいて秀吉の意にさからった。そこで秀吉は腹を立てて、貴様きさまは元来国をおさめ民をやしなう器量があるわけではないが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、わがままに任せてわが言をもちいぬとは己を知らぬにもほどがある、というので那賀なか二万石にしてしまった。信雄は元来、立派な父の子でありながら器量がとぼしく、自分のために秀吉・家康の小牧山こまきやまの合戦をもおこさせるに至ったに関わらず、秀吉に致されてじきに和睦わぼくしてしまったり、また父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされてもうそだろうくらいに聞いたほどのナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉にわれたのも不思議はない。前田利家はあまり人の悪口をいうような人ではないが、その世上の「うつけ者」の二人としてあげた中の一人は、しかと名はさしてないが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀かたひでが光秀に従わぬために攻められかかったとき援兵を乞うたのにも、怯懦きょうだ遷延せんえんして、人質を取ってから援兵を出すことにし、それもはかばかしいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐ふがいなしであるから、高位高官・名門大封の身でありながら那賀へわれ、ついで出羽の秋田へちっせしめられたも仕方はない。しかし秀吉がこれを清須きよす百万石から那賀へへんしたのもあまりひどかった。バカでも不覚者でも氏郷にとっては縁の兄弟である、信雄のぶかつ信孝のぶたか合戦のときは氏郷は柴田になじみが深かったが、信孝方につかず信雄方についたのである。その信雄がかくの如くにされたのは氏郷にとっていい心持ちはせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。しかし天下の仕置きは人情の温かい冷たいなどを言ってはおられぬのである、道理の当不当でなすべきであるから致し方はない。致し方はないけれどもちとひどすぎた。秀吉のこの酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置きはどうすべきものだということをしきっている氏郷である。木村父子の厄介やっかいな事件がおこったとて、かねても想い得切っていることであり、またいかにすべきかも考え得ぬいていることである、いまさら何の遅疑ちぎすべきでもない。
 木村父子は佐沼から氏郷へ援をうた。遠くても、寒気がはげしくてもててはおけぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地のことであるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍ふくてつんではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文郷可さとよし・小倉豊前守・上坂兵庫助・関入道万鉄、いずれもたのみきったる者どもだ。それから関東口白河城しらかわじょうには関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔をめておくことにした。政宗の方の片倉備中守びっちゅうのかみ〔小十郎景綱かげつな三春みはるの城にいるから、油断ゆだんのならぬ奴への押さえである。中山道口の南山城みなみやまじょうには小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、さて自分は一番先手さきてに蒲生源左衛門・蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛・町野左近将監、三番に五手組いつてぐみ、梅原弥左衛門・森民部丞みんぶのじょう・門屋助右衛門・寺村半左衛門・新国にっくに上総介かずさのすけ、四番には六手組、細野九郎右衛門・玉井数馬助・岩田市右衛門・神田清右衛門・外池とのいけ孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与ななてぐみ、蒲生将監・蒲生主計助かずえのすけ・蒲生忠兵衛・高木助六・中村仁右衛門・外池甚左衛門・町野主水佑もんどのすけ、六番には寄合与よりあいぐみ、佐久間久右衛門・同じく源六・上山弥七郎・水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門・上坂源之丞・布施次郎右衛門・建部たけべ令史・永原孫右衛門・松田金七・坂崎五左衛門・速水勝左衛門、八番には手回てまわり小姓与こしょうぐみ、九番には馬回、十番には後備あとそなえ関勝蔵、都合つごうその勢六千余騎、人数多しというのではないが、本国江州ごうしゅう以来、伊勢・松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族けんぞく、多年恩顧の頼み頼まれた武士、または新規召し抱えではあるが、家来は主の義勇をしたい知遇を感じ、主は家来の器量骨柄をでいつくしめる者ども、皆おのおの言わねど奥州・出羽はじめての合戦に、われらが刃金はがねの味、胆魂きもだましいのほどを地侍どもに見せつけてくれんという意気を含んだ者を従えて真っ黒になって押し出した。その日は北方奥地の寒威早くもよおして、会津山おろし肌にすさまじく、白雪紛々とりかかったが、人の用いはばかりし荒気あらき大将・佐々成政の菅笠すげがさ三蓋さんがい馬幟うまじるしを立て、これは近きころ下野の住人、一家総領そうりょうの末であった小山小四郎が田原藤太相伝のをたてまつりしよりそれに改めた三ツ頭左靹絵ひだりどもえの紋の旗を吹きなびかせ、凛々りんりんたる意気、堂々たる威風、はだえたゆまず、目まじろがず、佐沼の城を心あてに進み行く、と修羅場読みがひと汗かかねばならぬ場合になった。が、実際はひたいに汗をかくどころではない、鶏肌とりはだ立つくらい寒かったので、諸士軍卒もいささかひるんだろう。そこをさすがは忠三郎氏郷だ、戦の門出かどでに全軍の気がえているようではよろしくないから、諸手もろての士卒を緊張させてその意気を振い立たせるために、自分は直膚すぐはだよろいばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下よろいしたといって、にしき練絹ねりぎぬなどでできているものをる。はかま短く、すそそで括緒くくりおがあってこれをくくる。身分の低い者のは錦などではないが、まずは直垂ひたたれであるから、よろい直垂ひたたれともいう。漢語のいわゆる戦袍せんぽうで、斎藤実盛さねもりの涙ぐましい談を遺したのもその鎧直垂についてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚すぐはだに鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干しの時のたわむれのように犢鼻褌ふんどし一つで大鎧おおよろいを着たというのではなく、鎧直垂をつけないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違なかったろう。しかしこういう大将であってみれば、士卒もけかえってふるえているわけにはいかぬ、力肱ちからひじをはり力足をふんだことだろう。こういう長官がいなくて太平の世の官員は石炭ばかり気にしてべてしあわせなことである。
 冗談はさておき、新しい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人・百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それはうわさによれば木村伊勢守父子も根城をうばわれたくらいでは、奥州侍はみな敵になったのであるし、ご領主のご領内も在来の者どもの蜂起ほうきは思われる、剛気の大将ではあらせられてもお味方は少なく、土地の者は多い、かなわせられることではなかろう、痛わしい御事である、さだめし畢竟ひっきょうはいかなるところにてかてさせたまうであろう、というのであった、奥州にい立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一つは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思っていたせいもあろうが、その半面には文雅で学問があって民をする道を知っていたろう氏郷の施為しいが、木村父子や佐々成政などとちがって武威の恐ろしさのみをもって民にのぞまなかったため、僅々きんきんの日数であったにかかわらず、今度の領主はどういう人であろうと怖畏ふい憂虞ゆうぐの眼を張ってうかがっていた人民に、安堵あんどとしたがって親愛の念をいだかせた故であったろう。
 氏郷の出陣には民百姓ばかりでない、町野左近将監もいささかあやぶんで、願わくは今しばらく土地にもれ、四囲の事情も明らかになってから、戦途にのぼってほしいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原おおのがはらをへて日橋川にっぱしがわをわたり、猪苗代湖を右手めてに見て、その湖の北方なる猪苗代城にとどまるのが、急いでもいそがいでも行軍上至当のころあいであった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とはことに親しみ深い者であった。そこで老人の危険をむ思慮も加わってであろうが、氏郷をわがやかたに入れまいらせてから、ひそかに諫言かんげんをたてまつって、今この寒天にここよりはるかに北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬もつかれて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、ご勝利を得たまうにしてもなかなか容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春をもってお出でなされてはいかがでござる、としきりに止めたのである。町野繁仍しげよりの言も道理ではあるが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄り武者の意見である。氏郷このときは三十五歳であったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、その夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということについては賢いものであるから、たいていの場合において老人には従い、老馬にはるのが危険は少ない。けれどもそれは無事の日のことである。戦機の駈け引きには安全第一はむしろくべきであり、時少なく路長きおりは老馬は取るべからずである。今おこった一揆いっきはすこしでも早く対治してしまってその根を張り枝をしげらせぬ間に芟除かりのぞき抜きてるのを機宜きぎの処置とする。かつまた信雄のぶかつが明智乱のときのような態度を取っていた日には、武道も立たぬし、秀吉の眼もいかろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前もって打って置かれたくぎがヒシヒシとわが胸に立つわけである。で、氏郷は町野に対して、なんじの諫言を破るではないが、どうもそうはなりかねる、たとい運つたなく時利あらずしてわが上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親ともあおげと殿下のいわれた木村父子を見継がぬならば、わが武道はこの後まったくすたる、と言い切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮かべて、ごもっともの御仰おんおおせとうけたまわりました、しからばそれがし一期いちごのご奉公、いさぎよく御先をけ申そう、と皺腕しわうでをとりしぼって部署につくことに決した。こういう思慮を抱き、こういう決着をあえてしたのは必ず町野のみではなかったろう、一族譜代の武士たちには、よくよくたぎりきった魂の持ち主と、分別の遠く届く者を除いては、ずいぶん数多いことであったろうし、そしてみな氏郷の立場を了解するにおよんで、奮然ふんぜんとして各自の武士魂に紫色や白色の火�かえんを燃やし立てたことであろう。それでなくては四方八方難儀なんぎの多いうえに、横ッ腹に伊達政宗という「クセ者」がすごい眼をギロツカせて刀のつかに手をかけている恐ろしい境界きょうがいに、毅然きぜんたる立派な態度をどうして保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰ごづめは辺土の小戦のようであるが、他の多くのありふれた戦にはまさったやりにくい戦で、そして味わって見るとなかなかこまやかな味のある戦であり、やり、刀、血みどろ、大童おおわらわという大味おおあじな戦ではないのである。
 ここに不明の一怪物がある。それはいうまでもなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生まれかわりだといわれている伊達の藤次郎政宗である。生まれかわりの説は和漢ともにずいぶん俗間ぞっかんにおこなわれたもので、おそれ多いことだが何某なにがし天皇はある修行者の生まれかわりにわたらせられて、その前世の髑髏どくろに生いたる柳が風にゆられるたびごとに頭痛を悩ませたもうたなどとさえデタラメを申していたこともある。武田信玄が曽我五郎の生まれかわりなどとはあまり作意が奇抜でむしろ滑稽こっけいだが、宋の蘇東坡そとうばは戒禅師の生まれかわり、明のおう陽明ようめい入定僧にゅうじょうそうの生まれかわり、陽明先生のごときはご丁寧ていねいにもその入定僧の死骸しがいにじきに対面をされたとさえ伝えられている。二生にしょうの人というのは転生を信じたインドにおこなわれた古い信仰で、たいてい二生の人は宿智しゅくちすなわち前生修行の力によって聡明そうめいであり、宿福しゅくふくすなわち前世善根ぜんこんの徳によって幸福であり、果報かほう広大、はなはだたっとぶべき者とされている。政宗の生まるる前、米沢の城下におこないすましていた念仏行者があって満海といった。満海が死んで、政宗が生まれた。政宗は左のたなごころに満海の二字をにぎって誕生した。だから政宗は満海の生まれかわりであろうと想われ、そして梵天丸という幼名はこれによりて与えられた。梵天はこの世の統治者で、二生の人たる嬰児えいじの将来は、その前生の唱名不退の大功徳によって梵天の如くにあるべしという意からのことだ。満海の生まれかわりということを保証するのはご免こうむりたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕きょたんではなく、またその名が梵天・帝釈たいしゃくに擬した祝福の意であったろうことも想察そうさつされる。思うに伊達家の先人には陸奥介むつのすけ行宗ゆきむねおくりなが念海、大膳太夫持宗もちむねが天海などと「海」の字のつく人が多かったから、満海のはなしも何かそれらから出た語りゆがめではあるまいか。すべての奇異な談はたいがい浅人せんじん・妄人・無学者・好奇者が何かちょっとしたことを語りゆがめるからおこるもので、語りゆがめの大好物な人は現在そこらにたくさん転がっているいたっておやすいしろ物であるから、奇異な談はでき傍題ほうだいだ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎のごとき傑物に属望しょくぼうされて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔の淵は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前ではましかえったが、その底知そこしれぬ深さの蒼い色をたたえた静かな淵には、馬もめば羽をも沈めようというまきをなしているのである。不気味ぶきみ千万な一怪物である。(つづく)



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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蒲生氏郷(二)

幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嘴《くちばし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)微物凡物も亦|是《かく》の如く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+止」、第3水準1-84-71]

 [#…]:返り点
 (例)老来不[#レ]識

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)今一[#(ト)]勝負

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)又飛騨守殿も少も/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 氏郷は何様《どん》な男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢《としかた》が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀《かたひで》というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下に厭《いや》な心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば下風《げふ》おこる、具足を脱ぎやれ法衣《ころも》召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば脳溢血《のういっけつ》其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶|馬痺風《ばひふう》だの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有して居て、又一般にただ風といえば気狂《きちがい》という意で、風僧といえば即ち気狂坊主である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、甚だ拙な言葉である。風は矢張りただの風で、下風は身体《からだ》から風を泄《も》らすことである。鄙《いや》しい語にセツナ何とかいうのが有る、即ちそれである。其人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に甲冑《かっちゅう》を脱ぎ捨てて法衣を被《き》よ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上を嘲《あざけ》ったとならば、賢秀は仕方の無い人だが、又其子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷は愈々《いよいよ》偉いものだ。然し蒲生家の者は、其歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の小舅《こじゅうと》の後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから兵仗《へいじょう》にもたずさわった、其人の事だ、というのである。成程|然様《そう》でなければ、法衣めせの一句が唐突過ぎるし、又領主の事を然様|酷《ひど》く嘲りもすまいし、且又賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀が怯《よわ》くても剛《つよ》くても、親父の善悪は忰《せがれ》の善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に逐落《おいおと》されたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸蔵人《かんべくらんど》の言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。
 信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかの齢《とし》だが、沸《たぎ》り立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない喧嘩《けんか》の活動写真を看ながら、アメチョコを嘗《な》めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心の閃《ひらめ》きが見えたことであろう、信長は賢秀に対《むか》って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を攬《と》る為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正《だんじょう》[#(ノ)]忠《ちゅう》の忠の字に因《ちな》み、忠三郎|秀賦《ひでます》と名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは惚《ほ》れないだろうが、別に斯様《こう》いうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては外様《とざま》なので、後に至って信長が其将材を憚《はばか》って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句を需《もと》められるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずに終《しま》ったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一|聯《れん》で有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の談《はなし》だから雑輩は席に居らぬ。燭《しょく》を剪《き》り扇を揮《ふる》って論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を稍々《やや》遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。坐睡《いねむり》をせぬまでも、十三歳やそこらの小童《こわっぱ》だから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味を有《も》っているのだ。流石《さすが》に武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と感歎《かんたん》して、畏《おそ》るべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分|怜悧《りこう》な芸妓《げいしゃ》でも、可《い》い加減に年を取った髯面《ひげづら》野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか坐睡《いねむ》り[#ルビの「いねむ」は底本では「いねむり」]したりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を確《しか》と見定めるところがあって、そして吾《わ》が婿にと惚《ほ》れ込んだのであろう。
 鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に負《そむ》かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解《けっかい》十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから打鮑《うちあわび》を取って賜わったが、そこで愈々《いよいよ》其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に乳人《めのと》加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
 これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀に弑《しい》された時は、光秀から近江《おうみ》半国の利を啗《くら》わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に拠《よ》って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、特《こと》に九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ巌石《がんじゃく》の城に熊井越中守を攻め伏せて勇名を轟《とどろ》かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって飛騨守《ひだのかみ》氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となって終《しま》った。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽《じゅらく》の第《だい》を造った其年、氏郷は伊勢の四五百森《よいおのもり》へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
 小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。
 氏郷は法を執ること厳峻《げんしゅん》な人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知《げぢ》の通りに物事の捗《はこ》ぶのを期するのは至当の訳で、然《さ》無《な》くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。郭子儀《かくしぎ》、李光弼《りこうひつ》はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大《おおい》に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》を持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よというところに其侍が居なかった。そこで氏郷が、屹度《きっと》此処に居よ、と注意を与えて置いて、それから組々を見廻り終えて還《かえ》った、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、復《また》もや此処に居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀《たち》を抜くが否や、そっ首|丁《ちょう》と打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振って驚き、一軍粛然としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂左文、横山喜内、本多三弥の三人が軍奉行《いくさぶぎょう》でありながら令を犯して進んで戦ったので厳しく之を咎《とが》めたところ、上坂横山の二人は自分の高名《こうみょう》の為ではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたので免《ゆる》されたが、本多は云分立たずであったので勘当されて終《しま》った。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠れ無い勇士であったが其の如くで、其他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村|左馬允《さまのすけ》、岡田大介、岡半七等、いずれも崛強《くっきょう》の者共で、其戦に功が有ったのだったが、皆令を犯した廉《かど》で暇《いとま》を出されて浪人するの已《や》むを得ざるに至った。
 氏郷は是《かく》の如く厳しい男だったが、他の一面には又人を遇するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ羊羹《ようかん》をギチリと詰めるような、形式好き融通利かずの偏屈者では無かった。前に挙げた関白其他に敵対行為を取って世の余され者になった強者共《つわものども》を召抱えた如きは其著しい例で、別に斯様《こう》いう妙味のある談《はなし》さえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方《かみがた》やなんぞで励んで居た頃、即ち小田原陣前の事であろうが、或時松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶に仕えて居たが何様《どう》いう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持《ふち》を望むに就いて斯様いうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持を蒙《こうむ》りとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だの洞《ほら》ヶ|峠《とうげ》だのという言葉を今に遺している位で、余り武辺の芳《かん》ばしい家ではない。其家で臆病者と云われたのは虚実は兎に角に、是も芳ばしいことでは無い。ところが氏郷は其男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦ある毎に好い働きをする。で氏郷は忽《たちま》ち物頭《ものがしら》にして二千石を与えたというのである。後に此男が打死したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立てて遣ったらば強いて打死もせずに段々武功を積んだろうに、と云ったということだ。此話を咬《か》みしめて見ると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。
 氏郷は法令|厳峻《げんしゅん》である代りには自ら処することも一毫《いちごう》の緩怠も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神を揮《ふる》っている。所謂《いわゆる》「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規に召抱えられる侍があると、氏郷は斯様云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜を被《かぶ》って油断なく働く武士があるが、其武士に愧《は》じぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。勿論これは未だ小身であった時の事で有ろうが、訓諭も糸瓜《へちま》も入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘だ。碌《ろく》な店も工場も持って居ぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは坐蒲団《ざぶとん》の上で煙草をふかしながら好い事を仕たがる如き蝨《しらみ》ッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。斯様いう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をして居る。それは氏郷の方から好んで為出したことではないが、他の大将ならば或は遁逃《とんとう》的態度に出て、そして敵をして其企図を多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害を被《こうむ》るの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に居縮《いすく》んでばかり居ては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条氏房が広沢重信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が復《また》春日|左衛門尉《さえもんのじょう》をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論|逐払《おいはら》った。然し其時の闘は如何にも突嗟《とっさ》に急激に敵が斫入《きりい》ったので、氏郷自身まで鎗《やり》を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧《よろい》の胸板《むないた》掛算《けさん》に太刀疵《たちきず》鎗疵《やりきず》が四ヶ処、例の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》に矢の痕《あと》が二ツ、鎗の柄には刀痕《とうこん》が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退《ひ》かぬ剛勇の人であることが窺《うかが》い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻《げんしゅん》な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
 是《かく》の如き人は主人としては畏《おそ》ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂《いわゆる》手強《てごわ》い敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、流石《さすが》に氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗《そうろう》快活なところもあった人だ。嘗《かつ》て九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言《わびごと》をして貰って、復《また》新《あらた》に召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は特更《ことさら》上手の者であった。其男が勘当を赦《ゆる》されて新に召還《めしかえ》されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を挑《いど》んだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで捻合《ねじあ》った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と惑わぬことは無かったろうが、そこは人の魂の沸《たぎ》り立って居る代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑って貰えれば上首尾なのだが、然様《そう》は行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足を踏んで眼ざし鋭く再闘を挑んだ。観て居る者は気の毒で堪《たま》らない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気を蒙《こうむ》った奴である、手討になるか何か知れた者では無いと危ぶんだ。左馬允も斯様《こう》なっては是非が無い、ここで負けては仮令《たとい》過まって負けたにしても軽薄者表裏者になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付けた。其時はじめて氏郷は莞爾《かんじ》と笑って、好い奴だ、汝は此の乃公《おれ》に能《よ》う勝ったぞ、と褒美して、其の翌日知行米加増を出したという。此|談《はなし》の最初一度負けたところで、褒詞を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところが一寸面白い。氏郷の肚《はら》は闊《ひろ》いばかりでなく、奥深いところがあった。
 斯様いう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そして其能は勇武もあり、機略もあった人だが、其上に氏郷は文雅を喜び、趣味の発達した人であった。矢叫《やたけ》び鬨《とき》の声《こえ》の世の中でも放火殺人専門の野蛮な者では無かった。机に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りて静坐して書籍に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休や太田道灌や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされて居た時代の信仰にも因ったろうが、そればかりでも無く、人間の本然《ほんねん》を欺き掩《おお》う可からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するのは自からなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たる程の者は大抵文道に心を寄せていて、相応の造詣《ぞうけい》を有して居た。我儘《わがまま》な太閤《たいこう》殿下は「奥山に紅葉《もみじ》踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸《うな》り出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第《じゅらくだい》に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん逢坂《あふさか》の関の戸|埋《うず》む夜半《よは》の白雪《しらゆき》」などは関路[#(ノ)]雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、何様《どう》して中々素人では無い。「四十年前少壮[#(ノ)]時、功名聊[#(カ)]復[#(タ)]自[#(カラ)]私[#(カニ)]期[#(ス)]、老来不[#レ]識干戈[#(ノ)]事、只把[#(ル)]春風桃李[#(ノ)]巵《サカヅキ》」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て支倉《はせくら》六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬《ローマ》かけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであった時、平兼盛の「陸奥《みちのく》の安達か原の黒塚に鬼|籠《こも》れりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという談《はなし》は面白い公事《くじ》として名高い談である。其の逸話は措《お》いて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎《かんたん》するが実に幽婉《ゆうえん》雅麗で、時や祐《たす》けず、天|吾《われ》を亡《うしな》う、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼《ひりょう》愴凄《そうせい》の威を如何にも美《うる》わしく詠じ出したもので、三百年後の人をして猶《なお》涙珠《るいじゅ》を弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千[#(ノ)]利休を師として茶事《さじ》を学んで、秀吉をして「辺鄙《ひな》の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足であった。氏郷と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次の植込に槙《まき》の樹などは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったという程に侘《わび》の趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑清寂の茶旨には十分に徹した人であった。利休が心《こころ》窃《ひそ》かに自ら可なりとして居た茶入を氏郷も目が高いので切《しき》りに賞美して之を懇望し、遂に利休をして其を与うるを余儀無くせしめたという談も伝えられている。又氏郷が或時に古い古い油を運ぶ竹筒を見て、其の器を面白いと感じ、それを花生《はないけ》にして水仙の花を生け、これも当時風雅を以て鳴って居た古田織部に与えたという談が伝わっている。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺して居る人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏郷の其の花生の形は普通に「舟」という竹の釣花生に似たものであるが、舟とは少し異ったところがあるので、今に其形を模した花生を舟とは云わずに、「油さし」とも「油筒」とも云うのは最初の因縁から起って来て居るのである。古い油筒を花生にするなんというのは、もう風流に於て普通を超えて宗匠分になって居なくては出来ぬ作略《さりゃく》で、宗匠の指図や道具屋の入れ智慧を受取って居る分際の茶人の事では無い。彼の山科《やましな》の丿貫《べちかん》という大の侘茶人が糊《のり》を入れた竹器に朝顔の花を生けて紹鴎《じょうおう》の賞美を受け、「糊つぼ」という一器の形を遺したと共に、作略|無礙《むげ》の境界《きょうがい》に入っている風雅の骨髄を語っているものである。天下指折りの大名で居ながら古油筒のおもしろみを見付けるところは嬉しい。山県含雪公は、茶の湯は道具沙汰に囚《とら》われるというので半途から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かった為でも有ろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込《ふんご》んで居たのは利休の教を受けた故ばかりではあるまい、慥《たしか》に料簡《りょうけん》の据え処を合点して何にも徹底することの出来る人だったからであろう。しかも油筒如き微物を取上げるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙《あぶみ》を所望した時には、それが蒲生重代の重器で有ったに拘《かかわ》らず、又家臣の亘《わたり》利八右衛門という者が、御許諾なされた上は致方なけれども御当家重代の物ゆえに、ただ模品《うつし》をこしらえて御遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品を遣わすなどとは吾《わ》が心が耻《はず》かしい、と云って真物を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが不覚《そぞろ》であったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、一旦差上げたものなれば御遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後に其子秀行へとうとう返戻したという談《はなし》がある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気無く親友の所望には任せる。中々面白い心の行きかたを有《も》った人だった。
 さて話は前へ戻る。是《かく》の如き忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取って居たか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石|若《もし》くは十八万石であったというから、其後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少し其《それ》以上ぐらいで有ったろう。然るに小田原陣の手柄が有って後に会津に籠《こ》めらるるに就ては、大沼、河沼、稲川、耶摩《やま》、猪苗代《いなわしろ》、南の山以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河、石川、岩瀬、安積《あさか》、安達、二本松以上六郡、都合十二郡一庄で、四十二万石に封ぜられたのだ。十八万石程から一足飛に四十二万石の大封を賜わったのだから、たとい大役を引受けさせられたとは云え、奥州出羽の押えという名誉を背負い、目覚ましい加禄《かろく》を得たので、家臣連の悦《よろこ》んだろうことは察するに余りある。これは八月十七日の事と云われている。
 丁度仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷は独り書院の柱に倚《よ》って物を思って居た。天は高く晴れ渡って碧落《へきらく》に雲無く、露けき庭の面の樹も草もしっとりとして、おもむきの有る夜の静かさに虫の声々すずしく、水にも石にも月の光りが清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐も動く可き折柄の光景だった。北越の猛将上杉謙信が「数行[#(ノ)]過雁月三更」と能登の国を切従えた時吟じたのも、霜は陣営に満ちて秋気清き丁度|斯様《こう》いう夜であった。三国の代の英雄の曹孟徳が、百万の大軍を率いて呉の国を呑滅《どんめつ》しようとしつつ、「月明らかに星|稀《まれ》にして、烏鵲《うじゃく》南《みんなみ》に飛ぶ」と槊《さく》を馬上に横たえて詩を賦したのも丁度斯様いう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本|無双《ぶそう》の大国たる出羽奥州、藤原の秀衡や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然と黙々として居る。侍座して居たのは山崎家勝というものだった。如何に深沈な人とは云え、かかる芽出度き折に当って何か考えに沈んで居る主人の様子を、訝《いぶか》しく思って窃《ひそか》に注意した。すると是は又何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝は直ちに看て取って怪《あやし》んだ。が、忽《たちま》ちにして思った、是は感喜の涙であろうと。蟹《かに》は甲《こうら》に似せて穴を掘る。仕方の無いもので、九尺梯子《くしゃくばしご》は九尺しか届かぬ、自分の料簡《りょうけん》が其辺だから家勝には其辺だけしか考えられなかった。然しそれにしては何様《どう》も様子が腑に落ち兼ねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君には御落涙遊ばされたと見受け奉ってござるが、殿下の取分けての御懇命、会津四十二万石の大禄を被《かず》けられたまいし御感《ぎょかん》の御涙にばし御座《おわ》すか、と聞いて見た。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷は一寸嘆息して、ア、其様なことに思われたか、我|羞《はず》かしい、と云ったが、一段と声を落して殆んど独語のように、然様《そう》では無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折には如何ようなる働きをも為し得て、旗を天下に吹靡《ふきなび》かすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川遥に隔たりて、王城を霞の日に出でても秋の風に袂《たもと》を吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の辺鄙《ひな》に在りては、日頃の本望も遂げむことは難く、我が鎗《やり》も太刀も草叢《くさむら》に埋もるるばかり、それが無念さの不覚《そぞろ》の涙じゃ哩《わ》、今日より後は奥羽の押え、贈太政大臣信長の婿たる此の忠三郎がよし無き田舎武士《いなかざむらい》の我武者《がむしゃ》共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命《はめ》に立至ったが忌々《いまいま》しい、と胸中の欝《うつ》をしめやかに洩《も》らした。無論家勝もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今|遽《にわか》に関白に楯突《たてつ》こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば吾《わ》が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴《あっぱれ》立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然《せいぜん》惻然《そくぜん》として家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。
 氏郷が会津四十二万石を受けて悦《よろこ》ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞《はなくそ》ほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて嚊殿《かかあどの》に誇るような極楽蜻蛉《ごくらくとんぼ》、菜畠蝶々《なばたけちょうちょう》に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も流石《さすが》に氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が絳灌樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《こうかんはんかい》の輩と伍《ご》を為すを羞《は》じたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]だって立派な将軍だが、「生きて乃《すなは》ち※[#「口+會」、第3水準1-15-25]等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱に靠《よ》りかかって月に泣いた此の涙には片頬《かたほ》の笑《えみ》が催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長の女《むすめ》で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが位牌《いはい》に操を立てて尼になって終《しま》った程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。
 天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の刷毛《はけ》ついでに武威を奥州に示して一[#(ト)]撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角|啣《くわ》えた大きな鴨をこれから※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《く》おうとして涎《よだれ》まで出したところを取上げられて終った犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰って終って見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めて居るのだが、仕方が有るから手が出したくなる。然し氏郷という重石《おもし》は可なり重そうである。氏郷は白河をば関|右兵衛尉《うひょうえのじょう》、須賀川をば田丸|中務少輔《なかつかさしょうゆう》、阿子《あこ》が嶋《しま》をば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、伊南《いなみ》を蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も迂闊《うかつ》に手を掛ける訳にはゆかぬ。斯様なると暴風雨は弱い塀に崇《たた》る道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸ばされ出した。木村父子は武辺も然程《さほど》では無く、小勢でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生は之を捨てて置く訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とは其間遥に距《へだた》って居るけれども必ず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何程も有ろう、木村蒲生に味噌を附けさせれば好運は自然に此方へ転げ込んで来る理合だ、という様な料簡は自も存したことであろう。政宗方の史伝に何も此様《こう》いう計画をしたという事が遺って居るのでは無いが、前後の事情を考えると、邪推かは知らぬが斯様《こう》思える節が有るのである。又木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったに就ては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても法度《はっと》厳正に之を取締れば差支無いが、元来地盤が固く無い処へ安普請をしたように、規模が立たんで家風家法が確立して居ないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニ此の奥州の田舎者めと侮って不道理を働くことも有勝なことで、然様《そう》なれば然無《さな》きだに他国者の天降《あまくだ》り武士を憎んで居る地侍の怒り出すのも亦有り内の情状であるから、そこで一揆《いっき》も起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と和睦《わぼく》し難いような事情が起ると、第三者が窃《ひそ》かに其下に助力して其主権者を逐落《おいおと》し、そして其土地の主人となって終《しま》うのである。或は特《こと》に利を啗《くら》わせて其下をして其上に負《そむ》かせて我に意《こころ》を寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦|是《かく》の如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を発《おこ》させるのが「嘱賂《そくろ》を飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にも上《かみ》にも下《しも》にも互に有ることで、戦乱の世の月並で稀《めず》らしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を吾《われ》に内通させて氏家吉継と与《とも》に大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか何様《どう》だかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政《ひせい》が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又|手強《てごわ》かった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田《にった》駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙《けせん》の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の登米《とめ》郡の登米《とよま》という北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の小牛田《こごた》駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ、一揆の方は予《あらかじ》め作戦計画を立てて居たものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取れというので忽《たちま》ち攻陥《せめおと》して終った。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離は直接にすれば然のみ距《へだた》って居らぬとは云え、然程に近い訳でも無いのに、是《かく》の如く手際|能《よ》く木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒のように本拠を奪われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てて居て、思う壺へ陥れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子は旅《りょ》の卦《け》の文に所謂《いわゆる》鳥其巣を焚《や》かれた旅烏、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、何共《なんとも》せん方ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門に却《かえっ》て援《たす》けられる形となって、佐沼の城へ父子共|立籠《たてこも》ることになった。
 西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人は予《かね》ての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大崎、胆沢《いさわ》を与えたのは些《ちと》過分であった。何様も秀吉の料簡《りょうけん》が分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とが何様《どん》なイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。一旦自分に対して深刻の敵意を挟《さしはさ》んだ狼戻《こんれい》豪黠《ごうかつ》の佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が藩屏《はんぺい》となるので有り、又成政がドジを踏めば成政を自滅させて終うに足りるというので、竟《つい》に成政は其の馬鹿暴《ばかあら》い性格の欠陥により一揆の蜂起《ほうき》を致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うて終った。木村父子は何も越中立山から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃する相談をした内蔵介《くらのすけ》成政ほどの鼬花火《いたちはなび》のような物狂わしい火炎魂を有《も》った男でも無いし、それを飛離れた奥地に置いた訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うの謀《はかりごと》で、斯《こ》の様な弱武者の木村父子を活餌《いきえ》にして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば此畜生《こんちくしょう》めと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が法衣《ころも》を着とおすならば物のわかる狼だから其儘《そのまま》にして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼の窟《いわや》の傍《そば》に遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書が若《も》し然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。
 又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の呉々《くれぐれ》も訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概|草臥《くたび》れた狼を撲《ぶ》ちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで捻合《ねじあ》って居たら危気無しに背面から狼を胴斬《どうぎ》りにして終う分の事、という四本の鬮《くじ》の何《ど》れが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って膠《にかわ》で貼《つ》けたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《は》んでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。
 一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは毫《ごう》も敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような偏倚《へんき》性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方は聊《いささ》か無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈と思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りで丁度宜いであろう。氏郷が秀吉に心《こころ》窃《ひそ》かに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで、人品骨柄の中々立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。然し小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師に命じて、白綾《しらあや》の小袖《こそで》に、左の手には扇、右の手には楊枝《ようじ》を持ったる有りの儘の姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野左近将監|繁仍《しげより》の妻で、もと鶴千代丸の時の乳母だった者に、此絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々《いまいま》しきことをせさせ玉う君かな、御年も若うおわしながら何の為にかかる事を、と泣いたと云う談《はなし》が伝わっている。戦の度毎に戦死と覚悟してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、一寸おかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、又|然程《さほど》に深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵を氏郷の造らせたということを聞いて感涙を墜《おと》したというのも、何だか一寸考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてに於て想察の纏《まと》まるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠《さんがいがさ》の馬幟《うまじるし》を氏郷が請うて、熊の棒という棒鞘《ぼうざや》に熊の皮を巻付けたものに替えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、且は驍勇《ぎょうゆう》の名を轟《とどろ》かした成政の用いたものを誰も憚《はばか》って用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたか何様《どう》か、有らずもがなの事だった。然し勿論そんな些事《さじ》を歯牙《しが》に掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇するに別に何も有った訳では無い、ただ特《こと》に之を愛するというまでに至って居らずに聊《いささ》か冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談だが、忠興が別に咎立《とがめだて》もされず此の難い役を辞したとすれば、忠興は中々手際の好い利口者である。
 氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じ様に、織田|信雄《のぶかつ》は小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の駿遠参《すんえんさん》に封ぜられた。ところが信雄は此の国替を悦《よろこ》ばなくて、強いて秀吉の意に忤《さから》った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を牧《やしな》う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、我儘《わがまま》に任せて吾《わ》が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀《なか》二万石にして終《しま》った。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されて直《じき》に和睦《わぼく》して終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に逐《お》われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、確《しか》と名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、怯儒《きょうだ》で遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々《はかばか》しいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、次《つい》で出羽の秋田へ蟄《ちっ》せしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へ貶《へん》したのも余り酷《ひど》かった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄が是《かく》の如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれども些《ちと》酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということを会《え》しきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、予《かね》ても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。
 木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気が烈《はげ》しくても棄てては置けぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍《ふくてつ》を踏んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文|郷可《さとよし》、小倉豊前守、上坂兵庫助、関入道万鉄、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔を籠《こ》めて置くことにした。政宗の方の片倉|備中守《びっちゅうのかみ》が三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、扨《さて》自分は一番|先手《さきて》に蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に五手組《いつてぐみ》、梅原弥左衛門、森|民部丞《みんぶのじょう》、門屋助右衛門、寺村半左衛門、新国上総介《にっくにかずさのすけ》、四番には六手組、細野九郎右衛門、玉井数馬助、岩田市右衛門、神田清右衛門、外池《とのいけ》孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与《ななてぐみ》、蒲生将監、蒲生|主計助《かずえのすけ》、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野|主水佑《もんどのすけ》、六番には寄合与《よりあいぐみ》、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施次郎右衛門、建部《たけべ》令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水勝左衛門、八番には手廻《てまわり》小姓与《こしょうぐみ》、九番には馬廻、十番には後備《あとそなえ》関勝蔵、都合其勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族《けんぞく》、多年恩顧の頼み頼まれた武士、又は新規召抱ではあるが、家来は主の義勇を慕い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄を愛《め》でいつくしめる者共、皆各々言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金の味、胆魂《きもだましい》の程を地侍共に見せ付けて呉れんという意気を含んだ者を従えて真黒になって押出した。其日は北方奥地の寒威早く催して、会津山|颪《おろし》肌に凄《すさま》じく、白雪紛々と降りかかったが、人の用い憚《はば》かりし荒気大将佐々成政の菅笠《すげがさ》三蓋《さんがい》の馬幟《うまじるし》を立て、是は近き頃下野の住人、一家|惣領《そうりょう》の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三[#(ツ)]頭|左靹絵《ひだりどもえ》の紋の旗を吹靡《ふきなび》かせ、凜々《りんりん》たる意気、堂々たる威風、膚《はだえ》撓《たゆ》まず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一[#(ト)]汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒も聊《いささ》か怯《ひる》んだろう。そこを流石《さすが》は忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気が萎《な》えているようでは宜しく無いから、諸手《もろて》の士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は直膚《すぐはだ》に鎧《よろい》ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、錦《にしき》や練絹などで出来ているものを被《き》る。袴《はかま》短く、裾や袖《そで》は括緒《くくりお》があって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは直垂《ひたたれ》であるから、鎧直垂とも云う。漢語の所謂《いわゆる》戦袍《せんぽう》で、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように犢鼻褌《ふんどし》一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし斯様《こう》いう大将で有って見れば、士卒も萎《し》けかえって顫《ふる》えて居るわけには行かぬ、力肱《ちからひじ》を張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にして焚《く》べて仕合せな事である。
 冗談は扨置《さてお》き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の蜂起《ほうき》は思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、敵《かな》わせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし畢竟《ひっきょう》は如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の施為《しい》が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は何様《どう》いう人で有ろうと怖畏《ふい》憂虞《ゆうぐ》の眼を張って窺《うかが》って居た人民に、安堵《あんど》と随《したが》って親愛の念を懐《いだ》かせた故であったろう。
 氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監も聊《いささ》か危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を右手《めて》に見て、其湖の北方なる猪苗代城に止《とど》まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは特《こと》に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷を吾《わ》が館《やかた》に入れまいらせてから、密《ひそか》に諫言《かんげん》を上《たてまつ》って、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬も労《つか》れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、と頻《しき》りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬には騎《の》るのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一は寧《むし》ろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆《いっき》は少しでも早く対治して終《しま》って其の根を張り枝を茂らせぬ間に芟除《かりのぞ》き抜棄てるのを機宜《きぎ》の処置とする。且又信雄が明智乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も瞋《いか》ろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシと吾《わが》胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、何様《どう》も然様《そう》は成りかねる、仮令《たとい》運|拙《つたな》く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全く廃《すた》る、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、御尤《ごもっとも》の御仰と承わりました、然らば某《それがし》も一期《いちご》の御奉公、いさぎよく御[#(ン)]先を駈け申そう、と皺腕《しわうで》をとりしぼって部署に就く事に決した。斯様《こう》いう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく沸《たぎ》り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《かえん》を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀の柄《つか》に手を掛けて居る恐ろしい境界《きょうがい》に、毅然《きぜん》たる立派な態度を何様して保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には優《まさ》った遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々|濃《こま》やかな味のある戦であり、鎗《やり》、刀、血みどろ、大童《おおわらわ》という大味な戦では無いのである。
 ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某《なにがし》天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の髑髏《どくろ》に生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ出鱈目《でたらめ》を申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生り代りなどとは余り作意が奇抜で寧《むし》ろ滑稽《こっけい》だが、宋の蘇東坡《そとうば》は戒禅師の生れ代り、明の王陽明は入定僧《にゅうじょうそう》の生れ代り、陽明先生の如きは御丁寧にも其入定僧の屍骸《しがい》に直《じき》に対面をされたとさえ伝えられている。二生《にしょう》の人というのは転生を信じた印度に行われた古い信仰で、大抵二生の人は宿智即ち前生修行の力によって聡明《そうめい》であり、宿福即ち前世善根の徳によって幸福であり、果報広大、甚だ貴《たっと》ぶべき者とされて居る。政宗の生るる前、米沢の城下に行いすまして居た念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左の掌《たなごころ》に満海の二字を握って誕生した。だから政宗は満海の生れ代りであろうと想われ、そして梵天丸という幼名はこれに因りて与えられた。梵天は此世の統治者で、二生の人たる嬰児《えいじ》の将来は、其の前生の唱名不退の大功徳によって梵天の如くにあるべしという意からの事だ。満海の生れ代りということを保証するのは御免|蒙《こうむ》りたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕では無く、又其名が梵天|帝釈《たいしゃく》に擬した祝福の意であったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には陸奥介行宗《むつのすけゆきむね》の諡《おくりな》が念海、大膳太夫持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海の談《はなし》も何か夫等《それら》から出た語り歪めではあるまいか。都《す》べての奇異な談は大概浅人妄人無学者好奇者が何か一寸した事を語り歪めるから起るもので、語り歪めの大好物な人は現在そこらに沢山転がっている至ってお廉《やす》いしろ物であるから、奇異な談は出来|傍題《ほうだい》だ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎の如き傑物に属望されて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔の淵は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前では澄ましかえったが、其の底知れぬ深さの蒼い色を湛《たた》えた静かな淵には、馬も呑めば羽をも沈めようという※[#「さんずい+回」、第3水準1-86-65]《まき》を為して居るのである。不気味千万な一怪物である。(つづく)



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [岩手県]
  • 胆沢 いさわ 胆沢城は現、水沢市佐倉河。
  • 胆沢郡 いさわぐん 岩手県(陸中国)の南西部に位置する郡。
  • 胆沢城 いさわじょう 802年(延暦21)陸奥鎮定のために坂上田村麻呂の築いた城。のち鎮守府を置く。岩手県奥州市水沢区に城跡がある。
  • [宮城県]
  • 大崎・葛西 おおさき・かさい ともに中世において、陸奥国の宮城県北部または岩手県南部にかけて勢力をもった大名であるが、戦国期より近世期にかけてその支配領域を通称名として大崎・葛西とよんだ。ただし、呼称・範域とも変遷があり、文献にみえる名も固定せず、人名か地名か見分けがたいことも多い。
  • 大崎 おおさき 宮城県北西部の市。農業が盛ん。北西部には鳴子温泉がある。東部の蕪栗沼はラムサール条約湿地。人口13万8千。
  • 佐沼城 さぬまじょう 現、登米郡迫町佐沼。近世には栗原郡北方村に属し、大崎平野の北東部の迫川流域に位置し、登米郡と栗原郡および領内北部と仙台城下を結ぶ枢要の地にある。天文年間(1532〜1555)以降、この地方の支配は葛西氏から大崎氏に移り、佐沼城には大崎家臣石川氏が数代続いた。天正18(1590)葛西・大崎両家が滅び、木村吉清が葛西・大崎十二郡を領したが、葛西大崎一揆がおこり、一揆勢は佐沼城に拠って抵抗し、翌19年7月伊達政宗によって落城した。以後、伊達氏領となり、伊達家臣湯目(のち津田)氏が佐沼城を居城とした。
  • 葛西 かさい 牡鹿・本吉・登米の三郡と、岩手県域の胆沢郡(現水沢市など)・磐井郡(現一関市など)・江刺郡(現江刺市)・気仙郡(現大船渡市など)の四郡を合わせ、葛西七郡と称する。
  • 豊間城 〓 今の登米郡の登米。
  • 登米 とめ 宮城県北東部の市。稲作が盛ん。東部の登米町はもと伊達氏2万石の城下町。北西部にラムサール条約湿地の伊豆沼・内沼がある。人口8万9千。
  • 登米郡 とめぐん 宮城県(陸前国)にあった郡。人口86,832人、面積468.24 km2(2003年)。郡域は全域が現在の登米市に含まれている。
  • 北上川 きたかみがわ 岩手県北部の七時雨山付近に発し、奥羽山脈と北上高地の間を南流し、同県中央部、宮城県北東部を貫流して追波湾に注ぐ川。石巻湾に直流する流路は旧北上川と称する。長さ249キロメートル。
  • 古河城 今の小牛田駅より西北の地 → 古川城
  • 古川城 ふるかわじょう 現、古川市二ノ構。古川市街の西端にあり、本丸跡には現在、古川第一小学校がある。
  • 小牛田駅 こごたえき 宮城県遠田郡美里町藤ヶ崎にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。
  • 新田 にった 村名。現、登米郡迫町新田。栗原郡佐沼郷七か村の一つ。
  • 瀬峰 せみね 現、栗原郡瀬峰町。
  • 気仙沼 けせんぬま 宮城県北東部の市。同名の湾に臨む漁港は遠洋漁業の基地。景勝に富む。人口6万6千。
  • 気仙郡 けせんぐん 岩手県南東部(陸前国北東部)に位置する郡。
  • [山形県]
  • 米沢 よねざわ 山形県南部の市。米沢盆地の南端に位置し、もと上杉氏15万石の城下町。古来、機業で知られる。人口9万3千。
  • 米沢城 よねざわじょう 山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にあった中世から近世にかけての平城。戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城。江戸時代は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩1万石の藩庁が置かれていた。
  • [福島県]
  • 白川の関 → 白河関
  • 白河関 しらかわのせき 古代の奥羽三関の一つ。遺称地は福島県白河市の旗宿にある。能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌で有名。
  • 会津 あいづ 福島県西部、会津盆地を中心とする地方名。その東部に会津若松市がある。
  • 会津城 あいづじょう 会津若松市にある松平(保科)氏の旧居城。1384年(至徳1)蘆名直盛の築城。1592年(文禄1)蒲生氏郷、1639年(寛永16)加藤明成が大修築、43年保科正之が城主となる。1868年松平容保が籠城して新政府軍に抗し、ついに降った(会津戦争)。黒川城。若松城。鶴ヶ城。
  • 安達ヶ原 あだちがはら 福島県安達郡の安達太良山東麓の原野。鬼がこもったと伝えた。(歌枕)
  • 黒塚 くろづか 福島県二本松市の東方、安達原にある古跡。平兼盛の歌に基づく鬼女伝説に名高い。
  • 会津山 あいづやま? 磐梯山の別称。
  • 磐梯山 ばんだいさん 福島県の北部、猪苗代湖の北にそびえる活火山。標高1819メートル。1888年(明治21)に爆発し、岩屑流が北麓の集落を埋没、渓流をせきとめて桧原・小野川・秋元の桧原三湖と五色沼その他大小百余の池や沼を作った。会津嶺。会津富士。
  • 大沼郡 おおぬまぐん 福島県西部(岩代国)の郡。
  • 河沼郡 かわぬまぐん 福島県西部(岩代国)の郡。
  • 稲川 いながわ 中世、蜷川庄の庄域か。
  • 耶摩 やま 耶麻。郡名。県の北西部、会津地方の北部に位置する。
  • 猪苗代 いなわしろ 現、猪苗代町・磐梯町がおおよその範囲。
  • 南の山 → 南山か
  • 南山 みなみやま 鎌倉時代の長江庄の別称。現、南会津郡。
  • 南山城 みなみやまじょう 現、南会津郡田島町田島。鴫山城の別称。田島城ともいう。
  • 大野原 おおのがはら 現、河沼郡河東町八田大野原。
  • 日橋川 にっぱしがわ 福島県の中央部にある猪苗代湖から会津盆地へ流れる阿賀野川水系の一級河川である。堂島川とも呼ばれる。猪苗代湖から流れ出てる唯一の川。
  • 猪苗代湖 いなわしろこ 福島県の中央部、磐梯山の南麓にある堰止湖。阿賀野川の水源。湖面標高514メートル。最大深度94メートル。周囲50キロメートル。面積103平方キロメートル。
  • 猪苗代城 いなわしろじょう 福島県耶麻郡猪苗代町にある城。別名、亀ヶ城。会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続くが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた。
  • 三春城 みはるじょう 陸奥国田村郡(福島県田村郡三春町)にあった城。別名舞鶴城。三春藩の藩庁。三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。
  • 三春 みはる 福島県東部の町。もと秋田氏の城下町。
  • 中山道 なかせんどう 中山道・中仙道。五街道の一つ。江戸日本橋から板橋へ出て、上野・信濃・美濃などを経て、草津で東海道に合流し、京都に至る。69宿。
  • 津川城 つがわじょう 現在の新潟県東蒲原郡阿賀町にあった城。鎌倉時代に佐原氏の一族藤倉盛弘(金上盛弘)が築いた。会津に蒲生氏郷が入封すると、津川城には北川平左衛門が、景勝の会津移封後は藤田信吉が城主となったが、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600)、徳川家康に通じて脱国。鮎川帯刀が城主となった。
  • 奥街道 おくかいどう 奥州街道に同じ。
  • 白河郡 しらかわぐん 陸奥国南東部(後の磐城国)にあった郡である。後に白河郡(後の磐城国白河郡→西白河郡)、白川郡(東白川郡)、高野郡(石川郡)に分割された。
  • 石川郡 いしかわぐん 福島県東部(磐城国)の郡。
  • 岩瀬郡 いわせぐん 福島県西部(岩代国)の郡。
  • 安積郡 あさかぐん 岩代国(旧陸奥国南西部、石背国)の郡、明治以降は福島県に属した。
  • 安達郡 あだちぐん 福島県西部(岩代国)の郡。
  • 二本松 にほんまつ 福島県北部、阿武隈川に臨む市。もと丹羽氏10万石の城下町。酒・家具が特産。西の安達太良山の麓に岳温泉がある。人口6万3千。
  • 白河城 しらかわじょう (1) 福島県白河市にある城。結城親朝が築城し、後に丹羽長重が大改築を行った。白河小峰城を参照。(2) 福島県白河市にある城。結城祐広が築城し、鎌倉時代から戦国末期まで代々白河結城氏の本拠地となった。搦目城を参照。
  • 須賀川城 すかがわじょう 福島県須賀川市にかつて存在した平山城。釈迦堂川の氾濫原を見下ろす段差約20mの台地上にある。現在は本丸跡に二階堂神社が残る。
  • 阿子が島 あこがしま 安子島。村名。現、郡山市熱海町安子島。
  • 大槻 おおつき 村名。福島県中通り中部、安積郡に属していた町。現、郡山市大槻町。
  • 伊南 いなみ いな? 村名。現、伊南村(いなむら)か。南会津郡の南西部に位置する。
  • 塩川 しおかわ 村名。現、耶麻郡塩川町。
  • 塩川城 塩川の館か。
  • [越後]
  • 小川庄 こがわのしょう 「小河」「おがわ」とも。現、東蒲原郡のほぼ全域と新発田市・五泉市など周辺市町村の一部を包含した庄園。
  • [栃木県]
  • 宇都宮 うつのみや 栃木県中央部の市。県庁所在地。古来奥州街道の要衝。江戸初期、奥平氏11万石の城下町として発展。人口50万2千。
  • [神奈川県]
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • 小田原攻め おだわら ぜめ 1590年(天正18)豊臣秀吉が小田原城を包囲し、北条氏政・氏直を降した戦い。氏政は自刃、氏直は紀伊国高野山に閉居。小田原征伐。
  • 底倉 そこくら 神奈川県箱根町にある温泉地。箱根七湯の一つ。泉質は塩化物泉。
  • 那賀 なか 静岡県那賀郡か。
  • 那賀郡 なかぐん 伊豆国東部の郡、中郡、仲郡、那可郡ともいう。大宝元年(701)から和銅3年(710)までの間に、仲郡が成立し後に那賀郡となる。
  • [愛知県]
  • 小牧山 こまきやま 愛知県小牧市にある山。かつて織田信長の居城であった、小牧山城があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。
  • 清須・清洲 きよす 愛知県北西部の市。名古屋市の住宅衛星都市。岐阜入城以前の織田信長の根拠地。人口5万5千。
  • [岐阜]
  • [能登] のと 旧国名。今の石川県の北部。能州。
  • [越中] えっちゅう 旧国名。今の富山県。こしのみちのなか。
  • 立山 たてやま 富山県の南東部、北アルプスの北西端に連なる連峰。標高3003メートルの雄山を中心とし、北に大汝山(3015メートル)、南に浄土山が屹立。剣岳・薬師岳などと立山連峰をなす。雄山山頂には雄山神社がある。日本三霊山の一つ。古名、たちやま。
  • [江州] ごうしゅう 近江国の別称。
  • 蒲生郡 がもうぐん 近江国・滋賀県の郡。
  • 日野 ひの 滋賀県南東部、蒲生郡の町。もと蒲生氏の城下町。近江商人の出身地で豪商が多く、日野椀・蚊帳などを商い、また売薬製造も行なった。
  • 日野城 ひのじょう 滋賀県蒲生郡日野町にあった日本の城。江戸時代は市橋氏が陣屋を構えたため、仁正寺陣屋ともいわれる。歴史的には日野城というが、日野町には中世蒲生氏が築いた音羽城と区別する必要もあり、日野の地域名をとって中野城とも呼ばれる。
  • [京都府]
  • 聚楽第 じゅらくだい (ジュラクテイとも)豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。1587年(天正15)完成し、翌年後陽成天皇を招き、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。のち、秀次に譲り、その死後破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。
  • 洞ヶ峠 ほらがとうげ (京都府南部と大阪府枚方市との境にある峠。天王山の南約7キロメートル。1582年(天正10)の山崎の戦に明智光秀がここに来て、筒井順慶の去就を問うた事実が誤伝され、順慶がここに陣して形勢を観望したとされたことによる)両方を比べ、有利な方につこうとして形勢を観望すること。日和見。
  • [伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
  • 四五百森 よいおのもり/よいほのもり 現、三重県松阪市、松阪城下。
  • 松阪・松坂 まつさか 三重県中部の市。もと古田氏5万5000石の城下町。のち紀州藩の別府。伊勢商人の輩出地。本居宣長の生地。人口16万9千。
  • 松ヶ島城 まつがしまじょう 三重県松阪市にかつて存在した平城。1580年(天正8)に付近の田丸城が焼失したため、織田信雄が新たに城を築き、松ヶ島城と命名した。県の指定文化財。伊勢神宮への参宮古道沿いにあって伊勢湾に面し、海陸の要衝にあった。その後、信雄の家臣・津川義冬、滝川雄利が城主となり、最終的には豊臣秀吉の部下・蒲生氏郷が入部した。1588年(天正16)に松坂城を築いて城下町を移転させるまで、氏郷は松ヶ島城を伊勢国南部の統治拠点とした。
  • 松坂城 まつさかじょう 現在は松阪城と表記される。所在地は三重県松阪市殿町。城の縄張りは梯郭式平山城。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた。
  • [福岡県]
  • 巌石の城 がんじゃく → 岩石城か
  • 岩石城 がんじゃくじょう 現、福岡県田川郡添田町添田・赤村赤。現、添田町と赤村の境にそびえる岩石山(446m)の山頂にあった山城。天正15年4月1日、豊臣秀吉の軍勢の攻撃を受け、切り崩され、城内の武士はことごとく首をはねられたが、秋月種実は森吉成の陣所に逃げ込んで一命を取り留めた。慶長7(1602)小倉藩主細川忠興は香春から「かんしゃく」へ赴き、修築の進んでいる当城の視察をおこなおうとしている。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 一五五六 蒲生氏郷、生まれる。
  • 一五五七 片倉小十郎景綱、生まれる。
  • 永禄一〇(一五六七) 伊達政宗、生まれる。
  • 一五六八 伊達成実、生まれる。
  • 一五六八 主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、蒲生賢秀は織田氏に臣従。このとき、嫡男の鶴千代丸(後年の氏郷)は十三歳で人質として岐阜の信長のもとに送られる。
  • 一五六九 信長、鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正ノ忠の「忠」の字にちなみ、忠三郎秀賦〔賦秀か〕と名のらせて婿にする。
  • 一五六九年八月 信長が伊勢の国司の北畠と戦ったとき、鶴千代丸(十四歳)は初陣をむかえる。冬、十二になる女子(冬姫)を与えて岐阜で式をおこない、乳人加藤次兵衛をそえて、江州日野の城主とする。
  • 天正一五(一五八七) 九州征伐。堀秀政の攻めあぐんだ巌石の城〔現、福岡県岩石城か〕に熊井越中守を攻め伏せる。
  • 天正一六(一五八八) 秀吉が聚楽の第を造ったその年、氏郷は伊勢の四五百森へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。当時、正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至る。
  • 天正一八(一五九〇)二月七日 蒲生氏郷の軍、小田原北条攻めのために松坂を立つ。
  • 天正一八(一五九〇)五月三日夜 北条氏房、広沢重信をして夜討ちをかけさせる。七月二日に氏房がまた春日左衛門尉をして夜討ちをかけさせる。
  • 天正一八(一五九〇)八月十七日 氏郷、小田原陣の功により、伊勢松坂(十八万石)より陸奥会津に移封、四十二万石の大領を与えられる。
  • 天正一八(一五九〇)一〇月 新領主として木村吉清・清久親子が葛西・大崎へ入る。木村清久は名生城(大崎市古川大崎)、木村吉清は寺池城(登米市登米町)に拠点を置く。
  • 天正一八(一五九〇)一〇月二三日 大崎・葛西一揆はじまる。
  • 天正一八(一五九〇)一一月五日 木村父子、佐沼から氏郷へ援を請い、氏郷、会津を立つ。氏郷このとき三十五歳。
  • 一五九一 大崎・葛西一揆、九戸政実の乱を制圧。
  • 天正二十年/文禄元(一五九二) 朝鮮陣。氏郷、会津から京までのぼって行ったおりの紀行をものしたものが今に遺る。
  • 文禄四(一五九五)二月 蒲生氏郷、京都の伏見蒲生屋敷において死去。享年40。
  • 慶長六(一六〇一)三月 家康、江州蒲生郡を政宗に賜わる。
  • 寛永一三(一六三六)五月 伊達政宗、江戸で死亡。享年70。
  • -----------------------------------
  • 弘治元(一五五五)八月 会津に大地震。 (田中『日本天変地異記』
  • 天正十三年一一月(一五八六.一.一八) 天正大地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震)M 7.8〜8.1、死者多数。飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。余震が1か月以上続く。
  • 文禄五年閏七月(一五九六.九.四) 大分地震(豊後地震)M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。
  • 慶長元年閏七月(一五九六.九.五) 伏見大地震(慶長京都地震)M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。
  • 慶長三年四月 浅間山が噴火。
  • 慶長三年八月 豊臣秀吉、死去。
  • 慶長八年二月 徳川家康、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が成立。
  • 慶長九年一二月一六日(一六〇五.二.三) 慶長地震(東海・南海・東南海連動型地震)M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万〜2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。
  • 慶長一〇(一六〇五)四月 秀忠が将軍職に就任。
  • 慶長一〇年九月 八丈島が噴火。
  • 慶長一〇年一一月 浅間山が噴火。
  • 慶長一六年八月二一日(一六一一.九.二七) 会津地震M 6.9、死者3,700人。
  • 慶長一六年一〇月(一六一一.一二.二) 慶長三陸地震M 8.1、死者約2,000〜5,000人。
  • 慶長一九(一六一四)一一月一五日 大坂冬の陣。
  • 一六一五年六月二六日 江戸地震M 6、死者多数。
  • 慶長二〇(一六一五) 大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となる。
  • 元和二年四月(一六一六) 家康、死去。
  • 元和二年七月(一六一六.九.九) 宮城県沖地震M 7.0、仙台城が破損。
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 蒲生氏郷 がもう うじさと 1556-1595 安土桃山時代の武将。初名、教秀・賦秀(やすひで)。近江蒲生の人。織田信長・豊臣秀吉に仕え、会津92万石を領した。茶道・和歌もよくした。
  • 田原藤太 → 藤原秀郷
  • 藤原秀郷 ふじわらの ひでさと ?-? 平安中期の下野の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足退治などの伝説が多い。
  • 〓 俊賢 としかた
  • 蒲生賢秀 がもう かたひで 1534-1584 戦国時代の武将。近江日野城主。六角氏の重臣・蒲生定秀の嫡男。六角氏が織田信長によって滅ぼされる(観音寺城の戦い)と賢秀は嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となった。
  • 徳川家康 とくがわ いえやす 1542-1616 徳川初代将軍(在職1603〜1605)。松平広忠の長子。幼名、竹千代。初名、元康。今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、1590年(天正18)関八州に封じられて江戸城に入り、秀吉の没後伏見城にあって執政。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、03年征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた。将軍職を秀忠に譲り大御所と呼ばれた。07年駿府に隠居後も大事は自ら決し、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府260年余の基礎を確立。諡号、東照大権現。法号、安国院。
  • 伊達政宗 だて まさむね 1567-1636 安土桃山・江戸初期の武将。輝宗の子。独眼竜と称。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。また、その臣支倉常長を海外に派遣。
  • 後藤末子
  • 宗禅院
  • 織田信長 おだ のぶなが 1534-1582 戦国・安土時代の武将。信秀の次子。今川義元を桶狭間に破り、美濃斎藤氏を滅ぼし、天下統一を標榜、1568年(永禄11)足利義昭を擁して上洛したが、73年(天正1)義昭を追って幕府を滅ぼす。安土城を築き、諸国平定の歩を進めたが、京都本能寺で明智光秀に襲われて自刃。
  • 佐々木義賢 → 六角義賢か
  • 六角義賢 ろっかく よしかた 1521-1598 室町後期の守護大名。近江国南半守護。定頼の子。法名、承禎。観音寺城に拠る。京都を追われた将軍足利義晴・義輝を庇護して義輝を入京させ、後に織田信長に抗して敗れた。
  • 神戸蔵人 かんべ くらんど 信長の子の三七信孝の養父。
  • 三七信孝 → 織田信孝
  • 織田信孝 おだ のぶたか 1558-1583 安土桃山時代の武将。信長の第3子。山崎の戦に秀吉とともに光秀を討ったが、のち柴田勝家と計り、信雄・秀吉を除こうとして成らず、自刃。
  • 鶴千代丸 → 蒲生氏郷
  • 忠三郎秀賦 ひでます → 蒲生氏郷
  • 町野繁仍 〓 しげより → 町野左近
  • 町野左近 〓 奉行。将監、繁仍。妻は鶴千代丸(氏郷)の乳母。
  • 稲葉一鉄 いなば いってつ 1516-1588 安土桃山時代の武将。名は長通、また良通。剃髪して一鉄と号。美濃三人衆の一人。斎藤氏、のち織田氏に属し、姉川の戦に功あり。秀吉に仕える。文学の造詣があった。
  • 浅井
  • 朝倉
  • 韓退之 かん たいし 韓愈の別名。
  • 韓愈 かん ゆ 768-824 唐の文章家・詩人。唐宋八家の一人。字は退之。号は昌黎。諡は文公。河南南陽の人。儒教を尊び、特に孟子の功を賞賛。柳宗元とともに古文の復興を唱え、韓柳と並称される。詩は白居易の平易な作風に反発し、晦渋・険峻な作を多く残した。憲宗のとき「論仏骨表」を奉って帝の仏教信仰を批判したため、潮州に左遷された。「昌黎先生集」がある。
  • 雲横雪擁
  • 森蘭丸 もり らんまる 1565-1582 安土桃山時代、織田信長側近の武士。美濃の人。可成の子。本能寺の変に戦死。
  • 北畠 伊勢の国司。
  • 結解十郎兵衛 けっかい 〓
  • 種村伝左衛門
  • 加藤次兵衛 乳人。
  • 明智光秀 あけち みつひで 1528?-1582 安土時代の武将。通称、十兵衛。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任日向守と称。ついで丹波亀山城主となり、毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。わずか13日で豊臣秀吉に山崎で敗れ、小栗栖で農民に殺される。
  • 堀秀政 ほり ひでまさ 1553-1590 父は秀重。美濃国生まれ。はじめ織田信長に仕え、越前一向一揆や紀伊雑賀一揆の鎮圧につくし、1581(天正9)近江国長浜城主となる。本能寺の変後、山崎の戦では明智光秀軍を破り、清須会議ののち豊臣秀吉に仕えた。1590年、小田原攻めの最中、陣中で病死。(日本史)
  • 熊井越中守
  • 秀賦 ひでます 賦秀か。『広辞苑』『日本史』は「賦秀(やすひで)」、Wikipedia は「賦秀(ますひで)」。
  • 郭子儀 かく しぎ 697-781 唐の武将。玄宗の時、朔方節度使となって安史の乱を平定、粛宗・代宗に仕えて吐蕃を破り、太尉中書令に昇進した。
  • 李光弼 り こうひつ
  • 上坂左文
  • 横山喜内 → 蒲生頼郷
  • 蒲生頼郷 がもう よりさと ?-1600 戦国時代の武将。諱は真令とも。通称、喜内。備中守を名乗った。初名は横山喜内。六角家の武将であったが、織田信長の上洛時に六角家は滅亡した為、蒲生家に仕えた。
  • 本多三弥 ほんだ 〓 本多佐渡正信の弟。
  • 本多正信 ほんだ まさのぶ 1538-1616 江戸初期の年寄(老中)。徳川家康の謀臣。三河の人。佐渡守。機密に参与。「本佐録」はその著とされるが仮託。
  • 岡左内 おか さない ?-? 陸奥会津藩士。猪苗代城主。(人レ)
  • 西村左馬允 〓 さまのすけ
  • 岡田大介
  • 岡半七
  • 松倉権助
  • 筒井順慶 つつい じゅんけい 1549-1584 (1) 戦国末期の武将。大和生駒郡筒井城主。1571年(元亀2)松永久秀が織田信長に叛いた時、明智光秀と共に久秀を攻め、郡山城に拠って大和全国を支配した。82年(天正10)本能寺の変ののち、一時光秀にくみしたが、形勢の変化に態度を変え、山崎の合戦では豊臣秀吉に通じた。(2) 転じて、二心ある者、二股者の俗称。
  • 北条氏房 → 太田氏房
  • 太田氏房/北条氏房 おおた うじふさ/ほうじょう うじふさ 1565-1592 後北条氏の一族。第4代当主・北条氏政の三男で、北条氏直の弟。武田信玄の孫。幼名は菊王丸および十郎。武蔵岩槻城主。以前は太田源五郎と同一人物と考えられてきたが、別人とされる。
  • 広沢重信
  • 春日左衛門尉 〓 さえもんのじょう
  • 細川忠興 ほそかわ ただおき 1563-1645 安土桃山時代の武将。幽斎の子。織田信長に仕え、丹後宮津城主。妻ガラシヤの父明智光秀が信長を殺害した時、その招きに応ぜず、豊臣秀吉に従って軍功を積み、関ヶ原の戦には徳川氏に属して戦功あり、豊前・豊後40万石に封。1620年(元和6)剃髪して三斎宗立と号。和歌・典故に通じ、また茶の湯を好んだ。
  • 三好実休 みよし じっきゅう → 三好義賢
  • 三好義賢 みよし よしかた 1526-1562 実休。戦国期の武将。元長の子。はじめ阿波国守護細川持隆の重臣として伊予や讃岐に侵攻し、兄長慶をたすけて畿内にも転戦。1553(天文22)持隆を殺害し阿波の実権を掌握。末弟十河一存の和泉転出で讃岐も支配した。1560(永禄3)長慶に従い河内に出陣、畠山高政を追って高屋城に入るが、根来寺などの加勢をうけた高政の反撃で、和泉国久米田(現、大阪府岸和田市)で討死。(日本史)
  • 太田道灌 おおた どうかん 1432-1486 室町中期の武将・歌人。扇谷上杉定正の臣。名は資長。俗に持資。江戸城を築くなど築城・兵法に長じ、学問・文事を好んだ。定正に謀殺された。
  • 細川幽斎 ほそかわ ゆうさい 1534-1610 安土桃山時代の武将・歌人。三淵晴員の子。本名、藤孝。忠興の父。剃髪して玄旨幽斎と号し、信長・秀吉・家康3代に仕えて重用された。三条西実枝に古今伝授を受け、近世歌学の祖と称された。家集「衆妙集」
  • 豊臣秀吉 とよとみ ひでよし 1537-1598 一説に 1536-1598 戦国・安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。15歳で松下之綱の下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に譲って太閤と称した。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起こし朝鮮に出兵、戦半ばで病没。
  • 武田信玄 たけだ しんげん 1521-1573 戦国時代の武将。信虎の長子。名は晴信。信玄は法名。1541年(天文10)父を追放して甲斐国主となり、民政・領国開発に力を入れ甲州法度を定める。近傍諸国を攻略し、上杉謙信と川中島で戦うこと数回。上洛を志し、織田信長と雌雄を決しようとして三河の野田城攻囲中に病を得、伊那駒場に没。
  • 上杉謙信 うえすぎ けんしん 1530-1578 戦国時代の武将。長尾為景の子。春日山城に拠り、越後を領し、加賀・能登に勢力を張る。初名は景虎。上杉憲政から上杉氏の名跡と関東管領を譲られ、政虎と改名。のち輝虎と改め、剃髪して不識庵謙信と号す。義侠に富み、兵略に長じ、しばしば小田原北条氏および武田信玄と戦った。
  • 今川 いまがわ 姓氏の一つ。足利氏の支族。三河国幡豆郡の今川を氏とし、遠江・駿河の守護大名、のち戦国大名。
  • 大内 おおうち 姓氏の一つ。室町時代、周防の守護大名。
  • 支倉六右衛門 → 支倉常長
  • 支倉常長 はせくら つねなが 1571-1622 江戸初期の仙台藩士。通称、六右衛門。1613年(慶長18)伊達政宗の正使としてイスパニア・ローマに使し、通商貿易を開くことを求めたが、目的を達せず20年(元和6)帰国。
  • 松本忠作
  • 平兼盛 たいらの かねもり ?-990 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。従五位上駿河守。家集「兼盛集」
  • 千利休 せんの りきゅう 1522-1591 安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び侘茶を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ自刃。
  • 古田織部 ふるた おりべ 1543-1615 安土桃山時代の茶人。茶道織部流の祖。名は重然。美濃の人。千利休の高弟。初め豊臣秀吉に仕えて同朋。秀吉の死後隠居し、茶道三昧の生活に入った。茶匠としての名声あがり、関ヶ原の戦には徳川方に功ありとして大名に復した。徳川家の茶道師範と称されたが、大坂夏の陣で陰謀を疑われ自刃。
  • 丿貫 べちかん/へちかん ?-? 戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人。京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも言われる。一説に拠れば医師曲直瀬道三の姪婿だといい、武野紹鴎の門で茶を修めたという。山科の地に庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって知られた。久須見疎安の『茶話指月集』(1640)によれば、天正15年(1587)に豊臣秀吉が主催して行われた北野大茶湯の野点において、丿貫は直径一間半(約2.7メートル)の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜ったという。
  • 紹鴎 じょうおう 1502-1555 室町後期の茶人。泉州堺の納屋衆の一人。もと武田氏、のち武野氏。一閑居士・大黒庵と号。珠光の門人宗陳・宗悟に茶道を学び、侘び茶の骨格を作り、千利休に伝えた。
  • 山県含雪
  • 亘利八右衛門 わたり 〓 蒲生氏郷の家臣。
  • 蒲生秀行 がもう ひでゆき 1583-1612 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生氏郷の嫡男。長男は忠郷。享年30。
  • 曹孟徳 → 曹操
  • 曹操 そう そう 155-220 三国の魏の始祖。字は孟徳。江蘇沛県の人。権謀に富み、詩をよくした。後漢に仕えて黄巾の乱を平定、袁紹を滅ぼし、華北を統一、魏王となる。没後武王と諡。その子丕が帝を称し魏を建て、追尊して武帝という。廟号は太祖。
  • 藤原秀衡 ふじわらの ひでひら ?-1187 平安末期の武将。基衡の子。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉を拠点に、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。
  • 清原武衡 きよはらの たけひら ?-1087 平安後期の豪族。武則の子。兄の子家衡を助けて金沢柵に拠り、源義家の大軍に囲まれ兵粮攻めにあい、柵は陥落し、捕殺。
  • 山崎家勝
  • 韓信 かん しん ?-前196 漢初の武将。蕭何・張良とともに漢の三傑。江蘇淮陰の人。高祖に従い、蕭何の知遇を得て大将軍に進み、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を孤立させて天下を定め、楚王に封、後に淮陰侯におとされた。謀叛の嫌疑で誅殺。
  • 樊�X はん かい ?-前189 漢初の武将。江蘇沛県の人。高祖劉邦に仕えて戦功を立て、鴻門の会には劉邦の危急を救い、その即位後に舞陽侯に封。諡は武侯。
  • 関右兵衛尉 〓 うひょうえのじょう
  • 田丸中務少輔 〓 なかつかさ しょうゆう
  • 蒲生源左衛門 がもう げんざえもん ?-1614 陸奥会津藩士。(人レ)
  • 蒲生忠右衛門
  • 蒲生四郎兵衛
  • 小倉孫作
  • 蒲生左文
  • 蒲生喜内 → 蒲生頼郷か
  • 北川平左衛門
  • 木村伊勢守 → 木村吉清
  • 木村吉清
  • 木村弥一右衛門 伊勢守の子。
  • 横田氏勝
  • 石田三成 いしだ みつなり 1560-1600 安土桃山時代の武将。幼名は佐吉。治部少輔と称す。近江の人。年少から豊臣秀吉に近侍、五奉行の一人となり、太閤検地など特に経済・財政の面に活躍した。佐和山19万石の城主。のち徳川家康を除こうとして挙兵、関ヶ原に敗れて京都で斬首された。
  • 松田尾張
  • 大道寺駿河 だいどうじ するが? → 大道寺政繁か
  • 大道寺政繁 だいどうじ まさしげ 1533-1590 武将。駿河守。(人レ)
  • 蘆名 あしな 姓氏の一つ。中世、会津地方の領主、戦国大名。三浦義明の子義連からおこる。
  • 平田
  • 松本
  • 佐瀬
  • 富田
  • 湯山隆信
  • 氏家吉継 うじいえ よしつぐ ?-1591 武将。大崎氏家臣。(人レ)
  • 成合平左衛門 なりあい? 〓
  • 絳灌 こうかん 人名。漢の高祖の臣である、絳侯の周勃と灌嬰。絳(コウ)は地名。山西省南部にある県。
  • 周勃 しゅうぼつ ?-BC169 漢代、沛(ハイ、江蘇省)の人。高祖の功臣。呂氏の乱を平定して、右丞相となったのち、絳侯(コウコウ)に封ぜられた。
  • 灌嬰 かんえい ?-BC176 前漢の武将。高祖に従って天下平定に尽力し、文帝のとき、太尉・丞相となった。(2) 灌嬰が築いたと伝えられる城の名。河北省唐県の西にある。
  • 佐々成政 さっさ なりまさ 1539-1588 安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕え、越中富山に受封、のち織田信雄を助けて豊臣秀吉と戦い、敗れて降り、九州平定に従い肥後隈本(熊本)に移封、一揆が起こり、罪を問われて切腹。
  • 立花
  • 黒田
  • 織田信雄 おだ のぶかつ 1558-1630 安土桃山時代の武将。法名、常真。信長の次子。初め伊勢国司北畠氏のあとをつぐ。信長の没後、徳川家康の支援により小牧山に秀吉と対戦。のち転封を拒んで改易された。大坂の陣ではひそかに家康に通じ、のち大和などに5万石を与えられる。
  • 鬼頭内蔵介
  • 前田利家 まえだ としいえ 1538-1599 安土桃山時代の武将。加賀金沢藩の祖。尾張の出身。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉没後は五大老の一人として秀頼を補佐した。
  • 織田信孝 おだ のぶたか 1558-1583 安土桃山時代の武将。信長の第3子。山崎の戦に秀吉とともに光秀を討ったが、のち柴田勝家と計り、信雄・秀吉を除こうとして成らず、自刃。
  • 蒲生左文郷可 〓 さとよし
  • 小倉豊前守
  • 上坂兵庫助
  • 関入道万鉄
  • 片倉備中守 → 片倉小十郎景綱
  • 片倉小十郎景綱 かたくら こじゅうろう かげつな 1557-1615 父は米沢八幡神社主・片倉景重。(日本史)/はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575)に政宗の近侍となり、軍師として重用されるようになる。
  • 小倉作左衛門
  • 蒲生源左衛門
  • 蒲生忠右衛門
  • 蒲生四郎兵衛
  • 梅原弥左衛門
  • 森民部丞 もり? みんぶのじょう
  • 門屋助右衛門
  • 寺村半左衛門
  • 新国上総介 にっくに かずさのすけ
  • 細野九郎右衛門
  • 玉井数馬助
  • 岩田市右衛門
  • 神田清右衛門
  • 外池孫左衛門 とのいけ 〓
  • 河井公左衛門
  • 蒲生将監
  • 蒲生主計助 〓 かずえのすけ
  • 蒲生忠兵衛
  • 高木助六
  • 中村仁右衛門
  • 外池甚左衛門
  • 町野主水佑 〓 もんどのすけ
  • 佐久間久右衛門
  • 佐久間源六
  • 上山弥七郎
  • 水野三左衛門
  • 鳥井四郎左衛門
  • 上坂源之丞
  • 布施次郎右衛門
  • 建部令史 たけべ 〓
  • 永原孫右衛門
  • 松田金七
  • 坂崎五左衛門
  • 速水勝左衛門
  • 関勝蔵
  • 小山小四郎
  • 斎藤実盛 さいとう さねもり ?-1183 平安末期の武士。もと在原氏、後に藤原氏。代々越前に住んだが、武蔵国長井に移り、初め源為義・義朝に、のち平宗盛に仕えた。平維盛に従って源義仲と戦った折、鬚髪を黒く染めて奮戦し、手塚光盛に討たれたという。
  • 満海
  • 曽我五郎 → 曾我時致
  • 曾我時致 そが ときむね 1174-1193 鎌倉初期の武士。河津祐泰の子。祐成の弟。幼名は箱王。五郎と称。
  • 蘇東坡 そとうば 蘇軾の別名。
  • 蘇軾 そ しょく 1036-1101 北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一人。字は子瞻、号は東坡(居士)。父の洵、弟の轍とともに三蘇と呼ばれる。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画もよくした。諡は文忠。「赤壁賦」ほかが「蘇東坡全集」に収められる。
  • 戒禅師
  • 王陽明 おう ようめい 1472-1528 明の大儒・政治家。名は守仁。字は伯安。陽明は号。浙江余姚の人。朱子学の格物説を批判して心即理を強調、後に致良知の説を唱えた。世にこれを陽明学または王学と称する。官は兵部尚書に至り、文成と諡された。著「伝習録」「王文成公全書」など。
  • 陸奥介行宗 むつのすけ ゆきむね 諡、念海。 → 伊達行朝か
  • 伊達行朝 だて ゆきとも 1291-1348 南北朝時代の武将。南朝側の武将として各地を転戦した。父は伊達基宗。後に名を行宗と改めた。伊達宗遠は息子。宮内大輔を称す。
  • 大膳太夫持宗 諡、天海。 → 伊達持宗
  • 伊達持宗 だて もちむね 1393-1469 室町時代前・中期の守護大名。伊達氏の第11代当主。第10代当主・伊達氏宗の嫡男。官位は兵部少輔。大膳大夫。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*難字、求めよ

  • 泉下 せんか 黄泉の下。死後の世界。あの世。
  • 日野節
  • 下風 げふ/げふう 屁をすること。また、屁。
  • 驚風 きょうふう 漢方で、小児の脳脊髄膜炎および脳脊髄膜炎様の症状。脳水腫や癲癇も指したらしい。急驚風(陽癇)と慢驚風(陰癇)とがある。
  • 中風 ちゅうふう (チュウフウ・チュウブとも)半身の不随、腕または脚の麻痺する病気。脳または脊髄の出血・軟化・炎症などの器質的変化によって起こるが、一般には脳出血後に残る麻痺状態をいう。古くは風気に傷つけられたものの意で、風邪の一症。中気。風疾。
  • 不仁 ふじん (1) 仁の道にそむくこと。いつくしみのないこと。(2) しびれて感覚のなくなること。
  • 馬痺風 ばひふう 馬脾風か。ジフテリアのこと。ジフテリアの漢方名。ばひふ。
  • 風僧
  • 三太郎 さんたろう (1) ばか。あほう。(2) 迷子の別称。(3) 丁稚・小僧の通称。
  • 甚六 じんろく (1) (ぼんやり育った)長男。総領息子をあざけっていう。(2) お人よし。おろかもの。ぼんやり。
  • 大剛 だいごう (タイゴウ・ダイコウとも)すぐれて強いこと。また、その人。
  • 坊主還り ぼうず がえり 坊主が還俗すること。また、その人。法師還り。
  • 雑輩 ざっぱい とるに足りない人物。つまらないやから。小者。
  • 深深・沈沈 しんしん (1) ひっそりと静まりかえっているさま。奥深く静寂なさま。(2) 寒気の身にしみるさま。
  • 沈沈 ちんちん (1) 静かなさま。特に、夜がふけわたってひっそりしたさま。(2) 奥深いさま。(3) 水が深いさま。
  • 手ずから てずから (ズの歴史的仮名遣ツは格助詞。カラは助詞「から」と同源。→から) (1) 直接自分の手を使って。自分の手で。(2) みずから。自身で。
  • 打鮑 うち あわび アワビの肉を細長く切り、うすく打ち延ばして干したもの。祝の席に酒の肴として用いた。うちのしあわび。のしあわび。
  • 弑する しいする (シスルの慣用読み) 主君・父を殺す。目上の者を殺す。
  • 心任せ こころまかせ 思うままにすること。随意。任意。
  • 寛厳 かんげん ゆるやかなことと、厳しいこと。
  • 重代 じゅうだい (1) 代を重ねること。祖先から代々伝わること。累代。(2) 先祖伝来の宝物。特に、太刀。
  • 余され者 あまされもの 邪魔にされて、仲間に入れてもらえない者。仲間はずれにされた者。余計者。きらわれもの。のけもの。
  • 物頭 ものがしら (1) 物の長。かしら。(2) 武家時代、弓組・鉄砲組などを率いる者。物主。武頭。足軽大将。
  • 緩怠 かんたい (1) 怠ること。なおざりにすること。遅滞。(2) 過失。手落ち。過怠。(3) 不作法。不届き。
  • 胸板 むないた (2) 鎧の部分の名。鎧の胴の前面の最上部。
  • 掛算 けさん
  • 堅躯 かたむくろ 頑固なこと。一徹なこと。片意地なこと。
  • 表裏者 ひょうりもの 外面と内心とが異なる者。うらぎりをする者。
  • 褒詞 ほうし ほめることば。
  • 矢叫び やたけび/やさけび (1) 物に矢を射当てた時、射手が声を揚げること。また、その叫び声。矢声。矢答え。(2) 戦いの初めに両軍が遠矢を射合う時、互いに高く発する声。やたけび。
  • 文段 もんだん 文章の各段。文章で述べられている一部分。くだり。条。ぶんだん。
  • 歌章
  • 幽婉 ゆうえん 幽艶。やさしく美しいこと。奥ゆかしく美しいこと。また、そのさま。
  • 雅麗 がれい みやびやかでうるわしいこと。
  • 愴凄 そうせい
  • 涙珠 るいじゅ 涙のしずく。涙を珠にたとえた語。
  • 弾ず
  • 高足 こうそく (1) (もと、すぐれた馬の意) 高弟に同じ。弟子の中で最もすぐれた人。高足。一番弟子。
  • 茶旨
  • 侘道
  • 宗匠 そうしょう 和歌・連歌・俳句・茶道などの師匠。
  • 釣花生け つりはないけ 花生けの一種。天井からつり下げて用いるもの。舟形・月形・釣瓶形など。釣花入れ。釣花器。
  • 無碍・無礙 むげ 〔仏〕障りのないこと。とらわれがなく自由自在なこと。また、障害のないこと。
  • 碧落 へきらく (1) あおぞら。碧空。(2) (世界の)はて。遠い所。
  • 幽懐 ゆうかい 胸底深く抱く思い。また、奥深い考え。幽襟(ゆうきん)。
  • 呑滅 どんめつ 敵を滅ぼして、その領地をわがものとすること。
  • 烏鵲 うじゃく カササギの別称。
  • 槊 さく 武器の名。柄の長いほこ。
  • 踏みしかる ふみしかる 怒りの形相で足をふんばる。
  • 凝然 ぎょうぜん じっとして動かないさま。
  • 侍坐 じざ 貴人のそば近くに従いすわること。
  • 深沈 しんちん (1) おちついて物事に動じないこと。沈着。(2) 夜のふけてゆくこと。夜がふけて物音の聞こえないこと。
  • 懇命 こんめい 親切なおおせ。ねんごろな心ぞえ。
  • 被ける かずける (1) 頭にかぶらせる。(2) 祝儀や褒美として衣類をその人の肩にかけさせる。かずけものを与える。(3) かこつける。ことよせる。(4) いやがるものなどを押しつける。責任などを転嫁する。
  • 我武者 がむしゃ 血気にはやり向うみずであること。むちゃくちゃに振る舞うこと。また、そういう人。
  • 事と品による ことと しなに よる 事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。
  • 凄然・淒然 せいぜん (1) 寒いさま。すずしいさま。(2) さむざむとしていたましいさま。(3) さびしさが身にしみるさま。
  • 惻然 そくぜん あわれんで心を痛めるさま。
  • 情懐 じょうかい 心に思うこと。おもい。
  • 見懲らし みごらし ある人をこらしめて、他の人のいましめとすること。みこらしめ。
  • 見継ぐ みつぐ (1) 見つづける。見とどける。(2) (「貢ぐ」とも書く)力を添えて助ける。助勢する。合力する。
  • 理合い りあい わけあい。筋道。
  • さなきだに そうでなくてさえ。
  • 有り内 ありうち 有打。「うち」は接尾語)「ありがち(有勝)」に同じ。世の中によくあること。ありがち。
  • 嘱賂を飼う → そくら/そくろをかう
  • そくら/そくろ けしかけること。おだてること。入れ知恵すること。扇動。そくろ。
  • そくろをかう おだてる。扇動する。けしかける。そくろをかう。
  • 秕政・粃政 ひせい (「秕」「粃」ともに悪い意)悪い政治。悪政。
  • 後詰 ごづめ (1) 応援のため後方に控えている軍勢。(2) 敵の背後から攻める軍勢。後攻め。
  • 旅 りょ (2) 易の六十四卦の一つ。上卦は離(火)、下卦は艮(山)。火山旅ともいう。火が山を焼くときは次々と燃え移って止まらないように、旅人が転々と宿舎を移るさま。
  • 材能 さいのう 才能。
  • 狼戻 こんれい 狠戻か?
  • 狼戻 ろうれい (1) [戦国策燕策]狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。一説に「狼」と「戻」は同義で、ともに「もとる」意とも。(2) [孟子滕文公上]散乱すること。狼藉。
  • 豪黠 ごうかつ 豪猾か。強暴で勢力をふるって秩序を乱す。また、そのような者。「猾」はすべって、みだれる。ルールをはずす。
  • 無異 ぶい (1) 何事も起こらず、変りのないこと。平穏なこと。(2) 健康。壮健。(3) おとなしいこと。
  • 藩屏 はんぺい (1) まがき。囲い。(2) 帝室を守護すること。また、その者。藩翰。藩籬。(3) 直轄の領地。膝元の地。
  • イタチ花火 - はなび 花火の一種。火をつけると、イタチが走り回るように動くもの。
  • 物狂わしい ものぐるわしい ものぐるおしい。心が異常な状態に陥りそうである。
  • 火炎魂
  • 殊勝気 しゅしょうげ (「げ」は接尾語)いかにも神妙なさま。いかにももっともらしいさま。
  • 珍重 ちんちょう (1) 珍しいとして大切にすること。(2) めでたいこと。祝うべきこと。(3) 手紙文などで、人に自重自愛をすすめる語。(4) 俳諧で、点者の評点の一つ。(5) 禅僧が用いる辞去の挨拶。ごきげんよう。
  • 偏倚 へんい (「倚」もかたよる意) (1) かたよること。(2) 偏差に同じ。
  • 人品骨柄 じんぴん こつがら その人の人柄や品格。
  • 三蓋笠 さんがいがさ (1) 紋所の名。3層にかさなった笠を側面から見た形。三階笠。(2) (1) と同様の意匠を、武具・馬標・指物などに用いたもの。三段笠。
  • 熊の棒
  • 怯懦 きょうだ 臆病で意志の弱いこと。
  • 貶する へんする (1) 地位または身分をおとしさげる。(2) そしる。けなす。
  • 遅疑 ちぎ 疑い迷ってためらうこと。ぐずぐずして決行しないこと。
  • 覆轍 ふくてつ (くつがえった車の轍の意から)前人の失敗のあと。失敗の前例。
  • 荒気 あらき (「荒儀(あらぎ)」から変化した語か)荒々しい乱暴な気性、気持ち。また、荒々しく事をおこなうさま。乱暴。
  • 鶏肌 とりはだ
  • 鎧下 よろいした 甲冑を着用する際の下着の衣類の総称。
  • 練絹 ねりぎぬ 練ってやわらかにした絹布。ねやしぎぬ。
  • 鎧直垂 よろい ひたたれ 錦・綾・練絹・生絹などで華麗に仕立て、鎧の下に着る直垂。袖細で袖口と袴の裾口を括緒で括り、のちには菊綴じをつけた。平安末から中世に着用した。←→長直垂。
  • 戦袍 せんぽう (1) よろいの上に着る衣。陣羽織の類。(2) 戦闘に用いる衣。戎衣。
  • 施為 しい 事をほどこしなすこと。しわざ。
  • 憂惧・憂虞 ゆうぐ うれえ恐れること。憂懼。
  • 諫言 かんげん 目上の人の非をいさめること。また、その言葉。
  • 瞋る いかる 目をむいて怒る。
  • 御仰せ おんおおせ
  • 入定 にゅうじょう 〔仏〕(1) 禅定に入ること。←→出定。(2) 高僧が死去すること。入滅。入寂。
  • 宿智 しゅくち 宿知。長いあいだ経験を積んで身につけた知恵。
  • 宿福 しゅくふく 前世に積んだ福徳。宿徳。
  • 虚誕 きょたん 事実無根のことをおおげさに言うこと。うそ。でたらめ。
  • 梵天 ぼんてん インド哲学における万有の原理ブラフマン(梵)を神格化したもの。ヒンドゥー教の三神の一つ。仏教では色界の初禅天の主として、帝釈天と並んで諸天の最高位を占め、仏法の守護神とされる。密教では十二天の一天として上方を守る。また、色界の初禅天。欲界を離れた天上界。大梵天。梵天王。梵王。
  • 帝釈天 たいしゃくてん 梵天と共に仏法を護る神。また十二天の一つで東方の守護神。須弥山頂の�利天の主で、喜見城に住むとされる。インド神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。天帝釈。釈提桓因。
  • 想察 そうさつ あれこれと事情を推測すること。おもいやること。推察。
  • 浅人 せんじん 浅薄な人。思慮の浅い人。
  • � まき/カイ (1) 川の水がまわりながら流れる。(2) 川の流れをさかのぼる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


2011.12.14 8:38
ポメラ購入2週間。佐藤栄太の短編校正が18件、長岡半太郎と幸田露伴『蒲生氏郷』の資料メモ入力がB5ルーズリーフ数ページ分、それから武田祐吉『古事記』校正が底本換算で13ページ分と日記入力。

メモ入力は横書きで、テキスト校正は縦書きでと頻繁に使い分けている。ファイルごとに縦横仕様を記憶してくれるわけではないので、ぜひとも横書き/縦書きのショートカットキーを用意してほしいところ!!

2画面表示モードも同期スクロールしてくれるわけではないので、オリジナルと現代表記を並べて編集するとか、原文と翻訳文を並べて編集するような使い方には難があると思う。注記一覧や新旧漢字一覧のようなファイルを参照するには適している。

テキスト分割には「一通両断! 1.1.1」、結合には「TextChain 1.5.2」、ファイルネーム変更には「Name Editor 1.0.1 PPC」を試用(Mac OS 9.2)。佐藤栄太テキスト6万文字(124KB)は、タイトル直前に分割記号を手入力のうえで20分割。武田祐吉『古事記』16万文字(320KB)は、見出し字下げの注記を利用して23分割。「02kochu_kojiki.txt_01.txt」のような行儀の悪い拡張子のままでうっかりポメラ側へ持っていってしまったものの、すんなりと認識・編集できた。

SDカードを100%信用していいものか判断つかず、ややもすると、PCにオリジナル、SDカードにそのコピー、ポメラにそのコピー、ポメラ編集後にコピー2、SDカードにコピー2のコピー、PCにコピー2のコピー、といったようなバックアップのドッペルゲンガー・シンドロームに見舞われることになる。めまいにも似たなつかしさ。

2ちゃんなどのレビューにあるような、筐体のゆがみはとくにない。中央下のたわみや段差もなし。各ゴム足もいまのところしっかりしている。入力中のガタつきもない。PowerBook や iBook よりもよほどしっかりしてるんじゃまいかゴム足。

座卓で利用するような、手首がひじよりも上になるばあいには、変換のためのスペースバーを親指で打つたびに手前の段差がじゃまをして打てない……という症状はたしかにある。手首の位置がひじとフラットもしくはそれ以下になるときには、スペース前の段差が気になることはまったくない。

(以上、iBook 入力。

-----------------------------------
2011/12/13 19:03 晴れ。
ホームセンターにてパナソニックのソーラーパネル・バッテリーライトを見る。単三形充電地レボルタ2本がついて4800円。「太陽光フル充電に15時間」というのが気に入らない。

・タブレットの件。
・iPod の件。
・目の疲れの件。

夕方、直産店にてリンゴの味見。

2011/12/13 20:09
佐藤栄太テキスト全19件、校正終了!!

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2011/12/14 晴れ。
昨日、佐藤栄太の校正が全終了。今日は『蒲生氏郷』2のメモ入力が30分。残り2時間まるまるを『古事記』校正のつづき。

鼻水はだいぶよくなったが、まだ、のどがイガラっぽい。
台所のゴミかたづけ、シンクみがき、シャツの洗濯。

ポメラのおもてと画面をスキャンしてみる。やはり、うまくいかず。

-----------------------------------
2011/12/15 01:27
ほぉーー、ポメラの表計算CSV機能をはじめて使ってみる。期待しなかったわりに使えそう。編集中、文字の拡大縮小にあわせて窓の幅も変更される。文字を小さくすることで全体をおおまかに見渡すことができるようになる。もちろん、カット&ペーストができるので、シフトキーを押しながらグループ選択して単純な移動が可能。

2011/12/15 02:01
お、バッテリーアイコンが減少。

-----------------------------------
2011/12/16 19:04
18:00 工程表ステップ2、完了宣言。
鼻水、のどともにかなり改善。

2011/12/16 20:09
あれ、今日になってまたボタン電池のアイコンが点滅???

Ctrl+カーソルキーが機能してくれないので、ATOKから MS-IME にしばらく切り替えてみる。

-----------------------------------
2011/12/17 18:36 晴れ。冷たい北風。
乾電池アイコン減少3日目。

2011/12/17 18:51
ん、単三エネループ交換。時刻設定がクリアに? これってボタン電池の意味なくない?
3週目はバックライトをMAXで使用してみる。

ここまで、『古事記』校正40ページ分。

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2011/12/18 18:48 小雪のち晴れ。
銭湯、リンゴの箱買い700円。アイスを食べて駅前のバス停へ行くも、日曜・祝日は運休。ゴリラへ。太陽電池パネルあり。所持金なし。コンビニでピザまん・肉まん・のど飴。図書館へ。宮崎駿『出発点』、いせひでこ『あの路』。

FM、山下達郎夫婦放談、ららパークへ。再度図書館。

あら、今日もボタン電池アイコンが点滅・・・。

2011/12/18 19:06
『古事記』上巻、校正終了。

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(以上、ポメラ日記。ほぼポメ入力。




*次週予告


第四巻 第二二号 
蒲生氏郷(三)幸田露伴


第四巻 第二二号は、
一二月二四日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第二一号
蒲生氏郷(一)幸田露伴
発行:二〇一一年一二月一七日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉        
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  •  はしがき
  •  庄内三郡
  •  田川郡と飽海郡、出羽郡の設置
  •  大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領
  •  高張田地
  •  本間家
  •  酒田の三十六人衆
  •  出羽国府の所在と夷地経営の弛張
  •  
  •  奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  •  出羽国分寺の位置に関する疑問
  •  これは「ぬず」です
  •  奥羽地方の方言、訛音
  •  藤島の館址――本楯の館址
  •  神矢田
  •  夷浄福寺
  •  庄内の一向宗禁止
  •  庄内のラク町
  •  庄内雑事
  •   妻入の家 / 礫葺の屋根 / 共同井戸 / アバの魚売り / 竹細工 /
  •   カンジョ / マキ、マケ――ドス / 大山町の石敢当 / 手長・足長 /
  •   飛島 / 羅漢岩 / 玳瑁(たいまい)の漂着 / 神功皇后伝説 / 花嫁御
  •  桃生郡地方はいにしえの日高見の国
  •  佳景山の寨址
  •  
  •  だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音によってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。(略)近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音だということで、小学校ではつとめて矯正する方針をとっているがために、子どもたちはよほど話がわかりやすくなったが、老人たちにはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、じつに奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふっぱりきたものを」などは、ぜんぜん奥羽なまり丸出しの感がないではない。(略)
  •  また、遠く西南に離れた薩隅地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」とよばれている。なお歴史的に考えたならば、上方でも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、篠がシヌ、相模がサガム、多武の峰も田身(たむ)の峰であった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島のごときも、『延喜式』にはあきらかにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本参られて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊の幸わうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁な中部地方では後世しだいになまってきて、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった僻遠地方には、まだ昔の正しいままの発音が遺っているのだと言ってよいのかもしれぬ。(略)
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  •  館と柵および城
  •  広淵沼干拓
  •  宝ヶ峯の発掘品
  •  古い北村
  •  姉さんどこだい
  •  二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑
  •  日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏
  •  天照大神は大日如来
  •  茶臼山の寨、桃生城
  •  貝崎の貝塚
  •  北上川改修工事、河道変遷の年代
  •  合戦谷付近の古墳
  •  いわゆる高道の碑――坂上当道と高道
  •  
  •  しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗る村民も少くないらしい。(略)先日、出羽庄内へ行ったときにも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉・神護景雲三年(七六九)に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年(七七二)に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命の後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかもしれぬ。前九年の役後には、別に屋・仁土呂志・宇曽利あわして三郡の夷人安倍富忠などいう人もあった。かの日本将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館がはたして安倍氏の人の拠った所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かもしれぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野氏の多いのもちょっと目に立った。(略)今野はけだし「金氏」であろう。前九年の役のときに気仙郡の郡司金為時が、頼義の命によって頼時を攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものとみえる。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。その金に、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏をオオノ、紀氏をキノと呼ぶのと同様である。
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  •  
  •  私はいつも神さまの国へ行こうとしながら地獄の門をもぐってしまう人間だ。ともかく私ははじめから地獄の門をめざして出かけるときでも、神さまの国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局、地獄というものに戦慄したためしはなく、バカのようにたわいもなくおちついていられるくせに、神さまの国を忘れることができないという人間だ。私はかならず、いまに何かにひどい目にヤッツケられて、たたきのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらしてまっさかさまに落とされてしまう時があると考えていた。
  •  私はずるいのだ。悪魔の裏側に神さまを忘れず、神さまの陰で悪魔と住んでいるのだから。いまに、悪魔にも神さまにも復讐されると信じていた。けれども、私だって、バカはバカなりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神さまを相手に組み打ちもするし、蹴とばしもするし、めったやたらに乱戦乱闘してやろうと悲愴な覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。ずいぶん甘ったれているけれども、ともかく、いつか、化の皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落とされる時を忘れたことだけはなかったのだ。
  •  利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言うだろう。私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、なんとでも言うがいいや。私は、私自身の考えることもいっこうに信用してはいないのだから。「私は海をだきしめていたい」より)
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  •  
  •  (略)父がここに開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入の『古今集』をもらった。たぶん田安家にたてまつったものであっただろうとおもうが、佳品の朱できわめてていねいに書いてあった。出所も好し、黒川真頼翁の鑑定を経たもので、わたしが作歌を学ぶようになって以来、わたしは真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはりいっしょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年(一九二四)暮の火災のとき灰燼になってしまった。わたしの書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、かろうじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失せた。わたしは東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思い出して残念がるのであるが、何ごとも思うとおりに行くものでないと今ではあきらめている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとしたことにもとづくものがあると知って、それであきらめているようなわけである。
  •  まえにもちょっとふれたが、上京したとき、わたしの春機は目ざめかかっていて、いまだ目ざめてはいなかった。今はすでに七十の齢をいくつか越したが、やをという女中がいる。わたしの上京当時はまだ三十いくつかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」とわたしに教えた女中である。その女中がわたしを、ある夜、銭湯に連れて行った。そうすると浴場にはみな女ばかりいる。年寄りもいるけれども、キレイな娘がたくさんにいる。わたしは故知らず胸のおどるような気持ちになったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかもしれない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことがわかり、女中は母にしかられて私はふたたび女湯に入ることができずにしまった。わたしはただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。「三筋町界隈」より)
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  • 原子力の管理
  •  一 緒言
  •  二 原子爆弾の威力
  •  三 原子力の管理
  •  
  • 日本再建と科学
  •  一.緒言
  •  二.科学の役割
  •  三.科学の再建
  •  四.科学者の組合組織
  •  五.科学教育
  •  六.結語
  •  
  • 国民の人格向上と科学技術
  • ユネスコと科学
  •  
  •  原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。「日本再建と科学」より)
  •  科学は呪うべきものであるという人がある。その理由は次のとおりである。
  •  原始人の闘争と現代人の戦争とを比較してみると、その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある。個人どうしのつかみ合いと、航空機の爆撃とをくらべて見るがよい。さらに進んでは人口何十万という都市を、一瞬にして壊滅させる原子爆弾にいたっては言語道断である。このような残虐な行為はどうして可能になったであろうか。それは一に自然科学の発達した結果にほかならない。であるから、科学の進歩は人類の退歩を意味するものであって、まさに呪うべきものであるという。「ユネスコと科学」より)
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  • J・J・トムソン伝
  •  学修時代
  •  研究生時代
  •  実験場におけるトムソン
  •  トムソンの研究
  •  余談
  • アインシュタイン博士のこと 
  •  帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気を帯びたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉されたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。(略)
  •  電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物が一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性を有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個の忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快である。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  • 総合研究の必要
  • 基礎研究とその応用
  • 原子核探求の思い出
  •  湯川君の受賞
  •  土星原子模型
  •  トムソンが電子を発見
  •  マックスウェル論文集
  •  化学原子に核ありと発表
  •  原子核と湯川君
  •  (略)十七世紀の終わりに、カヴェンジッシュ(Cavendish)が、ジェレキ恒数〔定数〕・オーム則などを暗々裏に研究していたが、その工業的価値などはまったく論外であった。一八三一年にファラデー(Faraday)が誘導電流を発見したけれども、その利用は数十年後に他人によって発展せられ、強電流・弱電流・変圧器・モーターなどにさかんに用いられ、結局、電気工学の根幹はこの誘導電流の発見にもとづくものといってよろしい。(略)近年は電気工学の一部門として、電子工学なるものが生まれた。その源をたずねてみると、J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が気体中の電気伝導を研究したのに始まっている。気体が電離すると、物質は異なっていても必ず同じ帯電と同じ質量を持っている微細なものが存在する。すなわち電子であって、今日まで知られているもっとも微質量の物質である。その帯電を利用し、自由にこれが速度を調節することが可能であることを認め、はじめてフレミング(Fleming)によって無線通信を受けるに使われた。(略)
  •  つぎに申し上げるのは、光電池のことである。ドイツの片田舎ウォルフェンブッテル(Wolfenbu:ttel)の中学教員エルステル(Elster)とガイテル(Geitel)は、真空内にカリウム元素を置き、これに光をあてると電子の発散するのを認め、ついにこれをもって光電池を作った。近ごろではカリウムよりセシウム(Caesium)が感度が鋭敏であるから、物質は変化したけれども、その本能においては変わらない。この発見者はこれを工業的に発展することはべつに考えなかったが、意外な方面に用いられるようになった。すなわち光度計としては常識的に考えうるが、これを利用してドアを開閉し、あるいは盗賊の警戒にもちい、あるいは光による通信に利するなど、意外なる利用方法が普通におこなわれるようになった。もっともさかんに使われるのは活動写真のトーキーであろう。光電池の創作者にこの盛況を見せ得ないのは残念である。
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  •  (略)当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、然様さようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひき鷹を肘にして遊ぶほどの身分でもなく、さればといって何の洒落た遊技を知っているほど怜悧(れいり)でもない奴は、他に知恵がないから博奕を打って閑(ひま)をつぶす。戦(いくさ)ということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチが流行る。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭(か)ける料がなくなる。負ければ何の道の勝負でもくやしいから、賭ける料がつきてもやめられない。仕方がないから持ち物をかける。また負けて持ち物を取られてしまうと、ついには何でも彼でもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついには賭けるものがなくなる。それでも剛情にいまひと勝負したいと、それでは乃公(おれ)は土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度、戦のある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約を果たせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束に従ってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、分捕(ぶんどり)して渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前(とまえ)受け取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有ではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。

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