幸田露伴 こうだ ろはん
1867-1947(慶応3.7.23-昭和22.7.30)
本名、成行(しげゆき)。江戸(現東京都)下谷生れ。小説家。別号には、蝸牛庵、笹のつゆ、雪音洞主、脱天子など。『風流仏』で評価され、「五重塔」「運命」などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。第1回文化勲章受章。娘の文は随筆家。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-Rohan_Koda.jpg」より。


もくじ 
蒲生氏郷(一)幸田露伴


ミルクティー*現代表記版
蒲生氏郷(一)

オリジナル版
蒲生氏郷(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/card2709.html

NDC 分類:289(伝記 / 個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html





蒲生がもう氏郷うじさと(一)

幸田露伴


 大きい者や強い者ばかりがかならずしも人の注意に値するわけではない。小さい、弱い平々凡々の者もなかなかの仕事をする。蚊のくちばしといえば言うにもらぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊のクチバシは、その昔、その川のそばの山崎村にんでいた一夜庵いちやあん宗鑑そうかんはだえして、そして宗鑑におこりをわずらわせ、それより近衛このえ公をして「宗鑑が 姿を見れば 餓鬼つばた」の佳謔かぎゃくを発せしめ、したがって宗鑑に「飲まんとすれど 夏の沢水」の妙句をつけさせ、俳諧はいかい連歌れんがの歴史の巻首を飾らせるにおよんだ。はえといえばくだらぬ者の上なしで、漢の班固はんこをして、青蝿せいようは肉汁を好んでおぼれ死にすることを致す、と笑わしめたほどの者であるが、そのうるさくて忌々いまいましいことはそうおう陽修ようしゅうをして憎青蝿賦の好文字をなすに至らしめ、そのえば逃げ、逃げてはまた集まるさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵になぞらえて、さすがの伊達政宗をしてこうべしてともかくも豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡りょうけんを定めしめた。微物凡物もまたかくのごとくである。もとより微物凡物をかろんずべきではない。そこで今の人が好んで微物凡物、言うにらぬようなもの、くだらぬものの上なしというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。のみのような男、シラミのような女が、どういたした、こうつかまつった、というがごとき筋道の詮議立てやなんぞに日を暮らしたとて、もっとも千万なことで、その人にとってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡をのぞいているのが立派な事業であると同様であろう。が、世の中はおはん長右衛門ちょもん、おべそや甘郎あまろうばかりで成り立っているわけでもなく、バチルスやヒドラのみの宇宙でもない。獅子ししや虎のようなもの、ワニやシャチホコのようなものもあり、人間にも凡物でない非凡な者、悪くいえばひどい奴、ほめていえば偉い者もあり、矮人わいじんや普通人でない巨人もあり、善なら善、悪なら悪、クセ者ならクセ者ですぐれた者もある。それらの者を語ったり観たりするのも、流行はやる流行らぬは別として、まんざらおもしろくないこともあるまい。また人の世というものは、その代々でおのおの異なっている。自然そのままのような時もある、形式ずくめでまりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情欲崇拝の代もある、信仰牢固ろうこの代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなってたぎりきった湯のような代もある、バイきんのうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷たくて活気のとぼしい水のような代もある。その中でたぎり立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、またおもしろくないこともあるまい。細かいことを語る人は今少なくない。で、べつに新しい発見やなんぞがあるわけではないが、たまのことであるから、たぎった世の巨人がどんなものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蝿のことについて今あげた片倉小十郎や伊達政宗に関連して、天正十八年(一五九〇)陸奥むつ出羽でわの鎮護の大任を負わされた蒲生がもう氏郷うじさとを中心とする。
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家ととらわれてしまうのもうるさい。考証家、穿鑿せんさく家、古文書いじり、紙魚しみのバケモノと『続西遊記』にののしられているようなそういう者の真似まねもしたくない。さればとて古い人を新しく捏直こねなおして、何のよりどころもなく自分勝手の糸を疝気せんき筋にひっぱりまわして変な牽糸あやつり傀儡にんぎょうをはたらかせ、芸術家らしくおつにすますのなぞは、地下の枯骨ここつに気の毒でできない。おおよそは何かしらによって、手製の万八まんぱちを無遠慮に加えず、こうもあったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼やりょうの縁側に団扇うちわをふるって放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でもない。世界大戦はすんだとはいえ、どこかしらで大なり小なりのちからこぶを出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁ほるいを造ったり、造艦所をガタつかせたりしている。それでも先々、女房には化粧をさせたり、子どもには可憐かれん衣服なりをさせたりして、親父おやじ殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押しよせてきたぞ、ひどい目にあわぬうちに早く逃げろ、なぞということはないが、永禄・元亀・天正の頃は、とても今の者が想像できるような生やさしい世ではなかった。資本主義も社会主義もありはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕とうこんを談ずるようならちもないことで、何もかもメチャメチャだった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿けいき地方は権力者の争い騒ぐところであったから、早くより戦乱のちまたとなった。当時の武士、ケンカ商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄こにだ取り、すなわち物取りを専門にしている武士というものも、然様さようさようチャンチャンバラばかり続いているわけではないから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲むくらいのことだが、犬をひきたかひじにして遊ぶほどの身分でもなく、さればといって何の洒落しゃれた遊技を知っているほど怜悧れいりでもない奴は、他に知恵がないから博奕ばくちを打ってひまをつぶす。いくさということが元来バクチ的のものだからたまらないのだ、バクチで勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることがあろう、戦乱の世はいつでもバクチが流行はやる。そこで社や寺はバクチ場になる。バクチ道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残なごりだ。そこでバクチのことだから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者はける料がなくなる。負ければ何の道の勝負でもくやしいから、ける料がつきてもやめられない。仕方がないから持ち物をかける。また負けて持ち物を取られてしまうと、ついには何でもでもかける。いよいよ負けてまた取られてしまうと、ついにはけるものがなくなる。それでも剛情にいまひと勝負したいと、それでは乃公おれは土蔵ひとつかける、土蔵ひとつをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度、いくさのある節にはかならず乃公が土蔵ひとつを引き渡すからというと、その男が約を果たせるらしい勇士だと、ウンよかろうというので、その口約束に従ってコマをまわしてくれる。ひどい事だ。自分の土蔵でもないものを、分捕ぶんどりして渡す口約束でバクチを打つ。相手のものでもないのにバクチで勝ったら土蔵ひと戸前とまえ受け取るつもりで勝負をする。こういうことが稀有けうではなかったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマもあったものではない。そうかと思うと一方の軍が敵地へ行き向かうときに、敵地でもなくわが地でもない、わが同盟者の土地を通過する。その時その土地の者が敵方へ同情をよせていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶してその一軍に便宜べんぎを供給しない。つまり遊歴者・諸芸人を勤倹きんけん同盟の村で待遇するように待遇する。するとその軍の大将が武力を用いればなんとでも随意にできるけれど、よい大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押し切って宿舎するわけにはいかない。憎いとは思いながらも、非常の不便をしのび困苦を甘受せねばならぬ。こういう民衆の態度や料簡方りょうけんかたは、今ではちょっと想像されぬが、なかなか手ごわいものである。現にいま語ろうとする蒲生がもう氏郷うじさとは、豊臣秀吉すなわち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任をおびていたのである。しかるに葛西かさい・大崎の地に一揆いっきがおこって、その地の領主木村父子を佐沼の城にかこんだ。そこで氏郷はこれをたすけて一揆を鎮圧するために軍をひきいて出張したが、途中の宿々しゅくじゅくの農民どもは、宿も借さなければ薪炭しんたんなど与うる便宜をも峻拒しゅんきょした。これらは伊達政宗の領地で、政宗は裏面はとにかく、表面は氏郷とともに一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りするわけにはいかぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬のときにあたって風雪の露営を幾夜もあえてした困難は察するにあまりある。こういう場合、戦乱の世の民衆というものはなかなかに極度まで自己らの権利を残忍に牢守ろうしゅしている。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩もあだもあるわけはない無関係の将士に対して、民衆は剽盗ひょうとう的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代よりその証左しょうさは歴々と存していて、ことに足利あしかが氏中世ころから敗軍の将士の末路はたいてい土民のために最後の血を瀝尽れきじんさせられている。ひとり明智光秀が小栗栖おぐるす長兵衛ちょうべえに痛い目を見せられたばかりではない。こういうように民衆もなかなか手ごわくなっているのだから、不人望の資産家などの危険はもちろんのこと想察そうさつにあまりある。そのかわりまたひどい領主や敵将に出遇であった日には、それこそ草を刈るがごとくに人民は生命も取られれば財産も召し上げられてしまう。で、つまり今の言葉でいう搾取さくしゅ階級も被搾取階級も、いずれもこれも「力の発動」にまかせられていた世であった。理屈も糸瓜へちまもあったものではなかった。債権無視、貸借関係の棒引き、すなわち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。こうの師直もろなおにとっては臣下の妻妾さいしょうはみな自己の妻妾であったから、師直の家来たちは、ご主人もよいけれど女房の召し上げは困ると言ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」をおこなわせたらしく想われる。どこの領主でも兵卒を多く得たいものはそういうことをあえてするをまなかったから、共婚主義などはずいぶんふるくさいことである。滅茶めちゃ苦茶くちゃなことの好きなものには実にい世であった。
 こういうおそろしい、そしてバカげた世が続いた後に、民衆も目覚めてくれば為政者・権力者も目覚めて来かかったとき、この世に現われて、みずからも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾ふんきゅうにおちいっていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐だいごの醍の字を忘れて、まごまごしていた佑筆ゆうひつに、大の字でよいではないかと言った秀吉は、じつに混乱から整理へと急いで、たとえば乱れあかづいた髪を歯のあらい丈夫なくしでゴシゴシとかいて整えそろえていくようなことをした人であった。多少の毛髪は引き切っても引き抜いてもかまわなかった。そのために少しくらいは痛くってもかまうものかという調子でやりつけた。ところがむすぼれた毛のひとかたまりグッとくしの歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒めんどうな奴、ひとかたまり引ッコ抜いてしまえ、と天下整理の大旆たいはいのもとに四十五か国の兵をひきいてめ下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだひとかたまりのむすぼれがあって、工合ぐあいよく整理のくしの歯にしたがってけなければ引ッコ抜かれるか�断ひっちぎられるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗まさむねは十八歳で父輝宗てるむねから家をうけた「えら者」だ。天正の四年(一五七六)に父の輝宗が板屋峠板谷いたやとうげをこえて大森に向かい、相馬弾正だんじょう大弼たいひつと畠山右京亮うきょうのすけ義継よしつぐ大内おおうち備前定綱さだつなとの同盟軍を敵に取って兵を出したとき、年はわずかに十歳だったが、先鋒せんぽうになろうと父にうたくらいに気嵩きがささかしかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、たいていの者は低級雑誌を耽読たんどくしたり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことをたいしたことのように思っているほどの年齢だ。それがどうであろう、十八で家督相続してから、補佐の良臣があったとはいえ、もう立派に一個の大将軍になっていて、その年のうちに、反復常無しであった大内備前を取って押さえて、今後異心なく来たり仕えるはずに口約束をさせてしまっている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年(一五九〇)まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名あしな・佐竹・相馬・岩城いわき・二階堂・白川・畠山はたけやま・大内、これらを向こうにまわしていつ返しつして、しだいしだいにり勝って、すでに西は越後境、東は三春みはる、北は出羽にまたがり、南は白川白河しらかわか〕を越して、下野しもつけの那須、上野こうつけ館林たてばやしまでも威炎いえんは達し、その城主らが心を寄せるほどに至っている。ことに去年、蘆名あしな義広よしひろとの大合戦に、さすがの義広をなびけて常陸ひたちに逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津あいづを乗っ取り、生まれたところの米沢城から乗り出して会津に腰をすえ、これからいよいよ南に向かって馬を進め、まず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢いになっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名をって会津を取ったところで、部下の諸将らが大いに城を築き塁を設けて、根を深くしへたを固くしようという議を立てたところ、さすがは後に太閤たいこう秀吉をして「クセ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に付してしまった。いわば少しばかり金ができたからとて公債を買っておこうなどという、そんなシラミッたかりの魂魄たましいとは魂魄が違う。秀吉、家康はもちろんのこと、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻のごとくに乱れて、馬烟うまげむりときの声、金鼓きんこの乱調子、焔硝えんしょうの香、鉄と火の世の中に生まれてきたすぐれた魂魄はナマヌルな魂魄ではない、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々としてむにやまれぬ猛炎もうえんき出し白光を迸発ほうはつさせているのだ。いうまでもなくわが光をもって天下をおおおう、天下をしてわが光を仰がせよう、といきり立っているのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙へんぴ欝々うつうつとして蟠居ばんきょしようや、時を得、機に乗じて、奥州駒おうしゅうごまひづめの下に天下を蹂躙じゅうりんしてくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書をにぎったらべそ子嬢に結婚を申し込もうなんと思い夢魂むこん七三しちさんにへばりつくのとはちと違っていた。
 諸老臣の深根固蔕こたいの議をウフンと笑ったところは政宗もじつによい器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところがこの火の玉より今すこしく大きい火の玉が西の方より滾転こんてん殺到してきた。命にしたがわずちょうかろんずるというので、節刀を賜わって関白がいよいよ東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗があって、迂闊うかつに取りかたづけられる者ではなかった。その他はろくろくのやから、関白殿下の重量が十分に圧倒するにりていたが、北条氏はとにかく八州に手がのびていたので、ムザとは圧倒されなかった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金をたくさん持って武者修行、悪くいえば漂浪してきた伊勢新九郎〔北条早雲〕は、金貸しをして利息を取りながら親分肌を見せてはだんだんと自分のところへ出入りするさむらいどもを手なずけてついに伊豆・相模に根をおろし、それからしだいに膨張ぼうちょうしたのである。この早雲そううんという老夫おやじもなかなか食えない奴で、三略さんりゃく』の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと言ったという大きなところを見せているかと思うと、主人が不取締ふとりしまりだと下女が軒端のきばかやを引きぬいてきつけにする、などと下女がヤリテンボウなことをする小さな事にまで気の届いている、すさまじい聡明そうめいな先生だった。が、金貸しをしたというのはけだし虚事そらごとではなかろう。地生じおいの者でもなし、大勢で来たのでもなし、主人に取り立てられたというのでもなし、そんなことでもしなければ機微にも通じがたく、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻ぬぐいをしてやりやりして、ついにおのずからなる勢力を得て顕栄けんえいの地に達したという話だ。うそ八百万両も貸付けたら小人島びとじまの政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲はよかったが、そののち氏綱うじつな氏康うじやす、これもまずよし、氏康の子の氏政うじまさにいたっては世襲財産で鼻の下の穴をうずめている先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴にきつけを作ることまで知った長氏ながうじ〔早雲〕に起こって、生の麦をすぐに炊けるものだと思っていた氏政うじまさに至って、もうみゃくはあがった。麦のきようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打うちができるものではない。関白がたびたび上洛じょうらくをすすめたのに、悲しいことだ、お坊さんカラ威張いばりで、弓矢でこいなぞと言ったからたまらない。待ってましたとばかりに関白の方では、この大石を取れば碁は世話なしに勝ちになると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田さなだを山道より先鋒せんぽうとして、前田・上杉、いずれも戦にかけてはおそろしく強い者らに武蔵・上野こうずけ上総かずさ下総しもうさ安房あわの諸国の北条領の城々六十あまりを一月ひとつきの間にみつぶさせて、小田原へ取りつめた。
 最初、北条方の考えでは源平の戦に東軍の勝ちとなっている先蹤せんしょうなどを夢みていたかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏み出して戦っているのに、北条氏はろくに踏み出してもいず、まるで様子が違っている。勝形しょうけいは少しもなく、敗兆はいちょうはあきらかに見えていた。しかし北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽のすみにいた者の思ったのも無理はない。また政宗も朝命をかさにきて秀吉が命令ずくに、自分とはべつにうらみも何もない北条攻めに参会せよというのにはおもしろい感情を持とうはずはなかった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗しうるようならば、上方勢の手並てなみのほども知れたものだし、何もあわてて降伏的態度に出る必要はないし、かつ北条が敵し得ぬにしても長くえうるようならば、火事はさほどに早くわがひさしへ来るものではない、と考えて、狡黠こうかつには相違ないが、他人交際づきあいの間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二心ふたごころ抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促さいそくにもかしこまり候とはいわずに、ニヤクヤにあしらっていた。一つは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤せんしょうを思えば、奥羽は奥羽で前九年・後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされていたかどもあろうし、また一つは何といっても鼻ッぱりの強い盛りの二十三、四であるから、うわさに聞いた猿面さるめん冠者かじゃに一も二もなく降伏の形を取るのを忌々いまいましくも思ったろう。
 しかし政宗は、氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんではなかった。少なくも己を知り、また彼を知ることに注意をもっていた。秀吉との交渉は天正十二年(一五八四)ごろからあったらしい。秀吉と徳川氏との長湫ながくて一戦後の和が成立して、戦は勝ったがやはり徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信遠藤えんどう基信もとのぶか〕をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才ない家康はもちろんそれより前に使いを政宗に遣わして修好している。家康は海道一の弓取りとして英名伝播でんぱしており、かつ秀吉よりはその位置が政宗に近かったから、政宗もおよそその様子合ようすあいを合点していたことだろう。天正十六年(一五八八)には秀吉の方から書信があり、また刀などを寄せてたかを請うている。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、これは秀吉の方から先手を打って、政宗を引きつけようというにあったこともちろんである。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまではいずれにしても何でもないことだったが、秀吉もしだいに膨張すれば政宗もしだいに膨張して、いよいよ接触すべき時がせまってきた。その年の九月には家康から使いが来、また十二月には玄越というものを遣わして、関白の命をこうむって仙道の諸将との争いを和睦わぼくさせようと存じたが、うけたまわれば今度こんど和議が成就した由、今後また合戦沙汰ざたになりませぬようありたい、といってきた。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉ちしつされているということを語っているものである。まだその時は政宗が会津を取っていたのではないが、徳川氏からの使いの旨で秀吉の意をすいすれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつその大を成すをよろこばざること分明であることが、政宗の胸中きょうちゅうに映らぬことはない。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てるほどの激しい戦をして蘆名義広をへこませ、とうとう会津を取ってしまったのが、その翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかったわけである。そこでこの敵の蘆名義広が、落ち延びたところは同盟者の佐竹さたけ義宣よしのぶ方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情をなるべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢いである。これは政宗も万々合点していることだから、その年の暮れには上方の富田とみた左近将監しょうげん〔富田一白いっぱくや施薬院玄以に書を与えて、どんなものだろうと探ると、案の定、一白や玄以からは、会津の蘆名はかねてより通聘つうへいしているのに、貴下あなたが勝手にこれをい落として会津を取られたことは、殿下においてはなはだしく機嫌をそんじていらるるところだ、といってよこした。もうこの時は秀吉は小田原の北条をほふって、いわゆる「天下の見懲みごらし」にして、そしてその勢いで奥羽をやいばに血ぬらず整理してしまおうという計画が立っていた時だから、もちろん秀吉の命を受けてのことだろう、前田利家や浅野長政からも、また秀吉の後たるべき三好みよし秀次ひでつぐ〔豊臣秀次〕からも、明年、小田原征伐のみぎりは兵を出して武臣の職責をつくすべきである、と言ってきている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為おためだろう、と勧めてきていることももちろんである。明けて天正十八年(一五九〇)となった正月、政宗は良覚院りょうがくいんという者を京都へった。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政らの書を持ってきて、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期おうごに違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書をもたらさしめ、守屋守柏しゅはく小関おぜき大学の二人を京へやったが、政宗のこの頃は去年、大勝を得てから雄心勃々ぼつぼつで、秀吉東下のことさえなければ、無論常陸に佐竹をほふって、上野・下野としだいに斬靡きりなびけようというのだから、北条征伐に狩り出されるなどはおもしろくなかったに相違ない。ところが秀吉の方は大軍堂々といよいよ北条征伐にやってきたのだ。サア信書の往復や使者の馬のひづめの音の取りりではなくなった、今まさに上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成せんなり瓢箪びょうたんにまた一つ大きな瓢箪ひょうたんわるものだろうか、それとも北条氏三鱗みつうろこの旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実その実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手ゆんでに取りしぼって、ギロリと南の方を睥睨へいげいした。
 たぎり立った世のさむらいにとってずべきことと定まっていたことは何ヶ条もあった。そのうちまず第一は「聞きじ」というので、敵が何万来るとか何十万せるとか、あるいは猛勇で聞こえた何某なにがしが向かって来るとかいうことを聞いて、その風聞に辟易へきえきして闘う心がなくなり、降参とか逃走とかに料簡りょうけんが傾くのを「聞きじ」という。聞き怯じする奴ぐらいケチな者はない、いかに日ごろ利口りこうなことを言っていても聞き怯じなんぞする者は武士ではない。つぎに「見くずれ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮のごとく雲のごとき大軍、または勇猛鷙悍しかんの威勢を望み見て、こいつはかなわないとヒョコスカして逃げ腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞き怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭しんこっとうのないことは同様である。「不覚」というのはまたそのつぎで、これはその働きのとうを得ぬもので、不覚のよくないことはもちろんであるが、聞き怯じ・見くずれをする者よりはすこしはじょすべきものである。不鍛煉ふたんれん」は「不覚」が、心がけのたぎりたらないところからおこるに比してまた一段と罪の軽いもので、場数をふまぬところからおこる修行不足である。聞きじ、見くずれするやつほど人間のクズはないが、さてたいていの者は聞き怯じもする、見くずれもするもので、ドイツのホラアフク博士が地球と彗星すいせいが衝突するといったと聞いては、眼の色を変えて仰天ぎょうてんし、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰がぬけそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭こうとうするたぐいは、みなこれ聞き怯じ・見くずれの手合いで、こういう手合いが多かったり、また大将になっていたりしてくれては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将・藤原信頼のぶより重盛しげもりせ向かわれて逃げ出してしまった。あのような見くずれ人種が大将では、義朝よしとも悪源太あくげんたがなにほど働いたとて勝ちはない。鞭声べんせい粛々しゅくしゅく夜河を渡ったかの猛烈な謙信勢が暁の霧の晴れ間から雷火の落ちかるようにどっと斬入ったときには、まずたいていな者なら見るとすぐにくずれ立つところだが、さすがは信玄勢のウムとこらえたところは豪快淋漓りんりで、斬立てられたには違いなかろうがじつに見上げたものだ。政宗の秀吉における態度の明らかにさわやかでなかったのは、潔癖の人には不快の感をもよおさせるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることのできる力をもっていたので、彼の南部の九戸くのへ政実まさざねですらとにかく天下を敵にして戦ったくらいであるから、まして政宗がそう手ッ取りばやく帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸ぼんてんまる幼立おさなだちからして、聞き怯じ、見くずれをするようなケチな男ではない。政宗の幼いときは人に対して物羞ものはじをするような児で、野面のづら大風おおふうな児ではなかったために、これは柔弱で、よい大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、こどもの時に内端うちばで人に臆したようなふうな者は柔弱臆病おくびょうとは限らない、かえって早くから名誉心がひそみ発達しているためにそういうふうになるものが多いのである。片倉小十郎景綱かげつなというのは不幸にして奥州に生まれたからこそ陪臣ばいしんで終わったれ、京畿けいきに生まれたらば五十万石、七十万石の大名にはきっとなっていたに疑いない立派な人物だが、その炯眼けいがんは早くも梵天丸のその様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子わこ様である、といったという。二本松にほんまつ義継よしつぐのためににわかに父の輝宗がさらい去られたとき、鉄砲を打ちかけてそのために父も殺されたが義継をも殺してしまったくらいのイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、その他の有象うぞう無象むぞうらの信書や言語が何をいってきたからといって、とりの羽音、あぶの羽音だ。そんなことに動く根性骨こんじょうぼねではない。聞き怯じ人種、見くずれ人種ではないのである。自分が自分で合点するところがあってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積もってからどうとも決めようという料簡だ、向背こうはいの決着に遅々としたとて仕方はないのだ。
 そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得るかぎり知ろうとして、眼もあり才もある者どもをたくさんに派出したことは猜知すいちせられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜べんぎは何ほどでもあったろうというものだ。で、関白はいよいよ小田原攻めにかかり、事態は日にせまってきた。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰ってきた。
 金七の復命は政宗およびその老臣らによって注意をもって聴き取られた。もちろん小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみではなかったであろうが、その他の者の姓名は伝わらない。金七がかえっての報告によると、猿面冠者の北条攻めのありさまは尋常一様、武勇一点ばりのものではない、その大軍といい、一般方針といい、それからまた千軍万馬往来の諸雄将の勇威といい、大剛の士、覚えの兵らの猛勇で功者な事といい、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえているとはいえ、とうてい関白を敵として勝ち味はない。ことに秀吉の軍略に先手先手と斬りまくられて、小田原の孤城に退嬰たいえいするを余儀なくされてしまっているうえは、籠中ろうちゅうとり釜中ふちゅうの魚となっているので、遅かれ速かれどころではない、またたく間に踏みつぶされてしまうか、なくとも城中疑懼ぎくの心のえなくなった頃を潮合しおあいとして、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗もいまさらながら、さすがに秀吉というものの大きな人物であるということを感じないわけにはいかなかった。沈黙は少時しばし一座をおおうたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣らを見渡した。小田原がやっつけらるればその次は自分である。北条もこちらに対しては北条陸奥守むつのかみ氏輝が後藤基信遠藤えんどう基信もとのぶか〕よしみを通じて以来仲をよくしている、猿面冠者を敵にして立ち上がるなら北条のほろぼされぬ前に一日も早く上州・野州・武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とはかねてよりの深仇しんきゅう宿敵であり、北条の手足をもぐために出ている秀吉方諸将の手並てなみのほども詳しく承知してはいぬ。さればといっていまさら帰伏して小田原攻め参会も時おくれとなっている、忌々いまいましくもある。切り合って闘いたいが、自分の方の石のたらぬ碁だ、うまく保ちたいがすこし手数てかずおくれになっている碁で、いくばくかの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着はいずれにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、さすがの政宗だから見苦みぐるしい眼パチパチもしなかったろうけれど、左思右考したには違いない。しかしどうしても天下を敵にまわし、朝命にたてをついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡やすひらの二の舞をしてみたところが、骰子さいの目が三度も四度もわが思うとおりに出ぬものである以上は勝てようのないことは分明だ。そこで、残念だが仕方がない、小田原がつぶされてしまってからでは後手ごての上の後手になる、もう何をおいても秀吉の陣屋の前に馬をつながねばならぬ、と考えた。そこで、どうである、徳川殿のすすめにこうかと思うが、といいながら老臣らを見渡すと、ムックリとこうべをもたげたのが伊達藤五郎成実しげざねだ。
 藤五郎成実しげざねは立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年(一五八五)、すなわち政宗の父輝宗が殺されたその年の十一月、佐竹・岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切り離されて、敵を前後に受けておそろしい苦戦におちいった。そのとき成実の隊の下郡山したこおりやま内記ないきというものが、ここで打ち死しても仕方がない、いったんは引き退かれるがよくはないか、といった折に、ギリギリと歯をくいしばって、ナンノ、藤五郎成実、魂魄たましいばかりになり申したら帰りもいたそう、生身で一歩ひとあしでも後ろへさがろうか、とののしって悪戦苦闘のあるかぎりをつくした。それでその戦も結局勝利になったため、今度このたびの合戦、まったく其方そのほう一手のために全軍の勝となった、という感状を政宗から受けたほどの勇者である。戦場には老功、謀略もなきにあらぬなかなかの人物で、これも早くから信長・秀吉の眼の近くにいたら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式のときにはこの藤五郎成実が太刀を奉じ、片倉小十郎景綱が小刀しょうとうを奉じたのである。二人はまことに政宗が頼みきった老臣で、小十郎も剛勇だが知略分別がまさり、藤五郎も知略分別にたくましいが勇武がそれよりもまさっていたらしい。
 その藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭をもたげ眼をみはって、藤五郎存ずる旨を申し上げとうござる、秀吉関東征伐は今はじまったことではござらぬ、すでに去年冬よりしてそのこと定まり、朝命にしたがい北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促さいそく、今にいたって小田原へ参向するとも時はおくれおり、遅々緩怠かんたいの罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しくとがめられずとも所領を召し上げられ、多年弓箭ゆみやにかけて攻め取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定のこと、わが君今年正月七日の連歌れんがの発句に、「ななくさを ひと手によせて つむ菜かな」とあそばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それをいまさら秀吉の指図に就かりょうとは口惜くやしいかぎり、とてものことに城をとりでをかまえ、天下を向こうにまわして争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくばこちらが切り勝って、旗を天下につるにおよぼうも知れず、思召おぼしめしかえさせられてしかるべしと存ずる、と勇気凛々りんりんあたりをはらって扇をひざに戦場叱咤しった猛者声もさごえで述べたてた。その言の当否はとにかく、こういう場合こういう人のこういう言葉は少なくも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよいわゆる無用の用である。ヘタヘタと誰もかれも降参気分になってしまったのではその後がいけない、その家の士気というものが萎靡いびしてしまう。藤五郎もそこをおもんぱかってこういうことを言ったものかもしれぬ、またあるいは、まことに秀吉の意にしたがうのが忌々いまいましくてかよう言ったのかもしれぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言をうれしく聞いたろう。しかしなんらの答えは発せぬ。片倉小十郎は黙然としている。すると原田左馬介宗時むねときという一老臣、これも伊達家の宗徒むねとの士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみにひどい悪者にされている原田甲斐は、そのじつ凶悪きょうあくな者ではない、どちらかといえばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、その甲斐はすなわちこの宗時むねときの末だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、そのお言葉は一応ごもっともには存ずるが、関白もなかなか世の常ならぬ人、匹夫ひっぷ下郎げろうよりおこって天下の旗頭となり、徳川殿の弓箭ゆみやけたるだに、これに従いおらるるというものは、畢竟ひっきょう朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今もしこれに従わずば、勝敗利害はしばらくおき、かみ朝庭ちょうてい〔朝廷〕にそむくことになりて朝敵の汚命をこうむり、したがって北条のごとくに、あらゆる諸大名のまととなり鉄砲の的となるべく、行く末の安泰おぼつかなきことにござる、と説いた。片倉小十郎もこのとき宗時の言に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説もあるが、また小十郎はその場においては一言ひとことも発せずにいたという説もある。その説によると小十郎はなんらの言をも発せずに終わったので、政宗はその夜ひそかに小十郎の家をうた。小十郎は主人のなりをよろこび迎えた。政宗は小十郎の意見をただすと、小十郎は、天下の兵はたとえばはえのようなもので、これをってうても、散じてはまたあつまってまいりまする、とちょうど手にしていた団扇うちわをふるって蝿をうつまねをした。そこで政宗もおおいに感悟かんごして天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言をもちいたのである。
 そこで政宗は小田原へおもむくべく出発した。時がすでに機を失したから兵をひきいてではなく、いわば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野壱岐いき、白石駿河するが以下百騎あまり、兵卒若干をしたがえて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関がところどころに設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州・甲州を大まわりして小田原へついた。北条攻めは今その最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心のどかに大兵で取り巻いて、城中の兵気の弛緩しかんしてその変のおこるのを待っている。何のことはない勝利に定まっている碁だからタバコをふかして笑っているというありさまだ。茶の湯の先生のせんの利休りきゅうなどを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候のことが通ぜられると、あの卒直そっちょくな秀吉もさすがにすぐには対面をゆるさなかった。箱根の底倉そこくらにいて、おって何分の沙汰さたを待て、という命令だ。いまさら政宗は仕方がない、底倉の温泉のけむりのもやもやした中にうっとうしい身をうずめているよりほかなかった。日は少し立った。すぐに引見されぬのはもちろん上首尾でない証拠だ。従ってきた者の中で譜代でない者は主人に見限りをつけだした。情ないものだ、のみやシラミは自分がたかっていたその人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。のみは逃げた、シラミは逃げた。貧乏すれば新しい女は逃げ腰になると聞いたが、政宗に従っていた新しい武士は逃げて退いた。その中でも矢田野やだの伊豆いずなどいう奴は逃げ出して故郷の大里城にって伊達家に対して反旗をひるがえしたくらいだ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになってしまった。
 ところへ潮かげんをはかって法印玄以、施薬院全宗ぜんそう宮部みやべ善祥坊〔宮部継潤けいじゅん、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問きゅうもんにやってきた。浅野弥兵衛〔長政〕頭分かしらぶんで、いずれも口利であり、外交駈引・接衝応対の小手こていた者どもである。しかし弥兵衛らも政宗に会ってみて驚いたろう、まず第一に年はわずかに二十四、五だ、短い髪を水引すなわち水捻みずよりにした紙線こよりで巻き立て、むずかしい眼をひと筋縄でもふた筋縄でもしばりきれぬ面魂つらだましいに光らせていたのだから、異相いそうという言葉で昔から形容しているが、まったく異相に見えたに相違ない。弥兵衛らもただ者でないとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負っているのであるから、まず第一に朝命をかろんじて早く北条攻めに出陣しなかったこと、それから蘆名あしな義広をはらって私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川をほふり、勝手に四隣しりんを蚕食した廉々かどかどを詰問した。もちろんこれは裏面において政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成にこれらの事情をよいように告げて、そして大有力者の手をかりて政宗を取り押さえようとはかったためであるといわれている。政宗が陳弁ちんべんはこれら諸方面との取り合いのおこった事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭ゆみやの手前、やむにやまれず干戈かんかったことを言い立てて屈しなかった。また、朝命を軽んじたという点は、四隣みな敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言い開きをした。翌日また弥兵衛らは来たって種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、すなわち政宗が攻略・蚕食した地を納めたてまつるがよろしかろう、と好意的にさとしたのである。そこで政宗は仕方がない、もとより我欲によって国郡を奪ったのではござらぬ、といういさぎよい言葉にわが身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差し上げることにした。
 らちはあいた。秀吉は政宗を笠懸山かさがけやまの芝の上において引見した。秀吉は政宗に侵略しんりゃくの地を上納することを命じ、米沢三十万石をもとのごとく与うることにし、それで不服なら国へ帰ってなんとでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派なよい大きなくしだ。天下の整理はかくのごとくにして捗取はかどるのだ。惺々せいせいは惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套じょうとう文句だが、秀吉も一瞥いちべつの中の政宗を、クセ者ではあるがよい男だ、と思ったに疑いない。政宗も秀吉を、いやなところもないではないがすばらしい男だ、と思ったに疑いない。人をるは一面にあり、酒を品するはただ三杯だ。打たずんば交わりをなさずといって、瞋拳しんけん毒手の殴り合いまでやってから真の朋友ほうゆうになるのもあるが、一見してまじわりを結んで肝胆相らすのもある。政宗と秀吉とはどうだったろう。双方ともに立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、シジミ貝のような小さな腹で、少し大きい者に出会うとちっともれることのできないソンナ手合いではない。かかあや餓鬼を愛することができるに至って人間並みの男で、好漢を愛し得るにいたってはじめてこれ好漢、仇敵きゅうてきを愛し得るにいたってホントのできた男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタなシジミッ貝野郎ではない。貴様がかねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしがかねて聞いた木下藤吉か、と互いに面を見合わせて重瞳ちょうどう隻眼せきがんと相射ったとき、ウム、おもしろそうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑いない。だが、お互いに愛しきったかどうだか、イヤお互いに底の底までは愛しきれなかったに違いない。政宗は秀吉の男ぶりに感じてこれを愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、その底の底までは愛しきらぬところをもらしたことは、尭雄ぎょうゆう僧都話そうずばなしに見えているとされている。秀吉も政宗の押さえにかの手強てごわな蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりはいなかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互いに六分は愛し、四分は余白をとどめていたのである。戦乱の世のことだ、いずれにも無理はないとなすべきだ。
 関白が政宗に佩刀はいとうをあずけて山へのぼって小田原攻めの手配りを見せたはなしなどは今しばらくく。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、そういうことは考証家の方へあずける。秀吉が政宗の帰国を許したについては、秀吉の左右に、せっかく山を出てきた虎をふたたび深山に放つようなものである、と言った者があるということだ。そんなことを言った者はたぶん石田左吉のやからででもあろう。そのとき秀吉は笑って、おれは弓箭きゅうせん沙汰ざたを用いないで奥羽を平定してしまうのだ、なんじらの知るところではない、と言ったというが、じつにその辺りは秀吉のよいところだ。政宗だとて何でいったん関白面前に出たうえで、またいまさらにきばをむき出し毛を逆立てて咆哮ほうこうしようやである。
 小田原ははたして手強てごわい手向かいもせず、らちもなく軍気が阻喪そそうしておのずから保てなくなり、ついに開城するのやむを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原がすむとすぐに諸将を従えて奥州へと出かけた。威を示して出羽・奥州ひとなでに治めてしまおうというのである。政宗が服したのであるから刃向かおうという者はない。秀吉が宇都宮に宿営したときに政宗は片倉小十郎をしたがえて迎接げいせつした。小十郎は大谷吉隆にいて主家を悪く秀吉に思い取られぬよう行き届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津蘆名の旧領地の図牒ずちょうの入っているはこを開いて示したときには黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っているはこを小十郎が開いて示そうとしたときには、イヤそれにはおよび申さぬ、とあいさつしたという。大谷吉隆に片倉景綱、これもよい取り組みだ。互いに抜け目のない挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見されたとき、吉隆が、会津の城お引き渡しに相なるには幾日をもってせらるるおつもりか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居のおるばかりでござる、いつにても差しつかえはござらぬ、といったというが、いいあいさつだ。平生行き届いていて、事にあたってらちく人であることがうかがわれる。これでそのうえに剛勇で正実せいじつなのだから、秀吉が政宗の手から取ってしまいたいくらいに思ったろう、大名に取り立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、あくまで伊達家の臣として身をおくを甘んじた。これもまた感ずべきことで、なんという立派なその人柄だろう。浅野六右衛門正勝まさかつ木村きむら弥一右衛門清久きよひさは会津城を受け取った。七月に小田原をつぶして、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津にいた。土地の歴史上からいえば会津は蘆名あしなに戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去らっきょしたのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏していることを現わしているものである。この枢要すうようの地を材略武勇のらぬものにたくしておくことはできぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗をしたたらして切り取ったうえにったところの地で、いやいやながら差し出したところであり、人情としてよだれをたらしあごをたれているところである、またなくとも崛強くっきょうなる奥州の地武士が何をしださぬとも限らぬところである、またそういう心配がなくとも広闊こうかつな出羽・奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付しんぷの奥羽の大名らの誰にもせよに任せておくことはできぬところである。ここにおいて誰かしらしかるべき人物を会津の主将にすえて、奥州・出羽の押さえの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりとあつかって事端じたんを発させぬように、内々ないないはごっつりと手強くアテテ屏息へいそくさせるような、シッカリした者を必要とするのである。
 このむずかしい場所の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引き受けさせられたのが鎮守府将軍・田原藤太とうだ秀郷ひでさと末孫ばっそんといわれ、江州ごうしゅう日野の城主からおこって、いまは勢州せいしゅう松坂に一方の将軍星として光を放っていた蒲生がもう忠三郎氏郷うじさとであった。
 氏郷が会津の守護、奥州・出羽の押さえに任ぜられたについてはおもしろい話が伝えられている。その話の一つは最初に秀吉が細川越中守忠興ただおきを会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢おはちは氏郷へまわった、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人をもって聞こえた幽斎ゆうさいの後で、人物の誠実温厚は余りあるけれど、不知案内あんないの土地へ移って、気心きごころの知りかねる政宗を向こうへまわして取り組もうというには如何であった。もしその説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の知慮がなかなか深くて、よく己を知り彼を知っていたということを大いにげるべきで、忠興の人物をいちだんと立派にはするが、秀吉にとっては第一にはその眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああそうか、とすませたことがくだらなく思われるのである。で、この話は事実であったか知らぬがおもしろくなく思われる。
 またいま一つの話は、秀吉が会津を誰にたくそうかというので、徳川家康とさしむかいで、互いに二人ずつ候補者を紙札に書いておいてから、そして出してみた。ところが秀吉の札では一番にはほり久太郎秀治ひではる、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍くにざむらいの風がなかなか手ごわい、久太郎でなくては、というと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗ちゃわんと茶碗でござる、忠三郎でなくては、といったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方くだけるばかりという意味であろう。で、秀吉がさとって家康の言をもちいたのであるというのだ。このはなしはよほどおもしろいが、この談が真実ならば、カニではないが家康は眼が高くて、秀吉はサルのように鼻が低くなるわけだ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年(一五九八)、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(あるいは七十万石)の大封たいほうを受けて入ったが、上杉に陰で糸をひかれておこった一揆いっきのために大いに手こずらされて困った不成績を示した男である。また氏郷は相縁あいえん奇縁というものであろう、秀吉にとっては主人筋である信長の婿むこでありながら秀吉にははなはだ忠誠であり、縁者として前田まえだ又左衛門利家としいえとの大の仲好しであったが、家康とはあまり交情の親しいこともなかったのであり、政宗はかえって家康と馬が合ったようであるから、この談もちと受け取りかねるのである。
 今ひとつの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶについて諸将に入札をさせた。ところが札を開けてみると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取るはずだわ、ここは蒲生忠三郎でなくてはならぬところだ、といって氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取るはずだわ、という意は人々の識力・眼力よりはるかに自分がまさっているという例の自慢である。この話によると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏とりに定まっていたことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこがちといぶかしい。往復ハガキでくだらない質問の回答を種々の形の瓢箪ひょうたん先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成り下がるところがいささか憫然びんぜんだ。いろいろの談のいずれが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将のあいだの一問題で好談柄だんぺいであったろうから、したがって種々の憶測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかもしれないと思わざるを得ぬ。
 何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでもぜひ頼むというわけだったろう、そこで氏郷は条件をつけることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、この時分の人だから自己利益をもととして釣り針のfかかりのようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行しうるためにその便宜べんぎを与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任をまっとうするにつけては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、ついては秀吉に対してかつて敵対行為を取ってその忌諱きいに触れたために今にどの大名にも召し抱えられることなくている浪人どもをも宥免ゆうめんあって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことにこの時代のことであるから、一能あるものでもかつて秀吉に鎗先やりさきを向けた者の浪人したのは、たとい召し抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召し抱えかねたのであった。氏郷の申し出は立派なものであった。秀吉たる者これをれぬことのあろうはずはない。敵対または勘当の者なりとも召抱扶持ふちなど随意たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中にいた佐久間久右衛門尉きゅうえもんのじょうは柴田勝家のおいであった。同じくその弟の源六は佐々さっさ成政の養子で、二人いずれも秀吉を撃取うちとりにかかった猛将佐久間玄蕃げんばの弟であったから、じゅうじゅう秀吉のにくしみは掛っていたのだ。これらの士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有している間はたとい器量があっても世の埋木うもれぎにならねばならぬ運命を負うていたのだ。まだその他にもこういう者はたくさんあったのである。徳川家康ににくまれた水野三右衛門のごときもその一例だ。当時、自己の臣下で自分にそむいた不埒ふらちな奴に対して、何々という奴は当家において差赦さしゆるしがたき者でござると言明すると、どの家でもその者を召し抱えない。もし召し抱える大名があればその大名と前の主人とは弓箭きゅうせん沙汰ざたになるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこでこういう埋木に終わるべき者を取り入れて召し抱える権利をこの機に乗じて秀吉から得たのはじつに賢いことで、氏郷にとってはその大を成す所以ゆえんである。前にあげた水野三右衛門のごときも徳川家からゆるされて氏郷に属するにいたり、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召し抱えられ、そのほか同様の境界きょうがい沈淪ちんりんしていた者どもは、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方にいたから、小田原没落を機として氏郷のまねいだのに応じて、いわゆる戦場往来のおぼえの武士つわものが吸い寄せられたのであった。
 氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守吉清よしきよの子の弥一右衛門〔清久〕は奥州の葛西・大崎に封ぜられた。葛西・大崎は今の仙台よりもなお奥の方であるが、政宗の手はすでにその辺りにまで伸びていて、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引き込んで、内々ないない大崎氏を図らしめていたのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論、大崎氏・葛西氏は政宗の麾下きかに立つを余儀なくされるに至ったのであろう。この木村父子は小身でもあり、武勇もさほどではない者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護かばってやれ、木村は氏郷を親ともしゅとも思ってあおぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷にとっては旅行に足弱あしよわかずけられたようなもので、何事もなければまだしも、何事かあったときにはずいぶん厄介やっかいなことで迷惑千万である。が、致し方はない、領承するよりほかはなかったが、はたしてこの木村父子から事おこって氏郷は大変な目に会うに至っているのである。(つづく)



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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蒲生氏郷(一)

幸田露伴

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《》:ルビ
(例)嘴《くちばし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)微物凡物も亦|是《かく》の如く

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+止」、第3水準1-84-71]

 [#…]:返り点
 (例)老来不[#レ]識

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)今一[#(ト)]勝負

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)又飛騨守殿も少も/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の嘴《くちばし》といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲《す》んで居た一夜庵《いちやあん》の宗鑑の膚《はだえ》を螫《さ》して、そして宗鑑に瘧《おこり》をわずらわせ、それより近衛《このえ》公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔《かぎゃく》を発せしめ、随《しがた》って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧《はいかい》連歌《れんが》の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。蠅《はえ》といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅《せいよう》は肉汁を好んで溺《おぼ》れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々《いまいま》しいことは宋《そう》の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を作《な》すに至らしめ、其の逐《お》えば逃げ、逃げては復《また》集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に擬《なぞら》えて、流石《さすが》の伊達政宗をして首《こうべ》を俛《ふ》して兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡《りょうけん》を定めしめた。微物凡物も亦|是《かく》の如くである。本より微物凡物を軽《かろ》んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。蚤《のみ》のような男、蝨《しらみ》のような女が、何様《どう》致した、彼様《こう》仕《つかまつ》った、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、尤《もっとも》千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎《あまろう》ばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子《しし》や虎のようなもの、鰐魚《わに》や鯱鉾《しゃちほこ》のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人《わいじん》や普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で勝《すぐ》れた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行《はや》る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめで定《き》まりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰|牢固《ろうこ》の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなって沸《たぎ》りきった湯のような代もある、黴菌《ばいきん》のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様《どん》なものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯《かんれん》して、天正十八年、陸奥《むつ》出羽《でわ》の鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷《がもううじさと》を中心とする。
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と囚《とら》われて終《しま》うのもうるさい。考証家、穿鑿《せんさく》家、古文書いじり、紙魚《しみ》の化物と続西遊記に罵《ののし》られているような然様《そう》いう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直《こねなお》して、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気《せんき》筋に引張りまわして変な牽糸傀儡《あやつりにんぎょう》を働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八《まんぱち》を無遠慮に加えず、斯様《こう》も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇《うちわ》を揮《ふる》って放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤《ちからこぶ》を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁《ほるい》を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服《なり》をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、酷《ひど》い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕《とうこん》を談ずるような埒《らち》も無いことで、何も彼も滅茶《めちゃ》滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の巷《ちまた》となった。当時の武士、喧嘩《けんか》商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽《ひ》き鷹を肘《ひじ》にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落《しゃれ》た遊技を知っているほど怜悧《れいり》でも無い奴は、他に智慧が無いから博奕《ばくち》を打って閑《ひま》を潰《つぶ》す。戦《いくさ》ということが元来博奕的のものだから堪《たま》らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行《はや》る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭《か》ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止《や》められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々《いよいよ》負けて復《また》取られて終うと、終《つい》には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一[#(ト)]勝負したいと、それでは乃公《おれ》は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕《ぶんどり》して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一[#(ト)]戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有《けう》では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く吾《わ》が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。斯様《こう》いう民衆の態度や料簡方《りょうけんかた》は、今では一寸想像されぬが、中々|手強《てごわ》いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに葛西《かさい》大崎の地に一揆《いっき》が起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之を援《たす》けて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々《しゅくじゅく》の農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒《しゅんきょ》した。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守《ろうしゅ》している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も仇《あだ》もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗《ひょうとう》的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、特《こと》に足利《あしかが》氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽《れきじん》させられている。ひとり明智光秀が小栗栖《おぐるす》長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又|手苛《てひど》い領主や敵将に出遇《であ》った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて終《しま》う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜《へちま》も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直《こうのもろなお》に取っては臣下の妻妾《さいしょう》は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様《そう》いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なことの好きなものには実に好い世であった。
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐《だいご》の醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆《ゆうひつ》に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、譬《たと》えば乱れ垢《あか》づいた髪を歯の疎《あら》い丈夫な櫛《くし》でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても関《かま》うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一[#(ト)]かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一[#(ト)]かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆《たいはい》の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一[#(ト)]かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に順《したが》って解けなければ引ッコ抜かれるか※[#「てへん+止」、第3水準1-84-71]断《ひっちぎ》られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承《う》けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰《こ》えて大森に向い、相馬|弾正大弼《だんじょうたいひつ》と畠山|右京亮義継《うきょうのすけしつぐ》、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒《せんぽう》になろうと父に請うた位に気嵩《きがさ》で猛《さか》しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読《たんどく》したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様《どう》であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して逐《お》いつ返しつして、次第次第に斬勝《きりか》って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に跨《またが》り、南は白川を越して、下野《しもつけ》の那須、上野《こうつけ》の館林までも威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《いえん》は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。特《こと》に去年蘆名義広との大合戦に、流石《さすが》の義広を斬靡《きりなび》けて常陸《ひたち》に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津《あいづ》を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々《いよいよ》南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等が大《おおい》に城を築き塁を設けて、根を深くし蔕《へた》を固くしようという議を立てたところ、流石は後に太閤《たいこう》秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんな蝨《しらみ》ッたかりの魂魄《たましい》とは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、馬烟《うまげむり》や鬨《とき》の声、金鼓《きんこ》の乱調子、焔硝《えんしょう》の香、鉄と火の世の中に生れて来た勝《すぐ》れた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々として已《や》むに已まれぬ猛※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《もうえん》を噴き出し白光を迸発《ほうはつ》させているのだ。言うまでも無く吾《わ》が光を以て天下を被《おお》おう、天下をして吾が光を仰がせよう、と熱《いき》り立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙《へんぴ》に欝々《うつうつ》として蟠居《ばんきょ》しようや、時を得、機に乗じて、奥州駒《おうしゅうごま》の蹄《ひづめ》の下に天下を蹂躙《じゅうりん》してくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思い寐《ね》の夢魂|七三《しちさん》にへばりつくのとは些《ちと》違って居た。
 諸老臣の深根|固蔕《こたい》の議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところが此の火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より滾転《こんてん》殺到して来た。命に従わず朝《ちょう》を軽《かろ》んずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊《うかつ》に取片付けられる者では無かった。其他は碌々《ろくろく》の輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りて居たが、北条氏は兎に角八州に手が延びて居たので、ムザとは圧倒され無かった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金を沢山持って武者修行、悪く云えば漂浪して来た伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せては段々と自分の処へ出入する士《さむらい》どもを手なずけて終《つい》に伊豆相模に根を下し、それから次第に膨脹《ぼうちょう》したのである。此の早雲という老夫《おやじ》も中々食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が檐端《のきば》の茅《かや》を引抽《ひきぬ》いて焚付《たきつ》けにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、凄《すさま》じい聡明《そうめい》な先生だった。が、金貸をしたというのは蓋《けだ》し虚事ではなかろう。地生《じおい》の者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。嘘《うそ》八百万両も貸付けたら小人島《こびとじま》の政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に焚付《たきつけ》を作ることまで知った長氏に起って、生の麦を直《すぐ》に炊けるものだと思っていた氏政に至って、もう脉《みゃく》はあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打《たちうち》が出来るものでは無い。関白が度々|上洛《じょうらく》を勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張《からいば》りで、弓矢でこいなぞと云ったから堪《たま》らない。待ってましたと計《ばか》りに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田《さなだ》を山道より先鋒《せんぽう》として、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、安房《あわ》の諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰《もみつぶ》させて、小田原へ取り詰めた。
 最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤《せんしょう》などを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北条氏は碌《ろく》に踏出しても居ず、まるで様子が違っている。勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えていた。然し北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも無理は無い。又政宗も朝命を笠に被《き》て秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨も何も無い北条攻めに参会せよというのには面白い感情を持とう筈は無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てて降伏的態度に出る必要は無いし、且《かつ》北条が敵し得ぬにしても長く堪え得るようならば、火事は然程《さほど》に早く吾《わ》が廂《ひさし》へ来るものでは無い、と考えて、狡黠《こうかつ》には相違無いが、他人|交際《づきあい》の間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二[#(タ)]心抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促にも畏《かしこ》まり候とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた。一ツは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされて居た廉《かど》もあろうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無く降伏の形を取るのを忌々《いまいま》しくも思ったろう。
 然し政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった。少くも己を知り又彼を知ることに注意を有《も》って居た。秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と徳川氏との長湫《ながくて》一戦後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才無い家康は勿論それより前に使を政宗に遣わして修好して居る。家康は海道一の弓取として英名伝播して居り、且秀吉よりは其位置が政宗に近かったから、政宗もおよそ其様子合を合点して居たことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居る。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方から先手を打って、政宗を引付けようというにあったこと勿論である。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時が逼《せま》って来た。其年の九月には家康から使が来、又十二月には玄越というものを遣わして、関白の命を蒙《こうむ》って仙道の諸将との争を和睦《わぼく》させようと存じたが、承れば今度和議が成就した由、今後|復《また》合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉《ちしつ》されているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意を猜《すい》すれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すを悦《よろこ》ばざること分明であることが、政宗の※[#「匈/月」、1015-上-9]中《きょうちゅう》に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広を凹《へこ》ませ、とうとう会津を取って終《しま》ったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近|将監《しょうげん》や施薬院玄以に書を与えて、何様《どん》なものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名は予《か》ねてより通聘《つうへい》して居るのに、貴下が勝手に之を逐《お》い落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云って遣《よこ》した。もう此時は秀吉は小田原の北条を屠《ほふ》って、所謂《いわゆる》「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽を刃《やいば》に血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐の砌《みぎり》は兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院《りょうがくいん》という者を京都へ遣った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書を齎《もた》らさしめ、守屋|守柏《しゅはく》、小関《おぜき》大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心|勃々《ぼつぼつ》で、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡《きりなび》けようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々《いよいよ》北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬の蹄《ひづめ》の音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成瓢箪《せんなりびょうたん》に又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏|三鱗《みつうろこ》の旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手《ゆんで》に取り絞って、ギロリと南の方を睥睨《へいげい》した。
 たぎり立った世の士《さむらい》に取って慚《は》ずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。其中先ず第一は「聞怯《ききお》じ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた何某《なにがし》が向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に辟易《へきえき》して闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡《りょうけん》が傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛|鷙悍《しかん》の威勢を望み見て、こいつは敵《かな》わないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である。「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しは恕《じょ》すべきものである。「不鍛煉《ふたんれん》」は「不覚」が、心掛の沸《たぎ》り足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。聞怯《ききお》じ[#ルビの「ききお」は底本では「ききおじ」]、見崩れする奴ほど人間の屑《くず》は無いが、扨《さて》大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸《ドイツ》のホラアフク博士が地球と彗星《すいせい》が衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭する類《たぐい》は、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、斯様《こう》いう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出して終《しま》った。あの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭声《べんせい》粛々夜河を渡った彼《か》の猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るように哄《どっ》と斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、流石《さすが》は信玄勢のウムと堪《こら》えたところは豪快|淋漓《りんり》で、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度の明らかに爽《さわ》やかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力を有《も》って居たので、彼の南部の九戸《くのへ》政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が然様《そう》手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸《ぼんてんまる》の幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して物羞《ものはじ》をするような児で、野面《のづら》や大風《おおふう》な児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端《うちば》で人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、却《かえ》って早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には屹度《きっと》成って居たに疑無い立派な人物だが、其|烱眼《けいがん》は早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子《わこ》様である、と云ったという。二本松義継の為に遽《にわか》に父の輝宗が攫《さら》い去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺されたが義継をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象《うぞうむぞう》等の信書や言語が何を云って来たからと云って、禽《とり》の羽音、虻《あぶ》の羽音だ。そんな事に動く根性骨では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである。自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積ってから何様《どう》とも決めようという料簡だ、向背の決着に遅々としたとて仕方は無いのだ。
 そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共を沢山に派出したことは猜知《すいち》せられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜は何程でも有ったろうというものだ。で、関白は愈々《いよいよ》小田原攻にかかり、事態は日に逼《せま》って来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰って来た。
 金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聴取られた。勿論小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、其他の者の姓名は伝わらない。金七が還《かえ》っての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常一様、武勇一点張りのものでは無い、其大軍といい、一般方針といい、それから又千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえて居るとは云え、到底関白を敵として勝味は無い。特《こと》に秀吉の軍略に先手先手と斬捲《きりまく》られて、小田原の孤城に退嬰《たいえい》するを余儀なくされて終《しま》って居る上は、籠中《ろうちゅう》の禽、釜中《ふちゅう》の魚となって居るので、遅かれ速かれどころでは無い、瞬く間に踏潰《ふみつぶ》されて終うか、然《さ》無《な》くとも城中|疑懼《ぎく》の心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、流石に秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった。沈黙は少時《しばし》一座を掩《おお》うたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した。小田原が遣付けらるれば其次は自分である。北条も此方に対しては北条|陸奥守《むつのかみ》氏輝が後藤基信に好《よし》みを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とは予《かね》てよりの深仇《しんきゅう》宿敵であり、北条の手足を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々《いまいま》しくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し手数後《てかずおく》れになって居る碁で、幾許《いくばく》かの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着は孰《いず》れにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかし何様しても天下を敵に廻し、朝命に楯《たて》をついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡《やすひら》の二の舞を仕て見たところが、骰子《さい》の目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原が潰《つぶ》されて終ってからでは後手《ごて》の上の後手になる、もう何を擱《お》いても秀吉の陣屋の前に馬を繋《つな》がねばならぬ、と考えた。そこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリと頭《こうべ》を擡《もた》げたのが伊達藤五郎|成実《しげざね》だ。
 藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の下郡山内記《したこおりやまないき》というものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯を切《くいしば》って、ナンノ、藤五郎成実、魂魄《たましい》ばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一[#(ト)]歩《あし》でも後へさがろうか、と罵《ののし》って悪戦苦闘の有る限りを尽した。それで其戦も結局勝利になったため、今度《このたび》の合戦、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が太刀《たち》を奉じ、片倉小十郎景綱が小刀《しょうとう》を奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別に逞《たくま》しいが勇武がそれよりも勝って居たらしい。
 其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に至って小田原へ参向するとも時は晩《おく》れ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しく咎《とが》められずとも所領を召上げられ、多年|弓箭《ゆみや》にかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の連歌《れんが》の発句に、ななくさを一[#(ト)]手によせて摘む菜|哉《かな》と遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻き寨《とりで》を構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下に樹《た》つるに及ぼうも知れず、思召《おぼしめ》しかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気|凜々《りんりん》四辺《あたり》を払って扇を膝に戦場|叱咤《しった》の猛者声《もさごえ》で述べ立てた。其言の当否は兎に角、斯様《こう》いう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ所謂《いわゆる》無用の用である。ヘタヘタと誰も彼も降参気分になって終《しま》ったのでは其後がいけない、其家の士気というものが萎靡《いび》して終う。藤五郎も其処を慮《おもんぱか》って斯様いうことを言ったものかも知れぬ、又或は真に秀吉の意に従うのが忌々《いまいま》しくて斯様云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒《むねと》の士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみに甚《ひど》い悪者にされて居る原田甲斐は、其の実|兇悪《きょうあく》な者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、其の甲斐は即ち此の宗時の末だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、其御言葉は一応|御尤《ごもっとも》には存ずるが、関白も中々世の常ならぬ人、匹夫《ひっぷ》下郎《げろう》より起って天下の旗頭となり、徳川殿の弓箭《ゆみや》に長《た》けたるだに、これに従い居らるるというものは、畢竟《ひっきょう》朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今|若《も》しこれに従わずば、勝敗利害は姑《しば》らく擱《お》き、上《かみ》は朝庭に背くことになりて朝敵の汚命を蒙《こうむ》り、従って北条の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰|覚束無《おぼつかな》きことにござる、と説いた。片倉小十郎も此時宗時の言に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎は其場に於ては一言も発せずに居たという説もある。其説に拠ると小十郎は何等の言をも発せずに終ったので、政宗は其夜|窃《ひそ》かに小十郎の家を訪《と》うた。小十郎は主人の成りを悦《よろこ》び迎えた。政宗は小十郎の意見を質《ただ》すと、小十郎は、天下の兵はたとえば蠅《はえ》のようなもので、これを撲《う》って逐《お》うても、散じては復《また》聚《あつ》まってまいりまする、と丁度手にして居た団扇《うちわ》を揮《ふる》って蠅を撲つ状《まね》をした。そこで政宗も大《おおい》に感悟して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである。
 そこで政宗は小田原へ趨《おもむ》くべく出発した。時が既に機を失したから兵を率いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野|壱岐《いき》、白石|駿河《するが》以下百騎余り、兵卒若干を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関が処々に設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着いた。北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心|長閑《のどか》に大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩《しかん》して其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の千利休《せんのりきゅう》などを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も流石《さすが》に直《すぐ》には対面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉の烟《けむり》のもやもやした中に欝陶《うっとう》しい身を埋めて居るよりほか無かった。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ。従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、蚤《のみ》や蝨《しらみ》は自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。其中でも矢田野伊豆《やだのいず》などいう奴は逃出して故郷の大里城に拠《よ》って伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。
 ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問《きゅうもん》に遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の小手《こて》の利いた者共である。然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち水捻《みずより》にした紙線《こより》で巻き立て、むずかしい眼を一[#(ト)]筋縄でも二[#(タ)]筋縄でも縛りきれぬ面魂《つらだましい》に光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命を軽《かろ》んじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を逐払《おいはら》って私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川を屠《ほふ》り、勝手に四隣を蚕食した廉々《かどかど》を詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、已《や》むに已まれず干戈《かんか》を執ったことを云立てて屈しなかった。又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日|復《また》弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのである。そこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉に吾《わ》が身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。
 埒《らち》は明いた。秀吉は政宗を笠懸山《かさがけやま》の芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に侵掠《しんりゃく》の地を上納することを命じ、米沢三十万石を旧《もと》の如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きな櫛《くし》だ。天下の整理は是《かく》の如くにして捗取《はかど》るのだ。惺々《せいせい》は惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套《じょうとう》文句だが、秀吉も一瞥《いちべつ》の中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い。人を識《し》るは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳《しんけん》毒手の殴り合までやってから真の朋友《ほうゆう》になるのもあるが、一見して交《まじわり》を結んで肝胆相照らすのもある。政宗と秀吉とは何様《どう》だったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、蜆貝《しじみがい》のような小さな腹で、少し大きい者に出会うと些《ちっと》も容れることの出来ないソンナ手合では無い。嬶《かかあ》や餓鬼を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、仇敵《きゅうてき》を愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様が予《か》ねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見合せて重瞳《ちょうどう》と隻眼と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったか何様だか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い。政宗は秀吉の男ぶりに感じて之を愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、其の底の底までは愛しきらぬところを洩《もら》したことは、尭雄僧都話《ぎょうゆうそうずばなし》に見えて居るとされている。秀吉も政宗の押えに彼《か》の手強《てごわ》な蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりは居なかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白を留《とど》めて居たのである。戦乱の世の事だ、孰《いず》れにも無理は無いと為すべきだ。
 関白が政宗に佩刀《はいとう》を預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せた談《はなし》などは今|姑《しばら》く措《お》く。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、然様《そう》いうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したに就ては、秀吉の左右に、折角山を出て来た虎を復《ふたた》び深山に放つようなものである、と云った者があるということだ。そんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。其時秀吉は笑って、おれは弓箭沙汰《きゅうせんざた》を用いないで奥羽を平定して終《しま》うのだ、汝等の知るところでは無い、と云ったというが、実に其辺は秀吉の好いところだ。政宗だとて何で一旦関白面前に出た上で、復《また》今更に牙《きば》をむき出し毛を逆立てて咆哮《ほうこう》しようやである。
 小田原は果して手強い手向いもせず、埒《らち》も無く軍気が沮喪《そそう》して自ら保てなくなり、終《つい》に開城するの已むを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むと直《すぐ》に諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一[#(ト)]撫でに治めて終おうというのである。政宗が服したのであるから刃向おうという者は無い。秀吉が宇都宮に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接した。小十郎は大谷吉隆に就いて主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津蘆名の旧領地の図牒《ずちょう》の入って居る筐《はこ》を開いて示した時には黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城御引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村弥一右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原を潰《つぶ》して、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の枢要《すうよう》の地を材略武勇の足らぬものに托《たく》して置くことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗を瀝《したた》らして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情として涎《よだれ》を垂らし頤《あご》を朶《た》れて居るところである、又|然《さ》なくとも崛強《くっきょう》なる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも広闊《こうかつ》な出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付《しんぷ》の奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。是《ここ》に於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息《へいそく》させるような、シッカリした者を必要とするのである。
 此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原|藤太秀郷《とうだひでさと》の末孫《ばっそん》と云われ、江州《ごうしゅう》日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。
 氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守|忠興《ただおき》を会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢《おはち》は氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を向うへ廻して取組もうというには如何であった。若《も》し其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮が中々深くて、能《よ》く己を知り彼を知って居たということを大《おおい》に揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ然様《そう》か、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。
 又今一つの話は、秀吉が会津を誰に托《たく》そうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎|秀治《ひではる》、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍の風が中々|手強《てごわ》い、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此|談《はなし》は余程おもしろいが、此談が真実ならば、蟹《かに》では無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(或は七十万石)の大封《たいほう》を受けて入ったが、上杉に陰で糸を牽《ひ》かれて起った一揆《いっき》の為に大に手古摺《てこず》らされて困った不成績を示した男である。又氏郷は相縁《あいえん》奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗は却《かえっ》て家康と馬が合ったようであるから、此談も些《ちと》受取りかねるのである。
 今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という意は人々の識力眼力より遥に自分が優《まさ》って居るという例の自慢である。此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏《とり》に定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこが些《ちと》訝《いぶ》かしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の瓢箪《ひょうたん》先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下るところが聊《いささ》か憫然《びんぜん》だ。いろいろの談の孰れが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄で有ったろうから、随《したが》って種々の臆測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。
 何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非頼むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、此時分の人だから自己利益を本として釣鉤《つりばり》の※[#「金+幾」、第4水準2-91-39]《かかり》のようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行し得るために其便宜を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任を全うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、就ては秀吉に対して嘗《かつ》て敵対行為を取って其|忌諱《きい》に触れたために今に何《ど》の大名にも召抱えられること無くて居る浪人共をも宥免《ゆうめん》あって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことに此の時代の事であるから、一能あるものでも嘗《かつ》て秀吉に鎗先《やりさき》を向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を容れぬことの有ろう筈は無い。敵対又は勘当の者なりとも召抱|扶持《ふち》等随意たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中に居た佐久間|久右衛門尉《きゅうえもんのじょう》は柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は佐々《さっさ》成政の養子で、二人|何《いづ》れも秀吉を撃取《うちとり》にかかった猛将佐久間|玄蕃《げんば》の弟であったから、重々秀吉の悪《にく》しみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は仮令《たとい》器量が有っても世の埋木《うもれぎ》にならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも斯様《こう》いう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた不埒《ふらち》な奴に対して、何々という奴は当家に於て差赦《さしゆる》し難き者でござると言明すると、何《ど》の家でも其者を召抱えない。若《も》し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは弓箭沙汰《きゅうせんざた》になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す所以《ゆえん》である。前に挙げた水野三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の境界《きょうがい》に沈淪《ちんりん》して居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、所謂《いわゆる》戦場往来のおぼえの武士《つわもの》が吸寄せられたのであった。
 氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりも猶《なお》奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下《きか》に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程《さほど》では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護《かば》って遣れ、木村は氏郷を親とも主《しゅ》とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を托《かず》けられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。(つづく)



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • 南部 なんぶ 南部氏の旧領地の通称。青森・岩手・秋田3県にまたがる。特に、盛岡をいう。
  • 陸奥 むつ 旧国名。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥に分割。分割後の陸奥は、大部分は今の青森県、一部は岩手県に属する。
  • 出羽 でわ (古くはイデハ)旧国名。東北地方の一国で、1869年(明治元年12月)羽前・羽後の2国に分割。今の山形・秋田両県の大部分。羽州。
  • 米沢 よねざわ 山形県南部の市。米沢盆地の南端に位置し、もと上杉氏15万石の城下町。古来、機業で知られる。人口9万3千。
  • 米沢城 よねざわじょう 山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にあった中世から近世にかけての平城。江戸時代は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩1万石の藩庁が置かれていた。
  • 大崎・葛西 おおさき・かさい ともに中世において、陸奥国の宮城県北部または岩手県南部にかけて勢力をもった大名であるが、戦国期より近世期にかけてその支配領域を通称名として大崎・葛西とよんだ。ただし、呼称・範域とも変遷があり、文献にみえる名も固定せず、人名か地名か見分けがたいことも多い。
  • 葛西 かさい 牡鹿(おしか)・本吉(もとよし)・登米の三郡と、岩手県域の胆沢(いさわ)郡(現水沢市など)・磐井(いわい)郡(現一関市など)・江刺(えさし)郡(現江刺市)・気仙(けせん)郡(現大船渡市など)の四郡を合わせ、葛西七郡と称する。
  • 大崎 おおさき 宮城県北西部の市。農業が盛ん。北西部には鳴子温泉がある。東部の蕪栗沼はラムサール条約湿地。人口13万8千。
  • 大崎 おおさき 加美(かみ)・志田・遠田(とおだ)・玉造(たまつくり)・栗原の五郡の総称名で、戦国大名大崎氏の支配地域。戦国末期の居城は玉造郡名生(みょう)城(現、古川市)とされ、支配領域は黒川郡に及んだともいう。天正18(1590)の小田原参陣に加わらなかった大崎氏は、葛西氏とともに「奥州仕置」により所領没収となり、跡には豊臣秀吉の直臣木村清久が入る。葛西氏領には父吉清が入った。
  • 佐沼城 さぬまじょう 現、登米郡迫町佐沼。近世には栗原郡北方村に属し、大崎平野の北東部の迫川流域に位置し、登米郡と栗原郡および領内北部と仙台城下を結ぶ枢要の地にある。天文年間(1532〜1555)以降、この地方の支配は葛西氏から大崎氏に移り、佐沼城には大崎家臣石川氏が数代続いた。天正18(1590)葛西・大崎両家が滅び、木村吉清が葛西・大崎十二郡を領したが、葛西大崎一揆がおこり、一揆勢は佐沼城に拠って抵抗し、翌19年7月伊達政宗によって落城した。以後、伊達氏領となり、伊達家臣湯目(のち津田)氏が佐沼城を居城とした。
  • 板屋峠 → 板谷峠
  • 板谷峠 いたや とうげ 山形・福島の県境にあり、奥羽山脈をこえる峠。標高755メートル。
  • 大森 おおもり (1) 黒川郡大衡村大森。(2) 現、桃生郡河北町大森。(3) 現、本吉郡志津川町大森。
  • 仙道 せんどう (3) (「仙道」とも書く) 中山道の略。
  • 三春 みはる 福島県東部の町。もと秋田氏の城下町。
  • 白川 → 白河か
  • 白河 しらかわ (1) 磐城国南部、今の福島県南部一帯の地名。(2) 福島県南部の市。もと、阿部氏10万石の城下町。古来、関東から奥州に入る一門戸。人口6万6千。
  • 二本松 にほんまつ 福島県北部、阿武隈川に臨む市。もと丹羽氏10万石の城下町。酒・家具が特産。西の安達太良山の麓に岳温泉がある。人口6万3千。
  • 須賀川 すかがわ 福島県南部、阿武隈川上流にある市。もと奥州街道の宿駅・市場町。農産物の集散地。人口8万。
  • 会津 あいづ 福島県西部、会津盆地を中心とする地方名。その東部に会津若松市がある。
  • 会津城 あいづじょう 会津若松市にある松平(保科)氏の旧居城。1384年(至徳1)蘆名直盛の築城。1592年(文禄1)蒲生氏郷、1639年(寛永16)加藤明成が大修築、43年保科正之が城主となる。1868年松平容保(かたもり)が籠城して新政府軍に抗し、ついに降った(会津戦争)。黒川城。若松城。鶴ヶ城。
  • 越後 えちご 旧国名。今の新潟県の大部分。古名、こしのみちのしり。
  • 越後路
  • 常陸 ひたち 旧国名。今の茨城県の大部分。常州。
  • 信州 しんしゅう 信濃(しなの)国の別称。
  • 甲州 こうしゅう 甲斐(かい)国の別称。
  • 下野 しもつけ (シモツケノ(下毛野)の略) 旧国名。今の栃木県。野州(やしゅう)。
  • 那須 なす 栃木県北東端、那珂川上流域一帯の地域名。那須温泉郷があり、行楽地として塩原とともに名高い。保養地として発展。
  • 上野 こうつけ/こうずけ (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転)旧国名。今の群馬県。上州。
  • 館林 たてばやし 群馬県南東部の市。もと秋元氏6万石の城下町。文福茶釜で有名な茂林寺がある。人口7万9千。
  • 武蔵 むさし (古くはムザシ)旧国名。大部分は今の東京都・埼玉県、一部は神奈川県に属する。武州。
  • 上総 かずさ (カミツフサの転)旧国名。今の千葉県の中央部。
  • 下総 しもうさ 旧国名。今の千葉県の北部および茨城県の一部。上総(かずさ)を南総というのに対し、北総という。しもつふさ。
  • 安房 あわ 旧国名。今の千葉県の南部。房州。
  • 上州 じょうしゅう 上野(こうずけ)国の別称。
  • 野州 やしゅう 下野(しもつけ)国の別称。
  • 武州 ぶしゅう 武蔵(むさし)国の別称。
  • 大里城 〓 矢田野伊豆の故郷。
  • 宇都宮 うつのみや 栃木県中央部の市。県庁所在地。古来奥州街道の要衝。江戸初期、奥平氏11万石の城下町として発展。人口50万2千。
  • 相模 さがみ 相模・相摸。旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • 小田原攻め おだわらぜめ 1590年(天正18)豊臣秀吉が小田原城を包囲し、北条氏政・氏直を降した戦い。氏政は自刃、氏直は紀伊国高野山に閉居。小田原征伐。
  • 箱根 はこね 神奈川県足柄下郡の町。箱根山一帯を含む。温泉・観光地。芦ノ湖南東岸の旧宿場町は東海道五十三次の一つで、江戸時代には関所があった。
  • 底倉 そこくら 神奈川県箱根町にある温泉地。箱根七湯の一つ。泉質は塩化物泉。
  • 伊豆 いず (1) 旧国名。今の静岡県の東部、伊豆半島および東京都伊豆諸島。豆州。→伊豆七島→伊豆半島。(2) 静岡県東部、伊豆半島中部の市。温泉が多く、保養地として首都圏からの観光客が多く訪れる。人口3万7千。
  • 笠懸山 かさがけやま
  • 長久手・長湫 ながくて 名古屋市の東方に接する町。1584年(天正12)羽柴秀吉の軍が徳川家康の軍と戦って敗れた地。
  • 淀川 よどがわ 琵琶湖に発源し、京都盆地に出て、盆地西端で木津川・桂川を合わせ、大阪平野を北東から南西に流れて大阪湾に注ぐ川。長さ75キロメートル。上流を瀬田川、宇治市から淀までを宇治川という。
  • 山崎村 やまざきむら 現、京都市乙訓郡大山崎町字大山崎。天王山と、淀川に至る南・東南山麓一帯に位置する。古代以来、村のやや西寄りで山城国と摂津国に分かれ、河川など自然の境界はない。長岡京の造営以来、長岡京・平安京と西国とを結ぶ水陸交通の要地・山崎村ともいう。
  • 江州 ごうしゅう 近江(おうみ)国の別称。
  • 日野 ひの 滋賀県南東部、蒲生郡の町。もと蒲生氏の城下町。近江商人の出身地で豪商が多く、日野椀・蚊帳などを商い、また売薬製造も行なった。
  • 勢州 せいしゅう 伊勢国の別称。
  • 松坂 まつさか 松阪・松坂。三重県中部の市。もと古田氏5万5000石の城下町。のち紀州藩の別府。伊勢商人の輩出地。本居宣長の生地。人口16万9千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 天正四(一五七六) 伊達政宗、父の輝宗が板屋峠〔板谷峠〕をこえて大森に向かい、相馬弾正大弼と畠山右京亮義継、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出したとき、年はわずかに十歳。
  • 天正一二(一五八四)ごろから 政宗、秀吉との交渉あったらしい。
  • 天正一三(一五八五)一一月 佐竹・岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切り離されて、敵を前後に受けて苦戦におちいる。
  • 天正一六(一五八八) 秀吉の方から政宗へ書信あり、また刀などを寄せて鷹を請う。九月、家康から使いが来、また十二月、玄越をつかわす。
  • 天正一七(一五八九)五月 政宗、三千塚という首塚を立てるほどの激しい戦をして蘆名義広をへこませ、会津を取る。
  • 天正一七(一五八九)一一月 政宗、大崎の臣の湯山隆信という者を引き込んで、内々大崎氏を図らしめる。
  • 天正一八(一五九〇)まで六年の間に、政宗、大小三十余戦、蘆名・佐竹・相馬・岩城・二階堂・白川・畠山・大内、これらを向こうにまわしてしだいしだいに斬り勝って、すでに西は越後境、東は三春、北は出羽にまたがり、南は白川〔白河か〕を越して、下野の那須、上野の館林までも威炎は達し、その城主らが心を寄せるほどに至る。
  • 天正一八(一五九〇)正月七日 政宗、連歌の発句「ななくさを ひと手によせて つむ菜哉」
  • 天正一八(一五九〇)正月 政宗、良覚院を京都へやる。三月、斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政らの書を持ってくる。
  • 天正一八(一五九〇) 蒲生氏郷、陸奥・出羽の鎮護の大任を負う。
  • 慶長三(一五九八) 堀久太郎、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(あるいは七十万石)の大封を受けて入ったが、上杉に陰で糸をひかれておこった一揆のために大いに手こずらされる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 蒲生氏郷 がもう うじさと 1556-1595 安土桃山時代の武将。初名、教秀・賦秀。近江蒲生の人。織田信長・豊臣秀吉に仕え、会津92万石を領した。茶道・和歌もよくした。
  • 宗鑑 → 山崎宗鑑
  • 山崎宗鑑 やまざき そうかん ?-1540頃 室町後期の連歌師・俳人。俳諧の祖。足利将軍に仕え、後に剃髪して宗鑑と号し、山城国山崎に住む。有数の連歌師であったが、俳諧連歌に重きをおき、俳諧独立の機運を作った。編「新撰犬筑波集」
  • 近衛公 このえこう
  • 班固 はん こ 32-92 後漢の歴史家。字は孟堅。父班彪の没後、「漢書」の編述完成につとめた。一部未完成の部分は妹の班昭が補った。匈奴討伐に従軍、敗戦の罪に座して獄死。編著「白虎通」など。
  • 欧陽修 おうようしゅう → 欧陽脩か
  • 欧陽脩 おうよう しゅう 1007-1072 中国宋代の政治家、学者。廬陵の人。仁宗・英宗に仕え翰林学士となり、兵部尚書に進む。神宗のとき、王安石の新法に反対し退官。詩文にすぐれ、唐宋八大家の一人に数えられた。著「新唐書」「新五代史」「毛詩本義」「帰田録」など。
  • 片倉小十郎景綱 かたくら こじゅうろう かげつな 1557-1615 父は米沢八幡神社主・片倉景重。(日本史)/はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575)に政宗の近侍となり、軍師として重用されるようになる。
  • 伊達政宗 だて まさむね 1567-1636 安土桃山・江戸初期の武将。輝宗の子。独眼竜と称。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。また、その臣支倉常長を海外に派遣。
  • 豊臣秀吉 とよとみ ひでよし 1537-1598 一説に 1536-1598 戦国・安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。15歳で松下之綱の下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に譲って太閤と称した。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起こし朝鮮に出兵、戦半ばで病没。
  • お半長右衛門 おはん ちょうえもん 浄瑠璃「桂川連理柵」の両主人公。
  • 木村父子 領主。
  • 足利氏 あしかが し
  • 明智光秀 あけち みつひで 1528?-1582 安土時代の武将。通称、十兵衛。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任日向守と称。ついで丹波亀山城主となり、毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。わずか13日で豊臣秀吉に山崎で敗れ、小栗栖で農民に殺される。
  • 小栗栖の長兵衛 おぐるすの ちょうべえ 明智光秀を竹槍で刺殺したと伝える小栗栖の農民。岡本綺堂が1920年(大正9)に同名で戯曲化。
  • レーニン Vladimir Il'ich Lenin 1870-1924 (本姓Ul'yanov 別名Nikolai L.)ロシアのマルクス主義者。ボリシェヴィキ党・ソ連邦の創設者。学生時代より革命運動に従事、流刑・亡命の生活を経て、1917年ロシア革命に成功、その後ソビエト政府首班として社会主義建設を指導。マルクス主義を独自の仕方で体系づけた。著「ロシアにおける資本主義の発展」「何をなすべきか」「唯物論と経験批判論」「帝国主義論」「国家と革命」など。
  • 高師直 こうの もろなお ?-1351 南北朝時代の武将。足利尊氏の執事。武蔵守。尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、のちに尊氏の弟直義らと対立し、上杉能憲の一党のため弟師泰とともに殺された。「仮名手本忠臣蔵」では浅野長矩を苦しめる吉良上野介に擬する。
  • 武田信玄 たけだ しんげん 1521-1573 戦国時代の武将。信虎の長子。名は晴信。信玄は法名。1541年(天文10)父を追放して甲斐国主となり、民政・領国開発に力を入れ甲州法度を定める。近傍諸国を攻略し、上杉謙信と川中島で戦うこと数回。上洛を志し、織田信長と雌雄を決しようとして三河の野田城攻囲中に病を得、伊那駒場に没。
  • 伊達輝宗 だて てるむね 1544-1584 戦国時代の武将・戦国大名。伊達氏第十六代当主。元亀3年(1572)に甲斐国から武田信玄の師とされる快川紹喜の弟子である臨済宗の虎哉宗乙禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者、僧を当時の伊達家居城、米沢城に招く。/出羽国米沢城(現、山形県米沢市)城主。政宗の父。(日本史)
  • 相馬弾正大弼 そうま だんじょう たいひつ
  • 畠山義継 はたけやま よしつぐ → 二本松義継
  • 二本松義継 にほんまつ よしつぐ ?-1585 南北朝期の奥州管領・畠山国氏の子孫。1574(天正2)北方の伊達氏に圧迫され、会津の蘆名氏や常陸の佐竹氏と同盟を結んだ。85年10月、伊達輝宗との戦闘で降伏し、講和の場で輝宗を拉致し逃亡。政宗の追撃をうけ、阿武隈川岸の高田原で輝宗とともに殺された。翌年政宗は二本松城を攻撃、二本松氏は滅亡。(日本史)
  • 大内定綱 おおうち さだつな 1545-1610 戦国時代の武将。本姓は多々良氏。家系は西国一の守護大名 大内氏の分家。父は大内義綱。弟に片平親綱。子に大内重綱がいる。当初、塩松氏の家老。塩松氏を追い塩松城の城主となり国人となる。後に伊達氏の家臣。
  • 蘆名 あしな 姓氏の一つ。中世、会津地方の領主、戦国大名。三浦義明の子義連からおこる。
  • 佐竹 さたけ 姓氏の一つ。清和源氏義光の流。常陸佐竹郷を本拠とする。頼朝の奥州征討に従い、南北朝内乱期には尊氏に与し、常陸守護。戦国時代、義重(1547〜1612)・義宣(1570〜1633)は小田原北条氏と対抗して秀吉に通じる。関ヶ原の戦で西軍に加わり、減封の上、出羽秋田に移された。
  • 相馬 そうま 姓氏の一つ。桓武平氏。千葉氏の流れ。中世、下総国相馬郡から奥州小高に移る。近世、相馬中村藩藩主。
  • 岩城氏 いわきし 中世陸奥国の豪族。近世の大名家。桓武平氏維茂流。1590(天正18)常隆の死後、佐竹氏から貞隆が養子に入り、12万石を領有する。関ヶ原の戦後領地没収。1616(元和2)信濃国川中島1万石に復し、ついで出羽国亀田2万石の藩主。(日本史)
  • 二階堂
  • 白川 → 白河結城氏か
  • 白河結城氏 ゆうきし 中世下総国の豪族。白河結城氏は秀吉の奥羽平定で改易となり、伊達氏家臣となった。(日本史)
  • 畠山
  • 大内
  • 蘆名義広 あしな よしひろ 1575-1631 戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の武将。別名、盛重・義勝。
  • 伊勢新九郎 → 北条早雲(伊勢盛時)
  • 北条早雲 ほうじょう そううん 1432-1519 戦国時代の武将。伊勢新九郎盛時と称し、剃髪して早雲庵宗瑞と号。はじめ今川氏に拠って駿河におり、堀越公方足利政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆を併せ、のち相模を奪って小田原城に入り、後北条氏5代の基を開いた。
  • 北条氏綱 ほうじょう うじつな 1487-1541 戦国時代の武将。早雲の長子。小田原城主。扇谷上杉氏を攻めて武蔵・両総に勢を張った。箱根早雲寺に葬る。
  • 北条氏康 ほうじょう うじやす 1515-1571 戦国時代の武将。氏綱の長子。1546年武蔵河越で山内・扇谷両上杉氏を破り、のち上杉謙信と戦って撃退、民政にも力を注ぎ北条氏の全盛期を築いた。
  • 北条氏政 ほうじょう うじまさ 1538-1590 安土桃山時代の武将。氏康の長子。下総・駿河・常陸を攻略。豊臣秀吉に小田原城を攻められ、自刃。
  • 徳川
  • 真田 さなだ
  • 前田
  • 上杉
  • 八幡太郎 はちまん たろう (頼義の長子で、石清水八幡で元服したことからいう)源義家の通称。
  • 源義家 みなもとの よしいえ 1039-1106 平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。
  • 猿面冠者 さるめん かじゃ (猿の顔に似ている若者の意)木下藤吉郎(豊臣秀吉)のあだ名。
  • 後藤基信 → 遠藤基信か
  • 遠藤基信 えんどう もとのぶ 1532-1585 伊達氏の家臣。不入斎の号を好んで用いた。子に遠藤宗信がいる。はじめは中野宗時の家臣であったが、宗時が伊達輝宗に謀反を起こしたとき、宗時の謀反を直前に密告したことを輝宗に賞されて、輝宗配下の宿老として取り立てられた。このとき、1500石の所領を与えられている。基信は行政手腕に優れており、後に伊達政宗の軍師となったことで有名な片倉景綱を推挙したり、織田信長、徳川家康、北条氏照、柴田勝家らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行なったりしている。1585年、輝宗が二本松義継に拉致されて殺された後、死去した。
  • 徳川家康 とくがわ いえやす 1542-1616 徳川初代将軍(在職1603〜1605)。松平広忠の長子。幼名、竹千代。初名、元康。今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、1590年(天正18)関八州に封じられて江戸城に入り、秀吉の没後伏見城にあって執政。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、03年征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた。将軍職を秀忠に譲り大御所と呼ばれた。07年駿府に隠居後も大事は自ら決し、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府260年余の基礎を確立。諡号、東照大権現。法号、安国院。
  • 前田利家 まえだ としいえ 1538-1599 安土桃山時代の武将。加賀金沢藩の祖。尾張の出身。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉没後は五大老の一人として秀頼を補佐した。
  • 玄越
  • 佐竹義宣 さたけ よしのぶ 佐竹氏十九代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。幼名は徳寿丸。通称は次郎。官位は従四位上、左近衛中将。右京大夫。天正17年(1589年)、父・義重の隠居により家督を相続する。
  • 富田左近将監 → 富田一白
  • 富田一白 とみた いっぱく ?-1599 安土桃山時代の織田氏・豊臣氏の家臣。伊勢国安濃津城城主。従来実名を知信とされてきたが、近年これを嫡男信高の初名として、知信=一白を否定する説が有力となっており、記録上確認できる実名は信広もしくは長家であるとされている。子に富田信高・富田高定・佐野信吉がいる。平右衛門尉・左近将監を名乗り、隠居後は水西と名乗る。近江国出身。
  • 施薬院玄以 げんい? → 前田玄以?
  • 前田玄以 まえだ げんい 1539-1602 安土桃山時代の武将。美濃の人。民部卿法印・徳善院と号。織田信忠・豊臣秀吉に仕え、17年間京都奉行職。五奉行の一人。丹波亀山城主。
  • 浅野長政 あさの ながまさ 1547-1611 安土桃山時代の武将。尾張の人。初め織田信長に仕え、のち豊臣秀吉の五奉行の一人。文禄の役に軍監。関ヶ原の戦には東軍に属した。
  • 三好秀次 → 豊臣秀次
  • 豊臣秀次 とよとみ ひでつぐ 1568-1595 安土桃山時代の武将。三好一路の子。母は秀吉の姉。1591年(天正19)秀吉の養子、ついで関白。秀頼の出生後、秀吉と不和を生じ、高野山に追放のうえ自殺を命ぜられた。世に殺生関白という。
  • 良覚院 りょうがくいん
  • 斎藤九郎兵衛
  • 守屋守柏 しゅはく
  • 小関大学 おぜき
  • 藤原信頼 ふじわらの のぶより 1133-1159 平安末期の貴族。右衛門督。後白河上皇に厚遇され、同じく上皇の信任厚い藤原通憲と対立、源義朝らと平治の乱を起こしたが、平清盛に攻められ、六条河原で斬首。
  • 重盛 → 平重盛
  • 平重盛 たいらの しげもり 1138-1179 平安末期の武将。清盛の長子。世に小松殿・小松内府または灯籠大臣という。保元・平治の乱に功あり、累進して左近衛大将、内大臣を兼ねた。性謹直・温厚で、武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。
  • 源義朝 みなもとの よしとも 1123-1160 平安末期の武将。為義の長男。下野守。保元の乱に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、左馬頭となったが、清盛と不和となり、藤原信頼と結んで平治の乱を起こし、敗れて尾張に逃れ、家人の長田忠致に殺された。
  • 悪源太 あくげんた 源義平の異称。
  • 源義平 みなもとの よしひら 1141-1160 平安末期の武将。義朝の長男。15歳の時、叔父義賢と戦ってこれを斬り、悪源太の異名を得た。後に平治の乱に父に従って奮戦、敗れて美濃に逃れたが、父の死後、単身京都に潜伏、平清盛暗殺を狙ったが、捕らえられて斬首された。
  • 九戸政実 くのへ まさざね 1536-1591 陸奥九戸城主。南部氏の重臣。九戸信仲の子。弟に九戸実親。九戸氏はもともと南部氏の一族。武将としての器量に優れており、九戸氏は政実の代に勢力を大幅に広げ、南部氏宗家に匹敵する勢力を築いた。
  • 大峯金七
  • 北条氏輝 ほうじょう うじてる 1540?-1590 戦国期〜織豊期の武将。相模国小田原城(現、神奈川県小田原市)城主。北条早雲の子。戦国大名後北条氏二代。1518(永正15)家督となる。24年(大永4)江戸城、37年(天文6)河越城を奪い武蔵に進出して扇谷上杉氏を圧迫。同年駿河で今川義元と戦い(河東一乱)、翌38年小弓御所足利義明を破って房総勢の台頭を退けた(国府台の戦)。当初伊勢氏を称したが、23年北条氏に改め、執権北条氏と同姓として相模・武蔵支配の正当性を主張。(日本史)
  • 安倍頼時 あべの よりとき ?-1057 平安中期、陸奥の豪族。初名、頼良。貞任・宗任の父。奥六郡の俘囚長として蝦夷を統率。陸奥守源頼義に攻められ、敗れて流矢に当たり鳥海柵に没。
  • 平泉の泰衡 → 藤原泰衡
  • 藤原泰衡 ふじわらの やすひら ?-1189 平安末期の奥州の豪族。秀衡の子。陸奥・出羽の押領使。父の遺命によって源義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧迫を受けてこれを殺害、かえって頼朝から攻撃されて殺された。
  • 伊達成実 だて しげざね 1568-1646 藤五郎。信夫郡大森城主、伊達実元の嫡男。仙台藩初代藩主である伊達政宗の重臣で従弟。片倉景綱と共に、伊達政宗の片腕として活躍した。伊達実元の子。母は実元の兄伊達晴宗の娘。父・実元と母はもともと叔父・姪の間柄であったことから、成実は母方をたどれば伊達政宗と従兄弟、父方をたどると政宗の父・輝宗と従兄弟にあたる。仙台藩一門第2席。亘理伊達家の初代。(人レ)
  • 下郡山内記 したこおりやま ないき
  • 原田宗時 はらだ むねとき 1565-1593 安土桃山時代の人物。伊達氏の家臣。原田宗政の甥(父は山嶺源市郎)。虎駒。左馬之助。宗時の原田氏は伊達氏初代の朝宗以来の代々の宿老といわれる。
  • 原田甲斐 はらだ かい 1619-1671 江戸前期の仙台藩の家老。寛文事件(伊達騒動)の一方の当事者。名は宗輔。1663年(寛文3)奉行職(家老)に就任。幕府大老酒井忠清の屋敷で被告として尋問された際に、原告の伊達安芸を切り殺し、自らも切り死にした。
  • 高野壱岐 〓 いき
  • 白石駿河 〓 するが
  • 千利休 せんの りきゅう 1522-1591 安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び侘茶を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ自刃。
  • 矢田野伊豆 やだの いず
  • 法印玄以
  • 施薬院全宗 せやくいん/やくいん ぜんそう 1526-1599 戦国時代から安土桃山時代にかけての医者。豊臣秀吉の側近。丹波氏の出身。号は徳運軒。大永6年(1526)、平安時代の名医丹波康頼の二十世の末裔として生まれる。祖父・宗清、父・宗忠ともに権大僧都法印となっている。
  • 宮部善祥坊 → 宮部継潤
  • 宮部継潤 みやべ けいじゅん 1528?-1599 戦国時代の武将。官途は中務卿。通称は善祥坊。実父土肥真舜。養父善祥坊清潤。 宮部長房の父。近江国浅井郡宮部村の小豪族の出自。
  • 福原直高 → 福原長堯か
  • 福原長堯 ふくはら ながたか 安土桃山時代の武将・大名。妻は石田三成の妹。右馬助。長堯の福原氏は赤松氏の一族で、播磨平定戦において秀吉に滅ぼされた福原則尚や福原助就の同族であるとされる。豊臣秀吉に仕え、豊後府内12万石を領した。
  • 石田三成 いしだ みつなり 1560-1600 安土桃山時代の武将。幼名は佐吉。治部少輔と称す。近江の人。年少から豊臣秀吉に近侍、五奉行の一人となり、太閤検地など特に経済・財政の面に活躍した。佐和山19万石の城主。のち徳川家康を除こうとして挙兵、関ヶ原に敗れて京都で斬首された。
  • 大谷吉隆 大谷吉継(よしつぐ)か。
  • 浅野正勝 あさの まさかつ ?-? 六右衛門。安土桃山時代の武士。浅野氏家臣。(人レ)
  • 木村清久 きむら きよひさ ?-1615 戦国時代・安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の家臣、木村吉清の息子。弥一右衛門。秀望。キリシタンで洗礼名ジョアン。天正14年(1586)には石田三成、増田長盛と連名で上杉景勝に上洛を促す書状を、天正18年(1590)の小田原攻めに際しては伊達政宗に参陣を催促する書状を送っている。奥州仕置後、父とともに奥州入りし、葛西氏の重臣の居城であった名生城に入城し統治を行ったが、父の苛政のため領内では一揆が勃発。事を大事と見た清久は対策を練るため父の居城寺池城へ赴くが、その間に葛西大崎一揆が勃発。一揆は伊達政宗の煽動もあって大規模化し、木村氏は結局独力では一揆を鎮圧できず、戦後改易。後吉清の遺領豊後1万4千石を次いで豊臣大名となる。
  • 田原藤太秀郷 たわら とうだ ひでさと → 藤原秀郷
  • 藤原秀郷 ふじわらの ひでさと ?-? 平安中期の下野の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足退治などの伝説が多い。
  • 細川忠興 ほそかわ ただおき 1563-1645 安土桃山時代の武将。幽斎の子。織田信長に仕え、丹後宮津城主。妻ガラシヤの父明智光秀が信長を殺害した時、その招きに応ぜず、豊臣秀吉に従って軍功を積み、関ヶ原の戦には徳川氏に属して戦功あり、豊前・豊後40万石に封。1620年(元和6)剃髪して三斎宗立と号。和歌・典故に通じ、また茶の湯を好んだ。
  • 細川幽斎 ほそかわ ゆうさい 1534-1610 安土桃山時代の武将・歌人。三淵晴員の子。本名、藤孝。忠興の父。剃髪して玄旨幽斎と号し、信長・秀吉・家康3代に仕えて重用された。三条西実枝に古今伝授を受け、近世歌学の祖と称された。家集「衆妙集」
  • 堀久太郎秀治 ほり ひではる → 堀秀治
  • 堀秀治 ほり ひではる 1576-1606 安土桃山時代・江戸時代の武将・大名。堀秀政の嫡男で、弟に堀親良。妻は長谷川秀一の娘。子に堀忠俊、堀鶴千代、季郷。
  • 上杉景勝 うえすぎ かげかつ 1555-1623 安土桃山時代の武将。長尾政景の子。上杉謙信の養子。謙信の死後、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となり、会津120万石に封ぜらる。関ヶ原の戦に石田三成と結んだため、米沢30万石に移封。会津中納言。
  • 佐久間久右衛門尉 さくま きゅうえもんのじょう
  • 柴田勝家 しばた かついえ 1522?-1583 安土桃山時代の武将。修理亮。尾張の人。織田信長に仕えて越前に封ぜられる。信長の没後、信孝と謀り豊臣秀吉を除こうとして兵を挙げたが賤ヶ岳の戦に敗れ、越前北ノ庄(今の福井市)城に夫人お市の方とともに自刃。
  • 佐久間源六
  • 佐々成政 さっさ なりまさ 1539-1588 安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕え、越中富山に受封、のち織田信雄を助けて豊臣秀吉と戦い、敗れて降り、九州平定に従い肥後隈本(熊本)に移封、一揆が起こり、罪を問われて切腹。
  • 佐久間玄蕃 げんば → 佐久間玄蕃允(盛政)か
  • 佐久間盛政 さくま もりまさ 1554-1583 玄蕃允(げんばのじょう)。佐久間盛次の子。武将。
  • 水野三右衛門
  • 木村伊勢守 → 木村吉清
  • 木村吉清 きむら よしきよ ?-1598 戦国時代・安土桃山時代の武将。伊勢守。光清。明智光秀の家臣。荒木村重に仕えていたが、いつのころか、光秀の家臣となる。山崎の合戦後に秀吉に取り立てられ家臣となった。
  • 木村弥一右衛門 → 木村清久
  • 大崎氏 おおさきし 陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を祖先とする斯波氏の一族。斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。
  • 湯山隆信 ゆやま ? 大崎の臣。
  • 葛西氏 かさいし 陸奥国の大身(数郡規模の国人領主)。鎌倉時代に武蔵国・下総国の御家人・豊島氏の一族の葛西氏が陸奥に所領を得て土着した。戦国時代には奥羽の有力な戦国大名に数えられたが、豊臣秀吉の奥州仕置の際に大名としては滅亡した。葛西氏初代の葛西清重は平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(東京都葛飾区の葛西城を中心に江戸川区・墨田区などの伊勢神宮の荘園)を所領とした。清元・清重父子は源頼朝の挙兵に従って平氏討伐に参加して御家人。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 「桂川連理柵」 かつらがわれんりのしがらみ 浄瑠璃。菅専助作の世話物。1776年(安永5)初演。14歳の信濃屋の娘お半と隣家の40男帯屋長右衛門との桂川心中を脚色する。後に歌舞伎化。
  • 『続西遊記』
  • 『三略』さんりゃく 上略・中略・下略の3巻で、黄石公の撰と称せられるが、後代の偽作。中国兵法の古典。
  • 尭雄僧都話 ぎょうゆう そうずばなし


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • アノフェレス Anopheles 〔動〕ハマダラカ類の属名。
  • 瘧 おこり 間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指す。わらわやみ。
  • 餓鬼つばた
  • 佳謔 かぎゃく
  • 俛す ふす うつむく。
  • バチルス Bazillus (1) 桿菌(かんきん)。(2) ある事物につきまとって、その利を奪い、または害するもの。
  • 桿菌 かんきん 棒状または円筒形の細菌の総称。短桿菌・長桿菌などがある。大腸菌・コレラ菌・サルモネラ・結核菌の類。バチルス。
  • ヒドラ Hydra (2) ヒドラ亜目ヒドラ科のヒドロ虫類の総称。細長い円筒状の体の上端に口と6本ほどの触手があり、下端は足盤となる。体長約1センチメートル。著しい伸縮性があり、触手でミジンコなどを捕食する。各地の湖沼・水田などの静水中で、足盤で水草などに吸着して生活。出芽して無性生殖するが、有性生殖も見られる。ヤマトヒドラ・ヒメヒドラ・エヒドラなど。
  • 疝気筋 せんきすじ (1) 疝気の時に痛む筋肉。(2) 筋道のちがうこと。正しくない系統。傍系。
  • 疝気 せんき 漢方で腰腹部の疼痛の総称。特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に劇痛を来し反復する状態。あたはら。しらたみ。疝病。
  • 万八 まんぱち (万のうちで、真実なのはわずかに八つだけという意) (1) いつわり。うそ。また、よくうそをつく人。千三つ。(2) 酒の異称。
  • 堡塁 ほるい/ほうるい 敵の襲撃を防ぐため、石・土・砂・コンクリートなどでかためた堅固な構築物。とりで。
  • 小荷駄 こにだ (1) 馬に負わせる荷物。(2) 戦場に運ぶ兵糧。(3) 室町・戦国時代、兵糧・武具などを戦場に運ぶ騎馬隊。また、その荷や馬。
  • 怜悧・伶俐 れいり かしこいこと。りこうなこと。
  • 戸前 とまえ (1) 蔵の入口の戸の前。蔵前。(2) 土蔵の引戸の前に設ける観音開きのとびら。(3) 転じて、土蔵を数えるのにいう語。
  • 峻拒 しゅんきょ きびしくこばむこと。
  • 牢守 ろうしゅ かたく守ること。固守。
  • 瀝尽 れきじん しぼり尽くすこと。枯れ尽きるまで滴らせること。
  • 想察 そうさつ あれこれと事情を推測すること。おもいやること。推察。
  • 徳政 とくせい (1) 人民に恩徳を施す政治、すなわち、租税を免じ、大赦を行い、物を与えるなどの仁政。(2) 中世、売買・貸借の契約を破棄すること。鎌倉末期に、御家人の困苦を救うために幕府が質入れの土地・質物を無償で持主に返す令(永仁徳政令)を出したのに始まり、室町時代には、しばしば窮乏化した土民が徳政一揆を起こした。
  • 佑筆 ゆうひつ → 祐筆か
  • 右筆・祐筆 ゆうひつ (1) 筆をとって文を書くこと。(2) 武家の職名。貴人に侍して文書を書くことをつかさどった人。ものかき。(3) 文筆に長じた人。文書にたずさわる者。文官。
  • 大旆 たいはい (1) 日月と昇竜・降竜を描いた大きい旗。中国で、天子または将軍の用いたもの。(2) 旗印とする大きい旗。
  • 結ぼれる むすぼれる (1) むすばれて解けにくくなる。(2) 露などがおく。凝る。かたまる。(3) 気がふさいで晴ればれしない。ふさぐ。(4) 関係がある。縁つづきである。
  • 偉者・豪者 えらもの 「えらぶつ」に同じ。
  • 偉物・豪物 えらぶつ (多少の皮肉を込めて)すぐれた人。腕前のある人。
  • 気嵩 きがさ (1) 心の大きさ。(2) 負けん気が強いさま。勝気。
  • 反復常無し → 叛服常無し、か
  • 叛服常無し はんぷく つね なし そむいたり服従したり、その態度がきまらない。
  • 威炎 いえん 盛んな威光。
  • 斬靡ける きりなびける きりなびく。武力をもって服従させる。うち破る。敗走させる。切りなびかす。
  • 金鼓 きんこ (1) 陣鉦と陣太鼓。陣中の号令に用いるもの。
  • 猛炎 もうえん 燃えさかる炎。猛烈な火炎。みょうえん。
  • 迸発 ほうはつ 液体や感情などが、外にほとばしり出ること。
  • 蟠居 ばんきょ 盤踞・蟠踞。(1) わだかまりうずくまること。(2) 広大な土地を領し勢力を振るうこと。
  • 蹂躙 じゅうりん ふみにじること。ふみつけること。特に、暴威・暴力あるいは強大な勢いを以て、他人の権利・国土などを侵害すること。
  • 固蔕 こたい 固滞か。一か所にかたまりとどこおること。
  • 滾転 こんてん ころがること。また、ころがすこと。
  • 不取締 ふ とりしまり 取り締まりの悪いこと。しまりがないこと。また、そのさま。不用心。
  • 地生 じおい
  • 顕栄 けんえい 名があらわれ、身の栄えること。位高く立身すること。
  • 先蹤 せんしょう (「蹤」は足あとの意)先人の事跡。前の時代の実例。先例。前例。前蹤。
  • 勝形 しょうけい 地勢や風景などがすぐれているとこ。また、そのような土地。勝景。形勝。
  • 敗兆 はいちょう 敗北となるきざし。
  • 狡黠 こうかつ 狡猾。
  • 二心抱蔵 ふたごころ 〓
  • ニヤクヤ (副)あいまいでにえきらないさまを表わす語。のらりくらり。
  • 廉 かど 数え立てるべき箇条。また、理由として指摘される事柄。
  • 様子合 ようすあい 様子のぐあい。有様。様子。
  • 知悉 ちしつ 知りつくすこと。詳しく知ること。
  • 猜す すいす 猜する。おしはかる。推量する。推する。
  • 三千塚
  • 施薬院 せやくいん (ヤクインともよむ)貧しい病人に施薬・施療した施設。孤独な老人や幼児も収容。730年(天平2)光明皇后創設、中世に衰亡、豊臣秀吉再興、江戸幕府が受け継ぎ明治まで存続。
  • 通聘 つうへい
  • 見懲らし みごらし ある人をこらしめて、他の人のいましめとすること。みこらしめ。
  • 会ふ期 おうご 面会する時。人にあう機会。
  • 取り遣り とりやり 自分の方に取り、また、先方に与えること。贈答。授受。やりとり。
  • 鷙悍 しかん あらあらしいこと。たけだけしいこと。また、そのさま。
  • 真骨頭 しんこっとう (1) 最もすぐれた真の才能を持っていること。また、その人。(2) 真骨頂に同じ。
  • 恕する じょする 思いやりの心で許す。
  • 叩頭 こうとう (頭で地をたたく意)頭を地につけて拝礼すること。叩首。
  • 平治の乱 へいじのらん 平治元年(1159)12月に起こった内乱。藤原通憲(信西)対藤原信頼、平清盛対源義朝の勢力争いが原因で、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで戦ったが、源氏は平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致に殺された。
  • 勝ち味 かちみ (ミは接尾語。「味」は当て字) 勝つ見込み。勝ちそうな様子。勝ち目。
  • 落掛る おちかかる (1) 物の上に落ちる。落ちて物にひっかかる。(2) 太陽や月がある物の上に沈む。また、沈もうとする。(3) 落ちようとする。いまにも落ちそうになる。(4) 逃げようとする。
  • 淋漓 りんり (1) 元気のあふれるさま。(2) 水・血・汗などのしたたり落ちるさま。
  • 野面 のづら (3) 恥知らずの顔。鉄面皮。
  • 大風 おおふう (1) おごりたかぶった様子。尊大なさま。横柄。(2) 気持が大きく、こせこせしないこと。
  • 陪臣 ばいしん (1) 臣下の臣。又家来。又者。(2) 諸大名の直臣を将軍に対して呼んだ称。←→直参
  • 炯眼 けいがん (1) きらきらと光る眼。鋭い眼つき。(2) 眼力の鋭いこと。洞察力のすぐれていること。慧眼。
  • イラヒドイ 苛酷い。たいへんにひどい。苛酷である。無慈悲である。また、そのような人をもさしていう。
  • 根性骨 こんじょうぼね 根性を強めていう語。
  • 向背 こうはい (1) 従うこととそむくこと。(2) ようす。なりゆき。
  • 退嬰 たいえい あとへひくこと。しりごみすること。新しい事を、進んでする意気ごみのないこと。←→進取。
  • 疑懼 ぎく 疑いおそれること。
  • 深仇 しんきゅう 深い恨み。心に深くきざまれた怨恨。また、深い恨みのあるかたき。
  • 左思右考 左思右想(さしうそう)か。あれこれと思いめぐらすこと。いろいろ考えること。
  • 萎靡 いび なえしおれること。衰えて弱ること。
  • 伊達騒動 だて そうどう 江戸前期、仙台藩に起こった御家騒動。1660年(万治3)伊達綱宗は所行紊乱の廉で幕命により隠居、幼少の世子亀千代丸(綱村)が家督を嗣いだ。伊達兵部少輔宗勝(綱宗の叔父)は後見として田村右京宗良や奉行原田甲斐宗輔らと共に藩政の実権を握った。老臣伊達安芸宗重はこれと対立し非違を幕府に訴え、71年(寛文11)裁きの席上、宗重は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、宗勝は土佐藩にお預け、宗良は閉門。奈河亀輔作「伽羅先代萩」など歌舞伎・講談に脚色。寛文事件。
  • 朝庭 ちょうてい 朝廷。
  • 感悟 かんご 感じてさとること。
  • 異相 いそう 普通とはかわった人相、または姿。
  • よろおって
  • 埒があく (らちがあくの意) 物事がうまくゆく。否定形でのみ用いる。
  • 手丈夫 てじょうぶ (1) つくりのしっかりしていること。(2) てがたいこと。確かなこと。
  • 惺々 せいせい 心のさえるさま。心のさとくあきらかなさま。
  • 瞋拳 しんけん 嗔拳か。怒りにまかせてふりあげるにぎりこぶし。怒りのこぶし。
  • ケチビンタ
  • 重瞳 ちょうどう 一つの目に二つのひとみがあること。貴人の相にいう。
  • 落去 らっきょ 落居。(1) 物事のきまりがつくこと。事が定まること。問題が解決して騒ぎなどが静まること。(2) 病状がおちつくこと。乱れたかぶった気持ちがおちついて平静になること。(3) 裁判の判決が出て訴訟が終結すること。(4) 落城すること。
  • 枢要 すうよう かんじんなところ。かなめ。
  • 材略 才略(さいりゃく)か?
  • 屏息 へいそく (1) 息をころしてじっとしていること。(2) 転じて、恐れちぢまること。
  • 将軍星
  • 不知案内 ふち あんない 実情を知らないこと。不案内。
  • 肚裡・肚裏 とり (「肚」は胃の意)腹のうち。心の中。
  • 憫然・愍然 びんぜん あわれむべきさま。かわいそうなさま。
  • 談柄 だんぺい (2) はなしのたね。話柄。
  • f かかり (2) 釣り針の先端の曲がった部分。
  • 沈淪 ちんりん (「淪」もしずむ意) (1) 深くしずむこと。(2) おちぶれはてること。零落。
  • 麾下 きか (大将の指図する旗の下の意から) (1) 将軍直属の家来。旗下。(2) ある人の指揮の下にあること。また、そのもの。部下。幕下。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


2011/12/05
晴れ。気温低い。冷たい風。昨夜、乾電池アイコンついに減る。バックライト輝度を最高から1つさげる。今日になってアイコンの減りがゼロにもどる。2時間ほど使ったところでふたたび残量表示に。

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2011/12/06
くもり。午前中、幸田露伴「蒲生氏郷」。午後から100均ショップにてナイトメアのシール2枚購入。パンを買って昼食。宮脇書店と北辰堂へ。アウトドア専門店ゴリラは定休日。八文字屋。

ポメラ表面、ナイトメアのシールでデコる。

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2011/12/07 19:22
「電圧低下。乾電池交換」の指示がでる。バッテリー減量しだして2日目。購入後、ちょうど一週間か。。。

2011/12/07 20:30
おわっ、、強制終了。電池交換。時間設定がクリア。データは日記を含めて残ってる。

ここまで1週間、佐藤栄太の短編が11件とミルクティー*のメモが数ページか。。。

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2011/12/08 19:24
昨日から悪寒が。。。鼻水が止まらない。今日になってノドも痛い。ポケットティッシュ1コじゃまったくたりない。

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2011/12/09 19:19
雪。3.11を思い出す。あの日よりも湿度が高いのかボタン雪。あしたまでに積もりそう。鼻水止まらず。

ポメラ、キーボードのぺそぺそ感、いたく気に入る。タッチが軽い。なでるように打てる。

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2011/12/10 くもり
午前中、銭湯。昼からJRにて山形へ。ときどき小雨。ポメラを持ってゆく。

使うあてはなかったし、実際、使わなかったが、持ち歩いてどう感じるか試してみた。市立図へ持ち歩くときは、せいぜいノートと図書1、2冊だけれども、山形へ行くばあい、市立図と県立図の二館分の図書をいつもかかえ歩く。図書とポメラをいっしょのバッグには入れたくない。バッグを別個に、2つの袋をかかえ持つことに。きゃしゃなポメラの駆体はしぜん外側に。持ち忘れ、落下破損、圧迫破損が気がかりで気が気でない。

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2011/12/11
発掘調査速報会 村山市しょうようプラザ。
13:00〜16:00

2011/12/11 19:55
頭痛、鼻水ややおさまる。のどが依然痛い。なやんだすえ、ちょっと遅れるが昼の電車で村山へ。くもり、ときどき小雨。
村山駅にて。缶コーヒー、ブルボン・アルフォート・ミニチョコビスケット。

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2011/12/12 19:03
くもり、ときどき小雨。昨夜寝つけず『宗像教授』を読み終え、『本とコンピュータ』の北村さんと祝田さんの回を読む。インタビュアーは仲俣さん。

幸田露伴『蒲生氏郷』第二回を作業開始。手がかじかむ。大学イモをつくる。
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(以上、ポメラ日記。ほぼポメ入力。




*次週予告


第四巻 第二一号 
蒲生氏郷(二)幸田露伴


第四巻 第二一号は、
一二月一七日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第二〇号
蒲生氏郷(一)幸田露伴
発行:二〇一一年一二月一〇日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉        
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  •  はしがき
  •  庄内三郡
  •  田川郡と飽海郡、出羽郡の設置
  •  大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領
  •  高張田地
  •  本間家
  •  酒田の三十六人衆
  •  出羽国府の所在と夷地経営の弛張
  •  
  •  奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  •  出羽国分寺の位置に関する疑問
  •  これは「ぬず」です
  •  奥羽地方の方言、訛音
  •  藤島の館址――本楯の館址
  •  神矢田
  •  夷浄福寺
  •  庄内の一向宗禁止
  •  庄内のラク町
  •  庄内雑事
  •   妻入の家 / 礫葺の屋根 / 共同井戸 / アバの魚売り / 竹細工 /
  •   カンジョ / マキ、マケ――ドス / 大山町の石敢当 / 手長・足長 /
  •   飛島 / 羅漢岩 / 玳瑁(たいまい)の漂着 / 神功皇后伝説 / 花嫁御
  •  桃生郡地方はいにしえの日高見の国
  •  佳景山の寨址
  •  
  •  だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音によってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。(略)近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音だということで、小学校ではつとめて矯正する方針をとっているがために、子どもたちはよほど話がわかりやすくなったが、老人たちにはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、じつに奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふっぱりきたものを」などは、ぜんぜん奥羽なまり丸出しの感がないではない。(略)
  •  また、遠く西南に離れた薩隅地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」とよばれている。なお歴史的に考えたならば、上方でも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、篠がシヌ、相模がサガム、多武の峰も田身(たむ)の峰であった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島のごときも、『延喜式』にはあきらかにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本参られて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊の幸わうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁な中部地方では後世しだいになまってきて、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった僻遠地方には、まだ昔の正しいままの発音が遺っているのだと言ってよいのかもしれぬ。(略)
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  •  館と柵および城
  •  広淵沼干拓
  •  宝ヶ峯の発掘品
  •  古い北村
  •  姉さんどこだい
  •  二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑
  •  日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏
  •  天照大神は大日如来
  •  茶臼山の寨、桃生城
  •  貝崎の貝塚
  •  北上川改修工事、河道変遷の年代
  •  合戦谷付近の古墳
  •  いわゆる高道の碑――坂上当道と高道
  •  
  •  しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗る村民も少くないらしい。(略)先日、出羽庄内へ行ったときにも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉・神護景雲三年(七六九)に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年(七七二)に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命の後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかもしれぬ。前九年の役後には、別に屋・仁土呂志・宇曽利あわして三郡の夷人安倍富忠などいう人もあった。かの日本将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館がはたして安倍氏の人の拠った所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かもしれぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野氏の多いのもちょっと目に立った。(略)今野はけだし「金氏」であろう。前九年の役のときに気仙郡の郡司金為時が、頼義の命によって頼時を攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものとみえる。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。その金に、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏をオオノ、紀氏をキノと呼ぶのと同様である。
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  •  
  •  私はいつも神さまの国へ行こうとしながら地獄の門をもぐってしまう人間だ。ともかく私ははじめから地獄の門をめざして出かけるときでも、神さまの国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局、地獄というものに戦慄したためしはなく、バカのようにたわいもなくおちついていられるくせに、神さまの国を忘れることができないという人間だ。私はかならず、いまに何かにひどい目にヤッツケられて、たたきのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらしてまっさかさまに落とされてしまう時があると考えていた。
  •  私はずるいのだ。悪魔の裏側に神さまを忘れず、神さまの陰で悪魔と住んでいるのだから。いまに、悪魔にも神さまにも復讐されると信じていた。けれども、私だって、バカはバカなりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神さまを相手に組み打ちもするし、蹴とばしもするし、めったやたらに乱戦乱闘してやろうと悲愴な覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。ずいぶん甘ったれているけれども、ともかく、いつか、化の皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落とされる時を忘れたことだけはなかったのだ。
  •  利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言うだろう。私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、なんとでも言うがいいや。私は、私自身の考えることもいっこうに信用してはいないのだから。「私は海をだきしめていたい」より)
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  •  
  •  (略)父がここに開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入の『古今集』をもらった。たぶん田安家にたてまつったものであっただろうとおもうが、佳品の朱できわめてていねいに書いてあった。出所も好し、黒川真頼翁の鑑定を経たもので、わたしが作歌を学ぶようになって以来、わたしは真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはりいっしょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年(一九二四)暮の火災のとき灰燼になってしまった。わたしの書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、かろうじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失せた。わたしは東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思い出して残念がるのであるが、何ごとも思うとおりに行くものでないと今ではあきらめている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとしたことにもとづくものがあると知って、それであきらめているようなわけである。
  •  まえにもちょっとふれたが、上京したとき、わたしの春機は目ざめかかっていて、いまだ目ざめてはいなかった。今はすでに七十の齢をいくつか越したが、やをという女中がいる。わたしの上京当時はまだ三十いくつかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」とわたしに教えた女中である。その女中がわたしを、ある夜、銭湯に連れて行った。そうすると浴場にはみな女ばかりいる。年寄りもいるけれども、キレイな娘がたくさんにいる。わたしは故知らず胸のおどるような気持ちになったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかもしれない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことがわかり、女中は母にしかられて私はふたたび女湯に入ることができずにしまった。わたしはただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。「三筋町界隈」より)
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  • 原子力の管理
  •  一 緒言
  •  二 原子爆弾の威力
  •  三 原子力の管理
  •  
  • 日本再建と科学
  •  一.緒言
  •  二.科学の役割
  •  三.科学の再建
  •  四.科学者の組合組織
  •  五.科学教育
  •  六.結語
  •  
  • 国民の人格向上と科学技術
  • ユネスコと科学
  •  
  •  原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。「日本再建と科学」より)
  •  科学は呪うべきものであるという人がある。その理由は次のとおりである。
  •  原始人の闘争と現代人の戦争とを比較してみると、その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある。個人どうしのつかみ合いと、航空機の爆撃とをくらべて見るがよい。さらに進んでは人口何十万という都市を、一瞬にして壊滅させる原子爆弾にいたっては言語道断である。このような残虐な行為はどうして可能になったであろうか。それは一に自然科学の発達した結果にほかならない。であるから、科学の進歩は人類の退歩を意味するものであって、まさに呪うべきものであるという。「ユネスコと科学」より)
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  • J・J・トムソン伝
  •  学修時代
  •  研究生時代
  •  実験場におけるトムソン
  •  トムソンの研究
  •  余談
  • アインシュタイン博士のこと 
  •  帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気を帯びたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉されたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。(略)
  •  電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物が一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性を有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個の忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快である。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  • 総合研究の必要
  • 基礎研究とその応用
  • 原子核探求の思い出
  •  湯川君の受賞
  •  土星原子模型
  •  トムソンが電子を発見
  •  マックスウェル論文集
  •  化学原子に核ありと発表
  •  原子核と湯川君
  •  (略)十七世紀の終わりに、カヴェンジッシュ(Cavendish)が、ジェレキ恒数〔定数〕・オーム則などを暗々裏に研究していたが、その工業的価値などはまったく論外であった。一八三一年にファラデー(Faraday)が誘導電流を発見したけれども、その利用は数十年後に他人によって発展せられ、強電流・弱電流・変圧器・モーターなどにさかんに用いられ、結局、電気工学の根幹はこの誘導電流の発見にもとづくものといってよろしい。(略)近年は電気工学の一部門として、電子工学なるものが生まれた。その源をたずねてみると、J・J・トムソン(Joseph John Thomson)が気体中の電気伝導を研究したのに始まっている。気体が電離すると、物質は異なっていても必ず同じ帯電と同じ質量を持っている微細なものが存在する。すなわち電子であって、今日まで知られているもっとも微質量の物質である。その帯電を利用し、自由にこれが速度を調節することが可能であることを認め、はじめてフレミング(Fleming)によって無線通信を受けるに使われた。(略)
  •  つぎに申し上げるのは、光電池のことである。ドイツの片田舎ウォルフェンブッテル(Wolfenbu:ttel)の中学教員エルステル(Elster)とガイテル(Geitel)は、真空内にカリウム元素を置き、これに光をあてると電子の発散するのを認め、ついにこれをもって光電池を作った。近ごろではカリウムよりセシウム(Caesium)が感度が鋭敏であるから、物質は変化したけれども、その本能においては変わらない。この発見者はこれを工業的に発展することはべつに考えなかったが、意外な方面に用いられるようになった。すなわち光度計としては常識的に考えうるが、これを利用してドアを開閉し、あるいは盗賊の警戒にもちい、あるいは光による通信に利するなど、意外なる利用方法が普通におこなわれるようになった。もっともさかんに使われるのは活動写真のトーキーであろう。光電池の創作者にこの盛況を見せ得ないのは残念である。

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