長岡半太郎 ながおか はんたろう
1865-1950(慶応元.6.28-昭和25.12.11)
物理学者。長崎県生れ。阪大初代総長・学士院院長。土星型の原子模型を発表。光学・物理学に業績を残し、科学行政でも活躍。文化勲章。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-HantaroNagaoka.jpg」より。
◇表紙イラスト:Wikipedia 「ファイル:Stylised Lithium Atom.png」より。


もくじ 
J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎


ミルクティー*現代表記版
J・J・トムソン伝
  学修時代
  研究生時代
  実験場におけるトムソン
  トムソンの研究
  余談
アインシュタイン博士のこと

オリジナル版
J・J・トムソン傳
アインシュタイン博士のこと

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


J・J・トムソン伝
底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科学知識』
   1937(昭和12)年11月12日
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1153.html

アインシュタイン博士のこと
底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科学朝日』
   1948(昭和23)年1月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1153.html

NDC 分類:289(伝記 / 個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html
NDC 分類:429(物理学 / 原子物理学)
http://yozora.kazumi386.org/4/0/ndc429.html





J・J・トムソン伝

長岡半太郎


 ヴィクトリア女王時代には英国全盛の学術を上演している。政治に、商工業に、また学問において、かくのごとき英材の輩出した時期はまれである。ファラデー、マックスウェルを筆頭として、物理学に名をせた二人のトムソンが出た。その一つはウィリアム〔ケルヴィン。で、他はジョン・ジョーセフであった。前者は物理学・電気工学方面にとうに名声をはせ、議論風発、その雷名は世界のすみずみまでとどろいた。後者は約三十年の後輩であるが、物理学の総論が転換せんとする時期になりなんとしているに際し、その枢軸すうじくを回転するにあずかって大いに力をいたした。あえてその功績を比較して論ずれば、前者は古典的の考索こうさくに思いをこらし、後者は古典経路を離れて、新しき物理学の趨向すうこうを開拓したというが至当であろう。
 ウィリアムとジョーセフは同姓であったから、相互親戚ででもあったかと疑うものがあろう。しかし両者の間には兄弟の因縁もなく、また直接師弟の関係もなく、ただ偶然の一致であった。世々相伝えて学界を支配する習慣を作ったわが邦人には、ややもすれば他国に類例なき当て推量をなさぬでもないから、これを発端に明瞭にしておく。

   学修時代


 ジョセフ・トムソン先生は一八五六年(安政三年)マンチェスターに生まれた。両親はその子を工業に従事せしめんと欲し、機関車製造所に徒弟に使わさんとはかったが、応募者が多いので数年待たなければ目的が達せられなかった。ある人は新たに設立されたオーウェンス大学に入れて、工学を学ばしめたが得策であるとすすめた。そのとおり決心して入学したのは先生の十四歳のときであった。数年後、物理学に転向したのは臨機の処置で素志は工業であったから、その学ぶところはまったく工学関係の科目であった。予が調べたところでは、先生のごとく工学から物理に転向した人が、現代の大物理学者には大部分を占めている。わが邦人にはそれを逆に考えているものが多い。これは余談にわたるから、他の機会を待ちて述べようと思う。
 十四歳の大学生は本邦で考うれば意外である。イギリスでも例外であるが、オーウェンス大学が創立されてから年月浅いゆえであったろう。先生は数学をパーカーに学び、四元法を納得したが、運用上不便なりとして、ついに放棄した。化学はそのころロスコーが通俗化して教えた。工学はレイノルズ(O. Reynolds)について学んだ。その特有なる観察法とその大なる独創力とは、深甚しんじんなる印象を先生にあたえた。すなわちその説きし流体のタービュレンス(Turbulence)は、いまだ今日のごとく持てはやされなかった。その油滑の理論は信ぜられなかった。殊にその宇宙観は迷夢めいむとして取り扱われた時代に、先生にはこれらが大なる刺激を与えた。スチュワート〔Stewart, Balfour か〕に学んだ物理学の中で、エネルギーに関する事項は先生の注意を喚起しついに論文に草したが、スチュワートは賛成しなかった。しかし十年を出ずして、その所説を発展して、力学の見地より物理学・化学の諸現象相関性を広範なる範囲にわたって説明する素因を作った。十七歳の青年は、すでにスチュワートのごとき学者を超越していたことがわかる。否、先生の論文の真意義が、スチュワートには通じなかったのであろう。かくのごときはしばしばおこることで、大発見がりふし世に長く知られざるも、まったく軌を同じうしている。しかして学生の卓見が、教授の了解するところとならざるも、学問はそれでおのずから進歩するのであるから喜ぶべき象徴である。
 三年の工学課程を終えて、いざ職業に就かんとするにあたり、先生はすこぶる躊躇ちゅうちょした。わがおさめし科目の中で、数学と物理学とはもっとも興味にちていたが、工業に従事するは如何いかがであろうと、二の足をふんだ。そこで数学を教えしパーカーは、ケンブリッジに遊び、純理学を専攻するがよかろうとすすめた。しかし能事魔多く、そのころ父は死し、学資はとぼしく、給費を受くる試験には落第して窮迫きゅうはくした。さいわいに食料品会社の援助を得て、一年間の予備学修をなし、ついにケンブリッジ大学に入ることを得た。先生は今日なおこの会社の好意を徳とし、予が物理学のために救われたのは、じつに慮外であったと言っている。
 翌年は首尾よくケンブリッジに入学した。そのころは試験制度の隆昌りゅうしょうな時代で、後年その弊はめられたけれども時の流行は追わねばならぬ。まず応用数学ではラウス(Routh)に師事した。ラウスは剛体力学の著書で有名であった。ともかくラウスは卒業試験で首席を占め、大マックスウェルを負かした経歴があるのでも、その重んぜられたことは判然する。しかしその力学問題は謎に類するものにちている。著者も東大でその力学を読み、問題を解いた覚えがある。一例を挙ぐれば、「完全になめらかな卓上に座する人は、他の助けをからず、自らいかにして卓を下るか」などいうようなのがある。先生もその門下生であるから、こんな問題をとかせられたのであろう。しかし先生の慧眼けいがんは、こんな些細ささいな通用範囲の狭隘きょうあいな問題に拘泥こうでいせず、もっぱら力学の基礎を観察した。すなわちラウスがラグランジュ関数と名づけたものである。数年をへて先生が有意義にこれを物理学・化学などの諸現象に介在する相関性を説明するに利用したるかをつまびらかにする機会あると思う。その他数学においてはグレイシャー、ケーリー(Cayley)、ストークス(Stokes)、アダムス(Adams)らの講義を聴き、各自独得なる針路をはしるを悟り、すこぶる興味を喚起した。物理学にありてはエヴェンのマックスウェル理論を聴講した。当時、マックスウェルはカヴェンジッシュ実験場〔キャヴェンディッシュ研究所。において教授していたが、その講義は時としてはあまりに平易であった。また時としては超凡ちょうぼんで、聴く者その難渋なるに困却こんきゃくした。いずれも中庸を得なかったので、学生はいたって少なかった。先生はマックスウェルの後継者として、カヴェンジッシュ実験場を主宰し、大先輩の口授を受けなかったのをはなはだ遺憾いかんに思った。しかも先生がマックスウェルと相知ったのは、競争試験の際、その試問に応じたときのみに限られた。
 先生の着眼はすでに説きしごとく、当時の学生が注意していた点と方針を異にし、すこぶる雄大であった。もとより試験する教授たちは、多くその眼中になかったから、尋常一様の試験を手際てぎわよくやってのける、いわゆる試験上手ではなかった。それゆえ、その成績は第二位に落ちて、首席はラーモアに占められた。かくのごとく類例はしばしばあるので、驚くにたらない。ウィリアム・トムソンはパーキンソンに負けた。またマックスウェルはラウスに先んぜられた先例がある。しかしてこれらの首席を占めた人の業績はいかがであるか。今日ほとんど学界に知られざるものが多いではないか。試験点数の信頼すべからざるは、国の東西を問わず、時の古今を論ぜず同一である。したがって今日なお試験制度による人物採択の可否につき、数多あまたの議論を提起するは論をまたない。

   研究生時代


 先生は一八八〇年に試験を終え、B. A.(学士)の学位を得て、さらにフェローとなり、数年の日月を研究にもっぱらにせんと欲した。もとより貧困であったから、学徒を教えて糊口ここうの資にあてた。その著名なる門弟には、現時、英国総理大臣であるチェムバーレーンがいた。ケンブリッジ大学で試験に応ずるには政治学であっても数学を課する例規であるから、未来の大臣もまた微積分や解析幾何を練習する必要にせまられて、先生についてこれを学んだのである。本邦の大臣もこれくらいの数学に熟達していたならば、予算の編制やその使途などには一道の光明を放つであろうが、望むべくしておこなわれがたいは言うまでもない。
 卒業後の先生の論文は、ラウスにきたえあげられたラグランジュ関数を拡充、ついにこれを純力学的問題より切り離して、物理現象の相関性を論じ、物体における温度の影響、熱電気、蒸発、残余効果などに敷衍ふえんし、また化学においては、希溶液の性質、解離、化学平衡、固体と液体との態化、化学変化と起電力との関係などに論及し、不可逆効果の力学説明をあたえた。これらは従来力学の立脚点より攻究せしものすこぶるまれであったが、先生の手腕は、よくこれを剔抉てっけつして力学化し、その非凡なる材力を発揮した証拠である。しかし学問の趨勢すうせいは、すでにそのかくあるべき曙光しょこうを放ち、いくらもなくヘルムホルツは、これと均等なる説明を最少作用の見地より試みたのは、英独の物理学者が同一の軌道により諸現象を踏査したことを如実に語っている。しかしてラウスは、単に特種の力学問題にラグランジュ関数を利用したるにすぎなかったが、先生は円転滑脱かつだつ、物理的・化学的諸作用にこれを適用した。あきらかにその眼界の広範にして、宇宙を飲むの概ありしを示している。かくして弟子は、教授の説きおよばざりし領域を支配するにいたり、学問の進歩に大なる刺激をあたえ、物理学と化学とに力学解説の妥当なる指針を明示した。
 つぎに現われた著名なる論文は、原子論から見た渦環うずわの運動というべきものである。これに対して一八八二年にアダムス賞を授与せられた。その根底はウィリアム・トムソンの原子渦環論より進発している。すなわち、圧縮すべからざる液体内にある渦環は、エネルギー保存則に支配さるる力に働かれては不変である定理に従うをもって物質不滅則に該当するゆえ、原子をこのごときものと肯定すれば、渦動原子は化学作用に相当する牽引けんいん力を相およぼし、幾個か相連係して安定なる一団を作り、化合した分子に該当する形勢を生ぜねばならぬことは、この所説を現実ならしむるに緊要であった。ウィリアム・トムソンは、単一渦環にその議論を集注したから、隔靴かっか掻痒そうようの感があった。この時代にはまだ電子や原子核などの存在につき、幻夢もいまだおよばざる学界で、原子構造の電気的であるような実験事実のあがらぬ状勢にあった。ひたすらその趨向すうこうは、宇宙を充填じゅうてんする仮想媒質エーテルに理論はまったくとらわれていた。されば圧縮すべからざる流体は、エーテルに他ならぬのである。しかして十九世紀後半の物理学者が想いをこらしたのは、エーテルの諸性質であった。殊にウィリアム・トムソンは、毎夜エーテルの夢にうなされないことはないというべく、その必在性を信仰した学者であったから、渦環原子をエーテル内に浮かべて、物質の諸現象を演繹えんえきするが、もっとも緊要なる物理学と化学の大問題であると認識したのである。先生が渦環問題に執着したのは、まったくウィリアム・トムソンの所論を敷衍ふえんするにあった。
 かかる渦動は、平凡なる理論家が手を染め得べき問題ではなかった。先生は最初、単一なる場合を論じ、つぎに渦環が二個存在するとき相互関繋かんけいする作用をつまびらかにし、ついに渦環が互いに連鎖したる状勢に移り、化学作用と化学原子価の類推におよぼし、気体論におけるボイル則を演繹し、あたかも気体分子が弾性をおびた個体の球なりとの仮説より出立して得たる結果にひとしきを証明したのである。この帰結は渦環論に凱歌がいかをあげたようであるけれども、二つの環が互いに相近づくときは、環の径は伸縮し、あまつさえ一つの環が壁に近づくときは、環の径は増大するにより、渦原子の大きさは始終その運動せる間に変化し、固体のごとく一定せるものにあらず、ただ平均値よりその大きさを推定しうるのである。これに対して吾人は、すこぶる疑わざるを得ない。しかし前に言うごとく、電離状況などの研究が幼稚な時代には、原子とか分子とかは単に想定されたるにすぎなかったから渦環論が流行したのは無理もない。実際、十九世紀の終わりまで、原子一個をとらえて試験し、もしくはこれを認むるは不可なるものなりと論断した学者があった。それゆえ先生が渦環論に没頭したのは不思議ではない。しかして二十年を経ざる間に先生は電子の存在を発見し、各元素に固有なる要素であることを明示したので、渦環論に大打撃をあたえたのである。畢竟ひっきょう、学問の進歩はあまたの階段を経ねばゴールに達し得ない。しかもこれが最終であると断案を下し得るは何世紀後であるか、期して待つべからざるはるかな未来にあるであろう。現在は歩一歩正鵠せいこくに近づきつつあるにすぎない。真理の漠然たるは古今一轍である。
 帯電した物体の運動は、従来あまり攻究されなかった。物体が電気をびたるも帯びざるも、その質量において認め得べき差あるわけはない。しかし、ひとたび運動するときは磁性を生ずる。仮に帯電をeとし、速度をvとすれば、磁力はevに比例す。しかして物体の周囲におけるエネルギー密度は磁力の二乗に比例するにより、帯電せる物体の運動エネルギーは、帯電せられざるときのそれと、帯電によるものとの和にて示されるゆえ、物体の見かけの質量は m + ke2 にて与えらるべし。式中mは質量、kは正常数である。すなわち、あたかも質量が増加したるに等しいのである。その後かくのごとき問題は電子論において詳悉しょうしつされたのであるが、先生はすでにこの将来ある問題に興味をよせていた。
 研究生時代の先生の探求は、もっぱら理論物理学方面に傾いていたが、ついに実験にもその創造力を傾注せねばならなくなった。すなわち一八八四年にカヴェンジッシュ実験場を主宰する職権をあたえられた。従来英国では、一八七四年まで現今実験場というべきものは欠けていた。さいわいにデヴォンシャ侯は、八〇〇〇ポンドの建築費を寄付したから、マックスウェルを場長に招きてこれを創設し、かつて電気試験に堪能たんのうであったカヴェンジッシュを記念するための新設の実験場にその名を冠した。当時マックスウェルは、物理学の攻究においては当代を超越していたので、世人に理会りかいを欠き、その創建した電磁気論は学者に信用せられず、単に気体論が価値ある研究とみなされた。かかる状況にあったから実験場は寥々りょうりょう学生少なく、現存する人では無線電信の発展をもって知らるるフレミングが聴講者で、また実験に従事した学生であった。他はときどき講堂に出かけ、あるいは実験をなしたものらしい。しかしそれらの内には、クリスタル、マカリスター、グレーズブルックのごとき知名の学者も出でた。先生が当時学生でありながら親炙しんしゃしなかったのは不審である。先生もまたすこぶるこれを遺憾いかんに思ったらしいことが、その自伝に記されてあるので判明する。人を知るの困難は、古今東西同一である。今日でこそ、大マックスウェルとして電気を学ぶものは欽仰きんぎょうするけれども、そのころは尋常一様の学者として待遇されたのは、学界の恨事である。マックスウェルは一八七九年に没し、レーリー卿〔Baron Rayleigh、John William Strutt。はその後をおそうた。しかしこれは「ただし」つきで、五年間その職に止まるべしとの約束があった。その期限がきたので後継者を探しても相当の人が見つからない。無論、候補者として選ばれた学者はあったが長し短しで、適格な人物には決定しなかった。しかし選考委員はついに先生を最適の人なりと認め、場長に推薦した。先生時に齢二十八、経歴において、年歯としはにおいて不足なしとはいわれざるも、これまでの研究に現われたる物理学の総合力において、また包容力において他に匹敵すべき学者なかりしは論をまたない。しかし世間も驚き、先生もまた一驚を喫した。けだし、先にマックスウェルを場長にすえるに奔走ほんそうしたのはレーリー卿であったが、先生を周旋しゅうせんしたのもおそらく同卿であったろう。今日この時代を追想すれば、まことに当を得ている。若輩、何のなすところあらんなどの批判は、東洋人の常調じょうちょうにすぎない。もし、わが邦でかくのごとき抜擢ばってきをおこなったならば、第一、文部省で認可しまい。また世間の風評もやかましかろう。イギリス人は常識に富んでいる。したがってこのような推薦をおこなって、若くはあったけれども不世出ふせいしゅつの英才をケンブリッジの物理実験場長にすえたのは、じつに賞賛に値する。しかしてその後、隆盛をきわめたカヴェンジッシュ・ラボラトリーから幾多著名の学者を出し、世界各国から学徒が蝟集いしゅうしたのも、また、先生がその創造力をもっぱら気体放電に集注し、電子の発見にともない数多あまたの攻究に専念したためである。大学の栄誉はもっぱら教授その人にあるを万承知しながら、実力にむ学者を選出するは容易でない。ケンブリッジ大学の誇りは、まったくこの難問題に直面して、あまねく人材を選考し、適材適所した結果であるといわねばならぬ。

   実験場におけるトムソン


 前に記したとおり、先生が実験場主任を命ぜられたころは、もっぱら理論考索に思いをこらしていたから、当初はすこぶる迷惑した。しかも先生が実験に従事したのは、十六、七歳の時分スチュワート教授のもとで初等物理の計測をなしたにすぎなかった。しかし明晰めいせきな頭脳で考案すれば、実験はさまでおそるべき難局を生ぜず、かえって綽々しゃくしゃくとして余裕ある別天地を展開した。ただ、先生の年若きに些少さしょうの批難はあったらしい。他人の口をかりてその事情を描写すれば、ピュピンの記録である。彼は、ピュピン・コイルの発案と実施とにより電気工学に名をあらわした。『移住民から発明家になるまで』と題する著書に、そのケンブリッジに学んだ状況を明快に記述し、ラウスの力学問題解釈まで批評している。その一節に、自分は電気を学ぶために英国に来たが、ケンブリッジでは年齢において自分といくらも違わない人が牛耳をとっている。どんなに偉いかはわからぬが、頭を下げて教えを乞うは自ら卑下するのだと捨てゼリフを遺し、たもとをはらって去った。その意気はまことによみすべきも、十年、二十年をへた後では、それについて学ばなかったのをさぞやんだであろう。先生はつねに物理学の尖端を行く人であった。そのころヘルツの試験により啓発された電波の性質とか、クルックスが物体の第四態の発表により刺激された希薄な気体内の放電とかは、先生が好んで実験した研究であった。これらの研究からき出る、物理学のめずらしき、また緊要なる諸問題は、悃々こんこんとして大河の源となる勢いを示した。これを動機としてケンブリッジに来たり学ぶものは、きびすを接して、ひとり英国にかぎらず、世界のすみずみから千里を遠しとせず先生の門に遊び、その新たにひらきたる部門を開拓し、もって新しき物理学の根拠を固むるに汲々きゅうきゅうとした。
 カヴェンジッシュ実験場の設備は貧弱で、近年にいたるまであまり変わらなかった。それにもかかわらず世界有数な研究がしばしば実験場より出るのは、場長の不世出なる働きと、研究者の卓越せる識見とによるは論ずるにおよばない。すなわち実験は目と手とを働かせるのが常調であるけれども、ここでは頭をもって働くが主である。実験場主任の先代レーリー卿は、研究に要する機械の主要部分さえ備えれば、他は封蝋ふうろうみ棒・ガラス管・スタンドで十分であると言っていた。先生もその古轍を踏んで、潤沢じゅんたくな設備を要求しなかった。記者が四十一年前、実験場を初めて拝観したとき、先生は気体内の放電速度を測定していられた。その装備は幼稚なもので、器械において何の新しきものをとらえ得なかった。ただ当時、高等学校にある普通実験室でもちうるスタンドや、尋常一様の簡単な諸器械があるのを見て一驚し、立派な器機・器具を要求するの愚なるをさとった。その後数回巡覧したが、十二年前まではさしたる変化を見なかった。しかし、これも一時かれも一時である。最近に至り、著しく充実を試みてきた。時世の進転にともない、もはやファラデーやレーリーの得意とした施設では追いつかなくなって、大装備を必要とする時節は到来した。これまた大いにかんがむべきである。今日は完備せる器械、強大な電力などがなければ偉大なる効果をおさめがたい状況に趨進すうしんしつつある。もっともこれを巧緻こうちよく運転し、その結果をうまく咀嚼そしゃくする能力がなければ何もならない。
 先生の門下生は四方より集まった。したがってこれに特種の訓戒をほどこすため、ほとんど毎日、研究生を呼んで茶の会をもよおした。その話題はもっぱら各自の研究にわたらぬ事項であった。各国の人がいたから、風土記でもかなりの話題を作った。しかし政治談が大部分を占め、世界の動向に注意せしめた。また折にふれては、研究生が微分係数などをおりこんだ詩を吟じて座興ざきょうをそえ、先生の大なる額を横断する数条のシワを伸縮せしめ、その賛辞をそそることもあった。先生がかくのごとき会を不断ふだん開いたのは、おそらく研究生の偏狭性をむるためであったろう。研究はかならずこれに従事する人をしてかたよらしむる。わが邦においては、日露戦争を知らなかった阿呆漢を出したうわさがある。こんな人間を養成するは学校の恥であれば、すべからく未然にこれを防ぐべきである。はたして先生の門下生には、研究にも財政にも堪能なるカナダ人を生じた。この教育方針はすこぶる味わうべき点をあましている。
 先生は九歳のころ、両親の好みにより舞踊学校に送られたけれども、ついに落第した。足の動きにかぎらず手のきもいたって不器用であったから、実験するときは助手があらかじめすべての準備を作った後、先生みずから験測をなした。その観察力には誰でもかなわなかった。先生の実験には魂がはいっていた。その証拠は、結果の豊富なるについて誰でも首肯しゅこうするところである。助手で有名な人は先年、皆既日食のさい来朝したアストン〔Francis William Aston〕であった。同位元素の研究でよく知られている。しかしてその方法はまったく先生の実験を習熟し、些少さしょうの変化を加えたにすぎない。かくしてアストンの名は驥尾きびに付して伝わり、まれなる幸運児であるといわねばならぬ。

   トムソンの研究


 先生の研究はたくさんある。おもだったものは物理学教科書に載せられて人口に膾炙かいしゃしているから、詳細を記すことをやめて、二、三の主要なるものを側面から観望するにとどめておく。
 電波の存在を推理し、その伝播速度は真空内にありては光のそれに同じとは、マックスウェルの偉大なる研究であった。先生がマックスウェルの後継者として電波の性質を討究したのは当然のなりゆきである。一八八八年来、ヘルツの実験により電波を検出する方法が講ぜられた。先生の電波に関する攻究は、もっぱら理論に属し、その要は『Recent Researches in Electricity and Magnetism』(一八九三年版)の大半を占めている。その後、門弟ラザフォードは一八九六年に磁気検波器を案出し、一マイルの距離で電波を受ける装置を作ったが、あまり発展せずしてやめた。もしこの試験が継続したならば、無線通信の緒は先生の門下から出たかもしれない。しかし英国人は、マルコーニ〔Guglielmo Marconi〕の発明に対しても初めはあまり関心しなかった。先生の記するところによれば、マルコーニ式無線電信会社設立の際、電信界の権威であるウィリアム・トムソンは、会社の仕事はもっぱら船舶と陸上との通信であるゆえ、資本金一〇万ポンドを超ゆべからずと論じたそうである。すなわち現時の約二〇〇分の一にすぎなく限定されたのだから、当初は将来発展の見とおしがつかなかったのであろう。さればラザフォードが無線通信に邁進まいしんしなかったのも、おのずから判明する。かくのごとき半工業的研究は、おおむね算盤珠そろばんだまにかけてはじめて採否を決するが常識にかなったやり方である。しかし時としては、未来の見とおしに間違いあるを摘示てきししている。
 先生が実験的にもっとも努力し、かつもっとも成果の大なるものは、気体内の放電現象に関する研究であった。先生がまだマンチェスターに学生たりしとき、気体放電の状況を見て導体内に適用せらるるオーム則に関連して考うれば、液体内の電流は電解をともない、導体内におけると異なるところがある。気体内においてはやや液体内におけると等しきを覚ゆる。しかもその放電は、発光現象を示すを常としている。これらの間になにか肝要なる物理的検討をなさねばならぬ事項が伏在しているだろうと考えた。すなわち気体内にも、液体におけるごとくグロットフス連鎖に相当する帯電原子列を仮定する必要なきや否を、当初に解決すべき問題となし考索こうさく・実験した結果、ついに今日電離と称する現象あるを確かめ、カヴェンジッシュ実験場において、学生をって諸方面の実験に従事せしめ、イオンの発生・複合・運動などを測定せしめ、かたわらその理論をむに汲々きゅうきゅうたりしが光電現象とレントシェン線〔レントゲン線、X線のこと。の発見ありしを機として、これを利用して気体を電離せしめ、大いに得るところあった。これによって従来単独の結果として知られた多くの事実を総合し、打って一丸となすことを得た。すなわち、先生の編述せる『Conduction of Electricity Through Gases』にこれらの事実は総括してある。
 先生が真空放電の試験をなしつつあるとき、ウィリアム・トムソンがストークスとともに実験を見に来た。先生(ジョセフ・トムソン)は放電管内の原子につき説明したがウィリアムは承服せず、管内にあるのは分子である、原子は容易に実現し得ないと論難してジョセフと言い合った。ストークスはその間に立ちて、分子も原子も存在するのだと調停したそうである。古典式物理学に浸潤しんじゅんしたウィリアムと、新式物理学の曙光しょこうを認めたジョセフと、その意見の逕庭けいてい〔へだたり〕を臆面なく発揮したのはすこぶる興味ある話で、相互がトムソン双璧であったのはさらにおもしろい。
 陰極線に関する事実は、レントシェン線の発見されたころすでに相応探究された。線の終わるところには陰電気の畜積することは証明された。また磁力を線に働かすれば、線の方向が屈折することもわかった。しかし、線の本質は判明しなかった。かつてウェーバー〔Wilhelm Eduard Weber〕が電流は陰電気と陽電気とをおびる微子が相互反対の方向に動くによっておこるものと考えたごとく、ドイツでは陰極線はエーテルを通ずる、屈曲しうる電流であるとの概念が流行した。かく考えれば、アンペール〔Andr-Marie Ampre〕の実験におけるがごとく磁力がこれを屈曲するのはもちろんであるけれども、電気力では曲げ得なかったのである。しかるにこの観察は間違っていた。当時の真空作成装置は現今のごとく完備していなかったため、試験は粗漏であった。先生は数日間、水銀ポンプを働かせて高度の真空を作り、その中に陰極線を走らせて電気力を作用させたところ、陰電気を帯びたと同様な曲がりを示すを確かめた。これによってもし陰極線が微子であって、質量m、帯電e、速度vなりとし、電場ならびに磁場において試験すれば、その速度を測り、 の比を測定し得べきを推理し、試験した結果、陰極の電位にしたがって変化し、光の速度の三〇分の一より三分の一ぐらいである値を得た。
 当時でちょっと信用しがたいほど大なるものであった。しかして の価は、約 2.3 x 107 より 1.2 x 107 程度のもので、粗略な探求的試験ではほとんど同一であったというもさしつかえなかった。この価を水の電解によって測定された水素原子の質量 mH と、その帯電の比、すなわち の価は、わずかに 104 にして、もし同一帯電であるとすれば、陰極線の構成分子は水素原子の約二〇〇〇分の一にあたるのである。それゆえこの価が電極の物質によって異なるや否を試験した。極板を白金、アルミニウム、その他の物質で作っても の価は不変であった。また、気体を種々のものにしても同様に変わらなかった。さらに紫外線で金属面から放出されたものについても試験して、前論と帰結を同じうした。それゆえ、ついにつぎの三条の結論に到達した。すなわち、(1) 原子はくべからざるものではない。電気力、原子の衝撃、紫外線、あるいは高熱の作用により原子から陰電気を帯ぶる微子を出し得べし。(2) 微子はいかなる原子から出るものも同一質量・同一帯電あるものなり。(3) 微子の質量は水素原子のそれに比し一〇〇〇分の一程度なり、とだいたいの推理をとげた。
 この見解は破天荒であった。何となれば、水素原子が最小なものであるとは前世紀の終わりまで、だれも確信して疑わなかった。その一〇〇〇分の一の質量あるものが、宇宙間に存在するとは考えにくい。また、原子が壊れるとはなおさら疑わしかった。何となれば原子ほど強固なものはなく、どんな力を働かせても破壊しないのは原子の特質であると思っていた。先生の試験では、電気力で容易に剖�ほうはんすることが可能である結果をもたらした。じつに意外千万である。しかるに陰極線について試験した人は、そのころ先生ばかりではなかった。ドイツのウィヘルトやカウフマンも似よった実験をほどこし、 の価を測定した。しかし先生のごとく、それが原子の壊れた一小部分であるとは断言しなかった。やはり原子の強固性に立脚して、陰電気を帯ぶる微子は、放電管の電極や、管内の気体から出るものではないと消極的に論じ、先生のように思いきってあらゆる元素の原子に共通なるものであると、原子論のトーチカを打破し、果敢かかんな突撃を試みる意気を示さなかった。
 一八九七年四月二十九日、ローヤル・インスティテューション〔王立研究所。において、先生は前記三条の説明を公開講演で説明した。聴衆はみな煙にまかれた想いをなし、「原子ほど小さなものはないはずだのに、その欠けらとは何だ。まんまとだまされてしまった」とつぶやいた。ただ二、三の卓見者、なかんずくフィツジェラルドは、「出かした」と大いに賞賛した。めくら千人目明き数人のたとえは、講演後の批評において実現された。もし先生の結論において疑問ありとすれば、微子の帯電が水素原子のそれと同じきか否にあった。これを験すに、門下生 C. T. R. ウィルスン〔Charles Thomson Rees Wilson〕の発見を利用した。電気を帯ぶる微子が蒸気内に存在するときは、そのある程度の膨張により、陰微子に小水滴は付着して霧を生じ、膨張程度を増加すれば、陰陽微子とも霧の核となるを認めた。先生はただ陰微子のみが核となる膨張をなす容器を作り、これに微子を発生せしめ、霧の降下を測りて、しずくの大きさを定め、またこれを電場に置き、あたかも降下することなく宙に浮かぶように場値を調整してeを測定した。その結果、帯電はまったく電解をおこなうとき、水素原子に付着せるものと同一なるを認めた。かくして前論の確証をあげた。これすなわち電子発見の径路である。
 電子の発見は電子学に対し画期的であったが、はじめは半信半疑の雲霧につつまれた。ある工学者はたわむれに、また物理学者の玩弄物がんろうぶつが一つ加わったとあざけった。しかし電子ほど一定不変な帯電をもち、かつ小さな惰性だせいを有するものはなかったから、これを電気力で支配するときは、好個こうこの忠僕であった。その作用の敏速にして間違いなきは、他物のおよぶところでなかった。すなわち工業上電子を使役すれば、いかなる微妙な作用でもなしうることがだんだん確かめられた。果然、電子は電波の送受にもっぱら用いらるるようになって、現時のラジオは電子の重宝な性質を遺漏いろうなく利用して、今日の隆盛を来たした。その他整流器、X線管、光電管など枚挙にいとまあらず。ついに電気工学に、電子工学の部門を構成したのも愉快ゆかいである。かくのごとく純物理学と工学との連鎖をまっとうした例はまれである。
 陰極線と対照するのは陽極線である。陽電子の存在を確かめたのは近年のことであるけれども、先生は諸元素の原子が電離して電子を失い、したがって陽電気を帯びたものにつき、磁場と電場とを併用して試験した。これに成功するには、非常に高い真空を要するから、液体空気が自由に使えるようになってからのことであった。この方法により極微量の元素の存在を認め得たのみでない。同時にその原子量も標準原子に対して測定するを得た。かくしてネオンに二つ異なった原子量あるを認め、つづいて水銀にはさらに多きを発見した。これすなわち同位元素の存在を指摘したのである。その存在しうる理由は、化学者ソディ〔Frederick Soddy〕により解釈された。この陽極線は非常に微量な元素の存在を指摘しうるもので、殊に気体にありては分光方法を超越している。その後アストンは着々ちゃくちゃく先生の開拓した方法にしたがい、あらゆる元素を検討して多くのものに同位元素の存在するを確かめ、声誉せいよを博した。最近、元素転換の実験がおこなわるるにいたり、同位元素の数はいちじるしく増加して、原子学の要素となりつつあるは周知の事実である。先生が初めて陽極線をもちいて、自然の元素をためした試験にその端を発しているは論をまたない。
 先生の啓発にかかる理論と実験とは、おびただしくしてその概要を述べるも容易のことでない。ただその二、三を例としてここに摘記したにすぎない。いま一つ記したきは、世界大戦中、先生が研究された事項である。イギリス本国は環海の国であり、その軍艦・商船などは他国を圧している。第二次世界大戦開戦当時、英国民は潜水艦の跳梁ちょうりょうに痛く憤慨した。いかにしてその所在を探知すべきやの問題は、先生の苦心したところであった。これにピエゾエレキを利用することを思いつき攻究された。門下生であったランジュヴァン〔Paul Langevin〕はまた同様な試験をなし、ついにこれを転化して有利なる海深測定器をつくりあげ、平時にありても有効に使用されている。しかし潜水艦探知委員会の最初の行動は、奇怪な考案が百出して、読むもおかしな話が先生の昨年著された『追憶と回想』(Recollections and Reflections)と題する書に掲げてある。

   余談


 先生が学界に重んぜられた証跡は、欧州各国のアカデミー、物理学会その他の名誉会員に推されたので判明する。もし、いちいちこれを記せば本誌の一ページを埋むるにるくらいである。記者は六年前、ローヤル・インスティテューションで催されたファラデーの誘導電流発見百年祭のとき、その実例を目睹もくとするを得た。世界各国より集まった代表者は六、七十人あったが、互いに顔を見知らないから、幹事の呼び出しにしたがい起立して黙礼した。すると会衆は拍手したが、著名な人に対してはその音激しくかつ長かった。順番がついに先生にまわりて、堂をゆるがす拍手おこり、しばしはやまなかった。つづいてまた二回目の拍手も同様であった。かく二度までも敬仰けいぎょうまととなったのは、ひとり先生のみに限られた。先生がケンブリッジ大学の重鎮として現代科学者から敬慕せらるるのは、その業績の偉大なるを尊ぶに他ならぬのである。由来、物理学者はおおむね実験か、あるいは理論に偏する傾向を有している。先生はいわゆる両刀使いで、いずれにかけても抜群ばつぐんであるから、その研究もまた霊妙、他に比類なきを認むるのである。
 健全なる思想は健康体に宿すということわざがある。その好例はまさに先生において見い出される。昨年〔一九三六〕十二月、先生は八十の誕生を迎えられ、記念のためその間の追憶と回想を著された。これを読むに、いまだ一回も病臥びょうがしたことはない。ただケンブリッジで試験に応ずるころ、不眠症にかかって苦しんだと記してある。想うに、先生の才は試験に応ずるには大きすぎた。わずかに数時間に解釈を要する小問題には屈託くったくしなかった。これは雑魚ざこを捕らえるようなものだ。よくクジラを捕らえ得るも雑魚網はけなかったと同様であろう。
 先生はいたって沈着である。世界大戦中、ロンドンのあるホテルに滞留していたとき、夜半、大爆音で目をさました。ツェッペリンの襲撃があって、ホテルから遠からぬところに爆弾が落ちたのであった。ホテルの客は大あわてであなぐらに逃げ込んだ。先生はゆうゆう近傍を見渡すに、飛行船はすでに飛び去った。やれよかったと、ふたたび安々と眠り、翌朝食堂に行くと、人ひとりいない。どうしたのだと聞くと、昨夜深更しんこう第二回の襲撃があって、空爆はかなり遠方でおこなわれた、あなぐらに入ったお客は夜中そこに籠城して、暁を待ち各自就寝したから、まだ眠っていると告げられた。先生のおちつきはらった態度には、みな舌をまいたという話が残っている。先生が通俗の学会に出席するのはまれである。ウィリアム・トムソンが毎回、大英学術協会に出て研究を激励したような態度はとらない。したがってあまり旅行もしない。三度米国に渡り、一度ドイツに遊んだくらいである。しかし、いたるところ歓待されて、その高説をたたかんとし寄するもの多く、みな先生の名前の頭文字を取って、単に「ジェー・ジェー教授」と称している。「ジェー・ジェー」の呼称は世界にとどろいている。
 先生はカヴェンジッシュ実験場の主任を門下生ラザフォードにゆずり、一九一八年以来、ケンブリッジ大学を構成する二十校ばかりの一つであるトリニティー・カレッジのマスターとなり、その校内に住んでいる。トリニティーは最も多く英才を出した学校で、先生はもちろん、ニュートンもマックスウェルもその出である。文人マコーレー、テニスン〔Alfred Tennyson か。も同様である。その他、政治家も輩出した。先生がトリニティーを主宰するはもっとも当を得ている。儀式のときはの衣を着て、ラテン語の祈祷文など朗読することがある。また、鐘のごとき大音声で訓示することもある。先生なお矍鑠かくしゃく天年てんねんを藉して、その開拓した学問の嚮導きょうどうを、まのあたり凝視せられんことをひとえに希望してやまない。
(昭和十二年(一九三七)十一月十二日記『科学知識』



底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科学知識』
   1937(昭和12)年11月12日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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アインシュタイン博士のこと

長岡半太郎


 アインシュタインは相対性原理をもって世界に名を知られているが、その原理をわきまえている人は幾人あるか知りがたい。古典化した物理学を刷新して、その田臭を払拭ふっしょくした一人であることは異論ないのである。
 直話じきわによれば、十八歳のころから時間・空間の問題に屈託して、七年後、ついに特殊相対性原理を発表するを得た。その案出した方程式はローレンツ変換と同じであるが、これを意味づけることはすこぶる趣きを異にしている。二、三例を挙ぐれば、真空内の光の速度はどこも同一で、限界速度とみるべきである。エーテルは無用の長物である。従来の速度の合成は改めねばならぬ。また、古典式幾何学は変更を要する。エネルギー不滅則と物質の不滅則とは不可分のものであるなどと説き、さらにこれを概括がいかつした一般相対性原理にありては宇宙観を述べ、万有引力論や光が引力場において曲げらるることやら、恒星のごとき大なる引力場に発する力は、波長が長くなるなどを論じた。これらは古典的の人には意外の事柄であるから、非難も誹謗ひぼうもあったが、ユダヤ系の学者はこれを支持する書をしるして賞賛した。一九一四年にベルリン学士院会員、ならびに大学教授にあげられた。時によわい三十五歳にすぎなかった。もってその英材なりしを知るべきである。
 ここではじめてプランクと対面し種々の議論をしたが、プランクが申すには、時間・空間の問題を解釈した相対性原理により、水星近日点きんじつてんの移動が一世紀に四十四秒にもかさむ事実は、解題せらるべきであると信ずるが、古典式の力学を適用した著名な天文学者が、数多あまたの論文を発表してもいまだ満足な結果に到達していない。もしこれが君の主張する原理にもとづき解答されねば、原理の真偽を疑わざるを得ないとアインシュタインにつめよった。アインシュタインはその主張する時間・空間の定理にかけ、きわめて簡潔に間題を解決し、推算上、四十三秒である結果を得たことを学士院に報告し、その原理の確実なるをあきらかにした。かくして数十年にわたる天文学の難題は渙然かんぜん氷釈ひょうしゃくして、学者も世間も相対性原理を信用するに至った。ただ、古典式を墨守する人はこの限りにはいらない。
 目下、原子力の利用につき議論旺盛おうせいなるにあたり、もっとも注目すべきは、

エネルギー式 (mは質量、cは真空内の光の速度、Eは物体mが輻射ふくしゃにより得たエネルギー、vは速度)

である。
 これによれば、mc2 はEのごとくエネルギーである。物質不滅とエネルギー不滅とは区別できないことが明らかである。普通運動には mc2 がEに対して著しくまさっている。そのため、この式の意義が顕著に示されないが、原子となればmはいたって微少であり、また帯電微子の一塊である。これを解剖すれば、さらに微細な部分が存在し、核もまた複雑なる組織を有しているから、原子を探索し、その構造を詳論するばあいには、エネルギー式のありがた味を感ずる。しかもその部分が動けば輻射ふくしゃをともなう。しかもエックス線やガンマ線が出るときは は相当の数になるから、量子論をかつぎ出し、プランク恒数〔定数〕によりて論拠を探さねばならぬ。これらの関連を熟考すれば、アインシュタインとプランクとが啓発した量子論と相対性原理とは、相配合して原子核の機構を抉摘けってきし、これにひそむエネルギーを民衆の福祉に供するに至るだろう。されば工学に従事する人も、これらの理論を運用にうつさねばならぬ時節が遠からず到来するだろう。
 アインシュタインは一九二二年に本邦に来遊し、諸所で講演したから、その風貌ふうぼうが記憶に存する読者もあるだろう。彼は丸顔でその色はすこしく茶褐色をおび、髪は縮れてやや黒く、体躯肥大、一見偉丈夫いじょうふの観があるけれども、純欧州人でないことは判然している。細君は小作りで、しとやかな婦人であった。夫の挙動につき、細心な注意を加えていた。文学を好み、たくみに英語を話した。アインシュタインは喫煙家で、パイプを滅多めったに手から離さなかったが、タバコは粗末なもので、あまり身体に害をおよぼしそうにも見えなかった。けれども細君は常にこれを心配し、明日講釈がある、落ち度でもあるといけないから、いいかげんにしなさいと注意すれば、アインシュタインはうなずき、弊衣へいいのつぎをあてた所か、またはくつの皮をじつくろうた所などをながめてニヤニヤと笑い、和気わき藹々あいあいたるものがあった。この良妻はついに、娘一人を残して物故した。
 アインシュタインは単純なるものを好み、装飾のゴテゴテしたものは嫌いであった。それゆえ、辺幅へんぷくを飾らず、質素を貴び、簡潔を楽しみ、その習慣は論文にまで影響し、雄大なる結果をもたらすものでも、僅々きんきん数ページにとどめたのはその特色である。相対性原理を説明した著述も全巻八十三ページにすぎぬ。したがって難読である。講義も難解である。尋常一様の人には急所を捕捉することが不可能である。これがその主張する議論の伝播が遅緩ちかんであった原因であろう。
 アインシュタインは性淡泊であるから、お世辞を言うことはまれである。日本人にえば、「わたしも西アジアの民族に属しますから、あなたと同胞でありましょう」ぐらいの単純なものである。しかし、彼の民族愛は超凡ちょうぼんである。すなわちザイオニスト(Zionists)〔シオニスト〕の一人であれば、政治思想に富んでいる。したがって交際も広く、たくさんの書籍も読んでいる。蔵書も宅に行けばうずたかくある。それが物理学や数学の書のみに限られていない。ヘブライ語で著された書冊がかなりある。文学書もある。予は試みに、「文学書であなたの耽読たんどくされるものは何ですか?」と問うたところ、それは『カラマーゾフの兄弟』であると答えた。これで読者は彼の趣味が那辺なへんにあるかを察せらるるであろう。彼は文学以外に音楽を楽しみ、ヴァイオリンの妙手である。あるドイツ人は批評して、彼がもし相対性で名声をあげなかったならば、今ごろは楽壇がくだん喝采かっさいを博しているだろうと語った。英雄、忙時余閑ありとのことわざにもれず、アインシュタインはベルリンよりキール港におもむき、小さなヨットを操縦し、風の受け具合を物理的に考え、走舸そうか術を研究して熟達した話がある。しかし、これは病気保養の目的であったらしい。聞くところによれば、プランク恒数hは相対性原理より演繹し得べしとの憶測より、この問題に熱中し、どんなに努力しても目的を達せず、ついに病魔におそわれた後始末であったろう。幾多の難題を解決しても、たまたまこんな失敗に終わるから、科学者は耐忍を要する。
 アインシュタインのもっとも嫌いなことは戦いである。科学者は、その研究した結果を軍事に利用するを喜ぶものがある。彼らは人道をわきまえざる暴漢であるとののしり、かつて平和論者の会議にその主旨を開陳した。また日本に来たとき、大学に火兵学科の設けあるを聞き、身ぶるいして恐怖の念を暗示した。今回の世界大戦に際して、彼は兵器案出に無関心であったか、聞かまほしきことである。
 第一次世界大戦後、ドイツは国状紛乱し、政争激烈であった。アインシュタインはその間に奔走して、身に迫害を加えらるる危険があった。その後、ゲルマニズムの浸潤しんじゅんはなはだしく、ユダヤ人の国外放逐ほうちく論さかんにおこなわれ、彼を憤慨せしめた。殊にナチの勢力ますます熾烈しれつとなるや、身をくに苦しんだ。やむを得ずひそかにドイツ国を脱してアメリカに渡り、まったきを得た。しかして政府はその財産を押収したが、預金わずかに二万マルクであったという。ユダヤ族の金券愛から考うれば、彼はまことに清廉せいれんである。
(昭和二十三年(一九四八)一月『科学朝日』



底本:『長岡半太郎随筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科学朝日』
   1948(昭和23)年1月
入力:しだひろし
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J・J・トムソン傳

長岡半太郎

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《》:ルビ
(例)趨《はし》る

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(例)※[#「さんずい+困」]
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 ヴィクトリア女王時代には英國全盛の學術を上演している、政治に、商工業に、また學問に於て、此の如き英材の輩出した時期は稀である。ファラデー、マックスウェルを筆頭として、物理學に名を馳せた二人のトムソンが出た、その一はウィリヤムで、他はジョン・ジョーセフであつた。前者は物理學電氣工學方面に夙に名聲を馳せ、議論風發、その雷名は世界の隅々まで轟いた。後者は約三十年の後輩であるが、物理學の總論が轉換せんとする時期に垂んとしているに際し、その樞軸を廻轉するに與つて大いに力を致した。敢てその功績を比較して論ずれば、前者は古典的の考索に思を凝らし、後者は古典經路を離れて、新しき物理學の趨向を開拓したと言うが至當であろう。
 ウィリヤムとジョーセフは同姓であつたから、相互親戚ででもあつたかと疑うものがあろう。しかし兩者の間には兄弟の因縁もなく、また直接師弟の關係もなく、たゞ偶然の一致であつた。世々相傳えて學界を支配する習慣を作つた我邦人には、やゝもすれば他國に類例なき當て推量を爲さぬでもないから、これを發端に明瞭にしておく。

   學修時代

 ジョセフ・トムソン先生は一八五六年(安政三年)マンチェスターに生れた。兩親はその子を工業に從事せしめんと欲し、機關車製造所に徒弟に使わさんと圖つたが、應募者が多いので數年待たなければ目的が達せられなかつた。或る人は新たに設立されたオーウェンス大學に入れて、工學を學ばしめたが得策であると勸めた。その通り決心して入學したのは先生の十四歳のときであつた。數年後物理學に轉向したのは臨機の處置で素志は工業であつたから、その學ぶところは全く工學關係の科目であつた。予が調べたところでは、先生の如く工學から物理に轉向した人が、現代の大物理學者には大部分を占めている。我邦人にはそれを逆に考えているものが多い。これは餘談に亘るから、他の機會を待ちて述べようと思う。
 十四歳の大學生は本邦で考うれば意外である。イギリスでも例外であるが、オーウェンス大學が創立されてから年月淺い故であつたろう。先生は數學をパーカーに學び、四元法を納得したが、運用上不便なりとして、遂に放棄した。化學はその頃ロスコーが通俗化して教えた。工學はレイノルズ(O. Reynolds)に就て學んだ。その特有なる觀察法とその大なる獨創力とは、深甚なる印象を先生に與えた。即ちその説きし流體のタービュレンス(Turbulence)は、未だ今日の如く持囃されなかつた。その油滑の理論は信ぜられなかつた。殊にその宇宙觀は迷夢として取扱われた時代に、先生にはこれ等が大なる刺激を與えた。ステワートに學んだ物理學の中で、エネルギーに關する事項は先生の注意を喚起し遂に論文に草したが、ステワートは賛成しなかつた。しかし十年を出ずして、その所説を發展して、力學の見地より、物理學化學の諸現象相關性を廣汎なる範圍に亘つて説明する素因を作つた。十七歳の青年は既にステワートの如き學者を超越していたことが判る。否、先生の論文の眞意義が、ステワートには通じなかつたのであろう。此の如きは屡々起ることで、大發見が折ふし世に長く知られざるも、全く軌を同じうしている。しかして學生の卓見が、教授の了解するところとならざるも、學問はそれで自ら進歩するのであるから喜ぶべき象徴である。
 三年の工學課程を終えて、いざ職業に就かんとするに當り、先生は頗る躊躇した。吾が修めし科目の中で、數學と物理學とは最も興味に充ちていたが、工業に從事するは如何であろうと、二の足を蹈んだ。そこで數學を教えしバーカーは、ケムブリッジに遊び、純理學を專攻するがよかろうと勸めた。しかし能事魔多く、その頃父は死し、學資は乏しく、給費を受くる試驗には落第して窮迫した。幸いに食料品會社の援助を得て、一年間の豫備學修を爲し、終にケムブリッジ大學に入ることを得た。先生は今日なおこの會社の好意を徳とし、予が物理學の爲に救われたのは、實に慮外であつたと言つている。
 翌年は首尾好くケムブリッジに入學した。その頃は試驗制度の隆昌な時代で、後年その弊は矯められたけれども時の流行は追わねばならぬ。まず應用數學ではラウス(Routh)に師事した。ラウスは剛體力學の著書で有名であつた。兎も角ラウスは卒業試驗で、首席を占め、大マックスウェルを負かした經歴があるのでも、その重んぜられたことは判然する。しかしその力學問題は謎に類するものに充ちている。著者も東大でその力學を讀み、問題を解いた覺えがある。一例を擧ぐれば、「完全に滑かな卓上に坐する人は、他の助けをからず、自らいかにして卓を下るか」などいうようなのがある。先生もその門下生であるから、こんな問題を釋かせられたのであろう。しかし先生の慧眼は、こんな些細な通用範圍の狹隘な問題に拘泥せず、專ら力學の基礎を觀察した。即ちラウスがラグランジュ函數と名づけたものである。數年を經て先生が有意義にこれを物理學化學等の諸現象に介在する相關性を説明するに利用したるかを詳かにする機會あると思う。その他數學に於てはグレイシャー、ケーリー(Cayley)、ストークス(Stokes)、アダムス(Adams)等の講義を聽き、各自獨得なる針路を趨《はし》るを悟り頗る興味を喚起した。物理學に在りてはエヴェンのマックスウェル理論を聽講した。當時マックスウェルはカヴェンジッシュ實驗場に於て教授していたが、その講義は時としては餘りに平易であつた、また時としては超凡で聽く者その難澁なるに困却した。何れも中庸を得なかつたので、學生は至つて少かつた。先生はマックスウェルの後繼者として、カヴェンジッシュ實驗場を主宰し、大先輩の口授を受けなかつたのを甚だ遺憾に思つた。しかも先生がマックスウェルと相知つたのは、競爭試驗の際、その試問に應じたときのみに限られた。
 先生の著眼は既に説きし如く、當時の學生が注意していた點と方針を異にし、頗る雄大であつた。もとより試驗する教授達は、多くその眼中に無かつたから、尋常一樣の試驗を手際よくやつて除ける、いわゆる試驗上手ではなかつた。それゆえ、その成績は第二位に落ちて、首席はラーモアに占められた。此の如く類例は屡々あるので、驚くに足らない。ウィリヤム・トムソンはパーキンソンに負けた、またマックスウェルはラウスに先んぜられた先例がある。しかしてこれ等の首席を占めた人の業績はいかゞであるか、今日殆ど學界に知られざるものが多いではないか。試驗點數の信頼すべからざるは、國の東西を問わず、時の古今を論ぜず、同一である。從て今日なお試驗制度による人物採擇の可否につき數多の議論を提起するは論をまたない。

   研究生時代

 先生は一八八〇年に試驗を終え、B. A.(學士)の學位を得て、更にフェローとなり、數年の日月を研究に專らにせんと欲した。もとより貧困であつたから、學徒を教えて糊口の資に宛てた。その著名なる門弟には、現時英國總理大臣であるチェムバーレーンがいた。ケムブリッジ大學で、試驗に應ずるには政治學であつても數學を課する例規であるから、未來の大臣もまた微積分や解析幾何を練習する必要に迫られて、先生についてこれを學んだのである。本邦の大臣もこれ位の數學に熟達していたならば、豫算の編制やその使途等には一道の光明を放つであろうが、望むべくして行われ難いは言うまでもない。
 卒業後の先生の論文は、ラウスに鍛え上げられたラグランジュ函數を擴充、遂にこれを純力學的問題より切り離して、物理現象の相關性を論じ、物體に於ける温度の影響、熱電氣、蒸發、殘餘効果等に敷衍し、また化學に於ては、稀溶液の性質、解離、化學平衡、固體と液體との態化、化學變化と起電力との關係等に論及し、不可逆効果の力學説明を與えた。これ等は從來力學の立脚點より攻究せしもの頗る稀であつたが、先生の手腕は、能くこれを剔抉して力學化し、その非凡なる材力を發揮した證據である。しかし學問の趨勢は、既にそのかくあるべき曙光を放ち、幾何もなくヘルムホルツは、これと均等なる説明を最少作用の見地より試みたのは、英獨の物理學者が、同一の軌道により、諸現象を蹈査したことを如實に語つている。しかしてラウスは單に特種の力學問題にラグランジュ函數を利用したるに過ぎなかつたが、先生は圓轉滑脱、物理的化學的諸作用にこれを適用した。明かにその眼界の廣汎にして、宇宙を呑むの概ありしを示している。斯くして弟子は教授の説き及ばざりし領域を支配するに至り、學問の進歩に大なる刺戟を與え、物理學と化學とに力學解説の妥當なる指針を明示した。
 次に現われた著名なる論文は、原子論から見た渦環の運動と言うべきものである。これに對して一八八二年にアダムス賞を授與せられた。その根柢はウィリャム・トムソンの原子渦環論より進發している。即ち壓縮すべからざる液體内にある渦環は、エネルギー保存則に支配さるゝ力に働かれては不變である定理に從うを以て物質不滅則に該當するゆえ、原子をこの如きものと肯定すれば、渦動原子は化學作用に相當する牽引力を相及ぼし、幾個か相連係して、安定なる一團を作り、化合した分子に該當する形勢を生ぜねばならぬことは、この所説を現實ならしむるに緊要であつた。ウィリャム・トムソンは、單一渦環にその議論を集注したから、隔靴掻痒の感があつた。この時代にはまだ電子や原子核などの存在につき、幻夢も未だ及ばざる學界で、原子構造の電氣的であるような實驗事實の擧らぬ状勢にあつた。ひたすらその趨向は、宇宙を充填する假想媒質エーテルに理論は全く捉われていた。されば壓縮すべからざる流體は、エーテルに外ならぬのである。しかして十九世紀後半の物理學者が想を凝したのは、エーテルの諸性質であつた。殊にウィリャム・トムソンは、毎夜エーテルの夢に魘されないことはないと言うべく、その必在性を信仰した學者であつたから、渦環原子をエーテル内に浮べて、物質の諸現象を演繹するが、最も緊要なる物理學と化學の大問題であると認識したのである。先生が渦環問題に執着したのは、全くウィリャム・トムソンの所論を敷衍するにあつた。
 かゝる渦動は平凡なる理論家が手を染め得べき問題ではなかつた。先生は最初單一なる場合を論じ、次に渦環が二個存在するとき相互關繋する作用を詳かにし、遂に渦環が互に連鎖したる状勢に移り、化學作用と化學原子價の類推に及ぼし、氣體論に於けるボイル則を演繹し、恰も氣體分子が彈性を帶びた個體の球なりとの假説より出立して得たる結果に均しきを證明したのである。この歸結は渦環論に凱歌を揚げたようであるけれども、二つの環が互いに相近づく時は、環の徑は伸縮し、剩え一つの環が壁に近づく時は、環の徑は増大するにより渦原子の大きさは始終その運動せる間に變化し、固體の如く一定せるものにあらず、たゞ平均値よりその大さを推定し得るのである。これに對して吾人は頗る疑わざるを得ない。しかし前に言う如く、電離状況等の研究が幼稚な時代には、原子とか分子とかは單に想定されたるに過ぎなかつたから渦環論が流行したのは無理もない。實際十九世紀の終りまで、原子一個を捉えて試驗し若しくはこれを認むるは不可なるものなり、と論斷した學者があつた。それゆえ先生が渦環論に沒頭したのは不思議ではない。しかして二十年を經ざる間に、先生は電子の存在を發見し、各元素に固有なる要素であることを明示したので渦環論に大打撃を與えたのである。畢竟學問の進歩は數多の階段を經ねばゴールに達し得ない。しかもこれが最終であると斷案を下し得るは、何世紀後であるか、期して待つべからざる遙かな未來にあるであろう。現在は歩一歩正鵠に近づきつゝあるに過ぎない。眞理の漠然たるは古今一轍である。
 帶電した物體の運動は、從來あまり攻究されなかつた。物體が電氣を帶びたるも帶びざるもその質量に於て認め得べき差ある譯はない。しかし一たび運動するときは磁性を生ずる。假りに帶電をeとし、速度をvとすれば磁力はevに比例す、しかして物體の周圍に於けるエネルギー密度は磁力の二乘に比例するにより、帶電せる物體の運動エネルギーは、帶電せられざるときのそれと、帶電によるものとの和にて示されるゆえ、物體の見掛けの質量は m + ke^2 にて與えらるべし。式中mは質量、kは正常數である。即ち恰も質量が増加したるに均しいのである。その後此の如き問題は電子論に於て詳悉されたのであるが、先生は既にこの將來ある問題に興味を寄せていた。
 研究生時代の先生の探求は、專ら理論物理學方面に傾いていたが、遂に實驗にもその創造力を傾注せねばならなくなつた。即ち一八八四年にカヴェンジッシュ實驗場を主宰する職權を與えられた。從來英國では、一八七四年まで現今實驗場と言うべきものは缺けていた。幸いにデヴォンシャ侯は、八千磅の建築費を寄附したから、マックスウェルを場長に招きてこれを創設し、嘗て電氣試驗に堪能であつたカヴェンジッシュを記念する爲めの新設の實驗場にその名を冠した。當時マックスウェルは、物理學の攻究に於ては當代を超越していたので、世人に理會を缺き、その創建した電磁氣論は學者に信用せられず、單に氣體論が價値ある研究と看做された。かゝる状況にあつたから、實驗場は寥々學生少く、現存する人では、無線電信の發展を以て知らるゝフレミングが聽講者で、また實驗に從事した學生であつた。他は時々講堂に出懸け、或は實驗を爲したものらしい。しかしそれ等の内には、クリスタル、マカリスター、グレーズブルックの如き知名の學者も出でた。先生が當時學生でありながら、親炙しなかつたのは不審である。先生もまた頗るこれを遺憾に思つたらしいことが、その自傳に記されてあるので判明する。人を知るの困難は、古今東西同一である。今日でこそ大マックスウェルとして、電氣を學ぶものは欽仰するけれども、その頃は尋常一樣の學者として待遇されたのは、學界の恨事である。マックスウェルは一八七九年に沒しレーリー卿はその後を襲うた。しかしこれは「但し」付で五年間その職に止まるべしとの約束があつた。その期限が來たので、後繼者を探しても相當の人が見付からない。無論候補者として撰ばれた學者はあつたが、長し短しで、適格な人物には決定しなかつた。しかし銓衡委員は、遂に先生を最適の人なりと認め、場長に推薦した。先生時に齡二十八、經歴に於て、年齒に於て、不足無しとは言われざるも、これまでの研究に現われたる物理學の總合力に於て、また包容力に於て、他に匹敵すべき學者なかりしは論を俟たない。しかし世間も驚き、先生もまた一驚を喫した。蓋し曩にマックスウェルを場長に据えるに奔走したのはレーリー卿であつたが、先生を周旋したのも恐らく同卿であつたろう。今日この時代を追想すれば、洵に當を得ている。若輩何の爲すところあらんなどの批判は、東洋人の常調に過ぎない。もし我邦で此の如き拔擢を行つたならば、第一文部省で認可しまい、また世間の風評もやかましかろう。イギリス人は常識に富んでいる、從つてこのような推薦を行つて、若くはあつたけれども不世出の英才をケムブリッジの物理實驗場長に据えたのは、實に賞讃に値する。しかしてその後隆盛を極めたカヴェンジッシュ・ラボラトリーから、幾多著名の學者を出し、世界各國から學徒が蝟集したのも、また先生がその創造力を、專ら氣體放電に集注し、電子の發見に伴い數多の攻究に專念した爲めである。大學の榮譽は專ら教授その人にあるを、萬承知しながら、實力に富む學者を選出するは容易でない。ケムブリッジ大學の誇りは、全くこの難問題に直面して、汎く人材を銓衡し、適材適所した結果であると言わねばならぬ。

   實驗場に於けるトムソン

 前に記した通り、先生が實驗場主任を命ぜられた頃は、專ら理論考索に思を凝していたから、當初は頗る迷惑した。しかも先生が實驗に從事したのは、十六七歳の時分ステワート教授の許で、初等物理の計測を爲したに過ぎなかつた。しかし明晰な頭腦で考案すれば、實驗はさまで恐るべき難局を生ぜず、反つて綽々として餘裕ある別天地を展開した。たゞ先生の年若きに些少の批難はあつたらしい。他人の口を藉りてその事情を描寫すれば、ピュピンの記録である。彼はピュピン・コイルの發案と實施とにより、電氣工學に名を顯わした。「移住民から發明家になるまで」と題する著書に、そのケムブリッジに學んだ状況を明快に記述し、ラウスの力學問題解釋まで批評している。その一節に、自分は電氣を學ぶ爲めに英國に來たが、ケムブリッジでは年齡に於て自分といくらも違わない人が牛耳を執つている、どんなに偉いかは判らぬが、頭を下げて教えを乞うは自ら卑下するのだと捨臺詞を遺し、袂を掃つて去つた。その意氣は洵に嘉すべきも、十年二十年を經た後では、それに就て學ばなかつたのをさぞ悔んだであろう。先生は常に物理學の尖端を行く人であつた。その頃ヘルツの試驗により啓發された電波の性質とか、クルックスが物體の第四態の發表に依り刺激された稀薄な氣體内の放電とかは、先生が好んで實驗した研究であつた。これ等の研究から湧き出る、物理學の珍しき、また緊要なる諸問題は、※[#「さんずい+困」]々として大河の源となる勢を示した。これを動機としてケムブリッジに來り學ぶものは、踵を接して、獨り英國に限らず、世界の隅々から千里を遠しとせず、先生の門に遊び、その新たに闢きたる部門を開拓し、以て新しき物理學の根據を固むるに汲々とした。
 カヴェンジッシュ實驗場の設備は貧弱で、近年に至るまで餘り變らなかつた。それにも拘らず世界有數な研究が、屡々實驗場より出るのは、場長の不世出なる働きと、研究者の卓越せる識見とに由るは、論ずるに及ばない。即ち實驗は目と手とを働かせるのが常調であるけれども、此處では頭を以て働くが主である。實驗場主任の先代レーリー卿は、研究に要する機械の主要部分さえ備えれば、他は封蝋、編み棒、硝子管、スタンドで十分であると言つていた。先生もその古轍を蹈んで、潤澤な設備を要求しなかつた。記者が四十一年前實驗場を初めて拜觀したとき、先生は氣體内の放電速度を測定していられた。その裝備は幼稚なもので、器械に於て何の新しきものを捉え得なかつた。たゞ當時高等學校にある、普通實驗室で用うるスタンドや、尋常一樣の簡單な諸器械があるのを見て一驚し、立派な器機器具を要求するの愚なるを覺つた。その後數回巡覽したが、十二年前までは、さしたる變化を見なかつた。しかしこれも一時かれも一時である。最近に至り、著しく充實を試みて來た。時世の進轉に伴い、最早ファラデーやレーリーの得意とした施設では追付かなくなつて、大裝備を必要とする時節は到來した。これまた大に鑑むべきである。今日は完備せる器械、強大な電力等がなければ偉大なる効果を收め難い状況に趨進しつゝある。尤もこれを巧緻よく運轉し、その結果を旨く咀嚼する能力がなければ何にもならない。
 先生の門下生は四方より集つた。從つてこれに特種の訓戒を施す爲め殆ど毎日研究生を呼んで茶の會を催した。その話題は專ら各自の研究に亘らぬ事項であつた。各國の人が居たから風土記でも可なりの話題を作つた。しかし政治談が大部分を占め、世界の動向に注意せしめた。また折に觸れては、研究生が微分係數などを織り込んだ詩を吟じて坐興を添え、先生の大なる額を横斷する數條の皺を伸縮せしめ、その賛辭を唆ることもあつた。先生が此の如き會を不斷開いたのは、恐らく研究生の偏狹性を矯むる爲めであつたろう。研究は必ずこれに從事する人をして偏らしむる。我邦に於ては、日露戰爭を知らなかつた阿呆漢を出した噂がある。こんな人間を養成するは學校の恥であれば、すべからく未然にこれを防ぐべきである。果して先生の門下生には研究にも財政にも堪能なるカナダ人を生じた。この教育方針は頗る味うべき點を餘している。
 先生は九歳のころ兩親の好みにより舞踊學校に送られたけれども、遂に落第した。足の動きに限らず手の尖《さ》きも至つて不器用であつたから、實驗するときは、助手が豫め總ての準備を作つた後、先生自ら驗測を爲した。その觀察力には誰でも敵わなかつた。先生の實驗には魂がはいつていた。その證據は、結果の豐富なるに就て誰でも首肯するところである。助手で有名な人は先年皆既日蝕の際來朝したアストンであつた。同位元素の研究でよく知られている。しかしてその方法は全く先生の實驗を習熟し些少の變化を加えたに過ぎない。斯くしてアストンの名は驥尾に付して傳わり、稀なる幸運兒であると言わねばならぬ。

   トムソンの研究

 先生の研究は澤山ある。重立つたものは物理學教科書に載せられて、人口に膾炙しているから、詳細を記すことを廢めて、二、三の主要なるものを測面[#「測面」は底本のまま]から觀望するに止めておく。
 電波の存在を推理し、その傳播速度は、眞空内に在りては光のそれに同じとは、マックスウェルの偉大なる研究であつた。先生がマックスウェルの後繼者として電波の性質を討究したのは當然の成行である。一八八八年來ヘルツの實驗により電波を檢出する方法が講ぜられた。先生の電波に關する攻究は、專ら理論に屬し、その要は(Recent Researches in Electricity and Magnetism)(一八九三年版)の大半を占めている。その後門弟ラザフォードは、一八九六年に磁氣檢波器を案出し、一哩の距離で電波を受ける裝置を作つたが、餘り發展せずして止めた。若しこの試驗が繼續したならば無線通信の緒は、先生の門下から出たかも知れない。しかし英國人は、マルコニーの發明に對しても初めは餘り關心しなかつた。先生の記するところによれば、マルコニー式無線電信會社設立の際、電信界の權威であるウィリャム・トムソンは、會社の仕事は專ら船舶と陸上との通信であるゆえ、資本金十萬磅を超ゆべからずと論じたそうである。即ち現時の約二百分一に過ぎなく限定されたのだから、當初は將來發展の見透しが付かなかつたのであろう。さればラザフォードが無線通信に邁進しなかつたのも自ら判明する。此の如き半工業的研究は、概ね算盤珠に掛けて、始めて採否を決するが常識に適つた遣り方である。しかし時としては、未來の見透しに間違あるを摘示している。
 先生が實驗的に最も努力し、且つ最も成果の大なるものは、氣體内の放電現象に關する研究であつた。先生がまだマンチェスターに學生たりしとき、氣體放電の状況を見て、導體内に適用せらるるオーム則に關連して考うれば、液體内の電流は電解を伴い、導體内に於けると異るところがある。氣體内に於てはやゝ液體内に於けると均しきを覺ゆる。しかもその放電は發光現象を示すを常としている。これ等の間に何か肝要なる物理的檢討を爲さねばならぬ事項が伏在しているだろうと考えた。即ち氣體内にも、液體に於ける如く、グロットフス連鎖に相當する帶電原子列を假定する必要なきや否を、當初に解決すべき問題と爲し、考索實驗した結果、遂に今日電離と稱する現象あるを確め、カヴェンジッシュ實驗場に於て、學生を驅つて諸方面の實驗に從事せしめ、イオンの發生、複合、運動等を測定せしめ、傍らその理論を編むに汲々たりしが光電現象とレントシェン線の發見ありしを機として、これを利用して氣體を電離せしめ大に得るところあつた。これに由つて從來單獨の結果として知られた、多くの事實を綜合し、打つて一丸と爲すことを得た。即ち、先生の編述せる Conduction of Electricity Through Gasesにこれ等の事實は總括してある。
 先生が眞空放電の試驗を爲しつゝあるとき、ウィリャム・トムソンがストークスと共に實驗を見に來た。先生(ジョセフ・トムソン)は放電管内の原子に就き説明したが、ウィリャムは承服せず、管内にあるのは分子である、原子は容易に實現し得ないと論難して、ジョセフと言い合つた。ストークスは其間に立ちて、分子も原子も存在するのだと調停したそうである。古典式物理學に浸潤したウィリャムと、新式物理學の曙光を認めたジョセフと、その意見の逕庭を臆面なく發揮したのは頗る興味ある話で、相互がトムソン雙璧であつたのは更に面白い。
 陰極線に關する事實は、レントシェン線の發見された頃既に相應探究された。線の終る處には陰電氣の畜積することは證明された。また磁力を線に働かすれば、線の方向が屈折することも判つた。しかし線の本質は判明しなかつた。嘗てウエバーが電流は陰電氣と陽電氣とを帶びる微子が相互反對の方向に動くによつて起るものと考えた如く、ドイツでは陰極線はエーテルを通ずる、屈曲し得る電流であるとの概念が流行した。斯く考えれば、アムペアの實驗に於けるが如く磁力がこれを屈曲するのは勿論であるけれども、電氣力では曲げ得なかつたのである。しかるにこの觀察は間違つていた。當時の眞空作成裝置は現今の如く完備していなかつた爲め、試驗は粗漏であつた。先生は數日間水銀ポンプを働かせて、高度の眞空を作り、その中に陰極線を走らせて、電氣力を作用させたところ、陰電氣を帶びたと同樣な曲りを示すを確めた。これに由つて若し陰極線が微子であつて、質量m、帶電e、速度v、なりとし、電場並に磁場に於て試驗すれば、その速度を測り、e/m の比を測定し得べきを推理し、試驗した結果、陰極の電位に從つて變化し、光の速度の三十分一より三分一位である値を得た。
 當時でちよつと信用し難い程大なるものであつた。しかして e/m の價は、約 2.3 x 10^7 より 1.2 x 10^7 程度のもので、粗略な探求的試驗では殆ど同一であつたというも差支えなかつた。この價を水の電解に依つて測定された水素原子の質量mHと、その帶電の比、即ちe/mHの價は、僅に 10^4 にして、若し同一帶電であるとすれば、陰極線の構成分子は水素原子の約二千分一に當るのである。それゆえこの價が電極の物質によつて異なるや否を試驗した。極板を白金、アルミニウム、その他の物質で作つても、e/m の價は不變であつた。また氣體を種々のものにしても同樣に變らなかつた。更に紫外線で金屬面から放出されたものに就ても試驗して、前論と歸結を同じうした。それゆえ遂に次の三條の結論に到達した。即ち、(1) 原子は割くべからざるものでは無い。電氣力、原子の衝撃、紫外線、或は高熱の作用により原子から陰電氣を帶ぶる微子を出し得べし。(2) 微子は如何なる原子から出るものも同一質量同一帶電あるものなり。(3) 微子の質量は水素原子のそれに比し千分一程度なり、と大體の推理を遂げた。
 この見解は破天荒であつた。何となれば、水素原子が最小なものであるとは前世紀の終りまで、誰も確信して疑わなかつた。その千分一の質量あるものが、宇宙間に存在するとは考えにくい。また原子が壞れるとは猶更疑わしかつた。何となれば原子程強固なものは無く、どんな力を働かせても、破壞しないのは原子の特質であると思つていた。先生の試驗では、電氣力で容易に剖※[#「さんずい+絆のつくり」、第3水準1-86-63]することが可能である結果を齎らした。實に意外千萬である。しかるに陰極線に就て試驗した人はその頃先生ばかりではなかつた。ドイツのウィヘルトやカウフマンも似よつた實驗を施し、e/m の價を測定した。しかし先生の如く、それが原子の壞れた一小部分であるとは斷言しなかつた。やはり原子の強固性に立脚して、陰電氣を帶ぶる微子は、放電管の電極や、管内の氣體から出るものではないと消極的に論じ、先生のように思い切つて、あらゆる元素の原子に共通なるものであると、原子論のトーチカを打破し、果敢な突撃を試みる意氣を示さなかつた。
 一八九七年四月二十九日、ローヤル・インスチチューションに於て、先生は前記三條の説明を公開講演で説明した。聽衆は皆煙に捲かれた想をなし「原子ほど小さなものは無い筈だのに、その缺けらとは何だ。まんまと瞞されて了つた」と呟いた。たゞ二三の卓見者、なかんずくフィツジェラルドは、「出かした」と大に賞讃した。盲千人目明き數人の譬は、講演後の批評に於て實現された。若し先生の結論に於て疑問ありとすれば、微子の帶電が水素原子のそれと同じきか、否にあつた。これを驗すに、門下生シー・チー・アール・ウィルスンの發見を利用した。電氣を帶ぶる微子が蒸氣内に存在するときは、その或る程度の膨脹により、陰微子に小水滴は附着して霧を生じ、膨脹程度を増加すれば、陰陽微子とも霧の核となるを認めた。先生はたゞ陰微子のみが核となる膨脹を爲す容器を作り、これに微子を發生せしめ、霧の降下を測りて、滴の大きさを定め、またこれを電場に置き、恰も降下することなく、宙に浮ぶように場値を調整して、eを測定した。その結果帶電は全く電解を行うとき、水素原子に附着せるものと同一なるを認めた。斯くして前論の確證を擧げた。これ即ち電子發見の徑路である。
 電子の發見は電子學に對し劃期的であつたが、初めは半信半疑の雲霧に包まれた。或る工學者は戯れに、また物理學者の玩弄物が一つ加わつたと嘲つた。しかし電子程一定不變な帶電をもち、且つ小さな惰性を有するものはなかつたから、これを電氣力で支配するときは、好箇の忠僕であつた。その作用の敏速にして間違いなきは、他物の及ぶところでなかつた。即ち工業上電子を使役すれば、如何なる微妙な作用でも爲し得ることが段々確められた。果然電子は電波の送受に專ら用いらるゝようになつて、現時のラジオは電子の重寶な性質を遺漏なく利用して、今日の隆盛を來した。その他整流器、X線管、光電管等枚擧に遑あらず。遂に電氣工學に、電子工學の部門を構成したのも愉快である。此の如く純物理學と工學との連鎖を全うした例は稀である。
 陰極線と對照するのは陽極線である。陽電子の存在を確めたのは近年の事であるけれども、先生は諸元素の原子が電離して電子を失い、從つて陽電氣を帶びたものに就き、磁場と電場とを併用して試驗した。これに成功するには、非常に高い眞空を要するから、液體空氣が自由に使えるようになつてからのことであつた。この方法により極微量の元素の存在を認め得たのみでない、同時にその原子量も標準原子に對して測定するを得た。かくしてネオンに二つ異なつた原子量あるを認め、續いて水銀には更に多きを發見した。これ即ち同位元素の存在を指摘したのである。その存在し得る理由は、化學者ソジーにより解釋された。この陽極線は非常に微量な元素の存在を指摘し得るもので、殊に氣體に在りては分光方法を超越している。その後アストンは着々先生の開拓した方法に從い、あらゆる元素を檢討して、多くのものに同位元素の存在するを確め聲譽を博した。最近元素轉換の實驗が行わるゝに至り、同位元素の數は著しく増加して、原子學の要素となりつゝあるは周知の事實である。先生が初めて陽極線を用いて、自然の元素を驗した試驗にその端を發しているは論をまたない。
 先生の啓發にかゝる理論と實驗とは、おびたゞしくしてその概要を述べるも容易の事でない、ただその二三を例としてこゝに摘記したに過ぎない。今一つ記したきは、世界大戰中、先生が研究された事項である。イギリス本國は環海の國であり、その軍艦商船等は他國を壓している。第二次世界大戰開戰當時英國民は、潜水艦の跳梁に痛く憤慨した。如何にしてその所在を探知すべきやの問題は、先生の苦心したところであつた。これにピエゾエレキを利用することを思い付き攻究された。門下生であつたランジュ※[#濁點付きワ、第3水準1-7-82]ンはまた同樣な試驗を爲し、遂にこれを轉化して有利なる海深測定器を造り上げ、平時に在てり[#「在てり」は底本のまま]も有効に使用されている。しかし潜水艦探知委員會の最初の行動は、奇怪な考案が百出して、讀むも可笑な話が先生の昨年著された「追憶と回想」(Recollections and Reflections と題する書に掲げてある。

   餘談

 先生が學界に重んぜられた證跡は、歐洲各國のアカデミー、物理學會その他の名譽會員に推されたので判明する。若し一々これを記せば、本誌の一頁を埋むるに足る位である。記者は六年前、ローヤル・インスチチューションで催されたファラデーの誘導電流發見百年祭のときその實例を目睹するを得た。世界各國より集つた代表者は六七十人あつたが、互いに顏を見知らないから、幹事の呼出しに從い起立して默禮した。すると會衆は拍手したが、著名な人に對してはその音烈しく且つ長かつた。順番が遂に先生に廻りて、堂を搖がす拍手起り、暫しは止まなかつた。續いてまた二回目の拍手も同樣であつた。かく二度までも敬仰の的となつたのは、獨り先生のみに限られた。先生がケムブリッジ大學の重鎭として、現代科學者から敬慕せらるゝのは、その業績の偉大なるを尊ぶに他ならぬのである。由來物理學者は概ね實驗か、或は理論に偏する傾向を有している。先生はいわゆる兩刀使いで、何れにかけても拔群であるから、その研究もまた靈妙、他に比類なきを認むるのである。
 健全なる思想は健康體に宿すという諺がある。その好例は正に先生に於て見出される。昨年十二月、先生は八十の誕生を迎えられ、記念の爲めその間の追憶と回想を著された。これを讀むに、未だ一回も病臥したことはない。たゞケムブリッジで試驗に應ずる頃、不眠症に罹つて苦しんだと記してある。想うに、先生の才は試驗に應ずるには大き過ぎた。僅かに數時間に解釋を要する小問題には屈託しなかつた、これは雜魚を捕えるようなものだ。よく鯨を捕え得るも雜魚網は曳けなかつたと同樣であろう。
 先生は至つて沈著である。世界大戰中、ロンドンの或るホテルに滯留していたとき、夜半大爆音で目を覺ました。ツェッペリンの襲撃があつて、ホテルから遠からぬところに爆彈が落ちたのであつた。ホテルの客は大慌てで窖に逃げ込んだ。先生は悠々近傍を見渡すに、飛行船は既に飛び去つた。やれよかつたと、再び安々と眠り、翌朝食堂に行くと、人ひとりいない、どうしたのだと訊くと、昨夜深更第二回の襲撃があつて、空爆は可なり遠方で行われた、窖に這入つたお客は、夜中そこに籠城して、曉を待ち各自就寢したから、まだ眠つていると告げられた。先生の落ち著きはらつた態度には、皆舌を捲いたという話が殘つている。先生が通俗の學會に出席するのは稀である。ウィリャム・トムソンが毎回大英學術協會に出て、研究を激勵したような態度は執らない、從つて餘り旅行もしない。三度米國に渡り一度ドイツに遊んだくらいである。しかし到る處※[#「(肄−聿)+欠」、第3水準1-86-31]待されて、その高説を叩かんと推し寄するもの多く、皆先生の名前の頭文字を取つて、單にジェー・ジェー教授と稱している。ジェー・ジェーの呼稱は世界に轟いている。
 先生はカヴェンジッシュ實驗場の主任を門下生ラザフォードに讓り一九一八年以來、ケムブリッジ大學を構成する二十校ばかりの一つであるトリニチー・カレジのマスターとなり、その校内に棲んでいる。トリニチーは最も多く英才を出した學校で、先生は勿論、ニウトンもマックスウェルもその出である。文人マコーレー、テニスンも同樣である、その他政治家も輩出した。先生がトリニチーを主宰するは最も當を得ている。儀式のときは緋の衣を着て、ラテン語の祈祷文など朗讀することがある。また、鐘の如き大音聲で訓示することもある。先生なお矍鑠、天年を藉して、その開拓した學問の導嚮[#「導嚮」は底本のまま]を、まのあたり凝視せられんことを偏えに希望して已まない。
[#地から3字上げ](昭和十二年十一月十二日記 科學知識)



底本:『長岡半太郎隨筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科學知識』
   1937(昭和12)年11月12日
入力:しだひろし
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アインシュタイン博士のこと

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)趨《はし》る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍點の位置の指定
   (數字は、JIS X 0213の面區點番号、または底本のページと行數)
(例)※[#「さんずい+困」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)にや/\
*濁點付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 アインシュタインは相對性原理を以って世界に名を知られているが、その原理を辨えている人は幾人あるか知り難い。古典化した物理學を刷新して、その田臭を拂拭した一人であることは異論ないのである。
 直話によれば、十八歳の頃から時間空間の問題に屈託して、七年後、遂に特殊相對性原理を發表するを得た。その案出した方程式はローレンツ變換と同じであるが、これを意味づけることは頗る趣を異にしている。二三例を擧ぐれば、眞空内の光の速度は何處も同一で、限界速度とみるべきである。エーテルは無用の長物である。從來の速度の合成は改めねばならぬ。また、古典式幾何學は變更を要する。エネルギー不滅則と物質の不滅則とは不可分のものであるなどと説き、更にこれを概括した一般相對性原理に在りては宇宙觀を述べ、萬有引力論や光が引力場に於て曲げらるゝことやら、恆星の如き大なる引力場に發する力は、波長が長くなるなどを論じた。これ等は古典的の人には意外の事柄であるから、非難も誹謗もあつたが、ユダヤ系の學者はこれを支持する書を著して賞讃した。一九一四年にベルリン學士院會員、並びに大學教授に擧げられた。時に齡三十五歳に過ぎなかつた。以つてその英材なりしを知るべきである。
 こゝで始めてプランクと對面し、種々の議論をしたが、プランクが申すには、時間空間の問題を解釋した相對性原理に依り、水星近日點の移動が一世紀に四十四秒にも嵩む事實は、解題せらるべきであると信ずるが、古典式の力學を適用した著名な天文學者が、數多の論文を發表しても未だ滿足な結果に到達していない。若しこれが君の主張する原理に基き、解答されねば、原理の眞僞を疑わざるを得ないとアインシュタインに詰めよつた。アインシュタインはその主張する時間空間の定理にかけ、極めて簡潔に間題を解決し、推算上四十三秒である結果を得たことを學士院に報告し、その原理の確實なるを明かにした。斯くして數十年に亙る天文學の難題は渙然氷釋して、學者も世間も相對性原理を信用するに至つた。たゞ、古典式を墨守する人はこの限りにはいらない。
 目下、原子力の利用につき議論旺盛なるにあたり、最も注目すべきは、
[#ここから2字下げ]
エネルギー式※[#図版]([#割り注]mは質量、cは眞空内の光の速度、Eは物體mが輻射により得たエネルギー、vは速度[#割り注ここまで])である。
[#ここで字下げ終わり]
 これに依れば、mc^2 はEの如くエネルギーである、物質不滅とエネルギー不滅とは區別できないことが明かである。普通運動には mc^2 がEに對して著しく勝つている、そのためこの式の意義が顯著に示されないが、原子となればmは至つて微少であり、また帶電微子の一塊である。これを解剖すれば、更に微細な部分が存在し、核もまた複雜なる組織を有しているから、原子を探索し、その構造を詳論する場合には、エネルギー式のありがた味を感ずる。しかもその部分が動けば輻射を伴う、しかもエキス線やガンマ線が出るときは hv/c^2 は相當の數になるから、量子論を舁ぎ出し、プランク恆數によりて論據を探さねばならぬ。これ等の關連を熟考すれば、アインシュタインとプランクとが啓發した量子論と相對性原理とは、相配合して原子核の機構を抉摘し、これに潜むエネルギーを民衆の福祉に供するに至るだろう。されば工學に從事する人も、これ等の理論を運用に遷さねばならぬ時節が遠からず到來するだろう。
 アインシュタインは一九二二年に本邦に來遊し、諸所で講演したから、その風貌が記憶に存する讀者もあるだろう。彼は丸顏でその色は少しく茶褐色を帶び、髮は縮れてやゝ黒く、體躯肥大、一見偉丈夫の觀があるけれども、純歐洲人でないことは判然している。細君は小作りで、しとやかな婦人であつた。夫の擧動につき、細心な注意を加えていた。文學を好み、巧みに英語を話した。アインシュタインは喫煙家で、パイプを滅多に手から離さなかつたが、煙草は粗末なもので、餘り身體に害を及ぼしそうにも見えなかつた。けれども細君は常にこれを心配し、明日講釋がある、落度でもあるといけないから、いゝ加減にしなさいと注意すれば、アインシュタインは頷き、弊衣の繼ぎを當てた所か、または靴の皮を綴じつくろうた處などを眺めて、にや/\、と笑い、和氣藹々たるものがあつた。この良妻は遂に娘一人を殘して物故した。
 アインシュタインは單純なるものを好み、裝飾のごて/\したものは嫌いであつた。それゆえ、邊幅を飾らず、質素を貴び、簡潔を樂しみ、その習慣は論文にまで影響し、雄大なる結果を齎らすものでも、僅々數頁に止めたのはその特色である。相對性原理を説明した著述も全卷八十三頁に過ぎぬ。從つて難讀である。講義も難解である。尋常一樣の人には急所を捕捉することが不可能である。これがその主張する議論の傳播が遲緩であつた原因であろう。
 アインシュタインは性淡泊であるから、お世辭を言うことは稀である。日本人に逢えば「私も西アジアの民族に屬しますから、あなたと同胞でありましよう」位の單純なものである。しかし、彼の民族愛は超凡である。即ちザイオニスト(Zionists)の一人であれば、政治思想に富んでいる。從つて交際も廣く、澤山の書籍も讀んでいる。藏書も宅に行けば堆くある。それが物理學や數學の書のみに限られていない。ヘブライ語で著された書册が可なりある。文學書もある。予は試みに、「文學書であなたの耽讀されるものは何ですか」と問うたところ、それは『カラマゾフの兄弟』であると答えた。これで讀者は彼の趣味が那邊にあるかを察せらるゝであろう。彼は文學以外に、音樂を樂しみ、ヴァイオリンの妙手である。或るドイツ人は批評して、彼が若し相對性で名聲を擧げなかつたならば、今頃は樂壇に喝釆[#「喝釆」は底本のまま]を博しているだろうと語つた。英雄忙時餘閑ありとの諺に洩れず、アインシュタインはベルリンよりキール港に赴き、小さなヨットを操縱し、風の受け具合を物理的に考え、走舸術を研究して熟達した話がある。しかし、これは病氣保養の目的であつたらしい。聞くところによれば、プランク恆數hは相對性原理より演繹し得べしとの臆測より、この問題に熱中し、どんなに努力しても目的を達せず、遂に病魔に襲われた跡始末であつたろう。幾多の難題を解決しても、たま/\こんな失敗に終るから、科學者は耐忍を要する。
 アインシュタインの最も嫌いな事は戰である。科學者はその研究した結果を軍事に利用するを喜ぶものがある。彼等は人道を辨えざる暴漢であると罵り、嘗て平和論者の會議にその主旨を開陳した。また日本に來たとき、大學に火兵學科の設けあるを聞き、身振いして恐怖の念を暗示した。今回の世界大戰に際して、彼は兵器案出に無關心であつたか、聞かまほしき事である。
 第一[#「第一」は底本のまま]世界大戰後、ドイツは國状紛亂し、政爭激烈であつた。アインシュタインはその間に奔走して身に迫害を加えらるゝ危險があつた。其後、ゲルマニズムの浸潤甚しく、ユダヤ人の國外放逐論盛んに行われ、彼を憤慨せしめた。殊にナチの勢力益々熾烈となるや、身を措くに苦しんだ。已むを得ず、竊かにドイツ國を脱してアメリカに渡り、全きを得た。しかして政府はその財産を押收したが、預金僅かに二萬マルクであつたという。ユダヤ族の金券愛から考うれば、彼はまことに清廉である。
[#地から3字上げ](昭和二十三年一月 科學朝日)



底本:『長岡半太郎隨筆集 原子力時代の曙』朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日 発行
初出:『科學朝日』
   1948(昭和23)年1月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • -----------------------------------
  • J・J・トムソン
  • -----------------------------------
  • [イギリス]
  • マンチェスター Manchester イギリス、イングランド北西部のランカシャー地方にある商工業都市。産業革命の発祥地で、かつては綿工業の中心地。人口43万1千(1996)。
  • オーウェンス大学
  • ケンブリッジ Cambridge (1) イギリスのイングランド東部にある同名州の州都。ロンドンの北約80キロメートルにある大学都市。人口11万7千(1996)。
  • ケンブリッジ大学 ケンブリッジ(1) にある名門総合大学。1209年研究者集団がケンブリッジの交易場で講義を行なったことに始まる。イギリス指導階層の最高教育機関として発展。多数の学寮(カレッジ)から成る。
  • カヴェンジッシュ実験場 → キャヴェンディッシュ研究所
  • キャヴェンディッシュ研究所 Cavendish Laboratory ケンブリッジ大学に所属するイギリスの物理学研究所および教育機関。核物理学のメッカとも呼ばれる。1871年に物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュを記念して作られた。初代所長はマクスウェル。その後、J.J.トムソン、ラザフォード、レイリー卿、W. H. ブラッグ、チャドウィックなどが所長をつとめた。
  • 28人のノーベル賞受賞者を輩出している。
  • ローヤル・インスティテューション Royal Institution 王立研究所。イギリスで最初の科学のための研究・教育機関。ランフォードの提唱により、ローヤル・ソサエティ会員の尽力によって1799年に設立され、1800年王国の認可を得た。最初は物理・化学・生理の三つの教授職があった。(世界大百科)
  • 大英学術協会
  • トリニティー・カレッジ Trinity College トリニティ・カレッジ。ケンブリッジ大学のカレッジのひとつ。ヘンリー8世によって1546年に創設された。2008年現在31人のノーベル賞受賞者や、フィールズ賞受賞者、アイザック・ニュートンなど数多くの著名人を輩出している名門カレッジである。
  • -----------------------------------
  • アインシュタイン博士のこと
  • -----------------------------------
  • [ドイツ]
  • ベルリン Berlin ドイツ北東部の都市。1945年までドイツの首都。第二次大戦後、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連4カ国の共同管理下におかれ、1948年以来東部はドイツ民主共和国(東独)の首都、西部は実質上ドイツ連邦共和国(西独)の一部。90年、東西ドイツの統一によりドイツ連邦共和国の首都。人口338万7千(1999)。
  • キール港 Kiel ドイツ北部、バルト海に面するシュレースヴィヒ‐ホルシュタイン州の州都。もと海軍基地。運河がユトランド半島を横切って北海に通ずる。1918年ドイツ革命の発祥地。人口23万4千(1999)。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『世界大百科事典』(平凡社、2007)。




*年表

  • 一八五六(安政三) ジョセフ・トムソン、マンチェスターに生まれる。
  • 一八七四年まで 英国では、現今実験場というべきものは欠けていた。
  • 一八七九 マックスウェル、没。
  • 一八八〇 トムソン、試験を終え、B. A.(学士)の学位を得る。
  • 一八八二 トムソン、原子論から見た渦環運動の研究に対してアダムス賞を授与。
  • 一八八四 トムソン、カヴェンジッシュ実験場を主宰。二十八歳。
  • 一八八八年来 ヘルツの実験により電波を検出する方法が講ぜられる。
  • 一八九三 トムソン『Recent Researches in Electricity and Magnetism』刊。
  • 一八九六 門弟ラザフォード、磁気検波器を案出し一マイルの距離で電波を受ける装置を作ったが、あまり発展せずしてやめる。
  • 一八九七年四月二九日 トムソン、ローヤル・インスティテューションにおいて公開講演。
  • 一九一八年以来 トムソン、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジのマスターとなり、その校内に住む。
  • 一九三六年一二月 トムソン、八十歳。記念のためその間の追憶と回想を著す。
  • 一九三七(昭和一二)一一月一二日 長岡半太郎「J・J・トムソン伝」『科学知識』。
  • 一九一四 アインシュタイン、ベルリン学士院会員ならびに大学教授にあげられる。三十五歳。
  • 一九二二 アインシュタイン、本邦に来遊し諸所で講演。
  • 一九四八(昭和二三)一月 長岡半太郎「アインシュタイン博士のこと」『科学朝日』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • -----------------------------------
  • J・J・トムソン
  • -----------------------------------
  • J・J・トムソン → サー・ジョゼフ・ジョン・トムソン
  • サー・ジョゼフ・ジョン・トムソン Sir Joseph John Thomson 1856-1940 J.J.トムソン。イギリスの物理学者。1884年にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の3代目の所長に就任。1897年、磁気と電気をもちいて陰極線の正体が負に荷電した粒子、すなわち電子であるということをしめした。この電子の発見は原子モデルに大きな変化をもたらした。1904年、原子核をもたない原子モデルを提案。1906年にノーベル物理学賞を受賞。
  • ヴィクトリア Victoria 1819-1901 イギリス女王・インド女帝。1837年即位、治世64年。イギリスはこの時代に憲政が著しく発達し、世界商工業の覇権を握って国力を増進させ、植民地は全世界にまたがり、文芸はヴィクトリア朝時代として一時期を画した。
  • ファラデー Michael Faraday 1791-1867 イギリスの化学者・物理学者。塩素の液化、ベンゼンの発見、電磁誘導の法則、電気分解のファラデーの法則、ファラデー効果および反磁性物質などを発見。電磁気現象を媒質による近接作用として、場の概念を導入、マクスウェルの電磁論の先駆をなす。主著「電気学の実験的研究」
  • マックスウェル James Clerk Maxwell 1831-1879 マクスウェル。イギリスの物理学者。電磁気の理論を大成しマクスウェルの方程式を導き、光が電磁波であることを唱えた。また、気体分子運動論や熱学に業績を残した。
  • ウィリアム・トムソン → ケルヴィン
  • ケルヴィン Lord Kelvin 1824-1907 イギリスの物理学者。本名、ウィリアム=トムソン。熱力学の第2法則を研究し、絶対温度目盛を導入。海底電信の敷設を指導し、多くの電気計器を作り、また航海術、潮汐その他の地球物理学の研究も多い。
  • パーカー 数学。
  • ロスコー Roscoe, Sir Henry Enfield 1833-1915 イギリスの化学者。ドイツのハイデルベルク大学でブンゼンに師事し、共同してブンゼン・ロスコーの法則を発見して、光化学の基礎を築いた。帰国してオーエンス・カレッジ(現在のマンチェスター大学)化学教授、国会議員として科学教育の改善をおこない、ロンドン大学総長、ヴァナジンを遊離、その酸化物の正しい分子式を提示した。ニオブ、ウォルフラム、ウランの研究もある。(岩波西洋)
  • レイノルズ → オズボーン・レイノルズ。
  • オズボーン・レイノルズ Reynolds, Osborne 1842-1912 イギリスの工学者。流体力学者。マンチェスターのヴィクトリア(現在のオーエンズ)大学教授。流体力学、気体力学およびその応用を研究し、管中を流れる流体の乱流の限界を与えるレノルズ数および流体運動の相似を示すレノルズの相似法則の発見(1883)は、近代流体力学の基礎となった。(岩波西洋)
  • スチュワート → ステュアート
  • ステュアート Stewart, Balfour 1828-1887 イギリス(スコットランド)の物理学者。気象学者。キュー(Kew)気象台長、マンチェスターのオーウェン大学教授。放射熱、地磁気、太陽の黒点などを研究し、霊魂の不滅を自然科学的に証明しようと試みた。(岩波西洋)
  • ラウス Routh 応用数学。
  • グレイシャー 数学。
  • ケーリー Cayley → アーサー・ケイリーか
  • アーサー・ケイリー Arthur Cayley 1821-1895 イギリスの数学者、弁護士。行列に関するケイリー・ハミルトンの定理で有名。
  • ストークス Stokes → ジョージ・ガブリエル・ストークスか
  • ジョージ・ガブリエル・ストークス Sir George Gabriel Stokes 1819-1903 アイルランドの数学者、物理学者である。 流体力学、光学、数学などの分野で重要な貢献をした。1885年から1890年まで王立協会会長を務めた。
  • アダムス Adams 数学。
  • エヴェン 物理学。
  • ラーモア → ジョセフ・ラーモアか
  • ジョセフ・ラーモア Joseph Larmor 1857-1942 アイルランドの物理学者、数学者。ベルファストのクィーンズ・カレッジとケンブリッジ大学で学び、1880年から1885年までクィーンズ・カレッジで教え、その後ケンブリッジの講師になる。1903年にストークスの後を継いでケンブリッジ大学数学教授(ルーカス講座主任教授)になる。
  • パーキンソン Parkinson
  • チェムバーレーン → チェンバレン
  • チェンバレン Arthur Neville Chamberlain 1869-1940 イギリスの政治家。J.チェンバレンの次男。保健相・蔵相を経て、1937〜40年首相。ミュンヘン会談での譲歩など対独宥和政策を採ったが、39年ドイツに対して宣戦。
  • ヘルムホルツ Hermann von Helmholtz 1821-1894 ドイツの生理学者・物理学者。聴覚についての共鳴器説・エネルギー保存則を主唱、広範な分野に業績を残した。
  • ボイル → ロバート・ボイル
  • ロバート・ボイル Robert Boyle 1627-1691 アイルランド・リズモア出身の貴族、物理学者。ロンドン王立協会協会員でもあった。神学に関する著書もある。ロバート・フックの師。温度が一定の場合、気体の体積は圧力に反比例することを発見。この法則はボイルの法則と呼ばれる。
  • デヴォンシャ侯
  • フレミング John Ambrose Fleming 1849-1945 イギリスの電気工学者。電流と磁場に関するフレミングの左手・右手の法則を発見。また二極真空管を発明し、電気通信技術に貢献。
  • クリスタル Christaller ?
  • マカリスター Macalister ?
  • グレーズブルック
  • レーリー卿 → ジョン・ウィリアム・ストラット
  • ジョン・ウィリアム・ストラット John William Strutt 1842-1919 第三代レイリー男爵(3rd Baron Rayleigh)。イギリスの物理学者。光の散乱の研究から空が青くなる理由を示す(レイリー散乱)、地震の表面波(レイリー波)の発見、ラムゼーとの共同研究によるアルゴンの発見、熱放射を古典的に扱ったレイリー・ジーンズの法則の導出などを行った。このほかにも流体力学(レイリー数)や毛細管現象の研究など、古典物理学の広範な分野に業績がある。「気体の密度に関する研究、およびこの研究により成されたアルゴンの発見」により、1904年の ノーベル物理学賞を受賞。
  • ピュピン・コイル Pypin ?
  • ヘルツ Heinrich Rudolph Hertz 1857-1894 ドイツの物理学者。電磁波の存在を初めて実験的にたしかめ、光がこれと同性質のものであるというマクスウェルの予言を実証した。
  • クルックス → サー・ウィリアム・クルックス
  • サー・ウィリアム・クルックス Sir William Crookes 1832-1919 イギリスの化学者、物理学者。タリウムの発見、陰極線の研究に業績を残している。1875年ころから、陰極線(放電現象)に興味を持ち、従来より真空度の高い放電管を作って、研究を行った。クルックス管を発明し、この中に羽根車をおいて、陰極線をあてて回転させた。
  • フランシス・アストン Francis William Aston 1877-1945 イギリスの物理学者。質量分析器を案出。同位元素の発見者。ノーベル賞。
  • ラザフォード Ernest Rutherford 1871-1937 イギリスの化学者・物理学者。ニュー‐ジーランド生れ。放射能および原子核を実験的に研究、アルファ線による窒素原子核の人工破壊に成功。原子核物理学の父といわれる。ノーベル賞。
  • マルコニー → マルコーニ
  • マルコーニ Guglielmo Marconi 1874-1937 イタリアの電気学者。無線電信の発明者。侯爵。学士院長。ヘルツとロッジ(O. J. Lodge1851〜1940)の発見を初めて実用化し、1901年大西洋を隔てて無線電信を送ることに成功。ノーベル賞。
  • ウエバー → ヴィルヘルム・エドゥアルト・ウェーバー
  • ヴィルヘルム・エドゥアルト・ウェーバー Wilhelm Eduard Weber 1804-1891 ドイツの物理学者。電気や磁気の精密な測定器具を製作して電磁気学の形成に貢献したほか、ガウスとともに電磁気の単位系の統一に努力し磁束のSI単位「ウェーバ」に名を残している。また、電気が荷電粒子の流れであるということを最初に主張したことでも知られる。
  • アムペア → アンペール
  • アンペール Andr-Marie Ampre 1775-1836 フランスの物理学者。電流の流れる導線の周囲の空間に生じる磁場と流れる電流の強さとの関係(アンペールの法則)を論じ、ソレノイドの磁場が棒磁石の磁場に等しいことから、物質の磁気的性質を電気的に説明。
  • ウィヘルト ドイツ。
  • カウフマン Kauffman ?
  • フィツジェラルド FitzGerald, George Francis 1851-1901 イギリス(アイルランド)の物理学者。ダブリン大学実験物理学教授。運動物体の電気力学を研究し、ローレンツとほぼ同時かつ独立に運動物体はその運動の方向に長さを短縮する(フィッツジェラルド短縮)という仮説(1885)を立てた。また彗星の尾は粒子であり、その斥力を太陽の〈光の圧力〉で説明した。(岩波西洋)
  • シー・チー・アール・ウィルスン → ウィルソン
  • ウィルソン Charles Thomson Rees Wilson 1869-1959 イギリスの物理学者。気体の電離や気象電気について研究、ウィルソン霧箱を発明。ノーベル賞。
  • ソジー → ソディ
  • ソディ Frederick Soddy 1877-1956 イギリスの化学者。ラザフォードとともに放射性元素の壊変説を立て、壊変の際の原子番号の変化の法則を発見。ノーベル賞。
  • ランジュ�ン → ランジュヴァン
  • ランジュヴァン Paul Langevin 1872-1946 フランスの物理学者。物質の磁性に関する理論を提出。電離気体・超音波を研究。第二次大戦中、レジスタンスに参加。
  • ニュートン Isaac Newton 1642-1727 イギリスの物理学者・天文学者・数学者。ケンブリッジ大教授。力学体系を建設し、万有引力の原理を導入した。また微積分法を発明し、光のスペクトル分析などの業績がある。1687年「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」を著す。近代科学の建設者。のち、造幣局長官・英国王立協会長を歴任。
  • マコーレー 文人。
  • テニスン → アルフレッド・テニスンか
  • アルフレッド・テニスン Alfred Tennyson 1809-1892 ヴィクトリア朝時代のイギリス詩人。美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読された。
  • グロットフス → グロートゥスか
  • グロートゥス Grothuss, Christian Theodor, Freiherr von 1785-1822 ドイツの自然科学者。電流による水の電気分解を実験した(1805)ほか、感光物質によって吸収された光のみが光化学的に作用することを確認した(1818)。(岩波西洋)
  • -----------------------------------
  • アインシュタイン博士のこと
  • -----------------------------------
  • アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955 理論物理学者。光量子説・ブラウン運動の理論・特殊相対性理論・一般相対性理論などの首唱者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。プリンストン高等研究所で相対性理論の一般化を研究。また、世界政府を提唱。ノーベル賞。
  • プランク Max Planck 1858-1947 ドイツの理論物理学者。熱放射の理論的研究を行い、量子力学への道を拓いた。ノーベル賞。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • -----------------------------------
  • J・J・トムソン
  • -----------------------------------
  • 『移住民から発明家になるまで』 ピュピン・コイルの著。
  • 『Recent Researches in Electricity and Magnetism』一八九三年版 ヘルツの著。
  • 『Conduction of Electricity Through Gases』 J. J. トムソンの著。
  • 『追憶と回想』 Recollections and Reflections J. J. トムソンの著。
  • 『科学知識』 雑誌。
  • -----------------------------------
  • アインシュタイン博士のこと
  • -----------------------------------
  • 『カラマーゾフの兄弟』 Brat'ya Karamazovy ドストエフスキー最後の長編小説。1879〜80年発表。淫蕩の権化のような父を持つカラマーゾフ家の3兄弟と私生児の下男を中心にすえ、父殺し事件の顛末を描く。神と自由、ロシア的魂、人間性の本質などをめぐる作者の思索の集大成。
  • 『科学朝日』 雑誌。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • -----------------------------------
  • J・J・トムソン
  • -----------------------------------
  • 垂んとす なりなんとす まさになろうとする。なんなんとす。
  • 四元法
  • タービュレンス Turbulence 流体。タービュランス。乱気流による飛行機の大揺れ。(カタカナ)
  • おりふし 折節。(1) その折その折。(2) 季節。(3) ちょうどその時。たまたま。(4) 時折。ときたま。
  • 純理学
  • 純理 じゅんり 純粋な理論。純粋な学理。
  • 慧眼 けいがん 物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。
  • ラグランジュ関数 一般に物理的な体系が時間または空間的に変化する法則は変分原理によって表現されることが多いが、その場合、対象となる系の物理量を含む汎関数でその積分が変分汎関数となるものをラグランジュ関数と呼び、一般にLで表す。(ここで物理量の汎関数とは、物理量自体時空変数の関数として表わされるので関数の関数という意味で用いられる用語。)(世界大百科)
  • フェローシップ fellowship 大学の特別研究員の地位。また、その人に支給される奨学金。
  • 解析幾何学 かいせき きかがく (analytic geometry)幾何学的図形を座標によって示し、図形の関係を座標の間に成り立つ代数方程式により明らかにする数学の一部門。デカルトの創始。座標幾何学。
  • 希溶液 き ようえき?
  • 起電力 きでんりょく 回路の抵抗に抗して電流を生じさせる原因となる力。動電力。単位はボルト(V)。
  • 剔抉 てっけつ えぐってほじくりだすこと。悪事などをあばき出すこと。
  • 円転滑脱 えんてん かつだつ かどだたず、よく変化して自由自在なこと。物事がすらすらと運んで、とどこおらぬこと。
  • 渦環 うずわ? ヴォーテックスリング?
  • ヴォーテックスリング vortex ring うず、渦巻き。
  • 渦輪 うずわ (1) 渦を巻いたような円形。
  • 原子渦環論
  • 隔靴掻痒 かっか そうよう [詩話総亀]靴の外部から足のかゆい所をかくように、はがゆく、もどかしいことをいう。靴を隔てて痒きを掻く。
  • エーテル ether (3) 初め光の伝播を媒介する媒質としてホイヘンスが仮定し、のち一般に電磁場の媒質とされた物質。相対性理論によってその存在が否定された。
  • 関繋 かんけい 関係。
  • ボイルの法則 温度が一定の場合、気体の体積は圧力に反比例することをロバート・ボイルが発見。のちにジャック・シャルルがこの法則を温度変化が生じた場合について一般化したボイル=シャルルの法則を発見した。
  • 詳悉 しょうしつ 甚だしくくわしいこと。
  • 理会 りかい 事の道理を会得すること。理解。
  • 欽仰 きんぎょう 尊びうやまうこと。仰ぎ慕うこと。きんこう。
  • 蝟集 いしゅう (蝟、はりねずみの意)はりねずみの毛のように、多く寄り集まること。
  • 第四態
  • ※[#「さんずい+困」]々 → 悃々(こんこん)か
  • 懇懇・悃悃 こんこん ねんごろなさま。親切に繰り返し説くさま。
  • 踵を接する くびすをせっする (前後の人の踵が接するほど)人が大勢引き続いて来る。
  • 不世出 ふせいしゅつ めったに世に現れないほどすぐれていること。
  • 常調 じょうちょう (2) 一般的に、物事の状態が平常の調子であること。いつもの調子。
  • 封蝋 ふうろう 松脂にシェラック・テレビン油・マグネシアなどを混合し、顔料で着色したもの。瓶などの密封や封緘などに用いる。封じ蝋。
  • 趨進 すうしん 貴人、君主など目上の人の前に、小走りに進み出ること。
  • 唆る そそのかす? そそる? けしかける?
  • 同位元素 どうい げんそ 同位体に同じ。
  • 同位体 どういたい (isotope)原子番号が同じで、質量数が異なる元素。すなわち陽子の数が同じで、中性子の数の異なる原子核をもつ原子。水素と重水素の類。同位体は周期表上で同じ場所を占めるので、ギリシア語のisos(同じ)とtopos(場所)を合成して原語が与えられた。アイソトープ。
  • 驥尾に付す きびにふす [史記伯夷伝、注]蠅が駿馬の尾について千里も遠い地に行くように、後進者がすぐれた先達につき従って、事を成しとげたり功を立てたりすることをいう。蒼蠅驥尾に付して千里を致す。
  • 摘示 てきし かいつまんで示すこと。
  • グロットフス連鎖
  • 考索 こうさく 物事の典拠などを考えたずねること。考え調べること。
  • レントシェン線 → レントゲン線
  • レントゲン線 レントゲン せん X線に同じ。
  • X線 エックス せん (X-rays)電磁波の一種。ふつう波長が0.01〜10ナノメートルの間。1895年レントゲンが発見、未知の線という意味でX線と命名。物質透過能力・電離作用・写真感光作用・化学作用・生理作用などが強く、干渉・回折などの現象を生じるので、結晶構造の研究、スペクトル分析、医療などに応用。レントゲン線。
  • 径庭・逕庭 けいてい (「径」「逕」は狭い路、「庭」は広場)二つのものが大きくかけはなれていること。非常な違い。へだたり。懸隔。
  • 水銀ポンプ 水銀を用いる真空ポンプの総称。回転水銀ポンプ、拡散ポンプなどの種類がある。
  • 剖� → 剖判か
  • 剖判 ほうはん (1) 天地などの開けわかれること。開闢。(2) はっきりと区別がつくこと。
  • 盲千人目明き千人 めくら せんにん めあき せんにん 世の中には道理のわかる人もわからない人もそれぞれに多い。「目明き千人盲千人」とも。
  • 好個 こうこ ちょうどよいこと。適当なこと。
  • 忠僕 ちゅうぼく 主人に忠実なしもべ。
  • X線管 エックスせん かん X線を発生させるための真空管。陰極から放出される電子を高電圧で加速し、これをタングステン・銅などの陽極(対陰極)に衝突させて、そこから発生させる。
  • 光電管 こうでんかん 光電効果を利用した電子管。陰極に光が当たると電流が流れるので、光の強弱を電流の変化に変換するのに使用する。
  • 分光 ぶんこう 〔理〕光をスペクトルに分けること。
  • ピエゾエレキ ピエゾ電気。piezoelectricity。圧電気。
  • 圧電気 あつでんき (piezoelectricity)水晶・電気石・チタン酸バリウムなどの結晶体やセラミックスを圧縮または伸張するとき、両極間に電位差を生じる現象。ピックアップ・マイクロフォンおよび受話器・スピーカー・電気スイッチなどに利用。ピエゾ電気。
  • 誘導電流 ゆうどう でんりゅう 電磁誘導によって誘起される電流。感応電流。
  • 目睹 もくと (「睹」は見る意)実際に見ること。目撃。
  • ツェッペリン飛行船 ツェッペリン ひこうせん ツェッペリンが開発した大型の硬式飛行船。軽金属骨組の船体内に多数の気嚢を収める。1900年初飛行。航空輸送に活躍し、第一次大戦中は偵察・爆撃に使用。37年、ヒンデンブルク号が爆発事故を起こす。
  • �待 かんたい 歓待・款待。
  • 高説を叩かん たたく (7) 相手の考えを聞いてみたり、物事の状態を調べたりする。
  • 天年を藉す
  • 天年 てんねん 天然の寿命。天命。天寿。
  • 導嚮 → 嚮導か
  • 嚮導 きょうどう (1) 先に立って導くこと。また、その人。案内。
  • -----------------------------------
  • アインシュタイン博士のこと
  • -----------------------------------
  • ローレンツ変換 特殊相対性理論において、互いに一定の速度で動いている座標系の間で、自然法則の形を変えない(光速度の値は一定になる)ように空間座標と時間座標の関係を与える変換。相対速度が光速度に比べて無視できるときはガリレイ変換に帰着する。1904年、H. A. ローレンツにより見出された。
  • 近日点 きんじつてん 惑星または彗星などの天体がその軌道上で太陽に最も近づく位置。←→遠日点。
  • 渙然 かんぜん 解けるさま。
  • 氷釈 ひょうしゃく 氷のようにとけてなくなること。転じて、疑問や障害が消えうせること。氷解。
  • 輻射 ふくしゃ (2) 〔理〕(radiation) 放射に同じ。
  • プランク定数 プランク ていすう 量子力学に現れる基礎定数の一つ。20世紀初頭、プランクが導入。その大きさは6.62607×10−34ジュール秒。記号h また、プランク定数を円周率の2倍で割ったものをディラック定数という。
  • 抉摘 けってき 隠れているもの、かすかなものなどをえぐり出すこと。
  • 弊衣・敝衣 へいい やぶれた着物。
  • 辺幅 へんぷく (布などのへりの意から)うわべ。みえ。
  • ザイオニスト Zionists → シオニズム
  • シオニズム Zionism パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動。19世紀末ヘルツルらの主導下に興起し、1948年イスラエル国家を実現。シオン主義。
  • 耽読 たんどく 書物を夢中でよみふけること。
  • 走舸 そうか 速力の速い小舟。はやぶね。
  • 聞かまほしき (古語)聞きたい。聞いてみたい。
  • ゲルマニズム → ゲルマン人
  • ゲルマン人 ゲルマンじん 紀元前5〜4世紀に北ヨーロッパに住んでいたインド‐ヨーロッパ系の民族。フランク・アングロ‐サクソンなど多くの部族から成る。後に民族大移動によってケルト人のヨーロッパを席捲し、また、西ローマ帝国の没落をもたらす一方、その影響を受けてキリスト教化した。
  • 浸潤 しんじゅん (2) (思想や勢力が)次第にしみこんで広がること。
  • 全き まったき → 全い
  • 全い まったい (マタイの促音化) (1) 欠けたところがない。そろっている。十分である。完全である。(2) 安全である。無事だ。(3) 愚直である。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』『コンサイス カタカナ語辞典 第四版』(三省堂、2010.2)『世界大百科事典』(平凡社、2007)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 福永光司・千田稔・高橋徹『日本の道教遺跡を歩く』(朝日新聞社、2003.10)読了。後半部に「道教について」という題で、千田と高橋の質問に福永が答えるかたちで概説を述べている。
 
「正一盟威の道の教えの祖型〔五斗米道〕を奉戴する三張道教が、昔の蜀の国、現在の四川省を根拠地にして道教を説き、たくさんの信者を獲得しました。(略)中世の大坂の石山本願寺を中心にした一向宗一揆はこれをモデルにしているのではないかと思います。一向宗の最も重んずる経典『仏説無量寿経』は、三張最後の張魯教団の教義解説書とされる『老子想爾注』と用語・思想表現とも全く共通の基盤の上に立っています。

「張陵とその子の張衡、そして孫の張魯の三代にわたって、勢力を広げ、中でも張魯は政治的・社会的・軍事的にもすぐれた能力をもち、宗教的な独立の王国をつくるわけです。それで魏の曹操に攻められ、降参することになりますが、それは建安二十年(二一五) のことです。石山本願寺が信長に攻められますが、それとよく似ています。その後、張氏は政治的・軍事的活動は禁じられ、江西の竜虎山に移って宗教教団の統率者――天師としてのみ存続します。」(以上、p.249より)

 『季刊 東北学 東北の海・東日本大震災 (3)』(第29号、2011.10)、山下克明『陰陽道の発見』(NHK出版、2010.6)読了。

 陰陽道入門書を数冊手にとってみて、目次に「災害」「災異」「怪異」の文字が記してあったのが山下『陰陽道――』。天地災異祭なる朝廷主催の祭祀などにもふれてある。
 
・嵯峨天皇「卜筮を信ずること無かれ」と遺言。
・宇多天皇「小怪・小異によって、以て軽々に神祇・陰陽等を召すことを忌むべし」
 
 嵯峨天皇が 842年の没、宇多天皇が 931年の没。あいだに5代の天皇がおり、平安時代初期の地震・火山の活動期にあたる。この時期の文章博士が三善清行(847-918)と、彼のライバルでのちに失脚させられる菅原道真(845-903)。両者とも儒家であるが、陰陽・術数に強い関心を持つ三善清行に対して、道真は一定の距離をおいていたと山下は見る。
 災異年表を見るかぎりその後、地震・火山活動は終息に向かうが、逆に時代は摂関藤原家の隆盛期となり、ひろく周知のとおり安倍晴明や藤原道長、紫式部の登場をむかえることとなる。




*次週予告


第四巻 第一九号 
原子核探求の思い出(他)長岡半太郎


第四巻 第一九号は、
一二月三日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第一八号
J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
発行:二〇一一年一一月二六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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販売:DL-MARKET
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