(『朝日』二〇年一二月二九日)
一、全世界の国民に対し、平和的な目的を有する基本的な科学情報を交換すること
二、原子エネルギーを平和目的のため使用することを保証すること
三、国家の軍備中より、大量の破滅をもたらすごとき武器を排除すること
四、原子爆弾管理協定に対する違犯を防止すべく、有効なる措置を講ずること
これらの決議が今後、いかに実施せられるかはそうとう興味ある問題であって、これが文字どおりおこなわれれば、まことに人類の幸福を招来するであろうが、前述のような国際雰囲気においては、その実現は疑わしいと思われる。ことに米国には原子爆弾の秘密は絶対に他にもらしてはならぬという強い世論もあるし、米国のバーンズ国務長官は国際連合総会に出席するためロンドンに出発するに際し、原子力管理委員会はアメリカが自発的に提供せぬ科学情報を要求できないこと、また、もしこの種の情報をしいて獲得しようとしたばあいには、米国は拒否権を行使しうること、また安全保障理事会がこの種の情報の交換を票決しても、これに参加する程度は米国議会の決定にまつことを言明し、国際連合総会においても、原子力管理委員会は原子爆弾の秘密公開を米国に強要する権能のないことを述べている。これらはアメリカ世論の反映にほかならないことを思えば、原子爆弾は当分、アメリカの独占というべきであろう。
しかし考えてみれば、この事態はむしろ歓迎すべきであるかもしれない。今日、原子爆弾を製造しうるのはアメリカだけである。そしてこの国は平和を愛好し、侵略を否定する国である。こんな国が原子力の秘密を独占するあいだは、侵略行為は不可能であり、したがって世界平和は保持せらるることとなるであろう。すなわちアメリカは世界の警察国として、原子爆弾の威力の裏付けによって国家の不正行為をおさえ、国際平和を維持しうる能力を有しているのである。そのかわり、アメリカ自身の行動に正しからざる点があると、全世界の怨恨を買うことになるのであるから、原子爆弾の威力に相応する高度の道徳的優位を保有することが、絶対的の必要条件となってくる。それさえ実現できれば、国際連合とよく連絡協調を保つことにより、世界の平和と文化との推進は充分、企図し得られるであろう。
しかしこれは、グローヴズ少将のいう今より五年ないし一〇年の話であって、それを過ぎるとアメリカ同様に原子爆弾をもった国が出現すると考えなくてはならぬ。そうすると事態は簡単でなくなる。それに対しては今から準備をする必要がある。しからば、いかにすべきであるか。これに対してはいろいろの意見はあるであろうが、自分としてはこの五年ないし一〇年のあいだに国際連合をできるだけ発達させ、アインシュタインのいう世界政府の樹立にまでこぎつける必要があると思う。そしてその強力なものができた暁には、ユーリーのいうように、またモスクワ会談の決議のように、原子爆弾はもちろんのこと大量の破壊をもたらすべき武器を廃棄し、製造を禁止して真の平和を確立すべきである。
すなわち今日より五年ないし一〇年がもっとも大切な時期であり、世界が永続する平和を獲得するか、または人類文化の破滅にいたるかの岐路に立っていると考うべきである。殊に、わが国は前述のとおり戦争となれば壊滅は必至なのであるから、この点からいってもわれわれは、全力をあげて国際平和機構の達成に協力せねばならぬ。わが国は今日、敗戦国として国際間の問題には嘴を出すことはゆるされないのであるから、国内において戦争絶滅、国際平和を目途とする社会ないし国家組織を完成することにあらゆる努力をつくさねばならぬ。それがためには、われわれのなすべきことはいくらでもある。すなわちまず、内容の備わった自主的な平和国家を樹立しなくてはならぬ。それができてはじめて国際間の問題に手を伸ばすことができるのである。
しかし、もし自分は許されるならば、この際、科学者として提案したいことがある。それは科学者・技術者の不戦同盟を国際的に結成して、科学者・技術者が侵略戦争にまきこまれ、それに利用せられることを防止することである。世界の科学者・技術者が戦争に協力しなければ、今日の科学戦争はおこりえない。どうかして、かような組織をつくって世界平和の樹立に貢献したいものである。
以上の所論はこれもおそらく理想論にすぎぬかもしれぬが、理想に向かって進む努力がなければ進歩はない。永遠の平和が達成せられてはじめて、広島・長崎に失われた貴き犠牲も浮かびあがることになるのである。
(『改造』一九四六年四月)
本文は学風書院刊「原子力と私」による
底本:『戦後日本思想大系1 戦後思想の出発』筑摩書房
1968(昭和43)年7月1日 初版第1刷発行
1976(昭和51)年7月1日 初版第10刷発行
入力:しだひろし
校正:
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日本再建と科学
仁科芳雄
一.緒言
現在のわが国は、虚脱状態にあるといわれる。まったくその通りである。これは敗戦国の常として怪しむにたりない。殊にあれだけの無茶な戦争をした後としては、急に立ち直ることを注文する方が無理であろう。しかし、終戦後すでに半年をすぎても荒漠たる焼け野原は依然としてそのままであり、焼け残った工場の煙突からは、いつまでたってもほとんど煙はあがらない。そして次から次へと労働争議がおこり、賃金と物価とが競争して高騰していった結果が経済緊急措置となって現われたのであるが、この先がどうなることかと危ぶまれるのである。そして人々は、その日その日の食うことにばかり気をうばわれて、科学などという直接パンに関連を持たない文化の分野は、ややもすると国民の脳裏から消え去ってしまうという状態である。これでよいのであろうか。
このままで進んでゆけば、物資の不足と道義の退廃とは、ついにこの古い歴史をもつ国家を破滅の危機に追い込んでしまうであろう。それは世界の歴史から見ても悲しむべきことであり、またそんな国が地球上に存在することは、国際上、悪影響をおよぼすところが少くない。これを考えると、どうしてもこの下向きの傾向を止めて上昇曲線に載せることが絶対に必要である。それは国民各自の責任であり、あらゆる分野の大きな建設的協力なくしてはおこなわれ得ないことである。今、自分は、科学がこのわが国の再建にいかなる役割を持っているかを述べ、それぞれの関係者の努力を要請したいと思う。
二.科学の役割
近代の物質文明は科学の発展によるものであるといってさしつかえないであろう。否、物質文化のみならず、それを通して精神文化を今日の状態に持ち来たすにあたって力のあったことは否めない事実である。
もっとも顕著な例として原子爆弾をあげてみよう。その原理は一九三八年にドイツのハーンとストラスマンとが、原子核の研究、すなわち中性子を元素ウランの原子核に衝突させた場合にできる放射能の研究をおこなっておった際に発見したものであって、ウランの原子核が中性子を捕獲するとそれが二つまたは二つ以上に分裂し、分裂破片は莫大なエネルギーを持って飛び出してくる。このエネルギーが広島や長崎にあのとおりの暴威をふるい壊滅をもたらしたのである。(長崎の場合はウランではなく元素プルトニウムをもちいた。)これでもわかるとおり、原子核の研究という最も純学術的の、しかも何ら応用ということを目的としない研究が、太平洋戦争を終結せしむる契機を作ったもっとも現実的な威力を示すことになったのである。これはいかなる外交よりも有力であったといわねばならぬ。科学が現代の戦争といわず文化といわず、すべての人類の活動上、いかに有力なものであるかということを示す一例である。
さらに原子爆弾の今後の発達は、おそらく戦争を地球上より駆逐するに至るであろう。否、われわれはすみやかに戦争絶滅を実現せしめねばならぬ。しからざれば人類の退歩、文化の破滅を招来することとなるからである。すなわち、ある期間を経過すれば、広島・長崎の場合と比較にならぬほど強力な原子爆弾を、地球上二つ以上の国が所有することになり、それらの国が戦争を始めるときわめて短時日の間に、回復すべからざる打撃をすべての交戦国にあたえてしまうであろう。これは決して空想でなく現実である。こんな状況においては誰しも戦争を始める気にはなれないであろう。原子爆弾はもっとも有力なる戦争抑制者といわなければならぬ。戦争のなくなった平和の世界におけるわれわれの物心両面の文化は、いかに豊かなものであろうかを考えただけでも、科学の人類発達におよぼす影響の大きさが知れるのである。
原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である。ところが、その技術力も経済力も科学の根につちかわれて発達したことを思うとき、アメリカの科学の深さと広さとは歴史上比類なきものといわねばならぬ。しかしその科学はまた、技術力と経済力とに養われたものである。アメリカの膨大な研究設備や精巧な測定装置や純粋な化学試薬が、アメリカ科学をして今日あらしめた大切な要素である。これはもちろん、アメリカ科学者の頭脳の問題であるとともに、その技術力・経済力の有力なる背景なくしては生まれ得なかったものなのである。すなわち科学は技術・経済の発達をつちかい、技術・経済はまた科学を養うものであって、互いに原因となり結果となって進歩するものである。
以上述べたことにより、わが科学が日本の再建に果たすべき役割はだいたいにおいて想像せられるであろう。終戦後、わが国の産業は従来とまったく異なった環境に置かれたのである。資源としては四個の島にあるもの以外は輸入に待つよりほかはない。その貿易も現在は停止せられている。これでともかく七千数百万の人を養っていかねばならぬ。それには従来と異なった技術の創造を必要とする。しかもわずかの改革ですむようなものではなく、根本から異なった原理によるものでなくてはならぬ。ちょうど原子爆弾が従来の爆弾とまったく異なった原理を基礎として創造せられたと同様に、わが国の産業も根本的にその出発点から検討してかからねばならぬ。そして従来とまったく異なる環境に適応する産業を創造せねばならぬ。たとえば農業にしても、水産にしてもその基礎である生物学から出発せねばならぬ。生物学にはまだ究明すべき多くの問題が解決を待っているのである。この根本を明らかにすることによって、従来の方法とはまったく異なった農業や水産の分野が生まれる可能性が生じるのである。これはもちろん、かならず達成せられるかどうかは予知することはできない。しかしその可能性のあることは原子爆弾の例で明らかであろう。今日、わが国がおかれている外的条件は、それほどまでに根本的にさかのぼってはじめて解決せられるほど困難なものなのである。それゆえ、われわれは科学のすべての分野の頭脳を総合して、重要な問題の解決をきわめて基礎的方法によって求めていかねばならぬ。これがためには、あらゆる部門の科学者は互いに密接な連絡のもとにそれぞれの分野の研究を従来よりもいっそう深く掘り下げるとともに、かくして得られた結果を実地に応用すべき研究者に協力して、基礎研究よりはじまり応用研究をへてさらに生産にいたるまでの、一貫した操作がたくましく推進せられるようにする必要がある。
かようにして、一つでも画期的な進歩がある部門にもたらされれば、その結果が原因となってさらに他の分野に多大の影響を生むことになるのである。こんな基礎的な革命がいくつかの部門におこれば、それで日本産業の再建はおこなわれ、生産は回復し、経済は安定し、ひいては道義の高揚も望み得るであろう。ただし、これには相当の年月を要する。
以上によって科学がいかに日本の再建に必要なものであるかが想像せられるであろう。しかるにある論著は日本に科学を栄えしむることは、すなわち戦争をおこす能力を与えるものであるから、その発達をできるだけ抑圧すべきであるという。これは杞憂以外のなにものでもない。もちろん、かような考え方は日本の現状を猜疑の目をもって見る者にとってはありうることである。科学は使い方によっては戦争遂行にもっとも有用な武器である。それは原子爆弾やレーダーが具体的に示している。その同じ科学が、使い方によっては平和国家の建設に不可欠の要因であることは前述のとおりである。要はこれをいかに使用するかということであって、それは使用する人の態度で定まる問題である。
わが国は、最近発表せられた改正憲法の草案にも見られるとおり、国家として戦争を否定し、これを放棄することを決意し、マ司令部もこれに満足の意を表しているのである。これはまさに太平洋戦争で得られた最大の収穫といわねばならぬ。このことはポツダム宣言受諾の当然の帰結であるが、さらに現実の問題として日本は戦争をする能力がない。すなわち、何はさておき原子時代を支配すべき原子爆弾を一個も作り得ないのである。何となれば連合国より禁止せられているのはもちろんのことであるが、その必要もなく地質学者および鉱物学者のいうところによれば、日本には必要量のウランは産出しない。また、たとえウランがあったとしても、わが国の技術・経済が原子爆弾製造の能力をもつようになる見込みは、到底ないからである。
したがって戦争が始まれば、日本はそば杖をくって原子爆弾の惨害をこうむる以外には何の収得もない。憲法に戦争放棄を制定せんとするのは、人道上はもちろんのこと、利害関係からも当然のことといわねばならぬ。万世太平の国是をとっている日本にとって、科学の興隆は民生に生活の安定を得せしめ、世界平和に貢献せしむる大きな力をあたえる以外の何物でもない。これは平和を好愛するアメリカにおいて、科学がいかに物心両面の文化建設に役立っているかを見れば、思いなかばに過ぐるものがあろう。それゆえ、日本に科学を否定することはすなわち、七千数百万の人間を貧困と混乱と悪徳との淵に沈淪せしむることになる。これは日本国民にとって不幸であるのみならず、世界人類発達の障害となるものとして避くべきことといわねばならぬ。この見地よりして自分は、日本科学の振興に対し、連合国が特に考慮をはらわれんことをこいねがうものである。
三.科学の再建
わが国の科学は、支那事変まではその発達めざましいものがあったのであるが、それよりしだいに下り坂となり、太平洋戦争となるにおよんでますます進歩を阻まれ、その末期においては空襲により痛められ、終戦後は科学者の生活の不安と、戦災復旧の困難と、資材入手の不能とにより、その機能をほとんど停止してしまった。
科学はまことに救国の具であるが、前述のように産業に画期的革新をもたらすことは、現実の問題として遠き将来に属する。そんな研究の推進が今日の虚脱状態においてただちにおこなわれうるとは誰が予期しよう。それどころではない。一本のガラス管や一尺のゴム管さえも手に入れることが難しい。そしてガスはぜんぜんこないような実験室で、画期的の研究は思いもよらぬことである。さらに科学者は今日、生活の不安におびやかされ続けている。これでは、ろくな仕事のできるはずがない。科学の推進はこれを可能にする環境に置いてやって、はじめて動きだすのである。前述のとおり日本の再建は科学の力に待つところまことに多大である以上、こんなに死滅に瀕している科学の再建には全力を尽さねばならぬ。それはいかにしておこなわれるであろうか。
それには、なによりもまず産業の復旧ということが急務である。これによって国民は生活の安定を得ることになり、科学者は研究に専念することができる。また研究資材もしだいに入手できるようになり、科学者の仕事が進め得られるのである。しからばこの産業の回復は具体的にいかにすべきであるか。これは本論の範囲を逸脱するものであり、また自分はこれを述べる資格もないから、専門家の意見に待つべきであるが、今日の虚脱状態は全体が相関連した総合的休止体を形成しているのである。したがってその復旧も総合的に進められねばならぬ。しかし一時に全体を動かすことはできないから、重点的に少数の産業が率先して範を示せばつぎつぎに凍結が溶けてくるであろう。たとえば石炭とか肥料とかいうのは、すでにその緒についているように思う。ただ、このさい特に注意すべきことは、国民の各層が、それぞれ救国の気迫をもって立ちあがることであって、いたずらに自家の利害にのみ汲々たることは結局においておのれの損失を招くことを自覚すべきである。今日の民主主義革命時代においては、産業組織も古い型態をそのまま墨守することは許されないことである。それと同時に、国民の全体から見て復旧を遅れさせるような変革はとるべきではない。要は、各自が善意と誠意と真実とをもって建設的の協力をつくすべきである。
それでは、科学者は産業の回復するまでただ手を束ねて待つべきであろうか。それでは国民の義務をはたすものとはいえない。今日でも活動開始の可能な分野はただちに仕事を始めねばならぬ。まず第一に、今日有する知識経験をもちいて多少とも産業の回復に役立つ仕事があれば、ただちに着手すべきである。つぎに理論的研究は外国から文献さえ入ってくれば研究はできる。外国雑誌の輸入は今日まだ実現せられないが、それは早晩可能となるであろうから、そのときの準備を今から始めてよいと思う。また実験方面にしても、ある分野の活動は可能なものがあるであろう。たとえば戦災をこうむらなかった実験室で、あまり資材を必要としない研究であるとか、あるいは貯えた資材で間にあう研究は始められるであろう。そんな研究の中で産業の復活に役立つものは、重点的に遂行せらるべきである。それによって国家は活力のもとを得るであろう。
また、将来産業の回復した後に可能の見込みのある研究であって、その根を枯らさぬようにしておく必要のあるものは、細々ながら可能の範囲において研究を続けるべきであろう。また、非常に長期の準備を要する研究は、可能の範囲においてこれをおこなうべきである。これを要するに、今日の情勢において可能な研究は将来をも勘案して重点的に進めねばならぬ。それには研究者は熱と忍耐とをもって目的をつらぬく覚悟が必要である。
かくして始められた研究は戦前にくらべて、また現在の諸外国にくらべて著しく低調たることはまぬがれない。ことに、大規模の装置を要する研究は当分断念するよりほかはないから、はなばなしい結果は予期できないであろう。これは敗戦国として仕方がない。それだからといって、落胆するにはおよばない。一〇〇里の道を一歩より始めるのが今日である。これを始めなければ、将来の達成もそれだけ遅れることになることを心にとどめて努力せねばならぬ。要するに、われわれの仕事はすべてはじめから出直しなのである。
四.科学者の組合組織
以上の努力を可能ならしめるためには、科学者の待遇改善が急務である。もちろん、われわれは今日の場合、贅沢をしようというのではない。研究ができるだけの最低生活を確保しようというのである。今日われわれは、研究の進捗度が食糧で支配せられることを毎日のように体験している。われわれの多くは、都電の車掌の給与に遠くおよばないことを考えてみねばならぬ。科学が国家の建設に必要な以上、たとえそれが目前の役に立たぬように見えても、これを推進する科学者の生活の安定は保証せらるべきである。これを実現するためには、全国科学者の組合を組織して政治的にこれを解決するがよい。この組織は待遇改善のみならず、種々の問題の解決に貢献するであろう。
その一つは科学者の教養の向上、道義の高揚である。科学者は多くの長所をもっている。たとえば適当な環境におけば、事物を客観的に冷静に見て、科学的に処理する能力をもっている。しかし場合によっては、視野が限られてとかく偏狭におちいり、往々にして非民主々義的な、かつ不明朗な社会を作りやすい。これは科学者の教養の問題であって、相互の切磋によって改善することはもっとも大切なことである。科学の研究も畢竟するところは人物の問題に帰着することを思えば、有機的に活動する組合組織をこの達成に使うことは必要であり、かつ可能である。
また、科学者の政治的訓練ということも、この組合を通しておこなうことができるであろう。従来、科学者の政治的理解は不充分であって、むしろ無関心な人が大多数であった。これがわが国の科学不振の大きな原因をなしていたのである。これからの民主々義政治は民意を反映する政党政治であるから、将来のわが科学の盛衰の鍵は政党がにぎることになる。したがって、科学者たるものはいずれの政党にわが科学政策を担当してもらうかということについては、深甚の関心をはらわねばならぬ。この意味において、今日、各政党は科学政策についてその抱負を披瀝してもらいたいものである。われわれは、科学に対して充分の経綸をおこなう政党を支持したいのであるが、いずれの政党も具体的の方針を示してくれぬようでは投票の仕方がない。もちろん科学の問題となると、いずれの政党に対しても共通な事項があるかもしれない。そんな場合にはよく政党を超越した問題であるといわれることがある。これはあまりよい表現ではない。今後われわれは政党とともに起き、政党とともに倒れるのであるから、これを超越するというよりは各政党に共通であるといった方がよい。しかし、いかに共通であろうとも、その根底の思想は政党によって異なっているはずであるから、自然その方法も一様でないであろう。それによってわれわれも去就を決したいのである。もちろん組合内においても政見や立場の相異にしたがい、問題によっては意見が分かれるであろう。そんな時に腹を割議することによって進歩がもたらされ、また政治的の訓練ができるのである。
従来の科学者はとかく、道具として使われがちであった。そのために科学者の意志に反する結果が招来されることもあった。これは科学者の団体が強力でないために、その意志が無視せられることになるからである。われわれは強力な組合を作って、その意志を政党をとおして政治に反映せしめねばならぬ。たとえば科学者に重大な影響をおよぼす国是を定めるような場合には、科学者は組合内においてじゅうぶんの論議をつくし、そのまとまった意見を、政党をとおして政府に実行せしめることができるであろう。また、わが国が自主的な独立国家として認められた暁には、組合は外国に対してもわが国の科学者の意見を発表し、外国の同様な組織と密接な連絡をとることもできるのである。これによって科学者相互の間に従来よりも強い紐帯ができれば、国際間の平和を増進するに多大の貢献をなしうるであろう。何となれば科学者は平和の好愛者であり、かつ、科学者の力が一般に認識せられたからである。おそらく左様な連繋は今後、外交の有力な一翼をなすに至るであろう。
五.科学教育
わが国の再建に教育が重要な役割を演ずることは、内外ともにこれをじゅうぶん認識しているのである。国民教育の問題がすなわち国家再建そのものにほかならぬ。新しい日本は新しい人によって創られる。そして古い教育を受けたものは、再教育によって生まれ変わらねばならぬのである。この教育の改変は現下のもっとも重大な問題であって、そのためにマ司令部はアメリカの著名の教育者を招いて、日本の教育に関する意見を聞こうとしている。
自分は、ここで教育全般について述べようとは思わない。ただ、科学振興の基礎となる科学教育をいかにすべきかについて愚見を述べてみたい。わが国の科学が振わない一つの大きな原因は、国民の科学教育が適切を欠いていたためであることが強調せられ、今後は特に青少年の科学教育に力を入れねばならぬ、ということがたびたびいわれる。これはまことに核心をつかんだ意見である。今日までの科学教育は、ともすればつめこみ主義におちいっている。これでは子どもの持っている想像力を殺してしまうことになる。すべて教育なるものは、被教育者に潜在する能力を最大限に発揮するように導いてやるのが目的であって、生徒を型に入れて育て上げるとか、生徒の頭脳を教師の思うように作り上げるとかいうのは決して教育の趣旨ではない。殊に知識をただつめこんでみたところで、それを活用する能力を殺してしまっては、何の役にも立たない。これは幼少なものの教育については特に必要なことであり、また創意を必要とする科学者の教育についてまず心得べきことである。
たとえば教師たるものは、なるべく多くの事柄を教えようとする努力をやめて、生徒みずからの独創力をはたらかせ、みずからの理解力を引き出させて、事物の根底を、また核心を把握せしむることに力を注ぐべきである。かくて基本的の事項を体得せしむれば、枝葉の問題は自分で解決することができる。かようにして、生徒に潜在する各自独特の才能をできるだけ引き出して育て上げるように仕向けるという教育法が必要である。
以上の教育方法をおこなうためには、教師は生徒に対する理解と洞察との目を持っていなくてはならぬ。そして生徒の能力と特質とを見ぬいて、それを適当な方向に向ける技術がいる。それは決して万能の教師を意味することではなくて、人間を見る力とこれを教育させる技術とを心得ている教師を要求するのである。これを今日の教師に期待することは無理であって、それがためには教師からして新しく養成しなくてはならぬ。その養成は今日すぐ役に立たぬけれども、しかもただちに始める必要がある。それと同時に、現在の教師の再教育ということをおこなって、不満足ながら速急の間にあわせることも考えねばならぬであろう。
ここにもすぐ問題となるのは、教師の待遇改善である。上述のような優良な教師を養成するには、それに必要な高い教育と優秀な人材とが必要であって、今日のような待遇ではこれを得ることは不可能である。これも国家として解決すべき重要な問題である。
また、科学教育に必要な設備の充実ということも非常に大切である。実験を生徒みずからおこない得るようにするのと、実験もしないでただノートだけを取らせる教育方法とでは、生徒の能力を引き出せる点において、また、理解の深さにおいて同日の論ではない。この点では映画による教育も今後、おおいに採用せらるべきであろう。しかしこれらの実施についても、ただちに経費の問題がつきまとうのである。しかし国を創り上げるために費やす金は決して無駄にはならない。
以上は学校教育であるが、学校以外の社会教育においても、科学的に事物を考え、科学知識をあたえることが必要である。これにはいろいろの方法と設備とが考えられる。たとえば生きた科学博物館の増設、科学図書館の活用、種々の展覧会の開催、映画ならびに講演による教育、その他多くの案があるであろうが、ここにはその詳説を省くことにする。
六.結語
これを要するに、わが国再建の基礎は科学によって築かるべきものであるから、以上述べた諸方策はかならずしも短時日にその成果を期待し得ないものであっても、今日からその準備ないしは実施に着手して将来の科学振興を期すべきである。
(昭和二十一(一九四六)・三・十二)
底本:「自然 300号記念増刊 総収録 仁科芳雄・湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一」中央公論社
1971(昭和46)年3月20日発行
※底本は横組みです。
入力:山崎雅人
校正:小林 徹
2005年11月4日作成
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国民の人格向上と科学技術
仁科芳雄
わが国はポツダム宣言受諾の結果、民主主義の平和国家として更生することとなった。このことは今度の新憲法に具象化せられておって、人民のために人民がおこなう政体をとるのである。したがって人民各自の人格の高低はとりもなおさず、わが国の浮沈を決定するものに他ならない。ここに人格というのは、道義心、性格、教養などを含めた全体の属性をさすのである。
しからば、わが国民の人格の水準は今日どうであろうか。それは犯罪のくわしい統計を調べればすぐわかることであるが、それを待つまでもなく毎日の各人の体験がもっとも雄弁にこれを物語っているであろう。少しでも油断するとすぐ物がなくなることは、今日だれもが味わっているのである。これは敗戦国の常であって、あえて怪しむにあたらないことかもしれない。前欧州大戦後のドイツにおいて、自分は同じようなことを経験した。大陸に渡る前にイギリスのケンブリッジにおいては、講義を聴きにくる学生の乗り捨てた自転車が、カレッジの門前にいっぱい置いてあっても、それがなくなったということを聞いたことがなかった。これに比べたのでドイツの社会状態はことに目立って見えたのかもしれない。そのときドイツはインフレの波に襲われていたのである。
以上は犯罪を構成するような極端な問題であって、これで一国の消長を判断するのは早計だという人があるかもしれない。それでは今日わが国民の性格は、戦災の国土から奮然として立ち上がり、産業を再建し国家を復興させるだけの気概と根気とを備えているのであろうか。自分の目には遺憾ながらどうもそうは見えない。終戦後すでに一年二か月を経たのであるが、まだ虚脱状態を脱していない人も多い。みずから進んで難におもむくという犠牲心の発露を見ることはきわめてまれであって、利己的行為が澎湃として世をおおっている感がある。これでは国の復興、民生の安定ということはいつのことかわからない。
これはどこに原因があるのであろうか。もちろん、あれだけの無茶な戦争をしたということが今日の結果をもたらしたのである。そのために人はみな、衣食住に事を欠くこととなった。犯罪の増加は当然といわねばならぬ。また食料の不足は体位の低下を来たし、気力の消失をまねくのも無理からぬことである。その結果として生産は低下し、ますます国民生活を困難にしている。すなわち原因は結果を生み、結果はまた原因となってジリ貧状態を現出する可能性がある。
これを救う道はいかにすべきであろうか。多くの人はすぐ国の政治にその罪を帰し、社会組織の改善をさけぶであろう。それはおそらく正しい見方かもしれない。しかしその方はその道の人にまかせておいて、自分がここに強調したいことは、科学者・技術者としてこの危機を脱するためにはいかにその義務をはたすべきかということである。
もちろんわれわれは国民としての道義の高揚、品性の陶冶、教養の向上に努力すべきは当然である。これがすべての基礎となるのであるが、科学者・技術者としてはその本務として産業の復興ということに渾身の努力をはらわねばならぬ。これがためには国として一つの組織が必要かもしれない。しかし組織だおれでは何もならないから、まず実行である。われわれは各自の専門的知識能力を、生産技術の創造と発展とに応用して、新しい方法による新しい物を造らねばならぬ。これによって産業の復興が上昇線をたどれば、国民は生活に余裕を生じて礼節を知ることになり、ますます生産は増大し、それがまた科学技術の進歩をうながすことになるであろう。(一九四六.一〇.二〇)
底本:「自然 300号記念増刊 総収録 仁科芳雄・湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一」中央公論社
1971(昭和46)年3月20日発行
※底本は横組みです。
入力:山崎雅人
校正:小林 徹
2005年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました.入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。