斎藤茂吉 さいとう もきち
1882-1953(明治15.5.14-昭和28.2.25)
歌人・精神科医。山形県生れ。東大医科出身。伊藤左千夫に師事、雑誌「アララギ」を編集。長崎医専教授としてドイツなどに留学、のち青山脳病院長。作歌1万7000余、「赤光」以下「つきかげ」に至る歌集17冊のほか、「柿本人麿」をはじめ評論・随筆も多い。文化勲章。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)


もくじ 
三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉


ミルクティー*現代表記版
三筋町界隈


オリジナル版
三筋町界隈


地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


三筋町界隈
底本:「斎藤茂吉随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2003(平成15)年6月13日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
   1981(昭和56)年11月1日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1937(昭和12)年1月号
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底本:「斎藤茂吉選集 第十二巻」岩波書店
   1982(昭和57)年2月26日第1刷発行
初出:「群像」
   1950(昭和25)年3月
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/card46466.html

NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html





三筋町みすじまち界隈かいわい

斎藤茂吉

     一


 この追憶随筆は明治二十九年(一八九六)を起点とする四、五年にあたるから、日清戦役がすんで遼東りょうとう還付に関する問題がかまびすしく、また、東北三陸の大海嘯だいかいしょうがあり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹てっかんの『東西南北』が出たころ、露伴の「雲のそで」、紅葉こうようの「多情たじょう多恨たこん」、柳浪りゅうろうの「今戸いまど心中しんじゅう」あたりが書かれたころにあたるはずである。東京に鉄道馬車がはじめてできて、浅草観音の境内には砂がきばあさんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇すがめの小さなおうなであったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天ゆうてん和尚しょうだの、信田しのだの森だの、安珍あんちん清姫きよひめだの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いていく。白狐びゃっこなどは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる。不動明王の背負う火炎などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年のわたしは観世音にもうずるごとにそこを立ち去りかねていたものである。そのおうなもいつのまにか見えなくなった。いつごろ、どういう病気で亡くなったか知るよしもなく、また媼の芸当の後継あとつぎもいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。そのころ助手のようなものは一人も連れてこずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくてうどん粉か何かであったのかもしれず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交わるようにこしらえてあったのかもしれないが、実際どういうものであったか私にはよくわからぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代にはかなわぬだろうから、あのなりゆきはあれはあれでかったというものである。
 鉄道馬車もちょうどそのころできた。蔵前くらまえどおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠めかくしをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。わたしが郷里で見た開化絵をのあたり見るような気持ちであったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車のできるまで続いたわけである。電車のできたてに犬がひかれたり、つるみかけている猫がひかれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんなきわどい事故はおこらぬのであった。

     二


 そういうわけで、私はかぞえどし十五のとき、郷里上ノ山かみのやまの小学校をえ、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年(一九二三)に七十三歳でぼっしたから、逆算してみるに明治二十九年(一八九六)にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたため、もう腰がまがっていた。二人は徒歩で山形あたりはまだあかつきの暗いうちにすぎ、それから関山越えをした。その朝、山形を出はずれてから持っていた提灯ちょうちんを消したようにおぼえている。
 関山峠せきやまとうげはもうそのころは立派な街道でちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころからわたしの足は疲れてきて歩行がはかどらない。広瀬川の上流に沿うて下るのだが、いくたびもいくたびも休んだ。父はそういう時には私に怪談をする。それは多くきつねを材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼だれかれが実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受け取ることもできる。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし、足の疲労の方が勝つものだから、だんだんがなくなってくるというような具合であった。ところが、あたかもそのとき騎兵隊の演習戦があった。卒は黄の肋骨ろっこつのついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。わたしは日清戦争の錦絵にしきえは見ていても、本物を見るのはそのときが初めてであった。
 一隊は広瀬川の此岸しがんにおり、敵らしい一隊は広瀬川の対岸の山かげあたりにいる。戦闘が近づくと当方隊の一部は馬からおりて広瀬川の岸に散開して鉄砲を打ちかけた。そうすると向こうからも鉄砲の音が聞こえてくる。その音はわたしには何ともいえぬ緊張した音である。しばらく鉄砲を打っていたかとおもうと、当方の一隊はことごとく抜剣し橋を渡って突撃した。父もわたしもこういう光景を見るのは生まれてからはじめてであった。わたしの元気はこれを見たので回復して、日の暮れに作並さくなみ温泉についた。その日の行程十五里ほどである。
 翌日、仙台について一泊し、東北での城下仙台にのあたり来たことを感じ、旅館では最中もなかという菓子をはじめて食った。当時、長兄が一年志願兵で第二師団に入営していたのに面会に行ったが、機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅についた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろうかとおもった。数年をへて不夜城という言葉を覚えたが、そのときも上野駅にはじめて着いたときの印象を逆におもい出したものであった。そのころの灯火とうかは電灯よりも石油のランプが多かったはずだのに、そんなに明るく感じたものである。
 それから父と二人は、二人乗の人力車で浅草区東三筋町すじまち五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年のわたしの脳裏には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤さいとう紀一きいち先生が浅草医院というのを開いていたので、そこにたどりついたのである。
 医院はまだよいの口なので、大きなランプが部屋にりさげられてあって光は皎々こうこうと輝いていた。客間は八畳ぐらいだが、あか毛氈もうせんなどがいてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子も毎日のように食うことができる。
 ここに書いた陰暦七月十七日は陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それによると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に着いたことになる。

     三


 養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字は非常によいものだと漢学のできる患家かんかの一人がいったとかで紀一と改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学の先生の見離した病人が本復ほんぷくしたなどという例もいくつかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。そして一つの専門に限局せずに、何でもやった。内科は無論、外科もやれば婦人科もやる。小児科もやれば耳鼻科もやるというので、夜半にひきつけた子どもの患者などは幾たりも来た。そういうときには父は寝巻きにフ袍どてらのままで診察をする。私もそういうときには物珍しそうに起きてきて見ていると、ちょっとした手当てで今まで人事不省になっていた孩児がいじが泣き出す。もうこれでよいなどというと、母親が感謝して帰るというようなことは幾度となくあった。ガラスをふみつけた男が夜半に治をいに来て、それがなかなか除かれずに難儀なんぎしたことなどもあった。のどに魚の骨を刺して来たのを、妙な毛で作った器械で除いてやって患者の老人が涙をこぼして喜んだことなどもある。まだ喉頭鏡こうとうきょうなどの発明がなかったころであるから、余計に感謝されたわけである。
 今は医育機関が完備して、帝国大学の医学部か単科医科大学で医者を養成し、専門学校でさえもう低級だと論ずる向きもあるくらいであるが、当時は内務省で医術開業試験をおこなって、それに及第すれば医者になれたものである。
 そこで多くの青年が地方から上京して、開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生さいせい学舎がくしゃに通って修学する。それができなければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強しだいで早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのもできていた。
 当時の医学書生は、服装でも何かジャラジャラしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖編』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑けいべつの眼をもって見られた向きもあったとおもうが、済生学舎の長谷川はせがわたい翁の人格がいつ知らず書生にも薫染くんせんしていたものと見え、ここの書生からおもしろい人物がときどき出た。
 あるとき、陸軍系統といわれた成城学校の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文げきぶんのようなものがまわってきたことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒こんぼうか何かを持って集まって行った。うちの書生の一人に堀というのがいて顔面神経の麻痺まひしていた男であったが、その男に私もついて行ったことがある。すると切通きりどおし一帯の路地ろじ路地には済生学舎の書生でいっぱいになっていた。彼らは成城学校の生徒を逆撃しようと待ちかまえているところであった。これは本富士もとふじ署あたりの警戒のために未遂に終わったが、当時の医学書生というものの中には本質までジャラジャラでない者のいたことを証明しているのである。
 医学書生のやる学問はつねに肉体に関することだから、どうしても全体の風貌ふうぼうが覚官的になってくるとおもうが、長谷川翁の晩年は仏学すなわち仏教経典の方に凝ったなどはなかなかおもしろいことでもあり、西洋学の東漸中、医学がその先駆をなした点からでも、医学書生のどこかに西洋的なところがあったのかもしれない。着流きながしのジャラジャラと、吉原よしわら遊里の出入りなどということも、見方みかたによっては西洋的な分子の変型であるかもしれないから、文化史家がもし細かく本質に立ち入って調べるような場合に、当時の医学書生の生活というものは興味ある対象ではなかろうかとおもうのである。
 また、医学の書生の中にもすこしも医学の勉強をせず、当時、雑書を背負ってまわっていた貸し本屋の手から浪六なみろくもの、涙香るいこうものなどを借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた。わたしが少年にして露伴翁の「靄護あいご精舎しょうじゃ雑筆」などに取りつき得たのは、そういう医院書生の変わり種の感化であった。
 そういう入りかわり立ちかわり来る書生を、父はたいがい大目おおめに見て、伸びるものは伸ばしても行った。その書生名簿録も今は焼けて知るよしもないが、すでに病没したものが幾人かいて、わたしの上京当時撮った写真にそのころの名残なごりをかろうじてとどめるにすぎない。

     四


 そのころ、蔵前くらまえ煙突えんとつの太く高いのが一本立っていて、わたしはどこを歩いていても、だいたいその煙突を目当めあてにして帰ってきた。この煙突はまもなく二本になったが、一本のときにも煙をはきながら突っ立っているさまはいかにも雄大で、わたしはそれまでかく雄大なものを見たことがなかった。神田かんだを歩いていても下谷したやを歩いていても、家のかげになって見えない煙突が、すこし場所をかえると見えてくる。それを目当に歩いてきて、よほど大きくなった煙突を見ると心がホッとしたものである。上京したての少年にとってはこの煙突はただ突っ立っている無生物ではなかったようである。
 わたしが東京にきて、三筋町みすじまちのほかにはやく覚えたのは本所ほんじょ緑町であった。その四丁目かに黒川重平という質屋があって、そこの二階にわたしの村の寺の住職佐原応りゅうおう和尚が間借りをして、本山すなわち近江おうみ番場ばんば蓮華れんげ寺のために奮闘していたものである。わたしは地図を書いてもらって徒歩でそこにたずねて行った。二階の六畳一間でそこに中林なかばやし梧竹ごちく翁の額がかかっていて、そこから富士山が見える。わたしは富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲などもいっしょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。この画期ということは何も美麗な女体を見たときばかりではない。山水といえども同じことである。
 郷里の上ノ山の小学校には、ときどき郡長が参観にきた。江嘉氏であったとおもうが鹿児島出身の老翁で、イギリス軍艦に談判に行った一行の一人であった。校長に案内されて郡長は紙巻きのタバコをふかしながら通る。ホールで遊んでいる児童が立って敬礼をする。そのあとにタバコの煙のかおりが残る。煙はなんともいえぬよい香りで、香ばしいようなすっぱいような甘いような一種のかおりである。少年のわたしはいつもその香りにあわい執着を持つようになっていた。しかるに東京に来てみると、うちの代診も書生どももかつて郡長の行きすぎたあとに残ったような香りのするタバコを不断吸っている。ひそかにそれを見ると、みな舶来のタバコである。そしてパイレートというのの中には美人だの万国の兵士だのの付録絵がついているので、わたしもそれを集めるためにひそかにタバコを買うことがある。タバコははじめは書生にくれていたが、ときには火をつけてその煙をかぐことがある。もともと煙の香りに一種の係恋けいれんを持っていたのだから中学の三年ごろから、ひそかにタバコむことをおぼえて、一年ぐらいたまたまにのんでいたが、ある動機で禁煙して、第一高等学校の三年のとき、またみはじめた。その明治三十七年(一九〇四)から大正九年(一九二〇)に至るまでずっと喫煙をして、ずいぶんの分量った。巣鴨すがも病院に勤務していたとき、くれ院長は、患者にタバコをのませないのだから職員もってはならぬと命令したもので、わたしなどは隠れて便所の中でのんだ。それくらい好きなタバコを長崎にいたときやめて、いタバコも安くのめるヨーロッパにいたときにも決して口にくわえることすらしなかった。いったんくわえたら離れた恋人をふたたび抱くようなものだと悟って、決してそれをせずにしまった。しかしその煙をかぐことは今でも好きで、少年のころパイレートの煙に係恋をおぼえたのとちっとも変わりはないようである。
 かつて巣鴨病院の患者の具合を見ていると、紙を巻いてタバコのようなつもりになってんでいるのもあり、キセルを持っているものは、オオバコなどをしてそれをつめて喫むものもいる。そのていは何か哀れでしかたがなかったものである。また徳川時代に一時、禁煙令の出たことがあった。ある日、商人某が柳原やなぎわらの通りをゆくと、一人の乞丐こじきこもの中に隠れてタバコをのんでいるのを瞥見べっけんして、この禁煙令はいまに破れると見越みこしをつけてキセルを買い占めたという実話がある。昼食のとき、わたしはこの実例を持ち出して笑談まじりに呉院長を説得したことがあった。
 開業試験が近くなると、父は気をきかして代診や書生に業を休ませ、勉強の時間をあたえる。しかし父のいない時などには部屋に皆どもが集まって喧囂けんごうを極めている。中途からの話で前半がよくわからぬけれども、なにか吉原を材料にして話をしている。遊女からふられたはらいせにタンスの中にくそを入れてきたことなどを実験談のようにして話しているが、まだ、少年の私がいてもすこしも邪魔じゃまにはならぬらしい。そのけわたったころ、書生の二、三は戸を開けて外に出て行く。しかし父はそういうことを大目おおめに見ていた。
 明治三十年(一八九七)ごろ『中学新誌』という雑誌が出た。これはやはり開成中学にも教鞭きょうべんをとった天野という先生が編集していたが、その中に、幸田露伴先生の文章が載ったことがある。数項 あったがその一つに、「鶏の若きが闘いては勝ち闘いては勝つときには、勝つということを知りて負くるということを知らざるまま、えがたきほどの痛きめにあいてもなおよく忍びて、ついに強敵にも勝つものなり。また若きよりしばしばたたかいてしばしば負けたるものは、負けぐせつきて、痛みをしのび勇みをなすということを知らず、まことはおのが力より劣れるほどの敵にあいても勝つことを得ざるものなり。鶏にても負けぐせつきたるをば、下鳥したどりといいて世ははなはだうとむ。人の負けぐせつきたるをば如何いかよろこばむ」というのがあって、わたしはこれをノートに取っておいたことがある。この文は普通、道徳家たとえば『益軒えきけん十訓じっくん』などの文と違い実世間的な教訓をおりまぜたものであって、いつしか少年のわたしの心にしみこんでいった。
 吉原遊里の話も、ピンヘッド、ゴールデンバット、パイレートのタバコの香りも、負けぐせのついた若鶏の話も、陸奥むつから出京した少年の心には同様の力をもって働きかけたものに相違ない。今はもはや追憶だから、あてにならぬようで存外あたっている点がある。

     五


 わたしが東京にきて、連れてきた父がまだ家郷かきょうに帰らぬうちから、わたしは東京語のいくつかを教わった。醤油しょうゆのことをムラサキという。もちのことをオカチンという。雪隠せっちんのことをハバカリという。そういうことを私は素直に受けいれて、今後、東京弁を心がけようと努めたのであった。
 わたしが開成中学校に入学して、そのときの漢文は『日本外史』であったから、あてられると私は苦もなく読んでのける。『日本外史』などはすでに郷里でひととおり読んできているから、ほかの生徒が難渋なんじゅうしているのを見るとむしろおかしいくらいであった。しかるにわたしが『日本外史』を読むと、皆で一度に笑う。先生は磯部武者五郎という先生であったが、おなかをかかえて笑う。私は何のために笑われるかちっともわからぬが、これは私の素読は抑揚頓挫とんざないモノトーンなものにくわうるに、あまり早すぎてわからぬというためであった。爾来じらい四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるズウズウ弁でわたしの生は終わることになる。
 わたしは東京にきて蕎麦そば種物たねものをはじめて食った。ある日、母はわたしを蕎麦屋に連れて行って、玉子とじという蕎麦を食べさせた。わたしは仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんなうまいものがあるだろうかと思ったが、ほどて、てんぷら、おやこ、ごもく、おかめなどという種蕎麦のあることを知って、まことに驚かざることを得なかった。
 それから佐竹の通りには馬肉屋が数軒あったが、わたしはそういうところに入ることを知らなかった。ただ、市村いちむら座の向かい側に小さい馬肉の煮込みを食わせるところがあり、その煮方には一種のこつがあって余所よそでは味わえない味を出していた。うちの書生の説に椿つばき油か何かを入れるのではなかろうかというのであったが、よくはわからない。
 夜十時すぎになると、書生も代診もまじってクジをひいて当たった者が東三筋町から和泉いずみ町のその馬肉屋まで買いに来る。今どきの少年は馬肉は軽蔑けいべつして食わぬし、ビステキなども上等のを食いたがるけれども、馬肉を食わぬからといって、みなかしこくなるというわけではない。また、大正十年(一九二一)の夏、わたしは信州富士見ふじみに転地していたとき、あの近在にある神社の祭礼があって、そこでやはり馬肉の煮込みを食べたことがある。その味は市村座の向かい側の馬肉屋の煮込みそっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかもしれない。
 郷里を立つとき、祖母はわたしにわずかばかりの小遣銭づかいせんをくれていうに、東京には焼きイモというものがある。腹が減ったらそれを食え。そこでわたしは学校の帰りには、左衛門橋のたもとの焼きイモ屋によって五りんずつ買った。そのころ五厘で焼きイモ三個くれたものである。
 母はわたしをかわいがって、学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になったころでたいがい三つぐらいは食った。
 また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一わん一銭五厘ぐらいで赤いトウガラシなどをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店がいくつもあるけれども、汁が甘くてダメになった。その頃はあんなに甘くなかった。
 わたしと同様出京して正則せいそく英語学校に通っていた従弟いとこが、ある日、日本橋を歩いていてにぎり寿司ずしの屋台に入り、三つばかり食ってから、ガマぐちに二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いてわたしは、いっさいスシというものを食う気がしなかった。鰻丼うなどんなども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖がさかんになったために、われわれはありがたい世に生きているわけである。

     六


 そのころ奠都てんと祭というものがあって式場はたぶん日比谷だったようにおもう。紅いはかまをはいた少女の一群を見て、非常に美しく思ったことがある。それからまもなく女学生が紅い袴をはき、ついでエビ茶の袴がある期間流行して、どのくらい青年の心をひきつけたかしれぬが、そのころはまだそれが、なかった。
 東三筋町に近い、鳥越とりごえ町に渡辺わたなべ省亭せいてい画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。そのときは髪を桃割ももわれに結ってエビ茶の袴はまだはいていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺水巴すいは氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。
 黒川真頼まより翁も、具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるにっておられた。体がかゆくて困るといわれて、うちの代診の工夫で硫黄いおう風呂ふろを立てたこともあり、最上もがみ高湯たかゆの湯花をもちいたことなどもあった。いまだ少年であった私がたとい翁と直接話をかわすことができなくとも、一代の碩学せきがく風貌ふうぼうをのぞき見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家かんかとのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし、父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみはせた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論、患者の家族からも感謝せられざる医者である。
 わたしは東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということがしみこんでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺激も少なく万事が単純素朴そぼくであったのである。それでも目ざめかかったリビドウのゆらぎは生涯ついてまわるものと見えて、老境に入った今でも引きつけられる対象としての異性はそのころのリビドウの連鎖のような気がしてならないのである。そのころ新堀しんぼりをへだてた栄久町えいきゅうちょうの小学校に通う一人の少女があった。まもなく卒業したとみえて姿を見せなくなったが、わたしは後年、年不惑をすぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影おもかげしのんだことがある。あるいは目前にわたしに対している少女に、その再来なるものがいるかもしれない。
 新堀といえば、新堀にはそのころ舟が幾そうも来てもやっていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠しょうきょあり、須賀町すがちょう地先をへ、一屈折して蔵前くらまえ通りをすぎ、二岐ふたまたとなる。その北に入るものはいわゆる、新堀にして、栄久町三筋みすじ町などに沿い、菊屋きくや橋・合羽かっぱ橋などの下に至る。この一条の水路ははなはだ狭隘きょうあいにしてかつはなはだ不潔なれども、不潔物その他の運搬には重要なる位置を占むること、その不快を極むるところの一路なるをも忌みきらうにいとまあらずして渠身不相応ふそうおうなる大船の数々出入りするに徴して知るべし。かつ浅草区一帯の地の卑湿にしてかわき難きも、この一水路によりて間接に乾燥せしめらるることいくばくなるを知らざれば、浅草区にとりては感謝すべき水路なりというべし」とあるところである。まだ少年のわたしはパイレートというタバコを買って、その中の美人の絵だけをとって中味なかみをこの堀の水にてたことがあった。新堀の名は三味線堀とともにわたしの記憶から逸し得ざるのもまた道理である。

     七


 そのころの浅草観世音境内には、日清役平壌ピョンヤン戦のパノラマがあって、これはじつにいいものであった。東北の山間などにいては、こういうものは決して見ることができないと私は子供心にもしみじみとおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころしいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだからいかにも念入りであった。師団司令部の将校らの立っている向こうの方に、火災の煙が上がって天をがすところで、その煙がムクムク動くように見えていたものである。
 このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほどたびたびは見ずにしまった。そのころ仲見世なかみせ勧工場かんこうばがあって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、わたしがいまだ郷里にいたとき、小学校の校長が東京みやげに買ってきて児童に見せ見せしたものであるから、わたしは小遣銭がたまるとここに来て、その英雄の写真を買いあつめた。
 そういう英雄豪傑の写真にまじって、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指をほおのところにあてたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃くうつっているのもあった。わたしは世にはじつに美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがってくるのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓めいぎとして名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということでしきりにうわさにのぼったころの話である。
 そのうちわたしは中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷ほんごう三丁目の交差点に近く住んでいるということを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷やけどをしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織りまぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月、患者の慰安会というものをもよおし、次から次と変わった芸人が出入りしたが、あるとき鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊りを舞ったことがある。父がそのとき「なるほど、まだいい女だねえ」などといって、わたしは父のそでを引っぱったことがある。わたしのつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが、人生をけみしてきたあじわいが美貌のうちに沈んでしまってじつに何ともいえぬ顔のようであった。わたしが少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。わたしは後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時、写真で見たぽん太の面影おもかげが視野の外にまったくは脱逸していなかったためである。わたしはその時のことを「かなしかる 初代ぽん太も 古妻ふりづまの 舞ふ行く春の よるのともしび」という一首にんだ。わたしのごとき山水歌人には手馴てなれぬ材料であったが、苦吟ぎんのすえにかろうじてこの一首にしたのであった。散文の達者ならもっと余韻嫋々じょうじょうとあらわしうると思うが、短歌では私の力量の、せいいっぱいであった。またある友人は、山水歌人のわたしががらにも似ずにぽん太の歌などを作ったといったが、作歌動機の由縁を追究していけば、遠く明治二十九年(一八九六)までさかのぼることができるのである。歌は歌集『あらたま』の大正三年(一九一四)のところに収めてある。
 それからずっと歳月がたって、わたしのヨーロッパから帰ってきた大正十四年(一九二五)になるが、火難の後の苦痛のいまだずいているころであったかとおもうが、友人の一人から手紙をもらった中に、「ぽん太もとうとう亡くなりました」という文句があった。そしてこの報道はおそらく新聞の報道にもとづいたものであったろうとおもうが、都下の新聞ではまず問題にするような問題にはしなかったようである。それでわたしも知らずにいたし、その報道の切抜きりぬきなども持っていない。おそらくごく小さく記事が載ったのではなかっただろうか。
 昭和十年(一九三五)になって、ふとぽん太のことを思いだし、それからそれと手をまわして友人の骨折りによってぽん太の墓のあるところをつきとめた。墓は現在、多磨墓地にある。
 昭和十一年の秋の彼岸ひがんに、わたしは多磨墓地に行った。雨のしきりに降る日で事務所で調べるのに手間てまどったが、ついにたずねあてることができた。墓は多磨墓地第二区八側五〇番甲種で、墓石の裏には大正十四年(一九二五)八月一日二代清三郎建之と刻してある。この二代鹿島清三郎氏は目下、小田原下河原四四番地に住まれているはずである。ここに合葬せられている仏は、鹿島清兵衛。慶応二年(一八六六)生。死亡、大正十二年十月十日。病名慢性腸カタル。ゑ津。明治十三年(一八八〇)十一月二十日生。死亡、大正十四年四月二十二日。病名肝臓腫瘍しゅよう。大一郎。明治三十四年(一九〇一)八月八日生。死亡、大正十四年二月九日。病名慢性気管支カタル。静江。明治四十年(一九〇七)二月九日生。死亡、昭和三年(一九二八)一月二十九日。病名腎臓炎。京子。明治四十年生。死亡、大正十三年九月二十七日。病名背髄せきずいカリエス。云々うんぬんである。
 鹿島ゑ津さんはすなわち初代ぽん太で、明治十三年(一八八〇)生まれだから昭和十一年には五十七歳になるはずで、大正十四年(一九二五)四十六歳でぼっしたのである。ぽん太については、森鴎外の「百物語」に出ているが、あれはまだ二十前の初々ういういしい時のことであっただろう。誰か小説の大家が、晩年におけるゑ津さんの生活のデタイルス〔ディテール、detail。を叙写してくれるなら、かならず光かがやくところのある女性になるだろうと、わたしは今でもおもっている。

     八


 そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。
 わたしは東京に来たては、毎晩のように屋根のうえにのぼって鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干し台からかわらを伝わり、そこの屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはブルブルふるえながら見ていたものである。東京の火事は、毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。
 そういう具合にしてわたしは吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、そのときからほとんど四十年をすぎようとしている今日でも、紅い火炎と、天をがして一方へなびいて行く煙とを目前におもい浮かべることができるほどである。時には書生や代診や女中などもまじって見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人のさけびごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。そのうち火勢がだんだん衰えてきて、たちのぼる煙の範囲も狭くなるころ、「もうおしまいだ」などといって書生らは屋根から降りて行っても、私はしまいまで降りずにいたものである。こういう光景は、わたしの子どもらはもう知ることができない。
 このごろは、ナフタリンだの何のと、種々さまざまな駆虫剤が便利に手に入ることができるので、のみなどもほとんどいなくなったけれども、そのころは蚤が多くて毎夜苦しめられた。そのかわり、動物学で学んだ蚤の幼虫などは、畳のすみ、じゅうたんの下などにはいくつもいくつもいたものである。私はあるとき、その幼虫とマユと成虫とをていねいに飼っていたことがある。特に雌雄の蚤の生きているありさまとか、その交尾のありさまとかいうものは普通の中等教科書には書いてないので、わたしは苦心してずいぶん長く飼っておいたことがある。飼うには重曹とか舎利塩しゃりえんなどのような広口のびんいたのを利用して、口は紙でおおうてそれに針でたくさんの穴をあけておく。また、ときどき血を吸わせるには、太股ふともものところにびんの口をあてておくと蚤がきて血を吸う。そういうときに交尾状態をも観察しうるので、あの小さいオスの奴がまるで電光のごとくにメスに飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族もおいおい減少してみれば、そういう実験をしようとしても今は困難であるから、わたしの子どもなどはもう、こういうことは知らないでいる。
 そうだ、火事のところでいい忘れたが、火事が近くて火の粉のふりかかってきたのが鳥越町に一つあった。またすごかったのは神田和泉町の第二医院の火事で、あまりの驚愕きょうがくに看護婦に気のふれたのがあって、ゲラゲラ笑うのを朋輩ほうばいが三、四人して連れてくるのを見たことがある。わたしがそんなに近く見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。
 東京は大震災であのような試練を経たが、わたしも後年に火難の試練を経た。少年のとき屋根瓦やねがわらにかじりついて、紅く燃えあがる吉原の火事を傍看したのとはちがって、これはまたひどいともひどくないともまったく言語に絶した世界であった。わたしは香港ホンコン上海シャンハイとの間の船上でわたしの家の全焼した電報を受け取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持ちで船房に帰ったことを今おもいだす。

     九


 わたしらが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、わたしは一度、東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。そのときには、門から玄関にいたるまで石畳いしだたみになっていたところに、もう一棟家が建って、糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかしへい沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴ふしあなからのぞけば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。
 それから、昭和元年(一九二六)ごろ、歳晩としのくれにも一度見て通ったことがある。そのときには市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラックだてであるし、ほとんど元のおもかげがなくなっていた。わたしは泥濘でいねいの中をひろい歩きしてかろうじて佐竹の通りに出たのであった。
 それからついでがあって昭和十一年(一九三六)の一月と十月とにそこをたずねた。蔵前通りを行くと、桃太郎団子だんごはさびれてまだ残っていた。そして市区がすっかり改正されて、道路も舗装道になっているし、一月のときには三筋町の通りで羽子はねなどを突いているのが幾組もあった。まがり角が簡易食店で西洋料理などを食べさせるところ。その隣は茶舗ちゃほ、ガマぐち製造業、ボールばこ製造業という家並で、そのあたりが私のいた医院のあとであった。その隣はカバン製造業、洋品店、玩具がんぐ問屋、タバコ店、菓子店というような順序にならんでおり、路地に入ってみると、元庭であったところにもぎっしり家が建っており、そのあたりの住人もだいたい替わってしまっていた。そのころのタバコ屋も薬種商も、綿屋も床屋も肉屋も炭屋もみな別な人で元のおもかげがなかった。わたしの気持ちからいえばまずリップ・ワン・ウィンクルというところであった。
 一月のときにはわたしは鳥越とりこえ神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後あらたに建てられたもので、そのころ縁日のあったあたりとは何となく様子がかわっていた。それから北三筋町の方へも歩いて行ってみた。今は小さい通りも多くなって、電車通りに向いて救世軍の病院が立派に建っている。新堀は見えなくなってその上を電車の通ったのは前々からであるが、震災後、街衢がいくがだんだん立派になり、電車線路をへだてた栄久町の側には近代茶房ミナトなどという看板も見えているし、浄土宗浄念寺も立派に建立こんりゅうせられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋宏壮こうそうな建築物として空にそびえつつあった。かつて少年私の眼にとまった少女の通っていた学校である。
 わたしの追憶的随筆は、かくのごとくに平凡な私事に終始してあとは何もいうことがない。ただ一事加えたいのは、父がここに開業している間に、診察の謝礼に賀茂かもの真淵まぶち書入かきいれの『古今集』をもらった。たぶん田安家にたてまつったものであっただろうとおもうが、佳品の朱できわめてていねいに書いてあった。出所でどころし、黒川真頼まより翁の鑑定を経たもので、わたしが作歌を学ぶようになって以来、わたしは真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはりいっしょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年(一九二四)暮の火災のとき灰燼かいじんになってしまった。わたしの書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、かろうじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それもせた。わたしは東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思い出して残念がるのであるが、何ごとも思うとおりに行くものでないと今ではあきらめている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとしたことにもとづくものがあると知って、それであきらめているようなわけである。
 まえにもちょっとふれたが、上京したとき、わたしの春機は目ざめかかっていて、いまだ目ざめてはいなかった。今はすでに七十のよわいをいくつか越したが、やをという女中がいる。わたしの上京当時はまだ三十いくつかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」とわたしに教えた女中である。その女中がわたしを、ある夜、銭湯に連れて行った。そうすると浴場にはみな女ばかりいる。年寄りもいるけれども、キレイな娘がたくさんにいる。わたしは故知らず胸のおどるような気持ちになったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかもしれない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことがわかり、女中は母にしかられて私はふたたび女湯に入ることができずにしまった。わたしはただ一度の女湯入りを追憶して愛惜あいせきしたこともある。今度もこの随筆からてようか棄てまいかと迷ったが、棄てるにはしい甘味がいまだ残っている。



底本:「斎藤茂吉随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2003(平成15)年6月13日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
   1981(昭和56)年11月1日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1937(昭和12)年1月号
入力:五十嵐仁
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年1月13日作成
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斎藤茂吉


 わたしのところにただいま、孫が二人いる。一人は昭和二十一年(一九四六)四月生まれ、つぎは昭和二十三年二月生まれである。それゆえ大きい方は今年かぞえ年五つになるわけだが、満でかぞえると年が減って三つになり、小さい方は一つということになる。(この満でかぞえる新しい約束は、万国同等で、まことに結構である)。
 この満でかぞえる計算の方法は、まだれないので、ここしばらくは不便のようにおもうだろう。一般の人の心になじむまでには、五年や十年はかかるのではあるまいかとさえおもわれる。
 明治十四年(一八八一)の初秋に、明治天皇が東北に巡幸あらせられた。そのとき、わたしの次兄も奉迎ほうげいしたが、そのとき明治九年(一八七六)生まれの兄は六歳で、小さいはかまなど穿かせられ、三島県令の計画によってった早坂新道というところに整列して奉迎したと、追憶文に書いているが、六歳とするとだいたい私らのにも落ちるのである。しかるに満の計算によると、四歳ということになる。従来の計算による常識だと、五歳以前の幼童はまだまことに小さい感じである。五歳になってはじめてキンテイサマ、テンシサマの記憶がよみがえってくる、という従来の習慣が残っており、四歳ではまだその記憶が残らないという従来の習慣にもとづき、兄のそのときの年齢を満でかぞえてすぐに落ちるようになるまでには、五年や十年はかかるだろうというのは、そんな事柄にも関連しているのである。
 わたしの長男(つまり孫の父)が長崎に遊びにきたのは、四歳の暮であった。そのとき大浦のホテルに洋食を食べさせに連れて行ったとき、小さなズボンにおしっこをひっかけた記憶がある。そして五歳の春に東京に帰ったのであるが、ただ今になってみると、諏訪すわ神社のつるがかすかに記憶に残っているだけで、長崎の港の記憶はほとんどないくらいである。満にしてかぞえれば三歳ということであるから、まずそんなものであろうから、われわれは五歳を標準としてそういう経験などをも考えていたものである。それが無理なく調和がとれるようになるまでは、時間がかかるだろうというのはそんなわけ合いがあるのである。
 孫の生まれた昭和二十一年(一九四六)四月は、わたしが山形県の大石田おおいしだというところにいた。孫の母がときたま孫の絵をかいてよこしたり、写真を送ってくれたり、生長の様子をかいてよこしたりするので、わたしは想像して孫のことをいろいろに思っていた。
 わたしは二十二年の十一月に東京に帰ってきた。そのとき、大石田の友人いうに、「まあ、お孫さんが先生になじむまでは四、五日はかかりましょうな」云々うんぬん。しかるにわたしはその友人と二人で東京に来てみると、孫は、来た次の日にはもう私に抱かれるようになった。食べものをあたえるとよろこんで食べる、請求もするというありさまである。友人は笑って、
「先生、やはり血筋ですべえな」云々。
 この「血筋」ということは元から言われたことである。この孫の父、つまりわたしの長男が小さかったとき、わたしの親友が抱いても泣きさけぶのに、たまたま上京していたわたしの長兄には平然として抱かれていた。そこで「血筋」の問題が出たのであるが、そのとき長兄がいうに「やはりおれは父親にどこか似ているところがあるんだ。子どもは動物みたいなもんだからそれをかんづくんだ。それは血筋といえば血筋なんだが」云々。兄貴の動物説もまんざら誤りではあるまいと思って、いまだに忘れずにいる。「孫は子よりもかわいいと申しますね」と人にいわれる。これは実際そのようである。しかし、何のためにそういうものであるのか、わたしにもよくわからない。わたしが二階にていると、二人の孫が下の廊下をける音がする。その音を聞いていると、なんともいえぬかわいい感じである。わたしは、これが孫のかわいい感じというものだろう、理屈りくつはいろいろあるかもしれんが、吉士きしが佳女のこえに心ひかれるようなものかもしれん、わたしが医科大学一年生のとき、ドイツのヴェルヴォルン教授の生理学汎論を読み、タクシスの説を学んだことがある、孫がかわいいなどというのは、せんじつめれば、何か知らんあんなものでもあるのかもしれないなどと思うことがある。
 わたしの祖父は一面は酒客でデカダン気味のところのあった人だが、孫のわたしなどもかわいがってくれた、キイチゴの熟す時分になると、七歳ぐらいになるわたしを連れて、山の渓流に沿うて上下し、キイチゴをかごに丹念に採って、それをわたしにも食べさせてくれたのをおぼえている。
 本居宣長は子どもらが邪魔じゃまになると言って、二階の勉強部屋との遮断しゃだんを工夫しているが、わたしも孫が二階にのぼってきて邪魔をするので板障子を作り、遮断をするようにした。それでも日に幾度となくのぼってきて板障子をたたく、知らんぷりをしていると、孫はしばらくだまってそこにいるが、とうとうあきらめて降りて行く。その気持ちはなんとも「あわれ」である。
 この祖父が小用をたしていると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいているようなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、しかりなさいなどと言ったものだが、うっちゃっているうち、孫はいつのまにか興味がなくなったと見え、もうのぞかなくなった。稚童といえども興味などというものはそんなにつづくものでないものと見える。
 近所に根津山という丘陵がある。根津家の持山であったが、戦時中荒れたし、大部分が畑になった。そこに孫をつれていくと、孫は通る小田急電車を見ている。パンタグラフなどという語もおぼえて、じつに熱心に見ている。レンケツデンシャ、キュウコウ、シンチュウグンなどということをもおぼえた。
 家にいると、ものさし、はし箱などを電車に見たて、デデンデデンなどという音頭を取って遊んでおる。新宿、代田だいた二丁め、下北沢などということもいう。
 そういうことが児童精神発育の階梯かいていとなる。弟の方の孫がいちいちその模倣をする。兄の方が、おじいちゃま、二階にいっちゃいけないというと、弟の方が、すぐそれをおぼえてわたしに同じことをうったえる。本邦でも、石川貞吉博士とか、さかき保三郎やすさぶろう博士とかが、児童精神の発育状態をしらべ、外国の文献にも載ったことがある。
 わたしは元来、食事するときには孤独で食べるのが好きである。猫が物食うのを見るに、やはり茶ぶ台などの下に隠れて物を食べているが、わたしもあのようなのが好きである。旅して旅館に行っても、女中に給仕してもらわない食事が好きである。これはもっと若い時分からであって、年寄ってからはますますそういう傾向になった。そうであるから、孫どもがわたしの食事によってきて、何のかのと要求されるとうるさくてかなわない。うるさいのに、まず兄がよってくる、つづいて弟がよってくる。背にかじりついて食べ物を要求する。わたしの膳から食べものを盗んで食べる。しかっても叱り甲斐がいがない。そこでわたしは二階に膳を運んで錠をおろし、孤独で食べる。かわいい孫の所作しょさがこんなにうるさいのだから、わたしはよほど孤独の食事が好きとみえる。美女の給仕などをごうも要求しないのはむしろ先天的といわなければならない。
 わたしの孫がいくつぐらいのとき、わたしはこの世から暇乞いとまごいせなければならないだろうか。人間の小さいときには親に死なれても、涙など出ないものである。すなわち、大人のように強い悲しみがないものである。明治二十四年(一八九一)、わたしの祖父が没した。夜半すぎて息を引きとり、そのとき祖母も母も泣いていたが、わたし(すなわち孫)は、涙がすこしも出なかった。コタツの布団の中にもぐりながら、祖母なんかがどうしてあんなに泣くかと思ったことがある。そのとき私はすでに小学校に入っていたのであるが、祖父の死に際してそんなに悲しくなかったという、追憶が浮かんでくるのである。
 わたしが死んだなら、小さい孫どもはさぞなげくだろうなどとおもうのは、ほしいままな自己的な想像にすぎない。孫どもはこういう老翁の死などには悲嘆することなく、ミカン一つうばわれたよりも感じないのである。そこですくすくと育ってゆく。この老翁には毫末ごうまつの心配もいらぬのである。
 村の鎮守のていねいにらされた砂上などには、ほとんどきまって老媼ろうおうが孫の相手をして遊んでいるのが見あたる。それをよく観察すると、老媼のその一挙手一投足が、いかにも無理がなくて、神からさずけられた仕事のように見える。わたしの孫相手もまさにそのごとくであるだろう。この年をしていまだに和歌などをもてあそんでおるのは重荷のはずであるのに、ひとはそうは思わぬであろうか。
 今、二人は低い食卓にむかいあって、食事をしている。ときどき小さな争いをして泣くが、またすぐ仲なおりをして、かたことの日本語をいう。日本語の初歩で、「むつみ合」っている。日本語はきわめて面倒めんどうな国語だといわれるが、彼らもそれを使う運命に置かれている。



底本:「斎藤茂吉選集 第十二巻」岩波書店
   1982(昭和57)年2月26日第1刷発行
初出:「群像」
   1950(昭和25)年3月
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2006年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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三筋町界隈

斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日清《にっしん》戦役が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郷里|上《かみ》ノ山《やま》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》
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       一

 この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清《にっしん》戦役が済んで遼東還附《りょうとうかんぷ》に関する問題が囂《かまびす》しく、また、東北三陸の大海嘯《だいかいしょう》があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹《よさのてっかん》の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖《そで》」、紅葉《こうよう》の「多情多恨」、柳浪《りゅうろう》の「今戸心中《いまどしんじゅう》」あたりが書かれた頃《ころ》に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆《ばあ》さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇《すがめ》の小さな媼《おうな》であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚《ゆうてんおしょう》だの、信田《しのだ》の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐《びゃっこ》などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔《かえん》などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣《もう》ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時《いつ》ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継《あとつぎ》もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉《うどんこ》か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵《こしら》えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵《かな》わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好《よ》かったというものである。
 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前《くらまえ》どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目《ま》のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢《ひ》かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際《きわ》どい事故は起らぬのであった。

       二

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里|上《かみ》ノ山《やま》の小学校を卒《お》え、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿《ぼっ》したから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈《まが》っていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯《ちょうちん》を消したように憶《おぼ》えている。
 関山峠はもうそのころは立派な街道《かいどう》でちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころから私の足は疲れて来て歩行が捗《はかど》らない。広瀬川の上流に沿うて下るのだが、幾たびも幾たびも休んだ、父はそういう時には私に怪談をする。それは多く狐《きつね》を材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼が実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受取ることも出来る。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし足の疲労の方が勝つものだから、だんだん利目《ききめ》がなくなって来るというような具合であった。ところがあたかもそのとき騎兵隊の演習戦があった。卒は黄の肋骨《ろっこつ》のついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。私は日清戦争の錦絵《にしきえ》は見ていても本物を見るのはその時が初めてであった。
 一隊は広瀬川の此岸《しがん》におり、敵らしい一隊は広瀬川の対岸の山かげあたりにいる。戦闘が近づくと当方隊の一部は馬から下りて広瀬川の岸に散開して鉄砲を打ちかけた。そうすると向うからも鉄砲の音が聞こえてくる。その音は私には何ともいえぬ緊張した音である。暫《しば》らく鉄砲を打っていたかとおもうと、当方の一隊は尽《ことごと》く抜剣し橋を渡って突撃した。父も私もこういう光景を見るのは生れてからはじめてであった。私の元気はこれを見たので回復して日の暮れに作並《さくなみ》温泉に著《つ》いた。その日の行程十五里ほどである。
 翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ、旅館では最中《もなか》という菓子をはじめて食った。当時長兄が一年志願兵で第二師団に入営していたのに面会に行ったが機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅に著いた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろうかとおもった。数年を経て不夜城と言う言葉を覚えたが、その時も上野駅にはじめて著いたときの印象を逆におもい出したものであった。そのころの燈火は電燈よりも石油の洋燈《ラムプ》が多かったはずだのにそんなに明るく感じたものである。
 それから父と二人は二人乗の人力車《じんりきしゃ》で浅草区東|三筋町《みすじまち》五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡《のうり》には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開いていたので、其処《そこ》にたどりついたのである。
 医院はまだ宵の口なので、大きなラムプが部屋に吊《つ》りさげられてあって光は皎々《こうこう》と輝いていた。客間は八畳ぐらいだが紅《あか》い毛氈《もうせん》などが敷いてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子も毎日のように食うことが出来る。
 ここに書いた陰暦七月十七日は陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それに拠《よ》ると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。

       三

 養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字は非常によいものだと漢学の出来る患家の一人がいったとかで紀一と改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学の先生の見離した病人が本復《ほんぷく》したなどという例も幾つかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。そして一つの専門に限局せずに、何でもやった。内科は無論、外科もやれば婦人科もやる、小児科もやれば耳鼻科もやるというので、夜半に引きつけた子供の患者などは幾たりも来た。そういう時には父は寝巻に※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》のままで診察をする。私もそういう時には物珍しそうに起きて来て見ていると、ちょっとした手当で今まで人事不省になっていた孩児《がいじ》が泣き出す、もうこれでよいなどというと、母親が感謝して帰るというようなことは幾度となくあった。硝子《ガラス》を踏みつけた男が夜半に治を乞《こ》いに来て、それがなかなか除かれずに難儀したことなどもあった。咽《のど》に魚の骨を刺して来たのを妙な毛で作った器械で除いてやって患者の老人が涙をこぼして喜んだことなどもある。まだ喉頭鏡《こうとうきょう》などの発明がなかった頃であるから、余計に感謝されたわけである。
 今は医育機関が完備して、帝国大学の医学部か単科医科大学で医者を養成し、専門学校でさえもう低級だと論ずる向《むき》もあるくらいであるが、当時は内務省で医術開業試験を行ってそれに及第すれば医者になれたものである。
 そこで多くの青年が地方から上京して開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生学舎に通って修学する。それが出来なければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強次第で早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのも出来ていた。
 当時の医学書生は、服装でも何かじゃらじゃらしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑《けいべつ》の眼を以《もっ》て見られた向もあったとおもうが、済生学舎の長谷川泰翁の人格がいつ知らず書生にも薫染していたものと見え、ここの書生からおもしろい人物が時々出た。
 ある時、陸軍系統といわれた成城学校の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文《げきぶん》のようなものが廻《まわ》って来たことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒《こんぼう》か何かを持って集まって行った。うちの書生の一人に堀というのがいて顔面神経の痲痺《まひ》していた男であったが、その男に私も附いて行ったことがある。すると切通《きりどおし》一帯の路地路地《ろじろじ》には済生学舎の書生で一ぱいになっていた。彼らは成城学校の生徒を逆撃しようと待ちかまえているところであった。これは本富士《もとふじ》署あたりの警戒のために未遂に終ったが、当時の医学書生というものの中には本質までじゃらじゃらでない者のいたことを証明しているのである。
 医学書生のやる学問は常に肉体に関することだから、どうしても全体の風貌《ふうぼう》が覚官的になって来るとおもうが、長谷川翁の晩年は仏学|即《すなわ》ち仏教経典の方に凝ったなどはなかなか面白いことでもあり、西洋学の東漸中、医学がその先駆をなした点からでも、医学書生の何処《どこ》かに西洋的なところがあったのかも知れない。著流《きなが》しのじゃらじゃらと、吉原《よしわら》遊里の出入などということも、看方《みかた》によっては西洋的な分子の変型であるかも知れないから、文化史家がもし細かく本質に立入って調べるような場合に、当時の医学書生の生活というものは興味ある対象ではなかろうかとおもうのである。
 また、医学の書生の中にも毫《すこし》も医学の勉強をせず、当時雑書を背負って廻っていた貸本屋の手から浪六《なみろく》もの、涙香《るいこう》もの等を借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた。私が少年にして露伴翁の「靄護精舎《あいごしょうじゃ》雑筆」などに取りつき得たのは、そういう医院書生の変り種の感化であった。
 そういう入りかわり立ちかわり来る書生を父は大概大目に見て、伸びるものは伸ばしても行った。その書生名簿録も今は焼けて知るよしもないが、既に病歿したものが幾人かいて、私の上京当時撮った写真にそのころの名残を辛うじてとどめるに過ぎない。

       四

 その頃、蔵前に煙突の太く高いのが一本立っていて、私は何処《どこ》を歩いていても、大体その煙突を目当《めあて》にして帰って来た。この煙突は間もなく二本になったが、一本の時にも煙を吐きながら突立っているさまは如何《いか》にも雄大で私はそれまでかく雄大なものを見たことがなかった。神田《かんだ》を歩いていても下谷《したや》を歩いていても、家のかげになって見えない煙突が、少し場処をかえると見えて来る。それを目当に歩いて来て、よほど大きくなった煙突を見ると心がほっとしたものである。上京したての少年にとってはこの煙突はただ突立っている無生物ではなかったようである。
 私が東京に来て、三筋町のほかにはやく覚えたのは本所《ほんじょ》緑町であった。その四丁目かに黒川重平という質屋があって、其処の二階に私の村の寺の住職佐原|※[#「宀/隆」、第4水準2-8-9]応《りゅうおう》和尚が間借をして本山即ち近江番場《おうみばんば》の蓮華《れんげ》寺のために奮闘していたものである。私は地図を書いてもらって徒歩で其処に訪《たず》ねて行った。二階の六畳一間で其処に中林|梧竹《ごちく》翁の額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども一しょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。この画期ということは何も美麗な女体を見た時ばかりではない。山水といえども同じことである。
 郷里の上ノ山の小学校には時々郡長が参観に来た。江嘉氏であったとおもうが鹿児島出身の老翁で、英吉利《イギリス》軍艦に談判に行った一行の一人であった。校長に案内されて郡長は紙巻の煙草《たばこ》をふかしながら通る。ホールで遊んでいる児童が立って敬礼をする。そのあとに煙草の煙の香《かおり》が残る。煙は何ともいえぬ好《よ》い香《かおり》で香ばしいような酸っぱいような甘いような一種のかおりである。少年の私はいつもその香に淡い執著を持つようになっていた。しかるに東京に来て見ると、うちの代診も書生どももかつて郡長の行過ぎたあとに残ったような香のする煙草を不断吸っている。ひそかにそれを見ると皆舶来の煙草である。そしてパイレートというのの中には美人だの万国の兵士だのの附録絵がついているので私もそれを集めるために秘《ひそ》かに煙草を買うことがある。煙草ははじめは書生にくれていたが、時には火をつけてその煙を嗅《か》ぐことがある。もともと煙の香に一種の係恋《けいれん》を持っていたのだから中学の三年ごろから、秘かに煙草|喫《の》むことをおぼえて、一年ぐらい偶※[#二の字点、1-2-22]《たまたま》に喫んでいたが、ある動機で禁煙して、第一高等学校の三年のときまた喫みはじめた。その明治三十七年から大正九年に至るまでずっと喫煙をして随分の分量|喫《す》った。巣鴨《すがも》病院に勤務していた時、呉《くれ》院長は、患者に煙草を喫ませないのだから職員も喫ってはならぬと命令したもので、私などは隠れて便所の中で喫んだ。それくらい好きな煙草を長崎にいたときやめて、佳《よ》い煙草も安く喫める欧羅巴《ヨーロッパ》にいたときにも決して口に銜《くわ》えることすらしなかった。一旦銜えたら離れた恋人を二たび抱くようなものだと悟って決してそれをせずにしまった。しかしその煙を嗅ぐことは今でも好きで、少年のころパイレートの煙に係恋をおぼえたのとちっとも変りはないようである。
 かつて巣鴨病院の患者の具合を見ていると、紙を巻いて煙草のようなつもりになって喫んでいるのもあり、煙管《きせる》を持っているものは、車前草《おおばこ》などを乾《ほ》してそれをつめて喫むものもいる。その態《てい》は何か哀れで為方《しかた》がなかったものである。また徳川時代に一時禁煙令の出たことがあった。或日商人某が柳原の通をゆくと一人の乞丐《こじき》が薦《こも》の中に隠れて煙草を喫んでいるのを瞥見《べっけん》して、この禁煙令はいまに破れると見越《みこし》をつけて煙管を買占めたという実話がある。昼食のとき私はこの実例を持出して笑談まじりに呉院長を説得したことがあった。
 開業試験が近くなると、父は気を利《き》かして代診や書生に業を休ませ勉強の時間を与える。しかし父のいない時などには部屋に皆どもが集って喧囂《けんごう》を極めている。中途からの話で前半がよく分からぬけれども何か吉原を材料にして話をしている。遊女から振られた腹癒《はらい》せに箪笥《たんす》の中に糞《くそ》を入れて来たことなどを実験談のようにして話しているが、まだ、少年の私がいても毫《すこし》も邪魔にはならぬらしい。その夜《よ》更《ふ》けわたったころ書生の二、三は戸を開《あ》けて外に出て行く。しかし父はそういうことを大目に見ていた。
 明治三十年ごろ『中学新誌』という雑誌が出た。これはやはり開成中学にも教鞭《きょうべん》をとった天野という先生が編輯《へんしゅう》していたが、その中に、幸田露伴先生の文章が載ったことがある。数項あったがその一つに、「鶏の若きが闘ひては勝ち闘ひては勝つときには、勝つといふことを知りて負くるといふことを知らざるまま、堪へがたきほどの痛きめにあひても猶《なお》よく忍びて、終《つい》に強敵にも勝つものなり。また若きより屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》闘ひてしばしば負けたるものは、負けぐせつきて、痛を忍び勇みをなすといふことを知らず、まことはおのが力より劣れるほどの敵にあひても勝つことを得ざるものなり。鶏にても負けぐせつきたるをば、下鳥《したどり》といひて世は甚だ疎む。人の負けぐせつきたるをば如何《いか》で愛《め》で悦《よろこ》ばむ」というのがあって、私はこれをノオトに取って置いたことがある。この文は普通道徳家例えば『益軒十訓』などの文と違い実世間的な教訓を織りまぜたものであって、いつしか少年の私の心に沁《し》み込んで行った。
 吉原遊里の話も、ピンヘッド、ゴールデンバット、パイレートの煙草の香も、負ぐせのついた若鶏の話も、陸奥《むつ》から出京した少年の心には同様の力を以て働きかけたものに相違ない。今はもはや追憶だから当にならぬようで存外当っている点がある。

       五

 私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油《しょうゆ》のことをムラサキという。餅《もち》のことをオカチンという。雪隠《せっちん》のことをハバカリという。そういうことを私は素直に受納《うけい》れて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。
 私が開成中学校に入学して、その時の漢文は『日本外史』であったから、当てられると私は苦もなく読んで除《の》ける。『日本外史』などは既に郷里で一とおり読んで来ているから、ほかの生徒が難渋《なんじゅう》しているのを見るとむしろおかしいくらいであった。しかるに私が『日本外史』を読むと皆で一度に笑う。先生は磯部武者五郎という先生であったがお腹《なか》をかかえて笑う。私は何のために笑われるかちっとも分からぬが、これは私の素読は抑揚|頓挫《とんざ》ないモノトーンなものに加うるに余り早過ぎて分からぬというためであった。爾来《じらい》四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で私の生は終わることになる。
 私は東京に来て蕎麦《そば》の種物《たねもの》をはじめて食った。ある日母は私を蕎麦屋に連れて行って、玉子とじという蕎麦を食べさせた。私は仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんな旨《うま》いものがあるだろうかと思ったが、程経《ほどへ》て、てんぷら、おやこ、ごもく、おかめなどという種蕎麦のあることを知って、誠に驚かざることを得なかった。
 それから佐竹の通りには馬肉屋が数軒あったが、私はそういう処に入ることを知らなかった。ただ市村《いちむら》座の向側に小さい馬肉の煮込を食わせるところがあり、その煮方には一種の骨《こつ》があって余所《よそ》では味《あじわ》えない味を出していた。うちの書生の説に椿《つばき》油か何かを入れるのではなかろうかというのであったが、よくは分からない。
 夜十時過ぎになると書生も代診も交って籤《くじ》を引いて当った者が東三筋町から和泉《いずみ》町のその馬肉屋まで買いに来る。今どきの少年は馬肉は軽蔑して食わぬし、ビステキなども上等のを食いたがるけれども、馬肉を食わぬからといって皆|賢《かしこ》くなるというわけではない。また、大正十年の夏、私は信州富士見に転地していたとき、あの近在に或る神社の祭礼があって、そこでやはり馬肉の煮込を食べたことがある。その味は市村座の向側の馬肉屋の煮込そっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかも知れない。
 郷里を立つとき祖母は私に僅《わず》かばかりの小遣銭《こづかいせん》をくれていうに、東京には焼芋《やきいも》というものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで私は学校の帰りには、左衛門橋の袂《たもと》の焼芋屋によって五厘ずつ買った。そのころ五厘で焼芋三個くれたものである。
 母は私を可哀がって学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になった頃で大概三つぐらいは食った。
 また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一|碗《わん》一銭五厘ぐらいで赤い唐辛子粉《とうがらしこ》などをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になった。その頃はあんなに甘くなかった。
 私と同様出京して正則《せいそく》英語学校に通っていた従弟《いとこ》が、ある日日本橋を歩いていて握鮓《にぎりずし》の屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口《がまぐち》に二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いて私は一切すしというものを食う気がしなかった。鰻丼《うなどん》なども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖が盛になったために吾々《われわれ》はありがたい世に生きているわけである。

       六

 そのころ奠都《てんと》祭というものがあって式場は多分|日比谷《ひびや》だったようにおもう。紅い袴《はかま》を穿《は》いた少女の一群を見て非常に美しく思ったことがある。それから間もなく女学生が紅い袴を穿き、ついで蝦茶《えびちゃ》の袴がある期間流行して、どのくらい青年の心を牽《ひき》つけたか知れぬが、そのころはまだそれが、なかった。
 東三筋町に近い、鳥越《とりごえ》町に渡辺省亭《わたなべせいてい》画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割《ももわれ》に結って蝦茶の袴は未だ穿いていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺|水巴《すいは》氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。
 黒川|真頼《まより》翁も具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるに剃《そ》っておられた。体が癢《かゆ》くて困るといわれてうちの代診の工夫で硫黄《いおう》の風呂《ふろ》を立てたこともあり、最上《もがみ》高湯の湯花を用いたことなどもあった。いまだ少年であった私が縦《たと》い翁と直接話を交《かわ》すことが出来なくとも、一代の碩学《せきがく》の風貌《ふうぼう》を覗《のぞ》き見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家とのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみは失《う》せた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論患者の家族からも感謝せられざる医者である。
 私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということが沁《し》み込んでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺戟《しげき》も少く万事が単純素朴であったのである。それでも目ざめかかったリビドウのゆらぎは生涯ついて廻るものと見えて、老境に入った今でも引きつけられる対象としての異性はそのころのリビドウの連鎖のような気がしてならないのである。そのころ新堀《しんぼり》を隔てた栄久町《えいきゅうちょう》の小学校に通う一人の少女があった。間もなく卒業したと見えて姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影を偲《しの》んだことがある。あるいは目前に私に対している少女にその再来なるものがいるかも知れない。
 新堀といえば、新堀にはそのころ舟が幾|艘《そう》も来て舫《もや》っていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠《しょうきょ》あり、須賀町地先を経、一屈折して蔵前《くらまえ》通りを過ぎ、二岐となる。其の北に入るものは所謂《いわゆる》、新堀にして、栄久《えいきゅう》町|三筋《みすじ》町等に沿ひ、菊屋《きくや》橋・合羽《かっぱ》橋等の下に至る。此一条の水路は甚だ狭隘《きょうあい》にして且《か》つ甚だ不潔なれども、不潔物其他の運搬には重要なる位置を占むること、其の不快を極むるところの一路なるをも忌み厭《きら》ふに暇《いとま》あらずして渠身不相応なる大船の数々出入するに徴して知るべし。且つ浅草区一帯の地の卑湿にして燥《かわ》き難きも、此の一水路によりて間接に乾燥せしめらるること幾許《いくばく》なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし」とあるところである。まだ少年の私はパイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけをとって中味をこの堀の水に棄《す》てたことがあった。新堀の名は三味線堀と共に私の記憶から逸し得ざるのもまた道理である。

       七

 その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々《しみじみ》とおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだから如何《いか》にも念入であった。師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の煙が上って天を焦がすところで、その煙がむくむく動くように見えていたものである。
 このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々《たびたび》は見ずにしまった。そのころ仲見世《なかみせ》に勧工場《かんこうば》があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜《た》まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。
 そういう英雄豪傑の写真に交って、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬《ほお》のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影《うつ》っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓《めいぎ》として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切《しき》りに噂《うわさ》に上った頃の話である。
 そのうち私は中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷《ほんごう》三丁目の交叉《こうさ》点に近く住んでいるということを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷《やけど》をしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交《おりま》ぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月患者の慰安会というものを催し、次ぎから次と変った芸人が出入したが、ある時鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある。父がそのとき「なるほどまだいい女だねえ」などといって、私は父の袖を引張ったことがある。私のつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが人生を閲《けみ》して来た味《あじわ》いが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。私は後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時写真で見たぽん太の面影が視野の外に全くは脱逸していなかったためである。私はその時のことを「かなしかる初代ぽん太も古妻《ふりづま》の舞ふ行く春のよるのともしび」という一首に咏《よ》んだ。私のごとき山水歌人には手馴《てな》れぬ材料であったが、苦吟のすえに辛うじてこの一首にしたのであった。散文の達者ならもっと余韻|嫋々《じょうじょう》とあらわし得ると思うが、短歌では私の力量の、せい一ぱいであった。また或る友人は、山水歌人の私が柄にも似ずにぽん太の歌などを作ったといったが、作歌動機の由縁を追究して行けば、遠く明治二十九年まで溯《さかのぼ》ることが出来るのである。歌は歌集『あらたま』の大正三年のところに収めてある。
 それからずっと歳月が経《た》って、私の欧羅巴《ヨーロッパ》から帰って来た大正十四年になるが、火難の後の苦痛のいまだ疼《う》ずいているころであったかとおもうが、友人の一人から手紙を貰《もら》った中に、「ぽん太もとうとう亡くなりました」という文句があった。そしてこの報道は恐らく新聞の報道に本づいたものであったろうとおもうが、都下の新聞では先ず問題にするような問題にはしなかったようである。それで私も知らずにいたし、その報道の切抜《きりぬき》なども持っていない。恐らく極く小さく記事が載ったのではなかっただろうか。
 昭和十年になって、ふとぽん太のことを思いだし、それからそれと手を廻して友人の骨折によってぽん太の墓のあるところをつきとめた。墓は現在多磨墓地にある。
 昭和十一年の秋の彼岸《ひがん》に私は多磨墓地に行った。雨のしきりに降る日で事務所で調べるのに手間どったがついにたずね当てることが出来た。墓は多磨墓地第二区八側五〇番甲種で、墓石の裏には大正十四年八月一日二代清三郎建之と刻してある。この二代鹿島清三郎氏は目下小田原下河原四四番地に住まれているはずである。此処《ここ》に合葬せられている仏は、鹿島清兵衛。慶応二年生。死亡大正十二年十月十日。病名慢性腸|加答児《カタル》。ゑ津。明治十三年十一月二十日生。死亡大正十四年四月二十二日。病名肝臓|腫瘍《しゅよう》。大一郎。明治三十四年八月八日生。死亡大正十四年二月九日。病名慢性気管支加答児。静江。明治四十年二月九日生。死亡昭和三年一月二十九日。病名腎臓炎。京子。明治四十年生。死亡大正十三年九月二十七日。病名|脊髄《せきずい》カリエス。云々である。
 鹿島ゑ津さんは即《すなわ》ち初代ぽん太で、明治十三年生だから昭和十一年には五十七歳になるはずで、大正十四年四十六歳で歿《ぼっ》したのである。ぽん太については、森鴎外の「百物語」に出ているが、あれはまだ二十前の初々《ういうい》しい時のことであっただろう。誰か小説の大家が、晩年におけるゑ津さんの生活のデタイルスを叙写してくれるなら、必ず光りかがやくところのある女性になるだろうと私は今でもおもっている。

       八

 そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。
 私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦《かわら》を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。
 そういう具合にして私は吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、その時から殆《ほとん》ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡《なび》いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。そのうち火勢が段々衰えて来て、たちのぼる煙の範囲も狭くなるころ、「もうおしまいだ」などといって書生らは屋根から降りて行っても私はしまいまで降りずにいたものである。こういう光景は、私の子どもらはもう知ることが出来ない。
 このごろは、ナフタリンだの何のと、種々様々な駆虫剤が便利に手に入ることが出来るので、蚤《のみ》なども殆《ほとん》どいなくなったけれども、そのころは蚤が多くて毎夜苦しめられた。そのかわり、動物学で学んだ蚤の幼虫などは、畳の隅《すみ》、絨毯《じゅうたん》の下などには幾つも幾つもいたものである。私はある時その幼虫と繭《まゆ》と成虫とを丁寧に飼っていたことがある。特に雌雄の蚤の生きている有様とか、その交尾の有様とかいうものは普通の中等教科書には書いてないので、私は苦心して随分長く飼って置いたことがある。飼うには重曹とか舎利塩などのような広口の瓶の空《あ》いたのを利用して、口は紙で蔽《おお》うてそれに針で沢山の穴をあけて置く。また時々血を吸わせるには、太股《ふともも》のところに瓶の口を当てて置くと蚤が来て血を吸う。そういうときに交尾状態をも観察し得るので、あの小さい雄の奴がまるで電光の如くに雌に飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族も追々減少して見れば、そういう実験をしようとしても今は困難であるから、私の子どもなどはもうこういうことは知らないでいる。
 そうだ、火事のところでいい忘れたが、火事が近くて火の粉の降りかかって来たのが鳥越町に一つあった。また凄《すご》かったのは神田和泉町の第二医院の火事で、あまりの驚愕《きょうがく》に看護婦に気のふれたのがあって、げらげら笑うのを朋輩《ほうばい》が三、四人して連れて来るのを見たことがある。私がそんなに近く見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。
 東京は大震災であのような試煉を経たが、私も後年に火難の試煉を経た。少年のとき屋根瓦にかじりついて、紅く燃えあがる吉原の火事を傍看したのとは違って、これはまたひどいともひどくないとも全く言語に絶した世界であった。私は香港《ホンコン》と上海《シャンハイ》との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持で船房に帰ったことを今おもい出す。

       九

 私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。その時には、門から玄関に至るまで石畳になっていたところに、もう一棟家が建って糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかし塀《へい》に沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴から覗《のぞ》けば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。
 それから、昭和元年ごろ、歳晩《としのくれ》にも一度見て通ったことがある。その時には市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラック建《だて》であるし、殆《ほとん》ど元のおもかげがなくなっていた。私は泥濘《でいねい》の中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。
 それからついでがあって昭和十一年の一月と十月とに其処をたずねた。蔵前通を行くと、桃太郎団子はさびれてまだ残っていた。そして市区がすっかり改正されて、道路も舗装道になっているし、一月の時には三筋町の通りで羽子《はね》などを突いているのが幾組もあった。まがり角が簡易食店で西洋料理などを食べさせるところ。その隣は茶鋪、蝦蟇口《がまぐち》製造業、ボール筥《ばこ》製造業という家並で、そのあたりが私のいた医院のあとであった。その隣はカバン製造業、洋品店、玩具《がんぐ》問屋、煙草《たばこ》店、菓子店というような順序に並んでおり、路地に入ってみると、元庭であったところにもぎっしり家が建っており、そのあたりの住人も大体替ってしまっていた。その頃の煙草屋も薬種商も、綿屋も床屋も肉屋も炭屋も皆別な人で元のおもかげがなかった。私の気持からいえば先ずリップ・ワン・ウィンクルというところであった。
 一月の時には私は鳥越神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後|新《あらた》に建てられたもので、そのころ縁日のあったあたりとは何となく様子がかわっていた。それから北三筋町の方へも歩いて行って見た。今は小さい通りも多くなって、電車通に向いて救世軍の病院が立派に建っている。新堀は見えなくなってその上を電車の通ったのは前々からであるが、震災後|街衢《がいく》が段々立派になり、電車線路を隔てた栄久町の側には近代茶房ミナトなどという看板も見えているし、浄土宗浄念寺も立派に建立《こんりゅう》せられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋|宏壮《こうそう》な建築物として空に聳《そび》えつつあった。かつて少年私の眼にとまった少女の通っていた学校である。
 私の追憶的随筆は、かくの如くに平凡な私事に終始してあとは何もいうことがない。ただ一事加えたいのは、父が此処に開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入《かものまぶちかきいれ》の『古今集』を貰《もら》った。多分田安家に奉ったものであっただろうとおもうが、佳品の朱で極めて丁寧に書いてあった。出処も好《よ》し、黒川|真頼《まより》翁の鑑定を経たもので、私が作歌を学ぶようになって以来、私は真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはり一しょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年暮の火災のとき灰燼《かいじん》になってしまった。私の書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、辛うじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失《う》せた。私は東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思出して残念がるのであるが、何事も思うとおりに行くものでないと今では諦《あきら》めている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとした事に本づくものがあると知って、それで諦めているようなわけである。
 まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢《よわい》を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗《きれい》な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱《しか》られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜《あいせき》したこともある。今度もこの随筆から棄《す》てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。



底本:「斎藤茂吉随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2003(平成15)年6月13日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
   1981(昭和56)年11月1日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1937(昭和12)年1月号
入力:五十嵐仁
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)算《かぞ》へる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心|牽《ひ》かれるやうな

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)偶※[#二の字点、1-2-22]
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 私のところに只今孫が二人居る。一人は昭和二十一年四月生れ、次ぎは昭和二十三年二月生れである。それゆゑ大きい方は今年数へ年五つになるわけだが、満で算《かぞ》へると年が減つて三つになり、小さい方は一つといふことになる。(この満で算へる新しい約束は、万国同等で、まことに結構である)。
 この満で算へる計算の方法は、まだ馴《な》れないので、ここしばらくは不便のやうにおもふだらう。一般の人の心になじむまでには、五年や十年はかかるのではあるまいかとさへおもはれる。
 明治十四年の初秋に、明治天皇が東北に巡幸あらせられた。その時、私の次兄も奉迎したが、そのとき明治九年生れの兄は六歳で、小さい袴《はかま》など穿《は》かせられ、三島県令の計画によつて成つた早坂新道といふところに整列して奉迎したと、追憶文に書いて居るが、六歳とすると大体私らの腑《ふ》にも落ちるのである。然《しか》るに満の計算によると、四歳といふことになる。従来の計算による常識だと、五歳以前の幼童は未《ま》だまことに小さい感じである。五歳になつてはじめてキンテイサマ、テンシサマの記憶がよみがへつてくる、といふ従来の習慣が残つて居り、四歳ではまだその記憶が残らないといふ従来の習慣に本づき、兄のその時の年齢を満で算へて直ぐ腑に落ちるやうになるまでには、五年や十年はかかるだらうといふのは、そんな事柄にも関聯《くわんれん》してゐるのである。
 私の長男(つまり孫の父)が長崎に遊びに来たのは、四歳の暮であつた。そのとき大浦のホテルに洋食を食べさせに連れて行つたとき、小さなずぼんにおしつこを引かけた記憶がある。そして五歳の春に東京に帰つたのであるが、只今になつてみると、諏訪《すは》神社の鶴《つる》がかすかに記憶に残つてゐるだけで、長崎の港の記憶は殆《ほとん》ど無いくらゐである。満にして算へれば三歳といふことであるから、先《ま》づそんなものであらうから、我々は五歳を標準としてさういふ経験などをも考へて居たものである。それが無理なく調和がとれるやうになるまでは、時間がかかるだらうといふのはそんなわけ合ひがあるのである。
 孫の生れた昭和二十一年四月は、私が山形県の大石田といふところにゐた。孫の母が時たま孫の絵をかいてよこしたり、写真を送つてくれたり、生長の様子をかいてよこしたりするので、私は想像して孫のことをいろいろに思つてゐた。
 私は二十二年の十一月に東京に帰つて来た。そのとき、大石田の友人いふに、『まあお孫さんが先生になじむ迄《まで》は四五日はかかりませうな』云々。然るに私はその友人と二人で東京に来てみると、孫は、来た次の日にはもう私に抱かれるやうになつた。食べものを与へるとよろこんて食べる、請求もするといふありさまである。友人は笑つて、
『先生、やはり血筋ですべえな』云々。
 この『血筋』といふことは元から云はれたことである。この孫の父、つまり私の長男が小さかつたとき、私の親友が抱いても泣きさけぶのに、偶※[#二の字点、1-2-22]《たまたま》上京してゐた私の長兄には平然として抱かれてゐた。そこで『血筋』の問題が出たのであるが、そのとき長兄がいふに『やはりおれは父親にどこか似てゐるところがあるんだ。子どもは動物みたいなもんだからそれを勘づくんだ。それは血筋といへば血筋なんだが』云々。兄貴の動物説もまんざら誤ではあるまいと思つて、いまだに忘れずに居る。『孫は子よりも可愛いと申しますね』と人にいはれる。これは実際そのやうである。併《しか》し、何のためにさういふものであるのか、私にもよく分からない。私が二階に臥《ね》てゐると、二人の孫が下の廊下を駆《か》ける音がする。その音を聞いてゐると、何ともいへぬ可愛い感じである。私は、これが孫の可愛い感じといふものだらう、理窟《りくつ》はいろいろあるかも知れんが、吉士が佳女のこゑに心|牽《ひ》かれるやうなものかも知れん、私が医科大学一年生のとき、独逸《ドイツ》のヴエルヴオルン教授の生理学汎論を読み、タクシスの説を学んだことがある、孫が可愛いなどといふのは、煎《せん》じつめれば、何か知らんあんなものでもあるのかも知れないなどと思ふことがある。
 私の祖父は一面は酒客でデカダン気味のところのあつた人だが、孫の私なども可愛がつてくれた、木苺《きいちご》の熟す時分になると、七歳ぐらゐになる私を連れて、山の谿流に沿《そ》うて上下し、木苺を籠《かご》に丹念に採つて、それを私にも食べさせてくれたのをおぼえて居る。
 本居宣長は子ども等が邪魔になると云つて、二階の勉強部屋との遮断《しやだん》を工夫して居るが、私も孫が二階にのぼつて来て邪魔をするので板障子を作り、遮断をするやうにした。それでも日に幾度となくのぼつて来て板障子を叩《たた》く、知らん振をして居ると、孫はしばらく黙つてそこに居るが、到頭あきらめて降りて行く。その気持は何とも『あはれ』である。
 この祖父が小用を足して居ると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいてゐるやうなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、叱《しか》りなさいなどと云つたものだが、うつちやつて居るうち、孫はいつのまにか興味が無くなつたと見え、もうのぞかなくなつた。稚童といへども興味などといふものはそんなにつづくものでないものと見える。
 近所に根津山といふ丘陵がある。根津家の持山であつたが、戦時中荒れたし、大部分が畑になつた。そこに孫を連れて行くと、孫は通る小田急電車を見て居る。パンタグラフなどといふ語もおぼえて、実に熱心に見て居る。レンケツデンシヤ、キユウコウ、シンチユウグンなどといふことをもおぼえた。
 家に居ると、物差し、箸《はし》箱などを電車に見たて、デデンデデンなどといふ音頭を取つて遊んでをる。新宿、代田二丁め、下北沢などといふこともいふ。
 さういふことが児童精神発育の階梯《かいてい》となる。弟の方の孫が一々その模倣をする。兄の方が、おぢいちやま、二階にいつちやいけないといふと、弟の方が、すぐそれをおぼえて私に同じことをうつたへる。本邦でも、石川貞吉博士とか、榊保三郎博士とかが、児童精神の発育状態をしらべ、外国の文献にも載つたことがある。
 私は元来、食事するときには孤独で食べるのが好きである。猫が物食ふのを見るに、やはり茶ぶ台などの下に隠れて物を食べて居るが、私もあのやうなのが好きである。旅して旅館に行つても、女中に給仕して貰《もら》はない食事が好きである。これはもつと若い時分からであつて、年寄つてからはますますさういふ傾向になつた。さうであるから、孫どもが私の食事に寄つて来て、何の彼《か》のと要求されるとうるさくて敵《かな》はない。うるさいのに、先づ兄が寄つてくる、つづいて弟が寄つてくる。背にかじりついて食べ物を要求する。私の膳から食べものを盗んで食べる。叱つても叱り甲斐《がひ》がない。そこで私は二階に膳を運んで錠をおろし、孤独で食べる。可愛い孫の所做《しよさ》がこんなにうるさいのだから、私はよほど孤独の食事が好きと見える。美女の給仕などを毫《がう》も要求しないのは寧《むし》ろ先天的といはなければならない。
 私の孫が幾つぐらゐのとき、私はこの世から暇乞《いとまご》ひせなければならないだらうか。人間の小さい時には親に死なれても、涙など出ないものである。即《すなは》ち、大人のやうに強い悲しみが無いものである。明治二十四年、私の祖父が歿した。夜半過ぎて息を引きとり、そのとき祖母も母も泣いてゐたが、私(即ち孫)は、涙がすこしも出なかつた。炬燵《こたつ》の布団の中にもぐりながら、祖母なんかがどうしてあんなに泣くかと思つたことがある。そのとき私は既に小学校に入つてゐたのであるが、祖父の死に際してそんなに悲しくなかつたといふ、追憶が浮んでくるのである。
 私が死んだなら、小さい孫どもはさぞ歎くだらうなどとおもふのは、ほしいままな自己的な想像に過ぎない。孫どもはかういふ老翁の死などには悲歎することなく、蜜柑《みかん》一つ奪はれたよりも感じないのである。そこですくすくと育つて行く。この老翁には毫末《がうまつ》の心配も要《い》らぬのである。
 村の鎮守の丁寧に均《な》らされた砂上などには、殆《ほとん》ど極《き》まつて老媼が孫の相手をして遊んで居るのが見あたる。それをよく観察すると、老媼のその一挙手一投足が、いかにも無理がなくて、神からさづけられた為事《しごと》のやうに見える。私の孫相手もまさにその如くであるだらう。この年をしていまだに和歌などを弄《もてあそ》んでをるのは重荷の筈《はず》であるのに、ひとはさうは思はぬであらうか。
 今、二人は低い食卓に対《むか》ひあつて、食事をして居る。ときどき小さな争ひをして泣くが、また直ぐ仲直りをして、片ことの日本語をいふ。日本語の初歩で、『むつみ合』つて居る。日本語は極めて面倒な国語だと云はれるが、彼等もそれを使ふ運命に置かれてゐる。



底本:「斎藤茂吉選集 第十二巻」岩波書店
   1982(昭和57)年2月26日第1刷発行
初出:「群像」
   1950(昭和25)年3月
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2006年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [山形県]
  • 大石田 おおいしだ 山形県の北東にある人口約9千人の町。北村山郡に属する唯一の自治体。町の東部、最上川の流域に発展した町で、役場や中心商店街も河川のすぐそばにある。町の西南の端に葉山がある。
  • 最上高湯 もがみ たかゆ 高湯温泉。現、山形市蔵王温泉。白布高湯(現、米沢市)・信夫高湯(現、福島市)とともに奥羽三高湯と称された温泉。
  • 上ノ山 → 上山
  • 上山 かみのやま 山形県南東部の市。もと松平氏の城下町。温泉と蔵王観光で知名。人口3万6千。
  • 作並温泉 さくなみ おんせん 宮城県仙台市、広瀬川上流にある温泉。泉質は単純温泉・硫酸塩泉。
  • 早坂新道
  • [栃木県]
  • 足尾 あしお 栃木県日光市の地名。1610年(慶長15)発見の銅山があり、初め幕府直轄、明治以後民営、1973年採掘中止。
  • 足尾鉱毒事件 あしお こうどく じけん 古河財閥の経営する足尾銅山より流出する鉱毒によって災害を受けた渡良瀬川下流の農民たちが、鉱業停止・損害賠償を求めて請願・反対運動を起こし、特に1890年代以降、大きな社会問題にまで進展した事件。衆議院議員田中正造はこれを積極的に支援し、天皇への直訴にまで及んだ。
  • [東京都]
  • 三筋町 みすじまち 現、台東区三筋。
  • 浅草観音 あさくさ かんのん 浅草寺の通称。
  • 浅草寺 せんそうじ 東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像を祀ったのが始まりと伝え、円仁・源頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めた。浅草観音。
  • 済生学舎 さいせい がくしゃ 明治前期の医学校。元長崎医学校校長の長谷川泰によって1876(明治9)東京府本郷区に創設された。医術開業試験受験者のための医学教育機関で、男女共学(のち男子のみ)。(日本史)
  • 本富士警察署 もとふじ けいさつしょ 東京都にある警視庁が管轄する警察署の一つ。管轄区域はおもに文京区の一部を管轄するほか台東区に同警察署が管轄する地域がある。所在地は東京都文京区本郷7丁目1番7号。
  • 蔵前 くらまえ (1) 東京都台東区の隅田川西岸の地区。厩橋から蔵前橋の少し下流までを指す。江戸時代、幕府の米倉があり、札差が多く集まって居住した。(2) (蔵前(1) にあったからいう)東京高等工業学校(現、東京工業大学)の俗称。
  • 神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 下谷 したや 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  • 本所緑町 ほんじょ みどりちょう 現、墨田区緑一丁目。
  • 巣鴨病院 すがも びょういん
  • 巣鴨 すがも 東京都豊島区の一地区。江戸時代には中山道沿いの街村。「とげぬき地蔵」で知られる高岩寺がある。
  • 柳原 やなぎわら 東京都千代田区の万世橋から神田川に沿って浅草橋に至る街路。昔は古着屋が立ち並び、今は繊維問屋街。
  • 開成中学校 かいせい ちゅうがっこう 東京都荒川区西日暮里にある私立中学校・高等学校。中高一貫制男子校。1871年に共立学校として開校。校名の『開成』とは、東京大学の前身であった開成学校と同じく、「論語」の「開物成務」からとったもの。卒業生の大半が首都圏を中心とした大学に進学する。
  • 佐竹の通り
  • 市村座 いちむらざ 歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。1634年(寛永11)村山又三郎が日本橋葺屋町に村山座を創立。64年(寛文4)頃、市村宇左衛門が座元となって市村座と改称。1842年(天保13)猿若町に、92年(明治25)下谷二長町に移転。1932年(昭和7)焼失。
  • 左衛門橋 さえもんばし? 現、台東区浅草橋一丁目か。明治初年、神田川の旧左衛門河岸に架された橋。
  • 鳥越町 とりごえちょう? 現、台東区鳥越か。
  • 新堀 しんぼり 新堀川。浅草寺の北方、千束村・竜泉寺村・坂本村など一帯の悪水落としを水源とし、浅草御蔵前片町南端で三味線堀(鳥越川)に合流する。堀幅二間余の人工河川。
  • 栄久町 えいきゅうちょう 現、台東区寿・蔵前。新堀川東岸に南北に延びる。
  • 浅草文庫 あさくさ ぶんこ 浅草の蔵屋敷跡にあった官設の公共図書館。1874年(明治7)湯島の書籍館の蔵書を移して設立、81年閉鎖、84年太政官文庫(内閣文庫の前身)に移管。
  • 三味線堀 しゃみせんぼり 現、台東区小島二丁目か。
  • 青山脳病院
  • 鳥越神社 とりこえ じんじゃ 東京都台東区鳥越にある神社。651年、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。
  • 浄念寺 じょうねんじ? 浄土宗。現、台東区寿・蔵前。永禄年間(1558-70)もしくは慶長元(1596)に神田駿河台で創建され、慶長10年、浅草に移転した。
  • 多磨墓地 → 多磨霊園
  • 多磨霊園 たま れいえん 東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル)。関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称。
  • 根津山
  • [信州]
  • 富士見 ふじみ (2) 長野県諏訪郡にある地区名・高原名。八ヶ岳山麓南西側を占める、避暑地・別荘地。高原療養所がある。
  • [近江] おうみ
  • 番場 ばんば 滋賀県米原市の町。中山道の宿場。磨針峠の北方、鳥居本と醒ヶ井との間。
  • 蓮華寺 れんげじ 滋賀県米原市(旧坂田郡米原町)にある浄土宗本山(旧時宗大本山)。山号は八葉山。本尊は発遣の釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊。聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称したという
  • [長崎]
  • 大浦 おおうら 長崎市南部、長崎湾東岸の地区名。幕末以後、外国人の居留地。天主堂・グラヴァー邸などがある。
  • 諏訪神社 すわ じんじゃ 長野県諏訪にある元官幣大社。諏訪市中洲に上社本宮、茅野市宮川に上社前宮、諏訪郡下諏訪町に下社春宮・秋宮がある。祭神は建御名方富命とその妃八坂刀売命。古来、武事の守護神として武将の崇敬が厚かった。6年ごとの御柱の祭が盛大。信濃国一の宮。今は諏訪大社と称。長崎市上西山町にも同名の元国幣中社があり、おくんち祭が著名。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。




*年表

  • 明治九(一八七六) 茂吉の兄、生まれる。
  • 明治一四(一八八一)初秋 明治天皇、東北に巡幸。
  • 明治二四(一八九一) 茂吉の祖父(金沢治右衛門か)、没。
  • 明治二九(一八九六)六月一五日 明治三陸地震。
  • 明治二九(一八九六) 茂吉、十五。郷里上ノ山の小学校を卒え、陰暦の七月十七日、午前一時ごろ父に連れられて家を出る。日の暮れに作並温泉につく。翌日、仙台について一泊。一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅につく。
  • 明治三〇(一八九七)ごろ 雑誌『中学新誌』露伴の文章。
  • 明治三七(一九〇四) 茂吉、大正九(一九二〇)に至るまでずっと喫煙する。
  • 大正一〇(一九二一)夏 茂吉、信州富士見に転地。近在にある神社の祭礼で、馬肉の煮込みを食べる。
  • 大正一二(一九二三) 茂吉の実父(熊次郎)、七十三歳で没。
  • 大正一二(一九二三)九月一日 関東大震災。
  • 大正一二(一九二三)一〇月一〇日 鹿島清兵衛、死去。
  • 大正一三(一九二四)暮 青山脳病院、火災。賀茂真淵書入『古今集』も消失。
  • 大正一四(一九二五) 茂吉、ヨーロッパから帰国。
  • 大正一四(一九二五)四月二二日 ゑ津(ぽん太)死去。四十六歳。
  • 昭和元(一九二六)ごろ 茂吉、歳晩にも東三筋町の旧宅地を見て通る。
  • 昭和一一(一九三六) 茂吉、一月と一〇月に東三筋町をたずねる。
  • 昭和一一(一九三六)秋 茂吉、彼岸に多磨墓地に行き、ぽん太の墓に参る。
  • 昭和一二(一九三七) 「三筋町界隈」『文藝春秋』1月号。
  • 昭和二一(一九四六)四月 茂吉の孫、生まれる。茂吉、山形県の大石田。
  • 昭和二二(一九四七)一一月 茂吉、東京に帰る。
  • 昭和二三(一九四七)二月 茂吉の孫、生まれる。
  • 昭和二五(一九五〇)三月 「孫」『群像』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 三筋町界隈
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  • 森鴎外 もり おうがい 1862-1922 作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。
  • 与謝野鉄幹 よさの てっかん → 与謝野寛
  • 与謝野寛 よさの ひろし 1873-1935 詩人・歌人。初め鉄幹と号す。京都生れ。晶子の夫。落合直文に学び、浅香社・新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力、新派和歌運動に貢献。自我の詩を主張。詩歌集「東西南北」「天地玄黄」、歌集「相聞」など。
  • 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 小説家。本名、成行。別号、蝸牛庵。江戸下谷生れ。1889年(明治22)「風流仏」などを発表。理想主義的傾向をもつ擬古典派に属し、紅葉と並び称された。長編小説「天うつ浪」中絶後、深い学殖を生かして主に史伝・考証を発表。小説「五重塔」「連環記」、史伝「運命」「頼朝」、戯曲「名和長年」、長編詩集「出廬」「評釈芭蕉七部集」など。文化勲章。
  • 尾崎紅葉 おざき こうよう 1867-1903 小説家。名は徳太郎。江戸芝生れ。1885年(明治18)山田美妙らと硯友社を興し「我楽多文庫」を創刊。物語りの巧みさと艶麗な文章で圧倒的人気を獲得、出版ジャーナリズムと結んで文壇を支配し、泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉・徳田秋声らの逸材を出した。作「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「多情多恨」「金色夜叉」など。
  • 広津柳浪 ひろつ りゅうろう 1861-1928 小説家。本名、直人。長崎生れ。東大医科中退。硯友社同人。「黒蜴」「今戸心中」などで下層社会の悲惨事を描写、深刻小説・悲惨小説と呼ばれた。
  • 砂がき婆さん
  • 祐天 ゆうてん 1637-1718 江戸中期の浄土宗の僧。号は明蓮社顕誉。磐城の人。念仏布教に努めて生き仏と尊ばれ、将軍綱吉・家宣の帰依を受け、東大寺大仏殿・鎌倉大仏などを修営。
  • 安珍清姫 あんちん きよひめ 紀州道成寺の伝説中の男女の主人公の名。熊野詣での若僧安珍に清姫が恋慕、帰途の約束を裏切られたことから大蛇となって後を追い、道成寺の釣鐘に隠れていた安珍を鐘もろとも焼き殺したという。「法華験記」「今昔物語集」などに原形が見えるが、安珍・清姫の名が定着するのは近世以降。能・浄瑠璃・歌舞伎舞踊などに脚色。
  • 斎藤紀一 さいとう きいち 1863-1928 紀一郎。茂吉の養父。浅草医院の医師。/明治・大正期の医師。青山脳病院長。帝国脳病院を開設、医院長となる。(人レ)
  • 山田良叔
  • 長谷川泰 はせがわ たい 1842-1912 明治期の医学者。政治家。長崎医学校校長などをへて済生学舎を設立。多くの医師を養成した。(人レ)
  • 村上浪六 むらかみ なみろく 1865-1944 小説家。名は信。堺生れ。撥鬢小説「三日月」「奴の小万」など。
  • 黒岩涙香 くろいわ るいこう 1862-1920 新聞記者・小説家・翻訳家。名は周六。土佐(高知県)生れ。探偵小説の翻訳で名を成し、新聞「万朝報」を発刊。評論「天人論」、翻訳「噫無情」「巌窟王」など。
  • 黒川重平 質屋。
  • 佐原応 さはら? りゅうおう 和尚。
  • 中林梧竹 なかばやし ごちく 1827-1913 書家。明治の三筆の一人。肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹は号である。また剣閣主人ともいった。家は代々鍋島藩の家臣であった。明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来した。
  • 江嘉氏
  • 呉院長 → 呉秀三か
  • 呉秀三 くれ しゅうぞう 1865-1932 精神病学者。広島出身。東大教授。精神病学の発展に尽力。また、医学史・シーボルトの事績の研究がある。
  • 天野 〓 開成中学教師。雑誌『中学新誌』を編集。
  • 磯部武者五郎
  • 渡辺省亭 わたなべ せいてい 1851-1918 明治・大正期の日本画家。作品に「雪中群鶏」などのほか挿絵、七宝焼図案なども執筆。(人レ)
  • 渡辺水巴 わたなべ すいは 1882-1946 俳人。名は義。東京生れ。父は花鳥画家の省亭。内藤鳴雪・高浜虚子に学び、のち「曲水」誌を主宰。句集「水巴句帖」「白日」など。
  • 黒川真頼 くろかわ まより 1829-1906 国学者。本姓、金子。桐生生れ。師春村の没後に黒川氏を名乗り家学を継承。東大教授。「古事類苑」の編纂に従事。著「考古画譜」「工芸志料」など。
  • ぽん太 → 鹿島ゑ津子
  • 鹿島屋清兵衛
  • 鹿島ゑ津子 かしま えつ 1880-1925 芸名、ぽん太。明治期の芸者。夫が財産を蕩尽し、長唄や踊りで生計を支え、貞女ぽん太と呼ばれた。(人レ)
  • 賀茂真淵 かもの まぶち 1697-1769 江戸中期の国学者・歌人。岡部氏。号は県居。遠江岡部郷の人。荷田春満に学び、江戸に出て諸生を教授。古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭。田安宗武に仕えて国学の師。本居宣長・荒木田久老・加藤千蔭・村田春海・楫取魚彦らはその門人。著「万葉集考」「歌意考」「冠辞考」「国歌論臆説」「語意考」「国意考」「古今和歌集打聴」など。
  • -----------------------------------
  • -----------------------------------
  • 三島県令 → 三島通庸
  • 三島通庸 みしま みちつね 1835-1888 内務官僚。薩摩藩士。酒田・山形・福島・栃木県令、警視総監を歴任。福島事件・保安条例施行など、自由民権運動弾圧に奔走。子爵。
  • ヴェルヴォルン教授 ドイツ。
  • 本居宣長 もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、「もののあはれ」の文学評論を展開、「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言」「直毘霊」「玉勝間」「うひ山ぶみ」「馭戎慨言」「玉くしげ」など。
  • 石川貞吉
  • 榊保三郎 さかき やすさぶろう 1870-1929 医学博士、文学博士。静岡県沼津生まれ。父は蘭学者。長兄、次兄ともに医学者、医学博士。明治36年(1903)から明治39年(1906)、文部省留学生として英米独仏の精神病理学を研究。明治38年(1905)イタリア・ローマで開催された万国心理学会に日本政府代表として出席し、同学会部長となった。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 三筋町界隈
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  • 『めさまし草』 めさましぐさ 目不酔草。文学雑誌。1896年(明治29)1月、森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨が「しがらみ草紙」の後をついで創刊。合評による文芸評論を主として当時の評壇に君臨。1902年廃刊。
  • 『東西南北』 与謝野鉄幹の著。詩歌集。明治29年7月刊。(国史)
  • 「雲の袖」 くものそで 幸田露伴の著。
  • 「多情多恨」 たじょう たこん 小説。尾崎紅葉作。1896年(明治29)読売新聞連載。主人公鷲見柳之助が亡妻へ寄せる綿々たる追慕の情の微妙な推移を描写。言文一致体の代表作。
  • 「今戸心中」 いまど しんじゅう 短編小説。広津柳浪作。1896年(明治29)「文芸倶楽部」に発表。吉原の遊女吉里が愛人と別れ、嫌いぬいていた客の情にほだされて心中するまでの微妙な心理の変化を描く。
  • 信田の森 しのだのもり → 信太の森、葛の葉、か
  • 信太の森 しのだのもり 大阪府和泉市信太山にある森。樟の大樹の下に、白狐のすんだという洞窟がある。葛の葉の伝説で有名。時雨・紅葉の名所。「篠田の森」とも書く。
  • 葛の葉 くずのは 浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の通称。また、その女主人公の名。和泉国信太の森の白狐が女にばけて安倍保名と結婚し、1子を儲けたが、正体が知れて「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して古巣に帰ったという話。説経節や古浄瑠璃の題材にもなった伝承に基づく。
  • 観世音霊験記
  • 『蘭氏生理学生殖編』 山田良叔の著。
  • 「靄護精舎雑筆」 あいご しょうじゃ ざっぴつ? 露伴の著。
  • 『中学新誌』 雑誌。
  • 『益軒十訓』 えきけん じっくん 貝原益軒が和文で著した10種の教訓書。家訓・君子訓・大和俗訓・楽訓・和俗童子訓・五常訓・家道訓・養生訓・文武訓・初学訓。
  • 『日本外史』 にほん がいし 史書。頼山陽著。源平両氏から徳川氏に至る武家の興亡を各家別に記して名分を明らかにし、史論を挿んだもの。漢文体。22巻。1826年(文政9)成り、翌年松平定信に献呈。36年(天保7)頃刊。幕末の尊王攘夷運動に、大きな影響を与えた。
  • 「水の東京」 幸田露伴の著。
  • 「百物語」 森鴎外の著。
  • 『古今集』 こきんしゅう 古今和歌集の略称。
  • 『古今和歌集』 こきん わかしゅう 八代集・二十一代集の第一。勅撰和歌集の始まり。20巻。醍醐天皇の下命により、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑撰。905年(延喜5)または914年(延喜14)頃成る。六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、その歌風は調和的で優美・繊麗。真名序・仮名序がある。当初、「続万葉集」といった。古今集。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『国史大辞典』(吉川弘文館)



*難字、求めよ

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  • 三筋町界隈
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  • 三陸沖地震 さんりくおき じしん 三陸沖に起こる巨大地震。震源は日本海溝付近にあるため、地震動による被害は少ないが、リアス海岸になっているため津波の被害が大きい。1896年には3万人近い死者、1933年には3000人以上の死者を出した。
  • 鉄道馬車 てつどう ばしゃ 馬車を軌道上に走らせて旅客・貨物を輸送する交通機関。日本では1882〜1903年(明治15〜36)東京で営業、地方でも使われた。馬車鉄道。
  • 眇 すがめ (1) 片目が悪いこと。(2) やぶにらみ。斜視。(3) 瞳を片方へ寄せて物を見ること。よこめ。流し目。
  • 係恋 けいれん 心にかけて恋い慕うこと。
  • パイレート
  • ピンヘッド pinhead 明治時代に売り出されたタバコの銘柄の一つ。
  • ゴールデン・バット Golden Bat (「金色の蝙蝠」の意)国産紙巻煙草の名。1906年(明治39)発売。低価格で大衆的な煙草として人気を得る。略称、バット。
  • 種物 たねもの (1) 草木のたね。種子。(2) てんぷら・玉子とじなど、他の材料の入っている汁蕎麦または汁饂飩。(3) 氷水に果汁などを加えたもの。
  • 奠都 てんと 都を定めること。
  • 奠都祭 てんとさい 奠都を奉祝するためにおこなう祭典。また、奠都の記念におこなう祭典。
  • 桃割れ ももわれ 16、7歳位の少女の髪の結い方。左右に髪を分けて輪にして後頭上部で結び、鬢をふくらませたもの。明治・大正期に行われた。
  • 得分・徳分 とくぶん (1) 分けまえ。とりだか。(2) 得た分。もうけ。利分。利益。(3) 荘園の領主・荘官・地頭などがその権利に応じて収得する収益。
  • 春機発動期 しゅんき はつどうき 思春期に同じ。
  • リビドー Libido (本来はラテン語で欲望の意)精神分析の主要概念の一つ。フロイトは、生の本能としての性的エネルギーと定義し、それが阻害されると様々な発達障害や神経症が生じるとする。また、ユングは、すべての本能のエネルギーの本体とする。
  • 勧工場 かんこうば 明治・大正時代、多くの商店が組合を作り、一つの建物の中に種々の商品を陳列して販売した所。1878年(明治11)東京に開設した第一勧工場が最初。デパートの発達により衰えた。勧商場。
  • 叙写
  • 舎利塩 しゃりえん 瀉痢塩・瀉利塩。硫酸マグネシウムの七水和物。白色の斜方晶系結晶で、水に溶けやすく苦味をもち、海水・鉱泉中に含有。緩下剤とし、また染色その他工業用として用いる。
  • 泥濘 でいねい ぬかるみ。
  • 茶鋪 ちゃほ 茶舗。茶を売る店。
  • リップ・ワン・ウィンクル → リップ‐ヴァン‐ウィンクル
  • リップ‐ヴァン‐ウィンクル Rip Van Winkle W.アーヴィングの随筆・短編集「スケッチ‐ブック」中の物語。また、その主人公の名。邦訳名「西洋浦島」
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  • 吉士・吉師・吉志 きし (1) 新羅の官名。17等中の第14等。(2) 大和政権で、外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称。後に姓の一つとなる。
  • 佳女
  • タクシスの説
  • デカダン dcadent (1) デカダンスの文人。(2) 虚無的・頽廃的な態度で生活する人。また、そのようなさま。
  • デカダンス dcadence (頽廃・堕落の意) (1) 19世紀末のフランスを中心に現れた文芸の一傾向。虚無的・耽美的で、病的なものを好む。ボードレールを先駆とし、ヴェルレーヌ・ランボー、イギリスのスウィンバーン・ワイルドなどに代表される。(2) 一般に、虚無的・頽廃的な芸術傾向や生活態度。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 富田さんのツイートによれば、TPP協定21分野のなかには知的財産も含まれ、著作権保護期間の延長も協議されるらしい。
 11.8『読売新聞』『電子本元年』1年後の貧弱」「端末あっても読む本乏しく」津野さんが昨年の電子書籍元年を強い口調で批評、気炎をはいている。
 
 レノボ、7インチタブレット発売。ポメラ、新型機発表。
 大王製紙、オリンパス、監理銘柄。

 八か月前、天童市内は震災の翌日に電力復旧したものの、JRは不通、図書館も不定期開館。ブックオフがいち早く再開。
 近くの文具屋へ行くと、店頭のショーケースに初期型のポメラが一台あった。迷ったが、ネットで確認すると先の型が出てからかなり時間がたつ。まもなく新型の登場ありとふんだ。案の定、メディアへの露出度が高くなる。見込み的中。

 ・底本画像とのテキスト読み合わせ。
 ・新旧漢字の変換、ルビふり、注記入力。
 ・オリジナルと現代表記変換テキストとの読み合わせ。
 ・筆記メモの入力。

 それから何といっても、単三電池起動。省電力の呼びかけや電力料金の値上げがかまびすしいなか、エネループ電池と携帯太陽発電パネルを組み合わせることで、作業のうち1/3ぐらいはポメラで……と、もくろんでいる。
 これからの季節、かじかむ指先との勝負。




*次週予告


第四巻 第一七号 
原子力の管理(他)仁科芳雄


第四巻 第一七号は、
一一月一九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第一六号
三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
発行:二〇一一年一一月一二日(土)第一刷
   二〇一一年一一月一四日(月)第二刷
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。




※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
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