喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Sadakichi_Kita.png」より。


もくじ 
庄内と日高見(三)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
庄内と日高見(三)
  • 館と柵および城
  • 広淵沼干拓
  • 宝ヶ峯の発掘品
  • 古い北村
  • 姉さんどこだい
  • 二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑
  • 日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏
  • 天照大神は大日如来
  • 茶臼山の寨、桃生城
  • 貝崎の貝塚
  • 北上川改修工事、河道変遷の年代
  • 合戦谷付近の古墳
  • いわゆる高道の碑――坂上当道と高道

オリジナル版
庄内と日高見(三)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:212(日本史/東北地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html
NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html




庄内と日高見ひだかみ(三)

喜田貞吉

   館と柵および城


 しかしながら、いわゆる中山柵がよしやこの地であったにしても、その柵なるものと丘上に現存する館址とが、はたして同一であるや否やは考えなければならぬ。前にも引いたごとく、東辺・北辺・西辺の諸郡の人居は城堡じょうほうの中に安置すと「大宝令」にあって、蝦夷や隼人の境に近いところでは、人民を城寨じょうさい内に保護したものだ。この中山柵においてもおそらくそうであったに相違ない。『和名抄』に、柵は「たて木をむなり」とある。たてに木を建てて、それを横木にみつけた垣の名称である。この柵で周囲をとりまいて、中に民居を保護したのだ。これに対して城とは土塁を築きめぐらした防備のようであるが、邦語では両者ともに「キ」であって、『続日本紀』にはしばしば「城」と「柵」との文字を混用してある。しかしそのいずれにしても、アイヌのチャシのごとく丘陵の一部を平らげてここに酋長の住宅を設け、その麓に部下の民を住ませたのとは様子が違っていたに相違ない。
 奥羽地方に多い山館やまだては、多くはアイヌのチャシと同型式のものであって、その名も『和名抄』に、「館和名多知」とあり、本来チャシと同語同物であったと解せられる。けだし奥羽地方に多い山館は、多くはもと蝦夷の酋長の居館であったのであろう。当初、夷地に置かれた諸郡の中には、王化に服した夷酋の建てたものが多かった。そして彼らはその郡領に任ぜられたのだ。前記田夷村の蝦夷がうて郡家ぐうけを建てたとある、その遠田郡とおだぐんの郡領遠田君雄人は俘囚ふしゅうであった。宝亀十一年(七八〇)謀反むほんした上治郡かみはるぐんの大領伊治公いじのきみ呰麻呂あたまろ〔これはりのきみ あざまろ〕も、また夷俘いふの種であった。しかしてこれを侮辱ぶじょくして謀反せしむるに至った牡鹿郡おしかぐんの大領道島みちしまの大楯おおたてももとは丸子わにこ姓で、上総の俘囚・丸子わにこ廻毛つむじなどと同族であったらしい。また郡領とはなくとも奈良朝ころの夷地の酋長で勲位を授かったり、内地風の姓氏を与えられたりしたものははなはだ多い。しかしてこれらはいずれも館主たてぬしともいうべきほどのものであったと察せられるのである。
 今、この欠山佳景山かけやまの北端なる館址も、その構造さながらこれらの館と同一であって、あるいはもとこの地方に勢力を有した蝦夷の酋長の居館であったかもしれぬ。このたぐいのものは奥羽地方いたるところにあるといってもよいほどで、封内ほうない風土記』列挙するところのみでも、桃生ものう一郡だけで四十か所を数えているのである。これらはいずれも山寨さんさいで、平地に農民を保護したという類のものではない。伝説には何の某がいたなどと、歴史時代の邦人の名を称えているのが少くないが、それらは多くはあてにならぬ。またよしやこれらの人々の居城であったとしても、それはかつて蝦夷の酋長の館址を利用したのであったかもしれないのである。
 しかし、邦人擁護の柵なり城なりというものも、単に周囲に木柵や土塁をめぐらしたのみのものばかりではなく、その主要部に防戦の設備をほどこしたものがなかったとは言われない。かの多賀城は単に土塁の防御のみであって、中に正庁の場所はあっても別に館風にはなっておらぬが、すべての城といい柵というものが、かならずしもことごとくこのとおりであったと解するの必要はない。朝鮮半島古代の平地の都邑とゆうには、城郭を取りめぐらしてこれを擁護したのが多いが、別に避難所として山城の設けのあるものも少くないのである。したがってこの中山柵の問題についても、今に字中山の称あるこの欠山丘陵上の館を中に取り込んで、付近に住民の居宅があり、それを木柵もくさくで取りめぐらしてあったものかもしれないのである。ただ従来、世人が城といい柵といえば、ただちにチャシ様の館址にのみ着目して、人居を城堡じょうほう内に安置せよとの本文に留意することの少ないのは、たしかに間違ったことだといわねばならぬ。

   広淵沼干拓


 欠山寨址とりであとをくだって、一同山麓づたいに字糠塚ぬかづかなる亀山恭助氏方で休憩し、汽車の時刻を待つ間にも種々の有益なるお話をうけたまわったことであった。欠山丘陵の南端、須江村すえむら大字沢田に小字瓦山かわらやまという所があって、布目瓦ぬのめがわらを出す。小字上竃うわかま下竃したかまなどいうのもあるということなどをもうけたまわった。これは古代の瓦焼き場であったらしい。かかる僻遠の夷に近い地方にも、古いころからここで瓦を焼いて、寺を建てるほどにも開けておったのだ。
 佳景山かけやま駅から広淵沼の北岸をすぎて、前谷地まえやち駅へひきかえす。前谷地村大字黒沢なる斎藤養次郎氏を訪問して、その所蔵の発掘品を拝見せんがためである。佳景山駅の付近で、北上川の水を広淵沼に導く工事を見た。これは広淵沼現在の水を石巻湾に排水して沼を干拓し、その跡にできた水田なり、また従来この沼から灌漑かんがいを受けていた村方なりへ、用水を供給するためだという。広淵沼東西約二十八町、南北約三十三町、これを干拓し得たならば、よほどの水田を得ることであろう。
 用水路掘削のさい、人間の頭骨を掘り出したと聞いて見に行ったが、いまは事務所にないとのことであった。なんでも畠地の地中数尺のところから、馬骨とともに頭蓋骨のみが出たのであったという。戦死者の首級しゅきゅうを隠したのであったかもしれぬ。

   宝ヶ峯の発掘品


 前谷地駅から道を東南にとって、斎藤養次郎君をう。同君は桃生郡きっての富豪と聞こえた斎藤善右衛門氏の令息だ。邸の付近に真宗の説教所がある。御本山から毎月布教師を請待しょうだいして、村民の教化につとめておられるのだという。奇特なことだ。邸内山上の別館に案内されて、そこに陳列された石器時代遺物を拝見におよぶ。遺物はすべてその付近なる同氏持地内の一遺跡から出たもので、石器・土器・骨器・角器・玉器など、そのおびただしいこと驚くばかりだ。表紙に出したものや、ここに挿入したものはそのきわめて一小部分たるにすぎぬ。遺跡はその山続きで北村きたむら地内に属し、もと�峯といっていたのを故坪井つぼい正五郎しょうごろう博士が発掘して、金銭のみが宝ではない、いにしえを知るべき石器・土器はまたじつに宝とすべきものだとの意味で、宝ヶ峯たからがみねと改名されたのだという。広淵沼を望んできわめて見晴らしのよい所に別荘をかまえて、ここに坪井博士の書かれた額や、大野雲外君の書かれた軸物じくものなどがある。これによっていわゆる宝ヶ峯の名の由来や、その発掘のしだいを知ることができる。
 遺跡は丘上の包含地で、明治四十三年(一九一〇)に故坪井博士がはじめて調査せられ、大野雲外君や山中樵君などが参加せられ、大正三年(一九一四)以来、連年引き続き発掘されたものだとうけたまわったが、まだまだ手がつかずにのこっている場所が多い。遺物には珍奇なものが多く、比較的少ないはずの土偶のみでも数十に達している。一遺跡からこれほど多種多数の遺品を得た所はけだし他に例が少なかろう。この貴重なる多数の研究材料を、かかる僻遠の地に保存しておくのはしいものだ。ゆくゆくはどこかしかるべき所に陳列館を作られるなり、適当な陳列館へ寄托きたくせられるなりして、研究者の便に供せられたいが、さしあたりその重なものだけをでも図版にあらわして、くわしい発掘報告書を発表せられたいものである。

   古い北村


 宝ヶ峯から箱清水はこしみずにくだって箱泉寺そうせんじをおとずれたが、住職ご不在とあって要領を得なかった。境内に心字池しんじいけ、弘法大師の独鈷水など、いろいろ珍しいものがある。中にも枝垂栗しだれぐりというものは、近ごろ流行の天然紀念物として、珍重すべきものかと思った。この樹は明和(一七六四〜一七七二)の『封内風土記』にすでにその存在が出ているのだから、かなり古くからあったのに相違ない。ただし享保(一七一六〜一七三六)の『聞老志』には、この寺に古槻あることのみがあって、この枝垂栗のことは見えておらぬ。
 日が暮れてから北村の上表沢なる斎藤荘次郎君のお宅についた。同家の提灯ちょうちん金堂かねどうと記してある。鐘堂の義じゃそうな。『封内風土記』に、「旧跡……鐘堂と号するの地、伝えいう古昔こせき高徳寺の鐘楼しょうろうあり、ゆえに地名をう」と。
 北村一村ほとんど全部山岳丘陵地で、東には今も広淵沼の水がたたえ、西には遠田郡南郷なんごうの平野をひかえているが、これももとは沼沢しょうたく地であったらしい。これに望んだ字久米田の桑柄に貝殻かいがら塚というのがある。『風土記』に、「ここを穿うがてばすなわち貝殻かいがらを出だす」とあって、古くから世に知られた貝塚らしいが、調査のひまがなかったのは遺憾いかんだ。村の北部なる山地には、かの大きな宝ヶ峯石器時代遺跡があり、その他にも遺跡が少なからぬと見えて、すでに『風土記』には村の名物として、矢ノ根石を数えてあるくらいだ。それから引き続きいわゆる日高見時代には、この山地には有力なる蝦夷の豪族が少なからず住んでいたらしく、これも『風土記』に古塁六所を掲げてある。なかにも高寺なる新城館というものは、田村将軍東征の日の遺跡だとあるが、それはもとより信ずるにたらぬ。その他、高谷地・小崎こさき草田くさた・青木・駒場などを数えている。しかしその他にもまだあるらしい。村の中央に朝日山〔旭山〕がそばだって、標高一七三メートル。その西南麓の字旭に、旭長者の屋敷というのもある。この付近にもまた大きな貝塚があるそうな。
 なにぶんにもこの地は石器時代以来久しく蝦夷の巣窟であったのだ。そして比較的のちの世までもそれが遺っていたらしいのだ。その村名北村とはどこから見ての北村か。もし志太郡〔志田郡〕の名がヒダで、ヒナに縁があるのならば、北村の名もあるいはヒナの転訛ではなかろうかなどとまで思ってみた。つい近所に日高見川が北上川になっている例があるのだ。ちなみにいう。この古い北村におられる斎藤荘次郎君はその村の由緒ゆいしょ闡明せんめいすべく、『わが北村』という雑誌を出しておられる。同君はまた『桃生郡誌』を編纂して、近く脱稿するとのことである。

   ねえさんどこだい


 土地に適当な宿屋がないとのことで、この夜は栗田〔栗田茂治しげはる・小島〔小島甲午郎〕の両君とともに斎藤君の立派な離れ座敷でご厄介やっかいになった。本宅の方は一五〇年ほど前とかの建築じゃそうで、この地方の古い豪家の住宅の標本たるべきものらしい。離れ座敷の方はこれと並んで、五十年ばかり前に建築したものだという。格天井ごうてんじょうをはりつめた、いたって手のかかったものだ。翌日、桃生村の村長西条勇記君のお宅でご厄介になったが、その家造り、離れ座敷の位置、その格天井までほとんど同じふうに作られておった。けだしこの地方にはこの種の建築がはやったものらしい。今、その間取りのあんばいをくわしく図示ずしして来なかったのが惜しいが、うしとよばれる巨大な中心けたがありながら、その牛持柱たる大黒柱のないのはちょっと奇態に感じた。佐々木喜善きぜん君の『江刺郡昔話』(郷土研究社発行)には、その地方の家にはたいてい牛柱という物のあることを書いて、ウシはうすのことであろう、その柱の側には通例、うすを置く習慣だとのことがあったが、じつはウシは大人をウシというと同じく、ウシハクすなわち領するの義で、家の中心となって、屋根の重みをそれで支える巨材の義である。そして牛柱もしくは牛持柱とは、その牛の巨材を支えるための柱の義である。江刺郡えさしぐん地方の家には、牛持柱に対してまた向かい牛という名称の柱もあるらしい。しかるにこの斎藤君のお宅の大きな建築には、牛桁はあっても牛持柱というべきものはなく、強いはりでその牛桁を支えているのである。これもこの地方建築の特徴というべきものであろうと思った。
 数々のおもてなしにあずかって、旅中のこころよい一夜を格天井の下に明かした。食事から就寝まで、万事お世話をしてくださる婦人があった。斎藤君の細君らしくもなく、さりとて妹さんとも見えず、もちろん女中さんではない。どうした方かとうけたまわると、なんでも姻戚関係ある学校の先生じゃそうな。もったいないことだ。それについても思いおこす逸話がある。筆のついでに書きとめておきたい。
 例の大正四年(一九一五)の中尊寺における日本歴史地理学会の講演会のときであった。講師一同本堂に宿泊して、先方主催者のおはからいで、食事や寝具はすべて一の関の料理屋とか宿屋とかから取り寄せてくださったことであったが、このとき一同のために食事の給仕から衣服の始末、さては寝床のあげおろしまでも万事面倒をみてくれた婦人、いかにも気がきいて上品であったので、講師仲間の評判となり、中にもO君、M君などひどく気に入ってしまい、いずれ仲居なかいの中から選抜されたものであろうくらいの想像で、ねえさんどこだい?」といえば、「一の関でございます」と、しとやかに答える。「おい姉さん、水をくんでおくれ」「おい姉さん、茶を入れておくれ」などと、いたって心やすく用をたのんでいい気になっていたものであった。中にもO君のごときはことに御意にかなって、宅の女中に連れて帰りたいなどとまでいっておられたところが、翌日からその「姉さん」、エビ茶のはかまをはいて見えられた。学校の先生であったのだ。一同おおいに恐縮して、それから態度一変、恐々きょうきょう謹言きんげんすることになった。やはり奥州はゆかしいところだ。

   二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦かりゃくの碑


 翌朝は汽車で前谷地から鹿又かのまたへ出て、それから北上川の分流追波川おっぱがわを船で飯野川町いいのがわまちへ行くつもりのところが、朝寝したために間に合わなくなり、栗田・小島両君とともに斎藤君の東道で、ともかくも徒歩で出かけた。途中でやっと一台の車を得て自分がそれに乗り、若い元気な連中は徒歩でそれにつづく。広淵村でさらに一台を得て栗田君がそれに乗り、斎藤・小島の両君は自転車で同行。本鹿又で車を返し、天皇渡しで北上川を小船越こふなこしにこえ、追波川の堤上を飯野川町まで徒歩。ここでまた二台の車を雇い、自転車二台とともに大谷地村飯野いいのに向かった。ところがその一台の車がたいへんなもので、車体がひどく老朽しているうえに、引き手がかなりの老人とある。おまけにその老人酒に酔って、口は達者だが足がいっこうはかどらぬ。ことにその車に乗ったのがあいにくゴムまりのように真ん丸くふとった栗田君ときたからたまらない。飯野の古川の堤上で車は梶棒かじぼうと踏み台とを老車夫の手に残して、車台は栗田君を乗せたままに後ろにたおれてしまった。さいわいにゴムまりのような栗田君には弾力が強かったので、別段べつだんにケガとてはなかったが、一時はどうしたことかと心配したものであった。
 車がまだ壊れぬ前のこと、一同出迎でむかえの校長さんや先生方に案内せられて、字吉野よしのの区長さんのお宅に参集、ここの飯野山神社ののぼりや新しい神鏡などを拝見におよび、それが式内飯野山神社であることの説明を拝聴した。別に式内飯野山神社というのが飯野の本地にもあって、たがいに真偽を争っているのだ。享保の『奥羽観跡かんせき聞老志もんろうし』には、「飯野山神社飯野村にあり、その地をつまびらかにせず」とあって、古く忘れられていたものらしい。明和の『風土記』には、「雷電社、土人伝え言う、古昔こせき飯野山神社の遺跡なり、『名跡志』いう、古野と号する地に社地址あり、相伝う、古昔こせき神社あり、年代悠遠、よって荒廃久し。霊元れいげん帝天和中(一六八一〜一六八四)、土人社を建てて雷電宮という」とある。いずれにしても新しい年代の再興だ。
 式内神社の本末あらそいは面倒なものだ。それで下野しもつけ二荒山ふたらさん神社や、奥州の都々古別わけ神社は政府でも双方を認めている。大和の丹生川上かわかみ神社などは、このほど上社・下社の上にさらに中社が加わって、三社の官幣かんぺい大社ができたことは第八巻第六号の「学窓日誌」に書いておいた。吉野の飯野山神社は山上にあるので、疲れた足には迷惑とあって参拝はご免をこうむり、その登り口の一王子社という小祠にある嘉暦かりゃくの碑というものを拝見におよぶ。平石の上部に、薬研ぼりに梵字を刻し、下に「嘉暦三年(一三二八)〈戊辰〉九月二日」とある。一王子とは後二条ごにじょう天皇の第一皇子邦良くによし親王のことで、都をのがれてここに終わり給い、その地を吉野というのも、親王が南朝の吉野の行在所をしのんで、ここに桜を植えられたからの名だというのだ。しかし邦良親王は嘉暦元年に京都で薨ぜられたお方で、その顛末に疑いはなく、またそのころはまだ南北朝分立前のことなれば、吉野の行在所をしのばれるにしてはチト時代が早すぎる。けだし地名を吉野といい、社を一王子ということから、宮方の一皇子を連想しておこった伝説であろう。一王子はあるいは熊野の王子をまつったのではあるまいか。飯野いいの本地の飯野山神社のある向こう側の山の上に平地があって、字長者森ちょうじゃもりといい、布目瓦を出すという。古い寺でもあったものらしい。

   日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏


 栗田君の車が壊れたので、お相伴して自分の車をも返し、一同徒歩で桃生村太田に向かって、日高見神社に参拝した。社は字拾貫じゅっかんの丘上にある。社道の並木も物古ものふり、神域すこぶる神々こうごうしい。祠官大和氏はもと大和国からきた修験の家じゃそうで、院号を良国院といい、修験に関する辞令書などを多く蔵しておられる。その社務所の祭壇に数体の仏像をまつってあるのは珍しく拝した。明治維新後、神仏分離のさい、いったん天井裏に隠しておいたのを、近年ふたたび現わしまつったのだという。
 日高見神社は式内社で、『神社誌料』によると祭神天照大神・倭健命やまとたけるのみこと武内たけうちの宿祢すくねの三座だとある。しかしこの神、じつは河の神らしい。『三代実録』貞観元年(八五九)五月十八日条には、陸奥国正五位上勲五等日高見水神に従四位下を授くとある。この神名、寛文版の本には日高見乃神とあるけれども、尾州家本その他諸本多く「乃」を「水」に作り、この方従うべきものであろう。すなわち日高見川の神である。神名に「乃」の字を加えたのも異例である。同じ奥州で阿武隈川に式内阿福河伯神社があり、胆沢郡いさわぐんに式内胆沢川神社があり、そのほかにも河の神をまつった神社が式内に少なからぬを見れば、これももと北上川なる日高見川の神をまつったものではあるまいか。創建について『聞老志』には、「相伝う後冷泉帝治暦中(一〇六五〜一〇六九)、義家朝臣東征のとき建つる所なり」とあるが、それでは時代が延喜以後になって、式内社には都合が悪いとあって、近ごろの社伝には、景行天皇四十年〔不詳。日本武尊東夷ご征伐のさいの勧請かんじょうで、後冷泉天皇、康平五年(一〇六二)頼義の貞任さだとう征伐のとき、賊の巣窟に接近せるより兵火にかかり、乱平らぎて後、頼義新たに神殿を造営したとある。頼義が貞任とこんな地方で戦争したには困ったが、社地の北には現に貞任の安倍館と称する館址があって、古くからそんな伝えはあったらしい。
 ちなみにいう。今、本吉郡もとよしぐんの東端の唐桑からくわにも日高見神社がある。本郡もと桃生郡の中であったので、式内桃生郡日高見神社をこれに擬する説もあるけれども、この地方は延喜のころまだ一郡となるに至らず、おそらく夷地に没入していた所で、ことに神名を日高見水神とあるによれば、式内社としてはやはりこの桃生郡太田のそれを取るべきであろう。北上川の旧道はこの山の東を流れ、支流はただちに山北を洗って西南に迂回していた形勢から見ても、三方川につつまれたこの丘上に日高見川の神をまつったことは、その地を得たものといわねばならぬ。
 いわゆる安倍館は北に北上川旧河道の一つをひかえ、東と西とにはその支流が深く湾入して、三方懸崖けんがいをなした要害の地である。構造は例の型のごとく、規模はかなり大きい。いずれ有力なる酋長のいたものであろうが、それが安倍貞任であっては困る。安倍氏は父祖以来、陸中中部の六郡を横領して、ようやく衣川ころもがわの外に出でんとするの勢いとなり、ために国司と衝突をおこしたものだ。したがってその遺跡は衣川以北にかぎられている。この地方がいかに古代の海道蝦夷の巣窟であったからとても、この時代にまでも俘囚ふしゅうの長なる安倍氏がここに根拠を構えておったでは、あまりにつじつまが合わなさすぎる。
 しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗なのる村民も少くないらしい。日高見神社の境内に伊勢社という小祠があるが、その社殿建立費用の寄付者連名の三十二名の中に、阿部氏を称するものじつに十名の多きを数えているのである。先日、出羽庄内へ行ったときにも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷ひでさと流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉・神護景雲三年(七六九)に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年(七七二)に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命おおびこのみことの後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかもしれぬ。前九年の役後には、別にしきや・仁土呂志・宇曽利あわして三郡の夷人安倍あべの富忠とみただなどいう人もあった。かの日本ひのもと将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館がはたして安倍氏の人のった所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かもしれぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野こんの氏の多いのもちょっと目に立った。前記、伊勢社寄付連名三十二人の中で、今野氏を称するものもまた、じつに十人の多きを数えた。今野はけだし「こん氏」であろう。前九年の役のときに気仙郡の郡司こんの為時ためときが、頼義の命によって頼時よりときを攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものとみえる。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。そのこんに、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏おおしをオオノ、紀氏きしをキノと呼ぶのと同様である。
 大和氏のお宅で、桃生村字樫崎かしざきの山田なる高道の墓の付近で、明治七年(一八七四)に発掘したという瑪瑙のう曲玉まがたまを拝見した。当時の見取り図によるに、墓のあるところから山道をへだてて、東南の上手にあたっている。高道の墓のことは後に別にいう。
 大和氏はまた日高見神社の西一丁ばかりの所から石棒を発見したとか、付近の畠地から石鏃いしやじりや曲玉を発見したとか話されて、その曲玉一個を見せられた。頭部に切れ目があって、後の丁子頭ちょうじがしらの曲玉の原型ともいうべき珍品で、あきらかに石器時代の遺品である。ある人はたつおとという海産動物に似ていると形容したが、まったくそんな形のものだった。この夜は同村字牛田うしたなる、村長西条勇記氏のお宅でご厄介やっかいになる。

   天照大神は大日如来


 夜の田舎道を提灯ちょうちんの明かりに導かれて西条氏のお宅につく。その提灯に「如来」と書いてあるのが目についた。そのわけを聞くと、如来とは西条氏宅地の辺りの小字で、それで屋号になっているのだといわれる。そしてその如来という名は、近所に天照大神をおまつりした五十鈴宮というのがあって、それを如来さまと古来呼んでいたためだと説明された。なるほど天照大神は、行基ぎょうき菩薩の枕上まくらがみに立たれて、「われは毘盧遮那仏しゃぶつなり」とご自身紹介なされたと伝えられているのであって、それで本地垂迹すいじゃく説の方では、古く大日如来に配したてまつったことではあるが、それをただちに如来さまとして崇祭したのは珍しい。日高見神社社務所の祭壇に仏体を安置してあるのを珍しく見てきた後に、またすぐにこの珍しい話をうけたまわったことも何かの因縁であろう。一方では神社は宗教の対象ではない、神祭は報本ほうほん反始はんしの実を現わすものだなどと小むずかしいことが言われながらも、信仰者の頭にはやはり神仏あえて区別のない場合が少くないのだ。近ごろ「神仏一なり」という論文を発表せられた鷲尾わしお順敬じゅんきょう君の一顧をわずらわしたい。
 西条氏のうしろの丘上にも一つの館址がある。『封内風土記』に、「如来館と号す、葛井典仁喜なるもののおる所」とある。如来という名称も久しいものだ。館址で朝鮮式陶器(祝部いわいべ土器)の破片を拾った。かかる陶器を使用する時代にもここに人が住んでいたのだ。

   茶臼山ちゃうすやまとりで、桃生城


 牛田うしたから東北にあたり、桃生・本吉二郡の境上に茶臼山ちゃうすやまがある。標高一五二メートル。桃生郡内では最高の山だ。山上に館址がある。茶臼山の名はけだしこれからおこったので、チャウスすなわちアイヌのいわゆるチャシの語の転訛たることは疑いをいれぬ。そして近ごろの学者は多くこれを桃生城址に擬定している。早朝登臨とうりんの予定であったが、雨天であったので見あわせて遠望にまかしたのは遺憾いかんであった。
 桃生城はいわゆる海道の蝦夷に備えんがために設けられたもので、当初はさきに置かれた牡鹿柵おしかのきの前衛ともいうべきものであったのであろう。その名は天平宝字元年(七五七)四月に初見している。この月四日、勅して不孝、不恭、不友、不順のものあらば、よろしく陸奥国桃生・出羽国雄勝に配して、もって風俗を清くし、また辺防をふせがしむべしとある。当時、陸奥の多賀・玉造の諸柵と、出羽の秋田なる出羽柵とを連絡せしめんがために、出羽に雄勝の道を開いてここに城を置いたさいであったから、それとともにこの桃生柵ものうのきにも、内地の厄介やっかい者を収容して辺防に供せしめたことであろう。したがってこの柵の設置はこの以前にあったに相違ない。
 ついで翌二年(七五八)十月には、陸奥国の浮浪人を発して桃生城を作らしめ、すでにしてその調庸を復して占着せんちゃくせしめ、また浮宕ふとうの徒を貫して柵戸きのへとなすとある。夷地に突入して危嶮きけんの場所であったから、まずもってかくのごとき輩を配して築城防備に当らしめたものと解せられる。さらにその十二月には、坂東の騎兵・鎮兵・役夫えきふおよび夷俘いふらを徴発して桃生城と小勝(雄勝に同じ)柵とを造らしめ、五道ともに入りて並びに功役こうえきにつかしむとあり、翌三年の九月には、この両城をつくるに役するところの郡司・軍毅ぐんき・鎮兵・馬子合わせて八一八〇人、去る春月より秋季にいたるまで、すでに郷土を離れて産業をかえりみず、深く矜憫すべしとの理由をもって、今年負うところの人身挙税ぜいを免ずべしとの優渥ゆうあくなる「勅」があった。もってその工事の大なりしことが知られよう。この月また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野など七国送るところの軍士器仗きじょういて、留めてもって雄勝・桃生の二城にたくわうとある(この年また諸国の浮浪一千人を遣して桃生柵戸に配したことが『続紀』神護景雲三年(七六九)正月の条に見えている。本書にこのとき浮浪二〇〇〇人を雄勝城おかちのきの柵戸とすとあるのは、雄勝・桃生二城の柵戸とすとあるべきを脱したものである)。このころにあっては、陸奥方面では桃生城に、出羽方面では雄勝城に、もっぱら力を用いていたのである。かくてその桃生城の規模は翌四年正月の「勅」に、「陸奥国牡鹿郡しかぐんにおいて、大河にまたがり峻嶺しゅんれいをしのぎて桃生柵を作り、賊の肝胆をうばう」とあってその要害の地を占め、宏大こうだいなものであったことが察せられるのである。ここに大河とはいうまでもなく北上河で、峻嶺しゅんれいといえばまずもってこの茶臼山を指摘すべきものであろう。近時の学者が多くこの茶臼山の寨址をもってこれに擬せんとするは、そのゆえありといわねばならぬ。
 茶臼山は桃生郡桃生村と本吉郡柳津町との境上にあって、いまは北から西にかけて脇谷わきや・四分・倉埣上くらそねかみ・倉埣下・深山しんざんなどの邑落ゆうらくを包み、北上の大河がこれを擁して流下しているが、この川筋はじつは元和年間(一六一五〜一六二四)に開削したものの由で、もとは茶臼山の東を南下してその山麓を洗い、飯野川町に達していたのであったそうな。また南は石生・裏永井・深山の邑落を連ねた低地が東西にわたって、永井の山地との間をかぎり、地勢おのずから要害の形勢をなしているのである。しかしながら、すでに佳景山かけやまの寨址の条にも記したごとく、もしこの茶臼山上なる寨址をもって、ただちにこの桃生城の全部なりといわんとならば、それは誤解のはなはだしいものといわねばならぬ。かの辺地諸郡の民を城堡じょうほう内に安置せよと令文に規定してあるごとく、桃生城また実際多数の農民を収容して、耕作に従事せしめていたものであった。神護景雲二年(七六八)十二月の「勅」に、陸奥管内および他国の百姓、伊治・桃生に住せんと願わんものは、情願じょうがんにまかせていたるにしたがいて安置し、法によりて復を給うべしとある。
 また翌年正月には陸奥国司より、天平宝字三年(七五九)の「符」によりて桃生の柵戸に配した浮浪一〇〇〇人が逃げ出したにつき、比国三丁以上の戸二〇〇煙を募りて城郭に安置し、ながく辺城となさんと請うたに対して、太政官の議これをいれず、もし進の人ありてみずから桃生・伊治二城の沃壌よくじょうにつき、三農の利益を求めんと願わば、当国他国を論ぜず便にまかせて安置し、法外に復を給い、人をして楽しみてうつりてもって辺守とならしめんと請い、かくてその翌二月に至って、「陸奥国桃生・伊治二城営作すでにおわり、その土沃壌、その毛豊饒なり。よろしく坂東八国をして各部下の百姓を募り、もし情農桑のうそうを好み、彼の地の利につくものあらば、すなわち願にまかせて移徙いしし、便にしたがいて安置せしめ、法の外に優復して民をして楽しみてうつらしめよ」との「勅」を見るに至った。かくのごとくにして、だんだん内地の農民は、ここに移住して農桑の業に従事したのである。しかして彼らはむろん城堡じょうほうによって保護されたもので、当時のいわゆる桃生城の境域はかなり広い範囲を包容し、城内に多数の農民の集落と、肥沃の壌土とを有していたものであったに相違ない。宝亀五年(七七四)七月、海道の蝦夷蜂起して橋を焼き、道をふさぎ、桃生城を侵してその西郭を破ったとあるものも、この広い地域を包容した土塁の一部を破壊したことをいったものであろう。はたしてしからば当時の桃生城は、茶臼山を主体として西と北とに平地をひかえ、今の脇谷わきや・四分・倉埣くらぞねなどはみな城内の地であったのかもしれぬ。倉埣の名もあるいは桃生城の倉廩そうりんから得た名であったかと思われるのである。しかしてその茶臼山の東斜面は、急傾斜をなしてただちに大河にのぞんでいたのであるから、この方面は自然の天嶮てんけんによったというべく、防備は主として西と南とに施されたもので、宝亀の乱にはその西郭を破られたものであったのであろう。これもとより一つの想像にすぎないが、なお実地につき、小字などをも調べて、研究を重ねてみたいものである。

   貝崎の貝塚


 桃生村大字樫崎かしざきに小学校がある。その南には帯のように東西に通じた低平の地があって、それをはさんで日高見神社後方の安倍館に対している。この低地は茶臼山の東を限って南にのびた低地に続いて、かつては北上川の一水路であったに相違ない。小学校付近の路傍で石鍬とも称すべき一石器をひろって、学校へ寄托きたくしておいた。『隋書』に、隋の煬帝ようだいが朱寛をつかわして征したころの流求(琉球)では、国に鉄が少なかったがために、田をたがやすにも石に刃をつけて用いたとあるが、この地方にもそんな不自由な時代があったのかもしれぬ。
 小学校から東十四、五町で丘陵の東南端に達する。小字を貝崎といい、ここに一つの貝塚がある。いまはたいてい開墾せられて、はたけの中に海産の貝殻かいがらが少なからず散布し、土器の破片なども多少まじって発見せられる。この地いまは海から約三里半の内地にあって、北上川旧河道にのぞみ、河敷以外はすべて山をもってかこまれたような場所ではあるが、かつては海水がここまでも湾入して、太田、飯野一帯の山地は離れ島であった時代の存在を想像せしめる。しかもそれは人類がすでにここに生存したような、新しい時代であるから驚かれる。

   北上川改修工事、河道変遷の年代


 貝塚のある貝崎の付近で、大きな堤防を築いて前記の西に通ずる平地を遮断し、北上川の水を分かって柳津町から旧河道を南流せしめ、飯野川町の西において追波川へ落とすの大工事がおこなわれている。この旧河道は慶長ころ(一五九六〜一六一五)までも北上の本流であったが、その流れが急にして舟楫しゅうしゅうを通ずるに不便であったのと、一つは河が大部分左右ともに急傾斜の山によってかぎられて、いったん洪水のさいには付近の田園、村落の被害が多かったので、元和年間(一六一五〜一六二四)柳津付近に締め切り堤防を築いて河を右転せしめ、大要現今の流路を取って西に迂回して鹿又かのまたに通ぜしめ、飯野川町付近において旧河道(すなわち今の追波河)に落としたのであったが、それでもなお不足とあって、元和の末より寛永のはじめにわたって、さらに鹿又より石巻に通ずる新河道を開き、これを本流として追波川を分流とするの今の形勢をなしたのだという。しかるに現時おこなわれている改修工事は、元和に築いた柳津町付近の締め切り堤防を撤去してふたたび水を元和以前の旧河道に分かち、茶臼山東よりただちに南下して合戦谷かっせんがいをすぎ、飯野川町の西で追波川に会せしめ、かくて新旧両路を並存せしめて、水害を緩和せしめるものらしい。
 しかし、元和に右転せしめて以来廃河となったというこの旧河道が、はたしていつのころから存したものかについては疑問がある。なんとなれば、その通路にあたる合戦谷付近の山麓には数多あまたの古墳があって、もし河水が当時この地を流れていたとすれば、洪水のさい必ずひたされねばならぬような形勢の地に存するからである。この古墳のことは項をあらためて別に記述するが、ともかくかかる墳墓を築造した時代において、北上川の流れがここを過ぎていなかったことは疑いをいれないのである。すなわちこの河がかつてこの流路を取っておったことがあったとしても、それはいつのころにか廃川はいせんとなり、久しく世に浸水の害が忘れられて、当時の人がその山麓の低地に墳墓を作ったのであるに相違ない。しかして元和にはたしてこの川を廃したというのならば、それはここに墳墓を築いた後のある時代において、ふたたび北上川がこの流路を取るに至ったのであったに相違ない。
 今、柳津町の南から、茶臼山東の旧河道を通ずる一条の小流があって、永井の山地と樫崎の低地とを隔離して東西に通ずる一帯の低地を西流し、さらに太田・飯野の山地を西より南に迂回して、飯野川町の西方で追波川に合流しているもの、これを古川こかわといっている。これすなわち北上川の古水路の名を伝えたものであろう。すなわちかつては柳津町付近より、直南合戦谷かっせんがいをへて飯野川町に通じていたものが、いつしか流路をこの古川筋にあらため、合戦谷付近は久しく廃川となっていたがために、ここに墳墓も設けられるに至ったものであろう。しかるにその後ふたたび本流はこの旧路に復して、前者は古川の小流として存するに至ったのを、元和のころさらに柳津より西に導くにおよんで、爾来、廃川となって現時におよび、今日さらに復活の運命に遭遇したものと解せられるのである。
 これは柳津以南における歴史時代の河道の変遷の一斑いっぱんであるが、その以前においてさらに種々の変遷のあったことは、地形がいちいちこれを示している。かの安倍館の北を東西に通ずる一帯の低地も、かつては旧河道であったらしいことはすでに記した。柳津以北においてもとより変遷の多かったことは言うまでもないが、今回の視察に関係がないからここには略しておく。

   合戦谷付近の古墳


 日高見神社の祠官しかん大和氏のお宅で拝見した曲玉の発見地は、桃生村字樫崎かしざき地内なる山田の高道公の墓と称する地の付近だとうけたまわった。場所はさきに貝塚を見た貝崎から、北上川の旧河道(今度ふたたび開通されるもの)をはさんで東南に見える山の尾先である。字山田の守久米太郎氏も同じ付近から発見したという種々の遺物を持っておられるとうけたまわったので、一同、道を迂回して拝見に出かけた。同氏が現今所蔵せられるものには瑪瑙めのうの曲玉一、蕨手刀わらびてとう一、柄頭つかがしらに銅覆輪ふくりんをほどこした太刀一、皮帯の金具一である。このほかにもと青色の曲玉もあった由で、明治八年(一八七五)に高道の碑のある場所よりも百間ばかり上方の畠地から発見したものだという。だいぶ山に引き上がって設けられた古墳であったらしい。この付近にかく古墳の少なからず存することは、かかる墳墓を築造する習慣のあった時代において、この地方に少なからぬ有力なる豪族の存在したことを示しているのである。
 それについて特に注意すべきは蕨手刀の発見だ。夷地にはこの刀剣が当時、好んでもちいられたらしく、飯野の飯野山神社にもその一口を蔵している由であるが、奥羽地方の古墳から往々この種の刀剣の発掘せられたことを聞きおよぶ。遠く北海道は札幌の博物館にも、北見から発見したという蕨手刀一口を蔵している。これは年代の考定のうえにも有力なる材料となるもので、それが曲玉とともに発見せられるところを見ると、これを天平宝字(七五七〜七六五)以後に移された邦人の墳墓と見るよりも、あるいはその以前においてこの地方の蝦夷の酋長らが、早く日本文化を輸入し、かかる物品を使用して、この種の墳墓を築いたのであったかもしれないのである。
 急坂をのぼって高道の碑というものを一見し、さらに旧河道の東側に沿うて山麓を東南行すると、路傍に数個の石塚がある。自分を乗せた車夫の言によると、彼は先年したしくこの穴に入って白骨を取り出したことがあるという。いまは例の北上川河道の工事のためにほとんど破壊せられて、わずかにその存在を髣髴ほうふつするにるほどの惨状とはなっているが、もとはただに三、四個のみではなかったらしい。あるいはまだ埋没して隠れたのがあるかもしれぬ。位置はまったくの山麓で、もしここに北上川が流れていたとしたならば、洪水のさい必ず水にひたさるべき場所である。これはこの旧河道の変遷を知るうえに必要な材料だと思う。

   いわゆる高道の碑―坂上さかのうえの当道まさみちと高道


 山田の守氏邸を辞して、北上川旧河道に沿うた関街道〔一関街道か。(飯野川町から、北上川旧河道をへて、北に向かって柳津町の方に通ずるもの)を、合戦谷かっせんがいの方に向かって少しく南行すると、山脚の西に向かって出た端、やや上がった所に例の高道公墓と称するものがあるのである。自然石の正面に「高道」の二字、やや左に下がって「墓」の一字を刻し、さらにその左の下方に「貞観五年(八六三)五月」とある。土地の人は高道の何人たるを知らぬながらも、陸奥国府の役人として下向しているうちに、蝦夷と戦ってここに死んだので、それで合戦谷の地名もできたのだと伝えているそうな。その墓はもと今の地よりもはるか高い所にあったのを、後にここに下げたのだと案内の人は説明してくれた。先刻、守氏方で見た遺物もこの付近の畠地から発見されたのだといえば、この辺りに古墳のあったことは確かではあるが、それは年代が貞観よりもはるかに古いものである。またそのいわゆる高道公の墓なるものも、よほど奇態なもので、もとより当時のものとは思われぬ。またもしそれが国府の官吏かんりであるならば、碑にはかならず官位、姓氏を書かなければならぬはずだ。佐久間洞厳どうがんの『奥羽観跡かんせき聞老志もんろうし』には、

 高道石墳、樫崎かしざき村にあり。寺崎駅を去る東一里あまり、郷人山田の碑と称し、あるいは貞観の石と号す。高さ四尺、ひろさ九寸余、石囲六尺。南向して立つ。上に「高道墓」の三字あり。文字方二寸、榎樹、石をはさみてうるあり。下畔の文字見えず。左旁に記して貞観五年(八六三)五月日という。相伝う。かくの人夷賊を討じてここに戦死す。後人石を立つ。その古墳いまなお存す。

 一日その文字を打す。鳥跡ちょうせき尋常ならず、高古逎勁しゅうけい、当時何人の手跡たるを知らず。郷人高道の何人たるをつまびらかにせず。よってこれを国史に考うるに、文徳もんとく実録』にいう、天安二年(八五八)戊寅つちのえとら正月己酉つちのととり、従五位下坂上大宿祢高道陸奥介となると。貞観五年(八六三)癸未みずのとひつじに至ってすでに六年。嗚呼ああ王事もろもろき〕ことなく、ついに戦死に東陲とうすいやすんじて、忠誠を千載せんざいに遺す。貴むべきの人なり。しかるに州人その実をるものなく、佳名いたずらに泉下せんかつ。まことにしむべし。

とある。『名跡志』や『封内風土記』にもともに似た記事がある。しかるに陸奥介坂上高道のことはあまり史にあらわれずして、同時代の陸奥守坂上当道まさみちのことがさかんに称えられ、『大日本史』にもその伝が出ているほどであるので、ここに高道とあるのはその実、この当道まさみちのことであろうと解し、古史に「当道」とある方が誤写で、この碑はもって史の誤りを訂正すべきものだとの説があるらしい。しかし当道は貞観九年(八六七)三月九日に死んだ人で、もちろん五年五月ではあたらない。『三代実録』に、

 九日己酉つちのととり、前陸奥守従五位上坂上大宿祢当道まさみち、卒す。当道は右京の人なり。祖田村麻呂奇卓忠梗、志匡正きょうせいにあり、東夷を討平して軍功世にふるう。官大納言に至り、従二位を贈る。父広野ひろの右兵衛督となり、爵従四位下勲七等。当道まさみち少にして武事を好み、弓馬に便しもっとも射をくす。かねて才調あり。承和中内舎人うどねりとなり、正月、大射たいしゃの礼をおこなうにあたり、五位已上不足一人。時に詔して当道をもってその数につ。いまだいくばくならずして右近衛うこんえの将監しょうげんとなり、かさねて左兵衛左衛門二府の大尉にうつり、斉衡二年(八五五)従五位下を授け、右衛門権佐に拝し、検非違使を領す。当道まさみち法を処する平直、威刑厳ならず。事道理にそむく者は、権貴というといえども、いまだ必ずしも容媚ようびせず。天安のはじめ左近衛少将となり、貞観元年(八五九)出でて陸奥守となり、常陸権介を兼ぬ。その年冬従五位上を加わう。州秩すでに終わり代を待つこと四年、在国九年にして卒す。時に年五十五。当道まさみち家に廉正れんせいをおこない、財を軽んじて義を重んじ、任にあって清理の称あり。境内粛如しゅくじょとして民夷これをやすんず。貧におり資なし。棺歛にのぞみてある所布衾一条のみ。しかも遺愛人にありて、いまに至って思わる。

とある。こんな立派な人で、ことにそれが任地で死んだのであったから、後人その徳をしたうて碑を立てたというにも無理はないが、それにしても名を間違えたり、月日をでたらめに書いたとは思われない。また当道まさみちが夷賊と戦ってここに死んだなどの伝説はもちろん信じ難い。彼は国守の一任を終わって後、後任の国守の到着を待って国府にいるうちに死んだので、決してここに蝦夷と戦うて死んだのではない。もしそんなことがあったならば、こんなに詳しくその徳をしょうするこの『実録』の記事において、かならず書かなければならぬはずだ。また当道まさみち在任中からその死の貞観九年(八六七)までは、いっこう征夷の事実はなかった。いやしくも前国守が戦死するほどの大事件が、どうして『実録』にらされよう。
 しかしながら実をいえば、この碑はやはり高道であって当道まさみちではないのだ。『聞老志』にも引いてあるごとく、陸奥守たる当道まさみちと同時代において、別に陸奥介たる坂上大宿祢高道という人もあったのだ。『文徳実録』天安二年(八五八)正月十六日、従五位下坂上大宿祢高道を陸奥介となすとあり、『三代実録』貞観二年(八六〇)二月十四日条に、鎮守将軍従五位下坂上大宿祢高道を上総権介となすとある。この人はこれより先、貞観元年正月十六日に、陸奥介から鎮守府将軍にうつっていたのだ。しかるに現存寛文板の『三代実録』には、この任官の条に従五位下行陸奥介坂上大宿祢当道まさみちと間違っている。しかしそれがあきらかに「高道」の誤写であることは、前後の任官を見合わして容易に知られるのである。
 なんとなれば、本当の当道まさみちの方はこの年正月十三日に左近衛少将兼備前権介から陸奥守に任ぜられたので、陸奥介ではなかった。また当道はその後上総権介に転任するなどのことはなく、引き続き陸奥守として在任し、この五月十九日に常陸権介にはなったがそれはあきらかに兼官とあって、その身は引き続き陸奥国府におり、秩限ちつげんの後もなお任地にあって、在国九年といわれているのであったのだ。またその伝には、彼が鎮守府将軍になったことも、また上総権介になったこともいっておらぬのだ。のみならず、彼はこの年十一月十九日に従五位上に昇叙しょうじょされたにもかかわらず、翌二年二月十四日に鎮守府将軍から上総権介になった高道は、やはり従五位下とあるのである。そして貞観三年(八六一)二月二日には、陸奥守坂上大宿祢当道まさみちは、従五位上の位階をもって介の伴宿祢春宗とともに、前守の解由げゆ不与のことの過失によって公廨くげを奪われているのである。すなわち両人、官職も位階もちがって、当道・高道はたしかに別人である。『続群書類従』所収「坂上系図」にも、当道は田村麻呂の子で浄野きよのの男とあって、それには陸奥守としるし、高道は田村麻呂の十一男で、それには鎮守府将軍としるし、おのおの別に掲出してあるのである。しからばすなわち高道は天安二年(八五八)正月に陸奥介にはなったが、在官わずかに一年で鎮守府将軍に転じ、それも一年一か月ばかりでさらに上総権介に転任したもので、その後、陸奥においては立派に介の後任も、将軍の後任もできているのであるから、爾後、貞観五年(八六三)まで彼が現任の地を捨てて、旧任地の陸奥にとどまり、ここに蝦夷と戦うて討死うちじにするなどのことのあるべきはずがない。またこの間に征夷の事実もなく、もし前の介が戦死するような大事件があったならば、『実録』がそれをらしたとも思われないのである。それでいて、どうしてここにその墓があり得よう。けだしこの碑の偽作者は、やはり陸奥介たるこの高道と、任地に死んだという陸奥守当道まさみちとを混同したのであるに相違ない。彼はおそらく『文徳実録』を見て高道が陸奥介に任ぜられたことをのみ知って、『三代実録』にその転任の記事のあることに気がつかなかったのだ。このことは『聞老志』の著者、佐久間洞巌も同様である。『聞老志』には高道が陸奥介に任ぜられたことのみを記して、その鎮守府将軍となったことを見落としている。本書は他の鎮守府将軍をそれぞれに書いてあるのであるから、もし高道の任官に気がついていたならば落とすはずはないのである。しからばすなわちこの碑石は、およそ洞巌くらいの知識の人の偽作したものであろう。
 当道まさみちが前陸奥守として任地に死んだことは『大日本史』に出ている。この書がいつ世に出で写し伝えられたかはあきらかでないが、もし『大日本史』の当道伝を見、また天安に高道が陸奥介に任ぜられたことを知って、両者を混同したと想像したならば、この地の樫崎かしざきの名を合戦崎と付会することと関連して、ここにこのくらいの偽作はできそうなものである。『大日本史』には当道死没の年を略して、単に「貞観元年(八五九)出為陸奥守……秩満待代四年卒于任所」とのみ書いてあるから、もし軽率にそれを見て高道と混同したならば、貞観元年から四年を経たとして、貞観五年という年も出てきそうなことである。しかし、この碑石はすでに享保の『聞老志』にも出ていることであるから、『大日本史』を見てからではよほどいそがしい仕事である。仙台領には多賀城碑をはじめとして、燕沢つばめざわの碑やら、田道の墓やら、多賀城址にある弘安四年(一二八一)の伏石というものなど、よほど問題になる金石文の多いことであるから、まずもって眉毛まゆげに十分つばをつけてかからねばならぬ。
 それにしても高道と当道まさみちとは、同じく坂上大宿祢で、同じ時代に陸奥に任官し、位階も上下の差こそあれ同じ従五位であることから、古来『三代実録』にもいろいろに間違えて写し伝えられている。かの貞観元年(八五九)正月十六日に陸奥介から鎮守府将軍に転じたはずの高道を、寛文版の『三代実録』に当道と間違っていることはすでにいった。しかしこの本には貞観二年二月十四日に鎮守府将軍から上総権介に転じたときの記事には、立派に高道と書いてあるが、初版の『国史大系』本には、朝田弓槻本によったとして、それをも当道と改竄かいざんしてあるのである。ことにその再版本にいたっては、彼が鎮守府将軍に転じた貞観元年正月十六日の条の官名に陸奥介とあるのをも、上下の文によったとして陸奥守と改めてあるのである。大系本の校合者は、この官も名も異なる当道まさみちと高道とを、全然同一人にしてしまっているのだ。さらに京大蔵、谷森たにもり種�たねまつの校本を見ると、寛文版に高道を当道と誤った貞観元年正月十六日(陸奥介から鎮守府将軍に転ずるときの記事)の条には、尾張家本には立派に「高道」とあり、他に常道・商道など誤ったものもあるそうに付記してあるのである。
 こんなふうに古来、高道と当道とは間違えられ来たっているのであるから、この碑の偽作者が上総権介に転じた前陸奥介なる高道と、前陸奥守として任地で死んだ当道とを混同し、こんな碑を立つるに至ったのも無理はない。それにしても、よくも『三代実録』を見ないで、とんだボロを出したものだ。これは多賀城碑の偽作者が、『日本後紀』を知らなかったがためにボロを出したのよりもいっそうせつだ。

 合戦谷から南、河道改修工事を見つつゴロゴロ道を車にゆられて飯野川町に出で、これから追波川を汽船で鹿又駅にいたり、さらに汽車の厄介やっかいになって夕刻、仙台市についた。これから後のことは前号所載の「学窓日誌」にあるとおり。
 かえりみれば桃生郡内滞在はわずかに四日間で、その踏査するところきわめて一小部分にすぎなかったが、しかもさいわいに斎藤君はじめ地方の有志諸君の好意によって少なからぬ便宜を供せられ、この交通の不便な地において、期間の短かった割合に得るところの多かったのは感謝にたえぬ。書きとめておきたい雑事、遺聞もまだまだほかに少なくはないが、あまりに長びいても読者のご迷惑と察して、しい筆をここに止める。



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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庄内と日高見(三)

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)爾薩体《にさつたい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)村山郡|左沢《あてらさわ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)宝ガ[#「ガ」は小書き]峯

 [#…]:返り点
 (例)依[#二]従五位下勲六等小野朝臣宗成請[#一]
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   館と柵および城

 しかしながら、いわゆる中山柵がよしやこの地であったにしても、その柵なるものと丘上に現存する館址とが、果して同一であるや否やは考えなければならぬ。前にも引いたごとく、東辺・北辺・西辺の諸郡の人居は城堡の中に安置すと「大宝令」にあって、蝦夷や隼人の境に近い所では、人民を城寨内に保護したものだ。この中山柵においてもおそらくそうであったに相違ない。『和名抄』に、柵は「竪木を編むなり」とある。竪に木を建てて、それを横木に編みつけた垣の名称である。この柵で周囲を取り巻いて、中に民居を保護したのだ。これに対して城とは土塁を築き繞らした防備のようであるが、邦語では両者ともに「キ」であって、『続日本紀』にはしばしば「城」と「柵」との文字を混用してある。しかしそのいずれにしても、アイヌのチャシのごとく丘陵の一部を平げてここに酋長の住宅を設け、その麓に部下の民を住ませたのとは様子が違っていたに相違ない。
 奥羽地方に多い山館《やまだて》は、多くはアイヌのチャシと同型式のものであって、その名も『和名抄』に、「館和名多知」とあり、本来チャシと同語同物であったと解せられる。けだし奥羽地方に多い山館は、多くはもと蝦夷の酋長の居館であったのであろう。当初、夷地に置かれた諸郡の中には、王化に服した夷酋の建てたものが多かった。そして彼らはその郡領に任ぜられたのだ。前記田夷村の蝦夷が請うて郡家を建てたとある、その遠田郡の郡領遠田君雄人は俘囚であった。宝亀十一年に謀叛した上治郡の大領|伊治公《いじのきみ》呰麻呂《あたまろ》も、また夷俘の種であった。しかしてこれを侮辱して謀叛せしむるに至った牡鹿郡の大領道島大楯ももとは丸子《わにこ》姓で、上総の俘囚丸子|廻毛《つむじ》などと同族であったらしい。また郡領とはなくとも奈良朝ころの夷地の酋長で勲位を授かったり、内地風の姓氏を与えられたりしたものははなはだ多い。しかしてこれらはいずれも館主《たてぬし》ともいうべきほどのものであったと察せられるのである。
 今この欠山の北端なる館址も、その構造宛然これらの館と同一であって、あるいはもとこの地方に勢力を有した蝦夷の酋長の居館であったかも知れぬ。この類のものは奥羽地方到る処にあるといってもよいほどで、『封内風土記』列挙するところのみでも、桃生一郡だけで四十ヵ所を数えているのである。これらはいずれも山寨で、平地に農民を保護したという類のものではない。伝説には何の某がいたなどと、歴史時代の邦人の名を称えているのが少くないが、それらは多くは当にならぬ。またよしやこれらの人々の居城であったとしても、それはかつて蝦夷の酋長の館址を利用したのであったかも知れないのである。
 しかし邦人擁護の柵なり城なりというものも、単に周囲に木柵や土塁をめぐらしたのみのものばかりではなく、その主要部に防戦の設備を施したものがなかったとは言われない。かの多賀城は単に土塁の防禦のみであって、中に正庁の場所はあっても別に館風にはなっておらぬが、すべての城といい柵というものが、必ずしもことごとくこの通りであったと解するの必要はない。朝鮮半島古代の平地の都邑には、城郭を取り繞らしてこれを擁護したのが多いが、別に避難所として山城の設けのあるものも少くないのである。したがってこの中山柵の問題についても、今に字中山の称あるこの欠山丘陵上の館を中に取り込んで、附近に住民の居宅があり、それを木柵で取り繞らしてあったものかも知れないのである。ただ従来世人が城といい柵といえば、ただちにチャシ様の館址にのみ着目して、人居を城堡内に安置せよとの本文に留意することの少いのは、確かに間違ったことだといわねばならぬ。

   広淵沼干拓

 欠山寨址を下って、一同山麓伝いに字糠塚なる亀山恭助氏方で休憩し、汽車の時刻を待つ間にも種々の有益なるお話を承ったことであった。欠山丘陵の南端、須江村大字沢田に小字瓦山という所があって、布目瓦を出す。小字|上竈《うわかま》、下竈《したかま》などいうのもあるということなどをも承った。これは古代の瓦焼場であったらしい。かかる僻遠の夷に近い地方にも、古いころからここで瓦を焼いて、寺を建てるほどにも開けておったのだ。
 佳景山《かけやま》駅から広淵沼の北岸を過ぎて、前谷地《まえやち》駅へ引き返す。前谷地村大字黒沢なる斎藤養次郎氏を訪問して、その所蔵の発掘品を拝見せんがためである。佳景山駅の附近で、北上川の水を広淵沼に導く工事を見た。これは広淵沼現在の水を石巻湾に排水して沼を干拓し、その跡に出来た水田なり、また従来この沼から灌漑を受けていた村方なりへ、用水を供給するためだという。広淵沼東西約二十八町、南北約三十三町、これを干拓し得たならば、よほどの水田を得ることであろう。
 用水路掘鑿のさい人間の頭骨を掘り出したと聞いて見に行ったが、今は事務所にないとのことであった。なんでも畠地の地中数尺の所から、馬骨とともに頭蓋骨のみが出たのであったという。戦死者の首級を隠したのであったかも知れぬ。

   宝ガ[#「ガ」は小書き]峯の発掘品

 前谷地駅から道を東南にとって、斎藤養次郎君を訪う。同君は桃生郡切っての富豪と聞こえた斎藤善右衛門氏の令息だ。邸の附近に真宗の説教所がある。御本山から毎月布教師を請待して、村民の教化につとめておられるのだという。奇特なことだ。邸内山上の別館に案内されて、そこに陳列された石器時代遺物を拝見に及ぶ。遺物はすべてその附近なる同氏持地内の一遺蹟から出たもので、石器・土器・骨器・角器・玉器等、その夥しいこと驚くばかりだ。表紙に出したものや、ここに挿入したものはそのきわめて一小部分たるに過ぎぬ。遺蹟はその山続きで北村地内に属し、もと※[#「木+聖」、第3水準1-86-19]峯といっていたのを故坪井正五郎博士が発掘して、金銭のみが宝ではない、古えを知るべき石器、土器はまた実に宝とすべきものだとの意味で、宝ガ[#「ガ」は小書き]峯と改名されたのだという。広淵沼を望んできわめて見晴しのよい所に別荘を構えて、ここに坪井博士の書かれた額や、大野雲外君の書かれた軸物などがある。これによっていわゆる宝ガ[#「ガ」は小書き]峯の名の由来や、その発掘の次第を知ることが出来る。
 遺蹟は丘上の包含地で、明治四十三年に故坪井博士が始めて調査せられ、大野雲外君や山中樵君などが参加せられ、大正三年以来、連年引続き発掘されたものだと承ったが、まだまだ手がつかずに遺っている場所が多い。遺物には珍奇なものが多く、比較的少いはずの土偶のみでも数十に達している。一遺蹟からこれほど多種多数の遺品を得た所はけだし他に例が少なかろう。この貴重なる多数の研究材料を、かかる僻遠の地に保存しておくのは惜しいものだ。行く行くはどこかしかるべき所に陳列館を作られるなり、適当な陳列館へ寄托せられるなりして、研究者の便に供せられたいが、差当りその重なものだけをでも図版に現して、精しい発掘報告書を発表せられたいものである。

   古い北村

 宝ガ[#「ガ」は小書き]峯から箱清水に下って箱泉寺を訪れたが、住職御不在とあって要領を得なかった。境内に心字池、弘法大師の独鈷水など、いろいろ珍らしいものがある。中にも枝垂栗《しだれぐり》というものは、近ごろ流行の天然紀念物として、珍重すべきものかと思った。この樹は明和の『封内風土記』にすでにその存在が出ているのだから、かなり古くからあったのに相違ない。ただし享保の『聞老志』には、この寺に古槻あることのみがあって、この枝垂栗のことは見えておらぬ。
 日が暮れてから北村の上表沢なる斎藤荘次郎君のお宅についた。同家の提燈に金堂《かねどう》と記してある。鐘堂の義じゃそうな。『封内風土記』に、「旧跡……鐘堂と号するの地、伝へ云ふ古昔高徳寺の鐘楼あり、故に地名を爾か云ふ」と。
 北村一村ほとんど全部山岳丘陵地で、東には今も広淵沼の水が湛え、西には遠田郡南郷の平野を控えているが、これももとは沼沢地であったらしい。これに望んだ字久米田の桑柄に貝殻塚というのがある。『風土記』に、「之を穿てば則ち貝殻を出だす」とあって、古くから世に知られた貝塚らしいが、調査の暇がなかったのは遺憾だ。村の北部なる山地にはかの大きな宝ガ[#「ガ」は小書き]峯石器時代遺蹟があり、その他にも遺蹟が少からぬと見えて、すでに『風土記』には村の名物として、矢ノ[#「ノ」は小書き]根石を数えてあるくらいだ。それから引続きいわゆる日高見時代には、この山地には有力なる蝦夷の豪族が少からず住んでいたらしく、これも『風土記』に古塁六所を掲げてある。中にも高寺なる新城館というものは、田村将軍東征の日の遺蹟だとあるが、それはもとより信ずるに足らぬ。その他高谷地・小崎・草田・青木・駒場等を数えている。しかしその他にもまだあるらしい。村の中央に朝日山が峙って、標高百七十三メートル。その西南麓の字旭に、旭長者の屋敷というのもある。この附近にもまた大きな貝塚があるそうな。
 何分にもこの地は石器時代以来久しく蝦夷の巣窟であったのだ。そして比較的後の世までもそれが遺っていたらしいのだ。その村名北村とはどこから見ての北村か。もし志太郡の名がヒダで、ヒナに縁があるのならば、北村の名もあるいはヒナの転訛ではなかろうかなどとまで思ってみた。つい近所に日高見川が北上川になっている例があるのだ。ちなみにいう。この古い北村におられる斎藤荘次郎君はその村の由緒を闡明すべく、『我が北村』という雑誌を出しておられる。同君はまた『桃生郡誌』を編纂して、近く脱稿するとのことである。

   姉《ねえ》さんどこだい

 土地に適当な宿屋がないとのことで、この夜は栗田・小島の両君とともに斎藤君の立派な離れ座敷で御厄介になった。本宅の方は百五十年ほど前とかの建築じゃそうで、この地方の古い豪家の住宅の標本たるべきものらしい。離れ座敷の方はこれと並んで、五十年ばかり前に建築したものだという。格天井を張りつめた、至って手のかかったものだ。翌日桃生村の村長西条勇記君のお宅で御厄介になったが、その家造り、離れ座敷の位置、その格天井までほとんど同じ風に作られておった。けだしこの地方にはこの種の建築がはやったものらしい。今その間取りの塩梅を精しく図示して来なかったのが惜しいが、牛《うし》と呼ばれる巨大な中心桁がありながら、その牛持柱たる大黒柱のないのはちょっと奇態に感じた。佐々木喜善君の『江刺郡昔話』(郷土研究社発行)には、その地方の家にはたいてい牛柱という物のあることを書いて、ウシは臼のことであろう、その柱の側には通例臼を置く習慣だとのことがあったが、実はウシは大人をウシというと同じく、ウシハクすなわち領するの義で、家の中心となって、屋根の重みをそれで支える巨材の義である。そして牛柱もしくは牛持柱とは、その牛の巨材を支えるための柱の義である。江刺郡地方の家には、牛持柱に対してまた向い牛という名称の柱もあるらしい。しかるにこの斎藤君のお宅の大きな建築には、牛桁はあっても牛持柱というべきものはなく、強い梁でその牛桁を支えているのである。これもこの地方建築の特徴というべきものであろうと思った。
 数々のおもてなしに預って、旅中の快い一夜を格天井の下に明かした。食事から就寝まで、万事お世話をしてくださる婦人があった。斎藤君の細君らしくもなく、さりとて妹さんとも見えず、もちろん女中さんではない。どうした方かと承ると、なんでも姻戚関係ある学校の先生じゃそうな。勿体ないことだ。それについても思い起す逸話がある。筆のついでに書きとめておきたい。
 例の大正四年の中尊寺における日本歴史地理学会の講演会の時であった。講師一同本堂に宿泊して、先方主催者のお計らいで、食事や寝具はすべて一の関の料理屋とか宿屋とかから取り寄せてくださったことであったが、この時一同のために食事の給仕から衣服の始末、さては寝床の揚げおろしまでも万事面倒を見てくれた婦人、いかにも気が利いて上品であったので、講師仲間の評判となり、中にもO君、M君などひどく気に入ってしまい、いずれ仲居の中から選抜されたものであろうくらいの想像で、「姉《ねえ》さんどこだい」といえば、「一の関でございます」としとやかに答える。「おい姉さん、水を汲んでおくれ」「おい姉さん、茶を入れておくれ」などと、至って心安く用を頼んで良い気になっていたものであった。中にもO君のごときはことに御意にかなって、宅の女中に連れて帰りたいなどとまでいっておられたところが、翌日からその「姉さん」、蝦茶の袴をはいて見えられた。学校の先生であったのだ。一同大いに恐縮して、それから態度一変、恐々謹言することになった。やはり奥州は床しい所だ。

   二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑

 翌朝は汽車で前谷地から鹿又《かのまた》へ出て、それから北上川の分流追波川を船で飯野川町へ行くつもりのところが、朝寝したために間に合わなくなり、栗田・小島両君とともに斎藤君の東道で、ともかくも徒歩で出かけた。途中でやっと一台の俥を得て自分がそれに乗り、若い元気な連中は徒歩でそれにつづく。広淵村でさらに一台を得て栗田君がそれに乗り、斎藤・小島の両君は自転車で同行。本鹿又で俥を返し、天皇渡しで北上川を小船越に越え、追波川の堤上を飯野川町まで徒歩。ここでまた二台の俥を雇い、自転車二台とともに大谷地村飯野に向った。ところがその一台の俥が大変なもので、車体がひどく老朽しているうえに、引き手がかなりの老人とある。おまけにその老人酒に酔って、口は達者だが足がいっこうはかどらぬ。ことにその俥に乗ったのがあいにくゴムまりのように真ん丸く肥《ふと》った栗田君と来たからたまらない。飯野の古川の堤上で俥は梶棒と踏台とを老車夫の手に残して、車台は栗田君を乗せたままに後に倒れてしまった。幸いにゴムまりのような栗田君には弾力が強かったので、別段に怪我とてはなかったが、一時はどうしたことかと心配したものであった。
 俥がまだ壊れぬ前のこと、一同出迎えの校長さんや先生方に案内せられて、字吉野の区長さんのお宅に参集、ここの飯野山神社の幟や新しい神鏡などを拝見に及び、それが式内飯野山神社であることの説明を拝聴した。別に式内飯野山神社というのが飯野の本地にもあって、互いに真偽を争っているのだ。享保の『奥州[#「奥州」は底本のまま]観蹟聞老志』には、「飯野山神社飯野村にあり、其の地を詳にせず」とあって、古く忘れられていたものらしい。明和の『風土記』には、「雷電社、土人伝へ言ふ、古昔飯野山神社の遺址なり、名跡志曰ふ、古野と号する地に社地址あり、相伝ふ、古昔神社あり、年代悠遠、仍て荒廃久し。霊元帝天和中、土人社を建てて雷電宮と曰ふ」とある。いずれにしても新しい年代の再興だ。
 式内神社の本末争いは面倒なものだ。それで下野の二荒山神社や、奥州の都々古別神社は政府でも双方を認めている。大和の丹生川上神社などは、このほど上社・下社の上にさらに中社が加わって、三社の官幣大社が出来たことは第八巻第六号の「学窓日誌」に書いておいた。吉野の飯野山神社は山上にあるので、疲れた足には迷惑とあって参拝は御免を蒙り、その登り口の一王子社という小祠にある嘉暦の碑というものを拝見に及ぶ。平石の上部に、薬研ぼりに梵字を刻し、下に「嘉暦三年〈戊辰〉九月二日」とある。一王子とは後二条天皇の第一皇子邦良親王のことで、都を遁れてここに終り給い、その地を吉野というのも、親王が南朝の吉野の行在所を偲んで、ここに桜を植えられたからの名だというのだ。しかし邦良親王は嘉暦元年に京都で薨ぜられたお方で、その顛末に疑いはなく、またそのころはまだ南北朝分立前のことなれば、吉野の行在所を偲ばれるにしてはチト時代が早すぎる。けだし地名を吉野といい、社を一王子ということから、宮方の一皇子を連想して起った伝説であろう。一王子はあるいは熊野の王子を祀ったのではあるまいか。飯野本地の飯野山神社のある向う側の山の上に平地があって、字長者森といい、布目瓦を出すという。古い寺でもあったものらしい。

   日高見神社と安倍館――阿部氏と今野氏

 栗田君の俥が壊れたので、お相伴して自分の俥をも返し、一同徒歩で桃生村太田に向って、日高見神社に参拝した。社は字十貫の丘上にある。社道の並木も物古り、神域すこぶる神々しい。祠官大和氏はもと大和国から来た修験の家じゃそうで、院号を良国院といい、修験に関する辞令書などを多く蔵しておられる。その社務所の祭壇に数体の仏像を祭ってあるのは珍らしく拝した。明治維新後、神仏分離のさい、いったん天井裏に隠しておいたのを、近年再び現わしまつったのだという。
 日高見神社は式内社で、『神社誌料』によると祭神天照大神・倭健命《やまとたけるのみこと》・武内宿禰の三座だとある。しかしこの神、実は河の神らしい。『三代実録』貞観元年五月十八日条には、陸奥国正五位上勲五等日高見水神に従四位下を授くとある。この神名、寛文版の本には日高見乃神とあるけれども、尾州家本その他諸本多く「乃」を「水」に作り、この方従うべきものであろう。すなわち日高見川の神である。神名に「乃」の字を加えたのも異例である。同じ奥州で阿武隈川に式内阿福河伯神社があり、胆沢郡に式内胆沢川神社があり、そのほかにも河の神を祀った神社が式内に少からぬを見れば、これももと北上川なる日高見川の神を祭ったものではあるまいか。創建について『聞老志』には、「相伝ふ後冷泉帝治暦中、義家朝臣東征の時建つる所なり」とあるが、それでは時代が延喜以後になって、式内社には都合が悪いとあって、近ごろの社伝には、景行天皇四十年日本武尊東夷御征伐のさいの勧請で、後冷泉天皇康平五年頼義の貞任征伐の時、賊の巣窟に接近せるより兵火にかかり、乱平ぎて後頼義新たに神殿を造営したとある。頼義が貞任とこんな地方で戦争したには困ったが、社地の北には現に貞任の安倍館と称する館址があって、古くからそんな伝えはあったらしい。
 ちなみにいう。今本吉郡の東端の唐桑にも日高見神社がある。本郡もと桃生郡の中であったので、式内桃生郡日高見神社をこれに擬する説もあるけれども、この地方は延喜のころまだ一郡となるに至らず、おそらく夷地に没入していた所で、ことに神名を日高見水神とあるによれば、式内社としてはやはりこの桃生郡太田のそれを取るべきであろう。北上川の旧道はこの山の東を流れ、支流はただちに山北を洗って西南に迂回していた形勢から見ても、三方川につつまれたこの丘上に日高見川の神を祭ったことは、その地を得たものといわねばならぬ。
 いわゆる安倍館は北に北上川旧河道の一を控え、東と西とにはその支流が深く彎入して、三方懸崖をなした要害の地である。構造は例の型のごとく、規模はかなり大きい。いずれ有力なる酋長のいたものであろうが、それが安倍貞任であっては困る。安倍氏は父祖以来陸中中部の六郡を横領して、ようやく衣川の外に出でんとするの勢いとなり、ために国司と衝突を起したものだ。したがってその遺蹟は衣川以北に限られている。この地方がいかに古代の海道蝦夷の巣窟であったからとても、この時代にまでも俘囚の長なる安倍氏がここに根拠を構えておったでは、あまりに辻褄が合わなさ過ぎる。
 しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗る村民も少くないらしい。日高見神社の境内に伊勢社という小祠があるが、その社殿建立費用の寄附者連名の三十二名の中に、阿部氏を称するもの実に十名の多きを数えているのである。先日出羽庄内へ行った時にも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉神護景雲三年に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命の後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかも知れぬ。前九年の役後には、別に※[#「金+色」、第4水準2-90-80]屋・仁土呂志・宇曾利合して三郡の夷人安倍富忠などいう人もあった。かの日本《ひのもと》将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館が果して安倍氏の人の拠った所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かも知れぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野《こんの》氏の多いのもちょっと目に立った。前記伊勢社寄附連名三十二人の中で、今野氏を称するものもまた、実に十人の多きを数えた。今野はけだし「金《こん》氏」であろう。前九年の役の時に気仙郡の郡司|金《こんの》為時《ためとき》が、頼義の命によって頼時を攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものと見える。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。その金《こん》に、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏をオオノ、紀氏をキノと呼ぶのと同様である。
 大和氏のお宅で、桃生村字樫崎の山田なる高道の墓の附近で、明治七年に発掘したという瑪瑙の曲玉を拝見した。当時の見取図によるに、墓のある所から山道を隔てて、東南の上手に当っている。高道の墓のことは後に別にいう。
 大和氏はまた日高見神社の西一丁ばかりの所から石棒を発見したとか、附近の畠地から石鏃や曲玉を発見したとか話されて、その曲玉一個を見せられた。頭部に切目があって、後の丁子頭の曲玉の原型ともいうべき珍品で、明かに石器時代の遺品である。ある人は龍《たつ》の落《おと》し子《ご》という海産動物に似ていると形容したが、全くそんな形のものだった。この夜は同村字牛田なる、村長西条勇記氏のお宅で御厄介になる。

   天照大神は大日如来

 夜の田舎道を提燈の明りに導かれて西条氏のお宅につく。その提燈に「如来」と書いてあるのが目についた。その訳を聞くと、如来とは西条氏宅地の辺の小字で、それで屋号になっているのだといわれる。そしてその如来という名は、近所に天照大神をお祀りした五十鈴宮というのがあって、それを如来様と古来呼んでいたためだと説明された。なるほど天照大神は、行基菩薩の枕上《まくらがみ》に立たれて、「われは毘盧遮那仏なり」と御自身紹介なされたと伝えられているのであって、それで本地垂迹説の方では、古く大日如来に配し奉ったことではあるが、それをただちに如来様として崇祭したのは珍らしい。日高見神社社務所の祭壇に仏体を安置してあるのを珍らしく見て来た後に、またすぐにこの珍らしい話を承ったことも何かの因縁であろう。一方では神社は宗教の対象ではない、神祭は報本反始の実を現わすものだなどと小むずかしいことが言われながらも、信仰者の頭にはやはり神仏あえて区別のない場合が少くないのだ。近ごろ「神仏一なり」という論文を発表せられた鷲尾順敬君の一顧を煩わしたい。
 西条氏の後ろの丘上にも一つの館址がある。『封内風土記』に、「如来館と号す、葛井典仁喜なるものゝ居る所」とある。如来という名称も久しいものだ。館址で朝鮮式陶器(祝部土器)の破片を拾った。かかる陶器を使用する時代にもここに人が住んでいたのだ。

   茶臼山の寨、桃生城

 牛田から東北に当り、桃生・本吉二郡の境上に茶臼山がある。標高百五十二メートル。桃生郡内では最高の山だ。山上に館址がある。茶臼山の名はけだしこれから起ったので、チャウスすなわちアイヌのいわゆるチャシの語の転訛たることは疑いを容れぬ。そして近ごろの学者は多くこれを桃生城址に擬定している。早朝登臨の予定であったが、雨天であったので見合せて遠望に委したのは遺憾であった。
 桃生城はいわゆる海道の蝦夷に備えんがために設けられたもので、当初はさきに置かれた牡鹿柵の前衛ともいうべきものであったのであろう。その名は天平宝字元年四月に初見している。この月四日勅して不孝、不恭、不友、不順のものあらば、よろしく陸奥国桃生、出羽国雄勝に配して、もって風俗を清くし、また辺防を捍がしむべしとある。当時、陸奥の多賀・玉造の諸柵と、出羽の秋田なる出羽柵とを連絡せしめんがために、出羽に雄勝の道を開いてここに城を置いたさいであったから、それとともにこの桃生柵にも、内地の厄介者を収容して辺防に供せしめたことであろう。したがってこの柵の設置はこの以前にあったに相違ない。
 次いで翌二年十月には、陸奥国の浮浪人を発して桃生城を作らしめ、すでにしてその調庸を復して占着せしめ、また浮宕の徒を貫して柵戸となすとある。夷地に突入して危嶮の場所であったから、まずもってかくのごとき輩を配して築城防備に当らしめたものと解せられる。さらにその十二月には、坂東の騎兵・鎮兵・役夫および夷俘らを徴発して桃生城と小勝(雄勝に同じ)柵とを造らしめ、五道倶に入りて並びに功役につかしむとあり、翌三年の九月には、この両城を造るに役するところの郡司・軍毅・鎮兵・馬子合せて八千一百八十人、去る春月より秋季に至るまで、すでに郷土を離れて産業を顧みず、深く矜憫すべしとの理由をもって、今年負うところの人身挙税を免ずべしとの優渥なる「勅」があった。もってその工事の大なりしことが知られよう。この月また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野等七国送るところの軍士器仗を割いて、留めてもって雄勝・桃生の二城に貯うとある(この年また諸国の浮浪一千人を遣して桃生柵戸に配したことが『続紀』神護景雲三年正月の条に見えている。本書にこの時浮浪二千人を雄勝城の柵戸とすとあるのは、雄勝・桃生二城の柵戸とすとあるべきを脱したものである)。このころにあっては、陸奥方面では桃生城に、出羽方面では雄勝城に、もっぱら力を用いていたのである。かくてその桃生城の規模は翌四年正月の「勅」に、「陸奥国牡鹿郡に於て、大河に跨り峻嶺を凌ぎて桃生柵を作り、賊の肝胆を奪ふ」とあってその要害の地を占め、宏大なものであったことが察せられるのである。ここに大河とはいうまでもなく北上河で、峻嶺といえばまずもってこの茶臼山を指摘すべきものであろう。近時の学者が多くこの茶臼山の寨址をもってこれに擬せんとするは、そのゆえありといわねばならぬ。
 茶臼山は桃生郡桃生村と本吉郡柳津町との境上にあって、今は北から西にかけて脇谷・四分・倉埣上《くらそねかみ》・倉埣下・深山等の邑落を包み、北上の大河がこれを擁して流下しているが、この川筋は実は元和年間に開鑿したものの由で、もとは茶臼山の東を南下してその山麓を洗い、飯野川町に達していたのであったそうな。また南は石生・裏永井・深山の邑落を連ねた低地が東西に亘って、永井の山地との間を限り、地勢おのずから要害の形勢をなしているのである。しかしながら、すでに佳景山の寨址の条にも記したごとく、もしこの茶臼山上なる寨址をもって、ただちにこの桃生城の全部なりといわんとならば、それは誤解のはなはだしいものといわねばならぬ。かの辺地諸郡の民を城堡内に安置せよと令文に規定してあるごとく、桃生城また実際多数の農民を収容して、耕作に従事せしめていたものであった。神護景雲二年十二月の「勅」に、陸奥管内および他国の百姓、伊治・桃生に住せんと願わんものは、情願にまかせて到るに随いて安置し、法によりて復を給うべしとある。
 また翌年正月には陸奥国司より、天平宝字三年の「符」によりて桃生の柵戸に配した浮浪一千人が逃出したにつき、比国三丁以上の戸二百煙を募りて城郭に安置し、永く辺城となさんと請うたに対して、太政官の議これを容れず、もし進※[#「走+多」、U+8D8D]の人ありてみずから桃生・伊治二城の沃壌につき、三農の利益を求めんと願わば、当国他国を論ぜず便に任せて安置し、法外に復を給い、人をして楽しみて遷りてもって辺守とならしめんと請い、かくてその翌二月に至って、「陸奥国桃生・伊治二城営作已に畢り、厥の土沃壌、其の毛豊饒なり。宜しく坂東八国をして各部下の百姓を募り、もし情農桑を好み、彼の地の利につくものあらば、則ち願にまかせて移徙し、便に随ひて安置せしめ、法の外に優復して民をして楽しみて遷らしめよ」との「勅」を見るに至った。かくのごとくにして、だんだん内地の農民は、ここに移住して農桑の業に従事したのである。しかして彼らはむろん城堡によって保護されたもので、当時のいわゆる桃生城の境域はかなり広い範囲を包容し、城内に多数の農民の集落と、肥沃の壌土とを有していたものであったに相違ない。宝亀五年七月、海道の蝦夷蜂起して橋を焼き、道を塞ぎ、桃生城を侵してその西郭を破ったとあるものも、この広い地域を包容した土塁の一部を破壊したことをいったものであろう。果してしからば当時の桃生城は、茶臼山を主体として西と北とに平地を控え、今の脇谷・四分・倉埣等は皆城内の地であったのかも知れぬ。倉埣の名もあるいは桃生城の倉廩から得た名であったかと思われるのである。しかしてその茶臼山の東斜面は、急傾斜をなしてただちに大河に臨んでいたのであるから、この方面は自然の天嶮に拠ったというべく、防備は主として西と南とに施されたもので、宝亀の乱にはその西郭を破られたものであったのであろう。これもとより一の想像に過ぎないが、なお実地につき、小字などをも調べて、研究を重ねてみたいものである。

   貝崎の貝塚

 桃生村大字樫崎に小学校がある。その南には帯のように東西に通じた低平の地があって、それを夾んで日高見神社後方の安倍館に対している。この低地は茶臼山の東を限って南に延びた低地に続いて、かつては北上川の一水路であったに相違ない。小学校附近の路傍で石鍬とも称すべき一石器を拾って、学校へ寄托しておいた。『隋書』に、隋の煬帝が朱寛を遣わして征したころの流求(琉球)では、国に鉄が少かったがために、田を墾すにも石に刃をつけて用いたとあるが、この地方にもそんな不自由な時代があったのかも知れぬ。
 小学校から東十四、五町で丘陵の東南端に達する。小字を貝崎といい、ここに一つの貝塚がある。今はたいてい開墾せられて、畠の中に海産の貝殻が少からず撒布し、土器の破片なども多少交って発見せられる。この地今は海から約三里半の内地にあって、北上川旧河道に臨み、河敷以外はすべて山をもって囲まれたような場所ではあるが、かつては海水がここまでも彎入して、太田、飯野一帯の山地は離れ島であった時代の存在を想像せしめる。しかもそれは人類がすでにここに生存したような、新らしい時代であるから驚かれる。

   北上川改修工事、河道変遷の年代

 貝塚のある貝崎の附近で、大きな堤防を築いて前記の西に通ずる平地を遮断し、北上川の水を分って柳津町から旧河道を南流せしめ、飯野川町の西において追波川へ落すの大工事が行われている。この旧河道は慶長ころまでも北上の本流であったが、その流れが急にして舟楫を通ずるに不便であったのと、一つは河が大部分左右ともに急傾斜の山によって限られて、いったん洪水のさいには附近の田園、村落の被害が多かったので、元和年間柳津附近に締切堤防を築いて河を右転せしめ、大要現今の流路を取って西に迂回して鹿又に通ぜしめ、飯野川町附近において旧河道(すなわち今の追波河)に落したのであったが、それでもなお不足とあって、元和の末より寛永の初めに渉って、さらに鹿又より石巻に通ずる新河道を開き、これを本流として追波川を分流とするの今の形勢をなしたのだという。しかるに現時行われている改修工事は、元和に築いた柳津町附近の締切堤防を撤去して再び水を元和以前の旧河道に分ち、茶臼山東よりただちに南下して合戦谷を過ぎ、飯野川町の西で追波川に会せしめ、かくて新旧両路を並存せしめて、水害を緩和せしめるものらしい。
 しかし元和に右転せしめて以来廃河となったというこの旧河道が、果していつのころから存したものかについては疑問がある。なんとなれば、その通路に当る合戦谷附近の山麓には数多の古墳があって、もし河水が当時この地を流れていたとすれば、洪水のさい必ず浸されねばならぬような形勢の地に存するからである。この古墳のことは項を改めて別に記述するが、ともかくかかる墳墓を築造した時代において、北上川の流れがここを過ぎていなかったことは疑いを容れないのである。すなわちこの河がかつてこの流路を取っておったことがあったとしても、それはいつのころにか廃川となり、久しく世に浸水の害が忘れられて、当時の人がその山麓の低地に墳墓を作ったのであるに相違ない。しかして元和に果してこの川を廃したというのならば、それはここに墳墓を築いた後のある時代において、再び北上川がこの流路を取るに至ったのであったに相違ない。
 今柳津町の南から、茶臼山東の旧河道を通ずる一条の小流があって、永井の山地と樫崎の低地とを隔離して東西に通ずる一帯の低地を西流し、さらに太田・飯野の山地を西より南に迂回して、飯野川町の西方で追波川に合流しているもの、これを古川《こかわ》といっている。これすなわち北上川の古水路の名を伝えたものであろう。すなわちかつては柳津町附近より、直南合戦谷を経て飯野川町に通じていたものが、いつしか流路をこの古川筋に改め、合戦谷附近は久しく廃川となっていたがために、ここに墳墓も設けられるに至ったものであろう。しかるにその後再び本流はこの旧路に復して、前者は古川の小流として存するに至ったのを、元和のころさらに柳津より西に導くに及んで、爾来廃川となって現時に及び、今日さらに復活の運命に遭遇したものと解せられるのである。
 これは柳津以南における歴史時代の河道の変遷の一斑であるが、その以前においてさらに種々の変遷のあったことは、地形が一々これを示している。かの安倍館の北を東西に通ずる一帯の低地も、かつては旧河道であったらしいことはすでに記した。柳津以北においてもとより変遷の多かったことは言うまでもないが、今回の視察に関係がないからここには略しておく。

   合戦谷附近の古墳

 日高見神社の祠官大和氏のお宅で拝見した曲玉の発見地は、桃生村字樫崎地内なる山田の高道公の墓と称する地の附近だと承った。場所はさきに貝塚を見た貝崎から、北上川の旧河道(今度再び開通されるもの)を夾んで東南に見える山の尾先である。字山田の守久米太郎氏も同じ附近から発見したという種々の遺物を持っておられると承ったので、一同道を迂回して拝見に出かけた。同氏が現今所蔵せられるものには瑪瑙の曲玉一、蕨手刀一、柄頭に銅覆輪を施した太刀一、皮帯の金具一である。このほかにもと青色の曲玉もあった由で、明治八年に高道の碑のある場所よりも百間ばかり上方の畠地から発見したものだという。大分山に引き上って設けられた古墳であったらしい。この附近にかく古墳の少からず存することは、かかる墳墓を築造する習慣のあった時代において、この地方に少からぬ有力なる豪族の存在したことを示しているのである。
 それについて特に注意すべきは蕨手刀の発見だ。夷地にはこの刀剣が当時好んで用いられたらしく、飯野の飯野山神社にもその一口を蔵している由であるが、奥羽地方の古墳から往々この種の刀剣の発掘せられたことを聞き及ぶ。遠く北海道は札幌の博物館にも、北見から発見したという蕨手刀一口を蔵している。これは年代の考定のうえにも有力なる材料となるもので、それが曲玉とともに発見せられるところを見ると、これを天平宝字以後に移された邦人の墳墓と見るよりも、あるいはその以前においてこの地方の蝦夷の酋長らが、早く日本文化を輸入し、かかる物品を使用して、この種の墳墓を築いたのであったかも知れないのである。
 急坂を上って高道の碑というものを一見し、さらに旧河道の東側に沿うて山麓を東南行すると、路傍に数個の石塚がある。自分を乗せた車夫の言によると、彼は先年親しくこの穴に入って白骨を取り出したことがあるという。今は例の北上川河道の工事のためにほとんど破壊せられて、わずかにその存在を髣髴するに足るほどの惨状とはなっているが、もとはただに三、四個のみではなかったらしい。あるいはまだ埋没して隠れたのがあるかも知れぬ。位置は全くの山麓で、もしここに北上川が流れていたとしたならば、洪水のさい必ず水に浸さるべき場所である。これはこの旧河道の変遷を知るうえに必要な材料だと思う。

   いわゆる高道の碑――坂上当道と高道

 山田の守氏邸を辞して、北上川旧河道に沿うた関街道[#「関街道」は底本のまま](飯野川町から、北上川旧河道を経て、北に向って柳津町の方に通ずるもの)を、合戦谷の方に向って少しく南行すると、山脚の西に向って出た端、やや上った所に例の高道公墓と称するものがあるのである。自然石の正面に「高道」の二字、やや左に下って「墓」の一字を刻し、さらにその左の下方に「貞観五年五月」とある。土地の人は高道の何人たるを知らぬながらも、陸奥国府の役人として下向しているうちに、蝦夷と戦ってここに死んだので、それで合戦谷の地名も出来たのだと伝えているそうな。その墓はもと今の地よりも遙か高い所にあったのを、後にここに下げたのだと案内の人は説明してくれた。先刻守氏方で見た遺物もこの附近の畠地から発見されたのだといえば、この辺に古墳のあったことは確かではあるが、それは年代が貞観よりも遙かに古いものである。またそのいわゆる高道公の墓なるものも、よほど奇態なもので、もとより当時のものとは思われぬ。またもしそれが国府の官吏であるならば、碑には必ず官位、姓氏を書かなければならぬはずだ。佐久間洞厳の『奥羽観蹟聞老志』には、
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 高道石墳、樫崎村にあり。寺崎駅を去る東一里余、郷人山田の碑と称し、或は貞観の石と号す。高さ四尺、濶さ九寸余、石囲六尺。南向して立つ。上に高道墓の三字あり。文字方二寸、榎樹石を挟みて生ふるあり。下畔の文字見えず。左旁に記して貞観五年五月日と曰ふ。相伝ふ。斯の人夷賊を討じてこゝに戦死す。後人石を立つ。其の古墳今猶存す。
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 一日其の文字を打す。鳥跡尋常ならず、高古遒勁、当時何人の手跡たるを知らず。郷人高道の何人たるを詳にせず。仍て之を国史に考ふるに、文徳実録に曰ふ、天安二年戊寅正月己酉、従五位下坂上大宿禰高道陸奥介となると。貞観五年癸未に至つて已に六年。嗚呼王事|※[#「(臣+缶)/皿」]《もろ》きことなく、遂に戦死に東陲に安んじて、忠誠を千載に遺す。貴むべきの人なり。然るに州人其の実を識るものなく、佳名徒らに泉下に朽つ。苟《まこと》に惜むべし。
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とある。『名跡志』や『封内風土記』にもともに似た記事がある。しかるに陸奥介坂上高道のことはあまり史にあらわれずして、同時代の陸奥守坂上当道のことが盛んに称えられ、『大日本史』にもその伝が出ているほどであるので、ここに高道とあるのはその実この当道のことであろうと解し、古史に「当道」とある方が誤写で、この碑はもって史の誤りを訂正すべきものだとの説があるらしい。しかし当道は貞観九年三月九日に死んだ人で、もちろん五年五月では当らない。『三代実録』に、
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 九日己酉前陸奥守従五位上坂上大宿禰当道卒す。当道は右京の人なり。祖田村麻呂奇卓忠梗、志匡正にあり、東夷を討平して軍功世に震ふ。官大納言に至り、従二位を贈る。父広野右兵衛督となり、爵従四位下勲七等。当道少にして武事を好み、弓馬に便し最も射を善くす。兼ねて才調あり。承和中内舎人と為り、正月大射の礼を行ふに当り、五位已上不足一人。時に詔して当道を以て其数に満つ。未だ幾ばくならずして右近衛将監となり、累ねて左兵衛左衛門二府の大尉に遷り、斉衡二年従五位下を授け、右衛門権佐に拝し、検非違使を領す。当道法を処する平直、威刑厳ならず。事道理に乖く者は、権貴といふと雖未だ必ずしも容媚せず。天安の初左近衛少将となり、貞観元年出でゝ陸奥守となり、常陸権介を兼ぬ。其の年冬従五位上を加ふ。州秩既に終り代を待つこと四年、在国九年にして卒す。時に年五十五。当道家に廉正を行ひ、財を軽んじて義を重んじ、任に在つて清理の称あり。境内粛如として民夷之を安んず。貧に居り資なし。棺歛に臨みて有る所布衾一条のみ。而も遺愛人にありて、今に至つて思はる。
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とある。こんな立派な人で、ことにそれが任地で死んだのであったから、後人その徳を慕うて碑を立てたというにも無理はないが、それにしても名を間違えたり、月日をでたらめに書いたとは思われない。また当道が夷賊と戦ってここに死んだなどの伝説はもちろん信じ難い。彼は国守の一任を終って後、後任の国守の到着を待って国府にいるうちに死んだので、決してここに蝦夷と戦うて死んだのではない。もしそんなことがあったならば、こんなに詳しくその徳を頌するこの『実録』の記事において、必ず書かなければならぬはずだ。また当道在任中からその死の貞観九年までは、いっこう征夷の事実はなかった。いやしくも前国守が戦死するほどの大事件が、どうして『実録』に漏らされよう。
 しかしながら実をいえば、この碑はやはり高道であって当道ではないのだ。『聞老志』にも引いてあるごとく、陸奥守たる当道と同時代において、別に陸奥介たる坂上大宿禰高道という人もあったのだ。『文徳実録』天安二年正月十六日、従五位下坂上大宿禰高道を陸奥介となすとあり、『三代実録』貞観二年二月十四日条に、鎮守将軍従五位下坂上大宿禰高道を上総権介となすとある。この人はこれより先貞観元年正月十六日に、陸奥介から鎮守府将軍に遷っていたのだ。しかるに現存寛文板の『三代実録』には、この任官の条に従五位下行陸奥介坂上大宿禰当道と間違っている。しかしそれが明かに高道の誤写であることは、前後の任官を見合して容易に知られるのである。
 なんとなれば、本当の当道の方はこの年正月十三日に左近衛少将兼備前権介から陸奥守に任ぜられたので、陸奥介ではなかった。また当道はその後上総権介に転任するなどのことはなく、引続き陸奥守として在任し、この五月十九日に常陸権介にはなったがそれは明かに兼官とあって、その身は引続き陸奥国府におり、秩限の後もなお任地にあって、在国九年と言われているのであったのだ。またその伝には彼が鎮守府将軍になったことも、また上総権介になったこともいっておらぬのだ。のみならず、彼はこの年十一月十九日に従五位上に陞叙されたにもかかわらず、翌二年二月十四日に鎮守府将軍から上総権介になった高道は、やはり従五位下とあるのである。そして貞観三年二月二日には、陸奥守坂上大宿禰当道は、従五位上の位階をもって介の伴宿禰春宗とともに、前守の解由不与のことの過失によって公廨を奪われているのである。すなわち両人、官職も位階も違って、当道・高道は確かに別人である。『続群書類従』所収「坂上系図」にも、当道は田村麻呂の子で浄野の男とあって、それには陸奥守と標し、高道は田村麻呂の十一男で、それには鎮守府将軍と標し、おのおの別に掲出してあるのである。しからばすなわち高道は天安二年正月に陸奥介にはなったが、在官わずかに一年で鎮守府将軍に転じ、それも一年一ヵ月ばかりでさらに上総権介に転任したもので、その後陸奥においては立派に介の後任も、将軍の後任も出来ているのであるから、爾後貞観五年まで彼が現任の地を捨てて、旧任地の陸奥に留まり、ここに蝦夷と戦うて討死するなどのことのあるべきはずがない。またこの間に征夷の事実もなく、もし前の介が戦死するような大事件があったならば、『実録』がそれを漏したとも思われないのである。それでいてどうしてここにその墓があり得よう。けだしこの碑の偽作者は、やはり陸奥介たるこの高道と、任地に死んだという陸奥守当道とを混同したのであるに相違ない。彼はおそらく『文徳実録』を見て高道が陸奥介に任ぜられたことをのみ知って、『三代実録』にその転任の記事のあることに気がつかなかったのだ。このことは『聞老志』の著者佐久間洞巌も同様である。『聞老志』には高道が陸奥介に任ぜられたことのみを記して、その鎮守府将軍となったことを見落している。本書は他の鎮守府将軍をそれぞれに書いてあるのであるから、もし高道の任官に気がついていたならば落すはずはないのである。しからばすなわちこの碑石は、およそ洞巌くらいの知識の人の偽作したものであろう。
 当道が前陸奥守として任地に死んだことは『大日本史』に出ている。この書がいつ世に出で写し伝えられたかは明かでないが、もし『大日本史』の当道伝を見、また天安に高道が陸奥介に任ぜられたことを知って、両者を混同したと想像したならば、この地の樫崎の名を合戦崎と附会することと関聯して、ここにこのくらいの偽作は出来そうなものである。『大日本史』には当道死没の年を略して、単に「貞観元年出為[#二]陸奥守[#一]……秩満待[#レ]代四年卒[#二]于任所[#一]」とのみ書いてあるから、もし軽率にそれを見て高道と混同したならば、貞観元年から四年を経たとして、貞観五年という年も出て来そうなことである。しかしこの碑石はすでに享保の『聞老志』にも出て居ることであるから、『大日本史』を見てからではよほど忙がしい仕事である。仙台領には多賀城碑を始めとして、燕沢の碑やら、田道の墓やら、多賀城址にある弘安四年の伏石というものなど、よほど問題になる金石文の多いことであるから、まずもって眉毛に十分唾をつけてかからねばならぬ。
 それにしても高道と当道とは、同じく坂上大宿禰で、同じ時代に陸奥に任官し、位階も上下の差こそあれ同じ従五位であることから、古来『三代実録』にもいろいろに間違えて写し伝えられている。かの貞観元年正月十六日に陸奥介から鎮守府将軍に転じたはずの高道を、寛文版の『三代実録』に当道と間違っていることはすでにいった。しかしこの本には貞観二年二月十四日に鎮守府将軍から上総権介に転じた時の記事には、立派に高道と書いてあるが、初版の『国史大系』本には、朝田弓槻本によったとして、それをも当道と改竄してあるのである。ことにその再版本に至っては、彼が鎮守府将軍に転じた貞観元年正月十六日の条の官名に陸奥介とあるのをも、上下の文によったとして陸奥守と改めてあるのである。大系本の校合者は、この官も名も異なる当道と高道とを、全然同一人にしてしまっているのだ。さらに京大蔵、谷森種※[#「穴/厶/木」、第3水準1-85-71]の校本を見ると、寛文版に高道を当道と誤った貞観元年正月十六日(陸奥介から鎮守府将軍に転ずる時の記事)の条には、尾張家本には立派に高道とあり、他に常道・商道など誤ったものもあるそうに附記してあるのである。
 こんな風に古来高道と当道とは間違えられ来っているのであるから、この碑の偽作者が上総権介に転じた前陸奥介なる高道と、前陸奥守として任地で死んだ当道とを混同し、こんな碑を立つるに至ったのも無理はない。それにしても、よくも『三代実録』を見ないで、飛んだボロを出したものだ。これは多賀城碑の偽作者が、『日本後紀』を知らなかったがためにボロを出したのよりもいっそう拙だ。

 合戦谷から南、河道改修工事を見つつゴロゴロ道を俥にゆられて飯野川町に出で、これから追波川を汽船で鹿又駅に到り、さらに汽車の厄介になって夕刻仙台市についた。これから後のことは前号所載の「学窓日誌」にある通り。
 顧みれば桃生郡内滞在はわずかに四日間で、その踏査するところきわめて一小部分に過ぎなかったが、しかも幸いに斎藤君始め地方の有志諸君の好意によって少からぬ便宜を供せられ、この交通の不便な地において、期間の短かった割合に得るところの多かったのは感謝にたえぬ。書き留めておきたい雑事、遺聞もまだまだほかに少くはないが、あまりに長びいても読者の御迷惑と察して、惜しい筆をここに止める。



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • 日高見国 ひだかみのくに 古代の蝦夷地の一部。北上川の下流地方、すなわち仙台平野に比定。
  • 中山柵 なかやまのき? 現、登米郡米山町の中津山の地をその所在地とする説が有力。柵は8世紀末には造営。
  • 田夷村 たひな
  • [遠田郡] とおだぐん 宮城県(陸前国)の郡。 涌谷町・美里町を含む。
  • 南郷 なんごう 町名。現、遠田郡南郷町。郡の南端にある。
  • [桃生郡] ものうぐん 宮城県(陸前国)にあった郡。2005年4月1日、矢本町・鳴瀬町が合併して東松島市に、河北町・雄勝町・河南町・桃生町・北上町が牡鹿郡牡鹿町および石巻市と合併して新しい石巻市になったため消滅した。
  • 久米田 くめた 字名。現、桃生郡河南町北村。
  • 桑柄
  • 新城館 しんじょうたて?
  • 高寺
  • 高谷地
  • 小崎 こさき 現、桃生郡河南町北村にある集落。
  • 草田 くさた 現、桃生郡河南町北村。
  • 青木 あおき 現、桃生郡河南町北村。
  • 駒場 こまば 現、桃生郡河南町北村。
  • 朝日山 あさひやま 旭山。標高174m。現、桃生郡河南町北村。
  • 旭 あさひ 字名。朝日。現、桃生郡河南町北村。
  • 旭長者屋敷
  • 欠山 かけやま 欠山丘陵。佳景山。
  • 中山 なかやま? 村落。字名。
  • 糠塚 ぬかづか 字名。現、桃生郡河南町広淵。
  • 須江村 すえむら 現、桃生郡河南町須江。
  • 沢田 さわだ 字名。現、河北町小船越の集落。
  • 瓦山 かわらやま 小字。現、桃生郡河南町須江。
  • 上竃 うわかま 小字。
  • 下竃 したかま
  • 桃生村 ものうむら 現、桃生町。明治22(1889)中津山村と桃生村が成立。
  • 太田 おおた 村名。現、桃生郡桃生町太田。
  • 日高見神社 ひだかみ じんじゃ 現、桃生郡桃生町太田。神社は字拾貫にある。
  • 拾貫 じゅっかん 字名。太田村にある集落。
  • 日高見川 → 北上川
  • 安倍館 あべのたて? 太田村細谷の丘陵端に中世の城館跡である阿倍館跡(館山館)などがある。
  • 樫崎 かしざき 字名。現、桃生郡桃生町樫崎。太田村の北に位置。
  • 高道の墓 たみちのはか 現、桃生町樫崎山田。山田碑・貞観石ともよばれる。後世の作とする説がある。
  • 牛田 うした 字名。現、桃生町牛田。
  • 貝崎 かいざき 小字。
  • 飯野 いいの 村名。現、桃生郡河北町飯野。
  • 脇谷 わきや 村名。現、桃生町脇谷。
  • 四分
  • 倉埣 くらぞね 現、桃生町倉埣。
  • 倉埣上 くらそねかみ 
  • 倉埣下
  • 深山 しんざん 現、桃生町倉埣。
  • 飯野川町 いいのがわまち 現、河北町相野谷。
  • 石生
  • 裏永井
  • 広淵沼 ひろぶちぬま 現、桃生郡河南町広淵。
  • 欠山 → 佳景山か
  • 佳景山 かけやま  宮城県石巻市鹿又欠山。
  • 前谷地 まえやち 村名。宮城県石巻市前谷地。
  • 黒沢 くろさわ 大字。現、河南町前谷地。
  • 北上川 きたかみがわ 岩手県北部の七時雨山付近に発し、奥羽山脈と北上高地の間を南流し、同県中央部、宮城県北東部を貫流して追波湾に注ぐ川。石巻湾に直流する流路は旧北上川と称する。長さ249キロメートル。
  • 宝ヶ峯 たからがみね 現、河南町北村前山。縄文後・晩期の遺跡。
  • 北村 きたむら 村名。現、桃生郡河南町北村。広淵村の西に位置する。
  • 上表沢 かみおもてさわ? 北村にある集落か。
  • �峯 むろとうげ?
  • 箱清水 はこしみず 現、桃生郡河南町北村。
  • 箱泉寺 そうせんじ 現、桃生郡河南町北村字神尾。深谷山一心院。
  • 高徳寺 こうとくじ 現、河北町三輪田字持領。曹洞宗上品山。
  • 飯野山神社 いいのやま じんじゃ? 現、河北町飯野村。(1) 字宮下北。(2) 外吉野戸場柄にある。
  • 一王子社
  • 鹿又 かのまた 宮城県石巻市鹿又新田町浦。
  • 追波川 おっぱがわ? 柳津より下流の北上川の古称。
  • 本鹿又 本鹿股(もとかまた)? 現、河南町鹿股か。
  • 天皇渡し
  • 小船越 こふなこし 村名。現、河北町小船越。
  • 大谷地村 おおやち
  • 飯野
  • 古川 こかわ
  • 吉野 よしの 字名。現、河北町飯野にある集落。
  • 飯野
  • 雷電宮 ? 雷神社か。現、河北町小船越。
  • 長者森 ちょうじゃもり 字名。現、河北町飯野。桃生城跡がある。
  • 合戦谷 かっせんがい 現、河北町成田。成田村の北方の沼名。
  • 永井 ながい 村名。現、桃生町永井。
  • 山田 やまだ 現、桃生町樫崎にある字名か。
  • 関街道 一関街道か。
  • 寺崎 てらさき 村名。現、桃生町寺崎。牛田村の南。
  • 日高見神社
  • 安倍館
  • 如来 にょらい 小字。現、桃生町牛田。
  • 五十鈴宮 いすずのみや? 現、五十鈴神社か。牛田字館前。
  • 茶臼山 ちゃうすやま 宮城県登米市にある標高154mの山。
  • 桃生城 ものうじょう 現、河北町飯野から桃生町太田小池にまたがる。通称、長者森地区に立地する古代城柵跡で桃生柵とも称される。
  • 桃生柵 ものうのき 奈良時代、陸奥の蝦夷に備えて築かれた城柵。所在地は宮城県石巻市飯野とする説が有力。桃生城。
  • [上治郡] かみはるぐん 『続日本紀』宝亀11年(780)3月22日条にみえる。「伊治郡」の誤りか。のちの栗原郡。
  • [牡鹿郡] おしかぐん 宮城県(陸前国)の郡。女川町の一町を含む。
  • 牡鹿柵 おしかのき 『続日本紀』天平勝宝5(753)6月8日条に初出する牡鹿郡の建置に先立つ天平五柵の一つ。造営時期やその位置は不明。石巻市域の南西部に隣接する桃生郡矢本町赤井遺跡が柵およびのちの郡衙跡地として有力視されている。
  • [本吉郡] もとよしぐん 宮城県(陸前国)の郡。本吉町・南三陸町の2町を含む。
  • 唐桑 からくわ 村名。現、本吉郡唐桑町。
  • 日高見神社 ひたかみ じんじゃ 現、唐桑町崎浜御崎神社。明治2(1869)神仏分離に伴い日高見神社と改称、その後郷社に列した。昭和46(1971)以来からの通称である御崎神社の社名に戻った。
  • 柳津町 やないづちょう? 現、唐桑町津山町。
  • 石巻湾 いしのまきわん 東北地方の太平洋岸にある湾。仙台湾の支湾であり、その北部を構成する。宮城県牡鹿半島と宮古島に囲まれた湾であり、南側に広く開けている。
  • 多賀城 たがじょう (1) 奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。政庁を中心とした内郭や方1キロメートル余の外郭の土塁が残る。城跡は国の特別史跡。(2) 宮城県中部、仙台市の北東にある市。仙台港の開港後、急速に工業化が進展。人口6万3千。
  • 多賀柵 たがのき? 多賀城のことか。
  • [志太郡] → 志田郡か
  • [志田郡] しだぐん 宮城県中央部に位置する。
  • 玉造柵 たまつくりのき? (1) 現、古川市大崎にある名生館遺跡、(2) 加美郡中新田町の城生柵跡や菜切谷廃寺などの説がある。
  • [亘理郡]
  • 阿福河伯神社 あぶかわ じんじゃ 式内社。現、亘理郡亘理町逢隈田沢、堰下。旧郷社。
  • 阿武隈川 あぶくまがわ 福島・栃木の県境にある三本槍岳に発源し、郡山盆地・福島盆地を北流して宮城県に入り、仙台湾に注ぐ川。長さ239キロメートル。
  • [北海道]
  • 札幌の博物館
  • 北見
  • [岩手]
  • 胆沢郡 いさわぐん 岩手県(陸中国)の南西部に位置する郡。
  • 胆沢川神社 いさわがわ じんじゃ 式内社。現、胆沢郡胆沢町若柳。『延喜式』神名帳、胆沢郡七座の一。かつて洪水のため社地が欠崩れしたため(安永風土記)、もとの鎮座地も定かでなかったが明治初年、於呂閉志(おろへし)神社遙拝所の傍らに再建された。
  • 陸中中部の六郡 → 奥六郡
  • 奥六郡 おくろくぐん 律令制下に陸奥国中部(東北地方太平洋側、後の陸中国)に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。現在の岩手県奥州市から岩手県盛岡市にかけての地域に当たる。
  • 衣川 ころもがわ 岩手県南部の川。平泉町の北部で北上川に注ぐ。
  • 江刺郡 えさしぐん 陸中国(旧陸奥国中部)、岩手県にかつて存在した郡。
  • 一の関 → 一関
  • 一関 いちのせき 岩手県南部、北上盆地南端の市。陸羽街道の要地。もと仙台藩の支藩田村氏3万石の城下町。県南の中心都市として商工業が発達。人口12万6千。
  • 気仙郡 けせんぐん 岩手県南東部(陸前国北東部)に位置する郡。
  • [出羽]
  • 雄勝郡 おがちぐん 羽後国および秋田県の南東部に位置する郡。 羽後町・ 東成瀬村の1町・1村を含む。
  • 雄勝柵 おがちのき 古代、蝦夷に備えて、雄勝峠の北、今の秋田県羽後町の辺に置いた城柵。733年(天平5)に郡を設置、758年(天平宝字2)から築城、翌年完成。雄勝城。
  • 出羽柵 でわのさく 奈良時代、中央政府の拠点として、今の山形県庄内地方に置かれた城柵。のち今の秋田市内に移され秋田城となる。
  • 雄勝城 おかちのき 藤原朝狩が759年(天平宝字3)に雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)に造った城柵。現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明。
  • [奥州]
  • 都々古別神社 つつこわけ じんじゃ 福島県東白川郡棚倉町八槻と同町棚倉にそれぞれある元国幣中社。いずれも祭神は味耜高彦根尊と日本武尊で、陸奥国一の宮を称する。
  • [下野]
  • 二荒山神社 ふたらさん じんじゃ (1) 日光市山内にある元国幣中社。祭神は二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高根命)。767年(神護景雲1)勝道上人が社殿を創建。のち中宮祠・中禅寺も営まれ、信仰をあつめる。下野国一の宮と伝える。日光権現。(2) 宇都宮市馬場通にある元国幣中社。祭神は豊城入彦命。下野国一の宮といわれる。宇都宮大明神。ふたあらやまじんじゃ。
  • [大和]
  • 丹生川上神社 にうかわかみ じんじゃ 奈良県吉野郡にある元官幣大社。3社に分かれ、上社は川上村、祭神は高�神。中社は東吉野村、罔象女神。下社は下市町、闇�神。水神・雨乞いの神として信仰された。二十二社の一つ。雨師明神。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)




*年表

  • 天平宝字元(七五七)四月 桃生城の名、初見。四日、勅して不孝、不恭、不友、不順のものあらば、よろしく陸奥国桃生・出羽国雄勝に配して、もって風俗を清くし、また辺防を捍(ふせ)がしむべし。
  • 天平宝字二(七五八)一〇月 陸奥国の浮浪人を発して桃生城を作らしめ、すでにしてその調庸を復して占着せしめ、また浮宕の徒を貫して柵戸となす。
  • 天平宝字二(七五八)一二月 坂東の騎兵・鎮兵・役夫および夷俘らを徴発して桃生城と小勝柵とを造らしめ、五道ともに入りて並びに功役につかしむ。
  • 天平宝字三(七五九)九月 「勅」、この両城をつくるに役するところの郡司・軍毅・鎮兵・馬子合わせて八一八〇人、去る春月より秋季にいたるまで、すでに郷土を離れて産業をかえりみず、深く矜憫すべしとの理由をもって、今年負うところの人身挙税を免ずべし。
  • 神護景雲二(七六八)一二月 「勅」、陸奥管内および他国の百姓、伊治・桃生に住せんと願わんものは、情願にまかせていたるにしたがいて安置し、法によりて復を給うべし。
  • 神護景雲三(七六九)正月条 諸国の浮浪一千人を遣して「雄勝・桃生二城の柵戸」に配した(『続日本紀』)。
  • 神護景雲三(七六九)正月 陸奥国司より、天平宝字三(七五九)の「符」によりて桃生の柵戸に配した浮浪一〇〇〇人が逃げ出したにつき、比国三丁以上の戸二〇〇煙を募りて城郭に安置し、ながく辺城となさんと請う。太政官の議これをいれず。
  • 神護景雲三(七六九)二月 「勅」、陸奥国桃生・伊治二城営作すでにおわり、その土沃壌、その毛豊饒なり。よろしく坂東八国をして各部下の百姓を募り、もし情農桑を好み、彼の地の利につくものあらば、すなわち願にまかせて移徙し、便にしたがいて安置せしめ、法の外に優復して民をして楽しみて遷らしめよ。
  • 神護景雲三(七六九) 奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三(七七二)に十三人、四年に一人。『続日本紀』
  • 神護景雲四(七七〇)正月 「勅」、陸奥国牡鹿郡において、大河にまたがり峻嶺をしのぎて桃生柵を作り、賊の肝胆を奪う。
  • 宝亀五(七七四)七月 海道の蝦夷蜂起して橋を焼き、道をふさぎ、桃生城を侵してその西郭を破る。
  • 宝亀一一(七八〇) 上治郡の大領・伊治公呰麻呂、謀反。
  • 斉衡二(八五五) 坂上当道、従五位下を授け、右衛門権佐に拝し、検非違使を領す。
  • 天安二(八五八)正月 『文徳実録』、従五位下坂上大宿祢高道陸奥介となる。
  • 貞観元(八五九)正月一三日 坂上当道、左近衛少将兼備前権介から陸奥守に任ぜられる。五月十九日に常陸権介を兼官。
  • 貞観元(八五九)正月一六日 坂上大宿祢高道、陸奥介から鎮守府将軍に遷る。
  • 貞観元(八五九)五月一八日条 『三代実録』、陸奥国正五位上勲五等日高見水神に従四位下を授く。
  • 貞観元(八五九) 坂上当道、出でて陸奥守となり常陸権介を兼ぬ。その年冬従五位上を加わう。
  • 貞観二(八六〇)二月一四日条 『三代実録』、鎮守将軍従五位下坂上大宿祢高道を上総権介となす。
  • 貞観三(八六一)二月二日 陸奥守坂上大宿祢当道は、従五位上の位階をもって介の伴宿祢春宗とともに、前守の解由不与のことの過失によって公廨を奪われる。
  • 貞観五(八六三)五月 高道の碑。
  • 貞観九(八六七)三月九日 坂上当道、死去。年五十五。
  • 康平五(一〇六二) 源頼義の貞任征伐。
  • 弘安四(一二八一) 多賀城址にある伏石の銘。
  • 嘉暦三(一三二八)九月二日 吉野の飯野山神社、登り口の一王子社にある「嘉暦の碑」の銘。
  • 元和年間(一六一五〜一六二四) 北上川筋を開削。
  • 霊元帝天和中(一六八一〜一六八四) 飯野山神社「土人社を建てて雷電宮という」『封内風土記』引用『名跡志』より)
  • 享保四(一七一九) 佐久間洞厳『奥羽観跡聞老志』著。
  • 明和九(一七七二) 田辺希文『封内風土記』刊。
  • 明治七(一八七四) 桃生村字樫崎の山田なる高道の墓の付近で、瑪瑙の曲玉発掘。
  • 明治四三(一九一〇) 坪井正五郎、宝ヶ峯遺跡をはじめて調査。大野雲外や山中樵などが参加。大正三(一九一四)以来、連年引き続き発掘。
  • 大正四(一九一五) 中尊寺における日本歴史地理学会の講演会。
  • 大正一二(一九二三)一、二月 喜田「庄内と日高見」『社会史研究』第九巻第一、二号。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 遠田君雄人 〓 郡領。
  • 伊治公呰麻呂 いじのきみ/これはりのきみ あたまろ/あざまろ ?-? 伊治呰麻呂、伊治公呰麿。奈良時代の陸奥国(後の陸前国)の蝦夷の指導者。国府に仕え上治郡大領となり律令政府より外従五位下に叙されていたが、780年に伊治城で宝亀の乱を起こした。
  • 道島大楯 みちしまの おおたて 牡鹿郡の大領。もとは丸子姓。/宝亀11年3月、按察使紀広純は覚�城造営のため伊治城(宮城県栗原郡)に入城したが、突然、同行していた上治郡大領伊治呰麻呂が叛乱をおこし、広純や牡鹿郡大領道嶋大楯らは殺害された。多賀城も賊徒に掠奪され放火される。「牡鹿連」が改まり道嶋宿禰一族となる。/大楯は呰麻呂を蝦夷出身ということで侮辱し、呰麻呂から深くうらまれていたという。(国史)
  • 丸子氏 わにこし
  • 丸子廻毛 わにこ つむじ 上総の俘囚。
  • -----------------------------------
  • 亀山恭助 〓 字糠塚。
  • 斎藤養次郎 さいとう 〓 前谷地村大字黒沢。斎藤善右衛門の子息。
  • 斎藤善右衛門 さいとう ぜんえもん?
  • 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 人類学者。江戸生れ。東大教授。日本の人類学の始祖。東京人類学会を創設、「人類学会報告」を創刊。日本石器時代住民についてコロポックル説を主唱。
  • 大野雲外 おおの うんがい 1863-1938 本名、大野延太郎。越前国丸岡(現、福井県坂井市)出身。考古学者・画家。明治25年から東京帝国大学理科大学人類学教室の図画作成を依嘱される。調査にも同行し『東京人類学雑誌』などに発表。大正12年、関東大震災に罹災し、家や蔵書を失った。鳥居龍蔵(共編)『人種地図』、沼田頼輔(共編)『日本考古図譜』、『模様のくら』『古代日本遺物遺跡の研究』『遺跡遺物より観たる日本先住民の研究』など。(郷土史)
  • 山中樵
  • 斎藤荘次郎 さいとう そうじろう? 宮城県桃生郡北村の郷土史家。
  • 田村将軍 → 坂上田村麻呂か
  • 坂上田村麻呂 さかのうえの たむらまろ 758-811 平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。
  • 栗田 → 栗田茂治
  • 栗田茂治 くりた しげはる 1883-1960 秋田市新屋生まれ。宮城女師教諭。砂防林の植林で知られる栗田定之丞の曾孫。秋田師範、東京女子経専などの教員を歴任し、戦時中には秋田市登町に疎開した。著『太平川流域郷土史』『南秋田郡史』『秋田城考』など。(郷土史家)
  • 小島 → 小島甲午郎
  • 小島甲午郎 こじま こうごろう? 女師訓導。
  • 西条勇記 さいじょう 〓 桃生村の村長。
  • 佐々木喜善 ささき きぜん 1886-1933 現在の岩手県遠野市土淵出身。民話・伝説・習俗の蒐集、研究家。オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の蒐集は、日本民俗学・口承文芸研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。
  • -----------------------------------
  • 後二条天皇 ごにじょう てんのう 1285-1308 鎌倉後期の天皇。後宇多天皇の第1皇子。名は邦治。父上皇が院政。(在位1301〜1308)
  • 邦良親王 くによししんのう/くにながしんのう 1300-1326 後二条天皇の第一皇子。
  • 熊野の王子
  • 大和氏 やまとし? 日高見神社の祠官。良国院。
  • 天照大神 あまてらす おおみかみ 天照大神・天照大御神。伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
  • 倭健命 やまとたけるのみこと 日本武尊。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
  • 武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
  • 後冷泉天皇 ごれいぜい てんのう 1025-1068 平安中期の天皇。後朱雀天皇の第1皇子。母は藤原道長の娘嬉子。名は親仁。在位中に前九年合戦が起こる。(在位1045〜1068)
  • 源義家 みなもとの よしいえ 1039-1106 平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。
  • 日本武尊・倭建命 やまとたけるの みこと 古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
  • 源頼義 みなもとの よりよし 988-1075 平安中期の武将。頼信の長男。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。
  • 安倍貞任 あべの さだとう 1019-1062 平安中期の豪族。頼時の子。宗任の兄。厨川次郎と称す。前九年の役で源頼義・義家と戦い、厨川柵で敗死。
  • 阿部氏
  • 佐藤氏
  • 斎藤
  • 工藤
  • 秀郷流藤原氏
  • 藤原秀郷 ふじわらの ひでさと ?-? 平安中期の下野の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足退治などの伝説が多い。
  • 大彦命 おおびこのみこと ?-? 皇族(王族)。大毘古命。孝元天皇の第一皇子で、母は皇后・鬱色謎命。開化天皇と少彦男心命(古事記では少名日子名建猪心命)の同母兄で、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した四道将軍の一人。
  • 屋 しきや?
  • 仁土呂志 にとろし?
  • 宇曽利 うそり?
  • 安倍富忠 あべの とみただ ?-? 平安時代の武将。陸奥国奥六郡の北方を領した俘囚長。安倍頼時の同族と見られている。
  • 日本将軍 ひのもと-
  • 安東氏 あんどうし 日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。津軽安藤氏とも。本姓は安倍。鎌倉時代には御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。
  • 今野氏 こんのし 今野あるいは金野・紺野。
  • 金氏 こんし 左大臣阿倍倉梯麻呂の後裔で貞観元年(859年)に初代気仙郡司として下向した安倍兵庫丞為雄(為勝とも)が871年(貞観13年)に郡内産出の金を朝廷に献上したことにより金姓を賜ったとされており、通説では、新羅王族の金姓との関連はないとされている。昆・紺・今・近・金野・昆野・紺野・今野・近野などの苗字は支流もしくは亜流とされる。子孫に大河兼任の乱時の金為俊がいる。
  • 金為時 こんの ためとき 1017?-1088 平安時代後期の陸奥国の豪族。父は為尚(為直とも)、安倍貞任の舅と『十訓抄』に見える金為行を兄弟とする系図が存在する。
  • 安倍頼時 あべの よりとき ?-1057 平安中期、陸奥の豪族。初名、頼良。貞任・宗任の父。奥六郡の俘囚長として蝦夷を統率。陸奥守源頼義に攻められ、敗れて流矢に当たり鳥海柵に没。
  • 金為行 こんの ためゆき?
  • 金則行 こんの のりゆき?
  • 金経永 こんの つねなが?
  • -----------------------------------
  • 行基 ぎょうき 668-749 奈良時代の僧。河内の人。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられる。
  • 毘盧遮那仏 びるしゃなぶつ 華厳経などの教主で、万物を照らす宇宙的存在としての仏。密教では大日如来と同じ。「毘盧遮那」は新訳華厳経で、「盧舎那仏」は旧訳華厳経で用いられる。遮那。舎那。遍照遮那仏。
  • 大日如来 だいにち にょらい (摩訶毘盧遮那)宇宙と一体と考えられる汎神論的な密教の教主。大日経・金剛頂経の中心尊格。その光明が遍く照らすところから遍照または大日という。大日経系の胎蔵界と金剛頂経系の金剛界との2種の像がある。遍照如来。遍照尊。遮那教主。
  • 鷲尾順敬 わしお じゅんきょう 1868-1941 仏教史学者。文学博士。論文「神仏一なり」。大阪府三島郡光得寺生まれ。村上専精のもとに仏教史の研究を進め、日本仏教史の組織的研究をおこなった。『仏教史林』ほか仏教関係の研究誌の編集に携わった。『大日本仏教史』(共著)『日本仏家人名辞書』『日本仏教文化史』『神仏分離史料』(共著)ほか。(日本人名)
  • 葛井典仁喜
  • 煬帝 ようだい 569-618 隋の第2代皇帝。楊堅の次子。名は広。煬帝は諡号。大運河などの土木を起こし、突厥を懐柔し、吐谷渾・林邑を討ち、諸国を朝貢させたが、高句麗遠征に失敗、遂に各地の反乱を招き、江都(揚州)でその臣宇文化及らに殺された。(在位604〜618)
  • 朱寛
  • 高道 → 坂上高道
  • 守久米太郎 〓 字山田。
  • 坂上当道 さかのうえの まさみち ?-? 坂上氏の一族の人物。右兵衛督、陸奥守。坂上田村麻呂の孫であり、「坂上氏系図」は坂上浄野の子と、「文徳実録」は坂上広野の子と伝えている。田村麻呂の長男の大野も次男の広野も早世したため三男の浄野が坂上氏の家督を嗣ぎ、その後を当道が嗣ぐ。
  • 坂上高道 さかのうえの たかみち? 大宿祢。
  • 佐久間洞厳 さくま どうがん 1653-1736 江戸中期の儒学者。画家・書家。本姓は新田氏。号は容軒。陸奥国仙台生まれ。仙台藩画員の佐久間家の養子となり、狩野洞雲に画を学ぶ。1691(元禄4)罪をえて禄を失う。赦免後は学問に専念。著『奥羽観跡聞老志』『伊達便覧志』、伝記『容軒紀年録』、文集『容軒文集』。(日本史)
  • 田村麻呂 → 坂上田村麻呂
  • 坂上広野 さかのうえの ひろの 787-828 坂上田村麻呂の次男。従四位下。右兵衛督。坂上広野麻呂とも。摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」と呼ばれた。/坂上当道の父。右兵衛督。
  • 伴春宗 〓 宿祢。
  • 坂上浄野 さかのうえの きよの 791-850 坂上田村麻呂の三男。田村麻呂の後継者。正四位下陸奥按察使、出羽按察使などを歴任した。
  • 朝田弓槻
  • 谷森種� たにもり たねまつ? 1817-1911 善臣。国学者。三条実美の師(国史)。初名、種松。京都出身。三条西家の侍臣。大和介。伴信友の門に入り国学を修め、史学に精通し、和歌および書をよくした。勤王の志篤く、皇陵の探査をした。のち学習院の国学教授、諸陵助となる。著『帝皇略譜』『語鑑言語経緯』『南山小譜』『諸陵徴』『柏原山陵考』など。享年95。(日本人名)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『郷土史家人名事典』(日外アソシエーツ、2007.12)『国史大辞典』(吉川弘文館)『日本人名大事典』(平凡社)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 「大宝令」 たいほうりょう 大宝律令の令の部分。
  • 『和名抄』 わみょうしょう 倭名類聚鈔の略称。
  • 『倭名類聚鈔』 わみょうるいじゅしょう 日本最初の分類体の漢和辞書。源順著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を32部249門に類聚・掲出し、音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。承平(931〜938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。略称、和名抄。順和名。
  • 『続日本紀』 しょくにほんぎ 六国史の一つ。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)までの編年体の史書。藤原継縄・菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀。
  • 『封内風土記』 ほうない ふどき 22巻。田辺希文の編。明和9年(一七七二)の刊。藩撰の地誌。首巻の前半に仙台藩領の範囲・歴史・風俗・土産、その後半と第二巻に仙台城下、第三巻以降に各郡村の記事が載る。
  • 『聞老志』 → 『奥羽観跡聞老志』
  • 『奥羽観跡聞老志』 おうう かんせき もんろうし 佐久間洞厳の著。20巻20冊。享保4年の成立。四代藩主綱村の命により作成された地誌。名跡・故事・社寺などを和歌・物語・伝説などによって浮彫にする。
  • 『わが北村』 雑誌。斎藤荘次郎の編。
  • 『桃生郡誌』 近刊。斎藤荘次郎の編。
  • 『江刺郡昔話』 佐々木喜善の著。郷土研究社発行。
  • 『名跡志』 → 封内名跡志か
  • 『封内名跡志』 ほうない めいせきし 21巻。佐藤信要編。寛保元(一七四一)の成立。郡奉行萱場高寿が編者に『聞老志』の誤謬を正し、繁雑な箇所を削って新たな地誌を作成するために村々の役人らを訪ねさせて成立。『聞老志』と『封内』の中間に位置する。
  • 「学窓日誌」 第八巻第六号。
  • 『神社誌料』
  • 『三代実録』 さんだい じつろく 六国史の一つ。50巻。文徳実録の後をうけて、清和・陽成・光孝3天皇の時代約30年の事を記した編年体の史書。901年(延喜1)藤原時平・大蔵善行らが勅を奉じて撰進。日本三代実録。
  • 「神仏一なり」 鷲尾順敬の論文。
  • 『続紀』 → 続日本紀
  • 『隋書』 ずいしょ 二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。唐の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。636年成る。志30巻は656年に成り、後に編入。
  • 『文徳実録』 もんとく じつろく 六国史の一つ。10巻。続日本後紀の後をうけ、文徳天皇一代(850〜858年)の事跡を漢文で記述した史書。871年(貞観13)藤原基経らが撰して中絶、菅原是善らが加わって879年(元慶3)完結。日本文徳天皇実録。
  • 『大日本史』 だいにほんし 神武天皇から後小松天皇までの歴史。水戸藩主徳川光圀の命で1657年(明暦3)に編纂に着手、1906年(明治39)完成。397巻。漢文の紀伝体。神功皇后を皇妃伝に、大友皇子を本紀にのせ、南朝を正統として(これらを三大特筆という)、幕末の勤王思想に多大の影響を与えた。
  • 『続群書類従』所収「坂上系図」 ぞくぐんしょるいじゅう 叢書。1000巻。1185冊。塙保己一編。
  • 『国史大系』 こくし たいけい 「日本書紀」以下「続徳川実紀」に至る、国史の研究に最も根本的な通史・法令・物語などを集成・校訂した叢書。旧版は田口卯吉編、1897〜1904年(明治30〜37)刊、正編17冊・続編15冊。新訂増補版は黒板勝美編、1929〜64年(昭和4〜39)刊、64冊・別巻2冊。
  • 『日本後紀』 にほん こうき 六国史の一つ。続日本紀の後をうけ、桓武天皇(792年)から淳和天皇(833年)に至る史実を記述した編年体の史書。40巻。現存10巻。藤原冬嗣・藤原緒嗣らの撰。840年(承和7)成る。後紀。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)



*難字、求めよ

  • 城寨 じょうさい 城塞・城砦。
  • 郡家 ぐうけ 郡司が政務をとる役所。郡院。こおりのみやけ。ぐんけ。
  • 山寨・山塞・山砦 さんさい (1) 山中に構えたとりで。(2) 山賊のすみか。
  • 都邑 とゆう (1) みやことむら。(2) 繁華なまち。
  • -----------------------------------
  • 寨址 とりであと? さいし?
  • 布目瓦 ぬのめがわら 瓦をつくるとき、瓦をはずしやすいように型の上に用いた布の目が残ったもの。鎌倉時代以前の瓦に多い。
  • 首級 しゅきゅう (中国、戦国時代の秦の法で、敵の首を一つとれば階級が一つ上がったからいう)討ちとった敵の首。首。しるし。
  • 独鈷水 どっこんすい、か。方言。掘り抜き井戸。
  • 古槻 古ケヤキ?
  • しか 然・爾 (シはサと同義の副詞、カは接尾語)(1) そのように。さように。さ。
  • 矢の根石 やのねいし 鏃に使った石。石鏃。
  • うしはく 領く 自分のものとして領有する。
  • 大人 うし (1) 領有し、支配する人の称。転じて、貴人の尊称。ぬし。(2) 師匠・学者の尊称。
  • 物古る・物旧る ものふる 何となく古くなる。古びる。
  • 河の神 かわのかみ 河川を守護する神。河伯。
  • 丁子頭 ちょうじがしら 灯心のもえさしの頭にできた塊。形が丁子の果実に似ているからいう。俗にこれを油の中に入れれば貨財を得るという。灯花。
  • -----------------------------------
  • 崇祭 崇祀(すうし)か。神や昔の賢人をあがめまつる。
  • 報本反始 ほうほん はんし [礼記郊特牲](本に報い始に反る意)祖先の恩にむくいること。はんし。
  • 祝部土器 いわいべ どき 須恵器に同じ。
  • 須恵器・陶器 すえき 古墳時代中・後期から奈良・平安時代に作られた、朝鮮半島系技術による素焼の土器。良質粘土で、成形にはろくろを使用、あな窯を使い高温の還元炎で焼くため暗青色のものが一般的。食器や貯蔵用の壺・甕が多く、祭器もある。祝部土器。斎瓮。
  • 捍ぐ ふせぐ 防ぐ。
  • 占着 せんちゃく 戸籍に書きつけること。また、土地を占めて居つくこと。土着すること。
  • 浮宕 ふとう 浮逃。奈良・平安時代、課役の負担を逃れるため、公民が本貫の地を離れて他郷へ流出すること。
  • 柵戸 きのへ 古代、蝦夷に備えるための城柵に付属させた民戸。屯田兵の一種。きへ。さくこ。
  • 危嶮 きけん 危険。
  • 功役 こうえき 命ぜられて土木事業に従事し、または国境を守ること。また、その労役。
  • 軍毅 ぐんき 軍団の将。
  • 鎮兵 ちんぺい 奈良時代から平安初期にかけて、諸国から徴発し、陸奥・出羽両国の守備に遣わされた兵士。
  • 矜憫
  • 挙税 こぜい 奈良・平安時代、稲穀・銭貨を貸し出して利息を取ったこと。出挙稲。出挙銭。
  • 優渥 ゆうあく (「優」は豊か、「渥」は厚いの意)ねんごろに手厚いこと。恩沢をあまねく受けること。
  • 器仗 きじょう 太刀・弓矢などの武器。兵仗。
  • 邑落 ゆうらく むらざと。
  • 移徙 いし (1) うつりうごくこと。移転。(2) わたまし。転居。とのうつり。転宅。
  • 倉廩 そうりん 米穀をたくわえるところ。穀物ぐらや米ぐら。
  • 天嶮 てんけん 天険。(1) 地勢が自然に険しくなっているところ。自然の要害。(2) 天が高いことをいうたとえ。
  • 寄托 きたく 寄託。 
  • 舟楫 しゅうしゅう (ふねとかじの意で)舟を進め物を運ぶこと。舟運。
  • -----------------------------------
  • 覆輪・伏輪 ふくりん (1) 刀の鍔・鞍・茶碗など器物のへりを金属の類でおおい飾ったもの。鍍金を用いたものを金覆輪または黄覆輪、鍍銀を用いたものを銀覆輪または白覆輪という。(2) 衣服の袖口・裾などに他の布で細く縁をとったもの。
  • 榎樹
  • 鳥跡 ちょうせき (1) 鳥の足跡。(2) (中国で黄帝の時、蒼頡が鳥の足跡を見て文字を作ったという古伝説による)漢字の異称。とりのあと。
  • 逎勁 しゅうけい 遒勁。(「遒」「勁」ともに強い意)書画・文章などの筆力が強いこと。
  • き もろき 脆い。
  • 東陲 とうすい 国の東のはて。
  • 泉下 せんか 黄泉の下。死後の世界。あの世。
  • 奇卓
  • 忠梗
  • 匡正 きょうせい 誤りをただしなおすこと。
  • 右兵衛督 うひょうえのかみ 右兵衛府の長官。
  • 才調 さいちょう 才気の発する風格。才知の働くさま。
  • 内舎人 うどねり (ウチトネリの転) (1) 律令制で、中務省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。(2) 旧制で、東宮職・主殿寮の雑務に従事した判任官。
  • 大射 たいしゃ 射礼に同じ。
  • 射礼 じゃらい 古代、正月17日に建礼門前で行われた弓射の行事。手番と称して15日に兵部省で親王以下五位以上および六衛府の者から射手をあらかじめ選出、当日は天皇が豊楽院に出御、終わって能射の者に禄を給した。大射。
  • 右近衛将監 うこんえの しょうげん 右近衛府の判官。
  • 容媚 ようび 人の気に入るようにこびへつらって、用いられる。「媚」はなまめかしさでたぶらかす。
  • 州秩
  • 廉正 れんせい 心が清くて私欲がなく正直なこと。
  • 粛如 しゅくじょ おごそかで、心がひきしまるさま。
  • 棺歛
  • 布衾
  • 秩限 ちつげん その職務にあるべき一定の年限。任期。任限。
  • 解由 げゆ (解くる由の意)奈良・平安時代、国司などの任期が果てて交替する時、後任者から前任者に渡す、事務を滞りなく引き継いだ旨の文書。解由状。
  • 公廨 くげ (クガイ・コウカイとも)役所。官庁。また、官物。
  • 多賀城碑 たがじょうひ 多賀城跡にある石碑。高さ1.8メートル余、幅1メートル余。碑面には京・蝦夷・常陸・下野・靺鞨の国境から多賀城までの里数や、城が724年(神亀1)鎮守府将軍大野東人によって設置されて藤原朝�が修造したことを記し、末尾に天平宝字6年(762)12月1日の日付がある。古代の三碑の一つ。
  • 燕沢碑 つばめざわのひ 宮城県仙台市宮城野区燕沢にある石碑。「蒙古碑」とも呼ばれる。碑は、土中に埋もれていたのを安永元年発掘されたという。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 喜田貞吉が出羽庄内と日高見(宮城県仙台平野)を訪ねたのが一九二二(大正一一)の晩秋十一月。東北帝国大学の嘱託講師となったのが大正一三年の九月。個人雑誌『東北文化研究』を発行しはじめたのが一九二八年(昭和三)九月。

 その間、一九二三年(大正一二)九月の関東大震災を小石川東青柳町の自宅にて体験。くわしくは「震災日誌」「震災後記」に記している。うち九月九日に「阿部正己君が、わざわざ震災見舞いに東京へ来られたとて立ち寄られた」と短くある。

 思えば一八九四年(明治二七)に酒田地震があり、死者七三九人を出している。一八七九年生まれの阿部は、それを少年時代に目の当たりにした可能性が高い。酒田の二年後には明治三陸地震がつづく。東北人には、関東在住の親族や知人が多いから、早々に震災後の東京を見舞ったのも理由のないことではないだろう。おそらく膨大な遺著の中には、震災の体験談もあるのかもしれない。後年、『鳥海山史』に詳細な噴火記録をまとめているのもうなずける。

 かたや喜田貞吉は一八七一年(明治三)徳島県那賀郡立江村の出身。 一八五四年の安政南海地震は伝聞でしかなかったろう。歴史地理を研究主題にしながらも、自然災害に関する喜田の著述はあっけないほど少ない。

 一〇年前、七ヶ浜菖蒲田、仙台新港へ毎週のように波乗りに行っていたころがある。帰りには多賀城ジャスコ店で腹ごしらえしたり、高砂大橋近くのローソン駐車場で、田園を見ながらモナカアイスを食べた。
 松島までが限界で、石巻も桃生地方も足を踏み入れたことがない。土地勘がないので、今回とくに地図作成に力を入れてみた。

 歴史地図を見て気がついたのは、仙台平野の内陸部に貝塚が多いこと。貝取貝塚、青島貝塚、長根貝塚。海岸線からゆうに十キロ以上ある。沼地も多い。『日本歴史地名大系・宮城県』(平凡社)で確認すると、淡水系のものばかりでなく、汽水産のシジミや塩水産のカキ殻が出土するという。

 北上川をはじめとする河川の氾濫や堆積作用もさることながら、縄文時代初期の温暖なころには、大きなラグーン(潟湖)がひろがっていたと考えていいのかもしれない。あるいは縄文初期ばかりでなく、平安のころまでも、その痕跡は現在以上にとどめていたのでは、と想像する。




*次週予告


第四巻 第一五号 
私は海をだきしめてゐたい 坂口安吾


第四巻 第一五号は、
一一月五日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第一四号
庄内と日高見(三)喜田貞吉
発行:二〇一一年一〇月二九日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー
  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉        
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 【欠】
  • 第一六号 【欠】
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)前巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)前巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…… / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー
  •  科学上における権威の価値と弊害
  •  アインシュタインの教育観
  •  
  •  光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
  •  前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
  •  電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。「物質とエネルギー」より)
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン
  •  相対性原理側面観
  •  
  •  物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
  •  病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。「アインシュタイン」より)
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため 宮本百合子
  •  作家のみた科学者の文学的活動
  •   「生」の科学と文学
  •   科学と文学の交流
  •   科学者の社会的基調
  •   科学者の随筆的随想
  •   科学と探偵小説
  •   現実は批判する
  •  科学の常識のため
  •  
  •  若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
  •  婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。「科学の常識のため」より)
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  •  一七 有馬の鳴動
  •  一八 田結村(たいむら)の人々
  •  一九 災害除(よ)け
  •  二〇 地震毛と火山毛
  •  二一 室蘭警察署長
  •  二二 ポンペイとサン・ピエール
  •  二三 クラカトアから日本まで
  •  
  •  余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。
  •  
  • 「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。
  •  
  •  この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
  •  大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。「二一 室蘭警察署長」より)
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  •  二四 役小角と津波除(よ)け
  •  二五 防波堤
  •  二六 「稲むらの火」の教え方について
  •   はしがき
  •   原文ならびにその注
  •   出典
  •   実話その一・安政津波
  •   実話その二・儀兵衛の活躍
  •   実話その三・その後の梧陵と村民
  •   実話その四・外人の梧陵崇拝
  •  二七 三陸津波の原因争い
  •  二八 三陸沿岸の浪災復興
  •  二九 土佐と津波
  •  
  •  天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識りが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
  •  役小角はおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。(略)
  •  この行者が一日、陸中の国船越浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのち戒めて、「卿らの村は向こうの丘の上に建てよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡に魅せられた里人はよくこの教えを守り、爾来千二百年間、あえてこれに背くようなことをしなかった。
  •  そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもって数うべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。「二四 役小角と津波除け」より)
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  •  三〇 五徳の夢
  •  三一 島陰の渦(うず)
  •  三二 耐震すなわち耐風か
  •  三三 地震と脳溢血
  •  三四 関東大震火災の火元
  •  三五 天災は忘れた時分にくる
  •    一、天変地異と天災地妖
  •    二、忘と不忘との実例
  •    三、回向院と被服廠
  •    四、地震除け川舟の浪災
  •    五、噴火災と凶作
  •  三六 大地震は予報できた
  •  三七 原子爆弾で津波は起きるか
  •  三八 飢饉除け
  •  三九 農事四精
  •  
  •  火山噴火は、天変地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れているばあいは、災害はわりあいに軽くてすむが、必ずしもそうばかりではない。わが国での最大記録は天明の浅間噴火であろうが、土地ではよくこれを記憶しており、明治の末から大正のはじめにかけての同山の活動には最善の注意をはらった。(略)
  •  火山は、噴火した溶岩・軽石・火山灰などによって四近の地域に直接の災禍をあたえるが、なおその超大爆発は、火山塵の大量を成層圏以上に噴き飛ばし、たちまちこれを広く全世界の上空に瀰漫させて日射をさえぎり、しかもその微塵は、降下の速度がきわめて小なるため、滞空時間が幾年月の久しきにわたり、いわゆる凶作天候の素因をなすことになる。
  •  火山塵に基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滞する微塵、いわゆる乾霧によって春霞のごとき現象を呈し、風にも払われず、雨にもぬぐわれない。日月の色は銅色に見えて、あるいはビショップ環と称する日暈を見せることもあり、古人が竜毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏気温の異常低下は当然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
  •  最近三〇〇年間、わが国が経験したもっとも深刻な凶作は、天明年度(一七八一〜一七八九)と天保年度(一八三一〜一八四五)とのものである。前者は三年間、後者は七年間続いた。もっとも惨状を呈したのは、いうまでもなく東北地方であったが、ただし凶作は日本全般のものであったのみならず、じつに全世界にわたるものであった。その凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあったこと、贅説するまでもあるまい。
  •  世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、おそらく火山塵に基因する世界的飢饉であろう。「噴火災と凶作」より)
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  •  四〇 渡辺先生
  •  四一 野宿
  •  四二 国史は科学的に
  •  四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷
  •      はしがき
  •      地震に関する思想の変遷(その一)
  •      火山噴火に関する思想の変遷
  •      地震に関する思想の変遷(その二)
  •  四四 地震活動盛衰一五〇〇年
  •  
  • (略)地震に関する思想は、藤原氏専政以後においてはむしろ堕落であった。その主要な原因は、陰陽五行の邪説が跋扈(ばっこ)したことにあるのはいうまでもないが、いま一つ、臣下の政権世襲の余弊であったようにも見える。この点につき、歴史家の所見を質してみたことはないが、時代の推移にともなう思想の変遷が、然(し)か物語るように見えるのである。けだし、震災に対する天皇ご自責の詔の発布された最後の例が、貞観十一年(八六九)の陸奥地震津波であり、火山噴火に対する陳謝・叙位のおこなわれた最後の例が、元慶六年(八八二)の開聞岳活動にあるとすることが誤りでなかったなら、これらの二種の行事は、天皇親政時代のものであったといえるわけで、つぎの藤原氏の専政時代において、これらにかわって台頭してきた地震行事が、地震占と改元とであったということになるからである。修法や大祓がこれにともなったこと断わるまでもあるまい。
  •  地震占には二種あるが、その気象に関するものはまったく近世の産物であって、古代のものは、兵乱・疫癘・飢饉・国家の重要人物の運命などのごとき政治的対象を目的としたものである。
  •  かつて地震をもって天譴(てんけん)とした思想は、これにおいて少しく改められ、これをもって何らかの前兆を指示する怪異と考えるに至ったのである。これには政治的方便もあったろうが、時代が地震活動の不活発期に入ったことも無視してはなるまい。
  •  上記の地震占をつかさどる朝廷の役所は陰陽寮で、司は賀茂・安倍二家の世襲であったらしい。「四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷」より)
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
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  •  一本木の野原の北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。イノコログサがいっぱいに生(は)え、そのまん中には一本のきれいな女の樺(かば)の木がありました。
  •  それはそんなに大きくはありませんでしたが、幹(みき)はテカテカ黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白き雲をつけ、秋は黄金(きん)や紅(べに)やいろいろの葉を降(ふ)らせました。
  •  ですから、渡り鳥のカッコウやモズも、また小さなミソサザイやメジロもみんな、この木に停(と)まりました。ただ、もしも若い鷹(たか)などが来ているときは、小さな鳥は遠くからそれを見つけて決して近くへ寄(よ)りませんでした。
  •  この木に二人の友だちがありました。一人はちょうど五百歩ばかり離れたグチャグチャの谷地(やち)の中に住んでいる土神(つちがみ)で、一人はいつも野原の南の方からやってくる茶いろの狐(きつね)だったのです。
  •  樺(かば)の木は、どちらかといえば狐の方がすきでした。なぜなら、土神(つちがみ)の方は神という名こそついてはいましたが、ごく乱暴で髪もボロボロの木綿糸(もめんいと)の束(たば)のよう、眼も赤く、きものだってまるでワカメに似(に)、いつもはだしで爪(つめ)も黒く長いのでした。ところが狐の方はたいへんに上品なふうで、めったに人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
  •  ただもし、よくよくこの二人をくらべてみたら、土神(つちがみ)の方は正直で、狐はすこし不正直(ふしょうじき)だったかもしれません。「土神と狐」より)
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
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  •  出羽の柵址と見るべきものが発見されたのは昭和六年(一九三一)のことである(『史跡調査報告第三』「城輪柵址の部」参照)。この城輪柵址が往古の出羽柵に相当すとの考説は、地震学の角度から見ても容疑の余地がないようである。
  •  城輪柵址は山形県飽海郡本楯村大字城輪(きのわ)を中心として、おおむね正方形をなし、一辺が約四〇〇間あり、酒田市から北東約八キロメートルの距離にある。掘り出されたのは柵材の根株であるが、これが完全に四門や角櫓の跡を示している。
  •  この柵址が往古の出羽柵に相当すとの当事者の見解は、地理的関係にあわせて、秋田城内の高泉神とこの柵の城輪神が貞観七年(八六五)と元慶四年(八八〇)とにおいて同時に叙位せられた事実などに基づくもののようであるが、蛇足ながら余は次の諸点をも加えたい。
  •  
  •  一、場所が海岸線から約五キロメートルの距離にあり、しかもこの海岸地方は、酒田市北方から吹浦に至るまで、(略)急性的にも将た慢性的にも、著しく沈下をなす傾向を有す。しかもこの傾向は奥羽海岸地方中においてこの小区域に特有されていること。
  •  奥羽沿岸における精密水準測量の結果として過去三十余年間における水準変化に、沈下量一〇センチメートル、その延長距離一六キロメートル以上に達する場所を求めるならば上記の酒田以北吹浦に至るまでが唯一のものであるが、しかもそのうち日向川以北およそ五キロメートルの間は三十三年間に約二〇センチメートルほどの漸進的沈下をなしたのであって、かくのごときは日本全国においてきわめて稀有の例である。これすなわち城輪柵址にもっとも近き海岸であるが、この地方を除き、奥羽沿岸の他の地方は大地震とともに一般に隆起をともなう経験をもっている。(略)
  •  これを要するに、城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯であるが、もし試みに、大地震にともない、海岸線が著しく内陸に侵入するほどの沈下をなすべき地域を奥羽西海岸に求めるとしたならば、それは上記区域を除いては他に求められないであろう。(略)
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  •  はしがき
  •  庄内三郡
  •  田川郡と飽海郡、出羽郡の設置
  •  大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領
  •  高張田地
  •  本間家
  •  酒田の三十六人衆
  •  出羽国府の所在と夷地経営の弛張
  •  
  •  奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  •  出羽国分寺の位置に関する疑問
  •  これは「ぬず」です
  •  奥羽地方の方言、訛音
  •  藤島の館址――本楯の館址
  •  神矢田
  •  夷浄福寺
  •  庄内の一向宗禁止
  •  庄内のラク町
  •  庄内雑事
  •   妻入の家 / 礫葺の屋根 / 共同井戸 / アバの魚売り / 竹細工 /
  •   カンジョ / マキ、マケ――ドス / 大山町の石敢当 / 手長・足長 /
  •   飛島 / 羅漢岩 / 玳瑁(たいまい)の漂着 / 神功皇后伝説 / 花嫁御
  •  桃生郡地方はいにしえの日高見の国
  •  佳景山の寨址
  •  
  •  だいたい奥州をムツというのもミチの義で、本名ミチノク(陸奥)すなわちミチノオク(道奥)ノクニを略して、ミチノクニとなし、それを土音によってムツノクニと呼んだのが、ついに一般に認められる国名となったのだ。(略)近ごろはこのウ韻を多く使うことをもって、奥羽地方の方言、訛音だということで、小学校ではつとめて矯正する方針をとっているがために、子どもたちはよほど話がわかりやすくなったが、老人たちにはまだちょっと会話の交換に骨の折れる場合が少くない。しかしこのウ韻を多く使うことは、じつに奥羽ばかりではないのだ。山陰地方、特に出雲のごときは最もはなはだしい方で、「私さ雲すうふらたのおまれ、づうる、ぬづうる、三づうる、ぬすのはてから、ふがすのはてまで、ふくずりふっぱりきたものを」などは、ぜんぜん奥羽なまり丸出しの感がないではない。(略)
  •  また、遠く西南に離れた薩隅地方にも、やはり似た発音があって、大山公爵も土地では「ウ山ドン」となり、大園という地は「うゾン」とよばれている。なお歴史的に考えたならば、上方でも昔はやはりズーズー弁であったらしい。『古事記』や『万葉集』など、奈良朝ころの発音を調べてみると、大野がオホヌ、篠がシヌ、相模がサガム、多武の峰も田身(たむ)の峰であった。筑紫はチクシと発音しそうなものだが、今でもツクシと読んでいる。近江の竹生島のごときも、『延喜式』にはあきらかにツクブスマと仮名書きしてあるので、島ももとにはスマと呼んでいたのであったに相違ない。これはかつて奥州は南部の内藤湖南博士から、一本参られて閉口したことであった。してみればズーズー弁はもと奥羽や出雲の特有ではなく、言霊の幸わうわが国語の通有のものであって、交通の頻繁な中部地方では後世しだいになまってきて、それが失われた後になってまでも、奥羽や、山陰や、九州のはてのような、交通の少なかった僻遠地方には、まだ昔の正しいままの発音が遺っているのだと言ってよいのかもしれぬ。(略)

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