喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Sadakichi_Kita.png」より。


もくじ 
庄内と日高見(一)喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
庄内と日高見(一)

オリジナル版
庄内と日高見(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:212(日本史/東北地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html
NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html




庄内と日高見ひだかみ(一)

喜田貞吉

   はしがき


 西の方はこれまで比較的踏査とうさの機会も多かったが、東の方はとかく後まわしになっている。ことに奥羽地方にいたっては、自分にはほとんど手がついておらぬ。学生時代に名所見物の意味で、仙台・松島・塩竈しおがまあたりを一周したのと、大正四年(一九一五)陸中の中尊寺で、自分ら仲間の日本歴史地理学会の講演会をもよおしたときに、平泉付近の案内をしてもらったり、ついでに原博士はら勝郎かつろうの紹介で、その御郷里の盛岡付近、安倍あべの貞任さだとう厨川くりやがわだとか、さらに奥地に入って昔の爾薩体にさつたい地方から、二戸郡にのへぐんの山地を少々見てまわったりしたのと、さらに北海道へ渡った道筋に、青森にちょっと下車したのと、その帰りに津軽・出羽の方面にまわり、素通りの汽車旅にその地の空気を呼吸して、地図に引き合わせつつ客車の窓からあたりの景色をながめたのと、ちょっと秋田に下車して故真崎まさき勇助ゆうすけ翁の収集品を拝見しようとして失敗したのと、いま一つは大正七年(一九一八)に同じ学会の講演会を岩代いわしろ〔旧国名。今の福島県の中央部および西部。の若松で開いたときに、越後から汽車で会津を経てふたたび東北線にまわり、三日間、会津で滞在してすこしばかりそのあたりを視察したのと、ただそれだけの経歴だ。それでもともかく奥羽五州に足をいれたには相違ないが、見聞のおよんだ所はきわめてせまい。
 だいたい自分は頭が悪いせいでか、机上で史籍をくり返しただけでは、どうもハッキリした観念が頭の中に浮かんでこない。歌人はいながらにして名所を知るなんどいうことは、魯鈍ろどんな自分にはとうていできない芸当だ。一度書物で下ごしらえをしたうえに、大体だけでも身親しくその境にのぞんで、実地を踏査したり、土地の人の話を聞いたりしたうえで、さらにふたたび調べ上げたのではなくては、どうしても自分には十分飲み込みができないのだ。そこで自分の研究中にも、主要なものの一つに置いているところの蝦夷えみし問題をまとめるについては、ぜひひととおり奥羽の実際に通暁つうぎょうして、その地理なり土俗なりになじみをつけておきたいというのが、多年の希望であったのだ。人間の寿命にはかぎりがある。人生五十という年の峠はとくに越えている。いつまでも古書いじりに研究の火先をのみひろげて、何歳まで生きのびて、それをまとめるつもりであろう。それを思うと何よりも心細さが先に立つ。
 奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡ものうぐん北村きたむらの斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々ともども出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪おりあしく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾いかんながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇よかを繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟ひっきょう、栗田・斎藤両君使嗾しそうたまものだ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識ものし阿部正巳まさき〔阿部正己。君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国ひだかみのくになる桃生郡ものうぐん内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑いっぱんを書きとめて、後の思い出の料とする。

   庄内三郡


 庄内とは大泉庄内の義で、もとは越後のうちであったなどと、いまさら事めずらしく述べるまでもないが、同じく旧出羽国の中で、また同じく最上川の流域に属していても、身親しく山形・新庄をへて、この庄内平野へ入ってみると、たちまち別の国へ来たかの感がある。新庄から庄内の入口ともいうべき狩川かりかわに来るまで鉄路約二十二マイル、たいていは両山相せまる隘路あいろをすぎて、その間を最上の急流が通っているばかり。しかるに足ひとたび庄内平野に入っては、いわゆる一眸いちぼう際涯さいがいもなく広々としたもので、田圃でんぽひらけ、耕地整理がおこなわれて、いかに古代の鷹揚おうような日本人でも、これを狩猟・漁業にのみ生きる蝦夷の族の跳梁ちょうりょうにまかして、永く放任しておくに忍びない地であったということが察せられるのである。これを庄内三郡というのは、もと田川たがわ出羽いでは飽海あくみの三郡のことにあたるのであろうが、中世には出羽郡の称を失って、ここに櫛引郡くしびきぐんの私称がおこり、飽海郡あくみぐんの名が忘れられて、ここに遊佐郡の名が生じ、田川・櫛引くしびき遊佐ゆざをもって庄内三郡と呼んでいた。その遊佐郡の称は寛文(一六六一〜一六七三)以来廃せられて飽海に復し、河南櫛引郡の地はすべて田川一郡に属することとなり、酒井さかい左衛門尉忠義ただよし鶴岡城つるがおかじょうにあって、田川郡二五七村・約八万九五八九石、飽海郡一八八村・約五万四八三石、あわせて一四万余石の草高くさだかで庄内の地を領しておった。このほかに忠義の叔父おじ大学頭忠恒ただつねが、飽海郡の松山城(今の松嶺まつみね)におって、飽海郡内二八村約五二一三石、田川郡内七村・約二七八八石、ほかに村山郡内で七四村一万二〇〇〇石、あわせて二万石を領し、同じく備中守忠解ただときが、田川郡大山おおやまにあって同郡内二一村一万石を領しておったが、これはいずれも新墾田分知ぶんちの形式で、もとからの宗家の草高一四万石というには変わりがなかったのだ(酒井氏の領地と草高とのことは後項を見よ)。明治十三年(一八八〇)田川郡を東西に分かって、ほぼもとの庄内三郡のありさまに復した。

   田川郡と飽海郡、出羽郡の設置


 庄内の地は今は東田川ひがしたがわ西田川にしたがわ飽海あくみの三郡にわかれて、西田川と飽海とはだいたいに沿海の地をしめ、東田川は内地にある。その東田川が概略『延喜式』や『和名抄』時代の出羽郡に相当する。
 田川郡の設置は判然とは見えておらぬ。『日本紀』天武天皇十一年(六八三)条に、こしの蝦夷伊高岐那らが俘人ふじん七千戸をもって一郡となさんことを乞うて許されたとあるのは、孝徳天皇朝に越後の磐船の磐舟柵いわふねのきを置いた後でもあり、和銅に出羽郡を置くの前でもあるから、おそらくこの田川郡のことであろう。俘人じんとは後の俘囚ふしゅうで、すなわち熟蝦夷にぎえみしのことだ。彼らは同じ蝦夷の族ながらも、つとに王化によくしてその俗を改めていたものだ。これより先斉明天皇の御代に、阿倍べの比羅夫が出羽方面の夷地を経営して、海岸づたいに秋田・能代・津軽・北海道あたりまでをも従えたが、当時すでに能代・津軽の辺りにまで、和俗に従った熟蝦夷がいたほどであるから、庄内地方海岸の蝦夷の族が、つとに王化によくしていわゆる俘人ふじんとなり、越後国府管下に一郡を建てんことを求めたからとて不思議はない。
 和銅元年(七〇八)九月に新たにその内地に出羽郡を置いた。庄内沃野よくやの拓殖に着目したのだ。しかし、これがために祖先以来の狩猟場を荒らされた麁蝦夷あらえみしすなわち生蕃せいばんの反抗はけだしやむを得なかった。「北道の蝦狄えてき遠く阻険そけんたのみ、じつに狂心をほしいままにし、しばしば辺境を驚かす」とあるのはこれだ。これに対してはもちろん相当の設備がなければならぬ。和銅二年七月、蝦狄えてきを征せんがために、諸国をして兵器を出羽柵のきに運送せしめ、越前・越中・越後・佐渡四国をして、船一百そう征狄所せいてきじょに運ばしむなどあるのはこれがためだ。出羽柵はすなわち出羽郡で、郡民保護の城柵じょうさくを設けたものであったに相違ない。『大宝令』にも、東辺・北辺・西辺による諸郡の人居は、みな城堡じょうほう内に安置せよ。その営田の所にはただ荘舎をおけ。農時に至りて営作にえたらんものは出でて庄田しょうでんにつけ。収斂しゅうれんし終わらばろくしてかえせとある。かくてその示威、着々功を奏して、和銅五年(七一二)九月には、ついに越後から独立して出羽国を置くことになった。このときの出羽の国は田川・出羽の二郡で、その管するところは漠然と庄内全部におよび、国府こくふはもちろん出羽郡に置かれたのであろう。ついで翌月、陸奥国の最上・置賜の二郡(村山郡は最上郡より分かる)を出羽に合わせ、今の山形県管下の全部を管することになった。その最上・置賜の地方は同じ最上川の流域ながらも、早く山道の福島方面から開けてきたので、庄内とは拓殖の道筋が違う。ただ田川・出羽二郡だけでは、一国をなすにはあまりに微力なのと、一つは置賜・最上の地が山道地方とはかけはなれて、むしろ最上川によって庄内に通ずる方が便利なののために、これを出羽に属せしめたのであったのであろう。それゆえに出羽としては、どこまでも庄内地方が主であった。仁和三年(八八七)五月の太政官の議にも、出羽郡を「中」といい、最上郡を「外」といっている。
 このさいにおける田川郡の範囲は、おそらく海岸続きに飽海郡の地をもめていたものと思われる。この方面の蝦夷はまず海岸地方から王化に浴したもので、いわゆる俘人ふじん七千戸の一郡は、庄内海岸一帯の熟蝦夷にぎえみしであったのであろう。ただにこのさいばかりでなく、平安朝になっても飽海郡はいまだ久しく分立せず、少なくも仁明天皇承和(八三四〜八四八)のころまでは、なお田川郡のうちであったと思われる節がないでもない。それは別項「神矢田かみやだ」の文中にひいておいた、承和六年(八三九)八月の田川郡司の解文げもんの中に、「この郡の西浜、府に達するのほど五十余里、もとより石なし」とあることだ。「府に達する」の解釈にはちょっと困るが、当時の五十余里は今の九里内外で、今でもなお石のすこしもない庄内海岸の全砂丘を包括せしめねば、とうていこの数には合わないのである。実測地図を案ずるに、今、西田川郡湯野浜ゆのはまのあたりから、飽海郡吹浦ふくら川の口まで九里半余。まさに五十余里というに匹敵する。しからばすなわちこの海岸の砂丘は、すべて当時の田川郡のうちであったといわねばならぬ。その「府に達する」の語は、国府が最上川の河口に近き河辺郷くち(別項に説明する)の地にあって、田川郡の海岸南北から、この国府に達する砂浜の長さを通計したものかと思われる。この解文に見える神矢が鳥海山の神たる大物忌神おおものいみのかみの放たれたものだと解せられたことからいっても、この後に石鏃せきぞく降下の事実が多くは飽海郡に関係して報道せられているのを見ても、いくぶんこれが裏書きされそうに思われる。
 飽海郡あくみぐんの名は、自分の気がついたところでは、『三代実録』貞観十年(八六八)四月、石鏃降下の記事がはじめらしい。しかしてそれから後には、たびたびその名が史上にくり返されているのである。あるいは承和六年(八三九)から貞観十年までの、三十年ばかりの間に分かたれたのではなかろうか。徳川時代藩政のころ、いかなるゆえにか、正徳以降(一七一一〜)明治にいたるまで、飽海郡もその北端に近い海中の飛島とびしまを、わざわざ田川郡に属せしめたのも、何かにこの島が田川郡の属島だとの伝えがあったためかもしれぬ。
 出羽郡の設置は内地の蝦夷を圧迫して、沃野に拓殖をしようとしたものであったに相違ない。さればその建郡の翌和銅二年(七〇九)には、新たに征狄せいてき将軍を任命し、引き続き兵器・舟揖しゅうしゅうを運び、五年建てて一国となすや、越えて七年には出羽の民に養蚕ようさんをすすめ、尾張・上野・信濃・越後などの民二〇〇戸をその柵戸きのへに移し、翌霊亀元年(七一五)には出羽の蝦夷朝貢のことがあり、さらにその翌年には、出羽の地吏民りみんいまだ少なく、狄徒てきといまだれず、しかもその地膏腴こうゆにして田野広寛たるがゆえにとの理由をもって、随近の国民をここに移して、狄徒てきと教喩きょうゆし、拓殖を進めしめることとなった。かくてその翌養老元年(七一七)には、信濃・上野・越前・越後四国の百姓各一〇〇戸の民を出羽でわに移した。四〇〇戸は令制の八郷である(ちなみにいう。『続紀』霊亀二年(七一六)九月条にも、陸奥の置賜・最上二郡、および信濃・上野・越前・越後四国の百姓各一〇〇戸を出羽の国につくとある。しかしこれは本文に随近の国民を移すとあるので、その例として後人が、前の和銅五年(七一二)最上・置賜二郡を出羽につけ、つぎの養老元年(七一二)四国の国民各一〇〇戸を出羽に移したことを傍書しておいたのが、本文に混入したことかと思われる。よって今、取らぬ)。これより出羽方面の蝦夷もだんだん王化によくしてきたとみえて、翌二年には出羽ならびに渡島わたりじまの蝦夷八十七人来たりて、馬千匹を貢し、位禄いろくをこれに賜わったとある(この馬千匹は十匹の誤写かと思われる。ついでにいう。天武天皇十一年(六八三)俘人ふじん七千戸の郡もあまりに多すぎるようではあるが、それは蝦夷と内地人と一戸の立て方がちがっていたので、内地人の一戸は数十人に達しているが、蝦夷の一戸は少なかったものかもしれぬ)。翌三年にも東海・東山・北陸三道の民二〇〇戸を出羽柵に配し、翌四年にはまた持節じせつ鎮狄将軍の任命があり、恩と威と、移民とが並びおこなわれて、庄内平野はだんだん開けてきたことと思われる。かくてついに天平五年(七三三)には出羽の柵を遠く北の方、秋田にまでうつすに至ったのだ。

   大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領


 いったい大名の草高くさだかほどあてにならぬものはない。いったん検地でそれときまった以上、たとえその後いかに領内に新墾田が増加しようとも、何か特別の問題がでもおこらぬかぎり、いっこうその表高おもてだかには変わりはない。そのかわりに新墾田の名義をもってすれば、じつは一地方にまとまった土地をいくら一族に分知してみても、本家の表高には変更を来たさぬのだ。元和八年(一六二二)酒井宮内大輔忠勝ただかつが信州松代まつしろから、この鶴岡城つるがおかじょうへ転封せられたときには、田川・飽海両郡一三万八〇〇〇石ということであった。しかるにその後、寛永七年(一六三〇)村山郡左沢あてらさわ一万二〇〇〇石の領主右近大夫直次なおつぐ(忠勝には弟)が死んだについて、その旧領地を宗家にあずけられたが、同九年、加藤かとう肥後守忠広ただひろが庄内に配せられたときに、忠勝の所領のうち丸岡まるおか一万石を配所の料として、これに分かった代地として、さきに預けられた左沢領一万二〇〇〇石を所領に加えられて、都合つごう一四万石余となった。
 それ以来鶴岡領は、幕末までも表高にあまり変わりはないのだ。忠勝の子摂津守忠当ただまさが正保四年(一六四七)に遺領をつぐにおよんで、右の左沢領一万二〇〇〇石と、ほかに田川・飽海両郡内で八〇〇〇石、都合二万石を弟忠恒ただつねに分かち、また田川郡内一万石を弟忠解ただときに分かった。その地はもちろん立派に旧領の一部であって、そのことが明白に幕府に知れておって、村名まで明記した領知目録をあたえられているほどであるから、宗家領は当然一二万石となるべきはずではあるが、それが新墾田分知という名義であったから、なんとかして石高の総計を工面して、やはりもとの宋家領一四万余石という数は動かなかったのである。その後、天和二年(一六八二)に左衛門尉忠真たださねが父の遺領をつぐや、父忠義ただよし従弟いとこ牛之助忠高ただたか忠当ただまさの弟忠俊ただとしの子)に、田川郡内五〇〇〇石を分知して寄合に列せしめても、これまた新墾田の名義であったから、やはり宗家の草高には傷がつかなかった。今、寛文四年(一六六四)と貞享元年(一六八四)以後の領知目録を比較してみると、いかにその石高を合わすうえに細工が施されたかが知られるのである。

寛文四年(一六六四)四月五日領知目録
 田川郡内二五七村 八万九五八八石九斗五合
 飽海郡内一八八村 五万四八二石六斗九升九合
   合一四万七一石六斗四合
貞享元年(一六八四)九月二十一日領知目録
 田川郡内二五三村 八万七四六九石一斗六升三合
 飽海郡内一八八村 五万二六〇二石四斗四升一合
   合一四万七一石六斗四合

 かく村数は変わっていても、一四万余石という大数のところで、何斗何升何合という微細な数まで、細かくつじつまを合わしてあるのだ。滑稽こっけいといえば滑稽だが、幕府が軽々しく大名所領の石高を動かさないという方針上、やむを得ぬことであったのであろう。
 その後、事実上新墾田は続々えても、分知のことがなければ問題はおこらぬので、正徳・享保・延享・宝暦・天明などにあたえられた領知目録は、いずれも貞享度と同様、高一合の変更だもない。このほかに酒井忠解ただときの大山領一万石、加藤忠広の丸岡領一万石、合わして二万石がきになって、酒井家へ預け地になっている。また両郡内の松山領は、天明度において一万五二八九石一斗〇〇一才であるから、これを加えると庄内三郡一七万五三六〇石七斗〇四合〇一才となる。しかるにその実地はどうかと見ると、元禄の検地においてすでに田川郡に一三万六一八七石六斗七升七合二勺、飽海郡に六万二四三〇石七斗一升五合、あわして庄内一九万八六一八石三斗九升二合二勺という石高が表われている。これはその当時において、公に認められていた数なのだ。その後、天保の調べでは、田川郡が一五万九八七三石八斗八升三合七勺四才、飽海郡が七万四四二八石四斗七升二合四勺、あわしてじつに二三万四三〇二石三斗五升六合一勺四才という大数が計上せられているのだ。それでいてなお酒井家の禄高では、あいかわらずの一四万余石で通っていたのだ。元治元年(一八六四)に田川・由利ゆり二郡内の預け地を増封せられて、やっと表高が一七万石となった。それに飽海・田川両郡内の松山領約九三〇〇石を加え、由利郡内の新恩地大砂川おおさがわ小砂川こさがわ二村四〇〇余石を除くと、庄内三郡一七万九〇〇〇石高にしかならぬのである(天明度の田川郡内松山領一万五二〇〇余石、うち六〇〇〇石はまもなく旧領左沢に移されたるなり)。明治の調べでは、田川郡が一六万〇〇八七石一斗〇九合六勺四才、飽海郡が七万四九四四石三斗七升七合八勺、あわして二三万五〇三一石四斗八升七合四勺四才(『地誌提要』には二三万五二四四石七斗二升〇八勺一才)とあって、天保のとはあまりに増しておらぬようだが、これはその後、精密な縄入れをせずして、旧によったためであったに相違ない。
 ともかく庄内三郡は、おのずから一区画をなした平野の地で、耕耘こううんがよくおこなわれ、古来人口の割合に米の産額が多く、庄内米として他地方への米穀の供給地となっているのだ。『地誌提要』の示す石高をもってしても、庄内地方二三万五〇〇〇石の草高に対して、その人口が田川郡約一三万三一〇〇人、飽海郡約七万三〇〇〇人、あわして約二〇万六一〇〇人で、全国の平均からいうと約三万石の剰余米を生ずるわけだが、事実はさらにそれよりも多数であったに相進ない。この多数の剰余米を他に輸出して酒田の商人は巨利をはくし、「本間様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」とまでいわれた本間家のごとき、一大富豪をこの庄内平野が生み出したのだ。
 明治維新に酒井家は幕府に党したがためにいったん城池じょうちを収められ、さらに会津若松で一二万石をたまわり、まもなく磐城平いわきたいらに転じ、後、庄内に復帰して大泉藩おおいずみはんを立て、田川郡内一二万石の地を管したが、これは昔の縄の一二万石ではなくて、新しい調べの一二万石であったらしい。すなわち、もとの表高一七万石の中から五万石を削られたのではなくて、新たにその当時の草高くさだか一二万石の地をあたえられたのだ。
 ちなみにいう。維新後出羽を分かって羽前・羽後としたときに、この切っても切れぬひとつづきの平野の庄内を二分して、河南の田川郡は羽前に属し、河北の飽海郡を羽後に属することとした。これは旧庄内領内の没収地を区別して、行政上の支障を少くせんがためだなどといわれているが、じつは飽海郡をまでも羽前へつけたでは、羽前一〇二万三〇〇〇石、羽後五一万四五〇〇石となり、あまりに国力の権衡けんこうが取れなくなるがためであったらしい。このときの分国は単に机の上で、不完全な地図と石高とを見て定めたもので、諸国石高の権衡に重きを置いたがために、はなはだしく地理の実際をゆるがせにし、伊達郡だてぐん磐城いわきにつけて、伊具いぐ刈田かったの二郡を岩代いわしろに編し、ために岩代は中に磐城国伊達郡をはさんで、伊具・刈田の飛び地を有するようになるの不都合を生じ、後にこれを改めたなどの滑稽こっけいもあったものだ。しかし庄内平野はどうしてもひとつづきの地で、分かつべきものではない。府県制においては羽後の飽海郡は、やはり田川郡とともに山形県に属せしむるのやむをえないものがあるのだ。

   高張田地


 庄内の田地について「高張たかばり」という珍しいことのあることを聞いた。いったい田地はそれぞれ検地のうえで、一筆ごとに高何ほどということが定められ、それに準じて領主への租税を納むべきことになっている。これは全国共通で、いまさら事新しく言うまでもないことだが、庄内地方では特に百姓が勝手にその高を変更して、甲の田地の高を乙の田地につけ、もと甲乙ともに三石高であったものならば、たとえば甲を五石高とし、乙を一石高とするというような、奇態なことがおこなわれていたという。その高の過重な方を高張たかばり田地というのだ。
 それで総計の高のうえには変動がないから、領主もこれを黙許もっきょしていたものらしいが、実際上、不都合な現象といわねばならぬ。これはこういう場合におこる。たとえばAが自分の持地の一部甲をBに売るにあたって、かりに時価十両のものから十五両を得ようとするときには、その売った甲の地の高の一部を、手もとに残した乙の地の方に移すのだ。その結果として、これを買ったBは、永久その甲の地に対して軽少なる租税を負担してよいわけで、乙の地を有するAがその分を永久に代納することになるのである。つまりBは甲の地を買ったがために、永久負担すべき租税を一時にまとめてUにあたえ、Uは永久僅少きんしょうな収穫の地面を耕作して、過当な租税を納付してしくずしにこれを弁償するということになるのだ。それがために高の少ない地所は自然高価に売買せられ、いわゆる高張たかばりの地は価格が低くなるという結果はやむを得ぬ。しかるに明治政府が地価修正をおこない、無条件に土地の実収額に応じて租税の標準たる地価を定めたがために、高の低い田地の持ち主は非常な損失をこうむり、高張田地の持ち主は意外の僥倖ぎょうこうに浴した結果となった。それを見こして安く高張田地を買い占めて、大地主になっているものも少くないということである。

   本間家


 庄内で著しいのはなんというても本間さんだ。「本間さんにはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」とまで言われたその本間さんだ。庄内一四万石の領主酒井左衛門尉様も、しばしば本間さんから借金なされたものだという。
 庄内行きの汽車の中で、いずれ同地のしかるべきお方と思われる人と乗り合わして、いろいろ庄内のお話をうけたまわった中にも、まず話頭わとうにのぼったのは本間さんであった。本間家の中興四郎三郎しろうさぶろう光丘という人は、近ごろ神に斎われて県社となったとか、本間家の不動産は一〇万石高もあろうとか、その小作制度はよく整って、小作人一人の不平者もなく、他地方で心配するような小作争議の問題などは、本間家の土地に限って夢にもおこりそうなことはないとか、一から十まで本間家のありがたいことばかりで、話半分に聞いてもたいしたものだった。
 酒田へ来て飽海郡あくみぐん学事会から、光丘こうきゅう翁の事跡を書いた書物を頂戴ちょうだいしたが、それを見るとなるほど本間家はたいしたもので、中興の光丘翁はえらい人であったとうなずかれる。光丘翁は享和元年(一八〇一)に没した人で、今からまだ一二〇年にしかならぬ。そんな新しい時代に、しかも天下泰平無事の時代に、やはりあれだけの大身代しんだいを作り上げることができたのだ。これは自分にとってじつは案外千万のことであった。本間家について何も知らない以前にあっては、本間家はいずれ古代の郷士であって、なお信州伊奈谷の親方(お館)や、阿波の祖谷山いややま名主みょうしゅのごとく、またその小作人は伊奈の被官や、祖谷の名子なごのように、古来主従の関係を持続して、それが不思議にも徳川時代を通して、そのままに持ち伝えてきたものかくらいに思っていたのであった。したがってその所領開発の次第や、小作人との関係や、大名専制時代にその所領を持ち伝えることのできた事情などを知りたいというのが、庄内入りの一つの目的であったのだ。しかるにその先祖はやはり他の多くの町人と同じように、遺利いりを求めてやってきた比較的新しい来たり人で、庄内の豊富な米を上方に輸出しては、古着その他の物資を庄内に輸入し、その商売でもうけた金をもってだんだん近傍の地面を買い集めたのだとうけたまわっては、よくもその時代にあれだけの身代しんだいができたものだと、驚かされたほかに歴史的探究の楽しみは少くなってしまった。
 さらに驚かされたのは、その大富豪の質素な家憲かけんである。本間家の一族某君の実話によると、汽車中で聞いた不動産一〇万石高というのは大きな懸値のあるもので、実際の収入は二万石くらいだという。はたして本当のことを言っておられるのか否かは知らぬが、事実とすればまず五万石くらいのところであろうが、五万三〇〇〇石の浅野内匠頭は赤穂の城に住し、多くの家臣をしたがえて、その多数が離散した後にまでも、なお故主のために生命を捨てる四十七人の義士がのこったのだ。一四万石の殿様以上にうらやまれた本間さんのことであってみれば、いずれ城廓とも見まごうばかりの宏壮な邸宅に住せられて、栄耀えいよう栄幸のありたけをつくしておられるのかと思っていたら、これはさてそのお屋敷というのは、わずかに方一町にもらぬかと思われるくらいのいたって質素なもので、外見からはなんら目に立つほどのものではなかった。失礼ながら神戸あたりの成金連中の新邸にくらべて、足もとにもよれぬほどのものなのだ。ことに驚かされたのは浄福寺じょうふくにおけるその墓地である。寺内の共葬地に狭少きょうしょうな一郭をかまえて、近ごろ作ったと思われるコンクリートの塀をめぐらしてはあるが、光丘翁はじめ代々の墓石は、じつはそのあたりの権兵衛・太郎作の墓石に比して、そう大きいというほどのものではないのだ。これでこそ本間家の基礎盤石ばんじゃくのごとく、小作争議のごとき夢にだもおこらぬと観測されるわけだと、おくゆかしく思ったことである。
 聞くところによると、本間家では代々二、三男を分家さするにも、わずかばかりの資産を分かつだけで、これを末家ばっかと称し、本間家経営の株式会社本立銀行や、信成合資会社などの社員として使用して、それで生活させる組織であるという。ただに末家の人々が多くの資産を有せぬのみならず、じつは宗家の主人もそう自己の財産というものを持っておられぬという。今の当主が先代の遺産を相続せられたさいにも、相続税というものがきわめて僅少きんしょうであったがために、税務署が不審をおこして、脱税の疑いをもって種々穿鑿せんさくしたことであったそうな。これはあの本間家の大きな不動産が、みな信成合資会社という法人の所有になり、動産がたいてい本立銀行の資本や積立金となっているがためだという。しかしそれは決して近ごろの横着な財産家が、脱税のためにこしらえた保全会社ではないのだと説明された。なるほどその説明をうけたまわると、いかにもごもっともとうなずかれるおもしろい事実がある。中興光丘こうきゅう翁が公益のためにつくすところ多く、ことに領主酒井侯のために貢献するところが少くなかったので、もと一商人の身分が、取り立てられて高取たかとりとなった。士分となれば商売もできず、また不動産をも所有することができぬ。そこで特にゆるされて、亡父の名前の庄五郎とかいう無形の人を押し立てて、その名義で土地を所有し、商業を営んだものだ。それが引き続いて明治・大正の今日に至ったので、信成合資会社は畢竟ひっきょうその無形の庄五郎を、商法の規定に準じて会社組織に改めたにすぎないのだという。まったくそうであろう。まさか本間家ともあろうものが、脱税目的の会社を作られるはずはない。
 本間家の宗家と一門たる末家との関係は、もとはほぼ主従のようなありさまであったらしいが、文明開化の今日ではそんなことはないそうな。それでも一門の人々は、今なお忌日いみび紋日もんびなどには礼服着用で宗家へ出て、当主に伺候しこうするという。当主は一門の人々に対して「誰それチャ」と呼び、一門の人は当主を「だんなさん」とあがめる。チャとはサンというよりも一段軽い親しみの敬称である。
 なお本間家のことは、右の『光丘翁事歴』にたいてい出ているからここに省く。ただその光丘こうきゅう翁が、単に商業によってあの泰平の代にあれだけの財産を作ったというだけのことで、紀の国屋文左衛門とか、銭屋五兵衛とかいう人々の話のような、大もうけの事情の明らかならぬのはしい。

   酒田の三十六人衆


 酒田町さかたまちにはもと三十六衆という年寄株があって、それで町政を切り盛りしていたという。いわゆる草分けの人々であろう。伝説によると、この三十六人はもと藤原秀衡の家臣で、文治五年(一一八九)泰衡滅亡後、秀衡の妹徳尼公とくあまぎみにしたがって、当地にのがれてきたのだとある。いわゆる徳尼公の墓は酒田町泉流寺せんりゅうじにあって、「宝暦十年(一七六〇)十一月、三十六人先祖御尋に付差上候書付控」というものには、三十六人儀は奥州秀衡公お妹、当所洞永山泉流寺開基、洞永院殿水庵泉流尼公にしたがい、奥州よりつきそいしむねうけたまわり伝え候とある。また「三十六人由緒ゆいしょ書」は、秋田の白馬寺にある由だともあるが、この泉流寺の方はたびたび焼けたので、尼公の御手道具そのほか武具などがあったが、ただ今はなくなったともあって、つまり由来不明なのだ。洞永院殿などいう名はもちろん文治(一一八五〜一一九〇)のころにありそうもない。またそのいわゆる三十六人衆なるものの個々の由緒ゆいしょを見ると、なかには先祖の生国まったく不明なのもあり、あるいは諸国からの来たり人もあって、奥州平泉の武士の末とはいっておらぬ。これは中世以降株の売買のおこなわれた結果だという。つまり彼らはもと庄内に遺利を求めて、商業に来たままに住みついたのが多いのであろう。すでに『万葉集』にも、「鳥がなく あずまをさして ふさえしに、行かんと思えど よしもさねなし」の歌があって、これは奈良の都人が東国に遺利を求め、はるばる出かけるもののあるのをうらやんで、都に残ったものが便よし旅用さねもないことをなげいたものだが、いつも変わらぬ人情である。
 右書き上げの三十六人衆のうちには、上林勇左衛門先祖和泉だとか、永田茂右衛門先祖若狭だとか、本間久四郎先祖主計だとか、往々官名を受領したげに見えるものが多い。これはさきに本誌上で町人、職人官名受領のことを論じた文にいったごとく、もと先祖の本国の名を通称に呼んだのがはじめで、主計とか宮内とかいう国名以外の官名を呼ぶものは、仲間の者が国名を呼び名としているのを見て受領と心得、それを真似まねて勝手によい加減な官名をつけたものであろう。もともと先祖出生の国名を呼び名とする坂の者の後裔たる京都の弦指つるさしが、徳川時代までも国名・官名を呼び名とするものの多かったことなども、傍例とすべきである。まさかにこの酒田あたりの商人が、そんな古代にしかるべき手続きをして、それぞれ実際に任官されたものとは思われない。

   出羽国府の所在と夷地経営の弛張しちょう


 出羽の国府と国分寺との位置は、国史上の難問題である。自分が庄内へ来てまず調査してみたいと思ったのは、一つはこの問題解決の鍵を得たいがためであった。だいたい国府と国分寺とはつい近所にあるのが普通で、出羽の国府が出羽郡にあり、国分寺がもとの最上郡山形にあるがごときは、特別の理由ある場合のほかは、とうていあり得べからざることなのだ。なんとなれば、国分寺はもと国府に属するもので、国分寺の住職ともいうべき講師は、国府の吏員りいんの一といってしかるべきものであったからだ。『和名抄』には出羽の国府平鹿郡ひらかぐんにありとある。しかして平安朝末期の『伊呂波字類抄じるいしょう』にも、同じことに見えている。これは『和名抄』からそのままに取ったのかもしれぬが、しかもまた一方には、同じ『和名抄』出羽郡の下に国府と注して、同書中にすでに矛盾を示しているのである。これあるいは『和名抄』を編した時分において、国府は実際平鹿郡にまで進んでおったけれども、もともと出羽郡が国府の所在で、諸書記するところ多くそうであったから、あるいは後人がその注を加えたのであるかもしれぬ。平鹿郡は雄勝城おかちのきから秋田城あきたのきに通ずる大道のしょう〔かなめ。要所。にあたり、その地は比較的早く開けて、郡もすでに天平宝字三年(七五九)に置かれたほどのところであるから、あるいは後年ここに国府が移ったことが全然ないともいわれない。また山形のことを中世、府中という。府中は通例国府の称で、しかもここに国分寺があってみれば、あるいは退嬰たいえい時代にここに国府を移したことがなかったとはいえぬかもしれぬ。現に仁和三年(八八七)には、当時の出羽郡の国府を最上郡大山郷おおやまごう保宝士野に移そうという議すらおこったことがあるのだ。大山郷は『和名抄』には村山郡の中にあって、後世の最上郡の中になっている地らしい。
 しかしながら、ともかくも当初の国府は出羽郡にあって、奈良朝を通じて、平安朝に至り、仁和三年にも右の移転の議は成立しなかったのだ。嘉祥三年(八五〇)に国府の地に大地震があって、形勢変改し、すでに窪泥となる。しかのみならず海水漲移して府をへだたる六里(今の一里)のところにせまり、大川崩壊してこう〔城のまわりの堀。をへだたる一町余のところまでおかされた。これがために仁和三年遷府の議もおこったのだ。しかしてこのときの出羽守坂上さかのうえの茂樹しげき上言じょうげんによるに、当時の国府は出羽郡井口いのくちの地にあり、それは延暦年中(七八二〜八〇六)、陸奥守小野岑守みねもりが、大将軍坂上田村麻呂の論奏によって建てた所だとある。この延暦年中というもの、何年のことだか明記してはないが、延暦に出羽国府の問題のおこったのは、その二十三年(八〇四)のことであって、あたかも陸奥・出羽按察使たる坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられて、おおいに活躍していた年なのだ。この年十一月、出羽の国の上言に、秋田城あきたのき建置以来四十余年、土地埆こうかく〔石の多いやせ地。にして五穀によろしからず、しかのみならず北隅に孤居し、隣の相救うなし。伏して望むらくは永く停廃ちょうはいにしたがい、河辺府かわべのふを保たん」とある。かくてついに秋田城をめて郡となし、土人・浪人を論ぜずその城内に住するものをもってその郡に編付することとなった。ここに河辺府とは河辺の国府の義で、すなわち延暦年中、田村麻呂の論奏によって、いわゆる出羽郡井口いのくちの地に定まったものであろう。出羽国の上言によってなったことを、後に田村麻呂の論奏にもとづくといっているのは、ちょっとつじつまが合わぬようではあるが、当時、田村麻呂は陸奥・出羽の按察使であったから、実際は彼の意見でそうきまったので、後にはそのことをいったものであろう。この以外、延暦年間において出羽国府の問題が田村麻呂によって論奏されて、建置せられたことがあったとは思われぬ。河辺の府とはあるいは羽後の河辺郡かわべぐんにあったかのように考えられるかもしれぬが、これは出羽郡河辺郷かわべのごうであって、いわゆる同郡井口いのくちの地にあたることは、仁和三年(八八七)条の記事で疑いをいれぬ。すなわち延暦二十三年(八〇四)から、仁和三年までは、国府はこの河辺すなわち井口いのくちの地にあって動かなかったのだ。仁和三年、国司くにのつかさは最上郡大山郷おおやまごう保宝士野に遷さんとの議を立てたが、これは採用にならず、旧府の近側高敝高敞こうしょうか。の地をえらび、旧材をもちいて遷造せよとの命が降ったのであったから、やはりこの時も、国府はもとの所在から、あまり遠方へは動かなかったのであったに相違ない。
 しからばその河辺とはいずこであるか。これはとうてい明らかには決定しがたい問題ではあるが、いわゆる河辺の郷名は、おそらく最上川の河辺から得た名であろう。大川崩壊してこうをへだたる一町にせまったというのも、もともとその国府が川に近かったからであるに相違ない。今、最上河南旧出羽郡の地に余目あまるめ町があり、「正保図」によるにその旧名を館廻たてまわりとある。その西北にはあと、西には木川きがわ門田かどたつぼねなどいう字があり、さらに西に西野にしのというのがある。「跡」とは何か著名なもののあった跡たることを示し、「木川」は城川の義かもしれず、「西野」というも何か主とあるものの西の野の義と解せられることから思うと、いにしえの国府はあるいはこの辺りであったのではなかろうかと考えられる。当時、海水が鵜戸河原鵜戸川原うどがわらまで侵入したと見たならば、漲移して六里の地にせまるというにもほぼ相当たるようである。またこれを陸奥の国府多賀城の例から考えても、『大宝令』の人居は城堡じょうほうの中に置けとあることからこれを見ても、出羽国府にはいずれ大きな土塁をでも取りまわした城廓があって、その城内に人民を安置したのであったに相違ない。しからば右の諸地名は、さる遺跡を示すに恰好かっこうなものの集まりと見ることができるであろう。ことに余目あまるめとは言うまでもなく出羽郡余戸あまりべ郷のことで、余戸の民は元来農業に従事せず、工業、漁業あるいは雑役に従事したものであってみれば(このこと他日、本誌上に考証する予定)、ここの余目はおそらく国府の付近にいて、国府や府民の雑役に従事して渡世していた特殊民の居所であったかもしれぬ。陸奥の国府であったという岩切いわきり付近にも、『和名抄』に宮城郡余戸郷あまるべごうがあって、今に余目あまるめの地名の存しているのも傍証となるであろう。ただ滞在日少なく、土塁その他の遺跡の実地の存否を確かめるの機のなかったのを遺憾いかんとする。阿部君はじめ、地方の方々のご注意をわずらわしたい。
 しからば延暦二十三年(八〇四)田村麻呂の論奏によって、この河辺府が定まるまでの国府は、はたしてどこであったのであろう。
 つらつらそのさいにおける国史の記事を見るに、秋田城あきたのき保ち難きがゆえにこれを廃して、しりぞいて河辺の府を保つことにしたいとの国司の上言をいれて、城をめて郡となし、城内の住民を郡の戸籍に編付したというのであるから、いわゆる河辺の府はこのときに始まったのではなく、その前すでに存在していたことは明白である。田村麻呂の論奏によって、延暦年中に建てたという井口いのくちの国府は、仁和三年(八八七)秋田城あきたのきを廃したについて、そのかわりに出羽方面の征夷の根拠となったのだ。もとこの方面の征夷の策源地さくげんちは、天平五年(七三三)までは出羽の柵であって、当時おそらく国府と同一場所であったのを、天平五年に遠く秋田の高清水岡たかしみずおかうつして国府と分離せしめたのであった。しかるに宝亀十一年(七八〇)八月に至って、すでにこの城たもち難く、これを廃棄せんとの議がおこったほどで、この時はかろうじてこれを食い止めたのであったが、延暦二十三年(八〇四)に至ってついにこれを停廃ちょうはいし、ふたたび征夷の策源地が国府に帰ることになったのであったに相違ない。もっともこの城停廃ちょうはいのさいの国司の上言に、秋田城あきたのき建置以来四十余年とあれば、これは天平五年(七三三)のことではなく、その後二十余年を経た天平宝字のころである。このころは陸奥に桃生ものう、出羽に雄勝おがちをつくって、しきりに征夷の発展ぶりを示したときであったから、従来、単に柵と呼ばるるほどのものであったものを拡張して、秋田城となしたことであろう。柵も城も邦語ともに「キ」で、『続日本紀』にはしばしば両者を混用してはあるが、本来、柵と城とは字義も違う。特に秋田城あきたのきは出羽方面におけるもっとも重要なるものとして、後にそれが再興せられては、出羽介たるもの常にその城司を兼ね、秋田城介あきたじょうのすけとしてこれを管理することとなったほどで、延暦当時にあっても、別に城司を置いて郡より独立し、もっぱら征夷のしょうに当たっていたものであったと察せられる。しかるにこのさいこれを廃し、河辺の府を保つこととなったというのは、これを拡張し、征夷の策源地となすに至ったことを述べたのであろう。
 しからば延暦以前の河辺の府はいつのころに定められたものか。『続日本紀』宝亀六年(七七五)十月の条に、

 出羽国言す。蝦夷余燼よじん、なおいまだ平殄せず、三年の間鎮兵九九六人をいて、かつは要害を鎮し、かつは国府を遷さんとす。勅して相模・武蔵・上野・下野四国の兵士を差して発遣はっけんせしむ。

とある。このとき国府をどこからどこへうつしたか明記してはないが、思うにもと出羽柵であった国府を、この河辺の井口いのくちの地にうつしたものであろう。出羽柵いではのきの地また明瞭を欠く。和銅元年(七〇八)九月、新たに出羽郡を建て、翌年七月、蝦狄えてきを征せんがために兵器を出羽柵に運ばしめたことを思うと、当時にあって出羽柵は出羽郡衙ぐんがと同所であったに相違ない。北辺諸郡の人居は、令によっても城堡じょうほう内に安置する必要があったのだ。その後、和銅五年(七一二)に出羽国を建つ。国府の位置はやはり出羽柵同所と解するが至当であろう。しかるに天平五年(七三三)に出羽柵を秋田にうつし、出羽国府・出羽郡衙は征夷の策源地から分離して、もっぱら民政の府としてもとの所に取り遺された。しかし出羽の植民その後ますます多く、拓殖の業ますます進むにしたがって、国府・郡衙分離の必要を生じ、宝亀六年(七七五)に至って国府は、舟揖しゅうしゅうによって最上・置賜地方にも、また山北せんぼく沿海の地方にも、交通の便利の多い河辺の地に移ったものであろう。
 しからばもとの出羽柵たるその以前の国府はどこであったであろうか。今、東田川郡藤島町ふじしままちに大字古郡ふるこおりがある。これは疑いもなくもとの出羽郡衙の地であった。ただし、これが当初よりのものか、後にここに移転したものかは明らかでないが、当初、広漠たる原野を開拓して農桑のうそうの根拠を定めんには、いまだ治水の業おこらず、勝手に氾濫はんらんしていた大河の付近をさけて、このくらいに内地に引き上がった場所を選定するのは、その当を得たものであったと思われる。しからばすなわち当初の出羽国府は、この古郡付近にあったと解してしかるべきものであろう。
 延暦二十三年(八〇四)秋田城あきたのきを廃し、しりぞいて河辺の府を保つようになってからは、出羽方面の対夷政策はよほど退嬰たいえいしたものと思われる。この後しばらくこの方面の事件は物に見えぬ。これは宝亀(七七〇〜七八一)以来の多年の陸奥方面における征夷のことに疲れた結果であった。翌二十四年十一月、桓武天皇殿上において公卿に天下の徳政を論ぜしめ給う。このとき参議藤原ふじわらの緒嗣おつぐは、方今ほうこん、天下の苦しむところは軍事と造作と」であると論じ、これをめて百姓をやすんぜんと請うた。しかしてこの議が嘉納かのうせられたのみならず、三年後の大同三年(八〇八)五月には、その首唱者たる緒嗣おつぐが陸奥・出羽の按察使に任ぜられたほどであったから、その後、征夷の主力は陸奥方面に注がれたさいにおいて、比較的重要ならざる出羽の方面に、問題のあまりおこらなかったに無理はない。
 しかるに延暦停廃ちょうはい後二十六年の天長七年(八三〇)正月にいたって、鎮秋田城あきたのき国司介藤原行則が、地震によって城廓崩壊したことを奏上した事実がある。また同じ年の閏十二月にも、出羽守小野おのの宗成むねしげらが、このころ出羽の戸口増益し、倉庫の充実したことを述べ、「また雄勝・秋田などの城および国府には、戎卒いまだいこわず〔憩わず。、関門なお閉づ」とのことを言上して、国司増員のことを請うている。その後、元慶二年(八七八)出羽の夷俘いふ反乱のさいにも、秋田城ならびに郡院・屋舎・城辺民家などともに焼かれたとある。しからば秋田城はいったん停廃ちょうはいせられても、その後久しからずして復旧せられたのであったに相違ない。ことに天長七年(八三〇)のさいのごときは、上総の国司がわざわざ秋田城を鎮していたという事実すらあるのである。しかも出羽国府は依然、出羽郡にあった。元慶四年(八八〇)の国司の上言に、管諸郡中山北せんぼく雄勝おがち平鹿ひらか山本やまもとの三郡は、遠く国府を去り、近く賊地に接すとある。いわんや仁和三年(八八七)の言上に、あいかわらず出羽郡井口いのくちの地にあったのであるから、この間、だんじて他に移るべきことはない。
 これより後、出羽国府のことは物に見えぬ。もし平鹿にうつったことがあったとすれば、爾後、雄勝・秋田両城間の地おおいに開けて、出羽統御の中心を北進せしめる必要がおこってからのことであろう。
 今、見やすいように国府の沿革を左に表示する。

和銅元年(七〇八)出羽郡を建つ。郡衙ぐんがは東田川郡藤島町ふじしままち古郡ふるこおりの辺りか。
和銅五年(七一二)出羽国を建つ。国府は郡衙と同所か。
天平五年(七三三)出羽柵を秋田にうつす。
宝亀六年(七七五)国府を遷す。新府は東田川郡余目町あまるめまち付近か。
宝亀十一年(七八〇)秋田城停廃ちょうはいの議あり、おこなわれず。
延暦二十三年(八〇四)秋田城を廃し、河辺の国府を保つ。宝亀六年、移転の地なるべし。
仁和三年(八八七)国府なお旧地にあり。地震の害にあい、付近高敝高敞こうしょうか。の地にうつす。
この後、年月不明平鹿郡ひらかぐんうつりしものか。事情つまびらかならず。

(つづく)



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



庄内と日高見(一)

喜田貞吉

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)爾薩体《にさつたい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)村山郡|左沢《あてらさわ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)宝ガ[#「ガ」は小書き]峯

 [#…]:返り点
 (例)依[#二]従五位下勲六等小野朝臣宗成請[#一]
-------------------------------------------------------


   はしがき

 西の方はこれまで比較的踏査の機会も多かったが、東の方はとかく後まわしになっている。ことに奥羽地方に至っては、自分にはほとんど手がついておらぬ。学生時代に名所見物の意味で、仙台・松島・塩竈あたりを一周したのと、大正四年陸中の中尊寺で、自分ら仲間の日本歴史地理学会の講演会を催した時に、平泉附近の案内をして貰ったり、ついでに原博士の紹介で、その御郷里の盛岡附近、安倍貞任の厨川の柵だとか、さらに奥地に入って昔の爾薩体《にさつたい》地方から、二戸郡の山地を少々見て廻ったりしたのと、さらに北海道へ渡った道筋に、青森にちょっと下車したのと、その帰りに津軽、出羽の方面にまわり、素通りの汽車旅にその地の空気を呼吸して、地図に引き合せつつ客車の窓からあたりの景色を眺めたのと、ちょっと秋田に下車して故真崎勇助翁の蒐集品を拝見しようとして失敗したのと、今一つは大正七年に同じ学会の講演会を岩代の若松で開いた時に、越後から汽車で会津を経て再び東北線にまわり、三日間会津で滞在して少しばかりそのあたりを視察したのと、ただそれだけの経歴だ。それでもともかく奥羽五州に足を容れたには相違ないが、見聞の及んだ所はきわめて狭い。
 だいたい自分は頭が悪いせいでか、机上で史籍を繰り返しただけでは、どうもハッキリした観念が頭の中に浮んで来ない。歌人はいながらにして名所を知るなんどいうことは、魯鈍な自分にはとうてい出来ない芸当だ。一度書物で下ごしらえをしたうえに、大体だけでも身親しくその境に臨んで、実地を踏査したり、土地の人の話を聞いたりしたうえで、さらに再び調べ上げたのではなくては、どうしても自分には十分飲み込みが出来ないのだ。そこで自分の研究中にも、主要なものの一に置いているところの蝦夷問題を纏めるについては、ぜひ一と通り奥羽の実際に通暁して、その地理なり土俗なりに馴染をつけておきたいというのが、多年の希望であったのだ。人間の寿命には限りがある。人生五十という年の峠はとくに越えている。いつまでも古書いじりに研究の火先をのみ拡げて、何歳まで生き延びて、それを纏めるつもりであろう。それを思うと何よりも心細さが先に立つ。
 奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見て貰いたい、話も聞きたいと言われるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬ時であったので、遺憾ながらその好意に応ずることが出来なかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合して、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることの出来たのは、畢竟栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって荘内地方を手始めとすべきだと、同地の物識り阿部正巳君に御都合を窺うと、いつでも喜んで案内をしてやろうと言われる、いよいよ思い立って十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りの有様で、いよいよ荘内へ這入ったのが、二十日の朝であった。荘内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中雨天がちではあったが、お蔭でほぼこの地方に関する概念を得ることが出来た。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、古えの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日多賀城址の案内をうけ、ともかく予定通りの調査の目的を達することが出来た。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。

   庄内三郡

 庄内とは大泉庄内の義で、もとは越後のうちであったなどと、今さら事珍らしく述べるまでもないが、同じく旧出羽国の中で、また同じく最上川の流域に属していても、身親しく山形・新庄を経て、この庄内平野へ這入ってみると、たちまち別の国へ来たかの感がある。新庄から庄内の入口ともいうべき狩川に来るまで鉄路約二十二マイル、たいていは両山相逼る隘路を過ぎて、その間を最上の急流が通っているばかり。しかるに足一とたび庄内平野に入っては、いわゆる一眸際涯もなく広々としたもので、田圃拓け、耕地整理が行われて、いかに古代の鷹揚な日本人でも、これを狩猟、漁業にのみ生きる蝦夷の族の跳梁に委して、永く放任しておくに忍びない地であったということが察せられるのである。これを庄内三郡というのは、もと田川・出羽・飽海の三郡のことに当るのであろうが、中世には出羽郡の称を失って、ここに櫛引郡の私称が起り、飽海郡の名が忘れられて、ここに遊佐郡の名が生じ、田川・櫛引・遊佐をもって荘内三郡と呼んでいた。その遊佐郡の称は寛文以来廃せられて飽海に復し、河南櫛引郡の地はすべて田川一郡に属することとなり、酒井左衛門尉忠義、鶴岡城にあって、田川郡二百五十七村約八万九千五百八十九石、飽海郡百八十八村約五万四百八十三石、合せて十四万余石の草高で庄内の地を領しておった。このほかに忠義の叔父大学頭忠恒が、飽海郡の松山城(今の松嶺)におって、飽海郡内二十八村約五千二百十三石、田川郡内七村約二千七百八十八石、ほかに村山郡内で七十四村一万二千石、合せて二万石を領し、同じく備中守忠解が、田川郡大山にあって同郡内二十一村一万石を領しておったが、これはいずれも新墾田分知の形式で、本からの宗家の草高十四万石というには変りがなかったのだ(酒井氏の領地と草高とのことは後項を見よ)。明治十三年田川郡を東西に分って、ほぼもとの庄内三郡の有様に復した。

   田川郡と飽海郡、出羽郡の設置

 庄内の地は今は東田川・西田川・飽海の三郡に分れて、西田川と飽海とは大体に沿海の地を占め、東田川は内地にある。その東田川が概略『延喜式』や『和名抄』時代の出羽郡に相当する。
 田川郡の設置は判然とは見えておらぬ。『日本紀』天武天皇十一年条に、越《こし》の蝦夷伊高岐那らが俘人七千戸をもって一郡となさんことを乞うて許されたとあるのは、孝徳天皇朝に越後の磐船の柵《き》を置いた後でもあり、和銅に出羽郡を置くの前でもあるから、おそらくこの田川郡のことであろう。俘人とは後の俘囚で、すなわち熟蝦夷《にぎえみし》のことだ。彼らは同じ蝦夷の族ながらも、つとに王化に浴してその俗を改めていたものだ。これより先斉明天皇の御代に、阿倍比羅夫が出羽方面の夷地を経営して、海岸伝いに、秋田・能代・津軽・北海道あたりまでをも従えたが、当時すでに能代・津軽の辺にまで、和俗に従った熟蝦夷がいたほどであるから、荘内地方海岸の蝦夷の族が、つとに王化に浴していわゆる俘人となり、越後国府管下に一郡を建てんことを求めたからとて不思議はない。
 和銅元年九月に新たにその内地に出羽郡を置いた。荘内沃野の拓殖に着目したのだ。しかしこれがために祖先以来の狩猟場を荒された麁蝦夷《あらえみし》すなわち生蕃の反抗はけだしやむを得なかった。「北道の蝦狄遠く阻険を憑み、実に狂心を縦にし、屡々辺境を驚かす」とあるのはこれだ。これに対してはもちろん相当の設備がなければならぬ。和銅二年七月蝦狄を征せんがために、諸国をして兵器を出羽柵《でばのき》に運送せしめ、越前・越中・越後・佐渡四国をして、船一百艘を征狄所に運ばしむなどあるのはこれがためだ。出羽柵はすなわち出羽郡で、郡民保護の城柵を設けたものであったに相違ない。「大宝令」にも、東辺・北辺・西辺による諸郡の人居は、皆城堡内に安置せよ。その営田の所にはただ荘舎を置け。農時に至りて営作に堪えたらんものは出でて庄田につけ。収斂し終らば勒して還せとある。かくてその示威着々功を奏して、和銅五年九月には、ついに越後から独立して出羽国を置くことになった。この時の出羽の国は田川・出羽の二郡で、その管するところは漠然と庄内全部に及び、国府はもちろん出羽郡に置かれたのであろう。ついで翌月、陸奥国の最上・置賜の二郡(村山郡は最上郡より分る)を出羽に合せ、今の山形県管下の全部を管することになった。その最上・置賜の地方は同じ最上川の流域ながらも、早く山道の福島方面から開けて来たので、庄内とは拓殖の道筋が違う。ただ田川・出羽二郡だけでは、一国をなすにはあまりに微力なのと、一つは置賜・最上の地が山道地方とはかけ離れて、むしろ最上川によって荘内に通ずる方が便利なののために、これを出羽に属せしめたのであったのであろう。それゆえに出羽としては、どこまでも荘内地方が主であった。仁和三年五月の太政官の議にも、出羽郡を「中」といい、最上郡を「外」といっている。
 このさいにおける田川郡の範囲は、おそらく海岸続きに飽海郡の地をも籠めていたものと思われる。この方面の蝦夷はまず海岸地方から王化に浴したもので、いわゆる俘人七千戸の一郡は、荘内海岸一帯の熟蝦夷であったのであろう。ただにこのさいばかりでなく、平安朝になっても飽海郡はいまだ久しく分立せず、少くも仁明天皇承和のころまでは、なお田川郡のうちであったと思われる節がないでもない。それは別項「神矢田」の文中に引いておいた、承和六年八月の田川郡司の解文《げもん》の中に、「此の郡の西浜、府に達するの程五十余里、本より石なし」とあることだ。「府に達する」の解釈にはちょっと困るが、当時の五十余里は今の九里内外で、今でもなお石の少しもない荘内海岸の全砂丘を包括せしめねば、とうていこの数には合わないのである。実測地図を案ずるに、今西田川郡湯野浜の辺から、飽海郡吹浦川の口まで九里半余。まさに五十余里というに匹敵する。しからばすなわちこの海岸の砂丘は、すべて当時の田川郡のうちであったといわねばならぬ。その「府に達する」の語は、国府が最上川の河口に近き河辺郷井の口(別項に説明する)の地にあって、田川郡の海岸南北から、この国府に達する砂浜の長さを通計したものかと思われる。この解文に見える神矢が鳥海山の神たる大物忌神の放たれたものだと解せられたことからいっても、この後に石鏃降下の事実が多くは飽海郡に関係して報道せられているのを見ても、幾分これが裏書きされそうに思われる。
 飽海郡の名は、自分の気がついたところでは、『三代実録』貞観十年四月石鏃降下の記事が初めらしい。しかしてそれから後には、たびたびその名が史上に繰り返されているのである。あるいは承和六年から貞観十年までの、三十年ばかりの間に分たれたのではなかろうか。徳川時代藩政のころ、いかなるゆえにか、正徳以降明治に至るまで、飽海郡もその北端に近い海中の飛島を、わざわざ田川郡に属せしめたのも、何かにこの島が田川郡の属島だとの伝えがあったためかも知れぬ。
 出羽郡の設置は内地の蝦夷を圧迫して、沃野に拓殖をしようとしたものであったに相違ない。さればその建郡の翌和銅二年には、新たに征狄将軍を任命し、引続き兵器舟揖を運び、五年建てて一国となすや、越えて七年には出羽の民に養蚕をすすめ、尾張・上野・信濃・越後等の民二百戸をその柵戸に移し、翌霊亀元年には出羽の蝦夷朝貢のことがあり、さらにその翌年には、出羽の地吏民いまだ少く、狄徒いまだ馴れず、しかもその地膏腴にして田野広寛たるがゆえにとの理由をもって、随近の国民をここに移して、狄徒を教喩し、拓殖を進めしめることとなった。かくてその翌養老元年には、信濃・上野・越前・越後四国の百姓各百戸の民を出羽の柵に移した。四百戸は令制の八郷である(ちなみにいう。『続紀』霊亀二年九月条にも、陸奥の置賜、最上二郡、および信濃・上野・越前・越後四国の百姓各百戸を出羽の国につくとある。しかしこれは本文に随近の国民を移すとあるので、その例として後人が、前の和銅五年最上・置賜二郡を出羽につけ、次の養老元年四国の国民各百戸を出羽に移したことを傍書しておいたのが、本文に混入したことかと思われる。よって今取らぬ)。これより出羽方面の蝦夷もだんだん王化に浴して来たとみえて、翌二年には出羽ならびに渡島の蝦夷八十七人来りて、馬千疋を貢し、位禄をこれに賜わったとある(この馬千疋は十疋の誤写かと思われる。ついでにいう。天武天皇十一年の俘人七千戸の郡もあまりに多過ぎるようではあるが、それは蝦夷と内地人と一戸の立て方が違っていたので、内地人の一戸は数十人に達しているが、蝦夷の一戸は少かったものかも知れぬ)。翌三年にも東海・東山・北陸三道の民二百戸を出羽柵に配し、翌四年にはまた持節鎮狄将軍の任命があり、恩と威と、移民とが並び行われて、庄内平野はだんだん開けて来たことと思われる。かくてついに天平五年には出羽の柵を遠く北の方秋田にまでうつすに至ったのだ。

   大名領地と草高――庄内は酒井氏の旧領

 いったい大名の草高ほどあてにならぬものはない。いったん検地でそれと極った以上、たとえその後いかに領内に新墾田が増加しようとも、何か特別の問題がでも起らぬ限り、いっこうその表高には変りはない。その代りに新墾田の名義をもってすれば、実は一地方に纏まった土地をいくら一族に分知してみても、本家の表高には変更を来さぬのだ。元和八年酒井宮内大輔忠勝が信州松代から、この鶴岡城へ転封せられた時には、田川・飽海両郡十三万八千石ということであった。しかるにその後、寛永七年村山郡|左沢《あてらさわ》一万二千石の領主右近大夫直次(忠勝には弟)が死んだについて、その旧領地を宗家に預けられたが、同九年、加藤肥後守忠広が荘内に配せられた時に、忠勝の所領のうち丸岡一万石を配所の料として、これに分った代地として、さきに預けられた左沢領一万二千石を所領に加えられて、都合十四万石余となった。
 それ以来鶴岡領は、幕末までも表高にあまり変りはないのだ。忠勝の子摂津守忠当が正保四年に遺領をつぐに及んで、右の左沢領一万二千石と、ほかに田川・飽海両郡内で八千石、都合二万石を弟忠恒に分ち、また田川郡内一万石を弟忠解に分った。その地はもちろん立派に旧領の一部であって、そのことが明白に幕府に知れておって、村名まで明記した領知目録を与えられているほどであるから、宗家領は当然十二万石となるべきはずではあるが、それが新墾田分知という名義であったから、なんとかして石高の総計を工面して、やはりもとの宋家領十四万余石という数は動かなかったのである。その後、天和二年に左衛門尉忠真が父の遺領をつぐや、父忠義の従弟牛之助忠高(忠当の弟忠俊の子)に、田川郡内五千石を分知して寄合に列せしめても、これまた新墾田の名義であったから、やはり宗家の草高には傷がつかなかった。今寛文四年と貞享元年以後との領知目録を比較してみると、いかにその石高を合わすうえに細工が施されたかが知られるのである。
[#ここから1字下げ]
寛文四年四月五日領知目録
 田川郡内二百五十七村 八万九千五百八十八石九斗五合
 飽海郡内百八十八村 五万四百八十二石六斗九升九合
   合十四万七十一石六斗四合
貞享元年九月二十一日領知目録
 田川郡内二百五十三村 八万七千四百六十九石一斗六升三合
 飽海郡内百八十八村 五万二千六百二石四斗四升一合
   合十四万七十一石六斗四合
[#ここで字下げ終わり]
 かく村数は変っていても、十四万余石という大数のところで、何斗何升何合という微細な数まで、細かく辻褄を合してあるのだ。滑稽といえば滑稽だが、幕府が軽々しく大名所領の石高を動かさないという方針上、やむを得ぬことであったのであろう。
 その後、事実上新墾田は続々殖えても、分知のことがなければ問題は起らぬので、正徳・享保・延享・宝暦・天明等に与えられた領知目録は、いずれも貞享度と同様、高一合の変更だもない。このほかに酒井忠解の大山領一万石、加藤忠広の丸岡領一万石、合して二万石が空きになって、酒井家へ預け地になっている。また両郡内の松山領は、天明度において一万五千二百八十九石一斗〇〇一才であるから、これを加えると庄内三郡十七万五千三百六十石七斗〇四合〇一才となる。しかるにその実地はどうかと見ると、元禄の検地においてすでに田川郡に十三万六千百八十七石六斗七升七合二勺、飽海郡に六万二千四百三十石七斗一升五合、合して庄内十九万八千六百十八石三斗九升二合二勺という石高が表われている。これはその当時において、公に認められていた数なのだ。その後天保の調べでは、田川郡が十五万九千八百七十三石八斗八升三合七勺四才、飽海郡が七万四千四百二十八石四斗七升二合四勺、合して実に二十三万四千三百〇二石三斗五升六合一勺四才という大数が計上せられているのだ。それでいてなお酒井家の禄高では、相変らずの十四万余石で通っていたのだ。元治元年に田川・由利二郡内の預け地を増封せられて、やっと表高が十七万石となった。それに飽海・田川両郡内の松山領約九千三百石を加え、由利郡内の新恩地大砂川・小砂川二村四百余石を除くと、庄内三郡十七万九千石高にしかならぬのである(天明度の田川郡内松山領一万五千二百余石、うち六千石は間もなく旧領左沢に移されたるなり)。明治の調べでは、田川郡が十六万〇〇八十七石一斗〇九合六勺四才、飽海郡が七万四千九百四十四石三斗七升七合八勺、合して二十三万五千〇三十一石四斗八升七合四勺四才(『地誌提要』には二十三万五千二百四十四石七斗二升〇八勺一才)とあって、天保のとはあまりに増しておらぬようだが、これはその後精密な縄入れをせずして、旧によったためであったに相違ない。
 ともかく庄内三郡は、おのずから一区劃をなした平野の地で、耕耘がよく行われ、古来人口の割合に米の産額が多く、庄内米として他地方への米穀の供給地となっているのだ。『地誌提要』の示す石高をもってしても、庄内地方二十三万五千石の草高に対して、その人口が田川郡約十三万三千百人、飽海郡約七万三千人、合して約二十万六千百人で、全国の平均からいうと約三万石の剰余米を生ずる訳だが、事実はさらにそれよりも多数であったに相進ない。この多数の剰余米を他に輸出して酒田の商人は巨利を博し、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とまで言われた本間家のごとき、一大富豪をこの庄内平野が生み出したのだ。
 明治維新に酒井家は幕府に党したがためにいったん城池を収められ、さらに会津若松で十二万石を賜わり、間もなく磐城平に転じ、後荘内に復帰して大泉藩を立て、田川郡内十二万石の地を管したが、これは昔の縄の十二万石ではなくて、新らしい調べの十二万石であったらしい。すなわちもとの表高十七万石の中から五万石を削られたのではなくて、新たにその当時の草高十二万石の地を与えられたのだ。
 ちなみにいう。維新後出羽を分って羽前・羽後とした時に、この切っても切れぬ一と続きの平野の庄内を二分して、河南の田川郡は羽前に属し、河北の飽海郡を羽後に属することとした。これは旧荘内領内の没収地を区別して、行政上の支障を少くせんがためだなどと言われているが、実は飽海郡をまでも羽前へつけたでは、羽前百二万三千石、羽後五十一万四千五百石となり、あまりに国力の権衡が取れなくなるがためであったらしい。この時の分国は単に机の上で、不完全な地図と石高とを見て定めたもので、諸国石高の権衡に重きを置いたがために、はなはだしく地理の実際を忽せにし、伊達郡を磐城につけて、伊具・刈田の二郡を岩代に編し、ために岩代は中に磐城国伊達郡を夾んで、伊具・刈田の飛び地を有するようになるの不都合を生じ、後にこれを改めたなどの滑稽もあったものだ。しかし庄内平野はどうしても一と続きの地で、分つべきものではない。府県制においては羽後の飽海郡は、やはり田川郡とともに山形県に属せしむるのやむを得ないものがあるのだ。

   高張田地

 庄内の田地について「高張《たかばり》」という珍らしいことのあることを聞いた。いったい田地はそれぞれ検地のうえで、一筆ごとに高何ほどということが定められ、それに準じて領主への租税を納むべきことになっている。これは全国共通で、今さら事新らしく言うまでもないことだが、庄内地方では特に百姓が勝手にその高を変更して、甲の田地の高を乙の田地につけ、もと甲乙ともに三石高であったものならば、例えば甲を五石高とし、乙を一石高とするというような、奇態なことが行われていたという。その高の過重な方を高張田地というのだ。
 それで総計の高のうえには変動がないから、領主もこれを黙許していたものらしいが、実際上不都合な現象といわねばならぬ。これはこういう場合に起る。例えばAが自分の持地の一部甲をBに売るに当って、かりに時価十両のものから十五両を得ようとする時には、その売った甲の地の高の一部を、手許に残した乙の地の方に移すのだ。その結果として、これを買ったBは、永久その甲の地に対して軽少なる租税を負担してよい訳で、乙の地を有するAがその分を永久に代納することになるのである。つまりBは甲の地を買ったがために、永久負担すべき租税を一時に纏めてA《II》に与え、A《II》は永久僅少な収穫の地面を耕作して、過当な租税を納附して済《な》し崩しにこれを弁償するということになるのだ。それがために高の少い地所は自然高価に売買せられ、いわゆる高張の地は価格が低くなるという結果はやむを得ぬ。しかるに明治政府が地価修正を行い、無条件に土地の実収額に応じて租税の標準たる地価を定めたがために、高の低い田地の持主は非常な損失を被り、高張田地の持主は意外の僥倖に浴した結果となった。それを見越して安く高張田地を買い占めて、大地主になっているものも少くないということである。

   本間家

 庄内で著しいのはなんというても本間さんだ。「本間さんには及びもないが、せめてなりたや殿様に」とまで言われたその本間さんだ。庄内十四万石の領主酒井左衛門尉様も、しばしば本間さんから借金なされたものだという。
 庄内行の汽車の中で、いずれ同地のしかるべきお方と思われる人と乗り合わして、いろいろ庄内のお話を承った中にも、まず話頭に上ったのは本間さんであった。本間家の中興四郎三郎光丘という人は、近ごろ神に斎われて県社となったとか、本間家の不動産は十万石高もあろうとか、その小作制度はよく整って、小作人一人の不平者もなく、他地方で心配するような小作争議の問題などは、本間家の土地に限って夢にも起りそうなことはないとか、一から十まで本間家のありがたいことばかりで、話半分に聞いてもたいしたものだった。
 酒田へ来て飽海郡学事会から、光丘翁の事蹟を書いた書物を頂戴したが、それを見るとなるほど本間家はたいしたもので、中興の光丘翁は偉い人であったとうなずかれる。光丘翁は享和元年に歿した人で、今からまだ百二十年にしかならぬ。そんな新らしい時代に、しかも天下泰平無事の時代に、やはりあれだけの大身代を作り上げることが出来たのだ。これは自分にとって実は案外千万のことであった。本間家について何も知らない以前にあっては、本間家はいずれ古代の郷士であって、なお信州伊奈谷の親方(お館)や、阿波の祖谷《いや》山の名主《みょうしゅ》のごとく、またその小作人は伊奈の被官や、祖谷の名子《なご》のように、古来主従の関係を持続して、それが不思議にも徳川時代を通して、そのままに持ち伝えて来たものかくらいに思っていたのであった。したがってその所領開発の次第や、小作人との関係や、大名専制時代にその所領を持ち伝えることの出来た事情などを知りたいというのが、庄内入りの一つの目的であったのだ。しかるにその先祖はやはり他の多くの町人と同じように、遺利を求めてやって来た比較的新らしい来り人で、庄内の豊富な米を上方に輸出しては、古着その他の物資を庄内に輸入し、その商売で儲けた金をもってだんだん近傍の地面を買い集めたのだと承っては、よくもその時代にあれだけの身代が出来たものだと、驚かされたほかに歴史的探究の楽しみは少くなってしまった。
 さらに驚かされたのはその大富豪の質素な家憲である。本間家の一族某君の実話によると、汽車中で聞いた不動産十万石高というのは大きな懸値のあるもので、実際の収入は二万石くらいだという。果して本当のことを言っておられるのか否かは知らぬが、事実とすればまず五万石くらいのところであろうが、五万三千石の浅野内匠頭は赤穂の城に住し、多くの家臣を従えて、その多数が離散した後にまでも、なお故主のために生命を捨てる四十七人の義士が遺ったのだ。十四万石の殿様以上に羨まれた本間さんのことであってみれば、いずれ城廓とも見まごうばかりの宏壮な邸宅に住せられて、栄耀栄幸のありたけを尽しておられるのかと思っていたら、これはさてそのお屋敷というのは、わずかに方一町にも足らぬかと思われるくらいの至って質素なもので、外見からはなんら目に立つほどのものではなかった。失礼ながら神戸あたりの成金連中の新邸に比べて、足もとにもよれぬほどのものなのだ。ことに驚かされたのは浄福寺におけるその墓地である。寺内の共葬地に狭少な一郭を構えて、近ごろ作ったと思われるコンクリートの塀を繞らしてはあるが、光丘翁始め代々の墓石は、実はそのあたりの権兵衛・太郎作の墓石に比して、そう大きいというほどのものではないのだ。これでこそ本間家の基礎磐石のごとく、小作争議のごとき夢にだも起らぬと観測される訳だと、奥床しく思ったことである。
 聞くところによると、本間家では代々二、三男を分家さするにも、わずかばかりの資産を分つだけで、これを末家《ばっか》と称し、本間家経営の株式会社本立銀行や、信成合資会社などの社員として使用して、それで生活させる組織であるという。ただに末家の人々が多くの資産を有せぬのみならず、実は宗家の主人もそう自己の財産というものを持っておられぬという。今の当主が先代の遺産を相続せられたさいにも、相続税というものがきわめて僅少であったがために、税務署が不審を起して、脱税の疑いをもって種々穿鑿したことであったそうな。これはあの本間家の大きな不動産が、皆信成合資会社という法人の所有になり、動産がたいてい本立銀行の資本や積立金となっているがためだという。しかしそれは決して近ごろの横着な財産家が、脱税のために拵えた保全会社ではないのだと説明された。なるほどその説明を承ると、いかにも御尤とうなずかれる面白い事実がある。中興光丘翁が公益のために尽すところ多く、ことに領主酒井侯のために貢献するところが少くなかったので、もと一商人の身分が、取り立てられて高取となった。士分となれば商売も出来ず、また不動産をも所有することが出来ぬ。そこで特に許されて、亡父の名前の庄五郎とかいう無形の人を押し立てて、その名義で土地を所有し、商業を営んだものだ。それが引き続いて明治・大正の今日に至ったので、信成合資会社は畢竟その無形の庄五郎を、商法の規定に準じて会社組織に改めたに過ぎないのだという。全くそうであろう。まさか本間家ともあろうものが、脱税目的の会社を作られるはずはない。
 本間家の宗家と一門たる末家との関係は、もとはほぼ主従のような有様であったらしいが、文明開化の今日ではそんなことはないそうな。それでも一門の人々は、今なお忌日、紋日などには礼服着用で宗家へ出て、当主に伺候するという。当主は一門の人々に対して「誰それチャ」と呼び、一門の人は当主を「旦那さん」と崇める。チャとはサンというよりも一段軽い親しみの敬称である。
 なお本間家のことは、右の『光丘翁事歴』にたいてい出ているからここに省く。ただその光丘翁が、単に商業によってあの泰平の代にあれだけの財産を作ったというだけのことで、紀の国屋文左衛門とか、銭屋五兵衛とかいう人々の話のような、大儲けの事情の明かならぬのは惜しい。

   酒田の三十六人衆

 酒田町にはもと三十六衆という年寄株があって、それで町政を切り盛りしていたという。いわゆる草分けの人々であろう。伝説によると、この三十六人はもと藤原秀衡の家臣で、文治五年泰衡滅亡後、秀衡の妹徳尼公に随って、当地に遁れて来たのだとある。いわゆる徳尼公の墓は酒田町泉流寺にあって、宝暦十年十一月三十六人先祖御尋に付差上候書付控というものには、三十六人儀は奥州秀衡公御妹、当所洞永山泉流寺開基、洞永院殿水庵泉流尼公に従い、奥州より附添し旨承り伝え候とある。また三十六人由緒書は、秋田の白馬寺にある由だともあるが、この泉流寺の方はたびたび焼けたので、尼公の御手道具そのほか武具等があったが、ただ今はなくなったともあって、つまり由来不明なのだ。洞永院殿などいう名はもちろん文治のころにありそうもない。またそのいわゆる三十六人衆なるものの個々の由緒を見ると、中には先祖の生国全く不明なのもあり、あるいは諸国からの来り人もあって、奥州平泉の武士の末とはいっておらぬ。これは中世以降株の売買の行われた結果だという。つまり彼らはもと庄内に遺利を求めて、商業に来たままに住みついたのが多いのであろう。すでに『万葉集』にも、「鳥がなく東《あずま》をさしてふさへしに、行かんと思へどよしもさねなし」の歌があって、これは奈良の都人が東国に遺利を求め、はるばる出かけるもののあるのを羨んで、都に残ったものが便《よし》も旅用《さね》もないことを嘆いたものだが、いつも変らぬ人情である。
 右書上げの三十六人衆のうちには、上林勇左衛門先祖和泉だとか、永田茂右衛門先祖若狭だとか、本間久四郎先祖主計だとか、往々官名を受領したげに見えるものが多い。これはさきに本誌上で町人、職人官名受領のことを論じた文にいったごとく、もと先祖の本国の名を通称に呼んだのが始めで、主計とか宮内とかいう国名以外の官名を呼ぶものは、仲間の者が国名を呼び名としているのを見て受領と心得、それを真似て勝手によい加減な官名をつけたものであろう。もともと先祖出生の国名を呼び名とする坂の者の後裔たる京都の弦指《つるさし》が、徳川時代までも国名・官名を呼び名とするものの多かったことなども、傍例とすべきである。まさかにこの酒田あたりの商人が、そんな古代にしかるべき手続をして、それぞれ実際に任官されたものとは思われない。

   出羽国府の所在と夷地経営の弛張

 出羽の国府と国分寺との位置は、国史上の難問題である。自分が庄内へ来てまず調査してみたいと思ったのは、一つはこの問題解決の鍵を得たいがためであった。だいたい国府と国分寺とはつい近所にあるのが普通で、出羽の国府が出羽郡にあり、国分寺がもとの最上郡山形にあるがごときは、特別の理由ある場合のほかは、とうていあり得べからざることなのだ。なんとなれば、国分寺はもと国府に属するもので、国分寺の住職ともいうべき講師は、国府の吏員の一といってしかるべきものであったからだ。『和名抄』には出羽の国府平鹿郡にありとある。しかして平安朝末期の『伊呂波字類抄』にも、同じことに見えている。これは『和名抄』からそのままに取ったのかも知れぬが、しかもまた一方には、同じ『和名抄』出羽郡の下に国府と注して、同書中にすでに矛盾を示しているのである。これあるいは『和名抄』を編した時分において、国府は実際平鹿郡にまで進んでおったけれども、もともと出羽郡が国府の所在で、諸書記するところ多くそうであったから、あるいは後人がその注を加えたのであるかも知れぬ。平鹿郡は雄勝城から秋田城に通ずる大道の衝に当り、その地は比較的早く開けて、郡もすでに天平宝字三年に置かれたほどの所であるから、あるいは後年ここに国府が移ったことが全然ないとも言われない。また山形のことを中世府中という。府中は通例国府の称で、しかもここに国分寺があってみれば、あるいは退嬰時代にここに国府を移したことがなかったとはいえぬかも知れぬ。現に仁和三年には、当時の出羽郡の国府を最上郡大山郷保宝士野に移そうという議すら起ったことがあるのだ。大山郷は『和名抄』には村山郡の中にあって、後世の最上郡の中になっている地らしい。
 しかしながら、ともかくも当初の国府は出羽郡にあって、奈良朝を通じて、平安朝に至り、仁和三年にも右の移転の議は成立しなかったのだ。嘉祥三年に国府の地に大地震があって、形勢変改し、すでに窪泥となる。しかのみならず海水漲移して府を距る六里(今の一里)の処に逼り、大川崩壊して湟を距る一町余の処まで侵された。これがために仁和三年遷府の議も起ったのだ。しかしてこの時の出羽守坂上茂樹の上言によるに、当時の国府は出羽郡井口の地にあり、それは延暦年中、陸奥守小野岑守が、大将軍坂上田村麻呂の論奏によって建てた所だとある。この延暦年中というもの、何年のことだか明記してはないが、延暦に出羽国府の問題の起ったのは、その二十三年のことであって、あたかも陸奥出羽按察使たる坂上田村麻呂が、征夷大将軍に任ぜられて、大いに活躍していた年なのだ。この年十一月、出羽の国の上言に、「秋田城建置以来四十余年、土地※[#「土へん+堯」、第4水準2-5-15]埆にして五穀に宜しからず、しかのみならず北隅に孤居し、隣の相救ふなし。伏して望むらくは永く停廃に従ひ、河辺府を保たん」とある。かくてついに秋田城を停めて郡となし、土人・浪人を論ぜずその城内に住するものをもってその郡に編附することとなった。ここに河辺府とは河辺の国府の義で、すなわち延暦年中、田村麻呂の論奏によって、いわゆる出羽郡井口の地に定まったものであろう。出羽国の上言によって成ったことを、後に田村麻呂の論奏に基づくといっているのは、ちょっと辻褄が合わぬようではあるが、当時田村麻呂は陸奥出羽の按察使であったから、実際は彼の意見でそう極ったので、後にはそのことをいったものであろう。この以外延暦年間において、出羽国府の問題が、田村麻呂によって論奏されて、建置せられたことがあったとは思われぬ。河辺の府とはあるいは羽後の河辺郡にあったかのように考えられるかも知れぬが、これは出羽郡河辺郷であって、いわゆる同郡井口の地に当ることは、仁和三年条の記事で疑いを容れぬ。すなわち延暦二十三年から、仁和三年までは、国府はこの河辺すなわち井口の地にあって動かなかったのだ。仁和三年、国司は最上郡大山郷保宝士野に遷さんとの議を立てたが、これは採用にならず、旧府の近側高敝[#「高敝」は底本のまま]の地を択び、旧材を用いて遷造せよとの命が降ったのであったから、やはりこの時も、国府はもとの所在から、あまり遠方へは動かなかったのであったに相違ない。
 しからばその河辺とはいずこであるか。これはとうてい明かには決定し難い問題ではあるが、いわゆる河辺の郷名は、おそらく最上川の河辺から得た名であろう。大川崩壊して湟を距る一町に逼ったというのも、もともとその国府が川に近かったからであるに相違ない。今最上河南旧出羽郡の地に余目《あまるめ》町があり、「正保図」によるにその旧名を館廻とある。その西北には跡、西には木川・門田・局などいう字があり、さらに西に西野というのがある。「跡」とは何か著名なもののあった跡たることを示し、「木川」は城川の義かも知れず、「西野」というも何か主とあるものの西の野の義と解せられることから思うと、古えの国府はあるいはこの辺であったのではなかろうかと考えられる。当時海水が鵜戸河原まで侵入したと見たならば、漲移して六里の地に逼るというにもほぼ相当るようである。またこれを陸奥の国府多賀城の例から考えても、「大宝令」の人居は城堡の中に置けとあることからこれを見ても、出羽国府にはいずれ大きな土塁をでも取り廻した城廓があって、その城内に人民を安置したのであったに相違ない。しからば右の諸地名は、さる遺蹟を示すに恰好なものの集りと見ることが出来るであろう。ことに余目とは言うまでもなく出羽郡余戸郷のことで、余戸の民は元来農業に従事せず、工業、漁業あるいは雑役に従事したものであってみれば(このこと他日、本誌上に考証する予定)、ここの余目はおそらく国府の附近にいて、国府や府民の雑役に従事して、渡世していた特殊民の居所であったかも知れぬ。陸奥の国府であったという岩切附近にも、『和名抄』に宮城郡余戸郷があって、今に余目の地名の存しているのも傍証となるであろう。ただ滞在日少く、土塁その他の遺蹟の実地の存否を確めるの機のなかったのを遺憾とする。阿部君始め、地方の方々の御注意を煩わしたい。
 しからば延暦二十三年田村麻呂の論奏によって、この河辺府が定まるまでの国府は、果してどこであったのであろう。
 つらつらそのさいにおける国史の記事を見るに、秋田城保ち難きがゆえにこれを廃して、退いて河辺の府を保つことにしたいとの国司の上言を容れて、城を停めて郡となし、城内の住民を郡の戸籍に編附したというのであるから、いわゆる河辺の府はこの時に始まったのではなく、その前すでに存在していたことは明白である。田村麻呂の論奏によって、延暦年中に建てたという井口の国府は、仁和三年秋田城を廃したについて、その代りに出羽方面の征夷の根拠となったのだ。もとこの方面の征夷の策源地は、天平五年までは出羽の柵であって、当時おそらく国府と同一場所であったのを、天平五年に遠く秋田の高清水岡に遷して国府と分離せしめたのであった。しかるに宝亀十一年八月に至って、すでにこの城保ち難く、これを廃棄せんとの議が起ったほどで、この時は辛うじてこれを食い止めたのであったが、延暦二十三年に至ってついにこれを停廃し、再び征夷の策源地が国府に帰ることになったのであったに相違ない。もっともこの城停廃のさいの国司の上言に、秋田城建置以来四十余年とあれば、これは天平五年のことではなく、その後二十余年を経た天平宝字のころである。このころは陸奥に桃生の柵、出羽に雄勝の柵を造って、しきりに征夷の発展振りを示した時であったから、従来単に柵と呼ばるるほどのものであったものを拡張して、秋田城となしたことであろう。柵も城も邦語ともに「キ」で、『続日本紀』にはしばしば両者を混用してはあるが、本来柵と城とは字義も違う。特に秋田城は出羽方面における最も重要なるものとして、後にそれが再興せられては、出羽介たるもの常にその城司を兼ね、秋田城介としてこれを管理することとなったほどで、延暦当時にあっても、別に城司を置いて郡より独立し、もっぱら征夷の衝に当っていたものであったと察せられる。しかるにこのさいこれを廃し、河辺の府を保つこととなったというのは、これを拡張し、征夷の策源地となすに至ったことを述べたのであろう。
 しからば延暦以前の河辺の府はいつのころに定められたものか。『続日本紀』宝亀六年十月の条に、
[#ここから1字下げ]
 出羽国言す。蝦夷余燼、猶未だ平殄せず、三年の間鎮兵九百九十六人を請ひて、且つは要害を鎮し、且つは国府を遷さんとす。勅して相模・武蔵・上野・下野四国の兵士を差して発遣せしむ。
[#ここで字下げ終わり]
とある。この時国府をどこからどこへ遷したか明記してはないが、思うにもと出羽柵であった国府を、この河辺の井口の地に遷したものであろう。出羽柵の地また明瞭を欠く。和銅元年九月、新たに出羽郡を建て、翌年七月、蝦狄を征せんがために兵器を出羽柵に運ばしめたことを思うと、当時にあって出羽柵は出羽郡衙と同所であったに相違ない。北辺諸郡の人居は、令によっても城堡内に安置する必要があったのだ。その後、和銅五年に出羽国を建つ。国府の位置はやはり出羽柵同所と解するが至当であろう。しかるに天平五年に出羽柵を秋田に遷し、出羽国府・出羽郡衙は征夷の策源地から分離して、もっぱら民政の府としてもとの所に取り遺された。しかし出羽の植民その後ますます多く、拓殖の業ますます進むに随って、国府、郡衙分離の必要を生じ、宝亀六年に至って国府は、舟揖によって最上・置賜地方にも、また山北沿海の地方にも、交通の便利の多い河辺の地に移ったものであろう。
 しからばもとの出羽柵たるその以前の国府はどこであったであろうか。今東田川郡藤島町に大字古郡がある。これは疑いもなくもとの出羽郡衙の地であった。ただしこれが当初よりのものか、後にここに移転したものかは明かでないが、当初広漠たる原野を開拓して、農桑の根拠を定めんには、いまだ治水の業起らず、勝手に氾濫していた大河の附近を避けて、このくらいに内地に引き上った場所を選定するのは、その当を得たものであったと思われる。しからばすなわち当初の出羽国府は、この古郡附近にあったと解してしかるべきものであろう。
 延暦二十三年秋田城を廃し、退いて河辺の府を保つようになってからは、出羽方面の対夷政策はよほど退嬰したものと思われる。この後しばらくこの方面の事件は物に見えぬ。これは宝亀以来の多年の陸奥方面における征夷のことに疲れた結果であった。翌二十四年十一月、桓武天皇殿上において公卿に天下の徳政を論ぜしめ給う。この時参議藤原緒嗣は、「方今天下の苦しむ所は軍事と造作と」であると論じ、これを停めて百姓を安んぜんと請うた。しかしてこの議が嘉納せられたのみならず、三年後の大同三年五月には、その首唱者たる緒嗣が陸奥・出羽の按察使に任ぜられたほどであったから、その後征夷の主力は陸奥方面に注がれたさいにおいて、比較的重要ならざる出羽の方面に、問題のあまり起らなかったに無理はない。
 しかるに延暦停廃後二十六年の天長七年正月に至って、鎮秋田城国司介藤原行則が、地震によって城廓崩壊したことを奏上した事実がある。また同じ年の閏十二月にも、出羽守小野宗成らが、このころ出羽の戸口増益し、倉庫の充実したことを述べ、「又雄勝・秋田等の城及び国府には、戎卒未だ息はず、関門なほ閉づ」とのことを言上して、国司増員のことを請うている。その後、元慶二年出羽の夷俘叛乱のさいにも、秋田城ならびに郡院・屋舎・城辺民家等ともに焼かれたとある。しからば秋田城はいったん停廃せられても、その後久しからずして復旧せられたのであったに相違ない。ことに天長七年のさいのごときは、上総の国司がわざわざ秋田城を鎮していたという事実すらあるのである。しかも出羽国府は依然出羽郡にあった。元慶四年の国司の上言に、管諸郡中山北の雄勝・平鹿・山本の三郡は、遠く国府を去り、近く賊地に接すとある。いわんや仁和三年の言上に、相変らず出羽郡井口の地にあったのであるから、この間断じて他に移るべきことはない。
 これより後、出羽国府のことは物に見えぬ。もし平鹿に遷ったことがあったとすれば、爾後、雄勝・秋田両城間の地大いに開けて、出羽統御の中心を北進せしめる必要が起ってからのことであろう。
 今見やすいように国府の沿革を左に表示する。
[#ここから1字下げ]
和銅元年出羽郡を建つ。郡衙は東田川郡藤島町字古郡の辺か。
和銅五年出羽国を建つ。国府は郡衙と同所か。
天平五年出羽柵を秋田に遷す。
宝亀六年国府を遷す。新府は東田川郡余目町附近か。
宝亀十一年秋田城停廃の議あり、行われず。
延暦二十三年秋田城を廃し、河辺の国府を保つ。宝亀六年移転の地なるべし。
仁和三年国府なお旧地にあり。地震の害にあい附近高敝[#「高敝」は底本のまま]の地にうつす。
この後年月不明平鹿郡に遷りしものか。事情つまびらかならず。
[#ここで字下げ終わり]
(つづく)



底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

  • [北海道]
  • 渡島 おしま (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在は渡島・桧山支庁に分属する。(2) 北海道南西部の支庁。函館市・松前町など11市町がある。
  • 渡島 わたりじま (海を渡った向うの辺境の意)北海道南端部一帯、今日の渡島の古称か。
  • -----------------------------------
  • [青森県]
  • [陸奥] むつ 旧国名。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥に分割。分割後の陸奥は、大部分は今の青森県、一部は岩手県に属する。
  • 津軽 つがる (2) (「つがる」と書く)青森県西部、津軽平野の中央部・西部に位置する市。稲作やリンゴ・メロン・スイカの栽培が盛ん。人口4万。
  • [奥羽] おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
  • [奥州] おうしゅう (1) 陸奥国の別称。昔の勿来・白河関以北で、今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部に当たる。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5カ国に分割。
  • -----------------------------------
  • [岩手県]
  • [陸中] りくちゅう 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。大部分は今の岩手県、一部は秋田県に属する。
  • 盛岡 もりおか 岩手県中部、北上盆地の北部にある市。県庁所在地。もと南部氏の城下町。北上川と中津川・雫石川との合流点に位置する。鋳物・鉄器を産する。また古来南部馬の産地で、牛馬の市が開かれた。人口30万1千。
  • 中尊寺 ちゅうそんじ 岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺。1105年(長治2)藤原清衡が創立し、基衡・秀衡3代にわたって貴族文化が栄える。金色堂・経蔵のみ残存。
  • 平泉 ひらいずみ 岩手県南部、北上川と衣川との間の町。奥州藤原氏3代(清衡・基衡・秀衡)および源義経の遺跡があり、今も中尊寺に光堂・経蔵などが残る。
  • 厨川の柵 くりやがわのき 岩手県盛岡市下厨川にあった城柵。前九年の役の際、源頼義が安倍氏一族を滅ぼした古戦場。
  • 爾薩体 にさつたい 現、岩手県仁左平が遺称地と考えられる。
  • 二戸郡 にのへぐん 岩手県(陸奥国南東部)の郡。
  • -----------------------------------
  • [宮城県]
  • [陸前] りくぜん 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。大部分は今の宮城県、一部は岩手県に属する。
  • 桃生柵 ものうのき 奈良時代、陸奥の蝦夷に備えて築かれた城柵。所在地は宮城県石巻市飯野とする説が有力。桃生城。
  • 宮城女子師範
  • 桃生郡 ものうぐん 宮城県(陸前国)にあった郡。2005年4月1日、矢本町・鳴瀬町が合併して東松島市に、河北町・雄勝町・河南町・桃生町・北上町が牡鹿郡牡鹿町および石巻市と合併して新しい石巻市になったため消滅した。
  • 北村 きたむら 村名。現、桃生郡河南町北村。広淵村の西に位置する。
  • 仙台 せんだい 宮城県中部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。広瀬川の左岸、昔の宮城野の一部を占める東北地方の中心都市。もと伊達氏62万石の城下町。織物・染物・漆器・指物・埋木細工・鋳物などを産するほか、近代工業も活発。東北大学がある。人口102万5千。
  • 松島 まつしま 宮城県松島湾内外に散在する大小260余の諸島と湾岸一帯の名勝地。日本三景の一つ。富山・扇谷・大高森・多聞山の松島四大観、雄島夕照・瑞巌寺晩鐘・霞浦帰雁・塩釜暮煙などの松島八景がある。
  • 塩竈 しおがま 塩竈・塩釜。宮城県中部の市。松島湾の南西端に臨む漁港。古来の景勝地。(歌枕)人口5万9千。
  • 日高見国 ひだかみのくに 古代の蝦夷地の一部。北上川の下流地方、すなわち仙台平野に比定。
  • 多賀城 たがじょう (1) 奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。政庁を中心とした内郭や方1キロメートル余の外郭の土塁が残る。城跡は国の特別史跡。(2) 宮城県中部、仙台市の北東にある市。仙台港の開港後、急速に工業化が進展。人口6万3千。
  • 陸奥国府 むつ こくふ 神亀元年(724)ごろ、多賀城に置かれる。
  • 岩切 いわきり 村名。現、仙台市岩切。
  • 宮城郡 みやぎぐん 過去に陸前国(旧陸奥国中部)に属し、今は宮城県に属する郡。宮城県の名はこの郡に由来する。もとは奥羽山脈から太平洋まで、今の仙台市の大部分、多賀城市、塩竈市を含む東西に細長い領域であった。
  • 余戸郷 あまるべごう 現、仙台市岩切の余目に比定される。
  • 余目 あまるめ 郡名。現、仙台市岩切。
  • 伊具郡 いぐぐん 宮城県南部(磐城国北部)の郡。
  • 刈田郡 かったぐん 磐城国(旧陸奥国南東部)北部、宮城県南部の郡。
  • -----------------------------------
  • [秋田県]
  • [出羽] でわ (古くはイデハ)旧国名。東北地方の一国で、1869年(明治元年12月)羽前・羽後の2国に分割。今の山形・秋田両県の大部分。羽州。
  • [羽後] うご 旧国名。1869年(明治元年12月)出羽国を分割して設置。大部分は今の秋田県、一部は山形県に属する。
  • 雄勝柵 おがちのき 古代、蝦夷に備えて、雄勝峠の北、今の秋田県羽後町の辺に置いた城柵。733年(天平5)に郡を設置、758年(天平宝字2)から築城、翌年完成。雄勝城。
  • 雄勝城 おかちのき 藤原朝狩が759年(天平宝字3)に雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)に造った城柵。現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明。
  • 仙北三郡 横手盆地にある仙北郡・平鹿郡・雄勝郡の三つの郡の総称。平安末期には奥六郡とともに奥州藤原氏が支配した。
  • 仙北郡 せんぼくぐん 羽後国および秋田県の東部に位置する郡。古い資料では「山北」「仙福」「仙乏」と表記している事もある。
  • 雄勝郡 おがちぐん 羽後国および秋田県の南東部に位置する郡。 羽後町・ 東成瀬村の1町・1村を含む。
  • 山本郡 やまもとぐん 羽後国および秋田県の北西に位置する郡。
  • 河辺郡 かわべぐん 羽後国および秋田県にあった郡。奈良時代の古文書にもかかれているほど歴史ある郡であった。かつては新屋町(→秋田市)、豊島村(→河辺町)、大正寺村(→雄和町)など県内でも有数の町村数を誇ったが、相次ぐ合併で縮小し、最終的には鹿角郡の一町(小坂町)に次ぐ県内でも小規模の二町のみの郡となっていた。
  • 能代 のしろ 秋田県北西部の市。米代川河口の南岸に臨む港湾都市。製材業・木工業が盛んで、能代塗は有名。人口6万3千。
  • 秋田 あきた (2) 秋田県西部、日本海に面する市。県庁所在地。もと佐竹氏20万石の城下町。旧名、久保田。雄物川の下流に位置し、古くから畝織・秋田八丈・秋田蕗を産する。産業は化学・食料品・パルプ工業。秋田港(土崎港)をもつ。七夕の竿灯祭は東北三大祭の一つ。人口33万3千。
  • 白馬寺 はくばじ? 現、秋田市手形か。現、川尻町の玄心寺は白馬寺の閑居寺だった。
  • 平鹿郡 ひらかぐん 羽後国および秋田県の南東部に位置していた郡。郡域はおおむね現在の横手市の市域に相当する。
  • 秋田城 あきたじょう (1) 奈良・平安時代、出羽北部の蝦夷に備えるために、733年(天平5)出羽柵を移して現秋田市寺内の高清水岡に築かれた城。今は土塁の一部などが残存する。(2) 佐竹氏の居城。現、秋田市千秋公園。久保田城。矢留城。
  • 高清水岡 たかしみずおか → 高清水
  • 高清水 たかしみず 現、秋田市寺内高清水丘陵か。
  • 由利郡 ゆりぐん 羽後国および秋田県の南西部に位置していた郡。成立当初の郡域は、現在の由利本荘市・にかほ市と秋田市の一部に相当する。
  • 大砂川 おおさがわ 村名。現、由利郡象潟町大砂川。
  • 小砂川 こさがわ 秋田県にかほ市象潟町小砂川。
  • -----------------------------------
  • [山形県]
  • [羽前] うぜん 旧国名。1869年(明治元年12月)出羽国を分割して設置。今の山形県の大部分。
  • 庄内 しょうない 山形県北西部、最上川下流の日本海に臨む地方。米の産地として知られる。中心都市は酒田市・鶴岡市。
  • 鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
  • 大物忌神社 おおものいみ じんじゃ 山形県北端の鳥海山を神体とする元国幣中社。祭神は大物忌神。山頂に本殿、麓の飽海郡遊佐町吹浦と同町蕨岡に里宮がある。出羽国一の宮。
  • 飛島 とびしま 山形県酒田市に属する、日本海の沖合30キロメートルにある小島。面積2.7平方キロメートル。近世、北国廻船の重要寄港地。ウミネコ繁殖地として知られる。
  • 飽海郡 あくみぐん 羽後国および山形県の郡。県の北西部に位置する。
  • 吹浦川 ふくらがわ? 月光川の河口近くの呼称。
  • 吹浦 ふくら 村名、現、遊佐町吹浦。菅野村の北西にあり、吹浦川河口右岸に位置し、庄内海岸に面している。内郷街道と浜街道が当村で合流する。
  • 神矢田 かみやだ 現、遊佐町北目、神矢田。縄文時代中期末から弥生時代初頭にかけての庄内地方北部の拠点的集落跡が発掘。昭和45(1970)より調査実施。
  • 西浜
  • 出羽柵 でわのさく 奈良時代、中央政府の拠点として、今の山形県庄内地方に置かれた城柵。のち今の秋田市内に移され秋田城となる。
  • 酒田 さかた 山形県北西部、最上川の河口に位置する市。江戸時代、北国廻船と最上川舟運とが結びついて庄内米を積み出した日本海有数の港町。人口11万8千。
  • 飽海郡学事会
  • 浄福寺 じょうふくじ 現、酒田市中央西町。亀崎山と号。真宗大谷派の寺院。創始の明順(肥後国深川城主、菊池氏)は文亀元(1501)上洛し、9世実如から東奥伝道の偉績により寺名に夷の字を冠され、夷浄福寺(いじょうふくじ)と号した。
  • 本立銀行
  • 信成合資会社
  • 酒田町 さかたまち 現、酒田市本町ほか。東側の亀ヶ崎城下とともに酒田町・亀ヶ崎城下・亀ヶ崎町とよばれるが、行政的には酒田湊町部分が酒田町組とされる。
  • 泉流寺 せんりゅうじ 現、酒田市中央西町。曹洞宗、東永山と号。文治5(1189)の奥州平泉の藤原氏没落後、遺臣が藤原秀衡妹徳前を擁して袖の浦付近に室を結んだのが始まりという。以後、比丘尼が相続していたが、文亀年中(1501-1504)全正なる者が奥州永徳寺より酒田の海晏寺の住持となり、退院後当庵に移住して泉流寺と改号、開山となった。
  • 河辺府 かわべのふ 『続日本紀』宝亀11(780)8月23日条、『日本後紀』延暦23(804)11月23日条に「河辺」「河辺府」の名があるが、(秋田県)河辺郡とは関係がないといわれる。(『歴史地名』『秋田県史』
  • 余目町 あまるめまち 山形県庄内地方の中央に位置した町。農業が主産業の町。2005年(平成17年)7月1日に立川町と合併し庄内町となった。
  • 館廻 たてまわり 現、余目町余目、旧、町村(まちむら)。
  • 廻館 まわたて 村名。現、余目町廻館。『筆濃余理』に最上氏家臣相馬某の館跡があるとし、最上氏改易後相馬家が土着したと記す。村名はこの館跡に由来する。
  • 跡 あと 字名。現、余目町跡。町村の北西にある。
  • 木川 きがわ 字名。現、酒田市木川。当初、現在地より東の跡村付近にあったが、最上川の川欠けによって現在地に移ったという。
  • 門田 かどた 字名。現、酒田市門田。余目町久田(きゅうでん)。
  • 局 つぼね 字名。現、酒田市局。
  • 西野 にしの 字名。現、余目町西野。
  • 鵜戸河原 → 鵜戸川原か
  • 鵜戸川原 うどがわら 村名。現、酒田市亀ヶ崎城の南東。
  • 大泉庄 おおいずみのしょう 鎌倉初期からみえる京都長講堂領荘園。地頭は武藤氏流大泉氏。赤川流域、京田川の南側一帯で、現在の鶴岡市の東半分、藤島町・三川町の南半分、および羽黒町・櫛引町・朝日村にわたる広大な庄園。『和名抄』田川郡の大泉郷を中心とする地域と推定される。
  • 大泉藩 おおいずみはん → 庄内藩
  • 庄内藩 しょうないはん 羽前国(旧出羽国)田川郡庄内(現在の庄内地方・山形県鶴岡市)を領した譜代大名の藩。明治時代初頭に大泉藩と改称した。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を配置した。明治時代まで酒井氏が治めた。藩主の酒井氏は、戦国武将で徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄。
  • 最上川 もがみがわ 山形県の南境、飯豊山および吾妻火山群に発源、米沢・山形・新庄の各盆地を貫流し、庄内平野を経て酒田市で日本海に注ぐ川。富士川・球磨川とともに日本三急流の一つ。古くから水運に利用。長さ229キロメートル。
  • 狩川 かりかわ 村名。立川町狩川。庄内平野の東端に位置し、東は荒鍋新田村・東興野村、西は西興野村、南は添津村、北は最上川を隔て、飽海郡、江戸街道沿いにある。狩河村とも記された。
  • 田川郡 たがわぐん 羽前国(旧出羽国の南部)の郡、多川郡、田河郡ともいう。和銅5年(712年)に越後国から出羽国が分立した際に出羽郡の南部が分立して成立した。中世末期には東部に櫛引郡が成立していたが後に吸収した。出羽国が分割された明治以降は羽前国に属し、その後酒田県、鶴岡県、山形県の管轄下に置かれた。その後、東田川郡と西田川郡に分割され消滅した。新・鶴岡市大半も旧田川郡である。
  • 出羽郡 いではぐん 越後国(その後出羽国庄内地方)にかつて存在した郡。和銅元年(708)、越後国の一部に設立。和銅5年、出羽郡を中心として出羽国が建国。その後の「延喜式」では出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれている。中世以降田川郡に編入され消滅。
  • 河辺郷 かわべのごう 郷域は未詳。河は最上川と考えられ、現、東田川郡立川町の清川・狩川から現、同郡余目町廻館(まわたて)に至る最上川左岸一帯に比定される。
  • 井の口 いのくち → 井口
  • 井口 いのくち 『三代実録』仁和3(887)5月、延暦(782-806)出羽国府は秋田城から移転、庄内に戻る。移転後の国府は「井口国府」とよばれ、所在を現、酒田市城輪柵遺跡に比定する説がある。
  • 井口国府 いのくち こくふ 阿部正己は飽海郡南吉田の小字「井口」と推定した。(『県大百科』
  • 余戸郷 〓 出羽郡。
  • 櫛引郡 くしびきぐん 戦国期から史料に散見し、寛文4(1664)まで使用された郡名。庄内のうち最上川以南(川南)の東部に位置する。
  • 遊佐郡 ゆざぐん? 戦国末期から近世初頭にかけての飽海郡の呼称。「川北」とも称された。
  • 鶴岡城 つるがおかじょう 鶴ヶ岡城。現、山形県鶴岡市馬場町。
  • 松山城 まつやまじょう 現、飽海郡松山町。松山町の中心部、通称松嶺地区に築かれた近世の城郭式平城。
  • 松嶺 まつみね 現、飽海郡松山町。江戸時代の松山藩。松山城下。
  • 田川郡 たがわぐん 県の西部に位置。近世には庄内地方のうち最上川以南(川南)を占め、北は飽海郡、東は村山郡・最上郡、南は越後国岩船郡に接し、西は日本海に面していたが、古代には北半は出羽郡の郡域で、戦国期から近世初期にかけては、東半が櫛引郡の郡域であった。多川・田河などとも記した。
  • 大山 おおやま 鶴岡市西部。高館山の東南山麓に位置する。旧村名。もとは尾浦(大浦)といい、尾浦城は武藤氏の庄内支配の本拠。のちに慶長8年、最上義光により大山城と改称。
  • 東田川郡 ひがしたがわぐん 山形県の郡。明治11(1878)の郡区町村編制法により、田川郡が東西に分割されて成立。現在、西北部は酒田市・鶴岡市に接する。藤島村(現、藤島町)に郡役所が置かれた。
  • 藤島町 ふじしままち 山形県東田川郡におかれていた町。2005年10月1日に、鶴岡市、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市となった。
  • 古郡 ふるこおり 村名。東田川郡。現、藤島町古郡。藤島村の南に位置し、西を藤島川が北流する。道橋付近に古代出羽郡衙が置かれたと考えられているが、考古学上は未検出。
  • 西田川郡 にしたがわぐん 山形県にあった郡。消滅直前となる2005年9月30日の時点で、温海町のみで構成されていた。2005年10月1日、温海町が鶴岡市および東田川郡藤島町・羽黒町・櫛引町・朝日村と合併し、新しい鶴岡市の一部となったため消滅。
  • 湯野浜 ゆのはま 山形県北西部、鶴岡市にあり、日本海に臨む温泉地。泉質は塩化物泉。
  • 丸岡 まるおか 村名・城名。現、櫛引町丸岡。地内を縦断する道は、中世の六十里越街道と伝える。
  • 最上郡 もがみぐん 出羽国・羽前国・山形県の郡。 古代の最上郡は、後の最上郡と村山郡の双方を包含。仁和2年(886年)、最上郡は北の村山郡と南の最上郡の南北2郡に分割。現在の最上郡に当たるのは村山郡のほう。 江戸時代初期、村山郡と最上郡とが入れ替えられ、現在のように北が最上郡、南が村山郡となった。
  • 新庄 しんじょう 山形県北東部の市。新庄盆地の中心で米・木材の集散地。近年、家具製造業も発展。もと最上氏、のち戸沢氏の城下町。人口4万1千。
  • 村山郡 むらやまぐん かつて出羽国・羽前国・山形県に存在した郡。ただし、太閤検地以後に南隣にあった最上郡と郡名と郡域がほぼ入れ替わっており、古代・中世における「村山郡」には、近世・近代の最上郡に相当する地域が多く含まれ、逆に近世・近代の村山郡に相当する地域の中には古代・中世における最上郡の地域が多く含まれている。
  • 左沢 あてらさわ/あてらざわ 山形県西村山郡大江町左沢。
  • 山形 やまがた (2) 山形県東部、山形盆地の南東部の市。県庁所在地。もと最上と称し、出羽の要地。江戸時代、保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野氏らの城下町。市の南東に蔵王山・蔵王温泉がある。人口25万6千。
  • 山形 やまがた (1) 東北地方南西部の県。羽前国と羽後国の一部とを管轄。面積9323平方キロメートル。人口121万6千。全13市。(2) 山形県東部、山形盆地の南東部の市。県庁所在地。もと最上と称し、出羽の要地。江戸時代、保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野氏らの城下町。市の南東に蔵王山・蔵王温泉がある。人口25万6千。
  • 大山郷 おおやまごう 「和名抄」所載の郷。従来は最上川の最上小国川合流点付近から下流域に比定する説が多かった。しかし昭和55(1980)年に発掘された西村山郡河北町畑中遺跡から出土した須恵器坏に「大山郷」「大山」などの墨書銘があり、河北町あたりを中心とした最上川左岸一帯に比定する説が有力となりつつある。
  • 保宝士野 ほほしの?
  • 米沢 よねざわ 山形県南部の市。米沢盆地の南端に位置し、もと上杉氏15万石の城下町。古来、機業で知られる。人口9万3千。
  • -----------------------------------
  • [福島県]
  • [磐城] いわき (1) 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。一部は今の福島県の東部、一部は宮城県の南部に属する。磐州。(2) (「いわき」と書く)福島県南東部の市。平市・磐城市など旧石城郡の14市町村が合併して1966年発足。平地区はもと安藤氏5万石の城下町で商業の中心地。小名浜地区は港湾をもち、化学・金属工業が発達し、漁業根拠地。人口35万4千。
  • 磐城平 いわきたいら 現、福島県いわき市の中北部で、夏井川流域に位置する旧城下町。1966年10月の大規模合併前には、平市という市であった。旧磐前郡。
  • 福島 ふくしま (2) 福島県北東部、福島盆地にある市。県庁所在地。もと板倉氏3万石の城下町。生糸・織物業で発展。食品・機械工業のほか、モモ・リンゴなどの栽培も盛ん。人口29万1千。
  • 伊達郡 だてぐん 福島県西半分(岩代国)の郡。福島盆地という比較的肥沃な土地も多く、とくに北部の平野部は古代から比較的活発な経済活動が行われた。中世には伊達氏の本拠地として、江戸時代には阿武隈川の舟運で栄える。また北部の半田山には日本三大銀山に数えられる半田銀山があり、幕府の直轄として代官所が置かれた。一方で奥州街道から羽州街道が分岐する追分けの宿場町も栄えた。
  • [岩代] いわしろ 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。今の福島県の中央部および西部。
  • [会津] あいづ 福島県西部、会津盆地を中心とする地方名。その東部に会津若松市がある。
  • 若松 → 会津若松か
  • 会津若松 あいづ わかまつ 福島県西部、会津盆地南東隅にある市。もと松平(保科)氏23万石の城下町。漆器・家具・織物を産する。市街東方の飯盛山は白虎隊で名高い。人口13万1千。
  • -----------------------------------
  • [新潟県]
  • [越後] えちご 旧国名。今の新潟県の大部分。古名、こしのみちのしり。
  • 磐船の柵 → 磐舟柵か
  • 磐舟柵 いわふねのき 648年(大化4)蝦夷に備えて置かれた城柵。渟足柵とともに大和政権の北進根拠地。遺称地は新潟県村上市岩船にある。
  • 越後国府 えちご こくふ 所在地については諸説が唱えられ、水門駅の近くとも、伊神駅・渡戸駅付近ともいわれるが、いずれとも確定できない。あるいは北陸道の終点寺泊近くとも推定できる。奈良時代以降は頸城郡に置かれる。南北朝期から上杉氏・長尾氏が拠点とした国府は、現、上越市直江津地区すなわち関川河口付近の府内とよばれた地区。
  • -----------------------------------
  • 東海道 とうかいどう (1) 五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15カ国の称。(2) 五街道の一つ。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。
  • 東山道 とうさんどう 五畿七道の一つ。畿内の東方の山地を中心とする地。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8カ国に分ける。また、これらの諸国を通ずる街道。とうせんどう。
  • 北陸道 ほくりくどう 五畿七道の一つ。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国。また、そこを通ずる街道。くぬがのみち。こしのみち。ほくろくどう。
  • [越前] えちぜん 旧国名。今の福井県の東部。古名、こしのみちのくち。
  • [上野] こうずけ (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転)旧国名。今の群馬県。上州。
  • [信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
  • [信州] しんしゅう 信濃国の別称。
  • 松代 まつしろ 長野市南部の地名。近世、真田氏10万石の城下町として発展。佐久間象山・松井須磨子の生地。
  • 伊奈谷 → 伊那谷か
  • 伊那谷 いなたに 現、長野県伊那盆地。天竜川流域に発達した南北60キロ、東西4キロ内外の細長い盆地。
  • [尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
  • [阿波] あわ 旧国名。今の徳島県。粟国。阿州。
  • 祖谷山 いややま 現、三好郡南部、近世の美馬郡南西部を占めた広域地名。現在の東祖谷山村・西祖谷山村にあたる。
  • 祖谷 いや 徳島県西部、吉野川の支流祖谷川と松尾川の流域。山地に囲まれ、祖谷渓の峡谷をなす。峡谷にかかる蔓橋と平家の落人伝説で知られる。隠田集落の一つ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『山形県大百科事典』(山形放送、1983)。




*年表

  • 孝徳天皇朝(六四五〜六五四) 越後の磐舟柵を置く。
  • 斉明天皇朝(六五五〜六六一) 阿倍比羅夫が出羽方面の夷地を経営して、海岸づたいに秋田・能代・津軽・北海道あたりまでをも従える。
  • 天武天皇一一(六八三)条 『日本紀』、越の蝦夷伊高岐那らが俘人七千戸をもって一郡となさんことを乞うて許される。
  • 和銅元(七〇八)九月 出羽郡を建つ。郡衙は東田川郡藤島町字古郡の辺りか。
  • 和銅二(七〇九)七月 蝦狄を征せんがために、征狄将軍を任命、諸国をして兵器を出羽柵に運送せしめ、越前・越中・越後・佐渡四国をして、船一百艘を征狄所に運ばしむ。
  • 和銅五(七一二)九月 越後から独立して出羽国を置く。国府は郡衙と同所か。このときの出羽の国は田川・出羽の二郡。翌月、陸奥国の最上・置賜の二郡(村山郡は最上郡より分かる)を出羽に合わせる。
  • 和銅七(七一四) 出羽の民に養蚕をすすめ、尾張・上野・信濃・越後などの民二〇〇戸をその柵戸に移す。
  • 霊亀元(七一五) 出羽の蝦夷朝貢。
  • 霊亀二(七一六) 出羽の地吏民いまだ少なく、狄徒いまだ馴れず、しかもその地膏腴にして田野広寛たるがゆえにとの理由をもって、随近の国民をここに移して、狄徒を教喩し、拓殖を進めしめる。
  • 霊亀二(七一六)九月条 『続紀』、陸奥の置賜・最上二郡、および信濃・上野・越前・越後四国の百姓各一〇〇戸を出羽の国につく。
  • 養老元(七一七) 信濃・上野・越前・越後四国の百姓各一〇〇戸の民を出羽柵に移す。四〇〇戸は令制の八郷。
  • 養老二(七一八) 出羽ならびに渡島の蝦夷八十七人来たりて、馬千匹を貢し、位禄をこれに賜わる(馬千匹は十匹の誤写か)。
  • 養老三(七一九) 東海・東山・北陸三道の民二〇〇戸を出羽柵に配す。
  • 養老四(七二〇) 持節鎮狄将軍の任命。
  • 天平五(七三三) 出羽柵を秋田の高清水岡にまでうつす(国府と分離か。
  • 天平五(七三三)まで この方面の征夷の策源地は出羽柵。
  • 天平宝字三(七五九) 平鹿郡、置かれる。
  • 宝亀六(七七五)一〇月条 『続日本紀』「出羽国言す。蝦夷余燼、なおいまだ平殄せず、三年の間鎮兵九九六人を請いて、かつは要害を鎮し、かつは国府を遷さんとす。勅して相模・武蔵・上野・下野四国の兵士を差して発遣せしむ」(国府をどこからどこへ遷したか、明記せず。出羽柵であった国府を、この河辺の井口の地に遷したものか)。
  • 宝亀六(七七五) 国府を遷す。新府は東田川郡余目町付近か。
  • 宝亀一一(七八〇)八月 秋田城、すでにこの城保ち難く、これを廃棄せんとの議あり。おこなわれず。
  • 延暦年中(七八二〜八〇六) 陸奥守小野岑守、大将軍坂上田村麻呂の論奏によって出羽郡井口の地に国府を建てる。(坂上茂樹、上言)
  • 延暦二三(八〇四) 陸奥・出羽按察使たる坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられる。
  • 延暦二三(八〇四)一一月 出羽国の上言、「秋田城建置以来四十余年、土地埆にして五穀によろしからず、しかのみならず北隅に孤居し、隣の相救うなし。伏して望むらくは永く停廃にしたがい、河辺府を保たん」
  • 延暦二三(八〇四) 秋田城を廃し、河辺の府を保つ。宝亀六年、移転の地なるべし。
  • 延暦二四(八〇五)一一月 桓武天皇殿上において公卿に天下の徳政を論ぜしめ給う。このとき参議藤原緒嗣は、「方今、天下の苦しむところは軍事と造作と」であると論じ、これを停めて百姓を安んぜんと請う。
  • 大同三(八〇八)五月 藤原緒嗣、陸奥・出羽の按察使に任ぜられる。
  • 天長七(八三〇)一月 鎮秋田城国司介藤原行則が、地震によって城廓崩壊したことを奏上。
  • 天長七(八三〇)閏一二月 出羽守小野宗成らが、このころ出羽の戸口増益し、倉庫の充実したことを述べ、国司増員のことを請う。
  • 天長七(八三〇) 上総の国司、秋田城を鎮す。出羽国府は依然、出羽郡にある。
  • 承和六(八三九)八月 田川郡司の解文、「この郡の西浜、府に達するのほど五十余里、もとより石なし」
  • 嘉祥三(八五〇) 国府の地に大地震があって、形勢変改。
  • 貞観一〇(八六八)四月 飽海郡の名は『三代実録』石鏃降下の記事がはじめか。
  • 元慶二(八七八) 出羽の夷俘反乱。秋田城ならびに郡院・屋舎・城辺民家などともに焼かれる。
  • 元慶四(八八〇) 国司の上言に、管諸郡中山北の雄勝・平鹿・山本の三郡は、遠く国府を去り、近く賊地に接すとある。
  • 仁和三(八八七)五月 太政官の議、出羽郡を「中」といい、最上郡を「外」という。
  • 仁和三(八八七) 出羽守坂上茂樹、上言。当時の国府は出羽郡井口の地にあり、出羽郡の国府を最上郡大山郷保宝士野に移したいとの議。移転の議は成立せず。
  • 仁和三(八八七) 秋田城を廃す。
  • 仁和三(八八七) 国府なお旧地にあり。地震の害にあい、付近高敝の地にうつす。
  • 文治五(一一八九) 伝説によると、泰衡滅亡後、秀衡の妹徳尼公にしたがって藤原秀衡の家臣三十六人、酒田にのがれる。
  • 元和八(一六二二) 酒井宮内大輔忠勝、信州松代から庄内鶴岡城へ転封。田川・飽海両郡一三万八〇〇〇石。
  • 寛永七(一六三〇) 村山郡左沢一万二〇〇〇石の領主右近大夫直次が死んだについて、その旧領地を宗家にあずけられる。
  • 寛永九年 加藤肥後守忠広が庄内に配せられたときに、忠勝の所領のうち丸岡一万石を配所の料として、これに分かつ。代地として、さきに預けられた左沢領一万二〇〇〇石を所領に加えられて、都合一四万石余となる。
  • 正保四(一六四七) 忠勝の子摂津守忠当、遺領をつぐ。左沢領一万二〇〇〇石と、ほかに田川・飽海両郡内で八〇〇〇石、都合二万石を弟忠恒に分かち、また田川郡内一万石を弟忠解に分かつ。
  • 寛文(一六六一〜一六七三)以来 遊佐郡の称は廃せられて飽海に復し、河南櫛引郡の地はすべて田川一郡に属する。
  • 寛文四(一六六四)四月五日 領知目録。
  • 貞享元(一六八四)九月二一日 領知目録。
  • 天和二(一六八二) 酒井左衛門尉忠真が父の遺領をつぐ。父忠義の従弟・牛之助忠高(忠当の弟忠俊の子)に、田川郡内五〇〇〇石を分知して寄合に列せしめる。
  • 正徳以降(一七一一〜)明治にいたるまで 飛島を田川郡に属せしめる。
  • 宝暦一〇(一七六〇)一一月 「三十六人先祖御尋に付差上候書付控」
  • 享和元(一八〇一) 本間光丘、没。
  • 元治元(一八六四) 田川・由利二郡内の預け地を増封せられて、やっと表高が一七万石となる。
  • 明治二(一八六九) 明治維新に酒井家は幕府に党したがためにいったん城池を収められ、さらに会津若松で一二万石をたまわり、まもなく磐城平に転じ、後、庄内に復帰して大泉藩を立て、田川郡内一二万石の地を管する。維新後出羽を分かって羽前・羽後とする。
  • 明治一三(一八八〇) 田川郡を東西に分かつ。
  • 大正四(一九一五) 喜田、中尊寺で日本歴史地理学会の講演会をもよおしたときに、平泉付近の案内をしてもらう。原勝郎の紹介で盛岡付近、安倍貞任の厨川柵、昔の爾薩体地方から、二戸郡の山地を少々見てまわり、さらに北海道へ渡った道筋に、青森に下車。帰りに津軽・出羽の方面にまわり、秋田に下車。
  • 大正七(一九一八) 喜田、学会の講演会を岩代の若松で開いたときに、越後から汽車で会津を経てふたたび東北線にまわり、三日間、会津で滞在。
  • 大正一一(一九二二)一一月一七日 喜田、夜行で京都を出かけ、二〇日の朝、庄内へ入る。阿部正巳、案内。滞在四日中、雨天がち。その後、栗田・斎藤の世話により、日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊。翌日、多賀城址。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 日本歴史地理学会
  • 原博士 → 原勝郎
  • 原勝郎 はら かつろう 1871-1924 歴史学者。盛岡生れ。東大卒。一高・京大教授。日本中世史研究の開拓者。西洋史研究でも知られる。著「日本中世史」「東山時代に於ける一縉紳の生活」など。
  • 安倍貞任 あべの さだとう 1019-1062  平安中期の豪族。頼時の子。宗任の兄。厨川次郎と称す。前九年の役で源頼義・義家と戦い、厨川柵で敗死。
  • 真崎勇助 まさき ゆうすけ 1841-1917 秋田生まれ。旧秋田藩士。戊辰戦争に従軍後、藩主佐竹家の家従となる。『秋田県史』編纂委員。晩年は秋田史談会を結成。著『酔月堂漫録』『秋田の落葉』『秋田文苑』など。(『郷土史家』
  • 栗田茂次 くりた 〓 宮城女子師範。喜田の友人。
  • 斎藤荘次郎 さいとう 〓 宮城県桃生郡北村の郷土史家。
  • 阿部正巳 あべ まさき 1879-1946 阿部正己。山形県飽海郡松嶺生まれ。阿部鉐弥の長男。郷土史家。北海道史編纂委員、酒田町史編纂主務者、山形県史跡調査員。大正12年(1923)頃、職を辞して以後、在野の史学者生活をおくる。主著『川俣茂七郎』『伊藤鳳山』『出羽国分寺遺址調査・付・出羽国府位置』他。(『山形県関係文献目録〈人物編〉』『新編 庄内人名辞典』『松山町史 下巻』
  • 酒井忠義 さかい ただよし 1644-1681 左衛門尉。庄内酒井家5代。4代忠当の長子。母は老中松平伊豆守(信綱)の娘。1660年(万治3)17才のとき家督をついで庄内藩主となる。江戸で逝去。享年38。(庄内人名)
  • 酒井忠恒 さかい ただつね 1639-1675? 大学頭。忠義の叔父。忠勝の三男。鶴岡生まれ。出羽松山藩の初代藩主。享年37。(庄内人名)
  • 酒井忠解 さかい ただとき 1643-1668 備中守。出羽国庄内大山藩初代藩主。庄内藩初代藩主酒井忠勝の七男。1664(寛文4)はじめて大山に下着。鷹狩りの途次、傷寒で急逝。享年26。家系断絶、領地は幕府に没収されて公領地(天領)となる。(庄内人名)
  • -----------------------------------
  • 天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
  • 伊高岐那 いこきな ?-? 越蝦夷。越の国の人。天武天皇11(682)4月22日、70戸の蝦夷による郡の形成を願い出て許可され、のちの出羽郡の原形をつくった。(庄内人名)
  • 孝徳天皇 こうとく てんのう 596?-654 7世紀中頃の天皇。茅渟王の第1王子。名は天万豊日、また軽皇子。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮に移す。(在位645〜654)
  • 斉明天皇 さいめい てんのう 594-661 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。(在位655〜661)
  • 阿倍比羅夫 あべの ひらぶ 古代の武人。658年頃、日本海沿岸の蝦夷・粛慎を討ち、661・663年には百済を助けて唐や新羅と戦った。
  • -----------------------------------
  • 酒井忠勝 さかい ただかつ 1594-1647 宮内大輔。酒井家次の長男。徳川四天王の一人酒井忠次の孫。左衛門尉酒井家。父・家次の死去により遺領の越後国高田藩を継ぐ。元和5年(1619)、信濃国松代に移封。元和8年(1622)6月、出羽国庄内に入部。
  • 酒井直次 さかい なおつぐ 1596-1630? 右近大夫。酒井家次の次男で忠勝の弟。1622(元和8)忠勝の庄内入部とともに、直次は村山郡左沢の領主となり、36才のとき病没。嗣子がなく寛永8年領地は没収。(庄内人名)
  • 加藤忠広 かとう ただひろ 1601-1653 肥後守。肥後熊本藩の第2代藩主。加藤清正の次男として生まれる。兄の忠正が早世したため、世子となる。
  • 酒井忠当 さかい ただまさ 1617-1660 忠勝の長子。越後高田生まれ。妻は老中松平伊豆守(信綱)の娘千万姫。忠勝没して12月、31才で家督を相続して庄内藩主となる。出羽国庄内藩2代藩主、左衛門尉酒井家4代当主。摂津守。能筆をもって知られ、44才のとき江戸大手前邸で逝去。(庄内人名)
  • 酒井忠真 さかい たださね 1671-1731 出羽国庄内藩4代藩主。左衛門尉酒井家6代当主。酒井忠義の長男、母は松平輝綱の娘。幼名は小五郎。従四位下、左衛門尉。1682(天和2)12才のとき家督をついで藩主となる。妻は水戸光圀の孫密姫。1690(元禄3)はじめて黒川能を城中に招いて演じさせ、郷土芸能として保存の素地をつくる。享年61。(庄内人名)
  • 酒井忠高 さかい ただたか 1661-1689 牛之助。忠俊の子。鶴岡生まれ。忠当の弟。忠義の従弟。29才のとき江戸で病没。(庄内人名)
  • 酒井忠俊 さかい ただとし 1621-1661 忠勝の次男。忠当の弟。信州松代で出生。1622(元和8)2才のとき入部の父に従って庄内に移る。享年41。(庄内人名)
  • -----------------------------------
  • 本間光丘 ほんま こうきゅう → 本間四郎三郎
  • 本間四郎三郎 ほんま しろうさぶろう 1733-1801 江戸時代、出羽酒田の豪商。はじめ久四郎と号した。名は光丘。父は庄五郎。
  • 紀国屋文左衛門 きのくにや ぶんざえもん ?-1734 江戸中期の豪商。紀伊の人。幕府御用達の材木商・町人として巨万の財を積み、豪遊して紀文大尽と称せられたが、晩年落魄したという。物語や歌舞伎に脚色された。
  • 銭屋五兵衛 ぜにや ごへえ 1773-1852 江戸後期の豪商。加賀宮越の人。北前船主として活躍、回米・米相場で巨富を築く。晩年、河北潟埋立工事を行なって漁民の怨みを買い、罪を得て獄中で病死。
  • -----------------------------------
  • 藤原秀衡 ふじわらの ひでひら ?-1187 平安末期の武将。基衡の子。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉を拠点に、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。
  • 藤原泰衡 ふじわらの やすひら ?-1189 平安末期の奥州の豪族。秀衡の子。陸奥・出羽の押領使。父の遺命によって源義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧迫を受けてこれを殺害、かえって頼朝から攻撃されて殺された。
  • 徳尼公 とくあまぎみ? ?-? 徳子。藤原秀衡の妹。秀衡の夫人とする説もある(歴史散歩)。一族の佐藤庄司にとつぐ。平泉没落のとき、三六人の家臣にまもられ出羽国へのがれる。野口の観音堂に日参。頼朝の命により土肥次郎実平が羽黒山修造の奉行として登山。徳尼は下扉を去って酒田へ。酒田林泉寺には徳尼の念持仏を安置したという。酒田は平泉の勢力範囲で、一族の坂田二郎の領地。徳尼公の木造は、維新前には羽黒山本社に安置、維新の際、荒沢寺に移り、いまは黄金堂に。法然上人の像に似ている。(『二百話』戸川、『歴史散歩』
  • 水庵泉流尼公
  • 上林勇左衛門先祖和泉
  • 永田茂右衛門先祖若狭
  • 本間久四郎 ほんま きゅうしろう 1674-1740 原光(もとみつ)。酒田本間家初代。宗家の祖は主計(光重)といい越後の出身で永禄年間酒田に居を定め、その曾孫にあたる久四郎(原光)はその子孫を久左衛門(久右衛門)の長子(一説によれば使用人)で早くから商才あり、元禄2(1689)16才のとき本町一丁目に分家して新潟屋を名乗る。宝永4(1707)山王宮神宿をつとめて酒田町長人選ばれる。享年67。(庄内人名)
  • -----------------------------------
  • 坂上茂樹 さかのうえの しげき? ?-? 大宿祢。出羽国守。元慶9(885)正月出羽守に任ぜられる。国府の建物が嘉祥3(850)の大地震以来、損衰はなはだしく埋没に瀕しているのを憂慮し、仁和3(887)に奏上して最上郡大山郷保宝士野への移転を願い出る。この出願は許されず、同年5月20日勅命によって付近の高燥地にこれを移転した。また、同年6月には国印を改鋳した旨の記録がある。(庄内人名)
  • 小野岑守 おのの みねもり 778-830 平安時代初期の貴族・文人。陸奥守、内蔵頭、皇后宮大夫、参議、大宰大弐を歴任した。弘仁元年(810年)に嵯峨天皇が即位した際には侍読となるなど漢詩に優れ、同5年(814年)に成立した勅撰漢詩集である『凌雲集』の編纂に携わる。さらに、『日本後紀』『内裏式』の編纂に関わった。
  • 坂上田村麻呂 さかのうえの たむらまろ 758-811 平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。
  • 桓武天皇 かんむ てんのう 737-806 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。名は山部。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。(在位781〜806)
  • 藤原緒嗣 ふじわらの おつぐ 774-843 平安初期の貴族。百川の子。桓武天皇の信任を得て、蝦夷征討と平安京造営は民衆を苦しめるものと建言した。
  • 藤原行則 ふじわらの 〓 鎮秋田城国司介。(類聚国史)
  • 小野宗成 おのの むねしげ ?-? 国司。出羽守。朝臣。従五位上。天長7(830)蝦夷対策のため官人の増員を請願して許される。承和2(835)出羽の夷俘が禁制を犯して京都に出入りしたことがわかって譴責処分をうけた。同4年(837)6月、最上郡に済苦院を建立。出羽国分寺に仏像と経典を納めた。同6年(839)8月、雨の後に多くの石鏃が出現したので、これを朝廷に献じる。(庄内人名)
  • 大物忌神 おおものいみのかみ 山形県鳥海山上の大物忌神社の祭神。倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と同神ともいう。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『郷土史家人名事典』(日外アソシエーツ、2007.12)『新編 庄内人名辞典』、戸川安章『羽黒山二百話』、『歴史散歩』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『延喜式』 えんぎしき 弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
  • 『和名抄』 わみょうしょう → 倭名類聚鈔
  • 『倭名類聚鈔』 わみょう るいじゅしょう 日本最初の分類体の漢和辞書。源順著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を32部249門に類聚・掲出し、音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。承平(931〜938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。略称、和名抄。順和名。
  • 『日本紀』 にほんぎ (1) 日本の歴史を記した書の意で、六国史のこと。(2) 日本書紀のこと。
  • 『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
  • 「大宝令」 たいほうりょう 大宝律令の令の部分。
  • 『大宝律令』 たいほう りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
  • 『三代実録』 さんだい じつろく 六国史の一つ。50巻。文徳実録の後をうけて、清和・陽成・光孝3天皇の時代約30年の事を記した編年体の史書。901年(延喜1)藤原時平・大蔵善行らが勅を奉じて撰進。日本三代実録。
  • 『続紀』 しょっき 続日本紀の略称。
  • 『続日本紀』 しょく にほんぎ 六国史の一つ。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)までの編年体の史書。藤原継縄・菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀。
  • 『地誌提要』
  • 『光丘翁事歴』
  • 「宝暦十年(一七六〇)十一月、三十六人先祖御尋に付差上候書付控」
  • 「三十六人由緒書」
  • 『万葉集』 まんようしゅう (万世に伝わるべき集、また万の葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。
  • 『伊呂波字類抄』 → 色葉字類抄
  • 『色葉字類抄』 いろは じるいしょう 辞書。2巻または3巻。橘忠兼編。天養(1144〜1145)〜治承(1177〜1181)年間成る。平安末期の国語を頭音により「いろは」別にし、それぞれをさらに天象より名字に至る21部門に分けて、表記すべき漢字とその用法とを記す。鎌倉初期にこれを増補した10巻本が「伊呂波字類抄」
  • 「正保図」 → 正保庄内絵図か
  • 「正保庄内絵図」 しょうほ しょうない えず 1218×458センチ。正保2年(1646)ごろ成立。幕府が国絵図の提出を命じたとき、庄内藩で作成した、庄内最古の領内絵図。(歴史地名)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)



*難字、求めよ

  • 身親しく
  • 指嗾・使嗾 しそう (「嗾」は、そそのかす意)指図してそそのかすこと。けしかけること。
  • どうで 「どうせ」に同じ。
  • 隘路 あいろ (1) 狭い通路。狭くて通りにくい路。(2) 支障となるもの。障害。難点。
  • 一眸 いちぼう (「眸」は「見る」意) 一望に同じ。
  • 際涯 さいがい はて。かぎり。きわ。
  • 鷹揚 おうよう (1) (オウは呉音)鷹が空を飛揚するように、何物も恐れず悠然としていること。(2) ゆったりと落ち着いていること。大様。
  • 草高 くさだか (刈り取った稲草の高の意)近世、領地や知行所の実質上の収穫総高。
  • -----------------------------------
  • 俘人 ふじん (『県の歴史』
  • 俘囚 ふしゅう (1) とらわれた人。とりこ。俘虜。(2) 朝廷の支配下に入り一般農民の生活に同化した蝦夷。同化の程度の浅いものは夷俘と呼んで区別。
  • 熟蝦夷 にきえみし 古代の蝦夷のうち、朝廷に従順なもの。←→あらえみし
  • 麁蝦夷 あらえみし 荒蝦夷。粗野で朝廷に服属しない遠方の蝦夷。←→にきえみし
  • 生蕃 せいばん 教化に服さない異民族。台湾の先住民である高山族(高砂族)中、漢族に同化しなかった者を、清朝は熟蕃と区別してこう呼んだ。
  • 蝦狄 えてき 『続日本紀』文武天皇元年(697年)12月庚辰条には、越後国(後の出羽国を含む)に住む蝦夷を「蝦狄」と称している。これは、東夷と同じく北方の異民族(北狄)に対する蔑称に由来していると考えられている。(Wikipedia「蝦夷」)
  • 阻険 そけん 山や谷のけわしいこと。また、そのさま。険阻。
  • 征狄所 せいてきじょ
  • 城柵 じょうさく 城の柵。とりで。城塞。
  • 庄田 しょうでん 荘田。荘園の田地。そうでん。
  • 勒す ろくす (1) おさえる。制御する。(2) とりしまる。すべる。統御する。整理する。(3) 彫る。刻む。ほりつける。また、書き留める。
  • 石鏃 せきぞく 石のやじり。木や竹の柄につけて、狩猟具・武器として使用。新石器時代を中心に世界各地に分布。日本では縄文・弥生時代に盛んに用いられた。打製品は両時代ともにあり、磨製品は弥生時代に作られた。石材は黒曜石・サヌカイト・珪岩・粘板岩などで、長さ1センチメートル未満のものから5センチメートル位のものまである。
  • 征狄 せいてき 夷狄を征伐すること。
  • 舟揖 しゅうしゅう?
  • 舟楫 しゅうしゅう (ふねとかじの意で)舟を進め物を運ぶこと。舟運。
  • 柵戸 きのへ 古代、蝦夷に備えるための城柵に付属させた民戸。屯田兵の一種。きへ。さくこ。
  • 吏民 りみん 役人と人民。
  • 狄徒 てきと 北方の蛮族。えぞ。
  • 膏腴 こうゆ (「膏」「腴」ともに、肥える意)土地が肥えて作物によく適すること。また、その土地。
  • 広寛 宏寛(こうかん)か。心が広くてゆったりしていること。また、そのさま。寛宏。寛裕。
  • 教喩 きょうゆ おしえさとす。はっきりわからせる。
  • 持節将軍 じせつ しょうぐん 古代、辺境を鎮定するために節刀を賜って派遣された軍団の指揮官。鎮定すべき対象によって、征夷・征東・征隼人などの将軍・大将軍が臨時に任命される。
  • -----------------------------------
  • 表高 おもてだか 知行充行状や知行目録に書き載せられた表面上の禄高。本知高ともいう。実際の収入高とは相違した。←→内高。
  • 博する はくする (1) ひろめる。ひろくする。(2) 占める。得る。
  • 高張 たかはり (1) 値段を高くして欲ばること。また、その人。(2) 高張提灯の略。
  • 斎われて いわわれて? いわう。いつかわれて? いつく。
  • 被官・被管 ひかん (1) 律令制で、上級官庁に直属する官庁。例えば省の管轄下にある寮・司など。(2) 中世、上級武士に下属して家臣化した下級武士。(3) 中世末、在地領主や土豪の家来で、屋敷地の一部と田畑を分与され、手作りしつつ主家の軍事・家政・農耕に奉仕していた者。(4) 被官百姓の略。
  • 名子 なご 中世・近世、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して労役を提供した農民。被官・家抱・作り子の類。地域によっては近代まで残存。
  • 遺利 いり とりのこされた利益。
  • 来たり人 きたりど 来人。よそから移住してきた人。よそ者。
  • 家憲 かけん 家族・子孫の遵守すべきおきて。一家のおきて。家法。家訓。
  • 城廓 じょうかく 城郭。(1) 城とくるわ。また、城のくるわ。(2) 特定の地域を外敵の侵攻から守るために施した防御施設。
  • 紋日 もんび (モノビの音便)「ものび(物日)」(2) に同じ。
  • 物日 ものび (1) 祭日・祝日など特別な事の行われる日。(2) 遊郭で、五節句などの祝日や、毎月の朔日・15日など特に定めてあった日。この日は遊女は休むことが許されず、休むときは、客のない場合でも身揚りをしなければならなかった。紋日。売り日。役日。
  • -----------------------------------
  • 酒田三十六人衆 さかた さんじゅうろくにん しゅう 酒田港を興し、その発展を支えてきた36人の人々をいう。秀衡の後室・泉の方を護って36人の遺臣が酒田に逃れ、地侍となって回船問屋を営み、酒田の開発にあたった。しかし当時の36人の名はあきらかではなく、粕谷・永田・上林・村井・加賀屋らの名が豪商として伝えられているにすぎない。室町期から戦国時代にかけての活躍は目覚ましく記録にも残っているが、三十六人衆制度が確立したのはいつのころか明らかではない。この制度は一か月3人の当番で、一年間交代制で町政・港の管理をおこなう制度。名簿記録によると他国から商いに来て永住した家も多く、出入り変遷ははげしい。明治になって制度は廃止されるが、泉の方(徳尼公)の命日四月十五日を徳尼祭とする。(佐藤三郎『県大百科』
  • 坂の者 さかのもの 古代・中世、主要な街道や寺社の参詣道の坂道に集住し、掃除などの雑業や雑芸能に従事した被差別民。坂。(日本史)
  • 弦指 つるさし 弦差か。弓弦(ゆづる)をつくる人。
  • 国分寺 こくぶんじ 741年(天平13)聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に国ごとに建立された寺。正式には金光明四天王護国之寺という。奈良の東大寺を総国分寺とした。
  • 退嬰 たいえい あとへひくこと。しりごみすること。新しい事を、進んでする意気ごみのないこと。←→進取。
  • 窪泥 わでい? えでい?
  • 論奏 ろんそう (1) 事の是非を論じて意見を奏聞すること。(2) 太政官で恒例・臨時の大祀、歳入歳出の増減、職員の増減などの重要事をあらかじめ議してから、決裁を仰ぐために天皇に上奏すること。
  • 按察使・按察 あぜち (アンセチシの約)奈良時代、諸国の行政を監察した官。719年(養老3)創設。特定の国司の兼任。後には陸奥・出羽だけ実態を残し、他は大中納言の兼ねる名義だけの官となる。
  • 上言 じょうげん 天子・天皇など、貴人に意見を申し上げること。言上すること。建言。上申。
  • 埆 こうかく 磽a・埆。石の多いやせち。
  • 国司 こくし 律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官。守・介・掾・目の四等官と、その下に史生があった。その役所を国衙、国衙のある所を国府と称した。くにのつかさ。
  • 高敝 → 高敞か
  • 高敞 こうしょう 土地が高く、広くて、見はらしのよいこと。また、そのさま。
  • 余戸 あまりべ 大化改新後の律令国家で50戸を「里」としたとき、それに満たなかった小集落。あまるべ。余目。あまべ。地名の余戸はこの転かという。
  • 策源地 さくげんち 前線の戦闘部隊に必要な物資を供給する後方基地。
  • 秋田城介 あきたじょうのすけ 平安後期以後、出羽介が兼任する例となった、秋田城守兵の長官。これに任ぜられることは武門の名誉とされた。秋田城司。城介。
  • 平殄 へいてん?
  • 方今 ほうこん ちょうど今。ただ今。現今。目下。
  • 嘉納 かのう 他人の進言・献上物などをよろこんでうけ入れること。
  • 戎卒 じゅうそつ?
  • 息わず いこわず いこう。憩う。
  • 郡院 ぐんいん 郡家に同じ。
  • 郡家 ぐうけ 郡司が政務をとる役所。郡院。こおりのみやけ。ぐんけ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『山形県の歴史』(1998)



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 司馬遼太郎『オホーツク街道』(朝日新聞社、2005.8)読了。司馬さんと藤沢周平を対比するひとがあるが、ぼくならば、『街道をゆく』シリーズを残してくれた一点だけでも司馬さんを評価する。
 この巻には、考古学に熱中した少年時代の司馬さんの姿が書いてある。一巻を通して、話題が考古学中心なのも珍しい。

 『街道をゆく』の総索引を見ると、「喜田貞吉」にふれた部分が三か所ある。司馬遼太郎は喜田貞吉につながり、喜田貞吉は阿部正己につながる。

 映画祭、『わが映画人生:本多猪四郎』、八年間の従軍体験、『南国の肌』『青い真珠』、ドキュメンタリー・科学もの、零戦特撮スタッフ、水爆実験、円谷……G、ラドン、モスラ。
 月夜の下、マレーシア影絵「ワヤン・クリ」。ざらざらした水牛皮の切り絵、赤と緑、声いろ、ガムラン。




*次週予告


第四巻 第一三号 
庄内と日高見(二)喜田貞吉


第四巻 第一三号は、
一〇月二二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第一二号
庄内と日高見(一)喜田貞吉
発行:二〇一一年一〇月一五日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  •  地震雑感
  •   一 地震の概念
  •   二 震源
  •   三 地震の原因
  •   四 地震の予報
  •  静岡地震被害見学記
  •  小爆発二件
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
  •  自然現象の予報
  •  火山の名について
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦

     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子

     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)
  • #6 地震の国(三)今村明恒

     一七 有馬の鳴動
     一八 田結村(たいむら)の人々
     一九 災害除(よ)け
     二〇 地震毛と火山毛
     二一 室蘭警察署長
     二二 ポンペイとサン・ピエール
     二三 クラカトアから日本まで

     余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

    「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

     この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
     大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。 (「二一 室蘭警察署長」より)
  • #7 地震の国(四)今村明恒

     二四 役小角と津波除(よ)け
     二五 防波堤
     二六 「稲むらの火」の教え方について
      はしがき
      原文ならびにその注
      出典
      実話その一・安政津波
      実話その二・儀兵衛の活躍
      実話その三・その後の梧陵と村民
      実話その四・外人の梧陵崇拝
     二七 三陸津波の原因争い
     二八 三陸沿岸の浪災復興
     二九 土佐と津波

     天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識りが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
     役小角はおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。(略)
     この行者が一日、陸中の国船越浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのち戒めて、「卿らの村は向こうの丘の上に建てよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡に魅せられた里人はよくこの教えを守り、爾来千二百年間、あえてこれに背くようなことをしなかった。
     そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもって数うべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。 (「二四 役小角と津波除け」より)
  • #8 地震の国(五)今村明恒

     三〇 五徳の夢
     三一 島陰の渦(うず)
     三二 耐震すなわち耐風か
     三三 地震と脳溢血
     三四 関東大震火災の火元
     三五 天災は忘れた時分にくる
       一、天変地異と天災地妖
       二、忘と不忘との実例
       三、回向院と被服廠
       四、地震除け川舟の浪災
       五、噴火災と凶作
     三六 大地震は予報できた
     三七 原子爆弾で津波は起きるか
     三八 飢饉除け
     三九 農事四精

     火山噴火は、天変地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れているばあいは、災害はわりあいに軽くてすむが、必ずしもそうばかりではない。わが国での最大記録は天明の浅間噴火であろうが、土地ではよくこれを記憶しており、明治の末から大正のはじめにかけての同山の活動には最善の注意をはらった。(略)
     火山は、噴火した溶岩・軽石・火山灰などによって四近の地域に直接の災禍をあたえるが、なおその超大爆発は、火山塵の大量を成層圏以上に噴き飛ばし、たちまちこれを広く全世界の上空に瀰漫させて日射をさえぎり、しかもその微塵は、降下の速度がきわめて小なるため、滞空時間が幾年月の久しきにわたり、いわゆる凶作天候の素因をなすことになる。
     火山塵に基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滞する微塵、いわゆる乾霧によって春霞のごとき現象を呈し、風にも払われず、雨にもぬぐわれない。日月の色は銅色に見えて、あるいはビショップ環と称する日暈を見せることもあり、古人が竜毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏気温の異常低下は当然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
     最近三〇〇年間、わが国が経験したもっとも深刻な凶作は、天明年度(一七八一〜一七八九)と天保年度(一八三一〜一八四五)とのものである。前者は三年間、後者は七年間続いた。もっとも惨状を呈したのは、いうまでもなく東北地方であったが、ただし凶作は日本全般のものであったのみならず、じつに全世界にわたるものであった。その凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあったこと、贅説するまでもあるまい。
     世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、おそらく火山塵に基因する世界的飢饉であろう。 (「噴火災と凶作」より)
  • #9 地震の国(六)今村明恒

     四〇 渡辺先生
     四一 野宿
     四二 国史は科学的に
     四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷
         はしがき
         地震に関する思想の変遷(その一)
         火山噴火に関する思想の変遷
         地震に関する思想の変遷(その二)
     四四 地震活動盛衰一五〇〇年

    (略)地震に関する思想は、藤原氏専政以後においてはむしろ堕落であった。その主要な原因は、陰陽五行の邪説が跋扈(ばっこ)したことにあるのはいうまでもないが、いま一つ、臣下の政権世襲の余弊であったようにも見える。この点につき、歴史家の所見を質してみたことはないが、時代の推移にともなう思想の変遷が、然(し)か物語るように見えるのである。けだし、震災に対する天皇ご自責の詔の発布された最後の例が、貞観十一年(八六九)の陸奥地震津波であり、火山噴火に対する陳謝・叙位のおこなわれた最後の例が、元慶六年(八八二)の開聞岳活動にあるとすることが誤りでなかったなら、これらの二種の行事は、天皇親政時代のものであったといえるわけで、つぎの藤原氏の専政時代において、これらにかわって台頭してきた地震行事が、地震占と改元とであったということになるからである。修法や大祓がこれにともなったこと断わるまでもあるまい。
     地震占には二種あるが、その気象に関するものはまったく近世の産物であって、古代のものは、兵乱・疫癘・飢饉・国家の重要人物の運命などのごとき政治的対象を目的としたものである。
     かつて地震をもって天譴(てんけん)とした思想は、これにおいて少しく改められ、これをもって何らかの前兆を指示する怪異と考えるに至ったのである。これには政治的方便もあったろうが、時代が地震活動の不活発期に入ったことも無視してはなるまい。
     上記の地震占をつかさどる朝廷の役所は陰陽寮で、司は賀茂・安倍二家の世襲であったらしい。 (「四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷」より)
  • #10 土神と狐/フランドン農学校の豚宮沢賢治

     一本木の野原の北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。イノコログサがいっぱいに生(は)え、そのまん中には一本のきれいな女の樺(かば)の木がありました。
     それはそんなに大きくはありませんでしたが、幹(みき)はテカテカ黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白き雲をつけ、秋は黄金(きん)や紅(べに)やいろいろの葉を降(ふ)らせました。
     ですから、渡り鳥のカッコウやモズも、また小さなミソサザイやメジロもみんな、この木に停(と)まりました。ただ、もしも若い鷹(たか)などが来ているときは、小さな鳥は遠くからそれを見つけて決して近くへ寄(よ)りませんでした。
     この木に二人の友だちがありました。一人はちょうど五百歩ばかり離れたグチャグチャの谷地(やち)の中に住んでいる土神(つちがみ)で、一人はいつも野原の南の方からやってくる茶いろの狐(きつね)だったのです。
     樺(かば)の木は、どちらかといえば狐の方がすきでした。なぜなら、土神(つちがみ)の方は神という名こそついてはいましたが、ごく乱暴で髪もボロボロの木綿糸(もめんいと)の束(たば)のよう、眼も赤く、きものだってまるでワカメに似(に)、いつもはだしで爪(つめ)も黒く長いのでした。ところが狐の方はたいへんに上品なふうで、めったに人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
     ただもし、よくよくこの二人をくらべてみたら、土神(つちがみ)の方は正直で、狐はすこし不正直(ふしょうじき)だったかもしれません。 (「土神と狐」より)
  • #11 地震学の角度から見た城輪柵趾今村明恒

     出羽の柵址と見るべきものが発見されたのは昭和六年(一九三一)のことである(『史跡調査報告第三』「城輪柵址の部」参照)。この城輪柵址が往古の出羽柵に相当すとの考説は、地震学の角度から見ても容疑の余地がないようである。
     城輪柵址は山形県飽海郡本楯村大字城輪(きのわ)を中心として、おおむね正方形をなし、一辺が約四〇〇間あり、酒田市から北東約八キロメートルの距離にある。掘り出されたのは柵材の根株であるが、これが完全に四門や角櫓の跡を示している。
     この柵址が往古の出羽柵に相当すとの当事者の見解は、地理的関係にあわせて、秋田城内の高泉神とこの柵の城輪神が貞観七年(八六五)と元慶四年(八八〇)とにおいて同時に叙位せられた事実などに基づくもののようであるが、蛇足ながら余は次の諸点をも加えたい。

     一、場所が海岸線から約五キロメートルの距離にあり、しかもこの海岸地方は、酒田市北方から吹浦に至るまで、(略)急性的にも将た慢性的にも、著しく沈下をなす傾向を有す。しかもこの傾向は奥羽海岸地方中においてこの小区域に特有されていること。
     奥羽沿岸における精密水準測量の結果として過去三十余年間における水準変化に、沈下量一〇センチメートル、その延長距離一六キロメートル以上に達する場所を求めるならば上記の酒田以北吹浦に至るまでが唯一のものであるが、しかもそのうち日向川以北およそ五キロメートルの間は三十三年間に約二〇センチメートルほどの漸進的沈下をなしたのであって、かくのごときは日本全国においてきわめて稀有の例である。これすなわち城輪柵址にもっとも近き海岸であるが、この地方を除き、奥羽沿岸の他の地方は大地震とともに一般に隆起をともなう経験をもっている。(略)
     これを要するに、城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯であるが、もし試みに、大地震にともない、海岸線が著しく内陸に侵入するほどの沈下をなすべき地域を奥羽西海岸に求めるとしたならば、それは上記区域を除いては他に求められないであろう。(略)

※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
※ タイトルをクリックすると、月末週無料号(赤で号数表示) はダウンロードを開始、有料号および1MB以上の無料号はダウンロードサイトへジャンプします。