今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


◇参照:Wikipedia、『日本人名大事典』(平凡社)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Imamura_Akitsune.jpg」より。


もくじ 
地震の国(六)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の国(六)
  • 四〇 渡辺先生
  • 四一 野宿
  • 四二 国史は科学的に
  • 四三 地震および火山噴火に関する思想の変遷
  •     はしがき
  •     地震に関する思想の変遷(その一)
  •     火山噴火に関する思想の変遷
  •     地震に関する思想の変遷(その二)
  • 四四 地震活動盛衰一五〇〇年

オリジナル版
地震の國(六)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html
NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震の国(六)

今村明恒

   四〇 渡辺先生


 余は幼少のころ、優れた教養者・指導者に恵まれていたが、これを想い起こすごとに感謝の念を新たにしている。
 余は早熟であったらしい。最初の記憶は数え年にして四歳ぐらいのころに始まるが、ある日、竹片ちくへんをもって地面に近所の門札の字を写していた。竹山という文字であったが、形だけはどうやら出来たようである。それを父が見つけて、「なるほど、形はうまく出来ている。が、それを書くにはこうするのだ」といって運筆を教えてくれ、そして筆紙墨類をはじめて恵まれたので、これにはげまされて、まもなく付近の家の門札くらいは真似まねられるようになった。
 文字に興味を覚えるようになったところから、『三字経』という書物をまず与えられ、近くに住む漢学先生について素読を学び、それが終わって『大学』を読んだ。
 郷校へ通いはじめたのは五歳、しかし、この年齢では正式の入学は許されない。そこへ次兄が通学していたのを幸い、その兄について学校へ行き、兄の机のそばに彼と同じように座っていた。そのころは個人教授であったから、先生が兄を教えたついでに、余をも教えてくれた。
 そのようなことで早くから文字が読めたので、叔母たちが余が家をおとなうときは、余に最もふさわしいみやげ物として、武者せんべいなどを持ってきてくれた。余はそれを食べることよりも、それに書かれている八幡太郎源義家とか、九郎判官源義経などという文字を読む方が楽しかった。
 余に一人の偉い叔父おじがあった。この叔父は廃藩置県後、明治九年(一八七六)まで磐前県いわさきけん(今の福島県平市たいらしに置かれてあった)で総務部長というような職にあった人だが、西南役せいなんのえきに西郷方に属して戦死をとげた。これがよく余を教えてくれて、余にもっとも適当な種々の書物を選んでは、余が善行を賞するたびにそれを恵んでくれるのであった。
 この叔父の末弟もまた学問好きであった。そして余をよく導いてくれた。じつにこれら両人の感化は余が一生の運命を支配するものとなったのである。
 また、余が現在のような専門学徒となるように志したのは、中学校時代の先生の良き指導に負うのであるが、それについてはこういう記憶がある。
 中学第二学年のころ、物理学の受け持ちに渡辺譲という理学士があった。理科の教授は昭和の今日でもまだ机の上の授業からぬけきらないで、ただ書物について注ぎ込むという風があるのに、渡辺先生はすでにそのころ、よく実験観察を背景として教育しておられた。
 話は変わるが、ある人が先年、北米合衆国のある学校へ理科教授の見学に行ったことがある。その日はあいにく試験日であったので失望して帰ろうとすると、試験でも見て行ってはいかがと言われて教室へ案内された。試験問題はと見ると、日本にありがちな、たとえば圧力とは何ぞやというような型とは全然違っていて、実験そのものが問題となるのである。

 机上にはフラスコがあった。先生はその口に合うほどのコルクを取り、漏斗じょうごのついたガラス管が通るように穴を開けている。生徒は見落とすまいと一生懸命である。やがて穴が開き、管がゆるくコルクに刺されて、全体でフラスコの栓となった。漏斗じょうごに水をさすと水は徐々にフラスコに侵入する。つぎに管を抜き取って今度はつばをつけて固く差しこみ、コルクにも水をつけて栓を固くして今一度水を漏斗にさすと、今度は水が下がって行かない。

 この現象を説明せよというのが試験問題であったそうである。
 渡辺先生の教え方もそういうふうであった。今も二、三覚えているが、その一つを紹介することにする。問題は落体に関するものであった。

 地球に、その中心に向かって一直線に穴をあけ、対蹠点たいせきてんまでつらぬいたと仮定する。もし、穴よりも細い石を取ってその口から落としたならば、石はどこまで落ち、どこに落つくか。

というのであった。もちろん、摩擦まさつはないものと仮定されているのである。他の生徒の答えはいずれも地球の中心まで落ちて行って、そこに落ち着くというのであったか、余の答えはそれとは違い、地球の中心を通りぬけて対蹠点たいせきてんまで行くというのである。先生は首をひねって余に向かい、それではどこへ落ち着くかと反問される。そこから反対に出発点へ戻ってきて、いつまでも往復しているというのが答えであった。先生、今度はニコニコしてその理由を問われるのだ。
「先生、地球の引きつける力は中心にあると認めてよいと思います。
「よろしい。
「そうすると落体は中心に向かってしだいに速度を増して、中心では最大となり、中心通過後、今度は反対に同じように速度を減じて、対蹠点でちょうどゼロになり、一瞬間停止します。
「それから?」
「それから先は、今とまったく同一のことをくり返すのです。
 先生はたいへんにほめてくださった。余はそれ以来、理科というものに非常な興味をおぼえ、先生から問題をもらうと一生懸命に考え、また、実験してその答解を得ようと努めた。
 渡辺先生のような教え方は教学の趣旨によくかなったものというべきであろう。
 帝国学士院は奨学の目的のために毎年、恩賜賞おんししょう、帝国学士院賞など種々の賞を出している。またメンデンホール賞というのがあるが、それは物理学および天文学上顕著な業績に対して授けられるのであって、五年に一回しか出ないうえに、金牌きんぱい付きだというので、殊に特色のあるものとされている。そうして最近にこの名誉あるメンデンホール賞を授けられたのは、わが渡辺先生の長男、同姓襄氏その人であった。
 他家の子どもを魅了した先生の教え方が、自家の子どもを魅せずにおくはずはないではないか。

   四一 野宿


 伊達先生を隊長とする一群の新進気鋭な理学士が、磁力実測のために邦土を馳駆ちくした勢いはなかなかすさまじいものであった。勇将の下には弱卒なく、隊長は隊長自身に珍談奇聞の種をまいて毎年のニュートン祭をにぎわせると、部下もまたこれに負けずに幻灯の種の製作に高名を競ったのである。その秀逸の中に今なおまざまざと記憶に残っているのは、稲荷の杜にテントをはった連中を、村の若い衆がきつねつきに見立てて高天原たかまがはらを合唱しながら押し寄せてきた話。須藤理学士がテントに近寄る巡査をしかりとばして彼の帯剣を遠くへ退しりぞけた話。乗馬に得意な隊長が、裸馬に乗ってみせると言って駆け出すや否や、真っさかに転落したので、悔しがっていた部下は一時に留飲を下げる。本間君が東北旅行で馬を忌避すると、先生がいたわって牛を周旋してくれる。馬嫌いさん、ますます閉口する。あのおそろしい角でギュウとやられたら、それっきりじゃありませんかと言う。いわく何、いわく何。記憶は後から後から牛のよだれのようにわいてくる。もし、この珍談奇聞を収集しておいたら、やがて一巻の書冊ともなり、後進を裨益ひえきすることも少くないであろう。う、かいより始めよで、まず自己の見聞したままを並べてみる。

 日清戦役の年といえばずいぶん古い昔のこと。北海道には汽車はわずかに室蘭・札幌・小樽の間に通じ、汽船は函館・小樽間、あるいは函館・根室間を通うにすぎなかった。もっとも戦役中のことだから、汽船の数も少なかったはずである。

 二人の理学士、中牟田は、磁力実測に数回の経験を積み、小男だけに全身に知恵がまわる。鹿島は大学を出たばかり、否、まだ卒業しないうち実測に駆り出され、途中、田舎の活版屋ではじめて理学士という肩書のついた大きな名刺を作り、中牟田にひやかされたくらい。大男のこととて、ご多分にもれずに知恵はまわりかねる方である。そしてこの大小長短、不ぞろいな二人が一つの班を作って、蝦夷ヶ島えぞがしま南半の実測をうけたまわったのである。
 当時の北海道は今とちがって道路は開けず、二人は山路あるいは原野を騎行すること三〇〇里におよんだ。あるときはクマにおそわれて命からがら逃げのび、冷たい雨しずくを浴びて木の下かげに一夜の空腹をしのいだこともあった。あるときは馬上の人頭を没すること三尺以上にもおよぶやぶをもぐり、泥深いやちに馬を泳がせ、一日の行程二里にもおよばなかったことすらある。また、人跡まれな山奥に分け入っては、二週間も里に出られなかったこともたびたびであった。ついこの間、北海道開拓当時のことを金子子爵が放送されたが、二人の旅行当時とそう違わないと思われた。

 騎行三〇〇里といえば、一廉ひとかどの乗り手のように聞こえようが、じつは二人とも初心者であって、落馬した回数、班長は二回、新兵は七回、しかもその落馬ぶりがなかなかふるっている。

 胆振いぶりから後志しりべしへ山越えして瀬棚せたないへ行く途中のこと。雨にって新兵が馬上に洋傘をひろげたまでは良かったが、森の中で、つい傘の端が木の枝にからみついた。馬は制止を聞かばこそ、遠慮なく前進する。馬上の人はついにくらを離れ、傘にぶらさがったまま悠然として着陸した。班長いう「なるほど、落下傘というものはこうして思いついたのだなあ」と。
 十勝の平原、歴舟ぺるぶねと帯広との中間に俗称チホマ山という森がある。害される山という意味だと聞いたが、それはクマが多くんでいるのでこの名があるのだそうだ。ここを通るとき、新兵の前方を電光石火、一頭の――クマではない――兎が横切った。かねてクマに脅かされていることだから、馬はそれと即断したのであろう。いきなり後足で棒立ちとなった。彼が転落したことは断わるまでもあるまいが、第一に着陸した部分は、前の場合とはちがい、彼の足ではなく頭であった。よく見たら地上には半球のくぼみができ、二尺ほど離れて木の根株があった。彼の頭髪がはげ出したのはそれからだといわれている。少くも彼はそう信じている。そしてそれをチホマ山での被害記念だといっている。
 比較的に得意であった班長も、ついに落馬の憂き目を見た。最初はくつを馬に踏み破られただけですんだが、二度目には、十勝の大津から釧路の白糠しらぬかへ行く途中、堤の上で落馬し、その斜面をはずんだまりのようにコロコロと転がり、ついに五間あまりを土堤下にまで落ちてしまった。

 大男の大食はべつに不思議はないが、この旅行中に小男までが大食家になった。十勝川の川口、大津の宿で、ちょうどそのころ牛がクマに襲われたとあって、「牛肉はいかがです? いくらでもあります」とのこと。函館出発以来、肉食に飢えていたので、否応いやおうのあろうはずはなく、食うわ食うわ、朝昼晩、毎日毎日牛鍋をやる。番頭はついに悲鳴をあげた。「牛はたった一匹でしたから。」と言いわけをするのであった。

 蓋派けなしつぱというところに、アイウクというかわいいアイヌの少年がいた。留守の間に両人ともその家に泊まり込み、家捜しをするとますの生干しがあった。これは結構と、とうとう二人で二尺大の鱒を一晩一朝に四本たいらげた。翌朝、アイウクが帰ってきて何か探す素振そぶりにたずねてみると、とっておきの鱒のこと。仕方なしに白状におよぶと、少年はただあきれてしばらくは口もきけず、ようやくにして声をしぼって、「ダンナ方、なんて大食ダ」とばかり。
 二人は、三か月のテント生活を終えて函館に帰着するや否や、第一に飛び込んだところは洋食店であった。七品たいらげた後、番外にライスカレーを食べ、「おかわりを」と注文すると、給仕君さえぎって、「決して悪いことは申し上げません、もうおやめなさい」と。

 磁力の実測をするには最初に場所を選定せねばならぬ。鉄気のない、障害の少ない、平らな広場をよしとする。それは地方官憲に依頼して選定するのが慣例になっていた。班長は応対がうまいので、はじめのうちは新兵はもっぱらそれを見学していた。江差郡役所にかけあいに行ったときのこと、班長の胴締どうじめの兵児帯へこおびが一間も垂れ下がっているのに彼は心づかず、平然として庁内を引きずりまわして役員たちをおどろかしたことがある。新兵の度胸がすわってきたのは、それ以来のことだというが、指導者の心得置くべきことである。

 贓物ぞうぶつ一件というのがあった。二人は暫時ざんじわかれわかれになって、やがて日高国沙流さるでまた一緒になった。鹿島が見慣れぬ時計を持っているので、中牟田がこれをなじると、彼は隣室をゆびさし、待て待てと合図をする。翌朝、隣室の客人があいさつに来て昨日の礼を述べ、門別もんべつ通行の際はぜひ立ち寄ってくれという。客人の出発を認めた中牟田はふたたび時計の説明をうながすと、
「あれは昨日、苫小牧とまこまいから道づれになった人だ。鵡川むかわで泊まるのだという。別れようとすると、言いにくそうに金を貸してくれという。自宅は門別もんべつだが、旅費に窮したから仕方なくここに泊まることにしたけれども、もし貸してもらえたら非常に好都合だという。自分は半信半疑、気の毒にもなり、気味悪くもあったから、用立てるには用立てたが、ただ今、小銭しか持ち合わせがないと称して、われわれの虎の子にしている小銀貨をほとんど全部貸してやった。
「それはうまくやったな。
「ところが、いらないというのに、この時計をわたして行ったのだ。
「あ、抵当というわけか。どれ見せたまえ。うん、これは、君、安時計だよ。針など型にはめてポンと打ち出したままのものだよ。十円がものはないね。
贓物ぞうぶつかもしれないな。
「うん、そうだ、そうだ。
と言って室を出ると、ビックリ敗亡はいもう、とっくに出発したはずの客人は、二人の室に近く身を横たえ、全会話を謹聴してござったのだ。
 爾後両日間、鹿島は煩悶はんもんしていたが、そこは中牟田にきたえられた度胸、勇をして門別に客人をたずね、取り引きをすませた後、悠々として昼飯の接待にまであずかったという。

 行程も半ばをすぎ、二人は八月二十三日、口蝦夷から奥蝦夷の方へと進んでいた。襟裳岬えりもみさきの北東三里に庶野しょやというところがある。そこから北へ猿留さるるまでは四里半、茂寄もよろ(広尾)まではさらに六里あるが、猿留・茂寄間には両蝦夷を東西に分かつ険阻けんそな森林があるので、クマの出没もっとも多く、旅行者にとっては有名な難所であった。同行者を待ち合わせて合計六人・馬八頭で午前十時に庶野を出発し、午後一時半には猿留に着いた。しかるにここでは駅馬がとぼしかったので、両人は荷物だけを馬三頭に積み、久方ひさかたぶりに徒歩になった。このとき携帯品は、観測にもっとも大切な懐中時辰儀じしんぎと小器械を入れた短冊箱たんざくばことであった。両蝦夷の境をなすピタタヌンケからは山路にかかり、馬子ともしだいに遠ざかり、そうして広尾川に差しかかる半里手前のところで日が暮れた。ここに一軒の宿屋があったけれども、宿女が魔性のものに見えたから、二人は宿泊をいさぎよしとせず、なお前進を続けた。(馬子はここに泊まったそうで、翌日、茂寄もよろに到着した。

 二人はまもなく深林に迷い込んだ。午後八時ごろであったろうか。森の中なので、あたり真っ暗。皆目かいもくわからぬ。鹿島は樹枝を折って杖とし、草のきれ目きれ目をさぐりさぐり嚮導きょうどうした。たちまち前方十メートルぐらいのところからプウンという太いにぶい鼻息が聞こえ、続いて二、三回。馬にはれ、飼いグマもたびたび見ている両人は、それがクマたることを直覚し、期せずして、しまったといいながら、まわれ右をやり、軽く口笛を鳴らしながら後退した。この間、怪物は樹枝を踏み折り踏み折り数歩のところまで近寄ちかよってきた。中牟田は白服でやや離れており、鹿島はネズミ色の学生服でいくぶん目立たないが、おくれていたから、もし襲われるものなら学生服が先であろう。およそ十数秒間、七、八間も後退しながら、なお口笛をならし続けて、今にもつかまれるかと夢心地をたどっていたが、いっこうその気配がない。振り返ってみると怪物はもはやそのあたりにはいない。人間様だとわかって逃げて行ったのである。
 ようやく虎口ではないクマの口をまぬがれた。が、依然として道はわからぬ。さぐりさぐって、いくらか広いところに出たと思った瞬間、学生服はそこから崖下に墜落し、折り重なって白服も落ちた。もう後戻りもできないのでさらに進むと、森が切れて空が見え出し、やがて広い道に出会い電柱が現われてきた。二人はようやく救われたなという気持ちで、本道を北へたどると川に出た。疑いもなく広尾川である。ただし橋が落ちているので、ノッポ殿が丸裸になって瀬踏せぶみをすると水が威勢よく胸を越すではないか。これではチビさんはわたれまいとあって野宿にきめる。やがて雨が降り出したので、落ちた橋の下を引き上げて岸に戻り、樹下にしゃがんだが雨はますます降りしきる。二人は樹枝を折り、頭上の枝に積み重ね積み重ねしてみたが、そのかいもなく、夜どおしびしょれに濡れた。翌朝、寒暖計を見てると五度になっていたから、寒さもひどかったにちがいない。暖を取るつもりで背中を合わせてみてもよく合わないので、チビさんがこれをこぼすと、背中の上半はガラあきのノッポ殿がこれをたしなめるという始末。
 二人は歩いているときから腹がだんだん減ってきたが、ここにいたってますます空腹を訴えてきた。この日は庶野で朝飯を食べ、昼の用意にむすびを二つずつもらって出発したが、中牟田は馬上で二つともたいらげ、鹿島は一つだけ残しておいたので、これがおおいに役に立った。そこで残っているのを折半せっぱんして一方を残し、他を二人で等分に食べた。この半分を残す方法を終夜とったので、両人は一つのむすびを等比級数的に分割して食べたことになり、また、その日に食べたむすびの量を積算してみると、小男が二つ半、大男が一つ半であったという不釣合ふつりあいなことになる。中牟田が旅行でもらった弁当を半分だけ残すよう発心したのはこの時だといわれている。
 夜半になり、クマらしいものがガサガサ川をわたってくる気配がするので、そのたびごとに二人は口笛をならしてこれをしりぞけた。翌朝そのあたりを検査してみると、それはクマではなく流木であった。

 午前三時半には向こうの岸が見えはじめた。そこでノッポはふたたび丸裸になり、瀬踏みしてみると昨晩のとおりの水嵩みずかさながら難なく岸に着かれた。それで二度目には時辰儀と短冊箱を渡し、三度目には長短手をつないでわたった。つぎに衣類を洗いかつしぼってこれを着用し、前夜の宿所に対して凱歌をあげて別れを告げ、五時半に茂寄に到着した。まずかゆを作ってもらって就寝したはよかったが、目をさましたのは翌日の昼ごろであった。

 その後、二人は十勝平野でアイヌの野宿ぶりを見た。樹の枝を三本切って三脚を作り、上に葉のついた細長い枝を重ねらしてその下にしゃがむのだ。わが新進理学士は、屋根や傘に勾配こうばいをつける理由をここではじめて大悟だいごし、科学する心をしみじみ味わったというが、ずいぶんおめでたい話だといわねばならぬ。
 爾来じらい四十七星霜。
 今日、科学の権化のようにあおがれている中牟田老先生にも、お若い時分にはかようなこともあったのである。

   四二 国史は科学的に


 われわれは今、長夜の悪夢から目覚めた。万事、再発足を要する。まず魂を入れかえなくてはなるまいが、その根底をなすものは、教育の刷新であり、教科書の改訂である。
 国史は書き改められよう。科学の水準は高められよう。それにつけてもさらに注文したいことは、国史の書物から非科学的な考え方、記載方を一掃することである。国史をして誤った思想の温床たらしめざることである。
 われわれが少年時代から怪訝けげんにたえなかったのは、神武以降、人皇十六代の平均一世代が六十余年という人間離れしたものになっていることであった。このような不合理は、むしろ自発的に改むべきものではあるまいか。
 いずれはその道の権威者によって真の国史がまれるであろう。それはとにかく、余はここに最近数年間に接触した瑣末さまつな史料につき、二、三の疑問を指摘して識者の批判をあおぎたいと思う。
 北畠親房ちかふさは、東北経営のため、延元三年(一三三八)九月、舟師しゅうし調ととのえて伊勢の大湊おおみなとを出帆したが、その十日ごろ上総の地近くで暴風にあい、他の船はおおむね遠州灘で遭難して、義良のりよし親王(後の後村上天皇)は元の大湊に、宗良むねよし親王は遠州白羽湊に、守良親王は遠く四国に漂着し、親房らだけが常陸に到着している。南朝の御運のつたなかったことはまことにいたましいしだいであった。
 しかるにある史家は、この風を目してあるいは「不思議な風」とし、あるいは「神風」と称している。台風の性質を無視した妄断と称すべきである。
 時は陽暦十月末、台風の襲来もようやくまれに、それも多くは太平洋沖を通過する季節である。当時、本隊は台風進路の左側にあって西ないし南西に吹き戻されたろうが、先進隊は同様に最初の一両日間は伊豆の崎まで吹き戻されたものの、位置が気圧進路の中心から遠くなかったためか、進路の右側へ転じたらしい。これは人為的にも可能なわけであるが、むしろ低気圧の進路が多少その方向を変え、伊豆の南端をかすめて房総を横切ったとする方が事実に近かろう。いずれにせよ、爾後は南寄りの強風で、スラスラと常陸あたりまで流されることになるわけである。
 上記の史料に付帯していま一つ科学的に考察すべき事件がある。宗良むねよし親王の漂着された遠州白羽湊の場所争いがそれである。
 遠州には白羽が三か所にある。天竜河口の左右岸に一つずつ、それに御前崎おまえざきの西一里にある榛原郡はいばらぐんのが一つ。史家の中には、浜松在、天竜右岸の白羽をもって親王の漂着地に擬しているものがあるが、その論拠は当時、南朝の勢力下にあった白羽はここだけであったことにあるらしい。なるほど平常の天候であったらそう見てよかろう。ただし事実は、親王が『李花集りかしゅう』に自記されたとおり、数日の難船後にかろうじて漂着された後、濡れたまま船中に忍ばせ給うたなどかえって敵地らしく察せられるものがある。当時、榛原白羽は北朝方の勢力下にあった。
 他方、榛原白羽をもって親王の漂着地に擬するものは、暴風雨に際して同所には難船・難破物の漂着が多く、これは天竜からの水と潮流との関係から白羽の海によどみができるためだと言っている。いくぶんの科学的考察が認められるが、「他の場合はそうでも、この場合までがそうであったとは限るまい」と反駁はんばくされて沈黙してしまったのは画龍点睛を欠くの感があった。
 あんずるに、このときの台風もまた例のごとく、進路の左側に多量の雨を降らしたに相違ない。天竜川は濁流滔々とうとう、これを遡航そこうするなどは漂流船にとっては思いもよらぬこと。この濁流が洋上に打ち出し左右にわかれて大まわりにうずを巻き、その一つが白羽沖によどみを作るなどは、ことさらあり得べきことに属する。
 あるいは榛原白羽をみなとと称えることがふさわしからぬとの説もあるが、時は六〇〇余年前のこと、そののち土地は数回の大地震にともなって五メートルは隆起したらしいから、当時、中西川に沿うて恰好かっこうの湾入のあったことが容易に想像せられる。
 『土佐日記』の著者きの貫之つらゆきが十日間も仮泊した室津むろつについても同様の場所争いがある。室津の人はこれを現在の室津とし、郷土史家はこれを津呂つろの地とし、ここに紀念碑を建てたくらいである。
 按ずるに、この地方は、大地震にともなって隆起する特徴があり、貫之時代の海水位は現在よりも六メートルほど高かったはず。されば室津から津呂をへて室戸岬に至る六キロメートルの間はほぼ一直線をなす山すその荒磯あらいそで、貫之のいわゆる「この泊、遠く見れども、近く見れども、いとおもしろし」との景色は想像すべくもないが、他方、室津川むろつがわの川下には広袤こうぼう一キロメートルほどの良い潟港が現われ、もしその東南奥に往時の室津があったとしたら、日記にある遠近おちこちの好風景をはじめとして、平等津との間隔、舟の出入りに干潮時をさけたこと、あるいは室津・浮津うきつ耳崎みみざきの名称などがいちいちふさわしくなるのみならず、その他の地理的疑問までがみな容易に解決せられるのである。
 以上は、史料の科学的考察を主眼として草したものであって、自説の主張のごときは二次的なものたるにすぎないことを断わっておく。

   四三 地震および火山噴火に関する
                思想の変遷

 はしがき

 地震と火山活動との間には、自然現象として密接な関係があるから、両者に対する古代民族の思想にも共通なものがあってよいはずである。たとえば欧州においては、地震をもって噴火の未発現象としたり、火山をもって地震の安全弁にたとえているがごときである、しかるにわが国においては、上古は知らず、地震あるいは噴火が歴史にはじめてあらわれてきた当時は、単に神業かみわざと考えられていたようであるが、藤氏時代以後においては、両者に関する思想上著しい相違を示している。これは、大陸文化の輸入によってかくなったのに相違なく、シナは古来しばしば大地震に見舞われるところから、まがりなりにも一つの地震観を有していたため、わが国がその影響をこうむらないはずはないのである。これに反して、かの国には噴火現象というものが見られないため、火山噴火に関する思想については、大陸文化の影響をこうむることなく、わが国独自の発展をとげたのである。したがって思想上の変遷をたどって見ると、地震の方は迂余曲折があり、かなり複雑であるが、火山噴火の方はむしろ単純で、純日本式の性格をそなえていると称すべきである。

 地震に関する思想の変遷(その一)

 われわれの遠祖の地震に対する観察には科学的な素質があったのであるから、もしこの傾向を阻止するなんらの障害がなかったら、自然現象としての地震の講究はわりあいに早く始まったかもしれない。この点に関してはシナも同様である。すなわち後漢の張衡ちょうこうが地動儀を発明して地震観測をはじめたのは、今から一八〇〇余年も前のことであるが、しいかな、京師けいし〔みやこ。首都。が地震に縁遠い位置に移されたのみならず、陰陽五行説なるものが跋扈ばっこして、その順調な発展を中断せしめたのである。今、これをわが国の状態にくらべてみると、当時地震計の発明こそなけれ、地震は京師その他にあいついでおこり、いまだかつて国民の地震に対する関心を弛緩しかんせしめるようなことはなかった。ただし、なにぶんにも地震を神業とする思想が先入していたのみならず、外来の思想はこれに拍車をかけて永くこの思想を捨てることができず、ついに徳川幕府の初期にまでこれを持ち越したのである。
 地震を神業とする思想は種々の行事となって現われた。卜占ぼくせん、祈祷、修法はもっとも普通におこなわれたが、まれには改元の事までおこなわれ、またある時代においては、もったいなくもご自責のみことのりを下し賜わったことさえある。
 かような行事のはじまった由縁の中には、外来文化の影響のあったことを見逃してはならぬ。これについて、自国の文化をわが国に伝えるに先鞭せんべんをつけたものは百済くだらであるが、仏法・暦算あるいは占術などが日本化したのは、むしろ隋唐との交通以後にあったのであろう。推古天皇七年(五九九)の大地震には、単に地震の神を祭らしめられただけであったように伝わっている。そして地震についてご自責の詔を下し賜わるようになったのは、聖武天皇に始まったと見るべきであろう。
 種々の地震行事に対する外来文化の影響には、濃淡の差があるべきであるが、祈祷・修法のごときは、そのもっとも薄い部類に属するであろう。この行事は大昔から近世にまで続き、最も永い生命を保ったもので、古代には単に地震の神をまつる程度であったが、仏法伝来後には、仏式にしたがって祈祷修法をおこなわせられると同時に、大祓おおはらえを修し、著明な神社に奉幣せしめられることがあわせおこなわれたようである。
 前にご自責の詔というものをあげたが、この言葉は、賑恤しんじゅつの詔とする方が適当なようにも見える。ただし、そうではない。ご自責ということが詔の主眼であって、後世になって単に大赦たいしゃ・賑恤だけの詔勅しょうちょくというものも下っているからである。
 かく、ご自責の詔を下賜された地震の例は、そう多くはなく、正史に現われたものには、つぎの数例を数えるにすぎない。

一、聖武天皇天平六年(七三四)畿内七道地震
二、嵯峨天皇弘仁九年(八一八)関東地震
三、淳和天皇天長四年(八二七)京都地震
四、同上天長七年(八三〇)秋田地震
五、仁明にんみょう天皇承和八年(八四一)伊豆地震
六、同上嘉祥かしょう三年(八五〇)出羽地震
七、清和天皇貞観十一年(八六九)陸奥地震津波

 みことのりの内容は、その結構がほぼ一定である。すなわち冒頭に聖天子の政道を叙し、政事の不行き届きによって天譴てんけんの下る次第を説き、這般しゃはんの震災は上一人の責任であって、下兆庶ちょうしょ〔民衆。には何らの罪科がないはずなのに、その天譴を負うにいたったのはじつに気の毒である。よろしく使いを遣わし、国吏こくりと議して免税・賑恤などのことをおこなえというのであって、もし震災地が辺境であった場合には、和人であると夷俘いふであるとにかかわらず、一視同仁たるべきむねをさとされている。
 詔はいうまでもなく漢文をもってつづられ、しばしば尭舜ぎょうしゅん禹湯うとうの故事が引用されている。たとえば貞観の陸奥地震津波の場合に、「地周に震う日、姫文これにおいてかみずからを責め、早殷に流るる年、とう帝これをもって己を罪す。」とあり、外来文化の影響の歴然たるものがある。
 かようなご自責の詔の発布が、貞観年代をもって終わりを告げたらしいのは意味のあることであろう。すなわち、右の期限以前は天皇親政の時代であったが、爾来じらい藤原氏専横の時代となり、ついで武家政治の時代にくだったのである。詔の内容にかんがみるとき、政権をもっぱらにしたものは、その藤氏たると武家たるとを問わず、当に恐懼きょうくして大政を奉還せざるを得ないはずであるが、ただし、これをあえてしなかったのである。そして藤原氏時代には、改元の行事がはじまるとともに、地震占がさかんにおこなわれるようになり、徳川幕府初期には、地震を単に自然現象と見るような傾向を生じたのであるが、これまたこの辺りの内情を物語っているようである。

 火山噴火に関する思想の変遷

 本邦地震活動に関し、余のいわゆるその旺盛おうせい第一期(天武天皇十二年〜仁和三年、すなわち六八四〜八八七)において、すなわち震災に関するご自責の詔の発せられるとほぼ同じ時代においてこれと平行しておこなわれた行事に、火山の神に関する陳謝ということがある。当時の思想によれば、すべて火山にはこれをうしはくうしはく。自分のものとして領有する。神があり、その活動はこの神のたたりによるとするのであって、神の不満をまねいた原因が人にあるというのである。この行事の由来するところは、地震の場合に異なり、純日本式であったと称すべきである。
 火山の神の本体は何であるかを具体化したものには、火山によって多少の相違はあるが、竜あるいは大蛇であるとしたなら、大きな誤りにはなるまい。阿蘇の噴火口の主を健磐龍命たけいわたつのみことと名づけたるがごとき、例とすべきである。あるいは霧島や鳥海のごとく、大蛇とみなされている所もある。九州の豪族緒方氏の祖先を高知尾の明神とし、その神体を大蛇としているがごときである『平家物語』。竜をもって大蛇の化身とする思想から見るとき、こういう火山神の性格はおおむね一定していると称してよかろう。
 かように考えるに至った原因は、いずれにあるか明瞭ではないが、その実体を見極めようと試みて、噴火現象の真相にふれた僧性空しょうくうのごとき人がいる。彼は天慶八年(九四五)霧島山に登り、「この神の本地をおがみたてまつらんとちかいて、七日参籠して法華経を読誦どくしょうしけるに、五日の子の刻のころ、大地振動して岩くずれ、猛火燃えてことに煙うずまき、しばらくして周囲三丈、その長さ十余丈ばかりなる大蛇、角は枯木のごとく生い、眼は日月のごとく輝き、大いに怒れる様にて出来たりたまう。」とあり(長門本『平家物語』、菜花状噴煙に奔電ほんでんのひらめいた状態が想見される。鳥海の貞観噴火には、「有両大蛇、長十許丈、相流出入於海口、小蛇従者不知其数」とあり、また阿蘇の噴火口を、北から順次に一の池、二の池、三の池と名づけ、それぞれ健磐龍命、阿蘇都媛命あそつひめのみこと速瓶玉命はやみかたまのみことの居所とし、ここから竜あるいは大蛇の出現したしだいを報じているが、いずれも火山の神の本体をいくぶんなりとも具体化した例であろう。
 元来、竜はシナ伝来の仮想的動物で、水陸空の三界に自在に遊泳し、闊歩かっぽし、飛翔しうる霊物とみなされ、その形態が時代によって著しく変化したにかかわらず、本邦における竜の形態は、隋唐時代のものに近いながらも、ある点において著しき変形をとげ、まったく日本式の性格をそなえていると称すべきである。特にそのシナ式の羽翼が本邦式の火炎にかわり、獣毛が疏生の長髪にかわるがごとき点を強調したい。かような変化をとげるに至った根拠はいずれにあるか明記したものに接しないけれども、火山噴火や降毛の現象にその示唆しさを得たのであるまいか。菜花状噴煙は竜身を思わしめ、火口からあふれる濁流が急斜面を奔馳ほんちするときに現われる紋様を蛇身に擬するのはありうべきことで、特に菜花状噴煙の周囲に線香花火のごとく現われる閃電せんでんは、かの火炎を示唆し、火口付近に見い出され、もしくは遠方の地へ火山灰とともに降る火山毛、しかもその長さ二、三尺にいたるもの、あるいは白馬の尾毛のごときもののあるに至っては、かの長髪に発展しそうに思われるのである。しかもこれらの諸現象がシナにはなく、かえって本邦において経験せられることを考慮するとき、ここに竜の日本式性格の生ずる所以ゆえん髣髴ほうふつされるようである。
 往古、本邦においては、天降あまくだる火山毛を竜の毛と称したこともある。これまた上記の推定を根拠づけるものではあるまいか。また竜毛の降るのは飢饉ききんの前兆であるとも唱えた。火山灰の微塵が高く成層圏もしくはそれに近く噴き上げられて、それがそこに長く停滞するとき、太陽の輻射ふくしゃ線が吸収・遮蔽しゃへいされて凶作の原因となる事実を考慮するとき、これらの伝説はいくぶんの真理を語っていると解すべきである。すなわちここにもまた、わが祖先の自然界に対する観察の優秀性を認むべきであろう。
 火山の神への陳謝のためには、祭祀、封戸ふこの寄進、官社に列するというほかに、叙位叙勲の行事があった。特にそのもっとも多くおこなわれたのは叙位である。多くは第一回の活動に際して従五位下を授けられ、爾後活動をくり返すごとに位一級を進められるのである。したがってこの時代にもっとも数多く噴火をくり返した阿蘇・鳥海・日光白根しらねの三火山の神のごとき終いに正二位にまで崇められている。おそらくこれが最高という内規でもあったのであろう。その後の阿蘇の活動に対して、二の池の主とされている阿蘇都媛神の方に位が進められている。
 かようなしだいであるから、この時代における本邦火山の活動は、叙位の記事によってその一斑をうかがうことができる。ただし、叙位すなわち活動とみなすのは早計である。火山活動とはまったく縁のない事由によって、叙位された例もあるからである。たとえば、出羽における元慶二年(八七八)の乱のごときは、当時においては国家の一大事件であったのであるが、反乱平定の後、火山に縁のない出羽柵でわのさく内の城輪きのわ、秋田城内の高清水たかしみずの二神までも元慶四年に昇位されており、鳥海山の神は、元慶二年八月、正三位勲五等から一躍いちやくして正二位勲三等にしょうせられ、それに「毎軍、国司祈祷、故有此加増也。」と注している。元慶四年五月、赤城山の神の叙位もまた同断と見るべきであろう。
 この機会において、いま一つ注意すべきことがある。それは本邦の活火山の中には、叙位に関係のないものが数多く残されているということである。おそらくこれらの諸火山は、当時休眠の状態にあったのであろう。

 地震に関する思想の変遷(その二)

 地震に関する思想は、藤原氏執政前については、すでに前に述べたとおりである。これを火山噴火に関する場合に比較すると、後者が純日本式の性格をそなえているに対して、前者は著しくシナ文化の影響をこうむったことが認められる。ただし、これは隋唐との修好以後のことに属するので、その前においては両者間に類似な点があってもよいはずである。かく考えるとき、推古天皇七年(五九九)の大地震の場合にまつらしめ給うた地震の神は、単に地震のことをうしはくうしはく。神で、八百万の神の一柱にすぎない程度のものであったかもしれない。
 それはとにかく、地震に関する思想は、藤原氏専政以後においてはむしろ堕落であった。その主要な原因は、陰陽五行の邪説が跋扈ばっこしたことにあるのはいうまでもないが、いま一つ、臣下の政権世襲の余弊であったようにも見える。この点につき、歴史家の所見を質してみたことはないが、時代の推移にともなう思想の変遷が、か物語るように見えるのである。けだし、震災に対する天皇ご自責の詔の発布された最後の例が、貞観十一年(八六九)の陸奥地震津波であり、火山噴火に対する陳謝・叙位のおこなわれた最後の例が、元慶六年(八八二)開聞岳かいもんだけ活動にあるとすることが誤りでなかったなら、これらの二種の行事は、天皇親政時代のものであったといえるわけで、つぎの藤原氏の専政時代において、これらにかわって台頭してきた地震行事が、地震占と改元とであったということになるからである。修法や大祓おおはらえがこれにともなったこと断わるまでもあるまい。
 地震占には二種あるが、その気象に関するものはまったく近世の産物であって、古代のものは、兵乱・疫癘えきれい飢饉ききん・国家の重要人物の運命などのごとき政治的対象を目的としたものである。
 かつて地震をもって天譴てんけんとした思想は、ここにおいて少しく改められ、これをもって何らかの前兆を指示する怪異と考えるに至ったのである。これには政治的方便もあったろうが、時代が地震活動の不活発期に入ったことも無視してはなるまい。
 上記の地震占をつかさどる朝廷の役所は陰陽寮おんみょうりょうで、つかさは賀茂・安倍二家の世襲であったらしい。その占法のごときは、これを詮議するにもおよぶまいが、地震の旧記を読む場合の参考として、試みに「天文奏てんもんそう」と称する地震占の一、二の例を掲げてみる。

 寛弘三年(一〇〇六)二月二日の京都地震について次のとおり。

謹奏。今月二日、乙亥時辰、地震(月行奎宿けいしゅく。謹検。天文録云、地動震者民擾也。東房妖占曰、地以春動歳不昌。天地瑞祥ずいしょう志云、内経ないきょう曰、二月地動、三十日有兵起。又曰またいわく月行奎宿地動、刀兵大起、損害国土、客強主弱。又曰月初旬動害於商人。内論曰、月行奎宿、地動者竜所動、無雨江河枯渇こかつ、年不宜麦、天子凶、大臣受殃也。雑災異占云、地動女官有喪、天下民多飢糶貴。東方朔占云、地以二月動者、其国不昌、敬長者有大喪

 また寛元三年(一二四五)七月二六日の京都強震については次のとおりになっている。

謹奏。今月二十六日戊午、夜丑時大地震(月在柳宿りゅうしゅく、土曜直日)
謹検。天文録云、春秋日地動揺、臣下謀上。京房妖占曰、地以秋動有音兵起。又曰またいわく、地動朝廷有乱臣。天地瑞祥ずいしょう志云、漢帝後元こうげん元年(紀元前八八)七月地震、明年四月帝悪。内経ないきょう云、七日地動百日有兵、王氏雑交異占云、孟月もうげつ地動有水風。公羊伝くようでん』曰、臣専政地震。天地災起云、地震、不出一年国有大喪。又曰、近臣去宮室有驚。又曰、女官有喪。天鏡経云、地動天子慎之。宿曜経すくようきょう』曰、土曜直日地動、世界不安、威重人死。
 右件地震占、謹以申聞、謹奏。
  寛元三年(一二四五)七月二十八日
   従四位上行天文博士安倍朝臣家氏
   正四位上行大膳権大夫安倍朝臣維範

 かような例によって地震占の輪郭が髣髴ほうふつされるであろう。もとよりシナ伝来のものであるが、月のいる星宿せいしゅくにより、地動を火神動、水神動(あるいは竜神動)金翅鳥こんじちょう動、帝釈動(あるいは天王動)の四種に分けたのは仏説に由来したのだといわれている。
 こういう次第であったから、占勘が事実にあわなかったり、賀安両家の占文の食いちがったりは、あり得べきことであった。安倍あべの泰親やすちかが、治承三年(一一七九)十一月七日の京都強震に、大胆な放言をして殿上人てんじょうびとを縮みあがらせたまでは無難であったが、期日を過ぎてもその験がないというので、流罪たるべしとの決定を与えられたのは、ことに顕著な例である。
 くだって室町時代になっては、つぎのような例もある。寛正五年(一四六四)四月七日、将軍足利義政よしまさが能楽を催している最中に強震があった。「公方様より博士を召しておたずねあり。博士いわく、時節のまわりなり、さらに猿楽の故ならず」とある。はたして史実であるか否かは保証のかぎりではないが、義政としてはありそうなことである。地震に関する従来の思想の動揺ということも想像し得られるようである。
 しかしかくいうものの、地震を天譴てんけんとする思想は、全然絶滅したとも見られない。大正大震災直後にさえこの説を持ち出した人もある。徳川幕府の初期に、会津城主蒲生がもう秀行ひでゆきの失政にからみ、慶長十六年(一六一一)八月二十一日大地震を契機としてこの説が台頭し、ついに秀行失脚の一因となったことがある。もし、この処置がはたして正当であったなら、転じて徳川幕府自身が同様の判決をこうむらなければならぬことになった。なぜならばその頃まで、地震活動の不活発であった関東地方がまもなく地震活動期に入り、寛永・慶安・元禄年間に大地震をくり返したからである。こうなっては、徳川幕府たるものも晏如あんじょたり得ないはずであるが、そこは御用学者の忠勤をぬきんづべきところというよりも、むしろ永く妖雲に曇らされていた民族の叡智がふたたびその光明を回復したと称すべきであろう。やがて地震を自然現象とする見解が台頭してきたのである。この経過に関してはかつて故石本博士石本いしもと巳四雄みしおか。が本誌に詳説したことがあるから、ここには再説しないことにする。ちなみに記しておく。天気に関する地震占は徳川幕府時代の所産である。
 つぎに改元に関する事項を述べることにする。
 地震によって年号を改めるという行事は、ご自責の詔の発布にかわったものと見られないこともない。年代がそういうふうに続いており、一つは天皇親政時のもので、他は藤氏の専政時代に始まったものであり、その目的が政道の一新という点において相通ずるところがあるからである。
 地震による改元が最初におこなわれたのは、承平八年(九三八)四月十五日の京都大地震のばあいであって、世はまさに忠平ただひらの摂政時代である。このとき宮中では、内膳司ないぜんしに属した家屋が転倒して司人が四人も圧死し、その他、宮城の築垣ついがきや東西両京の舎屋が破損したのであった。これによって大祓おおはらえや修法をおこなわせられたこと例のごとくであるが、特に五月二十二日において、年号を天慶てんぎょうと改められたのである。
 かような事由による改元の二、三の例を拾ってみると天禄四年(九七三)九月二十七日の京都地震では年号が天延てんえんと改まり、その天延が同四年(九七六)六月十八日の山城・近江両国の大地震のために貞元じょうげんとなり、嘉保かほう三年(九九六)十一月二十四日の畿内大地震で永長えいちょうと改元されたのであるが、特に著明なのは文治ぶんじ元年(一一八五)七月九日の近畿大地震と慶長元年(一五九六)閏七月十三日の伏見大地震とであろう。元暦二年(一一八五)および文禄五年(一五九六)がそれぞれこれらの地震によってかく改められたのである。また天保元年(一八三〇)七月二日の京都大地震が文政十三年(一八三〇)にあたり、安政元年(一八五四)十一月四日および五日の東海道および南海道地震津波が嘉永七年(一八五四)にあたることも、時代が新しいためによく知られている。
 元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日の関東大地震も上記の著名な例に加うべきであるが、改元はおこなわれても、それは年を越してからのことであった。ただし本邦における最大の地震とされている宝永四年(一七〇七)十月四日の地震津波のばあいには、どうした理由であったかわからぬが、改元のことがおこなわれなかった。
 最後に、局部的な地鳴り地震に関する古人の考え方を述べておきたい。
 明治三十年(一八九七)以降、われわれは局部的に幾多の小地震群の発生を経験した。明治三十二年の摂津有馬ありまの鳴動、大正九年(一九二〇)以降の紀州名草なぐさの鳴動、昭和五年(一九三〇)の伊豆伊東いとうの鳴動のごときは、そのもっとも著しい例である。これらは一年あるいはそれ以上に継続したのであるが、数週間あるいは一、二月でやんだ例は他にいくらもある。いずれの場合においても震源は非常に浅く、数百メートルあるいは数キロメートルにすぎないうえに、勢力もはなはだ微弱であるために感震区域がきわめて狭く、一郡あるいは数郡に、単に鳴動すなわち地鳴りとして感じたのみである。ただし、それでも一種の地震たるには相違ないのである。
 火山の噴火に先だち、同様の現象が局地的におこることがあるが、ここにいう鳴動はそれとは区別しておきたい。
 かような地震群の旧記に現われる例はきわめて少ない。『増訂大日本地震史料』をさがすと、和銅元年(七〇八)三月から五月にかけて駿河国安倍郡慈悲尾村のおむら椎田で昼夜一〇〇余回も感じたというのが出てくるくらいのことである。そのかわり、霊廟の鳴動というのが数多く現われている。もっとも一地方あるいは単独な山岳の鳴動ならば随所に現われ、疑問とするにもおよばないが、ただしこれを単に一神社、一霊廟あるいは一墳墓のこととするものに至っては看過し難いのである。
 今、霊廟鳴動の旧記に現われた古い例をさがしてみると、仁和二年(八八六)五月二十六日に石清水八幡宮おのずから鳴るというのがあり、翌三年十月二十七日には、先皇(陽成天皇)の新陵昼夜鳴動して十余日をるというのがあり、つぎに寛平元年(八八九)五月二十八日、石清水八幡宮宮殿の鳴動がふたたび現われている。仁和三年(八八七)といえば、五畿七道の大地震があった年であり、これまでの例にしたがえばご自責の詔のくだりそうな大規模な破壊地震であったが、そのことがなくて、かえって新陵の鳴動を取りあげるところは、藤原基経もとつねの摂政関白としての全盛期のことであり、鳴動という自然現象を地震に関する旧思想をもってゆがめたらしく思われないこともない。もっとも霊廟鳴動は兵乱の前表ぜんぴょうであるというのが普通で、前記の石清水八幡宮の怪異によっても、奥羽および九州の警戒を厳にするよう令されている。
 霊廟鳴動の旧記に現われている例はすこぶる多く、霊廟別にしても三十か所をくだらない。その中でもっとも多く現われるのは石清水八幡宮で、つぎが将軍塚、またそのつぎが多武峰とうのみねの鎌足の墓であるが、後鳥羽天皇の水無瀬みなせの御影堂もまた少くない方である。将軍塚は二か所にある。すなわち京都華頂山かちょうざんの南方にある土偶の将軍塚と、山科にある田村将軍の塚であるが、旧記に現われる将軍塚鳴動には田村塚の場合が多い。ただし、まれには東山を指していることもある。
 霊廟の鳴動は、多くは所在の地方に特有な地鳴り地震を、かく狭くゆがめたものであること想像に難くない。現に石清水宮司が震源の位置をつきとめた例さえある。すなわち仁平三年(一一五四)十一月十九日、宮司の言上に「去十一月十八日申時、御山鳴動事。其声如微雷、其響似地震。御山東麓住人聞在西方、南麓住人聞在北方、西麓住人聞在東方、北麓住人聞在南方事也。
とあるが、賞賛すべき調査である。
 石清水八幡宮、将軍塚および談山廟の鳴動に関して、その頻度に盛衰の変化のあることを注意するのも興味あることである。談山廟の鳴動は藤原氏の全盛期に多く、将軍塚の方は徳川幕府になってから激増し、古代から近世にいたるまで終始変わらないのが岩清水八幡宮である。このことも記録上の鳴動を統計的に取り扱うとき注意すべき点である。

 この論文は昭和十九年(一九四四)東大地球物理教室地震学会刊行の『地震』に所載された論文である。

   四四 地震活動盛衰一五〇〇年


 本邦の大地震年代表は、上古の分には遺漏いろうが多いであろうが、慶長以後(一五九六〜)の分は比較的によく整備している。これがため、地理的ならびに年代的分布などの研究においては、従来主として慶長以後のものを採用し、その以前の分はほとんど顧みられなかった。ただし最近、余が到達した見解は、従来のままの年代表でも上記のような研究をなすにははなはだしい不足を感じないというのである。なるほど上古(四一六年ないし九〇〇年をかく仮称する)においては、小地震の記録にこそ欠陥は多かろうが、その大なるものにいたっては大体に信を置くべく、これによると大地震、特にその非局部性のものは相当の数に達し、この期間においては地震活動の旺盛おうせいであったことを示唆しさしている。降って中古(九〇一年ないし一五〇〇年をかく仮称する)においては、大地震の記録がきわめて少なく、あるいは記録の欠陥ではなかろうかとの疑いをおこさしめるほどであるが、しかしながらその半面において、小震・強震を記録した文書は相当に数多く、これらの文書が、小震・強震を採録しながら大地震を略するはずはなく、これはむしろ記録の欠陥ではなく、実際に大地震の少なかったことを意味するものと解釈すべきである。
 以上の解釈にしたがえば、本邦の地震活動には次のような三回の旺盛期があったことになる。

一 上古中、六八四年ないし八八七年の二〇四年間
二 近古中、一五八六年ないし一七〇七年間の一二二年間
三 一八四七年以後

 余が上記の見解に到達したのには、つぎのような根拠もある。

一 地震津波は近海々底における大規模地震の発生を意味するが、その活動旺盛期がまさしく上記の地震活動旺盛期と一致している。たとえば三陸太平洋沿岸における大津波中、規模が殊に雄大であったのは、貞観十一年(八六九)、慶長十六年(一六一一)のものであって、明治二十九年(一八九六)のものこれにつぎ、昭和八年(一九三三)のものまたこれにつぐのであるが、これらがいずれも上記、地震活動旺盛期のみにおこったことは、特記すべき事実といわねばならぬ。
二 関東地方における地震活動が、同じく上記のような傾向を示すことである。すなわち著名な地変をともなった大規模な地震としては、弘仁九年(八一八)・元禄十六年(一七〇三)および大正十二年(一九二三)の三個をあげることができるが、いずれも上記の活動旺盛期におこったのであった(同様のことが九州地方においても見られる。
三 火山の噴火による勢力の消耗は、大地震による勢力消耗と同程度のものがある。最近の有珠岳・桜島などの爆発にともなった陸地変形が、一つの局部的破壊地震にともなう陸地変形に比較して、質的にも量的にも共に対等のものであったことを示した。されば地震活動の経過を追跡するにあたっては、火山活動の進行を無視してはならないわけ。この見地において事実を検討してみると、富士山のもっとも著しい爆発であった貞観六年(八六四)と宝永四年(一七〇七)とのものが、地震活動第一・第二の旺盛期におこり、その他の時期におこったものはいずれも軽微であった。また那須火山系中、特に磐梯山ばんだいさんの活動は、慶長十六年(一六一一)会津大地震をこれに加えて、地震活動旺盛期とよい一致を見せている。

 つぎに本邦大地震年代表を整頓することにする。ただしここには、便宜上、新付の土地におこったものは省く。さて整頓の方針は、前に述べたとおり大地震の規模の大小によって差別をつけることにあったから、この取り扱い方をまずあきらかにしておかねばならぬ。
 地震の「規模」「がら」あるいは「大きさ」というものは、その地震の示した最大震度にも関係し、かつその感震区域にも関係する複雑な数量であるが、往古の地震に対してはその調べようがない。やむを得ないから、これに近い数量としてつぎの等級を定めてみた。

〇級 地震の震央地域において、普通の木造家屋は破損しても倒壊にいたらず、石垣あるいは城壁はところどころ崩壊する程度。震央地域における震度は一割程度。厳密な意味においては大地震の部類に入れないほうが適当である。明治三十一年(一八九八)筑前糸島いとしま地震、同三十四年八戸地震などがこの部類に属する。
一級 震央地域における震度が普通の木造家屋を百中一、二倒壊せしめる程度で、この区域の平均半径一〇キロメートルにすぎないもの。震度は二割ないし三割であろう。著しい断層は目撃されるに至らない。昭和十年(一九三五)静岡地震、同六年西武蔵地震などがこの部類に属する。
二級 上記激震区域は前者よりも広いが、ただし、その平均半径は二〇キロメートルにすぎないもの。中心地域における震度は三割以上に達し、著しい断層が目撃される。昭和二年(一九二七)丹後地震、同五年北伊豆地震などがこの部類に属する。
三級 上記激震区域はさらに広く、ただし、その平均半径が三〇キロメートルにすぎないもの。著しい断層が現われる。弘化四年(一八四七)善光寺地震がこの部類に属する。
四級 上記激震区域がもっとも広く、その平均半径五〇キロメートルに達するもの。もちろん著しい断層も現われるが、広区域の地盤の上下変動が気づかれる。大正十二年(一九二三)関東大震災、明治二十四年(一八九一)濃尾大地震などがこの部類に属する。

 海底地震のばあいにおいては、震央区域における震度はおおむね不明であるが、これにともなう津波の程度および分布によって二級ないし四級を適用すべきである。また余震の継続状況が等級判断の参考となることがある。免税・賑恤しんじゅつ・祈祷、これに関する詔勅などもまた参考になる。
 かようにして大森博士編纂本邦大地震概表を再検討してみたが、まず気づかれたのは大地震らしくないのが多分に混入し、殊にそれが中古時代にもっとも多いことである。まず原記録に「大地震」あるいは「地大いに震う」と記しただけで、被害状況がまったく欠けているものがそれである。すべて地震の大きさは、たとえ震央区域における震度が強震あるいはそれ以下のばあいでも、取り扱い者の独断あるいは心理状態によって大地震と記されること今なおしばしば経験するところであるから、上記のごとく、被害状況の記載のない簡単なものは、この種のものとみなしてこれを省くことにした。つぎに被害状況が単に京都に見るがごとき、築垣ついがきの破損程度に止まるものは、その規模〇級にも達しないものとして、これをも省くことにした。また個々の地震として、允恭いんぎょう天皇五年〔不詳。河内かわち地震のごときは、本邦地震記録の最古のものとして有名ではあるが、それが大地震であったとの根拠は皆無であるから、かようなものはこれを省くことにした。
 つぎに、増補した中に数個の火山地震がある。これは最近の富士・有珠・桜島などの火山爆発に前後しておこった地震の中に、ゆうに〇級あるいは一級に達するものを認めた場合に限られている。
 かくして整頓した結果が巻末付録として掲げてある。
 つぎにこの表を利用して、まず本邦大地震の地理的分布を調べてみる。
 この問題の講究には、火山活動が大切な参考となること前陳のとおりであるが、余はこれがため、本州ならびにこれに近くくらいしている活火山二十五座についてその活動記録を調べ、その一活動が一個の局部大地震に匹敵しそうなものをまずひろいあげることにした。つぎに活動能力の老衰してしまった活火山でも、きわめてまれに活動の徴候を示すことがあるが、これらはその勢力がたとえ軽微であっても、地下の緊迫した状況を察知するには多少の参考になるべきことを思い、これを拾い取ることにした。たとえばこれまで死火山と認められていた羽後駒ヶ岳が最近にいたって小噴火をしたように、又蔵王から那須にいたる一群の火山がときどき小活動するがごときが、これに相当するのである。
 今、上記の大地震表と火山活動表とを総合して地下活劇の分布を追跡し、発生の場所と時期とについて親密な関係を持ちそうなのを各自の系統(地震帯)にまとめてみると、主として次のようなものが気づかれる。

最大規模の地震のおこる系統
一 南海道沖(その西南方への延長部は九州の東沖をへて琉球付近に至る。
二 東海道沖(東端は神津島こうづしま新島にいじまの線におよぶか。
三 三陸沖(その東北の延長部は北海道千島沖に至る。
四 本州横断系甲(本州を横断する二系統のうち、東に位するもの。すなわちその南部は関東西部から相模湾に入り、北部は信濃川流域を経由して佐渡付近に至るもの。
五 本州横断系乙(同上西に位するもの。すなわち南部は濃尾平野をへて伊勢湾に入り、北部は越前をへて日本海に至るもの。

局部大地震のおこる系統
六 西蝦夷系渡島おしま後志しりべしの日本海側沖合いを走るもの。
七 奥羽系(北段は男鹿半島から能代のしろ・津軽地方をへて尻屋岬沖にいたり、南段は出羽庄内地方から出発し、鳥海山・羽後駒ヶ岳・岩手山いわてさんなどの火山をぬうて走るもの。
八 会津系(会津地方を中心とし、南部は那須火山をへてさらに南下し、北部は吾妻・蔵王などの諸火山をぬうて仙台付近に至るもの。
(以上の三系は雁行的に並例した一系統のようにも見える。
九 能登・佐渡系
一〇 白山系
一一 九州系

 つぎに、本邦大地震の年代的分布を追跡してみる。
 前に述べたように、上古における本邦大地震の記録の欠陥は規模の小さな大地震に比較的に多く、規模の大きなものは割合によく拾われているはずであるから、地震活動の統計的講究において、かような欠陥にもとづく傷を軽くするには、高級のものに重きを置き、低級のものを軽く見ることである。余はこの見地により、大地震頻度表をつぎのとおり調製してみた。

一 地震の等級に対応するよう重みを付し、これによって各期間の頻度を計算すること。これについては重みを各地震の勢力に比例するよう定めるのが適当であるが、それは今日不可能である。やむを得ないから、各地震につき年代表に記入した等級の数字それ自身をその地震の重みと仮定した。
二 年代は、一九三五年を最終としてこれを四十五年ごとに区分し、その一期間を頻度計算上の時間の単位と定めた。この単位は地震活動旺盛期のうち、第三期がほぼその二倍にあたり、第二・三期間の不活発な期間がおおむねその三倍にあたり、これらの区別をあきらかにするに便利である。
三 統計に用いた大地震は五畿七道に関係したものだけである。特に注意すべきは、北海道および琉球に属するものを省いたことである。

 以上の方法によって整理した結果、つぎの表が得られた。

期間      等級
――――――――――――――――――――
番号  最終年 四三二一  計 重計
――――――――――――――――――――
 一  四九五 〇〇〇〇  〇 
 二  五四〇 〇〇〇〇  〇  〇
 三  五八五 〇〇〇〇  〇  一
 四  六三〇 〇〇〇一  一  一
 五  六七五 〇〇〇〇  〇 一〇
 六  七二〇 一〇二一  九 一七
 七  七六五 〇二一〇  八 一七
 八  八一〇 〇〇〇〇  〇 二二
 九  八五五 一一三一 一四 二八
一〇  九〇〇 二〇二二 一四 二九
一一  九四五 〇〇〇一  一 一六
一二  九九〇 〇〇〇一  一  二
一三 一〇三五 〇〇〇〇  〇  一
一四 一〇八〇 〇〇〇〇  〇  〇
一五 一一二五 〇〇〇〇  〇  〇
一六 一一七〇 〇〇〇〇  〇  四
一七 一二一五 〇一〇一  四  七
一八 一二六〇 〇〇一一  三  八
一九 一三〇五 〇〇〇一  一  六
二〇 一三五〇 〇〇一〇  二  七
二一 一三九五 一〇〇〇  四  九
二二 一四四〇 〇〇一一  三  七
二三 一四八五 〇〇〇〇  〇 一〇
二四 一五三〇 一〇〇三  七  七
二五 一五七五 〇〇〇〇  〇 三〇
二六 一六二〇 三一三二 二三 三六
二七 一六六五 〇一四二 一三 五六
二八 一七一〇 二〇四四 二〇 三九
二九 一七五五 〇〇一四  六 三四
三〇 一八〇〇 〇〇三二  八 二八
三一 一八四五 〇〇四六 一四 四八
三二 一八九〇 二一六三 二六 八二
三三 一九三五 四〇六一 四二 

 表中「計」の列は、各期間において、各等級の地震数に対応等級を示す数字を乗じた積の和である。
 表を一瞥いちべつしただけでも、前記のとおり三回の活動旺盛期が見られるが、なおその他に、中古不活発な時期においても、活動上多少の盛衰のあることが認められる。
 右の講究に採用した時間の単位四十五年は、大地震のごとき稀有な現象の統計的講究に対しては短かすぎるかもしれぬ。これがため、たとえ活動旺盛期にあっても、大地震発生の少ない期間も介在し得るはずである。たとえば第一旺盛期にあって西暦八一〇年をもって終わる四十五年間は、その前後期間に反して、一回の記録すらないことである。かような不規則さを多少緩和する目的をもって、重ね合わせの方法が試みられた。すなわち連続三期間の頻度を合計してこれをその中央にあたる期間の分としたのである。表における「重計」という列がすなわちそれである。
 今、この表を点検してみると、つぎの事項が注意される。

一 三回の地震活動旺盛期がいっそう明瞭に現われてくる。
二 近世に近づくにしたがい、活動しだいに増進の傾向を示すけれども、これは低級大地震の記録完備に近づく影響も加わっているので、多少割引きをして見る必要がある。あるいは三期ともに相互にはなはだしい差違がないのかもしれない。
三 中古およそ六〇〇年の間にも、活動上多少の消長があったらしい。すなわち最初のおよそ二五〇年間は、きわめて静穏な状態にあったが、その後に至って、些少さしょうながら小活動の傾向を示している。ただしこの小活動の勢力は、活動旺盛のものに比較しておよそ四分の一程度のものにすぎない。
四 活動旺盛第一・二期は、その期間があまり長くないにかかわらず、地震活動がこの間に本邦地震帯の全系統を一巡しているように見える。これはまったく偶然かもしれないが、ただし、各期における活動の原因が広く全日本に対して働きかけた一勢力であったと見るとき、問題の現象がおこるのはむしろ自然のように思われる。
五 過去一五〇〇年間中もっともさかんな活動をした系統は、南海道沖地震帯であるが、第一期および第二期のいずれにおいても、活動の先駆をなしたものがこの系統に属し、殿しんがりをなしたのもまたこの系統のものであった。
六 活動旺盛第三期は期間比較的に短く、あるいはまだ終わっていないと見るべきであろう。今、試みにこの期間における活動経過を調べてみて気づかれることは、第一に、現在に近づくにしたがって活動増進の趨勢すうせいが見えるが、ただし、これは低級大地震の記録整備の結果が加わっていること前陳のとおりで、この点につき多少の割引きをなす必要はあるが、それにしても規模の大きなものもまた割合に多く、たとえ上記の割引きをしても、なお活動増進の傾向のあることである。また第二に、前文掲載の十一系統の地震帯ならびに火山系において、地下活劇がおおむね一巡し終わった模様はあるにしても、第一・二期のばあいに比較して多少の相違のあることである。殊に注意すべきは、前二期においては、いずれも規模の雄大な南海道沖大地震が旺盛期の殿しんがりをつとめたにかかわらず、第三期においてはそれが欠けているように見えることである。あるいは、かような詳細な点にまで類似性を期待することの方が誤りかもしれぬ。記して後考をつことにする。

 本稿は、上中古における大地震記録中、特にその規模の雄大なものにあっては、比較的に欠陥が少ないはずだとの仮定のもとに草されたものである。もしこの仮定が誤りであるならば、所説中、地理的分布に関するものはとにかくとしても、年代的分布に関するものは全然その価値を失うわけである。ただしもし、仮定が実際に近かったならば、本邦の大地震年代表として統計的講究の価値ある部分は、これまで最近三五〇年間にすぎないとされていたのが、一躍いちやくさらに一一〇〇余年を増すことになるので、この点において有意義だと称してもさしつかえないであろう。



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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地震の國(六)

今村明恒

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   四〇 渡邊先生

 余は、幼少の頃、優れた教養者・指導者に惠まれてゐたが、之を想起す毎に感謝の念を新たにしてゐる。
 余は早熟であつたらしい。最初の記憶は數へ年にして四歳位の頃に始まるが、或る日、竹片を以て地面に近所の門札の字を寫してゐた。竹山といふ文字であつたが、形だけはどうやら出來たやうである。それを父が見つけて、「成程、形はうまく出來てゐる。が、それを書くには斯うするのだ」と言つて、運筆を教へて呉れ、そして筆紙墨類を始めて惠まれたので、これに勵まされて、間もなく附近の家の門札位は眞似られるやうになつた。
 文字に興味を覺えるやうになつた所から、三字經といふ書物を先づ與へられ、近くに住む漢學先生に就て素讀を學び、それが終つて大學を讀んだ。
 郷校へ通ひ初めたのは五歳、然し此の年齡では正式の入學は許されない。そこへ次兄が通學してゐたのを幸ひ、その兄について學校へ行き、兄の机の傍に彼と同じやうに坐つてゐた。其頃は個人教授であつたから、先生が兄を教へた序に、余をも教へて呉れた。
 其樣なことで早くから文字が讀めたので、叔母達が余が家を訪ふときは、余に最もふさはしい土産物として、武者煎餅などを持つて來て呉れた。余はそれを食べることよりも、それに書かれてゐる八幡太郎源義家とか、九郎判官源義經などといふ文字を讀む方が樂しかつた。
 余に一人の偉い叙父[#「叙父」は底本のまま]があつた。此の叔父は廢藩置縣後明治九年まで磐前縣(今の福島縣平市に置かれてあつた)で總務部長といふやうな職に在つた人だが、西南役に西郷方に屬して戰死を遂げた。これが能く余を教へて呉れて、余に最も適當な種々の書物を選んでは、余が善行を賞する度にそれを惠んで呉れるのであつた。
 この叔父の末弟も亦學問好きであつた。そして余を能く導いて呉れた。實に此等兩人の感化は余が一生の運命を支配するものとなつたのである。
 また、余が現在のやうな專門學徒となるやうに志したのは、中學校時代の先生の良き指導に負ふのであるが、それに就ては斯ういふ記憶がある。
 中學第二學年の頃、物理學の受持に渡邊讓といふ理學士があつた。理科の教授は昭和の今日でもまだ机の上の授業から拔け切らないで、唯書物について注ぎ込むといふ風があるのに、渡邊先生は、既に其の頃、能く實驗觀察を背景として教育して居られた。
 話は變るが、或る人が、先年、北米合衆國の或る學校へ理科教授の見學に行つたことがある。其の日は生憎試驗日であつたので、失望して歸らうとすると、試驗でも見て行つては如何と言はれて教室へ案内された。試驗問題はと見ると、日本に有り勝ちな、例へば壓力とは何ぞやといふやうな型とは全然違つてゐて、實驗其物が問題となるのである。
[#ここから1字下げ]
 机上にはフラスコがあつた。先生は其の口に合ふ程のコルクを取り、漏斗のついた硝子管が通るやうに孔を明けてゐる。生徒は見落すまいと一生懸命である。やがて孔が明き、管が緩くコルクに刺されて、全體でフラスコの栓となつた。漏斗に水をさすと水は徐々にフラスコに侵入する。次に管を拔取つて今度は唾をつけて固く差込み、コルクにも水をつけて栓を固くして今一度水を漏斗にさすと、今度は水が下つて行かない。
[#ここで字下げ終わり]
此の現象を説明せよといふのが試驗問題であつたさうである。
 渡邊先生の教方もさふいふ風であつた。今も二三覺えてゐるが、其の一を紹介することにする。問題は落體に關するものであつた。
[#ここから1字下げ]
 地球に、其の中心に向つて一直線に穴を明け對蹠點まで貫いたと假定する。若し穴よりも細い石を取つて其の口から落したならば、石は何處まで落ち、何處に落著くか。
[#ここで字下げ終わり]
といふのであつた。勿論、摩擦はないものと假定されてゐるのである。他の生徒の答は何れも地球の中心まで落ちて行つて、其處に落著くといふのであつたか、余の答はそれとは違ひ、地球の中心を通り拔けて對蹠點まで行くといふのである。先生は頸を拈つて余に向ひ、それでは何處へ落著くかと反問される。其處から反對に出發點へ戻つて來て、何時までも往復してゐるといふのが答であつた。先生今度はにこ/\して其の理由を問はれるのだ。
[#ここから1字下げ]
「先生、地球の引きつける力は中心にあると認めてよいと思ひます。」
「よろしい。」
「さうすると落體は中心に向つて次第に速度を増して、中心では最大となり、中心通過後、今度は反對に同じやうに速度を減じて、對蹠點で丁度零になり、一瞬間停止します。」
「それから。」
「それから先は今と全く同一のことを繰返すのです。」
[#ここで字下げ終わり]
 先生は大變に褒めて下さつた。余はそれ以來理科といふものに非常な興味を覺え、先生から問題を貰ふと一生懸命に考へ、又實驗して其の答解を得ようと努めた。
 渡邊先生のやうな教方は教學の趣旨に能く適つたものと謂ふべきであらう。
 帝國學士院は奬學の目的の爲に、毎年、恩賜賞、帝國學士院賞等種々の賞を出してゐる。又メンデンホール賞といふのがあるが、それは物理學及び天文學上顯著な業績に對して授けられるのであつて、五年に一回しか出ない上に、金牌附だといふので、殊に特色のあるものとされてゐる。さうして最近に此の名譽あるメンデンホール賞を授けられたのは、我が渡邊先生の長男、同姓襄氏其の人であつた。
 他家の子供を魅了した先生の教方が、自家の子供を魅せずに措く筈はないではないか。

   四一 野宿

 伊達先生を隊長とする一群の新進氣鋭な理學士が、磁力實測の爲に邦土を馳驅した勢は中々すさまじいものであつた。勇將の下には弱卒なく、隊長は隊長自身に珍談奇聞の種を蒔いて毎年のニュートン祭を賑はせると、部下も亦之に負けずに幻燈の種の製作に高名を競つたのである。其の秀逸の中に今猶まざ/\と記憶に殘つてゐるのは、稻荷の杜に天幕を張つた連中を、村の若い衆が狐つきに見立てゝ高天原を合唱しながら押寄せて來た話。須藤理學士が天幕に近寄る巡査を叱り飛ばして彼の帶劍を遠くへ退けた話。乘馬に得意な隊長が、裸馬に乘つて見せると言つて驅出すや否や、眞逆に轉落したので、悔しがつてゐた部下は一時に溜飮を下げる。本間君が東北旅行で馬を忌避すると、先生がいたはつて牛を周旋して呉れる。馬嫌ひさん益※[#二の字点]閉口する。あの恐ろしい角でギュウとやられたら、それつきりぢやありませんかと言ふ。曰く何。曰く何。記憶は後から後から牛の涎のやうに湧いて來る。若し此の珍談奇聞を蒐集して置いたら、やがて一卷の書册ともなり、後進を稗益[#「稗益」は底本のまま]することも尠くないであらう。請ふ隗より始めよで、先づ自己の見聞したまゝを並べて見る。
[#ここから1字下げ]
 日清戰役の年といへば隨分古い昔のこと。北海道には汽車は纔に室蘭・札幌・小樽の間に通じ、汽船は函館小樽間、或は函館根室間を通ふに過ぎなかつた。尤も戰役中のことだから汽船の數も少なかつた筈である。
[#ここで字下げ終わり]
 二人の理學士、中牟田は、磁力實測に數回の經驗を積み、小男だけに、全身に智慧が廻る。鹿島は大學を出たばかり、否、まだ卒業しない中、實測に驅出され、途中、田舍の活版屋で始めて理學士といふ肩書のついた大きな名刺を作り、中牟田に冷かされた位。大男の事とて、御多分に漏れずに智慧は廻り兼ねる方である。そして此の大小長短不揃な二人が一つの班を作つて、蝦夷ケ島南半の實測を承つたのである。
 當時の北海道は今と違つて道路は開けず、二人は山路或は原野を騎行すること三百里に及んだ。或時は熊に襲はれて命から/″\逃延び、冷たい雨雫を浴びて木の下かげに一夜の空腹を凌いだこともあつた。或時は馬上の人頭を沒すること三尺以上にも及ぶ藪をもぐり、泥深いやち[#「やち」に黒丸傍点]に馬を泳がせ、一日の行程二里にも及ばなかつたことすらある。又人跡稀な山奧に分け入つては、二週間も里に出られなかつたことも度々であつた。つい此の間、北海道開拓當時のことを金子子爵が放送されたが、二人の旅行當時とさう違はないと思はれた。
[#ここから1字下げ]
 騎行三百里といへば、一廉の乘り手のやうに聞えようが、實は二人共初心者であつて、落馬した回數、班長は二回、新兵は七回、而も其の落馬振りが中々振つてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
 膽振から後志へ山越えして瀬棚《せたない》へ行く途中のこと。雨に遭つて新兵が馬上に洋傘を擴げたまでは良かつたが、森の中で、つい傘の端が木の枝にからみついた。馬は制止を聞かばこそ、遠慮なく前進する。馬上の人は、遂に鞍を離れ、傘にぶらさがつたまゝ悠然として著陸した。班長曰ふ「成程、落下傘といふものはかうして思付いたのだなあ」と。
 十勝の平原、歴舟《ぺるぶね》と帶廣との中間に俗稱チホマ山といふ森がある。害される山といふ意味だと聞いたが、それは熊が多く棲んでゐるので此の名があるのださうだ。此處を通るとき、新兵の前方を電光石火、一頭の―熊ではない―兎が横切つた。豫ねて熊に脅かされてゐることだから、馬はそれと即斷したのであらう。いきなり後足で棒立ちとなつた。彼が轉落したことは斷るまでもあるまいが、第一に着陸した部分は、前の場合とは違ひ、彼の足ではなく頭であつた。能く見たら地上には半球の凹みが出來、二尺程離れて木の根株があつた。彼の頭髮が禿げ出したのはそれからだと云はれてゐる。少くも彼はさう信じてゐる。そしてそれをチホマ山での被害記念だと云つてゐる。
 比較的に得意であつた班長も、遂に落馬の憂目を見た。最初は靴を馬に踏破られただけで濟んだが、二度目には、十勝の大津から釧路の白糠へ行く途中、堤の上で落馬し、其の斜面をはずんだ毬のやうにころ/\と轉がり、遂に五間餘りを土堤下にまで落ちて仕舞つた。
[#ここから1字下げ]
 大男の大食は別に不思議はないが、此の旅行中に小男までが大食家になつた。十勝川の川口、大津の宿で、丁度其の頃、牛が熊に襲はれたとあつて、牛肉は如何です。いくらでもありますとのこと。函館出發以來肉食に飢ゑてゐたので、否應のあらう筈はなく、食ふわ/\、朝晝晩、毎日々々牛鍋をやる。番頭は終に悲鳴を擧げた。「牛はたつた一匹でしたから。」と言譯をするのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
 蓋派《けなしつぱ》といふ處に、アイウクといふ可愛いアイヌの少年がゐた。留守の間に兩人共其の家に泊り込み、家搜しをすると鱒の生干があつた。是れは結構と、とう/\二人で二尺大の鱒を一晩一朝に四本平げた。翌朝アイウクが歸つて來て何か搜す素振りに、尋ねて見ると、取つて置きの鱒のこと。仕方なしに白状に及ぶと、少年は唯あきれて暫くは口も利けず、漸くにして聲を絞つて、「タンナ方、なんて大喰タ」とばかり。
 二人は、三ケ月の天幕生活を終へて、函館に歸着するや否や、第一に飛込んだ處は洋食店であつた。七品平らげた後、番外にライスカレーを食べ、お替りをと註文すると、給仕君遮つて「決して惡いことは申上げません、もう御止めなさい」と。
[#ここから1字下げ]
 磁力の實測をするには最初に場處を選定せねばならぬ。鐵氣のない、障害の少い、平らな廣場をよしとする。それは地方官憲に依頼して選定するのが慣例になつてゐた。班長は應對が巧いので初めの中は、新兵は專らそれを見學してゐた。江差郡役所に懸合に行つたときのこと、班長の胴締の兵兒帶が一間も垂下がつてゐるのに彼は心附かず、平然として廳内を引ずり廻して役員達を驚かしたことがある。新兵の度胸が据つて來たのは、其れ以來のことだといふが、指導者の心得置くべきことである。
[#ここで字下げ終わり]
 贓物一件といふのがあつた。二人は暫時分れ分れになつて、やがて日高國沙流で復一緒になつた。鹿島が見慣れぬ時計を持つてゐるので、中牟田が之を詰ると、彼は隣室を指さし、待て/\と合圖をする。翌朝隣室の客人が挨拶に來て、昨日の禮を述べ、門別通行の際は是非立寄つて呉れといふ。客人の出發を認めた中牟田は再び時計の説明を促すと、
[#ここから1字下げ]
「あれは昨日苫小牧から道連れになつた人だ。鵡川で泊るのだといふ。別れようとすると、言憎さうに金を貸して呉れといふ。自宅は門別だが、旅費に窮したから仕方なく此處に泊ることにしたけれども、若し貸して貰へたら非常に好都合だといふ。自分は半信半疑、氣の毒にもなり、氣味惡くもあつたから、用立てるには用立てたが、唯今小錢しか持合せがないと稱して、吾々の虎の子にしてゐる小銀貨を殆んど全部貸してやつた。」
「それは巧くやつたな。」
「處が、いらないといふのに、此の時計を渡して行つたのだ。」
「あ、抵當といふ譯か。どれ見せ給へ。うん、これは、君、安時計だよ。針など型に篏めてぽんと打出した儘のものだよ。十圓がものはないね。」
「贓物かも知れないな。」
「うん、さうだ、/\。」
[#ここで字下げ終わり]
と言つて室を出ると、びつくり敗亡、疾くに出發した筈の客人は、二人の室に近く身を横たへ、全會話を謹聽してござつたのだ。
 爾後兩日間、鹿島は煩悶してゐたが、そこは中牟田に鍛へられた度胸、勇を鼓して門別に客人を訪ね、取引を濟ませた後、悠々として晝飯の接待にまで預かつたといふ。
[#ここから1字下げ]
 行程も半ばを過ぎ、二人は八月二十三日口蝦夷から奧蝦夷の方へと進んでゐた。襟裳岬の北東三里に庶野《しよや》といふ處がある。そこから北へ猿留《さるる》までは四里半、茂寄《もよろ》(廣尾)までは更に六里あるが、猿留茂寄間には兩蝦夷を東西に分つ險岨な森林があるので、熊の出沒最も多く、旅行者に取つては有名な難所であつた。同行者を待合せて合計六人馬八頭で、午前十時に庶野を出發し、午後一時半には猿留に着いた。然るに此處では驛馬が乏しかつたので、兩人は荷物だけを馬三頭に積み、久方振りに徒歩になつた。此の時、携帶品は、觀測に最も大切な懷中時辰儀と小器械を容れた短册箱とであつた。兩蝦夷の境をなすピタヽヌンケからは山路にかゝり、馬子とも次第に遠ざかり、さうして廣尾川に差懸る半里手前の處で日が暮れた。此處に一軒の宿屋があつたけれども、宿女が魔性のものに見えたから、二人は宿泊を屑しとせず、猶前進を續けた。(馬子は此處に泊つたさうで、翌日茂寄に到着した。)
[#ここで字下げ終わり]
 二人は間もなく深林に迷込んだ。午後八時頃であつたらうか。森の中なので、あたり眞暗。皆目分らぬ。鹿島は樹枝を折つて杖とし、草のきれ目きれ目を搜り/\嚮導した。忽ち前方十米位の處からぷうん[#「ぷうん」に傍点]といふ太い鈍い鼻息が聞え、續いて二三回。馬には慣れ、飼ひ熊も度々見てゐる兩人は、それが熊たることを直覺し、期せずして、しまつたと言ひながら、廻れ右をやり、輕く口笛を鳴らしながら後退した。此の間、怪物は樹枝を踏折り踏折り數歩の處まで近寄つて來た。中牟田は白服で稍※[#二の字点]離れて居り、鹿島は鼠色の學生服で幾分目立たないが、後れてゐたから、若し襲はれるものなら、學生服が先であらう。凡そ十數秒間、七八間も後退しながら、猶口笛を鳴らし續けて、今にも攫まれるかと夢心地を辿つてゐたが、一向其の氣配がない。振返つて見ると怪物は最早其處邊りには居ない。人間樣だと分つて逃げて行つたのである。
 漸く虎口ではない熊の口を免れた。が依然として道は分らぬ。搜り搜つて、いくらか廣い處に出たと思つた瞬間、學生服は其處から崖下に墜落し、折重なつて白服も墜ちた。もう後戻りも出來ないので、更に進むと、森が切れて空が見え出し、やがて廣い道に出會ひ電柱が現はれて來た。二人は漸く救はれたなといふ氣持で、本道を北へ辿ると川に出た。疑もなく廣尾川である。併し橋が落ちてゐるので、のつぽ殿が丸裸になつて瀬踏みをすると水が威勢よく胸を越すではないか。これではちびさんは渉れまいとあつて野宿にきめる。やがて雨が降出したので、落ちた橋の下を引上げて岸に戻り、樹下にしやがんだが雨は益※[#二の字点]降りしきる。二人は樹枝を折り、頭上の枝に積重ね積重ねして見たが、其のかひもなく、夜どほしびしよ濡れに濡れた。翌朝寒暖計を見てると五度になつてゐたから、寒さもひどかつたに違ひない。暖を取る積りでせなかを合せて見ても能く合はないので、ちびさんが之をこぼすと、せなかの上半はがら明きののつぽ殿が之をたしなめるといふ始末。
 二人は歩いてゐるときから腹が段々減つて來たが、是に至つて益※[#二の字点]空腹を訴へて來た。此日は庶野で朝飯を食べ、晝の用意にむすびを二つ宛貰つて出發したが、中牟田は馬上で二つ共平げ、鹿島は一つだけ殘して置いたので、これが大に役に立つた。そこで殘つてゐるのを折半して一方を殘し、他を二人で等分に食べた。此の半分を殘す方法を終夜取つたので、兩人は一つのむすびを等比級數的に分割して食べたことになり、又其の日に食べたむすびの量を積算して見ると、小男が二半、大男が一半であつたといふ不釣合なことになる。中牟田が旅行で貰つた辨當を半分だけ殘すやう發心したのは此の時だと云はれてゐる。
 夜半になり、熊らしいものががさ/\川を渉つて來る氣配がするので、其の度毎に二人は口笛を鳴らして之を郤けた[#「郤けた」は底本のまま]。翌朝其の邊りを檢査して見ると、それは熊ではなく流木であつた。
[#ここから1字下げ]
 午前三時半には向ふの岸が見え初めた。其處でのつぽは再び丸裸になり、瀬踏みして見ると昨晩の通りの水嵩ながら難なく岸に着かれた。それで二度目には時辰儀と短册箱を渡し、三度目には長短手をつないで渉つた。次に衣類を洗ひ且つ絞つて之を着用し、前夜の宿所に對して凱歌を擧げて別れを告げ、五時半に茂寄に到着した。先づ粥を作つて貰つて就寢したはよかつたが、目を覺したのは翌日の晝頃であつた。
[#ここで字下げ終わり]
 其の後、二人は十勝平野でアイヌの野宿振りを見た。樹の枝を三本切つて三脚を作り、上に葉のついた細長い枝を重ね垂らして其の下にしやがむのだ。我が新進理學士は、屋根や傘に勾配をつける理由をこゝで始めて大悟し、科學する心をしみ/″\味はつたといふが、隋分お目出たい話だと謂はねばならぬ。
 爾來四十七星霜。
 今日、科學の權化のやうに仰がれてゐる中牟田老先生にも、お若い時分には斯樣なこともあつたのである。

   四二 國史は科學的に

 吾々は今長夜の惡夢から目覺めた。萬事再發足を要する。先づ魂を入れ替へなくてはなるまいが、其の根柢をなすものは、教育の刷新であり、教科書の改訂である。
 國史は書改められよう。科學の水準は高められよう。それにつけても更に注文したいことは、國史の書物から非科學的な考へ方、記載方を一掃することである。國史をして誤つた思想の温床たらしめざることである。
 吾々が少年時代から怪訝に堪へなかつたのは、神武以降人皇十六代の平均一世代が六十餘年といふ人間離れしたものになつてゐることであつた。此樣な不合理は、寧ろ自發的に改むべきものではあるまいか。
 いづれは其道の權威者に依つて眞の國史が編まれるであらう。それは兎に角、余はこゝに最近數年間に接觸した瑣末な史料につき、二三の疑問を指摘して識者の批判を仰ぎたいと思ふ。
 北畠親房は、東北經營の爲、延元三年九月舟師を調へて伊勢の大湊を出帆したが、其の十日頃上總の地近くで暴風に遭ひ、他の船は概ね遠州灘で遭難して、義良親王(後の後村上天皇)は元の大湊に、宗良親王は遠州白羽湊に、守良親王は遠く四國に漂著し、親房等だけが常陸に到着してゐる。南朝の御運の拙かつたことは眞に傷ましい次第であつた。
 然るに或る史家は、此の風を目して或は「不思議な風」とし或は「神風」と稱してゐる。颱風の性質を無視した妄斷と稱すべきである。
 時は陽暦十月末、颱風の襲來も漸く稀に、それも多くは太平洋沖を通過する季節である。當時本隊は颱風進路の左側に在つて西乃至南西に吹戻されたらうが、先進隊は、同樣に最初の一兩日間は伊豆の崎まで吹戻されたものゝ、位置が氣壓進路の中心から遠くなかつた爲か、進路の右側へ轉じたらしい。此は人爲的にも可能なわけであるが、寧ろ低氣壓の進路が多少其の方向を變へ伊豆の南端を掠めて房總を横切つたとする方が事實に近からう。何れにせよ、爾後は南寄りの強風で、すら/\と常陸邊まで流されることになるわけである。
 上記の史料に附帶して今一つ科學的に考察すべき事件がある。宗良親王の漂着された遠州白羽湊の場處爭がそれである。
 遠州には白羽が三ケ處にある。天龍河口の左右岸に一つ宛、それに御前崎の西一里にある榛原郡のが一つ。史家の中には、濱松在、天龍右岸の白羽を以て、親王の漂着地に擬してゐるものがあるが、其の論據は、當時南朝の勢力下に在つた白羽は此處だけであつたことにあるらしい。成程平常の天候であつたらさう見てよからう。併し事實は、親王が李花集に自記された通り、數日の難船後に辛うじて漂着された後、濡れたまゝ船中に忍ばせ給うたなど却て敵地らしく察せられるものがある。當時榛原白羽は北朝方の勢力下にあつた。
 他方、榛原白羽を以て親王の漂着地に擬するものは、暴風雨に際して同所には難船難破物の漂着が多く、此は天龍からの水と潮流との關係から白羽の海に澱みが出來る爲だと言つてゐる。幾分の科學的考察が認められるが、「他の場合はさうでも、此の場合までがさうであつたとは限るまい」と反駁されて沈默して仕舞つたのは畫龍點睛を缺くの感があつた。
 按ずるに、此の時の颱風も亦例の如く、進路の左側に多量の雨を降らしたに相違ない。天龍川は濁流滔々、之を遡航するなどは漂流船に取つては思ひも寄らぬこと。此の濁流が洋上に打出し左右に分れて大廻りに渦を卷き、其一が白羽沖に澱みを作るなどは、殊更有り得べきことに屬する。
 或は榛原白羽を湊と稱へることが相應しからぬとの説もあるが、時は六百餘年前のこと、其後土地は數回の大地震に伴つて五米は隆起したらしいから、當時中西川に沿うて恰好の彎入のあつたことが容易に想像せられる。
 土佐日記の著者紀貫之が十日間も假泊した室津についても同樣の場處爭がある。室津の人は之を現在の室津とし、郷土史家は之を津呂の地とし、此處に紀念碑を建てた位である。
 按ずるに、此の地方は、大地震に伴つて隆起する特徴があり、貫之時代の海水位は現在よりも六米程高かつた筈。されば室津から津呂を經て室戸岬に至る六粁の間は略ぼ一直線をなす山裾の荒磯で、貫之の所謂「この泊、遠く見れども、近く見れども、いとおもしろし」との景色は想像すべくもないが、他方、室津川の川下には廣袤一粁程の良い潟港が現はれ、若し其の東南奧に往時の室津があつたとしたら、日記にある遠近の好風景を始として、平等津との間隔、舟の出入に干潮時を避けたこと、或は室津、浮津、耳崎の名稱等が一々相應しく成るのみならず、其他の地理的疑問までが皆容易に解決せられるのである。
 以上は、史料の科學的考察を主眼として草したものであつて、自説の主張の如きは二次的なもたる[#「もたる」は底本のまま]に過ぎないことを斷つて置く。

   四三 地震及び火山噴火に關する思想の變遷

 はしがき[#「はしがき」は見出し] 地震と火山活動との間には、自然現象として密接な關係があるから、兩者に對する古代民族の思想にも共通なものがあつてよい筈である。例へば歐洲に於ては、地震を以て噴火の未發現象としたり、火山を以て地震の安全瓣に譬へてゐるが如きである、然るに我國に於ては、上古は知らず、地震或は噴火が歴史に始めて表はれて來た當時は、單に神業と考へられてゐたやうであるが、藤氏時代以後に於ては、兩者に關する思想上著しい相違を示してゐる。此は、大陸文化の輸入に由つて斯くなつたのに相違なく、支那は、古來屡※[#二の字点]大地震に見舞はれる所から、曲りなりにも一つの地震觀を有してゐた爲、我國が其の影響を蒙らない筈はないのである。之に反して、かの國には噴火現象といふものが見られない爲、火山噴火に關する思想に就ては、大陸文化の影響を蒙ることなく、我が國獨自の發展を遂げたのである。隨つて思想上の變遷を辿つて見ると、地震の方は迂餘曲折があり、可なり複雜であるが、火山噴火の方は寧ろ單純で、純日本式の性格を具へてゐると稱すべきである。

 地震に關する思想の變遷(其一)[#「地震に關する思想の變遷(其一)」は見出し]吾々の遠祖の地震に對する觀察には科學的な素質があつたのであるから、若し此の傾向を阻止する何等の障害が無かつたら、自然現象としての地震の講究は割合に早く始まつたかも知れない。此の點に關しては支那も同樣である。即ち後漢の張衡が地動儀を發明して地震觀測を始めたのは、今から千八百餘年も前のことであるが、惜しい哉、京師が地震に縁遠い位置に移されたのみならず、陰陽五行説なるものが跋扈して、其の順調な發展を中斷せしめたのである。今之を我が國の状態に比べて見ると、當時地震計の發明こそ無けれ、地震は京師其の他に相次いで起り、未だ曾て國民の地震に對する關心を弛緩せしめるやうなことは無かつた。併し何分にも地震を神業とする思想が先入してゐたのみならず、外來の思想は之に拍車をかけて永く此の思想を捨てることが出來ず、遂に徳川幕府の初期にまで之を持越したのである。
 地震を神業とする思想は種※[#二の字点]の行事となつて現はれた。卜占、祈祷、修法は最も普通に行はれたが、稀には改元の事まで行はれ、又或る時代に於ては、勿體なくも御自責の詔を下し賜はつたことさへある。
 斯樣な行事の始まつた由縁の中には、外來文化の影響のあつたことを見逃してはならぬ。之に就て、自國の文化を我が國に傳へるに先鞭をつけたものは百濟であるが、佛法暦算或は占術等が日本化したのは、寧ろ隋唐との交通以後にあつたのであらう。推古天皇七年の大地震には、單に地震の神を祭らしめられただけであつたやうに傳はつてゐる。そして地震に就いて御自責の詔を下し賜はるやうになつたのは、聖武天皇に始まつたと見るべきであらう。
 種々の地震行事に對する外來文化の影響には、濃淡の差があるべきであるが、祈祷、修法の如きは、其の最も薄い部類に屬するであらう。此の行事は、大昔から近世にまで續き、最も永い生命を保つたもので、古代には單に地震の神を祭る程度であつたが、佛法傳來後には、佛式に從つて祈祷修法を行はせられると同時に、大祓を修し、著明な神社に奉幣せしめられることが併せ行はれたやうである。
 前に御自責の詔といふものを擧げたが、此の言葉は、賑恤の詔とする方が適當なやうにも見える。併しさうではない。御自責といふことが、詔の主眼であつて、後世になつて單に大赦賑恤だけの詔勅といふものも下つてゐるからである。
 斯く御自責の詔を下賜された地震の例は、さう多くはなく、正史に現はれたものには、次の數例を數へるに過ぎない。
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一、聖武天皇天平六年(西紀七三四)畿内七道地震
二、嵯峨天皇弘仁九年(八一八)關東地震
三、淳和天皇天長四年(八二七)京都地震
四、同上天長七年(八三〇)秋田地震
五、仁明天皇承和八年(八四一)伊豆地震
六、同上嘉祥三年(八五〇)出羽地震
七、清和天皇貞觀十一年(八六九)陸奧地震津浪
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 詔の内容は、其の結構が略ぼ一定である。即ち冒頭に聖天子の政道を叙し、政事の不行屆に由つて天譴の下る次第を説き、這般の震災は上一人の責任であつて、下兆庶には何等の罪科が無い筈なのに、其の天譴を負ふに至つたのは實に氣の毒である。宜しく使を遣はし、國吏と議して、免税賑恤等のことを行へといふのであつて、若し震災地が邊境であつた場合には、和人であると夷俘であるとに拘はらず、一視同仁たるべき旨を諭されてゐる。
 詔は、言ふまでもなく、漢文を以て綴られ、屡※[#二の字点]堯舜禹湯の故事が引用されてゐる。例へば貞觀の陸奧地震津浪の場合に、「地周に震ふ日、姫文是に於てか躬を責め、早殷に流るゝ年、湯帝之を以て己を罪す。」とあり、外來文化の影響の歴然たるものがある。
 斯樣な御自責の詔の發布が、貞觀年代を以て終を告げたらしいのは意味のあることであらう。即ち右の期限以前は天皇親政の時代であつたが、爾來藤原氏專横の時代となり、次いで武家政治の時代に下つたのである。詔の内容に鑑みるとき、政權を專らにしたものは、其の藤氏たると武家たるとを問はず、當に恐懼して大政を奉還せざるを得ない筈であるが、併し之を敢てしなかつたのである。そして藤原氏時代には、改元の行事が始まると共に、地震占が盛んに行はれるやうになり、徳川幕府初期には、地震を單に自然現象と見るやうな傾向を生じたのであるが、是れ亦此の邊の内情を物語つてゐるやうである。
 火山噴火に關する思想の變遷[#「火山噴火に關する思想の變遷」は見出し] 本邦地震活動に關し、余の所謂其の旺盛第一期(天武天皇十二年―仁和三年、即ち西紀六八四―八八七)に於て、即ち震災に關する御自責の詔の發せられると略ぼ同じ時代に於てこれと竝行して行はれた行事に、火山の神に關する陳謝といふことがある。當時の思想に據れば、凡て火山には之をうしはく神があり、其の活動は此の神の祟に因るとするのであつて、神の不滿を招いた原因が人にあるといふのである。此の行事の由來する所は、地震の場合に異なり、純日本式であつたと稱すべきである。
 火山の神の本體は何であるかを具體化したものには、火山に依つて多少の相違はあるが、龍或は大蛇であるとしたなら、大きな誤にはなるまい。阿蘇の噴火口の主を健磐龍命と名づけたるが如き、例とすべきである。或は霧島や鳥海の如く、大蛇と見做されてゐる處もある。九州の豪族緒方氏の祖先を高知尾の明神とし、其の神體を大蛇としてゐるが如きである(平家物語)。龍を以て大蛇の化身とする思想から見るとき、斯ういふ火山神の性格は概ね一定してゐると稱してよからう。
 斯樣に考へるに至つた原因は、何れにあるか明瞭ではないが、其の實體を見極めようと試みて、噴火現象の眞相に觸れた僧性空の如き人がゐる。彼は天慶八年(九四五)霧島山に登り「此の神の本地を拜み奉らんと誓ひて、七日參籠して法華經を讀誦しけるに、五日の子の刻の頃、大地振動して岩崩れ、猛火燃えて殊に煙渦き、暫くして周圍三丈、其長十餘丈許なる大蛇、角は枯木の如く生ひ、眼は日月の如く輝き、大に怒れる樣にて出來り給ふ。」とあり(長門本平家物語)、菜花状噴烟に奔電の閃いた状態が想見される。鳥海の貞觀噴火には、「有兩大蛇、長十許丈、相流出入於海口、小蛇從者不知其數」とあり、又阿蘇の噴火口を、北から順次に一の池、二の池、三の池と名づけ、それぞれ健磐龍命、阿蘇都媛命、速瓶玉命の居所とし、此處から龍或は大蛇の出現した次第を報じてゐるが、何れも火山の神の本體を幾分なりとも具體化した例であらう。
 元來龍は、支那傳來の假想的動物で、水陸空の三界に自在に游泳し、濶歩し、飛翔し得る靈物と見做され、其の形態が時代に依つて著しく變化したに拘らず、本邦に於ける龍の形態は、隋唐時代のものに近いながらも、或る點に於て著しき變形を遂げ、全く日本式の性格を具へてゐると稱すべきである。特に其の支那式の羽翼が本邦式の火焔に代り、獸毛が疏生の長髮に代るが如き點を強調したい。斯樣な變化を遂げるに至つた根據は何れにあるか明記したものに接しないけれども、火山噴火や降毛の現象に其の示唆を得たのであるまいか。菜花状噴煙は龍身を思はしめ、火口から溢れる濁流が急斜面を奔馳するときに現はれる紋樣を蛇身に擬するのは有り得べきことで、特に菜花状噴煙の周圍に線香花火の如く現はれる閃電は、かの火焔を示唆し、火口附近に見出され、若くは遠方の地へ火山灰と共に降る火山毛、而も其の長さ二三尺に至るもの、或は白馬の尾毛の如きものゝあるに至つては、かの長髮に發展しさうに思はれるのである。而も此等の諸現象が、支那には無く、却て本邦に於て經驗せられることを考慮するとき、こゝに龍の日本式性格の生ずる所以が髣髴されるやうである。
 往古、本邦に於ては、天降る火山毛を龍の毛と稱したこともある。これ亦上記の推定を根據づけるものではあるまいか。又龍毛の降るのは飢饉の前兆であるとも唱へた。火山灰の微塵が高く成層圈若くはそれに近く噴上げられて、其れが其處に永く停滯するとき、太陽の輻射線が吸收遮蔽されて凶作の原因となる事實を考慮するとき、此等の傳説は幾分の眞理を語つてゐると解すべきである。乃ちこゝにも亦、吾が祖先の自然界に對する觀察の優秀性を認むべきであらう。
 火山の神への陳謝の爲には、祭祀、封戸の寄進、官社に列するといふ外に、叙位叙勳の行事があつた。特に其の最も多く行はれたのは叙位である。多くは第一回の活動に際して從五位下を授けられ、爾後活動を繰返す毎に位一級を進められるのである。從つて此の時代に最も數多く噴火を繰返した阿蘇、鳥海、日光白根の三火山の神の如き終に正二位にまで崇められてゐる。恐らくこれが最高といふ内規でもあつたのであらう。其の後の阿蘇の活動に對して、二の池の主とされてゐる阿蘇都媛神の方に位が進められてゐる。
 斯樣な次第であるから、此の時代に於ける本邦火山の活動は、叙位の記事に依つて其の一斑を窺ふことが出來る。併し叙位即ち活動と見做すのは早計である。火山活動とは全く縁のない事由に依つて、叙位された例もあるからである。例へば、出羽に於ける元慶二年の亂の如きは、當時に於ては國家の一大事件であつたのであるが、叛亂平定の後、火山に縁の無い出羽柵内の城輪、秋田城内の高清水の二神までも元慶四年に昇位されて居り、鳥海山の神は、元慶二年八月、正三位勳五等から一躍して正二位勳三等に陞せられ、それに「毎軍、國司祈祷、故有此加増也。」と註してゐる。元慶四年五月赤城山の神の叙位も亦同斷と見るべきであらう。
 此の機會に於て、今一つ注意すべきことがある。それは本邦の活火山の中には、叙位に關係の無いものが數多く殘されてゐるといふことである。恐らく此等の諸火山は、當時休眠の状態にあつたのであらう。
 地震に關する思想の變遷(其二)[#「地震に關する思想の變遷(其二)」は見出し]地震に關する思想は、藤原氏執政前に就ては、既に前に述べた通りである。之を火山噴火に關する場合に比較すると、後者が純日本式の性格を具へてゐるに對して前者は著しく支那文化の影響を蒙つたことが認められる。但し此は隋唐との修好以後のことに屬するので、其の前に於ては兩者間に類似な點があつてもよい筈である。斯く考へるとき、推古天皇七年の大地震の場合に祭らしめ給うた地震の神は、單に地震のことをうしはく神で、八百萬の神の一柱に過ぎない程度のものであつたかも知れない。
 それは兎に角、地震に關する思想は、藤原氏專政以後に於ては寧ろ墮落であつた。其の主要な原因は、陰陽五行の邪説が跋扈したことにあるのは言ふまでもないが、今一つ、臣下の政權世襲の餘弊であつたやうにも見える。此の點につき、歴史家の所見を質して見たことはないが、時代の推移に伴ふ思想の變遷が、然か物語るやうに見えるのである。蓋し震災に對する天皇御自責の詔の發布された最後の例が、貞觀十一年(西紀八六九)の陸奧地震津浪であり、火山噴火に對する陳謝叙位の行はれた最後の例が、元慶六年(八八二)の開聞岳活動にあるとすることが誤でなかつたなら、此等の二種の行事は、天皇親政時代のものであつたと言へる譯で、次の藤原氏の專政時代に於て、此等に代つて擡頭して來た地震行事が、地震占と改元とであつたといふことになるからである。修法や大祓が之に伴つたこと斷るまでもあるまい。
 地震占には二種あるが、其の氣象に關するものは全く近世の産物であつて、古代のものは、兵亂、疫癘、飢饉、國家の重要人物の運命等の如き政治的對象を目的としたものである。
 嘗て地震を以て天譴とした思想は、是に於て少しく改められ、之を以て何等かの前兆を指示する怪異と考へるに至つたのである。之には政治的方便もあつたらうが、時代が地震活動の不活溌期に入つたことも無視してはなるまい。
 上記の地震占を司る朝廷の役所は陰陽寮で、司は賀茂安倍二家の世襲であつたらしい。其の占法の如きは、之を詮議するにも及ぶまいが、地震の舊記を讀む場合の參考として、試に天文奏と稱する地震占の一二の例を掲げて見る。
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 寛弘三年(一〇〇六)二月二日の京都地震に就て次の通り。
謹奏。今月二日、乙亥時辰、地震(月行奎宿)。謹檢。天文録云、地動震者民擾也。東房妖占曰、地以春動歳不昌。天地瑞祥志云、内經曰、二月地動、卅日有兵起。又曰月行奎宿地動、刀兵大起、損害國土、客強主弱。又曰月初旬動害於商人。内論曰、月行奎宿、地動者龍所動、無雨江河枯渇、年不宜麥、天子凶、大臣受殃也。雜災異占云、地動女官有喪、天下民多飢糶貴。東方朔占云、地以二月動者、其國不昌、敬長者有大喪
 又寛元三年(一二四五)七月二六日の京都強震に就ては次の通りになつてゐる。
謹奏。今月廿六日戊午、夜丑時大地震(月在柳宿、土曜直日)。
謹檢。天文録云、春秋日地動搖、臣下謀上。京房妖占曰、地以秋動有音兵起。又曰、地動朝廷有亂臣。天地瑞祥志云、漢帝後元元年七月地震、明年四月帝惡。内經云、七日地動百日有兵、王氏雜交異占云、孟月地動有水風。公羊傳曰、臣專政地震。天地災起云、地震、不出一年國有大喪。又曰、近臣去宮室有驚。又曰、女官有喪。天鏡經云、地動天子愼之。宿曜經曰、土曜直日地動、世界不安、威重人死。
 右件地震占、謹以申聞、謹奏。
  寛元三年七月廿八日
   從四位上行天文博士安倍朝臣家氏
   正四位上行大膳權大夫安倍朝臣維範
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 斯樣な例に依つて地震占の輪廓が髣髴されるであらう。固より支那傳來のものであるが、月のゐる星宿に依り、地動を火神動、水神動(或は龍神動)金翅鳥動、帝釋動(或は天王動)の四種に分けたのは佛説に由來したのだといはれてゐる。
 斯ういふ次第であつたから、占勘が事實に合はなかつたり、賀安兩家の占文の喰違つたりは、有り得べきことであつた。安倍泰親が、治承三年(一一七九)十一月七日の京都強震に、大膽な放言をして殿上人を縮み上がらせたまでは無難であつたが、期日を過ぎても其驗がないといふので、流罪たるべしとの決定を與へられたのは、殊に顯著な例である。
 下つて室町時代になつては、次のやうな例もある。寛正五年(一四六四)四月七日將軍足利義政が能樂を催してゐる最中に強震があつた。「公方樣より博士を召して御尋ねあり。博士云、時節の廻りなり、更に猿樂の故ならず」とある。果して史實であるか否かは、保證の限りではないが、義政としては有りさうなことである。地震に關する從來の思想の動搖といふことも想像し得られるやうである。
 然し斯くいふものゝ、地震を天譴とする思想は、全然絶滅したとも見られない。大正大震災直後にさへ此の説を持出した人もある。徳川幕府の初期に、會津城主蒲生秀行の失政にからみ、慶長十六年(一六一一)八月二十一日大地震を契機として、此の説が擡頭し、終に秀行失脚の一因となつたことがある。若し此の處置が果して正當であつたなら、轉じて徳川幕府自身が同樣の判決を蒙らなければならぬことになつた。何故ならば其の頃まで、地震活動の不活溌であつた關東地方が間もなく、地震活動期に入り、寛永、慶安、元祿年間に大地震を繰返したからである。斯うなつては、徳川幕府たるものも晏如たり得ない筈であるが、其處は御用學者の忠勤を抽んづべき所といふよりも、寧ろ永く妖雲に曇らされてゐた民族の叡智が再び其の光明を恢復したと稱すべきであらう。軈て地震を自然現象とする見解が擡頭して來たのである。此の經過に關しては嘗て故石本博士が本誌に詳説したことがあるから、こゝには再説しないことにする。因に記して置く。天氣に關する地震占は徳川幕府時代の所産である。
 次に改元に關する事項を述べることにする。
 地震に由つて年號を改めるといふ行事は、御自責の詔の發布に代つたものと見られないこともない。年代がさういふ風につゞいて居り、一は天皇親政時のもので、他は藤氏の專政時代に始まつたものであり、其の目的が政道の一新といふ點に於て相通ずる所があるからである。
 地震に由る改元が最初に行はれたのは、承平八年(九三八)四月十五日の京都大地震の場合であつて、世は正に忠平の攝政時代である。此の時宮中では、内膳司に屬した家屋が顛倒して司人が四人も壓死し、其の他、宮城の築垣や東西兩京の舍屋が破損したのであつた。之に依つて大祓や修法を行はせられたこと例の如くであるが、特に五月二十二日に於て、年號を天慶と改められたのである。
 斯樣な事由に依る改元の二三の例を拾つて見ると天祿四年(九七三)九月二十七日の京都地震では年號が天延と改まり、其の天延が同四年(九七六)六月十八日の山城近江兩國の大地震の爲に貞元となり、嘉保三年(九九六)十一月二十四日の畿内大地震で永長と改元されたのであるが特に著明なのは文治元年(一一八五)七月九日の近畿大地震と慶長元年(一五九六)閏七月十三日の伏見大地震とであらう。元暦二年及び文祿五年がそれぞれ此等の地震に由つて斯く改められたのである。又天保元年(一八三〇)七月二日の京都大地震が文政十三年に當り、安政元年(一八五四)十一月四日及び五日の東海道及び南海道地震津浪が嘉永七年に當ることも、時代が新しい爲に能く知られてゐる。
 元祿十六年(一七〇三)十一月二十三日の關東大地震も上記の著名な例に加ふべきであるが、改元は行はれても、それは年を越してからのことであつた。但し本邦に於ける最大の地震とされてゐる寶永四年(一七〇七)十月四日の地震津浪の場合には、どうした理由であつたかわからぬが、改元のことが行はれなかつた。
 最後に、局部的な地鳴り地震に關する古人の考へ方を述べて置きたい。
 明治三十年以降、吾々は局部的に幾多の小地震群の發生を經驗した。明治三十二年の攝津有馬の鳴動、大正九年以降の紀州名草の鳴動、昭和五年の伊豆伊東の鳴動の如きは、其の最も著しい例である。此等は、一年或はそれ以上に繼續したのであるが、數週間或は一、二月で止んだ例は他にいくらもある。何れの場合に於ても震源は非常に淺く、數百米或は數粁に過ぎない上に、勢力も甚だ微弱である爲に、感震區域が極めて狹く、一郡或は數郡に、單に鳴動即ち地鳴りとして感じたのみである。併しそれでも一種の地震たるには相違ないのである。
 火山の噴火に先だち、同樣の現象が局地的に起ることがあるが、こゝにいふ鳴動はそれとは區別して置きたい。
 斯樣な地震群の舊記に現はれる例は極めて少い。増訂大日本地震史料を搜すと、和銅元年(七〇八)三月から五月にかけて駿河國安倍郡慈悲尾村椎田で晝夜百餘回も感じたといふのが出て來る位のことである。其の代り、靈廟の鳴動といふのが數多く現はれてゐる。尤も一地方或は單獨な山岳の鳴動ならば、隨所に現はれ、疑問とするにも及ばないが、併し之を單に一神社、一靈廟或は一墳墓の事とするものに至つては看過し難いのである。
 今靈廟鳴動の舊記に現はれた古い例を搜して見ると、仁和二年(八八六)五月二十六日に石清水八幡宮自ら鳴るといふのがあり、翌三年十月二十七日には、先皇(陽成天皇)の新陵晝夜鳴動して十餘日を經といふのがあり、次に寛平元年(八八九)五月二十八日石清水八幡宮宮殿の鳴動が再び現はれてゐる。仁和三年といへば、五畿七道の大地震があつた年であり、これまでの例に從へば御自責の詔の下りさうな大規模な破壞地震であつたが、其の事がなくて、却て新陵の鳴動を取上る所は、藤原基經の攝政關白としての全盛期のことであり、鳴動といふ自然現象を地震に關する舊思想を以て歪めたらしく思はれないこともない。尤も靈廟鳴動は兵亂の前表であるといふのが普通で、前記の石清水八幡宮の怪異に依つても、奧羽及び九州の警戒を嚴にするやう令されてゐる。
 靈廟鳴動の舊記に現はれてゐる例は頗る多く、靈廟別にしても、三十所を下らない。其の中で最も多く現はれるのは、石清水八幡宮で、次が將軍塚又其の次が多武峯の鎌足の墓であるが、後鳥羽天皇の水無瀬の御影堂も亦少くない方である。將軍塚は二ケ所にある。即ち京都華頂山の南方にある土偶の將軍塚と、山科にある田村將軍の塚であるが、舊記に現はれる將軍塚鳴動には田村塚の場合が多い。併し稀には東山を指してゐることもある。
 靈廟の鳴動は、多くは所在の地方に特有な地鳴り地震を、斯く狹く歪めたものであること想像に難くない。現に石清水宮司が震源の位置を突留めた例さへある。即ち仁平三年(一一五四)十一月十九日宮司の言上に「去十一月十八日申時、御山鳴動事。其聲如微雷、其響似地震。御山東麓住人聞在西方、南麓住人聞在北方、西麓住人聞在東方、北麓住人聞在南方事也。」
とあるが、賞讃すべき調査である。
 石清水八幡宮、將軍塚及び談山廟の鳴動に關して、其の頻度に盛衰の變化のあることを注意するのも興味あることである。談山廟の鳴動は藤原氏の全盛期に多く、將軍塚の方は徳川幕府になつてから激増し、古代から近世に至る迄終始變らないのが岩清水八幡宮である。此の事も記録上の鳴動を統計的に取扱ふとき注意すべき點である。
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 この論文は昭和十九年東大地球物理教室地震學會刊行の「地震」に所載された論文である。
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   四四 地震活動盛衰千五百年

 本邦の大地震年代表は、上古の分には遺漏が多いであらうが、慶長以後の分は比較的に能く整備してゐる。之が爲、地理的並に年代的分布等の研究に於ては、從來主として慶長以後のものを採用し、其の以前の分は殆んど顧みられなかつた。併し、最近余が到達した見解は、從來のまゝの年代表でも、上記のやうな研究をなすには甚だしい不足を感じないといふのである。成程上古(西紀四一六年乃至九〇〇年を斯く假稱する)に於ては、小地震の記録にこそ缺陷は多からうが、その大なるものに至つては、大體に信を置くべく、之によると、大地震特に其の非局部性のものは相當の數に達し、此の期間に於ては地震活動の旺盛であつたことを示唆してゐる。降つて中古(西紀九〇一年乃至一五〇〇年を斯く假稱する)に於ては、大地震の記録が極めて少く、或は記録の缺陷ではなからうかとの疑を起さしめる程であるが、併しながら其の半面に於て、小震強震を記録した文書は相當に數多く、此等の文書が、小震強震を採録しながら大地震を略する筈はなく、此は、寧ろ記録の缺陷ではなく、實際に大地震の少なかつたことを意味するものと解釋すべきである。
 以上の解釋に從へば、本邦の地震活動には次のやうな三回の旺盛期があつたことになる。
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一 上古中西紀六八四年乃至八八七年の二〇四年間
二 近古中西紀一五八六年乃至一七〇七年間の一二二年間
三 西紀一八四七年以後
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 余が上記の見解に到達したのには、次のやうな根據もある。
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 一 地震津浪は近海々底に於ける大規模地震の發生を意味するが、其の活動旺盛期が正しく上記の地震活動旺盛期と一致してゐる。例へば三陸太平洋沿岸に於ける大津浪中規模が殊に雄大であつたのは、貞觀十一年(西紀八六九年)、慶長十六年(一六一一年)のものであつて、明治二十九年のもの之に次ぎ、昭和八年のもの又之に次ぐのであるが、此等が何れも上記地震活動旺盛期のみに起つたことは、特記すべき事實と謂はねばならぬ。
 二 關東地方に於ける地震活動が、同じく上記のやうな傾向を示すことである。即ち著名な地變を伴つた大規模な地震としては、弘仁九年(八一八年)元祿十六年(一七〇三年)及び大正十二年の三箇を擧げることが出來るが、何れも上記の活動旺盛期に起つたのであつた(同樣のことが九州地方に於ても見られる。)
 三 火山の噴火に依る勢力の消耗は、大地震に依る勢力消耗と同程度のものがある。最近の有珠岳櫻島等の爆發に伴つた陸地變形が、一の局部的破壞地震に伴ふ陸地變形に比較して、質的にも量的にも共に對等のものであつたことを示した。されば地震活動の經過を追跡するに方つては、火山活動の進行を無視してはならない譯。此の見地に於て、事實を檢討して見ると、富士山の最も著しい爆發であつた貞觀六年(八六四年)と寶永四年(一七〇七年)とのものが、地震活動第一第二の旺盛期に起り、其の他の時期に起つたものは何れも輕微であつた。又那須火山系中特に磐梯山の活動は、慶長十六年會津大地震を之に加へて、地震活動旺盛期と好い一致を見せてゐる。
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 次に本邦大地震年代表を整頓することにする。但しこゝには、便宜上新附の土地に起つたものは省く。さて整頓の方針は、前に述べた通り、大地震の規模の大小に依つて、差別をつけることにあつたから、此の取扱方を先づ明かにして置かねばならぬ。
 地震の「規模」、「がら」或は「大きさ」といふものは、其の地震の示した最大震度にも關係し、且つ其の感震區域にも關係する複雜な數量であるが、往古の地震に對しては、其の調べやうがない。已むを得ないから、之に近い數量として次の等級を定めて見た。
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 〇級 地震の震央地域に於て、普通の木造家屋は破損しても倒潰に至らず、石垣或は城壁は處々崩壞する程度。震央地域に於ける震度は一割程度。嚴密な意味に於ては大地震の部類に入れない方が適當である。明治三十一年筑前絲島地震、同三十四年八戸地震等が此の部類に屬する。
 一級 震央地域に於ける震度が普通の木造家屋を百中一二倒潰せしめる程度で、此の區域の平均半徑一〇粁に過ぎないもの。震度は二割乃至三割であらう。著しい斷層は目撃されるに至らない。昭和十年靜岡地震、同六年西武藏地震等が此の部類に屬する。
 二級 上記激震區域は前者よりも廣いが、併し其の平均半徑は二〇粁に過ぎないもの。中心地域に於ける震度は三割以上に達し、著しい斷層が目撃される。昭和二年丹後地震、同五年北伊豆地震等が此の部類に屬する。
 三級 上記激震區域は更に廣く、併し其の平均半徑が三〇粁に過ぎないもの。著しい斷層が現はれる。弘化四年善光寺地震が此の部類に屬する。
 四級 上記激震區域が最も廣く、其の平均半徑五〇粁に達するもの。勿論著しい斷層も現はれるが、廣區域の地盤の上下變動が氣附かれる。大正十二年關東大震災、明治二十四年濃尾大地震等が此の部類に屬する。
[#ここで字下げ終わり]
 海底地震の場合に於ては、震央區域に於ける震度は概ね不明であるが、之に伴ふ津浪の程度及び分布に依つて二級乃至四級を適用すべきである。又餘震の繼續状況が等級判斷の參考となることがある。免税、賑恤、祈祷、之に關する詔勅なども亦參考になる。
 斯樣にして大森博士編纂本邦大地震概表を再檢討して見たが、先づ氣附かれたのは、大地震らしくないのが多分に混入し、殊にそれが中古時代に最も多いことである。先づ原記録に「大地震」或は「地大に震ふ」と記しただけで、被害状況が全く缺けてゐるものがそれである。凡て地震の大きさは、假令震央區域に於ける震度が強震或はそれ以下の場合でも、取扱者の獨斷或は心理状態によつて大地震と記されること、今猶ほ屡※[#二の字点]經驗する所であるから、上記の如く、被害状況の記載のない簡單なものは、此の種のものと見做して之を省くことにした。次に被害状況が單に京都に見るが如き、築垣の破損程度に止まるものは、其の規模〇級にも達しないものとして、之をも省くことにした。又個々の地震として、允恭天皇五年の河内地震の如きは、本邦地震記録の最古のものとして有名ではあるが、それが大地震であつたとの根據は皆無であるから、斯樣なものは之を省くことにした。
 次に増補した中に數箇の火山地震がある。此は最近の富士・有珠・櫻島等の火山爆發に前後して起つた地震の中に、優に〇級或は一級に達するものを認めた場合に限られてゐる。
 斯くして整頓した結果が卷末附録として掲げてある。
 次に此の表を利用して、先づ本邦大地震の地理的分布を調べて見る。
 此の問題の講究には、火山活動が大切な參考となること前陳の通りであるが、余は、之が爲、本州並に之に近く位してゐる活火山二十五座について其の活動記録を調べ、其の一活動が一箇の局部大地震に匹敵しさうなものを先づ拾上げることにした。次に活動能力の老衰して仕舞つた活火山でも、極めて稀に活動の徴候を示すことがあるが、此等は其の勢力が假令輕微であつても、地下の緊迫した状況を察知するには多少の參考になるべきことを思ひ、之を拾取ることにした。例へば是迄死火山と認められてゐた羽後駒ケ岳が最近に至つて小噴火をした[#二字判読不可]に、又藏王から那須に至る一群の火山が時々小活動するが如きが、これに相當するのである。
 今上記の大地震表と火山活動表とを綜合して地下活劇の分布を追跡し、發生の場處と時期とに就て親密な關係を有ちさうなのを各自の系統(地震帶)に纒めて見ると、主として次のやうなものが氣附かれる。
[#ここから1字下げ]
最大規模の地震の起る系統
一 南海道沖(其の西南方への延長部は九州の東沖を經て琉球附近に至る。)
二 東海道沖(東端は神津島新島の線に及ぶか。)
三 三陸沖(其の東北の延長部は北海道千島沖に至る。)
四 本州横斷系甲(本州を横斷する二系統の中、東に位するもの、即ち其の南部は關東西部から相模灣に入り、北部は信濃川流域を經由して佐渡附近に至るもの。)
五 本州横斷系乙(同上西に位するもの、即ち南部は濃尾平野を經て伊勢灣に入り、北部は越前を經て日本海に至るもの。)
局部大地震の起る系統
六 西蝦夷系(渡島後志の日本海側沖合を走るもの。)
七 奧羽系(北段は男鹿半島から能代津輕地方を經て尻屋岬沖に至り、南段は出羽莊内地方から出發し、鳥海山・羽後駒ケ岳・岩手山等の火山を縫うて走るもの。)
八 會津系(會津地方を中心とし、南部は那須火山を經て更に南下し、北部は吾妻藏王等の諸火山を縫うて仙臺附近に至るもの。)
(以上の三系は雁行的に並例した一系統のやうにも見える。)
九 能登佐渡系
一〇 白山系
一一 九州系
[#ここで字下げ終わり]
 次に本邦大地震の年代的分布を追跡して見る。
 前に述べたやうに、上古に於ける本邦大地震の記録の缺陷は規模の小さな大地震に比較的に多く、規模の大きなものは割合に能く拾はれてゐる筈であるから、地震活動の統計的講究に於て、斯樣な缺陷に基づく疵を輕くするには、高級のものに重きを置き、低級のものを輕く見ることである。余は此の見地に據り、大地震頻度表を次の通り調製して見た。
[#ここから1字下げ]
 一 地震の等級に對應するやう重みを附し、之に依つて各期間の頻度を計算すること。之に就ては重みを各地震の勢力に比例するやう定めるのが適當であるが、それは今日不可能である。已むを得ないから、各地震につき、年代表に記入した等級の數字それ自身を其の地震の重みと假定した。
 二 年代は、西紀一九三五年を最終として、之を四十五年毎に區分し、其の一期間を頻度計算上の時間の單位と定めた。此の單位は地震活動旺盛期の中、第三期が略ぼ其の二倍に當り、第二・三期間の不活溌な期間が概ね其の三倍に當り、此等の區別を明かにするに便利である。
 三 統計に用ひた大地震は五畿七道に關係したものだけである。特に注意すべきは、北海道及び琉球に屬するものを省いたことである。
[#ここで字下げ終わり]
 以上の方法に依つて整理した結果、次の表が得られた。

[#ここから表組]
期間      等級
――――――――――――――――――――
番号  最終年 四三二一  計 重計
――――――――――――――――――――
 一  四九五 〇〇〇〇  〇
 二  五四〇 〇〇〇〇  〇  〇
 三  五八五 〇〇〇〇  〇  一
 四  六三〇 〇〇〇一  一  一
 五  六七五 〇〇〇〇  〇 一〇
 六  七二〇 一〇二一  九 一七
 七  七六五 〇二一〇  八 一七
 八  八一〇 〇〇〇〇  〇 二二
 九  八五五 一一三一 一四 二八
一〇  九〇〇 二〇二二 一四 二九
一一  九四五 〇〇〇一  一 一六
一二  九九〇 〇〇〇一  一  二
一三 一〇三五 〇〇〇〇  〇  一
一四 一〇八〇 〇〇〇〇  〇  〇
一五 一一二五 〇〇〇〇  〇  〇
一六 一一七〇 〇〇〇〇  〇  四
一七 一二一五 〇一〇一  四  七
一八 一二六〇 〇〇一一  三  八
一九 一三〇五 〇〇〇一  一  六
二〇 一三五〇 〇〇一〇  二  七
二一 一三九五 一〇〇〇  四  九
二二 一四四〇 〇〇一一  三  七
二三 一四八五 〇〇〇〇  〇 一〇
二四 一五三〇 一〇〇三  七  七
二五 一五七五 〇〇〇〇  〇 三〇
二六 一六二〇 三一三二 二三 三六
二七 一六六五 〇一四二 一三 五六
二八 一七一〇 二〇四四 二〇 三九
二九 一七五五 〇〇一四  六 三四
三〇 一八〇〇 〇〇三二  八 二八
三一 一八四五 〇〇四六 一四 四八
三二 一八九〇 二一六三 二六 八二
三三 一九三五 四〇六一 四二
[#表組ここまで]

 表中「計」の列は、各期間に於て、各等級の地震數に對應等級を示す數字を乘じた積の和である。
 表を一瞥しただけでも、前記の通り、三回の活動旺盛期が見られるが、尚ほ其の他に、中古不活溌な時期に於ても、活動上多少の盛衰のあることが認められる。
 右の講究に採用した時間の單位四十五年は、大地震の如き稀有な現象の統計的講究に對しては短か過ぎるかも知れぬ。之が爲、假令活動旺盛期に在つても、大地震發生の少い期間も介在し得る筈である。例へば第一旺盛期に在つて、西紀八一〇年を以て終る四十五年間は、其の前後期間に反して、一回の記録すらないことである。斯樣な不規則さを多少緩和する目的を以て、重ね合せの方法が試みられた。即ち連續三期間の頻度を合計して之を其の中央に當る期間の分としたのである。表に於ける「重計」といふ列が即ちそれである。
 今此の表を點檢して見ると、次の事項が注意される。
[#ここから1字下げ]
 一 三回の地震活動旺盛期が一層明瞭に現はれて來る。
 二 近世に近づくに從ひ、活動次第に増進の傾向を示すけれども、此は低級大地震の記録完備に近づく影響も加はつてゐるので、多少割引をして見る必要がある。或は三期共に相互に甚だしい差違がないのかも知れない。
 三 中古凡そ六百年の間にも、活動上多少の消長があつたらしい。即ち最初の凡そ二百五十年間は、極めて靜穩な状態にあつたが、其の後に至つて、些少ながら小活動の傾向を示してゐる。但し此の小活動の勢力は、活動旺盛のものに比較して、凡そ四分の一程度のものに過ぎない。
 四 活動旺盛第一・二期は、其の期間が餘り長くないに拘らず、地震活動が此の間に本邦地震帶の全系統を一巡してゐるやうに見える。此は全く偶然かも知れないが、併し各期に於ける活動の原因が廣く全日本に對して働きかけた一勢力であつたと見るとき、問題の現象が起るのは寧ろ自然のやうに思はれる。
 五 過去千五百年間中最も盛んな活動をした系統は、南海道沖地震帶であるが、第一期及び第二期の孰れに於ても、活動の先驅をなしたものが此の系統に屬し、殿りをなしたのも亦此の系統のものであつた。
 六 活動旺盛第三期は期間比較的に短く、或はまだ終つてゐないと見るべきであらう。今試みに此の期間に於ける活動經過を調べて見て氣附かれることは、第一に、現在に近づくに隨つて活動増進の趨勢が見えるが、併し此は低級大地震の記録整備の結果が加はつてゐること前陳の通りで、此の點につき多少の割引をなす必要はあるが、それにしても規模の大きなものも亦割合に多く、假令上記の割引をしても、猶ほ活動増進の傾向のあることである。又第二に、前文掲載の十一系統の地震帶並に火山系に於て、地下活劇が概ね一巡し終つた模樣はあるにしても、第一・二期の場合に比較して多少の相違のあることである。殊に注意すべきは、前二期に於ては、孰れも規模の雄大な南海道沖大地震が旺盛期の殿りを勤めたに拘らず、第三期に於てはそれが缺けてゐるやうに見えることである。或は斯樣な詳細な點にまで類似性を期待することの方が誤かも知れぬ。記して後考を俟つことにする。
[#ここで字下げ終わり]
 本稿は、上中古に於ける大地震記録中特に其の規模の雄大なものに在つては、比較的に缺陷が少い筈だとの假定の下に草されたものである。若し此の假定が誤であるならば、所説中地理的分布に關するものは兎に角としても、年代的分布に關するものは全然其の價値を失ふ譯である。併し若し、假定が實際に近かつたならば、本邦の大地震年代表として統計的講究の價値ある部分は、これまで最近三百五十年間に過ぎないとされてゐたのが、一躍更に千百餘年を増すことになるので、此の點に於て有意義だと稱しても差支ないであらう。



※ 欠と缺、鼓と皷、着と著、台と臺と颱、岳と嶽、並と竝、効と效、余と餘、防波堤と防浪堤、辨と辯と瓣、亘と亙の混用・使い分けは底本のとおり。
底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

  • [北海道]
  • 千島列島 ちしま れっとう 北海道本島東端からカムチャツカ半島の南端に達する弧状の列島。国後・択捉(以上南千島)、得撫・新知・計吐夷・羅処和・松輪・捨子古丹・温祢古丹(以上中千島)、幌筵・占守・阿頼度(以上北千島)など。第二次大戦後ロシア(旧ソ連)の管理下にある。クリル列島。
  • 渡島 おしま (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在は渡島・桧山支庁に分属する。(2) 北海道南西部の支庁。函館市・松前町など11市町がある。
  • 後志 しりべし (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在は後志・桧山支庁に分属する。斉明紀に見える後方羊蹄は一説にこの地方を指すというが未詳。(2) 北海道西部の支庁。小樽市・島牧村・積丹町など20市町村。
  • 室蘭 むろらん 北海道南西部の市。内浦湾の東端、室蘭港を抱く絵鞆岬に位置する港湾都市。石炭の積出港、鉄鋼生産地として発展。胆振支庁所在地。人口9万8千。
  • 札幌 さっぽろ 北海道石狩平野南西部にある政令指定都市。北海道庁・石狩支庁・北海道大学の所在地。明治期の計画によって市街地は格子状の街路を形成する。ビール・酪製品など食品工業が盛ん。人口188万1千。
  • 小樽 おたる 北海道石狩湾に面する市。港湾都市として発展。観光拠点としても名高い。人口14万2千。
  • 函館 はこだて (古くは「箱館」と書いた)北海道渡島半島の南東部に位置する市。港湾都市。渡島支庁所在地。もと江戸幕府の奉行所所在地。安政の仮条約により開港。1988年まで青函連絡船による北海道の玄関口。五稜郭・トラピスチヌ修道院がある。人口29万4千。
  • 根室 ねむろ (アイヌ語で樹林の意のニムオロからともいう) (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在の根室支庁の管轄。(2) 北海道東部の支庁。根室市・別海町など5市町。(3) 北海道東部、日本最東端の市。根室支庁の所在地。北洋漁業の基地。人口3万1千。
  • 蝦夷ヶ島 えぞがしま 蝦夷地。蝦夷ヶ島もしくは蝦夷ヶ千島と呼んだ。
  • 胆振 いぶり (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在は、胆振・渡島・後志・石狩・上川支庁に分属する。(2) 北海道南西部の支庁。室蘭・苫小牧など11市町が含まれる。支笏洞爺国立公園がある。
  • 後志 しりべし (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在は後志・桧山支庁に分属する。斉明紀に見える後方羊蹄は一説にこの地方を指すというが未詳。(2) 北海道西部の支庁。小樽市・島牧村・積丹町など20市町村。
  • 瀬棚 せたない/せたな 郡名・村名。現、北海道檜山支庁瀬棚郡瀬棚町。
  • 十勝 とかち (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在の十勝支庁の管轄地域。中央から南部に十勝平野が展開、北部は大雪山国立公園。(2) 北海道東南部の支庁。帯広市・音更町・士幌町など19市町村。
  • 歴舟 ぺるぶね 現、十勝支庁広尾郡大樹町。「ベルフネ」「ベルブネ」ともよまれる。
  • 帯広 おびひろ 北海道十勝平野の中心をなす市。十勝支庁の所在地。農産物の集荷・加工地。人口17万1千。
  • チホマ山
  • 大津 おおつ 村名。現、十勝支庁中川郡豊頃町。
  • 白糠 しらぬか 北海道白糠郡白糠町。
  • 十勝川 とかちがわ 十勝地方を流れる大河。十勝岳の東斜面に発源し、十勝平野を流れて太平洋に注ぐ。長さ約156キロメートル。流域面積9010平方キロメートル。
  • 蓋派 けなしつぱ/けなしぱ 村名。現、十勝支庁中川郡池田町。
  • 江差郡役所
  • 江差 えさし 北海道渡島半島の日本海岸にある港町。かつてはニシン漁が盛ん。江差追分で知られる。奥尻島との連絡港。桧山支庁の所在地。
  • 日高国 ひだかのくに 日本の明治時代に設定された地方区分の国の一つ。北海道に含まれる。領域は現在の日高支庁にあたる。
  • 沙流郡 さるぐん 北海道の郡。1869年(明治2年)北海道に11国86郡が置かれた際に日高国沙流郡として成立した。
  • 門別町 もんべつちょう 北海道日高支庁管内西部の町であった。
  • 苫小牧 とまこまい 北海道南西部の市。室蘭本線に沿う。製紙・パルプ工業の他、近年自動車製造業も定着。人工港を中心に工業地域を形成。人口17万3千。
  • 鵡川 むかわ 北海道上川支庁および胆振支庁を流れ太平洋に注ぐ一級河川。鵡川水系の本流である。
  • 鵡川町 むかわちょう 北海道南部、胆振支庁管内勇払郡に設置されていた町。
  • 口蝦夷
  • 奥蝦夷
  • 襟裳岬 えりも みさき 北海道日高山脈南端、太平洋に突出する岬。付近の海域は寒流・暖流の合流点で海霧が発生しやすい。
  • 庶野 しょや 村名。現、日高支庁幌泉郡えりも町字庶野。
  • 猿留 さるる 村名。現、日高支庁幌泉郡えりも町字目黒。郡の北東部。
  • 茂寄 もよろ/もより 村名。現、十勝支庁広尾郡広尾町。
  • 広尾町 ひろおちょう 北海道十勝支庁南部にある町。
  • ピタタヌンケ ビタタヌンケ。漢字表記名「鐚田貫」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名・岬名として記録されている。現、日高支庁えりも町。当地一帯は近代に入り猿留村および茂寄村に包含されたと思われる。
  • 広尾川
  • 十勝平野 とかち へいや 北海道南東部、十勝川の流域に広がる平野。日本有数の畑作地帯で豆類の産が多い。中心に帯広市がある。
  • 有珠岳 → 有珠山
  • 有珠山 うすざん 北海道南西部、洞爺湖の南にある二重式活火山。標高733メートル。2000年に大規模な水蒸気爆発を観測。
  • 桜島 さくらじま 鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の3火山体から成り、面積77平方キロメートル。しばしば噴火し、1475〜76年(文明7〜8)、1779年(安永8)および1914年(大正3)の噴火は有名。1914年の噴火で大隅半島と陸続きとなる。
  • [奥羽] おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
  • [青森県]
  • 津軽 つがる (古くは清音) (1) 青森県(陸奥国)西半部の呼称。もと越の国または出羽に属した。(2) (「つがる」と書く)青森県西部、津軽平野の中央部・西部に位置する市。稲作やリンゴ・メロン・スイカの栽培が盛ん。人口4万。
  • 尻屋岬 → 尻屋崎か
  • 尻屋崎 しりやざき 青森県下北郡東通村にある、下北半島の北東端をなす岬である。岬の北側は津軽海峡、東側は太平洋。潮の変わり目である。あたり一帯には寒立馬という馬が放牧されており、観光の要所になっている。尻屋崎への道にはゲートが設けられており、夜間と冬期は閉鎖される。
  • 八戸 はちのへ 青森県南東部の市。もと南部氏の城下町。三陸北端の重要な漁港。硫安・セメントなどの工業も盛ん。盛岡市に対して小南部の称がある。人口24万5千。
  • [岩手県]
  • 岩手山 いわてさん 岩手県盛岡市の北西方にある成層火山。標高2038メートル。南麓に小岩井農場・網張温泉がある。岩手富士。南部富士。
  • [宮城県]
  • 仙台 せんだい 宮城県中部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。広瀬川の左岸、昔の宮城野の一部を占める東北地方の中心都市。もと伊達氏62万石の城下町。織物・染物・漆器・指物・埋木細工・鋳物などを産するほか、近代工業も活発。東北大学がある。人口102万5千。
  • 蔵王山 ざおうさん 山形・宮城両県にまたがる火山群の総称。最高峰の熊野岳は標高1841メートル。古名、不忘山・刈田嶺。山上に蔵王権現をまつる。樹氷が有名。山腹はスキー場、山麓に温泉がある。
  • 那須 なす 栃木県北東端、那珂川上流域一帯の地域名。那須温泉郷があり、行楽地として塩原とともに名高い。保養地として発展。
  • [秋田県]
  • [羽後] うご 旧国名。1869年(明治元年12月)出羽国を分割して設置。大部分は今の秋田県、一部は山形県に属する。
  • 男鹿半島 おが はんとう 秋田県西部、日本海に突出する半島。砂洲により本土と連なり、内側に八郎潟を形成していたが、その大部分は干拓され、大潟村となる。
  • 能代 のしろ 秋田県北西部の市。米代川河口の南岸に臨む港湾都市。製材業・木工業が盛んで、能代塗は有名。人口6万3千。
  • 駒ヶ岳 こまがたけ 秋田県東部にある二重式火山。標高1637メートル。高山植物が多い。秋田駒ヶ岳。
  • 秋田城 あきたじょう (1) 奈良・平安時代、出羽北部の蝦夷に備えるために、733年(天平5)出羽柵を移して現秋田市寺内の高清水岡に築かれた城。今は土塁の一部などが残存する。(2) 佐竹氏の居城。現、秋田市千秋公園。久保田城。矢留城。
  • 高清水 たかしみず 現、秋田市寺内高清水丘陵か。
  • [出羽] でわ (古くはイデハ)旧国名。東北地方の一国で、1869年(明治元年12月)羽前・羽後の2国に分割。今の山形・秋田両県の大部分。羽州。
  • 庄内 しょうない 山形県北西部、最上川下流の日本海に臨む地方。米の産地として知られる。中心都市は酒田市・鶴岡市。
  • 鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
  • 出羽柵 でわのさく 奈良時代、中央政府の拠点として、今の山形県庄内地方に置かれた城柵。のち今の秋田市内に移され秋田城となる。
  • 城輪柵 きのわのき/きのわのさく 現在の山形県酒田市城輪で発見された古代城柵。奈良時代末期に秋田城から移設された出羽国国府の最終的な所在地として有力な候補となっている(これ以前の所在、歴史は出羽柵を参照)。昭和59年度(1984年)からの保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元され、現在は国指定の史跡「城輪柵跡」として公開されている。
  • [福島県]
  • 会津 あいづ 福島県西部、会津盆地を中心とする地方名。その東部に会津若松市がある。
  • 吾妻山 あずまやま 福島市の西方、福島・山形の県境をなす火山群。最高峰は西吾妻山で、標高2035メートル。磐梯朝日国立公園に属する。
  • 平市 たいらし 現在のいわき市の中北部で、夏井川流域に位置する旧城下町である。1966年10月の大規模合併前には、平市という市であった。旧磐前郡。
  • 磐梯山 ばんだいさん 福島県の北部、猪苗代湖の北にそびえる活火山。標高1819メートル。1888年(明治21)に爆発し、岩屑流が北麓の集落を埋没、渓流をせきとめて桧原・小野川・秋元の桧原三湖と五色沼その他大小百余の池や沼を作った。会津嶺。会津富士。
  • 磐前県 いわさきけん 明治4年7月の廃藩置県により平県が設置。同年11月28日に平県が磐前県と改称。明治9年8月廃され、福島県に合併吸収。白川・石川・田村・菊多・磐前・磐城・楢葉・標葉・行方・宇多各郡を領域とする。
  • [栃木県]
  • 那須火山 → 那須岳
  • 那須岳 なすだけ 栃木県北部、福島県境に近い那須火山帯中の活火山。主峰の茶臼岳は複式成層火山で標高1915メートル。噴火口は2、ほかに多数の小孔がある。山麓には温泉が多い。那須山。
  • 那須火山系 → 那須火山帯
  • 那須火山帯 なす かざんたい 北海道駒ヶ岳に始まり、奥羽地方を貫いて長野県北東部の諸火山に至る火山帯をいった語。八甲田山・蔵王・磐梯山・赤城山などが属する。
  • [栃木県・群馬県]
  • 日光白根山 にっこう しらねさん 栃木県日光市と群馬県利根郡片品村に跨って位置する、標高2578mの活火山。関東最高峰。日光白根山は、日光火山群(男体山・女峰山・赤薙山など)の1つ。その他の白根山と区別するため、日光白根山と呼ばれる。最高峰の奥白根山を中心に、前白根山、五色山などの外輪山を有する複式火山。また、日本百名山に選ばれている名山。
  • [群馬県]
  • 赤城山 あかぎやま 群馬県前橋市北方の複式火山。最高峰の黒桧山は標高1828メートル。榛名・妙義とともに上毛三山の一つ。南東麓に国定忠次ゆかりの忠次温泉がある。あかぎさん。
  • [上総] かずさ (カミツフサの転)旧国名。今の千葉県の中央部。
  • [神奈川県]
  • 相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
  • [伊豆]
  • 伊東 いとう 静岡県伊豆半島東岸の市。温泉を中心とする観光・保養地。人口7万2千。
  • 伊豆の崎
  • 北伊豆
  • 北伊豆地震 きたいず じしん 1930年(昭和5年)11月26日早朝に発生した、直下型の大地震。地元では「伊豆大震災」とも呼ばれる。震源地は静岡県伊豆半島北部・函南町丹那盆地付近。地震の規模を示すマグニチュードは7.3。震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測。
  • 神津島 こうづしま 伊豆諸島の島の一つ。面積は18.48km^2(国土地理院調べ)。東京都神津島村に属する。式根島とは10kmほどしか離れていない。伊豆諸島の有人島としては最も西にある。ひょうたん型をしており天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられる。
  • 新島 にいじま 伊豆七島の一つ。東京都に属する。/伊豆諸島を構成する島の一つであり、東京から南に約160km、静岡県下田市から南東に36Kmの位置にある。東京都新島村。
  • [駿河] するが 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
  • 安倍郡 あべぐん 静岡県にあった郡。1889年の郡制施行により発足した。1896年、当時の有度郡と安倍郡が合併し、拡大した。1924年2月、安倍郡の2町2村が合併して清水市が発足。
  • 慈悲尾村 しいのおむら 現、静岡市慈悲尾。安倍川下流右岸沿いに位置。
  • 椎田
  • [遠州] えんしゅう 遠江国の別称。現在の静岡県西部。
  • 遠州灘 えんしゅうなだ 静岡県の御前崎から愛知県渥美半島の伊良湖岬に連なる海面の称。俗に海上七十五里という。
  • 白羽湊
  • 天竜川 てんりゅうがわ 中部地方南部を流れる川。源を長野県諏訪湖の北西端に発し、南下して静岡県浜松市東部で遠州灘に注ぐ。長さ213キロメートル。
  • 御前崎 おまえざき (1) 静岡県中部、遠州灘と駿河湾との間に突出する岬。御前埼灯台がある。(2) 静岡県中南部の市。茶・イチゴ・メロンの栽培と観光を基幹とする。浜岡原子力発電所がある。人口3万5千。
  • 榛原郡 はいばらぐん 静岡県の郡。遠江国の東端に位置し、近世の郡域は南北に細長く、北は信濃国、東は駿河国志太郡、南は駿河湾および遠州灘、西は北から周知・佐野・城東の三郡に接する。
  • 浜松 はままつ 静岡県西部の市。政令指定都市の一つ。もと徳川家康の居城で、水野・井上氏6万石の城下町。綿織物業、楽器・オートバイ製造業などが盛ん。人口80万4千。
  • 中西川
  • [静岡・山梨県]
  • 富士山 ふじさん (不二山・不尽山とも書く)静岡・山梨両県の境にそびえる日本第一の高山。富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ220メートルほどの火口があり、火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776メートル。史上たびたび噴火し、1707年(宝永4)爆裂して宝永山を南東中腹につくってから静止。箱根・伊豆を含んで国立公園に指定。立山・白山と共に日本三霊山の一つ。芙蓉峰。富士。
  • [長野・新潟県]
  • 信濃川 しなのがわ 長野・新潟両県にまたがる川。本流千曲川は秩父山地に発源し、最大の支流犀川は飛騨山脈に発し、長野市南東部で合流した後、北東に流れ新潟県に入って信濃川と称し、魚野川を合わせて新潟市で日本海に注ぐ。日本で第1位の長流で、長さ367キロメートル。
  • 善光寺地震 ぜんこうじ じしん 弘化4年(1847)3月24日、北信および越後西部の地震。震源は長野市付近。マグニチュード7.4。倒壊2〜3万戸、死者1万人以上。山崩れで犀川が堰き止められ、数十カ村が水没。
  • [佐渡] さど 旧国名。北陸地方北辺、日本海最大の島。新潟県に属する。面積857平方キロメートル。佐州。
  • [越前] えちぜん 旧国名。今の福井県の東部。古名、こしのみちのくち。
  • 日本海 にほんかい アジア大陸の東、朝鮮半島と日本列島との間にある海。面積約100万平方キロメートル。間宮・宗谷・津軽・朝鮮の諸海峡によってオホーツク海・太平洋・東シナ海に通ずる。水深は平均1667メートル、最深部は3796メートル。
  • [能登] のと 旧国名。今の石川県の北部。能州。
  • [石川・岐阜県]
  • 白山 はくさん (1) 石川・岐阜両県にまたがる成層火山。主峰の御前峰は標高2702メートル。富士山・立山と共に日本三霊山の一つ。信仰や伝説で知られる。(2) 石川県南東部の市。金沢平野の手取川扇状地に位置し、南部は白山国立公園の山岳部。金沢市に隣接し、住宅地化が進行。人口10万9千。
  • [岐阜・愛知県]
  • 濃尾平野 のうび へいや 岐阜・愛知両県にまたがる広大な平野。木曾川・長良川・揖斐川などがその間を流れ、下流には輪中が発達。
  • 濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • [三重県・愛知県]
  • 伊勢湾 いせわん 三重県志摩半島と愛知県渥美半島に囲まれた湾。いせのうみ。伊勢海。
  • [河内] かわち (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
  • [京都]
  • 華頂山 かちょうざん (2) 京都東山三十六峰の一つ。(3) 京都知恩院の山号。
  • 将軍塚 しょうぐんづか 京都市東山区華頂山上にある塚。平安遷都の際、京の守護神とし、8尺の土偶に鉄甲を着せ、弓矢を携えさせて埋めたが、事変の起こる前にはこの塚が鳴動したと伝える。
  • 山科 やましな 山科・山階。京都市東部の区。天智天皇山科御陵・山科別院・坂上田村麻呂墓などがある。
  • 談山 だんざん (タンザンとも)多武峰の異称。
  • 石清水八幡宮 いわしみず はちまんぐう 京都府八幡市にある元官幣大社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)・比売神の三座。859年(貞観1)、宇佐八幡を勧請。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神として武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社の称がある。二十二社の一つ。男山八幡宮。
  • [奈良]
  • 多武峰 とうのみね 談武峰・田武峰・塔の峰 奈良盆地南東端にある山。標高608メートル。一説に倉橋山といい、藤原鎌足が山上の藤樹の蔭で中大兄皇子と蘇我氏討伐の謀議を凝らしたので、談山と称したという。山上に鎌足を祀る談山神社がある。だんざん。
  • [紀州]
  • 名草 なぐさ 郡名。現、和歌山市。昭和21年12月21日、南海大地震。市内で震度5。
  • [伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
  • 大湊 おおみなと 三重県伊勢市にある港町。宮川河口に形成された三角州にあり、中世の伊勢湾における商業・海運の中心地であった。
  • [丹後] たんご 旧国名。今の京都府の北部。
  • [摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。
  • 水無瀬 みなせ 摂津国(大阪府)三島郡島本町広瀬の地の古称。後鳥羽上皇の離宮があった。
  • 有馬 ありま 兵庫県南東部の旧郡名、また神戸市北区、六甲山地の北西麓にある温泉地。
  • [高知県]
  • 室津 むろつ 高知県室戸市にある地。室戸岬の北西。土佐日記に見える古代の港。
  • 津呂 つろ 村名。現、室戸市室戸岬町津呂。
  • 室戸岬 むろとざき 高知県の土佐湾東端に突出する岬。奇岩や亜熱帯性植物で有名。近海は好漁場。室戸崎。むろとみさき。
  • 室津川 むろつがわ 河口に室津湊がある。現、室戸市室津。
  • 平等津
  • 浮津 うきつ 村名。現、室戸市浮津。
  • 耳崎 みみざき 現、室戸市津呂の西端。
  • [筑前] ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
  • 糸島 いとしま 郡名。福岡県。怡土郡+志摩郡。県西部。
  • [熊本県]
  • 阿蘇山 あそさん 熊本県北東部、外輪山と数個の中央火口丘(阿蘇五岳という)から成る活火山。外輪山に囲まれた楕円形陥没カルデラは世界最大級。最高峰の高岳は標高1592メートル。
  • [鹿児島・宮崎県]
  • 霧島山 きりしまやま 鹿児島・宮崎両県にまたがる、霧島山系中の火山群。高千穂峰(東霧島)は標高1574メートル、韓国岳(西霧島)は1700メートル。
  • 開聞岳 かいもんだけ 鹿児島県、薩摩半島南東端に位置する二重式成層火山。標高924メートル。鹿児島湾に入る船の目標として、古くから「海門の山」として崇められた。薩摩富士。
  • 百済 くだら (クダラは日本での称) (1) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)




*年表

  • 允恭天皇五〔不詳〕 河内地震。
  • 推古天皇七(五九九) 大地震。
  • 和銅元(七〇八)三月〜五月 駿河国安倍郡慈悲尾村椎田で昼夜一〇〇余回も感震。
  • 天平六(七三四) 畿内七道地震。
  • 弘仁九(八一八) 関東地震。
  • 天長四(八二七) 京都地震。
  • 天長七(八三〇) 秋田地震。
  • 承和八(八四一) 伊豆地震。
  • 嘉祥三(八五〇) 出羽地震。
  • 貞観一一(八六九) 陸奥地震津波。震災に対する天皇ご自責の詔の発布された最後の例。
  • 元慶二(八七八) 出羽、元慶の乱。
  • 元慶二(八七八)八月 鳥海山の神、正三位勲五等から正二位勲三等に陞せられる。
  • 元慶四(八八〇) 出羽柵内の城輪、秋田城内の高清水の二神、昇位。
  • 元慶四(八八〇)五月 赤城山の神の叙位。
  • 元慶六(八八二) 開聞岳活動。火山噴火に対する陳謝・叙位のおこなわれた最後の例。
  • 仁和二(八八六)五月二六日 石清水八幡宮おのずから鳴る。
  • 仁和三(八八七)十月二七日 先皇(陽成天皇)の新陵昼夜鳴動して十余日を経る。五畿七道に大地震。
  • 寛平元(八八九)五月二八日 石清水八幡宮宮殿の鳴動。
  • 承平八(九三八)四月一五日 京都大地震。地震による改元の最初。忠平の摂政時代。五月二二日、年号を天慶と改める。
  • 天慶八(九四五) 性空、霧島山に登る(長門本『平家物語』)。
  • 天禄四(九七三)九月二七日 京都地震。年号が天延と改まる。
  • 天延四(九七六)六月一八日 山城・近江大地震。貞元と改元。
  • 嘉保三(九九六)一一月二四日 畿内大地震。永長と改元。
  • 寛弘三(一〇〇六)二月二日 京都地震。地震占「天文奏」
  • 仁平三(一一五四)一一月一八日 石清水八幡宮の霊廟鳴動。
  • 治承三(一一七九)一一月七日 京都強震。安倍泰親、大胆な放言をして殿上人を縮みあがらせるが、期日を過ぎてもその験がないというので流罪たるべしとの決定。
  • 文治元(一一八五)七月九日 近畿大地震。元暦から改元。
  • 寛元三(一二四五)七月二六日 京都強震。
  • 延元三(一三三八)九月 北畠親房、東北経営のため伊勢の大湊を出帆したが、その十日ごろ上総の地近くで暴風にあい、他の船はおおむね遠州灘で遭難して、義良親王(後の後村上天皇)は元の大湊に、宗良親王は遠州白羽湊に、守良親王は遠く四国に漂着し、親房らだけが常陸に到着。
  • 寛正五(一四六四)四月七日 将軍足利義政が能楽を催している最中に強震。
  • 慶長元(一五九六)閏七月一三日 伏見大地震。文禄から改元。
  • 慶長一六(一六一一)八月二一日 会津大地震。城主蒲生秀行の失政にからみ、失脚の一因となる。
  • 元禄一六(一七〇三)一一月二三日 関東大地震。
  • 宝永四(一七〇七)一〇月四日 東海・南海・東南海連動型地震か。本邦における最大の地震とされるが、改元おこなわれず。
  • 天保元(一八三〇)七月二日 京都大地震。文政から改元。
  • 弘化四(一八四七) 善光寺地震。
  • 安政元(一八五四)一一月四日および五日の東海道および南海道地震津波が嘉永から改元。
  • 明治二四(一八九一) 濃尾大地震。
  • 明治三二(一八九九) 摂津有馬の鳴動。
  • 大正九(一九二〇)以降 紀州名草の鳴動。
  • 大正一二(一九二三) 関東大震災。
  • 昭和二(一九二七) 丹後地震。
  • 昭和五(一九三〇) 北伊豆地震。
  • 昭和五(一九三〇) 伊豆伊東の鳴動。
  • 昭和六(一九三一) 西武蔵地震。
  • 昭和一〇(一九三五)静岡地震。
  • 昭和一九(一九四四) 今村「地震および火山噴火に関する思想の変遷」東大地球物理教室地震学会刊行『地震』所載。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
  • 渡辺先生 → 渡辺譲
  • 渡辺譲
  • 帝国学士院 ていこく がくしいん 1879年(明治12)設立の東京学士会院に代わって1906年設置された、日本の学術に関して最高権威をもつ機関。文部省所轄で、会員定数は100名、終身で勅任官の待遇を受けた。日本学士院の前身。
  • メンデンホール Thomas Corwin Mendenhall 1841-1924 アメリカの物理学者。御雇い外国人として東京帝国大学で物理学を教え、富士山頂での重力測定、地球密度の測定、気象観測などを行う。
  • 渡辺襄 〓 渡辺譲先生の長男。
  • -----------------------------------
  • 伊達先生
  • 須藤理学士
  • 本間君
  • 中牟田
  • 鹿島
  • 金子子爵
  • -----------------------------------
  • 北畠親房 きたばたけ ちかふさ 1293-1354 南北朝時代の公家。鎌倉幕府滅亡後、義良親王を奉じて陸奥に赴く。1339年(延元4)「神皇正統記」を著述。吉野で後村上天皇をたすけて南朝の支柱となる。著はほかに「元元集」「職原鈔」「関城書」など。賀名生で没。
  • 義良親王 のりよし しんのう → 後村上天皇
  • 後村上天皇 ごむらかみ てんのう 1328-1368 南北朝時代の南朝の天皇。後醍醐天皇の第7皇子。母は阿野廉子。名は義良・憲良。1339年(延元4)吉野の行宮で即位後、賀名生・男山・河内観心寺などに移り、住吉行宮に没す。(在位1339〜1368)
  • 宗良親王 むねよし しんのう 1311-? (ムネナガともよむ)後醍醐天皇の皇子。天台座主、尊澄法親王と称。鎌倉幕府倒幕運動に加わり讃岐に流されたが、幕府滅亡後座主に復する。のち還俗。征東大将軍。吉野から東国に下る途中遠江に漂着、信濃など所々に転戦、再び吉野に帰る。「新葉和歌集」を撰し、歌集に「李花集」がある。
  • 守良親王
  • 紀貫之 きの つらゆき 868頃-945頃 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀天皇に仕え、御書所預から土佐守、のち従四位下、木工権頭に至る。紀友則らとともに古今集を撰進。家集「貫之集」のほか「古今集仮名序」「大堰川行幸和歌序」「土佐日記」「新撰和歌」(撰)など。
  • -----------------------------------
  • 張衡 ちょう こう 78-139 後漢の学者。字は平子。河南南陽の人。詩賦をよくし、「両京賦」「帰田賦」は有名。また、天文・暦算に通じ、渾天儀・候風地動儀(一種の地震計)を作り、円周率の近似値を算出。
  • 聖武天皇 しょうむ てんのう 701-756 奈良中期の天皇。文武天皇の第1皇子。名は首。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。(在位724〜749)
  • 嵯峨天皇 さが てんのう 786-842 平安初期の天皇。桓武天皇の皇子。名は神野。「弘仁格式」「新撰姓氏録」を編纂させ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。(在位809〜823)
  • 淳和天皇 じゅんな てんのう 786-840 平安初期の天皇。桓武天皇の第3皇子。名は大伴。西院帝とも。漢詩にすぐれ、「経国集」を良岑安世らに撰進させた。(在位823〜833)
  • 仁明天皇 にんみょう てんのう 810-850 平安初期の天皇。嵯峨天皇の第2皇子。名は正良。御陵に因んで深草帝とも。(在位833〜850)
  • 清和天皇 せいわ てんのう 850-880 平安前期の天皇。文徳天皇の第4皇子。母は藤原明子。名は惟仁。水尾帝とも。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)落飾。法諱は素真。(在位858〜876)
  • 尭舜禹湯
  • 尭舜 ぎょうしゅん 尭と舜。中国の伝説で、徳をもって天下を治めた古代の理想的帝王として並称される。
  • 禹湯 う とう 夏の禹王、殷の湯王。いずれも古代中国の聖王として儒教で並称された。
  • 姫文
  • 湯帝 → 湯王
  • 湯王 とうおう ?-? 殷(商)王朝を創始した王。殷の祖契より14世目。夏の桀王を討ち滅ぼす。亳(河南偃師とする説が有力)に都し、伊尹などを用いた。商湯。成湯。武湯。大乙。
  • 健磐龍命 たけいわたつのみこと 日本神話に登場する人物で、阿蘇神社の主祭神。神武天皇の子である神八井命の子として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。
  • 阿蘇都媛命 → 阿蘇津妃命
  • 阿蘇津妃命 あそつひめのみこと 阿蘇都彦(健磐龍命)の妃神。(神名)
  • 速瓶玉命 はやみかたまのみこと 建磐龍命の子。母は阿蘇都媛。神八井耳命の孫にあたる。崇神天皇の時に阿蘇国造となる(旧事紀、神名)。
  • 緒方氏 おがたし? 九州の豪族。祖先を高知尾の明神とする。
  • 高知尾の明神 たかちお?
  • 性空 しょうくう 917頃-1007 平安中期の僧。京都の人。播磨の書写山に円教寺を開創。多くの貴紳僧俗の帰依を得る。書写上人。播磨の聖。
  • 賀茂氏 かもうじ/かもし 古代より続く日本の氏族。加茂、鴨とも書く。山城国葛野を本拠とし代々賀茂神社に奉斎した賀茂県主は、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とする。賀茂県主は、同じ山城を本拠とする秦氏との関係が深い。賀茂県主の系統には鴨長明、賀茂真淵がいる。
  • 安倍 あべ 安倍・阿倍。姓氏の一つ。古代の豪族。晴明の子孫は陰陽道を家学とし、のち土御門家と称した。
  • 安倍家氏
  • 安倍維範
  • 安倍泰親 あべの やすちか 1110-1183 平安時代後期の陰陽家。生没年は推定及び享年から逆算による。陰陽頭安倍泰長の子で、安倍晴明から5代の子孫にあたる。正四位下陰陽頭兼大膳権大夫に至った。
  • 足利義政 あしかが よしまさ 1436-1490 室町幕府第8代将軍(在職1449〜1473)。義教の子。初め義成。弟義視を養子としたが、義尚が生まれるに及んで義視を疎んじ、応仁の乱の因をつくる。慈照寺(銀閣)を建て、芸術を愛好・保護し、いわゆる東山文化を生んだ。東山殿。
  • 蒲生秀行 がもう ひでゆき 1583-1612 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生氏郷の嫡男。文禄4年(1595年)、父・氏郷が急死したために家督を継ぐ。重臣同士の対立を招いて御家騒動が起こり、慶長3年(1598年)に秀吉の命で会津92万石から宇都宮12万石へと減移封される(蒲生騒動)。
  • 石本博士 → 石本巳四雄か
  • 石本巳四雄 いしもと みしお 1893-1940 東京生まれ。1925年、地震研究所創立とともにその助教授となり、造船学から地震学へ転じた。33年、地震研究所長。地震学史・科学論の研究にも意を用いる。著『科学への道』『学人学語』など。(地学)
  • 藤原忠平 ふじわらの ただひら 880-949 平安中期の貴族。基経の子。醍醐天皇の時代の左大臣。兄時平の後を継いで延喜格式を撰上。朱雀天皇の時、摂政関白・太政大臣。時平・仲平とともに三平と称した。貞信公と諡し、日記「貞信公記」がある。
  • 陽成天皇 ようぜい てんのう 868-949 平安前期の天皇。清和天皇の第1皇子。名は貞明。藤原基経により廃位。(在位876〜884)
  • 藤原基経 ふじわらの もとつね 836-891 平安前期の貴族。長良の子。叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の摂政となったが天皇を廃し、光孝天皇を立てて政務を代行、宇多天皇が即位すると阿衡の紛議を起こし、初めて関白となる。「文徳実録」を撰。世に堀河太政大臣と称。昭宣公と諡す。
  • 藤原鎌足 ふじわらの かまたり 614-669 藤原氏の祖。はじめ中臣氏。鎌子という。中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣に任じられた。天智天皇の時、大織冠。談山神社に祀る。中臣鎌足。
  • 後鳥羽天皇 ごとば てんのう 1180-1239 鎌倉前期の天皇。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。1198年(建久9)譲位して院政。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流(承久の乱)され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。その後、種々の怪異が生じ、怨霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰、配流の後も業を続けて隠岐本新古今集が成った。(在位1183〜1198)
  • -----------------------------------
  • 大森博士 → 大森房吉
  • 大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
  • 允恭天皇 いんぎょう てんのう ?-? 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿祢。盟神探湯で姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に比定される。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)『日本人名大事典』(平凡社)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『三字経』 → 『本朝三字経』か
  • 『本朝三字経』 ほんちょう さんじきょう 江戸時代の児童教訓書。大橋若水著。宋の王伯厚の「三字経」にならって「我日本、一称和、地膏腴、生嘉禾、人勇敢、長干戈」のように、3字を1句として叙述。三字経。
  • 『大学』 だいがく 儒教の経書。もと「礼記」の一編。唐の韓愈、宋の二程子に推重され、朱熹が章句を作って四書の一つとなる。明明徳・新民・止至善の三綱領と格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目を説く。
  • 『李花集』 りかしゅう 南北朝時代の私家集。二巻。宗良親王の詠歌を収める。四季・恋・雑に分類し、899首の親王自身の詠の他、北畠親房などの歌191首も収める。親王が延元2(1337)頃から東国を転戦した時の詠作を集めたもので、最も新しい歌は建徳2(1371)の作。戦乱の経験や勤王の情を切実に詠んでいること、長い詞書が史的資料として価値があることなどの特色がある。
  • 『土佐日記』 とさにっき 日本で最初の仮名文日記。1巻。紀貫之作。土佐国守の任期が満ちて、承平4年(934)12月21日出発、翌年2月16日京の旧宅に入るまでの旅を、女性に仮託して仮名文で書いたもの。
  • 『平家物語』 へいけものがたり 軍記物語。平家一門の栄華とその没落・滅亡を描き、仏教の因果観・無常観を基調とし、調子のよい和漢混淆文に対話を交えた散文体の一種の叙事詩。平曲として琵琶法師によって語られ、軍記物語・謡曲・浄瑠璃以下後代文学に多大の影響を及ぼした。原本の成立は承久(1219〜1222)〜仁治(1240〜1243)の間という。成立過程には諸説あるが、早くから読み本・語り本の系統に分かれて異本を派生したと考えられ、前者には6巻本(延慶本)・20巻本(長門本)・48巻本(源平盛衰記)など、後者には12巻本に灌頂巻を加えた覚一本・流布本などがある。治承物語。平語。
  • 『法華経』 ほけきょう (1) 正法華経・妙法蓮華経・添品妙法蓮華経をいう。一般に、妙法蓮華経の略称。
  • 『妙法蓮華経』 みょうほう れんげきょう (1) 大乗経典の一つ。406年鳩摩羅什の訳。8巻。28品より成る。二乗作仏ならびに釈尊の久遠成仏を説き、諸大乗経中最も高遠な妙法を開示したという経。天台宗・日蓮宗で所依とする。法華経。(2) 題目「南無妙法蓮華経」の略。
  • 『公羊伝』 くようでん 「春秋」の注釈書。春秋三伝の一つ。11巻。公羊高の伝述したものを、その玄孫の寿と弟子の胡母生らとが録して一書としたものとされる。
  • 『宿曜経』 すくようきょう 唐の不空が訳した密教経典。2巻。七曜・十二宮・二十八宿(2) の関係と人の生日とによって一生の運命を占い、日々の吉凶を知る法を説く経典。
  • 天鏡経
  • 『増訂大日本地震史料』
  • 雑誌『地震』 東大地球物理教室地震学会刊行。昭和十九年。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)



*難字、求めよ

  • 竹片 ちくへん 竹のきれはし。
  • 対蹠 たいせき/たいしょ (タイセキの慣用読み)ある事に対して反対であること。正反対。
  • 恩賜賞 おんししょう 皇室の下賜金で日本学士院・日本芸術院から、学士院賞・芸術院賞の受賞者で特に優れた者に与えられる賞。
  • 金牌 きんぱい 金製または金めっきの賞牌。金メダル。賞牌の第1。
  • -----------------------------------
  • 地磁気 ちじき 地球の持つ磁気と、それによって生じる磁場との総称。磁針が地球のほぼ南北を指す原因。偏角・伏角・水平磁力を地磁気の3要素という。地磁気の発生は、地球の中心部の外核に起因する。地球磁気。
  • 裨益 ひえき おぎない益すること。たすけとなること。役に立つこと。
  • 兵児帯 へこおび 男子または子供のしごき帯。もと薩摩の兵児が用いたからいう。
  • 敗亡 はいもう 廃忘・敗亡。(1) 忘れ去ること。(2) うろたえること。困ってあわてること。
  • 時辰儀 じしんぎ 時計の古称。
  • 短冊箱 たんざくばこ 短冊を入れる箱。短冊。たんじゃくばこ。
  • 等比級数 とうひ きゅうすう 〔数〕等比数列の各項を順に加えた形の級数。幾何級数。
  • 大悟 だいご (タイゴとも)〔仏〕迷いを去って真理を悟ること。大いなる悟り。
  • 贓物 ぞうぶつ 窃盗など財産に対する罪に当たる行為によって得た財物で、被害者が法律上の回復追求権をもつもの。贓品。ぞうもつ。
  • 郤けた 卻(しりぞ)けた、か。
  • -----------------------------------
  • 舟師 しゅうし 水軍。海軍。ふないくさ。
  • 遡航・溯航 そこう 水流をさかのぼって航行すること。
  • 潟港 潟口(かたこう)か。河口の島や砂州で囲まれて湾になっている所。
  • -----------------------------------
  • 迂余曲折 紆余曲折。
  • 地動儀 ちどうぎ 世界最古(AC132年ごろ)につくられたといわれる地震計(感震器)。候風地動儀といわれ、後漢時代、張衡がつくったとされる。書物にあるだけで実物も図面も残されていない。地震の際、上にある八方向の竜の口から下の八匹の蛙のいずれか(地震の方向?)の口に玉が落ちる仕組みになっていたとされる。(『地震・火山の事典』
  • 陰陽五行説 いんよう ごぎょうせつ 古代中国に起源をもつ哲理。一切の万物は陰・陽二気によって生じ、五行中、木・火は陽に、金・水は陰に属し、土はその中間にあるとし、これらの消長によって天地の変異、災祥、人事の吉凶を説明する。
  • 卜占 ぼくせん うらない。占卜。
  • 祈祷 きとう 神仏にいのること。呪文をも含めてすべての儀礼の要素中、言語の形をとるもの。原始的には、対象や内容について別に限定なく、宗教的経験が自然に発露する独白のようなもの。
  • 修法 しゅほう (スホウ・ズホウとも)密教で、加持祈祷などの法。壇を設け、本尊を請じ、真言を唱え、手に印を結び、心に本尊を観じて行う。祈願の目的によって修行の形式を異にし、息災・増益・降伏・敬愛などに分類され、本尊も異なる。密法。秘法。
  • 暦算 れきさん 暦学と算術。日月星辰の運行をみて暦を定めるが、それには算術に長ずることが必要であることから両者をあわせていう。また、こよみに関する算法、教理。
  • 占術 せんじゅつ 自然的または人為的現象を観察して、将来の出来事や運命を判断・予知しようとする方術。受動的な点が呪術と異なる。うらない。
  • 大祓 おおはらえ 古来、6月と12月の晦日に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢を祓った神事。現在も宮中を初め全国各神社で行われる。中臣の祓。みそぎはらえ。おおはらい。
  • 奉幣 ほうへい (ホウベイとも)神に幣帛をささげること。
  • 賑恤 しんじゅつ 貧困者・罹災者などを救うために金品を施与すること。
  • 大赦 たいしゃ (1) 古代の律の赦の一種。全国的にほとんどの罪人を赦免すること。←→曲赦。(2) 恩赦の一種。政令で定めた罪に対する刑罰の執行を赦免すること。まだ刑の言渡しを受けていない者については公訴権が消滅する。
  • 天譴 てんけん 天のとがめ。天罰。
  • 這般 しゃはん (「這」は「これ」の意)これら。かよう。また、このたび。今般。
  • 兆庶 ちょうしょ (「兆」も「庶」も多くの民の意。)人々。民衆。
  • 国吏 こくり 国家の役人。官吏。
  • 夷俘 いふ 「俘囚」参照。
  • 俘囚 ふしゅう (1) とらわれた人。とりこ。俘虜。(2) 朝廷の支配下に入り一般農民の生活に同化した蝦夷。同化の程度の浅いものは夷俘と呼んで区別。
  • 一視同仁 いっし どうじん [韓愈、原人]親疎の差別をせず、すべての人を平等に見て仁愛を施すこと。
  • 早殷
  • 地震占
  • うしはく 領く 自分のものとして領有する。
  • 菜花状噴煙
  • 奔電 ほんでん いなずま。また、いなずまが空中をかけぬけること。
  • 疏生 そせい?
  • 閃電 せんでん ひらめくいなずま。
  • 封戸 ふこ (フゴとも)古代、食封の対象となった戸。大宝令で完成し、皇族や高官などの位階・官職・勲功に応じて支給した。その戸からの租の半分と庸・調の全部を被給者の収入とする。位封・職封・功封の別があった。
  • 官社 かんしゃ (1) 神祇官の神名帳に記載され、祈年祭の幣帛を受けた神社。官帳社。式内社。(2) 官幣社と国幣社との総称。←→民社。
  • 陰陽寮 おんようりょう 律令制で、中務省に属し、天文・気象・暦・時刻・卜占などをつかさどった役所。陰陽頭のもとに、陰陽博士・暦博士・天文博士・漏刻博士などで編成。おんようのつかさ。うらのつかさ。
  • 天文奏 てんもんそう → 天文密奏
  • 天文密奏 てんもん みっそう 天象を観測して異常があったとき、天文博士がその記事を密封して奏聞すること。
  • 奎宿 けいしゅく/とかきぼし 二十八宿の一つで、西方白虎七宿の第1宿。
  • 柳宿 りゅうしゅく/ぬりこぼし 〔天〕二十八宿の一つ。海蛇座の北端。柳(りゅう)。
  • 内経 ないきょう 仏教の典籍。内典。
  • 孟月 もうげつ (「孟」は初めの意)四季のはじめの月。孟春・孟夏・孟秋・孟冬の総称。
  • 星宿 せいしゅく (1) 星座。ほしのやどり。→二十八宿。(2) 「ほとほりぼし」に同じ。
  • 二十八宿 にじゅうはっしゅく (1) 黄道に沿って、天球を28に区分し、星宿(星座の意)の所在を明瞭にしたもの。太陰(月)はおよそ1日に1宿ずつ運行する。中国では蒼竜(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の4宮に分け、さらに各宮を七分した。東は角・亢・�・房・心・尾・箕、北は斗・牛・女・虚・危・室・壁、西は奎・婁・胃・昴・畢・觜・参、南は井・鬼・柳・星・張・翼・軫。(2) (1) のうち、牛宿を除いた二十七宿を月日にあてて吉凶を占う法。宿曜道の系統の選日。
  • 星宿 ほとほりぼし 二十八宿の一つ。海蛇座の中央部。星(せい)。
  • 火神動
  • 水神動
  • 竜神動
  • 金翅鳥動
  • 金翅鳥 こんじちょう 迦楼羅の別称。
  • 帝釈動
  • 帝釈天 たいしゃくてん 梵天と共に仏法を護る神。また十二天の一つで東方の守護神。須弥山頂の�利天の主で、喜見城に住むとされる。インド神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。天帝釈。釈提桓因。
  • 天王動
  • 占勘
  • 殿上人 てんじょうびと 昇殿を許された人。四位・五位以上の一部および六位の蔵人が許された。堂上。雲客。雲のうえびと。うえのおのこ。うえびと。←→地下人。
  • 晏如 あんじょ やすらかで落ち着いたさま。
  • 内膳司 ないぜんし 律令制で、宮内省に属し、天皇の食事の調理・試食をつかさどった役所。長官は二人で奉膳といい、高橋・安曇両氏の者が任ぜられ、他氏が長官の場合は内膳正を称した。その下に典膳・膳部などがいる。うちのかしわでのつかさ。
  • 地鳴り じなり 地震の前後または震動に伴う一種の音響。ちめい。
  • 前表 ぜんぴょう 前兆。先表(せんぴょう)。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、勝又護(編)『地震・火山の事典』(東京堂出版、1993.9)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 新野直吉 (1) 『古代東北史』(吉川弘文館、1978.6)、(2) 『ジュニア版 古代東北史』(文献出版、1998.3)、(3) 『古代東北と渤海使』(歴史春秋社、2003.1)、寒川旭『秀吉を襲った大地震』(平凡社新書、2010.1)読了。

 915(延喜15) 十和田湖、大噴火。
 946〜947 白頭山(中国名、長白山)、大噴火。

 新野直吉は貞観地震津波(869)と鳥海山噴火(871)には言及しているが、つづく十和田湖噴火と白頭山噴火にはふれていない。『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)などを見ると、2つの火山噴出物(テフラ)は北日本の広範囲に確認されており、地学や考古学の分野では年代指標とされていることがわかる。
 少なくとも執筆当時、新野はそのことに気がついていなかった可能性が高い。なお、907年に唐が亡び、918年に高麗が建国、926年に契丹が渤海を滅ぼし、935年に新羅が亡び、高麗が朝鮮統一。
 
 新野 (3) によれば、渤海使の日本来航は727年にはじまり、919年に終わる。その間、初期795年までの応対は出羽国・秋田城が担当し、746年には1000人レベルで来航し、帰化を願うも送り返されている。

 同じく新野 (3) は「そうぜん」と呼ばれる馬神信仰が東北の北部三県に残ることを指摘。北方ルートでの往来の可能性を示唆。

【メモ】
 1.十和田湖噴火と安倍氏の勢力圏(奥六郡)について。
 2.鳥海山の噴出物について。(降灰少、ガス多?)
 3.当時の日本・東北アジアの平均気温。(海岸線・稲作適地)
 4.喜田貞吉ほかの歴史学に地震・火山の論考を探すこと。
 5.清河八郎の逃亡先としての三陸。地名「月山」のこと。




*次週予告


第四巻 第一〇号 
土神と狐/フランドン農学校の豚 宮沢賢治


第四巻 第一〇号は、
一〇月一日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第九号
地震の国(六)今村明恒
発行:二〇一一年九月二四日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
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  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
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  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
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  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
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  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
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  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎

      あどけない話

    智恵子は東京に空がないという、
    ほんとの空が見たいという。
    私はおどろいて空を見る。
    桜若葉の間にあるのは、
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながらいう。
    阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
    毎日出ている青い空が
    智恵子のほんとの空だという。
    あどけない空の話である。


      千鳥と遊ぶ智恵子

    人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
    砂にすわって智恵子は遊ぶ。
    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
    千鳥が智恵子によってくる。
    口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
    両手をあげてよびかえす。
    ちい、ちい、ちい―
    両手の貝を千鳥がねだる。
    智恵子はそれをパラパラ投げる。
    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    人間商売さらりとやめて、
    もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
    うしろ姿がぽつんと見える。
    二丁も離れた防風林の夕日の中で
    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
     わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
    (略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
     松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
     新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
     私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
     暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
     九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
    (略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
     右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
    地震雑感
     一 地震の概念
     二 震源
     三 地震の原因
     四 地震の予報
    静岡地震被害見学記
    小爆発二件
     震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
     しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
     これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
     問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
     地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
    自然現象の予報
    火山の名について
     つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
     地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
     地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
     地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
     さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

     皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
     これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

     山また山の山城川を
     御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
     うるわしの奈良山をすぎ
     青山のかこんでいる大和をすぎ
     わたしの見たいと思うところは、
     葛城の高台の御殿、
     故郷の家のあたりです。

     かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。
  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

     天皇〔顕宗天皇〕、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊に仇(あだ)をむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵を毀(やぶ)ろうとお思いになって人を遣わしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりに毀してまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵のそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘り壊(やぶ)りました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにお壊りなさいましたか?」とおおせられましたから、「御陵のそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵をことごとく壊すべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上の仇をその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさった天皇でありますのを、今もっぱら父の仇ということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵をことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上の仇は報(むく)いないではいられません。それであの御陵の辺りを少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。
  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦

     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子

     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)
  • #6 地震の国(三)今村明恒

     一七 有馬の鳴動
     一八 田結村(たいむら)の人々
     一九 災害除(よ)け
     二〇 地震毛と火山毛
     二一 室蘭警察署長
     二二 ポンペイとサン・ピエール
     二三 クラカトアから日本まで

     余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

    「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

     この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
     大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。 (「二一 室蘭警察署長」より)
  • #7 地震の国(四)今村明恒

     二四 役小角と津波除(よ)け
     二五 防波堤
     二六 「稲むらの火」の教え方について
      はしがき
      原文ならびにその注
      出典
      実話その一・安政津波
      実話その二・儀兵衛の活躍
      実話その三・その後の梧陵と村民
      実話その四・外人の梧陵崇拝
     二七 三陸津波の原因争い
     二八 三陸沿岸の浪災復興
     二九 土佐と津波

     天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識りが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
     役小角はおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。(略)
     この行者が一日、陸中の国船越浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのち戒めて、「卿らの村は向こうの丘の上に建てよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡に魅せられた里人はよくこの教えを守り、爾来千二百年間、あえてこれに背くようなことをしなかった。
     そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもって数うべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。 (「二四 役小角と津波除け」より)
  • #8 地震の国(五)今村明恒

     三〇 五徳の夢
     三一 島陰の渦(うず)
     三二 耐震すなわち耐風か
     三三 地震と脳溢血
     三四 関東大震火災の火元
     三五 天災は忘れた時分にくる
       一、天変地異と天災地妖
       二、忘と不忘との実例
       三、回向院と被服廠
       四、地震除け川舟の浪災
       五、噴火災と凶作
     三六 大地震は予報できた
     三七 原子爆弾で津波は起きるか
     三八 飢饉除け
     三九 農事四精

     火山噴火は、天変地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れているばあいは、災害はわりあいに軽くてすむが、必ずしもそうばかりではない。わが国での最大記録は天明の浅間噴火であろうが、土地ではよくこれを記憶しており、明治の末から大正のはじめにかけての同山の活動には最善の注意をはらった。(略)
     火山は、噴火した溶岩・軽石・火山灰などによって四近の地域に直接の災禍をあたえるが、なおその超大爆発は、火山塵の大量を成層圏以上に噴き飛ばし、たちまちこれを広く全世界の上空に瀰漫させて日射をさえぎり、しかもその微塵は、降下の速度がきわめて小なるため、滞空時間が幾年月の久しきにわたり、いわゆる凶作天候の素因をなすことになる。
     火山塵に基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滞する微塵、いわゆる乾霧によって春霞のごとき現象を呈し、風にも払われず、雨にもぬぐわれない。日月の色は銅色に見えて、あるいはビショップ環と称する日暈を見せることもあり、古人が竜毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏気温の異常低下は当然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
     最近三〇〇年間、わが国が経験したもっとも深刻な凶作は、天明年度(一七八一〜一七八九)と天保年度(一八三一〜一八四五)とのものである。前者は三年間、後者は七年間続いた。もっとも惨状を呈したのは、いうまでもなく東北地方であったが、ただし凶作は日本全般のものであったのみならず、じつに全世界にわたるものであった。その凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあったこと、贅説するまでもあるまい。
     世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、おそらく火山塵に基因する世界的飢饉であろう。 (「噴火災と凶作」より)

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