今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


◇参照:Wikipedia、『日本人名大事典』(平凡社)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Imamura_Akitsune.jpg」より。


もくじ 
地震の国(五)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の国(五)
  • 三〇 五徳の夢
  • 三一 島陰の渦(うず)
  • 三二 耐震すなわち耐風か
  • 三三 地震と脳溢血
  • 三四 関東大震火災の火元
  • 三五 天災は忘れた時分にくる
  •   一、天変地異と天災地妖
  •   二、忘と不忘との実例
  •   三、回向院と被服廠
  •   四、地震除け川舟の浪災
  •   五、噴火災と凶作
  • 三六 大地震は予報できた
  • 三七 原子爆弾で津波は起きるか
  • 三八 飢饉除け
  • 三九 農事四精

オリジナル版
地震の國(五)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html
NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震の国(五)

今村明恒

   三〇 五徳の夢


 題して五徳という。読者は、ただちにかの火鉢の中に蟠踞ばんきょし、シュンシュンとたぎる鉄瓶の下の鉄輪を連想されるかもしれないが、ただし、ここにいう五徳はそんな風雅な心から取ったのではない。
 それでは、子貢しこうが孔夫子を評した温良きょう謙譲けんじょうの徳か、それとも兵家へいかのいう智信仁勇厳かといわれるかもしれないが、決してそんな鹿爪しかつめらしいものでもない。
 時は今を去ること五十年、美濃・尾張両国を中心とした大地震があった。これは、われわれの仲間では濃尾大地震として日付ぬきに通用するものであり、名前を聞いただけで、「ああ、あの欧米から無条件に輸入したレンガ構造や鉄橋がメチャメチャにつぶれて、その非耐震的ぶりを如実に暴露したあの地震か。」と来るのだが、ただし、近ごろの学生にはそれがそのとおり通用しないらしい。筆記したのを見ると、濃飛大地震となっているのもあれば、濃美大地震となっているのもある。
 それはとにかく、わが大和民族は外来物をたちまち同化し得る特性を持っている。能力を持っている。
 セメントは右の震災直後、たちまち改良された。製造調合の仕方や塗り方の方式が樹立された。現今、本邦の生産品中、世界一を誇り得べきものは数々あるが、セメントのごときもまたその一つである。サンフランシスコの金門橋が架けられるとき、負け嫌いなヤンキー技師は、オレゴン産と称して本邦産のセメントを使ったという話があるが、べらぼうなことには、上海あたりで日本軍を悩ましたトーチカが、いずれも本邦産セメントをもって作られたのであったということだ。
 耐震構造はこうしてしだいに普及しつつあったのだが、ただし大正十二年(一九二三)関東大震災は、それだけでは不十分であることを教えた。木造は燃えやすい。土蔵は破れた屋根や亀裂した壁を通して火を引く。窓ガラスは火に溶けやすい。否、それどころではない。大地震にはビクともしなかった鉄骨構造すら、鋼鉄の柱がむきだしになっていたばかりに、燃える隣家の火熱のためにあめのようにグシャグシャにつぶれてしまった。爾来じらい、耐震構造という常套語じょうとうごは耐震火構造と改名しなければならなくなったしだいである。
 昭和八年(一九三三)の三陸津波は、われわれにいま一つ新たな課題を提供した。
 このとき、波高五メートル以上になったところでは、木造家屋は平家はもとより二階建てまで流れ出し、金庫がクラゲのように漂流するなどの奇観を呈したが、この間にあってただひとり泰然として微動だもしないものがあった。それは、鉄筋コンクリート造である。しいていえば、奔馳ほんちする船舶のために多少の損害がないでもなかったが、それもかすり傷の程度にすぎなかった。
 もし、普通の鉄筋コンクリート造を海からの破壊力に十分にたえるように補強し、かつその基礎が流水のためにゆるがぬように築造されたならば、それは耐浪建築だといってもさしつかえなかろう。浪災のおそれある都会の海岸通りに、かような建物を並べることは浪災予防の一方法と考えられる。
 昭和八年(一九三三)の津波についで襲って来たのが翌年の室戸台風であった。
 このときの災害は、主として風災と、平らな海岸の都会地における浪災とであった。耐震構造はおおむね耐風構造であり、浪災防止上の問題はすでに解決していたから、この時ばかりは新たな課題など現われまいと思っていた。ところが事実はそうでない。
 余は災後、問題の海岸地方を見舞った。大阪は港区や大正区などの惨状を、最初はむしろ平静な気持ちで視察して歩いていた。ただし、だんだんと真相をつかむにつれ、殊に空想がある一点に逢着ほうちゃくしたとき余は愕然がくぜんとした。そして考えるのであった。

「今回の高潮は、宝永・安政の地震津波にくらべてははるかに小さく、海岸でさえ平水上四メートル以下であって、旧市街地では橋一つ落ちず、たいした損害もなかったのだが、それでも、ここ新市街地、広袤こうぼう一里に三里の街衢がいくは全然水浸しになったではないか。過ぐる安政の津波は、安治川あじかわ口・木津川きづがわ口から侵入した潮の高さが路面上一丈あまりにおよび橋梁二十五を墜落せしめたといい、宝永のときは、まず地震のために全市の棟数の百分の六を倒して七〇〇余名を即死せしめたうえ、両方の川口から侵入した津波は安政度の二倍程度であったらしく、墜落せしめた橋の数六十一、川沿いの家六〇〇余軒を破壊し、市民五四〇名を溺死せしめたといい、その他、船舶船員の損失は数えきれなかったというではないか。今回はこの程度ですんだが、もしそれが安政津波の程度、否、宝永度の程度であったらどうであったろうか。そしてこの新市街地に住む八十五万の人たちの運命ははたしてどうなったであろうか。

 余が足はたちまちそこに釘づけにされた。呻吟しんぎん多時、ようやく一案が浮かんできた。この案はやがて増訂洗練されて震災予防評議会案となった。当該地方官憲の意見もこれに一致した。
 その要点は、小学校建築を耐震火兼耐風浪として、可憐かれんな児童を護るのみならず、非常時においては、これら児童の家族の避難所にも兼用しようということにあるのだ。
 工事は著々進められ、昭和十一年度(一九三六)には過半成就していた。ただし遺憾いかんなことには、今回の事変のために工程が停頓ていとんの状態になっているようである。
 事変は、われわれにいま一つ重大な課題を追加した。言うまでもない。空襲に備えよということである。
 われわれの震火浪風にたえる大建築物は、外国における在来の脆弱な建物とはちがい、焼夷弾や爆弾に対しても格段な抵抗能力を発揮すべきはずである。もしこれに多少の補強施設をしたならば、その程度に相当する耐弾能力を増加するにちがいない。たとえば、誰やらが唱えたように地階側面や屋上の床を特別に分厚にするような方法でもよいと思うが、もしさらに最上層に一時的な砂層を設けることができるならば、戦時には耐弾構造となり、平時には完全な耐震構造に還元することができて、一挙両得というべきであろう。
 耐震火浪風弾、ていねいにいえば耐震・耐火・耐浪・耐風・耐弾の五徳を兼ね備える構造などというものは、はたして痴人の夢にすぎないであろうか。

   三一 島陰のうず


 家を流され、親兄弟を失った遭難者の群れは、命からがら山野に逃げ迷いながら、黒船難破の窮状を認めるや否や、われを忘れておどり上がり、いっせいに手をたたいて歓呼かんこの声をあげたという話がある。嘘のようだが事実らしい。不人情のようだが敵愾心てきがいしんの発露だと解されないこともない。
 右は、安政元年(一八五四)十一月四日、東海道沖大地震津波のとき、伊豆下田しもだにおいて展開された一光景である。そしてその黒船とは当時、港内に停泊していた露国軍艦ディアーナ(長さ四十間、幅八間、砲六十門、乗組員五〇〇人)のことである。
 当時、わが国では鎖国の夢がまだ覚めきらないのに、列国はきそって修好をせまっていた際だから、国民が彼らをかく白眼視したのも時の勢いであった。
 他方、黒船の方はどうであったか。それは二、三船員の物した遭難記につまびらかであるが、もし先に悪声をはなった人々がこれらの文献を一読したならば、おそらく自己の偏見をさとり、船員に対して同情の念を深めたであろう。
 それはこうである。提督プチャーチンの指揮はよく行きとどき、部下もまた沈着に働いて危難の中にも博愛の精神を失うことなく、危険をおかしてまでも遭難邦人三名を救い上げた。そのうえ、二、三船員の書いた観察記事は綿密で正確であると称してよい。余はむしろ船員に敬意を表し、津波研究に関する無二の好資料を遺してくれたことに対して感謝しないではおられないものである。
 余は今、この活劇の詳細を語る余裕をもたない。ただ簡単にその筋書きだけを述べたいと思う。
 まず解説すべきは、下田の山海とそこに一進一退をくり返した津波とである。
 試みに「舟」の字を想像しよう。この文字は六画でできているが、終画の横線をはぶくと、それが舞台の要点を彷彿ほうふつさせる。すなわち第一画の「ノ」は稲生沢川いのさわがわ下田町しもだまちとにあたり、第二、三画は下田港を抱き、第四、五画の二点は上すなわち北の方が小さな�鳩みさご島に、下すなわち南の方がやや大きい犬走いぬはしり(径約一〇〇メートル)にあたる。もし第二、三画の先端をつらぬく線を軸として、地を北下りに傾けたとしたならば、海水は陸地へ侵入するであろうが、これが第一画をひたす程度で止めておいて、今度は反対に南下りに傾け、海水がしだいに引き返して�鳩島まで干上がる頃合いで止めておく。
 以上は下田津波の一進一退をしめす雛形ひながたである。大地震のおこったのは午前九時ごろで、十時ごろには第一の津波(一の潮)が現われ、爾後、約四十分の周期で上記のような動揺をくり返すこと六、七回、なかんずく二の潮、三の潮はもっとも大きく、これがために下田一〇〇〇余戸はほとんど全部押し流され、一二三名の流死者を生じたのである。
 当時、露艦は第二画の端近い和歌の浦に投錨とうびょうしていた。もし、かのゆるい長い大震動を感じたとき、すぐ沖合い数キロメートルの外に出てしまったならば安全であったろうが、ただし、彼らは盲蛇めくらへびのように動じなかった。そして、われわれにとって最も貴重な文献を遺すべく遭難してくれたのである。
 船は一の潮では無難であったが、二の潮で犬走島の南を通って�鳩島の方へと流された。すぐ第二、第三のいかりを投げ入れたが、それでも停船しなかった。つぎにその引き潮で犬走島のこちらまで戻されたが、この際、島陰にできていたうずに巻き込まれてかじと竜骨とを折り、船腹に大穴を開けてそこに横倒しになった。大砲は無論緊縛きんばくしてあったが、その一つは綱を切断して転落し、いきなり数名を殺傷する。ついで三の潮がきて今度は�鳩島近くまで流され、引き潮でいま一度横倒しとなった。かような漂流・横転をくり返すこと五、六回、しかも海水はどしどし船倉内に侵入するから、ポンプ班は働き続ける。前後五、六時間、ついに彼らは死闘し抜いたのである。そのうえに気温気圧、風向風速は定時に観測し、水深は間断なく測るというしだい。おかげで�鳩島のあたりでは、津波の最高水位が平水上六メートル程度であったことが推定される。
 なお二、三特筆すべきことがある。
 一士官は一の潮が下田に侵入する状を望見して、町全体が海に沈んでいくのではないかと思われたといい、また、引き潮があまり急なので、海底が降起してきたように錯覚したといい、きわめて妥当な観察を下している。また、本船に激突して難破した和船から二人を救い上げたが、残り数名が救助をがえんじなかったのを残念がり、これは許可なしに外舶に乗るなという国禁を犯すよりも、死を選んだのだという理解ある見方をしている。右につき想いおこすのは吉田松陰の犯禁事件であるが、場所は同じ、時は半年ほど前であったのである。
 ただし、黒船の遭難記において最もめざましい場面は、大渦流に巻き込まれたときである。それは二の潮の引くにつれ、�鳩島沖から犬走島の陰にくる間のことであって、船は渦とともに、最初はゆるやかな左回りに、そして犬走島の陰にきて急激に右回りに、かの巨体をプロペラのように回転さしたのである。

注 石油発動機船の煙突がはきだすうずは渦として完全なものだが、われわれが水面で見る渦はかような完生な渦を半折した断面である。液面に現われる一対の渦のうち、一つは右回りで他が左回りであることは断わるまでもあるまい。このことは、浴湯なり、あるいは茶碗内の飲料なりをひとかきして実験してみることによってもよくわかる。太陽の黒点もかような渦だといわれている。

 露艦のプロペラのような回転につき、甲士官は三十分たらずの間に六、七十回を数えたといい、乙は四十三回をくだらなかったと書いている。後者は錨索びょうさくのねじれ方から推定したらしいから、甲乙両立し得るはずである。さすれば引き潮に要する二十分間に六、七十回回転したことになる。全員めまいして直立し得るもの一人もなかったというが、そうであったろう。じつに島陰のうずは、すばらしい曲者くせものであったのである。

   三二 耐震すなわち耐風か


 昭和九年(一九三四)の室戸台風は、関西地方に大損害をあたえ、工商農各方面の被害数億円を算するに至ったが、特に心をいたましめたのは、多数の小学校を倒壊させて、数百、数千の可憐かれんな児童をその犠牲としたことである。
 これにつき想いおこすのは、大正十四年(一九二五)五月二十三日の但馬地震である。このとき、多数の木造小学校が倒壊したため、われわれはこれを小学校地震と呼んだくらいである。運悪く授業中の出来事であったために、多数の圧死者を出したしだいであるが、その数、たとえ室戸台風のばあいには遠くおよばぬとしても、世の同情を集めるには十分であった。震災予防調査会はこれにかんがみて、『木造小学校建築耐震上の注意』という小冊子をえらんでこれを当局大臣に進達し、同種小学校新築のばあいには、該書の示す手法にしたがって造営し、また既設のものに対しては、その基準に照らして検査し、欠陥の箇所は、その示す補強手法にしたがって補修するようにと希望するところがあった。
 この注意書は、文部当局において真剣に取り扱われた。すなわち、その全文ならびに付図を『文部時報』第一八六号付録として掲げたのみならず、関屋普通学務局長から各地方長官へあてて通牒つうちょうを発し、校舎営繕えいぜんなどの場合における大切な参考資料として推奨し、かつ、この次第を管下関係者へも示達せられるよう要求されたのである。
 この注意書の趣旨は、少なくも大阪市においてはよく徹底していた。すなわち同市においては、右に準拠して、土地の実状に適すべき規準を新たに定め、昭和二年(一九二七)以来これを実施しているのである。その規準の要点はおおむね次のとおりである。

一 柱は大部分を通し柱とし、管柱くだばしらはなるべく使用しないこと。
二 水平架構すなわち土台・胴差どうさしけたなどにはひうち材を入れること。
三 柱とはりには斜材をもちい、すべて小屋梁にははさ筋違すじかいを入れ、二階梁は合わせ梁とし、この部分の筋違すじかいは真に入れること。(教室の天井は折り上げとし、斜材が隠れるようにする。
四 壁体の開孔ならざる部分には筋違すじかいを入れること。

 その他、接合部は、おび鉄物・羽子板はごいた鉄物・ボルトなどをもって補強し、やむを得ず管柱くだばしらを使用するときは、かならずえ柱をあて、また陸梁ろくばり二階梁の部分には水平にボルトを十文字にはり、屋根の張間の大きなものになると、軽量な石綿盤を使用することにしてあるなど、よく行きとどいた補強方法と称すべきである。しかもその補強装置のため、べつだん多額の費用を要するわけでもなく、わずかに建築費の四分五りんを占めるにすぎないとのことだから、他の地方においても真似まねられない程度のものでもない。
 元来、耐震と耐風とは、その構造の要点において共通なものがある。基礎はもとより、軸部を堅牢けんろうにすることなど、特にそうである。ただ耐震の目的のためには屋根を軽くせよというかわりに、耐風のためには小屋組と軸部との結束をいっそう固くせよと要求し、したがって多少重量を増すこともあろうし、また、耐震にはさほど考慮を要しない外壁や窓に対しても、風圧にたえるだけの注意は払わなくてはなるまい。しかしながら、それらは家屋全体から見れば枝葉末節にすぎないので、その根幹においては耐震すなわち耐風だといってよいであろう。あるいは逆に耐風すなわち耐震ともいえるであろう。
 耐震と耐風とがかく密接な関係にあることは、大阪市当局においてもとうに認められていた。現に上記の木造小学校構造規準案には「大阪市木造校舎建築耐震・耐風的手法」とせんしてあるが、実質的には基礎軸部および小屋組の結束に関する補強方が強調してあるだけで、屋根や外壁に対する風圧の関係には論及してないぐらいである。そして昭和二年後において建築された校舎は、まずこの案に準じ、同四年後においてはこの案にしたがって建築されたしだいである。
 かくてこれらの新旧各種の小学校舎が室戸台風の試練に出会ったわけだが、旧設校舎の約半数が倒壊したにかかわらず、鉄筋コンクリート造三十一棟、規準案による一一四棟は全部無難であって、準規準案による一一九棟のうち、わずかにその五分五りんだけが倒壊したという好成績を示したのである。
 震災予防調査会注意書は、前に記したとおり、いま一つ重要な事項を含んでいる。すなわちそれは、旧造校舎の補強方法に関するもので、つぎのとおり要約してある。

 一般に小学校管理者は、校舎の構造を精密に検査し、新築のばあいに対する注意書に比較して不完全なる部分あらばこれを補強すべく、特につぎの事項に注意すべし。

一 小屋梁および二階梁と柱との接合、方杖ほうづえ鉄物などをもちいてこれを補強すること。
二 柱の補強 通し柱・管柱くだばしらともに階の上下にまたがりて適当なる長さの添え木、添え鉄物をあて、ボルト締めとなし補強すること。
三 斜材 壁体はもちろん、縦横材間においても、なるべく筋違すじかい方杖ほうづえのごとき斜材を新たに加え、できうるかぎり多くの三角形を構成すること。
四 講堂、雨天体操場、ひかえ所に対する補強 講堂・雨天体操場・控え所または連続せる教室を講堂に兼用するものなど、大なる室にありては、外壁適当なる箇所に添え柱あるいは控え柱を新たに設け、室のひずみに備うること、梁と柱との接合または柱の大きさ十分ならざる場合には特に必要なり。
五 用材の腐朽 軸部、殊に土台にして腐朽せるものは、これを新材と取り換うること。
六 保存 校舎は時々これを検査し、用材の腐蝕、継手仕口しくちのゆるみなどあるときは速やかに修理し、補強をおこたらざること。

 現今、わが国の木造校舎は旧造のものが最も多く、したがって本注意書の要旨に準じて補強施設をなすべきものは莫大な数にのぼるであろうが、かかる場合、余は第四項にあげてある控え柱の応用ということを特に強調したい。実行容易で、しかもきわめて有効な補強方法だからである。なに、控え柱は不体裁だなどという人もあるが、余はむしろ質実剛健の標本として推奨すべき価値を認めるものである。
 こういうこともあった。大阪市に近いある女学校で、二個並列した同型の木造旧舎が、予算の都合上、一棟だけ改築されることになったが、小学校でないという理由であったか否か、耐震的の注意がぬけたらしい。ただし、残りの旧舎はそのままではつりあいが取れず、もうしわけのように控え柱が施されたのだそうである。これらがそろって室戸台風の試錬に会ったわけだが、結果はどうであったろうか。皮肉なことには新校舎が倒壊して、控え柱付きの旧校舎はビクともしなかったそうである。
 これは、われわれにとって貴重な教訓をあたえるものである。一方、耐震・耐風の要諦ようていを教え、他方、科学する心のとぼしい日本人の弱点をつく訓戒である。(昭和九年(一九三四)十一月)

   三三 地震と脳溢血


 大正十二年(一九二三)関東大地震のとき、新潟にいた一医師が大きな船にゆられるような心持ちから、ついに嘔吐おうとするに至った話や、大阪にいた他の医師が、脳溢血のういっけつの発作と即断して大騒ぎしたあげく、寝台の用意をさせ、その上に横たわったまでは真剣であったが、やがて頭を枕につけてみると、視線がおのずから大動揺中の電灯にぶつかり、そこで真相がはじめてわかり大爆笑となった話は、当時、入沢先生からうけたまわって興味深く感じたのであった。かように脳溢血の発作と遠方大地震とを混線させる人は他にも少なからぬことと見え、このごろ、東大医学部教授某博士から他の一例を寄せられたのである。時は同じく大正十二年九月一日、場所は青森市某病院、人は副院長某博士、舞台は同院お歴々の環視の中とあった。時刻は読者の想像にまかせることとし、この時まで何の異常もなく、きわめてほがらかに談笑していた副院長氏は大あわてにあわてて、
「やあ、たいへんたいへん! これは脳溢血の発作だ。脳溢血だ、脳溢血!」
をくり返して、お歴々を面食らわしたのだそうだ。
 それから後のことは聞きもらしたし、またこれを詮議するにもおよぶまいと思うが、ただ、ここに付言しておきたいのは、かく地震と脳溢血とを混線させるのは医家に多いということである。これは脳溢血発作に関する知識というものが、医家の専有だという条件に基因するのであるが、いま一つ付帯条件のあることを見落としてはならぬ。それは舞台が大建築物であったということである。
 遠地大地震の余波は、主としてゆるやかな大動揺から成り立っているが、平地においては、そこに固有な、やや急な振動が誘起されがちであるから、普通の木造家屋ではやはり地震らしい感覚をあたえるけれども、基礎の深い堅固な大建築物では、単にゆるやかな大動揺のみを感ずるのである。

   三四 関東大震火災の火元


 近ごろ、関東大震火災をはなはだ軽小に評価しようとする人がある。はなはだしきに至っては、平和な白昼において、七十か所から同時に発火したにすぎないなどという人すらある。
 ただし、事実ははなはだしく相違している。
 過般の関東大地震は市民の誰もがまったく夢想しなかった変事であった。その突発するや、一瞬にして関東全部が尺寸せきすんの地のあます所なく、激烈な震動におそわれ、分秒の間において、東京市だけでも数万の家が破壊され、数千の市民が即死せしめられた。その他の家屋はたいてい半壊あるいは大破し、負傷者の数は死者に数倍したのである。
 以上は東京だけの状況であるが、横浜・横須賀・小田原・鎌倉・浦賀・北条・館山などは震動さらに激烈をきわめ、家屋破壊や死傷者の歩合ぶあいははるかに東京をも凌駕りょうがしたのである。これがため、住民はどこにおいても心神顛動てんどう・畏縮し、引き続き襲来する余震のために平静を取り戻すことがほとんど不可能であった。
 これは当に、敵機の爆弾投下に比較すべきものである。しかも、国際平和裡へいわりにおける不意打ちである。晴天の霹靂へきれきである。戦時警戒裡におけるいくらの爆弾投下に匹敵するであろうか、それは読者の想像にまかせることにする。
 続いて来たものが火災である。これはまさに近代戦に見るがごとく、爆弾に続いて投下された焼夷弾にも比較すべきものである。
 かくして大正大震災が始まったのである。この時、もし人力をもって抑制しなかったならば、火災となるおそれのあった箇所は東京だけでも幾百、幾千であったかはかり知るべからざるものがあったのである。説者のいう七十か所の火元とは、帝都においてついに抑制しきれず、大暴れに暴れたものという意味であろう。当時、警視庁消防部長であった緒方惟一郎氏の報告には、市内における独立発火一三六件、飛び火七十六件をかぞえ、なおこの他に認知不能のものの多数なるべきをことわり、さらに隣接市街地における独立発火四十件を加えている。また、中村清二博士が三十余名の学生団を指導して調べた結果は、東京市ならびに隣接市街地において、合計一六三か所となっており、そのうち七十九か所は消し止め、残り八十四か所の火口ひぐちれるものが、かの大火災の因をなしたことになっている。
 これを要するに、大地震に基因する火災と、空襲による火災との間には種々共通な性質がある。つぎにこれを列記する。

一 両方ともに同時の多元発火である。
二 一方は爆弾投下が先行するに対し、他の方においては、大地震の破壊作用の先行がある。
三 発火後の消防をさまたげるものとして、一方に続投の脅威がありとすれば、他方には余震の脅威があり、家屋倒伏による道路閉塞、水道鉄管破裂などの障害がある。

 かくも両種の火災の事情は相似ているのであるが、ただし、この他に著しい相違点のあることを忘れてはならぬ。すなわち前にも指摘したとおり、敵機の襲来は多少予期され、少なくも数分前には警報されるであろうから、防火準備が精神的にも器械的にも可能なるに反し、大地震のばあいはその襲来がまったく予期し難く、なんらの準備なしにこれに応接しなければならぬという不利な条件下にさらされているのである。
 とにかく多少の異同はあろう。ただし、各人・各戸・各組が危険に暴露されながら、必死の防火をなすべく余儀なくされていることは、もっとも重大な共通点といわねばならぬ。
 大地震は期待し得べきものでもなければ、けられるものでもない。そして、いつどこに突発するかわからんという曲者くせものである。その突発を見たばあい、国民がいっせいに上記のような行動を取ることができたならば、それはまさに二重の重大な所得を意味するものである。

   三五 天災は忘れた時分にくる

 一、天変地異と天災地妖ちよう

 天災は忘れた時分にくる。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している。これは、当時の世相に対してはきわめて適切・軽妙な警句であったのだが、ただし一般の大衆にはわかりにくかったらしい。天変地異と天災地妖ちようとを混同していた人がむしろ多数であったからである。余のごとき大震後の半年間、通俗講演会に引き出されること百数十回におよんだが、いずれの場合でも劈頭へきとうに地震と震災との区別を弁ずることが必要条件であったくらいで、単にそれだけでも講演の大体の目的は達せられたといって過言ではなかったのである。ついに文部省映画課の依頼に応じて『地震と震災』という映画を製作したくらいである。
 試みに天変地異の種類をあげてみる。地震、雷、火事は昔から筆頭に現われるが、それに台風と旋風、洪水と津波に山津波、凶歳きょうさいと火山噴火を加うべきであろう。これらの自然現象は、原始時代にはたいした脅威にもならなかったろうが、開拓が進み文化が開けるにしたがって、生命財産に危害をあたえ損耗を加えるに至り、震火災、風水災、浪災、飢饉ききんなどという天災ともなり、地妖ともなったのである。
 天変地異は不可抗力といってもよい。人力ではその発生を抑圧することは不可能であり、少なくもはなはだ困難である。したがってこれが忘・不忘という人事に左右されるはずはない。ただし、天災地妖は智力をもってこれを制圧することもできるが、少なくもこれを軽減することは容易である。これがためには、徹底的な科学的研究を要するものもあるが、単に些細な注意のみでも相当な効果を収め得るものがある。
 ここにいう些細な注意については、その一例として、かつてその土地が喫した天災を忘れないという点をあげてみたい。ただしこの不忘は、その土地自身のものでなければならぬ。したがって居住者は、自身の経験だけに止まらず、かつてその土地が喫した事例にまでも通ずることを要するのである。
 この不忘の一点だけで天災をまぬがれる場合はすこぶる多いが、反対に忘の一字のために、免れ得べき天災を免れ得なかった実例もまた少くはない。

 二、忘と不忘との実例

 神戸の湊川みなとがわといえば誰しも大楠公を思い出すであろう。ここ一帯は、建武のいにしえにさかのぼるまでもなく、水戸老公が訪れたときでも、ただの田苑であったのである。現にかくいう余のごときも、明治二十年(一八八七)ごろには、沙床の川原を持った水無川であったことを目撃している。出水のときはあるいは氾濫はんらんもしたろうが、水災はたいしたことにならずに終わったのであろう。川筋は割合に広く、両岸も高かった。ただし、その川筋はいつのまにか見失われてしまった。たぶん暗渠あんきょか何かの形で余喘よぜんだけは保っていたのであろう。
 湊川みなとがわという川はついに忘れられてしまった。そしてそれがふたたび土地の記憶によみがえってきたときは、豪雨にもとづく洪水で新開の見事な住宅地が広壮な邸宅とともに一掃されてしまったときであった。いうまでもなく、この水害地がすなわち湊川の旧河床であったのである。
 三陸の太平洋沿岸は、昔ながらの津波常習地である。もっとも古いのは貞観十一年(八六九)、中古では慶長十六年(一六一一)、近くは明治二十九年(一八九六)と昭和八年(一九三三)のもので、いずれも大津波であったが、その他の中小津波は数えきれないくらいである。いまさらいうまでもなく、沿岸は外洋に向かって開くV字形・U字形の大小港湾が数多く、合計二〇〇をもって数えるくらいであるが、津波はこの港湾の奥にあたる小地域のみに発達するのである。したがって村を建てるにも、一時避難するにも、この小区域をけるだけでまったく安全となるわけ。ただし、世はさまざまで、このことを一千余年も前から言い伝えて明治・昭和の浪災をまぬがれた船越ふなこし小谷鳥こやとりや山内〔山ノ内か。のような村々もあれば、明治二十九年に全滅近き災厄をこうむりながら、しいてこれを忘れて、否、忘れるというよりも、むしろ当時の悲惨な光景に目をおおい耳をふさいで、昭和の津波に同じ災厄をくり返した唐丹とうに田老たろうなどのごとき村々もある。
 昭和浪災において忘・不忘の結果の相違がかくも顕著に現われた以上、当事者も考えざるを得なかったのであろう。村々の復興には満足すべきものがある。朝日新聞社が、不忘を勧めるため二〇〇の罹災地に記念碑を建立させたことも特筆すべきである。これは、募集締め切り後の義金をあててできたのであるが、場所や碑面にきざむ標語の選定にまでも参画した余としては、いささか会心に値する思い出である。

 三、回向院と被服廠

 大正震火災における最大の悲劇は、被服廠ひふくしょう跡の惨事である。当時、これをもって前代未聞の天災と断じたくらいであるが、この現象をつまびらかに研究した寺田博士は、旧幕時代の火災史を検討した結果、これがすでに経験ずみの事件であって、それが単に江戸が東京に発展する間に忘れられてしまったにすぎないことを知り、かの有名な警句を発するに至らしめたもののようである。
 旋風は、火災の際にも起こることは今日よく知られているが、その旋風には種類が二通りある。その一つは、狂風の際、四つ角などにて往々見受ける塵旋風じんせんぷうと同種のもので、大火の際、二方あるいは三方から進行する火陣が相合しようとしているとき、行く手の燃えていない部分が火陣の前線に突入する態勢になった場合などに起こりがちなものである。右は概して小規模のものであるが、いま一つ大規模に本格的な竜巻と同様な移動性のものもあるらしい。大正十二年(一九二三)のあの大火災の際、上空に強大な積雲の生じたことは、当時、何人にも認められたところであるが、他方、炎上地域の激しい上昇気流と、河川あるいは緑地帯への強い降下気流とが相錯綜さくそうしておこっているおりから、積雲層に生じがちな強い渦流が地上に垂れ下がるなどはあり得べきことに属する。その成因はとにかく、こういう本格的の竜巻のおこったことだけはいなみ難いところであるが、被服廠跡を襲うた旋風は、単に一回や一種に止まらなかったようである。

「時刻は午後四時ごろであったろう。三〇〇メートル平方の空き地は数万の避難者と所持品の山とで身動きもできなかった。そこへ火は三方から攻め寄せる。退き口は南の一方だけしかないが、そこは大川でかれている。突然、彼らは異様なうなりを聞いた。天は暗黒となり、旋風は火災と黒煙と異臭とを吹きまくって荒れ狂った。やがて魔風は過ぎ去った。そして後に残ったものは三万八〇〇〇余のこげた死体であった」

中村清二博士演述の抄訳である。
 今、これに類した事例を探してみると、江戸の明暦大火においては、その元年(一六五五)正月十八日からの四日間、市中の大部分を焼きつくして、一〇万二〇〇〇余の死者があったといっている。

「やがてこの死骸をば河原の者におおせつけられ、武蔵と下総との境なる牛島うしじまという所に舟にて運びつかわし六十間四方に掘りうずみ、新しく塚をつき、増上寺より寺を建て、すなわち諸宗山無縁寺回向院えこういんと号し、五七日ごしちにちより前に諸寺の僧衆集まり、千部の経を読誦どくしょうして魂をとぶらい、不断ふだん念仏の道場となされけるこそありがたけれ」

と『武蔵鐙むさしあぶみ』に記してある。かく多数の死者を生じたのは、単に火事が広範であったばかりでなく、「昼夜四日の大火事におびただしき旋風ふきて猛火さかりにけり。」とあり、また広場に逃げ集まった多数が、旋風に狂う劫火ごうかのために集団的に鏖殺おうさつされたことにもよるのである。
 江戸は、そののち安政の大地震のときにも、六十余か所からの同時発火に悩まされたこともあるのだから、かような天災をたとえ明治が大正になっても忘れるはずはないのであるし、青年学徒の中にもしきりに不忘を鼓吹したものもあったけれども、いつの世にも曲学阿世の徒輩の言説は俚耳りじに入りやすく、ついに、「大地震は、二度と同じ点からおこらないという原則にしたがって、とうぶん東京には大地震なし。」とか「大地震は静かな日におこるもの、かつ、東京の道路は近ごろおおいに拡げられたから、たとえ大地震に襲われても大火災にはならぬ。」などと邪説をいて信ずるに至ったのは遺憾いかんの極みであった。
 寺田博士の天災に関する警句にもっとも共鳴したものは、震災共同基金会(震災防救協同会とすべきか)であろう。これは、有馬ありま頼寧よりやす伯が大正十三年(一九二四)九月一日その一族をひきいて街頭で大衆の義金を集め、これをもって内外罹災者りさいしゃの急を救い、あるいは災厄を予防する資金にしようというにはじまったのであるが、爾来じらい二十三年間、東京朝日新聞社がこれを後援しているのにかえりみても、その健実さがわかるであろう。そしてその十周年にあたり、会が記念事業の一つとして選んだのが、かの警句を生かす記念塔の建設である。これがためにまず、その忘れた時分にくるはずの震災に善処する意味の標語を懸賞によってつのったのであるが、「不意の地震にふだんの用意」というのが当選した。会は、さらにこの標語を表徴する彫像を北村西望せいぼう氏に依嘱し、そして作り上げたのが、かの銀座横、数寄屋橋ばし詰の小緑地帯は交番横に屹立きつりつする震災記念塔である。灯明を右手にかかげて前方を見守る青年像は、「不意の地震に不断ふだんの用意忘れるな九月一日」「震災は忘れた時分にくる」のいずれを表徴しているといってもさしつかえない。あの広場には小さすぎるきらいはあるが、露天にはしい美術品である。この昭和二十一年(一九四六)の九月一日は、進駐軍看視下における最初の記念行事だというので、記念塔や会ならびに基金募集目的の簡単な英文解説を少年少女の募金箱に貼付しておいたところ、かの人々はていねいにこれを読み慇懃いんぎんに義金を入れ、中には大金をはずんだ方もあったなどといって彼らは喜んでいた。
 わが民族の大難は二度とはあるまいが、大地震は引き続きくり返されるであろう。かかる際、「泣きっつらに蜂」にならぬよう特に心すべきである。横浜の震災記念館、東京では被服廠跡の祠堂と記念館などもまたかの大震火災を永遠に忘れないための表徴にしたいものである。

 四、地震け川舟の浪災

 津波の災禍もまた忘れられがちな地妖の一つである。その一端は、三陸地方に関してすでに紹介したとおりである。ここでは、予防施設もわりあいに行きとどき、われわれが立案した諸方法は、重要施設の高地移転をはじめとして、避難道路、一時の避難箇所、緩衝かんしょう地区、防波堤、防潮林の新設などにいたるまで、概して順調に進捗しんちょくしたといってよかろう。ただ、関西方面においては、これらの方法のみでは解決されないものが残っているからそれらをいささか補うことにする。
 小泉八雲の「生ける神」によって世界的に有名となった南紀広村ひろむらの防波堤と防潮林もまた忘れられようとしていた。交通運搬に不便だとして防波堤に切り通しを作り、地積を使いすぎているとして堤のすそを切り崩しなどしていたからである。ただし、今では村民がそれらの愛護に精進し、切り通しには津波侵入のばあいに対処する自働門扉もんぴを設け、毎年十二月五日には、当時の生ける神・浜口大明神のために梧陵ごりょう祭をいとなんでいる。やがて梧陵の業績は、「稲むらの火」として国民学校の教科書に載せられ、墓所と防波堤の一区は史跡として文部省から指定されるに至った。これらもまたすべて余が会心を禁じ得ない思い出の対象である。土佐の津々浦々は、わりあいに浪災を忘れずにいる。これは、彼らの脳裏にそうであるのみならず、所々に記念碑が残っていて、それがよく村民を指導しているからである。もし、有史以来の地妖に対してことごとくそうであったら満点の成績であったろうが、しむらくは、天武天皇時代の天災はあまりにも遠く、慶長九年(一六〇四)のばあいは、山内侯入国当時で国内動揺中のこととて、いずれもその詳細が伝わらず、そして宝永の大地震津波がはじめての経験のような形になり、苦杯を喫したのである。ただし安政の地震津波には、よく一四七年前の災禍を記憶してたとえ震火災は免れなかったとしても、津波だけには、それを災禍と思われない程度に善処し得たのである。
 ただし局部的には、なお補いたいことがある。一つは、浦戸湾うらどわん奥で高知市の東に接する方一、二里の平地であるが、ここは天武・宝永・安政の三回ともに著しく沈降したと信ずべき根拠がある。第二は、浦戸湾口をさえぎる種崎たねざきの砂州であるが、ここに侵入した津波は水面上の高さが、宝永度には八十尺、安政度には三十尺に達した。波の進退はさほどに激烈でなかったらしく、生命の保護だけなら大阪の瀕海ひんかい地区同様に、はなはだしき困難を感じないであろう。
 大阪の津波についても忘・不忘の弁を要するものがある。その一つは、昔の難波津なにわづが受けた変異である。ここは南海道海域でおこった津波が大阪湾に進入するとき、いつも攻撃のしょうにあたるところであるから、古来、その記録にもとぼしくはない。正平十六年(一三六一)の津波につき、『参考太平記』はこう記している。

「摂津の国難波浦の沖数百町、半時計乾あがりて、無量の魚ども沙の上に息つきけるほどに、傍の浦の海人あまども網を巻きつりを捨て、われおとらじと拾いけるところに、またにわかに、大山のごとくなる潮満ち来て漫々たる海になりにければ、数百人の海人あまども一人も生きて帰るは無かりけり」

 大阪の市街がこういう津波に襲われたこと三回におよんだろうが、第一の慶長九年(一六〇四)のばあいは単に変異に終わったらしく、次に宝永のばあいには両川口から進入した津波は六十一個の橋を墜落させ、安政のばあいには二十五個を落橋せしめた。現時、木津川の線以西にある瀕海ひんかいの五区三方里の街衢がいくが二階建て木造を並べ建てたとしたら、上記のごとき津波はこれを一掃するに十分であろう。去る昭和九年(一九三四)の高潮は旧市内の川筋ではまったく無難であったが、この街衢がいくでは相当の破壊力を示したではないか。
 前文に湊川の河床の挿話を記しておいたが、それと同様に、この昔の難波津の天変地異が忘れられたら瀕海五区の天災地妖ともなり得るであろう。これに対する一方法として、国民学校を耐浪建築にし、児童はもとよりその通学区域内の全住民の一時避難所にあてる案がわれわれの会からも建議され、当局もこれを諒として着々ちゃくちゃく実行に移しておられた。だが、戦禍はこれにもおよんだことであろう。
 大阪津波の忘・不忘に関するいま一つの件は、地震け川舟の浪災である。
 由来大阪は、足元から発生した大地震を経験したことがなく、ただ、他地方におこった地異の余波をこうむったにすぎない。第一は慶長元年(一五九六)の伏見大地震で、つぎが寛文二年(一六六二)近江の西湖ほとりにおこったものである。このとき有福な人たちは、川舟を一時避難所にあてることを気づいたらしく、これがさかんに流行して成功をおさめたかのごとくであった。もし市民が震源の位置をわきまえてのことならよいが、ただしそうではなかったらしい。つぎの宝永大地震のときには大失敗を演じたのである。
 宝永地震は、地震だけでも家屋全数の百分の六を倒し、一〇〇〇名近くを圧死せしめたのだから、市民の恐惶きょうこうは想像に難くない。水上への逃避者も少くなかったろう。ただし、津波は前記のとおり両川口から進入し、大小の船舶がこれと共に突進して六十一個の橋を落としたのだから、水上の避難者がこれと運命を共にしたことはいうまでもない。大阪市としてははじめての天災で無理もないといえようが、ただし、歳月はこの惨事を忘れしめた。つぎの安政の地震の津波に、ふたたび同様の惨事をくり返したのである。
 そのころ町に広瀬ひろせ旭荘きょくそうという学者がいた。家集に『九桂草堂きゅうけいそうどう随筆』というのがあるが、それには次の一節がある。

「沢春畔の話に、その近隣に至って親しき大家あり。旦那同じうせり。その母いまだ六十ならず。三男二女を生み、長子は家を継ぎ、二弟は分居しておのおの妻をもちたり。三婦毎日しゅうとめの側にはべりて孝養し、至極幸福なるおうなといわれたり。しかるに去年十一月地震のとき、右の母に三婦ならびに二女したがいて舟に乗り、くつがえりて子女六人みな死し、男子は一人も死せざりき。寺に葬りしとき、主僧過去帳を開き、世間にかくのごとき奇事もあるかなという。そのゆえを問うに、百三、四十年前宝永中に、右の家津波にて母ならびに三婦二女、一家六人死したるよし記録ありしとぞ。右過去帳にさえあるくらいなれば、その家に申し伝えて、地震のとき舟に乗らざるように心得べきに、何をもってそのことなきや。けだしその家、右のこと話し出せば傷心にたえざるゆえ、とかく言わぬようにいたせしうち百余年をすぎてついに知るものなきようになりしにや」

 これはまたすこぶる入念な忘れ方である。因果応報信者にいわせたら、祖先の妄執もうしゅうが子孫にたたったのだというかもしれない。

 五、噴火災と凶作

 火山噴火は、天変地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れているばあいは、災害はわりあいに軽くてすむが、必ずしもそうばかりではない。わが国での最大記録は天明の浅間噴火であろうが、土地ではよくこれを記憶しており、明治の末から大正のはじめにかけての同山の活動には最善の注意をはらった。
 有珠の噴火もよく忘れられずにいる。特に明治四十三年(一九一〇)のときは土地の警察署長の英断によって、周囲三〇〇〇戸、一万五〇〇〇の住民を三里以外の場所に、爆発一日前に立ち退かせている。
 上記のばあいとは反対に、大正の桜島爆発のときは、あきらかな前兆があったにかかわらず、土地の人たち、特に科学者が安永噴火の状況を忘却していたために、変異を未然に察知することができず、ついにいたずらに災妖さいようを大きくしてしまった。
 火山は、噴火した溶岩・軽石・火山灰などによって四近の地域に直接の災禍をあたえるが、なおその超大爆発は、火山塵かざんじんの大量を成層圏以上にき飛ばし、たちまちこれを広く全世界の上空に瀰漫びまんさせて日射をさえぎり、しかもその微塵みじんは、降下の速度がきわめて小なるため、滞空時間が幾年月の久しきにわたり、いわゆる凶作天候の素因をなすことになる。
 火山塵かざんじんに基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滞する微塵みじん、いわゆる乾霧によって春霞はるがすみのごとき現象を呈し、風にも払われず、雨にもぬぐわれない。日月の色は銅色に見えて、あるいはビショップ環と称する日暈ひがさを見せることもあり、古人が竜毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏気温の異常低下は当然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
 最近三〇〇年間、わが国が経験したもっとも深刻な凶作は、天明年度(一七八一〜一七八九)と天保年度(一八三一〜一八四五)とのものである。前者は三年間、後者は七年間続いた。もっとも惨状を呈したのは、いうまでもなく東北地方であったが、ただし凶作は日本全般のものであったのみならず、じつに全世界にわたるものであった。その凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあったこと、贅説ぜいせつするまでもあるまい。
 世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、おそらく火山塵かざんじんに基因する世界的飢饉ききんであろう。

   三六 大地震は予報できた


 十二月の末〔一九四六年(昭和二十一)か。に紀州と四国を襲った大地震については、今村博士がつとに警報を出しておられたことは新聞にも出たが、こういうおそろしい地震はどうして予報できるのか、またそれにもかかわらずどうして被害を防げなかったのか、博士にお話をうかがうことにしよう。
「おこりそうな所に、おこりそうな時に地震はおこる」
 博士はこう言われる。では、それを判断する材料は、
「一、地震の歴史、二、地質の構造、三、地盤の傾きの三つであります。これを見ていると、このあたりにはそのうち大地震がおこるだろうと観測所を設けて、いろんな前兆を調べる用意をしておき、いよいよ数時間または十数時間前におこる前兆(地電流の変化、細かい震度、光など)を調べ、天気を予報するようにやれる」と。
 余が大正の関東大地震の前兆の研究に取りかかったのは、地震すぐ後のことである。まず三通りの前兆に気づいたが、中にも三浦半島の先にある三崎・油壷あぶらつぼの検潮儀が示した地震前数十年間の漸進的な地盤の沈みと、地震のときの躍進的な隆起とは、これを広く関東全部の精密水準測量の結果から見るなら、関東全地界の漫性的傾動と急性的傾動とを地界の片端において認めたにすぎなかったのである。
 陸地測量部は明治のなかごろ、全国海岸に十数か所の検潮儀を設けて、長年にわたる地盤の上下変動までも実測したのであるが、他の場所がほとんど動かない状態を見せたにもかかわらず、油壷と紀州の二か所は変わった地盤の沈みを示したのである。それぞれの位する半島は、その地質構造といい、沖合いに大地震をおこし、しかもそのたびごとに南あがりの跳躍的傾動をともなうなどいろんな点できわめてよく似ていることが気づかれたので、三浦半島が示した一組の漫性的および急性的傾動が、沖合いの大地震をまわって、紀州にもまた現われるに相違ないと想像し、測地学的実測にとりかかったのである。すなわち帝国学振の補助を受け、陸地測量部にたのんで、紀伊半島では西東の両海岸ならびに中央線に沿って精密水準測量をおこない、また室戸半島は状況が紀伊半島と同様であるのにかんがみて、この半島における線路の二度目の測量をもたのんだ。
 こうして半島の漫性的傾動が測られたしだいであるが、その結果によると、紀伊半島では昭和三年(一九二八)に終わる二十九年間の年平均が南下がりの〇・〇三三秒で、室戸半島では昭和四年に終わる三十三年間の年平均値が南南東下がり〇・〇四一秒と出てきた。
 一方、沖合いに発生する大地震にともなって、半島はおおむね南上がりの急性的傾動をするのであるが、その大きさは安政年度には紀伊半島が四・四秒、室戸半島が五・〇秒程度であったらしい。今度の大地震にともなった傾動は両半島ともに四秒程度であったとしたら大きな誤りにはならないであろう。
 この急性的ならびに漫性的傾動の間には、後者が前者の前兆であろうという意味のほかに、物理学上の量的関係もあろうとわれわれは考える。すなわち急性的におこる傾動の大きさは、地界を造っている岩石のまげに対する限界値に近く、したがってそれ以上にゆがめては破れをおこそうという結果になるであろうし、また漫性的傾動も百年くらい積もるとき、同様に右の限界値に到達するからである。はたしてそうなら右の漫性的傾動は、その最初からの積算値が今後の予報の問題に大切な役割をするであろうから、両半島の精密水準線路の測り直しはこの際、特に望ましいことである。
 日本の太平洋沖には、大規模な破壊的地震帯の一線が五つに区切られているが、活動の中心は全線の一方から他方へ順を追って移る傾きを持っている。これは地震統計だけでなく、学術的にも根拠のあることである。今、近年の活動順序を見ると、安政ののち新たに明治二十七年(一八九四)の根室・釧路沖から始まり、同じく二十九年の三陸沖、大正十二年(一九二三)の関東沖から、昭和十九年(一九四四)の東海道沖に、いずれも津波をともなう大地震として現われたが、このつぎの活動場所がまもなく南海道沖になることはあきらかであろう。余がこれに関する論文を帝国学振に差し出したのは昨年〔一九四六年(昭和二十一)か。十月である。
 太平洋沖に突き出している第三期地界〔第三紀層か。の慢性的傾動は、やがて来るべき沖合いの大破裂の前兆であろうとの説は、第一に昭和十九年の東海道沖大地震で実証せられ(二十年三月、帝国学振記事、余の論文)今また南海道沖大地震によって証明せられたが、余はこの目標だけに満足せず、さらに最後の瞬間に先立つ数時間あるいは数日前に現われてもいいはずの前兆をもとらえる方法を考え、両半島およびその近くに七か所の私設観測所を設けて観測していたが、すべては戦災にかかって最後の仕上げができなかったのは残念である。
 こうして余が払った十数万円の研究費も十八年間の努力も無駄になったようであるが、しかしすべてが水の泡であったとは思っていない。余は府県別・市町村別、および港湾別に、宝永・安政、二度の地震・火事津波の三つを調べあげ、将来の災いを防ぐように当局に勧めていたのである。成績は思ったほどではなかったけれども、安政に大火事にかかった場所が今度はわりあいに無事であったこと、人死ひとじにの数はおおむね前の三分の一に止まったこと、田辺市の被害を安政のばあいと、もしくはすべての状況が似ている新宮市しんぐうし(われわれの勧めの届かなかった)とくらべて見るなら、思い半ばにすぎるものがある。
 少なくも、「熱のない相手への勧めは無益である」との教訓は一つの収穫であった。
 大地震は発生場所と時期とがおおむね予報できる。殊に陸上の大地震は、太平洋沖のものよりもくみしやすい。学術はそこまで進んでいる。ただ最後に予防の実際問題について、これを生かすかどうかは恐懼きょうくにあたる人の責任である。(二二・六・五、『ローマ字世界誌』所載)

   三七 原子爆弾で津波は起きるか


 シーカさんたちがまた訪ねてくれた。この前のときは、話題が地震に集中したから手っ取り早く、一人一人に自書の英文地震学をさしあげてみた。それでも先方はできるだけ日本語で問答したかったらしい。案内した帝大生もこう言う。しまいに去る五月の二日・三日に放送した関東地震の話までも復唱させられてしまった。今回は津波の話がはずんだ。原子爆弾の爆発実験が近日水中でおこなわれるというが、津波がおきる危険はないかというのである。

     ◎

 この質問は最初、案内役の田中館たなかだて君に向けられたのだが、国際津波研究委員会の会長に聞けと言ってこちらへ押しつけたもの。
 そうですね。その危険の有無は「津波とは何ぞや」をよくわかってもらえたら自然に解けるのですがね、といったら、今度はそのタイダル・ウェーブ〔tidal wave。の字義から出発しようということになった。それは潮汐のような波ということ。潮汐は二つの波となって始終、地球をまわっています。したがって周期はおおむね十二時間、波動は地球の半周ということになります。津波の波はそれほどではありませぬが、それでも周期は数十分ないし二時間、波長は幾百マイルというすばらしい長いもの。もし津波が日本の太平洋沖合いにおこったら、五、六回うねっただけで対岸のアメリカまでまいります。短波長の波とちがって、勢力も割合に衰えないものです。
 高さですか。それは問題ではありませぬ。大にしては数十メートル、小にしては数センチメートルのものまであります。波長が短くて波高の大きい波浪は怒涛どとうにもなりますが、津波はそのようなものではなく、むしろ、海水が陸地に引っ越してくるのだという方が事実に近い表現でしょう。
 タイダル・ウェーブの日本語ですね。それは津波です。津の波、すなわち港の波です。日本語といいながら学術的には国際語になっています。これもその重要な特性をよくとらえた言葉なのです。それはこうです。津波は波長がすこぶる大で、高さがこれにともなわないため洋上ではその存在がわかりませんが、陸地に近づくと海がしだいに浅くなるために波高を増し、また漏斗じょうご形の港に進入すると海幅に反比例してさらに高くなりますから、沖の方ではたとえ一メートル程度の高さでも、港の奥では数十メートルにもなるのです。話がここまでくると、「わかりました、わかりました」が連発される。そして爆弾の水中爆発ではおそるべき津波はおこるまいというのが結論であった。

     ◎

 話は終始なごやかに進んだ。ついこのごろ来朝したというエムマさんのごときは、苦辛しながらつとめて日本語で語る。こちらの聞き苦しい英語と好取り組みであったと学生たちもいい、隣室にいた家人どもも笑う。別れようとするとき老妻も出てきてあいさつしたが、今度見えたら第一に飛び出して接待しようなどというはりきりかたである。

   三八 飢饉ききん


 よい若ものたちが、赤い旗を押し立てて「働けるだけ食わせろ」とさけびながら、都大路をねり歩く世の中に、ここらごくつぶしの老ぼれどもは、さっさと見切りをつけて一人でも口数を減らすのが、この人たちのためではあるまいかと考えさせられることがある。
 ただし、「待てよ、いますこし客観的に考慮してみようではないか」というのが次におこった心境である。
 なるほどそうだ。ぼくも百姓の一人だ。労働階級の一細胞だ。ぼくが荒地の開墾をはじめたのは三年前のこと。当時は、年寄りの冷水あつかいされたものの、今では二百坪の耕作人。在所では家庭菜園群の相談役だ、指導者だ。「何々技師と銘打った方の講釈は、二言目ふたことめには手に入れにくい薬品が出てきて真似まねられないことになるが、君が話すことは、ありあわせのものでに合い、しかも科学的であるから安心して真似られる」という人があるかと思えば、他方では、「貴公の農事四精の講釈は、お百姓にも不可欠のものだが、とくに素人しろうと百姓の精は玄人くろうとの精をしのがなくてはならないとの一節は、他人へも受け売りしているくらいだ」という人もある。
 こう書いただけでは読者には通じないかもしれないが、右の評者はいずれもぼくが昨年八月十日に放送した「老書生のにわか百姓」を聴取した人たちなのである。このにわか百姓、何の変哲へんてつもなく、専門技師の書き物あるいは放送による示教を忠実に受け入れ、かつ自園に適応するよういささか実験工夫を加えたにすぎないのだが、それでもカボチャの花粉のかけあわせに関して、地の精や、晴雨あるいは手法の変化による結実率の比較や、同じくトウモロコシの実の入り方などのごときは耳新しく聞かれたらしい。かような実験は興味をそそるばかりか、むしろ娯楽になるのだが、試みにそののち加えた一例をあげると、カボチャの親ヅルをつんで四本の子ヅルを作ろうというには、五枚目の葉で摘心せよと教えられたが、虚弱な苗では第一・第二の子ヅルは物にならなかった。それで七枚目で摘心して三から五までの子ヅルを伸ばし、第一と第二との子ヅルをつんでみたが、こちらは成功したというしだい。
 評者の中にはまた、こういうのもあった。
 ある大新聞は、わが国の今後における食糧対策のもっとも重要なものとして、耕地面積の増加と単位面積における収穫の増加とをあげている。もっともな議論だが、これに君が平生となえている少餐精嚼の普及を加えたい。これは消極的だが、実行の暁には全食糧の少なくも二割方は節約できると思うがいかがというのである。
 ぼくは答えた。少餐精嚼の四つの効能、すなわち食糧の節約、健康の増進、少量での満足感、歯牙骨格の補強、これは誰にでも了解できることだが、薄志弱行のやからには実行がすこぶる困難である。ぼくのこの説はかつて(昭和二〇・八・九)『東京朝日』に掲げられたが、地方新聞にも広く転載されたとみえ、全国のあちらこちらから礼賛の手紙を受け取った。他にも同感の士は多いものとみえ、現に食糧メーデーのおこなわれた翌朝も、NHKの「私たちの言葉」からこの意見が聞かれた。ぼくは古文書によって飢饉ききんの様相は心得ているつもりだが、現況はさほどに窮迫きゅうはくしてはいないと判断する。嗜欲しよくによる物件の乱費、示威運動による勢力の乱費、非精嚼による食糧の乱費、これがなによりの証拠ではあるまいか。いよいよ窮してきたら、好むと好まざるとにかかわらず、薄志弱行の徒までも少餐精嚼を余儀なくされるだろう。あたかも余蓄なしに孤島に立てこもった将兵のように。
 その他の評者の中には、

 いや、あなたの農業は、天明年度や天保年度のように、三年も七年も続く世界中の大凶作までも征服しようというのだから、そんなありふれたものさしで計測される農業とはわけがちがうのだ。自重せよ。

と言ってくれる人もある。

 国民学校の先生も勤労者の仲間だそうだ。なるほど、社会組織が筋肉労働のものだけであって、もし崇高な精神がぬけていたら、社会そのものはゴリラや虎狼の群集に堕落だらくしてしまうだろう。精神労働は労働の枢軸たるに相違ない。してみると、科学研究は労働の中でも殊に大切だということになる。労農ソヴエットが科学を尊重し、ひいて学士院会員を殊に優遇している由縁が首肯される。科学者の政治への発言を封じたり、学士院会員の年給を明治十二年(一八七九)以来、七十年近くも創設当時のままにすえおいていた旧日本などとは雲泥の相違だと称すべきである。
 ある日、右のような漫談をして就寝した真夜中のこと、ぼくは突然はね起きて「しめた!」と絶叫した。家人は驚きかつ心配して、ぼくを寝かそうとする。「待てよ、この構想に誤りはないはずだよ」「何がです?」と聞く。「それ、例の飢饉ききんの根源となる火山の超大爆発を未然に防ぐのだ。爆弾で、なしくずしに消耗させるのだ」「はいはい、わかりました、わかりました。」という。そしてついそのままに、ふたたび就寝してしまった。
 翌日の夕刻に、恩師田中館たなかだて先生の仮寓からわれわれ夫妻に迎いがきた。岩手県の故郷に疎開しておられるのだが、この朝、出京されたのだそうだ。半年ぶりなので、老夫婦、いや九十一翁に対しては若ぞうのわれわれ二人は何はさておき、あたふたと参上した。挨拶もそこそこに話ははずんだが、ただし、先生が特に僕に聞こうというのは、二百にひゃく十日とおか前後、稲作に大害をあたえる低気圧を侵入前に打ちつぶすという案であった。爆弾をその中心にたたきつけるのだそうだ。これを聞いた妻が突然、頓狂とんきょうな声を出して、「まあ、こちら様でも飢饉ききんよけの爆弾ですか……」といえば、今度は令嬢が「何がです?」と聞きとがめる話がわかって一同大笑に落ちたが、これではこの老人も超老人もまだまだ死なれないということになった。

   三九 農事四精


 食糧増産ということは、この窮乏きゅうぼうのどん底にあえぐ国民の最大関心事である。家庭菜園のさかんになるのも当然というべく、専攻学科以外には余念のなかったこの老書生も、にわか百姓とならざるを得なくなった所以ゆえんである。
 この百姓の三年生。最初は新聞雑誌や放送で得た知識を新開の菜園に応用したにすぎないが、工夫を加えてゆくと年一年と成績は向上し、したがって無上の快感がわく。たとえばサツマイモでも(おもに太白たいはくにしているが、とても美味である)一株の平均収穫、初年の四十もんめ、二年目の八十匁は三年目に二百匁にのぼり、五百匁ぐらいの株はいくらもあった。来年は平均三百匁にしようと、今から待ち遠しいようである。
 農書を読んでいくうちに、梯崎弥左衛門の農事四精という訓言に接した。意訳すればこうである。
 すべて農事は四精の和合が専要で、四精中ひとつを欠いても成就しない。四精とは天精、地精、種の精、百姓の精、これである。
 天精は気象状況の意であるが、日射は特に大切である。農産植物はたいてい強い日射を好むが、さりとて極端なばあいは干天でも風雨でもよいはずはない。梯崎翁は、かねて凶作天候をもおもんぱかっていたため、天保の飢饉ききん、かの幾年もつづいた世界的凶作でも、自身の村はもとより新庄藩全体にわたって一人の餓死者をも出さなかったといわれている。
 地精とは、植物の種類により地味土性を考慮して、適当な耕作・施肥をなすことと解する。
 余は今年小麦を試み、坪あたり六合五しゃくを収めたが、うね間にサツマイモを植え込む用意の欠けていたことが後日になってわかってきた。それで今回はうね間を拡げ、かつサツマイモの植場所としての高うねまで準備してかかった。
 にわか百姓の最大の苦心は肥料にあるが、金肥が得られない今日、下肥に顔をそむけてはならぬ。中にも推肥作りにはもっとも努力すべきである。じつに地精と人情との和合の極致は、この一点にあるといっても過言にはなるまい。
 種は、もし自園のものから選ぶとすれば、その最優品にすべきこというまでもないが、本場から仕入れることをおこたってはならぬ。たとえば洋カボチャなら北海道からというわけ。品種はこのごろデリシャスにしているが、和種の方はサトウとツルクビとに決めている。
 小麦は、そのはたけにサツマイモを一時寄生させる関係上、背の低い穂の長い品種を選ぶことにした。イモ苗も本場から仕入れるが、はじめは入用の数だけ注文した。ただし、中には虚弱なものがあったり害虫にやられるものもあるから、今では二割方も余分に注文して、その中から入用の数だけ精選することにしている。
 およそイモ類は、多産類には不味がともなう。農家では供出用にこの種を選び、自家用には美味なものを選ぶとのことだが、事実、はたしていかがか。
 百姓の精は、四精中殊に大切なもので、耕作・播種から収穫にいたるまで、いろいろな保護手入れや、他の精と和合させる心づかいなど並大抵ではない。が、素人の精はそれ以上の努力を要求する。菜園は狭いながらも多収を望むは人情であり、それに単位あたりの増収が第一で、かねてお百姓にくらべて不足がちな地精をも補わなくてはならぬ。ただしこの困難を克服するところに、素人菜園の興味がひそむのである。
 はたけの縁に植えたトウモロコシ、ほうっておいては一株に二、三顆、しかもまばらな実入りにすぎないが、雌花めばながそのメシベをあらわしたおり、いきのいい雄花をつんできて花粉をかけると完全に実入りし、一株五、六顆は普通だが、一節に二顆実入らせることも困難ではない。
 カボチャの花には殊に苦心するが、ただし、そこに最もおもしろいところがある。
 雨天の雌花めばなは成り止まらないものとされているが、かならずしもそうではない。夜が明けてから雌花めばなが開こうとするとき、花粉をかけあわせて元どおりつぼませ、軽くゆわえておけばよい。高いところで上に向かって開いていたら、つぎに記す串竿くしざおの串で花弁の底をすこしやぶって雨水がたまらないようにする。
 カボチャの立体作りには、かつてははしご、脚立きゃたつなど持ち出して大騒ぎしたが、今年は串竿くしざおだけで簡単にすませた。串は竹製で先端を鋭くし、かけあわせ用の小筆の軸がこれに密にささるようにする。竿さおは細竹で長短二本にし、一端に串がささるほどの穴を、一つは竿さおに直角に、他は斜めに開ける。その穴の一つに串をさして、さらにこの串に雄粉のついた筆をさし、筆端を雌花めばなにかざして竿さおを軽くはじけばよい。かくて串をいろいろの方向にさしかえることによって、横からでも上または下からでも随意にかけあわせができるというわけ。
 これでカボチャのなり止まり率の向上間違いなし、特に今年のようにミツバチのきわめて少ないときは、不可欠の増産法である。
 以上、にわか百姓の未熟な経験ではあるが、いささか自己流の工夫を加えた点に、読者の注目が得らるれば本懐である。(つづく)



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
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xxxx年xx月xx日作成
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地震の國(五)

今村明恒

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   三〇 五徳の夢

 題して五徳といふ。讀者は、直ちにかの火鉢の中に蟠踞し、しゆん/\とたぎる鐵瓶の下の鐵輪を聯想されるかも知れないが、併し、こゝにいふ五徳はそんな風雅な心から取つたのではない。
 それでは、子貢が孔夫子を評した温良恭謙讓の徳か、それとも兵家の曰ふ智信仁勇嚴かと言はれるかも知れないが、決してそんな鹿爪らしいものでもない。
 時は今を去ること五十年、美濃尾張兩國を中心とした大地震があつた。此は、吾々の仲間では濃尾大地震として日附拔きに通用するものであり、名前を聞いただけで「あゝ、あの歐米から無條件に輸入した煉瓦構造や鐵橋が滅茶々々に潰れて、其の非耐震的振りを如實に暴露したあの地震か。」と來るのだが、併し近頃の學生には、それが其通り通用しないらしい。筆記したのを見ると、濃飛大地震となつてゐるのもあれば、濃美大地震となつてゐるのもある。
 それは兎に角、吾が大和民族は外來物を忽ち同化し得る特性を有つてゐる。能力を有つてゐる[#句点なしは底本のまま]
 セメントは右の震災直後忽ち改良された。製造調合の仕方や塗り方の方式が樹立された。現今本邦の生産品中世界一を誇り得べきものは數々あるが、セメントの如きも亦其の一つである。桑港の金門橋が架けられるとき、負嫌ひなヤンキー技師は、オレゴン産と稱して、本邦産のセメントを使つたといふ話があるが、箆棒なことには、上海邊で日本軍を惱ましたトーチカが、孰れも本邦産セメントを以て作られたのであつたといふことだ。
 耐震構造は、斯うして次第に普及しつゝあつたのだが、併し大正十二年關東大震災は、それだけでは不十分であることを教へた。木造は燃え易い。土藏は破れた屋根や龜裂した壁を通して火を引く。窓ガラスは火に熔け易い。否、それ所ではない。大地震にはびくともしなかつた鐵骨構造すら、鋼鐵の柱がむき出しになつてゐたばかりに、燃える隣家の火熱の爲に飴のやうにぐしやぐしやに潰れて仕舞つた。爾來、耐震構造といふ常套語は耐震火構造と改名しなければならなくなつた次第である。
 昭和八年の三陸津浪は、吾々に今一つ新たな課題を提供した。
 此の時、浪高五米以上になつた處では、木造家屋は、平家は固より、二階建まで流れ出し、金庫がくらげのやうに漂流するなどの奇觀を呈したが、此の間に在つて唯獨り、泰然として微動だもしないものがあつた。それは、鐵筋コンクリート造である。強ひて云へば、奔馳する船舶の爲に多少の損害がないでもなかつたが、それもかすり傷の程度に過ぎなかつた。
 若し普通の鐵筋コンクリート造を、海からの破壞力に十分に耐へるやうに補強し、且つ其の基礎が流水の爲に搖がぬやうに築造されたならば、それは耐浪建築だと謂つても差支なからう。浪災の虞ある都會の海岸通りに、斯樣な建物を並べることは浪災豫防の一方法と考へられる。
 昭和八年の津浪に次いで襲つて來たのが翌年の室戸颱風であつた。
 此の時の災害は、主として風災と、平らな海岸の都會地に於ける浪災とであつた。耐震構造は概ね耐風構造であり、浪災防止上の問題は既に解決してゐたから、此の時ばかりは、新たな課題など現はれまいと思つてゐた。ところが事實はさうでない。
 余は、災後、問題の海岸地方を見舞つた。大阪は港區や大正區などの慘状を、最初は寧ろ平靜な氣持で、視察して歩いてゐた。併し段々と眞相を掴むにつれ、殊に空想が或る一點に逢着したとき余は愕然とした。そして考へるのであつた。
[#ここから1字下げ]
「今回の高潮は、寶永・安政の地震津浪に比べては遙に小さく、海岸でさへ平水上四米以下であつて、舊市街地では橋一つ落ちず、大した損害もなかつたのだが、それでも、こゝ新市街地、廣袤一里に三里の街衢は全然水浸しになつたではないか。過ぐる安政の津浪は、安治川口木津川口から侵入した潮の高さが路面上一丈餘に及び橋梁二十五を墜落せしめたといひ、寶永のときは、先づ地震の爲に、全市の棟數の百分の六を倒して七百餘名を即死せしめた上、兩方の川口から侵入した津浪は安政度の二倍程度であつたらしく、墜落せしめた橋の數六十一、川沿ひの家六百餘軒を破壞し、市民五百四十名を溺死せしめたといひ、其の他、船舶船員の損失は數へきれなかつたといふではないか。今回は此の程度で濟んだが、若しそれが安政津浪の程度、否、寶永度の程度であつたら、どうであつたらうか。そして此の新市街地に住む八十五萬の人達の運命は果してどうなつたであらうか。」
[#ここで字下げ終わり]
 余が足は忽ち其處に釘附にされた、[#読点は底本のまま]呻吟多時、漸く一案が浮んで來た。此の案は軈て増訂洗煉されて震災豫防評議會案となつた。當該地方官憲の意見も之に一致した。
 其の要點は、小學校建築を耐震火兼耐風浪として、可憐な兒童を護るのみならず、非常時に於ては、此等兒童の家族の避難所にも兼用しようといふことにあるのだ。
 工事は著々進められ、昭和十一年度には過半成就してゐた、[#読点は底本のまま]併し遺憾なことには、今回の事變の爲に、工程が停頓の状態になつてゐるやうである。
 事變は、吾々に今一つ重大な課題を追加した。言ふまでもない。空襲に備へよといふことである。
 吾々の震火浪風に耐へる大建築物は、外國に於ける在來の脆弱な建物とは違ひ、燒夷彈や爆彈に對しても格段な抵抗能力を發揮すべき筈である。若し之に多少の補強施設をしたならば、其の程度に相當する耐彈能力を増加するに違ひない。例へば、誰やらが唱へたやうに地階側面や屋上の床を特別に分厚にするやうな方法でもよいと思ふが、若し更に最上層に一時的な砂層を設けることが出來るならば、戰時には耐彈構造となり、平時には完全な耐震構造に還元することが出來て、一擧兩得と謂ふべきであらう。
 耐震火浪風彈、丁寧にいへば耐震・耐火・耐浪・耐震[#「耐震」は底本のまま]・耐彈の五徳を兼ね備へる構造などといふものは、果して痴人の夢に過ぎないであらうか。

   三一 島陰の渦

 家を流され親兄弟を失つた遭難者の群は、命からがら山野に逃迷ひながら、黒船難破の窮状を認めるや否や、我を忘れて躍上り、一齊に手を拍いて歡呼の聲を揚げたといふ話がある。嘘のやうだが事實らしい。不人情のやうだが敵愾心の發露だと解されないこともない。
 右は、安政元年十一月四日東海道沖大地震津浪のとき、伊豆下田に於て展開された一光景である。そして其の黒船とは當時港内に碇泊してゐた露國軍艦ヂアーナ(長さ四十間、幅八間、砲六十門、乘組員五百人)のことである。
 當時我國では鎖國の夢がまだ覺めきらないのに、列國は競つて修好を迫つてゐた際だから、國民が彼等を斯く白眼視したのも時の勢であつた。
 他方、黒船の方はどうであつたか。それは二三船員の物した遭難記に詳かであるが、若し曩に惡聲を放つた人々が、此等の文獻を一讀したならば、恐らく自己の偏見を覺り、船員に對して同情の念を深めたであらう。
 それは斯うである。提督プーチャーチンの指揮は能く行屆き、部下も亦沈著に働いて危難の中にも博愛の精神を失ふことなく、危險を冒してまでも遭難邦人三名を救上げた。其の上、二三船員の書いた觀察記事は綿密で正確であると稱してよい。余は寧ろ船員に敬意を表し、津浪研究に關する無二の好資料を遺して呉れたことに對して感謝しないでは居られないものである。
 余は今此の活劇の詳細を語る餘裕を有たない。唯簡單に其の筋書だけを述べたいと思ふ。
 先づ解説すべきは下田の山海と其處に一進一退を繰返した津浪とである。
 試みに舟の字を想像しよう。此の文字は六畫で出來てゐるが、終畫の横線を省くと、それが舞臺の要點を彷彿させる。即ち第一畫のノは稻生澤《いのさは》川と下田町とに當り、第二三畫は下田港を抱き第四五畫の二點は上即ち北の方が小さな※[#「目+隹」、第3水準1-88-87]鳩《みさご》島に、下即ち南の方が稍※[#二の字点]大きい犬走《いぬはしり》島(徑約一〇〇米)に當る。若し第二三畫の先端を貫く線を軸として、地を北下りに傾けたとしたならば、海水は陸地へ侵入するであらうが、これが第一畫を浸す程度で止めて置いて、今度は反對に南下りに傾け、海水が次第に引返して※[#「目+隹」、第3水準1-88-87]鳩島まで干上がる頃合で止めて置く。
 以上は下田津浪の一進一退を示す雛形である。大地震の起つたのは午前九時頃で、十時頃には第一の津浪(一の潮)が現はれ、爾後、約四十分の週期で上記のやうな動搖を繰返すこと六七回、就中、二の潮三の潮は最も大きく、之が爲に下田千餘戸は殆んど全部押流され百二十三名の流死者を生じたのである。
 當時露艦は第二畫の端近い和歌の浦に投錨してゐた。若しかの緩い長い大震動を感じたとき、直ぐ沖合數粁の外に出て仕舞つたならば安全であつたらうが、併し彼等は盲蛇のやうに動じなかつた。そして吾々に取つて最も貴重な文獻を遺すべく遭難して呉れたのである。
 船は一の潮では無難であつたが、二の潮で犬走島の南を通つて※[#「目+隹」、第3水準1-88-87]鳩島の方へと流された。直ぐ第二第三の錨を投入れたが、それでも停船しなかつた。次に其の引潮で犬走島の此方まで戻されたが、此の際、島陰に出來てゐた渦に捲込まれて舵と龍骨とを折り、船腹に大孔を明けて其處に横倒しになつた。大砲は無論緊縛してあつたが、其一は綱を切斷して轉落し、いきなり數名を殺傷する。尋いで三の潮が來て今度は※[#「目+隹」、第3水準1-88-87]鳩島近くまで流され、引潮で今一度横倒しとなつた。斯樣な漂流横轉を繰返すこと五六回、而も海水はどし/\船艙内に侵入するから、ポンプ班は働き續ける。前後五六時間、遂に彼等は死鬪し拔いたのである。その上に氣温氣壓、風向風速は定時に觀測し、水深は間斷なく測るといふ次第。お蔭で、※[#「目+隹」、第3水準1-88-87]鳩島の邊では、津浪の最高水位が平水上六米程度であつたことが推定される。
 尚ほ二三特筆すべきことがある。
 一士官は一の潮が下田に侵入する状を望見して、町全體が海に沈んで行くのではないかと思はれたといひ、又引潮が餘り急なので、海底が降起して來たやうに錯覺したといひ、極めて妥當な觀察を下してゐる。又本船に激突して難破した和船から二人を救上げたが、殘り數名が救助を肯じなかつたのを殘念がり、此は許可なしに外舶に乘るなといふ國禁を犯すよりも、死を選んだのだといふ理解ある見方をしてゐる。右につき想起すのは吉田松陰の犯禁事件であるが、場處は同じ、時は半年程前であつたのである。
 併し、黒船の遭難記に於て最も目覺しい場面は大渦流に捲込まれたときである。それは二の潮の引くにつれ、※[#「目+隹」、第3水準1-88-87]鳩島沖から犬走島の陰に來る間のことであつて、船は、渦と共に、最初は緩かな左廻りに、そして犬走島の陰に來て急激に右廻りに、かの巨體をプロペラーのやうに廻轉さしたのである。
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 註 石油發動機船の煙突が吐出す渦は渦として完全なものだが、吾々が水面で見る渦は斯樣な完生な渦を半折した斷面である。液面に現はれる一對の渦の中、一は右廻りで他が左廻りであることは斷るまでもあるまい。此の事は、浴湯なり、或は茶碗内の飮料なりを一掻きして實驗して見ることによつてもよくわかる。太陽の黒點も斯樣な渦だと謂はれてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
 露艦のプロペラーのやうな廻轉につき、甲士官は三十分足らずの間に六七十回を數へたといひ、乙は四十三回を下らなかつたと書いてゐる。後者は錨索の捩れ方から推定したらしいから、甲乙兩立し得る筈である。さすれば引潮に要する二十分間に六七十回廻轉したことになる。全員眩暈して直立し得るもの一人もなかつたといふが、さうであつたらう。實に島陰の渦は、すばらしい曲者であつたのである。

   三二 耐震即ち耐風か

 昭和九年の室戸颱風は、關西地方に大損害を與へ、工商農各方面の被害數億圓を算するに至つたが、特に心を傷ましめたのは、多數の小學校を倒潰させて、數百數千の可憐な兒童を其の犧牲としたことである。
 之につき想起すのは、大正十四年五月二十三日の但馬地震である。此の時、多數の木造小學校が倒潰した爲、吾々は之を小學校地震と呼んだ位である。運惡く授業中の出來事であつた爲に、多數の壓死者を出した次第であるが、其の數、假令室戸颱風の場合には遠く及ばぬとしても、世の同情を集めるには十分であつた。震災豫防調査會は、之に鑑みて「木造小學校建築耐震上の注意」といふ小册子を撰んで之を當局大臣に進達し、同種小學校新築の場合には、該書の示す手法に從つて造營し、又既設のものに對しては、其の基準に照らして檢査し、缺陷の箇處は、其の示す補強手法に從つて補修するやうにと希望する所があつた。
 此の注意書は、文部當局に於て眞劍に取扱はれた。即ち、其の全文並に附圖を文部時報第百八十六號附録として掲げたのみならず、關屋普通學務局長から各地方長官へ宛てゝ通牒を發し、校舍營繕等の場合に於ける大切な參考資料として推奬し、且つ此の次第を管下關係者へも示達せられるやう要求されたのである。
 此の注意書の趣旨は、少くも大阪市に於ては能く徹底してゐた。即ち同市に於ては、右に準據して、土地の實状に適すべき規準を新たに定め、昭和二年以來之を實施してゐるのである。其の規準の要點は概ね次の通りである。
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 一 柱は大部分を通し柱とし、管柱は成るべく使用しないこと。
 二 水平架構即ち土臺・胴差・桁等には燧材を入れること。
 三 柱と梁には斜材を用ひ、凡て小屋梁には挾み筋違を入れ、二階梁は合せ梁とし、此の部分の筋違は眞に入れること。(教室の天井は折上げとし、斜材が隱れるやうにする。)
 四 壁體の開孔ならざる部分には筋違を入れること。
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 其の他、接合部は、帶鐵物・羽子板鐵物・ボールト等を以て補強し、已むを得ず管柱を使用するときは、必ず添柱を當て、又陸梁二階梁の部分には水平にボールトを十文字に張り、屋根の張間の大きなものになると、輕量な石綿盤を使用することにしてあるなど、能く行屆いた補強方法と稱すべきである。而も其の補強裝置の爲、別段多額の費用を要する譯でもなく、僅に建築費の四分五厘を占めるに過ぎないとのことだから、他の地方に於ても眞似られない程度のものでもない。
 元來耐震と耐風とは、其の構造の要點に於て共通なものがある。基礎は固より、軸部を堅牢にすることなど、特にさうである。唯耐震の目的の爲には屋根を輕くせよといふ代りに、耐風の爲には小屋組と軸部との結束を一層固くせよと要求し、隨つて多少重量を増すこともあらうし、又耐震にはさ程考慮を要しない外壁や窓に對しても、風壓に耐へるだけの注意は拂はなくてはなるまい。併しながら、其れ等は、家屋全體から見れば枝葉末節に過ぎないので、其の根幹に於ては耐震即ち耐風だと云つてよいであらう。或は逆に耐風即ち耐震とも云へるであらう。
 耐震と耐風とが斯く密接な關係にあることは、大阪市當局に於ても夙に認められてゐた。現に上記の木造小學校構造規準案には「大阪市木造校舍建築耐震耐風的手法」と簽してあるが、實質的には基礎軸部及び小屋組の結束に關する補強方が強調してあるだけで、屋根や外壁に對する風壓の關係には論及してない位である。そして昭和二年後に於て建築された校舍は、先づ此の案に準じ、同四年後に於ては此の案に從つて建築された次第である。
 斯くて此等の新舊各種の小學校舍が室戸颱風の試練に出會つた譯だが、舊設校舍の約半數が倒潰したに拘らず、鐵筋コンクリート造三十一棟、規準案に依る百十四棟は全部無難であつて、準規準案に依る百十九棟の中、僅に其の五分五厘だけが倒潰したといふ好成績を示したのである。
 震災豫防調査會注意書は、前に記した通り、今一つ重要な事項を含んでゐる。即ちそれは、舊造校舍の補強方法に關するもので、次の通り、要約してある。
[#ここから1字下げ]
 一般に小學校管理者は、校舍の構造を精密に檢査し、新築の場合に對する注意書に比較して不完全なる部分あらば之を補強すべく、特に次の事項に注意すべし。
 一 小屋梁及二階梁と柱との接合、方杖鐵物等を用ひて之を補強すること。
 二 柱の補強 通柱管柱共に階の上下に跨りて適當なる長さの添木、添鐵物を當て、ボールト締となし補強すること。
 三 斜材 壁體は勿論、縱横材間に於ても、成るべく筋違方杖の如き斜材を新たに加へ、出來得る限り多くの三角形を構成すること。
 四 講堂、雨天體操場、控所に對する補強 講堂雨天體操場控所又は連續せる教室を講堂に兼用するもの等、大なる室にありては、外壁適當なる箇所に添柱或は控柱を新たに設け、室の歪に備ふること、梁と柱との接合又は柱の大さ十分ならざる場合には特に必要なり。
 五 用材の腐朽 軸部殊に土臺にして腐朽せるものは、之を新材と取換ふること。
 六 保存 校舍は時々之を檢査し、用材の腐蝕、繼手仕口の緩み等あるときは速に修理し、補強を怠らざること。
[#ここで字下げ終わり]
 現今我國の木造校舍は舊造のものが最も多く、隨つて本注意書の要旨に準じて補強施設をなすべきものは莫大な數に上るであらうが、斯る場合、余は第四項に擧げてある控柱の應用といふことを特に強調したい。實行容易で、而も極めて有效な補強方法だからである。なに、控柱は不體裁だなどといふ人もあるが、余は寧ろ質實剛健の標本として推奬すべき價値を認めるものである。
 斯ういふこともあつた。大阪市に近い或る女學校で、二箇並列した同型の木造舊舍が、豫算の都合上、一棟だけ改築されることになつたが、小學校でないといふ理由であつたか否か、耐震的の注意が拔けたらしい。併し殘りの舊舍は其の儘では釣合が取れず、申譯のやうに控柱が施されたのださうである。此等が揃つて室戸颱風の試錬に會つた譯だが結果はどうであつたらうか。皮肉なことには、新校舍が倒潰して、控柱附の舊校舍はびくともしなかつたさうである。
 此は吾々に取つて貴重な教訓を與へるものである。一方、耐震耐風の要諦を教へ、他方、科學する心の乏しい日本人の弱點を衝く訓戒である。(昭和九年十一月)

   三三 地震と腦溢血

 大正十二年關東大地震のとき、新潟にゐた一醫師が、大きな船に搖られるやうな心持から、終に嘔吐するに至つた話や、大阪にゐた他の醫師が、腦溢血の發作と即斷して、大騷ぎした擧句、寢臺の用意をさせ、其の上に横たはつたまでは眞劍であつたが、軈て頭を枕につけて見ると、視線が自ら大動搖中の電燈にぶつかり、そこで眞相が始めてわかり、大爆笑となつた話は、當時入澤先生から承つて興味深く感じたのであつた。斯樣に腦溢血の發作と遠方大地震とを混線させる人は他にも少からぬことと見え、此の頃、東大醫學部教授某博士から他の一例を寄せられたのである。時は同じく大正十二年九月一日、場處は青森市某病院、人は副院長某博士、舞臺は同院お歴々の環視の中とあつた。時刻は讀者の想像に任せることとし、此の時まで、何の異常もなく、極めて朗かに談笑してゐた副院長氏は大慌てに慌てゝ、
[#ここから1字下げ]
「やあ、大變々々、これは腦溢血の發作だ。腦溢血だ、腦溢血。」
[#ここで字下げ終わり]
を繰返して、お歴々を面喰はしたのださうだ。
 それから後の事は聞き漏らしたし、又之を詮議するにも及ぶまいと思ふが、唯こゝに附言して置きたいのは、斯く地震と、腦溢血とを混線させるのは醫家に多いといふことである。此は腦溢血發作に關する知識といふものが、醫家の專有だといふ條件に基因するのであるが、今一つ附帶條件のあることを見落してはならぬ。それは舞臺が大建築物であつたといふことである。
 遠地大地震の餘波は、主として緩かな大動搖から成立つてゐるが、平地に於ては、其處に固有な、稍※[#二の字点]急な振動が誘起され勝ちであるから、普通の木造家屋では、矢張り地震らしい感覺を與へるけれども、基礎の深い、堅固な大建築物では單に緩かな、大動搖のみを感ずるのである。

   三四 關東大震火災の火元

 近頃、關東大震火災を甚だ輕小に評價しようとする人がある。甚だしきに至つては、平和な白晝に於て、七十ケ所から同時に發火したに過ぎないなどといふ人すらある。
 併し、事實は甚だしく相違してゐる。
 過般の關東大地震は市民の誰もが全く夢想しなかつた變事であつた。其の突發するや、一瞬にして關東全部が尺寸の地の剩す所なく、激烈な震動に襲はれ、分秒の間に於て、東京市だけでも數萬の家が破壞され、數千の市民が即死せしめられた。其の他の家屋は大抵半潰或は大破し、負傷者の數は死者に數倍したのである。
 以上は東京だけの状況であるが、横濱・横須賀・小田原・鎌倉・浦賀・北條・館山等は震動更に激烈を極め、家屋破壞や死傷者の歩合は遙に東京をも凌駕したのである。之が爲、住民は、何處に於ても心神顛動畏縮し、引續き襲來する餘震の爲に平靜を取戻すことが殆んど不可能であつた。
 此は當に敵機の爆彈投下に比較すべきものである。而も國際平和裡に於ける不意打である。晴天の霹靂である。戰時警戒裡に於ける幾何の爆彈投下に匹敵するであらうか、それは讀者の想像に任せることにする。
 續いて來たものが火災である。此は正に近代戰に見るが如く、爆彈に續いて投下された燒夷彈にも比較すべきものである。
 斯くして大正大震災が始まつたのである。此の時、若し人力を以て抑制しなかつたならば、火災となる虞れのあつた箇所は東京だけでも幾百幾千であつたか計り知るべからざるものがあつたのである。説者の謂ふ七十所の火元とは、帝都に於て、終に抑制しきれず、大暴れに暴れたものといふ意味であらう。當時、警視廳消防部長であつた緒方惟一郎氏の報告には、市内に於ける獨立發火百三十六件飛火七十六件を數へ、尚ほ此の他に認知不能のものの多數なるべきを斷り、更に隣接市街地に於ける獨立發火四十件を加へてゐる。又中村清二博士が三十餘名の學生團を指導して調べた結果は、東京市並に隣接市街地に於て、合計百六十三所となつて居り、其の中、七十九所は消止め、殘り八十四所の火口に由れるものが、かの大火災の因をなしたことになつてゐる。
 之を要するに、大地震に基因する火災と、空襲に因る火災との間には、種々共通な性質がある。次に之を列記する。
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 一 兩方共に同時の多元發火である。
 二 一方は爆彈投下が先行するに對し、他の方に於ては、大地震の破壞作用の先行がある。
 三 發火後の消防を妨げるものとして、一方に續投の脅威がありとすれば、他方には餘震の脅威があり、家屋倒伏に由る道路閉塞、水道鐵管破裂などの障害がある。
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 斯くも兩種の火災の事情は相似てゐるのであるが、併し、此の他に著しい相違點のあることを忘れてはならぬ。即ち、前にも指摘した通り、敵機の襲來は多少豫期され、少くも數分前には警報されるであらうから、防火準備が、精神的にも器械的にも、可能なるに反し、大地震の場合は其の襲來が全く豫期し難く、何等の準備なしに、之に應接しなければならぬといふ不利な條件下に暴されてゐるのである。
 兎に角多少の異同はあらう。併し各人各戸各組が、危險に暴露されながら、必死の防火をなすべく餘儀なくされてゐることは、最も重大な共通點と謂はねばならぬ。
 大地震は期待し得べきものでもなければ、避けられるものでもない。そして何時何處に突發するかわからんといふ曲者である。其の突發を見た場合、國民が一齊に上記のやうな行動を取ることが出來たならば、それは正に二重の重大な所得を意味するものである。

   三五 天災は忘れた時分に來る

 一、天變地異と天災地妖[#「一、天變地異と天災地妖」は見出し] 天災は忘れた時分に來る。故寺田寅彦博士が、大正の關東大震災後、何かの雜誌に書いた警句であつたと記憶してゐる。これは、當時の世相に對しては極めて適切輕妙な警句であつたのだが、併し一般の大衆にはわかりにくかつたらしい。天變地異と天災地妖とを混同してゐた人が寧ろ多數であつたからである。余の如き大震後の半年間、通俗講演會に引出されること百數十回に及んだが、何れの場合でも劈頭に地震と震災との區別を辯ずることが必要條件であつた位で、單にそれだけでも講演の大體の目的は達せられたといつて過言ではなかつたのである。遂に文部省映畫課の依頼に應じて「地震と震災」といふ映畫を製作した位である。
 試みに天變地異の種類を擧げて見る。地震、雷、火事は昔から筆頭に現はれるが、それに颱風と旋風、洪水と津浪に山津浪、凶歳と火山噴火を加ふべきであらう。此等の自然現象は、原始時代には大した脅威にもならなかつたらうが、開拓が進み文化が開けるに從つて、生命財産に危害を與へ損耗を加へるに至り、震火災、風水災、浪災、飢饉などといふ天災ともなり地妖ともなつたのである。
 天變地異は不可抗力といつてもよい。人力では其の發生を抑壓することは不可能であり、少くも甚だ困難である。隨つてこれが忘不忘といふ人事に左右される筈はない。併し天災地妖は、智力を以て之を制壓することも出來るが、少くも之を輕減することは容易である。之が爲には、徹底的な科學的研究を要するものもあるが、單に些細な注意のみでも相當な效果を收め得るものがある。
 ここにいふ些細な注意に就ては、其一例として、嘗て其の土地が喫した天災を忘れないといふ點を擧げて見たい。但し此不忘は、其の土地自身のものでなければならぬ。隨つて居住者は、自身の經驗だけに止まらず、曾て其土地が喫した事例にまでも通ずることを要するのである。
 此の不忘の一點だけで天災を免れる場合は頗る多いが、反對に忘の一字の爲に、免れ得べき天災を免れ得なかつた實例も亦尠くはない。
 二、忘と不忘との實例[#「二、忘と不忘との實例」は見出し] 神戸の湊川といへば誰しも大楠公を思出すであらう。此處一帶は、建武の古に遡るまでもなく、水戸老公が訪れたときでも、ただの田苑であつたのである。現に斯くいふ余の如きも、明治二十年頃には、沙床の川原を持つた水無川であつたことを目撃してゐる。出水のときは或は氾濫もしたらうが、水災は大したことにならずに終つたのであらう。川筋は割合に廣く、兩岸も高かつた。併し其の川筋は何時のまにか見失はれて仕舞つた。多分暗渠か何かの形で餘喘だけは保つてゐたのであらう。
 湊川といふ川は遂に忘れられて仕舞つた。そしてそれが再び土地の記憶に蘇つて來たときは、豪雨に基づく洪水で新開の見事な住宅地が廣壯な邸宅と共に一掃されて仕舞つたときであつた。言ふまでもなく此の水害地が即ち湊川の舊川床であつたのである。
 三陸の太平洋沿岸は、昔ながらの津浪常習地である。最も古いのは貞觀十一年、中古では慶長十六年、近くは明治廿九年と昭和八年のもので、何れも大津浪であつたが、其他の中小津浪は數へ切れない位である。今更いふまでもなく、沿岸は、外洋に向つて開くV字形U字形の大小港灣が數多く、合計二百を以て數へる位であるが、津浪は此の港灣の奧に當る小地域のみに發達するのである。隨つて村を建てるにも、一時避難するにも、此の小區域を避けるだけで全く安全となるわけ。併し世は樣々で、此事を一千餘年も前から言傳へて明治昭和の浪災を免れた船越の小谷鳥や山内のやうな村々もあれば、明治廿九年に全滅近き災厄を被りながら、強ひて之を忘れて、否忘れるといふよりも、寧ろ當時の悲慘な光景に目を掩ひ耳を塞いで、昭和の津浪に同じ災厄を繰返した唐丹、田老等の如き村々もある。
 昭和浪災に於て忘不忘の結果の相違が斯くも顯著に現はれた以上、當事者も考へざるを得なかつたのであらう。村々の復興には滿足すべきものがある。朝日新聞社が、不忘を勸める爲二百の罹災地に記念碑を建立させた事も特筆すべきである。これは、募集締切後の義金を充てて出來たのであるが、場所や碑面に刻む標語の選定にまでも參畫した余としては、聊か會心に値する思出である。
 三、回向院と被服廠[#「三、回向院と被服廠」は見出し] 大正震火災に於ける最大の悲劇は被服廠跡の慘事である。當時之を以て前代未聞の天災と斷じた位であるが、此の現象を詳に研究した寺田博士は、舊幕時代の火災史を檢討した結果、これが既に經驗濟みの事件であつて、それが單に江戸が東京に發展する間に忘れられて仕舞つたに過ぎないことを知り、かの有名な警句を發するに至らしめたもののやうである。
 旋風は、火災の際にも起ることは今日能くしられてゐるが、其の旋風には種類が二通りある。其一は、狂風の際四ツ角等にて往々見受ける塵旋風と同種のもので、大火の際、二方或は三方から進行する火陣が相合しようとしてして[#「してして」は底本のまま]ゐるとき、行く手の燃えてゐない部分が火陣の前線に凸入する態勢になつた場合等に起り勝ちなものである。右は概して小規模のものであるが、今一つ大規模に本格的な龍卷と同樣な移動性のものもあるらしい。大正十二年のあの大火災の際、上空に強大な積雲の生じたことは、當時何人にも認められた所であるが、他方炎上地域の烈しい上昇氣流と、河川或は緑地帶への強い降下氣流とが相錯綜して起つてゐる折柄、積雲層に生じ勝ちな強い渦流が地上に垂れ下る等は有り得べきことに屬する。其の成因は兎に角、斯ういふ本格的の龍卷の起つたことだけは否み難い所であるが、被服廠跡を襲うた旋風は、單に一回や一種に止まらなかつたやうである。
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「時刻は午後四時頃であつたらう。三百米平方の空地は數萬の避難者と所持品の山とで身動きも出來なかつた。其處へ火は三方から攻寄せる。退き口は南の一方だけしかないが其處は大川で堰かれてゐる。突然彼等は異樣な唸りを聞いた。天は暗黒となり、旋風は、火災と黒烟と異臭とを吹きまくつて荒れ狂つた。やがて魔風は過去つた。そして後に殘つたものは三萬八千餘の焦げた屍體であつた」
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中村清二博士演述の抄譯である。
 今之に類した事例を搜して見ると、江戸の明暦大火に於ては、其の元年正月十八日からの四日間市中の大部分を燒盡して、十萬二千餘の死者があつたと云つてゐる。
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「やがて此の死骸をば河原の者に仰付けられ、武藏と下總との境なる牛島といふ所に舟にて運び遣はし六十間四方に掘り埋み新しく塚をつき、増上寺より寺を建て、即ち諸宗山無縁寺回向院と號し、五七日より前に諸寺の僧衆集り、千部の經を讀誦して魂をとぶらひ、不斷念佛の道場となされけるこそ有難けれ」
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と武藏鐙に記してある。斯く多數の死者を生じたのは、單に火事が廣汎であつた許りでなく、「晝夜四日の大火事に夥しき旋風ふきて猛火さかりにけり。」とあり、又廣場に逃げ集つた多數が、旋風に狂ふ劫火の爲に集團的に鏖殺されたことにも由るのである。
 江戸は、其後安政の大地震のときにも、六十餘箇所からの同時發火に惱まされたこともあるのだから、斯樣な天災を、假令明治が大正になつても忘れる筈はないのであるし、青年學徒の中にも連りに不忘を鼓吹したものもあつたけれども、何時の世にも曲學阿世の徒輩の言説は俚耳に入り易く、遂に「大地震は、二度と同じ點から起らないといふ原則に從つて、當分東京には大地震なし。」とか「大地震は靜かな日に起るもの、且つ東京の道路は近頃大いに擴げられたから、假令大地震に襲はれても大火災にはならぬ。」などと邪説を強ひて信ずるに至つたのは遺憾の極みであつた。
 寺田博士の天災に關する警句に最も共鳴したものは震災共同基金會(震災防救協同會とすべきか)であらう。これは、有馬頼寧伯が大正十三年九月一日其の一族を率ゐて街頭で大衆の義金を集め、之を以て内外罹災者の急を救ひ、或は災厄を豫防する資金にしようといふに創まつたのであるが、爾來廿三年間東京朝日新聞社が之を後援してゐるのに顧みても其の健實さがわかるであらう。そして其の十周年に當り、會が記念事業の一として選んだのが、かの警句を生かす記念塔の建設である。之れが爲に先づ其の忘れた時分に來る筈の震災に善處する意味の標語を懸賞に依つて募つたのであるが、「不意の地震にふだんの用意」といふのが當選した。會は、更に此の標語を表徴する彫像を北村西望氏に依囑しそして作り上げたのが、かの銀座横、數寄屋橋詰の小緑地帶は交番横に屹立する震災記念塔である。燈明を右手に掲げて前方を見守る青年像は、「不意の地震に不斷の用意忘れるな九月一日」、「震災は忘れた時分に來る」の何れを表徴してゐると云つても差支ない。あの廣場には小さ過ぎる嫌はあるが、露天には惜しい美術品である。此の昭和廿一年の九月一日は、進駐軍看視下に於ける最初の記念行事だといふので、記念塔や會並に基金募集目的の簡單な英文解説を少年少女の募金箱に貼付して置いた處、かの人々は叮嚀に之を讀み慇懃に義金を入れ、中には大金をはずんだ方もあつたなどと云つて彼等は喜んでゐた。
 我が民族の大難は二度とはあるまいが、大地震は引續き繰返されるであらう。斯る際、「泣き面に蜂」にならぬやう特に心すべきである。横濱の震災記念館、東京では被服廠跡の詞堂[#「詞堂」は祠堂か?]と記念館等も亦かの大震火災を永遠に忘れない爲の表徴にしたいものである。
 四、地震除け川舟の浪災[#「四、地震除け川舟の浪災」は見出し] 津浪の災禍も亦忘れられ勝ちな地妖の一つである。其の一端は、三陸地方に關して既に紹介した通りである。此處では、豫防施設も割合に行屆き、吾々が立案した諸方法は、重要施設の高地移轉を始として、避難道路、一時の避難箇所、緩衝地區、防浪堤、防浪林の新設等に至るまで、概して順調に進捗したといつてよからう。唯關西方面に於ては、此等の方法のみでは解決されないものが殘つてゐるから其等を聊か補ふことにする。
 小泉八雲の「生ける神」によつて世界的に有名となつた南紀廣村の防浪堤と防潮林も亦忘れられようとしてゐた。交通運搬に不便だとして防浪堤に切通しを作り、地積を使ひ過ぎてゐるとして堤の裾を切崩しなどしてゐたからである。併し今では村民が、其等の愛護に精進し、切通しには、津浪侵入の場合に對處する自働門扉を設け、毎年十二月五日には、當時の生ける神濱口大明神の爲に梧陵祭を營んでゐる。やがて梧陵の業績は、「稻むらの火」として國民學校の教科書に載せられ、墓所と防浪堤の一區は史蹟として文部省から指定されるに至つた。此等も亦總て余が會心を禁じ得ない思出の對象である。土佐の津々浦々は、割合に浪災を忘れずにゐる。これは、彼等の腦裡にさうであるのみならず、處々に記念碑が殘つてゐて、それがよく村民を指導してゐるからである。若し有史以來の地妖に對して盡くさうであつたら滿點の成績であつたらうが、惜しむらくは、天武天皇時代の天災は餘りにも遠く、慶長九年の場合は、山内侯入國當時で國内動搖中のこととて、何れも其の詳細が傳はらず、そして寶永の大地震津浪が初めての經驗のやうな形になり苦杯を喫したのである。併し安政の地震津浪には、よく百四十七年前の災禍を記憶して假令震火災は免れなかつたとしても、津浪だけには、それを災禍と思はれない程度に善處し得たのである。
 併し局部的には尚補ひたいことがある。一つは、浦戸灣奧で高知市の東に接する方一二里の平地であるが、ここは、天武、寶永、安政の三回ともに著しく沈降したと信ずべき根據がある。第二は、浦戸灣口を遮る種崎の砂洲であるが、ここに侵入した津浪は、水面上の高さが、寶永度には八十尺、安政度には三十尺に達した。浪の進退はさ程に激烈でなかつたらしく、生命の保護だけなら、大阪の瀕海地區同樣に、甚だしき困難を感じないであらう。
 大阪の津浪に就いても忘不忘の辯を要するものがある。其一は、昔の難波津が受けた變異である。ここは、南海道海域で起つた津浪が大阪灣に進入するとき、いつも攻撃の衝に當る處であるから、古來其の記録にも乏しくはない。正平十六年の津浪につき、參考太平記は斯う記してゐる。
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「攝津の國難波浦の沖數百町、半時計乾あがりて、無量の魚ども沙の上に息つきける程に、傍の浦の海人共網を卷き釣を捨て、我劣らじと拾ひける處に又俄に、大山の如くなる潮滿來て漫々たる海に成にければ、數百人の海人共一人も生て歸るは無りけり」
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 大阪の市街が斯ういふ津浪に襲はれたこと三回に及んだらうが、第一の慶長九年の場合は單に變異に終つたらしく、次に寶永の場合には兩川口から進入した津浪は六十一個の橋を墜落させ、安政の場合には二十五個を落橋せしめた。現時木津川の線以西にある瀕海の五區三方里の街衢が二階建木造を竝べ建てたとしたら、上記の如き津浪は之を一掃するに十分であらう。去る昭和九年の高潮は舊市内の川筋では全く無難であつたが、此の街衢では相當の破壞力を示したではないか。
 前文に湊川の川床の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話を記して置いたが、それと同樣に、此の昔の難波津の天變地異が忘れられたら瀕海五區の天災地妖ともなり得るであらう。之に對する一方法として、國民學校を耐浪建築にし、兒童は固より其の通學區域内の全住民の一時避難所に充てる案が吾々の會からも建議され、當局も之を諒として着々實行に移して居られた。だが戰禍はこれにも及んだことであらう。
 大阪津浪の忘不忘に關する今一つの件は地震除け川舟の浪災である。
 由來大阪は、足元から發生した大地震を經驗したことがなく、唯他地方に起つた地異の餘波を蒙つたに過ぎない。第一は慶長元年の伏見大地震で、次が寛文二年近江の西湖畔に起つたものである。此の時有福な人達は、川舟を一時避難所に充てることを氣附いたらしく、これが盛んに流行して成功を收めたかの如くであつた。若し市民が震源の位置を辨へてのことならよいが、併しさうではなかつたらしい。次の寶永大地震のときには大失敗を演じたのである。
 寶永地震は、地震だけでも家屋全數の百分の六を倒し、千名近くを壓死せしめたのだから、市民の恐惶は想像に難くない。水上への逃避者も少くなかつたらう。併し津浪は、前記の通り、兩川口から進入し、大小の船舶がこれと共に突進して、六十一個の橋を落したのだから、水上の避難者がこれと運命を共にしたことはいふまでもない。大阪市としては初めての天災で、無理もないといへようが、併し歳月は此の慘事を忘れしめた。次の安政の地震の津浪に、再び同樣の慘事を繰返したのである。
 其頃町に廣瀬旭莊といふ學者がゐた。家集に九桂草堂隨筆といふのがあるが、それには次の一節がある。
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「澤春畔の話に、其近隣に至つて親しき大家あり。旦那同うせり。其母未だ六十ならず。三男二女を生み、長子は家を繼ぎ、二弟は分居して各々妻をもちたり。三婦毎日姑の側に侍りて孝養し、至極幸福なる嫗といはれたり。然るに去年十一月地震のとき、右の母に三婦並に二女隨ひて舟に乘り、くつがへりて子女六人皆死し、男子は一人も死せざりき。寺に葬りしとき、主僧過去帳を開き、世間に此の如き奇事もあるかなといふ。其故を問ふに、百三四十年前寶永中に、右の家津浪にて母並に三婦二女一家六人死したる由記録ありしとぞ。右過去帳にさへある位なれば、其家に申傳へて、地震の時舟に乘らざる樣に心得べきに、何を以て其事なきや。蓋し其家、右の事話し出せば傷心に堪へざる故、兎角言はぬやうに致せし内百餘年を過ぎて遂に知るものなきやうになりしにや」
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 これは又頗る入念な忘れ方である。因果應報信者に云はせたら、祖先の妄執が子孫に祟つたのだといふかも知れない。
 五、噴火災と凶作[#「五、噴火災と凶作」は見出し] 火山噴火は、天變地異としては規模の大きな部類である。山が村里を遠く離れてゐる場合は、災害は割合に輕くて濟むが、必ずしもさう許りではない。我邦での最大記録は、天明の淺間噴火であらうが、土地ではよく之を記憶して居り、明治の末から大正の初にかけての同山の活動には最善の注意を拂つた。
 有珠の噴火もよく忘れられずにゐる。特に明治四十三年のときは、土地の警察署長の英斷によつて、周圍三千戸一萬五千の住民を三里以外の場所に、爆發一日前に立退かせてゐる。
 上記の場合とは反對に、大正の櫻島爆發のときは、顯な前兆があつたに拘らず、土地の人達特に科學者が安永噴火の状況を忘却してゐた爲に、變異を未然に察知することが出來ず、遂に徒らに災妖を大きくして仕舞つた。
 火山は、噴火した熔岩、輕石、火山灰等に依つて四近の地域に直接の災禍を與へるが、尚其の超大爆發は、火山塵の大量を成層圈以上に噴き飛ばし、忽ち之を廣く全世界の上空に瀰漫させて日射を遮り、而も其の微塵は、降下の速度が極めて小なる爲、滯空時間が幾年月の久しきに彌り所謂凶作天候の素因をなすことになる。
 火山塵に基因する凶作天候の特徴は、日射低下の他、上空に停滯する微塵、所謂乾霧に依つて春霞の如き現象を呈し、風にも拂はれず、雨にも拭はれない。日月の色は銅色に見えて、或はビシヨツプ環と稱する日暈を見せることもあり、古人が龍毛として警戒した火山毛をも降らせることがある。秋夏氣温の異常低下は當然の結果であるが、やがて暖冬冷夏の特徴を示すことがある。
 最近三百年間、我が邦が經驗した最も深刻な凶作は、天明年度と天保年度とのものである。前者は三年間、後者は七年間續いた。最も慘状を呈したのは、いふまでもなく、東北地方であつたが、併し凶作は日本全般のものであつたのみならず、實に全世界に亘るものであつた。其の凶作天候が、原因某々火山の異常大噴火にあつたこと、贅説するまでもあるまい。
 世界中の人々が忘れてはならない天災地妖、それは、恐らく火山塵に基因する世界的飢饉であらう。

   三六 大地震は豫報出來た

 十二月の末に紀州と四國を襲つた大地震については、今村博士がつとに警報を出して居られた事は新聞にも出たが、かういふ恐ろしい地震はどうして豫報出來るのか、又それにも拘らずどうして被害を防げなかつたのか、博士にお話を伺ふ事にしよう。
「起りさうな所に、起りさうな時に地震は起る」
 博士はかう言はれる。では、それを判斷する材料は、
「一、地震の歴史、二、地質の構造、三、地盤の傾きの三つであります。これを見て居ると此の邊には其の中大地震が起るだらうと觀測所を設けて、いろんな前兆を調べる用意をして置き、愈※[#二の字点]數時間又は十數時間前に起る前兆(地電流の變化、細かい震度、光等)を調べ天氣を豫報するやうにやれる」と。
 余が大正の關東大地震の前兆の研究に取り掛つたのは、地震直ぐ後の事である。先づ三通りの前兆に氣づいたが、中にも三浦半島の先にある三崎、油壺の檢潮儀が示した地震前數十年間の漸進的な地盤の沈みと、地震の時の躍進的な隆起とは、これを廣く關東全部の精密水準測量の結果から見るなら、關東全地界の漫性的傾動と急性的傾動とを地界の片端に於て認めたに過ぎなかつたのである。
 陸地測量部は、明治の中頃、全國海岸に十數ケ所の檢潮儀を設けて、長年に渡る地盤の上下變動迄も實測したのであるが、他の場所が殆ど動かない状態を見せたにも拘らず、油壺と紀州の二ケ所は變つた地盤の沈みを示したのである。それぞれの位する半島は、其の地質構造と云ひ、沖合に大地震を起し、而も其度毎に南上りの跳躍的傾動を伴ふ等いろんな點で極めて良く似て居る事が氣づかれたので、三浦半島が示した一組の漫性的及び急性的傾動が、沖合の大地震を廻つて、紀州にも亦現はれるに相違ないと想像し、測地學的實測に取り掛つたのである。即ち帝國學振の補助を受け、陸地測量部に頼んで、紀伊半島では、西東の兩海岸並びに中央線に沿つて精密水準測量を行ひ、又室戸半島は状況が紀伊半島と同樣であるのに鑑みて此の半島に於ける線路の二度目の測量をも頼んだ。
 かうして半島の漫性的傾動が測られた次第であるが、其の結果に依ると、紀伊半島では、昭和三年に終る二十九年間の年平均が南下りの〇・〇三三秒で、室戸半島では昭和四年に終る三十三年間の年平均値が南南東下り〇・〇四一秒と出て來た。
 一方、沖合に發生する大地震に伴つて、半島は大旨南上りの急性的傾動をするのであるが、其の大きさは安政年度には紀伊半島が四・四秒、室戸半島が五・〇秒程度であつたらしい。今度の大地震に伴つた傾動は兩半島共に四秒程度であつたとしたら大きな誤りにはならないであらう。
 此の急性的並びに漫性的傾動の間には後者が前者の前兆であらうと云ふ意味の外に、物理學上の量的關係もあらうと我々は考へる。即ち急性的に起る傾動の大きさは、地界を造つて居る岩石の曲《まげ》に對する限界値に近く、從つてそれ以上に歪めては破れを起さうと云ふ結果になるであらうし、又漫性的傾動も、百年位積る時、同樣に右の限界値に到達するからである。將して然うなら右の漫性的傾動は、其の最初からの積算値が今後の豫報の問題に大切な役割をするであらうから兩半島の精密水準線路の測り直しは此の際特に望ましい事である。
 日本の太平洋沖には、大規模な破壞的地震帶の一線が五つに區切られてゐるが、活動の中心は全線の一方から他方へ順を追つて移る傾きを持つてゐる。これは地震統計だけでなく、學術的にも根據のある事である。今近年の活動順序を見ると、安政の後新たに明治二十七年の根室、釧路沖から始り、同じく二十九年の三陸沖、大正十二年の關東沖から、昭和十九年の東海道沖に、いづれも津波を伴ふ大地震として現れたが、此の次の活動場所が間もなく南海道沖になる事は明らかであらう。余がこれに關する論文を帝國學振に差し出したのは昨年十月である。
 太平洋沖に突き出して居る第三期地界の慢性的傾動は、漸て來る可き沖合の大破裂の前兆であらうとの説は、第一に昭和十九年の東海道沖大地震で實證せられ(二十年三月帝國學振記事、余の論文)今亦南海道沖大地震に依つて證明せられたが、余は此の目標だけに滿足せず、更に最後の瞬間に先立つ數時間或ひは數日前に現はれても良い筈の前兆をも取らへる方法を考へ、兩半島及び其の近くに七ケ所の私設觀測所を設けて觀測して居たが、凡ては戰災に罹つて最後の仕上げが出來なかつたのは殘念である。
 かうして余が拂つた十數萬圓の研究費も十八年間の努力も無駄になつたやうであるが、而し凡てが水の泡であつたとは思つて居ない。余は府縣別、市町村別、及び港灣別に、寶永、安政、二度の地震、火事津波の三つを調べ上げ、將來の災を防ぐやうに當局に勸めて居たのである。成績は思つた程ではなかつたけれども、安政に大火事に罹つた場所が今度は割合に無事であつた事、人死《ひとじに》の數は大旨前の三分の一に止まつた事、田邊市の被害を安政の場合と、若しくは凡ての状況が似てゐる新宮市(我々の勸めの屆かなかつた)と比べて見るなら、思ひ半ばに過ぎるものがある。
 少くも「熱の無い對手への勸めは無益である」との教訓は一つの收穫であつた。
 大地震は發生場所と時期とが大旨豫報出來る。殊に陸上の大地震は、太平洋沖のものよりも與し易い。學術は其處迄進んでゐる。只最後に豫防の實際問題に就て、是を生かすか何うかは恐懼に當る人の責任である。(二二・六・五、ローマ字世界誌所載)

   三七 原子爆彈で津浪は起きるか

 シーカさん達がまた訪ねて呉れた。此の前のときは、話題が地震に集中したから手取早く、一人一人に自書の英文地震學を差上げて見た。それでも先方は出來るだけ日本語で問答したかつたらしい。案内した帝大生もかう言ふ。終に去る五月の二日三日に放送した關東地震の話までも復唱させられて仕舞つた。今回は津浪の話がはづんだ。原子爆彈の爆發實驗が近日水中で行はれるといふが、津浪が起る危險はないかといふのである。
     ◎
 此質問は最初案内役の田中館君に向けられたのだが、國際津浪研究委員會の會長に聞けと言つて此方へ押付けたもの。
 さうですね。其の危險の有無は「津浪とは何ぞや」をよくわかつて貰へたら自然に解けるのですがねといつたら、今度は其のタイダル・ウェーブの字義から出發しようといふことになつた。それは潮汐のやうな波といふこと。潮汐は二つの波となつて始終地球を廻つてゐます。隨つて週期は概ね十二時間、波動は地球の半周といふことになります。津浪の波はそれ程ではありませぬが、それでも週期は數十分乃至二時間、波長は幾百マイルと言ふ素晴らしい長いもの。若し津浪が日本の太平洋沖合に起つたら、五六回うねつただけで、對岸のアメリカまで參ります。短波長の波と違つて、勢力も割合に衰へないものです。
 高さですか。それは問題ではありませぬ。大にしては數十米小にしては數糎のものまであります。波長が短くて波高の大きい波浪は怒濤にもなりますが、津浪は其樣なものではなく、寧ろ海水が陸地に引越して來るのだといふ方が事實に近い表現でせう。
 タイダル・ウェーブの日本語ですね。それは津浪です。津の浪即ち港の浪です。日本語といひながら學術的には國際語になつてゐます。これも其の重要な特性をよく捉へた言葉なのです。それは斯うです。津浪は、波長が頗る大で高さが之に伴はない爲洋上では其存在がわかりませんが陸地に近づくと海が次第に淺くなる爲に波高を増し、又|漏斗《じやうご》形の港に進入すると海幅に反比例して更に高くなりますから、沖の方では假令一米程度の高さでも、港の奧では數十米にもなるのです。話がこゝまでくると、わかりました/\が連發される。そして爆彈の水中爆發では恐るべき津浪は起るまいといふのが結論であつた。
     ◎
 話は終始なごやかに進んだ。つい此頃來朝したといふエムマさんの如きは、苦辛しながら力めて日本語で語る。此方の聞苦しい英語と好取組であつたと、學生達もいひ、隣室に居た家人共も笑ふ。別れようとするとき老妻も出て來て挨拶したが、今度見えたら第一に飛出して接待しようなどといふ張切りかたである。

   三八 飢饉除け

 よい若もの達が、赤い旗を押し立てゝ「働けるだけ食はせろ」と叫びながら、都大路を練り歩く世の中に、こゝら穀潰しの老ぼれ共は、さつさと見切をつけて一人でも口數を減らすのが、此人達の爲ではあるまいかと考へさせられることがある。
 併し「待てよ、今少し客觀的に考慮して見ようではないか」といふのが次に起つた心境である。[#底本は句点なし]
 成程さうだ。僕も百姓の一人だ。勞働階級の一細胞だ。僕が荒地の開墾を始めたのは三年前のこと。當時は、年寄の冷水扱されたものの、今では二百坪の耕作人。在所では家庭菜園群の相談役だ、指導者だ。「何々技師と銘打つた方の講釋は、二言目には手に入れにくい藥品が出て來て眞似られないことになるが、君が話すことは、有合せのもので間に合ひ、而も科學的であるから安心して眞似られる」といふ人があるかと思へば、他方では「貴公の農事四精の講釋は、お百姓にも不可缺のものだが、特に素人百姓の精は玄人の精を凌がなくてはならないとの一節は、他人へも受賣してゐる位だ」といふ人もある。
 斯う書いただけでは讀者には通じないかも知れないが、右の評者は何れも僕が昨年八月十日に放送した「老書生の俄百姓」を聽取した人達なのである。此の俄百姓、何の變哲もなく、專門技師の書き物或は放送に依る示教を忠實に受入れ、且つ自園に適應するやう聊か實驗工夫を加へたに過ぎないのだが、それでも南瓜の花粉のかけ合せに關して、地の精や、晴雨或は手法の變化に由る結實率の比較や、同じく玉蜀黍の實の入り方等の如きは耳新らしく聞かれたらしい。斯樣な實驗は、興味を唆るばかりか、寧ろ娯樂になるのだが、試みに其後加へた一例を擧げると、南瓜の親蔓を摘んで四本の子蔓を作らうといふには、五枚目の葉で摘心せよと教へられたが、虚弱な苗では第一第二の子蔓は物にならなかつた。それで七枚目で摘心して三から五までの子蔓を伸ばし、第一と第二との子蔓を摘んで見たが、此方は成功したといふ次第。
 評者の中には亦斯ういふのもあつた。
 或る大新聞は、我邦の今後に於ける食糧對策の最も重要なものとして、耕地面積の増加と單位面積に於ける收穫の増加とを擧げてゐる。尤もな議論だが、之に君が平生唱へてゐる少餐精嚼の普及を加へたい。此は、消極的だが實行の曉には全食糧の少くも二割方は節約出來ると思ふが如何といふのである。
 僕は答へた。少餐精嚼の四つの效能、即ち食糧の節約、健康の増進、少量での滿足感、齒牙骨骼の補強、これは誰にでも了解出來ることだが、薄志弱行の輦[#「輦」は底本のまま]には實行が頗る困難である。僕の此の説は嘗て(昭和二〇・八・九)東京朝日に掲げられたが、地方新聞にも廣く轉載されたと見え、全國の彼方此方から禮讚の手紙を受取つた。他にも同感の士は多いものと見え、現に食糧メイデイの行はれた翌朝もNHKの「私達の言葉」から此意見が聞かれた。僕は古文書に依つて飢饉の樣相は心得てゐる積だが、現況はさ程に窮迫してはゐないと判斷する。嗜慾に由る物件の濫費、示威運動に由る勢力の濫費、非精嚼に由る食糧の濫費、これが何よりの證據ではあるまいか愈※[#二の字点]窮して來たら、好むと好まざるとに拘らず、薄志弱行の徒までも少餐精嚼を餘儀なくされるだらう。恰も餘蓄なしに孤島に立籠つた將兵のやうに。
 其の他の評者の中には
[#ここから1字下げ]
 いや、貴方の農業は、天明年度や天保年度のやうに、三年も七年も續く世界中の大凶作までも征服しようといふのだから、そんな有觸れた物指で計測される農業とは譯が違ふのだ。自重せよ。
[#ここで字下げ終わり]
と言つて呉れる人もある。

 國民學校の先生も勤勞者の仲間ださうだ。成程、社會組織が筋肉勞働のものだけであつて、若し崇高な精神が拔けてゐたら、社會其物はゴリラや虎狼の群集に墮落して仕舞ふだらう。精神勞働は勞働の樞軸たるに相違ない。して見ると、科學研究は勞働の中でも殊に大切だといふことになる。勞農ソヴエットが科學を尊重し惹いて學士院會員を殊に優遇してゐる由縁が首肯される。科學者の政治への發言を封じたり、學士院會員の年給を明治十二年以來七十年近くも創設當時のままに据置いてゐた舊日本などとは雲泥の相違だと稱すべきである。
 或る日、右の樣な漫談をして就寢した眞夜中のこと、僕は突然刎起きて「しめた」と絶叫した。家人は驚き且つ心配して僕を寢かさうとする。「待てよ、此の構想に誤は無い筈だよ」「何がです」と聞く。「それ、例の飢饉の根源となる火山の超大爆發を未然に防ぐのだ。爆彈でなし崩しに消耗させるのだ」「はい/\、わかりました、わかりました。」といふ。そしてつい其のまゝに再び就寢して仕舞つた。
 翌日の夕刻に恩師田中館先生の假寓から吾々夫妻に迎ひが來た。岩手縣の故郷に疎開して居られるのだが、此朝出京されたのださうだ。半年振りなので、老夫婦、いや九十一翁に對しては若ぞうの吾々二人は何は扠置きあたふたと參上した。挨拶もそこ/\に話ははずんだが、併し先生が特に僕に聞かうといふのは、二百十日前後稻作に大害を與へる低氣壓を侵入前に打潰すといふ案であつた。爆彈を其中心にたゝき附けるのださうだ。之を聞いた妻が、突然頓狂な聲を出して「まあ、こちら樣でも飢饉よけの爆彈ですか」と言へば、今度は令孃が「何がです」と聞咎める話がわかつて一同大笑に落ちたが、これでは此の老人も超老人もまだ/\死なれないといふことになつた。

   三九 農事四精

 食糧増産といふことは、此の窮乏のどん底に喘ぐ國民の最大關心事である。家庭菜園の盛んになるのも當然といふべく、專攻學科以外には餘念の無かつた此の老書生も俄百姓とならざるを得なくなつた所以である。
 此の百姓の三年生。最初は新聞雜誌や、放送で得た知識を、新開の菜園に應用したに過ぎないが、工夫を加へて行くと、年一年と成績は向上し隨つて無上の快感が湧く。例へば甘藷でも(主に太白にしてゐるが、迚も美味である)一株の平均收穫初年の四十匁、二年目の八十匁は三年目に二百匁に上り、五百匁位の株はいくらもあつた。來年は平均三百匁にしようと、今から待遠しいやうである。
 農書を讀んで行く中に、梯崎彌左衞門の農事四精といふ訓言に接した。意譯すれば、斯うである。
 凡て農事は四精の和合が專要で、四精中一つを缺いても成就しない。四精とは天精、地精、種の精、百姓の精これである。
 天精は氣象状況の意であるが、日射は特に大切である。農産植物は大抵強い日射を好むがさりとて極端な場合は旱天でも、風雨でもよい筈はない。梯崎翁は、豫ねて兇作天候をも虞つてゐた爲、天保の飢饉、かの幾年もつづいた世界的凶作でも、自身の村は固より新庄藩全體に亙つて一人の餓死者をも出さなかつたと言はれてゐる。
 地精とは、植物の種類により、地味土性を考慮して、適當な耕作施肥をなすことゝ解する。
 余は、今年小麥を試み、坪當り六合五勺を收めたが、うね間に甘藷を植込む用意の缺けてゐたことが、後日になつてわかつて來た。それで今回は、うね間を擴げ、且つ甘藷の植場處としての高うねまで、準備してかゝつた。
 俄百姓の最大の苦心は肥料にあるが、金肥が得られない今日、下肥に顏をそむけてはならぬ。中にも推肥作りには最も努力すべきである。實に地精と人情との和合の極致は、此の一點にあると言つても過言にはなるまい。
 種は、若し自園のものから選ぶとすれば其の最優品にすべきこと言ふまでもないが、本場から仕入れることを怠つてはならぬ。例へば洋南瓜なら北海道からといふわけ。品種は此頃デリシヤスにしてゐるが、和種の方はサトウとツルクビとにきめてゐる。
 小麥は、其の畠に甘藷を一時寄生させる關係上、せいの低い穗の長い品種を選ぶことにした。藷苗も本場から仕入れるが、初めは入用の數だけ注文した。併し中には虚弱なものがあつたり、害蟲にやられるものもあるから、今では二割方も餘分に注文して、其中から入用の數だけ精選することにしてゐる。
 凡そいも類は、多産類には不味が伴ふ。農家では供出用に此種を選び、自家用には美味なものを選ぶとの事だが、事實果して如何か。
 百姓の精は、四精中殊に大切なもので、耕作播種から收穫に至るまで、色々な保護手入や、他の精と和合させる心遣等、なみ大抵ではない。が、素人の精はそれ以上の努力を要求する。菜園は狹いながらも、多收を望むは人情であり、それに單位當りの増收が第一で、兼てお百姓に比べて、不足勝な地精をも補はなくてはならぬ。併し此の困難を克服する所に、素人菜園の興味が潜むのである。
 畠の縁に植ゑた玉蜀黍、ほつて置いては一株に二三顆、而もまばらな實入りに過ぎないが、雌花が其の雌蕊を露はした折、いきのいい雄花を摘んで來て、花粉をかけると完全に實入りし、一株五六顆は普通だが一節に二顆實入らせることも困難ではない。
 南瓜の花には殊に苦心するが、併しそこに最も面白い所がある。
 雨天の雌花は成止まらないものとされてゐるが、必ずしもさうではない。夜が明けてから雌花が開かうとするとき、花粉をかけ合せて元通りつぼませ輕くゆはへて置けばよい。高い處で上に向つて開いてゐたら、次に記す串竿の串で花瓣の底を少し破つて雨水がたまらないやうにする。
 南瓜の立體作りには、曾ては梯子、脚立など持出して大騷ぎしたが、今年は串竿だけで簡單に濟ませた。串は竹製で先端を鋭くし、かけ合せ用の小筆の軸が之に密にさゝるやうにする。竿は細竹で長短二本にし一端に串がさゝる程の穴を、一つは竿に直角に、他は斜に明ける。其の穴の一つに串をさして、更に此の串に雄粉のついた筆をさし、筆端を雌花にかざして竿を輕く彈けばよい。斯くて串を色々の方向に、さし代へることに依つて、横からでも上又は下からでも隨意にかけ合せが出來るといふわけ。
 これで南瓜のなり止まり率の向上間違なし、特に今年のやうに蜜蜂の極めて少いときは、不可缺の増産法である。
 以上、俄百姓の未熟な經驗ではあるが、聊か自個流の工夫を加へた點に、讀者の注目が得らるれば本懷である。(つづく)



※ 欠と缺、鼓と皷、着と著、台と臺と颱、岳と嶽、並と竝、効と效、余と餘、防波堤と防浪堤の混用は底本のとおり。
底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

  • [北海道]
  • 有珠山 うすざん 北海道南西部、洞爺湖の南にある二重式活火山。標高733メートル。2000年に大規模な水蒸気爆発を観測。
  • 根室 ねむろ (アイヌ語で樹林の意のニムオロからともいう) (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在の根室支庁の管轄。(2) 北海道東部の支庁。根室市・別海町など5市町。(3) 北海道東部、日本最東端の市。根室支庁の所在地。北洋漁業の基地。人口3万1千。
  • 釧路 くしろ (1) 北海道もと11カ国の一つ。1869年(明治2)国郡制設定により成立。現在は釧路支庁と十勝・根室支庁の一部とに分かれる。(2) 北海道東部の支庁。釧路市・厚岸町・弟子屈町など8市町村。(3) 北海道東部、釧路川の河口にある市。釧路支庁所在地。北洋漁業の基地。海霧が多い。水産加工業やパルプ・製紙工業が盛ん。人口19万。
  • [三陸・岩手県]
  • 三陸大津波 さんりく おおつなみ 津波の常襲地の三陸地方沿岸で、過去100年間に起こったもののうち最大規模の1896年(明治29)6月15日(明治三陸地震津波)および1933年(昭和8)3月3日(昭和三陸地震津波)の津波を指す。
  • 三陸沖地震 さんりくおき じしん 三陸沖に起こる巨大地震。震源は日本海溝付近にあるため、地震動による被害は少ないが、リアス海岸になっているため津波の被害が大きい。1896年には3万人近い死者、1933年には3000人以上の死者を出した。
  • 船越 ふなこし 村名。現、下閉伊郡山田町船越。
  • 小谷鳥 こやとり 村名。現、下閉伊郡山田町船越。船越村の枝村。
  • 山内 山ノ内か。
  • 唐丹 とうに 現、釜石市唐丹町。
  • 田老 たろう 現、下閉伊郡田老町。
  • [長野・群馬県]
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568メートル。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。
  • [千葉県]
  • 館山 たてやま 千葉県南端の市。房総半島南西岸の館山湾に臨む。漁業根拠地・観光保養地。人口5万1千。
  • [東京都]
  • 回向院 えこういん 東京都墨田区両国にある浄土宗の寺。寺号は無縁寺。明暦の大火(1657年)の横死者を埋葬した無縁塚に開創。開山は増上寺の貴屋。1781年(天明1)以後境内に勧進相撲を興行したのが今日の大相撲の起源。
  • 被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
  • [武蔵] むさし (古くはムザシ)旧国名。大部分は今の東京都・埼玉県、一部は神奈川県に属する。武州。
  • [下総] しもうさ 旧国名。今の千葉県の北部および茨城県の一部。上総を南総というのに対し、北総という。しもつふさ。
  • 牛島 うしじま 墨田区。隅田川の河口が三角州状に堆積した結果できた島。
  • 増上寺 ぞうじょうじ 東京都港区芝公園にある浄土宗の大本山。関東十八檀林の筆頭。山号は三縁山。もと光明寺と称する真言宗寺院で、今の千代田区紀尾井町付近にあったが、1393年(明徳4)聖聡が浄土宗に改め、増上寺と称し、1598年(慶長3)家康が徳川家菩提所と定めて現在地に移した。以後、寛永寺と並ぶ江戸の大寺となり、全浄土宗の諸寺を管した。
  • 銀座 ぎんざ 東京都中央区の繁華街。京橋から新橋まで北東から南西に延びる街路を中心として高級店が並ぶ。駿府の銀座を1612年(慶長17)にここに移したためこの名が残った。地方都市でも繁華な街区を「…銀座」と土地の名を冠していう。
  • 数寄屋橋 すきやばし 江戸城外濠の京橋数寄屋町への通路(東京都千代田区有楽町と中央区西銀座との間)に架した橋。今は名称だけ存続。
  • [神奈川県]
  • 横浜 よこはま 神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港以来生糸の輸出港として急激に発展。現在、全国一の国際貿易港。人口358万。
  • 震災記念館 横浜。
  • 横須賀 よこすか 神奈川県南東部の市。三浦半島の東岸、東京湾の入口に位置する。元軍港で、鎮守府・東京湾要塞司令部・造船所などがあった。現在、米海軍・自衛隊の基地、自動車工場がある。人口42万6千。
  • 小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
  • 鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
  • 浦賀 うらが 神奈川県横須賀市の地名。1853年(嘉永6)アメリカの提督ペリーが来航して通商を求めた地。
  • 北条 ほうじょう 湾名。現、三浦市三崎。
  • 三浦半島 みうら はんとう 神奈川県南東部にある半島。南方に突出して東京湾と相模湾とを分ける。東岸には金沢八景・横須賀・浦賀など、西岸には鎌倉・逗子・葉山・三浦などがある。
  • 三崎 みさき 神奈川県南東部、三浦半島先端にある三浦市の漁港。太平洋岸有数の漁業基地。三浦三崎。
  • 油壷 あぶらつぼ 神奈川県三浦市、三浦半島の南端にある地。東大三崎臨海実験所・水族館・ヨット‐ハーバーなどがある。
  • [伊豆]
  • 下田 しもだ 静岡県、伊豆半島の南東端下田湾に臨む港湾・観光都市。江戸幕府の奉行所、船改所のあった所。ペリーの来航を機に開港。人口2万7千。
  • 稲生沢川 いのさわがわ → いのうさわがわ、か
  • 稲生沢川 いのうさわがわ 伊豆半島南部を流れて下田港に注ぐ二級河川。長さ18km。
  • 下田町 しもだまち 現、下田市。伊豆半島の南部、稲生沢川が下田湊に注ぐ河口付近に形成された町。古くは下田村と称した。
  • 下田港 しもだこう 静岡県下田市にある港湾。港湾管理者は静岡県。避難港・地方港湾の指定を受けている。江戸時代末期に函館港とともに日本最初の開港となった。
  • �鳩《みさご》島
  • 犬走《いぬはしり》島
  • 和歌の浦
  • 東海地震 とうかい じしん 駿河トラフの西側の海底を震央とする巨大地震。1707年(宝永地震)、1854年(安政東海地震)に起こり、近い将来発生する可能性が高いとされ、静岡県およびその周辺地域は地震防災対策強化地域に指定されている。
  • [美濃] みの 旧国名。今の岐阜県の南部。濃州。
  • [尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
  • 濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • [近江] おうみ (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
  • 西湖
  • [京都]
  • 伏見大地震
  • 伏見 ふしみ 京都市の南部の区。もと豊臣秀吉がつくった城下町。酒造業が盛ん。
  • [大阪]
  • 港区 みなとく 大阪市の西部に位置する。北は安治川をはさんで此花区、南東は尻無川をはさんで大正区、西は大阪湾に臨む。近世初頭までは海または寄洲であった地。
  • 大正区 たいしょうく 大阪市を構成する24区のうちのひとつ。区民のおよそ4分の1が沖縄県出身者という地区であり、平尾などは特に多いことで有名。沖縄料理の店が多くあるほか、住宅の門にシーサーが設置されていたり、敷地内にゴーヤーが植えてある住宅も少なくない。
  • 安治川 あじかわ 淀川下流の分流。大阪市堂島の南から南西流して大阪湾に入る。貞享(1684〜1688)年間河村瑞賢が開削。河口部南側に天保山がある。
  • 木津川 きづがわ (2) 淀川下流の分流の一つ。大阪市西区で淀川分流の土佐堀川から分かれ、南西流して大阪湾に注ぐ。
  • 大阪 おおさか (2) 大阪湾の北東岸、淀川の河口付近にある市。府庁所在地。近畿地方の中心都市。政令指定都市の一つ。阪神工業地帯の中核。古称、難波。室町時代には小坂・大坂といい、明治初期以降「大阪」に統一。仁徳天皇の高津宮が置かれて以来、幾多の変遷を経、明応(1492〜1501)年間、蓮如が生玉の荘に石山御坊を置いてから町が発達、天正(1573〜1592)年間、豊臣秀吉の築城以来、商業都市となった。運河が多く、「水の都」の称もある。人口262万9千。
  • 難波津 なにわづ (1) 難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬を造り、瀬戸内海へ出る港としていた。(2) 古今集仮名序に手習の初めに学ぶとある歌。すなわち「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」をいう。王仁の作という伝説があり、奈良時代にすでに手習に用いられていた。
  • 大阪湾 おおさかわん 瀬戸内海の東端にあたる湾。西は明石海峡と淡路島、南は友ヶ島水道(紀淡海峡)で限られる。古称、茅渟海。和泉灘。摂津灘。
  • [和歌山県]
  • 南紀 なんき (1) 紀州のこと。畿内の南に位置するからいう。(2) (紀伊国南部の意)和歌山県南部から三重県南部にまたがる地域。吉野熊野国立公園・白浜温泉などがある。
  • 広村 ひろむら 現、和歌山県有田郡広川町広。広川の左岸にあり、西は湯浅湾に面する。古くは比呂・弘とも記される。
  • 田辺市 たなべし 近畿地方の南部、和歌山県の中南部に位置する市である。和歌山県中南部の中心地である。熊野古道の中辺路ルート、大辺路ルートの分岐点で、「口熊野」と称される。
  • 新宮市 しんぐうし 和歌山県の南部、熊野川の河口に位置する都市である。旧東牟婁郡。
  • [但馬] たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
  • 但馬地震 → 北但馬地震
  • 北但馬地震 きたたじま じしん 1925年(大正14年)5月23日午前11時11分、兵庫県但馬地方北部で発生した地震。地震の規模はM6.8。当地ではこの地震による災害を、もしくは地震そのものと災害を含めた形で「北但大震災」と呼ぶ。最大震度は兵庫県の豊岡、城崎(いずれも現在の豊岡市)で観測された震度6(当時の震度階級による最大震度)。
  • [兵庫県]
  • 神戸 こうべ 兵庫県の南東部、大阪湾に面する市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。日本有数の貿易港で、阪神工業地帯の中核。人口152万5千。
  • 湊川 みなとがわ 神戸市の中央部を流れる川。六甲山地に発源、南流して市水道の烏原貯水池をなし、余水は苅藻島の西で大阪湾に注ぐ。
  • [高知県]
  • 室戸 むろと 高知県南東端の市。室戸岬を市域に含み、遠洋マグロ漁業の基地。人口1万7千。
  • 室戸台風 むろと たいふう 1934年9月21日、室戸岬の西に上陸、当時の地上最低気圧911.9ヘクトパスカルを記録し、大阪を通り、日本海を北上、三陸沖に抜けた超大型の台風。暴風雨・高潮のため全国の死者・行方不明者約3000人。
  • 浦戸湾 うらどわん 高知県高知市にある土佐湾の支湾のひとつ。浦戸湾内には高知港があり、湾口には高知新港がある。高知市中央部南側に位置し、湾の入り口幅140m・奥行き6kmの縦長の湾。
  • 高知 こうち 高知県中央部の市。県庁所在地。高知平野を形成し浦戸湾に注ぐ鏡川の三角州に発達。もと山内氏24万石の城下町。人口33万3千。
  • 種崎 たねざき 村名。現、高知市種崎。
  • [鹿児島]
  • 桜島 さくらじま 鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の3火山体から成り、面積77平方キロメートル。しばしば噴火し、1475〜76年(文明7〜8)、1779年(安永8)および1914年(大正3)の噴火は有名。1914年の噴火で大隅半島と陸続きとなる。
  • [アメリカ]
  • サンフランシスコ San Francisco アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州の都市。金門海峡南岸に位置し、太平洋航路・航空路の要地。同国屈指の良港をもつ。人口77万7千(2000)。桑港。
  • 金門橋 きんもんきょう サンフランシスコ湾にかかる橋、ゴールデンゲートブリッジの日本語訳。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)




*年表

  • 貞観一一(八六九) 三陸津波。
  • 正平一六(一三六一) 南海道津波、大阪湾に進入(参考太平記)。
  • 慶長元(一五九六) 伏見大地震。
  • 慶長九(一六〇四) 地震津波。山内侯、土佐入国当時。
  • 慶長一六(一六一一) 三陸津波。
  • 明暦元(一六五五)正月一八日から四日間 江戸の明暦大火。市中の大部分を焼きつくして、一〇万二〇〇〇余の死者。
  • 寛文二(一六六二) 地震、近江の西湖ほとりにおこる。
  • 宝永四(一七〇七)一〇月四日 宝永地震。土佐、大地震津波。大阪、六十一個の橋を津波墜落。地震で家屋全数の百分の六を倒し、一〇〇〇名近くを圧死。
  • 天明二〜七(一七八二〜) 天明の飢饉。特に同3年浅間山噴火の影響でおきた冷害による奥羽地方の飢饉は多数の餓死者を出し、このため各地に一揆・打ちこわしが起き、幕府や諸藩の支配は危機に陥った。
  • 天明三(一七八三) 浅間大噴火。
  • 天保四〜七(一八三三〜) 天保の飢饉。長雨・洪水・冷害によって起こった全国的な飢饉。米価が暴騰し、餓死する者が多く、幕府の救済した者は前後70万余人に及び、また、一揆・打ちこわしが各地に発生して幕藩体制の衰退が進んだ。
  • 安政元(一八五四)一一月四日 東海道沖大地震津波。伊豆下田港内に停泊していた露国軍艦ディアーナ難破。提督プチャーチン。下田一〇〇〇余戸はほとんど全部押し流され、一二三名の流死者を生じた。
  • 安政元(一八五四)一一月五日 土佐、地震津波。大阪津波、二十五個を落橋。
  • 明治一二(一八七九)以来 七十年近く、学士院会員の年給を創設当時のままにすえおく。
  • 明治二〇(一八八七)ごろ 今村、神戸の湊川が沙床の川原を持った水無川であったことを目撃。
  • 明治二七(一八九四) 根室・釧路沖地震。
  • 明治二九(一八九六) 三陸津波。
  • 明治四三(一九一〇) 有珠の噴火。警察署長の英断によって、周囲三〇〇〇戸、一万五〇〇〇の住民を三里以外の場所に、爆発一日前に立ち退かせる。
  • 大正三(一九一四) 桜島爆発。
  • 大正一二(一九二三) 関東大震災。大火災の際、上空に強大な積雲の生じる。
  • 大正一三(一九二四)九月一日 震災共同基金会。有馬頼寧、一族をひきいて街頭で大衆の義金を集める。
  • 大正一四(一九二五)五月二三日 但馬地震。多数の木造小学校が倒壊、多数の圧死者。
  • 昭和二(一九二七) 以来、大阪市において震災予防調査会『木造小学校建築耐震上の注意』に準拠して、土地の実状に適すべき規準を新たに定め、これを実施。
  • 昭和八(一九三三) 三陸津波。
  • 昭和九(一九三四) 室戸台風。
  • 昭和九(一九三四) 高潮。大阪旧市内の川筋ではまったく無難であったが、街衢では相当の破壊力を示した。
  • 昭和九(一九三四)一一月 今村「耐震すなわち耐風か」執筆。
  • 昭和一九(一九四四)一二月七日  東海道沖大地震。
  • 昭和二〇(一九四五)八月九日 今村、少餐精嚼の記事『東京朝日』に掲載。
  • 昭和二一(一九四六)九月一日 進駐軍看視下における最初の記念行事。
  • 昭和二一(一九四六)一二月末 大地震、紀州と四国を襲う。
  • 昭和二二(一九四七)六月五日 今村「大地震は予報できた」『ローマ字世界誌』所載。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
  • 子貢 しこう 孔門十哲の一人。姓は端木。名は賜。子貢は字。衛の人。孔子より31歳若いという。
  • 孔夫子 → 孔子か
  • 孔子 こうし 前551-前479 (呉音はクジ)中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑(山東省曲阜)に出生。文王・武王・周公らを尊崇し、礼を理想の秩序、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡され、また至聖先師と呼ばれる。
  • -----------------------------------
  • プーチャーチン → プチャーチン
  • プチャーチン Evfimii Vasil'evich Putyatin 1804-1883 ロシアの提督。1853年(嘉永6)長崎に来航。55年2月(安政元年12月)日露和親条約、58年日露修好通商条約を締結。また、伊豆戸田で帆船を建造、洋式造船技術を初めて日本に伝えた。
  • 吉田松陰 よしだ しょういん 1830-1859 幕末の志士。長州藩士。杉百合之助の次男。名は矩方、字は義卿、通称、寅次郎。別号、二十一回猛士。兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に注意し、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾で幕末・明治期の指導者を教育。安政の大獄に連座し、江戸で刑死。著「西遊日記」「講孟余話」「留魂録」など。
  • -----------------------------------
  • 震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
  • 関屋普通学務局長
  • -----------------------------------
  • 入沢先生
  • -----------------------------------
  • 緒方惟一郎 おがた? 警視庁消防部長。
  • 中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
  • -----------------------------------
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  • 大楠公 だいなんこう → 楠木正成
  • 楠木正成 くすのき まさしげ 1294-1336 南北朝時代の武将。河内の豪族。1331年(元弘1)後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城にこもって幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。のち九州から東上した足利尊氏の軍と戦い湊川に敗死。大楠公。
  • 水戸老公 → 徳川光圀
  • 徳川光圀 とくがわ みつくに 1628-1700 江戸前期の水戸藩主。頼房の3男。字は子竜、号は梅里。彰考館を置いて「大日本史」の編纂に着手し、湊川に楠木正成の墓碑を建立。明の遺臣朱舜水を招く。権中納言となり水戸黄門と呼ばれた。晩年、西山荘に隠棲し、西山隠士と称す。義公。
  • 震災共同基金会
  • 有馬頼寧 ありま よりやす 1884-1957 政治家。農政研究者。日本中央競馬会第2代理事長。伯爵。旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中等科(現 学習院高等科)、旧制学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。
  • 東京朝日新聞社 とうきょう あさひ しんぶんしゃ 『東京朝日新聞』発行。日刊新聞である『朝日新聞』の東日本地区での旧題。1888年、大阪の朝日新聞社が『めさまし新聞』を買収。『東京朝日新聞』と改題の上、新創刊。大正期には東京五大新聞(東京日日、報知、時事、國民、東京朝日)の一角と数えられ、関東大震災では大打撃を受けるが、大阪本拠の利点を生かして立ち直り、逆に在京既存紙を揺るがす形で伸張。
  • 北村西望 きたむら せいぼう 1884-1987 彫刻家。長崎県生れ。東京美術学校教授。重厚な男性像が多く、第二次大戦後は長崎の「平和祈念像」など。文化勲章。
  • 小泉八雲 こいずみ やくも 1850-1904 文学者。ギリシア生れのイギリス人で、前名ラフカディオ=ハーン(ヘルン)(Lafcadio Hearn)。1890年(明治23)来日。旧松江藩士の娘、小泉節子と結婚。のち帰化。松江中学・五高・東大・早大に英語・英文学を講じた。「心」「怪談」「霊の日本」など日本に関する英文の印象記・随筆・物語を発表。
  • 浜口梧陵 はまぐち ごりょう 1820-1885 紀伊国広村(和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)当主で、第7代浜口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとしても知られる。
  • 山内侯 → 山内一豊
  • 山内一豊 やまのうち かずとよ 1546-1605 安土桃山時代の武将。土佐藩祖。初め織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた。秀吉没後、徳川家康に仕え、上杉征伐・関ヶ原の戦に功をたて、土佐に封。その妻は、信長の馬揃えのとき鏡匣から黄金10両を出して一豊に名馬を買わせ、夫の立身の基を作ったという逸話で知られる。
  • 広瀬旭荘 ひろせ きょくそう 1807-1863 江戸後期の漢詩人。名は謙。別号、梅�~。豊後日田の人。淡窓の弟。著「梅�~詩鈔」など。/学者。家集『九桂草堂随筆』。
  • 沢春畔
  • -----------------------------------
  • 陸地測量部 りくち そくりょうぶ 日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった。前身は兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局(地図課及び測量課が昇格した)で、明治21年5月14日に陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁として設置された。
  • -----------------------------------
  • シーカ
  • 田中館君 → 田中館愛橘か
  • 田中館愛橘 たなかだて あいきつ 1856-1952 物理学者。岩手県生れ。東大教授。貴族院議員。地球物理学の研究、度量衡法の確立、光学・電磁気学の単位の研究、航空学・気象学の普及など、日本の理科系諸学の基礎を築き、また熱心なローマ字論者。文化勲章。
  • エムマ
  • -----------------------------------
  • 梯崎弥左衛門


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『国史大辞典』(吉川弘文館)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『木造小学校建築耐震上の注意』 震災予防調査会。
  • 『文部時報』第一八六号付録。
  • 『地震と震災』 映画。
  • 『武蔵鐙』 むさしあぶみ 仮名草子。2巻2冊。浅井了意作。万治4(1661)刊。明暦3(1657)の江戸大火と、その処理について、滑稽な逸話を交えて記した書。大火に関する記述は比較的正確。
  • 「生ける神」 小泉八雲の著。原題 "A Living God "。
  • 「稲むらの火」 いなむらのひ 1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際して紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)で起きた故事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を中井常蔵が翻訳・再話したもので、かつて国定国語教科書に掲載されていた。主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)。
  • 『参考太平記』 さんこう たいへいき 太平記の流布本に、今出川本などの当時知られた有力な諸本を対校し、諸書を参照して記事の適否を考訂した書。41巻。徳川光圀の命により、今井弘済・内藤貞顕編。1689年(元禄2)完成、91年刊。なお、同じ編者による編書に参考源平盛衰記・参考平治物語・参考保元物語がある。
  • 『九桂草堂随筆』 きゅうけいそうどう ずいひつ 広瀬旭荘の家集。10巻。安政3〜4年成立。内容は経義、史伝、政治、経済、地理、詩文より、自己の経歴、家世また世間の雑事にまで及び、はなはだ雑駁ではあるが、著者の識見をうかがうに足る条が多く見られる。写本で伝わった。(国史)
  • 『ローマ字世界誌』
  • 「老書生のにわか百姓」 ラジオ番組か。八月十日に放送。
  • 「私たちの言葉」 NHKの番組。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『国史大辞典』(吉川弘文館)



*難字、求めよ

  • 温良恭倹譲 おんりょうきょうけんじょう [論語学而]おだやかで、すなおで、うやうやしく、つつましく、ひかえめなこと。孔子が人に接するありさまを評したことば。
  • 兵家 へいか (1) 軍事にたずさわる人。武士。兵法家。(2) 中国、春秋戦国時代の諸子百家の一つ。用兵・戦術などを論じた学派。孫子・呉子の類。
  • 智信仁勇厳
  • トーチカ tochka (点の意)コンクリートで堅固に構築して、内に重火器などを備えた防御陣地。特火点。火点。
  • 奔馳 ほんち かけ走ること。奔走。
  • 広袤 こうぼう はばと長さ。ひろがり。面積。
  • 呻吟 しんぎん うめくこと。苦しみうなること。
  • -----------------------------------
  • 盲蛇に怖じず めくら へびにおじず 物事を知らないために、かえって物おじをせず、向うみずなことをする。
  • 龍骨 りゅうこつ (2) 船底の中心線を船首から船尾まで貫通する、船の背骨にあたる材。間切骨。キール。
  • 錨索
  • -----------------------------------
  • 通し柱 とおしばしら 2階以上の建物で、土台から軒桁まで、継ぎ足しせず1本で通っている柱。←→管柱。
  • 管柱 くだばしら 2階建以上の木造建築物で、1階ごとに継ぎ足した柱。←→通し柱
  • 胴差 どうさし 木造建築の柱間に取りつけた横架材。柱のつなぎとなり、2階の梁を支えるもの。
  • 桁 けた (1) 柱の上に渡して垂木を受ける材。橋では橋脚の上に、橋の方向に横たえた受材。←→はり(梁)。
  • 火打・燧 ひうち (5) 建築で、2材を直交させて角を作る場合、補強し、ゆがみを少なくするために取り付ける斜材または板。
  • 斜材 しゃざい 骨組構造で、傾きをもつ部材。特にトラス構造の上弦・下弦間を斜めにつなぐ部材をいう。
  • 折上げ おりあげ 支輪や蛇腹で曲面部を作り、天井の中央部を高くすること。また、その曲面部分。
  • 羽子板金物 はごいた かなもの 羽子板ボルトに同じ。
  • 羽子板ボルト はごいた ボルト 一端が孔つきの平板になっているボルト。
  • 添え柱 そえばしら 柱のわきに添えて立てる柱。
  • 陸梁 ろくばり 洋風小屋組で、最下部にある梁。和小屋の小屋梁にあたる。
  • 石綿盤 → 石綿スレートか
  • 石綿スレート せきめん スレート 石綿とセメントとを水でこね、薄板状にして乾燥させたセメント製品。屋根葺きに用いたが、現在は使用が規制される。
  • 簽 せん 標題などの文字を書きしるすふだ。
  • 方杖 ほうづえ 〔建〕(「方杖」とも) (1) 庇・小屋組・梁を柱で受ける時、柱と陸梁との中間同士を斜めに結んで構造を堅固にする短い材。すじかい。(2) 枝束に同じ。
  • 枝束 えだづか 〔建〕小屋組における斜めの束。陸梁と合掌との間をつなぐ部材。方杖。
  • 仕口 しくち 〔建〕木材を接合する時の接手・組手の切り刻んだ面。
  • -----------------------------------
  • 尺寸 せきすん (1尺1寸の意)わずかばかりであること。しゃくすん。
  • 暴される さらされる
  • -----------------------------------
  • 劈頭 へきとう (「劈」は裂ける意)まっさき。事の一番はじめ。
  • 凶歳 きょうさい 作物の不作の年。凶年。
  • 沙床
  • 余喘 よぜん 死にかかっていて、なお息のあること。虫のいき。また、比喩的に、ほとんど駄目になったものが、わずかにもちこたえていること。
  • 広壮・宏壮 こうそう 広く大きくりっぱなこと。
  • 川床 河床か。
  • 塵旋風 じんせんぷう 晴れた日に地表面が日射で加熱され、塵が渦を巻いて柱のように立ち昇る現象。
  • 凸入 突入?
  • 堰かれ せかれ
  • 連り しきり
  • 河原者 かわらもの (1) 中世、河原に住み、卑賤視された雑役や下級遊芸などに従った者。河原は当時穢れを捨てる場所と考えられていた。かわらのもの。
  • 五七日 ごしちにち 人の死後、35日目。追善の仏事を営む。
  • 鏖殺 おうさつ みなごろしにすること。
  • 曲学阿世 きょくがく あせい [史記儒林伝、轅固生「学を曲げ以て世に阿る無かれ」]曲学をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること。
  • 衝 しょう (1) 大通り。かなめ。要所。
  • 妄執 もうしゅう 〔仏〕迷妄の執念。
  • 災妖 さいよう 天災と地妖。わざわい。
  • 火山塵 かざんじん 火山灰に同じ。
  • 火山灰 かざんばい 火山から噴出する灰のような物質で、溶岩の砕片の微細なもの。火山塵。
  • 弁へて わきまえて
  • 乾霧
  • ビショップ環 ビショップ‐かん (最初の観測者S. E. Bishop1827〜1909に因む)太陽や月を中心とする赤褐色の大きな光環。火山の爆発などで高層大気に噴きあげられた微細な粒子によって光が回折するために生じる。
  • 贅説 ぜいせつ (「贅」は多言の意)無益の論説。贅言。
  • -----------------------------------
  • 検潮儀 けんちょうぎ 潮汐による海面の昇降を測定する機械。海岸の検潮所に設置され、テレメーター型が多く用いられる。
  • 第三期地界 → 第三紀層か
  • 第三紀 だいさんき (Tertiary Period)地質年代のうち、新生代の大部分、約6500万年前から180万年前までの時代。哺乳動物・双子葉植物が栄え、火山活動や造山運動が活発でアルプス・ヒマラヤなどの大山脈ができた。現在の日本列島の形はこの時代に成立。
  • 第三紀層 だいさんきそう 第三紀に生じた地層。日本はこの地層の分布がきわめて広い。第三系。
  • 漸て やがて?
  • 帝国学振
  • -----------------------------------
  • タイダル・ウェーブ tidal wave (1)(低気圧や地震による)高波・津波。(2)(世論などの)大きな動き。潮流。
  • -----------------------------------
  • 少餐
  • 精嚼
  • 嗜欲 しよく 欲望のままに好きなことをすること。
  • 労農ソヴエット → ソビエト
  • ソビエト Sovet (評議会・会議の意) (1) ソビエト連邦の政治的基礎。1905年ペテルブルグその他で労働者が組織したのに始まり、17年の二月革命後は労働者・兵士代表から成るソビエト(労兵会)が革命指導機関となり、十月革命後、農民代表ソビエトと合同し、正式にロシアの権力機関となる。各共和国・自治国・州ごとに設置され、各ソビエトから選出された代議員によって最高ソビエト(ソ連邦最高会議)を構成。(2) ソビエト社会主義共和国連邦の略。
  • 二百十日 にひゃく とおか 立春から数えて210日目。9月1日ころ。ちょうど中稲の開花期で、台風襲来の時期にあたるから、農家では厄日として警戒する。
  • -----------------------------------
  • 食糧メーデー しょくりょう - 1946年(昭和21)5月19日、皇居前広場で開かれた飯米獲得人民大会の通称。深刻な戦後食糧危機のさなか、約25万人が参加し、吉田内閣の組閣に反対したが、マッカーサーの警告で運動は収束。
  • 成り止まらない
  • 串竿 くしざお
  • 雄粉


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)



*後記(工作員スリーパーズ日記)


川床 → 河床
大孔 → 大穴
半潰 → 半壊
しられている → 知られている
烈しい → 激しい
捜して → 探して
處々 → 所々
我邦 → わが国
對手 → 相手
輦 → 輩
きめて → 決めて
せい → 背
ほつて置いて → ほうっておいて
明ける → 開ける
自個流 → 自己流

以上、置き換えました。
 
「梯崎翁は、かねて凶作天候をもおもんぱかっていたため、天保の飢饉、かの幾年もつづいた世界的凶作でも、自身の村はもとより新庄藩全体にわたって一人の餓死者をも出さなかったといわれている。

 最上の「新庄藩」のことだとしたら、なにかの勘違い?




*次週予告


第四巻 第九号 
地震の国(六)今村明恒


第四巻 第九号は、
九月二四日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第八号
地震の国(五)今村明恒
発行:二〇一一年九月一七日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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販売:DL-MARKET
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T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎

      あどけない話

    智恵子は東京に空がないという、
    ほんとの空が見たいという。
    私はおどろいて空を見る。
    桜若葉の間にあるのは、
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながらいう。
    阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
    毎日出ている青い空が
    智恵子のほんとの空だという。
    あどけない空の話である。


      千鳥と遊ぶ智恵子

    人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
    砂にすわって智恵子は遊ぶ。
    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
    千鳥が智恵子によってくる。
    口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
    両手をあげてよびかえす。
    ちい、ちい、ちい―
    両手の貝を千鳥がねだる。
    智恵子はそれをパラパラ投げる。
    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    人間商売さらりとやめて、
    もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
    うしろ姿がぽつんと見える。
    二丁も離れた防風林の夕日の中で
    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
     わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
    (略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
     松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
     新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
     私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
     暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
     九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
    (略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
     右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
    地震雑感
     一 地震の概念
     二 震源
     三 地震の原因
     四 地震の予報
    静岡地震被害見学記
    小爆発二件
     震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
     しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
     これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
     問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
     地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
    自然現象の予報
    火山の名について
     つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
     地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
     地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
     地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
     さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

     皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
     これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

     山また山の山城川を
     御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
     うるわしの奈良山をすぎ
     青山のかこんでいる大和をすぎ
     わたしの見たいと思うところは、
     葛城の高台の御殿、
     故郷の家のあたりです。

     かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。
  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

     天皇〔顕宗天皇〕、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊に仇(あだ)をむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵を毀(やぶ)ろうとお思いになって人を遣わしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりに毀してまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵のそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘り壊(やぶ)りました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにお壊りなさいましたか?」とおおせられましたから、「御陵のそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵をことごとく壊すべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上の仇をその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさった天皇でありますのを、今もっぱら父の仇ということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵をことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上の仇は報(むく)いないではいられません。それであの御陵の辺りを少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。
  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦

     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子

     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)
  • #6 地震の国(三)今村明恒

     一七 有馬の鳴動
     一八 田結村(たいむら)の人々
     一九 災害除(よ)け
     二〇 地震毛と火山毛
     二一 室蘭警察署長
     二二 ポンペイとサン・ピエール
     二三 クラカトアから日本まで

     余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

    「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

     この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
     大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。 (「二一 室蘭警察署長」より)
  • #7 地震の国(四)今村明恒

     二四 役小角と津波除(よ)け
     二五 防波堤
     二六 「稲むらの火」の教え方について
      はしがき
      原文ならびにその注
      出典
      実話その一・安政津波
      実話その二・儀兵衛の活躍
      実話その三・その後の梧陵と村民
      実話その四・外人の梧陵崇拝
     二七 三陸津波の原因争い
     二八 三陸沿岸の浪災復興
     二九 土佐と津波

     天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識りが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
     役小角はおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。(略)
     この行者が一日、陸中の国船越浦に現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのち戒めて、「卿らの村は向こうの丘の上に建てよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡に魅せられた里人はよくこの教えを守り、爾来千二百年間、あえてこれに背くようなことをしなかった。
     そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもって数うべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。 (「二四 役小角と津波除け」より)

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