今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Imamura_Akitsune.jpg」より。


もくじ 
地震の国(四)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の国(四)
  • 二四 役小角と津波除(よ)け
  • 二五 防波堤
  • 二六 「稲むらの火」の教え方について
  •     はしがき
  •     原文ならびにその注
  •     出典
  •     実話その一・安政津波
  •     実話その二・儀兵衛の活躍
  •     実話その三・その後の梧陵と村民
  •     実話その四・外人の梧陵崇拝
  • 二七 三陸津波の原因争い
  • 二八 三陸沿岸の浪災復興
  • 二九 土佐と津波

オリジナル版
地震の國(四)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震の国(四)

今村明恒

   二四 えんの小角おづぬと津波


 昔、村一番の物識ものしりといえば、檀那寺だんなでらの和尚さんにきまっていた。今は、かならずしもそうではない。それでも外国では、今なお僧侶の中に偉大な学者、特に科学者がいる。天文学や地震学の国際会議に、坊さんが牛耳ぎゅうじを取っているのをよく見受ける。
 天台宗の僧侶は、好んで高山名岳にその道場を建てる。したがって往時においては、気象・噴火・薬物などに関する物識ものしりが彼らの仲間に多かった。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は、たいてい彼らの手になったものである。
 えんの小角おづぬはおそらくは当時、日本随一の博物学者であったろう。彼が呪術をよくしたということと、本邦のあちらこちらに残した事跡と称するものが、学理に合致するものであることから、そう想像される。
 史をあんずるに、えんの小角おづぬ、あるいは行者ぎょうじゃという。大和の人、仏を好み、年三十二のとき、家をすてて葛城山かつらぎさんに入り、巌窟がんくつること三十余年、呪術をよくし、鬼神を使役すと称せられた。
 文武天皇のとき伊豆に流されたが、のちゆるされて入唐したという。
 この行者が一日いちじつ陸中りくちゅうの国船越浦ふなこしうらに現われ、里人を集めて数々の不思議を示したのちいましめて、けいらの村は向こうの丘の上にてよ。この海浜に建ててはならない。もし、この戒めを守らなかったら、たちまち災害がおこるであろう。」といった。行者の奇跡にせられた里人はよくこの教えを守り、爾来じらい千二百年間、あえてこれにそむくようなことをしなかった。
 そもそも三陸沿岸は、津波襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年(八六九)五月二十六日のは溺死できし千をもって数えられているから、人口多い今日であったら、幾万をもってかぞうべき程度であったろう。慶長十六年(一六一一)十月二十八日のは、死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。これも今日であったら幾万という数にのぼったに相違ない。明治二十九年(一八九六)六月十五日の津波死人は二万七一二二名の多数におよんだのであるから、これをもって三陸津波の最大記録とする人もあるが、なるほど、損害の統計はそうでも、津波の破壊力はやや中ぐらいにあったと見るべきである。
 第三流の津波として、史乗しじょうあるいは口碑に残っているものに、元和二年(一六一六)、延宝五年(一六七七)、元禄二年(一六八九)、安政三年(一八五六)などのものがある。近年になって記録が整ってきたから、見かけ上では、回数がいっそう増してきた。試みに最近五十年間、十尺以上の高さをもって押しよせた津波をあげてみると、明治二十七年(一八九四)三月二十二日、同二十九年六月十五日、同三十年八月五日、それに昭和八年(一九三三)三月三日のものがある。もし二、三尺あるいは四、五尺にすぎない程度のものまでひろったら、さらに幾十回の増加かはかりきれないであろう。じつに三陸の太平洋沿岸は、津波襲来の常習地として、日本一はおろか、世界一なのである。
 かくて三陸沿岸は、津波に関して世界的名声を博するに至ったしだいであるが、それには二つの原因が数えられる。第一ははるかの沖合い、深海床のあたりにおいて、広い区域の地形変動をともなう大規模の地震がときどき発生すること、第二は、この沿岸には漏斗じょうなりの港湾が多く、しかもその開口を震源のほうへ向けているものが多いことである。
 三陸の太平洋沿岸は、津波襲来の常習地として世界一であるが、ただし、かような世界一は決して自慢にはならない。否、これにもとづく災害を防止し得ないのが、むしろ文明人としての恥辱ちじょくである。それには、われわれのごとき学徒にも責任はあるが、その局にあたる役人や、自衛の道を講じなかった居住者もまた、その責任の一半いっぱんかつべきである。
 役小角は、三陸津波の災害防止につき、殊勲者と目すべき人である。明治二十九年(一八九六)大津波においては、その高さが、船越湾ふなこしわんでは五十尺であったにかかわらず、船越村のある部落では被害が比較的に軽かった。昭和のときも同様であったが、過去のばあいにおいても同様に恵まれたことであろう。
 明治二十九年大津波後、余はたびたびかの地に行脚したが、船越で上述のごとき伝説を聞き、これこそ浪災防止上の最良手段であろうと考えた。なるほど、津波の侵入を阻止する積極的手段としては、防波堤を築くもよかろう。ただし四、五十尺ないし百尺の水壁の侵入に対して、はたして有効な施設ができるか否かはすこぶる疑わしい。仮に可能としても、かくまでして守らなければならない経済的価値のある場所はきわめて少ないはずである。他方、繁華な港は、たいてい津波の低い場所に発達しているから、条件がおのずから違ってくる。防波堤も築きやすかろうし、あるいは海岸に耐浪建築を並べるのも一法であろう。もしまた、場所に余裕があったならば、浪勢をはばむために、防潮林を設けることも考慮しなければならぬ。ただし、波高のことに大きな所では、何といっても実行上もっとも容易で、しかも最も安全を期せらるるのは、船越式に村落を改造することである。実際、津波の暴威をふるう所は、ただわずかに漏斗じょうごの底にあたる弾丸黒子こくしの地であるから、かような位置をけるくらいは容易であって、しかも、問題がそれでまったく解決するのである。ただし運送業者や漁業者のように、海岸に事務所や倉庫や納屋などの建設を絶対に必要とするものもあろうが、それにしても、住宅はかならず津波の魔手しゅのとどかない位置に選ぶべきである。
 ここに今一度、明治二十九年大津波後の三陸旅行を回顧してみる。
 当時、災後日なお浅く、交通は不便、復興は遅々。ようやく一里に二、むね、三里に四、五軒という状態で、泊まり宿とても、十里にわずか一軒の商人宿を見い出し得るくらいにすぎなかった。そんな中をようやくたどりついたのが越喜来おきらいの宿屋である。
 越喜来湾おきらいわんは、漏斗じょうごの口が比較的にせまく、したがって北隣の吉浜湾、南隣の綾里湾りょうりわんにくらべて、津波の高さは半分にもおよばず、三、四十尺にすぎなかったのであるが、ただし、それでも二〇〇戸ほどの一村をひと飲みにするには十分であった。
 夕食後、余はついに我慢しきれないで、主人夫婦に身の上話を聞かしてくれとせがんだ。じつは主人が二十歳がらみにしか見えないのに、主婦はもはや、四十の坂をこえた人のように見えたのが変に感ぜられたからである。余がいに応じて、主人はさみしげな笑みをたたえて語り出した。

「わたしの家は村の網元あみもとでした。十一人の大家族に、多数の僕婢ぼくひを使って繁昌していました。ちょうどその日は端午たんごの節句であったため、内でも皆に祝い酒を饗し、太平楽たいへいらくを歌っていましたが、午後七時半ごろ、長い大れの地震を感じてからおよそ三十分も経過したと思うころ、海上急にさわがしく、続く疾風しっぷう急雨に雨戸がやぶれそうな気配を感じましたから、わたしはすぐ防御にけ出しましたけれども、戸口まで行くか行かぬに戸はやぶれて、わたしはそこに打ち倒れたまま意識を失ってしまいました。やがて正気を取り戻しかけると、第一に感じたのは、なんとも言おうようもない総身そうしんの痛み、つぎに意識したのは、片足を巨材にはさまれて、身体が逆につるされていることです。もはや夜半とみえて、あたりは静まりかえり、ただ、かすかに渓水けいすいのせせらぎが聞こえるだけでした。そこではじめて、前夜の出来事が津波のせいだとわかるにはわかったのですが、なにしろ総身の痛みにたえかねて、一刻も早く死んでこの苦しみからのがれたいと念ずるばかりでありました。さいわい翌朝、はじめて救い出されましたが、その節肉をそがれたすねはこのとおりです。

と、大小不ぞろいな両すねを並べて見せるのであった。
 彼はため息をつぎながらつけ加えた。

「幸か不幸か、昨日の楽しい大家族のうち、この世に取り残されたものは、わたしたった一人です。

 数奇な運命にもてあそばれたのは、彼ばかりではなかった。この主婦も、もとは幸多い家の人妻であったが、最愛の夫や子女をことごとく浪にさらわれて、この世に取り残されたのは彼女一人であった。ただいくぶん幸いであったのは、引き潮のさい竹やぶに引っかかって、ひどいきずもおわずにすんだことであった。
 かように、あちらに一人、こちらに一人と取り残された男女幾組を、村役人が結びの神となって組み合わせたのが、かような家庭を形作かたちづくったのだそうである。
 彼らはさらにつけ加えた。「現在の家はこんな粗末なものですが、地所はたしかに祖先伝来のものに相違ありません。波に取り残された大きな立木や庭石が証拠です。」と、これだけは得意気に聞こえた。
 身の上話はこれで終わったが、余はそれにすっかり打ちのめされてしまった。旧物への日本人の強い執着はまったく道理を超越している。このことは、後年、溶岩で埋められた桜島の村民においても認められた。この強い執着は、旅宿の主人夫婦を二度目の災厄に導いたかもしれない。最近の津波では、被害統計の第一報に、越喜来おきらい死者四十五名、行方不明八十六名、流失家屋二十とあげられている。(昭和八年(一九三三)四月)

   二五 防波堤


 ここにいう防波堤は、津波けの堤防という意味で、それは陸に設けたのもあり、海に設けたのもある。普通にいう防波堤は風波をしのぐ目的を達せられるのみで、大津波に対しては、ほとんどその効果がないのみならず、かえって有害な場合がないでもない。仮に防波堤を津波に有効にしようとすると、その高さや幅をもっと増大する必要があり、費用が多くかかるため、これを実施することはよほど難事である。
 真の津波けという意味の防波堤は、そう多くあるものではない。余はただその二例を見聞したのみである。すなわちその一つは陸中吉浜村よしはまむら本郷の海岸にあるもの、いま一つは紀州広村ひろむらの海岸に設けたものである。前者は明治二十九年大津波後に設けられ、先般の津波において、破壊されながらもいくぶん有効であったことによって一時に有名となったものであるが、後者は、安政元年(一八五四)大津波直後、義人浜口はまぐち梧陵ごりょうによって築かれたものである。
 広村ひろむらは、和歌山市の南方およそ七里の距離にあって、湯浅町ゆあさちょうに接した海浜の一邑である。今は戸数わずかに五〇〇にすぎないので、殷賑いんしん湯浅町にくらぶべくもないが、昔は湯浅千戸、ひろ千戸と称し、かえって湯浅をしのぐことすらあったくらいである。しかるに慶長九年(一六〇四)、宝永四年(一七〇七)、安政元年(一八五四)の大津波によって、広村ひろむら毎度まいど湯浅以上の大損害を受け、しだいに衰微してついに今日の状態になったのだといわれている。
 湯浅町の街衢がいくは、おおむね二メートル程度の高さにあるにかかわらず、ひろの村落はがいしてさらに低く、加之しかのみならず広川ひろがわの流域たる低地がその背景をなしているので、津波災害予防の見地からいえば、まさに湯浅町に対する緩衝かんしょう地区の役目をしている。宝永・安政の津波において、湯浅に被害が少なく、ひろにかえって多かったのは理の当然であった。ただし、過去においてそうであったから、今後においてもそうであろうと考えるのは大きな誤謬ごびゅうでなければならぬ。なぜというに、ひろの海岸には、安政浪災直後、「生ける神・浜口梧陵」によって築かれた防波堤が儼存げんぞんしているからである。
 いま仮に、ひろの海岸を北からながめたとする。まず気づかれるのは、海岸線に平行に築かれた石垣の護岸であろう。いつの年代につくられたか不明であるが、高さ平均海水面から二メートルぐらいあって、一見すこぶる堅牢けんろうなように思われる。つぎにこれに接した黒松の防潮林が見える。これは、さらにその背後にある。この松林も防波堤と同時につくられたもので、その松移植の当時、樹齢すでに二、三十年のものであったそうだが、植付けの方位は正確に移植前の方位を取らせるなど、梧陵の周密しゅうみつな注意によって一本も枯死こししたものはなく、その後よくしげって今日のような密林となったものだという。
 この防波堤は断面が梯形ていけいで、上辺二・五メートルないし三メートル、下辺一七ないし一七・四メートル、平地からの高さ三ないし三・四メートル(平均海水面上およそ四・五メートル)、延長六五二・三メートルにおよんでいる。上辺には人道を設け、上面と内側の斜面とにはハゼノキが点々として植えてある。土質は砂礫れきをまじえた粘土であるから、相当に固まってはいるが、ただし、悠久な自然の前には固い岩石でもしだいに崩壊するならいであるから、このところ、保護の手を加える必要はある。防波堤は外郭の防潮林とともに村有に属し、したがって右の点につき、遺憾いかんはないはずだが、余が先年観察した結果はかならずしもそうではなかった。試みに一、二を指摘してみる。

一 堤防の内側斜面が隣接居住者によって損傷されつつあること。
二 堤防上の路面が、ところどころ凸凹でこぼこを生じ、低下しつつあること。
三 横断の人車道のために切り通しを二か所に設けたため、本来の防波能力を多少弱めたこと。

 この切り通しの一つ、中央寄りのものには、非常時に使用すべき鉄扉が設けてあるけれども、実用に適しない構造であった。扉が内に向かって開くようになっているから、津波のばあいにはその侵入に逆らってこれをとざさなければならぬ。試みにこれを動かそうとしてみたが、われわれ二人の力ではダメであった。よろしく扉を反対に外方へ向かって開くようにし、かつ、合わせ目において確実に止まるような施設をなすべきである。すなわち津波侵入のとき、自動的に密閉し、引き潮のさい、内部の水を自動的に放出し得るようにすべきである。
 いま一つの切り通しは南西端に近く設けてあるが、これは耐久たいきゅう中学校々庭においてあげられた梧陵ごりょう告別式参列者の便宜をはかって仮設したのが、そのままになっているのだそうである。故人の霊に対しても、すみやかに善後の処置を講ずべきである。
 要するに、ひろの防波堤は、現況のままでも相当な価値を有するものではあるが、さらにその完璧たるを期するためにも、あるいは浪災予防上の模範的施設たるためにも、はたまた、寄付者の篤行とっこうを表彰するためにも、永久にこれを保存する方法を講ずべきである。単に一村にゆだねただけでは不完全たるをまぬがれぬ。よろしく国においてこれをなすべきである。

 以上は昭和八年(一九三三)夏季所見の結果にもとづいて草したものである。
 その後、鉄の扉はただちに改修された。防波堤ならびに梧陵の墓所は文部省から史跡として指定された。梧陵祭は毎年十二月五日にいとなまれる。すべて満足すべき状態に向かっているといわねばならぬ。(昭和十六年(一九四一)一月)

   二六 「稲むらの火」の教え方について

 はしがき

 尋常小学第五学年用『国語読本』巻十第十課に「稲むらの火」という文が載せてある。日没前後の二、三時間内におこった事件をその推移のままに簡潔につづった叙事文であるが、その内容は、五兵衛という老人が自己の財産を犠牲にして四〇〇人の村民の生命を救ったという感銘すべき物語である。こと倉卒そうそつに属し、村と村人とはまさに大津波にひと飲みにされようとする危険が目睫もくしょうにせまっているのに、彼らはこれを気づかずにいる。他の方法では救われない。彼はだんぜん決意して、自家の稲むらに放火したのである。山寺は早鐘はやがねをつく。まずかけつけたのが壮丁そうていで、これに続くは老幼婦女子。人々は気ちがいじみた荘屋しょうやの行動と海面とを見くらべ、事の推移によってはじめて真相をつかむことができ、期せずして老人の前にひざまずき彼をおがんだのであった。この間、五兵衛の終始緊張した気分はそのまま紙面におどで、一言いちごん半句はんくのゆるみなく描き出されている。一面には文学的価値の高い作品であり、他方、志士仁人じんじんは身を殺しても仁をなすこともあるを教える一大文章だといわねばならぬ。
 この一編は、単に上記の二特色を注意して講ずるだけでも教科としての価値は十分であろう。しかしながら、もしそれにえるに、この物語の出典と実話とをもってしたならば、効果はさらに倍ばいしすべく、教え方の如何いかんによっては、児童をして終生忘れがたい感銘を覚えしめることも不可能ではあるまい。
 わが震災予防評議会は、この点につき多大な関心を持ち、本教科の教え方の実況を、かつて津波に悩まされたことのある地方について調べてみたが、その結果はあまり思わしくなかった。すなわち最初に記した二特色を無視するようなものは皆無であったとはいえ、後にあげた二点、すなわち物語の出典と実話とを加味するような教え方は、われわれのとぼしい経験に関するかぎり、ついにほとんどこれに接することができなかった。
 これはむしろ当然のことかもしれぬ。というのは、教師方の身辺に、近く適当な参考書がないからのことである。ただし、いわゆる参考書なるものが絶対になかったわけではない。ある小学校には、馬淵冷佐馬渕ぶち冷佑れいゆうか。氏著『尋常科用小学読み方教育書』がそなえつけてあった。おそらく国語教育学会編『小学国語読本総合研究』のある学校もあるであろう。ただわれわれは、それをよく利用しておられる方に接触しなかっただけである。
 こういう事情のもとにおいて震災予防評議会がとった手段は、会自身でしかるべき小冊子を作り、これを要所に頒布はんぷしようではないかということであった。そうして余は、その小冊子の原稿作成方を命ぜられたのである。

 原文ならびにその注

 順序としてまず原文をかかげる。蛇足とは思ったが、随所に若干の字句の注釈(カッコ内)を加えておいた。

「これは、ただごとでない。
とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、べつに激しいというほどのものではなかった。しかし、長くゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴り(大地を伝わってくる音、この音はいったん空気に伝わってから人に感じる)とは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見おろした(家が台地にあることが、説明を加えずしてよくわかる)。村では豊年を祝うよい祭宵祭よいまつり夜宮よみやまたは宵宮よいみやともいう。本祭の前夜の祭)の仕度に心をとられて、さっきの地震にはいっこう気がつかないもののようである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこにすいつけられてしまった(目を動かさずに、じいっとつめたことを強く言ったのである)。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現われてきた(かような海水の異常干退は津波の先駆なので、風向きとは無関係なものである)
「たいへんだ、津波がやってくるにちがいない。」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命(四百は村民の人口にあたる。が村もろとも(村と人命とともに全部)ひとのみ(一飲み)にやられてしまう。もう一刻も猶予ゆうよはできない。
「よし。
とさけんで(わずか二字、断然たる決意の強さが表現されている)、家にかけこんだ五兵衛は、大きな松明たいまつを持って飛び出してきた。そこには、取り入れるばかりになっている(稲から実をこき取って倉の中に取り入れるばかりになっている)たくさんの稲束(いなつか)が積んである。
「もったいないが、これで村じゅうの命が救えるのだ。
と、五兵衛は、いきなりその稲むら(いなむら、稲束を積み重ねたもの。通常、丸小屋の形に積む)の一つに火を移した。風にあおられて、火の手(火の燃えあがって立つ炎)がパッと上がった。一つまた一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明たいまつを捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方をながめていた。
 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘はやがねをつき出した(釣り鐘を急調子でつきはじめた。火災などの時の鐘のつきかたである)
「火事だ! 荘屋さんの家だ!」
と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。つづいて、老人も、女も、子どもも、若者の後を追うようにかけ出した。
 高台から見おろしている五兵衛の目には、それがアリの歩みのように(誇張法を用いて書いたもの)もどかしく思われた。やっと二十人ほどの若者が、かけあがってきた。彼らはすぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。
「うっちゃっておけ……たいへんだ(危急の際だ、悠長に説明なんかしてはおられぬ。わけがあるのだ、消すな、消すなというような意味が、この二句でさけび出されている)、村じゅうの人に来てもらうんだ。
 村じゅうの人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後からのぼってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、かわるがわる見くらべた。
 そのとき、五兵衛は力いっぱいの声でさけんだ。
「見ろ、やってきたぞ!」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛のゆびさす方を一同は見た。遠く海のはしに、細い、暗い(細く暗いと一つにまとめるよりも、細い、暗い、と離すほうがはっきり印象づけられる言い方)、一筋の線が見えた。その線はみるみる太くなった。広くなった(ここにも同じ筆法がもちいてある)。非常な速さで押しよせてきた。
「津波だ!」
と、誰かがさけんだ。海水が絶壁のように目の前にせまったと思うと、山がのしかかって(伸びあがって、おっかぶさるようにやってくること)来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙みずけむりのほかは、一時、何物も見えなかった。
 人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る、白い、恐ろしい海を見た(波といわずに海といったのは自然に適っている。地震津波は海が陸地への移動なのである。怒涛とうといえば風津波の特色になるので、地震津波には言わぬ)。二度三度、村の上を海は進み、また退しりぞいた。
 高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村(えぐり取られたとあるために、目をさえぎる何物もないのとは違って、ところどころに大きな樹木など立ったまま取り残されていそうに感じられる)を、ただあきれて(ひどく驚いて、ものも言えずに)見おろしていた。
 稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕やみにつつまれたあたりを明るくした(今一度、稲むらの火を呼びおこし、村民の心に活を入れたので、あわせて読者にもホッとさせる)。はじめて我にかえった村人(今まで夢中であったことが知られる)は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまずいてしまった(ひざまずいたのは崇敬の極致)

 出典

 「稲むらの火」は小泉八雲のえらんだ「生ける神」の抜粋である。この「生ける神」には後日、村民が五兵衛を敬慕のあまり、当時なお生存していた彼を、神としてまつったことまで語られているのであるが、『国語読本』はこの後の部分を省略したため、本編のとおりに改題せざるを得なくなったのであろう。
 小泉八雲とは世界的文豪、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)のことである。ハーンは日本を愛し、日本のローマンスを愛し、大和民族の美しきかずかずの物語をつづるために、ほとんどその一生をこれにささげた人、この点においてハーンはわが日本の恩人である。彼の父はアイルランド人である。彼は母の生国ギリシャに生まれ、英仏で学んで北米に遊び、後、日本に移住して日本婦人をめとり、帰化して名を小泉八雲と改め、日本をうたえる文学界の第一人者としてその名声を世界にはせた後、ついに日本の土となっていたのである。彼が西紀一八九七年にあらわした『ブッダの畑の落ち穂ひろい』(Gleanings in Buddha-Fields)の冒頭に現われてくる文章「生ける神」(A Living God)は、すなわち本編に取り扱っている「稲むらの火」の全文である。
 ハーンのこの「生ける神」という物語は、安政元年(一八五四)十一月五日、紀州沿岸に襲来した大津波に際し、浜口儀兵衛が村民を救うために献身的に努力した実話にもとづいたものであるが、物語と実話とのあいだには多少の相違がある。この話がつぎつぎに伝わる間にしだいに事実を遠ざかっていく関係にも基因したであろうが、著者が自己の作品をいっそう芸術的ならしめるためにことさらに事実を誇張したり、あるいはゆがめたりしたことが全然ないとはいえない。たとえば「生ける神」の方にあって「稲むらの火」には現われない事項の中に、事件を百余年前(実際は出版年次一八九七年をさかのぼること四三年)としたるがごとき、また、村民が生ける五兵衛を神としてまつった(神社建立のくわだてあるを聞いて、儀兵衛はその実行を中止せしめた)がごとき、これである。その他「稲むらの火」について、事実と遠ざかった部分を摘録してみると、つぎの諸点があげられる。

一 五兵衛という人物につき、浜口という姓は「生ける神」の方にも正しく出ているが、五兵衛は儀兵衛でなければならぬ。浜口家は土地の豪族ではあるが、荘屋ではなく、また老人となっているけれども、当時儀兵衛は三十五歳の働き盛りであった。
二 物語内の地震はべつに激しいというほどのものにはなっていないけれども、実際は相当に激しくて界隈かいわいつぶれ家も生じたくらいであった。
三 五兵衛の家は台地にあることになっているけれども、実際は低い平地の集落の中にあった。
四 村の人口は四〇〇ではなく一四〇〇であって、いっそう精確にいえば一三二三であった。
五 稲むらに放火したのは事実だが、稲むらの場所や所有者と放火の動機とが相違している。

 特に、実を採った後のわらだけの稲むらであったらしい。
 かような詮議立てをすると、作品の価値に対して疑惑をおこす人があるかもしれぬ。ただし、物語の文学的価値は事実とはさほどの関係はないものであって、むしろ、事実を多少ゆがめたためにその価値を高めた節があるともいえよう。あるいはまた、五兵衛の崇高な行為に対する尊敬の念が薄らぐように懸念する人があるかもしれぬが、ただし、事実は物語よりもさらに奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動はいっそう崇高で、英雄的で、献身的で、波乱に富んでいる。これを要するに、ハーンは儀兵衛の偉大さの片鱗へんりんしか伝えなかったと言える。実話の一読を要する所以ゆえんである。

 実話その一・安政津波

 安政年間(一八五四〜一八六〇)、わが国は五回の大地震にみまわれた。そのうち、最初の三回は本物語の舞台である紀州有田郡広村ひろむらにおいても大地震として感じた。第一は安政元年六月十五日の伊賀・伊勢・大和大地震、第二は同年十一月四日、東海道沖大地震津波、第三は同十一月五日、南海道沖大地震津波である。かくてこの第三の大津波は、広村ひろむらにとり、かならずしも不意打ちではなかったのである。
 元来、津波には地震津波と風津波との区別があり、別に、シナ・銭塘江せんとうこうなどの川口において大潮のころにおこる海嘯かいしょうというのもある。
 風津波はあるいは高潮たかしおともいい、これに対して地震津波を単に津波とも呼んでいる。ふたつながら、海水が陸上にみなぎりあふれる点においては同じであるが、その原因と海水漲溢ちょういつの緩急・大小とにおいて著しい相違がある。津波は主に海底における大規模の地変にもとづき、高潮は著しい気圧低下や風力などの気象異常によっておこる。高潮のばあいには浸水の高さは平水へいすい上数メートルにすぎないが、津波のばあいは数十メートルに達することもある。高潮は低気圧の中心の移動にともなって増水し、その通過後しだいに減水する関係上、海水の漲溢ちょういつは概して一回に止まり、潮の差し引きも比較的に緩慢であるが、津波は海水の一体としての振動なるため、潮の差し引きはやや急に、かつ幾度もくり返され、その周期は数十分あるいは一、二時間にも達することがある。
 津波の高さは外洋ではあまり大きくなく、わずかに数メートルにすぎないけれども、浅海に近づくにしたがい、また漏斗じょうご形の港湾に侵入するとき、高さはしだいに増大して、その数倍または数十倍になるのである。“津波”あるいは“津浪”とよばれる所以ゆえんである。
 安政元年(一八五四)十一月、南海道沿岸をおそった津波は、発生の場所が潮岬しおのみさきや、室戸岬むろとみさきの沖合い一〇〇キロメートル内外の辺りにあったのである。地震津波の特徴として、まずそこの洋底の広い区域に上下変動がおこったのであろう。それが一方では大地震となって一、二分間で陸地に波及し、他方、その区域の直上において海水面の狂いがおこって、それが津波として数十分ないし一、二時間かかって海岸に押しよせたと解される。かようなばあいの地震の性質としては陸上では、やや緩慢な大ゆれとなり、比較的長く続く特徴をそなえている。このとき、広村ひろむらでは瓦飛び、壁くずれ、塀たおれ(梧陵手記)たといい、その南東方約四十キロメートルにある田辺町たなべちょうでは全町の三分の一ほどつぶれ、大火災をおこした。
 広村ひろむらでは大地震を感じたのが午後五時ごろであって、それから津波の襲来するまでにおよそ一時間はかかったろう。その間に、沖の方に遠雷かあるいは巨砲を連発するような響きを聞くこと数回(この中には最初の地震にともなって生じた音があるかもしれぬが、むしろ全部が、陸地あるいは浅瀬に来た津波の破浪によって生じた音であると解したい)。そうして往々経験されるとおり海水の小干退がはじまったかもしれぬが、ただしそれは確認されていない。ただし、「生ける神」にはそのことが書かれていること上記のとおりであるが、これはハーンが明治二十九年(一八九六)三陸大津波によってその示唆しさを得たものらしい。すべてこのことにかぎらず、津波の大きさにくらべて、地震の軽かったこと、あるいは「生ける神」の津波記事を全巻の冒頭に掲げた動機など、著書上梓じょうしの直前におこったこの三陸大惨事だいさんじに糸を引いているように思われる。
 かくして時を移さず(数分ないし十数分の後)、本格的の津波襲来となったのであるが、このとき、広村ひろむらでは第二番(田辺では第三番)の波がもっとも高く、俗称一本松の根元ねもとまで来たといわれているから「平水上約八メートルの高さにまでのぼったことになる(宝永年度(一七〇四〜一七一一)の津波は同十四メートルの高さまでのぼった)。おそらく海岸では五メートルないし六メートルの高さであったろう。なお三番波も二番波におとらず大きく、五番波もやや大きかったといわれている。
 広村ひろむらにおける宝永および安政の津波の損害はつぎのとおりであった。
 宝永年度、戸数八五〇のうち七〇〇流失、一五〇破損。土蔵九〇うち七〇流失、二〇破損。船十二、橋三流失。死者男女一九二人。
 安政年度、戸数三三九のうち一二五流失、全壊一〇、半壊四六、汐込大小破損一五八。人口一三二三のうち死者三〇人。船十三、橋三流失。

 実話その二・儀兵衛の活躍かつやく

 醤油しょうゆ最上山サ()号をもって名高い銚子ちょうしの浜口家は、南紀広村ひろむらの豪族である。初代儀兵衛、元禄年間(一六八八〜一七〇四)銚子に出店して醤油醸造業をはじめ、爾来じらい歴代の努力によってその名声を高め、あるいは海内一をもって称せられるに至った。物語の主人公たる五兵衛はじつに七代目儀兵衛にあたり、晩年梧陵ごりょうと号した偉人である。
 梧陵ごりょう六十六年生涯は義勇奉公の絵巻物であり、世務せいむ・公益・開広かいこうの歴史である。特に安政大津波に対する彼の文字どおりの献身的奉仕は、じつに感銘にたえないものがある。彼は当時三十五歳、たまたま帰省中にこの難にあったのである。このとき、彼は村人を逃がすために活躍かつやくしてただひとり最後まで危地に踏み止まり、まさにその犠牲とならんとして、かろうじて江上川をおどりこえて奇跡的に助かったのであるが、山すそをつたって村人の避難所たる八幡の丘にたどりつき、人数の不足を確かめるやいなや、奮然ふんぜん壮者そうしゃ十数名(彼はかねて義勇奉公をちかい合った村の青年たちを指導して、崇義団というのを組織していた)をひきいて人命救助のためにふたたび虎穴に入ったのである。時に日はまったく暮れていたから、壮者には手に手に松明たいまつたずさえしめたところ、これを目標にはいあがってきた遭難者が数多くあった、彼はこれに力を得て、何の躊躇ちゅうちょもなく路傍の稲むら(俗称、ススキ)十数基に火をつけさせた。パッと燃え上がった火によってさらに幾多の人命(実数、男女九名)が救われたのはいうまでもない。かくて救えるだけは救ったと見て、一本松の辺りまで引き取ってみると、第二の津波が押しよせてきて、燃え盛っている稲むらまで流してしまった。
 これで人命救助の序幕第一場は終わったのであるが、これに続く第二場、第三場があった。宝蔵寺法蔵寺ほうぞうじか。に交渉して当夜の炊き出しをしたこと、さらに深夜、隣村たる中野村なかのむら里正りせいの家をたたいて、年貢米にあててあった米五十石(あるいは十数石ともいう)を借り出して(里正が年貢米の故をもって断ると、全責任はこの浜口が負うと称して)数日間、一四〇〇口をのりしたことこれである。
 村民救助の第二幕は、翌朝から幾週間か続いた。すなわち彼は、悲観のどん底に落ちた村民を鼓舞激励して、村の復興につとめしめたのである。まず同族有福者を語らって寄付をつのり、自身は率先範を示して米二百俵を寄付したのを手はじめに、村役人を鞭韃べんたつして流氓りゅうぼうの整理と治安の維持とにたらしめ、自力をもってわらぶきの仮小屋を建設すること五十棟、その他失業者へ農具・漁船・漁具、商人へ小資本などを給与するなど、連日、寝食を忘れて活躍かつやくしたのであった。
 第三幕は、津波け堤防の建設である。これには三つの偉大な目的が含まれていた。その一は、いうまでもなく、村を未来永劫、津波の災厄から免れしめるため。その二は、村民がこれまでの恩恵にれて、どうもすれば他力に依頼しようとする風が生じたので、このゆるみがちな民心を緊張せしめて、勤勉自粛の良風を作るため。その三は、これまで重税に悩んだ土地を以後、堤防の敷地として重斂ちょうれんを免れしめるためであって、三つながら相当な成果を収めたのである。もっとも、これがために彼がはらった代償は並大抵なみたいていではなかった。彼が藩に提出した「防波堤建設許可願」に「右工費はおそれながら私いかようにも勘弁かんべんつかまつり、已来いらい、万一洪浪ござそうろうても人命はもちろん、田宅器財つつがなくしのぎ候見留の主法相立候上にて人心安堵あんど為致……」としてあり、そうして彼が支出した工費は銀九四貫三四四もんめの多額にのぼり、今日なら十万円ないし二十万円に相当する工事である。防波堤の延長六五二メートル、高さ三ないし三・四メートル、平均海水面上約四・五メートル。幅底面十七メートル、上面二・五ないし三メートル、さらに外側には樹齢二十年ないし三十年の松樹を二列に植えて防潮林とし、上面と内側とにはハゼノキを植えつけた。工を起したのが安政二年(一八五五)二月、竣工したのが同五年十二月。かく長い期日を要したのは、村の窮民きゅうみんへ授職の意味があったためであって、日々使役する老幼男女の数幾百人、延人員計五万六七三六人、おもに農閑のうかんの季節を選んで工を進め、労銀はその日その日に給したから、村民もおのずから勤勉ならざるを得なくなったしだいである。
 安政大津波に際し、村民救済のため、梧陵が献身的に活躍した事跡をかように検討してみると、前に述べた「事実は物語よりもさらに奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動はいっそう崇高で、英雄的で献身的であった」というのが、過褒かほうではないと了得されるであろう。

 実話その三・その後の梧陵と村民

 梧陵が村ならびに村民のために尽力したことは以上でつくされたわけではない。広村ひろむらの橋梁架設、青年子弟の教育など、このような冊子にはつくしがたいものがある。代官から藩への具状ぐじょう書には、合計およそ銀二八〇貫救合し、そのほかに吹聴ふいちょうせぬものも多きむねを述べている。
 以上は梧陵の安政大津波に関する活躍ぶりの一端を叙したにすぎないが、ここにかの人柄をも瞥見べっけんしておきたい。上記具状書に「当時身上よろしくそうらえども、儀兵衛儀は家宅・衣服とも諸事質素にて、篤実とくじつなるうえに慈悲深く、かねて困窮こんきゅうの者どもを救い遣わし候につき、自然同村の者どもすべて尊敬いたし候由」とあるので、村人が彼を神仏のように崇敬したのも偶然ではないことがうなずかれる。事件の翌年、彼らは神社浜口大明神を建立しようと議をまとめ、材木まで調ととのえて建設に取りかかったところを、梧陵が聞きつけて村人に、「われら儀社にも仏にもなりたき了簡にては決してこれなく、ただこのたびの大難救済、あわせて村への奉仕は藩公への忠勤ともなることと心得たまでのこと、神社建立のことは藩公へも恐れあり、かくては今後、村や村民の世話はでき難くなる」と説得したので、神社建立は中止となったが、ただし、純真な村人はそれで引き下がったのではない。ついに彼の承諾を得て、爾来じらい彼を大明神さまと呼ぶことにした。なるほど、形の上では神社建立は中止になったけれども、精神的には浜口大明神が村民の脳裏に立派に築きあげられたのであった。
 浜口梧陵はその後においても幾多の輝かしい事績を残し(和歌山藩の要職、中央政府の駅逓えきてい頭などに歴任した)、明治十八年(一八八五)四月二十一日、享年六十六歳をもってニューヨークで客死した。遺骸は厳重に防腐して鉄棺におさめ、郷里広村ひろむら先塋せんえいのそばに葬られた。彼は代官具状書の推奨により、安政三年(一八五六)十二月二十日、藩主から独礼格(単独拝謁はいえつの資格)の優遇をこうむり、没後三十年にあたる大正四年(一九一五)には朝廷から従五位のご贈位をかたじけのうし、さらに二十三年後すなわち昭和十三年(一九三八)には、梧陵の墓所ならびに彼が生前心血をそそいだ防波堤は史跡として文部省から指定せられた。かように由緒ゆいしょ新たな墓所が史跡として指定されたことは、ほかには類例がないそうである。

 実話その四・外人の梧陵崇拝

 最後に外人の梧陵崇拝に関する一幕を加えて、梧陵劇の大詰めとしたい。
 梧陵の末子・浜口担氏が英国ケンブリッジ大学に留学中のこと、在ロンドンの日本協会に招かれて、日本の女性と題する講演を試みたことがある。時は一九〇三年五月十三日、『ブッダの畑の落ち穂ひろい』が出版されてから六年後のことである。
 この日、婦人の聴講者がことに多かった。講演は喝采裡かっさいりに終わり、質問討議も一巡して、座長アーサー・デオシー氏がまさに閉会を宣しようとする刹那せつな、後列の一婦人から意外な質問が提出された。婦人名はステラ・ラ・ロレツ嬢。彼女がおもむろに語り出すを聞くに、
「わたしは今日のご講演に対して、なんら質問討議する能力を持たないものであります。そうしてみなさまがこの耳あたらしい日本の女性という問題につき感興かんきょうしておいでの間、わたしは別に今一つの問題にとらわれて胸いっぱいであったのであります。ただし、それは日本の女性と直接の関係がないため、みなさまのご質問・ご討議の終わるのをお待ちしていたのであります。
とくぎりながら、今度は聴衆一同へ向きなおって、
「みなさまは、ハーンの『ブッダの畑の落ち穂ひろい』の第一課に「生ける神」の美談があったことをご記憶だろうと思います。それは今から百余年ほど前に紀州沿岸に大津波が襲来したとき、身をもって村民を救ったという浜口五兵衛の事跡を物語ったものであります。爾来じらい、わたしは五兵衛の仁勇に推服すること多年、一日として五兵衛の名を忘れたことはありません。現にわたしの家に蔵している一幅のペン画の中に描かれた日本児童を、小浜口と名づけてこれを愛好しているくらいであります。
 このとき、もし彼女が、自分の質問の価値の重大さを知っていたなら、つぎのようなことまでつけ加えたに相違ない。すなわち、「平生わたしは、わたしの心に定めた世界的聖人の目録を作っています。その中にはキリスト教徒もあり、仏教徒も、回教徒もあります。またその中には、文明人と自称している人々が野蛮人と目している族に属するものもあります。ただし、わたしの信じている聖人は、ただいまのご講演にも述べられたとおり、いずれも美しい徳をもっていることに共通な点があるのでありまして、卑近なたとえではありますが、世界各国、最高貨幣の鋳型はいちいち違っていても、その実質が黄金である点においては相一致しているようなものであります。そうしてこの聖人目録中、浜口五兵衛はわたしの最も頌揚したい一人であります。わたしはもし他日、日本観光の機会でもありましたなら、その浜口神社に参詣したいくらいに思っているものであります」……(担氏にあてたロレツ嬢の書簡から抄出。
 ロレツ嬢はさらに語りつづける。
「かくまで浜口の名にあこがれているのですもの、今日の講演者の浜口という名前に感興をもよおさずにはおられません。講演者の浜口さんと、わたしの崇拝している浜口五兵衛との間に何の関係もないのでしょうか、ぜひ、それをうかがわせてください。
と言い終わって着席すると、衆目は期せずして壇上の講演者に集まった。と見ると、担氏は激越げきえつな感動にとらわれて、うなだれたまま一言ひとことも発することができなかった。やむを得ず、司会者が彼に近づいて事由を問いつ、質しつ、これをつづりあわせて会場に報告するや、拍手と歓呼かんことは一時に百雷のとどろくように場内を圧倒してしまった。かような感動をあたえた場面は日本協会においては空前であったが、おそらく絶後かもしれぬといわれている。
 ロレツ嬢は、ついで担氏から詳細な真相を聴取して、事実は物語よりもさらに神秘的であり、行為はさらに崇高であって、彼女が五兵衛景仰けいこうの念はいっそう深まるばかりであったむねを語っている。事実は物語以上だとのわれわれの断案は、はたして独断ではなかったのである。

   二七 三陸津波の原因争い


 地震津波すなわち大規模の海底地震にともなっておこる津波は、主として海底の広範囲にわたる地殻変形によっておこされるとの説は、今日でこそ異議者も少なく、強力な反対説はないようであるが、余が明治三十二年(一八九九)、かの三陸津波取り調べ報告としてこの説を提唱したときには、猛烈な反撃をこうむったものである。もちろん余が説は、三陸津波原因に関する伊木博士の海底火山説、巨智部こちべ博士のタスカロラ崖くずれ説に対して立てたのであるから、論難駁撃ばくげきは予期していたけれども、大森博士が液体振子ふりこ説を堤げてち、しかも余が説の根拠たる「海底の広範囲にわたる地殻変形」をもって、無理な不自然な仮定であると指摘したため、学界はこれに風靡ふうびし、その後出版された地理学の教科書にまで液体振子ふりこ説が幅をきかしていた。
 大森博士の液体振子ふりこ説は、その根拠が、遠地大地震に起因する河水や湖水の氾濫はんらんにあったらしい。特に一八九七年アッサム地震において、ブラマプートラおよびスルマの両大河が氾濫はんらんした事実を博士自身が調査したことは、液体振子ふりこ説の樹立に対して、もっとも力強い根拠となったのである。
 本多・寺田両博士その他によって、わが国における各港湾の潮汐ちょうせき副振動が調査されたのは、明治三十七年(一九〇四)ないし三十九年のことであるが、その結果が公表されたのは明治四十一年(一九〇八)であった。これによって、港湾においては平日から定常振動のあることと、この振動の周期が港湾の大きさ・深さ・形状などによって算出され得ることとがあきらかになり、特にこの周期と当港湾の津波周期とが多くのばあい相一致するという大森博士の所説を裏書きしたため、大森博士の津波原因説左袒さたん者の中には、大森説に新しい根拠が加えられたように感じた人もあった。
 実際、当時においては、地震にともなう地殻変形に関する知識が皆無であった。大森博士が余の説の根拠を薄弱だと断じたのも無理ではなかった。しかるに陸地測量部では、明治二十四年(一八九一)濃尾地震にともなえる地盤の垂直変動を検測するため、震源地を中心として方四十里ほどの区域内にある精密水準線路の再測をおこない、明治三十二年(一八九九)実測を終わり、こえて三十六年末にいたってその成果を発表したが、これが幸いにも、余の提唱した津波原因説に対して確実な根拠を与えてくれたのであった。ただし、余が該報告書をはじめて披閲ひえつする機会を得たのは、明治三十八年(一九〇五)のことである。
 余は、この新しい根拠を得るやいなや、ふたたびって前説をくり返し、かねて大森説の弱点をついたのであった。明治三十八年九月二十三日、地学協会における講演速記が『地学雑誌』二〇三号に載っている。その別刷数部がこのごろ筐底きょうていから現われたが、同学の士の多い今日、この小部数では致し方がないから、やむを得ずここにその要点を抄録する。
 まず緒言として、前の論文が要約してある。すなわち地震津波の原因は、地面の弾性的波動か、あるいは海底の地殻変形のいずれかであろうが、前者の説明は水力学的講究にゆずり、余は、もっぱら後者に関する説明を試みるのであるという意味を前置きし、さて、大洋底において広袤こうぼう二、三十里、高さ数メートルにもおよび変動がおこったら、大津波をおこすに十分であるとし、かつその変動が急速におこる場合はもとより、たとえそれが数十秒あるいは数分時間を要しても、津波の発生にはさしつかえないことを論じたのである。
 この海底の上下変動が比較的緩慢におこる場合においても、大津波の発生をさまたげないとの所論は、余が報文の大部分をしめているため、読者に誤解をあたえ、「かの三陸大津波の原因は、数十秒ないし数分時間を要したほどの緩慢な上下変動なり」と誤読されたのであった。それゆえに、該講演においては、特にこの点の弁明に力をつくしたのである。
 明治二十九年津波は絶大であったが、地震は三陸沿岸においては単に緩慢な大ゆれにすぎなかった。これに比較して、翌年八月五日の津波は軽微ではあったが、これにともなった地震は激しい大ゆれであった。余が最初の報告文は両方の津波を取り扱ったため、上記の差別が何に基因するかを説明する必要があったのである。すなわち余は、津波の大小を主として洋底上下変動の大小にしたがうものとし、地震の激否を主として該変動の急不急にしたがうものとしたのである。
 大森博士も誤解者の一人であったから、余は率直にこれを口述指摘したため、博士はただちに『震災報告』第三十四号付録においてこの点を訂正せられた。そして博士の余が説に対する非難はつぎのように改められた。

一 洋底の広区域にわたる上下変動という仮定の根拠が薄弱なこと。
二 港湾の海水の振動につき、平時のものと津波時のものとが相一致する事実を看過かんかしたこと。

 ただし、第一の非難は、濃尾大地震にともなった陸地広区域にわたる上下変動の実測結果によって、自然に解除されてしまった。
 第二の非難に対しては、余もまた率直にこれを認めた。もとより湾港内の海水が液体振動をなすべきことをかつて否定したこともなかったのであるが、ただしこれは単に二次的の現象にすぎないというのが余の主張であった。そして三陸津波に関する自説の妥当なことをつぎのように要約弁明したのである。

一 津波の発生が外洋にあったとして、それがいったん港湾内に進入するやいなや、湾内の海水にただちに自己振動をおこすであろうし、「港湾海水の平時ならびに津波時における振動周期の相一致する事実」は、今村説にも好都合であること。
二 津波の開始が、三陸沿岸の各港湾において、地震後五十分、四十分、三十分などと、距離の遠近にしたがって生じた時差は、大森説では解しがたく、今村説によって容易に解けること。
三 定常振動の発生に好条件を有する袋形の港湾では津波がすこぶる小さく、同じく不適当な漏斗じょうご形の港湾においてはそれがかえってはるかに大きかった事実もまた前と同様に、今村説に有利であること。

 かくして、三陸大津波の原因争いは、かれこれ十年間も続けられたのであった。爾来じらい幾十星霜、そして昭和八年(一九三三)三月三日にいたって、現地はまたも大津波の襲来をこうむったのである。
 ただしこのたびは、学術的研究のみならず、将来の災害を予防する方案の作成にいたるまで、ほとんど間然かんぜんする点がないまでに遂行された。地震研究所、中央気象台などから出版された報文は、いずれも金玉の文字で、現今津波に関するもっとも貴重な文献だと称しても溢美いつびではあるまい。余のごとき、津波学の皆無時代を経験したものにとっては、じつに隔世の感がある。
 地震国日本が地震学国日本になったとは、中村左衛門太郎もんろう博士の警句であるが、津波国日本が津波学国日本になったといっても過言ではないように思われる。

   二八 三陸沿岸の浪災復興


 三陸沿岸が、最近の津波惨事を経験してからもはや三年を経過した。復興もみごとに成就し、将来の災禍さいかに対する予防施設もそうとうに考慮をはらわれたことであろう。そのなりゆきにつき、震災予防評議会は多大な関心を持ち、被害三県に問い合わせを発し、また中村左衛門太郎さえもんたろう博士ならびに余の両評議員に実地視察を命じた。中村博士は宮城県方面を、余は岩手県方面を分担することとし、青森県の視察は省略されたが、問い合わせの回答によれば、同県では海岸に防潮林を造成することが、将来の浪災予防施設の主要部をなしているようである。
 余は、沿岸地方四泊の日程を立てて、田老たろう釜石かまいし間を見ることとし、あわよくばさらに南下して、唐丹とうに本郷から小白浜こじらはまあたりまでもと思っていた。さて行って見ると、復興は予期以上に進捗しんちょくし、交通機関は年とともに発達したのみならず、県当局では、多大な便宜を与えられ、上野土木課長みずからが東道の主となって、難路とはおろか、道なき場所にまで車を進められたので、旅程が意外にはかどり、予期に幾倍するほどに旅嚢りょのうたすことができた。じつに田老・宮古・大沢・山田・船越・田ノ浜たのはま吉里吉里きりきり安渡あんど大槌おおつち両石りょういし・釜石・嬉石うれいし唐丹とうに本郷・小白浜・吉浜・越喜来おきらい大船渡おおふなと・綾里港赤崎あかさき・広田泊・末崎まつさき細浦ほそうら高田たかた松原まつばら長部おさべなど、明治二十九年(一八九六)には二週間かかり、昭和八年(一九三三)には一週間かかった旅程を、僅々きんきん四日間に、しかも徹底的に見学し得たのはまったくその恩恵によるところである。
 つぎに見聞の一端を記すことにする。
 復興金ならびに浪災予防施設は、いずれも予想以上によくできており、またできつつあった。すべて物事は理想の七割できれば上乗だというが、この意味において、じつに上乗の成績だと考えた。余は、昭和八年当時においては、浪災予防の対象として人命ならびに財産を不可分のものと考えていたが、その後、心境の変化とでもいおうか、「やむを得ざれば、保護の目標を人命のみにとどめ、財産は犠牲とする覚悟を要する」というふうに改めた。これは台湾の土埆造建築物の震災や、大阪のごとき大都市における津波災害の予防策について到達した考え方であるが、もし、かような心境変化なしに事物を直視したならば、今回の視察結果においては不満を感じた点が多かったに相違ない。ただし事実がそうならなかったのは、おそらく、余の観祭眼が常規に近づいたことを意味するのであろう。
 高地移転はやや立ち遅れの箇所がないでもないが、ただし、概してよくできあがり、綾里港・唐丹本郷・吉里吉里・船越・田ノ浜・両石などのはいずれも理想的だと思った。特に綾・唐・吉の三者には住宅地を貫通する県道が新設あるいは改修されたには敬服した。なかんずく綾里港の復興ぶりは賞嘆に値する。新住宅地は、三所のうち、西方高地海面上、一三・二メートルの高さに設けたのが主要なものであって、各戸五十坪として一七五戸を収容するにり、阜頭に達する自動車道路まで設けてある。かつて比較的に安全な位置をしめていた小学校が、今日では、かえって最も不安な場所に取り残されているかの観がある。その他、殿見島と西岸との海面を防波堤で閉塞へいそくしたことや、ここと合足あったりとをつなぐ県道における鉄筋コンクリート造桟橋のごときも特記すべきである。昭和八年(一九三三)には毎度、大船渡から発動機船でかよい、全一日をついやしたが、今回は片道一時間をついやすにすぎなかった。さすがに高地移転の烽火のろしをあげて復興の範を示しただけのことはある。余は感にたえず、「これは余が理想以上だ」と賞嘆したら、青年たちは「いいえ、まったくご指導の賜物たまものです」と謙抑けんよくし、余が視察時間の短いのを本意なげにかこつのであった。
 ただし、ここに見逃しがたい一事件がある。それは、綾里港以外にも処々しょしょ気づいたことであるが、移転後の旧住宅地に他地方の人たちが入り込む傾向のあることである。これはいわゆる仏作って魂を入れないというよりも、仏作って別魂を入れたようなもので、後々にまで残る一抹いちまつの不安である。
 吉浜よしはまの防波堤は、二十九年浪災後に築いたのが今回の津波によって破壊されたことにかんがみて、いっそう堅固に、高く、かつ延長して改修された。住宅地は、前に十二メートルの高さに移されていたのが、今回さらに三メートル高い後方に退き、県道もそこを通るよう付け替えられた。
 田老の防波堤は未完成ながら、これまたよいと思った。田老川たろうがわのみならず、長内川おさないがわの川筋まで取り入れて、右と左とに緩衝地区を設けたのには賛意を表する。この防波堤は、落成のあかつきには、高さ約一四メートルになるのだそうだから、二十九年津波以下のものに対しては有効であろう。ただし、かつてそれ以上の津波のあったことを思って、避難に関する施設をも加うべきである。
 山田は、海岸を埋め立てて、前面に護岸を高く築いたから、これだけでも良くなったわけだが、街衢がいく防衛のため、さらに路面上三メートルの高さに防波堤が築かれている。大槌おおつちは、昭和十三年度(一九三八)には、防波堤ができるとのことであった。
 以上の災害予防施設には、すべて明治二十九年(一八九六)の津波が基準に取られたから、やがて諸施設完備の暁には、それ以下の津波に対しては、被害が著しく軽減すべきはずであるが、ただし、三陸沿岸においては、それ以上の津波を経験した実例のあることを忘れてはならぬ。慶長十六年(一六一一)のは明治二十九年の四割増しの高さで襲来した証跡がある。田老・山田・小谷鳥こやとりなどの人々はよくこれを言い伝え、書き伝えている。
 まれには、昭和八年(一九三三)津波を基準としたのではないかと思われるのもあったが、これがもし余の誤解であったならば幸いである。
 釜石は、その浪災予防施設について、われわれが最大の関心をよせた場所であったが、昭和八年の浪災が比較的に軽かったためか、土地の人たちの関心はかえって薄いように思われた。「明治二十九年津波は、釜石では二十七尺にすぎなかったが、それでも人口の七割一分をおぼれしめるに十分であった。もしそれが三十五尺や四十尺にも達したらどうであろうか」とは余の所論の一節であるが、この三十五尺や四十尺はかならずしも架空のものではなく、明治二十九年波高の四割増しに近い数字である。
 余は、先ごろここに来たとき、山腹四所を開拓して八十戸分を得る計画のあることを知って、これでもきにはまさると思っていた。しかるに今度きてみると、この期待すら裏切られてしまった。なるほど、多少開拓されたには相違ないが、沢村の右方のものには尾崎神社が移転し、左方のものは避難道路にあてられたのである。ただし、余は失望しなかった。というのは、人命救護に関する施設少くもその形態だけは整ったからである。前記の避難道路のごときはむしろ避難用高地と称すべく、現人口を一時収容し得る地積があるからである。
 津波記念碑は各部落に建てられた。おそらく合計二〇〇基に達するであろう。多くは石巻産の石盤材を用い、たいてい玉垣をめぐらした堂々たるものである。いずれも今後の津波警戒に大切な役割を演じ得るよう二、三の訓戒が刻んである。朝日新聞社の功徳また大なりというべきである。

 余は、昭和十四年(一九三九)に今一度三陸沿岸の行脚を試みた。復興ならびに浪災予防施設はふたつながらほぼ完成している。防潮林の松樹は、三年前には幼なすぎはしないかと危ぶまれるものもあったが、今はみなすくすくと成長していて、鬱蒼うっそうたる樹林の将来を思わせるに十分であった。
 明治二十九年津波のときは、罹災者には立ちなおる気力がなく、公の方にも手の届かなかったうらみが多分にあったが、今回は官民ともに真剣に事にあたり、われわれのごとき学徒の意見をもよく聞き、よく用いてくれた。じつに昭代しょうだい余沢よたくと称すべく、やがてこのたまものを謳歌おうかする日もくるであろうが、ただしそれは遠い遠い子孫への贈り物としておこう。

   二九 土佐と津波


 土佐は、過去において津波の災害をこうむった例が少くない。地震津波はもとより、風津波もまたたびたび襲来している。
 試みに地震津波の著明なものをひろってみると、次の四つがある。

一 天武天皇十二年(六八四)十月十四日、諸国大地震。土佐の田苑でんえん五〇余万頃没して海となり、津波のために調船が多く失われた。
二 慶長九年(一六〇四)十二月十六日、南海・東海両道地震津波。土佐においては東海岸における状況だけがわかっている。すなわち溺死者の数が佐喜浜さきのはまで五〇、東寺ひがしでら西寺にしでらの浦々四〇〇余、甲浦かんのうら三五〇余、宍喰ししくい三八〇六で、野根のねでは死者がなかったというのである。
三 宝永四年(一七〇七)十月四日、大地震津波。
四 安政元年(一八五四)十一月五日、大地震津波。
 この両者は五畿七道の大地震であり、津波が東は関東から、西は南九州にまでおよんだこと詳説するまでもあるまい。

 土佐は風津波についてもその記録にとぼしくない。最も著名な例は、最近の室戸台風によっておこったそれであるが、なお、去る明治三十二年(一八九九)八月二十八日にも著しいのがあった。この時はむしろ風災の方が激しかったのであるが、ただし、須崎すさき高須たかすなどには浪災もあった。奈半利なはりにおいては洪浪三丈におよんだと記されている。
 昭和九年(一九三四)室戸台風による浪災は、上記数例中でももっとも軽い部類に属すべきものであったが、それでも善後処置としては、防波堤の新設、住宅あるいは県道筋の高所移転、防潮林の造営などに鉅資が投ぜられた。まことに昭代しょうだい余沢よたくと称すべきである。
 地震津波の大かつ広きは、風津波の比ではないということ、これは宝永・安政の経験に見てもあきらかである。このことは全国的に見ても、一国だけについて言っても同じである。すでに将来の風津波の災害予防に関して善政をしいた当局が、地震津波の災害を等閑なおざりに付しておくはずはないと思う。この見地において、ここにいささか宝永・安政津波の真相を語ることにする。
 上記両度の地震において、室戸半島が南東のぼりの傾動をなし、高知市の東に接する平地が沈下したことはかつて論じたとおりである。天武地震(六八四)のとき陥没地域は上記の沈下地区に相当し、宝永年度に現われた浦内浦ノ内うらのうちか。・須崎両湾の沿岸地方陥没は、高岡郡のあちらこちらに残っている伝説と連絡のあるべきことを指摘しておいた。
 ただし、余がここに論じようというのは津波である。
 高知県土木課においては、かつて宝永・安政津波の陸地侵入図を調製したことがある。これは、現地の熟知者にとっては津波侵入の真相をつかむにもっとも便利なものである。ただし、地理に暗いものに対しては、むしろ各所における波高を列挙するほうがかえって実際的である。
 津波の高さの知識が、必要有効なものであることはいうまでもないが、それが記録されている場合はきわめてまれである。宝永津波においては、種崎たねざきにおける高さが七、八丈であったというのが、余の知れるかぎり、唯一のものである。やむを得ないから、上記の津波侵入区域図にもとづき、土地の伝説・碑文などを参酌さんしゃくして、実測を試みることにした。
 計測用器械としては手提げ水準器をもちい、波高と平均海水面の高さとをくらべるには付近に敷設してある陸地測量部の精密水準標を利用した。あるいは直接に海の汀線ていせんを利用したこともあり、また、海水と交通している池の水面を利用したこともある。いずれの場合においても誤差は一割以内の範囲にとどまるであろう。ただしこれは計測上の誤差であって、もし仮定した津波頂点に誤りがあったならば、それはおのずから別問題である。
 計測した場所は、順次に東から西へ、室戸町、安芸あき町、種崎、宇佐うさ町、須崎町および久礼くれ町の六所であった。その結果を概説すればつぎのとおりである。

一 室戸町 海岸線はおおむね直線をなし、地震とともに一メートル半におよぶ陸地隆起がおこったから、津波の発達にはすこぶる不利な条件の下にあった。
 宝永津波については、耳崎みみざきより打ち入る潮に、みなとの東、水尻という所の家流れるとあり、同所の旧家で、海水の到達した位置を口伝しているのがあるが、この位置は宝永津波直後の平均海水面上、六・五メートルの高さにあたってある。
 安政津波ははるかに低く、現存している海岸のある岩礁がんしょうのすそまでしか来なかったといわれているから、宝永度の二分の一の高さと見て大差ないであろう。
二 安芸町 ここは、陸地の上下変動が微小であったらしいが、海岸線はおおむね直線をなしているから、室戸町につぎ、津波の発達に不利な条件をそなえている。
 ここでは、某家所蔵の宝永津波旧記に、津波の侵入した位置が確実に記されている。さいわいに近くに精密水準標があるから、計測された五・六メートルという波高には相当な信用をおいてよいと思う。
三 種崎たねざき 地勢をあんずるに、土佐の太平洋岸は一大湾曲をなし、中央に近く浦戸湾うらどわんがあり、湾の防波堤をなすものが種崎半島である。この半島は、おおむね北東から南西へ向かって斗出としゅつした砂州であって、長さ約二七〇〇メートル・幅五〇〇メートル内外、標高は西南端において約三メートルであるが、北東へ向かって漸次ぜんじにのぼり、中央の北東寄りにある俗称二本松において、約一〇メートルの高さになっている。と見れば、海岸線は直線に近く、津波の発達に不利のようであるけれども、津波の波長のすこぶる大きいところから考えて、むしろこれを大きくみて、ユー字形をなす大湾の奥にあるとする方が、正しい見方であろう。すなわち津波の発達に関してやや有利な条件をそなえているわけである。
 『弘列筆記』には「種崎の浜は死人もっとも多し。波入数度のうち、初度目、二度目は強からず、三度目の波高さ七、八丈ばかり、この波に磯崎いそざき御殿不残流失す。」とあり、また『谷陵記こくりょうき』に「種崎亡所、一草一木なし。南の海際に神母おいげの小社残る。まことに奇なり。溺死できし七〇〇余人、死骸海際に漂泊し、行客こうかく哀傷に不堪、かつ腐臭不可忍。」とある。これらの記事中、津波の高さ七、八丈というは、どうして計測したか、また海面上わずかに三メートルの高さに安置してあった小祠しょうしが、どういう作用で流出をまぬがれたか、すこぶる興味ある問題である。
 種崎の西南端御神母おいげには現在貴船大明神の小祠しょうしがあるが、いわゆる神母の小祠とはこれであろう。現在その周囲には老樹、特に老松が亭々ていていとして立っているから、津波時においてもまたそうであったと仮定してよいであろう。試みに一つのこずえをうかがって路面からの高さを計ってみたら、二十八メートルほどあった。もし津波当時に、等高の樹があったならば、七、八丈の高さの波は、樹高の七合目あたりに、その痕跡を漂流物その他によって残すはずである。また社殿が、かような樹木によって囲まれているばあい、浸水に浮き上がった小宇が、流れ去ることなく、退潮とともに旧処もしくはそれに近く復帰すべきは怪しむにたらないであろう。
 安政の津波は俗称二本松の根元をひたす程度であったと伝えられている。波高一一メートルぐらいであったのだろう。
四 宇佐町 宇佐の街衢がいくはU字形をなした小湾の奥にあたっている。
 宝永津波のとき、潮は橋田の奥、宇佐坂のふもと、萩谷口まで。在家の後の田丁へ先潮がまわって通路をふさぎ、四〇〇余人を溺死せしめたといわれている。宇佐坂のふもとは海水面上一五・七メートルほどに出てきた。同じ道路上に安政津波の碑が立っているが、その位置は、津波浸水線よりも約一メートル高いところに選定されたとあるから、波高は八・五メートルであったことになる。
五 須崎すさき 須崎湾は不規則な形状をしているが、津波発達の度合いはU字形港湾につぎ、ややこれにおとるものであろう。
 宝永津波に関しては、旧記はつぎのようにしたためている。すなわち、「亡所。潮は山まで。池内村池ノ内村いけのうちむらか。の池を近年新田とす。その溝渠こうきょ深さ二間、横二間ばかり、当所故倉というところへ通る。はじめの地震に、橋落ちけるにより、みなとより湧き入る潮に、溺死するもの三〇〇余人。」と。
 安政津波については、「地震は激甚げきじんなりしが、西町、新町、浜町、原、古倉などの家屋はほとんど流失し、死者三〇余人。」としてある。
 池内村の池は一部分埋め立てられたこと上記のとおりであるが、その残りは現存している。池水は海と相通じ、潮汐の干満にともなって多少の増減をなすけれども、概して平均海水面と等高にあるといえる。また、この池から西北約六〇〇メートルの池田部落に小祠があるが、宝永津波はここの神田をひたしたといい、この神田から津波時の漂流物が近ごろ掘り出されたともいっている。すなわち津波は一二・六メートルの高さまで上がったということになる。
 安政津波については正確な資料を欠くけれども、高さ五メートルとしたならば大差ないであろう。
六 久礼くれ 地形がおおむねヴイ字形をなして東に向かって開き、V字の頂角六〇度ぐらい、一辺三五〇〇メートルほどあり、津波の発達に関してもっとも有利な条件をそなえている。
 宝永津波のときには、「潮は南方逢坂谷まで、中は常源寺常賢寺じょうげんじか。の植松限、北は焼坂やけざかのふもとまで、市井三分の二海に没し、死人二〇〇余名」としてあり、また安政津波においては、海岸に接した集団部落大半流失し、多数の死人を出したようであるが、五〇人ばかりは八幡社の丘にのぼって難をまぬがれたことになっている。
 この八幡宮は、海岸に面した台地の上に立っている。宝永津波のときには社殿は全部流失したが、安政のときには、社殿にかかった絵馬のくぎのあたりまで浸水してすんだと伝えているから、波高は一二・一メートルであったということになる。
 久礼の西北方、焼坂やけざか方面への津波侵入限界は、宝永・安政ともに比較的明瞭にわかっている。実測の結果、それぞれ二五・七メートルおよび一六・一メートルと出てきた。海岸における数字よりもすこしばかり大きく出てきたが、さもあるべきことである。
 上記の結果を一表にまとめると次のとおりになる。

― 二五・七> ― ―― 一一 八・五 ―― 一二・一 一六・一>

 高知県土木課の調査は全県下におよんでいるのであるが、その中からわずかに六所を選んだのはすこぶる貧弱であるといわれるかもしれぬ。ただし右の六所は、室津、安芸、須崎、宇佐、種崎、久礼の順序において、地形による津波発達上、もっとも不利なものからもっとも有利なものに至り、ほとんどすべての場合を網羅しているから、津波の高さに関する全体の概念を得るには、はなはだしい不足は感じないつもりである。
 上記六例中、宝永・安政ともに波高が計測されたばあいは三例にすぎないが、これらを総合してみると、概して二対一の比を示すから、両度の津波中、その高さが一方しかわからない場合でも、この比率をもって他を推測しても、はなはだしい誤りにはおちいらないであろう。
 最後に、将来の地震津波災害予防に関して一言しておきたい。
 震災予防評議会は、浪災予防施設参考のため、二編の小冊子を公にした。すなわち『津波災害予防に関する注意事項』と『大都市における津波災害予防に関する注意書』である。前者は、三陸沿岸のごとき、津波襲来の常習地たる港湾を対象とし、後者は、大阪市西部街衢がいくのごとき、広漠たる平地を対象としたものであるが、土佐沿岸における浪災予防施設も、またこれらの書冊しょさつにつくされていると称してよい。たとえば、避難道路の新設、住宅あるいは公共建造物の高所移転、防波堤、防潮林、緩衝地区、防波地区などの設置のごとき、参考に資すべきものが多々ある。もちろんそのうち、災害予防に関する常識の養成、警戒施設の完備のごとき、官憲当局の責務と見るべきものもあるが、避難道路のごとき、各町村・各部落において、新設すべきものもある。
 浪災予防に関する対策は、前記のとおり、おおむね右の二冊子につくされているけれども、ただ、種崎のごとき場所に対してのみ完全でない。ここは、宝永津波のごとく、波高二〇メートルを超えた場合もあり、安政津波ですら一〇メートル以上に達したのだから、対策を単に人命保護の一点に集中しなければなるまいが、それすら容易な業ではないであろう。種崎部落の中心から完全な台地までは、少なくも二〇〇〇メートル離れており、対岸浦戸へは一五〇メートルしかないけれども、一五〇〇人の居住者を早急のばあい安全に渡すのは難事であろう。あます一つの方法は、避難につべき耐浪大建築物を立てることであるが、これも実行容易ではあるまい。
 かく検討してみると、種崎にかぎって適当な対策は気づかれないということになる。ただし、失望してはいけない。いま一つ確実なる方法が残されている。ほかでもない。種崎人自身が自己の生命をまもることである。地震津波の生きた知識を修得して、それによって自己を救うことである。
 地震津波の生きた知識とは何をいうか。津波をともなう地震の特徴、地震と津波との時差、津波の接近にともなう号音、陸上および海上における合理的な避難方法などがこれである。(つづく)



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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地震の國(四)

今村明恒

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(例)よろ/\
*濁點付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   二四 役小角と津浪除け

 昔、村一番の物識りといへば、檀那寺の和尚さんにきまつてゐた。今は必ずしもさうではない。それでも外國では、今猶僧侶の中に偉大な學者、特に科學者がゐる。天文學や地震學の國際會議に、坊さんが牛耳を取つてゐるのを能く見受ける。
 天台宗の僧侶は好んで高山名岳に其の道場を建てる。隨つて往時に於ては、氣象・噴火・藥物等に關する物識りが彼等の仲間に多かつた。鳥海・阿蘇・霧島の古い時代の噴火記事は大抵彼等の手に成つたものである。
 役小角は恐らくは當時日本隨一の博物學者であつたらう。彼が呪術を能くしたといふことと、本邦の彼方此方に殘した事蹟と稱するものが、學理に合致するものであることから、さう想像される。
 史を按ずるに、役小角、或は行者といふ。大和の人、佛を好み、年三十二のとき、家を棄てて[#改行は底本のとおり]
 葛城山に入り、巖窟に居ること三十餘年、呪術を善くし、鬼神を使役すと稱せられた。
 文武天皇の時伊豆に流されたが、後赦されて入唐したといふ。
 此の行者が、一日陸中の國船越浦に現はれ、里人を集めて數々の不思議を示した後戒めて、「卿等の村は向ふの丘の上に建てよ。此の海濱に建てゝはならない。若し此の戒を守らなかつたら、忽ち災害が起るであらう。」といつた。行者の奇蹟に魅せられた里人は能く此の教を守り、爾來千二百年間敢て之に背くやうなことをしなかつた。
 そも/\三陸沿岸は、津浪襲來の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞觀十一年五月二十六日のは溺死千を以て數へられてゐるから、人口多い今日であつたら、幾萬を以て數ふべき程度であつたらう。慶長十六年十月二十八日のは、死者の數、伊達領の千七百八十三人に、南部津輕の分を加へて五千人に達したと云はれてゐる。これも今日であつたら幾萬といふ數に上つたに相違ない。明治二十九年六月十五日の津浪死人は二萬七千百二十二名の多數に及んだのであるから、之を以て三陸津浪の最大記録とする人もあるが、成程、損害の統計はさうでも、津波の破壞力は稍※[#二の字点][#一字不明]位にあつたと見るべきである。
 第三流の津浪として、史乘或は口碑に殘つてゐるものに、元和二年、延寶五年、元祿二年、安政三年等のものがある。近年になつて記録が整つて來たから、見懸上では、回數が一層増して來た。試みに最近五十年間、十尺以上の高さを以て押寄せた津浪を擧げて見ると、明治二十七年三月二十二日、同二十九年六月十五日、同三十年八月五日、それに昭和八年三月三日のものがある。若し二三尺或は四五尺に過ぎない程度のものまで拾つたら、更に幾十回の増加か計りきれないであらう。實に三陸の太平洋沿岸は、津浪襲來の常習地として、日本一は愚か、世界一なのである。
 斯くて三陸沿岸は、津浪に關して世界的名聲を博するに至つた次第であるが、それには二つの原因が數へられる。第一は遙かの沖合、深海床の邊りに於て、廣い區域の地形變動を伴ふ大規模の地震が時々發生すること、第二は、此の沿岸には漏斗なりの港灣が多く、而も其の開口を震源の方へ向けてゐるものが多いことである。
 三陸の太平洋沿岸は、津浪襲來の常習地として世界一であるが、併し斯樣な世界一は決して自慢にはならない。否、之に基づく災害を防止し得ないのが、寧ろ文明人としての恥辱である。それには、吾々の如き學徒にも責任はあるが、其の局に當る役人や、自衞の道を講じなかつた居住者も亦其の責任の一半を分つべきである。
 役小角は、三陸津浪の災害防止につき、殊勳者と目すべき人である。明治二十九年大津浪に於ては、其の高さが、船越灣では五十尺であつたに拘らず、船越村の或る部落では被害が比較的に輕かつた。昭和のときも同樣であつたが、過去の場合に於ても同樣に惠まれたことであらう。
 明治二十九年大津浪後、余は度々かの地に行脚したが、船越で上述の如き傳説を聞き、是こそ浪災防止上の最良手段であらうと考へた。成程、津浪の侵入を阻止する積極的手段としては、防浪堤を築くも良からう。併し四五十尺乃至百尺の水壁の侵入に對して果して有効な施設が出來るか否かは頗る疑はしい。假に可能としても、斯くまでして守らなければならない經濟的價値の有る場處は極めて少い筈である。他方、繁華な港は、大抵津浪の低い場處に發達してゐるから、條件が自ら違つて來る。防浪堤も築き易からうし、或は海岸に耐浪建築を並べるのも一法であらう。若し又、場處に餘裕があつたならば、浪勢を阻む爲に、防潮林を設けることも考慮しなければならぬ。併し浪高の殊に大きな處では、何と言つても、實行上最も容易で、而も最も安全を期せらるゝのは、船越式に村落を改造することである。實際津浪の暴威を奮ふ所は、唯僅に漏斗の底に當る彈丸黒子の地であるから、斯樣な位置を避ける位は容易であつて、而も問題がそれで全く解決するのである。但し運送業者や漁業者のやうに、海岸に事務所や倉庫や納屋等の建設を絶對に必要とするものもあらうが、それにしても、住宅は必ず津浪の魔手の屆かない位置に選ぶべきである。
 茲に、今一度明治二十九年大津浪後の三陸旅行を回顧して見る。
 當時、災後日猶淺く、交通は不便、復興は遲々。漸く一里に二三棟、三里に四五軒といふ状態で、泊り宿とても、十里に僅か一軒の商人宿を見出し得る位に過ぎなかつた。そんな中を漸く辿り着いたのが越喜來《をつきらい》の宿屋である。
 越喜來灣は、漏斗の口が比較的に狹く、隨つて北隣の吉濱灣、南隣の綾里灣に比べて、津浪の高さは半分にも及ばず、三四十尺に過ぎなかつたのであるが、併し、それでも二百戸程の一村を一呑にするには十分であつた。
 夕食後、余は遂に我慢しきれないで、主人夫婦に身の上話を聞かして呉れとせがんだ。實は主人が二十歳がらみにしか見えないのに、主婦は最早四十の坂を越えた人のやうに見えたのが變に感ぜられたからである。余が請に應じて、主人は淋し氣な笑を湛へて語り出した。
[#ここから1字下げ]
「私の家は村の網元でした。十一人の大家族に、多數の僕婢を使つて繁昌してゐました。丁度其の日は端午の節句であつた爲、内でも皆に祝酒を饗し、太平樂を歌つてゐましたが、午後七時半頃、長い大搖れの地震を感じてから凡そ三十分も經過したと思ふ頃、海上急に騷がしく、續く疾風急雨に雨戸が破れさうな氣配を感じましたから、私は直ぐ防禦に駈出しましたけれども、戸口まで行くか行かぬに戸は破れて、私はそこに打倒れたまゝ意識を失つて仕舞ひました。軈て正氣を取戻しかけると、第一に感じたのは、何とも言はうやうもない總身の痛み、次に意識したのは、片足を巨材に挾まれて、身體が逆に吊されてゐることです。最早夜半と見えて、あたりは靜まりかへり、唯幽かに溪水のせゝらぎが聞えるだけでした。そこで始めて前夜の出來事が津浪の所爲だとわかるにはわかつたのですが、何しろ總身の痛みに堪へかねて、一刻も早く死んで此の苦しみから遁れたいと念ずるばかりでありました。幸ひ翌朝始めて救出されましたが、其の節肉を殺がれた脛は此の通りです。」
[#ここで字下げ終わり]
と、大小不揃な兩脛を並べて見せるのであつた。
 彼は溜息を繼ぎながら附加へた。
[#ここから1字下げ]
「幸か不幸か、昨日の樂しい大家族の中、此の世に取殘されたものは私たつた一人です。」
[#ここで字下げ終わり]
 數奇な運命に弄ばれたのは、彼ばかりではなかつた。この主婦も、もとは幸多い家の人妻であつたが、最愛の夫や子女を盡く浪に浚はれて、此の世に取殘されたのは彼女一人であつた。唯幾分幸であつたのは、引潮の際竹藪に引懸つて、ひどい傷も負はずに濟んだことであつた。
 斯樣に、彼方に一人、此方に一人と取殘された男女幾組を、村役人が結びの神となつて組合せたのが、斯樣な家庭を形作つたのださうである。
 彼等は更に附加へた。「現在の家はこんな粗末なものですが、地所は慥に祖先傳來のものに相違ありません。浪に取殘された大きな立木や庭石が證據です。」と、これだけは得意氣に聞えた。
 身の上話はこれで終つたが、余はそれにすつかり打ちのめされて仕舞つた。舊物への日本人の強い執着は全く道理を超越してゐる。此の事は、後年、熔岩で埋められた櫻島の村民に於ても認められた。此の強い執着は、旅宿の主人夫婦を二度目の災厄に導いたかも知れない。最近の津波では、被害統計の第一報に、越喜來死者四十五名、行方不明八十六名、流失家屋二十と擧げられてゐる。(昭和八年四月)

   二五 防浪堤

 こゝにいふ防浪堤は、津浪除けの堤防といふ意味で、それは陸に設けたのもあり、海に設けたのもある。普通に謂ふ防波堤は風波を凌ぐ目的を達せられるのみで、大津浪に對しては、殆ど其の效果がないのみならず、却て有害な場合がないでもない。假に防波堤を津浪に有效にしようとすると、其の高さや幅をもつと増大する必要があり、費用が多くかゝる爲、之を實施することは餘程難事である。
 眞の津浪除けといふ意味の防浪堤は、さう多く有るものではない。余は唯其の二例を見聞したのみである。即ち其一は陸中吉濱村本郷の海岸にあるもの、今一つは紀州廣村の海岸に設けたものである。前者は明治二十九年大津浪後に設けられ、先般の津浪に於て、破壞されながらも幾分有效であつたことに依つて一時に有名となつたものであるが、後者は、安政元年大津浪直後、義人濱口梧陵に依つて築かれたものである。
 廣村は、和歌山市の南方凡そ七里の距離に在つて、湯淺町に接した海濱の一邑である。今は戸數僅に五百に過ぎないので、殷賑湯淺町に比ぶべくもないが、昔は湯淺千戸、廣千戸と稱し、却て湯淺を凌ぐことすらあつた位である。然るに慶長九年、寶永四年、安政元年の大津浪に依つて、廣村は毎度湯淺以上の大損害を受け、次第に衰微して遂に今日の状態になつたのだと謂はれてゐる。
 湯淺町の街衢は、概ね二米程度の高さにあるに拘らず、廣の村落は概して更に低く、加之、廣川の流域たる低地が其の背景をなしてゐるので、津浪災害豫防の見地からいへば、正に湯淺町に對する緩衝地區の役目をしてゐる。寶永安政の津浪に於て、湯淺に被害が少く、廣に却て多かつたのは理の當然であつた。但し過去に於てさうであつたから、今後に於てもさうであらうと考へるのは大きな誤謬でなければならぬ。何故といふに、廣の海岸には、安政浪災直後、「生ける神濱口梧陵」に依つて築かれた防浪堤が儼存してゐるからである。
 今假に、廣の海岸を北から眺めたとする。先づ氣附かれるのは、海岸線に平行に築かれた石垣の護岸であらう。何時の年代に造られたか不明であるが、高さ平均海水面から二米位あつて、一見頗る堅牢なやうに思はれる。次に之に接した黒松の防潮林が見える。此は、更に其の背後にある。この松林も防浪堤と同時に造られたもので、その松移植の當時、樹齡既に二三十年のものであつたさうだが、植附の方位は正確に移植前の方位を取らせるなど、梧陵の周密な注意に依つて一本も枯死したものは無く、その後能く繁つて今日のやうな密林となつたものだといふ。
 この防浪堤は、斷面が梯形で、上邊二・五米乃至三米、下邊一七乃至一七・四米、平地からの高さ三乃至三・四米(平均海水面上凡そ四・五米)、延長六五二・三米に及んでゐる。上邊には人道を設け、上面と内側の斜面とには櫨樹が點々として植ゑてある。土質は砂礫を交へた粘土であるから、相當に固まつてはゐるが、併し悠久な自然の前には固い岩石でも次第に崩壞する習ひであるから、此の處、保護の手を加へる必要はある。防浪堤は外廓の防潮林と共に村有に屬し、隨つて右の點につき、遺憾はない筈だが、余が先年觀察した結果は必ずしもさうではなかつた。試みに一二を指摘して見る。
[#ここから2字下げ]
一 堤防の内側斜面が隣接居住者に依つて損傷されつゝあること。
二 堤防上の路面が、處々凸凹を生じ、低下しつゝあること。
三 横斷の人車道のために切通しを二ケ所に設けた爲、本來の防浪能力を多少弱めたこと。
[#ここで字下げ終わり]
此の切通しの一つ、中央寄りのものには、非常時に使用すべき鐵扉が設けてあるけれども、實用に適しない構造であつた。扉が内に向つて開くやうになつてゐるから、津浪の場合には其の侵入に逆つて之を鎖さなければならぬ。試みに之を動かさうとして見たが、吾々二人の力では駄目であつた。宜しく扉を反對に外方へ向つて開くやうにし、且つ合せ目に於て確實に止まるやうな施設をなすべきである。即ち津浪侵入のとき、自動的に密閉し、引潮の際内部の水を自動的に放出し得るやうにすべきである。
 今一つの切通しは南西端に近く設けてあるが、此は耐久中學校々庭に於て擧げられた梧陵告別式參列者の便宜を計つて假設したのが、其のまゝになつてゐるのださうである。故人の靈に對しても、速に善後の處置を講ずべきである。
 要するに、廣の防浪堤は、現況のまゝでも相當な價値を有するものではあるが、更に其の完璧たるを期する爲にも、或は浪災豫防上の模範的施設たる爲にも、將た又、寄附者の篤行を表彰する爲にも、永久に之を保存する方法を講ずべきである。單に一村に委ねただけでは不完全たるを免れぬ。宜しく國に於て之を爲すべきである。
[#ここから1字下げ]
 以上は昭和八年夏季所見の結果に基づいて草したものである。
 その後、鐵の扉は直ちに改修された。防浪堤並に梧陵の墓所は文部省から史蹟として指定された。梧陵祭は毎年十二月五日に營まれる。總て滿足すべき状態に向つてゐると謂はねばならぬ。(昭和十六年一月)
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   二六 「稻むらの火」の教方に就て

 はしがき[#「はしがき」は見出し] 尋常小學第五學年用國語讀本卷十第十課に「稻むらの火」といふ文が載せてある。日沒前後の二三時間内に起つた事件を其の推移のまゝに簡潔に綴つた叙事文であるが、其の内容は、五兵衞といふ老人が自己の財産を犧牲にして四百人の村民の生命を救つたといふ感銘すべき物語である。事倉卒に屬し、村と村人とは將に大津浪に一呑にされようとする危險が目睫に迫つてゐるのに、彼等は之を氣づかずにゐる。他の方法では救はれない。彼は斷然決意して、自家の稻叢に放火したのである。山寺は早鐘を撞く。先づ駈けつけたのが壯丁で、之に續くは老幼婦女子。人々は氣ちがひじみた莊屋の行動と、海面とを見較べ、事の推移に依つて始めて眞相を掴むことが出來、期せずして老人の前に跪き彼を拜んだのであつた。此の間五兵衞の終始緊張した氣分は其のまゝ紙面に躍出で、一言半句の緩みなく描き出されてゐる。一面には文學的價値の高い作品であり、他方志士仁人は身を殺しても仁を成すこともあるを教へる一大文章だと謂はねばならぬ。
 此の一篇は、單に上記の二特色を注意して講ずるだけでも教科としての價値は十分であらう。併しながら、若しそれに添へるに、此の物語の出典と實話とを以てしたならば、効果は更に倍※[#「くさかんむり/徙」、第4水準2-86-65]すべく、教方の如何によつては、兒童をして終生忘れ難い感銘を覺えしめることも不可能ではあるまい。
 我が震災豫防評議會は、此の點につき多大な關心を持ち、本教科の教方の實況を、曾て津浪に惱まされたことのある地方に就て調べて見たが、其の結果は餘り思はしくなかつた。即ち最初に記した二特色を無視するやうなものは皆無であつたとはいへ、後に擧げた二點即ち物語の出典と實話とを加味するやうな教方は、吾々の乏しい經驗に關する限り、遂に殆ど之に接することが出來なかつた。
 これは寧ろ當然のことかも知れぬ。といふのは、教師方の身邊に近く適當な參考書がないからのことである。但し所謂參考書なるものが絶對に無かつた譯ではない。或る小學校には馬淵冷佐氏著尋常科用小學讀方教育書が備附けてあつた。恐らく國語教育學會編小學國語讀本綜合研究のある學校もあるであらう。唯吾々はそれを能く利用して居られる方に接觸しなかつただけである。
 斯ういふ事情の下に於て震災豫防評議會が執つた手段は、會自身で然るべき小册子を作り、之を要所に頒布しようではないかといふことであつた。さうして余は其の小册子の原稿作成方を命ぜられたのである。
 原文並に其の註[#「原文並に其の註」は見出し] 順序として先づ原文を掲げる。蛇足とは思つたが、隨處に若干の字句の註釋(括弧内)を加へて置いた。
「これは、たゞ事でない。」
とつぶやきながら、五兵衞は家から出て來た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長くゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴り(大地を傳はつて來る音、此の音は一旦空氣に傳はつてから人に感じる)とは、老いた五兵衞に、今まで經驗したことのない無氣味なものであつた。
 五兵衞は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した(家が臺地にあることが、説明を加へずしてよくわかる)。村では豊年を祝ふよひ祭(宵祭、夜宮又は宵宮ともいふ。本祭の前夜の祭)の仕度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衞の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた(目を動かさずに、じいつと視つめたことを強く言つたのである)。風とは反對に波が沖へ/\と動いて、見る/\海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現はれて來た(斯樣な海水の異常干退は津浪の先驅なので、風向とは無關係なものである)。
「大變だ、津浪がやつてくるに違ひない。」と、五兵衞は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命(四百は村民の人口に當る。)が村もろ共(村と人命と共に全部)一のみ(一呑)にやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出來ない。
「よし。」
と叫んで(僅か二字、斷然たる決意の強さが表現されてゐる)、家にかけ込んだ五兵衞は、大きな松明を持つて飛出して來た。そこには、取入れるばかりになつてゐる(稻から實をこき取つて倉の中に取入れるばかりになつてゐる)たくさんの稻束(いなつか)が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衞は、いきなり其の稻むら(いなむら、稻束を積重ねたもの、通常丸小屋の形に積む)の一つに火を移した。風にあふられて(アオられてと發音する)、火の手(火の燃えあがつて立つ炎)がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衞は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稻むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
 日はすでに沒して、あたりがだん/\薄暗くなつて來た。稻むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した(釣鐘を急調子で撞き始めた。火災などの時の鐘の撞きかたである)。
「火事だ、莊屋さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
 高臺から見下してゐる五兵衞の目には、それが蟻の歩みのやうに(誇張法を用ひて書いたもの)もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて來た。彼等はすぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衞は大聲に言つた。
「うつちやつておけ………大變だ(危急の際だ、悠長に説明なんかしては居られぬ、譯があるのだ、消すな、消すなといふやうな意味が、此の二句で叫び出されてゐる)、村中の人に來てもらふんだ。」
 村中の人は、追々集つて來た。五兵衞は、後から後から上つて來る老幼男女を一人々々數へた。集つて來た人々は、もえてゐる稻むらと五兵衞の顏とを、代る/″\見くらべた。
 其の時、五兵衞は力一ぱいの聲で叫んだ。
「見ろ、やつて來たぞ。」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衞の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い(細く暗いと一つに纒めるよりも、細い、暗い、と離す方がはつきり印象づけられる言ひ方)、一筋の線が見えた。其の線は見る/\太くなつた。廣くなつた(此處にも同じ筆法が用ひてある)。非常な速さで押寄せて來た。
「津浪だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて(伸びあがつて、おつかぶさるやうにやつてくること)來たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して來た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
 人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た(波といはずに海といつたのは自然に適つてゐる。地震津浪は海が陸地への移動なのである。怒濤といへば風津浪の特色になるので、地震津浪には言はぬ)。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村(ゑぐり取られたとある爲に、目を遮る何物もないのとは違つて、處々に大きな樹木など立つたまゝ取殘されてゐさうに感じられる)を、たゞあきれて(ひどく驚いて、ものも言へずに)見下してゐた。
 稻むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした(今一度稻むらの火を呼び起こし、村民の心に活を入れたので、併せて讀者にもほつとさせる)。始めて我にかへつた村人(今まで夢中であつたことが知られる)は、此の火によつて救はれたのだと氣がつくと、無言のまゝ五兵衞の前にひざまづいてしまつた(跪いたのは崇敬の極致)。
 出典[#「出典」は見出し] 「稻むらの火」は小泉八雲の撰んだ「生ける神」の拔萃である。此の「生ける神」には後日、村民が五兵衞を敬慕の餘り、當時猶ほ生存してゐた彼を、神として祀つたことまで語られてゐるのであるが、國語讀本は此の後の部分を省略した爲、本篇の通りに改題せざるを得なくなつたのであらう。
 小泉八雲とは世界的文豪ラフカヂオ・ハーン(Lafcadio Hearn)のことである。ハーンは日本を愛し、日本のローマンスを愛し、大和民族の美しきかずかずの物語を綴る爲に、殆ど其の一生を之に捧げた人、此の點に於てハーンは我が日本の恩人である。彼の父は愛蘭人である。彼は母の生國希臘に生れ、英佛で學んで北米に遊び、後日本に移住して日本婦人を娶り、歸化して名を小泉八雲と改め、日本を謳へる文學界の第一人者として其の名聲を世界に馳せた後、遂に日本の土となつて逝いたのである。彼が西紀一八九七年に著はした「佛陀の畑の落穗拾ひ」(Gleanings in Buddha-Fields)の冒頭に現はれて來る文章「生ける神」(A Living God)は即ち本篇に取扱つてゐる「稻むらの火」の全文である。
 ハーンの此の「生ける神」といふ物語は、安政元年十一月五日紀州沿岸に襲來した大津浪に際し、濱口儀兵衞が村民を救ふ爲に獻身的に努力した實話に基づいたものであるが、物語と實話との間には多少の相違がある。此の話が次々に傳はる間に次第に事實を遠ざかつて行く關係にも基因したであらうが、著者が自己の作品を一層藝術的ならしめる爲に故らに事實を誇張したり、或は歪めたりしたことが全然無いとは言へない。例へば「生ける神」の方に有つて「稻むらの火」には現はれない事項の中に、事件を百餘年前(實際は出版年次一八九七年を遡ること四三年)としたるが如き、又村民が生ける五兵衞を神として祀つた(神社建立の企あるを聞いて、儀兵衞は其の實行を中止せしめた)が如き、是れである。其の他「稻むらの火」に就て、事實と遠ざかつた部分を摘録して見ると、次の諸點が擧げられる。
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 一 五兵衞といふ人物につき、濱口といふ姓は「生ける神」の方にも正しく出てゐるが、五兵衞は儀兵衞でなければならぬ。濱口家は土地の豪族ではあるが、莊屋ではなく、又老人となつてゐるけれども、當時儀兵衞は三十五歳の働き盛りであつた。
 二 物語内の地震は別に烈しいといふ程のものにはなつてゐないけれども、實際は相當に烈しくて界隈に潰れ家も生じた位であつた。
 三 五兵衞の家は臺地にあることになつてゐるけれども、實際は低い平地の聚落の中にあつた。
 四 村の人口は四百ではなく一千四百であつて、一層精確に言へば一千三百二十三であつた。
 五 稻叢に放火したのは事實だが、稻叢の場處や所有者と放火の動機とが相違してゐる。
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 特に實を採つた後の藁だけの稻叢であつたらしい。
 斯樣な詮議立をすると、作品の價値に對して疑惑を起す人があるかも知れぬ。併し物語の文學的價値は、事實とはさ程の關係は無いものであつて、寧ろ事實を多少歪めた爲に其の價値を高めた節があるともいへよう。或は又、五兵衞の崇高な行爲に對する尊敬の念が薄らぐやうに懸念する人があるかも知れぬが、併し事實は物語よりも更に奇なる點があり、儀兵衞の實際の行動は一層崇高で、英雄的で、獻身的で、波瀾に富んでゐる。之を要するに、ハーンは儀兵衞の偉大さの片鱗しか傳へなかつたと言へる。實話の一讀を要する所以である。
 實話其一・安政津浪[#「實話其一・安政津浪」は見出し] 安政年間、我國は五回の大地震に見舞はれた。其の中、最初の三回は本物語の舞臺である紀州有田郡廣村に於ても大地震として感じた。第一は安政元年六月十五日の伊賀・伊勢・大和大地震、第二は同年十一月四日東海道沖大地震津浪、第三は同十一月五日南海道沖大地震津浪である。斯くて此の第三の大津浪は、廣村に取り、必ずしも不意打ではなかつたのである。
 元來、津浪には地震津浪と風津浪との區別があり、別に、支那錢塘江等の川口に於て大潮の頃に起る海嘯といふのもある。
 風津浪は或は高潮ともいひ、之に對して地震津浪を單に津浪とも呼んでゐる。兩つながら、海水が陸上に漲り溢れる點に於ては同じであるが、其の原因と海水漲溢の緩急・大小とに於て著しい相違がある。津浪は主に海底に於ける大規模の地變に基づき、高潮は著しい氣壓低下や風力等の氣象異常に因て起る。高潮の場合には浸水の高さは平水上數米に過ぎないが、津浪の場合は數十米に達することもある。高潮は低氣壓の中心の移動に伴つて増水し、其の通過後次第に減水する關係上、海水の漲溢は概して一回に止まり、潮の差引も比較的に緩慢であるが、津浪は海水の一體としての振動なる爲、潮の差引は稍※[#二の字点]急に且つ幾度も繰返され、其の週期は數十分或は一二時間にも達することがある。
 津浪の高さは外洋では餘り大きくなく、僅に數米に過ぎないけれども、淺海に近づくに從ひ、又漏斗形の港灣に侵入するとき、高さは次第に増大して、其の數倍又は數十倍になるのである。津波或は津浪と呼ばれる所以である。
 安政元年十一月、南海道沿岸を襲つた津浪は、發生の場處が潮岬や、室戸岬の沖合百粁内外の邊にあつたのである。地震津浪の特徴として、先づ其處の洋底の廣い區域に上下變動が起つたのであらう。それが一方では大地震となつて一二分間で陸地に波及し、他方、其の區域の直上に於て海水面の狂ひが起つて、それが津浪として數十分乃至一二時間かゝつて海岸に押寄せたと解される。斯樣な場合の地震の性質としては陸上では、稍※[#二の字点]緩慢な大搖れとなり、比較的長く續く特徴を具へてゐる。此の時、廣村では瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ(梧陵手記)たといひ、其の南東方約四十粁にある田邊町では全町の三分の一程潰れ、大火災を起した。
 廣村では大地震を感じたのが午後五時頃であつて、それから津浪の襲來するまでに凡そ一時間はかゝつたらう。其の間に、沖の方に遠雷か或は巨砲を連發するやうな響を聞くこと數回(此中には最初の地震に伴つて生じた音があるかも知れぬが、寧ろ全部が、陸地或は淺瀬に來た津浪の破浪に因つて生じた音であると解したい)。さうして往々經驗される通り海水の小干退が始まつたかも知れぬが、併しそれは確認されてゐない。但し、「生ける神」には其の事が書かれてゐること上記の通りであるが、此はハーンが明治二十九年三陸大津浪によつて其の示唆を得たものらしい。凡て此の事に限らず、津浪の大きさに比べて、地震の輕かつたこと、或は「生ける神」の津浪記事を全卷の冒頭に掲げた動機など、著書上梓の直前に起つた此の三陸大慘事に絲を引いてゐるやうに思はれる。
 斯くして時を移さず(數分乃至十數分の後)、本格的の津浪襲來となつたのであるが、此の時、廣村では第二番(田邊では第三番)の浪が最も高く、俗稱一本松の根元まで來たと言はれてゐるから「平水上約八米の高さにまで上つたことになる(寶永年度の津浪は同十四米の高さまで上つた)。恐らく海岸では五米乃至六米の高さであつたらう。尚ほ三番浪も二番浪に劣らず大きく、五番浪も稍※[#二の字点]大きかつたと言はれてゐる。
 廣村に於ける寶永及び安政の津浪の損害は次の通りであつた。
 寶永年度、戸數八百五十の中七百流失、百五十破損。土藏九十中七十流失、二十破損。船十二橋三流失。死者男女百九十二人。
 安政年度 戸數三百三十九の中百二十五流失、全潰十、半潰四十六、汐込大小破損百五十八。人口一千三百二十三の内死者三十人。船十三橋三流失。
 實話其二・儀兵衞の活躍[#「實話其二・儀兵衞の活躍」は見出し] 醤油最上山サ(※[#図版、「屋号、ヤマサ」])號を以て名高い銚子の濱口家は、南紀廣村の豪族である。初代儀兵衞元祿年間銚子に出店して醤油釀造業を創め、爾來歴代の努力に依つて其の名聲を高め、或は海内一を以て稱せられるに至つた。物語の主人公たる五兵衞は實に七代目儀兵衞に當り、晩年梧陵と號した偉人である。
 梧陵六十六年生涯は義勇奉公の繪卷物であり、世務公益開廣の歴史である。特に安政大津浪に對する彼の文字通りの獻身的奉仕は、實に感銘に堪へないものがある。彼は當時三十五歳、偶※[#二の字点]歸省中に此の難に遭つたのである。此の時、彼は村人を逃す爲に活躍して唯一人最後まで危地に踏止まり、將に其の犧牲とならんとして、辛うじて江上川を躍越えて奇蹟的に助かつたのであるが、山裾をつたつて村人の避難所たる八幡の丘に辿りつき、人數の不足を確めるや否や、奮然、壯者十數名(彼は豫ねて義勇奉公を誓ひ合つた村の青年達を指導して崇義團といふのを組織してゐた)を率ゐて人命救助の爲に再び虎穴に入つたのである。時に日は全く暮れてゐたから、壯者には手に手に松明を携へしめた所、之を目標に這上つて來た遭難者が數多くあつた、彼は之に力を得て、何の躊躇もなく路傍の稻叢(俗稱すゝき)十數基に火をつけさせた。ぱつと燃上がつた火に依つて更に幾多の人命(實數男女九名)が救はれたのは言ふまでもない。斯くて救へるだけは救つたと見て、一本松の邊まで引取つてみると、第二の津浪が押寄せて來て、燃盛つてゐる稻叢まで流して仕舞つた。
 これで人命救助の序幕第一場は終つたのであるが、之に續く第二場第三場があつた。寶藏寺に交渉して當夜の焚出しをしたこと、更に深夜、隣村たる中野村の里正の家を叩いて、年貢米に充てゝあつた米五十石(或は十數石ともいふ)を借出して(里正が年貢米の故を以て斷ると、全責任は此の濱口が負ふと稱して)數日間千四百口を糊したこと是れである。
 村民救助の第二幕は翌朝から幾週間か續いた。即ち彼は、悲觀のどん底に落ちた村民を皷舞激勵して、村の復興に努めしめたのである。先づ同族有福者を語らつて寄附を募り、自身は率先範を示して米二百俵を寄附したのを手初めに、村役人を鞭韃して流氓の整理と治安の維持とに當らしめ、自力を以て藁葺の假小屋を建設すること五十棟、其の他失業者へ農具、漁船、漁具、商人へ小資本等を給與するなど、連日、寢食を忘れて活躍したのであつた。
 第三幕は津浪除け堤防の建設である。これには三つの偉大な目的が含まれてゐた。其一は、言ふまでもなく、村を未來永劫津浪の災厄から免れしめる爲め、其二は、村民がこれまでの恩惠に慣れて、動もすれば他力に依頼しようとする風が生じたので、此の緩み勝ちな民心を緊張せしめて、勤勉自肅の良風を作る爲、其三は、これまで重税に惱んだ土地を以後堤防の敷地として重斂を免れしめる爲であつて、三つながら相當な成果を收めたのである。尤も、之が爲に彼が拂つた代償は並大抵ではなかつた。彼が藩に提出した防浪堤建設許可願に「右工費は乍恐私如何樣にも勘辯仕り、已來萬一洪浪御座候ても人命は勿論、田宅器財無恙凌ぎ候見留の主法相立候上にて人心安堵爲致……」としてあり、さうして彼が支出した工費は銀九十四貫三百四十四匁の多額に上り、今日なら十萬圓乃至二十萬圓に相當する工事である。防浪堤の延長六百五十二米、高さ三乃至三・四米、平均海水面上約四・五米。幅底面十七米、上面二・五乃至三米、更に外側には樹齡二十年乃至三十年の松樹を二列に植ゑて防潮林とし、上面と内側とには櫨を植ゑつけた。工を起したのが安政二年二月、竣工したのが同五年十二月。斯く長い期日を要したのは、村の窮民へ授職の意味があつた爲であつて、日々使役する老幼男女の數幾百人、延人員計五萬六千七百三十六人、重に農閑の季節を選んで工を進め、勞銀は其日其日に給したから、村民も自ら勤勉ならざるを得なくなつた次第である。
 安政大津浪に際し、村民救濟の爲、梧陵が獻身的に活躍した事蹟を斯樣に檢討して見ると、前に述べた「事實は物語よりも更に奇なる點があり、儀兵衞の實際の行動は一層崇高で、英雄的で獻身的であつた」といふのが、過褒ではないと了得されるであらう。
 實話其三・其の後の梧陵と村民[#「實話其三・其の後の梧陵と村民」は見出し] 梧陵が村並に村民の爲に盡力したことは以上で盡された譯ではない。廣村の橋梁架設、青年子弟の教育等、此のやうな册子には盡し難いものがある。代官から藩への具状書には、合計凡そ銀二百八十貫救合し、其の外に吹聽せぬものも多き旨を述べてゐる。
 以上は梧陵の安政大津浪に關する活躍振りの一端を叙したに過ぎないが、茲に彼の人柄をも瞥見して置きたい。上記具状書に「當時身上宜敷候得共、儀兵衞儀は家宅衣服共諸事質素にて、篤實なる上に慈悲深く、兼て困窮之者共を救ひ遣し候に付、自然同村之者共都て尊敬致し候由」とあるので、村人が彼を神佛のやうに崇敬したのも偶然ではないことが首肯かれる。事件の翌年、彼等は神社濱口大明神を建立しようと議を纒め、材木まで調へて建設に取掛つた處を、梧陵が聞きつけて、村人に「我等儀社にも佛にも成りたき了簡にては決して無之、唯此度の大難救濟、併せて村への奉仕は藩公への忠勤とも成ることと心得たまでの事、神社建立のことは藩公へも恐れあり、斯くては今後村や村民の世話は出來難くなる」と説得したので、神社建立は中止となつたが、併し純眞な村人はそれで引下つたのではない。終に彼の承諾を得て、爾來彼を大明神樣と呼ぶことにした。成程、形の上では神社建立は中止になつたけれども、精神的には濱口大明神が村民の腦裡に立派に築き上げられたのであつた。
 濱口梧陵は其後に於ても幾多の輝かしい事績を殘し(和歌山藩の要職、中央政府の驛遞頭などに歴任した)、明治十八年四月二十一日享年六十六歳を以て紐育で客死した。遺骸は嚴重に防腐して鐵棺に收め、郷里廣村先塋の傍に葬られた。彼は代官具状書の推奬により、安政三年十二月二十日、藩主から獨禮格(單獨拜謁の資格)の優遇を蒙り、歿後三十年に當る大正四年には朝廷から從五位の御贈位を忝うし、更に二十三年後即ち昭和十三年には、梧陵の墓所並に彼が生前心血を濺いだ防浪堤は史蹟として文部省から指定せられた。斯樣に由緒新たな墓所が史蹟として指定されたことは、外には類例が無いさうである。
 實話其四・外人の梧陵崇拜[#「實話其四・外人の梧陵崇拜」は見出し] 最後に外人の梧陵崇拜に關する一幕を加へて、梧陵劇の大詰としたい。
 梧陵の末子濱口擔氏が英國劍橋大學に留學中のこと、在倫敦の日本協會に招かれて、日本の女性と題する講演を試みたことがある。時は一九〇三年五月十三日、「佛陀の畑の落穗拾ひ」が出版されてから六年後のことである。
 此日、婦人の聽講者が殊に多かつた。講演は喝采裡に終り、質問討議も一巡して、座長アーサー・デオシー氏が將に閉會を宣しようとする刹那、後列の一婦人から意外な質問が提出された。婦人名はステラ・ラ・ロレツ孃。彼女が徐に語り出すを聞くに、
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「私は今日の御講演に對して何等質問討議する能力を有たないものであります。さうして皆樣が此の耳新しい日本の女性といふ問題につき感興しておいでの間、私は別に今一つの問題に捉はれて胸一杯であつたのであります。併しそれは日本の女性と直接の關係がない爲、皆樣の御質問御討議の終るのをお待ちしてゐたのであります。」
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と句切りながら、今度は聽衆一同へ向き直つて
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「皆樣はハーンの『佛陀の畑の落穗拾ひ』の第一課に『生ける神』の美談があつたことを御記憶だらうと思ひます。其れは今から百餘年程前に紀州沿岸に大津浪が襲來したとき、身を以て村民を救つたといふ濱口五兵衞の事蹟を物語つたものであります。爾來、私は五兵衞の仁勇に推服すること多年、一日として五兵衞の名を忘れたことはありません。現に私の家に藏してゐる一幅のペン畫の中に畫かれた日本兒童を小濱口と名づけて之を愛好してゐる位であります。」
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 此時、若し彼女が、自分の質問の價値の重大さを知つてゐたなら、次のやうなことまで附加へたに相違ない。即ち「平生私は、私の心に定めた世界的聖人の目録を作つてゐます。其中には基督教徒もあり、佛教徒も、回教徒もあります。又其中には、文明人と自稱してゐる人々が野蠻人と目してゐる族に屬するものもあります。併し私の信じてゐる聖人は、唯今の御講演にも述べらた[#「述べらた」は底本のまま]通り、何れも美しい徳を以てゐることに共通な點があるのでありまして、卑近な譬ではありますが、世界各國最高貨幣の鑄型は一々違つてゐても、其の實質が黄金である點に於ては相一致してゐるやうなものであります。さうして此の聖人目録中、濱口五兵衞は私の最も頌揚したい一人であります。私は若し他日、日本觀光の機會でもありましたなら、其の濱口神社に參詣したい位に思つてゐるものであります」……(擔氏に宛てたロレツ孃の書簡から抄出。)
 ロレツ孃は更に語りつゞける。
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「斯くまで濱口の名に憧れてゐるのですもの、今日の講演者の濱口といふ名前に感興を催さずには居られません。講演者の濱口さんと私の崇拜してゐる濱口五兵衞との間に何の關係もないのでせうか、是非それを伺はせて下さい。」
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と言ひ終つて着席すると、衆目は期せずして壇上の講演者に集まつた。と見ると、擔氏は激越な感動に捉はれて、うなだれたまま一言も發することが出來なかつた。已むを得ず、司會者が彼に近づいて事由を問ひつ、質しつ、之を綴り合せて會場に報告するや、拍手と歡呼とは一時に百雷の轟くやうに場内を壓倒して仕舞つた。斯樣な感動を與へた場面は日本協會に於ては空前であつたが、恐らく絶後かも知れぬと言はれてゐる。
 ロレツ孃は尋いで擔氏から詳細な眞相を聽取して、事實は物語よりも更に神祕的であり、行爲は更に崇高であつて、彼女が五兵衞景仰の念は一層深まる許りであつた旨を語つてゐる。事實は物語以上だとの吾々の斷案は果して獨斷ではなかつたのである。

   二七 三陸津浪の原因爭ひ

 地震津浪即ち大規模の海底地震に伴つて起る津浪は、主として海底の廣範圍に亙る地殼變形に因つて起されるとの説は、今日でこそ異議者も少く、強力な反對説は無いやうであるが、余が明治三十二年、かの三陸津浪取調報告として、此の説を提唱したときには、猛烈な反撃を被つたものである。勿論余が説は、三陸津浪原因に關する伊木博士の海底火山説、巨智部博士のタスカロラ崖崩れ説に對して立てたのであるから、論難駁撃は豫期してゐたけれども、大森博士が液體振子説を堤げて起ち、而も余が説の根據たる「海底の廣範圍に亙る地殼變形」を以て、無理な、不自然な假定であると指摘した爲、學界は之に風靡し、其の後出版された地理學の教科書にまで液體振子説が幅を利かしてゐた。
 大森博士の液體振子説は、其の根據が、遠地大地震に起因する河水や湖水の氾濫にあつたらしい。特に一八九七年アッサム地震に於て、ブラマプートラ及びスルマの兩大河が氾濫した事實を博士自身が調査したことは、液體振子説の樹立に對して、最も力強い根據となつたのである。
 本多・寺田兩博士其の他に依つて、我國に於ける各港灣の潮汐副振動が調査されたのは、明治三十七年乃至三十九年のことであるが、其の結果が公表されたのは明治四十一年であつた。之に依つて、港灣に於ては平日から定常振動のあることと、此の振動の週期が港灣の大さ、深さ、形状等に依つて算出され得ることとが明かになり、特に此の週期と當港灣の津浪週期とが多くの場合相一致するといふ大森博士の所説を裏書した爲、大森博士の津浪原因説左袒者の中には、大森説に新らしい根據が加へられたやうに感じた人もあつた。
 實際、當時に於ては、地震に伴ふ地殼變形に關する知識が皆無であつた。大森博士が余の説の根據を薄弱だと斷じたのも無理ではなかつた。然るに陸地測量部では、明治二十四年濃尾地震に伴へる地盤の垂直變動を檢測する爲、震源地を中心として方四十里程の區域内にある精密水準線路の再測を行ひ、明治三十二年實測を終り、越えて三十六年末に至つて其の成果を發表したが、これが幸ひにも、余の提唱した津浪原因説に對して確實な根據を與へて呉れたのであつた。但し余が該報告書を始めて披閲する機會を得たのは、明治三十八年のことである。
 余は、此の新らしい根據を得るや否や、再び起つて前説を繰返し、兼ねて大森説の弱點を衝いたのであつた。明治三十八年九月二十三日地學協會に於ける講演速記が地學雜誌二〇三號に載つてゐる。其の別刷數部が此頃筐底から現はれたが、同學の士の多い今日、此の小部數では致方がないから、已むを得ず茲に其の要點を抄録する。
 先づ緒言として、前の論文が要約してある。即ち地震津浪の原因は、地面の彈性的波動か、或は海底の地殼變形の孰れかであらうが、前者の説明は水力學的講究に讓り、余は、專ら後者に關する説明を試みるのであるといふ意味を前置し、さて、大洋底に於て廣袤二三十里、高さ數米にも及び變動が起つたら、大津浪を起すに十分であるとし、且つ其の變動が急速に起る場合は固より、假令それが數十秒或は數分時間を要しても、津浪の發生には差支ないことを論じたのである。
 此の海底の上下變動が比較的緩慢に起る場合に於ても、大津浪の發生を妨げないとの所論は、余が報文の大部分を占めてゐる爲、讀者に誤解を與へ、「かの三陸大津浪の原因は、數十秒乃至數分時間を要した程の緩慢な上下變動なり」と誤讀されたのであつた。其故に、該講演に於ては、特に此の點の辯明に力を盡したのである。
 明治二十九年津浪は絶大であつたが、地震は三陸沿岸に於ては單に緩慢な大搖れに過ぎなかつた。之に比較して、翌年八月五日の津浪は、輕微ではあつたが、之に伴つた地震は激しい大搖れであつた。余が最初の報告文は兩方の津浪を取扱つた爲、上記の差別が何に基因するかを説明する必要があつたのである。乃ち余は、津浪の大小を主として洋底上下變動の大小に從ふものとし、地震の激否を主として該變動の急不急に從ふものとしたのである。
 大森博士も誤解者の一人であつたから、余は率直に之を口述指摘した爲、博士は直ちに震災報告第三十四號附録に於て此の點を訂正せられた。そして博士の余が説に對する非難は次のやうに改められた。
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 一 洋底の廣區域に亙る上下變動といふ假定の根據が薄弱なこと。
 二 港灣の海水の振動につき、平時のものと津浪時のものとが相一致する事實を看過したこと。
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 併し、第一の非難は、濃尾大地震に伴つた陸地廣區域に亙る上下變動の實測結果に依つて、自然に解除されて仕舞つた。
 第二の非難に對しては、余も亦率直に之を認めた。固より灣港内の海水が液體振動をなすべきことを曾て否定したこともなかつたのであるが、併し此は單に二次的の現象に過ぎないといふのが余の主張であつた。そして三陸津浪に關する自説の妥當なことを次のやうに要約辯明したのである。
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 一 津波の發生が外洋にあつたとして、それが一旦港灣内に進入するや否や、灣内の海水に直ちに自己振動を起すであらうし、「港灣海水の平時並に津浪時に於ける振動週期の相一致する事實」は、今村説にも好都合であること。
 二 津浪の開始が、三陸沿岸の各港灣に於て、地震後五十分、四十分、三十分などと、距離の遠近に隨つて生じた時差は、大森説では解し難く、今村説に依て容易に解けること。
 三 定常振動の發生に好條件を有する袋形の港灣では津浪が頗る小さく、同じく不適當な漏斗形の港灣に於てはそれが却て遙に大きかつた事實も亦前と同樣に、今村説に有利であること。
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 斯くして、三陸大津浪の原因爭ひは、彼此十年間も續けられたのであつた。爾來幾十星霜、そして昭和八年三月三日に至つて、現地は復も大津浪の襲來を被つたのである。
 併し此度は、學術的研究のみならず、將來の災害を豫防する方案の作成に至るまで、殆ど間然する點がないまでに遂行された。地震研究所、中央氣象臺等から出版された報文は、何れも金玉の文字で、現今津浪に關する最も貴重な文献だと稱しても溢美ではあるまい。余の如き、津浪學の皆無時代を經驗したものに取つては、實に隔世の感がある。
 地震國日本が地震學國日本になつたとは、中村左衞門太郎博士の警句であるが、津浪國日本が津浪學國日本になつたと謂つても過言ではないやうに思はれる。

   二八 三陸沿岸の浪災復興

 三陸沿岸が、最近の津浪慘事を經驗してから最早三年を經過した。復興も見事に成就し、將來の災禍に對する豫防施設も相當に考慮を拂はれたことであらう。其の成行につき、震災豫防評議會は多大な關心を有ち、被害三縣に問合せを發し、又中村左衞門太郎博士並に余の兩評議員に實地視察を命じた。中村博士は宮城縣方面を、余は岩手縣方面を分擔することとし、青森縣の視察は省略されたが、問合せの回答に據れば、同縣では海岸に防潮林を造成することが、將來の浪災豫防施設の主要部をなしてゐるやうである。
 余は、沿岸地方四泊の日程を立てゝ、田老釜石間を見ることとし、あはよくば更に南下して唐丹本郷から小白濱邊までもと思つてゐた。さて行つて見ると、復興は豫期以上に進捗し、交通機關は年と共に發達したのみならず、縣當局では、多大な便宜を與へられ、上野土木課長自らが東道の主となつて、難路とは愚か、道なき場處にまで車を進められたので、旅程が意外に捗り、豫期に幾倍する程に旅嚢を充たすことが出來た。實に田老・宮古・大澤・山田・船越・田ノ濱・吉里吉里《きりきり》・安渡《あんど》・大槌・兩石《りやういし》・釜石・嬉石《うれいし》・唐丹《たうに》本郷・小白濱・吉濱・越喜來・大船渡・綾里港赤崎・廣田泊・末《ま》崎細浦・高田松原・長部など、明治二十九年には二週間かゝり、昭和八年には一週間かゝつた旅程を、僅々四日間に、而も徹底的に見學し得たのは全く其の恩惠に由る所である。
 次に見聞の一端を記すことにする。
 復興金並に浪災豫防施設は、何れも豫想以上に能く出來て居り、又出來つゝあつた。凡て物事は理想の七割出來れば上乘だといふが、此の意味に於て、實に上乘の成績だと考へた。余は、昭和八年當時に於ては、浪災豫防の對象として、人命並に財産を不可分のものと考へてゐたが、其の後、心境の變化とでもいはうか、「已むを得ざれば、保護の目標を人命のみに止め、財産は犧牲とする覺悟を要する」といふ風に改めた。此は臺灣の土埆造建築物の震災や、大阪の如き大都市に於ける津浪災害の豫防策について到達した考へ方であるが、若し斯樣な心境變化なしに事物を直視したならば、今回の視察結果に於ては不滿を感じた點が多かつたに相違ない。併し事實がさうならなかつたのは、恐らく、余の觀祭眼が常規に近づいたことを意味するのであらう。
 高地移轉は稍※[#二の字点]立後れの箇所がないでもないが、併し概して能く出來上り、綾里港・唐丹本郷・吉里吉里・船越・田ノ濱・兩石等のは何れも理想的だと思つた。特に綾・唐・吉の三者には住宅地を貫通する縣道が新設或は改修されたには敬服した。就中綾里港の復興振りは賞歎に値する。新住宅地は、三所の中、西方高地海面上一三・二米の高さに設けたのが主要なものであつて、各戸五十坪として百七十五戸を收容するに足り、阜頭に達する自動車道路まで設けてある。嘗て比較的に安全な位置を占めてゐた小學校が、今日では、却て最も不安な場處に取殘されてゐるかの觀がある。其の他、殿見島と西岸との海面を防波堤で閉塞したことや、此處と合足《あつたり》とを繋ぐ縣道に於ける鐵筋コンクリート造棧橋の如きも特記すべきである。昭和八年には、毎度大船渡から發動機船で通ひ、全一日を費したが、今回は片道一時間を費すに過ぎなかつた。流石に高地移轉の烽火を揚げて復興の範を示しただけのことはある。余は感に堪へず、「此は余が理想以上だ」と賞歎したら青年達は「いゝえ、全く御指導の賜物です」と謙抑し、余が視察時間の短いのを本意無げにかこつのであつた。
 併しこゝに見逃し難い一事件がある。それは、綾里港以外にも處々氣附いたことであるが、移轉後の舊住宅地に他地方の人達が入込む傾向のあることである。此は所謂佛作つて魂を入れないといふよりも、佛作つて別魂を入れたやうなもので、後々にまで殘る一抹の不安である。
 吉濱の防浪堤は、二十九年浪災後に築いたのが今回の津浪によつて破壞されたことに鑑みて、一層堅固に、高く、且つ延長して改修された。住宅地は、前に十二米の高さに移されてゐたのが、今回更に三米高い後方に退き、縣道も其處を通るやう附替へられた。
 田老の防浪堤は、未完成ながら、是れ亦可いと思つた。田老川のみならず、長内川の川筋まで取入れて、右と左とに緩衝地區を設けたのには贊意を表する。この防浪堤は、落成の曉には、高さ約一四米になるのださうだから、二十九年津浪以下のものに對しては有効であらう。併し、嘗て其れ以上の津浪のあつたことを思つて、避難に關する施設をも加ふべきである。
 山田は、海岸を埋立て、前面に護岸を高く築いたから、これだけでも良くなつた譯だが、街衢防衞の爲、更に路面上三米の高さに防浪堤が築かれてゐる。大槌は、昭和十三年度には、防浪堤が出來るとのことであつた。
 以上の災害豫防施設には、凡て明治二十九年の津浪が基準に取られたから、軈て諸施設完備の曉には、それ以下の津浪に對しては、被害が著しく輕減すべき筈であるが、併し、三陸沿岸に於ては、其れ以上の津浪を經驗した實例のあることを忘れてはならぬ。慶長十六年のは明治二十九年の四割増しの高さで襲來した證跡がある。田老・山田・小谷鳥等の人々は能く之を言ひ傳へ、書き傳へてゐる。
 稀には、昭和八年津浪を基準としたのではないかと思はれるのもあつたが、之が若し余の誤解であつたならば幸である。
 釜石は、其の浪災豫防施設に就て、吾々が最大の關心を寄せた場處であつたが、昭和八年の浪災が比較的に輕かつた爲か、土地の人達の關心は却て薄いやうに思はれた。「明治二十九年津浪は、釜石では二十七尺に過ぎなかつたが、それでも人口の七割一分を溺れしめるに十分であつた。若しそれが三十五尺や四十尺にも達したらどうであらうか」とは余の所論の一節であるが、此の三十五尺や四十尺は必ずしも架空のものではなく、明治二十九年浪高の四割増しに近い數字である。
 余は、先頃此處に來たとき、山腹四所を開拓して八十戸分を得る計畫のあることを知つて、これでも無きには勝ると思つてゐた。然るに今度來て見ると、此の期待すら裏切られて仕舞つた。成程、多少開拓されたには相違ないが、澤村の右方のものには尾崎神社が移轉し、左方のものは避難道路に充てられたのである。併し、余は失望しなかつた。といふのは人命救護に關する施設少くも其の形態だけは整つたからである。前記の避難道路の如きは寧ろ避難用高地と稱すべく、現人口を一時收容し得る地積があるからである。
 津浪記念碑は各部落に建てられた。恐らく合計二百基に達するであらう。多くは石卷産の石盤材を用ひ、大抵玉垣を廻らした堂々たるものである。執れ[#「執れ」は底本のまま]も今後の津浪警戒に大切な役割を演じ得るやう二三の訓戒が刻んである。朝日新聞社の功徳亦大なりと謂ふべきである。
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 余は、昭和十四年に今一度三陸沿岸の行脚を試みた。復興並に浪災豫防施設は兩つながら略ぼ完成してゐる。防潮林の松樹は、三年前には、幼な過ぎはしないかと危ぶまれるものもあつたが、今は皆すく/\と成長してゐて、鬱蒼たる樹林の將來を思はせるに十分であつた。
 明治二十九年津浪のときは、罹災者には立直る氣力がなく、公の方にも手の屆かなかつた憾みが多分にあつたが、今回は官民共に眞劍に事に當り、吾々の如き學徒の意見をも能く聞き、能く用ひて呉れた。實に昭代の餘澤と稱すべく、軈て此の賜ものを謳歌する日も來るであらうが、併しそれは遠い/\子孫への贈物として置かう。
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   二九 土佐と津浪

 土佐は、過去に於て津浪の災害を被つた例が尠くない。地震津浪は固より、風津浪も亦度々襲來してゐる。
 試みに地震津浪の著明なものを拾つて見ると、次の四つがある。
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 一 天武天皇十二年十月十四日諸國大地震。土佐の田苑五十餘萬頃沒して海となり、津浪の爲に調船が多く失はれた。
 二 慶長九年十二月十六日南海東海兩道地震津浪。土佐に於ては東海岸に於ける状況だけがわかつてゐる。即ち溺死者の數が佐喜濱で五十、東寺西寺の浦々四百餘、甲浦三百五十餘、宍喰三千八百六で、野根では死者が無かつたといふのである。
 三 寶永四年十月四日大地震津浪。
 四 安政元年十一月五日大地震津浪。
此の兩者は五畿七道の大地震であり、津浪が東は關東から、西は南九州にまで及んだこと詳説するまでもあるまい。
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 土佐は風津浪に就ても其の記録に乏しくない。最も著名な例は最近の室戸颱風に由て起つたそれであるが、尚ほ去る明治三十二年八月二十八日にも著しいのがあつた。此の時は寧ろ風災の方が激しかつたのであるが、併し須崎高須等には浪災もあつた。奈半利に於ては洪浪三丈に及んだと記されてゐる。
 昭和九年室戸颱風に由る浪災は、上記數例中でも最も輕い部類に屬すべきものであつたが、それでも善後處置としては、防波堤の新設、住宅或は縣道筋の高所移轉、防潮林の造營等に鉅資が投ぜられた。誠に昭代の餘澤と稱すべきである。
 地震津浪の大且つ廣きは、風津浪の比ではないといふこと、これは寶永安政の經驗に見ても明かである。此の事は全國的に見ても、一國だけに就て言つても同じである。既に將來の風津浪の災害豫防に關して善政を布いた當局が、地震津浪の災害を等閑に附して置く筈はないと思ふ。此の見地に於て、茲に聊か寶永安政津浪の眞相を語ることにする。
 上記兩度の地震に於て、室戸半島が南東上りの傾動をなし、高知市の東に接する平地が沈下したことは嘗て論じた通りである。天武地震のとき陷沒地域は上記の沈下地區に相當し、寶永年度に現はれた浦内須崎兩灣の沿岸地方陷沒は、高岡郡の彼方此方に殘つてゐる傳説と連絡のあるべきことを指摘して置いた。
 併し、余がこゝに論じようといふのは津浪である。
 高知縣土木課に於ては、嘗て寶永安政津浪の陸地侵入圖を調製したことがある。此は、現地の熟知者に取つては津浪侵入の眞相を掴むに最も便利なものである。併し、地理に暗いものに對しては、寧ろ各所に於ける浪高を列擧する方が却て實際的である。
 津浪の高さの知識が、必要有効なものであることは言ふまでもないが、其れが記録されてゐる場合は極めて稀である。寶永津浪に於ては、種崎に於ける高さが七八丈であつたといふのが、余の知れる限り、唯一のものである。已むを得ないから、上記の津浪侵入區域圖に基づき、土地の傳説碑文等を參酌して、實測を試みることにした。
 計測用器械としては手提水準器を用ひ、浪高と平均海水面の高さとを比べるには附近に敷設してある陸地測量部の精密水準標を利用した。或は直接に海の汀線を利用したこともあり、又海水と交通してゐる池の水面を利用したこともある。孰れの場合に於ても誤差は一割以内の範圍に止まるであらう。但し此は計測上の誤差であつて、若し假定した津浪頂點に誤があつたならば、それは自ら別問題である。
 計測した場處は、順次に東から西へ、室戸町、安藝町、種崎、宇佐町、須崎町及び久禮町の六所であつた。其の結果を概説すれば次の通りである。
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 一 室戸町 海岸線は概ね直線をなし、地震と共に一米半に及ぶ陸地隆起が起つたから、津浪の發達には頗る不利な條件の下にあつた。
 寶永津浪については、耳崎より打入る潮に、湊の東、水尻といふ所の家流れるとあり、同處の舊家で、海水の到達した位置を口傳してゐるのがあるが、此の位置は寶永津浪直後の平均海水面上六・五米の高さに當つてある。
 安政津浪は遙に低く、現存してゐる海岸の或る岩礁の裾までしか來なかつたと云はれてゐるから、寶永度の二分の一の高さと見て大差ないであらう。
 二 安藝町 此處は、陸地の上下變動が微小であつたらしいが、海岸線は概ね直線をなしてゐるから、室戸町に次ぎ、津浪の發達に不利な條件を具へてゐる。
 此處では、某家所藏の寶永津浪舊記に、津浪の侵入した位置が確實に記されてゐる。幸に近くに精密水準標があるから、計測された五・六米といふ浪高には相當な信用を置いてよいと思ふ。
 三 種崎 地勢を按ずるに、土佐の太平洋岸は一大彎曲をなし、中央に近く浦戸灣があり、灣の防波堤をなすものが種崎半島である。此の半島は、概ね北東から南西へ向つて斗出した砂洲であつて、長さ約二千七百米幅五百米内外、標高は西南端に於て約三米であるが、北東へ向つて漸次に上り中央の北東寄りにある俗稱二本松に於て、約十米の高さになつてゐる。と見れば、海岸線は直線に近く、津浪の發達に不利のやうであるけれども、津浪の波長の頗る大きいところから考へて、寧ろ之を大きく觀て、ユー(U)字形をなす大灣の奧にあるとする方が、正しい見方であらう。乃ち津浪の發達に關して稍※[#二の字点]有利な條件を具へてゐる譯である。
 弘列筆記には「種崎の濱は死人最多し。浪入數度の中、初度目二度目は強からず、三度目の浪高さ七八丈ばかり、此浪に磯崎御殿不殘流失す。」とあり、又谷陵記に「種崎亡所、一草一木なし。南の海際に神母《おいげ》の小社殘る。誠に奇なり。溺死七百餘人、死骸海際に漂泊し、行客哀傷に不堪、且腐臭不可忍。」とある。此等の記事中、津浪の高さ七八丈といふは、どうして計測したか、又海面上僅に三米の高さに安置してあつた小祠が、どういふ作用で流出を免れたか、頗る興味ある問題である。
 種崎の西南端|御神母《おいげ》には現在貴船大明神の小祠があるが、所謂神母の小祠とは是れであらう。現在其の周圍には老樹、特に老松が亭々として立つてゐるから、津浪時に於ても亦さうであつたと假定してよいであらう。試みに一つの梢を覘つて路面からの高さを計つて見たら、二十八米程あつた。若し津浪當時に、等高の樹があつたならば、七八丈の高さの浪は、樹高の七合目邊に、其の痕跡を漂流物其の他に依つて殘す筈である。又社殿が、斯樣な樹木に依つて圍まれてゐる場合、浸水に浮上がつた小宇が、流れ去ることなく、退潮と共に舊處若しくはそれに近く復歸すべきは恠むに足らないであらう。
 安政の津浪は俗稱二本松の根元を浸す程度であつたと傳へられてゐる。浪高一一米位であつたのだらう。
 四 宇佐町 宇佐の街衢はU字形をなした小灣の奧に當つてゐる。
 寶永津浪のとき、潮は橋田の奧、宇佐坂の麓、萩谷口まで。在家の後の田丁へ先潮が廻つて通路を塞ぎ、四百餘人を溺死せしめたと云はれてゐる。宇佐坂の麓は海水面上一五・七米程に出て來た。同じ道路上に安政津浪の碑が立つてゐるが、其の位置は、津浪浸水線よりも約一米高い所に選定されたとあるから、浪高は八・五米であつたことになる。
 五 須崎 須崎灣は不規則な形状をしてゐるが、津浪發達の度合はU字形港灣に次ぎ、稍※[#二の字点]之に劣るものであらう。
 寶永津浪に關しては、舊記は次のやうに認めてゐる。即ち、「亡所。潮は山まで。池内村の池を近年新田とす。其の溝渠深さ二間、横二間許、當所故倉といふ處へ通る。初の地震に、橋落けるにより、湊より湧入る潮に、溺死するもの三百餘人。」と。
 安政津浪に就ては、「地震は激甚なりしが、西町、新町、濱町、原、古倉等の家屋は殆んど流失し、死者三十餘人。」としてある。
 池内村の池は一部分埋立てられたこと上記の通りであるが、其の殘りは現存してゐる。池水は海と相通じ、潮汐の干滿に伴つて多少の増減をなすけれども、概して平均海水面と等高にあるといへる。又此の池から西北約六百米の池田部落に小祠があるが、寶永津浪は此處の神田を浸したと云ひ、此の神田から津浪時の漂流物が近頃掘出されたとも云つてゐる。乃ち津浪は一二・六米の高さまで上つたといふことになる。
 安政津浪に就ては正確な資料を缺くけれども、高さ五米としたならば大差ないであらう。
 六 久禮 地形が概ねヴィー(V)字形をなして東に向つて開き、V字の頂角六〇度位、一邊三千五百米程あり、津浪の發達に關して最も有利な條件を具へてゐる。
 寶永津浪のときには、「潮は南方逢坂谷まで、中は常源寺の植松限、北は燒坂の麓まで、市井三分二海に沒し、死人二百餘名」としてあり、又安政津浪に於ては、海岸に接した集團部落大半流失し、多數の死人を出したやうであるが、五十人許は八幡社の丘に上つて難を免れたことになつてゐる。
 この八幡宮は、海岸に面した臺地の上に立つてゐる。寶永津浪のときには、社殿は全部流失したが、安政のときには、社殿に懸つた繪馬の釘の邊まで浸水して濟んだと傳へてゐるから、浪高は一二・一米であつたといふことになる。
 久禮の西北方燒坂方面への津浪侵入限界は、寶永安政共に比較的明瞭にわかつてゐる。實測の結果、それ/″\二五・七米及び一六・一米と出て來た。海岸に於ける數字よりも少しばかり大きく出て來たが、さもあるべきことである。
 上記の結果を一表に纒めると次の通りになる。
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津浪年度 室津 安藝 種崎 宇佐 須崎 久禮(海岸 内陸)
寶永 六・五米 五・六 二三 一五・七 一二・六 ―― 二五・七
安政 ―― ―― 一一 八・五 ―― 一二・一 一六・一

 高知縣土木課の調査は全縣下に及んでゐるのであるが、其中から僅に六所を選んだのは頗る貧弱であると謂はれるかも知れぬ。併し右の六所は、室津、安藝、須崎、宇佐、種崎、久禮の順序に於て、地形に因る津浪發達上、最も不利なものから最も有利なものに至り、殆んど總ての場合を網羅してゐるから、津浪の高さに關する全體の概念を得るには、甚だしい不足は感じない積りである。
 上記六例中、寶永安政共に浪高が計測された場合は三例に過ぎないが、此等を綜合して見ると、概して二對一の比を示すから、兩度の津浪中、其の高さが一方しかわからない場合でも、此の比率を以て他を推測しても、甚だしい誤には陷らないであらう。
 最後に、將來の地震津浪災害豫防に關して一言して置きたい。
 震災豫防評議會は、浪災豫防施設參考の爲、二篇の小册子を公にした。即ち「津浪災害豫防に關する注意事項」と「大都市に於ける津浪災害豫防に關する注意書」である。前者は、三陸沿岸の如き、津浪襲來の常習地たる港灣を對象とし、後者は、大阪市西部街衢の如き、廣漠たる平地を對象としたものであるが、土佐沿岸に於ける浪災豫防施設も、亦此等の書册に盡されてゐると稱してよい。例へば、避難道路の新設、住宅或は公共建造物の高所移轉、防浪堤、防潮林、緩衝地區、防浪地區等の設置の如き、參考に資すべきものが多々ある。勿論その中、災害豫防に關する常識の養成、警戒施設の完備の如き、官憲當局の責務と見るべきものもあるが、避難道路の如き、各町村各部落に於て、新設すべきものもある。
 浪災豫防に關する對策は、前記の通り、概ね右の二册子に盡されてゐるけれども、唯種崎の如き場處に對してのみ完全でない。此處は、寶永津浪の如く、浪高二十米を超えた場合もあり、安政津浪ですら十米以上に達したのだから、對策を單に人命保護の一點に集中しなければなるまいが、それすら容易な業ではないであらう。種崎部落の中心から完全な臺地までは、少くも二千米離れて居り、對岸浦戸へは百五十米しかないけれども、千五百人の居住者を早急の場合安全に渡すのは難事であらう。剩す一つの方法は、避難に充つべき耐浪大建築物を立てることであるが、これも實行容易ではあるまい。
 斯く檢討して見ると、種崎に限つて適當な對策は氣附かれないといふことになる。併し失望してはいけない。今一つ確實なる方法が殘されてゐる。外でもない。種崎人自身が自己の生命を護ることである。地震津浪の生きた知識を修得して、それに依つて自己を救ふことである。
 地震津浪の生きた知識とは何を曰ふか。津浪を伴ふ地震の特徴、地震と津浪との時差、津浪の接近に伴ふ號音、陸上及び海上に於ける合理的な避難方法等が是れである。(つづき)



※ 欠と缺、鼓と皷、着と著、台と臺と颱、岳と嶽、並と竝、効と效、余と餘、防波堤と防浪堤の混用は底本のとおり。
底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

  • [津軽] つがる (古くは清音) (1) 青森県(陸奥国)西半部の呼称。もと越の国または出羽に属した。(2) (「つがる」と書く)青森県西部、津軽平野の中央部・西部に位置する市。稲作やリンゴ・メロン・スイカの栽培が盛ん。人口4万。
  • [南部] なんぶ 南部氏の旧領地の通称。青森・岩手・秋田3県にまたがる。特に、盛岡をいう。
  • [陸中] りくちゅう 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。大部分は今の岩手県、一部は秋田県に属する。
  • 三陸海岸 さんりく かいがん 青森県八戸市の鮫崎から宮城県牡鹿半島南端までの海岸。宮古市以北は断層海岸が多く、以南はリアス海岸が発達。中部は陸中海岸国立公園に含まれる。良港が多いが、津波の災害をしばしば受ける。
  • [田老町]
  • 田老 たろう 現、下閉伊郡田老町。
  • 田老川 たろうがわ
  • 長内川 おさないがわ 現、田老町。
  • [宮古市]
  • 宮古 みやこ 岩手県東部の市。閉伊川の河口、宮古湾に臨み、三陸の主要漁港の一つ。水産加工業も盛ん。人口6万。
  • [山田町]
  • 船越浦 ふなこしうら?
  • 船越湾 ふなこしわん 岩手県東部にある湾。三陸海岸北部にあるリアス式海岸であり、南東方向に開けた湾で太平洋に面している。北東の弁天島と南東の野島を結ぶ線が湾口であり、幅約2.5km。奥行きは短く約2kmとなっている。湾の最大幅は約5.5kmと短く幅が広い湾。
  • 船越村 ふなこしむら 村名。現、下閉伊郡山田町船越。
  • 殿見島
  • 西岸
  • 小谷鳥 こやとり 村名。現、下閉伊郡山田町船越。船越村の枝村。
  • 大沢 おおさわ 村名。現、下閉伊郡山田町大沢。
  • 山田 やまだ 湾名。現、下閉伊郡山田町。
  • 田ノ浜 たのはま 山田町、船越湾。船越村の南東隣。
  • [大槌町]
  • 吉里吉里 きりきり 村名。現、下閉伊郡大槌町吉里吉里。
  • 安渡 あんど 村名。大槌村の枝村。大槌川河口にある漁村。
  • 大槌 おおつち 村名。現、下閉伊郡大槌町大槌。
  • [釜石市]
  • 釜石 かまいし 岩手県東部の市。釜石湾に臨む港湾・製鉄都市。人口4万3千。
  • 唐丹 とうに 現、釜石市唐丹町。
  • 本郷 ほんごう 唐丹の北東。
  • 小白浜 こじらはま 字名。唐丹の北。現、釜石市唐丹町。
  • 両石 りょういし 岩手県釜石市両石町。
  • 嬉石 うれいし 町名。現、釜石市。
  • 沢村
  • 尾崎神社 (1) おさき- 現、釜石市平田尾崎。尾崎半島の先端青出に鎮座。(2) おざき- 現、大船渡市赤崎町。鳥沢の大船渡湾に突き出した尾崎岬にある。
  • [大船渡市]
  • 越喜来 おつきらい 気仙郡。おきらい、か。
  • 越喜来村 おきらいむら 村名。現、気仙郡三陸町越喜来。綾里村の北にある。東は越喜来湾に面し、北は吉浜村。村名は昔は越鬼来と記し、坂上田村麻呂が鬼を追越して来たゆえかと伝えられる。
  • 吉浜湾 よしはまわん 岩手県大船渡市三陸町吉浜。
  • 吉浜村 よしはまむら 村名。三陸町吉浜。
  • 本郷 ほんごう 吉浜村。
  • 綾里湾 りょうりわん 岩手県大船渡市三陸町綾里。
  • 綾里村 りょうりむら 村名。現、気仙郡三陸町綾里。
  • 大船渡 おおふなと 岩手県南東部、三陸海岸の大船渡湾に臨む市。漁業のほか、セメント・水産加工などの工業も盛ん。人口4万3千。
  • 赤崎 あかさき 村名。現、大船渡市赤崎町。
  • 末崎細浦 → 末崎村か
  • 末崎村 まつさきむら 現、大船渡市末崎町。
  • 細浦 ほそうら 字名か。現、大船渡市末崎町。
  • 合足 あったり 現、大船渡市赤崎町東部。三陸町境。
  • [陸前高田市]
  • 広田泊 広田村(ひろたむら)泊(とまり)か。現、陸前高田市広田町泊。
  • 高田松原 たかた まつばら 全長2kmに渡る松林と砂浜が続く岩手県陸前高田市の名勝。西側に気仙川が流れ、その川が運んだ砂が長年堆積した砂浜で、背景に氷上山874mが聳える広田湾に面した浜として知られている。 日本百景、日本三大松原、国の名勝に指定されているリゾート地。
  • 長部 おさべ 村名。現、陸前高田市気仙町。
  • [秋田・山形]
  • 鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
  • [千葉県]
  • 銚子 ちょうし 千葉県東端の市。利根川河口の南岸に位置し、醤油醸造地・漁業根拠地。人口7万5千。
  • ヤマサ醤油株式会社 やまさ しょうゆ - 千葉県銚子市にある調味料メーカー。また、診断用医薬品や抗体試薬などの医薬品も販売している。1645年創業。1854年、第七代当主濱口梧陵が安政南海地震において津波の来襲から村人を救い、その後「稲むらの火」として紹介される。1864年、江戸幕府より品質に優れた醤油として、最上醤油の称号を拝領。
  • [伊豆]
  • 東海地震 とうかい じしん 駿河トラフの西側の海底を震央とする巨大地震。1707年(宝永地震)、1854年(安政東海地震)に起こり、近い将来発生する可能性が高いとされ、静岡県およびその周辺地域は地震防災対策強化地域に指定されている。
  • [岐阜・愛知]
  • 濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
  • [大和]
  • 葛城山 かつらぎさん (1) 大阪府と奈良県との境にある山。修験道の霊場。標高959メートル。かつらぎやま。(2) 大阪府と和歌山県との境にある山。標高858メートル。和泉葛城山。
  • [伊賀]
  • [伊勢]
  • [紀州]
  • 広村 ひろむら 現、和歌山県有田郡広川町広。広川の左岸にあり、西は湯浅湾に面する。古くは比呂・弘とも記される。
  • 和歌山市 わかやまし 和歌山県北西部の市。県庁所在地。紀ノ川河口左岸、紀伊水道に面し、河口付近は金属・化学工場地帯。もと徳川氏55万石の城下町。竹垣城址には城門・城塁・城濠を遺す。紀三井寺・和歌の浦の名所がある。人口37万6千。
  • 湯浅町 ゆあさちょう 和歌山県有田郡にある町。醤油や柑橘類を産することで名が知られている。湯浅町は紀伊半島西部の、海が陸に深く入りこんだ入り江の奥に存在している。この入り江には広川が流れ込んでおり湯浅広港は天然の良港として古来より物流の中心地として栄えてきた。
  • 広川  ひろがわ 和歌山県の二級河川、広川水系。/全長20km。有田郡内二位の河川。井関では井関川、名島では名島川、それより下流では広川とよぶ。湯浅町湯浅と広川町の境を西に流れて天洲浜の北側で湯浅湾に注ぐ。
  • 耐久中学校 たいきゅう- 現、耐久高校。広川町広。幕末に浜口梧陵を中心として設立された私塾耐久舎にちなむ。明治3年に移築、現、耐久中学校校門の傍らにある記念館。
  • 紀州沿岸
  • 潮岬 しおのみさき 紀伊半島南端の岬。本州最南端。和歌山県東牟婁郡串本町に属する陸繋島。灯台がある。
  • 田辺町 たなべちょう 和歌山県西牟婁郡田辺町(現・田辺市)。
  • 江上川
  • 八幡の丘 現、広川町上中野広八幡神社の立つ小山か。
  • 宝蔵寺 → 法蔵寺か
  • 法蔵寺 ほうぞうじ 現、和歌山県有田郡広川町上中野。広八幡神社の南西にある。
  • 中野村 なかのむら 現、広川町上中野。広村の南、山本村の東に位置する。
  • [土佐][高知県]
  • 佐喜浜 さきのはま 村名。現、室戸市佐喜浜町。
  • 西寺 にしでら 村名。現、室戸市元・崎山。行当岬の北東。崎山とその北西麓の海岸集落の黒耳からなる村。西寺=金剛頂寺。
  • 東寺 ひがしでら 村名。現、室戸市室戸岬町。室戸岬先端の東側太平洋に面し、険しい岬の山を背にして海岸沿いに位置。東寺=最御崎(ほつみさき)寺。
  • 甲浦 かんのうら 村名。現、安芸郡東洋町甲浦。北は阿波国、南東は太平洋に面する。土佐街道が通り、山を背にした片側だけの家並みが村の中心をなす。甲ヶ浦・甲の浦・神浦などの別称がある。
  • 宍喰 ししくい 阿波領。村名。現、徳島県海部郡宍喰町。
  • 野根 のね → 野根浦
  • 野根浦 のねうら 土佐。現、高知県安芸郡東洋町野根浦。野根村ともいう。野根川河口北東岸の海岸砂丘上に形成された漁業・商業の集落。
  • 室戸岬 むろとざき 高知県の土佐湾東端に突出する岬。奇岩や亜熱帯性植物で有名。近海は好漁場。室戸崎。むろとみさき。
  • 室戸 むろと 高知県南東端の市。室戸岬を市域に含み、遠洋マグロ漁業の基地。人口1万7千。
  • 室戸町 現、室戸市。 → 室戸
  • 室戸半島 → 室戸岬
  • 室戸台風 むろと たいふう 1934年9月21日、室戸岬の西に上陸、当時の地上最低気圧911.9ヘクトパスカルを記録し、大阪を通り、日本海を北上、三陸沖に抜けた超大型の台風。暴風雨・高潮のため全国の死者・行方不明者約3000人。
  • 室津 むろつ 高知県室戸市にある地。室戸岬の北西。土佐日記に見える古代の港。
  • 須崎 すさき 高知県中部、土佐湾の入江に臨む市。もと鰹漁港、現在はハマチ養殖が盛ん。造船・水産加工・セメントなどの工場もある。人口2万6千。
  • 須崎湾 すさきわん 土佐湾奧中央部。幅約400m。奥行約3.5kmの湾。
  • 須崎町 現、須崎市 → 須崎
  • 池内村 → 池ノ内村か
  • 池ノ内村 いけのうちむら 現、須崎市池ノ内。
  • 故倉
  • 西町
  • 新町
  • 浜町
  • 古倉
  • 高須 たかす 村名。現、高知市高須。
  • 奈半利 なはり 奈半利町は、高知県東部にある町。
  • 高知 こうち 高知県中央部の市。県庁所在地。高知平野を形成し浦戸湾に注ぐ鏡川の三角州に発達。もと山内氏24万石の城下町。人口33万3千。
  • 浦内湾 → 浦ノ内湾か
  • 浦ノ内湾 うらのうちわん 土佐市宇佐町福島から須崎市浦ノ内西分に至る東西に長い湾。
  • 高岡郡 たかおかぐん 高知県(土佐国)の郡。当初の郡域には現在の須崎市・土佐市の全域も含んでいた。郡役所は須崎村(後の須崎町、現在の須崎市)に置かれた。
  • 種崎 たねざき 村名。現、高知市種崎。
  • 種崎半島
  • 安芸町 現、安芸市 → 安芸
  • 安芸 あき (2) 高知県南東部、土佐湾に臨む市。中世安芸氏の居城。促成野菜園芸の盛んな安芸平野の中心地。人口2万。
  • 宇佐町 うさちょう? 現、土佐市宇佐町。
  • 橋田
  • 宇佐坂 うささか? 別名、塚地坂。津賀地村から南方宇佐村へ越える坂。標高180mの峠道。
  • 萩谷口 はぎだにぐち?
  • 田丁
  • 久礼町 くれちょう? 現、高岡郡中土佐町久礼。
  • 久礼 くれ 村名。現、高岡郡中土佐町久礼。郡海浜部のほぼ中央に位置。
  • 逢坂谷 → 大阪谷か
  • 大阪谷 おおさかたに 現、久礼。
  • 常源寺 → 常賢寺か
  • 常賢寺 じょうげんじ 字名。現、高岡郡中土佐町久礼。
  • 焼坂 やけざか 中村街道を須崎から久礼浦(現、高岡郡中土佐町)方面へ向かうと角谷山東麓の角谷坂を過ぎ、焼坂に至る。
  • 八幡宮 → 久礼八幡宮か
  • 久礼八幡宮 くれ はちまんぐう 現、中土佐町久礼、松原。
  • 耳崎 みみざき 現、室戸市津呂の西端。
  • 水尻
  • 浦戸湾 うらどわん 高知県高知市にある土佐湾の支湾のひとつ。浦戸湾内には高知港があり、湾口には高知新港がある。高知市中央部南側に位置し、湾の入り口幅140m・奥行き6kmの縦長の湾。
  • 磯崎御殿 いそざき ごてん? 現、高知市浦戸磯崎、観海亭。
  • 神母《おいげ》の小社
  • 御神母 おいげ 貴船大明神。現、須崎市吾井郷山添か。
  • 貴船神社 きぶね? じんじゃ 現、須崎市押岡字赤木。もと字古宮にあった天満宮か。貞享2(1685)の洪水で社地を破壊され、同4年、檜谷口にあった貴船神社とともに現在地へ移転。元禄年間に両社を合祀したという。
  • [熊本県]
  • 阿蘇 あそ 熊本県北東部、阿蘇山の北麓に位置する市。稲作と高原野菜栽培、牛の放牧が盛ん。観光資源にも富む。人口3万。
  • [鹿児島・宮崎]
  • 霧島山 きりしまやま 鹿児島・宮崎両県にまたがる、霧島山系中の火山群。高千穂峰(東霧島)は標高1574メートル、韓国岳(西霧島)は1700メートル。
  • [台湾]
  • [シナ]
  • 銭塘江 せんとうこう (Qiantang Jiang)中国、浙江省の北西部を流れる大河。浙江・江西両省の境の仙霞嶺山脈に発源し、杭州湾に注ぐ。河口の三角江には、定時に海嘯があり壮観。浙江。
  • [インド]
  • アッサム地震 一八九七年。
  • アッサム Assam インド北東部の州。北はブータン・チベット、東はミャンマー、南はバングラデシュに囲まれる。降雨量が極めて多い。著名な紅茶の産地。
  • ブラマプートラ → ブラマプトラ
  • ブラマプトラ Brahmaputra インド東部の大河。チベットのツァンポー川の下流で、ヒマラヤ山脈の東部を貫き、バングラデシュでガンジス川諸分流とともにベンガル湾に注ぐ。長さ2900キロメートル。ブラフマプトラ。
  • スルマ川 河名。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表

  • 天武天皇一二(六八四)一〇月一四日 諸国大地震。土佐の田苑五〇余万頃没して海となり、津波のために調船が多く失われた。
  • 貞観一一(八六九)五月二六日 三陸津波。溺死千。
  • 慶長九(一六〇四)一二月一六日、南海・東海両道地震津波。
  • 慶長一六(一六一一)一〇月二八日 三陸津波。死者の数、伊達領の一七八三人に、南部・津軽の分を加えて五〇〇〇人に達したといわれている。
  • 元和二(一六一六) 三陸津波。
  • 延宝五(一六七七) 三陸津波。
  • 元禄二(一六八九) 三陸津波。
  • 元禄年間(一六八八〜一七〇四) 初代儀兵衛、銚子に出店して醤油醸造業をはじめる。
  • 宝永四(一七〇七)一〇月四日 南海地震津波。
  • 安政元(一八五四)六月一五日 伊賀・伊勢・大和大地震。
  • 安政元(一八五四)一一月四日 東海道沖大地震津波。
  • 安政元(一八五四)一一月五日 南海道沖大地震津波。
  • 安政二(一八五五)二月 浜口梧陵ら、防波堤を起工。竣工したのが同五年一二月。
  • 安政三(一八五六) 三陸津波。
  • 安政三(一八五六)一二月二〇日 浜口梧陵、代官具状書の推奨により、藩主から独礼格の優遇をこうむる。
  • 明治一八(一八八五)四月二一日 浜口梧陵、享年六十六歳をもってニューヨークで客死。
  • 明治二四(一八九一) 濃尾地震。
  • 明治二七(一八九四)三月二二日 三陸津波。
  • 明治二九(一八九六)六月一五日 三陸津波。死者二万七一二二名。
  • 明治三〇(一八九七) アッサム地震において、ブラマプートラおよびスルマの両大河が氾濫。大森博士、調査。
  • 明治三〇(一八九七)八月五日 三陸津波。
  • 明治三〇(一八九七) ラフカディオ・ハーン『ブッダの畑の落ち穂ひろい』(Gleanings in Buddha-Fields)出版。
  • 明治三二(一八九九) 今村、三陸津波取り調べ報告として海底地震説を提唱。
  • 明治三二(一八九九)八月二八日 土佐、風災。
  • 明治三六(一九〇三)五月一三日 浜口担、英国ケンブリッジ大学に留学中、在ロンドンの日本協会に招かれて、日本の女性と題する講演。
  • 明治三七(一九〇四)〜三九年 本多・寺田両博士その他によって、わが国における各港湾の潮汐副振動が調査。結果が公表されたのは明治四一(一九〇八)。
  • 明治三八(一九〇五)九月二三日 今村、地学協会における講演速記『地学雑誌』二〇三号掲載。
  • 大正四(一九一五) 浜口梧陵、没後三十年。朝廷から従五位の贈位。
  • 昭和八(一九三三)三月三日 三陸津波。
  • 昭和八(一九三三)夏季 今村、紀州広村を視察。
  • 昭和九(一九三四) 室戸台風。
  • 昭和一三(一九三八) 梧陵の墓所ならびに防波堤が史跡として文部省から指定。
  • 昭和一四(一九三九) 今村、今一度三陸沿岸の行脚。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
  • -----------------------------------
  • 役小角 えんの おづの → 役行者
  • 役行者 えんの ぎょうじゃ 7世紀後半から8世紀にかけての山岳修行者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国葛城山に住んで修行、吉野の金峰山・大峰などを開いたという。699年韓国連広足の讒によって伊豆に流された。諡号は神変大菩薩。役の優婆塞。役小角。
  • 文武天皇 もんむ てんのう 683-707 律令国家確立期の天皇。草壁皇子の第1王子。母は元明天皇。名は珂瑠。大宝律令を制定。(在位697〜707)
  • -----------------------------------
  • 浜口梧陵 はまぐち ごりょう 1820-1885 紀伊国広村(和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)当主で、第7代浜口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとしても知られる。
  • -----------------------------------
  • 馬淵冷佐 → 馬渕冷佑か
  • 馬渕冷佑 まぶち れいゆう 1879-1941 大正・昭和期の国語教育者。童話作家。教師用解説書の著者として活躍。共著で「日本お伽文庫」を完成。(人レ)
  • 国語教育学会
  • 震災予防評議会 1941年廃止。(地学)
  • 小泉八雲 こいずみ やくも 1850-1904 文学者。ギリシア生れのイギリス人で、前名ラフカディオ=ハーン(ヘルン)(Lafcadio Hearn)。1890年(明治23)来日。旧松江藩士の娘、小泉節子と結婚。のち帰化。松江中学・五高・東大・早大に英語・英文学を講じた。「心」「怪談」「霊の日本」など日本に関する英文の印象記・随筆・物語を発表。
  • 浜口儀兵衛 → 浜口梧陵
  • 崇義団 〓 1851年開設。翌年、崇義団を母体に私塾耐久舎を設立。
  • 浜口担 はまぐち〓 梧陵の末子。英国ケンブリッジ大学に留学。
  • アーサー・デオシー
  • ステラ・ラ・ロレツ
  • -----------------------------------
  • 伊木博士 海底火山説。
  • 巨智部博士 タスカロラ崖くずれ説 → 巨智部忠承か
  • 巨智部忠承 こちべ ただつね 1854-1927 長崎生まれ。1880年東京大学卒。地質調査所に入り、予察調査・図幅調査、また、別子・生野などの鉱床調査に活躍。1893年地質調査所長となり、多目的な業務の刷新を図るとともに新規に油田調査事業に着手。晩年は応用地質学の面で貢献した。(地学)
  • 本多博士
  • 寺田博士 → 寺田寅彦か
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  • 陸地測量部 りくち そくりょうぶ 日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった。前身は兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局(地図課及び測量課が昇格した)で、明治21年5月14日に陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁として設置された。
  • 地学協会
  • 地震研究所 → 東京大学地震研究所か
  • 東京大学地震研究所 とうきょうだいがく じしん けんきゅうじょ 英称:Earthquake Research Institute,University of Tokyo、略称:ERI)は、東京大学の附置研究所(附置全国共同利用研究所)。1925年に設立された。地震学、火山学などを中心に幅広い分野の研究が行われている。
  • 中央気象台 ちゅうおう きしょうだい 気象庁の前身に当たる官庁。1875年(明治8)東京気象台として創立、87年中央気象台と改称。
  • 中村左衛門太郎 なかむら さえもんたろう 1891-1974 地震学者、地理博士。東京生まれ。中央気象台に入って地震・気象・地磁気等の研究に従事した。大正13年、東北帝大・地球物理学講座を担当。昭和26年(1951)熊本大理学部に転任。(人名)
  • -----------------------------------
  • 上野土木課長
  • -----------------------------------


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『稲むらの火』 いなむらのひ 1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際して紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)で起きた故事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を中井常蔵が翻訳・再話したもので、かつて国定国語教科書に掲載されていた。主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)。
  • 『国語読本』 こくご とくほん 明治から昭和にかけて文部省が編集した尋常小学校、高等小学校および国民学校の国語 (教科)の国定教科書。時代に合わせて改訂された。当時の全国の小学生が同じ教科書を使ったので同世代の共通の話題として重宝がられる。
  • 『尋常科用小学読み方教育書』 馬淵冷佐の著。
  • 『小学国語読本総合研究』 国語教育学会編。
  • 「生ける神」 小泉八雲の撰。原題 "A Living God "。
  • 『ブッダの畑の落ち穂ひろい』(Gleanings in Buddha-Fields) 小泉八雲の著。一八九七年。
  • 『地学雑誌』二〇三号
  • 『震災報告』第三十四号付録
  • 『弘列筆記』
  • 『谷陵記』 こくりょうき 奥宮正明の著。宝永4年(1707)成立。同年10月の大地震と津波の災害記録。初めに全国の被害状況に触れ、次いで土佐国の被害のあった各郷浦ごとに家屋の損壊流失数、死傷者数などを詳細に記している。(地名)
  • 『津波災害予防に関する注意事項』
  • 『大都市における津波災害予防に関する注意書』


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*難字、求めよ

  • 檀那寺 だんなでら 自家の帰依している寺。檀家の所属する寺。檀寺。菩提寺。
  • 名岳
  • 史乗 しじょう (「乗」は記録の意)事実の記録。歴史書。
  • 口碑 こうひ (碑に刻みつけたように口から口へ永く世に言い伝わる意)昔からの言い伝え。伝説。
  • 見懸 みかけ
  • 深海床
  • 浪災
  • 防浪堤
  • 耐浪
  • 浪勢
  • 防潮林 ぼうちょうりん 潮風または津波・高潮などによる被害を防ぐ森林。海岸付近に、抵抗力の強いクロマツ・イヌマキなどを植える。
  • 浪高 波高(はこう)か。
  • 弾丸黒子の地 だんがん こくしのち [十八史略宋]はじきだまかほくろほどの、極めて狭小な地域。
  • 僕婢 ぼくひ 下男と下女。
  • 太平楽 たいへいらく (2) すきほうだいに言うこと。のんきにかまえていること。でたらめ。でほうだい。
  • 急雨 きゅうう にわかあめ。
  • -----------------------------------
  • 殷賑 いんしん 盛んでにぎやかなこと。
  • 儼存 げんぞん 厳存。
  • 梯形 ていけい (1) はしごの形。(2) 一組の対辺が平行な4辺形。台形。
  • はぜのき 黄櫨・櫨・梔 (1) ウルシ科の落葉高木。高さは約10メートルになる。暖地の山地に自生、秋に美しく紅葉する。5〜6月頃、葉腋に黄緑色の小花をつける。果実は灰黄色、扁円形。実から木蝋を採り、樹皮は染料となるので栽培される。ハゼ。ハジ。ハジノキ。ハジウルシ。ハゼウルシ。ヤマハゼ。漢名、野漆樹。(2) ヤマウルシの別称。
  • -----------------------------------
  • 倉卒・草卒 そうそつ (「怱卒」とも書く) (1) あわただしいさま。あわてるさま。(2) にわかなさま。突然。
  • 目睫 もくしょう (1) 目と睫。(2) 転じて、極めて接近している所。目前。
  • 壮丁 そうてい (1) 壮年の男子。血気さかんな男子。成年に達した男子。わかもの。(2) 夫役または軍役にあたる壮年の男子。
  • 倍 ばいし (「」は5倍の意)数倍に増すこと。「」は横にずらせる、水増しすること。
  • ため息をつぐ 用例『雨月物語』。
  • 宵祭 よいまつり 祭日の前夜に行う小祭。夜宮(よみや)。宵宮。
  • 謳える うたえる?
  • 逝いた ゆいた
  • 風津波 かぜつなみ 高潮(1) の古称。
  • 高潮 たかしお (1) 台風や低気圧によって、海水面が異常に高まり、海水が陸上に侵入すること。気象災害の一つ。暴風津波。(2) 大潮。
  • 海嘯 かいしょう [楊慎、古今諺]満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、激しく波立ちながら進行する現象。中国の銭塘江、イギリスのセヴァン川、南アメリカのアマゾン川の河口付近で顕著。タイダル‐ボーア。潮津波。
  • 漲溢 ちょういつ みなぎりあふれること。
  • 破浪
  • 汐込
  • 開広 かいこう (1) 土地を切り開き、耕地を広くすること。(2) 事業を新しく営みあるいは拡充すること。
  • 里正 りせい 村長。庄屋。
  • 流氓 りゅうぼう 他郷に流浪する民。流民。
  • 重斂 ちょうれん/じゅうれん (1) 負担の大きい税金。(2) きびしく税をとりたてる。
  • 已来 いらい 以来。
  • 過褒 かほう ほめすぎること。過賞。
  • 救合 糾合(きゅうごう)か。
  • 駅逓 えきてい (1) 宿駅から宿駅へ次々に荷物などを送ること。しゅくつぎ。うまつぎ。(2) 郵便の旧称。
  • 喝采裡 かっさいり
  • 頌揚 しょうよう?
  • 鞭韃 べんたつ 鞭撻。(1) むちでうつこと。処罰して戒めること。(2) いましめはげますこと。督励。
  • -----------------------------------
  • タスカロラ崖くずれ説
  • 液体振子説
  • 副振動
  • 広袤 こうぼう はばと長さ。ひろがり。面積。
  • 間然 かんぜん (「間」は、すきまの意)非難すべき欠点のあるさま。かれこれ言われるすきまのあるさま。
  • 地震学 じしんがく (seismology)地震を研究対象とする学問。
  • -----------------------------------
  • 東道の主 とうどうの しゅ [左伝僖公30年](鄭が晋と秦とに挟撃された時、鄭の使者が秦の王に、鄭を滅ぼすより、秦が東方へ行く際にもてなす主人として存続させる方が得だと説得した故事から)主人となって来客の世話や案内をする人。東道の主人。
  • 旅嚢 りょのう 旅行に携帯するふくろ。
  • 土埆造
  • 阜頭
  • 謙抑 けんよく へりくだって控えめにすること。また、そのさま。
  • かこつ 託つ。(1) 他のせいにする。口実とする。(2) 自分の境遇などを嘆く。恨んで言う。ぐちをこぼす。
  • ふたつながら 二つながら・両ながら。二つとも。双方いずれも。
  • 昭代 しょうだい よく治まっている世。太平の世。
  • 余沢 よたく 先人が残しためぐみ。余徳。
  • -----------------------------------
  • 田苑 でんえん 田園。
  • 調船
  • 五畿七道 ごき しちどう 律令制下の地方行政区画。山城・大和・摂津・河内・和泉の5カ国と東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道。日本全国の意にも用いる。
  • 洪浪
  • 鉅資
  • 手提げ水準器
  • 汀線 ていせん 海面と陸地との交わる線。潮汐によって常に変動する。みぎわせん。
  • 精密水準標
  • 斗出 としゅつ 突き出ること。土地などがかどばって突き出ること。突出。
  • 哀傷 あいしょう 悲しみいたむこと。特に、人の死を悲しんで心をいためること。
  • 小宇


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


タイムアウト。
浪と波の使い分けについて。

浪、津浪、防浪、防浪堤、浪高、浪入 →
波、津波、防波、防波堤、波高、波入

以上、置き換えました。浪災、破浪、洪浪、耐浪はそのままにしました。

もえて → 燃えて
週期 → 周期
畫かれた → 描かれた
有ち → 持ち
立後れ → 立ち遅れ
烈しい → 激しい

以上、置き換えました。




*次週予告


第四巻 第八号 
地震の国(五)今村明恒


第四巻 第八号は、
九月一七日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第七号
地震の国(四)今村明恒
発行:二〇一一年九月一〇日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎

      あどけない話

    智恵子は東京に空がないという、
    ほんとの空が見たいという。
    私はおどろいて空を見る。
    桜若葉の間にあるのは、
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながらいう。
    阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
    毎日出ている青い空が
    智恵子のほんとの空だという。
    あどけない空の話である。


      千鳥と遊ぶ智恵子

    人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
    砂にすわって智恵子は遊ぶ。
    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
    千鳥が智恵子によってくる。
    口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
    両手をあげてよびかえす。
    ちい、ちい、ちい―
    両手の貝を千鳥がねだる。
    智恵子はそれをパラパラ投げる。
    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    人間商売さらりとやめて、
    もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
    うしろ姿がぽつんと見える。
    二丁も離れた防風林の夕日の中で
    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
     わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
    (略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
     松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
     新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
     私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
     暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
     九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
    (略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
     右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
    地震雑感
     一 地震の概念
     二 震源
     三 地震の原因
     四 地震の予報
    静岡地震被害見学記
    小爆発二件
     震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
     しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
     これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
     問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
     地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
    自然現象の予報
    火山の名について
     つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
     地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
     地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
     地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
     さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

     皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
     これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

     山また山の山城川を
     御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
     うるわしの奈良山をすぎ
     青山のかこんでいる大和をすぎ
     わたしの見たいと思うところは、
     葛城の高台の御殿、
     故郷の家のあたりです。

     かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。
  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

     天皇〔顕宗天皇〕、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊に仇(あだ)をむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵を毀(やぶ)ろうとお思いになって人を遣わしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりに毀してまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵のそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘り壊(やぶ)りました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにお壊りなさいましたか?」とおおせられましたから、「御陵のそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵をことごとく壊すべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上の仇をその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさった天皇でありますのを、今もっぱら父の仇ということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵をことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上の仇は報(むく)いないではいられません。それであの御陵の辺りを少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。
  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)
  • #4 アインシュタイン(二)寺田寅彦

     アインシュタイン
     相対性原理側面観

     物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈(びょうそう)はひとりでにきれいに消滅した。
     病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 (「アインシュタイン」より)
  • #5 作家のみた科学者の文学的活動/科学の常識のため宮本百合子

     作家のみた科学者の文学的活動
      「生」の科学と文学
      科学と文学の交流
      科学者の社会的基調
      科学者の随筆的随想
      科学と探偵小説
      現実は批判する
     科学の常識のため

     若い婦人の感情と科学とは、従来、縁の遠いもののように思われてきている。昔は人間の心の内容を知・情・意と三つのものにわけて、知は理解や判断をつかさどり、情は感情的な面をうけもち、意は意志で、判断の一部と行動とをうけもつという形式に固定して見られ、今でもそのことは、曖昧に受け入れられたままになっている点が多い。だから、科学というとすぐ理知的ということでばかり受けとって、科学をあつかう人間がそこに献身してゆく情熱、よろこびと苦痛との堅忍、美しさへの感動が人間感情のどんなに高揚された姿であるのも若い女のひとのこころを直接に打たないばあいが多い。このことは逆な作用ともなって、たとえばパストゥールを主人公とした『科学者の道』の映画や『キュリー夫人伝』に賛嘆するとき、若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。
     婦人の文化の素質に芸術の要素はあるが、科学的な要素の欠けていることを多くのひとが指摘しているし、自分たちとしても心ある娘たちはそれをある弱点として認めていると思う。しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきけば、やっぱりそれは暖かく踊る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にある遅れた低さには自身気づかないままでいがちである。 (「科学の常識のため」より)
  • #6 地震の国(三)今村明恒

     一七 有馬の鳴動
     一八 田結村(たいむら)の人々
     一九 災害除(よ)け
     二〇 地震毛と火山毛
     二一 室蘭警察署長
     二二 ポンペイとサン・ピエール
     二三 クラカトアから日本まで

     余がかつてものした旧稿「地震に出会ったときの心得」十則の付録に、つぎの一項を加えておいた。

    「頻々におこる小地震は、単に無害な地震群に終わることもあり、また大地震の前提たることもある。震源が活火山にあるときは爆発の前徴たる場合が多い。注意を要する。

     この末段の事項についてわが国の火山中好適な例となるものは、三宅島・富士山・桜島・有珠山などであり、いずれも数十年ないし数百年おきに間欠的爆発をなすのであるが、その数日前から小地震を頻発せしめる習性を持っている。もし、活火山の休眠時間が例外に長いかあるいは短いときは、かような前震が不鮮明となり、短時間で終わりを告げることもあれば、またその反対に非常に長びくこともある。前者の例としては磐梯山があり、後者の例としては浅間山・霧島山・温泉岳〔雲仙岳。〕などがある。
     大正三年(一九一四)一月十二日、桜島爆発に関しては、地盤隆起、天然ガスの噴出、温泉・冷泉の増温・増量などの前徴以外に、特に二日前から著明な前震がはじまったなどのことがあったにかかわらず、爆発の予知が失敗に終わったのは、専門学徒にとってこのうえもない恨事であった。これに反して、明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠山爆発に際しては、専門学徒でもない一警官が、前に記したような爆発前の頻発地震に関するわずかの知識だけで完全に予知し、しかも彼の果断な処置によって災害を極度に軽減し得たことは、地震噴火誌上、特筆大書すべき痛快事である。 (「二一 室蘭警察署長」より)

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