寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」より。


もくじ 
特集 アインシュタイン(二)寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
アインシュタイン
相対性原理側面観

オリジナル版
アインシュタイン
相対性原理側面観

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


アインシュタイン
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「改造」
   1921(大正10)年10月1日
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card43074.html
NDC 分類:289(伝記/個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html

相対性原理側面観
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2343.html
NDC 分類:420(物理学)
http://yozora.kazumi386.org/4/2/ndc420.html




アインシュタイン

寺田寅彦


   一

 このあいだ日本へ立ち寄ったバートランド・ラッセルが、「今、世界中で一番えらい人間はアインシュタインとレーニンだ」というような意味のことを誰かに話したそうである。この「えらい」というのがどういう意味のえらいのであるかが聞きたいのであったが、遺憾いかんながらラッセルの使った原語を聞きもらした。
 なるほど二人ともに革命家である。ただ、レーニンの仕事はどこまでが成功であるか失敗であるか、おそらくはこれは誰にもよくわからないだろうが、アインシュタインの仕事は少なくも大部分たしかに成功である。これについては世界中の信用のある学者の最大多数が裏書きをしている。仕事が科学上のことであるだけにその成果はきわめて鮮明であり、したがってそれを仕遂しとげた人の科学者としてのえらさもまた、それだけはっきりしている。
 レーニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさは、かならずしも目前の成果のみで計量することができない。それにもかかわらずレーニンのえらさは一般の世人にわかりやすい種類のものである。取り扱っているものが人間の社会で、使っているものが兵隊や金である。いずれも科学的にはわけのわからないものであるが、ただ世人の生活に直接なものであるだけに、事柄が誰にもわかりやすいように思われる。
 これに反してアインシュタインの取り扱った対象は抽象された時と空間であって、使った道具は数学である。すべてが論理的に明瞭なものであるにかかわらず、使っている「国語」が世人にしたしくないために、その国語に熟しない人には容易にいつけない。それで、彼の仕事を正当に理解し、彼のえらさを如実に估価こかするには、一通ひととおりの数学的素養のある人でもちょっと骨が折れる。
 とうていわからないような複雑なことは世人にわかりやすく、比較的、簡単明瞭なことのほうがかえってわかりにくいというおかしな結論になるわけであるが、これは「わかる」という言葉の意味の使いわけであることはもちろんである。
 アインシュタインの仕事の偉大なものであり、彼の頭脳が飛び離れてえらいということは、早くから一部の学者のあいだには認められていた。しかし、一般世間にもてはやされるようになったのは昨今のことである。遠い恒星の光が太陽の近くを通過するさいに、それが重力の場の影響のためにきわめてわずか曲がるだろうという、だれも思いもかけなかった事実を、彼の理論の必然の結果として鉛筆のさきで割り出し、それを予言した。それがいわば敵国の英国の学者の日食観測の結果からある程度まで確かめられたので、事柄は世人の眼に一種のロマンチックな色彩をおびるようになってきた。そして人々は、あたかも急に天から異人が降ってきたかのように驚異のまなこを彼の身辺に集注しゅうちゅうした。
 彼の理論、ことに重力に関する新しい理論の実験的証左しょうさは、それがいずれもきわめて機微なものであるだけに、まだ極度まで完全に確定されたとはいわれないかもしれない。しかし万一、将来の実験や観測の結果が、彼の現在の理論に多少でも不利なようなことがあったとしても、彼の物理学者としてのえらさにはそのために少しのきずもつかないだろうということは、彼の仕事の筋道をひととおりでも見て通った人の等しく承認しなければならないことであろう。
 物理学の基礎になっている力学の根本に、ある弱点のあるということは早くから認められていた。しかし、彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかがわからなかった。あるいは大多数の人は因襲いんしゅう的の妥協になれて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所にふれないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際、さしつかえがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象は、この不思議な物の作用に帰納きのうされるようになった。そしてこの物が特別な条件のもとに、驚くべき快速度で運動することもわかってきた。こういう物の運動に関係した問題にふれはじめると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになってきた。ロレンツのごとき優れた老大家ははやくからこの問題に手をつけて、いろいろな矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折ほねおっている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅ひとすみにかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な、時と空間の概念の中に潜伏していることに眼をつけた。そうしてその腐りかかった、に合わせの時と空間をとって捨てて、新しい健全なものをそのかわりに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返わかがえった。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈びょうそうはひとりでにきれいに消滅した。
 病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際てぎわは第二のえらさでなければならない。
 しかし、病気はそれだけではなかった。第一の手術で「速度の相対性」をかたづけると、必然のなりゆきとして「重力と加速度の問題」が起こってきた。この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたためにいっそうするどく感ぜられてきた。しかしこの方の手術はいっそう面倒めんどうなものであった。第一に手術に使った在来の道具は、もう役に立たなかった。われらの祖先から二千年来使いなれたユークリッド幾何学では始末がつかなかった。そのかわりになるべき新しい利器を求めている彼の手にふれたのは、前世紀の中ごろに数学者リーマンが、そのような応用とは何の関係もなしに純粋な数学上の理論的の仕事として残しておいた遺物であった。これをきたえなおして造った新しい鋭利なメスで、数千年来、人間の脳の中にへばりついていたいわゆる常識的な時空の観念を悉皆しっかいけずり取った。そして、それを切りきざんで新しく組み立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に、古い力学の暗礁あんしょうであった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対するおどろくべき予言は的中した。もう一つの予言はどうなるかわからないが、ともかくも今まで片側だけしか見ることのできなかった世界は、これを掌上しょうじょうに置いて意のままに任意の側からることができるようになった。観者に関するあらゆる絶対性を打破することによって現出された客観的実在は、ある意味でかえって絶対なものになったといってもよい。
 この仕事を仕遂げるために必要であった彼の徹底的な自信は、あらゆる困難を凌駕りょうがさせたように見える。これも一つのえらさである。あらゆる直接経験からくる常識の幻影に惑わされずに純理の道筋をふんだのは、数学という器械のおかげであるとしても、まったく抽象的な数学のわくに万象の実世界を寸分の隙間すきまもなく切りはめたあざやかな手際てぎわは、物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えなければならない。
 こういう飛びぬけた頭脳を持っていて、そして比較的短い年月の間にこれだけの仕事を仕遂げるだけの活力を持っている人間の、「人」としての生立おいたちや、日常生活や、環境は多くの人の知りたいと思うところであろう。
 それで私は、ありあわせの手近かな材料から知り得られるだけのことをここに書き並べて、この学者の面影おもかげをおぼろげにでも紹介してみたいと思うのである。おもな材料はモスコフスキーの著書によるほかはなかった。要するに素人しろうと画家のスケッチのようなものだと思って読んでもらいたいのである。

   二

 アルベルト・アインシュタインは、一八七九年三月の出生である。日本ならば明治十二年卯歳の生まれで、かぞえどし四十三(大正十年)になるわけである。生まれた場所は南ドイツで、ドナウの流れに沿うた小都市ウルムである。今のドイツで一番高いゴシックの寺塔じとうのあるというほかには格別世界にほこるべき何物をも持たないらしいこの市名は、偶然にこの科学者の出現と結びつけられることになった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は、遺憾いかんながらきわめて少ない。ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳のときに、父から一つの羅針盤を見せられたことがある。そのときに、なんら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたということである。そのときの印象が、彼の後年の仕事にある影響を与えたということが彼自身の口から伝わっている。
 ちょうどこのころ、彼の父は家族をあげてミュンヘンに移転した。今度の家は、前のせまくるしい住居とちがって広い庭園にかこまれていたので、そこではじめて自由に接することのできた自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。
 彼の家族にユダヤ人種の血が流れているということは注目すべきことである。後年の彼の仕事や、社会人生観には、この事実と思い合わせてはじめて了解される点が少なくないように思う。それはとにかく、彼がミュンヘンの小学で受けたローマ・カトリックの教義と家庭におけるユダヤ教の教義との相対的な矛盾――因襲的な独断と独断の背馳はいちが彼の幼い心にどのような反応をおこさせたか、これも本人に聞いてみたい問題である。
 この時代の彼の外観には、なんらの鋭い天才のひらめきは見えなかった。ものをいうことを覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口重くちおもであった。八、九歳ごろの彼はむしろひかえめで、あまり人好きのしない、ひとりぼっちの仲間はずれの観があった。ただそのころから、真と正義に対する極端な偏執へんしゅうが目に立った。それで人々は「馬鹿正直ビーダーマイアー」というあだ名を彼にあたえた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、だれも夢にも考えなかったことであろう。
 音楽に対する嗜好しこうは早くから眼覚めていた。ひとりで賛美歌のようなものを作って、ひとりでこっそり歌っていたが、はずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。わんぱくな遊戯ゆうぎなどから遠ざかった、ひとりぼっちの子どもの内省的な傾向がここにも認められる。
 後年まで彼につきまとったユダヤ人に対するショーヴィニズムの迫害は、もうこの頃から彼の幼い心に小さな波風を立てはじめたらしい。そしてその不正義に対する反抗心が、彼の性格に何かの痕跡を残さないわけにはいかなかったろうと思われる。「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験にとぼしい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼らは論理というものにちからこぶを入れる。すなわち理法によって他の承諾しょうだくを強要する。民族的反感からは信用したくない人でも、論理の前には屈伏しなければならないことを知っているから。」こう言ったニーチェのにがにがしい言葉が、いまさらに強くわれわれの耳に響くように思われる。
 彼の学校成績はあまりよくなかった。とくに言語などを機械的に暗記することのヘタな彼には、当時の軍隊式なつめこみ教育はぐあいが悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出しはじめた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。あるとき彼の伯父おじにあたる人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とはいったいどんなものかと質問したことがあった。そのときに伯父おじさんが、「代数というのは、あれは不精ぶしょうもののずるい計算術である。知らない答えをXと名づけて、そしてそれを知っているような顔をして取り扱って、それと知っているものとの関係式を書く。そこからこのXを定めるという方法だ」といって聞かせた。このひょうきんな、しかしようを得た説明は、子どもの頭に眠っている未知の代数学を呼びさますにはじゅうぶんであった。それからいろいろの代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。はじめて、幾何学のピタゴラスの定理にぶつかったときにはそれでも三週間あたまをひねったが、おしまいにはついにその証明に成功した。論理的に確実なある物をとらえるよろこびは、もうこのころから彼のうら若い頭にしみわたっていた。数理に関する彼の所得は、学校の教程などとは無関係におどろくべき速度で増大した。十五歳のときにはもう、大学に入れるだけの実力があるということを係りの教師が宣言した。
 しかし、中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家族一同がイタリアへ移住することになったのである。彼らはミラノにおちついた。そこでしばらく自由の身になった少年は、よく旅行をした。あるときは単身でアペニンを越えて漂浪したりした。まもなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して、数学と物理学を修める目的でスイスへやってきた。しかし、国語や記載科学の素養がたりなかったので、しばらくアーラウの実科中学に入っていた。わずかに十六歳の少年は、すでにこの時分から「運動体の光学」に眼をつけはじめていたということである。後年、世界をおどろかした仕事はもうこのときから双葉ふたばを出しはじめていたのである。
 彼の公人としての生涯の望みは、教員になることであった。それでチューリヒのポリテキニクムの師範科のような部門へ入学して、十七歳から二十一歳まで勉強した。卒業後、彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔じゃまになって思わしい口が得られなかった。しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師をつとめながら、しずかに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮らしをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生があって、その後一九〇三年にこの人と結婚したが、数年後に離婚した。ずっと後に従妹いとこのエルゼ・アインシュタインをむかえて幸福な家庭を作っているということである。
 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得て、やっと公職につく資格ができた。同窓の友グロスマンの周旋しゅうせんで特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が、きわめて卑近ひきんな発明の審査をやっていたということはおもしろいことである。彼自身の言葉によると、この職務にも相当な興味をもって働いていたようである。
 一九〇五年になって彼は、長いあいだの研究の結果を発表しはじめた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いであふれ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つで、そのほかに学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見ておどろいてこの無名の青年に手紙をせ、その非凡な着想の成功を祝福した。
 ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇ちゅうちょしていた。やっと彼の椅子いすができるとまもなく、チューリヒの大学のほうで理論物理学の助教授として招聘しょうへいした。これが一九〇九年、彼が三十一歳のときである。特許局に隠れていた足かけ八年の地味な平和の生活は、おそらく彼にとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立ってはじめて本舞台に乗り出したわけである。一九一一年にはプラハの正教授に招聘しょうへいされ、一九一二年にふたたびチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦の始まった一九一四年の春ベルリンに移って、そこで仕事を大成したのである。
 ベルリン大学における彼の聴講生の数は、従来のレコードをやぶっている。一昨年おととし来、急に世界的に有名になってから新聞・雑誌記者はもちろん、画家・彫刻家までが彼の門におしよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると、学生がおしかけて質問をする。うちへ帰ると世界中の学者や素人しろうとからいろいろの質問や注文の手紙がきている。それに対していちいち何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別いやな顔をしないで、気長に親切に、誰にでも満足を与えているようである。
 彼の名声が急にあがる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥はいせきという日本人にはちょっとわからない、しかし多くのドイツ人にはわかりやすい原理に、いくぶんは別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥はいせき同盟のようなものができた。もちろん大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人もまじっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾だんがい演説をやって、むやみな悪口をならべた。中に物理学者と名のつく人も一人いて、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のようなことを述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終わってしまった。気の長いアインシュタインもかなり不愉快を感じたとみえて、急にベルリンを去ると言い出した。するとベルリン大学にいる屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当なことをただし、彼の科学的貢献の偉大なことを保証した。また、アインシュタインは進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲げた。その短い文章は例のとおりキビキビとしてきわめて要を得ているのはもちろんであるが、その行文の間に卑怯きょうな迫害者に対する苦々にがにがしさが浸透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名もまじっていた。
 その後、ナウハイムで科学者大会のあったとき、特にその中の一日を相対論の論評にあてがった。そのときの会場はなんとなく緊張していたが、当人のアインシュタインはきわめてのんきな顔をしていた。レナードが原理の非難を述べているあいだに、かつてフィルハーモニーで彼の人身攻撃をやった男がうしろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードのきこんだ質問は、冷静な、しかもするどい答弁で軽く受けながされた。
 レナード「もし実際、そんな重力の『場』があるなら、何かもっと見やすい(anschaulich)現象を生じそうなものではないか?」
 アインシュタイン「見やすいとか見やすくないとかいうことは時代とともに変わるもので、いわば時の関数であります。ガリレイの時代の人には彼の力学はよほど見やすくないものだったでしょう。いわゆる見やすい観念などと称するものは、例の『常識』『健全な理知』(gesunder Menschenverstand)と称するものと同様に、ずいぶん穴だらけなものかと思います。
 この返答で聴衆が笑い出したと伝えられている。この討論はとうてい相撲にならないで終結したらしい。
 今年は米国へ招かれて講演に行った。その帰りに英国でも講演をやった。その当時のの地の新聞は、彼の風采ふうさいと講演ぶりをつぎのように伝えている。
「……。ちょっと見たところでは、べつに堂々とした様子などはない。中背で、ふとっていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚ひふ蒼白そうはくに黄味をおび、髪は黒に灰色まじりのくしけずらない団塊である。額にはシワ、眼のまわりには疲労の線条をしるしている。しかし、眼それ自身は磁石のようにひきつける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見とおす詩人・創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。
「彼が壇上に立つと、聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかるわからぬは問題でない。ともかくも力強く人にせまる、ある物を感ずる。
「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきりくぎって話す。しかし、すこしも気取ったようなところはない。謙遜けんそんで、引きしまっていて、そして敏感である。ただ、話が佳境に入ってくると多少の身ぶりをまじえる。両手を組み合わしたり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また、指の端を唇にふれたりする。しかし身体は決して動かさない。おりおり彼の眼が妙な表情をしてまたたくことがある。するとドイツ語のわからない人でもみな、つりこまれて笑い出す。
「不思議な、人をひきつける人柄である。からびた、いわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学ができると同じ程度にヴァイオリンができる。充分な情緒と了解をもってモーツァルト、シューマン、バッハなどを演奏する……。
 私がはじめてアインシュタインの写真を見たのはK君のところでであった。そのときに私たちは、「この顔は夢を見る芸術家の顔だ」というようなことを話しあった。ところがこの英国の新聞記者も同じようなことを言っているのをみると、この印象はいくらか共通なものかもしれない。実際、彼のような破天荒の仕事は、「夢」を見ない種類の人には思いつきそうに思われない。しかし、ただ夢を見るだけでは物にならない。夢の国に論理の橋をかけたのが彼の仕事であった。
 アメリカのスロッソンという新聞記者の書いた書物の口絵にある写真は、ちょっとちがった感じを与える。どこか皮肉な、今にも例の人を笑わせる顔をしそうなところがある。また、最近にタイムス週刊の画報に出た、彼がキングス・カレッジで講演をしている横顔もちょっと変わっている。顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼につく。
 アインシュタインは、「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術をバカにしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中でもっとも顕著なものは音楽である。彼のくヴァイオリンが一人前のものだということは定評であるらしい。かなりテクニックのむつかしいブラームスのものでも、あざやかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解を持った芸術的の演奏ができるらしい。
 それから、子どものときに唱歌をやったと同じように、ときどきピアノの鍵盤けんばんの前にすわって即興的のファンタジーをやるのが人知れぬ楽しみの一つだそうである。この話を聞くと私は、なんとなくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気で、アインシュタインは明るい。
 音楽の中では古典的なものを好むそうである。とくにゴシックの建築にたとえられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジーク〔室内楽。たぐいを好むということや、ショパン、シューマンその他ロマン派の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しないことなども、なんとなく彼の面目を想像させる。
 絵画にはまったく無関心だそうである。四元しげんの世界をながめている彼には、二元の芸術はあるいはあまりに児戯じぎに近いかもしれない。万象を時と空間の要素に切りつめた彼には、色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻にすぎないかもしれない。
 三元的な彫刻には多少の同情がある。とくに建築の美には嘆美たんびしまないそうである。
 そういえば、音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものともいわれないことはない。この芸術には一種の「運動」が本質的なものである。ただ、その時とともに運動する「もの」と空間とが物質的でないだけである。
 文学にも無関心ではないそうである。ただ、いそがしい彼にはたくさんいろいろのものを読むひまがないのであろう。シェークスピアを尊敬してゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー〔ホメロス。、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー、こんな名前が好きな方のがわに、ゾラやイブセン〔イプセン。などが好かない方の側にあげられている。この名簿もいろいろの意味でわれわれにはおもしろく感じられる。

* ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生まれで、描写の細かい、しかし叙情的気分に富んだ写実小説家だそうである。

 哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これは、そうありそうなことである。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として推賞するのだそうである。しかし、ニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)といっている。
 彼が一種の煙霞癖えんかへきを持っていることは、少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし、彼の旅行は単につきなみな名所や景色けしきだけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨ほうこうするのが好きだということである。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういうところをさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳裏のうりにおこっているかということは誰にもわからない。
 勝負ごとにはいっさい見向かない。収集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないといわれている。もっとも彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は、比較的きわめて少数であることは当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨ずがいこつ以外にはどこにもいないのである。
 彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中におりおり見受けるような、金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著書の翻訳者には印税のかなりな分け前を要求してくるというようなうわさも聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には、別にそう不思議とは思われない。特に、かの人種のことまでも取り立てて考えるほどのことではないと思われる。
 夜はよく眠るそうである。神経のイライラした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成功に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止して、のんきに安眠するということは存外むつかしいことであるに相違ない。しかし彼は、適当なときにさっさときりあげて床につく。そして仕事のことはまったく忘れて安眠ができる、と彼自身、人に話している。ただ、一番最初の相対原理に取りついたときだけはさすがにそうはゆかなかったらしい。幾日も喪心そうしん者のようになって彷徨ほうこうしたと言っている。一つは年の若かったせいでもあろうが、そのときの心持ちはおそらく、ただ選ばれたごく少数の学者・芸術家あるいは宗教家にしてはじめて味わい得られる種類のものであったろう。

   三

 アインシュタインの人生観はわれわれの知りたいと願うところである。しかし彼自身の筆によらないかぎり、その一斑いっぱんをもうかがうことはおそらく不可能なことに相違ない。彼の会話の断片をもとにしたジャーナリストの評論や、またそれの下手な受け売りにどれだけの信用がおけるかは疑問である。ただ、煙のあがるところに火があるというあまりあてにならない非科学的法則を頼みにして、少しばかりの材料をここに紹介する。
 彼の人間に対する態度は、博愛的・人道的のものであるらしい。彼の犀利さいりな眼にはおそらく人間のあらゆる偏見や痴愚ちぐが眼につきすぎてこまるだろうということは想像するにかたくない。まれに彼の口からもれる辛辣しんらつ諧謔かいぎゃくは、あきらかにそれを語るものである。弱点を見破みやぶる眼力はニーチェと同じ程度かもしれない。しかし、ニーチェを評してギラギラしていると言った彼は、これらの弱点に対してかなり気の長い寛容を示している。迫害者に対してはつねに受動的であり、教えを乞う者にはどんなバカな質問にでもまじめに親切に答えている。
 知能の世界においての貴族である彼は、社会の一員としては生粋きっすいのデモクラットである。国家というものは、彼にとってはそれ自身が目的でも何でもない。金の力も無論なんでもない。そうかといって彼はありふれの社会主義者でもなければ共産党でもない。彼の説だというのによれば、社会の祝福が単に制度をどうしてみたところでそれで永久的に得られるものではない。ただ、めいめいの我欲の節制と相互の人間愛によってのみ理想の社会に到達することができるというのであるらしい。
 もちろん彼は世界平和の渇望かつぼう者である。しかし、その平和を得るためにはかならずしも異種の民族の特徴を減却げんきゃくしなくてもいいという考えだそうである。ユダヤ民族を集合して国土を立てようというザイオニズム〔Zionism、シオニズム。の主張者としてさもありそうなことである。桑木理学博士桑木くわき�雄あやおがかつて彼をベルンにたずねた時に、東洋は東洋で別種の文化が発達しているのはおもしろい、といったようなことを話したそうである。この点でも彼は一種のレラティヴィスト〔相対主義者。であるともいわれよう。それにしても彼が幼年時代から全盛時代の今日までに、盲目的な不正当なショーヴィニズムから受けた迫害がいかに彼の思想に影響しているかは、あるいは彼自身にも判断しがたい機微な問題であろう。
 桑木博士との対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間はもうすこし幸福だったろうというようなことがあったように記憶している。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮に同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれば、現在より多数の人間が生存し得られるかもしれないが、そうなったとした場合に、それがために人類の幸福が増すかどうかそれは疑問である」と言ったとある。ただこれだけの断片から彼の文化観を演繹えんえきするのは早計であろうが、少なくも彼が「石炭文明」の無条件な謳歌おうか者でないことだけは想像される。少なくも彼の頭が、鉄と石炭ばかりでつまっていない証拠にはなるかと思う。

 彼はまだこれからが働きざかりである。彼が重力の理論で手をまわさなかった電磁気論は、ワイル〔ヘルマン・ワイルか。によって彼の一般相対性原理の圏内に併合されたようである。これが成功であるとしても、まだ彼の目前には大きな問題が残されている。それはいわゆる「素量クアンタム〔quantum、量子。」の問題である。この問題にも彼は久しい前から手をつけている。今後、彼がこれをどう取り扱うかがなによりの見ものであろう。エディントンのいうところを聞くと、一般相対原理はほとんどすべてのものから絶対性を剥奪はくだつした。すべては観測者の尺度による。ただ一つ残されたものが「作用アクション」と称するものである。これだけが絶対不変な「純粋の数」である。素量説なるものはとりもなおさずこの作用に一定の単位があるという宣言にすぎない。この「純数」がおそらくある出来事の「確率プロバビリティ」と結びつけられるものであろうと言っている。これに対するアインシュタインの考えは、不幸にしていまだ知る機会を得ない。ただ、彼が昨年の五月、ライデンの大学で述べた講演の終わりのほうに、「素量説としてまとめられた事実が、あるいは『力のフェルド』の理論に越えがたい限定を与えることになるかもしれない」と言っている。この謎のような言葉の解釈を彼自身の口から聞くことのできる日がくれば、それは物理学の歴史でおそらくもっとも記念すべき日の一つになるかもしれない。
(大正十年(一九二一)十月『改造』



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「改造」
   1921(大正10)年10月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
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相対性原理側面観そくめんかん

寺田寅彦


   一

 世間ではもちろん、専門の学生の間でも、またどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」ということに相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いて、そのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜けんそんないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事にいそがしくて実際ひまのない人もあるだろうし、また、徹底的専門主義の門戸に閉じこもって純潔を保つ人もあるだろうし、世はさまざまである。アインシュタイン自身も、「自分の一般原理を理解しうる人は世界に一ダースとはいないだろう」というような意味のことを公言したと伝えられている。そしてこの言葉もまた人さまざまにいろいろに解釈され、もてはやされている。
 しかし、この「理解」という文字の意味がはっきりしない以上は、「理解しにくい」という言詞げんしの意味もきわめて漠然ばくぜんとしたものである。とりようによっては、どうにでも取られる。
 もっとも科学上の理論にかぎらず、理解ということはいつでも容易なことでない。たとえばわれわれの子どもがわれわれに向かって言うことでも、それからその子どものほんとうの心持ちをくみとる程度まで理解するのはかならずしも容易なことではない。これを充分に理解するためには、その子どもをしてそういう言辞げんじを言わしむるようになった、必然な沿革や環境や与件を知悉ちしつしなければならない。それを知らなければ畢竟ひっきょう無理解・没分暁ぼつぶんぎょう親爺おやじたることをまぬがれがたいかもしれない。ましてや内部生活の疎隔そかくした他人はなおさらのことである。
 科学上の、一見簡単明瞭めいりょうなように見える命題でもやはり、ほんとうの理解は存外困難である。たとえばニュートンの運動の方則ほうそくというものがある。これは中学校の教科書にでも載せられていて、年のゆかない中学生はともかくもすでにこれを「理解」することを要求されている。高等学校ではさらにくわしくくり返して第二段の「理解」を授けられる。大学に入って物理学を専攻する人はさらに深き第三段、第四段の「理解」に進むべき手はずになっている。マッハの『力学メヒャニーク〔Mechanics。』一巻でも読破して、多少自分の批評的な目をはたらかせてみて、はじめていくらか「理解」らしい理解が芽を吹いてくる。しかし、よくよく考えてみると、それではまだ充分だろうとは思われない。
 科学上の知識の真価を知るには、科学だけを知ったのでは不充分であることはもちろんである。外国へ出てみなければ祖国のことがわからないように、あらゆる非科学、ことに形而上学けいじじょうがくのようなものと対照し、また認識論というような鏡に照らして批評的に見たうえでなければ科学はほんとうには「理解」されるはずがない。しかしそういう一般的な問題は別として、ここで例にとったニュートンの方則ほうそくの場合について物理学の範囲内だけで考えてみても、結局、ニュートン自身が彼自身の方則ほうそくを理解していなかったというパラドックスに逢着ほうちゃくする。なんとなれば彼の方則ほうそくがいかなるものかを了解することは、相対性理論というものの出現によってはじめて可能になったからである。こういう意味でいえば、ニュートン以来彼の方則ほうそくを理解し得たと自信していた人はことごとく「理解していなかった」人であって、かえってこの方則に不満を感じ理解の困難に悩んでいたきわめて少数の人たちがじつは比較的よく理解しているほうの側に属していたのかもしれない。アインシュタインにいたってはじめてこの難点があきらかにされたとすれば、彼は少なくもニュートンの方則ほうそくを理解することにおいて第一人者であると言わなければならない。これと同じ論法で押していくと、結局、アインシュタイン自身もまだ徹底的には相対性原理を理解し得ないのかもしれないということになる。
 こういうふうに考えてくると、わたしには、冒頭に掲げたアインシュタインの言詞げんしがなんとなく一種風刺的な意味のニュアンスをおびて耳に響く。
 思うに一般相対性原理の長所と同時にまたいくらかの短所があるとすれば、いちばん痛切にそれを感じているのはアインシュタイン自身ではあるまいか。おそらく聡明そうめいな彼の目には、なおきたらない点、補充を要する点がいくらもありはしないかということは浅学せんがくな後輩のわれわれにも想像されないことはない。
 自己批評の鋭いこの人自身に不満足と感ぜらるる点があると仮定する。そしてそれらの点までもなんらの批評なしに一般多数に承認され賛美されることがあると仮定したときに、それにことごとく満足してすこしもくすぐったさを感じないほどに冷静を欠いた人とはどうしても私には思われない。
 それゆえに私は彼の言葉から、一種の風刺的な意味のニュアンスを感じる。私にはそれが自負の言葉だとはどうしても思われなくて、かえってくすぐったさに悩むあまりの愚痴ぐちのようにも聞きなされる。これはあまりの曲解かもしれない。しかしそういう解釈も可能ではある。

   二

 科学上の学説、ことに一人の生きているアダムとイヴの後裔こうえいたる学者の仕事としての学説に、絶対的「完全」ということが厳密な意味で望まれうることであるかどうか。これもほとんど問題にならないほど明白に不可能なことである。ただ、学者自身の自己批評能力の程度に応じて、みずから認めて完全と「思う」ことはもちろん可能で、そして尋常一般におこなわれていることである。そう思いうる幸運な学者は、その仕事が自分で見て完全になるのを待って安心してこれを発表することができる。しかし厳密な意味の完全が不可能事であることを痛切にリアライズし得た不幸なる学者は、相対的完全以上の完全を期図することの不可能で無意義なことを知っていると同時に、自分の仕事の「完全の程度」に対してやや判然たる自覚を持つことが可能である。わたしの見るところでニュートンやアインシュタインはあきらかにこの後の部類に属する学者である。
 わたしは、ボルツマンやドルーデの自殺の原因が何であるかを知らない。しかし、彼らの死を思うたびに真摯しんしな学者の煩悶はんもんということを考えないことはない。
 学説を学ぶものにとってもそれの完全の程度を批判し不完全な点を認識するは、その学説を理解するためにまさにつとむべき必要条件の一つである。
 しかしここに誤解してならないことで、そしてややもすれば誤解されやすいことがある。すなわちそういう「不完全」があるということは、すべての人間の構成した学説に共通なほとんど本質的なことであって、しかも、それがあるためにただちにその学説が全滅するというような簡単なものとはかぎらないし、むしろそういう点を認めることがその学説の補填ほてんに対する階段と見なすべき場合の多いことである。そういう場合に、若干の欠点を指摘して残る大部分の長所までも葬り去らんとするがごとき態度をとる人もないことはない。アインシュタインの場合にもそういう人がないとはかぎらないようである。しかしそれは、いわゆる「あげあしり」の態度であって、まじめな学者の態度とは受けとられない。
「完全」でないことをもって学説の創設者をめるのは、完全でないことをもって人間に生まれたことを人間にめるに等しい。
 人間を理解し人間を向上させるためには、盲目的に嘆美たんびしてはならないし、没分暁ぼつぶんぎょうに非難してもならないと同様に、一つの学説を理解するためには、その短所を認めることが必要であると同時に、そのためにせっかくの長所を見のがしてはならない。これはあまりに自明的なことであるにかかわらず、もっとも冷静なるべき科学者自身すら往々にして忘れがちなことである。
 少なくも相対性原理は、たとえいかなる不備の点が今後発見され、また、たとえいかなる実験的事実がこの説に不利なように見えても、それがために根本的に否定されうべき性質のものではないと私は信じている。

   三

 相対性原理の比較的に深い理解を得るためには、その数学的系統を理解することはおそらく必要である。しかしそれは必要であるが、それだけではまだ「必要かつ充分な条件」にならないことも明白である。数学だけは理解しても、少なくもアインシュタインの把握はあくしているごとくこの原理を「つかむ」ことはかならずしも可能でない。
 また一方において、数学の複雑な式の開展かいてんをじゅうぶんに理解しないで、しかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んできた思考上の道程どうていを、かなりに誤らずに通覧することもかならずしも不可能ではないのである。不可能でないのみならず、ある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易なことかもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味がんみした後に、まず特別相対性理論に耳をかたむけるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていないかぎり、この原理の根本仮定の余儀なさ、あるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけにはいくまいと思う。ある人はコロンブスの卵を想起するであろう。卵を直立させるにはからを破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく、絶対空間とエーテルのからくだいたまでである。
 からをくだいて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わうことができて、そうして客観的実在の一つの相をここに認めることができたとすれば、その人は少なくとも非専門家としてすでにこの原理をある度まで「理解」したものといっても決して不倫ではない。
 特別論の一般を知った後に、それが等速運動のみに関するという点に一種のものたりなさ、あるいは不安を感じる人は、すでに立派に一般論の門戸に導かれるべき資格をそなえている。そしてそこにふたたび第二のコロンブスの卵に逢着ほうちゃくするだろう。
 本論に入ってからのやや複雑をまぬがれない道筋でも、専門家以外には味わわれないようなものばかりであるとは思われない。もし、どうしてもわからないものであったら、アインシュタイン自身がその通俗講義を書くようなことはおそらくなかったに相違ない。私はどんなむつかしい理論でもそれが「物理学」に関したものであるかぎり、素人しろうとにどうしてもなんらの説明をもすることもできないほどにむつかしいものがあるとは信じられない。もしあったら、それは少なくも物理でないといったような心持ちがする。
 少なくもわれわれ素人しろうとがベートーヴェンの曲をあじわうと類した程度に、相対性原理をあじわうことはだれにも不可能ではなく、またそういう程度にあじわうことがそれほど悪いことでもないと思う。

   四

 この原理を物理学上の一原理として見たときの「妙趣みょうしゅ」あるいは「価値」が、主としてどこにあるか。それが数式にあるか、考えの運び方にあるか。これもほとんど問題にならないほどあきらかであるように私は思う。数式は彼の考えを進めるものに使われた必要な道具であった。その道具を彼は遠慮なく昔の数学者や友人のところから借りてきた。これはまさに人の知るとおりである。その道具の使い方がどこまで成功しているかはおそらく未決の問題ではあるまいか。それを決定するのは専門家の仕事である。そしてそれは、かならずしも第二のアインシュタインを要しない仕事である。しかし一人のアインシュタインを必要とした仕事の中核真髄しんずいは、この道具を必要とするような羽目はめにおちいるような思考の道筋に探りあてたこと、それからどうしてもこの道具を必要とするということを看破かんぱしたことである。これだけの功績はどう考えてもいなむことはできないと思う。たとえ彼の理論の運命が今後どうあろうとも、これだけは確かなことである。そこに彼の頭脳の偉大さを認めぬわけにはゆくまいと思う。
 ナポレオンが運命の夕べに南大西洋の孤島にさびしく終わっても、その偉大さに変わりはなかった。しかし、アインシュタインのような仕事にそのような夕べがあろうとは想像されない。科学上の仕事は、砂上の家のような征服者の栄華の夢とは比較ができない。
 しかしまた考えてみると、一般相対性理論の実験的証左しょうさということは厳密にいえば至難な事業である。たとえ遊星運動の説明に関する従来の困難がかなりまで除却じょきゃくされ、日食にっしょく観測の結果がかなりまで彼の説に有利であっても、それはこの理論の確実性をしこそすれ、厳密な意味でその絶対唯一性を決定するに充分なものであるとはにわかには信じられない。スペクトル線の変位のごときはなおさら決定的証左しょうさとしての価値にかなりの疑問があるように見える。
 わたしは科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終・無限の道程どうていをたどり行く旅人として見たときに、プトレミー〔プトレマイオス。もコペルニクスもガリレイもニュートンも、今のアインシュタインも結局は、ただ同じ旅人の異なる時の姿として目にうつる。このてなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸ひがんに到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは、わたしには困難である。
 それでわたしは、現在あるがままの相対性理論がどこまで保存されるかということは一つの疑問になりうると思う。しかしこれに反して、どうしても疑問にならない唯一の確実な事実は、アインシュタインの相対性原理というものが現われ、研究され、少なくも大部分の当代の学界に明白な存在を認められたという事実である。これだけの事実はいかなる疑いぶかい人でも認めないわけにはいかないだろうと思う。
 これはしかし、大きな事実ではあるまいか。科学の学説としてこれ以上を望むことがはたして可能であるかどうか、少なくも従来の歴史はあきらかにそういう期待を否定している。
 こういうわけで私は、アインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さをきずつけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。
 もし、こういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するようなことが可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。
 いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子どもの築いた砂の城郭じょうかくのような物ではない。せまく科学とかぎらず、一般文化史上にひときわ目立って見える堅固けんごな石造の一里塚いちりづかである。

   五

 相対性原理に対する反対論というものが往々に見受けられる。しかし、わたしの知り得たかぎりの範囲では、この原理の存在をあやうくするほどに有力なものはないように思われる。
 反対論者の反対のおもなる「動機」は、だんだんせんじつめると、結局この原理の基礎的な仮定や概念があまりはなはだしく吾人ごじんの常識にそむくという一事に帰着するように見える。
 科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。したがって科学上の問題にくらべてむつかしさの程度が一段上にある。
 しかし、少なくも歴史的に見たときに従来の物理的科学ではいわゆる常識なるものは、論理的系統の整合のためには、しげなくとはいわれないまでも、少なくもやむをえず犠牲として棄却ききゃくされ、あるいは改造されてきた。
 太陽が動かないで地球が運行しているということ、地球が球形で対蹠点たいせきてんの住民がさかさにぶらさがっているということ、こういう事がいかに当時の常識に反していたかは想像するにかたくない。
 非ユークリッド幾何学の出発点がいかに常識的におかしく思われても、これを否定すべき論理は見つからない。こういう場合にわれわれのとるべき道は二つある。すなわち常識を捨てるか、論理を捨てるかである。数学者はなんの躊躇ちゅうちょもなく常識を投げ出して論理をとる。物理学者は、たとえいやいやながらでもこの例にならわなければならない。
 物理学の対象は客観的実在である。そういうものの存在はもちろん仮定であろうが、それを出発点として成立した物理学の学説は、畢竟ひっきょう、比較的少数の仮定から論理的演繹えんえきによって「観測されうる事象」を「説明」する系統である。この目的が達せられうる程度によって学説の相対的価値が定まる。この目的がかなり立派に達せられて、しかも根本仮定が非常識だというばあいに常識を捨てるか学説を捨てるかが問題である。現在あるところの物理学は後者を選んで進んできた一つの系統である。
 わたしは常識に重きを置く別種の系統の成立不可能を確実に証明するだけの根拠を持たない。しかしもし、それが成立したと仮定したらどうだろう。それは少なくも今日のいわゆる物理学とはぜんぜん別種のものである。そうしてそれが成立したとしても、それが現在物理学の存在を否定することにはなり得ないと思う。そして最後に二者の優劣を批判するものがあれば、それは科学以外の世界に求めなければならない。

   六

 自然の森羅しんら万象ばんしょうがただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるということは、あまりにえがたいさびしさであるとたんじる詩人があるかもしれない。しかしこれは、あきらかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌うことをやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。
 今のところ私は、すべての世人が科学系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣きしゅを認めなければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時には人並ひとなみに花を見てよろこび、月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月、その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさである。どこをつかまえるようもない泡沫ほうまつの海におぼれんとするときに、わたしの手にふれるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。
 こういう意味でわたしは、同じような不安と要求を持っている多くの人に、理学の系統の中でもことにアインシュタインの理論のごときすぐれたものの研究をすすめたい。多くの人は一見乾燥なように見える抽象的系統の中に花鳥風月の美しさとはすこし種類のちがった、もうすこし歯ごたえのある美しさを、把握はあくしないまでも少なくも瞥見べっけんすることができるだろうと思う。
(大正十一年(一九二二)十二月、『改造』



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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アインシュタイン

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)估価《こか》する

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)格別|厭《いや》な

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)えらい[#「えらい」に傍点

*:注釈記号
 (底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)ゴットフリード・ケラー*、
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         一

 この間日本へ立寄ったバートランド・ラッセルが、「今世界中で一番えらい人間はアインシュタインとレニンだ」というような意味の事を誰かに話したそうである。この「えらい[#「えらい」に傍点]」というのがどういう意味のえらいのであるかが聞きたいのであったが、遺憾ながらラッセルの使った原語を聞き洩らした。
 なるほど二人ともに革命家である。ただレニンの仕事はどこまでが成効であるか失敗であるか、おそらくはこれは誰にもよく分らないだろうが、アインシュタインの仕事は少なくも大部分たしかに成効である。これについては世界中の信用のある学者の最大多数が裏書をしている。仕事が科学上の事であるだけにその成果は極めて鮮明であり、従ってそれを仕遂げた人の科学者としてのえらさもまたそれだけはっきりしている。
 レニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさ[#「えらさ」に傍点]は必ずしも目前の成果のみで計量する事が出来ない。それにもかかわらずレニンのえらさ[#「えらさ」に傍点]は一般の世人に分りやすい種類のものである。取扱っているものが人間の社会で、使っているものが兵隊や金である。いずれも科学的には訳の分らないものであるが、ただ世人の生活に直接なものであるだけに、事柄が誰にも分りやすいように思われる。
 これに反してアインシュタインの取扱った対象は抽象された時と空間であって、使った道具は数学である。すべてが論理的に明瞭なものであるにかかわらず、使っている「国語」が世人に親しくないために、その国語に熟しない人には容易に食い付けない。それで彼の仕事を正当に理解し、彼のえらさ[#「えらさ」に傍点]を如実に估価《こか》するには、一通りの数学的素養のある人でもちょっと骨が折れる。
 到底分らないような複雑な事は世人に分りやすく、比較的簡単明瞭な事の方が却《かえ》って分りにくいというおかしな結論になる訳であるが、これは「分る」という言葉の意味の使い分けである事は勿論である。
 アインシュタインの仕事の偉大なものであり、彼の頭脳が飛び離れてえらいという事は早くから一部の学者の間には認められていた。しかし一般世間に持《も》て囃《はや》されるようになったのは昨今の事である。遠い恒星の光が太陽の近くを通過する際に、それが重力の場の影響のために極めてわずか曲るだろうという、誰も思いもかけなかった事実を、彼の理論の必然の結果として鉛筆のさきで割り出し、それを予言した。それが云わば敵国の英国の学者の日蝕観測の結果からある程度まで確かめられたので、事柄は世人の眼に一種のロマンチックな色彩を帯びるようになって来た。そして人々はあたかも急に天から異人が降って来たかのように驚異の眼《まなこ》を彼の身辺に集注した。
 彼の理論、ことに重力に関する新しい理論の実験的証左は、それがいずれも極めて機微なものであるだけにまだ極度まで完全に確定されたとは云われないかもしれない。しかし万一将来の実験や観測の結果が、彼の現在の理論に多少でも不利なような事があったとしても、彼の物理学者としてのえらさにはそのために少しの疵《きず》もつかないだろうという事は、彼の仕事の筋道を一通りでも見て通った人の等しく承認しなければならない事であろう。
 物理学の基礎になっている力学の根本に或る弱点のあるという事は早くから認められていた。しかし彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかが分らなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協に馴れて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所に触れないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際差支えがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象はこの不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件の下に驚くべき快速度で運動する事も分って来た。こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾《はや》くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な時と空間の概念の中に潜伏している事に眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間を取って捨てて、新しい健全なものをその代りに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈《びょうそう》はひとりでに綺麗に消滅した。
 病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際《てぎわ》は第二のえらさでなければならない。
 しかし病気はそれだけではなかった。第一の手術で「速度の相対性」を片付けると、必然の成行きとして「重力と加速度の問題」が起って来た。この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたために一層鋭く感ぜられて来た。しかしこの方の手術は一層面倒なものであった。第一に手術に使った在来の道具はもう役に立たなかった。吾等の祖先から二千年来使い馴れたユークリッド幾何学では始末が付かなかった。その代りになるべき新しい利器を求めている彼の手に触れたのは、前世紀の中頃に数学者リーマンが、そのような応用とは何の関係もなしに純粋な数学上の理論的の仕事として残しておいた遺物であった。これを錬《きた》え直して造った新しい鋭利なメスで、数千年来人間の脳の中にへばり付いていたいわゆる常識的な時空の観念を悉皆《しっかい》削り取った。そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古い力学の暗礁であった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対する驚くべき予言は的中した。もう一つの予言はどうなるか分らないが、ともかくも今まで片側だけしか見る事の出来なかった世界は、これを掌上に置いて意のままに任意の側から観る事が出来るようになった。観者に関するあらゆる絶対性を打破する事によって現出された客観的実在は、ある意味で却って絶対なものになったと云ってもよい。
 この仕事を仕遂げるために必要であった彼の徹底的な自信はあらゆる困難を凌駕《りょうが》させたように見える。これも一つのえらさである。あらゆる直接経験から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象的な数学の枠に万象の実世界を寸分の隙間もなく切りはめた鮮やかな手際は物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えなければならない。
 こういう飛びぬけた頭脳を持っていて、そして比較的短い年月の間にこれだけの仕事を仕遂げるだけの活力を持っている人間の、「人」としての生立《おいた》ちや、日常生活や、環境は多くの人の知りたいと思うところであろう。
 それで私は有り合せの手近な材料から知り得られるだけの事をここに書き並べて、この学者の面影を朧気《おぼろげ》にでも紹介してみたいと思うのである。主な材料はモスコフスキーの著書に拠る外はなかった。要するに素人画家《しろうとがか》のスケッチのようなものだと思って読んでもらいたいのである。

         二

 アルベルト・アインシュタインは一八七九年三月の出生である。日本ならば明治十二年卯歳の生れで数え年四十三(大正十年)になる訳である。生れた場所は南ドイツでドナウの流れに沿うた小都市ウルムである。今のドイツで一番高いゴチックの寺塔のあるという外には格別世界に誇るべき何物をも有《も》たないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事にある影響を与えたという事が彼自身の口から伝わっている。
 丁度この頃、彼の父は家族を挙げてミュンヘンに移転した。今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。
 彼の家族にユダヤ人種の血が流れているという事は注目すべき事である。後年の彼の仕事や、社会人生観には、この事実と思い合せて初めて了解される点が少なくないように思う。それはとにかく彼がミュンヘンの小学で受けたローマカトリックの教義と家庭におけるユダヤ教の教義との相対的な矛盾――因襲的な独断と独断の背馳《はいち》が彼の幼い心にどのような反応を起させたか、これも本人に聞いてみたい問題である。
 この時代の彼の外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを云う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口重であった。八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れの観があった。ただその頃から真と正義に対する極端な偏執が目に立った。それで人々は「馬鹿正直《ビーダーマイアー》」という渾名《あだな》を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。
 音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌っていたが、恥ずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。腕白な遊戯などから遠ざかった独りぼっちの子供の内省的な傾向がここにも認められる。
 後年まで彼につきまとったユダヤ人に対するショーヴィニズムの迫害は、もうこの頃から彼の幼い心に小さな波風を立て初めたらしい。そしてその不正義に対する反抗心が彼の性格に何かの痕跡を残さない訳には行かなかったろうと思われる。「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼等は論理というものに力瘤《ちからこぶ》を入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくない人でも、論理の前には屈伏しなければならない事を知っているから。」こう云ったニーチェのにがにがしい言葉が今更に強く吾々の耳に響くように思われる。
 彼の学校成績はあまりよくなかった。特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方[#「考え方」に傍点]が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とは一体どんなものかと質問した事があった。その時に伯父さんが「代数というのは、あれは不精もののずるい計算術である。知らない答をXと名づけて、そしてそれを知っているような顔をして取扱って、それと知っているものとの関係式を書く。そこからこのXを定めるという方法だ」と云って聞かせた。この剽軽《ひょうきん》な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々の代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打《ぶ》つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまいには遂にその証明に成効した。論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。
 しかし中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家族一同がイタリアへ移住する事になったのである。彼等はミランに落着いた。そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六歳の少年は既にこの時分から「運動体の光学」に眼を付け初めていたという事である。後年世界を驚かした仕事はもうこの時から双葉《ふたば》を出し初めていたのである。
 彼の公人としての生涯の望みは教員になる事であった。それでチューリヒのポリテキニクムの師範科のような部門へ入学して十七歳から二十一歳まで勉強した。卒業後彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔になって思わしい口が得られなかった。しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生があって、その後一九〇三年にこの人と結婚したが数年後に離婚した。ずっと後に従妹《いとこ》のエルゼ・アインシュタインを迎えて幸福な家庭を作っているという事である。
 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの周旋《しゅうせん》で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査をやっていたという事は面白い事である。彼自身の言葉によるとこの職務にも相当な興味をもって働いていたようである。
 一九〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つでその外に学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。
 ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇《ちゅうちょ》していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘《しょうへい》した。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦の始まった一九一四年の春ベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。
 ベルリン大学にける彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅《うち》へ帰ると世界中の学者や素人《しろうと》から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別|厭《いや》な顔をしないで気永に親切に誰にでも満足を与えているようである。
 彼の名声が急に揚がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分らない、しかし多くのドイツ人には分りやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇《むやみ》な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲げた。その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名も交じっていた。
 その後ナウハイムで科学者大会のあった時、特にその中の一日を相対論の論評にあてがった。その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュタインは極めて呑気《のんき》な顔をしていた。レナードが原理の非難を述べている間に、かつてフィルハルモニーで彼の人身攻撃をやった男が後ろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードの急《せ》き込んだ質問は、冷静な、しかも鋭い答弁で軽く受け流された。
 レナード「もし実際そんな重力の『場』があるなら、何かもっと見やすい[#「見やすい」に傍点](anschaulich)現象を生じそうなものではないか。」
 アインシュタイン「見やすい[#「見やすい」に傍点]とか見やすくない[#「見やすくない」に傍点]とかいう事は時代とともに変るもので、云わば時の函数であります。ガリレーの時代の人には彼の力学はよほど見やすくないものだったでしょう。いわゆる見やすい観念などと称するものは、例の『常識』『健全な理知』(gesunder Menschenverstand)と称するものと同様にずいぶん穴だらけなものかと思います。」
 この返答で聴衆が笑い出したと伝えられている。この討論は到底相撲にならないで終結したらしい。
 今年は米国へ招かれて講演に行った。その帰りに英国でも講演をやった。その当時の彼の地の新聞は彼の風采と講演ぶりを次のように伝えている。
「……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳《くしけず》らない団塊である。額には皺《しわ》、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽《ひ》き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見透す詩人創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。」
「彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」
「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜《けんそん》で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬《またた》く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」
「不思議な、人を牽《ひ》き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学が出来ると同じ程度にヴァイオリンが出来る。充分な情緒と了解をもってモザルト、シューマン、バッハなどを演奏する……。」
 私が初めてアインシュタインの写真を見たのはK君のところでであった。その時に私達は「この顔は夢を見る芸術家の顔だ」というような事を話し合った。ところがこの英国の新聞記者も同じような事を云っているのを見ると、この印象はいくらか共通なものかもしれない。実際彼のような破天荒の仕事は、「夢」を見ない種類の人には思い付きそうに思われない。しかしただ夢を見るだけでは物にならない。夢の国に論理の橋を架けたのが彼の仕事であった。
 アメリカのスロッソンという新聞記者のかいた書物の口絵にある写真はちょっとちがった感じを与える。どこか皮肉な、今にも例の人を笑わせる顔をしそうなところがある。また最近にタイムス週刊の画報に出た、彼がキングス・カレッジで講演をしている横顔もちょっと変っている。顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼に付く。
 アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評であるらしい。かなりテヒニークの六《むつ》ヶしいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解をもった芸術的の演奏が出来るらしい。
 それから、子供の時に唱歌をやったと同じように、時々ピアノの鍵盤の前に坐って即興的のファンタジーをやるのが人知れぬ楽しみの一つだそうである。この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。
 音楽の中では古典的なものを好むそうである。特にゴチックの建築に譬《たと》えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジークの類を好むという事や、ショパン、シューマンその他|浪漫派《ろうまんは》の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しない事なども、何となく彼の面目を想像させる。
 絵画には全く無関心だそうである。四元の世界を眺めている彼には二元の芸術はあるいはあまりに児戯に近いかもしれない。万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。
 三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。
 そう云えば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものとも云われない事はない。この芸術には一種の「運動」が本質的なものである。ただその時とともに運動する「もの[#「もの」に傍点]」と空間とが物質的でないだけである。
 文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。シェークスピアを尊敬してゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々の意味で吾々には面白く感じられる。
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* ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生れで、描写の細かい、しかし抒情的気分に富んだ写実小説家だそうである。
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 哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これはそうありそうな事である。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として推賞するのだそうである。しかしニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)と云っている。
 彼が一種の煙霞癖《えんかへき》をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨《ほうこう》するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳裡《のうり》に起っているかという事は誰にも分らない。
 勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないと云われている。尤も彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。
 彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中に折々見受けるような金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著者の翻訳者には印税のかなりな分け前を要求して来るというような噂も聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には別にそう不思議とは思われない。特に彼の人種の事までも取り立てて考えるほどの事ではないと思われる。
 夜はよく眠るそうである。神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外六ケしい事であるに相違ない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、そして仕事の事は全く忘れて安眠が出来ると彼自身人に話している。ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはゆかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したと云っている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の心持はおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。

         三

 アインシュタインの人生観は吾々の知りたいと願うところである。しかし彼自身の筆によらない限りその一斑《いっぱん》をも窺《うかが》う事はおそらく不可能な事に相違ない。彼の会話の断片を基にしたジャーナリストの評論や、またそれの下手な受売りにどれだけの信用が措《お》けるかは疑問である。ただ煙の上がる処に火があるというあまりあてにならない非科学的法則を頼みにして、少しばかりの材料をここに紹介する。
 彼の人間に対する態度は博愛的人道的のものであるらしい。彼の犀利《さいり》な眼にはおそらく人間のあらゆる偏見や痴愚が眼につき過ぎて困るだろうという事は想像するに難くない。稀に彼の口から洩れる辛辣《しんらつ》な諧謔《かいぎゃく》は明らかにそれを語るものである。弱点を見破る眼力はニーチェと同じ程度かもしれない。しかしニーチェを評してギラギラしていると云った彼はこれらの弱点に対してかなり気の永い寛容を示している。迫害者に対しては常に受動的であり、教えを乞う者にはどんな馬鹿な質問にでも真面目に親切に答えている。
 智能の世界においての貴族である彼は社会の一員としては生粋《きっすい》のデモクラットである。国家というものは、彼にとってはそれ自身が目的でも何でもない。金の力も無論なんでもない。そうかと云って彼は有りふれの社会主義者でもなければ共産党でもない。彼の説だというのに拠れば、社会の祝福が単に制度をどうしてみたところでそれで永久的に得られるものではない。ただ銘々の我慾の節制と相互の人間愛によってのみ理想の社会に到達する事が出来るというのであるらしい。
 勿論彼は世界平和の渇望者である。しかしその平和を得るためには必ずしも異種の民族の特徴を減却しなくてもいいという考えだそうである。ユダヤ民族を集合して国土を立てようというザイオニズムの主張者としてさもありそうな事である。桑木理学博士がかつて彼をベルンに尋ねた時に、東洋は東洋で別種の文化が発達しているのは面白いといったような事を話したそうである。この点でも彼は一種のレラチヴィストであるとも云われよう。それにしても彼が幼年時代から全盛時代の今日までに、盲目的な不正当なショーヴィニズムから受けた迫害が如何に彼の思想に影響しているかは、あるいは彼自身にも判断し難い機微な問題であろう。
 桑木博士と対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間はもう少し幸福だったろうというような事があったように記憶している。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれば、現在より多数の人間が生存し得られるかもしれないが、そうなったとした場合に、それがために人類の幸福が増すかどうかそれは疑問である」と云ったとある。ただこれだけの断片から彼の文化観を演繹《えんえき》するのは早計であろうが、少なくも彼が「石炭文明」の無条件な謳歌者でない事だけは想像される。少なくも彼の頭が鉄と石炭ばかりで詰まっていない証拠にはなるかと思う。

 彼はまだこれからが働き盛りである。彼が重力の理論で手を廻さなかった電磁気論は、ワイルによって彼の一般相対性原理の圏内に併合されたようである。これが成効であるとしても、まだ彼の目前には大きな問題が残されている。それはいわゆる「素量《クアンタム》」の問題である。この問題にも彼は久しい前から手を付けている。今後彼がこれをどう取り扱うかが何よりの見ものであろう。エジントンの云うところを聞くと、一般相対原理はほとんどすべてのものから絶対性を剥奪した。すべては観測者の尺度による。ただ一つ残されたものが「作用《アクション》」と称するものである。これだけが絶対不変な「純粋の数」である。素量説なるものは取りも直さずこの作用に一定の単位があるという宣言に過ぎない。この「純数」がおそらくある出来事の「確率《プロバビリティ》」と結び付けられるものであろうと云っている。これに対するアインシュタインの考えは不幸にしていまだ知る機会を得ない。ただ彼が昨年の五月ライデンの大学で述べた講演の終りの方に、「素量説として纏《まと》められた事実があるいは『力の場《フェルド》』の理論に越え難い限定を与える事になるかもしれない」と云っている。この謎のような言葉の解釈を彼自身の口から聞く事の出来る日が来れば、それは物理学の歴史でおそらく最も記念すべき日の一つになるかもしれない。
[#地から1字上げ](大正十年十月『改造』)



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「改造」
   1921(大正10)年10月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



相対性原理側面観

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)謙遜《けんそん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無理解|没分暁《ぼつぶんぎょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十一年十二月、改造)
-------------------------------------------------------

       一

 世間ではもちろん、専門の学生の間でもまたどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」という事に相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いてそのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜《けんそん》ないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事に忙しくて実際暇のない人もあるだろうし、また徹底的専門主義の門戸に閉じこもって純潔を保つ人もあるだろうし、世はさまざまである。アインシュタイン自身も「自分の一般原理を理解しうる人は世界に一ダースとはいないだろう」というような意味の事を公言したと伝えられている。そしてこの言葉もまた人さまざまにいろいろに解釈されもてはやされている。
 しかしこの「理解」という文字の意味がはっきりしない以上は「理解しにくい」という言詞の意味もきわめて漠然《ばくぜん》としたものである。とりようによっては、どうにでも取られる。
 もっとも科学上の理論に限らず理解という事はいつでも容易なことでない。たとえばわれわれの子供がわれわれに向かって言う事でも、それからその子供のほんとうの心持ちをくみ取る程度まで理解するのは必ずしも容易な事ではない。これを充分に理解するためには、その子供をしてそういう言辞を言わしむるようになった必然な沿革や環境や与件を知悉《ちしつ》しなければならない。それを知らなければ畢竟《ひっきょう》無理解|没分暁《ぼつぶんぎょう》の親爺《おやじ》たる事を免れ難いかもしれない。ましてや内部生活の疎隔した他人はなおさらの事である。
 科学上の、一見簡単|明瞭《めいりょう》なように見える命題でもやはりほんとうの理解は存外困難である。たとえばニュートンの運動の方則というものがある。これは中学校の教科書にでも載せられていて、年のゆかない中学生はともかくもすでにこれを「理解」する事を要求されている。高等学校ではさらに詳しく繰り返して第二段の「理解」を授けられる。大学にはいって物理学を専攻する人はさらに深き第三段第四段の「理解」に進むべき手はずになっている。マッハの「力学《メヒャニーク》」一巻でも読破して多少自分の批評的な目を働かせてみて始めていくらか「理解」らしい理解が芽を吹いて来る。しかしよくよく考えてみるとそれではまだ充分だろうとは思われない。
 科学上の知識の真価を知るには科学だけを知ったのでは不充分である事はもちろんである。外国へ出てみなければ祖国の事がわからないように、あらゆる非科学ことに形而上学《けいじじょうがく》のようなものと対照し、また認識論というような鏡に照らして批評的に見た上でなければ科学はほんとうには「理解」されるはずがない。しかしそういう一般的な問題は別として、ここで例にとったニュートンの方則の場合について物理学の範囲内だけで考えてみても、結局ニュートン自身が彼自身の方則を理解していなかったというパラドックスに逢着《ほうちゃく》する。なんとなれば彼の方則がいかなるものかを了解する事は、相対性理論というものの出現によって始めて可能になったからである。こういう意味で言えば、ニュートン以来彼の方則を理解し得たと自信していた人はことごとく「理解していなかった」人であって、かえってこの方則に不満を感じ理解の困難に悩んでいたきわめて少数の人たちが実は比較的よく理解しているほうの側に属していたのかもしれない。アインシュタインに至って始めてこの難点が明らかにされたとすれば、彼は少なくもニュートンの方則を理解する事において第一人者であると言わなければならない。これと同じ論法で押して行くと結局アインシュタイン自身もまだ徹底的には相対性原理を理解し得ないのかもしれないという事になる。
 こういうふうに考えて来ると私には冒頭に掲げたアインシュタインの言詞がなんとなく一種風刺的な意味のニュアンスを帯びて耳に響く。
 思うに一般相対性原理の長所と同時にまたいくらかの短所があるとすれば、いちばん痛切にそれを感じているのはアインシュタイン自身ではあるまいか。おそらく聡明《そうめい》な彼の目には、なお飽き足らない点、補充を要する点がいくらもありはしないかという事は浅学な後輩のわれわれにも想像されない事はない。
 自己批評の鋭いこの人自身に不満足と感ぜらるる点があると仮定する。そしてそれらの点までもなんらの批評なしに一般多数に承認され賛美される事があると仮定した時に、それにことごとく満足して少しもくすぐったさを感じないほどに冷静を欠いた人とはどうしても私には思われない。
 それゆえに私は彼の言葉から一種の風刺的な意味のニュアンスを感じる。私にはそれが自負の言葉だとはどうしても思われなくて、かえってくすぐったさに悩む余りの愚痴のようにも聞きなされる。これはあまりの曲解かもしれない。しかしそういう解釈も可能ではある。

       二

 科学上の学説、ことに一人の生きているアダムとイヴの後裔《こうえい》たる学者の仕事としての学説に、絶対的「完全」という事が厳密な意味で望まれうる事であるかどうか。これもほとんど問題にならないほど明白に不可能な事である。ただ学者自身の自己批評能力の程度に応じて、自ら認めて完全と「思う」事はもちろん可能で、そして尋常一般に行なわれている事である。そう思いうる幸運な学者は、その仕事が自分で見て完全になるのを待って安心してこれを発表する事ができる。しかし厳密な意味の完全が不可能事である事を痛切にリアライズし得た不幸なる学者は相対的完全以上の完全を期図する事の不可能で無意義な事を知っていると同時に、自分の仕事の「完全の程度」に対してやや判然たる自覚を持つ事が可能である。私の見るところでニュートンやアインシュタインは明らかにこの後の部類に属する学者である。
 私は、ボルツマンやドルーデの自殺の原因が何であるかを知らない。しかし彼らの死を思うたびに真摯《しんし》な学者の煩悶《はんもん》という事を考えない事はない。
 学説を学ぶものにとってもそれの完全の程度を批判し不完全な点を認識するは、その学説を理解するためにまさに努むべき必要条件の一つである。
 しかしここに誤解してならない事で、そしてややもすれば誤解されやすい事がある。すなわちそういう「不完全」があるという事は、すべての人間の構成した学説に共通なほとんど本質的な事であって、しかもそれがあるために直ちにその学説が全滅するというような簡単なものとは限らないし、むしろそういう点を認める事がその学説の補填《ほてん》に対する階段と見なすべき場合の多い事である。そういう場合に、若干の欠点を指摘して残る大部分の長所までも葬り去らんとするがごとき態度を取る人もない事はない。アインシュタインの場合にもそういう人がないとは限らないようである。しかしそれはいわゆる「揚げ足取り」の態度であって、まじめな学者の態度とは受け取られない。
「完全」でない事をもって学説の創設者を責めるのは、完全でない事をもって人間に生まれた事を人間に責めるに等しい。
 人間を理解し人間を向上させるためには、盲目的に嘆美してはならないし、没分暁に非難してもならないと同様に、一つの学説を理解するためには、その短所を認める事が必要であると同時に、そのためにせっかくの長所を見のがしてはならない。これはあまりに自明的な事であるにかかわらず、最も冷静なるべき科学者自身すら往々にして忘れがちな事である。
 少なくも相対性原理はたとえいかなる不備の点が今後発見され、またたとえいかなる実験的事実がこの説に不利なように見えても、それがために根本的に否定されうべき性質のものではないと私は信じている。

       三

 相対性原理の比較的に深い理解を得るためにはその数学的系統を理解する事はおそらく必要である。しかしそれは必要であるが、それだけではまだ「必要かつ充分な条件」にならない事も明白である。数学だけは理解しても、少なくもアインシュタインの把握《はあく》しているごとくこの原理を「つかむ」事は必ずしも可能でない。
 また一方において、数学の複雑な式の開展を充分に理解しないでしかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んで来た思考上の道程を、かなりに誤らずに通覧する事も必ずしも不可能ではないのである。不可能でないのみならずある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易な事かもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味《がんみ》した後にまず特別相対性理論に耳を傾けるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていない限り、この原理の根本仮定の余儀なさあるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけには行くまいと思う。ある人はコロンバスの卵を想起するであろう。卵を直立させるには殻《から》を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである。
 殻を砕いて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わう事ができて、そうして客観的実在の一つの相をここに認める事ができたとすれば、その人は少なくとも非専門家としてすでにこの原理をある度まで「理解」したものと言っても決して不倫ではない。
 特別論の一般を知った後にそれが等速運動のみに関するという点に一種の物足りなさあるいは不安を感じる人は、すでに立派に一般論の門戸に導かれるべき資格を備えている。そしてそこに再び第二のコロンバスの卵に逢着《ほうちゃく》するだろう。
 本論にはいってからのやや複雑を免れない道筋でも専門家以外には味わわれないようなものばかりであるとは思われない。もしどうしてもわからないものであったら、アインシュタイン自身がその通俗講義を書くような事はおそらくなかったに相違ない。私はどんなむつかしい理論でもそれが「物理学」に関したものである限り、素人《しろうと》にどうしてもなんらの説明をもする事もできないほどにむつかしいものがあるとは信じられない。もしあったらそれは少なくも物理でないといったような心持ちがする。
 少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う。

       四

 この原理を物理学上の一原理として見た時の「妙趣」あるいは「価値」が主としてどこにあるか。それが数式にあるか、考えの運び方にあるか。これもほとんど問題にならないほど明らかであるように私は思う。数式は彼の考えを進めるものに使われた必要な道具であった。その道具を彼は遠慮なく昔の数学者や友人のところから借りて来た。これはまさに人の知るとおりである。その道具の使い方がどこまで成効しているかはおそらく未決の問題ではあるまいか。それを決定するのは専門家の仕事である、そしてそれは必ずしも第二のアインシュタインを要しない仕事である。しかし一人のアインシュタインを必要とした仕事の中核真髄は、この道具を必要とするような羽目に陥るような思考の道筋に探りあてた事、それからどうしてもこの道具を必要とするという事を看破した事である。これだけの功績はどう考えても否む事はできないと思う。たとえ彼の理論の運命が今後どうあろうとも、これだけは確かな事である。そこに彼の頭脳の偉大さを認めぬわけには行くまいと思う。
 ナポレオンが運命の夕べに南大西洋の孤島にさびしく終わってもその偉大さに変わりはなかった。しかしアインシュタインのような仕事にそのような夕べがあろうとは想像されない。科学上の仕事は砂上の家のような征服者の栄華の夢とは比較ができない。
 しかしまた考えてみると一般相対性理論の実験的証左という事は厳密に言えば至難な事業である。たとえ遊星運動の説明に関する従来の困難がかなりまで除却され、日蝕《にっしょく》観測の結果がかなりまで彼の説に有利であっても、それはこの理論の確実性を増しこそすれ、厳密な意味でその絶対唯一性を決定するに充分なものであるとはにわかには信じられない。スペクトル線の変位のごときはなおさら決定的証左としての価値にかなりの疑問があるように見える。
 私は科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終無限の道程をたどり行く旅人として見た時にプトレミーもコペルニクスもガリレーもニュートンも今のアインシュタインも結局はただ同じ旅人の異なる時の姿として目に映る。この果てなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは私には困難である。
 それで私は現在あるがままの相対性理論がどこまで保存されるかという事は一つの疑問になりうると思う。しかしこれに反して、どうしても疑問にならない唯一の確実な事実は、アインシュタインの相対性原理というものが現われ、研究され、少なくも大部分の当代の学界に明白な存在を認められたという事実である。これだけの事実はいかなる疑い深い人でも認めないわけにはいかないだろうと思う。
 これはしかし大きな事実ではあるまいか。科学の学説としてこれ以上を望む事がはたして可能であるかどうか、少なくも従来の歴史は明らかにそういう期待を否定している。
 こういうわけで私はアインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さを傷つけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。
 もしこういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するような事が可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。
 いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚《いちりづか》である。

       五

 相対性原理に対する反対論というものが往々に見受けられる。しかし私の知り得た限りの範囲では、この原理の存在を危うくするほどに有力なものはないように思われる。
 反対論者の反対のおもなる「動機」は、だんだんせんじつめると結局この原理の基礎的な仮定や概念があまりはなはだしく吾人の常識にそむくという一事に帰着するように見える。
 科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。従って科学上の問題に比べてむつかしさの程度が一段上にある。
 しかし少なくも歴史的に見た時に従来の物理的科学ではいわゆる常識なるものは、論理的系統の整合のためには、惜しげなくとは言われないまでも、少なくもやむを得ず犠牲として棄却されあるいは改造されて来た。
 太陽が動かないで地球が運行しているという事、地球が球形で対蹠点《たいせきてん》の住民が逆《さか》さにぶら下がっているという事、こういう事がいかに当時の常識に反していたかは想像するに難くない。
 非ユークリッド幾何学の出発点がいかに常識的におかしく思われても、これを否定すべき論理は見つからない。こういう場合にわれわれのとるべき道は二つある。すなわち常識を捨てるか、論理を捨てるかである。数学者はなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく常識を投げ出して論理を取る。物理学者はたとえいやいやながらでもこの例にならわなければならない。
 物理学の対象は客観的実在である。そういうものの存在はもちろん仮定であろうが、それを出発点として成立した物理学の学説は畢竟《ひっきょう》比較的少数の仮定から論理的|演繹《えんえき》によって「観測されうる事象」を「説明」する系統である。この目的が達せられうる程度によって学説の相対的価値が定まる。この目的がかなり立派に達せられて、しかも根本仮定が非常識だという場合に常識を捨てるか学説を捨てるかが問題である。現在あるところの物理学は後者を選んで進んで来た一つの系統である。
 私は常識に重きを置く別種の系統の成立不可能を確実に証明するだけの根拠を持たない。しかしもしそれが成立したと仮定したらどうだろう。それは少なくも今日のいわゆる物理学とは全然別種のものである。そうしてそれが成立したとしても、それが現在物理学の存在を否定する事にはなり得ないと思う。そして最後に二者の優劣を批判するものがあれば、それは科学以外の世界に求めなければならない。

       六

 自然の森羅万象《しんらばんしょう》がただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるという事はあまりに堪え難いさびしさであると嘆じる詩人があるかもしれない。しかしこれは明らかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌う事をやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。
 今のところ私は、すべての世人が科学系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣を認めなければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時には人並みに花を見て喜び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさである。どこをつかまえるようもない泡沫《ほうまつ》の海におぼれんとする時に私の手に触れるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。
 こういう意味で私は、同じような不安と要求をもっている多くの人に、理学の系統の中でもことにアインシュタインの理論のごときすぐれたものの研究をすすめたい。多くの人は一見乾燥なように見える抽象的系統の中に花鳥風月の美しさとは、少し種類のちがった、もう少し歯ごたえのある美しさを、把握《はあく》しないまでも少なくも瞥見《べっけん》する事ができるだろうと思う。
[#地から3字上げ](大正十一年十二月、改造)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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*地名

  • [南ドイツ]
  • ドナウ Donau ドイツ南西部シュヴァルツヴァルトの東部に発し、オーストリア・ハンガリー・バルカン諸国を流れて黒海に注ぐ大河。長さ2860キロメートル。英語名ダニューブ。
  • ウルム Ulm ドイツ南部、バーデン‐ヴュルテンベルク州のドナウ川に沿う都市。ゴシック様式の大聖堂は、世界最高の大尖塔(161メートル)で有名。
  • ミュンヘン Mnchen ドイツ南部、バイエルン州の州都。ドナウ川の支流イザル川に沿い、南ドイツの経済・文化の中心。宮殿や美術館・国立劇場などを有する。ビールの醸造は有名。人口119万5千(1999)。
  • ベルリン Berlin・伯林 ドイツ北東部の都市。1945年までドイツの首都。第二次大戦後、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連4カ国の共同管理下におかれ、1948年以来東部はドイツ民主共和国(東独)の首都、西部は実質上ドイツ連邦共和国(西独)の一部。90年、東西ドイツの統一によりドイツ連邦共和国 (2) の首都。人口338万7千(1999)。
  • ベルリン大学 Humboldt-Universita"t zu Berlin ドイツのベルリンにある大学。ベルリンで最も古い大学で、1810年に、教育改革者で言語学者のフンボルトによってFriedrich-Wilhelms-Universita"tとして創立された。第二次世界大戦後のベルリン分割時代は東ベルリン側に位置したのでフンボルト大学と改称された。初代の学長がフィヒテ、2代目はサヴィニー、1830年にはヘーゲルが後任となった。日本からも森鴎外・北里柴三郎・寺田寅彦・肥沼信次・宮沢俊義らがベルリン大学に留学している。
  • ナウハイム → バート・ナウハイム
  • バート・ナウハイム Bad Nauheim ドイツ中部、ヘッセン州中部の保養都市。タウヌス山地東麓に位置。略称ナウハイム。30度あまりの炭酸水・塩泉が湧出。心臓病・リウマチス・神経痛などに効果があるため、多くの医療。保養施設が発達。カジノがある。(外国地名)
  • [イタリア]
  • ミラノ Milano イタリア北部の都市。古代ローマ帝国第一の商業地。現在も重要な商工業都市。市内に宗教上の建物が多く、宮殿・図書館・劇場(スカラ座)なども有名。人口128万6千(2004)。英語名ミラン。
  • アペニン Apennines イタリア半島の脊梁山脈。長さ約1300キロメートル。大理石の産地。
  • [スイス]
  • チューリヒ Zrich スイス北部、チューリヒ湖の北端に位置し、風光明媚で知られるスイス最大の都市。金融業の中心地。もと首都。人口33万9千(2001)。
  • ポリテキニクム
  • アーラウ Aarau スイスのアールガウ州の基礎自治体 ( アインヴォーナー・ゲマインデ ) で同州の州都。1798年に、短期間だがスイスの首都にもなった。アーレ川沿いに位置する。精密機械、光学機器などの生産が盛ん。近隣の都市としては、約35キロ東にチューリヒ、40キロ南東にルツェルン、40キロ北西にバーゼル、40キロ南西にゾーロトゥルンが位置している。
  • シャフハウゼン Schaffhausen スイスのシャフハウゼン州にある基礎自治体 (アインヴォーナー・ゲマインデ) で同州の州都。かつて日本の有島武郎がこの街を「静寂古雅の町」と表現した。ライン川沿いに位置する。郊外のノイハウゼンにあるライン滝は観光名所としても知られている。
  • ベルン Bern スイス連邦の首都。ライン川の支流アーレ川に沿う。精密機械工業で著名。人口12万2千(2001)。フランス語名ベルヌ。
  • [チェコ]
  • プラーグ → プラハ
  • プラハ Praha チェコ共和国の首都。ヴルタヴァ川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置する交通・文化の中心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。中世の面影を色濃く残す歴史地区は世界遺産。人口116万6千(2004)。英語名プラーグ。
  • [イギリス]
  • キングス・カレッジ King's College ケンブリッジ大学のカレッジの一つ、か。
  • [オランダ]
  • ライデン Leiden オランダ西部の都市。古ライン川に沿い、運河が縦横に通ずる。ルネサンス時代の建築物を多く残す。大学・博物館は著名。
  • ライデン大学 1575年創設のオランダ最古の大学。オラニエ公ウィレムが、スペインの侵略から街を守ったライデン市民への褒美として設立。グロティウスら著名な学者を擁した。アジア研究でも知られる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表

  • 一八七九(明治一二)三月 アルベルト・アインシュタイン、出生。
  • 一九〇一 スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得て、公職につく資格ができる。
  • 一九〇二 グロスマンの周旋で特許局の技師となり、一九〇九年まで勤める。
  • 一九〇三 結婚。数年後に離婚。
  • 一九〇五 長いあいだの研究の結果を発表しはじめる。
  • 一九〇九 三十一歳。チューリヒの大学、理論物理学の助教授として招聘。
  • 一九一一 プラハの正教授に招聘。
  • 一九一二 ふたたびチューリヒのポリテキニクムの教授となる。
  • 一九一四 大戦始まる。春、ベルリンに移って、そこで仕事を大成。
  • 一九二〇 五月 ライデンの大学で講演。
  • 一九二一(大正一〇) アインシュタイン、四十三歳。
  • 一九二一(大正一〇)一〇月一日 寺田「アインシュタイン」『改造』。
  • 一九二二(大正一一)一二月 寺田「相対性原理側面観」『改造』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955 理論物理学者。光量子説・ブラウン運動の理論・特殊相対性理論・一般相対性理論などの首唱者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。プリンストン高等研究所で相対性理論の一般化を研究。また、世界政府を提唱。ノーベル賞。
  • 寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
  • -----------------------------------
  • バートランド・ラッセル Bertrand Russell 1872-1970 イギリスの数学者・哲学者。集合論のパラドックスを発見。「数学原理」(ホワイトヘッドとの共著)で今日の記号論理学の基礎を築き、物理学の対象を手がかりにして精神でも物質でもない中性的実在をたてた。現代分析哲学の祖と目される。核兵器反対運動やベトナム反戦運動などにも活躍。著「外界はいかにして知られるか」など。ノーベル文学賞。
  • レーニン Vladimir Il'ich Lenin 1870-1924 (本姓Ul'yanov 別名Nikolai L.)ロシアのマルクス主義者。ボリシェヴィキ党・ソ連邦の創設者。学生時代より革命運動に従事、流刑・亡命の生活を経て、1917年ロシア革命に成功、その後ソビエト政府首班として社会主義建設を指導。マルクス主義を独自の仕方で体系づけた。著「ロシアにおける資本主義の発展」「何をなすべきか」「唯物論と経験批判論」「帝国主義論」「国家と革命」など。
  • ロレンツ → ヘンドリック・ローレンツか
  • ヘンドリック・ローレンツ Hendrik Antoon Lorentz 1853-1928 オランダの理論物理学者。電子理論および相対性理論の先駆者。マクスウェルの電磁理論を発展させ、光の媒質としてエーテルを仮定。また、ローレンツ収縮・ローレンツ変換の式などを見出した。ノーベル賞。
  • リーマン Georg Friedrich Bernhard Riemann 1826-1866 ドイツの数学者。ガウスの弟子。非ユークリッド幾何学・一般関数論・楕円関数論・アーベル関数論などを研究し、リーマン幾何学を体系づけた。
  • モスコフスキー → アレキサンダー・モスコフスキー
  • アレキサンダー・モスコフスキー 著『アインシュタイン』。ジャーナリストか。
  • ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900 ドイツの哲学者。キリスト教倫理思想を弱者の奴隷道徳とし、強者の主人道徳を説き、この道徳の人を「超人」と称し、これを生の根源にある力への意志の権化と見た。またプラトン的形而上学を幻の背後世界を語るものとして否定し、神の死を宣告してニヒリズムの到来を告げた。その影響は実存主義やポスト構造主義にも及ぶ。著「悲劇の誕生」「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」など。
  • ヤーコブ・アインシュタイン アルベルトの伯父。工業技師。
  • ミレーバ・マリッチ アインシュタインの大学の学友。最初の妻。1903年に結婚。翌年、長男のハンスが生まれる。1919年離婚。(N p.8)
  • エルゼ・アインシュタイン → エルザ・レーベンタール
  • エルザ・レーベンタール アインシュタインの従妹。1919年6月に結婚。(N p.27)
  • グロスマン → マルセル・グロスマン
  • マルセル・グロスマン 数学者。アインシュタインの同窓の友。1902年、アインシュタインにスイス連邦特許局の技術専門職を紹介。アインシュタインと共同研究をおこない、重力と時間・空間の問題の解決にリーマン幾何学を用いることを示唆。(N p.54,55)
  • プランク Max Planck 1858-1947 ドイツの理論物理学者。熱放射の理論的研究を行い、量子力学への道を拓いた。ノーベル賞。
  • マクス・ラインハルト Max Reinhardt 1873-1943 ドイツの演出家。初め性格俳優として有名。「真夏の夜の夢」「サロメ」「どん底」などで新演出法を創造。
  • レナード アインシュタインの批判者。
  • ガリレイ Galileo Galilei 1564-1642 イタリアの天文学者・物理学者・哲学者。近代科学の父。力学上の諸法則の発見、太陽黒点の発見、望遠鏡による天体の研究など、功績が多い。また、アリストテレスの自然哲学を否定し、分析と統合との経験的・実証的方法を用いる近代科学の方法論の端緒を開く。コペルニクスの地動説を是認したため、宗教裁判に付された。著「新科学対話」「天文対話」など。
  • スロッソン アメリカの新聞記者。
  • ボルツマン → ルートヴィッヒ・ボルツマンか
  • ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Boltzmann 1844-1906 オーストリアの理論物理学者。熱現象の不可逆性を追究し、統計力学の成立に貢献。原子論者としてエネルギー一元論者と論争。
  • ゴットフリード・ケラー 1819-1890 スイスチューリヒの生まれ。小説家。
  • 小宮君 → 小宮豊隆か
  • 小宮豊隆 こみや とよたか 1884-1966 独文学者・評論家。福岡県生れ。東大卒。東北大教授・東京音楽学校校長を経て、学習院大教授。夏目漱石門下。漱石全集の編集に尽くす。著「夏目漱石」「中村吉右衛門」など。
  • 桑木理学博士 → 桑木�雄か
  • 桑木�雄 くわき あやお 1878-1945 物理学者、科学史家、桑木厳翼の弟。東京生まれ。東京帝国大学物理学科卒。同大学理科大学講師、ついで助教授、1907年明治専門学校教授、14年九州帝国大学教授、38年松本高等学校校長、41年創立された日本科学史学会の初代会長となる。日本人として初めてアインシュタインに会い、相対性理論を広めた。哲学者の桑木務は子。
  • ワイル → ヘルマン・ワイルか
  • ヘルマン・ワイル Hermann Weyl 1885-1955 ドイツ生れの数学者。のち、渡米。解析学・群論・整数論などに貢献。/一般相対性理論が完成されるや、これに続いて電磁場も重力場と同様に時空の幾何学的性質によって表現しようという試み、統一場理論の研究が始まった。ワイルのゲージ理論はこの種の研究の先駆け。(物理学)
  • エジントン → エディントンか
  • エディントン Arthur Stanley Eddington 1882-1944 イギリスの天文学者。恒星の内部構造および進化などについて理論的研究をし、また相対性理論の予言の一つを観測的に実証。
  • -----------------------------------
  • マッハ Ernst Mach 1838-1916 オーストリアの物理学者・哲学者。近代実証主義哲学の代表者。超音速流れの研究を行い、ニュートン力学に対する批判はアインシュタインに大きな影響を与えた。一方で、実証主義の立場からボルツマンの原子説に反対しつづけた。主著「力学史」
  • ドルーデ → Dru'de か
  • Dru'de, Paul Karl Ludwig 1863-1906 ドイツの理論物理学者。光学現象と電気現象との関連を研究して光学に寄与し、また電子論の立場から金属物理学を発展させた。その他、電波に関する諸問題をも研究した。(岩波西洋人名)
  • プトレミー → プトレマイオスか
  • プトレマイオス Ptolemaios Klaudios ?-? 天文学者・数学者・地理学者。2世紀前半にアレクサンドリアで活躍。天動説を主張。また、その地理学説は15世紀の新航路発見に至るまで動かし難いものとされ、その著「アルマゲスト」は天動説および当時の数学・天文学・物理学に関して、コペルニクス時代に至るまで約1400年間権威を保った。英語名トレミー。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『岩波西洋人名辞典増補版』、『Newton 別冊 アインシュタイン 物理学をかえた発想』(ニュートン・プレス、2009.3)『物理学辞典』(培風館、2005.9)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『物理年鑑』 『物理学年報』か。1916年3月。(N p.12)
  • 「運動せる物体の電気力学」 アインシュタインの著。
  • 『タイムス週刊』
  • 『改造』 大正10年(1921)10月。
  • 『改造』 かいぞう 大正・昭和戦前期の代表的総合雑誌。1919年(大正8)改造社(山本実彦主幹)の創刊。第一次大戦後の改革機運の高まりの中、急成長をとげた。横浜事件にまきこまれ、廃刊を命じられる。第二次大戦後復刊するが、55年(昭和30)廃刊。
  • -----------------------------------
  • 『力学』 メヒャニーク Mechanics。マッハの著。『力学の発展』か。(N p.8)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『Newton 別冊 アインシュタイン 物理学をかえた発想』(ニュートン・プレス、2009.3)。



*難字、求めよ

  • 估価 こか ねだん。売買の価額。
  • 病巣・病竈 びょうそう 病に侵されている箇所。病原のある箇所。
  • ユークリッド幾何学 - きかがく ユークリッドが大成した幾何学。非ユークリッド幾何学との違いは、公理の選び方にある。公理は結合・順序・合同・平行・連続の5群に整理される。放物幾何学。
  • ローマカトリック教会 - きょうかい (Roman Catholic Church)ローマ教皇を最高統治者とし、全世界に信徒10億余を擁する世界最大のキリスト教会。日本での開教は1549年(天文18)。公教会。天主教会。
  • ビーダーマイアー Biedermeier (1) 誠実ではあるが事なかれ主義で、俗物的な小市民。1850年代にドイツの詩人アイヒロート(L. Eichrodt1827〜1892)の発表した作品に由来。(2) ドイツ・オーストリアでの芸術様式の一つ。ナポレオン戦争後三月革命までの時代の、簡素で実用主義的な様式。また、その時代をいう。
  • ショーヴィニズム → ショーヴィニスム
  • ショーヴィニスム chauvinisme (石版画および戯曲に出てくる、ナポレオン1世を崇拝したフランス兵の名Chauvinによる)偏狭な民族主義。排外的な愛国主義。
  • 記載科学
  • 実科中学
  • 相対論 → 相対性理論
  • 相対性理論 そうたいせい りろん (theory of relativity)アインシュタインが創唱した特殊相対性理論と一般相対性理論との総称。特殊相対性理論は1905年に提出され、光の媒質としてのエーテルの存在を否定、光速度がすべての観測者に対して同じ値をもつとし、また自然法則は互いに一様に運動する観測者に対して同じ形式を保つという原理をもとに組み立てられた。一般相対性理論は1915年に提出され、前者を一般化して、すべての観測者にとって法則が同形になるという要請から万有引力現象を説明。この理論によれば、時間と空間は互いに密接に結びつけられて、4次元のリーマン空間を構成する。相対論。
  • 理論物理学 りろん ぶつりがく 数学と概念分析とを手段として、物理法則を探究する学問分野。←→実験物理学。
  • カンマームジーク (独)Kammer musik 室内楽。
  • 四元 しげん? 四次元か。
  • 犀利 さいり [漢書馮奉世伝](「犀」は鋭い意)武器が堅く鋭いこと。転じて、文章の勢い、頭の働きなどが鋭いこと。
  • 諧謔 かいぎゃく (「諧」も「謔」もたわむれの意)おもしろい気のきいた言葉。おどけ。しゃれ。滑稽。ユーモア。
  • ザイオン Zion シオン (イスラエル) - エルサレム地方の歴史的地名。英語では「Zion」
  • シオニズム Zionism・sionisme パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動。19世紀末ヘルツルらの主導下に興起し、1948年イスラエル国家を実現。シオン主義。
  • レラティヴィスト relativist 相対主義者。
  • レラティヴィティ 英: relativity。(1) 相対性理論。(2) 相対性。相関性。
  • 素量 そりょう 具体的なある種類の量の最小単位。
  • 量子 りょうし 〔理〕(quantum)不連続な値だけを持つ物理量の最小の単位。物体の発する放射エネルギーについてまず発見され、エネルギー量子と呼ばれた。
  • 純数
  • 見やすい anschaulich 明白な。具体的な。わかりやすい。
  • 常識、健全な理知 gesunder Menschenverstand
  • gesunder (1) 健康的な。元気な。丈夫な。(2) 健康によい。(3) 健全な。
  • Menschenverstand 人知。常識。良識。
  • ギラギラしている glitzernd glitzern きらきら光る。きらめく。まばたく。
  • -----------------------------------
  • 没分暁 ぼつぶんぎょう ものわかりの悪いこと。
  • リアライズ Realize 〜を悟る。実現・達成する。
  • 期図 企図(きと)か。
  • 企図 きと くわだてはかること。くわだて。もくろみ。計画。
  • 特別相対性理論 → 特殊相対性理論か
  • スペクトル spectre (1) 光を分光器にかけて得られる、波長とその波長における強さを示したもの。その形によって、連続スペクトル・線スペクトル・帯スペクトルに分ける。(2) 複雑な組成のものを成分に分解し、その成分を特定な量の大小に従って順次配列したもの。
  • 対蹠 たいしょ (タイセキの慣用読み)ある事に対して反対であること。正反対。
  • ユークリッド幾何学 -きかがく ユークリッドが大成した幾何学。非ユークリッド幾何学との違いは、公理の選び方にある。公理は結合・順序・合同・平行・連続の5群に整理される。放物幾何学。
  • 帰趣 きしゅ 帰趨。物事の落ち着く所。帰着点。きすう。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『独和大辞典』(小学館、1985.1)『新コンサイス和独辞典』(三省堂、2003.7)『新コンサイス独和辞典』(三省堂、2003.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


有《も》つ → 持つ
はいって → 入って
永い → 長い
プラーグ → プラハ
気永 → 気長
かいた → 書いた

 以上、変更しました。
 
 90ページ分の表示にかかる時間を測定。前号が68秒。今号が29秒。表示性能が2.3倍速にアップ!
 しおり部分の画像表示に map タグ(イメージマップ)が使用できることに気がつく。ヘッダでそれぞれのエリアとリンク先を指定。t-pdef タグ(挿し絵の挿入)をひとつひとつ10件指定していたところが一行に! 画像も一枚だけ! list タグ同様、イメージマップも何かと使えそう。

 ロンドン暴動、1700人あまり逮捕。(NHK)




*次週予告


第四巻 第五号 
特集 アインシュタイン(三)宮本百合子
 作家のみた科学者の文学的活動
 科学の常識のため


第四巻 第五号は、
八月二七日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第四巻
特集 アインシュタイン(二)寺田寅彦
発行:二〇一一年八月二〇日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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T-Time マガジン
週刊ミルクティー
*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • #1 奇巌城(一)M. ルブラン
  • #2 奇巌城(二)M. ルブラン
  • #3 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫
  • #4 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教
  • #5 空襲警報/水の女/支流
  • #6 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • #7 新羅の花郎について 池内 宏
  • #8 震災日誌/震災後記 喜田貞吉
  • #9 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • #10 風の又三郎 宮沢賢治
  • #11 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • #12 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • #13 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • #14 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • #15 欠番
  • #16 欠番
  • #17 赤毛連盟      C. ドイル
  • #18 ボヘミアの醜聞   C. ドイル
  • #19 グロリア・スコット号C. ドイル
  • #20 暗号舞踏人の謎   C. ドイル
  • #21 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • #22 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • #23 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • #24 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • #25 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • #26 日本天変地異記 田中貢太郎
  • #27 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • #28 翁の発生/鬼の話 折口信夫
  • #29 生物の歴史(一)石川千代松
  • #30 生物の歴史(二)石川千代松
  • #31 生物の歴史(三)石川千代松
  • #32 生物の歴史(四)石川千代松
  • #33 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • #34 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • #35 右大臣実朝(一)太宰 治
  • #36 右大臣実朝(二)太宰 治
  • #37 右大臣実朝(三)太宰 治
  • #38 清河八郎(一)大川周明
  • #39 清河八郎(二)大川周明
  • #40 清河八郎(三)大川周明
  • #41 清河八郎(四)大川周明
  • #42 清河八郎(五)大川周明
  • #43 清河八郎(六)大川周明
  • #44 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • #45 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉
  • #46 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • #47 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • #48 若草物語(一)L.M. オルコット
  • #49 若草物語(二)L.M. オルコット
  • #50 若草物語(三)L.M. オルコット
  • #51 若草物語(四)L.M. オルコット
  • #52 若草物語(五)L.M. オルコット
  • #53 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • #1 星と空の話(一)山本一清
  • #2 星と空の話(二)山本一清
  • #3 星と空の話(三)山本一清
  • #4 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • #5 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • #6 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • #7 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • #8 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • #9 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • #10 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • #11 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • #12 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • #13 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • #14 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • #15 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • #16 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • #17 高山の雪 小島烏水
  • #18 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • #19 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • #20 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • #21 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • #22 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • #23 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • #24 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • #25 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • #26 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • #27 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • #28 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • #29 火山の話 今村明恒
  • #30 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • #31 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)
  • #32 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • #33 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • #34 山椒大夫 森 鴎外
  • #35 地震の話(一)今村明恒
  • #36 地震の話(二)今村明恒
  • #37 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • #38 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • #39 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • #40 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子
  • #41 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • #42 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • #43 智恵子抄(一)高村光太郎

      あどけない話

    智恵子は東京に空がないという、
    ほんとの空が見たいという。
    私はおどろいて空を見る。
    桜若葉の間にあるのは、
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながらいう。
    阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
    毎日出ている青い空が
    智恵子のほんとの空だという。
    あどけない空の話である。


      千鳥と遊ぶ智恵子

    人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
    砂にすわって智恵子は遊ぶ。
    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
    千鳥が智恵子によってくる。
    口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
    両手をあげてよびかえす。
    ちい、ちい、ちい―
    両手の貝を千鳥がねだる。
    智恵子はそれをパラパラ投げる。
    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    人間商売さらりとやめて、
    もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
    うしろ姿がぽつんと見える。
    二丁も離れた防風林の夕日の中で
    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
  • #44 智恵子抄(二)高村光太郎
     わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
    (略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
     松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
  • #45 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
     新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
     私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
     暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
     九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
  • #46 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
    (略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
     右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
  • #47 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
    地震雑感
     一 地震の概念
     二 震源
     三 地震の原因
     四 地震の予報
    静岡地震被害見学記
    小爆発二件
     震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
     しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
     これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
     問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
     地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
  • #48 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
    自然現象の予報
    火山の名について
     つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
     地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
     地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
     地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
     さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
  • #49 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • #50 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • #51 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

     皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
     これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

     山また山の山城川を
     御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
     うるわしの奈良山をすぎ
     青山のかこんでいる大和をすぎ
     わたしの見たいと思うところは、
     葛城の高台の御殿、
     故郷の家のあたりです。

     かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。
  • #52 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

     天皇〔顕宗天皇〕、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊に仇(あだ)をむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵を毀(やぶ)ろうとお思いになって人を遣わしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりに毀してまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵のそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘り壊(やぶ)りました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにお壊りなさいましたか?」とおおせられましたから、「御陵のそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵をことごとく壊すべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上の仇をその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさった天皇でありますのを、今もっぱら父の仇ということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵をことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上の仇は報(むく)いないではいられません。それであの御陵の辺りを少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。
  • 第四巻
  • #1 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)

     序にかえて
      琉球編について
     一、沖縄人のはじめ
     二、巨人の足あと
     三、三十七岳の神々
     四、アカナァとヨモ
     五、黄金の木のなるまで

     地上には、草や木はもちろんのこと、鳥や獣(けもの)というては一匹もいなかった大昔のことです。その時分、沖縄島の上には、霞(かすみ)がかかったように、天が垂(た)れ下がっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
     それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
    「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
    とおっしゃって、さっそく天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになりました。
     二人の神さまは、それから浜辺にお出でになり、阿旦(あだん)やユウナという木をお植えつけになって、波を防ぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻いていた、あの騒がしい波も飛び越さなくなり、地上には草や木が青々としげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、獣があちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥や獣といっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥や獣とあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵がついてきまして、今までお友だちだった鳥や獣を捕って食べることを覚えたものですから、たまりません。鳥や獣はびっくりして、だんだん、山へ逃げこんでしまうようになりました。 (「巨人の足あと」より)
  • #2 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷

     六、島の守り神
     七、命の水

     むかし、大里村の与那原(よなばる)というところに、貧乏な漁師がありました。この漁師は、まことに正直な若者でした。
     あの燃えるようにまっ赤な梯梧(だいご)の花は、もうすでに落ちてしまって、黄金色に熟(う)れた阿旦(あだん)の実が、浜の細道に匂う七月ごろのことでした。ある日のこと、その晩はことに月が美しかったものですから、若い漁師は、仕事から帰るなり、ふらふらと海岸のほうへ出かけました。(略)
     暑いとはいえ、盆近い空には、なんとなく秋らしい感じがします。若い漁師は、青々と輝いている月の空をながめながら、こんなことをいうてため息をついていましたが、やがて、何かを思い出したらしく、
    「ああそうだ。盆も近づいているのだから、すこし早いかもしれぬが、阿旦の実のよく熟れたのから選り取って、盆のかざり物に持って帰ろう」
    とつぶやいて、いそいそと海岸の阿旦林のほうへ行きました。
     そのときのことでした。琉球では、阿旦の実のにおいは、盆祭りを思い出させるものですが、そのにおいにまじって、この世のものとも思えぬなんともいえない気高いにおいが、どこからとなくしてきます。若い漁師は、
    「不思議だな。なんというよい匂いだ。どこからするんだろうな」
    と、ふと眼をあげて、青白い月の光にすかして、向こうを見ました。すると、白砂の上にゆらゆらゆれている、黒いものがあります。若い漁師はすぐに近づいて行って、急いでそれをひろいあげました。それは、世にもまれな美しいつやのある、漆のように黒い髪で、しかもあの不思議な天国のにおいは、これから発しているのでした。 (「命の水」より)
  • #3 アインシュタイン(一)寺田寅彦

     物質とエネルギー
     科学上における権威の価値と弊害
     アインシュタインの教育観

     光と名づけ、音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺激して、万人その存在を認める。しかし、「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味はつくされていない。昔、ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルにいたっては、これをエーテル中の電磁的ひずみの波状伝播(でんぱ)と考えられるにいたった。その後アインシュタイン一派は、光の波状伝播(でんぱ)を疑った。また現今の相対原理では、エーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に、光の本体に関しては今日にいたるもなんらの確かなことは知られぬのである。(略)
     前世紀において電気は何ものぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。(略)
     電子は質量を有するように見える。それで、前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在はいったい何によって知ることができるかというと、これと同様の物を近づけたときに相互間に作用する力で知られる。その力は、間接に普通の機械力と比較することができるものである。すでに力をおよぼす以上、これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかし、このエネルギーは電子のどこにひそんでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は、荷電体エネルギーをそのものの内部に認めず、かえってその物体の作用をおよぼす勢力範囲すなわち、いわゆる電場(でんば)に存するものと考えた。この考えはさらに、電波の現象によって確かめらるるにいたった。この考えによれば、電子の荷電のエネルギーは、電子そのものに存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子、またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。 (「物質とエネルギー」より)

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