伊波普猷 いは ふゆう
1876-1947(明治9.3.15-昭和22.8.13)
言語学者・民俗学者。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂おもろさうし」など。


前川千帆 まえかわ せんぱん
1888-1960(明治21.10.4-昭和35.11.17)
版画家・漫画家。本名金三郎。旧姓石田。京都市下京区生まれ。(人名)/「あわてものの熊さん」が人気を得た。版画作品に「工場風景」「野遊び」など。(人レ)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)、『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。写真は、Wikipedia 「ファイル-Ihafuyu.JPG」より。





扉絵とびらえ:アカナァとヨモ

もくじ 
日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷


ミルクティー*現代表記版
日本昔話集 沖縄編(一)
  • 序にかえて
  •  琉球編について
  • 一、沖縄人のはじめ
  • 二、巨人の足あと
  • 三、三十七岳の神々
  • 四、アカナァとヨモ
  • 五、黄金の木のなるまで

オリジナル版
日本昔話集 沖繩篇(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
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*凡例
  • 〈 〉( ):割り注、もしくは小書き。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


底本:『日本昔話集(下)12』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年8月20日発行
親本:『日本昔話集(下)』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年4月3日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person232.html

NDC 分類:K913(日本文学/小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html




日本昔話集 沖縄編(一)



じょにかえて

   琉球編りゅうきゅうへんについて
伊波いは普猷ふゆう  

 みなさん、日本の地図をひろげてください。九州と台湾たいわんとのあいだにちょうどいしのように、たくさんな小さな島が一列にならんでいるでしょう。この島々をむかしは南島なんとうといいましたが、今では九州に近いほうを奄美あまみ列島といい、台湾たいわんに近いほうを沖縄おきなわ列島というています。
 さてこの島々の住民は、日本やまと民族の遠いわかれであって、日本の国というものがまだできない時分じぶんに、南島なんとうに移住して国を立てたのでしたが、あんまり遠く離れていたため、交通の不便ということから、自然、北方の同胞どうほう疎遠そえんになり、とうとうまよみたいなものになってしまいました。そして沖縄おきなわは、南北朝なんぼくちょうのころからシナの保護を受けるようになりましたが、慶長けいちょう(一五九六〜一六一五)以後はシナと薩摩さつまとに両属りょうぞくのすがたになりましたので、その中間に板ばさみになって、長いあいだ苦労しました。ところがご維新後いしんごまもなく、もとの日本に帰り、沖縄県という一県いっけんになりました。わたしのお話はすべてこの沖縄おきなわに、むかしから伝わっているものであります。


   目次もくじ

 琉球編りゅうきゅうへん   伊波いは普猷ふゆう

一、沖縄人おきなわじんのはじめ
二、巨人きょじんの足あと
三、三十七岳さんじゅうななたけ神々かみがみ
四、アカナァとヨモ
五、黄金こがねの木のなるまで
六、島のまもり神
七、いのちの水


装丁そうてい・表紙絵・恩地おんち孝四郎こうしろう
口絵挿画・前川まえかわ千帆せんぱん



沖縄編
伊波いは普猷ふゆう


   一、沖縄人おきなわじんのはじめ

 むかしむかし、おおむかしのこと、古宇利島こうりじまという島に、男と女と、たった二人の人が住んでいました。人間というては、この二人しかいない時分じぶんのことですから、二人は天国の神さまのようなもので、もちろん、着物きものというものはありませんので、はだかでらしていました。二人は毎日、手を取りうて浜辺はまべに出ては、まっ白い砂をサクサクとみながら、話をしたり、あるときは阿旦あだん葉陰はかげで、朝からばんまで楽しく遊んでいました。
 ある二人は、いつものように遊びつかれて、青々あおあおとした阿旦あだんの葉のかげはらばいになっていますと、いつのまにか、うつらうつら寝入ねいってしまいました。するとしばらくすると、不思議ふしぎなこともあるもので、天から、大きな大きなおもちが、パラパラと落ちてきました。その物音ものおとに、二人の者はびっくりしてさまして空を見上げると、まんまるいお月さまが、にっこりわらいながら、大きなおもちおとしていられるのです。
「きっとお月さまは、わたしたち二人をかわいがって、おもちをくださるんだ」
大喜おおよろこびで、お月さまにあつくおれいを申し上げました。おなかがすいて、つかれきっている二人の者にとっては、おもちは、このうえもないありがたい、お月さまのおなさけぶかいくださりものでした。それからは、毎日おもちをいただいて、なんの心配も不自由もなくくらすことができるようになりました。ところがだんだん、月日つきひがたつにつれて人間の知恵ちえが出てきまして、二人ともいろいろなことを考えはじめました。
 ある日のこと、二人は阿旦あだん葉陰はかげの白砂の上に、はらばいになって、
「ね、あなた。いつまでこんなおめぐみがつづくんでしょうか。おもちだって、そんなにたくさんあるわけのものでもないでしょうから」
「うん、そんなことを考えると、実際じっさい、心配だね。そうだ、今日から、いただいたおもちの食べた残りは、あの岩穴いわあなの中にでもたくわえておくことにしようじゃないか」
と、こんなことを話しうて、その日から、食べあましたぶんを大切に、たくわえておくことにいたしました。
 その翌日よくじつのことでした。いつもおもちおとしてくださる浜辺はまべに出てみますと、そこにはおもちどころか、けら一つ落ちていません。今日はどうしてこんなにおそいのだろうとってもっても、とうとうおもちは、落ちてきませんでした。二人は天をあおいで途方とほうれていますと、はすでにとっぷりとれて、まんまるいお月さまが、東の空から、ぬっと顔を出しました。二人の者は、思わずさけび声をあげました。
 そして、

お月さま、お月さま、
どうぞ、おもちをくださいませ。
お月さま、お月さま、
かいひろうてさしあげます
どうぞ、おもちをくださいませ。

と歌いつづけて、お願いいたしました。それからのちも、二人の心をこめた歌とおいのりとは、幾日いくにちも幾日もつづけられたのでした。お月さまはあいかわらずにっこりわらいながら、雲間くもまをいそがしそうに走っていられます。しかし、二人の者の願いは、ついに聞きとどけられませんでした。
 二人のものは、仕方しかたがありませんので、磯辺いそべにおりて魚をったり、貝をったりしてらしているうちに、いつのまにかおもちのこともうち忘れて、以前の楽しさに立ち返っていました。
ひとさまをあてにしてらすのは心配しんぱいなものだ。それにひきかえて、自分で働いていれば、なんの心配もなうて、気楽きらくでいいね」
と、今のらしを語りうていますと、どこからともなく、
「もしもし」という声がします。二人はびっくりしてふり向くと、今まで見たこともない二つのあやしいものが、波間なみまあらわれて、
「もしもし、あなたがたの仲間なかまというのは、いくたりほどいるのですか?」
といいます。
「いったいきみは、何者なにものだ? ふいにやっててものをいったりして、びっくりするじゃないか。ぼくたちの仲間なかまというのは、たったこの二人きりなんだが、どうしたというのだ?」
「ああ、それはお気のどくですね。わたしは海馬かいば〔ジュゴンか。というもので、仲間なかまは、海のいたるところにいるんです。あなたがたのように、お二人っきりでは、まったくおさびしいでしょう」
「そうだ。二人ではほんとにつまらないよ。どうだ、仲間なかまをふやす方法でもあったら教えてくれないかね?」
「それはお安い御用ごようです。さっそく、お教えもうしましょう」
 二人の者ははじめて、海馬かいばの教えをまもって、多くの仲間なかまをふやすことができました。その子孫しそんが、古宇利島じま祖先そせんとなり、だんだん、沖縄おきなわ全島ぜんとうにもひろがるようになったのです。

   二、巨人きょじんの足あと

 地上には、草や木はもちろんのこと、鳥やけものというては一匹もいなかった大昔おおむかしのことです。その時分じぶん沖縄島おきなわじまの上には、かすみがかかったように、天ががっていて、天と地との区別がまったくありませんでした。しかも、東の海からせてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海のうしおは、東の海に飛びこえてうずいているという、それはそれは、ものすごいありさまでした。
 それまで天にいられたアマミキヨ、シネリキヨという二人の神さまは、このありさまをごらんになって、
「あれでは、せっかく作り上げた島もなにもならん」
とおっしゃって、さっそく天上てんじょうから土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海とりくとのさかいをおさだめになりました。
 二人の神さまは、それから浜辺はまべにおでになり、阿旦だんやユウナという木をお植えつけになって、波をふせぐようにせられました。それからというものは、さしもに逆巻さかまいていた、あのさわがしい波も飛びさなくなり、地上には草や木が青々あおあおとしげって、野や山には小鳥の声が聞こえ、けものがあちこち走るようになりました。地上がこういう平和な状態になったときに、二人の神さまは、今度は人間をおつくりになりました。そして最初は、鳥やけものといっしょにしておかれました。人間は、何も知らないものですから、鳥やけものとあちこち走りまわっていました。ところが人間に、だんだん知恵ちえがついてきまして、今までお友だちだった鳥やけものって食べることをおぼえたものですから、たまりません。鳥やけものはびっくりして、だんだん、山へげこんでしまうようになりました。
 このときになって、人間は、はじめて自分たちの頭の上に、低くがっている天に気がつきました。そしてどうかして、この天をし上げて、人々がらくに道をとおれる工夫くふうはないものかと、いろいろに考えてみました。そのうちのある者は飛び上がってみました。ある者は手でし上げました。が、しかしどれもどれもみんな、失敗しっぱいに終わりました。天をし上げる相談そうだんは、それからも幾度いくどもいくどもくり返されましたが、いずれもダメでした。それでも根気こんきよくいろいろにやってみました。
 ある人々が、いつものように集まって、さかんに天をし上げようとしていましたら、
「さぞ、ご不自由なことでしょう」という声がします。人々がふり返って見ると、今までついぞ見たこともないような大きな大きな人が立っています。
 するとその巨人きょじんは、ウウンといううなり声を出したかと思うと、不思議ふしぎなこともあるものではありませんか。今まで人々が、あれだけ苦心くしんしてもあがらなかった天が、みるみる高くし上げられました。人々はびっくりして、知らず知らずべたにすわって、うやうやして両手をついて、
「どうも、なんともありがとうございます。おかげで助かりました」
といって頭を上げると、さっきまでそこにいたはずの巨人きょじんかげも形も見えません。さぁたいへん、人々は二度びっくりしました。そして、よくよく見まわして見ると、あの巨人きょじんが力を入れたはずみに、岩にんだ大きな片一方かたいっぽうの足あとが残っています。
 そののち、だれいうとなく、その巨人きょじんのことをアアマンチュウだ、アマミキヨさまだというようになりました。アアマンチュウもアマミキヨも同じ意味です。天御子あまの意味に取るとよくわかります。アアマンチュウ、アマミキヨというのは、つまり天上の神さまです。
 さてそのアマミキヨの足あとというのが、今でも、沖縄県おきなわけん国頭郡くにがみぐん今帰仁村なきじんむらに一つ、そこから十里ほどはなれた久志村くしむらというところに、もう片方かたっぽうのが一つ残っているということです。

   三、三十七岳さんじゅうななたけ神々かみがみ

 むかし、島尻郡しまじりぐん玉城村たまぐすくむらというところに、だてのやさしいおじいさんがありました。つれあいのおばあさんに早くから死なれて、たった一人で魚をって、その日その日をらしていました。
 ある日のこと、いつものとおり、あみかたにかけて、一里いちりほど離れた那覇港なはみなとのそばの波上なみのうえというところの海岸へ出かけて、そこの岩陰いわかげこしかけて、波を見まもっていました。
 しばらくすると、波がきゅうにムクムクと上がったかと思うと、今度は、うろこのようなきれい波紋はもんがして、無数の魚が岸へよせてくるのでした。おじいさんはそっとかがんであみを持ち、ぬき足さし足で、なぎさのほうへりて行きました。すると、人影ひとかげにおどろいたものか、美しい銀の背中を見せて、魚はサッと岩陰いわかげふちげこんでしまいました。
「あっ、しまった。魚もかしこうなったな」
とおじいさんは、舌打したうちしました。そして、岩の上に立ち上がって海を見おろしますと、青々あおあおとした底には、美しい魚がれをなして、ピンピンはねまわっています。おじいさんはついその美しさに見とれて、ぼんやりしていましたが、きゅうにドブンとあみを海へ投げこみました。そして、ぐいぐい手縄てなわをたぐりあげました。たしかに手応てごたえがします。しかも、おもみがだんだんくわわってまいります。さてこそとおじいさんは大喜おおよろこびで、そこは手なれたうでで、ずんずん引き上げました。
 ところが、大きな獲物えものと思ったのは、どろにまじった、ふるぼけた、小さい、きたならしいかめでした。
「なんのことだ、バカバカしい。今日はよくよくが悪いとみえる。りょうに出る途中とちゅうで女にあうと縁起えんぎがわるいというが、そんな不吉ふきつな女には、わなかったはずだがなあ」
と人のいいおじいさんも、つい、グチをこぼしました。
 そして、こんなきたなかめなんか海へててやろうと思って、あみの中から取り出してふと見ると、厳重げんじゅうふうのしてある、なかなか立派りっぱかめです。おじいさんはちょっと、中をあけて見る気になりました。
「やれやれ、ちょっと中でもあけて見てやろうか」
とそのへんのツルクサのはいかかっている、草むらの中にこしをおろして、煙管きせるを口にくわえながら、ふうを切って、中をあけました。
 すると、おじいさんは「あっ」というさけび声とともに、かめをほうり出しました。そして顔はみるみるうちにあおざめて、からだは、わなわなふるえています。それもむりはありません。見るとかめの中から、不思議ふしぎ小人こびとが、何人も何人もはい出ているのです。

 やがて、気をうしなうたようなおじいさんの耳に、
「おじいさん、どうもありがとう。おかげでまったく助かりました」
という声が聞こえます。
 おじいさんは、はじめて気をとりなおしました。そして、見るともなく見ると、小人こびとたちはみんな、神々こうごうしい姿すがたをしているではありませんか。そこでおじいさんは、すこし安心したような顔つきで、
「あなたがたは、いったい、どなたさまですか……?」
とおそるおそる、これだけのことをやっと、たずねました。すると、小人こびとは、
「ご安心なさい。わたしたちは、何もあやしいものでもなければ、また、人をまよわすようなものでもありません。これにはすこし、仔細しさいがあるのです。どうか、ひととおりいていただきます。じつはわたしたちの母親という人は、王さまのおひめさまで、神さまのおなさけで、三十七個のたまごんだのですが、神さまのお心を知らない人間は、世にない不思議ふしぎなことだというので、後日ごじつ災難さいなんけるつもりで、み落とすと同時に、かめに固くふうじこんで、海へしずめたのです。そのたまごから生まれたのが私たちです。こんなわけで、世に出ることもできず、幾百年いくひゃくねんというなが年月としつきのあいだ、海の底のかめの中でらしてきたのですが、たった今、永年ながねんのぞみがかなうて、あなたに救い出されたのです。なんともおれいもうしようもありません」
 このものがたりの一部いちぶ始終しじゅういて、おじいさんはすっかり安心いたしました。そしてまた、その小人こびとたちが何者なにものであるかもだいたい想像することができました。
 小人こびとたちは、おじいさんにおれいもうし終わるとしだいにが高くなって、かみの毛もだんだん白くなってゆきます。そして、まっ白のあごひげが、ひざのところまでえてきました。すると、
「おじいさん、さよなら」
とさけんだかと思うと、きゅうに白雲がおこってきて、空へ向けてあちこち飛びってしまいました。
 おじいさんは、びっくりしてその行くえを見ていますと、向こうの森に、ひとかたまりの白雲がかかって、スウッと消えました。
「神さまがおしずまりになったのだ」
とおじいさんは、こう、心のうちでさけびながら、はるかにそのうしろをおがみました。
 沖縄おきなわ三十七岳さんじゅうななたけといって、三十七か所のほこらの神さまは、こうしてできたということです。

   四、アカナァとヨモ

 むかしあるところに、アカナァとヨモとが、一つ屋敷しきに住んで、お友だちになっていました。アカナァというのは沖縄おきなわの言葉でして、月男つきおとことでもやくしましょうか。ともかく、同じ沖縄おきなわ宮古島みやこじまというところでは、アカリヤザガマといっていまして、それには、赤い小男おとこという意味があるそうです。ヨモというのはさるのことです。
 さてアカナァは、まっな、まんまるい顔をして、いつもわらうています。頭はおかっぱで、黒いかみをフサフサさせて、まじめに働いていました。ヨモはこれと反対に、非常に狡猾こうかつで、そのうえだいよくばりで、毎日、ブラブラしていては、よくないことばかり考えていました。それですから、ヨモはいつもアカナァのことを邪魔じゃまにしまして、機会きかいさえあったら彼をだまして、屋敷やしきも、庭のミカンも、バナナも、もももみんな、自分のものにしようと考えていました。
 ある年の三月のことです。庭のももの木が、えだもたわむくらいに、大きなみごとなももすずなりになって、それが青葉のあいだからよく見えます。その下をとおる者は、だれしも、「ああ、おいしそうなももだな」と立ち止まって見てゆきます。
 ヨモはそのころ、毎日、び上がっては大きな口を開けて、しきりにそのももを見ていました。ときには、あの毛だらけのうでんで、何か考えていることもあります。ヨモのことですから、きっとよくないことを考えているのにちがいありません。
 ある日、れいのごとく、こんなことをつぶやいていました。
「どうかして、あの邪魔じゃま者のアカナァをない者にする工夫はないものかなあ。あいつさえいなければ、このももも自分の思うままにうことができるのだが。それに向こうにあるバナナも、自分一人のものになるんだがなあ。あああ、何かよい考えはないものからんて」
としきりに首をひねっていましたが、やがて、ポンとひざをたたきました。きっと何やら考え出したのでしょう。狡猾こうかつそうなかがやかしながら、ぬけ落ちたまゆをピクピク動かしています。そして、気味きみの悪いわらいをかべました。
 ヨモはすぐに、アカナァのところにやってきて、むね一物いちもつあるものですから、いかにもやさしそうな顔をして、
おれたち二人のあのももも、もうずいぶんれたようだが、あれごらん、いかにもうまそうじゃないか、まっになっている。今ならちょうど買い手も多かろうから、二人で町へ出かけようじゃないか」
もうしました。アカナァは、ヨモにわるだくみがあろうなどとは思わないものですから、
「それはよかろう。さっそく、売りに出かけよう」
とすぐに賛成さんせいしました。するとヨモは、
「ではどうだろう、こうしないかね。売りに行くにしても、ただではおもしろくないから、二人、競争きょうそうで売ることにしよう。そしてどちらかったほうが、負けたものをころすというふうにするのだ」
と、なにげない顔してカラカラとわらいました。アカナァははじめから、ヨモにそんなおそろしいわるだくみのあることは知りませんし、そのうえころすなどとは、まったく冗談じょうだんにすぎないものだと思っていましたので、すぐに、
「それもよかろう」
承知しょうちしてしまいました。ヨモは心のうちで、「しめた!」とおおいによろこびまして、
「じゃ、木登きのぼりは、おれのほうが得意とくいだから、ももおれが取ろう」
とさっそく、二つのかごを持ってももの木に登り、自分のかごには、うまそうによくれた、大きなのをって入れ、アカナァのかごには、まだれてない青いのばかりを入れて、すぐにつく、上のほうだけ、れた赤いのを入れて、知らぬ顔してヨモにわたしました。
 いよいよ出かけるときに、ヨモはまたアカナァに向かいまして、
「二人とも同じ場所を売ってまわっては、早く売れないから、おまえは、とまり(所の名。那覇なはから半里ほどのところにあります。方面へ行け。おれ那覇なはのほうへ行くから」
もうしました。そして二人のものは、別々に出かけて行きました。
 那覇なはに出かけたヨモは、よくれた上等じょうとうなのばかりを持って行ったのですから、またたくに売れてしまいました。そして自分の計略けいりゃくの思いどおりになったのをよろこんで、さっそく家に帰ってアカナァの帰るのをっていました。ヨモは今日から、この家ももももミカンもすべてが、自分一人のものになるのだ、帰ってきたら、約束やくそくのとおりにせねばならぬ、とアカナァの帰りをいまか今かとちあぐんでいました。
 いっぽう、正直しょうじきなアカナァは、ヨモにだまされたとも知らず、れない、青いももばかりのかごになうて、声をからしてあっちこっち売り歩きましたが、誰一人だれひとりとして見向みむいてもくれません。そのうちに、はだんだんとれてまいります。足はつかれてぼうのようです。き出しそうな顔をして、声をしぼって、もも買いませんか!」といいますが、やがてその声もほそぼそと、はとっぷりとれてしまいました。
 つかれきったアカナァは、もはや歩く力もなく、みちばたの青草あおくさの上に、たおれるようにへたりました。
「ああ、こうなってはもう仕方しかたがない。帰ればきっと、ヨモのやつにひどいめにあわされるにちがいない。ああそうだ。あいつころすとかなんとかいうていたが、あんな悪いやつだから、ほんとうにころすかもしれない」
とこう思ったとき、アカナァはおそろしさに、の毛のよだつのをおぼえました。そして悲しさに、さめざめとき出しました。
 そのとき空は、一片ひとひらの雲もなく、十五夜じゅうごやの月が明るく、いっぱいにっているのでした。物のかげも動かないしずかなばんのことです。アカナァは物思ものおもいにふけりながらお月さまをながめていましたが、いつのまにか手をわせて、お月さまにお願いしていました。

「お月さま、どうかお助けください。わたしはうちへ帰ったらヨモにころされます。ですからわたしはうちに帰れません。わたしはどんな御用ごようでもいたします。どうぞお助けください」
一心いっしんになってお願いしました。すると、その真心まごころつうじたものか、天から大きなかごがおりてきました。アカナァはお月さまにすくい上げられたのです。それはお月さまが、つねづねからアカナァの正直しょうじきな心を知っておられたからです。
 さて、あのお月さまの中に、なんだか黒く見えるところがあるでしょう。あれは、助けてくださったお月さまへのご恩返おんがえしに、アカナァがかごをかついで、いっしょうけんめいに働いているのだそうです。

   五、黄金こがねの木のなるまで

 むかし、あるところに、兄と弟と、二人の兄弟がありました。そして、たった一人しかない親のお父さんにつかえていました。兄のほうは、ひじょうなケチんぼうで、朝からばんまで、よくの深いことばかり考えていました。そのうえ、だい親不孝者おやふこうものでしたから、親が病気だといっても、一銭いっせんのおかねだってしんで出そうともいたしません。これに反して、弟のほうは、親思おやおもいで、自分が働いて、すこしでもおかねができたら、親のためにおいしいものでも買ってきてよろこばせたり、そのほか、できるだけのことをして大切にするというふうで、同じ兄弟とはいうものの、まるで性質がちがうのでした。
 世の中は、思うようにはかぬものでして、そののち、欲深よくふかの兄のほうがお金持ちになりまして、大きな屋敷やしきにたくさんの人を使つかうてらしていましたが、それでも親をかえりみようともしません。それにひきかえて、弟のほうは親をかかえて、いつもいつも貧乏びんぼうしていました。そのうちに親は、弟の家でふとしたことからやまいとこにつきまして、いよいよいのちあやうく見えました。
 ある親は、弟をまくらもとにんで、
「おまえは、わしのためにそんなに貧乏びんぼうになったのだ。わしはつねから、それをすまなく思うていた。だから、わしがいま死んだとて、何もおかねをかけておとむらいなどしてくれなくてもよい。ただ線香せんこう一本と、お酒一合いちごうとをそなえてくれれば、それでたくさんだ」
といいのこして、まもなく親はいきをひきとりました。
 弟は、親の言葉を固くまもって、く泣く野辺のべの送りをすませました。兄はいつものように、一文いちもんのおかねだって出しませんでした。そしてむしろ、弟のすることをへんで見ていました。
 弟は、こんなよくのない兄といっしょにおはかまいりするのはおもしろくありませんので、七日なぬか七日のおまいりには、自分一人で出かけました。そしてあの言葉のとおり、酒一合いちごうと、線香せんこう一本とをおそなえして帰り帰りしていました。
 すると、ある日のこと、いつものようにお酒と線香せんこうとをたむけて帰りかけますと、不思議ふしぎなことに、はかよこあいから、一匹いっぴきの犬が飛び出しました。弟はびっくりしてげかけましたが、ふと、
「ああ、そうだ。ここはお父さんのおはかだった。なんにもこわがることはない。ひょっとしたらこの犬は、お父さんのお使いかもしれない。よしよし、家にれ帰って、やしなうてやろう」
と、こう思い返しまして、この不思議ふしぎな犬をれて帰りました。そして毎日、一合いちごうずつアワめしいてやることにしました。ところがその翌日よくじつからみょうなことに、毎日ひとかたまりずつ、黄金こがねふんをします。
 ちりももれば山となる、ということは、みなさんもごぞんじでしょう。わずかひとかたまりの黄金こがねも、もりもって、たくさんなものになりました。弟はそのうちに、人目ひとめをおどろかすような大きな屋敷やしきをかまえ、いくつものくらてまして、ついには村一番のお金持ちになりました。

 よくばりの兄は弟の様子を見て、うらやましくてなりませんでした。ある日、
「弟のやつ、どんなふうにしてもうけたんだろう? 一つ聞いて、おれもうけなくては」
と考えまして、弟のところへやって来ました。そして、
「おい、おまえは、たいそうなお金持ちになったが、いったいどうしてもうけたんだい? この兄に教えてくれないかね」
とたずねました。すると弟は正直者しょうじきものですから、すぐにほんとうのことを話してしまいました。
「ああそうか。お父さんのはかから出たものなら、長男であるこのおれのものだよ。それを今まで、兄にらん顔しておかねをためていたとは、ふといやつだ」
といって、むりやりに弟のところから、いやがる犬をすぐに引きずって帰り、かねがほしさに、仕方しかたなしに一升いっしょうのアワめしをやりました。すると犬は食べすぎたとみえまして、死んでしまいました。
 弟はこのことを聞いて、おおいにおどろき悲しみましたが、その犬のしかばねを自分の家に引き取って、ていねいにめて、その上に一本の木を植えました。
 するとその木がだんだん大きくなって、やがて花がいて、美しい黄金こがねがなりました。そののち弟は、以前にもしてお金持ちになりました。
 この黄金こがねの木が、今もあるクガニィ(ミカンの一種。のはじめだというています。また、ただ今でも沖縄おきなわでお正月やおぼんにかならず、祖先そせん霊前れいぜんにクガニィをかざりますのは、やはり、このおはなしからはじまったということです。(つづく)



底本:『日本昔話集(下)12』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年8月20日発行
親本:『日本昔話集(下)』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年4月3日発行
※ 親本奥付にある「童話集」は「昔話集」の誤植か。
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



日本昔話集 沖繩篇(一)

伊波普猷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)序《じよ》にかへて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)普猷《はゆう》[#「はゆう」は底本のまま]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
-------------------------------------------------------

序《じよ》にかへて
伊波《いは》普猷《ふゆう》

   琉球《りゆうきゆう》篇《へん》について

 皆《みな》さん、日本《につぽん》の地圖《ちず》を擴《ひろ》げて下《くだ》さい。九州《きゆうしゆう》と臺灣《たいわん》との間《あひだ》にちょうど、飛《と》び石《いし》のように、たくさんな小《ちひ》さな島《しま》が、一列《いちれつ》に並《なら》んでゐるでせう。この島々《しま/″\》を昔《むかし》は南島《なんとう》といひましたが、今《いま》では九州《きゆうしゆう》に近《ちか》い方《ほう》を奄美《あまみ》列島《れつとう》といひ、臺灣《たいわん》に近《ちか》い方《ほう》を沖繩《おきなは》列島《れつとう》というてゐます。
 さてこの島々《しま/″\》の住民《じゆうみん》は、日本《やまと》民族《みんぞく》の遠《とほ》い別《わか》れであつて、日本《につぽん》の國《くに》といふものがまだ出來《でき》ない時分《じぶん》に、南島《なんとう》に移住《いじゆう》して、國《くに》を立《た》てたのでしたが、あんまり遠《とほ》く離《はな》れてゐた爲《ため》、交通《こうつう》の不便《ふべん》といふことから、自然《しぜん》北方《ほつぽう》の同胞《どうはう》と疎遠《そえん》になり、とう/\迷《まよ》ひ子《ご》みたいなものになつてしまひました。そして沖繩《おきなは》は、南北朝《なんぼくちよう》の頃《ころ》から支那《しな》の保護《ほご》を受《う》けるようになりましたが、慶長《けいちよう》以後《いご》は支那《しな》と薩摩《さつま》とに兩屬《りようぞく》のすがたになりましたので、その中間《ちゆうかん》に板挾《いたばさ》みになつて、長《なが》い間《あひだ》苦勞《くろう》しました。ところが御維新後《ごいしんご》間《ま》もなく、元《もと》の日本《につぽん》に歸《かへ》り、沖繩縣《おきなはけん》といふ一縣《いつけん》になりました。私《わたし》のお話《はなし》はすべてこの沖繩《おきなは》に、昔《むかし》から傳《つた》はつてゐるものであります。


   目次《もくじ》

 琉球《りゆうきゆう》篇《へん》   伊波《いは》普猷《はゆう》[#「はゆう」は底本のまま]

一、沖繩人《おきなはじん》の始《はじ》め
二、巨人《きよじん》の足跡《あしあと》
三、三十七嶽《さんじゆうなゝたけ》の神々《かみ/″\》
四、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]とよも[#「よも」に傍点]
五、黄金《こがね》の木《き》のなるまで
六、島《しま》の守《まも》り神《がみ》
七、命《いのち》の水《みづ》
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日本昔話集下
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裝幀・恩地孝四郎
口繪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫・前川千帆
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   沖繩篇   伊波普猷
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   一、沖繩人《おきなはじん》の始《はじ》め

 むかし/\、大《おほ》むかしのこと、古宇利島《こうりじま》といふ島《しま》に、男《をとこ》と女《をんな》と、たった二人《ふたり》の人《ひと》が住《す》んでゐました。人間《にんげん》というては、この二人《ふたり》しかゐない時分《じぶん》のことですから、二人《ふたり》は、天國《てんごく》の神樣《かみさま》のようなもので、もちろん、着物《きもの》といふものはありませんので、はだかで暮《くら》してゐました。二人《ふたり》は毎日《まいにち》、手《て》を取《と》り合《あ》うて、濱邊《はまべ》に出《で》ては、眞白《まつしろ》い砂《すな》をさく/\と踏《ふ》みながら、話《はなし》をしたり、ある時《とき》は、阿旦《あだん》の葉蔭《はかげ》で、朝《あさ》から晩《ばん》まで、樂《たの》しく遊《あそ》んでゐました。
 ある日《ひ》二人《ふたり》は、いつものように遊《あそ》び疲《つか》れて、青々《あを/\》とした阿旦《あだん》の葉《は》の蔭《かげ》で、腹這《はらば》ひになつてゐますと、いつのまにか、うつら/\、寢入《ねい》つてしまひました。すると暫《しばら》くすると、不思議《ふしぎ》なこともあるもので、天《てん》から、大《おほ》きな/\お餅《もち》が、ぱら/\と落《お》ちて來《き》ました。その物音《ものおと》に、二人《ふたり》の者《もの》はびっくりして眼《め》を覺《さま》して空《そら》を見上《みあ》げると、まんまるいお月樣《つきさま》が、にっこり笑《わら》ひながら、大《おほ》きなお餅《もち》を落《おと》してゐられるのです。
「きっとお月樣《つきさま》は、私《わたし》たち二人《ふたり》を可愛《かわい》がつて、お餅《もち》を下《くだ》さるんだ」
と大喜《おほよろこ》びで、お月樣《つきさま》に厚《あつ》くお禮《れい》を申《まを》し上《あ》げました。お腹《なか》が空《す》いて、疲《つか》れ切《き》つてゐる二人《ふたり》の者《もの》にとつては、お餅《もち》は、この上《うへ》もないありがたいお月樣《つきさま》のお情深《なさけぶか》い下《くだ》さり物《もの》でした。それからは、毎日《まいにち》お餅《もち》を戴《いたゞ》いて、なんの心配《しんぱい》も、不自由《ふじゆう》もなく、暮《くら》すことが出來《でき》るようになりました。ところがだん/\、月日《つきひ》がたつにつれて、人間《にんげん》の智慧《ちえ》が出《で》て來《き》まして、二人《ふたり》ともいろ/\なことを考《かんが》へ始《はじ》めました。
 ある日《ひ》のこと、二人《ふたり》は阿旦《あだん》の葉蔭《はかげ》の白砂《しろすな》の上《うへ》に、腹這《はらば》ひになつて、
「ね、あなた。いつまでこんなお惠《めぐ》みが續《つゞ》くんでせうか。お餅《もち》だつて、そんなにたくさんあるわけのものでもないでせうから」
「うん、そんなことを考《かんが》へると、實際《じつさい》心配《しんぱい》だね。さうだ。今日《けふ》から、戴《いたゞ》いたお餅《もち》の食《た》べた殘《のこ》りは、あの岩穴《いはあな》の中《なか》にでも貯《たくは》へて置《お》くことにしようぢゃないか」
とこんなことを話《はな》し合《あ》うて、その日《ひ》から、食《た》べあました分《ぶん》を大切《たいせつ》に、貯《たくは》へて置《お》くことにいたしました。
 その翌日《よくじつ》のことでした。いつもお餅《もち》を落《おと》して下《くだ》さる濱邊《はまべ》に出《で》て見《み》ますと、そこにはお餅《もち》どころか、缺《か》けら一《ひと》つ落《お》ちてゐません。今日《けふ》はどうしてこんなに遲《おそ》いのだらうと待《ま》つても待《ま》つても、とう/\お餅《もち》は、落《お》ちて來《き》ませんでした。二人《ふたり》は天《てん》を仰《あふ》いで、途方《とほう》に暮《く》れてゐますと、日《ひ》は既《すで》にとっぷりと暮《く》れて、まん圓《まる》いお月樣《つきさま》が、東《ひがし》の空《そら》から、ぬっと顏《かほ》を出《だ》しました。二人《ふたり》の者《もの》は、思《おも》はず、叫《さけ》び聲《ごゑ》を上《あ》げました。
 そして、
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お月樣《つきさま》、お月樣《つきさま》、
どうぞお餅《もち》を下《くだ》さいませ。
お月樣《つきさま》、お月樣《つきさま》、
貝《かひ》を拾《ひろ》うてさし上《あ》げます
どうぞお餅《もち》を下《くだ》さいませ。
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と歌《うた》ひ續《つゞ》けて、お願《ねが》ひいたしました。それから後《のち》も、二人《ふたり》の心《こゝろ》を籠《こ》めた歌《うた》と、お祈《いの》りとは、幾日《いくにち》も/\續《つゞ》けられたのでした。お月樣《つきさま》は相變《あひかは》らずにっこり笑《わら》ひながら、雲間《くもま》を忙《いそが》しそうに走《はし》つていられます。しかし、二人《ふたり》の者《もの》の願《ねが》ひは、つひに、聞《き》き屆《とゞ》けられませんでした。
 二人《ふたり》のものは、仕方《しかた》がありませんので、磯邊《いそべ》に下《お》りて、魚《さかな》を捕《と》つたり、貝《かひ》を獲《と》つたりして暮《くら》してゐるうちに、いつのまにか、お餅《もち》のこともうち忘《わす》れて、以前《いぜん》の樂《たの》しさに立《た》ち返《かへ》つてゐました。
「人樣《ひとさま》をあてにして暮《くら》すのは、心配《しんぱい》なものだ。それに引《ひ》き換《か》へて、自分《じぶん》で働《はたら》いてゐれば、なんの心配《しんぱい》もなうて、氣樂《きらく》でいゝね」
と今《いま》の暮《くら》しを語《かた》り合《あ》うてゐますと、どこからともなく、
「もし/\」といふ聲《こゑ》がします。二人《ふたり》はびっくりしてふり向《む》くと、今《いま》まで見《み》たこともない二《ふた》つの怪《あや》しいものが、波間《なみま》に現《あらは》れて、
「もし/\、あなた方《がた》の仲間《なかま》といふのは、いくたりほどゐるのですか」
といひます。
「いつたい君《きみ》は、何者《なにもの》だ。ふいにやつて來《き》て、ものをいつたりして、びっくりするぢゃないか。僕《ぼく》たちの仲間《なかま》といふのは、たったこの二人《ふたり》きりなんだが、どうしたといふのだ」
「あゝそれはお氣《き》の毒《どく》ですね。私《わたし》は海馬《かいば》といふもので、仲間《なかま》は、海《うみ》のいたるところにゐるんです。あなた方《がた》のように、お二人《ふたり》っきりでは、まったくお寂《さび》しいでせう」
「さうだ。二人《ふたり》ではほんとにつまらないよ。どうだ。仲間《なかま》を殖《ふや》す方法《ほう/\》でもあつたら教《をし》へてくれないかね」
「それはお安《やす》い御用《ごよう》です。さっそく、お教《をし》へ申《まを》しませう」
 二人《ふたり》の者《もの》は初《はじ》めて、海馬《かいば》の教《をし》へを守《まも》つて、多《おほ》くの仲間《なかま》を殖《ふや》すことが出來《でき》ました。その子孫《しそん》が、古宇利島《こうりじま》の祖先《そせん》となり、だん/\、沖繩《おきなは》の全島《ぜんとう》にも擴《ひろ》がるようになつたのです。

   二、巨人《きよじん》の足跡《あしあと》

 地上《ちじよう》には、草《くさ》や木《き》はもちろんのこと、鳥《とり》や獸《けもの》というては、一匹《いつぴき》もゐなかつた大昔《おほむかし》のことです。その時分《じぶん》、沖繩島《おきなはじま》の上《うへ》には、霞《かすみ》がかゝつたように、天《てん》が垂《た》れ下《さが》つてゐて、天《てん》と地《ち》との區別《くべつ》がまったくありませんでした。しかも、東《ひがし》の海《うみ》から寄《よ》せて來《く》る波《なみ》は、島《しま》を越《こ》えて、西《にし》の海《うみ》に行《ゆ》き、西《にし》の海《うみ》の潮《うしほ》は、東《ひがし》の海《うみ》に飛《と》び越《こ》えて渦《うづ》を卷《ま》いてゐるといふ、それは/\、もの凄《すご》い有《あ》り樣《さま》でした。
 それまで、天《てん》にゐられた、あまみきよ[#「あまみきよ」に傍点]、しねりきよ[#「しねりきよ」に傍点]といふ二人《ふたり》の神樣《かみさま》は、この有《あ》り樣《さま》を御覽《ごらん》になつて、
「あれではせっかく、作《つく》り上《あ》げた島《しま》もなにもならん」
とおつしやつて、さっそく、天上《てんじよう》から、土《つち》や石《いし》や草《くさ》や木《き》やをお運《はこ》びになつて、まづ最初《さいしよ》に、海《うみ》と陸《りく》との境《さかひ》をお定《さだ》めになりました。
 二人《ふたり》の神樣《かみさま》は、それから濱邊《はまべ》にお出《い》でになり、阿旦《あだん》や、ゆうな[#「ゆうな」に傍点]といふ木《き》をお植《う》ゑつけになつて、波《なみ》を防《ふせ》ぐようにせられました。それからといふものは、さしもに逆卷《さかま》いてゐた、あの騷《さわ》がしい波《なみ》も、飛《と》び越《こ》さなくなり、地上《ちじよう》には、草《くさ》や木《き》が青々《あを/\》と茂《しげ》つて、野《の》や山《やま》には、小鳥《ことり》の聲《こゑ》が聞《きこ》え、獸《けもの》があちこち走《はし》るようになりました。地上《ちじよう》が、かういふ平和《へいわ》な状態《じようたい》になつた時《とき》に、二人《ふたり》の神樣《かみさま》は、今度《こんど》は、人間《にんげん》をお造《つく》りになりました。そして最初《さいしよ》は、鳥《とり》や獸《けもの》と一《いち》しょにしておかれました。人間《にんげん》は、何《なに》も知《し》らないものですから、鳥《とり》や獸《けもの》とあちこち走《はし》りまはつてゐました。ところが人間《にんげん》にだん/\智慧《ちえ》がついて來《き》まして、今《いま》までお友《とも》だちだつた鳥《とり》や獸《けもの》を捕《と》つて食《た》べることを覺《おぼ》えたものですからたまりません。鳥《とり》や獸《けもの》は、びっくりしてだん/\、山《やま》へ逃《に》げ込《こ》んでしまふようになりました。
 この時《とき》になつて、人間《にんげん》は、はじめて自分《じぶん》たちの頭《あたま》の上《うへ》に、低《ひく》く垂《た》れ下《さが》つてゐる天《てん》に、氣《き》がつきました。そしてどうかして、この天《てん》を押《お》し上《あ》げて、人々《ひと/″\》が樂《らく》に道《みち》を通《とほ》れる工夫《くふう》はないものかと、いろ/\に考《かんが》へて見《み》ました。そのうちのある者《もの》は、飛《と》び上《あが》つて見《み》ました。ある者《もの》は手《て》で押《お》し上《あ》げました。が、しかしどれも/\皆《みんな》、失敗《しつぱい》に終《をは》りました。天《てん》を押《お》し上《あ》げる相談《そうだん》は、それからも、幾度《いくど》も/\繰《く》り返《かへ》されましたが、いづれもだめでした。それでも根氣《こんき》よく、いろ/\にやつて見《み》ました。
 ある日《ひ》人々《ひと/″\》が、いつものように集《あつま》つて、盛《さか》んに天《てん》を押《お》し上《あ》げようとしてゐましたら、
「さぞ、御不自由《ごふじゆう》なことでせう」といふ聲《こゑ》がします。人々《ひと/″\》がふり返《かへ》つて見《み》ると、今《いま》までついぞ見《み》たこともないような大《おほ》きな/\人《ひと》が立《た》つてゐます。
 するとその巨人《きよじん》は、うゝんといふ唸《うな》り聲《ごゑ》を出《だ》したかと思《おも》ふと、不思議《ふしぎ》なこともあるものではありませんか。今《いま》まで人々《ひと/″\》が、あれだけ苦心《くしん》しても上《あが》らなかつた天《てん》が、見《み》る/\高《たか》く押《お》し上《あ》げられました。人々《ひと/″\》はびっくりして、知《し》らず/\地《じ》べたに坐《すわ》つて、うや/\して兩手《りようて》をついて、
「どうもなんともありがたうございます。お蔭《かげ》で助《たす》かりました」
といつて頭《あたま》を上《あ》げると、さっきまでそこにゐたはずの巨人《きよじん》の影《かげ》も形《かたち》も見《み》えません。さぁ大《たい》へん、人々《ひと/″\》は二度《にど》びっくりしました。そして、よく/\見《み》まはして見《み》ると、あの巨人《きよじん》が力《ちから》を入《い》れたはずみに、岩《いは》に踏《ふ》み込《こ》んだ大《おほ》きな片一方《かたいつぽう》の足跡《あしあと》が殘《のこ》つてゐます。
 その後《のち》、誰《たれ》いふとなく、その巨人《きよじん》のことをあゝまんちゅう[#「あゝまんちゅう」に傍点]だ。あまみきよ[#「あまみきよ」に傍点]樣《さま》だといふようになりました。あゝまんちゅう[#「あゝまんちゅう」に傍点]も、あまみきよ[#「あまみきよ」に傍点]も同《おな》じ意味《いみ》です。天御子《あまみこ》の意味《いみ》に取《と》るとよくわかります。あゝまんちゅう[#「あゝまんちゅう」に傍点]、あまみきよ[#「あまみきよ」に傍点]といふのは、つまり、天上《てんじよう》の神樣《かみさま》です。
 さてそのあまみきよ[#「あまみきよ」に傍点]の足跡《あしあと》といふのが、今《いま》でも、沖繩縣《おきなはけん》の國頭郡《くにがみぐん》今歸仁村《なきじんむら》に一《ひと》つ、そこから十里《じゆうり》ほど離《はな》れた久志村《くしむら》といふ所《ところ》に、もう片方《かたつぽう》のが一《ひと》つ殘《のこ》つてゐるといふことです。

   三、三十七嶽《さんじゆうなゝたけ》の神々《かみ/″\》

 昔《むかし》、島尻郡《しまじりぐん》玉城村《たまぐすくむら》といふ所《ところ》に、氣立《きだ》てのやさしいお爺《ぢい》さんがありました。つれあひのお婆《ばあ》さんに早《はや》くから死《し》なれて、たった一人《ひとり》で魚《さかな》を捕《と》つて、その日《ひ》/\を暮《くら》してゐました。
 ある日《ひ》のこと、いつものとほり、網《あみ》を肩《かた》にかけて、一里《いちり》ほど離《はな》れた那覇港《なはみなと》の傍《そば》の波上《なみのうへ》といふ所《ところ》の海岸《かいがん》へ出《で》かけて、そこの岩陰《いはかげ》に腰《こし》かけて、波《なみ》を見《み》まもつてゐました。
 暫《しばら》くすると、波《なみ》が急《きゆう》にむく/\と上《あが》つたかと思《おも》ふと、今度《こんど》は、鱗《うろこ》のようなきれい[#「きれい」に傍点]な波紋《はもん》がして、無數《むすう》の魚《さかな》が岸《きし》へ寄《よ》せて來《く》るのでした。お爺《ぢい》さんはそっとかゞんで、網《あみ》を持《も》ち、ぬき足《あし》さし足《あし》で、渚《なぎさ》の方《ほう》へ降《お》りて行《ゆ》きました。すると、人影《ひとかげ》に驚《おどろ》いたものか、美《うつく》しい銀《ぎん》の脊中《せなか》を見《み》せて、魚《さかな》は、さっと岩陰《いはかげ》の淵《ふち》へ逃《に》げ込《こ》んでしまひました。
「あっ、しまつた。魚《さかな》も賢《かしこ》うなつたな」
とお爺《ぢい》さんは、舌打《したう》ちしました。そして、岩《いは》の上《うへ》に立《た》ち上《あが》つて、海《うみ》を見下《みおろ》しますと、青々《あを/\》とした底《そこ》には、美《うつく》しい魚《さかな》が群《む》れをなして、ぴん/\はね廻《まは》つてゐます。お爺《ぢい》さんはついその美《うつく》しさに見《み》とれて、ぼんやりしてゐましたが、急《きゆう》に、どぶんと網《あみ》を海《うみ》へ投《な》げ込《こ》みました。そして、ぐい/\手繩《てなは》を手繰《たぐ》り上《あ》げました。確《たしか》に手應《てごた》へがします。しかも、重《おも》みがだんだん加《くは》はつてまゐります。さてこそとお爺《ぢい》さんは大喜《おほよろこ》びで、そこは手慣《てな》れた腕《うで》で、ずんずん引《ひ》き上《あ》げました。
 ところが、大《おほ》きな獲物《えもの》と思《おも》つたのは、泥《どろ》に交《まじ》つた、古《ふる》ぼけた、小《ちひ》さい、汚《きたな》らしい瓶《かめ》でした。
「なんのことだ、ばか/\しい。今日《けふ》はよく/\日《ひ》が惡《わる》いと見《み》える。漁《りよう》に出《で》る途中《とちゆう》で、女《をんな》に遭《あ》ふと、縁起《えんぎ》がわるいといふが、そんな不吉《ふきつ》な女《をんな》には、會《あ》はなかつたはずだがなあ」
と人《ひと》のいゝお爺《ぢい》さんも、つい、ぐちをこぼしました。
 そして、こんな汚《きたな》い瓶《かめ》なんか海《うみ》へ捨《す》てゝやらう、と思《おも》つて、網《あみ》の中《なか》から取《と》り出《だ》して、ふと見《み》ると、嚴重《げんじゆう》に封《ふう》のしてある、なか/\立派《りつぱ》な瓶《かめ》です。お爺《ぢい》さんはちょっと、中《なか》をあけて見《み》る氣《き》になりました。
「やれ/\、ちょっと中《なか》でもあけて見《み》てやらうか」
とその邊《へん》の蔓草《つるくさ》の匍《は》ひかゝつてゐる、草叢《くさむら》の中《なか》に腰《こし》を下《おろ》して、煙管《きせる》を口《くち》にくはへながら、封《ふう》を切《き》つて、中《なか》をあけました。
 すると、お爺《ぢい》さんは「あっ」といふ叫《さけ》び聲《ごゑ》と共《とも》に、瓶《かめ》をはふり出《だ》しました。そして顏《かほ》は見《み》る/\うちに、青《あを》ざめて、からだは、わな/\慄《ふる》へてゐます。それもむりはありません。見《み》ると、瓶《かめ》の中《なか》から、不思議《ふしぎ》な小人《こびと》が、何人《なんにん》も/\這《は》ひ出《で》てゐるのです。
 やがて、氣《き》を失《うしな》うたようなお爺《ぢい》さんの耳《みゝ》に、
「お爺《ぢい》さん、どうもありがたう。お蔭《かげ》でまったく助《たす》かりました」
といふ聲《こゑ》が聞《きこ》えます。
 お爺《ぢい》さんは、はじめて氣《き》を取《と》り直《なほ》しました。そして、見《み》るともなく見《み》ると、小人《こびと》たちは皆《みんな》、神々《かう/″\》しい姿《すがた》をしてゐるではありませんか。そこでお爺《ぢい》さんは、少《すこ》し安心《あんしん》したような顏《かほ》つきで、
「あなた方《がた》は、いつたい、どなた樣《さま》ですか」
と恐《おそ》る/\、これだけのことをやっと、訊《たづ》ねました。すると、小人《こびと》は、
「御安心《ごあんしん》なさい。私《わたし》たちは、何《なに》も怪《あや》しいものでもなければ、また、人《ひと》を迷《まよ》はすようなものでもありません。これには少《すこ》し、仔細《しさい》があるのです。どうか一通《ひととほ》り聽《き》いて戴《いたゞ》きます。實《じつ》は私《わたし》たちの母親《はゝおや》といふ人《ひと》は、王樣《おうさま》のお姫樣《ひめさま》で、神樣《かみさま》のお情《なさけ》で、三十七個《さんじゆうしちこ》の卵《たまご》を産《う》んだのですが、神樣《かみさま》のお心《こゝろ》を知《し》らない人間《にんげん》は、世《よ》にない不思議《ふしぎ》なことだといふので、後日《ごじつ》の災難《さいなん》を避《さ》けるつもりで、産《う》み落《おと》すと同時《どうじ》に、瓶《かめ》に固《かた》く封《ふう》じ込《こ》んで、海《うみ》へ沈《しづ》めたのです。その卵《たまご》から生《うま》れたのが、私《わたし》たちです。こんなわけで、世《よ》に出《で》ることも出來《でき》ず、幾百年《いくひやくねん》といふ永《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》、海《うみ》の底《そこ》の瓶《かめ》の中《なか》で、暮《くら》して來《き》たのですが、たった今《いま》、永年《ながねん》の望《のぞ》みがかなうて、あなたに救《すく》ひ出《だ》されたのです。なんともお禮《れい》の申《まを》しようもありません」
 この物語《ものがた》りの一部《いちぶ》始終《しじゆう》を聽《き》いて、お爺《ぢい》さんはすっかり安心《あんしん》いたしました。そしてまた、その小人《こびと》たちが、何者《なにもの》であるかもだいたい想像《そう/″\》することが出來《でき》ました。
 小人《こびと》たちは、お爺《ぢい》さんにお禮《れい》を申《まを》し終《をは》ると、次第《しだい》にせい[#「せい」に傍点]が高《たか》くなつて、髪《かみ》の毛《け》も、だんだん白《しろ》くなつて行《ゆ》きます。そして、まっ白《しろ》の顋髯《あごひげ》が、膝《ひざ》の所《ところ》まで生《は》えて來《き》ました。すると
「お爺《ぢい》さん、さよなら」
と叫《さけ》んだかと思《おも》ふと、急《きゆう》に白雲《しらくも》が起《おこ》つて來《き》て、空《そら》へ向《む》けて、あちこち飛《と》び去《さ》つてしまひました。
 お爺《ぢい》さんは、びっくりしてその行《ゆ》くへを見《み》てゐますと、向《むか》うの森《もり》に、一塊《ひとかたまり》の白雲《しらくも》がかかつて、すうっと消《き》えました。
「神樣《かみさま》がお鎭《しづ》まりになつたのだ」
とお爺《ぢい》さんは、かう心《こゝろ》のうちで叫《さけ》びながら、遙《はる》かにその後《うしろ》を拜《をが》みました。
 沖繩《おきなは》三十七嶽《さんじゆうなゝたけ》といつて、三十七箇所《さんじゆうしちかしよ》の祠《ほこら》の神樣《かみさま》は、かうして出來《でき》たといふことです。

   四、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]とよも[#「よも」に傍点]

 むかしある所《ところ》に、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]とよも[#「よも」に傍点]とが、一《ひと》つ屋敷《やしき》に住《す》んで、お友《とも》だちになつてゐました。あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]といふのは、沖繩《おきなは》の言葉《ことば》でして、月男《つきをとこ》とでも譯《やく》しませうか。ともかく、同《おな》じ沖繩《おきなは》の宮古島《みやこじま》といふ所《ところ》では、あかりやざがま[#「あかりやざがま」に傍点]といつてゐまして、それには、赤《あか》い小男《こをとこ》といふ意味《いみ》があるそうです。よも[#「よも」に傍点]といふのは、猿《さる》のことです。
 さてあかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は、眞赤《まつか》な、まん圓《まる》い顏《かほ》をして、いつも笑《わら》うてゐます。頭《あたま》はおかっぱで、黒《くろ》い髪《かみ》をふさ/\させて、まじめに働《はたら》いてゐました。よも[#「よも」に傍点]はこれと反對《はんたい》に、非常《ひじよう》に狡猾《こうかつ》でその上《うへ》、大《だい》の欲張《よくば》り屋《や》で、毎日《まいにち》、ぶら/\してゐては、よくないことばかり考《かんが》へてゐました。それですから、よも[#「よも」に傍点]はいつも、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]のことを邪魔《じやま》にしまして、機會《きかい》さへあつたら彼《かれ》を欺《だま》して、屋敷《やしき》も、庭《には》の蜜柑《みかん》も、ばなゝ[#「ばなゝ」に傍点]も、桃《もゝ》も皆《みんな》、自分《じぶん》のものにしようと考《かんが》へてゐました。
 ある年《とし》の三月《さんがつ》のことです。庭《には》の桃《もゝ》の木《き》が、枝《えだ》も撓《たわ》むくらゐに、大《おほ》きな見事《みごと》な桃《もゝ》が、鈴生《すゞな》りになつて、それが青葉《あをば》の間《あひだ》からよく見《み》えます。その下《した》を通《とほ》る者《もの》は、誰《たれ》しも、「あゝおいしそうな桃《もゝ》だな」と立《た》ち止《どま》つて見《み》て行《ゆ》きます。
 よも[#「よも」に傍点]はその頃《ころ》、毎日《まいにち》、伸《の》び上《あが》つては、大《おほ》きな口《くち》を開《あ》けて、しきりに、その桃《もゝ》を見《み》てゐました。時《とき》には、あの毛《け》だらけの腕《うで》を組《く》んで、何《なに》か考《かんが》へてゐることもあります。よも[#「よも」に傍点]のことですから、きっとよくないことを考《かんが》へてゐるのに違《ちが》ひありません。
 ある日《ひ》、例《れい》のごとく、こんなことをつぶやいてゐました。
「どうかして、あの邪魔者《じやまもの》のあかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]をない者《もの》にする工夫《くふう》はないものかなあ。あいつさへゐなければ、この桃《もゝ》も自分《じぶん》の思《おも》ふまゝに食《く》ふことが出來《でき》るのだが。それに向《むか》うにある、ばなゝ[#「ばなゝ」に傍点]も自分《じぶん》一人《ひとり》のものになるんだがなあ。あゝあ、何《なに》かよい考《かんが》へはないものか知《し》らんて」
としきりに、首《くび》を捻《ひね》つてゐましたが、やがて、ぽんと、膝《ひざ》を叩《たゝ》きました。きっと何《なに》やら考《かんが》へ出《だ》したのでせう。狡猾《こうかつ》そうな眼《め》を輝《かゞや》かしながら、ぬけ落《お》ちた眉毛《まゆげ》をぴく/\動《うご》かしてゐます。そして、氣味《きみ》の惡《わる》い笑《わら》ひを浮《うか》べました。
 よも[#「よも」に傍点]はすぐに、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]のところにやつて來《き》て、胸《むね》に一物《いちもつ》あるものですから、いかにもやさしそうな顏《かほ》をして、
「俺《おれ》たち二人《ふたり》のあの桃《もゝ》も、もうずいぶん熟《う》れたようだが、あれ御覽《ごらん》、いかにも、うまそうぢゃないか、眞赤《まつか》になつてゐる。今《いま》ならちょうど買《か》ひ手《て》も多《おほ》からうから、二人《ふたり》で町《まち》へ出《で》かけようぢゃないか」
と申《まを》しました。あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は、よも[#「よも」に傍点]に惡企《わるだく》みがあらうなどゝは思《おも》はないものですから、
「それはよからう。さっそく、賣《う》りに出《で》かけよう」
とすぐに、賛成《さんせい》しました。するとよも[#「よも」に傍点]は、
「ではどうだらう、かうしないかね。賣《う》りに行《ゆ》くにしても、たゞではおもしろくないから二人《ふたり》競爭《きようそう》で賣《う》ることにしよう。そしてどちらか勝《か》つた方《ほう》が、負《ま》けたものを殺《ころ》すといふ風《ふう》にするのだ」
と何《なに》げない顏《かほ》して、から/\と笑《わら》ひました。あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は初《はじ》めから、よも[#「よも」に傍点]にそんな恐《おそ》ろしい惡企《わるだく》みのあることは知《し》りませんし、その上《うへ》、殺《ころ》すなどゝは、まったく冗談《じようだん》に過《す》ぎないものだと思《おも》つてゐましたので、すぐに、
「それもよからう」
と承知《しようち》してしまひました。よも[#「よも」に傍点]は、心《こゝろ》のうちで、「占《し》めた」と大《おほ》いに喜《よろこ》びまして、
「ぢゃ、木登《きのぼ》りは、俺《おれ》の方《ほう》が得意《とくい》だから、桃《もゝ》は、俺《おれ》が取《と》らう」
とさっそく、二《ふた》つの籠《かご》を持《も》つて桃《もゝ》の木《き》に登《のぼ》り、自分《じぶん》の籠《かご》には、うまそうによく熟《う》れた、大《おほ》きなのを擇《よ》つて入《い》れ、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]の籠《かご》には、まだ熟《う》れてない青《あを》いのばかりを入《い》れて、すぐ眼《め》につく、上《うへ》の方《ほう》だけ、熟《う》れた赤《あか》いのを入《い》れて、知《し》らぬ顏《かほ》して、よも[#「よも」に傍点]に渡《わた》しました。
 いよ/\出《で》かける時《とき》に、よも[#「よも」に傍点]はまた、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]に向《むか》ひまして、
「二人《ふたり》とも同《おな》じ場所《ばしよ》を賣《う》つて廻《まは》つては、早《はや》く賣《う》れないから、お前《まへ》は、泊《とまり》([#割り注]所の名。那覇から半里ほどのところにあります。[#割り注終わり])方面《ほうめん》へ行《ゆ》け。俺《おれ》は那覇《なは》の方《ほう》へ行《ゆ》くから」
と申《まを》しました。そして二人《ふたり》のものは、別々《べつ/\》に出《で》かけて行《ゆ》きました。
 那覇《なは》に出《で》かけたよも[#「よも」に傍点]は、よく熟《う》れた上等《じようとう》なのばかりを持《も》つて行《い》つたのですから、瞬《またゝ》く間《ま》に賣《う》れてしまひました。そして自分《じぶん》の計畧《けいりやく》の思《おも》ひ通《どほ》りになつたのを喜《よろこ》んで、さっそく家《いへ》に歸《かへ》つてあかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]の歸《かへ》るのを待《ま》つてゐました。よも[#「よも」に傍点]は今日《けふ》から、この家《いへ》も桃《もゝ》も蜜柑《みかん》もすべてが、自分《じぶん》一人《ひとり》のものになるのだ。歸《かへ》つて來《き》たら、約束《やくそく》の通《とほ》りにせねばならぬ、とあかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]の歸《かへ》りを今《いま》か/\と待《ま》ちあぐんでゐました。
 一方《いつぽう》、正直《しようじき》なあかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は、よも[#「よも」に傍点]にだまされたとも知《し》らず、熟《う》れない、青《あを》い桃《もゝ》ばかりの籠《かご》を擔《にな》うて、聲《こゑ》を涸《か》らして、あっちこっち賣《う》り歩《ある》きましたが、誰一人《たれひとり》として、見向《みむ》いてもくれません。そのうちに、日《ひ》はだん/″\と暮《く》れてまゐります。足《あし》は疲《つか》れて、棒《ぼう》のようです。泣《な》き出《だ》しそうな顏《かほ》をして、聲《こゑ》を絞《しぼ》つて、「桃《もゝ》買《か》ひませんか」といひますが、やがて、その聲《こゑ》もほそ/″\と、日《ひ》はとっぷりと暮《く》れてしまひました。
 疲《つか》れ切《き》つたあかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は、もはや、歩《ある》く力《ちから》もなく、路傍《みちばた》の青草《あをくさ》の上《うへ》に、倒《たふ》れるように、へたりました。
「あゝ、かうなつてはもう、仕方《しかた》がない。歸《かへ》ればきっと、よも[#「よも」に傍点]のやつに、ひどいめにあはされるに違《ちが》ひない。あゝさうだ。あいつ殺《ころ》すとかなんとか、いうてゐたが、あんな惡《わる》いやつだから、ほんとうに殺《ころ》すかも知《し》れない」
とかう思《おも》つた時《とき》、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は恐《おそ》ろしさに、身《み》の毛《け》のよだつのを覺《おぼ》えました。そして悲《かな》しさに、さめ/″\と泣《な》き出《だ》しました。
 その時《とき》空《そら》は、一片《ひとひら》の雲《くも》もなく、十五夜《じゆうごや》の月《つき》が明《あか》るく、一《いつ》ぱいに照《て》つてゐるのでした。物《もの》の影《かげ》も動《うご》かない靜《しづ》かな晩《ばん》のことです。あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は、物思《ものおも》ひに耽《ふけ》りながら、お月樣《つきさま》を眺《なが》めてゐましたが、いつのまにか手《て》を合《あは》せて、お月樣《つきさま》にお願《ねが》ひしてゐました。
「お月樣《つきさま》、どうかお助《たす》け下《くだ》さい。私《わたし》はうちへ歸《かへ》つたら、よも[#「よも」に傍点]に殺《ころ》されます。ですから私《わたし》は内《うち》に歸《かへ》れません。私《わたし》はどんな御用《ごよう》でもいたします。どうぞお助《たす》け下《くだ》さい」
と一心《いつしん》になつて、お願《ねが》ひしました。すると、その眞心《まごゝろ》が通《つう》じたものか、天《てん》から大《おほ》きな籠《かご》が下《お》りて來《き》ました。あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]は、お月樣《つきさま》に救《すく》ひ上《あ》げられたのです。それはお月樣《つきさま》が、常々《つね/″\》から、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]の正直《しようじき》な心《こゝろ》を知《し》つてをられたからです。
 さて、あのお月樣《つきさま》の中《なか》に、なんだか黒《くろ》く見《み》えるところがあるでせう。あれは、助《たす》けて下《くだ》さつたお月樣《つきさま》への御恩返《ごおんがへ》しに、あかなぁ[#「あかなぁ」に傍点]が籠《かご》を擔《かつ》いで、一《いつ》しょうけんめいに働《はたら》いてゐるのだそうです。

   五、黄金《こがね》の木《き》のなるまで

 むかし、あるところに、兄《あに》と弟《おとうと》と、二人《ふたり》の兄弟《きようだい》がありました。そして、たった一人《ひとり》しかない親《おや》のお父《とう》さんに仕《つか》へてゐました。兄《あに》の方《ほう》は、非常《ひじよう》なけちんぼうで、朝《あさ》から晩《ばん》まで、欲《よく》の深《ふか》いことばかり考《かんが》へてゐました。その上《うへ》、大《だい》の親不孝者《おやふこうもの》でしたから、親《おや》が病氣《びようき》だといつても、一錢《いつせん》のお金《かね》だつて、惜《を》しんで出《だ》さうともいたしません。これに反《はん》して、弟《おとうと》の方《ほう》は、親思《おやおも》ひで、自分《じぶん》が働《はたら》いて、少《すこ》しでもお金《かね》が出來《でき》たら、親《おや》のために、おいしいものでも買《か》つて來《き》て喜《よろこ》ばせたり、その外《ほか》、出來《でき》るだけのことをして、大切《たいせつ》にするといふ風《ふう》で、同《おな》じ兄弟《きようだい》とはいふものゝ、まるで性質《せいしつ》が違《ちが》ふのでした。
 世《よ》の中《なか》は、思《おも》ふようには行《ゆ》かぬものでして、その後《のち》、欲深《よくふか》の兄《あに》の方《ほう》が、お金持《かねも》ちになりまして、大《おほ》きな屋敷《やしき》に、たくさんの人《ひと》を使《つか》うて暮《くら》してゐましたが、それでも、親《おや》を顧《かへりみ》ようともしません。それに引《ひ》きかへて、弟《おとうと》の方《ほう》は、親《おや》を抱《かゝ》へて、いつも/\、貧乏《びんぼう》してゐました。そのうちに親《おや》は、弟《おとうと》の家《いへ》で、ふとしたことから、病《やまひ》の床《とこ》につきましていよ/\命《いのち》も危《あやふ》く見《み》えました。
 ある日《ひ》親《おや》は、弟《おとうと》を枕《まくら》もとに呼《よ》んで、
「お前《まへ》は、わしのためにそんなに貧乏《びんぼう》になつたのだ。わしは常《つね》から、それをすまなく思《おも》うてゐた。だから、わしが今《いま》死《し》んだとて、何《なに》もお金《かね》をかけて、お葬《とむら》ひなどしてくれなくてもよい。たゞ、線香《せんこう》一本《いつぽん》と、お酒《さけ》一合《いちごう》とを供《そな》へてくれゝば、それでたくさんだ」
といひ遺《のこ》して、まもなく親《おや》は、息《いき》をひきとりました。
 弟《おとうと》は、親《おや》の言葉《ことば》を固《かた》く守《まも》つて、泣《な》く/\、野邊《のべ》の送《おく》りをすませました。兄《あに》はいつものように、一文《いちもん》のお金《かね》だつて出《だ》しませんでした。そしてむしろ、弟《おとうと》のすることをへん[#「へん」に傍点]な眼《め》で見《み》てゐました。
 弟《おとうと》は、こんな欲《よく》に眼《め》のない兄《あに》と一《いつ》しょに、お墓參《はかまゐ》りするのはおもしろくありませんので、七日《なぬか》々々《/\》のお參《まゐ》りには、自分《じぶん》一人《ひとり》で出《で》かけました。そして、あの言葉《ことば》の通《とほ》り、酒《さけ》一合《いちごう》と、線香《せんこう》一本《いつぽん》とをお供《そな》へして、歸《かへ》り/\してゐました。
 すると、ある日《ひ》のこと、いつものように、お酒《さけ》と線香《せんこう》とを手向《たむ》けて歸《かへ》りかけますと、不思議《ふしぎ》なことに、墓《はか》の横合《よこあ》ひから、一匹《いつぴき》の犬《いぬ》が飛《と》び出《だ》しました。弟《おとうと》はびっくりして、逃《に》げかけましたが、ふと、
「あゝ、さうだ。こゝはお父《とう》さんのお墓《はか》だつた。なんにも恐《こは》がることはない。ひょっとしたら、この犬《いぬ》は、お父《とう》さんのお使《つか》ひかも知《し》れない。よし/\、家《いへ》に連《つ》れ歸《かへ》つて、養《やしな》うてやらう」
と、かう思《おも》ひ返《かへ》しまして、この不思議《ふしぎ》な犬《いぬ》を連《つ》れて歸《かへ》りました。そして毎日《まいにち》、一合《いちごう》づゝ粟飯《あはめし》を炊《た》いてやることにしました。ところが、その翌日《よくじつ》から、妙《みよう》なことに、毎日《まいにち》一塊《ひとかたま》りづゝ、黄金《こがね》の糞《ふん》をします。
 塵《ちり》も積《つも》れば山《やま》となる、といふことは、皆《みな》さんも御存《ごぞん》じでせう。わづか一塊《ひとかたま》りの黄金《こがね》も、積《つも》り積《つも》つて、たくさんなものになりました。弟《おとうと》はそのうちに、人目《ひとめ》を驚《おどろ》かすような、大《おほ》きな屋敷《やしき》を構《かま》へ、幾《いく》つもの倉《くら》を建《た》てまして、つひには、村《むら》一番《いちばん》のお金持《かねも》ちになりました。
 欲張《よくば》りの兄《あに》は、弟《おとうと》の樣子《ようす》を見《み》て、羨《うらや》ましくてなりませんでした。ある日《ひ》、
「弟《おとうと》のやつ、どんなふうにして儲《まう》けたんだらう。一《ひと》つ聞《き》いて、俺《おれ》も儲《まう》けなくては」
と考《かんが》へまして、弟《おとうと》のところへやつて來《き》ました。そして、
「おい、お前《まへ》は、大《たい》そうなお金持《かねも》ちになつたが、いったい、どうして儲《まう》けたんだい。この兄《あに》に、教《をし》へてくれないかね」
と尋《たづ》ねました。すると弟《おとうと》は、正直者《しようじきもの》ですから、すぐに、ほんとうのことを話《はな》してしまひました。
「あゝさうか。お父《とう》さんの墓《はか》から出《で》たものなら、長男《ちようなん》である、この俺《おれ》のものだよ。それを今《いま》まで、兄《あに》に知《し》らん顏《かほ》して、お金《かね》を貯《た》めてゐたとは、ふといやつだ」
といつて、むりやりに、弟《おとうと》のところから、いやがる犬《いぬ》をすぐに引《ひ》きずつて歸《かへ》り金《かね》がほしさに、仕方《しかた》なしに一升《いつしよう》の粟飯《あはめし》をやりました。すると犬《いぬ》は、食《た》べ過《す》ぎたと見《み》えまして、死《し》んでしまひました。
 弟《おとうと》は、このことを聞《き》いて、大《おほ》いに驚《おどろ》き悲《かな》しみましたが、その犬《いぬ》の屍《しかばね》を自分《じぶん》の家《いへ》に引《ひ》き取《と》つて、丁寧《ていねい》に埋《う》めて、その上《うへ》に一本《いつぽん》の木《き》を植《う》ゑました。
 するとその木《き》が、だん/″\大《おほ》きくなつて、やがて花《はな》が咲《さ》いて、美《うつく》しい黄金《こがね》の實《み》がなりました。その後《のち》、弟《おとうと》は、以前《いぜん》にも増《ま》して、お金持《かねも》ちになりました。
 この黄金《こがね》の木《き》が、今《いま》もある、くがにぃ[#「くがにぃ」に傍点]([#割り注]蜜柑の一種。[#割り注終わり])の初《はじ》めだというてゐます。また、たゞ今《いま》でも沖繩《おきなは》で、お正月《しようがつ》やお盆《ぼん》に必《かなら》ず、祖先《そせん》の靈前《れいぜん》に、くがにぃ[#「くがにぃ」に傍点]を飾《かざ》りますのは、やはり、このお話《はなし》から始《はじ》まつたといふことです。(つづく)



底本:『日本昔話集(下)12』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1981(昭和56)年8月20日発行
親本:『日本昔話集(下)』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年4月3日発行
※ 親本奥付にある「童話集」は「昔話集」の誤植か。
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

  • 沖縄 おきなわ 日本最南端の県。沖縄本島をはじめ琉球諸島を含む。県庁所在地は那覇市。面積2274平方キロメートル。人口136万2千。全11市。太平洋戦争の激戦地となり、敗戦の結果、アメリカが施政権を行使。1952年4月、自治体琉球政府がおかれたが、その施政の範囲には制限があった。72年5月15日、米軍基地の存続など問題を残し施政権は返還。
  • 琉球 りゅうきゅう 沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。15世紀統一王国が成立、日本・中国に両属の形をとり、17世紀初頭島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、1879年(明治12)沖縄県となる。
  • 南島 なんとう 南方にある島。特に、琉球諸島あるいは南洋群島を指す。
  • 奄美列島 あまみ れっとう → 奄美諸島
  • 奄美 あまみ (1) 鹿児島県南部の奄美諸島または奄美大島の略。(2) 鹿児島県の市。奄美大島の東部を市域とする。鹿児島県大島支庁所在地。人口5万。
  • 奄美諸島 あまみ しょとう 鹿児島県、大隅諸島・吐�S喇(とから)列島とともに薩南諸島の一部をなす諸島。大島を主島とする。海岸には隆起珊瑚礁があり、サトウキビを栽培。奄美群島。
  • 沖縄列島 おきなわ れっとう → 沖縄諸島
  • 沖縄諸島 おきなわ しょとう 沖縄本島およびその周辺と西方とに散在する島嶼群。
  • 古宇利島 こうりじま 沖縄県北部屋我地島の北に位置し、今帰仁村に帰属する有人島。離島ならではの美しい海や「沖縄版アダムとイヴ」と呼ばれる伝承があることで有名。面積2.9km^2、周囲約4kmでほぼ円形の形をした小島。3〜4段の海岸段丘で囲まれている。
  • 沖縄島 おきなわじま → 沖縄本島
  • 沖縄本島 おきなわ ほんとう 琉球諸島北東部にある最大の島。北東から南西にのびる狭長な形をなす。南西部の那覇市が中心都市。太平洋戦争末期の激戦地。面積1185平方キロメートル。おきなわじま。
  • 国頭郡 くにがみぐん 沖縄島北部。自然の宝庫として知られる山原は国頭郡にある。行政上島尻郡に属している伊平屋村と伊是名村も国頭郡の一部として扱う場合もある。
  • 今帰仁村 なきじんむら/なきじんそん 沖縄本島の本部半島のほぼ北半分に位置する。北東部には1.5km離れた古宇利島があり、2005年に名護市の屋我地島と橋で結ばれた。現在は屋我地島と村内側の本島との架橋(ワルミ大橋)が計画されている。村の中央部を大井川が北流し、東シナ海へ注ぐ。
  • 久志村 くしむら/くしそん 沖縄県(戦後は琉球政府)国頭郡にあった村で、現在の名護市東部にあたる。現在は久志地域(名護市久志支所管内)として名護市の一地域として位置づけている。
  • 三十七岳 さんじゅうななたけ
  • 島尻郡 しまじりぐん 沖縄島南部。郡役所は那覇に設置された那覇区役所に併設。2002年(平成14)現在、5町12村を数える。
  • 玉城村 たまぐすくむら/たまぐすくそん 沖縄本島南部に位置していた村。島の南に奥武島がある。2006年1月、佐敷町、知念村、大里村と合併し南城市となった。村役場は富里に置かれ、合併後村役場が南城市の本庁舎となった。
  • 那覇港 なはみなと 沖縄島の南西に位置し、東シナ海に面する。古琉球以来、琉球王国随一の港として沖縄島中南部や宮古・八重山など国内海上交通の要所となっていたほか、日本や中国・東南アジア諸国など海外交易の拠点ともなっていた。那覇津・那覇泊のほか那覇川などとも称された。港の発祥については諸説あって定説はない。(1) 13世紀〜14世紀の英祖・察度両王統の時代とする説、(2) 14世紀末〜15世紀の察度・尚巴志政権の時代とする説などがある。
  • 波上 なみのうえ 波之上。現、那覇市若狭。波の上海岸。熊野信仰の系列に連なる古社で、沖縄総鎮守として信仰されてきた波上宮や、波之上洞穴遺跡がある。地元ではナンミンとよぶ。月の名所として知られる。
  • 宮古島 みやこじま (1) 沖縄県、宮古諸島の主島。面積159平方キロメートル。サトウキビ・宮古上布を産する。(2) 沖縄県の市。(1) を含む宮古諸島のほぼ全域を市域とする。2005年、平良(ひらら)市ほか5市町村が合併して発足。人口5万3千。
  • [薩摩] さつま 旧国名。今の鹿児島県の西部。薩州。
  • [台湾] たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • [支那] しな (「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 伊波普猷 いは ふゆう 1876-1947 言語学者・民俗学者。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂おもろさうし」など。
  • 恩地孝四郎 おんち こうしろう 1891-1955 版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。
  • 前川千帆 まえかわ せんぱん 1888-1960 版画家・漫画家。本名金三郎。旧姓石田。京都市下京区生まれ。(人名)/「あわてものの熊さん」が人気を得た。版画作品に「工場風景」「野遊び」など。(人レ)
  • あまみきよ 沖縄の開闢(かいびゃく)の神。「しねりきよ」と対(つい)で伝承されている。/あまみきゅ。沖縄の開闢神話に登場する始祖神。女神。男神「しねりきゅ」とともに天降り、沖縄の国土を形成したと伝えられている。
  • アアマンチュウ
  • アカナァ アカリヤザガマ。
  • ヨモ
  • アカリヤザガマ


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*難字、求めよ

  • 阿旦 あだん 阿檀。タコノキ科の熱帯性常緑低木。樹皮は暗褐色で葉跡がめだつ。幹の下部から多数の気根を出す。沖縄・台湾に自生。葉で日除帽子やうちわを、また、気根を裂いて乾かし、わらじを作る。茎は弦楽器の胴、根はキセル材など、生活用品の材料に多用された。タコノキとごく近縁。
  • 海馬 かいば (1) セイウチおよびトドの別称。(2) タツノオトシゴの別称。(3) ジュゴンの誤称。
  • 海馬・葦鹿・海驢 アシカ アシカ科の哺乳類の総称。アシカ・オットセイ・トドなどを含み、6属14種。また、その一種。雄は体長約2.4メートルに達し、焦茶色、雌は小形。日本近海では絶滅、現在カリフォルニア近海とガラパゴス付近のみに分布。ウミオソ。ウミウソ。ミチ。
  • 儒艮 じゅごん (マレー語から)カイギュウ目ジュゴン科の哺乳類。全長約3メートル。尾は横に扁平な尾鰭(おびれ)となる。後肢は退化。インド洋・南西太平洋の沿岸の浅海に生息し、海草を食べる。立泳ぎしながら、子を抱いて授乳する姿から古来これを「人魚」とした。沖縄で犀魚(ざんのいお)。天然記念物。
  • ユウナ 右納 アオイ科の植物・オオハマボウの、沖縄や奄美諸島における呼称。
  • オオハマボウ 大浜朴。学名:Hibiscus tiliaceus。アオイ科の常緑高木。別名はユウナ(右納、沖縄や奄美地方の呼び名)、ヤマアサ。また、ハワイでは「ハウ」と呼ばれる。和名の由来は、ハマボウに似て、花も葉も一回り大きいことから。
  • クガニィ ミカンの一種。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 「聴」は「聞」にかえました。

・今帰仁村 なきじんむら/なきじんそん
・久志村 くしむら/くしそん
・玉城村 たまぐすくむら/たまぐすくそん

 村名の読みは底本のとおり左辺のままとしました。
 「琉球編」と「沖縄編」の混用は底本のとおり。じつに興味ぶかい。
  • 一、沖縄人のはじめ
  •   ・古宇利島、月、モチ、海馬、子孫繁栄。
  • 二、巨人の足あと
  •   ・沖縄島、荒天、アマミキヨ、シネリキヨ、巨人。
  • 三、三十七岳の神々
  •   ・玉城村、波上、瓶、小人、三十七岳、御嶽か。
  • 四、アカナァとヨモ
  •   ・月男と猿、桃、月。
  • 五、黄金の木のなるまで
  •   ・兄弟、貧富、犬、黄金の糞、クガニィ。

 モチーフをピックアップしてみた。

 イザナギ・イザナミによる国産み神話にくらべて、「霞がかかったように、天が垂れ下がっていて、天と地との区別がまったくない」「東の海から寄せてくる波は、島をこえて西の海に行き、西の海の潮は、東の海に飛びこえて渦を巻いている」「天上から土や石や草や木やをお運びになって、まず最初に、海と陸との境をお定めになった」のように、描写がよりこまかく、過去の大きな気候変動による海進と海退の様子を記録しているようにも読める。

 月とモチ。

 アマミキヨが女神でシネリキヨが男神(『日本国語大辞典』より)。

 小人。北海道のコロボックル、本州のスクナビコナとともに来訪神である点が共通。前二者が知恵者であるのに対して、この小人神は王の血統であることを述べ、御嶽(うたき)三十七祠の神としてまつられる点に注意。
 ついでにアカナァとヨモ。「ある年の三月のことです。庭の桃の木が、枝もたわむくらいに、大きなみごとな桃が鈴なりになって……」。桃の節句といえば三月だけれども、沖縄の桃は三月にみのるのか疑問。

 サイトの css をいじくる。
 html と css のリファレンスブックをはじめて熟読する。list タグは T-Time にも応用できそうなので div タグを書き換える。テキストの大幅なダイエットに成功。font タグはもっとリストラできそう。




*次週予告


第四巻 第二号 
日本昔話集 沖縄編(二)

伊波普猷


第四巻 第二号は、
八月六日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第一号
日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷
発行:二〇一一年七月三〇日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版
バックナンバー
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン [*]
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏 [*]
  • 第七号 新羅の花郎について     池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治 [*]
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 欠番
  • 第一六号 欠番
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル [*]
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 [*]
  • 第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫 [*]
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松 [*]
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介
  •  雛がたり 泉鏡花
  •  ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 折口信夫
  •  偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治 [*]
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明 [*]
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 [*]
  • 第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット [*]
  • 第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清 [*]
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 [*]
  • 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南 [*]
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/
  •  神話と地球物理学/ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉 [*]
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直 [*]
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直 [*]
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫 [*]
  •  黒川能・観点の置き所
  •  村で見た黒川能
  •  能舞台の解説
  •  春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳) [*]
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒 [*]
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子 [*]
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎

      あどけない話

    智恵子は東京に空がないという、
    ほんとの空が見たいという。
    私はおどろいて空を見る。
    桜若葉の間にあるのは、
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながらいう。
    阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
    毎日出ている青い空が
    智恵子のほんとの空だという。
    あどけない空の話である。


      千鳥と遊ぶ智恵子

    人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
    砂にすわって智恵子は遊ぶ。
    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
    千鳥が智恵子によってくる。
    口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
    両手をあげてよびかえす。
    ちい、ちい、ちい―
    両手の貝を千鳥がねだる。
    智恵子はそれをパラパラ投げる。
    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
    人間商売さらりとやめて、
    もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
    うしろ姿がぽつんと見える。
    二丁も離れた防風林の夕日の中で
    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎 [*]
     わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
    (略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
     松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
     新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
     私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
     暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
     九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
  • 第四六号 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉
    (略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
     右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
  • 第四七号 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
    地震雑感
     一 地震の概念
     二 震源
     三 地震の原因
     四 地震の予報
    静岡地震被害見学記
    小爆発二件
     震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
     しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
     これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
     問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
     地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
  • 第四八号 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦 [*]
    自然現象の予報
    火山の名について
     つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
     地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
     地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
     地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
     さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
     一、ナマズのざれごと
     二、頼山陽、地震の詩
     三、地震と風景
     四、鶏のあくび
     五、蝉しぐれ
     六、世紀の北米大西洋沖地震
     七、観光
     八、地震の正体

    「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
    「よくわかりました。
     これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
    「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。(略)
    「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
    「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
     ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
    「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
    「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
    「そして、その場所の察知は?」
    「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
    「それから、いつ起こるかということは?」
    「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
     パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
     九 ドリアン
     一〇 地震の興味
     一一 地割れの開閉現象
     一二 称名寺の鐘楼
     一三 張衡(ちょうこう)
     一四 地震計の冤(えん)
     一五 初動の方向性
     一六 白鳳大地震

     文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよう戒められたのであった。まことに結構な訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作に関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局に迫ったこともあるくらいであるから、当局ももはや諒としておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とても臭い」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     一、仁徳天皇
      后妃と皇子女
      聖(ひじり)の御世
      吉備の黒日売
      皇后石の姫の命
      ヤタの若郎女
      ハヤブサワケの王とメトリの王
      雁の卵
      枯野という船
     二、履中天皇・反正天皇
      履中天皇とスミノエノナカツ王
      反正天皇
     三、允恭天皇
      后妃と皇子女
      八十伴の緒の氏姓
      木梨の軽の太子
     四、安康天皇
      マヨワの王の変
      イチノベノオシハの王

     皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
     これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

     山また山の山城川を
     御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
     うるわしの奈良山をすぎ
     青山のかこんでいる大和をすぎ
     わたしの見たいと思うところは、
     葛城の高台の御殿、
     故郷の家のあたりです。

     かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
    古事記 下の巻
     五、雄略天皇
      后妃と皇子女
      ワカクサカベの王
      引田部の赤猪子
      吉野の宮
      葛城山
      春日のオド姫と三重の采女
     六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
      清寧(せいねい)天皇
      シジムの新築祝い
      歌垣
      顕宗(けんぞう)天皇
      仁賢天皇
     七、武烈天皇以後九代
      武烈(ぶれつ)天皇
      継体(けいたい)天皇
      安閑(あんかん)天皇
      宣化(せんか)天皇
      欽明(きんめい)天皇
      敏達(びだつ)天皇
      用明(ようめい)天皇
      崇峻(すしゅん)天皇
      推古天皇

     天皇〔顕宗天皇〕、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊に仇(あだ)をむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵を毀(やぶ)ろうとお思いになって人を遣わしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりに毀してまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵のそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘り壊(やぶ)りました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにお壊りなさいましたか?」とおおせられましたから、「御陵のそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵をことごとく壊すべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上の仇をその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさった天皇でありますのを、今もっぱら父の仇ということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵をことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上の仇は報(むく)いないではいられません。それであの御陵の辺りを少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。

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