武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。




 かくて赤猪子あかいこの泣く涙に、着ておりました赤く染めたそでがすっかりぬれました。そうして天皇の御歌みうたにお答え申し上げた歌、

御諸山に玉垣を築いて、
築き残してだれに頼みましょう。
やしろの神主さん。
もくじ 
現代語訳 古事記(六)下巻(後編)
武田祐吉(訳)


ミルクティー*現代表記版
現代語訳 古事記(六)
  古事記 下の巻
   五、雄略天皇
    后妃と皇子女
    ワカクサカベの王
    引田部の赤猪子
    吉野の宮
    葛城山
    春日のオド姫と三重の采女
   六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
    清寧(せいねい)天皇
    シジムの新築祝い
    歌垣
    顕宗(けんぞう)天皇
    仁賢天皇
   七、武烈天皇以後九代
    武烈(ぶれつ)天皇
    継体(けいたい)天皇
    安閑(あんかん)天皇
    宣化(せんか)天皇
    欽明(きんめい)天皇
    敏達(びだつ)天皇
    用明(ようめい)天皇
    崇峻(すしゅん)天皇
    推古天皇

オリジナル版
現代語譯 古事記(六)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教/神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html




現代語訳 古事記(六) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)


 古事記 下の巻

   五、雄略天皇

    后妃こうひと皇子女

 オオハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷はつせの朝倉の宮においでになって天下をおおさめなさいました。天皇はオオクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子みこはございません。またツブラオオミの娘のカラ姫と結婚してお生みになった御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子みこのみこと御名みなの記念として白髪部しらがべをお定めになり、また長谷部はつせべ舎人とねり河瀬かわせ舎人とねりをお定めになりました。この御世みよに大陸から呉人くれびとが渡ってまいりました。その呉人を置きましたので呉原くれはらというのです。

    ワカクサカベの王

―以下、多くは歌を中心とした短編の物語が、この天皇のご事跡として語り伝えられている。長谷はつせの天皇として、伝説上の英雄となっておいでになったのである。―

 はじめ皇后さまが河内の日下くさかにおいでになった時に、天皇が日下の直越ただごえの道を通って河内においでになりました。よって山の上にお登りになって国内をご覧になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作った家があります。天皇がおたずねになりますには、「あの高く木をあげて作った家はだれの家か?」とおおせられましたから、おともの人が「志幾しきの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇がおおせになるには、「あのやつは自分の家を天皇の宮殿に似せてつくっている」とおおせられて、人をつかわしてその家をお焼かせになります時に、村長がおそれいって拝礼はいれいして申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずにあやまって作りました。おそれいりました」と申しました。そこで献上物をいたしました。白い犬に布をかけて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬のなわを取らせて献上しました。よってその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許おんもとにおいでになって、その犬をお贈りになっておおせられますには、「この物は今日、道で得ためずらしい物だ。贈り物としてあげましょう」といって、くださいました。このときにワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることはおそれおおいことでございます。よってわたくしが参上してお仕え申しましょう」と申しました。かくして皇居にお帰りになるときに、その山の坂の上にお立ちになって、お歌いになりました御歌みうた

この日下部くさかべの山と
むこうの平群へぐりの山との
あちこちの山のあいだに
しげっている広葉のりっぱなカシの樹、
その樹の根もとにはしげった竹がえ、
末の方にはしっかりした竹が生え、
そのしげった竹のようにしげくも寝ず
しっかりした竹のようにしかとも寝ず
後にも寝ようと思う心づくしの妻は、ああ。

 この歌をその姫のもとに持たせておやりになりました。

    引田部の赤猪子あかいこ

三輪山みわやまのほとりで語り伝えられた物語。―

 またあるとき、三輪河にお遊びにおいでになりましたときに、河のほとりに衣を洗う嬢子おとめがおりました。美しい人でしたので、天皇がその嬢子おとめに「あなたは誰ですか?」とおたずねになりましたから、「わたくしは引田部ひけたべ赤猪子あかいこと申します」と申しました。そこでおおせられますには、「あなたはよめに行かないでおれ。お召しになるぞ」とおおせられて、宮にお帰りになりました。そこでその赤猪子あかいこが天皇のおおせをお待ちして八十年ました。ここに赤猪子あかいこが思いますには、おおごとあおぎ待っていた間に多くの年月を経て容貌ようぼうもやせおとろえたから、もはや頼むところがありません。しかし待っておりました心をあらわしませんでは心憂こころうくていられない」と思って、たくさんの献上物を持たせてまいり出てたてまつりました。しかるに天皇は先におおせになったことをとくにお忘れになって、その赤猪子あかいこにおおせられますには、「お前はどこのお婆さんか? どういうわけで出てまいったか?」とおたずねになりましたから、赤猪子あかいこが申しますには「昔、何年何月に天皇のおおせをこうむって、今日までご命令をお待ちして、八十年を経ました。今、もうおとろえてさらに頼むところがございません。しかし、わたくしの志をあらわし申し上げようとしてまいり出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになって、「わたしはとくに先のことを忘れてしまった。それだのに、お前が志を変えずに命令を待って、むだにさかんな年をすごしたことは気の毒だ」とおおせられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄としよっているのをおくやみになって、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌みうたは、

御諸みもろ山のご神木のカシの樹のもと、
そのカシのもとのようにはばかられるなあ、
カシはらのおじょうさん。

 また、お歌いになりました御歌みうたは、

引田ひけたの若い栗の木の原のように
若いうちに結婚したらよかった。
年を取ってしまったなあ。

 また歌いました歌、

日下江くさかえの入江にはすが生えています。
そのはすの花のような若ざかりの方は
うらやましいことでございます。
 そこでその老女に物をたくさんにたまわって、お帰しになりました。この四首の歌は静歌しずうたです。

    吉野の宮

―吉野での物語二編。―

 天皇が吉野の宮においでになりましたときに、吉野川のほとりに美しい嬢子おとめがおりました。そこでこの嬢子おとめを召して宮にお帰りになりました。後にさらに吉野においでになりましたときに、その嬢子おとめに会いましたところにお留まりになって、そこにおイスを立てて、そのおイスにおいでになってことをおきになり、その嬢子おとめわしめられました。その嬢子おとめはよく舞いましたので、歌をおみになりました。その御歌みうたは、

イスにいる神さまが御手みてずから
かれることに舞いを舞う女は
永久にいてほしいことだな。
 それから吉野の阿岐豆野あきづのにおいでになって猟をなさいますときに、天皇がおイスにおいでになると、あぶが御腕をいましたのを、トンボが来てそのあぶって飛んで行きました。そこで歌をおみになりました。その御歌みうたは、

吉野の袁牟漏おむろたけ
ししがいると
陛下に申し上げたのは誰か。
天下をろしめす天皇は
イノシシを待つとイスに御座ぎょざあそばされ
白い織り物のおそでよそおうておられる
御手の肉にあぶが取りつき
そのあぶをトンボがはやく食い、
かようにして名を持とうと、
この大和の国を
蜻蛉島あきづしまというのだ。
 その時からして、その野を阿岐豆野あきづのというのです。

    葛城山かつらぎやま

葛城山かつらぎやまに関する物語二編。―

 またあるとき、天皇が葛城山かつらぎやまの上にお登りになりました。ところが大きいイノシシが出ました。天皇が鏑矢かぶらをもってそのイノシシをお射になりますときに、イノシシがおこって大きな口を開けてってきます。天皇は、その食いつきそうなのをおそれて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌うた

天下をろしめす天皇の
お射になりました
手負ておの食いつくのをおそれて
わたしの逃げ登った
岡の上のハンの木の枝よ。
 またあるとき、天皇が葛城山に登っておいでになるときに、百官の人々はことごとく紅いひもをつけた青摺あおずりころもたまわって着ておりました。そのときに向こうの山の尾根づたいに登る人があります。ちょうど天皇のご行列のようであり、その装束のさまもまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇がご覧あそばされておたずねになるには、「この日本の国に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか?」と問わしめられましたから、答え申すさまもまた天皇のおおせのとおりでありました。そこで天皇がひじょうにお怒りになって弓に矢をつがえ、百官の人々もことごとく矢をつがえましたから、向こうの人たちもみな矢をつがえました。そこで天皇がまたおたずねになるには、「それなら名を名乗なのれ。おのおの名を名乗なのって矢を放とう」とおおせられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名乗なのりをしよう。わたしは悪いことも一言ひとこと、良いことも一言ひとこと、言い分ける神である葛城の一言主ひとことぬしの大神だ」とおおせられました。そこで天皇がかしこまっておおせられますには、「おそれおおいことです。わが大神よ。かように現実の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢をはじめて、百官の人どもの着ております衣服をがしめて、おがんでたてまつりました。そこでその一言主ひとことぬしの大神も手を打って、その贈り物を受けられました。かくて天皇のお帰りになるときに、その大神は山の末に集まって、長谷はつせの山口までお送り申し上げました。この一言主ひとことぬしの大神はそのときにご出現になったのです。

    春日のオド姫と三重みえ采女うねめ

三重みえ采女うねめの物語を中にはさんで前後に春日のオド姫の物語がある。春日氏については、中巻のカニの歌の条参照。三重の采女うねめの歌は、別の歌曲である。―

 また天皇、丸迩わにのサツキの臣の娘のオド姫と結婚をしに春日かすがにおいでになりましたときに、その嬢子おとめが道で会って、お出ましを見て岡辺おかべに逃げ隠れました。そこで歌をおみになりました。その御歌みうたは、

おじょうさんのかくれる岡を
じょうぶな�Kすきがたくさんあったらよいなあ、
きはらってしまうものを。
 そこでその岡を金�Kかなすきの岡と名づけました。
 また天皇が長谷のつきの大樹の下においでになってご酒宴しゅえんをあそばされましたときに、伊勢の国の三重みえから出た采女うねめ酒盃さかずきをささげてたてまつりました。しかるにそのつきの大樹の葉が落ちて酒盃さかずきに浮かびました。采女うねめは落ち葉が酒盃さかずきに浮かんだのを知らないで大御酒おおみきをたてまつりましたところ、天皇はその酒盃さかずきに浮かんでいる葉をご覧になって、その采女うねめを打ちせ御刀をその首に刺しあてておりあそばそうとするときに、その采女うねめが天皇に申し上げますには、「わたくしをお殺しなさいますな。申すべきことがございます」と言って、歌いました歌、

纏向まきむく日代ひしろの宮は
朝日の照りわたる宮、
夕日の光のさす宮、
竹の根のみちている宮、
木の根のひろがっている宮です。
多くの土を築き固めた宮で、
りっぱな材木のひのき御殿ごてんです。
その新酒をおあがりになる御殿に生い立っている
いっぱいにしげったつきの樹の枝は、
上の枝は天を背おっています。
中の枝は東国を背おっています。
下の枝は田舎いなかを背おっています。
その上の枝の枝先の葉は
中の枝に落ちてふれあい、
中の枝の枝先の葉は
下の枝に落ちてふれあい、
下の枝の枝先の葉は、
衣服を三重に着る、その三重みえからきた子の
ささげているりっぱな酒盃さかずき
浮いたあぶらのように落ちつかって、
水音もころころと、
これはまことにおそれおおいことでございます。
尊い日の御子みこさま。
  事の語り伝えはかようでございます。
 この歌をたてまつりましたから、その罪をおゆるしになりました。そこで皇后さまのお歌いになりました御歌みうたは、

大和の国のこの高町で
小高くある市の高台の、
新酒をおあがりになる御殿ごてんに生い立っている
広葉のきよらかなツバキの樹、
その葉のようにひろらかにおいであそばされ
その花のように輝いておいであそばされる
尊い日の御子みこさまに
御酒をさしあげなさい。
  事の語り伝えはかようでございます。
 天皇のお歌いになりました御歌みうたは、

宮廷に仕える人々は、
うずらのように頭巾ひれをかけて、
セキレイのように尾を振りあって
スズメのように前に進んでいて
今日もまた酒宴しゅえんをしているもようだ。
りっぱな宮廷の人々。
  事の語り伝えはかようでございます。
 この三首の歌は天語歌あまがたりうたです。そのご酒宴しゅえん三重みえ采女うねめをほめて、物をたくさんにくださいました。
 このご酒宴しゅえんの日に、また春日のオド姫が御酒をたてまつりましたときに、天皇のお歌いになりました歌は、

水のしたたるようなそのおじょうさんが、
銚子ちょうしを持っていらっしゃる。
銚子を持つなら、しっかり持っていらっしゃい。
力を入れて、しっかりと持っていらっしゃい。
銚子を持っていらっしゃるおじょうさん。
 これは宇岐歌うきうたです。ここにオド姫のたてまつりました歌は、

天下をろしめす天皇の
朝戸にはお寄り立ちあそばされ
夕戸ゆうどにはお寄り立ちあそばされる
脇息きょうそくの下の
板にでもなりたいものです。あなた。
 これは志都歌しずうたです。
 天皇は御年百二十四歳、己巳つちのとみの年の八月九日にお隠れになりました。御陵ごりょうは河内の多治比たじひ高�たかわしにあります。

   六、清寧せいねい天皇・顕宗けんぞう天皇・仁賢天皇

    清寧せいねい天皇

 御子みこのシラガノオオヤマトネコの命清寧せいねい天皇)、大和の磐余いわれ甕栗みかくりの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子みこもございませんでした。それで御名みなの記念として白髪部しらをお定めになりました。そこで天皇がお隠れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子をたずねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女いらつめ、またの名はイイトヨの王が、葛城かずらき忍海おしぬみ高木たかぎ角刺つのさしの宮においでになりました。

    シジムの新築祝い

―前に出たイチノベノオシハの王の物語の続きで山部氏によって伝承したと考えられる。この条は、特殊の文字使用法を有しており、『古事記』の編纂へんさんの当時、すでに書かれた資料があったようである。―

 ここに山部やまべむらじ小楯おだてが播磨の国の長官に任命されましたときに、この国の人民のシジムの家の新築祝いにまいりました。そこでさかんに遊んで、酒たけなわな時に順次にみな舞いました。そのときに火焚ひたきの少年が二人、かまどのそばにおりました。よってその少年たちにわしめますに、一人の少年が「兄上、まずおいなさい」というと、兄も「お前がまずいなさい」と言いました。かようにゆずりあっているので、その集まっている人たちがゆずりあうありさまを笑いました。ついに兄がまず舞い、つぎに弟がおうとするときに詠じました言葉は、

武士であるわが君のおきになっている大刀のつかに、赤い模様を描き、その大刀のには赤い織り物をってつけ、立って見やれば、向こうに隠れる山の尾の上の竹をり取って、その竹の末を押しなびかせるように、八弦のことを調べたように、天下をおおさめなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子みこです。わたくしは。
と述べましたから、小楯おだてが聞いておどろいて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子みこを左右のひざの上におすえ申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて仮宮を作って、その仮宮にお住ませ申し上げて急使をたてまつりました。そこで、その伯母おばさまのイイトヨの王がおよろこびになって、宮にのぼらしめなさいました。

    歌垣うたがき

―『日本書紀』では、武烈ぶれつ天皇の太子時代のこととし、歌も多く相違している。ある王子とシビという貴公子の物語として伝承されたのが原形であろう。―

 そこで天下をおおさめなされようとしたほどに、平群へぐりの臣の祖先のシビの臣が、歌垣うたがきの場で、そのヲケの命の結婚なされようとする嬢子おとめの手を取りました。その嬢子おとめ兎田うだの長の娘のオオヲという者です。そこでヲケの命も歌垣うたがきにお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、

御殿ごてんの小さい方の出張でばりは、すみが曲がっている。
 かく歌って、その歌の末句をうときに、ヲケの命のお歌いになりますには、

大工が下手へただったのですみが曲がっているのだ。
 シビがまた歌いますには、

王子さまの御心みこころがのんびりしていて、
臣下の幾重いくえにもかこった柴垣に
入り立たずにおられます。
 ここに王子がまた歌いますには、

潮のよる瀬のなみのくだけるところを見れば
遊んでいるシビ魚のそばに
妻が立っているのが見える。
 シビがいよいよいかって歌いますには、

王子さまの作った柴垣は、
ふしだらけに結びまわしてあって、
切れる柴垣の焼ける柴垣です。
 ここに王子がまた歌いますには、

大きい魚のしびを突く海人あまよ、
その魚が荒れたら心恋しいだろう。
しびを突くしびおみよ。
 かように歌って歌をかけあい、夜を明かして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方がご相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷にまいり、昼はシビの家に集まります。そこで今はシビがきっとているでしょう。その門には人もいないでしょう。今でなくてははかりがたいでしょう」と相談されて、軍をおこしてシビの家を囲んでお撃ちになりました。
 ここでお二方ふたかた御子みこたちが互いに天下をおゆずりになって、オケの命が、その弟ヲケの命におゆずりあそばされましたには、「播磨の国のシジムの家に住んでおったときに、あなたが名をあらわさなかったなら天下を治める君主とはならなかったでしょう。これはあなたさまのお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をおおさめなさい」といって、かたくおゆずりなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をおおさめなさいました。

    顕宗けんぞう天皇

 イザホワケの天皇の御子みこ、イチノベノオシハの王の御子のオケノイワスワケの命顕宗けんぞう天皇)河内かわちの国の飛鳥あすかの宮においであそばされて、八年、天下をおおさめなさいました。この天皇は、イワキの王の娘のナニワの王と結婚しましたが、御子みこはありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりましたときに、近江の国のいやしい老婆がまいって申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知っております。また、そのお歯でも知られましょう」と申しました。オシハの王子のお歯は三つの枝の出た大きい歯でございました。そこで人民をうながして、土を掘って、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵ごりょうを作ってお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ちのぼりなさいました。かくて帰りのぼられて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことをほめて、置目おきめ老媼ばばという名をくださいました。かくて宮の内に召し入れてあつくお恵みなさいました。その老婆の住む家を宮の辺近くに作って、毎日きまってお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴をかけて、その老婆を召そうとするときはきっとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をおみなさいました。その御歌みうたは、

茅草ちぐさの低い原や小谷をすぎて
鈴のゆれて鳴る音がする。
置目おきめがやってくるのだな。
 ここに置目おきめが、「わたくしはたいへん年をとりましたから、本国に帰りたいと思います」と申しました。よって申すとおりにおつかわしになるときに、天皇がお見送りになって、お歌いなさいました歌は、

置目おきめよ、あの近江の置目よ、
明日からは山に隠れてしまって
見えなくなるだろうかね。
 はじめ、天皇が災難にあって逃げておいでになったときに、その乾飯ほしいうばった豚飼ぶたかいの老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのをび出して飛鳥河あすかがわの河原でって、またその一族どものひざの筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和にのぼる日には、きっとびっこになるのです。その老人の所在をよくご覧になりましたから、そこを志米須しめすといいます。
 天皇、その父君をお殺しになったオオハツセの天皇を深くおうらみ申し上げて、天皇の御霊にあだをむくいようとお思いになりました。よってそのオオハツセの天皇の御陵ごりょうやぶろうとお思いになって人をつかわしましたときに、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵ごりょうを破壊するには他の人をやってはいけません。わたくしが自分で行って陛下の御心のとおりにこわしてまいりましょう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉どおりに行っていらっしゃい」とおおせられました。そこでオケの命がご自身でくだっておいでになって、御陵ごりょうのそばを少し掘って帰っておのぼりになって、「すっかり掘りやぶりました」と申されました。そこで天皇がその早く帰っておのぼりになったことを怪しんで、「どのようにおやぶりなさいましたか?」とおおせられましたから、御陵ごりょうのそばの土を少し掘りました」と申しました。天皇のおおせられますには、「父上のあだを報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵ごりょうをことごとくこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになったのですか?」とおおせられましたから、申されますには、「かようにしましたわけは、父上のあだをその御霊にむくいようとお思いになるのはまことに道理であります。しかしオオハツセの天皇は、父上のあだではありますけれども、一面は叔父おじでもあり、また天下をおおさめなさった天皇でありますのを、今もっぱら父のあだということばかりを取って、天下をお治めなさいました天皇の御陵ごりょうをことごとく壊しましたなら、後の世の人がきっとおそしり申し上げるでしょう。しかし、父上のあだむくいないではいられません。それであの御陵ごりょうの辺りを少し掘りましたから、これで後の世にしめすにもりましょう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉のとおりでよろしい」とおおせられました。かくて天皇がお隠れになってから、オケの命が、帝位におきになりました。御年三十八歳、八年間、天下をおおさめなさいました。御陵ごりょうは片岡の石坏いわつきの岡の上にあります。

    仁賢天皇

―以下十代は、物語の部分がなく、もっぱら『帝紀ていき』によっている。―

 ヲケの王の兄のオオケの王(仁賢天皇)、大和のいそかみの広高の宮においでになって、天下をおおさめなさいました。天皇はオオハツセノワカタケの天皇の御子みこ、春日の大郎女おおいらつめと結婚してお生みになった御子は、タカギの郎女いらつめ・タカラの郎女いらつめ・クスビの郎女いらつめ・タシラガの郎女いらつめ・オハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の娘、ヌカノワクゴの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子は、カスガノオダの郎女いらつめ〔春日山田皇女か。です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、オハツセノワカサザキの命〔武烈天皇〕は天下をお治めなさいました。

   七、武烈天皇以後九代

    武烈ぶれつ天皇

 オハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷はつせ列木なみきの宮においでになって、八年、天下をおおさめなさいました。この天皇は御子みこがおいでになりません。そこで御子のかわりとして小長谷部おはつせべをお定めになりました。御陵ごりょうは片岡の石坏いわつきの岡にあります。天皇がお隠れになって、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇〔応神天皇〕の五世の孫、オオドの命を近江の国からのぼらしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。

    継体けいたい天皇

 ホムダの王の五世の孫のオオドの命(継体天皇)、大和の磐余いわれ玉穂たまほの宮においでになって、天下をおおさめなさいました。この天皇、三尾みおの君らの祖先のワカ姫と結婚してお生みになった御子みこは、大郎子おおいらつこ・イヅモの郎女いらつめのお二方ふたかたです。また、尾張の連らの祖先のオオシのむらじの妹のメコの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子はヒロクニオシタケカナヒの命・タケオヒロクニオシタテの命のお二方です。また、オオケの天皇の御子のタシラガの命を皇后としてお生みになった御子はアメクニオシハルキヒロニワの命〔欽明天皇〕お一方です。またオキナガノマテの王の娘のオクミの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子は、ササゲの郎女いらつめお一方です。またサカタノオオマタの娘のクロ姫と結婚してお生みになった御子は、カムザキの郎女いらつめ・ウマラタの郎女いらつめ・シラサカノイクメコの郎女いらつめ、オノの郎女いらつめまたの名はナガメ姫のお四方です。また三尾みおの君カタブの妹のヤマト姫と結婚してお生みになった御子は大郎女おおいらつめ・マロタカの王・ミミの王・アカ姫の郎女いらつめのお四方です。また阿部のハエ姫と結婚してお生みになった御子は、ワカヤの郎女いらつめ・ツブラの郎女いらつめ・アズの王のお三方です。この天皇の御子たちはあわせて十九王おいでになりました。男王七人・女王十二人です。この中にアメクニオシハルキヒロニワの命〔欽明天皇〕は天下をおおさめなさいました。つぎにヒロクニオシタケカナヒの命〔安閑天皇〕も天下をお治めなさいました。つぎにタケオヒロクニオシタテの命〔宣化天皇〕も天下をお治めなさいました。つぎにササゲの王は伊勢の神宮をおまつりなさいました。この御世みよに筑紫の君石井いわいが皇命に従わないで、無礼なことが多くありました。そこで物部もののべ荒甲あらかいの大連、大伴おおとも金村かなむらの連の両名をつかわして、石井を殺させました。天皇は御年四十三歳、丁未ひのとひつじの年の四月九日にお隠れになりました。御陵ごりょうは三島のあいみささぎです。

    安閑あんかん天皇

 御子みこのヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和のまがり金箸かなはしの宮においでになって、天下をおおさめなさいました。この天皇は御子がございませんでした。乙卯きのとうの年の三月十三日にお隠れになりました。御陵ごりょうは河内の古市ふるちの高屋の村にあります。

    宣化せんか天皇

 弟のタケオヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈ひのくま廬入野いおりのの宮においでになって、天下をおおさめなさいました。天皇はオケの天皇の御子のタチバナのナカツヒメの命と結婚してお生みになった御子は、石姫いしひめの命・小石こいし姫の命・クラノワカエの王です。また川内かわちのワクゴ姫と結婚してお生みになった御子はホノホの王・エハの王で、この天皇の御子たちはあわせて五王、男王三人、女王二人です。そのホノホの王は志比陀の君の祖先、エハの王は韋那いなの君・多治比の君の祖先です。

    欽明きんめい天皇

 弟のアメクニオシハルキヒロニワの天皇(欽明天皇)、大和の師木島しきしまの大宮においでになって、天下をおおさめなさいました。この天皇、ヒノクマの天皇の御子みこ石姫いしひめの命と結婚してお生みになった御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌイの王のお三方です。またその妹の小石こいし姫の命と結婚してお生みになった御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの娘のヌカコの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子は、春日の山田の郎女いらつめ・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。また宗賀そが稲目いなめの宿祢の大臣の娘のキタシ姫と結婚してお生みになった御子は、タチバナノトヨヒの命・イワクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・オオヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オオトモの王・サクライノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母おばのオエ姫と結婚してお生みになった御子は、ウマキの王・カズラキの王・ハシヒトノアナホベの王・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たちあわせて二十五王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命〔敏達天皇〕は天下をおおさめなさいました。つぎにタチバナノトヨヒの命〔用明天皇〕・トヨミケカシギヤ姫の命〔推古天皇〕・ハツセベノワカサザキの命〔崇峻天皇〕も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。

    敏達びだつ天皇

―岡本の宮で天下をおおさめになったというのが、『古事記』中、最新の事実である。―

 御子みこのヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田おさだの宮においでになって、十四年、天下をおおさめなさいました。この天皇は庶妹ままいもトヨミケカシギヤ姫の命と結婚してお生みになった御子はシズカイの王、またの名はカイダコの王・タケダの王、またの名はオカイの王・オワリダの王・カズラキの王・ウモリの王・オワリの王・タメの王・サクライノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオオカのおびとの娘のオクマコの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の娘のヒロ姫の命と結婚してお生みになった御子はオサカノヒコヒトの太子みこのみこと、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウジの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の娘のオミナコの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子はナニワの王・クワタの王・カスガの王・オオマタの王のお四方です。
 この天皇の御子たちあわせて十七王おいでになった中に、ヒコヒトの太子みこのみこと庶妹ままいもタムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになった御子が、岡本の宮においでになって天下をおおさめなさいました天皇舒明じょめい天皇)・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオオマタの王と結婚してお生みになった御子は、チヌの王、クワタの女王お二方です。また庶妹ままいもユミハリの王と結婚してお生みになった御子はヤマシロの王・カサヌイの王のお二方です。あわせて七王です。天皇は甲辰きのえたつの年の四月六日にお隠れになりました。御陵ごりょう河内かわち科長しながにあります。

    用明ようめい天皇

 弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の辺の宮においでになって、三年、天下をおおさめなさいました。この天皇は蘇我そが稲目いなめの大臣の娘のオオギタシ姫と結婚してお生みになった御子みこは、タメの王お一方です。庶妹ままいもハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになった御子は、うえの宮のウマヤドノトヨトミミの命〔聖徳太子〕・クメの王・エクリの王・ウマラタの王お四方です。また当麻たぎまの倉の首ヒロの娘のイイの子と結婚してお生みになった御子はタギマの王、スガシロコの郎女いらつめのお二方です。この天皇は丁未ひのとひつじの年の四月十五日にお隠れなさいました。御陵ごりょうははじめは磐余いわれ掖上わきがみにありましたが後に科長しながの中の陵におうつし申し上げました。

    崇峻すしゅん天皇

 弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅くらはしの柴垣の宮においでになって、四年、天下をおおさめなさいました。壬子みずのえねの年の十一月十三日にお隠れなさいました。御陵ごりょうは倉椅の岡の上にあります。

    推古すいこ天皇

―『古事記』がここで終わっているのは、その材料とした『帝紀ていき』がここで終わっていたによるであろう。―

 妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田おはりだのみやの宮においでになって、三十七年、天下をおおさめなさいました。戊子つちのえねの年の三月十五日癸丑みずのとうしの日にお隠れなさいました。御陵ごりょうははじめは大野の岡の上にありましたが、後に科長しながの大陵にお移し申し上げました。


底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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現代語譯 古事記(六)

稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|方《かた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
-------------------------------------------------------

[#1字下げ]古事記 下の卷[#「古事記 下の卷」は大見出し]

[#3字下げ]五、雄略天皇[#「五、雄略天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
 オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷《はつせ》の朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白髮部《しらがべ》をお定めになり、また長谷部《はつせべ》の舍人、河瀬の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉人《くれびと》が渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉原《くれはら》というのです。

[#5字下げ]ワカクサカベの王[#「ワカクサカベの王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長谷《はつせ》の天皇として、傳説上の英雄となつておいでになつたのである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 初め皇后樣が河内の日下《くさか》においでになつた時に、天皇が日下の直越《ただごえ》の道を通つて河内においでになりました。依つて山の上にお登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木をあげて作つた家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになるには、「あの奴《やつ》は自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入つて拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を※[#「執/糸」、353-17]《か》けて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許《おんもと》においでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、「この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました。かくして皇居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、

[#ここから3字下げ]
この日下部《くさかべ》の山と
向うの平群《へぐり》の山との
あちこちの山のあいだに
繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、
その樹の根もとには繁つた竹が生え、
末の方にはしつかりした竹が生え、
その繁つた竹のように繁くも寢ず
しつかりした竹のようにしかとも寢ず
後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。
[#ここで字下げ終わり]

 この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。

[#5字下げ]引田部の赤猪子[#「引田部の赤猪子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部《ひけたべ》の赤猪子《あかいこ》と申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參つたか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えずに命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
御諸《みもろ》山の御神木のカシの樹のもと、
そのカシのもとのように憚られるなあ、
カシ原《はら》のお孃さん。
[#ここで字下げ終わり]

 またお歌いになりました御歌は、

[#ここから3字下げ]
引田《ひけた》の若い栗の木の原のように
若いうちに結婚したらよかつた。
年を取つてしまつたなあ。
[#ここで字下げ終わり]

 かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、

[#ここから3字下げ]
御諸山に玉垣を築いて、
築き殘して誰に頼みましよう。
お社の神主さん。
[#ここで字下げ終わり]

 また歌いました歌、

[#ここから3字下げ]
日下江《くさかえ》の入江に蓮《はす》が生えています。
その蓮の花のような若盛りの方は
うらやましいことでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌《しずうた》です。

[#5字下げ]吉野の宮[#「吉野の宮」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――吉野での物語二篇。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになつて琴をお彈きになり、その孃子に舞《ま》わしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
椅子にいる神樣が御手《みて》ずから
彈かれる琴に舞を舞う女は
永久にいてほしいことだな。
[#ここで字下げ終わり]

 それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻《あぶ》が御腕を咋《く》いましたのを、蜻蛉《とんぼ》が來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
吉野のヲムロが嶽《たけ》に
猪《しし》がいると
陛下に申し上げたのは誰か。
天下を知ろしめす天皇は
猪を待つと椅子に御座《ぎよざ》遊ばされ
白い織物のお袖で裝うておられる
御手の肉に虻が取りつき
その虻を蜻蛉《とんぼ》がはやく食い、
かようにして名を持とうと、
この大和の國を
蜻蛉島《あきづしま》というのだ。
[#ここで字下げ終わり]

 その時からして、その野をアキヅ野というのです。

[#5字下げ]葛城山[#「葛城山」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――葛城山に關する物語二篇。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢《かぶらや》をもつてその猪をお射になります時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、

[#ここから3字下げ]
天下を知ろしめす天皇の
お射になりました猪の
手負い猪のくいつくのを恐れて
わたしの逃げ登つた
岡の上のハンの木の枝よ。
[#ここで字下げ終わり]

 また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺《あおずり》の衣を給わつて著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢を番《つが》え、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主《ひとことぬし》の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏《かしこ》まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長谷《はつせ》の山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になつたのです。

[#5字下げ]春日のヲド姫と三重の采女[#「春日のヲド姫と三重の采女」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は、別の歌曲である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また天皇、丸邇《わに》のサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
お孃さんの隱れる岡を
じようぶな※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《すき》が澤山あつたらよいなあ、
鋤《す》き撥《はら》つてしまうものを。
[#ここで字下げ終わり]

 そこでその岡を金※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《かなすき》の岡と名づけました。
 また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女《うねめ》が酒盃《さかずき》を捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒《おおみき》を獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言つて、歌いました歌、

[#ここから3字下げ]
纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮は
朝日の照り渡る宮、
夕日の光のさす宮、
竹の根のみちている宮、
木の根の廣がつている宮です。
多くの土を築き堅めた宮で、
りつぱな材木の檜《ひのき》の御殿です。
その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
一杯に繁つた槻の樹の枝は、
上の枝は天を背おつています。
中の枝は東國を背おつています。
下の枝は田舍《いなか》を背おつています。
その上の枝の枝先の葉は
中の枝に落ちて觸れ合い、
中の枝の枝先の葉は
下の枝に落ちて觸れ合い、
下の枝の枝先の葉は、
衣服を三重に著る、その三重から來た子の
捧げているりつぱな酒盃《さかずき》に
浮いた脂《あぶら》のように落ち漬《つか》つて、
水音もころころと、
これは誠に恐れ多いことでございます。
尊い日の御子樣。
  事の語り傳えはかようでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、

[#ここから3字下げ]
大和の國のこの高町で
小高くある市の高臺の、
新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
廣葉の清らかな椿の樹、
その葉のように廣らかにおいで遊ばされ
その花のように輝いておいで遊ばされる
尊い日の御子樣に
御酒をさしあげなさい。
  事の語り傳えはかようでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 天皇のお歌いになりました御歌は、

[#ここから3字下げ]
宮廷に仕える人々は、
鶉《うずら》のように頭巾《ひれ》を懸けて、
鶺鴒《せきれい》のように尾を振り合つて
雀のように前に進んでいて
今日もまた酒宴をしているもようだ。
りつぱな宮廷の人々。
  事の語り傳えはかようでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 この三首の歌は天語歌《あまがたりうた》です。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。
 この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、

[#ここから3字下げ]
水《みず》のしたたるようなそのお孃さんが、
銚子《ちようし》を持つていらつしやる。
銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。
力《ちから》を入れてしつかりと持つていらつしやい。
銚子を持つていらつしやるお孃さん。
[#ここで字下げ終わり]

 これは宇岐歌《うきうた》です。ここにヲド姫の獻りました歌は、

[#ここから3字下げ]
天下を知ろしめす天皇の
朝戸にはお倚《よ》り立ち遊ばされ
夕戸《ゆうど》にはお倚り立ち遊ばされる
脇息《きようそく》の下の
板にでもなりたいものです。あなた。
[#ここで字下げ終わり]

 これは志都歌《しずうた》です。
 天皇は御年百二十四歳、己巳《つちのとみ》の年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比《たじひ》の高※[#「顫のへん+鳥」、第3水準1-94-72]《たかわし》にあります。

[#3字下げ]六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇[#「六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」は中見出し]

[#5字下げ]清寧天皇[#「清寧天皇」は小見出し]
 御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和の磐余《いわれ》の甕栗《みかくり》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱《かく》れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城《かずらき》のオシヌミの高木《たかぎ》のツノサシの宮においでになりました。

[#5字下げ]シジムの新築祝い[#「シジムの新築祝い」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――前に出たイチノベノオシハの王の物語の續きで山部氏によつて傳承したと考えられる。この條は、特殊の文字使用法を有しており、古事記の編纂の當時、既に書かれた資料があつたようである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ここに山部《やまべ》の連|小楯《おだて》が播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛んに遊んで、酒|酣《たけなわ》な時に順次に皆舞いました。その時に火焚《ひた》きの少年が二人|竈《かまど》の傍におりました。依つてその少年たちに舞わしめますに、一人の少年が「兄上、まずお舞《ま》いなさい」というと、兄も「お前がまず舞《ま》いなさい」と言いました。かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、

[#ここから3字下げ]
武士であるわが君のお佩きになつている大刀の柄《つか》に、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物を裁《た》つて附け、立つて見やれば、向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押し靡《なび》かせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子《みこ》です。わたくしは。
[#ここで字下げ終わり]

と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。

[#5字下げ]歌垣[#「歌垣」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――日本書紀では、武烈天皇の太子時代のこととし、歌も多く相違している。ある王子とシビという貴公子の物語として傳承されたのが原形であろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群《へぐり》の臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田《うだ》の長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、

[#ここから3字下げ]
御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。
[#ここで字下げ終わり]

 かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、

[#ここから3字下げ]
大工が下手《へた》だつたので隅が曲つているのだ。
[#ここで字下げ終わり]

 シビがまた歌いますには、

[#ここから3字下げ]
王子樣の御心がのんびりしていて、
臣下の幾重にも圍つた柴垣に
入り立たずにおられます。
[#ここで字下げ終わり]

 ここに王子がまた歌いますには、

[#ここから3字下げ]
潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば
遊んでいるシビ魚の傍に
妻が立つているのが見える。
[#ここで字下げ終わり]

 シビがいよいよ怒《いか》つて歌いますには、

[#ここから3字下げ]
王子樣の作つた柴垣は、
節だらけに結び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してあつて、
切れる柴垣の燒ける柴垣です。
[#ここで字下げ終わり]

 ここに王子がまた歌いますには、

[#ここから3字下げ]
大《おお》きい魚の鮪《しび》を突く海人よ、
その魚が荒れたら心戀しいだろう。
鮪《しび》を突く鮪《しび》の臣《おみ》よ。
[#ここで字下げ終わり]

 かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢《ね》ているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。
 ここでお二方《ふたかた》の御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、「播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。

[#5字下げ]顯宗天皇[#「顯宗天皇」は小見出し]
 イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内《かわち》の國の飛鳥《あすか》の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子《みこ》はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤《いや》しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上《のぼ》りなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目《おきめ》の老媼《ばば》という名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦《あつ》くお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
茅草《ちぐさ》の低い原や小谷を過ぎて
鈴のゆれて鳴る音がする。
置目がやつて來るのだな。
[#ここで字下げ終わり]

 ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、

[#ここから3字下げ]
置目よ、あの近江の置目よ、
明日からは山に隱れてしまつて
見えなくなるだろうかね。
[#ここで字下げ終わり]

 初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯《ほしい》を奪つた豚飼《ぶたかい》の老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
 天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀《やぶ》ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞《やぶ》りました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。かくて天皇がお隱《かく》れになつてから、オケの命が、帝位にお即《つ》きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏《いわつき》の岡の上にあります。

[#5字下げ]仁賢天皇[#「仁賢天皇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――以下十代は、物語の部分が無く、もつぱら帝紀によつている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和の石《いそ》の上《かみ》の廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました。

[#3字下げ]七、武烈天皇以後九代[#「七、武烈天皇以後九代」は中見出し]

[#5字下げ]武烈天皇[#「武烈天皇」は小見出し]
 ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷《はつせ》の列木《なみき》の宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小長谷部《おはつせべ》をお定めになりました。御陵は片岡の石坏《いわつき》の岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。

[#5字下げ]繼體天皇[#「繼體天皇」は小見出し]
 ホムダの王の五世の孫のヲホドの命(繼體天皇)、大和の磐余《いわれ》の玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、三尾《みお》の君等の祖先のワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、大郎子・イヅモの郎女のお二方《ふたかた》です。また尾張の連等の祖先のオホシの連の妹のメコの郎女と結婚してお生みになつた御子はヒロクニオシタケカナヒの命・タケヲヒロクニオシタテの命のお二方です。またオホケの天皇の御子のタシラガの命を皇后としてお生みになつた御子はアメクニオシハルキヒロニハの命お一方です。またオキナガノマテの王の女のヲクミの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ササゲの郎女お一方です。またサカタノオホマタの女のクロ姫と結婚してお生みになつた御子は、カムザキの郎女・ウマラタの郎女・シラサカノイクメコの郎女、ヲノの郎女またの名はナガメ姫のお四方です。また三尾の君カタブの妹のヤマト姫と結婚してお生みになつた御子は大郎女・マロタカの王・ミミの王・アカ姫の郎女のお四方です。また阿部のハエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ワカヤの郎女・ツブラの郎女・アヅの王のお三方です。この天皇の御子たちは合わせて十九王おいでになりました。男王七人女王十二人です。この中にアメクニオシハルキヒロニハの命は天下をお治めなさいました。次にヒロクニオシタケカナヒの命も天下をお治めなさいました。次にタケヲヒロクニオシタテの命も天下をお治めなさいました。次にササゲの王は伊勢の神宮をお祭りなさいました。この御世に筑紫の君石井が皇命に從《したが》わないで、無禮な事が多くありました。そこで物部《もののべ》の荒甲《あらかい》の大連、大伴《おおとも》の金村《かなむら》の連の兩名を遣わして、石井を殺させました。天皇は御年四十三歳、丁未《ひのとひつじ》の年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島の藍《あい》の陵《みささぎ》です。

[#5字下げ]安閑天皇[#「安閑天皇」は小見出し]
 御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和の勾《まがり》の金箸《かなはし》の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。乙卯《きのとう》の年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。

[#5字下げ]宣化天皇[#「宣化天皇」は小見出し]
 弟のタケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈《ひのくま》の廬入野《いおりの》の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオケの天皇の御子のタチバナのナカツヒメの命と結婚してお生みになつた御子は、石姫《いしひめ》の命・小石《こいし》姫の命・クラノワカエの王です。また川内《かわち》のワクゴ姫と結婚してお生みになつた御子はホノホの王・ヱハの王で、この天皇の御子たちは合わせて五王、男王三人、女王二人です。そのホノホの王は志比陀の君の祖先、ヱハの王は韋那《いな》の君・多治比の君の祖先です。

[#5字下げ]欽明天皇[#「欽明天皇」は小見出し]
 弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島《しきしま》の大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、ヒノクマの天皇の御子、石姫《いしひめ》の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌヒの王のお三方です。またその妹の小石《こいし》姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの女のヌカコの郎女と結婚してお生みになつた御子は、春日の山田の郎女・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。またソガのイナメの宿禰の大臣の女のキタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタチバナノトヨヒの命・イハクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・オホヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オホトモの王・サクラヰノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母のヲエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウマキの王・カヅラキの王・ハシヒトノアナホベの王・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たち合わせて二十五王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命は天下をお治めなさいました。次にタチバナノトヨヒの命・トヨミケカシギヤ姫の命・ハツセベノワカサザキの命も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。

[#5字下げ]敏達天皇[#「敏達天皇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――岡本の宮で天下をお治めになつたというのが、古事記中最新の事實である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田《おさだ》の宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。この天皇は庶妹トヨミケカシギヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はシヅカヒの王、またの名はカヒダコの王・タケダの王、またの名はヲカヒの王・ヲハリダの王・カヅラキの王・ウモリの王・ヲハリの王・タメの王・サクラヰノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオホカの首《おびと》の女のヲクマコの郎女と結婚してお生みになつた御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の女のヒロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオサカノヒコヒトの太子、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウヂの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の女のオミナコの郎女と結婚してお生みになつた御子はナニハの王・クハタの王・カスガの王・オホマタの王のお四方です。
 この天皇の御子たち合わせて十七王おいでになつた中に、ヒコヒトの太子は庶妹タムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになつた御子が、岡本の宮においでになつて天下をお治めなさいました天皇(舒明天皇)・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオホマタの王と結婚してお生みになつた御子は、チヌの王、クハタの女王お二方です。また庶妹ユミハリの王と結婚してお生みになつた御子はヤマシロの王・カサヌヒの王のお二方です。合わせて七王です。天皇は甲辰《きのえたつ》の年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内《かわち》の科長《しなが》にあります。

[#5字下げ]用明天皇[#「用明天皇」は小見出し]
 弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。この天皇は蘇我《そが》の稻目《いなめ》の大臣の女のオホギタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタメの王お一方です。庶妹ハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになつた御子は上の宮のウマヤドノトヨトミミの命・クメの王・ヱクリの王・ウマラタの王お四方です。また當麻《たぎま》の倉の首ヒロの女のイヒの子と結婚してお生みになつた御子はタギマの王、スガシロコの郎女のお二方です。この天皇は丁未《ひのとひつじ》の年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余《いわれ》の掖上《わきがみ》にありましたが後に科長《しなが》の中の陵にお遷《うつ》し申し上げました。

[#5字下げ]崇峻天皇[#「崇峻天皇」は小見出し]
 弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅《くらはし》の柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。壬子《みずのえね》の年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。

[#5字下げ]推古天皇[#「推古天皇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――古事記がここで終つているのは、その材料とした帝紀がここで終つていたによるであろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。戊子《つちのえね》の年の三月十五日|癸丑《みずのとうし》の日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
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*地名


[大和]
初瀬・長谷 はせ 奈良県桜井市の一地区。初瀬川に臨み、長谷寺の門前町。古く「はつせ」と称し、泊瀬朝倉宮・泊瀬列城宮の上代帝京の地。桜の名所。長谷寺の牡丹も有名。
長谷の朝倉の宮 はつせの あさくらのみや 奈良県桜井市初瀬にあった雄略天皇の宮。泊瀬朝倉宮のこと。伝承地は奈良県桜井市岩坂、一説に同市黒崎。
長谷の山口 はつせ → 長谷
磐余の甕栗の宮 いわれの みかくりのみや 現、橿原市東池尻町御厨子神社境内が伝承地。
磐余 いわれ 奈良県桜井市南西部、香具山東麓一帯の古地名。神武天皇伝説では、八十梟帥征討軍の集結地。
石の上の広高の宮 いそのかみ 奈良県山辺郡。
石上 いそのかみ 奈良県天理市北部の地名。もと付近一帯の郷名。
長谷の列木の宮 はつせの なみきのみや 現、桜井市。泊瀬朝倉宮に近接してあったと考えられるが、所在地は不明。大字出雲の説あり。
磐余玉穂宮 いわれの たまほのみや 継体天皇の皇居。山城の弟国宮から都をここに遷したという。伝承地は奈良県桜井市池之内の辺。
勾の金箸の宮 まがりの かなはしのみや 現、橿原市曲川町小字大垣内の金橋神社に近い小字大宮の坪に推定する。
檜隈の廬入野の宮 ひのくまの いおりののみや 現、高市郡明日香村大字檜隈、於美阿志神社境内か。社地は檜隈寺跡。
師木島の大宮 しきしま 奈良県磯城郡。
岡本の宮 おかもとのみや 紀には岡本宮の南に飛鳥浄御原宮を造営したとある。現、明日香村大字小山か。
大和の他田の宮 おさだのみや 奈良県磯城郡。紀は訳語田幸玉宮。敏達天皇の皇居の一つ。伝承地は奈良県桜井市戒重。他田宮。乎沙多宮。
大和の池の辺の宮 奈良県磯城郡 → 池辺双槻宮か
池辺双槻宮 いけのべの なみつきのみや 用明天皇の皇居。遺称地は奈良県桜井市阿部。磐余池辺双槻宮。
上の宮 うえのみや 現、桜井市大字上之宮か。
磐余の掖上 いわれの わきがみ 奈良県南葛城郡。 → 葛城の掖上宮か
掖上 わきがみ 古代の掖上は、現、御所をはじめ大字の本馬・玉手・池之内・三室などの平坦部を総称するものと考えられる。
科長の中の陵 しなが 磯長山田陵か。延喜式の河内磯長中尾陵か。現、南河内郡太子町太子、太子西山古墳か。敏達天皇陵に治定。
科長 しなが 磯長。
倉椅の柴垣の宮 くらはしのしばがきのみや 奈良県磯城郡。倉梯宮(紀)。現、桜井市大字倉橋。
倉椅の岡の上 奈良県磯城郡。倉梯岡陵(紀)か。現、桜井市大字倉橋。(1) 天王山古墳、(2) 金福寺の所在地の二説がある。
小治田の宮 おはりだのみや 小墾田宮(紀)。現、高市郡明日香村大字豊浦小字古宮か。
小治田 おはりだ 紀は小墾田。現、高市郡明日香村大字豊浦付近にあったとされる古地名。
呉原 くれはら 現、奈良県高市郡明日香村大字栗原。

日下部の山 くさかべのやま 生駒山か。
平群の山 へぐりのやま 奈良県生駒郡の山か。平群町に小字平群山が残る。矢田丘陵を称したものか。
三輪山 みわやま 奈良県桜井市にある山。標高467メートル。古事記崇神天皇の条に、活玉依姫と蛇神美和の神とによる地名説明伝説が見える。三諸山。
三輪河 みわかわ 三輪山付近を三輪川と称したものか。現、初瀬川か。
御諸山 みもろやま ミモロは、神座をいい、ひいて神社のある所をいふ。ここは葛城の三諸。現、三輪山。
三輪山 みわやま 奈良県桜井市にある山。標高467メートル。古事記崇神天皇の条に、活玉依姫と蛇神美和の神とによる地名説明伝説が見える。三諸山。

葛城山 かつらぎさん (1) 大阪府と奈良県との境にある山。修験道の霊場。標高959メートル。かつらぎやま。(2) 大阪府と和歌山県との境にある山。標高858メートル。和泉葛城山。
葛城 かつらぎ (古くはカヅラキ) 奈良県御所市・葛城市ほか奈良盆地南西部一帯の古地名。
忍海 おしぬみ/おしみ 奈良県葛城市忍海。忍海郡は大和国にあった郡。
高木の角刺の宮 たかぎの つのさしのみや 奈良県南葛城郡。
角刺宮 つのさしのみや 現、北葛城郡新庄町大字忍海か。
大野の岡 おおののおか 大野丘(紀)か。現、高市郡明日香村豊浦か。
春日 かすが (枕詞の「春日を」が「かすが」の地にかかることからの当て字) (1) 奈良市春日野町春日神社一帯の称。(2) 奈良市およびその付近の称。
岡辺
金�Kの岡 かなすきのおか
長谷の槻 つき
纏向日代宮 まきむくの ひしろのみや 現、桜井市。景行天皇の宮。
巻向山・纏向山 まきむくやま 奈良県中部、桜井市北部の山。標高567メートル。痛足山。
平群 へぐり 古代の豪族平群氏の拠点。大和国平群郡。現在の奈良県生駒郡・生駒市南部を中心とした地域。

飛鳥河 あすかがわ → 飛鳥川
飛鳥川 あすかがわ 奈良県高市郡高取山に発源、明日香村に入り北流、大和川に注ぐ川。淵瀬の定めなきことで聞こえ、古来、和歌に詠ぜられ、「明日」を懸け、また「明日」を言い出す枕詞のようにも用いられた。
志米須 しめす 所在不明。
片岡の石坏の岡 かたおかの いわつきのおか 傍丘磐杯丘(紀)。現、奈良県北葛城郡香芝町大字今泉。もしくは大字北今市小字的場。

[河内]
日下 くさか 大阪府北河内郡生駒山の西麓。
日下の直越の道 ただごえのみち 生駒山のくらがり峠を越える道。大和から直線的に越えるので直越という。/「古事記伝」以来、暗峠越(奈良街道)にあてる説があるが、反対する説もある。
直越え ただこえ まっすぐに越えること。多く奈良から大坂に越える生駒の草香越えにいう。
多治比の高� たじひの たかわし 丹比高鷲宮(紀)。雄略天皇陵。現、羽曳野市の島泉にある円墳に治定。松原市と羽曳野市の境にある大塚山古墳に比定する説もある。
古市の高屋の村 ふるち 大阪府南河内郡。現、羽曳野市古市か。
河内の科長 かわちの しなが 大阪府南河内郡。
科長の大陵 しなが 大阪府南河内郡。
飛鳥の宮 あすかのみや → 近飛鳥八釣宮(紀)か
近飛鳥八釣宮 ちかつあすかの やつりのみや 現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か。『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。
志幾 しき 志紀郡。志貴。近世の郡域は、八尾市の南部と藤井寺市の東部・柏原市の一部に属する。
三島の藍の陵 あいの みささぎ 大阪府三島郡。現、茨田市太田三丁目。大阪市天王寺区茶臼山町か。茶臼山古墳に治定。継体天皇陵。
日下江 くさかえ 大和川が作っている江。現、東大阪市。草香江・孔舎衛坂。当時の生駒山地西麓の布市・日下一帯の入江のことと考えられる。7世紀後半から8世紀にかけて河内低地には河内湖とよばれる湖沼が広がり、湖沼の末端は大阪湾に流出していた。

[吉野] よしの 奈良県南部の地名。吉野川流域の総称。大和国の一郡で、平安初期から修験道の根拠地。古来、桜の名所で南朝の史跡が多い。
吉野の宮 よしののみや 奈良県吉野郡にあった古代の離宮。大化改新の後に古人大兄皇子、壬申の乱の前に大海人皇子が逃れ、持統天皇以後もしばしば行幸。奈良初期にはこの離宮を中心に芳野監という特別行政区を置く。吉野町宮滝の地とされる。
吉野川 よしのがわ 「紀ノ川」参照。
紀ノ川 きのかわ 奈良・三重県境の大台ヶ原山に発源、奈良県の中央部、和歌山県の北部を西流、紀伊水道に注ぐ川。奈良県内の部分を吉野川という。上流地域は吉野杉の林業地として知られる。長さ136キロメートル。
アキヅ野 阿岐豆野 吉野山中にある。藤原の宮時代の吉野の宮の所在地。秋津野。秋津小野・蜻蛉小野とも書く。現、吉野郡川上村大字西河の蜻蛉の滝付近説、下市町の秋野川流域説、吉野町大字宮滝付近説など諸説ある。
袁牟漏が岳 おむろがたけ 現、小牟漏岳か。吉野郡東吉野村大字小の北に位置する。標高685.7m。
秋津洲・秋津島・蜻蛉洲 あきずしま 大和国。また、本州。また広く、日本国の異称。あきずしまね。あきずね。(もと御所市付近の地名から。

[伊勢]
三重 みえ 近畿地方東部の県。伊賀・伊勢・志摩3国の全域と紀伊国の東部を管轄。県庁所在地は津市。面積5760平方キロメートル。人口186万7千。全14市。
伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。

[播磨] はりま 旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。

[近江] おうみ 近江・淡海 (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
カヤ野の東の山 蚊屋野の東の山
蚊屋野 かやの 現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

稗田の阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太の安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。(日本史)

雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
オオハツセノワカタケの命 → 雄略天皇

オオクサカの王 大日下王/大草香皇子 → ハタビの大郎子
ハタビの大郎子 おおいらつこ 波多毘能大郎子。別名、オオクサカの王。
ワカクサカベの王 若日下部の王。オオクサカの王の妹。ハタビの若郎女。別名、ナガメ姫の命。
ツブラオオミ 都夫良意美/都夫良意富美 円大臣。葛城円。意富美は大臣のこと。安康天皇を殺害したマヨワの王をかくまって、オオハツセの王(雄略天皇)に滅ぼされた。(神名)
カラ姫 韓比売/訶良比売 ツブラオオミの娘。韓媛(紀)。雄略天皇との間に白髪命・若帯比売命を生む。(神名)
シラガの命 白髪の命 しらが/しらか → 清寧天皇
ワカタラシの命 若帯比売の命か。稚足姫皇女。別名、栲幡姫皇女(紀)。雄略天皇の子。母は韓比売。紀に伊勢大神に侍したとある。讒言にあい、神鏡を持ち出し五十鈴川のほとりで自殺した。(神名)
コシハキ 腰佩。
志幾の大県主 しきの おおあがたぬし

引田部の赤猪子 ひけたべの あかいこ → 赤猪子
赤猪子 あかいこ 引田部赤猪子。古事記の所伝によると、雄略天皇の目にとまり、空しく召しを待つこと80年、天皇がこれをあわれみ、歌と禄とを賜ったという女性。
一言主の大神 ひとことぬし 葛城山に住み、吉事も凶事も一言で表現するという神。
春日のオド姫 春日の袁杼比売 かすがのおどひめ 丸迩のサツキの臣の娘。雄略天皇の妻問いを拒み、岡の上に逃げ隠れたことが、天皇の歌と共に語られている。またのちに新嘗の豊楽の日ふたたび登場し大御酒をたてまつっている。(神名)
三重の采女 みえの うねめ 伊勢国三重郡から奉られた采女。雄略記にのみ登場する。新嘗祭の酒宴で采女の失態に怒った天皇が斬り殺そうとすると、采女は歌をたてまつって罪を許されたとある。(神名)
丸迩のサツキの臣 わに 丸邇の佐都紀の臣 雄略天皇の妃。袁杼比売の父。

清寧天皇 せいねい てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。雄略天皇の第3皇子。名は白髪、諡は武広国押稚日本根子。
顕宗天皇 けんぞう てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。履中天皇の皇孫。磐坂市辺押磐皇子の第2王子。名は弘計。父が雄略天皇に殺された時、兄(仁賢天皇)と共に播磨に逃れたが、後に発見されて即位したという。
仁賢天皇 にんけん てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。磐坂市辺押磐皇子の第1王子。名は億計。父が雄略天皇に殺された時、弟(顕宗天皇)とともに播磨に逃れた。のちに清寧天皇の皇太子となり、弟に次いで即位したという。
シラガノオオヤマトネコの命 白髪の大倭根子の命 → 清寧天皇
イチノベノオシハワケの王 市の辺の忍歯別の王 イザホワケの天皇の皇子。市辺押磐皇子。市辺は地名。山城国綴喜郡に市野辺村がある。履中天皇の皇子。皇位継承者として有力視されていたが、雄略天皇に近江の久多綿蚊屋野で殺された。風土記には市辺天皇命とある。(神名)
オシヌミの郎女 いらつめ 忍海の郎女 別名、イイトヨの王。アオミの郎女。イチノベノオシハワケの王の妹。
イイトヨの王 飯豊の王 → オシヌミの郎女
シジム 志自牟 播磨国の豪族。父のイチノベノオシハの王を殺されたオケの王・ヲケの王が、シジムの家に馬甘・牛甘として隠れ住んだ。二皇子はシジムの家の新室楽のとき、訪れた山部連小楯に見出される。紀で該当するのは縮見屯倉首忍海部造細目。播磨風土記では志深村首伊等尾。(神名)
山部の連小楯 やまべのむらじ おだて
イザホワケの天皇 伊耶本和気の天皇 → 履中天皇
履中天皇 りちゅう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第1皇子。名は大兄去来穂別。

武烈天皇 ぶれつ てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。仁賢天皇の第1皇子。名は小泊瀬稚鷦鷯。
平群の臣 へぐりのおみ
平群氏 へぐりし 武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣、後に朝臣。
シビの臣 志毘の臣 平群の臣の祖先。
志毘 しび 欽明天皇の時、出雲国意宇郡舎人郷にいた倉舎人君の祖、日置臣志毘のこと(? 出雲風土記)(神名)
ヲケの命 袁祁の命 → 顕宗天皇
兎田の首 うだの おびと
オオヲ 大魚 兎田の長の娘。
オケの王 意祁の王/意富祁王 → 仁賢天皇
ヲケの王 袁祁の王 → 顕宗天皇
イチノベノオシハの王 市の辺の忍歯の王 → イチノベノオシハワケの王
オケノイワスワケの命 袁祁の石巣別の命 → 顕宗天皇
イワキの王 石木の王
ナニワの王 難波の王 イワキの王の娘。顕宗天皇の妃となるが子はない。紀には皇后難波小野王とするが誤りとみられる。仁賢紀には、皇太子だった時の仁賢天皇に無礼を働いたことを悔やんで自殺したとも記している。(神名)
イチノベの王 → イチノベノオシハの王
カラフクロ 韓。近江の佐々紀山君の祖先。カラフクロが「淡海の久多綿の蚊屋野に猪鹿がたくさんいる」といったことにより、オオハツセの王とイチノベノオシハの王は蚊屋野に行き、イチノベノオシハの王が殺される。(神名)
置目の老媼 おきめのばば/おうな
オオハツセの天皇 大長谷の天皇 → オオハツセノワカタケの命・雄略天皇
オオケの王 意富祁の命 → 仁賢天皇
春日の大郎女 おおいらつめ 春日大娘皇女(紀)。オオハツセノワカタケの天皇(雄略天皇)の娘。仁賢天皇との間に高木郎女、財郎女、久須毘郎女、手白髪郎女、小長谷若雀命(武烈天皇)、真若王を生んだ。紀では母は春日和珥臣深目の娘・童女といい、別名として高橋皇女を載せる。(神名)
タカギの郎女 たかぎの/たかきの いらつめ 高木の郎女 仁賢天皇の皇女。事跡不詳。紀は高橋大娘皇女と記しているが、これは母である春日大郎女の別名と同一となるため誤りか。(神名)
タカラの郎女 いらつめ 財の郎女 仁賢天皇の皇女。紀にはこの名はみられず、朝嬬皇女とあるのが相当する。(神名)
クスビの郎女 いらつめ 久須毘の郎女 樟氷皇女(紀)。仁賢天皇の子。
タシラガの郎女 たしらが/たしらかの いらつめ 手白髪の郎女 手白香皇女(紀)。仁賢天皇の皇女。継体天皇の皇后となって欽明天皇を生んだ。(神名)
オハツセノワカサザキの命 → 武烈天皇
マワカの王 真若の王 (1) 景行天皇の皇子。(2) 仁賢天皇の皇女。母は雄略天皇の皇女の春日大郎女。(神名)
ワニノヒノツマの臣 丸邇の日爪の臣 ひつまのおみ 丸迩(和邇)は姓、日爪は名。子に仁賢天皇妃、糠若子郎女がいる。(神名)
ヌカノワクゴの郎女 いらつめ 糠の若子の郎女 ワニノヒノツマの臣の娘。
カスガノオダの郎女 いらつめ 春日の小田の郎女 → 春日山田皇女か
春日山田皇女 かすがの やまだの ひめみこ 仁賢天皇の皇女。別名を山田赤見皇女・山田大娘皇女・赤見皇女。記の春日山田郎女あるいは春日小田郎女と同一人物と思われる。母は二説あるが、いずれも和珥氏出身。安閑天皇の太子時代に妃となる。伊甚国造稚子の罪に連座して伊甚倉を献じて罪をあがなった。宣化天皇が崩じたとき、欽明天皇は群臣に皇后に政務を執るよう乞わさせたが、皇后は聞かず、間もなく崩じた。(神名)

ホムダの天皇 品太の王 → 応神天皇
応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
オオドの命 袁本杼の命 → 継体天皇
継体天皇 けいたい てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。彦主人王の第1王子。応神天皇の5代の孫という。名は男大迹。
タシラガの命 手白髪の命 たしらかのみこと オオケの天皇(仁賢天皇)の御子。/継体天皇の皇后となったため郎女から命へと表記が変わったか。タシラガの郎女参照。(神名)
三尾の君 みお
ワカ姫 若比売 稚媛(紀)。即位前の継体天皇ゆかりの地の豪族三尾の君らの祖。継体天皇の妃となり二皇子を生む。紀では三尾角折君の妹。(神名)
大郎子 おおいらつこ 継体天皇の皇子で、紀では大郎皇子と表記。母はワカ姫。(神名)
イヅモの郎女 いらつめ 出雲の郎女 継体天皇の皇女。母はワカ姫。(神名)
尾張の連
オオシの連 むらじ 凡の連。尾張の連らの祖先。
メコの郎女 いらつめ 目子の郎女 オオシの連の妹。
ヒロクニオシタケカナヒの命 広国押建金日の命 → 安閑天皇
タケオヒロクニオシタテの命 建小広国押楯の命 → 宣化天皇
オオケの天皇 意富祁の天皇 → 仁賢天皇
アメクニオシハルキヒロニワの命 天国押波流岐広庭の命 → 欽明天皇
オキナガノマテの王 息長の真手の王 まての/までのみこ 継体天皇妃の麻組郎女、敏達天皇のヒロヒメ命の父。(神名)
オクミの郎女 いらつめ 麻組の郎女 麻績娘子(紀)。オキナガノマテの王の娘。継体天皇の妃となりササゲの郎女を生む。(神名)
ササゲの郎女 いらつめ 佐佐宜の郎女 荳角皇女(紀)。ササゲの王ともいう。継体天皇の子。母はオクミの郎女。伊勢神宮の斎宮となる。(神名)
サカタノオオマタ 坂田の大俣の王 坂田大股王か。坂田大跨王(紀)。娘の黒比売が継体天皇との間に三女をもうける。紀では娘は広媛。(神名)
クロ姫 黒比売 サカタノオオマタの娘。
カムザキの郎女 いらつめ 神前の郎女 神前は近江国神前郡。継体天皇の皇女。母は記ではクロ姫。紀では広媛とし、安閑天皇と合葬されたと記す。事跡不詳。(神名)
ウマラタの郎女 うまらたの/まむたの いらつめ 茨田の郎女 継体天皇の皇女か。母はクロ姫。
シラサカノイクメコの郎女 いらつめ 白坂の活目子の郎女 白坂活日姫皇女(紀)。継体天皇の皇女。母は関媛。(神名)
オノの郎女 いらつめ 小野の郎女 別名、ナガメ姫。小野稚娘皇女(紀)。継体天皇の皇女。母は関媛。(神名)
ナガメ姫 長目比売 別名、オノの郎女、ハタビの若郎女、若日下部命ともいう。仁徳天皇の皇女。母は髪長姫。雄略天皇の妃となる。仁徳紀では幡梭皇女、あるいは橘姫皇女と表記する。(神名)
三尾の君カタブ みお 加多夫 継体天皇の妃のヤマト姫の兄。
ヤマト姫 倭比売 三尾の君カタブ(紀では堅)の妹。継体天皇の妃となり四皇子を生む。そのうちの第二子椀子皇子は三国公の祖とされる。(神名)
大郎女 おおいらつめ 継体天皇の皇女。母はヤマト姫。
マロタカの王 丸高の王 継体天皇の皇子。母はヤマト姫。(『神名』は「まろこのみこ」)
ミミの王 耳の王 継体天皇の子。母はヤマト姫。
アカ姫の郎女 いらつめ 赤比売の郎女 赤姫皇女(紀)。継体天皇の皇女。母はヤマト姫。(神名)
阿部のハエ姫 阿部の波延比売 阿倍か。阿倍は地名。波延は光り映るの義。継体天皇に召されて三皇子を生んだ。(神名)
ワカヤの郎女 いらつめ 若屋の郎女 継体天皇の皇女。母は阿部のハエ姫。紀では母を和珥臣河内の娘の夷媛とする。(神名)
ツブラの郎女 いらつめ 都夫良の郎女 円娘皇女(紀)。継体天皇の皇女。母は阿部のハエ姫。
アズの王 阿豆の王 名義不詳。継体天皇の子。母は阿部のハエ姫。
ササゲの王 佐佐宜の王 → ササゲの郎女
筑紫の君石井 つくしのきみ いわい → 筑紫君磐井
筑紫君磐井 つくしのきみ いわい ?-528? 古墳時代末の九州の豪族。『日本書紀』によれば朝鮮半島南部の任那へ渡航しようとするヤマト政権軍をはばむ磐井の乱を起こし、物部麁鹿火によって討たれたとされる。
物部の荒甲 もののべの あらかい 物部麁鹿火。大連。武烈天皇の死後、継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられる。
大伴の金村 おおともの かなむら 大伴金村 大和政権時代の豪族。武烈天皇から欽明天皇に至る5代の間、大連として権勢を張ったが対朝鮮政策につまずいて失脚。生没年未詳。

安閑天皇 あんかん てんのう 466-535 記紀に記された6世紀前半の天皇。名は勾大兄、また広国押武金日。継体天皇の第1皇子。
宣化天皇 せんか てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。継体天皇の第3皇子。名は武小広国押盾。
オケの天皇 意祁の天皇 → 仁賢天皇
タチバナのナカツヒメの命 橘の中比売の命 仁賢天皇の御子。橘仲皇女(紀)。宣化天皇との間に石姫命・小石姫の命・クラノワカエの王を生む。紀によれば、母は春日大郎皇女。宣化天皇の皇后となり、一男三女を設けたとする。(神名)
石姫の命 いしひめ 石比売の命 名義不詳。宣化天皇の御子。母は橘中比売命。妹は小石姫の命。のちに欽明天皇の皇后となって八田王、沼名倉太玉敷命、笠縫王を生んだ。(神名)
ヒノクマの天皇 桧�fの天皇 → 宣化天皇
小石姫の命 こいし 石姫の命の妹。
クラノワカエの王 倉の若江の王 宣化天皇の子。母は橘中比売命。
川内のワクゴ姫 かわち 河内の若子比売 大河内稚子媛(紀)。宣化天皇妃で二子を生んだ。紀では即位前の庶妃と記す。出自は不詳。(神名)
ホノホの王 火の穂の王 志比陀の君の祖先。
エハの王 恵波の王 韋那の君・多治比の君の祖先。
志比陀の君
韋那の君 いな
多治比の君 たじひ
欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。名は天国排開広庭。即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)、百済の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。(在位 〜571)
ヤタの王 八田の王 欽明天皇の子。母は宣化天皇の皇女の石姫命。事跡不詳。紀では箭田珠勝大兄皇子。(神名)
ヌナクラフトタマシキの命 沼名倉太玉敷の命 → 敏達天皇
カサヌイの王 笠縫の王 (1) 敏達記に、忍坂日子人太子と桜井玄王の子として登場する。(2) 別名、狭田毛皇女。欽明天皇の皇女で、母は石姫命。事跡不詳。(神名)
カミの王 上の王 欽明天皇の子。母は小石姫命。
春日のヒノツマ 春日の日爪の臣 和迩日爪臣か。子に仁賢天皇妃、糠若子郎女がいる。(神名)
ヌカコの郎女 いらつめ 糠子の郎女 春日のヒノツマの娘。欽明天皇の妃となり三子を生む。紀では春日の日抓の娘とし二子を生んでいる。(神名)
春日の山田の郎女 いらつめ → 春日山田皇女
マロコの王 麻呂古の王 (1) 欽明天皇の皇子。母は春日日爪臣の娘、糠子郎女。(2) 椀子皇子(紀)。欽明天皇の皇子。母は宗賀之宿祢之大臣の娘キタシ姫。推古天皇の同母弟。(3) 忍坂日子人太子。(神名)
ソガノクラの王 宗賀の倉の王 欽明天皇の皇子。母は糠子郎女。
宗賀の稲目宿祢 そがの いなめの すくね 大臣 → 蘇我稲目か
蘇我稲目 そがの いなめ ?-570 飛鳥時代の豪族。宣化・欽明両朝の大臣。物部尾輿と対立して、仏教受容を主張、仏像を向原の家に安置して向原寺(後の豊浦寺)としたという。
キタシ姫 岐多斯比売 → 蘇我堅塩媛
蘇我堅塩媛 そが の きたしひめ 生没年不詳 飛鳥時代の皇妃。欽明天皇の妃。用明天皇、推古天皇の母。父は蘇我稲目。姉妹に同じく欽明天皇の妃になった蘇我小姉君、弟に蘇我馬子がいる。
タチバナノトヨヒの命 橘の豊日の命 → 用明天皇
イワクマの王 石�fの王 磐隈皇女・夢皇女(紀)。欽明天皇の子。母はキタシ姫。紀にははじめ伊勢大神に斎宮として仕えていたが、後に異母兄弟の茨城皇子が奸に坐したため、その任を解かれたとある。(神名)
アトリの王 足取の王 名義・事跡不詳。欽明天皇の子。母はキタシ姫。
トヨミケカシギヤ姫の命 豊御気炊屋比売の命 → 推古天皇
オオヤケの王 大宅の王 大宅皇女(紀)。大宅は地名。大和国添上郡にある。欽明天皇の皇女。母はキタシ姫。事跡不詳。(神名)
イミガコの王 伊美賀古の王 石上部皇子(紀)か。
ヤマシロの王 山代の王 敏達天皇の皇子のヒコヒトの太子の子。母は桜井玄王。事跡不詳。(神名)
オオトモの王 大伴の王 大伴皇女(紀)か。
サクライノユミハリの王 桜井の玄の王 (1) 桜井之玄王。欽明天皇の子。母はキタシ姫。(2) 桜井玄王。敏達天皇の子。母は天皇の庶妹、豊御食炊屋比売命。(神名)
マノの王 麻怒の王 麻奴王。肩野皇女(紀)か。欽明天皇の子。母はキタシ姫。
タチバナノモトノワクゴの王 橘本若子王 欽明天皇の第十二子。母はキタシ姫で用明天皇・推古天皇と同母。事跡不詳。(神名)
ネドの王 泥杼の王 欽明天皇の皇子。母はキタシ姫。舎人皇女(紀)か。
キタシ姫の命 岐多志比売の命 → キタシ姫か
オエ姫 小兄比売 小姉君(紀)。キタシ姫命の叔母。欽明天皇の妃。
ウマキの王 馬木の王 欽明天皇の皇子。母はオエ姫。紀の茨城皇子にあたると考えられる。ただし茨城皇子は堅塩媛の同母妹となっており、皇子は異母兄弟で伊勢に仕える磐隈皇女を奸し、解任の原因を作っている。(神名)
カズラキの王 葛城の王 敏達天皇の子。母は豊御気炊屋比売命。
ハシヒトノアナホベの王 間人の穴太部の王 泥部穴穂部皇女、穴穂部間人皇女(紀)。欽明天皇の皇女。母はオエ姫。用明天皇の皇后となり、聖徳太子ら四人を生んだ。(神名)
サキクサベノアナホベの王 三枝部の穴太部の王 別名スメイロト。欽明天皇の子。母はオエ姫。
スメイロト 須売伊呂杼 すめいろど
ハツセベノワカサザキの命 長谷部の若雀の命 → 崇峻天皇

敏達天皇 びだつ てんのう 538-585 記紀に記された6世紀後半の天皇。欽明天皇の第2皇子。名は訳語田渟中倉太珠敷。(在位572〜585)
トヨミケカシギヤ姫の命 豊御食炊屋比売の命 敏達天皇の庶妹。
シズカイの王 静貝の王 別名、カイダコの王。父は敏達天皇。母は豊御気炊屋比売命。貝鮹は名義抄にかいだことあり、あおいがいのことであるという。(神名)
カイダコの王 貝鮹の王 → シズカイの王
タケダの王 竹田の王 別名、オカイの王。竹田皇子(紀)。敏達天皇の子。母は豊御食炊屋比売命。紀では物部守屋の討伐軍に加わっている。(神名)
オカイの王 小貝の王 → タケダの王
オワリダの王 小治田の王 おはりだのみこ 小墾田皇女(紀)。敏達天皇と推古天皇との第三子。紀には彦人大兄皇子と婚したとある。(神名)
ウモリの王 宇毛理の王 父は敏達天皇。母は豊御食炊屋比売命。事跡不詳。紀では別名、軽守皇女。(神名)
オワリの王 小張の王 尾張皇子(紀)。敏達天皇と推古天皇の第六子。紀では第五子にあたる。(神名)
タメの王 多米の王 田眼皇女(紀)。敏達天皇の皇女。母は豊御食炊屋比売命。紀では舒明天皇の妃となっている。(神名)
伊勢のオオカの首 おびと 伊勢の大鹿の首 
オクマコの郎女 いらつめ 小熊子の郎女 伊勢のオオカの首の娘。敏達天皇の妃。記によるとフト姫命・宝王(糠代比売王)の母。紀によると太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の母。(神名)
フト姫の命 布斗比売の命 敏達天皇の皇女。母はオクマコの郎女。紀は太姫皇女(桜井皇女)。母は伊勢大鹿首の娘で采女である菟名子夫人とする。(神名)
タカラの王 宝の王 別名、ヌカデ姫の王。敏達天皇の皇子。母はオクマコの郎女。田村王ともいう。田村王は忍坂日子人太子の妻で、舒明天皇・中津王・多良王の母。(神名)
ヌカデ姫の王 糠代比売の王 → タカラの王
ヒロ姫の命 比呂比売の命 広姫(紀)。オキナガノマテの王の娘。敏達天皇の皇后。忍坂日子人太子(別名、麻古王)、坂騰王、宇遅王の母。紀では押坂彦人大兄皇子、逆登皇女、菟道磯津貝皇女の母。敏達天皇4年11月に崩じた。(神名)
オサカノヒコヒトの太子 忍坂の日子人の太子 別名マロコの王。紀では押坂彦人大兄皇子。敏達天皇の皇子。母はヒロ姫命。紀では妻は小墾田皇女。太子ではあったが即位はしなかった。古事記伝では舒明天皇の父にあたる。(神名)
マロコの王 麻呂古の王 → オサカノヒコヒトの太子
サカノボリの王 坂騰の王 逆登皇女(紀)。敏達天皇の子。母はヒロ姫命。
ウジの王 宇遅の王 敏達天皇の皇女。母はヒロ姫命。紀の妃の広姫を母とする菟道磯津貝皇女にあたる。炊屋姫(推古)を母とする類似の名を持つ皇女がおり、そのどちらかが伊勢斎宮に任じられたが池辺皇子と関係して解任されている。(神名)
春日のナカツワクゴの王 春日の中つ若子 オミナコの郎女の父。
オミナコの郎女 いらつめ 老女子の郎女 老女子(紀)。春日のナカツワクゴの王の娘。敏達天皇の妃。
ナニワの王 難波の王 難波皇子(紀)。敏達天皇の子。母はオミナコの郎女。
クワタの王 桑田の王 桑田皇女(紀)。敏達天皇の子。母はオミナコの郎女。
カスガの王 春日の王 春日皇子(紀)。敏達天皇の子。母はオミナコの郎女。
オオマタの王 大俣の王 大派皇子(紀)。敏達天皇の子。母はオミナコの郎女。大和国吉野郡の地名によるか。姓氏録では敏達天皇の孫とする。(神名)
舒明天皇 じょめい てんのう 593-641 飛鳥時代の天皇。押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の第1王子。名は息長足日広額、また田村皇子。皇居は大和国飛鳥の岡本宮。(在位629〜641)
タムラの王 田村の王 別名、ヌカデ姫の命 押坂彦人大兄皇子の妃。舒明天皇の母。父は第30代敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊の女。同母姉妹には太姫皇女がいる。
ヌカデ姫の命 糠代比売の命 → タムラの王
ナカツ王 中津王 敏達天皇の皇子オサカノヒコヒトの太子の子。母はヌカデ姫の命。
タラの王 多良王 オサカノヒコヒトの太子の子。母はヌカデ姫の命。紀には記載がない。(神名)
アヤの王 漢の王 オオマタの王の兄。
オオマタの王 大俣の王 アヤの王の妹。
チヌの王 智奴の王 茅渟王(紀)。敏達記にはオサカノヒコヒトの太子の子。母はオオマタの王。紀ではオサカノヒコヒトの太子の孫、吉備姫王との間に皇極天皇を生む。(神名)
クワタの女王 桑田の王
ユミハリの王 玄の王 敏達天皇の庶妹。 → サクライノユミハリの王か

用明天皇 ようめい てんのう ?-587 記紀に記された6世紀末の天皇。欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父。皇后は穴穂部間人皇女。名は橘豊日。皇居は大和国磐余の池辺双槻宮。在位中は蘇我馬子と物部守屋が激しく対立。(在位585〜587)
オオギタシ姫 意富芸多志比売 蘇我稲目の大臣の娘 → キタシ姫か
ウマヤドノトヨトミミの命 厩戸の豊聡耳の命 → 聖徳太子
聖徳太子 しょうとく たいし 574-622 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇后。名は厩戸。厩戸王・豊聡耳皇子・法大王・上宮太子とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、「三経義疏」を著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。
クメの王 久米の王 来目皇子(紀)。用明天皇の皇子。母は穴穂部女王。聖徳太子の同母弟にあたる。推古10年(594)新羅征討の大将軍を拝して、西海筑紫に船艦を整え発しようとするときに疾発し、翌年崩じた。末孫に登美真人がいる。(姓氏録、神名)
エクリの王 植栗の王 殖栗皇子(紀)。用明天皇の皇子。母はその庶妹ハシヒトノアナホベの王。聖徳太子の同母弟。姓氏録には殖栗王と記し、蜷淵真人の祖となっている。(神名)
ウマラタの王 茨田の王 まむたのみこ 茨田皇子(紀)。用明天皇の子。母はハシヒトノアナホベの王。聖徳太子の弟。
当麻の倉の首ヒロ たぎま 当麻の倉首比呂 用明天皇妃、飯女之子の父。用明紀では、葛城直磐村の娘・慶子とあるが、これは父と娘の名を取り違えたと思われる。倉首は朝廷の倉庫管理者を示す。(神名)
イイの子 飯の子 当麻の倉の首ヒロの娘。紀の伊比古郎女か。
タギマの王 当麻の王 用明天皇の皇子。母は飯女之子。用明紀には麻呂子皇子と記されている。事跡不詳。(神名)
スガシロコの郎女 いらつめ 須賀志呂古の郎女 酢香手姫皇女(紀)。用明天皇の皇女。母は飯女之子。紀では葛城直磐村の娘の広子を母としている。(神名)
崇峻天皇 すしゅん てんのう ?-592 記紀に記された6世紀末の天皇。欽明天皇の皇子。名は泊瀬部。皇居は大和国倉梯の柴垣宮。蘇我馬子の専横を憤り、これを倒そうとして、かえって馬子のために暗殺された。(在位587〜592)
ハツセベノワカサザキの天皇 長谷部の若雀の天皇 → 崇峻天皇
推古天皇 すいこ てんのう 554-628 記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫。また、額田部皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮で即位。後に同国の小墾田宮に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。(在位592〜628)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
『帝紀』 ていき 天皇の系譜の記録。帝皇日嗣。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


白髪部 しらがべ/しらかべ 白髪命(清寧天皇)の名代か。白髪部姓は多数実在したが、785年白壁王(光仁天皇)の諱をさけて真髪部と改姓された。(日本史)
長谷部の舎人 はつせべの とねり 
長谷部 はつせべ/はせべ 初瀬部。古代の部民。大長谷若建(紀では大泊瀬幼武)の名代とするのが通説。8世紀には長谷部を姓とする人々が伊勢・尾張・三河・信濃・下総国など東日本に実在。(日本史)
河瀬の舎人 かわせの とねり 川瀬舎人(紀)。雄略天皇の時、定められた。(神名)
引田部 ひけたべ
静歌 しずうた 志都歌。上代歌謡の曲調。歌い方が拍子にはまらず、ゆるやかなものをいうか。しつうた。
はんのき 榛の木 (ハリノキの音便)カバノキ科の落葉高木。山地の湿地に自生。また田畔に栽植して稲穂を干す。高さ約20メートルに達し、雌雄同株。2月頃、葉に先だって暗紫褐色の単性花をつけ、花後、松かさ状の小果実を結ぶ。材は薪・建築および器具用、樹皮と果実は染料。ハリ。ハギ。
青摺の衣 あおずりのころも 宮廷祭祀の際、奉仕の祭官や舞人が袍の上に着用する衣。山藍で草木・蝶・鳥などの文様を摺込染にし、左肩に2条の赤紐を垂らしたもの。
御大刀
采女 うねめ 古代、郡の少領以上の家族から選んで奉仕させた後宮の女官。律令制では水司・膳司に配属。うねべ。
広らか ひろらか ひろいさま。ひろやか。
領巾・肩巾 ひれ (風にひらめくものの意) (1) 古代、波をおこしたり、害虫・毒蛇などをはらったりする呪力があると信じられた、布様のもの。(2) 奈良・平安時代に用いられた女子服飾具。首にかけ、左右へ長く垂らした布帛。別れを惜しむ時などにこれを振った。(3) 平安時代、鏡台の付属品として、鏡をぬぐうなどに用いた布。(4) 儀式の矛などにつける小さい旗。
天語歌 あまがたりうた 上代歌謡の一つ。古事記雄略天皇の条に3首見える長歌謡。一説に、海人語部が伝えた寿歌という。古来、「あまことうた」と訓まれていた。
宇岐歌 うきうた 宇岐歌・盞歌。(「うき」は調子の浮いた意ともいう)古代歌謡の一種。杯をささげる時の祝歌。元日の節会にうたわれ、片歌形式に短歌形式の結合したもの。歌詞は古事記・琴歌譜に見える。
脇息 きょうそく 坐臥具の一つ。すわった時に臂をかけ、からだを安楽に支えるもの。ひじかけ。記紀では几、奈良時代には挟軾といわれた。
志都歌 しずうた → 静歌
山部 やまべ 大和政権で直轄領の山林を管理した品部。
歌垣 うたがき (1) 上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。(2) 男女相唱和する一種の歌舞。宮廷に入り踏歌を合流して儀式化する。
鮪 しび マグロの成魚。
催して うながして
茅草 ちぐさ/ちくさ (1) 植物「くさよし(草葦)」の異名。(2) 植物「ほっすがや(払子茅)」の異名。方言、ちがや(茅萱)。
小長谷部 おはつせべ
磐井の乱 いわいのらん 6世紀前半、継体天皇の時代に、筑紫国造磐井(石井)が北九州に起こした叛乱。大和政権の朝鮮経営の失敗によって、負担の大きくなった北九州地方の不満を代表したものと見られ、新羅と通謀したともいう。物部氏らによって平定。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 『古事記』に見るデジャヴの一例。

・24代仁賢天皇(意富祁王)、丸邇日爪臣の娘、糠若子郎女と結婚してお生みになった御子は、春日小田郎女。
・29代欽明天皇(天国押波流岐広庭天皇)、春日日爪臣の娘の糠子郎女と結婚してお生みになった御子は、春日山田郎女。

 (1) 丸邇(和珥)氏=春日氏。丸邇日爪臣=春日日爪臣か?
 (2) 糠若子郎女=糠子郎女か?
 (3) 春日小田郎女=春日山田郎女か?

 仁賢天皇(祖父)と欽明天皇(孫)は同じ女性を妻としたということなのか。それとも三者はそれぞれ別人か。

 ここ数日、最高気温30度に満たず。夜の風がここちよい。HDやノートの排熱がこもらず作業がはかどる。『電子出版への道 OnDeck アーカイブ Vol.1』(インプレスジャパン、2011.4)読了。松岡正剛・萩野正昭・富田倫生のインタビューにさそわれて熟読。むしろそっちよりも、ePUB 日本語拡張仕様策定プロジェクトの報告が興味深い。

 1978年、東芝が初の日本語ワードプロセッサJW-10を発表。
 1980年、任天堂が携帯型液晶ゲーム機を発売。

 だれもが指摘するように、ワードプロセッサは電子書籍の理想型のひとつだったと思う。インプッドメソッドが完成したときに元年はとうに明けたのであって、マイクロソフトのウィンドウズとインターネット、ボイジャーの EBK・TTZ 登場が干支のふたまわり目にあたる。今回はまもなく三まわり目に入ろうかという時期で、開国元年どころか“大後悔時代”。
 以下、原哲哉「電子書籍はまだ紙の本に勝てない」『マガジン航』より。
 
>まず、紙の本の「索引」を充実させて欲しい。
そして、電子書籍が騒がれ始めた時から、(6.)の「検索」は、索引好きな私としてはとても重要な機能だと思っていました。しかし、これまでは残念ながら「検索機能が優れた電子書籍」にお目に掛かったことがありません。

これは「電子書籍」よりも、そのプラットフォームの問題なのかもしれませんが、「検索」機能が充実したら「電子書籍」を見直すことになるかもしれません。そもそも腹立たしいのは、「索引」の付いていない紙の新刊書籍がまだまだ沢山ある(あれは出版社・編集者の手抜きだと思います)。その上、造本まで悪くなって来ているという始末です。

「電子書籍」の場合、対象とする情報の表現形式が、分散した情報同士がつながるハイパーリンク構造であるからこそ、その恩恵を受けることができるのに、そのメリットを活かした書籍が刊行されないのは勿体無い。

 そのとおり!
 たとえば、このミルクティー*では、語句の確認に (1)『広辞苑』と『ウィキペディア日本語版』を電子辞書ブラウザ Jamming で同時検索し、(2) そこにない語句の読みを、青空文庫「作家別テキストファイル」から探し出し、(3) それで見つからないものを図書館の大型辞書を使って調べている。調べた結果を羅列するのがせいいっぱいで、「索引」を用意するに至らないでいる。
 阿部正己『出羽三山史』をテキスト化したさいに「索引」を用意したいなあと思ったのにはじまる。人物、地名、寺社名、書籍・史料名……テキスト量が小さいうちはさほど思わないが、これが、ある程度まとまった一冊の文献やそれ以上となると、その語句がなんという読みで、そのテキストのどこに、何件ぐらい出てくるのか……索引が充実している書籍は、それが瞬時にわかる。それであるていど、該当語句についての記述量も推測できる。索引の効能については松岡正剛ならずとも実感する多読者は多いはず。
 ところが、電子書籍のウィークポイントのひとつに索引がある。「検索できるんだからいいじゃないか」と言うかもしれないが、それは幼い。検索はファンクション以上でも以下でもなく、いっぽう索引はデータベースでありそれだけで独立した読み物ともなる。

 たとえばエディタで複数テキストの同時検索を実行すると、その語句が、どのテキストの何行目に出てくるかが一覧結果になって得られる。その一覧結果と本文語句とをアンカーを使ってハイパーリンクすれば電子書籍ならではの索引をつくることができる。……そこまではいい。が、どうやって? というところでつまづいて、はや3年。T-Time のような不定形の電子本で、はたしてどんな索引が望ましいのか。




*次週予告


第四巻 第一号 
日本昔話集 沖縄編(一)
伊波普猷


第四巻 第一号は、
七月三〇日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第五二号
現代語訳『古事記』(六)武田祐吉(訳)
発行:二〇一一年七月二三日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実

美和の大物主
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   五、景行天皇・成務天皇
    景行天皇の后妃と皇子女
    ヤマトタケルの命の西征
    イヅモタケル
    ヤマトタケルの命の東征
    望郷の歌
    白鳥の陵(みささぎ)
    ヤマトタケルの命の系譜
    成務天皇
   六、仲哀天皇
    后妃と皇子女
    神功皇后
    鎮懐石と釣魚
    カゴサカの王とオシクマの王
    気比の大神
    酒の座の歌曲
   七、応神天皇
    后妃と皇子女
    オオヤマモリの命とオオサザキの命
    葛野の歌
    カニの歌
    髪長姫
    国主歌(くずうた)
    文化の渡来
    オオヤマモリの命とウジの若郎子
    天の日矛
    秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫
    系譜

 この御世〔ホムダワケの命、応神天皇朝〕に、海部・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。剣の池を作りました。また新羅人が渡って来ましたので、タケシウチの宿祢がこれを率いて堤の池に渡って百済の池を作りました。
 また、百済の国王照古王が牡馬一匹・牝馬一匹をアチキシにつけてたてまつりました。このアチキシは阿直の史等の祖先です。また大刀と大鏡とをたてまつりました。また百済の国に、もし賢人があればたてまつれとおおせられましたから、命を受けてたてまつった人はワニキシといい、『論語』十巻・『千字文』一巻、あわせて十一巻をこの人につけてたてまつりました。また工人の鍛冶屋卓素(たくそ)という者、また機を織る西素(さいそ)の二人をもたてまつりました。秦の造、漢の直の祖先、それから酒をつくることを知っているニホ、またの名をススコリという者らも渡ってまいりました。このススコリはお酒をつくって献(たてまつ)りました。天皇がこの献(たてまつ)ったお酒にうかれてお詠みになった歌は、

 ススコリの醸(かも)したお酒にわたしは酔いましたよ。
 平和なお酒、楽しいお酒にわたしは酔いましたよ。

 かようにお歌いになっておいでになった時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになったから、その石が逃げ走りました。それでことわざに「固い石でも酔人(よっぱらい)にあうと逃げる」というのです。

第三巻 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)  定価:200円
古事記 下の巻
 一、仁徳天皇
  后妃と皇子女
  聖(ひじり)の御世
  吉備の黒日売
  皇后石の姫の命
  ヤタの若郎女
  ハヤブサワケの王とメトリの王
  雁の卵
  枯野という船
 二、履中天皇・反正天皇
  履中天皇とスミノエノナカツ王
  反正天皇
 三、允恭天皇
  后妃と皇子女
  八十伴の緒の氏姓
  木梨の軽の太子
 四、安康天皇
  マヨワの王の変
  イチノベノオシハの王

 皇后石の姫の命はひじょうに嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備の海部の直の娘、黒姫という者が美しいとお聞きあそばされて、喚し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのお妬みになるのをおそれて本国に逃げ下りました。(略)
 これより後に皇后さまが御宴をお開きになろうとして、カシワの葉を採りに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、(略)「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と(略)聞いて、(略)ひじょうに恨み、お怒りになって、御船に載せたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津の埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。(略)それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

 山また山の山城川を
 御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
 うるわしの奈良山をすぎ
 青山のかこんでいる大和をすぎ
 わたしの見たいと思うところは、
 葛城の高台の御殿、
 故郷の家のあたりです。

 かように歌っておかえりになって、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家にお入りになりました。

※ 価格は税込みです。
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