武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。




 天皇が京にのぼっておいでになりますときに、黒姫のたてまつった歌は、

大和の方へ西風が吹き上げて
雲が離れるように離れていても
忘れはいたしません。
もくじ 
現代語訳 古事記(五)下巻(前編)
武田祐吉(訳)


ミルクティー*現代表記版
現代語訳 古事記(五)
  古事記 下の巻
   一、仁徳天皇
    后妃と皇子女
    聖(ひじり)の御世
    吉備の黒日売
    皇后石の姫の命
    ヤタの若郎女
    ハヤブサワケの王とメトリの王
    雁の卵
    枯野という船
   二、履中天皇・反正天皇
    履中天皇とスミノエノナカツ王
    反正天皇
   三、允恭天皇
    后妃と皇子女
    八十伴の緒の氏姓
    木梨の軽の太子
   四、安康天皇
    マヨワの王の変
    イチノベノオシハの王

オリジナル版
現代語譯 古事記(五)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教/神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html




現代語訳 古事記(五) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)


 古事記 下の巻

   一、仁徳天皇

    后妃こうひと皇子女

 オオサザキの命(仁徳天皇)難波なにわ高津たかつの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の娘のいわひめの命(皇后)と結婚してお生みになった御子みこは、オオエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タジヒノミズハワケの命・オアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの娘の髪長姫かみながひめと結婚してお生みになった御子みこはハタビの大郎子おおいらつこ、またの名はオオクサカの王・ハタビの若郎女わかいらつめ、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの命のお二方です。また庶妹ままいもヤタの若郎女わかいらつめと結婚し、また庶妹ままいもウジの若郎女わかいらつめと結婚しました。このお二方は御子みこがありません。すべてこの天皇の御子みこたちあわせて六王ありました。男王五人・女王一人です。このうち、イザホワケの命〔履中天皇。は天下をおおさめなさいました。つぎにタジヒノミズハワケの命〔反正天皇。も天下をおおさめなさいました。つぎにオアサヅマワクゴノスクネの命〔允恭天皇。も天下をおおさめなさいました。この天皇の御世みよに皇后いわひめの命の御名みなの記念として葛城部かずらきべをお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名みなの記念として壬生部みぶべをお定めになり、またミズハワケの命の御名の記念として蝮部たじひべをお定めになり、またオオクサカの王の御名みなの記念として大日下部おおくさかべをお定めになり、ワカクサカベの王の御名みなの記念として若日下部わかくさかべをお定めになりました。

    ひじり御世みよ

撫民ぶみん厚生のご事跡を取りあつめている。ひじり御世みよというのは外来思想で、文字による文化がおこなわれていたことを語る。―

 この御世みよに大陸からきた秦人はたびとを使って、茨田うまらだの堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸迩わにの池、依網よさみの池をお作りになり、また難波の堀江を掘って海にかよわし、また小椅おばしを掘り、墨江すみのえの舟つきをお定めになりました。
 あるとき、天皇、高山にお登りになって、四方をご覧になっておおせられますには、「国内にけむりが立っていない。これは国がすべて貧しいからである。それで今から三年のあいだ人民の租税・労役をすべてゆるせ」とおおせられました。このゆえに宮殿が破壊して雨がりますけれども修繕しゅうぜんなさいません。をかけてる雨を受けて、らないところにお移りあそばされました。のちに国中をご覧になりますと、国にけむりがちております。そこで人民がんだとお思いになって、はじめて租税・労役を命ぜられました。それですから人民が栄えて、労役に出るのに苦しみませんでした。それでこの御世みよをとなえてひじり御世みよと申します。

    吉備の黒日売

―吉備氏の栄えるにいたった由来の物語。―

 皇后いわひめの命はひじょうに嫉妬しっとなさいました。それで天皇のお使いになった女たちは宮の中にも入りません。事がおこると足擦あしずりしておねたみなさいました。しかるに天皇、吉備きび海部あまべあたえの娘、黒姫くろひめという者が美しいとお聞きあそばされて、し上げてお使いなさいました。しかしながら、皇后さまのおねたみになるのをおそれて本国に逃げ下りました。天皇は高殿たかどのにおいであそばされて、黒姫の船出するのをご覧になって、お歌いあそばされた御歌みうた

沖の方には小舟おぶねが続いている。
あれはいとしのあの子が
国へ帰るのだ。

 皇后さまはこの歌をお聞きになってひじょうにお怒りになって、船出の場所に人をやって、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。
 ここに天皇は黒姫をおしたいあそばされて、皇后さまにいつわって、淡路島をご覧になるといわれて、淡路島においでになってはるかにおながめになってお歌いになった御歌みうた

海の照りかがやく難波の埼から
立ち出でて国々を見やれば、
アワ島やオノゴロ島
檳榔あじまさの島も見える。
佐気都さけつ島も見える。

 そこでその島から伝って吉備の国においでになりました。そこで黒姫がその国の山の御園にご案内申し上げて、御食物みけつものをたてまつりました。そこであつものをたてまつろうとして青菜をんでいるときに、天皇がその嬢子おとめの青菜を採むところにおいでになって、お歌いになりました歌は、

山の畑にまいた青菜も
吉備の人といっしょにむと
楽しいことだな。

 また、

大和の方へ行くのはどなたさまでしょう?
地の下の水のように、心の底で物思いをして
行くのはどなたさまでしょう?
    皇后いわひめの命

静歌しずうたの歌い返しと称する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が挿入されている。―

 これより後に皇后さまが御宴ぎょえんをお開きになろうとして、カシワの葉をりに紀伊の国においでになったときに、天皇がヤタの若郎女わかいらつめと結婚なさいました。ここに皇后さまがカシワの葉を御船にいっぱいに積んでおかえりになるときに、水取もいとりの役所に使われる吉備の国の児島郡の仕丁しちょうが自分の国に帰ろうとして、難波の大渡おおわたりおくれた雑仕女ぞうしおんなの船にあいました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女わかいらつめと結婚なすって、夜昼たわむれておいでになります。皇后さまはこのことをお聞きあそばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしょう」と語りました。そこでその女がこの語った言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁しちょうの言いましたとおりにありさまを申しました。
 そこで皇后さまがひじょうにうらみ、お怒りになって、御船にせたカシワの葉をことごとく海に投げすてられました。それでそこを御津みつの埼というのです。そうして皇居にお入りにならないで、船をまげて堀江にさかのぼらせて、河のままに山城にのぼっておいでになりました。このときにお歌いになった歌は、

山また山の山城川を
上流へとわたしがさかのぼれば、
河のほとりに生い立っているサシブの木、
そのサシブの木の
その下に生い立っている
葉の広いツバキの大樹、
そのツバキの花のように輝いており
そのツバキの葉のように広らかにおいでになる
わが陛下です。
 それから山城からまわって、奈良の山口においでになってお歌いになった歌、

山また山の山城川を
御殿の方へとわたしがさかのぼれば、
うるわしの奈良山をすぎ
青山のかこんでいる大和をすぎ
わたしの見たいと思うところは、
葛城かずらきの高台の御殿、
故郷の家のあたりです。
 かように歌っておかえりになって、しばらく筒木つつきの韓人のヌリノミの家にお入りになりました。天皇は皇后さまが山城を通ってのぼっておいでになったとお聞きあそばされて、トリヤマという舎人とねりをおりになって歌をお送りなさいました。その御歌みうたは、

山城やましろに追いつけ、トリヤマよ。
追いつけ、追いつけ。最愛のわが妻に追いついてえるだろう。
 続いて丸迩わにおみクチコをつかわして、御歌みうたをお送りになりました。

御諸みもろ山の高台たかだいにある
大猪子おおいこの原。
その名のような大豚おおぶたの腹にある
向き合っている臓腑きも、せめて心だけなりと
思わないでおられようか。
 またお歌いあそばされました御歌みうた

山また山の山城の女が
木の柄のついたくわで掘ったダイコン、
その真っ白な白い腕を
わさずに来たなら、知らないとも言えようが。
 このクチコの臣がこの御歌みうたを申すおりしも雨がひじょうに降っておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方にまいりせば入れ違ってうしろの方においでになり、御殿の後の方にまいりせば入れ違って前の方においでになりました。それでって庭の中にひざまずいているときに、雨水がたまって腰につきました。その臣は紅いひもをつけた藍染あいぞめの衣を着ておりましたから、みずたまりが赤いひもにふれて青がみな赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后さまにお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、

山城やましろ筒木つつきみや
申し上げている兄上を見ると、
涙ぐまれてまいります。
 そこで皇后さまがそのわけをおたずねになるときに、「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました。
 そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后さまのおいであそばされたわけは、ヌリノミの飼っている虫が、一度はう虫になり、一度はからになり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わるめずらしい虫があります。この虫をご覧になるためにお入りなされたのでございます。べつに変わったお心はございません」と、かように申しましたときに、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」とおおせられて、大宮からのぼっておいでになって、ヌリノミの家にお入りになったときに、ヌリノミが自分の飼っている三色に変わる虫を皇后さまにたてまつりました。そこで天皇がその皇后さまのおいでになる御殿の戸にお立ちになって、お歌いあそばされた御歌みうた

山また山の山城の女が
木の柄のついたくわで掘ったダイコン、
そのようにザワザワとあなたが言うので、
見渡される樹のしげみのように
にぎやかにやって来たのです。
 この天皇と皇后さまとお歌いになった六首の歌は、静歌しずうたの歌い返しでございます。

    ヤタの若郎女わかいらつめ

八田部やたべの人々の伝承であろう。―

 天皇、ヤタの若郎女わかいらつめをおしたいになって歌をおつかわしになりました。その御歌みうたは、

八田やた一本菅いっぽんすげは、
子を持たずに荒れてしまうだろうが、
しい菅原だ。
言葉でこそ菅原というが、
しい清らかな女だ。
 ヤタの若郎女わかいらつめのお返しの御歌みうたは、

八田やた一本菅いっぽんすげはひとりでおりましても、
陛下が良いとおおせになるなら、ひとりでおりましても。
    ハヤブサワケの王とメトリの王

―もと鳥のハヤブサとサザキ〔ミソサザイの古名。とが女鳥を争う形で、劇的に構成されている。―

 また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人なこうどとしてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言われますには、「皇后さまをはばかって、ヤタの若郎女わかいらつめをもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあなたさまの妻になろうと思います」といって結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王はご返事申しませんでした。ここに天皇は直接にメトリの王のおいでになるところに行かれて、その戸口のしきいの上においでになりました。そのときメトリの王ははたにいて織り物をっておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌みうたは、

メトリの女王のっていらっしゃるはたは、
だれの料でしょうかね?
 メトリの王のご返事の歌、

大空おおぞら高く飛ぶハヤブサワケの王のお羽織はおりの料です。
 それで天皇はその心をご承知になって、宮におかえりになりました。この後にハヤブサワケの王が来ましたときに、メトリの王のお歌いになった歌は、

ヒバリは天に飛びかけります。
大空高く飛ぶハヤブサワケの王さま、
サザキをお取りあそばせ。
 天皇はこの歌をお聞きになって、兵士をつかわしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、ともに逃げ去って、倉椅山くらはしやまに登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、

はしごを立てたような、倉椅山くらはしやまがけわしいので、
岩に取りつきかねて、わたしの手をお取りになる。
 また、

はしごを立てたような倉椅山くらはしやまはけわしいけれど、
わが妻と登ればけわしいとも思いません。
 それから逃げて、宇陀うだ蘇邇そにというところに行き至りましたときに、兵士が追ってきて殺してしまいました。
 そのときに将軍山部やまべ大楯おおだてが、メトリの王の御手にまいておいでになった玉の腕飾を取って、自分の妻に与えました。その後に御宴ぎょえんが開かれようとしたときに、氏々の女どもがみな、朝廷にまいりました。そのとき、大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手にまいてまいりました。そこで皇后いわの姫の命が、お手ずから御酒みきのカシワの葉をお取りになって、氏々の女どもに与えられました。皇后さまはその腕飾を見知っておいでになって、大楯の妻には御酒みきのカシワの葉をお授けにならないでお引きになって、夫の大楯おおだてを召し出しておおせられましたことは、「あのメトリの王たちは無礼でしたから、お退しりぞけになったので、別のことではありません。しかるにそのやつは自分の君の御手にまいておいでになった玉の腕飾を、はだあたたかいうちにはぎ取って持ってきて、自分の妻に与えたのです」とおおせられて、死刑におこなわれました。

    かりの卵

御世みよの栄えを祝う歌曲。―

 またあるとき、天皇が御宴ぎょえんをお開きになろうとして、姫島ひめじまにおいでになったときに、その島にかりが卵を生みました。よってタケシウチの宿祢を召して、歌をもってかりの卵を生んださまをおたずねになりました。その御歌みうたは、

わが大臣よ、
あなたは世にも長寿の人だ。
この日本の国に
かりが子を生んだのを聞いたことがあるか?
 ここにタケシウチの宿祢は歌をもって語りました。

高く光り輝く日の御子みこさま、
よくこそ、おたずねくださいました。
まことにも、おたずねくださいました。
わたくしこそはこの世の長寿の人間ですが、
この日本の国に
かりが子を生んだとはまだ聞いておりません。
 かように申して、おことをいただいて続けて歌いました。

陛下へいかが初めてお聞きあそばしますために
かりは子を生むのでございましょう。
 これは寿歌ほぎうた片歌かたうたです。

    枯野からのという船

ことの歌。―

 この御世みよ兎寸うき河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に当たれば淡路島に至り、夕日に当たれば河内の高安山たかやすやまを越えました。そこでこの樹を切って船に作りましたところ、ひじょうに早く行く船でした。その船の名は枯野からのといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水をくんで御料ごりょうの水といたしました。この船が壊れましてから、塩を焼き、その焼け残った木を取ってことに作りましたところ、その音が七郷に聞こえました。それで歌に、

船の枯野からので塩を焼いて、
その余りをことに作って、
はじきなせば、鳴る由良ゆらの海峡の
海中の岩にふれて立っている
海の木のようにサヤサヤと鳴り響く。
と歌いました。これは静歌しずうたの歌い返しです。
 この天皇は御年八十三歳、丁卯ひのとうの年の八月十五日にお隠れなさいました。御陵は毛受もず耳原みみはらにあります。

   二、履中りちゅう天皇・反正はんぜい天皇

    履中天皇とスミノエノナカツ王

―大和のあや氏、多治比部たじひべなどの伝承の物語。―

 御子みこのイザホワケの王(履中天皇)、大和の伊波礼いわれ若桜わかざくらの宮においでになって、天下をおおさめなさいました。この天皇、葛城かずらきのソツ彦の子のアシダの宿祢の娘の黒姫くろひめの命と結婚しておみになった御子みこは、いちのオシハの王・ミマの王・アオミの郎女いらつめ、またの名はイイトヨの郎女いらつめのお三かたです。
 はじめ難波の宮においでになったときに、大嘗おおなめの祭をあそばされて、御酒みきにおかれになって、おやすみなさいました。ここにスミノエノナカツ王が悪い心をおこして、大殿に火をつけました。このときに大和のあやあたえの祖先のアチのあたえが、天皇をひそかに盗み出して、お馬にお乗せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内の丹比野たじひのにおいでになって、目がおめになって「ここはどこだ?」とおおせられましたから、アチのあたえが申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたので、お連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになった御歌みうた

丹比野たじひので寝ようと知ったなら
屏風びょうぶをも持ってきたものを。
寝ようと知ったなら。
 ハニウ坂においでになって、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになった御歌みうた

ハニウ坂にわたしが立って見れば、
さかんに燃える家々は
妻が家のあたりだ。
 かくて二上山ふたかみやまの大坂の山口においでになりましたときに、一人の女が来ました。その女の申しますには、「武器を持った人たちが大勢この山をふさいでおります。当麻路たぎまじからまわって、越えておいでなさいませ」と申し上げました。よって天皇の歌われました御歌みうたは、

大坂でった嬢子おとめ
道を問えば真直まっすぐにとはいわないで
当麻路たぎまじを教えた。
 それからのぼっておいでになって、いそかみの神宮においであそばされました。
 ここに皇弟ミズハワケの命〔反正天皇〕が天皇の御許おんもとにおいでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」とおおせられたから、「わたくしはきたない心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今、帰って行って、スミノエノナカツ王を殺してのぼっておいでなさい。その時にはきっとお話をしよう」とおおせられました。よって難波に帰っておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人はやひとをあざむいて、「もし、お前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ?」とおおせられました。ソバカリは「おおせのとおりにいたしましょう」と申しました。よってその隼人はやひとにたくさん物をやって、「それなら、お前の王をお殺し申せ」とおおせられました。ここにソバカリは、自分の王がかわやに入っておられるのをうかがって、ほこで刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和にのぼっておいでになるときに、大坂の山口においでになってお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりにおこなったら、かえってその心がおそろしい。よってその功績には報じても、その本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリにおおせられますには、「今日はここに留まって、まずお前に大臣の位をたまわって、明日、大和にのぼることにしよう」とおおせられて、その山口に留まって仮宮をつくって急に酒宴しゅえんをして、その隼人はやひとに大臣の位をたまわって百官をしてこれを拝ましめたので、隼人がよろこんで志なったと思っていました。そこでその隼人に「今日は大臣とともに一つ酒盞しゅさんの酒を飲もう」とおおせられて、ともにお飲みになるときに、顔を隠す大きなわんにその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飲みになって、隼人が後に飲みます。その隼人の飲むときに大きなわんが顔をおおいました。そこで座の下にお置きになった大刀を取り出して、その隼人の首をおりなさいました。かようにして明くる日にのぼっておいでになりました。よってそこを近つ飛鳥あすかと名づけます。大和にのぼっておいでになっておおせられますには、「今日はここに留まって禊祓はらいをして、明日出て神宮に参拝しましょう」とおおせられました。それでそこを遠つ飛鳥と名づけました。かくていそかみの神宮に参って、天皇に「すべて平定し終わってまいりました」と奏上そうじょういたしました。よって召し入れて語られました。
 ここにおいて、天皇がアチのあたえを大蔵の役人になされ、また領地をもたまわりました。またこの御世みよ若桜部わかさくらの臣などに若桜部という名をたまわり、比売陀ひめだの君らに比売陀の君という称号をたまわりました。また伊波礼部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬申みずのえさるの年の正月三日にお隠れになりました。御陵は毛受もずにあります。

    反正天皇

 弟のミズハワケの命(反正天皇)、河内の多治比たじひ柴垣しばがきの宮においでになって天下をおおさめなさいました。天皇は御身のたけが九尺二寸半、御歯の長さが一寸、広さ二分、上下同じようにそろって珠をつらぬいたようでございました。
 天皇はワニのコゴトの臣の娘のツノの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子みこは、カイの郎女いらつめ・ツブラの郎女いらつめのお二方です。また同じ臣の娘の弟姫と結婚してお生みになった御子みこはタカラの王・タカベの郎女いらつめであわせて四王おいでになります。天皇は御年六十歳、丁丑ひのとうしの年の七月にお隠れになりました。御陵は毛受野もずのにあるということです。

   三、允恭いんぎょう天皇

    后妃こうひと皇子女

 弟のオアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇、オオホドの王の妹のオサカノオオナカツ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、キナシノカルの王・オサダの大郎女おおいらつめ長田ながたの大郎女か。・サカイノクロヒコの王・アナホの命・カルの大郎女おおいらつめ・ヤツリノシロヒコの王・オオハツセの命・タチバナの大郎女おおいらつめ・サカミの郎女いらつめの九王です。男王五人・女王四人です。このうちアナホの命安康あんこう天皇。は天下をおおさめなさいました。つぎにオオハツセの命〔雄略天皇。も天下をおおさめなさいました。カルの大郎女おおいらつめはまたの名を衣通そとおしの郎女いらつめと申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。

    八十伴やそともの氏姓

―氏はその家の称号であり、姓はその家の階級、種別であってそれが社会組織の基本となっていた。長い間にはこれをいつわる者もできたので、これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。―

 はじめ天皇、帝位におきになろうとしましたときにご辞退あそばされて、「わたしは長い病気があるから帝位にくことができない」とおおせられました。しかし、皇后さまをはじめ臣下たちも固くお願い申しましたので、天下をおおさめなさいました。このときに新羅の国主が御調物みつぎものの船八十一そうをたてまつりました。その御調みつぎの大使は金波鎮こみぱちに漢紀武かにきむといいました。この人が薬の処方をよく知っておりましたので、天皇のご病気をおなおし申し上げました。
 ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏姓うじかばねあやまっているのをおなげきになって、大和の味白梼うまかし言八十禍津日ことやそまがつひさき玖訶瓮くかべ〔湯を涌かしてその中の物を探らせる鍋。をすえて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として軽部かるべをお定めになり、皇后さまの御名みなの記念として刑部おさかべをお定めになり、皇后さまの妹のタイノナカツ姫の御名みなの記念として河部かわべをお定めになりました。天皇御年七十八歳、甲午きのえうまの年の正月十五日にお隠れになりました。御陵は河内の恵賀えが長枝ながえにあります。

    木梨の軽の太子

―幾章かの歌曲によって構成されている物語。軽部かるべなどの伝承であろう。―

 天皇がお隠れになってから後に、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まっておりましたが、まだ位におつきにならないうちに妹のカルの大郎女おおいらつめにたわむれてお歌いになった歌、

山田を作って、
山が高いので地の下にをかよわせ、
そのように心の中でわたしの問い寄る妻、
心の中でわたしの泣いている妻を、
昨夜こそはわが手に入れたのだ。
 これは志良宜歌しらげうたです。また、

笹の葉にあられが音を立てる。
そのようにしっかりと共に寝たうえは、
よしやきみは別れても。

いとしの妻と寝たならば、
刈り取った薦草こもくさのように乱れるなら乱れてもよい。
寝てからはどうともなれ。
 これは夷振ひなぶり上歌あげうたです。
 そこで官吏かんりをはじめとして天下の人たち、カルの太子にそむいてアナホの御子みこに心をよせました。よってカルの太子がおそれて大前おおまえ小前おまえの宿祢の大臣の家へ逃げ入って、兵器を作り備えました。そのときに作った矢は、その矢の筒を銅にしました。その矢をカルといいます。アナホの御子みこも兵器をお作りになりました。その王のお作りになった矢は今の矢です。これをアナホといいます。ここにアナホの御子みこが軍をおこして大前おおまえ小前おまえの宿祢の家を囲みました。そしてその門にいたりましたときに大雨が降りました。そこで歌われました歌、

大前おおまえ小前おまえ宿祢の家の門のかげに
お立ち寄りなさい。
雨をやませて行きましょう。
 ここにその大前おおまえ小前おまえの宿祢が、手をあげひざを打って舞いかなで、歌ってまいります。その歌は、

宮人の足につけた小鈴が
落ちてしまったと騒いでおります。
里人さとびともそんなに騒がないでください。
 この歌は宮人曲みやびとぶりです。かように歌いながらやってきて申しますには、「わたしの御子みこさま、そのようにお攻めなされますな。もしお攻めになると、人が笑うでしょう。わたくしが捕らえてたてまつりましょう」と申しました。そこで軍をめて去りました。かくて大前おおまえ小前おまえの宿祢がカルの太子を捕らえて出てまいりました。その太子が捕らわれて歌われた歌は、

そらかり、そのカルのおじょうさん。
あんまり泣くと人が気づくでしよう。
それで波佐はさの山の鳩のように
忍び泣きに泣いています。
 また歌われた歌は、

空飛ぶかり、そのカルのおじょうさん、
しっかりと寄って寝ていらっしゃい
カルのおじょうさん。
 かくてそのカルの太子を伊予いよの国の温泉に流しました。その流されようとするときに歌われた歌は、

空を飛ぶ鳥も使いです。
鶴の声が聞こえるおりは、
わたしのことをおたずねなさい。
 この三首の歌は天田振あまだぶりです。また歌われた歌は、

わたしを島に放逐ほうちくしたら
船のかたすみに乗って帰って来よう。
わたしの座席はしっかりとまもっていてくれ。
言葉でこそ座席とはいうのだが、
わたしの妻をまもっていてくれというのだ。
 この歌は夷振ひなぶり片下かたおろしです。そのときに衣通そとおしの王が歌をたてまつりました。その歌は、

夏の草はえます。そのあいねの浜の
かき貝殻かいがらに足をおみなさいますな。
夜が明けてから、いらっしゃい。
 後に恋しさにたえかねて追っておいでになってお歌いになりました歌、

おいであそばしてから日数が多くなりました。
ニワトコの木のように、おむかえにまいりましょう。
お待ちしてはおりますまい。
 かくて追っておいでになりましたときに、太子がお待ちになって歌われた歌、

かくれ国の泊瀬はつせの山の
大きい高みには旗をおし立て
小さい高みには旗をおし立て、
おおよそにあなたの思い定めている
心づくしの妻こそは、ああ。
あのつき弓のようにすにしても
あずさの弓のように立つにしても
後も出会う心づくしの妻は、ああ。
 またお歌いあそばされた歌は、

かくれ国の泊瀬はつせの川の
上流の瀬にはきよらかな柱を立て
下流の瀬にはりっぱな柱を立て、
きよらかな柱には鏡をかけ
りっぱな柱には玉をかけ、
玉のようにわたしの思っている女、
鏡のようにわたしの思っている妻、
その人がいるというのなら
家にも行きましょう、故郷をもしたいましょう。
 かように歌って、ともにおかくれになりました。それでこの二つの歌は読歌よみうたでございます。

   四、安康天皇

    マヨワの王の変

 御子みこのアナホの御子みこ(安康天皇)いそかみの穴穂の宮においでになって天下をおおさめなさいました。天皇は、弟のオオハツセの王子〔雄略天皇。のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オオクサカの王のもとにつかわして、おおせられましたことは、「あなたの妹のワカクサカの王を、オオハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」とおおせられました。そこでオオクサカの王は、四度拝礼して「おそらくはこのようなご命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことにおそれ多いことです。ご命令のとおり、さしあげましょう」と申しました。しかし、言葉で申すのは無礼だと思って、その妹の贈り物として、大きな木の玉の飾りを持たせてたてまつりました。ネの臣はその贈り物の玉の飾りを盗み取って、オオクサカの王を讒言ざんげんしていうには、「オオクサカの王はご命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物しきものになろうかといって、大刀のつかをにぎって怒りました」と申しました。それで天皇はひじょうにお怒りになって、オオクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女おおいらつめを取って皇后になさいました。
 それから後に、天皇が神をまつって昼、おやすみになりました。ここにその皇后に物語をして、「あなたは思うことがありますか?」とおおせられましたので、「陛下のあついお恵みをいただきまして、なんの思うことがございましょう」とお答えなさいました。ここにその皇后さまの先の御子みこのマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、そのときにその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることをご承知なさらないで、皇后さまにおおせられるには、「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長したときに、わたしがその父の王を殺したことを知ったら、悪い心をおこすだろう」とおおせられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取って、ひそかに天皇のおやすみになっているのをうかがって、そばにあった大刀を取って、天皇のお首をおり申してツブラオオミの家に逃げて入りました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原すがはら伏見ふしみの岡にあります。
 ここにオオハツセの王は、そのとき少年でおいでになりましたが、このことをお聞きになって、腹を立ててお怒りになって、その兄のクロヒコの王のもとに行って、「人が天皇を殺しました。どうしましょう……」といいました。しかしそのクロヒコの王はおどろかないで、なおざりに思っていました。そこでオオハツセの王が、その兄をののしって、「一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなく、その兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらっしゃる?」といって、着物のえりをつかんで引き出して刀をぬいて殺してしまいました。また、その兄のシロヒコの王のところに行って、様子をお話しなさいましたが、前のようになおざりにお思いになっておりましたから、クロヒコの王のように、その着物のえりをつかんで、引きつれて小治田おはりだに来て穴を掘って立ったままに埋めましたから、腰を埋めるときになって、両眼が飛び出して死んでしまいました。
 また軍を起こしてツブラオオミの家をお囲みになりました。そこで軍を起こして待ち戦って、射出した矢があしのように飛んできました。ここにオオハツセの王は、ほこを杖として、その内をのぞいておおせられますには、「わたしが話をした嬢子おとめは、もしや、この家にいるか?」とおおせられました。そこでツブラオオミが、このおおせを聞いて、自分で出てきて、おびていた武器を解いて、八度も礼拝して申しましたことは、「先におたずねにあずかりましたむすめのカラ姫はさしあげましょう。また、五か所のお倉をつけてたてまつりましょう。しかしわたくし自身の参りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隠れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隠れになったことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオオミは、力をつくして戦っても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかし、わたくしをたのんで、いやしい家にお入りになった王子は、死んでもおて申しません」と、このように申して、またその武器を取って、帰り入って戦いました。そうして力きわまり矢もつきましたので、その王子に申しますには、「わたくしは負傷いたしました。矢もなくなりました。もう戦うことができません。どうしましょう……」と申しましたから、その王子がお答えになって、「それならもういたし方がない。わたしを殺してください」とおおせられました。そこで刀で王子を刺し殺して、自分の首を切って死にました。

    イチノベノオシハの王

―播磨の国のシジムの家に隠れていた二少年が見い出されて、ついに帝位につく物語の前提である。物語は「清寧せいねい天皇・顕宗天皇・仁賢天皇」の「シジムの新築祝い」に続く。―

 それから後に、近江の佐々紀ささきの山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江の久多綿くたわた蚊屋野かやのに鹿がたくさんおります。その立っている足は薄原すすきはらのようであり、いただいているつの枯松かれまつのようでございます」と申しました。このときにイチノベノオシハの王を伴なって近江においでになり、その野においでになったので、それぞれ別に仮宮を作って、お宿やどりになりました。翌朝まだ日も出ないときに、オシハの王が何心なにこころなくお馬にお乗りになって、オオハツセの王の仮宮のそばにお立ちになって、オオハツセの王のおともの人におおせられますには、「まだお目めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。猟場かりばにおいでなさいませ」とおおせられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオオハツセの王のおそばの人たちが、「変わったことをいう御子みこですから、お気をつけあそばせ。御身おんみをもお固めになるがよいでしょう」と申しました。それでお召し物の中によろいをおつけになり、弓矢をおびになって、馬に乗っておいでになって、たちまちの間に馬上でお並びになって、矢をぬいてそのオシハの王を射殺して、またその身を切って、馬のおけに入れて土とともに埋めました。それで、そのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騒ぎをお聞きになって逃げておいでになりました。かくて山城の刈羽井かりはいにおいでになって、乾飯ほしいをおあがりになるときに、顔にいれずみをした老人が来てその乾飯をうばい取りました。そのときにお二人の王子が、乾飯ほしいしくもないが、お前は誰だ?」とおおせになると、「わたしは山城の豚飼ぶたかいです」と申しました。かくて玖須婆くすばの河を逃げ渡って、播磨はりまの国においでになり、その国の人民のシジムという者の家にお入りになって、身を隠して馬飼うまかい牛飼うしかいとして使われておいでになりました。(つづく)


底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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現代語譯 古事記(五)

稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|方《かた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
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[#1字下げ]古事記 下の卷[#「古事記 下の卷」は大見出し]

[#3字下げ]一、仁徳天皇[#「一、仁徳天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
 オホサザキの命(仁徳天皇)、難波《なにわ》の高津《たかつ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の女の石《いわ》の姫《ひめ》の命(皇后)と結婚してお生みになつた御子は、オホエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タヂヒノミヅハワケの命・ヲアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの女の髮長姫と結婚してお生みになつた御子《みこ》はハタビの大郎子、またの名はオホクサカの王・ハタビの若郎女、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの命のお二方です。また庶妹ヤタの若郎女と結婚し、また庶妹ウヂの若郎女と結婚しました。このお二方は御子がありません。すべてこの天皇の御子たち合わせて六王ありました。男王五人女王一人です。この中、イザホワケの命は天下をお治めなさいました。次にタヂヒノミヅハワケの命も天下をお治めなさいました。次にヲアサヅマワクゴノスクネの命も天下をお治めなさいました。この天皇の御世に皇后|石《いわ》の姫《ひめ》の命の御名の記念として葛城部をお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名の記念として壬生部をお定めになり、またミヅハワケの命の御名の記念として蝮部《たじひべ》をお定めになり、またオホクサカの王の御名の記念として大日下部《おおくさかべ》をお定めになり、ワカクサカベの王の御名の記念として若日下部をお定めになりました。

[#5字下げ]聖の御世[#「聖の御世」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――撫民厚生の御事蹟を取りあつめている。聖の御世というのは、外來思想で、文字による文化が行われていたことを語る。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 この御世に大陸から來た秦人《はたびと》を使つて、茨田《うまらだ》の堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇《わに》の池、依網《よさみ》の池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅《おばし》の江を掘り、墨江《すみのえ》の舟つきをお定めになりました。
 或る時、天皇、高山にお登りになつて、四方を御覽になつて仰せられますには、「國内に烟が立つていない。これは國がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税勞役をすべて免せ」と仰せられました。この故に宮殿が破壞して雨が漏りますけれども修繕なさいません。樋《ひ》を掛けて漏る雨を受けて、漏らない處にお遷り遊ばされました。後に國中を御覽になりますと、國に烟が滿ちております。そこで人民が富んだとお思いになつて、始めて租税勞役を命ぜられました。それですから人民が榮えて、勞役に出るのに苦《くる》しみませんでした。それでこの御世を稱えて聖《ひじり》の御世と申します。

[#5字下げ]吉備の黒日賣[#「吉備の黒日賣」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――吉備氏の榮えるに至つた由來の物語。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 皇后石の姫の命は非常に嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになつた女たちは宮の中にも入りません。事が起ると足擦《あしず》りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備《きび》の海部《あまべ》の直《あたえ》の女、黒姫《くろひめ》という者が美しいとお聞き遊ばされて、喚《め》し上げてお使いなさいました。しかしながら皇后樣のお妬みになるのを畏れて本國に逃げ下りました。天皇は高殿においで遊ばされて、黒姫の船出するのを御覽になつて、お歌い遊ばされた御歌、

[#ここから3字下げ]
沖《おき》の方《ほう》には小舟《おぶね》が續いている。
あれは愛《いと》しのあの子《こ》が
國へ歸るのだ。
[#ここで字下げ終わり]

 皇后樣はこの歌をお聞きになつて非常にお怒りになつて、船出の場所に人を遣つて、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。
 ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺《いつわ》つて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、

[#ここから3字下げ]
海の照り輝く難波の埼から
立ち出でて國々を見やれば、
アハ島やオノゴロ島
アヂマサの島も見える。
サケツ島も見える。
[#ここで字下げ終わり]

 そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこで羮《あつもの》を獻ろうとして青菜を採《つ》んでいる時に、天皇がその孃子の青菜を採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、

[#ここから3字下げ]
山の畑に蒔いた青菜も
吉備の人と一緒に摘むと
樂しいことだな。
[#ここで字下げ終わり]

 天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、

[#ここから3字下げ]
大和の方へ西風が吹き上げて
雲が離れるように離れていても
忘れは致しません。
[#ここで字下げ終わり]

 また、

[#ここから3字下げ]
大和の方へ行くのは誰方樣《どなたさま》でしよう。
地の下の水のように、心の底で物思いをして
行くのは誰方樣《どなたさま》でしよう。
[#ここで字下げ終わり]

[#5字下げ]皇后石の姫の命[#「皇后石の姫の命」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――靜歌の歌い返しと稱する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が插入されている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、柏《かしわ》の葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁《しちよう》が自分の國に歸ろうとして、難波の大渡《おおわたり》で遲れた雜仕女《ぞうしおんな》の船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。
 そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏《かしわ》の葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津《みつ》の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、

[#ここから3字下げ]
山また山の山城川を
上流へとわたしが溯れば、
河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木の
その下に生い立つている
葉の廣い椿の大樹、
その椿の花のように輝いており
その椿の葉のように廣らかにおいでになる
わが陛下です。
[#ここで字下げ終わり]

 それから山城から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、

[#ここから3字下げ]
山また山の山城川を
御殿の方へとわたしが溯れば、
うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎ
わたしの見たいと思う處は、
葛城《かずらき》の高臺の御殿、
故郷の家のあたりです。
[#ここで字下げ終わり]

 かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木《つつき》の韓人のヌリノミの家におはいりになりました。天皇は皇后樣が山城を通つて上つておいでになつたとお聞き遊ばされて、トリヤマという舍人《とねり》をお遣りになつて歌をお送りなさいました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
山城《やましろ》に追《お》い附《つ》け、トリヤマよ。
追い附け、追い附け。最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。
[#ここで字下げ終わり]

 續《つづ》いて丸邇《わに》の臣《おみ》クチコを遣して、御歌をお送りになりました。

[#ここから3字下げ]
ミモロ山の高臺《たかだい》にある
オホヰコの原。
その名のような大豚《おおぶた》の腹にある
向き合つている臟腑《きも》、せめて心だけなりと
思わないで居られようか。
[#ここで字下げ終わり]

 またお歌い遊ばされました御歌、

[#ここから3字下げ]
山《やま》また山《やま》の山城の女が
木の柄のついた鍬《くわ》で掘つた大根、
その眞白《まつしろ》な白い腕を
交《か》わさずに來たなら、知らないとも云えようが。
[#ここで字下げ終わり]

 このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降つておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違つて後《うしろ》の方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違つて前の方においでになりました。それで匐《は》つて庭の中に跪《ひざまず》いている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染《あいぞめ》の衣を著ておりましたから、水潦《みずたまり》が赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、

[#ここから3字下げ]
山城《やましろ》の筒木《つつき》の宮《みや》で
申し上げている兄上を見ると、
涙ぐまれて參ります。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に、「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました。
 そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼つている蟲が、一度は這《は》う蟲になり、一度は殼《から》になり、一度は飛ぶ鳥になつて、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變つたお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた時に、ヌリノミが自分の飼つている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになつて、お歌い遊ばされた御歌、

[#ここから3字下げ]
山また山の山城の女が
木の柄のついた鍬で掘つた大根、
そのようにざわざわとあなたが云うので、
見渡される樹の茂みのように
賑《にぎ》やかにやつて來たのです。
[#ここで字下げ終わり]

 この天皇と皇后樣とお歌いになつた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます。

[#5字下げ]ヤタの若郎女[#「ヤタの若郎女」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――八田部の人々の傳承であろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 天皇、ヤタの若郎女をお慕いになつて歌をお遣しになりました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
ヤタの一本菅は、
子を持たずに荒れてしまうだろうが、
惜しい菅原だ。
言葉でこそ菅原というが、
惜しい清らかな女だ。
[#ここで字下げ終わり]

 ヤタの若郎女のお返しの御歌は、

[#ここから3字下げ]
八田《やた》の一本菅《いつぽんすげ》はひとりで居りましても、
陛下が良いと仰せになるなら、ひとりでおりましても。
[#ここで字下げ終わり]

[#5字下げ]ハヤブサワケの王とメトリの王[#「ハヤブサワケの王とメトリの王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――もと鳥のハヤブサとサザキとが女鳥を爭う形で、劇的に構成されている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人《なこうど》としてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言われますには、「皇后樣を憚かつて、ヤタの若郎女をもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあなた樣の妻になろうと思います」と言つて結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王は御返事申しませんでした。ここに天皇は直接にメトリの王のおいでになる處に行かれて、その戸口の閾《しきい》の上においでになりました。その時メトリの王は機《はた》にいて織物を織つておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌は、

[#ここから3字下げ]
メトリの女王の織つていらつしやる機《はた》は、
誰の料でしようかね。
[#ここで字下げ終わり]

 メトリの王の御返事の歌、

[#ここから3字下げ]
大空《おおぞら》高《たか》く飛《と》ぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。
[#ここで字下げ終わり]

 それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつた歌は、

[#ここから3字下げ]
雲雀は天に飛び翔ります。
大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、
サザキをお取り遊ばせ。
[#ここで字下げ終わり]

 天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、

[#ここから3字下げ]
梯子《はしご》を立てたような、クラハシ山が嶮《けわ》しいので、
岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。
[#ここで字下げ終わり]

 また、

[#ここから3字下げ]
梯子《はしご》を立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、
わが妻と登れば嶮しいとも思いません。
[#ここで字下げ終わり]

 それから逃げて、宇陀《うだ》のソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。
 その時に將軍山部の大楯《おおだて》が、メトリの王の御手に纏《ま》いておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りました。そこで皇后|石《いわ》の姫の命が、お手ずから御酒《みき》の柏《かしわ》の葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はその腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられましたことは、「あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにその奴《やつ》は自分の君の御手に纏いておいでになつた玉の腕飾を、膚《はだ》も温《あたたか》いうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです」と仰せられて、死刑に行われました。

[#5字下げ]雁の卵[#「雁の卵」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――御世の榮えを祝う歌曲。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島《ひめじま》においでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチの宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、

[#ここから3字下げ]
わが大臣よ、
あなたは世にも長壽の人だ。
この日本の國に
雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。
[#ここで字下げ終わり]

 ここにタケシウチの宿禰は歌をもつて語りました。

[#ここから3字下げ]
高く光り輝く日の御子樣、
よくこそお尋ねくださいました。
まことにもお尋ねくださいました。
わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、
この日本の國に
雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。
[#ここで字下げ終わり]

 かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。

[#ここから3字下げ]
陛下《へいか》が初《はじ》めてお聞き遊ばしますために
雁は子を生むのでございましよう。
[#ここで字下げ終わり]

 これは壽歌《ほぎうた》の片歌《かたうた》です。

[#5字下げ]枯野《からの》という船[#「枯野という船」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――琴の歌。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早《はや》く行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船が壞《こわ》れましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、

[#ここから3字下げ]
船《ふね》のカラノで鹽を燒いて、
その餘りを琴に作つて、
彈きなせば、鳴るユラの海峽の
海中の岩に觸れて立つている
海の木のようにさやさやと鳴《な》り響く。
[#ここで字下げ終わり]

と歌いました。これは靜歌《しずうた》の歌《うた》い返《かえ》しです。
 この天皇は御年八十三歳、丁卯《ひのとう》の年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受《もず》の耳原にあります。

[#3字下げ]二、履中天皇・反正天皇[#「二、履中天皇・反正天皇」は中見出し]

[#5字下げ]履中天皇とスミノエノナカツ王[#「履中天皇とスミノエノナカツ王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――大和の漢《あや》氏、多治比部などの傳承の物語。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻《わかざくら》の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、葛城《かずらき》のソツ彦の子《こ》のアシダの宿禰の女の黒姫《くろひめ》の命と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》は、市《いち》の邊《べ》のオシハの王・ミマの王・アヲミの郎女《いらつめ》、又の名はイヒトヨの郎女のお三|方《かた》です。
 はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒《みき》にお浮かれになつて、お寢《やす》みなさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和の漢《あや》の直《あたえ》の祖先のアチの直《あたえ》が、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がお寤《さ》めになつて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになつた御歌、

[#ここから3字下げ]
タヂヒ野で寢ようと知つたなら
屏風をも持つて來たものを。
寢ようと知つたなら。
[#ここで字下げ終わり]

 ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになつた御歌、

[#ここから3字下げ]
ハニフ坂にわたしが立つて見れば、
盛んに燃える家々は
妻が家のあたりだ。
[#ここで字下げ終わり]

 かくて二上山《ふたかみやま》の大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、「武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當麻路《たぎまじ》から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、越えておいでなさいませ」と申し上げました。依つて天皇の歌われました御歌は、

[#ここから3字下げ]
大坂で逢《あ》つた孃子《おとめ》。
道を問えば眞直《まつすぐ》にとはいわないで
當麻路《たぎまじ》を教えた。
[#ここで字下げ終わり]

 それから上つておいでになつて、石《いそ》の上《かみ》の神宮においで遊ばされました。
 ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許《おんもと》においでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしは穢《きたな》い心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還つて行つて、スミノエノナカツ王を殺して上つておいでなさい。その時にはきつとお話をしよう」と仰せられました。依つて難波に還つておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人《はやと》を欺《あざむ》いて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。依つてその隼人に澤山物をやつて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいつておられるのを伺つて、矛《ほこ》で刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上つておいでになる時に、大坂の山口においでになつてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行つたら、かえつてその心が恐しい。依つてその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まつて、まずお前に大臣の位を賜わつて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まつて假宮を造つて急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わつて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成つたと思つていました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになつて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになつた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上つておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥《あすか》と名づけます。大和に上つておいでになつて仰せられますには、「今日は此處に留まつて禊祓《はらい》をして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石《いそ》の上《かみ》の神宮に參つて、天皇に「すべて平定し終つて參りました」と奏上致しました。依つて召し入れて語られました。
 ここにおいて、天皇がアチの直《あたえ》を大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。またこの御世に若櫻部の臣等に若櫻部という名を賜わり、比賣陀《ひめだ》の君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。また伊波禮部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬申《みずのえさる》の年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。

[#5字下げ]反正天皇[#「反正天皇」は小見出し]
 弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比《たじひ》の柴垣《しばがき》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じように齊《そろ》つて珠をつらぬいたようでございました。
 天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。天皇は御年六十歳、丁丑《ひのとうし》の年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。

[#3字下げ]三、允恭天皇[#「三、允恭天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
 弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホホドの王の妹のオサカノオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子《みこ》は、キナシノカルの王・ヲサダの大郎女・サカヒノクロヒコの王・アナホの命・カルの大郎女・ヤツリノシロヒコの王・オホハツセの命・タチバナの大郎女・サカミの郎女の九王です。男王五人女王四人です。このうちアナホの命は天下をお治めなさいました。次にオホハツセの命も天下をお治めなさいました。カルの大郎女はまたの名を衣通《そとお》しの郎女と申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。

[#5字下げ]八十伴の緒の氏姓[#「八十伴の緒の氏姓」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――氏はその家の稱號であり、姓はその家の階級、種別であつてそれが社會組織の基本となつていた。長い間にはこれを僞るものもできたので、これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 初《はじ》め天皇《てんのう》、帝位にお即《つ》きになろうとしました時に御辭退遊ばされて「わたしは長い病氣があるから帝位に即《つ》くことができない」と仰せられました。しかし皇后樣をはじめ臣下たちも堅くお願い申しましたので、天下をお治めなさいました。この時に新羅の國主が御調物《みつぎもの》の船八十一艘を獻りました。その御調の大使は名《な》を金波鎭漢紀武《こみぱちにかにきむ》と言いました。この人が藥の處方をよく知つておりましたので、天皇の御病氣をお癒し申し上げました。
 ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏姓《うじかばね》の誤《あやま》つているのをお歎きになつて、大和のウマカシの言八十禍津日《ことやそまがつひ》の埼《さき》にクカ瓮《べ》を据えて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として輕部をお定めになり、皇后樣の御名の記念として刑部《おさかべ》をお定めになり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天皇御年七十八歳、甲午《きのえうま》の年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の長枝にあります。

[#5字下げ]木梨の輕の太子[#「木梨の輕の太子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――幾章かの歌曲によつて構成されている物語。輕部などの傳承であろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 天皇がお隱《かく》れになつてから後《のち》に、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まつておりましたが、まだ位におつきにならないうちに妹のカルの大郎女に戲れてお歌いになつた歌、

[#ここから3字下げ]
山田を作つて、
山が高いので地の下に樋《ひ》を通わせ、
そのように心の中でわたしの問い寄る妻、
心の中でわたしの泣いている妻を、
昨夜こそは我が手に入れたのだ。
[#ここで字下げ終わり]

 これは志良宜歌《しらげうた》です。また、

[#ここから3字下げ]
笹《ささ》の葉《は》に霰《あられ》が音《おと》を立《た》てる。
そのようにしつかりと共に寢た上は、
よしや君《きみ》は別《わか》れても。

いとしの妻と寢たならば、
刈り取つた薦草《こもくさ》のように亂れるなら亂れてもよい。
寢てからはどうともなれ。
[#ここで字下げ終わり]

 これは夷振《ひなぶり》の上歌《あげうた》です。
 そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大前小前《おおまえおまえ》の宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカル箭《や》といいます。アナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホ箭《や》といいます。ここにアナホの御子が軍を起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、

[#ここから3字下げ]
大前小前宿禰の家の門のかげに
お立ち寄りなさい。
雨をやませて行きましよう。
[#ここで字下げ終わり]

 ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞い奏《かな》で、歌つて參ります。その歌は、

[#ここから3字下げ]
宮人の足に附けた小鈴が
落ちてしまつたと騷いでおります。
里人《さとびと》もそんなに騷がないでください。
[#ここで字下げ終わり]

 この歌は宮人曲《みやびとぶり》です。かように歌いながらやつて來て申しますには、「わたしの御子樣、そのようにお攻めなされますな。もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう」と申しました。そこで軍を罷《や》めて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、

[#ここから3字下げ]
空《そら》飛《と》ぶ雁《かり》、そのカルのお孃さん。
あんまり泣くと人が氣づくでしよう。
それでハサの山の鳩のように
忍び泣きに泣いています。
[#ここで字下げ終わり]

 また歌われた歌は、

[#ここから3字下げ]
空飛ぶ雁《かり》、そのカルのお孃さん、
しつかりと寄つて寢ていらつしやい
カルのお孃さん。
[#ここで字下げ終わり]

 かくてそのカルの太子を伊豫《いよ》の國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、

[#ここから3字下げ]
空を飛ぶ鳥も使です。
鶴の聲が聞えるおりは、
わたしの事をお尋ねなさい。
[#ここで字下げ終わり]

 この三首の歌は天田振《あまだぶり》です。また歌われた歌は、

[#ここから3字下げ]
わたしを島に放逐《ほうちく》したら
船の片隅に乘つて歸つて來よう。
わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。
言葉でこそ座席とはいうのだが、
わたしの妻を護つていてくれというのだ。
[#ここで字下げ終わり]

 この歌は夷振《ひなぶり》の片下《かたおろし》です。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、

[#ここから3字下げ]
夏の草は萎《な》えます。そのあいねの濱の
蠣《かき》の貝殼に足をお蹈みなさいますな。
夜が明けてからいらつしやい。
[#ここで字下げ終わり]

 後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、

[#ここから3字下げ]
おいで遊ばしてから日數が多くなりました。
ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。
お待ちしてはおりますまい。
[#ここで字下げ終わり]

 かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、

[#ここから3字下げ]
隱れ國の泊瀬の山の
大きい高みには旗をおし立て
小さい高みには旗をおし立て、
おおよそにあなたの思い定めている
心盡しの妻こそは、ああ。
あの槻《つき》弓のように伏すにしても
梓《あずさ》の弓のように立つにしても
後も出會う心盡しの妻は、ああ。
[#ここで字下げ終わり]

 またお歌い遊ばされた歌は、

[#ここから3字下げ]
隱れ國の泊瀬の川の
上流の瀬には清らかな柱を立て
下流の瀬にはりつぱな柱を立て、
清らかな柱には鏡を懸け
りつぱな柱には玉を懸け、
玉のようにわたしの思つている女、
鏡のようにわたしの思つている妻、
その人がいると言うのなら
家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。
[#ここで字下げ終わり]

 かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀歌《よみうた》でございます。

[#3字下げ]四、安康天皇[#「四、安康天皇」は中見出し]

[#5字下げ]マヨワの王の變[#「マヨワの王の變」は小見出し]
 御子のアナホの御子(安康天皇)、石《いそ》の上《かみ》の穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは「あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して「おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう」と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思つて、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取つて、オホクサカの王を讒言していうには、「オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言つて、大刀の柄《つか》をにぎつて怒りました」と申しました。それで天皇は非常にお怒りになつて、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取つて皇后になさいました。
 それから後に、天皇が神を祭つて晝お寢《やす》みになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知つたら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢《やす》みになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸《くび》をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。
 ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが、この事をお聞きになつて、腹を立ててお怒りになつて、その兄のクロヒコの王のもとに行つて、「人が天皇を殺しました。どうしましよう」と言いました。しかしそのクロヒコの王は驚かないで、なおざりに思つていました。そこでオホハツセの王が、その兄を罵つて「一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなくその兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらつしやる」と言つて、着物の襟をつかんで引き出して刀を拔いて殺してしまいました。またその兄のシロヒコの王のところに行つて、樣子をお話なさいましたが、前のようになおざりにお思いになつておりましたから、クロヒコの王のように、その着物の襟をつかんで、引きつれて小治田《おはりだ》に來て穴を掘つて立つたままに埋めましたから、腰を埋める時になつて、兩眼が飛び出して死んでしまいました。
 また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰つて、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、矛《ほこ》を杖として、その内をのぞいて仰せられますには「わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか」と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは「先にお尋ねにあずかりました女《むすめ》のカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになつたことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰つても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになつた王子は、死んでもお棄て申しません」と、このように申して、またその武器を取つて、還りはいつて戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには「わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう」と申しましたから、その王子が、お答えになつて、「それならもう致し方がない。わたしを殺してください」と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切つて死にました。

[#5字下げ]イチノベノオシハの王[#「イチノベノオシハの王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――播磨の國のシジムの家に隱れていた二少年が見出されて、遂に帝位につく物語の前提である。物語は三六六ページ[#「三六六ページ」は「清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」の「シジムの新築祝い」]に續く。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 それから後に、近江の佐々紀《ささき》の山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立つている足は薄原《すすきはら》のようであり、頂いている角は枯松《かれまつ》のようでございます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なつて近江においでになり、その野においでになつたので、それぞれ別に假宮を作つて、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになつて、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになつて、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目|寤《ざ》めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身《おんみ》をもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中に甲《よろい》をおつけになり、弓矢をお佩《お》びになつて、馬に乘つておいでになつて、たちまちの間に馬上でお竝びになつて、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切つて、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになつて逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになつて、乾飯《ほしい》をおあがりになる時に、顏に黥《いれずみ》をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼《ぶたかい》です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡つて、播磨《はりま》の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼《うまかい》牛飼《うしかい》として使われておいでになりました。(つづく)



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名


[難波] なにわ (一説に「魚庭」の意という)大阪市およびその付近の古称。
難波の高津の宮 なにわの たかつのみや 現在の大阪府大阪市中央区か。仁徳天皇が難波に造営したと伝える宮。比定地は諸説あり。(1) 現、大坂城の地。(2) 現、東区法円坂旧陸軍第八連隊兵営内の平坦地。(3) 大阪城外濠南方の高台の地。
難波の埼 難波津か。
難波津 なにわづ 難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬を造り、瀬戸内海へ出る港としていた。
難波の大渡 おおわたり 浪波渡。淀川本流(現、大川)を渡る地点か。渡は川を横切る渡船場と解される。
難波宮 なにわのみや 古代、大阪市中央区法円坂の一帯にあった皇居の総称。(1) 孝徳天皇の645年(大化1)より造営。天武天皇の陪都としても使用。686年(朱鳥1)焼失。(2) 聖武天皇の皇居の一つ。
茨田の堤 うまらだ/まんたのつつみ 古代、淀川の下流の左岸、茨田郡の側にあった堤防。伝承では仁徳天皇時代の築堤という。/大阪府寝屋川市付近か。
茨田の御倉 うまらた/まむた/まんだ 茨田屯倉。屯倉の所在地は不明だが、茨田郡および交野郡三宅郷の地に散在し、管理の建物や倉庫は三宅郷にあったと推測。
依網 よさみ 摂津国住吉郡と河内国丹比郡の境界付近の古代地名。依網池は現、大阪市住吉区苅田・我孫子町から堺市常磐町にかけて復元。(日本史)
難波の堀江 なにわのほりえ 仁徳天皇が水害を防ぐために、高津宮の北に掘ったという運河。比定地は諸説あり、(1) 天満川(現、大川)のこと。(2) 長堀川。(3) 道頓堀川の前身の堀川。(4) 現天王寺区の空堀通の四説。
小椅の江 おばしのえ 大阪市東成区東小橋か。小橋村・東小橋村一帯と推定。
墨江の舟つき すみのえ 住吉津。古代日本に存在した港。住吉大神を祀る住吉大社(大阪市住吉区)の南の住吉の細江と呼ばれた入り江にあった(住吉の細江は、現在は細江川[通称・細井川])。住吉津から東へ向かうと、奈良盆地の飛鳥に至る。

[淡路] あわじ 旧国名。今の兵庫県淡路島。淡州。
淡路島 あわじしま 瀬戸内海東部にある同海最大の島。本州とは明石海峡・友ヶ島水道(紀淡海峡)で、四国とは鳴門海峡で隔てられる。1985年鳴門海峡に橋が完成。兵庫県に属する。面積592平方キロメートル。
アワ島 → 淡島
淡島 あわしま (1) 日本神話で伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだという島。(2) 日本神話で少彦名神がそこから常世に渡ったという島。(3) 和歌山市にある淡島神社。祭神は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才天女とも伝え針供養が行われる。加太神社。淡島(粟島)明神。あわしまがみ。
オノゴロ島 淤能碁呂島・f馭慮島。日本神話で、伊弉諾・伊弉冉二尊が天の浮橋に立って、天瓊矛で滄海を探って引き上げた時、矛先からしたたり落ちる潮の凝って成った島。転じて、日本の国を指す。
檳榔の島 あじまさのしま 所在不明。アジマサは、檳榔樹。
佐気都島 さけつしま 所在不明。

[大和] やまと (「山処」の意か) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。
丸迩の池 わにのいけ 大阪府南河内郡。現、富田林市粟ヶ池か。
丸迩 わに 和邇・和珥・丸とも。奈良県天理市和迩町付近の古代以来の地名。(日本史)
伊波礼の若桜の宮 いわれの わかざくらのみや 磐余稚桜宮か。奈良県磯城郡。
磐余稚桜宮 いわれの わかざくらのみや 履中天皇の皇居。伝承地は奈良県桜井市池之内の辺。
大和の味白梼の言八十禍津日の埼 うまかしの ことやそまがつひのさき 飛鳥の地で、マガツヒの神を祭ってある所。この神の威力により偽れる者に禍を与えようとする。マガツヒの神は「伊耶那岐の命と伊耶那美の命」の「身禊」参照。
奈良の山口 奈良山の山口。
奈良山 ならやま 奈良県添上郡佐保および生駒郡都跡村の北の丘陵。現在は奈良市に編入。平城山。
葛城 かずらき/かつらぎ (古くはカヅラキ) (1) 奈良県御所市・葛城市ほか奈良盆地南西部一帯の古地名。(2) 奈良県北西部の市。農村地帯で、二輪菊・チューリップなど花卉栽培が盛ん。人口3万5千。
葛城高丘宮 かずらきの たかおかのみや 綏靖天皇の皇居。奈良県御所市森脇の辺という。
当麻路 たぎまじ 奈良県北葛城郡の当麻(古名タギマ)へ越える道で、二上山の南を通る。大坂は二上山の北を越える。
当麻 たいま 奈良県葛城市の地名。現、北葛城郡當麻町大字当麻か。
石上神宮 いそのかみ じんぐう 奈良県天理市布留町にある元官幣大社。祭神は布都御魂大神。二十二社の一つ。布留社。所蔵の七支刀が著名。
石の上の穴穂の宮 いそのかみの あなほのみや 奈良県山辺郡。現、天理市田町か。田村庄。
あいねの浜 所在不明。
泊瀬の山 はつせのやま 奈良県磯城郡。現、桜井市初瀬山。
初瀬・泊瀬 はつせ 奈良県桜井市初瀬の古称。初瀬川に臨む。
初瀬・長谷 はせ 奈良県桜井市の一地区。初瀬川に臨み、長谷寺の門前町。古く「はつせ」と称し、泊瀬朝倉宮・泊瀬列城宮の上代帝京の地。桜の名所。長谷寺の牡丹も有名。
泊瀬の川 はつせのかわ 現、初瀬川。桜井市東北山中に発して巻向川・布留川を合して大和郡山市南端部で佐保川と合する。ここから下流を大和川という。
菅原の伏見の岡 すがはらの ふしみのおか 奈良県生駒郡。現、奈良市宝来町小字古城。菅原伏見西陵。
小治田 おはりだ 紀は小墾田。現、高市郡明日香村大字豊浦付近にあったとされる古地名。
倉椅山 くらはしやま 倉梯山。奈良県磯城郡の東方の山。現、桜井市。寺川流域の大字倉橋より上流にあたると考えられる。
宇陀の蘇邇 うだのそに 奈良県宇陀郡。東部曽爾村か。三重県に突出した部分で奥宇陀山地の中央部にあたる。
宇陀 うだ 奈良県北東部の市。大和政権時代、菟田県・猛田県があった。人口3万7千。
御諸山 みもろやま ミモロは、神座をいい、ひいて神社のある所をいふ。ここは葛城の三諸。現、三輪山。
三輪山 みわやま 奈良県桜井市にある山。標高467メートル。古事記崇神天皇の条に、活玉依姫と蛇神美和の神とによる地名説明伝説が見える。三諸山。
御諸・三諸 みもろ 神の鎮座するところ。神木・神山・神社など。
大猪子の原 おおいこのはら 原の名。大猪子は猪のこと。
二上山の大坂の山口

[河内] かわち (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
姫島 ひめじま 日女島。大阪府三島郡。現、大阪市大川(難波の堀江)の河口近くにあったと思われる。のち歌枕とされた。具体的位置は不明。/現、西淀川区姫島か。
兎寸河 うきがわ 所在不明。物語によれば大阪平野のうち。
高安山 たかやすやま 大阪府と奈良県との境に位置する標高 488m の山。 7世紀後半に大和朝廷により大和国防衛の拠点として高安城が築かれたことで知られている。
丹比野 たじひの 多遅比野。丹比郡の地の南東から南にかけての郡境に丘陵がある、おおむね平坦な平野。
ハニウ坂 波邇賦坂。大阪府南河内郡から大和に越える坂。
二上山 ふたかみやま 奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。雄岳(517メートル)と雌岳(474メートル)の2峰から成る。万葉集にも歌われ、大津皇子墓と伝えるものや葛城二上神社がある。にじょうさん。
多治比の柴垣の宮 たじひの しばがきのみや 多比柴垣宮。大阪府南河内郡。反正天皇の宮跡。現在地は不明。松原市内か。
河内の恵賀の長枝 えがの ながえ 大阪府南河内郡。
由良の海峡 ゆら → 由良の門
由良の門 ゆらのと 大阪湾口の由良海峡。(紀淡海峡)。
毛受の耳原 もずの みみはら 大阪府泉南郡。この御陵は、天皇生前に工事をした。その時に鹿の耳の中からモズが飛び出したから地名とするという。
御津の埼 みつのさき 所在地は諸説あるが、現、南区三津寺町付近とする説が有力。
堀江 → 難波の堀江か 

近つ飛鳥 ちかつ あすか 安宿郡の飛鳥のことか。
遠つ飛鳥 とおつ あすか 大和の飛鳥のことか。
遠つ飛鳥の宮
毛受 もず 紀は百舌鳥。百舌鳥野。現、堺市北部中央三国ヶ丘台地と称される辺り。
毛受野 もずの → 毛受
波佐の山 はさのやま 所在不明。幡舎の山(紀)か。「大和志」は現、吉野郡大淀町大字馬佐に比定する。

[紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの)旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。

[近江] おうみ 近江・淡海。(アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
久多綿の蚊屋野 くたわたの かやの → 来田綿の蚊屋野
来田綿 くたわた 現、滋賀県秦荘町蚊野付近。市辺押磐皇子は雄略天皇に狩りに誘われて射殺される(日本史)。
蚊屋野 かやの 現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か。
玖須婆の河 くすばのかわ 淀川。久須婆之度か。現、枚方市楠葉か。河内国の北端、淀川左岸沿いの沖積低地に位置し、京街道が西部を縦断する。「和名抄」記載の葛葉の地。

[山城] やましろ 山城・山背。旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
山城川 やましろがわ 山代河。紀は山背川。淀川の古称か。
筒木の宮 つつきのみや 紀は筒城宮。現、綴喜郡田辺町大字多々羅。普賢寺川の北の丘陵の宇都谷辺りに仁徳天皇の皇后磐之媛が住み、また継体天皇の皇居があったという。比定地は諸説あり。
刈羽井 かりはい 苅羽井。京都府相楽郡。現、城陽市田辺町大字大住か。もと綴喜郡樺井。

[播磨] はりま 旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。

[吉備] きび 山陽地方の古代国名。大化改新後、備前・備中・備後・美作に分かつ。
児島郡 こじまのこおり 岡山県および備前国にかつて存在した郡。灘崎町が2005年3月22日に岡山市に編入合併され児島郡は消滅した。

[伊予] いよ 旧国名。今の愛媛県。伊余。伊与。予州。
伊予の国の温泉 愛媛県の松山市の温泉地。道後温泉。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

稗田の阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太の安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。(日本史)

仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
オオサザキの命 → 仁徳天皇
葛城のソツ彦 かずらきの そつびこ 葛城襲津彦。古代の武人。葛城氏の祖。武内宿祢の子で、仁徳天皇の皇后磐之媛命の父とされ、神功皇后の時代に新羅を討ったという。
石の姫の命 いわのひめのみこと 磐之媛・石之日売。仁徳天皇の皇后。葛城之曾都毘古の女で、履中・反正・允恭天皇の母。嫉妬の伝説で知られる。万葉集に歌がみえる。
オオエノイザホワケの命 大兄去来穂別尊 → 履中天皇
履中天皇 りちゅう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第1皇子。名は大兄去来穂別。
スミノエノナカツの王 墨江之中津王。住吉仲皇子。仁徳天皇の皇子で、母は、磐之姫命。兄履中天皇の婚約者黒媛を天皇の名をかたって犯してしまい、事の発覚を恐れて、天皇の宮殿を包囲、焼殺しようとするが失敗。天皇に命じられた瑞歯別尊(のちの反正天皇)によって殺された。
タジヒノミズハワケの命 多遅比瑞歯別 → 反正天皇
反正天皇 はんぜい てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第3皇子。名は多遅比瑞歯別。倭の五王のうちの「珍」とされる。
オアサヅマワクゴノスクネの命 雄朝津間稚子宿禰尊 → 允恭天皇
允恭天皇 いんぎょう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿祢。盟神探湯で姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に比定される。
ヒムカノムラガタの君ウシモロ 諸県君牛諸井。仁徳天皇に娶された髪長姫の父。応神紀には長く朝廷に仕え、退仕し本土に帰る際、姫を献上したと伝える。(神名)
髪長姫 かみながひめ 日向髪長媛。ヒムカノムラガタの君ウシモロの娘。
ハタビの大郎子 おおいらつこ 波多毘能大郎子。別名、オオクサカの王。
オオクサカの王 大日下王・大草香皇子 → ハタビの大郎子
ハタビの若郎女 わかいらつめ 別名、ナガメ姫の命、ワカクサカベの命。
ナガメ姫の命 → ハタビの若郎女
ワカクサカベの命 若日下部命 → ハタビの若郎女
ヤタの若郎女 わきいらつめ 八田の若郎女 応神天皇の皇女。異母兄である仁徳天皇の妃となった。この婚姻をめぐる后の石之日売(磐之媛)の嫉妬の物語と歌謡が記紀にある。(神名)
ウジの若郎女 わかいらつめ 菟道稚郎姫皇女。宇遅之若郎女。
イザホワケの命 → オオエノイザホワケの命

吉備の黒日売 きびのくろひめ 容姿端正のため仁徳天皇の妃となるが、大后の石之日売命の嫉妬を恐れて本国に帰る。天皇の思慕はやまず、淡路島の巡幸と称して密に吉備に行った。(神名)
吉備氏 きびうじ 古代日本の吉備国(岡山県)の豪族。主として5世紀に繁栄し、吉備を筑紫・出雲・ヤマト・毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した。ヤマトの豪族たちと同盟し、日本列島の統一と発展に寄与。
吉備の海部の直 きびの あまべの/あまの あたえ 黒日売の父。
黒姫 くろひめ → 吉備の黒日売
ヌリノミ 奴理能美。筒木の韓人。山城国綴喜郡付近に住す。仁徳天皇の皇后石之日売命は新しく妃を迎えようとする天皇を恨んで高津宮を出て奴理能美の家に入った。紀によるとヌリノミは天皇と皇后の間をとりもとうとしたこと、皇后は結局戻ることなく筒木岡の宮で薨じたことを記している。(神名)
トリヤマ 鳥山。舎人。仁徳天皇が皇居へ帰らない大后石之日売命との和解のため派遣した使者の舎人の名。使者としての鳥の意を含めたもの。(神名)
クチコ 口子。丸迩の臣。口持。的臣の祖。仁徳天皇に仕える。皇后の石之日売命が筒城宮に逃れたとき、勅をうけて歌をたてまつるがかなわない。皇后の侍女だった妹の口比売(紀、国依姫)の願いにより皇后自らクチコ臣を諭して京に帰らせた。しかし皇后はついに帰らなかった。(神名)
クチ姫 口比売。クチコの臣の妹。
ハヤブサワケの命 速総別の命 隼別皇子(紀)。(神名)
メトリの王 女鳥王 めどりの おおきみ 古代伝説上の人物。応神天皇の女。異母兄仁徳天皇の求婚を断って媒人の速総別王と結婚。雌鳥皇女。
山部の大楯 やまべの おおだて 将軍。
タケシウチの宿祢 → 武内宿祢
武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
漢氏 あやうじ 古代の渡来系の有力な氏族。もと直姓。応神天皇の時渡来した後漢霊帝の曾孫阿知使主の子孫と称する東漢直と、後漢献帝の子孫と称する西漢直とがあった。天武天皇の時、連姓・忌寸姓となる。子孫は坂上氏ら。
多治比部 たじひべ → 蝮部

アシダの宿祢 葦田の宿祢。葦田は地名。葛城曽都比古の子。事跡不詳。(神名)
黒姫の命 くろひめのみこと アシダの宿祢の娘。履中天皇の后となり三子を生んだ。記では葦田宿祢の娘。紀には羽田矢代宿禰の娘とし、履中天皇5年に没したとする。(日本史)
市の辺のオシハの王 イチノベノオシハの王 市辺押磐皇子。市辺は地名。山城国綴喜郡に市野辺村がある。履中天皇の皇子。皇位継承者として有力視されていたが、雄略天皇に近江の久多綿蚊屋野で殺された。風土記には市辺天皇命とある。(神名)
ミマの王 御馬の王 履中天皇の皇子。母は黒姫の命。同母兄のイチノベノオシハの王がオオハツセの命(雄略天皇)に皇位継承をめぐってころされたとき、ミマの王は三輪君身狭のもとに逃れようとしたが、捕らわれ刑死した。(神名)
アオミの郎女 いらつめ 青海の郎女。別名、イイトヨの郎女 → 飯豊青皇女
イイトヨの郎女 いらつめ 飯豊の郎女 → 飯豊青皇女
飯豊青皇女 いいとよあおの ひめみこ 履中天皇の皇女。市辺押磐皇子の妹(王女とも)。清寧天皇の没後継嗣なく、一時政を執ったと伝えられ、飯豊天皇とも称される。
漢の直 あやのあたえ 東漢直。古代の渡来系氏族。阿知使主の子孫と称し、朝廷の記録や外交文書をつかさどった。5世紀ごろ渡来した朝鮮の漢民族の子孫と見られ、大和を本拠とした。7世紀には政治的・軍事的に有力となり、姓は直から忌寸や宿祢に昇格。東漢氏。
アチの直 あたえ 阿知の直 → 阿知使主
阿知使主 あちのおみ 応神天皇の時の渡来人。後漢の霊帝の曾孫ともいう。のち呉に使して織女・縫女を連れ帰ったと伝えられる。古代の最も有力な渡来人の一族、東漢直の祖という。

ミズハワケの命 水歯別の命 多遅比瑞歯別 → 反正天皇
ソバカリ 曽婆訶里。隼人。スミノエノナカツ王に近く仕える。
比売陀の君 ひめだのきみ
ワニのコゴトの臣 丸迩の許碁登の臣 反正天皇妃、ツノの郎女の父。同じく娘の弟姫も天皇に召されている。紀では大宅の祖木事の娘ツノ姫が皇夫人となっている。(神名)
ツノの郎女 いらつめ 都怒の郎女。津野媛。ワニのコゴトの臣の娘。反正天皇の夫人。
カイの郎女 いらつめ 甲斐の郎女。香火姫皇女。父は反正天皇。紀では母は大宅臣の祖木事の娘、都怒媛。(神名)
ツブラの郎女 いらつめ 都夫良の郎女。円皇女(紀)。反正天皇の皇女。母はツノの郎女(記)。紀では津野媛と記す。石川県能登国羽咋郡上井田村大字柴垣椎葉円比�@神社(元郷社)に祀られる。
弟姫 ワニのコゴトの臣の娘。津野媛の妹。
タカラの王 財王。反正天皇の皇子。母は弟姫。紀は財皇女。
タカベの郎女 いらつめ 多訶弁の郎女。反正天皇の皇女。母は弟姫。紀は高部皇子。

オオホドの王 意富本杼の王・意富富杼の王。父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)、母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(百師木伊呂弁とも)で、同母妹の忍坂大中姫・衣通姫は允恭天皇に入内している。意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君などの祖。
オサカノオオナカツ姫の命 忍坂大中姫。オオホドの王の妹。
キナシノカルの王 木梨軽皇子。第19代天皇であった允恭天皇の第一皇子、皇太子。母は皇后の忍坂大中津比売命。『古事記』によれば、立太子するも、同母妹である軽大娘皇女と情を通じ(近親相姦)、それが原因となって允恭天皇の崩御後に失脚、伊予の国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われる(衣通姫伝説)。『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。
オサダの大郎女 おおいらつめ 長田(ながた)の大郎女か。紀では名形大娘皇女。允恭天皇の皇女。母はオサカノオオナカツ姫の命。
サカイノクロヒコの王 境の黒日子の王。允恭天皇の皇子。母はオサカノオオナカツ姫の命。同母弟のオオハツセの命に殺された。(神名)
アナホの命 穴穂の命 → 安康天皇
安康天皇 あんこう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。名は穴穂。允恭天皇の皇子。大草香皇子の王子眉輪王に暗殺された。倭の五王のうち「興」に比定される。
カルの大郎女 おおいらつめ  軽大娘皇女 → 衣通姫
衣通姫 そとおりひめ (美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという)日本書紀で允恭天皇の妃、弟姫のこと。姉の皇后忍坂大中姫の嫉みを受け、河内国茅渟に身を隠した。後世、和歌の浦の玉津島神社に祀る。和歌三神の一神。そとおしひめ。古事記では天皇の女の名とする。
ヤツリノシロヒコの王 八瓜の白日子の王。八釣白彦皇子(紀)。允恭天皇の皇子。母はオサカノオオナカツ姫の命。同母弟の雄略天皇に殺された。(神名)
オオハツセの命 大長谷の命・大泊瀬稚武皇子 → 雄略天皇
雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
タチバナの大郎女 おおいらつめ 橘の大郎女。允恭天皇の皇女。母はオサカノオオナカツ姫の命。
サカミの郎女 いらつめ 酒見の郎女。允恭天皇の皇女。母はオサカノオオナカツ姫の命。
衣通しの郎女 そとおしのいらつめ → 衣通姫
金波鎮漢紀武 こみぱちに/こむはちにかにきむ 允恭天皇が即位したとき、新良国主が御調八十一艘を献上し、その使者として来朝した人。薬の処方に詳しく天皇の病を治した。(神名)
タイノナカツ姫 田井の中比売 応神天皇の子のワカノケフタマタの王とモモシキイロベとの間の子。允恭記にはその名代として河部が定められている。紀には不載。(神名)
大前小前の宿祢 おおまえ おまえのすくね 物部麦入宿禰の子といわれる。允恭天皇に仕え大臣となる。軽皇子が大前小前宿祢大臣を頼って穴穂御子に対抗しようとしたが、大臣は皇子を捕らえて引き渡した。(神名)

マヨワの王 目弱の王 眉輪王(紀)。父は仁徳天皇の皇子オオクサカの王。母は履中天皇の皇女ナガタの大郎女。根の臣の讒謗により安康天皇はオオクサカの王を殺し、妻のナガタの大郎女を奪い自分の皇后とする。真実を知ったマヨワの王は、天皇が眠っている間をうかがい殺してツブラノオオミの家へ逃げ込む。オオハツセの王(雄略天皇)はツブラノオオミの家を包囲。ツブラはマヨワの王を護り奮戦するが力つきてマヨワの王を刺し自刃する。(神名)
坂本の臣 
ネの臣 根の臣。坂本の臣たちの祖先。安康天皇が弟のオオハツセの王(雄略天皇)のためにネの臣をオオクサカの王のもとに遣わし、あなたの妹のワカクサカ王をオオハツセの王に婚わせたいと告げさせた。そこでオオクサカの王は妹の礼物として押木之玉縵をもたせたが、ネの臣はそれを盗み、オオクサカの王を讒言し、オオクサカの王は怒った天皇に殺されてしまう。(神名)
ナガタの大郎女 おおいらつめ 長田の大郎女。
ツブラオオミ 都夫良意美 都夫良意富美。円大臣。葛城円。意富美は大臣のこと。安康天皇を殺害したマヨワの王をかくまって、オオハツセの王(雄略天皇)に滅ぼされた。(神名)
クロヒコの王 → サカイノクロヒコの王
シロヒコの王 → ヤツリノシロヒコの王
カラ姫 訶良比売。ツブラオオミの娘。韓媛(紀)。雄略天皇との間に白髪命・若帯比売命を生む。(神名)
イチノベノオシハの王 → 市の辺のオシハの王
シジム 志自牟。播磨国の豪族。父のイチノベノオシハの王を殺されたオケの王・ヲケの王が、シジムの家に馬甘・牛甘として隠れ住んだ。二皇子はシジムの家の新室楽のとき、訪れた山部連小楯に見出される。紀で該当するのは縮見屯倉首忍海部造細目。播磨風土記では志深村首伊等尾。(神名)
近江の佐々紀の山の君 ささき
カラフクロ 韓。近江の佐々紀山君の祖先。カラフクロが「淡海の久多綿の蚊屋野に猪鹿がたくさんいる」といったことにより、オオハツセの王とイチノベノオシハの王は蚊屋野に行き、イチノベノオシハの王が殺される。(神名)
オケの王 意祁の王。意富祁王 → 仁賢天皇
仁賢天皇 にんけん てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。磐坂市辺押磐皇子の第1王子。名は億計。父が雄略天皇に殺された時、弟(顕宗天皇)とともに播磨に逃れた。のちに清寧天皇の皇太子となり、弟に次いで即位したという。
ヲケの王 袁祁の王 → 顕宗天皇
顕宗天皇 けんぞう てんのう 記紀に記された5世紀末の天皇。履中天皇の皇孫。磐坂市辺押磐皇子の第2王子。名は弘計。父が雄略天皇に殺された時、兄(仁賢天皇)と共に播磨に逃れたが、後に発見されて即位したという。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


庶妹 ままいも 継妹・庶妹。(男兄弟から見て)父または母のちがう姉妹。異父姉妹。異母姉妹。
葛城部 かずらきべ 姓氏の一つ。古代の豪族。武内宿祢の子襲津彦より起こったと伝えられ、大和の葛城地方を本居として繁栄した。/仁徳天皇の皇后で葛城氏から出た磐之媛の名代とするのが定説。記紀の伝承的記事には疑問もある。律令時代には西日本に少数ながら葛木部を姓とする人々や葛木郷がある。(日本史)
壬生部 みぶべ 乳部・生部とも。6世紀以後、皇子女の養育のため広く設置された部民とするのが定説。大化の改新時に中大兄皇子が天皇に返還した「入部」も壬生部のこととする説がある。紀によれば壬生部は推古朝に設置された。(日本史)
蝮部 たじひべ 多治比部・丹比部・蝮王部とも。5世紀のタジヒノミズハワケの命(反正天皇)の名代とするのが定説だが異論もある。8世紀にはこれを姓とする人々が諸国に実在し、郡司となった者もある。(日本史)
大日下部 おおくさかべ 大化前代の部民。仁徳天皇の皇子・大日下王の名代か。ただし大日下王の実在は確認できない。紀では雄略朝に官軍に殺された根使主の子孫の半分を大草香部民にしたという。しかし、律令時代には日下部姓の者は多いが大日下部はない。(日本史)
若日下部 わかくさかべ → 日下部
日下部 くさかべ 草香部とも。古代の名代か。大日下部・若日下部ともどちらも律令時代にはほとんどみえない。両者一括して日下部とよばれたか。あるいは雄略天皇の皇后草香幡梭姫の名代か。8世紀には日下部姓の人々が諸国に実在。(日本史)
免せ ゆるせ?
檳榔 あじまさ ビロウ(蒲葵)の古名。
蒲葵・檳榔 びろう ヤシ科の一属。東南アジア・オーストラリアに約30種が分布。亜熱帯性常緑高木で、檳榔樹と混同されるが別属。ワビロウは九州南部・南西諸島に、オガサワラビロウは小笠原に自生。形はシュロに似、葉は円形で直径約1メートル、掌状に分裂して幹頂に叢生。雌雄異株。4〜5月頃緑色の花序を出し、黄色の核果を結ぶ。葉は笠・団扇などに用い、繊維をとって縄を作る。若芽・茎の軟部は食用。古く牛車の装飾に用いた。古名、あじまさ。びりょう。ほき。
羹 あつもの (熱物の意)菜・肉などを入れて作った熱い吸物。
御食物 みけつもの 御食つ物 御食(みけ)となるべき物。
静歌 しずうた 志都歌。上代歌謡の曲調。歌い方が拍子にはまらず、ゆるやかなものをいうか。しつうた。
鳥山の歌
水取の役所 → 水取司か
水取司・主水司 もいとりのつかさ しゅすいし(主水司)。
主水司 しゅすいし 律令制で、宮内省に属し、供御の水・粥・氷室のことをつかさどった役所。もいとりのつかさ。もんどのつかさ。
仕丁 しちょう/してい (1) (シチョウ・ジチョウとも)律令制で、諸国から徴集されて、中央官庁および封戸主である親王家・大臣家・寺社の雑用に従事した者。つかえのよほろ。(2) 江戸時代、御台所で輿舁その他に従事した者。(3) 明治初年、官庁の雑役に従事した等外官。
サシブ 烏草樹 〔植〕シャシャンボの古名。
しゃしゃんぼ 南燭。ツツジ科の常緑小高木。関東以西の暖地の山地に自生。高さ1〜3メートル。葉は革質、卵形。6月頃、長い壺状の白花を総状花序につけ、晩秋、紫黒色に熟する液果は甘酸っぱく美味。ワクラハ。ササンボ。古名、さしぶ。
広らか おおらか?
八田部 やたべ 谷田部・矢田部か。
一本菅 いっぽんすげ
さざき 鷦鷯 ミソサザイの古名。
飛び翔り とびかけり (鳥などが)空高く飛ぶ。飛翔する。
寿歌・祝歌 ほぎうた (平安時代まで清音)上代、大歌の一つ。祝い、たたえる歌。
片歌 かたうた 雅楽寮で教習した大歌の一体。五・七・七または五・七・五の3句で1首をなす歌で、奈良時代以前には、多くは問答に用いた。江戸時代、建部綾足は俳諧の一体として、片歌の復興を志した。
酒盞 しゅさん さかずき。
禊祓 みそぎはらえ 大祓に同じ。
大祓 おおはらえ 古来、6月と12月の晦日に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢を祓った神事。現在も宮中を初め全国各神社で行われる。中臣の祓。みそぎはらえ。おおはらい。
若桜部 わかざくらべし 古代日本の氏族。大彦命の孫・伊波我牟都加利命の後裔氏族。稚桜部氏とも表記する。姓は初め臣だったが、天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜った。
伊波礼部 いわれべ 磐余部?
隼人 はやと ハヤヒトの約。
隼人 はやひと 古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。
八十伴の緒 やそ とものお 多くのとものお。朝廷に仕える百官。
玖訶瓮 くかべ 湯を涌かしてその中の物を探らせる鍋。/探湯。くかへ。大化前代、探湯(くかたち)に用いた釜。
軽部 かるべ 古代の部民。記、允恭段の伝承から、天皇の皇子木梨皇子の名代とする説が有力だが異論もある。律令時代には軽部・軽部造・軽部首を姓とする人々が実在し、軽部郷も和泉・下総・下野・但馬・備前・備中国に分布する。(日本史)
刑部 おさかべ 大化前代の部民。允恭天皇の皇后忍坂大中姫の名代とするのが通説。天武朝には刑部造もみえるが、律令時代には諸国の刑部姓の人々や刑部郷は膨大な数にのぼる。(日本史)
河部 かわべ 古代の部民。允恭段の伝承には大后の妹、田井中比売の名代として定めたとある。しかし名代としては「田井」に通じるところがなく、原本からの誤写を疑う説もある。8世紀には少数ながら川人・川人部・川部を姓とする人々が実在する。(日本史)
後挙歌・志良宜歌 しらげうた (シリアゲウタ(尻上歌)の約という。一説、シラギ(新羅)ウタの転)上代の歌謡で、末節を高く挙げて歌う歌。
鄙振・夷振・夷曲 ひなぶり (1) 古代歌謡の曲名。宮廷に取り入れた大歌で、短歌形式または8〜9句。歌曲名はその一つの歌謡の歌詞から採ったもの。(2) いなか風の歌。洗練されていない歌。(3) 狂歌。
挙歌・上歌 あげうた (1) 古代歌謡で、声を上げ高調子に歌われる歌。(2) 能の構成部分の一つ。高い音域で始まる拍子に乗る謡。←→下歌
宮人曲 みやびとぶり 宮人振。上代の歌曲の分類上の名称の一つ。歌の初句を取って名づけたもの。
天田振 あまだぶり 記に見える上代歌曲の曲名。歌い出しの語句によって名づけられている。
片下ろし かたおろし (1) 上代の歌謡などで、本・末の両方に分かれて歌う場合に、その一方を調子を下げて低く歌うもの。(2) 片下ろし(1) の歌い方で歌う平安時代の歌謡の一種。
にわとこ 庭常・接骨木 スイカズラ科の落葉大低木。高さ約3〜6メートル。幹には太い髄がある。春に白色の小花を円錐花序に密生し、球状の核果が赤熟。茎葉と花は生薬とし、煎汁を温罨など外用薬に使う。枝は小鳥の止り木に賞用。古名、たずのき。
読歌 よみうた 雅楽寮で教習した大歌の一つ。読むように朗誦した歌。五言・七言を交互に重ねた長歌の形式で、終末は七言三句で結ぶ。
枯野 からの 記紀に見える、高木を材料としてつくられた船の名。記によると仁徳帝の代に、紀では応神帝の代につくられたという。加良怒。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 山田順『出版大崩壊 電子書籍の罠』(文芸新書、2011.3)読了。今年の双璧のひとつ!(もう一方は津野海太郎さん)
 タイトルとあおり文句を店頭で見て、あまり期待しないで手に取ってみたが、もくじに目を通しパラパラっと開いてみてなんだか気になる。とても立ち読みで理解できる内容じゃない。県立図に入ったのを見つけてさっそく読む。ショッキングなタイトルにくらべて、内容はきわめてまとも。体験談・失敗談も貴重。読みながら富田さんと重なるところ多々あり。青空についての言及はちょっとだけ。パブリックドメインへの視点はほとんどなし。




*次週予告


第三巻 第五二号 
現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)
武田祐吉(訳)


第三巻 第五二号は、
七月二三日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第五一号
現代語訳『古事記』(五)武田祐吉(訳)
発行:二〇一一年七月一六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実

美和の大物主
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   五、景行天皇・成務天皇
    景行天皇の后妃と皇子女
    ヤマトタケルの命の西征
    イヅモタケル
    ヤマトタケルの命の東征
    望郷の歌
    白鳥の陵(みささぎ)
    ヤマトタケルの命の系譜
    成務天皇
   六、仲哀天皇
    后妃と皇子女
    神功皇后
    鎮懐石と釣魚
    カゴサカの王とオシクマの王
    気比の大神
    酒の座の歌曲
   七、応神天皇
    后妃と皇子女
    オオヤマモリの命とオオサザキの命
    葛野の歌
    カニの歌
    髪長姫
    国主歌(くずうた)
    文化の渡来
    オオヤマモリの命とウジの若郎子
    天の日矛
    秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫
    系譜

 この御世〔ホムダワケの命、応神天皇朝〕に、海部・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。剣の池を作りました。また新羅人が渡って来ましたので、タケシウチの宿祢がこれを率いて堤の池に渡って百済の池を作りました。
 また、百済の国王照古王が牡馬一匹・牝馬一匹をアチキシにつけてたてまつりました。このアチキシは阿直の史等の祖先です。また大刀と大鏡とをたてまつりました。また百済の国に、もし賢人があればたてまつれとおおせられましたから、命を受けてたてまつった人はワニキシといい、『論語』十巻・『千字文』一巻、あわせて十一巻をこの人につけてたてまつりました。また工人の鍛冶屋卓素(たくそ)という者、また機を織る西素(さいそ)の二人をもたてまつりました。秦の造、漢の直の祖先、それから酒をつくることを知っているニホ、またの名をススコリという者らも渡ってまいりました。このススコリはお酒をつくって献(たてまつ)りました。天皇がこの献(たてまつ)ったお酒にうかれてお詠みになった歌は、

 ススコリの醸(かも)したお酒にわたしは酔いましたよ。
 平和なお酒、楽しいお酒にわたしは酔いましたよ。

 かようにお歌いになっておいでになった時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになったから、その石が逃げ走りました。それでことわざに「固い石でも酔人(よっぱらい)にあうと逃げる」というのです。

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