現代語訳 古事記(四)
稗田の阿礼、太の安万侶武田祐吉(訳)
古事記 中の巻
五、
景行天皇の
オオタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)
ここに天皇は、
ヤマトタケルの命の西征
――英雄ヤマトタケルの命 の物語ははじまる。劇的な構成に注意。――
天皇がオウスの命におおせられるには「お前の兄はどうして朝夕のお食事に出てこないのだ? お前が引き受けて教え申せ」とおおせられました。かようにおおせられて五日たってもやはり出て来ませんでした。そこで、天皇がオウスの命におたずねになるには「どうしてお前の兄がながい間出てこないのだ? もしやまだ教えないのか?」とおたずねになったので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか?」とおおせられましたので、お答えして「朝早く
そこで天皇は、その
イヅモタケル
――『日本書紀』では、全然ヤマトタケルの命と関係のない物語になっている。種々の物語がこの英雄のこととして結びついてゆく。――
そこで出雲の国にお入りになって、そのイヅモタケルを
かように平定して、朝廷に帰ってご返事申し上げました。
ヤマトタケルの命の東征
――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまって、美しい物語になっている。――
ここに天皇は、また続いてヤマトタケルの
かくて尾張の国においでになって、尾張の国の
そこからおいでになって、
高い山の立つ相模 の国の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立って
わたくしをおたずねになったわが君。
燃え立つ火の、その火の中に立って
わたくしをおたずねになったわが君。
かくして七日すぎての後に、そのお
それから入っておいでになって、ことごとく悪い
その国から越えて甲斐に出て、
常陸の新治 ・筑波 をすぎて幾夜 寝 たか。
ここにその火を
と歌いました。そこでその老人をほめて、
かくてその国から信濃の国にお越えになって、そこで信濃の坂の神をたいらげ、尾張の国に帰っておいでになって、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにお入りになりました。ここでごちそうをたてまつる時に、ミヤズ姫がお
そのようなたおやかな
あなたの
そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。
ご威光すぐれた、わたしの大君さま。
新しい年がきて、すぎて行けば、
新しい月はきて、すぎて行きます。
ほんとうにまあ、あなたさまをお待ちいたしかねて
わたくしの着ております
月も出るでございましょうよ。
そこでご結婚あそばされて、その
――クニシノビ歌の歌曲 を中心として、英雄の悲壮な最後を語る。――
そこで「この山の神は
そこからお立ちになって
尾張の国に真直 に向かっている
尾津 の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だったら
大刀 を佩 かせようもの、着物を着せようもの、
一本松よ。お前。
一本松よ。お前。
一本松が人だったら
一本松よ。お前。
そこからおいでになって、
そこからおいでになって、
大和は国の中の国だ。
重 なり合っている青い垣、
山に囲まれている大和は美しいなあ。
命が無事だった人は、
大和の国の平群 の山の
りっぱなカシの木の葉を
頭挿 にお挿 しなさい。お前たち。
山に囲まれている大和は美しいなあ。
命が無事だった人は、
大和の国の
りっぱなカシの木の葉を
と、お歌いになりました。この歌は
なつかしのわが家 の方 から雲が立ち昇 ってくるわい。
これは
わたしの置いてきた良く切れる
あの
と歌い終わって、お
――大葬に歌われる歌曲 を中心としている。白鳥には、神霊を感じている。――
ここに大和においでになるお
稲の
しかるにそこから大きな白鳥になって天に飛んで、浜に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお
空中からは行かずに、
また、海水に入って、海水の中を骨を
海の方 から行けば行き悩 む。
大河原 の草のように、
海や河 をさまよい行く。
海や
また飛んで、そこの磯においであそばされたときの
浜の千鳥 、浜からは行かずに磯づたいをする。
この四首の歌はみな、そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇のお葬式に歌うのです。そこでその国から飛び
ヤマトタケルの
――実際あり得ない関係も記されている。――
このヤマトタケルの命が、
それでタラシナカツ彦の命は天下をお
このオオタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、
成務天皇
――国県の堺を定め、国の造、県主 を定め、地方行政の基礎が定められた。――
ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)
六、仲哀天皇
タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)
神功皇后
――御母はシラギ人・天 の日矛 の系統で、シラギのことを知っておられたのだろうという。――
皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は
そこで、おどろき
そこでタケシウチの宿祢が、
そこで、ことごとく神の教えたとおりにして軍隊を整え、多くの船をならべて海をお渡りになりましたときに、海中の魚どもは大小となくすべて出て、
かような事がまだ終わりませんうちに、お腹の中の
また筑紫の
カゴサカの王とオシクマの王
――ある戦乱の武勇譚が、歌を挿入して誇張 されてゆく。――
オキナガタラシ姫の命は、大和に帰りおのぼりになる時に、人の心が疑わしいので
このときにオシクマの王は、
さあ君 よ、
フルクマのために負傷 するよりは、
カイツブリのいる琵琶 の湖水に
潜 り入ろうものを。
フルクマのために
カイツブリのいる
と歌って海に入って死にました。
――敦賀市 の気比 神宮 の神の名の由来。――
かくてタケシウチの
酒の座の
――酒宴 の席に演奏される歌曲 の説明。――
そこから帰っておのぼりになる時に、母君のオキナガタラシ姫の
このお酒は、わたくしのお酒ではございません。
お神酒 の長官、常世 の国においでになる
岩になって立っていらっしゃるスクナビコナ様が
祝 って祝 って祝い狂 わせ
祝 って祝 って祝い回 って
献上してきたお酒なのですよ。
盃 を乾 かさずに召 しあがれ。
お
岩になって立っていらっしゃるスクナビコナ様が
献上してきたお酒なのですよ。
かようにお歌いになってお酒をたてまつりました。そのときにタケシウチの宿祢が
このお酒を醸造 した人は、
その太鼓を臼 に使って、
歌いながら作ったゆえか、
舞いながら作ったゆえか、
このお酒の
不思議に楽しいことでございます。
その太鼓を
歌いながら作ったゆえか、
舞いながら作ったゆえか、
このお酒の
不思議に楽しいことでございます。
これは
すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、
七、応神天皇
ホムダワケの命(応神天皇)
オオヤマモリの命とオオサザキの命
――天皇が、兄弟の御子 に対してテストをされる。その結果、弟が帝位を継承することになる。これもきまった型で、兄の系統ではあるが、臣下となったという説明の物語である。これはあとに後続の説話がある。――
ここに天皇がオオヤマモリの命とオオサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか?」とおたずねなさいました。天皇がかようにおたずねになったわけは、ウジの若郎子に天下をお授けになろうとする
――国ほめの歌曲 の一つ。――
あるとき、天皇が近江の国へ越えてお出ましになりましたときに、宇治野の上にお立ちになって
葉の茂 った葛野 を見れば、
幾千も富み栄えた家居が見える、
国の中での良いところが見える。
幾千も富み栄えた家居が見える、
国の中での良いところが見える。
カニの歌
――カニと鹿とは、古代の主要な食料であった。そのカニを材料とした歌曲 の物語である。ここではワニ氏の娘が関係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に娘をたてまつり、歌物語を多く伝えた家である。――
かくて
このカニはどこのカニだ?
遠くの方の敦賀 のカニです。
横歩 きをしてどこへ行くのだ?
イチジ島・ミ島について、
カイツブリのように水に潜 って息 をついて、
高低のあるササナミへの道を
まっすぐにわたしが行 きますと、
木幡 の道で出会った嬢子 、
後姿 は楯のようだ。
歯ならびは椎 の子 や菱 の実のようだ。
櫟井 の丸迩坂 の土 を
上の土 はお色 が赤い、
底の土は真 っ黒 ゆえ
真 ん中 のその中の土を
かぶりつく直火 には当 てずに
画 き眉 を濃くかいて
お会 いになったご婦人、
このようにもとわたしの見たおじょうさん、
あのようにもとわたしの見たおじょうさんに、
思いのほかにも向かっていることです。
添 っていることです。
遠くの方の
イチジ島・ミ島について、
カイツブリのように水に
高低のあるササナミへの道を
まっすぐにわたしが
歯ならびは
上の
底の土は
かぶりつく
お
このようにもとわたしの見たおじょうさん、
あのようにもとわたしの見たおじょうさんに、
思いのほかにも向かっていることです。
かくてご結婚なすってお
髪長姫
――酒宴 で嬢子 を贈り、また嬢子 を得たよろこびの歌曲 。古く諸県舞 という舞があったが、関係があるかもしれない。――
また天皇が、日向の国の
さあお前 たち、野蒜 つみに
蒜 つみにわたしの行く道の
香 ばしい花橘 の樹、
上の枝は鳥がいて枯 らし
下の枝は人が取って枯 らし、
三栗 のような真 ん中 の枝の
目立って見える紅顔のおじょうさんを
さあ、手に入れたらよいでしょう。
上の枝は鳥がいて
下の枝は人が取って
目立って見える紅顔のおじょうさんを
さあ、手に入れたらよいでしょう。
また、
水のたまっている依網 の池の
堰杙 を打 ってあったのを知らずに
ジュンサイを手繰 って手の延 びていたのを知らずに
気のつかないことをして残念だった。
ジュンサイを
気のつかないことをして残念だった。
かようにお歌いになって
遠い国の古波陀 のおじょうさんを、
雷鳴 のように音高く聞いていたが、
わたしの妻 としたことだった。
わたしの
また、
遠い国の古波陀 のおじょうさんが、
争わずにわたしの妻となったのは、
かわいい事さね。
争わずにわたしの妻となったのは、
かわいい事さね。
――吉野山中の土民の歌曲 。――
また、吉野のクズどもがオオサザキの命の
天子様の日の御子 である
オオサザキ様、
オオサザキ様のお佩 きになっている大刀 は、
本はするどく、切先 は魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴りわたる。
オオサザキ様、
オオサザキ様のお
本はするどく、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴りわたる。
また、吉野のカシの木のほとりに
カシの木の原に横の広い臼 を作り
その臼 に醸 したお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの父 さん。
その
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの
この歌は、クズどもが土地の産物を
文化の渡来
――大陸の文化の渡来した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。――
この
また、
ススコリの醸 したお酒にわたしは酔いましたよ。
平和 なお酒、楽しいお酒にわたしは酔いましたよ。
かようにお歌いになっておいでになった時に、
オオヤマモリの命とウジの
――オオヤマモリの命を始祖と称する山部の人々の伝えた物語。――
かくして天皇がお
流れの早い宇治川 の渡り場に
棹 を取るに早い人はわたしのなかまに来てくれ。
そこで河のほとりに
流れの早い宇治川の渡り場に
渡り場に立っている梓弓 とマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
本 の方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしくそこで思い出し
かわいそうにそこで思い出し、
切らないできた梓弓 とマユミの木。
渡り場に立っている
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
末の方では妻を思い出し
いらだたしくそこで思い出し
かわいそうにそこで思い出し、
切らないできた
そのオオヤマモリの命の死体をば
かくてオオサザキの命とウジの
――異類婚姻 説話の一つ、朝鮮系統のものである。終わりに出石 神社の由来がある。但馬の国の語部 が伝えたのだろう。――
また
そのうかがっていた
そこで
この
――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずっと日本風になっている。海幸・山幸物語との類似点に注意。――
ここに神の
そこでその兄に「わたしはイヅシ
系譜
――允恭 天皇の皇后の出る系譜であり、後に継体 天皇が、この系統から出る。――
このホムダの天皇〔応神天皇。
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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現代語譯 古事記(四)
稗田の阿禮、太の安萬侶武田祐吉訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
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[#3字下げ]五、景行天皇・成務天皇[#「五、景行天皇・成務天皇」は中見出し]
[#5字下げ]景行天皇の后妃と皇子女[#「景行天皇の后妃と皇子女」は小見出し]
オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉備《きび》の臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨《はりま》のイナビの大郎女《おおいらつめ》と結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女《むすめ》ヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御子《みこ》がおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の七十七王は悉く諸國の國の造《みやつこ》・別《わけ》・稻置《いなき》・縣主《あがたぬし》等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウスの命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は、日向の國の造の祖先です。
ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫《えひめ》弟姫《おとひめ》の二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須《うねす》の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都《むげつ》の君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門《みなと》をお定めになり、また膳《かしわで》の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその堤に竹を植えさせなさいました。
[#5字下げ]ヤマトタケルの命の西征[#「ヤマトタケルの命の西征」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。劇的な構成に注意。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠《かわや》におはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦《こも》につつんで投げすてました」と申しました。
そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室《むろ》を作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳《けず》り下げ、叔母樣のお衣裳をお著《つ》けになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣《さま》はどなたでいらつしやいますか」と申しましたから、「わたしは纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。
[#5字下げ]イヅモタケル[#「イヅモタケル」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――日本書紀では、全然ヤマトタケルの命と關係のない物語になつている。種々の物語がこの英雄の事として結びついてゆく。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃《う》とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮《いちいのき》で刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥《ひ》の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換《か》えよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑《いど》まれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになつた歌、
[#ここから3字下げ]
雲《くも》の叢《むらが》り立つ出雲《いづも》のタケルが腰にした大刀は、
蔓《つる》を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。
[#ここで字下げ終わり]
かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。
[#5字下げ]ヤマトタケルの命の東征[#「ヤマトタケルの命の東征」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまつて、美しい物語になつている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備《きび》の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊《ひいらぎ》の長い矛《ほこ》を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでになるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢《ふくろ》をお授けになつて、「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。
かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造《みやつこ》の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐《いつわ》つて言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打《ひうち》がありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥《はら》い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津《やいず》といつております。
其處からおいでになつて、走水《はしりみず》の海をお渡りになつた時にその渡《わたり》の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪《な》いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
[#ここから3字下げ]
高い山の立つ相摸《さがみ》の國の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立つて
わたくしをお尋ねになつたわが君。
[#ここで字下げ終わり]
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。
それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷《えぞ》どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄《あしがら》の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端《かたはし》をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻《あずま》とはいうのです。
その國から越えて甲斐に出て、酒折《さかおり》の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、
[#ここから3字下げ]
常陸の新治《にいはり》・筑波《つくば》を過《す》ぎて幾夜《いくよ》寢《ね》たか。
[#ここで字下げ終わり]
ここにその火《ひ》を燒《た》いている老人が續いて、
[#ここから3字下げ]
日數《ひかず》重《かさ》ねて、夜《よ》は九夜《ここのよ》で日《ひ》は十日《とおか》でございます。
[#ここで字下げ終わり]
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻《あずま》の國の造になさいました。
かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛《うちかけ》の裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、
[#ここから3字下げ]
仰《あお》ぎ見る天《あめ》の香具山《かぐやま》
鋭《するど》い鎌のように横ぎる白鳥《はくちよう》。
そのようなたおやかな弱腕《よわうで》を
抱《だ》こうとはわたしはするが、
寢《ね》ようとはわたしは思うが、
あなたの著《き》ている打掛《うちかけ》の裾に
月《つき》が出ているよ。
[#ここで字下げ終わり]
そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。
[#ここから3字下げ]
照り輝く日のような御子《みこ》樣
御威光すぐれたわたしの大君樣。
新しい年が來て過ぎて行けば、
新しい月は來て過ぎて行きます。
ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて
わたくしのきております打掛の裾に
月も出るでございましようよ。
[#ここで字下げ終わり]
そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。
[#5字下げ]望郷の歌[#「望郷の歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
そこで「この山の神は空手《からて》で取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢《あ》いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨《だいひようう》を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉倉部《たまくらべ》の清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤《さ》めになりました。そこでその清水を居寤《いさめ》の清水と言うのです。
其處からお立ちになつて當藝《たぎ》の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝《たぎ》といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝《つえつき》坂といいます。尾津《おつ》の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
[#ここから3字下げ]
尾張の國に眞直《まつすぐ》に向かつている
尾津の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だつたら
大刀を佩《は》かせようもの、着物を著せようもの、
一本松よ。お前。
[#ここで字下げ終わり]
其處からおいでになつて、三重《みえ》の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。
其處からおいでになつて、能煩野《のぼの》に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、
[#ここから3字下げ]
大和は國の中の國だ。
重《かさ》なり合つている青い垣、
山に圍まれている大和は美しいなあ。
命が無事だつた人は、
大和の國の平群《へぐり》の山の
りつぱなカシの木の葉を
頭插《かんざし》にお插しなさい。お前たち。
[#ここで字下げ終わり]
とお歌いになりました。この歌は思國歌《くにしのびうた》という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
[#ここから3字下げ]
なつかしのわが家《や》の方《ほう》から雲が立ち昇つて來るわい。
[#ここで字下げ終わり]
これは片歌《かたうた》でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌《みうた》を、
[#ここから3字下げ]
孃子《おとめ》の床《とこ》のほとりに
わたしの置いて來た良《よ》く切れる大刀《たち》、
あの大刀《たち》はなあ。
[#ここで字下げ終わり]
と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。
[#5字下げ]白鳥の陵[#「白鳥の陵」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてお泣きになつてお歌いになりました。
[#ここから3字下げ]
周《まわ》りの田の稻の莖《くき》に、
稻の莖に、
這い繞《めぐ》つているツルイモの蔓《つる》です。
[#ここで字下げ終わり]
しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹《しのだけ》の苅株《かりくい》に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、
[#ここから3字下げ]
小篠《こざさ》が原を行き惱《なや》む、
空中からは行かずに、歩《ある》いて行くのです。
[#ここで字下げ終わり]
また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、
[#ここから3字下げ]
海《うみ》の方《ほう》から行《ゆ》けば行き惱《なや》む。
大河原《おおかはら》の草のように、
海や河《かわ》をさまよい行く。
[#ここで字下げ終わり]
また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、
[#ここから3字下げ]
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
[#ここで字下げ終わり]
この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔《た》つておいでになつて、河内の志幾《しき》にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつた時に、久米の直《あたえ》の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。
[#5字下げ]ヤマトタケルの命の系譜[#「ヤマトタケルの命の系譜」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――實際あり得ない關係も記されている。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代《やましろ》のククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。
それでタラシナカツ彦の命は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁《とお》の別・麻佐の首《おびと》・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代《いわしろ》の別・漁田《すなきだ》の別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。
[#5字下げ]成務天皇[#「成務天皇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――國縣の堺を定め、國の造、縣主を定め、地方行政の基礎が定められた。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀《しが》の高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積《ほづみ》の臣の祖先、タケオシヤマタリネの女のオトタカラの郎女《いらつめ》と結婚してお生みになつた御子はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿禰を大臣となされ、大小國々の國の造をお定めになり、また國々の堺、また大小の縣の縣主《あがたぬし》をお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀《さき》の多他那美《たたなみ》にあります。
[#3字下げ]六、仲哀天皇[#「六、仲哀天皇」は中見出し]
[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門《あなと》の豐浦《とよら》の宮また筑紫《つくし》の香椎《かしい》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕に鞆《とも》の形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました。
[#5字下げ]神功皇后[#「神功皇后」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――御母はシラギ人天の日矛の系統で、シラギのことを知つておられたのだろうという。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸《かみがか》りをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈《ひ》きになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、「西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう」と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高い處に登つて西の方を見ても、國が見えないで、ただ大海のみだ」と言われて、詐《いつわり》をする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つておいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて「すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈き遊ばせ」と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生々《なまなま》にお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の音が聞えなくなりました。そこで火を點《とも》して見ますと、既にお隱《かく》れになつていました。
そこで驚き恐懼《きようく》して御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣帛《へいはく》を取つて、生剥《いけはぎ》・逆剥《さかはぎ》・畦離《あはな》ち・溝埋《みぞう》め・屎戸《くそへ》・不倫の結婚の罪の類を求めて大祓《おおばらえ》してこれを清め、またタケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」とお教えになりました。
そこでタケシウチの宿禰が、「神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹《はら》においでになる御子は何の御子でございますか と申しましたところ、「男の御子だ」と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」と申しましたところ、お答え遊ばされるには「これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛《へいはく》を奉り、わたしの御魂《みたま》を御船《みふね》の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠《ひさご》に入れ、また箸《はし》と皿とを澤山に作つて、悉く大海に散《ち》らし浮《うか》べてお渡《わた》りなさるがよい」と仰せなさいました。
そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅《しらぎ》の國に押し上つて國の半にまで到りました。依つてその國王が畏《お》じ恐れて、「今から後は天皇の御命令のままに馬飼《うまかい》として、毎年多くの船の腹を乾《かわか》さず、柁※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《かじさお》を乾《かわか》さずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましよう」と申しました。かような次第で新羅の國をば馬飼《うまかい》とお定め遊ばされ、百濟《くだら》の國をば船渡《ふなわた》りの役所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神として祭つてお還り遊ばされました。
[#5字下げ]鎭懷石と釣魚[#「鎭懷石と釣魚」は小見出し]
かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。
また筑紫の松浦縣《まつらがた》の玉島の里においでになつて、その河の邊《ほとり》で食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒《めしつぶ》を餌《えさ》にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河《おがわ》といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません。
[#5字下げ]カゴサカの王とオシクマの王[#「カゴサカの王とオシクマの王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――ある戰亂の武勇譚が、歌を插入して誇張されてゆく。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪《も》の船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つて御覽になると、大きな怒り猪《じし》が出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋《く》いました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。
この時にオシクマの王は、難波《なにわ》の吉師部《きしべ》の祖先のイサヒの宿禰《すくね》を將軍とし、太子の方では丸邇《わに》の臣の祖先の難波《なにわ》ネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶つて詐《いつわ》つて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏《しま》いました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢坂《おおさか》に逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫《せま》り敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫《せ》められて、湖上に浮んで歌いました歌、
[#ここから3字下げ]
さあ君《きみ》よ、
フルクマのために負傷《ふしよう》するよりは、
カイツブリのいる琵琶の湖水に
潛り入ろうものを。
[#ここで字下げ終わり]
と歌つて海にはいつて死にました。
[#5字下げ]氣比《けひ》の大神[#「氣比の大神」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊《みそぎ》をしようとして近江また若狹《わかさ》の國を經た時に、越前の敦賀《つるが》に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀《やぶ》れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食《みけ》つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦《ちうら》と言いましたが、今では敦賀《つるが》と言います。
[#5字下げ]酒の座の歌曲[#「酒の座の歌曲」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――酒宴の席に演奏される歌曲の説明。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
其處から還つてお上りになる時に、母君のオキナガタラシ姫の命がお待ち申し上げて酒を造つて獻上しました。その時にその母君のお詠み遊ばされた歌は、
[#ここから3字下げ]
このお酒はわたくしのお酒ではございません。
お神酒《みき》の長官、常世《とこよ》の國においでになる
岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が
祝つて祝つて祝い狂《くる》わせ
祝つて祝つて祝い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つて
獻上して來たお酒なのですよ。
盃をかわかさずに召しあがれ。
[#ここで字下げ終わり]
かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、
[#ここから3字下げ]
このお酒を釀造した人は、
その太鼓を臼《うす》に使つて、
歌いながら作つた故か、
舞いながら作つた故か、
このお酒の
不思議に樂しいことでございます。
[#ここで字下げ終わり]
これは酒樂《さかくら》の歌でございます。
すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌《みずのえいぬ》の年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱《かく》れになりました。狹城《さき》の楯列《たたなみ》の御陵にお葬り申し上げました。
[#3字下げ]七、應神天皇[#「七、應神天皇」は中見出し]
[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島《かるしま》の明《あきら》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御子《みこ》は、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎女《いらつめ》・タカモクの郎女《いらつめ》の御《おん》五|方《かた》です。中姫の命の生んだ御子《みこ》は、キノアラタの郎女《いらつめ》・オホサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿部《あべ》の郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》は、ウヂの若郎子《わきいらつこ》・ヤタの若郎女《わきいらつめ》・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマタナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田部《たべ》の連の祖先《そせん》のシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊《あそ》ばされました。男王十一人女王十五人です。この中でオホサザキの命は天下をお治めになりました。
[#5字下げ]オホヤマモリの命とオホサザキの命[#「オホヤマモリの命とオホサザキの命」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――天皇が、兄弟の御子に對してテストをされる。その結果弟が帝位を繼承することになる。これもきまつた型で、兄の系統ではあるが、臣下となつたという説明の物語である。これはあとに後續の説話がある。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか」とお尋ねなさいました。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであります。しかるにオホヤマモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申されますには、「大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、「オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです」と仰せになつて、そこでそれぞれに詔《みことのり》を下されて、「オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウヂの若郎子は帝位におつきなさい」とお分《わ》けになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。
[#5字下げ]葛野《かずの》の歌[#「葛野の歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――國ほめの歌曲の一つ。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛野《かずの》を御覽になつてお詠みになりました御歌、
[#ここから3字下げ]
葉の茂《しげ》つた葛野《かずの》を見れば、
幾千も富み榮えた家居が見える、
國の中での良い處が見える。
[#ここで字下げ終わり]
[#5字下げ]蟹の歌[#「蟹の歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
かくて木幡《こばた》の村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞《さかずき》を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
[#ここから3字下げ]
この蟹《かに》はどこの蟹だ。
遠くの方の敦賀《つるが》の蟹です。
横歩《よこある》きをして何處へ行くのだ。
イチヂ島・ミ島について、
カイツブリのように水に潛《くぐ》つて息《いき》をついて、
高低のあるササナミへの道を
まつすぐにわたしが行《ゆ》きますと、
木幡《こばた》の道で出逢つた孃子《おとめ》、
後姿《うしろすがた》は楯のようだ。
齒竝びは椎《しい》の子《み》や菱《ひし》の實のようだ。
櫟井《いちい》の丸邇坂《わにさか》の土《つち》を
上《うえ》の土《つち》はお色《いろ》が赤い、
底の土は眞黒《まつくろ》ゆえ
眞中《まんなか》のその中の土を
かぶりつく直火《じかび》には當てずに
畫眉《かきまゆ》を濃く畫いて
お逢《あ》いになつた御婦人、
このようにもとわたしの見たお孃さん、
あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
思いのほかにも向かつていることです。
添つていることです。
[#ここで字下げ終わり]
かくて御結婚なすつてお生《う》みになつた子がウヂの若郎子《わきいらつこ》でございました。
[#5字下げ]髮長姫[#「髮長姫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――酒宴で孃子を贈り、また孃子を得た喜びの歌曲。古く諸縣舞《むらがたまい》という舞があつたが、關係があるかもしれない。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
また天皇が、日向の國の諸縣《むらがた》の君の女《むすめ》の髮長姫《かみながひめ》が美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召《め》し上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰《すくね》にお頼みになるには「この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉《かしわ》を取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、
[#ここから3字下げ]
さあお前《まえ》たち、野蒜《のびる》摘《つ》みに
蒜《ひる》摘《つ》みにわたしの行く道の
香《こう》ばしい花橘《はなたちばな》の樹、
上の枝は鳥がいて枯らし
下の枝は人が取つて枯らし、
三栗《みつぐり》のような眞中《まんなか》の枝の
目立つて見える紅顏のお孃さんを
さあ手に入れたら宜いでしよう。
[#ここで字下げ終わり]
また、
[#ここから3字下げ]
水のたまつている依網《よさみ》の池の
堰杙《せきくい》を打《う》つてあつたのを知《し》らずに
ジュンサイを手繰《たぐ》つて手の延びていたのを知《し》らずに
氣のつかない事をして殘念だつた。
[#ここで字下げ終わり]
かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、
[#ここから3字下げ]
遠い國の古波陀《こはだ》のお孃さんを、
雷鳴《かみなり》のように音高く聞いていたが、
わたしの妻《つま》としたことだつた。
[#ここで字下げ終わり]
また、
[#ここから3字下げ]
遠い國の古波陀《こはだ》のお孃さんが、
爭わずにわたしの妻となつたのは、
かわいい事さね。
[#ここで字下げ終わり]
[#5字下げ]國主歌《くずうた》[#「國主歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――吉野山中の土民の歌曲。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
また、吉野のクズどもがオホサザキの命の佩《お》びておいでになるお刀を見て歌いました歌は、
[#ここから3字下げ]
天子樣の日の御子である
オホサザキ樣、
オホサザキ樣のお佩《は》きになつている大刀は、
本は鋭く、切先《きつさき》は魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴り渡る。
[#ここで字下げ終わり]
また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、
[#ここから3字下げ]
カシの木の原に横の廣い臼を作り
その臼に釀《かも》したお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの父《とう》さん。
[#ここで字下げ終わり]
この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。
[#5字下げ]文化の渡來[#「文化の渡來」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――大陸の文化の渡來した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
この御世に、海部《あまべ》・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新羅人《しらぎびと》が渡つて來ましたので、タケシウチの宿禰がこれを率《ひき》いて堤の池に渡つて百濟《くだら》の池を作りました。
また百濟《くだら》の國王|照古王《しようこおう》が牡馬《おうま》一疋・牝馬《めうま》一疋をアチキシに付けて貢《たてまつ》りました。このアチキシは阿直《あち》の史等《ふみひと》の祖先です。また大刀と大鏡とを貢りました。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千|字文《じもん》一卷、合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛冶屋《かじや》卓素《たくそ》という者、また機《はた》を織る西素《さいそ》の二人をも貢りました。秦《はた》の造《みやつこ》、漢《あや》の直《あたえ》の祖先、それから酒を造ることを知《し》つているニホ、またの名《な》をススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、
[#ここから3字下げ]
ススコリの釀《かも》したお酒にわたしは醉いましたよ。
平和《へいわ》なお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
[#ここで字下げ終わり]
かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺《ことわざ》に「堅い石でも醉人《よつぱらい》に遇うと逃げる」というのです。
[#5字下げ]オホヤマモリの命とウヂの若郎子[#「オホヤマモリの命とウヂの若郎子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――オホヤマモリの命を始祖と稱する山部の人々の傳えた物語。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
かくして天皇がお崩《かく》れになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲《え》ようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《ふねかじ》を具え飾り、さな葛《かずら》という蔓草の根を臼でついて、その汁の滑《なめ》を取り、その船の中の竹簀《すのこ》に塗つて、蹈めば滑《すべ》つて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧《よろい》を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、
[#ここから3字下げ]
流れの早い宇治川の渡場に
棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。
[#ここで字下げ終わり]
そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼《さき》に到つて沈みました。それで鉤《かぎ》をもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、
[#ここから3字下げ]
流れの早い宇治川の渡場に
渡場に立つている梓弓とマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
本の方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしく其處で思い出し
かわいそうに其處で思い出し、
切らないで來た梓弓とマユミの木。
[#ここで字下げ終わり]
そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形《ひじかた》の君・幣岐《へき》の君・榛原《はりはら》の君等の祖先です。
かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海人《あま》が貢物を獻りました。依つて兄の王はこれを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされることは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、「海人だから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。
[#5字下げ]天の日矛[#「天の日矛」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――異類婚姻説話の一つ、朝鮮系統のものである。終りに出石神社の由來がある。但馬の國の語部が傳えたのだろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
また新羅《しらぎ》の國王の子の天《あめ》の日矛《ひほこ》という者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。
その伺つていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包《つつ》んで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たちの飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飮食物を牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう」と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答えて言うには、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです」と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心|奢《おご》りして妻を詈《ののし》りましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言つて、竊に小船に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つて更に還つて、但馬《たじま》の國に船|泊《は》てをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生《う》んだ子はタヂマモロスクです。その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚して生《う》んだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪《めい》のユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。
この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたもの二本、また浪振る領巾《ひれ》・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社《やしろ》に祭《まつ》つてある八神です。
[#5字下げ]秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫[#「秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずつと日本ふうになつている。海幸山幸物語との類似點に注意。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ここに神の女《むすめ》、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下氷壯夫《したひおとこ》・春山の霞壯夫《かすみおとこ》という兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ孃子を得ようと思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか」と言いましたから、「たやすいことです」と言いました。そこでその兄の言いますには、「もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈《たけ》ほどに甕《かめ》に酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走をしよう」と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣《ころも》・褌《はかま》・襪《くつした》・沓《くつ》まで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓矢《ゆみや》を孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。
そこでその兄に「わたしはイヅシ孃子を得ました」と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うには、「わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない」と言つて、その兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛言《のろいごと》を言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎《しお》れるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈《み》ちたり乾《ひ》たりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」と、このように詛《のろ》つて、竈《かまど》の上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、乾《かわ》き萎《しお》れ病《や》み伏《ふ》しました。そこでその兄が、泣《な》き悲しんで願いましたから、その詛《のろい》の物をもとに返しました。そこでその身がもとの通りに安らかになりました。
[#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息長《おきなが》の君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人の君・山道の君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の裳伏《もふし》の岡にあります。
[#改ページ]
(つづく)
底本:
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
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*地名
[常陸] ひたち 旧国名。今の茨城県の大部分。常州。
新治 にいはり/にいばり 郡名・村名。現、新治郡千代田村新治。
筑波 つくば (古くは清音) 茨城県筑波郡の旧地名。
[安房] あわ 旧国名。今の千葉県の南部。房州。
安房の水門 あわのみなと 淡水門。比定地は浦賀水道・館山湾・平久里川(湊川)下流左岸館山市湊の三説がある。
[相模] さがみ 旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
走水の海 はしりみずのうみ 浦賀水道のこと。
走水 はしりみず 村名。現、神奈川県横須賀市走水。
足柄 あしがら 神奈川県南西部の地方名。
坂本 さかもと 現、南足柄市足柄山。
[駿河] するが 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
焼津 やいづ 静岡県中部の市。駿河湾西岸に位置する遠洋漁業の根拠地で、缶詰など水産加工業が盛ん。日本武尊東征の際に、草を薙いで火難を鎮めた所という。人口12万。
[吾妻] 東・吾妻・吾嬬 あずま (1) (景行紀に、日本武尊が東征の帰途、碓日嶺から東南を眺めて、妃弟橘媛の投身を悲しみ、「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある)日本の東部地方。古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を指すようになった。(2) 特に京都からみて関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称。
[信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
[甲斐] かい 旧国名。いまの山梨県。甲州。
酒折宮 さかおりのみや 日本武尊が東征の途中立ち寄ったという伝説の地。甲府市の酒折宮がその址とされる。
[尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
[美濃] みの 旧国名。今の岐阜県の南部。濃州。
三野 → 美濃
当芸の野 たぎのの → 当芸野
当芸野 たぎの 多芸野。現、岐阜県養老郡養老町か。養老の滝。
牟宜都 むげつ 現、岐阜県武儀郡。県中央部。大化前代に牟義都国があり、国造は牟義都氏(牟宜都、身毛などとも記す)。中心は現、美濃市・関市の平野部であったとみられる。
[伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
杖衝坂 つえつきざか 三重県四日市市采女にある東海道の坂の名称。国道1号横の旧東海道にあり、三重県名の由来にもなったヤマトタケルの故事がある急坂。東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の中間に位置する。
伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。
尾津の埼 おつのさき 尾津前。現、桑名郡多度町小山の付近に比定。紀は乙津浜。
三重の村 みえのむら 現、三重郡か。県北部。
能煩野 のぼの 本居宣長の説によれば現、鈴鹿市石薬師町白鳥古墳か。
白鳥陵 しらとりの みささぎ 日本武尊の陵。死後、白鳥に化してとまった所に建てたというもの。伊勢国能褒野のほか、大和・河内にもあった。
[大和] やまと 旧国名。今の奈良県の管轄。
纏向日代宮 まきむくの ひしろのみや 現、桜井市。景行天皇の宮。
坂手の池 さかてのいけ 現、磯城郡田原本町大字阪手に比定。
軽島の明の宮 かるしまの あきらのみや → 軽島豊明宮
軽島豊明宮 かるのしまの とよあきらのみや 軽島明宮とも。応神天皇の皇居。『記』には品陀和気命(応神天皇)が軽島明宮で天下を治めたとあり、また、『紀』応神41年条に天皇が明宮で崩じたことが見えるが詳細は不明。所在地は現在の奈良県橿原市大軽町にある春日神社付近と推定される(日本史)。
平群の山 へぐりのやま 現、生駒郡斑鳩町の矢田丘陵に比定。
平群 へぐり 古代の豪族平群氏の拠点。大和国平群郡。現在の奈良県生駒郡・生駒市南部を中心とした地域。
山の辺の道の上 → 山辺道上陵
山辺道上陵 やまのべの みちのえの みささぎ 現、奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳に比定。
沙紀の多他那美 さきの たたなみ 佐紀の盾列か。佐紀は現、奈良市北部、佐紀町・歌姫町・山陵町付近一帯の総称。奈良市曾布の佐紀丘陵に佐紀盾列古墳群が所在。
狭城の楯列 さきのたたなみ 現、奈良市山陵町。狭城楯列池後陵。成務天皇陵に治定。
奈良山 ならやま 奈良県添上郡佐保および生駒郡都跡村の北の丘陵。現在は奈良市に編入。平城山。(歌枕)
櫟井の丸迩坂 いちいの わにさか 現、天理市和爾町か。和爾村は上街道の楢村東方丘陵に位置する。紀の和珥坂下、記の丸迩坂か。
櫟井 いちい 現、天理市櫟本町か。
剣の池 つるぎのいけ 剣池。大和国高市郡にあった古代の池。記によれば孝元天皇陵はこの池の中の岡の上にあって剣池島上陵とよばれ、橿原市石川町に比定。(日本史)
[若狭] わかさ 旧国名。今の福井県の西部。若州。
[越前] えちぜん 旧国名。今の福井県の東部。古名、こしのみちのくち。
敦賀 つるが 福井県の南部、敦賀湾に面する港湾都市。古代から日本海側における大陸交通の要地。奈良時代には角鹿と称。原子力発電所が立地。人口6万8千。
気比神宮 けひ じんぐう 福井県敦賀市曙町にある元官幣大社。祭神は伊奢沙別命・日本武尊・帯中津彦命・息長帯姫命・誉田別命・豊姫命・武内宿祢。越前国一の宮。
血浦 ちうら 敦賀。
イチジ島
ミ島
木幡の村 こばたのむら
[近江] おうみ (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
玉倉部の清水 たまくらべの しみず 玉倉部邑。現比定地には、(1) 現、米原町醒井説と、(2) 同じく伊吹山の山麓にあって不破と息長の中間に位置する現、岐阜県不破郡関ヶ原大字玉の説とがある。
志賀の高穴穂の宮 しがの たかあなほのみや 景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の皇居。遺称地は大津市坂本穴太町付近。
沙沙那美 ささなみ 篠波。
逢坂 おおさか/おうさか 大津市南部にある、東海道の坂。北西に逢坂山がある。(歌枕)
[淡路] あわじ 旧国名。今の兵庫県淡路島。淡州。
淡路の役所
[河内] かわち (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
志幾 しき 志紀郡。近世の郡域は、八尾市の南部と藤井寺市の東部・柏原市の一部に属する。
恵賀の長江 えがの ながえ?
恵賀 えが 現、羽曳野市恵我之荘か。
恵賀の裳伏の岡 えがの もふしの おか 現、羽曳野市誉田。誉田御廟山古墳。応神天皇陵に比定されている。
難波津 なにわづ 難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬を造り、瀬戸内海へ出る港としていた。
依網 よさみ 摂津国住吉郡と河内国丹比郡の境界付近の古代地名。依網池は現、大阪市住吉区苅田・我孫子町から堺市常磐町にかけて復元。(日本史)
古波陀 こはだ
難波のヒメゴソの社 → 比売許曽神社
比売許曽神社 ひめこそ じんじゃ 大阪市東成区にある神社。旧社格は村社。式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一社(もう一社は高津宮摂社・比売古曽神社)。
[山城] やましろ 旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
葛野 かずの 現、京都市。今の桂川の平野。
宇治野 うじの 村名。現、中央区。六甲山地南麓段丘上に立地する。
宇治川 うじがわ 京都府宇治市域を流れる川。琵琶湖に発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、京都市伏見区淀付近に至って木津川・桂川と合流し、淀川と称する。網代で氷魚・鮎を捕った「宇治の網代」や宇治川の合戦で名高い。
カワラの埼 さき 訶和羅前。
和訶羅河 わからがわ 木津川。淀川の支流。川名は流域によって伊賀川・笠置川・鴨川ともよばれる。古文献には輪韓川・山背川・泉河などと記されてきた。
[摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。
斗賀野 とがの 菟餓野。古代の地名。現、大阪市北区兎我野町周辺を遺称地とする説が有力であるが、現、灘区都賀川流域に比定する説や、夢野の古称と解して兵庫区夢野町付近に求める説もある。
[但馬] たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
出石神社 いずし じんじゃ 兵庫県豊岡市出石町宮内にある元国幣中社。祭神は天日槍命。同命が将来したという8種の神宝を神体とする。但馬国一の宮。
イヅシ河の河島
出石川 いずしがわ 円山川水系の支流で兵庫県豊岡市を流れる一級河川。兵庫県豊岡市但東町小坂に源を発して北西に流れる。豊岡市街地付近にて円山川に合流する。
[出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
肥の河 ひのかわ → 簸川
簸川 ひのかわ日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したという。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。
[穴門] あなと 関門海峡の古称。また、長門国の古称。
豊浦の宮 とよらのみや 現、山口県下関市忌宮神社の境内地あたりと伝えられる。
[筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
[筑前] ちくぜん
香椎の宮 かしいのみや → 香椎宮
香椎宮 かしいぐう 福岡市香椎にある元官幣大社。仲哀天皇・神功皇后を祀る。記紀伝承の橿日宮の旧址に当たるという。香椎廟。
宇美 うみ 福岡県糟屋郡宇美町宇美。三郡山の西に位置し、宇美川の上流域を占める。
伊斗 いと 現、糸島郡二丈町児饗野か。神功皇后の産気を抑えた霊石の伝説にちなむ地名。遺称地とされる深江の子負ヶ原には現在、鎮懐石八幡宮が鎮座。
[肥前] ひぜん 旧国名。一部は今の佐賀県、一部は長崎県。
松浦 まつら 肥前松浦地方(現在の佐賀県・長崎県の北部)の古称。「魏志」に見える末盧(末羅)国にあたる。古代に、松浦県、次いで松浦郡が設置された。梅豆羅国。
松浦県 まつらがた → 松浦
玉島 たましま 現、東松浦郡浜玉町大字南山字玉島。
[熊曽の国]
熊曽国 くまそこく? 豊国は豊日別といい、肥国は建日向日豊久土比泥別といい、熊曽国は建日別といったとされる(記)。熊曽国は、のちの国名でいえば日向・大隅・薩摩の三国の地域になる。
熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。日本武尊の征討伝説で著名。
[日向] ひゅうが (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。
諸県 むらがた/もろかた 諸県郡。古代律令期から明治初期まで日向国南西部一帯に存在した郡。諸県君の本拠地であったと考えられる。
新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
アグ沼 阿具沼
百済 くだら (クダラは日本での称) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)稗田の阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太の安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。
景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
成務天皇 せいむ てんのう 記紀伝承上の天皇。景行天皇の第4皇子。名は稚足彦。
オオタラシ彦オシロワケの天皇 → 景行天皇
吉備の臣 きびのおみ
ワカタケキビツ彦 若建吉備津日子の命。稚武彦命(紀)。孝霊天皇の皇子。母は阿礼比売命の弟女蝿伊呂杼。紀に吉備臣始祖とある。記では吉備下道臣、笠臣の祖。孝霊記に大吉備津日子命と共に針間の道の口として吉備国を言向け和したとある。(神名)
播磨のイナビの大郎女 はりまの伊那毘のおおいらつめ ワカタケキビツ彦の娘。播磨稲日大郎姫。景行天皇の皇后。櫛角別王・大碓命・小碓命(=日本武尊)・倭根子命・神櫛王らの母親。(神名)
クシツノワケの王 櫛角別の王。景行天皇の子。母は播磨のイナビの大郎女。茨田連らの祖。姓氏録には、景行天皇の子で、茨田勝の祖として息長彦人大兄磯城命の記載があるが同神か。(神名)
オオウスの命 大碓の命 → 大碓皇子
大碓皇子 おおうすのみこ 記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。大碓命。景行天皇の皇子で、母は播磨稲日大郎姫。同母兄に櫛角別王、双子の弟に小碓尊(日本武尊)がおり、異母兄弟に成務天皇がいる。牟義都(むげつ、牟宜都・身毛津)君の祖。
オウスの命 小碓の命。またの名はヤマトオグナの命。 → 日本武尊
ヤマトオグナの命 倭男具那の命。ヤマトオグナの王 → 日本武尊
ヤマトネコの命 倭根子の命。
カムクシの王 神櫛の王。神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛で、同母弟に稲背入彦皇子がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。また、讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古・宇陀酒部・酒部公の祖で、国造族の子孫は寒川・植田・高松・神内・三谷・十河などの氏を名乗ったという。
ヤサカノイリ彦の命 八尺の入日子の命。
ヤサカノイリ姫の命 八坂の入日売の命。ヤサカノイリ彦の命の娘。
ワカタラシ彦の命 若帯日子の命。
イオキノイリ彦の命 五百木の入日子の命。
オシワケの命 押別の命。
イオキノイリ姫の命 五百木の入日売の命。
トヨトワケの王 豊戸別の王。
ヌナシロの郎女 いらつめ 沼代の郎女。
ヌナキの郎女 いらつめ 沼名木の郎女。
カグヨリ姫の命 香余理比売の命。
ワカキノイリ彦の王 若木の入日子の王。
キビノエ彦の王 吉備の兄日子の王。
タカギ姫の命 高木比売の命。
オト姫の命 弟比売の命。
日向のミハカシ姫 ひむかの- 日向の美波迦斯毘売。
トヨクニワケの王 豊国別の王。景行天皇の皇子。日向国造の祖。(神名)
イナビの大郎女 おおいらつめ 伊那毘の大郎女。
イナビの若郎女 わかいらつめ 伊那毘の若郎女。イナビの大郎女の妹。
マワカの王 真若の王。(1) 景行天皇の皇子。(2) 仁賢天皇の皇女。母は雄略天皇の皇女の春日大郎女。(神名)
ヒコヒトノオオエの王 日子人の大兄の王。
ヤマトタケルの命 倭建の命、日本武尊。やまとたけるのみこと 古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
スメイロオオナカツ彦の王。須売伊呂大中つ日子の王。倭建の命の曽孫。
カグロ姫 訶具漏比売。スメイロオオナカツ彦の王の娘。
オオエの王 大枝の王
茨田の下の連
守の君
太田の君
島田の君
木の国の酒部の阿比古
宇陀の酒部
日向の国の造
三野の国の造 みのの くにのみやつこ
オオネの王の娘 大根の王。
兄姫 えひめ オオネの王の娘。
弟姫 おとひめ オオネの王の娘。
オシクロのエ彦の王 押黒の兄日子の王。
三野の宇泥須の別 みのの うねすのわけ
オシクロのオト彦の王 押黒の弟日子の王。
牟宜都の君 むげつのきみ 牟義都・身毛などとも書く。現、岐阜県武儀郡に居住した。
大伴部 おおともべ 大和時代に大伴氏が私有した部曲。
クマソタケル 熊曽建。熊襲・熊襲梟師(紀)。熊曽の国の勇猛な二人の兄弟のこと。(神名)
ヤマト姫の命 倭比売の命 → 倭姫命
倭姫命 やまとひめの みこと 垂仁天皇の皇女といわれる伝説上の人物。天照大神の祠を大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して草薙剣を授けたという。
イヅモタケル 出雲建。景行記によると、倭建御子は熊曽建の征伐からの帰途、出雲に寄り、偽の太刀を出雲建に与えて打ち殺した。(神名)
ミスキトモミミタケ彦 御�K友耳建日子
尾張の国の造 みやつこ
ミヤズ姫 宮簀媛 記紀伝承で日本武尊の妃。尾張国造の祖、建稲種公の妹。日本武尊は東征後、草薙剣を媛の許に留めたが、尊の没後、媛は神剣を祀り、熱田神宮の起源をなした。
オトタチバナ姫の命 弟橘媛 日本武尊の妃。穂積氏忍山宿祢の女。記紀の伝説で尊東征の時、相模海上(浦賀水道の辺)で風波の起こった際、海神の怒りをなだめるため、尊に代わって海に投じたと伝える。橘媛。
吾妻の国の造 あずまの くにのみやつこ
信濃の坂の神 しなのの/しなぬのさかのかみ 科野之坂神。ヤマトタケルの命が東征の途中、科野国を越える際に言向けた(平定した)神。(神名)
イブキの山の神 伊服岐の山の神。景行記によると、ヤマトタケルの命はイブキの山の神を素手で討ち取ろうと草薙の剣を持たずに山に入った。そして白猪の姿で出現したこの神を神の使者であるといい、帰路に殺そうといってさらに山を登ったところ、神は大氷雨を降らして命を惑わせた。それがもとでヤマトタケルの命は死ぬ。(神名)
久米の直 くめの あたえ
ナナツカハギ 七拳脛 七掬(紀)。久米直の祖。倭建御子の国土平定に膳夫として従った人。(神名)
垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。伊玖米の天皇。
フタジノイリ姫の命 布多遅の伊理毘売の命 垂仁天皇の娘。
タラシナカツ彦の命 帯中津日子の命 → 仲哀天皇
仲哀天皇 ちゅうあい てんのう 記紀伝承上の天皇。日本武尊の第2王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦。熊襲征討の途中、筑前国の香椎宮で没したという。
ワカタケルの王 若建の王。倭建御子の子。母は弟橘比売命。その後裔は応神天皇の皇位継承にあたって対抗した忍熊王に連なる。紀では倭建御子と両道入姫との間の第四子としている。(神名)
近江の安の国の造 近つ淡海の安の国の造 ちかつおうみの やすの くにのみやつこ
オオタムワケ 意富多牟和気
フタジ姫 布多遅比売 オオタムワケの娘。
イナヨリワケの王 稲依別の王 第12代景行天皇の孫で日本武尊の第1子。母は両道入姫皇女(垂仁天皇の皇女)。第14代仲哀天皇の同母兄とされる。
吉備の臣タケ彦 吉備の臣建日子
大吉備のタケ姫 大吉備の建比売 吉備の臣タケ彦の妹。
タケカイコの王 建貝児の王
山代のククマモリ姫 山代の玖玖麻毛理比売
アシカガミワケの王 足鏡別の王
オキナガタワケの王 息長田別の王
犬上の君 いぬかみの-
建部の君 たけべの-
讃岐の綾の君 さぬきの-
伊勢の別
登袁の別 とおのわけ
麻佐の首 〓のおびと
宮の首の別
鎌倉の別
小津の石代の別 〓の いわしろのわけ
漁田の別 すなきだのわけ
クイマタナガ彦の王 杙俣長日子の王 オキナガタワケの王の子。
イイノノマクロ姫の命 飯野の真黒比売の命
オキナガマワカナカツ姫 息長真若中つ比売
弟姫 おとひめ
スメイロオオナカツ彦の王 須売伊呂大中つ日子の王
近江のシバノイリキ 淡海の柴野入杵
シバノ姫 柴野比売 近江のシバノイリキの娘。
カグロ姫の命 迦具漏比売の命
オオタラシ彦の天皇 大帯日子の天皇 → 景行天皇
オオエの王 大江の王
シロガネの王 銀の王
オオナガタの王 大名方の王
オオナカツ姫の命 大中津比売の命 オオエの王の娘。
カゴサカの王 香坂の王
オシクマの王 忍熊の王、忍熊皇子。仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の女・大中姫(大中比売命)。カゴサカの王の同母弟。
成務天皇 せいむ てんのう 記紀伝承上の天皇。景行天皇の第4皇子。名は稚足彦。
ワカタラシ彦の天皇 → 成務天皇
穂積の臣 ほづみのおみ
タケオシヤマタリネ 建忍山垂根
オトタカラの郎女 弟財のいらつめ タケオシヤマタリネの娘。
ワカヌケの王 和訶奴気の王
タケシウチの宿祢 建内の宿禰 → 武内宿祢
武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
オキナガタラシ姫の命 息長帯比売の命 → 神功皇后
神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
ホムヤワケの命 品夜和気の命
オオトモワケの命 大鞆和気の命 またの名はホムダワケの命。
ホムダワケの命 品陀和気の命 → 応神天皇
応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
天日槍・天之日矛 あめのひぼこ 記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
アマテラス大神 天照大神・天照大御神 伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
ソコツツノオ 底筒男命 → 住吉の大神
ナカツツノオ 中筒男命 → 住吉の大神
ウワツツノオ 表筒男命 → 住吉の大神
住吉の大神 住吉三神。神道で信仰される神で、底筒男命、中筒男命、表筒男命の総称である。住吉大神ともいう
カツト姫 勝門比売
難波の吉師部 なにわの きしべ
イサヒの宿祢 すくね 伊佐比の宿祢 将軍。五十狭茅宿祢。仲哀記によると、香坂王と忍熊王の反乱に忍熊王の将として従い、山代で建振熊命と戦って敗れ、逢城から沙々那美へと後退し、遂に忍熊王と共に琵琶湖に沈んだ。難波吉師部の祖。(神名)
丸迩の臣 わにのおみ
難波ネコタケフルクマの命 なにわ- 難波根子建振熊の命。
気比の大神 けひのおおかみ 越前国式内社気比神社(元官幣大社)の祭神。気比明神といい、伊奢沙別命・倭建御子・帯中津彦命・息長帯姫命・誉田別命・豊姫命・武内宿祢命七座の総称。(神名)
イザサワケの大神 伊奢沙和気の大神の命 伊奢は誘うの意、沙は神稲。和気は男子の敬称とされる。福井県敦賀市気比神宮の祭神。誉田別命(応神天皇)が角鹿に禊した時、夢告により大神と太子とが互いの名を易えたとされる。(神名)
御食つ大神 みけつおおかみ 気比大神である伊奢沙和気大神命の別名。敦賀の気比神。皇太子品陀和気命(応神天皇)と名前を交換したとき、御食之魚を献じたことによる名。(神名)/古事記で、応神天皇に魚を奉ったので御食津大神と称された。
スクナビコナ 少彦名神 日本神話で、高皇産霊神(古事記では神産巣日神)の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭などの法を創めたという。
ホムダノマワカの王 品陀の真若の王 父は景行天皇の皇子イオキノイリ彦の命。
タカギノイリ姫の命 高木の入日売の命 高城入姫(紀)。応神天皇の妃。
中姫の命 なかつひめのみこと 中日売の命。仲姫(紀)。応神天皇の妃。
弟姫の命 おとひめのみこと 弟日売の命。応神天皇の妃。
尾張の直
タケイナダの宿祢 建稲種命。建伊那陀の宿祢。尾張連らの祖。
シリツキトメ 志理都紀斗売 タケイナダの宿祢の娘。イオキノイリ彦の命との間にホムダノマワカの王を生む。(神名)
ヌカダノオオナカツヒコの命 額田の大中つ日子の命 応神天皇の皇子。
オオヤマモリの命 大山守の命 応神天皇の皇子。皇位を望んで太子のウジの若郎子に対して反乱を起こす。しかし、オオサザキの命によって討たれ、宇治川で殺された。(神名)
イザノマワカの命 伊奢の真若の命 応神天皇の皇子。
オオハラの郎女 いらつめ 大原の郎女 応神天皇の皇女。
タカモクの郎女 いらつめ 高目の郎女 こむくのいらつめ。応神天皇の子。(神名)
キノアラタの郎女 いらつめ 木の荒田の郎女 応神天皇の子。
オオサザキの命 大鷦鷯尊 → 仁徳天皇
仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
ネトリの命 根鳥の命 根取皇子(紀)。応神天皇の皇子。
阿部の郎女 あべの いらつめ
アワジノミハラの郎女 いらつめ 阿貝知の三腹の郎女 淡路御原皇女(紀)。応神天皇の皇女。(神名)
キノウノの郎女 いらつめ 木の菟野の郎女 きのうぬのいらつめ。紀之-(紀)。応神天皇の子。(神名)
ミノの郎女 いらつめ 三野の郎女 みぬのいらつめ。応神天皇の子。(神名)
ワニノヒフレのオオミ 丸邇の比布礼の意富美 応神天皇妃のミヤヌシヤガハエ姫とオナベの郎女の父にあたる。察知して天皇の行幸を待ち、大饗を奉った。応神紀では和珥臣の祖、日触使主とする。(神名)
ミヤヌシヤガハエ姫 宮主矢河枝比売 ワニノヒフレのオオミの娘。応神天皇妃。
ウジの若郎子 わきいらつこ 宇遅の和紀郎子 応神天皇の皇子。京都市宇治神社の祭神。仁徳天皇の異母弟にあたる。(神名)
ヤタの若郎女 わきいらつめ 八田の若郎女 応神天皇の皇女。異母兄である仁徳天皇の妃となった。この婚姻をめぐる后の石之日売(磐之媛)の嫉妬の物語と歌謡が記紀にある。(神名)
メトリの王 女鳥の王 めどりのみこ 応神天皇の子。母はミヤヌシヤガハエ姫。仁徳天皇がメトリの王を妻にしようと速総別王を使いにやるが、メトリの王は速総別王と結婚してしまう。天皇は軍を向けて、宇陀の蘇邇に逃げた二人を殺した。(神名)
ヤガハエ姫 矢河枝比売 → ミヤヌシヤガハエ姫
オナベの郎女 いらつめ 袁那弁の郎女 ヤガハエ姫の妹。
ウジの若郎女 わかいらつめ 宇遅の若郎女
クイマタナガ彦の王 咋俣長日子の王 オキナガタワケの王の子。
オキナガマワカナカツ姫 息長真若中つ比売 クイマタナガ彦の王の娘。応神天皇の妃。
ワカヌケフタマタ/ワカノケフタマタの王 若沼毛二俣の王 応神天皇の皇子。モモシキイロベを妻として七人の子を産んだ。姓氏録には息長氏の祖とされ、後の継体天皇擁立に深く関わる氏族との系譜上の関連が考えられる。(神名)
桜井の田部の連 さくらいの たべの むらじ
シマタリネ 島垂根 系統、事跡不詳。子に安寧帝の妃、イトイ姫がいる。桜井田部連の祖。(神名)
イトイ姫 糸井比売 シマタリネの娘。応神天皇の妃。
ハヤブサワケの命 速総別の命 隼別皇子(紀)。(神名)
日向のイヅミノナガ姫 ひむかのいづみのながひめ 日向の泉の長比売 応神天皇との間にオオハエの王・オハエの王・ハタビの若郎女を生む。
オオハエの王 大羽江の王 大葉枝皇子(紀)。応神天皇の皇子。(神名)
オハエの王 小羽江の王 小葉枝皇子(紀)。応神天皇の皇子。(神名)
ハタビの若郎女 わかいらつめ 檣日の若郎女 幡日-。応神天皇の皇女。
カグロ姫 迦具漏比売 訶具漏比売。ヤマトタケルの命の子孫スメイロオオナカツ彦の王の娘。母は柴野比売。景行天皇に召されて大江王(大枝王)を生んだ。(神名)
カワラダの郎女 いらつめ 川原田の郎女 応神天皇の子。
タマの郎女 いらつめ 玉の郎女 応神天皇の子。
オシサカノオオナカツ姫 忍坂の大中つ比売 応神天皇の皇女。母はカグロ姫。
トホシの郎女 いらつめ 登富志の郎女 応神天皇の皇女。
カタジの王 迦多遅の王 応神天皇の子。
カヅラキノノノイロメ 葛城の野の伊呂売 応神天皇との間にイザノマワカの王を生む。
イザノマワカの王 伊奢の麻和迦の王 応神天皇の皇子。
ワニ氏 わにうじ 和珥氏。丸邇・和邇・丸とも。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族。本拠地は大和国添上郡。
春日氏 かすがし 4世紀に栄えた日本の古代豪族。大和朝廷発足時から大王家に次ぐ地位を占め、4世紀に全盛時代を迎えた。本拠地は現在の奈良市を中心とする地域であるとされる。その後、和珥氏、粟田氏、柿本氏の諸氏が分立する。
日向の国の諸県の君 むらがた/もらがたのきみ 日向諸県君牛諸か。仁徳天皇に娶された髪長姫の父。応神紀には長く朝廷に仕え、退仕し本土に帰る際、姫を献上したと伝える。(神名)
髪長姫 かみながひめ 日向国の諸県君の娘。はじめ応神天皇に喚し上げられたが、後に建内宿禰を介して皇太子オオサザキの命(仁徳天皇)に下賜され、大日下王・長日比売命(または若日下部命)を生む。(神名)
照古王 しょうこおう 肖古王? 近肖古王? 百済の国王。
肖古王 しょうこおう ?- 214 百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)であり、先代の蓋婁王の子。『三国史記』百済本紀・肖古王紀の分注や『三国遺事』王暦では素古王の別名も記される。166年に先王の死去により王位についた。先代の蓋婁王の末年より新羅との交戦態勢に入っており、しばしば新羅と戦った。
近肖古王 きんしょうこおう ?-375 百済の第13代の王(在位:346年 − 375年)であり、第11代の比流王の第2子。346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王であり、『晋書』では余句 (余は百済王族の姓)、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。新羅とは和親を保ち、高句麗との抗争を続けた。
アチキシ 阿知吉師 阿直の史等の祖先。 → 阿直岐
阿直岐 あちき 古代、百済からの渡来人。応神天皇の時に貢使として来朝、皇子菟道稚郎子に経典を講じ、また、百済から博士王仁を招いたと伝える。阿知吉師ともいう。
阿直の史等 あちの ふみひと
ワニキシ 和邇吉師 → 王仁
王仁 わに 古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。和邇吉師。
卓素 たくそ 応神朝に百済より貢上された朝鮮の鍛冶職人。(神名)
西素 さいそ 呉服西素。呉の機織技術者。(神名)
秦の造 はたのみやつこ 渡来系の有力豪族。応神朝に渡来した弓月君の子孫と伝えられる。欽明天皇は夢のお告げにより、秦大津父を大事にすると天下を取れると知らされ重用する。(総覧)
漢の直 あやのあたえ 東漢直。古代の渡来系氏族。阿知使主の子孫と称し、朝廷の記録や外交文書をつかさどった。5世紀ごろ渡来した朝鮮の漢民族の子孫と見られ、大和を本拠とした。7世紀には政治的・軍事的に有力となり、姓は直から忌寸や宿祢に昇格。東漢氏。
ニホ 仁番 またの名をススコリ(須須許理)。酒をつくる。住吉神代紀の辛島恵我須須己里と同一人物と思われる。また、姓氏録の韓国より渡来した曽々保利兄弟と同じとする説もある。(神名)
土形の君 ひじかたのきみ
幣岐の君 へきのきみ
榛原の君 はりはらのきみ
天の日矛 あめのひぼこ 天日槍・天之日矛。記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
アカル姫 → 阿加流比売神
阿加流比売神 あかるひめのかみ 古事記説話で、天之日矛の妻。新羅の女が日の光を受けて懐妊し、生んだ赤玉の成った女神。のち日本に来て難波の比売許曾神社に鎮座した。
但馬のマタオ 多遅摩の俣尾 天之日矛の妻となった前津見の父。
マエツミ 前津見 但馬のマタオの娘。天之日矛の妻。
タジマモロスク 多遅摩母呂須玖 天之日矛の子。
タジマヒネ 多遅摩斐泥 タジマモロスクの子。天之日矛の孫。
タジマヒナラキ 多遅摩比那良岐 タジマヒネの子。タジマモリの父。
タジマモリ 多遅摩毛理 タジマヒナラキの子。田道間守。記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
タジマヒタカ 多遅摩比多訶 タジマヒナラキの子。天之日矛の系譜と神功皇后の出自とをつなぐ位置にある。ただし紀には見えない。
キヨ彦 清日子 清彦(紀)。天之日矛の曾孫タジマヒナラキの子。
タギマノメヒ 当摩の�@斐 タジマキヨ彦の妻。紀にはみられない。(神名)
スガノモロオ 酢鹿の諸男 キヨ彦の子。
スガカマユラドミ 菅竈由良度美 キヨ彦の娘。タジマヒタカの姪。ヒタカとの間に葛城のタカヌカ姫の命を生む。紀には見えない。(神名)
葛城のタカヌカ姫の命 葛城の高額比売の命 大海姫命とも(旧事紀)。高額は大和国葛下郡の郷名。息長宿禰王の妻となり、息長帯日売命(神功皇后)を生む。(神名)
秋山の下氷壮夫 あきやまのしたびをとこ
春山の霞壮夫 はるやまのかすみ おとこ 春山之霞壮夫。古事記伝説で、兄の秋山之下氷壮夫と、伊豆志袁登売神を争ったという神。藤の花の装いで乙女を得る。
イヅシ嬢子 おとめ 伊豆志袁登売
允恭天皇 いんぎょう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿祢。盟神探湯で姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に比定される。
継体天皇 けいたい てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。彦主人王の第1王子。応神天皇の5代の孫という。名は男大迹。
ワカノケフタマタの王 若野毛二俣の王 ホムダの天皇の御子。
モモシキイロベ 百師木伊呂弁 別名、オトヒメマワカ姫の命。応神天皇の皇子であるワカノケフタマタの王の妃となり七子を生んだ。(神名)
オトヒメマワカ姫の命 弟日売真若比売の命 → モモシキイロベ
大郎子 おおいらつこ → オオホドの王
オオホドの王 意富富杼の王 父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)、母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(百師木伊呂弁とも)で、同母妹の忍坂大中姫・衣通姫は允恭天皇に入内している。意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君などの祖。
オサカノオオナカツ姫の命 忍坂の大中津比売の命 ワカノケフタマタの王の子。母はモモシキイロベ。允恭天皇が皇子であったときに召されて妃となる。木梨軽皇子・大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)ら九王を生んだ。(神名)
タイノナカツ姫 田井の中比売 応神天皇の子のワカノケフタマタの王とモモシキイロベとの間の子。允恭記にはその名代として河部が定められている。紀には不載。(神名)
タミヤノナカツ姫 田宮の中比売
フジハラノコトフシの郎女 いらつめ 藤原の琴節の郎女 応神天皇の皇子であるワカノケフタマタの王の娘。母はモモシキイロベ。紀には記載がない。(神名)
トリメの王 取売の王 ワカノケフタマタの王の子。母はモモシキイロベ。
サネの王 沙禰の王 ワカノケフタマタの王の子。母はモモシキイロベ。
三国の君 みくにのきみ
波多の君 はたのきみ
息長の君 おきながのきみ
筑紫の米多の君
長坂の君
酒人の君 さかびとのきみ
山道の君 やまじのきみ
布勢の君 ふせのきみ
ネトリの王 根鳥の王 → ネトリの命
ミハラの郎女 いらつめ 三腹の郎女 三原郎女。ネトリの王の庶妹。
ナカツ彦の王 中日子の王 応神天皇の子根鳥の王の子。母はミハラの郎女。(神名)
イワシマの王 伊和島の王
カタシワの王 堅石の王
クヌの王 久奴の王 応神天皇の子カタシワの王を父とする。(神名)
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
国の造 くにのみやつこ 国造。(「国の御奴」の意)古代の世襲の地方官。ほぼ1郡を領し、大化改新以後は多く郡司となった。大化改新後も1国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。
別 わけ 古代の姓の一つ。主として古来の地方豪族が称した。
稲置 いなき/いなぎ (1) 古代の下級地方官。隋書東夷伝に「八十戸置一伊尼翼如今里長也。十伊尼翼属一軍尼」とある。(2) 八色姓の第8位。
県主 あがたぬし 大和時代の県の支配者。後に姓の一つとなった。
田部 たべ 大和時代、屯倉の耕作に従事した農民。
膳・膳夫 かしわで (古代、カシワの葉を食器に用いたことから) (「膳部」と書く)大和政権の品部で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事の調製を指揮した下級官人。長は膳臣と称し、子孫の嫡系は高橋朝臣。かしわべ。
櫟・赤檮・石� いちい 「いちいがし」に同じ。
石� いちいがし ブナ科の常緑高木。暖地産で高さ約30メートルに達し、葉は先端で急にとがる。葉の裏面、若枝は黄褐色の短毛で被われる。実は大形で食用となり、味はシイに似る。材は堅く強靱で、鋤・鍬の柄、大工・土木用具などに用いる。イチイ。イチガシ。
草薙剣 くさなぎのつるぎ 三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾から出たと伝える剣。日本武尊が東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣。
思国歌 くにしのびうた (奈良時代はクニシノヒウタと清音)郷国をしのび、その国土をほめる歌。
片歌 かたうた 雅楽寮で教習した大歌の一体。五・七・七または五・七・五の3句で1首をなす歌で、奈良時代以前には、多くは問答に用いた。江戸時代、建部綾足は俳諧の一体として、片歌の復興を志した。
継妹・庶妹 ままいも (男兄弟から見て)父または母のちがう姉妹。異父姉妹。異母姉妹。
生々 なまなま (2) いいかげんなさま。未熟なさま。中途半端。
大祓 おおはらえ 古来、6月と12月の晦日に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢を祓った神事。現在も宮中を初め全国各神社で行われる。中臣の祓。みそぎはらえ。おおはらい。
鎮懐石 ちんかいせき
武勇譚
葛野の歌 かずののうた
諸県舞 むらがたまい
国主歌 くずうた → 国栖歌か
国栖歌 くずうた 古代、国栖の人が宮廷の儀式の際に宮中承明門外で奏した風俗歌。
国栖・国樔・国巣 くず (1) 古く大和国吉野郡の山奥にあったと伝える村落。また、その村民。在来の古俗を保持して、奈良・平安時代には宮中の節会に参加、贄を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏することが例となっていた。(2) 常陸国茨城郡に土着の先住民。
海部 あまべ 海部・海人部。大和政権で、海運や朝廷への海産物貢納に従事した品部。
山部 やまべ 大和政権で直轄領の山林を管理した品部。
山守部 やまもりべ 大化前代の部。山林の管理により朝廷に奉仕した。記紀によれば応神朝に設定されたという。山守部の分布は畿内近国にのみみられ、職掌は令制下では守山戸に継承されたと考えられる。(日本史)
伊勢部 いせべ 詳細不明。八世紀に礒(磯)部姓の人々は広く見られ、伊蘇部の姓もあるので、伊勢部は礒部のこととする説がある。伊勢神宮の部民とする説もあるが、伊勢国造である伊勢直との関係も考慮すべきか。(日本史)
さな葛 さなかずら サネカズラの古名。
異類婚姻譚 いるい こんいん たん 説話類型の一つ。動物・精霊などと人間との結婚を主題とする話。異類が男性の場合(蛇聟入り・猿聟入りなど)と女性の場合(鶴女房・蛤女房など)とがある。
賤の女 しずのめ 身分のいやしい女。
賤の男 しずのお 身分のいやしい男。しずお。
妾 みめ 御妻・妃。妃・嬪・女御などの敬称。
焼き退けて やきそける 焼き去(そ)く。焼いて払い除く。
ヒル 蒜 ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
ヤマトタケル、神功皇后、天の日矛。
この回(中巻の後半)は話題の英雄登場が多く、気になるところも少くない。気をつけて読んでみたが、地震や火山や津波を想起させる部分はなかった。
日本の神さまをおおざっぱに二分すると、天つ神(あまつかみ)と国つ神(くにつかみ)になり、あわせて天神/地祇(ちぎ)という。天孫降臨にはじまる天つ神は、つまるところ皇族の渡来と平定のエピソードであり、国つ神は、より以前に先住していた民族と考えられ、コシのヤマタノオロチ・出雲のオオクニヌシ・伊勢のヤマト姫らに代表される。国つ神は天つ神による統治を協力したり、あるいはそれに抵抗している。クマソや隼人・クズ・土蜘蛛・蝦夷もまた先住民なのだろうが、国つ神には含まれないように見える。
ボウフラのごとく自然発生したとか、ニホンザルが進化したとか考えないかぎり、この列島に住んでいる人々の祖は時間差と渡航ルートのちがいこそあれ、すべてどこか列島の外からやってきた“渡来系”になる。たぶん単一民族という認識よりも、ことごとく渡来系の子孫からなるバームクーヘン社会という認識が現状に近い。
以後、さらにこのバームクーヘンを味わうべく、喜田貞吉の蝦夷、伊波普猷の沖縄、武田祐吉の風土記・霊異記、それから鳥居龍蔵の北東アジアへと侵食する予定。
さて、日本の神道は多神教だから他文化に対して寛容である、みたいな言説を昨今しょっちゅう見聞きするが、これも黄禍論とおなじぐらいうさんくさい。そう思いたい、というのはやまやまだけれども、はたしてどうか。
皇太子、来県。