武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



もくじ 
現代語訳 古事記(四)中巻(後編)
武田祐吉(訳)


ミルクティー*現代表記版
現代語訳 古事記(四)
  古事記 中の巻
   五、景行天皇・成務天皇
    景行天皇の后妃と皇子女
    ヤマトタケルの命の西征
    イヅモタケル
    ヤマトタケルの命の東征
    望郷の歌
    白鳥の陵(みささぎ)
    ヤマトタケルの命の系譜
    成務天皇
   六、仲哀天皇
    后妃と皇子女
    神功皇后
    鎮懐石と釣魚
    カゴサカの王とオシクマの王
    気比の大神
    酒の座の歌曲
   七、応神天皇
    后妃と皇子女
    オオヤマモリの命とオオサザキの命
    葛野の歌
    カニの歌
    髪長姫
    国主歌(くずうた)
    文化の渡来
    オオヤマモリの命とウジの若郎子
    天の日矛
    秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫
    系譜

オリジナル版
現代語譯 古事記(四)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教/神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html




現代語訳 古事記(四) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)


 古事記 中の巻

   五、景行けいこう天皇・成務せいむ天皇

    景行天皇の后妃こうひと皇子女

 オオタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向まきむく日代ひしろの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇、吉備きびの臣らの祖先のワカタケキビツ彦の娘の播磨はりまのイナビの大郎女おおいらつめと結婚してお生みになった御子みこは、クシツノワケの王・オオウスの命・オウスの命またの名はヤマトオグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の娘ヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、ワカタラシ彦の命・イオキノイリ彦の命・オシワケの命・イオキノイリ姫の命です。またのみめ御子みこは、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女いらつめ、またのみめ御子みこは、ヌナキの郎女いらつめ・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向ひむかのミハカシ姫と結婚してお生みになった御子みこは、トヨクニワケのみこです。またイナビの大郎女おおいらつめの妹、イナビの若郎女わかいらつめと結婚してお生みになった御子みこは、マワカの王・ヒコヒトノオオエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫ひまごのスメイロオオナカツ彦の王の娘のカグロ姫と結婚してお生みになった御子みこは、オオエの王です。すべて天皇の御子みこたちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、あわせて八十の御子みこがおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイオキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名をわれ、他の七十七王はことごとく諸国の国のみやつこわけ稲置いなき県主あがたぬしなどとしておけあそばされました。そこでワカタラシ彦の命〔成務天皇。は天下をおおさめなさいました。オウスの命は東西の乱暴な神、また服従しない人たちを平定あそばされました。つぎにクシツノワケの王は、茨田の下の連らの祖先です。つぎにオオウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。つぎにカムクシの王は木の国の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。つぎにトヨクニワケのみこは、日向の国の造の祖先です。
 ここに天皇は、三野みのの国の造の祖先のオオネの王の娘の兄姫えひめ弟姫おとひめの二人の嬢子おとめが美しいということをお聞きになって、その御子みこのオオウスの命をつかわして、おしになりました。しかるにそのつかわされたオオウスの命が召しあげないで、自分がその二人の嬢子おとめと結婚して、さらに別の娘を求めて、その嬢子おとめだといつわってたてまつりました。そこで天皇は、それが別の娘であることをお知りになって、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオオウスの命が兄姫えひめと結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須うねすの別の祖先です。また弟姫おとひめと結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都むげつの君らの祖先です。この御世みよ田部たべをお定めになり、また東国の安房の水門みなとをお定めになり、またかしわで大伴部おおともべをお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手さかての池を作ってその堤に竹を植えさせなさいました。

    ヤマトタケルの命の西征

―英雄ヤマトタケルのみことの物語ははじまる。劇的な構成に注意。―

 天皇がオウスの命におおせられるには「お前の兄はどうして朝夕のお食事に出てこないのだ? お前が引き受けて教え申せ」とおおせられました。かようにおおせられて五日たってもやはり出て来ませんでした。そこで、天皇がオウスの命におたずねになるには「どうしてお前の兄がながい間出てこないのだ? もしやまだ教えないのか?」とおたずねになったので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか?」とおおせられましたので、お答えして「朝早くかわやにお入りになったときに、待っていてつかまえてつかみひしいで、手足をってこもにつつんで投げすてました」と申しました。
 そこで天皇は、その御子みこの乱暴な心をおそれておおせられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服従しない無礼の人たちだ。だからその人たちを殺せ」とおおせられました。この時に、その御髪おぐしを額でっておいでになりました。そこでオウスの命は、叔母おばさまのヤマト姫の命のお衣装いしょうをいただき、剣をふところに入れておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行ってご覧になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に囲んで守り、むろを作っていました。そこで新築の祝いをしようと言い騒いで、食物を準備しました。よってその近所を歩いて宴会えんかいをする日を待っておいでになりました。いよいよ宴会の日になって、っておいでになる髪を嬢子おとめの髪のようにけずり下げ、叔母さまのお衣装をおけになって嬢子おとめの姿になって女どもの中にまじり立って、その室の中にお入りになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その嬢子おとめを見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。そのうたげの盛んになったときに、みことふところから剣を出し、クマソタケルの衣のえりを取って剣をもってその胸からおし通しあそばされるときに、その弟のタケルが見ておそれて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追って行って、背の皮をつかんでうしろから剣で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かしあそばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押しせておいでになりました。「あなたさまはどなたでいらっしゃいますか?」と申しましたから、「わたしは纏向まきむく日代ひしろの宮においであそばされて天下をおおさめなされるオオタラシ彦オシロワケの天皇の御子みこのヤマトオグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服従しないで無礼だとお聞きなされて、征伐せいばつせよとおおせになって、おつかわしになったのだ」とおおせられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましょう。西の方にわれわれ二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の国にはわれわれにまさった強い方がおいでになったのです。それではお名前を献上いたしましょう。今からはヤマトタケルの御子みこと申されるがよい」と申しました。かように申し終わって、熟したうりを裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルのみことと申し上げるのです。そうして帰っておいでになったときに、山の神・河の神、また海峡の神をみな平定して都におのぼりになりました。

    イヅモタケル

―『日本書紀』では、全然ヤマトタケルの命と関係のない物語になっている。種々の物語がこの英雄のこととして結びついてゆく。―

 そこで出雲の国にお入りになって、そのイヅモタケルをとうとお思いになって、おいでになって、交りをお結びになりました。まずひそかに赤梼いちいのきで刀の形を作ってこれをおびになり、イヅモタケルとともにの河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずおあがりになって、イヅモタケルがいておいた大刀たちをおきになって、大刀たちえよう」とおおせられました。そこで後からイヅモタケルが河からあがって、ヤマトタケルの命の大刀たちきました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀たちを合わせよう」といどまれましたので、おのおの大刀たちを抜くときに、イヅモタケルは大刀たちを抜き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を抜いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでおみになった歌、


くものむらがり立つ出雲いづものタケルが腰にした大刀たちは、
つるをたくさんまいて刀の身がなくて、気のどくだ。

 かように平定して、朝廷に帰ってご返事申し上げました。

    ヤマトタケルの命の東征

―諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまって、美しい物語になっている。―

 ここに天皇は、また続いてヤマトタケルのみことに、「東の方の諸国の悪い神や従わない人たちを平定せよ」とおおせになって、吉備きびの臣らの祖先のミスキトモミミタケ彦という人をえておつかわしになった時に、ヒイラギの長いほこをたまわりました。よってご命令を受けておいでになったときに、伊勢の神宮に参拝して、そこに奉仕しておいでになった叔母さまのヤマト姫のみことに申されるには、「父上はわたくしを死ねと思っていらっしゃるのでしょうか? どうして西の方の従わない人たちを征伐せいばつにおつかわしになって、帰ってまいりましてまだ間もないのに、軍卒ぐんそつもくださらないで、さらに東方諸国の悪い人たちを征伐するためにおつかわしになるのでしょう? こういうことによって思えば、やはりわたくしを早く死ねと思っておいでになるのです」と申して、心憂こころうく思って泣いてお出ましになるときに、ヤマト姫のみことが、草薙くさなぎつるぎをおさずけになり、またふくろをお授けになって、「もし急のことがあったなら、この袋の口をおあけなさい」とおおせられました。
 かくて尾張の国においでになって、尾張の国のみやつこの祖先のミヤズ姫の家へお入りになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また帰ってきた時にしようとお思いになって、約束をなさって東の国においでになって、山や河の乱暴な神たちまたは従わない人たちをことごとく平定あそばされました。ここに相模さがみの国においであそばされたときに、その国のみやつこいつわって言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく乱暴な神です」と申しました。よってその神をご覧になりに、その野においでになりましたら、国のみやつこが野に火をつけました。そこであざむかれたとお知りになって、叔母さまのヤマト姫の命のお授けになった袋の口をといて開けてご覧になりましたところ、その中に火打ひうちがありました。そこでまず御刀をもって草をりはらい、その火打ひうちをもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて焼き退けて帰っておいでになる時に、その国のみやつこどもをみな切りほろぼし、火をつけてお焼きなさいました。そこで今でも焼津やいづといっております。
 そこからおいでになって、走水はしりみずの海をお渡りになった時にそのわたりの神が波を立てて御船みふねがただよって進むことができませんでした。そのときにおきさきのオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子みこにかわって海に入りましょう。御子みこは命ぜられた任務をはたしてご返事を申し上げあそばせ」と申して海にお入りになろうとする時に、スゲの畳八枚、皮の畳八枚、絹の畳八枚を波の上にしいて、その上におおりあそばされました。そこでその荒い波が自然にいで、御船みふねが進むことができました。そこでそのきさきのお歌いになった歌は、

高い山の立つ相模さがみの国の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立って
わたくしをおたずねになったわが君。

 かくして七日すぎての後に、そのおきさきのおぐしが海浜にりました。そのくしを取って、お墓を作っておさめておきました。
 それから入っておいでになって、ことごとく悪い蝦夷どもをたいらげ、また山河の悪い神たちを平定して、帰っておのぼりになる時に、足柄あしがらの坂本にいたって食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になってまいりました。そこで召しあがり残りのひる片端かたはしをもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常におなげきになって、「わたしの妻はなあ」とおおせられました。それからこの国を吾妻あずまとはいうのです。
 その国から越えて甲斐に出て、酒折さかおりの宮においでになった時に、お歌いなされるには、

常陸の新治にいはり筑波つくばをすぎて幾夜いくよたか。

 ここにその火をいている老人が続いて、

日数ひかずかさねて、九夜ここのよ十日とおかでございます。

と歌いました。そこでその老人をほめて、吾妻あずまの国のみやつこになさいました。
 かくてその国から信濃の国にお越えになって、そこで信濃の坂の神をたいらげ、尾張の国に帰っておいでになって、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにお入りになりました。ここでごちそうをたてまつる時に、ミヤズ姫がお酒盃しゅはいをささげてたてまつりました。しかるにミヤズ姫の打掛うちかけすそに月の物がついておりました。それをご覧になっておみあそばされた歌は、

あおぎ見るあめ香具山かぐやま
するどかまのようによこぎる白鳥はくちょう
そのようなたおやかな弱腕よわうで
こうとはわたしはするが、
ようとはわたしは思うが、
あなたのている打掛うちかけすそ
つきが出ているよ。

 そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。

かがやく日のような御子みこさま
ご威光すぐれた、わたしの大君さま。
新しい年がきて、すぎて行けば、
新しい月はきて、すぎて行きます。
ほんとうにまあ、あなたさまをお待ちいたしかねて
わたくしの着ております打掛うちかけすそ
月も出るでございましょうよ。

 そこでご結婚あそばされて、そのびておいでになった草薙くさなぎつるぎをミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。

    望郷ぼうきょうの歌

―クニシノビ歌の歌曲かきょくを中心として、英雄の悲壮な最後を語る。―

 そこで「この山の神は空手からてで取ってみせる」とおおせになって、その山にお登りになったときに、山のほとりで白いイノシシにいました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言たいげんして、「この白いイノシシになったものは神の従者だろう。今、殺さないでも帰るときに殺して帰ろう」とおおせられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨だいひょううらしてヤマトタケルのみことを打ちまどわしました。この白いイノシシにけたものは、この神の従者ではなくして、正体であったのですが、みことが大言されたのでまどわされたのです。かくて帰っておいでになって、玉倉部たまくらべの清水にいたってお休みになったときに、御心みこころがややすこしおめになりました。そこでその清水を居寤いさめの清水というのです。
 そこからお立ちになって当芸たぎの野の上においでになった時におおせられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思っていたが、今は歩くことができなくなって、足がギクギクする」とおおせられました。よってそこを当芸たぎといいます。そこからなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、つえをおつきになってゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝つえつき坂といいます。尾津おつさきの一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさった時にそこにお忘れになった大刀たちがなくならないでありました。そこでおみあそばされたお歌、

尾張の国に真直まっすぐに向かっている
尾津おつの埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だったら
大刀たちかせようもの、着物を着せようもの、
一本松よ。お前。

 そこからおいでになって、三重みえの村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲がった餅のようになって非常に疲れた」とおおせられました。そこでその地を三重といいます。
 そこからおいでになって、能煩野のぼのに行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、

大和は国の中の国だ。
かさなり合っている青い垣、
山に囲まれている大和は美しいなあ。

命が無事だった人は、
大和の国の平群へぐりの山の
りっぱなカシの木の葉を
頭挿かんざしにおしなさい。お前たち。

と、お歌いになりました。この歌は思国歌くにしのびうたという名の歌です。また、お歌いあそばされました。

なつかしのわがほうから雲が立ちのぼってくるわい。

 これは片歌かたうたでございます。この時に、ご病気が非常に重くなりました。そこで、御歌みうたを、

嬢子おとめとこのほとりに
わたしの置いてきた良く切れる大刀たち
あの大刀たちはなあ。

と歌い終わって、おかくれになりました。そこで急使きゅうしをのぼらせて朝廷に申し上げました。

    白鳥しらとりみささぎ

―大葬に歌われる歌曲かきょくを中心としている。白鳥には、神霊を感じている。―

 ここに大和においでになるおきさきたちまた御子みこたちが、みなくだっておいでになって、お墓を作ってそのほとりの田にい回ってお泣きになってお歌いになりました。

まわりの田の稲のくきに、
稲のくきに、
いめぐっているツルイモのつるです。

 しかるにそこから大きな白鳥になって天に飛んで、浜に向いて飛んでおいでになりましたから、そのおきさきたちや御子みこたちは、そこの篠竹しのだけ刈株かりくいに御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追っておいでになりました。そのときの御歌みうたは、

小篠こざさが原を行きなやむ、
空中からは行かずに、あるいて行くのです。

 また、海水に入って、海水の中を骨をっておいでになったときの御歌みうた

海のほうから行けば行きなやむ。
大河原おおかわらの草のように、
海やかわをさまよい行く。

 また飛んで、そこの磯においであそばされたときの御歌みうた

浜の千鳥ちどり、浜からは行かずに磯づたいをする。

 この四首の歌はみな、そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇のお葬式に歌うのです。そこでその国から飛びっておいでになって、河内の志幾しきにおまりなさいました。そこでそこにお墓を作って、おしずまりあそばされました。しかしながら、また、そこからさらに空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルのみことが諸国を平定するために回っておいでになったときに、久米くめあたえの祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としておつかえ申しました。

    ヤマトタケルのみことの系譜

―実際あり得ない関係も記されている。―

 このヤマトタケルの命が、垂仁すいにん天皇の娘、フタジノイリ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、タラシナカツ彦の命〔仲哀天皇。お一方です。また、かの海にお入りになったオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはワカタケルの王お一方です。また近江のやすの国のみやつこの祖先のオオタムワケの娘のフタジ姫と結婚してお生みになった御子みこはイナヨリワケのみこお一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになった御子みこは、タケカイコの王お一方です。また山代やましろのククマモリ姫と結婚してお生みになった御子みこはアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルのみこと御子みこたちはあわせて六人ありました。
 それでタラシナカツ彦の命は天下をおおさめなさいました。つぎにイナヨリワケの王は、犬上いぬかみの君・建部たけべの君らの祖先です。つぎにタケカイコの王は、讃岐さぬきの綾の君・伊勢の別・登袁とおの別・麻佐のおびと・宮の首の別らの祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代いわしろの別・漁田すなきだの別の祖先です。つぎにオキナガタワケの王の子、クイマタナガ彦の王、この王の子、イイノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫おとひめのお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イイノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオオナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの娘のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オオタラシ彦の天皇〔景行天皇。がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはオオエの王のお一方です。この王が庶妹ままいもシロガネの王と結婚して生んだ子はオオナガタの王とオオナカツ姫のお二方です。そこでこのオオナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
 このオオタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵ごりょうは山の辺の道の上にあります。

    成務天皇

―国県の堺を定め、国の造、県主あがたぬしを定め、地方行政の基礎が定められた。―

 ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の国の志賀しが高穴穂たかあなほの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇は穂積ほづみの臣の祖先、タケオシヤマタリネの娘のオトタカラの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子みこはワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿祢すくね大臣おおおみとなされ、大小国々の国のみやつこをお定めになり、また国々の堺、また大小の県の県主あがたぬしをお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯きのとうの年の三月十五日におかくれになりました。御陵ごりょう沙紀さき多他那美たたなみにあります。

   六、仲哀天皇

    后妃こうひと皇子女

 タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)穴門あなと豊浦とよらの宮また筑紫つくし香椎かしいの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇、オオエの王の娘のオオナカツ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命〔神功皇后。と結婚なさいました。この皇后のお生みになった御子みこはホムヤワケの命・オオトモワケの命、またの名はホムダワケの命〔応神天皇。とお二方です。この皇太子の御名をオオトモワケの命と申しあげるわけは、はじめお生まれになったときに腕にともの形をした肉がありましたから、このお名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになって天下をおおさめなさいました。この御世みよに淡路の役所を定めました。

    神功皇后

―御母はシラギ人・あめ日矛ひぼこの系統で、シラギのことを知っておられたのだろうという。―

 皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸かみがかりをなさった方でありました。天皇が筑紫の香椎かしいの宮においでになって熊曽くまその国をとうとなさいますときに、天皇がことをおきになり、タケシウチの宿祢が祭の庭にいて神のおおせをうかがいました。ここに皇后に神懸かみがかりして神さまがお教えなさいましたことは、「西の方に国があります。金銀をはじめ目の輝くたくさんの宝物がその国に多くあるが、わたしが今、その国をおさずけ申そう」とおおせられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高いところに登って西の方を見ても、国が見えないで、ただ大海のみだ」といわれて、いつわりをする神だとお思いになって、おことを押しのけておきにならず、だまっておいでになりました。そこで神さまがたいへんお怒りになって「すべてこの国はあなたのおさむべき国ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」とおおせられました。そこでタケシウチの宿祢が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのおことをおきあそばせ」と申しました。そこで、すこしそのことをおせになって生々なまなまにおきになっておいでになったところ、まもなくことの音が聞こえなくなりました。そこで火をともして見ますと、すでにおかくれになっていました。
 そこで、おどろき恐懼きょうくしてご大葬の宮殿にお移し申し上げて、さらにその国内から幣帛へいはくを取って、生剥いけはぎ逆剥さかはぎ畦離あはなち・溝埋みぞうめ・屎戸くそへ・不倫の結婚の罪のたぐいを求めて大祓おおばらえしてこれを清め、またタケシウチの宿祢が祭の庭にいて神のおおせを願いました。そこで神のお教えになることはことごとく前のとおりで、「すべてこの国は皇后さまのお腹においでになる御子みこおさむべき国である」とお教えになりました。
 そこでタケシウチの宿祢が、「神さま、おそれ多いことですが、その皇后さまのおはらにおいでになる御子みこは何の御子でございますか?」と申しましたところ、「男の御子みこだ」とおおせられました。そこでさらにお願い申し上げたことは、「今、かようにお教えになる神さまは何という神さまですか?」と申しましたところ、お答えあそばされるには「これはアマテラス大神の御心みこころだ。またソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオの三神だ。今、まことにあの国を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちにことごとく幣帛へいはくをたてまつり、わたしの御魂みたま御船ふねの上におまつり申し上げ、木の灰をひさごに入れ、またはしと皿とをたくさんに作って、ことごとく大海にらしかべておわたりなさるがよい」とおおせなさいました。
 そこで、ことごとく神の教えたとおりにして軍隊を整え、多くの船をならべて海をお渡りになりましたときに、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船みふね背負せおって渡りました。順風がさかんにいて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅しらぎの国に押しのぼって国のなかばにまでいたりました。よってその国王がおそれて、「今から後は天皇のご命令のままに馬飼うまかいとして、毎年多くの船の腹をかわかさず、柁�かじさおかわかさずに、天地のあらんかぎり、まずにおつかえ申し上げましょう」と申しました。かようなしだいで新羅の国をば馬飼うまかいとお定めあそばされ、百済くだらの国をば船渡ふなわたりの役所とお定めになりました。そこでおつえを新羅の国主の門におつき立てあそばされ、住吉の大神の荒い御魂を、国をお守りになる神としてまつってお帰りあそばされました。

    鎮懐石ちんかいせき釣魚ちょうぎょ

 かような事がまだ終わりませんうちに、お腹の中の御子みこがお生まれになろうとしました。そこでお腹をおしずめなされるために石をお取りになっての腰におつけになり、筑紫の国にお渡りになってからその御子みこはお生まれになりました。そこでその御子みこをお生みあそばされました所を宇美うみと名づけました。またそのにつけておいでになった石は筑紫の国の伊斗いとの村にあります。
 また筑紫の松浦県まつらがた玉島たましまの里においでになって、その河のほとりで食物をおあがりになったときに、四月の上旬のころでしたから、その河中の磯においでになり、の糸をき取ってめしつぶをえさにしてその河のアユをおりになりました。その河の名は小河おがわといい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちがの糸をいてめしつぶをえさにしてアユをることがえません。

    カゴサカの王とオシクマの王

―ある戦乱の武勇譚が、歌を挿入して誇張こちょうされてゆく。―

 オキナガタラシ姫の命は、大和に帰りおのぼりになる時に、人の心が疑わしいのでの船を一つ作って、御子みこをその喪の船にお乗せ申し上げて、まず御子みこはすでにおかくれになりましたと言いふらさしめました。かようにしてのぼっておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思って、斗賀野とがのに進み出てちかいを立てて狩りをなさいました。そのときにカゴサカの王はクヌギに登ってご覧になると、大きな怒りじしが出てそのクヌギをってカゴサカの王をいました。しかるにその弟のオシクマの王は、ちかいのりにかような悪いことがあらわれたのをおそれつつしまないで、軍をおこして皇后の軍を待ち迎えられますときに、喪の船に向かってからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊をおろして戦いました。
 このときにオシクマの王は、難波なにわ吉師部きしべの祖先のイサヒの宿祢すくねを将軍とし、太子の方では丸迩わにの臣の祖先の難波なにわネコタケフルクマの命を将軍となさいました。かくて追い退けて山城にいたりましたときに、帰り立って双方退かないで戦いました。そこでタケフルクマの命ははかって、皇后さまはすでにおかくれになりましたから、もはや戦うべきことはないと言わしめて、弓のげんっていつわって降服しました。そこで敵の将軍はそのいつわりを信じて弓をはずし兵器をしまいました。そのときに頭髪の中から予備の弓弦ゆづるを取り出して、さらにって追い撃ちました。かくて逢坂おおさかに逃げ退いて、向かい立ってまた戦いましたが、ついに追いせまやぶって近江の沙沙那美ささなみに出てことごとくその軍をりました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿祢とともに追いめられて、湖上に浮かんで歌いました歌、

さあきみよ、
フルクマのために負傷ふしょうするよりは、
カイツブリのいる琵琶びわの湖水に
もぐり入ろうものを。

と歌って海に入って死にました。

    気比けひ大神おおかみ

敦賀市つるがし気比けひ神宮じんぐうの神の名の由来。―

 かくてタケシウチの宿祢すくねがその太子をおつれ申し上げてみそぎをしようとして近江また若狭わかさの国を経たときに、越前の敦賀つるが仮宮かりみやをつくってお住ませ申し上げました。そのときに、その土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子みこの名と取りかえたいと思う」とおおせられました。そこで「それはおそれ多いことですから、おおせのとおりおえいたしましょう」と申しました。また、その神がおおせられるには「明日の朝、浜においでになるがよい。名をえた贈り物を献上いたしましょう」とおおせられました。よって翌朝、浜においでになったときに、鼻のやぶれたイルカがある浦にっておりました。そこで御子みこが神に申されますには、「わたくしにご食膳しょくぜんの魚をくださいました」と申さしめました。それでこの神の御名をとなえて御食みけ大神おおかみと申し上げます。その神は今でも気比けひの大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血がくそうございました。それでその浦を血浦ちうらと言いましたが、今では敦賀つるがと言います。

    酒の座の歌曲かきょく

酒宴しゅえんの席に演奏される歌曲かきょくの説明。―

 そこから帰っておのぼりになる時に、母君のオキナガタラシ姫のみことがお待ち申し上げて酒をつくって献上しました。そのときにその母君のおみあそばされた歌は、

このお酒は、わたくしのお酒ではございません。
神酒みきの長官、常世とこよの国においでになる
岩になって立っていらっしゃるスクナビコナ様が
いわっていわって祝いくるわせ
いわっていわって祝いまわって
献上してきたお酒なのですよ。
さかずきかわかさずにしあがれ。

 かようにお歌いになってお酒をたてまつりました。そのときにタケシウチの宿祢が御子みこのためにお答え申し上げた歌は、

このお酒を醸造じょうぞうした人は、
その太鼓をうすに使って、
歌いながら作ったゆえか、
舞いながら作ったゆえか、
このお酒の
不思議に楽しいことでございます。

 これは酒楽さかくらの歌でございます。
 すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌みずのえいぬの年の六月十一日におかくれになりました。御陵ごりょうは河内の恵賀えがの長江にあります。皇后さまは御年百歳でおかくれになりました。狭城さき楯列たたなみ御陵ごりょうにおほうむり申し上げました。

   七、応神天皇

    后妃こうひと皇子女

 ホムダワケの命(応神天皇)、大和の軽島かるしまあきらの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、つぎは中姫なかつひめの命、つぎは弟姫おとひめの命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイオキノイリ彦の命が、尾張のあたえの祖先のタケイナダの宿祢の娘のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御子みこは、ヌカダノオオナカツヒコの命・オオヤマモリの命・イザノマワカの命・オオハラの郎女いらつめ・タカモクの郎女いらつめおんかたです。中姫なかつひめの命の生んだ御子は、キノアラタの郎女いらつめ・オオサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫おとひめの命の御子みこは、阿部あべ郎女いらつめ・アワジノミハラの郎女いらつめ・キノウノの郎女いらつめ・ミノの郎女いらつめのお五かたです。また天皇、ワニノヒフレのオオミの娘のミヤヌシヤガハエ姫と結婚しておみになった御子みこは、ウジの若郎子わきいらつこ・ヤタの若郎女わきいらつめ・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹オナベの郎女いらつめと結婚してお生みになった御子みこは、ウジの若郎女わかいらつめお一方です。またクイマタナガ彦の王の娘のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになった御子みこはワカヌケフタマタの王お一方です。また桜井さくらい田部たべの連の祖先のシマタリネの娘のイトイ姫と結婚してお生みになった御子みこはハヤブサワケの命お一方です。また日向ひむかのイヅミノナガ姫と結婚してお生みになった御子みこはオオハエの王・オハエの王・ハタビの若郎女わかいらつめのお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになった御子みこはカワラダの郎女いらつめ・タマの郎女いらつめ・オシサカノオオナカツ姫・トホシの郎女いらつめ・カタジの王の御五かたです。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになった御子みこは、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子みこたちは合わせて二十六王おいであそばされました。男王十一人、女王十五人です。この中でオオサザキの命〔仁徳天皇。は天下をおおさめになりました。

    オオヤマモリの命とオオサザキの命

―天皇が、兄弟の御子みこに対してテストをされる。その結果、弟が帝位を継承することになる。これもきまった型で、兄の系統ではあるが、臣下となったという説明の物語である。これはあとに後続の説話がある。―

 ここに天皇がオオヤマモリの命とオオサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか?」とおたずねなさいました。天皇がかようにおたずねになったわけは、ウジの若郎子に天下をお授けになろうとする御心みこころがおありになったからであります。しかるにオオヤマモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。つぎにオオサザキの命は天皇のおたずねあそばされる御心みこころをお知りになって申されますには、「大きい方の子はすでに人となっておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」と申しました。そこで天皇のおおせになりますには、「オオサザキよ、あなたの言うのはわたしの思うとおりです」とおおせになって、そこでそれぞれにみことのりをくだされて、「オオヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オオサザキの命は天下の政治をとって天皇に奏上なさい。ウジの若郎子は帝位におつきなさい」とおけになりました。よってオオサザキの命は父君のご命令にそむきませんでした。

    葛野かずのの歌

―国ほめの歌曲かきょくの一つ。―

 あるとき、天皇が近江の国へ越えてお出ましになりましたときに、宇治野の上にお立ちになって葛野かずのをご覧になっておみになりました御歌みうた

葉のしげった葛野かずのを見れば、
幾千も富み栄えた家居が見える、
国の中での良いところが見える。

    カニの歌

―カニと鹿とは、古代の主要な食料であった。そのカニを材料とした歌曲かきょくの物語である。ここではワニ氏の娘が関係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に娘をたてまつり、歌物語を多く伝えた家である。―

 かくて木幡こばたの村においでになった時に、その道で美しい嬢子おとめにお会いになりました。そこで天皇がその嬢子おとめに、「あなたは誰の子か?」とおたずねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオオミの娘のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその嬢子おとめに「わたしが明日かえる時にあなたの家に入りましょう」とおおせられました。そこでヤガハエ姫がその父にくわしくお話しました。よって父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。おそれ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」といって、その家を立派に飾り立て、待っておりましたところ、あくる日においでになりました。そこでごちそうをたてまつる時に、そのヤガハエ姫にお酒盞さかずきを取らせてたてまつりました。そこで天皇がその酒盞さかずきをお取りになりながらおみあそばされた歌、

このカニはどこのカニだ?
遠くの方の敦賀つるがのカニです。
横歩よこあるきをしてどこへ行くのだ?
イチジ島・ミ島について、
カイツブリのように水にくぐっていきをついて、
高低のあるササナミへの道を
まっすぐにわたしがきますと、
木幡こばたの道で出会った嬢子おとめ
後姿うしろすがたは楯のようだ。
歯ならびはしいひしの実のようだ。
櫟井いちい丸迩坂わにさかつち
上のつちはおいろが赤い、
底の土はくろゆえ
なかのその中の土を
かぶりつく直火じかびにはてずに
まゆを濃くかいて
いになったご婦人、
このようにもとわたしの見たおじょうさん、
あのようにもとわたしの見たおじょうさんに、
思いのほかにも向かっていることです。
っていることです。

 かくてご結婚なすっておみになった子がウジの若郎子わきいらつこでございました。

    髪長姫

酒宴しゅえん嬢子おとめを贈り、また嬢子おとめを得たよろこびの歌曲かきょく。古く諸県舞むらがたまいという舞があったが、関係があるかもしれない。―

 また天皇が、日向の国の諸県むらがたの君のむすめ髪長姫かみながひめが美しいとお聞きになって、お使いあそばそうとして、おし上げなさいますときに、太子のオオサザキの命がその嬢子おとめ難波津なにわづに船つきしているのをご覧になって、その容姿のりっぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿祢すくねにお頼みになるには「この日向からお召し上げになった髪長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしにたまわるようにしてくれ」とおおせられました。よってタケシウチの宿祢の大臣が天皇のおおせを願いましたから、天皇が髪長姫をその御子みこにお授けになりました。お授けになるさまは、天皇がご酒宴しゅえんをあそばされた日に、髪長姫にお酒を注ぐ柏葉かしわを取らしめて、その太子にたまわりました。そこで天皇のおみあそばされた歌は、

さあおまえたち、野蒜のびるつみに
ひるつみにわたしの行く道の
こうばしい花橘はなたちばなの樹、
上の枝は鳥がいてらし
下の枝は人が取ってらし、
三栗みつぐりのようななかの枝の
目立って見える紅顔のおじょうさんを
さあ、手に入れたらよいでしょう。

 また、

水のたまっている依網よさみの池の
堰杙せきくいってあったのを知らずに
ジュンサイを手繰たぐって手のびていたのを知らずに
気のつかないことをして残念だった。

 かようにお歌いになってたまわりました。その嬢子おとめたまわってから後に太子のおみになった歌、

遠い国の古波陀こはだのおじょうさんを、
雷鳴かみなりのように音高く聞いていたが、
わたしのつまとしたことだった。

 また、

遠い国の古波陀こはだのおじょうさんが、
争わずにわたしの妻となったのは、
かわいい事さね。

    国主歌くずうた

―吉野山中の土民の歌曲かきょく。―

 また、吉野のクズどもがオオサザキの命のびておいでになるお刀を見て歌いました歌は、

天子様の日の御子みこである
オオサザキ様、
オオサザキ様のおきになっている大刀たちは、
本はするどく、切先きっさきは魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴りわたる。

 また、吉野のカシの木のほとりにうすを作って、そのうすでお酒をつくって、その酒をたてまつったときに、口鼓くちつづみをうち演技をしてうたった歌、

カシの木の原に横の広いうすを作り
そのうすかもしたお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしのとうさん。

 この歌は、クズどもが土地の産物をたてまつるときに、つねに今でも歌う歌であります。

    文化の渡来

―大陸の文化の渡来した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。―

 この御世みよに、海部あまべ山部やまべ山守部やまもりべ伊勢部いせべをお定めになりました。つるぎの池を作りました。また新羅人しらぎびとが渡って来ましたので、タケシウチの宿祢がこれをひきいて堤の池に渡って百済くだらの池を作りました。
 また、百済くだらの国王照古王しょうこおう牡馬おうま一匹・牝馬めうま一匹をアチキシにつけてたてまつりました。このアチキシは阿直史等ふみひとの祖先です。また大刀たちと大鏡とをたてまつりました。また百済の国に、もし賢人があればたてまつれとおおせられましたから、命を受けてたてまつった人はワニキシといい、『論語』十巻・千字文せんじもん』一巻、あわせて十一巻をこの人につけてたてまつりました。また工人の鍛冶屋かじや卓素たくそという者、またはたを織る西素さいその二人をもたてまつりました。はたみやつこあやあたえの祖先、それから酒をつくることを知っているニホ、またの名をススコリという者らも渡ってまいりました。このススコリはお酒をつくってたてまつりました。天皇がこのたてまつったお酒にうかれておみになった歌は、

ススコリのかもしたお酒にわたしは酔いましたよ。
平和へいわなお酒、楽しいお酒にわたしは酔いましたよ。

 かようにお歌いになっておいでになった時に、御杖みつえで大坂の道の中にある大石をお打ちになったから、その石が逃げ走りました。それでことわざに「固い石でも酔人よっぱらいにあうと逃げる」というのです。

    オオヤマモリの命とウジの若郎子わきいらつこ

―オオヤマモリの命を始祖と称する山部の人々の伝えた物語。―

 かくして天皇がおかくれになってから、オオサザキの命は天皇のおおせのままに天下をウジの若郎子わきいらつこにゆずりました。しかるにオオヤマモリの命は天皇の命にそむいてやはり天下をようとして、その弟の御子みこを殺そうとする心があって、ひそかに兵士を備えて攻めようとしました。そこでオオサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになって、使いをやってウジの若郎子わきいらつこに告げさせました。よってお驚きになって、兵士を河のほとりに隠し、またその山の上にテントをはり、幕を立てて、いつわって召使いを王様としてイスにいさせ、百官が敬礼し往来するさまはあたかも王のおいでになるようなありさまにして、また兄の王の河をお渡りになるときの用意に、船�ふねかじをそなえ飾り、さなかずらというツルクサの根をうすでついて、その汁のなめを取り、その船の中の竹簀すのこって、めばすべってたおれるように作り、御子みこはみずから布の衣装を着て、いやしい者の形になってさおを取って立ちました。ここにその兄の王が兵士を隠し、よろいを衣の中に着せて、河のほとりにいたって船にお乗りになろうとする時に、そのいかめしく飾ったところを見やって、弟の王がそのイスにおいでになるとお思いになって、さおを取って船に立っておいでになることを知らないで、そのさおを取っている者におたずねになるには、「この山には怒った大イノシシがあると伝え聞いている。わしがそのイノシシを取ろうと思うが、取れるだろうか?」とおたずねになりましたから、さおを取った者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか?」とおたずねになったので、「たびたび取ろうとする者があったが取れませんでした。それだから、お取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡って河中にいたりましたときに、その船を傾けさせて水の中に落とし入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、

流れの早い宇治川うじがわの渡り場に
さおを取るに早い人はわたしのなかまに来てくれ。

 そこで河のほとりにかくれた兵士が、あちこちから一時におこって矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこで訶和羅かわらさきにいたって沈みました。それでかぎをもって沈んだところを探りましたら、衣の中のよろいにかかってカワラと鳴りました。よってそこの名を訶和羅かわらの埼というのです。その死体をかけ出したときに歌った弟の王の御歌みうた

流れの早い宇治川の渡り場に
渡り場に立っている梓弓あずさゆみとマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
もとの方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしくそこで思い出し
かわいそうにそこで思い出し、
切らないできた梓弓あずさゆみとマユミの木。

 そのオオヤマモリの命の死体をば奈良山ならやまに葬りました。このオオヤマモリの命は、土形ひじかたの君・幣岐へきの君・榛原はりはらの君らの祖先です。
 かくてオオサザキの命とウジの若郎子わきいらつことお二方、おのおの天下をおゆずりになるときに、海人あま貢物みつぎものをたてまつりました。よって兄の王はこれをこばんで弟の王にたてまつらしめ、弟の王はまた兄の王にたてまつらしめて、互いにおゆずりになる間にあまたの日をました。かようにおゆずりあそばされることは一度二度でありませんでしたから、海人あまは往来に疲れて泣きました。それでことわざに、海人あまだから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。しかるにウジの若郎子わきいらつこは早くおかくれになりましたから、オオサザキの命が天下をおおさめなさいました。

    あめ日矛ひほこ

―異類婚姻こんいん説話の一つ、朝鮮系統のものである。終わりに出石いずし神社の由来がある。但馬の国の語部かたりべが伝えたのだろう。―

 また新羅しらぎの国王の子の、あめ日矛ひほこという者がありました。この人が渡ってまいりました。その渡ってきたゆえは、新羅の国に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼のあたりで、あるしづが昼寝をしました。そこに日の光が虹のようにその女にさしましたのを、あるしづがそのありさまを怪しいと思って、その女の状をうかがいました。しかるにその女はその昼寝をしたときからはらんで、赤い玉を生みました。
 そのうかがっていたしづの男がその玉をい取って、つねにつつんで腰につけておりました。この人は山谷のあいだで田を作っておりましたから、耕作する人たちの飲食物を牛におわせて山谷の中に入りましたところ、国王の子のあめ日矛ひほこが会いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飲食物を牛に背負わせて山谷に入るのか? きっとこの牛を殺して食うのだろう」といって、その男を捕らえてろうに入れようとしましたから、その男が答えていうには、「わたくしは牛を殺そうとはいたしません。ただ農夫の食物を送るのです」といいました。それでもゆるしませんでしたから、腰につけていた玉をいてその国王の子に贈りました。よってその男をゆるして、玉を持ってきて床のあたりに置きましたら、美しい嬢子おとめになり、ついに婚姻こんいんして本妻としました。その嬢子おとめは、つねに種々の珍味を作って、いつもその夫に進めました。しかるにその国王の子が心おごりして妻をののしりましたから、その女が「だいたい、わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる国に行きましょう」と言って、ひそかに小船に乗って逃げ渡ってきて難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
 そこであめ日矛ひほこがその妻の逃げたことを聞いて、追い渡ってきて難波に入ろうとするときに、その海上の神が、ふさいで入れませんでした。よってさらにかえって、但馬たじまの国に船てをし、その国に留まって、但馬のマタオの娘のマエツミと結婚してんだ子はタジマモロスクです。その子がタジマヒネ、その子がタジマヒナラキ、その子は、タジマモリ・タジマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚してんだ子がスガノモロオとスガカマユラドミです。上にあげたタジマヒタカがそのめいのユラドミと結婚して生んだ子が葛城かづらきのタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。
 このあめ日矛ひほこの持って渡ってきた宝物は、玉つ宝という玉のにつらぬいたもの二本、また浪領巾ひれ・浪切る領巾ひれ・風領巾ひれ・風切る領巾ひれ・奥つ鏡・辺つ鏡、あわせて八種です。これらはイヅシのやしろまつってある八神です。

    秋山あきやま下氷壮夫したひおとこ春山はるやま霞壮夫かすみおとこ

―同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずっと日本風になっている。海幸・山幸物語との類似点に注意。―

 ここに神のむすめ、イヅシ嬢子おとめという神がありました。多くの神がこのイヅシ嬢子おとめを得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下氷壮夫したひおとこ・春山の霞壮夫かすみおとこという兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ嬢子おとめを得ようと思いますけれども得られません。お前はこの嬢子おとめを得られるか?」といいましたから、「たやすいことです」といいました。そこでその兄の言いますには、「もし、お前がこの嬢子おとめを得たなら、上下の衣服をゆずり、身のたけほどにかめに酒をつくり、また山河の産物をことごとく備えてごちそうをしよう」といいました。そこでその弟が兄の言ったとおりにくわしく母親に申しましたから、その母親が藤のツルを取って、一夜のほどにころもはかまくつしたくつまで織りぬい、また弓矢を作って、衣装を着せ、その弓矢を持たせて、その嬢子おとめの家にやりましたら、その衣装も弓矢もことごとく藤の花になりました。そこでその春山の霞壮夫かすみおとこ弓矢ゆみや嬢子おとめかわやにかけましたのを、イヅシ嬢子おとめがその花を不思議に思って、持ってくるときに、その嬢子おとめのうしろに立って、その部屋に入って結婚をして、一人の子を生みました。
 そこでその兄に「わたしはイヅシ嬢子おとめを得ました」という。しかるに兄は弟の結婚したことをいきどおって、そのけた物をつぐないませんでした。よってその母にうったえました。母親がいうには、「わたしたちの世のことは、すべて神のしわざに習うものです。それだのにこの世の人のしわざに習ってか、その物をつぐなわない」といって、その兄の子をうらんで、イヅシ河の河島のふしのある竹を取って、大きな目の荒いかごを作り、その河の石を取って、塩にまぜて竹の葉に包んで、詛言のろいごとを言って、「この竹の葉の青いように、この竹の葉のしおれるように、青くなってしおれよ。また、この塩のちたりたりするようによ。また、この石の沈むように沈みせ」と、このようにのろって、かまどの上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、かわきしおれしました。そこでその兄が、き悲しんで願いましたから、そののろいの物をもとに返しました。そこでその身がもとのとおりに安らかになりました。

    系譜

允恭いんぎょう天皇の皇后の出る系譜であり、後に継体けいたい天皇が、この系統から出る。―

 このホムダの天皇〔応神天皇。御子みこのワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子おおいらつこ、またの名はオオホドの王・オサカノオオナカツ姫の命・タイノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フジハラノコトフシの郎女いらつめ・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオオホドの王は、三国の君・波多の君・息長おきながの君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人さかびとの君・山道やまじの君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ままいもミハラの郎女いらつめと結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシワの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午きのえうまの九月九日におかくれになりました。御陵ごりょうは河内の恵賀えが裳伏もふしの岡にあります。(つづく)


底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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現代語譯 古事記(四)

稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|方《かた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
-------------------------------------------------------

[#3字下げ]五、景行天皇・成務天皇[#「五、景行天皇・成務天皇」は中見出し]

[#5字下げ]景行天皇の后妃と皇子女[#「景行天皇の后妃と皇子女」は小見出し]
 オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉備《きび》の臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨《はりま》のイナビの大郎女《おおいらつめ》と結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女《むすめ》ヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御子《みこ》がおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の七十七王は悉く諸國の國の造《みやつこ》・別《わけ》・稻置《いなき》・縣主《あがたぬし》等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウスの命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は、日向の國の造の祖先です。
 ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫《えひめ》弟姫《おとひめ》の二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須《うねす》の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都《むげつ》の君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門《みなと》をお定めになり、また膳《かしわで》の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその堤に竹を植えさせなさいました。

[#5字下げ]ヤマトタケルの命の西征[#「ヤマトタケルの命の西征」は小見出し]
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――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。劇的な構成に注意。――
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 天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠《かわや》におはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦《こも》につつんで投げすてました」と申しました。
 そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室《むろ》を作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳《けず》り下げ、叔母樣のお衣裳をお著《つ》けになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣《さま》はどなたでいらつしやいますか」と申しましたから、「わたしは纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。

[#5字下げ]イヅモタケル[#「イヅモタケル」は小見出し]
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――日本書紀では、全然ヤマトタケルの命と關係のない物語になつている。種々の物語がこの英雄の事として結びついてゆく。――
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 そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃《う》とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮《いちいのき》で刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥《ひ》の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換《か》えよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑《いど》まれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになつた歌、

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雲《くも》の叢《むらが》り立つ出雲《いづも》のタケルが腰にした大刀は、
蔓《つる》を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。
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 かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。

[#5字下げ]ヤマトタケルの命の東征[#「ヤマトタケルの命の東征」は小見出し]
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――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまつて、美しい物語になつている。――
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 ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備《きび》の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊《ひいらぎ》の長い矛《ほこ》を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでになるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢《ふくろ》をお授けになつて、「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。
 かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造《みやつこ》の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐《いつわ》つて言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打《ひうち》がありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥《はら》い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津《やいず》といつております。
 其處からおいでになつて、走水《はしりみず》の海をお渡りになつた時にその渡《わたり》の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪《な》いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、

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高い山の立つ相摸《さがみ》の國の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立つて
わたくしをお尋ねになつたわが君。
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 かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。
 それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷《えぞ》どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄《あしがら》の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端《かたはし》をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻《あずま》とはいうのです。
 その國から越えて甲斐に出て、酒折《さかおり》の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、

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常陸の新治《にいはり》・筑波《つくば》を過《す》ぎて幾夜《いくよ》寢《ね》たか。
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 ここにその火《ひ》を燒《た》いている老人が續いて、

[#ここから3字下げ]
日數《ひかず》重《かさ》ねて、夜《よ》は九夜《ここのよ》で日《ひ》は十日《とおか》でございます。
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と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻《あずま》の國の造になさいました。
 かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛《うちかけ》の裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、

[#ここから3字下げ]
仰《あお》ぎ見る天《あめ》の香具山《かぐやま》
鋭《するど》い鎌のように横ぎる白鳥《はくちよう》。
そのようなたおやかな弱腕《よわうで》を
抱《だ》こうとはわたしはするが、
寢《ね》ようとはわたしは思うが、
あなたの著《き》ている打掛《うちかけ》の裾に
月《つき》が出ているよ。
[#ここで字下げ終わり]

 そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。

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照り輝く日のような御子《みこ》樣
御威光すぐれたわたしの大君樣。
新しい年が來て過ぎて行けば、
新しい月は來て過ぎて行きます。
ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて
わたくしのきております打掛の裾に
月も出るでございましようよ。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。

[#5字下げ]望郷の歌[#「望郷の歌」は小見出し]
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――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。――
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 そこで「この山の神は空手《からて》で取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢《あ》いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨《だいひようう》を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉倉部《たまくらべ》の清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤《さ》めになりました。そこでその清水を居寤《いさめ》の清水と言うのです。
 其處からお立ちになつて當藝《たぎ》の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝《たぎ》といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝《つえつき》坂といいます。尾津《おつ》の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、

[#ここから3字下げ]
尾張の國に眞直《まつすぐ》に向かつている
尾津の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だつたら
大刀を佩《は》かせようもの、着物を著せようもの、
一本松よ。お前。
[#ここで字下げ終わり]

 其處からおいでになつて、三重《みえ》の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。
 其處からおいでになつて、能煩野《のぼの》に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、

[#ここから3字下げ]
大和は國の中の國だ。
重《かさ》なり合つている青い垣、
山に圍まれている大和は美しいなあ。

命が無事だつた人は、
大和の國の平群《へぐり》の山の
りつぱなカシの木の葉を
頭插《かんざし》にお插しなさい。お前たち。
[#ここで字下げ終わり]

とお歌いになりました。この歌は思國歌《くにしのびうた》という名の歌です。またお歌い遊ばされました。

[#ここから3字下げ]
なつかしのわが家《や》の方《ほう》から雲が立ち昇つて來るわい。
[#ここで字下げ終わり]

 これは片歌《かたうた》でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌《みうた》を、

[#ここから3字下げ]
孃子《おとめ》の床《とこ》のほとりに
わたしの置いて來た良《よ》く切れる大刀《たち》、
あの大刀《たち》はなあ。
[#ここで字下げ終わり]

と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。

[#5字下げ]白鳥の陵[#「白鳥の陵」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。――
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 ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてお泣きになつてお歌いになりました。

[#ここから3字下げ]
周《まわ》りの田の稻の莖《くき》に、
稻の莖に、
這い繞《めぐ》つているツルイモの蔓《つる》です。
[#ここで字下げ終わり]

 しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹《しのだけ》の苅株《かりくい》に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、

[#ここから3字下げ]
小篠《こざさ》が原を行き惱《なや》む、
空中からは行かずに、歩《ある》いて行くのです。
[#ここで字下げ終わり]

 また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、

[#ここから3字下げ]
海《うみ》の方《ほう》から行《ゆ》けば行き惱《なや》む。
大河原《おおかはら》の草のように、
海や河《かわ》をさまよい行く。
[#ここで字下げ終わり]

 また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、

[#ここから3字下げ]
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
[#ここで字下げ終わり]

 この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔《た》つておいでになつて、河内の志幾《しき》にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつた時に、久米の直《あたえ》の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。

[#5字下げ]ヤマトタケルの命の系譜[#「ヤマトタケルの命の系譜」は小見出し]
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――實際あり得ない關係も記されている。――
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 このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代《やましろ》のククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。
 それでタラシナカツ彦の命は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁《とお》の別・麻佐の首《おびと》・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代《いわしろ》の別・漁田《すなきだ》の別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
 このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。

[#5字下げ]成務天皇[#「成務天皇」は小見出し]
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――國縣の堺を定め、國の造、縣主を定め、地方行政の基礎が定められた。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀《しが》の高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積《ほづみ》の臣の祖先、タケオシヤマタリネの女のオトタカラの郎女《いらつめ》と結婚してお生みになつた御子はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿禰を大臣となされ、大小國々の國の造をお定めになり、また國々の堺、また大小の縣の縣主《あがたぬし》をお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀《さき》の多他那美《たたなみ》にあります。

[#3字下げ]六、仲哀天皇[#「六、仲哀天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
 タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門《あなと》の豐浦《とよら》の宮また筑紫《つくし》の香椎《かしい》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕に鞆《とも》の形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました。

[#5字下げ]神功皇后[#「神功皇后」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――御母はシラギ人天の日矛の系統で、シラギのことを知つておられたのだろうという。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸《かみがか》りをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈《ひ》きになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、「西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう」と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高い處に登つて西の方を見ても、國が見えないで、ただ大海のみだ」と言われて、詐《いつわり》をする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つておいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて「すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈き遊ばせ」と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生々《なまなま》にお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の音が聞えなくなりました。そこで火を點《とも》して見ますと、既にお隱《かく》れになつていました。
 そこで驚き恐懼《きようく》して御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣帛《へいはく》を取つて、生剥《いけはぎ》・逆剥《さかはぎ》・畦離《あはな》ち・溝埋《みぞう》め・屎戸《くそへ》・不倫の結婚の罪の類を求めて大祓《おおばらえ》してこれを清め、またタケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」とお教えになりました。
 そこでタケシウチの宿禰が、「神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹《はら》においでになる御子は何の御子でございますか と申しましたところ、「男の御子だ」と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」と申しましたところ、お答え遊ばされるには「これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛《へいはく》を奉り、わたしの御魂《みたま》を御船《みふね》の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠《ひさご》に入れ、また箸《はし》と皿とを澤山に作つて、悉く大海に散《ち》らし浮《うか》べてお渡《わた》りなさるがよい」と仰せなさいました。
 そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅《しらぎ》の國に押し上つて國の半にまで到りました。依つてその國王が畏《お》じ恐れて、「今から後は天皇の御命令のままに馬飼《うまかい》として、毎年多くの船の腹を乾《かわか》さず、柁※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《かじさお》を乾《かわか》さずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましよう」と申しました。かような次第で新羅の國をば馬飼《うまかい》とお定め遊ばされ、百濟《くだら》の國をば船渡《ふなわた》りの役所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神として祭つてお還り遊ばされました。

[#5字下げ]鎭懷石と釣魚[#「鎭懷石と釣魚」は小見出し]
 かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。
 また筑紫の松浦縣《まつらがた》の玉島の里においでになつて、その河の邊《ほとり》で食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒《めしつぶ》を餌《えさ》にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河《おがわ》といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません。

[#5字下げ]カゴサカの王とオシクマの王[#「カゴサカの王とオシクマの王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――ある戰亂の武勇譚が、歌を插入して誇張されてゆく。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪《も》の船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つて御覽になると、大きな怒り猪《じし》が出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋《く》いました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。
 この時にオシクマの王は、難波《なにわ》の吉師部《きしべ》の祖先のイサヒの宿禰《すくね》を將軍とし、太子の方では丸邇《わに》の臣の祖先の難波《なにわ》ネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶つて詐《いつわ》つて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏《しま》いました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢坂《おおさか》に逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫《せま》り敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫《せ》められて、湖上に浮んで歌いました歌、

[#ここから3字下げ]
さあ君《きみ》よ、
フルクマのために負傷《ふしよう》するよりは、
カイツブリのいる琵琶の湖水に
潛り入ろうものを。
[#ここで字下げ終わり]

と歌つて海にはいつて死にました。

[#5字下げ]氣比《けひ》の大神[#「氣比の大神」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊《みそぎ》をしようとして近江また若狹《わかさ》の國を經た時に、越前の敦賀《つるが》に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀《やぶ》れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食《みけ》つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦《ちうら》と言いましたが、今では敦賀《つるが》と言います。

[#5字下げ]酒の座の歌曲[#「酒の座の歌曲」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――酒宴の席に演奏される歌曲の説明。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 其處から還つてお上りになる時に、母君のオキナガタラシ姫の命がお待ち申し上げて酒を造つて獻上しました。その時にその母君のお詠み遊ばされた歌は、

[#ここから3字下げ]
このお酒はわたくしのお酒ではございません。
お神酒《みき》の長官、常世《とこよ》の國においでになる
岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が
祝つて祝つて祝い狂《くる》わせ
祝つて祝つて祝い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つて
獻上して來たお酒なのですよ。
盃をかわかさずに召しあがれ。
[#ここで字下げ終わり]

 かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、

[#ここから3字下げ]
このお酒を釀造した人は、
その太鼓を臼《うす》に使つて、
歌いながら作つた故か、
舞いながら作つた故か、
このお酒の
不思議に樂しいことでございます。
[#ここで字下げ終わり]

 これは酒樂《さかくら》の歌でございます。
 すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌《みずのえいぬ》の年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱《かく》れになりました。狹城《さき》の楯列《たたなみ》の御陵にお葬り申し上げました。

[#3字下げ]七、應神天皇[#「七、應神天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
 ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島《かるしま》の明《あきら》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御子《みこ》は、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎女《いらつめ》・タカモクの郎女《いらつめ》の御《おん》五|方《かた》です。中姫の命の生んだ御子《みこ》は、キノアラタの郎女《いらつめ》・オホサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿部《あべ》の郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》は、ウヂの若郎子《わきいらつこ》・ヤタの若郎女《わきいらつめ》・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマタナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田部《たべ》の連の祖先《そせん》のシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊《あそ》ばされました。男王十一人女王十五人です。この中でオホサザキの命は天下をお治めになりました。

[#5字下げ]オホヤマモリの命とオホサザキの命[#「オホヤマモリの命とオホサザキの命」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――天皇が、兄弟の御子に對してテストをされる。その結果弟が帝位を繼承することになる。これもきまつた型で、兄の系統ではあるが、臣下となつたという説明の物語である。これはあとに後續の説話がある。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか」とお尋ねなさいました。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであります。しかるにオホヤマモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申されますには、「大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、「オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです」と仰せになつて、そこでそれぞれに詔《みことのり》を下されて、「オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウヂの若郎子は帝位におつきなさい」とお分《わ》けになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。

[#5字下げ]葛野《かずの》の歌[#「葛野の歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――國ほめの歌曲の一つ。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛野《かずの》を御覽になつてお詠みになりました御歌、

[#ここから3字下げ]
葉の茂《しげ》つた葛野《かずの》を見れば、
幾千も富み榮えた家居が見える、
國の中での良い處が見える。
[#ここで字下げ終わり]

[#5字下げ]蟹の歌[#「蟹の歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 かくて木幡《こばた》の村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞《さかずき》を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、

[#ここから3字下げ]
この蟹《かに》はどこの蟹だ。
遠くの方の敦賀《つるが》の蟹です。
横歩《よこある》きをして何處へ行くのだ。
イチヂ島・ミ島について、
カイツブリのように水に潛《くぐ》つて息《いき》をついて、
高低のあるササナミへの道を
まつすぐにわたしが行《ゆ》きますと、
木幡《こばた》の道で出逢つた孃子《おとめ》、
後姿《うしろすがた》は楯のようだ。
齒竝びは椎《しい》の子《み》や菱《ひし》の實のようだ。
櫟井《いちい》の丸邇坂《わにさか》の土《つち》を
上《うえ》の土《つち》はお色《いろ》が赤い、
底の土は眞黒《まつくろ》ゆえ
眞中《まんなか》のその中の土を
かぶりつく直火《じかび》には當てずに
畫眉《かきまゆ》を濃く畫いて
お逢《あ》いになつた御婦人、
このようにもとわたしの見たお孃さん、
あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
思いのほかにも向かつていることです。
添つていることです。
[#ここで字下げ終わり]

 かくて御結婚なすつてお生《う》みになつた子がウヂの若郎子《わきいらつこ》でございました。

[#5字下げ]髮長姫[#「髮長姫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――酒宴で孃子を贈り、また孃子を得た喜びの歌曲。古く諸縣舞《むらがたまい》という舞があつたが、關係があるかもしれない。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また天皇が、日向の國の諸縣《むらがた》の君の女《むすめ》の髮長姫《かみながひめ》が美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召《め》し上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰《すくね》にお頼みになるには「この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉《かしわ》を取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、

[#ここから3字下げ]
さあお前《まえ》たち、野蒜《のびる》摘《つ》みに
蒜《ひる》摘《つ》みにわたしの行く道の
香《こう》ばしい花橘《はなたちばな》の樹、
上の枝は鳥がいて枯らし
下の枝は人が取つて枯らし、
三栗《みつぐり》のような眞中《まんなか》の枝の
目立つて見える紅顏のお孃さんを
さあ手に入れたら宜いでしよう。
[#ここで字下げ終わり]

 また、

[#ここから3字下げ]
水のたまつている依網《よさみ》の池の
堰杙《せきくい》を打《う》つてあつたのを知《し》らずに
ジュンサイを手繰《たぐ》つて手の延びていたのを知《し》らずに
氣のつかない事をして殘念だつた。
[#ここで字下げ終わり]

 かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、

[#ここから3字下げ]
遠い國の古波陀《こはだ》のお孃さんを、
雷鳴《かみなり》のように音高く聞いていたが、
わたしの妻《つま》としたことだつた。
[#ここで字下げ終わり]

 また、

[#ここから3字下げ]
遠い國の古波陀《こはだ》のお孃さんが、
爭わずにわたしの妻となつたのは、
かわいい事さね。
[#ここで字下げ終わり]

[#5字下げ]國主歌《くずうた》[#「國主歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――吉野山中の土民の歌曲。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また、吉野のクズどもがオホサザキの命の佩《お》びておいでになるお刀を見て歌いました歌は、

[#ここから3字下げ]
天子樣の日の御子である
オホサザキ樣、
オホサザキ樣のお佩《は》きになつている大刀は、
本は鋭く、切先《きつさき》は魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴り渡る。
[#ここで字下げ終わり]

 また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、

[#ここから3字下げ]
カシの木の原に横の廣い臼を作り
その臼に釀《かも》したお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの父《とう》さん。
[#ここで字下げ終わり]

 この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。

[#5字下げ]文化の渡來[#「文化の渡來」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――大陸の文化の渡來した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 この御世に、海部《あまべ》・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新羅人《しらぎびと》が渡つて來ましたので、タケシウチの宿禰がこれを率《ひき》いて堤の池に渡つて百濟《くだら》の池を作りました。
 また百濟《くだら》の國王|照古王《しようこおう》が牡馬《おうま》一疋・牝馬《めうま》一疋をアチキシに付けて貢《たてまつ》りました。このアチキシは阿直《あち》の史等《ふみひと》の祖先です。また大刀と大鏡とを貢りました。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千|字文《じもん》一卷、合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛冶屋《かじや》卓素《たくそ》という者、また機《はた》を織る西素《さいそ》の二人をも貢りました。秦《はた》の造《みやつこ》、漢《あや》の直《あたえ》の祖先、それから酒を造ることを知《し》つているニホ、またの名《な》をススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、

[#ここから3字下げ]
ススコリの釀《かも》したお酒にわたしは醉いましたよ。
平和《へいわ》なお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
[#ここで字下げ終わり]

 かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺《ことわざ》に「堅い石でも醉人《よつぱらい》に遇うと逃げる」というのです。

[#5字下げ]オホヤマモリの命とウヂの若郎子[#「オホヤマモリの命とウヂの若郎子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――オホヤマモリの命を始祖と稱する山部の人々の傳えた物語。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 かくして天皇がお崩《かく》れになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲《え》ようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《ふねかじ》を具え飾り、さな葛《かずら》という蔓草の根を臼でついて、その汁の滑《なめ》を取り、その船の中の竹簀《すのこ》に塗つて、蹈めば滑《すべ》つて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧《よろい》を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、

[#ここから3字下げ]
流れの早い宇治川の渡場に
棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼《さき》に到つて沈みました。それで鉤《かぎ》をもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、

[#ここから3字下げ]
流れの早い宇治川の渡場に
渡場に立つている梓弓とマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
本の方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしく其處で思い出し
かわいそうに其處で思い出し、
切らないで來た梓弓とマユミの木。
[#ここで字下げ終わり]

 そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形《ひじかた》の君・幣岐《へき》の君・榛原《はりはら》の君等の祖先です。
 かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海人《あま》が貢物を獻りました。依つて兄の王はこれを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされることは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、「海人だから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。

[#5字下げ]天の日矛[#「天の日矛」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――異類婚姻説話の一つ、朝鮮系統のものである。終りに出石神社の由來がある。但馬の國の語部が傳えたのだろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また新羅《しらぎ》の國王の子の天《あめ》の日矛《ひほこ》という者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。
 その伺つていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包《つつ》んで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たちの飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飮食物を牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう」と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答えて言うには、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです」と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心|奢《おご》りして妻を詈《ののし》りましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言つて、竊に小船に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
 そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つて更に還つて、但馬《たじま》の國に船|泊《は》てをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生《う》んだ子はタヂマモロスクです。その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚して生《う》んだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪《めい》のユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。
 この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたもの二本、また浪振る領巾《ひれ》・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社《やしろ》に祭《まつ》つてある八神です。

[#5字下げ]秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫[#「秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずつと日本ふうになつている。海幸山幸物語との類似點に注意。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 ここに神の女《むすめ》、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下氷壯夫《したひおとこ》・春山の霞壯夫《かすみおとこ》という兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ孃子を得ようと思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか」と言いましたから、「たやすいことです」と言いました。そこでその兄の言いますには、「もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈《たけ》ほどに甕《かめ》に酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走をしよう」と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣《ころも》・褌《はかま》・襪《くつした》・沓《くつ》まで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓矢《ゆみや》を孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。
 そこでその兄に「わたしはイヅシ孃子を得ました」と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うには、「わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない」と言つて、その兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛言《のろいごと》を言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎《しお》れるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈《み》ちたり乾《ひ》たりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」と、このように詛《のろ》つて、竈《かまど》の上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、乾《かわ》き萎《しお》れ病《や》み伏《ふ》しました。そこでその兄が、泣《な》き悲しんで願いましたから、その詛《のろい》の物をもとに返しました。そこでその身がもとの通りに安らかになりました。

[#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息長《おきなが》の君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人の君・山道の君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の裳伏《もふし》の岡にあります。
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(つづく)



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名


[常陸] ひたち 旧国名。今の茨城県の大部分。常州。
新治 にいはり/にいばり 郡名・村名。現、新治郡千代田村新治。
筑波 つくば (古くは清音) 茨城県筑波郡の旧地名。

[安房] あわ 旧国名。今の千葉県の南部。房州。
安房の水門 あわのみなと 淡水門。比定地は浦賀水道・館山湾・平久里川(湊川)下流左岸館山市湊の三説がある。

[相模] さがみ 旧国名。今の神奈川県の大部分。相州。
走水の海 はしりみずのうみ 浦賀水道のこと。
走水 はしりみず 村名。現、神奈川県横須賀市走水。
足柄 あしがら 神奈川県南西部の地方名。
坂本 さかもと 現、南足柄市足柄山。

[駿河] するが 旧国名。今の静岡県の中央部。駿州。
焼津 やいづ 静岡県中部の市。駿河湾西岸に位置する遠洋漁業の根拠地で、缶詰など水産加工業が盛ん。日本武尊東征の際に、草を薙いで火難を鎮めた所という。人口12万。

[吾妻] 東・吾妻・吾嬬 あずま (1) (景行紀に、日本武尊が東征の帰途、碓日嶺から東南を眺めて、妃弟橘媛の投身を悲しみ、「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある)日本の東部地方。古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を指すようになった。(2) 特に京都からみて関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称。

[信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。

[甲斐] かい 旧国名。いまの山梨県。甲州。
酒折宮 さかおりのみや 日本武尊が東征の途中立ち寄ったという伝説の地。甲府市の酒折宮がその址とされる。

[尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。

[美濃] みの 旧国名。今の岐阜県の南部。濃州。
三野 → 美濃
当芸の野 たぎのの → 当芸野
当芸野 たぎの 多芸野。現、岐阜県養老郡養老町か。養老の滝。
牟宜都 むげつ 現、岐阜県武儀郡。県中央部。大化前代に牟義都国があり、国造は牟義都氏(牟宜都、身毛などとも記す)。中心は現、美濃市・関市の平野部であったとみられる。

[伊勢] いせ 旧国名。今の三重県の大半。勢州。
杖衝坂 つえつきざか 三重県四日市市采女にある東海道の坂の名称。国道1号横の旧東海道にあり、三重県名の由来にもなったヤマトタケルの故事がある急坂。東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の中間に位置する。
伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。
尾津の埼 おつのさき 尾津前。現、桑名郡多度町小山の付近に比定。紀は乙津浜。
三重の村 みえのむら 現、三重郡か。県北部。
能煩野 のぼの 本居宣長の説によれば現、鈴鹿市石薬師町白鳥古墳か。
白鳥陵 しらとりの みささぎ 日本武尊の陵。死後、白鳥に化してとまった所に建てたというもの。伊勢国能褒野のほか、大和・河内にもあった。

[大和] やまと 旧国名。今の奈良県の管轄。
纏向日代宮 まきむくの ひしろのみや 現、桜井市。景行天皇の宮。
坂手の池 さかてのいけ 現、磯城郡田原本町大字阪手に比定。
軽島の明の宮 かるしまの あきらのみや → 軽島豊明宮
軽島豊明宮 かるのしまの とよあきらのみや 軽島明宮とも。応神天皇の皇居。『記』には品陀和気命(応神天皇)が軽島明宮で天下を治めたとあり、また、『紀』応神41年条に天皇が明宮で崩じたことが見えるが詳細は不明。所在地は現在の奈良県橿原市大軽町にある春日神社付近と推定される(日本史)。
平群の山 へぐりのやま 現、生駒郡斑鳩町の矢田丘陵に比定。
平群 へぐり 古代の豪族平群氏の拠点。大和国平群郡。現在の奈良県生駒郡・生駒市南部を中心とした地域。
山の辺の道の上 → 山辺道上陵
山辺道上陵 やまのべの みちのえの みささぎ 現、奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳に比定。
沙紀の多他那美 さきの たたなみ 佐紀の盾列か。佐紀は現、奈良市北部、佐紀町・歌姫町・山陵町付近一帯の総称。奈良市曾布の佐紀丘陵に佐紀盾列古墳群が所在。
狭城の楯列 さきのたたなみ 現、奈良市山陵町。狭城楯列池後陵。成務天皇陵に治定。
奈良山 ならやま 奈良県添上郡佐保および生駒郡都跡村の北の丘陵。現在は奈良市に編入。平城山。(歌枕)
櫟井の丸迩坂 いちいの わにさか 現、天理市和爾町か。和爾村は上街道の楢村東方丘陵に位置する。紀の和珥坂下、記の丸迩坂か。
櫟井 いちい 現、天理市櫟本町か。
剣の池 つるぎのいけ 剣池。大和国高市郡にあった古代の池。記によれば孝元天皇陵はこの池の中の岡の上にあって剣池島上陵とよばれ、橿原市石川町に比定。(日本史)

[若狭] わかさ 旧国名。今の福井県の西部。若州。

[越前] えちぜん 旧国名。今の福井県の東部。古名、こしのみちのくち。
敦賀 つるが 福井県の南部、敦賀湾に面する港湾都市。古代から日本海側における大陸交通の要地。奈良時代には角鹿と称。原子力発電所が立地。人口6万8千。
気比神宮 けひ じんぐう 福井県敦賀市曙町にある元官幣大社。祭神は伊奢沙別命・日本武尊・帯中津彦命・息長帯姫命・誉田別命・豊姫命・武内宿祢。越前国一の宮。
血浦 ちうら 敦賀。
イチジ島
ミ島
木幡の村 こばたのむら

[近江] おうみ (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
玉倉部の清水 たまくらべの しみず 玉倉部邑。現比定地には、(1) 現、米原町醒井説と、(2) 同じく伊吹山の山麓にあって不破と息長の中間に位置する現、岐阜県不破郡関ヶ原大字玉の説とがある。
志賀の高穴穂の宮 しがの たかあなほのみや 景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の皇居。遺称地は大津市坂本穴太町付近。
沙沙那美 ささなみ 篠波。
逢坂 おおさか/おうさか 大津市南部にある、東海道の坂。北西に逢坂山がある。(歌枕)

[淡路] あわじ 旧国名。今の兵庫県淡路島。淡州。
淡路の役所

[河内] かわち (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
志幾 しき 志紀郡。近世の郡域は、八尾市の南部と藤井寺市の東部・柏原市の一部に属する。
恵賀の長江 えがの ながえ?
恵賀 えが 現、羽曳野市恵我之荘か。
恵賀の裳伏の岡 えがの もふしの おか 現、羽曳野市誉田。誉田御廟山古墳。応神天皇陵に比定されている。
難波津 なにわづ 難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬を造り、瀬戸内海へ出る港としていた。
依網 よさみ 摂津国住吉郡と河内国丹比郡の境界付近の古代地名。依網池は現、大阪市住吉区苅田・我孫子町から堺市常磐町にかけて復元。(日本史)
古波陀 こはだ
難波のヒメゴソの社 → 比売許曽神社
比売許曽神社 ひめこそ じんじゃ 大阪市東成区にある神社。旧社格は村社。式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一社(もう一社は高津宮摂社・比売古曽神社)。

[山城] やましろ 旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
葛野 かずの 現、京都市。今の桂川の平野。
宇治野 うじの 村名。現、中央区。六甲山地南麓段丘上に立地する。
宇治川 うじがわ 京都府宇治市域を流れる川。琵琶湖に発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、京都市伏見区淀付近に至って木津川・桂川と合流し、淀川と称する。網代で氷魚・鮎を捕った「宇治の網代」や宇治川の合戦で名高い。
カワラの埼 さき 訶和羅前。
和訶羅河 わからがわ 木津川。淀川の支流。川名は流域によって伊賀川・笠置川・鴨川ともよばれる。古文献には輪韓川・山背川・泉河などと記されてきた。

[摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。
斗賀野 とがの 菟餓野。古代の地名。現、大阪市北区兎我野町周辺を遺称地とする説が有力であるが、現、灘区都賀川流域に比定する説や、夢野の古称と解して兵庫区夢野町付近に求める説もある。

[但馬] たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
出石神社 いずし じんじゃ 兵庫県豊岡市出石町宮内にある元国幣中社。祭神は天日槍命。同命が将来したという8種の神宝を神体とする。但馬国一の宮。
イヅシ河の河島
出石川 いずしがわ 円山川水系の支流で兵庫県豊岡市を流れる一級河川。兵庫県豊岡市但東町小坂に源を発して北西に流れる。豊岡市街地付近にて円山川に合流する。

[出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
肥の河 ひのかわ → 簸川
簸川 ひのかわ日本神話に出る出雲の川の名。川上で素戔嗚命が八岐大蛇を退治したという。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。

[穴門] あなと 関門海峡の古称。また、長門国の古称。
豊浦の宮 とよらのみや 現、山口県下関市忌宮神社の境内地あたりと伝えられる。

[筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
[筑前] ちくぜん
香椎の宮 かしいのみや → 香椎宮
香椎宮 かしいぐう 福岡市香椎にある元官幣大社。仲哀天皇・神功皇后を祀る。記紀伝承の橿日宮の旧址に当たるという。香椎廟。
宇美 うみ 福岡県糟屋郡宇美町宇美。三郡山の西に位置し、宇美川の上流域を占める。
伊斗 いと 現、糸島郡二丈町児饗野か。神功皇后の産気を抑えた霊石の伝説にちなむ地名。遺称地とされる深江の子負ヶ原には現在、鎮懐石八幡宮が鎮座。

[肥前] ひぜん 旧国名。一部は今の佐賀県、一部は長崎県。
松浦 まつら 肥前松浦地方(現在の佐賀県・長崎県の北部)の古称。「魏志」に見える末盧(末羅)国にあたる。古代に、松浦県、次いで松浦郡が設置された。梅豆羅国。
松浦県 まつらがた → 松浦
玉島 たましま 現、東松浦郡浜玉町大字南山字玉島。

[熊曽の国]
熊曽国 くまそこく? 豊国は豊日別といい、肥国は建日向日豊久土比泥別といい、熊曽国は建日別といったとされる(記)。熊曽国は、のちの国名でいえば日向・大隅・薩摩の三国の地域になる。
熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。日本武尊の征討伝説で著名。

[日向]  ひゅうが (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。
諸県 むらがた/もろかた 諸県郡。古代律令期から明治初期まで日向国南西部一帯に存在した郡。諸県君の本拠地であったと考えられる。


新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
アグ沼 阿具沼

百済 くだら (クダラは日本での称) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

稗田の阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太の安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」「武田祐吉著作集」全8巻。

景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
成務天皇 せいむ てんのう 記紀伝承上の天皇。景行天皇の第4皇子。名は稚足彦。
オオタラシ彦オシロワケの天皇 → 景行天皇
吉備の臣 きびのおみ
ワカタケキビツ彦 若建吉備津日子の命。稚武彦命(紀)。孝霊天皇の皇子。母は阿礼比売命の弟女蝿伊呂杼。紀に吉備臣始祖とある。記では吉備下道臣、笠臣の祖。孝霊記に大吉備津日子命と共に針間の道の口として吉備国を言向け和したとある。(神名)
播磨のイナビの大郎女 はりまの伊那毘のおおいらつめ ワカタケキビツ彦の娘。播磨稲日大郎姫。景行天皇の皇后。櫛角別王・大碓命・小碓命(=日本武尊)・倭根子命・神櫛王らの母親。(神名)

クシツノワケの王 櫛角別の王。景行天皇の子。母は播磨のイナビの大郎女。茨田連らの祖。姓氏録には、景行天皇の子で、茨田勝の祖として息長彦人大兄磯城命の記載があるが同神か。(神名)
オオウスの命 大碓の命 → 大碓皇子
大碓皇子 おおうすのみこ 記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。大碓命。景行天皇の皇子で、母は播磨稲日大郎姫。同母兄に櫛角別王、双子の弟に小碓尊(日本武尊)がおり、異母兄弟に成務天皇がいる。牟義都(むげつ、牟宜都・身毛津)君の祖。
オウスの命 小碓の命。またの名はヤマトオグナの命。 → 日本武尊
ヤマトオグナの命 倭男具那の命。ヤマトオグナの王 → 日本武尊
ヤマトネコの命 倭根子の命。
カムクシの王 神櫛の王。神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛で、同母弟に稲背入彦皇子がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。また、讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古・宇陀酒部・酒部公の祖で、国造族の子孫は寒川・植田・高松・神内・三谷・十河などの氏を名乗ったという。
ヤサカノイリ彦の命 八尺の入日子の命。
ヤサカノイリ姫の命 八坂の入日売の命。ヤサカノイリ彦の命の娘。
ワカタラシ彦の命 若帯日子の命。
イオキノイリ彦の命 五百木の入日子の命。
オシワケの命 押別の命。
イオキノイリ姫の命 五百木の入日売の命。
トヨトワケの王 豊戸別の王。
ヌナシロの郎女 いらつめ 沼代の郎女。
ヌナキの郎女 いらつめ 沼名木の郎女。
カグヨリ姫の命 香余理比売の命。
ワカキノイリ彦の王 若木の入日子の王。
キビノエ彦の王 吉備の兄日子の王。
タカギ姫の命 高木比売の命。
オト姫の命 弟比売の命。
日向のミハカシ姫 ひむかの- 日向の美波迦斯毘売。
トヨクニワケの王 豊国別の王。景行天皇の皇子。日向国造の祖。(神名)
イナビの大郎女 おおいらつめ 伊那毘の大郎女。
イナビの若郎女 わかいらつめ 伊那毘の若郎女。イナビの大郎女の妹。
マワカの王 真若の王。(1) 景行天皇の皇子。(2) 仁賢天皇の皇女。母は雄略天皇の皇女の春日大郎女。(神名)
ヒコヒトノオオエの王 日子人の大兄の王。
ヤマトタケルの命 倭建の命、日本武尊。やまとたけるのみこと 古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。
スメイロオオナカツ彦の王。須売伊呂大中つ日子の王。倭建の命の曽孫。
カグロ姫 訶具漏比売。スメイロオオナカツ彦の王の娘。
オオエの王 大枝の王
茨田の下の連
守の君
太田の君
島田の君
木の国の酒部の阿比古
宇陀の酒部
日向の国の造

三野の国の造 みのの くにのみやつこ
オオネの王の娘 大根の王。
兄姫 えひめ オオネの王の娘。
弟姫 おとひめ オオネの王の娘。
オシクロのエ彦の王 押黒の兄日子の王。
三野の宇泥須の別 みのの うねすのわけ
オシクロのオト彦の王 押黒の弟日子の王。
牟宜都の君 むげつのきみ 牟義都・身毛などとも書く。現、岐阜県武儀郡に居住した。
大伴部 おおともべ 大和時代に大伴氏が私有した部曲。
クマソタケル 熊曽建。熊襲・熊襲梟師(紀)。熊曽の国の勇猛な二人の兄弟のこと。(神名)
ヤマト姫の命 倭比売の命 → 倭姫命
倭姫命 やまとひめの みこと 垂仁天皇の皇女といわれる伝説上の人物。天照大神の祠を大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して草薙剣を授けたという。
イヅモタケル 出雲建。景行記によると、倭建御子は熊曽建の征伐からの帰途、出雲に寄り、偽の太刀を出雲建に与えて打ち殺した。(神名)

ミスキトモミミタケ彦 御�K友耳建日子
尾張の国の造 みやつこ
ミヤズ姫 宮簀媛 記紀伝承で日本武尊の妃。尾張国造の祖、建稲種公の妹。日本武尊は東征後、草薙剣を媛の許に留めたが、尊の没後、媛は神剣を祀り、熱田神宮の起源をなした。
オトタチバナ姫の命 弟橘媛 日本武尊の妃。穂積氏忍山宿祢の女。記紀の伝説で尊東征の時、相模海上(浦賀水道の辺)で風波の起こった際、海神の怒りをなだめるため、尊に代わって海に投じたと伝える。橘媛。
吾妻の国の造 あずまの くにのみやつこ
信濃の坂の神 しなのの/しなぬのさかのかみ 科野之坂神。ヤマトタケルの命が東征の途中、科野国を越える際に言向けた(平定した)神。(神名)
イブキの山の神 伊服岐の山の神。景行記によると、ヤマトタケルの命はイブキの山の神を素手で討ち取ろうと草薙の剣を持たずに山に入った。そして白猪の姿で出現したこの神を神の使者であるといい、帰路に殺そうといってさらに山を登ったところ、神は大氷雨を降らして命を惑わせた。それがもとでヤマトタケルの命は死ぬ。(神名)
久米の直 くめの あたえ
ナナツカハギ 七拳脛 七掬(紀)。久米直の祖。倭建御子の国土平定に膳夫として従った人。(神名)
垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。伊玖米の天皇。
フタジノイリ姫の命 布多遅の伊理毘売の命 垂仁天皇の娘。

タラシナカツ彦の命 帯中津日子の命 → 仲哀天皇
仲哀天皇 ちゅうあい てんのう 記紀伝承上の天皇。日本武尊の第2王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦。熊襲征討の途中、筑前国の香椎宮で没したという。
ワカタケルの王 若建の王。倭建御子の子。母は弟橘比売命。その後裔は応神天皇の皇位継承にあたって対抗した忍熊王に連なる。紀では倭建御子と両道入姫との間の第四子としている。(神名)
近江の安の国の造 近つ淡海の安の国の造 ちかつおうみの やすの くにのみやつこ
オオタムワケ 意富多牟和気
フタジ姫 布多遅比売 オオタムワケの娘。
イナヨリワケの王 稲依別の王 第12代景行天皇の孫で日本武尊の第1子。母は両道入姫皇女(垂仁天皇の皇女)。第14代仲哀天皇の同母兄とされる。
吉備の臣タケ彦 吉備の臣建日子
大吉備のタケ姫 大吉備の建比売 吉備の臣タケ彦の妹。
タケカイコの王 建貝児の王
山代のククマモリ姫 山代の玖玖麻毛理比売
アシカガミワケの王 足鏡別の王
オキナガタワケの王 息長田別の王
犬上の君 いぬかみの-
建部の君 たけべの-
讃岐の綾の君 さぬきの-
伊勢の別
登袁の別 とおのわけ
麻佐の首 〓のおびと
宮の首の別
鎌倉の別
小津の石代の別 〓の いわしろのわけ
漁田の別 すなきだのわけ
クイマタナガ彦の王 杙俣長日子の王 オキナガタワケの王の子。
イイノノマクロ姫の命 飯野の真黒比売の命
オキナガマワカナカツ姫 息長真若中つ比売
弟姫 おとひめ
スメイロオオナカツ彦の王 須売伊呂大中つ日子の王
近江のシバノイリキ 淡海の柴野入杵
シバノ姫 柴野比売 近江のシバノイリキの娘。
カグロ姫の命 迦具漏比売の命
オオタラシ彦の天皇 大帯日子の天皇 → 景行天皇
オオエの王 大江の王
シロガネの王 銀の王
オオナガタの王 大名方の王
オオナカツ姫の命 大中津比売の命 オオエの王の娘。
カゴサカの王 香坂の王
オシクマの王 忍熊の王、忍熊皇子。仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の女・大中姫(大中比売命)。カゴサカの王の同母弟。

成務天皇 せいむ てんのう 記紀伝承上の天皇。景行天皇の第4皇子。名は稚足彦。
ワカタラシ彦の天皇 → 成務天皇
穂積の臣 ほづみのおみ
タケオシヤマタリネ 建忍山垂根
オトタカラの郎女 弟財のいらつめ タケオシヤマタリネの娘。
ワカヌケの王 和訶奴気の王
タケシウチの宿祢 建内の宿禰 → 武内宿祢
武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。

オキナガタラシ姫の命 息長帯比売の命 → 神功皇后
神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
ホムヤワケの命 品夜和気の命
オオトモワケの命 大鞆和気の命 またの名はホムダワケの命。
ホムダワケの命 品陀和気の命 → 応神天皇
応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。

天日槍・天之日矛 あめのひぼこ 記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
アマテラス大神 天照大神・天照大御神 伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
ソコツツノオ 底筒男命 → 住吉の大神
ナカツツノオ 中筒男命 → 住吉の大神
ウワツツノオ 表筒男命 → 住吉の大神
住吉の大神 住吉三神。神道で信仰される神で、底筒男命、中筒男命、表筒男命の総称である。住吉大神ともいう
カツト姫 勝門比売
難波の吉師部 なにわの きしべ
イサヒの宿祢 すくね 伊佐比の宿祢 将軍。五十狭茅宿祢。仲哀記によると、香坂王と忍熊王の反乱に忍熊王の将として従い、山代で建振熊命と戦って敗れ、逢城から沙々那美へと後退し、遂に忍熊王と共に琵琶湖に沈んだ。難波吉師部の祖。(神名)
丸迩の臣 わにのおみ
難波ネコタケフルクマの命 なにわ- 難波根子建振熊の命。

気比の大神 けひのおおかみ 越前国式内社気比神社(元官幣大社)の祭神。気比明神といい、伊奢沙別命・倭建御子・帯中津彦命・息長帯姫命・誉田別命・豊姫命・武内宿祢命七座の総称。(神名)
イザサワケの大神 伊奢沙和気の大神の命 伊奢は誘うの意、沙は神稲。和気は男子の敬称とされる。福井県敦賀市気比神宮の祭神。誉田別命(応神天皇)が角鹿に禊した時、夢告により大神と太子とが互いの名を易えたとされる。(神名)
御食つ大神 みけつおおかみ 気比大神である伊奢沙和気大神命の別名。敦賀の気比神。皇太子品陀和気命(応神天皇)と名前を交換したとき、御食之魚を献じたことによる名。(神名)/古事記で、応神天皇に魚を奉ったので御食津大神と称された。
スクナビコナ 少彦名神 日本神話で、高皇産霊神(古事記では神産巣日神)の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭などの法を創めたという。

ホムダノマワカの王 品陀の真若の王 父は景行天皇の皇子イオキノイリ彦の命。
タカギノイリ姫の命 高木の入日売の命 高城入姫(紀)。応神天皇の妃。
中姫の命 なかつひめのみこと 中日売の命。仲姫(紀)。応神天皇の妃。
弟姫の命 おとひめのみこと 弟日売の命。応神天皇の妃。
尾張の直
タケイナダの宿祢 建稲種命。建伊那陀の宿祢。尾張連らの祖。
シリツキトメ 志理都紀斗売 タケイナダの宿祢の娘。イオキノイリ彦の命との間にホムダノマワカの王を生む。(神名)

ヌカダノオオナカツヒコの命 額田の大中つ日子の命 応神天皇の皇子。
オオヤマモリの命 大山守の命 応神天皇の皇子。皇位を望んで太子のウジの若郎子に対して反乱を起こす。しかし、オオサザキの命によって討たれ、宇治川で殺された。(神名)
イザノマワカの命 伊奢の真若の命 応神天皇の皇子。
オオハラの郎女 いらつめ 大原の郎女 応神天皇の皇女。
タカモクの郎女 いらつめ 高目の郎女 こむくのいらつめ。応神天皇の子。(神名)

キノアラタの郎女 いらつめ 木の荒田の郎女 応神天皇の子。
オオサザキの命 大鷦鷯尊 → 仁徳天皇
仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
ネトリの命 根鳥の命 根取皇子(紀)。応神天皇の皇子。

阿部の郎女 あべの いらつめ
アワジノミハラの郎女 いらつめ 阿貝知の三腹の郎女 淡路御原皇女(紀)。応神天皇の皇女。(神名)
キノウノの郎女 いらつめ 木の菟野の郎女 きのうぬのいらつめ。紀之-(紀)。応神天皇の子。(神名)
ミノの郎女 いらつめ 三野の郎女 みぬのいらつめ。応神天皇の子。(神名)

ワニノヒフレのオオミ 丸邇の比布礼の意富美 応神天皇妃のミヤヌシヤガハエ姫とオナベの郎女の父にあたる。察知して天皇の行幸を待ち、大饗を奉った。応神紀では和珥臣の祖、日触使主とする。(神名)
ミヤヌシヤガハエ姫 宮主矢河枝比売 ワニノヒフレのオオミの娘。応神天皇妃。
ウジの若郎子 わきいらつこ 宇遅の和紀郎子 応神天皇の皇子。京都市宇治神社の祭神。仁徳天皇の異母弟にあたる。(神名)
ヤタの若郎女 わきいらつめ 八田の若郎女 応神天皇の皇女。異母兄である仁徳天皇の妃となった。この婚姻をめぐる后の石之日売(磐之媛)の嫉妬の物語と歌謡が記紀にある。(神名)
メトリの王 女鳥の王 めどりのみこ 応神天皇の子。母はミヤヌシヤガハエ姫。仁徳天皇がメトリの王を妻にしようと速総別王を使いにやるが、メトリの王は速総別王と結婚してしまう。天皇は軍を向けて、宇陀の蘇邇に逃げた二人を殺した。(神名)
ヤガハエ姫 矢河枝比売 → ミヤヌシヤガハエ姫
オナベの郎女 いらつめ 袁那弁の郎女 ヤガハエ姫の妹。
ウジの若郎女 わかいらつめ 宇遅の若郎女
クイマタナガ彦の王 咋俣長日子の王 オキナガタワケの王の子。
オキナガマワカナカツ姫 息長真若中つ比売 クイマタナガ彦の王の娘。応神天皇の妃。
ワカヌケフタマタ/ワカノケフタマタの王 若沼毛二俣の王 応神天皇の皇子。モモシキイロベを妻として七人の子を産んだ。姓氏録には息長氏の祖とされ、後の継体天皇擁立に深く関わる氏族との系譜上の関連が考えられる。(神名)

桜井の田部の連 さくらいの たべの むらじ
シマタリネ 島垂根 系統、事跡不詳。子に安寧帝の妃、イトイ姫がいる。桜井田部連の祖。(神名)
イトイ姫 糸井比売 シマタリネの娘。応神天皇の妃。
ハヤブサワケの命 速総別の命 隼別皇子(紀)。(神名)

日向のイヅミノナガ姫 ひむかのいづみのながひめ 日向の泉の長比売 応神天皇との間にオオハエの王・オハエの王・ハタビの若郎女を生む。
オオハエの王 大羽江の王 大葉枝皇子(紀)。応神天皇の皇子。(神名)
オハエの王 小羽江の王 小葉枝皇子(紀)。応神天皇の皇子。(神名)
ハタビの若郎女 わかいらつめ 檣日の若郎女 幡日-。応神天皇の皇女。
カグロ姫 迦具漏比売 訶具漏比売。ヤマトタケルの命の子孫スメイロオオナカツ彦の王の娘。母は柴野比売。景行天皇に召されて大江王(大枝王)を生んだ。(神名)
カワラダの郎女 いらつめ 川原田の郎女 応神天皇の子。
タマの郎女 いらつめ 玉の郎女 応神天皇の子。
オシサカノオオナカツ姫 忍坂の大中つ比売 応神天皇の皇女。母はカグロ姫。
トホシの郎女 いらつめ 登富志の郎女 応神天皇の皇女。
カタジの王 迦多遅の王 応神天皇の子。
カヅラキノノノイロメ 葛城の野の伊呂売 応神天皇との間にイザノマワカの王を生む。
イザノマワカの王 伊奢の麻和迦の王 応神天皇の皇子。
ワニ氏 わにうじ 和珥氏。丸邇・和邇・丸とも。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族。本拠地は大和国添上郡。
春日氏 かすがし 4世紀に栄えた日本の古代豪族。大和朝廷発足時から大王家に次ぐ地位を占め、4世紀に全盛時代を迎えた。本拠地は現在の奈良市を中心とする地域であるとされる。その後、和珥氏、粟田氏、柿本氏の諸氏が分立する。
日向の国の諸県の君 むらがた/もらがたのきみ 日向諸県君牛諸か。仁徳天皇に娶された髪長姫の父。応神紀には長く朝廷に仕え、退仕し本土に帰る際、姫を献上したと伝える。(神名)
髪長姫 かみながひめ 日向国の諸県君の娘。はじめ応神天皇に喚し上げられたが、後に建内宿禰を介して皇太子オオサザキの命(仁徳天皇)に下賜され、大日下王・長日比売命(または若日下部命)を生む。(神名)

照古王 しょうこおう 肖古王? 近肖古王? 百済の国王。
肖古王 しょうこおう ?- 214 百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)であり、先代の蓋婁王の子。『三国史記』百済本紀・肖古王紀の分注や『三国遺事』王暦では素古王の別名も記される。166年に先王の死去により王位についた。先代の蓋婁王の末年より新羅との交戦態勢に入っており、しばしば新羅と戦った。
近肖古王 きんしょうこおう ?-375 百済の第13代の王(在位:346年 − 375年)であり、第11代の比流王の第2子。346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王であり、『晋書』では余句 (余は百済王族の姓)『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。新羅とは和親を保ち、高句麗との抗争を続けた。

アチキシ 阿知吉師 阿直の史等の祖先。 → 阿直岐
阿直岐 あちき 古代、百済からの渡来人。応神天皇の時に貢使として来朝、皇子菟道稚郎子に経典を講じ、また、百済から博士王仁を招いたと伝える。阿知吉師ともいう。
阿直の史等 あちの ふみひと
ワニキシ 和邇吉師 → 王仁
王仁 わに 古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。和邇吉師。
卓素 たくそ 応神朝に百済より貢上された朝鮮の鍛冶職人。(神名)
西素 さいそ 呉服西素。呉の機織技術者。(神名)
秦の造 はたのみやつこ 渡来系の有力豪族。応神朝に渡来した弓月君の子孫と伝えられる。欽明天皇は夢のお告げにより、秦大津父を大事にすると天下を取れると知らされ重用する。(総覧)
漢の直 あやのあたえ 東漢直。古代の渡来系氏族。阿知使主の子孫と称し、朝廷の記録や外交文書をつかさどった。5世紀ごろ渡来した朝鮮の漢民族の子孫と見られ、大和を本拠とした。7世紀には政治的・軍事的に有力となり、姓は直から忌寸や宿祢に昇格。東漢氏。
ニホ 仁番 またの名をススコリ(須須許理)。酒をつくる。住吉神代紀の辛島恵我須須己里と同一人物と思われる。また、姓氏録の韓国より渡来した曽々保利兄弟と同じとする説もある。(神名)
土形の君 ひじかたのきみ
幣岐の君 へきのきみ
榛原の君 はりはらのきみ

天の日矛 あめのひぼこ 天日槍・天之日矛。記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
アカル姫 → 阿加流比売神
阿加流比売神 あかるひめのかみ 古事記説話で、天之日矛の妻。新羅の女が日の光を受けて懐妊し、生んだ赤玉の成った女神。のち日本に来て難波の比売許曾神社に鎮座した。
但馬のマタオ 多遅摩の俣尾 天之日矛の妻となった前津見の父。
マエツミ 前津見 但馬のマタオの娘。天之日矛の妻。
タジマモロスク 多遅摩母呂須玖 天之日矛の子。
タジマヒネ 多遅摩斐泥 タジマモロスクの子。天之日矛の孫。
タジマヒナラキ 多遅摩比那良岐 タジマヒネの子。タジマモリの父。
タジマモリ 多遅摩毛理 タジマヒナラキの子。田道間守。記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
タジマヒタカ 多遅摩比多訶 タジマヒナラキの子。天之日矛の系譜と神功皇后の出自とをつなぐ位置にある。ただし紀には見えない。
キヨ彦 清日子 清彦(紀)。天之日矛の曾孫タジマヒナラキの子。
タギマノメヒ 当摩の�@斐 タジマキヨ彦の妻。紀にはみられない。(神名)
スガノモロオ 酢鹿の諸男 キヨ彦の子。
スガカマユラドミ 菅竈由良度美 キヨ彦の娘。タジマヒタカの姪。ヒタカとの間に葛城のタカヌカ姫の命を生む。紀には見えない。(神名)
葛城のタカヌカ姫の命 葛城の高額比売の命 大海姫命とも(旧事紀)。高額は大和国葛下郡の郷名。息長宿禰王の妻となり、息長帯日売命(神功皇后)を生む。(神名)

秋山の下氷壮夫 あきやまのしたびをとこ
春山の霞壮夫 はるやまのかすみ おとこ 春山之霞壮夫。古事記伝説で、兄の秋山之下氷壮夫と、伊豆志袁登売神を争ったという神。藤の花の装いで乙女を得る。
イヅシ嬢子 おとめ 伊豆志袁登売
允恭天皇 いんぎょう てんのう 記紀に記された5世紀中頃の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿祢。盟神探湯で姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に比定される。
継体天皇 けいたい てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。彦主人王の第1王子。応神天皇の5代の孫という。名は男大迹。

ワカノケフタマタの王 若野毛二俣の王 ホムダの天皇の御子。
モモシキイロベ 百師木伊呂弁 別名、オトヒメマワカ姫の命。応神天皇の皇子であるワカノケフタマタの王の妃となり七子を生んだ。(神名)
オトヒメマワカ姫の命 弟日売真若比売の命 → モモシキイロベ
大郎子 おおいらつこ → オオホドの王
オオホドの王 意富富杼の王 父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)、母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(百師木伊呂弁とも)で、同母妹の忍坂大中姫・衣通姫は允恭天皇に入内している。意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君などの祖。
オサカノオオナカツ姫の命 忍坂の大中津比売の命 ワカノケフタマタの王の子。母はモモシキイロベ。允恭天皇が皇子であったときに召されて妃となる。木梨軽皇子・大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)ら九王を生んだ。(神名)
タイノナカツ姫 田井の中比売 応神天皇の子のワカノケフタマタの王とモモシキイロベとの間の子。允恭記にはその名代として河部が定められている。紀には不載。(神名)
タミヤノナカツ姫 田宮の中比売
フジハラノコトフシの郎女 いらつめ 藤原の琴節の郎女 応神天皇の皇子であるワカノケフタマタの王の娘。母はモモシキイロベ。紀には記載がない。(神名)
トリメの王 取売の王 ワカノケフタマタの王の子。母はモモシキイロベ。
サネの王 沙禰の王 ワカノケフタマタの王の子。母はモモシキイロベ。

三国の君 みくにのきみ
波多の君 はたのきみ
息長の君 おきながのきみ
筑紫の米多の君
長坂の君
酒人の君 さかびとのきみ
山道の君 やまじのきみ
布勢の君 ふせのきみ

ネトリの王 根鳥の王 → ネトリの命
ミハラの郎女 いらつめ 三腹の郎女 三原郎女。ネトリの王の庶妹。
ナカツ彦の王 中日子の王 応神天皇の子根鳥の王の子。母はミハラの郎女。(神名)
イワシマの王 伊和島の王
カタシワの王 堅石の王
クヌの王 久奴の王 応神天皇の子カタシワの王を父とする。(神名)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)『古事記・日本書紀総覧』上田正昭ほか著(新人物往来社、1990.12)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
『論語』 ろんご 四書の一つ。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編。学而篇より尭曰篇に至る。弟子たちの記録したものに始まり、漢代に集大成。孔子の説いた理想的秩序「礼」の姿、理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの具体的意見を述べる。日本には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
『千字文』 せんじもん 中国六朝の梁の周興嗣が武帝の命により撰した韻文。1巻。4字1句、250句、1000字から成り、「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり、「謂語助者、焉哉乎也」に終わる。初学教科書、また習字手本として流布。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


国の造 くにのみやつこ 国造。(「国の御奴」の意)古代の世襲の地方官。ほぼ1郡を領し、大化改新以後は多く郡司となった。大化改新後も1国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。
別 わけ 古代の姓の一つ。主として古来の地方豪族が称した。
稲置 いなき/いなぎ (1) 古代の下級地方官。隋書東夷伝に「八十戸置一伊尼翼如今里長也。十伊尼翼属一軍尼」とある。(2) 八色姓の第8位。
県主 あがたぬし 大和時代の県の支配者。後に姓の一つとなった。
田部 たべ 大和時代、屯倉の耕作に従事した農民。
膳・膳夫 かしわで (古代、カシワの葉を食器に用いたことから) (「膳部」と書く)大和政権の品部で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事の調製を指揮した下級官人。長は膳臣と称し、子孫の嫡系は高橋朝臣。かしわべ。
櫟・赤檮・石� いちい 「いちいがし」に同じ。
石� いちいがし ブナ科の常緑高木。暖地産で高さ約30メートルに達し、葉は先端で急にとがる。葉の裏面、若枝は黄褐色の短毛で被われる。実は大形で食用となり、味はシイに似る。材は堅く強靱で、鋤・鍬の柄、大工・土木用具などに用いる。イチイ。イチガシ。
草薙剣 くさなぎのつるぎ 三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇の尾から出たと伝える剣。日本武尊が東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣。
思国歌 くにしのびうた (奈良時代はクニシノヒウタと清音)郷国をしのび、その国土をほめる歌。
片歌 かたうた 雅楽寮で教習した大歌の一体。五・七・七または五・七・五の3句で1首をなす歌で、奈良時代以前には、多くは問答に用いた。江戸時代、建部綾足は俳諧の一体として、片歌の復興を志した。
継妹・庶妹 ままいも (男兄弟から見て)父または母のちがう姉妹。異父姉妹。異母姉妹。
生々 なまなま (2) いいかげんなさま。未熟なさま。中途半端。
大祓 おおはらえ 古来、6月と12月の晦日に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢を祓った神事。現在も宮中を初め全国各神社で行われる。中臣の祓。みそぎはらえ。おおはらい。
鎮懐石 ちんかいせき
武勇譚
葛野の歌 かずののうた
諸県舞 むらがたまい
国主歌 くずうた → 国栖歌か
国栖歌 くずうた 古代、国栖の人が宮廷の儀式の際に宮中承明門外で奏した風俗歌。
国栖・国樔・国巣 くず (1) 古く大和国吉野郡の山奥にあったと伝える村落。また、その村民。在来の古俗を保持して、奈良・平安時代には宮中の節会に参加、贄を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏することが例となっていた。(2) 常陸国茨城郡に土着の先住民。
海部 あまべ 海部・海人部。大和政権で、海運や朝廷への海産物貢納に従事した品部。
山部 やまべ 大和政権で直轄領の山林を管理した品部。
山守部 やまもりべ 大化前代の部。山林の管理により朝廷に奉仕した。記紀によれば応神朝に設定されたという。山守部の分布は畿内近国にのみみられ、職掌は令制下では守山戸に継承されたと考えられる。(日本史)
伊勢部 いせべ 詳細不明。八世紀に礒(磯)部姓の人々は広く見られ、伊蘇部の姓もあるので、伊勢部は礒部のこととする説がある。伊勢神宮の部民とする説もあるが、伊勢国造である伊勢直との関係も考慮すべきか。(日本史)
さな葛 さなかずら サネカズラの古名。
異類婚姻譚 いるい こんいん たん 説話類型の一つ。動物・精霊などと人間との結婚を主題とする話。異類が男性の場合(蛇聟入り・猿聟入りなど)と女性の場合(鶴女房・蛤女房など)とがある。
賤の女 しずのめ 身分のいやしい女。
賤の男 しずのお 身分のいやしい男。しずお。

妾 みめ 御妻・妃。妃・嬪・女御などの敬称。
焼き退けて やきそける 焼き去(そ)く。焼いて払い除く。
ヒル 蒜 ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 ヤマトタケル、神功皇后、天の日矛。
 この回(中巻の後半)は話題の英雄登場が多く、気になるところも少くない。気をつけて読んでみたが、地震や火山や津波を想起させる部分はなかった。
 日本の神さまをおおざっぱに二分すると、天つ神(あまつかみ)と国つ神(くにつかみ)になり、あわせて天神/地祇(ちぎ)という。天孫降臨にはじまる天つ神は、つまるところ皇族の渡来と平定のエピソードであり、国つ神は、より以前に先住していた民族と考えられ、コシのヤマタノオロチ・出雲のオオクニヌシ・伊勢のヤマト姫らに代表される。国つ神は天つ神による統治を協力したり、あるいはそれに抵抗している。クマソや隼人・クズ・土蜘蛛・蝦夷もまた先住民なのだろうが、国つ神には含まれないように見える。
 ボウフラのごとく自然発生したとか、ニホンザルが進化したとか考えないかぎり、この列島に住んでいる人々の祖は時間差と渡航ルートのちがいこそあれ、すべてどこか列島の外からやってきた“渡来系”になる。たぶん単一民族という認識よりも、ことごとく渡来系の子孫からなるバームクーヘン社会という認識が現状に近い。
 
 以後、さらにこのバームクーヘンを味わうべく、喜田貞吉の蝦夷、伊波普猷の沖縄、武田祐吉の風土記・霊異記、それから鳥居龍蔵の北東アジアへと侵食する予定。『古事記』はその足がかりのひとつ。

 さて、日本の神道は多神教だから他文化に対して寛容である、みたいな言説を昨今しょっちゅう見聞きするが、これも黄禍論とおなじぐらいうさんくさい。そう思いたい、というのはやまやまだけれども、はたしてどうか。
 皇太子、来県。




*次週予告


第三巻 第五一号 
現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)
武田祐吉(訳)


第三巻 第五一号は、
七月一六日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三三号
現代語訳『古事記』(四)武田祐吉(訳)
発行:二〇一一年七月一六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
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第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実

美和の大物主
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

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