今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Akitsune_Imamura.jpg」より。


もくじ 
地震の国(二)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の国(二)
   九 ドリアン
   一〇 地震の興味
   一一 地割れの開閉現象
   一二 称名寺の鐘楼
   一三 張衡(ちょうこう)
   一四 地震計の冤(えん)
   一五 初動の方向性
   一六 白鳳大地震

オリジナル版
地震の國(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例

〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。
一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名は「 」で示しました。
一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


*底本
底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震の国(二)



   九 ドリアン

 昭和十年(一九三五)六月二十日の『東京朝日』紙に「地震国の忘れ物」と題したつぎの記事が現われた。

十九日正午、例の今村地震博士が、日本倶楽部(みなみひろし氏を会長とする)で政界・実業界のお歴々(町田民政党総裁、松田文部大臣など)七十余名を相手に、「地震のABC」を一時間にわたり講義した。「現在、尋常小学校の国定教科書には地震のまとまった知識に関する項目が全然ないので、大震後、早くも十三年を経過した今日、幼い小国民のあいだには地震に関する知識がはなはだ欠乏している。かくては、あのおそろしい大震災の洗礼がむなしくなるから、尋常小学校の五年または六年の教科書に、地震の一項を至急追加することを要する」という意見。松田文相も「ホウ、そうじゃそうじゃ」と感心していたから、この件、案外早く実現するらしい。

 震災予防に多大な関心を持つわれわれにとっては、まことに好ましい記事である。新聞記事にはヨタも少くないが、この記事はその種類のものでないことだけは保証する。
 この日、余は講演の内容をおもいきり平易なものにした。震災予防に関する常識、地震波の伝播でんぱ現象など、おそらく尋常小学校上級生に適度であったろう。そして比較的難解な部分、たとえば地震の原因とか正体とかいうようなことはすべてはぶき、かようなことにふれずとも、震災予防や地震現象の常識をつかむにはさしつかえないむねを述べておいたが、この際、かのケルヴィン卿のエスチングハウス訪問に関する挿話そうわをつけ加えたこと、ことわるまでもあるまい。つぎに、余がとくに高調した諸点をあげてみる。

 文部大臣は、昨年の関西風水害直後、地方庁あてに訓令を出されて、生徒児童の非常災害に対する教養に努めるよういましめられたのであった。まことに結構けっこうな訓令である。ただし、震災に関するかぎり、小学教師は、いつ、いかなる場合、いかようにしてこの名訓令の趣旨を貫徹せしめるかについては、すこぶる迷っているというのが、いつわらざる現状である。実際、尋常科用国定教科書をいかにあさって見ても理科はもとより、地理・国語・修身、その他にも、地震を主題とした文章は一編も現われず、ただ数か所に「地震」という文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、たとえかような機会をとらえるとしても、いかなることを話したらよいか、それが教師にとってかえって大きな悩みである。文部大臣の監督下にある震災予防評議会が、震火災防止をめざす積極的精神の振作しんさくに関し、内閣総理をはじめ、文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出したのは昭和三年(一九二八)のことであるが、その建議書にはとくに「尋常小学校の課程に地震に関する一文章を加える議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員会へも照会されたが、同委員会からは、問題の事項は加えがたいむねの返事があった。地震という事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、また、その他の記事が満載されていて、割り込ませる余地もないという理由であった。この理由はとくに理科の教科書に限られたわけでもなく、他の科目についても同様であったのである。難解なりとは、先ほどから説明したとおり問題にならぬ。われわれはその後、文案を具して当局にせまったこともあるくらいであるから、当局ももはやりょうとしておられるであろう。さすれば主な理由は、余地なしという点に帰着するわけである。つくづく尋常科教科書を検討してみるに、次のようなことが載せてあるのを気づく。すなわち「南洋にはドリアンという果物ができる。うまいけれども、とてもくさい」と。このような記事を加える余裕があるにもかかわらず、地震国・震災国の幼い小国民に地震のことを教える余地がないとは、じつに不可解なことといわねばならぬ。

 ここまでくると、拍手喝采かっさいが一時に爆発して満堂まんどうを圧し、演者は暫時ざんじ、壇上に立ち往生をした。ただし、この拍手喝采かっさいは演者に向けられたというよりも、むしろ聴者の一人たる松田文相に向けられたものであった。そして文相はわずかに苦笑をもってこれに応酬せられるばかりであったというのが実況である。
 その夕、帰宅していると『東京朝日』の記者から電話がかかってきた。文部省では文相のお声がかかったので、さっそく尋常科教科書に地震に関する一文を加えることになったとのこと。ついで東京放送局からも、その晩のニュースとして同じことが放送された。七年越し、いくども評議し、種々繁雑な折衝をしたにもかかわらず、いっこうらちがあかなかったのに、さすがは鶴の一声だと微笑ほほえまれるのであった。

   一〇 地震の興味

 地震学者とは、地震をよろこぶ動物だという人がある。これは震災と地震との区別を知らないために生ずる誤解らしい。なるほど、大震災のおこったばあい、地震学徒の活気づくのは事実であるが、ただし彼らがよろこぶのは地震という自然現象に向かってのことで、大地震の結果たる災害、すなわち震災に対してはこれを悲しみこれをのろい、被害者に対して同情することあえて人後に落ちないどころか、かえってはるかに常人を凌駕りょうがするものがある。彼らのある者が、震災予防のために、あまんじて一身を犠牲にしようとする熱意があるのを見ても、か、うなずかれるであろう。
 他方、地震の諸現象のうち、あるものはすでに講究みになったといえようが、しかしながら今なお謎とされているものも少くはない。専門学徒が日々月々発表する研究結果を見ても、思いなかばに過ぎるものがあるであろう。なかんずく、大地震の諸現象は、事柄そのものが人生に重大な関係を持つのみならず、その発生を見ることきわめて稀有けうなため、これらを捕捉ほそくするには、彼らはもっとも真剣な努力をはらわざるを得ないのである。活気づく所以ゆえんでもあり、喜ぶように見える所以ゆえんでもある。
 地震現象を翫味がんみする度合いや、翫味がんみされる現象の種類は、人々の立場によって多少の相違がある。欧米人の中には、地震に悩まされない土地に住みながら、鋭敏な地震計をもちいて、遠方大地震の余波を観測講究して楽しんでいるものがある。地球の内部や外殻の構造のあきらかになったことや、人為地震による鉱床、とくに含油床の検索講究など、この方面の副産物と見てよいであろう。
 日本は震災国である。地震を翫味がんみし得るためには、震災の脅威から解放されることがむしろ先決問題であろう。専門学徒ならば斯学しがくの講究が無条件に楽しくもあろうが、素人しろうとは決してそうではあるまい。
 震災の脅威を脱却するには、第一は住宅を耐震的にすることである。
 第二は、地震に出会ったとき、これに善処しうるようかねて計画を立てておくことである。この心得さえあるならば、たとえ第一を欠いても、はなはだしい不安を感ぜずにすむはずである。
 余はかつて地震に出会ったときの心得十則というものをんでおいたが、その第一則を会得えとくするだけでも、不合理な不安を一掃し、かつ地震の興味をさえそそるに多少の効能はあろう。すなわちそれは、地震に出会ったとき、最初の数秒間でその全般の性格を推測して、とっさの間に、しかるべき対策を立てることである。
 大地震というものは、そうたびたび起こるものではない。人間一生の間にこれに遭遇すること、多くて一、二回であろうが、ただし、最悪のばあいを仮定してこれに備えることはあながち無益ではあるまい。もし発震当初に、器具をたおし土壁をくずていの震動であったら、五、六秒あるいは十秒以内に破壊震動の襲来あることを覚悟して、あるいは屋外の広場へ出るとか、あるいは屋内の堅牢けんろうな器具のそばにひそむとか、その他、しかるべき手段をとらねばならぬ。
 余が住宅は木造であるが、ある意味では耐震構造であり、そして所在の土地ではこれをつぶし得る大地震は起こるまいと信じ得べき根拠があるから、いかなる地震にみまわれても、屋外に逃避しようなどと思ったことはない。したがっていかなる程度の地震でも、いつも研究的態度をもってこれをむかえることができる。
 まず初期微動の継続時間をはかり、つぎに主要動の大きさを目測する。ふたつながらこれを器械観測の結果に比較することによって興味が倍加する。とくに初期微動継続時間は震源距離に比例する関係にあるから、これによって距離を推算し、体験による震動性質と結びつけて概略の震源位置を推定し、これを器械観測によって精算された値と照らし合わせて見るのであるが、これはかなり興味多いことである。
 体験のみにもとづく右のような震源・震幅の推測は、おそらく海岸に住む漁師たちの器械にたよらない天気予報にも比較すべきものであろう。専門家でなくとも味わい得る地震興味の一つである。
 ただし、地震現象として興味ある種々相の現われるのは、何としても大地震のばあいである。つぎにその二、三の例をひろってみる。
 まず素人しろうとの注目をひくものに石塔・石碑の回転運動と地割じわれとがある。この両者は大地震のたびごとに新聞紙上をにぎわすものであるが、墓碑の一群の回転方向からその土地における主要な水平振動の方向を推定したり、あるいは地割じわれの対象としての土地圧縮の現象をきわめようとする人は少ないようである。
 世俗には、大地震のとき、土地がパクパク開閉して人畜をんでしまうことがあるように言い伝えているが、ただしこれは訛伝かでんであろう。わが国においては、上古から今日に至るまで、かつてかようなことの経験もなければ記録もない。もっとも外国の記録を渉猟しょうりょうしてみると、西紀一六九二年ジャマイカ地震、一七五五年リスボン地震、一七八三年イタリア地震、一七九三年リオバンバ地震にそういう現象のあったことが記されているが、これとてもいずれも一五〇余年前のことであり、たしかにそうと信じてよいか否か躊躇ちゅうちょせざるを得ないし、かつ少なくも地震現象中もっともまれなものたるには相違ない。
 かような現象が、もし小規模におこったとしたならば、むしろ興味ぶかいものとなるであろう。大正十二年(一九二三)関東大地震のとき、房州北条小学校の校庭で見られた泥水どろみずの間欠的噴出は、おそらくこの種のものであったろう。
 家屋大移動の現象もまた興味ぶかいものである。大森博士〔大森房吉か。はわずかに濃尾大地震において二例を目撃されたにすぎないようだが、余は姉川地震、強首こわくび地震、関東大地震、奥丹後地震、北伊豆地震などで多数の例を観察した。これは地面にななめな大震動が同方向に幾度もくり返されるとき、建物は上方兼水平動で前進し、その反動たる下方兼水平動で停止し、そして前進の積算の結果が一メートル程度の大きさの移動となるものらしい。よく注意して見ると、中間停止の痕跡が地面にありありと残されていることがある。
 ときどき床上あるいは地上に安置された物体が不動点となり、地震計の真似事まねごとをすることがある。強首地震のとき、秋田鉱山専門学校内の一室に置いてあった机が、すべりよきリノリウムの面にその四脚のおのおので地動をえがいたがごとき、また北伊豆地震のとき、江間小学校々庭に安置してあった魚雷の面上に、台石の鋭い角でしるした曲線のごとき、もっとも珍とするにるべきものである。

   一一 地割じわれの開閉現象

 地震現象のもっともおそれられているものに、地割じわれの開閉現象というのがある。これは、道路あるいは築堤ちくていの沈下あるいは崩壊によって生ずる永久的な地割じわれとはまったく別物である。
 西紀一七九七年二月四日のエクアドル国リオバンバ地震のとき、土地が開き、これに人が足をふみこんだが、つぎの瞬間にはこれが閉じたため、胴体以上は自由であって、下肢かしだけ地面にはさまれていたといわれる。また、一六九二年六月七日のジャマイカ地震では、首府ポルト・ロワイヤルなど被害の中心地であったが、このとき、大地は洋上のうねりのように、幾度もふくらみくぼんで数多あまた地割じわれを生じ、ある時は同時に二、三百条の地割じわれが、急に開いたり閉じたりするのが目撃された。そのために多人数この穴に落ち込んだが、あるものは胴体をはさまれて押しつぶされ、あるものは頭部だけを地上に露出し、またあるものは穴に落ちこんだ次の瞬間に濁水とともに噴出されたといわれている。
 西紀一七五五年十一月一日のリスボン大地震は大西洋底におこったものらしく、リスボンでは五分間に六万人の死者を生じ、感震区域は径五百里におよび、世界大地震の最大記録とみなすべきものである。また、問題の地割じわれ開閉現象が対岸モロッコ国の首府モロッコ〔現、マラケシュか。から十里ほどの距離にある一村落に起こったことも特記すべきであろう。元来この地方には、ブスンバとよばれる種族が八千ないし一万人ほど住んでいたが、この地震のとき、大地に数条の地割れを生じ、それが開閉したため、人類のみならず、ラクダ・牛馬などの家畜までこれに吸い込まれてあとかたもなく失われたと記してある。これはその翌年に出版された古文書にったのであるが、住民全部がことごとく吸い込まれたとはおそらく憶測で、事実はむしろ、この運命におちいった不幸な仲間の悲惨な最期におそれをなし、残余のものは、他へ移転したと見るほうが穏当おんとうであろう。
 同様の現象は、一七八三年二月五日のイタリア地震のときにもおこった。この地震は同国本土の南端近くに発生したもので、地震による直接の死人四万人、その後の疫癘えきれいによるもの二万人と計上された。元来該地方は、アペニンの脊梁せきりょう山脈がだいたい花崗岩かこうがん質で、頂上近くは山骨露出しているけれども、山腹には、風化水蝕によってできた柔軟な土壌が堆積しているため、大地震のときには大規模の地すべりがおこりがちであり、したがって他地方では見られないような特種の地割れがおこりやすい。とくにこの地震のときの地割じわれは、すこぶる大規模のもので、家屋・人畜・樹木がこれに吸い込まれ、つぎの瞬間には、それが復元どおりに閉じて、その痕跡すら残さなかったと報ぜられている。
 地割じわれの開閉現象というものが、もし上記のような規模でおこるものなら、それは地震現象中もっとも戦慄せんりつすべきものにちがいない。
 日本においては、かような場合の避難の一法として竹やぶに逃げ込むことが古くから推奨されているが、それはおそらく事実に即せぬ虚想きょそうであろう。実際、わが国においてはかような現象のために人畜が吸い込まれたという事実をかつて経験したことがないのみならず、竹やぶが地割じわれを防ぎ得るというのも買いかぶりにすぎないからである。
 余はこの現象に関する文献をできるだけあさってみたが、その結果は上記の数例を得たにすぎない。しかもいずれも古い出来事で、最近一五〇余年間、かつてかようなことが記録されていないのを見ると、前の数例にもあるいは誇張があるかもしれない。
 日本においてこの現象の実現が一般に信ぜられているのには、いまひとつの原因がある。仏典にこう記してある。

釈迦しゃか牟尼むにの弟子提婆だいば達多だったが師にそむき、師をきものにせんとたびたび奸策かんさくをめぐらしたが、かえって天罰をこうむり、生きながら地獄におちた。この時、提婆だいばのいる大地は自然にしずんで、炎と燃え上がり、たちまちひざをうずめ、ほぞにおよび、肩におよんだ。彼は、火に焼かれてわが逆罪をい、南無仏とさけびながら沈んだ。この時、二つの金梃かなてこは前後から彼をはさみ、そのまま火災の大地にまきこみ阿鼻地獄に引き込んだ。」というのだ。

 このおそろしい地割じわれ開閉現象が、十九世紀以来、世界のいずれの国においても経験されないらしいことは前記のとおりであるが、ただし、人畜を吸い込むにたりないほどの小規模のものなら、近ごろにおいても経験されたことがある。西紀一八三五年二月二十日のチリ地震がその一。また大正十二年(一九二三)九月一日の関東大地震のとき、房州北条町ほうじょうまちにおける北条尋常高等小学校々庭において校長その他の教員によって目撃されたというのがその二。
 この学校の敷地は、地震の数年前に水田をうめて造ったものであるが、元、この水田は東西に長く入り込み、南北東の三方はやや固い地盤でかこまれ、西の方だけはもっと広い水田に接続していた。そこへ、南中央部境から北へ向かい、水田の中央あたりまで斗出としゅつする半島形の地域が、水田面から二尺の高さまで埋め立てられ、そこを学校の敷地としたのである。ゆえに、該地域は、固い地盤でかこまれた半液体の泥田どろたであって、学校敷地の部分だけが土砂の薄皮を着ているにすぎないのである。大地震のとき、校舎は全部倒壊したのであるが、そこから中庭までようやく逃げ出してきた職員たちは二十メートル以内の距離において、かの驚くべき現象を目撃したのである。すなわちそこには、全延長四十メートルほどの二条の地割じわれが、敷地の北部(旧水田地区の中央部)に東西の方向をとって出現し、そこから三メートル程度の高さに泥水どろみずを吹き上げた。アレヨアレヨといって見ているうちに、噴出はいったんんだが、四、五秒たつとまた噴出した。そうしてその後、同じことをくり返すこと五、六回、勢力しだいにおとろえてしまいにんでしまった。あとで現場を検査してみると、二条の地割じわれの痕跡があり、線上にはところどころ砂の小円錐えんすいまで残されていた。余がそこを見学したのは一か月後であったけれども、地割れおよび砂饅頭まんじゅうの痕跡はなおありありと残っていた。
 かような現象ははたしていかなる作用によっておこるものか、余はまだそれを取り扱った文献に接したことがないが、つぎにいささかその解説を試みることにする。
 一七八三年、イタリア地震のときに現われたものは、おそらく簡単な順序でおこったのであろう。このとき、該地方においては大規模な地すべりがおこり、これにともなって偉大な地割じわれが、あるいは底知れず深く、あるいは輻射状に、幾条も残された。今、もし右の地すべりの進行の途中において、表土層と基盤との境界面の形が、終始平らであったならば、表土層の表面には別段べつだんな異状もなかったろうが、ただし基盤面に凸凹でこぼこがあったとして考えると、もし表土層が凸面の上に来たらば地割じわれを生じ、つぎにふたたび平らな面の上に来たらば地割じわれは見えなくなるであろう。凹面の基盤から平らな場所に移り、ふたたび凹な基盤に乗ったとしても同様であるにちがいない。
 右はイタリア地震のばあいに適用する考え方であるが、他の数例に対してはさらにちがった説明を要する。
 仮に北条小学校々庭のばあいを取っていうと、ここは半液状の泥土をもって水に入れかえた湖とみなすことができる。かつて蘆ノ湖あしのこの水が北伊豆大地震で偉大な桶水振動をおこし、しかもその振動中、二節のものがもっとも著しかったことがあるが、問題の泥土の湖もまた大地震のためにこれと同様な重力波をおこし、桶水振動を始めうること想像に難くない。このばあい、もし振動が二節になるならば、腹の一つが中央部を東西に走る軸線にあたるわけだから、この部分が、あるいは高まりあるいはくぼみ、そして振動の継続するかぎり、目撃されたような間欠的噴出が生ずるであろう。ただしもし泥の湖が重力波をおこしただけで桶水振動とならずに終わったらば、ジャマイカ地震のとき経験したような現象を生ずるであろう。
 とにかく、人畜を吸い込むほどの地割じわれの開閉は実際におこるものとしなければなるまい。そしていったんこれを経験した場所においては、他日ふたたび大地震にみまわれたとき、土地の構造が従前と変わらないかぎり、同じ現象がくり返されるものと覚悟すべきではなかろうか。これに反して、わが国のような、この現象の大規模なものをかつて経験したことのないところでは、その発生に適する場所の存在しないことを示唆するものとして、将来も同様であろうと仮定してさしつかえないであろう。

   一二 称名寺の鐘楼しょうろう

 江州長浜ながはま在の尊勝寺村そんしょうじむら称名寺しょうみょうじという古刹こさつがある。秀吉が賤ヶ岳しずがたけ合戦をめざして強行軍をしたときのこと。みちすがらこの寺に立ち寄ったおり、寺僧の接待ぶりが気に入ったとかで恩賞を与えたりなどしたと言い伝えられている。寺はその後においても繁栄をつづけ、その古い由緒ゆいしょと建物の美観とをもって湖東に異彩をはなっていた。
 ただし、明治四十二年(一九〇九)八月十四日の姉川地震は、この可憐かれんな寺院をも見逃さなかった。そしてその輪奐りんかんの美をほこっていた本堂も地上に倒伏するのやむなきに至ったのである。
 余がこの場所を見舞ったのは災後数日をすぎていた。倒伏した本堂は、屋根を残らずぎとられてすすけた小屋組を露出し、見るも無惨むざんな姿であった。ただし驚かれたのは、近く石壇の上に立っていた鐘楼しょうろうが、ほとんどなんらの損傷もなく、以前の美観のままに、本堂のあわれな最期を見守みまもるかのように、廃虚の中に屹立きつりつしていたことである。あまりの見事さに暫時ざんじ見ほれていたが、「よし、芸術的に写してやれ」とつぶやいて撮影したのが、後日、日英大博覧会に出陳しゅっちんして名誉大賞牌しょうはいを勝ち得る一対象物となったものである。
 余はこの鐘楼しょうろうがほとんどなんらの損傷もなかったと言ったが、それはあの写真を一瞥いちべつしたらすぐうなずかれるであろう。ただしこれを仔細しさいに点検すると、いまひとつ驚くべきことが気づかれるのである。
 端的にいえば、くだんの鐘楼しょうろうは北三一度東の方向に九八センチメートルほど旧位置から飛び出していたのである。ただしこの大飛躍は一気に仕遂しとげられたのではなく、同じ方向に二段飛びをした結果であったのである。
 この現象は余にとってたちまち興味ぶかいものとなった。それは、現象そのものが地震計測学上すこぶる意義深いものであるばかりでなく、称名寺、とくにその鐘楼しょうろうが持つ魅力もまたそうさせたのであった。
 このとき、同様の現象がそこから二キロメートルしか離れていない留目とどめという村の願教寺がんきょうじにおいても見られた。ここではほぼ同型の鐘楼しょうろうが北三九度東の方向に九七センチメートルほど飛躍していたのである。
 ここで余は大森博士の見解に疑惑をいだきはじめた。同博士は明治二十四年(一八九一)濃尾大地震のとき、金原村きんばらむらの寺の山門の大移動を観察してその原因を地震動の水平動にありとし、震力七割一分(重力を十割として)という大きな数字を出された。ただし振動というものは自然的に動と反動とから成り立つから、たとえ一つの動によって一方に飛躍をとげても、次の反動では還元することになり、結局、大飛躍を前後左右に幾度くり返しても原位置とはあまり遠くない位置におちつくことになるであろう。大正三年(一九一四)強首地震のとき、秋田鉱山専門学校の一室において、なめらかなリノリウムりの床の上に安置してあった机の移動した状態、とくにその四脚がいちいち床面にえがいた地震記象まがいの曲線が、これを証明するに十分であろう。
 つぎに余が見解を述べることにする。すなわちそれは、水平ならびに上下の大きな成分を持つ振動、すなわち水平面に斜めな方向の大振動が、同方向にくり返されるためにこの現象がおこるのだというのである。すなわち上下成分は、もし上方に向かうときは接触面間の摩擦係数を見かけ上減殺げんさいし、下方に向かうときはこれを見かけ上増加させる傾向を持つから、上方成分を持つ斜めな大運動では飛躍し、反対に下方成分を持つ斜めな大運動では佇立ちょりつすることになり、かくしてかような斜めな大振動の反復によって数段飛びの離れわざが演ぜられるのである。
 余は、これに飛躍という動作を鐘楼しょうろうに当てはめたが、厳密にいえば、それは単に地面と鐘楼しょうろうとの関係的移動であり、そして実際に移動したのは地面の方であって、鐘楼しょうろうは単に空間に取り残されていたにすぎないのである。わが国在来の木造家屋の建て方として、土台は単に礎石上に安置されることになっているが、このさい、味わうべき事項である。
 右の見解がはたして正しいとすれば、地震力の最大限に関する観念についても訂正を加える必要がある。仮に震力の水平成分四割三分・上下成分二割三分、すなわち合成震動の大きさ五割一分という斜めな大振動があったとすれば、それは礎石上の木造物を移動させることができ、また水平成分四割七分・上下成分三割三分、すなわち合成震力五割七分なら、礎石上の平石を移動させることができるのである。かつ、大地震のばあい、震源付近においては、急週期の小振動がおこりがちであって、しかもそれが示す震力は床上あるいは机上の小器物を小刻みにおどり上がらせるに十分であるから、かような場合、接触面の摩擦係数は見かけ上いっそう軽減されてしかるべく、大飛躍の現象をおこすにさらに有利となるわけである。
 これを要するに、構造物の大移動という現象がおこるためには、かならずしも七割一分というような莫大ばくだいな地震力を想像するがものはなく、おそらく六割未満、五割程度でもよくはないかと思われる。
 ただし問題は重大である。わずかに一、二の例をもって断言するのは危険である。
 余は、その後、大地震のおこるたびごとに、細心の注意をはらってこの現象を観察した。たとえば大正三年(一九一四)強首地震のとき、横堀村よこぼりむら羽崎谷地における観音社の鳥居の六〇センチメートル移動をはじめとして、大正十二年(一九二三)関東大地震においては次の数例を精査した。

国府津こうづ、親楽寺〔真楽寺か。境内石碑の亜鉛板ぶき上覆。北二五度東へ九一センチ。小田原緑町、五間平方ほどの瓦ぶき平家建。北一〇度東へ一三〇センチ。同所、三間平方ほどの瓦ぶき平家建。北一〇度東へ七五センチ。

 また昭和五年(一九三〇)北伊豆地震においては十個ほどの例を見たが、なかんずく、梅木村うめぎむらにおける次の三例は特記すべき価値がある。

八間に五間の草ぶき平家建。北七〇度東へ六二センチ。六間に二間半の瓦ぶき平家建。北六〇度東へ七三センチ。九間に四間の草ぶき平家。北七五度東へ六三センチ。

 昭和二年(一九二七)丹後地震においては、『丹後地震誌』に、平家建が大移動した三例をあげている。すなわち、郷村ごうむら断層に近い新治にんばりにおいて北微東に一五〇センチ、山田断層に近い山田村において、ひとつは西南に一五〇センチ、他は西に一四〇センチとなっている。
 以上の結果を概括がいかつするに、構造大移動のおこる場合にはつぎの三つの条件をともなうことがわかる。

一 移動物が簡単な、よく結束けっそくされた、低い構造物であること。
二 移動物が、たがいに数キロメートル以内の範囲にあるかぎり、移動方向はほとんど相一致すること。
三 移動の痕跡はいずれも二段飛びあるいは三段飛びなどを演じること。

 そうして余が前に提供した見解は、上記の諸条件によく適合するものである。
 これを要するに、地震動の破壊作用にはある限度があるらしい。そしてこの限度を超過しようとすれば、媒介物の破壊をまねき、その結果として地震断層を惹起じゃっすことになるのであろう。

   一三 張衡ちょうこう

 ミルンの名著『地震とその他の地動』には張衡ちょうこうが地動儀を創作したのを西紀一三六年のこととしてある。われわれは無条件にこれを信じていたので、その年から満一八〇〇年にあたる昭和十一年(一九三六)には、発明者のため、何か意義ある記念事業をやろうということを、同人石本博士〔石本巳四雄みしおか。らと申し合せていた。たとえば候風地動儀の複製、張衡ちょうこうの経歴業績を調べてこれを世におおやけにすることなどである。
 余は、この年、インド洋経由で渡欧したが、船はその往復を上海に寄港したので、この機会を利用して張衡ちょうこうに関する文献を捜索そうさくしてみた。そして入手したのが『張河間集』という古本と、新刊の『張衡年間譜』(孫文青著)とであった。これと『後漢書』「張衡伝」とを参照することにより、彼の業績経歴は、ひととおり明らかになってきたので、まず目的の一半いっぱんは達成されたわけである。
 残るは候風地動儀の複製であるが、これにもほぼ成功した。ただしわれわれは、構造・性能および外観いずれも実物に違わぬもの、五個を製作しようとくわだてたのであるが、事変のために所要の地金が得られなくなり、製造を一時中止しなければならなくなったのは遺憾いかんである。
 以下、順次にその詳細を述べることにする。

  その一・候風地動儀の複製


 まず、この器械の性能・構造および外観を説明する。『後漢書』「張衡伝」にはつぎのように説明してある。

陽嘉ようか元年(一三二)、また候風地動儀をつくる。精銅をもって鋳成ちゅうせいす。円径八尺、合蓋降起し、形酒尊しゅそんに似たり。飾るに篆文てんぶん山亀鳥獣の形をもってす。中に都柱あり、そばに八道を行らし、関をほどこし機を発せしむ。外に八龍あり、首に銅丸どうがんふくめ、下に蟾蜍せんじょあり、口をりてこれをうけしむ。その牙機は巧みに制せられ、みなかくれて尊中にあり、覆蓋ふくがい周密しゅうみつにして際なし。もし地動あらば尊はすなわち振い、龍の機発して丸をき、しかして蟾蜍せんじょこれをふくむ。振声激しくあがり、伺者これによって覚知す。一龍機を発すといえどもしかも七首は動かず。その方面をたずねてすなわち震のありし所を知る。これを験するに事をもってするに、合契ごうけいすること神のごとし。書典に記するところよりいまだこれあらざるなり。かつて一龍の機発してしかも地は動くを覚えず。京師の学者はことごとくその徴なきを怪しむ。後数日にして駅至る。はたして地隴西ろうせいふるう。これにおいてみなその妙に服す。これより以後、すなわち史官をして地動の方にしたがって起こりし所を記せしむ。

 今この文章をあんじてみると、はじめに概観・外形を掲げ、つぎに構造を説明し、しまいにその性能を詳説しょうせつしてある。これを解釈し得たのちに再読してみると、事理明白な文章だが、ただし「都柱」という文字の意味が通じないかぎり、不可解な文字たるに相違ない。つぎに記すように、ミルン・王振鐸の両者ともにこの「都柱」が読めなかったため、一龍発機して七首の不動なる性能をも解し得なかったようである。
 余は前に、ミルンの著書を無条件に信じていたと言ったが、問題の記念事業を遂行するには事を慎重にするを要し、まず上記の原文と彼の解釈したところとを比較検討してみた。そうすると驚くではないか。全文誤りでたされでいるといってもよいくらいに誤りが多いのである。
 まず冒頭の陽嘉ようか元年が、西紀一三六年となっているが、これは西紀一三二年でなければならぬ。
 つぎに器械の心臓部たる「都柱」を誤解して振子ふりとしていることである。なるほど振子ふりこでも候風地動儀の性能を持たせることは不可能ではあるまいが、非常に複雑なものになり、その組み立て方は器械製造能力の進歩している今日ですら容易ではあるまいから、一八〇〇余年前においてはなおさらのことである。じつにミルン博士も王氏もこの点において失敗したのである。
 ミルンが「都柱」を誤解したことはさらに誤りを拡大する素因となった。
 第一に、円蓋えんがいの頂上に長い筒を立てたことである。これは振子ふりこを長振子ふりことするための贅物ぜいぶつである。
 つぎに、一龍発機七首不動という性能を持たせるために、地震動の方向を一方位に限るように曲解している。
 また、一龍機発の方面をあんじて震源の方位を推定しうる性能を解釈するために、たる内に地震動を記録する装置があるように付け加えている。
 その他、些細ささいな誤りではあるが、円径八尺を円径八フィートとしたこと、および蟾蜍せんじょをカエルとしたことをも指摘しなければならぬ。当時の尺はフィートの三分の一くらいにあたるらしく、龍と蟾蜍せんじょとは、古来、支那においては、天地あるいは陽陰を象徴する一対の生物と考えられていたからである。
 王振鐸氏(燕京えんけい学報』第二十期十週年記念専号)は「ミルン書所載の長振子ふりこの誤解を指摘して、円蓋えんがいから突き出している筒を取り除いた点はよかったが、ただし、彼自身もなお振子ふりこの誤解から脱却することができなかった。そして円蓋えんがい内に収まるだけの短い振子ふりこを取り入れ、これに一龍発機七首不動の性能を持たせるため、地震動を単に震源の方からの押波とその反動たる引波から成り立つものと仮定して、押波でたまを落としても引波では反対の方位のたまが落ちないよう工夫をこらしたのである。ただし地震動の方向はそう簡単なものではないから、他の六丸の墜落がおさえられていないことはいうまでもない。
 以上、両者の誤解は原文にある「都柱」を正しく解し得なかったことにもとづくのであるが、もしこれを正解し得たならば、その結果はコロンブスの卵と同様であったろう。
 都柱は読んで字のごとく、中心の柱である。八方の通路を、都から輻射ふくしゃする八道にたとえてあるのを見てもわかる。ただ、この心柱が何を意味するかが謎になっているのだが、もしこれが倒立とうりつ振子ふりこだと気づかれたら以下の文章はスラスラと解ける。特に一発七不の性能のごときもたちまちに氷解される。
 都柱の足を細くしてこれを正しく直立せしめておいたならば、地震のときその不安定の平均が容易に破られ、柱は震動の方向にたおれて、元へはもどらないであろう。もし周囲になんらの障害がなかったならば、柱は最初の方向へ平伏へいふくし終えるはずであるが、ただし、そこには八方位だけに柱の通路が刻んであることになっているから、傾いた柱は最寄の通路へはまりこんでたおれて行く。そしてそれが落ち着く以前において、その通路に沿い、もしくはこれに平行に、突出している機(細長い棒と考えてよし)を押し出すことによって、その方向の龍首にあるたまを落とすのである。
 萩原理学士萩原はぎわら尊礼たかひろか。は上記の条件に適する装置を試作して、これを東大地震研究所内にすえつけて実験してみたが、結果はきわめて良好であった。ただし、このとき使用した倒立とうりつ振子ふりこは脚端が直径三ミリメートルの円であって、重心の高さが一七センチメートルになっていたからこれが正しくすえつけられた場合、それを倒し得べき加速度の最小限度は八・七ガルである。えつけ後まもなく、東京から南微東にあたり、羽田あたりを震央とした軽震があったが、このとき、たまは西南のものが落ちたから、振子ふりこを倒した震動は主要部をなす横波であったとみえる。
 ただし、地震には最初から強いものもあるから、たまが初動たる縦波で落ちることもあるはず。されば「その方面をたずねて震のある所」を知るためには、たまを落とした振動がはたして初動であったか、はた主要動であったか、これを区別することが必要となるわけである。たまき、蟾蜍せんじょこれをふくんで振声激しくあがる」ことの性能がここに役立つのであろう。
 余もまた一基を試作してみた。八道はこれをはぶき、振子ふりこは倒れはじめの方向に倒伏とうふくし、また倒れた瞬間に強い音を出すようにしてある。振子ふりこの脚端は萩原式と同様に直径三ミリメートルの円とし、全体の重心の高さが一二四ミリメートルになっているから、これを倒すにたるべき加速度の最少限度は一一・九ガルである。ただしこれを正しく直立せしめるに、素手すででは困難であるから、これを平易にするため、簡単な装置がほどこしてある。
 かくして原文に記述されたとおりの性能を持つ装置ができたしだいである。もし萩原式地動儀に八龍八蟾蜍せんじょを持つ覆蓋ふくがいが加えられたら、それで完備することになるのである。
 われわれの希望は、構造・外形・性能の三者ともに原文に一致するものを作ることにあったから、慎重を期するため、試みに龍の形態に関する研究を始めてみた。その結果、第一に気づかれたことは、服部一三いちぞう先生が明治八年(一八七五)画工にえがかせた候風地動儀の龍は、本邦独特のもの、おそらく隋唐時代のものにあたるらしいということであった。はなはだ末梢まっしょう的なことではあるが、調べた結果を左に概説してみる。

 支那において、昔から霊妙不思議な生物として取り扱われたものに龍・蟾蜍せんじょならびに蝉がある。いずれも一年中陽さかんな季節に現われ、反対に陰さかんな季節に地下にひそむとしてある。これらの生物の形象が硬玉にきざまれて、古墳や廃墟はいきょから掘り出されることはよく知られた事実であるが、蟾蜍せんじょや蝉の形象が、夏・殷の大昔から宋・明の近世に至るまで、おおむね不変であるにかかわらず、龍の形象だけは年代にしたがい、いちいち異なっているのは注意すべき事項である。けだし龍は生物とは称しながらも、虚構のものだからである。そして漢時代の記録には、「秋分には天から降って地下に入る」と星座のようにも書いてあり、またその形象として「口の両側にほおひげあり、あぎの下に珠をいだき、のどくびに逆鱗生じ、頭上に一つのこぶあり」とある。漢時代の作品たる帯止めや印鑑の把手とってに刻んであるのも、頭上に一つの肉角らしいものがありありと見える。

 とにかく、漢時代のものにできるだけ似せることにし、その製作方を金属工芸品作家たる佐藤省吾氏に委嘱しょくした。同氏はその石膏せっこう模型の製作を終わり、また五台分の製作費用は対支文化事業部から恵まれたので、いよいよその鋳造に取りかかろうとしたとき、前記のとおり、一時この事業を中止しなければならなくなったしだいである。

  その二・張衡の経歴


 張衡ちょうこうは後漢の章帝しょうていの建初三年(西紀七八)南陽の西鄂に生まれ、順帝じゅんていの永和四年(西紀一三九)に没した。
 張家は世々名門であって、祖曽父の代には鉅万きょまんの資財を積み、祖父堪は光武帝の知遇を受けてはじめ蜀郡の太守となり、のち漁陽の太守に転じ、内に荒蕪こうぶを開き、外に匈奴きょうどをふせいで殊勲しゅくんを立てた。父はあまり著名ではなかったらしく、幼にして貧、かつて同郡の朱暉に厚い給与を受けたとしてある。こうはこの人の子として生まれたが、遊学の資には乏しくなかったのであろう。あるいは神童として他に援助者があったのかもしれない。十六歳のときには京兆けいちょう左馮翊さひょうよく右扶風ふう三輔さんぽに遊学し、十八歳のとき洛陽らくようにのぼって二十二歳に至るまで修学し、翌年南陽の太守鮑徳の主簿となり、三十一歳のとき、徳が大司農だいしのうとなるにおよんでめて家に帰り、読書数年、三十四歳にして徴されて郎中(二百石、無員)に拝し、三十八歳のとき太史令たいれい(一人、六百石、天時星歴をつかさどる。およそ国に瑞応ずいおう災異あるときはこれを掌記しょうきす)となった。張衡ちょうこうの官歴としてはこの職にあったことが最も長く、中間五年の間、公車司馬令(一人、六百石、宮南の闕門をつかさどる)となったけれども、ふたたび太史令たいしれいに復帰し、勤続、前後を通じて十二年間におよんでいる。その最後の年が陽嘉ようか元年すなわち彼が候風地動儀をつくったときであって、じつに彼が五十五歳のときである。翌年、侍中(比二千石、無員、左右に侍し、衆事を賛導し、顧問応対をつかさどる)にうつり、五十九歳のとき、出でて河間の相(皇子王に封ずるとき、その郡は国となし、つね一人相一人を置く。みな二千石。後更に相をして民を治せしむ)となった。この時の河間王は名を政といい、あまりよくない人であったが、ただしこうの治績はおおいにあがった。いること三年、骸骨がいこつい、六十二歳徴されて尚書しょうしょ(帝命を出納すいとうす、六人、六百石)に拝したが、この歳没し、故郷の西鄂に葬られた。
 張衡の廟には友人崔�の撰した碑文がきざまれたが、このほうもなかなか有名であったとみえ、唐詩などにもしばしば引用されている。
 光緒こうちょ新修の『南陽県志』にはつぎのように記してある。「張衡の墓は県北五十里、石橋鎮の西南にあり。基久しく堙ふ。明の嘉靖かせい年間(一五二二〜一五六六)に中県の人周紀かさねてこれを修築す」と。これをもって見ても、張衡が後世に至るまでいかにおもんぜられたかが明らかである。

  その三・張衡の業績


 地動儀の発明は、彼の業績中もっとも輝かしいものの一つであったこと、いうまでもない。もしこの方面に適当な後継者が現われ、そして首府がながく地震地方に留まっていたならば、地震学は天文学についではやく発達したろうが、それがふたつながらそうならなかったため、せっかく伸びかけた萌芽がそのままれてしまったのはしむべきことであった。
 小野清氏は、建武二十二年(西暦四六)南陽地震をもって張衡地動儀製作の動機であろうと言っているけれども、あまりに穿うがちすぎている。元来、太史令たいしれいの職責には「およそ国は瑞応ずいおう災異あるときはこれを記するをつかさどる」とあり、長安を西の首都とした東漢においては、地震あいついで近畿におこり、とくに彼の発明をさかのぼる三十年間は、年として大地震の襲来しないことはほとんどなく、とくに元初六年(西暦一一九)(地動儀創作に先だつ十三年)・建光元年(同十一年)・永建三年(同四年)のものは多数の圧死者を生じたくらいであったから、職責を重んずる人には無関心であり得なかったはずである。建武二十二年(西暦四六)の大地震は、たとえ彼の郷里南陽をおそったとはいえ、彼の出生に先だつ四十三年の出来事だから、彼に対する刺激はきわめて薄かったはずである。
 張衡地動儀が人身に感じない地動に感応した最初の例は、永元三年〔永和三年か。(西紀一三八)隴西ろうせい大地震のばあいと想像される。
 張衡ちょうこうはじつに多芸な人であった。性、画をよくしたとあるが、それがどれくらい上手であったかはわからぬ。ただし作文は彼のもっとも早く上達したものであったに相違ない。十八歳のときの「温泉賦」、十七歳からはじめて十年かかって出来たという「二京賦」など見事なものである。詩には「四愁詩」という一つが残っているが、これまたすばらしい作である。あらわには美人・珍宝・水深・雪雰雰ふんぷんなど流麗な文句で四つの愁をうたっているが、美人・珍宝に君子・仁義を、水深・雪雰に小人を当てはめるとき、時事を憤慨ふんがいした裏面がうかがわれるようになっている。
 『張河間集』にはつぎの作品が載せてある。

賦―十二編、こう―一編、―五編、策―一編、表―三編、書―六編、弁―一編、設難―二編(応間、応間序)、議―一編、説―一編(渾議、霊憲、霊応)、銘―一編、賛―一編、るい―四編、楽府―二編、詩―一編(四愁詩)

 以上、いずれも金玉きんぎょく文字。ただこれだけでも、張衡の名は不朽に伝えらるべきであろう。
 修史は彼の得意のものではなかったらしい。史家として何ほどの業績をあげたか不明であり、またその詮議を試みるほどの興味も持たない。ただ一つ特筆したいのは、王莽おうもう簒位さんい十五年間に対し、新の年号を止めて、漢の正朔せいさくを用いよという議論である。
 天文学は彼がもっとも得意とした学問であったにちがいない。もちろん算数なしには天文学は成り立たないから、范伝にあるとおり、天文・陰陽・暦算に明らかであったとされたのであろう。
 ある人、こう太史令たいしれいとしての最大功績を渾天儀こんてんぎの製作と「霊憲」の著述とに帰している。至評であろう。しいことには渾天儀こんてんぎは伝わっていない。ただし「霊憲」はその全文が残っている。難解の文字であるが、西洋の星霧せいむ〔星雲のこと。説に似た点がある。たしかに水金の両星と火木土の三星との間に運行上の相違のあるのを気づいているが、ただし内外遊星〔惑星。の区別を認めることができず、したがって陰陽五行の迷説を破り得なかったのは遺憾いかんである。
 彼の得意の技能のうち、天文学につぐものは簡単な物理器械の考案製作であったらしい。左にその数種をあげてみる。
 地動儀――再説するまでもあるまい。
 指南車しなんしゃ―これは周公しゅうこうの創作といわれているが、張衡はこれを複製したのだと解してよいであろう。磁針を応用したものとの定説がある。
 土圭とけい―いやしくも天文を学ぶ以上、計時装置の必要なことはいうまでもない。日影を測る器としてある。
 自動三輪車――「応間」には三輪をして自転せしむべしと記してあるから、今日子供の使用する三輪車程度のものであったろう。
 自飛木雕――「張衡かつて木鳥を作る。仮すに羽ワうかくをもってし、腹中に機をほどこし、よく数里を飛ばしむ」としてある。玩具がんぐの飛行機に近いものであったろう。
 右様の器械を一八〇〇余年前に創作したとはじつに驚歎きょうたんに値するではないか。
 河間相として政治的手腕のあったことも認められているが、これはむしろ余技と称すべきであろう。彼の政治的生活は、二度目の太史令たいしれいから侍中にうつったとき、すなわち陽嘉ようか二年(一三三)五十六歳のころに始まったとしてよいであろう。元来、侍中の職は天子の左右に侍し、衆事を賛道し、顧問応対すなどとある。されば宦者かんじゃの専横がおのずから目にあまり、非議におよんだのは当然というべきであろう。「閹堅閹豎えんじゅか。宦官のこと。ついにその患をなすをおそれ、ついに共にこれをざんす。出でて河間の相となる」と記してある。
 以上列記したことによって、張衡ちょうこう全貌ぜんぼうがほぼ分明になったことと思う。一八〇〇余年前、文化の開けていない時代において、独修によって、上記のような業績をあげたことを思うとき、われわれは彼の偉大さに感嘆しないではいられぬ。かつてシドッチは新井白石を評して、「皇国においてはいざ知らず、わが郷国においては、かほどの人物は五百歳に一人しか生まれないものだ」といったが、張衡もまたこの五百歳一人型の偉人であったに相違なく、しかもこの種偉人中の錚錚そうそうたるものであったと称しても溢美いつびにはならぬであろう。
 余は、前にミルンの誤訳に関して数行をついやした。ミルン地震書は世界的のものだから、候風地動儀もまた広く、長く誤解されていたことになる。余は弁妄べんぼうのために一文を草して、一昨年おととし北米において開かれた国際会議に提出しておいた。さいわいにこの文は英国『ネイチャー』紙上にも転載されたから、目的はひととおり達せられたように思う。もしそれ、ここに物した数ページが、さいわいに一読者の一燦いっさんを博し得たならば、われわれが先覚者を顕彰けんしょうしようとする微志もそれだけむくいられることになり、このうえもない喜びである。
 なお一言ひとこと付け加える。それは同人石本博士が本件の結末を見ずに遠逝えんせいされたことであって、まことに悼惜とうせきにたえない。余はこの一文をもって霊前への報告にかえたいと思う。

   一四 地震計のえん

 日本国の国民は、一人残らず地震学者であってほしいとは、国富さんの述懐じゅっかいであったように記憶する。かつて地震学教室を一時間たらず見学したヘボン夫人は、地震知識が常識養成にも役立つと主張し、ニューヨークにある母校でも地震学を講義させようと意気込んでいた。実際、地震に直接縁のない国に住んでいても、注意深い人はそう感ぜざるを得ないのである。しかるに物事に無頓着むとんちゃくなわが同胞はどうであろう。彼らは常識養成どころか、日常生活に必要な知識をよそごとのように考え、あえてこの知識を求めようとしないばかりか、かえってこれを所有することを恥辱ちじょくとしているようにも見える。そしていったん地震や津波に見まわれたばあい、自己の無知・不用意は棚にあげておいて、まず地震学者をせめる、あざける、辞職勧告をやるのだ。ハガキ、匿名書、新聞紙の読者欄などを利用して。
 先ごろの三陸津波が予報されなかったとがとして、余にまで辞職の勧告文が到来した。天下の浪人に辞職せよとは人間界をやめろとでもいう意味だろうか。
 地震予知を震災予言とまちがえ、その研究を呪う人すらある。地震と震災との区別があまねく有識階級にわかるようになるのはいつのことだろうか。
 新聞紙の読者欄には次のようなのもあった。「中央気象台では震源は鹿島灘だといい、帝大では常陸沖だという。みにくい震源争いはよしてくれ」と。かように見事な一致を不一致と見るのはもとより醜であるが、これに雷同する世間はさらに醜である。
 「中央気象台では今朝けさの地震の振幅が二センチメートルだったといい、帝大では一センチメートルだったという。こんない違いがあっては誠にこまる」という非難。この非難はついに帝国議会の問題にまでなったが、気のいたふうなのがこれに答えて、「そもそも振幅という術語には、普通の振幅と、全振幅すなわち二倍振幅との二つの意義があり、術語の不統一のため、かようない違いが生じたのだ」と。群盲象をなでたら、もっと気のいたことを言うにちがいない。一橋の東大付属観測所では平均して本郷の二倍ほどにゆれるとは、とうに大森博士によって報ぜられていたはずである。
 鎌倉の由比浜では、半里しか離れていないゆきしたにくらべて、通常四、五倍の大きさにゆれ、まれには十倍にもゆれることがあるが、この真実はどうなるだろう。
 ある日、『東京朝日』の鉄箒てっそう欄に、「地震計の針」と題してつぎの一文が現われた。

 国富技師の談として、「今度ぐらいの地震になると、地震計もいっしょに動くから、観測ができなくなる」と新聞に出ている。学者や技師にはそれが当然かもしれんが、われわれ凡人にとって、これぐらいわけのわからん話はない。
 いつの地震のときでもそうだが、被害の一番多い最初の激震では、決まったように地震計の針がはずれたり飛んだりしている。そのくせ人体にも感ぜぬような微震は一分間に何百回の、何千回のと、バカに詳細らしく報道して、科学的観測の精密と正確とをほこっている。
 別府市外の京都帝大・地球物理学研究所を観覧したところ、地震計が幾種もあって、担任の学者先生の説明で、その精巧さとえつけじょうの細心な注意とが、とても素人しろうとなどの想像以上であることを知ったが、おそらく東京帝大や中央気象台あたりの器械も同様であろう。
 右研究所は市から数十町離れた高原に設けられてあるから、電車その他、市街地からの震動影響はまったく避けられてあるようだ。しかるに地震計の針は瞬時も静止していない。たえず微妙な運動を継続しながら、時計じかけで動く黒紙の上に振動の存在を記録している。担任者の説明では、数町離れた道路上を疾走しっそうする自動車やその他の影響で、大地はつねに極微な震動をしているから、それが記録されるのだと得意のていであった。
 いったい、数千数万の死傷者を出す大地震には針を飛ばして観測ができないが、数町離れた自動車の走る震動などを記録して、それがなんの役に立つというのだ。学者・技師・先生などというものは何でも微細なことさえ論じておればよいものと心得、人生に影響あるほどの大きいことを忘れているらしい。研究のための研究、理論のための理論も結構けっこうだが、のみの脳髄を研究して医学博士となっても、病人を治す術を知らない医者は、人間の社会生活に縁が遠いと同様、地震計の針を飛ばしてばかりいる地震学者なんというものは、地震国日本にとってどうかと思う。(都山護堂生寄)
 
 その後数日、同じ鉄箒てっそう欄に、地震計の冤罪えんざいと題し、鹿島洋々寄すとして、つぎの文章が現われた。

 ひげをるにカミソリあり、はしをけずるに小刀あり、まきを割るに斧あり、家を建てるにノコギリありかんながある。物と品とによってこれに用うる刃物がおのずから違ってくる。
 近い地震にも大震あり、強震あり、弱震・微震・極徴震などいろいろある。遠い地震や中距離地震にもまた大小いろいろある。
 かく緩急かんきゅう大小の相違した地震のためには、いちいち性能のちがった地震計が入用いりようである。だから凡百ぼんぴゃくの地震をもれなく観測しようとするには少くも十五台ほどの地震計が必要となるのだ。
 過日の本欄に「地震計の針」をせられた護堂氏は、あいにくまだ東大の地震計室をのぞかれたことがないと見える。そこには我も評し人も認めた世界一の地震計測設備がある。運転中の地震計、ざっと三十種にも達するであろう。
 三百年に一度くらいしか起こりそうもない大地震にも役立つ大震計もあれば、一ミリメートルの一億分の一の大きさの震動をも立派に記録する超微動計もある。また、一ミリや二ミリの短距離を往復するに一分も二分もかかるようなゆるやかな振動でも観測しうる長週期地震計もある。地震といっしょに振り出すような地震計ばかりではない。この間の三陸大地震についても、その完全な記象の模写が、『東朝』や『東日』の紙上に現われたが、護堂氏のお目にはとまらなかったのであろうか。
 もし人間の原始生活にただ一本の刃物をゆるされたとしたら、何を選ぶであろうか。カミソリか、小刀か、斧か、まさかりかはたノコギリか。貧弱な観測所に一台の地震計しか許されないとしたらいかが。まさか三百年に一度、十年に一度のための大震計や強震計でもあるまい。
 ただ一台の微動計しか備えていない観測所のごときは、ようやく人体に感ずる程度の地震しか観測し得ないように運命づけられているのである。ただしそれでも日々の研究には役立つ。たとえ世界のてから来たのろい地動、十年に一度の強震、三百年に一度の大震には役立たずとも。
 護堂氏のおしかりは、小刀一本で大伽藍を築き得ない大工をあざけるにも似ている。
 
 鹿島洋々氏の弁は、ある程度まで地震計のえんをすすいだように感ぜられるが、ただし完全ではない。今日、わが国における地下資源の開発、とくに現下のわが国にとってきわめて重要な石油の増産に対し、その第一線に立って殊勲を立てているものの中に、超微動計のあることを指摘すべきであったのだ。
 すべて国家社会、はた人生に重大な意義をもつ研究が、多くは研究のための研究に胚胎はいたいすることを忘れてはならぬ。

   一五 初動の方向性

 地震の初動は縦波であり、したがってその方向は震波進行の方向とほぼ相一致することは、今日周知の事実であるが、ただし、誰がこの性質を最初に講究したかの問題については疑問があるといわれている。ガリッチン公か、ウォーカーか、大森博士のいずれかだという人もある。また、大森博士の「初期微動を現わさざる地震」という論文(明治四十年(一九〇七)七月出版)にはこの性質が指摘してあり、前二者が『ネイチャー』紙上にこのことを指摘したのは同四十五年(一九一二)であるから、博士の方が先だという人もある。
 この最後の断案だんあんには大した異議はないようである。ただ一抹いちまつの暗影として残されているのは、本性質を主題とした博士の論文が見あたらないという点にある。あの文筆にかけては精力絶倫であった博士にとって不可解なことだというのである。
 一応もっともである。ただし、多年博士に親炙しんしゃした余には、そこに一抹の暗影もなく、一点の疑念も残されていない。余は断然答える。「問題の性質を実際の地震につき講究した最初の人は博士に相違ない」と。
 故博士が、この性質を応用して、地震の一点観測により、震源の即席推測を実行し始めたのは明治四十二年(一九〇九)(十一月十四日、四国沖強震につき)のときにさかのぼっている。かしこくも明治天皇はつねに大御心おおみこころ民草たみくさ安危あんきの上に注がせたまい、とくに地震あるたびごとにつつがなきか否かを侍臣に問わせ給うたとれうけたまわっているしだいであるが、その結果にや、侍従職と大森博士との間には、いつとはなしに一つの慣例ができた。すなわち地震のたびごとに時を移さず、観測の結果、とくに震源の位置推測に関する報告文を侍従職に奉呈ほうていするのであった(初動方向を応用した実例は明治四十四年(一九一一)十一月八日、上総沖強震に始まっている)。しかもこの報告奉呈は、たとい発震時が深夜であっても、すこしも躊躇ちゅうちょはしなかったのである。
 やがて、右の報告文は新聞記者の手にも渡されるようになったので、ここに、地震学教室の手になれる地震記事が都下の新聞紙上に速報される慣例となり、これが大正十二年(一九二三)大地震直後にまで続いたのであった。
 大森博士はよく出張せられた。内地はいうにおよばず、外国へも。二十八年間に十回の海外旅行をされたことでもその一斑いっぱんがわかるであろう。かようなばあい、出張不在の届書とどけしょを侍従職へ提出することを決して忘れなかった。いうまでもなく、その際、地震報告の責任は余にゆだねられたものである。
 かようにして、地震の初動に関する方向性は、すでに明治四十四年(一九一一)の頃には、門前の小僧にまで熟知せられるに至った。故博士がことさらにこの性質を主題にした論文を草せられなかったのも、一つはこれがためであったかもしれない。
 しかしながら、地震動の一般の性質を論じたものの中には、このことを指摘しているもっと古いのがある。すなわち博士が、明治三十六年(一九〇三)三月、震災予防調査会に提出した「地震動に関する調査」という報文はつぎのような内容のものである。

 物質の弾性的性質から見て、地震波には縦波と横波とのあるべきことを説き、しかもその伝播でんぱ速度は縦波のほうが横波よりも大きいはずであるから「一観測地において最初に到着せる判然たる大震動の方向を測定すれば、それをもって縦波とみなして、震源地の方向を推定するを得べし」としてある。

 以上によって、故博士が、初動を縦波だと断定した事実にはもちろん何らの疑いもないが、他方、主要部の第一波を縦波だとしたこともまたいなまれない。このために、初動のきわめて微小であった地震につき、如上じょじょう誤謬ごびゅうが侵入しがちであった。この不徹底さも、博士の執筆を躊躇ちゅうちょさした一因であったかもしれぬ。

   一六 白鳳大地震

 天武天皇十二年(白鳳十二年、『日本書紀』天武天皇紀十三年、西紀六八四)十月十四日の大地震は、土佐の田園五十余万頃没して海となったことをもって有名である。
 『日本書紀』はこの地震に関する唯一の文献である。この書はわが国の正史たること、いまさら贅言ぜいげんを要しないところであるが、その天変地妖ちように関する記載もまた忠実であり、十分に信憑しんぴょうしてよいと思う。ただ、読者の方において往々これを正読し得ないため、はなはだしい誤解をまねいている点のあることはいなみ難いところである。
 白鳳地震もまたその一例である。
 この地震の記事に関し、難解な箇所かしょはおおむね三点に要約されるといってよい。
 その一は「五十余万頃」の「頃」が読めなかったため、陥没地域の広袤こうぼうに関して、途方もない誤解を生じたことである。
 その二は十八日後に現われてくる大津波の記事をこの地震に直接に結びつけないため、地震現象が宝永大地震津波や、安政大地震津波と型を異にするように誤解されたことである。
 その三は、たとえ「頃」なる文字が正しく読めても、同じ型の大地震にともなう地変の特色を無視したため、問題の陥没地域の位置に関して誤解を生じたことである。
 つぎに『日本書紀』(天武天皇紀十三年(六八五)の条)に載せてある地震記事を掲げる。

 壬辰みずのえたつ(十四日)人定にんじょう(夜半)におよびて、大いに地(ない)る。国をこぞりて男女叫唱びて東西を知らず。すなわち山くずれ、河き、諸国郡の官舎、および百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れたる類、げてかぞうべからず。これによりて、人民および六畜多く死傷す。時に伊予の温泉没して出です。土左国の田苑でんえん五十余万頃、没して海となる。古老いわく、かくのごとき地動いまだかつてあらず。この夕、鳴る声あり、つづみのごとくして、東の方に聞こゆ。人ありていわく、「伊豆島の西北二面、自然に三百余丈を増益して、さらに一つの島となる。すなわちつづみのごときは、神この島を造れる響きなり」と。

 このつぎに賜禄、賜姓しせいの記事があるが、これにこだわってはならぬ。そしてつぎに現われてくるのが津波の記事である。それは左の通り。

 庚戌かのえいぬ(十一月三日)土左国司言さく、大潮高くあがりて海水飄蕩ただよう。これによりて調を運ぶ船、多くはふうせりぬと。

 前文にある「頃」という地積の単位はしろと訓し、当時の五坪にあたり、一坪は高麗尺(現今の一・一七三六尺)の三十六平方尺であるから、五十万頃は当時の二五〇万坪、すなわち現今の三四四万坪にあたり、五十余万頃という以上、五十万頃ないし六十万頃、すなわち一一・三ないし一三・七平方キロメートルたるに相違なく、方一里未満の地積しかないのである。しかるに古人は、五十余万という数字の厖大ぼうだいさにおどろいて、室戸岬から足摺岬あしずりみさきにいたる広大な地域が陥没したかのように曲解し、両突端のあいだの湾曲海岸はその名残だなどと唱えるものすらあった。
 ここに注しておかなくてはならぬことは、第一の記事の最初に現われる地震現象は、飛鳥朝廷において、首都ならびに各国の状況を蒐録しゅうろくされたものであって、かならずしも土佐における状況ではないということである。再言すれば、もっぱら土佐のみに関係したことは田苑でんえんの陥没事項のみであるというのだ。
 またつぎの噴火に関する記事は、直接にこの地震とは関係がないように見えるけれども、宝永四年(一七〇七)の南海道大地震津波と同年の富士大噴火との関係を照合して見るとき、決して軽視してはならぬものなのである。
 つぎは第二の記事であるが、ここで注意して読まなくてはならんのは、庚戌かのえいぬという日付が何についているかという点である。これはこれまで多く、津波のおこった日付として読まれていたが、それはあきらかに誤りである。ただ土佐の国司が右の上書をしたためた日付か、あるいは朝廷でそれを受け付けた日付であるかが疑問となるのであるが、他の同様の事例に徴すれば、後のばあいとする方が無難のようである。いずれにしても津波のおこった日付は明示されていないことになるが、しかしながら、それが大地震のと同一なるべきは、斯学しがくの見地において断言してよいと思う。
 かくて白鳳地震津波は、宝永あるいは安政の地震津波とまったく同一の型に属するものであったということになる。
 最後に、陥落かんらくした地域の位置を検討する。
 右に関して国内のあちらこちらに種々の伝説が残ってはいるが、五十万頃地域の解決に資するものはないように思う。たとえば室戸岬と足摺岬との中間に位する一大地積だというのが一つ。つぎに高岡郡のどこかにあった大良千軒・小田千軒という小都会の地であったというのが今一つ。その他、局部的のもの二、三。
 余に、この問題を解決する方法としてもっとも合理的なのは、白鳳地震と同型の地震について、陸地変形に関する特色を講究するにあると思っている。そしてそのいわゆる同型の地震としては、宝永および安政の二地震のあること、前陳ぜんちんのとおりである。
 手っ取り早く左に結果を述べる。
 宝永四年(一七〇七)十月四日地震のときは、土佐一国において随所に著明な地震があったが、列挙すれば次のとおりである。

一 室戸半島の南東のぼりの著しい傾動で、半島の南端に近い室津むろつでは五尺ほど隆起した。
二 高知市の東に接せる平地およそ二十平方キロメートルにおよぶ地積が最大二メートルほどの沈下をなした。地震直後ここに侵入した海水は長く引き去らなかったため、潮江うしおえ下知しもじ新町しんまち江之口えのくちから一宮いっく布師田ぬのしだ大津おおつ介良けら衣笠きぬがさまで一円の海となり、ようやく舟で通行した。また屋頭やかしろ葛島かづらしま高須たかすでは潮がのきを没したまま冬を越したなどとしるされている。
三 高知以西の随所に規模狭小きょうしょうな沈下が観察された。たとえば高岡郡リア式沿岸、および幡多郡はたぐん宿毛すくも入野いりのとを結ぶ一線の両端沿海の地がそれであるが、そこでは、侵入の津波は、一部しりぞいたにかかわらず、一部は定潮として長く退かなかったむね記されている。

 つぎに、安政元年(一八五四)十一月五日地震のときにおいても、同様の著しい地変が観察された。左のとおりである。

一 室戸半島の南ないし南東のぼりの著しい傾動で、室津むろつでは四尺隆起し、半島の首にあたるかんうらでは三尺沈下した。
二 高知市東方平地においては宝永度と同様の沈下が示された。ただし沈下度はやや小さく、面積ならびに上下分量ともに、おおむね宝永度の半分の程度であったらしい。
三 高岡郡リア式沿岸においてもまた一メートル程度の局部的沈下をした場所があった。

 かように、同型の二大地震につき、これにともなった地変を調べてみると、そこにもまた共通な性質のあることが気づかれるのである。さすれば同型の白鳳大地震のばあいに、同様の地変がおこったことを仮定してもあながち不合理ではあるまい。
 上記の地変その一は、地震学上きわめて大切な現象ではあるが、陥没とは直接の縁がないから、ここではこれ以上論じないことにする。
 地変その三は、地域の広さが五十万頃とはけたちがいに小さいから問題にならぬ。ただし高岡郡のあちらこちらに残っている二、三の伝説とは連絡があるかもしれぬ。すなわちこの二、三の伝説は、五十万頃とけたちがいな相違があるからとして、ただちに葬りさるべきものではない。
 残るは地変その二である。前にも述べたとおり、白鳳地震における沈下地域五十余万頃は方一里未満の広さにあたり、安政度における高知市東方平地の沈下地積にほぼ等しく、宝永度における同地方沈下地積のほぼ二分の一に等しい。すなわち同地方における同型の三大地震において、これにともなった地変や津波、あるいは道後どうご温泉の一時的閉止などの諸現象が、最近の二地震においては相類似し、最古の地震においては、現象が記録されているかぎり、すべて他の二者に類似しているのである。されば、室戸半島の隆起傾動や一平方里程度の沈下が高知市東方平地におこったことなど、たとえ旧記に欠けていても、それらが三大地震に共通であったろうと仮定してもよいであろう。
 白鳳地震の陥没に関する上記の仮定に対して、さらに一、二の有利な根拠を付け加える。いずれも問題の地域が、過去に経験したような地変を起こすに適応していることを証するものである。
 その一つは精密水準測量の結果によるのであるが、問題の地域をすぎる東西二十余キロメートルの間は、漸進ぜんしん的に特種の隆起運動をなす地域にあたっているというのであり、いま一つは浦戸湾うらどわん沿うて走る大断層がこの地域をつらぬいているというのであるが、この断層はなお南へ遠く海底を沿うて走るすばらしいものであることが、海深測量の結果によって明白となったものである。(つづく)



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
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地震の國(二)

今村明恒

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   九 ドリアン

 昭和十年六月二十日の東京朝日紙に「地震國の忘れ物」と題した次の記事が現はれた。
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十九日正午、例の今村地震博士が、日本倶樂部(南弘氏を會長とする)で政界實業界のお歴々(町田民政黨總裁、松田文部大臣など)七十餘名を相手に、「地震のABC」を一時間に亙り講義した。「現在尋常小學校の國定教科書には地震の纒まつた知識に關する項目が全然無いので、大震後早くも十三年を經過した今日、幼い小國民の間には地震に關する知識が甚だ缺乏してゐる。斯くては、あの恐ろしい大震災の洗禮が空しくなるから、尋常小學校の五年又は六年の教科書に、地震の一項を至急追加することを要する」といふ意見。松田文相も「ホウ、さうぢやさうぢや」と感心してゐたから、此の件、案外早く實現するらしい。
[#ここで字下げ終わり]
 震災豫防に多大な關心を有つ吾々に取つては眞に好ましい記事である。新聞記事にはよた[#「よた」に傍点]も少くないが、此の記事は其の種類のものでないことだけは保證する。
 此の日、余は講演の内容を思切り平易なものにした。震災豫防に關する常識、地震波の傳播現象等、恐らく尋常小學校上級生に適度であつたらう。そして比較的難解な部分、例へば地震の原因とか正體とかいふやうなことは總て省き、斯樣なことに觸れずとも、震災豫防や地震現象の常識を掴むには差支ない旨を述べて置いたが、此の際、かのケルヴィン卿のエスチングハウス訪問に關する※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話を附加へたこと斷るまでもあるまい。次に、余が特に高調した諸點を擧げて見る。
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 文部大臣は、昨年の關西風水害直後、地方廳宛に訓令を出されて、生徒兒童の非常災害に對する教養に努めるやう戒められたのであつた。眞に結構な訓令である。併し、震災に關する限り、小學教師は、何時如何なる場合、如何やうにして此の名訓令の趣旨を貫徹せしめるかに就ては、頗る迷つてゐるといふのが、僞らざる現状である。實際、尋常科用國定教科書を如何にあさつて見ても理科は固より、地理・國語・修身、其の他にも、地震を主題とした文章は一篇も現はれず、唯數ケ處に、地震といふ文字が散見するのみである。地震の訓話をするに、假令斯樣な機會を捉へるとしても、如何なることを話したらよいか、それが教師にとつて却て大きな惱みである。文部大臣の監督下にある震災豫防評議會が、震火災防止を目指す積極的精神の振作に關し、内閣總理を始め、文部・内務・陸海軍諸大臣へ宛て建議書を提出したのは昭和三年のことであるが、其の建議書には特に「尋常小學校の課程に地震に關する一文章を加へる議」が強調してある。同建議書は文部省に設置してある理科教科書編纂委員會へも照會されたが、同委員會からは、問題の事項は加へ難い旨の返事があつた。地震といふ事項は、尋常科の課程としては難解でもあり、又其の他の記事が滿載されてゐて、割込ませる餘地もないといふ理由であつた。此の理由は特に理科の教科書に限られた譯でもなく、他の科目に就ても同樣であつたのである。難解なりとは、先程から説明した通り、問題にならぬ。吾々は其の後、文案を具して、當局に迫つたこともある位であるから、當局も最早諒として居られるであらう。さすれば主な理由は、餘地なしといふ點に歸着する譯である。熟※[#二の字点]尋常科教科書を檢討して見るに、次のやうなことが載せてあるのを氣づく。即ち「南洋にはドリアンといふ果が出來る。美味いけれども、とても臭い」と。此の樣な記事を加へる餘裕があるにも拘らず、地震國震災國の幼い小國民に地震のことを教へる餘地がないとは實に不可解なことと謂はねばならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
 此處まで來ると、拍手喝采が一時に爆發して滿堂を壓し、演者は暫時壇上に立ち往生をした。但し此の拍手喝采は演者に向けられたといふよりも、寧ろ聽者の一人たる松田文相に向けられたものであつた。そして文相は僅に苦笑を以て之に應酬せられる許りであつたといふのが實況である。
 其の夕、歸宅してゐると東京朝日の記者から電話がかゝつて來た。文部省では文相のお聲が懸かつたので、早速尋常科教科書に地震に關する一文を加へることになつたとのこと。尋いで東京放送局からも、其の晩のニュースとして、同じ事が放送された。七年越し、幾度も評議し、種々繁雜な折衝をしたにも拘らず、一向埒があかなかつたのに、流石は鶴の一聲だと微笑まれるのであつた。

   一〇 地震の興味

 地震學者とは地震を喜ぶ動物だといふ人がある。此は震災と地震との區別を知らない爲に生ずる誤解らしい。成程、大震災の起つた場合、地震學徒の活氣づくのは事實であるが、併し彼等が喜ぶのは地震といふ自然現象に向つてのことで、大地震の結果たる災害、即ち震災に對しては之を悲み之を呪ひ、被害者に對して同情すること敢て人後に落ちないどころか、却て遙に常人を凌駕するものがある。彼等の或るものが、震災豫防の爲に、甘んじて一身を犧牲にしようとする熱意があるのを見ても然か首肯かれるであらう。
 他方、地震の諸現象の中、或るものは既に講究濟みになつたといへようが、併しながら今猶ほ謎とされてゐるものも少くはない。專門學徒が日々月々發表する研究結果を見ても思ひ半ばに過ぎるものがあるであらう。就中、大地震の諸現象は、事柄其物が人生に重大な關係を有つのみならず、其の發生を見ること極めて稀有な爲、此等を捕捉するには、彼等は最も眞劍な努力を拂はざるを得ないのである。活氣づく所以でもあり、喜ぶやうに見える所以でもある。
 地震現象を翫味する度合や、翫味される現象の種類は、人々の立場によつて多少の相違がある。歐米人の中には、地震に惱まされない土地に住みながら、鋭敏な地震計を用ひて、遠方大地震の餘波を觀測講究して樂しんでゐるものがある。地球の内部や外殼の構造の明かになつたことや、人爲地震に依る鑛床特に含油床の檢索講究など、此の方面の副産物と見てよいであらう。
 日本は震災國である。地震を翫味し得る爲めには、震災の脅威から解放されることが寧ろ先決問題であらう。專門學徒ならば斯學の講究が無條件に樂しくもあらうが、素人は決してさうではあるまい。
 震災の脅威を脱却するには、第一は住宅を耐震的にすることである。
 第二は、地震に出會つたとき、之に善處し得るやう豫ねて計畫を立てゝ置くことである。此の心得さへあるならば、假令第一を缺いても、甚だしい不安を感ぜずに濟む筈である。
 余は嘗て地震に出會つたときの心得十則といふものを編んで置いたが、其の第一則を會得するだけでも、不合理な不安を一掃し、且つ地震の興味をさへ唆るに多少の効能はあらう。即ちそれは、地震に出會つたとき、最初の數秒間で其の全般の性格を推測して、咄嗟の間に、然るべき對策を立てることである。
 大地震といふものは、さう度々起るものではない。人間一生の間に之に遭遇すること、多くて一二回であらうが、併し最惡の場合を假定して之に備へることは強ち無益ではあるまい。若し發震當初に器具を倒し土壁を崩す底の震動であつたら、五六秒或は十秒以内に破壞震動の襲來あることを覺悟して、或は屋外の廣場へ出るとか、或は屋内の堅牢な器具の傍に潜むとか、其の他、然るべき手段を取らねばならぬ。
 余が住宅は、木造であるが、或る意味では耐震構造であり、そして所在の土地では之を潰し得る大地震は起るまいと信じ得べき根據が有るから、如何なる地震に見舞はれても、屋外に逃避しようなどと思つたことはない。隨つて如何なる程度の地震でも、何時も研究的態度を以て之を迎へることが出來る。
 先づ初期微動の繼續時間を計り、次に主要動の大きさを目測する。兩つながら之を器械觀測の結果に比較することによつて興味が倍加する。特に初期微動繼續時間は震源距離に比例する關係にあるから、之に依つて距離を推算し、體驗に依る震動性質と結び附けて概略の震源位置を推定し、之を器械觀測によつて精算された値と照し合せて見るのであるが、此は可なり興味多いことである。
 體驗のみに基づく右のやうな震源・震幅の推測は、恐らく海岸に住む漁師達の器械に頼らない天氣豫報にも比較すべきものであらう。專門家でなくとも味ひ得る地震興味の一つである。
 併し、地震現象として興味ある種々相の現はれるのは、何としても大地震の場合である。次に其の二三の例を拾つて見る。
 先づ素人の注目を引くものに石塔石碑の廻轉運動と地割れとがある。此の兩者は大地震の度毎に新聞紙上を賑はすものであるが、墓碑の一群の廻轉方向から其の土地に於ける主要な水平振動の方向を推定したり、或は地割れの對象としての土地壓縮の現象を窮めようとする人は少いやうである。
 世俗には、大地震のとき、土地がぱく/\開閉して人畜を呑んで仕舞ふことがあるやうに言傳へて居るが、併し此は訛傳であらう。我國に於ては、上古から今日に至るまで曾て斯樣なことのの[#「のの」は底本のまま]經驗もなければ記録もない。尤も外國の記録を渉獵して見ると西紀一六九二年ジャマイカ地震一七五五年リスボン地震、一七八三年イタリア地震、一七九三年リオバンバ地震にさういふ現象のあつたことが記されてゐるが、これとても何れも百五十餘年前のことであり、確にさうと信じてよいか否か躊躇せざるを得ないし、且つ少くも地震現象中最も稀なものたるには相違ない。
 斯樣な現象が、若し小規模に起つたとしたならば、寧ろ興味深いものとなるであらう。大正十二年關東大地震のとき、房州北條小學校の校庭で見られた泥水の間歇的噴出は、恐らく此の種のものであつたらう。
 家屋大移動の現象も亦興味深いものである。大森博士は僅に濃尾大地震に於て二例を目撃されたに過ぎないやうだが、余は姉川地震、強首地震、關東大地震、奧丹後地震、北伊豆地震等で多數の例を觀察した。此は地面に斜な大震動が同方向に幾度も繰返されるとき、建物は上方兼水平動で前進し、其の反動たる下方兼水平動で停止し、そして前進の積算の結果が一米程度の大きさの移動となるものらしい。能く注意して見ると、中間停止の痕跡が地面にあり/\と殘されてゐることがある。
 時々床上或は地上に安置された物體が不動點となり、地震計の眞似事をすることがある。強首地震のとき、秋田鑛山專門學校内の一室に置いてあつた机が、滑りよきリノリユムの面に其の四脚の各々で地動を畫いたが如き、又北伊豆地震のとき、江間小學校々庭に安置してあつた魚雷の面上に、臺石の鋭い角で印した曲線の如き、最も珍とするに足るべきものである。

   一一 地割れの開閉現象

 地震現象の最も恐れられてゐるものに、地割れの開閉現象といふのがある。此は道路或は築堤の沈下或は崩壞によつて生ずる永久的な地割れとは全く別物である。
 西紀一七九七年二月四日のエクワドル國リオバンバ地震のとき、土地が開き、之に人が足を踏込んだが、次の瞬間には之が閉ぢた爲、胴體以上は自由であつて、下肢だけ地面に挾まれてゐたといはれる。又一六九二年六月七日のジャマイカ地震では、首府ポルト・ロワイヤルなど被害の中心地であつたが、此の時、大地は洋上のうねり[#「うねり」に傍点]の樣に、幾度も膨らみくぼんで數多の地割れを生じ、或時は同時に二三百條の地割れが、急に開いたり閉ぢたりするのが目撃された。その爲に多人數此の穴に落込んだが、或るものは胴體を挾まれて押潰され、或るものは頭部だけを地上に露出し、又或るものは穴に落込んだ次の瞬間に濁水と共に噴出されたといはれてゐる。
 西紀一七五五年十一月一日のリスボン大地震は大西洋底に起つたものらしく、リスボンでは五分間に六萬人の死者を生じ、感震區域は徑五百里に及び、世界大地震の最大記録と見做すべきものである。又、問題の地割れ開閉現象が對岸モロッコ國の首府モロッコから十里程の距離にある一村落に起つたことも特記すべきであらう。元來此の地方には、ブスンバと呼ばれる種族が八千乃至一萬人ほど住んでゐたが、此の地震のとき、大地に數條の地割れを生じ、それが開閉した爲、人類のみならず、駱駝牛馬等の家畜まで之に吸込まれて跡方もなく失はれたと記してある。此は其の翌年に出版された古文書に據つたのであるが、住民全部が盡く吸込まれたとは恐らく臆測で、事實は寧ろ、此の運命に陷つた不幸な仲間の悲慘な最期に怖れをなし、殘餘のものは、他へ移轉したと見る方が穩當であらう。
 同樣の現象は一七八三年二月五日の伊國地震のときにも起つた。此の地震は同國本土の南端近くに發生したもので、地震に因る直接の死人四萬人、其の後の疫癘に因るもの二萬人と計上された。元來該地方は、アペナインの脊梁山脈が大體花崗岩質で、頂上近くは山骨露出しているけれども、山腹には、風化水蝕に由て出來た柔軟な土壤が堆積してゐる爲、大地震のときには大規模の地滑りが起り勝ちであり、隨つて他地方では見られないやうな特種の地割れが起り易い。特に此の地震のときの地割れは、頗る大規模のもので、家屋人畜樹木が之に吸込まれ、次の瞬間には、それが復元通りに閉ぢて、其の痕跡すら殘さなかつたと報ぜられてゐる。
 地割れの開閉現象といふものが、若し上記のやうな規模で起るものなら、それは地震現象中最も戰慄すべきものに違ひない。
 日本に於ては、斯樣な場合の避難の一法として竹藪に逃込むことが古くから推奬されているが、それは恐らく事實に即せぬ虚想であらう。實際我國に於ては斯樣な現象の爲に人畜が吸込まれたといふ事實を曾て經驗したことがないのみならず、竹藪が地割れを防ぎ得るといふのも買ひかぶりに過ぎないからである。
 餘は此の現象に關する文獻を出來るだけあさつて見たが、其の結果は上記の數例を得たに過ぎない。而も何れも古い出來事で、最近百五十餘年間、曾て斯樣なことが記録されてゐないのを見ると、前の數例にも或は誇張があるかも知れない。
 日本に於て此の現象の實現が一般に信ぜられてゐるのには今一つの原因がある。佛典に斯う記してある。
[#ここから1字下げ]
「釋迦牟尼の弟子提婆達多が師に叛き、師を無きものにせんと度々奸策を運らしたが、却て天罰を被り、生きながら地獄に墜ちた。此の時、提婆のゐる大地は自然に沈んで、炎と燃え上り、忽ち膝を埋め、臍に及び、肩に及んだ。彼は、火に燒かれて我が逆罪を悔い南無佛と叫びながら沈んだ。此の時、二つの金梃は前後から彼を挾み、其儘火災の大地に捲込み阿鼻地獄に引込んだ。」といふのだ。
[#ここで字下げ終わり]
 此の恐ろしい地割れ開閉現象が、十九世紀以來世界の何れの國に於ても經驗されないらしいことは前記の通りであるが、併し、人畜を吸込むに足りない程の小規模のものなら、近頃に於ても經驗されたことがある。西紀一八三五年二月二十日の智利地震が其一。又大正十二年九月一日の關東大地震のとき、房州北條町に於ける北條尋常高等小學校々庭に於て校長其の他の教員によつて目撃されたといふのが其二。
 此の學校の敷地は、地震の數年前に水田を埋めて造つたものであるが、元此の水田は、東西に長く入込み、南北東の三方は稍※[#二の字点]堅い地盤で圍まれ、西の方だけはもつと廣い水田に接續してゐた。そこへ、南中央部境から北へ向ひ、水田の中央邊りまで斗出する半島形の地域が、水田面から二尺の高さまで埋立てられ、そこを學校の敷地としたのである。故に、該地域は、堅い地盤で圍まれた半液體の泥田であつて、學校敷地の部分だけが土砂の薄皮を着てゐるに過ぎないのである。大地震のとき、校舍は全部倒潰したのであるが、そこから中庭まで漸く逃出して來た職員達は二十米以内の距離に於て、かの驚くべき現象を目撃したのである。即ち其處には、全延長四十米程の二條の地割れが、敷地の北部(舊水田地區の中央部)に東西の方向を取つて出現し、そこから三米程度の高さに泥水を吹上げた。アレヨ/\といつて見てゐる中に、噴出は一旦止んだが、四五秒たつと又噴出した。さうして其の後、同じ事を繰返すこと五六回、勢力次第に衰へて終に止んで仕舞つた。あとで現場を檢査して見ると、二條の地割れの痕跡があり、線上には處々砂の小圓錐まで殘されてゐた。余が其處を見學したのは一箇月後であつたけれども、地割れ及び砂饅頭の痕跡は猶あり/\と殘つてゐた。
 斯樣な現象は果して如何なる作用によつて起るものか、余はまだそれを取扱つた文獻に接したことがないが、次に聊か其の解説を試みることにする。
 一七八三年伊國地震のときに現はれたものは、恐らく簡單な順序で起つたのであらう。此の時、該地方に於ては大規模な地滑りが起り、之に伴つて偉大な地割れが、或は底知れず深く、或は輻射状に、幾條も殘された。今若し右の地滑りの進行の途中に於て、表土層と基盤との境界面の形が、終始平であつたならば、表土層の表面には別段な異状もなかつたらうが、併し基盤面に凸凹があつたとして考へると、若し表土層が凸面の上に來たらば地割れを生じ、次に再び平らな面の上に來たらば地割れは見えなくなるであらう。凹面の基盤から平らな場處に移り、再び凹な基盤に乘つたとしても同樣であるに違ひない。
 右は伊國地震の場合に適用する考へ方であるが、他の數例に對しては更に違つた説明を要する。
 假に北條小學校々庭の場合を取つていふと、此處は半液状の泥土を以て水に入れ代へた湖と見做すことが出來る。嘗て蘆の湖の水が北伊豆大地震で偉大な桶水振動を起し、而も其の振動中、二節のものが最も著しかつたことがあるが、問題の泥土の湖も亦大地震の爲にこれと同樣な重力波を起し、桶水振動を始め得ること想像に難くない。此の場合、若し振動が二節になるならば、腹の一つが中央部を東西に走る軸線に當る譯だから、此の部分が、或は高まり或は窪み、そして振動の繼續する限り、目撃されたやうな間歇的噴出が生ずるであらう。併し若し泥の湖が重力波を起しただけで桶水振動とならずに終つたらば、ジャマイカ地震のとき經驗したやうな現象を生ずるであらう。
 兎に角、人畜を吸込む程の地割れの開閉は實際に起るものとしなければなるまい。そして一旦之を經驗した場處に於ては、他日再び大地震に見舞はれたとき、土地の構造が從前と變らない限り、同じ現象が繰返されるものと覺悟すべきではなからうか。之に反して、我國のやうな、此の現象の大規模なものを曾て經驗したことのない處では、其の發生に適する場處の存在しないことを示唆するものとして、將來も同樣であらうと假定して差支ないであらう。

   一二 稱名寺の鐘樓

 江州長濱在の尊勝寺村に稱名寺といふ古刹がある。秀吉が賤ケ嶽合戰を目指して強行軍をしたときのこと。途すがら此の寺に立寄つた折、寺僧の接待振りが氣に入つたとかで恩賞を與へたりなどしたと言傳へられてゐる。寺は其後に於ても繁榮をつゞけ、其の古い由緒と建物の美觀とを以て湖東に異彩を放つてゐた。
 併し、明治四十二年八月十四日の姉川地震は此の可憐な寺院をも見逃さなかつた。そして其の輪奐の美を誇つてゐた本堂も地上に倒伏するの已むなきに至つたのである。
 余が此の場處を見舞つたのは災後數日を過ぎてゐた。倒伏した本堂は、屋根を殘らず剥取られて煤けた小屋組を露出し、見るも無慘な姿であつた。併し驚かれたのは、近く石壇の上に立つてゐた鐘樓が、殆んど何等の損傷もなく、以前の美觀のまゝに、本堂の憐れな最期を見守るかのやうに、廢墟の中に屹立してゐたことである。餘りの見事さに暫時見惚れてゐたが、「よし、藝術的にうつしてやれ」と呟いて撮影したのが、後日、日英大博覽會に出陳して名譽大賞牌を贏得る一對象物となつたものである。
 余は此の鐘樓が殆んど何等の損傷もなかつたと言つたが、それはあの寫眞を一瞥したら直ぐ首肯かれるであらう。併し之を仔細に點檢すると、今一つ驚くべきことが氣附かれるのである。
 端的に言へば、件の鐘樓は北三一度東の方向に九八糎程舊位置から飛出してゐたのである。但し此の大飛躍は一氣に仕遂げられたのではなく、同じ方向に二段飛をした結果であつたのである。
 此の現象は余に取つて忽ち興味深いものとなつた。それは、現象その物が地震計測學上頗る意義深いものである許りでなく、稱名寺、特に其の鐘樓が有つ魅力も亦さうさせたのであつた。
 此の時、同樣の現象がそこから二粁しか離れてゐない留目といふ村の願教寺に於ても見られた。こゝでは略ぼ同型の鐘樓が北三九度東の方向に九七糎程飛躍してゐたのである。
 こゝで余は大森博士の見解に疑惑を懷き初めた。同博士は明治二十四年濃尾大地震のとき、金原村の寺の山門の大移動を觀察して其の原因を地震動の水平動にありとし、震力七割一分(重力を十割として)といふ大きな數字を出された。併し振動といふものは自然的に動と反動とから成立つから、假令一つの動に因て一方に飛躍を遂げても、次の反動では還元することになり、結局大飛躍を前後左右に幾度繰返しても原位置とは餘り遠くない位置に落着くことになるであらう。大正三年強首地震のとき、秋田鑛山專門學校の一室に於て、滑らかなリノリユム張りの床の上に安置してあつた机の移動した状態、特に其の四脚が一々床面に畫いた地震記象擬ひの曲線が、之を證明するに十分であらう。
 次に余が見解を述べることにする。即ちそれは、水平竝に上下の大きな成分を有つ振動、即ち水平面に斜な方向の大振動が、同方向に繰返される爲に此の現象が起るのだといふのである。即ち上下成分は、若し上方に向ふときは接觸面間の摩擦係數を見懸上減殺し、下方に向ふときは之を見懸上増加させる傾向を有つから、上方成分を有つ斜な大運動では飛躍し、反對に下方成分を有つ斜な大運動では佇立することになり、斯くして斯樣な斜な大振動の反復によつて數段飛の離れ業が演ぜられるのである。
 余は、此に飛躍といふ動作を鐘樓に當嵌めたが、嚴密に云へば、それは單に地面と鐘樓との關係的移動であり、そして實際に移動したのは地面の方であつて、鐘樓は單に空間に取殘されてゐたに過ぎないのである。我國在來の木造家屋の建方として、土臺は單に礎石上に安置されることになつてゐるが、此の際、味ふべき事項である。
 右の見解が果して正しいとすれば、地震力の最大限に關する觀念についても訂正を加へる必要がある。假に震力の水平成分四割三分上下成分二割三分、即ち合成震動の大きさ五割一分といふ斜な大振動があつたとすれば、それは礎石上の木造物を移動させることが出來、又水平成分四割七分上下成分三割三分、即ち合成震力五割七分なら、礎石上の平石を移動させることが出來るのである。且つ、大地震の場合、震源附近に於ては、急週期の小振動が起り勝ちであつて、而もそれが示す震力は床上或は机上の小器物を小刻みに躍上がらせるに十分であるから、斯樣な場合、接觸面の摩擦係數は見懸上一層輕減されて然るべく、大飛躍の現象を起すに更に有利となる譯である。
 之を要するに、構造物の大移動といふ現象が起る爲には、必ずしも七割一分といふやうな莫大な地震力を想像するがものはなく、恐らく六割未滿五割程度でもよくはないかと思はれる。
 併し問題は重大である。僅かに一二の例を以て斷言するのは危險である。
 余は、其の後、大地震の起る度毎に、細心の注意を拂つて此の現象を觀察した。例へば大正三年強首地震のとき、横堀村羽崎谷地に於ける觀音社の鳥居の六〇糎移動を始めとして、大正十二年關東大地震に於ては次の數例を精査した。
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國府津、親樂寺境内石碑の亞鉛板葺上覆。北二五度東へ九一糎。小田原緑町、五間平方程の瓦葺平家建。北一〇度東へ一三〇糎。同所、三間平方程の瓦葺平家建。北一〇度東へ七五糎。
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 又昭和五年北伊豆地震に於ては十箇程の例を見たが、就中、梅木村に於ける次の三例は特記すべき價値がある。
[#ここから2字下げ]
八間に五間の草葺平家建。北七〇度東へ六二糎。六間に二間半の瓦葺平家建。北六〇度東へ七三糎。九間に四間の草葺平家。北七五度東へ六三糎。
[#ここで字下げ終わり]
 昭和二年丹後地震に於ては、丹後地震誌に、平家建が大移動した三例を擧げてゐる。即ち、郷村斷層に近い新治に於て北微東に一五〇糎、山田斷層に近い山田村に於て、一は西南に一五〇糎他は西に一四〇糎となつてゐる。
 以上の結果を概括するに、構造大移動の起る場合には次の三つの條件を伴ふことがわかる。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一 移動物が簡單な、能く結束された、低い構造物であること。
二 移動物が、互に數粁以内の範圍にある限り、移動方向は殆んど相一致すること。
三 移動の痕跡は何れも二段飛或は三段飛等を演じ居ること。
[#ここで字下げ終わり]
 さうして余が前に提供した見解は、上記の諸條件に能く適合するものである。
 之を要するに、地震動の破壞作用には或る限度があるらしい。そして此の限度を超過しようとすれば、媒介物の破壞を招き、其の結果として地震斷層を惹起すことになるのであらう。

   一三 張衡

 ミルンの名著「地震と其他の地動」には張衡が地動儀を創作したのを西紀一三六年のこととしてある。吾々は無條件に之を信じてゐたので、其の年から滿千八百年に當る昭和十一年には、發明者の爲、何か意義ある記念事業をやらうといふことを、同人石本博士等と申合せてゐた。例へば候風地動儀の複製、張衡の經歴業績を調べて之を世に公にすること等である。
 余は、此の年、印度洋經由で渡歐したが、船は其の往復を上海に寄港したので、此の機會を利用して張衡に關する文獻を搜索して見た。そして入手したのが張河間集といふ古本と、新刊の張衡年間譜(孫文青著)とであつた。これと後漢書張衡傳とを參照することにより、彼の業績經歴は、一通り明かになつて來たので、先づ目的の一半は達成された譯である。
 殘るは候風地動儀の複製であるが、之にも略ぼ成功した。但し、吾々は、構造・性能及び外觀何れも實物に違はぬもの、五箇を製作しようと企てたのであるが、事變の爲に所要の地金が得られなくなり、製造を一時中止しなければならなくなつたのは遺憾である。
 以下順次に其の詳細を述べることにする。
[#1字下げ]其一・候風地動儀の複製[#「其一・候風地動儀の複製」は見出し]
 先づ此の器械の性能・構造及び外觀を説明する。後漢書張衡傳には次のやうに説明してある。
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「陽嘉元年、復た候風地動儀を造る。精銅を以て鑄成す。圓徑八尺、合蓋降起し、形酒尊に似たり。飾るに篆文山龜鳥獸の形を以てす。中に都柱あり、傍に八道を行らし、關を施し機を發せしむ。外に八龍あり、首に銅丸を銜め、下に蟾蜍あり、口を張りて之を承けしむ。其の牙機は巧みに制せられ、皆隱れて尊中にあり、覆蓋は周密にして際なし。如し地動あらば尊は則ち振ひ、龍の機發して丸を吐き、而して蟾蜍これを銜む。振聲激しく揚り、伺者これに因て覺知す。一龍機を發すと雖も而も七首は動かず。其の方面を尋ねて乃ち震のありし所を知る。之を驗するに事を以てするに、合契すること神の若し。書典に記する所より未だこれあらざるなり。嘗て一龍の機發して而も地は動くを覺えず。京師の學者は咸其の徴なきを怪しむ。後數日にして驛至る。果して地隴西に震ふ。是に於て皆其の妙に服す。これより以後、乃ち史官をして地動の方に從つて起りし所を記せしむ。」
[#ここで字下げ終わり]
 今此の文章を按じて見ると、初に概觀外形を掲げ、次に構造を説明し、終に其の性能を詳説してある。之を解釋し得た後に再讀して見ると、事理明白な文章だが、併し都柱といふ文字の意味が通じない限り、不可解な文字たるに相違ない。次に記すやうに、ミルン・王振鐸の兩者共に此の都柱が讀めなかつた爲、一龍發機して七首の不動なる性能をも解し得なかつたやうである。
 余は、前に、ミルンの著書を無條件に信じてゐたと言つたが、問題の記念事業を遂行するには事を愼重にするを要し、先づ上記の原文と彼の解釋した所とを比較檢討して見た。さうすると驚くではないか。全文誤りで充たされでゐるといつてもよい位に誤りが多いのである。
 先づ冒頭の陽嘉元年が、西紀一三六年となつてゐるが、此は西紀一三二年でなければならぬ。
 次に器械の心臟部たる都柱を誤解して吊り振子としてゐることである。成程吊り振子でも候風地動儀の性能を有たせることは不可能ではあるまいが、非常に複雜なものになり、其の組立方は器械製造能力の進歩してゐる今日ですら容易ではあるまいから、千八百餘年前に於ては猶更のことである。實にミルン博士も王氏も此の點に於て失敗したのである。
 ミルンが都柱を誤解したことは更に誤を擴大する素因となつた。
 第一に、圓蓋の頂上に長い筒を立てたことである。此は吊り振子を長振子とする爲の贅物である。
 次に、一龍發機七首不動といふ性能を有たせる爲に、地震動の方向を一方位に限るやうに曲解してゐる。
 又、一龍機發の方面を按じて震源の方位を推定し得る性能を解釋する爲に、樽内に地震動を記録する裝置があるやうに附加へてゐる。
 其の他、些細な誤りではあるが、圓徑八尺を圓徑八呎としたこと、及び蟾蜍を蛙としたことをも指摘しなければならぬ。當時の尺は呎の三分の一位に當るらしく、龍と蟾蜍とは、古來、支那に於ては、天地或は陽陰を象徴する一對の生物と考へられてゐたからである。
 王振鐸氏(燕京學報第二十期十週年記念專號)は「ミルン書所載の長振子の誤解を指摘して、圓蓋から突出してゐる筒を取除いた點は良かつたが、併し彼れ自身も猶ほ吊り振子の誤解から脱却することが出來なかつた。そして圓蓋内に收まるだけの短い吊り振子を取入れ、之に一龍發機七首不動の性能を有たせる爲、地震動を單に震源の方からの押波と其の反動たる引波から成立つものと假定して、押波で丸を落しても引波では反對の方位の丸が落ちないやう工夫を凝らしたのである。但し地震動の方向はさう簡單なものではないから、他の六丸の墜落が抑へられてゐないことは言ふまでもない。
 以上兩者の誤解は原文にある都柱を正しく解し得なかつたことに基づくのであるが、若し之を正解し得たならば、其の結果はコロンブスの卵と同樣であつたらう。
 都柱は讀んで字の如く、中心の柱である。八方の通路を、都から輻射する八道に譬へてあるのを見てもわかる。唯此の心柱が何を意味するかが謎になつてゐるのだが、若し之が倒立振子だと氣附かれたら以下の文章はすら/\と解ける。特に一發七不の性能の如きも忽ちに氷解される。
 都柱の足を細くして之を正しく直立せしめて置いたならば、地震のとき其の不安定の平均が容易に破られ、柱は震動の方向に倒れて、元へは戻らないであらう。若し周圍に何等の障害がなかつたならば、柱は最初の方向へ平伏し終る筈であるが、併し、其處には八方位だけに柱の通路が刻んであることになつてゐるから、傾いた柱は最寄の通路へ嵌り込んで倒れて行く。そしてそれが落着く以前に於て、其の通路に沿ひ、若しくは之に平行に、突出してゐる機(細長い棒と考へてよし)を押出すことによつて、其の方向の龍首にある丸を落すのである。
 萩原理學士は上記の條件に適する裝置を試作して、之を東大地震研究所内に据附けて實驗して見たが、結果は極めて良好であつた。但し、此の時、使用した倒立振子は脚端が直徑三粍の圓であつて、重心の高さが一七糎になつてゐたからこれが正しく据附けられた場合、それを倒し得べき加速度の最小限度は八・七ガルである。据附後間もなく、東京から南微東に當り、羽田邊を震央とした輕震があつたが、此の時、丸は西南のものが落ちたから、振子を倒した震動は主要部をなす横波であつたと見える。
 併し、地震には最初から強いものもあるから、丸が初動たる縱波で落ちることも有る筈。されば「其の方面を尋ねて震の在る所」を知る爲には、丸を落した振動が果して初動であつたか、將た主要動であつたか、之を區別することが必要となる譯である。「丸を吐き、蟾蜍之を銜んで振聲激しく揚る」ことの性能がこゝに役立つのであらう。
 余も亦一基を試作して見た。八道は之を省き、振子は倒れ初めの方向に倒伏し、又倒れた瞬間に強い音を出すやうにしてある。振子の脚端は萩原式と同樣に直徑三粍の圓とし、全體の重心の高さが一二四粍になつてゐるから、之を倒すに足るべき加速度の最少限度は一一・九ガルである。但し之を正しく直立せしめるに、素手では困難であるから、之を平易にする爲、簡單な裝置が施してある。
 斯くして原文に記述された通りの性能を有つ裝置が出來た次第である。若し萩原式地動儀に八龍八蟾蜍を有つ覆蓋が加へられたら、それで完備することになるのである。
 吾々の希望は構造外形性能の三者共に原文に一致するものを作ることにあつたから、愼重を期する爲、試みに龍の形態に關する研究を始めて見た。其の結果、第一に氣附かれたことは、服部一三先生が明治八年畫工に畫かせた候風地動儀の龍は、本邦獨特のもの、恐らく隋唐時代のものに當るらしいといふことであつた。甚だ末梢的なことではあるが、調べた結果を左に概説して見る。
[#ここから1字下げ]
 支那に於て、昔から靈妙不思議な生物として取扱はれたものに龍・蟾蜍並に蝉がある。何れも一年中陽盛んな季節に現はれ、反對に陰盛んな季節に地下に潜むとしてある。此等の生物の形象が硬玉に刻まれて、古墳や廢墟から掘出されることは能く知られた事實であるが、蟾蜍や蝉の形象が、夏殷の大昔から宋明の近世に至るまで、概ね不變であるに拘らず、龍の形象だけは年代に隨ひ一々異なつてゐるのは注意すべき事項である。蓋し龍は生物とは稱しながらも、虚構のものだからである。そして漢時代の記録には、「秋分には天から降つて地下に入る」と星座のやうにも書いてあり、又其の形象として「口の兩側に頬髭あり、腮の下に珠を懷き、喉くびに逆鱗生じ、頭上に一つの瘤あり」とある。漢時代の作品たる帶止や印鑑の把手に刻んであるのも、頭上に一つの肉角らしいものがあり/\と見える。
[#ここで字下げ終わり]
 兎に角、漢時代のものに出來るだけ似せることにし、其の製作方を金屬工藝品作家たる佐藤省吾氏に委囑した。同氏は其の石膏模型の製作を終り、又五臺分の製作費用は對支文化事業部から惠まれたので、愈※[#二の字点]其の鑄造に取掛らうとしたとき、前記の通り、一時此の事業を中止しなければならなくなつた次第である。
[#1字下げ]其二・張衡の經歴[#「其二・張衡の經歴」は見出し]
 張衡は後漢の章帝の建初三年(西紀七八年)南陽の西鄂に生れ、順帝の永和四年(西紀一三九年)に歿した。
 張家は世々名門であつて、祖曾父の代には鉅萬の資財を積み、祖父堪は光武帝の知遇を受けて初め蜀郡の太守となり、後漁陽の太守に轉じ、内に荒蕪を開き、外に匈奴を禦いで殊勳を立てた。父は餘り著名ではなかつたらしく、幼にして貧、嘗て同郡の朱暉に厚い給與を受けたとしてある。衡は此人の子として生れたが、遊學の資には乏しくなかつたのであらう。或は神童として他に援助者があつたのかも知れない。十六歳のときには京兆・左馮翊・右扶風の三輔に遊學し、十八歳のとき洛陽に上つて二十二歳に至るまで修學し、翌年南陽の太守鮑徳の主簿となり、三十一歳のとき、徳が大司農となるに及んで罷めて家に歸り、讀書數年、三十四歳にして徴されて郎中(二百石、無員)に拜し、三十八歳のとき太史令(一人、六百石、天時星歴を掌る。凡そ國に瑞應災異有るときは之を掌記す)となつた。張衡の官歴としては此の職にあつたことが最も長く、中間五年の間、公車司馬令(一人、六百石、宮南の闕門を掌る)となつたけれども、再び太史令に復歸し、勤續、前後を通じて十二年間に及んでゐる。其の最後の年が陽嘉元年即ち彼が候風地動儀を造つたときであつて、實に彼が五十五歳のときである。翌年侍中(比二千石、無員、左右に侍し、衆事を贊導し、顧問應對を掌る)に遷り、五十九歳のとき、出でて河間の相(皇子王に封ずるとき、其郡は國と爲し、毎に傅一人相一人を置く。皆二千石。後更に相をして民を治せしむ)となつた。此の時の河間王は名を政と云ひ、餘り善くない人であつたが、併し衡の治績は大に擧がつた。居ること三年、骸骨を乞ひ、六十二歳徴されて尚書(帝命を出納す、六人、六百石)に拜したが、此歳歿し、故郷の西鄂に葬られた。
 張衡の廟には友人崔※[#「王+爰」、第3水準1-88-18]の撰した碑文が刻まれたが、此の方も中々有名であつたと見え、唐詩などにも屡※[#二の字点]引用されてゐる。
 光緒新修の南陽縣志には次のやうに記してある。「張衡の墓は縣北五十里、石橋鎭の西南にあり。基久しく堙ふ。明の嘉靖年間に中縣の人周紀重ねて之を修築す」と。之を以て見ても、張衡が後世に至るまで如何に重んぜられたかが明かである。
[#1字下げ]其三・張衡の業績[#「其三・張衡の業績」は見出し]
 地動儀の發明は、彼の業績中最も輝かしいものの一つであつたこと、いふまでもない。若し此の方面に適當な後繼者が現はれ、そして首府が永く地震地方に留まつてゐたならば、地震學は天文學に次いで夙く發達したらうが、それが兩つながらさうならなかつた爲、折角伸びかけた萌芽がそのまゝ枯れて仕舞つたのは惜むべきことであつた。
 小野清氏は、建武二十二年南陽地震を以て張衡地動儀製作の動機であらうと言つてゐるけれども、餘りに穿ち過ぎてゐる。元來太史令の職責には「凡そ國は瑞應災異あるときは之を記するを掌る」とあり、長安を西の首都とした東漢に於ては、地震相次いで近畿に起り、特に彼の發明を遡る三十年間は、年として大地震の襲來しないことは殆ど無く、特に元初六年(地動儀創作に先だつ十三年)建光元年(同十一年)永建三年(同四年)のものは多數の壓死者を生じた位であつたから、職責を重んずる人には無關心であり得なかつた筈である。建武二十二年の大地震は、假令彼の郷里南陽を襲つたとはいへ、彼の出生に先だつ四十三年の出來事だから、彼に對する刺戟は極めて薄かつた筈である。
 張衡地動儀が人身に感じない地動に感應した最初の例は、永元三年[#「永元三年」は底本のまま](西紀一三八年)隴西大地震の場合と想像される。
 張衡は實に多藝な人であつた。性、畫を善くしたとあるが、それがどれ位上手であつたかはわからぬ。併し作文は彼の最も早く上達したものであつたに相違ない。十八歳のときの温泉賦、十七歳から始めて十年かゝつて出來たといふ二京賦など見事なものである。詩には四愁詩といふ一つが殘つてゐるが、これ亦素晴らしい作である。あらはには美人・珍寶・水深・雪雰雰など流麗な文句で四つの愁を謳つてゐるが、美人珍寶に君子・仁義を、水深雪雰に小人を當嵌めるとき、時事を憤慨した裏面が窺はれるやうになつてゐる。
 張河間集には次の作品が載せてある。
[#ここから1字下げ]
賦―十二篇、誥―一篇、疏―五篇、策―一篇、表―三篇、書―六篇、辯―一篇
設難―二篇(應間、應間序)、議―一篇、説―一篇(渾議、靈憲、靈應)銘―一篇、贊―一篇、誄―四篇、樂府―二篇、詩―一篇(四愁詩)
[#ここで字下げ終わり]
 以上、何れも金玉文字。只これだけでも、張衡の名は不朽に傳へらるべきであらう。
 修史は彼の得意のものではなかつたらしい。史家として何程の業績を擧げたか不明であり、又その詮議を試みる程の興味も有たない。唯一つ特筆したいのは、王莽簒位十五年間に對し、新の年號を止めて、漢の正朔を用ひよといふ議論である。
 天文學は彼が最も得意とした學問であつたに違ひない。勿論算數なしには天文學は成立たないから、范傳にある通り、天文陰陽暦算に明かであつたとされたのであろう。
 或る人、衡の太史令としての最大功績を渾天儀の製作と靈憲の著述とに歸してゐる。至評であらう。惜しいことには渾天儀は傳はつてゐない。併し靈憲は其の全文が殘つてゐる。難解の文字であるが、西洋の星霧説に似た點がある。確に水金の兩星と火木土の三星との間に運行上の相違のあるのを氣附いてゐるが、併し内外遊星の區別を認めることが出來ず、隨つて陰陽五行の迷説を破り得なかつたのは遺憾である。
 彼の得意の技能の中、天文學に次ぐものは簡單な物理器械の考案製作であつたらしい。左に其の數種を擧げて見る。
 地動儀―再説するまでもあるまい。
 指南車―此は周公の創作といはれてゐるが、張衡は之を複製したのだと解してよいであらう。磁針を應用したものとの定説がある。
 土圭―苟も天文を學ぶ以上、計時裝置の必要なことは言ふまでもない。日影を測る器としてある。
 自動三輪車―應間には三輪をして自轉せしむべしと記してあるから、今日子供の使用する三輪車程度のものであつたらう。
 自飛木雕―「張衡嘗て木鳥を作る。假すに羽※[#「鬲+栩のつくり」、第3水準1-90-34]を以てし、腹中に機を施し、能く數里を飛ばしむ」としてある。翫具の飛行機に近いものであつたらう。
 右樣の器械を千八百餘年前に創作したとは實に驚歎に値するではないか。
 河間相として政治的手腕のあつたことも認められてゐるが、此は寧ろ餘技と稱すべきであらう。彼の政治的生活は、二度目の太史令から侍中に遷つたとき、即ち陽嘉二年五十六歳の頃に始まつたとしてよいであらう。元來侍中の職は、天子の左右に侍し、衆事を贊道し、顧問應對すなどとある。されば宦者の專横が自ら目に餘り、非議に及んだのは當然と謂ふべきであらう。「閹堅[#「閹堅」は底本のまま]終に其患を爲すを恐れ、遂に共に之を讒す。出でて河間の相となる」と記してある。
 以上列記したことによつて、張衡の全貌が略ぼ分明になつたことと思ふ。千八百餘年前文化の開けてゐない時代に於て、獨修によつて、上記のやうな業績を擧げたことを思ふとき、吾々は彼の偉大さに感歎しないでは居られぬ。嘗てシドッチは新井白石を評して、「皇國に於てはいざ知らず、我が郷國に於ては、斯程の人物は五百歳に一人しか生れないものだ」と言つたが、張衡も亦此の五百歳一人型の偉人であつたに相違なく、而も此の種偉人中の錚錚たるものであつたと稱しても溢美にはならぬであらう。
 余は、前にミルンの誤譯に關して數行を費した。ミルン地震書は世界的のものだから、候風地動儀も亦廣く、長く誤解されてゐたことになる。余は辯妄の爲に一文を草して、一昨年北米に於て開かれた國際會議に提出して置いた。幸に此の文は英國ネーチュア紙上にも轉載されたから、目的は一通り達せられたやうに思ふ。若し夫れ、こゝに物した數頁が、幸に一讀者の一燦を博し得たならば、吾々が先覺者を顯彰しようとする微志もそれだけ酬いられることになり、此の上もない喜びである。
 尚ほ一言附加へる。それは同人石本博士が本件の結末を見ずに遠逝されたことであつて、眞に悼惜に堪へない。余は此の一文を以て靈前への報告に代へたいと思ふ。

   一四 地震計の寃

 日本國の國民は、一人殘らず地震學者であつて欲しいとは、國富さんの述懷であつたやうに記憶する。嘗て地震學教室を一時間足らず見學したヘボン夫人は、地震知識が常識養成にも役立つと主張し、紐育にある母校でも地震學を講義させようと意氣込んでゐた。實際地震に直接縁のない國に住んでゐても、注意深い人はさう感ぜざるを得ないのである。然るに物事に無頓着な我が同胞はどうであらう。彼等は常識養成どころか、日常生活に必要な知識をよそ事のやうに考へ、敢て此の知識を求めようとしない許りか、却て之を所有することを恥辱としてゐるやうにも見える。そして一旦地震や津浪に見舞はれた場合、自己の無知不用意は棚に上げて置いて、先づ地震學者を責める、嘲る、辭職勸告をやるのだ。はがき、匿名書、新聞紙の讀者欄等を利用して。
 先頃の三陸津浪が豫報されなかつた科として、余にまで辭職の勸告文が到來した。天下の浪人に辭職せよとは人間界を止めろとでもいふ意味だらうか。
 地震豫知を震災豫言と間違へ、其の研究を呪ふ人すらある。地震と震災との區別が普く有識階級に解るやうになるのは何時のことだらうか。
 新聞紙の讀者欄には次のやうなのもあつた。「中央氣象臺では震源は鹿島灘だといひ、帝大では常陸沖だといふ。醜い震源爭はよして呉れ」と。斯樣に見事な一致を不一致と見るのは固より醜であるが、之に雷同する世間は更に醜である。
 「中央氣象臺では今朝の地震の振幅が二糎だつたといひ、帝大では一糎だつたといふ。こんな喰違ひがあつては誠に困る」といふ非難。此の非難は遂に帝國議會の問題にまでなつたが、氣の利いた風なのが之に答へて、「抑※[#二の字点]振幅といふ術語には普通の振幅と、全振幅即ち二倍振幅との二つの意義があり、術語の不統一の爲、斯樣な喰違ひが生じたのだ」と。群盲象を撫でたら、もつと氣の利いたことを言ふに違ひない。一橋の東大附屬觀測所では平均して本郷の二倍程に搖れるとは夙に大森博士に依つて報ぜられてゐた筈である。
 鎌倉の由比濱では、半里しか離れてゐない雪の下に比べて、通常四五倍の大きさに搖れ、稀には十倍にも搖れることがあるが、此の眞實はどうなるだらう。
 或る日、東京朝日の鐵箒欄に、「地震計の針」と題して次の一文が現はれた。
[#ここから1字下げ]
 國富技師の談として、「今度位の地震になると、地震計も一緒に動くから、觀測が出來なくなる」と新聞に出てゐる。學者や技師にはそれが當然かも知れんが、我々凡人に取つて、これ位譯の分らん話はない。
 いつの地震のときでもさうだが、被害の一番多い最初の激震では、きまつたやうに地震計の針が外れたり飛んだりしてゐる。そのくせ人體にも感ぜぬやうな微震は一分間に何百回の何千回のと、馬鹿に詳細らしく報道して、科學的觀測の精密と正確とを誇つてゐる。
 別府市外の京都帝大地球物理學研究所を觀覽したところ、地震計が幾種もあつて、擔任の學者先生の説明で、其の精巧さと据附上の細心な注意とが、とても素人などの想像以上であることを知つたが、恐らく東京帝大や中央氣象臺あたりの器械も同樣であらう。
 右研究所は市から數十町離れた高原に設けられてあるから、電車其の他市街地からの震動影響は全く避けられてあるやうだ。然るに地震計の針は瞬時も靜止してゐない。斷えず微妙な運動を繼續しながら、時計仕かけで動く黒紙の上に振動の存在を記録してゐる。擔任者の説明では、數町離れた道路上を疾走する自動車や其の他の影響で、大地は常に極微な震動をしてゐるから、それが記録されるのだと得意の體であつた。
 一體數千數萬の死傷者を出す大地震には針を飛ばして觀測が出來ないが、數町離れた自動車の走る震動などを記録して、それが何の役に立つといふのだ。學者技師先生などといふものは何でも微細な事さへ論じて居ればよいものと心得、人生に影響ある程の大きい事を忘れてゐるらしい。研究の爲の研究、理論の爲の理論も結構だが、蚤の腦髓を研究して醫學博士となつても、病人を治す術を知らない醫者は、人間の社會生活に縁が遠いと同樣、地震計の針を飛ばして許りゐる地震學者なんといふものは、地震國日本に取つてどうかと思ふ。(都山護堂生寄)
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 其の後數日、同じ鐵箒欄に、地震計の寃罪と題し、鹿島洋々寄すとして、次の文章が現はれた。
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 髭を剃るに剃刀あり、箸を削るに小刀あり、薪を割るに斧あり、家を建てるに鋸あり鉋がある。物と品とによつて之に用ふる刃物がおのづから違つて來る。
 近い地震にも大震あり、強震あり、弱震微震極徴震等いろ/\ある。遠い地震や中距離地震にも亦大小色々ある。
 斯く緩急大小の相違した地震の爲には、一々性能の違つた地震計が入用である。だから凡百の地震を漏れなく觀測しようとするには少くも十五臺程の地震計が必要となるのだ。
 過日の本欄に「地震計の針」を寄せられた護堂氏は、生憎まだ東大の地震計室を覗かれたことがないと見える。そこには我も評し人も認めた世界一の地震計測設備がある。運轉中の地震計ざつと三十種にも達するであらう。
 三百年に一度位しか起りさうもない大地震にも役立つ大震計もあれば、一粍の一億分の一の大きさの震動をも立派に記録する超微動計もある。又一粍や二粍の短距離を往復するに一分も二分もかゝるやうな緩かな振動でも觀測し得る長週期地震計もある。地震と一緒に振出すやうな地震計ばかりではない。此の間の三陸大地震に就ても、其の完全な記象の模寫が、東朝や東日の紙上に現はれたが、護堂氏のお目にはとまらなかつたのであらうか。
 若し人間の原始生活に唯一本の刃物を許されたとしたら、何を選ぶであらうか。剃刀か、小刀か、斧か、鉞か將た鋸か。貧弱な觀測所に一臺の地震計しか許されないとしたら如何。まさか三百年に一度、十年に一度の爲の大震計や強震計でもあるまい。
 唯一臺の微動計しか備へてゐない觀測所の如きは、漸く人體に感ずる程度の地震しか觀測し得ないやうに運命づけられてゐるのである。併しそれでも日々の研究には役立つ。假令世界の果から來たのろい地動、十年に一度の強震、三百年に一度の大震には役立たずとも。
 護堂氏のお叱りは、小刀一本で大伽藍を築き得ない大工を嘲るにも似てゐる。
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 鹿島洋々氏の辯は、或る程度まで地震計の寃を雪いだやうに感ぜられるが、併し完全ではない。今日、我國に於ける地下資源の開發、特に現下の我國に取つて極めて重要な石油の増産に對し其の第一線に立つて殊勳を立てゝゐるものの中に、超微動計のあることを指摘すべきであつたのだ。
 凡て國家社會將た人生に重大な意義を有つ研究が、多くは研究の爲の研究に胚胎することを忘れてはならぬ。

   一五 初動の方向性

 地震の初動は縱波であり、隨つて其の方向は震波進行の方向と略ぼ相一致することは、今日周知の事實であるが、併し、誰が此の性質を最初に講究したかの問題に就ては、疑問があると謂はれてゐる。ガリッチン公か、ウォーカーか、大森博士の執れか[#「執れか」は底本のまま]だといふ人もある。又大森博士の「初期微動を現はさざる地震」といふ論文(明治四十年七月出版)には此の性質が指摘してあり、前二者がネーチュア紙上に此の事を指摘したのは同四十五年であるから、博士の方が先だといふ人もある。
 此の最後の斷案には大した異議はないやうである。唯一抹の暗影として殘されてゐるのは、本性質を主題とした博士の論文が見當らないといふ點にある。あの文筆にかけては精力絶倫であつた博士に取つて不可解なことだといふのである。
 一應尤もである。併し、多年博士に親炙した余には、そこに一抹の暗影もなく、一點の疑念も殘されてゐない。余は斷然答へる。「問題の性質を實際の地震につき講究した最初の人は博士に相違ない」と。
 故博士が、此の性質を應用して、地震の一點觀測により、震源の即席推測を實行し始めたのは明治四十二年(十一月十四日四國沖強震につき)のときに遡つてゐる。畏くも明治天皇は常に大御心を民草の安危の上に注がせ給ひ、特に地震ある度毎に恙なきか否かを侍臣に問はせ給うたと漏れ承つてゐる次第であるが、其の結果にや、侍從職と大森博士との間には、何時とはなしに一つの慣例が出來た。即ち地震の度毎に時を移さず、觀測の結果、特に震源の位置推測に關する報告文を侍從職に奉呈するのであつた(初動方向を應用した實例は明治四十四年十一月八日上總沖強震に始まつてゐる)。而も此の報告奉呈は、たとひ發震時が深夜であつても、少しも躊躇はしなかつたのである。
 軈て、右の報告文は、新聞記者の手にも渡されるやうになつたので、こゝに、地震學教室の手に成れる地震記事が、都下の新聞紙上に速報される慣例となり、これが大正十二年大地震直後にまで續いたのであつた。
 大森博士はよく出張せられた。内地はいふに及ばず、外國へも。二十八年間に十回の海外旅行をされたことでも其の一斑がわかるであらう。斯樣な場合、出張不在の屆書を侍從職へ提出することを決して忘れなかつた。言ふまでもなく、其の際、地震報告の責任は余に委ねられたものである。
 斯樣にして、地震の初動に關する方向性は、既に明治四十四年の頃には、門前の小僧にまで熟知せられるに至つた。故博士が故らに此の性質を主題にした論文を草せられなかつたのも、一つは之が爲であつたかも知れない。
 併しながら、地震動の一般の性質を論じたものの中には、此の事を指摘してゐるもつと古いのがある。即ち博士が、明治三十六年三月震災豫防調査會に提出した「地震動に關する調査」といふ報文は次のやうな内容のものである。
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 物質の彈性的性質から見て、地震波には縱波と横波とのあるべきことを説き、而も其の傳播速度は縱波の方が横波よりも大きい筈であるから「一觀測地に於て最初に到着せる判然たる大震動の方向を測定すれば、其れを以て縱波と見做して、震源地の方向を推定するを得べし」としてある。
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 以上によつて、故博士が、初動を縱波だと斷定した事實には勿論何等の疑もないが、他方、主要部の第一波を縱波だとしたことも亦否まれない。此の爲に、初動の極めて微小であつた地震につき、如上の誤謬が侵入し勝ちであつた。此の不徹底さも、博士の執筆を躊躇さした一因であつたかも知れぬ。

   一六 白鳳大地震

 天武天皇十二年(白鳳十二年、日本書紀天武天皇紀十三年、西紀六八四年)十月十四日の大地震は土佐の田園五十餘萬頃沒して海となつたことを以て有名である。
 日本書紀は此の地震に關する唯一の文獻である。此の書は我國の正史たること、今更贅言を要しない所であるが、其の天變地妖に關する記載も亦忠實であり、十分に信憑してよいと思ふ。唯讀者の方に於て往々之を正讀し得ない爲、甚だしい誤解を招いてゐる點のあることは否み難い所である。
 白鳳地震も亦其の一例である。
 此の地震の記事に關し、難解な箇所は概ね三點に要約されるといつてよい。
 其一は「五十餘萬頃」の「頃」が讀めなかつた爲、陷沒地域の廣袤に關して、途方もない誤解を生じたことである。
 其二は十八日後に現はれて來る大津浪の記事を此の地震に直接に結びつけない爲、地震現象が寶永大地震津浪や、安政大地震津波と型を異にするやうに誤解されたことである。
 其三は、假令「頃」なる文字が正しく讀めても、同じ型の大地震に伴ふ地變の特色を無視した爲、問題の陷沒地域の位置に關して誤解を生じたことである。
 次に日本書紀(天武天皇紀十三年の條)に載せてある地震記事を掲げる。
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 壬辰(十四日)、人定(夜半)に逮びて、大に地(なゐ)震る。國を擧りて男女叫唱びて東西を知らず。則ち山崩れ、河涌き、諸國郡の官舍、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壞れたる類、勝げて數ふべからず。是に由りて、人民及び六畜多く死傷す。時に伊豫の温泉沒して出です。土左國の田苑五十餘萬頃、沒して海となる。古老曰く、是の若き地動未だ曾て有らず。是の夕、鳴る聲有り、鼓の如くして、東の方に聞ゆ。人有りて曰く、「伊豆島の西北二面、自然に三百餘丈を増益して、更に一の島と爲る。即ち鼓の如きは、神是の島を造れる響なり」と。
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 此の次に賜祿、賜姓の記事があるが、之にこだはつてはならぬ。そして次に現はれて來るのが津浪の記事である。それは左の通り。
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 庚戌(十一月三日)土左國司言さく、大潮高く騰りて海水飄蕩ふ。是れに由りて調を運ぶ船、多く放失りぬと。
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 前文にある頃といふ地積の單位はしろ[#「しろ」に傍点]と訓し、當時の五坪に當り、一坪は高麗尺(現今の一・一七三六尺)の三十六平方尺であるから、五十萬頃は當時の二百五十萬坪即ち現今の三百四十四萬坪に當り、五十餘萬頃といふ以上、五十萬頃乃至六十萬頃即ち一一・三乃至一三・七平方粁たるに相違なく、方一里未滿の地積しかないのである。然るに古人は、五十餘萬といふ數字の尨大さに驚いて、室戸岬から足摺岬に至る廣大な地域が陷沒したかのやうに曲解し、兩突端の間の彎曲海岸は其の名殘だなどと唱へるものすらあつた。
 こゝに註して置かなくてはならぬことは、第一の記事の最初に現はれる地震現象は、飛鳥朝廷に於て、首都並に各國の状況を蒐録されたものであつて、必ずしも土佐に於ける状況ではないといふことである。再言すれば、專ら土佐のみに關係したことは田苑の陷沒事項のみであるといふのだ。
 又次の噴火に關する記事は、直接に此の地震とは關係がないやうに見えるけれども、寶永四年の南海道大地震津浪と同年の富士大噴火との關係を照合して見るとき、決して輕視してはならぬものなのである。
 次は第二の記事であるが、こゝで注意して讀まなくてはならんのは、庚戌といふ日附が何についてゐるかといふ點である、[#読点は底本のまま]此は是迄多く、津浪の起つた日附として讀まれてゐたが、それは明かに誤である。唯土佐の國司が右の上書を認めた日附か、或は朝廷でそれを受附けた日附であるかが疑問となるのであるが、他の同樣の事例に徴すれば、後の場合とする方が無難のやうである。孰れにしても津浪の起つた日附は明示されてゐないことになるが、併しながらそれが大地震のと同一なるべきは、斯學の見地に於て斷言してよいと思ふ。
 斯くて白鳳地震津浪は、寶永或は安政の地震津浪と全く同一の型に屬するものであつたといふことになる。
 最後に、陷落した地域の位置を檢討する。
 右に關して國内の彼方此方に種々の傳説が殘つてはゐるが、五十萬頃地域の解決に資するものは無いやうに思ふ。例へば室戸岬と足摺岬との中間に位する一大地積だといふのが一つ。次に高岡郡の何處かにあつた大良千軒小田千軒といふ小都會の地であつたといふのが今一つ。其の他、局部的のもの二三。
 余に、此の問題を解決する方法として最も合理的なのは、白鳳地震と同型の地震に就て、陸地變形に關する特色を講究するにあると思つてゐる。そして其の所謂同型の地震としては、寶永及び安政の二地震のあること、前陳の通りである。
 手取り早く左に結果を述べる。
 寶永四年十月四日地震のときは、土佐一國に於て隨處に著明な地震があつたが、列擧すれば次の通りである。
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一 室戸半島の南東上りの著しい傾動で、半島の南端に近い室津では五尺程隆起した。
二 高知市の東に接せる平地凡そ二十平方粁に及ぶ地積が最大二米程の沈下をなした。地震直後此處に侵入した海水は長く引去らなかつた爲、潮江・下知・新町・江之口から一宮・布師田・大津・介良・衣笠まで一圓の海となり、漸く舟で通行した。又屋頭・葛島・高須では潮が檐を沒したまゝ冬を越したなどと誌されてゐる。
三 高知以西の隨處に規模狹小な沈下が觀察された。例へば高岡郡リア式沿岸、及び幡多郡宿毛と入野とを結ぶ一線の兩端沿海の地がそれであるが、そこでは、侵入の津浪は、一部退いたに拘らず、一部は定潮として長く退かなかつた旨記されてゐる。
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 次に、安政元年十一月五日地震のときに於ても、同樣の著しい地變が觀察された。左の通りである。
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一 室戸半島の南乃至南東上りの著しい傾動で、室津では四尺隆起し、半島の頸に當る甲の浦では三尺沈下した。
二 高知市東方平地に於ては寶永度と同樣の沈下が示された。但し沈下度は稍※[#二の字点]小さく、面積並に上下分量共に、概ね寶永度の半分の程度であつたらしい。
三 高岡郡リア式沿岸に於ても亦一米程度の局部的沈下をした場處があつた。
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 斯樣に、同型の二大地震につき、之に伴つた地變を調べて見ると、そこにも亦共通な性質のあることが氣附かれるのである。さすれば同型の白鳳大地震の場合に、同樣の地變が起つたことを假定しても強ち不合理ではあるまい。
 上記の地變其一は、地震學上極めて大切な現象ではあるが、陷沒とは直接の縁がないから、ここでは是れ以上論じないことにする。
 地變其三は、地域の廣さが五十萬頃とは桁違ひに小さいから問題にならぬ。但し高岡郡の彼方此方に殘つてゐる二三の傳説とは連絡があるかも知れぬ。則ち此の二三の傳説は、五十萬頃と桁違ひな相違があるからとして、直ちに葬り去るべきものではない。
 殘るは地變其二である。前にも述べた通り、白鳳地震に於ける沈下地域五十餘萬頃は方一里未滿の廣さに當り、安政度に於ける高知市東方平地の沈下地積に略ぼ等しく、寶永度に於ける同地方沈下地積の略ぼ二分の一に等しい。乃ち同地方に於ける同型の三大地震に於て、之に伴つた地變や津浪、或は道後温泉の一時的閉止等の諸現象が、最近の二地震に於ては相類似し、最古の地震に於ては、現象が記録されてゐる限り、凡て他の二者に類似してゐるのである。されば、室戸半島の隆起傾動や一平方里程度の沈下が高知市東方平地に起つたことなど、假令舊記に缺けてゐても、其等が三大地震に共通であつたらうと假定してもよいであらう。
 白鳳地震の陷沒に關する上記の假定に對して、更に一二の有利な根據を附加へる。孰れも問題の地域が、過去に經驗したやうな地變を起すに適應してゐることを證するものである。
 其一は精密水準測量の結果に依るのであるが、問題の地域を過ぎる東西二十餘粁の間は、漸進的に特種の隆起運動をなす地域に當つてゐるといふのであり、今一つは浦戸灣に沿うて走る大斷層が此の地域を貫いてゐるといふのであるが、此の斷層は尚ほ南へ遠く海底を沿うて走る素晴らしいものであることが、海深測量の結果に依つて明白となつたものである。(つづく)



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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*地名


三陸 さんりく (1) 陸前・陸中・陸奥の総称。(2) 三陸地方の略。東北地方北東部、北上高地の東側の地域。

[秋田]
強首地震 こわくび 秋田仙北地震。1914年(大正3年)3月15日、秋田県仙北郡大沢郷村(現・大仙市、旧・西仙北町)を震源として発生。地震の規模はM7.1。秋田市で震度5を記録したが、東北地方を中心に北は北海道函館付近、南は関東地方までを揺らした。94名の死者を出した。
強首 こわくび 村名。仙北郡西仙北町強首。
横堀村 よこぼりむら 秋田県仙北郡に置かれていた村。横手盆地の北部に位置し、村全体がほぼ平らだが東から西にわずかに傾斜している。
羽崎谷地
観音社
秋田鉱山専門学校 あきた こうざん せんもん がっこう 1910年(明治43年)3月設立された官立の旧制専門学校。日本唯一の官立鉱山専門学校として設立され、採鉱学科・冶金学科・鉱山機械学科・燃料学科・電気科・金属工業科などを設置した。秋田大学鉱山学部(現・工学資源学部)の前身校。

[房州] ぼうしゅう 安房国の別称。
北条小学校
北条町 ほうじょうまち 1933年4月18日まで千葉県安房郡に存在した町(現・館山市、旧:館山北条町)。
鹿島灘 かしまなだ 千葉県犬吠埼から茨城県大洗岬にわたる沖合の海。海浜は鹿島浦と呼ばれ、海岸砂丘が発達。
常陸沖

[東京]
羽田 はねだ 東京都大田区東端、多摩川の河口左岸の地区。東京国際空港がある。
一橋 ひとつばし 東京都千代田区にある橋、およびその付近の地名。
東大付属観測所
本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
中央気象台 ちゅうおう きしょうだい 気象庁の前身に当たる官庁。1875年(明治8)東京気象台として創立、87年中央気象台と改称。

[神奈川県]
芦ノ湖・蘆ノ湖 あしのこ 神奈川県南西部、箱根山にある火口原湖。湖面標高725メートル。最大深度41メートル。周囲19キロメートル。面積6.9平方キロメートル。
国府津 こうづ 神奈川県小田原市東端の地名。相模湾に面し、平安時代、相模国府の外港。
親楽寺 真楽寺(しんらくじ)か。現、小田原市国府津。
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
緑町 小田原。
鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
由比浜 → 由比ヶ浜
由比ヶ浜 ゆいがはま 神奈川県鎌倉市の海岸、西は稲村ヶ崎から東は飯島ヶ崎に至る約2キロメートルの砂浜。特に、滑川河口より西をいう。相模湾に臨む避暑・避寒地。また、海水浴場。
雪の下 ゆきのした 現、鎌倉市雪ノ下。鶴岡八幡宮から大倉の幕府跡を含む一帯に位置する。

濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
姉川地震 あねがわじしん 1909年(明治42年)8月14日、滋賀県北東部の姉川付近を震源として発生した地震。滋賀県から福井県にかけて、北北西方向にのびる柳ヶ瀬断層が活動したと考えられている。地震の規模を示すMは6.8。現在の滋賀県東浅井郡虎姫町で最大の震度6、滋賀県内全域で震度5〜4を記録。
姉川 あねがわ 滋賀県東浅井郡を流れる川。伊吹山に発源、琵琶湖に注ぐ。1570年(元亀1)織田信長が浅井長政・朝倉義景を破った古戦場。

[静岡県]
北伊豆地震 きたいず じしん 1930年(昭和5年)11月26日早朝に発生した、直下型の大地震。地元では「伊豆大震災」とも呼ばれる。震源地は静岡県伊豆半島北部・函南町丹那盆地付近。地震の規模を示すマグニチュードは7.3。震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測したほか、有感地域は広く、北は福島・新潟、西は大分まで揺れを感じた。地震発生が早朝だったため、火災は少なかったが、死者・行方不明者272名など大きな被害を出した。
梅木村 うめぎむら 現、田方郡中伊豆町梅木。
江間小学校

[江州] ごうしゅう 近江国の別称。
長浜 ながはま 滋賀県北東部、琵琶湖の北東岸にある市。羽柴秀吉の城下町として建設。近世には港町。また、浜縮緬・近江蚊帳が有名であった。人口8万3千。
尊勝寺村 そんしょうじむら 現、東浅井郡浅井町尊勝寺。
称名寺 しょうみょうじ 現、浅井町尊勝寺。
賤ヶ岳 しずがたけ 滋賀県北部、琵琶湖北端部東岸にある山。標高421メートル。
留目村 とどめむら 現、東浅井郡湖北町留目。
願教寺 がんきょうじ 真宗大谷派。

[濃尾] のうび 美濃と尾張。
金原村 きんばらむら 現、岐阜県本巣郡金原。

[京都府]
奥丹後地震 → 丹後地震・北丹後地震か
丹後地震 たんご じしん 丹後半島を中心に1927年3月7日に起こった地震。マグニチュード7.3、死者2925人、1万戸以上の建物が全壊。半島の付け根の郷村断層の3メートルに達する左ずれが震源。北丹後地震。
郷村 ごうむら 現、京都府竹野郡網野町字郷。竹野郡は丹後半島に位置。網野町は郡の最西部に位置し、北は日本海に面する。昭和2年(1927)の北丹後地震は、旧網野町と旧郷村地域が震源。郷村北部に天然記念物の郷村断層がある。
新治 にんばり 村名。現、中郡峰山町字新治。
山田断層
山田村 やまだむら 現、与謝郡野田川町。
奥丹後半島 おくたんご はんとう 丹後半島の別称。
丹後半島 たんご はんとう 京都府北部、日本海に突出し、若狭湾の西を限る半島。奥丹後半島。与謝半島。

[土佐] とさ (古く「土左」とも書く)旧国名。今の高知県。土州。
室戸岬 むろとざき 高知県の土佐湾東端に突出する岬。奇岩や亜熱帯性植物で有名。近海は好漁場。室戸崎。むろとみさき。
足摺岬 あしずりみさき 高知県の南西端、太平洋に突出する岬。南東端の室戸岬と相対して土佐湾を囲む。足摺崎。蹉ロ岬。
南海道大地震津波 → 南海道地震
南海道地震 なんかいどう じしん 四国沖から紀伊半島沖にかけて起こる巨大地震。最近では1707年(宝永4)、1854年(安政1)、1946年に発生し、特に最後のものを指すことが多い。震源の断層はプレート境界にほぼ一致。地震時に太平洋側の半島の先端部は隆起、付け根の地域は沈降する。南海地震。
高岡郡 たかおかぐん 高知県(土佐国)の郡。
室津 むろつ 高知県室戸市にある地。室戸岬の北西。土佐日記に見える古代の港。
高知市 こうちし 高知県中央部の市。県庁所在地。高知平野を形成し浦戸湾に注ぐ鏡川の三角州に発達。もと山内氏24万石の城下町。人口33万3千。
潮江 うしおえ 現、高知市。鏡川を隔てて高知城下の南にある。
下知 しもじ 現、高知市。高知城下の東。
新町 しんまち 現、高知市。下町の東北部。
江之口 えのくち 江ノ口か。現、高知市。高知城下の北にある。
一宮 いっく 村名。現、高知市一宮。
布師田 ぬのしだ 高知市布師田。
大津 おおつ 高知県長岡郡にかつて存在した村。
介良 けら 高知市介良。
衣笠 きぬがさ 現、南国市稲生。
屋頭 やかしろ 村名。現、高知市屋頭。
葛島 かづらしま 高知市葛島。
高須 たかす 高知市高須本町。
幡多郡 はたぐん 高知県(土佐国)の郡。
宿毛 すくも 幡多郡。高知県南西部、宿毛湾に面する市。もと土佐藩支藩の陣屋町。農産物の集散地。また真珠母貝・ハマチの養殖が盛ん。人口2万4千。
入野 いりの 村名。高知県幡多郡にあった村。
甲の浦 かんのうら 村名。現、安芸郡東洋町甲浦。北は阿波国、南東は太平洋に面する。

[愛媛県]
道後温泉 どうご おんせん 愛媛県松山市北東部にある温泉。日本で最も古くから知られた温泉の一つで、単純温泉。
浦戸湾 うらどわん 高知県高知市にある土佐湾の支湾のひとつ。浦戸湾内には高知港があり、湾口には高知新港がある。

[大分県]
別府 べっぷ 大分県東部、同名の湾に面する市。市内に多数の温泉がある観光・保養都市。瀬戸内海航路・九州横断道路の要地。人口12万7千。
京都帝大地球物理学研究所

[中国]
南陽 なんよう/ナンヤン 中国、華北地区南部、河南省南西部の都市。洛陽の南185km。漢水支流の白河の中流域に位置。南陽盆地にあって道路が四通八達し、周辺の各都市に通じる。古来から交通・軍事上の要地。(外国)
西鄂 張衡の故郷。南陽。
蜀郡
漁陽
京兆 けいちょう (漢から唐まで、都のある郡または府を「京兆郡(府)」と称した)今の中国陝西省長安から華県一帯の称。また、広く首都の意。
三輔 さんぽ 前漢の武帝の時、長安を中心とした3行政区画、すなわち京兆(長安を含む東部)・左馮翊(北部)・右扶風(西部)の総称。また、その長官。
洛陽 らくよう (Luoyang)(洛河の北に位置するからいう)中国河南省の都市。北に山を負い、南に洛河を控えた形勝の地。周代の洛邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐の都となり、今日も白馬寺・竜門石窟など旧跡が多い。機械工業が盛ん。人口149万2千(2000)。
河間
石橋鎮
中県
南陽地震
隴西 ろうせい 中国甘粛省南東部、蘭州の南東約140キロメートルにある県。秦・漢代に同名の郡が置かれた。
燕京 えんけい 中国、遼・金代の北京の呼称。

エスチングハウス
ジャマイカ地震 一六九二年六月七日。
リスボン地震 一七五五年。
イタリア地震 一七八三年二月五日。
リオバンバ地震 一七九三年。
チリ地震 一八三五年二月二十日。

[エクアドル] Ecuador (赤道の意)南米北西部、太平洋岸の赤道上にある共和国。1822年スペインから独立。先住民が多く、言語はスペイン語。面積28万3000平方キロメートル。人口1303万(2004)。首都キト。
リオバンバ Riobamba エクアドル中部、チンボラソ州の州都。キトの南南西160km。アンデス山脈中の標高2780mに位置。数km離れた地点にあった最初の町は1797年地震により破壊。(外国地名)

[ジャマイカ] Jamaica カリブ海、大アンティル諸島の国。1494年コロンブスが来航。1962年イギリスから独立。住民の大半はアフリカ系。面積1万1000平方キロメートル。人口262万(2004)。首都キングストン。
ポルト・ロワイヤル → ポート・ロイヤルか
ポート・ロイヤル 17世紀のジャマイカの海運業の中心地。当時は「世界で最も豊かで最もひどい町」の両方の名声を得た。バッカニア(海賊)たちが奪った宝物を持って来て、消費することで有名な場所だった。17世紀、英国は海賊を奨励し、ポート・ロイヤルを海賊の拠点として、スペイン船やフランス船を攻撃していた。

[モロッコ] Morocco アフリカ北西端の王国。1956年フランス領モロッコが独立、スペイン領モロッコをも併合。大部分がアトラス山脈などの高原国。住民の大多数はイスラム教徒のアラブ人・ベルベル人。面積45万平方キロメートル。人口3054万(2004)。首都ラバト。
首府モロッコ → マラケシュか
マラケシュ Marrakesh アフリカ北西部、モロッコ中央部のオアシスにある都市。11世紀に建設され、隊商路の基点。旧市街は世界遺産。人口106万8千(2003)。旧称モロッコ。
ブスンバ 種族名。ベスンバ。

[イタリア]
アペナイン → アペニン
アペニン Apennines イタリア半島の脊梁山脈。長さ約1300キロメートル。大理石の産地。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表


建武二二(西暦四六) 南陽地震。
建初三(西暦七八) 張衡、南陽の西鄂に生まれる。
元初六(西暦一一九)(地動儀創作に先だつ十三年)地震。
建光元(西暦一二一) 地震。
永建三(西暦一二八) 地震。
陽嘉元(西暦一三二) 張衡、地動儀を創作。
陽嘉二(西暦一三三) 張衡、五十六歳のころ。二度目の太史令から侍中に遷る。
永和三(西暦一三八)* 隴西大地震。
永和四(西暦一三九) 張衡、没。
白鳳一二(西暦六八四)一〇月一四日 (『日本書紀』天武天皇紀一三年)土佐、白鳳大地震。
嘉靖年間(一五二二〜一五六六) 中県の人周紀、張衡の墓を修築。
一六九二年六月七日 ジャマイカ地震。首府ポルト・ロワイヤルなど被害の中心地。
宝永四(一七〇七)一〇月四日 宝永地震(南海道大地震津波)。マグニチュード8.4。東海から九州にかけて巨大地震と大津波。土佐一国において随所に著明な地震。
宝永四(一七〇七)一一月二三日 富士山が噴火(宝永大噴火)。
一七五五年 一一月一日 リスボン地震。五分間に六万人の死者。
一七八三年 二月五日 イタリア地震。直接の死人四万人、その後の疫癘によるもの二万人。
一七九三年 リオバンバ地震。
一七九七年 二月四日 エクアドル国リオバンバ地震。
一八三五年 二月二〇日 チリ地震。
安政元(一八五四)一一月五日 安政南海地震が発生。M8.4。
一八七五(明治八) 服部一三、画工に候風地動儀の龍を画かせる。
一八九一(明治二四)一〇月二八日 濃尾大地震。震源は岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)。M8.0。死者は7,273名、負傷者1万7,175名、全壊家屋は14万2,177戸。
一八九六(明治二九)六月一五日 明治三陸地震。震源は岩手県釜石市東方沖200km。M8.5。震度は2〜3程度。死者2万1915名、負傷者4398名。
一九〇三(明治三六)三月 大森「地震動に関する調査」、震災予防調査会に提出。
一九〇七(明治四〇)七月 大森「初期微動を現わさざる地震」出版。
一九〇九(明治四二)八月一四日 滋賀県、姉川地震。最大震度6、M6.8。被害は滋賀県と岐阜県に集中。死者41名、負傷者784名。
一九〇九(明治四二)一一月一四日 四国沖強震。
一九一一(明治四四)一一月八日 上総沖強震。
一九一二(明治四五) ガリッチンとウォーカー『ネイチャー』紙上に初動(縦波)の性質を指摘。
一九一四(大正三)三月一五日 強首地震(秋田仙北地震)。震源は秋田県仙北郡大沢郷村(現・大仙市、旧・西仙北町)。M7.1、秋田市で震度5。死者94名、負傷者324名。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。房州北条小学校の校庭で泥水の間欠的噴出。
一九二七(昭和二)三月七日 丹後地震。M7.3、死者2925人、1万戸以上の建物が全壊。郷村断層が震源。
一九二八(昭和三) 震災予防評議会、内閣総理・文部・内務・陸海軍諸大臣へあて建議書を提出。
一九三〇(昭和五)一一月二六日 北伊豆地震。震源地は静岡県伊豆半島北部・函南町丹那盆地付近。M7.3。静岡県三島市で震度6の烈震。死者・行方不明者272名。
一九三三(昭和八)三月三日 昭和三陸地震。岩手県釜石市東方沖約200kmを震源として発生。M8.1。三陸沿岸は震度5。死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸。
一九三四(昭和九) 関西風水害。
一九三五(昭和一〇)六月一九日 今村、日本倶楽部で政界・実業界の七十余名を相手に「地震のABC」を一時間にわたり講義。
一九三五(昭和一〇)六月二〇日 「地震国の忘れ物」『東京朝日』。
一九三六(昭和一一) 今村、インド洋経由で渡欧。往復を上海に寄港したので、張衡に関する文献を捜索。

* 後漢の永元3年は西暦91年。いっぽう西暦138年は永和3年。「永元」は「永和」の誤植か。張衡は78〜139。
* 明治五年以前については陰暦月日を優先のまま。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
南弘 みなみ ひろし 1869-1946 官僚・政治家。1869年、後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。
町田民政党総裁
松田文部大臣
ケルヴィン卿 → ウィリアム・トムソンか
William Thomson ウィリアム・トムソン 1824-1907 イギリスの物理学者。ケルヴィン卿(Lord Kelvin)の通称で知られる。特にカルノーの理論を発展させた絶対温度の導入、クラウジウスと独立に行われた熱力学第二法則(トムソンの原理)の発見、ジュールと共同で行われたジュール=トムソン効果の発見などといった業績がある。古典的な熱力学の開拓者の一人。1866年、大西洋横断海底電信ケーブルの敷設に成功。
大森博士 → 大森房吉
大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
釈迦牟尼 しゃか むに (「牟尼」は聖者の意)仏教の開祖。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城のシュッドーダナ(浄飯王)の子。母はマーヤー(摩耶)。姓はゴータマ(瞿曇)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、29歳の時、宮殿を逃れて苦行、35歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、80歳でクシナガラに入滅。その生没年代は、前566〜486年、前463〜383年など諸説がある。シャーキヤ=ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。
提婆達多 だいばだった (梵語Devadatta)釈尊の従弟で、斛飯王の子。阿難の兄弟。出家して釈尊の弟子となり、後に背いて師に危害を加えようとしたが失敗し、死後無間地獄に堕ちたという。デーヴァダッタ。天授。調達。
張衡 ちょう こう 78-139 後漢の学者。字は平子。河南南陽の人。詩賦をよくし、「両京賦」「帰田賦」は有名。また、天文・暦算に通じ、渾天儀・候風地動儀(一種の地震計)を作り、円周率の近似値を算出。
ミルン → ジョン・ミルンか
ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリスリバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。北海道函館市船見町26番地に、ジョン・ミルン夫妻の墓がある。
石本博士 → 石本巳四雄か
石本巳四雄 いしもと みしお 1893-1940 東京生まれ。1925年、地震研究所創立とともにその助教授となり、造船学から地震学へ転じた。33年、地震研究所長。地震学史・科学論の研究にも意を用いる。著『科学への道』『学人学語』など。(地学)
孫文青 著『張衡年間譜』。
王振鐸 おう しんたく?
萩原理学士 → 萩原尊礼か
萩原尊礼 はぎわら たかひろ 1908-1999 地震学者。地震予知連絡会名誉会長、地震予知総合研究振興会会長。HES地震計の考案者。地震予知研究の生みの親として著名。著『地震学百年』『古地震』。(人レ)
服部一三 はっとり いちぞう 1851-1929 官僚。神戸県知事。日本地震学会初代会長を務めたほか、日本最初のゴルフ大会に参加。(人レ)
佐藤省吾 金属工芸品作家。
章帝 しょうてい 57-88 中国後漢第3代皇帝。姓は劉。父は2代皇帝明帝。廟号は肅宗。正式な諡号は孝章皇帝。明帝の五男として生まれる。
順帝 じゅんてい 115-144 後漢第8代皇帝。姓は劉、諱は保。父は安帝。その治世は宦官、外戚の専横が続き後漢の滅亡の原因を作った。
張家
張堪 張衡の祖父。蜀郡の太守となり、のち漁陽の太守。
光武帝 こうぶてい 後漢の始祖、劉秀の諡号。
劉秀 りゅう しゅう 前6-後57 後漢の初代皇帝。廟号、世祖。諡、光武帝。字は文叔。前漢の高祖9世の孫。湖北に兵を挙げて王莽を昆陽に破り、25年帝位について漢室を再興、洛陽に都した。儒学を唱道し、後漢王朝の基を開いた。(在位25〜57)
朱暉 しゅき?
鮑徳 ほうとく? 南陽の太守。
周紀 中県の人。
崔� さいえん? 張衡の友人。
光緒 こうちょ 1875-1908 (コウショとも)清朝第11代の皇帝徳宗朝の年号。徳宗を光緒帝ともいう。
小野清
王莽 おう もう 前45-後23 前漢末の簒立者。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を収攬、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位に就く。ついで真皇帝と称し、国を奪って新と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、後漢が復興した。(在位8〜23)
周公 しゅうこう 周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王をたすけて紂を滅ぼし、成周(洛邑)を守る。子を魯に封じ、武王の死後は甥の成王、その子康王を補佐して文武の業績を修めた。後世、周代の礼楽制度の多くはその手に成ると伝える。周公旦。
Giovanni Battista Sidotti シドッチ 1668-1714 イタリアのカトリック司祭。イエズス会士。宣教師として1708年(宝永5)屋久島に上陸、捕らえられて江戸小石川に監禁、牢死。新井白石の「西洋紀聞」「采覧異言」はその訊問の結果に基づく。訛称シローテ。
新井白石 あらい はくせき 1657-1725 江戸中期の儒学者・政治家。名は君美。字は済美。通称、勘解由。江戸生れ。木下順庵門人。6代将軍徳川家宣、7代家継の下で幕政を主導した(正徳の治)。朝鮮通信使への応対変更、幣制・外国貿易の改革、閑院宮家創立などは主な業績。公務に関する備忘録「新井白石日記」や「藩翰譜」「読史余論」「采覧異言」「西洋紀聞」「古史通」「東雅」「折たく柴の記」などの著がある。
国富 技師。
ヘボン夫人
都山護堂
鹿島洋々
ガリッチン公 ボリス・ガリチン(B. Galitzin)(ロシア)か。
ウォーカー
明治天皇
天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)


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日本倶楽部 1897年設立。(『世界大百科』平凡社)
震災予防評議会 1941年廃止。(地学)
東京放送局 現、日本放送協会(NHK)。1924年設立。1926年、社団法人日本放送協会が施設。
東京大学地震研究所 とうきょうだいがく じしんけんきゅうじょ 東京大学の附置研究所(附置全国共同利用研究所)。1925年に設立された。地震学、火山学などを中心に幅広い分野の研究が行われている。
震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『国史大辞典』(吉川弘文館)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『東京朝日』 → 東京朝日新聞
『東京朝日新聞』 とうきょう あさひ しんぶん 日刊新聞である『朝日新聞』の東日本地区での旧題。1888年、大阪の朝日新聞社が『めさまし新聞』を買収。『東京朝日新聞』と改題の上、新創刊。大正期には東京五大新聞(東京日日、報知、時事、國民、東京朝日)の一角と数えられ、関東大震災では大打撃を受けるが、大阪本拠の利点を生かして立ち直り、逆に在京既存紙を揺るがす形で伸張。
『丹後地震誌』
『地震とその他の地動』 ミルンの著。
『張河間集』
『張衡年間譜』 孫文青の著。
『後漢書』「張衡伝」 張衡列伝第四十九。
『後漢書』 ごかんじょ 二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(398〜445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭に関する記事がある。
『燕京学報』 えんけい〓 第二十期十週年記念専号
『南陽県志』 光緒新修。
范伝 『後漢書』「張衡伝」のことか。列伝は范曄の編。
「霊憲」 張衡の著。
『ネーチュア』 → ネイチャー
『ネイチャー』 Nature 世界で最も権威のある総合学術雑誌のひとつ。1869年11月4日、イギリスで天文学者ノーマン・ロッキャーによって創刊された。主要な読者は世界中の研究者である。雑誌の記事の多くは学術論文が占め、他に解説記事、ニュース、コラムなどが掲載されている。
「地震計の針」『東京朝日』鉄箒欄。
『東朝』 → 東京朝日新聞か
『東日』 → 東京日日新聞か
『東京日日新聞』 とうきょう にちにち しんぶん 日刊新聞の一つ。1872年(明治5)創刊。74年、福地桜痴が主筆となり政府支持の論調を張る。1911年大阪毎日新聞の経営下に入り、43年(昭和18)毎日新聞に統合。東日と略称。
大森「初期微動を現わさざる地震」明治四十年七月出版。
大森「地震動に関する調査」明治三十六年三月、震災予防調査会に提出。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


ドリアン durian パンヤ科の熱帯性常緑高木。マレー半島の原産。高さ約25メートル。葉は長楕円形で革質、先端がとがり、裏面は小鱗片が密生。花は大形の黄白色五弁花で、数個集まって下向きに幹に直接つく。果実は人頭大の長楕円形で、熟すると灰緑褐色となる。果殻は堅く、5条の線がある。果肉はクリーム色で、味は甚だ甘く、特殊の酸味と臭気がある。
然か しか そのように。さように。
翫味 がんみ 玩味。意義をよく味わうこと。含味。
山骨 さんこつ 山の土砂が崩れて岩石が露出したもの。
虚想 きょそう 架空の事物。現象などを頭の中に思い描くこと。想像。空想。
リノリウム linoleum 亜麻仁油の酸化物リノキシンに樹脂・コルク粉・顔料などを混合し、麻布などに塗って薄板状に成形したもの。床敷・壁張材料に用いる。高い抗菌力がある。
阿鼻 あび 〔仏〕八大地獄の第8。五逆・謗法の大悪を犯した者が、ここに生まれ、間断なく剣樹・刀山・�h湯などの苦しみを受ける、諸地獄中で最も苦しい地獄。阿鼻地獄。無間地獄。阿鼻叫喚地獄。阿鼻大城。
斗出 としゅつ 突き出ること。土地などがかどばって突き出ていること。突出。
桶水振動 涌き水?
輪奐 りんかん (「輪」は曲折して広大の意、「奐」は大きく盛んの意)建物の広大・壮麗なこと。
佇立 ちょりつ (チョリュウとも)たたずむこと。しばらくの間たちどまること。
候風地動儀
鋳成 ちゅうせい 鋳造に同じ。
行らし めぐらし?
合蓋 ごうがい?
酒尊 しゅそん 酒樽。さかだる。
都柱
行らし めぐらし?
銅丸 どうがん 銅製のたま。
銜め ふくめ?
蟾蜍 せんじょ (1) 月中にいるというヒキガエル。(2) 月の異称。月蟾。
牙機 がき?
覆蓋 ふくがい おおいかぶせること。おおいかくすこと。また、そのもの。
周密 しゅうみつ 注意・心づかいなどが、細かい所までゆきとどくこと。
銜む ふくむ、か。
振声 しんせい?
伺者 ししゃ?
合契 ごうけい 割り符をあわせる。ぴったりと一致すること。
贅物 ぜいぶつ (1) 無用のもの。無益のもの。むだなもの。(2) 贅沢な品物。
倒立振子 とうりつ ふりこ 錘(おもり)の部分が支点の真上にあるような振子。地震計などに応用される。
gal ガル (ガリレイの名に因む)加速度のCGS単位。1ガルは毎秒毎秒1センチメートルの割合の速度変化。記号Gal
鉅万 きょまん 巨万。
荒蕪 こうぶ 土地があれはてて雑草が生い茂っていること。
匈奴 きょうど 前3世紀から後5世紀にわたって中国を脅かした北方の遊牧民族。首長を単于と称し、冒頓単于(前209〜前174)以後2代が全盛期。武帝の時代以後、漢の圧迫をうけて東西に分裂、後漢の時さらに南北に分裂。南匈奴は4世紀に漢(前趙)を建国。種族についてはモンゴル説とトルコ説とがあり、フンも同族といわれる。
大司農 だいしのう 漢代、九卿の一人。銭穀金帛(財政)をつかさどった。三国以後は司農と称。
闕門 門闕(もんけつ)か。
骸骨を乞う がいこつをこう [史記陳丞相世家](仕官して捧げたわが身の残骸を乞いうける意)主君に辞職をねがう。
堙ふ
東漢 とうかん 後漢の別称。
雰雰 ふんぷん 雨や雪の乱れ飛ぶさま。
金玉 きんぎょく 金や玉でできているような、たいへん珍重すべき物事。また、きわめてすぐれた詩歌や文章。
簒位 さんい 君主の位を奪うこと。
正朔 せいさく こよみ。暦。
渾天儀 こんてんぎ ギリシアや古代中国の天文家が工夫した球形の天体器械。周囲に角度を示す目盛を設けた環を組み合わせ、指針の回転によって天体の位置を示し、あるいは観測に用いる。渾儀。
至評 至論(しろん)か。万人が納得するような、至極もっともな議論。
星霧 せいむ 星雲に同じ。 
指南車 しなんしゃ 古代の、方向を指し示す車。上に仙人の木像をのせ、歯車の仕掛けで、最初に南に向けておくと常に南を指すように装置した。中国で3世紀頃作られたが、伝説では黄帝が蚩尤と�鹿の野に戦い、大霧に襲われたので、これを作って兵士に方向を教え示したといい、周初に越裳氏の使者が来貢し、その帰路に迷ったから、周公がこれを授けて国に帰らせたとも伝える。
土圭 とけい 時計。(もと「土圭(周代の緯度測定器)」を日本で中世に日時計の意に用いた。「時計」は当て字)時刻を示しまたは時間を測定する器械。日時計をはじめ水時計・砂時計・火時計などから水晶時計・原子時計に至るまで種類が多い。機械時計は振子または天府の振動の等時性を利用して歯車を動かし、指針を等時的に進ませる装置から成る。時辰儀。ウォッチ。クロック。
羽ワ うかく (「ワ」は羽の根もと)はね。つばさ。
翫具 がんぐ 玩具。
宦者 かんじゃ 宦官に同じ。
閹堅 閹豎(えんじゅ)か。去勢された男の召使。転じて宦官。「豎」はろくでもない。小者。
錚錚 そうそう (1) よく鍛えた鉄などの響き。また、さえた音楽の音。(2) 多くのものの中で、特にすぐれたさま。
溢美 いつび ほめすぎること。過分の賞讃。過賞。
弁妄 べんぼう 事理に反する議論を弁駁すること。べんもう。
一燦 いっさん 一粲。
一粲を博す いっさんをはくす 自作の詩文などを人に読まれることを謙遜して言う語。
悼惜 とうせき 人の死をいたみ惜しむこと。哀惜。
鉄箒 てっそう メドハギの漢名。
贅言 ぜいげん むだな言葉。余計な言葉。贅語。
広袤 こうぼう はばと長さ。ひろがり。面積。
叫唱びて さけびて?
勝げて計うべからず あげて かぞう べからず もちこたえる。たえる。「勝」は「あげて」とも訓読する。ことごとくの意。
賜禄 しろく?
飄蕩 ひょうとう (1) あてもなくさまようこと。流浪。(2) 風に吹かれて、空中でふらふらとゆれうごく。「蕩」はゆらゆらとうごかす。
飄蕩う ひょうとう さまよう、か。
放れ失す はふれうす おちぶれてどこかへ行ってしまう。姿が見えなくなる。
尨大 ぼうだい 厖大。
蒐録 しゅうろく 集録。
田苑 でんえん 田園。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 この時期、部屋のまどを開け放っていると、決まって深夜に異臭がただよってくる。ロンドン旅行をしたさいにかぎ覚えのある喫煙臭。バックパッカーの同居人の数人が、このにおいを漂わせながら目をどろんとさせて部屋へ戻ってきたことを思い出す。「ヒロシ、おまえもどうか?」と誘われたが、どんよりした腐った魚のような目と、ろれつがまわらない姿を見ると、残念ながら手を出せなかった。彼らなりに気をつかってくれている様子で、喫煙は室外ですませてくれた。
 このアパートで、夏場にこの異臭がただようようになって数年がたつ。深夜の寝静まったころにただよってくるこの喫煙臭には、ほとほとまいっている。
 タバコの受動喫煙すら問題になっている昨今だというのに、どうやら天童市ではマリファナ、大麻の喫煙を問題にしてくれないらしい。市役所と警察署へ相談したにもかかわらず、今年もにおってきた。とうの本人はいいだろうが、アパートの隣人としては迷惑もいいところ。こちらのほうが先に気がふれてイカれてしまいそうなのを懸命にこらえているような、そんな危険な日々が続いている。
 どんな苦しさでこらえているのか、どんな思いでおそるおそる通報したのか、当事者でないと理解してもらえないのかもしれない。通報したことが知られて逆恨みされやしないか……当事者でもなければ、そこまで気もまわらないか。これ以上、だれに相談すればいいんだろう?

 吸うなら、わからないようにやってほしいものだ。




*次週予告


第三巻 第五一号 
現代語訳 古事記(四)武田祐吉(訳)


第三巻 第五一号は、
七月九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第五〇号
地震の国(二)今村明恒
発行:二〇一一年七月九日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻
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第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 【月末最終】
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第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 
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第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 
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第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 
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第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 
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第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 【月末最終】
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第七号 新羅の花郎について 池内宏 
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第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 
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第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 
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第十号 風の又三郎 宮沢賢治 【月末最終】
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第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 
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第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 
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第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 
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第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 
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第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 
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第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 
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第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 【月末最終】
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第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 
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第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 
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第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 
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第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太  【月末最終】
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第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 
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第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 
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第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 
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第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 
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第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  【月末最終】
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第二九号 生物の歴史(一)石川千代松 
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第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松 
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第三一号 生物の歴史(三)石川千代松 
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第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  【月末最終】
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第三三号 特集 ひなまつり   雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫
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第三四号 特集 ひなまつり   人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
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第三五号 右大臣実朝(一)太宰治 
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第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 【月末最終】
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第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 
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第三八号 清河八郎(一)大川周明 
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第三九号 清河八郎(二)大川周明 
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第四〇号 清河八郎(三)大川周明  【月末最終】
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第四一号 清河八郎(四)大川周明 
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第四二号 清河八郎(五)大川周明 
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第四三号 清河八郎(六)大川周明 
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第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉 
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第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  【月末最終】
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第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉 
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第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 
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第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット 
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第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  【月末最終】
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第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット 
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第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット 
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第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット 
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第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子 
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第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  【月末最終】
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第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清 
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第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清 
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第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎 
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第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  【月末最終】
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第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 
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第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南 
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第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南 
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第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  【月末最終】
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第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫 
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第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用
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第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦 
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第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉 
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第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  【月末最終】
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第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
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第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳) 
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第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水 
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第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  【月末最終】
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第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直 
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第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直 
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第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直 
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。
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第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  【月末最終】
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。
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第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治 
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 
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第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治 
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。
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第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治 
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」
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第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直 
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。
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第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  【月末最終】
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)
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第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。
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第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。
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第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。
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第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  【月末最終】
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。
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第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 
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第三巻 第三四号 山椒大夫 森 鴎外  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 越後の春日をへて今津へ出る道を、めずらしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子どもを連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞(はらから)二人を、「もうじきに、お宿にお着きなさいます」と言ってはげまして歩かせようとする。二人のうちで、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣(ものまい)りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、だれの目にもめずらしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝(くるぶし)をうずめて人を悩ますことはない。
 藁(わら)ぶきの家が何軒も立ちならんだ一構えが柞(ははそ)の林にかこまれて、それに夕日がカッとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母がゆびさして子どもに言った。
 子どもは母のゆびさす方を見たが、なんとも言わぬので、女中がいった。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
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第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  【月末最終】
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。
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第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。
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第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
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 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。
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第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
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思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。
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第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
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キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。
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第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  【月末最終】
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
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第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治  定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。
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第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治  定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。
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第三巻 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎  定価:200円
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  あどけない話

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
私はおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。


  千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子によってくる。
口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい―
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをパラパラ投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
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第三巻 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎  【月末最終】
 わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
(略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
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第三巻 第四五号 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
 私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
 暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
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第三巻 第四六号 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉  定価:200円
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(略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
 右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
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第三巻 第四七号 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦  定価:200円
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地震雑感
 一 地震の概念
 二 震源
 三 地震の原因
 四 地震の予報
静岡地震被害見学記
小爆発二件
 震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
 しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
 これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
 問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
 地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
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第三巻 第四八号 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦  月末最終号:無料
自然現象の予報
火山の名について
 つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
 地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
 地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
 地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
 さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
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第三巻 第四九号 地震の国(一)今村明恒  定価:200円
 一、ナマズのざれごと
 二、頼山陽、地震の詩
 三、地震と風景
 四、鶏のあくび
 五、蝉しぐれ
 六、世紀の北米大西洋沖地震
 七、観光
 八、地震の正体

「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
「よくわかりました。
 これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴したいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。(略)余は順次につぎのようなことを説明した。
「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。」(略)
「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
 ここで彼女はすかさず喙(くちばし)をいれた。
「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
「(略)われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこう狭く局限しているのです。
「そして、その場所の察知は?」
「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明(せんめい)された特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
「それから、いつ起こるかということは?」
「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉するのです。
 パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
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