寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」、表紙写真は「ファイル:Shin-moe Eruption 2011」より。
もくじ
自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦
*ミルクティー*現代表記版
自然現象の予報
火山の名について
*オリジナル版
自然現象の予報
火山の名について
*
地名 ・
年表 ・
人物一覧 ・
書籍
*
難字、求めよ
*
後記 ・ 次週予告
※ 製作環境
・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。
一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名は「 」で示しました。
一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。
*底本
自然現象の予報
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
初出:『現代之科学』
1916(大正5)年3月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card42700.html
火山の名について
底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第64刷発行初出:「婦人の友」
1935年(昭和10年)9月1日
初出:『郷土』
1931(昭和6)年一月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2348.html
NDC 分類:451(地球科学.地学/気象学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc451.html
NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html
自然現象の予報
寺田寅彦
自然現象の科学的予報については、学者と世俗とのあいだに意志の疎通を欠くため、往々に種々の物議をかもすことあり。また、個々のばあいにおける予報の可能の程度などに関しては、学者自身のあいだにも意見はかならずしも一定せざること多し。左の一編は、一般に予報の可能なるための条件や、その可能の範囲程度、ならびにその実用的価値の標準などにつきて卑見を述べ、先覚者の示教をあおぐと同時に、また一面には、学者と世俗とのあいだに存する誤解の溝渠を埋むる端緒ともなさんとするものなり。元来、この種の問題の論議は勢い抽象的にかたむくがゆえに、外観上、往々、形而上的の空論と混同さるるおそれあり。科学者にしてかくのごとき問題に容喙する者は、その本分を忘れて邪路におちいる者として非難さるることあり。しかれども実際は、科学者が科学の領域をふみはずす危険を防止するためには、時に、これらの反省的考察がかえって必要なるべし。とくに、予報の問題のごとき場合においては然りと信ず。余が不敏をかえりみず、ここに二、三の問題を提起して批判をあおぐ所因もまた、これにほかならず。ただいたずらに冗漫の辞を羅列して問題の要旨に触るるを得ざるは、深くおのずから慙ずるところなり。これによって先覚諸氏の示教に接する機を得ば、じつに望外のさいわいなり。
一
ある自然現象の科学的予報といえば、その現象を限定すべき原因条件を知りて、該現象の起こると否とを定め、またその起こり方を推測することなり。これはいかなる場合に、いかなる程度まで可能なりや。この問題がただちにまた、一般科学の成立に関する基礎問題に連関することはあきらかなり。しかし、因果律の解釈や、認識論学者のとりあつかうごとき問題は、余のここに云為すべきところにあらず。ただ、物理学上の立場より卑近なる考察を試むべし。
厳密なる意味において「物理的孤立系」なるものが存せず、すなわち「万物相関」という見方よりすれば、一つの現象を限定すべき原因条件の数はほとんど無限なるべし。それにかかわらず、現に物理学のごときものの成立し、かつ、実際に応用され得るはいかん。これは要するに、適当に選ばれたる有限の独立変数にてある程度までいわゆる原因を代表し、いわゆる方則によりて結果の一部を予報し得るによる。これには、いわゆる原因と称するものの概念の抽象選択のしかたが問題となる。これは結局、経験によって定まるものにして、原因の分析ということ自身がすでに、経験的方則の存在を予想することはあきらかなり。物理的科学発展の歴史にさかのぼれば、いたるところ、かくのごとき方則の予想によって原因の分析、すなわちもっとも便宜なる独立変数の析出につとめたる痕跡を見出し得べし。しかし、この試みが成功して今日の物理的自然科学となれり。力学における力、質量などのごとき、熱力学における温度エントロピーのごときこれなり。これらの概念と定義とが方則の云い表わしと切り離しがたきはこのためなり。物理的自然現象を限定すべき条件などが、すべてこれらの有限なる独立変数にて代表され得るや否やは別問題として、現在の物理学的科学の程度において、従来の方法によりて予報をなし得る範囲はいかなるべきかが当面の問題なり。
まず、従来の既知方則の普遍なることを仮定せば、すべての主要条件が与えらるれば結果は定まると考えらる。しかしながら、実際の自然現象を予報せんとするばあいに、この現象を定むべき主要条件を遺漏なく分析することは、かならずしも容易ならず。ゆえに各種原因の重要の度を比較して、影響の些少なるものを度外視し、いわゆる「近似」を求むるを常とす。しかして、これら原因の取捨の程度に応じて、種々の程度の近似を得るものと考う。この方法は物理的科学者が日常使用するところにして、学者にとりてはおそらく自明的の方法なるも、世人一般に対しては、かならずしも然らず。学者と素人との意思の疎通せざる第一の素因は、すでにここに胚胎す。学者は科学を成立さする必要上、自然界にある秩序方則の存在を予想す。したがって、ある現象を定むる因子中より第一にいわゆる偶発的・突発的なるものを分離して考うれども、世人はこの区別に慣れず。一例を挙ぐれば、学者は掌中の球を机上に落とすとき、これが垂直に落下すべしと予言す。しかるに偶然、窓より強き風が吹きこみて球が横にはずれたりとせよ。俗人の眼より見れば、この予言ははずれたりというほかなかるべし。しかし学者は、はじめ不言裡に「かくのごとき風なき時は」という前提をなしいたるなり。この前提が実用上無謀ならざることは、数回同じ実験をくり返すときはおのずからあきらかなるべきも、とにかくここに、予言者と被予言者との期待に一種の齟齬あるを認め得べし。
つぎには、近似の意義に関する意見の齟齬が問題となる。学者が第一次近似をもって甘んずるとき、世人はかえって第二次近似、あるいは数学的の精確を期待するばあいもあり。これは後に詳説する天気予報のばあいにおいて特に著し。かくのごとき見解と期待との相違より生ずる物議は、世人一般の科学的知識の向上とともに減ずるはもちろんなれども、一方、学者の側においても、科学者の自然に対する見方がかならずしも自明的、先験的ならざることを十分に自覚して、しかる後、世人に対する必要もあるべし。(この点は、単に予報のみの問題にかぎらず、一般科学教育をほどこす人の注意すべき点なるべしと信ず。中学校にてはじめて物理学を学ぶ際に「なにゆえに、かくのごとく考えざるべからざるか」との疑問が暗々裏に学生の脳裏に起こりて、何人もこれが解決を与えざるがゆえに、力といい、質量といい、仕事というがごとき言葉は、あたかも別世界の言葉のごとく聞こえ、しかもこれらの考えが先験的必然のものなるにかかわらず、自分はこれを理解し得ずとの悲観を懐かしむる傾向あり。世人一般の科学に対する理解と興味とを増進するには、すくなくも中等教育において、科学的認識論・方法論の初歩を授くるも無用にはあらざるべし。)
二
さて、従来の科学の立場より考えて、すべての主要原因が与えられたりと仮定すれば、結果はつねに単義的に確定すべきか。これはやや、注意ぶかき考慮を要する問題なり。
いわゆる精密科学においても、吾人は偶然と名づくるものを許容す。これ一般に、部分的の無知を意味す。すなわち、条件をことごとく知らざることを意味す。いかなる測定をなす際にも、直接・間接に定め得る数量の最後の桁には偶然が随伴す。多くの世人は、精密科学の語に誤られてこの点を忘却するを常とす。
いっそう偶然の著しきばあいは、たとえば鉛筆を尖端にて直立せしめ、これがいずれの方向に倒るるかというばあい、あるいは賽を投げて何点が現わるるかというごとき場合なり。これらのばあいにおいても、もし、すべての条件がどこまでも精しく与えられおれば、結果はかならず単義的に定まるべしというがいわゆる科学的定数論者の立場なり。これはおそらく、大多数の科学者の首肯するところなるべし。しかし実際にはこれらのすべての条件が知り難きゆえに、結果の単義性は問題となる。
抽象的、数学的に考うれば、複義性なる関数は無数に存在す。たとえば、ファン・デル・ワールなどの理論に従えば、ガス体の圧を与うれば、その体積には三種の可能価あることとなる。この理論の当否は問わざるも、抽象的にこのことは可能なるべし。今、かくのごとき場合にも天然現象はかならず単義的におこるとすれば、それはいかなる理由によるべきか。ここに「安定度」とか「公算」とかいう言葉が科学者の脳裏に浮かぶべし。ここに吾人は、科学と形而上学との間の際どき境界線に逢着すべし。熱力学にエントロピーの観念の導入され、また、エントロピーと公算との結合を見るに至りし消息もまた、ここに至っておのずから首肯さるべし。
安定や公算の意味に関する議論はしばらくおき、種々の可能法あるばあいにおのおのの公算を比較するとき、吾人の経験は、その中の一つが特に大なるべしと期待せしむる傾向を有す。実際多くのばあいに、この期待は吾人を欺かず。しかれども予報ということに連関して重大なる問題は、それが「つねに然るか」ということなり。
単義性という言葉にも種々の意味あり。数学的・絶対的の単義性といえば、一はどこまでも一にて、二はかならず二なるべし。しかし、自然現象に偶然を許容すれば、吾人の当面の問題は公算的単義性なり。すなわち、公算曲線の山が唯一なりやということが刻下の問題なり。さて、すべての場合にこれは唯一なりや。しからざる場合は、一般には多数あるべし。たとえば、馬の鞍の形をなせる曲面の背筋の中点より球を転下すれば、球の経路には、二条の最大公算を有するものあるべし。またある時間内に降れる雨滴の大きさを験するときは、その大きさの公算曲線には数個の山を見い出すべし。これらの場合を総括するに、いずれもかつて、ポアンカレーの述べしごとく「原因の微分的変化が、結果の有限変化を生ずるばあい」にあたるを見る。自然現象予報の可能程度を論ずる際に、忘るべからざる標準の一つはここにかかる。後に、さらに実地問題につきて述ぶることとせん。
つぎに、原因を定むる独立変数と称するものの性質が問題となる。変数が長さ、時間、あるいはこれらの合成によりて得らるるものならば比較的簡単なれども、たとえば物体の温度、荷電などのごとき性質のものが与えられたりとせよ。もし、物体の内部構造などに立ち入らざるマクロ・スコピック〔巨視的。〕の見方よりすれば、これらの量はただちに物体の状態を単義的に指定すれども、これに反し、分子説・電子説の立場よりミクロ・スコピックの眼にて見れば、これらの量にては物体の内部状況は単義的には指定されず、ほとんど無限に複義的にして、吾人の知り得るはじつにただ、その統計的単義性にほかならず。このばあいに単に温度を与えても、各分子個々の運動を予報すべくもあらず。
たとえばまた、過飽和の状態にある溶液より結晶が析出する場合のごとき、これがいつ結晶をはじめ、また結晶の心核がいかに分布さるべきかを精密に予報せんとするとき、単に温度、したがって過飽和度を知るのみにては的中の見込みはきわめて小なるべし。ただ吾人は、過飽和度の増加に伴うて結晶析出を期待する公算を増すことを知り、また、結晶中心の数につきても公算的にある期待をなすことを得るにすぎず。しかるにもし、人間以上の官能を有するいわゆるマクスウェルの魔のごときものありて、分子ひとつひとつの排置運動を認め、その運動や結合の方則を知りて計算するを得ば、少なくも吾人が日食を予報するくらいの確かさをもってこれらの現象を予報するを得べし。
三
今、天然のおこる現象を予報せんとする際に感ずる第一の困難は、その現象を限定すべき条件の複雑多様なることなり。
実験室においておこなう簡単なる実験においては、これら条件を人為的に支配し制限し得る便あり。しかも、もっとも簡単なるデモンストレーション的実験においてすら、用意の周到ならざるため、条件のただ一つを看過すれば、実験の結果はまったく予期に反することあるは吾人の往々経験するところなり。これらの失敗に際して実験者当人は、必要条件を具備すれば、結果は予期に合すべきを信ずるがゆえに、あえて惑うことなしとするも、いまだ科学的の思弁に慣れず原因条件の分析を知らざる一般観者は、不満を禁ずるあたわざるべし。また場合により、実験の結果がなかばあるいは部分的に予期に合すれば、実験者たる学者はその適合せる部分だけを抽出して自己の所説を確かむれども、かくのごとき抽象的分析に慣らされざる世俗は、了解に苦しむこともあるべし。
かくのごとき困難は、天然現象のばあいにもっとも著しかるべし。試みにまず、天気予報のばあいを考えん。
太古の時代より天気予報の試みはおこなわれたれども、分析的科学の発達せざりし時代には、天気を限定すと考えられし条件、あるいは独立変数がきわめて乱雑なる非科学的のものなりしなり。もっとも、雲の形状運動や、風向・気温のごとき今日のいわゆる気象要素と名づくるものの表示によりたることもあれど、同時にまた、動物の挙動や人間の生理状態のごとき総合的の表現をも材料としたり。かくのごとき材料も場合によりてはあえて非科学的とは称し難きも、とにかく、物理学的方法を応用するばあいの独立変数としては不適当なるものなりしなり。今日の気象学においていわゆる気象要素と称するものは、これに反して物理学の基礎の上に設定されたるものにして、これらを材料とせる予報は、純然たる物理学的の予報にほかならず。したがって、物理学上の予報につきて感ぜらるる困難もまた同時に随伴し、ことに条件の多数なるためにその困難はいっそう増加すべし。かくのごとき場合には、いわゆる主要条件の選択が重要なるはすでに述べたるがごとし。現今の物理学的気象学の立場より考えて、今日のいわゆる要素の数は、だいたいにおいて理論上主要の項を悉したりと考えらる。しかるに実用上の問題は、いかなる程度までこれらの要素を実測し得るかということなり。測候所の数には限りあり、観測の範囲、回数にも限定あり。とくに高層観測のごとき、いっそうこの限定を受くることはなはだし。それにもかかわらず、現に天気予報がその科学的価値を認められ、実際上、ある程度まで成功しおるはいかなる理由によるべきか。
数十里、数百里を距てたる測候所の観測を材料として、吾人はいわゆる等温線・等圧線を描き、あるいは風の流線の大勢を認定す。このさい、吾人の行為に裏書きする根拠はいずこにありやというに、第一に、これら要素の空間的・時間的分布が規則正しきということなり。換言すれば、これら要素の時間的・空間的微分係数が小なりということなり。これが小なる時に等温線や等圧線は有意義となり、これに物理学上の方則が応用さるるなり。
今、鋭敏なる熱電堆をもって気温を測定するときは、いかなる場合にも一尺をへだてたる二点の温度は一般に同じからず。この差は、数秒あるいは数分の不定なる週期をもって急激に変化するを見い出すべし。すなわち小規模・短週期の変化をとくに注意すれば、上の微分係数は決して小ならず。かくのごとき眼より見れば、実際の等温線は大小無数の波状凹凸を有し、これが寸時も止まらず蠢動せるものと考えざるべからず。かくのごとき状態を精密に予報することは、いかなる気むずかしき世人もあえて望まざるべし。しかし今、すこしく規模を大きくして一村、一市街の幅員と同程度なる等温線の凹凸やその時間的変化となれば、すでに世人の利害に直接・間接の交渉を生ずるにいたることあり。積雲の集団が、ある時間内にある村の上を多く過ぐるか少なく過ぐるかは、時にはその村民にとりてはかなり重大なる場合もあるべし。小区域の驟雨が某市街を通過するか、その近郊のみを過ぐるかは、その市民にとりては無差別にはあらず。しかれども、かくのごとき小規模の現象の予報をなしうるためには、(この予報が可能としても)少なくも測候所の数を現在の数百倍、数千倍に増加せざるべからず。
現在の天気予報は、かくのごとき要求を充たすためのものにあらず。各測候所の平均領域の幅員に比して、微細なる変化は度外視し、定時観測期間の長さに比して急激なる変化をも省略して、近似的等温線あるいは等圧線を引くに過ぎず。たとえば土地山川の高低図を作る際に、道路の小凹凸、山腹の小さき崖くずれを省略するに同じ。これを省くとも、鉄道・運河の大体の設計にはなんらの支障を生ずることなかるべし。これに反して、荷車をひく労働者には道路の小凹凸は無意味にあらず。墓地の選定をなさんとする人には、山腹の崖くずれは問題となるべし。
世人の天気予報に対する誤解と不平は畢竟、この点にかかる。二十万分の一の地図を手にして道路の小凹凸をもとめ、物体の温度を知りてその分子各個の運動を知らんとすると同様なる誤解に起因す。
四
つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。しかしともかくも、ゆがみが増すにしたがって現象の発生を期待する公算の増加するはもちろんにて、したがって、ゆがみがある程度に達するまでは現象はおこらずと安心すべき根拠を与うべし。この場合にあたり、時とともに現象の発生に対する期待の増加する状況を示す線が与えられたりとせよ。しかして、この曲線の傾斜がはなはだゆるやかにして、十年、二十年、あるいは人間一代の間にいちじるしき変化を示さぬごときものならば、いかなるべきか。この場合には、個々の人間にとりての予報の実用的価値は、きわめて少なかるべし。
つぎに、上の仮想的のばあいにおいて、現象の発生する時期がある程度まで知られたりと仮定せよ。このばあいにおこる地震の強弱の度をいかほどまで予知し得べきか。単に糸を引き切るばあいならば簡単なれども、地殻のごときばあいには、破壊の起こり方には種々の等級あるべし。破壊がただ一回に終わらず、数回の段階的変化によるとすれば、これらの推移中にゆがみの変化は複雑におこり、場合によりては毎回地震の強度は微弱なることもあるべく、また時には、その中に強震を生ずることもあるべし。かくのごとき差別が偶然的・局部的の異同に支配さるるとせば、広区域にわたるマクロ・スコピックの平均状態を知るのみにては、信憑すべき実用的の予報は不可能に近し。
上記のごとき、地殻の弱点が一か所に止まらず、多数に分布されいる場合にはさらに困難なり。このばあいには第一にこれらの分布を知り、またすべての弱点に対するゆがみの限界値を知り、同時に、すべての弱点におけるゆがみの刻々の現状を知るを要す。仮にこれらが知られたりとするも、多数の弱点が同時に不安定に近づくとき、そのいずれがまず変化を始むべきかは、いわゆる偶然の決するところなるべし。この場合においても、予報の意味は世人の期待とはなはだしく離反すべし。
実際の地殻においては、その弱点の分布はかならずしも簡単ならず、しかも、おのおのの弱点は相互に独立ならず、なんらかの関係を有すべく、特にいっそう事柄を複雑にするは、地殻岩石の弾性履歴効果のいちじるしきことなり。これらがことごとく知られたりとするも、現象の性質上、原因の微分的変化に対して、結果の変化は有限にしてかつ、その単義性もあきらかならず。具体的にいえば、地すべりなどがある限界内に止まれば、それだけにて止むも、すこしにてもこれを超ゆれば、他の弱点の破壊を誘起してさらに大なる変動を起こすこともあるべく、そのさい、いかなる弱点が誘発さるるやはまた偶然的なる地下の局部的構造によると考えらる。
かくのごとき場合に、普通の簡単なる公算論の結果を応用せんとするには、至大の注意を要することはあきらかなるべし。
五
予報の可能・不可能ということは、考え方によればあまりに無意味なる言葉なり。たとえば今月中、少なくも各一回の雨天と微震あるべしというごとき予報は、何人も百発百中の成功を期して宣言するを得べし。ここに問題となるは、予報の実用的価値を定むべき標準なり。
予報によりて直接・間接に利便を感ずべき人間の精神的・物質的状態は、時ならびに空間とともに変化しつつあり。したがって、天然界のある状態がその人間に有利なるか不利なるかは、時と場所とによりて変化す。たとえば、水草を追って移牧する未開人にとりては、時とともに利害のかかわる土地の範囲を移動す。また一つの都府の市民というごとき抽象的の団体を考うるときは、その要素たる各個人とは独立に、時とともに不変なる標準も考えらるれども、一般にはかならずしも然らず。たとえば一般の東京市民にとりては、夜半の小雨はあえて利害を感ぜざるべきも、昼間の雨には無頓着ならず。また、平日一般の日本国民は京都市の晴雨に対しては冷淡なるも、御大典当時はかならずしも然らざるべし。
数学的の言葉を借りていえば、各個人、市民、あるいは国民がある現象に対して利害を感ずる範囲は、時間と空間とより組成されたる四元空間中において、ある面にて囲まれたる部分にて示すことを得べし。この部分は単独なるばあいも、数個なるばあいもあるべし。
自然現象の予報もまた同様に、時と空間のある範囲内に指定するときにはじめて意義あるものとなる。たとえば明日中、某々地方に降雨あるべしというがごとし。これらの予報が普通、世人にとりて実用的価値を有するための条件は、思うに「その現象のために利害を感ずべき個人、あるいは団体の利害を感ずる範囲領域の大きさに対して、予報の指定する範囲の大きさが比較的大ならず、かつ、前者に対する後者の位置の公算的変化の範囲の小なること」なり。
具体的の例を挙ぐれば、東京市民にとりては「明日、正午まで京浜地方西北の風晴」といい、あるいは「本日午後、驟雨模様あり」というがごときは、多数の世人に有用・有意義なり。またもし「一週間内に東海道の大部分に降雨あるべし」との予報をなし得たりとせば、東京市民にとりてはきわめて漠然たる印象を与うべし。これ、予報の範囲が東京市民の日常生活上、雨に関して利害を感ずる範囲に比して、あまりに大なるがゆえなり。しかれども、連日雨に渇する東海道の農民にとりては、この予報は非常の福音たるに相違なかるべし。
つぎに地震のばあいはいかん。もし仮に「来る六、七月のころ、東京地方に破壊的地震あるべし」との予報が科学的になし得られたりと仮定せよ。これが十分の公算を有することがあきらかなれば、市民はじゅうぶんの覚悟をもって変に備うべし。つぎに「今後五十年内に、日本南海岸のうち一部分に強震あるべし」ということがよほど確実なりと仮定せよ。この予報は各個の市民にとりては、いくぶん漠然たる予言者の声を聞くがごとき思いあるべし。五十年は個人の生命に対してあまりに短からず。その間に、個人の生命も住所もいかになるべきかあきらかならざるなり。しかれども、日本政府の眼より見れば五十年は決して長からず、南海岸は邦土の一部分なり。この予報がなし得らるれば、これによりて国家が享くべき直接・間接の利益は少なからざるべし。
噴火のばあいもこれに同じ。仮に、科学的に信憑すべき根拠よりして、来る六十年ないし七十年間に某火山系に活動を予期し得るとせば、個人に対してはともかく、一県一道の為政者にとりては多大の参考となるべし。
予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する範囲と被予報者の利害範囲の大きさの相違と、その公算的不整合を許容する程度の差異に帰すべしと思わる。
最後に卑近なる例をあげて所説を補わん。木の葉をつたい歩く蟻にとりては、一粒一粒の雨しずくの落つる範囲を方数ミリメートルの内に指定することが必要なれども、吾人、人間には多くのばあいにただ雨量と称する統計的の数量が知らるれば十分なり。
六
以上述べたるところに基づき、また現在科学の進歩程度に鑑みて天気予報と地震予報とを対照すれば、その間の多大の差異あるを認めざるを得ず。
現在の気象観測精度をもってすれば、各気象区域における大体の天気の推移を予知することは十分可能にして、観測の範囲の拡張につれて的中の公算を増すべしと考えらる。しかれども、毎平方里における雨量の異同を予言するがごときは望み難かるべし。
地震のばあいにおいては、いまだ気象要素に相当すべき条件さえ明白ならず。したがって、解析的の方法を取るべき材料いまだ具備せず。これらが一通り具備したる暁においても、現象の偶然性を除く程度までくわしくこれを知悉する困難は、現象の性質上、はなはだ大なるべし。かくのごとき場合には、公算論の指示する統計的方法を取るほかなかるべきも、公算が変数の連続関数なりと断定しがたく、また最大公算を有するばあいが唯一ならざる場合には、特別に慎重なる考慮を要すべし。
地震予報をして天気予報のごとき程度まで有効ならしむるには、いかなる方向に研究を進むべきかは重要なる問題なり。物理学上の問題としては、地殻岩石の弾性に関する各種の実験のごときは、きわめて肝要なるべし。一方においては、統計的にいわゆる第二次原因の分析を試むるも有益なり。しかれども統計に信頼するためには、統計の基礎を固むる必要あるべし。普通、公算論の適用さるる簡単なるばあいにおいても、場合の数が小なるときは、自然の表現は理論の指示するところと大なる懸隔を示すことあり。これも忘るべからざることなり。なお一般弾性体の破壊に関して、その弱点の分布や相互の影響、あるいは破壊の段階的進歩に関する実験的研究をおこない、破壊という現象に関するなんらかの新しき方則を発見することも、かならずしも不可能ならざるべし。すなわち、従来普通に考うるごとく、弾性体を等質なるものと考えず複雑なる組織体と考えて、その内部における弱点の分布の状況などに関し、まったく新しき考えよりして実験的研究を積むも、無用にあらざるべきか。
(大正五年(一九一六)三月『現代之科学』)
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年8月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
火山の名について
寺田寅彦
日本から南洋へかけての火山の活動の時間分布を調べているうちに、火山の名前の中には、たがいによく似通ったのが広く分布されていることに気がついた。たとえば日本の「アソ」、「ウス」、「オソレ」、「エサン」、「ウンセン」などに対してカムチャツカの「ウソン」、マリアナ群島の「アソンソン」、スマトラの「オサール」などがあり、またわが国の「ツルミ岳」、「タルマイ山」、「ダルマ山」に対しジャヴァの「ティエリマイ」、「デラメン」などがあるという類である。それで、これは偶然の暗合であるか、あるいはこれらの間にいくぶんかの必然的関係があるかを、できるなら統計学的の考えから決定したいと思ったのである。
この統計の基礎的の材料として第一に必要なものは、火山名の表である。しかし、この表を完全に作るということがかなりな難事業である。まずたくさんの山の中から火山をひろい出し、それを活火山と消火山に分類し、あるいは形態的にコニーデ、トロイデ、アスピーテなどに区別することは地質学者のほうで完成されているとしても、おのおのの山には多くのばあいに二つ以上の名称があり、また一つの火山系の各峰が、それぞれ別々の名をもっているのをいかに取り扱うかの問題がおこる。
また火山の名が同時に、郡の名や国の名であったりすることがしばしばある。そのばあい、そのいずれが先であるかが問題となる。国郡のごとき行政区画のできるはるかに前から、火山の名が存し、それが顕著な目標として国郡名に適用されたであろうとは思われるが、これも確証することはむつかしい。
山の名の起原については、それぞれいろいろの伝説があり、また北海道の山名などでは、いかにももっともらしい解釈が一つ一つにつけられている。これをことごとく信用するとすれば、自分のくわだてている統計的研究の結果ができたとしても、それは言語学的に貢献することは僅少となるであろう。しかし自分の見るところでは、これらの伝説は自然科学的の立場から見ればほとんど無価値なものであり、また、アイヌ語による解釈も部分的には正しいかもしれないが、とうてい全部が正しくないことは、人によって説の違う事実からでも説明される。
それで唯一の科学的方法は、これらのあらゆる不確実な伝説や付会説をひとまず全部無視して、そうして現在の山名そのものを採り、まったく機械的に統計にかけることである。たとえば硫黄岳とか硫黄山といっても、それがはたして硫黄を意味するものであるか、じつは不明である。のみならず、むしろあとから「硫黄」をうまくはめ込んだものらしいと思われるふしもある。むしろ、北海道の岩雄山や九州の由布岳などと関係がありはしないかと疑われる。ともかくも、これらの名前を一定の方式にしたがって統計的に取り扱い、その結果がよければ前提が是認され、悪ければ否定されるのである。
完全な材料はなかなか急には得がたいので、ここではまず、最初の試みとして東京天文台編『理科年表』昭和五年(一九三〇)版の「本邦のおもな火山」の表を採ることにする。これは、現在の目的とはなんの関係なしに作られたものであるから、自分の勝手がきかないところに強みがある。これを採用するとしたうえで、山名の読み方が問題となるが、これは『大日本地名辞書』により、そのほかには小川氏著『日本地図帳地名索引』、また『言泉』などによることにした。それにしても、たとえば海門岳が昔は開聞でヒラキキと呼ばれ、ヒラキキ神社があるなどといわれるとちょっと迷わされるが、よくよく考えてみると、むしろカイモンがはじめであろうとも考えられる節があり、千島のカイモンと同系と考えるほうがよさそうにも思われ、少なくも両方に同等の蓋然性がある。それで、これらもすべて現在の確実な事実としての名だけを採ることにする。千島の分だけはいろいろの困難があるので除き、また、台湾・朝鮮も除くこととする。
さて Aso, Usu, Uns(z)en, Esan の四つを取ってみる。これはいずれも母音で始まり、つぎに子音で始まる綴音がくる。終わりのnは問題外とする。
一般に母音で始まり、つぎにいずれか任意の一つの子音のくるばあいが火山の表中で何個あるかを数えてみる。この数を N(VC) であらわす。すると、この中である特定の一つの子音、たとえばSならSが出現するということのプロバビリティー〔蓋然性。〕はいくらか。この確率は、可能な子音の種類の数(Qとする)の逆数となる。それで、ぜんぜん偶然的暗合ならば現われるべきこの型の火山名の数nは、N(VC)÷Q になるはずである。しかるに実際には、この特定型のものがm個あるとする(アソの場合では m = 4 )。さすれば、
なる比が大きいほど暗合でないらしい、何か関係があるらしい確率が増すのである。少なくもm個のうちの若干は、たがいに関係がありそうだということになるであろう。もっとも厳密にいえば、このほかに日本語の特徴としては、このような組み合わせの現われる一般的の確率を考慮に入れるべきであるが、これは容易でないからしばらく度外視する。
子音数Qをどう取るかがかなりむつかしい問題になるが、「アソ」のばあいは、仮にこれを9と取る。すなわち(k, g)(s, z)(t, d)(n)(p, b, h)(m, b, mb, np)(y)(r)(w)の9とする。また山名としては、山・岳・島・登・ヌプリ・峰などの文字を引き去った残りだけを取り扱うことにする。ただし、白山・月山はそのままに取る。また、シラブル〔音節。〕の終わりのnは除外することにする。
まず、歴史時代に噴火の記録のあるものだけについて見ると N(VC) = 8 である。(ただし硫黄、岩雄も iwo, iwao としてこの部分に算入する。すなわち、わざと都合の悪いほうを選ぶのである。)さすれば R = 4×9÷8 = 4.5 となる。少し虫のよい取り方をして硫黄、岩雄を Yuwo, Yuwao と見て除けば N(VC) = 4 となり、R = 9 となる。
つぎに消火山・活火山をもあわせて取り扱うばあいには、N'(VC) = 11 となり、R = 3.3 に減ずるが、硫黄・岩雄の頭がyなる子音だとして、このアソ型から除けば R = 5.1 となる。
つぎに Koma(駒が岳), Kaimon, Kume(久米島), Kimpu(Kib�), Kampu, Kombu, Kamui を取れば m = 7 である。このばあいは子音始まりで子音二つのばあいとして、一般の子音二つのものの数 N(CC) を求めると、消火山も入れてであるから N(CC) = 48 である。ここでも子音数をQとする偶然の確率は 1÷Q(Q-1)(ただし子音二つが異なるとして)であるから、
Q = 9, m = 7, N = 48 であれば R = 10.5 となる。活火山だけだと m = 2 なるかわりに N = 14 となるので、R = 10.3 でやはりほぼ同値となる。いずれにしても、偶然のばあいとは桁数がちがって多い。このばあいでも、一般の日本語に km なる結合のおこる確率を考慮に入れて補正すればよいが、これはしばらく省略するほかはない。しかしこれは現在のばあい、結果の桁数を変えるほどの影響がありそうもないことは、すこしあたってみてもわかると思う。
Turumi, Tarumai, Daruma のばあいは、活火山だけだとタルマイ一つ、すなわち m = 1 で統計価値があまりに少ないから、消火山も入れて n = 3 のばあいを考える。このばあいは子音三つであって、Nの最多数な場合である。それでもし、この場合の数 N(CCC) を現在の表中の火山の総数に等しいと取れば、これは結果のRを少なくするほうの取り方であるから、これで得られたRが大きければ、ほんとうはもっと大きいことになる。それで仮にそうしてみる。さすれば、このばあい N(CCC) = 167, m = 3、また子音三個の組み合わせの順列の数は 9×8×7 = 504 であるから、R = 3×504÷167 = 9.0 強となる。
鳥海山はトリノウミと言ったらしい形跡があるので、これも入れるとすると、Rはさらに四分の五倍だけに増すわけである。
つぎに問題になるのは F(H)uz(d, t)i, Hiuti, Kudy�, K�du(sima), Kuti(no sima) の類である。KとHは日本語でもしばしば転化するから、ここでは仮に同じと見て、つぎのような子音分類をする。すなわち(k, g, h, f)と(t, d, s, z)とを対立させると、子音群数は Q = 7 となる。このばあい N(CC) = 48 であって、m = 9(火山名略)であるから R = 7.6 となる。
つぎには Yuwoo, Yuwao, Yufu を取り、三つの「硫黄」を名とする火山を三つにかぞえると n = 5 となり、子音数9とすれば R = 5×72÷47 = 7.5 となる。
以上のばあいに得たRの価は、いずれも1に対して相当多いものである。したがって単なる偶然と見ることは少しむつかしく思われてくるのである。もちろん、これらが全部関係があるということはいわれないが、これらのうち若干は連関しているであろうということを暗示するには、じゅうぶんであると思う。それでもし偶然でないとすれば、以上にあげたような言語要素がいろいろな形で他の火山名の中にも現われていはしないかと思われる。また一方で、同じ要素が南洋その他の方面にありはしないかと思われる。また南洋の言語中には、従来の言語学者の説のごとく世界じゅうの言語が混合しているとすれば、逆に、遠い外国の意外のへんにも同じ要素が認められはしないかという疑いがおこる。それで試みに、同型の疑いのある火山名を次ページの表に列挙して、将来の参考に供しておきたいと思うのである。中には現在の形での意味がかなり明白だと思うのがあっても、仮に除かないで採録しておくことにする。(外国火山名はおもにウォルフによる。)
第一表 アソ・アサマ型
(本邦)(外国)
AsoUson(カムチャツカ)
UsuAssongsong(マリアナ)
Unsen, UnzenAzuay(南米)
EsanAsososco(中米)
Asur, Yasowa, Yosur, Yosua
Unsy�(阿蘇の峰名)(ニューヘブリディーズ)
�zy�( 〃 )
OsoreOssar(スマトラ)
Azul(南米)
RausuOsorno( 〃 )
RausiIzalco(中米)
RasyowaLesson(ニューギニア)
Lassen(カリフォルニア)
GwassanVesuvio(イタリア)
Bessan(白山の一峰)
Buson
Nasu
Kasa
Kesamaru
AsakusaAssatscha(カムチャツカ)
AsitakaAskja(アイスランド)
Asahi
Usisir(千島の宇志知)
AsamaKara Assam(スンダ)
Aduma, AzumaPasaman Telamen(スマトラ)
Pasema( 〃 )
SanbeSoemoe(スマトラ)
SambonSemeroe(ジャヴァ)
SumonSoembing( 〃 )
Samasana(火焼島)Semongkron( 〃 )
ShumshuGl� Samalanga(スマトラ)
Shimshir(千島の新知)Samasate(中米)
Saba(西インド)
Izuna, IdunaEtna(イタリア)
Udone(このほかの at-, ad- 型略す)
第二表 ツルミ・タラ型
(本邦)(外国)
TurumiTjerimai(ジャヴァ)
DarumaTaroeb( 〃 )
TarumaiDelamen( 〃 )
Torinoumi(鳥海)Sahen Daroeman(サンギ)
Pasaman Telamen(スマトラ)
ChiripuTalla-ma-Kie�(ハルマヘラ)
ChiripoiTulabug(南米)
Patarabe, BeritaribeTalima( 〃 )
Toliman(中米)
Tara