寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Terada_Torahiko.jpg」、表紙写真は「ファイル:Shin-moe Eruption 2011」より。


もくじ 
地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
地震雑感
静岡地震被害見学記
小爆発二件

オリジナル版
地震雑感
静岡地震被害見学記
小爆発二件

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

*底本
地震雑感
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
初出:『大正大震火災誌』
   1924(大正13)年5月
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静岡地震被害見学記
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年版
初出:「婦人の友」
   1935年(昭和10年)9月1日
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card4391.html

小爆発二件
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第十巻」岩波書店
   1961(昭和36)年7月7日第1刷発行
初出:「文学」
   1935(昭和10年)11月
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NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html
NDC 分類:450(地球科学.地学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc450.html




地震雑感

寺田寅彦


   一 地震の概念

 地震というものの概念は、人々によってずいぶん著しくちがっている。理学者以外の世人にとっては、地震現象の心像はすべて自己の感覚を中心として見た展望図パースペクティヴにすぎない。震動の筋肉感や、耳に聞こゆる破壊的の音響や、眼に見える物体の動揺転落する光景などがもっとも直接なもので、これには不可抗的な自然の威力に対する本能的な畏怖いふが結合されている。これに付帯しては、地震の破壊作用の結果として生ずる災害の直接あるいは間接な見聞によって得らるる雑多な非系統的な知識と、それに関する各自の利害の念慮ねんりょや、社会的あるいは道徳的批判の構成などである。
 地震の科学的研究に従事する学者でも、前述のような自己本位の概念をもっていることはもちろんであるが、専門の科学上の立場から見た地震の概念はおのずからこれと異なったものでなければならない。
 もし、現在の物質科学が発達の極に達して、あらゆる分派の間の完全な融合が成立する日があるとすれば、その時には地震というものの科学的な概念は一つ、しかしてただ一つの定まったものでなければならないはずだと思われる。しかし現在のように科学というものの中に、たがいに連絡のよくとれていない各分科が併立して、各自の窮屈きゅうくつなせまい見地からうかがい得る範囲だけについていわゆる専門をとなえている間は、一つの現象の概念が科学的にも雑多であり、時としては互いに矛盾することさえあるのは当然である。
 地震を研究するには種々の方面がある。まず第一には純統計的の研究方面がある。この方面の研究者にとっては、一つ一つの地震は単に一つ一つのそろばんだまのようなものである。たとえ場合によっては地震の強度を分類することはあっても、結局は赤玉と黒玉とを区別するようなものである。第二には地震計測の方面がある。この方面の専攻者にとっては、地震というものはただ、地盤の複雑な運動である。これをなるべく忠実に、正確に記録すべき器械の考案や、また器械が理想的でない場合の記録の判断や、そういうことが主要な問題である。それから一歩を進むれば、震源地の判定というような問題にふれることにはなるが、さらにもう一歩を進めるところまでゆくひまのないのが通例である。この専門にとっては、地震というものと地震計の記象とはほとんど同意義シノニムである。ある外国の新聞に、今回の地震の地震計記象をかかげた下に Japanese Earthquake reduced to line. と題してあるのをおもしろいと思って見たが、実際、計測的研究者にとっては研究の対象は地震よりはむしろ「線になおした地震」であるともいわれる。
 第三に、地質学上の現象として地震を見るのもまた一つの見方である。
 この方面から考えると、地震というものの背景には、わが地球の外殻を構成している多様な地層の重畳ちょうじょうしたものがある。それが皺曲しゅうきょくや断層や、また地下溶岩の迸出へいしゅつによって生じた脈状、あるいはかたまり状の夾雑物きょうざつぶつによって複雑な構造物を形成している。その構造のいかなる部分にいかなる移動がおこったかが第一義的の問題である。したがって、その地質的変動によって生じた地震の波がいかなる波動であったかというようなことはむしろ、第二義以下の問題と見られる傾向がある。この方面の専門家にとっては、地震すなわち地変である。また、いわゆる震度の分布という問題についても、地質学上の見地からみればいわゆる「地盤」ということを、ただ地質学的の意味にのみ解釈することはもちろんのことである。
 第四には、物理学者の見た地震というものがある。この方の専門的な立場からみれば、地震というものは、地球と称する、弾性体でできた球の表面に近き一点に、ある簡単な運動がおこって、そこから各種の弾性波が伝播でんぱする現象にほかならぬのである。そして実際、多くの場合に均質な完全弾性体に、簡単なる境界条件を与えた場合の可逆的な変化について考察をくだすにすぎないのである。物理学上の法則には誤りはないはずであっても、これを応用すべき具体的の「場合」の前提とすべき与件の判定は、往々にして純正物理学の範囲を超越する。それゆえに物理学者の考える地震というものは結局、物理学のメガネをかして見得るだけのものにすぎない。
 同じく科学者と称する人々の中でも、各自の専門に応じて地震というものの対象がかくのごとく区々まちまちである。これは要するに、まだ本当の意味での地震学というものが成立していないことを意味するのではあるまいか。各種の方面の学者は、ただ地震現象の個々の断面を見ているにすぎないのではあるまいか。
 これらのあらゆる断面を総合して地震現象の全体を把握することが、地震学の使命でなくてはならない。もちろん、現在少数の地震学者はとうにこの種の総合に努力し、すでにいくぶんの成果をもたらしてはいるが、各断面の完全な融合はこれを将来に待たなければならない。

   二 震源

 従来でも、ちょっとした地震のあるたびに、いわゆる震源あらそいの問題が日刊新聞紙上をにぎわすを常とした。これは当の地震学者はもちろん、すべての物理的科学者の苦笑の種となったものである。
 震源とは何を意味するか、また現在、震源を推定する方法がいかなるものであるかというようなことを多少でも心得ている人にとっては、新聞紙のいわゆる震源あらそいなるものがいかに無意味なものであるかを了解することができるはずである。
 震源の所在を知りたがる世人は、おそらく自分のうちに侵入した盗人ぬすっとをとらえたがると同様な心理状態にあるものと想像される。しかし第一に震源なるものが、それほど明確な単独性インディヴィジュアリティをもった個体と考えてよいか悪いかさえも疑いがある。のみならず、たとえいわゆる震源が四元幾何学的の一点に存在するものと仮定しても、また現在の地震計がどれほど完全であると仮定しても、複雑な地殻を通過してくる地震波の経路を判定すべき予備知識のきわめて貧弱な現在の地震学の力で、その点を方数里の区域内に確定することがどうしてできよう。
 いわんや、今回のごとき大地震の震源は、おそらく時と空間のある有限な範囲に不規則に分布された「震源群」であるかもしれない。そう思わせるだけの根拠は相当にある。そうだとすると、震源の位地を一小区域に限定することはおそらく絶望であり、また無意味であろう。観測材料のえらみ方によっていろいろの震源に到達するは、むしろ当然のことではあるまいか。今回、地震の本当の意味の震源を知るためには、今後、専門学者のゆっくりおちついた永い間の研究を待たなければなるまい。ことによると、永久に充分にはわからないで終わるかもしれない。

   三 地震の原因

 震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
 しかし、いかなる機巧メカニズムでその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力わいりょくなりが集積したためにおこったものであるという判断である。
 これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力わいりょくをおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
 問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
 地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚ひふ吹出物ふきでものだけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
 地殻の構造について吾人ごじんのすでに知り得たところは、はなはだ少ない。重力分布や垂直線偏差へんさから推測さるるイソスタシー〔アイソスタシー。地殻均衡。の状態、地殻潮汐ちょうせきや地震伝播でんぱの状況から推定さるる弾性分布などがわずかに、やや信ずべき条項をあたえているにすぎない。かくのごとく、直接観測し得らるべき与件の僅少きんしょうな問題にたいしては種々の学説や仮説が可能であり、また必要でもある。ウェーゲナーの大陸漂移説〔大陸移動説。や、最近ジョリー〔Joly, John か。の提出した、放射能性物質の熱によって地質学的輪廻りんね変化を説明する仮説のごときも、あながち単なる科学的ロマンスとして捨つべきものでないと思われる。今回地震の起因のごときも、これを前記の定説や仮説に照らして考究するは無用の業ではない。これによって少なくも有益な暗示を得、また将来研究すべき事項に想いいたるべき手がかりを得るのではあるまいか。
 地震だけを調べるのでは、地震の本体はわかりそうもない。

   四 地震の予報

 地震の予報は可能であるかという問題がしばしば提出される。これに対する答えは「予報」という言葉の解釈しだいでどうでもなる。もし、星学者が日食を予報すると同じような決定的デターミニスティクな意味でいうなら、私は不可能と答えたい。しかし、たとえば医師が重病患者の死期を予報するような意味においてならば、あるいは将来可能であろうと思う。しかし現在の地震学の状態では、それほどの予報すらも困難であると私は考えている。現在でやや可能と思われるのは、統計的の意味における予報である。たとえば地球上のある区域内に、むこう何年の間に約何回内外の地震がありそうであるというようなことは、適当な材料を基礎として言ってもさしつかえはないかもしれない。しかし、方数十里の地域におこるべき大地震の期日を、数年範囲の間に限定して予知し得るだけの科学的根拠が得られるか否かについては、私は根本的の疑いをいだいているものである。
 しかしこのことについては、かつて『現代之科学』誌上でくわしく論じたことがあるから、今さらにそれをくり返そうとは思わない。ただ、自然現象中には、決定的と統計的と二種類の区別があることに注意をうながしたい。この二つのものの区別は、かなりに本質的なものである。ポアンカレーの言葉を借りていわば、前者は原因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合にあたり、後者は原因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。
 一本の麻縄あさなわに、漸次ぜんじに徐々に強力を加えてゆくときにその張力が増すにしたがって、その切断の期待率は増加する。しかし、その切断の時間を「精密に」予報することはむつかしい。いわんや、その場所を予報することはさらに困難である。
 地震の場合はかならずしもこれと類型的ではないが、問題が統計的であることだけは共通である。のみならず、麻糸の場合よりはすべての事柄がさらに複雑であることはいうまでもない。
 由来、物理学者はデターミニストであった。したがって、すべての現象を決定的に予報しようと努力してきた。しかし、多分子的マルチ・モレキュラー現象に遭遇してやむをえず統計的の理論を導入した。統計的現象の存在は永久的の事実である。
 決定的、あるいは統計的の予報が可能であるとした場合に、その効果いかんということは別問題である。今ここに、このデリケートな問題を論じることは困難であり、また論じようと思わない。
 要は、予報の問題とは独立に、地球の災害を予防することにある。想うに、すくなくもある地質学的時代においては、おこりうべき地震の強さにはおのずからな最大限が存在するだろう。これは地殻そのものの構造から期待すべき根拠がある。そうだとすれば、この最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば、地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである。
 そういう設備の可能性は、少なくも予報の可能性よりは大きいように私には思われる。
 ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するということが、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だという人があらば、それはまた、まったく別の問題になる。そしてこれはじつに容易ならぬ問題である。この問題に対する国民や為政者の態度は、またその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度をうかがわしむる目標である。
(大正十三年(一九二四)五月『大正大震火災誌』



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
2011年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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静岡地震被害見学記

寺田寅彦


 昭和十年(一九三五)七月十一日午後五時二十五分ごろ、本州中部地方・関東地方から近畿地方東半部へかけて、かなりな地震が感ぜられた。静岡の南東久能山のうざんのふもとをめぐる二、三の村落や清水市の一部ではそうとう潰家つぶれやもあり人死ひとじにもあった。しかし、破壊的地震としてはきわめて局部的なものであって、せんだっての台湾地震などとは比較にならないほど小規模なものであった。
 新聞では、例によって話が大きく伝えられたようである。新聞編集者は、事実の客観的真相を忠実に伝えるというよりも、読者のために「感じを出す」ことの方により多く熱心である。それで自然、損害の一番ひどい局部だけをさがし歩いて、その写真を大きく紙面いっぱいに並べ立てるから、読者の受ける印象ではあたかも、静岡全市ならびに付近一帯が全部まるつぶれになったようなふうに漠然と感ぜられるのである。このように、読者をだますという悪意はすこしもなくて、しかも結果において読者をだますのが新聞のテクニックなのである。
 七月十四日の朝、東京駅発姫路行きに乗って被害の様子を見に行った。
 三島みしまあたりまで来ても、いっこうどこにも強震などあったらしい様子は見えない。静岡がまるつぶれになるほどなら、三島あたりでもこれほど無事なはずがなさそうに思われた。
 三島から青年団員が大勢乗り込んだ。ショベルやクワをさげた人もまじっている。静岡の復旧工事の応援に出かけるらしい。三等が満員になったので、団員の一部は二等客車へドヤドヤなだれこんだ。この直接行動のおかげで非常時気分がはじめて少しばかり感ぜられた。こうした場合の群集心理のいろいろの相が観察されておもしろかった。たとえば大勢の中にきっと一人くらいは「豪傑」がいて、わざと傍若無人にふるまって仲間や傍観者を笑わせたりハラハラさせるものである。
 富士駅ふじえき付近へくると、きわめてまれに棟瓦むながわらの一、二枚くらいこぼれ落ちているのが見えた。興津おきつまで来ても、だいたいその程度らしい。なんだかひどくだまされているような気がした。
 清水で下車して研究所の仲間といっしょになり、新聞でまっ先に紹介された岸壁破壊の跡を見に行った。途中ところどころ、家の柱のゆがんだのや壁の落ちたのが眼についた。木造二階家の玄関だけを石造にしたようなのが、木造部は平気であるのに、それにただ、そっともたせかけて建てた石造の部分がメチャメチャにこわれ落ちていた。これははじめからちょっとした地震で、かならずこわれ落ちるようにできているのである。
 岸壁が海の方へせりだして、その内側が陥没したので、そこに建て連ねた大倉庫の片側の柱が脚元をはらわれて傾いてしまっている。この岸壁も、よく見ると、ありふれた程度の強震でこのとおりにこわれなければならないようなふうの設計にはじめからできているように見える。設計者が日本に地震という現象のあることをつい忘れていたか、それとも設計を注文した資本家が経済上のつごうで、強い地震のくるまでは安全という設計で満足したのかもしれない。地震がすこし早く来すぎたのかもしれない。
 この岸壁だけを見ていると、実際、天柱てんちゅうはくだけ地軸も折れたかという感じが出るが、ここから半町とは離れない在来の地盤に建てたと思われる家はすこしも傾いてさえいないのである。天然はじつに正直なものである。
 久能山の上り口の右手にある寺の門がすこし傾き曲がり、境内の石灯籠いしどうろうが倒れていた。寺の堂内には年とった婦人が大勢集まって合唱をしていた。あわただしい復旧工事のさい、足手あしてまといで邪魔じゃまになるおばあさんたちが時を殺すためにここに寄っているのかという想像をしてみたが、事実はわからない。
 久能山麓を海岸に沿うて南へ行くにしたがって、損害が急に眼立ってきた。ひさしが波形に曲がったり垂れ落ちかかったり、障子紙がひとこまひとこま申し合わせたように同じ形にけたり、石垣の一番はしっこが口を開いたりするという程度から、だんだんひどくなって半潰家、潰家が見えだしてきた。屋根が軽くて骨組のじょうぶな家は、土台の上を横にすべり出していた。そうした損害のもっともひどい部分が、細長い帯状になってしばらく続くのである。どの家もどの家もみんな同じようにだいたい東向きにかたむき、またずれているのを見ると、ゆれ方が簡単であったことがわかる。関東地震などでは、とてもこんな簡単な現象は見られなかった。
 とある横町をちょっと山の方へ曲がり込んでみると、道に向かって倒れかかりそうになったある家に支柱をして、その支柱の脚元を固めるために、また別のつっかい棒がしてある。われわれ仲間でその支柱の仕方がはたしてどれだけ有効であろうかといったようなことを話し合っていたら、通りかかった人足風の二人連れが「アア、それですか、ぼくたちがやったんですよ」と言い捨てて通りぬけた。責任をあきらかにしたのである。
 この横町の奥にちょっとした神社があって、石の鳥居が折れ倒れ、石灯籠いしどうろうも倒れている。御手洗みたらしの屋根も横だおしになってつぶれている。
 この御手洗みたらしの屋根の四本の柱の根元ねもとを見ると、土台のコンクリートから鉄金棒が突き出ていて、それが木の根の柱の中軸に掘り込んだ穴にはまるようになっており、柱の根元ねもとを横に穿うがった穴にボルトを差し込むと、それが土台の金具を貫通して、それで柱の浮き上がるのを止めるというしかけになっていたものらしい。しかし柱の穴にはすっかり古い泥がつまっていて、ボルトなんかしてあった形跡が見えない。これは、設計ではすことになっていたのを、つい挿すのを忘れたのか、手をはぶいて略したのか、それともいったん挿してあったのを盗人かイタズラな子どもが抜き去ったか、いずれかであろうと思われた。このボルトがさしてあったら、たぶん、この屋根は倒れないですんだかもしれないと思われた。少なくも、子どもだけにはこんないたずらをさせないように家庭や小学校で教えるといいと思われた。
 これで思い出したのは、関東大震災のすぐあとで小田原の被害を見て歩いたとき、とある海岸の小祠しょうしで、めずらしく倒れないでちゃんとして直立している一対の石燈籠いしどうろうを発見して、どうも不思議だと思ってよく調べてみたら、台石から火袋ひぶくろをつらぬいて笠石かさいしまで達する鉄の大きな心棒しんぼうがはいっていた。こうした非常時の用心を何ごともない平時にしておくのは、いったい利口こうかバカか、それはどうともわばわれるであろうが、用心しておけばその効果のあらわれる日がいつかはくるという事実だけは間違いないようである。
 神社の大きな樹の下に角テントが一つ張ってある。その屋根には静岡何某なにがし小学校と大きく書いてある。その下に、小さな子どもが二、三十人も集まっておとなしく座っている。その前にすえた机の上にのせたポータブルの蓄音機から、何かは知らないが童謡らしいメロディーが陽気に流れ出している。若い婦人で小学校の先生らしいのが両腕でものを抱えるようなかっこうをして拍子をとっている。まだ幼稚園へも行かれないような幼児が多いが、みんな一生懸命に傾聴している。もちろん鼻汁をたらしているのもある。とにかく震災地とは思われない長閑のどかな光景であるが、またしかし、震災地でなければ見られない臨時応急の「託児所」の光景であった。
 この幼い子どもたちのうちには、わが家がつぶれ、また焼かれ、親兄弟に死傷のあったようなのもいるであろうが、そういう子らがずっと大きくなって後に当時を想い出すとき、この閑寂かんじゃくで清涼な神社の境内のテントの下で、蓄音機の童謡にきほれたあの若干時間の印象がそうとう鮮明に記憶に浮きあがってくることであろうと思われた。
 平松から大谷おおやの町へかけて被害のもっともひどい区域は通行止めで、公務以外の見物人の通行を止めていた。救護隊の屯所とんしょなどもできて白衣の天使や警官が往来し、なんとなく物々ものものしい気分がただよっていた。
 山すその小川にそった村落のせまい帯状の地帯だけがひどく損害を受けているのは、特別な地形・地質のために生じた地震波の干渉にでもよるのか、ともかくも何か物理的にはっきりした意味のある現象であろうと思われたが、それは別問題として、ちょうど正にそういうところに村落と街道ができていたということにも、なにか人間対自然の関係を支配する未知の法則に支配された、必然な理由があるであろうと思われた。故日下部くさかべ博士〔日下部四郎太か。が昔、ある学会で、文明と地震との関係を論じたあの奇抜な所説を想い出させられた。高松というところの村はずれにあるる神社で、社前の鳥居の一本の石柱は他所よそのと同じく東の方へたおれているのに、他の一本はまったく別の向きにたおれているので、どうもおかしいと思って話し合っていると、居あわせた小学生が、それもやはり東にたおれていたのを、通行の邪魔じゃまになるから取りかたづけたのだとって教えてくれた。
 関東地震のあとで鎌倉の被害を見て歩いたとき、光明寺こうみょうじの境内にあるる碑石が後ろ向きに立っているのを変だと思って、故田丸先生と「研究」していたら、いあわせた土地の老人が、それは一度たおれたのを人夫がひきおこしててるとき間違えて後ろ向きにたてたのだと教えてくれた。うっかり「地震による碑石の回転について」といったような論文の材料にでもしてこじつけの数式をこねまわしでもすると、あとでとんだ恥をかくところであった。実験室ばかりで仕事をしている学者たちはめったにひっかかる危険のないようなこうした種類の係蹄わなが、ときどき「天然」の研究者の行く手にまちぶせしているのである。
 静岡へのバスは、われわれ一行が乗ったので満員になった。途中で待っていたお客に対して運転手がいちいちていねいに、どうも気の毒だがご覧のとおりいっぱいだからとって、本当に気の毒そうに詫言わびごとっている。東京などでは見られない図である。たぶんそれらのお客と運転手とはお互いに「人」として知り合っているせいであろう。東京では運転手は器械の一部であり、乗客は荷重であるにすぎない。したがって詫言わびごとなどはおよそ無用な勢力の浪費である。
 この辺りの植物景観が関東平野のそれと著しくちがうのが眼につく。民家の垣根にまきを植えたのが多く、東京あたりならしいを植えるところにくすかと思われる樹が見られたりした。茶畑というものも独特な「感覚」のあるものである。あのカマボコなりに並んだ茶の樹の丸くふくらんだ頭を手でなでて通りたいような誘惑を感じる。
 静岡へついて見ると、全滅したはずの市街は一見したところ何ごともなかったように見える。停車場前の百貨店の食堂の窓から駿河湾の眺望と涼風すずかぜを享楽しながら食事をしている市民たちの顔にも、非常時らしい緊張は見られなかった。屋上から見渡すと、なるほど、ところどころに棟瓦むながわらの揺り落されたのが指摘された。
 停車場近くの神社で花崗石みかげいしの石の鳥居が両方の柱ともみごとに折れて、その折れ口が同じ傾斜角度を示して、同じ向きに折れていて、おまけに二つの折れ目の断面がほぼ同平面に近かった。これが一行の学者たちの問題になった。天然の実験室でなければこんな高価な「実験」はめったにできないから、貧乏な学者にとって、こうしたデータは絶好の研究資料になるのである。
 同じ社内にある小さい石の鳥居が無難である。この石はなんだろうとっていたら、いあわせた土地のおじさんが「これは伊豆の六方石ろっぽうせきですよ」と教えてくれた。なるほど玄武岩の天然の六方柱をつかったものである。天然の作ったものの強い一例かもしれない。
 おほりの石垣がすこしくずれ、その対岸の道路の崖もくずれている。人工物の弱い例である。しかし崖にった電柱のところで崩壊の伝播でんぱが食い止められているように見える。理由はまだよくわからないが、ことによるとこれは、人工物の弱さを人工で補強することのできる一例ではないかと思われた。両岸の崩壊箇所が向かい合っているのも、やはり意味があるらしい。
 県庁の入口に立っているレンガと石を積んだ門柱四本のうち、中央の二本の頭が折れて落ちくだけている。落ちている破片の量からみると、どうもこの二本は両わきの二本よりだいぶ高かったらしい。門番に聞くとはたしてそうであった。
 新築の市役所の前に青年団と見える一隊が整列して、誰かが訓示でもしているらしかったが、やがて一同ワアッと歓声をあげてトラックに乗り込み、風のごとくどこかへ行ってしまった。
 三島の青年団によってびおこされた自分の今日の地震気分は、この静岡市役所前の青年団の歓声によって終末を告げた。帰りの汽車で陰暦十四日の月をながめながら、一行の若い元気な学者たちと地球と人間とに関する雑談に汽車の東京に近づくのを忘れていた。「静岡」大震災見学の非科学的随筆記録を忘れぬうちに書きとめておくことにした。
(昭和十年(一九三五)九月『婦人之友』



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年版
初出:「婦人の友」
   1935年(昭和10年)9月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」
※単行本「橡の実」に収録。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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小爆発二件

寺田寅彦


 昭和十年(一九三五)八月四日の朝、信州しんしゅう軽井沢せんたきグリーンホテルの三階の食堂で朝食を食って、それからあの見晴らしのいいバルコニーに出てゆっくり休息するつもりで煙草たばこに点火したとたんに、なんだかけたたましい爆音が聞こえた。「ドカン、ドカドカ、ドカーン」といったような不規則なリズムをきざんだ爆音がわずか二、三秒間に完了して、そのあとに「ゴー」と、ちょうど雷鳴の反響のような余韻が二、三秒ぐらい続き、しだいに減衰しながら南の山すそのほうに消えていった。大砲の音やガス容器の爆発の音などとはまったくちがった種類の音で、しいて似よった音をさがせば、「はっぱ」すなわちダイナマイトで岩山を破砕はさいする音がそれである。「ドカーン」というカナ文字であらわされるような爆音の中に、もっと鋭い、どぎつい、「ガー」とか「ギャー」とかいったような、たとえばシャヴェルで敷居の面をひっかくような、そういう感じの音がまじっていた。それがなんだかどなりつけるか、また、しかりとばしでもするような強烈なアクセントで天地に鳴り響いたのであった。
 やっぱり浅間あさまが爆発したのだろうと思ってすぐにホテルの西側の屋上バルコニーへ出て浅間のほうをながめたが、あいにく山頂には密雲みつうんのヴェールがひっかかっていて何も見えない。しかし、山頂から視角にしてほぼ十度ぐらいから以上の空はよく晴れていたから、今に噴煙の頭が出現するだろうと思ってしばらく注意して見守っていると、まもなく特徴あるカリフラワー形の噴煙の円頂が山をおおう雲帽の上にもくもくとわきあがって、それがみるみる威勢よく直上していった。上昇速度は、目測の結果からあとで推算したところでは毎秒五、六十メートル、すなわち台風で観測される最大速度と同程度のものであったらしい。
 煙の柱の外側のはだはカリフラワー形に細かい凹凸おうとつきざまれていて、内部の擾乱じょうらん渦動かどうの劇烈なことを示している。そうして、従来見た火山の噴煙とくらべて著しい特徴と思われたのは、噴煙の色がただの黒灰色でなくて、その上にかなり顕著な、たとえばレンガの色のような赤褐色せきかっしょくをおびていることであった。
 高く上がるにつれて、頂上の部分のカリフラワー形の粒だった凹凸おうとつが減じてゆくのは、上昇速度の減少につれて擾乱じょうらん渦動の衰えることを示すと思われた。同時に煙の色が白っぽくなって、形も普通の積乱雲の頂部に似てきた。そうしてたとえばシイタケのかさを何枚か積み重ねたようなかっこうをしていて、そのかさの縁がとくに白く、その裏のまくれこんだ内側が暗灰色にくまどられている。これはあきらかに、噴煙の頭に大きな渦環ヴォーテックスリングが重畳していることを示すと思われた。
 仰角ぎょうかくから推算して高さ七、八キロメートルまでのぼったと思われるころから頂部の煙が東南になびいて、ちょうど自分たちの頭上の方向に流れてきた。
 ホテルの帳場ちょうばで勘定をすませて玄関へ出てみたら、灰が降りはじめていた。爆発から約十五分ぐらいたったころであったと思う。ふもとのほうからむかいにきた自動車の前面のガラス窓に、降灰がまばらな絣模様かすりもようを描いていた。
 山をおりる途中で出会った土方どかたらの中には、目に入った灰を片手でこすりながら歩いているのもあった。荷車をひいた馬が、異常に低く首をたれて歩いているように見えた。避暑客の往来もまったく絶えているようであった。
 星野ほしの温泉へいてみると地面はもう相当、色が変わるくらい灰が降り積もっている。草原の上に干してあった合羽かっぱの上には、約一ミリか二ミリの厚さに積もっていた。
 庭のヒバの手入れをしていた植木屋たちは、しかし平気で何ごともおこっていないような顔をして仕事を続けていた。
 池の水がいつもとちがって白っぽくにごっている。その表面に小雨でも降っているかのように細かい波紋が現滅していた。
 こんな微量な降灰で、空もべつに暗いというほどでもないのであるが、しかし、いつもの雨ではなくて灰が降っているのだという意識が、周囲の見慣れた景色けしきを一種、不思議な凄涼せいりょう雰囲気ふんいきで色どるように思われた。宿屋も別荘もしんとして静まり返っているような気がした。
 八時半ごろ、すなわち爆発から約一時間後にはもう降灰は完全にやんでいた。九時ごろに出て空をあおいで見たら、黒い噴煙の流れはもう見られないで、そのかわりに青白いタバコの薄けむりのようなものが、浅間のほうから東南の空に向かってゆるやかに流れていくのが見えた。最初の爆発にはあんなに多量の水蒸気を噴出したのが、一時間半後にはもうあまり水蒸気を含まない硫煙りゅうえんのようなものを噴出しているという事実が、自分にはひどく不思議に思われた。この事実から考えると、最初に出るあの多量の水蒸気は主として火口の表層に含まれていた水から生じたもので、爆発の原動力をなしたと思われる深層からのガスは、案外、水分の少ないものではないかという疑いがおこった。しかしこれは、もっとよく研究してみなければほんとうのことはわからない。
 降灰をそっとピンセットの先でしゃくいあげて二十倍の双眼顕微鏡でのぞいて見ると、その一粒一粒の心核には多稜形たりょうけい岩片がんぺんがあって、その表面には微細な灰粒がたとえていえばすぎの葉のように、あるいはまた霧氷のような形に付着している。それがちょっとつまようじの先でさわってもすぐこぼれおちるほど、やわらかい海綿状の集塊しゅうかいとなって心核の表面に付着し被覆しているのである。ただの灰のかたまりが降るとばかり思っていた自分には、この事実がめずらしく不思議に思われた。灰の微粒と心核の石粒とでは周囲の気流に対する落下速度が著しくちがうから、この両者は空中でたびたび衝突するであろうが、それがふたたび反発しないでそのまま膠着こうちゃくしてこんな形に生長するためには、何かそれだけの機巧メカニズムがなければならない。
 その機巧メカニズムとしては物理的また化学的にいろいろな可能性が考えられるのであるが、それもほんとうのことはいろいろ実験的研究を重ねたうえでなければわからない、将来の問題であろうと思われた。
 一度、浅間あさまの爆発を実見したいと思っていた念願が、これで偶然にとげられたわけである。浅間観測所の水上みなかみ〔水上武か。理学士に聞いたところでは、この日の爆発は四月二十日はつかの大爆発以来おこった多数の小爆発の中で、その強度の等級にしてまず十番目くらいのものだそうである。そのくらいの小爆発であったせいでもあろうが、自分のこの現象に対する感じはむしろ単純な機械的なものであって、神秘的とか驚異的とかいった気持ちは割合に少なかった。人間が爆発物で岩山を破壊しているあの仕事の、すこし大じかけのものだというような印象であった。しかし、これは火口から七キロメートルをへだてた安全地帯から見たからのことであって、万一、火口の近くにでもいたら、直径一メートルもあるようなまっ赤に焼けた石が落下してきて、数分時間内に生命をうしなったことは確実であろう。
 十時すぎの汽車で帰京しようとして沓掛くつかけ駅で待ち合わせていたら、今、浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて、駅員が爆発当時の模様を聞きとっていた。爆発当時、その学生はもう小浅間こあさまのふもとまでおりていたから、なんのことはなかったそうである。そのとき、別に四人連れの登山者が登山道をのぼりかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なに、なんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生が、さもうけあったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いや、どうもありがとう」と言いながら何か書きとめていた手帳をかくしにおさめた。
 ものをこわがらなすぎたり、こわがりすぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。

 八月十七日の午後五時半ごろに、また爆発があった。そのとき自分は、星野ほしの温泉別館の南向きのベランダで顕微鏡をのぞいていたが、爆音も気づかず、また気波も感じなかった。しかし本館のほうにいた水上みなかみ理学士は、障子にあたってゆれる気波を感知したそうである。また、自分たちの家の裏の丘上の別荘にいた人は爆音を聞き、そのあとで岩のくずれ落ちるような物すごい物音がしばらく持続して鳴り響くのを聞いたそうである。あいにく山が雲で隠れていて星野のほうからは噴煙は見えなかったし、降灰も認められなかった。
 翌日の『東京新聞』で見ると、四月二十日はつか以来の最大の爆発で噴煙が六里の高さにのぼったとあるが、これは信じられない。素人しろうとのゴシップをそのままに伝えた、いつもの新聞のうそであろう。この日の降灰は、風向きの北がかっていたために御代田みよた小諸こもろ方面に降ったそうで、これはまったくめずらしいことであった。
 当時、北軽井沢きたかるいざわで目撃した人々の話では、噴煙がよく見え、岩塊のふき上げられるのもいくつか認められ、また煙柱をつづる放電現象も明瞭めいりょうに見られたそうである。爆音も相当に強く明瞭に聞かれ、その音の性質は、自分が八月四日にせんたきで聞いたものとほぼ同種のものであったらしい。噴煙の達した高さは、目撃者の仰角ぎょうかくの記憶と山への距離とから判断して、やはり約十キロメートル程度であったものと推算される。おもしろいことには、噴出の始まったころは火山の頂きをおおっていた雲がまもなく消散して、山頂がはっきり見えてきたそうである。偶然の一致かもしれないが爆発の影響とも考えられないことはない。今後、注意すべき現象の一つであろう。
 グリーンホテルでは、この日の爆音は八月四日のにくらべて比較にならぬほど弱くて気のつかなかった人も多かったそうである。
 火山の爆音の異常いじょう伝播でんぱについては、大森おおもり博士〔大森房吉か。の調査以来、藤原ふじわら博士〔藤原咲平さくへいか。の理論的研究をはじめとして内外学者のくわしい研究がいろいろあるが、しかし、こんなに火山に近い小区域で、こんなに音の強度に異同のあるのはむしろ意外に思われた。ここにも未来の学者に残された問題がありそうに思われる。
 この日、みね茶屋ちゃや近くで採集した降灰の標本というのを、植物学者のK氏に見せてもらった。霧の中を降ってきたそうで、みんなぐしょぐしょにぬれていた。そのせいか、八月四日の降灰のような特異な海綿状の灰の被覆物は見られなかった。あるいは時によって降灰の構造がちがうのかもしれないと思われた。
 翌十八日午後、峰の茶屋からグリーンホテルへおりる専用道路を歩いていたら、きわめてかすかな灰が降ってきた。降るのは見えないが、ときどき目の中に入って刺激するので気がついた。子どもの服の白いえりにかすかな灰色の斑点はんてんを示すくらいのもので、心核の石粒などは見えなかった。
 ひと口に降灰とはいっても、降る時と場所とでこんなにいろいろの形態の変化を示すのである。軽井沢かるいざわ一帯を一メートル以上の厚さにおおっているあのエンドウだいの軽石の粒も、普通の記録ではやはり降灰の一種とよばれるであろう。
 毎回の爆発でも単にその全エネルギーに差等さとうがあるばかりでなく、その爆発の型にもかなりいろいろな差別があるらしい。しかしそれが新聞にかぎらず世人の言葉では、みんなただの「爆発」になってしまう。言葉というものはまったく調法なものであるが、また一方から考えるとじつにたよりないものである。「人殺し」「心中」などでも同様である。
 しかし、火山の爆発だけは、今にもうすこし火山に関する研究が進んだら、爆発の型と等級の分類ができて、今日のはA型第三級とか、昨日のはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある。
 S型三六号の心中やP型二四七号の人殺しが新聞で報ぜられる時代もこないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを想像することは困難である。
 少なくも現代の雑誌の「創作欄」を飾っているような、あたまの粗雑さを成立条件とする種類の文学はなくなるかもしれないという気がする。
(昭和十年(一九三五)十一月、文学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第十巻」岩波書店
   1961(昭和36)年7月7日第1刷発行
※「駅員は急におごそかな表情をして」の箇所は、底本では「駅員は急におごそなか表情をして」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
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地震雑感

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)展望図《パースペクティヴ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)地|辷《すべ》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]一 地震の概念[#「一 地震の概念」は中見出し]
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[#6字下げ]一 地震の概念[#「一 地震の概念」は中見出し]

 地震というものの概念は人々によってずいぶん著しくちがっている。理学者以外の世人にとっては、地震現象の心像はすべて自己の感覚を中心として見た展望図《パースペクティヴ》に過ぎない。震動の筋肉感や、耳に聞こゆる破壊的の音響や、眼に見える物体の動揺転落する光景などが最も直接なもので、これには不可抗的な自然の威力に対する本能的な畏怖が結合されている。これに附帯しては、地震の破壊作用の結果として生ずる災害の直接あるいは間接な見聞によって得らるる雑多な非系統的な知識と、それに関する各自の利害の念慮や、社会的あるいは道徳的批判の構成等である。
 地震の科学的研究に従事する学者でも前述のような自己本位の概念をもっていることは勿論であるが、専門の科学上の立場から見た地震の概念は自ずからこれと異なったものでなければならない。
 もし現在の物質科学が発達の極に達して、あらゆる分派の間の完全な融合が成立する日があるとすれば、その時には地震というものの科学的な概念は一つ、而《しか》してただ一つの定まったものでなければならないはずだと思われる。しかし現在のように科学というものの中に、互いに連絡のよくとれていない各分科が併立して、各自の窮屈な狭い見地から覗《うかが》い得る範囲だけについていわゆる専門を称《とな》えている間は、一つの現象の概念が科学的にも雑多であり、時としては互いに矛盾する事さえあるのは当然である。
 地震を研究するには種々の方面がある。先ず第一には純統計的の研究方面がある。この方面の研究者にとっては一つ一つの地震は単に一つ一つの算盤玉《そろばんだま》のようなものである、たとえ場合によっては地震の強度を分類する事はあっても、結局は赤玉と黒玉とを区別するようなものである。第二には地震計測の方面がある。この方面の専攻者にとっては、地震というものはただ地盤の複雑な運動である。これをなるべく[#「なるべく」に傍点]忠実に正確に記録すべき器械の考案や、また器械が理想的でない場合の記録の判断や、そういう事が主要な問題である。それから一歩を進むれば、震源地の判定というような問題に触れる事にはなるが、更にもう一歩を進めるところまで行く暇のないのが通例である。この専門にとっては、地震というものと地震計の記象とはほとんど同意義《シノニム》である。ある外国の新聞に今回の地震の地震計記象を掲げた下に Japanese Earthquake reduced to line. と題してあるのを面白いと思って見たが、実際計測的研究者にとっては研究の対象は地震よりはむしろ「線に直した地震」であるとも云われる。
 第三に地質学上の現象として地震を見るのもまた一つの見方である。
 この方面から考えると、地震というものの背景には我地球の外殻を構成している多様な地層の重畳したものがある。それが皺曲《しゅうきょく》や断層やまた地下熔岩の迸出《へいしゅつ》によって生じた脈状あるいは塊状の夾雑物《きょうざつぶつ》によって複雑な構造物を形成している。その構造の如何なる部分に如何なる移動が起ったかが第一義的の問題である。従ってその地質的変動によって生じた地震の波が如何なる波動であったかというような事はむしろ第二義以下の問題と見られる傾向がある。この方面の専門家にとっては地震即地変である。またいわゆる震度の分布という問題についても地質学上の見地から見ればいわゆる「地盤」という事をただ地質学的の意味にのみ解釈する事は勿論の事である。
 第四には物理学者の見た地震というものがる。この方の専門的な立場から見れば、地震というものは、地球と称する、弾性体で出来た球の表面に近き一点に、ある簡単な運動が起って、そこから各種の弾性波が伝播する現象に外ならぬのである。そして実際多くの場合に均質な完全弾性体に簡単なる境界条件を与えた場合の可逆的な変化について考察を下すに過ぎないのである。物理学上の方則には誤りはないはずであっても、これを応用すべき具体的の「場合」の前提とすべき与件の判定は往々にして純正物理学の範囲を超越する。それ故に物理学者の考える地震というものは結局物理学の眼鏡を透して見得るだけのものに過ぎない。
 同じく科学者と称する人々の中でも各自の専門に応じて地震というものの対象がかくのごとく区々《まちまち》である。これは要するにまだ本当の意味での地震学というものが成立していない事を意味するのではあるまいか。各種の方面の学者はただ地震現象の個々の断面を見ているに過ぎないのではあるまいか。
 これらのあらゆる断面を綜合して地震現象の全体を把握する事が地震学の使命でなくてはならない。勿論、現在少数の地震学者はとうにこの種の綜合に努力し、既に幾分の成果を齎《もたら》してはいるが、各断面の完全な融合はこれを将来に待たなければならない。

[#6字下げ]二 震源[#「二 震源」は中見出し]

 従来でもちょっとした地震のある度にいわゆる震源争いの問題が日刊新聞紙上を賑わすを常とした。これは当の地震学者は勿論すべての物理的科学者の苦笑の種となったものである。
 震源とは何を意味するか、また現在震源を推定する方法が如何なるものであるかというような事を多少でも心得ている人にとっては、新聞紙のいわゆる震源争いなるものが如何に無意味なものであるかを了解する事が出来るはずである。
 震源の所在を知りたがる世人は、おそらく自分の宅《うち》に侵入した盗人を捕えたがると同様な心理状態にあるものと想像される。しかし第一に震源なるものがそれほど明確な単独性《インディヴィジュアリティ》をもった個体と考えてよいか悪いかさえも疑いがある、のみならず、たとえいわゆる震源が四元幾何学的の一点に存在するものと仮定しても、また現在の地震計がどれほど完全であると仮定しても、複雑な地殻を通過して来る地震波の経路を判定すべき予備知識の極めて貧弱な現在の地震学の力で、その点を方数里の区域内に確定する事がどうして出来よう。
 いわんや今回のごとき大地震の震源はおそらく時と空間のある有限な範囲に不規則に分布された「震源群」であるかもしれない。そう思わせるだけの根拠は相当にある。そうだとすると、震源の位地を一小区域に限定する事はおそらく絶望でありまた無意味であろう。観測材料の選み方によって色々の震源に到達するはむしろ当然の事ではあるまいか。今回地震の本当の意味の震源を知るためには今後専門学者のゆっくり落着いた永い間の研究を待たなければなるまい。事によると永久に充分には分らないで終るかもしれない。

[#6字下げ]三 地震の源因[#「三 地震の源因」は中見出し]

 震災の源因という言語は色々に解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地|辷《すべ》りに起因するとかいうような事が一通り分れば、それで普通の源因追究慾が満足されるようである。そしてその上にその地辷りなら地辷りが如何なる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというような事が分ればそれで万事は解決されたごとく考える人もある。これは源因の第一段階である。
 しかし如何なる機巧《メカニズム》でその火山のその時の活動が起ったか、また如何なる力の作用でその地辷りを生じたかを考えてみる事は出来る。これに対する答としては更に色々な学説や臆説が提出され得る。これが源因の第二段階である。例えば地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力《わいりょく》なりが集積したために起ったものであるという判断である。
 これらの学説が仮りに正しいとした時に、更に次の問題が起る。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力を起すに到ったのは何故かという事である。これが源因の第三段階である。
 問題がここまで進んで来ると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学あるいは地球物理学の問題となって来るのである。
 地震の源因を追究して現象の心核に触れるがためには、結局ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理を明らかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、事によると、人体の生理を明らかにせずして単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究はすなわち地球特に地殻の研究という事になる。本当の地震学はこれを地球物理学の一章として見た時に始めて成立するものではあるまいか。
 地殻の構造について吾人《ごじん》の既に知り得たところは甚だ少ない。重力分布や垂直線偏差から推測さるるイソスタシーの状態、地殻|潮汐《ちょうせき》や地震伝播の状況から推定さるる弾性分布などがわずかにやや信ずべき条項を与えているに過ぎない。かくのごとく直接観測し得らるべき与件の僅少な問題にたいしては種々の学説や仮説が可能であり、また必要でもある。ウェーゲナーの大陸漂移説や、最近ジョリーの提出した、放射能性物質の熱によって地質学的|輪廻《りんね》変化を説明する仮説のごときも、あながち単なる科学的ロマンスとして捨つべきものでないと思われる。今回地震の起因のごときも、これを前記の定説や仮説に照らして考究するは無用の業ではない。これによって少なくも有益な暗示を得、また将来研究すべき事項に想い到るべき手懸りを得るのではあるまいか。
 地震だけを調べるのでは、地震の本体は分りそうもない。

[#6字下げ]四 地震の予報[#「四 地震の予報」は中見出し]

 地震の予報は可能であるかという問題がしばしば提出される。これに対する答は「予報」という言葉の解釈次第でどうでもなる。もし星学者が日蝕を予報すると同じような決定的《デターミニステイク》な意味でいうなら、私は不可能と答えたい。しかし例えば医師が重病患者の死期を予報するような意味においてならばあるいは将来可能であろうと思う。しかし現在の地震学の状態ではそれほどの予報すらも困難であると私は考えている。現在でやや可能と思われるのは統計的の意味における予報である。例えば地球上のある区域内に向う何年の間に約何回内外の地震がありそうであるというような事は、適当な材料を基礎として云っても差支えはないかもしれない。しかし方数十里の地域に起るべき大地震の期日を数年範囲の間に限定して予知し得るだけの科学的根拠が得られるか否かについては私は根本的の疑いを懐《いだ》いているものである。
 しかしこの事についてはかつて『現代之科学』誌上で詳しく論じた事があるから、今更にそれを繰返そうとは思わない。ただ自然現象中には決定的と統計的と二種類の区別がある事に注意を促したい。この二つのものの区別はかなりに本質的なものである。ポアンカレーの言葉を借りて云わば、前者は源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合に当り、後者は源因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。
 一本の麻縄に漸次に徐々に強力を加えて行く時にその張力が増すに従って、その切断の期待率は増加する。しかしその切断の時間を「精密に」予報する事は六《むつ》かしい、いわんやその場処を予報する事は更に困難である。
 地震の場合は必ずしもこれと類型的ではないが、問題が統計的である事だけは共通である。のみならず麻糸の場合よりはすべての事柄が更に複雑である事は云うまでもない。
 由来物理学者はデターミニストであった。従ってすべての現象を決定的に予報しようと努力して来た。しかし多分子的《マルティモレキュラー》現象に遭遇して止むを得ず統計的の理論を導入した。統計的現象の存在は永久的の事実である。
 決定的あるいは統計的の予報が可能であるとした場合に、その効果如何という事は別問題である。今ここにこのデリケートな問題を論じる事は困難であり、また論じようと思わない。
 要は、予報の問題とは独立に、地球の災害を予防する事にある。想うに、少なくもある地質学的時代においては、起り得べき地震の強さには自ずからな最大限が存在するだろう。これは地殻そのものの構造から期待すべき根拠がある。そうだとすれば、この最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである。
 そういう設備の可能性は、少なくも予報の可能性よりは大きいように私には思われる。
 ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するという事が、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だと云う人があらば、それはまた全く別の問題になる。そしてこれは実に容易ならぬ問題である。この問題に対する国民や為政者の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度を覗《うかが》わしむる目標である。[#地から1字上げ](大正十三年五月『大正大震火災誌』)



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
2011年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



静岡地震被害見学記

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)久能山《くのうざん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)南東|久能山《くのうざん》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十年九月『婦人之友』)
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 昭和十年七月十一日午後五時二十五分頃、本州中部地方関東地方から近畿地方東半部へかけてかなりな地震が感ぜられた。静岡の南東|久能山《くのうざん》の麓をめぐる二、三の村落や清水市の一部では相当|潰家《つぶれや》もあり人死《ひとじに》もあった。しかし破壊的地震としては極めて局部的なものであって、先達《せんだっ》ての台湾地震などとは比較にならないほど小規模なものであった。
 新聞では例によって話が大きく伝えられたようである。新聞編輯者は事実の客観的真相を忠実に伝えるというよりも読者のために「感じを出す」ことの方により多く熱心である。それで自然損害の一番ひどい局部だけを捜し歩いて、その写真を大きく紙面一杯に並べ立てるから、読者の受ける印象ではあたかも静岡全市並びに附近一帯が全部丸潰れになったような風に漠然と感ぜられるのである。このように、読者を欺すという悪意は少しもなくて、しかも結果において読者を欺すのが新聞のテクニックなのである。
 七月十四日の朝東京駅発姫路行に乗って被害の様子を見に行った。
 三島辺まで来ても一向どこにも強震などあったらしい様子は見えない。静岡が丸潰れになるほどなら三島あたりでもこれほど無事なはずがなさそうに思われた。
 三島から青年団員が大勢乗込んだ。ショベルや鍬《くわ》を提《さ》げた人も交じっている。静岡の復旧工事の応援に出かけるらしい。三等が満員になったので団員の一部は二等客車へどやどや雪崩《なだ》れ込んだ。この直接行動のおかげで非常時気分がはじめて少しばかり感ぜられた。こうした場合の群集心理の色々の相が観察されて面白かった。例えば大勢の中にきっと一人くらいは「豪傑」がいて、わざと傍若無人に振舞って仲間や傍観者を笑わせたりはらはらさせるものである。
 富士駅附近へ来ると極めて稀に棟瓦《むながわら》の一、二枚くらいこぼれ落ちているのが見えた。興津《おきつ》まで来ても大体その程度らしい。なんだかひどく欺されているような気がした。
 清水で下車して研究所の仲間と一緒になり、新聞で真先に紹介された岸壁破壊の跡を見に行った。途中ところどころ家の柱のゆがんだのや壁の落ちたのが眼についた。木造二階家の玄関だけを石造にしたようなのが、木造部は平気であるのに、それにただそっともたせかけて建てた石造の部分が滅茶滅茶に毀《こわ》れ落ちていた。これははじめからちょっとした地震で、必ず毀れ落ちるように出来ているのである。
 岸壁が海の方へせり出して、その内側が陥没したので、そこに建て連ねた大倉庫の片側の柱が脚元を払われて傾いてしまっている。この岸壁も、よく見ると、ありふれた程度の強震でこの通りに毀れなければならないような風の設計にはじめから出来ているように見える。設計者が日本に地震という現象のあることをつい忘れていたか、それとも設計を註文した資本家が経済上の都合で、強い地震の来るまでは安全という設計で満足したのかもしれない。地震が少し早く来過ぎたのかもしれない。
 この岸壁だけを見ていると、実際|天柱《てんちゅう》は摧《くだ》け地軸も折れたかという感じが出るが、ここから半町とは離れない在来の地盤に建てたと思われる家は少しも傾いてさえいないのである。天然は実に正直なものである。
 久能山の上り口の右手にある寺の門が少し傾き曲り境内の石燈籠が倒れていた。寺の堂内には年取った婦人が大勢集まって合唱をしていた。慌ただしい復旧工事の際|足手纏《あしてまと》いで邪魔になるお婆さん達が時を殺すためにここに寄っているのかという想像をしてみたが事実は分らない。
 久能山麓を海岸に沿うて南へ行くに従って損害が急に眼立って来た。庇《ひさし》が波形に曲ったり垂れ落ちかかったり、障子紙が一とこま一とこま申合わせたように同じ形に裂けたり、石垣の一番はしっこが口を開いたりするという程度からだんだんひどくなって半潰家、潰家が見え出して来た。屋根が軽くて骨組の丈夫な家は土台の上を横に辷《すべ》り出していた。そうした損害の最もひどい部分が細長い帯状になってしばらく続くのである。どの家もどの家もみんな同じように大体東向きに傾きまたずれているのを見ると揺れ方が簡単であった事が分る。関東地震などでは、とてもこんな簡単な現象は見られなかった。
 とある横町をちょっと山の方へ曲り込んでみると、道に向って倒れかかりそうになったある家に支柱をして、その支柱の脚元を固めるためにまた別のつっかい棒がしてある。吾々仲間でその支柱の仕方が果してどれだけ有効であろうかといったようなことを話し合っていたら、通りかかった人足風の二人連れが「アア、それですか、僕達がやったんですよ」と云い捨てて通り抜けた。責任を明らかにしたのである。
 この横町の奥にちょっとした神社があって、石の鳥居が折れ倒れ、石燈籠も倒れている。御手洗《みたらし》の屋根も横倒しになって潰れている。
 この御手洗の屋根の四本の柱の根元を見ると、土台のコンクリートから鉄金棒が突き出ていて、それが木の根の柱の中軸に掘込んだ穴にはまるようになっており、柱の根元を横に穿《うが》った穴にボルトを差込むとそれが土台の金具を貫通して、それで柱の浮上がるのを止めるという仕掛になっていたものらしい。しかし柱の穴にはすっかり古い泥がつまっていて、ボルトなんか挿してあった形跡が見えない。これは、設計では挿すことになっていたのを、つい挿すのを忘れたのか、手を省いて略したのか、それともいったん挿してあったのを盗人か悪戯《いたずら》な子供が抜き去ったか、いずれかであろうと思われた。このボルトが差してあったら多分この屋根は倒れないですんだかもしれないと思われた。少なくも子供だけにはこんないたずらをさせないように家庭や小学校で教えるといいと思われた。
 これで思い出したのは、関東大震災のすぐあとで小田原の被害を見て歩いたとき、とある海岸の小祠《しょうし》で、珍しく倒れないでちゃんとして直立している一対の石燈籠を発見して、どうも不思議だと思ってよく調べてみたら、台石から火袋《ひぶくろ》を貫いて笠石《かさいし》まで達する鉄の大きな心棒がはいっていた。こうした非常時の用心を何事もない平時にしておくのは一体利口か馬鹿か、それはどうとも云わば云われるであろうが、用心しておけばその効果の現われる日がいつかは来るという事実だけは間違いないようである。
 神社の大きな樹の下に角テントが一つ張ってある。その屋根には静岡何某小学校と大きく書いてある。その下に小さな子供が二、三十人も集まって大人しく坐っている。その前に据えた机の上にのせたポータブルの蓄音機から何かは知らないが童謡らしいメロディーが陽気に流れ出している。若い婦人で小学校の先生らしいのが両腕でものを抱えるような恰好をして拍子をとっている。まだ幼稚園へも行かれないような幼児が多いが、みんな一生懸命に傾聴している。勿論鼻汁を垂らしているのもある。とにかく震災地とは思われない長閑《のどか》な光景であるが、またしかし震災地でなければ見られない臨時応急の「託児所」の光景であった。
 この幼い子供達のうちには我家が潰れ、また焼かれ、親兄弟に死傷のあったようなのも居るであろうが、そういう子等がずっと大きくなって後に当時を想い出すとき、この閑寂で清涼な神社の境内のテントの下で蓄音機の童謡に聴惚《ききほ》れたあの若干時間の印象が相当鮮明に記憶に浮上がってくる事であろうと思われた。
 平松から大谷の町へかけて被害の最もひどい区域は通行止で公務以外の見物人の通行を止めていた。救護隊の屯所《とんしょ》なども出来て白衣の天使や警官が往来し何となく物々しい気分が漂っていた。
 山裾の小川に沿った村落の狭い帯状の地帯だけがひどく損害を受けているのは、特別な地形地質のために生じた地震波の干渉にでもよるのか、ともかくも何か物理的にはっきりした意味のある現象であろうと思われたが、それは別問題として、丁度正にそういう処に村落と街道が出来ていたという事にも何か人間対自然の関係を支配する未知の方則に支配された必然な理由があるであろうと思われた。故|日下部《くさかべ》博士が昔ある学会で文明と地震との関係を論じたあの奇抜な所説を想い出させられた。高松という処の村はずれにある或る神社で、社前の鳥居の一本の石柱は他所《よそ》のと同じく東の方へ倒れているのに他の一本は全く別の向きに倒れているので、どうも可笑《おか》しいと思って話し合っていると、居合わせた小学生が、それもやはり東に倒れていたのを、通行の邪魔になるから取片付けたのだと云って教えてくれた。
 関東地震のあとで鎌倉の被害を見て歩いたとき、光明寺の境内にある或る碑石が後向きに立っているのを変だと思って故田丸先生と「研究」していたら、居合わせた土地の老人が、それは一度倒れたのを人夫が引起して樹《た》てるとき間違えて後向きにたてたのだと教えてくれた。うっかり「地震による碑石の廻転について」といったような論文の材料にでもして故事付《こじつ》けの数式をこね廻しでもすると、あとでとんだ恥をかくところであった。実験室ばかりで仕事をしている学者達はめったに引っかかる危険のないようなこうした種類の係蹄《わな》が時々「天然」の研究者の行手に待伏せしているのである。
 静岡へのバスは吾々一行が乗ったので満員になった。途中で待っていたお客に対して運転手が一々丁寧に、どうも気の毒だが御覧の通り一杯だからと云って、本当に気の毒そうに詫言を云っている。東京などでは見られない図である。多分それらの御客と運転手とはお互いに「人」として知合っているせいであろう。東京では運転手は器械の一部であり、乗客は荷重であるに過ぎない、従って詫言などはおよそ無用な勢力の浪費である。
 この辺の植物景観が関東平野のそれと著しくちがうのが眼につく。民家の垣根に槙《まき》を植えたのが多く、東京辺なら椎を植える処に楠かと思われる樹が見られたりした。茶畑というものも独特な「感覚」のあるものである。あの蒲鉾《かまぼこ》なりに並んだ茶の樹の丸く膨らんだ頭を手で撫《な》でて通りたいような誘惑を感じる。
 静岡へ着いて見ると、全滅したはずの市街は一見したところ何事もなかったように見える。停車場前の百貨店の食堂の窓から駿河湾の眺望と涼風を享楽しながら食事をしている市民達の顔にも非常時らしい緊張は見られなかった。屋上から見渡すと、なるほど所々に棟瓦の揺り落されたのが指摘された。
 停車場近くの神社で花崗石《みかげいし》の石の鳥居が両方の柱とも見事に折れて、その折れ口が同じ傾斜角度を示して、同じ向きに折れていて、おまけに二つの折れ目の断面がほぼ同平面に近かった。これが一行の学者達の問題になった。天然の実験室でなければこんな高価な「実験」はめったに出来ないから、貧乏な学者にとって、こうしたデータは絶好の研究資料になるのである。
 同じ社内にある小さい石の鳥居が無難である。この石は何だろうと云っていたら、居合わせた土地のおじさんが「これは伊豆の六方石《ろっぽうせき》ですよ」と教えてくれた。なるほど玄武岩の天然の六方柱をつかったものである。天然の作ったものの強い一例かもしれない。
 御濠《おほり》の石垣が少しくずれ、その対岸の道路の崖もくずれている。人工物の弱い例である。しかし崖に樹《た》った電柱の処で崩壊の伝播《でんぱ》が喰い止められているように見える。理由はまだよく分らないが、ことによるとこれは人工物の弱さを人工で補強することの出来る一例ではないかと思われた。両岸の崩壊箇所が向かい合っているのもやはり意味があるらしい。
 県庁の入口に立っている煉瓦と石を積んだ門柱四本のうち中央の二本の頭が折れて落ち砕けている。落ちている破片の量から見ると、どうもこの二本は両脇の二本よりだいぶ高かったらしい。門番に聞くと果してそうであった。
 新築の市役所の前に青年団と見える一隊が整列して、誰かが訓示でもしているらしかったが、やがて一同わあっと歓声を揚げてトラックに乗込み風のごとくどこかへ行ってしまった。
 三島の青年団によって喚び起された自分の今日の地震気分は、この静岡市役所前の青年団の歓声によって終末を告げた。帰りの汽車で陰暦十四日の月を眺めながら一行の若い元気な学者達と地球と人間とに関する雑談に汽車の東京に近づくのを忘れていた。「静岡」大震災見学の非科学的随筆記録を忘れぬうちに書きとめておくことにした。[#地から1字上げ](昭和十年九月『婦人之友』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年版
初出:「婦人の友」
   1935年(昭和10年)9月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」。
※単行本「橡の実」に収録。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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小爆発二件

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)信州《しんしゅう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|浅間《あさま》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和十年十一月、文学)
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 昭和十年八月四日の朝、信州《しんしゅう》軽井沢《かるいざわ》千《せん》が滝《たき》グリーンホテルの三階の食堂で朝食を食って、それからあの見晴らしのいい露台に出てゆっくり休息するつもりで煙草《たばこ》に点火したとたんに、なんだかけたたましい爆音が聞こえた。「ドカン、ドカドカ、ドカーン」といったような不規則なリズムを刻んだ爆音がわずか二三秒間に完了して、そのあとに「ゴー」とちょうど雷鳴の反響のような余韻が二三秒ぐらい続き次第に減衰しながら南の山すそのほうに消えて行った。大砲の音やガス容器の爆発の音などとは全くちがった種類の音で、しいて似よった音をさがせば、「はっぱ」すなわちダイナマイトで岩山を破砕する音がそれである。「ドカーン」というかな文字で現わされるような爆音の中に、もっと鋭い、どぎつい、「ガー」とか「ギャー」とかいったような、たとえばシャヴェルで敷居の面を引っかくようなそういう感じの音がまじっていた。それがなんだかどなりつけるかまたしかり飛ばしでもするような強烈なアクセントで天地に鳴り響いたのであった。
 やっぱり浅間《あさま》が爆発したのだろうと思ってすぐにホテルの西側の屋上露台へ出て浅間のほうをながめたがあいにく山頂には密雲のヴェールがひっかかっていて何も見えない。しかし山頂から視角にしてほぼ十度ぐらいから以上の空はよく晴れていたから、今に噴煙の頭が出現するだろうと思ってしばらく注意して見守っていると、まもなく特徴ある花甘藍《コーリフラワー》形の噴煙の円頂が山をおおう雲帽の上にもくもくと沸き上がって、それが見る見る威勢よく直上して行った。上昇速度は目測の結果からあとで推算したところでは毎秒五六十メートル、すなわち台風で観測される最大速度と同程度のものであったらしい。
 煙の柱の外側の膚はコーリフラワー形に細かい凹凸《おうとつ》を刻まれていて内部の擾乱渦動《じょうらんかどう》の劇烈なことを示している。そうして、従来見た火山の噴煙と比べて著しい特徴と思われたのは噴煙の色がただの黒灰色でなくて、その上にかなり顕著なたとえば煉瓦《れんが》の色のような赤褐色《せきかっしょく》を帯びていることであった。
 高く上がるにつれて頂上の部分のコーリフラワー形の粒立った凹凸が減じて行くのは、上昇速度の減少につれて擾乱渦動の衰えることを示すと思われた。同時に煙の色が白っぽくなって形も普通の積乱雲の頂部に似て来た、そうしてたとえば椎蕈《しいたけ》の笠《かさ》を何枚か積み重ねたような格好をしていて、その笠の縁が特に白く、その裏のまくれ込んだ内側が暗灰色にくま取られている。これは明らかに噴煙の頭に大きな渦環《ヴォーテックスリング》が重畳していることを示すと思われた。
 仰角から推算して高さ七八キロメートルまでのぼったと思われるころから頂部の煙が東南になびいて、ちょうど自分たちの頭上の方向に流れて来た。
 ホテルの帳場で勘定をすませて玄関へ出て見たら灰が降り初めていた。爆発から約十五分ぐらいたったころであったと思う。ふもとのほうから迎いに来た自動車の前面のガラス窓に降灰がまばらな絣模様《かすりもよう》を描いていた。
 山をおりる途中で出会った土方らの中には目にはいった灰を片手でこすりながら歩いているのもあった。荷車を引いた馬が異常に低く首をたれて歩いているように見えた。避暑客の往来も全く絶えているようであった。
 星野温泉《ほしのおんせん》へ着いて見ると地面はもう相当色が変わるくらい灰が降り積もっている。草原の上に干してあった合羽《かっぱ》の上には約一ミリか二ミリの厚さに積もっていた。
 庭の檜葉《ひば》の手入れをしていた植木屋たちはしかし平気で何事も起こっていないような顔をして仕事を続けていた。
 池の水がいつもとちがって白っぽく濁っている、その表面に小雨でも降っているかのように細かい波紋が現滅していた。
 こんな微量な降灰で空も別に暗いというほどでもないのであるが、しかしいつもの雨ではなくて灰が降っているのだという意識が、周囲の見慣れた景色を一種不思議な淒涼《せいりょう》の雰囲気《ふんいき》で色どるように思われた。宿屋も別荘もしんとして静まり返っているような気がした。
 八時半ごろ、すなわち爆発から約一時間後にはもう降灰は完全にやんでいた。九時ごろに出て空を仰いで見たら黒い噴煙の流れはもう見られないで、そのかわりに青白い煙草《たばこ》の薄けむりのようなものが浅間のほうから東南の空に向かってゆるやかに流れて行くのが見えた。最初の爆発にはあんなに多量の水蒸気を噴出したのが、一時間半後にはもうあまり水蒸気を含まない硫煙のようなものを噴出しているという事実が自分にはひどく不思議に思われた。この事実から考えると最初に出るあの多量の水蒸気は主として火口の表層に含まれていた水から生じたもので、爆発の原動力をなしたと思われる深層からのガスは案外水分の少ないものではないかという疑いが起こった。しかしこれはもっとよく研究してみなければほんとうの事はわからない。
 降灰をそっとピンセットの先でしゃくい上げて二十倍の双眼顕微鏡でのぞいて見ると、その一粒一粒の心核には多稜形《たりょうけい》の岩片があって、その表面には微細な灰粒がたとえて言えば杉《すぎ》の葉のように、あるいはまた霧氷のような形に付着している。それがちょっとつま楊枝《ようじ》の先でさわってもすぐこぼれ落ちるほど柔らかい海綿状の集塊となって心核の表面に付着し被覆しているのである。ただの灰の塊《かたまり》が降るとばかり思っていた自分にはこの事実が珍しく不思議に思われた。灰の微粒と心核の石粒とでは周囲の気流に対する落下速度が著しくちがうから、この両者は空中でたびたび衝突するであろうが、それが再び反発しないでそのまま膠着《こうちゃく》してこんな形に生長するためには何かそれだけの機巧がなければならない。
 その機巧としては物理的また化学的にいろいろな可能性が考えられるのであるが、それもほんとうのことはいろいろ実験的研究を重ねた上でなければわからない将来の問題であろうと思われた。
 一度|浅間《あさま》の爆発を実見したいと思っていた念願がこれで偶然に遂げられたわけである。浅間観測所の水上《みなかみ》理学士に聞いたところでは、この日の爆発は四月|二十日《はつか》の大爆発以来起こった多数の小爆発の中でその強度の等級にしてまず十番目くらいのものだそうである。そのくらいの小爆発であったせいでもあろうが、自分のこの現象に対する感じはむしろ単純な機械的なものであって神秘的とか驚異的とかいった気持ちは割合に少なかった。人間が爆発物で岩山を破壊しているあの仕事の少し大仕掛けのものだというような印象であった。しかし、これは火口から七キロメートルを隔てた安全地帯から見たからのことであって、万一火口の近くにでもいたら直径一メートルもあるようなまっかに焼けた石が落下して来て数分時間内に生命をうしなったことは確実であろう。
 十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛《くつかけ》駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間《こあさま》のふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
 ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。

 八月十七日の午後五時半ごろにまた爆発があった。その時自分は星野温泉《ほしのおんせん》別館の南向きのベランダで顕微鏡をのぞいていたが、爆音も気づかず、また気波も感じなかった。しかし本館のほうにいた水上《みなかみ》理学士は障子にあたって揺れる気波を感知したそうである。また自分たちの家の裏の丘上の別荘にいた人は爆音を聞き、そのあとで岩のくずれ落ちるような物すごい物音がしばらく持続して鳴り響くのを聞いたそうである。あいにく山が雲で隠れていて星野のほうからは噴煙は見えなかったし、降灰も認められなかった。
 翌日の東京新聞で見ると、四月|二十日《はつか》以来の最大の爆発で噴煙が六里の高さにのぼったとあるが、これは信じられない。素人《しろうと》のゴシップをそのままに伝えたいつもの新聞のうそであろう。この日の降灰は風向の北がかっていたために御代田《みよた》や小諸《こもろ》方面に降ったそうで、これは全く珍しいことであった。
 当時|北軽井沢《きたかるいざわ》で目撃した人々の話では、噴煙がよく見え、岩塊のふき上げられるのもいくつか認められまた煙柱をつづる放電現象も明瞭《めいりょう》に見られたそうである。爆音も相当に強く明瞭に聞かれ、その音の性質は自分が八月四日に千《せん》が滝《たき》で聞いたものとほぼ同種のものであったらしい。噴煙の達した高さは目撃者の仰角の記憶と山への距離とから判断してやはり約十キロメートル程度であったものと推算される。おもしろいことには、噴出の始まったころは火山の頂をおおっていた雲がまもなく消散して山頂がはっきり見えて来たそうである。偶然の一致かもしれないが爆発の影響とも考えられないことはない。今後注意すべき現象の一つであろう。
 グリーンホテルではこの日の爆音は八月四日のに比べて比較にならぬほど弱くて気のつかなかった人も多かったそうである。
 火山の爆音の異常伝播《いじょうでんぱ》については大森《おおもり》博士の調査以来|藤原《ふじわら》博士の理論的研究をはじめとして内外学者の詳しい研究がいろいろあるが、しかし、こんなに火山に近い小区域で、こんなに音の強度に異同のあるのはむしろ意外に思われた。ここにも未来の学者に残された問題がありそうに思われる。
 この日|峰《みね》の茶屋《ちゃや》近くで採集した降灰の標本というのを植物学者のK氏に見せてもらった。霧の中を降って来たそうで、みんなぐしょぐしょにぬれていた。そのせいか、八月四日の降灰のような特異な海綿状の灰の被覆物は見られなかった。あるいは時によって降灰の構造がちがうのかもしれないと思われた。
 翌十八日午後峰の茶屋からグリーンホテルへおりる専用道路を歩いていたらきわめてかすかな灰が降って来た。降るのは見えないが時々目の中にはいって刺激するので気がついた。子供の服の白い襟《えり》にかすかな灰色の斑点《はんてん》を示すくらいのもので心核の石粒などは見えなかった。
 ひと口に降灰とは言っても降る時と場所とでこんなにいろいろの形態の変化を示すのである。軽井沢《かるいざわ》一帯を一メートル以上の厚さにおおっているあの豌豆大《えんどうだい》の軽石の粒も普通の記録ではやはり降灰の一種と呼ばれるであろう。
 毎回の爆発でも単にその全エネルギーに差等があるばかりでなく、その爆発の型にもかなりいろいろな差別があるらしい。しかしそれが新聞に限らず世人の言葉ではみんなただの「爆発」になってしまう。言葉というものは全く調法なものであるがまた一方から考えると実にたよりないものである。「人殺し」「心中」などでも同様である。
 しかし、火山の爆発だけは、今にもう少し火山に関する研究が進んだら爆発の型と等級の分類ができて、きょうのはA型第三級とかきのうのはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある。
 S型三六号の心中やP型二四七号の人殺しが新聞で報ぜられる時代も来ないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを想像することは困難である。
 少なくも現代の雑誌の「創作欄」を飾っているようなあたまの粗雑さを成立条件とする種類の文学はなくなるかもしれないという気がする。
[#地から3字上げ](昭和十年十一月、文学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第十巻」岩波書店
   1961(昭和36)年7月7日第1刷発行
※「駅員は急におごそかな表情をして」の箇所は、底本では「駅員は急におごそなか表情をして」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名


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[静岡県]
久能山 くのうざん 静岡市東部、有度山南麓の山。標高216メートル。1616年(元和2)徳川家康を葬る(翌年日光に改葬)。山頂に東照宮があり、南斜面は石垣イチゴの栽培で有名。補陀落山。
清水市 しみずし 静岡県中部(旧駿河国)にかつて存在した市。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分に当たる。2003年4月1日、静岡市(〜2003年3月)との合体合併(新設合併)により、新市制下の静岡市(2003年4月〜)の一部となった。
三島 みしま 静岡県東部の市。古代、伊豆国府および国分寺を置いた地。三島大社の門前町として発展。東海道五十三次の一つ。人口11万2千。
富士駅 ふじえき 静岡県富士市本町にある東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅。東海道本線と身延線が乗り入れている。
興津 おきつ 静岡市清水区の地名。東海道五十三次の一つ。東海道本線開通後、別荘地となった。清見寺がある。
平松 ひらまつ 
大谷 おおや 現、静岡市大谷か。
駿河湾 するがわん 静岡県東部、伊豆半島と御前崎とに抱かれる湾。沿岸より急に深さを増し、中央部は1000メートル以上となる。湾内は好漁場。

[神奈川県]
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
光明寺 こうみょうじ 鎌倉市材木座にある浄土宗の本山。良忠(1199〜1287)が鎌倉佐介谷に創建した悟真寺に始まり、蓮華寺を経て光明寺と改称して現在地に移る。十八檀林のうち最古の創建。
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[信州] しんしゅう
軽井沢 かるいざわ 長野県東部、北佐久郡にある避暑地。浅間山南東麓、標高950メートル前後。もと中山道碓氷峠西側の宿駅。
千が滝 せんがたき 千ヶ滝。現、軽井沢町千ヶ滝。
グリーンホテル
星野温泉 ほしの おんせん 長野県北佐久郡軽井沢町(旧国信濃国)にある温泉。古くは赤岩鉱泉と呼ばれ、草津温泉の仕上げ湯の一つであったと言われる。1913年(大正2年)に、製糸業を営んでいた星野嘉助により源泉ボーリングが行われ、高温源泉が開発されたことを期に開発者に因んで星野温泉と改名された。
浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568メートル。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)
沓掛 くつかけ 現、北佐久郡軽井沢町中軽井沢。
小浅間 こあさま 浅間山の寄生火山の一つ。
御代田 みよた 町名。北佐久郡の東部、浅間山の南麓。東は軽井沢町、西は小諸市、南は佐久市に接する。
小諸 こもろ 長野県東部、浅間山南西麓の市。もと牧野氏1万5000石の城下町、北国街道の宿駅。城址は懐古園という。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で名高い。人口4万5千。
北軽井沢 きたかるいざわ 浅間山北麓の一帯に位置する群馬県吾妻郡長野原町の地名。浅間山の黒い火山噴出物と一面に広がるカラマツ林が特徴的な高原リゾート地。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。すぐあとで小田原の被害を見て歩く。
一九二四(大正一三)五月 寺田寅彦「地震雑感」『大正大震火災誌』。
一九三五(昭和一〇)四月二〇日 浅間山大爆発。
一九三五(昭和一〇)七月一一日 午後五時二十五分ごろ、本州中部地方・関東地方から近畿地方東半部へかけて、かなりな地震。静岡の南東久能山のふもとをめぐる二、三の村落や清水市の一部ではそうとう潰家もあり人死もあった。
一九三五(昭和一〇)七月一四日 朝、東京駅発姫路行きに乗って被害の様子を見に行く。清水で下車、久能山、平松、大谷、静岡をめぐる。
一九三五(昭和一〇)八月四日 朝、信州軽井沢千が滝グリーンホテルで、浅間山の小爆発に遭遇。
一九三五(昭和一〇)八月一七日 午後五時半ごろ、また爆発。寺田は星野温泉別館にて気づかず。
一九三五(昭和一〇)九月 寺田寅彦(吉村冬彦)「静岡地震被害見学記」『婦人之友』。
一九三五(昭和一〇)一一月 寺田寅彦「小爆発二件」『文学』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
Alfred Lothar Wegener ウェーゲナー 1880-1930 ドイツの気象学者。1912年多くの証拠を集めて大陸移動説を提唱。著「大陸と海洋の起源」
Joly, John ジョリー 1857-1933 アイルランド生まれ。1909年、放射性物質の熱の役割を重視し、24年、熱の放散と蓄積の周期性を地殻変動の周期性に結びつけ、有名な地殻変動の熱的輪廻説を発表した。(地学)
Henri Poincar ポアンカレ 1854-1912 フランスの数学者。数論・関数論・微分方程式・位相幾何学のほか天体力学および物理数学・電磁気についても卓抜な研究を行い、また、マッハの流れをくむ実証主義の立場から科学批判を展開。主著「天体力学」
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日下部 → 日下部四郎太か
日下部四郎太 くさかべ しろうた 1875-1924 物理学者。東北帝大教授。岩石の弾性の研究、物理学、地震学に貢献。(人レ)
田丸先生
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水上理学士 みなかみ → 水上武か
水上武 みなかみ たけし 1909-1985 火山学者。東京帝大教授。地震研究所所長。浅間山の観測で業績を残す。著『火山と地震』など。(人レ)
大森博士 おおもり → 大森房吉か
大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
藤原博士 ふじわら → 藤原咲平か
藤原咲平 ふじわら さくへい 1884-1950 気象学者。長野県生れ。中央気象台に入り、気象技監・中央気象台長、東大教授を兼任。「音の異常伝播の研究」により学士院賞。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『現代之科学』
『大正大震火災誌』
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『婦人之友』 ふじんのとも 1903(明治36)年『家庭之友』創刊。08年に『婦人之友』に改題。編集は羽仁もと子・吉一夫婦。月刊。キリスト教的立場から家父長的家族観を否定し、夫婦による新しい家庭観を提唱した。(日本史)
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)



*難字、求めよ


パースペクティブ perspective (1) 透視画法。遠近法。(2) 遠景。眺望。(3) 見込み。前途。
記象
皺曲 しゅうきょく 褶曲。
褶曲 しゅうきょく 堆積当時水平であった地層が、地殻変動のため、波状に曲がる現象。また、それが曲がっている状態。
迸出 へいしゅつ ほとばしり出ること。わき出ること。
夾雑物 きょうざつぶつ あるものの中にまじりこんでいる余計なもの。不純物。
選み方 えらみかた
源因 げんいん 原因。
歪力 わいりょく 〔機〕応力に同じ。
応力 おうりょく 〔理〕(stress)物体が荷重を受けたとき荷重に応じて物体の内部に生ずる抵抗力。その強さは物体内部にとった任意の単位面積を通して両側の部分が互いに及ぼしあう力で表される。現れ方により、圧力・張力・ずれ応力などがある。内力。歪力。
イソスタシー → アイソスタシー
アイソスタシー isostasy 〔地〕地表の高い低いにかかわらず地下100キロメートルくらいで荷重圧が一定になるという考え。荷重は主として上下の密度差が大きいモホロヴィチッチ不連続面(モホ面)およびアセノスフェアで調節される。モホ面が浅い(7キロメートル)地域は地球表面より低い大洋底となり、モホ面が深い地域は上部の軽い地殻が厚く高い山脈・高原となる。地殻均衡説。地殻平衡説。
大陸漂移説 → 大陸移動説
大陸移動説 たいりく いどう せつ 現在地球上にある大陸は、時代とともに移動して分裂・接合を行い、その結果現在の位置に至ったという説。ウェーゲナーの説が有名。大陸漂移説。
デターミニスト Determinist 決定論者。
-----------------------------------
潰家 つぶれや
角テント
係蹄 わな 罠。
六方石 ろっぽうせき 六方柱状節理の発達した玄武岩で、そのまま門柱。庭石として利用。伊豆六方石・肥前六方石など。(地学)
-----------------------------------
雲帽
渦環 ヴォーテックスリング vortex ring
凄涼 せいりょう ぞっとするほどものさびしいこと。ものすごいこと。
硫煙 りゅうえん 硫黄を含んだ煙。
多稜形 たりょうけい
岩片 がんぺん 岩石のかけら。
集塊岩 しゅうかいがん 粗い火山噴出物を主体とする岩石。浸食に対する抵抗力が部分によって異なるので種々の奇景を作る。妙義山・耶馬渓・寒霞渓は集塊岩の形成した奇景として名高い。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


『山形新聞』より。
 14日、桜井勝延・南相馬市長が来県。山形・米沢・飯豊の避難所を訪れる。「南相馬市の避難計画を策定する際は、ぜひ山形県が避難者の受け入れ先となってほしい」など要望。「被災市町村を支援する自治体への全面的な財政支援が必要」
 16日、新潟県、被災者関連の経費は54億9800万円。うち17億7500万円を国に負担要望。新潟は県外避難者が最も多く、ピーク時は1万人超。現在も約7800人を受け入れ。

 青森・秋田・山形・新潟は、同じ東北内の隣接支援県。最前線に注目が集まるのはもっともなことだけれども、後方支援が何をするか、何をしないかは、今後も問われる。震災直後、阪神の震災経験のある近畿ブロック自治体がいち早く動いて物資や職員の派遣ができたのにくらべて、北海道・東北の横の連携はじゅうぶんだったのか。
 知事会、県会議長会、市長会、市議会議長会、町村会、町村議会議長会……ためしに、北海道東北地方知事会がどれくらい注目され期待されているかは、Wikipedia 同項目の記述量にシビアに反映されている。

 後方支援、兵站業務、ロジスティックス。「鬼県令」の異名のある薩摩出身の三島通庸は、東北各地で賛否評価のわかれる人物。寺田屋事件に関与して謹慎ののち人馬奉行に抜擢され、鳥羽伏見の戦いでは小荷駄隊(=兵站業務)を率いたという。戊辰戦争当時の動向が見あたらないが、西郷や黒田清隆が前線へ出向いたのに対し、おそらく三島は後方の長距離化する食糧補給・武器輸送を指揮していたのではないだろうか。




*次週予告


第三巻 第四八号 
自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦


第三巻 第四八号は、
六月二五日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第四七号
地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
発行:二〇一一年六月一八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三四号 山椒大夫 森 鴎外  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 越後の春日をへて今津へ出る道を、めずらしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子どもを連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞(はらから)二人を、「もうじきに、お宿にお着きなさいます」と言ってはげまして歩かせようとする。二人のうちで、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣(ものまい)りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、だれの目にもめずらしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝(くるぶし)をうずめて人を悩ますことはない。
 藁(わら)ぶきの家が何軒も立ちならんだ一構えが柞(ははそ)の林にかこまれて、それに夕日がカッとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母がゆびさして子どもに言った。
 子どもは母のゆびさす方を見たが、なんとも言わぬので、女中がいった。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
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 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
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思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
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キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。

第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  月末最終号:無料
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。

第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治  定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。

第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治  定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。

第三巻 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎  定価:200円
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  あどけない話

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
私はおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。


  千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子によってくる。
口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい―
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをパラパラ投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。

第三巻 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎  月末最終号:無料
 わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
(略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。

第三巻 第四五号 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
 私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
 暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。

第三巻 第四六号 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉  定価:200円
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(略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
 右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。

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