喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


もくじ 
上代肉食考/青屋考 喜田貞吉


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上代肉食考
青屋考

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上代肉食考
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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

*底本
上代肉食考
青屋考
底本:『喜田貞吉著作集 第一〇巻 部落問題と社会史』平凡社
   1982(昭和57)年6月25日初版第1刷発行
初出:『民族と歴史』第2巻第1号
   1919(大正8)年7月

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NDC 分類:383(風俗習慣.民俗学.民族学/衣食住の習俗)
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上代肉食考

喜田貞吉


   一 神道と肉食禁忌の事実

 わが国俗、魚肉を食うはかならずしもこれをまぬ。鳥肉のごときも多くの場合これを忌まなかった。しかし獣肉にいたっては、神祇じんぎの忌み給うところだとして、これを口にするを避け、犯すものはけがれにれたものとして、□□□□〔四字不明〕慮せねばならぬと信ぜられておった。神道の書物を見ると、いわゆる触穢しょくえのことがむずかしく見えている中に、いつも肉食のことが伴っている。『諸社禁忌』に、

一、鹿食
太神宮だいじんぐう 〈式文三个日、神祇官かむづかさ人七个日忌之。/不往反、或三十个日同火どうか、或三七个日〉
石清水 〈百个日/同火〉
賀茂 〈三十个日/同火七个日〉
松尾まつのお 〈同上〉
平野 〈同上〉
稲荷 〈七十日/同火 食間七十日、後七个日〉
春日 〈七十日/同火〉 (下略)

『八幡宮社制』に、

一、魚食 〈三箇日〉
一、兎狸 〈十一箇日〉
一、鳥食 〈十一箇日〉
一、鹿食 〈百箇日/同火三十箇日〉
一、猪食 〈同〉
一、猿食 〈九十日〉

『稲荷社家物忌令之事』に、

猪者三十三日、鹿七十五个日。

『新羅社忌服令』に、

大鳥七日、小鳥三日、四足獣類みな三十三日。

日光山にっこうさん物忌令』に、

一、鹿二十一日、猪・鳥・兎七日。

触穢しょくえ問答』に、

 鹿食の合火あいびのこと、鹿食人と合火は五十日穢なり。合火の人にまた合火三十日穢なり。三転のはばかりなり。合火せずとも鹿食の人と同家せば、五日をへだてて社参すべし。其故それゆえ六畜りくちく死穢しえは五日なり。鹿・猿・きつねなどは六畜にじゅんずるなり。合火の者に同家は五日のはばかりなし。その者に合火せずばはばかりなし。ただし六畜の死穢しえ五日にして、甲乙の二転をはばかる者あい混ぜば五日を隔つべし。この分やいかん。答。この分なり。神妙。

などある。そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉はけがれあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火したもの、合火したものに合火のものまでも、またそのけがれあるものとしておったのである。
 これらのことはただに神道書類のみならず、『延喜式』にも、臨時祭の条に、「喫宍三日」とあって、神祇官では尋常これを忌み、祭祀さいしにあたっては余司もこれを忌むと見えている。さればししという語をすら忌んで、いわゆる忌詞いみことばというものを生じ、伊勢の斎宮いつきのみや・賀茂の斎院さいいんでは、ししくさびらと呼んでいたほどであった。それがさらに『禁秘きんぴ御抄』には、

鹿食・ひる・産、此三事非深忌ただし近代三十日、如クンバ式七日也。

とあって、世を経るに従いしだいに重くなったようである。
 右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞とんじには、イノシシは山鯨やまくじらで魚の仲間、兎は鴉鷺あろで鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、まかない方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並ひとなみにはしを採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜ずいき党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すききの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅ものがたいためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間をすいすわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。

   二 肉食のわが古俗

 大宝令たいほうりょう」によるに、散斎さんさいのうちししを食うことを得ずとある。ただしこれはいわゆる散斎の間だけのことで、仏法奨励のこの時代にも、平素は神に仕えるものといえども、なお肉食はさしつかえなかったことと解せられる。また僧尼が酒を飲み、ししを食い、五辛ごしんを服することはむろん禁制で、これを犯したものは三十日苦使くしすとあるが、しかしもし疾病の薬分のために用いるものは、三綱さんごうその日限を給すとあって、薬用の肉食は僧尼でもさしつかえなかったのである。
 さらにこれを古史について見るに、彦火火出見尊ひこほほでみのみこと山幸彦やまさちひこにてましまし、火闌降命ほすそりのみこと海幸彦うみさちひこにてましきと伝えられている。いうまでもなく山幸やまさちは狩猟で、海幸うみさちは漁業である。狩猟・漁業の獲物えものは、神代の神達の食物としておられたものなることが、これであきらかである。崇神天皇の御代に男子に弓珥調ゆはずのみつぎを課し給うとあるのも、一般人民が狩猟に従事し、鳥獣の肉を食としていたことが知られるのである。ただに狩猟の獲物えもののみならず、牛をほふって食ったことも古くからあったとみえて、『日本紀』には、大和の土豪弟猾おとうかしがおおいに牛酒ぎゅうしゅを設けて神武天皇の軍をきょうしたてまつり、天皇その酒とししとを軍卒にわかち賜うたともある。降って天武天皇の四年(六七五)に牛馬犬猿鶏のししを食うを禁じ給うたとあるのも、従来これらの肉を食っていたからの禁制である。しかして当時といえども、猪鹿その他の肉は禁制の外であったのである。またもって太古以来の肉食の風が察せられよう。

   三 神祇と犠牲

 神が獣肉を忌み給うというのも、上世の風ではない。仏法がさかんになって神社に神宮寺や本地堂ほんじどうができた時代にも、古風を伝えたある神社には、引き続き鳥獣の犠牲いけにえを供する習慣のものが少くない。中にも著名なのは信州の諏訪大明神、肥後の阿蘇大明神などで、諏訪の御狩みかり、阿蘇の御狩のことは、その道の人で知らぬものはない。謡曲「剣珠」には、

 うやうやしくも天照大神や諏訪・鹿島、いずれも肉魚をひもろぎにそなえ、三千世界のうろくずまでも、縁を結ばん御誓云々うんぬん

などともあって、伊勢や鹿島にもそれがある。仏者の方では、それを自家のつごうよい説に引きつけて、仏縁を結ぶの誓いだと説きまげてまでも、これを黙過もっかしなければならなかった。三河の菟足うたり神社に猪肉をまつることは、『今昔物語』にあるが、後世にはスズメをもってかえたという。また美作みまさかの中山神社・高野たかの神社に、ともにいにしえ牲をもって祭ったことは『宇治拾遺物語』にある。摂津の西の宮についても、「毎年正月九日(すなわち十日戎とおかえびすの前夜)村民門戸を閉じ、出入りをやめて、諏訪神社の御狩みかりと号して、山林に望みて狩猟を致す。猪鹿一を得ればすなわち殺生をやめ、西の宮の南宮にたむけたてまつる。礼奠れいてんいまに断絶せず」と『諏訪縁起』にある。日向の串間くしま神社にも、イノシシを殺して臓物を十二所明神に供える例であったという。これらは仏法の勢力の比較的および難かった所にのこった旧風で、その例はほかにも多く、太古にはいずれの神社にも動物を犠牲として供したものであった。神主はその犠牲たる動物をほふって神に供したのである。神主のことを古来「はふり」という。また動物を殺すことを「ほふる」という。神主は同時に屠殺とさつすなわち「ほふる」ことをおこなったので、両者同語をもってあらわすことになったと認められる(別章「屠者としゃ考」参照)。されば仏法が入って、慈悲忍辱にんにくの心から、高等動物を殺して神にたてまつるにしのびなくなっても、なお生物の肉を供することはやめにならない。『延喜式』の「神祇式」を見ると、獣肉のことはないが、魚肉を供えたことはほとんどどの社にも伴っている。さらにさかのぼっては、いわゆる毛麁物けのあらもの毛柔物けのにこもの鰭広物はたのひろもの鰭狭物はたのさもので、鳥獣魚介の類をまずささげた。特に祈年祭の祝詞のりとには、御年神みとしのかみに白馬・白猪・白鶏など種々の物を供えたとある。仏法伝来後百年に近い皇極天皇元年(六四二)においてすら、祝部はふりべの教えによって、村々の民が人にもっとも親しい牛馬をすら殺して、諸社の神をまつったとのことが『日本紀』にある。牛を殺して漢神からかみをまつるのことは、その後も久しくおこなわれたとみえて、延暦十年(七九一)九月に、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊などの諸国にこの風のおこなわれたのを厳禁されたことがあった。その後延暦二十年(八〇一)四月にも、越前にこのことあるを禁じ、摂津にもこの風のあったことが『霊異記りょういき』に見えている。

   四 供御くごと獣肉

 右のごときありさまで、一般人民が獣肉を食したことはいうまでもなく、かしこくも至尊しそん供御くごにおかせられても、猪鹿の肉をまず召し上がられたことであった。仁徳天皇の御時に、摂津猪名の佐伯部さえきべが天皇ご寵愛ちょうあいの鹿を殺して御贄みにえとしてたてまつり、お怒りに触れたことがあった。雄略天皇は吉野に御猟ごりょうし給うて、おおいに禽獣を得たまい、その場で群臣に鮮肉の野饗のあえをあそばそうとなされて、宍人部ししひとべを置き給うたこともあった。宍人部とは肉をあつかう部族の名である。天皇ご遊猟ゆうりょうのことは、この後にもはなはだ多く古書に見えている。
 天皇、猪鹿の肉を召し上がるの習慣は、天武天皇が牛馬犬猿の肉を食うを禁じ給うた後もなお久しくおこなわれた。『万葉集』の歌に、鹿の肉をなますとして、天皇の御贄みにえにたてまつったことが見えている。天平てんぴょう宝字ほうじ二年(七五八)七月、光明皇太后のご病気に際して、諸国に令してその年内殺生を禁じ、また猪鹿の類をもってながく進御しんぎょするを得ずとのみことのりはあったが、これがはたしていつごろまで励行されたかはあきらかでない。『延喜式』には、諸節の供御くご料として鹿宍・猪宍の名が見え、近江国は元日に猪鹿を副進すともあって、延喜のころなお天皇の供御くごには、これらの肉をたてまつったのであった。侍中じちゅう群要ぐんよう』引くところ延喜十一年(九一一)十二月二十日の「太政官符だいじょうかんぷ」にも、近江国から鹿や猪のしし御贄みにえとしてたてまつらしめたことが見えている。
 肉食の目的で牧畜をおこなったのも古いことで、家猪すなわち豚を飼って食料に供した習慣も古書に往々見えている。『播磨風土記』には、猪飼野いかいの〔猪養野か。で日向肥人朝戸君が豚を飼った話があり、大阪の東猪飼津の名は、すでに『日本紀』仁徳天皇の条にある。かくて猪飼の家には富豪もあったとみえて、宮城の偉鑒門いかんもん猪飼かい氏の寄付になったとさえ伝えられている。その他、伊勢の桑名郡くわなぐんにも猪飼、常陸の行方郡なめがたぐんにも井貝いがいの地名があるのは、豚の牧場が名にのこったものであろう。

   五 仏法の流行と殺生・肉食の禁忌

 しかるに仏法がさかんになって、殺生をいましむるの念がしだいにおこった。それでもなお聖徳太子のころには、まだあまりひどくなかったとみえて、太子ご自身にも、天皇を奉じて菟田野うたのに遊猟をなされた。五月五日の薬猟くすりがりがそれで、薬猟は鳥獣をることのかわりに、薬草をとるのだとの説があるが、それは取るにたらぬ。仏徒の手になったはずの『聖徳太子伝暦でんりゃく』にさえ、「天皇菟田野うたのに幸して、みずから虞人獣をうを見る」とある。薬猟くすりがりに鹿を捕り、その肉をなますにすることは『万葉集』の歌にも見えている。
 しかるに天武天皇の御代にいたって、家ごとに仏舎を作らしめるというほどにも、仏法ご奨励であったので、四年(六七五)には檻穽かんせい・機槍のたぐいをもって獣を捕るような、ひどい狩獲法を禁じ、また牛・馬・犬・猿・鶏のごとき、人にれ、もしくは人に近い動物の肉を食うことを禁じ給い、五年八月には諸国に詔して放生ほうじょうせしめられたが、それでも天皇ご自身なおしばしば遊猟したまい、鹿・猪・狸・兎・豚などの肉を食うことは、もちろんご禁制ではなかったのである。その後、和泉海岸高脚浜たかしのはま付近の漁業を禁ぜられ、持統天皇の三年(六八九)には、さらに摂津武庫むこの沿海、紀伊の有田郡ありだぐん那耆野、伊賀の伊賀郡内野の漁猟を差し止められたが、それも一地方かぎりのことで、一般には狩猟も漁業もおこなわれ、引き続き代々の天皇ご遊猟のこともめずらしくない。養老五年(七二一)に至って放鷹司たかつかさたかいぬ大膳職だいぜんしき��ろじ、諸国の鶏・猪をことごとく放たしめたがごときこともあったけれども、もちろん一時限りのことで、ために肉食が廃せられたわけではない。また天平四年(七三二)には、畜猪四十頭を山野に放ち、生命をげしむともあるが、飼わるるに慣れた鶏や豚が山野に放たれて、自分で一身を保護し食餌しょくじを求めなければならぬようになっては、かえって迷惑であったかもしれぬ。

   六 肉食をけがれとするの風習

 ともかくも肉食はわが上代の俗である。したがって神祇はむろんこれをみ給わなかった。しかるに仏法の流行とともに、いわゆる両部習合の神道がおこって、神もまたこれを忌み給うものである、それはけがれたものであるとの思想が、だんだんと人心に浸染しんぜんしてきて、一部の間には肉食の古風を守るものをいやしみにくむという習慣がおこってきた。賀茂神社のごときも、もとは必ず鳥獣を供えたものであったであろうが、もはや仁明にんみょう天皇のころに至っては、絶対にこれに近づかぬ風になっていたらしい。承和十一年(八四四)に神社よりたてまつった解文げもんによると、

 鴨川之流経二神宮、但欲清潔之、豈敢�穢。而遊猟之徒就屠割事、濫穢上流、経-触神社。因茲�穢之祟屡出御卜。雖禁制曾不忌避。仍申送。

とある。もっとも神祇が血穢をむという思想は古くからあったが、肉食とそれとはおのずから別であったらしい。しかるにそれがだんだんと混じてきて、禁忌の思想がはげしくなった。賀茂は仏法を近づけぬので有名な神社であるが、それでも一時は神宮寺ができたほどで、自然、仏法の影響を受けたこともあったのであろう。これがために鴨川上流における遊猟は、絶対に禁断となった。上流で獣をほふるということすらがすでに神域をけがし、神のたたりがあるというほどであるから、その肉を食ったものが一般に神社に参詣することができないというのは無論である。もしその禁を犯さば、たちまち神罰にあたる。かくてついには「ししったむくい」ということわざまで出来てきた。大和春日の神山では、承和八年(八四一)に狩猟を禁じている。賀茂では承和十一年の禁制があっても、なお�行れいこうがむずかしかったものとみえて、元慶八年(八八四)にさらにその禁を重ねている。犯したものは五位以上は名を取って奏聞そうもんし、六位以下は身をとらえて法によって処分せよとあるから、ずいぶん立派な人たちまでも、なお隠れて禁を犯すものが多かったらしい。
 かく神がこれを忌み給うというばかりでなく、現神あきつかみとます高貴の方も、いつしかこれを口になさらなくなった。それがいつのころから始まったかは知らぬが、鹿肉を食したものは、当日参内することができないとまで、けがれたものとされてきた。江談抄ごうだんしょう』に、「喫鹿宍人当日不内裏だいり事」とあって、

 又被命云、喫宍当日不内裏だいり之由、見年中行事障子。而元三之間、供御薬御歯固はがため。鹿猪可之也。近代以雉盛之也。而元三之間臣下雖宍不忌歟。ハタ主上一人雖食給、不忌歟云云うんぬん。但愚案思者、昔人食鹿殊不忌憚きたん歟。上古明王常膳用鹿宍。又稠人ちゅうじん広座大饗たいきょう、用件物云云うんぬん。若起請以後有此制歟。件起請何時卜慥不覚。又年中行事障子被始立之時、不何世。可�見也。

といっている。すなわち上古は天子も鹿肉を用い給い、臣下もむろんこれをはばからなかったが、いつのころよりかこれを忌み給うこととなり、ために猪鹿に代うるにきじをもってするということもあり、現に大江匡房まさふさのころには、鹿を食うもの当日参内すべからずとの状態とまでなっていたのである。

   七 狩猟・漁業と肉食

 かくのごとく、殺生を悪事と心得、肉食をけがれたものと教えた世の中にも、その禁は魚肉にはおよばず、鳥獣といえども実際これを禁遏きんあつしつくすことは出来べきわけではなかった。漁夫はもとより、猟師というものの存在も依然として認められていた。漁家の出たる日蓮上人は、われは旃多羅せんたらの子なりとおおせられた。旃多羅はエタである。しかもその漁業は、獣猟とともに一つの生業なりわいとして公認されていたのである。
 『今昔物語』に、京都北山の餌取えとり法師、鎮西の餌取えとり法師のはなしがある。これらは餌取法師とはいうものの、じつは真の餌取えとりではなく、牛馬の肉を食っていたから、餌取法師といわれているので、その実、おこないすました念仏の修行者であった。そんな念仏の修行者でも、餌取の残した牛馬の肉を食ったことがあったとみえる。牛馬の肉を食うものを餌取といったことは、すでに平安朝からのならわしであった。しかしこれは特に牛馬の肉についていったものらしく、その実、餌取以外にも、肉食をなすものの多かったのは無論である。源頼朝の富士巻き狩りはさらにも言わず、いやしくも遊猟のおこなわれた場合、その獲物えものを食わぬはずはない。後村上ごむらかみ天皇が四足の物をはばからせ給わなんだことは『海人あまの藻介もくず』に見え、尾州敬公(徳川義直)が狩りの獲物えものなる鹿を臣下に賜わったことは、塩尻しおじり』に見えている。肉食が依然としておこなわれたことはこれを見てもあきらかである。されば江戸で平河町ひらかわちょう・四谷宿などには、獣店があって、さかんに獣肉を発売し、寛永(一六二四〜一六四四)の刻本『料理物語』には、狸汁・鹿汁・狸でんがく・猪汁・兎汁・兎いりやき・川獺かわうそかいやき・同吸物すいもの・熊の吸物すいもの・同でんがく・犬の吸物すいもの・同かい焼などの項目が見えている。狸汁のはなしはカチカチ山にも有名だ。もっとも藤堂高虎、慶長十三年(一六〇八)の法度に、猪・鹿・牛・犬、いっさい食申間敷事ともあって、法をもって禁じた場合もあるけれども、はたしてどこまでそれが�行れいこうされたかは疑問である。

   八 エタと肉食

 近ごろ雑誌上にエタの起原を論じたものを見るに、よく『和漢三才図会』の文句によって、天武天皇詔して、六畜の肉を食うを禁じ、ために餌取えとりを忌避して、同火どうか同居を許さず、もって姓氏を異にすなどといっているが、決してそのようなことのあるべきはずがない。触穢しょくえの思想のさかんな時代にも、絶対に肉食を禁じたわけでなく、ただ、その後一定の期日間、神詣かみもうでを遠慮せしめただけである。同居同火どうかのごときは問題ではなかった。ただ天武天皇が牛馬犬猿鶏の肉を禁じ給うたのは、人に功多き家畜、もしくはもっとも人に近い動物をほふってこれを食うにしのびないという至情しじょうからきたもので、かならずしもその肉をけがれとしたわけではなかった。天平十三年(七四一)の「詔」に、「馬牛は人にかわりて勤労し、人を養う。これによって先に明制あり、屠殺とさつを許さず。今聞く、国郡いまだ禁止するあたわず、百姓なお屠殺ありと。よろしくその犯すあらば、蔭贖おんしょくを問わず、まず杖一百に決し、しかる後に罪を科すべし」とおおせられたのは、よくその精神を示したものである。したがってこれを忌むは屠殺の所為にあって、あえて肉にあるのではなかった。されば死牛馬の皮をはいで人生必要の皮革を製するがごときは、これまた人生必要の職業であって、あえてこれをのみ擯斥ひんせきすべきゆえんではない。ただ中世以後、肉食のけがれの観念がさかんになったがために、ついでにその肉の美を嘗味しょうみした彼ら屠者は、その肉食の方からはなはだしくいやしまれて、ついには「穢多えた」という残酷な文字をもちいて、賤者せんしゃの仲間に入れらるるに至ったのである。それは主として牛馬の肉についてであるが、しかもそのけがれというものがはたしてあるならば、かならずしも牛馬のみにかぎらず、猪鹿羊豚かならずしも相えらぶべきはずではない。
 はたしてしからばエタのエタとして排斥はいせきせられるのは、主として肉食のためであった。今やわれらは外国の風俗の刺激を受け、遠く祖先の遺風に逆戻りして、牛馬羊豚、なんでもまず食っている。ことにはじめから肉食の目的でこれを飼養し、肉食の目的でこれを屠殺するの残忍なる行為をも辞しないのである。しからば現時、邦人中、この意味においてエタでないものがはたして何ほどあるであろうか。われらは中途においていったん触穢しょくえの迷信上から、獣肉の食を廃していたが、しかも内々にはなおこれをおこなったものも少くなかった。しかしていわゆるエタなるものはその職業上から、祖先以来の遺風をそのままに継続して、公然これをおこなっていたのであった。この意味からいえば、彼らは今やこの点においてむしろ勝利者の地に立っているのである。肉食ということがエタのエタたる主なる理由としたならば、日本民族はことごとくエタであった。しかして現在の日本人またことごとくエタの状態にいるのである。



底本:『喜田貞吉著作集 第一〇巻 部落問題と社会史』平凡社
   1982(昭和57)年6月25日初版第1刷発行
初出:『民族と歴史』第2巻第1号
   1919(大正8)年7月
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青屋考

喜田貞吉


   一 青屋あおやはエタの下との思想

 青屋、一に藍染あいぞめ屋という。あるいは紺屋こうや紺掻こうかきなどともあって、古くからその名は記録、文書の上にのぼっている。『弾左衛門由緒ゆいしょ書』に、治承四年(一一八〇)に頼朝公から御判物ごはんもつによって許されたというエタ配下の賤者を列挙したいわゆる二十八座の中には、青屋あるいは紺屋という名がかならず見える。もっともこの御判物と称するものが、まっ赤なニセモノなるは申すまでもなく、またそのいわゆる二十八座なるものは、たいてい昔の雑戸ざっこ傀儡子くぐつの徒を列挙したもので、それらと列を同じくしている青屋のみが、特に別種だというわけはない。しかるに奇態なことには、上方かみがた地方では古くからこれをエタの仲間だとみなしていたのである。今わずかに存する記録文書をあさって、その由来・顛末をたずねてみたい。青屋をいやしいものとしたことは、ひとり上方ばかりでなく、東国においても享保(一七一六〜一七三六)の「弾左衛門書上」に、すでにそのことの見えているのは、右述べたとおりであるが、『慶長見聞書』古事こじ類苑るいえん』引)に、

 穢多えたと申すは、上宮じょうぐう太子の御時まで、日本に墨なし。木のやにをもってねり候て物をかく。色悪し。にかわ唐より渡る。重宝物とおぼしめし、小野妹子大臣を御使にて唐渡候て、はじめて穢多えた渡る。にかわを作り、かわ具足を作る。太子御感被成、御秘蔵有。其後程有、楽人渡る。また、かわら焼も渡る。大工も渡る、ただし大工は穢多えたより先に渡る。後に渡る者ども、ことばも日本に不通候間、かの穢多えたに万事おしえられ、引きまわされしゆえ、今に音楽のやから、あおや・すみやき・筆ゆいまで、己が下と申すはこの時よりはじまるなり。

とあって、その由来はすこぶる古い。もっとも右のエタの起原に関する説は取るにたらぬが、青屋のことは享保になって弾左衛門がはじめて勝手なことを言い出したのではなく、慶長(一五九六〜一六一五)のころにおいてすでにエタがそれを己が下だと主張していたのであった。

   二 青屋はエタの徒との説

 上方においては、関東とはすこぶる様子がちがって、青屋をエタの下だというのではなく、ただちにこれをエタの仲間だと見ておったようである。京都町奉行の扱いによると、洛中・洛外の青屋はかならず青屋役紺屋こうや役とも)として、エタがしらの指揮のもとに、エタと同様の公役に従事せしめたものであった。雍州ようしゅう府志』に、「青屋元穢多えた之種類也」といい、『芸苑日渉』に、「如浴肆・藍染あいぞめ、亦比之屠戸」といったのは、けだしこの状態について述べたものであろう。
 青屋がエタ仲間だと見られたのは、じつは京都ばかりではなかった。またそれが徳川時代になって始まったことでもなかった。三好記みよしき『続史籍しせき集覧しゅうらん』本)によると、阿波ではすでに三好時代において、少くもある一部においては、これをエタと同視していた。同書に、かの三好長春のほろんだのは、青屋四郎兵衛の子丈太夫を小姓に使ったがためであると解している。その理由の説明にいわく、「ゑつた交る者は必ほろび候と申て、堅くあらため申候。ゑつた交りして家のほろびたる証拠いか程も御座候ござそうろう」とある。また同書に、阿波の勝瑞の時(細川家の時代)堅久寺という真言寺が、青屋太郎右衛門から米をもらって、これを檀那だんなに取ったので、他の寺々から絶交せられ、ついに青屋を檀那だんなから放して交りを続けることになったともある。また、

 青屋と申者はばけものにて候を、としより外不存候。人間は生まれぬさきの事は正しく不そうろうゆえに、ばけて人交りつかまつり候。

といい、

 えつた皮毛物に成して、青屋染と申す事つかまつり出し候。

などともあって、青屋は非常にけがれたものであるかのごとく書いてある。
 同書にまたいう、

 勝瑞しょうずいの南にたたつ修理と申すさむらいあり。青屋太郎右衛門が娘に米百石のしきせにと申すをよめに取り候て、まもなく果し候につきて、たたつ修理は米百石に子を売り申し候と申して、ものわらいにつかまつり候事。
 長春様の小姓に山井図書といいたる人は、大酒のみにて、一日には酒一斗も二斗ものみ候ても、さほど痛なく、一段と長春様の御意よしにて、夜昼の酒もりにて候につきて、真生根はなく候て、青屋にかたぎぬをきせ申し候。これも酒ゆえとは不申候。青屋にかた衣きせたるゆえと申しふらし候。

三好記みよしき』の著者道智はよほどエタや青屋が嫌いであったとみえ、これに関係したものまでもかくしきりに悪口を書きつらねているのである。しかし反面よりこれを見れば、当時一部の人はかくこれをいみがっても、世間一般にはさほどこれを嫌うことなく、現に三好長春のごとき大名すら、青屋の息子を小姓としてこれを寵愛ちょうあいし、またたたつ修理という侍は青屋の娘を己が子のよめにむかえ、山井図書は青屋を侍にまで取り立て(青屋に肩衣着せるとは、意味不明瞭なれども、しばらくかく解しておく)、堅久寺という真言寺でも、いったんこれを檀家に取ったほどであったことが知られるのである。

   三 青屋の特にいやしまれた理由

 浮浪民たる傀儡子くぐつの亜流や、雑戸ざっこの末をうけた一部の職人らが、古来いやしい筋目のものとして指斥しせきされた実例はいくらもある。『慶長見聞書』にいわゆる音楽のやから、青屋・墨焼・筆結ふでゆいなどが、エタの下に見られていたことも由来久しいものであった。しかるにその中について、いわゆる弾左衛門の下なる二十八座の他のものが、世間からその割合に嫌われないのにかかわらず、ひとり青屋のみが特別にいみがられ、地方によってはエタの仲間にまで入れられるにいたったのは、いかなるゆえであったであろうか。『慶長見聞集』『慶長見聞書』とは別本)には、「雲蔵乞食の事」と題して、

 見しは今、雲蔵という若き者江戸町にありけるが、神田町の真行寺という寺へ行き、住持に逢いて云いけるは、それがし親紺掻こうかきにて、身上かたのごとく送りしが、三年已前いぜんに死にわかれ、家跡いえあと職請取、紺屋をつかまつり候が、いやしき職にて、手にのりつき、染物に身をよごし、冬は水づかいに手足冷え、彼是あれこれいやなる業にて、心に染まず、云々うんぬん

とあって、紺屋自身の小言を書いてある。こういってみれば、なるほど青屋はいやしい職のようであるが、さりとてそれは青屋ばかりのことではない。これに対して真行寺住持の説諭に、

 紺掻こうかきはいやしき職にあらず、めでたき子細しさいあり。紺掻のおこりを語りて聞かせん。これは奥州信夫しのぶというより始まる。彼の信夫という所に、一人の侍あり。都へのぼり、大宅おおやけのことにつこうまつるによって、いとまを得ず、年月を送るほどに、古郷へ下ることかき絶えたり。彼の妻の女遠き都の住居を思いやり、男を恋いてめもすと泣き暮らし、もすがら泣き明かす。その涙しだいにこごって、くれないになりてこぼれける。白きあわせ小袖こそでにかかりて、染色になる。またべいしゅのごとし。これをその国の人見移し、賢き者ありてすりということになし、人多く着てんげり。しだいにるほどに、信夫ずりといいて都へのぼる。これを御門みかどへささげたてまつる。「みちのくの信夫しのぶ文字摺もじずりたれゆえに、みだれそめにしわれならなくに」とめる歌これなり。その後、世の人賢こくなり、摺というよりたよりて、紺ということになし、また紋という物をほり出したり。前は藍ばかりにて着る物染めしが、後は染殿そめどのというて、紅なんどにて染めるなり。(中略)総じて衣装に紋を出すこと、紺掻こうかき綾織あやおりめでたきものなり。

とある。この説もとより付会ふかいにして取るにはたらぬが、紺屋そのものを格別にいやしいものだと思うていなかったことは、この説明によっても察せられよう。庭訓ていきん往来おうらい』にも、「可招居輩者云々うんぬん紺掻こうかき染殿そめどの」などと並べて、格別これをいやしみ疎外したふうには見えぬのである。
 紺掻こうかきの職は古い。すでに『源平盛衰記』に、紺掻紺五郎というものが、源義朝よしとも在世の時におりおり推参すいさんして、深くたのみ申したれば、義朝もこれを不便がりて、いろいろ面倒めんどうを見てやったとのことがある。されば紺五郎そのなさけを忘れずして、平治の乱に義朝の首を獄門にかけたとき、その首を申し受けて、墓を築いて埋めたともある。当時にあっては紺掻職の者が、左馬頭さまのかみ義朝ともあるほどのものに近づくに、あえて不審はなかったのであった。
 本来この紺掻こうかきはやはり雑戸ざっこの一つで、「大宝令」には織部司おりべのつかさ染戸そめこというのがその類である。それで『令集解りょうのしゅう』には『古記こき』を引いて、

 緋染ひぞめ七十戸。役日無限、染サ無定。為品部調免役
 藍染あいぞめ三十三戸。やまと国二十九戸。近江国四戸。二戸出女三人役、余戸毎丁令まき。為品部調役

と説明してある。品部しなべというも広くいえば雑戸ざっこで、他の諸職人と高下こうげはない。ことにこれには緋染ひぞめ藍染あいぞめあい並んで記されて、徳川時代に紅染べにぞめ屋は嫌わず、藍染あいぞめ屋をのみしきりにいみがったというような趣きは少しも見えぬ。
 しかるに緋染ひぞめ屋などの他の染戸そめこがいやしまれずして、ひとり紺屋こうやのみがいやしまれるに至ったのはなぜであろうか。けだしこれ全く仏教の影響で、エタが職業上の誤解から特に疎外せられるに至ったのと同様に、やはり職業上の誤解からこの運命におちいったものであったらしい。俗説には、昔の青屋は藍を染めつけるに人骨の灰を使ったから、それで人がいみがったのだということもあるけれども、事実そんなことがあったとも思われぬ。自分のせまい知識では、少なくもそんな説を書いたものの存在を知らない。しかるに『和訓栞わくんのしおり』には、

 藍屋をいやしむは大方等だいほうどう陀羅尼経に、「不藍染あいぞめ往来」という制あるによれりといえり、青を染めるには多く虫を殺すということ、薩婆多論に見えたり。

と説明している。はたして経・論にそんなことがあるか否かを自分は知らぬが、右の説は元禄二年(一六八九)出板の寂照和尚の『谷響集』によったもので、同書にはさらにくわしくその義が見えている。

 客謂。本邦俗賤藍染あいぞめ之、不交通旃陀羅せんだら。又有人曰、仏教嫌之、制相往来。未審有説耶。答。如大方等だいほうどう陀羅尼経、行陀羅尼懺悔さんげ行者、説種種五事中、有藍染あいぞめ家往来之制。恰好相似矣。又問、是為彼種姓、有陀因縁耶。答。按法苑、薩婆多論曰、五戒優婆塞うばそく五大色染。多殺虫故。如秦地染青、亦多殺虫、入五大色数。由此思之、但嫌殺生耳。然既云其家。為家業者亦非屠児家乎。

 しかしながら『大方等だいほうどう陀羅尼経』とか、『薩婆多論』とかいうものがはたして信ずべきもので、はたして多く藍染あいぞめ屋が虫を殺した事実があったとしても、それはインドのことで、日本の藍染あいぞめ屋の関するところではあるまい。しかるに仏教徒のこの説が本となって、わが藍染あいぞめ屋が特別に嫌われることとなったのであったとしたならば、これまことに滑稽こっけい千万でもあり、また気の毒千万でもあるといわねばならぬ。

   四 京都における旧時の青屋の待遇

 その原因はともあれ、かくもあれ、上方地方ならびにその勢力の多くおよんだ地方では、彼らがたしかにエタと同視せられたのは事実であった。阿波においては前引のごとく、細川・三好の時代から、青屋に対してはなはだしく侮蔑ぶべつを加えた事実が見えている。しかしながらこの国では、蜂須賀家が入国以来、藍作をさかんに奨励したがためか、徳川時代には紺屋こうやをひどくいやしんだという事実はない。しかるに京都では、よほど後世までエタから仲間にせられて、いわゆる運上を取られていた事実がある。しかしながら、それは貴族的仏教の特にさかんな上方地方だけのことであって、関東にはその誤解がおよばなかったのである。碓井小三郎君の話によるに、京都の青屋はエタから仲間にせられたので、特に江戸屋と称し、自分らは江戸から来たので、京都の青屋とは筋が違うという理由のもとに、エタの圧迫をまぬがれたものが多かったそうである。
 京都では少くも徳川時代の中ごろ以前までは、青屋がまったくエタと同一にあつかわれておった。ただ違うところは、エタは各部落をなしてまとまっておったのに対して、青屋は町家に散在しておっただけである。彼らは下村勝助(文六とも)の統率のもとに、エタにまじって二条城の掃除人足をつとめていた。下村文六の帳面によって、宝永七年(一七一〇)に、天部あま・六条などの年寄から方内ほうない五十嵐へ提出した調査書によるに、二条城掃除人足一か年三七二四人を出したの中に、エタ村京都付近十八か村、そのほか山城八か村、摂州十三か村、江州十三か村をあわせて、二七二四人の人夫を出したのに対して、洛中洛外の青屋二三二軒からは、じつに一千人という多数の夫役を負担していたのであった。彼らはじつに普通のエタに数倍した、重課をわされていたのである。しかるに宝永五年(一七〇八)下村文六の死とともに、彼らは二条城掃除の役を免ぜられて、そのかわりに、さらに人のいやがる牢屋外番そとばん・処刑者看視などの役を課せられた。雍州ようしゅう府志ふし』に書いてあるのはこのさいのことである。『京都御役所向大概たいがい覚書』に、享保二年(一七一七)改定の「穢多えた青屋勤方之事」というのがある。

一、栗田口鋸挽のこぎりびき御仕置 ただし生さらし昼夜三日番、三日目にはりつけ、昼夜七日番相勤。
一、同所火罪御仕置おしおき  ただし昼夜七日番相勤。
一、はりつけ御仕置     ただし昼夜五日番相勤。
一、獄門御仕置おしおき    ただし昼夜三日番相勤。
一、西土手斬罪御仕置おしおきもの有之節罷出候まかりいでそうろう
一、東西御仕置おしおき之場所掃除相勤。
一、二条御城之堀え身を投相果候者有之候時、奉行所より指図申付、千本通せんぼんどおり三条之辻にて三日さらし番申付、居住相知れ不申候得者、取片付とりかたづけさせ申候。
一、牢屋敷内外之掃除相勤。
一、牢死之者有之候得者、取片付とりかたづけさせ候。
一、京都出火之節牢屋敷え人足召連れ相詰候様に、延宝元年(一六七三)丑十一月より被申付候。
一、斬罪役之義、いつ頃より相勤候哉年数不相知候。

斬罪并牢屋外番そとばん、洛中洛外廻り役義相勤候村左に記之。

城州愛宕郡おたぎぐん天部村あまべむら(年寄五人、名略)
同国同郡六条村(年寄三人、名略)
同国同郡川崎村(年寄一人、名略)
同断 蓮台野村れんだいのむら(年寄一人、名略)
同断 北小路村(年寄一人、名略)
同断 九条村

 ただし、この九条村は六条村の組内にて、諸事役義相勤そうらえども、村致断絶、ただいまは天部村のうち、年寄与惣右衛門と申すもの、九条村の役義相勤申候。致断絶候年数不相知候。
右五か村の義、穢多頭えたがしら下村文六死去以後、城州・江州皮田ならびに青屋ども相勤候役義、五か村として申し付け候。

一、洛中洛外青屋どもの義、粟田口あわたぐちならびに西土手斬罪の節、五か村より連参、番等も相勤めさせ申候。先年は青屋どもすぐに罷出まかりいで相勤候ところ、寛永年中(一六二四〜一六四四)より、夫代ぶたいにきめ、一か年家一軒につき銀六もんめずつ請取うけとり、右五か村より人足出し相勤申候。斬罪御用人足数、多少有そうらえども、右の通り年々請取うけとり申候。
一、右青屋ども牢屋敷外番そとばんも相勤申候。これまた一か年に家一軒につき銀六もんめずつ、右五か村へ請取うけとり、五か村より人足出し相勤めさせ申候。青屋どもより指出さしだし候人足、およそ一か年に九〇八人ほど有之候。二条御城掃除相勤候時分も、右のとおりの夫代銀請取うけとり、人足五か村より出し申候。
一、享保二酉年(一七一七)、洛中洛外青屋数二二七軒、もっとも年々家数増減有之、人足も多少有之候。人数不足之分は、五か村より出し申候。このほか青屋ども役義無之候。(中略)

近在十三か村牢屋敷外番そとばん相勤候村々左に記(村名ならびに人数など略之)
江州十三か村牢屋敷外番そとばん相勤候村々左に記(村名ならびに人数など略之)

一、人足九〇八人ほど  京都青屋どもの分、年々不同。
一、右牢屋敷外番そとばん〈昼四人/夜六人〉
人足合わせ三六〇〇人


二三三八人 京都青屋ども、近在十三か村、江州十三か村より相勤候。
一二六二人 斬罪役五か村の者ども相勤候。閏月有之年はほかに人足三〇〇人、五か村より人足出之候。

一、牢屋敷外番そとばんの儀、先年穢多頭えたがしら下村文六二条御城内掃除、斬罪役五か村、近在十三か村、江州十三か村、ならびに青屋ども相勤候。文六死去以後、御城内の掃除右村々不相勤。この替わりとして牢屋敷外番そとばん申付候。(下略)

 青屋はじつに右のごとく、エタ年寄としより指図のもとに、エタと同一の役義をつとめさせられたのであった。もっとも享保(一七一六〜一七三六)のころには、夫代銀ぶだいぎんを出して自身出頭するようなことはなくなっておったけれども、当初は彼らも実際、これをおこなうべく余儀なくされたのであった。これは斬罪役五か村エタ年寄としよりより、前の二条城掃除のさいの振合ふりあいをもって、青屋にも負担せしむべく、町奉行へ出願した結果であった。「六条村年寄としより留書」に、

 宝永六年(一七〇九)丑八月、御牢屋敷外番そとばん役五か村として昼夜人足十人ずつ寅三月まで相勤めまかりおりそうろう。然処先年下村文六、二条御城内御そうじ歩人足やり来たり候村々、ならびに京都青屋ども、右の所々に外番そとばん人足相つとめさせたく候よし、このたび五か村年寄としより中よりご公儀へお願い申上候。その後ご吟味ぎんみのうえ、右牢の外番そとばん人足、順々に割付わりつけ為様に被仰付下候事。

とある。
 これについてはいやいやながらでも、すなおにその命に応じたものがむろん多かったが、中には種々の口実を設けて、これを拒むものも少くなかった。そのつどエタ年寄から町奉行へ訴えて、結局、彼らはそれを強制せられた。
 青屋が牢の外番そとばんを拒絶したことについて、おもしろい文書がある。

   乍恐奉指上口上書

一、牢御屋敷外番そとばんの義、村々の者ども青屋どもに被仰付、被為被下、難有奉存。すなわち青屋どもへ、五月十七日より申し渡し候えば、すなわち御上意のご趣意奉畏、順々に相勤申候。しかるところに御上意相背、御番人足出し不申者御座候ござそうろうにつき、乍恐書き付けを以奉申上候。
一、大宮通おおみやどおり西寺内一丁目上半町、炭屋市郎兵衛借家青屋治兵衛、同かぢ屋町五条上ル町いづつや五郎右衛門借家青屋平右衛門、同本誓願寺通千本東入町米屋与三次、右三人の者ども牢御屋敷外番そとばんの義相勤申候義なり不申候。すなわち、この者どもこん屋をいたしそうろうゆえ、青屋役つかまつり候義無之由と申し、我儘わがまま申候。このほか京都町中に、青屋・紺屋と申し候て、両職つかまつり候者あまた御座候ござそうろう。出所何人に不寄、青屋・紺屋被致候方々には、古来より青屋役相勤め来り申候。しかるところに彼ものども青屋商売乍仕、御番人足何角と申し、出し不申候につき、乍書付かきつけを以、奉願上候。右三人の者ども被召出、御番人足無相違出し候様に被仰付下候わば、難有忝奉存候、已上。
  宝永七年(一七一〇)寅六月

 右は天部あまべ・六条・川崎三年寄としよりの連署にて町奉行へ訴えたので、結局右かせ染屋三人は、ご吟味ぎんみのうえ、藍染あいぞめ商売つかまつり候えば青屋役可仕」との判決となった。中には禁中御用をつとめているからと抗議したものもあったが、それも無効であったらしい。

   五 青屋あおや大工だいく、青屋筋

 ひとしく青屋といわれる中にも、青屋あおや大工だいくあるいは牢屋大工といわれるものがあった。彼らは罪人処刑のさいに、その用材の調進を負担するものであった。寛文七年(一六六七)四月、青屋大工頭六左衛門が、町奉行雨森対馬守に願って、御拝借金十両を得たということがある。この六左衛門は、元禄十四年(一七〇一)にもふたたび嘆願書を出している。この時の留書とめがきには、青屋大工市兵衛こと六左衛門とあって、公儀に対しては代々六左衛門というのが通り名であったらしい。

   おそれながら御訴訟奉願口上之覚
        訴訟人 御牢屋大工頭六左衛門

一、おそれながら御救御訴訟願いあげ候。私相つとめ申役儀は、ご公儀様御牢屋大工にて御座候。御牢屋為御普請ごふしん抱置申組下大工二十人のあまり御座候。そのうえ断罪(斬罪のなまりなり。官署の文言つねに斬罪とあり。いわゆる穢多えたなまりにしてサ行音を夕行音に誤り、ついに文字をも誤れるなり。別章「特殊部落の言語」を見よ)御役御座候とき、獄門・はりつけ大工番匠役相勤あいつとめ申候ゆえ、在家平場の細工一円不仕候て、きまり御座候ところの細工はかりつかまつり、御役おやく相勤来りそうらえども、永々の困窮ゆえ、細工一円無御座候。渇命かつめいにおよび、今日をも暮兼、あさましき風情ふぜいに御座候。あわれご慈悲に御救銀ご拝借つかまつり、命をつなぎ、御役おやく義相勤申したく奉存候。か様の御救銀、先例、ご公儀様ご訴訟つかまつり、寛文七年(一六六七)未四月中旬のころ、金子きんす十両、ご拝借つかまつり候。哀御慈悲、被聞召上、ご拝借銀御救被下候わば、難有忝奉存候。已上。
  元禄十四年(一七〇一)巳十二月
            訴訟人 大工六左衛門
   御奉行様

 このあわれっぼい嘆願書に対して、このたびは許可がなかった。
 彼が実際つとめた大工役としては、元禄十一年(一六九八)に高瀬川筋松原上ル西木屋町にしきやまち松葉屋清五郎家来長蔵なる者が、主人のせがれを殺して、また高倉松原上ル町駕籠かごかき市兵衛なる者がなんらかの罪によって、同じ日に粟田口あわたぐち鋸挽のこぎりびきの刑に処せられたとき、青屋大工市兵衛なる六左衛門は、竹ノコギリ二本を作って指出さしだした記録がある。また享保六年(一七二一)の留書に、

 七月御方内ほうない(雑式)方よりおたずね被遊候粟田口あわぐちはりつけ・獄門・火罪・ノコギリ引き、ただし竹ノコギリ寸法。
 右御用の木道具すべて寸法なにほど有之候や、すなわち六左衛門へ様子相尋、書き付け渡し候て、近日の内に松尾左兵衛様へ持参可申様に御申付。

一、はりつけ木 柱およそ五寸五分四方、同ぬき四寸に八分。ただ二間物二ツ切、長さ一丈三尺五寸。下に十文字ぬき切りかけに打申。
一、獄門木 柱栗の木末口こずえぐち三寸五分。長さ一間半。下に十文字ぬき打。
一、火罪 柱一丈物六寸四方。上より下へ一尺の間切りかけつかまつり、先を筆なりに仕候。輪を入れ、とめにかすがい四本打申候。
一、獄門板 幅一尺八寸、ヒノキ木。
一、板札 一人前けずり立て五分、幅一尺八分、長さ二尺五分。ただしヒノキ木こしらえ上、ふしなし。
一、獄門くしかねの長さ一尺二寸。
 右の通り六左衛門より書きつけ致させ指上さしあげ申候。

などともある。京都におけるたびたびの処刑のさいには、いつもこの青屋大工六左衛門の手で、用具を新調したものであったらしい。
 青屋と大工とはまったく縁のなさそうな仕事であるにかかわらず、六左衛門が「在家平場の細工一円不仕」といって、二十余人の組下をかかえ、大工職にのみ従事していたことは、彼が青屋の名を有することに対して、すこぶる奇態なる現象といわねばならぬ。あるいは事実、藍染あいぞめの家業をなさずとも、青屋筋であればやはり青屋として、いわゆる青屋役を課せられたのであったのかもしれぬ。
 正徳五年(一七一五)に六条村が五条橋下中島の旧地、すなわちもとの六条村から、今の柳原七条郷の地に移転するについて、諸方より大工が多く入り込んだ。このとき右大工頭六左衛門は、これらの大工に対し上前うわまえ銀を要求すべく、西町奉行にこれを訴え出た。これに対して六条村年寄より、奉行所へ差し出した抗議書にはこんなことがある。

 一、代々六左衛門役義と申すは、粟田口あわたぐちはりつけ・獄門の手かすがい、くしがね、村方の指図を請け、打申役にて、すなわち断罪(斬罪の誤り)役の内より出申し小役にて御座候。しからば青屋島原つるさしに遣し申し候大工上前うわまえ銀は六左衛門役義につき、古来より取り来り候。されども断罪役(同上)五か村は、右の申上候とおり往古いにしえより諸方の大工入り込みそうらえども、上前うわまえ銀出し申す義一円無御座候。もっとも大工手閊の節は、六左衛門組の大工やとい申す義御座候ござそうらえども、六左衛門内証ないしょにて上前うわまえ銀取り申す義は、私ども不存候御事、
 一、先だって六左衛門申上候とおり、断罪役(同上)五か村の上前うわまえ銀取り申しはずの御薄墨うすずみ、ちょうだいつかまつりおり候などと申上候えども、前以申上奉候とおり、村方より大工上前うわまえ銀出し申す義は無御座候。このたび六条村替先につき、かよう成無存寄新規の横道申しかけ候。あわれご慈悲のうえ、被聞召上、いかさまども被仰付下候わば、難有奉存候。

 この文面によると六左衛門は、青屋であって、しかも仲間内のものに対して大工職の独占権を有し、他より入り込む大工から上前うわまえを取るべく許可を得ていることを主張したものらしい。しかしエタの方からは、彼をもって自己指揮の下にいる小役だと解していたのはおもしろい。このときの奉行所の判決は、六条村が村替についてかなり不平を訴えていたさいであったがために、六左衛門の敗訴に帰した。
 青屋筋のものは、大工職を独占して、上前うわまえを取るほどの身分でいても、やはり青屋としてエタ仲間にされていたのである。青屋が本来エタでないことは、前に述べたとおりであきらかであるが、それが多く虫を殺すという『大方等だいほうどう陀羅尼経』とかの文句のために、特別に仏教徒から嫌われた結果、ついに上方においてエタ扱いにされるようになったのは、青屋にとって気の毒千万のことであった。雍州ようしゅう府志ふし』の説のごとく、青屋元来エタの種類であるとのことは、とうてい事実としては認めがたい。しかし誤解からにもせよ、その職に従事するものがいったんエタの仲間になってみれば、「出所何人によらず、青屋・紺屋致され候方々には、古来より青屋役相つとめ来り申候」というように、すべてこのありがたからぬ法令の下に均霑きんてんしてしまった。かくては社交上にもおのずからそれが影響して、縁組などの場合にも選択範囲がせまくなり、事実上、エタと姻戚関係を生ずるものがあるのも、けだしやむを得なかったらしい。前記六左衛門のごときも、六条村年寄の訴状によるに、

 六左衛門儀は私ども下分者にて、跡目無御座候節は、村方へことわりを申し、跡目立御用相勤申候。すなわち三代已前いぜん坊主六左衛門と申す者、せがれ無御座候ゆえ、養子の義村方へ願い候につき、すなわち六条村の手下に市兵衛と申す者、右坊主六左衛門へ養子に遣わし、六左衛門と改御用相勤申し候。しかる所に右市兵衛六左衛門病気にとりあい、養子の義村方へ願い候につき、諸方聞立可然者養子に可致申し渡し候ところに、六条村徳兵衛と申す者の取り持ちにて、丹州園部そのべのうち木崎村甚兵衛と申す者を養子につかまつり、御用相勤申し、すなわちただいまの六左衛門義にて御座候ござそうろう御事。

とある。後には青屋大工の数もふえて、組下数百人を有し、田舎大工となわばりの争いがおこる。湯屋・風呂屋・青屋・遊女茶屋・芝屋小屋、その他一切の不浄の建物に対する建築上の独占権を要求して、悶着もんちゃくをおこしたこともあった。しかしこれらの青屋も、もともとエタとは違ったものであり、ことにその職業が肉や皮に関係なく、染料も純粋の植物性のものを用いて、禁忌にふれるの誤解もなくなった結果として、いつとはなしに全くエタ仲間から脱してしまった。

   六 結論

 青屋がエタ仲間になったということは、これただちにエタがエタとして特別にいやしまれるに至った道筋を適切に説明するものである。これは単にその職業が触穢しょくの禁忌を犯すものだと盲信されたこと以外に、なんらの理由を発見せぬ。しかして青屋に対する誤解の念がうすらぐとともに、彼らの解放せらるるに至った事歴は、これただちに今の特殊部落民がかつてエタとしていやしまれた理由の消滅とともに、当然解放せらるべき運命にあることを明示するものである。ただ一つ、このさい残っているところは、青屋が各地方に分散住居して、近隣の生活状態と同一の状態のもとに生活し、あえて社会の進歩におくれなかったように、特殊部落がよく改善の実をあげ、社会の進歩におくれずしてその歩調をいつにするを要とする点にある。

   七 付言二則

 ちなみにいう。古く「紺屋こうや明後日あさって」ということわざがある。『人倫重宝記』に、

紺屋の明後日あさってと名に立ちて、うそつくことの世話に引かるるも、うたてな事なり。たしなみ給え。

といっている。これは営業の性質上、天気つごうで成功の日をたしかに予定することができないにかかわらず、得意先をつなぐ必要からおこった方便の虚言であろうが、彼らが擯斥ひんせきされた理由の一つはここにあるかもしれぬ。
 またいう。三好記みよしき』に、「太公様のとき京中の青屋をかり出し、三条河原にお置被成候事」とあるのは、エタ部落を河原へ移したことの誤聞らしい。青屋は営業上市中に散布する必要がある。また事実散布しておった。とかく『三好記』の著者は青屋に同情がなく、ぜんぜんエタと同視していたので、この間違いをなしたらしい。秀吉のころにこう青屋を嫌うた事実があったとは思えぬ。またエタに対してもそう彼らをいみがった事実はない。今も天部あまべの部落には、信長や秀吉の朱印を伝えて、彼らがエタをいたわり、これを保護したことの証拠はあきらかである。



底本:『喜田貞吉著作集 第一〇巻 部落問題と社会史』平凡社
   1982(昭和57)年6月25日初版第1刷発行
初出:『民族と歴史』第2巻第1号
   1919(大正8)年7月
入力:しだひろし
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



上代肉食考

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)触穢《しょくえ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)散斎の内|宍《しし》を食う

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「盧+鳥」、第3水準1-94-73]※[#「茲/鳥」]

 [#…]:返り点
 (例)鹿食・蒜・産、此三事非[#二]深忌[#一]。

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)如[#レ][#(クンバ)]式七日也。

〈〉:割り注
/:割り注のなかの改行
(例)太神宮 〈式文三个日、神祇官人七个日忌之。/不往反、或卅个日同火、或三七个日〉
-------------------------------------------------------

   一 神道と肉食禁忌の事実

 わが国俗、魚肉を喰うは必ずしもこれを忌まぬ。鳥肉のごときも多くの場合これを忌まなかった。しかし獣肉に至っては、神祇の忌み給うところだとして、これを口にするを避け、犯すものは穢れに触れたものとして、□□□□〔四字不明〕慮せねばならぬと信ぜられておった。神道の書物を見ると、いわゆる触穢《しょくえ》のことがむずかしく見えている中に、いつも肉食のことが伴っている。『諸社禁忌』に、
[#ここから2字下げ]
一、鹿食
太神宮 〈式文三个日、神祇官人七个日忌之。/不往反、或卅个日同火、或三七个日〉
石清水 〈百个日/同火〉    賀茂 〈卅个日/同火七个日〉
松尾 〈同上〉  平野 〈同上〉
稲荷 〈七十日/同火 食間七十日、後七个日〉    春日 〈七十日/同火〉 (下略)
[#ここで字下げ終わり]
『八幡宮社制』に、
[#ここから2字下げ]
一、魚食 〈三箇日〉   一、兎狸 〈十一箇日〉   一、鳥食 〈十一箇日〉
一、鹿食 〈百箇日/同火三十箇日〉   一、猪食 〈同〉   一、猿食 〈九十日〉
[#ここで字下げ終わり]
『稲荷社家物忌令之事』に、
[#ここから2字下げ]
猪者三十三日、鹿七十五个日。
[#ここで字下げ終わり]
『新羅社忌服令』に、
[#ここから2字下げ]
大鳥七日、小鳥三日、四足獣類皆三十三日。
[#ここで字下げ終わり]
『日光山物忌令』に、
[#ここから2字下げ]
一、鹿二十一日、猪・鳥・兎七日。
[#ここで字下げ終わり]
『触穢問答』に、
[#ここから1字下げ]
 鹿食の合火の事、鹿食人と合火は五十日穢也。合火の人に又合火三十日穢也。三転の憚也。合火せずとも鹿食の人と同家せば、五日を隔てゝ社参すべし。其故は六畜の死穢は五日也。鹿猿狐等は六畜に准ずる也。合火の者に同家は五日の憚なし。其者に合火せずば無憚。但六畜の死穢五日にして、甲乙の二転を憚る者相混ぜば五日を隔べし。此分歟如何。答。此分也。神妙。
[#ここで字下げ終わり]
などある。その憚りの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことが出来ず、これに合火したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。
 これらのことはただに神道書類のみならず、『延喜式』にも、臨時祭の条に、「喫宍三日」とあって、神祇官では尋常これを忌み、祭祀に当っては余司もこれを忌むと見えている。されば宍《しし》という語をすら忌んで、いわゆる忌詞《いみことば》というものを生じ、伊勢の斎宮・賀茂の斎院では、宍を菌《くさびら》と呼んでいたほどであった。それがさらに『禁秘御抄』には、
[#ここから2字下げ]
鹿食・蒜・産、此三事非[#二]深忌[#一]。但近代卅日、如[#レ][#(クンバ)]式七日也。
[#ここで字下げ終わり]
とあって、世を経るに従い次第に重くなったようである。
 右の次第であったから、自分らのごときも子供の時分には、決して獣肉を喰ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を喰べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰が当らぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞には、猪は山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺で鳥の仲間だとあって、これだけは喰べてもよいのだと勧められたけれども、ついに喰べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉を附けてくれた。上級生も平気でそれを喰っている。こわごわながら人並に箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、密かに近郷のある部落から売りに来る牛肉を買って、鋤焼《すきやき》の味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少かったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かような次第で、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香を嗅いだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、多分まだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推す訳には行かぬが、少くも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、果してわが固有の習俗であったであろうか。

   二 肉食のわが古俗

「大宝令」によるに、散斎の内|宍《しし》を食うことを得ずとある。ただしこれはいわゆる散斎の間だけのことで、仏法奨励のこの時代にも、平素は神に仕えるものといえども、なお肉食は差支えなかったことと解せられる。また僧尼が酒を飲み、宍を食い、五辛を服することはむろん禁制で、これを犯したものは三十日苦使すとあるが、しかしもし疾病の薬分のために用いるものは、三綱その日限を給すとあって、薬用の肉食は僧尼でも差支えなかったのである。
 さらにこれを古史について見るに、彦火火出見尊は山幸彦《やまさちひこ》にてましまし、火闌降命は海幸彦《うみさちひこ》にてましきと伝えられている。言うまでもなく山幸《やまさち》は狩猟で、海幸《うみさち》は漁業である。狩猟・漁業の獲物は、神代の神達の食物としておられたものなることが、これで明かである。崇神天皇の御代に男子に弓珥調《ゆはずのみつぎ》を課し給うとあるのも、一般人民が狩猟に従事し、鳥獣の肉を食としていたことが知られるのである。ただに狩猟の獲物のみならず、牛を屠って食ったことも古くからあったと見えて、『日本紀』には、大和の土豪|弟猾《おとうかし》が大いに牛酒を設けて神武天皇の軍を饗し奉り、天皇その酒と宍とを軍卒に班ち賜うたともある。降って天武天皇の四年に牛馬犬猿鶏の宍を食うを禁じ給うたとあるのも、従来これらの肉を喰っていたからの禁制である。しかして当時といえども、猪鹿その他の肉は禁制の外であったのである。またもって太古以来の肉食の風が察せられよう。

   三 神祇と犠牲

 神が獣肉を忌み給うというのも、上世の風ではない。仏法が盛んになって神社に神宮寺や本地堂が出来た時代にも、古風を伝えたある神社には、引続き鳥獣の犠牲《いけにえ》を供する習慣のものが少くない。中にも著名なのは信州の諏訪大明神、肥後の阿蘇大明神などで、諏訪の御狩、阿蘇の御狩のことは、その道の人で知らぬものはない。謡曲「剣珠」には、
[#ここから1字下げ]
 恭くも天照大神や諏訪・鹿島、いづれも肉魚をひもろぎに備へ、三千世界の鱗《うろくず》までも、縁を結ばん御誓云々。
[#ここで字下げ終わり]
などともあって、伊勢や鹿島にもそれがある。仏者の方では、それを自家の都合よい説に引きつけて、仏縁を結ぶの誓だと説き曲げてまでも、これを黙過しなければならなかった。三河の菟足神社に猪肉を祭ることは、『今昔物語』にあるが、後世には雀をもって代えたという。また美作の中山神社・高野神社に、ともに古え牲をもって祭ったことは『宇治拾遺物語』にある。摂津の西の宮についても、「毎年正月九日(すなわち十日戎の前夜)村民門戸を閉ぢ、出入をやめて、諏訪神社の御狩と号して、山林に望みて狩猟を致す。猪鹿一を得れば則ち殺生をやめ、西の宮の南宮にたむけ奉る。礼奠今に断絶せず」と『諏訪縁起』にある。日向の串間神社にも、猪を殺して臓物を十二所明神に供える例であったという。これらは仏法の勢力の比較的及び難かった所に遺った旧風で、その例はほかにも多く、太古にはいずれの神社にも動物を犠牲として供したものであった。神主はその犠牲たる動物を屠って神に供したのである。神主のことを古来「はふり」という。また動物を殺すことを「ほふる」という。神主は同時に屠殺すなわち「ほふる」ことを行ったので、両者同語をもってあらわすことになったと認められる(別章「屠者考」参照)。されば仏法が這入って、慈悲忍辱の心から、高等動物を殺して神に奉るに忍びなくなっても、なお生物の肉を供することはやめにならない。『延喜式』の「神祇式」を見ると、獣肉のことはないが、魚肉を供えたことはほとんどどの社にも伴っている。さらに遡ってはいわゆる毛麁物《けのあらもの》、毛柔物《けのにこもの》、鰭広物《はたのひろもの》、鰭狭物《はたのさもの》で、鳥獣魚介の類を忌まず捧げた。特に祈年祭の祝詞には、御年神に白馬・白猪・白鶏等種々の物を供えたとある。仏法伝来後百年に近い皇極天皇元年においてすら、祝部《はふりべ》の教えによって、村々の民が人に最も親しい牛馬をすら殺して、諸社の神を祭ったとのことが『日本紀』にある。牛を殺して漢神を祭るのことは、その後も久しく行われたと見えて、延暦十年九月に、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の諸国にこの風の行われたのを厳禁されたことがあった。その後延暦二十年四月にも、越前にこのことあるを禁じ、摂津にもこの風のあったことが『霊異記』に見えている。

   四 供御と獣肉

 右のごとき有様で、一般人民が獣肉を食したことは言うまでもなく、畏くも至尊の供御におかせられても、猪鹿の肉を忌まず召し上がられたことであった。仁徳天皇の御時に、摂津猪名の佐伯部《さえきべ》が天皇御寵愛の鹿を殺して御贄《みにえ》として上り、御怒りに触れたことがあった。雄略天皇は吉野に御猟し給うて、大いに禽獣を得たまい、その場で群臣に鮮肉の野饗を遊ばそうとなされて、宍人部《ししひとべ》を置き給うたこともあった。宍人部とは肉を扱う部族の名である。天皇御遊猟のことは、この後にもはなはだ多く古書に見えている。
 天皇猪鹿の肉を召し上るの習慣は、天武天皇が牛馬犬猿の肉を食うを禁じ給うた後もなお久しく行われた。『万葉集』の歌に、鹿の肉を膾《なます》として、天皇の御贄《みにえ》に奉ったことが見えている。天平宝字二年七月、光明皇太后の御病気に際して、諸国に令してその年内殺生を禁じ、また猪鹿の類をもって永く進御するを得ずとの詔はあったが、これが果していつごろまで励行されたかは明かでない。『延喜式』には、諸節の供御料として鹿宍・猪宍の名が見え、近江国は元日に猪鹿を副進すともあって、延喜のころなお天皇の供御には、これらの肉を奉ったのであった。『侍中群要』引くところ延喜十一年十二月二十日の「太政官符」にも、近江国から鹿や猪の宍を御贄として奉らしめたことが見えている。
 肉食の目的で牧畜を行ったのも古いことで、家猪すなわち豚を飼って食料に供した習慣も古書に往々見えている。『播磨風土記』には、猪飼野《いかいの》で日向肥人朝戸君が豚を飼った話があり、大阪の東猪飼津の名は、すでに『日本紀』仁徳天皇の条にある。かくて猪飼の家には富豪もあったと見えて、宮城の偉鑒門は猪飼《いかい》氏の寄附になったとさえ伝えられている。その他伊勢の桑名郡にも猪飼、常陸の行方郡にも井貝の地名があるのは、豚の牧場が名に遺ったものであろう。

   五 仏法の流行と殺生・肉食の禁忌

 しかるに仏法が盛んになって、殺生を戒むるの念が次第に起った。それでもなお聖徳太子のころには、まだあまりひどくなかったと見えて、太子御自身にも、天皇を奉じて菟田野に遊猟をなされた。五月五日の薬猟がそれで、薬猟は鳥獣を獲ることの代りに、薬草を獲るのだとの説があるが、それは取るに足らぬ。仏徒の手になったはずの『聖徳太子伝暦』にさえ、「天皇菟田野に幸して、自ら虞人獣を逐ふを見る」とある。薬猟に鹿を捕り、その肉を膾にすることは『万葉集』の歌にも見えている。
 しかるに天武天皇の御代に至って、家ごとに仏舎を作らしめるというほどにも、仏法御奨励であったので、四年には檻穽・機槍の類をもって獣を捕るような、ひどい狩獲法を禁じ、また牛・馬・犬・猿・鶏のごとき、人に馴れもしくは人に近い動物の肉を喰うことを禁じ給い、五年八月には諸国に詔して放生せしめられたが、それでも天皇御自身なおしばしば遊猟し給い、鹿・猪・狸・兎・豚などの肉を喰うことは、勿論御禁制ではなかったのである。その後、和泉海岸|高脚浜《たかしのはま》附近の漁業を禁ぜられ、持統天皇の三年には、さらに摂津武庫の沿海、紀伊の有田郡那耆野、伊賀の伊賀郡内野の漁猟を差し止められたが、それも一地方限りのことで、一般には狩猟も漁業も行われ、引続き代々の天皇御遊猟のことも珍しくない。養老五年に至って放鷹司の鷹・狗、大膳職の※[#「盧+鳥」、第3水準1-94-73]※[#「茲/鳥」]、諸国の鶏・猪をことごとく放たしめたがごときこともあったけれども、もちろん一時限りのことで、ために肉食が廃せられた訳ではない。また天平四年には、畜猪四十頭を山野に放ち、生命を遂げしむともあるが、飼わるるに慣れた鶏や豚が山野に放たれて、自分で一身を保護し食餌を求めなければならぬようになっては、かえって迷惑であったかも知れぬ。

   六 肉食を穢れとするの風習

 ともかくも肉食はわが上代の俗である。したがって神祇はむろんこれを忌み給わなかった。しかるに仏法の流行とともに、いわゆる両部習合の神道が起って、神もまたこれを忌み給うものである、それは穢れたものであるとの思想が、だんだんと人心に浸染して来て、一部の間には肉食の古風を守るものを賤しみ憎むという習慣が起って来た。賀茂神社のごときも、もとは必ず鳥獣を供えたものであったであろうが、もはや仁明天皇のころに至っては、絶対にこれに近づかぬ風になっていたらしい。承和十一年に神社より上った解文《げもん》によると、
[#ここから1字下げ]
 鴨川之流経[#二]二神宮[#一]、但欲[#二]清潔[#一]之、豈敢※[#「さんずい+于」、第3水準1-86-49]穢。而遊猟之徒就[#二]屠割事[#一]、濫穢[#二]上流[#一]、経[#二]-触神社[#一]。因[#レ]茲※[#「さんずい+于」、第3水準1-86-49]穢之祟屡出[#二]御卜[#一]。雖[#レ]加[#二]禁制[#一]曾不[#二]忌避[#一]。仍申送。
[#ここで字下げ終わり]
とある。もっとも神祇が血穢を忌むという思想は古くからあったが、肉食とそれとはおのずから別であったらしい。しかるにそれがだんだんと混じて来て、禁忌の思想が烈しくなった。賀茂は仏法を近づけぬので有名な神社であるが、それでも一時は神宮寺が出来たほどで、自然仏法の影響を受けたこともあったのであろう。これがために鴨川上流における遊猟は、絶対に禁断となった。上流で獣を屠るということすらがすでに神域を穢し、神の祟りがあるというほどであるから、その肉を食ったものが一般に神社に参詣することが出来ないというのは無論である。もしその禁を犯さばたちまち神罰に当る。かくてついには「宍喰《ししく》った報《むく》い」という諺まで出来て来た。大和春日の神山では、承和八年に狩猟を禁じている。賀茂では承和十一年の禁制があっても、なお※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]行がむずかしかったものと見えて、元慶八年にさらにその禁を重ねている。犯したものは五位以上は名を取って奏聞し、六位以下は身を捉えて法によって処分せよとあるから、随分立派な人達までも、なお隠れて禁を犯すものが多かったらしい。
 かく神がこれを忌み給うというばかりでなく、現神《あきつかみ》とます高貴の方も、いつしかこれを口になさらなくなった。それがいつのころから始まったかは知らぬが、鹿肉を食したものは、当日参内することが出来ないとまで、穢れたものとされて来た。『江談抄』に、「喫[#二]鹿宍[#一]人当日不[#レ]可[#レ]参[#二]内裏[#一]事」とあって、
[#ここから1字下げ]
 又被[#レ]命云、喫[#レ]宍当日不[#レ]可[#レ]参[#二]内裏[#一]之由、見[#二]年中行事障子[#一]。而元三之間、供[#二]御薬御歯固[#一]。鹿猪可[#レ]盛[#レ]之也。近代以[#レ]雉盛[#レ]之也。而元三之間臣下雖[#レ]喫[#レ]宍不[#レ]可[#レ]忌歟。将《ハタ》主上一人雖[#二]食給[#一]、不[#レ]可[#レ]在[#レ]忌歟云云。但愚案思者、昔人食[#レ]鹿殊不[#二]忌憚[#一]歟。上古明王常膳用[#二]鹿宍[#一]。又稠人広座大饗、用[#二]件物[#一]云云。若起請以後有[#二]此制[#一]歟。件起請何時卜慥不[#レ]覚。又年中行事障子被[#二]始立[#一]之時、不[#レ]知[#二]何世[#一]。可[#二]※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]見[#一]也。
[#ここで字下げ終わり]
といっている。すなわち上古は天子も鹿肉を用い給い、臣下もむろんこれを憚らなかったが、いつのころよりかこれを忌み給うこととなり、ために猪鹿に代うるに雉をもってするということもあり、現に大江匡房のころには、鹿を喰うもの当日参内すべからずとの状態とまでなっていたのである。

   七 狩猟・漁業と肉食

 かくのごとく、殺生を悪事と心得、肉食を穢れたものと教えた世の中にも、その禁は魚肉には及ばず、鳥獣といえども実際これを禁遏しつくすことは出来べき訳ではなかった。漁夫はもとより、猟師というものの存在も依然として認められていた。漁家の出たる日蓮上人は、我は旃多羅《せんたら》の子なりと仰せられた。旃多羅はエタである。しかもその漁業は、獣猟とともに一の生業として公認されていたのである。
『今昔物語』に、京都北山の餌取法師、鎮西の餌取法師の噺がある。これらは餌取法師とはいうものの、実は真の餌取ではなく、牛馬の肉を喰っていたから、餌取法師と言われているので、その実、行いすました念仏の修行者であった。そんな念仏の修行者でも、餌取の残した牛馬の肉を喰ったことがあったと見える。牛馬の肉を喰うものを餌取といったことは、すでに平安朝からのならわしであった。しかしこれは特に牛馬の肉についていったものらしく、その実餌取以外にも、肉食をなすものの多かったのは無論である。源頼朝の富士巻狩はさらにも言わず、いやしくも遊猟の行われた場合、その獲物を喰わぬはずはない。後村上天皇が四足の物を憚らせ給わなんだことは『海人藻介』に見え、尾州敬公(徳川義直)が狩の獲物なる鹿を臣下に賜わったことは、『塩尻』に見えている。肉食が依然として行われたことはこれを見ても明かである。されば江戸で平河町・四谷宿などには、獣店があって、盛んに獣肉を発売し、寛永の刻本『料理物語』には、狸汁・鹿汁・狸でんがく・猪汁・兎汁・兎いりやき・川獺かい焼・同吸物・熊の吸物・同でんがく・犬の吸物・同かい焼などの項目が見えている。狸汁の噺はかちかち山にも有名だ。もっとも藤堂高虎慶長十三年の法度に、猪・鹿・牛・犬、一切喰申間敷事ともあって、法をもって禁じた場合もあるけれども、果してどこまでそれが※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]行されたかは疑問である。

   八 エタと肉食

 近ごろ雑誌上にエタの起原を論じたものを見るに、よく『和漢三才図会』の文句によって、天武天皇詔して、六畜の肉を食うを禁じ、ために餌取を忌避して、同火同居を許さず、もって姓氏を異にすなどといっているが、決してそのようなことのあるべきはずがない。触穢の思想の盛んな時代にも、絶対に肉食を禁じた訳でなく、ただその後一定の期日間神詣を遠慮せしめただけである。同居同火のごときは問題ではなかった。ただ天武天皇が牛馬犬猿鶏の肉を禁じ給うたのは、人に功多き家畜、もしくは最も人に近い動物を屠ってこれを食うに忍びないという至情から来たもので、必ずしもその肉を穢れとした訳ではなかった。天平十三年の「詔」に、「馬牛は人に代りて勤労し、人を養ふ。茲に因て先に明制あり、屠殺を許さず。今聞く、国郡未だ禁止する能はず、百姓猶屠殺ありと。宜しく其の犯すあらば、蔭贖を問はず、先ず杖一百に決し、然る後に罪を科すべし」と仰せられたのは、よくその精神を示したものである。したがってこれを忌むは屠殺の所為にあって、あえて肉にあるのではなかった。されば死牛馬の皮を剥いで人生必要の皮革を製するがごときは、これまた人生必要の職業であって、あえてこれをのみ擯斥すべきゆえんではない。ただ中世以後肉食の穢れの観念が盛んになったがために、ついでにその肉の美を嘗味した彼ら屠者は、その肉食の方からはなはだしく賤しまれて、ついには「穢多」という残酷な文字を用いて、賤者の仲間に入れらるるに至ったのである。それは主として牛馬の肉についてであるが、しかもその穢れというものが果してあるならば、必ずしも牛馬のみに限らず、猪鹿羊豚必ずしも相択ぶべきはずではない。
 果してしからばエタのエタとして排斥せられるのは、主として肉食のためであった。今やわれらは外国の風俗の刺戟を受け、遠く祖先の遺風に逆戻りして、牛馬羊豚、なんでも忌まず喰っている。ことに初めから肉食の目的でこれを飼養し、肉食の目的でこれを屠殺するの残忍なる行為をも辞しないのである。しからば現時邦人中、この意味においてエタでないものが果して何ほどあるであろうか。われらは中途においていったん触穢の迷信上から、獣肉の食を廃していたが、しかも内々にはなおこれを行ったものも少くなかった。しかしていわゆるエタなるものはその職業上から、祖先以来の遺風をそのままに継続して、公然これを行っていたのであった。この意味からいえば、彼らは今やこの点においてむしろ勝利者の地に立っているのである。肉食ということがエタのエタたる主なる理由としたならば、日本民族はことごとくエタであった。しかして現在の日本人またことごとくエタの状態にいるのである。



底本:『喜田貞吉著作集 第一〇巻 部落問題と社会史』平凡社
   1982(昭和57)年6月25日初版第1刷発行
初出:『民族と歴史』第2巻第1号
   1919(大正8)年7月
入力:しだひろし
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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青屋考

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紺屋《こうや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)修理と申|侍《さむらい》有

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+施のつくり」、第3水準1-90-1]

 [#…]:返り点
 (例)被[#レ]渡候て

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)唐[#(江)]被[#レ]渡候て、

〈〉:割り注
/:割り注のなかの改行
(例)一、右牢屋敷外番〈昼四人/夜六人〉
-------------------------------------------------------

   一 青屋はエタの下との思想

 青屋一に藍染屋という。あるいは紺屋《こうや》・紺掻《こうかき》などともあって、古くからその名は記録、文書の上に上っている。『弾左衛門由緒書』に、治承四年に頼朝公から御判物によって許されたというエタ配下の賤者を列挙したいわゆる二十八座の中には、青屋あるいは紺屋という名が必ず見える。もっともこの御判物と称するものが、真赤な偽物なるは申すまでもなく、またそのいわゆる二十八座なるものは、たいてい昔の雑戸や傀儡子の徒を列挙したもので、それらと列を同じくしている青屋のみが、特に別種だという訳はない。しかるに奇態なことには、上方《かみがた》地方では古くからこれをエタの仲間だと見做していたのである。今わずかに存する記録文書をあさって、その由来・顛末を尋ねてみたい。青屋を賤しいものとしたことは、ひとり上方ばかりでなく、東国においても享保の「弾左衛門書上」に、すでにそのことの見えているのは、右述べた通りであるが、『慶長見聞書』(『古事類苑』引)に、
[#ここから1字下げ]
 穢多と申は、上宮太子の御時迄、日本に墨なし。木のやにを以てねり候て物をかく。色悪し。にかは唐より渡る。重宝物と思召、小野妹子大臣を御使にて唐[#(江)]被[#レ]渡候て、初て穢多渡る。にかはを作り、かは具足を作る。太子御感被[#レ]成、御秘蔵有。其後程有、楽人渡る。又かはら焼も渡る。大工も渡る、但し大工は穢多より先に渡る。後に渡る者共、詞も日本に不[#レ]通候間、かの穢多に万事おしへられ、引廻されし故、今に音楽のやから、あをや・すみやき・筆ゆひ迄、己が下と申は此時より初る也。
[#ここで字下げ終わり]
とあって、その由来はすこぶる古い。もっとも右のエタの起原に関する説は取るに足らぬが、青屋のことは享保になって弾左衛門が始めて勝手なことを言い出したのではなく、慶長のころにおいてすでにエタがそれを己が下だと主張していたのであった。

   二 青屋はエタの徒との説

 上方においては、関東とはすこぶる様子が違って、青屋をエタの下だというのではなく、ただちにこれをエタの仲間だと見ておったようである。京都町奉行の扱いによると、洛中、洛外の青屋は必ず青屋役(紺屋役とも)として、エタ頭の指揮のもとに、エタと同様の公役に従事せしめたものであった。『雍州府志』に、「青屋元穢多之種類也」といい、『芸苑日渉』に、「如[#二]浴肆・藍染屋[#一]、亦比[#二]之屠戸[#一]」といったのは、けだしこの状態について述べたものであろう。
 青屋がエタ仲間だと見られたのは、実は京都ばかりではなかった。またそれが徳川時代になって始まったことでもなかった。『三好記』(『続史籍集覧』本)によると、阿波ではすでに三好時代において、少くもある一部においては、これをエタと同視していた。同書に、かの三好長春の滅んだのは、青屋四郎兵衛の子丈太夫を小姓に使ったがためであると解している。その理由の説明に曰く、「ゑつた交る者は必ほろび候と申て、堅くあらため申候。ゑつた交りして家のほろびたる証拠いか程も御座候」とある。また同書に、阿波の勝瑞の時(細川家の時代)堅久寺という真言寺が、青屋太郎右衛門から米を貰って、これを檀那に取ったので、他の寺々から絶交せられ、ついに青屋を檀那から放して交りを続けることになったともある。また、
[#ここから1字下げ]
 青屋と申者はばけものにて候を、としより外不[#レ]存候。人間は生れぬさきの事は正しく不[#レ]存候故に、ばけて人交り仕り候。
[#ここで字下げ終わり]
といい、
[#ここから1字下げ]
 ゑつた皮毛物に成して、青屋染と申事仕り出し候。
[#ここで字下げ終わり]
などともあって、青屋は非常に穢れたものであるかのごとく書いてある。
 同書にまたいう、
[#ここから1字下げ]
 勝瑞の南にたたつ修理と申|侍《さむらい》有。青屋太郎右衛門が娘に米百石のしきせにと申を嫁に取候て、間もなく果候に付て、たたつ修理は米百石に子を売申候と申て、ものわらひに仕り候事。
 長春様の小姓に山井図書と云たる人は、大酒のみにて、一日には酒壱斗も弐斗ものみ候ても、さほど痛なく、一段と長春様の御意よしにて、夜昼の酒もりにて候に付て、真生根はなく候て、青屋にかた衣《ぎぬ》をきせ申候。是も酒故とは不[#レ]申候。青屋にかた衣きせたる故と申ふらし候。
[#ここで字下げ終わり]
『三好記』の著者道智はよほどエタや青屋が嫌いであったと見え、これに関係したものまでもかくしきりに悪口を書き連ねているのである。しかし反面よりこれを見れば、当時一部の人はかくこれを忌がっても、世間一般にはさほどこれを嫌うことなく、現に三好長春のごとき大名すら、青屋の息子を小姓としてこれを寵愛し、またたたつ修理という侍は青屋の娘を己が子の嫁に迎え、山井図書は青屋を侍にまで取り立て(青屋に肩衣着せるとは、意味不明瞭なれども、しばらくかく解しておく)、堅久寺という真言寺でも、いったんこれを檀家に取ったほどであったことが知られるのである。

   三 青屋の特に賤しまれた理由

 浮浪民たる傀儡子の亜流や、雑戸の末を承けた一部の職人らが、古来賤しい筋目のものとして指斥された実例はいくらもある。『慶長見聞書』にいわゆる音楽のやから、青屋・墨焼・筆結などが、エタの下に見られていたことも由来久しいものであった。しかるにその中について、いわゆる弾左衛門の下なる二十八座の他のものが、世間からその割合に嫌われないのにかかわらず、ひとり青屋のみが特別に忌がられ、地方によってはエタの仲間にまで入れられるに至ったのは、いかなるゆえであったであろうか。『慶長見聞集』(『慶長見聞書』とは別本)には、「雲蔵乞食の事」と題して、
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 見しは今、雲蔵といふ若き者江戸町にありけるが、神田町の真行寺といふ寺へ行、住持に逢て云けるは、某《それがし》親紺掻にて、身上|形《かた》の如く送りしが、三年已前に死わかれ、家跡職請取、紺屋を仕り候が、賤しき職にて、手に糊つき、染物に身をよごし、冬は水づかひに手足冷え、彼是いやなる業にて、心に染まず、云々。
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とあって、紺屋自身の小言を書いてある。こういってみればなるほど青屋は賤しい職のようであるが、さりとてそれは青屋ばかりのことではない。これに対して真行寺住持の説諭に、
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 紺掻は賤しき職にあらず、目出度子細あり。紺掻の起りを語りて聞かせん。是は奥州信夫といふより始まる。彼の信夫といふ所に、一人の侍あり。都へ上り、大宅《おおやけ》の事に仕ふまつるに依て、暇を得ず、年月を送る程に、古郷へ下る事かき絶えたり。彼の妻の女遠き都の住居を思ひやり、男を恋ひて日めもすと泣暮らし、夜もすがら泣明かす。其涙次第にこごつて、紅《くれない》に成りてこぼれける。白き袷小袖にかかりて、染色になる。又べいしゆの如し。是を其の国の人見移し、賢き者ありて摺《すり》といふ事になし、人多く着てんげり。次第に摺る程に、信夫ずりと云て都へ上る。是を御門へささげ奉る。「みちのくの信夫文字摺誰故に、乱れそめにし我ならなくに」と詠める歌是なり。其の後、世の人賢こくなり、摺といふよりたよりて、紺といふ事になし、又紋といふ物をほり出したり。前は藍ばかりにて着る物染めしが、後は染殿といふて、紅なんどにて染るなり。(中略)総じて衣裳に紋を出す事、紺掻・綾織めでたきものなり。
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とある。この説もとより附会にして取るには足らぬが、紺屋そのものを格別に賤しいものだと思うていなかったことは、この説明によっても察せられよう。『庭訓往来』にも、「可[#二]招居[#一]輩者云々、紺掻・染殿」などと並べて、格別これを賤しみ疎外した風には見えぬのである。
 紺掻の職は古い。すでに『源平盛衰記』に、紺掻紺五郎というものが、源義朝在世の時に折々推参して、深く憑み申したれば、義朝もこれを不便がりて、いろいろ面倒を見てやったとのことがある。されば紺五郎その情《なさけ》を忘れずして、平治の乱に義朝の首を獄門にかけた時、その首を申受けて、墓を築いて埋めたともある。当時にあっては紺掻職の者が、左馬頭義朝ともあるほどのものに近づくに、あえて不審はなかったのであった。
 本来この紺掻はやはり雑戸の一で、「大宝令」には織部司の染戸というのがその類である。それで『令集解』には『古記』を引いて、
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 緋染七十戸。役日無[#レ]限、染[#レ]※[#「糸+施のつくり」、第3水準1-90-1]無[#レ]定。為[#二]品部[#一]取[#レ]調免[#二]※[#「にんべん+搖のつくり」、第4水準2-1-78]役[#一]。
 藍染卅三戸。倭《やまと》国廿九戸。近江国四戸。二戸出[#二]女三人[#一]役、余戸毎[#レ]丁令[#レ]採[#レ]薪。為[#二]品部[#一]免[#二]調役[#一]。
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と説明してある。品部というも広くいえば雑戸で、他の諸職人と高下はない。ことにこれには緋染・藍染相並んで記されて、徳川時代に紅染屋は嫌わず、藍染屋をのみしきりに忌がったというような趣は少しも見えぬ。
 しかるに緋染屋等の他の染戸が賤しまれずして、ひとり紺屋のみが賤しまれるに至ったのは何故であろうか。けだしこれ全く仏教の影響で、エタが職業上の誤解から特に疎外せられるに至ったのと同様に、やはり職業上の誤解からこの運命に陥ったものであったらしい。俗説には、昔の青屋は藍を染め付けるに人骨の灰を使ったから、それで人が忌がったのだということもあるけれども、事実そんなことがあったとも思われぬ。自分の狭い知識では、少くもそんな説を書いたものの存在を知らない。しかるに『和訓栞』には、
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 藍屋を賤しむは大方等陀羅尼経に、「不[#レ]得[#二]藍染屋[#(ニ)]往来[#一]」といふ制あるによれりと云へり、青を染るには多く虫を殺すと云ふ事、薩婆多論に見えたり。
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と説明している。果して経・論にそんなことがあるか否かを自分は知らぬが、右の説は元禄二年出板の寂照和尚の『谷響集』によったもので、同書にはさらに詳しくその義が見えている。
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 客謂。本邦俗賤[#二]藍染家[#一]嫌[#レ]之、不[#二]交通[#一]如[#二]加陀羅[#一]。又有[#レ]人曰、仏教嫌[#レ]之、制[#二]相往来[#一]。未[#レ]審有[#レ]説耶。答。如[#二]大方等陀羅尼経[#一]、行[#二]陀羅尼懺悔[#一]行者、説[#二]種種五事[#一]中、有[#下]不[#レ]得[#二]藍染家往来[#一]之制[#上]。恰好相似矣。又問、是為[#レ]賤[#二]彼種姓[#一]、有[#二]陀因縁[#一]耶。答。按[#二]法苑[#一]、薩婆多論曰、五戒優婆塞不[#レ]得[#レ]作[#二]五大色染[#一]。多殺[#レ]虫故。如[#二]秦地染青[#一]、亦多殺[#レ]虫、入[#二]五大色数[#一]。由[#レ]此思[#レ]之、但嫌[#二]殺生[#一]耳。然既云[#二]其家[#一]。為[#二]家業[#一]者亦非[#レ]同[#二]屠児家[#一]乎。
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 しかしながら『大方等陀羅尼経』とか、『薩婆多論』とかいうものが果して信ずべきもので、果して多く藍染屋が虫を殺した事実があったとしても、それはインドのことで、日本の藍染屋の関するところではあるまい。しかるに仏教徒のこの説が本となって、わが藍染屋が特別に嫌われることとなったのであったとしたならば、これまことに滑稽千万でもあり、また気の毒千万でもあると言わねばならぬ。

   四 京都における旧時の青屋の待遇

 その原因はともあれ、かくもあれ、上方地方ならびにその勢力の多く及んだ地方では、彼らが確かにエタと同視せられたのは事実であった。阿波においては前引のごとく、細川・三好の時代から、青屋に対してはなはだしく侮蔑を加えた事実が見えている。しかしながらこの国では、蜂須賀家が入国以来、藍作を盛んに奨励したがためか、徳川時代には紺屋をひどく賤しんだという事実はない。しかるに京都では、よほど後世までエタから仲間にせられて、いわゆる運上を取られていた事実がある。しかしながら、それは貴族的仏教の特に盛んな上方地方だけのことであって、関東にはその誤解が及ばなかったのである。碓井小三郎君の話によるに、京都の青屋はエタから仲間にせられたので、特に江戸屋と称し、自分らは江戸から来たので、京都の青屋とは筋が違うという理由のもとに、エタの圧迫を免れたものが多かったそうである。
 京都では少くも徳川時代の中ごろ以前までは、青屋が全くエタと同一に扱われておった。ただ違うところは、エタは各部落をなして纏まっておったのに対して、青屋は町家に散在しておっただけである。彼らは下村勝助(文六とも)の統率のもとに、エタに交って二条城の掃除人足を勤めていた。下村文六の帳面によって、宝永七年に、天部・六条等の年寄から方内《ほうない》五十嵐へ提出した調査書によるに、二条城掃除人足一ヵ年三千七百二十四人を出したの中に、エタ村京都附近十八ヵ村、そのほか山城八ヵ村、摂州十三ヵ村、江州十三ヵ村を合せて、二千七百二十四人の人夫を出したのに対して、洛中洛外の青屋二百三十二軒からは、実に一千人という多数の夫役を負担していたのであった。彼らは実に普通のエタに数倍した、重課を負わされていたのである。しかるに宝永五年下村文六の死とともに、彼らは二条城掃除の役を免ぜられて、その代りに、さらに人の嫌がる牢屋外番・処刑者看視等の役を課せられた。『雍州府志』に書いてあるのはこのさいのことである。『京都御役所向大概覚書』に、享保二年改定の「穢多青屋勤方之事」というのがある。
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一、栗田口鋸挽御仕置 但生さらし昼夜三日番、三日目に磔、昼夜七日番相勤。
一、同所火罪御仕置  但昼夜七日番相勤。
一、磔御仕置     但昼夜五日番相勤。
一、獄門御仕置    但昼夜三日番相勤。
一、西土手斬罪御仕置もの有[#レ]之節罷出候。
一、東西御仕置之場所掃除相勤。
一、二条御城之堀え身を投相果候者有[#レ]之候時、奉行所より指図申付、千本通三条之辻にて三日さらし番申付、居住相知れ不[#レ]申候得者、取片付させ申候。
一、牢屋敷内外之掃除相勤。
一、牢死之者有[#レ]之候得者、取片付させ候。
一、京都出火之節牢屋敷え人足召連れ相詰候様に、延宝元年丑十一月より被[#二]申付[#一]候。
一、斬罪役之義、いつ頃より相勤候哉年数不[#二]相知[#一]候。
  斬罪并牢屋外番、洛中洛外廻り役義相勤候村左に記[#レ]之。
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城州愛宕郡天部村(年寄五人、名略)
同国同 郡六条村(年寄三人、名略)
同国同 郡川崎村(年寄一人、名略)
同断 蓮台野村(年寄一人、名略)
同断 北小路村(年寄一人、名略)
同断 九条村
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 但此九条村は六条村之組内にて、諸事役義相勤候得共、村致[#二]断絶[#一]、只今は天部村之内、年寄与惣右衛門と申もの、九条村の役義相勤申候。致[#二]断絶[#一]候年数不[#二]相知[#一]候。
右五箇村之義、穢多頭下村文六死去以後、城州・江州皮田并青屋共相勤候役義、五箇村として申付候。
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一、洛中洛外青屋共之義、粟田口并西土手斬罪之節、五箇村より連参、番等も相勤させ申候。先年は青屋共直に罷出相勤候処、寛永年中より、夫代《ぶたい》に極《きめ》、壱箇年家壱軒に付銀六匁宛請取、右五箇村より人足出し相勤申候。斬罪御用人足数、多少有[#レ]之候得共、右之通年々請取申候。
一、右青屋共牢屋敷外番も相勤申候。是亦壱箇年に家壱軒に付銀六匁宛、右五箇村え請取、五箇村より人足出し相勤させ申候。青屋共より指出候人足、凡壱箇年に九百八人程有[#レ]之候。二条御城掃除相勤候時分も、右之通之夫代銀請取、人足五箇村より出し申候。
一、享保二酉年、洛中洛外青屋数弐百弐拾七軒、尤年々家数増減有[#レ]之、人足も多少有[#レ]之候。人数不足之分は、五箇村より出し申候。此外青屋共役義無[#レ]之候。(中略)
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近在拾三箇村牢屋敷外番相勤候村々左に記[#レ]之(村名并に人数等略[#レ]之)。
江州拾三箇村牢屋敷外番相勤候村々左に記[#レ]之(村名并に人数等略[#レ]之)。
一、人足九百八人程  京都青屋共之分、年々不同。
一、右牢屋敷外番〈昼四人/夜六人〉
人足合三千六百人
内[#「内」はベースライン、左行間]弐千三百三拾八人 京都青屋共、近在十三箇村、江州十三箇村より相勤候。
千弐百六拾弐人 斬罪役五箇村之者共相勤候。閏月有[#レ]之年は外に人足三百人、五箇村より人足出[#レ]之候。
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一、牢屋敷外番之儀、先年穢多頭下村文六二条御城内掃除、斬罪役五箇村、近在十三箇村、江州十三箇村、并青屋共相勤候。文六死去以後、御城内之掃除右村々不[#二]相勤[#一]。此替りとして牢屋敷外番被[#二]申付[#一]候。(下略)
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 青屋は実に右のごとく、エタ年寄指図のもとに、エタと同一の役義を勤めさせられたのであった。もっとも享保のころには、夫代銀《ぶだいぎん》を出して自身出頭するようなことはなくなっておったけれども、当初は彼らも実際これを行うべく余儀なくされたのであった。これは斬罪役五箇村エタ年寄より、前の二条城掃除のさいの振合をもって、青屋にも負担せしむべく、町奉行へ出願した結果であった。「六条村年寄留書」に、
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 宝永六年丑八月、御牢屋敷外番役五箇村として昼夜人足拾人づつ寅三月まで相勤罷在候。然処先年下村文六二条御城内御そうじ歩人足遣り来り候村々、并に京都青屋共、右の所々に外番人足相勤めさせ度候由、此度五箇村年寄中より御公儀へ御願申上候。其後御吟味の上、右牢の外番人足、順々に割付為[#二]出[#レ]之[#一]様に被[#レ]為[#二]仰付[#一]被[#レ]下候事。
[#ここで字下げ終わり]
とある。
 これについてはいやいやながらでも、すなおにその命に応じたものがむろん多かったが、中には種々の口実を設けて、これを拒むものも少くなかった。そのつどエタ年寄から町奉行へ訴えて、結局彼らはそれを強制せられた。
 青屋が牢の外番を拒絶したことについて、面白い文書がある。
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   乍[#レ]恐奉[#二]指上[#一]口上書
一、牢御屋敷外番の義、村々の者共青屋共に被[#レ]為[#二]仰付[#一]、被[#レ]為被[#レ]下、難[#レ]有奉[#レ]存。則青屋共へ、五月十七日より申渡候へば、則御上意之御趣意奉[#レ]畏、順々に相勤申候。然る処に御上意相背、御番人足出し不[#レ]申者御座候に付、乍[#レ]恐書付を以奉[#二]申上[#一]候。
一、大宮通西寺内壱丁目上半町、炭屋市郎兵衛借家青屋治兵衛、同かぢ屋町五条上ル町いづつや五郎右衛門借家青屋平右衛門、同本誓願寺通千本東入町米屋与三次、右三人之者共牢御屋敷外番之義相勤申候義成り不[#レ]申候。則此者共こん屋を致し候故、青屋役仕候義無[#レ]之由と申、我儘申候。此外京都町中に、青屋・紺屋と申候て、両職仕候者数多御座候。出所何人に不[#レ]寄、青屋・紺屋被[#レ]致候方々には、古来より青屋役相勤め来り申候。然処に彼者共青屋商売乍[#レ]仕、御番人足何角と申、出し不[#レ]申候に付、乍[#レ]恐書付を以、奉[#二]願上[#一]候。右三人の者共被[#レ]為[#二]召出[#一]、御番人足無[#二]相違[#一]出し候様に被[#レ]為[#二]仰付[#一]被[#レ]下候はば、難[#レ]有忝奉[#レ]存候、已上。
 宝永七年寅六月
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 右は天部・六条・川崎三年寄の連署にて町奉行へ訴えたので、結局右かせ染屋三人は、御吟味のうえ、「藍染商売仕候へば青屋役可[#レ]仕」との判決となった。中には禁中御用を勤めているからと抗議したものもあったが、それも無効であったらしい。

   五 青屋大工、青屋筋

 ひとしく青屋と言われる中にも、青屋大工あるいは牢屋大工と言われるものがあった。彼らは罪人処刑のさいに、その用材の調進を負担するものであった。寛文七年四月青屋大工頭六左衛門が、町奉行雨森対馬守に願って、御拝借金拾両を得たということがある。この六左衛門は、元禄十四年にも再び嘆願書を出している。この時の留書には、青屋大工市兵衛事六左衛門とあって、公儀に対しては代々六左衛門というのが通り名であったらしい。
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   乍[#レ]恐御訴訟奉[#レ]願口上之覚
                      訴訟人 御牢屋大工頭六左衛門
一、乍[#レ]恐御救御訴訟願上げ候。私相勤申役儀は、御公儀様御牢屋大工にて御座候。御牢屋為[#二]御普請[#一]抱置申組下大工廿人之余御座候。其上断罪(斬罪の訛りなり。官署の文言常に斬罪とあり。いわゆる穢多訛りにしてサ行音を夕行音に誤り、ついに文字をも誤れるなり。別章「特殊部落の言語」を見よ)御役御座候時、獄門・磔大工番匠役相勤申候故、在家平場之細工一円不[#レ]仕候て、極り御座候所之細工計仕、御役相勤来り候得共、永々之困窮故、細工一円無[#二]御座[#一]候。渇命に及、今日をも暮兼、浅間敷風情に御座候。哀《あわれ》御慈悲に御救銀御拝借仕、命をつなぎ、御役義相勤申度奉[#レ]存候。か様の御救銀、先例、御公儀様御訴訟仕、寛文七年未四月中旬の頃、金子拾両、御拝借仕候。哀御慈悲、被[#レ]為[#二]聞召上[#一]、御拝借銀御救被[#レ]為[#レ]下候はば、難[#レ]有忝奉[#レ]存候。已上。
 元禄十四年巳十二月            訴訟人 大工六左衛門
  御奉行様
[#ここで字下げ終わり]
 この哀れっぼい嘆願書に対して、このたびは許可がなかった。
 彼が実際つとめた大工役としては、元禄十一年に高瀬川筋松原上ル西木屋町松葉屋清五郎家来長蔵なる者が、主人の伜を殺して、また高倉松原上ル町駕籠舁市兵衛なる者がなんらかの罪によって、同じ日に粟田口で鋸挽の刑に処せられた時、青屋大工市兵衛なる六左衛門は、竹鋸二本を作って指出した記録がある。また享保六年の留書に、
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 七月御|方内《ほうない》(雑式)方より御尋被[#レ]遊候粟田口磔・獄門・火罪・鋸引、但竹鋸寸法。
 右御用の木道具すべて寸法何程有[#レ]之候や、則六左衛門へ様子相尋、書付渡し候て、近日之内に松尾左兵衛様へ持参可[#レ]申様に御申付。
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一、磔木 柱凡五寸五分四方、同|貫《ぬき》四寸に八分。但弐間物二ツ切、長サ一丈三尺五寸。下に十文字ぬき切懸けに打申。
一、獄門木 柱栗の木末口三寸五分。長サ一間半。下に十文字|貫《ぬき》打。
一、火罪 柱壱丈物六寸四方。上より下へ壱尺の間切かけ仕、先きを筆なりに仕候。輪を入、とめにかすがい四本打申候。
一、獄門板 幅壱尺八寸、檜木。
一、板札 壱人前けづり立五分、幅壱尺八分、長サ弐尺五分。但檜木拵上、ふしなし。
一、獄門櫛かねの長サ壱尺弐寸。
 右の通六左衛門より書付致させ指上申候。
[#ここで字下げ終わり]
などともある。京都におけるたびたびの処刑のさいには、いつもこの青屋大工六左衛門の手で、用具を新調したものであったらしい。
 青屋と大工とは全く縁のなさそうな仕事であるにかかわらず、六左衛門が「在家平場の細工一円不[#レ]仕」といって、二十余人の組下を抱え、大工職にのみ従事していたことは、彼が青屋の名を有することに対して、すこぶる奇態なる現象と言わねばならぬ。あるいは事実藍染の家業をなさずとも、青屋筋であればやはり青屋として、いわゆる青屋役を課せられたのであったのかも知れぬ。
 正徳五年に六条村が五条橋下中島の旧地、すなわちもとの六条村から、今の柳原七条郷の地に移転するについて、諸方より大工が多く入り込んだ。この時右大工頭六左衛門は、これらの大工に対し上前《うわまえ》銀を要求すべく、西町奉行にこれを訴え出た。これに対して六条村年寄より、奉行所へ差出した抗議書にはこんなことがある。
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 一、代々六左衛門役義と申は、粟田口磔・獄門の手かすがひ、櫛がね、村方の指図を請、打申役にて、則断罪(斬罪の誤り)役之内より出申小役にて御座候。然ば青屋島原つるさしに遣し申候大工上前銀は六左衛門役義に付、古来より取来り候。然共断罪役(同上)五箇村は、右申上候通り往古より諸方之大工入込候へ共、上前銀出し申義一円無[#二]御座[#一]候。尤大工手閊之節は、六左衛門組之大工やとひ申義御座候へ共、六左衛門内証にて上前銀取申義は、私共不[#レ]奉[#レ]存候御事、
 一、先達て六左衛門申上候通り、断罪役(同上)五箇村之上前銀取申筈の御薄墨、頂戴仕罷在候抔と申上候得共、前以申上奉候通り、村方より大工上前銀出し申義は無[#二]御座[#一]候。此度六条村替先に付、か様成無[#二]存寄[#一]新規之横道申掛け候。哀御慈悲之上、被[#レ]為[#二]聞召上[#一]、いか様共被[#レ]為[#二]仰付[#一]被[#レ]下候はば、難[#レ]有奉[#レ]存候。
[#ここで字下げ終わり]
 この文面によると六左衛門は、青屋であって、しかも仲間内のものに対して大工職の独占権を有し、他より入り込む大工から上前を取るべく許可を得ていることを主張したものらしい。しかしエタの方からは、彼をもって自己指揮の下にいる小役だと解していたのは面白い。この時の奉行所の判決は、六条村が村替についてかなり不平を訴えていたさいであったがために、六左衛門の敗訴に帰した。
 青屋筋のものは、大工職を独占して、上前を取るほどの身分でいても、やはり青屋としてエタ仲間にされていたのである。青屋が本来エタでないことは、前に述べた通りで明かであるが、それが多く虫を殺すという『大方等陀羅尼経』とかの文句のために、特別に仏教徒から嫌われた結果、ついに上方においてエタ扱いにされるようになったのは、青屋にとって気の毒千万のことであった。『雍州府志』の説のごとく、青屋元来エタの種類であるとのことは、とうてい事実としては認め難い。しかし誤解からにもせよ、その職に従事するものがいったんエタの仲間になってみれば、「出所何人によらず、青屋・紺屋致され候方々には、古来より青屋役相勤め来り申候」というように、すべてこのありがたからぬ法令の下に均霑してしまった。かくては社交上にもおのずからそれが影響して、縁組などの場合にも選択範囲が狭くなり、事実上エタと姻戚関係を生ずるものがあるのも、けだしやむを得なかったらしい。前記六左衛門のごときも、六条村年寄の訴状によるに、
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 六左衛門儀は私共下分者にて、跡目無[#二]御座[#一]候節は、村方へ断りを申、跡目立御用相勤申候。則三代已前坊主六左衛門と申者、伜無[#二]御座[#一]候故、養子の義村方へ願候に付、則六条村の手下に市兵衛と申者、右坊主六左衛門へ養子に遣し、六左衛門と改御用相勤申候。然る所に右市兵衛六左衛門病気に取合、養子之義村方へ願候に付、諸方聞立可[#レ]然者養子に可[#レ]致申渡候処に、六条村徳兵衛と申者之取持にて、丹州園部之内木崎村甚兵衛と申者を養子に仕、御用相勤申、則只今の六左衛門義にて御座候御事。
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とある。後には青屋大工の数も殖えて、組下数百人を有し、田舎大工と縄張りの争いが起る。湯屋・風呂屋・青屋・遊女茶屋・芝屋小屋、その他一切の不浄の建物に対する建築上の独占権を要求して、悶着を起したこともあった。しかしこれらの青屋も、もともとエタとは違ったものであり、ことにその職業が肉や皮に関係なく、染料も純粋の植物性のものを用いて、禁忌に触れるの誤解もなくなった結果として、いつとはなしに全くエタ仲間から脱してしまった。

   六 結論

 青屋がエタ仲間になったということは、これただちにエタがエタとして特別に賤しまれるに至った道筋を適切に説明するものである。これは単にその職業が触穢の禁忌を犯すものだと盲信されたこと以外に、なんらの理由を発見せぬ。しかして青屋に対する誤解の念が薄らぐとともに、彼らの解放せらるるに至った事歴は、これただちに今の特殊部落民がかつてエタとして賤しまれた理由の消滅とともに、当然解放せらるべき運命にあることを明示するものである。ただ一つこのさい残っているところは、青屋が各地方に分散住居して、近隣の生活状態と同一の状態のもとに生活し、あえて社会の進歩に後れなかったように、特殊部落がよく改善の実を挙げ、社会の進歩に後れずしてその歩調を一にするを要とする点にある。

   七 附言二則

 ちなみにいう。古く「紺屋の明後日《あさって》」という諺がある。『人倫重宝記』に、
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紺屋の明後日と名に立ちて、詐《うそ》つく事の世話に引かるるも、うたてな事なり。たしなみ給へ。
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といっている。これは営業の性質上天気都合で成功の日を確かに予定することが出来ないにかかわらず、得意先をつなぐ必要から起った方便の虚言であろうが、彼らが擯斥された理由の一つはここにあるかも知れぬ。
 またいう。『三好記』に、「太公様之時京中の青屋をかり出し、三条河原にお置被[#レ]成候事」とあるのは、エタ部落を河原へ移したことの誤聞らしい。青屋は営業上市中に散布する必要がある。また事実散布しておった。とかく『三好記』の著者は青屋に同情がなく、全然エタと同視していたので、この間違いをなしたらしい。秀吉のころにこう青屋を嫌うた事実があったとは思えぬ。またエタに対してもそう彼らを忌がった事実はない。今も天部の部落には、信長や秀吉の朱印を伝えて、彼らがエタをいたわり、これを保護したことの証拠は明かである。



底本:『喜田貞吉著作集 第一〇巻 部落問題と社会史』平凡社
   1982(昭和57)年6月25日初版第1刷発行
初出:『民族と歴史』第2巻第1号
   1919(大正8)年7月
入力:しだひろし
校正:
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*地名


[奥州]
信夫 しのぶ 福島県の旧郡名。はじめ石背国、のち陸奥国の一部。今の福島市南部に当たる。

[常陸]
行方郡 なめがたぐん 茨城県にあった郡。
井貝 いがい 村名。現、行方郡麻生町井貝。

[下野]
日光山 にっこうさん (1) 日光市にある火山群。最高峰は、男体山(黒髪山)の標高2486メートル、その東北に、標高2483メートルの女峰山(女貌山)がそびえる。二荒山ともいう。(2) 日光市の天台宗輪王寺の山号。

[江戸]
平河町 ひらかわちょう 東京都千代田区にある地名。現在の住居表示では、一丁目から二丁目まである。千代田区の西部に位置する。地域北部は東京FM通りに接し、これを境に麹町に接する。地域東部は隼町に接する。地域南部は青山通りに接し、これを境に永田町に接する。
四谷宿
真行寺 神田町。

[長野県]
諏訪神社 すわ じんじゃ 長野県諏訪にある元官幣大社。諏訪市中洲に上社本宮、茅野市宮川に上社前宮、諏訪郡下諏訪町に下社春宮・秋宮がある。祭神は建御名方富命とその妃八坂刀売命。古来、武事の守護神として武将の崇敬が厚かった。6年ごとの御柱の祭が盛大。信濃国一の宮。今は諏訪大社と称。長崎市上西山町にも同名の元国幣中社があり、おくんち祭が著名。

[三河]  みかわ 旧国名。今の愛知県の東部。三州。参州。
菟足神社 うたり じんじゃ 現、宝飯郡小坂井町。

[京都]
石清水八幡宮 いわしみず はちまんぐう 京都府八幡市にある元官幣大社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)・比売神の三座。859年(貞観1)、宇佐八幡を勧請。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神として武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社の称がある。二十二社の一つ。男山八幡宮。
賀茂神社 かも じんじゃ 京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の2つの神社の総称。
松尾大社 まつのお たいしゃ 京都市西京区嵐山にある元官幣大社。祭神は大山咋命・中津島(市杵島)姫命。もと松尾山に祭られた。二十二社の一つ。
平野神社 ひらの じんじゃ 京都市北区にある元官幣大社。平安遷都の時、大和国より遷座。祭神は今木神・久度神・古開神・比�@神。二十二社の一つ。
稲荷神社 いなり じんじゃ 京都市伏見区稲荷山の西麓にある元官幣大社。倉稲魂神・佐田彦神・大宮女命を祀る。711年(和銅4)秦公伊呂具が鎮守神として創始。全国稲荷神社の総本社。二十二社の一つ。近世以来、各種産業の守護神として一般の信仰を集めた。今は伏見稲荷大社と称す。
賀茂川・加茂川・鴨川 かもがわ 京都市街東部を貫流する川。北区雲ヶ畑の山間に発源、高野川を合わせて南流し(その合流点から下流を鴨川と書く)、桂川に合流する。(歌枕)
斎院 さいいん 賀茂神社に奉仕した未婚の皇女または女王。また、その居所。いつきのみや。かものいつき。いつきのいん。
北山 きたやま 北の方角にある山。特に京都北方の船岡山・衣笠山・岩倉山などの諸山の称。
二条城 にじょうじょう (1) 1569年(永禄12)織田信長が足利義昭のために築いた将軍邸。義昭の京都脱出後は誠仁親王(陽光院)の御所となったが、本能寺の変で焼失。京都市上京区に二重堀石垣の埋没が確認されている。(2) 京都における徳川氏の城郭。京都市中京区にある。徳川家康が京都の警衛並びに上洛時の宿所として1602年(慶長7)起工し、翌年竣工。維新後、離宮。のち京都市に移管。

[奈良]
春日神社 かすが じんじゃ 奈良市春日野町にある元官幣大社。祭神は武甕槌命・斎主命(経津主命)・天児屋根命・比売神。平城遷都後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後ながくその氏神として尊崇された。二十二社の一つ。三社の一つとも称す。今は春日大社と称。
菟田野町 うたのちょう 奈良県宇陀郡の町。2006年1月1日に榛原町・大宇陀町・室生村との合併で宇陀市となった。

[大阪]
東猪飼津
和泉海岸
高脚浜 たかしのはま 高師の浜。現、高石市の海浜部の古称で、高脚・高石とも書いた。

[伊勢]
大神宮・太神宮 だいじんぐう 皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。伊勢大神宮。
桑名郡 くわなぐん 三重県の北部に位置する郡。
猪飼
斎宮 いつきのみや (1) 大嘗祭の悠紀・主基の神殿。(2) 伊勢・賀茂の斎王の住居。また、斎王。(3) 伊勢神宮。

[紀伊]
有田郡 ありだぐん 廃藩置県以前に成立した和歌山県(紀伊国)の郡。
那耆野 なぎの? 田殿庄(現、吉備町)の有田川南に地名が残る。

[伊賀] いが 旧国名。今の三重県の西部。賀州。伊州。
伊賀郡 いがぐん 伊賀国にかつて存在した郡。
内野

[雍州] ようしゅう 山城国の別称。
[城州] じょうしゅう 山城国の別称。
千本通 せんぼんどおり 京都市の主要な南北の通りの一つ。二条通以南は、平安京の朱雀大路に該当する。平安京の中心朱雀大路をその起源とする。この朱雀大路は船岡山が正面に来るように決められたとも言われる。一説には、船岡山西麓の葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養したのが通り名の由来とする。
三条之辻
愛宕郡 おたぎのこおり/おたぎぐん 山城国・京都府にかつて存在した郡。古代に隣接する葛野郡とともに郡域の一部が平安京となり、現在では京都市北区・左京区の大半に相当する。
天部村 あまべむら 現、東山区。
天部 あまべ 中世、奈良の郷(町)内の一区画。また、その住人。
六条村 ろくじょうむら 現、下京区。
川崎村
蓮台野村 れんだいのむら 現、北区。洛北七野の一つ。
北小路村
九条村
粟田口 あわたぐち 京都市東山区の地名で、三条白川橋の東に当たり、東海道の京都の入口。
大宮通 おおみやどおり 京都市の主要な南北の通りの一つ。平安京の大宮大路に当たる。北は竹殿北通から南は久世橋通まで、竹屋町通と押小路通の間で二条城によってとぎれている。
高瀬川 たかせがわ (2) 京都市内にある運河。鴨川から取水し、伏見を過ぎ淀川に通ずる。長さ十数キロメートル。1611年(慶長16)角倉了以が開削。高瀬舟を運行したところから名づけた。
西木屋町 にしきやまち、か
五条橋下 ごじょうはしした 現、下京区。
中島
柳原 やなぎはら 現、上京区。
七条郷

[丹州] たんしゅう 丹波国または丹後国の別称。
園部 そのべ 村名。現、京都府船井郡園部町か。
木崎村 きざきむら 現、京都府船井郡園部町か。

[摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。
西の宮 にしのみや 西宮。兵庫県南東部の市。尼崎市とともに阪神間の住宅・工業地区をなす。近世以来、酒造業が盛ん。南東部に甲子園球場がある。人口46万5千。
西宮神社 にしのみや じんじゃ 兵庫県西宮市にある神社。日本に約3500社ある、えびす神社の総本社。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。創建時期は不明であるが、平安時代には「えびす社」として当地で既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。
猪名
武庫郡 むこぐん かつて兵庫県・摂津国に存在した郡。当初の郡域は現在の芦屋市・宝塚市南西部・西宮市南部・尼崎市西部にあたるが後に拡大した。

[播磨] はりま 旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。
猪飼野 いかいの 猪養野か。現、小野市の南東隅草加野の辺りか。

[美作] みまさか (1) 旧国名。713年(和銅6)、備前より分離独立。今の岡山県の北部。作州。(2) 岡山県北東部の市。農業・林業が中心。出雲街道・因幡街道が通る。人口3万2千。
中山神社 なかやま じんじゃ 岡山県津山市一宮にある元国幣中社。現在の祭神は鏡作命ほか。12月1日からの御注連祭が有名。美作国一の宮。
高野神社 たかの じんじゃ 岡山県津山市にある神社である。旧県社。美作国二宮。貞観6年、従五位上に、のち正五位に叙せられ、延喜の制で小社に列した古社であり、中世以降、領主、藩主の崇敬が篤く、そのなかでも社殿の造営、社領の寄進をおこなったことで藩主森氏が知られる。

[阿波] あわ 旧国名。今の徳島県。粟国。阿州。
堅久寺 真言寺。
勝瑞 しょうずい 現、板野郡藍住町勝瑞。藍住町の東端を占める。

鎮西 ちんぜい (743〜745年、大宰府を鎮西府と改称したからいう)九州の称。

[熊本県]
阿蘇神社 あそ じんじゃ 熊本県阿蘇市一の宮町にある元官幣大社。祭神は健磐竜命ほか。肥後国一の宮。

[日向] ひゅうが (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。
串間神社 くしま じんじゃ 現、串間市串間。
串間 くしま 宮崎県南東端の市。温暖な気候を利用して野菜類の促成栽培が行われる。最南端に都井岬がある。人口2万2千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


六四二(皇極天皇元) 祝部の教えによって、村々の民が牛馬を殺して、諸社の神をまつる(『日本紀』)。
六七五(天武天皇四) 牛馬犬猿鶏の宍を食うを禁じる。
六七五(天武天皇四) 檻穽・機槍のたぐいをもって獣を捕るような、ひどい狩獲法を禁じ、また牛・馬・犬・猿・鶏のごとき、人に馴れ、もしくは人に近い動物の肉を食うことを禁じる。
六七六(天武天皇五)八月 諸国に詔して放生。天皇自身なおしばしば遊猟。
六八九(持統天皇三) 摂津武庫の沿海、紀伊の有田郡那耆野、伊賀の伊賀郡内野の漁猟を差し止める。
七二一(養老五) 放鷹司の鷹・狗、大膳職の��、諸国の鶏・猪をことごとく放つ。
七三二(天平四) 畜猪四十頭を山野に放ち、生命を遂げしむ。
七四一(天平一三) 詔「馬牛は人にかわりて勤労し、人を養う。これによって先に明制あり、屠殺を許さず。今聞く、国郡いまだ禁止するあたわず、百姓なお屠殺ありと。よろしくその犯すあらば、蔭贖を問わず、まず杖一百に決し、しかる後に罪を科すべし」
七五八(天平宝字二)七月 光明皇太后の病気に際して、諸国に令してその年内殺生を禁じ、また猪鹿の類をもってながく進御するを得ずとの詔。
七九一(延暦一〇)九月 伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊などの諸国に、牛を殺して漢神をまつる風を厳禁とする。
八〇一(延暦二〇)四月 越前に牛を殺して漢神をまつるを禁じる。
八四一(承和八) 大和春日の神山で狩猟を禁じる。
八四四(承和一一) 神社より解文をたてまつる。
八四四(承和一一) 賀茂にて禁制。
八八四(元慶八) 賀茂にてさらにその禁を重ねる。犯したものは五位以上は名を取って奏聞し、六位以下は身をとらえて法によって処分せよとある。
九一一(延喜一一)一二月二〇日 「太政官符」『侍中群要』引)、近江国から鹿や猪の宍を御贄としてたてまつらしめる。
一一五九(平治元)一二月 平治の乱。藤原通憲(信西)対藤原信頼、平清盛対源義朝の勢力争いが原因で、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで戦ったが、源氏は平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致に殺された。
一一八〇(治承四) 頼朝から御判物によって許されたというエタ配下の賤者を列挙したいわゆる二十八座の中に、青屋あるいは紺屋という名が見える。『弾左衛門由緒書』
一五九六〜一六一五(慶長)ころ すでにエタが青屋を己が下だと主張。
一六〇八(慶長一三) 藤堂高虎の法度に、猪・鹿・牛・犬、いっさい食申間敷事とある。
一六二四〜一六四四(寛永) 刻本『料理物語』に、狸汁・鹿汁・狸でんがく・猪汁・兎汁・兎いりやき・川獺かい焼・同吸物・熊の吸物・同でんがく・犬の吸物・同かい焼などの項目。
一六六七(寛文七)四月 青屋大工頭六左衛門、町奉行雨森対馬守に願って、御拝借金十両を得る。
一六八九(元禄二) 寂照和尚『〔寂照堂〕谷響集』出板。
一六九八(元禄一一) 高瀬川筋松原上ル西木屋町松葉屋清五郎家来長蔵なる者が、主人の伜を殺して、また高倉松原上ル町駕籠かき市兵衛なる者がなんらかの罪によって、同じ日に粟田口で鋸挽の刑に処せられる。
一七〇一(元禄一四)一二月 六左衛門、ふたたび嘆願書を提出。
一七〇八(宝永五) 下村文六、死去。
一七一〇(宝永七) 天部・六条などの年寄から方内五十嵐へ提出した調査書。二条城掃除人足一か年三七二四人を出したの中に、エタ村京都付近十八か村、そのほか山城八か村、摂州十三か村、江州十三か村をあわせて、二七二四人の人夫を出したのに対して、洛中洛外の青屋二三二軒からは、じつに一千人という多数の夫役を負担。(下村文六の帳面)
一七一五(正徳五) 六条村が五条橋下中島の旧地、すなわちもとの六条村から、今の柳原七条郷の地に移転するについて、諸方より大工が多く入り込む。
一七一六〜一七三六(享保) 「弾左衛門書上」
一七一七(享保二) 改定「穢多青屋勤方之事」『京都御役所向大概覚書』。
一七二一(享保六) 留書。
一八八四、一八八五(明治一七、八)ころ 牛肉百目、四、五銭で買えたと記憶。
一九一四(大正三) 喜田の父、八三歳で没。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。

彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと 記紀神話で瓊瓊杵尊の子。母は木花之開耶姫。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の女と結婚。別名、火遠理命。山幸彦。
火闌降命 ほすそりのみこと (書紀の古訓ではホノスソリノミコト)火照命の別名。
崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
弟猾 おとうかし 大和の土豪。「倭の国の磯城の邑に磯城の八十梟帥あり、又高尾張の邑に赤銅の八十梟帥あり」と奏上している。
神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
天武天皇 てんむ てんのう ?-686 7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人、また大海人。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する。新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。(在位673〜686)
皇極天皇 こうぎょく てんのう 594-661 7世紀前半の女帝。茅渟王の第1王女。舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。名は天豊財重日足姫、また宝皇女。皇居は飛鳥の板蓋宮。孝徳天皇に譲位。のち重祚して斉明天皇。(在位642〜645)

仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
光明皇太后 → 光明皇后
光明皇后 こうみょう こうごう 701-760 聖武天皇の皇后。藤原安宿媛。光明子とも。不比等の女。孝謙天皇の母。長屋王事件後、729年(天平1)臣下からの最初の皇后となる。仏教をあつく信じ、悲田院・施薬院を設けて窮民を救った。
日向肥人朝戸君

聖徳太子 しょうとく たいし 574-622 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇后。名は厩戸。厩戸王・豊聡耳皇子・法大王・上宮太子とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、「三経義疏」を著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。
持統天皇 じとう てんのう 645-702 7世紀末の女帝。天智天皇の第2皇女。天武天皇の皇后。名は高天原広野姫、また�野讃良。天武天皇の没後、称制。草壁皇子没後、即位。皇居は大和国の藤原宮。文武天皇に譲位後、太上天皇と称す。(在位690〜697)

仁明天皇 にんみょう てんのう 810-850 平安初期の天皇。嵯峨天皇の第2皇子。名は正良。御陵に因んで深草帝とも。(在位833〜850)
大江匡房 おおえの まさふさ 1041-1111 平安後期の貴族・学者。匡衡の曾孫。江帥と称。後冷泉以下5代の天皇に仕え、正二位権中納言。また白河院の別当として白河院政を支えた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」など。その談話を録した「江談抄」がある。
日蓮 にちれん 1222-1282 鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。初め蓮長。安房国片海(現、千葉県小湊)の人。初め天台宗を学び高野山・南都等で修行、仏法の真髄を法華経に見出し、1253年(建長5)清澄山で立教開宗を宣言した。他宗を攻撃し、「立正安国論」の主張により伊豆に流された。赦免後も言動を改めず、佐渡に流される。74年(文永11)赦されて鎌倉に帰り、身延山を開く。武蔵国池上に寂。著「観心本尊抄」「開目抄」など。
源頼朝 みなもとの よりとも 1147-1199 鎌倉幕府初代将軍(在職1192〜1199)。武家政治の創始者。義朝の第3子。平治の乱に伊豆に流されたが、1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山に敗れた後、富士川の戦に大勝。鎌倉にあって東国を固め、幕府を開いた。弟範頼・義経をして源義仲、続いて平氏を滅亡させた。その後守護・地頭の制を定め、右近衛大将、92年(建久3)征夷大将軍となった。
後村上天皇 ごむらかみ てんのう 1328-1368 南北朝時代の南朝の天皇。後醍醐天皇の第7皇子。母は阿野廉子。名は義良・憲良。1339年(延元4)吉野の行宮で即位後、賀名生・男山・河内観心寺などに移り、住吉行宮に没す。(在位1339〜1368)
尾州敬公
徳川義直 とくがわ よしなお 1600-1650 尾張徳川家の祖。家康の9男。名古屋城を築き、藩政の確立に尽力。儒学・軍学・神道を好む。諡号、敬公。
藤堂高虎 とうどう たかとら 1556-1630 安土桃山・江戸前期の武将。近江の人。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、秀吉に召され宇和島城主となり、文禄・慶長の役に従う。秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大坂の戦功により伊勢・伊賀32万石に封。築城にすぐれる。
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弾左衛門 だんざえもん 江戸時代、関八州およびその周辺のえた等を支配した、えたの頭の世襲名。1722年(享保7)江戸の非人頭車善七らもその配下に組み入れた。
小野妹子 おのの いもこ ?-? 飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清とともに帰国。同年隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高と称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人の父。

三好長春 → 三好長治か
三好長治 みよし ながはる 1553-1577 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好長慶の弟・三好義賢の長男。第13代将軍・足利義輝の従弟・足利義栄を一時は将軍として擁立して上洛するなどの事跡を遺しているが、何れも篠原長房や三好三人衆など家中の有力者の主導によるもの。後に織田信長の上洛により京を追われて阿波に撤退した。
青屋四郎兵衛
青屋丈太夫 四郎兵衛の子。
勝瑞
青屋太郎右衛門
山井図書 三好長春の小姓。
道智 『三好記』の著者。
紺掻紺五郎
源義朝 みなもとの よしとも 1123-1160 平安末期の武将。為義の長男。下野守。保元の乱に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、左馬頭となったが、清盛と不和となり、藤原信頼と結んで平治の乱を起こし、敗れて尾張に逃れ、家人の長田忠致に殺された。
寂昭 じゃくしょう ?-1034 (寂照とも)平安中期の僧。俗名、大江定基。源信から天台宗を、仁海から密教を学ぶ。1002年(長保4)入宋し、源信から預かった天台教学の疑問27条について知礼の答釈を得る。杭州で没。
蜂須賀 はちすか 姓氏の一つ。江戸時代の外様大名。阿波徳島藩主。
碓井小三郎
下村勝助(文六とも) ?-1708
下村氏 しもむらし 近世、京都の天部村に居住した皮多頭。初代彦助、二代目庄助、三代目文六と続いた。二条城掃除役を勤め、洛中・山城・摂津・近江の穢多身分の者、および青屋からその人足を徴発した。幕府から120石(109石とも)の知行を与えられていたが、1708(宝永5)に文六が死去して下村氏は断絶し、二条城掃除役は廃止された。以後、京都には穢多頭はおかれていない。(日本史)
雨森対馬守 町奉行。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『諸社禁忌』 しょしゃ きんき?
『八幡宮社制』 はちまんぐう しゃせい?
『稲荷社家物忌令之事』 いなり しゃか ものいみれいの こと?
『新羅社忌服令』 『新羅社服忌令』ぶっきれい?
『触穢問答』 しょくえ もんどう?
『延喜式』 えんぎしき 弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
『禁秘御抄』 → 『禁秘抄』
『禁秘抄』 きんぴしょう 宮中の行事・故実・慣例・事物などを91項目にわたって漢文で記述した書。順徳天皇著。2巻または3巻。承久(1219〜1222)年間成る。禁中抄。建暦御記。順徳院御抄。
『大宝令』 たいほうりょう 大宝律令の令の部分。
『大宝律令』 たいほう りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
『日本紀』 にほんぎ (1) 日本の歴史を記した書の意で、六国史のこと。(2) 日本書紀のこと。
「剣珠」 謡曲。
『今昔物語』 → 今昔物語集
『今昔物語集』 こんじゃくものがたりしゅう 日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(うち28巻現存)を、天竺5巻、震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から1000余の説話を集めている。その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。文章は、漢字と片仮名による宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用している。
『宇治拾遺物語』 うじしゅうい ものがたり (宇治大納言物語の拾遺の意)説話集。2冊。編者未詳。成立は13世紀初めか。天竺・震旦・本朝にわたる説話197話。滑稽的要素も少なくないが、仏教的色彩が濃い。今昔物語などを承け、鎌倉時代説話文学を代表する。
『諏訪縁起』
『延喜式』「神祇式」
『霊異記』 → 日本霊異記
『日本霊異記』 にほん りょういき (ニホンレイイキとも)平安初期の仏教説話集。3巻。僧景戒撰。奈良時代から弘仁(810〜824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話を漢文で記した書。詳しくは「日本国現報善悪霊異記」。霊異記。
『万葉集』 まんようしゅう (万世に伝わるべき集、また万の葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。
『侍中群要』 じちゅうぐんよう 10巻からなる蔵人の職務に関する公事書。著者・成立時とも不明。(国史)
「太政官符」 だいじょうかんぷ 律令制の太政官から八省諸司または諸国に下した公文書。官符。
『播磨風土記』 はりま ふどき 古風土記の一つ。1巻。713年(和銅6)の詔に基づいて播磨から撰進された地誌。文体は常陸風土記などよりも素朴。播磨国風土記。
『聖徳太子伝暦』 しょうとく たいし でんりゃく 「平氏伝」「二巻伝」とも。聖徳太子の伝記。2巻。著者未詳。成立年次は917、992年などの説がある。『日本書紀』のほか、先行する太子伝を参考に編集されており、太子関係の説話・伝承の集大成ともいうべき書物で、後成の太子像の形成に大きな影響をおよぼした。(日本史)
『江談抄』 ごうだんしょう 説話集。大江匡房談、藤原実兼筆録とされる。6巻。平安中期以後の公事・摂関家事・仏神事・漢文学などの記事を収める。水言抄。江談。
『海人藻介』 あまの もくず 室町時代の有職故実書。3巻。仁和寺恵命院宣守の著。1420(応永27)成立。書状の形式や言葉の知識をはじめ僧侶として知っておくべき種々のことがら、北条実時や二条良基の言葉、随想風の記載などからなる。(日本史)
『塩尻』 しおじり 随筆。江戸中期の国学者天野信景の著。原本は170巻以上。著者没後50年に100巻にまとめられる。和漢の書を引証し、記事は歴史・文学・博物・風俗など多岐にわたる。
『料理物語』 りょうり ものがたり 料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。
『和漢三才図会』 わかん さんさい ずえ 江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王圻の「三才図会」にならって、和漢古今にわたる事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。
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『弾左衛門由緒書』だんざえもん ゆいしょがき 関八州穢多弾左衛門の由緒書。1725(享保10)弾左衛門は祖先の出自と徳川家康以来の幕府との関わりの書上げを町奉行所に提出した。これが源頼朝から与えられたという偽文書などの付属資料とともに写され流布していき、各地に残された。身分の集団的由来を記した河原巻物とは性格が異なる。(日本史)
「弾左衛門書上」
『慶長見聞書』 → 慶長見聞集か
『慶長見聞集』 けいちょう けんもんしゅう 仮名草子。10巻。三浦浄心作。慶長19年の成立というが、寛永(1624〜1644)初年頃までの記事も含む。新興都市江戸での見聞を説話形式で語る。正しくは「見聞集」
『古事類苑』 こじ るいえん 日本最大の百科史料事典。官撰。本文1000巻。洋装本51冊。1896〜1914年(明治29〜大正3)刊。1879年(明治12)文部省に編纂係を設けて以来、35年を費やし、神宮司庁により完成。小中村清矩・佐藤誠実らが参加。歴代の制度、文物、社会百般の事項を天・歳時・地・神祇・帝王・官位・政治・法律・文学・礼式など30部門に類別し、六国史以下1867年(慶応3)以前の基本的な文献から採録した各項の起源・内容・変遷に関する史料を原文のまま掲げる。
『雍州府志』 ようしゅう ふし 江戸前期の山城国の地誌。10巻。漢文。儒者の黒川玄逸(道祐)著。1684(貞享元)完成。体例は中国の地誌「大明一統志」にならい、山川・土産・古蹟など10門からなる。(日本史)
『芸苑日渉』 → 『苑日渉』
『苑日渉』 げいえん にっしょう 村瀬栲亭の著。安政4(岩波 p.101)。和漢の事物に関する考証169篇を収めた随筆集。12巻12冊。初版は文化4(1807)12月刊。国号・地名・官名・言語・風習・音楽・遊戯・年中行事・飲食・服装・器物・異類(?)など広範囲にわたって豊富な引証と着実な議論を展開している。ほかに文政2年版、同8年版、安政4年版がある(国史)。
『三好記』 みよしき 阿波の三好氏30年の興亡を記した軍記。3巻。福長玄清著。1662(寛文2)までに成立。(日本史)
『続史籍集覧』 → 史籍集覧
『史籍集覧』 しせき しゅうらん 日本史に関係する書物の叢書。「群書類従」未収の書籍364部(改定版464部)を編録。近藤瓶城編。和装本468冊。1881〜85年(明治14〜18)刊。1900〜03年「改定史籍集覧」刊、洋装本33冊。別に新訂増補版がある。
『庭訓往来』 ていきん おうらい 初学者の書簡文範例として、1年の各月の消息文を集めた往来物。文体は擬漢文体。著者は玄恵とも伝えるが未詳。南北朝時代から室町初期に成り、近世末期まで広く使われた。
『源平盛衰記』 げんぺい じょうすいき 軍記物語。48巻。成立は鎌倉時代から南北朝時代にかけて諸説がある。平清盛の栄華を中心に源平2氏の興亡盛衰を精細に叙述するが、挿話が多く流麗さを欠き、読み物風。平家物語を増補改修した異本の一種と見られる。盛衰記。げんぺいせいすいき。
『令集解』 りょうのしゅうげ 養老令を注釈した諸家の私記を集大成した書。50巻中35巻が伝わる。9世紀後半、惟宗直本編。令義解が勅撰されたために私記が写されなくなったのを惜しんだもの。
『古記』 こき 「令集解」に引用されている令の注釈書の一つ。成立は738(天平10)前後。著者は大和長岡、山田白金、秦大麻呂あたりと考えられている。他の注釈書が養老律令についてのものであるのに対し、古記は大宝令についての注釈書。現存していない大宝令の条文を引用しているので、大宝令の復原に用いられる。(日本史)
『和訓栞』 わくんのしおり 倭訓栞。(ワクンカンとも)国語辞書。谷川士清著。3編93巻。1777年(安永6)から1887年(明治20)にかけて刊行。古言・雅語・俗語・方言の語彙を広く蒐集、語釈を加え、用例・出典を示して五十音順に配列。
『薩婆多論』
『谷響集』 寂照堂谷響集。
『京都御役所向大概覚書』 きょうと おやくしょむき たいがい おぼえがき 近世前・中期の京都と周辺地域の調査書。7巻。京都町奉行所の手になると思われ、成立は1718(享保3)頃。五畿八か国が対象。内容は禁忌公卿、幕府諸役所・諸役人、寺社、町々・町役人、河川橋梁、法規、有力町人由緒沿革など政治・経済・宗教におよび、とくに町人に関する記載は豊富。(日本史)
「穢多青屋勤方之事」 えた あおや つとめかたの こと?
「六条村年寄留書」 ろくじょうむら としより とめがき?
『人倫重宝記』 じんりん ちょうほうき?


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ


触穢 しょくえ 死穢・弔喪・産穢・月経などのけがれに触れること。昔はその際、朝参または神事などを慎んだ。そくえ。
合火 あいび 喪やけがれのある家の火を使うこと。一般にはこれを忌みいましめた。
同火 どうか 同じ火を使い合うこと。同じ火で煮炊きすること。転じて同居して生活すること。合火。
六畜 りくちく 六つの家畜、すなわち牛・馬・羊・犬・鶏・豚の総称。ろくちく。
死穢 しえ 死のけがれ。動物の死体や死者をけがれたものとして忌避する。広義の神道上の観念による考え。
余司
蒜 ひる ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称。
遁辞 とんじ 責任などをのがれるためにいう言葉。逃げ口上。
鴉鷺 あろ 黒いカラスと白いサギ。転じて黒と白。
えた 穢多。(ヱタ)(「下学集」など中世以降、侮蔑の意をこめて「穢多」の2字を当てた)中世・近世の賤民身分の一つ。牛馬の死体処理などに従事し、罪人の逮捕・処刑にも使役された。江戸幕藩体制下では、非人とともに士農工商より下位の身分に固定、一般に居住地や職業を制限され、皮革業に関与する者が多かった。1871年(明治4)太政官布告により平民の籍に編入された後も社会的差別が存続し、現在なお根絶されていない。
散斎 さんさい 荒忌に同じ。←→致斎
荒忌・散斎 あらいみ 祭祀の際、神事にあずかる人が真忌の前後に行う軽い斎戒。大忌。
五辛 ごしん 〔仏〕五葷に同じ。
五葷 ごくん [本草綱目菜部]臭みのある五種の蔬菜。仏家の大蒜・茖葱・慈葱・蘭葱・興渠。道家の韭・薤・蒜・薹・胡R。いずれも食することを禁ずる。五辛。
三綱 さんごう 〔仏〕寺内の僧侶・寺務を管理する3種の役僧。(ア) 上座・寺主・都維那。(イ) 上座・維那・典座。(ウ) 寺主・知事・維那。
弓珥調 ゆはずのみつぎ → 弓弭の調
弓弭の調 ゆはずのみつぎ 大和政権時代の伝説上の男子人頭税。弓矢で獲た鳥獣などが主な貢納物だったからいう。←→手末の調
牛酒 ぎゅうしゅ 牛肉と酒。贈り物として用いたり、祭典・宴会などに用いたりする。
神宮寺 じんぐうじ 神仏習合思想のもとに、神社に付属して置かれた寺院の称。8世紀から建立され、神職と社僧が分掌する制度は、江戸末期まで全国に広まった。1868年(明治1)の神仏分離令によってその多くは廃絶あるいは独立した。宮寺。神供寺。神護寺。神宮院。別当寺。
本地堂 ほんじどう 神を仏・菩薩の権現であるとするところから、その神の本地仏を安置した堂。宮僧が預かった。本地仏堂。
御狩 みかり (1) 天皇や皇子などの狩りすることを敬っていう語。(2) 狩りの美称。
恭くも うやうやしくも
ひもろぎ 神籬。(古くは清音)往古、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ。後には、室内・庭上に常磐木を立て、これを神の宿る所として神籬と呼んだ。現在、普通の形式は、下に荒薦を敷き、八脚案を置き、さらに枠を組んで中央に榊の枝を立て、木綿と垂とを取り付ける。ひぼろぎ。
十日戎・十日恵比須 とおか えびす 正月10日に行われる初恵比須。兵庫県西宮市西宮神社のほか京都建仁寺・大阪今宮の祭が名高い。宝をかたどった縁起物を笹の枝先に付けて売る。
礼奠 れいてん 神仏や死者の霊に物を供えてまつること。また、その供物。
十二所明神 → 十二所権現か
十二所権現 じゅうにしょ ごんげん 熊野の三社に祀る12の権現。すなわち証誠殿(本地は阿弥陀)・結宮(千手観音)・速玉宮(薬師)・一万十万宮(文殊・普賢)・勧請十五所宮(釈迦牟尼)・飛行夜叉宮(不動)・米持宮(毘沙門天)・子守宮(聖観音)・児宮(如意輪観音)・聖宮(竜樹)・禅師宮(地蔵)・若一王子宮(十一面観音)。十二伽藍。
祝 はふり 神に仕えるのを職とする者。普通には祢宜の次位で祭祀などに従った人。はふりこ。はふりと。
毛の麁物 けの あらもの 毛がかたい、大きな獣。
毛の柔物 けの にこもの 毛がやわらかい、小さな獣。
鰭の広物 はたの ひろもの ひれの広い魚。大きい魚。
鰭の狭物 はたの さもの ひれの狭い魚。小魚。
祈年祭 としごいのまつり 毎年陰暦2月4日、神祇官および諸国の役所で五穀の豊穣、天皇の安泰、国家の安寧を祈請した祭事。としごい。きねんさい。
御年神・御歳神 みとしのかみ 素戔嗚尊の子である大年神の子。母は香用比売命。穀物の守護神。
祝部 はふりべ (1)「はふり」に同じ。(2) 皇大神宮および豊受大神宮の職員。神宮の摂社・末社・所管社に置かれ、神社の守衛、御匙・鑰の保管、掃除などの監督をつかさどる。1913年(大正2)設置。
漢神 からかみ 上代に大陸から渡来した神。たたりをするといって、牛を殺してまつることが諸国でおこなわれた。からのかみ。訓みについてははっきりした根拠は見られない。
供御 くご (グゴとも) (1) 天皇の飲食物をいった語。また上皇・皇后・皇子、さらに武家時代の将軍についてもいう。くぎょ。(2) (女房詞)飯。
野饗 のあえ 野原での饗応。多くは猟の獲物をその場で料理する。
佐伯部 さえきべ/さえぎべ 大化前代の部。捕虜にした蝦夷を編成した部とされ、宮廷警衛、大王・皇族の護衛など軍事的な面で奉仕した。『日本書紀』景行天皇51年条には、日本武尊が伊勢神宮に献じた蝦夷が播磨・讃岐・伊予(「新撰姓氏録」では伊勢)・安芸・阿波の五か国に移され、佐伯部の祖となったと記される。(日本史)
宍人部 ししひとべ
宍人 ししびと 死者に食物をそなえる人。
偉鑒門 いかんもん 平安京大内裏の外郭十二門の一つ。北面の中央の門。もと猪使門・猪飼門と称。別称、あかずのもん・あけずのもん。
猪養・猪飼 いかい 大和政権に隷属した品部で猪(豚)を飼うことを職としたもの。猪飼部。
檻穽 かんせい おりとおとしあな。
機槍
放鷹司 たかつかさ/ほうようし 奈良・平安時代、兵部省の管下にあって遊猟用の鷹・犬の飼養にあたった。主鷹司の別称か。
主鷹司 しゅようし 律令制で、兵部省に属し、猟の鷹や犬の調教をつかさどる役所。たかのつかさ。
大膳職 だいぜんしき 律令制で、宮内省に属し、宮中の会食の料理などをつかさどった役所。長官は大夫。明治以後、大膳職・大膳寮となる。おおかしわでのつかさ。
�� ろじ 水鳥の一種。う(鵜)(鳥越 p.188)。
両部習合神道 りょうぶ しゅうごう しんとう 両部神道に同じ。
両部神道 りょうぶ しんとう 真言宗の金剛・胎蔵両部の教理で神々の世界を説明しようとする神道説。本地垂迹説の根底をなす神仏調和の神道で、中世以降発達。御流・三輪流などの流派がある。明治以後、神仏混淆の禁止で衰頽。両部習合神道。神道習合教。
血穢
�行 れいこう 励行。はげみおこなうこと。一所懸命つとめること。
歯固め はがため (1) 正月三が日に、鏡餅・猪肉・鹿肉・押鮎・大根・瓜などを食べる行事。「歯」は齢の意で、齢を固め長命を願ってする。(2) 乳児の玩具。まだ歯の生えない乳児が噛んだりしゃぶったりして歯茎をかためるもの。
稠人 ちゅうじん 多くの人。衆人。
大饗 たいきょう (ダイキョウとも) (1) 盛大な饗宴。(2) 古代、宮中・大臣家で例年または臨時に行われた大饗宴。二宮大饗と大臣の大饗を恒例の大饗、任大臣の大饗を臨時の大饗といった。おおあえ。(3) 即位礼・大嘗祭に行う大饗宴。
禁遏 きんあつ おしとどめてやめさせること。
餌取り えとり 古代・中世、鷹狩の鷹の餌とするため、牛馬を屠ってその肉を取る者。
富士の巻狩 ふじの まきがり 1193年(建久4)5月源頼朝が富士山麓で挙行した大規模な狩猟。曾我兄弟の仇討で名高い。
かい焼 かいやき 貝焼。(1) 貝類を貝殻のついたままで焼くこと。(2) 貝殻にのせて食物を焼く調理法。
茲に因て これによって
明制
蔭贖 おんしょく 律令の規定でいう蔭を賜わった者の贖罪。贖銅など所定の代償を官に納めて、当面の犯罪に対する身体刑を免除された。おんぞく。
擯斥 ひんせき しりぞけること。のけものにすること。排斥。
嘗味 しょうみ なめて味わう。
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青屋 あおや 藍染を業とする者。近世、京都では賤民視され、獄門や牢舎清掃などの労役を課せられた。
紺屋 こうや (コンヤの転)藍染を業とする者。後には一般に染物屋をいう。
紺屋 こんや (コウヤとも)染物屋。元来は藍染業者をいったが、のち染物を業とするものの総称。中世は「紺掻」といった。
紺掻き こんかき/こうかき 藍色で布地を染めること。また、それを業とする人。
判物 はんもつ (ハンモノとも。書判のある物の意)室町時代以降、将軍・大名などが下の者に宛てた文書で、花押のあるものの総称。御判。御判物。
雑戸 ざっこ (1) 律令制の諸官庁に隷属し、手工業その他技術を必要とする労働に従事した人々。大化改新前の品部の系譜を引き、渡来人の子孫が多い。(2) 中国の北朝で、手工業等に従事した家。身分的差別を受け、唐代には官戸・奴婢の上位にある官賤民とされた。
傀儡 くぐつ (1) 歌に合わせて舞わせるあやつり人形。また、それをあやつる芸人。でく。てくぐつ。かいらい。(2) (くぐつの女たちが売色もしたところから)遊女。あそびめ。うかれめ。くぐつめ。
上宮太子 じょうぐう たいし 聖徳太子の別称。
にかわ 膠。(煮皮の意)獣・魚類の骨・皮・腱・腸などを水で煮た液を乾かし固めた物質。ゼラチンを主成分とし、透明または半透明で弾性に富み、主として物を接着するのに用いる。グルー。

真生根
指斥 しせき (1) 指さして示すこと。指定。指示。(2) 指さして排斥または非難すること。
已前 いぜん 以前。
心に染まず
つこうまつる 仕る (ツカ(仕)ヘマツ(奉)ルの転)「仕える」の謙譲語。おつかえ申し上げる。
ひめもす 終日。ひねもすと同じ。
べいしゅ 餅朱(紅餅)か。
忍捩摺 しのぶ もじずり 「しのぶずり」に同じ。
忍摺・信夫摺 しのぶずり 摺込染の一種。昔、陸奥国信夫郡から産出した忍草の茎・葉などの色素で捩れたように文様を布帛に摺りつけたもの。捩摺ともいい、その文様が捩れからまっているからとも、捩れ乱れた文様のある石に布をあてて摺ったからともいう。しのぶもじずり。草の捩摺。しのぶ。
染殿 そめどの (1) 古代、宮中や貴族の邸内などで、染物をつかさどった所。(2) 藤原良房の邸宅。平安京の一条大路の南、正親町の北、京極の西、富小路の東にあったという。
綾織 あやおり (1) 経糸と緯糸が交差する点が斜めになる織り方。また、その技法で織った織物。綾織物。また、綾を織る人。(2) 斜文織に同じ。(3) 放下師などのする曲芸の名。数本の竹管などをほうり上げて手玉に取る技。あやとり。
織部司 おりべのつかさ 律令制で、大蔵省に属し、綾・錦・羅などの織物・染物のことをつかさどった役所。長官は織部正。
染戸 そめこ 律令制で、大蔵省織部司に属し、絹織物・染物の生産・貢納を世襲した品部。
品部 しなべ (「品々の部」の意。多くの種類があるからいう) (1) 世襲的な職業を通じて大和政権に隷属した人民の組織。平生は一般の農民・漁民として生活し、政権に対しては、毎年一定額の特産物を貢納するもの、交代で勤務して労働奉仕するもの、などの別がある。管理者は連・造・首などの姓をもつ豪族。(2) (1) のうち、大化改新後も諸官司に配属された特殊技術者の集団。図書寮の紙戸、雅楽寮の楽戸の類。奈良中期から次第に廃止。
陀羅尼 だらに (総持・能持と漢訳。よく善法を持して散失せず、悪法をさえぎる力の意)梵文の呪文を翻訳しないで、そのまま読誦するもの。一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受けるといわれる。一般に、短いものを真言、長いものを陀羅尼という。秘密語。密呪。呪。明呪。
旃陀羅 センダラ インドの四種姓(ヴァルナ)以外の最下級の身分。狩猟・屠殺などを業とした。チャンダーラ。
旃多羅 せんたら/せんだら インドで四姓(カースト)の最下級である首陀羅よりもさらに下の階級。と蓄・漁猟・獄守などの職にたずさわった。不可触民。チャンダーラ。パリア。
優婆塞 うばそく 〔仏〕在俗の男子の仏教信者。信士。清信士。
運上 うんじょう (運送上納の略)中世、公物を京都へ運んで上納すること。江戸時代には雑税の一種で、商・工・漁猟・運送などの営業者に課した。
牢屋外番
外番 そとばん 大門口の番所。また、そこに詰めている役人。
夫代銀
振合い ふりあい 他との比較または釣合。事のなりゆき。
青屋大工 あおや だいく 近世、牢屋の建築、はりつけ・獄門などの用具の調製に従事した大工。
渇命 かつめい (カツミョウとも)飢えや渇きで命が危うくなること。
木末口 こずえぐち、か
手閊 てつかえ?
均霑 きんてん (生物がひとしく雨露の恵みにうるおうように)各人が平等に利益を得ること。
下分者
紺屋の明後日 こうやの あさって 紺屋は仕事が天候に支配されるので、染物の仕上げが遅れがちで、客の催促に対して、いつも「あさって」と言い抜けてあてにならないこと。転じて、約束の期限があてにならないこと。「明後日紺屋に今度鍛冶」とも。
うたて 転て。(ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま。それに対していやだと思いながらあきらめて眺めている意を含む) (1) ますます甚だしく。(2) 程度が甚だしく進んで普通とちがうさま。異様に。ひどく。(3) (次に「あり」「侍り」「思ふ」「見ゆ」「言ふ」などの語を伴い、また感嘆文の中に用いて)心に染まない感じを表す。どうしようもない。いやだ。情け無い。あいにくだ。(4) (「あな―」「―やな」などの形で、軽く詠嘆的に)いやだ。これはしたり。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 4日、チリ南部で火山噴火。8日、NHKニュース、東北大研究グループ、本震2日前(3月9日)からゆっくり海底沈下していたことを確認。1日数センチ。13日、11:20ごろニュージーランド、M6.0。
 羽生善治『決断力』(角川書店、2005.7)読了。玲瓏……周囲を見渡せる状況。同時に、そういう心の状況を表す言葉でもあり、いつも透き通った心静かな気持ち。克己復礼……「己に克(か)ちて礼を復(ふ)むを仁と為(な)す」。私欲にうち勝ち、礼儀をふみ行うようにすること。勝負に一番影響をするのは「怒」の感情。日頃気にかけているのは勝負の結果を次の日に引きずらないこと。対局が終わったら、その日のうちに勝因・敗因の結論を出す。決断力、構想力、大局観。はぁ……、無縁のものばかりがならぶような。
 瀧本浩一『地域防災とまちづくり』(イマジン出版、2008.5)読了。災害図上訓練(DIG)に関するテキストを探していてようやく一冊見つける。誤植多。クセはあるが読み込むと示唆に富む。disaster(災害)=dis(見えない) aster(星)、星が見えない、星が隠れて見えなくてどこに向かえばいいのかわからない状態。なるほど……。




*次週予告


第三巻 第四七号 
地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦


第三巻 第四七号は、
六月一八日(土)発行予定です。
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第二巻

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第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三四号 山椒大夫 森 鴎外  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 越後の春日をへて今津へ出る道を、めずらしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子どもを連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞(はらから)二人を、「もうじきに、お宿にお着きなさいます」と言ってはげまして歩かせようとする。二人のうちで、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣(ものまい)りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、だれの目にもめずらしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝(くるぶし)をうずめて人を悩ますことはない。
 藁(わら)ぶきの家が何軒も立ちならんだ一構えが柞(ははそ)の林にかこまれて、それに夕日がカッとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母がゆびさして子どもに言った。
 子どもは母のゆびさす方を見たが、なんとも言わぬので、女中がいった。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
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 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
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 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
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思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
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キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。

第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  月末最終号:無料
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。

第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治  定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。

第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治  定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。

第三巻 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎  定価:200円
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  あどけない話

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
私はおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。


  千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子によってくる。
口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい―
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをパラパラ投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。

第三巻 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎  月末最終号:無料
 わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
(略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。

第三巻 第四五号 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉  定価:200円
 新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
 私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
 暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。

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