斎藤茂吉 さいとう もきち
1882-1953(明治15.5.14-昭和28.2.25)
歌人・精神科医。山形県生れ。東大医科出身。伊藤左千夫に師事、雑誌「アララギ」を編集。長崎医専教授としてドイツなどに留学、のち青山脳病院長。作歌1万7000余、「赤光」以下「つきかげ」に至る歌集17冊のほか、「柿本人麿」をはじめ評論・随筆も多い。文化勲章。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


もくじ 
ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉


ミルクティー*現代表記版
ヴェスヴィオ山
日本媼
南京虫日記
日本大地震
イーサル川

オリジナル版
ヴエスヴイオ山
日本媼
南京虫日記
日本大地震
イーサル川

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

*底本
ヴェスヴィオ山
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『思想』
   1929(昭和4)年5月

日本媼
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

南京虫日記
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

日本大地震
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

イーサル川
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

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NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆)
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ヴェスヴィオ山

斎藤茂吉


 ポンペイの街をようやく見物してしまって、ひるすぎて入口のところの食店レストランで赤ブドウ酒を飲み、南イタリアむきの料理を食べて疲れた身心を休めている。それから、ここで発掘した小さい瓶子へいしなどを並べて売るのをのぞくが、値が相当に高いので買う気にならない。
 そこに、数人の導者がきて、ヴェスヴィオ登山をすすめてやまない。ここから登山するとせば、ロバに乗って行く、そのほうが登山鉄道で行くよりも賃銭も安く、はるばる観光にきた旅人にとり興味あることであり、一つ一つの経験を印象するにはこれに越したことはないというのである。
 向こうには、ヴェスヴィオの山は半腹に白雲が動いており、頂が晴れて噴煙が立ちのぼっている。陰霽いんせい常なきこの山としては幸運な天気といっていい。それに、登山軌道のできない前には、旅人はみな、馬車に乗り、ロバに乗り、山の頂近くなると徒歩し、難渋して登山したものである。ある記事には、暗黒あんこく松明たいまつの火を振り振り、導者らが、原始的な民謡を歌いはじめることなどが書いてある。ある記事には、隠者のいわやに年老いた隠者が縄の帯をしめて、旅客に食をさんし、酒を飲ませるところなどが書いてある。ゲーテなども、たしかロバに乗ってブドウばたけの間あたりをぬいながら、それからこけのはえた溶岩ようがんの上などを難渋して歩いたのであっただろうか。
 『即興詩人』には、「溶岩は月あかりにて見るべきものぞとて、われらは暮れに至りてエズィオに登りぬ。レジナにてうさぎうまをやとい、ブドウばたけ、貧しげなる農家など見つつり行くに、ようやくにして草木の勢いおとろえ、はては片端かたはになりたる小灌木、なかばれたる草のくきもあらずなりぬ。夜はいとあかけれど、強く寒き風はたちまちおこりぬ。まさに没せんとする日はさかりなる火のごとく、天をば黄金色おうごんしょくならしめ、海をば藍碧色らんぺきしょくならしめ、海の上なる群れる島嶼とうしょをば淡青たんせいなる雲にまがわせたり〔まがわす。惑わせる。まことにこれ一つの夢幻界なり。湾に沿えるナポリのまちはしだいに暮色ぼしょく微茫びぼうの中に没せり。ひとみを放ちて遠く望めば、雪をいただけるアルピィの山脈こおりもて削りなせるがごとし」こういういい文章がある。
 ぼくはしばらく心が動き、こういう名文章が胸中を往来し、しばらくはロバの背上の人物として僕自身を空想するのであったが、僕はおもいなおして、ロバでポンペイからする登山を断念した。何向きぼくは一人旅をしているものである。単に詩的な気持ちから、軽率な冒険をしてはならぬと思ったのであった。
 ポンペイから汽車に乗り、汽車に乗り込んでいるトマス・クック会社の男からヴェスヴィオ登山軌道の切符を買った。すなわち、ロバで行くことを断念してレジナ駅から登山車に乗ろうというのである。
 レジナから乗り込んだ外国の遊覧客は幾組かいた。イタリア観光の季節からはずれているのであるが、やはりぼくのような旅人もいないことはない。
 だんだん高くのぼるにしたがって、眼界が広くなり、一望のうちに展開せられるナポリ湾をも引っくるめた風光には、藍色の海水があり、堅固な色彩の村邑そんゆうの家があり、寺院があり、丘陵があり、川の流れがある。そうして強烈な午後の日光のもとに一種の光明を反映している。それがすこしも旅人の心を陰鬱いんうつにしない。登山車の車房の中で心持ちゆられ気味になってこの風光をながめていることは、一つの幸福といわねばならぬ。
 そのうち草原、灌木帯がすぎてしまって、溶岩原に移行して行ったが、黒光したこの溶岩は幾里にもわたってなだれ落ちているので、旅人は車窓から首をのばして驚愕きょうがくしてそれを見ている。この溶岩の原はすでに冷えて沈厳の色であるが、いまだそう年数を食わず、生々なまなまとしたところがある。おそらく西暦一九〇六年の時の噴火に際しての溶岩流だとおもう。西暦一九〇六年には四月四日からひどい爆発があり四、五、六、七、八日あたりまで爆発がやまなかった。この山は三百年来、いつも活火山としてつねに大小の噴火があり、山の形貌けいぼうもいくらかずつ変わっている。
 この山はずっと古い事はわからぬが、西暦六十三年に噴火し、そのときには大地震をも伴って、そのあたり一帯の都市を滅亡せしめている。ついで西暦七十九年にも同様の噴火があって、ヘルクラネウムとか、ポンペイとかは全くわからなくなってしまったのであり、爾来じらい、第十六世紀から現在まで大きな噴火が五十回あったように記録に残っている。近くでは西暦一八七二年の噴火、それから西暦一九〇六年の噴火が大きいものであった。滅亡したヘルクラネウムの上に建てられた市は今のレジナである。
 しかるに、幸運であった天気が、たちまちにして雲霧となり、下界をばまったく隠蔽いんぺいしてしまった。飆々ひょうひょうとして流れくる雲霧は、小粒こつぶ雨滴うてきとなって車窓の玻璃〔ガラス。らすようになった。それだから、登山車が灰円錐体かいえんすいたいにかかってからは、眺望がまったくかなわず、車は雲霧のなかを走って、ようやく頂上に達した。
 頂上の停車場についたときも雲霧が濃く、雨滴となってしぶくので、旅人らは下車をためらっていると、若者が一荷いっかの雨外套がいとうを運んできて、それをめいめいに着せてくれた。天候の変幻きわまりなきヴェスヴィオ山上であるから、こういう設備はできていて、この外套がいとうの賃料は二リラである。ついで、別な若者がきて、火成岩の小片だの、火山の写真だの、灰細工だのを機敏に売るのであるが、山上の常として代価がなかなか高い。
 この山上の導者には五リラずつ支払うことになっている。たちまち一人の導者がぼくの手をとらえて雲霧の濛々もうもうたるなかを行く、それが、いかにもあわてふためいた様子であり、ぼく前行ぜんこうした数人の紅毛人を追い越していく。霧が濃いのでよく弁ぜぬが、山の峰についてまわっているらしい。僕は、この男は導者だということを意識しているのみで、あとはわからずについて行くに、導者は突如としてある岩角いわかどから僕の手をとらえて左手へ飛びおりた。僕は転落てんらくするようにしてようやくにして身を支えたが、そこは硫黄いおうのさかんに噴出しているところで、僕の咽喉のどはしきりに硫黄の気でむせるのにえている。導者は口にさけんで僕に何かにぎらせたのを見れば、これは熱砂である。僕はかろうじて巌壁からよじのぼったが、ここには誰も人どおりがない。導者のことばが通ぜぬので、また質問することもできない。
 導者は、手をぼくのまえに出して、「五リラ。五リラ」という。これは先ほど払った五リラ以外にもう五リラくれよということである。僕は憤怒ふんぬ大声たいせいして、「何をいうか! このバカヤロウ!」という。このするどい声の意味はわからんでも、語気がわかっただろう。導者にかまわずにぼくは峰をスタスタと歩いて行った。ただし、いかんともすることができない。耳をすませば、火口のあるらしい方向ほうこうに遠雷のごときするどくにぶい音が無間断にしているが、しかし単にそれだけで、あとは、いかんともすることができない。「一道の火柱直上ちょくじょうして天をつき、ほとばしりでたる熱石は『ルビン』をはめたるごとき観をなせり。されどこれらの石はあるいはふたたび坑中こうちゅうに没し、あるいは灰の丘に沿いてころがり下り、またわれらの頭上に落つることなし。われは心裡しんりに神を念じて、屏息へいそくしてこれを見たり」というごとき文章をほぼ知っているから、今のこの天候が無念でたまらない。
 ぼくはこの山上に一泊してふたたびこの噴火口を見きわめることをなし得ず、また、数年の後、十数年の後ふたたびこの地に来ることもおぼつかない。これは僕の生涯にただ一度の逢遇ほうぐうであるに相違ない。そこで僕は無念でたまらぬのである。僕はしかたがないから、導者などをあてにせず、ひとりで無鉄砲に峰の上を歩いた。そして寒すぎるような今日の天候に額に汗を出して元の停車場に帰ってきた。いっしょにのぼってきた夫婦者などは、山をることをあきらめてここでコーヒーを飲んでいた様子である。
 これは今日の午後の最終の車なので、みながこの車で下山した。さて、溶岩帯までくると、雲霧がまったく晴れていて、雨一滴ふらない。車中の旅人らは申し合せたように外をながめて笑った。
 あるところに下ると、旅客らはみな車からおりて一軒の家に入った。ここは食店レストラン・カフェである。彼らは、,,Lacrimaeラクリメエ Christiクリスチヤヤ聖涙酒せいるいしゅ)という酒を飲もうというのである。僕は、無念の心がいまだ晴れず、そんな物を飲む気になれぬので、一人車房に残った。しばらくして車房を出で、やぶのほうに小便をしに行くと、そこに日本にあるような白芙蓉ふよういている。それから頭の上にクルミの実がなっている。そういうものをもてあそんで時をすごすに、彼らのめいめいは赤い顔をして帰ってきて車房に入った。
 僕はヴェスヴィオ山には、かくのごとく平凡に登って平凡におりてきた。「このところに山人やまびと草寮こやあり。兵卒数人、火をかこみて聖涙酒をめり。こは遊覧の客をまもりて賊を防ぐものなりとぞ」というのはすでに過去であるが、この山賊の気持ちは今でも残留している。
 午後五時四十分、レジナ駅発の汽車に乗ってナポリに向かった。その汽車の中で、今日はポンペイからロバなどをやとわないでよかった、そうでなかったら、今ごろは山腹あたりで難儀なんぎしていただろうとおもった。
 それから、今日のは平凡無念な登山であったが、ゲーテなんかもこの山で雲霧に会い、自分のくつさえ見えなかったことをいい、ハンカチを顔にあてても何の甲斐もなかったことをいっていることをおもいだして、いくらか心をなぐさめたのである。そして空腹を感じてナポリに着いたのは午後七時十五分である。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『思想』
   1929(昭和4)年5月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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日本にほんおうな

斎藤茂吉


 おうなの名は、Marieマリー Hillenbrandヒルレンブラント という。おうながまだ若くて体に弾力のあったころから、その母親とともに多勢の日本留学生の世話をした。当時の日本留学生はおおむね三年ぐらいいたのであり、一つの都市についてそこで勉強するのを常としたから、都市の人々と留学生との間に、おのずと心の交渉がなりたち、それが今どきとくらべてよほど親密なものであったと見える。そこで、このおうなは娘のときから入りかわり立ちかわり日本留学生の世話をして老媼ろうおうにおよんだのである。日本にほんばあさん」というのは、これにもとづいた名であった。
 私は西暦一九二三年の七月から丸一年ミュンヘンにいるうち、いろいろおうなから世話になった。そして後半の七か月あまりを媼の家に起居し、ミュンヘンを去るときも媼の家から立った。いま追憶してなつかしく思うのもそのためである。
 おうなは私の世話になったころは、すでに六十に手が届くぐらいのよわいに達していた。昔、世話した日本留学生の写真をたくさん持っていて、居間に飾ってあったり、アルバムのなかにはさんであったりして、楽しそうにそれを私らに示した。なかにはおうながまだ娘々した顔でうつっている写真などもあった。
 おうなが生んだ、ただ一人の男の子に Wilhelmウィルヘルム Hillenbrandヒルレンブラント というのがいた。これは日本の留学生の生ませた混血児であるが、すでに三十に近い敏捷びんしょうな若者である。みなが Williウィリー と呼んでいた。
Williウィリー のやつをていると実におもしろいね。すばしこくて、短気で、ずるいところがあるかと思えば、気前きまえがバカによかったりして、やっぱし半日本人はんにほんじんというところがあるね」
「それはそうだろう、じつはばあさんにもちょっとそんなとこがありあしないか?」
「そういえばそんな点もあるようだね。なにせ日本人が好きで世話をしながら、子を生んだのだから、なにかの黙契もっけいがあったんだろう」
黙契もっけいか……、ばあさんの顔でもひょっとしたら、蒙古種でもまじっているのかもしれんぜ。モンゴルの奴らが昔、このへんまで荒らしたというじゃないか」
 こんな話があるとき、わたしら一、二人の間にとりかわされたこともある。
 Williウィリー は、私を警察に連れて行って届けを出してくれたり、新聞社に行って部屋借りの広告を出してくれたりした。ある日、部屋を見に連れて行ったかえりに、
「ミュンヘン人は何でも真直まっすぐに物いいますから、先生もケンカなすっちゃいけませんよ」などといったことがある。,,direktヤヤ といわずに ,,geradeヤヤ などといったのが珍しいような気がして、帳面に書きとどめたことがある。
 その Williウィリー許嫁いいなずけの娘が一人いて、やはりおうなの家に同居しておった。若者も小柄こがらであるが、娘も小柄で丸いかわいらしい顔をしていた。しかるに、娘とおうなの間がどうもうまくゆかぬらしい。目立って争うような場面は私どもに示さなかったけれども、おうなはここに投宿している私の友に泣いて訴えることなどもあった。
 そうしているうちに、若者は娘をつれて、Stuttgartシュツットガルト の運送店に勤めることになった。そこはミュンヘンから急行汽車で半日もかかる商業都市である。ときどき、おうな着類きるいだの食物などを小包みにして若者のところへ送り送りした。
 私はおうなのところに世話になるようになってから、朝食を毎朝、おうなのところでした。黒パンを厚く切り、それにバターとジャムとをぬって、半々はんはんぐらいのコーヒーを一わん飲ませた。そのせまい台所兼食堂の卓の近くに、カナリヤが一羽飼ってある。おうなは毎朝かごの手入れをしたのち、人間にものいうような口調で、手指てのゆびを立ててみたり、顔をゆがめてみたり、目をむいて見たりしているのが、いかにもおかしくあり、物あわれでもある。
 カナリヤは南ドイツなまりまじりのおうなの言葉にいつも敏捷びんしょうに反応した。この小鳥はすでに満十五歳のよわいで、片足がきかなくなっていた。また、活発にさえずるようなことももうなかった。「もう、わたし同様おばあさんでございますよ。ごらんなさい、片方の足は僂麻質斯レウマティス〔リウマチ。であんなでございますよ」こんなことをおうなは言い言いした。今ここに止宿しているMドクトルが、大戦勃発ぼっぱつ少し前にここの家に止宿していて、その時いたカナリヤであるから、十五歳ぐらいになるはずだとMドクトルは言った。ただおうなの家が、戦前いた Bavariaringバワリアリンク からここの Landwehrラントウェール 街に越して来たのであった。
 おうなは日本の留学生に日本飯にほんめしかしいでくれた。それから牛肉のすき焼きなどもしてくれた。ただし日本飯をくといっても、まず米に幾通りかあって、それを鑑別しないとうまい飯にはならない。媼は、留学生から学んだ経験でその鑑別の法を知っていた。それから、ガス火でなべくのであるが、決してままめしにするようなことはなかった。き方は、湯気ゆげを強く吹かせて火を消そうとするときに火を消してしまわない、そして火を細めてから三十分間放置しておくと、鍋の底は少しくきつねこげにげて飯はまことにぐあいよくできあがるのであった。私はウィーン留学中は寸暇すんかをおしんだので、みずから日本飯をくようなことがなかったが、ミュンヘンに来てはじめて媼からこの秘法をさずかったのである。
 おうなは信心ぶかいという方ではないであろう。けれどもあかつきに寺の鐘が鳴ると、何かつつましい顔をするときもあった。若者と娘がいなくなってからは、土曜から日曜にかけて洗濯をするので寺まいりのひまがないというようなことも言った。
 四階目にあるここの家のはばかりには、ミュンヘンの新聞紙とともに日本の新聞紙を四角に切ってげてあることがあった。用をたしながら見るともなしに見ると、懐郷かいきょうの心をそそるような文句に逢着ほうちゃくしたりする。ときには宮さまのご登山の写真などがいっしょになって交じってあったりする。そういう時にはもったいないと思ってそこだけ取りはずすことなどもあった。
 ある朝、食をすましていると媼は小声にうたを教えてくれた。「今日はヨハナ。あすはスサナ。恋が年じゅう新しい。これが正銘しょうみょうじつある学生さん」というので、媼の声はさびている。時代の変遷してしまった、今から三十年も前の学生の間におこなわれた歌謡をはからずも目前に歌うのであった。
 おうな他所行よそゆきの衣装は、すその長い旧式な黒衣であった。その衣装をて媼はわたしらと芝居見に行き、夕餐ゆうさんをしに行った。ある日、おうなはその衣装を着、貸し間を見に私を連れて行ってくれたことがある。そのとき、あいにく豪雨が降ってきた。私らはあわてて人の家の軒下に雨をけた。媼は、天が泣いた、天が泣いたなどと言った。これは若者の私が老媼ろうおうなどと連れ立って歩いているからだという意味である。言うことが通俗だが、ドイツ語でいわれると、そこに情味が出てくるようでけて悪い気持ちはしない。媼はこんな笑談しょうだんなども言った。
 おうなは大戦後、特に貧しい暮らしをしていたけれども、家には南京ナンキンむしが出なかった。これは些細事ささいじのごとくであるが、じつはなかなかそうではない。あるとき、北ドイツから来てここを通過した日本の旅客が一ぴき持ち運んだことがあったが、かろうじてそれをとらえた後は、依然として南京虫は出なかった。
 おうなの家の屋根裏には大戦で逃げた留学生の荷がまだ残っているということであったが、その留学生諸氏は、ドイツの敗戦後、媼の貧窮ひんきゅうを気の毒に思って金円きんえんおくってきたほどである。私はその屋根裏にはついに上がらずにしまった。その屋根裏の隣室には媼よりも貧しい若いプロレタリアの夫婦ものが住んでいて、夫は工場に通っていた。土曜の夜などには、夫婦してギターをつまびいて唄をうたう。その唄は哀調をおびてときどき私の涙を誘った。
 私がミュンヘンを去ってから、もう満四年がすぎた。このごろ、ミュンヘンを通過した日本の旅客と合作の絵ハガキをもらったが、媼も健在でいるようである。また、Williウィリー と娘とが正式に結婚したということも書いてあった。私は老境に入りかけ、業務多端たたんのためにおうなにもまったく無音にすぎた。ただ、たまたま心にひまがあるときに、媼の身のうえの多幸ならんことをこいねがっている。(昭和三年(一九二八)十月記)



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
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南京虫ナンキンむし日記

斎藤茂吉


 西暦一九二三年八月十三日、Rothmundロートムント 街八番地に貸し間があるというので日本媼にほんおうなの息子が案内してくれた。そこの女主は Prrtzlプレルツル といって、しきりになまりのある言葉を使った。左の方の顔面神経麻痺まひがあるから笑うたびに顔が右の方にゆがんだ。部屋は古くてあまり清潔ではないが、裏に面して一間、往来に面して一間ある。今はふさがっているけれど、四、五日てばどれかが明くということである。かえりみちで、日本媼の息子は、「ミュンヘン人は何でも真直まっすぐに物いうからケンカしてはいけませんよ」などと言った。これが候補になった第一の部屋である。
 八月十四日。火曜。教室で仕事をしているドイツ人の医学士が下宿している家に一つ部屋があるから、もし借りる意志があるなら世話しようということであった。家は Lindwurmリントウルム 街の二十五番地四階で、女あるじの名を Maistreマイストレ といった。部屋は小さいが我慢がまんができる。ただ毎日四階まで昇降することはいかにも大儀だから、第一の部屋が借りられるならばその方にしようと思い、明瞭めいりょう返詞へんじをあたえずに帰ってきた。これが候補になった第二の部屋である。
 八月十八日。土曜。朝食まえに、第二の部屋は、四階だから不便だというのでことわりに行った。それから、朝食をすまして、Landwehrラントウェール 街三十二番地Cに一間、Sonnenゾンネン 街二十八番地に一間あるが、いずれも一週間ぐらい経たねばあかなかった。これが候補になった第三、第四の部屋である。
 八月二十日。月曜。午前も午後も教室で仕事し、夕景に第一候補の家をたずねた。かみさんは顔がゆがんで醜いが、率直でいいところがあるらしい。私は部屋を借りようと思う。そこで、いくら支払うかと問うた。かみさんは熟慮するいとまもないほどすみやかに、毎日、丸麺麭ゼンメル三つの代価だけ支払しはらってくれないかといった。いまどき、小さい丸麺麭ゼンメル一つの価は一万五千マルクである。私はだいたいかろうと答えた。かみさんいう。「どうか貧しい寡婦やもめのためになるべく余計に払ってください」それから、またいう。「ドクトルはビール一杯二十五万マルクするということをごぞんじでしょうねえ。ああ、ビールが飲みたいですねえ」云々うんぬん。それから、かみさんはくつ下のつくろいを自慢して見せ、他所行きの着物きものを持ってきて見せ、ついで一足のくつを持ってきて見せ、オーストリアの Salzburgザルツブルク 製だといった。そのくつをしきりに自慢し、めったに穿かないということをも言った。四十を越した寡婦やもめかみさんは、そのくつを大切にして飾っているのであった。
 八月二十一日。火曜。午前は教室で仕事し、午食ひるしょく後、日本おうなのところに置いてあった荷物を全部 Rothmundロートムント 街の第一候補の家に運び、ミュンヘンに来てはじめて自分の部屋におちついたような気がしたので、午後も教室での仕事がなかなかはかどった。夕景に新しい家に立ち寄りかみさんから鍵をもらい、友と夕食をしに行った。心がおのずと開いて、ビールが咽喉を通過していくぐあいがなんともいえない。九時半ごろ新しく借りた居間に帰り、体をふき、足を洗い、小さい方のトランクから日用品やら文房具やら書物やらを取り出して調ととのえた。今日からこの部屋を独占するのだと思うと気持ちがいかにもおちついてくる、今までは窮屈きゅうくつして他人の部屋に寄生していたのであるが、今日からは自分の部屋に寝るのである、そう思って私は軽い催眠さいみん薬を飲んだ。さて、しばらくまどろんだと思う時分にくびのところに焼けるようなかゆさを覚えて目をさました。私はウィーン以来のしばしばの経験で、すぐ南京ナンキン虫だということを知った。こまったこまったと思ったが、辛抱しんぼうして三十分あまりかかって大小二匹の南京虫をとらえ、それを紙に包んでおいて、日用品だけ大急ぎで調ととのえ、日本おうなのところに逃げてきた。すでに夜の十二時をすぎていたが、媼は戸をあけてくれ、私は他人の部屋のソファの上に体をちぢめて寝た。この日本媼のところの部屋は、借りている日本人が目下旅行中なので、その留守に私は寄生しているのであった。じつに変な気がする。
 八月二十二日。水曜。今日、媼がいっしょに行ってくれるというので、第三、第四の候補の部屋をたずねて談合したがどうもえきらない。そこで、とにかくもう一度新聞に広告を出しておいて、Lindwurmリントウルム 街二十五番地の第二候補の部屋に行ってみたところが、まだ借り手がつかずにいた。私は決断して借りることにした。雨が非常に強く降る日で、四階まで昇って行くのにひどく息切いきぎれがした。間代まだいは一月、三百万マルクだと言ったが値切る勇気もなかった。
 八月二十三日。木曜。午前中教室で働き、午食ひるしょくすまして荷運びの赤帽あかぼう二人をやとい、第一の部屋に行って荷を運び、第二の部屋に運ぶように言いつけ、かみさんに南京虫の談合をすると、「あなたがホテルから持ってきたのだろう」という。「いや、そうではない。これが証拠だ」などと言いながら私はとらえておいた大小二匹の南京虫をかみさんに示した。それから、五十万マルクをかみさんにわたしてその家を辞し、第二の部屋にくると、荷物は四階までもう運ばれていた。赤帽に勘定をすまし、この日は、日本媼のところに寝た。英貨一ポンドの相場が、千五百万マルクである。
 八月二十五日。土曜。一日じゅう教窒で仕事し、夕食後はしばらくコーヒーてんで時を移し、疲労しきって新しく借りた部屋にきた。息切れのするのを途中で数回休み休み、とうとう四階まできて、今夜こそ安眠しよう。毎日の昇降は苦痛であり、朝日もあたらぬ部屋であるが、南京虫さえいなければ辛抱しんぼうしようと思って、床の上によこたわった。そして会話の本などすこし読んでいるうちに少しく眠った。
 しかるにこの床でもたちまち南京虫にわれた。私はあまりいまいましいので、すぐ日本媼のところに逃げ帰ろうとしたが、夜がすでにふけているし、たびたび南京虫のことを訴えるのは自矜じきょうを害されるような気もするし、しのべるだけ忍ぼうとした。私は三時半まで起きてい、ふたたび寝て大小数匹の南京虫を捕らえ、ろくろく眠らずして一夜を明かした。
 八月二十六日。日曜。今日は頭が朦朧もうろうとして不愉快でたまらない。一層いっそのこと下宿住まいをしてもいいと思い立って、午前中から、教室からほど遠くない所という見当をつけて下宿を見まわって歩いた。下宿はじつに幾軒もあるが、時節が悪いのでたいていふさがっているし、明間あきまがあるのを見れば不潔で住む気にはなれない。私は一人さびしく途中で午食ひるしょくをすまして、それから日本媼をたずねた。おうなは愛想よく、南京ナンキンはいませんでしたか? nichtsニヒツ ?」などといったが、私はただ苦笑せざることを得なかった。
 おうなは、私が一両日まえ出した間借りの新間広告の返詞へんじ十通ばかりを持ってきて私に示した。そのうちから、教室にあまり遠くないところ四、五か所を選び、いい部屋のあるような気持ちをなるべく自分できめて媼の家を辞した。ふけて南京虫のいる自分の部屋に帰り、催眠薬を飲み、南京虫に食われて一夜を明かした。
 八月二十七日。月曜。昼のうちは教室で働き、夜はできるだけおそく帰り、虫けの粉などを振りまいて、南京虫に食われて寝た。
 八月二十八日。火曜。いい部屋がなくてどうもこまった。郊外の方か、新市街地に行けば虫の出ない部屋がいくらもあるというが、仕事のためにはやはり教室の近くでなければならない。今まではあまり人にたよりすぎた、今日からは自力で自分のこれから住むべき部屋を求めようと思う。そう思って私はまず宗教の方で関係している ,,Hospitzホスピッツヤヤ に行った。部屋には古いキリストの木像などがかかっており水道の設備もついていた。値段は相当に高いが候補の一つにして、それから Schwanthalerシュワンターレル Str.シュトラセ の数軒を見た。Pensionパンション Moraltモラルト というところを見、Frauフラウ Keimカイム の部屋を見、Frauフラウ Valentinファレンチン の部屋を見、Hotelホテル Schneiderシュナイデル の部屋を見た。最後の部屋を見たときにかみさんは、もし借りるなら百万マルクの手金てきんを置けなどと言った。
 心がおちつかず街頭を急いでくると、はからず二人の日本人にった。一人は不思議にもウィーンで知った医者であり、一人の老翁といっしょであった。老翁はよわいすでに古希こきを越したT氏であった。私も元気づきミュンヘンのことでは一日の長があるような態度をおのずから示して、夕食を共にした後、今日、見てきた宗教関係の下宿 ,,Hospitzホスピッツヤヤ に案内し、私は日本媼にたのんでソファの上に寝た。連夜、南京虫に苦しめられたので、自分の今借りている部屋に帰って寝る気になれなかったのである。
 八月二十九日。水曜。朝便あさびんの配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父伝右衛門でんの死を報じて来ていた。午前も午後も教室で仕事をし、夕食のときウィーンからきた昨日のT翁に逢ったところが、私の世話した ,,Hospitzホスピッツヤヤ で昨夜、南京虫におそわれたことを報じ、首のあたりの赤くはれたあとを示した。私は気の毒になり、いっしょに行って部屋を取りかえるように談合した。それから今夜も日本媼の一室に寝せてもらった。夜半にしばしば目がさめ、実父の死んだというのは夢ではないかなどと思った瞬間もある。
 八月三十日。木曜。今日はよい天気なので気を立てなおして働き、夕食して、手金をやっておいた Frauフラウ Valentinファレンチン のところに行き部屋と入口の戸の鍵を受け取り、日本媼のところに寄って、今夜一晩試してみて、もしまた虫におそわれたら逃げてくるむねを言い言い出ようとすると、おうなは「幸運をいのります」などといった。それから Valentinファレンチン のところに行って愛想のいいかみさんといろいろの話をし、「僕の部屋には虫は出ないでしょうね?」「虫? ご笑談じょうだんでしょう」「そんなら受けあいますか?」「受けあうどころではございません」こんな会話などがあった。私はしばしばの苦しい経験の後なので、懐中電灯を用意し、まったくの裸ァらていになってとこにもぐった。それからいろいろ生まれ故郷の日本のことなどに空想をはせながら、一時間ぐらいも経ったころであろうか、眠ったか眠らないかまだわからないうちに南京虫におそわれてしまった。私は一瞬はげしい憤怒ふんぬを感じたが、今度はすぐ心が元に帰った。そして急いで着物を着、戸を開けて往来おうらいに出た。街上には人の往来がいまだえていなかった。私は途中でビールの大杯を飲みほし、日本媼のところに逃げ帰った。そして、誰にも会わずにひそかに部屋に入ってそこに寝た。
 八月三十一日。金曜。朝から教室に行き、仕事をひととおりしておいて、小使こづかいに貸し間の世話をたのみ、三、四軒見てまわった。Pestalozziペスタロチ Str.シュトラセ 十四番地の一間を見た。これは現在学生が借りているが、十一月に帰ってくるまで貸してもいいというのであった。Ziemsenチームゼン Str.シュトラセ 二番にも一間見た。それは現在、夫婦者がいるが近々にあくということである。Tahlkirchnerタールキル Str.シュトラセ 十六番地の一間を見た。ここでは頑丈がんじょうな男があいさつして私を連れて行ってくれた教室の小使こづかいに、部屋は貸したくないと言った。
 午後、日本媼にたのんで、もう二回ばかり新聞に広告してもらうようにした。夕がた教室のかえりに寄ると新聞に広告を出してくれたということであった。今夜も日本媼のところに泊まった。
 九月一日。土曜。今日の朝刊新聞に私の間借りの広告が出た。夜食後に日本媼のとこにくると、広告に対して十数通の返事がきていた。そこで媼と二人でだいたいの候補をきめ、今夜もここのソファの上に寝た。
 九月二日。日曜。早朝から、Klenzeクレンツェ Str.シュトラセ 三十番地の二階右側に一室あるというので見に行った。ここのかみさんは Marieマリー Mairマイル といってしとやかで人相もいい。ここに十四ばかりになる娘も一人いる。部屋は大きく光のあたりもよく、教室から遠いのが欠点だが、それさえ我慢がまんすれば大体いいと思った。そこで明晩一夜とめてみてくれるように頼んでそこを出た。それから同胞のN君をたずね、いっしょに散歩に出た。今日は日曜で天気がいいので、町の人も他所よそ行きの着物をきて歩いている。宗教上の何とかいう行列を一時間ばかり見、それからイーサル川の川原かわらを歩いた。連日教室で根をつめて仕事し、連夜、南京虫のために気をつかう身にとっては、今日の散歩はなんともいえぬ気持ちである。川は急流でところどころに瀬を作り、またたんふちを作っている。たんのところで若者らは童子どうじをも交えて泳ぎ、寒くなると川原の砂に焚火たきびしてあたっている。川原には短い禾本かほん科の草などのほかに一面に川柳かわやなぎが生えている。
 午後三時ごろ歩き疲れ、途中でビールを飲み、薬種屋によって南京虫退治の薬を買った。これは硫黄いおうを主薬としたもので、一夜いて退治するのであった。それを持って、現在借りてはいるがしばらく寝に帰らなかった Lindwurmリントウルム Str. シュトラセ 二十五番地の四階に行って、今夜じゅうこの薬をくようにかみさんに依頼しておいた。これは、どうしても他所よそに部屋がないなら、南京虫を退治しておいてここに住もうという計画なのである。それから、日本媼のところにくると、Bavariaringバワリアリング の三十一番地に部屋が一つあるというので見に行った。部屋は申し分なく、教室もすぐ近くであり、南京虫のいないことも確からしいが、値段が部屋代だけで邦貨に換算して一日二円ばかりかかるので借りることをやめた。今夜は、N君とともに活動写真を見、日本媼のところに寝た。
 九月三日。月曜。午前中教室に行き、午食ひるしょくのついでに、Mozartモーツァルト Str.シュトラセ 七番地に部屋を見に行き、午食ひるしょく後、日本媼のところによると、まだ数通の間貸しの郵便が届いていた。それから、昨日だいたい約束しておいた Mairマイル のところの娘が今夜ぜひくるようにという母の言伝ことづてをもって訪ねていた。眠くてたまらぬのを我慢がまんし、日本の茶などを媼から入れてもらって飲み、それから夕方まで教室にいて、今日は新しい部屋に試そうということを媼に話して、夕食して行った。今日はだれも連れがなくさびしく食事したが、夕刊で日本大地震の記事を読んだ。
 それから、Mairマイル のところに行った。部屋もゆか綺麗れい掃除そうじがしてあり、卓のうえには置物なども置いてくれてあった。家族のものはこの部屋を私に貸して手狭ぜまいところに移ったらしい。私は日本のことが気になってならぬが、もすこしくわしい通信を読んでから事をきめようと思い、持ってきた小さい座布団ざぶとん床上しょうじょうに置き、うえに腰をおろして両足を床上しょうじょうにのばした。くつをぬいでくつろぐと実に久しぶりで静かな気持ちになるのであった。
 そうしておいて、新聞の夕刊を読みかえすと、地震はどうしても大事件である。東京・横浜・伊東・熱海一帯がまったく破壊されて第一通信だけでも東京の死人が十万を超えたと注してある。部屋の掛時計かけどけいは余韻をひいて十時を報じた。
 夜半すぎから、たびたび眼をさましたけれども南京虫はおそってこない。私は感謝と不安と危懼きぐとじつに複雑した気持ちを経験しながら、夢ともうつつともなしにあかつきにおよんだ。しかるにいまいましいではないか、あかつきになってついにまた、手の甲とのどのところを南京虫におそわれたことを知った。いまいましくてたまらない。
 九月四日。五十万マルクやって、もう一両日待ってくれるように談合すると、あのやさしいかみさんは、借り手が幾人もついているから待てないという。そうか、そんならいい。といって百万マルクおいてそこを去った。朝食をせずに日本媼のところへ行く途中、N君に会った。N君も日本の地震を心配して朝食もせずに日本媼のところにきたのである。二人は近所で朝食をし、日本のことをかたりあった。
 日本媼のところに、部屋を貸したいという人が数人たずねて来ていた。そこで、これらの部屋を見まわり、Dachauerダツハウエル Str.シュトラセ 二十五番地。Ringseisリングスアイス Str.シュトラセ 六番地とまわって、Thorwalsenトールワルゼン Str.シュトラセ 六番地におちつくことにきめた。なぜ、きめたかというに、ここは教室から遠くて不便であるが、新市街地で南京虫がいない。Sさんという日本人夫婦が住んでおり、間代まだいの値上げのことであまり乱暴をいうから引っ越したという部屋であって、南京虫のいないことは確実である。
 不便なところだが、住宅地だからさびしいくらい静かなところである。窓からすぐ中庭に出られるようになっている。私は九月六日にそこに引っ越して、十二月十五日ふたたび日本媼のところに厄介やっかいになるまでいた。その間、教室の近くの貸し間をいろいろ心がけてさがしたのであったけれども、南京虫をおそれて引っ越さずにしまった。
 私は志をいだいてウィーンからミュンヘンに転学した当時は、部屋を得るに困難なこと如是にょぜであった。ただし、これは貧しい留学生の私を標準としてのありさまである。豪奢ごうしゃ身分者みぶんしゃにとっては、たといミュンヘンといえども決して事を欠かせるようなことはないのである。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



日本大地震

斎藤茂吉


 西暦一九二三年九月三日。うすら寒く、朝から細かい雨が降った。日の暮れに Spatenbruシュパーテンブロイ 食堂のすみの方に行ってひとりさびしく夕餐ゆうさんをした。七月十九日にミュンヘンについて以来、教室ではほとんど休みなく仕事をはげんだのであったが、いまだにみずから住むべき部屋がきまらない、きまりかけては南京虫におそわれおそわれしていまだにきまらずにいる。それも教室の方の仕事を休んで部屋をさがすのではないのは、つまり教室の方はたとい一日の光陰をもしむがためであった。今日も新聞の広告で見当をつけておいた数軒の部屋を見まわり、今夜は Klenzeクレンツェ Str.シュトラセ 三十番地の部屋に寝泊ねとまりして虫の襲撃を試すつもりである。
 いつもなら二人の同胞がいて食事を共にするのであるが、今日は都合があったとみえて誰もこない。まるい堅そうな顔をした娘が半リットルのビールを運んできて、しきりに愛想をいう。「ドクトル、まだ恋をしたことない?」などということをいう。「まだ、ないね」などという。「けれど、シナでは十三、四でもう結婚するというじゃない?」「それは百姓どものことだ、僕のような学者はやはり結婚はなかなかしないものだ」「そういうものなの?」「どうだ、恋をして日本へ行くか? Fujiyamaフジヤマ の国へつれていこうか」「ええ、行きたいわ」などという会話をしたりする。そうすると、いくらか気の晴れるのを覚えるのであった。
 そこに夕刊の新聞売がきたので三通りばかりの新聞を買い、もう半リットルのビールを取りよせて新聞を読むに、イタリアとギリシャとが緊張した状態にあることを報じたそのつぎに、,,Die Erdbebenkatastrophe in Japanヤヤ と題して日本震災のことを報じている。
 新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海シャンハイ電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠こうしょうは空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々うんぬんである。
 私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこをで、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗きれい調ととのえてあったので私は床上しょうじょうに新聞紙と座布団ざぶとんとをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕きょうがくとがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身をよこたえた。
 あかつきになり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。ロイター電報は報じていう。東京は猛火につつまれ、ほとんど灰燼かいじんに帰してしまった。ニューヨーク電報が報じていう。大統領 Coolidgeクーリッジ は日本の Mikadoミカド へ見舞いの電報を打った。それからあたうかぎり日本の震災を救助する目的で、ただちに旅順りょじゅん港にいる米国分艦隊をして日本へ発航せしめた。また、上海投錨とうびょう中の英国甲鉄艦 Despatechデスパテチ 号もすでに日本へ向かって出帆した。なお、日本の地震はミュンヘンの地震計に感応し、朝の四時十一分ごろから始まり、五時すこし前にもっとも強く感応した。云々うんぬん
 二人は近くのカフェで簡単に朝食をすまし、日本媼のところに止宿している二人の同胞と故郷のことを話しあった。私も部屋のことでこうグズグズしていてはならぬと思い、今日も数軒部屋を見、遠くて不便であるが一間借りるように決心した。私は今日はもう教室に行く勇気はなかった。夕刊を読むと日本震災の惨害さんがいはますますひどい。私らは何ごとも手につかず、夕食後三人してビールを飲みに行った。酒の勢いを借りてせめて不安の念を軽くしようとしたのであった。
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsenトールワルゼン Str.シュトラセ 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決しょけつせねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
 今日は、もう日本震災のための死者は五十万と注してあった。大小の消火山はふたたび活動をはじめ、東京・横浜・深川・千住・横須賀・浅草・神田・本郷・下谷したや・熱海・御殿場・箱根はまったく滅亡してしまった。政府は一部京都、一部大阪に移った。東京は今なお火炎かえんの海の中にある。首相も死に、大臣の数人も死んだ。ただ、宮城の損害が比較的すくなく、避難民のためにすでに宮城を開放した。フランス大使館、イタリア大使館はまったく破壊した。帝室博物館、二大劇場、帝国大学、日本銀行、停車場なども廃滅に帰し、電報・電信の途はまったく途絶とぜつしてしまった。云々うんぬん
 次の日も、次の日も、教室に行く気にはなれない。部屋にこもって自分の所持品などを整理しようとしてもすぐ疲れた。ただしめしくいに街頭に出ると、食店レストランにいる客などがわざわざ私のいる卓のところまで来て震災の見舞いを言った。あるときには、途中で行きすがったリュックサックを負うた一人の老翁がまた戻ってきて、私を呼び止めて見舞いの言葉を言ってくれたりした。日本からの直接通信がはじめて英京ロンドンに届いたというのが新聞に出たが、それを読むと前に読んだ間接通信の記事内容よりももっと深刻であった。また民衆と軍隊との衝突があり、朝鮮人と軍隊との市街戦が報じられてあり、新首相・山本権兵衛子爵に対する暗殺企図きと、数名の大臣の死亡なども報じられてあり、五十万の人間と、五億ポンドの財産とが消失されたことを注してあった。
 そういうミュンヘン新聞の手がかり以外に、ベルリンの友人からもどこからも、なんら事件の真相を知るべき手がかりがまったく途絶してしまっている。夜はよく眠れず、あけがたになってトロトロとしたかと思うとしきりに夢なぞをた。夢では、妻のようなかっこうをし、妻か誰かわからぬ一人の女と、一人の童子とが畳のうえにすわっている。それが向こうをむいており、いくら呼んでも依然として向こうをむいている。それで夢がさめてしまったりする。ある夜、ビールにって帰ってきて寝た。そうすると、もうもうと火炎のなびいている光景を夢にたりした。私はあるときには、東京の家族も友人もみなダメだと観念したこともある。
 ある日、朝からN君をたずねて、二人してあてもなく街上を歩いた。とある広場の古物商こぶつしょうに能の面が二つばかり並べてある。この古物商には不思議にも日本物にほんものが並べてあるので、よろいがあり、扇子せんすがあり、漆器があり、花瓶かびんがあり、根付ねつけがあり、能衣装のういしょうなどもある。これは戦後に土地の人が売り払ったものに相違ない。N君はどう思ったか、歯を黒く染めた女の能面を一つ買った。二人は街を歩いて行って Isarイーサル 川の橋をわたり、川原かわらに下りて行った。N君の家は東京の郊外にあるから、これはどうにか損害をこうむらずにいるらしい。ただし、親戚しんせき知己は幾人も東京の殷昌いんしょう区域内に住んでいる。それらの人々はとうていダメだろうということを話しあう。二人は土手をのぼって行って黒ビールを飲んだ。って、いくらかうつを散じてまた二人は川原の方に下りて行った。川原には川柳の一面に生えているところがある。そこに五、六の頑童がんどうの遊んでいる気配けはいがしていたが、突如として、Chineseヒネーゼ ! とさけんで柳のかげに隠れる。また、Chineseヒネーゼ ! とさけぶ。「ヒネーゼ!」とさけぶのは軽蔑けいべつしてからかうつもりなのである。
 N君はその能面をかぶり、川原で踊った。能舞の様式を知っているではなし、さればとて、Platzlプラッツル で見るような、バヴアリア民間舞踊のかっこうでもないが、日本震災のための不安動揺の心理は、N君にそんなことをさせたのであった。そうして逃げていった童子らもそこに戻ってきて、笑いころげてそれを見ている。そんなことなどもあった。そして一日一日が暮れていった。通信はまったく絶え、たまたま配達された故郷からの書信を読むと、ごく平安ことなきもので、なんの役にも立たぬものである。わたしらはある日には日本飯をいて食った。それに生卵をかけ、ダイコンなどを買ってきてむさぼり食ったりしたのである。
 日本の知人の顔などが時に眼前に浮かんでくるが、その人々の中にはもう死んでいるものもあるだろうという一種悲痛の心持ちが付帯している。そういう写象のうちには今どき小学校に通っていたはずの長男の顔なども浮かんでくる。それから私みずからの近き未来の運命のことなどが意識の上にのぼってくる。しまいにはそういう意識のなかにみずからひたってしまったせいであろうか、日本軍艦数隻が沈没し、伊豆いずの大島が滅して半島の近くに新しい島ができ、神聖ハイリーゲ・江の島が全くなくなってしまったという、そういうことなどはあまり気にせぬようになった。
 九月十日ごろ、N君のところに故郷の家族無事という電報が届いた。電文は「ヂシンヒドイブジ」としてあった。なか二、三日おいて十三日の夕がた私のところに、ベルリンのM君から電報が届いた。電報は、Folgendes Telegramm aus Japan erhalten ,,Your family friends safeヤヤ = Mayeda としてある。
 家族も友人も無事という英文電報の方は、神戸から中村なかむら憲吉けんきち君がようようの事で打ってくれたのが、ベルリン大使館に届き、毎日毎日、情報を聞きに押しかけていた私の友の一人が、たくさんの電報の中からそれを見つけてM君に知らせたから、M君はドイツ文をすこし付加して至急報で打ってくれたのであった。私は一人でビールを飲みに行き、労働者らのわめきどよめく音声の側に、歯の鈍痛のようやくうすらいだような気持ちで数時間いて帰ってきた。
 翌日朝食の後、買い物をした。教室で使う色素、靴墨くつずみ、ナフタリン、石鹸せっけん、揮発油、くつ下、針と糸などを買い、途中でトランク一つの代価をたずねると娘店員がきて、zwei milliarden dreimal hundert millionen Mark といった。これは二十三億マルクのことである。
 次の日、教室に行き教授に会ってだいたい日本地震のありさまを報告し、電報のことをも話した。教授も助手も研究生も標本係の女も、非常によろこんでくれた。その日、教授はわたしを自分の部屋に呼び、「もう率直にいいますが、それでは研究費として毎月英国貨四ポンドずつ払ってください」と言った。
 それから私は、教室の仕事をどうしても急がねばならぬと決心して、連日教室にかよった。九月の末というに街路樹の葉が黄色になって落ち、日本晩秋のような気持ちの時もあった。ドイツの状態がだんだん悪くなり、為替かわせ相場も急転して下った。九月二十七日には十四ばかりおこなわれるはずの国民党の集会が禁ぜられ、集会所や大きなビール店をば軍隊と警官とで厳しく固めたこともあった。Hofbruホーフブロイ のようなあんなさかんなビール店でもその三階は、十月なかばにはすでに閉鎖したほどであった。
 十月十四日にはじめて『大阪毎日新聞』九月三日の号外を手に入れ、みな頭を集めて読んだ。「東京全市焦土しょうどと化す」という大きな見出しがあり、碓氷峠うすいとうげから東京の空が赤くこげているのが見えるとも書いてある。これは想像よりもまだまだ悲惨である。十五日には大阪のO君から『大阪朝日新聞』の週報を受け取り、二十一日には参謀本部付のK少佐から『大阪朝日新聞』を借りて読んだ。深川の陸軍糧秣廠りょうまつしょうの広場で何十万の人の死んだ所や、両国の橋のちた所などを読んだ。どうも息がつまるようである。三面みおも〔新潟県村上市三面。の方には、佐渡まで帰ろうとしてようやく長野市の停車場までおちのびてきたひとりの女を見るに、自分の髪の毛がまったく焼けこげ、背には焼け死んだ子を一人っているという記事などもあった。
 そのうち東京の家から手紙があって、しきりに帰国を要求してきていた。ミュンヘンもおいおい寒くなり、町には毎日霧がかかるようになった。Hitlerヒットレル 事件というのもその間にあった。ドイツの絵入新聞にも、死骸が山のように積まれてある日本震災の惨状が載るようになり、ある時には吉原よしわらで焼け死んだ遊女の死骸を三列ばかりにして並べて、そこに警官がひとり立っている写真を載せ、これは本国の日本ですでに発表禁止になったものだと注したことなどもある。そうして日一日と暮らしている間に私は決断して当分ミュンヘンにとどまろうと思い、東京の親しい友に金を借りることを頼んだりした。
 十二月十三日になって、『大正大震災大火災』という雑誌を借り、まことに身ぶるいするような大地震のありさまを読んだ。その中に幸田露伴翁の談話があったが、私はその中の一、二節をば手帳に書き取った。

○そこで一言ひとことを人々に贈ろうと思う。おもえば言葉は甲斐ないものである。千百の言葉は一団いちだんの飯にもおよばず、�々びびげん滴々てきてきの水にもかぬ場合である。けれども今の自分のこの言葉は言葉とのみではない。ただちにこれ自分の心である。
○そこで、たとい美酒蘭灯らんとうの間にいて歌舞歓楽に一時の自分をなぐさめていても、どこかにこれを是認せぬものがある。つまり心が一つでなくて、二つになっている。人というものは二気あればすなわち病む、という古い支那のことわざにあるとおり〈中略〉よろしくたんをさかんにし、飲食を適宜てきぎにし、運動をおこたらずして、無所畏むしょいしんに安住すべきである。
○宗教上の信仰を有する人は、かかる時こそ宗教の加護を受くべきである。観音の額には無所畏むしょいの三字が示してあるではないか。不動尊は不動経に、われは衆生しゅじょう心中しんちゅうじゅうすと説いてあるではないか。〈中略〉神仏に人をおののかすものはない。みなおのおの、その大威力だいいりょく大慈力だいじりきによりて人々に無所畏むしょいを得しむるものである。まして無神無仏のはすでに神をみし、仏をみするだけの偉いものであるから、夢にも恐怖心などにとらわれてはならぬ。云々うんぬん

 私はじつに久しぶりで翁の言に接したのである。そしてドイツ語で頭を痛めているときに、これらの言葉はすらすらと私の心に入ってきた、のみならず翁の持つ一つの語気が少年以来の私にある親しみを持たせるのであった。カール・マルクスの「宗教は国民のアヘンである」(Religion ist das Opium des Volks.)という西暦一八四四年の言葉が、西暦一九一七年の露国革命の際に、彼のグレコが聖母の像と相対した壁面上に書かれたという。これはモスクワの出来事で、レーニンなどが主になってああいうことをやった。レーニンは、,,Die Religion ist Opium fr das Volk.ヤヤ と書いて、さて、宗教というものは下等なフーゼルしゅのようなものだ。資本の奴隷どもは、ようやく真人間の仲間入りをしようとする権利を得ながら、半途にしてこの宗教という下等な火酒かしゅの中に溺没できぼつしてしまうのである、とさえののしっている。近ごろ読んだああいうレーニンの言葉にくらべると、「無神無仏の徒はすでに神をみし、仏をみするだけの」云々うんぬんという幸田露伴翁の言葉には、少しもそこに反語がないところに露伴の面目がある。レーニンのものの如くに、,,streitbarヤヤ とか ,,revolutionrヤヤ とかいう臭気がまつわっていない。そんなことを私は一人いながら思った。レーニンの病気もその後悪いそうだが、追っかけ死ぬだろう。臨終の近くに誰かがどういう言葉かをかけるだろう。それがしょせん、ギリシャ・カトリック教の儀式の代弁ならつまらぬなどとも私は思った。
 十二月十四日に宿のかみさんに転宿のことを話し、翌十五日に日本媼にほんおうなのところに引っ越してきた。その晩に将棋をさしたが、こまも盤も大戦前の留学生が置いて行ったものである。戦時中、老媼ろうおうの一家がいまのところに引っ越してきたにもかかわらず、将棋のごとき、こういう品物をもなくさずに持っていたのであった。
 大正三年(一九一四)に大戦が勃発ぼっぱつし、留学生どもは逃げたのであるが、大正十一年(一九二二)の一月に私がベルリンに着いてミュンヘンの事情をさぐると、当時、ミュンヘンはただひとりの日本人が特別の許可を得て研究しているにすぎず、ここへの入国は厳重でできなかったのである。その七、八年のあいだ、将棋の駒をなくさずにいたのは私にはおもしろい。私はここに寄寓きぐうして、おのずと大地震に対する驚愕きょうがくの念を静めていこうと思ったのであった。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



イーサル川

斎藤茂吉


 イーサル川は南の方のアルプス山中から出て、北へ向かって流れている。分水嶺はすでにドイツの国境を越してオーストリアの領分になっているので、そう手易やすくそこを極めることはできないようである。
 川の沿岸には、Tlzテルツ, Mnchenミュンヘン, Landshutランヅフート, Landauランダウ などの町があり、ミュンヘンはそのうちで一番大きい。川は道をやや東の方に取って、Deggendorfデッゲンドルフ の近くにきてドナウに入る。Tlzテルツからもっと水上みなかみLenggriesレンググリース という一小邑しょうゆうがあり、ながめのいい城がある。Hohenburgホーヘンブルク の城というのはそれである。
 ドナウの流れは「あいのドーナウ」というが、ここは、「緑のイーサル」である。,,Solang die grne Isar, durch's mnch'ner Stadt'el geht.ヤヤという古い歌謡は、ミュンヘンの市民がビールにうてよく歌うのであった。
 私は西暦一九二三年の夏にこの土地に来、翌年の夏までいたので、しばしばこの川に親しみ、心に憤怒ふんぬがあり、心に違和があるときには、いつも私はひとりこの川べりにきて時を消すことをしていた。
 ここに来てまもなく日本大地震の報に接し、前途が暗澹あんたんとしていた時にも、私はよくこの川原かわらにきた。まだ気候が暑いので、若者に童子を交えて泳ぎ、寒くなると砂原に焚火たきびをしてあたっている。そこから少し離れたところに少女の一組が泳ぎ、なかにはもう体の定まったのもおり、やや恥をおびた形をして水から上がってきたりしている。川はがいして急流であるが、流れが緩慢のところがあり、そういうところをたずねて彼らは泳いでいる。ここの川にもやはり支流があって、流れ込むありさまが見えている。流れの岸は人造石の堤防でかためているので、水は割合に激せずに流れるのであるが、それでもその堤防のそんじたところがところどころにある。おそらく春の雪解ゆきどけの季節に洪水のするしわざであるだろう。長い木の橋がかかっていたりして、そこを大勢の人が往来している。日曜の散策であるがここの住民は、ウィーンなどに比して都雅とがでなく、山国のおもむきがぬけないように見える。
 ある日、友人の家で日本飯をたいてもらい、それに生卵をかけダイコンに塩をつけながら食った。満腹まんぷくしてここの川原にくると、いい気持ちである。川原には砂原の上に川柳の一面に生えたところがある。エンドウのような花の咲いた細かい草などもある。向こうの土手のところにヤギの一群がおり、少女ひとりが鵞鳥がちょうの一群を遊ばせていたりする。生まれ故郷の日本のように、蝉の声も聞こえず、キリギリスのような夏の昆虫も聞こえない。こういう静かな川原の柳の木陰こかげに、ひそむようにして私がいると、「ヒネエゼ!」こう突然、声がして、ひとりの童子が向こうの柳のかげに隠れたりする。
 また、ある夏の暑い日曜にここの川原を歩くと、童幼が砂をいじって遊んでいる。一人の小さい男の子がいそがしそうに私のそばにきて何か言う。が、私にはちっともわからない。私は三度も四度も問い返してかろうじて意味だけがわかった。「ぼくの妹のくつひもが長すぎますから、切ってやろうとおもいます。小刀こがたなを持っておりませんか?」こういうのであった。私が非常にほねおって理解したドイツ語は、如是にょぜのものにすぎぬ。いま、当時の日記を検するに、これは九月二十三日のことで、「ああ、言葉はむずかし」と書いてある。
 またある日、この川にかかっている町中の橋の上に立って、急潭きゅうたんのさかまくのを見ていた。それから橋をわたって木立ちの中から水際みずぎわにおりて行き、二時間ばかり水を見ていた。太陽が傾いたので飛沫ひまつのうちに虹がしばらく立ったりする。イーサル川がふたわかれして、その中にここの木立ちがある。木立ちの中にはいまは誰もいず、ある数学者の銅像が一つある。私はゆうべ見たヒマラヤ山中の活動写真の光景などを思いうかべ、しきりに眠気ねむけをもよおすのであった。ふたわかれした向こうの流れの方には釣りしている者が五、六人いる。市場で買えば手取てっとりばやくすむのに、気長きながに釣っているところは、東洋国の風習とちっとも変わりはない。何向き、市街のまんなかにこういう河水の怒涛どとうを見るのは気味がいいのである。
 ある日、軽い頭痛がして川原を歩いていると、出てきた雲が見る見るうちにけわしくなって来、むこうに鳴っていた雷が急速度に強まる気配けはいがしたから、とにかく土手の方へ急いだ。川原にいた老若男女もあわただしく駆歩くほなどをするので、これは降るかもしれんという気がしているうちに、もう大滴おおつぶの雨が落ちてきた。雷がすでに頭の上にきて鳴るので、仕方しかたがない、差向さしむきむこうに見える記念塔のようなところまで駈け出した。合着あいぎの服をだいぶらしてそこまでたどりつくと、土地の人でいっぱいである。そのうち川原も川向こうの市街も見界みさかいがつかぬばかりに打ちけむって、銀線のような雷雨が降った。雨やどりしている男女老若は笑談じょうだんなどを言い言い、一歩も動くことができずにいる。そして口ひげの長い翁などがとなりの娘に何かいえば、みながドウッと笑ったりする。どこの国土でも同じい恋愛かなんぞの言葉であろうが、黄色人種のわたしひとりが身動きもできずに、しばらくそういう気分の中にいるのもまた一つの情趣じょうしゅである。三十分もたったころは、もう向こうの空にはケロリとした按排あんばい瑠璃るり色のところが見え出している、そういうこともあった。
 そのうちおいおい気候が寒くなっていった。十月二十一日、広い森林をぬけて川上かわかみの方へ行ったときには、広い葉の並木はしきりに落葉し、そういうりしいた落ち葉をふんで私どもが歩いて行った。林中にはモミがいしげって、その木下こしたにはきのこの群生した所もあった。そこを通りぬけると、紅葉もみじして黄色く明るくなった林をかして深い谷間たにまが見える、その谷間をイーサルの川が流れているのである。川は紺碧こんぺきになって川原をつくって流れている。谷間をへだてて向こうはふたたび一つの高原を形成している。高原は一面に紅葉し、静かな家がそこここに散在している。見おろして見ているイーサル川はいかにもさびしい。途中でビールを飲み、そこを出たときにはもう対岸の家に灯火とうかがついていた。途中で連れになったドイツ人があるところまでくると、対岸の一つの家のあたりをさして、ルーデンドルフ将軍はあのへんにおります、と教えてくれた。イーサル川は、こういう断崖の間をも流れるのである。
 十月二十八日、今日も一人で「緑の森グリュネワルト」という方に行った。今朝けさ、くつ下、越中ふんどしなどの洗濯をし、下半身を冷水で洗った。心が平衡へいこうを得ているようでもあり、不安なようでもある。地震のため、いまの仕事をてて帰国せねばならぬとして、陸路を取るにせよ海路を取るにせよ千円はかかるのである。そんなら、その旅費だけの分をミュンヘンにみとどまって勉強しようか。と、こう心をきめたのであった。心が平衡を得たように思うのはそのためであっただろうか。林をいで、散りいた落ち葉のうえにきていこうともなくいこうに、早くも眠気ねむけをもよおしたので、頭をたれたまま半時ばかりの仮り寝をした。国民党の旗を立てて多勢の遠足隊が私の前を通ったのをも半眠はんみんのような状態で意識していた。身に寒気さむけして目がめ、それからイーサルの川の方におりて行った。ここにくるとまた別様にさびしい。私から少し離れたところに童子どうじがいて、しきりにこだまこしている。童子が、ハルロー! というと、それが五つも六つものこだまになってはるかの方に消える。童子が、イイヤー、ホホー! という。こだまが消えてしまうとまたそれをくり返す。童子の声はんで清い、そしてある節奏せっそうを持った間をおいてそれをくり返している。私は、自身ヨーロッパに来ていることを確然と意識せざることを得なかった。
 そこを去って川上の方に行くに、林中からわいた泉が流れになってそそぐところがある。そこに二人の童子が一人のもりに連れられて遊んでいた。そこを通りすぎようとすると、一人の童子がきて、時計はもう幾時でしょう? ということをいた。守の方は十六、七歳にもなろうか、かわいらしい顔をしているので、私はいろいろ話をしてみようとして近づいた。しかるに童子のなれなれしくふるまうに似ず、守の娘は決して私になれしたしむことをしない。私が数語をもって問えば、数語をもって答えるのみである。この地の処女に如是にょぜのしつけもあることを思い、きょうあることに思ったので、あいさつをしてそこを去った。
 気候が寒く、その間に Hitlerヒットレル騒擾そうじょうがあったりして、川べりにも来ずにいた。年の暮れになり日本の留学生と議論して憤怒ふんぬしたときにも川べりにきたのであったが、そのときには川原は一面の雪でおおわれ、私は川原におりて行かずにしまった。
 寒い冬に閉じられ、あわただしく日を送っているうち、いつか春になった。雪が解け、草がえ、そして日光の美しい五月がきた。五月十一日の日曜に久しぶりに川べりにくると、対岸の町に市が立っている。いろいろ価のやすい日用品、食料品をあきなう市で、おもに労働階級の者を相手にしているようである。川魚を天麩羅てんぷらにして売っていたり、類の競売などは幾組もある。鉛筆のきずもの、刃物類を山のように積んで売っていたが、この中で私は大根おろしを一つ買った。瀬戸物せともののところに行ったとき、瀬戸でこしらえた日本娘が三とおりばかりある、それを私は買った。安芝居やすしばいがあり、人形芝居がある。人形芝居は見料は客の自由で、児童は無料だから、幕のなかは児童で充満している。大蛇だいじゃなどが出てきて頭の禿げた猟人かりうどむところをやると、児童らは大声をあげて、アア! などというのでひどく愉快ゆかいである。労働者たちも今日は日曜なので帽も服も他所よそ行きのを着、なかには男の子を肩車かたぐるまにして、妻をつれて歩いているのなどもある。路傍に立って心霊療法の本を売っているのにも労働者らがたかっている。心霊者は髪を長くして、ときどき医学上の術語を使ったりしてこれもはなはだ愉快ゆかいである。私はこの市で婦人のかぶる頭巾地ずきんじを三、四枚買った。これは山村の女のかぶるものだが、日本の風呂敷ふろしきになるのである。そのなかには太陽の光を模様にしたような図案などもあった。五月十八日の日曜も同じように市が立った。盛んな人出で、ロバに児童を乗せるところなどはいっぱいになっていた。安息日の日曜に商売の市の立つのも私にはおもしろかった。ウィーンならば Messeメッセ のような大きな市を除き、それから Praterプラーテル のような遊び場所を除けば、日曜に働くのはユダヤ族のしわざだぐらいにおもうのであった。
 五月二十五日、川べりを歩いてくると植木園がある。なかには日本の藤の花を咲かせ、芍薬しゃくやく石竹せきちくのたぐいをえている。カエデの葉があかくのび、ボケの木があり、アヤメがある。これは個人の経営だが、私にはやはり心をひくものがあった。雨がふってきたので傘をさしていつまでも園中を逍遙しょうようしたが、芭蕉・蕪村の趣味からいけば、晩春・行春こうしゅんの気品というべきである。私はひそかに思うたに、この経営者の趣味は、戦前からの惰勢だせいではあるまいか。戦前には多くの日本留学生がこの地におり、日本飯をかしぎ、牛肉のすき焼きをし、窓前にあかい若葉のカエデ盆栽をおいて、端唄はうた浄瑠璃を歌ったその名残なごりではあるまいか。
 六月一日、Spetechシュペテッヒ というミュンヘンの図書館員とともに、汽車でイーサルに沿うてさかのぼった。今日の午前には在郷軍人の記念儀式があったので、それを見てそれが終わってから汽車に乗った。汽車でしばらく来て Ebenhausenエーベンハウゼン というところに来た。ここのイーサル川は川下よりも川幅が広く、人々がボートをこいで遊んだりしている。そう暑くもないのに泳ぐものがいる。シナ人二人が一人のドイツ女と連れ立ってわたしらの前を行くが、いいドイツ語を使っていた。川の水はここは少しく白くにごっている。近くに僧院があり、そこに多くの少年が養成されている。その少年の読経するところなども私らは見た。Spetechシュペテッヒ 君はビールを好み、私もあえて辞せぬので二人はいい心地ここちになるまで飲んだ。今日のあそびはイーサル川にきた最後の日になった。
 私は一度、Tlzテルツに行こうと思いつつ、ついにその念願をはたさずにしまった。Tlzテルツはイーサル川の上流にある町で、ヨード・ソーダ・硫黄いおうを含んだ鉱泉がわくために、一つの浴泉地にもなっている。私はここのイーサル川の美しいありさまを絵ハガキで見てときどき夢想をはせたのであったが、私の生涯のうちにはそれができなくなってしまった。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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ヴエスヴイオ山

斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)午《ひる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)赤|葡萄《ぶだう》酒
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 ポンペイの街をやうやく見物してしまつて、午《ひる》過ぎて入口のところの食店《レストラン》で赤|葡萄《ぶだう》酒を飲み、南|伊太利《イタリー》むきの料理を食べて疲れた身心を休めてゐる。それから、此処《ここ》で発掘した小さい瓶子《へいし》などを並べて売るのをのぞくが、値が相当に高いので買ふ気にならない。
 そこに、数人の導者が来て、ヴエスヴイオ登山をすすめて止まない。此処から登山するとせば、驢馬《ろば》に乗つて行く、その方が登山鉄道で行くよりも賃銭も安く、遙々《はるばる》観光に来た旅人にとり興味あることであり、一つ一つの経験を印象するにはこれに越したことはないといふのである。
 向うには、ヴエスヴイオの山は半腹に白雲が動いて居り、頂が晴れて噴煙が立ちのぼつて居る。陰霽《いんせい》常なきこの山としては幸運な天気と謂《い》つていい。それに、登山軌道の出来ない前には、旅人は皆、馬車に乗り、驢馬に乗り、山の頂近くなると徒歩し、難渋して登山したものである。ある記事には、闇黒《あんこく》に松明《たいまつ》の火を振り振り、導者らが、原始的な民謡を歌ひはじめることなどが書いてある。ある記事には、隠者の窟に年老いた隠者が縄の帯をしめて、旅客に食を饗《さん》し、酒を飲ませるところなどが書いてある。ゲーテなども、確か驢馬に乗つて葡萄圃《ぶだうばたけ》の間あたりを縫ひながら、それから苔《こけ》の生えた熔巌の上などを難渋して歩いたのであつただらうか。
 即興詩人には、『熔巌は月あかりにて見るべきものぞとて、我等は暮に至りてヱズヰオに登りぬ。レジナにて驢《うさぎうま》を雇ひ、葡萄圃《ぶだうばたけ》、貧しげなる農家など見つつ騎《の》り行くに、漸《やうや》くにして草木の勢衰へ、はては片端《かたは》になりたる小灌木、半ば枯れたる草の茎もあらずなりぬ。夜はいと明《あか》けれど、強く寒き風は忽《たちま》ち起りぬ。将《まさ》に没せんとする日は熾《さかり》なる火の如く、天をば黄金色《わうごんしよく》ならしめ、海をば藍碧色《らんぺきしよく》ならしめ、海の上なる群れる島嶼《たうしよ》をば淡青《たんせい》なる雲にまがはせたり。真《まこと》に是《こ》れ一の夢幻界なり。湾に沿へる拿破里《ナポリ》の市《まち》は次第に暮色|微茫《びばう》の中に没せり。眸《ひとみ》を放ちて遠く望めば、雪を戴《いただ》けるアルピイの山脈|氷《こほり》もて削り成せるが如し』かういふいい文章がある。
 僕は暫《しばら》く心が動き、かういふ名文章が胸中を往来し、暫くは驢馬の背上の人物として僕自身を空想するのであつたが、僕はおもひ直して、驢馬でポンペイからする登山を断念した。何向き僕は一人旅をして居るものである。単に詩的な気持から、軽率な冒険をしてはならぬと思つたのであつた。
 ポンペイから汽車に乗り、汽車に乗込んでゐるトマス・クツク会社の男からヴエスヴイオ登山軌道の切符を買つた。即ち驢馬で行くことを断念してレジナ駅から登山車に乗らうといふのである。
 レジナから乗込んだ外国の遊覧客は幾組かゐた。伊太利観光の季節からはづれてゐるのであるが、やはり僕のやうな旅人もゐないことはない。
 だんだん高くのぼるに従つて、眼界が広くなり、一望のうちに展開せられるナポリ湾をも引くるめた風光には、藍色の海水があり、堅固な色彩の村邑《そんいふ》の家があり、寺院があり、丘陵があり、川の流がある。さうして強烈な午後の日光のもとに一種の光明を反映してゐる。それが少しも旅人の心を陰鬱にしない。登山車の車房の中で心持ゆられ気味になつてこの風光を眺めてゐることは一つの幸福と云はねばならぬ。
 そのうち草原、灌木帯が過ぎてしまつて、熔巌原に移行して行つたが、黒光したこの熔巌は幾里にもわたつてなだれ落ちてゐるので、旅人は車窓から首をのばして驚愕《きやうがく》してそれを見て居る。この熔巌の原は既に冷えて沈厳の色であるが、未ださう年数を食はず、生々《なまなま》としたところがある。恐らく西暦一九〇六年の時の噴火に際しての熔巌流だとおもふ。西暦一九〇六年には四月四日からひどい爆発があり四、五、六、七、八日あたりまで爆発が止まなかつた。この山は三百年来いつも活火山として常に大小の噴火があり、山の形貌《けいぼう》も幾らかづつ変つてゐる。
 この山はずつと古い事は分からぬが、西暦六十三年に噴火し、その時には大地震をも伴つて、そのあたり一帯の都市を滅亡せしめてゐる。ついで西暦七十九年にも同様の噴火があつて、ヘルクラネウムとか、ポンペイとかは全く分からなくなつてしまつたのであり、爾来《じらい》第十六世紀から現在まで大きな噴火が五十回あつたやうに記録に残つてゐる。近くでは西暦一八七二年の噴火、それから西暦一九〇六年の噴火が大きいものであつた。滅亡したヘルクラネウムの上に建てられた市は今のレジナである。
 然《しか》るに、幸運であつた天気が、忽ちにして雲霧となり、下界をば全く隠蔽《いんぺい》してしまつた。飆々《へうへう》として流れくる雲霧は小粒《こつぶ》の雨滴《うてき》となつて車窓の玻璃《はり》を濡《ぬ》らすやうになつた。それだから、登山車が灰円錐体《くわいゑんすゐたい》に掛かつてからは、眺望が全く叶《かな》はず、車は雲霧のなかを走つて、やうやく頂上に達した。
 頂上の停車場に著いたときも雲霧が濃く、雨滴となつてしぶくので、旅人等は下車をためらつてゐると、若者が一荷《いつか》の雨外套を運んで来て、それを銘々に著せてくれた。天候の変幻極まりなきヴエスヴイオ山上であるから、かういふ設備は出来てゐて、この外套の賃料は二リラである。ついで、別な若者が来て、火成巌の小片だの、火山の写真だの、灰細工だのを機敏に売るのであるが、山上の常として代価がなかなか高い。
 この山上の導者には五リラづつ支払ふことになつてゐる。忽《たちま》ち一人の導者が僕の手を捉《とら》へて雲霧の濛々《もうもう》たるなかを行く、それが奈何《いか》にも慌てふためいた様子であり、僕に前行《ぜんかう》した数人の紅毛人を追ひ越して行く。霧が濃いので好《よ》く弁ぜぬが、山の峰について廻つてゐるらしい。僕は、この男は導者だといふことを意識してゐるのみで、あとは分からずに附いて行くに、導者は突如として或る巌角《いはかど》から僕の手を捉へて左手へ飛び下りた。僕は顛落《てんらく》するやうにしてやうやくにして身を支へたが、そこは硫黄《いわう》の熾《さかん》に噴出してゐるところで、僕の咽喉《のど》は切《しき》りに硫黄の気で咽《む》せるのに堪へてゐる。導者は口に叫んで僕に何か握らせたのを見れば、これは熱砂である。僕は辛うじて巌壁から攀《よ》ぢのぼつたが、此処には誰も人どほりがない。導者の詞《ことば》が通ぜぬので、また質問することも出来ない。
 導者は、手を僕のまへに出して、『五リラ。五リラ』といふ。これは先程払つた五リラ以外にもう五リラ呉れよといふことである。僕は憤怒大声して、『何をいふか、この馬鹿野郎』といふ。この鋭いこゑの意味は分からんでも語気が分かつただらう。導者にかまはずに僕は峰をすたすたと歩いて行つた。併し奈何《いかん》ともすることが出来ない。耳をすませば、火口のあるらしい方嚮《はうかう》に遠雷の如き鋭く鈍い音が無間断にしてゐるが、しかし単にそれだけで、あとは奈何《いかん》ともすることが出来ない。『一道の火柱|直上《ちよくじやう》して天を衝《つ》き、迸《ほとばし》り出《い》でたる熱石は「ルビン」を嵌《は》めたる如き観をなせり。されど此等の石は或は再び坑中《かうちゆう》に没し、或は灰の丘に沿ひて顛《ころが》り下り、復《ま》た我等の頭上に落つることなし。われは心裡《しんり》に神を念じて、屏息《へいそく》してこれを見たり』といふ如き文章をほぼ知つてゐるから、今のこの天候が無念で溜《た》まらない。
 僕はこの山上に一泊して再びこの噴火口を見極めることをなし得ず、また、数年の後、十数年の後再びこの地に来ることもおぼつかない。これは僕の生涯に只一度の逢遇《ほうぐう》であるに相違ない。そこで僕は無念で溜まらぬのである。僕は為方《しかた》がないから、導者などを当にせず、ひとりで無鉄砲に峰の上を歩いた。そして寒過ぎるやうな今日の天候に額に汗を出して元の停車場に帰つて来た。一しよにのぼつて来た夫婦者などは山を観《み》ることを諦《あきら》めて此処《ここ》で珈琲《コーヒー》を飲んでゐた様子である。
 これは今日の午後の最終の車なので、皆がこの車で下山した。さて、熔巌帯まで来ると、雲霧が全く晴れてゐて、雨一滴降らない。車中の旅人等は申合せたやうに外を眺めて笑つた。
 あるところに下ると、旅客等は皆車から降りて一軒の家に入つた。ここは食店《レストラン》・珈琲店《カフエ》である。彼等は、,,Lacrimae《ラクリメエ》 Christi《クリスチ》"(聖涙酒《せいるゐしゆ》)といふ酒を飲まうといふのである。僕は、無念の心が未だ晴れず、そんな物を飲む気になれぬので、一人車房に残つた。暫《しばら》くして車房をいで、藪《やぶ》の方に小便をしに行くと、そこに日本にあるやうな白|芙蓉《ふよう》が咲いてゐる。それから頭の上に胡桃《くるみ》の実がなつてゐる。さういふものを弄《もてあそ》んで時を過ごすに、彼等の銘々は赤い顔をして帰つて来て車房に入つた。
 僕はヴエスヴイオ山には、かくの如く平凡に登つて平凡に下りて来た。『この処に山人《やまびと》の草寮《こや》あり。兵卒数人火を囲みて聖涙酒を呑《の》めり。こは遊覧の客を護《まも》りて賊を防ぐものなりとぞ』といふのは既に過去であるが、この山賊の気持は今でも残留してゐる。
 午後五時四十分レジナ駅発の汽車に乗つてナポリに向つた。その汽車の中で、けふはポンペイから驢馬などを傭《やと》はないで好《よ》かつた。そうでなかつたら、今ごろは山腹あたりで難儀してゐただらうとおもつた。
 それから、けふのは平凡無念な登山であつたが、ゲーテなんかもこの山で雲霧に会ひ、自分の靴さへ見えなかつたことをいひ、手巾《ハンカチ》を顔に当てても何の甲斐《かひ》もなかつたことをいつてゐることをおもひだして、幾らか心を慰めたのである。そして空腹を感じてナポリに著いたのは午後七時十五分である。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『思想』
   1929(昭和4)年5月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



日本媼

斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)媼《おうな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|麺麭《パン》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数》
(例)はばかり[#「はばかり」に傍点]
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 媼《おうな》の名は、Marie《マリー》 Hillenbrand《ヒルレンブラント》 といふ。媼がまだ若くて体に弾力のあつた頃から、その母親と共に多勢の日本留学生の世話をした。当時の日本留学生は概《おほむ》ね三年ぐらゐ居たのであり、一つの都市に居ついて其処《そこ》で勉強するのを常としたから、都市の人々と留学生との間に、おのづと心の交渉が成立ち、それが今時と較《くら》べて余程親密なものであつたと見える。そこで、この媼は娘のときから入りかはり立ちかはり日本留学生の世話をして老媼《らうあう》に及んだのである。『日本《にほん》ばあさん』といふのは、これに本づいた名であつた。
 私は西暦一九二三年の七月から丸一年ミユンヘンに居るうちいろいろ媼から世話になつた。そして後半の七ケ月あまりを媼の家に起居し、ミユンヘンを去る時も媼の家から立つた。いま追憶してなつかしく思ふのもその為めである。
 媼は私の世話になつたころは、既に六十に手が届くぐらゐの齢《よはひ》に達してゐた。昔世話した日本留学生の写真を沢山持つてゐて、居間に飾つてあつたり、アルバムのなかに插んであつたりして、楽しさうにそれを私等に示した。なかには媼が未《ま》だ娘々した顔でうつつてゐる写真などもあつた。
 媼が生んだただ一人の男の子に Wilhelm《ウイルヘルム》 Hillenbrand《ヒルレンブラント》 といふのが居た。これは日本の留学生の生ませた混血児であるが、すでに三十に近い敏捷《びんせふ》な若者である。皆が Willi《ウイリー》 と呼んでゐた。
『Willi《ウイリー》 の奴を看《み》てゐると実におもしろいね。すばしこくて、短気で、猾《ずる》いところがあるかと思へば、気前《きまへ》が馬鹿に好かつたりして、やつぱし半日本人《はんにほんじん》といふ処があるね』
『それはさうだらう、実は婆さんにも一寸《ちよつと》そんなとこがありあしないか』
『さういへばそんな点もあるやうだね。何せ日本人が好きで世話をしながら、子を生んだのだから、何かの黙契があつたんだらう』
『黙契か、婆さんの顔でもひよつとしたら、蒙古種でも交つてゐるのかも知れんぜ。蒙古の奴らが昔このへんまで荒らしたといふぢやないか』
 こんな話が或時、私等一二人の間に取交されたこともある。
 Willi《ウイリー》 は、私を警察に連れて行つて届を出して呉れたり、新聞社に行つて部屋借りの広告を出して呉れたりした。ある日、部屋を見に連れて行つたかへりに、
『ミユンヘン人は何でも真直《まつすぐ》に物云ひますから、先生も喧嘩《けんくわ》なすつちやいけませんよ』などと云つたことがある。,,direkt" と云はずに ,,gerade" などと云つたのが珍らしいやうな気がして、帳面に書きとどめたことがある。
 その Willi《ウイリー》 に許嫁《いひなづけ》の娘が一人ゐて、やはり媼の家に同居して居つた。若者も小柄であるが、娘も小柄で丸い可哀らしい顔をしてゐた。然《しか》るに、娘と媼の間がどうも旨《うま》く行かぬらしい。目立つて争ふやうな場面は私どもに示さなかつたけれども、媼はここに投宿してゐる私の友に泣いて訴へることなどもあつた。
 さうしてゐるうちに、若者は娘を連れて、Stuttgart《シユツツトガルト》 の運送店に勤めることになつた。そこはミユンヘンから急行汽車で半日もかかる商業都市である。時々、媼は著類《きるい》だの食物などを小包にして若者のところへ送り送りした。
 私は媼のところに世話になるやうになつてから、朝食を毎朝媼のところでした。黒|麺麭《パン》を厚く切りそれに牛酪《バタ》とジヤムとを塗つて、半々《はんはん》ぐらゐの珈琲《コーヒー》を一|碗《わん》飲ませた。その狭い台所兼食堂の卓の近くに、カナリヤが一羽飼つてある。媼は毎朝|籠《かご》の手入をしたのち、人間にものいふやうな口調で、手指《てのゆび》を立てて見たり、顔をゆがめて見たり、目をむいて見たりしてゐるのが、いかにもをかしくあり、物あはれでもある。
 カナリヤは南|独逸《ドイツ》訛《なまり》まじりの媼の言葉にいつも敏捷《びんせふ》に反応した。この小鳥は既に満十五歳の齢で、片足が利かなくなつてゐた。また、活溌に囀《さへづ》るやうなことももうなかつた。『もうわたし同様おばあさんでございますよ。ごらんなさい、片方の足は僂麻質斯《レウマチス》であんなでございますよ』こんなことを媼は云ひ云ひした。今ここに止宿して居るMドクトルが大戦|勃発《ぼつぱつ》少し前にここの家に止宿してゐて、その時ゐたカナリヤであるから、十五歳ぐらゐになる筈《はず》だとMドクトルは云つた。ただ媼の家が、戦前ゐた Bavariaring《バワリアリンク》 から此処の Landwehr《ラントウエール》 街に越して来たのであつた。
 媼は日本の留学生に日本飯《にほんめし》を焚《かし》いで呉れた。それから牛肉の鋤焼《すきやき》などもして呉れた。併し日本飯を焚《た》くと謂《い》つても先づ米に幾通りかあつて、それを鑑別しないと旨《うま》い飯にはならない。媼は、留学生から学んだ経験でその鑑別の法を知つてゐた。それから、瓦斯火《ガスび》で鍋《なべ》で焚くのであるが、決して継《まま》の飯《めし》にするやうなことはなかつた。焚き方は、湯気《ゆげ》を強く吹かせて火を消さうとするときに火を消してしまはない、そして火を細めてから三十分間放置しておくと、鍋の底は少しく狐《きつね》こげに焦げて飯は誠に工合よく出来あがるのであつた。私は維也納《ウインナ》留学中は寸暇を惜しんだので、自ら日本飯を焚くやうなことがなかつたが、ミユンヘンに来てはじめて媼からこの秘法を授かつたのである。
 媼は信心ぶかいといふ方ではないであらう。けれども暁《あかつき》に寺の鐘が鳴ると何かつつましい顔をするときもあつた。若者と娘が居なくなつてからは、土曜から日曜にかけて洗濯をするので寺まゐりの暇が無いといふやうなこともいつた。
 四階目にある此処の家のはばかり[#「はばかり」に傍点]には、ミユンヘンの新聞紙とともに日本の新聞紙を四角に切つて吊《さ》げてあることがあつた。用を足しながら見るともなしに見ると、懐郷の心をそそるやうな文句に逢著《ほうちやく》したりする。時には宮さまの御登山の写真などが一しよになつて交じつてあつたりする。さういふ時には勿体《もつたい》ないと思つてそこだけ取はづすことなどもあつた。
 ある朝、食を済ましてゐると媼は小ごゑに唄《うた》を教へて呉れた。『けふはヨハナ。あすはスサナ。恋が年ぢゆう新しい。これが正銘《しやうみやう》、実《じつ》ある学生さん』といふので、媼のこゑはさびてゐる。時代の変遷してしまつた、今から三十年も前の学生の間に行はれた歌謡を計らずも目前に歌ふのであつた。
 媼の他所行《よそゆき》の衣裳は裾《すそ》の長い旧式な黒衣であつた。その衣裳を著《き》て媼は私等と芝居見に行き、夕餐《ゆふさん》をしに行つた。ある日媼はその衣裳を著、貸間を見に私を連れて行つて呉れたことがある。そのときあいにく豪雨が降つて来た。私等は慌てて人の家の軒下に雨を避けた。媼は、天が泣いた、天が泣いたなどと云つた。これは若者の私が老媼などと連立つて歩いてゐるからだといふ意味である。云ふことが通俗だが、独逸《ドイツ》語で云はれると、そこに情味が出て来るやうで別《わ》けて悪い気持はしない。媼はこんな笑談なども云つた。
 媼は大戦後特に貧しい暮しをしてゐたけれども、家には南京虫が出なかつた。これは些細事《ささいじ》の如くであるが、実はなかなかさうではない。ある時、北独逸から来てここを通過した日本の旅客が一|疋《ぴき》持ち運んだことがあつたが、辛うじてそれを捉《とら》へた後《のち》は、依然として南京虫は出なかつた。
 媼の家の屋根裏には大戦で逃げた留学生の荷がまだ残つてゐるといふことであつたが、その留学生諸氏は、独逸の敗戦後媼の貧窮を気の毒に思つて金円を贈つて来たほどである。私はその屋根裏には遂に上がらずにしまつた。その屋根裏の隣室には媼よりも貧しい若いプロレタリアの夫婦ものが住んでゐて、夫は工場に通つてゐた。土曜の夜などには、夫婦してギタを弾いて唄をうたふ。その唄は哀調を帯びて時々私の涙を誘つた。
 私がミユンヘンを去つてから、もう満四年が過ぎた。このごろミユンヘンを通過した日本の旅客と合作の絵ハガキを貰《もら》つたが、媼も健在でゐるやうである。また、Willi《ウイリー》 と娘とが正式に結婚したといふことも書いてあつた。私は老境に入りかけ、業務多端のために媼にも全く無音に過ぎた。ただ偶《たまたま》心に暇があるときに、媼の身の上の多幸ならむことを希《こひねが》つてゐる。(昭和三年十月記)



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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南京虫日記

斎藤茂吉

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(例)Rothmund《ロートムント》 街

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(例)四五日|経《た》てば

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(例)裸※[#「ころもへん+呈」、第3水準1-91-75]《らてい》

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(例)Pr〔o:〕rtzl《プレルツル》
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 西暦一九二三年八月十三日、Rothmund《ロートムント》 街八番地に貸間があるといふので日本媼《にほんおうな》の息子が案内してくれた。そこの女主は Pr〔o:〕rtzl《プレルツル》 といつて、切《しき》りに訛《なまり》のある言葉を使つた。左の方の顔面神経麻痺があるから笑ふたびに顔が右の方に歪《ゆが》んだ。部屋は古くて余り清潔ではないが、裏に面して一間、往来に面して一間ある。今は塞《ふさ》がつてゐるけれど、四五日|経《た》てばどれかが明くといふことである。かへり途《みち》で、日本媼の息子は、『民顕《ミユンヘン》人は何でも真直《まつすぐ》に物いふから喧嘩《けんくわ》してはいけませんよ』などと云つた。これが候補になつた第一の部屋である。
 八月十四日。火曜。教室で為事《しごと》をしてゐる独逸《ドイツ》人の医学士が下宿してゐる家に一つ部屋があるから、若し借りる意志があるなら世話しようといふことであつた。家は Lindwurm《リントウルム》 街の二十五番地四階で、女あるじの名を Maistre《マイストレ》 と云つた。部屋は小さいが我慢が出来る、ただ毎日四階まで昇降することは如何《いか》にも大儀だから、第一の部屋が借りられるならばその方にしようと思ひ、明瞭《めいれう》な返詞《へんじ》を与へずに帰つて来た。これが候補になつた第二の部屋である。
 八月十八日。土曜。朝食まへに、第二の部屋は、四階だから不便だといふので断りに行つた。それから、朝食を済まして、Landwehr《ラントウエール》 街三十二番地Cに一間、Sonnen《ゾンネン》 街二十八番地に一間あるが、いづれも一週間ぐらゐ経たねば明かなかつた。これが候補になつた第三第四の部屋である。
 八月二十日。月曜。午前も午後も教室で為事し、夕景に第一候補の家を訪ねた。上《かみ》さんは顔が歪《ゆが》んで醜いが、率直でいいところがあるらしい。私は部屋を借りようと思ふ。そこで、いくら支払ふかと問うた。上さんは熟慮する暇もないほど速かに、毎日、丸麺麭《ゼンメル》三つの代価だけ支払つて呉れないかと云つた。いま時、小さい丸麺麭《ゼンメル》一つの価は一万五千|麻克《マルク》である。私は大体|好《よ》からうと答へた。上さんいふ。『どうか貧しい寡婦《やもめ》のためになるべく余計に払つてください』それから、またいふ。『ドクトルは麦酒《ビール》一杯二十五万|麻克《マルク》するといふことを御存じでせうねえ。噫《ああ》、麦酒《ビール》が飲みたいですねえ』云々。それから、上さんは靴下の繕ひを自慢して見せ、他所行《よそゆき》の著物《きもの》を持つて来て見せ、次いで一足の靴を持つて来て見せ、墺太利《オーストリー》の Salzburg《ザルツブルク》 製だと云つた。その靴を切《しき》りに自慢し、めつたに穿《は》かないといふことをも云つた。四十を越した寡婦《やもめ》の上さんは、その靴を大切にして飾つてゐるのであつた。
 八月二十一日。火曜。午前は教室で為事《しごと》し、午食後日本媼の所に置いてあつた荷物を全部 Rothmund《ロートムント》 街の第一候補の家に運び、ミユンヘンに来て初めて自分の部屋に落付いたやうな気がしたので、午後も教室での為事がなかなか捗《はかど》つた。夕景に新しい家に立寄り上さんから鍵を貰《もら》ひ、友と夕食をしに行つた。心がおのづと開いて、麦酒《ビール》が咽喉《のど》を通過して行く工合が何とも云へない。九時半ごろ新しく借りた居間に帰り、体を拭《ふ》き、足を洗ひ、小さい方のトランクから日用品やら文房具やら書物やらを取出して調へた。今日から此の部屋を独占するのだと思ふと気持が如何《いか》にも落付いて来る、今までは窮屈して他人の部屋に寄生してゐたのであるが、けふからは自分の部屋に寝るのである、さう思つて私は軽い催眠薬を飲んだ。さて暫《しばら》くまどろんだと思ふ時分に頸《くび》の処に焼けるやうな癢《かゆ》さを覚えて目を醒《さ》ました。私は維也納《ウインナ》以来の屡《しばしば》の経験で直ぐ南京《ナンキン》虫だといふことを知つた。困つた困つたと思つたが、辛抱して三十分余りかかつて大小二匹の南京虫を捉へ、それを紙に包んで置いて、日用品だけ大急ぎで調へ、日本媼の処に逃げて来た。すでに夜の十二時を過ぎてゐたが、媼は戸をあけて呉れ、私は他人の部屋のソフアの上に体を縮めて寝た。この日本媼のところの部屋は、借りてゐる日本人が目下旅行中なので、その留守に私は寄生してゐるのであつた。実に変な気がする。
 八月二十二日。水曜。けふ媼が一しよに行つて呉れるといふので、第三第四の候補の部屋をたづねて談合したがどうも煮え切らない。そこで、兎《と》に角もう一度新聞に広告を出して置いて、Lindwurm《リントウルム》 街二十五番地の第二候補の部屋に行つて見たところが、まだ借手が附かずに居た。私は決断して借りることにした。雨が非常に強く降る日で、四階まで昇つて行くのにひどく息切がした。間代は一月三百万|麻克《マルク》だと云つたが値切る勇気もなかつた。
 八月二十三日。木曜。午前中教室で働き、午食すまして荷運びの赤帽《あかばう》二人を雇ひ、第一の部屋に行つて荷を運び、第二の部屋に運ぶやうに言附《いひつ》け、上さんに南京虫の談合をすると、『あなたが旅舎《ホテル》から持つて来たのだらう』といふ。『いやさうではないこれが証拠だ』などといひながら私は捉へて置いた大小二匹の南京虫を上さんに示した。それから、五十万|麻克《マルク》を上さんに渡してその家を辞し、第二の部屋に来ると、荷物は四階までもう運ばれてゐた。赤帽に勘定を済まし、この日は、日本媼のところに寝た。英貨一|磅《ポンド》の相場が、千五百万|麻克《マルク》である。
 八月廿五日。土曜。一日ぢゆう教窒で為事《しごと》し、夕食後は暫く珈琲店《コーヒーてん》で時を移し、疲労し切つて新しく借りた部屋に来た。息切のするのを途中で数回休み休み到頭四階まで来て、今夜こそ安眠しよう。毎日の昇降は苦痛であり、朝日も当らぬ部屋であるが、南京虫さへゐなければ辛抱しようと思つて、床の上に横《よこた》はつた。そして会話の本など少し読んでゐるうちに少しく眠つた。
 然《しか》るにこの床でも忽《たちま》ち南京虫に喰《く》はれた。私は余りいまいましいので、直ぐ日本媼のところに逃げ帰らうとしたが、夜が既に更けてゐるし、度々南京虫のことを訴へるのは自矜《じきよう》を害されるやうな気もするし、忍べるだけ忍ばうとした。私は三時半まで起きてゐ、二たび寝て大小数匹の南京虫を捕へ、碌々《ろくろく》眠らずして一夜を明かした。
 八月廿六日。日曜。けふは頭が朦朧《もうろう》として不愉快で溜《た》まらない。一層《いつそ》のこと下宿住ひをしてもいいと思立つて、午前中から、教室から程遠くない所といふ見当を附けて下宿を見廻つて歩いた。下宿は実に幾軒もあるが、時節が悪いので大抵|塞《ふさ》がつてゐるし、明間《あきま》があるのを見れば不潔で住む気にはなれない。私は一人さびしく途中で午食を済まして、それから日本媼を訪ねた。媼は愛想よく、『南京《ナンキン》はゐませんでしたか、nichts《ニヒツ》 ?」などと云つたが、私はただ苦笑せざることを得なかつた。
 媼は、私が一両日まへ出した間借の新間広告の返詞十通ばかりを持つて来て私に示した。そのうちから、教室に余り遠くないところ四五ケ所を選び、いい部屋のあるやうな気持をなるべく自分で極《き》めて媼の家を辞した。夜更けて南京虫のゐる自分の部屋に帰り、催眠薬を飲み、南京虫に食はれて一夜を明かした。
 八月廿七日。月曜。昼のうちは教室で働き、夜は出来るだけ晩《おそ》く帰り、虫|除《よ》けの粉などを振まいて、南京虫に食はれて寝た。
 八月廿八日。火曜。いい部屋が無くてどうも困つた。郊外の方か、新市街地に行けば虫の出ない部屋が幾らもあるといふが、為事のためには矢張り教室の近くでなければならない。今までは余り人に頼り過ぎた、けふからは自力で自分のこれから住むべき部屋を求めようと思ふ。さう思つて私は先づ宗教の方で関係してゐる ,,Hospitz《ホスピツツ》" に行つた。部屋には古い基督《キリスト》の木像などが掛かつて居り水道の設備も附いてゐた。値段は相当に高いが候補の一つにして、それから Schwanthaler《シユワンターレル》 Str.《シユトラセ》 の数軒を見た。Pension《パンシヨン》 Moralt《モラルト》 といふところを見、Frau《フラウ》 Keim《カイム》 の部屋を見、Frau《フラウ》 Valentin《フアレンチン》 の部屋を見、Hotel《ホテル》 Schneider《シユナイデル》 の部屋を見た。最後の部屋を見た時に上さんは、若し借りるなら百万|麻克《マルク》の手金を置けなどと云つた。
 心が落付かず街頭を急いで来ると計らず二人の日本人に逢《あ》つた。一人は不思議にも維也納《ウインナ》で知つた医者であり一人の老翁と一しよであつた。老翁は齢|已《すで》に古稀を越したT氏であつた。私も元気づきミユンヘンの事では一日の長がある様な態度を自《おの》づから示して、夕食を共にした後、けふ見て来た宗教関係の下宿 ,,Hospitz《ホスピツツ》" に案内し、私は日本媼にたのんでソフアの上に寝た。連夜南京虫に苦しめられたので、自分の今借りてゐる部屋に帰つて寝る気になれなかつたのである。
 八月廿九日。水曜。朝便《あさびん》の配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父|伝右衛門《でんゑもん》の死を報じて来てゐた。午前も午後も教室で為事をし、夕食のとき維也納《ウインナ》から来たきのふのT翁に逢つたところが、私の世話した ,,Hospitz《ホスピツツ》" で昨夜南京虫に襲はれたことを報じ、頸のあたりの赤く脹《は》れた痕《あと》を示した。私は気の毒になり、一しよに行つて部屋を取換へるやうに談合した。それから今夜も日本媼の一室に寝せてもらつた。夜半に屡《しばしば》目が醒め、実父の死んだといふのは夢ではないかなどと思つた瞬間もある。
 八月三十日。木曜。けふは好《よ》い天気なので気を立て直して働き、夕食して、手金をやつて置いた Frau《フラウ》 Valentin《フアレンチン》 の処に行き部屋と入口の戸の鍵を受取り、日本媼の処に寄つて、今夜一晩試して見て若しまた虫に襲はれたら逃げて来る旨をいひいひ出ようとすると媼は『幸運をいのります』などといつた。それから Valentin《フアレンチン》 の所に行つて愛想のいい上さんといろいろの話をし、『僕の部屋には虫は出ないでせうね』『虫? 御笑談《ごぜうだん》でせう』『そんなら受合ひますか』『受合ふどころではございません』こんな会話などがあつた。私は屡《しばしば》の苦しい経験の後なので、懐中電燈を用意し全くの裸※[#「ころもへん+呈」、第3水準1-91-75]《らてい》になつて床にもぐつた。それからいろいろ生れ故郷の日本の事などに空想を馳《は》せながら、一時間ぐらゐも経つたころであらうか、眠つたか眠らないかまだ分からないうちに南京虫に襲はれてしまつた。私は一瞬はげしい憤怒を感じたが、今度は直ぐ心が元に帰つた。そして急いで著物を著、戸を開けて往来《わうらい》に出た。街上には人の往来が未だ絶えてゐなかつた。私は途中で麦酒《ビール》の大杯を飲みほし、日本媼のところに逃げ帰つた。そして、誰にも会はずに秘《ひそ》かに部屋に入つてそこに寝た。
 八月三十一日。金曜。朝から教室に行き為事を一通りして置いて、小使に貸間の世話を頼み、三四軒見て廻つた。Pestalozzi《ペスタロチ》 Str.《シユトラセ》 十四番地の一間を見た。これは現在学生が借りてゐるが十一月に帰つて来るまで貸してもいいと云ふのであつた。Ziemsen《チームゼン》 Str.《シユトラセ》 二番にも一間見た。それは現在夫婦者がゐるが近々に明くといふことである。Tahlkirchner《タールキル》 Str.《シユトラセ》 十六番地の一間を見た。ここでは頑丈な男が挨拶《あいさつ》して私を連れて行つて呉れた教室の小使に、部屋は貸したくないと云つた。
 午後、日本媼に頼んでもう二回ばかり新聞に広告してもらふやうにした。夕がた教室のかへりに寄ると新聞に広告を出して呉れたといふことであつた。今夜も日本媼の処に泊つた。
 九月一日。土曜。けふの朝刊新聞に私の間借の広告が出た。夜食後に日本媼のとこに来ると、広告に対して十数通の返事が来てゐた。そこで媼と二人で大体の候補を極《き》め、今夜も此処《ここ》のソフアの上に寝た。
 九月二日。日曜。早朝から、Klenze《クレンツエ》 Str.《シユトラセ》 三十番地の二階右側に一室あるといふので見に行つた。ここの上さんは Marie《マリー》 Mair《マイル》 といつてしとやかで人相もいい。此処に十四ばかりになる娘も一人ゐる。部屋は大きく光の当りも好く、教室から遠いのが欠点だが、それさへ我慢すれば大体いいと思つた。そこで明晩一夜とめて見て呉れるやうに頼んでそこを出た。それから同胞のN君を訪ね、一しよに散歩に出た。けふは日曜で天気が好いので、町の人も他所行《よそゆき》の著物を著て歩いてゐる。宗教上の何とか謂《い》ふ行列を一時間ばかり見、それからイーサル川の川原《かはら》を歩いた。連日教室で根をつめて為事《しごと》し、連夜南京虫のために気を使ふ身にとつては、今日の散歩は何とも云へぬ気持である。川は急流でところどころに瀬を作り、また潭《たん》を作つてゐる。潭のところで若者らは童子《どうじ》をも交へて泳ぎ、寒くなると川原の砂に焚火《たきび》してあたつてゐる。川原には短い禾本《くわほん》科の草などのほかに一めんに川柳《かはやなぎ》が生えてゐる。
 午後三時ごろ歩き疲れ、途中で麦酒を飲み、薬種屋に寄つて南京虫退治の薬を買つた。これは硫黄《いわう》を主薬としたもので、一夜焚いて退治するのであつた。それを持つて、現在借りてはゐるが暫《しばら》く寝に帰らなかつた Lindwurm《リントウルム》 Str. 《シユトラセ》 廿五番地の四階に行つて、今夜ぢゆうこの薬を焚くやうに上さんに依頼して置いた。これは、どうしても他所に部屋がないなら、南京虫を退治して置いて此処に住まうといふ計画なのである。それから、日本媼のところに来ると、Bavariaring《バワリアリング》 の三十一番地に部屋が一つあるといふので見に行つた。部屋は申分なく、教室も直ぐ近くであり、南京虫のゐない事も確からしいが、値段が部屋代だけで邦貨に換算して一日二円ばかりかかるので借りることを止めた。今夜は、N君と共に活動写真を見、日本媼の所に寝た。
 九月三日。月曜。午前中教室に行き、午食のついでに、Mozart《モーツアルト》 Str.《シユトラセ》 七番地に部屋を見に行き、午食後日本媼のところに寄ると、まだ数通の間貸の郵便が届いてゐた。それから、きのふ大体約束して置いた Mair《マイル》 のところの娘が今夜是非来るやうにといふ母の言伝《ことづて》を以《もつ》て訪ねて居た。眠くて溜まらぬのを我慢し、日本の茶などを媼から入れて貰《もら》つて飲み、それから夕方まで教室にゐて、今日は新しい部屋に試さうといふことを媼に話して、夕食して行つた。けふは誰も連がなく寂しく食事したが、夕刊で日本大地震の記事を読んだ。
 それから、Mair《マイル》 のところに行つた。部屋も床《ゆか》も綺麗に掃除《さうぢ》がしてあり、卓のうへには置物なども置いて呉れてあつた。家族のものは此部屋を私に貸して手狭いところに移つたらしい。私は日本の事が気になつてならぬが、も少し委《くは》しい通信を読んでから事を極《き》めようと思ひ、持つて来た小さい座布団を牀上《しやうじやう》に置き、うへに腰をおろして両足を牀上に延ばした。靴をぬいでくつろぐと実に久しぶりで静かな気持になるのであつた。
 さうして置いて、新聞の夕刊を読みかへすと、地震はどうしても大事件である。東京・横浜・伊東・熱海一帯が全く破壊されて第一通信だけでも東京の死人が十万を超えたと註してある。部屋の掛時計は余韻を引いて十時を報じた。
 夜半過ぎから度々眼を醒ましたけれども南京虫は襲つて来ない。私は感謝と不安と危懼《きぐ》と実に複雑した気持を経験しながら夢とも現《うつつ》ともなしに暁に及んだ。然《しか》るにいまいましいではないか、暁になつて遂にまた手の甲と咽《のど》のところを南京虫に襲はれたことを知つた。いまいましくて溜まらない。
 九月四日。五十万|麻克《マルク》やつて、もう一両日待つてくれるやうに談合すると、あのやさしい上さんは、借手が幾人も附いてゐるから待てないといふ。さうか、そんならいい。といつて百万|麻克《マルク》おいて其処《そこ》を去つた。朝食をせずに日本媼のところへ行く途中、N君に会つた。N君も日本の地震を心配して朝食もせずに日本媼のところに来たのである。二人は近所で朝食をし、日本のことを談《かた》りあつた。
 日本媼のところに、部屋を貸したいといふ人が数人たづねて来てゐた。そこで是等《これら》の部屋を見まはり、Dachauer《ダツハウエル》 Str.《シユトラセ》 廿五番地。Ringseis《リングスアイス》 Str.《シユトラセ》 六番地と廻つて、Thorwalsen《トールワルゼン》 Str.《シユトラセ》 六番地に落付くことに極《き》めた。なぜ極《き》めたかといふに、ここは教室から遠くて不便であるが、新市街地で南京虫がゐない。Sさんといふ日本人夫婦が住んで居り、間代の値上げのことで余り乱暴をいふから引越したと云ふ部屋であつて、南京虫のゐないことは確実である。
 不便なところだが、住宅地だから寂しいくらゐ静かな処である。窓から直ぐ中庭に出られるやうになつてゐる。私は九月六日に其処に引越して、十二月十五日二たび日本媼の処に厄介になるまでゐた。その間、教室の近くの貸間をいろいろ心掛けて捜したのであつたけれども、南京虫を恐れて引越さずにしまつた。
 私は志を抱いて維也納《ウインナ》からミユンヘンに転学した当時は、部屋を得るに困難なこと如是《によぜ》であつた。但し是は貧しい留学生の私を標準としての有様である。豪奢《がうしや》の身分者《みぶんしや》にとつては、縦《たと》ひミユンヘンと雖《いへども》決して事を欠かせるやうなことはないのである。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



日本大地震

斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)Spatenbr〔a:〕u《シユパーテンブロイ》 食堂

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半|立突《リツトル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数》
(例)※[#「女+尾」、第3水準1-15-81]々《びび》

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)Spatenbr〔a:〕u《シユパーテンブロイ》 食堂
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 西暦一九二三年九月三日。うすら寒く、朝から細かい雨が降つた。日の暮に Spatenbr〔a:〕u《シユパーテンブロイ》 食堂の隅の方に行つてひとり寂しく夕餐《ゆふさん》をした。七月十九日にミユンヘンに著いて以来、教室では殆《ほとん》ど休なく為事《しごと》を励んだのであつたが、いまだに自ら住むべき部屋が極《き》まらない、極まりかけては南京虫に襲はれ襲はれしていまだに極まらずにゐる。それも教室の方の為事を休んで部屋を捜すのではないのは、つまり教室の方は縦《たと》ひ一日の光陰をも惜しむがためであつた。けふも新聞の広告で見当を附けておいた数軒の部屋を見まはり、今夜は Klenze《クレンツエ》 Str.《シユトラセ》 三十番地の部屋に寝泊りして虫の襲撃を試すつもりである。
 いつもなら二人の同胞がゐて食事を共にするのであるが、けふは都合があつたと見えて誰も来ない。まるい堅さうな顔をした娘が半|立突《リツトル》の麦酒《ビール》を運んで来て、しきりに愛想を云ふ。『ドクトルまだ恋をしたこと無い?』などといふことをいふ。『まだ無いね』などといふ。『けれど、シナでは十三四でもう結婚すると云ふぢやない?』『それは百姓どものことだ、僕のやうな学者は矢張り結婚はなかなかしないものだ』『さういふものなの?』『どうだ、恋をして日本へ行くか、Fujiyama《フジヤマ》 の国へ連れていかうか』『え、行きたいわ』などといふ会話をしたりする。さうすると幾らか気の晴れるのを覚えるのであつた。
 そこに夕刊の新聞売が来たので三通りばかりの新聞を買ひ、もう半|立突《リツトル》の麦酒を取寄せて新聞を読むに、伊太利《イタリー》と希臘《ギリシヤ》とが緊張した状態にあることを報じたその次に、,,Die Erdbebenkatastrophe in Japan" と題して日本震災のことを報じてゐる。
 新聞の報告は皆殆ど同一であつた。上海《シヤンハイ》電報に拠《よ》ると、地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵|工廠《こうしやう》は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなつた。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
 私は暫《しばら》く息を屏《つ》めて是等《これら》の文句を読んだが、どうも現実の出来事のやうな気がしない。併し私は急いで其処《そこ》を出《い》で、新しく間借しようとする家へ行つた。部屋は綺麗に調へてあつたので私は牀上《しやうじやう》に新聞紙と座布団とを敷き尻をぺたりとおろした。それから二たび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はやうやく家族の身上に移つて行つた。不安と驚愕《きやうがく》とが次第に私の心を領するやうになつて来る。私は眠薬を服してベツトの上に身を横《よこた》へた。
 暁になり南京虫に襲はれこの部屋も不幸にして私の居間と極《き》めることが出来なかつた。九月四日の朝、朝食もせず其処を出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会つた。N君も日本の事が心配で溜《た》まらぬのでやはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであつた。N君の持つてゐるけふの朝刊新聞の記事を読むと、きのふの夕刊よりも稍《やや》委《くは》しく出てゐる。コレア丸からの無線電報に拠るに、東京は既に戒厳令が敷かれて戦時状態に入つた。横浜の住民二十万は住む家なく食ふ食がない。ロイテル電報は報じて云《いふ》。東京は猛火に包まれ殆ど灰燼《くわいじん》に帰してしまつた。紐育《ニユーヨーク》電報が報じて云。大統領 Coolidge《クーリツジ》 は日本の Mikado《ミカド》 へ見舞の電報を打つた。それから能《あた》ふかぎり日本の震災を救助する目的で直ちに旅順港にゐる米国分艦隊をして日本へ発航せしめた。また、上海|投錨《とうべう》中の英国甲鉄艦 Despatech《デスパテチ》 号も既に日本へ向つて出帆した。なほ、日本の地震はミユンヘンの地震計に感応し、朝の四時十一分頃から始まり五時少し前に最も強く感応した。云々。
 二人は近くの珈琲店《カフエ》で簡単に朝食を済まし、日本媼のところに止宿してゐる二人の同胞と故郷のことを話合つた。私も部屋のことで斯《か》う愚図愚図してゐてはならぬと思ひ、けふも数軒部屋を見、遠くて不便であるが一間借りるやうに決心した。私はけふはもう教室に行く勇気はなかつた。夕刊を読むと日本震災の惨害はますますひどい。私等は何事も手に附かず、夕食後三人して麦酒を飲みに行つた。酒の勢を借りてせめて不安の念を軽くしようとしたのであつた。
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙してゐても何事も手に附かない。九月六日。思切つて、Thorwalsen《トールワルゼン》 Str.《シユトラセ》 六番地に引越してしまつた。ここには南京虫は居なかつた。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであつて見れば、私自身今後どう身を所決せねばならんか今のところ全く不明である。そこでせめて南京虫のゐない処に落付かうと決心したのであつた。
 けふは、もう日本震災のための死者は五十万と註してあつた。大小の消火山は二たび活動を始め、東京・横浜・深川・千住・横須賀・浅草・神田・本郷・下谷・熱海・御殿場・箱根は全く滅亡してしまつた。政府は一部京都一部大阪に移つた。東京は今なほ火焔《くわえん》の海の中にある。首相も死に、大臣の数人も死んだ。ただ宮城の損害が比較的|尠《すくな》く避難民のために既に宮城を開放した。仏蘭西《フランス》大使館、伊太利《イタリー》大使館は全く破壊した。帝室博物館、二大劇場、帝国大学、日本銀行、停車場等も廃滅に帰し、電報電信の途は全く杜絶《とぜつ》してしまつた。云々。
 次の日も、次の日も、教室に行く気にはなれない。部屋に籠《こも》つて自分の所持品などを整理しようとしても直ぐ疲れた。併し飯《めし》くひに街頭に出ると、食店《レストラン》にゐる客などが態々《わざわざ》私のゐる卓のところまで来て震災の見舞を云つた。ある時には、途中で行過《ゆきす》がつた背嚢《ルツクサツク》を負うた一人の老翁がまた戻つて来て、私を呼止めて見舞の言葉を云つて呉れたりした。日本からの直接通信が始めて英京|倫敦《ロンドン》に届いたといふのが新聞に出たが、それを読むと前に読んだ間接通信の記事内容よりももつと深刻であつた。また民衆と軍隊との衝突があり、朝鮮人と軍隊との市街戦が報じられてあり、新首相山本権兵衛子爵に対する暗殺企図、数名の大臣の死亡なども報じられてあり、五十万の人間と、五億ポンドの財産とが消失されたことを註してあつた。
 さういふミユンヘン新聞の手がかり以外に、伯林《ベルリン》の友人からも何処《どこ》からも何等事件の真相を知るべき手がかりが全く杜絶してしまつてゐる。夜はよく眠れず、暁《あけ》がたになつてとろとろとしたかと思ふとしきりに夢なぞを視《み》た。夢では、妻のやうな恰好《かつかう》をし、妻か誰か分からぬ一人の女と、一人の童子とが畳のうへに坐つてゐる。それが向うを向いて居り、幾ら呼んでも依然として向うを向いてゐる。それで夢が醒めてしまつたりする。ある夜、麦酒《ビール》に酔つて帰つて来て寝た。さうするともうもうと火焔の靡《なび》いて居る光景を夢に視たりした。私は或時には、東京の家族も友人も皆駄目だと観念したこともある。
 或日、朝からN君を訪ねて、二人して当もなく街上を歩いた。とある広場の古物商《こぶつしやう》に能の面が二つばかり並べてある。この古物商には不思議にも日本物《にほんもの》が並べてあるので、鎧《よろひ》があり、扇子があり、漆器があり、花瓶があり、根付《ねつけ》があり、能衣裳《のういしやう》などもある。これは戦後に土地の人が売払つたものに相違ない。N君はどう思つたか、歯を黒く染めた女の能面を一つ買つた。二人は街を歩いて行つて Isar《イーサル》 川の橋を渡り、川原《かはら》に下りて行つた。N君の家は東京の郊外にあるから、これはどうにか損害を蒙《かうむ》らずにゐるらしい。併し親戚《しんせき》知己は幾人も東京の殷昌《いんしやう》区域内に住んでゐる。それらの人々は到底駄目だらうといふことを話しあふ。二人は土手を上つて行つて黒|麦酒《ビール》を飲んだ。酔つて幾らか鬱《うつ》を散じてまた二人は川原の方に下りて行つた。川原には川柳の一めんに生えてゐるところがある。そこに五六の頑童の遊んでゐるけはひがしてゐたが、突如として、Chinese《ヒネーゼ》 ! と叫んで柳のかげに隠れる。また、Chinese《ヒネーゼ》 ! と叫ぶ。『ヒネーゼ!』と叫ぶのは軽蔑《けいべつ》して調戯《からか》ふつもりなのである。
 N君はその能面をかぶり、川原で踊つた。能舞の様式を知つてゐるではなし、さればとて、Platzl《プラツツル》 で見るやうな、バヴアリア民間舞踊の恰好でもないが、日本震災のための不安動揺の心理は、N君にそんなことをさせたのであつた。さうして逃げていつた童子等も其処《そこ》に戻つて来て、笑ひころげてそれを見てゐる。そんなことなどもあつた。そして一日一日が暮れて行つた。通信は全く絶え、たまたま配達された故郷からの書信を読むと、極く平安事なきもので、何の役にも立たぬものである。私等は或日には日本飯を焚《た》いて食つた。それに生卵をかけ、大根などを買つて来てむさぼり食つたりしたのである。
 日本の知人の顔などが時に眼前に浮んでくるが、その人々の中にはもう死んでゐるものもあるだらうといふ一種悲痛の心持が附帯してゐる。さういふ写象のうちには今どき小学校に通つてゐた筈《はず》の長男の顔なども浮んでくる。それから私みづからの近き未来の運命のことなどが意識の上にのぼつてくる。しまひにはさういふ意識のなかに自ら涵《ひた》つてしまつたせいであらうか、日本軍艦数隻が沈没し、伊豆《いづ》の大島が滅して半島の近くに新しい島が出来、神聖《ハイリーゲ》江の島が全く無くなつてしまつたといふ、さういふことなどは余り気にせぬやうになつた。
 九月十日ごろN君のところに故郷の家族無事といふ電報が届いた。電文は『ヂシンヒドイブジ』としてあつた。なか二三日おいて十三日の夕がた私のところに、伯林《ベルリン》のM君から電報が届いた。電報は、Folgendes Telegramm aus Japan erhalten ,,Your family friends safe" = Mayeda としてある。
 家族も友人も無事といふ英文電報の方は、神戸から中村憲吉君がやうやうの事で打つてくれたのが、伯林大使館に届き、毎日毎日情報を聞きに押懸けてゐた私の友の一人が沢山の電報の中から其を見付けてM君に知らせたから、M君は独逸文を少し附加して至急報で打つて呉れたのであつた。私は一人で麦酒《ビール》を飲みに行き、労働者等のわめきどよめく音声の側に、歯の鈍痛のやうやく薄らいだやうな気持で数時間ゐて帰つて来た。
 翌日朝食の後、買物をした。教室で使ふ色素、靴墨、ナフタリン、石鹸、揮発油、靴下、針と糸などを買ひ、途中でトランク一つの代価を訊《たづ》ねると娘店員が来て、zwei milliarden dreimal hundert millionen Mark と云つた。これは二十三億|麻克《マルク》のことである。
 次の日教室に行き教授に会つて大体日本地震の有様を報告し電報のことをも話した。教授も助手も研究生も標本係の女も非常に喜んで呉れた。その日教授は私を自分の部屋に呼び、『もう率直にいひますが、それでは研究費として毎月英国貨四|磅《ポンド》づつ払つて下さい』と云つた。
 それから私は教室の為事《しごと》をどうしても急がねばならぬと決心して、連日教室に通つた。九月の末といふに街路樹の葉が黄色になつて落ち、日本晩秋のやうな気持の時もあつた。独逸《ドイツ》の状態がだんだん悪くなり、為替《かはせ》相場も急転して下つた。九月廿七日には十四ばかり行はれる筈の国民党の集会が禁ぜられ、集会所や大きな麦酒《ビール》店をば軍隊と警官とで厳しく固めたこともあつた。Hofbr〔a:〕u《ホーフブロイ》 のやうなあんな盛《さかん》な麦酒店でもその三階は十月半ばには既に閉鎖したほどであつた。
 十月十四日にはじめて大阪毎日新聞九月三日の号外を手に入れ皆頭を集めて読んだ、『東京全市焦土と化す』といふ大きな見出しがあり、碓氷峠《うすひたうげ》から東京の空が赤く焦げてゐるのが見えるとも書いてある。これは想像よりもまだまだ悲惨である。十五日には大阪のO君から大阪朝日新聞の週報を受取り、廿一日には参謀本部附のK少佐から大阪朝日新聞を借りて読んだ。深川の陸軍|糧秣廠《りやうまつしやう》の広場で何十万の人の死んだ所や、両国の橋の墜《お》ちた所などを読んだ。どうも息がつまるやうである。三面の方には、佐渡まで帰らうとしてやうやく長野市の停車場まで落延びて来たひとりの女を見るに、自分の髪の毛が全く焼け焦げ背には焼死んだ子を一人負つてゐるといふ記事などもあつた。
 そのうち東京の家から手紙があつて、しきりに帰国を要求して来てゐた。ミユンヘンも追々寒くなり町には毎日霧がかかるやうになつた。Hitler《ヒツトレル》 事件といふのもその間にあつた。独逸の絵入新聞にも、死骸が山のやうに積まれてある日本震災の惨状が載るやうになり、或時には吉原《よしはら》で焼死んだ遊女の死骸を三列ばかりにして並べて、そこに警官がひとり立つてゐる写真を載せ、これは本国の日本で既に発表禁止になつたものだと註したことなどもある。さうして日一日と暮らしてゐる間に私は決断して当分ミユンヘンに止まらうと思ひ、東京の親しい友に金を借ることを頼んだりした。
 十二月十三日になつて、「大正大震災大火災」といふ雑誌を借り、真に身ぶるひするやうな大地震の有様を読んだ。その中に幸田露伴翁の談話があつたが、私はその中の一二節をば手帳に書取つた。
 ○そこで一言を人々に贈らうと思ふ。おもへば言葉は甲斐無いものである。千百の言葉は一団の飯にも及ばず、※[#「女+尾」、第3水準1-15-81]々《びび》の言《げん》は滴々《てきてき》の水《みづ》にも如《し》かぬ場合である。けれども今の自分の此の言葉は言葉とのみではない。直ちに是自分の心である。○そこで仮令《たとひ》美酒蘭燈の間にゐて歌舞歓楽に一時の自分を慰めてゐても、何処かにこれを是認せぬものがある。つまり心が一つでなくて、二つになつてゐる。人といふものは二気あれば即ち病む、といふ古い支那の諺《ことわざ》にある通り〈中略〉宜しく胆《たん》を張《は》り気《き》を壮《さか》んにし、飲食を適宜にし、運動を怠らずして、無所《むしよ》畏心《ゐしん》に安住すべきである。○宗教上の信仰を有する人は、かかる時こそ宗教の加護を受くべきである。観音の額には無所畏《むしよゐ》の三字が示してあるではないか。不動尊は不動経に、我は衆生《しゆじやう》心中《しんちゆう》に住《ぢゆう》すと説いてあるではないか。〈中略〉神仏に人ををののかすものはない。皆各|其《その》大威力《だいゐりよく》大慈力《だいじりき》によりて人々に無所畏《むしよゐ》を得しむるものである。まして無神無仏の徒《と》は既に神を無《な》みし仏を無みするだけの偉いものであるから、夢にも恐怖心などに囚はれてはならぬ。云々。
 私は実に久しぶりで翁の言に接したのである。そして独逸語で頭を痛めてゐるときに、是等《これら》の言葉はすらすらと私の心に這入《はひ》つて来た、のみならず翁の持つ一つの語気が少年以来の私に或る親しみを持たせるのであつた。カアル・マルクスの『宗教は国民の阿片《あへん》である』(Religion ist das Opium des Volks.)といふ西暦一八四四年の言葉が、西暦一九一七年の露国革命の際に、彼のグレコが聖母の像と相対した壁面上に書かれたといふ。これは莫斯科《モスカウ》の出来事で、レニンなどが主になつてああいふことをやつた。レニンは、,,Die Religion ist Opium f〔u:〕r das Volk." と書いて、さて、宗教といふものは下等なフーゼル酒《しゆ》のやうなものだ。資本の奴隷どもは、漸《やうや》く真人間の仲間入をしようとする権利を得ながら、半途にしてこの宗教といふ下等な火酒《くわしゆ》の中に溺没《できぼつ》してしまふのである。とさへ罵《ののし》つてゐる。近ごろ読んだああいふレニンの言葉に較《くら》べると、『無神無仏の徒は既に神を無みし仏を無みするだけの』云々といふ幸田露伴翁の言葉には、少しもそこに反語がないところに露伴の面目がある。レニンのものの如くに、,,streitbar" とか ,,revolution〔a:〕r" とか謂《い》ふ臭気がまつはつてゐない。そんな事を私は一人ゐながら思つた。レニンの病気もその後悪いさうだが、追つかけ死ぬだらう。臨終の近くに誰かがどういふ言葉かを掛けるだらう。それが所詮《しよせん》、希臘《ギリシヤ》加特利《カトリツク》教の儀式の代弁ならつまらぬなどとも私は思つた。
 十二月十四日に宿の上《かみ》さんに転宿のことを話し、翌十五日に日本媼《にほんおうな》のところに引越して来た。その晩に将棋を差したが、駒《こま》も盤も大戦前の留学生が置いて行つたものである。戦時中、老媼の一家がいまのところに引越して来たにも拘《かか》はらず将棋の如き、かういふ品物をも無くさずに持つてゐたのであつた。
 大正三年に大戦が勃発《ぼつぱつ》し、留学生どもは逃げたのであるが、大正十一年の一月に私が伯林《ベルリン》に著いてミユンヘンの事情をさぐると当時ミユンヘンは唯ひとりの日本人が特別の許可を得て研究してゐるに過ぎず、ここへの入国は厳重で出来なかつたのである。その七八年の間将棋の駒を無くさずにゐたのは私にはおもしろい。私はここに寄寓《きぐう》しておのづと大地震に対する驚愕《きやうがく》の念を静めて行かうと思つたのであつた。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
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イーサル川

斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)独逸《ドイツ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|小邑《せういふ》

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)T〔o:〕lz《テルツ》
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 イーサル川は南の方のアルプス山中から出て、北へ向つて流れてゐる。分水嶺は既に独逸《ドイツ》の国境を越して墺太利《オーストリー》の領分になつてゐるので、さう手易《たやす》く其処《そこ》を極めることは出来ないやうである。
 川の沿岸には、T〔o:〕lz《テルツ》, M〔u:〕nchen《ミユンヘン》, Landshut《ランヅフート》, Landau《ランダウ》 などの町があり、ミユンヘンはそのうちで一番大きい。川は道を稍《やや》東の方に取つて、Deggendorf《デツゲンドルフ》 の近くに来てドナウに這入《はひ》る。T〔o:〕lz《テルツ》からもつと水上《みなかみ》に Lenggries《レンググリース》 といふ一|小邑《せういふ》があり、眺《ながめ》のいい城がある。Hohenburg《ホーヘンブルク》 の城といふのはそれである。
 ドナウの流れは『藍のドーナウ』と謂《い》ふが、ここは、『緑のイーサル』である。,,Solang die gr〔u:〕ne Isar, durch's m〔u:〕nch'ner Stadt'el geht."といふ古い歌謡は、ミユンヘンの市民が麦酒《ビール》に酔うてよくうたふのであつた。
 私は西暦一九二三年の夏にこの土地に来、翌年の夏までゐたので、屡《しばしば》この川に親しみ、心に憤怒があり、心に違和があるときには、いつも私はひとりこの川べりに来て時を消すことをしてゐた。
 ここに来て間もなく日本大地震の報に接し、前途が暗澹《あんたん》としてゐた時にも私はよくこの川原《かはら》に来た。まだ気候が暑いので、若者に童子を交へて泳ぎ、寒くなると砂原に焚火《たきび》をしてあたつて居る。そこから少し離れたところに少女の一組が泳ぎ、中にはもう体の定まつたのも居り、稍《やや》恥を帯びた形をして水から上がつて来たりして居る。川は概して急流であるが、流が緩慢のところがあり、さういふところを尋ねて彼等は泳いで居る。ここの川にも矢張り支流があつて、流れ込む有様が見えてゐる。流の岸は人造石の堤防で堅めてゐるので、水は割合に激せずに流れるのであるが、それでもその堤防の損じた処がところどころにある。恐らく春の雪解《ゆきどけ》の季節に洪水のする為業《しわざ》であるだらう。長い木の橋が掛かつてゐたりして、そこを大勢の人が往来してゐる。日曜の散策であるがここの住民は、維也納《ウインナ》などに比して都雅でなく、山国の趣が抜けないやうに見える。
 ある日、友人の家で日本飯を焚《た》いてもらひ、それに生卵をかけ大根に塩を附けながら食つた。満腹してここの川原に来るといい気持である。川原には砂原の上に川柳の一めんに生えたところがある。豌豆《ゑんどう》のやうな花の咲いた細かい草などもある。向うの土手のところに山羊《やぎ》の一群が居り、少女ひとりが鵞鳥《がてう》の一群を遊ばせてゐたりする。生れ故郷の日本のやうに、蝉のこゑも聞こえず、きりぎりすのやうな夏の昆虫も聞こえない。かういふ静かな川原の柳の木蔭に、潜むやうにして私がゐると、『ヒネエゼ!』かう突然こゑがして、ひとりの童子が向うの柳のかげに隠れたりする。
 また、或る夏の暑い日曜にここの川原を歩くと童幼が砂をいぢつて遊んでゐる。一人の小さい男の子が急がしさうに私の傍に来て何か言ふ。が、私にはちつとも分からない。私は三度も四度も問返して辛うじて意味だけが分かつた。『ぼくの妹の靴|紐《ひも》が長過ぎますから、切つてやらうとおもひます。小刀《こがたな》を持つて居りませんか』かういふのであつた。私が非常に骨折つて理解した独逸語は如是《によぜ》のものに過ぎぬ。いま当時の日記を検するに、これは九月二十三日のことで、『嗚呼《ああ》、言葉はむづかし』と書いてある。
 また或日、この川に掛かつてゐる町中の橋の上に立つて、急潭《きふたん》のさかまくのを見てゐた。それから橋を渡つて木立の中から水際に下りて行き、二時間ばかり水を見てゐた。太陽が傾いたので飛沫《ひまつ》のうちに虹が暫《しばら》く立つたりする。イーサル川が二わかれして、その中に此処《ここ》の木立がある。木立の中には今は誰もゐず、ある数学者の銅像が一つある。私はゆうべ見たヒマラヤ山中の活動写真の光景などを思浮べ、しきりに眠気を催すのであつた。二わかれした向うの流の方には釣してゐる者が五六人ゐる。市場で買へば手取速《てつとりばや》く済むのに、気長に釣つてゐるところは、東洋国の風習とちつとも変りはない。何向き、市街の真中にかういふ河水の怒濤《どたう》を見るのは気味がいいのである。
 ある日、軽い頭痛がして川原を歩いてゐると、出て来た雲が見る見るうちに険しくなつて来、むかうに鳴つてゐた雷が急速度に強まる気配《けはひ》がしたから、兎に角土手の方へ急いだ。川原にゐた老若男女も慌しく駆歩などをするので、これは降るかも知れんといふ気がしてゐるうちに、もう大滴《おほつぶ》の雨が落ちて来た。雷が既に頭のうへに来て鳴るので、為方《しかた》がない、差向《さしむき》むかうに見える記念塔のやうなところまで駈出した。合著《あひぎ》の服をだいぶ濡《ぬ》らしてそこまで辿《たど》りつくと、土地の人で一ぱいである。そのうち川原も川向うの市街も見界《みさかひ》が付かぬばかりに打けむつて、銀線のやうな雷雨が降つた。雨やどりしてゐる男女老若は笑談《ぜうだん》などを云ひ云ひ、一歩も動くことが出来ずに居る。そして口ひげの長い翁などが隣の娘に何かいへば皆がどうつと笑つたりする。どこの国土でも同じい恋愛か何ぞの言葉であらうが、黄色人種の私ひとりが身動きも出来ずにしばらくさういふ気分の中にゐるのも亦《また》一つの情趣である。三十分も経つたころは、もう向うの空にはけろりとした按排《あんばい》に瑠璃《るり》色のところが見え出して居る、さういふこともあつた。
 そのうち追々気候が寒くなつて行つた。十月廿一日、広い森林を抜けて川上《かはかみ》の方へ行つたときには、広い葉の並木はしきりに落葉し、さういふ散《ちり》しいた落葉を踏んで私どもが歩いて行つた。林中には樅《もみ》が生ひ茂つて、その木下《こした》には茸《きのこ》の群生した所もあつた。そこを通抜けると、紅葉《もみぢ》して黄色く明るくなつた林を透して深い谿間《たにま》が見える、その谿間をイーサルの川が流れてゐるのである。川は紺碧《こんぺき》になつて川原をつくつて流れてゐる。谿間を隔てて向うは二たび一つの高原を形成してゐる。高原は一めんに紅葉し、静かな家がそこここに散在してゐる。見おろして見てゐるイーサル川は如何《いか》にも寂しい。途中で麦酒《ビール》を飲み、そこを出たときにはもう対岸の家に燈火がついてゐた。途中で連れになつた独逸《ドイツ》人があるところまで来ると、対岸の一つの家のあたりを指して、ルウデンドルフ将軍はあのへんに居ります。と教へて呉れた。イーサル川は、かういふ断崖の間をも流れるのである。
 十月廿八日、けふも一人で『|緑の森《グリユネワルト》』と謂《い》ふ方に行つた。今朝、靴下、越中|褌《ふんどし》などの洗濯をし、下半身を冷水で洗つた。心が平衡《へいかう》を得てゐるやうでもあり、不安なやうでもある。地震のため、いまの為事《しごと》を棄てて帰国せねばならぬとして、陸路を取るにせよ海路を取るにせよ千円はかかるのである。そんならその旅費だけの分をミユンヘンに踏留《ふみとど》まつて勉強しようか。と、斯《か》う心を極《き》めたのであつた。心が平衡を得たやうに思ふのはそのためであつただらうか。林をいで、散り敷いた落葉のうへに来て憩ふともなく憩ふに早くも眠気を催したので、頭を垂れたまま半時ばかりの仮寝をした。国民党の旗を立てて多勢の遠足隊が私の前を通つたのをも半眠《はんみん》のやうな状態で意識してゐた。身に寒気《さむけ》して目が醒《さ》め、それからイーサルの川の方に下りて行つた。此処《ここ》に来るとまた別様に寂しい。私から少し離れたところに童子《どうじ》がゐてしきりに谺《こだま》を起《おこ》してゐる。童子が、ハルロー! といふと、それが五つも六つもの谺《こだま》になつて遙《はる》かの方に消える。童子が、イイヤー、ホホー! といふ。谺が消えてしまふとまた其を繰返す。童子の声は澄んで清い、そして或る節奏《せつそう》を持つた間を置いてそれを繰返してゐる。私は、自身|欧羅巴《ヨーロツパ》に来てゐることを確然と意識せざることを得なかつた。
 そこを去つて川上の方に行くに、林中から湧《わ》いた泉が流になつてそそぐところがある。そこに二人の童子が一人の守《もり》に連れられて遊んでゐた。そこを通過ぎようとすると、一人の童子が来て、時計はもう幾時でせう? といふことを訊《き》いた。守の方は十六七歳にもならうか可哀らしい顔をしてゐるので私はいろいろ話をして見ようとして近づいた。然《しか》るに童子のなれなれしく振舞ふに似ず、守の娘は決して私に狎親《なれした》しむことをしない。私が数語を以て問へば数語を以て答へるのみである。この地の処女に如是《によぜ》の躾《しつけ》もあることを思ひ、興あることに思つたので、挨拶《あいさつ》をして其処を去つた。
 気候が寒く、その間に Hitler《ヒツトレル》 の騒擾《さうぜう》があつたりして、川べりにも来ずにゐた。年の暮になり日本の留学生と議論して憤怒したときにも川べりに来たのであつたが、その時には川原は一めんの雪で蔽《おほ》はれ、私は川原におりて行かずにしまつた。
 寒い冬に閉ぢられ、慌しく日を送つてゐるうちいつか春になつた。雪が解け、草が萌《も》え、そして日光の美しい五月が来た。五月十一日の日曜に久しぶりに川べりに来ると、対岸の町に市が立つてゐる。いろいろ価の廉《やす》い日用品、食料品を商ふ市で、主に労働階級の者を相手にしてゐるやうである。川魚を天麩羅《てんぷら》にして売つてゐたり、著《き》類の競売などは幾組もある。鉛筆のきずもの、刃物類を山のやうに積んで売つてゐたが、この中で私は大根卸《だいこんおろし》を一つ買つた。瀬戸物のところに行つたとき、瀬戸でこしらへた日本娘が三とほりばかりある、それを私は買つた。安芝居《やすしばゐ》があり、人形芝居がある。人形芝居は見料は客の自由で、児童は無料だから、幕のなかは児童で充満してゐる。大蛇《だいじや》などが出て来て頭の禿《は》げた猟人《かりうど》を呑《の》むところをやると、児童らは大ごゑをあげて、アア! などといふのでひどく愉快である。労働者達もけふは日曜なので帽も服も他所行《よそゆき》のを著、なかには男の子を肩車にして、妻を連れて歩いてゐるのなどもある。路傍に立つて心霊療法の本を売つてゐるのにも労働者等がたかつてゐる。心霊者は髪を長くして、時々医学上の術語を使つたりしてこれも甚だ愉快である。私はこの市で婦人のかぶる頭巾地《づきんぢ》を三四枚買つた。これは山村の女のかぶるものだが、日本の風呂敷になるのである。そのなかには太陽の光を模様にしたやうな図案などもあつた。五月十八日の日曜も同じやうに市が立つた。盛な人出で驢馬《ろば》に児童を乗せるところなどは一ぱいになつてゐた。安息日の日曜に商売の市の立つのも私には面白かつた。維也納《ウイン》ならば Messe《メツセ》 のやうな大きな市を除き、それから Prater《プラーテル》 のやうな遊び場所を除けば、日曜に働くのは猶太《ユダヤ》族の仕業だぐらゐにおもふのであつた。
 五月廿五日、川べりを歩いてくると植木園がある。なかには日本の藤の花を咲かせ、芍薬《しやくやく》、石竹《せきちく》のたぐひを植ゑてゐる。楓《かへで》の葉が紅くのび、ぼけの木があり、あやめがある。これは個人の経営だが私にはやはり心を引くものがあつた。雨が振つて来たので傘をさしていつまでも園中を逍遙《せうえう》したが、芭蕉・蕪村の趣味から行けば、晩春・行春の気品といふべきである。私は秘《ひそ》かに思うたに、この経営者の趣味は、戦前からの惰勢ではあるまいか。戦前には多くの日本留学生が此地に居り、日本飯を焚《かし》ぎ、牛肉の鋤焼《すきやき》をし、窓前に紅い若葉の楓盆栽をおいて、端唄《はうた》浄瑠璃を歌つたその名残ではあるまいか。
 六月一日、Spetech《シユペテツヒ》 といふ民顕《ミユンヘン》の図書館員と共に汽車でイーサルに沿うて溯《さかのぼ》つた。けふの午前には在郷軍人の記念儀式があつたので、それを見てそれが終つてから汽車に乗つた。汽車で暫《しばら》く来て Ebenhausen《エーベンハウゼン》 といふところに来た。ここのイーサル川は川下よりも川幅が広く、人々が短艇《ボート》を漕《こ》いで遊んだりして居る。さう暑くもないのに泳ぐものがゐる。シナ人二人が一人の独逸《ドイツ》女と連立つて私等のまへを行くが、いい独逸語を使つてゐた。川の水は此処は少しく白く濁つてゐる。近くに僧院があり、そこに多くの少年が養成されてゐる。その少年の読経するところなども私らは見た。Spetech《シユペテツヒ》 君は麦酒《ビール》を好み、私も敢《あへ》て辞せぬので二人はいい心地になるまで飲んだ。けふの遊《あそび》はイーサル川に来た最後の日になつた。
 私は一度、T〔o:〕lz《テルツ》に行かうと思ひつつ遂にその念願を果さずにしまつた。T〔o:〕lz《テルツ》はイーサル川の上流にある町で、沃度《ヨード》・曹達《ソーダ》・硫黄《いわう》を含んだ鉱泉が湧《わ》くために一つの浴泉地にもなつてゐる。私は此処のイーサル川の美しい有様を絵葉書で見て時々夢想を馳《は》せたのであつたが、私の生涯のうちにはそれが出来なくなつてしまつた。



底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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*地名


[イタリア]
ヴェスヴィオ Vesuvio イタリア南部の活火山。ナポリ湾の東側、ナポリの南東16キロメートルにある。標高1281メートル。二重式火山で、古来しばしば大噴火をなし、西暦79年8月ポンペイ・ヘルクラネウムを噴出物で埋めた。英語名ヴェスヴィアス。
ポンペイ Pompeii イタリア南部、ナポリ湾に臨むカンパーニア地方にあった古代都市。前4世紀以来繁栄し、のち一時ローマに反抗、最盛期の西暦79年、ヴェスヴィオ火山の大噴火で埋没。18世紀半ば以来の発掘により、当時の建造物・生活様式・美術工芸などを知る史跡となった。
レージナ Lesina 人口6,286人のイタリア共和国プッリャ州フォッジャ県のコムーネの一つである。
ナポリ Napoli イタリア南部の都市。ナポリ湾に臨み、ローマの南東約220キロメートル。古代ギリシア・ローマ以来栄え、1282年以後ナポリ王国を形成、ルネサンス文化の一中心。南東方にヴェスヴィオ火山がそびえ、風光明媚。カーポディモンテの王宮や古城などがある。人口99万8千(2004)。英語名ネープルズ。
ナポリ湾 イタリア南西部、ナポリ県にある湾。西に地中海に向けて開いている。湾の北側にはナポリ、ポッツオーリが、東側にはヴェスヴィオ山がある。南はソレントがあるソレント半島で、その向こうはサレルノ湾である。
カプリ島、イスキア島、プローチダ島が浮かぶ。
ヘルクラネウム Herculaneum イタリア南部、カンパニア州南部、ナポリ県中部の古代都市遺跡。ベスビオ山西斜面ナポリ湾に臨む。63年の震災、79年のベスビオ山の噴火により。ポンペイとともに厚さ20m以上堆積した火山噴火物により地中に埋没。1709年発見。18世紀中頃以来発掘が続く。(外国地名)

[ドイツ]
シュツットガルト Stuttgart シュトゥットガルト。ドイツ南西部、バーデン‐ヴュルテンベルク州の州都。ライン川の支流ネッカー川沿いの商工業の中心地。出版業も盛ん。中世にはヴュルテンベルク公の本拠地。人口58万2千(1999)。
北ドイツ連邦 Norddeutscher Bund 1867年にドイツ北部のプロイセン王国を主体に22の領邦から成る連合体。1871年のドイツ帝国(ドイツ国)の母体となり、機構の大部分は引き継がれた。
Tlz テルツ
ミュンヘン Mnchen ドイツ南部、バイエルン州の州都。ドナウ川の支流イザル川に沿い、南ドイツの経済・文化の中心。宮殿や美術館・国立劇場などを有する。ビールの醸造は有名。人口119万5千(1999)。
Landshut ランヅフート/ランツフート ドイツ南部、バイエルン州中部の都市。ドナウ川支流のイザール川沿岸に位置。ミュンヘンの北東76km。(外国)
Landau ランダウ ランダウ・イン・デア・ファルツ(Landau in der Pfalz)か。ドイツ西部、ラインラント・ファルツ州南東部の都市。カールスルーエの北西30km。ライン地溝帯西部に位置。略称ランダウ。(外国)
Deggendorf デッゲンドルフ ドイツ南部バイエルン州東部の都市。ドナウ川上流左岸に位置。穀物・家畜などの集散地。(外国)
ドナウ Donau ドイツ南西部シュヴァルツヴァルトの東部に発し、オーストリア・ハンガリー・バルカン諸国を流れて黒海に注ぐ大河。長さ2860キロメートル。水上交通が発達し、マイン川と運河で連絡、北海へも通ずる。沿岸にウィーン・ブダペスト・ベオグラードなどの諸都市がある。英語名ダニューブ。
Lenggries レンググリース
Hohenburg ホーヘンブルク 山城。山上や岩上に建てられた城。(独和)
緑の森 グリュネワルト Grunewald か。グルーネバルト。ドイツ東部、ベルリン南西部の広大な森林。小さい湖が点在し、西側はハーフェル湖に面する。古い狩場で狩の館がある。(外国)
Ebenhausen エーベンハウゼン
Schwanthaler Str. シュワンターレル シュトラセ
Pestalozzi Str. ペスタロチ シュトラセ
Ziemsen Str. チームゼン シュトラセ
Tahlkirchner Str. タールキル シュトラセ
Klenze Str. クレンツェ シュトラセ
イーサル川 → イザール川
イザール川 Isar オーストリアのチロル州とドイツのバイエルン州を流れる河川。ドナウ川の支流。水源はチロルのカルヴェンデル。まもなく国境を越え、バイエルン州内を南から北西へバードテルツ、ミュンヘン、フライジング、モースブルク・アン・デア・イザール、ランツフート、ランダウ・アン・デア・イザールの順に通過し、デッゲンドルフでドナウ川に合流する。
Mozart Str. モーツァルト シュトラセ
Dachauer Str. ダツハウエル シュトラセ
Ringseis Str. リングスアイス シュトラセ
Thorwalsen Str. トールワルゼン シュトラセ
Platzl プラッツル
バヴアリア ババリアか。バイエルン(Bayern)の英名(Bavaria)。
バイエルン Bayern ドイツ南東部にある同国最大の州。州都ミュンヘン。1806年神聖ローマ帝国の解体により王国となる。71年ドイツ帝国に加入するが、独立性は保持。1949年ドイツ連邦共和国の1州となる。機械・自動車産業が盛ん。英語名バヴァリア。

[オーストリア] Austria・墺太利 中部ヨーロッパの共和国。1278〜1918年ハプスブルク家が支配。第一次大戦後共和国となり、1938年ドイツに併合。第二次大戦後、米・英・仏・ソ4国によって分割占領、55年主権回復、永世中立国となる。主産業は鉄鋼・化学工業・酪農・観光。言語はドイツ語。面積8万4000平方キロメートル。人口817万5千(2004)。首都ウィーン。ドイツ語名エスターライヒ。
Bavariaring バワリアリンク
Landwehr 街 ラントウェール
ウィーン Wien・維納 オーストリア共和国の首都。同国北東部、ドナウ川に臨み、ハプスブルク家治下オーストリア帝国の首都として中部ヨーロッパの文化の中心をなした。音楽の都として有名。人口156万2千(2001)。
Rothmund 街 ロートムント
Lindwurm 街 リントウルム
Sonnen 街 ゾンネン
ザルツブルク Salzburg オーストリア中部、ドイツとの国境近くの都市。同名の州の州都。中世の城や教会が多い歴史地区は世界遺産。モーツァルトの生地。毎年の音楽祭は有名。人口14万5千(2001)。

[中国]
旅順 りょじゅん (Lushun)中国遼寧省、遼東半島の南西端、大連市の港湾地区。日清戦争および日露戦争に日本軍が攻略し、租借。第二次大戦後、ソ連の管理下におかれ、1955年中国に返還。

[群馬県]
碓氷峠 うすい とうげ 群馬県安中市と長野県北佐久郡との境にある峠。中山道の険路。旧道に沿う峠は標高1200メートル、新道に沿う峠は958メートル。鳴くべ鳴かずの峠。

[東京都]
陸軍糧秣廠 りょうまつしょう 深川。旧日本軍で、糧秣品の調達・製造・貯蔵および補給などをおこなった機関。本廠は東京にあった。

[新潟県]
三面 みおも 新潟県村上市三面。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表


西暦六三 ヴェスヴィオ山、噴火。大地震をも伴って、そのあたり一帯の都市を滅亡。
西暦七九 ヴェスヴィオ山、噴火。ヘルクラネウムやポンペイが全くわからなくなる。
一八四四 カール・マルクス「宗教は国民のアヘンである」(Religion ist das Opium des Volks.)。
一八七二 ヴェスヴィオ山、噴火。
一九〇六 ヴェスヴィオ山、四月四日からひどい爆発があり四、五、六、七、八日あたりまで爆発。
一九一四(大正三) 大戦が勃発。
一九一七 ロシア革命。
一九二二(大正一一)一月 茂吉、ベルリンに着いてミュンヘンの事情をさぐると、当時、ミュンヘンはただひとりの日本人が特別の許可を得て研究しているにすぎず、ここへの入国は厳重でできなかった。
一九二三 七月一九日 茂吉、ミュンヘンにつく。
一九二三 茂吉、七月から丸一年ミュンヘンにいるうち、いろいろ媼から世話になる。後半の七か月あまりを媼の家に起居し、ミュンヘンを去るときも媼の家から立つ。
一九二三 八月一三日 茂吉、Rothmund(ロートムント) 街八番地に貸し間があるというので日本媼の息子が案内。
一九二三 八月二九日 朝便の配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父伝右衛門の死を報じる。
一九二三 九月三日 茂吉、夕刊で日本大地震の記事を読む。
一九二三 九月六日〜一二月一五日 Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地におちつく。
一九二三 九月一三日 夕がた、ベルリンのMから電報が届く。
一九二三 九月二七日 十四ばかりおこなわれるはずの国民党の集会が禁ぜられ、集会所や大きなビール店をば軍隊と警官とで厳しく固めた。
一九二三 一〇月一四日 はじめて『大阪毎日新聞』九月三日の号外を手に入れる。
一九二三 一一月八〜九日 Hitler(ヒットレル) 事件(ミュンヘン一揆)。政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆。蜂起は鎮圧。ヒトラーは逮捕、投獄。
一九二三 一二月一三日 雑誌『大正大震災大火災』を借りる。
一九二四 六月一日、Spetech(シュペテッヒ) というミュンヘンの図書館員とともに、汽車でイーサルに沿うてさかのぼる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

斎藤茂吉 さいとう もきち 1882-1953 歌人・精神科医。山形県生れ。東大医科出身。伊藤左千夫に師事、雑誌「アララギ」を編集。長崎医専教授としてドイツなどに留学、のち青山脳病院長。作歌1万7000余、「赤光」以下「つきかげ」に至る歌集17冊のほか、「柿本人麿」をはじめ評論・随筆も多い。文化勲章。
ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe 1749-1832 ドイツの詩人・作家・劇作家。青年期の抒情詩や戯曲「ゲッツ」、書簡体小説「若きウェルテルの悩み」で疾風怒濤期の代表者となる。ワイマール公国での政治家生活のかたわら、イタリアで美術を研究。以後古典主義に転じ、シラーと親交を結び、自然科学の諸分野でも研究の成果を上げた。戯曲「エグモント」「ファウスト」、小説「ウィルヘルム=マイスター」「親和力」、叙事詩「ライネケ狐」「ヘルマンとドロテーア」、自伝「詩と真実」「イタリア紀行」、詩集「西東詩篇」など。

トマス・クック会社 → トーマス・クック社
トーマス・クック社 Thomas Cook Group plc イギリスの旅行代理店。ドイツのトーマスクック AG (Thomas Cook AG) とイギリスのMyTravel Group plcが2007年7月19日に合併し誕生した。近代的な意味での世界最初の旅行代理店とされる。1841年にイギリスに創業。
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伝右衛門 でんえもん 茂吉の実父。
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ジョン・カルビン・クーリッジ John Calvin Coolidge Jr. 1872-1933 アメリカ合衆国の第29代副大統領および第30代大統領。在任期間は1923年8月3日から1929年3月4日。 無口で「寡黙なカル」と呼ばれた。
山本権兵衛 やまもと ごんべえ 1852-1933 軍人・政治家。薩摩藩士。海軍大将。近代海軍創設に尽力、日露戦争では海相。1913年首相となるが、翌年シーメンス事件により辞職。関東大震災の翌日、再び首相となるも、虎ノ門事件で引責辞職。海軍、また薩閥の巨頭とされた。伯爵。
中村憲吉 なかむら けんきち 1889-1934 歌人。広島県生れ。東大卒。伊藤左千夫に師事、「アララギ」同人。歌集に島木赤彦との合著「馬鈴薯の花」や「林泉集」「軽雷集」など。
Hitler ヒットレル → ヒトラーか
ヒトラー Adolf Hitler 1889-1945 ドイツの政治家。オーストリアの税関吏の子に生まれ、第一次大戦にはドイツ軍の伍長で出征。戦後ドイツ労働者党に入党、党名をナチ党と改めて1921年党首となる。23年ミュンヘン一揆を企てて入獄。世界大恐慌の混乱の中で中間層の支持を得、財界とも手を握って32年ナチ党を第一党とし、翌年首相。共産党その他を弾圧して34年総統となり独裁権を掌握。以後、対外侵略を強行、39年第二次大戦をひき起こし、降伏直前に自殺。著「わが闘争」
幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 小説家。本名、成行。別号、蝸牛庵。江戸下谷生れ。1889年(明治22)「風流仏」などを発表。理想主義的傾向をもつ擬古典派に属し、紅葉と並び称された。長編小説「天うつ浪」中絶後、深い学殖を生かして主に史伝・考証を発表。小説「五重塔」「連環記」、史伝「運命」「頼朝」、戯曲「名和長年」、長編詩集「出廬」「評釈芭蕉七部集」など。文化勲章。
カール・マルクス Karl Marx 1818-1883 ドイツの経済学者・哲学者・革命家。1849年以後ロンドンに居住。初めヘーゲル左派に属したが、40年代の中頃、エンゲルスとともにドイツ観念論、初期社会主義(空想的社会主義)、および古典経済学を批判的に摂取して科学的社会主義の立場を創始、資本主義体制を批判し、終生国際的社会主義運動のために尽くした。主著「資本論」
レーニン Vladimir Il'ich Lenin 1870-1924 (本姓Ul'yanov 別名Nikolai L.)ロシアのマルクス主義者。ボリシェヴィキ党・ソ連邦の創設者。学生時代より革命運動に従事、流刑・亡命の生活を経て、1917年ロシア革命に成功、その後ソビエト政府首班として社会主義建設を指導。マルクス主義を独自の仕方で体系づけた。著「ロシアにおける資本主義の発展」「何をなすべきか」「唯物論と経験批判論」「帝国主義論」「国家と革命」など。
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ルーデンドルフ Erich Ludendorff 1865-1937 ドイツの軍人。第一次大戦の際、ヒンデンブルクのもとで参謀次長、事実上の戦争指導者。1923年ヒトラーと共に政権奪取を目指したミュンヘン一揆を企てたが失敗。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『即興詩人』 そっきょう しじん (Improvisatoren デンマーク)アンデルセン作の長編小説。1835年刊。イタリアを舞台に、逆境の詩人アントニオの恋愛物語に紀行を織り交ぜた、自伝色の濃い作品。森鴎外の擬古文訳で知られる。
『大阪毎日新聞』 おおさか まいにち しんぶん 日本の日刊新聞である『毎日新聞』の西日本地区での旧題。通称「大毎」(だいまい)。
『大阪朝日新聞』


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


陰霽 いんせい 陰晴。くもりとはれ。くもったりはれたりすること。
溶巌 ようがん 溶岩。
まがわす 紛はす。惑わせる。
微茫 びぼう ぼんやりしていて、はっきりしないさま。かすかでさだかでないさま。模糊。
何向き
溶巌原 溶岩原
沈厳
飆々 ひょうひょう 風が激しく吹く音。また、そのさま。
灰円錐体 かいえんすいたい
顛り ころがり 「顛」は「転」に書き換えることがある。
Lacrimae Christi ラクリメエ クリスチ
聖涙酒 せいるいしゅ
僂麻質斯 レウマティス リウマチ。rheumatisch 運動器に疼痛を生ずる疾患の総称。筋肉や関節に痛みと炎症が多発し、それが身体の各部に流れていく(ギリシア語rheuma)ように感じられるところから名づけられた。現在ではリウマチ熱、慢性関節リウマチおよびリウマチ性多発性筋肉痛に限ってその名称を用い、殊に前2者を指すことが多い。リューマチ。リョーマチ。ロイマチス。
正銘 しょうみょう 「しょうめい」に同じ。
南京虫 ナンキンむし トコジラミの別称。床蝨。カメムシ目トコジラミ科の昆虫。体長約5ミリメートル。円盤状で扁平、翅は退化して小さく、全体赤褐色。アジア南部の原産で、室内に生息し、夜行性。人畜から吸血し、激しいかゆみと痛みを起こさせる。南京虫。鎮台虫。
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Prrtzl プレルツル
丸麺麭 ゼンメル Semmel 小型で皮の堅い白パン。
nichts ニヒツ 否定。
Hospitz ホスピッツ (1)(キリスト教団体の経営する)ホスピス。宿泊施設。(2) 貧民収容所。(独和)
Str. シュトラセ 道路。大通り。〜通り。(独和)
Pension パンション ペンション。
フラウ Frau (1) 既婚女性の名に冠する敬称。(2) 女性。婦人。(3) 妻。細君。夫人。
裸ァ らてい [孟子公孫丑上](ァも「はだか」の意)はだか。また、着物をぬいで肌をあらわすこと。転じて、はなはだしく無礼なこと。
禾本科 かほんか 〔植〕イネ科の旧称。
-----------------------------------
ロイター Reuters ドイツ人ロイター(P. J. von Reuter1816〜1899)が設立した通信社。1849年アーヘンに創立、51年ロンドンに移し、ニュースの供給を開始。全世界に通信網を持つ。ルーター。ロイテル。
所決 処決(しょけつ)(1) 処置をつけること。処理・裁決をすること。処裁。(2) 覚悟をきめること。
殷昌 いんしょう ゆたかでさかんなこと。繁盛。
頑童 がんどう (1) 男色の相手となる少年。(2) かたくなで、ききわけのない子供。
Chinese ヒネーゼ チャイニーズの意か。
写象 しゃぞう/しゃしょう 独 Vorstellung の訳。感覚を要素とする心的複合体。比較的独立した全体として現われる意識の客観的内容をいう。
神聖 ハイリーゲ heilig 神聖な。信仰の厚い。敬虔な。(独和)
Hitler 事件 ヒットレル事件 → ミュンヘン一揆か
ミュンヘン一揆 1923年11月8〜9日、政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆。蜂起は鎮圧。ヒトラーは逮捕、投獄。
�々 びび あきずに、いつまでも続けるさま。長く、くどくどしいさま。
蘭灯 らんとう 香気のたつ美しいろうそく。
無所畏 むしょい 無所に同じ。(1) 畏れることのないこと。あらゆる障害や苦しみを畏れないこと。(2) 仏語。仏が大衆の中で法を説く時の、泰然として畏れるところのない自信。これに四種あると説き、四無畏(または四無所畏)という。
ロシア革命 ルースカヤ・リヴァリューツィヤ 1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。逆に、広義には1905年のロシア第一革命もロシア革命に含められる。
フーゼル酒 → フーゼル油
フーゼル油 フーゼルゆ (fusel oil)アルコール発酵の際に生じる、イソアミル‐アルコール・活性アミル‐アルコール・イソブチル‐アルコールを主成分とする混合物。溶剤・香料の原料とする。
メッセ Messe 見本市。特に、国際工業見本市・万国物産展。
Prater プラーテル/プラーター ウィーンの遊園地のある公園。(独和)
石竹 せきちく ナデシコ科の多年草。中国原産。高さ約30センチメートル。茎・葉は粉白色を帯び、葉は対生して細い。5月頃、茎頂や枝端に直径3センチメートルほどの五弁花を付ける。花色は紅・白など園芸品種が多く、観賞用に栽培。からなでしこ。
行春 こうしゅん (1) 春、地方の長官が自分の管轄する地域をまわって農業と養蚕を勧めること。(2) 元旦に青龍の絵を入口の左壁にはる行事。
streitbar けんか好きの。好戦的な。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


「思うに、日本のような特殊な天然の敵を四面にひかえた国では、陸軍・海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時にそなえるのが当然ではないかと思われる。」(寺田寅彦「天災と国防」より)。

「陸軍・海軍のほかにもう一つ」と寺田寅彦がいっているのは、「空軍を」ということではないだろう。army や navy とは別に、自然災害に特化した防災対応能力を持つ集団を、ということだろう。ラプターやオスプレイよりも、チヌークの方がいいなあ。
 ところで、松島の航空自衛隊基地をがれきの仮置場に、もしくは、基地臨海に埋立台場を作れないのだろうか。

 にしても茂吉は、ミュンヘンでヒトラーの登場をまのあたりにしていたわけか……。




*次週予告


第三巻 第四六号 
上代肉食考/青屋考 喜田貞吉


第三巻 第四六号は、
六月一一日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第四五号
ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉
発行:二〇一一年六月四日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三四号 山椒大夫 森 鴎外  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 越後の春日をへて今津へ出る道を、めずらしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子どもを連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞(はらから)二人を、「もうじきに、お宿にお着きなさいます」と言ってはげまして歩かせようとする。二人のうちで、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣(ものまい)りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、だれの目にもめずらしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝(くるぶし)をうずめて人を悩ますことはない。
 藁(わら)ぶきの家が何軒も立ちならんだ一構えが柞(ははそ)の林にかこまれて、それに夕日がカッとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母がゆびさして子どもに言った。
 子どもは母のゆびさす方を見たが、なんとも言わぬので、女中がいった。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
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キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。

第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  月末最終号:無料
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。

第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治  定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。

第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治  定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。

第三巻 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
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  あどけない話

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
私はおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。


  千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子によってくる。
口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい―
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをパラパラ投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。

第三巻 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎  月末最終号:無料
 わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
(略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。

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