高村光太郎 たかむら こうたろう
1883-1956(明治16.3.13-昭和31.4.2)
詩人・彫刻家。光雲の子。東京生れ。東京美術学校卒後、アメリカ・フランスに留学してロダンに傾倒。帰国後、「スバル」同人、耽美的な詩風から理想主義に転じ、「道程」で生命感と倫理的意志のあふれた格調の高い口語自由詩を完成。ほかに「智恵子抄」「典型」「ロダンの言葉」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


もくじ 
智恵子抄(二)高村光太郎


ミルクティー*現代表記版
智恵子抄(二)

オリジナル版
智恵子抄(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

*底本
底本:「智恵子抄」新潮文庫、新潮社
   1956(昭和31)年7月15日発行
   1967(昭和42)年12月15日改版
   1984(昭和59)年 12月15日79刷
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/card46669.html

NDC 分類:911(日本文学/詩歌)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc911.html




智恵子抄(二)

高村光太郎


  レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待っていた
かなしく白くあかるい死のとこ
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯がガリリとかんだ
トパーズいろの香気こうきが立つ
その数滴すうてきの天のものなるレモンの汁は
パッとあなたの意識を正常にした
あなたの青くんだ眼がかすかに笑う
わたしの手をにぎるあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉のどに嵐はあるが
こういう命の瀬戸ぎわに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
山顛さんてんでしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前にした桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう

昭和一四(一九三九)・二


  き人に

スズメはあなたのように夜明けにおきて窓をたたく
枕頭ちんとうのグロキシニアはあなたのように黙って咲く

朝風は人のように私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋にすずしい

私は白いシーツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほえみを迎える

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののようにあなたは立つ

私はあなたの子どもとなり
あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだいるそこにいる
あなたは万物となって私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思うけれど
あなたの愛はいっさいを無視して私をつつむ

昭和一四(一九三九)・七


  梅酒

死んだ智恵子が造っておいたびん梅酒うめしゅ
十年の重みにどんよりよどんで光をつつみ、
いま琥珀こはくの杯にこごって玉のようだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがってくださいと、
おのれの死後に遺していった人を思う。
おのれのあたまの壊れる不安におびやかされ、
もうじきダメになると思う悲しみに
智恵子は身のまわりの始末をした。
七年の狂気は死んでしまった。
くりやに見つけたこの梅酒のかおりある甘さを
わたしはしずかにしずかに味わう。
狂瀾きょうらん怒涛どとうの世界のさけびも
この一瞬を犯しがたい。
あわれな一個の生命を正視するとき、
世界はただこれを遠巻とおまきにする。
夜風もえた。

昭和一五(一九四〇)・三


  荒涼たる帰宅

あんなに帰りたがっている自分の内へ
智恵子は死んでかえってきた。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さなすみほこりをはらってきれいにきよめ、
私は智恵子をそっと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風びょうぶをさかさにする。
人はしょくをともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
そうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこらじゅうがにぎやかになり、
家の中は花にうずまり、
どこかの葬式のようになり、
いつのまにか智恵子がいなくなる。
私はだれもいない暗いアトリエにただ立っている。
外は名月という月夜らしい。

昭和一六(一九四一)・六


  松庵寺しょうあんじ

奥州花巻はなまきというひなびた町の
浄土宗の古刹こさつ松庵寺で
秋の村雨むらさめふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すっかり焼けた松庵寺は
物置き小屋に須弥壇すみだんをつくった
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚おしょうさまの衣のすそさえぬれました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どおりに一枚起請文きしょうもんをよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなきまことによってわたくしのために
燃えてしまったあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置き御堂みどうの仏の前で
またも食い入るように思いしらべました

昭和二〇(一九四五)・一〇


  報告(智恵子に)

日本はすっかり変りました。
あなたの身ぶるいするほどいやがっていた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すっかり変わったといっても、
それは他力による変革で
(日本の再教育と人はいいます。
内からの爆発であなたのように、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
そういう自力で得たのでないことが
あなたの前ではずかしい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄のかこいの中にいて、
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたをこの世の意識の外にい、
あなたの頭をこわしました。
あなたの苦しみを今こそ思う。
日本の形は変わりましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

昭和二二(一九四七)・六


  噴霧的な夢

あのしゃれた登山電車で智恵子と二人、
ヴェスヴィオの噴火口をのぞきにいった。
夢というものは香料のように微粒的で
智恵子は二十代の噴霧ふんむで濃厚に私をつつんだ。
ほそい竹筒たけづつのような望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機ジェットプレーンのように吹き出ていた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
はちの底に何かおもしろいことがあるようで
お鉢のまわりのスタンドに人がいっぱいいた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴェスヴィオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺わくできにみちていた。
あの山の水のように透明な女体を燃やして
私にもたれながらくずれる砂をふんで歩いた。
そこら一面がポンペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて
午前五時の秋爽さわやかな山の小屋で目がさめた。

昭和二三(一九四八)・九


  もしも智恵子が

もしも智恵子が私といっしょに
岩手の山の源始の息吹いぶきにつつまれて
いま六月の草木の中のここにいたら、
ゼンマイの綿帽子わたぼうしがもうとれて
キセキレイが井戸にくる山の小屋で
ことしの夏がこれから始まる
ようようとした季節の朝のここにいたら、
智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
両手をのばして吹き入るオゾンに身うちを洗い、
やっぱり二十代の声をあげて
十本一本のマッチをわらい、
杉の枯葉に火をつけて
いろりのなべでうまい茶粥ちゃがゆを煮るでしょう。
畑のきぬさやえんどうをもぎってきて
サファイア色の朝の食事にきょうじるでしょう。
もしも智恵子がここにいたら、
奥州南部の山の中の一軒家が
たちまち真空管の機構となって
無数の強いエレクトロンを飛ばすでしょう。

昭和二四(一九四九)・三


  元素智恵子

智恵子はすでに元素にかえった。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉にいる。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火りんかを燃やし、
わたくしとたわむれ、
わたくしをたたき、
わたくしをいぼれの餌食えじきにさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉にいる智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子のねむるときわたくしはあやまち、
耳に智恵子の声を聞くときわたくしは正しい。
智恵子はただ�Q々ききとしてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなお
わたくしの肉にいてわたくしに笑う。

昭和二四(一九四九)・一〇


  メトロポール

智恵子があこがれていた深い自然のまっただなかに
運命の曲折きょくせつはわたくしをたたきこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしをかこんで仮借かしゃくしない。
虚偽と遊惰ゆうだとはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のように一刻をあらそい、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがえり、
わたくしの肉にやどってここに生き、
かくのごとき山川さんせん草木にまみれてよろこぶ。
変幻きわまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏、
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心はにぎわい、
山林孤棲こせいと人のいう
小さな山小屋のいろりにいて
ここを地上のメトロポールとひとり思う。

昭和二四(一九四九)・一〇


  裸形らぎょう

智恵子の裸形らぎょうをわたくしはう。
つつましくて満ちていて
星宿せいしゅくのように森厳しんげん
山脈のように波うって
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙めのう質に
奥の知れないつやがあった。
智恵子の裸形らぎょうの背中の小さな黒子ほくろまで
わたくしは意味ふかくおぼえていて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然のさだめた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与えられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与えられ、
米と小麦とバターとがゆるされる。
智恵子の裸形らぎょうをこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中そちゅうに帰ろう。

昭和二四(一九四九)・一〇


  案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋みずや
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三
いまはキャベツの全盛です。
ここの疎林そりんがヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上きたかみ山系、
右が奥羽おうう国境山脈、
まん中の平野を北上川きたかみがわが縦に流れて、
あのかすんでいるつきあたりの辺りが
金華山きんかさん沖ということでしょう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきがどくもり
そこにはカモシカもるしくまも出ます。
智恵さんこういうところ好きでしょう。

昭和二四(一九四九)・一〇


  あのころ

人を信ずることは人を救う。
かなり不良性のあったわたくしを
智恵子は頭から信じてかかった。
いきなり内懐うちふところに飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失った。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたくしはたじろいだ。
すこしめんくらって立ちなおり、
智恵子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
ある日ハッと気がついた。
わたくしの眼からめずらしい涙がながれ、
わたくしはあらためて智恵子に向かった。
智恵子はにこやかにわたくしを迎え、
その清浄な甘い香りでわたくしをつつんだ。
わたくしはその甘美にっていっさいを忘れた。
わたくしの猛獣性をさえ物ともしない
この天の族なる一女性の不可思議力に
無頼のわたくしははじめて自己の位置を知った。

昭和二四(一九四九)・一〇


  吹雪ふぶきの夜の独白

外では吹雪ふぶきが荒れくるう。
こういう夜には鼠も来ず、
部落は遠くねしずまって
人っ子ひとり山にはいない。
いろりに大きな根っこを投じて
みごとな大きな火を燃やす。
六十七年という生理のゆえに
今ではよほどらくだと思う。
あの欲情のあるかぎり、
ほんとの仕事は苦しいな。
美術という仕事の奥は
そういう非情を要求するのだ。
まるでなければ話にならぬし、
よくよく知って今はないというのがいい。
かりに智恵子が今出てきても
おおいにはしゃいで笑うだけだろ。
きびしい非情の内側から
あるともなしににおうものが
あの神韻しんいんというやつだろ。
いぼれでは困るがね。

昭和二四(一九四九)・一〇


  智恵子と遊ぶ

智恵子の所在はa次元。
a次元こそ絶対現実。

岩手の山に智恵子と遊ぶ
ゆめまぼろしの生の真実。

フレンチ平原にきのこえても
智恵子の遊びに変わりはない。

二合の飯は今日のままごと。
牛のしっぽにニラをきざむ。

強敵糠蚊ぬかがとたたかいながら
の畑にいのちを託す。

あばら骨にきりされ
肺気腫はいきしゅ噴射のとめどないせき

造型は自然の中軸。
この世存在のシネ クワ ノン。

いっさいは智恵子a次元の逍遙しょうようゆう
遊ぶとき人はわずかにいやしくなくなる。

昭和二六(一九五一)・一一


  報告

あなたのきらいな東京へ
山からこんどきてみると
生まれ故郷の東京が
文化のガラクタにうもれて
足のふみ場もないようです。
ひと皮かぶせたアスファルトに
無用のタクシーが充満して
人は南にゆこうとすると
結局北にゆかされます。
空には爆音、
地にはラウドスピーカー。
鼓膜こまくはがねではりつめて
意志のない不生産的生きものが
他国のチリンチリン的敗物を
ガツガツ食べて得意です。
あなたのきらいな東京が
わたくしもきらいになりました。
仕事ができたらすぐ山へ帰りましょう。
あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会いましょう。

昭和二七(一九五二)・一一


  うた六首


ひとむきに むしゃぶりつきて 仕事する われをさびしと 思うな智恵子

気ちがいと いうおどろしき 言葉もて 人は智恵子を よばんとすなり

いちめんに 松の花粉は 浜をとび 智恵子尾長の ともがらとなる

わが仕事 いのちかたむけて 成るきわを 智恵子は知りき 知りていたみき

この家に 智恵子の息吹いぶき みちてのこり ひとりめつぶる をいねしめず

光太郎 智恵子はたぐい なき夢を きずきてむかし ここに住みにき


  智恵子の半生


 妻智恵子が南品川みなみしながわゼームス坂病院の十五号室で、精神分裂症患者として粟粒ぞくりゅう性肺結核で死んでから、旬日じゅんじつで満二年になる。わたしはこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽はいたい生活から救い出されることができた経歴を持っており、わたしの精神はいつにかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃はじつにはげしく、一時は自己の芸術的製作さえその目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾か月かをすごした。彼女の生前、わたしは自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終わりにもそれを彼女といっしょに検討することがこのうえもない喜びであった。また彼女はそれを全幅ぜんぷく的に受け入れ、理解し、熱愛した。わたしの作った木彫小品を彼女はふところに入れて街を歩いてまで愛撫あいぶした。彼女のいないこの世で、誰がわたしの彫刻をそのように子どものようにうけ入れてくれるであろうか。もう、見せる人もいやしないという思いが、わたしを幾か月間かなやました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生まれない。そういうものはあるいは製作の主題となり、あるいはその動機となることはあっても、その製作が心の底から生まれ出て、生きた血を持つに至るには、かならずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛であることもあろう。大君の愛であることもあろう。また、じつに一人の女性の底ぬけの純愛であることがあるのである。自分の作ったものを熱愛の眼をもって見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものをかならず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は、あるいは万人のためのものともなることがあろう。けれども製作するものの心は、その一人の人に見てもらいたいだけですでにいっぱいなのが常である。わたしはそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感は、それゆえほとんど無の世界に等しかった。作りたいものは山ほどあっても、作る気になれなかった。見てくれる熱愛の眼が、この世にもうえてないことを知っているからである。そういう幾か月の苦闘の後、ある偶然のことから満月の夜に、智恵子はその個的存在を失うことによってかえってわたしにとっては普遍的存在となったのであることを痛感し、それ以来、智恵子の息吹いぶきをつねに身近みぢかに感ずることができ、いわば彼女はわたしとともにある者となり、わたしにとっての永遠なるものであるという実感のほうが強くなった。わたしはそうして平静と心の健康とを取りもどし、仕事のはりあいがもう一度出てきた。一日の仕事を終わって製作をながめる時、「どうだろう?」といってうしろをふりむけば、智恵子はきっとそこにいる。彼女はどこにでもいるのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は、愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続にすぎなかった。彼女はそういう渦巻うずまきの中で、宿命的に持っていた精神上の素質のためにたおれ、歓喜と絶望と信頼と諦観ていかんとのあざなわれた波涛はとうのあいだに没し去った。彼女の追憶について書くことを人から幾度か示唆しさされても、今日までそれを書く気がしなかった。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとい小さな一隅ひとすみの生活にしても筆にするに忍びなかったし、またいわば、単なる私生活の報告のようなものに、はたしてどういう意味があり得るかという疑問も強く心を牽制けんせいしていたのである。だが、今は書こう。できるだけ簡単に、この一人の女性の運命を書きとめておこう。大正・昭和の年代に人知れずこういう事に悩み、こういう事に生き、こういう事に倒れた女性のあったことを書き記して、それをあわれな彼女へのはなむけとすることを許させてもらおう。一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にもあえてこの筆をろうとするのである。
 今、しずかに振りかえって彼女の上を考えてみると、その一生を要約すれば、まず、東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に、長女として明治十九年(一八八六)に生まれ、土地の高女を卒業してから東京目白めじろの日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ちはじめ、女子大学卒業後、郷里の父母の同意をかろうじて得て東京にとどまり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村つね、斎藤与里治、津田青楓せいふうの諸氏に出入りしてその影響をうけ、また一方、そのころ平塚雷鳥女史らの提起した女子思想運動にも加わり、雑誌『青鞜せいとう』の表紙画などをかいたりした。それが明治末年(一九一二)ごろのことであり、やがて柳八重子女史の紹介ではじめてわたしと知るようになり、大正三年(一九一四)に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中していたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日もようやく多くなり、そのうえ肋膜ろくまくを病んで以来しばしば病臥びょうがを余儀なくされ、後年、郷里の家君かくんうしない、つづいて実家の破産にひんするにあい、心痛苦慮はひととおりでなかった。やがて更年期の心神変調がもととなって精神異状の徴候があらわれ、昭和七年(一九三二)アダリン自殺をはかり、さいわい薬毒からはまぬがれていったん健康を回復したが、その後あらゆる療養をも押しのけて、徐々に確実に進んでくる脳細胞の疾患のため、昭和十年(一九三五)には完全に精神分裂症にとらえられ、その年二月、ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月、そこでしずかに瞑目めいもくしたのである。
 彼女の一生はじつに単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義をもつ生活にれなかった。わずかに『青鞜』に関係していた短い期間が、その社会的接触のあった時といえばいえる程度にすぎなかった。社会的関心を持たなかったばかりでなく、生来せいらい社交的でなかった。『青鞜』に関係していたころ、いわゆる新しい女の一人として一部の人たちのあいだに相当に顔を知られ、長沼智恵子という名がその仲間の口にときどき上がったのも、じつは当時のゴシップ好きの連中が尾鰭おひれをつけていろいろおもしろそうに喧伝けんでんしたのがもとであって、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途いちずな性格で押しとおしていたらしかった。長沼さんとは話がしにくいというのが当時の女友達の本当の意見のようであった。わたしはその頃の彼女をあまりよく知らないのであるが、津田青楓せいふう氏が何かに書いていた中に、彼女が高い塗下駄ぬりげたをはいて着物のすそを長く引きずるようにして歩いていたのをよく見かけたというようなことがあったのを記憶する。そんな様子や口数くちかずの少ないところから、なんとなく人が彼女に好奇的ななぞでも感じていたのではないかと思われる。女水滸伝すいこでんのように思われたり、また、風情ふぜいごのみのようにいわれたりしたようであるが、実際はもっと素朴そぼく無頓着むとんちゃくであったのだろうと想像する。
 わたしは彼女の前半生ぜんはんせいをほとんどまったく知らないと言っていい。彼女についてわたしが知っているのは、紹介されて彼女とってから以後のことだけである。現在のことでいっぱいで、以前のことを知ろうとする気もおこらなかったし、年齢さえじつは後年まで確実には知らなかったのである。わたしが知ってからの彼女はじつに単純真摯しんしな性格で、心になにか天上的なものをいつでもたたえており、愛と信頼とに全身を投げ出していたような女性であった。生来せいらいの勝ち気から自己の感情はかなり内におさえていたようで、物腰ものごしはおだやかで軽佻けいちょうな風は見られなかった。自己をのりこえて進もうとする気力の強さには時々おどろかされることもあったが、また、そこにずいぶん無理な努力も人知れず重ねていたのであることを、今日から考えると推察することができる。
 そのときにはわからなかったが、後から考えてみれば、結局、彼女の半生は精神病にまで到達するように進んでいたようである。私とのこの生活ではほかにゆく道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、たとえば生活するのが東京でなくて郷里、あるいはどこかの田園であり、また、配偶者がわたしのような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、ことに農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。あるいはもっと天然の寿をまっとうし得たかもしれない。そう思われるほど彼女にとっては、肉体的にすでに東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女にはつねに無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励しょうれいされ、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりしてすこぶる元気ハツラツたる娘時代をすごしたようであるが、卒業後はがいしてあまり頑健がんけんというほうではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。わたしと同棲してからも、一年に三、四か月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気をって来なければ身体からだたないのであった。彼女はよく、東京には空がないといってなげいた。わたしの「あどけない話」という小詩がある。

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
わたしはおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山あたたらやまの山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。

 わたし自身は東京に生まれて東京に育っているため、彼女の痛切な訴えを身をもって感ずることができず、彼女もいつかはこの都会の自然になじむことだろうと思っていたが、彼女のかかる新鮮な透明な自然への要求は、ついに身を終えるまで変わらなかった。彼女は東京にいて、この要求をいろいろな方法でたしていた。家のまわりにえる雑草のあくなき写生、その植物学的探究、張り出し窓での百合ゆり花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベートーベンの第六交響楽レコードへの惑溺わくできというようなことはみな、この要求充足の変形であったに相違なく、この一事だけでも、半生にわたる彼女の表現しえない不断のせつなさは想像以上のものであったであろう。その最後の日、死ぬ数時間前にわたしが持って行ったサンキストのレモンの一顆いっかを手にした彼女の喜びもまた、この一筋ひとすじにつながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液じゅうえきとに身も心も洗われているように見えた。
 彼女がついに精神の破綻はたんきたすに至ったさらに大きな原因は、なんといってもその猛烈な芸術精進と、わたしへの純真な愛にもとづく日常生活の営みとの間におこる矛盾撞着どうちゃくの悩みであったであろう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中すでに油絵をかいていたらしく、学芸会における学生劇の背景製作などをいつもひきうけていたということであり、故郷の両親がはじめは反対していたのについに画家になることを承認したのも、そのころかいた祖父の肖像画の出来ばえが故郷の人たちをおどろかしたのによると伝え聞いている。この油絵は、わたしも後に見たが、素朴そぼくな中に渋い調和があり、色価しきかの美しい作であった。卒業後、数年間の絵画についてはわたしはよく知らないが、いくぶん情調本位な甘い気分のものではなかったかと思われる。そのころのものを彼女はすべて破棄してしまって、わたしには見せなかった。わずかに素描そびょう下描したがきなどで、わたしはそれを想像するにすぎなかった。わたしといっしょになってからは、おもに静物の勉強をつづけ幾百枚となくいた。風景は故郷に帰ったときや、山などに旅行したときにき、人物は素描では描いたが、油絵ではついにまだ本格的にくまでに至らなかった。彼女はセザンヌに傾倒していて、自然とその影響をうけることも強かった。わたしもそのころは彫刻のほかに油絵もかいていたが、勉強の部屋は別にしていた。彼女は色彩についてじつに苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかったので、自虐じぎゃくに等しいと思われるほど自分自身をめさいなんだ。ある年、故郷に近い五色ごしき温泉に夏をすごしてそこの風景をかいて帰ってきた。その中の小品に相当にいものがあったので、彼女も文展ぶんてんに出品する気になって、他の大幅たいふくのものといっしょにそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても、彼女はどこの展覧会へも出品しようとしなかった。自己の作品を公衆に展示することによってなにか内に鬱積うっせきするものを世に訴え、外に発散せしめる機会を得るということも美術家には精神の助けとなるものだと思うのであるが、そういうことから自己を内に閉じこめてしまったのも、精神の内攻的傾向を助長したかもしれない。彼女は最善をばかりめざしていたので、いつでも自己に不満であり、いつでも作品は未完成に終わった。また事実、その油絵にはまだ色彩に不十分なもののあることはあらわれなかった。その素描にはすばらしい力と優雅ゆうがとを持っていたが、油絵具を十分に克服することがどうしてもまだできなかった。彼女はそれを悲しんだ。ときどきは、ひとり画架がかの前で涙を流していた。偶然、二階の彼女の部屋に行ってそういうところを見ると、わたしも言いしれぬさびしさを感じ、なぐさめの言葉も出ないことがよくあった。ところで、わたしは人の想像以上に生活不如意で、震災前後にただ一度女中を置いたことがあるだけで、その他は彼女と二人きりの生活であったし、彼女もわたしも同じような造型美術家なので、時間の使用についてなかなかむつかしいやりくりが必要であった。たがいにその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事もできず、掃除もできず、用事もたせず、いっさいの生活が停頓ていとんしてしまう。そういう日々もかなりかさなり、結局、やっぱり女性である彼女のほうが家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけにわたしが昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事のひまもしく原稿を書くというようなことが多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が食われることになるのであった。詩歌しいかのような仕事などならば、あるいは頭の中で半分は進めることもでき、かなり零細な時間でも利用できるかと思うが、造型美術だけはある定まった時間の区画がなければどうすることもできないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。彼女はどんなことがあってもわたしの仕事の時間をへらすまいとし、わたしの彫刻をかばい、わたしを雑用からふせごうと懸命に努力をした。彼女はいつのまにか油絵勉強の時間を縮少し、あるときは粘土で彫刻を試みたり、また後には絹糸をつむいだり、それを草木染にしたり、機織はたおりをはじめたりした。二人の着物や羽織はおりを手織りで作ったのが今でも残っている。同じ草木染の権威山崎たけし氏は彼女の死んだとき、弔電に、

そでのところ ひとすじあおき しまを織りて
あてなりし人 今はなしはや

という歌を書いておくられた。結局、彼女は口に出さなかったが、油絵製作に絶望したのであった。あれほど熱愛して生涯の仕事と思っていた自己の芸術に絶望することは、そう容易な心事しんじであるはずがない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋せんびきやから買ってきたばかりの果物かごが静物風に配置され、画架には新しいカンバスが立てかけられてあった。わたしはそれを見て胸をつかれた。慟哭どうこくしたくなった。
 彼女はやさしかったが勝ち気であったので、どんなことでも自分一人の胸におさめてただ黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関することはもとより、一般教養のこと、精神上の諸問題についても、突きつめるだけつきつめて考えて、あいまいをゆるさず、妥協をいやしんだ。いわば四六時中はりきっていた弦のようなもので、その極度の緊張にたえられずして脳細胞が破れたのである。精根つきてたおれたのである。彼女のこの内部生活の清浄さに、わたしは幾度きよめられる思いをしたか知れない。彼女にくらべると私はじつに茫漠ぼうばくとしてにごっていることを感じた。彼女の眼を見ているだけで、わたしは百の教訓以上のものを感得するのが常であった。彼女の眼には、たしかに阿多々羅山の山の上に出ている天空があった。わたしは彼女の胸像を作るとき、この眼のおよびがたいことを痛感して自分のきたなさをじた。今から考えてみても彼女は、とうていこの世に無事に生きながらえていられなかった運命を内部的にも持っていたように見える。それほど隔絶的に、この世の空気とちがった世界の中に生きていた。わたしはときどき、なんだか彼女は仮にこの世に存在している魂のように思えることがあったのを記憶する。彼女には世間欲というものがなかった。彼女はただひたむきに、芸術とわたしとへの愛によって生きていた。そうしていつでも若かった。精神の若さとともに相貌そうぼうの若さも著しかった。彼女といっしょに旅行するたびに、ゆくさきざきで人は彼女をわたしの妹と思ったり、娘とさえ思ったりした。彼女には何か、そういう種類の若さがあって、死ぬころになっても五十歳を超えた女性とは一見して思えなかった。結婚当時も、わたしは彼女の老年というものを想像することができず、「あなたでも、おばあさんになるかしら?」とたわむれに言ったことがあるが、彼女はそのとき、「私、年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答えたことのあるのを覚えている。そうしてまったく、そのとおりになった。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳はずいぶんひどい苦悩にもたえられるものであり、精神病におちいる者は、大部分なんらかの意味でその素質を先天的に持っているか、またはケガとか悪疾あくしつとかによって後天的に持たせられた者であるということである。彼女の家系には精神病の人はいなかったようであるが、ただ、彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのためついに実家は破産し、彼自身は悪疾あくしつをも病んで陋巷ろうこう窮死きゅうしした。しかし、遺伝的といい得るほど強い素質がそこに流れていると信じられない。また彼女は幼児のとき、切り石で頭蓋とうがいにひどいケガをしたことがあるということであるが、これもその後なんの故障もなく平癒へいゆしてしまって後年の病気に関係があるとも思えない。また、彼女が脳に変調をおこしたとき、医者はわたしに外国である病気の感染を受けたことはないかと質問した。わたしにはまったくその記憶がなかったし、また、私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらったが、いつも結果は陰性であった。そうすると、彼女の精神分裂症という病気のおこる素質が彼女に肉体的に存在したとは確定しがたいのである。だが、またあとから考えると、わたしが知って以来の彼女のいっさいの傾向は、この病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでいたのだとも取れる。その純真さえもただならぬものがあったのである。思いつめれば他のいっさいを放棄してくやまず、いわゆる矢も楯もたまらぬ気性を持っていたし、わたしへの愛と信頼の強さ、深さはほとんど嬰児えいじのそれのようであったといっていい。わたしが彼女にはじめて打たれたのも、この異常な性格の美しさであった。言うことができれば、彼女はすべて異常なのであった。わたしが「樹下の二人」という詩の中で、

ここはあなたの生まれたふるさと
この不思議な別個の肉身を生んだ天地。

と歌ったのも、この実感からきているのであった。彼女が一歩ずつ最後の破綻はたんに近づいて行ったのか、病気が螺線らせんのようにギリギリと間違いなく押し進んできたのか、最後に近くなってからはじめて私もなんだか変なのではないかとそれとなく気がつくようになったのであって、それまでは彼女の精神状態などについてつゆほどの疑いも抱いてはいなかった。つまり彼女は異常ではあったが、異状ではなかったのである。はじめて異状を感じたのは、彼女の更年期がせまってきた頃のことである。
 追憶の中の彼女を、ここに簡単に書きとめておこう。
 前述のとおり、長沼智恵子をわたしに紹介したのは女子大の先輩、柳八重子女史であった。女史はわたしのニューヨーク時代からの友人であった画家やなぎ敬助けいすけ君の夫人で、当時、桜楓おうふう会の仕事をしておられた。明治四十四年(一九一一)のころである。わたしは明治四十二年七月にフランスから帰ってきて、父の家の庭にあった隠居所の屋根に孔をあけてアトリエがわりにし、そこで彫刻や油絵をさかんに勉強していた。一方、神田淡路町あわじちょう琅�洞ろうかんどうという小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやったり、当時、日本に勃興ぼつこうしたスバル一派の新文学運動に加わったりしていたと同時に、おそまきの青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下杢太郎もくたろう氏などとさかんに往来して、かなりはげしいいわゆる耽溺たんでき生活におちいっていた。不安と焦燥しょうそうと渇望と、なにか知られざるものに対する絶望とでメチャメチャな日々を送り、ついに北海道移住をくわだてたり、それにもたちまち失敗したり、どうなることか自分でもわからないような精神の危機を経験していた時であった。柳敬助君に友人としての深慮があったのかもしれないが、ちょうどそういう時、彼女がわたしに紹介されたのであった。彼女はひどく優雅ゆうがで、無口で、語尾が消えてしまい、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話を聞いたりして帰ってゆくのが常であった。わたしは彼女のこなしのうまさと、きゃしゃな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかった。彼女は決して自分のかいた絵を持って来なかったので、どんなものをいているのかまるで知らなかった。そのうち、わたしは現在のアトリエを父に建ててもらうことになり、明治四十五年(一九一二)にはできあがって、一人で移り住んだ。彼女はお祝いにグロキシニアの大鉢を持ってここへ訪ねてきた。ちょうど明治天皇さま崩御の後、わたしは犬吠いぬぼうへ写生に出かけた。そのとき、別の宿に彼女が妹さんと一人の親友といっしょに来ていてまた会った。後に彼女はわたしの宿へ来て滞在し、いっしょに散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人、かならず私たち二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語るところによると、そのとき、もし私がなにか無理なことでも言い出すようなことがあったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったということであった。わたしはそんなことは知らなかったが、この宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴そぼくな気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。きみはまの浜防風をよろこぶ彼女はまったく子供であった。しかしまた私は入浴のとき、となりの風呂場にいる彼女を偶然に目にして、なんだか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。彼女はじつによく均整がとれていた。
 やがて彼女から熱烈な手紙がくるようになり、わたしもこの人のほかに心を託すべき女性はないと思うようになった。それでも幾度かこの心が一時的のものではないかとみずから疑った。また彼女にも警告した。それは、わたしの今後の生活の苦闘を思うと、彼女をその中に巻きこむにしのびない気がしたからである。そのころ、せまい美術家仲間や女人たちのあいだで二人に関する悪質のゴシップが飛ばされ、二人とも家族などに対してずいぶん困らせられた。しかし、彼女はわたしを信じきり、わたしは彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺あたりに満ちるほど、わたしたちはますます強く結ばれた。わたしは自分の中にある不純の分子や溷濁こんだくの残留物を知っているので、ときどき自信を失いかけると、彼女はいつでもわたしの中にあるものをきよらかな光に照らして見せてくれた。

よごれてたるがかずかずの姿の中に
おさなのまこともて
君はとうときがわれをこそ見出みいでつれ
君の見出みいでつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官さばきのつかさとすれば
君によりてこころよろこび
わがしらぬわれの
わがあたたかき肉のうちにこもれるを信ずるなり

と私も歌ったのである。わたしをやぶれかぶれの廃頽はいたい気分からついに引き上げ救い出してくれたのは、彼女の純一な愛であった。
 大正二年(一九一三)八月九月の二か月間、わたしは信州上高地かみこうちの清水屋に滞在して、その秋、神田ヴィナス倶楽部クラブで岸田劉生りゅうせい君や木村荘八君らとともに開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚かいた。そのころ上高地に行く人はみな、島々しましまから岩魚止いわなどめをへて徳本とくごう峠を越えたもので、かなりの道のりであった。その夏、同宿には窪田くぼた空穂うつほ氏や、茨木いばらき猪之吉いのきち氏もおられ、またちょうど穂高ほたか登山にこられたウェストン夫妻もおられた。九月に入ってから、彼女が画の道具を持ってわたしを訪ねてきた。その知らせをうけた日、わたしは徳本とくごう峠をこえて岩魚止いわなどめまで彼女を迎えに行った。彼女は案内者に荷物をまかせて身軽に登ってきた。山の人もその健脚におどろいていた。わたしはまた徳本とくごう峠をいっしょに越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女のよろこびは、じつに大きかった。それからは毎日、わたしが二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまわった。彼女はそのころ、肋膜ろくまくをすこし痛めているらしかったが、山にいる間はどうやらたいしたことにもならなかった。彼女の作画はこのときはじめて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すればおもしろかろうと思った。わたしは穂高、明神、焼岳やけだけ、霞沢、六百岳、梓川あずさがわ触目しょくもくをことごとくいた。彼女はそのとき、わたしのいた自画像の一枚を、後年、病臥中でも見ていた。そのときウェストンから彼女のことを妹さんか、夫人か、と問われた。友達ですと答えたら苦笑していた。当時、東京のある新聞に「山上の恋」という見出しで上高地における二人のことが誇張されて書かれた。たぶん、下山した人のうわさ話を種にしたものであろう。それがまた家族の人たちの神経を痛めさせた。十月一日に一山こぞって島々しましまへ下りた。徳本とくごう峠の山ふところをうめていた桂の木の黄葉こうようの立派さは忘れがたい。彼女もよくそれを思い出して語った。
 それ以来、わたしの両親はひどく心配した。わたしは母にじつにすまないと思った。父や母の夢はみな破れた。いわゆる洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出すこともせず、学校の先生をすすめても断わり、しかるべき江戸前のおよめさんももらわず、まるで了見がわからないことになってしまった。じつにすまないと思ったが、結局、大正三年(一九一四)に智恵子との結婚をゆるしてもらうように両親に申し出た。両親もゆるしてくれた。両親のもとにかしずかず、アトリエに別居するわけなので、土地・家屋などいっさいは両親と同居する弟夫妻の所有とすることにきめておいた。わたしたち二人はまったく裸のままの家庭を持った。もちろん熱海行きなどはしなかった。それからじつに長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家ごうかに育ったのであるが、あるいはそのためか、金銭にはじつに淡泊で、貧乏のおそろしさを知らなかった。わたしが金に困って古着屋を呼んで洋服を売っていても平気で見ていたし、勝手元の引出ひきだしに金がなければ買い物に出かけないだけであった。いよいよ食べられなくなったらというような話もときどき出たが、だが、どんなことがあってもやるだけの仕事をやってしまわなければねというと、そう、あなたの彫刻が中途でなくなるようなことがあってはならないと、たびたび言った。わたしたちは定収入というものがないので、金のあるときはわりにあり、なくなると明日からバッタリなくなった。金はなくなるとどこを探してもない。二十四年間に、わたしが彼女に着物を作ってやったのは二、三度くらいのものであったろう。彼女は独身時代のピラピラした着物をだんだん着なくなり、ついに無装飾になり、家のなかではセーターとズボンで通すようになった。しかもそれがはなはだ美しい調和を持っていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩の中で、

おんなが付属品をだんだんてると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗われたあなたのからだは
無辺際むへんさいを飛ぶ天の金属。

とわたしが書いたのもそのころである。
 自分の貧におどろかない彼女も、実家の没落にはひどく心をいためた。いくどか実家へ帰って家計整理をしたようであったが、結局、破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩ゆうとう。破滅。彼女にとってはたえがたい痛恨事であったろう。彼女はよく病気をしたが、そのたびに田舎の家に帰ると平癒へいゆした。もう帰る家もないというさびしさは、どんなに彼女を苦しめたろう。彼女のさびしさをまぎらす多くの交友を持たなかったのも、その性情から出たものとはいえ、一つの運命であった。いっさいを私への愛にかけて、学校時代の友達ともおいおい遠ざかってしまった。わずかに立川たちかわの農事試験場の佐藤澄子さんその他両三名の親友があったにすぎなかったのである。それでさえ、年に一、二度の往来であった。学校時代には彼女はそうとうに健康であって運動も過激なほどやったようであるが、卒業後、肋膜にいつも故障があり、わたしと結婚してから数年のうちについに湿性肋膜炎の重症のにかかって入院し、さいわいに全治したが、その後、ある練習所で乗馬の稽古けいこをはじめたところ、そのせいか後屈症こうくつしょうをおこして切開手術のためまた入院した。盲腸などでも悩み、いつもどこかしらが悪かった。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは、大正十四年(一九二五)ごろの一、二年間のことであった。しかし、病気でも彼女はじめじめしていなかった。いつも清朗でおだやかであった。悲しいときには涙を流して泣いたが、またじきになおった。
 昭和六年(一九三一)、わたしが三陸地方へ旅行しているころ、彼女に最初の精神変調がきたらしかった。わたしは彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけたことはなかったのに、このときは一か月近く歩いた。不在中、泊まりにきていためいや、また訪ねてきた母などの話を聞くとよほど孤独を感じていた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言ったことがあるという。ちょうど更年期に接している年齢であった。翌七年はロザンゼルスでオリンピックのあった年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠りから覚めなかった。前夜十二時すぎにアダリンを服用したとみえ、粉末二五グラム入りのびんからになっていた。彼女は童女のようにまるくふとって眼をつぶり口をとじ、寝台の上に仰臥ぎょうがしたまま、いくら呼んでもすってもねむっていた。呼吸もあり、体温はなかなか高い。すぐ医者に来てもらって解毒の手当てあてし、医者からいちおう警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、それにはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだった。その文章にはすこしも頭脳不調の痕跡こんせきは見られなかった。一か月の療養と看護とで平復へいふく退院。それから一か年間はわりに健康ですごしたが、そのうち種々な脳の故障がおこるのに気づき、旅行でもしたらと思って東北地方の温泉まわりをいっしょにしたが、上野駅に帰着したときは出発したときよりも悪化していた。症状一進一退。彼女は最初、幻覚を多く見るので寝台にしながら、それをいちいち手帳に写生していた。刻々に変化するのを時間を記入しながらつぎつぎと描いてはわたしに見せた。形や色の無類の美しさを感激をもって語った。そうしたある期間をへているうちに、今度は全体に意識がひどくぼんやりするようになり、食事も入浴も嬰児えいじのように私がさせた。わたしも医者もこれを更年期の一時的現象と思って、母や妹のいる九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させていた。わたしは一週一度、汽車でたずねた。昭和九年(一九三四)、わたしの父が胃潰瘍いかいようで大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体はじょうぶになり朦朧もうろう状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になったり、松林の一角に立って、光太郎、智恵子、光太郎、智恵子……と、一時間も連呼したりするようになった。父死後の始末も一段落ついたころ、彼女を海岸からアトリエに引きとったが、病勢はまるで機関車きかんしゃのように驀進ばくしんしてきた。諸岡存博士の診察もうけたが、しだいに狂暴の行為をはじめるようになり、自宅療養が危険なので、昭和十年(一九三五)二月、知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、いっさいを院長斎藤さいとう玉男たまお博士の懇篤こんとくな指導にることにした。また、しあわせなことに、さきに一等看護婦になっていた智恵子のめいのはる子さんという心やさしい娘さんに、最後まで看護してもらうことができた。昭和七年(一九三二)以来の彼女の経過追憶を細かに書くことは、まだ私には痛々いたいたしすぎる。ただ、この病院生活の後半期は病状がわりに平静を保持し、精神は分裂しながらも、手はかつて油絵具でなしとげ得なかったものを切り紙によって楽しく成就じょうじゅしたかの観がある。百をもってかぞえる枚数の彼女の作った切り紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユーモアであり、また微妙な愛憐あいれんの情の訴えでもある。彼女はここに、じつに健康に生きている。彼女はそれを訪問したわたしに見せるのがなによりもうれしそうであった。わたしがそれを見ている間、彼女はいかにも幸福そうに微笑したり、おじぎしたりしていた。最後の日、それをひとまとめに自分で整理しておいたものを私にわたして、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。わたしの持参したレモンの香りで洗われた彼女は、それから数時間のうちにきわめて静かにこの世を去った。昭和十三年(一九三八)十月五日の夜であった。


  九十九里浜の初夏

 わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀まがめ納屋という小さな部落に東京からかよった。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居ぐうきょにあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀まがめという部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡さんぐん片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
 九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川とかわの突端から南方太東岬たいとうみさきにいたるまで、ほとんど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里にわたる平坦な砂浜の間、眼をさえぎる何物もないような、太平洋岸の豪宕ごうとうきわまりない浜辺である。そのちょうどまんなかあたりに真亀まがめの海岸はくらいする。
 わたしは汽車で両国から大網駅おおあみえきまでゆく。ここからバスで今泉という海岸の部落まで、まったいらな水田の中を二里あまり走る。五月ごろは水田に水がまんまんとみなぎっていて、ところどころに白鷺しらさぎが下りている。白鷺しらさぎはかならず小さな群をなして、水田に好個こうこの日本的画趣がしゅをあたえる。わたしは今泉の四辻の茶店にひとやすみして、また別な片貝行きのバスに乗る。そこからは一里も行かないうちに真亀川をわたって真亀の部落につくのである。部落からすぐ浜辺の方へ小径こみちをたどると、クロマツの防風林の中へ入る。妻の逗留とうりゅうしている親戚の家は、この防風林の中の小高い砂丘の上に立っていて、座敷の前は一望の砂浜となり、二、三の小さな漁家の屋根が点々てんてんとしているさきに、九十九里浜の波打ちぎわが白く見え、まっさおな太平洋が土手のように高くつづいて、際涯さいはてのない水平線が風景を両断する。
 午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻はねつっぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂をらし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかにらす。空気のうまさを満喫して私は陶然とうぜんとする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、たわらのような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵こうじんというのは、もとよりにごって暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵こうじんをも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言ふかげんの芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣ゆかたの肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露しょうろの玉をあつめている。日がかたむくにつれて海鳴りが強くなる。千鳥どりがついそこをけるように歩いている。


  智恵子の切りぬき絵

 精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいと聞いていたので、智恵子が病院に入院して半年もたち、興奮がやや鎮静したころ、わたしは智恵子の平常好きだった千代紙を持っていった。智恵子はたいへんよろこんで、それで千羽鶴を折った。訪問するたびに部屋の天井から下がっている鶴の折り紙がふえて美しかった。そのうち、鶴のほかにも紙燈籠かみどうろうだとかその他の形のものが作られるようになり、なかなか意匠をこらしたものがぶらさがっていた。するとあるとき、智恵子は訪問のわたしに一つの紙づつみをわたして、見ろという風情ふぜいであった。紙包みをあけると、中に色がみをハサミで切った模様風の美しい紙細工が大切そうにしまってあった。それを見てわたしはおどろいた。それがまったく折り鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であったからである。わたしの感嘆を見て智恵子ははずかしそうに笑ったり、おじぎをしたりしていた。
 そのころは、なんでもそこらにある紙きれを手あたりしだいに用いていたのであるが、やがて色彩に対する要求が強くなったと見えて、いろ紙を持ってきてくれというようになった。わたしはさっそく丸の内のはい原へ行って、子どもが折り紙につかういろ紙を幾種か買って送った。智恵子の「仕事」がそれから始まった。看護婦さんのいうところによると、風邪かぜをひいたり、熱を出したりしたとき以外は、毎日「仕事」をするのだといって、朝からしきりと切り紙細工をやっていたらしい。ハサミはマニキュアに使う小さな、尖端せんたんの曲がったハサミである。そのハサミ一丁を手にして、しばらく紙を見つめていてから、あとはスラスラと切りぬいてゆくのだということである。模様の類は紙を四つ折または八つ折にしておいて、切りぬいてから紙をひらくとそこにシンメトリーができるわけである。そういう模様になかなかおもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであったが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡きんこう布置ふちの比例などに微妙な神経がはたらいてきて、紙は一個のカンバスとなった。十二単衣ひとえにおける色がさねの美を見るように、一枚の切りぬきをまた一枚の別のいろ紙の上にはりつけ、その色の調和や対照に妙味みょうみつきないものができるようになった。あるいは同色をかさねたり、あるいは近似の色で構成したり、あるいはハサミで線だけ切って切りぬかずにおいたり、いろいろの技巧をこらした。この切りぬかずにおいて、それを別の紙の上にはったのは、下の紙の色がチラチラと上の紙の線のあいだに見えて不可言の美を作る。智恵子は触目しょくもくのものを手あたりしだいに題材にした。食膳しょくぜんが出ると、その皿の上のものを紙でつくらないうちははしをとらず、そのため食事が遅れて看護婦さんを困らしたことも多かったらしい。千数百枚におよぶこれらの切りぬき絵はすべて智恵子の詩であり、叙情であり、機知であり、生活記録であり、この世への愛の表明である。これをわたしに見せるときの智恵子のはずかしそうなうれしそうな顔が忘れられない。


底本:「智恵子抄」新潮文庫、新潮社
   1956(昭和31)年7月15日発行
   1967(昭和42)年12月15日改版
   1984(昭和59)年 12月15日79刷
※詩歌の天は、底本では、散文の二字分下に設定してあります。
入力:たきがは、門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



智恵子抄(二)

高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)種子《たね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例》印度|更紗《サラサ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数》
(例)※[#「片+總のつくり」、第3水準1-87-68]
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  レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉《のど》に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔|山巓《さんてん》でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

[#天から27字下げ]昭和一四・二
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  亡き人に

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭《ちんとう》のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処《そこ》にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

[#天から27字下げ]昭和一四・七
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  梅酒

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒《うめしゆ》は
十年の重みにどんより澱《よど》んで光を葆《つつ》み、
いま琥珀《こはく》の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨《くりや》に見つけたこの梅酒の芳《かを》りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤《きようらんどとう》の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。

[#天から27字下げ]昭和一五・三
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  荒涼たる帰宅

あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃《ほこり》を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風《びようぶ》をさかさにする。
人は燭《しよく》をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処《どこ》かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。

[#天から27字下げ]昭和一六・六
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  松庵寺

奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹《こさつ》松庵寺で
秋の村雨《むらさめ》ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇《すみだん》をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚《おしよう》さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚|起請文《きしようもん》をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置|御堂《みどう》の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました

[#天から27字下げ]昭和二〇・一〇
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  報告(智恵子に)

日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲《かこひ》の中にゐて、
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐《お》ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

[#天から27字下げ]昭和二二・六
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  噴霧的な夢

あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
夢といふものは香料のやうに微粒的で
智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機《ジエツトプレイン》のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺《わくでき》にみちてゐた。
あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて
午前五時の秋爽《さわ》やかな山の小屋で目がさめた。

[#天から27字下げ]昭和二三・九
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  もしも智恵子が

もしも智恵子が私といつしよに
岩手の山の源始の息吹《いぶき》に包まれて
いま六月の草木の中のここに居たら、
ゼンマイの綿帽子がもうとれて
キセキレイが井戸に来る山の小屋で
ことしの夏がこれから始まる
洋々とした季節の朝のここに居たら、
智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
やつぱり二十代の声をあげて
十本一本のマツチをわらひ、
杉の枯葉に火をつけて
囲炉裏の鍋《なべ》でうまい茶粥《ちやがゆ》を煮るでせう。
畑の絹さやゑん豆をもぎつてきて
サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。
もしも智恵子がここに居たら、
奥州南部の山の中の一軒家が
たちまち真空管の機構となつて
無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

[#天から27字下げ]昭和二四・三
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  元素智恵子

智恵子はすでに元素にかへつた。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食《ゑじき》にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過《あやま》ち、
耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい。
智恵子はただ※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]々《きき》としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
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  メトロポオル

智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏、
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑《にぎは》ひ、
山林|孤棲《こせい》と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
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  裸形

智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙《めのう》質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子《ほくろ》まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪《バター》とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中《そちゆう》に帰らう。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
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  案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三|畝《せ》、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯《か》ういふところ好きでせう。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
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  あの頃

人を信ずることは人を救ふ。
かなり不良性のあつたわたくしを
智恵子は頭から信じてかかつた。
いきなり内懐《うちふところ》に飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失つた。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたくしはたじろいだ。
少しめんくらつて立ちなほり、
智恵子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
或日はつと気がついた。
わたくしの眼から珍しい涙がながれ、
わたくしはあらためて智恵子に向つた。
智恵子はにこやかにわたくしを迎へ、
その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。
わたくしはその甘美に酔つて一切を忘れた。
わたくしの猛獣性をさへ物ともしない
この天の族なる一女性の不可思議力に
無頼のわたくしは初めて自己の位置を知つた。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
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  吹雪の夜の独白

外では吹雪が荒れくるふ。
かういふ夜には鼠も来ず、
部落は遠くねしづまつて
人つ子ひとり山には居ない。
囲炉裏に大きな根つ子を投じて
みごとな大きな火を燃やす。
六十七年といふ生理の故に
今ではよほどらくだと思ふ。
あの欲情のあるかぎり、
ほんとの為事《しごと》は苦しいな。
美術といふ為事の奥は
さういふ非情を要求するのだ。
まるでなければ話にならぬし、
よくよく知つて今は無いといふのがいい。
かりに智恵子が今出てきても
大いにはしやいで笑ふだけだろ。
きびしい非情の内側から
あるともなしに匂ふものが
あの神韻といふやつだろ。
老いぼれでは困るがね。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
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  智恵子と遊ぶ

智恵子の所在はa[#「a」は斜体]次元。
a[#「a」は斜体]次元こそ絶対現実。

岩手の山に智恵子と遊ぶ
夢幻《ゆめまぼろし》の生の真実。

フレンチ平原に茸《きのこ》は生えても
智恵子の遊びに変りはない。

二合の飯は今日のままごと。
牛のしつぽに韮《にら》を刻む。

強敵|糠蚊《ぬかが》とたたかひながら
三畝の畑にいのちを託す。

あばら骨に錐《きり》は刺され
肺気腫《はいきしゆ》噴射のとめどない咳《せき》。

造型は自然の中軸。
この世存在のシネ クワ ノン。

一切は智恵子a[#「a」は斜体]次元の逍遙遊《しようようゆう》。
遊ぶ時人はわづかに卑しくなくなる。

[#天から27字下げ]昭和二六・一一
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  報告

あなたのきらひな東京へ
山からこんどきてみると
生れ故郷の東京が
文化のがらくたに埋もれて
足のふみ場もないやうです。
ひと皮かぶせたアスフアルトに
無用のタキシが充満して
人は南にゆかうとすると
結局北にゆかされます。
空には爆音、
地にはラウドスピーカー。
鼓膜《こまく》を鋼《はがね》で張りつめて
意志のない不生産的生きものが
他国のチリンチリン的敗物を
がつがつ食べて得意です。
あなたのきらひな東京が
わたくしもきらひになりました。
仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。
あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。

[#天から27字下げ]昭和二七・一一
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  うた六首


ひとむきにむしやぶりつきて為事するわれをさびしと思ふな智恵子

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

この家に智恵子の息吹《いぶき》みちてのこりひとりめつぶる吾《あ》をいねしめず

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所《ここ》に住みにき
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  智恵子の半生


 妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒《ぞくりゆう》性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽《はいたい》生活から救ひ出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにも其《それ》を彼女と一緒に検討する事が此上《このうえ》もない喜であつた。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫《あいぶ》した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのやうに子供のやうにうけ入れてくれるであらうか。もう見せる人も居やしないといふ思が私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作つたものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるといふ意識ほど、美術家にとつて力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあらう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらひたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はさういふ人を妻の智恵子に持つてゐた。その智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕《とも》にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処《そこ》に居る。彼女は何処《どこ》にでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、さうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかつた。彼女はさういふ渦巻の中で、宿命的に持つてゐた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観《ていかん》とのあざなはれた波濤《はとう》の間に没し去つた。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆《しさ》されても今日まで其を書く気がしなかつた。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとひ小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかつたし、又いはば単なる私生活の報告のやうなものに果してどういふ意味があり得るかといふ疑問も強く心を牽制《けんせい》してゐたのである。だが今は書かう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置かう。大正昭和の年代に人知れず斯《か》ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞《はなむけ》とする事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。
 今しづかに振りかへつて彼女の上を考へて見ると、その一生を要約すれば、まづ東北地方福島県二本松町の近在、漆原といふ所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけてゐるうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留《とど》まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であつた中村|彜《つね》、斎藤与里治、津田|青楓《せいふう》の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加はり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るやうになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中してゐたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるやうな月日も漸く多くなり、その上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びようが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》ひ、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあひ、心痛苦慮は一通りでなかつた。やがて更年期の心神変調が因《もと》となつて精神異状の徴候があらはれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸ひ薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉《とら》へられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしづかに瞑目《めいもく》したのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかつた。わづかに「青鞜」に関係してゐた短い期間がその社会的接触のあつた時と言へばいえる程度に過ぎなかつた。社会的関心を持たなかつたばかりでなく、生来社交的でなかつた。「青鞜」に関係してゐた頃|所謂《いはゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子といふ名がその仲間の口に時々上つたのも、実は当時のゴシツプ好きの連中が尾鰭《をひれ》をつけていろいろ面白さうに喧伝《けんでん》したのが因であつて、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通してゐたらしかつた。長沼さんとは話がしにくいといふのが当時の女友達の本当の意見のやうであつた。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いてゐた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるやうにして歩いてゐたのをよく見かけたといふやうな事があつたのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎《なぞ》でも感じてゐたのではないかと思はれる。女|水滸伝《すいこでん》のやうに思はれたり、又|風情《ふぜい》ごのみのやうに言はれたりしたやうであるが実際はもつと素朴で無頓着《むとんちやく》であつたのだらうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言つていい。彼女について私が知つてゐるのは紹介されて彼女と識《し》つてから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知らうとする気も起らなかつたし、年齢さへ実は後年まで確実には知らなかつたのである。私が知つてからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》へて居り、愛と信頼とに全身を投げ出してゐたやうな女性であつた。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑へてゐたやうで、物腰はおだやかで軽佻《けいちよう》な風は見られなかつた。自己を乗り越えて進まうとする気力の強さには時々驚かされる事もあつたが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねてゐたのである事を今日から考へると推察する事が出来る。
 その時には分らなかつたが、後から考へてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するやうに進んでゐたやうである。私との此の生活では外に往く道はなかつたやうに見える。どうしてさうかと考へる前に、もつと別な生活を想像してみると、例へば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のやうな美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事してゐるやうな者であつた場合にはどうであつたらうと考へられる。或はもつと天然の寿を全うし得たかも知れない。さう思はれるほど彼女にとつては肉体的に既に東京が不適当の地であつた。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしてゐた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗つたり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気溌剌たる娘時代を過したやうであるが、卒業後は概してあまり頑健といふ方ではなく、様子もほつそりしてゐて、一年の半分近くは田舎や、山へ行つてゐたらしかつた。私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体《からだ》が保《も》たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎《なげ》いた。私の「あどけない話」といふ小詩がある。

[#ここから2字下げ]
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山《あたたらやま》の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
[#ここで字下げ終わり]

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染《なじ》む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしてゐた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合《ゆり》花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺《わくでき》といふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生に亙《わた》る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆《いつか》を手にした彼女の喜も亦《また》この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
 彼女がつひに精神の破綻《はたん》を来すに至つた更に大きな原因は何といつてもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾|撞着《どうちやく》の悩みであつたであらう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いてゐたらしく、学芸会に於《お》ける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たといふ事であり、故郷の両親が初めは反対してゐたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来|栄《ばえ》が故郷の人達を驚かしたのに因ると伝へ聞いてゐる。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であつた。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。彼女はセザンヌに傾倒してゐて自然とその影響をうける事も強かつた。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いてゐたが、勉強の部屋は別にしてゐた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかつたので自虐に等しいと思はれるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰つて来た。その中の小品に相当に佳《よ》いものがあつたので、彼女も文展に出品する気になつて、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかつた。自己の作品を公衆に展示する事によつて何か内に鬱積《うつせき》するものを世に訴へ、外に発散せしめる機会を得るといふ事も美術家には精神の助けとなるものだと思ふのであるが、さういふ事から自己を内に閉ぢこめてしまつたのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指してゐたので何時《いつ》でも自己に不満であり、いつでも作品は未完成に終つた。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争はれなかつた。その素描にはすばらしい力と優雅とを持つてゐたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかつた。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流してゐた。偶然二階の彼女の部屋に行つてさういふところを見ると、私も言ひしれぬ寂しさを感じ慰《なぐさめ》の言葉も出ない事がよくあつた。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他《そのほか》は彼女と二人きりの生活であつたし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であつた。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓《ていとん》してしまふ。さういふ日々もかなり重なり、結局やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くといふやうな事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が食はれる事になるのであつた。詩歌《しいか》のやうな仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思ふが、造型美術だけは或る定まつた時間の区劃が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思ひやられるものであつた。彼女はどんな事があつても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばひ、私を雑用から防がうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮少し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、其《それ》を草木染にしたり、機織《はたをり》を始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作つたのが今でも残つてゐる。同じ草木染の権威山崎|斌《たけし》氏は彼女の死んだ時弔電に、

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袖のところ一すぢ青きしまを織りて
あてなりし人今はなしはや
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といふ歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかつたが、油絵製作に絶望したのであつた。あれほど熱愛して生涯の仕事と思つてゐた自己の芸術に絶望する事はさう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋《せんびきや》から買つて来たばかりの果物籠が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあつた。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなつた。
 彼女はやさしかつたが勝気であつたので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙つて進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素《もと》より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考へて、曖昧《あいまい》をゆるさず、妥協を卑しんだ。いはば四六時中張りきつてゐた弦のやうなもので、その極度の緊張に堪へられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度浄められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁つてゐる事を感じた。彼女の眼を見てゐるだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であつた。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出てゐる天空があつた。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥ぢた。今から考へてみても彼女は到底この世に無事に生きながらへてゐられなかつた運命を内部的にも持つてゐたやうに見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違つた世界の中に生きてゐた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在してゐる魂のやうに思へる事があつたのを記憶する。彼女には世間慾といふものが無かつた。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によつて生きてゐた。さうしていつでも若かつた。精神の若さと共に相貌の若さも著しかつた。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思つたり、娘とさへ思つたりした。彼女には何かさういふ種類の若さがあつて、死ぬ頃になつても五十歳を超えた女性とは一見して思へなかつた。結婚当時も私は彼女の老年といふものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言つたことがあるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答へたことのあるのを覚えてゐる。さうしてまつたくその通りになつた。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪へられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持つてゐるか、又は怪我とか悪疾とかによつて後天的に持たせられた者であるといふ事である。彼女の家系には精神病の人は居なかつたやうであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《らうこう》に窮死した。しかし遺伝的といひ得る程強い素質がそこに流れてゐると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋にひどい怪我をした事があるといふ事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまつて後年の病気に関係があるとも思へない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまつたく其の記憶がなかつたし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらつたが、いつも結果は陰性であつた。さうすると彼女の精神分裂症といふ病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩づつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まづ、所謂《いはゆる》矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

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ここはあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
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と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩づつ最後の破綻《はたん》に近づいて行つたのか、病気が螺線《らせん》のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくやうになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはゐなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫つて来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であつた。女史は私の紐育《ニユーヨーク》時代からの友人であつた画家柳敬助君の夫人で当時|桜楓《おうふう》会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。私は明治四十二年七月にフランスから帰つて来て、父の家の庭にあつた隠居所の屋根に孔をあけてアトリエ代りにし、そこで彫刻や油絵を盛んに勉強してゐた。一方神田淡路町に琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞《ろうかんどう》といふ小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやつたり、当時日本に勃興《ぼつこう》したスバル一派の新文学運動に加はつたりしてゐたと同時に、遅蒔《おそまき》の青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下|杢太郎《もくたろう》氏などとさかんに往来してかなり烈しい所謂|耽溺《たんでき》生活に陥つてゐた。不安と焦躁と渇望と、何か知られざるものに対する絶望とでめちやめちやな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽ち失敗したり、どうなる事か自分でも分らないやうな精神の危機を経験してゐた時であつた。柳敬助君に友人としての深慮があつたのかも知れないが、丁度さういふ時彼女が私に紹介されたのであつた。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまひ、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰つてゆくのが常であつた。私は彼女の着こなしのうまさと、きやしやな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかつた。彼女は決して自分の画いた絵を持つて来なかつたのでどんなものを画いてゐるのかまるで知らなかつた。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠《いぬぼう》へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時|若《も》し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。
 やがて彼女から熱烈な手紙が来るやうになり、私も此の人の外に心を託すべき女性は無いと思ふやうになつた。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑つた。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思ふと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。其の頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシツプが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や溷濁《こんだく》の残留物を知つてゐるので時々自信を失ひかけると、彼女はいつでも私の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。

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汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
をさな児のまこともて
君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
君の見出でつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官《さばきのつかさ》とすれば
君によりてこころよろこび
わがしらぬわれの
わがあたたかき肉のうちに籠《こも》れるを信ずるなり
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と私も歌つたのである。私を破れかぶれの廃頽《はいたい》気分から遂に引上げ救ひ出してくれたのは彼女の純一な愛であつた。
 大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴヰナス倶楽部《クラブ》で岸田|劉生《りゆうせい》君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止《いはなどめ》を経て徳本《とくごう》峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂《くぼたうつほ》氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎へに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。それからは毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃|肋膜《ろくまく》を少し痛めてゐるらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉《ことごと》く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。十月一日に一山|挙《こぞ》つて島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた。
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思つた。父や母の夢は皆破れた。所謂洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらふやうに両親に申出た。両親も許してくれた。両親のもとにかしづかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等一切は両親と同居する弟夫妻の所有とする事にきめて置いた。私達二人はまつたく裸のままの家庭を持つた。もちろん熱海行などはしなかつた。それから実に長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出《ひきだし》に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

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をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
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と私が書いたのも其の頃である。
 自分の貧に驚かない彼女も実家の没落にはひどく心を傷《いた》めた。幾度か実家へ帰つて家計整理をしたやうであつたが結局破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩《ゆうとう》。破滅。彼女にとつては堪へがたい痛恨事であつたらう。彼女はよく病気をしたが、その度に田舎の家に帰ると平癒した。もう帰る家も無いといふ寂しさはどんなに彼女を苦しめたらう。彼女の寂しさをまぎらす多くの交友を持たなかつたのも其の性情から出たものとはいへ一つの運命であつた。一切を私への愛にかけて学校時代の友達とも追々遠ざかつてしまつた。僅かに立川の農事試験場の佐藤澄子さん其の他両三名の親友があつたに過ぎなかつたのである。それでさへ年に一二度の往来であつた。学校時代には彼女は相当に健康であつて運動も過激なほどやつたやうであるが、卒業後肋膜にいつも故障があり、私と結婚してから数年のうちに遂に湿性肋膜炎の重症のにかかつて入院し、幸に全治したが、その後或る練習所で乗馬の稽古を始めた所、そのせゐか後屈症を起して切開手術のため又入院した。盲腸などでも悩み、いつも何処かしらが悪かつた。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは大正十四年頃の一二年間のことであつた。しかし病気でも彼女はじめじめしてゐなかつた。いつも清朗でおだやかであつた。悲しい時には涙を流して泣いたが、又ぢきに直つた。
 昭和六年私が三陸地方へ旅行してゐる頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかつた。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかつたのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来てゐた姪《めひ》や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じてゐた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言つた事があるといふ。丁度更年期に接してゐる年齢であつた。翌七年はロザンゼルスでオリムピツクのあつた年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかつた。前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五|瓦《グラム》入の瓶《びん》が空になつてゐた。彼女は童女のやうに円く肥つて眼をつぶり口を閉ぢ、寝台の上に仰臥《ぎようが》したままいくら呼んでも揺つても眠つてゐた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらつて解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだつた。その文章には少しも頭脳不調の痕跡《こんせき》は見られなかつた。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思つて東北地方の温泉まはりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化してゐた。症状一進一退。彼女は最初幻覚を多く見るので寝台に臥《ふ》しながら、其を一々手帳に写生してゐた。刻々に変化するのを時間を記入しながら次々と描いては私に見せた。形や色の無類の美しさを感激を以て語つた。さうした或る期間を経てゐるうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするやうになり、食事も入浴も嬰児《えいじ》のやうに私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思つて、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させてゐた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍《いかいよう》で大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧《もうろう》状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になつたり、松林の一角に立つて、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになつた。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとつたが、病勢はまるで汽罐車《きかんしや》のやうに驀進《ばくしん》して来た。諸岡存博士の診察まうけたが、次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠《よ》ることにした。又|仕合《しあはせ》なことにさきに一等看護婦になつてゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事が出来た。昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手は曾《かつ》て油絵具で成し遂げ得なかつたものを切紙によつて楽しく成就したかの観がある。百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐《あゐれん》の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。
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  九十九里浜の初夏


 私は昭和九年五月から十二月末まで、毎週一度づつ九十九里浜の真亀納屋といふ小さな部落に東京から通つた。頭を悪くしてゐた妻を其処に住む親類の寓居《ぐうきよ》にあづけて置いたので、その妻を見舞ふために通つたのである。真亀といふ部落は、海水浴場としても知られてゐる鰯《いわし》の漁場千葉県山武郡片貝村の南方一里足らずの浜辺に沿つた淋しい漁村である。
 九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方|太東岬《たいとうみさき》に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亙る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、太平洋岸の豪宕《ごうとう》極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。
 私は汽車で両国から大網駅までゆく。ここからバスで今泉といふ海岸の部落迄まつ平らな水田の中を二里あまり走る。五月頃は水田に水がまんまんと漲《みなぎ》つてゐて、ところどころに白鷺《しらさぎ》が下りてゐる。白鷺は必ず小さな群を成して、水田に好個の日本的画趣を与へる。私は今泉の四辻の茶店に一休みして、又別な片貝行のバスに乗る。そこからは一里も行かないうちに真亀川を渡つて真亀の部落につくのである。部落からすぐ浜辺の方へ小径《こみち》をたどると、黒松の防風林の中へはいる。妻の逗留《とうりゆう》してゐる親戚の家は、此の防風林の中の小高い砂丘の上に立つてゐて、座敷の前は一望の砂浜となり、二三の小さな漁家の屋根が点々としてゐるさきに九十九里浜の波打際が白く見え、まつ青な太平洋が土手のやうに高くつづいて際涯《さいはて》の無い水平線が風景を両断する。
 午前に両国駅を出ると、いつも午後二三時頃此の砂丘につく。私は一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱つぽいやうな息をして私を喜び迎へる。私は妻を誘つていつも砂丘づたひに防風林の中をまづ歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽が少し斜に白い砂を照らし、微風は海から潮の香をふくんで、あをあをとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。丁度五月は松の花のさかりである。黒松の新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のやうな、ほろほろとした単性の花球がこぼれるやうに着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を私は此の九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林の黒松の花が熟する頃、海から吹きよせる風にのつて、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろ恐しいほどの勢である。支那の黄土をまきあげた黄塵《こうじん》といふのは、素《もと》より濁つて暗くすさまじいもののやうだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明かるく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよはせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣《ゆかた》の肩につもつたその花粉を軽くはたいて私は立ち上る。妻は足もとの砂を掘つてしきりに松露の玉をあつめてゐる。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がつひそこを駈けるやうに歩いてゐる。
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  智恵子の切抜絵


 精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。そのうち、鶴の外にも紙燈籠《かみどうろう》だとか其他の形のものが作られるやうになり、中々意匠をこらしたものがぶら下つてゐた。すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろといふ風情《ふぜい》であつた。紙包をあけると中に色がみを鋏《はさみ》で切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた。
 その頃は、何でもそこらにある紙きれを手あたり次第に用ゐてゐたのであるが、やがて色彩に対する要求が強くなつたと見えて、いろ紙を持つて来てくれといふやうになつた。私は早速丸の内のはい原へ行つて子供が折紙につかふいろ紙を幾種か買つて送つた。智恵子の「仕事」がそれから始まつた。看護婦さんのいふところによると、風邪《かぜ》をひいたり、熱を出したりした時以外は、毎日「仕事」をするのだといつて、朝からしきりと切紙細工をやつてゐたらしい。鋏はマニキユアに使ふ小さな、尖端の曲つた鋏である。その鋏一丁を手にして、暫く紙を見つめてゐてから、あとはすらすらと切りぬいてゆくのだといふ事である。模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二|単衣《ひとへ》に於ける色|襲《がさ》ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼《は》りつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。智恵子は触目のものを手あたり次第に題材にした。食膳が出ると其の皿の上のものを紙でつくらないうちは箸《はし》をとらず、そのため食事が遅れて看護婦さんを困らした事も多かつたらしい。千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。



底本:「智恵子抄」新潮文庫、新潮社
   1956(昭和31)年7月15日発行
   1967(昭和42)年12月15日改版
   1984(昭和59)年 12月15日79刷
※詩歌の天は、底本では、散文の二字分下に設定してあります。
入力:たきがは、門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名


[岩手県]
[奥州] おうしゅう (1) 陸奥国の別称。昔の勿来・白河関以北で、今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部に当たる。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5カ国に分割。(2) 岩手県の内陸南部、北上川中流に位置する市。稲作を中心とした農業のほか、商工業も盛ん。人口13万。
花巻 はなまき 岩手県南部、北上盆地の市。奥州街道の宿駅として発達。宮沢賢治の生地。北西部に花巻温泉郷がある。大規模な工業開発が進展。人口10万5千。
松庵寺 しょうあんじ 現、花巻市双葉町か。
北上山地 → 北上高地
北上高地 きたかみ こうち 主として岩手県の東部を南北に連なる、割合に山頂のそろったなだらかな山地。地形学的には隆起準平原。最高峰は早池峰山(標高1917メートル)。北上山地。
奥羽山脈 おうう さんみゃく 東北日本の中央部を南北に走る山脈。陸奥湾から関東北部に至る。那須火山帯に属する多数の火山が脊梁部に噴出。
北上川 きたかみがわ 岩手県北部の七時雨山付近に発し、奥羽山脈と北上高地の間を南流し、同県中央部、宮城県北東部を貫流して追波湾に注ぐ川。石巻湾に直流する流路は旧北上川と称する。長さ249キロメートル。
毒が森 どくがもり 毒ヶ森。紫波郡矢巾町と岩手郡雫石町の境界に位置する南昌山か。標高848m。

[三陸] さんりく (1) 陸前・陸中・陸奥の総称。(2) 三陸地方の略。東北地方北東部、北上高地の東側の地域。

[宮城県]
金華山 きんかざん/きんかさん 宮城県牡鹿半島の南東先端にある島。面積9平方キロメートル、標高445メートル。山頂に大海祇神社、山腹に黄金山神社がある。古称、陸奥山。

[福島県]
二本松町 → 二本松
二本松 にほんまつ 福島県北部、阿武隈川に臨む市。もと丹羽氏10万石の城下町。酒・家具が特産。西の安達太良山の麓に岳温泉がある。人口6万3千。
漆原
阿多々羅山 あたたらやま → 安達太良山
安達太良山 あだたらやま 福島県北部、吾妻山の南東にある円錐状の火山。標高1709メートル。山麓の温泉は冬季スキー客でにぎわう。安達太郎山。
五色温泉 ごしき おんせん (1) 山形県米沢市南東隅、板谷峠近くにある炭酸水素塩泉。(2) 長野県上高井郡高山村にある硫黄泉。

[東京]
南品川 みなみしながわ 東京都品川区にある地名。一丁目から六丁目まである。品川区の東部に位置する。地域北部は目黒川に接し、これを境に北品川に接する。
ゼームス坂病院
目白 めじろ 東京都豊島区にある地名で、五色不動のひとつ、目白不動に因む。また、同区南長崎、西池袋、南池袋、雑司が谷、高田、新宿区高田馬場、下落合、中落合と接していて、現在の地名表示としては目白一丁目から目白五丁目まであり高級住宅街の一つ。東日本旅客鉄道の山手線目白駅を中心とする街。
日本女子大学校 → 日本女子大学
日本女子大学 にほん じょし だいがく 私立大学の一つ。前身は1901年(明治34)成瀬仁蔵創立の日本女子大学校。48年新制大学となる。本部は東京都文京区。
太平洋絵画研究所
九段坂病院
千疋屋 せんびきや 果物の輸入・販売を専門とする日本の小売業者。1834年に創業以来、日本で最も有名な果物の専門店。本社は東京都中央区日本橋室町に置く。明治・大正より水果の贈答は儀礼的に「千疋屋」にて購入するのが上等とされた。現在でもこの点は変わらない。取扱商品は果物、ワイン、洋菓子と幅広く、直営のフルーツパーラー・レストランも経営する。
神田淡路町 かんだ あわじちょう 東京都千代田区にある地名。現在の住居表示では、一丁目と二丁目がある。千代田区の北部に位置する。地域北部は、神田川に接しこれを境に、外神田になる。地域東部は神田須田町に接する。地域南部は靖国通りに接し、これを境に神田小川町に接する。地域西部は神田駿河台に接する。
琅�洞 ろうかんどう 美術店。
神田 かんだ 東京都千代田区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
ヴィナス倶楽部
立川 たちかわ 東京都西部の市。もと陸軍の航空基地があり、第二次大戦後米軍が使用していたが、1977年に返還。自衛隊基地・昭和記念公園などに利用。人口17万3千。
農事試験場 のうじ しけんじょう 農業上の試験研究を行う公設の機関。1893年(明治26)東京府に農商務省所管のものが創立され、以後逐次府県立のものが設立された。第二次大戦後、多く農業試験場などと改称。
両国 りょうごく 東京都墨田区、両国橋の東西両畔の地名。隅田川が古くは武蔵・下総両国の国界であったための称。
丸の内 まるのうち 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
はい原

[千葉県]
犬吠 いぬぼう → 犬吠埼か
犬吠埼 いぬぼうざき 千葉県東端、銚子半島先端の岬。太平洋に突出し、先端に灯台がある。
君が浜 きみがはま 千葉県銚子市君ケ浜。
九十九里浜 くじゅうくりはま 千葉県太東崎から刑部岬までの、太平洋に面する砂浜海岸。長さ約60キロメートル。6町を1里として九十九里あるとする。沿海は黒潮と親潮の出合う所で魚類が集まる。
真亀納屋
真亀 まがめ 村名。現、九十九里町真亀。
山武郡 さんぶぐん 千葉県の郡。
片貝村 かたかいむら 村名。現、九十九里町片貝。
銚子 ちょうし 千葉県東端の市。利根川河口の南岸に位置し、醤油醸造地・漁業根拠地。人口7万5千。
外川 とかわ 外川湊か
外川湊 とかわみなと 現、銚子市外川町。
太東岬 たいとうみさき → 太東崎
太東崎 たいとうざき 千葉県南東部、いすみ市にある太平洋岸の岬。九十九里浜の南端に当たる。天然記念物に指定されているクロマツ・ハマヒルガオなど海浜植物の群落がある。
大網駅 おおあみえき 千葉県山武郡大網白里町南玉にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。
今泉 いまいずみ 村名。現、大網白里町北今泉・南今泉。
真亀川

[静岡県]
熱海 あたみ 静岡県伊豆半島の北東隅、相模湾に面する市。観光・保養都市。全国有数の温泉場(塩化物泉・硫酸塩泉など)。人口4万1千。

[信州] しんしゅう 信濃国の別称。
上高地 かみこうち 長野県西部、飛騨山脈南部の梓川上流の景勝地。中部山岳国立公園の一部。標高約1500メートル。温泉や大正池があり、槍ヶ岳・穂高連峰・常念岳・焼岳などへの登山基地。神河内。上河内。
清水屋
徳本峠 とくごうとうげ 長野県西部、飛騨山脈東麓にある峠。安曇野から上高地に入る登山路に沿う。標高2135メートル。
穂高岳 ほたかだけ 北アルプス南部、槍ヶ岳の南方、上高地の北にそびえる一群の山峰。長野・岐阜県境にあって、最高峰の奥穂高岳(3190メートル)のほか前穂高岳(3090メートル)・西穂高岳(2909メートル)・北穂高岳・涸沢岳などに分かれる。東側には涸沢カールがある。
島々 しましま 長野県松本市の地名。上高地方面への観光拠点。
明神岳 みょうじんだけ  (北アルプス) 長野県松本市の穂高連峰にある標高2931mの山。
焼岳 やけだけ 飛騨山脈南部の、長野・岐阜県境にある活火山。標高2455メートル。頂上は溶岩円頂丘。直径約400メートルの火口がある。1915年(大正4)の爆発の結果、堰止湖大正池が出現。飛騨では硫黄岳と呼ぶ。
霞沢
六百岳
梓川 あずさがわ 長野県にある犀川の支流。槍ヶ岳に発源、槍沢を経て上高地の谷を南流、松本盆地に至り、北東流。長さ65キロメートル。

[イタリア]
ヴェスヴィオ Vesuvio イタリア南部の活火山。ナポリ湾の東側、ナポリの南東16キロメートルにある。標高1281メートル。二重式火山で、古来しばしば大噴火をなし、西暦79年8月ポンペイ・ヘルクラネウムを噴出物で埋めた。英語名ヴェスヴィアス。
ポンペイヤン → ポンペイアーナか
ポンペイアーナ Pompeiana 人口844人のイタリア共和国リグーリア州インペリア県のコムーネの一つ。

[アメリカ]
ニューヨーク New York


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


一八八六(明治一九) 智恵子、福島県二本松町の近在、漆原の酒造り長沼家に長女として生まれる。
一九〇九(明治四二)七月 光太郎、フランスから帰国。
一九一一(明治四四)ころ 柳八重子、智恵子を光太郎に紹介。光太郎、神田淡路町に美術店琅�洞を創設。スバル一派の新文学運動に参加。北原白秋、長田秀雄、木下杢太郎などとさかんに往来。
一九一二(明治末年)ごろ 智恵子、平塚雷鳥女史らの提起した女子思想運動に加わり、雑誌『青鞜』の表紙画などをかく。光太郎、現在のアトリエを父に建ててもらい、一人で移り住む。智恵子、祝いにグロキシニアの大鉢を持って訪ねる。
一九一三(大正二)八月・九月 光太郎、信州上高地の清水屋に滞在。九月、智恵子が画の道具を持って訪ねる。
一九一三(大正二)一〇月一日 一山こぞって島々へ下りる。
一九一四(大正三) 智恵子、光太郎と結婚。
一九二五(大正一四)ごろ 智恵子の半生の中で一番健康をたのしんだのはこの一、二年間。
一九三一(昭和六) 光太郎、三陸地方へ旅行。智恵子、最初の精神変調。
一九三二(昭和七)七月一五日 智恵子、アダリン自殺をはかる。一か月の療養と看護とで平復退院。それから一か年間はわりに健康ですごす。
一九三四(昭和九)五月〜一二月末 光太郎、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋に療養する智恵子のもとへ東京から通う。
一九三四(昭和九) 光太郎の父(高村光雲)、胃潰瘍で大学病院に入院、退院後十月十日に他界。
一九三五(昭和一〇) 智恵子、精神分裂症。
一九三五(昭和一〇)二月 智恵子、南品川のゼームス坂病院に入院。院長、斎藤玉男。智恵子の姪のはる子が最後まで看護。
一九三五(昭和一〇) 智恵子、入院して半年、興奮がやや鎮静したころ、千代紙・切りぬき絵。
一九三八(昭和一三)一〇月五日 夜、智恵子、瞑目。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

高村光太郎 たかむら こうたろう 1883-1956 詩人・彫刻家。光雲の子。東京生れ。東京美術学校卒後、アメリカ・フランスに留学してロダンに傾倒。帰国後、「スバル」同人、耽美的な詩風から理想主義に転じ、「道程」で生命感と倫理的意志のあふれた格調の高い口語自由詩を完成。ほかに「智恵子抄」「典型」「ロダンの言葉」など。
高村智恵子 たかむら ちえこ 1886-1938 旧姓長沼。洋画家。彫刻家の高村光太郎は夫。彼女の死後、夫が出版した詩集『智恵子抄』は有名。福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市)の酒造業・斎藤今朝吉・せんの長女。

中村彝 なかむら つね 1887-1924 洋画家。水戸の人。はじめ白馬会研究所に学び、太平洋画会研究所に転ずる。西洋近代絵画の独特な受容により画風を確立。作「エロシェンコ像」「老母像」など。
斎藤与里治 → 斎藤与里
斎藤与里 さいとう より 1885-1959 本名、斎藤与里治。埼玉県生まれ。明治39年、フランスに渡り、パリのアカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに師事、41年帰国。大正元(1912)、高村光太郎、岸田劉生らとフュウザン会結成に参加。翌2年解散。(日本人名)/後期印象派、フォービスムを日本に紹介。大坂美術学校を創設。雑誌『美術新論』を主宰。(人レ)
津田青楓 つだ せいふう 1880-1978 画家。名は亀治郎。京都生れ。浅井忠らに学び、パリに留学。帰国後、二科会創立に参加。夏目漱石・河上肇らと親交。作「ブルジョア議会と民衆生活」「犠牲者」などで官憲に転向を強いられ、二科会をやめて日本画に転じた。
平塚雷鳥 ひらつか らいちょう 1886-1971 女性運動家。本名、明。「らいてう」は雷鳥の仮名書き。東京生れ。日本女子大卒。雑誌「青鞜」創刊。「新しい女」という非難に抗して、婦人参政権運動に尽力。第二次大戦後も女性解放・反戦平和運動に活躍。自伝「元始、女性は太陽であった」
柳八重子
成瀬校長

セザンヌ Paul Cezanne 1839-1906 フランスの画家。後期印象派の巨匠。印象主義が軽視した固有色や堅牢な画面構成を取り戻し、画面上の形や色の造型的価値を探究。フォーヴィスム・キュビスムの先駆。作「サント‐ヴィクトワール山」など。
山崎斌 たけし 
柳敬助 やなぎ けいすけ 1881-1916 白馬会洋画研究所。二科会創設に参加。(人レ)
桜楓会 おうふうかい

北原白秋 きたはら はくしゅう 1885-1942 詩人・歌人。名は隆吉。福岡県柳川生れ。早大中退。与謝野寛夫妻の門に出入、「明星」「スバル」に作品を載せ、のち短歌雑誌「多磨」を主宰。象徴的あるいは印象的手法で、新鮮な感覚情緒をのべ、また多くの童謡を作った。詩集「邪宗門」「思ひ出」、歌集「桐の花」、童謡集「トンボの眼玉」など。
長田秀雄 ながた ひでお 1885-1949 劇作家。東京生れ。幹彦の兄。「明星」「スバル」の同人。自由劇場の創立に際し新劇運動に参加。作「歓楽の鬼」「大仏開眼」など。
木下杢太郎 きのした もくたろう 1885-1945 医学者・詩人・劇作家。本名、太田正雄。静岡県生れ。東北大・東大教授。雑誌「スバル」「屋上庭園」同人。キリシタン・美術史の研究にも多くの業績を残した。詩集「食後の唄」、戯曲集「和泉屋染物店」など。

岸田劉生 きしだ りゅうせい 1891-1929 洋画家。吟香の子。東京生れ。白馬会・フュウザン会に参加、草土社創立。後期印象派の影響下に出発し、のちリアリズムを求めてデューラーなどの北方ルネサンスに傾倒。晩年は東洋風に傾く。作「道路と土手と塀(切通しの写生)「麗子像」など。著「初期肉筆浮世絵」など。
木村荘八 きむら しょうはち 1893-1958 洋画家。東京生れ。岸田劉生とともにフュウザン会・草土社を創立。「にごりえ」「�X東綺譚」などの挿絵を描き、随筆家としても知名。作「パンの会」「牛肉店帳場」、著「東京繁昌記」など。
窪田空穂 くぼた うつほ/うつぼ 1877-1967 歌人・国文学者。名は通治。長野県生れ。早大教授。歌風は客観性を重んじて生活実感を歌い上げ、抒情性に富む。歌集「まひる野」「老槻の下」、万葉集・古今集の評釈など。
茨木猪之吉 いばらぎ/いばらき いのきち 1888-1944 山岳画家・登山家。日本山岳画協会を設立。穂高岳白出沢で遭難。著「山旅の素描」など。(人レ)
ウェストン Walter Weston 1861-1940 イギリスの登山家。1888年(明治21)宣教師として来日。日本アルプスを踏破、これを紹介した。1902年・11年にも来日。著「日本アルプスの登山と探検」など。
佐藤澄子
諸岡存
斎藤玉男 さいとう たまお 1880-1972 精神科医学者。医学博士。群馬県の医家に生まれる。巣鴨病院時代の後輩に斎藤茂吉がいる。(日本人名)
長沼はる子 智恵子の姪。看護師。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

雑誌『青鞜』 せいとう (bluestocking)1750年頃、ロンドンのモンタギュー夫人(E. Montagu1720〜1800)らのクラブの花形、植物学者スチリングフリート(B. Stillingfleet1702〜1771)が黒い絹の靴下の代りに青い毛糸の靴下をはいていたことから、その集まりの名となり、さらに文芸趣味や学識があり或いはこれをてらう女性たちの呼び名となった。
青鞜 せいとう 青鞜社の機関誌。1911年(明治44年)9月から1916年(大正5年)2月にかけて発行された女性だけによる文学誌。当時の家父長制度から女性を解放するという思想のもとに、平塚らいてうが、生田長江のすすめと母からの資金援助を受けて創刊。誌名は生田長江の命名。当時のヨーロッパで知的な女性達がはいていた靴下が青かったことからブルーストッキングと呼ばれたことに由来する。
昴・スバル すばる 石川啄木・木下杢太郎・平野万里・吉井勇らを同人とする文芸雑誌。1909年(明治42)1月創刊、13年(大正2)12月廃刊。「明星」廃刊後、その関係詩人が集まり、後には森鴎外が中心、与謝野寛・同晶子・上田敏らも後援。明治末期のいわゆる新浪漫主義思潮を起こし、スバル派の称を生んだ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


トパーズ topaz 宝石の一つ。黄玉。トッパーズ。
山巓・山顛 さんてん 山のいただき。山頂。
それなり そのまま。それきり。
グロキシニア Gloxinia イワタバコ科の観賞用多年草。地下に塊茎を持つ。ブラジル原産のものから改良された。温室で栽培。葉は卵形多肉でビロード状の短毛を持つ。花茎は15センチメートル、頂に1花をつける。花冠は大きく、辺縁浅く5裂。色は白・紫・紅など。オオイワギリソウ。
狂瀾怒濤 きょうらん どとう 荒れ狂う波のように、ひどく乱れているさま。秩序の乱れた社会や、大きな変動のたとえに使う。
サファイア sapphire (1) 鋼玉の一種。ガラス光沢をもち青藍色透明、時には淡い緑黄色のものもある。装飾に用いる宝石の一つ。青玉。(2) 青玉色。碧色。
秋爽やか さわやか ?
�Q々 きき 嬉々。(1) 喜び笑うさま。(2) 満足するさま。
メトロポール メトロポリス(metropolis)の仏・独語読み。
仮借 かしゃく (1) かりること。(2) みのがすこと。ゆるすこと。
孤棲 こせい ひとりで住むこと。世間から離れて、ひとりで生活すること。独居。
ヤツカ
神韻 しんいん 詩文などのきわめてすぐれたおもむき。
シネ クワ ノン
いねしめず しむ 尊敬の意。 しめず 否定。
粟粒結核 ぞくりゅう けっかく 結核菌が血行を介して身体各所の臓器に運搬され、そこに無数の粟粒大の結核結節を作る疾患。
旬日 じゅんじつ 10日間。10日ほど。
一に いつに (2) もっぱら。ひとえに。まったく。
高女 こうじょ 旧制の高等女学校の略称。
アダリン Adalin 催眠・鎮静剤として使われたジエチルブロムアセチル尿素の商品名。
精神分裂病 → 統合失調症
統合失調症 とうごう しっちょう しょう 妄想や幻覚などの症状を呈し、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる内因的精神病。多く青年期に発病し、破瓜型・緊張型・妄想型などがある。旧称、早発性痴呆・精神分裂病。
瞑目 めいもく (2) 死ぬこと。安らかに死ぬこと。
軽佻 けいちょう (「佻」も軽い意)落ち着きがなく、かるはずみなさま。
すがしい さわやかで気持ちがよいこと。すがすがしい。
汁液 じゅうえき
色価 しきか (仏)valeur の訳語。同一画面にある二つ以上の色彩相互間に見られる色相・明度・彩度の差異によっておこる対比関係。バリュー。
下描 したがき
文展 ぶんてん 1907年(明治40)に創設した文部省美術展覧会の略称。19年(大正8)帝国美術院が創設されて、その主催となる。
陋巷 ろうこう 狭くきたないちまた。むさくるしい町。
触目 しょくもく 目につくこと。目にとまること。また、目にふれるもの。
後屈症 こうくつしょう 子宮後屈のこと。正常の状態では前傾前屈を呈する子宮の体部が、頸部で後方に屈曲していること。妊娠しにくく、また妊娠しても流産しやすい。
オバホルモン
懇篤・悃篤 こんとく 親切で手厚いこと。ねんごろ。
豪宕 ごうとう 気性が雄大で小事にかかわらないこと。豪放。
不可言 ふかげん うまく表現することができないこと。また、そのさま。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


「精神分裂症」「看護婦」はそのままにしました。

 台風二号の去ったあと、ここ三日間、冷たい北風。震災直後に購入した一〇〇〇円スニーカーは、完全に水没。ゴム底に小石をはさみやすく、表面の合成皮も破れる。三か月もたなかった……。

 慈覚大師・円仁の没年を確認すると貞観6(864)1月。その年の7月に富士山噴火。出羽、元慶の乱が878(元慶2年3月)年。「夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡。夷俘は周辺に火を放った。出羽守藤原興世も逃亡」。翌年、藤原保則が反乱を鎮撫。貞観地震から一〇年。
 円仁没後の天台座主は、4世安慧、5世円珍。安慧が出羽国の講師に任じられたのは、さかのぼること844年(承和11)。
 安倍晴明の生年を確認すると延喜21(921)ごろとある。十和田湖噴火から六年。この時代の大江氏は、大江音人・大江千里・大江千古・大江維時。維時の孫が匡衡になる。
 清和天皇(天安・貞観)、陽成天皇(貞観・元慶)、光孝天皇(元慶・仁和)、宇多天皇(仁和・寛平)、醍醐天皇(寛平〜延長)、朱雀天皇(延長・承平・天慶)。




*次週予告


第三巻 第四五号 
ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉


第三巻 第四五号は、
六月四日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第四四号
智恵子抄(二)高村光太郎
発行:二〇一一年五月二八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
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出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

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第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
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キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。

第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  月末最終号:無料
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。

第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治 定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。

第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治 定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。

第三巻 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎 定価:200円
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  あどけない話

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
私はおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。


  千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子によってくる。
口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい―
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをパラパラ投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。

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