森 鴎外 もり おうがい
1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9)
作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。




◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。
◇表紙イラスト:葛飾北斎『北斎漫画』より。

もくじ 
山椒大夫 森 鴎外


ミルクティー*現代表記版
山椒大夫

オリジナル版
山椒大夫

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後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

*底本
底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card689.html

NDC 分類:913(日本文学/小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html




山椒大夫

森 鴎外


 越後えちご春日かすがをへて今津へ出る道を、めずらしい旅人の一群ひとむれが歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子どもを連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞はらから二人を、「もうじきに、お宿にお着きなさいます」と言ってはげまして歩かせようとする。二人のうちで、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気がっていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣ものまいりにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群ひとむれであるが、かさやらつえやらかいがいしい出立いでたちをしているのが、だれの目にもめずらしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家ひゃくしょうやえたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和あきびよりによくかわいて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのようにくるぶしをうずめて人を悩ますことはない。
 わらぶきの家が何軒も立ちならんだ一構ひとかまえがははその林にかこまれて、それに夕日がカッとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉もみじをごらん」と、先に立っていた母がゆびさして子どもに言った。
 子どもは母のゆびさす方を見たが、なんとも言わぬので、女中がいった。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
 姉娘が突然、弟をかえりみて言った。「早くお父さまのいらっしゃるところへ行きたいわね」
ねえさん。まだ、なかなかかれはしないよ」弟はさかしげに答えた。
 母がさとすように言った。「そうですとも。今まで越してきたような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては行かれないのだよ。毎日、精出せいだしておとなしく歩かなくては」
「でも早く行きたいのですもの」と、姉娘は言った。
 一群ひとむれはしばらく黙って歩いた。
 むこうから空桶からおけかついでくる女がある。塩浜しおはまから帰るしおくみ女である。
 それに女中が声をかけた。「もしもし。このへんに旅の宿をする家はありませんか?」
 潮くみ女は足をめて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人をとめてあげる所は一軒もありません」
 女中が言った。「それは本当ですか? どうしてそんなに人気じんきが悪いのでしょう?」
 二人の子どもは、はずんでくる対話の調子を気にして、潮くみ女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取りまいた形になった。
 潮くみ女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地ですが、国守くにのかみのおきてだからしかたがありません。もうあそこに……」と言いさして、女は今きた道をゆびさした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札たかふだが立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこのへんを立ちまわります。それで旅人に宿を貸して足をとめさせたものにはおとがめがあります。あたり七軒まきぞえになるそうです」
「それは困りますね。子ども衆もおいでなさるし、もうそう遠くまでは行かれません。どうにかしようはありますまいか」
「そうですね。わたしの通う塩浜のあるあたりまで、あなた方がおいでなさると、夜になってしまいましょう。どうもそこらでいい所を見つけて、野宿をなさるよりほか、しかたがありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休みなさるがいいでしょう。岸の石垣にぴったりよせて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川あらかわかみから流してきた材木です。昼間はその下で子どもが遊んでいますが、奥の方には日もささず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜の持ち主のところにいます。ついそこのははその森の中です。夜になったら、わらこもを持って行ってあげましょう」
 子どもらの母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、このとき潮くみ女のそばに進み寄って言った。「よい方に出逢であいましたのは、わたしどものしあわせでございます。そこへ行って休みましょう。どうぞわらこもをお借り申しとうございます。せめて、子どもたちにでも敷かせたりきせたりいたしとうございます」
 潮くみ女は受けあって、ははその林のほうへ帰って行く。主従四人は橋のあるほうへ急いだ。

   ―

 荒川にかけ渡した応化橋おうげのはしのたもとに一群ひとむれは来た。潮くみ女の言ったとおりに、新しい高札たかふだが立っている。書いてある国守くにのかみのおきても、女のことばにたがわない。
 人買いが立ちまわるなら、その人買いの詮議せんぎをしたらよさそうなものである。旅人に足をとめさせまいとして、行き暮れたものを路頭ろとうに迷わせるようなおきてを、国守くにのかみはなぜ定めたものか。ふつつかな世話の焼きようである。しかし昔の人の目にはおきてである。子どもらの母は、ただそういうおきてのある土地に来あわせた運命をなげくだけで、おきての善悪よしあしは思わない。
 橋のたもとに、河原へ洗濯におりるものの通う道がある。そこから一群ひとむれは河原におりた。なるほど、たいそうな材木が石垣に立てかけてある。一群ひとむれは石垣に沿うて材木の下へくぐって入った。男の子はおもしろがって、先に立って勇んで入った。
 奥深くもぐって入ると、洞穴ほらあなのようになった所がある。下には大きい材木が横になっているので、床を張ったようである。
 男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗って、一番すみへ入って、ねえさん、早くおいでなさい」と呼ぶ。
 姉娘はおそるおそる弟のそばへ行った。
「まあ、お待ちあそばせ」と女中が言って、背におっていた包みをおろした。そして着がえの衣類を出して、子どもをわきへ寄らせて、すみのところにしいた。そこへ親子をすわらせた。
 母親がすわると、二人の子どもが左右からすがりついた。岩代いわしろ信夫郡しのぶごおり住家すみかを出て、親子はここまでくるうちに、家の中ではあっても、この材木のかげより外らしい所に寝たことがある。不自由にもしだいにれて、もうさほどにはしない。
 女中の包みから出したのは衣類ばかりではない。用心に持っている食べ物もある。女中はそれを親子の前に出して置いて言った。「ここでは焚火たきびをいたすことはできません。もし悪い人に見つけられてはならぬからでございます。あの塩浜の持ち主とやらの家まで行って、お湯をもらってまいりましょう。そしてわらこものこともたのんでまいりましょう」
 女中はまめまめしく出て行った。子どもは楽しげにッュおこしごめやら、したくだものやらを食べはじめた。
 しばらくすると、この材木のかげへ人の入ってくる足音がした。姥竹うばたけかい?」と母親が声をかけた。しかし心のうちには、ははその森まで行って来たにしては、あまり早いと疑った。姥竹うばたけというのは女中の名である。
 入ってきたのは四十歳ばかりの男である。骨組みのたくましい、筋肉がひとつびとつ肌の上から数えられるほど脂肪の少ない人で、牙彫げぼりの人形のような顔にみをたたえて、手に数珠ずずを持っている。わが家を歩くようなれた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしている材木のはしに腰をかけた。
 親子は、ただおどろいて見ている。あたをしそうな様子も見えぬので、おそろしいとも思わぬのである。
 男はこんなことをいう。「わしは山岡大夫だゆうという船乗りじゃ。このごろ、この土地を人買いが立ちまわるというので、国守くにのかみが旅人に宿を貸すことを差し止めた。人買いをつかまえることは、国守の手に合わぬと見える。気の毒なは旅人じゃ。そこでわしは旅人を救うてやろうと思い立った。さいわい、わしが家は街道かいどうを離れているので、こっそり人をとめても、誰に遠慮もいらぬ。わしは人の野宿をしそうな森の中や橋の下をたずねまわって、これまで大勢の人を連れて帰った。見れば子ども衆が菓子を食べていなさるが、そんな物は腹のたしにはならいで、歯にさわる。わしがところではさしたる饗応もてなしはせぬが、芋粥いもがゆでも進ぜましょう。どうぞ遠慮せずに来てくだされい」男はしいてさそうでもなく、ひとりごとのように言ったのである。
 子どもの母はつくづく聞いていたが、世間のおきてにそむいてまでも人を救おうというありがたい志に感ぜずにはいられなかった。そこでこう言った。「うけたまわれば殊勝なおこころがけと存じます。貸すなというおきてのある宿を借りて、ひょっと宿主やどぬし難儀なんぎをかけようかと、それが気がかりでございますが、わたくしはともかくも、子どもらにぬくいおかゆでも食べさせて、屋根の下に休ませることができましたら、そのご恩はのちの世までも忘れますまい」
 山岡大夫だゆうはうなずいた。「さてさて、よう物のわかるご婦人じゃ。そんならすぐに案内をしてしんぜましょう」こういって立ちそうにした。
 母親は気の毒そうに言った。「どうぞ、すこしお待ちくださいませ。わたくしども三人がお世話せわになるさえ心苦しゅうございますのに、こんなことを申すのはいかがと存じますが、じつは今一人つれがございます」
 山岡大夫だゆうは耳をそばだてた。「つれがおありなさる。それは男か女子おなごか?」
「子どもたちの世話をさせにつれて出た女中でございます。湯をもらうと申して、街道を三、四町あとへ引き返してまいりました。もうほどなく帰ってまいりましょう」
「お女中かな。そんなら待って進ぜましょう」山岡大夫だゆうのおちついた、底の知れぬような顔に、なぜか喜びの影が見えた。

   ―

 ここは直江なおえの浦である。日はまだ米山よねやま背後うしろに隠れていて、紺青こんじょうのような海の上には薄いもやがかかっている。
 一群ひとむれの客を舟に載せてともづなを解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊まった主従四人の旅人である。
 応化橋おうげのはしの下で山岡大夫に出逢った母親と子ども二人とは、女中姥竹うばたけが欠けそんじた瓶子へいしに湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫だゆうにつれられて宿を借りに行った。姥竹うばたけは不安らしい顔をしながらついて行った。大夫は街道を南へ入った松林の中の草のに四人をとめて、芋粥いもがゆをすすめた。そしてどこからどこへ行く旅かと問うた。くたびれた子どもらを先へ寝させて、母は宿の主人あるじに身の上のおおよそを、かすかな灯火ともしびのもとで話した。
 自分は岩代いわしろのものである。夫が筑紫つくしへ行って帰らぬので、二人の子どもを連れてたずねにゆく。姥竹うばたけは姉娘の生まれたときからりをしてくれた女中で、身寄みよりのないものゆえ、遠い、おぼつかない旅のともをすることになったと話したのである。
 さて、ここまでは来たが、筑紫のはてへ行くことを思えば、まだ家を出たばかりといってよい。これからおかを行ったものであろうか。または船路ふなじを行ったものであろうか。主人あるじは船乗りであってみれば、さだめて遠国おんごくのことを知っているだろう。どうぞ教えてもらいたいと、子どもらの母がたのんだ。
 大夫だゆうは知れきったことを問われたように、すこしもためらわずに船路ふなじを行くことをすすめた。陸を行けば、じき、隣の越中の国に入るさかいにさえ、親不知おやしらず子不知こしらずの難所がある。削り立てたような巌石がんせきのすそには荒浪あらなみが打ちよせる。旅人は横穴に入って、波の引くのを待っていて、せまい巌石がんせきの下の道を走りぬける。そのときは親は子をかえりみることができず、子も親をかえりみることができない。それは海辺うみべの難所である。また山を越えると、まえた石が一つゆるげば、千尋ちひろの谷底に落ちるような、あぶない岨道そわみちもある。西国へ行くまでには、どれほどの難所があるかしれない。それとはちがって、船路ふなじは安全なものである。たしかな船頭にさえたのめば、いながらにして百里でも千里でも行かれる。自分は西国まで行くことはできぬが、諸国の船頭を知っているから、船に載せて出て、西国へ行く舟に乗りかえさせることができる。あすの朝はさっそく船に載せて出ようと、大夫はこともなげに言った。
 夜が明けかかると、大夫は主従四人をせきたてて家を出た。そのとき、子どもらの母は小さいふくろから金を出して、宿賃を払おうとした。大夫はとめて、宿賃はもらわぬ、しかし金の入れてある大切なふくろはあずかっておこうと言った。なんでも大切な品は、宿につけば宿の主人あるじに、舟に乗れば舟のぬしにあずけるものだというのである。
 子どもらの母は最初に宿を借ることをゆるしてから、主人の大夫だゆうのいうことを聴かなくてはならぬような勢いになった。おきてを破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何ごとによらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫のことばに人を押しつける強みがあって、母親はそれにあらがうことができぬからである。そのあらがうことのできぬのは、どこかおそろしいところがあるからである。しかし母親は、自分が大夫をおそれているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
 母親は余儀よぎないことをするような心持ちで舟に乗った。子どもらはいだ海の、青いかもをしいたようなおもてを見て、ものめずらしさに胸をおどらせて乗った。ただ姥竹うばたけが顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今、舟に乗るときまで、不安の色が消えせなかった。
 山岡大夫はともづなを解いた。さおで岸をひとおし押すと、舟はゆらめきつつ浮かび出た。

   ―

 山岡大夫だゆうはしばらく岸に沿うて南へ、越中境えっちゅうざかいの方角へこいで行く。もやはみるみる消えて、波が日にかがやく。
 人家のない岩陰いわかげに、波が砂を洗って、海松みる荒布あらめを打ち上げているところがあった。そこに舟が二そう止まっている。船頭が大夫を見て呼びかけた。
「どうじゃ。あるか?」
 大夫は右の手をあげて、大拇おやゆびを折って見せた。そして自分もそこへ舟をもやった。大拇おやゆびだけ折ったのは、四人あるという相図あいずである。
 前からいた船頭の一人は宮崎の三郎といって、越中宮崎のものである。左の手のこぶしを開いて見せた。右の手がしろものの相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文につけたのである。
気張きばるぞ」といま一人の船頭が言って、左のひじをつとべて、一度こぶしを開いて見せ、ついで示指ひとさしゆびをたてて見せた。この男は佐渡の二郎で六貫文につけたのである。
横着おうちゃく者奴ものめ!」と宮崎がさけんで立ちかかれば、こうとしたのはおぬしじゃ」と佐渡が身がまえをする。二そうの舟がかしいで、ふなばたが水をむちうった。
 大夫だゆうは二人の船頭の顔をややかに見くらべた。「あわてるな。どっちも空手からてではかえさぬ。お客さまがご窮屈きゅうくつでないように、お二人ずつわけて進ぜる。賃銭ちんせんはあとでつけた値段の割じゃ」こう言っておいて、大夫は客をかえりみた。「さあ、お二人ずつあの舟へお乗りなされ。どれも西国への便船じゃ。舟足というものは、重すぎては走りが悪い」
 二人の子どもは宮崎が舟へ、母親と姥竹うばたけとは佐渡が舟へ、大夫が手をとって乗り移らせた。移らせて引く大夫が手に、宮崎も佐渡もいくさしかの銭をにぎらせたのである。
「あの、主人あるじにおあずけなされたふくろは……」と、姥竹うばたけしゅうのそでを引くとき、山岡大夫は空舟をつと押し出した。
「わしはこれでおいとまをする。たしかな手からたしかな手へ渡すまでがわしの役じゃ。ごきげんようお越しなされ」
 の音がせわしくひびいて、山岡大夫の舟はみるみる遠ざかって行く。
 母親は佐渡に言った。「同じ道をこいで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
 佐渡と宮崎とは顔を見あわせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓ぐぜいの舟、着くは同じ彼岸かのきしと、蓮華れんげ峰寺ぶじ和尚おしょうが言うたげな」
 二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へこぐ。宮崎の三郎は南へこぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。
 母親はものぐるおしげにふなばたに手をかけて伸び上がった。「もうしかたがない。これがわかれだよ。安寿あんじゅは守り本尊の地蔵さまを大切におし。厨子王ずしおうはお父さまのくださったまもり刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。
 子どもはただ「おかあさま、お母さま」と呼ぶばかりである。
 舟と舟とはしだいに遠ざかる。うしろにはを待つひなのように、二人の子どもがあいた口が見えていて、もう声は聞こえない。
 姥竹うばたけは佐渡の二郎に「もし船頭さん、もしもし」と声をかけていたが、佐渡はかまわぬので、とうとう赤松のみきのような脚にすがった。「船頭さん。これはどうしたことでございます? あのおじょうさま、若さまに別れて、生きてどこへ行かれましょう。奥さまも同じことでございます。これから何をたよりにお暮らしなさいましょう。どうぞあの舟の行く方へこいで行ってくださいまし。後生でございます」
「うるさい」と佐渡はうしろざまにった。姥竹うばたけふなとこにたおれた。髪は乱れてふなばたにかかった。
 姥竹うばたけは身をおこした。「ええ。これまでじゃ。奥さま、ごめんくださいまし」こう言ってまっさかさまに海に飛び込んだ。
「こら!」と言って船頭はひじをさしのばしたが、まにあわなかった。
 母親はうちぎをぬいで佐渡が前へ出した。「これは粗末な物でございますが、お世話せわになったお礼にさしあげます。わたくしはもうこれでおいとまを申します」こういってふなばたに手をかけた。
「たわけが!」と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。「うぬまで死なせてなるものか。だいじなしろものじゃ」
 佐渡の二郎は牽コつなでを引き出して、母親をくるくる巻きにして転がした。そして北へ北へとこいで行った。

   ―

「お母さま! お母さま!」と呼び続けている姉と弟とを載せて、宮崎の三郎が舟は岸に沿うて南へ走って行く。「もう呼ぶな」と宮崎がしかった。「水の底の鱗介いろくずには聞こえても、あの女子おなごには聞こえぬ。女子どもは佐渡へ渡ってあわの鳥でもわせられることじゃろう」
 姉の安寿あんじゅと弟の厨子王ずしおうとは抱きあって泣いている。故郷を離れるも、遠い旅をするも母といっしょにすることだと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、二人はどうしていいかわからない。ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれだけ変わらせるか、そのほどさえわきまえられぬのである。
 ひるになって宮崎はもちを出して食った。そして安寿と厨子王とにも一つずつくれた。二人は餅を手に持って食べようともせず、目を見あわせて泣いた。夜は宮崎がかぶせたとまの下で、泣きながら寝入ねいった。
 こうして二人は幾日か舟にかし暮らした。宮崎は越中、能登のと越前えちぜん若狭わかさの津々浦々を売り歩いたのである。
 しかし二人が幼いのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうというものがない。たまに買い手があっても、値段の相談がととのわない。宮崎はしだいに機嫌をそんじて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。
 宮崎が舟はまわりまわって、丹後の由良ゆらの港にきた。ここには石浦いしうらというところに大きいやしきをかまえて、田畑に米麦べいばくを植えさせ、山ではかりをさせ、海ではすなどりをさせ、蚕飼こがいをさせ、機織はたおりをさせ、金物、陶物すえもの、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒さんしょう大夫だゆうという分限者ぶげんしゃがいて、人ならいくらでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のないしろものがあると、山椒さんしょう大夫がところへ持ってくることになっていた。
 港に出張でばっていた大夫の奴頭やっこがしらは、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、餓鬼がきどもをかたづけて身が軽うなった」といって、宮崎の三郎は受け取った銭をふところに入れた。そして波止場の酒店に入った。

   ―

 ひとかかえにあまる柱を立て並べて造った大廈おおいえの奥深い広間に一間四方の炉を切らせて、炭火がおこしてある。そのむこうにしとねを三枚かさねてしいて、山椒さんしょう大夫はおしまずきにもたれている。左右には二郎、三郎の二人の息子が狛犬こまいぬのようにならんでいる。もと大夫だゆうには三人の男子があったが、太郎は十六歳のとき、逃亡をくわだてて捕らえられたやっこに、父が手ずから烙印やきいんをするのをじっと見ていて、一言ひとことも物をいわずに、ふいと家を出て行方ゆくえが知れなくなった。今から十九年前のことである。
 奴頭やっこがしら安寿あんじゅ厨子王ずしおうをつれて前へ出た。そして二人の子どもに辞儀じぎをせいと言った。
 二人の子どもは奴頭のことばが耳に入らぬらしく、ただ目をみはって大夫を見ている。今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広くあごが張って、髪もひげも銀色に光っている。子どもらはおそろしいよりは不思議がって、じっとその顔を見ているのである。
 大夫だゆうは言った。「買うてきた子どもはそれか。いつも買うやっこと違うて、何に使うてよいかわからぬ、珍しい子どもじゃというから、わざわざつれて来させてみれば、色のあおざめた、か細いわらわどもじゃ。何に使うてよいかは、わしにもわからぬ」
 そばから三郎が口を出した。末の弟ではあるが、もう三十になっている。「いやお父っさん。さっきから見ていれば、辞儀じぎをせいといわれても辞儀もせぬ。ほかの奴のように名のりもせぬ。弱々よわよわしゅう見えてもしぶとい者どもじゃ。奉公はじめは男が柴刈しばかり、女が汐汲しおくみときまっている。そのとおりにさせなされい」
「おっしゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」と、奴頭やっこがしらがいった。
 大夫は嘲笑あざわらった。おろか者と見える。名はわしがつけてやる。姉はいたつきを垣衣しのぶぐさ、弟はわが名を萱草わすれぐさじゃ。垣衣しのぶぐさは浜へ行って、日に三の潮をくめ。萱草わすれぐさは山へ行って日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うしてとらせる」
 三郎が言った。「過分のいたわりようじゃ。こりゃ、奴頭やっこがしら。早くつれてさがって道具をわたしてやれ」
 奴頭は二人の子どもを新参小屋につれて行って、安寿にはおけひさご、厨子王にはかごかまをわたした。どちらにも午餉ひるげを入れる�子かれいけがそえてある。新参小屋はほかの奴婢ぬひの居所とは別になっているのである。
 奴頭が出て行くころには、もうあたりが暗くなった。このいえには灯火あかりもない。

   ―

 翌日の朝はひどく寒かった。ゆうべは小屋に備えてあるふすま〔夜具。があまりきたないので、厨子王ずしおうこもをさがしてきて、舟でとまをかずいたように、二人でかずいて寝たのである。〔かずく=頭にかぶる。
 きのう奴頭やっこがしらに教えられたように、厨子王は�子かれいけを持ってくりやかれい乾飯かれいいを受け取りに行った。屋根の上、地にちらばったわらの上には霜が降っている。くりやは大きい土間で、もう大勢の奴婢ぬひが来て待っている。男と女とは受け取る場所がちがうのに、厨子王は姉のと自分のともらおうとするので、一度はしかられたが、あすからはめいめいがもらいにくるとちかって、ようよう�子かれいけのほかに、面桶めんつうに入れたかたかゆと、木のまりに入れた湯との二人前をも受け取った。かたかゆは塩を入れてかしいである。
 姉と弟とは朝餉あさげを食べながら、もうこうした身の上になっては、運命のもとにうなじかがめるよりほかはないと、けなげにも相談した。そして姉は浜辺へ、弟は山路をさして行くのである。大夫だゆうやしきの三の木戸、二の木戸、一の木戸をいっしょに出て、二人は霜をふんで、見返りがちに左右へ別れた。
 厨子王が登る山は由良ゆらたけのすそで、石浦いしうらからは少し南へ行って登るのである。柴をるところは、ふもとから遠くはない。ところどころ紫色の岩のあらわれている所を通って、やや広い平地に出る。そこに雑木ぞうきがしげっているのである。
 厨子王は雑木林の中に立ってあたりを見まわした。しかし柴はどうしてるものかと、しばらくは手をつけかねて、朝日に霜のけかかる、しとねのような落ち葉の上に、ぼんやりすわって時をすごした。ようよう気をとりなおして、一枝二枝るうちに、厨子王は指をいためた。そこでまた落ち葉の上にすわって、山でさえこんなに寒い、浜辺に行った姉さまは、さぞ潮風が寒かろうと、ひとり涙をこぼしていた。
 日がよほど昇ってから、柴をせおってふもとへ降りる、ほかのきこりが通りかかって、「お前も大夫だゆうのところのやつか、柴は日に何荷、るのか?」と問うた。
「日に三荷かるはずの柴を、まだすこしもりませぬ」と厨子王は正直に言った。
「日に三荷の柴ならば、ひるまでに二荷るがいい。柴はこうしてるものじゃ」きこりはわが荷をおろしておいて、すぐに一荷ってくれた。
 厨子王は気をとりなおして、ようようひるまでに一荷り、ひるからまた一荷った。
 浜辺に行く姉の安寿あんじゅは、川の岸を北へ行った。さて潮をくむ場所に降り立ったが、これもしおのくみようを知らない。心で心をはげまして、ようようひさごをおろすやいなや、波がひさごを取って行った。
 となりでんでいる女子おなごが、手早くひさごを拾ってもどした。そしてこう言った。しおはそれではまれません。どれ、みようを教えてあげよう。右手めてひさごでこうくんで、左手ゆんでおけでこう受ける」とうとう一荷んでくれた。
「ありがとうございます。みようが、あなたのおかげで、わかったようでございます。自分ですこしんでみましょう」安寿はしおみおぼえた。
 となりでんでいる女子は、無邪気な安寿が気に入った。二人は午餉ひるげを食べながら、身の上をうちあけて、姉妹きょうだいちかいをした。これは伊勢の小萩こはぎといって、二見浦ふたみがうらから買われてきた女子である。
 最初の日はこんなぐあいに、姉が言いつけられた三荷の潮も、弟が言いつけられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進かんじんを受けて、日の暮れまでに首尾よく調ととのった。

   ―

 姉は潮をくみ、弟は柴をって、一日ひとひ一日ひとひと暮らしていった。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮れを待って小屋に帰れば、二人は手をとりあって、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。
 とかくするうちに十日たった。そして新参小屋をあけなくてはならぬときがきた。小屋をあければ、やっこは奴、はしためは婢の組に入るのである。
 二人は死んでも別れぬといった。奴頭やっこがしら大夫だゆうに訴えた。
 大夫は言った。「たわけた話じゃ。やっこやっこの組へ引きずってゆけ。はしためは婢の組へ引きずってゆけ」
 奴頭がうけたまわってたとうとしたとき、二郎がかたわらから呼び止めた。そして父に言った。「おっしゃるとおりにわらべどもを引き分けさせてもよろしゅうございますが、童どもは死んでも別れぬと申すそうでございます。おろかなものゆえ、死ぬるかもしれません。る柴はわずかでも、くむ潮はいささかでも、人手をらすのは損でございます。わたくしがいいようにはからってやりましょう」
「それもそうか。損になることはわしも嫌いじゃ。どうにでも勝手にしておけ」大夫だゆうはこういって脇へ向いた。
 二郎は三の木戸に小屋をかけさせて、姉と弟とをいっしょに置いた。
 ある日の暮れに二人の子どもは、いつものように父母のことを言っていた。それを二郎が通りかかって聞いた。二郎はやしきを見まわって、強い奴が弱い奴をしえたげたり、いさかいをしたり、盗みをしたりするのを取りまっているのである。
 二郎は小屋に入って二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれよりまた遠い。子どもの行かれる所ではない。父母にあいたいなら、大きゅうなる日を待つがよい」こういって出て行った。
 ほどてまたある日の暮れに、二人の子どもは父母のことを言っていた。それを今度は三郎が通りかかって聞いた。三郎は寝鳥ねとりを取ることが好きでやしきのうちの木立ち木立ちを、手に弓矢を持って見まわるのである。
 二人は父母のことを言うたびに、どうしようか、こうしようかと、いたさのあまりに、あらゆる手だてを話しあって夢のような相談をもする。きょうは姉がこう言った。「大きくなってからでなくては、遠い旅ができないというのは、それは当り前のことよ。わたしたちは、そのできないことがしたいのだわ。だが、わたしよく思ってみると、どうしても二人いっしょにここを逃げ出してはダメなの。わたしにはかまわないで、おまえ一人で逃げなくては。そして先へ筑紫の方へ行って、お父さまにお目にかかって、どうしたらいいかうかがうのだね。それから佐渡へお母さまのお迎えに行くがいいわ」三郎が立ち聞きをしたのは、あいにくこの安寿のことばであった。
 三郎は弓矢を持って、つと小屋のうちに入った。
「こら。おぬしたちは逃げる談合をしておるな。逃亡のくわだてをしたものには烙印やきいんをする。それがこのやしきのおきてじゃ。あかうなった鉄は熱いぞよ。
 二人の子どもはさおになった。安寿は三郎が前に進み出ていった。「あれはうそでございます。弟が一人で逃げたって、まあ、どこまで行かれましょう。あまり親にいたいので、あんなことを申しました。こないだも弟といっしょに、鳥になって飛んで行こうと申したこともございます。出放題でございます」
 厨子王は言った。ねえさんのいうとおりです。いつでも二人で今のような、できないことばかし言って、父母の恋しいのをまぎらしているのです」
 三郎は二人の顔を見くらべて、しばらくのあいだ黙っていた。「ふん。うそなら嘘でもいい。おぬしたちがいっしょにおって、なんの話をするということを、おれがたしかに聞いておいたぞ」こう言って三郎は出て行った。
 その晩は二人が気味悪く思いながら寝た。それからどれだけ寝たかわからない。二人はふと物音を聞きつけて目をさました。今の小屋にきてからは、灯火ともしびを置くことがゆるされている。そのかすかな明かりで見れば、枕もとに三郎が立っている。三郎は、つと寄って、両手で二人の手をつかまえる。そして引き立てて戸口を出る。蒼ざめた月をあおぎながら、二人は目見めみえのときに通った、広い馬道めどうをひかれて行く。はしを三段登る。ほそどのを通る。めぐりめぐって先の日に見た広間に入る。そこには大勢の人が黙ってならんでいる。三郎は二人を炭火の真っ赤におこった炉の前まで引きずって出る。二人は小屋で引き立てられたときから、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい」と言っていたが、三郎は黙って引きずって行くので、しまいには二人も黙ってしまった。炉の向かい側にはしとね三枚をかさねてしいて、山椒さんしょう大夫だゆうがすわっている。大夫の赤顔が、座の右左にいてある炬火たてあかしりかえして、燃えるようである。三郎は炭火の中から、赤く焼けているひばしを抜き出す。それを手に持って、しばらく見ている。はじめ、透きとおるように赤くなっていた鉄が、しだいに黒ずんでくる。そこで三郎は安寿あんじゅを引きよせて、火揩顔にあてようとする。厨子王はそのひじにからみつく。三郎はそれをたおして右のひざに敷く。とうとう火揩安寿のひたいに十文字にあてる。安寿の悲鳴が一座の沈黙をやぶって響きわたる。三郎は安寿をつきはなして、ひざの下の厨子王をひきおこし、そのひたいにも火揩十文字にあてる。新たにひびく厨子王の泣き声が、ややかすかになった姉の声にまじる。三郎は火揩すてて、はじめ二人をこの広間へ連れてきたときのように、また二人の手をつかまえる。そして一座を見渡したのち、広い母屋おもやをまわって、二人を三段のはしのところまで引き出し、こおった土の上につきおとす。二人の子どもはきずの痛みと心のおそれとに気を失いそうになるのを、ようようえしのんで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家こやに帰る。臥所ふしどの上にたおれた二人は、しばらく死骸しがいのように動かずにいたが、たちまち厨子王が「ねえさん、早くお地蔵さまを」とさけんだ。安寿はすぐに起きなおって、はだまもぶくろを取り出した。わななく手にひもを解いて、袋から出した仏像を枕もとにすえた。二人は右左にぬかずいた。そのとき歯をくいしばってもこらえられぬひたいの痛みが、かき消すように失せた。てのひらで額をなでてみれば、きずあともなくなった。ハッと思って、二人は目をさました。
 二人の子どもは起きなおって夢の話をした。同じ夢を同じときに見たのである。安寿は守り本尊を取り出して、夢ですえたと同じように枕もとにすえた。二人はそれをふしおがんで、かすかな灯火ともしびの明かりにすかして地蔵尊の額を見た。白毫びゃくごうの右左に、たがねで彫ったような十文字のきずがあざやかに見えた。

   ―

 二人の子どもが話を三郎に立ち聞きせられて、その晩おそろしい夢を見たときから、安寿あんじゅの様子がひどく変わってきた。顔にはひきしまったような表情があって、まゆの根にはしわが寄り、目ははるかに遠いところを見つめている。そして物を言わない。日の暮れに浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんなときにも詞少ことばすくなにしている。厨子王ずしおうが心配して、ねえさん、どうしたのです?」というと「どうもしないの、だいじょうぶよ」といって、わざとらしく笑う。
 安寿の前と変わったのはただこれだけで、いうことが間違ってもおらず、することも平生へいぜいのとおりである。しかし厨子王はたがいになぐさめもし、なぐさめられもした一人の姉が、変わった様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰にうちあけて話すこともできない。二人の子どもの境界きょうがいは、前よりいっそうさびしくなったのである。
 雪が降ったりやんだりして、年が暮れかかった。やっこはしためも外に出る仕事をやめて、家の中で働くことになった。安寿は糸をつむぐ。厨子王はわらをうつ。わらをうつのは修行はいらぬが、糸をつむぐのはむずかしい。それを夜になると伊勢の小萩こはぎがきて、手伝ったり教えたりする。安寿は弟に対する様子が変わったばかりでなく、小萩こはぎに対しても詞少ことばすくなになって、ややもすると不愛想をする。しかし小萩こはぎは機嫌を損せずに、いたわるようにしてつきあっている。
 山椒さんしょう大夫だゆうやしきの木戸にも松が立てられた。しかし、ここの年のはじめはなんの晴れがましいこともなく、またうから女子おなごたちは奥深く住んでいて、出入りすることがまれなので、にぎわしいこともない。ただかみしもも酒を飲んで、奴の小屋にはいさかいがおこるだけである。常はいさかいをすると、きびしく罰せられるのに、こういうときは奴頭やっこがしら大目おおめに見る。血を流しても知らぬ顔をしていることがある。どうかすると、殺されたものがあってもかまわぬのである。
 さびしい三の木戸の小屋へは、おりおり小萩こはぎが遊びにきた。はしための小屋のにぎわしさを持ってきたかと思うように、小萩こはぎが話している間は、陰気な小屋も春めいて、このごろ様子の変わっている安寿の顔にさえ、めったに見えぬほほえみの影がうかぶ。
 三日立つと、また家の中の仕事がはじまった。安寿は糸をつむぐ。厨子王はわらをうつ。もう夜になって小萩はぎがきても、手伝うにおよばぬほど、安寿は紡錘つむをまわすことにれた。様子は変わっていても、こんな静かな、同じことをくりかえすような仕事をするにはさしつかえなく、また仕事がかえって一向ひとむきになった心をちらし、おちつきを与えるらしく見えた。姉と前のように話をすることのできぬ厨子王は、つむいでいる姉に、小萩こはぎがいて物を言ってくれるのが、なによりも心強く思われた。

   ―

 水がぬるみ、草がえるころになった。あすからは外の仕事がはじまるという日に、二郎がやしきを見まわるついでに、三の木戸の小屋にきた。「どうじゃな。あす、仕事に出られるかな。大勢の人のうちには病気でおるものもある。奴頭やっこがしらの話を聞いたばかりではわからぬから、きょうは小屋小屋をみな見てまわったのじゃ」
 わらをうっていた厨子王ずしおうが返事をしようとして、まだことばを出さぬ間に、このごろの様子にも似ず、安寿あんじゅが糸をつむぐ手を止めて、つと二郎の前に進み出た。「それについてお願いがございます。わたくしは弟と同じ所で仕事がいたしとうございます。どうかいっしょに山へやってくださるように、お取りはからいなすってくださいまし」蒼ざめた顔にくれないがさして、目がかがやいている。
 厨子王は、姉の様子が二度目に変わったらしく見えるのにおどろき、また自分になんの相談もせずにいて、突然、柴刈しばかりに行きたいというのをもいぶかしがって、ただ目をみはって姉をまもっている。
 二郎は物をいわずに、安寿の様子をじっと見ている。安寿は「ほかにない、ただ一つのお願いでございます。どうぞ山へおやりなすって」とくりかえして言っている。
 しばらくして二郎は口を開いた。「このやしきでは奴婢ぬひのなにがしになんの仕事をさせるということは重いことにしてあって、父がみずからきめる。しかし垣衣しのぶぐさ、お前の願いはよくよく思い込んでのことと見える。わしが受けあって取りなして、きっと山へ行かれるようにしてやる。安心しているがいい。まあ、二人の幼いものが無事に冬をすごしてよかった」こういって小屋を出た。
 厨子王はきねを置いて姉のそばに寄った。ねえさん、どうしたのです? それはあなたがいっしょに山へ来てくださるのは、わたしもうれしいが、なぜ、だしぬけに頼んだのです? なぜ、わたしに相談しません?」
 姉の顔はよろこびにかがやいている。「ほんにそうお思いのはもっともだが、わたしだってあの人の顔を見るまで、たのもうとは思っていなかったの。ふいと思いついたのだもの」
「そうですか。変ですなあ」厨子王は珍しい物を見るように姉の顔をながめている。
 奴頭やっこがしらかごかまとを持って入ってきた。垣衣しのぶぐささん。お前にしおくみをよさせて、柴をりにやるのだそうで、わしは道具を持ってきた。かわりにおけひさごをもらって行こう」
「これはどうもお手数てかずでございました」安寿は身軽に立って、おけひさごとを出して返した。
 奴頭はそれを受け取ったが、まだ帰りそうにはしない。顔には一種の苦笑にがわらいのような表情があらわれている。この男は山椒大夫一家いっけのものの言いつけを、神の託宣たくせんを聴くように聴く。そこでずいぶん情けない、苛酷こくなことをもためらわずにする。しかし生得しょうとく、人のもだえ苦しんだり、泣きさけんだりするのを見たがりはしない。物事がおだやかに運んで、そんなことを見ずにすめば、その方が勝手である。今の苦笑いのような表情は人に難儀なんぎをかけずにはすまぬとあきらめて、何か言ったり、したりするときに、この男の顔にあらわれるのである。
 奴頭は安寿に向いて言った。「さて、いまひとつ用事があるて。じつはお前さんを柴刈しばかりにやることは、二郎さまが大夫だゆうさまに申し上げてこしらえなさったのじゃ。するとその座に三郎さまがおられて、そんなら垣衣しのぶぐさ大童おおわらわにして山へやれとおっしゃった。大夫だゆうさまは、よい思いつきじゃとお笑いなされた。そこでわしはお前さんの髪をもろうて行かねばならぬ」
 そばで聞いている厨子王は、このことばを胸をされるような思いをして聞いた。そして目に涙を浮かべて姉を見た。
 意外にも安寿の顔からはよろこびの色が消えなかった。「ほんにそうじゃ。柴刈しばかりに行くからは、わたしも男じゃ。どうぞこのかまで切ってくださいまし」安寿は奴頭の前にうなじをのばした。
 光沢つやのある、長い安寿の髪が、するどいかまのひときにさっくり切れた。

   ―

 あくる朝、二人の子どもは背にかごをおい、腰にかまをさして、手を引きあって木戸を出た。山椒さんしょう大夫だゆうのところに来てから、二人いっしょに歩くのはこれがはじめである。
 厨子王ずしおうは姉の心をはかりかねて、さびしいような、悲しいような思いに胸がいっぱいになっている。きのうも奴頭やっこがしらの帰ったあとで、いろいろにことばを設けてたずねたが、姉はひとりで何ごとをか考えているらしく、それをあからさまには打ちあけずにしまった。
 山のふもとに来たとき、厨子王はこらえかねて言った。ねえさん。わたしはこうして久しぶりでいっしょに歩くのだから、うれしがらなくてはならないのですが、どうも悲しくてなりません。わたしはこうして手を引いていながら、あなたの方へ向いて、その禿かぶろになったおつむりを見ることができません。ねえさん。あなたはわたしに隠して、なにか考えていますね。なぜそれをわたしに言って聞かせてくれないのです?」
 安寿あんじゅはけさも毫光ごうこうのさすようなよろこびをひたいにたたえて、大きい目をかがやかしている。しかし弟のことばには答えない。ただ、引き合っている手に力を入れただけである。
 山に登ろうとするところに沼がある。みぎわには去年見たときのように、あしが縦横に乱れているが、道ばたの草には黄ばんだ葉の間に、もう青い芽の出たのがある。沼のほとりから右に折れて登ると、そこに岩のすきまから清水のわく所がある。そこを通りすぎて、岩壁を右に見つつ、うねった道を登って行くのである。
 ちょうど岩のおもてに朝日が一面にさしている。安寿はかさなり合った岩の、風化した間に根をおろして、小さいスミレのいているのを見つけた。そして、それをゆびさして厨子王に見せて言った。「ごらん。もう春になるのね」
 厨子王は黙ってうなずいた。姉は胸に秘密をたくわえ、弟はうれえばかりを抱いているので、とかく受けこたえができずに、話は水が砂にしみこむようにとぎれてしまう。
 去年柴をった木立ちのほとりに来たので、厨子王は足をとどめた。「ねえさん。ここらでるのです」
「まあ、もっと高いところへ登ってみましょうね」安寿は先に立ってずんずん登って行く。厨子王はいぶかりながらついて行く。しばらくして雑木林よりはよほど高い、外山とやまいただきともいうべき所にきた。
 安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。目は、石浦いしうらをへて由良の港にそそぐ大雲川おおくもがわの上流をたどって、一里ばかりへだたった川向かいに、こんもりとしげった木立ちの中から、塔のさきの見える中山に止まった。そして「厨子王や」と弟をよびかけた。「わたしが久しい前から考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もう、きょうは柴なんぞはらなくてもいいから、わたしの言うことをよくお聞き。小萩こはぎは伊勢から売られてきたので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して行けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ行くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと行かれます。お母さまとごいっしょに岩代いわしろを出てから、わたしどもはおそろしい人にばかり出逢であったが、人の運が開けるものなら、よい人に出逢であわぬにもかぎりません。お前はこれから思いきって、この土地を逃げのびて、どうぞ都へ登っておくれ。神仏かみほとけのお導きで、よい人にさえ出逢であったら、筑紫へおくだりになったお父さまのお身の上も知れよう。佐渡へお母さまのお迎えに行くこともできよう。かごかまはすてておいて、�子かれいけだけ持って行くのだよ」
 厨子王は黙って聞いていたが、涙がほおをつたって流れてきた。「そして、ねえさん、あなたはどうしようというのです?」
「わたしのことはかまわないで、お前一人ですることを、わたしといっしょにするつもりでしておくれ。お父さまにもお目にかかり、お母さまをも島からお連れ申したうえで、わたしを助けに来ておくれ」
「でも、わたしがいなくなったら、あなたをひどい目にあわせましょう」厨子王が心には烙印やきいんをせられた、おそろしい夢が浮かぶ。
「それはいじめるかもしれないがね、わたしは我慢がまんしてみせます。金で買ったはしためをあの人たちは殺しはしません。たぶん、お前がいなくなったら、わたしを二人前、働かせようとするでしょう。お前の教えてくれた木立ちの所で、わたしは柴をたくさんります。六荷まではれないでも、四荷でも五荷でもりましょう。さあ、あそこまで降りて行って、かごかまをあそこに置いて、お前をふもとへ送ってあげよう」こういって安寿は先に立って降りて行く。
 厨子王はなんとも思いさだめかねて、ぼんやりしてついて降りる。姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、そのうえ物にかれたように、さとさかしくなっているので、厨子王は姉のことばにそむくことができぬのである。
 木立ちの所まで降りて、二人はかごかまとを落ち葉の上に置いた。姉は守り本尊を取り出して、それを弟の手にわたした。「これは大事なおまもりだが、こんどうまでお前にあずけます。この地蔵さまをわたしだと思って、まもり刀といっしょにして、大事に持っていておくれ」
「でも、ねえさんにおまもりがなくては……」
「いいえ。わたしよりはあぶない目にうお前におまもりをあずけます。晩にお前が帰らないと、きっと討手うってがかかります。お前がいくら急いでも、あたりまえに逃げて行っては、追いつかれるにきまっています。さっき見た川の上手かみて和江わえという所まで行って、首尾よく人に見つけられずに、向こう河岸へ越してしまえば、中山までもう近い。そこへ行ったら、あの塔の見えていたお寺に入って隠しておもらい。しばらくあそこに隠れていて、討手うってが帰ってきたあとで、寺を逃げておいで」
「でも、お寺の坊さんが隠しておいてくれるでしょうか?」
「さあ、それが運験うんだめしだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれましょう」
「そうですね。ねえさんのきょうおっしゃることは、まるで神さまか仏さまがおっしゃるようです。わたしは考えを決めました。なんでもねえさんのおっしゃるとおりにします」
「おう、よく聴いておくれだ。坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます」
「そうです。わたしにもそうらしく思われてきました。逃げて都へも行かれます。お父さまやお母さまにも逢われます。ねえさんのお迎えにも来られます」厨子王の目が、姉と同じようにかがやいてきた。
「さあ、ふもとまでいっしょに行くから、早くおいで」
 二人は急いで山を降りた。足の運びも前とはちがって、姉の熱した心持ちが、暗示のように弟に移って行ったかと思われる。
 泉のわくところへきた。姉は�子かれいけにそえてある木のまりを出して、清水をくんだ。「これがお前の門出かどでを祝うお酒だよ」こう言ってひとくち飲んで、弟にさした。
 弟はまりを飲みほした。「そんならねえさん、ごきげんよう。きっと人に見つからずに、中山までまいります」
 厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、ひと走りにかけおりて、沼に沿うて街道に出た。そして大雲川おおくもがわの岸を上手へ向かって急ぐのである。
 安寿は泉のほとりに立って、並木なみきの松に隠れてはまた現われるうしろ影を、小さくなるまで見送った。そして日はようやくひるに近づくのに、山に登ろうともしない。さいわいにきょうはこの方角の山で木をる人がないと見えて、坂道に立って時をすごす安寿を見とがめるものもなかった。
 のちに同胞はらからをさがしに出た、山椒さんしょう大夫だゆう一家の討手うってが、この坂の下の沼のはたで、小さい藁履わらぐつを一そく拾った。それは安寿のくつであった。

   ―

 中山の国分寺こくぶじの三門に、松明たいまつの火影が乱れて、大勢の人がこみ入ってくる。先に立ったのは、白柄しらつか薙刀なぎなた手挟たはさんだ、山椒さんしょう大夫だゆうの息子三郎である。
 三郎は堂の前に立って大声に言った。「これへ参ったのは、石浦いしうらの山椒大夫がうからのものじゃ。大夫が使うやっこの一人が、この山に逃げ込んだのを、たしかに認めたものがある。隠れ場は寺内よりほかにはない。すぐにここへ出してもらおう」ついてきた大勢が、「さあ、出してもらおう、出してもらおう」とさけんだ。
 本堂の前から門の外まで、広い石畳いしだたみが続いている。その石の上には、今、手に手に松明たいまつを持った、三郎が手のものが押しあっている。また石畳いしだたみの両側には、境内に住んでいるかぎりの僧俗が、ほとんど一人も残らずむらがっている。これは討手うっての群れが門外で騒いだとき、内陣からも、庫裡くりからも、何ごとがおこったかと、怪しんで出てきたのである。
 はじめ討手うってが門外から門をあけいとさけんだとき、あけて入れたら、乱暴をせられはすまいかと心配して、あけまいとした僧侶が多かった。それを住持曇猛どんみょう律師りっしがあけさせた。しかし今、三郎が大声で、逃げた奴を出せというのに、本堂は戸を閉じたまま、しばらくの間ひっそりとしている。
 三郎は足ぶみをして、同じことを二、三度くりかえした。手のもののうちから「和尚さん、どうしたのだ!」と呼ぶものがある。それに短い笑い声がまじる。
 ようようのことで本堂の戸が静かに開いた。曇猛どんみょう律師が自分で開けたのである。律師は偏衫へんさんひとつ身にまとって、なんの威儀をもつくろわず、常灯明の薄明うすあかりを背にして本堂のはしの上に立った。たけの高い巌畳がんじょうな体と、まゆのまだ黒いかどった顔とが、ゆらめく火にらし出された。律師はまだ五十歳を越したばかりである。
 律師はしずかに口をひらいた。騒がしい討手うってのものも、律師の姿を見ただけで黙ったので、声はすみずみまで聞こえた。「逃げた下人げにんをさがしにこられたのじゃな。当山では住持じゅうじのわしに言わずに人はとめぬ。わしが知らぬから、そのものは当山にいぬ。それはそれとして、夜陰やいん剣戟けんげきをとって、多人数押し寄せてまいられ、三門を開けといわれた。さては国に大乱でもおこったか、おおやけ反逆人はんぎゃくにんでもできたかと思うて、三門をあけさせた。それになんじゃ。御身おんみが家の下人の詮議せんぎか。当山は勅願の寺院で、三門には勅額をかけ、七重の塔には宸翰しんかん金字こんじの経文がおさめてある。ここで狼藉ろうぜきを働かれると、国守くにのかみ検校けんぎょうの責めを問われるのじゃ。また総本山東大寺に訴えたら、都からどのような御沙汰があろうも知れぬ。そこをよう思うてみて、早う引き取られたがよかろう。悪いことは言わぬ。お身たちのためじゃ」こう言って律師はしずかに戸をしめた。
 三郎は本堂の戸をにらんでがみをした。しかし戸を打ち破ってみこむだけの勇気もなかった。手のものどもは、ただ風に木の葉のざわつくようにささやきかわしている。
 このとき大声でさけぶものがあった。「その逃げたというのは十二、三の小わっぱじゃろう。それならわしが知っておる」
 三郎はおどろいて声のぬしを見た。父の山椒さんしょう大夫だゆうに見まごうような親爺おやじで、この寺の鐘楼守しゅろうもりである。親爺おやじことばいで言った。「そのわっぱはな、わしがひるごろ鐘楼から見ておると、築泥ついじの外を通って南へ急いだ。かよわいかわりには身が軽い。もうだいぶの道を行ったじゃろ」
「それじゃ! 半日に童の行く道は知れたものじゃ。続け!」といって三郎は取って返した。
 松明たいまつの行列が寺の門を出て、築泥ついじの外を南へ行くのを、鐘楼守は鐘楼から見て、大声で笑った。近い木立ちの中で、ようようおちついて寝ようとしたカラスが二、三羽またおどろいて飛び立った。

   ―

 あくる日に国分寺からは諸方へ人が出た。石浦いしうらに行ったものは、安寿あんじゅ入水じゅすいのことを聞いてきた。南の方へ行ったものは、三郎のひきいた討手うって田辺たなべまで行って引き返したことを聞いてきた。
 中二日おいて、曇猛どんみょう律師が田辺の方へ向いて寺を出た。たらいほどある鉄の受糧器じゅりょうきを持って、腕の太さの錫杖しゃくじょうをついている。あとからは頭をそりこくって三衣さんえを着た厨子王ずしおうがついて行く。
 二人は真昼に街道を歩いて、夜は所々の寺に泊まった。山城の朱雀野しゅじゃくのに来て、律師は権現堂に休んで、厨子王に別れた。「守り本尊を大切にして行け。父母の消息はきっと知れる」と言い聞かせて、律師はくびすをめぐらした。亡くなった姉と同じことをいう坊さまだと、厨子王は思った。
 都にのぼった厨子王は、僧形そうぎょうになっているので、東山ひがしやま清水寺きよみずでらに泊まった。
 籠堂こもりどうに寝て、あくる朝目がさめると、直衣のうし烏帽子えぼしを着て指貫さしぬきをはいた老人が、枕もとに立っていて言った。「お前はだれの子じゃ? なにか大切な物を持っているなら、どうぞおれに見せてくれい。おれは娘の病気の平癒へいゆを祈るために、ゆうべここに参籠さんろうした。すると夢にお告げがあった。左の格子こうしに寝ているわらわがよい守り本尊を持っている。それを借りて拝ませいということじゃ。けさ、左の格子にきてみれば、お前がいる。どうぞおれに身の上をあかして、守り本尊を貸してくれい。おれは関白師実もろざねじゃ」
 厨子王は言った。「わたくしは陸奥掾むつのじょう正氏まさうじというものの子でございます。父は十二年前に筑紫の安楽寺あんらくじへ行ったきり、帰らぬそうでございます。母はその年に生まれたわたくしと、三つになる姉とを連れて、岩代いわしろ信夫郡しのぶごおりに住むことになりました。そのうちわたくしがだいぶ大きくなったので、姉とわたくしとを連れて、父をたずねに旅立ちました。越後まで出ますと、おそろしい人買いに取られて、母は佐渡へ、姉とわたくしとは丹後の由良へ売られました。姉は由良で亡くなりました。わたくしの持っている守り本尊はこの地蔵さまでございます」こういって守り本尊を出して見せた。
 師実もろざねは仏像を手に取って、まず額にあてるようにして礼をした。それから面背めんぱいを打ち返しうちかえし、ていねいに見て言った。「これはかねて聞きおよんだ、尊い放光王ほうこうおう地蔵菩薩じぞうぼさつ金像こんぞうじゃ。百済国くだらのくにから渡ったのを、高見王たかみおう持仏じぶつにしておいでなされた。これを持ち伝えておるからは、お前の家柄にまぎれはない。仙洞せんとう太上だじょう天皇、上皇の称。がまだ御位みくらい〔天皇の位。におらせられた永保えいほう(一〇八一〜一〇八四)のはじめに、国守くにのかみ違格いきゃくに連座して、筑紫へ左遷せられたたいらの正氏まさうじ嫡子ちゃくしに相違あるまい。もし還俗げんぞくの望みがあるなら、追っては受領ずりょう御沙汰ごさたもあろう。まず当分はおれの家の客にする。おれといっしょにやかたへ来い」

   ―

 関白師実の娘といったのは、仙洞せんとうにかしずいている養女で、じつは妻のめいである。このきさきは久しいあいだ病気でいられたのに、厨子王ずしおうの守り本尊を借りて拝むと、すぐにぬぐうように本復ほんぷくせられた。
 師実は厨子王に還俗させて、自分でかんむりを加えた。同時に正氏が謫所たくしょ赦免状しゃめんじょうを持たせて、安否を問いに使いをやった。しかしこの使いが行ったとき、正氏はもう死んでいた。元服して正道まさみちと名のっている厨子王は、身のやつれるほどなげいた。
 その年の秋の除目じもく正道まさみちは丹後の国守くにのかみにせられた。これは遥授ようじゅの官で、任国には自分で行かずに、じょうをおいて治めさせるのである。しかし国守くにのかみは最初のまつりごととして、丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒さんしょう大夫ゆうもことごとく奴婢ぬひを解放して、給料をはらうことにした。大夫だゆうが家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠たくみわざも前に増してさかんになって、一族はいよいよ富み栄えた。国守くにのかみの恩人曇猛どんみょう律師は僧都そうずにせられ、国守くにのかみの姉をいたわった小萩はぎは故郷へかえされた。安寿あんじゅきあとはねんごろにとむらわれ、また入水した沼のほとりには尼寺が立つことになった。
 正道まさみちは任国のためにこれだけのことをしておいて、特に仮寧けにょうを申し請うて、微行びこうして佐渡へ渡った。
 佐渡の国府こふ雑太さわたというところにある。正道はそこへ行って、役人の手で国中を調べてもらったが、母の行くえは容易に知れなかった。
 ある日、正道は思案にくれながら、一人旅館を出て市中を歩いた。そのうちいつか人家の立ち並んだところを離れて、畑中の道にかかった。空はよく晴れて日があかあかと照っている。正道は心のうちに、「どうしてお母さまの行くえが知れないのだろう。もし役人なんぞにまかせて調べさせて、自分がさがし歩かぬのを神仏が憎んでわせてくださらないのではあるまいか」などと思いながら歩いている。ふと見れば、だいぶ大きい百姓家がある。家の南側のまばらな生垣いけがきのうちが、土をたたき固めた広場になっていて、その上に一面にむしろがしいてある。むしろにはり取ったあわの穂が干してある。その真ん中に、ボロを着た女がすわって、手に長い竿さおを持って、スズメの来てついばむのをっている。女はなにやら歌のような調子でつぶやく。
 正道まさみちはなぜか知らず、この女に心がひかれて、立ち止まってのぞいた。女の乱れた髪はちりにまみれている。顔を見ればめしいである。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいていることばが、しだいに耳にれて聞きわけられてきた。それと同時に正道は瘧病おこりやみのように身うちがふるって、目には涙がわいてきた。女はこういうことばをくりかえしてつぶやいていたのである。

安寿あんじゅ恋しや、ほうやれほ。
厨子王ずしおう恋しや、ほうやれほ。
鳥もしょうあるものなれば、
うとう逃げよ、おわずとも。

 正道まさみちはうっとりとなって、このことばに聞きれた。そのうち臓腑ぞうふえかえるようになって、けものめいたさけびが口から出ようとするのを、歯をくいしばってこらえた。たちまち正道はしばられた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足にはあわの穂をふみちらしつつ、女の前にうつふした。右の手には守り本尊をささげ持って、うつふしたときに、それを額に押しあてていた。
 女はスズメでない、大きいものがあわを荒らしにきたのを知った。そしていつものことばとなえやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目にうるおいが出た。女は目が開いた。
厨子王ずしおう……」というさけびが女の口から出た。二人はぴったり抱きあった。
大正四年(一九一五)一月


底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1998年7月21日公開
2006年5月16日修正
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山椒大夫

森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)越後《えちご》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|隅《すみ》へはいって

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「米+巨」、第3水準1-89-83]
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 越後《えちご》の春日《かすが》を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰《こ》えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞《はらから》二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣《ものまい》りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠《かさ》やら杖《つえ》やらかいがいしい出立《いでた》ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断《た》えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和《あきびより》によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝《くるぶし》を埋めて人を悩ますことはない。
 藁葺《わらぶ》きの家が何軒も立ち並んだ一構えが柞《ははそ》の林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかかった。
「まああの美しい紅葉《もみじ》をごらん」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。
 子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
 姉娘が突然弟を顧みて言った。「早くお父うさまのいらっしゃるところへ往《ゆ》きたいわね」
「姉えさん。まだなかなか往《い》かれはしないよ」弟は賢《さか》しげに答えた。
 母が諭《さと》すように言った。「そうですとも。今まで越して来たような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出しておとなしく歩かなくては」
「でも早く往きたいのですもの」と、姉娘は言った。
 一群れはしばらく黙って歩いた。
 向うから空桶《からおけ》を担《かつ》いで来る女がある。塩浜から帰る潮汲《しおく》み女である。
 それに女中が声をかけた。「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」
 潮汲み女は足を駐《と》めて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
 女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気《じんき》が悪いのでしょう」
 二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
 潮汲み女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地ですが、国守《くにのかみ》の掟《おきて》だからしかたがありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札《たかふだ》が立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはお咎《とが》めがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」
「それは困りますね。子供衆もおいでなさるし、もうそう遠くまでは行かれません。どうにかしようはありますまいか」
「そうですね。わたしの通う塩浜のあるあたりまで、あなた方がおいでなさると、夜になってしまいましょう。どうもそこらでいい所を見つけて、野宿をなさるよりほか、しかたがありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休みなさるがいいでしょう。岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川の上《かみ》から流して来た材木です。昼間はその下で子供が遊んでいますが、奥の方には日もささず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜の持ち主のところにいます。ついそこの柞《ははそ》の森の中です。夜になったら、藁《わら》や薦《こも》を持って往ってあげましょう」
 子供らの母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、このとき潮汲み女のそばに進み寄って言った。「よい方に出逢《であ》いましたのは、わたしどもの為合《しあわ》せでございます。そこへ往って休みましょう。どうぞ藁や薦をお借り申しとうございます。せめて子供たちにでも敷かせたりきせたりいたしとうございます」
 潮汲み女は受け合って、柞の林の方へ帰って行く。主従四人は橋のある方へ急いだ。

     ――――――――――――

 荒川にかけ渡した応化橋《おうげのはし》の袂《たもと》に一群れは来た。潮汲み女の言った通りに、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女の詞《ことば》にたがわない。
 人買いが立ち廻るなら、その人買いの詮議《せんぎ》をしたらよさそうなものである。旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。ふつつかな世話の焼きようである。しかし昔の人の目には掟である。子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命を歎《なげ》くだけで、掟の善悪《よしあし》は思わない。
 橋の袂に、河原へ洗濯に降りるものの通う道がある。そこから一群れは河原に降りた。なるほど大層な材木が石垣に立てかけてある。一群れは石垣に沿うて材木の下へくぐってはいった。男の子は面白がって、先に立って勇んではいった。
 奥深くもぐってはいると、洞穴《ほらあな》のようになった所がある。下には大きい材木が横になっているので、床を張ったようである。
 男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗って、一番|隅《すみ》へはいって、「姉えさん、早くおいでなさい」と呼ぶ。
 姉娘はおそるおそる弟のそばへ往った。
「まあ、お待ち遊ばせ」と女中が言って、背に負っていた包みをおろした。そして着換えの衣類を出して、子供を脇《わき》へ寄らせて、隅のところに敷いた。そこへ親子をすわらせた。
 母親がすわると、二人の子供が左右からすがりついた。岩代《いわしろ》の信夫郡《しのぶごおり》の住家《すみか》を出て、親子はここまで来るうちに、家の中ではあっても、この材木の蔭より外らしい所に寝たことがある。不自由にも次第に慣れて、もうさほど苦にはしない。
 女中の包みから出したのは衣類ばかりではない。用心に持っている食べ物もある。女中はそれを親子の前に出して置いて言った。「ここでは焚火《たきび》をいたすことは出来ません。もし悪い人に見つけられてはならぬからでございます。あの塩浜の持ち主とやらの家まで往って、お湯をもらってまいりましょう。そして藁《わら》や薦《こも》のことも頼んでまいりましょう」
 女中はまめまめしく出て行った。子供は楽しげに※[#「米+巨」、第3水準1-89-83]※[#「米+女」、第3水準1-89-81]《おこしごめ》やら、乾《ほ》した果《くだもの》やらを食べはじめた。
 しばらくすると、この材木の蔭へ人のはいって来る足音がした。「姥竹《うばたけ》かい」と母親が声をかけた。しかし心のうちには、柞《ははそ》の森まで往って来たにしては、あまり早いと疑った。姥竹というのは女中の名である。
 はいって来たのは四十歳ばかりの男である。骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、牙彫《げぼり》の人形のような顔に笑《え》みを湛《たた》えて、手に数珠《ずず》を持っている。我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。
 親子はただ驚いて見ている。仇《あた》をしそうな様子も見えぬので、恐ろしいとも思わぬのである。
 男はこんなことを言う。「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。このごろこの土地を人買いが立ち廻るというので、国守が旅人に宿を貸すことを差し止めた。人買いをつかまえることは、国守の手に合わぬと見える。気の毒なは旅人じゃ。そこでわしは旅人を救うてやろうと思い立った。さいわいわしが家は街道《かいどう》を離れているので、こっそり人を留めても、誰に遠慮もいらぬ。わしは人の野宿をしそうな森の中や橋の下を尋ね廻って、これまで大勢の人を連れて帰った。見れば子供衆が菓子を食べていなさるが、そんな物は腹の足しにはならいで、歯に障《さわ》る。わしがところではさしたる饗応《もてなし》はせぬが、芋粥《いもがゆ》でも進ぜましょう。どうぞ遠慮せずに来て下されい」男は強《し》いて誘うでもなく、独語《ひとりごと》のように言ったのである。
 子供の母はつくづく聞いていたが、世間の掟にそむいてまでも人を救おうというありがたい志に感ぜずにはいられなかった。そこでこう言った。「承われば殊勝なお心がけと存じます。貸すなという掟のある宿を借りて、ひょっと宿主《やどぬし》に難儀をかけようかと、それが気がかりでございますが、わたくしはともかくも、子供らに温《ぬく》いお粥《かゆ》でも食べさせて、屋根の下に休ませることが出来ましたら、そのご恩はのちの世までも忘れますまい」
 山岡大夫はうなずいた。「さてさてよう物のわかるご婦人じゃ。そんならすぐに案内をして進ぜましょう」こう言って立ちそうにした。
 母親は気の毒そうに言った。「どうぞ少しお待ち下さいませ。わたくしども三人がお世話になるさえ心苦しゅうございますのに、こんなことを申すのはいかがと存じますが、実は今一人連れがございます」
 山岡大夫は耳をそばだてた。「連れがおありなさる。それは男か女子《おなご》か」
「子供たちの世話をさせに連れて出た女中でございます。湯をもらうと申して、街道を三四町あとへ引き返してまいりました。もうほどなく帰ってまいりましょう」
「お女中かな。そんなら待って進ぜましょう」山岡大夫の落ち着いた、底の知れぬような顔に、なぜか喜びの影が見えた。

     ――――――――――――

 ここは直江の浦である。日はまだ米山《よねやま》の背後《うしろ》に隠れていて、紺青《こんじょう》のような海の上には薄い靄《もや》がかかっている。
 一群れの客を舟に載せて纜《ともづな》を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊った主従四人の旅人である。
 応化橋《おうげのはし》の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中|姥竹《うばたけ》が欠け損じた瓶子《へいし》に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。姥竹は不安らしい顔をしながらついて行った。大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家《や》に四人を留めて、芋粥《いもがゆ》をすすめた。そしてどこからどこへ往く旅かと問うた。くたびれた子供らをさきへ寝させて、母は宿の主人《あるじ》に身の上のおおよそを、かすかな燈火《ともしび》のもとで話した。
 自分は岩代《いわしろ》のものである。夫が筑紫《つくし》へ往って帰らぬので、二人の子供を連れて尋ねに往く。姥竹は姉娘の生まれたときから守《も》りをしてくれた女中で、身寄りのないものゆえ、遠い、覚束ない旅の伴《とも》をすることになったと話したのである。
 さてここまでは来たが、筑紫の果てへ往くことを思えば、まだ家を出たばかりと言ってよい。これから陸《おか》を行ったものであろうか。または船路《ふなじ》を行ったものであろうか。主人《あるじ》は船乗りであってみれば、定めて遠国のことを知っているだろう。どうぞ教えてもらいたいと、子供らの母が頼んだ。
 大夫は知れきったことを問われたように、少しもためらわずに船路を行くことを勧めた。陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界《さかい》にさえ、親不知子不知《おやしらずこしらず》の難所がある。削り立てたような巌石の裾《すそ》には荒浪《あらなみ》が打ち寄せる。旅人は横穴にはいって、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。それは海辺《うみべ》の難所である。また山を越えると、踏まえた石が一つ揺《ゆる》げば、千尋《ちひろ》の谷底に落ちるような、あぶない岨道《そわみち》もある。西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。たしかな船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行かれる。自分は西国まで往くことは出来ぬが、諸国の船頭を知っているから、船に載せて出て、西国へ往く舟に乗り換えさせることが出来る。あすの朝は早速船に載せて出ようと、大夫は事もなげに言った。
 夜が明けかかると、大夫は主従四人をせき立てて家を出た。そのとき子供らの母は小さい嚢《ふくろ》から金を出して、宿賃を払おうとした。大夫は留めて、宿賃はもらわぬ、しかし金の入れてある大切な嚢は預かっておこうと言った。なんでも大切な品は、宿に着けば宿の主人《あるじ》に、舟に乗れば舟の主《ぬし》に預けるものだというのである。
 子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗《あらが》うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
 母親は余儀ないことをするような心持ちで舟に乗った。子供らは凪《な》いだ海の、青い氈《かも》を敷いたような面《おもて》を見て、物珍しさに胸をおどらせて乗った。ただ姥竹が顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今舟に乗るときまで、不安の色が消え失せなかった。
 山岡大夫は纜《ともづな》を解いた。※[#「木+(たけかんむり/高)」、第3水準1-86-26]《さお》で岸を一押し押すと、舟は揺《ゆら》めきつつ浮び出た。

     ――――――――――――

 山岡大夫はしばらく岸に沿うて南へ、越中境《えっちゅうざかい》の方角へ漕《こ》いで行く。靄《もや》は見る見る消えて、波が日にかがやく。
 人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海松《みる》や荒布《あらめ》を打ち上げているところがあった。そこに舟が二|艘《そう》止まっている。船頭が大夫を見て呼びかけた。
「どうじゃ。あるか」
 大夫は右の手を挙げて、大拇《おやゆび》を折って見せた。そして自分もそこへ舟を舫《もや》った。大拇だけ折ったのは、四人あるという相図《あいず》である。
 前からいた船頭の一人は宮崎の三郎といって、越中宮崎のものである。左の手の拳《こぶし》を開いて見せた。右の手が貨《しろもの》の相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文につけたのである。
「気張るぞ」と今一人の船頭が言って、左の臂《ひじ》をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、ついで示指《ひとさしゆび》を竪《た》てて見せた。この男は佐渡の二郎で六貫文につけたのである。
「横着者奴《おうちゃくものめ》」と宮崎が叫んで立ちかかれば、「出し抜こうとしたのはおぬしじゃ」と佐渡が身構えをする。二艘の舟がかしいで、舷《ふなばた》が水を笞《むちう》った。
 大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見較べた。「あわてるな。どっちも空手《からて》では還《かえ》さぬ。お客さまがご窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭はあとでつけた値段の割じゃ」こう言っておいて、大夫は客を顧みた。「さあ、お二人ずつあの舟へお乗りなされ。どれも西国への便船じゃ。舟足というものは、重過ぎては走りが悪い」
 二人の子供は宮崎が舟へ、母親と姥竹とは佐渡が舟へ、大夫が手をとって乗り移らせた。移らせて引く大夫が手に、宮崎も佐渡も幾緡《いくさし》かの銭を握らせたのである。
「あの、主人《あるじ》にお預けなされた嚢《ふくろ》は」と、姥竹が主《しゅう》の袖《そで》を引くとき、山岡大夫は空舟をつと押し出した。
「わしはこれでお暇《いとま》をする。たしかな手からたしかな手へ渡すまでがわしの役じゃ。ご機嫌ようお越しなされ」
 ※[#「舟+虜」、第4水準2-85-82]《ろ》の音が忙《せわ》しく響いて、山岡大夫の舟は見る見る遠ざかって行く。
 母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
 佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓《ぐぜい》の舟、着くは同じ彼岸《かのきし》と、蓮華峰寺《れんげぶじ》の和尚《おしょう》が言うたげな」
 二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へ漕ぐ。宮崎の三郎は南へ漕ぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。
 母親は物狂おしげに舷《ふなばた》に手をかけて伸び上がった。「もうしかたがない。これが別れだよ。安寿《あんじゅ》は守本尊の地蔵様を大切におし。厨子王《ずしおう》はお父うさまの下さった護り刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。
 子供はただ「お母あさま、お母あさま」と呼ぶばかりである。
 舟と舟とは次第に遠ざかる。後ろには餌《え》を待つ雛《ひな》のように、二人の子供があいた口が見えていて、もう声は聞えない。
 姥竹は佐渡の二郎に「もし船頭さん、もしもし」と声をかけていたが、佐渡は構わぬので、とうとう赤松の幹のような脚にすがった。「船頭さん。これはどうしたことでございます。あのお嬢さま、若さまに別れて、生きてどこへ往かれましょう。奥さまも同じことでございます。これから何をたよりにお暮らしなさいましょう。どうぞあの舟の往く方へ漕いで行って下さいまし。後生でございます」
「うるさい」と佐渡は後ろざまに蹴った。姥竹は舟※[#「竹かんむり/令」、第3水準1-89-59]《ふなとこ》に倒れた。髪は乱れて舷にかかった。
 姥竹は身を起した。「ええ。これまでじゃ。奥さま、ご免下さいまし」こう言ってまっさかさまに海に飛び込んだ。
「こら」と言って船頭は臂《ひじ》を差し伸ばしたが、まにあわなかった。
 母親は袿《うちぎ》を脱いで佐渡が前へ出した。「これは粗末な物でございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもうこれでお暇を申します」こう言って舷に手をかけた。
「たわけが」と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。「うぬまで死なせてなるものか。大事な貨《しろもの》じゃ」
 佐渡の二郎は牽※[#「糸+拔のつくり」、第3水準1-89-94]《つなで》を引き出して、母親をくるくる巻きにして転がした。そして北へ北へと漕いで行った。

     ――――――――――――

「お母あさまお母あさま」と呼び続けている姉と弟とを載せて、宮崎の三郎が舟は岸に沿うて南へ走って行く。「もう呼ぶな」と宮崎が叱った。「水の底の鱗介《いろくず》には聞えても、あの女子《おなご》には聞えぬ。女子どもは佐渡へ渡って粟《あわ》の鳥でも逐《お》わせられることじゃろう」
 姉の安寿と弟の厨子王とは抱き合って泣いている。故郷を離れるも、遠い旅をするも母と一しょにすることだと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、二人はどうしていいかわからない。ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれだけ変らせるか、そのほどさえ弁《わきま》えられぬのである。
 午《ひる》になって宮崎は餅《もち》を出して食った。そして安寿と厨子王とにも一つずつくれた。二人は餅を手に持って食べようともせず、目を見合わせて泣いた。夜は宮崎がかぶせた苫《とま》の下で、泣きながら寝入った。
 こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能登《のと》、越前《えちぜん》、若狭《わかさ》の津々浦々を売り歩いたのである。
 しかし二人がおさないのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうと言うものがない。たまに買い手があっても、値段の相談が調《ととの》わない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。
 宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良《ゆら》の港に来た。ここには石浦というところに大きい邸《やしき》を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟《かり》をさせ、海では漁《すなどり》をさせ、蚕飼《こがい》をさせ、機織《はたおり》をさせ、金物、陶物《すえもの》、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫《さんしょうだゆう》という分限者《ぶげんしゃ》がいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のない貨《しろもの》があると、山椒大夫がところへ持って来ることになっていた。
 港に出張っていた大夫の奴頭《やっこがしら》は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、餓鬼《がき》どもを片づけて身が軽うなった」と言って、宮崎の三郎は受け取った銭を懐《ふところ》に入れた。そして波止場の酒店にはいった。

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 一抱えに余る柱を立て並べて造った大廈《おおいえ》の奥深い広間に一間四方の炉を切らせて、炭火がおこしてある。その向うに茵《しとね》を三枚|畳《かさ》ねて敷いて、山椒大夫は几《おしまずき》にもたれている。左右には二郎、三郎の二人の息子が狛犬《こまいぬ》のように列《なら》んでいる。もと大夫には三人の男子があったが、太郎は十六歳のとき、逃亡を企てて捕えられた奴《やっこ》に、父が手ずから烙印《やきいん》をするのをじっと見ていて、一言も物を言わずに、ふいと家を出て行くえが知れなくなった。今から十九年前のことである。
 奴頭《やっこがしら》が安寿、厨子王を連れて前へ出た。そして二人の子供に辞儀をせいと言った。
 二人の子供は奴頭の詞《ことば》が耳に入らぬらしく、ただ目をみはって大夫を見ている。今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広く※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]《あご》が張って、髪も鬚《ひげ》も銀色に光っている。子供らは恐ろしいよりは不思議がって、じっとその顔を見ているのである。
 大夫は言った。「買うて来た子供はそれか。いつも買う奴《やっこ》と違うて、何に使うてよいかわからぬ、珍らしい子供じゃというから、わざわざ連れて来させてみれば、色の蒼《あお》ざめた、か細い童《わらわ》どもじゃ。何に使うてよいかは、わしにもわからぬ」
 そばから三郎が口を出した。末の弟ではあるが、もう三十になっている。「いやお父っさん。さっきから見ていれば、辞儀をせいと言われても辞儀もせぬ。ほかの奴のように名のりもせぬ。弱々しゅう見えてもしぶとい者どもじゃ。奉公初めは男が柴苅《しばか》り、女が汐汲《しおく》みときまっている。その通りにさせなされい」
「おっしゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」と、奴頭が言った。
 大夫は嘲笑《あざわら》った。「愚か者と見える。名はわしがつけてやる。姉はいたつきを垣衣《しのぶぐさ》、弟は我が名を萱草《わすれぐさ》じゃ。垣衣は浜へ往って、日に三|荷《が》の潮を汲め。萱草は山へ往って日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うして取らせる」
 三郎が言った。「過分のいたわりようじゃ。こりゃ、奴頭。早く連れて下がって道具を渡してやれ」
 奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて往って、安寿には桶《おけ》と杓《ひさご》、厨子王には籠《かご》と鎌《かま》を渡した。どちらにも午餉《ひるげ》を入れる※[#「木+累」、第3水準1-86-7]子《かれいけ》が添えてある。新参小屋はほかの奴婢《ぬひ》の居所とは別になっているのである。
 奴頭が出て行くころには、もうあたりが暗くなった。この屋《いえ》には燈火《あかり》もない。

     ――――――――――――

 翌日の朝はひどく寒かった。ゆうべは小屋に備えてある衾《ふすま》があまりきたないので、厨子王が薦《こも》を探して来て、舟で苫《とま》をかずいたように、二人でかずいて寝たのである。
 きのう奴頭に教えられたように、厨子王は※[#「木+累」、第3水準1-86-7]子《かれいけ》を持って厨《くりや》へ餉《かれい》を受け取りに往った。屋根の上、地にちらばった藁の上には霜が降っている。厨は大きい土間で、もう大勢の奴婢《ぬひ》が来て待っている。男と女とは受け取る場所が違うのに、厨子王は姉のと自分のともらおうとするので、一度は叱られたが、あすからはめいめいがもらいに来ると誓って、ようよう※[#「木+累」、第3水準1-86-7]子《かれいけ》のほかに、面桶《めんつう》に入れた※[#「飮のへん+亶」、第3水準1-94-10]《かたかゆ》と、木の椀《まり》に入れた湯との二人前をも受け取った。※[#「飮のへん+亶」、第3水準1-94-10]は塩を入れて炊《かし》いである。
 姉と弟とは朝餉《あさげ》を食べながら、もうこうした身の上になっては、運命のもとに項《うなじ》を屈《かが》めるよりほかはないと、けなげにも相談した。そして姉は浜辺へ、弟は山路をさして行くのである。大夫が邸の三の木戸、二の木戸、一の木戸を一しょに出て、二人は霜を履《ふ》んで、見返りがちに左右へ別れた。
 厨子王が登る山は由良《ゆら》が嶽《たけ》の裾《すそ》で、石浦からは少し南へ行って登るのである。柴を苅る所は、麓《ふもと》から遠くはない。ところどころ紫色の岩の露《あら》われている所を通って、やや広い平地に出る。そこに雑木が茂っているのである。
 厨子王は雑木林の中に立ってあたりを見廻した。しかし柴はどうして苅るものかと、しばらくは手を着けかねて、朝日に霜の融《と》けかかる、茵《しとね》のような落ち葉の上に、ぼんやりすわって時を過した。ようよう気を取り直して、一枝二枝苅るうちに、厨子王は指を傷《いた》めた。そこでまた落ち葉の上にすわって、山でさえこんなに寒い、浜辺に行った姉さまは、さぞ潮風が寒かろうと、ひとり涙をこぼしていた。
 日がよほど昇ってから、柴を背負って麓へ降りる、ほかの樵《きこり》が通りかかって、「お前も大夫のところの奴か、柴は日に何荷苅るのか」と問うた。
「日に三荷苅るはずの柴を、まだ少しも苅りませぬ」と厨子王は正直に言った。
「日に三荷の柴ならば、午《ひる》までに二荷苅るがいい。柴はこうして苅るものじゃ」樵は我が荷をおろして置いて、すぐに一荷苅ってくれた。
 厨子王は気を取り直して、ようよう午までに一荷苅り、午からまた一荷苅った。
 浜辺に往く姉の安寿は、川の岸を北へ行った。さて潮を汲む場所に降り立ったが、これも汐の汲みようを知らない。心で心を励まして、ようよう杓《ひさご》をおろすや否や、波が杓を取って行った。
 隣で汲んでいる女子《おなご》が、手早く杓を拾って戻した。そしてこう言った。「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手《めて》の杓でこう汲んで、左手《ゆんで》の桶《おけ》でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。
「ありがとうございます。汲みようが、あなたのお蔭で、わかったようでございます。自分で少し汲んでみましょう」安寿は汐を汲み覚えた。
 隣で汲んでいる女子に、無邪気な安寿が気に入った。二人は午餉《ひるげ》を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹《きょうだい》の誓いをした。これは伊勢の小萩《こはぎ》といって、二見が浦から買われて来た女子である。
 最初の日はこんな工合に、姉が言いつけられた三荷の潮も、弟が言いつけられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進を受けて、日の暮れまでに首尾よく調《ととの》った。

     ――――――――――――

 姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日《ひとひひとひ》と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮れを待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。
 とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬときが来た。小屋を明ければ、奴《やっこ》は奴、婢《はしため》は婢の組に入るのである。
 二人は死んでも別れぬと言った。奴頭が大夫に訴えた。
 大夫は言った。「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引きずって往け。婢は婢の組へ引きずって往け」
 奴頭が承って起とうとしたとき、二郎がかたわらから呼び止めた。そして父に言った。「おっしゃる通りに童《わらべ》どもを引き分けさせてもよろしゅうございますが、童どもは死んでも別れぬと申すそうでございます。愚かなものゆえ、死ぬるかも知れません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗《へ》らすのは損でございます。わたくしがいいように計らってやりましょう」
「それもそうか。損になることはわしも嫌いじゃ。どうにでも勝手にしておけ」大夫はこう言って脇へ向いた。
 二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。
 ある日の暮れに二人の子供は、いつものように父母のことを言っていた。それを二郎が通りかかって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐《しえた》げたり、諍《いさか》いをしたり、盗みをしたりするのを取り締まっているのである。
 二郎は小屋にはいって二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれよりまた遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つがよい」こう言って出て行った。
 ほど経てまたある日の暮れに、二人の子供は父母のことを言っていた。それを今度は三郎が通りかかって聞いた。三郎は寝鳥を取ることが好きで邸のうちの木立ち木立ちを、手に弓矢を持って見廻るのである。
 二人は父母のことを言うたびに、どうしようか、こうしようかと、逢いたさのあまりに、あらゆる手立てを話し合って、夢のような相談をもする。きょうは姉がこう言った。「大きくなってからでなくては、遠い旅が出来ないというのは、それは当り前のことよ。わたしたちはその出来ないことがしたいのだわ。だがわたしよく思ってみると、どうしても二人一しょにここを逃げ出しては駄目なの。わたしには構わないで、お前一人で逃げなくては。そしてさきへ筑紫の方へ往って、お父うさまにお目にかかって、どうしたらいいか伺うのだね。それから佐渡へお母さまのお迎えに往くがいいわ」三郎が立聞きをしたのは、あいにくこの安寿の詞《ことば》であった。
 三郎は弓矢を持って、つと小屋のうちにはいった。
「こら。お主《ぬし》たちは逃げる談合をしておるな。逃亡の企てをしたものには烙印《やきいん》をする。それがこの邸の掟じゃ。赤うなった鉄は熱いぞよ。」
 二人の子供は真《ま》っ蒼《さお》になった。安寿は三郎が前に進み出て言った。「あれは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》でございます。弟が一人で逃げたって、まあ、どこまで往かれましょう。あまり親に逢いたいので、あんなことを申しました。こないだも弟と一しょに、鳥になって飛んで往こうと申したこともございます。出放題でございます」
 厨子王は言った。「姉えさんの言う通りです。いつでも二人で今のような、出来ないことばかし言って、父母の恋しいのを紛《まぎ》らしているのです」
 三郎は二人の顔を見較べて、しばらくの間黙っていた。「ふん。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]なら※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]でもいい。お主たちが一しょにおって、なんの話をするということを、おれがたしかに聞いておいたぞ」こう言って三郎は出て行った。
 その晩は二人が気味悪く思いながら寝た。それからどれだけ寝たかわからない。二人はふと物音を聞きつけて目をさました。今の小屋に来てからは、燈火《ともしび》を置くことが許されている。そのかすかな明りで見れば、枕もとに三郎が立っている。三郎は、つと寄って、両手で二人の手をつかまえる。そして引き立てて戸口を出る。蒼ざめた月を仰ぎながら、二人は目見えのときに通った、広い馬道《めどう》を引かれて行く。階《はし》を三段登る。廊《ほそどの》を通る。廻《めぐ》り廻ってさきの日に見た広間にはいる。そこには大勢の人が黙って並んでいる。三郎は二人を炭火の真っ赤におこった炉の前まで引きずって出る。二人は小屋で引き立てられたときから、ただ「ご免なさいご免なさい」と言っていたが、三郎は黙って引きずって行くので、しまいには二人も黙ってしまった。炉の向い側には茵《しとね》三枚を畳《かさ》ねて敷いて、山椒大夫がすわっている。大夫の赤顔が、座の右左に焚《た》いてある炬火《たてあかし》を照り反して、燃えるようである。三郎は炭火の中から、赤く焼けている火※[#「竹かんむり/助」、第3水準1-89-65]《ひばし》を抜き出す。それを手に持って、しばらく見ている。初め透き通るように赤くなっていた鉄が、次第に黒ずんで来る。そこで三郎は安寿を引き寄せて、火※[#「竹かんむり/助」、第3水準1-89-65]を顔に当てようとする。厨子王はその肘《ひじ》にからみつく。三郎はそれを蹴倒《けたお》して右の膝《ひざ》に敷く。とうとう火※[#「竹かんむり/助」、第3水準1-89-65]を安寿の額に十文字に当てる。安寿の悲鳴が一座の沈黙を破って響き渡る。三郎は安寿を衝き放して、膝の下の厨子王を引き起し、その額にも火※[#「竹かんむり/助」、第3水準1-89-65]を十文字に当てる。新たに響く厨子王の泣き声が、ややかすかになった姉の声に交じる。三郎は火※[#「竹かんむり/助」、第3水準1-89-65]を棄てて、初め二人をこの広間へ連れて来たときのように、また二人の手をつかまえる。そして一座を見渡したのち、広い母屋《おもや》を廻って、二人を三段の階《はし》の所まで引き出し、凍《こお》った土の上に衝き落す。二人の子供は創《きず》の痛みと心の恐れとに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小家《こや》に帰る。臥所《ふしど》の上に倒れた二人は、しばらく死骸《しがい》のように動かずにいたが、たちまち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」と叫んだ。安寿はすぐに起き直って、肌《はだ》の守袋《まもりぶくろ》を取り出した。わななく手に紐《ひも》を解いて、袋から出した仏像を枕もとに据《す》えた。二人は右左にぬかずいた。そのとき歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛みが、掻き消すように失せた。掌《てのひら》で額を撫《な》でてみれば、創は痕もなくなった。はっと思って、二人は目をさました。
 二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じときに見たのである。安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕もとに据えた。二人はそれを伏し拝んで、かすかな燈火《ともしび》の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。白毫《びゃくごう》の右左に、鏨《たがね》で彫ったような十文字の疵《きず》があざやかに見えた。

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 二人の子供が話を三郎に立聞きせられて、その晩恐ろしい夢を見たときから、安寿の様子がひどく変って来た。顔には引き締まったような表情があって、眉《まゆ》の根には皺《しわ》が寄り、目ははるかに遠いところを見つめている。そして物を言わない。日の暮れに浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんなときにも詞少《ことばすく》なにしている。厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」と言うと「どうもしないの、大丈夫よ」と言って、わざとらしく笑う。
 安寿の前と変ったのはただこれだけで、言うことが間違ってもおらず、することも平生《へいぜい》の通りである。しかし厨子王は互いに慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。二人の子供の境界《きょうがい》は、前より一層寂しくなったのである。
 雪が降ったり歇《や》んだりして、年が暮れかかった。奴《やっこ》も婢《はしため》も外に出る為事《しごと》を止めて、家の中で働くことになった。安寿は糸を紡《つむ》ぐ。厨子王は藁を擣《う》つ。藁を擣つのは修行はいらぬが、糸を紡ぐのはむずかしい。それを夜になると伊勢の小萩が来て、手伝ったり教えたりする。安寿は弟に対する様子が変ったばかりでなく、小萩に対しても詞少なになって、ややもすると不愛想をする。しかし小萩は機嫌を損せずに、いたわるようにしてつきあっている。
 山椒大夫が邸の木戸にも松が立てられた。しかしここの年のはじめは何の晴れがましいこともなく、また族《うから》の女子《おなご》たちは奥深く住んでいて、出入りすることがまれなので、賑《にぎ》わしいこともない。ただ上《かみ》も下《しも》も酒を飲んで、奴の小屋には諍《いさか》いが起るだけである。常は諍いをすると、きびしく罰せられるのに、こういうときは奴頭が大目に見る。血を流しても知らぬ顔をしていることがある。どうかすると、殺されたものがあっても構わぬのである。
 寂しい三の木戸の小屋へは、折り折り小萩が遊びに来た。婢の小屋の賑わしさを持って来たかと思うように、小萩が話している間は、陰気な小屋も春めいて、このごろ様子の変っている安寿の顔にさえ、めったに見えぬ微笑《ほほえ》みの影が浮ぶ。
 三日立つと、また家の中の為事が始まった。安寿は糸を紡ぐ。厨子王は藁を擣つ。もう夜になって小萩が来ても、手伝うにおよばぬほど、安寿は紡錘《つむ》を廻すことに慣れた。様子は変っていても、こんな静かな、同じことを繰り返すような為事をするには差支《さしつか》えなく、また為事がかえって一向《ひとむ》きになった心を散らし、落ち着きを与えるらしく見えた。姉と前のように話をすることの出来ぬ厨子王は、紡いでいる姉に、小萩がいて物を言ってくれるのが、何よりも心強く思われた。

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 水が温《ぬる》み、草が萌《も》えるころになった。あすからは外の為事が始まるという日に、二郎が邸を見廻るついでに、三の木戸の小屋に来た。「どうじゃな。あす為事に出られるかな。大勢の人のうちには病気でおるものもある。奴頭の話を聞いたばかりではわからぬから、きょうは小屋小屋を皆見て廻ったのじゃ」
 藁を擣っていた厨子王が返事をしようとして、まだ詞を出さぬ間に、このごろの様子にも似ず、安寿が糸を紡ぐ手を止めて、つと二郎の前に進み出た。「それについてお願いがございます。わたくしは弟と同じ所で為事がいたしとうございます。どうか一しょに山へやって下さるように、お取り計らいなすって下さいまし」蒼ざめた顔に紅《くれない》がさして、目がかがやいている。
 厨子王は姉の様子が二度目に変ったらしく見えるのに驚き、また自分になんの相談もせずにいて、突然柴苅りに往きたいと言うのをも訝《いぶか》しがって、ただ目をみはって姉をまもっている。
 二郎は物を言わずに、安寿の様子をじっと見ている。安寿は「ほかにない、ただ一つのお願いでございます、どうぞ山へおやりなすって」と繰り返して言っている。
 しばらくして二郎は口を開いた「この邸では奴婢《ぬひ》のなにがしになんの為事をさせるということは、重いことにしてあって、父がみずからきめる。しかし垣衣《しのぶぐさ》、お前の願いはよくよく思い込んでのことと見える。わしが受け合って取りなして、きっと山へ往かれるようにしてやる。安心しているがいい。まあ、二人のおさないものが無事に冬を過してよかった」こう言って小屋を出た。
 厨子王は杵《きね》を置いて姉のそばに寄った。「姉えさん。どうしたのです。それはあなたが一しょに山へ来て下さるのは、わたしも嬉しいが、なぜ出し抜けに頼んだのです。なぜわたしに相談しません」
 姉の顔は喜びにかがやいている。「ほんにそうお思いのはもっともだが、わたしだってあの人の顔を見るまで、頼もうとは思っていなかったの。ふいと思いついたのだもの」
「そうですか。変ですなあ」厨子王は珍らしい物を見るように姉の顔を眺めている。
 奴頭が籠と鎌とを持ってはいって来た。「垣衣《しのぶぐさ》さん。お前に汐汲みをよさせて、柴を苅りにやるのだそうで、わしは道具を持って来た。代りに桶と杓《ひさご》をもらって往こう」
「これはどうもお手数《てかず》でございました」安寿は身軽に立って、桶と杓とを出して返した。
 奴頭はそれを受け取ったが、まだ帰りそうにはしない。顔には一種の苦笑《にがわら》いのような表情が現われている。この男は山椒大夫|一家《いっけ》のものの言いつけを、神の託宣を聴くように聴く。そこで随分情けない、苛酷《かこく》なことをもためらわずにする。しかし生得《しょうとく》、人の悶《もだ》え苦しんだり、泣き叫んだりするのを見たがりはしない。物事がおだやかに運んで、そんなことを見ずに済めば、その方が勝手である。今の苦笑いのような表情は人に難儀をかけずには済まぬとあきらめて、何か言ったり、したりするときに、この男の顔に現われるのである。
 奴頭は安寿に向いて言った。「さて今一つ用事があるて。実はお前さんを柴苅りにやることは、二郎様が大夫様に申し上げて拵《こしら》えなさったのじゃ。するとその座に三郎様がおられて、そんなら垣衣を大童《おおわらわ》にして山へやれとおっしゃった。大夫様は、よい思いつきじゃとお笑いなされた。そこでわしはお前さんの髪をもろうて往かねばならぬ」
 そばで聞いている厨子王は、この詞を胸を刺されるような思いをして聞いた。そして目に涙を浮べて姉を見た。
 意外にも安寿の顔からは喜びの色が消えなかった。「ほんにそうじゃ。柴苅りに往くからは、わたしも男じゃ。どうぞこの鎌で切って下さいまし」安寿は奴頭の前に項《うなじ》を伸ばした。
 光沢《つや》のある、長い安寿の髪が、鋭い鎌の一掻《ひとか》きにさっくり切れた。

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 あくる朝、二人の子供は背に籠を負い腰に鎌を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》して、手を引き合って木戸を出た。山椒大夫のところに来てから、二人一しょに歩くのはこれがはじめである。
 厨子王は姉の心を忖《はか》りかねて、寂しいような、悲しいような思いに胸が一ぱいになっている。きのうも奴頭の帰ったあとで、いろいろに詞を設けて尋ねたが、姉はひとりで何事をか考えているらしく、それをあからさまには打ち明けずにしまった。
 山の麓に来たとき、厨子王はこらえかねて言った。「姉えさん。わたしはこうして久しぶりで一しょに歩くのだから、嬉しがらなくてはならないのですが、どうも悲しくてなりません。わたしはこうして手を引いていながら、あなたの方へ向いて、その禿《かぶろ》になったお頭《つむり》を見ることが出来ません。姉えさん。あなたはわたしに隠して、何か考えていますね。なぜそれをわたしに言って聞かせてくれないのです」
 安寿はけさも毫光《ごうこう》のさすような喜びを額にたたえて、大きい目をかがやかしている。しかし弟の詞には答えない。ただ引き合っている手に力を入れただけである。
 山に登ろうとする所に沼がある。汀《みぎわ》には去年見たときのように、枯れ葦《あし》が縦横に乱れているが、道端の草には黄ばんだ葉の間に、もう青い芽の出たのがある。沼の畔《ほとり》から右に折れて登ると、そこに岩の隙間《すきま》から清水の湧《わ》く所がある。そこを通り過ぎて、岩壁を右に見つつ、うねった道を登って行くのである。
 ちょうど岩の面《おもて》に朝日が一面にさしている。安寿は畳《かさ》なり合った岩の、風化した間に根をおろして、小さい菫《すみれ》の咲いているのを見つけた。そしてそれを指さして厨子王に見せて言った。「ごらん。もう春になるのね」
 厨子王は黙ってうなずいた。姉は胸に秘密を蓄《たくわ》え、弟は憂えばかりを抱いているので、とかく受け応えが出来ずに、話は水が砂に沁《し》み込むようにとぎれてしまう。
 去年柴を苅った木立ちのほとりに来たので、厨子王は足を駐《とど》めた。「ねえさん。ここらで苅るのです」
「まあ、もっと高い所へ登ってみましょうね」安寿は先に立ってずんずん登って行く。厨子王は訝《いぶか》りながらついて行く。しばらくして雑木林よりはよほど高い、外山《とやま》の頂とも言うべき所に来た。
 安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。目は、石浦を経て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った川向いに、こんもりと茂った木立ちの中から、塔の尖《さき》の見える中山に止まった。そして「厨子王や」と弟を呼びかけた。「わたしが久しい前から考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もうきょうは柴なんぞは苅らなくてもいいから、わたしの言うことをよくお聞き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して往けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと往かれます。お母あさまとご一しょに岩代を出てから、わたしどもは恐ろしい人にばかり出逢ったが、人の運が開けるものなら、よい人に出逢わぬにも限りません。お前はこれから思いきって、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。神仏《かみほとけ》のお導きで、よい人にさえ出逢ったら、筑紫へお下りになったお父うさまのお身の上も知れよう。佐渡へお母あさまのお迎えに往くことも出来よう。籠や鎌は棄てておいて、※[#「木+累」、第3水準1-86-7]子《かれいけ》だけ持って往くのだよ」
 厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬《ほお》を伝って流れて来た。「そして、姉えさん、あなたはどうしようというのです」
「わたしのことは構わないで、お前一人ですることを、わたしと一しょにするつもりでしておくれ。お父うさまにもお目にかかり、お母あさまをも島からお連れ申した上で、わたしをたすけに来ておくれ」
「でもわたしがいなくなったら、あなたをひどい目に逢わせましょう」厨子王が心には烙印《やきいん》をせられた、恐ろしい夢が浮ぶ。
「それはいじめるかも知れないがね、わたしは我慢して見せます。金で買った婢《はしため》をあの人たちは殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。お前の教えてくれた木立ちの所で、わたしは柴をたくさん苅ります。六荷までは苅れないでも、四荷でも五荷でも苅りましょう。さあ、あそこまで降りて行って、籠や鎌をあそこに置いて、お前を麓へ送って上げよう」こう言って安寿は先に立って降りて行く。
 厨子王はなんとも思い定めかねて、ぼんやりしてついて降りる。姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、その上物に憑《つ》かれたように、聡《さと》く賢《さか》しくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
 木立ちの所まで降りて、二人は籠と鎌とを落ち葉の上に置いた。姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。「これは大事なお守だが、こんど逢うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀と一しょにして、大事に持っていておくれ」
「でも姉えさんにお守がなくては」
「いいえ。わたしよりはあぶない目に逢うお前にお守を預けます。晩にお前が帰らないと、きっと討手《うって》がかかります。お前がいくら急いでも、あたり前に逃げて行っては、追いつかれるにきまっています。さっき見た川の上手《かみて》を和江《わえ》という所まで往って、首尾よく人に見つけられずに、向う河岸へ越してしまえば、中山までもう近い。そこへ往ったら、あの塔の見えていたお寺にはいって隠しておもらい。しばらくあそこに隠れていて、討手が帰って来たあとで、寺を逃げておいで」
「でもお寺の坊さんが隠しておいてくれるでしょうか」
「さあ、それが運験《うんだめ》しだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれましょう」
「そうですね。姉えさんのきょうおっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃるようです。わたしは考えをきめました。なんでも姉えさんのおっしゃる通りにします」
「おう、よく聴いておくれだ。坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます」
「そうです。わたしにもそうらしく思われて来ました。逃げて都へも往かれます。お父うさまやお母あさまにも逢われます。姉えさんのお迎えにも来られます」厨子王の目が姉と同じようにかがやいて来た。
「さあ、麓まで一しょに行くから、早くおいで」
 二人は急いで山を降りた。足の運びも前とは違って、姉の熱した心持ちが、暗示のように弟に移って行ったかと思われる。
 泉の湧《わ》く所へ来た。姉は※[#「木+累」、第3水準1-86-7]子《かれいけ》に添えてある木の椀《まり》を出して、清水を汲んだ。「これがお前の門出《かどで》を祝うお酒だよ」こう言って一口飲んで弟にさした。
 弟は椀《まり》を飲み干した。「そんなら姉えさん、ご機嫌よう。きっと人に見つからずに、中山まで参ります」
 厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、一走りに駆け降りて、沼に沿うて街道に出た。そして大雲川の岸を上手へ向かって急ぐのである。
 安寿は泉の畔《ほとり》に立って、並木の松に隠れてはまた現われる後ろ影を小さくなるまで見送った。そして日はようやく午《ひる》に近づくのに、山に登ろうともしない。幸いにきょうはこの方角の山で木を樵《こ》る人がないと見えて、坂道に立って時を過す安寿を見とがめるものもなかった。
 のちに同胞《はらから》を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端《はた》で、小さい藁履《わらぐつ》を一|足《そく》拾った。それは安寿の履《くつ》であった。

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 中山の国分寺《こくぶじ》の三門に、松明《たいまつ》の火影が乱れて、大勢の人が籠《こ》み入って来る。先に立ったのは、白柄《しらつか》の薙刀《なぎなた》を手挾《たはさ》んだ、山椒大夫の息子三郎である。
 三郎は堂の前に立って大声に言った。「これへ参ったのは、石浦の山椒大夫が族《うから》のものじゃ。大夫が使う奴《やっこ》の一人が、この山に逃げ込んだのを、たしかに認めたものがある。隠れ場は寺内よりほかにはない。すぐにここへ出してもらおう」ついて来た大勢が、「さあ、出してもらおう、出してもらおう」と叫んだ。
 本堂の前から門の外まで、広い石畳が続いている。その石の上には、今手に手に松明を持った、三郎が手のものが押し合っている。また石畳の両側には、境内に住んでいる限りの僧俗が、ほとんど一人も残らず簇《むらが》っている。これは討手の群れが門外で騒いだとき、内陣からも、庫裡《くり》からも、何事が起ったかと、怪しんで出て来たのである。
 初め討手が門外から門をあけいと叫んだとき、あけて入れたら、乱暴をせられはすまいかと心配して、あけまいとした僧侶が多かった。それを住持|曇猛律師《どんみょうりつし》があけさせた。しかし今三郎が大声で、逃げた奴を出せと言うのに、本堂は戸を閉じたまま、しばらくの間ひっそりとしている。
 三郎は足踏みをして、同じことを二三度繰り返した。手のもののうちから「和尚さん、どうしたのだ」と呼ぶものがある。それに短い笑い声が交じる。
 ようようのことで本堂の戸が静かにあいた。曇猛律師が自分であけたのである。律師は偏衫《へんさん》一つ身にまとって、なんの威儀をも繕《つくろ》わず、常燈明の薄明りを背にして本堂の階《はし》の上に立った。丈《たけ》の高い巌畳《がんじょう》な体と、眉のまだ黒い廉張《かどば》った顔とが、揺《ゆら》めく火に照らし出された。律師はまだ五十歳を越したばかりである。
 律師はしずかに口を開いた。騒がしい討手のものも、律師の姿を見ただけで黙ったので、声は隅々まで聞えた。「逃げた下人《げにん》を捜しに来られたのじゃな。当山では住持のわしに言わずに人は留めぬ。わしが知らぬから、そのものは当山にいぬ。それはそれとして、夜陰に剣戟《けんげき》を執《と》って、多人数押し寄せて参られ、三門を開けと言われた。さては国に大乱でも起ったか、公《おおやけ》の叛逆人《はんぎやくにん》でも出来たかと思うて、三門をあけさせた。それになんじゃ。御身《おんみ》が家の下人の詮議《せんぎ》か。当山は勅願の寺院で、三門には勅額をかけ、七重の塔には宸翰金字《しんかんこんじ》の経文が蔵《おさ》めてある。ここで狼藉《ろうぜき》を働かれると、国守《くにのかみ》は検校《けんぎょう》の責めを問われるのじゃ。また総本山東大寺に訴えたら、都からどのような御沙汰《ごさた》があろうも知れぬ。そこをよう思うてみて、早う引き取られたがよかろう。悪いことは言わぬ。お身たちのためじゃ」こう言って律師はしずかに戸を締めた。
 三郎は本堂の戸を睨《にら》んで歯咬《はが》みをした。しかし戸を打ち破って踏み込むだけの勇気もなかった。手のものどもはただ風に木の葉のざわつくようにささやきかわしている。
 このとき大声で叫ぶものがあった。「その逃げたというのは十二三の小わっぱじゃろう。それならわしが知っておる」
 三郎は驚いて声の主《ぬし》を見た。父の山椒大夫に見まごうような親爺《おやじ》で、この寺の鐘楼守《しゅろうもり》である。親爺は詞を続《つ》いで言った。「そのわっぱはな、わしが午《ひる》ごろ鐘楼から見ておると、築泥《ついじ》の外を通って南へ急いだ。かよわい代りには身が軽い。もう大分の道を行ったじゃろ」
「それじゃ。半日に童の行く道は知れたものじゃ。続け」と言って三郎は取って返した。
 松明《たいまつ》の行列が寺の門を出て、築泥《ついじ》の外を南へ行くのを、鐘楼守は鐘楼から見て、大声で笑った。近い木立ちの中で、ようよう落ち着いて寝ようとした鴉《からす》が二三羽また驚いて飛び立った。

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 あくる日に国分寺からは諸方へ人が出た。石浦に往ったものは、安寿の入水《じゅすい》のことを聞いて来た。南の方へ往ったものは、三郎の率いた討手が田辺まで往って引き返したことを聞いて来た。
 中二日おいて、曇猛律師が田辺の方へ向いて寺を出た。盥《たらい》ほどある鉄の受糧器を持って、腕の太さの錫杖《しゃくじょう》を衝いている。あとからは頭を剃りこくって三|衣《え》を着た厨子王《ずしおう》がついて行く。
 二人は真昼に街道を歩いて、夜は所々の寺に泊った。山城の朱雀野《しゅじゃくの》に来て、律師は権現堂に休んで、厨子王に別れた。「守本尊を大切にして往け。父母の消息はきっと知れる」と言い聞かせて、律師は踵《くびす》を旋《めぐら》した。亡くなった姉と同じことを言う坊様だと、厨子王は思った。
 都に上った厨子王は、僧形《そうぎょう》になっているので、東山の清水寺《きよみずでら》に泊った。
 籠堂《こもりどう》に寝て、あくる朝目がさめると、直衣《のうし》に烏帽子《えぼし》を着て指貫《さしぬき》をはいた老人が、枕もとに立っていて言った。「お前は誰の子じゃ。何か大切な物を持っているなら、どうぞおれに見せてくれい。おれは娘の病気の平癒《へいゆ》を祈るために、ゆうべここに参籠《さんろう》した。すると夢にお告げがあった。左の格子《こうし》に寝ている童《わらわ》がよい守本尊を持っている。それを借りて拝ませいということじゃ。けさ左の格子に来てみれば、お前がいる。どうぞおれに身の上を明かして、守本尊を貸してくれい。おれは関白|師実《もろざね》じゃ」
 厨子王は言った。「わたくしは陸奥掾正氏《むつのじょうまさうじ》というものの子でございます。父は十二年前に筑紫の安楽寺へ往ったきり、帰らぬそうでございます。母はその年に生まれたわたくしと、三つになる姉とを連れて、岩代の信夫郡《しのぶごおり》に住むことになりました。そのうちわたくしが大ぶ大きくなったので、姉とわたくしとを連れて、父を尋ねに旅立ちました。越後まで出ますと、恐ろしい人買いに取られて、母は佐渡へ、姉とわたくしとは丹後の由良へ売られました。姉は由良で亡くなりました。わたくしの持っている守本尊はこの地蔵様でございます」こう言って守本尊を出して見せた。
 師実は仏像を手に取って、まず額に当てるようにして礼をした。それから面背《めんぱい》を打ち返し打ち返し、丁寧に見て言った。「これはかねて聞きおよんだ、尊い放光王地蔵菩薩《ほうこうおうじぞうぼさつ》の金像《こんぞう》じゃ。百済国《くだらのくに》から渡ったのを、高見王が持仏にしておいでなされた。これを持ち伝えておるからは、お前の家柄に紛《まぎ》れはない。仙洞《せんとう》がまだ御位《みくらい》におらせられた永保《えいほう》の初めに、国守の違格《いきゃく》に連座して、筑紫へ左遷せられた平正氏《たいらのまさうじ》が嫡子に相違あるまい。もし還俗《げんぞく》の望みがあるなら、追っては受領《ずりょう》の御沙汰もあろう。まず当分はおれの家の客にする。おれと一しょに館《やかた》へ来い」

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 関白師実の娘といったのは、仙洞にかしずいている養女で、実は妻の姪《めい》である。この后《きさき》は久しい間病気でいられたのに、厨子王の守本尊を借りて拝むと、すぐに拭《ぬぐ》うように本復《ほんぷく》せられた。
 師実は厨子王に還俗させて、自分で冠《かんむり》を加えた。同時に正氏が謫所《たくしょ》へ、赦免状《しゃめんじょう》を持たせて、安否を問いに使いをやった。しかしこの使いが往ったとき、正氏はもう死んでいた。元服して正道と名のっている厨子王は、身のやつれるほど歎《なげ》いた。
 その年の秋の除目《じもく》に正道は丹後の国守にせられた。これは遙授《ようじゅ》の官で、任国には自分で往かずに、掾《じよう》をおいて治めさせるのである。しかし国守は最初の政《まつりごと》として、丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠《たくみ》の業《わざ》も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。国守の恩人曇猛律師は僧都《そうず》にせられ、国守の姉をいたわった小萩は故郷へ還《かえ》された。安寿が亡きあとはねんごろに弔《とむら》われ、また入水した沼の畔《ほとり》には尼寺が立つことになった。
 正道は任国のためにこれだけのことをしておいて、特に仮寧《けにょう》を申し請うて、微行して佐渡へ渡った。
 佐渡の国府《こふ》は雑太《さわた》という所にある。正道はそこへ往って、役人の手で国中を調べてもらったが、母の行くえは容易に知れなかった。
 ある日正道は思案にくれながら、一人旅館を出て市中を歩いた。そのうちいつか人家の立ち並んだ所を離れて、畑中の道にかかった。空はよく晴れて日があかあかと照っている。正道は心のうちに、「どうしてお母あさまの行くえが知れないのだろう、もし役人なんぞに任せて調べさせて、自分が捜し歩かぬのを神仏が憎んで逢わせて下さらないのではあるまいか」などと思いながら歩いている。ふと見れば、大ぶ大きい百姓家がある。家の南側のまばらな生垣《いけがき》のうちが、土をたたき固めた広場になっていて、その上に一面に蓆《むしろ》が敷いてある。蓆には刈り取った粟《あわ》の穂が干してある。その真ん中に、襤褸《ぼろ》を着た女がすわって、手に長い竿《さお》を持って、雀の来て啄《ついば》むのを逐《お》っている。女は何やら歌のような調子でつぶやく。
 正道はなぜか知らず、この女に心が牽《ひ》かれて、立ち止まってのぞいた。女の乱れた髪は塵《ちり》に塗《まみ》れている。顔を見れば盲《めしい》である。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。それと同時に正道は瘧病《おこりやみ》のように身うちが震《ふる》って、目には涙が湧いて来た。女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。
[#ここから2字下げ]
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生《しょう》あるものなれば、
疾《と》う疾う逃げよ、逐《お》わずとも。
[#ここで字下げ終わり]
 正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚《ほ》れた。そのうち臓腑《ぞうふ》が煮え返るようになって、獣《けもの》めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏《うつふ》した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。
 女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤《うるお》いが出た。女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。
[#地から1字上げ]大正四年一月



底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1998年7月21日公開
2006年5月16日修正
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*地名


[越後] えちご 旧国名。今の新潟県の大部分。古名、こしのみちのしり。
春日 かすが
春日山 かすがやま 新潟県上越市高田の北西にある山。上杉謙信の城址がある。
今津
荒川 あらかわ 新潟県の北部を西流、日本海に注ぐ川。山形県朝日山地に発源。長さ73キロメートル。
応化橋 おうげのはし 現、上越市下源入か。
直江の浦 → 直江津か
直江津 なおえつ 新潟県の南西部、上越市北部を占める臨海地域。日本海に沿う工業地帯。古くから海陸交通の要衝で佐渡との連絡港。
米山 よねやま 新潟県中部、柏崎市と上越市柿崎区との境にある山。標高993メートル。民謡「三階節」に歌われる。

[岩代] いわしろ 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。今の福島県の中央部および西部。
信夫郡 しのぶごおり/しのぶぐん 岩代国(旧陸奥国南西部)の郡で、現在の福島県の北部、福島盆地地域の西半分にあたる。

[越中国] えっちゅう 旧国名。今の富山県。こしのみちのなか。
親不知子不知 おやしらず こしらず → 親不知
親不知 おやしらず (2) 波が荒くて、親は子を、子は親をかえりみる暇もないほどの危険な海岸をいう。特に、新潟県糸魚川市にある約5キロメートルの北陸道の険路にこの称がある。
越中宮崎 えっちゅうみやざき 富山県下新川郡朝日町宮崎か。

[佐渡] さど 旧国名。北陸地方北辺、日本海最大の島。新潟県に属する。面積857平方キロメートル。佐州。
蓮華峰寺 れんげぶじ 新潟県佐渡市にある真言宗智山派の寺院。大同元年(806年)、真言宗の開祖、空海の開山という伝承をもつ。山号は小比叡山。金剛寺、室生寺とともに真言の三大聖地の一つとされる。佐渡四国八十八札所の第六番札所。資料によって「蓮華峯寺」と記すものもある。
雑太郡 さわたぐん 佐渡国・新潟県にかつて存在した郡。佐渡島中部にあり、おおむね旧相川町・佐和田町・金井町・畑野町・真野町(全て現佐渡市)の領域に相当する。当初は佐渡国唯一の郡であったが、養老5年(721年)、雑太郡より分けて新たに賀茂郡・羽茂郡が設置された。

[能登] のと 旧国名。今の石川県の北部。能州。
[越前] えちぜん 旧国名。今の福井県の東部。古名、こしのみちのくち。
[若狭] わかさ 旧国名。今の福井県の西部。若州。

[丹後] たんご 旧国名。今の京都府の北部。
由良の港 ゆらのみなと 由良の湊。丹後国由良川口左岸(今の京都府宮津辺)の港。山椒太夫がいたという。
石浦 いしうら 村名。現、宮津市字石浦。由良川西岸の河口近く、由良村の南に位置する。
由良が岳 ゆらがたけ 標高640m。現、京都府宮津市南部。
二見が浦 ふたみがうら 三重県伊勢市二見町の今一色から立石崎に至る海岸。立石崎から神前岬までの海岸(神前海岸)もその一部とされることがある。
大雲川 おおくもがわ 由良川の古称か。
由良川 ゆらがわ 京都府中部を流れる川。丹波山地東端付近に発源し、福知山盆地を流れ、若狭湾に注ぐ。長さ146キロメートル。
和江 わえ 村名。現、舞鶴市和江。
中山の国分寺 こくぶじ/こくぶんじ 現、舞鶴市か。小字名に残る。山椒大夫(山枡太夫)に関する伝承が村内にいくつかある。
田辺 たなべ 京都府舞鶴市か。

[山城] やましろ 旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
朱雀野 しゅじゃくの/しゅじゃかの 京都の西の京が衰えて、朱雀大路以西の野になった辺。今、下京区に朱雀の名をとどめる。
東山 ひがしやま 京都市、鴨川の東に連なる丘陵。京都の東方に当たる山の意。ふつう北は比叡山から南は稲荷山までを指し、古来、東山三十六峰の称がある。風光すぐれ、名勝旧跡が多い。西山・北山に対していう。
清水寺 きよみずでら 京都市東山区にある北法相宗の寺。西国三十三所第16番の札所。山号、音羽山。本尊は十一面観音立像。開山は延鎮。805年(延暦24)坂上田村麻呂によって寺観が整い、平安時代以降観音の霊場として尊信される。本堂の前方、懸崖に臨んで舞台を架し、眺望に富む。せいすいじ。きよみでら。

[筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
安楽寺 あんらくじ 大宰府(福岡県太宰府市)にあったとされる寺院。菅原道真の廟であったが神仏分離で廃絶された。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


永保 えいほう (ヨウホウとも)[書経]平安中期、白河天皇朝の年号。辛酉革命により、承暦5年2月10日(1081年3月22日)改元、永保4年2月7日(1084年3月15日)応徳に改元。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

山椒太夫 さんしょう だゆう 丹後国加佐郡由良に住んで、強欲非道の富者として伝えられる人。(この名は由良長者の話を語り歩いた太夫の称に由来するかという)讒によって筑紫に流された陸奥太守の子の安寿姫と厨子王は、母と共に父を尋ねる途中人買い山岡太夫の手に渡り、母は佐渡へ、2子は山椒太夫に売られる。姉は弟を逃がして死んだが、厨子王は京都に上り、山椒太夫・山岡太夫を誅し、仇を報いたという。中世以来、小説・演劇の題材となり、森鴎外にも作品がある。山荘太夫・三庄太夫とも書く。
森鴎外 もり おうがい 1862-1922 作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。
曇猛律師 どんみょう りつし
関白師実 もろざね → 藤原師実
藤原師実 ふじわらの もろざね 1042-1101 院政期の公卿。父は藤原頼通。従一位・摂政・関白・太政大臣。通称京極殿または後宇治殿。師実の誕生から程なく通房が急死したため、師実が摂関家の後継者に立てられた。
陸奥掾正氏 むつのじょう まさうじ → 平正氏
平正氏 たいらの まさうじ
高見王 たかみおう ?-? 平安時代中期の皇族もしくは賜姓皇族であったとされる。系統図である『尊卑分脈』には名前と無位無官であった事だけが残っている。又『尊卑分脈』によると父に葛原親王(桓武天皇第5皇子)、子に平高望とされているが、これも定かではない。『尊卑分脈』などの系統図にしか登場しない謎の人物。
関白師実の娘
正道 まさみち → 厨子王


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


同胞 はらから (1) 同じ母親から生まれた兄弟姉妹。転じて、一般に兄弟姉妹。(2) 同国民。どうほう。
気が勝つ きがかつ 気性が強い。勝ち気である。
物詣で ものもうで 社寺にまいること。ものまいり。参詣。
秋日和 あきびより 秋らしい、晴れた天気
柞 ははそ (1) コナラ・クヌギ・オオナラなどの総称。(2)「はは(母)」にかけていう。
塩浜 しおはま 塩田。しおた。しおば。
ッュ米・興し米 おこしごめ 糯米で製するおこし。
牙彫 げぼり 象牙を材料とした彫刻。日本では、江戸後期から根付など精巧な細工物が特に盛んになった。げちょう。
腹のたしにはならいで
瓶子 へいし (ヘイジとも)酒を入れて注ぐのに用いる、上部がふくらんだ壺形で口の狭い瓶。
巌石 がんせき 岩石。
岨道 そわみち けわしい山道。そばみち。
氈 かも 氈鹿の毛を撚って作った敷物。毛の席。
海松 みる 海松・水松。海産の緑藻。アオサ藻綱ミル目の一種。浅海の岩石に着生する。全体に濃緑色(梅松色)を呈し、直径3ミリメートルくらいの円柱形肉質の幹が多数に二股分岐する。高さ約20センチメートル。ミル属には、他にナガミル・クロミル・タマミルなどがある。食用。みるめ。みるな。みるぶさ。またみる。
荒布 あらめ 褐藻類コンブ科の多年生海藻。波の荒い外洋の低潮線以下に直立して、海中林をつくる。全長1メートル余。茎は円柱状で強靱、その上端は叉状に分岐して葉になる。食用・肥料となるほか、アルギン酸の原料とする。本種と混同されるカジメは茎の先端が叉状に分かれないことで区別できる。
かしぐ 傾ぐ かたむく。
船端・舷 ふなばた 船のへり。船の側面。ふなべり。
弘誓の船 ぐぜいのふね 菩薩が衆生を済度して涅槃の彼岸に送るのを、船にたとえていう語。誓いの船。
ものぐるおしい 物狂おしい 心が異常な状態に陥りそうである。ものぐるわしい。
舟浴@ふなとこ/ふなどこ 船床。船中の床に敷く簀。
袿 うちき (ウチギとも。内着の意) (1) 平安時代の貴族女子の服。垂領広袖の衣。(2) 男子の直衣・狩衣などの下に着た垂領広袖の衣。
牽コ つなで 綱手。船につないで引く綱。ひきづな。
粟の鳥 あわのとり 粟畑にむらがる鳥。
分限者 ぶげんしゃ 金持。ものもち。ぶげんもの。
几 おしまずき (1) 脇息。(2) (女房詞)机。(3) 牛車の前の横木。軾。
手ずから てずから (ズの歴史的仮名遣ツは格助詞。カラは助詞「から」と同源。→から) (1) 直接自分の手を使って。自分の手で。(2) みずから。自身で。
餉笥・�子 かれいけ 餉を入れる笥。弁当箱。わりご。
奴婢 ぬひ (ヌビとも) (1) 律令制の賤民。奴は男、婢は女で、官奴婢と私奴婢とがあり、五賤の最下位。やつこ。(2) 召使の男女。下男と下女。(3) 中国で漢代以来、奴隷を指す法律上の名称。賤民の最下位。
衾・被 ふすま 布などで作り、寝るとき身体をおおう夜具。
苫・篷 とま 菅や茅を菰のように編み、和船の上部や小家屋を覆うのに用いるもの。とば。
かずく 被く。(「潜(かず)く」と同源で、頭から水をかぶる意が原義。転じて、ものを自身の上にのせかぶる意) (1) 頭にのせる。頭にかぶる。(2) 貴人から賞として賜った衣類を肩にかける。
厨 くりや (黒屋の意) 食物を調理する所。台所。庖厨。
餉 かれい (カレイヒ(乾飯)の約)旅行のときなどに携帯した干した飯。転じて、広く携帯用食料にもいう。
面桶 めんつう (ツウは唐音) (1) 一人前ずつ飯を盛って配る曲物。後には、乞食の持つものをいう。めんつ。(2) 茶道で使う、曲物の水こぼし。
� かたかゆ 堅粥。かたく煮た、かゆ。現在の飯にあたる。
鋺・椀 まり 昔、水・酒などを盛った器。もい。
炊ぐ・爨ぐ かしぐ (室町時代まで清音)米・麦などを煮または蒸して飯とする。めしを炊く。
項を屈める うなじをかがめる くびを前に垂れる。下を見たり、しょんぼりとしおれたり。おとなくし従ったりするときのさま。
寝鳥・宿鳥 ねとり (1) ねぐらに寝ている鳥。ねぐらどり。(2) (音取(ねとり)から)歌舞伎囃子の一つ。幽霊などの出現に用いる、淋しい気分を出す笛の音。寝鳥の笛。
廊 ほそどの 細殿。(1) 廂の間の細長いもの。仕切って局として用いることが多い。(2) 殿舎から殿舎へ渡る廊。渡廊。渡殿。
立て明し・炬火 たてあかし たてて照明としたもの。たいまつの類。たちあかし。
錘・紡錘 つむ (1) 糸巻などの心棒。(2) 糸をつむぐ機械の付属具。太い針状の鉄棒で、これに管を差し込んで回転させ、撚りをかけながら糸を巻くもの。緒巻。
一向き ひとむき その事のみに心を寄せて他を顧みないこと。一途。ひたすら。ひたむき。
手挟む たばさむ 手に挟みもつ。わきに挟みもつ。
偏衫・褊衫 へんさん (ヘンザンとも)僧衣の一種。上半身を覆う法衣。インドの衣に由来し、左前に着る。
巌畳 がんじょう 頑丈。
宸翰 しんかん 天子の直筆の書き物。日記・書状・詠草・経文などを含めていう。宸筆。
築泥 ついひじ ついじ(築地)。
受糧器 じゅりょうき 僧侶などが持つ、食糧をもらい受けるうつわ。托鉢用の器。
三衣 さんえ (サンネとも)〔仏〕僧尼の着る3種の衣、すなわち袈裟。大衣の僧伽梨と七条の鬱多羅僧と五条の安陀会。
直衣 のうし (気分を直す衣、平常服の意)「直衣の袍」の略。平安時代以来、天子・摂家以下公卿の平常服。大臣家の公達と三位以上は勅許を得れば直衣のままで参内できた。形状は衣冠の袍と全く同様であるが、衣冠とちがって位袍ではないため当色以外の色を用いた。平安時代の女房の物の具の略装も女房の直衣という。雑袍。のうしのころも。すそづけのころも。
指貫 さしぬき 布袴・衣冠または直衣・狩衣の時に着用する袴。平絹・綾・固織物・浮織物などで八幅に仕立て、裾に紐を通してくくるもの。括緒の袴。奴袴。
放光王 ほうこうおう
地蔵菩薩 じぞう ぼさつ (梵語K*itigarbha)釈尊の入滅後、弥勒仏の出生するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を教化・救済するという菩薩。像は、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊は菩薩形に表されるが、一般には左手に宝珠、右手に錫杖を持つ比丘形で表される。中国では唐代、日本では平安時代より盛んに信仰される。子安地蔵・六地蔵・延命地蔵・勝軍地蔵などもある。地蔵。地蔵尊。
違格・違却 いきゃく (1) 格式にたがうこと。いかく。(2) 道理にたがうこと。不都合。ふらち。違逆。(3) 困惑。
受領 ずりょう (ジュリョウ・ズロウとも。前任者から事務の引継ぎを受ける意)諸国の長官。任国に行って実地に政務をとる国司の最上席のもの。通例は守、時には権守・介などの場合もある。遥授の国守と区別する称。
かしずく 傅く (1) 子供を大切に育てる。(2) 人につかえて、世話をする。後見する。
謫所 たくしょ 配流されている所。配所。
除目 じもく (任官の人名を記した、目録の意)平安時代以後、諸司・諸国の主典以上の官を任ずる儀式。公卿が集まって約3日間清涼殿の天皇の前で行い、摂政の時はその直廬で行うのを例とする。左大臣が一ノ上として執筆となり、一々任官の人を大間書に注記する。県召には主に国司などの地方官を任じ、司召には主に京官を任ずる。ほかに臨時除目(小除目)・女官除目などがあった。除書。
遥授 ようじゅ 古代、国司に任命されても、実際に赴任執務することを免除されたこと。権官などに多い。遥任。←→受領
仮寧 けにょう (「仮」は休暇、「寧」は帰寧の意)令制で、官人に賜った休暇。一般に、6日ごとに1日、3年に1回30日の休暇が定められた。
瘧 おこり 間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指す。わらわやみ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 欠番だった第三四号をさかのぼって発行します。残る第三三号は『古事記(四)(中巻後編)の予定です。

「869年(貞観11)5月26日 陸奥国大地震あり、城郭倉庫等倒壊、海水城下に至る」……高橋富雄『宮城県の歴史』(山川出版社、1969.9)より。こよみちゃんによれば、太陽暦の七月上旬にあたる。
 菅原道真は845年生まれだから、869年は24歳。平将門の祖父高望王は839年生まれで898年に上総介に任じられ下向。911年、大宰府にて没。将門の生年は不明だが、仮に40歳前後で没したとすれば900年ごろの誕生となる。将門の父・良持(もしくは良将)は不詳であるが、高望王20〜30歳のころの生まれとすれば、貞観大地震の当時は生まれた前後〜10歳ぐらいと仮定される。彼は後年、鎮守府将軍に任じられる。震災復興に直接たずさわったとは考えにくいが、仮に多賀城まで出向いたとすれば、人々の記憶のまだ生々しいころのことだったかもしれない。
 中将実方(さねかた)が陸奥守として下向するのが995年。そして鴎外の記述を真に受けるならば、山椒大夫、安寿と厨子王は1100年ごろの話であり、奥州藤原二代基衡の同時代人ということになる。




*次週予告


第三巻 第三五号 
地震の話(一)今村明恒


第三巻 第三五号は、
三月二六日(土)発行済みです。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三四号
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発行:二〇一一年五月二八日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
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出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
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販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。

第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  月末最終号:無料
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。

第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治 定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。

第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治 定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。

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