宮本百合子 みやもと ゆりこ
1899-1951(明治32.2.13-昭和26.1.21)
小説家。旧姓、中条。東京生れ。日本女子大中退。顕治の妻。1927〜30年ソ連に滞在、帰国後プロレタリア作家同盟常任委員。32年から終戦までに3度検挙。戦後、民主主義文学運動の先頭に立つ。作「貧しき人々の群」「伸子」「二つの庭」「播州平野」「道標」など。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


もくじ 
大正十二年九月一日/私の覚え書 宮本百合子


ミルクティー*現代表記版
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間
 大震火災についての記録

私の覚え書

オリジナル版
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間
 大震火災についての記録

私の覚え書

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

*底本
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card4186.html

私の覚え書
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「女性」
   1923(大正12)年11月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card3732.html

NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html
NDC 分類:916(日本文学/記録.手記.ルポルタージュ)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc916.html




大正十二年九月一日よりの東京・横浜間
大震火災についての記録

宮本百合子


 九月一日、土曜
 私どもは、福井に八月一日より居、その日、自分は二階、Aは階下で勉強中。十二時一二分すぎ、ひどい上下動があった。自分はおどろき立ち上ったが二階を降りるのが不安なほどゆえ、ややしずまるのを待って降りる。あまり日でりがつづき、もう一か月あまりも雨が降らないゆえだろうという。一日中、ときどきり返しがあり、自分は不安で仕事が手につかず。

 九月二日 日曜
 自分は、今日たけをさんの学校にゆくつもりなのを仕事の都合でやめた。安樹兄、福井市にゆき(豊一氏の妹の夫の葬式のため)はじめて東京大震災 不逞ふてい鮮人暴挙の号外を見つけ驚きかえる。自分ら葡萄棚ぶどうだなすずみ台で、その号外を見、話をきき、三越・丸の内の諸ビルディング・大学・宮城がみな焼けた、戒厳令をしいたときく。ぞっとし、さむけがし、ぼんやりした。が全部信ぜず、半分とし、とにかく四日に立つと、前きめたとおりにする。吉田氏帰村し、驚き模様をしらす。たいてい林町青山は無事と直覚ちょっかくすれど不安なり。

 九月三日 月曜
 激しき雷雨あり、まるでまっしろに雨がふる。雨をおかしA車で福井にゆき、汽車の交渉と、食糧(サケ、カンづめなど)を持ってくる。汽車、東海道は箱根付近の線路破かいされたため金沢から信越線にゆき、大宮ごろまでだろうという。鎌倉、被害はなはだしかろうというので、国男のこと・事ム所の父のことを思い、たまらなし。

 九月四日 火曜日
 午後四時五十七分、福井発。
 もう福井駅に、避難民が来、不逞ふてい鮮人のうわさひどく、女などはとうてい東京に入れないという。安樹兄、信州の妻の兄の家に止まっていろというが、荷物の大半をおき、ただ食糧だけ持って乗る。ひどいみようなり、とうてい席などはなし。大阪の東洋紡績ぼうせきの救護隊総勢二十人近くなかなか手くばりをして、しんに来ている。となりにいた海軍大佐、金沢午後七時〇五分着、同三十分信越線のりかえのとき、急行券を買う、そのとき私どもと同盟し自分は私どもの切符を買ってくれるから、私どもはその人の荷物を持ち、席をとることとする。金沢まで無事に行くことは行ったが、駅におりると、金沢の十五連隊の兵、電線工夫らが大勢、他、救済者が、みな糧食を背負せおい、草鞋わらじバキ、殺気立ったありさまでつめかけている。急行はどちらにつくのかと聞いてみると、ブリッジを渡った彼方あちらだという。A、バスケット、かんづめつつみをふりわけにし、自分は袋、水とう、魚カゴをさげ、いそぎブリッジを渡って、彼方あちらで聞くと、彼方あちら側だという。また、今度は時間がないのでかけて元の方におり、人に聞き、元と同じ側に待つ。金沢の兵、電気工夫らいっぱい、頭をなぐられなぐられ、やっと乗る。自分席あり、A席なくバスケットにすわる。海軍の人の荷物を人づてに渡す。軽井沢近くまでは、どうかこうか無事に来たが、くつかけ駅〔長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢か。から一つ手前で、窓から小用をした人が、客車の下に足を見つけ、たぶんバクだんを持った朝鮮人がかくれているのだろうとさわぎ出す。前日、軽井沢で汽車をテンプクさせようとした鮮人がつかまったところなので、みな、さむいような、なんともいえない気がする。駅で長いこと停車し、黎明れいめいのうすあかりの中に、提灯ちょうちんをつけ、抜刀の消防隊がしきりに車の下をさがし、いったん、もういないと言ったのに、あとでワーッとときの声をあげて野原の方に追って行った。いたという人、いなかったという人。不明、しかし、この下でバク発するかと思い、しかも逃げ場もないときの心持ちはまともに味わった。高崎、大宮以後十二時間の延着えんちゃくで、田端たばたに夜の(五日)九時すぎつく。金沢から乗り合わせた男、荷もつはあり、自動車はないというので、自分がカイ中電灯をもっているのをだしに、あまり知識もなさそうな男二人をさそい、荷をおわせてつれて行く。自分はAと、もう一人信州の男と、三人で、着剣ちゃっけんの兵に守られたところどころを通り、林町の通りに出、門を見、自分にかけよるきよの声を聞く、父上の無事を知ったら何ともいえない心持ちがした。西洋間にしりばしょりのままとび込むと渡辺わたなべじん氏がらる。倉知貞子叔母おば、死んだらしいとのこと、国男無事のよし。Aと二人、青山に行けずとまる。

 六日
 A青山。鎌倉から小南の兄かえり、叔母上、季夫圧死し、仮埋葬にしたよし

 七日
 午後A来。荷物半分負うて行く。

 八日
 自分基ちゃん、歩いて青山に行く。
 歩いて林町より三時間かかり青山にくる。やけ野原(イキ坂、神保町、九段)のありさま、心を**にす。五番町ごばんちょう英国大使館の前に、麹町こうじまち区役所死体収容所ができ、あらゴモで前かけをした人夫が、かたまり、トタンのかこいをした場所に死骸をあつめている。夜、青山の通りを吉田・福岡両氏をたずね、多く屋根の落ちかかった家を見る。ひどい人通りで、街中

 九日
 英男、荷物を持って自転車でくる。夜、豪雨。ヒナン民の心持ちを思い同情禁じ得ず。
 A、浅草、藤沢をたずぬ、A、浅草にゆく。さいの弟の避難先、寺田氏の避難先をわからせる。

 十日 雨
 さい、妹と二人赤羽あかばねに行き、とうとう弟が北千住きたせんじゅに行ったことを確かむ。
 国男、自動車で藤沢をとおり倉知一族と帰京、基ちゃん報知に来てくれる。自分、雨をおかし、夜、二人で、(モトイと)林町に行きよろこぶ。
 自転車に日比谷ひびやでぶつかり、足袋たび裸足はだしとなる。

 十一日
 大学のかえりA林町により、歩き青山にもどる。石井に五十円やる。

 十二日
 さい、弟をたずね北千住に行く。(晴)
 女、前の、夜番。

 二十三日
(倉知へ一寸より道ちゃんと行く)
 みな安積あさかから帰る。大宮から自動車で来、やけ跡も見ないゆえか、ふわふわ、たわいない心持ち。

 二十四日
 夜からひどいひどい雨、まるで吹きぶりでひとりでにバラックや仮小屋の人の身の上を思いあわれになる。A、ひるごろ福井からかえったよし 林町にいて知らず。古川氏にたのまれた原稿を書く。

 二十五日
 ひどい雨、英男朝四時ごろ、岡部氏に行きがけ青山に原稿を届けてくれる。Aいっしょにかえる。自分、夕方Aとかえり、夜、原稿が不満なのでなおす。

 二十六日
 古川氏の原稿をしまう。とりに来ず。違約か。午後、いものを始む。

 二十七日
 罹災民りさいみんに送ろうと思う着物いにかかる。ほとんど一日。ところどころへ見舞い。
 甲府の渡辺貴代子氏来、罹災民への衣類寄付のため、三宅やす子、奥むめおその他と集まってしようという。主旨賛成、ただ、彼女の粗野なべらんめえ口調には、ほとほとまいってしまった。

 二十八日
 英男、いものの材料としてまとめておいたボロを持ってきてくれた。一包みだけ。
 母上には困っている人間の心持ちがわからないのだろう。困る。心持ちがわるかった。

 九月六日に聞いた話
 ◎朝、鎌倉の倉知の様子を見に行った小港〔現、神奈川県中区小港町こみなとちょうか。の兄、自転車に乗って行きかえり、貞叔母上、季夫、座敷のはりの下じきになって即死し、咲枝、同じはりのはずれで圧せられ、屋根から手を出し、さけんだのを、留守番の男が見つけ聞きつけ、かけつけて出そうとしているうち、ツナミがきたので、あわててそのまま逃げてしまった。咲枝、気絶してしまっていたところに、逗子ずしに行っていた一馬がかえり、その手を見つけて、掘り出し救った。春江は歯医者にでも行っていたために助かる。
 ◎国男は一日の朝、小田原養生館を立ち大船おおふなまで来、鎌倉へ行こうとしているとき、震災に会い歩いて鎌倉へ行った。ために、被害の甚大な二点を幸運にすりぬけて助かった。
 ◎木村兄弟が来、長男の男が上の男の子を失ったという。
 ◎笹川氏来 芝園橋の川に死体がならんでつかえて居、まるでひどいありさまで日比谷にもはじめ死体が一列にならんでいたよし
 ○看板に、火がパッとつき、それで家にうつる。それを皆でこわす。
 ○産婦が非常に出産する。日比谷で、幾人もいる。順天堂でも患者をお茶の水に運び、精養軒せいようけんへ行き、駒込こまごめの佐藤邸へうつるまでに幾人も産をした。
 ◎隅田川に無数の人間の死体が燃え木の間にはさまって浮いている。女は上向き男は下向、川水が血とあぶらで染まって居、吾嬬橋あづまばしを工兵がなおしている。
 ◎ほとんど野原で、上野の山の見当さえつけると迷わずにかえれる。
 ○本所相生あいおい署は全滅。六日夜十一時ごろ、基ちゃんが門で張り番をしていると相生署の生きのこりの巡査が来、被服廠跡ひふくしょうあとの三千の焼死体のとりかたづけのために、三十六時間勤務、十二時間休息、一日に一つの玄米のにぎり飯、で働かせられているよし。いやでもそれをしなければ、一つのにぎり飯ももらえない。
 地方から衛生課長か何かが、在郷軍人か何かをつれてきたそうだが、あまりおそろしいありさまにおぞげ鈍気おぞげ。感覚を失っているようす。をふるって手を出さずもどってしまい、人夫も金はいくらやるといってもいやがってしない。ために、巡査がしなければならない。
 ○焼け死んだ人のあるところは、往来を歩いただけでもにおいでわかる。変に髪のこげたようなにおいとその、ローストビーフのようなところなど。そして、みな黒こげで、子供ぐらいの体しかなく、もがいた形のままでいる。ただ、足の裏だけやけないので気味がわるい。
 ○橋ぎわに追い込まれ、舟につかまろうとしても舟は焼けて流れるのでたまらず、おぼれ死ぬ、あるいは、ほかに逃げ場を失って持ち出した荷物に火がつき、そのまま死ぬ、被服廠の多数の死人も、四方火にとりかこまれたため、空気中に巨大な旋風がおこり、火をまきあげたところへ、さっと荷物におちるので、むしやきになった。その旋風のつよさは、半蔵門に基さんがいたとき、三尺に五尺ほどのトタン板がヒラヒラと舞う。
 三日の晩、松坂屋まつざかやが焼けはじめ 四日の朝六時に不忍池しのばずのいけのあちら側ですっかり火がしずまった。
 父上が先の森さんのうちの前で見ると、九十度くらいの角度に火が拡がっていた。
 ○不逞ふてい鮮人に対する警戒はきびしく、思いちがいで殺された人間(鮮人、邦人)が多い。二日・三日の夜には、みな気が立ち、町内の有志が抜刀で、ピストルを持ち、歩いた。四日ごろから、そのような武器を持つことはとめられ、みなかし棍棒こんぼうを持つことになった。
 やりをかつぎ、闇からぬきみをつき出されたりした。
 ◎野沢さんの空屋の部屋で、何かピカリピカリと電気が見えるので変に思って行ってみると、日本人の社会主義者が一人つかまった。
 今度、放火したり、爆薬を投げたりしたものの中の大多数は、日本人の社会主義者だという話がある。真ギはわからないが、もし日本の社会主義者が本所深川のように、逃げ場もないところの細民を、あれほど多数殺し家を焼き、結局、軍備のありがたさを思わせるようなことをするとしたら、じつに、愚の極、狂に近い。
 鮮人の復讐観念が出たのなら、ある程度までそれぞれの理由も察せられるが。また、鮮人がしたとしても、問題はこの事件の落着にとどまらず、朝鮮と日本のあるかぎり、重大な、持続的な問題である。
 八日、基ちゃんと、青山にかえる途中、乃木坂のぎざか行き電車の近くで、大森の基ちゃんの友人に会い、実際鮮人が、短銃抜刀で、私人の家に乱入した事実を、自分の経験上はなされた。
 つかまった鮮人のケンギの者にイロハニをいわせて見るのだそうだ。そして発音があやしいとたちまちやられる。
 林町の方で三十七、八の女が白粉おしろいびんに毒薬を入れて持っているのをつかまったという話、深川の石井が現に、在郷軍人の帽子をかぶって指揮しているのを見たといい、おそろしいものだ。

 本田道ちゃんの話
 ちょうど昼で、三越に食事に行こうとして玄関に出てくると、いきなり最初の地震がきた。あぶないというので、広場のまんなかにかたまって三越の方を見ると、あの建物がたっぷり一尺、右に左にゆれているのが見える。化粧レンガはバラバラ落ちてくるし、ガラスはみなかけ落ちるし、大変なことと思い、二度目がしずまると、家にかえって見た。そして、また office に行き、ちょうど三時ごろ家へかえりきりになる。地震は、あいかわらず時々くるが、火事はまかさるまいと思い、荷作りなどをしないでも大丈夫だと、下のばあさんに言ってひとまずガード下に地震をよけているうちに、五時ごろ、だんだん火の手がせまってくるので、大きな荷物を四つ持ち、鎌倉河岸に避難した。はじめは、材木や何かをつんで置いたところにいたが、あとで気がついて竹で矢来やらいをくみ、なかに、スレート、石のような不燃焼物のあるところに移り、包みを一つスレートの間にうめていた。が、火の手がせまってくると、あついし、息は苦しいし、大きな火の子が、どんどん来る、後ろの河には、焼けた舟がただよってきて桟橋にひっかかる。男がさおでおし出してやる。いざとなったら、後ろの河にとびこむ覚悟で、火の子をはらい払いしているうちに、朝になり、着のみきのままで林町に来た。
 下のばあさんは、ガード下にいたとき近所の人に、小さい女の子と、酒屋の十ばかりになる小僧をちょっと見てやってください、とたのまれたので、その子にすがりつかれたばかりに何ひとつ出さずにしまった。
 ばあさんいわく「あわれとも何ともいえたものじゃあありませんや、ちょっとここに待っておいで、おいでといっても、こわいから行っちゃあイヤーと、つかまえてはなさないんでしょう。私も、自分の荷物を出そうとして、ひとの子をやき殺しちゃあ寝ざめがよくないと思って、我慢がまんしてしまいましたが……それもいいがまあ貴女あなた、その小僧が朝鮮人の子だっていうじゃあありませんか、私、くやしくってくやしくって、こんなんなら、ほうっぽり出してやればよかったと思ってね、傘一本、着がえ一枚ありませんや。
 そのばあさんが話したが、呉服橋ごふくばしぎわの共同便所のところで三十七人死んだ、その片われの三人が助かった様子、うち二人は夫婦で若く、妻君は妊娠中なので、うしろの河に布団ふとんをしずめて河に入れておいたが、水が口まできてアプアプするので、しかたなく良人おっとも河にとびこみ舟に乗ろうとすると、舟はみな焼けている。やっと、橋の下に一つ焼けないのがあったのを見つけ、それに二人で乗り、手でかいて、逃げ出した。そのあとに残った三十七人が、火にあおられ、救わろう助かろうとしているうちに、焼け死んでしまったのであった。
 その男は、のち、親類のものに会ったとき泣いて、今度のような目にあったことはないといったよし

 深川の石井の逃げた様子。
 すぐ舟に、家族のものと荷もつだけを乗せ、大川に出た。ところが越中島えっちゅうじま糧秣りょうまつ廠が焼け、両国の方が焼け、被服廠あとが焼け、四方火につつまれ川のまんなかで、立ち往生おうじょうをした。男といえば、船頭と自分と二人ぎりなので五つの子供まで、着物で火を消す役につき、二歳の子供は恐怖で泣きもしない。
 そのうちに、あまり火がつよく、熱と煙のため、眼が見えなくなってきた。(そのため、方角もわからず逃げ場を失って死んだものが無数だろうとのこと。)それで手ぬぐいで片目を包帯ほうたいし、川の水をあびあびやっときりぬけて、巣鴨すがもの方の寺に行った。
 荷もつに火がつくので水をかける、そのあまりをかい出すもの、舟をこぐもの分業でいのちからがらにげ出したのだ。

 吉田さんの話。
 Miss Wells と、日本銀行にいた。これからお金をもらおうとしたとき、地なりがしたので吉田さんはああ地震というなり、広場にとび出してしまった。Miss Wells はついてくるものと思って。見ると三越がゆれている。自動車は、広場のペーブメントで二、三尺もあちらこちらずれている。もう死ぬものと覚悟したら、すこしは度胸がすわったので、三越の窓を見ると、売り場ふだをかけてあるのがまるでころころ swing して居、番頭が、模様を気づかってだろう、窓から首を出したりひっこめたりしている、そうかと思うと、夫婦でしっかり抱きあっているのもあれば、また、どのみち、じんまくをちゃんとして、というふうに、着物をちゃんときなおしている番頭もいる。
「どうでしょう、だいじょうぶですか?」とそばの男に聞くと、
「私は下がわれるとたいへんだと思って、地面ばかり見ています」という。
 気がついてみると Miss Wells がいないので、堂々めぐりをして見ると Miss Wells は、玄関のところに立っている。
 内の方が安全だというので入り、二度目の地震がくるまでに金をうけとり、Miss Wは銀座をぬけようというのに反対して、呉服橋から丸の内に出ると、内外ビルディングがちょうどつぶれ、負傷した男が血まみれで、逃げようかどうしようかと、救いを求めている。
 もう、そのため電車はきかないので歩いてかえり始めると、警視庁の裏、青山の方、神田の方、もう一つ遠い方で火が見える。
 その夜は、空が火事のあかりで、昼間のようでゴーゴーというものすごいほのおの音がした。
 着物をきかえるどころではなく、夜は外でたべ、ねむり、八日にはじめて二階に眠ろうとする。
 ミスWは、Mrs. ベルリナに地震のサイコロジーを知りたいから、そのつもりでいてくれといわれたことが頭にあるので、まずはじめはおちつき、そばの人や動作を観察し、すっかり心に覚えこみ、まず、これでよしと思ったら急にこわくなりひざがガタガタにふるえ出したよし

 父上の経験
 その日は一日事務所に行かず。ちょうど地震の三十分ほど前、内外ビルディングに居、人に会うために、ヤマトというレストランの地下室で電話帳を見ていた。ところへひどくゆれて来、ガチャガチャ器具のこわれる音がする。父上は、たぶん客や Waiter があわてて皿や何かをこわしたのだろうと思うと、二度目のがかなりつよくきた。これはすこしあぶないと、地ママ室の天井を注目した。クラックが行くと一大事、逃げなければならないと思ったのだ。ピリリともしないので、すこしおちついたら、食事をする気でいると、なんとも外のさわぎがひどいので出てみておどろいた。さっそく、郵船を見ると、どうもガタガタに外がいたんでいるし、内外はピシャンコになっているし、もう警視庁うらに火が出たし、あぶないと思って、事ム所を裏から大丈夫と知り、東京ステーションで Taxi をやとおうとするともう一台もない。しかたがないので、本郷座のよこにくると、今、客を降ろしたばかりの白札のに会う。乗せろ、いやダメです、かえらなければならない。そういわずに行けと押し問答をしていると、あちら側からも一人、駒込こまごめに行くから乗せろという。それでは二人で行きましょうと、やっと家にかえった。
 かえって見ると、おばあさん二人は竹やぶににげ、英男が土蔵にものを運び込んで、目ぬりまでし、曲がって大扉のしまらないのに困っていた。
 井戸に、瀬戸ものをつるしまでし。なかなか十五、六の男の子としては大出来おおできの功績をあげた。
 二日
 事ム所まで行って(もちろん歩いて)みると、三崎町さきちょうあたり、呉服橋ぎわ、その他に人間の死体がつみかさね、焼け残りのトタン板をかぶせてある。なるたけ見ないようにして行く。二人の老婆をどうしてにがそうかと、松坂屋に火のついたとき、心配このうえなかった。

 さいやの経験
 地震のとき、自分の三畳に居、ハッとして、窓から戸外にとび出し、門を出て気が遠くなった。近所の男にブランデーをもらって気がつき、それからはかえって平気になって、夜でも、明かりのない蚊帳かやの中で目をさましている。弟が、ひどく心臓をわるくし、本所ほんじょの奉公先から、浅草猿若町さるわかちょうの医院に入院していた。それを赤羽まで書生が背負せおって行ってくれ、あと兄が福島から来、三日、のまず、食わずでたずねたあげく、やっと見つけて、北千住につれて行った。よく助かったものなり。さい、十二日朝、カンづめ類を背負せおい出かける、前晩も眠らず。

 大滝全焼して、林町に一族で避難してくる。

 ○大学、化学実験室あたりから火を発したらしい。みな、四周はしっかりしているのだが、天井が落ちて中はダメ。
 さいわい、高楠たかくす先生関係の本、歴史の本、その他少々助かり、啓明会のは、大部分見い出されたよし、大学が(この図書館の貧弱な日本で)図書館を失っては、まるで手も足も出ないだろう。
 マックスシュラーの文庫は、とうとう開放しないまま灰燼かいじんにしてしまった。
 ○何にしろ東京がこんなありさまなので、種々の注意はみなこちらにひかれ、全滅した小田原・房州ぼうしゅうの諸町へは、なかなかじゅうぶん手がまわらない形がある。

 ○東京は地震地帯の上にあって、いつも六、七十年目、百年目にこんな大地震がある。てても建ててもまもなくママされる、それをいつまでくりかえすのか。

 ○今度の朝鮮人の陰謀はじつに範囲広く、山村の郷里信州の小諸こもろの方にも郡山こおりやまにも、毒薬その他を持った鮮人が発見されたとのことだ。

 九月二十四、五日より大杉おおすぎさかえほか二名が、甘粕あまかす大尉に殺された話、やかましく新聞に現われた。福田戒厳令司令官が山梨にわったのもこの理由であったのだ。他二名は誰か、またどうして殺したか、所持品などはどうされたか。
 高津たかつ正道まさみち佐野まなぶ山川やまかわひとし菊栄きくえ氏らもやられたといううわさあり。じつに複雑な世相。一部の人々はみな、この際やってしまう方がよいという人さえある。社会主義がそれで死ぬものか、むずかしいことだ。だまし打ちにしたのは、とにかく非人道な行為としなければなるまい。

 国男の話、詳細。
 小田原養生館滞在、一日の朝、前日鎌倉へ行こうとして、山田氏に来られダメになったので、出かける。汽車、電車が案外早かったため、予定の一つ前のににあった。大船おおふなでは発車三分前、プラットフォームに出て歩いていたが、もう入ろうとして車内に入ったばかりのところに、ゆるい地震が来ひきつづき、立っていられないほど、左右に大ゆれにゆれてた。彼は、席の両はじにつかまり、がんばり、やっと、一次のはすぎる。もうそのとき、今までいたプラットフォームはくずれ、出ようとした汽車の車掌しゃしょうが血まびれで、どこからか、はいだしてきた。くだりの方のプラットフォームには、たくさんの人が居、それが泣きさけぶ声、救いを求める声、言語に絶す。それから国男はすぐ汽車を出、レールにつかまって第二のゆり返しをすごす。それから鎌倉の方に行くものをさそい、歩いて、トンネルくずれ、海岸橋陥落かんらくのため山の方から行く。近くに行くと、釣りぼりの夫婦がぼんやりしている。つなみに家をさらわれてしまったのだそうだ。倉知の方に行くと門は曲がって立ち、家、すっかり、玄関の砂利じゃりの方にくずれている。家屋をこえて行くと、庭に川島が呆然ぼうぜんとして居、呼んでも返事もせず。やっと心づき「お話ししなければならないことがある」といってやって来、叔母おば・季夫が圧死し、咲枝、一馬に助けられ、材木座ざいもくざの八百屋わきのトタン屋根の仮小屋に避難したよしをいう。国男すぐ川島をつれ、途中ローソク、マッチの類を買って避難所に行く。
 その翌日あたりから、朝鮮人がくるといううわさが立ち、センセンキョーキョー、地震のとき、春江ちゃんの行っていたサイトウさんのところでは、奥さんが死なれ、その良人おっと、子供二人、姉妹たち、みないっしょにいる。一日に玄米二合ぎり、国男、空腹にたえず。そっと咲枝ちゃんとビスケットなどをかじる。
 三日雨
 四日パッとる。
 両日の間に叔母上の死体を、小島さんのところに来た水兵の手でママり出し、川島、ひつぎ作りを手伝って、やっとひつぎにおさめ、寺に仮埋葬す。そのころ、東京から小南着。
 五日ごろから、たおれなかった田舎の百姓家に避難し、親切にされる。さいわい、熱もはじめ一、二日で出ず。
 八日、倉知叔父おじ、自動車にて着。
 九日、みな、藤沢をまわり、二子ふたごわたしをとおり、*の家につく。
 十日、国男だけ林町に送られてくる。
 藤沢に行くまでに網の目のように地われしたところがあるそうだ。われ目にはさまった自動車。
 ○倉知・叔母、ゆれはじめたとき女中と、二番目の小さい子といっしょに、お逃げなさいというのに聞かず食堂に居、二人(咲枝と季夫)をかばって、海に背を向け、大棟おおむねで背を打たれ、臀部でんぶに柱の折れたのか何かだか刺さったまま季夫チッ息して死す。咲枝は足を下にしかれ、夢中で手で天井をやぶって顔を出していた。女中と二番の子が海岸橋を渡りきって下馬にきたとき、あとから渡った厨川くりやがわ白村はくそん氏がつなみにさらわれ沖に持って行かれた。


底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は不明字。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



私の覚え書

宮本百合子


 九月一日、私は福井県の良人おっとの郷里にいた。朝は、よく晴れた、むし暑い天気であった。九時ごろから例によって二階と階下とにわかれ、一区切ひとくぎり仕事をし、やや疲れを感じたので、ぼんやり窓から外の風景をながめていると、いきなり家中が、ゆさゆさと大きく一、二度ゆれた。おや地震か、と思うまもなく、震動は急に力をし、地面の下からつきあげてはグイグイゆさぶるように、建物をきしませてつのってくる。
 これは大きい、と思うと私は反射的に机の前から立ち上がった。そして、みなのいる階下に行こうとし、階子はしご口まで来はしたが、れがはげしいので、とうてい足をおろせたものではない。田舎の階子段はしごだんは東京のと違い、ただみ板をかけてあるばかりなので、ここにおろそうとするとグラグラとれ、後ろのすきまからすべり落ちそうで、どうにも思いきって降りられない。私は、そのままそこに立ちすくんでしまった。
 階下では、良人おっとが「大丈夫! 大丈夫!」と呼びながら、廊下ろうかをこちらに来る足音がする。私どもは、階子はしごの上と下とで、おどろいた顔を見合わせた。が、まだれはひどいので、彼がのぼってくるわけにもゆかず、自分が降りるわけにもいかない。ユサユサとくるごとに私は、おそろしさをえて手をにぎりしめ、彼は、後ろの庭から空を見るようにしては、「大丈夫、大丈夫」をくり返す。り返しのあいだを見、私は、いそいで階子はしごを降りた。居間のところへ来てみると、ちょうど昼飯に集まっていた家内じゅうの者が、みな、しぶをふきこんだ廊下ろうかに出て立っている。顔を見合わせても口をきくものはない。全身の注意を集注した様子で、じっとれのしずまるのを待っている。階下にきて見て、はじめて私は四辺あたりに異様なひびきが満ちているのに気がついた。樹木の多いせいか、大きなササラでもすり合わせるような、サッサッサッサッという無気味なそよぎが、津波のように遠くの方からよせてくるといっしょに、ミシミシミシ、柱を鳴らしてれてくる。
 廊下ろうかに立ったまま、それでもだいぶおちついて私は、天井や壁を見まわした。床の間などには砂壁すなかべがすこし落ちたらしいが、損所そんしょはない。そのうち、ふと、私の目は、机の上にある良人おっとの懐中時計の上に落ちた。ふたなしのその時計は、明るい正午の光線で金色の縁を輝やかせながら、きっちり十二時三分すぎを示している。まっ白い面にあざやかな黒字で書かれた数字や、短針長針が、せまい角度で互いに開いていた形が、奇妙にはっきり印象に残った。おどろいて、ちょっとぼんやりした揚句あげくなので、かえって時計の鮮明な文字が、特殊な感銘をあたえたのだろう。
 知ろうともしなかったこの時間の記憶は後になって、意外に興味ある話題になった、なぜなら、東京であの大震は十一時五十八分におこったと認められている。ところが当時、大船おおふなのステーションの汽車の中にい、やっとたおれそうな体を足でふんばり支えていた私の弟は、たしかに十二時十五分すぎごろ始まったという。鎌倉から来た人々もその刻限に一致した。それゆえ、私の見た時計にたいした狂いのなかったことを信ずるなら、東京に近く、震源地に近い湘南地方の方が逆におくれて、強く感じたということになるのである。
 その日は、一日、り返しが続き、私は二階と下とを往来して暮らしてしまった。一度おどかされたので、また強くなりはしまいかと、れるとおちついていられない。みなも、近年にない強震だとおどろいた。けれども、まさか東京にあれほどのことがおこっていようとは夢想するどころではなかった。なにしろ福井あたりでは七月の下旬に雨が降ったきり、九月一日まで、一か月以上一度の驟雨しゅううさえ見ないというかわきようであった。人々は農作物のためにひとしずくの雨でもと待ちこがれている。二百十日が翌日にせまっていたので、この地震は天候の変化する前触まえぶれとし、むしろ歓迎したぐらいなのであった。はたして、午後四時ごろから天気が変わり、はげしい東南風が吹きはじめた。大粒な雨さえ、バラバラとかかってくる。夜になると、月のない闇空に、黒い入道雲が走り、白山山脈のかなたで、まっ赤な稲妻いなずまのひらめくのが見えた。
 夜中に、二度ばかり、かなり強い地震で眼をさまされた。しかし、いよいよ夜が明けると、二百十日は案外平穏へいおんなことがわかった。前夜の烈風はやんで、しとしととおちついた雨が降っている。人々は、その雨のうれしさにすっかり昨日の地震のことなどは忘れた。彼らは楽しそうに納屋なやからみのをとり出した。そして、つゆのたまった稲の葉をそよがせながら、田んぼの水回りに出かける。夕方になると、その雨もあがった。
 葡萄棚ぶどうだなの下にこしらえた私どもの涼台すずみだいに、すぐ薄縁うすべりの敷るほどの雨量しかなかった。それにしても、ひさしぶりで雨あがりのさわやかさにれたので、みないきいきとした。そして、涼台すずみだいに集まって雑談にふけっていると八時ごろ、所用で福井市に出かけていた家兄が、あわただしい様子で帰ってきた。私どもの呑気のんきな「おかえりなさい」というあいさつに答えるなり、彼は息を切って、
「東京はえらいこっちゃ」
と言った。
 私どもが聞きかえすまもなく、
「一日に大地震があった後に大火災で、全滅だというこっちゃが」
 彼は、立ったまま、持ってきた号外を声高こわだかに読み始めた。この時はじめて、私どもは、前日の地震が東京からの余波であったことを知った。号外によれば、一日の十二時二分前、東京および湘南地方に大地震があり、多くの家屋が倒壊すると同時に、四十八か所から火を発し、警視庁・帝劇・三越・白木屋しろきや・東京駅・帝国大学その他重要な建物全焼、宮城さえ今なお燃えつつある。丸の内、海上ビルディング内だけでも死者数万人の見込み、東京市とうきょうし三分の二は全滅、加えて〔四字せ字〕〔五字せ字〕が大挙して暴動をおこし、爆弾を投じて、全市を火の海と化しつつあると、報じてある。そのどさくさまぎれに、〔四字せ字〕うわささえ伝えられている。
 あまり突然の大事だいじなので、喫驚びっくりすることさえ忘れて聞いていた私は、「ために全市にわたって戒厳令をしき」という文句を耳にすると、にわかにゾッとするような恐怖を感じた。五つか六つの時、孫の薬とりに行った老婆が、電信柱に結びつけられ兵隊に剣付鉄砲で刺殺しさつされたという、日比谷の焼き打ちの時か何かの風聞を小耳にはさんで以来、戒厳令ということは、私になんともいえない暗澹あんたん惨虐ざんぎゃくさとを暗示するのだ。私は、一時に四方の薄暗さと冷気が身にこたえる涼台すずみだいの上で、堅唾かたずをのんで、報道を聞いた。どんな田舎の新聞でも、戒厳令をしいたことまで誤報はしまい。そうすれば、どんなに軽く見積もっても、昨日の十二時以後、東京はその非常手段を必要とするだけ険悪けんあく擾乱じょうらんにあることだけは確かだ。
 私の思いは、たちまち父の上に飛んだ。父の事務所は、丸の内の仲通りにある。時刻が時刻だから多忙な彼は、どんなところにいて、災害にあったか知れないのだ。心をおちつけ、そばだてるようにし、何か魂を通りすぎる感じをつかもうとしたが、いっこう凶徴きょうちょうらしいときめきは生じない。次に、弟はどうしたろうと思った。彼は夏休み以前から病気で、回復期に向かったため、小田原か大磯おおいそ、あるいは鎌倉に行っていたかもしれない。それらの地方は、この号外によれば津波で洗われ、村落の影さえ認め得ないほどになっているらしいのだ。けれども、これも、理性にうったえて考えてみた結果として感じる心配以上、するどく心にせまるものがない。私はこれで、二人は命に別条べつじょうなかろうという確信に近いものを持ち得た。私と彼ら二人との心のつながりは深く、おろそかなものではない。万一彼らの生命に何ごとかあったのなら、昨夜、あんなのびやかな眠りは決して得なかったにちがいない。
 ほんのまばたきをする間にこれらのことを考え、安心すべきあきらかな理由のある他の家族のことを思い、すこし、心が冷静になった。それにつれて、号外の全部に対し、半信半疑な心持ちになった。全市の交通・通信機関が途絶してしまった以上、内部の正確な報知を、容易に得られないわけだ。〔四字せ字〕行方不明〔四字せ字〕〔六字せ字〕という諸項が、特に疑いを生じさせた。ちょうど政界が動揺していた最中なので、よほど誇大こだいされているのではあるまいかとは、だれでも思うことだ。私は、
「少しおおげさではないこと? なんだか、どこまで本当にしていいか、わからないようだけれども」
といった。それはみな同意見であった。すこし号外の調子がセンセーショナルすぎることを感じたのであった。しかし、どっちみち、全市の電灯・ガス・水道が止まったというだけでも一大事である。まっ暗な東京を考えるだけで、ふだんの東京を知っているものは心はおびえる。
 人々は、口々くちぐちに、「こちらに来ていてよかった。運がよかった。まあ、おちつくまでいるがよい」といわれる。女の人などは、おろおろして、私の手をとる。けれども、私はまるであべこべの心持ちがした。それだけのおそろしい目にあわなかったことを、じつにしあわせにありがたくは思うが、万事がおちつくまで、生まれた東京の苦しみを余処よそにのんべんだらりとしてはいたくない。大丈夫だろうとは思いながらも、親同胞・友達のことを案じ、一刻も早く様子を見たい心持ちが、まるで通じないのががゆく、やや不快にさえ感じた。
 しかし、東海道線は不通になっている。その混乱のうちに、用意なしにはもどれない。入京は非常に困難らしいが、さいわいなことに、私どもは四日の午後に、何がなくとも、福井を出発する準備をしていた。米原まいばらから東京駅までの寝台券も取ってあった。それを信越線迂回うかいにかえてもらうことはできよう。私どもは、翌三日にそれらの準備をし、予定どおり四日に東京に向かうことに定めた。出発までは、できるだけおちついて、自分らのつとめを続けるという約束で。
 三日の朝、早く起き、朝飯を終わると、私はわざわざりてきてある『大阪毎日』も見ず、二階にあがった。そして、机に向かい、ペンをとり、かけの書きものを続けた。一晩寝て目をさますと、昨夜は割合にはっきり安心のついていた人々のことが、かえって腹の底から不安になってきていた。気分が、陰鬱いんうつになった。どんな不運な機会で、私の愛する多くの人々が死んでいまいものでもない。会うまでは生死のほどもわからず、私としては、もっとも悪い場合に処してもわれを失わないだけの考慮、覚悟は持っていなければならない。ふだんは、なんとなくぼやけ、人と人との感情問題などもそう切迫せっぱくしてはいないが、さような大事に面し、それがどう展開していくか。自分の運命のあり場所が、深い、ひろい海の底をのぞおけで見るように、私にわかった。はるかな東京の渾沌こんとん燼灰じんかい、死のうとする人々のうめきの間から、私は、何か巨大な不可抗の力を持ったものが、ひしひしと自分にせまってくるように感じた。その気持ちを、ぐっとこらえながら、自分のすべきことは忘れまいとするのは、努力であった。
 午後から良人おっとは福井市に出、大宮までの切符と持って行くべき食糧の缶詰かんづめ類を買い入れてきた。役場から、入京に必要だという身分証明書をもらった。そして、四日の午後四時五十七分、すべての荷物を郷里に残し、ただ食糧だけを二人でせおうりわけの荷に作って、福井を出発した。福井市のあちらこちらでは、当局者のいわゆる流言蜚語ひごが、じつにさかんで、血なまぐさい風が面をはらうようであった。もう二、三十分で列車が出る時になっても、家兄は私の体を案じ、とどまることをすすめた。私は、半分冗談、半分本気で、
「大丈夫よ。私はちっともかわいくないから、これで髪をざんぎりにし、泥でも顔へぬれば、女だと思う者はないでしょう」
と、笑った。
 七時五分、金沢駅のプラットフォームに降りると、私は、異常な光景に目をみはった。もうここでは、平常の服装をした人などは一人もいない。男は脚絆きゃはん草鞋わらじがけ、各自に重そうな荷と水筒をい、ちりと汗とにまびれている。女の数はごく少なく、それも髪を乱し、すそをからげ、年齢にかかわらず平時の嬌態きょうたいなどはさらりと忘れた真剣さである。武装をととのえた第三十五連隊の歩兵、大きな電線の束と道具袋を肩にかけた工夫こうふの大群。乗客がいつもの数十倍たてこんだうえ、みな気が立った者ばかりだから、その混雑したありさまは言葉につくせない。だれも自分の足もとをしっかり見ているものなどはなく、また、押し押され、おちおちたたずんでもいられない。上野行きの急行に乗り込むときは、人間が夢中になってふりしぼる腕力がどんな働きをあらわすか、人と自分とで経験する好機会であったというほかない。
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井〔長野県長野市篠ノ井しののいか。ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯ちょうちんをかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名らえられ、数人は逃げたといううわさがあった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方あけがた四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどいみようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際せとぎわにあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席ばせきにいたたまれなくさせたのだ。
 停車した追分おいわけ駅では、消防夫が抜刀で列車の下を捜索そうさくした。しばらく見まわって、
「いない。いない」
という声が列車の内外でした。それで気がゆるもうとすると、前方で、突然、
「いた! いた!」
と、けたたましいさけびがおこった。ついで、ワーッというものすごい鬨声ときのこえをあげ、何かを停車場の外へ追いかけはじめた。
 観念して、おそろしさをこらえていた私は、その魂消たまたような「いた! いた!」という絶叫ぜっきょうを聞くと、水でもびたようにふるえた。走っている列車からは、逃げるにも逃げられない。この人でつまった車内で、自分だけどうするということはもちろんできないことだ。そんなことはあるまいと、こわいながら疑いをはさんでいた私は、このさけびで、いちどきに面していた危険の大きさを感じ、おもわずゾッとしたのであった。ぼんやり地平線に卵色の光りはじめた黎明れいめいの空に、陰気にねむそうにしげっていた高原の灌木かんぼく、にごった、せまい提灯ちょうちんの灯かげにひらめいた白刃の寒さ。目の前のつつみにかけ登って、ずっと遠くの野を展望した一人の消防夫の小作りな黒い影絵の印象を、おそらく私は生涯忘れないだろう。列車の下から追い出したのが何であったか、それをどう始末したか、結着のつかないうちに、汽車は前進しはじめた。
 高崎から、だんだん時間が不正確になり、遅延しはじめた。軍隊の輸送、避難民の特別列車のため、私どもの汽車は順ぐりあとまわしにされる。貨車、郵便車、屋根の上から機関車にまでとりついた避難民の様子は、見る者に真心まごころからの同情を感じさせた。同時に、彼らが、平常思いきってできないことでも平気でやるほど女まで大胆になり、死をおそれないありさまが、惨澹さんたんたる気持ちをあたえた。一つとして、疲労であおざめ形のくずれていない顔はないのに、気が立っているゆえか、自暴自棄のゆえか、こちらの列車とすれちがうと、彼らは、声をそろえてワーッとさかんな鯨波ときをあげる。気の毒で、こちらからこたえる声は一つもしなかった。
 けれども、家の安否を気づかう人々は、東京から来た列車が近くに止まると、声の届くかぎり、先の模様を聞こうとする。
「あなたはどちらからおいでです?」
「神田。
「九段のところは、みな焼けましたか?」
「ああダメダメ! 焼けないところなし。
 または、
「浅草はどこも残りませんか?」
 避難者の男は、だまって頭で、残らないという意味をうなずく。
「上野は?」
 今度は、低い、ふるえる声で、
「山下からステーションはダメ。
 なお、詳細をこうとすると、
「みな、焼けちまったよ。お前、ひどいのひどくないのって。――」
 五十を越した労働者風のその男は、にわかにあごをふるわせ、遠目にも涙のわかる顔を、窓から引っこめてしまう。
 浦和、わらびあたりからは、いったん逃げのびた罹災者りさいしゃが、焼けあと始末に出てくるため、一日以来の東京の惨状さんじょうは、口伝くちづたえにひろまった。じつに、想像以上の話だ。天災以外に、複雑な問題がひっからまっているらしく、惨酷さんこく〔二字せ字〕の話を、災害にあって死んだ者の他につけたさないのはない。死者の多いことがみなをおどろかした。話によると、命がけで、不幸な人々のしかばねを見ないでは一町の道筋も歩けないほどだ。経験のある人々は、哨兵しょうへいに呼び止められたときの応答のしぶりを説明する。徒歩で行かなければならない各区への順路を教える。何にしても、夜歩くのは危険きわまるというのに、列車は延着する一方で、東京を目前に見ながら日が暮れてしまったので、みなの心配は、種々な形であらわれた。知る知らないにかかわらず、同じ方面に行く者は、組みになった。荷を自分だけでいきれなく持っている男は、自分の便宜べんぎ対手あいてにわけ、荷負いかたがたの道づれになってもらおうと勧誘する。
 順当に行けば、午前九時十五分に着くべき列車は十二時間延着で、午後九時すぎ、やっと田端たばたまできた。私どもの列車が、はじめて川口かわぐち赤羽あかばね間の鉄橋を通過した。その日から、大宮までであった終点が、さいわい日暮里にっぽりまでのびたのであった。きびしい警戒の間を事なく家につき、せおった荷をおろして、無事な父の顔を見たとき、私は、ありがたさに打たれ、笑顔もできなかった。父は、地震の三十分前、倒壊して多くの人を殺した丸の内のある建物の中にい、あやうく死とすれちがった。私は、鎌倉で、親密な叔母おばと一人の従弟いとこが圧死したことを知った。まさかと思った帝国大学の図書館が消防のもあわず焼け落ちてしまったのを知った。
 だんだん、あちらこちらの焼け跡をとおり、私は、なんともいえないさびしい思いをした。自分の見なれた神田・京橋・日本橋の目貫めぬきの町筋も、ああ一面の焼け野原となっては、どこに何があったのかまるでわからない。災害前の東京の様子は、頭の中にはっきり、場所によっては看板の色までいきいきと残っている。けれどもその場所に行っては、あぶられて色の変わった基礎石の上から、あった昔の形を築きあげることすらおぼつかない。せまいせまい横丁と思っていたところが、広々と見通しのきく坂道になっているさまなどは、見る者に哀傷あいしょうをそそらずにはいない。心にすこし余裕のあったゆえか、帰京して数日の間、私は、大仕掛じかけな物質の壊滅にともなう、一種異様な精神の空虚くうきょをたえがたく感じた。
 今まであったものが、もうない、という心持ちは、建物だけにかぎらない。にぎやかに雑誌・新聞に聞こえていた思想の声、芸術の響き、精神活動の快活なざわめきが、スーイと煙のようにどこかに消えてしまったと感じるのだ。今まで、自分の魂のよりどころとなっていた種々のことは、この場合、支えとなりきれない薄弱なものであったのか。真個しんこに地震と火事で倒され焼きつくされるものなのだろうか。
 数日たつうちに、私は、しだいにちがった心持ちになってきた。「死者をして死者を葬らしめよ」という心持ちである。焼けてほろびるものなら、思想と物質とにかかわらず、ほろびよ。人間は、これほどの災厄さいやくを、おろかな案山子かがしのように突っ立ったぎりでは通すまい。灰の中から、さらに知恵を増し、経験によってきたえられ、新たな生命を感じた活動がよみがえるのだ。人間のはかなさを痛感したことさえ無駄むだにはならない。非常に際し、命と心の力をむきだしに見た者は、たとえしばらくの間でも、うそとくだらない見栄みえは失った。分を知り、忍耐強くなり、自然の教えることに敏感になった私どもは、大きな天のふるいで、各自の心をふるわれたようなものではないだろうか。私は、会うほとんど全部の人が、なにか、身についた新しい知識と謙遜けんそんな自分への警言を、今度の災害から受けているのを知った。この力は大きい。
 今度のことを、廃頽はいたいしかけた日本の文化に天が与えた痛棒つうぼうであるというふうに説明する老人らの言葉は、そのまま私どもにうけがわれないあるものを持っている。けれども、自然の打撃から痛められながらも、かならずそのうちから人間生活に大切な何ものかを見い出し、たゆまず絶望せずハツラツと精神のかがやく文明を進めていこうとする人間の意欲の雄々しさは、その古風な言葉のうちにさえもなお認め得る。多くの困難があり、苦痛があるにしろ、私どもは、とかく姑息こそくになりがちな人間の意志を超えた力で、社会革新の地盤をあたえられたことを、意味深い事実として知っているのだ。
 女性としての生活のうえからも、本当に生活に必須なことと、そうでないこととの区別をはっきり知っただけで、あの当時は、一日が五年の教育にあたいした。あまりけばけばしい装飾の遠慮、無力を一種の愛らしさとしていた怯懦きょうだの消滅、自分の手と頭脳にだけたよって、刻々変化する四囲の事情の中に生活をまとめ計画する必要にせまられたことは、その時ぎりでうせる才覚以上のものをあたえた。
 種々の点から、今、東京に居残る大多数は希望を持った熱心にはげまされて働いているが、昨夜のように大風が吹き豪雨でもあると、私はつい近くの、明治神宮外苑のバラックにいる人々のことを思わずにいられなくなる。あれほどの男女の失業者はどうなるか。その家族のことに考えおよぶと、彼らの妻、子女のために、婦人で社会事業にたずさわる人々のなすべきことは少くないように思う。
〔一九二三年十一月〕


底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「女性」
   1923(大正12)年11月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録

宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)沓《くつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)地平[#「平」に「ママ」の注記]室の天井を注目した。

*:不明字 底本で「不明」としている文字
(例)心を**にす。
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 九月一日、土曜
 私共は、福井に八月一日より居、その日、自分は二階、Aは階下で勉強中。十二時一二分すぎ、ひどい上下動があった。自分はおどろき立ち上ったが二階を降るのが不安なほど故、やや鎮るのを待って降りる。あまり日でりがつづきもう一ヵ月余も雨が降らない故だろうと云う。一日中時々ゆりかえしがあり、自分は不安で仕事が手につかず。

 九月二日 日曜
 自分は、今日たけをさんの学校にゆくつもりなのを仕事の都合でやめた。安樹兄、福井市にゆき(豊一氏の妹の夫の葬式の為)始めて東京大震災 不逞鮮人暴挙の号外を見つけ驚きかえる。自分等葡萄棚の涼台で、その号外を見、話をきき、三越、丸の内の諸ビルディング 大学 宮城がみなやけた戒厳令をしいたときく。ぞっとし、さむけがし、ぼんやりした。が全部信ぜず、半分とし、とにかく四日に立つと、前きめた通りにする。吉田氏帰村し、驚き模様をしらす。大抵林町青山は無事と直覚すれど不安なり。

 九月三日 月曜
 激しき雷雨あり、まるでまっしろに雨がふる。雨を冒しA俥で福井にゆき、汽車の交渉と、食糧(鮭、カンづめ等)を持って来る。汽車東海道は箱根附近の線路破かいされた為金沢から信越線にゆき、大宮頃迄だろうと云う。鎌倉被害甚しかろうと云うので、国男のこと事ム所の父のことを思い、たまらなし。

 九月四日 火曜日
 午後四時五十七分福井発。
 もう福井駅に、避難民が来、不逞鮮人の噂ひどく女などは到底東京に入れないと云う。安樹兄、信州の妻の兄の家に止って居ろと云うが、荷物の大半をおき、只食糧だけ持ってのる。ひどいこみようなり、到底席などはなし。大阪の東洋紡績の救護隊総勢二十人近くなかなか手くばりをして、賑に来て居る。となりに居た海軍大佐金沢午後七時〇五分着同三十分信越線のりかえのとき、急行券を買う、そのとき私共と同盟し自分は私共の切符を買ってくれるから、私共はその人の荷物を持ち、席をとることとする。金沢迄無事に行くことは行ったが、駅に下ると、金沢の十五連隊の兵、電線工夫等が大勢、他、救済者が、皆糧食を背負い、草鞋バキ、殺気立った有様でつめかけて居る。急行は何方につくのかときいて見ると、ブリッジを渡った彼方だと云う。A、バスケット、かんづめ包をふりわけにし、自分は袋、水とう、魚カゴを下げ、いそぎブリッジを渡って、彼方できくと、彼方側だと云う。又、今度は時間がないのでかけて元の方に下り、人にきき、元と同じ側に待つ。金沢の兵、電気工夫等一杯、頭をなぐられなぐられやっとのる。自分席あり、A席なくバスケットにすわる。海軍の人の荷物を人づてに渡す。軽井沢近くまではどうか斯うが無事に来たが、沓《くつ》かけ駅から一つ手前で、窓から小用をした人が、客車の下に足を見つけ、多分バク弾を持った朝鮮人がかくれて居るのだろうとさわぎ出す。前日軽井沢で汽車をテンプクさせようとした鮮人が捕ったところなので皆、さむいような、何とも云えない気がする。駅で長いこと停車し、黎明のうすあかりの中に、提灯をつけ、抜刀の消防隊がしきりに車の下をさがし、一旦もう居ないと云ったのに、あとでワーッとときの声をあげて野原の方に追って行った。居たと云う人、居なかったと云う人。不明、然し、この下でバク発するかと思い、而も逃げ場もないときの心持はまともに味った。高崎、大宮以後十二時間の延着で、田端に夜の(五日)九時すぎつく。金沢からのり合わせた男、荷もつはあり、自動車はないと云うので、自分がカイ中電燈をもって居るのをだしに、あまり智識もなさそうな男二人をさそい、荷を負わせてつれて行く。自分はAと、もう一人信州の男と、三人で、着剣の兵に守られた処々を通り林町の通りに出、門を見、自分にかけよるきよの声をきく、父上の無事を知ったら何とも云えない心持がした。西洋間に尻ばしょりのままとび込むと渡辺仁氏が居らる。倉知貞子叔母、死んだらしいとのこと、国男無事のよし。Aと二人、青山に行けずとまる。

 六日
 A青山。鎌倉から小南の兄かえり、叔母上、季夫圧死し、仮埋葬にした由

 七日
 午後A来。荷物半分負うて行く。

 八日
 自分基ちゃん、歩いて青山に行く。
 歩いて林町より三時間かかり青山に来る。やけ野原(イキ坂、神保町、九段)の有様、心を**にす。五番町英国大使館の前に、麹町区役所死体収容所が出来、あらゴモで前かけをした人夫が、かたまり、トタンのかこいをした場所に死骸をあつめて居る。夜、青山の通を吉田、福岡両氏をたずね、多く屋根の落ちかかった家を見る。ひどい人通りで、街中

 九日
 英男、荷物を持って自転車で来る。夜豪雨。ヒナン民の心持を思い同情禁じ得ず。
 A、浅草、藤沢をたずぬ、A、浅草にゆく。さいの弟の避難先、寺田氏の避難先をわからせる。

 十日 雨
 さい、妹と二人赤羽に行き、到頭弟が北千住に行ったことを確む。
 国男自動車で藤沢を通り倉知一族と帰京、基ちゃん報知に来てくれる。自分雨をおかし、夜、二人で、(モトイと)林町に行きよろこぶ。
 自転車に日比谷でぶつかり、足袋裸足となる。

 十一日
 大学のかえりA林町により、歩き青山に戻る。石井に五十円やる。

 十二日
 さい弟を訪ね北千住に行く。(晴)
 女、前の、夜番。

 二十三日
(倉知へ一寸より道ちゃんと行く)
 みな安積から帰る。大宮から自動車で来、やけ跡も見ない故か、ふわふわたわいない心持。

 二十四日
 夜からひどいひどい雨、まるで吹きぶりでひとりでにバラックや仮小屋のひとの身の上を思いあわれになる。A午頃福井からかえった由 林町に居て知らず。古川氏にたのまれた原稿を書く。

 二十五日
 ひどい雨、英男朝四時頃、岡部氏に行きがけ青山に原稿を届けてくれる。A一緒にかえる。自分夕方Aとかえり、夜原稿が不満なのでなおす。

 二十六日
 古川氏の原稿をしまう。とりに来ず。違約か。午後縫いものを始む。

 二十七日
 罹災民に送ろうと思う着物縫いにかかる。殆ど一日。処々へ見舞。
 甲府の渡辺貴代子氏来罹災民への衣類寄附の為、三宅やす子、奥むめおその他と集ってしようと云う。主旨賛成、但、彼女の粗野なべらんめえ口調にはほとほと参ってしまった。

 二十八日
 英男縫いものの材料としてまとめて置いたぼろを持って来てくれた。一包だけ。
 母上には困って居る人間の心持がわからないのだろう。困る。心持がわるかった。

 九月六日に聞いた話
 ◎朝、鎌倉の倉知の様子を見に行った小港の兄、自転車にのって行かえり、貞叔母上、季夫、座敷の梁の下じきになって即死し、咲枝同じ梁のはずれで圧せられ、屋根から手を出し、叫んだのを、留守番の男が見つけききつけかけつけて出そうとして居るうち、ツナミが来たので、あわててそのまま逃てしまった。咲枝気絶してしまって居たところに、逗子に行って居た一馬がかえり、その手を見つけて、掘り出し救った。春江は歯医者にでも行って居た為に助かる。
 ◎国男は一日の朝、小田原養生館を立ち大船迄来、鎌倉へ行こうとして居るとき、震災に会い歩いて鎌倉へ行った。為に、被害の甚大な二点を幸運にすりぬけて助かった。
 ◎木村兄弟が来、長男の男が上の男の子を失ったと云う。
 ◎笹川氏来 芝園橋の川に死体が並んでつかえて居、まるでひどい有様で日比谷にも始め死体が一列に並んで居た由。
 ○看板に、火がぱっとつき、それで家にうつる。それを皆でこわす。
 ○産婦が非常に出産する。日比谷で、幾人も居る。順天堂でも患者をお茶の水に運び、精養軒へ行き駒込の佐藤邸へうつる迄に幾人も産をした。
 ◎隅田川に無数の人間の死体が燃木の間にはさまって浮いて居る。女は上向き男は下向、川水が血と膏《あぶら》で染って居、吾嬬橋を工兵がなおして居る。
 ◎殆ど野原で上野の山の見当さえつけると迷わずにかえれる。
 ○本所相生署は全滅。六日夜十一時頃、基ちゃんが門で張番をして居ると相生署の生きのこりの巡査が来、被服廠跡の三千の焼死体のとりかたづけのために、三十六時間勤務十二時間休息、一日に一つの玄米の握り飯、で働せられて居る由。いやでもそれをしなければ一つの握り飯も貰えない。
 地方から衛生課長か何かが在郷軍人か何かをつれて来たそうだがあまり恐ろしい有様におぞげをふるって手を出さず戻ってしまい人夫も金はいくらやると云ってもいやがってしない。ために巡査がしなければならない。
 ○焼け死んだ人のあるところは、往来を歩いただけでも匂いでわかる。変に髪のこげたような匂いとその、ローストビーフのようなところ等。そして、みな黒こげで、子供位の体しかなくもがいた形のままで居る。只足の裏だけやけないので気味がわるい。
 ○橋ぎわに追い込まれ、舟につかまろうとしても舟はやけて流れるのでたまらず、溺れ死ぬ、或は、他に逃げ場を失って持ち出した荷物に火がつき、そのまま死ぬ、被服廠の多数の死人も、四方火にとりかこまれた為、空気中に巨大な旋風が起り、火をまきあげたところへ、さっと荷物におちるので、むしやきになった。その旋風のつよさは、半蔵門に基さんが居たとき、三尺に五尺ほどのトタン板がヒラヒラと舞う。
 三日の晩松坂屋がやけ始め 四日の朝六時に不忍池の彼方側ですっかり火がしずまった。
 父上が先の森さんのうちの前で見ると、九十度位の角度に火が拡って居た。
 ○不逞鮮人に対する警戒はきびしく思いちがいで殺された人間(鮮人、邦人)が多い。二日三日の夜には、皆気が立ち、町内の有志が抜刀で、ピストルを持ち、歩いた。四日頃からそのような武器を持つことはとめられ、みな樫の棍棒を持つことになった。
 やりをかつぎ、闇からぬきみをつき出されたりした。
 ◎野沢さんの空屋の部屋で、何かピカリピカリと電気が見えるので変に思って行って見ると、日本人の社会主義者が一人つかまった。
 今度、放火したり、爆薬を投げたりしたものの中の大多数は日本人の社会主義者だと云う話がある。真ギはわからないが、若し日本の社会主義者が本所深川のように、逃場もないところの細民を、あれほど多数殺し家をやき、結局、軍備の有難さを思わせるようなことをするとしたら、実に、愚の極、狂に近い。
 鮮人の復讐観念が出たのなら、或程度までそれぞれの理由も察せられるが。又、鮮人がしたとしても、問題はこの事件の落着にとどまらず、朝鮮と日本の在る限り、重大な、持続的な問題である。
 八日、基ちゃんと、青山にかえる途中、乃木坂行電車の近くで、大森の基ちゃんの友人に会い、実際鮮人が、短銃抜刀で、私人の家に乱入した事実を、自分の経験上はなされた。
 つかまった鮮人のケンギの者にイロハニを云わせて見るのだそうだ。そして発音があやしいと忽ちやられる。
 林町の方で三十七八の女が白粉瓶に毒薬を入れて持って居るのを捕ったと云う話、深川の石井が現に、在郷軍人の帽子をかぶって指揮して居るのを見たと云い、恐しいものだ。

 本田道ちゃんの話
 丁度昼で三越に食事に行こうとして玄関に出て来ると、いきなり最初の地震が来た。あぶないと云うので、広場の真中にかたまって三越の方を見ると、あの建物がたっぷり一尺右に左にゆれて居るのが見える。化粧レンガはバラバラ落ちて来るしガラスはみなかけ落ちるし大変なことと思い、二度目がしずまると、家にかえって見た。そして、又 office に行き丁度三時頃家へかえり切りになる。地震は、相変らず時々来るが、火事はまかさ来まいと思い、荷作りなどをしないでも大丈夫だと、下の婆さんに云って一先ずガード下に地震をよけて居るうちに、五時頃、段々火の手が迫って来るので、大きな荷物を四つ持ち、鎌倉河岸に避難した。始めは、材木や何かをつんで置いたところに居たが、あとで気がついて竹で矢来をくみ、なかに、スレート、石のような不燃焼物のあるところにうつり、包を一つスレートの間に埋めて居た。が、火の手が迫って来ると、あついし、息は苦しいし、大きな火の子が、どんどん来る、後の河には、やけた舟が漂って来て棧橋にひっかかる。男が棹でおし出してやる。いざとなったら、後の河にとび込む覚悟で、火の子を払い払いして居るうちに、朝になり、着のみきのままで林町に来た。
 下の婆さんは、ガード下に居たとき近所の人に、小さい女の子と、酒屋の十ばかりになる小僧を一寸見てやって下さい、とたのまれたので、その子にすがりつかれたばかりに何一つ出さずにしまった。
 ばあさん曰く「憐れとも何とも云えたものじゃあありませんや、一寸此処に待っておいで、おいでと云っても、可怖いから行っちゃあいやーとつかまえてはなさないんでしょう。私も、自分の荷物を出そうとして、ひとの子をやき殺しちゃあ寝ざめがよくないと思って、我慢してしまいましたが……それもいいがまあ貴女、その小僧が朝鮮人の子だって云うじゃあありませんか、私口惜しくって口惜しくって、こんなんなら放ぽり出してやればよかったと思ってね、傘一本、着換え一枚ありませんや。」
 その婆さんが話したが、呉服橋ぎわの共同便所の処で三十七人死んだ、その片われの三人が助かった様子、中二人は夫婦で若く、妻君は妊娠中なので、うしろの河に布団をしずめて河に入れて置いたが、水が口まで来てアプアプするので、仕方なく良人も河にとび込み舟に乗ろうとすると、舟は皆やけて居る。やっと、橋の下に一つやけないのがあったのを見つけ、それに二人でのり、手でかいて、逃げ出した。そのあとにのこった三十七人が、火にあおられ、救ろう助かろうとして居るうちに、やけ死んでしまったのであった。
 その男は、後親類のものに会ったとき泣いて今度のような目にあったことはないと云った由。

 深川の石井の逃げた様子。
 すぐ舟に家族のものと荷もつだけをのせ、大川に出た。ところが越中島の糧秣廠がやけ両国の方がやけ、被服廠あとがやけ四方火につつまれ川の真中で、立往生をした。男と云えば、船頭と自分と二人ぎりなので五つの子供まで、着物で火を消す役につき、二歳の子供は恐怖で泣きもしない。
 そのうちに、あまり火がつよく、熱と煙のため、眼が見えなくなって来た。(そのため、方角もわからず逃げ場を失って死んだものが無数だろうとのこと。)それで手拭で片目を繃帯し、川の水をあびあびやっときりぬけて、巣鴨の方の寺に行った。
 荷もつに火がつくので水をかける、そのあまりをかい出すもの、舟をこぐもの分業で命からがらにげ出したのだ。

 吉田さんの話。
 Miss Wells と、日本銀行に居た。これからお金を貰おうとしたとき地なりがしたので吉田さんはああ地震と云うなり、広場にとび出してしまった。Miss Wells はついて来るものと思って。見ると三越がゆれて居る。自動車は、広場のペーブメントで二三尺も彼方此方ずれて居る。もう死ぬものと覚悟したら少しは度胸が据ったので、三越の窓を見ると、売場ふだをかけてあるのがまるでころころ swing して居、番頭が、模様を気づかってだろう、窓から首を出したり引込めたりして居る、そうかと思うと、夫婦でしっかり抱きあって居るのもあれば、又、どの道、身じんまくをちゃんとして、と云う風に、着物をちゃんときなおして居る番頭も居る。
「どうでしょう、大丈夫ですか」と傍の男にきくと、
「私は下がわれると大変だと思って、地面ばかり見て居ます」と云う。
 気がついて見ると Miss Wells が居ないので、堂々めぐりをして見ると Miss Wells は、玄関のところに立って居る。
 内の方が安全だと云うので入り二度目の地震が来るまでに金をうけとり、Miss Wは銀座をぬけようと云うのに反対して、呉服橋から丸の内に出ると、内外ビルディングが丁度つぶれ、負傷した男が血まみれで、逃げようかどうしようかと、救を求めて居る。
 もうその為電車はきかないので歩いてかえり始めると、警視庁の裏、青山の方、神田の方、もう一つ遠い方で火が見える。
 その夜は空が火事のあかりで、昼間のようでゴーゴーと云う物凄い焔の音がした。
 着物をきかえるどころではなく夜は外でたべ、ねむり八日に始めて二階に眠ろうとする。
 ミスWは、Mrs. ベルリナに地震のサイコロジーを知りたいからそのつもりで居て呉れと云われたことが頭にあるので、先ず始めは落付き、傍の人や動作を観察し、すっかり心に覚え込み、先ずこれでよしと思ったら急にこわくなり膝がガタガタに震え出した由。

 父上の経験
 その日は一日事務所に行かず。丁度地震の三十分ほど前内外ビルディングに居、人に会うために、ヤマトと云うレストランの地下室で電話帳を見て居た。ところへひどくゆれて来、ガチャガチャ器具のこわれる音がする。父上は、多分客や Waiter があわてて皿や何かをこわしたのだろうと思うと二度目のがかなりつよく来た。これは少しあぶないと、地平[#「平」に「ママ」の注記]室の天井を注目した。クラックが行くと一大事逃げなければならないと思ったのだ。ピリリともしないので、少し落付いたら、食事をする気で居ると、何ともそとのさわぎがひどいので出て見て驚いた。早速、郵船を見ると、どうもガタガタに外がいたんで居るし、内外はピシャンコになって居るし、もう警視庁うらに火が出たし、あぶないと思って、事ム所を裏から大丈夫と知り東京ステーションで Taxi をやとおうとするともう一台もない。しかたがないので、本郷座のよこに来ると今客を降したばかりの白札のに会う。のせろ、いやだめです、かえらなければならない。そう云わずに行けと押問答をして居ると彼方側からも一人駒込に行くからのせろと云う。それでは二人で行きましょうとやっと家にかえった。
 かえって見ると、おばあさん二人は竹やぶににげ、英男が土蔵にものを運び込んで、目ぬりまでし、曲って大扉のしまらないのに困って居た。
 井戸に、瀬戸ものをつるしまでし。なかなか十五六の男の子としては大出来の功績をあげた。
 二日
 事ム所まで行って(勿論歩いて)見ると、三崎町辺、呉服橋ぎわ、その他に人間の死体がつみかさね、やけのこりのトタン板をかぶせてある。なるたけ見ないようにして行く。二人の老婆をどうして逃そうかと、松坂屋に火のついたとき、心配此上なかった。

 さいやの経験
 地震のとき、自分の三畳に居、はっとして、窓から戸外にとび出し門を出て気が遠くなった。近所の男にブランデーを貰って気がつき、それからは却って平気になって夜でも、明りのない蚊帳の中で目を醒して居る。弟が、ひどく心臓をわるくし、本所の奉公先から、浅草猿若町の医院に入院して居た。それを赤羽まで書生が背負って行ってくれ、あと兄が福島から来、三日、のまず、食わずでたずねた揚句、やっと見つけて、北千住につれて行った。よく助ったものなり。さい、十二日朝カンづめ類を背負い出かける、前晩も眠らず。

 大瀧全焼して、林町に一族で避難して来る。

 ○大学、化学実験室辺から火を発したらしい。皆、四周はしっかりして居るのだが、天井が落ちて中は駄目。
 幸、高楠先生関係の本、歴史の本、その他少々たすかり、啓明会のは、大部分見出された由、大学が(この図書館の貧弱な日本で)図書館を失ってはまるで手も足も出ないだろう。
 マックスシュラーの文庫は、到頭開放しないまま灰燼にしてしまった。
 ○何にしろ東京が此那有様なので、種々の注意は皆此方に牽かれ、全滅した小田原、房州の諸町へはなかなか充分手がまわらない形がある。

 ○東京は地震地帯の上にあって、いつも六七十年目百年目に此那大地震がある。建てても建てても間もなく埋[#「埋」に「ママ」の注記]されるそれをいつまでくりかえすのか。

 ○今度の朝鮮人の陰謀は実に範囲広く、山村の郷里信州の小諸の方にも郡山にも、毒薬その他をもった鮮人が発見されたとのことだ。

 九月二十四五日より大杉栄ほか二名が、甘粕大尉に殺された話やかましく新聞に現れた。福田戒厳令司令官が山梨に代ったのもこの理由であったのだ。他二名は誰か、又どうして殺したか、所持品などはどうされたか。
 高津正道、佐野学、山川均菊栄氏等もやられたと云う噂あり。実に複雑な世相。一部の人々は皆この際やってしまう方がよいと云う人さえある。社会主義がそれで死ぬものか、むずかしいことだ。だまし打ちにしたのはとにかく非人道な行為としなければなるまい。

 国男の話詳細。
 小田原養生館滞在、一日の朝、前日鎌倉へ行こうとして、山田氏に来られ駄目になったので、出かける。汽車、電車が案外早かった為、予定の一つ前のに間に合った。大船では発車、三分前、プラットフォームに出て歩いて居たが、もう入ろうとして車内に入ったばかりのところに、ゆるい地震が来ひきつづき、立って居られないほど、左右に大ゆれにゆれて来た。彼は、席の両はじにつかまり、がんばり、やっと、一次のはすぎる。もうそのとき、今迄居たプラットフォームはくずれ、出ようとした汽車の車掌が血まびれで、何処からか這い出して来た。下りの方のプラットフォームには、沢山の人が居、それが泣き叫ぶ声、救を求める声、言語に絶す。それから国男はすぐ汽車を出、レールにつかまって第二のゆり返しをすごす。それから鎌倉の方に行くものを誘い、歩いて、トンネルくずれ、海岸橋陥落のため山の方から行く。近くに行くと、釣ぼりの夫婦がぼんやりして居る。つなみに家をさらわれてしまったのだそうだ。倉知の方に行くと門は曲って立ち、家、すっかり、玄関の砂利の方にくずれて居る。家屋を越えて行くと庭に川島が呆然として居、呼んでも返事もせず。やっと心づき「お話ししなければならないことがある」と云ってやって来、叔母、季夫が圧死し、咲枝、一馬に助けられ、材木座の八百屋わきのトタン屋根の仮小屋に避難した由を云う。国男すぐ川島をつれ、途中ローソク、マッチの類を買って避難所に行く。
 その翌日あたりから、朝鮮人が来ると云う噂が立ち、センセンキョーキョー、地震のとき、春江ちゃんの行って居たサイトウさんのところでは、奥さんが死なれその良人、子供二人、姉妹たち、皆一緒に居る。一日に玄米二合ぎり、国男空腹に堪えず。そっと咲枝ちゃんとビスケットなどをかじる。
 三日雨
 四日ぱっと照る。
 両日の間に叔母上の死体を、小島さんのところに来た水兵の手で埋[#「埋」に「ママ」の注記]り出し、川島、棺作りを手伝って、やっと棺におさめ、寺に仮埋葬す。その頃、東京から小南着。
 五日頃から、倒れなかった田舎の百姓家に避難し、親切にされる。幸、熱も始め一二日で出ず。
 八日、倉知叔父自動車にて着。
 九日、皆、藤沢をまわり、二子の渡をとおり、*の家につく。
 十日、国男だけ林町に送られて来る。
 藤沢に行く迄に網の目のように地われしたところがあるそうだ。われ目にはさまった自動車。
 ○倉知、叔母、ゆれ始めたとき女中と、二番目の小さい子と一緒に、おにげなさいと云うのにきかず食堂に居、二人(咲枝と季夫)をかばって、海に背を向け、大棟で背を打たれ、臀部に柱のおれたのか何かだかささったまま季夫チッ息して死す。咲枝は足を下にしかれ、夢中で手で天井を破って顔を出して居た。女中と二番の子が海岸橋を渡り切って下馬に来たとき、あとから渡った厨川白村氏がつなみにさらわれ沖に持って行かれた。



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は不明字。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



私の覚え書

宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)階子《はしご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。
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 九月一日、私は福井県の良人の郷里にいた。朝は、よく晴れた、むし暑い天気であった。九時頃から例によって二階と階下とに別れ、一区切り仕事をし、やや疲れを感じたので、ぼんやり窓から外の風景を眺めていると、いきなり家中が、ゆさゆさと大きく一二度揺れた。おや地震か、と思う間もなく、震動は急に力を増し、地面の下から衝きあげてはぐいぐい揺ぶるように、建物を軋ませて募って来る。
 これは大きい、と思うと私は反射的に机の前から立上った。そして、皆のいる階下に行こうとし、階子《はしご》口まで来はしたが、揺れが劇しいので、到底足を下せたものではない。田舎の階子段は東京のと違い、ただ踏板をかけてあるばかりなので、此処に下そうとするとグラグラと揺れ、後の隙間から滑り落ちそうで、どうにも思い切って降りられない。私は、其儘其処に立ち竦んで仕舞った。
 階下では、良人が「大丈夫! 大丈夫!」と呼びながら、廊下を此方に来る足音がする。私共は、階子の上と下とで、驚いた顔を見合わせた。が、まだ揺れはひどいので、彼が昇って来る訳にもゆかず、自分が降るわけにも行かない。ゆさゆさと来る毎に私は、恐ろしさを堪えて手を握りしめ、彼は、後の庭から空を見るようにしては、「大丈夫、大丈夫」を繰返す。揺り返しの間を見、私は、いそいで階子を降りた。居間のところへ来て見ると、丁度昼飯に集っていた家内じゅうの者が、皆、渋をふき込んだ廊下に出て立っている。顔を見合わせても口を利くものはない。全身の注意を集注した様子で、凝《じ》っと揺れの鎮るのを待っている。階下に来て見て、始めて私は四辺に異様な響が満ちているのに気がついた。樹木の多いせいか、大きなササラでもすり合わせるような、さっさっさっさっと云う無気味な戦ぎが、津波のように遠くの方から寄せて来ると一緒に、ミシミシミシ柱を鳴して揺れて来る。
 廊下に立ったまま、それでも大分落付いて私は、天井や壁を見廻した。床の間などには砂壁が少し落ちたらしいが、損所はない。その中、不図、私の目は、机の上にある良人の懐中時計の上に落ちた。蓋なしのその時計は、明るい正午の光線で金色の縁を輝やかせながら、きっちり十二時三分過ぎを示している。真白い面に鮮やかな黒字で書かれた数字や、短針長針が、狭い角度で互に開いていた形が、奇妙にはっきり印象に遺った。驚いて、一寸ぼんやりした揚句なので却って時計の鮮明な文字が、特殊な感銘を与えたのだろう。
 知ろうともしなかった此時間の記憶は後になって、意外に興味ある話題になった、何故なら、東京であの大震は十一時五十八分に起ったと認められている。ところが当時大船のステーションの汽車の中にい、やっと倒れそうな体を足で踏張り支えていた私の弟は、確に十二時十五分過頃始ったと云う。鎌倉から来た人々もその刻限に一致した。其故、私の見た時計に大した狂いのなかったことを信ずるなら、東京に近く、震源地に近い湘南地方の方が逆に遅れて、強く感じたと云うことになるのである。
 その日は、一日、揺り返しが続き、私は二階と下とを往来して暮してしまった。一度おどかされたので、又強くなりはしまいかと、揺れると落付いていられない。皆も、近年にない強震だと愕いた。けれども、真逆《まさか》東京にあれ程のことが起っていようとは夢想するどころではなかった。何にしろ福井辺では七月の下旬に雨が降ったきり、九月一日まで、一箇月以上一度の驟雨さえ見ないと云う乾きようであった。人々は農作物の為めに一雫の雨でもと待ち焦れている。二百十日が翌日に迫っていたので、この地震は天候の変化する前触れとし、寧ろ歓迎した位なのであった。果して、午後四時頃から天気が変り、烈しい東南風が吹き始めた。大粒な雨さえ、バラバラとかかって来る。夜になると、月のない闇空に、黒い入道雲が走り、白山山脈の彼方で、真赤な稲妻の閃くのが見えた。
 夜中に、二度ばかり、可なり強い地震で眼を醒された。然し、愈々《いよいよ》夜が明けると、二百十日は案外平穏なことがわかった。前夜の烈風はやんで、しとしとと落付いた雨が降っている。人々は、その雨の嬉しさにすっかり昨日の地震のことなどは忘れた。彼等は楽しそうに納屋から蓑をとり出した。そして、露のたまった稲の葉を戦がせながら、田圃の水廻りに出かける。夕方になると、その雨もあがった。
 葡萄棚の下に拵えた私共の涼台に、すぐ薄縁の敷るほどの雨量しかなかった。其れにしても、久しぶりで雨あがりの爽やかさに触れたので、皆な活々とした。そして、涼台に集って雑談に耽っていると八時頃、所用で福井市に出かけていた家兄が、遽しい様子で帰って来た。私共の呑気《のんき》な「おかえりなさい」と云う挨拶に答えるなり、彼は息を切って、
「東京はえらいこっちゃ」
と云った。
 私共がききかえす間もなく、
「一日に大地震があった後に大火災で、全滅だと云うこっちゃが」
 彼は、立ったまま、持って来た号外を声高に読み始めた。この時初めて、私共は、前日の地震が東京からの余波であったことを知った。号外によれば、一日の十二時二分前、東京及び湘南地方に大地震があり、多くの家屋が倒壊すると同時に、四十八箇所から火を発し、警視庁、帝劇、三越、白木屋、東京駅、帝国大学その他重要な建物全焼、宮城さえ今猶お燃えつつある。丸の内、海上ビルディング内だけでも死者数万人の見込み、東京市三分の二は全滅、加えて〔四字伏字〕、〔五字伏字〕が大挙して暴動を起し、爆弾を投じて、全市を火の海と化しつつあると、報じてある。そのどさくさ紛れに、〔四字伏字〕の噂さえ伝えられている。
 余り突然の大事なので、喫驚《びっくり》することさえ忘れて聞いていた私は、「為めに全市に亙って戒厳令を敷き」と云う文句を耳にすると、俄かにぞっとするような恐怖を感じた。五つか六つの時、孫の薬とりに行った老婆が、電信柱に結びつけられ兵隊に剣付鉄砲で刺殺されたと云う、日比谷の焼打ちの時か何かの風聞を小耳に挟んで以来、戒厳令と云うことは、私に何とも云えない暗澹と惨虐さとを暗示するのだ。私は、一時に四方の薄暗さと冷気が身にこたえる涼台の上で、堅唾《かたず》をのんで、報道を聞いた。どんな田舎の新聞でも、戒厳令を敷いたことまで誤報はしまい。そうすれば、どんなに軽く見積っても、昨日の十二時以後東京はその非常手段を必要とするだけ険悪な擾乱にあることだけは確だ。
 私の思いは、忽ち父の上に飛んだ。父の事務所は、丸の内の仲通りにある。時刻が時刻だから多忙な彼は、どんな処にいて、災害に遭ったか知れないのだ。心を落つけ欹《そばだ》てるようにし、何か魂を通りすぎる感じを掴もうとしたが、一向凶徴らしいときめきは生じない。次に、弟はどうしたろうと思った。彼は夏休以前から病気で、恢復期に向った為め、小田原か大磯、或は鎌倉に行っていたかもしれない。其等の地方は、この号外によれば津波で洗われ、村落の影さえ認め得ない程になっているらしいのだ。けれども、是も、理性に訴えて考えて見た結果として感じる心配以上、鋭く心に迫るものがない。私はこれで、二人は命に別条なかろうと云う確信に近いものを持ち得た。私と彼等二人との心の繋りは深くおろそかなものではない。万一彼等の生命に何事かあったのなら、昨夜、あんなのびやかな眠りは決して得なかったに違いない。
 ほんの瞬をする間に此等のことを考え、安心すべき明かな理由のある他の家族のことを思い、少し、心が冷静になった。それにつれて、号外の全部に対し、半信半疑な心持になった。全市の交通、通信機関が途絶してしまった以上、内部の正確な報知を、容易に得られない訳だ。〔四字伏字〕行方不明〔四字伏字〕、〔六字伏字〕と云う諸項が、特に疑いを生じさせた。丁度政界が動揺していた最中なので、余程誇大されているのではあるまいかとは、誰でも思うことだ。私は、
「少し大袈裟ではないこと? 何だか、何処まで本当にして好いかわからないようだけれども」
と云った。それは皆同意見であった。少し号外の調子がセンセーショナルすぎることを感じたのであった。然し、どっち道、全市の電燈、瓦斯、水道が止ったと云う丈でも一大事である。真暗な東京を考えるだけで、ふだんの東京を知っているものは心は怯える。
 人々は、口々に、「此方に来ていてよかった。運がよかった。まあ落付くまでいるがよい」と云われる。女のひとなどは、おろおろして、私の手を執る。けれども、私はまるであべこべの心持がした。それだけの恐ろしい目に会わなかったことを実に仕合わせに有難くは思うが、万事が落付くまで、生れた東京の苦しみを余処《よそ》にのんべんだらりとしてはいたくない。大丈夫だろうとは思いながらも、親同胞、友達のことを案じ、一刻も早く様子を見たい心持が、まるで通じないのが歯痒く、やや不快にさえ感じた。
 然し東海道線は不通になっている。その混乱の裡に、用意なしには戻れない。入京は非常に困難らしいが、幸いなことに、私共は四日の午後に、何がなくとも、福井を出発する準備をしていた。米原から東京駅までの寝台券も取ってあった。それを信越線迂回に代えて貰うことは出来よう。私共は、翌三日にそれ等の準備をし、予定通り四日に東京に向うことに定めた。出発までは、出来るだけ落付いて、自分等の務めを続けると云う約束で。
 三日の朝、早く起き、朝飯を終ると、私はわざわざ借りて来てある『大阪毎日』も見ず、二階にあがった。そして、机に向い、ペンをとり、仕かけの書きものを続けた。一晩寝て目を醒すと、昨夜は割合にはっきり安心のついていた人々のことが、却って腹の底から不安になって来ていた。気分が、陰鬱になった。どんな不運な機会で、私の愛する多くの人々が死んでいまいものでもない。会うまでは生死のほどもわからず、私としては、最も悪い場合に処しても我を失わない丈の考慮、覚悟は持っていなければならない。ふだんは、何となくぼやけ、人と人との感情問題等もそう切迫してはいないが、左様な大事に面し、其れがどう展開して行くか。自分の運命の在り場所が、深い、宏い海の底を覗き桶で見るように、私にわかった。遙かな東京の渾沌、燼灰、死のうとする人々の呻きの間から、私は、何か巨大な不可抗の力を持ったものが犇々《ひしひし》と自分に迫って来るように感じた。その気持を、ぐっと堪えながら、自分のすべきことは忘れまいとするのは、努力であった。
 午後から良人は福井市に出、大宮までの切符と持って行くべき食糧の鑵詰類を買い入れて来た。役場から、入京に必要だと云う身分証明書を貰った。そして、四日の午後四時五十七分、総ての荷物を郷里に遺し、ただ食糧だけを二人で背負う振り分けの荷に作って、福井を出発した。福井市の彼方此方では、当局者の所謂流言蜚語が、実に熾んで、血腥い風が面を払うようであった。もう二三十分で列車が出る時になっても、家兄は私の体を案じ、止ることをすすめた。私は、半分冗談、半分本気で、
「大丈夫よ。私はちっとも可愛くないから、これで髪をざんぎりにし、泥でも顔へぬれば、女だと思う者はないでしょう」
と、笑った。
 七時五分、金沢駅のプラットフォームに降ると、私は、異常な光景に目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。もう此処では、平常の服装をした人などは一人もいない。男は脚絆に草鞋がけ、各自に重そうな荷と水筒を負い、塵と汗とにまびれている。女の数はごく少く、それも髪を乱し、裾をからげ、年齢に拘らず平時の嬌態などはさらりと忘れた真剣さである。武装を調えた第三十五連隊の歩兵、大きな電線の束と道具袋を肩にかけた工夫の大群。乗客がいつもの数十倍立てこんだ上、皆な気が立った者ばかりだから、その混雑した有様は言葉につくせない。誰も自分の足許をしっかり見ているものなどはなく、又、押し押され、おちおち佇んでもいられない。上野行の急行に乗込む時は、人間が夢中になって振り搾る腕力がどんな働をあらわすか、ひとと自分とで経験する好機会であったと云うほかない。
 列車は人と貨物を満載し、膏汗を滲ませるむし暑さに包まれながら、篠井位までは、急行らしい快速力で走った。午前二時三時となり、段々信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つ毎に、緊張の度を増して来た。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき手に手に提灯をかざして、警備している。福井を出発する時、前日頃、軽井沢で汽車爆破を企た暴徒が数十名捕えられ、数人は逃げたと云う噂があった。旅客は皆それを聞き知ってい、中にはこと更「いよいよ危険区域に入りましたな」などと云う人さえある。
 五日の暁方四時少し過ぎ列車が丁度軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現した一つの事件が持ち上った。前から二つ目ばかりの窓際にいた一人の男がこの車の下に、何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏字〕に違いないと云い出したのであった。何にしろひどいこみようで、到底席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用を足したのだそうだ。そして、何心なくひょいと下を覗くと、確に人間の足が、いそいで引込んだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たと云うのである。
 初め冗談だと思った皆も、其人が余り真剣なので、ひどく不安になり始めた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、全くそんな事がないとは云われない。万一事実とすれば、此処にいる数十人が、命の瀬戸際にあると云うことになる。不安が募るにつれ、非常警報器を引けと云う者まで出た。駅の構内に入る為めに、列車が暫く野っぱの真中で徐行し始めた時には、乗客は殆ど総立ちになった。何か異様が起った。今こそ危いと云う感が一同の胸を貫き、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
 停車した追分駅では、消防夫が、抜刀で、列車の下を捜索した。暫く見廻って、
「いない。いない」
と云う声が列車の内外でした。それで気が緩もうとすると、前方で、突然、
「いた! いた!」
とけたたましい叫びが起った。次いで、ワーッと云う物凄い鬨声《ときのこえ》をあげ、何かを停車場の外へ追いかけ始めた。
 観念して、恐ろしさを堪えていた私は、その魂消《たまげ》たような「いた! いた!」と云う絶叫を聞くと水でも浴びたように震えた。走っている列車からは、逃げるにも逃げられない。この人で詰った車内で、自分だけどうすると云うことは勿論出来ないことだ。そんな事はあるまいと、可怖《こわ》いながら疑いを挾んでいた私は、この叫びで、一どきに面していた危険の大きさを感じ、思わずぞっとしたのであった。ぼんやり地平線に卵色の光りはじめた黎明の空に、陰気に睡そうに茂っていた高原の灌木、濁った、狭い提灯の灯かげに閃いた白刃の寒さ。目の前の堤にかけ登って、ずっと遠くの野を展望した一人の消防夫の小作りな黒い影絵の印象を、恐らく私は生涯忘れないだろう。列車の下から追い出したのが何であったか、それをどう始末したか、結着のつかないうちに、汽車は前進し始めた。
 高崎から、段々時間が不正確になり、遅延し始めた。軍隊の輸送、避難民の特別列車の為め、私共の汽車は順ぐりあと廻しにされる。貨車、郵便車、屋根の上から機関車にまでとりついた避難民の様子は、見る者に真心からの同情を感じさせた。同時に、彼等が、平常思い切って出来ないことでも平気でやるほど女まで大胆になり、死を恐れない有様が、惨澹たる気持を与えた。一つとして、疲労で蒼ざめ形のくずれていない顔はないのに、気が立っている故か、自暴自棄の故か、此方の列車とすれ違うと、彼等は、声を揃えてわーっと熾んな鯨波《とき》をあげる。気の毒で、此方から応える声は一つもしなかった。
 けれども、家の安否を気遣う人々は、東京から来た列車が近くに止ると、声の届くかぎり、先の模様を聞こうとする。
「貴方は何方からおいでです?」
「神田。」
「九段のところは皆やけましたか?」
「ああ駄目駄目! やけないところなし。」
 又は、
「浅草は何処も遺りませんか?」
 避難者の男は、黙って頭で、遺らないと云う意味を頷く。
「上野は?」
 今度は、低い、震える声で、
「山下からステーションは駄目。」
 猶、詳細を訊こうとすると、
「皆、焼けちまったよ。お前、ひどいのひどくないのって。――」
 五十を越した労働者風のその男は、俄に顎を顫わせ、遠目にも涙のわかる顔を、窓から引こめてしまう。
 浦和、蕨あたりからは、一旦逃げのびた罹災者が、焼跡始末に出て来る為、一日以来の東京の惨状は、口伝えに広まった。実に、想像以上の話だ。天災以外に、複雑な問題が引からまっているらしく、惨酷な〔二字伏字〕の話を、災害に遭って死んだ者の他につけ足さないのはない。死者の多いことが皆を驚した。話によると、命がけで、不幸な人々の屍を見ないでは一町の道筋も歩けない程だ。経験のある人々は、哨兵に呼び止められた時の応答のしぶりを説明する。徒歩で行かなければならない各区への順路を教える。何にしても、夜歩くのは危険極ると云うのに、列車は延着する一方で、東京を目前に見ながら日が暮てしまったので、皆の心配は、種々な形であらわれた。知る知らないに拘らず、同じ方面に行く者は、組みになった。荷を自分だけで負い切れなく持っている男は、自分の便宜を対手に分け、荷負いかたがたの道伴れになって貰おうと勧誘する。
 順当に行けば午前九時十五分に着くべき列車は十二時間延着で、午後九時過ぎ、やっと田端まで来た。私共の列車が、始めて川口、赤羽間の鉄橋を通過した。その日から、大宮までであった終点が、幸い日暮里までのびたのであった。厳しい警戒の間を事なく家につき、背負った荷を下して、無事な父の顔を見たとき、私は、有難さに打れ、笑顔も出来なかった。父は、地震の三十分前、倒壊して多くの人を殺した丸の内の或る建物の中にい、危うく死とすれ違った。私は、鎌倉で、親密な叔母と一人の従弟が圧死したことを知った。まさかと思った帝国大学の図書館が消防の間も合わず焼け落ちてしまったのを知った。
 段々彼方此方の焼跡を通り、私は、何とも云えない寥しい思いをした。自分の見なれた神田、京橋、日本橋の目貫きの町筋も、ああ一面の焼野原となっては、何処に何があったのかまるで判らない。災害前の東京の様子は、頭の中にはっきり、場所によっては看板の色まで活々と遺っている。けれどもその場所に行っては、焙られて色の変った基礎石の上から、あった昔の形を築きあげることすら覚束ない。狭い狭い横丁と思っていたところが、広々と見通しの利く坂道になっている様などは、見る者に哀傷をそそらずにはいない。心に少し余裕のあった故か、帰京して数日の間、私は、大仕掛な物質の壊滅に伴う、一種異様な精神の空虚を堪え難く感じた。
 今まで在ったものが、もう無い、と云う心持は、建物だけに限らない。賑やかに雑誌新聞に聞えていた思想の声、芸術の響き、精神活動の快活なざわめきが、すーいと煙のように何処かに消えて仕舞ったと感じるのだ。今まで、自分の魂のよりどころとなっていた種々のことは、此場合、支えとなり切れない薄弱なものであったのか。真個に地震と火事で倒され焼き尽されるものなのだろうか。
 数日経つうちに、私は、次第に違った心持になって来た。「死者をして死者を葬らしめよ」と云う心持である。焼けて滅びるものなら、思想と物質とにかかわらず、滅びよ。人間は、これ程の災厄を、愚な案山子《かがし》のように突立ったぎりでは通すまい。灰の中から、更に智慧を増し、経験によって鍛えられ、新たな生命を感じた活動が甦るのだ。人間のはかなさを痛感したことさえ無駄にはならない。非常に際し、命と心の力をむき出しに見た者は、仮令暫の間でも、嘘と下らない見栄は失った。分を知り、忍耐強くなり、自然の教えることに敏感になった私共は、大きな天の篩で、各自の心を篩われたようなものではないだろうか。私は、会う殆ど全部の人が、何か、身についた新しい知識と謙遜な自分への警言を、今度の災害から受けているのを知った。この力は大きい。
 今度のことを、廃頽しかけた日本の文化に天が与えた痛棒であると云う風に説明する老人等の言葉は、そのまま私共に肯われない或るものを持っている。けれども、自然の打撃から痛められながらも、必ずその裡から人間生活に大切な何ものかを見出し、撓《たゆま》ず絶望せず溌溂と精神の耀く文明を進めて行こうとする人間の意慾の雄々しさは、その古風な言葉の裡にさえも尚お認め得る。多くの困難があり、苦痛があるにしろ、私共は、とかく姑息になり勝ちな人間の意志を超えた力で、社会革新の地盤を与えられたことを、意味深い事実として知っているのだ。
 女性としての生活の上からも、本当に生活に必須なことと、そうでないこととの区別をはっきり知った丈で、あの当時は、一日が五年の教育に価した。余りけばけばしい装飾の遠慮、無力を一種の愛らしさとしていた怯懦の消滅、自分の手と頭脳にだけ頼って、刻々変化する四囲の事情の中に生活を纏め計画する必要に迫られたことは、其時ぎりで失せる才覚以上のものを与えた。
 種々の点から、今東京に居遺る大多数は希望を持った熱心に励まされて働いているが、昨夜のように大風が吹き豪雨でもあると、私はつい近くの、明治神宮外苑のバラックにいる人々のことを思わずにいられなくなる。あれ程の男女の失業者はどうなるか。その家族のことに考え及ぶと、彼等の妻、子女の為めに、婦人で社会事業に携る人々の為すべきことは少くないように思う。
[#地付き]〔一九二三年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「女性」
   1923(大正12)年11月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(地名を冠した自然現象などを含む)

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大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
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福井 ふくい (1) 中部地方西部、日本海岸の県。越前・若狭2国を管轄。面積4189平方キロメートル。人口82万2千。全9市。(2) 福井県北東部にある市。県庁所在地。もと松平氏の城下町。羽二重・人絹の産地。南東部に特別史跡の一乗谷がある。人口26万9千。旧称、北ノ庄。
林町青山
金沢 かなざわ (2) 石川県中部、金沢平野中央の市。県庁所在地。もと加賀(前田氏)百万石の城下町。兼六園・金沢城址などがある。九谷焼・蒔絵・友禅などの伝統工業が盛ん。人口45万5千。
東洋紡績 とうよう ぼうせき 大阪府大阪市北区堂島浜に本社を構える繊維を中心に化成品・バイオ・医薬などの製造をおこなう企業。1882年創業。
軽井沢 かるいざわ 長野県東部、北佐久郡にある避暑地。浅間山南東麓、標高950メートル前後。もと中山道碓氷峠西側の宿駅。
沓かけ駅 沓掛駅。沓掛駅長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢か。沓掛宿。1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称。
田端 たばた 東京都北区の地名。田端1丁目〜6丁目、田端新町1丁目〜3丁目、東田端1丁目〜2丁目がある。東田端1丁目にJR山手線・京浜東北線の田端駅がある。
小南
イキ坂
神保町 じんぼうちょう 東京都千代田区神田神保町。
九段 くだん 東京都千代田区の一地区。九段坂近辺一帯の称。
五番町 ごばんちょう 東京都千代田区にある地名・町名。
英国大使館
赤羽 あかばね 東京都北区の地名。荒川の右岸に位置し、もと岩槻街道の宿場町。戦時中は陸軍の被服廠があり、現在は工業地・住宅地。
北千住 きたせんじゅ
安積 あさか 岩代国(福島県)の郡および郷の名。
甲府 こうふ 山梨県中部、甲府盆地北部の市。県庁所在地。戦国時代、武田氏の城下町。のち江戸幕府の幕領。水晶細工・葡萄酒などを産する。人口20万。
小港 こみなと? 現、神奈川県中区小港町か。
逗子 ずし 神奈川県南東部、鎌倉・葉山間に位置する市。海水浴場および避寒地・別荘地として発展。人口5万8千。
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
養生館
大船 おおふな 神奈川県鎌倉市大船。
芝園橋
順天堂 じゅんてんどう → 順天堂大学か
順天堂大学 じゅんてんどう だいがく 私立医科大学の一つ。1838年(天保9)創設の蘭方医学塾和田塾に始まる。1943年医学専門学校、51年新制大学。スポーツ健康科学部を併置。本部は東京都文京区。
精養軒 せいようけん
隅田川 すみだがわ (1) (古く墨田川・角田河とも書いた)東京都市街地東部を流れて東京湾に注ぐ川。もと荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口までをいい、流域には著名な橋が多く架かる。隅田公園がある東岸の堤を隅田堤(墨堤)といい、古来桜の名所。大川。
吾嬬橋 あづまばし/あずまばし 東京都台東区浅草と墨田区吾妻橋を結ぶ隅田川の橋。1774年(安永3)初めて架橋。現在の橋は1931年竣工。
本所相生 ほんじょ あいおい 現、墨田区両国・緑町。
本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
半蔵門 はんぞうもん 江戸城(現在の皇居)の門の1つ。城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現国道20号)に通じている。大手門とは正反対の位置にある。東京都千代田区麹町一丁目。また半蔵門・半蔵門駅周辺の呼称。
不忍池 しのばずのいけ 東京、上野公園の南西にある池。1625年(寛永2)寛永寺建立の際、池に弁財天を祀ってから有名になる。蓮の名所。
乃木坂駅 のぎざかえき 東京都港区南青山一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)千代田線の駅。
大森 おおもり 東京都大田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
鎌倉河岸 かまくら がし? 現、千代田区内神田。徳川氏による江戸城築城の際に、相模国から運ばれてきた石材を荷揚げしたため、南側の堀沿いが鎌倉河岸とよばれ、隣接する町が鎌倉町と名付けられたという。
呉服橋門 ごふくばしもん 江戸城外濠の門の一つ。今の中央区八重洲にあった。
越中島 えっちゅうじま 東京都江東区南西部の地区。江戸初期、榊原越中守の別邸所在地。隅田川河口東岸に位置し、1875年(明治8)日本最初の商船学校(現、東京海洋大学)が設置された。
糧秣廠
内外ビルディング
ヤマト レストラン。
本郷座
三崎町 みさきちょう 東京都千代田区にある地名。現在の住居表示では、一丁目から三丁目まである。当地域の人口は、833人(2007年4月1日現在、住民基本台帳による。千代田区調べ)。
浅草 あさくさ 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
猿若町 さるわかちょう 東京都台東区の旧町名。水野越前守の天保の改革の際、風俗取締りのために、江戸市中に分散していた芝居類の興行物を浅草聖天町の一郭に集合させて名づけた芝居町。3区分して一丁目(中村座)・二丁目(市村座)・三丁目(森田座)と称した。明治以後1966年まで町名だけ残る。
小諸 こもろ 長野県東部、浅間山南西麓の市。もと牧野氏1万5000石の城下町、北国街道の宿駅。城址は懐古園という。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で名高い。人口4万5千。
郡山 こおりやま 福島県中部の市。郡山盆地の中心地。もと奥州街道の宿駅で、交通の要衝。産業は化繊・機械工業など。人口33万9千。
大船 おおふな 神奈川県鎌倉市大船。
材木座 ざいもくざ 中世、材木商人の同業組合。営業独占権を持った。山城木津の三座、京都堀川の座、鎌倉の座が有名。
藤沢 ふじさわ 神奈川県南部の市。もと東海道の宿駅。遊行寺の門前町。海岸は湘南の中心的な保養地。近年、住宅地化が進む。人口39万6千。
二子の渡 ふたごのわたし 江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけていたため、長い間架橋を制限していた。そのため、古来よりこの地を通っていた大山街道は、近年まで渡し船「二子の渡し」が結んでいた。この渡し船は、人を渡す船はもちろん、馬や荷車を渡す大型の船も用意されていたと言われる。
下馬 げば、か。現、神奈川県鎌倉市若宮大路下馬橋付近か。

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私の覚え書
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福井県 ふくいけん 中部地方西部、日本海岸の県。越前・若狭2国を管轄。面積4189平方キロメートル。人口82万2千。全9市。
白山山脈
福井市 ふくいし 福井県北東部にある市。県庁所在地。もと松平氏の城下町。羽二重・人絹の産地。南東部に特別史跡の一乗谷がある。人口26万9千。旧称、北ノ庄。

警視庁 けいしちょう 東京都の警察行政をつかさどる官庁。長として警視総監をおき、管内には警察署をおく。千代田区霞が関二丁目。
帝劇 ていげき → 帝国劇場
帝国劇場 ていこく げきじょう 東京都千代田区丸の内にある劇場。1911年(明治44)日本最初の本格的洋式劇場として開場。初期には専属の役者・女優・歌手を擁し、オペラも上演。略称、帝劇。
三越 みつこし 関東大震災により日本橋本店と丸ノ内別館を焼失。
白木屋 しろきや 東京の日本橋一丁目に、かつて存在した日本を代表する百貨店。法人としては現在の東急百貨店で、1967年に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999年1月31日に閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設されている。
東京駅 とうきょうえき 東京都の中央駅。東海道本線・東北本線・中央本線・総武本線・京葉線の起点。1914年(大正3)開業。煉瓦造りの駅舎は大正初期の代表的建築物であったが、太平洋戦争で罹災し、旧観を保持しつつ修復。
帝国大学 ていこく だいがく 旧制の官立総合大学。1886年(明治19)の帝国大学令により東京大学が帝国大学となり、97年京都帝国大学が設立、その後東北・九州・北海道・京城・台北・大阪・名古屋の各帝国大学が設置。略称、帝大。第二次大戦後、改編され新制の国立大学となった。
丸の内、海上ビルディング

東京市 とうきょうし 旧東京府東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)までの間に存在していた市。市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当する。
日比谷 ひびや 東京都千代田区南部、日比谷公園のある地区。

小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
大磯 おおいそ 神奈川県南部、中郡にある町。東海道五十三次の一つ。1885年(明治18)日本で最初の海水浴場が開かれた地。
鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。

米原 まいばら (マイハラとも)滋賀県北東部の市。琵琶湖東岸に臨み、中世には湖港朝妻・筑摩が栄え、今は市域の南西部は鉄道・国道・高速道路の分岐点として交通の要衝。人口4万1千。

篠井 → 篠ノ井か
篠ノ井 しののい 長野県長野市篠ノ井。
追分駅 → 信濃追分駅か
信濃追分駅 しなの おいわけ えき 長野県北佐久郡軽井沢町追分。
高崎 たかさき 群馬県南部の市。もと大河内氏8万石の城下町。中山道から三国街道が分岐する古くからの交通の要地で、商工業が発達。特産のだるまも有名。人口34万。
浦和 うらわ 埼玉県南東部の旧市名。2001年、大宮市・与野市と合併してさいたま市となり、浦和区はその行政区名の一つ。中山道の宿駅・市場町から発達。
蕨 わらび 埼玉県南部の市。荒川の戸田の渡しをひかえた中山道の宿駅、綿織物の集散地として発達。近年は工業地化・住宅地化が進む。人口7万。
田端 たばた 東京都北区の地名。田端1丁目〜6丁目、田端新町1丁目〜3丁目、東田端1丁目〜2丁目がある。東田端1丁目にJR山手線・京浜東北線の田端駅がある。
川口 かわぐち 埼玉県南東部の市。荒川を挟んで、東京都に対する。産業は鋳物・機械器具工業など。東京の衛星都市。人口48万。
赤羽 あかばね 東京都北区の地名。荒川の右岸に位置し、もと岩槻街道の宿場町。戦時中は陸軍の被服廠があり、現在は工業地・住宅地。
日暮里 にっぽり 東京府北豊島郡。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

宮本百合子 みやもと ゆりこ 1899-1951 小説家。旧姓、中条。東京生れ。日本女子大中退。顕治の妻。1927〜30年ソ連に滞在、帰国後プロレタリア作家同盟常任委員。32年から終戦までに3度検挙。戦後、民主主義文学運動の先頭に立つ。作「貧しき人々の群」「伸子」「二つの庭」「播州平野」「道標」など。
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大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
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たけを
安樹 兄。
豊一氏
吉田氏
国男
きよ
渡辺仁 わたなべ じん 1887-1973 東京生まれ。父は渡辺渡。近代日本の建築家。作品のスタイルは当時の建築家としては珍しく、歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっている。主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命相互館などがある。
倉知貞子 くらち?
季夫
基ちゃん
吉田・福岡
英男
寺田氏
石井
古川氏
岡部氏
渡辺貴代子
三宅やす子、奥むめお
咲枝
一馬
春江
木村兄弟
笹川氏
基ちゃん
野沢さん
石井
本田道ちゃん
吉田さん
Miss Wells
Mrs. ベルリナ
英男
大滝
高楠先生 たかくす?
啓明会
マックスシュラー → マックス・シェーラーか
マックス・シェーラー Max Scheler 1874-1928 ユダヤ系のドイツの哲学者。初期現象学派の一人。形式倫理学ではなく、独自の現象学的な実質的価値倫理学を説いた。
大杉栄 おおすぎ さかえ 1885-1923 無政府主義者。香川県生れ。東京外語卒業後、社会主義運動に参加、幾度か投獄。関東大震災の際、憲兵大尉甘粕正彦により妻伊藤野枝らと共に殺害。クロポトキンの翻訳・紹介、「自叙伝」などがある。
甘粕大尉 → 甘粕正彦
甘粕正彦 あまかす まさひこ 1891-1945 陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。
福田戒厳令司令官 → 福田雅太郎か
福田雅太郎 ふくだ まさたろう 1866-1932 陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。現在の長崎県大村市生まれ。1923年9月の関東大震災に伴い、関東戒厳司令官を兼務。在職中、甘粕事件が起こり司令官を更迭された。
高津正道 たかつ まさみち 1893-1974 社会運動家、政治家、衆議院副議長などを務める。広島県御調郡羽和泉村(現・三原市)生まれ。1922年日本共産党の創立に参加し中心メンバーとなるが、翌1923年中国及びソ連に亡命。2年後帰国し共産党を脱党。
佐野学 さの まなぶ 1892-1953 社会運動家。大分県生れ。東大卒。三‐一五事件当時、日本共産党中央執行委員長。1929年の四‐一六事件で入獄、33年鍋山貞親と連名で転向を声明、大量転向のさきがけとなる。主著「ロシア経済史」「日本古代史論」
山川均 やまかわ ひとし 1880-1958 社会運動家。岡山県生れ。明治末以来社会主義運動に従事、赤旗事件で入獄。日本共産党創立に参画、山川イズムと称される共同戦線党論を主張。再建共産党には加わらず、労農派論客として活躍。第二次大戦後は日本社会党に属し、社会主義協会を創設。
山川菊栄 やまかわ きくえ 1890-1980 評論家・婦人問題研究家。旧姓は青山。東京生れ。山川均の妻。日本の婦人運動に初めて科学を持ち込んだ。多くの評論集は、日本における女性解放運動の思想的原点と評される。
山田氏
川島
サイトウさん
小南
厨川白村 くりやがわ はくそん 1880-1923 英文学者・文明批評家。名は辰夫。京都生れ。東大卒。京大教授。西洋文芸の紹介、近代思潮の解説に貢献。著「近代文学十講」「象牙の塔を出て」「近代の恋愛観」など。

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私の覚え書
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

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大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
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私の覚え書
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『大阪毎日』 おおさか まいにち 大阪毎日新聞。日刊新聞である『毎日新聞』の西日本地区での旧題。通称「大毎」(だいまい)。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


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大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
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着剣 ちゃっけん 銃の先に銃剣をつけること。
尻ばしょり 尻端折り(シリバショリとも)和服の裾を外側に折って、帯の間に挟むこと。しりからげ。しりっぱしょり。
居らる おらる、か
おぞげ 鈍気。感覚を失っているようす。
スレート slate 粘板岩。また、その薄板で、主に屋根を葺くのに用いる石材。頁岩を用いることもあり、また人造のものもある。石板。石板瓦。石盤。
可怖い こわい
貴女 あなた
身じんまく 身慎莫。(ミジマヒ(身仕舞)とミジタク(身仕度)の混淆によるものか) (1) 身のまわりを引き締めととのえること。身じたく。身じまい。(2) 金銭などを隠して貯えること。へそくり。
白札 白タク?
さいや
此那 こんな、か。
血まびれ まびれる。まみれる(塗れる)に同じ。

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私の覚え書
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募る つのる (1) ますます激しくなる。ひどくなる。(2) 力がついて強くなる。
階子段 はしごだん
四辺 あたり
損所 そんしょ 破損した箇所。こわれた所。
驟雨 しゅうう 急に降り出し、間もなく止んでしまう雨。にわかあめ。
惨虐 さんぎゃく/ざんぎゃく 残虐。
擾乱 じょうらん (1) 入り乱れること。乱れさわぐこと。また、乱し騒がすこと。騒擾。(2) 気象学で、大気の定常状態からの乱れ。高気圧・低気圧・竜巻・積乱雲など、大気中に発生し、しばらく持続して消滅する現象。
凶徴 凶兆(きょうちょう)か。よくないことの起こるしるし。凶事の前兆。←→吉兆
鑵詰 かんづめ
鬨の声 ときのこえ 鬨をつくる声。大勢の人が一度にあげる声。鯨波。
鬨・時・鯨波 とき (1) 合戦の初めに全軍で発する叫び声。味方の士気を鼓舞すると共に、敵に向かって戦いの開始を告げる合図としたもの。敵味方相互に発し合い、大将が「えいえい」と2声発すると、一同が「おう」と声をあげて合わせ、3度繰り返すのを通例とした。(2) 転じて、多人数が一度にどっとあげる声。
哨兵 しょうへい 見張りの兵。歩哨の兵。
道伴れ みちづれ
真個・真箇 しんこ (シンカとも)まこと。全く。
警言
痛棒 つうぼう 坐禅で、師が心の定まらない者をうち懲らすのに用いる棒。
怯懦 きょうだ 臆病で意志の弱いこと。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 スイッチ付きの電源タップ、遮光用スクリーンすだれ、断熱用カーテンのライナー、『読売新聞・特別縮刷版』(一四〇〇円)購入。4ポイントぐらいか。文字、細かっ。

 吹く風を なこその関と 思えども
  みちもせに散る 山桜かな     源義家

 みちのくの 安達ヶ原の 黒塚に
  鬼こもれりと いふはまことか   平兼盛

 みちのくの しのぶもじずり 誰ゆえに
  みだれそめしに われならなくに  源融

 陸奥の 忍(しのぶ)の里に 道はあれど
  恋という山の 高根しるしも    西行

 限りあれば 吹かねど花は 散るものを
  心みじかき 春の山風       蒲生氏郷

 以上、『郷土資料事典7 福島県』(人文社)より。五月七日、晴れ。南東からの山越えの風。奥羽線ぞいに八重桜の赤い花・桜桃の白い花・つつじ・はなみずき。明日から薬師寺植木まつり。「なにかひとつ」ジャモーサ。




*次週予告


第三巻 第四一号 
グスコーブドリの伝記 宮沢賢治


第三巻 第四一号は、
五月七日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第四〇号
大正十二年九月一日/私の覚え書 宮本百合子
発行:二〇一一年四月三〇日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
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※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
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 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
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キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。

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